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『知の木々舎』第219号・目次(2018年6月下号編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

フェアリー・妖精幻想 №87                  妖精美術館館長  井村君江
 童話作品に描かれた妖精界 5

にんじんの午睡(ひるね) №35               エッセイスト  中村一枝
 子供の思い

渾斎随筆 №11                                                   歌人    会津八一
 歌材の仏像 2

石井鶴三の世界 №119                              画家・彫刻家  石井鶴三
 諏訪1952年/ 車中1954年

はけの森美術館Ⅲ №53                      画家  中村研一
  緑陰(婦人像)

ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №57  早稲田大学名誉教授    川崎 浹
  第三章 混迷の時代を生きる ユーモアのペレストロイカ 6

往きは良い良い、帰りは……物語 №59  コピーライター  多比羅 孝
 『青嵐(あおあらし)』『新茶(しんちゃ)』
      『竹落葉(たけおちば)』『葱坊主(ねぎぼうず)』

【ことだま五七五】

日めくり汀女俳句 №12              中村汀女・中村一枝
 二月一日~二月三日

猿若句会秀句選 №85                                     猿若句会会亭    中村 信
  平成30年5月26日

草木塔~種田山頭火  №19                俳人  種田山頭火
 行乞途上 1

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №42               川柳家  水野タケシ
 6月6日、13日放送分

【核無き世界を目指して】

続・対話随想 №41                                   エッセイスト  関 千枝子    
 関千枝子から中山士朗さまへ              

【心の小径】

論語 №52                                                          法学者  穂積重遠
 一五七 子、顔淵(がんえん)に謂(い)いてのたまわく・・・

余は如何にして基督信徒となりし乎 №42                                内村鑑三
 第七章 基督故国にて - 慈善家の間にて 9

【雑木林の四季】

浜田山通信 №219                                   ジャーナリスト  野村勝美
 米朝首脳会談の付け

私の中の一期一会 №168            アナウンサー&キャスター    藤田和弘
 史上初の米朝首脳会談で朝鮮半島は非核化へ第一歩を踏み出した

パリ・くらしと彩の手帖 №136 在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ
 マクロン登場から1年のフランスの今

徒然なるままに №35            エッセイスト  横山貞利
 三つの歌曲を聴く

BS-TBS番組情報 №164                                    BS-TBS広報宣伝部
 2018年6月のおすすめ番組(下)

バルタンの呟き №36                映画監督  飯島敏宏
 「コリアとヤマト」

医史跡を巡る旅 №40                                保健衛生監視員  小川 優
 「紀行シリーズ」~九大病院キャンパス散策 前篇
 
いつか空が晴れる №37                    渋澤京子
  -また 見つかった 何が? 永遠が-

梟翁夜話(きょうおうやわ) №17                           翻訳家  島村泰治
 「スクワットの話」

検証 公団居住60年 №12  国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 70年代、団地の中の環境問題 3

中華の風 №8               中国文化研究家  堂園 徹
 愚昧な農民の意識が人身売買を横行させる

コーセーだから №39         (株)コーセーOB  北原 保
 fukushimaさくらプロジェクトで今年は坂東市の3つの保育園に苗木を寄贈
 
地球千鳥足 №113   グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子
 「ホワイト・サンズ」

シニア熱血宣言 №103                                       映像作家  石神 淳
  齢 八十越えの嘆き

台湾・高雄の緑陰で №72      在台湾・コラムニスト  何 聡明
 日本のカタカナ外語について一筆

【ふるさと立川・多摩・武蔵】

赤川Bonzeと愉快な仲間たち №114               銅板造形作家  赤川政由
 弟子の話

立川陸軍飛行場と日本・アジア №163             近現代史研究家 楢崎茂彌
 立川尋常高等小学校の6年女子12人が血で日の丸を描く
  
線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №104             岩本啓介
 国鉄色のキハ  只見線   

旬の食彩 僕の味 №101   レストランヴァンセットオーナー   大澤 聡
 鮎のコンフィ2

押し花絵の世界 №64                                     押し花作家  山﨑房枝
 「Flower Collection」

渋紙に点火された光と影 №38         型染め版画家  田中 清
 「コウモリ傘」

国営昭和記念公園の四季 №12
 花菖蒲

【代表・玲子の雑記帳】            『知の木々舎 』代表  横幕玲子

         *       *      *      *
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フェアリー・妖精幻想 №87 [文芸美術の森]

童話作品に描かれた妖精界

              妖精美術館館長  井村君江          

パリの『ピーター・パン』

 『水の子』の前身が「陸の子」即ち人間の子であり、結局のところそのどちらでもなかったように、ジェイムズ・バリのピーター・パンも生後一週間で逃げ出した半人半妖、つまり「半端っ子(ビトウィックスト・アンド・ビットウィン)」であり、「永遠の子供」である。
 『ピーター・パン - 大人にならない子供』は、一九〇四年初演の戯曲であるが、その前身は『小さな白い鳥』という作品で、生まれる前の赤ん坊はみな小鳥で、ネヴァネヴァランドで生まれる日を待っている。
 舞台で上演されたこの物語にさまざまな筋がつけ加えられ、『ケンジントン公園のピーター・パン』(一九〇六)と『ピーター・パンとウエンディ』(一九一一)という作品が出来上がった。
 多くのすぐれた挿絵画家が、現代に生まれた妖精の傑作であるピーター・パンの世界を競って視覚化し、すぐれた夢のある一巻に作っている。アーサー・ラッカムは『ケンジントン公園のピーター・パン』(一九〇六)の作品を、フランシス・ベッドフォード(一九二)、マーベル・アートウエル(一九二〇)、エドムンド・プランピエド(一九三二)等は後者の作品に挿絵を描いている。
 しかしこの二つの作品でピーター・パンはその姿も生い立ちや展開される物語も違うのである。例えば前者ではピーター・パンは「山羊に乗って笛を吹いている裸の赤ん坊」であり、後者では「筋だらけの枯れ葉と木の汁で作った服を着ている」とあり、また前者にはメミー・マナリングという女の子が春の大そうじの時に必ず来てくれるが、ウエンディもティンカー・ベルも登場しない。そのかわり、ケンジントン公園の門が夕方の「閉め
出し時間」になると、ほおずきの提灯をさげて夜の宴会にお出ましとなるフェアリー・クィーンのマブ女王をはじめ、落ちていた切手をいい絵本だと思いこんで飽かず眺めるドワーフや、公園の入口に貼ってある集会のポスターにいたずらをして書き替えてしまう小さい妖精たちが登場する。
 アーサー・ラッカムの古典的なピーター・パンでは、ケンジントン公園の蛇池のほとりで、人間界から逃げ出してきて古木の枝にすわり、烏と話をするピーター・パン坊やが描かれている。画面の事物のひとつひとつ、木や島、赤ん坊、ネズミが非常に手馴れた筆致でリアルに描写されているが、どこかこの世でないファンタスティックな情調の漂いがある、不思議な光景である。
 神経のような細い枝をのばし、奇妙な曲線をみせて土からはい出している根を持つ、赤い実をつけたトネリコの古木が中心に配されているが、現実の人間も超自然の生きものも、その木を中心にして生存しているようである。
 ラッカムの他の画面にも、木に群がる地下のノームや、木の根の形がそのままドワーフの姿になったものなどが好んで描かれている。これは命の源としての古木崇拝(アニミズム)をラッカムが持ち、それを描こうとしたこと、そこから彼の妖頓たちが姿を現わすことが窺えるのである。リアルな描写のネズミであっても、よくみるとマフラーをしている、というように、動物を凝人化し、それに服を着せるということから始まり、それを発展させて妙な姿、変わった手足をした妖精になっていくという、ラッカム独自のリアルとファンタスティックを巧みに交錯させた手法で、特色ある異界(アザー・ワールド)を創りあげている。
 『ピーター・パンとウエンディ』の物語では、ケンジントン公園の妖精たちの特徴をすべて集約したような形で、ティンカー・ベルが登場している。蝶のような翅をつけ、すばやく飛び回り、光のように見える手のひらくらいの大きさの女の子として描かれている。ティンカー・ベルは、身体が小さいので一度に一つの感情しか入らないため、根っから悪い妖精にもなり、良い妖精にもなるし、怒りっぽく嫉妬深い。
 マーベル・アートウェルは、ティンカー・ベルをトンボの麹をつけた白いドレスの可愛い女の子にし、ピーターのそばで手伝いをするところを描いている。ピーターのタイツとヘルメット姿は、現代のクリスマス・パントマイムの舞台衣裳デザインのようで、事実アートウェルの絵からぬけ出したようなピーター・パンの舞台を筆者は観ている。
 エドムンド・プランピエドのティンカー・ベルは蝶の翅をつけた薄いスカート姿であり、ピーターの笛に合わせ幸福そうに(妖精は「ハッピー」を「ダンシー」と言う)踊っている。戯画家でもありペン画が得意なブランピエドは、この本にも各場面のペン画のカットを入れているが、彼がデザインした生まれ故郷ジャージーの切手にも見られるような、非常に軽妙で面白い構図の捉え方をしている。しかし水彩の着色画はより印象的で、水墨画を思わせる大胆なブラシ使いの岩やぼかしの手法が幻想的な世界をよく現出させている。
 フランシス・ベッドフォードのピーターの世界はまったく対照的で、精妙な描線で緻密に構成された背景と人物とが、見る人を異界へ引き込むような感じの画面である。建築家を志し、風景画を得意としていたベッドフォードの手堅い筆使いが感じられるのである。寝室の開いた窓から入ってくるピーター・パンの足元を照らす一筋の光の源を探っていくと、水さしの緑によく目をこらさねば見えぬほど小さな女の子の姿で、麹を持ったティンカー・ベルが描かれている。この本は緑のクロスの表紙に金箔の押しで笛を吹くピーター・パン、それに聞きほれる人達、ローソクを消そうとするティンカー・ベルなどが描かれ、美しい装幌になっている。

A.ラッカム「ピーターパン」.jpg
アーサー・ラッカム「ピーターパン」

『フェアリー』新書館


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にんじんの午睡(ひるね) №35 [文芸美術の森]

子供の思い

                    エッセイスト  中村一枝

 子供のころわたしの母はわたしにおとなの小説を読ませないようにと腐心していた。そうは言っても父の商売は小説家であり、いやでも本は送ってくる。わたしは病弱て一人っ子。外遊びのできない分、そこいらにある本を手当たりしだい読んだ気がする。赤ん坊の時からの友達ミーコなど読書について親から干渉を受けたことはないと言うし、母がどうしてそんなことに神経質になっていたのかいまだに不思議だ。グリムもアンデルセンもたいていの童話は男と女の話なのに、母の生真面目さは今ではとても考えられない。当時の若い母親は生まれたばかりの女の子を童話の中のお姫さま以上に類い稀なものにしたかったのかもしれない。童話の主人公は大抵お姫さま王子様と決まっていて、それが艱難辛苦を乗り越えて結ばれるのがその筋がきだった。童話の中のお姫さまがいとも安易に王子さまと結ばれるのも母は嫌だったのかもしれない。
 わたしが小学校にあがるまえ、父は新聞に成吉思汗の小説を書いていた。書き上がると必ず二階の書斎に母を呼んで読み聞かせた。この話は前に書いた気もしているが、それだけ子供ごころに印象深く残っているのだ。成吉思汗の母が敵方ので別の部落の武将に略奪される悲劇、そんな深刻な話を私は母の膝を枕に聴いた。その時の抑揚のついた父の声まで聞こえる気がする。子供は真実を見分ける目を持っている。それは今も昔もおなじた。今は子供が読んではいけない本なんてないだろうし、子供も見分ける目は持っている。母が読んで欲しくない本は私にはすぐわかった、ルパン全集とかいわゆる講談本、通俗的といえばその通りにしても、面白いことは確かである。母はそういう本を借りてくるのもいやらしかったらしい。
 母は十一人の兄妹がいた。一番下は私と同じ小学生で一年上だった。祖母の家に行くと、「あんたたち二階で遊んでおいで」と言われる。その末の叔母は踊りを習っていて、俗世間のことに詳しい。私は初めてうちとは別世界のあることを知ったのだった。そこでは男と女の話は年中あるらしいし珍しいことでもなさそうなのだ。踊りの世界がまた複雑で、更にお金の面でも私の想像のつかない色々のことがあるらしい。十一人の末っ子であるたこちゃんは幼い肩にいろいろ背負い込んでいるらしい。私には初めて知った世間のトビラだった。
 たこちゃんのおさらい会に隅田劇場というところにも行った。日本舞踊というものを見たのは生まれて初めてのことだった。仲間同士のオーバーな挨拶やら、会場の雰囲気は私はあまり好きになれなかった。わたしがそれ以上近付かなかったのは、率直さとか、わかりやすさとかと縁遠い、その雰囲気に馴染めなかったのだ。貧しい中でお金持ちの人と競り合い戦っているたこちゃんにはむしろ応援する気分はあったが、あの雰囲気には到底馴染めなかった。今習い事の世界も随分様変わりしたと言う話だ。母の十一人いた兄妹達も二人しか残っていない。でも子供が背伸びして大人の世界をのぞいて見たい思いは昔も今も同じ気がしている。

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渾斎随筆 №11 [文芸美術の森]

歌材の佛像 2

                    歌人  會津八一

 これだけを、私は、決して竹尾さんへの御愛想に云つたつもりは無い。ただの人が、ただに見て過ぎる路傍の草叢でも、植物學者の手にかかれば、すぐ何十何種と、はっきり分類される。そして一々學名までつけて標本に作られたら、整然たる鑑別には服すとしても、そこには、もはや、たくさんの乾いた標本があるだけで、一筋の路傍の草の、味も気分も無くなる。やれ衣紋の刀法だの、臺座の寸法だのと、平素、枝葉の末に走って、とかく大聖世尊を忘れがちな吾々には、ほんとの傍の歌らしいものは詠みにくいのであらう。しかし私などが、今さら信心ぶったことを詠みにかかつても、始まらないことであるし、歌はおのづから歌で、信心とは別な一つの道であって見れば、自分は、ありのままに此の道を行く。これがもとから、そして今でも、私の腹である。
 もとの京都帝国大學の濱田博士は、學間の上では、私とは専門も近いし、若い頃からの知りあひで、懇意であった。この人も、私の歌が好きで、昔出した歌集を一首も残さず暗誦してゐるといふほどであった。もっとも、その暗誦を、目の前で聞いたのでは無いが、畫家の曾宮一念君のところへ行って、そんなことを吹聴した末に、いくつも歌って見せたといふことを、あとで曾宮君から聞いた。しかし、いくら懇意にしても、無理に歌の贔屓まで、しなければならぬといふ義理があるわけも無いから、やはりいくらか私の歌が好きであったのは確かであらう。が、そのもとはと云へば、専門の上から、互に似たり寄ったりのことを知ってゐたので、あちらが私の歌の素材によく通じてゐたとも云へるし、こちらの歌が、あちらの美術史の試験に及第したとも云へるところであらう。世間では、よく「天ハ二物ヲ興へズ」などといって、作家の能力の狭さを歎げくけれども、いやしくも作家と名乗るほどのものは、とにかく一能だけは有るらしいが、鑑賞家の方は、五物も六物もあるらしく見せながら、つきつめて見ると、實は一物もあぶなつかしい人が多いやうに思ふ。だからせっかく歌が解つても、佛像が解ると云ふわけに行かないやうに、佛像に理解があっても、必ず歌の判断が出来るといふわけにも行かない。そこへ行くと濱田君などは、両方が解って、自分では絵も描けたし、その上に書道の方まで解ってくれたらしいから、此の人などは、私などにとっては、それこそありがたい知己の一人であったと云ふべきであらう。
 この濱田君あたりが見たならば、観心寺、室生寺、法華寺などの観音を詠んだ私の歌を、いきなり私のエロにしてしまはずに、これこそ日本美術史上、際立って特色の強かったその時代の、官能的な持ち味が滲み出して、ついこんな歌になったのであり、また同じ時代のほかの一面として、東寺の五大明王などになると
   たちいれば くらき みだう に ぐんだり の しろき きは より
   もの の みえくる
   ひかり なき みだう の ふかき しづもり に をたけび たてる
   五だいみやうわう
といふやうな、こんな密教的な、いはば印度臭い、神怪な趣味にもなったのだといふことが、よくわかってくれたであらう。だから好んで百済観音や夢殿観音の、幽寂な微笑を、歌ってゐた私が、忽ちこの平安初期の妖艶な肉感に着目したとしても、それをただ私だけのエロのせゐにして、したり顔でゐるならば、鑑賞家としては、申譯のない不用意だと云はねはなるまい。
 私は叉、新薬師寺の有名な香薬師(かうやくし)如来の像が好きで、かつて
   ちかづきて あふぎみれ ども みほとけ の みそなはす とも
   あらぬ さびしさ
と詠んでゐる。これをその常時、友人の山口剛などは、含津は平素人を見くだして、鼻であしらってゐるものだから、いざ彼が近よって拝みに懸つても、こんどは佛さんの方で、あひてになさらない。と、いかにも痛快らしくその気特を書いてゐるが、なるほど佛さんがあひてになってくれないといふ淋しみは、まさしく私の気持であるが、それにしても、かうした感じは、あの像を見たものならば、殆んど誰もが、身にしみて覚えがある筈の、あのうっとりとした、特有の眼つきからも来てゐることを、山口などは知らなかった。そしてみんな私のせゐにして、何か特別の見つけものでもしたやうな物の云ひ方をしてゐるのである。
 しかし思へば、私が奈良の歌を詠み出したのは、三十年も前のことで、それに櫻井、山口、吉江等の批評的な序文をつけて、『南京新唱』として世に送つてから、すでに二十年にも近い。その間に、世上では、奈良美術の研究や鑑賞が、思つたよりも流行って来て、今では「観心寺の眉」とか「香薬師の眼つき」とか云つただけでも、説明なしにうなづく人がだいぶ多くなったから、今さら不足を云ふことも無いやうなものだが、これ位のことにでも、二三十年はかかるといふのであると、かりそめにも詩歌の作を後世に遺すといふことも、随分心細いことであるらしい。つくづくと考へられることである。        (昭和十七年正月十八日夜稿)

『會津八一全集』 中央公論社

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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №57 [文芸美術の森]

ユーモアのペレストロイカ 7

            早稲田大学名誉教授  川崎 浹

アネクドートが現実に 八〇年代の終わりにバルト沿岸国に独立と民主化の人民戦線運動が起こり、ソ連にも連鎖反応をおこした。八九年のまだ寒い四月、私は友人の政治学者中村逸郎さんに連れられて、モスクワの人民戦線に会いに行った。メンバーの若い奥さんも入り口で腕組みして見張り、KGBがあとをつけてきたのではないかと、ひどく緊張していた。私もアカデミアホテルで待ち合わ芸しているときから、警戒を怠らなかった。ペレストロイカ当初の多幸症症候群はとっくに過ぎていた。
 その際、人民戦線のメンバーがレーニンを犯罪者呼ばわりしたことに私はすっかり驚いた。驚かねはならぬほど、当時はまだ共産主義の勢力が強かったということだ。人民戦線の幹部はKGBだったという通説があるが、中核メンバーの労働者には関係ない。かれらは熱くなって、ゴルバチョフも党の改革派も信用できないことを説いた。それでも政治の最前線をゆく彼らにしてなお盲点があった。この一節で私がいいたかったのは、つぎのアネクドート的実話である。
 民族紛争問題に言及し、各共和国の離反を嘆いた人民戦線メンバーに、中村逸郎さんが虚をつくようにして、笑いながらいったのである。
 「いっそ、ロシア共和国が独立したらどうですか?」
 当時の政治的文脈のなかではまったく意表をつく「とどめ」だったので、メンバーたちも絶句した。私も面白い独創的な冗談だと思って、文学者ではないはずの中村さんのアネクドート的才能に感心した。ところが、一年有余後には、これがアネクドートではなく現実の話となったのである。
 右のとどめは「行列がなくなる」と同じく、しかも比較にならぬほどスケールの大きな予見だった。当時ロシア人はだれもそんなことを考えていなかった。米国に在住していたソルジェニーツィンだけは同じことを考えていたらしく、九〇年九月に発表した『甦れ、わがロシアよ』(木村浩訳、NHK出版)で、一二の共和国を切り離して身を軽くすることを提案し、ソ連人をあっといわせたが、九一年末から翌年にかけて、実際そうなったのだ。

エリツィンへの共感

 八九年三月、ソ連史上初の代議員選挙が行われたとき、改革派の先頭をきっていた「アガニョーク」誌の編集長コローチチに、私もずばりこういったことがある。これも中村さんにつぐくらいの突っ込みだと思うのだが、どうだろう。

 「いっそソ連ほ社会主義を捨てたらどうですか」

 しかし前日ゴルバチョフに会ったばかりのゴルバチョフ路線の継承者コローチチは「共産主義にも良い共産主義と悪い共産主義があります」といって、回答をさけた。かれはいつ「悪い共産主義」に拘束され、投獄されるかと本心おびえていた。そして、三カ月後に第一回人民代議員大会(一九八九年年五月)が開かれた。まだ「人民」などという言葉が使用されていたのだ! 保守派の議員が多数を占めていることが判明した! このときゴルバチョフがいった。

 「同志諸君!我々はペレストロイカの時期において、これまで暮らしてきたより、もっと良くなるだろう!」
 「我々がですって?」とホールの中から声が響いた。
 「で、あなたは何者です?」と今度はゴルバチョフが聞いた。
 「私は党中央委員のエリツィンですが」
 「だったら、あなたも良くなりますよ」

 この直後こういう事件がアネクドートのなかで生じた。

 第一回ソ連人民代議員大会がおこなわれていた。とつぜん自動銃をもった男が突入してきた。
  「ボリス・エリツィンはどこにいるのか?」
 ホールでは代萬員たちが共感の笑みをうかべてエリツィンのほうを指さした。
 男は安全装置をはずすといった。
  「ボーリヤ(ボリス・エリツィンの愛称)、伏せろ!」

 当時、政界でのエリツィンの立場はまだ弱く、このアネクドートには民衆の直接の支持のうえに立っていた「ポビユリスト」エリツィンへの民衆の共感があらわれている。だが二年後にはエリツィンが画策してソ連邦解体の引き金をひき、ソ連大統領だったゴルバチョフの梯子(はしご)をとり去った。
 過去のロシア帝国には混迷の時代もしくは動乱の時代と呼ばれるいくつかの節目があり、現状もまさにそのとおりだが、こうした混沌の時代にはアネクドートが現実となり、現実がアネクドートふうに見えてくるものだ。

『ロシアのユーモア』 講談社選書




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石井鶴三の世界 №119 [文芸美術の森]

諏訪1952年/車中1954年

                画家・彫刻家  石井鶴三

1952諏訪.jpg
諏訪 1952年 (203×143)
1954車中2.jpg
車中 1954年 (202×141)


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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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はけの森美術館Ⅲ №53 [文芸美術の森]

緑院(婦人像) 

                   画家  中村研一

(緑陰)婦人像.jpg
クレパス 34cm×23cm

************                                          【中村研一画伯略歴】

鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

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中村研一記念はけの森美術館正面 

 


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日めくり汀女俳句Ⅱ №12 [ことだま五七五]

二月一日~二月三日
  
           俳句  中村汀女・文  中村一枝

二月一日
布団(ふとん)の襟(えり)に睫毛(まつげ)こすりて覚め居たり
             『汀女句集』 布団=冬
 大正二年、汀女十三歳、県立高女(現第一高)に入学する。江津湖の土手沿いに水前寺公園に出て、軽便鉄道で通う。好奇心いっぱいで何もかもが心を躍らせる。
 図書館で本を借りるのを覚え、手当たり次第乱読した。そのころの汀女は俳句は関心外、芭蕉など辛気(しんき)臭いおじいさんくらいにしか思っていない。翻訳物、特に戯曲に熱中した。当時の訳者、森鴎外、坪内造逢、坪内士行、中村星湖、茅野粛々といったそうそうたる名前が並ぶ。汀女の目を開かせる一端となる。

二月二日
うき草のよする汀(みぎわ)や阿蘇は雪
                『春雪』 雪=冬
 汀女が書いたらしい古いノートを見たことがある。汀女の没後、生家の二階の奥から出てきたということだった。女学生とは思えぬ達筆の走り書きは戯曲や翻訳の引き写しが多かった。
 ゴールズワージ、バンキン、スタンレーホートンといった人たちは十九世紀終わりから二十世紀初めにかけて社会の改革や婦人の地位向上に影響を与えた戯曲を書いている。
 汀女が特に興味を持ったらしいのがホートンの「村の祭」、ハンキンの「醒めたる女」。私はその本を探して歩いた。

二月三日
福豆をわかちあひたり後知らず
              『紅白梅』 福豆=冬
 子供の小さい時は甲高い冴えた声が、豆まきの主役にうってつけで、年中行事の一つであった。老人世帯になってみると、おばあさんが近隣に気兼ねしいしい、「鬼は外、福は内」としょぼしょぼ言っても、福はおろか、鬼だってこない気がする。
 わが家の愛犬アこ、六歳のピーグル犬は食べ物に目がない。アニにとって節分の次の日は目が回る忙しさだ。あっちの角、こっちの小路、思わぬ所に豆が落ちている。鼻をひくひく目を輝かせ、獲物にダッシュする犬と綱を引く私、立春の朝の風景。

『日めくり汀女俳句』邑書林


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草木塔~種田山頭火 №19 [ことだま五七五]

行乞途上 1

                  俳人  種田山頭火

 松風すずしく人も食べ馬も食べ

 けふもいちにち風をあるいてきた

 何が何やらみんな咲いてゐる

 あるけばきんぽうげすわればきんぽうげ

 あざみあざやかなあさのあめあがり

 うつむいて石ころばかり

 若葉のしづくで笠のしづくで



『草木塔』 青空文庫


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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №42 [ことだま五七五]

              読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆6月6日、13日放送分

               川柳家・コピーライター  水野タケシ

川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」、○2018年6月6日放送分の内容です。

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あさひろさんからキツ~~イ一撃!!

ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)がキャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから
http://fm839.com/program/p00000281 
放送の音源は……https://youtu.be/sg9zV5aznts 

【質問】
私はまだ句を作り始めて8カ月ほどの新人です。
先日句会で、中八の字数について意見が分かれたのですが、私にはよく分からなかったので質問します。     (ナナチワワさん)
https://youtu.be/sg9zV5aznts 

【今週の一句】
今週は句の投句がありました!!たくさんのご投句ありがとうございます!!
みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略)
・アマゾンで「シル川」買って一気読み(模名理座)
・女性から女に変わる犯罪者(キジバト交通)

☆タケシのヒント!
「和歌山のドンファンを詠んだものかどうかは分かりませんが、図らずもタイムリーな一句となりました。謎の死がどう解決するかはわかりませんが、女心のミステリアスを巧みに表現しています。」

・夏までに痩せるつもりで買うビキニ(やんちゃん)
・謝れぬ心のゆがみ顔に出る(龍龍龍)
・6月にモモヒキ履いているんです(恵庭弘)
・蚊帳の中入りたくってアメリカへ(名人・光ターン)
・拡大鏡平たく言えば虫めがね(あまでうす)
・王さんの祝いに選手ホームラン(名人・アキちゃん)
・日大を降格するか東大に(キャサリン)
・サムライと言えば強いと錯覚し(名人・六文銭)
・カワウソやサギも診るのか加計獣医(名人・秦野てっちゃん)
・清志郎ふと口ずさむ雨上がり(爽抜天)
・また一つニュースで知った乖の字を(名人・アンリ)
・逃げ足の祖先飛脚か佐川さま(里山わらび)
・孫リレーたぶん嫁さんちの遺伝(名人・酔とぉよ)
・麻生さん変わってもろていいですよ(初投稿=ナナチワワ)
・自動ドアなんだ都会の電車って(名人・ユリコ)
・無理のあるシナリオいつかボロが出る(マルコ)
・「親方の教え」の口上超いいね(のりりん)
・他の国に払わせ甘い部屋となり(不美子)
・選挙区の人は「へ」の字が好きらしい(名人・どんぶらこ)
・嗚呼やはり結果ありきの不起訴処分(小把瑠都)
・外貨なきゃ板門店でやれば良い(つや姫)
・日大をプロフィールからそっと消し(名人・入り江わに)
・理事長もガードも相撲体型よ(フーマー)
・何者でもない都会に一人立つ(平谷妙子)
・交流戦メタメタに負け夏兆す(パリっ子)
・家政婦は見たぞドンファン謎の謎(鵜野森マコピイ)
・かぜ薬飲むたびなぜか二度寝して(ポテコ)
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・仏だんにきなこあめあげ手を合わす(かたつむり)
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・教育者メモを隠して心捨て(クッピー)
・七光り皆で持ち上げ気味悪い(名人・りっちーz)
・声変わりすごいぞ息子しんのすけ(外科系)
・居酒屋のあちこちに居る憂国の爺(司会者=あさひろ)
        (添削例)あちこちに憂国の爺いる呑み屋

☆あさひろさんのボツのツボ!
「ラジオ万能川柳。145の投句。腑に落ちない・納得できない・もやもや感が残る。そんな心情が句材に反映されるのでしょうか?今週もモリカケ・閣僚・国会関係の句が多数。国を憂う声を発し続けましょう。没の壺『家計簿の酒の字だけがいやに濃い』グランパ。我が家のそれは(雑費)がやけに多いのは何故?」

・田圃から助走も無しに飛べる鳥(あやや)

◎今週の一句女性から女に変わる犯罪者(キジバト交通)
◯2席・謝れぬ心のゆがみ顔に出る(龍龍龍)
◯3席・日大をプロフィールからそっと消し(名人・入り江わに)

【お知らせ】 
このラジオ万能川柳の皆さんのご支援もあり、「いちばんやさしい!楽しい!シルバー川柳入門」、売れ行き好調です!!
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川柳入門の本としては、もうダントツの売れ行きです!ありがとうございます!!
というわけで、お待たせしました!!
来週、川柳や質問をお寄せいただいた方から1名様にサイン入りの入門書をプレゼントさせていただきます。
このために考えた特別のメッセージを添えさせていただきます!!
あくまでも、秀逸の方ではなく、全投稿の中から抽選で2名様ですので、ふだんは聞いているだけの方もふるって応募してください!!

【放送後記】
小雨の中、迷いながら、クロスバイクでスタジオ入りしました。
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これが大正解!!
あたたかい雨が気持ち良いのです!!
シャワードライブ、とでも呼びたいひととき、でした。
シャワーランの言葉があると知ってから少し楽しい雨の日のジョグ  タケシ
                                タケシ拝

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 2018年6月13日放送分の内容です。
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ラジ川名物、かたつむりさんのイラスト。今回は米朝首脳会談!!

 ☆あさひろさんのボツのツボ!
「ラジオ万能川柳。今週はタケシ師匠の最新本「いちばんやさしい!楽しい!シルバー川柳入門」プレゼントという事で、いつもの3割増し189の投句。米朝会談・新幹線殺傷事件・乳児殺害事件の句材多。今週はあさひろもボツに。そこで、あさひろ自ら掘り起し、ボツのボク『ならず者いつの間にやら国賓に』」

「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)がキャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
http://fm839.com/program/p00000281 
放送の音源は……https://youtu.be/IUunYgkjMrE 

【質問】
皆様、それぞれ創作・送付された川柳をどのように管理されているのでしょうか。
(パリっ子さん)
https://youtu.be/IUunYgkjMrE 

【今週の一句】
今週は189句の投句がありました!!たくさんのご投句ありがとうございます!!
みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略)
・父の年超えても未だ迷ってる(名人・グランパ)
・梅雨入りしどうすんねんとストーブが(昔のジョー)
・気がつけば夜も更けてたイッキ読み(重田愛子)
・腹を切る魂消えたこの日本(のみ助)
・動物はわが子を殺めたりしない(名人・春爺)
・洗車して梅雨の晴れ間が土砂降りに(キジバト交通)
・楽しいと顔が大きくなりますね(平谷妙子)
・僕が無視妻はテレビと話し出す(名人・どんぶらこ)
・億万の長者も命ひとつだけ(名人・光ターン)
・引きこもる言い訳いらぬ雨が好き(マルコ)
・シルバーって幾つ位の歳なのか(名人・アンリ)
・金欠も金有りもみな金で死ぬ(東海島田宿)
・女性誌に何故ない男のヘアヌード(不美子)
・理事長の会見とっち早いかなあ(名人・秦野てっちゃん)
・五歳児が書いた「ゆるして」哀れ(大名人・雷作)
・王さんに後期独身励まされ(龍龍龍)
・総理って悪い人かと聞く園児(キャサリン)
・男にも水着審査があっていい(恵庭弘)
・お試しのサプリ後までしつっこい(でんでん虫)
・寂しさを電波で埋める電車内(ナナチワワ)
・勇気ある人はいつでも先に死ぬ(名人・入り江わに)
・シンゾウも大人になれと諭される(爽抜天)
・ひと休み紫陽花の白愛でながら(名人・アキちゃん)
・似合うねと言われ気に入る赤い傘(名人・ユリコ)
・無給でもしがみついてる旨味あり(小把瑠都)
・お隣が殺人犯に見える席(北の夢)
・世界中平和だなんてありえない名人・けんけん)
・結局はどこが出すのか宿泊費(のりりん)
・そうしろと夫言うのでそうしない(名人・荻笑)
・会談の成果で決まるノーベル賞(つや姫)
・飽きちゃった?モリカケ食わぬワイドショー(里山わらび)
・とんなことしたのされたのドンファン氏(名人・酔とぉよ)
・白金に行ってみたいが金ネーゼ(ポテコ)
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・イケメンは傘はささないものらしい(はる)
・愛の字の心が泣くニュース続く(グッピー)(添削例)愛の字の心が泣いているニュース

☆タケシのヒント!
「『もうゆるして』と書き残して亡くなった結愛ちゃんを詠んだ句です。せんりゅうにするにはやや重い事件ですが、愛の字に着目されました。間接表現だけに、作者の想いがしみじみ伝わってきます。」

◎今週の一句愛の字の心が泣いているニュース(クッピー)
◯2席・総理って悪い人かと聞く園児(キャサリン)
○3席・そうしろと夫言うのでそうしない(名人・荻笑)

【お知らせ】 
さあ6月です!!
毎年恒例、「ぬまづ文芸・川柳部門コンクール」絶賛募集中です!!
去年も、ラジセンの常連の方が大賞を受賞したんですね!!
全国公募ですので、ぜひ皆さんチャレンジしてください!!
沼津市の主催なのに、何故に全国公募なのか。
それは、沼津が、井上靖 や若山牧水など著名な文学者たちとのゆかりが深いこと。
そして、当時の市長さんの、「沼津市にとどまらず全国公募にして切磋琢磨して技量を高めよう」
という高い志によるものです。
私が選者を務めています。全国からたくさんのご応募をお待ちしています。
(応募期間)   7月31日(月)当日消印有効
(問い合わせ先) 沼津文化協会『ぬまづ文芸』係( 055-952-6597※平日13時~16時半)か、あるいは、水野タケシブログ「水野タケシの超万能川柳」で情報をチェックしてください。

 【放送後記】
サイン&メッセージ入りの「シルバー川柳入門書」プレゼントにたくさんの川柳&川柳に関する質問ありがとうございました。
ディレクターの三上さんと厳正なる抽選を行った結果、かたつむりさんとあややさんのお二人に決まりました。
ご住所をエフエムさがみ「ラジオ万能川柳」までお願いいたしますね!!
                                 タケシ拝

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水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」http://ameblo.jp/takeshi-0719/




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雑記帳2018-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-6-15
きみちゃん像は麻布十番にもありました。

台地と谷地で形成された麻布は坂の多い町です。
縄文時代から人が住み、8世紀初頭には竹千代稲荷、9世紀には善福寺が創建されるなど寺社の門前町として栄え、江戸時代には武家屋敷が建ち並ぶようになりました。
明治の近代化とともに、台地の上と谷で、富裕層の住宅地と零細商工業地とに分化がすすみました。

かって「土筆が原」と呼ばれた広尾一帯は、しばしば将軍家の鷹狩りが催されたところです。二代将軍秀忠が鷹狩りをした際に立ち寄って稲荷神を勧請したと伝えられる広尾稲荷神社には、戦禍を免れた江戸時代の拝殿や大正時代に再建された本殿が現存しています。
拝殿の天井には日本最初の洋画家、高橋由一が描いた龍の絵が見られます。これは彼の最後の日本画だと言われています。

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広尾稲荷神社
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高橋由一の天井画

東京メトロ広尾駅に近い有栖川宮記念公園は、麻布台地を取り込むように造られた庭園です。江戸時代には盛岡南部藩の下屋敷でした。南部藩はのちに、屋敷替えで南麻布に移転しましたが、南部坂の名称はそのまま残っています。
明治29年、有栖川宮家の御用地となり、有栖川家がとだえたあとは高松宮家が預かって後に東京市に賜下され、その後も、1959年に東京都から港区に移管されるという変遷をたどって、現在は区立公園として親しまれています。
台地を利用して造営された園内は丘があったり、渓谷や池があったりと起伏に富み、高台の木立はまるで高原のよう、都内とは思えないほど緑豊かな自然に恵まれています。木立の向こうに見える都立中央図書館は蔵書が充実していることでファンも多いと聞きました。

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東京都中央図書館.jpg
都立中央図書館

港区、ことに麻布は大使館の多いことで知られています。
皮切りは、安政5年、江戸幕府が日米修好通称条約に基づいて、善福寺に、アメリカ合衆国公使館を設けたことでしょうか。初代中日総領事タウンゼント・ハリスが逗留しました。慶応2年には別の寺院にプロシア公使館も設けられました。
今、港区にある大使館の数は70近く、そのうち、20以上の大使館が麻布十番商店街周辺に集まっています。

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通りすがりに見た韓国大使館

空海が開山したと伝えられる善福寺は、都内では浅草寺、深大寺に次ぐ古刹の一つ、鎌倉時代に親鸞が訪れて浄土真宗に改宗されたと言われています。本堂は300余年の歴史を持つ文化財的建物。他にも、樹齢750年以上、都内最大のイチョウがあるなど、見るものも多く、周辺は寺町の様相を見せています。

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ハリス逗留の記念碑
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都内最古、最大の銀杏の木

麻布散策のもう一つの目玉スポットは安藤記念教会です。
1917年創設の、都内でも珍しい石造りの教会です。創立者安藤太郎は、函館戦争で榎本武揚に従軍、明治政府の下で大蔵省、外務省に登用され、初代のハワイ総領事に就任しました。そこで基督教と出会い、洗礼を受けて、1888年にハワイで最初の日本人教会を設立しました。帰国後は日本禁酒同盟を結成して禁酒運動に取り組みます。建物は東京都指定の歴史的建造物に指定されています。
安藤記念教会の通りを北へ進むと西町インターナショナルスクールがあります。創立者の松方種子は松方コレクションで有名な松方家の出身、松方家は薩摩の出でした。

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安藤記念教会

麻布十番商店街は善福寺の門前町として300年以上栄えてきました。300余りの店舗が軒を連ね、昔ながらの飲食店や服飾店など100年以上の歴史を持つ老舗と、新しいショップが仲良くならんで、にぎわっています。大使館の多い土地柄、外国人も多く、国際色豊かな雰囲気をかもして人気の商店街です。

その一角に、「赤い靴」のきみちゃんの像があることをご存知でしょうか。
『知の木々舎 』に連載の『往きは良い良い、帰りは……物語』の中で、童謡「赤い靴」が取り上げられたことがありました。そこに書かれていたのは、野口雨情の作詞した「赤い靴を履いていた女の子」が「異人さんに連れられて行っちゃった」のはほんとうではなかったというのでした。
赤い靴の岩崎きみちゃんにまつわるエピソードはいろいろあります。
母親のかよさんが再婚した夫とともに開拓民として北海道へ渡る際、小さかったきみちゃんを連れて行くわけにもいかず、きみちゃんは横浜にある教会の宣教師の養女になりました。きみちゃんが6歳のとき、宣教師夫妻はアメリカに帰国することになりましたが、結核にかかっていたきみちゃんは船に乗ることは許されず、孤児院に預けられました。きみちゃんを看取ったその孤児院が麻布の鳥居坂教会にあったので、麻布十番商店街はパティオにきみちゃんの像をたてたのです。

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パティオ.jpg
さすが麻布、パテイオもお洒落です。

幸薄かったきみちゃんを偲ぶ像は全国にあり、横浜や小樽、静岡、函館など岩崎家やきみちゃんに関わりのあった各所に置かれています。生き別れた娘のことを野口雨情に語ったかよさんは、きみちゃんが宣教師夫妻とともに幸せにくらしているものとばかり思っていたのでした。きみちゃんが9歳で亡くなった麻布鳥居坂教会の跡地には十番稲荷神社が引っ越してきました。

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十番稲荷神社
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十番稲荷の真向かいにある塩の店。店内には世界中の塩が集められている。

◆ご近所でフランス人の落語の会がありました。

週1回のサークル仲間がいつも利用するランチのお店のオーナーが、このたび初めて企画したというイベント、シリルコピーニ(日本名は尻流複写二)さんの落語会に誘われて、のぞきました。

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カフェ「ビヨンド」

演目は同時通訳の形で「寿限無」と「味噌豆」。
日本に住んで16年というシリルさんの流暢な日本語に客は感心しきりです。

自分は落語家とは言わず、あくまで落語パフォーマーだと謙遜(?)するシリルさん。師匠について苦労して修行し、前座から二つ目、真打と呼ばれるようになっていくのが本当の「落語家」なのだそうです。
演目そのものはどうということはありませんでしたが、手招きの仕方が日本とフランスではまるで逆、など、フランス人から見た日本人をマクラにしているのが面白く、独特の語り口も手伝って、興味深く聞きました。

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落語パフォーマー尻流複写二さん
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店の前でシリルさんと一緒に記念撮影。

一つだけ覚えていってと教えてくれたのが「サバ」というフランス語。魚のサバになれている日本人なら覚えやすいに違いないという心遣いでしょうか。
昔、女優で売りだしたばかりのイザベラ・ロッシーニが、コマーシャルの中で発する言葉が「サバ」だったことを思い出しました。あう人ごとに「サバ(元気?)」と声をかけていました。(彼女は今では父親と同じ、押しも押されもしない映画監督です。)スペルはça.va.
シリルさんは、最近では、フランス人の落語をききたいという声で、あちこちに呼ばれることが増えたということでした。

店のオーナーは、語学学校を経営している女性です。なので店では中国やインド、アメリカなどいろんな国の留学生が働いています。
いつも私たちのテーブルの世話をしてくれるのはドイツからの美人の留学生、コリンさんです。サークルのメンバーには、ご主人の仕事の関係でドイツに住んでいたというYさんや、昔スイスに留学していたHさんがいるので、毎回、ちょっとしたドイツ語の会話が弾みます。今や国際的には全く出番の無いドイツ語でも、おしゃべりとなれば別。コリンさんもうれしそうです。近くの学習館で私たちと同じようなサークル活動をしているグループもお昼に利用しているらしく、この日、会場にはそんなシニアの姿を沢山見かけました。


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私の中の一期一会 №168 [雑木林の四季]

           史上初の米朝首脳会談で朝鮮半島は非核化へ第一歩を踏み出した
      ~安倍首相、唐突に日朝首脳会談に意欲。その背景は秋の総裁選にあり?~

         アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 2018年6月12日午前9時過ぎ(日本は10時過ぎ)史上初の“米朝首脳会談”がシンガポールで始まった。
 アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は、「ちびのロケットマン」とか「老いぼれ」などと互いに“ののしり合い、戦争一歩手前かと懸念されるほどの”敵対関係を続けてきただけに、米朝首脳の話し合いがどうなるか?世界中がその成り行きに注目していたと思う。
 シンガポールからのテレビ生中継を見る限り、会談は終始和やかなムードで進められたようにみえた。
 両首脳が署名した共同声明には、新たな米朝関係樹立など4項目が謡われている。 
1)米国と北朝鮮は、新たな米朝関係を樹立することを約束する。
2)米朝は、朝鮮半島に持続的で安定した平和体制を構築するため努力する。
3)4月の板門店宣言を再確認し、北朝鮮は朝鮮半島の完全な非核化に向けて努力することを約束する。
4)米朝は、(朝鮮戦争の)身元特定済み遺骨の即時返還を含め、捕虜や行方不明兵の遺骨収集を約束する。
 共同声明には 日米韓が求めてきたCVID 「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化」の文言は盛り込まれていない。
 “非核化への道筋”はどうなるのか。すでに“保有している核はどう処理するのか?”など大きな懸案も一切語られていないのだ。
 非核化に向けてIAEA(国際原子力機構)の査察が上手くいくという保証はあるのだろうか。
 日本もアメリカも政権がこのまま続くかどうか分からない。新しい政権になった時にどうなるのだろう。
 派手なだけの「政治ショー」では解決できない課題が双方にいくつも残っているという指摘もあったりして、史上初の米朝会談も評価は様々だ。
 会談終了後、トランプ大統領は記者会見して熱弁を振るったが、金正恩委員長は記者会見しなかった。
 世界は、北朝鮮トップの肉声で“非核化への決意”を聴きたかった筈なのに、何故会見しなかったのだろう。
共同声明では、日本が気にしているミサイル問題の行方にも触れていない。
「拉致問題」だって「ちゃんと提起したよ」という大統領の発言はあったが、金委員長がどういう反応したかは不明確だった。「解決済み」とは言わなかったというのは噂の域を出ない。
 記者会見で、北朝鮮が約束を破った時、“軍事行動をとるか”と聞かれたトランプ大統領は「韓国への甚大な影響を考えると軍事行動は非現実的だ」と答えていた。
 また、北朝鮮が嫌う米韓合同軍事演習についても“対話継続中は中断もあり得る”ことを示唆した。
 新たな米朝関係はスタートしたばかりで、すぐに明確な成果を期待するのは無理なのではないか。
 時間をかけて対話を積み重ねていくしかない。
 北朝鮮の国営メディア・朝鮮中央通信は、首脳会談から一夜明けた13日、首脳会談や共同声明の内容について報道した。
 それによると、朝鮮半島の非核化は段階別、”同時行動の原則”の遵守が重要との認識で一致したと報じている。要するに北朝鮮の“段階的な非核化”にアメリカが同意したことを意味している。
「同時行動の原則」とは、非核化の進展に合わせて制裁を緩和していき、その度に何らかの見返りが北朝鮮にもたらされることを意味している。北朝鮮外交の巧みさに舌を巻く思いだ。
 非核化の費用を日本や韓国が負担させられることも覚悟しなければならないかも知れない。
 横田めぐみさんの母、横田早紀江さん(82)が、トランプ大統領の拉致問題提起を評価して「あとは日本政府がやらなくてはならないところに来た」と新聞に語っているのを読んで心が痛んだ。
 10年ほど前になるだろうか、横田さんご夫妻の講演を聴く機会があった。
 あの頃から「国が動いてくれないとどうしようもないんです」と訴えていた横田滋さんも今や85歳。
 いま体調を崩して入院中と聞くとますます胸が痛い。
 拉致被害者の家族の方々の「もう時間がない」という声は心の底からの切実な叫びなのだ。
ソウルの情報関係者が14日明らかにしたところによると、北朝鮮が“日朝首脳会談を行う用意がある”ことをトランプ大統領に示していたことが分かった。
 数カ月以内に首脳会談を開くことを想定して準備を進めているという。
 安倍首相は14日、官邸で拉致被害者の家族会と面会した。
 首相は「拉致問題は日朝の問題、米朝会談を機に北朝鮮と直接向き合いたい」と述べ、日朝会談を実現し拉致問題解決を図る考えを強調したという。
 家族会の飯塚繁雄さん(80)は歴史的な会談で拉致が提起されたことは喜ばしいと期待しながら「日朝間で早く結論を出していただきたい。今までと同じ轍を踏まないように願う。約束が守られ、着実に成果を得る会談をしていただきたい」と強い口調で訴えた。
  安倍首相は“丁寧に説明する”といつも言うが、“説明された”と思う国民はほとんどいない。
 “ウミを出し切る”と言うが、首相自身がウミなのだから、出し切るなら退陣するしかない。
 おまけに“ウソをついてまで、”あったもの“を”ないことに“してきたことを多くの国民は知っている。
 金正恩委員長は、こうした安倍首相の言動を全て知っていると思ったほうがいいだろう。
 家族会・飯塚繁雄さんの「今までずっと騙されてきた・・」というコメントは、北朝鮮にではなく安倍政権に騙されてきたと言いたかったのではないか・・フトそんなことを思った。
 政府は14日夜、安倍首相と金正恩委員長による日朝会談を通じて、拉致問題の解決を目指す動きを本格化させたというニュースが流れた。
 家族会との面会では、「コチラからやりたいと言えば足元を見られる」と漏らし、会談の時期は慎重に見極めると述べたという。
 時期や場所について「機微に触れる」として一切明らかにしなかった。
 「まだ圧力を緩めてはダメだ。中国、韓国も制裁を緩めてはならない」という相変わらずの持論を語ってみせたらしい。
 ところが、その晩には首相サイドが“日朝首脳会談を模索する”動きに転じている。
 唐突に動き出した背景には、「9月の“自民党総裁選”があるからだ」と聞いて私は一気にしらけた。
 拉致問題の解決に向けて突き進む安倍首相の姿は、総裁選で3選を確実にするための”格好のアピール“になる・・だなんて。
 そんなこと知ったら「拉致被害者の家族会はどう思うだろう」と考えないのが“安倍一強政権”なのである。
 金正恩という若き指導者は、祖父や父親が成し得なかった“米国との対話を成し遂げた人物”になった。
 父親のような年齢のアメリカ大統領にも、臆することなく堂々と立ち向かえる度胸の持ち主でもある。
 その外交手腕を侮ることがあってはならないのだ。
 ゴチャゴチャ言い訳はいいから、「早く行動して欲しい」というのが家族会や国民の切なる願いだと思う。
 新聞に「拉致問題解決へ陣容一新だ」という大阪府の男性の投書があった。
「(前略)玉虫色の共同声明についても安倍首相は高く評価。日本政府は拉致問題の進展に期待を寄せているようだが楽観的としか言いようがない。(中略)トランプ大統領の尻馬に乗って「最大限の圧力」を叫んできた安倍政権は、北朝鮮にとってすこぶる印象が悪いだろう。安倍首相は拉致被害者救出の司令塔になると言うだけで、具体的な行動が見られない。(中略)政府は陣容を一度リセットして、行動力のある新しい顔ぶれで拉致問題に取り組んでもらいたい」
 “行動力のある新しい顔ぶれによる日朝会談”・・・私は“いい案だな”と思った。
 


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浜田山通信 №219 [雑木林の四季]

米朝首脳会談の付け

              ジャーナリスト  野村勝美

 ついこの間までどうしようもない奴らだなどと思っていたトランプ米大統領と金正恩北朝鮮委員長が、初の米朝会談を世界中の人々の見守る前でみごとにやり通した。TVのコメンテーターや専門家は例によってなにやかにやと“評価”していたが、私は単純によかったよかったと思うのみだ。
 北が経済制裁を受ける中で、ものすごい金のかかる核爆弾、ミサイル開発を続け、あげく北アメリカにまで届くロケットの発射実験をやり、わが国はその度にJアラームだかで国民が脅された。そのすべてがアメリカとの直接交渉のためのシナリオ通りだったとしたら、金正恩は若いのに凄い戦略家だ。CVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)が共同声明にもりこまれなかったと批判する人が多いが、北はどんどん核廃絶に進み、改革開放の道は進むだろう。朝鮮戦争をしかけ、アメリカと死にものぐるいに闘った祖父や父の苦闘を彼は知らない。逆に幼い頃からスイスに学び、ソ連の崩壊も知った。アラブの春やリビアのカダフィの末路を見た。独裁者は権力を維持するにはどうやればよいかを常に考えている。一方トランプはかってのアメリカをとりもどそうとしてアメリカ・ファーストを掲げた。TPPに反対し、G7でも関税問題でケンカを売る。なりふりかまわない暴れようだ。何でも1人で決めてしまう。そんな2人がちょっとしたきっかけで意気投合する。
 こんどの会談でいちばん参ったのはわがアベさんだ。モリカケ問題でノックアウト寸前だったのに昨年の選挙でもこの間の新潟知事選でも北のおかげで大勝利。何しろラチ問題は日本人の8割以上が解決を叫ぶ。すべてトランプさんにまかせ、お願いしていて、自らは何もしない。いくら会談で口添えしてくれたといっても、北から色よい返事があるわけがない。板門店会談で米朝会談の道を開いた韓国文在寅大統領の与党は13日の地方選挙で勝利し、在韓米軍まで撤退されたら日本国の防衛はどうなるのかと防衛省関係は弱音をはく。何がなんでもアメリカさんのポチ、腰巾着たりしアベさん、いよいよ最後の正念場だ。
 アメリカに戻ったトランプさん、北の核廃絶の費用は韓国と日本で払えと言った。その費用2兆ドル、日本円で220兆円。ポチはポチで大変だ。

             ×     ×    ×

 11日夜NHK「鶴瓶の家族に乾杯」を見た。福井の越前市(昔、武生といった。平安時代国府があり、紫式部の父が国司だった古都)を長瀬智也と訪ねる番組。私の一番下の妹が嫁に行った野木という和菓子屋を長瀬がのぞき、甥の繁春君と連れ合いの洋子さんが応対していた。洋子さんは若々しい感じだったが繁春君はヒゲも白髪まじりですっかり老舗の主人の貫禄だった。私の妹夫婦は引退、頭がしっかりしていればどんにか喜んだことだろう。名古屋にいる甥の越野馨介君がメールで知らせてくれた。

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BS-TBS番組情報 №164 [雑木林の四季]

BS-TBS 2018年6月のおすすめ番組

                     BS-TBS広報宣伝部

日本の旬を行く!路線バスの旅

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毎週(火)よる8:00~8:54

☆日本全国の「旬=ベストシーズン」を、のんびり、ゆったり、路線バスの旅!

日本全国の「旬=ベストシーズン」を、のんびり、ゆったり、バスで旅していく。そこには景色・味・人との一期一会の素敵な出会いが!その時期にしか出会えない景色や味、そして地元の人々との触れ合い。旬=ベストシーズンを路線バスで旅します。

■6月19日(火)
#124「富山の初夏!蜃気楼の見える街を目指して」
旅人:花田虎上(第66代横綱若乃花)
路線バスに乗り、今しか出会えない旬を求めて気ままに一人旅。四季折々の魅力が満載、日本の素晴らしさを発見します。今回は第66代横綱の花田虎上(まさる)さんが初夏の富山を巡る1泊2日の旅。富山の旬を食べまくり!絶品グルメ旅!▽富山湾の宝石・白エビ200匹!極上丼▽名物・ます寿司&氷見うどん作りを体験▽鋳物の街!巨大仏像作りに驚き▽自然の芸術!蜃気楼

※6月26日(火)は特別編成のため休止

美しい日本に出会う旅

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毎週(水)よる8:00~8:54

☆にっぽんを、記憶する旅へ。

旅の案内人・語り:井上芳雄 高橋一生 瀬戸康史

四季のうつろい。
霧煙る山々の連なり。清流の清々しさ。海の輝き。桜咲き誇る街並み。
日本はなんと美しいのでしょう。
その美しい国に、驚くほど多彩で豊かな暮らしが息づいています。
受け継がれる手しごとや風習には、土地に寄り添い暮らす人々の姿が見えます。
海の幸山の幸にも、土地ならではのひと工夫。
温泉めぐりも、日本ならではの旅の楽しみです。
お国言葉を聞きながら、心もほっこり。
さぁ、美しい日本を旅しませんか。

■6月20日(水)
#240「新緑の栃木・那須へ~渓谷露天風呂と憧れの花めぐり滝めぐり」
旅の案内人・語り:高橋一生
高橋一生さんが案内する、栃木県 那須高原への旅です。日光の玄関口としても知られる鹿沼は、知られざるサツキの町。全国の愛好家が自慢のサツキを持ち寄ります。きれいに咲かせる秘密は土にあり?城下町・黒羽では、芭蕉も訪ねた禅寺と、墨と染める不思議な藍染めを発見!高原の春野菜といえば、「かぶ」だそう。しかも生で食べるのがおすすめの、通称「トロかぶ」に出会います。そして那須塩原温泉郷では、名湯めぐり&滝めぐりと行きましょう。

※6月27日(水)は特別編成のため休止

~癒・笑・涙・夢~夕焼け酒場

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毎週(土)夕方6:00~6:30

★大衆酒場が舞台。美人女将やご亭主やその家族や常連客が紡いで来た心温まる人情話を探しに行く「ふれあい人情ドキュメンタリー」! 

出演:きたろう 西島まどか

人々は酒場に集い、酒を酌み交わして来た…。それぞれの人生の癒しと、涙と笑いと夢を語りあいながら。下町大衆酒場で待っている人達のもとに番組が訪れ、視聴者が家にいながらも、その下町大衆酒場空間に一緒にいて、一緒に酒を飲み、一緒に会話を楽しんでいるような雰囲気、そして、常連客だけの居場所ではなく、初めての人でも楽しめる雰囲気を演出していきます。下町大衆酒場での「ふれあい人情ドキュメンタリー」。

■6月16日(土)
#193 東京都江東区木場「木場魚松 酔月」
楽しいお酒をいただく前に、高知県の美味しいモノを集めたお店「コウチノ鯨」で店主自ら厳選した名産品をいただく…そして、今宵の夕焼け酒場は…木場で創業37年目を迎えた「木場魚松 酔月」…明治時代から続く魚屋の三代目妻が、木場に酒場が少なかったことから店を始め…今では息子が跡を継ぎ、一緒に暖簾を守る。人気の秘密は、実家が鮮魚店だったことで培った目利きを生かした魚料理の数々。中でも女将考案の“大根煮”は仕入れた魚のアラを使い7時間以上煮込んで1日寝かせ、大根に味をしみ込ませた店自慢の一品。さぁ~テレビの前でご一緒に!夕焼け酒場!!

■6月23日(土)
#194 東京・荻窪「すっぴん」 ※予定

■6月30日(土)
#195 東京・大塚駅前「大提灯」 ※予定




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バルタンの呟き №36 [雑木林の四季]

「コリアとヤマト」

                 映画監督  飯島敏宏
    
 先日、かねてから気にかかっていた事を確かめたくて、秩父の吾野宿という小さな町を、再び訪ねてみました。西武線吾野駅のすぐ近くの、高麗川の清流沿いにある旧秩父道(秩父街道)の伝馬町だったところです。秩父道は、旧鎌倉街道上道の脇道で、鎌倉―町田―児玉―所沢―信濃と続く本道の脇道で、吾野宿は、物資を運ぶ馬や人足を用意して、リレー式に交代する伝馬の拠点として興った小さな宿場で、伝馬の他に役場としての業務を負った問屋、旅人宿など、街道沿いの地産の杉材を使った古い建物なども、現在もそのまま居住している状態で、いわば、生きている有形文化遺産とでもいうべき形で残っている、山間の小さな宿場町なのです。
 この辺りは、古来から幕府直轄の高麗領として代官が支配していた天領でした。 高麗川沿いのこの町を囲む山々からは、徳川時代には、江戸城賄い(増築、修繕)用の木材である杉と共に、細工物用の瓜の木、紙漉き用の楮などが送り出されていました。もともと厳しい寒冷の地であった上に平地が少なく、広汎な耕地や水田が望めず、稲作は行い難い地勢でしたから、周囲を取り巻く山林からの瓜の木の伐り出し、楮を用いた紙漉きなどを生業にしていたのですが、絹産業の発展と共に、当地や秩父地方で生産された生糸を江戸に送る運搬の要衝として大いに繁栄した末に、やがて訪れた絹価格の大暴落以降は、衰退を余儀なくされ、さらに明治17年の秩父困民党の一揆挙兵騒動にも巻き込まれ、そのあげくの名主、地主たちへの懲罰で疲弊してしまったのです。
 さらに、アメリカ発の大正昭和恐慌で、絹産業は壊滅的な打撃を蒙り、それに加えて、戦前戦中の無謀な富国強兵政策による過剰な杉の植林と、戦後の杉材の急激な需要減の煽りで、林業も衰退してしまった街なのですが、現在は、残された豊かな自然と遺された街並みを観光の拠点として、改めて街を興し直そうという、地元住民による試みが行われようとしているところです。
 
 ところで、僕がこの街を再訪したのは、それとは少し違う動機からでした。そもそも、この吾野の属していた高麗郡(飯能)には、古来から、朝鮮半島からやってきた大量の渡来人が住み着いていたのです。高麗という地名からしてが、朝鮮(高句麗)の言葉から来ている訳ですし、有名な飯能の高麗神社の他に、この吾野にも、高麗神社があります。
 奈良時代の大宝律令に、すでに武蔵国高麗郡とあり、今回、僕があれこれとお話を伺ったこの町の古老(といいましても、僕よりもかなり年下の方)が上げたこの辺りの幾つかの地名にも、音的には朝鮮の言葉に、漢字を宛てた地名と思われるものが数多くありました。
 「地名だけでなく、姓名にも、かなりありますよ」
 話しを聞かせて頂いた古老は、古くからのこの地の伝馬宿を継いできた由緒ある家の当主で、彼によれば、続日本紀に、西暦716年、高麗国の滅亡により、この高麗郡に1799名の帰化人を受け入れたと記されているということです。
 これが事実だとすれば、日本の人口が、500から600万人ほどと推察されている時代に、高麗郡総人口5000人の内の1800人が朝鮮半島からの帰化人だったという訳ですから、ぼくが驚くのは当然の高比率です。考えてみてください。これは大変な人数ではありませんか。すでに、高麗神社の存在、その他の遺跡から、この地にはたくさんの帰化人が住んでいたということは漠然と認識していましたが、まさかこれほどの高い比率で帰化人がいたのだとは想像もしていませんでした。
 「多摩にきた渡来人は、百済との交流が盛んだった時代に近畿地方に移り住んできて、大和朝廷に徴用されて、半島の技術や知識を伝えた帰化人に比べたら、僅かなものです」
 でも、それらの帰化人たちが齎したものは、稲作はじめ多種の農耕技術、鋳鉄、窯業、などの技術的なものばかりか、この地に、多様に文化的な貢献を果たしたのです。
 吾野という地名の淵源は、この地に伝わるヤマトタケル(倭建命)の東征伝説(坂石にある我野神社縁起)に遡ります。相武の蝦夷を掃討する途上、山深いこの地に差しかかって道に迷った際、姿を現した弓矢を持った老人や、甲冑を身に付けた童子の道案内で無事にこの地を通り抜けることが出来たので、我野と名づけ、以来、この地にヤマトタケル(日本武尊)とタテミナカタの神(建御名方神)を祀った、とあるのです。後に、我野を吾野と記すようになった、と。
 日本武尊伝説は、日本各地にあり、相模(静岡)の焼津が最も古いものと言われるが、この辺りも、古きには、相武とされていた、というのです。
 吾野から秩父に向かう道には、峻険な山岳(正丸峠)を控えていて、神佛混交の山岳信仰が生まれ、そこに行基菩薩の伝承から、常楽寺(高山不動尊)が建立され、後に空海の密教が山岳信仰と結びついて吾野に大きな影響をもたらしたというのです。

 僕が、初めて奥多摩のこの吾野に来た時に、思わぬ関心を呼び起こされて、再びこの地を訪れることになった次第は、こんな出来事でした。
 宿泊した翌朝、宿主催のプチハイクに参加して、リーダーからの説明を聞きながら周辺を散策して、清冽な高麗川の橋を渡り、高句麗からの渡来人の色濃い高麗(こま)神社の境内で吾野町にまつわる一通りの説明を受けて解散となったのですが、帰途グループと離れてその部落の道を辿るうちに、小さな橋を渡って、川を隔てた向かいの山沿いの道に、朝日稲荷という鳥居を見つけて、この山頂に、稲荷神社が祀られていることに気がついて、苔むした鳥居から山頂に向かう急な参道を伺って、登頂はあきらめたのですが、その道沿いの斜面の一帯に、新旧とりまぜて、夥しい数の墓石、墓標が幾つかの群れに分かれて建てられているのに気が惹かれて覗き込んだのですが、墓石の戒名には、男性の場合は某々之命、女性は某婢または刀自とあり、碑銘が家名の墓石には、通常の某々家乃墓ではなく、某々家奥之城と記されていたのです。高麗の神社のすぐ近くに、明らかに日本古来の神道のものだと思われる墓が、最も古いと思われるものは、木の墓標も朽ち果てて漬物の押し石よりも僅かに大きな石のみというものから、周囲に石柵を巡らせた立派な墓石まで、永い永い歴史を思わせる墓の群れが、山裾に整然と並んだ仏式の墓群と隣接して散在しているのを見て、この一族の存在に強く興味を引かれたのです。
「地名にも姓にも、音で読めばそれが渡来の言葉からのものであると解るものがたくさんあります」
と、古老氏は笑っていましたが、たしかに飯能(はんのう)も入間(いるま)の音読みも、渡来の言葉に当てたと思われますし、この吾野宿は、地理的にも、馬による交通や輸送の至便さでも、峻厳な正丸峠を超えなければならない秩父よりも、飯能、入間方面との交流が深かったのです。
 地誌でもその通りで、吾野村は、元禄三年に、高麗郡から秩父郡に編入されるまでは、古来千年近くの間交流の深い高麗郡に属していたのです。その後村民は機会あるごとに入間郡復帰を幕府に懇願し続けたにもかかわらず、300年以上後の大正10年になって漸く、埼玉県入間郡に編入され、昭和30年、飯能市となったのです。
 ですから、それ程に、帰化人の文化や山岳仏教に影響されたこの地に、山頂に自姓を冠した稲荷神社を祀り、参道の崖に、神道を標榜した墓を残してきた一族は、一体、どんな一族なのだろうという興味を掻き立てられたのが、今回の再訪の目的でした。
 これについては、一日の滞在で解明することは出来ませんでしたが、今回、最も古く、しかも、当時立派であったろうと思われる墓の墓誌に、何某摂津の守と読み取ることが出来たので、おそらく関西、廃藩となった摂津(大阪)の高位だった武家の末裔一族の墓群に違いないと踏んでいるのです。
「あ、その末裔の方が、今、稲荷神社の宮司をしていますから、今度お出でになるまでに、聞いておきましょう」
今回のお礼の電話を掛けた折に、件の古老は、いとも気軽に、まるで昨日の事を聞いておくと言った調子で答えを返して寄こしたのです。この村の時計は、まるで、古代からずっと止まったままのようです。長い時間が、すべてを呑み込んで、同化してしまったのです。

  なんだか空振りをしたような気もしないではない今回の再訪問の結果でしたが、僕は、ひそかに、この町の復興のキイワードはこれではないか、と思い当った気がしているのです。
 これから先、さらに過疎化して、超高齢化時代を迎えなければならないこの街の復興のためには、2年後のTOKYOオリンピックパラリンピックを当て込んで、単に電鉄会社や旅行代理店と組んで、外国からの観光客を誘い寄せる設備を整えるだけではなく、澄み切った空からたっぷりと降り注ぐ陽光と、豊かな森に囲まれて流れる清冽な川と、ゆったりと時間が過ぎて行くこの町の再建に必要な方策は、街の未来を見限って都会に去った若者たちを追って帰還を懇願するのでもなく、先祖が行なった生業のひそみで、外国からの来訪者を、単に観光客として歓待するのではなく、この町には、外国からの来訪者を、移住者として積極的に取りこむ魅力があるのではないか・・・と。そして、それは単に、この町の問題ではなく、超高齢化していまや人口減に打つ手を見つけられずに、衰退を恐れて混迷するこの国の取るべき道は・・・
 高句麗国が滅んで、大和国に流れ込んできた大量な半島の人々を迎え入れて、長い時間の中で同化してしまった古代にひそんで・・・と。


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医史跡を巡る旅 №40 [雑木林の四季]

「紀行シリーズ」~九大病院キャンパス散策・前篇   
      
              保健衛生監視員  小川 優                      

九州大学医学部は明治36年、京都帝国大学福岡医科大学として開設されたのが、直接の沿革となります。前回その揺籃が福岡藩の賛生館であり、修猷館医学所兼併置診療所へと繋がり、これがやがて福岡県立医学校、福岡県立病院となったことをご紹介しました。明治36年に京都帝国大学福岡医科大学となった後は、明治44年工科大学の設立とともに九州帝国大学医科大学へ、更に大正8年には九州帝国大学医学部に改称、戦後の昭和22年には九州大学医学部へと改められます。
歴史の長い医学部だけあって、キャンパス内には、九大医学部で活躍された博士たちの銅像や、顕彰碑が林立しています。なかでもユニークなのが、九大にかかわりのある著名な六博士の名前を、キャンパス内の通りに付けていること。建物の案内の際に説明しやすいですし、なにより先人を身近に感じられられます。

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「医学部正門」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

さてそれでは、正門からキャンパス内に進み、順番に6つの通りをご案内しながら、その付近の像や碑もご紹介していきたいと思います。
まず正門から真っ直ぐ続く通りが、「大森通り」。

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「大森通りプレート」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

福岡医科大学長であり、内臓外科の開祖といわれる大森治豊の名を冠しています。             
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「大森通りプレート拡大」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

大森治豊は嘉永5年(1852年)、上山藩(山形県南村山郡上ノ山町)御典医の子として江戸神田三河町に生まれる。明治12年(1879年)、東京帝国大学医科大学医学科卒業。同年福岡県立医学校教師として赴任、明治18年には校長となり、さらに福岡薬剤学校校長も兼任。同年、帝王切開術を行い、仮死状態であった新生児の気管切開を行うことで、蘇生に成功している。九州への帝大医学部誘致にも尽力、明治36年(1903年)に京都帝国大学福岡医科大学が開設されるにあたり、学長兼附属医院長となり、外科学講座教授として教鞭をとった。明治39年日本外科学会会長に就任。明治42年(1909年)に退官、明治45年(1911)逝去。

大森教授のフロックコートをまとい、威厳あふれる全身像は、この後ご紹介する橋本通りの突き当たり、医学部百年講堂の向かいの「九州大学医学部創立七十五周年記念庭園」の中にあります。

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「大森治豊先生像」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

さて次は正門を入ってすぐに左に分かれるルートへ進んでみましょう。こちらは「久保通り」と名付けられています。

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「久保通りプレート」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

九大耳鼻咽喉科の初代教授で、日本耳鼻咽喉科学の先駆者であった久保猪之吉を記念した通りです。
     
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「久保通りプレート拡大」~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

久保猪之吉は明治7年(1874年)、二本松藩士の子として福島県に生まれる。明治33年(1900年)東京帝国大学医科大学を卒業。明治36年ドイツ、フライブルグ大学に留学し、耳鼻咽喉科領域を学ぶ。帰国後、明治40年(1907年)九州帝国大学医科大学教授に就任する。日本で初めて食道直達鏡を用いるなど当時最先端の臨床技術を用いて治療にあたったほか、無響室の建設や平衡機能の研究など、耳鼻咽喉科学の発展に寄与した。晩年は東京麻布に住み、聖路加国際病院の顧問を務め、昭和14年(1939年)66歳で亡くなる。墓地は青山霊園にある。自身も歌人・俳人としても知られ、妻は俳人の久保より江。

久保通りの突き当たりには、こじんまりとはしていますが、その一方で堅牢なイメージの久保記念館があります。

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「久保記念館」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

昭和2年、九州大学医学部耳鼻咽喉科学教室の20周年の記念に、同門会から寄贈された建物で、治療・研究で得られた記録、標本、図書を丈夫な建造物に保管することを目的としています。医学博物館的性格も持ち、多くの収蔵物を誇りますが、常時公開展示されていないのが残念です。

久保記念館の前庭には、久保猪之吉の胸像があります。

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「久保猪之吉博士像」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

そして像の近くには歌人でもあり、俳人でもあった多才な彼の才能を示すように、歌碑も設置されています。

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「久保猪之吉歌碑」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

「霧ふかき 南独逸の朝の窓 おぼろにうつれ 故郷の山」
ドイツ、フライブルグ留学中に故郷の山を懐かしんで詠んだものと伝えられます。

なお青山霊園の久保猪之吉博士のお墓にも、博士の胸像があります。

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「青山霊園 久保猪之吉博士像」 ~東京都港区青山 青山霊園

久保通りの途中、並木通りの手前には、慰霊塔「崇高な精神」があります。

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「慰霊塔「崇高な精神」」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

医学の発展のため、その身体を提供した全ての御霊に、感謝と尊敬を込めて建立されました。

まだ入り口でうろうろしているわけですが、長くなりましたので次回に続きます。


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いつか空が晴れる №37 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
   -また見つかった 何が? 永遠がー

                       澁澤京子

 10代のとき、暗誦できるほど好きな詩があった。
「また見つかった、何が?永遠が。海と溶け合う太陽が。」ランボーの詩。最近、いろんな人の訳のランボーを読むことができるけど、私が持っていたのは小林秀雄訳の「地獄の季節」だった。

夏のある日、全く人気のない埠頭をNとKと私は三人で歩いていた。Nが免許をとったばかりだったので18か19歳だったと思う。NもKも浪人生だった。
「晴海埠頭に行ってみないか?」ということで半分はNの車の運転の練習のためにやってきたのだ。
夏の白い陽射しが降り注ぐ橋を渡り、ひんやりした暗い倉庫を歩いていると、目の前に青い海が見えてきた。
どんな話をしていたのかさっぱり覚えてない、NとKのことだから、「ソニーロリンズは軽薄じゃないか?」とか二人はジャズの話をしていたのかもしれない。

わたしは二人を離れて海の近くに行った。海はあくまで青くって、水平線には雲があった。
ふと見ると、少し離れたところに人の頭部くらいの大きさの丸いものがプカプカ浮かんでいるではないか。緊張してたちすくんで、私は二人に声をかけた。
「変なものが浮いてるのよ。」
NもKも急いで私の指さす方に近づいて行った・
「なんだ、ブイじゃないか・・」

なんだ、ブイだったのか、とホッとした途端、目の前の光景が急に変わった。
海も空も太陽もブイも、私を中心にしてまるで生き物のように動いてつながっているのだ。それは、今にも優しく語りかけて来るかのようで、明らかに普通の無機的な風景ではなかった。
あらかじめずっと守られていたことがわかる至福の瞬間だった。すべてはこれでよかったのだ、と。
モノクロの写真がいきなりカラー写真に変わってイキイキと動いてるような不思議な時間はしばらく続いていたと思う。

わたしはKにもNにもそのことを言わなかった。そして、ランボーもきっと同じ経験をしたのに違いないのだと思った。そしてあの時、無性に海の向こうの遠く、砂漠に行きたいと思ったのもランボーの影響だったのかもしれない。

・・人間どもの同意から 
  月並みな 世の楽しみから
  そんなら お前は手を切って
  飛んでゆくんだ・・        「地獄の季節」

ランボーは詩を捨ててアフリカに渡り、まだ若いうちに死んだ。

わたしはランボーよりもずっと長生きしているけど、今でも、あの埠頭での経験、あれはいったい何だったんだろう?と時々思うのである。


 

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梟翁夜話(きょうおうやわ)№17 [雑木林の四季]

「スクワットの話」

                  翻訳家  島村泰治

まだ膝回りになんの障りもなかった頃、私は持論の予防医学を実践して駒込の都立病院に二ヶ月おきに通っていた。わが五体唯一の弱点と自覚していた呼吸器系の内科である。生来の几帳面もあるにはあったが、その病院にはお気に入りの医者がいたことがきちんと通えた理由だった。

その医師S先生は五十絡みのあたりの柔らかい人で私とは所謂馬が合ったのである。診察に名を借りたチェックアップ、いわば予防医学で、その都度私の喉の話はいつかな世間話に堕して、端から見ればなんと酔狂な駒込通いかと呆れられたであろう「雑談診療」だった。私にして見れば、弱みの呼吸器への配慮はあったにせよ、むしろ壮年から老年への心構えを先生との雑談から賢く会得しようとの心積もりがあったのだ。

そこでひと思案した。さしたる病いなしに人並みの時間を割いて貰うには、それ相応の計らいがなければなるまい。私は診察のたびに時の話題が詰まった新刊の週刊誌を先生にと持参することにした。時の話題を読んで欲しいなど殊勝な目的ではない。それとなく十枚セットのビール券を間に挟んで、「面白い記事がありますよ」と言葉を添えて差し出す企みだ。病院は公立ならなおのこと付け届けが厳禁なのは先刻承知だが、それをかいくぐる計らいはそれなりに実りをもたらすことも経験として知っていた。世情に通じるS先生は阿吽の呼吸で巧みに応じてくれた。こうして粋な雑談診療が続いたのだ。

付け届けといえかし、私には治療で依怙贔屓をお願いしようという下衆(げす)な感覚はさらさらなく、目に見える病いがない身が人並みの時間を頂戴する引け目からのお礼心からだった。世間的に砕けたS先生はことさらに礼を言うでもなく、それと知って黙って受け流した。なかなか味な扱いで、これが後にわが母の入院につながるのだが、それは後段に譲らせていただく。

いま思えば、当時私は生活習慣病、平たく言えば糖尿病のはしりの兆候を見せていたようだ。診察の折々に、自分は専門の科目じゃないがと断って先生はそれに関わる問いかけをされた。細々としたことはもう三十年余も前のことだから忘れているが、ある日、こう言われたことを鮮明に記憶している。

 「島村さん、悪いことは言わない、毎日二十回のスクワットをぜひ習慣づけてください。」

仕事柄頭の運動は大丈夫だが、体の運動は明らかに足りない。が、毎日二十回のスクワットなどさしたる運動には・・・ならぬと思ったのは当時の私の迂闊な判断だった。その習慣がつけば生活習慣病は怖くない、といつになくきつく諭すではないか。いまでこそ七十キロ周辺だが当時はゆうに八十はあったろうから、その私の柄を視野に入れながらの諭しだったのだが、その折はさほど真面目には受け取らなかった。それが昨今になって金科玉条のように蘇り、改めて「毎日二十回のスクワット」がずしりと重い諭しになって私の背に、いや膝にのし掛かっているのだ。

あれから三十年、気づけば膝とそれを支える筋肉や腱がめっきり萎えて、立ち居振る舞いを妨げている。「どうだ、身に沁みるだろう」とほくそ笑むS先生が見えるようだ。たしかに身に沁みる。三十年毎日二十回のスクワットをしていたらと思えば情けない、覆水を絵に描いたような為体(ていたらく)だ。

だが、そこはわれながら生来のくそ意地が生きていた。もう二年にもなろうか、私は一計を案じて膝対策を立てた。トイレに通う習慣性を逆手に取ってスクワットを開始した。大小に拘わらず便器に座ること、用を済ませたらその場で十回スクワットをする、と固く決めたのである。二十回ではなく十回だ。日に通う回数を考え、大小ともにとなれば「毎日二十回のスクワット」はクリアできよう、という算段である。以後、その習慣は絶え間なく続き、そのお陰か膝回りに何年か前の軽みが蘇っている。

S先生が駒込から他所へ移られた以後の消息は絶えている。もう私の年代だろうから辞めておられるかも知れない。この辺りの話題でもう一度雑談診療を願えれば嬉しい限りだと思う昨今だ。

余談だが、S先生には八十歳代の母も世話になっている。呼吸器ということであるとき母を診察していただき肺癌を発見、手術から療養まで駒込でお世話になった。私の雑談診療が生きたのである。母の術後経過は良好で五年以内の再発転移がなければという線を大きく越えて、母は百歳まで二年の長寿を遂げた。

だから駒込病院とS先生は忘れ難い。それに輪を掛けて「二十回のスクワット」は重い教訓として、老いの進む私が心に念じるひと言である。


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検証 公団居住60年 №12 [雑木林の四季]

 3.団地を襲った石油ショック、商店街の盛衰

        国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 自治会は1973年度に生活部を新設した。担当分野は、家賃・共益費、公共金の値上げ反対、住宅修繕・補修の要求、生活物資のあっせん、その他である。団地に入居して10年近くは、市役所との折衝、団地周辺の環境整備にふりまわされ、しかしこの段階でようやく一定の解決、改善にむけて目通がついたということでもあろう。かわって自治会に新たな課題が押しよせていた。そんな時代の要請を感じて生活部の新設を言いだしたのはわたしである。自分がやる覚悟なしには言いだせないのが自治会で、部長をひきうけた。
 この年の11月に石油ショックがおこり、主婦たちはトイレットペーパーや洗剤などの買いだめにスーパーへ殺到した。前年に成立した田中角栄内閣の「日本列島改造」政策で地価は暴騰しはじめ、石油ショックを機に商社は投機、買い占めにはしり、物価は狂乱、世は大不況に突入した。
 自治会は日用品の不当値上げを監視して、日々値札を貼りかさねる商店を見てまわったが、地元商店街はスーパーマーケットの進出で、事態はさらに深刻だった。
 12月にはいって自治会は、石油ショックで共同購入していた地元灯油店から断られ、担当者として灯油の仕入先を探さねばならなかった。さいわい小平団地自治会と共同でエッソ石油の取り扱い業者が見つかり、不十分ながら入手することができた。寒空に灯油缶をもって配送車が来るのを待つ長い人の列は忘れられない。ときにはわたしの勤め先に、赤ん坊が凍え死にそうだ、どうしてくれると電話をかけてくる団地住人もいた。
 業者の問題ではなく、メーカーと行政の責任だからと、通産省エネルギー庁、石油連盟とエッソ石油に何度も足を運んだ。国立市に要請したら、しばらくして計量センターが問い合わせてきた。灯油の絶対量の供給不足とは認識せず、油を売るのだから量目不足の問題と勘違いしたのだろう。行政の鈍感さには驚いた。
 そのほかこの年の生活部として、安いオーストラリア輸入牛肉や羊肉の販売、米、味噌、醤油、茶、のりの直送販売、国立白十字のクリスマスケーキ、正月用お餅の共同仕入れもした。おおぜいの知人や娘2人にも手伝ってもらった。いま思うと、想像もつかないほどの好評を博した。申し込みは締め切ったあとも続いた。
 また入居後7年すぎ自治会として初めて不用自転車の回収をした。集積場所からもちだして再利用する人、解体し部品を集めて新しく組み立てる子どもたちもいた。残ったガラクタ自転車約200台を処分した。当時は回収業者がお金を払っでくれた。
 そのはか自治会生活部は公共料金値上げ反対にもとりくみ、運輸審議会で発言、バス会社とも交渉してバス停の改善などをはかった。国鉄運賃についても1977年から80年にかけて値上げ反対署名と毎年約20万円のカンパをあつめて全国的な運動に参加した。
 英米大学出版局の代理店のデスクで、やれ灯油が足りない、牛肉の販売車が来ないと電話を交わし、ときどき行方不明になるわたしに、社長が長期の海外出張をもちかけてきた。要領よく業績は上げてきたからクビではないが、会社か自治会か選択を迫ったのだろう。会社を辞めることにし、脱サラ自営業、洋書輸入のエルベ書店をはじめた。

 ここで、団地周辺の商店街の盛衰をふりかえっておく。
 団地ができた当初は第1団地内の名店街と近くにごく少数の商店があっただけだが、10年後には隣接して商店は急増し、いくつかの商店会が結成された(カッコ内は1976年3月当時の国立市商工会の会員数)。第1団地には富士見台名店街(18店)、ダイヤ街(37店)、谷保駅北口商店会(55店)、パールヒンター(14店、現在はない)、第3団地には富士見台ストアー(8店、現在はない)、近くに矢川銀座商店会がある。富士見台地域で店舗数はそのころがピークだったかもしれない。団地周辺にスーパーが進出してきたのもそのころである。
 大型店といえば、これまで国立駅近くに地元商店の原幸と西友ストアー国立店、70年に開店した紀ノ国屋しかなかった。73年に大店法が制定されるとすぐ、店舗数はすでに過剰ぎみであった富士見台地区に忠実屋、稲毛屋の出店計画がもちあがった。商店会は猛反対し、市の斡旋によって出店を断念する経過はあったが、その後75年になると、大丸ピーコック、サンバード長崎崖、忠実屋(のちにダイエー、現グルメシティ)がつぎつぎ進出してきた。
 はじめにシャッターが目立ちはじめたのは80年代後半、団地内の名店街だった。90年に整備事業にかかり、店舗を大改修、外周通り向けに増設し、カラー舗装をして前庭スペースに道祖神型の石像やフクロウ型のフットライトを設置し、愛称「むっさ21」の看板をかかげたアーケード街にした。それでも店舗数は半減したままで、空き店舗はいまでは一橋大学の学生やNPO団体の活動の場となっている。ダイヤ街を76年当時の図面で確かめると、ここも店舗数は半減の18店、昔からの商店はそのなかのごくわずかである。別の店や改造して飲み屋や事務所に変わっている。
 商店街の盛衰をみるにつけ、時代や生活の変化とその速さを感じる。少子化になって洋品店やおもちゃ屋、文房具店、書店などは消える。高齢化して地域の購買力も購入量も落ちる一方で、客の流れは大型店へ、あちこちにできたコンビニへ、いまでは通販へと分散していく。個人商店は経営がますます難しくなるうえに後継者問題をかかえる。団地自治会は近隣の個人商店を祭りの寄付など頼りにしていたし、地域づくりの有力なパートーナーだった。まわりに進出してきた大型店やコンビニ、さくら通りに建ち並ぶファミリーレストラン等は、「地域」とのつながりにはかかわりなく、地域にとっては穴のように存在している。

『検証 公団居住60年』 東進堂


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