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季節の記憶・いだようの写真散録 №181 [文芸美術の森]

「山笑う」                                自然写真家  いだよう

2017年4月下期分.jpg

雨に濡れ風に揺らめく樹々。
たわいもないおしゃべりに興じているようにも見えた。

いだようのFacebookページ : https://www.facebook.com/idayoh/


『知の木々舎』第192号目次(2017年4月下期編成分) [もくじ]

現在の最新版の記事を収録しています。ご覧になりたい記事の見出しの下のURLをクリックするとジャンプできます。検索の詳細については手引きをご覧ください。

心の小径】

出会い、こぼれ話 №41                                    教育者    毛涯章平
 第四十話  まゆつば
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-10

論語 №27                                                            法学者  穂積重遠
 六三 子、魯の大師に楽を語げてのたまわく、楽はそれ知るべきなり・・・
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-10-1

余は如何にして基督信徒となりし乎 №15                                   内村鑑三
 第三章 初期の教会 8
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-10-2

文化的資源としての仏教 №5               立川市・光西寺住職  寿台順誠
  往生考3
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-10-3

【文芸美術の森】

季節の記憶 №181                                         自然写真家  いだよう
 「山笑う」 
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-14-1

西洋百人一絵 №85                                  美術ジャーナリスト    斎藤陽一
 パスキン「3人の裸婦」
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-12-10

にんじんの午睡(ひるね) №8                                エッセイスト  中村一枝
 犬にかまれた
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-12-9

フェアリー・妖精幻想 №60                          妖精美術館館長  井村君江
 物語詩の妖精を描いた画家 1
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-12-8

芭蕉「生命の賛歌」 №28                                         水墨画家    傅  益瑤
 しほらしき 名や小松吹(こまつふく) 萩すヽき
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-12-7

石井鶴三の世界 №92                                     画家・彫刻家  石井鶴三
 みやまきりしま1958年/九重・みやまきりしま1958年
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-12-4

はけの森美術館Ⅲ №27                                   画家  中村研一
  松
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-12-5

ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №30       早稲田大学名誉教授    川崎 浹
  第二章 民衆たちのテーブル・トーク
   市民たちが見たレーニンとスターリン4
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-12-6

【ことだま五七五】

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №14                       川柳家  水野タケシ
 4月5日&12日分
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-12-3

【核無き世界を目指して】

続・対話随想 №14                                                 作家  中山士朗
 中山士朗から関千枝子様へ様へ              
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-12-1

丸木美術館から見える風景 №46   原爆の図丸木美術館学芸員  岡村幸宣
 幻の牛                                                     http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-12

【雑木林の四季】

浜田山通信 №192                                         ジャーナリスト  野村勝美
 波多野裕造と大岡信
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-11-11

私の中の一期一会 №141         アナウンサー&キャスター    藤田和弘
 「私、浅田真央はフィギュアスケート選手として終える決断をいたしました」
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-11-12

徒然なるままに №17                                      エッセイスト 横山貞利
 ミモザの花
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-11-10

パリ・くらしと彩りの手帖 №120          在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ
  フランスの大選挙も大詰めに・・・
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-11-9

気楽な稼業ときたもんだ №56            テレビプロデユーサー     砂田 実
 第7章 ショクナイざんまい 忘れえぬザ・ピーナッツ 3
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-11-8

BS-TBS番組情報 №136                                     BS-TBS広報宣伝部
 2017年4月のおすすめ番組(下)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-11-5

ロワール紀行 №53                            スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎
  シヨォモンの城
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-11-4

バルタンの呟き №11                        映画監督  飯島敏宏
  「サイタ サイタ サクラガ サイタ」(1)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-11-7

ZAEMON 時空の旅人 №12                                    文筆家  千束北男
 第七章 「宇宙十字軍」
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-11-6

私の葡萄酒遍歴 №42                       ワイン・グルマン  河野 昭
 ワインへの道・・・チリワインの産地 3
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-11-2

医史跡を巡る旅 №23                                  保健衛生監視員  小川 優
「紀行シリーズ」~上野公園散策
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-4

地球千鳥足 №102     グローバル教育者・小川地球村塾塾長    小川彩子
 珍遇奇遇は個人旅の醍醐味  ~ブラジル、バルト三国~
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-03-27-6

いつか空が晴れる №13                                    渋沢京子
  -sunny~敗北を抱きしめてー
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-11

【ふるさと立川・多摩・武蔵】

玉川上水の詞花 №191                        エッセイスト  中込敦子
 ジロボウエンゴサク(けし科)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-10-10

赤川Bonzeと愉快な仲間たち №88                  銅板造形作家  赤川政由
 子どものびのび支援センター「子どもの城」
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-10-9

旬の食彩 僕の味 №95          レストラン「ヴァンセット」オーナー    大澤 聡
 春といえば
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-03-26-8

線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №77                 岩本啓介
 梅から桜へ 中央線、荒川線    
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-10-7

押し花絵の世界 №37                           押し花作家  山崎房枝
 「花車」
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-10-6

渋紙に点火された光と影 №13                  型染め版画家  田中 清
 竹藪に月 
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-10-5

プラタナスがくれた贈り物 №5            MATプロデューサー  しおみえりこ
 音楽のある風景4  Fantastic journey JAPAN  昭和記念公園 
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-23-4

【代表・玲子の雑記帳】                         『知の木々舎 』代表  横幕玲子
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-04-12-2


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発行回数・月に2回(上期・下期)ネットマガジンを発行します。
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「もくじ」・「執筆者紹介」・「代表玲子の雑記帳」・「心の小径」・「文芸美術の森」・「ことだま五・七・五」・「雑木林の四季」・「ふるさと立川」・「核無き世界をめざして」があります。
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西洋百人一絵 №85 [雑木林の四季]

パスキン「3人の裸婦」

                                  美術ジャーナリスト・美術史学会会員     斎藤陽一

 モディリアニやスーティンら、20世紀初頭に、パリにやってきた一群の異邦人の画家たちは「エコール・ド・パリ」(パリ派)と呼ばれている。
 彼らは、特定の絵画運動の旗印のもとに集まった画家たちではなく、ときには酒場で大騒ぎをしたり、市民のひんしゅくを買うような放縦な生活を送りながら、それぞれ、独自に個性的な絵画表現を追求した。
 かれらの多くは、モンパルナスを拠点としており、モディリアニ(イタリア)とスーティン(リトアニア)がユダヤ人だったように、その多くはユダヤ系の画家であった。互いに助け合ったり、刺激し合ったりしながら、パリという大都会に画家として生きていこうとした。
 他には、今回取り上げるパスキン(ブルガリア)や、キスリング(ポーランド)がおり、ユダヤ人ではないが日本の藤田嗣治も彼らと親しく交わり、「エコール・ド・パリ」の一員に加えられることもある。
 また、同じ頃にモンパルナスで活動し、彼らよりはるかに長く生き、築きあげた独創的な絵画世界によって「20世紀を代表する巨匠」となったピカソ(スペイン)やシャガール(ロシア出身のユダヤ人)も、大きな捉え方をすれば、その若き日は「エコール・ド・パリ」の中にいた、とも言えよう。

 さて今回は、「エコール・ド・パリ」の一人ジュール・パスキン(1885~1930)の作品を見たい。取り上げる絵画は「3人の裸婦」― 画家の典型的な画風を示している。
 パスキンは、ブルガリアのユダヤ人の家庭に生まれたが、家を出奔し、各地を渡り歩いた後、1905年、20歳のときにパリにやってきた。
 彼がパリで創り出したのは、この「3人の裸婦」に典型的に見られるような、しどけなく横たわる裸婦を、水彩のような淡い色彩で包みこんだ、エロティックで倦怠感漂う絵画世界である。
 しかも、パスキンの描く女たちの多くは少女たちである。まだ成熟していない裸の少女が、時には一人、時には数人で描かれ、繊細な線と靄のような淡い色彩によって、幼くも儚いエロスを発散している。
                                                                               
 このようなパスキンの絵は、パリで人気を博し、画家は売れっ子となった。その需要に応じて、パスキンはさらにこのタイプの絵を量産する。
 しかし、このような絵を描き続けることは、パスキンの本意ではなかった。もっと本格的な壁画サイズの絵画世界を構築すること、これが画家としての夢だった。
 元来傷つきやすく繊細な精神の持ち主だったパスキンは、そのような自分に嫌気がさして享楽的な生活に陥り、人妻との不幸な恋愛にも疲れ果てて、ついには、45歳のときに自殺によってその生涯を閉じた。
 彼が描く少女たちに見られるうつろな倦怠感は、画家自身のものだったのかも知れない。

085パスキン「3人の裸婦」.jpg

                    パスキン「三人の裸婦」(1930年。オスロ、個人蔵)


にんじんの午睡(ひるね) №8 [文芸美術の森]

犬にかまれた

                                    エッセイスト  中村一枝
 
 またまた飼い犬に手を噛まれた。愛犬に手を噛まれた話はすでに二度くらい書いている。噛むのは10年くらい前に飼ったビーグル犬、すでに8回も噛まれている。初めのうちは消毒してバンドエイドを貼ってすんでいたのだが、3、4年前から血が出るようになり、さらに私が年をとって対応が素早くできなくなったこともあり、前よりもその頻度がました。
 今回は金曜日の夜噛まれて次の日お医者さんに行ったときは手の甲が二倍くらいに腫れ上がっていた。ちょうど私の誕生日の前の日で、変な誕生祝いを貰ったと思ったくらいである。
 彼女、もも代という名前は二年前に亡くなった娘がつけた。初めて家に来た時はこんな可愛らしい、整った顔だちの犬がいるかと、まさに親バカそのものの可愛がり方をした。今までに14、5頭飼っているが、元々法則とも約束ごとも無視して犬を扱っていた。その報いが今来たかという思いもあった。犬の飼い主としては社会的に不適格としか思えないが、ひと目ももを見てからは、ただかわいいという感情に支配されて情に溺れ込んだということである。年をとって恋に身を持ち崩す年寄りってこういうものかなと思ったりもした。そのせいで、ももはかなり気ままで、独りよがりの、そのくせ甘えん坊の犬になつた。 犬が老いていくのも、自分が老いていくという現実も、私はどうも自分のなかで認めたがらないところがある。女優さんでもきれいな人ほどある年齢に達すると翳りが見えたりする。ももと美人の女優さんを一緒にする気はないが、きっとわたしの中では似たようなものなのだ。だからあなたは変なののとよく言われる。
 それにしても今回は以前に比べて重傷には違いない。「やっぱりトレーナーを探したほうがいいよ」息子の言葉もこの度はおとなしく聴くことにした。実は今までにない事だったが、手の腫れといっしょに痛みまで出てきたのにはさすがにあんまり呑気な気分にはなれなかったのだ。抗生物質の薬をもらい、痛み止めをもらった頃にはかなり病人気分になった。家に帰ってこれ見よがしにももに見せ、あんたのせいでこんなになったんだからと見せびらかした。心なしかももの表情がかげった気はしたが、ごめんなさいという感じはなかった。まあそんなもんだろう、そしてやっぱりももは可愛いのである。
 息子が心配してネットで犬のトレーナーを見つけ、電話番号を貼って行った。意外に近場で15分くらいで来るというのでとりあえずきてもらうことにした。トレーナーのPさんは40くらいの目鼻立ちのはっきりした人だった。ももを見るなり開口一番、「ずいぶん年取っていますね」と言った。いきなり年を取っていると言われて飼い主としてはあまり楽しい気分ではなかった。そのあと彼女はかわいいと撫でるわけでもなく抱いてやろうという感じも見えない。テキパキには違いないが微塵も情らしさを見せない人柄に私はすぐだめ押しをした。多分向こうもそうだったと思った。無い物ねだりとは思うけれど、私は厳格さと愛情をきちんと併せ持つ人に来てもらいたかった。飼い主失格が今更と言われそうだが。この年齢になると、その思いは余計にいや増すものである。結局ももは主人を噛んだことへの悔いも反省もなく、それらしき態度の変化もなく過ぎている。私にわかったのはどっちも年をとりつつありそれでも、自分はまだまだとどこかで執着している思い。犬も人間もその気持ちは変わらない。桜があっさり散っていくようなわけにはいかないのである。年をとるということは犬も人も同じ。可愛い可愛いですぎて行った時代は二度とは戻らないことを改めて思い知った。


フェアリー・妖精幻想 №60 [文芸美術の森]

物語詩の妖精を描いた画家 1

                                  妖精美術館館長  井村君江

十七世紀の妖精物語とその絵画化

 『アーサー王物語』のパロディとも見られるマイケル・ドレイトンの妖精詩『ニンフィディア』やロバート・ヘリックの『ヘスペリディース』で、妖精たちは微細(びさい)にわたる装飾的な描写のうちに美化されて歌われ、かえって陽の光にさらされたように生命がぬけて、人間のミニチュア版になり別枠の異界に納まってしまった感がある。
 『失楽園』で知られるオックスフォードシャーのフォレストヒル出身の詩人ジョン・ミルトンが、この地方の伝承を作品に用いて書いた初期の詩『ラレグロ』(一六三二)や仮面劇『コマス』(一六三四)には、村人たちの語る話にサブリナたち妖精が登場してくるが、かえって生き生きとした性質や姿を見せている。

  語られるさまざまな所業――
  妖精マブがどうやって、凝乳菓子(ジャンケット)を盗み食いしたか、
  乳しぼりの娘がどのようにつねられ、叩かれたか。
  〈修道士のランタン〉(鬼火)に道を迷わされた羊飼いの若者が語るには、
  ゴブリンが汗水たらし精だして、
  ほどよく固まったクリームをひと鉢欲しさに、
  村人たちが十人がかりでも手におえぬ麦の山を、
  一晩でそれも夜が明けぬ前に、
  目に見えぬ穀竿(からざお)で打ち終えた、
  それからこのラバー・フェンドは寝そべると、
  暖炉いっぱいに長々と体を伸ばし、
  毛むくじゃらの手足を火で温めると、
  満ち足りたお腹をかかえ、
  一番鶏が朝を知らせるその前に、
  煙突から外へ、飛びだしたとさ。
                 『コマス』

 この詩篇にうたわれた、一番鶏が啼(な)く直前の農家にひそんでいた妖精たち― ホブゴブリンの一種「炉端のロッブ」ラバー・フェンドが農夫の麦打ちを手伝い、クリームボールを空にし竿を投げ、中空に身体を伸ばして逃げていくところ、マブ女王が星空に浮かんで凝乳菓子を食べているところ、まだベッドにいる乳しぼりの娘を妖精たちがつねっているところ― の三種の妖精をウィリアム・ブレイクは忠実にそして巧みに視覚化している(一八一六-二〇頃)。
 ブレイクは、この詩にはうたわれていない「幽霊(ゴースト)」を登場させ、娘のベッドを引っぱる姿を描いており、この「幽霊」はブレイク自身の言葉では、羊飼いの語る「修道士のランタン」(鬼火)と同じものになっている。ここには、ブレイクの「幽霊」に対する解釈が窺え、興味深い。家と小屋の間を朝の仕事に出かける人間は、この「羊飼いの若者」らしいが、行く手に教会の尖塔が星空の下に描き込んであり、また恐ろしい夜の生き物たちを退散させるまじないのように見える。
 ブレイクのミルトンの詩によるこの水彩画は、トマス・バッツの依頼によって描かれたものであるが、ヘンリー・フューズリは一七九〇年から一八〇〇年にかけてミルトンの『失楽園(一六六七)を中心とした詩篇を絵画化する油彩画シリーズの製作に専念し、「ミルトン・ギャラリー」を意図していた。
 そのうちの一つ『羊飼いの夢』(一七九三)は普通、地上で行われる妖精の輪踊りを空中に描き、夢をつかさどるマブ女王が頭上に夢の象徴である白蛾を飛ばせ、眠る羊飼いのそばにすわっている。右隅には奇妙な顔の夢魔のような小妖精がうずくまって羊飼いを見守っており、輪踊りの妖精がのばす手の先には、夢を作り出す小枝がさしだされている。
 そして、こうした目に見えぬ妖精群の気配に気付いたグレイハウンドがおびえて興奮し、魔術の作用している上空に向い吠え立てている。
 ミルトンの詩の『失楽園で地獄の万魔殿(パンデモニウム)で最下位にいる堕天使は、小さな身体に変身し、羊飼いなどを音楽や踊りで誘惑すると書かれており、それを妖精として視覚化させたのである。
 夢の象徴としての蛾の化身のような姿のマプ女王と、夢の破片のような白蛾をフューズリは好んで描くが、『べリンダの目覚め』(一七八〇-九〇頃)の画面にもそれが描き込まれている。肌の白い空気の精シルフが朝の化粧を用意する傍を、紹介のポーズを見せて駆け抜けるパックは「スパイスの風香る」インドから飛んできたようで浅黒い肌と異様な顔つきが印象的である。
 夢を生み出すマプ女王はミルトンの詩篇には登場していない。フューズリはこういった妖精のキャラクターについての知識を、ポイデル・ギャラリーでも画題として描いていたシェイクスピアから得ていたようだ。
 彼には『羊飼いの夢』の習作として、鉛筆や淡彩の赤チョークの一連の素描があるが、綿密な筆で「月の前で舞うパック」や「コウモリで空を飛ぶエアリエル」が描き込んである。「髪をとかす裸の妖精」がシュロップシャーの民間伝承をもとにしているというように、フューズリは文学やフォークロアの妖精諸に詳しく、それらをもとに独自の奇怪(グロテスク)な映像を作りあげている。
 可視の世界はつねに不可視のリアリティと連関しているとし、好んで画題に「夢魔」「魔術」「夢」「魔女」「幻想」を選んでおり、天使も異教の生き物も根はひとつだとしているが、フューズリは妖精の存在を深く信じてはいなかったようである。
 妖精たちに華やいだ流行のドレスとボンネットをかぶせているのは諷刺の筆ととれるが、特に、その鉾先は当時流行の心霊術にこっていた社交界の貴婦人たちに向っていたようである。

W.Blakeゴブリン.jpg

                       ウイリアム・ブレイク『ゴフリン』

『フェアリー』 新書館


芭蕉「生命の賛歌」 №28 [雑木林の四季]

しほらしき 名や小松吹(ふく) 萩すヽき

                                      水墨画家    傅  益瑤

しほらしき.jpg


         
 金沢から小松に着いた芭蕉は、可憐な背丈の松を吹き抜ける一条の風を見た。振り返ると辺り一面の萩やすすきの穂にも風が吹く。萩とすすきの穂が波を打ち、海でないものが海らしく見えた。
 しほらしきは名も無いこと、海景に松の木は無くてはならぬもの。描かれた芭蕉の姿は小さな松の木に姿を変え、風に吹かれる。

『傅  益瑤 「奥の細道」を描く 芭蕉「生命の賛歌」』  カメイ株式会社


ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №30 [文芸美術の森]

第二章 民衆たちのテーブル・トーク
  市民たちが見たレーニンとスターリン 4

                               早稲田大学名誉教授  川崎 浹  

おもしろうてやがて悲しき祭りかな

 少なくとも現在から見れば、右のレーニンのアネクドートは毒のないユーモラスな作品だが、「一九三〇年代」と記された、もっとたわいない小品がある。

 片方の足に長靴をはいて男が道を歩いていた。
 「長靴をなくしたのですか?」と、気づかって通りすがりの人が尋ねた。
 「いえ、見つけたのです」

 ひと口に三〇年代といってもさまざまだが、内戦がおわり、経済を活性化させるための新経済政策がおわり、スターリソ路線のもとに緊張と粛清と貧困を強いられた時代である。片方の長靴だっておろそかにはできない。となるとこのアネクドートはそれほど単純なものではなく、おもしろうてやがて哀しき祭りかな、となる。

大敗北への批判

 さて、行列に並ばされる不満を「ひげ男」にうさ晴らししたために危うく拘束されかけた男の話にここで戻るが、お互いに腹を探りあうという構図もひとつのパターンになっていて、さまざまなヴァリアントがある。
 ジェーコフといえば独ソ戦で名将の誉れたかい将軍で、戦後、国民的な人気があったために、競争相手の存在をきらうスターリンから遠ざけられた。つぎのアネクドートの時期は、ヒトラーのドイツ軍が一九四一年六月にソ連に侵攻する前のころである。当時、東京にいたソ連のスパイ、ドイツ人ゾルゲをはじめ、種々の情報筋からナチがソ連をまもなく攻撃するという資料がとどいていたにもかかわらず、スターリンは独ソ不可侵条約を信じて情報を最後まで無視しつづけた。
 ついでに説明すると、一九一七年のロシア革命は人民のための人民の政府を人民の手でうちたてることにあったので、すべての国民が資本主義的「階級」に属さない平等な立場にあった。それでレーニン以下お互いに「同志(タワーリシチ)」と呼びあうことになる。それからもう一つ、スターリンにはグルジア訛りがあった。

 ジューコフがスターリンの執務室に入って行った。
 「なにかいいたいことがあるのかね、同志ジューコフ」
 「同志スターリン、西部方面に進出を開始する必要があると私はみなします!」
 「ディテ(出て〕行きたまえ、そのあとでもう一度ケティロン(結論)を聞かせてもらおう」
 ジューコフはスターリンの部屋からでると、軽率にもスターリンを口中でぶつぶつと「豚」呼ばわりした。
 控えの間にいた将軍は、ジューコフの思考の文脈をとらえて、スターリンに報告した。「ジューコフがぶつぶつと口中であなたを豚呼ばわりしていました⊥
 スターリンがジューコフを呼びだすように命じた。
 「ゲオルギイ・コンスタンチノビチ(ジューコフの名と父称)、アナティ(あなた)は私の所からディテ(出て)行って、『豚』のことを考えた。だれのことを念頭においていたのかね」
 「いうまでもありません、ヒトラーのことです、同志スターリン」
 スターリンはいった。
 「私も、ヒトラーだと思う。じゃあ、同志将軍、アナティはだれのことを念融においていたのかな?」

 しかし、このたいして面白くもないアネクドートには、じつはスターリンがヒトラー軍の侵攻に適切な措置をとらず、緒戦の大敗北と甚大な被害をこうむったことへの批判もこめられている。

レーニンの後継という見方

 一九五三年にスターリンが死亡し、モスクワで葬儀がおこなわれたとき、市の中心部で大混雑が生じてパニックをきたし、多数の死傷者をだした。つまりそれほどスターリンの死を悼む者がおおく、かれを慈父とみたり、あるいはまったく反対に苛酷な独裁者と見抜いていた知識人や囚人はいても、無能者あつかいする市民はすくなかったようだ。
 実際、舞二次世界大戦の直前、スターリンは外交官松岡洋右を前例のないことだが駅まで送りにきて、友情あふれる態度をとり、感激した松岡は凱旋将軍のごとく帰国したが、近年公開されたモスクワ古文書館の資料によると、スターリンは松岡洋右を手玉にとって翻弄したのであり、その辣腕の外交術は「無能」などとはまちがってもいえない(平井友義「スターリンの哄笑 - 日ソ中立条約」、一九九八年二月六日、神戸大学での報告)。
 スターリンの集団農場化は惨憺(さんたん)たる結果におわったが、三〇年代における重工業化はかれの功績である。もっとも、ソ連のあの時期の指導者ならだれでも国の重工業化政策をとらざるをえず、またとれば成功をおさめたと指摘する米国の学者もいる。
 それでもスターリンを無能扱いしないと気のすまない識者がいて、こんなアネクドートがある。作中の「火花」とは、革命前哨戦の一九〇〇年末にレーニンが創刊した有名な雑誌である。

  レーニンがスターリンに電話した。
  「〈火花〉の新しい号は気に入ったかね?」
 「たいへん柔らかな紙ですね、ウラジミル・イリイチ」

 スターリンの「偏羞値」や巧緻(こうち)にたけた手腕は別として、これは、かれをレーニンやトロツキイより知性においても政治理念においても低い政治家として見るアネクドートであり、スターリンの政策はレーニンの延長にすぎないとする見方とどこかで通じている。スターリンはレーニンをもちあげ、自分がレーニンの後継者であることを強調した。ソルジェニーツィンは『収容所群島』でこの系図を逆手にとって、スターリンの粛清と収容所の悪夢は、すでにレーニンのときにはじまっていたと指摘する。

『ロシアのユーモア』 講談社選書


はけの森美術館Ⅲ №27 [雑木林の四季]

                                        画家  中村研一

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                                             彩色 和紙 27cm×30cm 

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鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

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中村研一記念はけの森美術館正面

石井鶴三の世界 №92 [文芸美術の森]

みやまきりしま1958年/九重・みやまきりしま1958年

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                    みやまきりしま 1958年 (144×200)

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                  九重・みやまきりしま 1958年 (144×200)

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明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社


読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №14 [ことだま五七五]

              読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆4月5日と12日放送分

                             川柳家・コピーライター  水野タケシ

川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」、2017年4月5日放送分の内容です。

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                        相模原の桜も五分咲き

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                 急に薄着に……すっかり春めいてきた相模原
 
「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)がキャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
http://fm839.com/program/p00000281
4月5日の再放送の音源は、こちらから!https://youtu.be/4UDdv1YXagk
  
【質問コーナー】
川柳と俳句の違いはなんとなくわかります。俳句は季語ですね。
ところで、作成していると標語みたいになるのはなぜですか?
たとえば、「手を挙げて横断歩道渡ります」とか、「左右見て安全確保渡ります」みたいになります。
頭が神州一みこちゃんになります。やはりヒネリが足りないのですか?
違いは何ですか?教えてください。(ラジゴさん)
回答の音源はこちら……https://youtu.be/4UDdv1YXagk

【今週の一句】144句の投句がありました!!たくさんのご投句ありがとうございます!!
(みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略)
・ライバルの罵声で息を吹き返す(離らっくす)
・花見酒相席たのむ雪見酒(外科系)
・金子とはいつの事かな時代劇(ラジゴ)
・ラジ川は覚せい剤にさも似たり(でんでん虫) (添削例)ラジ川はエビセンよりもクセになり

☆タケシのヒント!
「でんでん虫さんから質問を頂きました。『1回もしくは、1週間に投稿できる句に数の制限はありますか?』というもの。制限はありません。どんどんお寄せください。その句の中から、私がどの句を選ぶか。それが勉強になります。続けると、自分の中に『客観的な眼』が生まれます。選句眼が磨かれますよ。」

・補聴器を付けて聴きたいニュースなし(アカエタカ)
・楽しいが苦しいになりまた楽し(かたつむり)

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                      かたつむりさんの今朝のファクス

・綺麗だね褒めた桜が舞って見せ(キャサリン)
・精霊石今や安くて御倉入り(初投稿=北谷匠)
・国民がタイホタイホとさけぶ国(東海島田宿)
・忖度(すんど)とか読んでいそうな安倍首相(秦野てっちゃん)
・女房が留守だと空も広くなる(やんちゃん)
・鍋焦がすくらいでそんな声出すな(光ターン)
・良い子にはソンタクロースやってくる(りっちーZ)
・国民に向けて忖度したらどう?(司会者=あさひろ)

☆あさひろさんの「ボツのツボ」
「今週も多くの投稿ありがとうございました。教えて師匠!のコーナー勉強になりますね。標語と川柳の違い。正論・ご説ごもっともは標語。そこに批判や毒をまぶすと川柳に。今週もボツの壺には傑作が。『自分でもボツと思う句ばかり出来』(六文銭)解りますね~!」

・師走より親を走らす新入学(入り江わに)
・スーパーの活気吸い取るセルフレジ(不美子)
・好き好き好き今なら言えるクラス会(どんぶらこ)
・人生の今が極楽花を追う(アキちゃん)
・ほめ言葉なんとか探す甲子園(龍龍龍)
・この陽気恋をしたくなりますね(恵庭弘) (添削例)この陽気恋でもしたくなりますね
・春だから国会もよう籠かすみ(アンリ)
・春休み少女階段二段跳び(けんけん)
・外に向けホラを吹いては内を向く(グランパ)
・お若いと言われた時点で若くない(のりりん) (添削例)お若いと言われなかった若い頃
・還暦を過ぎても消せぬ亡母(はは)のTEL(北の夢)
・生け花で枝いさぎよく切った女医(夢見夢子)
・爪を切る赤ちゃんがいて春のこと(平谷妙子)
・桃佳ロス作句投句のモチベロス(パリっ子)
・ネット見ず当選の夢もう一晩(ユリコ) (添削例)ネット見ず当選の夢もう一夜
・何処見てる花を観るよりネタ捜し(わんわん)
・住み込みで癒しますよと庭にノラ(はる)
・山の神神も引退するのかな(鵜野森マコピィ) (添削例)神様も引退をする山の神

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                     鵜野森マコピィさんの今朝のファクス

・一億円どうするのかなボブディラン(フーマー)
・あんパンの立場どうなる文科省(かぎかっこ)
・空爆に住む家もなく穴を掘る(ただのおやじ)

本日の秀逸!・忖度(すんど)とか読んでいそうな安倍首相(秦野てっちゃん)
2席・良い子にはソンタクロースやってくる(りっちーZ)
3席 ・スーパーの活気吸い取るセルフレジ(不美子)

【お知らせ】
先週もお知らせしましたが、この4月8日(土)16時からから、毎日新聞の毎日文化センターで「笑って上達!仲畑流万能川柳句会」という講座、というか句会が始まります。
これまで21年「実践!万能川柳」という講座を行ってきたのですが、4月からは月1回、第2土曜日16時からの「句会」にリニューアルします!!

「万能川柳を趣味にしたい」「一度載ってみたい」「スランプを克服したい」……
そんなアナタ、安心して句会の輪の中にとびこんできてください。
今回はリニューアルということで、初めての方がけっこう多くなりそうです。
初めての方でもなじめる、アットホームな雰囲気の中、「アハハ」「ウフフ」と笑い合ううちに、しぜんと作句力が鍛えられます。
句会こそが、川柳上達の早道です!                                                        「笑って上達!仲畑流万能川柳句会」のお問い合わせは、毎日文化センター(03・3213・4768)まで、どうぞ!

【放送後記】
投稿句数も投稿者もどんどん増えてきてうれしい限りなのですが、今朝は本当に困ってしまいました。
いつもだいたい7時半前にスタジオ入りして、1時間半をかけて皆さんの投句をチェックします。
たいていは余裕があるのですが、今朝は秀逸を決定したのが、生放送の10分前!!
もうギリギリまで悩みに悩み抜きました!!
再放送を聞いたら、明らかに疲れてましたね、私の声(苦笑)。
本当に、選者冥利に尽きます!!
来週もまた、私を悩ます、鋭い秀作の数々お待ちしています!!
タケシ拝

◆4月12日放送分です。

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                      満開の桜を見ながらスタジオ入り

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句集「あの日もこの日」を出したドド子さんの行きつけの釜石ラーメン「こんとき」のカップめんを持って

4月12日の再放送の音源は、こちらから!https://youtu.be/W9c0HESS57k

【名句紹介】
フィギュアスケートの浅田真央選手の引退を受けて、 浅田真央さんを詠んだ名句を紹介。
音源はこちら……https://youtu.be/W9c0HESS57k

【今週の一句 178句の投句がありました!!たくさんのご投句ありがとうございます!!
(みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略)
・散華とか言う日来るなと散るサクラ(雷作)
・空爆で生死さまよう化学式(外科系)
・オーナーの趣味押し付けるBGM(光ターン)
・来た道を戻らぬように通せんぼ(グランパ)
・どの国も歪んだメガネで見る歴史(入り江わに) (添削例)どの国も歪むメガネで見る歴史
・左利き左の端が指定席(あまでうす)
・指し勝ちてAI無言・人無言(鈴木紘一)
・原発で光る東芝あり地獄(ラジゴ)
・スーパーで焼き芋君にバイバイを(わんわん)
・逆風に負けずに泳ぐ鯉のぼり(やんちゃん)
・人柄がラジオネームに見てとれる(でんでん虫)
・共通の敵がいるので仲がよい(荻笑)
・容疑より容姿が目立つ詐欺事件(離らっくす)
・結局は自己判断で持った傘(アキちゃん)
・桜咲き竹中夫妻笑み満開(ポテコ)
・悲しみをこらえ高速飛ばす友(かたつむり)

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                     今朝のかたつむりさんのファクス

・もういない春はそこまで来てるのに(名人けんけん)
・都合よく教育勅語つまみ食い(東海島田宿)
・兵器はね化学も何も全てダメ(鵜野森マコピィ)
・ランドセル似合う頃には傷だらけ(アンリ)
・恐いけどたまに可愛い妻と居る(どんぶらこ)
・苦しいと言ってるうちはまだ余裕(恵庭弘)
・席替えで一喜一憂淡い恋(北の夢)
・五輪の次は万博かいな(夢見夢子)
・万博はパリを応援しています(りっちーZ)
・息吸って一気にファスナー上げる服(のりりん) (添削例)息吸ってファスナー上げるテクニック

☆タケシのヒント!
「いつも楽しい句を送ってくださる、のりりんさんです。原句のままでも十分面白いのですが、中八の字余り(五七五の七が八になる)が気になりました。「一気にファスナー上げる」という内容ですから、ここは中七にこだわって、キレやスピード感を演出したいところです。」

・見渡せば桜しかない春爛漫(パリっ子)
・あっちにも月が落ちてる水たまり(ユリコ)
・寂しいがミサイルよりは良いニュース(六文銭)
・報道をしない自由も取るメディア(クッピー)
・お母さんポテトチップを買い占る(フーマー)
・辛い顔見せず桜を愛でる城(不美子)
・政治から離れて食べたいパンも和菓子も(司会者=あさひろ)                                           (添削例)パンも和菓子も政治はなれて

☆あさひろさんの「ボツのツボ」
「今週は政治・歴史観から真央ちゃん引退と幅広いジャンルからの題材有。師匠の添削=語順を変える、字数を整えるなどちょっとの手直しで劇的変化。ボツのツボ=いつまでも好きな男はちゃん付けで(平谷妙子)若い時はクン付けで、年取ってからはちゃん付けで呼ばれると確かに男は弱い!」

・夜桜の月を枕に寝てみたい(ただのおやじ)

本日の秀逸!・あっちにも月が落ちてる水たまり(ユリコ)
        ユリコさん、3回目の秀逸獲得で、2代目の名人位へ!!
2席・どの国も歪んだメガネで見る歴史(入り江わに)
3席 もういない春はそこまで来てるのに(名人けんけん)

【お知らせ】
毎日新聞、万能川柳のファン交流会
 「第22回万能川柳強運者の集い」が5月27日(土)午後4時~6時まで竹橋の毎日ホールで行われます。
「強運者の集いは」全国の万柳ファンが年に1回、一堂に集う会で、投句経験がなくても参加できます。
第1部は、年間賞受賞者の表彰式。
第2部は、選者の仲畑さんを囲んでの交流会で、全員で投句・選句を楽しむ「仲畑流大句会」も行います。今年のお題は「夢」です。

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                             昨年の模様
 
豪華な賞品がたくさん出ますよ!!
参加希望者は往復はがきに住所、氏名、電話番号、参加人数、「夢」をテーマの川柳1句を書き、〒100-8051
 毎日新聞万能川柳クラブ「集い」係までお申し込みください。
返信面には申込者の住所・氏名をご記入ください。
お問い合わせは、03・3212・2349、
あるいは、banryuu-club@mainichi.co.jp 万柳クラブ事務局までお願いします。
川柳を書かなくても参加できます。私に会いにぜひお越しください!
 
【放送後記】
秀逸3回で名人位、5回で大名人……という制度のラジオ万能川柳ですが、初代名人の「けんけん」さんに次いで、ついに2代目が誕生しました。ユリコさんです!!
ユリコさん、本当におめでとうございます!!パチパチパチ!!
ユリコさんには、エフエムさがみ特製のマグカップをお贈りします。                                    お茶をするたびに、エフエムさがみを、そしてラジ川を思い出してくださいね!!  タケシ拝

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                       水野タケシ(みずの・たけし)
             1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
    ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」http://ameblo.jp/takeshi-0719/


雑記帳2017-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-4-15
春のお江戸は吉原で。

全国に先駆けて東京に桜の開花宣言が出たのは3月23日でした。ちょうど満開になるのではと思われた4月1日は、時折小雨の降る真冬のような寒さになりました。
この日歩いたのは、東京メトロ日比谷線三ノ輪駅から千束。樋口一葉ゆかりの地は吉原にとなりあわせています。

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                                                                                   三ノ輪駅のすぐそばに建つのは浄閑寺。
吉原に身売りされた女性たちがこの寺に葬られたことから、俗に「投げ込み寺」と呼ばれました。                   その数、2,5000人ともいわれます。遊女たちの霊を弔う新吉原総霊塔が建てられました。
寺の前には小夜衣地蔵、、墓地にはこの界隈をこよなく愛した永井荷風の碑があります。                          若紫と刻まれた墓を見つけましたが、遊女が個人の名前で葬られるのは珍しいことでした。気立てが良くて美人、人気のあった遊女若紫が年期奉公10年のところを5年であけ、恋人と所帯をもつばかりになったところ、酔客の刃傷事件に巻き込まれて命をおとした、それを哀れに思った遊郭の主がたてた墓だそうです。     
また、若紫できづくように、遊女の名を源氏物語から採ったことから、水商売の女性の名を「源氏名」と呼ぶようになったのです。

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浄閑寺
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浄閑寺の入り口に立つ小夜衣地蔵
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永井荷風の記念碑(中に筆がはいっているそうです)
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近くに立つ永久寺は、「江戸五色不動(目黄、目赤、目青、目黒、目白)」のひとつ、目黄地蔵尊で知られています。
五色不動は、三代将軍家光が、天海大僧正の具申により江戸府内に名のある不動尊を指定したといわれていますが、目黄と目青は明治になってからという説もあり、諸説ある中で、色は不動尊の目の色ではなく、方角を表しています。

「たけくらべ」の冒頭にでてくる千束稲荷神社に一葉の胸像がたてられたのは平成20年のことでした。
一葉が旧竜泉寺町に住んだのは、本郷丸山福山町に転居するまでのわずか10か月です。                    周辺の人々の暮らしは貧しく、この間の、遊郭に接する街での生活体験が、後の小説に結実したのです。
荒物、雑貨と駄菓子屋を営んだ店は今は建て替わって、それと言われなければわかりません。                   近くには「たけくらべ」の信如のモデルになった加藤正道氏の墓のある大音寺や台東区立一葉記念館があります。

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                              一葉記念館

吉原は江戸幕府公認の遊郭でした。
日本橋人形町に開業して吉原と称したのが元和元年(1617)ですから、今年はちょうど開業400年になります。
明暦の大火後、人形町から今の浅草寺裏に引っ越して、新吉原と呼ばれました。
180軒の大店、小店が立ち並び、遊女は2、000人から3,000人ほどいたといいます。

ちなみに昭和33年、売春防止法の施工によって、吉原遊郭は消滅、周辺はソープランドになりました。現在、店の数150軒、ソープ嬢の数は3,000人といいますから、江戸時代の吉原とほぼ同じ。時代が変わり、名前が変わっても、結局は同じということでしょうか。
ソープ嬢が遊女と違うのは、目的が親をたすけるための年季奉公ではなく、海外旅行やブランド品欲しさという点で、あっけらかんとして、暗さが微塵もないところでしょう。

吉原歓楽街への正面玄関は大門(おおもん)です。
治安目的と、遊女たちの逃亡を防ぐため、出入りは通常この大門一か所のみでした。
明治44年の大火で焼失、関東大震災で撤去されて、あともありません。
大門から遊郭へ通じる一本の道はむかしのままで、まがりくねっています。
悪所が鷹狩に来た将軍の目に触れてはいけないからといわれていますが、遊女たちが故郷を懐かしんで嘆くことのないようにとの配慮だったというのが本当のところらしい。
入口にあった見返り柳は6代目で、今も健在です。

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                        大門から延びる一本道

遊郭を塀のように囲んでいたのがお歯黒どぶでした。
幅5間、9メートルもあり、入口も大門ひとつということから、遊郭は文字通りの「廓」(城壁や堀,自然の崖や川などで仕切った城・館内の区画)でした。
「たけくらべ」が書かれた明治の頃には3尺となり、今はすっかり埋め立てられています。

お歯黒どぶを歩いて遊郭をひとまわりしたあと、立ち寄ったのは酉の市で有名な鷲神社です。
鷲や鳥に因む寺社の年中行事としてで知られる酉の市は、露店で、威勢よく手締めして「縁起熊手」を売る、年末の風物詩です。
新吉原に隣接する鷲神社の酉の市は、全国にある酉の市の中でも、もっとも盛大だといわれています。立派な熊手が目を奪います。
市の日には通常開けない門を開けて客を遊郭に呼びこんだといい、祭りの賑わいは「たけくらべ」にも描かれています。
鷲大明神はもとは隣の長国寺の境内にあったものですが、明治の神仏分離令によって分離されました。
現在、浅草酉の市は寺と神社両方の境内で開かれてご利益も大と、大勢の人で賑わいます。

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鷲神社
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神社の入り口に飾られた大熊手 
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                        鷲神社に隣接する長国寺 

町歩きの楽しみはお昼です。
今回は普茶料理の「梵」でした。
普茶料理は約300年前、中国、明の隠元禅師が 京都宇治に黄檗山萬福寺を建立した時から伝わる精進料理です。
油や葛を多用、擬製豆腐などもどき料理が特徴。
天ぷらなども下味をつけてあるので、全体に味は濃いめです。
長崎の卓袱料理のように4人でテーブルを囲んで料理を取り分ける食べ方で、銘々膳の永平寺流の精進料理と区別されます。

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                                                                            梵では月替わりメニューで、卯月は山菜や筍など春の野菜を楽しめます。

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食事の前に出た凡字の干菓子
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弁当(桜花ご飯の左上に見えるのは名物の鰻豆腐)
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煮物の古知按蒸
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              天ぷらの中身はサツマイモ、人参、こんにゃく、そうめん揚げ

◆4月1日、真冬の寒さに震えたのに、2日後には東京の桜が満開になりました。
今年の根川の桜です。

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続・対話随想 №14 [核無き世界をめざして]

 続対話随想14 中山士朗から関千枝子さまへ 

                                          作家 中山士朗
 

 今回、四度目のペースメーカーの入れ替え手術を受けましたが、四度目ともなれば、感染症が気遣われ、そのために抗生物質による治療がほどこされました。その副作用によって、入院中もそうでしたが、退院後も食欲がなく、まったく食事を摂ることができず、体重も五キロも減ってしまい、瘦せ衰えてしまいました。鏡に映る自分の顔になんとなく死相が現れているように感じられたものでした。手術後にはたびたび血液検査が行われましたが、白血球の数値は良好とのことでした。けれども、動悸、息切れめまい、食欲不振が続き退院後一週間経ってようやくそうした症状が収まり、少しずつ食事が進むようになりました。
 関さんとの往復書簡が始まった当初、蜂窩織炎に罹り、入院したことがありました。この病気は、皮下及び深部の密度の粗結合組織中に起こる急性の化膿性炎症のことをいうらしいのですが、つまり、私の体質は白血球の数値に影響を受けやすいということなのでしょう。
 そのようなことをあれこれ回想しておりましたら、昭和三十五年に「被爆者健康手帳」の申請をした際、医師の診断書に白血球の数値の異常が記入されていたことがふと思い出された次第です。そして、現在八十六歳になるわが身を振り返りますと、今更、そのことを嘆いていても仕方がなく、あるがままに生きるしかないと思っております。
 ここまで、今回の入院中の憂鬱なことばかりを書いてしまいましたが、その反面、私は別府によって生かされた自分というものを強く感じないではいられませんでした。
 私が四十三年間住んだ東京から、まったく誰一人知った人のいない別府に移って来たのは、平成四年のことでした。その直後に、右心房完全ブロックによる新機能不全で倒れ急遽入院となり、人工心臓ペースメーカーの埋め込み手術が行われ、私の命が保たれたのでした。東京にいた時分にも、会社、自宅、通勤途上で失神発作を起こしましたが、すぐに検査ができなかったために、その原因が通っていた大病院でも解明されませんでした。
 別府に移住するに際して、知人から紹介してもらったのは、新別府病院の循環器内科部長でしたが、通院するようになって間もなく倒れたのでした。その手術を担当してくださったのは、私が現在診てもらっている、定年後に別府温泉病院に移られた中尾先生、そして現在は新別府病院の院長となっておられる中村先生でした。
 別府市内には現在、内竈に独立行政法人 国立病院機構・別府医療センターがあり、鶴見には国家公務員共済連合会・新別府病院があります。前者は戦前には陸軍病院、後者は海軍病院でした。私がペースメーカーを植え込んでもらった新別府病院は、通院をはじめた当初は、質素な木造建物でしたが、その後改造が重ねられ、一年ほど前に新型救命緊急センター、日本医療機能評価認定施設としての立派な施設が完成しました。私は今回その新しい病棟に入院し、その恩恵を受けたのでした。そのエントランスホールの正面の壁には、
 Science  & Humanity
        科学する心と人間愛

 「理念」の言葉が掲げられていました。
 私がこのたびの入院で、私が別府によって生かされたと強く感じるようになったのは、私が二十五年前に通院するようになった頃からの人々に出会ったからです。時を同じくして病院のレントゲン技師として配置された人と、今回の入院中、看護師に付き添われてレントゲン室を訪れたときに偶然出会ったのでした。パソコンで受付患者の名前を見て、驚きの眼でもって私を見つめ、私と十六年前に亡くなった妻の名前を言い、妻が私より十四歳年上であったことや、レントゲン室に通っていた私たちの様子をよく記憶し、語ってくれました。私も一目見た瞬間に、彼だったとわかりましたが、こちらは相手一人の記憶ですみますが、彼は無数の患者を相手に記憶しなければならないなかで、私たち夫婦の名前と杖を突いて歩いていた妻の行動を即座に語った記憶力には驚嘆しました。それとも、私たち夫婦がよほど変わった組み合わせとして記憶に残っていたかもしれません。恐るべきことであります。
 また、手術が終わって間もなく、メーカーとしての最終チェックがありましたが、その担当者は、二十五年前の植え込み手術のときにも立ち会ってくれた人でした。正確に機能していることを告げたあとで、「今度の機器は十年より少し先まで持ちますよ」と言いました。十年先になると、私は九十六歳になりますが、そんな年齢まで生きてはいたくないと思います。
 私が別府によって生かされたという思いは、別府に移住して来たことによって、瀬戸内海を通じて広島を客観的に、冷静な目で捉えて作品が書けるようになったことではないでしょうか。
 「原爆亭折り父子」で日本エッセイスト・クラブ賞を頂けたのも、その後多くの短編小説やエッセイを書き残すことができたのも、またそれらの仕上げとして関さんとの『ヒロシマ往復書簡』を書き続けることができたのも、生かされたお陰だと思っています。


丸木美術館から見える風景 №46 [核無き世界をめざして]

幻の牛

                            原爆の図丸木美術館学芸員  岡村幸宣

2月、名古屋出張の帰りに、藤沢駅前のビルの6階にある藤沢市民ギャラリーへ立ち寄った。

この市民ギャラリーに来たのは、ちょうど10年前、2007年に開催された「藤沢市30日美術館 藤沢と丸木位里・俊展」以来。
神奈川県立近代美術館の水沢勉さんと初めていっしょに仕事をさせていただくなど、思い出深い展覧会だった。今回は、最終日を迎えた山内若菜さんの《牧場》の展示を観るのが目的だ。

彼女から初めて連絡があったのは、記憶が正しければ、2013年に神奈川県立近代美術館・葉山で開催された「戦争/美術 1940-1950」展の少し後だったと思う。この展覧会に感動した彼女は、館長の水沢さんのもとを訪ね、君の絵は丸木美術館に合うかもしれない、と推薦されたそうだ。

その後、展覧会の案内状をもらい、初めて実際に絵を観たのは、2015年5月の銀座・中和ギャラリーでの個展だった。
会場には、福島県浪江町の牧場を取材した際の風景を題材に描いたという、壁いっぱいの大作が飾られていた。
一見儚げで、しかし、土と風の匂いのする作品。現実の風景と心象風景が入り混じったようでもあり、過去と現在の時間が折り重なるようでもあった。
彼女は文化交流としてロシアをたびたび訪れているそうで、シベリアの強制収容所と福島・飯館村の廃墟のイメージがつながったという《ラーゲリと福島》などのイメージの飛翔した作品も、印象に残った。
テーマはまっすぐ直球勝負だが、絵の表現は決して表面的ではない。これなら丸木美術館で展覧会をやっても面白そうだ。
会場に立っていた、華奢で小柄な画家に声をかけると、やります、という予想外に力のある声と、こちらを見つめる強い視線がかえってきた。

丸木美術館の2階アートスペースで彼女の個展を行ったのは、2016年3月のこと。
見るからに気持ちが高まっていた彼女は、会場の壁に収まりきらないほど横に大きく広がった《牧場》の絵を運び込み、部屋中にぐるりと展示した。そして、それだけでは気が収まらずに、1階の奥のロビーにも、天井から床まではみだすほどの大きさの《福島のお母さん》の絵も2点展示した。
彼女の熱い思いを、丸木美術館の小さな空間は受けとめきれなかった。学芸員としては、作品の大きさを制御すべきだったのかもしれないが、すっかり圧倒されてしまったぼくは、ロビーの窓を封鎖して、さらにもう1点《福島のお母さん》の絵を展示したいという彼女の提案を却下するだけで精いっぱいだった。

会期中には、二本松市在住の詩人・関久雄さんの自作詩の朗読に合わせて彼女が絵を描くというイベントや、浪江町に残って牛を飼い続ける「希望の牧場」の牧場主・吉沢正巳さんの講演会も行われた。
《牧場》の大作には、その「希望の牧場」で生き、死んでいく牛たちの姿が描かれていたが、墨の勢いが強すぎたのか、「真っ黒で何が描いてあるかわからない」という感想も少なくなかった。
それでも、絵に心を動かされる人は多く、来場者も日を追うごとに増えていった。この展覧会をきっかけにして、岡山県の中学校で絵を展示する機会も生まれたと聞いた。

そうした経緯があっての藤沢展である。
会場に入った途端、画面が明るく、牛たちの姿が浮かび上がってくることに驚いた。どうやら、中学校の生徒たちの感想を参考にして、加筆したようだった。
幾重にも墨を塗り重ねられた深い闇の上に白い絵の具がほとばしり、幻のような牛の姿を形づくる。
「わかりやすさ」ばかりが良い訳ではないけれど、彼女の内にある福島へのまなざしを他人が共有することに大切な意味が生じる作品だから、こうした変化は効果的だった。

土の色、星の光、貼り重ねた和紙の上に流された墨の中から浮かび上がる人や生きものたちの姿を見ているうちに、この絵が小さな宇宙のようにも見えてきた。
「3.11」後の私たちが生きる世界、そして「3.11」よりずっと前から受け継がれてきた宇宙。
それが、彼女の身体を通って、目の前に現れてきたような感覚。

丸木美術館での作家トークの際、「私には絵しかない、絵を描くことしかできない」と、観客の質問から遠ざかるように、青ざめながら何度も繰り返していた彼女の姿を思い出す。

客足の途絶えた夕暮れの美術館で、《原爆の図》の前に勝手に和紙を広げて、憑かれたように模写に没頭していた後ろ姿も。

時に危うく感じられる一途さで、彼女がどこまで内なる宇宙を拡げ、深めていくのか。これからもじっくり観続けていきたいと思いながら、会場を後にした。

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【「原爆の図保存基金」へのご協力のお願い】
《原爆の図》は、近年、ますます歴史的・社会的な意味が大きくなり、美術史的な視点からも20世紀を代表する絵画作品として、国内外で高く評価されつつあります。
一方で、丸木美術館は、建物の老朽化や、展示室・収蔵庫の温湿度管理および紫外線・虫害・塵埃対策の未整備などの現実的な問題に直面しています。将来的に《原爆の図》は、人類の普遍的な財産として、重要文化財や世界遺産に選ばれる可能性もあるでしょう。しかし、すでに画面上には虫食いなどの深刻な被害が表れ、このままの状態では作品の保存に支障が出ることは間違いありません。

そこで、50周年という節目を期に、《原爆の図》の保存管理が可能な新館建設と資料整理・保存公開のためのアーカイブ設立を目的とした「原爆の図保存基金」を立ち上げました。
詳細は追ってこのHP上で公開していきます。

郵便振替口座
口座名称:原爆の図保存基金
口座番号記号:00260-6-138290
寄付金額は任意となりますが、1万円以上寄付された方には記念誌をお送りいたします。
10万円以上寄付された方のお名前は、新館に掲示いたします(希望制)。
この寄付は寄付金控除の対象となります。
詳しいお問い合わせは、原爆の図丸木美術館(0493-22-3266)まで。


私の中の一期一会 №141 [雑木林の四季]

    「私、浅田真央はフィギュアスケート選手として終える決断をいたしました」
        ~軸足の左ひざの怪我で密度の濃いジャンプの練習が出来なかった~

                            アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 12日に行われたフィギュアスケート・バンクーバー五輪の銀メダリスト浅田真央の「現役引退会見」は、大々的なニュースとなって日本中を駆け巡った。
 この日は、早朝から並んだカメラマンたちを含めて、総勢430人に及ぶ報道陣が会見場につめかけたというから私は首を傾げた。いくら人気スポーツ選手の真央ちゃんが引退するからと言って騒ぎ過ぎに思えたからである。
 主催者発表では、ム-ビ-50台、スチールカメラマン100人、記者、レポーターは多数、台湾など海外メディアも詰めかけたとなっている。
 浅田真央の引退は、国の内外からも高い関心を集めたことは確かで、イギリスでは権威ある公共放送が、いち早く引退を報道して、“マオ・アサダが世界に残した功績は大きい”と伝えた。
 ロシアのスポーツ専門誌・電子版やアメリカのフィギュア専門誌「アイスネットワーク」、中国、韓国などでも浅田真央引退をニュースとして速報したという。
 特に「アイスネットワーク」は、フィリップ・ハーシェ記者が「アサダ引退の影響は今後数年間続くだろう。アサダは、トリプルアクセルと氷上の優雅さによって記憶される」と書いて、銀盤に舞った“マオは風に舞う羽のよう”だったと回想している。
 浅田真央は何百万ものTV視聴者や会場の人々の心をつかんだことは確かで、これは絶賛するしかない。
 NHKが、この引退会見を現場からニュース特番として“生中継”したことに私は違和感を覚えた。
 民放の芸能ワイド番組みを真似したような、NHKらしからぬ異例の対応に思えたからだ。
 もしかして、“森友”や“共謀罪”で揉めている国会審議から国民の目をそらすため、政権への「忖度」かも知れないと疑ってみたりした。
 ビデオリサーチの調べによれば、NHKが生中継した「浅田真央の現役引退会見」の平均視聴率が5.0%だったことが分かった。同じ日の夜7時から放送の、フジテレビ「引退特別番組、浅田真央26歳の決断~今夜伝えたいこと~」は7.3%であった。ともに通常番組より高い数字が出たのである。
 浅田真央は前日に、ブログで引退を発表していたから引退をすでに知っているファンは多かったと聞いている。とにかくスポーツイベントでもない“浅田真央の引退会見”をNHKが生中継したのに驚きながら、テレビ画面を見つめることとなった。
 真っ白なジャケット姿で会場場に現れた“真央ちゃん”は、溢れそうになる涙をこらえ30秒ほど言葉が出なかった最後を除けば、終始笑顔を絶やさない会見であった。
 2014年春から1年間の休養を挟んで復帰してから、いい形でスタートできた。でもそこから、“今のスケート界についていけるかな”という思いが強くなった。身体の辛い部分も多くなった。
 何とか頑張ろうという気持ちでやったが、16年12月の全日本選手権で12位になって「もういいんじゃないか」と思った。ハッキリ引退を決めたのは今年の2月だった。
 平昌五輪に出るという最終目標が葛藤になって、“やらなきゃいけないんじゃないか”という思いが強く、引退発表が延びてしまった。
 ソチ五輪のあとの世界選手権で引退していたら“まだやれる”と思ったかも知れない。望んで復帰して挑戦した結果は良くなかったが、挑戦してよかった。
 今は「やり残したことはない。トリプルに挑戦して終えられたことは自分らしかったと思っている」
 「今後はどんな形でも、スケートに恩返しができる活動をしていきたい、笑顔で前に進んでいきたい」と淀みなく言葉をつないで会見を終えた。
 浅田真央は16年シーズンの初戦、フィンランド杯でトリプルアクセルを回避して2位という結果に終わったが、前年の世界選手権前から“左ひざ膝蓋炎”という怪我に苦しんでいたのだ。
 左足は、トリプルアクセルを跳ぶときの軸足だけに、練習で跳べば跳ぶだけ悪化した。怪我をして完治しないうちに、練習しなくてはと焦ることになるのだ。
 腰痛と言う持病にも悩まされた。過去にはショート、フリーの両日とも痛み止めの薬を飲んで出場した試合もあった。
 足と腰に故障を抱えていては、密度の濃いジャンプの練習などつめる訳がない。代名詞とまで言われたトリプルアクセルが、怪我のため満足のいくジャンプが出来なかったのだ。辛かったに違いない。
 治療しても完治しないままシーズンに入り、急場しのぎに振付を変更することにしたが、パフォーマンスは落ちるばかりだった。
 モチベーションを保てなくて当然だった。怪我を抱える多くのアスリートに共通する苦しみである
 引退会見では怪我の話は出なかったが、やはり怪我は“引退の決断”に大きく影響したと私は確信している。
 アスリートは怪我とどう向き合うのか。これは指導者を含めた大きな課題だと私は常々思っている。
 浅田真央には、“体験者としてどういう意見”を持っているか聞いてみたい気がしている。
 アスリートの怪我で、私が気にしているのは横綱・稀勢の里と二刀流の大谷翔平である。
 横綱・稀勢の里が春場所で左肩付近に重傷を負いながら強行出場して、感動的な逆転優勝を果たした。
 あれは勝ったから“よかった”、“凄い”、“立派だ”、“さすが横綱”などと賛辞ばかりが飛び交ったが、もし負けていたらどうだったろう。本人はもとより協会や親方まで非難の嵐にさらされたのではないだろうか。
 日本相撲協会が先月末に公表した診断書によれば「左大胸筋損傷、左上腕二頭筋損傷で約1ヶ月の療養が必要」とされていた。さらに精査したようである。要するに2カ所を痛める重症だったのだ。
大相撲は巨体同士の肉弾戦だから、「痛みが取れたから大丈夫・・」と言う訳にいかないのだ。
 稀勢の里は5月14日初日の夏場所に向けて稽古を再会しているらしいが、無理は禁物だと強く言いたい。。
 稀勢の里の怪我は多分1か月では完治しないだろう。下手をするとキャリアの終焉を早めることになり兼ねないと私は心配している。
 マラソンの有森裕子さんが、競技者の立場から、“スポーツは根性が大事。痛くても我慢して頑張る姿をよしとする風潮”は怖いと語っている。
 私は理事長か親方に「夏場所は休め」と言って欲しいと思うが、多分言わないだろう。
 稀勢の里は自分で「決断」するしかない。有森さんの言葉をよく考えて欲しいものだ。
 日本プロ野球の至宝とも言うべき日ハムの大谷翔平は、9日に登録を抹消され現在リハビリ中である。
 大谷は去年の日本シリーズで走塁中に右足首を痛め、3月のWBC出場を辞退した。
 右足の状態が万全でない中、開幕から打者として試合に出て頑張っていた。
 8日のオリックス戦でサードゴロを打った時、左足を痛めてしまい途中で交代したのである。
 検査の結果は左太もも裏の肉離れで全治4週間というものであった。
 中田翔も怪我で離脱中だ。投打の主力を欠いた日本ハムは下位低迷中で、彼らの復帰が待ち遠しいだろう。。
長引いている大谷の右足首は“手術もありか”という声もあるらしいから心配である。
 もう一人のアスリート、箱根駅伝の山登りで「新山の神」と呼ばれた富士通の柏原竜二(27)が去る4月3日に現役引退を表明した。
 東洋大時代は、箱根駅伝の5区山登りで1年から4年まで4年連続区間賞を獲得して、3度の東洋大総合優勝に貢献した。金栗賞と言われる最優秀選手賞も3度手にした箱根駅伝の逸材であった。
 そんな柏原も、度重なる怪我など故障続きで、「引退を表明している今も完治していない。復帰のメドもたたないことから、競技の第一戦から退く決断をした」と引退の理由を語った。
 昨年11月熊本で10マイルに出場したとき腰を痛め途中棄権したが、この時引退が頭をよぎった。
 富士通の福島監督には「早すぎるんじゃないか」と留意されたが、1月にアキレス腱も痛めていて満身創痍の状態になっていたそうだ。今後は社業に専念する。
 アスリートたちに共通して言えることは、一つ怪我をしたとき完治させないと、庇いながら競技を続けると別の所に故障が生じるのだ。それも完治しないうちに無理をすると何時しか満身創痍になってしまう。
 最近は競技年齢が延びているのに、26歳の浅田真央、27歳の柏原竜二が、共に「怪我」で競技の第一線を退くことになったのは惜しいことだ。アスリートの怪我は“痛い”ことが多いだろう。
 だが痛いのを我慢して無理することが勇気ではない。“休んでじっくり治す”のがホントの“勇気”かも知れない・・私はそう思った。


浜田山通信 №192 [雑木林の四季]

波多野裕造と大岡信

                                   ジャーナリスト  野村勝美

 ついこの間ペギー葉山が死んだ。新聞TVの扱いは小さかった。あいにくというのは変だが、前日からスケートの浅田真央の引退報道があったため、TVは全局がニュース、ワイドショウを真央一色に染めた。フィギュアスケートは冬のスポーツの華だし、何より彼女はもう何年も氷上のアイドル、美人でかわいい。テレビ局は専属にしたい下心もあるので、一日中、他のニュースが割り込む余地はない。
 私はスポーツナショナリズムが大嫌いで、若いころからオリンピックで日の丸が上がったり、君が代が演奏されるとチャンネルを切り替えた。ワールドサッカーも地区予選から大騒ぎする。ヨーロッパリーグなど、日本人選手が得点したとなるとほめたたえる。移民問題や国際結婚は普通のことになっており、アベさんだってトランプファーストだ。当のトランプ夫人は東ヨーロッパのスロベニアだかの出身、娘ムコはユダヤ人である。とにかくもう美しい国ニッポンファーストはやめましょう。
 まあ若い人には死んだ年寄りなどどうでもよいし、私にしたところで、あああいつも死んだか、まあしようがないくらいの感想だが、同時代を生きてきたものとしてはやはり、寂しく悲しい。ペギー葉山の、「土佐の高知の播磨屋橋で、坊さんカンザシ買うを見た」が流行っていたころ、私は取材の出張で高知に行ったことがある。歌詞に出てくる坊さんのお寺にお参りして、宿で夜食のあとくつろいでいると暴力団の射ち合いがあって、現場を観に行ったりした。彼女の日本人離れした歌は大好きだったが、同時代を生きてきた人にはそれなりに思い入れがあり、なにがマオちゃんだということになる。
 この冬は年寄りの有名人が多く死んだ。大岡信は、私の同期生だ。詩人で文化勲章受章者。毎日新聞で同期だった増田れい子(エッセイスト、女性で初の論説委員、犬田卯・住井すゑの二女)からいろいろ話をきいていたので、昔からの知り合いのように思っていたが、会ったことはない。彼と彼女は東大文学部でも同期、同人誌を佐野洋らとやっていて、卒業後読売新聞に入った。昭和28年入社は新聞各社専売制、夕刊復活で採用が多く、私は横浜支局で朝日の天声人語で有名な深代惇郎といっしょに察回りをしたことがある。抜いた抜かれた等に関心がなく、心優しい豊かな男だった。
 毎日で同期入社だった波多野裕造も2月17日だかに死んだと毎友会(同窓会)会長をやっていた平野裕が知らせてくれた。慶應出で、語学の達者な男だった。英独仏露とイタリアだったかスペイン語だったかとにかく5ヶ国語の読み書きはペラペラ、辞書を一度引いたら憶えてしまう才能の持ち主だった。家柄が能の笛だか鼓だかの大倉流か何かの宗家の息子で、京都の色白美男子でもあった。私が毎日をやめた'77年頃、外信部をやめて外務省に入省、最後はアイルランド大使になった。大使といえば勅任官、同期でいちばん出世したことになる。5年ほど前に一度会ったことがあり、「再婚したいが、娘が反対してなあ」と言っていたが、いい男だった。


徒然なるままに №17 [雑木林の四季]

ミモザの花

                                    エッセイスト  横山貞利 

 少々旧聞になるが、3月8日の「国際女性(婦人)デー」前にミモザの花の出荷が始まったと新聞に写真入り記事が掲載されていた。わたしが住んでいる浦安では、漸くアカシアの葉のように萌えだしてきたばかりだから、温室栽培のミモザの花の出荷なのだろう。イタリアでは「国際女性(婦人)デー」にミモザの花を男性が女性に贈るそうで、これに因んで日本でもミモザの花を出荷するのであろう。
 3月8日が「国際女性(婦人)デー」に指定されたのは、1904年3月8日に米国のニューヨークで女性労働者が「婦人参政権」の要求を掲げてデモしたのに因んで、国連が1975年(国際婦人年)3月8日、この日を「国際女性(婦人)デー」に定めて加盟国に呼びかけて成立したのである。

 ところで、わたしはミモザの花を見る度にフランス映画「ミモザ館」を想い出す。「ミモザ館」はジャック・フェデー監督が妻のフランソワーズ・ロゼー主演(「ミモザ館」の女主人)で製作した名作である。日本で公開されたのは1936年(昭和11)で、この年のキネマ旬報ベスト1位になっている。だから、わたしが観たのは再上映である。しかし、女主人公が歳下の若者に好意をもって助けようとする心理を理解できなかった。高校時代以降、フランス映画にすっかり魅了されてしまった。ジャック・フェデーの「外人部隊」/ジュリアン・ディヴィヴィエ「望郷」、「舞踏会の手帳」/ルネ・クレマン「禁じられた遊び」/マルセル・カルネ「天井桟敷の人々」、「嘆きのテレーズ」/アンドレ・カイヤット「裁き終わりぬ」など想い出すままに列記してみた。こうした過程で、わたしはフランス映画の虜になってしまったことは間違いない。この他、イタリアの「ネオレアリスモ・新リアリズム」と言われた映画、ヴィットリオ・デ・シーカ「自転車泥棒」/ロベルト・ロッセリーニ「無防備都市」/ルキノ・ヴィスコンティ「揺れる大地」。イギリス映画では、キャロル・リード「第三の男」等々ヨーロッパ映画はできるだけ観た。アメリカ映画はたくさん観たが、いま想い出してみると、大好きな俳優モンゴメリー・クリフトが主演したフレッド・ジンネマンの「ここより永遠(とわ)に」、シドニー・ルメット「十二人の怒れる男」などがよかった。このうち「裁きは終わりぬ」と「十二人の怒れる男」は陪審制度に問題提起した名画である。そうそう、チャーリー・チャップリン「ライムライト」も忘れられない。それにしても、わたしはすっかりジュリアン・ディヴィヴィエに惹かれて、生き方を決定づけられたように思う。

 上京後は、池袋西口から15分ほど離れた母の従姉がやっていた学生アパートで暮らした。池袋の東口には文士系と言われた「文芸坐」と「人生坐」の二つの映画館がたった。文芸坐は邦画、人生坐は外国映画であった。特に人生坐ではパリ祭(1789年フランス大革命が始まった日、即ちバスチューユ監獄を解放した7月14日Quatorze Juillet=建国記念の祝祭日)の週にはフランス映画特集を上映したので毎日通った。その他の日にもアパートを出ても気が変わって大学へは行かずに文芸坐か人生坐で2本立て映画を観ていた。この他にも新宿の伊勢丹前にあった日活名画座にも殆ど毎週通った。当時、文芸坐、人生坐、日活名画座などでは2本立て上映だったから、1本観てあっても結局2本観てしまうので同じ映画のカメラワークや照明の仕方まで覚えてしまった。こうした作業はその後の仕事に役立った。また、セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」を観て「モンタージュ理論」を試みてみたが、効果があったかどうかは判らない。映画のスクリーンは大きいが、テレビの受像機は精々30~30数インチ未満だったから映像効果は比較にならない。例えば1965年(昭和40)の終戦特番で広島の原爆ドームの天井鉄柵から太陽を撮った映像から原爆のキノコ雲に切りかえる時一瞬ピカット輝かせて切り替えるようにしたのだが、当初1秒(16ミリフィルムで36コマ)素通しフィルムに繋いだけれど全く緩慢で、0.5秒(18コマ)に詰めたけれど不可で、最終的には0.1秒強(5コマ)にして初めてピッカという感じが出た。しかし、こんなことをやっても映画のもつ映像の迫力と比較にならない。また、23時の「ニュースデスク」のOAでフィルムを2本同時にスタートしてフェードイン、フェードアウト、カットイン、ディゾルブ(オーバッラプのこと)したが効果があったかどうか解らない。自分がディレクター席でナマ放送しているのだから客観的には観られない。ОA後同録フィルムでモニターすればいいのだが・・・。ただ、わたしは、どんな特番も再放送で観ることはしないことにしていた。兎に角アラばかり気になってしまうので止めたのである。必ず「何であんな繋ぎ方したのか、あの画とこの画の繋ぎ方は逆だ」など反省点ばかりが気になってしまうのである。それにくらべてナマ中継がいい。運動部にいた頃、相撲やボクシングなどでは一瞬で勝負が決定し、そのナマ中継は印象的だった。それにしても報道現場で30代半ばまで画作りに試行錯誤した。あのころは若く真剣にフィルム編集に取り組んだ、と思う。

 ギヨ―ム・アポリネール 「ミラボー橋」
     
  ミラボー橋の下 セーヌが流れ
     二人の恋が
   なぜこうも思い出されるのか                    
 喜びはいつも苦労のあとに来たものだ

   夜よ来い 時鐘(とき)よ打て
   日々は去り行き私は残る
           (以下三節 略)


パリ・くらしと彩りの手帖 №120 [雑木林の四季]

フランスの大選挙も大詰めに、、、

                  在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ

 フランスという国は休みが多い。いや多いように見えるのかもしれない。とにかく年が明けると、フランス人はもう休みの計画だ。いやそれはもう前年の夏から始まっている事だと言えるだろう。彼らの話を聞いていると、いつも働き、生活している時期と時期との間に休暇があるのではなくて、休暇という目的が先にあって、これをより楽しく実現するために、普段はみんな働いているという事なのだ。しかもこの数日、パリでもテロのニュースがない。やっぱり復活祭だからなのだろうか?このキリストの喪に服する金曜日、そして祈る土曜日、キリストが生き返る復活の日曜日、それに続く喜びの復活の月曜日の祭日、世界中のキリスト教徒、カトリック教徒にとっての喜びの日なのだ。そして、この日はあらゆるお菓子屋やシェフが考えた卵のお菓子が作られるし、どこの主婦でもやる事は卵を茹でて、いろいろな色に塗り、これを庭に隠し、子供達がそれを探して歩くという楽しい遊びなのだ。もちろんフランスの事だから、それを食べるのも大きな目的だけれど。今の法皇様のフランソワはヴァチカンにも銀行があり、これを通じて大金が不法に隠され、動いているのを知って、これを正そうとしているから、場所柄、暴力団のうごめくイタリアのどまんなかにあって、そちらの方でも法皇様は危険にさらされているのではないかと無信心の私までが心配しているところだ。漏れ聞くところを総合すると、今の法皇様は、神様にと同様に人間にも深い慈しみの心を持った方のようで、彼に何かがあったら、まずキリスト教の世界が安定を保たないのではないかと思われるのだ。さて、とにかくテロの大事件もなく復活祭の休みがあけてホッとしたところだが、日本にとって、北朝鮮の核戦争の可能性、叔父を死刑にし、兄を外国で殺させたという恐ろしい国が挑発するのに、日本が可能な射程距離にあると聞いては、私なども、パリにいて落ち着かない思いだ。ただ、幸いな事にこんな考えをそらす事ができるのは、今はフランスの大統領選挙だ。と言っても、候補の一人が、マルセイユで演説をするときに、狙おうと計画していた二人組かが捕まったから、この選挙に関連して、何かをしようという動きがないわけではない。それどころか、彼らにとってのいいチャンスに違いない筈だ。もう2、3ヶ月続いているこの選挙運動では、最初の左派、右派からの候補者選びで、大勝した右派のサルコジー時代の首相、私には、なんとも力量のなさを感じさせる候補だったが、私が大統領になって欲しいと思う右派の、現在もボルドーの市長であり、これも元首相をやっていた政治家があっさりと彼に負けて、あっけなく消えてしまって残念だ。どちらも同じ保守党なのだが、ボルドーの人々は、右も左も彼に満足して、感謝しているという存在なのだ。私が特別知っているわけではないのだが、現象として不思議でならないから、彼に大統領になってフランスの政治がどうなるかを見たいという、好奇心かもしれない。自分がこの国に住んでいるのに、こんな好奇心が働くようではダメだとも思うのだけれども。さて、この2、3ヶ月の騒ぎのあと、今から1週間ほど前に、国会議員などの500のサインを集めてようやく立候補出来ることになった大統領候補が揃った。全部で十一人。そして来週の日曜日が選挙だ。1回でバッチリと当選しないのが普通だから、最高点を取った二人の間で、どちらが選ばれるかが答えとなるのがいつもの形だ。私たちは数ヶ月前から毎日のように早くから立候補が決まっている候補者の抱負を聞かされて来ていたわけだがこの選挙に向けて、新たに立候補宣言して来た人たち、この人たちの名前などは今まで聞いたこともないものばかり。大統領選挙のある年になると1週間ぐらい前に、このような立候補宣言をし、その掲げるところは、「老後の暮らしをよくすること」だとか、「お金のかかるヨーロッパのグループから出ることが肝要」とかを唱える。、それ以外の話は1分位の持ち時間では云っている暇はないし、それに本当は他に言うことはないのかもしれない、などと意地悪な勘ぐりをしてしまう。ある人は毎回大統領選挙になると立候補するが、その間は、何をしているのかも殆ど知られていない、などというのもある。つまり大統領選挙の機会に自分の意見を一つだけ聞いて欲しい、そしてそのためには、少々お金を使うのも仕方がないだろう。ということのようだ。それ以外に、早くから沢山の人々を集めて、各地で演説をしている候補者たちの使う費用の出どころはどこだとゆさぶりをかけられる。政党を代表して、その政党が払うのは当然だ。それからいうと今度のアメリカの大統領はアメリカ屈指の富豪だそうだから、そちらは問題がなさそうだ。フランスでは、ルイ・ヴィトンでも立候補しなければ、そんなことはあり得ないし、みんなお金の問題でひっかかるのだ。以前の大統領のサルコジーもその費用のことで、誰に貢がせたとか、いろいろの噂でエリゼ宮の主人でいる間中、常に問題にさらされていたと言っても言い過ぎではなさそうだ。フランソワ・フィヨンなどはサルコジーの時代に首相を務めていたが、力のなさそうな政治家が何だろうと私の目には見えていたのに、一方これもサルコジーの元で、首相をやっていたボルドー市長のアラン・ジュッペ、私がいつか大統領をやらせてみたいと常々思っていたボルドー市長と競って、ずっといい成績で、候補の場を勝ち取ってしまった。それで歩きながら、鼻歌を歌っているところをテレビで見せるほどにごきげんだったのだが投票日が近づいてくるとスッパ抜きで名高い新聞が、この人の国会議員としての秘書に夫人を使っていて、その夫人は国会の関係事務所の人は見たこともない。そして、その給料は非常に高いものだ。国民の税金を搾取するものだ。という解説がついていた。そしてその1週間後には、今度は、夫人だけではない、大学を出たばかりの娘も同様な人事に使っている、と暴いた。家族のメンバーはあらゆることに精通しているから、秘書にするということはよくあることで、珍しいことではないが、国会で、これらの秘書たちが直接関係する筈の事務の人が、彼女らの顔も見たことがない、知らない、と言ったことから、もめにもめて、選挙前のぎりぎりだというのに裁判所から出頭を命じられた。それでもしぶといこの候補は、さらに選挙が迫った今、すっぱぬきの新聞が、フランスでは100ユーロ以上の贈り物を受けてはいけないという規則があるのに、フランスで名高い高級紳士服の店の主人から贈られた服を着て歩いていたことも報じられた。それでもしぶとく、まだ立候補するといい続け、しかもこんなスキャンダルが次から次えと入って来ても立候補を続けると宣言しているそのしぶとさ、彼の繰り返し表明している経済政策は、役人の数を減らすことだというが、いわゆる役人たちは自分のポストにしがみついて離さないだろう。だから結局首を切られるのは、学校の先生たちだよ、というのが通説となっている。国にとって一番大事な国民の教育といいう仕事を預かる先生たちをどんどんクビにするというのだろうか?
十一人の候補者のうち、女性はただ二人、やっぱり女性が二人ぐらいいないと、という感じで、入れられて来たのだろうとしか思えない候補者だ。一応その11人の名前を挙げておこう。、

1;Nathalie Artaud  ナタリー・アルトー

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11人の候補者はこの人とMarine le Penを除いて全て男性だ。

2:Francois Asselinaud フランソワ・アッセルノオ

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3:Jacques Cheminadeジャック・シュミナード

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4:Nicolas Dupont-Aignan ニコラ・ヂュポンテーニャン

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5:Jean Lassalle ジャン・ラッサル

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この上の人たちは選挙に当選したら、何をする、と言った公約などはなく、自分の言いたいことを言うための場としてこの選挙戦を選んだだけだろう。あるいは人の目に触れることがこよなく好きなどというのもいるかもしれない。でもそれなら、選挙と選挙の間の年月にもう少し発展することだって出来るのではないか?
そしてこれから下の6人が一応自分のいうことを持っている候補者だ。さて、もう2、3ヶ月来飽きるほどに見ている顔、そしてその掲げる戦略の主たちが、下の6人である。

6:Francois Fillon フランソワ・フィヨン 

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右派の代表候補として大勝し、後から種々のスキャンダルをすっぱ抜かれた候補者。これが右派の代表候補

7:Benoit Hamon ブノワ・アモン 

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        これが若き社会党の代表候補。ほとんど知られていなかった。

8:Marine le Pen マリーヌ・ル・ペン

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国民戦線の党首で、政党を作った父を追い出してしまった。ナチに対するような目で見られている。 

9:Emmanuel Macron エマニェル・マクロン 

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現大統領のもとで、財務大臣を務めたが立候補を決めると辞職した30代の秀才。学生時代の哲学の教師、20歳年上の女性を射止めた。

10:Jean- Luc Mélenchon ジャン・リュック・メランション 

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     ああまた出てきたな、と言われるが、その左翼ぶりは今でも十分伺える。

11:Philippe Poutou フィィップ・プートウ 

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        候補者の中でも最も左翼と言われる組合育ちの労働者  

 何がバレてもしぶとく立候補を続けるというのがこの中の一番上の名前のフランソワ・フィヨンだ。次の ブノワ・アモンが社会党を引き連れての候補者だが、彼の名前は社会党の党員以外にはほとんど知られていなかった。これは社会党という党が話題に上らなくなっていることを示すものでもあるのだろう。今回の立候補で、この人が意外にはっきりとした意見を持ち、その政見を語れる人だったという発見だったと思わせたのだったが、教育に熱心で、文句を言うところはないが、それにしても何故これほど一般に知られていなかったのだろうと思わせたが、政治家としてのカリスマ度がないからではないだろうか。
 マリーヌ・ル・ペンはあのみんなが恐ろしがる政党、この人の父親のル・ペンが作った政党、ナチの再来とばかり毛嫌いされているし、何をするにも彼らが勝たないようにしなければとなるのがきまりだ。こういう敵があるところでは、他と手を組むことも可能なのだ。、道を塞がなければとなっていく。私の周りを見ても、信じられないほどだ。信じられないようなことばかりだ。音楽記者の集まるレストランを決めるのにも、せっかくいい条件の話があっても、ああ、あそこはねぇ ル・ペンたち一行がこの店に集まったことがあると聞いたから、あそこは絶対に行かない、と条件の悪い方に決まってしまうのが常だ。ル・ペンのグループが何かの集まりにここの一部屋を貸したことがここまで後々に響くとは、レストラン側すら思わなかったに違いない。でも私が何よりも驚いたのは、政治の話題など出てくることもない私たち音楽記者のグループがそんなレストランには行くものかと息まいていて、そんな雰囲気の社会になると、逆に何かのひょっとしたことから、そっちの方に行ってしまわないかと警戒を強めるのだ。私が大好きな街、オペラのオランジュはあのローマ風の野外劇場が、いよいよユネスコの世界遺産に登録されたというが、ここの市民が10年くらい前に選んだ市長がこの党員、そのために、オランジュの音楽祭は別の街にと探したが、あんな素晴らしい劇場を持つ街などフランスでは他にあるはずがないから、結局新しい市長との話し合いを経て、落ち着いたのである。そして、その数年後、なんとこの市長が再選されたという。街の人に聞いてみると、この市長はゴミの回収などきちんとやっていて悪くないから、という説明があった。とにかくフランスで、唯一だったこの派の市長とあって、フランス中が観察していたというような時代から、今は何人くらいに増えているのだろうか。フランスに不満分子がいる限り、このようなグループが消えることはないだろう。ただ、私にとってわからないのは、どうしてそんなに彼らが会場を借りただけ、それも1回だというのに不思議でたまらない。自分もそちらにい引きずられていくような危険を感じるのだろうか?私流の観察を書いてみたが、この日曜日にどんな結果が出るか楽しみであり、恐ろしくもある。候補者の人気は毎日のように発表されるが、それがよく変わるので、ついていけない。マクロンとルペンが頭に入ったと発表された日の翌日には違う名前といった具合だ。若いけれどもマクロンならばバカなことはしないのではないか、と、彼の1年ほどの財務大臣時代にやったことから想像できる。


気楽な稼業ときたもんだ №56 [雑木林の四季]

さよならザ・ピーナッツ

                              テレビ・プロデューサー  砂田 実

 昭和五〇年(一九七五)二月、ザ・ピーナッツは引退を宣言する。渡辺プロダクションは、引退記念コンサート「さよならザ・ピーナッツ」を企画した。日本の歌い手としては、初めての引退コンサートだったのではなかろうか。そして、その演出を、僕は日本テレビの秋元近史とともにナベシン社長から依頼される。秋元は、大ヒット番組「シャボン玉ホリデー」のプロデューサーである。普通は、コンサートの演出が二人ということは、まずありえない。だが、ザ・ピーナッツに並々ならぬ愛情を感じていた秋元と僕は、立場を超えた心情で結ばれ、舞台の完成を目指して協力を誓いあった。
 とは言っても、秋元近史と僕は、まったく個性の異なるディレクターなのである。ひとつの目標に向かった共同作業とは言え、心の底にはやはりライバル意識も潜在する。さらに、同じ渡辺プロのハナ肇が、強引に協力を申し出てきた。ハナさんにしてみれば、可愛い妹分たちの引退公演だから張りきろう、ということだったのだろうが……。それでなんと、「シャボン玉ホリデー」でクレイジーキャッツとピーナッツがやっていたコントをやろう、と言う。僕は引退コンサートの趣旨に合わずに、そこだけ悪目立ちするのではないかと危倶したが、秋元は大喜びである。
 それならばと、「俺はラストを仕切る」と宣言した。ザ・ピーナッツが歌う本当に最後の曲だ。ラストの曲でこのコンサートの評価は決まるだろう。引退をかぎりなく惜しむフアンの誰もが納得できる幕の引き方は何なのか? たんなる惜別のセンチメントに流されることなく、やはり二人の優れた歌唱による〝終わり〟の表現を追求したい。
 僕は悩みに悩むうちに、大ファンだったシャンソンの巨星シャルル・アズナブールの「帰り来ぬ青春」のメロディに、あえてオリジナルの詞をつけようと思い立った。作詞を依頼するのは、シャンソンの訳詞から始め、類稀なる才能によって日本を代表する作詞家になっていた、なかにし礼以外には考えられなかった。なかにし礼は素晴らしい作詞で期待に応えてくれた。この一曲だけで、引退コンサートのすべてを表現しているといっても過言ではない。

『帰り来ぬ青春』 ザ・ピーナッツ
作詞‥なかにし礼 作曲∵ンヤルル・アズナブール

 あの頃私たち十七の少女だった
 歌うことが好きなだけの
 何も知らぬ 子供だった

 初めて日劇の舞台を踏んだ時
 私たちはふるえすぎて
 歩くことも 出来なかった
 互いのドレスを 互いににぎりあい
 ドレスを手あかで汚してしまった

 あれから月日は 流れたけれども
 いつでも手をとりあい はげましあった

 愛する人に出逢い 愛されることも知って
 それでもなお その愛を
 たち切って泣いた事もあった

 歌うことと 踊ることの稽古のくりかえし
 傾けた情熱は 何のためだったのだろう

 何かに糸ひかれ 目かくしされたまま
 私たちは唄って来た 最初から最後まで

 歌うことが私たちの生きているあかしだと
  素直に信じて 声かぎり唄ってきた

 何かに糸ひかれ 目かくしされたまま
 はじまった私たちの 不思議な一日が今
 新しい朝を迎え 終ろうとしている
 もっと不思議な 素晴らしい一日のために

 * さよならよき友 さよならよき人よ
 二人で一緒のあいさつは これが最後
 さよなら姉さん さよなら妹
 二人で一人の 人生ともお別れ

 たった二十数行の詞の中に、彼女たちの歌い手としての人生のすべてが表現されていた。そして、アズナブールの原曲を、みごとなアレンジにより素晴らしい彩りに完成してくれた宮川泰の才能も記しておくべきだろう。それぞれがプロの仕事だった。NHKホールを超満員にした観客の感動は、そのまま電波にのってテレビの前の全国のザ・ピーナッツ・ファンの感動も誘った。
 そして、そのステージの幕が降りて以来、ザ・ピーナッツは再び人々の前に現れることはなかった。

『気楽な稼業ときたもんだ』 無双舎


バルタン星人の呟き №11 [雑木林の四季]

「サイタ サイタ サクラガ サイタ」

                                     映画監督  飯島敏弘

                (1)
 4月です。春です。サクラです。新学期です。ランドセル、新しい靴、ピカピカの一年生です。そして、せんせいです。今回は、先生について、呟いてみたいと思います。みなさんにもきっと、思い出の先生がいらっしゃるでしょう。
 小学一年生にとって、クラス担任の先生は、親と、幼稚園、保育園の先生、保母さんとはちょっと違う、初めての他人との接触とも言うべき存在で、かれらの人格形成に非常に強い影響を与える大きな存在ではないか、と思うのですが・・・昭和7年生まれの私の歳ではもう、小学校との関係といえば、毎年一度、地域の小学校から、社会人先生ということでお呼びがかかって、新一年生に鉛筆の削り方を教えに行くだけになってしまいましたから、はたして、小学校の先生が、昔のように生徒と一緒に持ちあがりで、卒業まで同じ組を担任して行くのが原則なのか、一年ごとにクラス編成も担任も変わってしまうのか、さえ知らないのです・・・それにもう、何処へ行っても、「仰げば尊しわが師の恩・・」と歌いつつ、生徒、先生、保護者ともども、涙湛える卒業式もないでしょうから・・・「三年B組金八先生」以来、「仰げば・・」にとって替わって歌われた「贈る歌」さえ、近頃では違う歌に変ってしまったというではありませんか。それでもなお、今回は、先生について呟きたいのです。

 昔は、というよりも、僕達の子供時代ですから、大昔は、といった方がよいのかも知れませんが、学校の先生と言えば尊敬の対象であり、校長先生などは町の名士扱いでした。先生の存在は、尊敬の対象ではなく、生徒たちにとっても、保護者たちにとっても、進学の為の評価と便宜の物差しで測る関係に過ぎない、という見方が普遍的のように言われていますが、実際に、子供たちにとって、それほど希薄な対象になってしまったのでしょうか。確かに、一部の親たちは、教育委員会や、教師を、子供たちの教育を担う奉仕者のように見るむきもあるようですが、子供たちにとっては、決してそんなことはないだろう、と思いながら、この稿を書いています・・・

 つい先日、「戦時中の学童集団疎開を語り継ぐ」をテーマにしたシンポジュームに出席しました。パネラー席に並んでいたのは、昭和7,8,9年生まれの疎開経験者四人の方々でした。
 昭和一桁生まれの子供には、一年刻みで、それぞれ大違いの運命が待ち受けていました。あの戦争とのかかわり方です。僕は、昭和7年東京都本郷区(現在文京区)の、七、八人の居職(住み込みの職人)と二人の丁稚(小僧)と三人の女中さん(お手伝い)がいる注文洋服店の生まれで、男4人女1人計5人の兄弟妹の三男でした。当時としては、まあ、標準よりちょっと多いかなと言ったところです。長兄が4年生まれですから、戦争末期には大学から学徒動員で海軍省理事生に、次兄が5年生まれで中学3年の勤労動員から志願で特別幹部候補生(特攻隊)、私が7年、弟が9年生まれで共に学童集団疎開という具合です。少し離れて13年生まれ、未就学の妹は、お祖母さんに連れられて父の郷里へ縁故疎開でした。

 国民学校(小学校)児童の集団疎開の第一陣は、公式には、昭和19年8月と記録されています。一般的な例では、国民学校3年生以上6年生までが、学校単位で各地方に出発したようですが、東京都の場合は、正式の政令が出た後に、改めて各区ごとに疎開先が振り分けられましたので、すでに疎開していた先から再び別の地域へ疎開するという混乱もありました。
 このシンポジュームは、「太平洋戦争末期の学童疎開の経験を語り継ぐことは、我々世代の責任でもあり、戦争の不条理を訴え、平和への道につながる」という趣旨だったのですが、集まった聴衆も、セミナーの性質上、ほとんどが、いわゆる後期高齢者の方々ばかりでしたから、語り継ぐというよりも、語り合うシンポジュームになってしまいました。
 パネラーの方一人一人の経験談を聞いて、ひと口に疎開と言っても、学校単位で同じ屋根の下で暮らす集団疎開と、個人の家に預けられる縁故疎開では全く条件が違ったのは当然として、同じ学童集団疎開でも、疎開先の事情によって大きな違いがあったことがよく解りました。
 学童集団疎開の受け入れ先は、各地の温泉街の観光旅館や駅前の商人旅宿か、お寺が殆どでした。一つの学校が一つの施設で収容しきれずに、二か所三か所に分散寄宿した例もあります。縁故を頼る個人疎開の中でも、親たちの郷里の親戚を頼って預けられる疎開の他に、今回のパネラーの一人のように、地方に全く地縁血縁のない地方に、親たちの僅かな伝手を頼って、他人の家に一人で預けられるケースもあったのです。
昭和17年までは、「帝都防衛を逃れて疎開などとは以ての他! 来るべき本土決戦のために、一億一心、火の玉となれ!」と言ってきた東條内閣だったのですが、昭和18年4月、初の米軍艦載機帝都東京侵入が行われるに及んで、急転、「本土決戦に臨み、帝都(および拠点都市)防衛の足手まといを除く」ということで急遽実施された児童疎開ですから、疎開先の児童の教育、食糧確保、施設経営などの責任は、ほとんどすべて、引率の教師と在京の父兄(保護者)の肩に負わされていたのです。
 疎開当初は、許されていた保護者の現地訪問面会で疎開児童と肉親との接点が僅かに残されていたのですが、その後戦況がますます悪化すると、東京では、衣類、食料品などがひっ迫した上に、鉄道乗車券の取得もままならなくなり、いよいよ帝都東京空襲が切実になってきた昭和19年末頃には、保護者が疎開地を訪れることもほとんど出来なくなって、疎開先によっては、乏しい配給で飢餓に近いほどの空腹にあえぐ子供たちの食料調達なども、すべてが同行した先生の才覚で、現地の協力的な農家などに頼って細々と維持されなければならなかったのです。

 当日のセミナー受講者の中に、はからずも90歳を大きく超えてなお矍鑠としたもと教員の女性がいて、生徒を引率して集団疎開した経験を積極的に発言して頂けたこともあって、学童集団疎開を、多角的に理解することが出来ました。さらに、疎開児童を受け入れた地域からの来場者の発言で、たしかに、疎開児童を排斥したり、苛めたりした地域もあったけれども、都会の子供を好意的に受け入れて友だち関係を築き、戦後から今日に至るまで、毎年相互訪問して交流を深めている、というケースも披露されたのです。

 学童集団疎開は、帝都東京の40万の子供たちを空襲から救ったと、高く評価する論説も説もあります。その反面、折角疎開しながら、昭和20年3月はじめに、中学校受験のために疎開地から東京に戻った6年生のうち、3月10日未明に行われた米軍B29重爆撃機による東京焦土化作戦のいわゆる絨毯爆撃で、家屋密集地帯だったために最も被害の大きかった本所深川方面だけで3万名余の生徒が犠牲となった、という事実も披露されて、セミナーとしては、学童疎開は、結局、戦争が生んだ、あってはならない悲劇であった、という纏めで終わったのです。中学受験のために帰京して、3月10日の空襲で犠牲になったのは、僕のクラスでは、前号に触れたように、僅かに一名でしたが・・・
 15年ほど前、京都の撮影所で仕事している時分のある日、阪急電車駅で電車を待つ間に話しかけられた高齢者に何年生まれかと訊かれて、昭和7年と答えた途端に、
「ああ、一番勉強していない歳だ・・・」
と言われたことがありますか、まさしくその通り、勉強しようにもその環境が全く与えられなかった生まれ年なのです。

 ところが、セミナー終了後の、中華料理店の大テーブルを囲んでの、パネラー、聴講者合同の懇親会になると、酒を汲みかわしながら、経験者それぞれのエピソードが披露されるうちに、どこか、あの頃を懐かしむ気持ちが支配してきて、「疎開経験を語り継ぎ、反戦を唱える」という趣旨から外れて、傍目で見れば、老先生を囲んで、学童疎開を懐かしむ同窓会のような雰囲気になってしまったのです。
「ああ、やっぱり・・・」
と、僕は思いました。いつの場合もそうなってしまうからです。
僕達の学校仲間は、終戦以来今日までの70年の間、ほぼ隔年といっていいほどの頻度で、小学校仲間たちに声を掛けては男女取り混ぜて同期会を開いてきたのですが、何時の場合も、辛かった集団疎開の話をしながら、いつの間にか、あの頃を懐かしむ会になってしまうのです。このセミナーでも、やはりそうなってしまったのです。
「忘却とは、忘れ去ることなり・・・」という、戦後大ヒットしたラジオドラマ「君の名は」(後に、佐田啓二、岸恵子主演で松竹が映画化)で、菊田一男が冒頭の決まり文句に使った、あまりに当たり前の語句でありながら、しかし一種不可解な、なにか哲学じみた惹句がありましたが、まさにその通りなのです。
 時間というものは恐ろしいもので、あれだけひもじくて、辛くて、悔しくて、愚かしかった学童疎開の経験が、時間が経つにつれて、ちょうど、真珠貝が、体内にこじ入れられた堅く尖った核を、やわらかな舌に包みこんで、ゆっくりゆっくり、長い時間をかけて舐めつづけるうちに、やがて、まろやかな美しい珠に変えてしまうように、辛かったこと、悲しかったことも、時間の作用によって風化してしまい、なぜか、楽しかった思い出に転化してしまうのです。そして、その思い出の中心に、必ず、先生がいるのです。

 今から20年ほど前、あるテレビ局の戦後50年記念ドラマ募集に応えて、僕は、自分が経験した学童集団疎開の実録をもとにしたドラマ企画を提案して、佳作に選ばれたことがあります。少年少女期の集団疎開が、児童たちの人間形成にどんな影響を与えたかをテーマにしたドキュメンタルドラマの企画でしたが、その時には、戦時疎開学園の敷地や建物がほとんどそのまま残っていたので、現地ロケでドラマ化しようと思ったのです。
「実現したら製作費は、どの位・・・」
企画審査中に局側から問われて、
「少なくとも50人の男の子を丸坊主にして、30人の女の子をおかっぱ頭にして、現存する学寮の障子を張り替えたりするなど、当時を再現して、出来れば夏、秋、冬、初春の4回現地ロケをするとして、ざっと3億円でしょうか・・」
と答えたせいかどうか、結局佳作入選に終わってしまったのです。残念なことにその学校寮は、数年前に漏電とかで焼失してしまい、企画はそのまま今日まで氷漬けになっていますが・・・
 その中心にも、先生がいるのです。小学校低学年から卒業まで、感受性の最も高い時に触れ合い、ほぼ一年の間、親から離れて育った疎開児童たちと明け暮れを共にした先生こそ、いわば、育ての親というべきなのかもしれません。

 「やっぱり、先生だな。」
宴たけなわの中で、ひときわ大きな声で、パネラーの一人が、結論づけました。
「なんといっても、引率の先生の影響が、一番大きいよ!」
私達疎開学童世代の人格形成にもっとも大きな影響を与えたのは、ほぼ一年間寝食を共にした担任の先生だった、というのです。

 教育勅語を暗唱させ、声を揃えて、首相の業績を讃える幼稚園。その学園の小学校建設についての疑惑に世論が沸き立ち、政権が火消に大わらわになり、マスコミが売り上げ向上のチャンスとばかりに煽り立てる一方、この機に乗じて、教育勅語復活礼賛の向きも公然と唱えられる教育カオスあるいは、坩堝のような、指針のない、あるいは、誤った教育理念で、戦後の自由、民主主義教育を全否定して、単一な指針で纏め上げようとする、混迷がつづいている現在、かつて、暗唱させられた教育勅語、軍人勅諭、戦陣訓で、人格形成の最も貴重な少年期の大半を過ごした老いたるバルタン星人は、何を呟こうというのでしょうか。
 教育勅語を金科玉条として暗記、斉唱させられた僕ら下町のガキどもは、当初こそ、
「朕、思うに・・」と始まる勅語をもじり、
「朕、思わず屁をたれた・・・」
と漏らして、こわいこわい祖母に、眼から火が出るほど、ぶん殴られた腕白が、軍人勅諭を唱え、裸足の雪中行軍、と教育されて行くうちに、銃剣の先に取りつけた剣で鬼畜米兵を突き刺す腰だめの銃剣術を身に着け、着火した焼夷弾に身を投じる戦時少国民に染め上げられ、変貌して行ったのです。自爆テロに身を投じるISLの青年、核を抵当に富を勝ち取る将軍様を心底から讃える北鮮の若い婦人・・・
 教育勅語の部分使用、などという安直な道徳教育を容認する、教育勅語教育を受けたことのない世代が、戦後民主主義教育を全否定して標榜する教育とはいったい・・・
 おそらく将来ただの一度も、ナイフ(肥後の守)で鉛筆を削る機会などない一年生が、鉛筆を削ってみせる僕の手もとを、一生懸命、ひたむきに見つめる視線に、若年期教育の責任の重大さを痛感するのです・・・


ZAEMON 時空の旅人 №12 [雑木林の四季]

第七章 「宇宙十字軍」

                                       文筆家  千束北男


ZAEMONの要請に、ひとつ、深いため息をついてから、徳治さんは、僕が想像だにしなかった、信じられないほど恐ろしい出来事を、一気に語ってくれたのです。
「東京オリンピックの開かれた西暦2020年には、世界大戦争時代とでも呼ばなければならないほど、地球上の各国が入り乱れて戦争を引き起こしていました。いや、国同士の戦争ばかりでなく、同じ国の中でも、いろいろな勢力の間に戦争が繰り返されるありさまで、国連の存在などは、まったく意義も能力も失ってしまったのです。資源、領土、宗教、人種などが絡んだ争いですが、すべての争いの根底にあるのは、資源や富の分配でした。つまり極端な貧富の格差が生んだ命の奪(うば)奪い合いでした。日本の場合は、米ロの関係に巻き込まれる形で、あやうく中国と北朝鮮を相手に戦争が勃発しそうなところまで緊迫した場面もあったのですが、日本国憲法が戦争を禁じていたために、ギリギリの外交交渉で自制することができたのです。ねばり強く外交交渉を重ねているうちに、相手国側の国内事情の変化もあって、なんとか妥協することが出来たからなのです。東洋の神秘といわれましたが」
「幸いなことに、日本には、ほかの地域のような、人種的対立、宗教的な対立が根底になかったこともある・・」
しかし、戦争以外のいったい何がこの酸鼻な荒廃をもたらすことができるでしょうか。
「でも、結局は戦争したのでしょう。これはあきらかに戦争による荒廃じゃありませんか。不戦の憲法を持ちながら、日本はいったいどこの国と戦争したのですか」
「日本で行われた戦争の相手は、地球上のどこの国でもなかった・・・」
「え?」
「日本は、全宇宙を相手に戦わなければならなかったのです」
「全宇宙を相手に? どういうことですか、それは。やめてください、徳治さん。僕は、つくり話でなく事実を知りたいのです」
「そのとおり、徳治さんの話しているとおりが事実なのだ」
徳治さんとZAEMONが、真面目くさって返してくる荒唐無稽としか思えない返答に、僕はとうとう笑い出してしまいました。
「ははは、話が突飛すぎて、僕にはまったくわかりませんが、日本が、どこの国とでもなく、全宇宙を相手に戦争しただなんて、そんな荒唐無稽な話を信じる歳ではありません・・」
「宇宙十字軍が、地球人殲滅のためにやってきたのだ」
ZAEMONの口調はあくまで変わりません。
「宇宙十字軍だなんて・・・なんですかそれは、そんなものがあるんですか・・・地球人殲滅? どういうことか、ますますわかりません!」
二人にからかわれているような気がして、少し不愉快になってきました。
「日本は、たまたま宇宙十字軍の地球人殲滅の第一の標的に選ばれたに過ぎないのです」
徳治さんとZAEMONのますます真面目な返答を聞いて、僕は、はっと、気がついたのです。
前々から、ずっと持ち続けていた疑いが、あらためて頭をもたげたのです。
(そうか、おかしいおかしいと思っていたが、やっぱりこれはゲームだったのだ! ZAEMONが作ったに違いない精巧きわまりないゲームにちがない。とすると、ボクの役割はなんだ? 帝国の王子? すると、カオリは、帝国の姫君・・・)
ZAEMONが、僕に向けている鋭い眼光にめげまいと、僕は、大声を出しました。
「ZAEMON! 僕は、現実を知りたいんです。ゲームやファンタジーでなく、西暦2030年の日本の姿、現実を見たいのです!」
ふと、眼前に広がる廃墟のむこうに見つけた国会議事堂らしき建物に、不気味な旗がひるがえっているのが目を引きました。髑髏に十字架の異様な旗印。これが、いわゆる宇宙十字軍の旗印だとでもいうのでしょうか。これは、滑稽だが、かなり精巧にできているジオラマだ。
「よろしいですか、ハヤトさん、いま、目の前にあるこれこそが現実なのです。これが、西暦2030年の日本の現実なのです」
「重なる大災害の後、ようやくオリンピックをやり終えたものの、政治的、経済的に混乱していた西暦2025年の日本に、突然、宇宙十字軍が進攻してきたのだ」
「また宇宙十字軍ですか・・・そんなものがなぜ日本に攻めて来なければならないのですか!」
「よろしいですかハヤトさん。正しく申し上げると、まず、それ以前に、すでに民主主義国家としての日本は存続していなかったのです」
「日本が民主主義国家として存続していなかった? どういうことですか、どうしてそんなことが・・・」
「無理を押して開催した東京オリンピックの後遺症というべきでしょうか。日本は、その後たちまち極端な不況に陥ってしまったのです。経済の成長こそが国民の支持をつなぎとめる政策だと信じ込んでいた政権は、慌てふためいて次々に奇矯としかいえない思いつきの経済政策を打ち出したのですが、世界の潮流を読み違えた金融出動が、すべて的外れに終わってしまい、結局は経済的な混乱から、総辞職に追い込まれたのです。その後は、絶え間なく短期政権の乱立を繰り返したあげくに、最終的には、業を煮やした財界が、軍を動かして権力を握り、財界が支配する傀儡政権を出現させたのですが、その末路は・・
国民の最低生活さえが保障されないという、悪魔と手を結んだ非人間的な、切り捨てごめんの政治が行われる恐慌社会が到来してしまったのです」
「いびつな経済成長政策がもたらした極度の貧富の差が、さしも穏健な日本国民の辛抱の限度を超えたのだ」
「株式会社政府打倒の激しい闘争が各地で繰り返されると、政権は躍起になって、軍、警察による強硬な取り締まりを行ったのですが、闘争はますます過激化するだけでなく、ついには、警察や軍の内部からも同調者が出るありさまで、内戦にこそ至りませんでしたが、西暦2025年ごろには、ほとんど無政府状態になってしまったのです」
「そんな・・・・・」
僕が、信じられないと口に出す前に、徳治さんが言葉を続けます。
「そんなところへ、宇宙十字軍が攻め込んできたのですから、ひとたまりもありませんでした」
「・・・・・」
「ごらんの通りです。この光景が、その結果に他ならないのです」
「ゲームや、ファンタジーであってほしいと思うのは当然だが、ハヤト、これが、西暦2030年の日本の現実なのだよ・・・」
ZAEMONは、とっくに僕の心のなかを読み取っているのです。
それにしても、どういうことか、眼前の光景のなかに、人間の姿がまったく見当たりません。人々はいったいどうしたのでしょう。
(やはりこの光景は、精巧にできたジオラマか、バーチャルな映像では・・・)
となおも質問を投げかけようとしたその時、
「あああっ!」
「うおーっ!」
ズン、と、下から突き上げるような衝撃がピルグリム三世を襲ったのです。
僕たち三人は、天井に叩きつけられ、
「おおおおおっ!」
態勢を立てなおす間もなくこんどは、
「うわっ!」
床に叩きつけられたのです。
そして、
眼前のスクリーンに突如、画面からはみ出るような巨大な眼球が、浮かび上がり、しかも、その視線が僕をとらえているではありませんか。巨大な眼の瞳には、小さな僕の姿が映っています。
なにか、想像を絶するほど大きな生物の眼、
「ぐおーっ!」
叫びとも、地響きともつかない大音響が、なおもピルグリム三世を振動させて響き渡ったと思うと、今度は、
「こ、これは・・」
さしもの徳治さんが言葉を失います。
僕たち全員が、床ごと、ぐぐぐっと、持ち上がってゆくのです。
なにかとてつもなく巨大なものが、ピルグリム三世を掴みげて振り回そうとしているのかもしれません。
その時です。車いすのZAEMONが動きました。
ZAEMONの恐るべき敏捷な動きは、文字通り電光石化、眼にとまらない速さでした。
なんと、車いすごと天井に叩きつけられたはずのZAEMONが、一瞬の動きで、まるで獲物に襲い掛かる鷹のように操縦席に移動して、徳治さんから操縦桿を奪い取ったのです。
と、次の瞬間、
スクリーンに映っていた巨大な顔面が、強烈な打撃を受けたかのように、苦痛にゆがんで、遠のいていきました。
「グレンデル!」
ZAEMONと、徳治さんが同時に叫びました。
いま、突然襲ってきた巨大な怪物の名でしょうか、
バルタン星人が作ったというピルグリム三世には、危害を加える相手に対して、瞬時に強烈な衝撃を与える装置られているようです。
怪物は、思わぬ衝撃をうけて取り逃がした獲物を探そうと求めて、恐ろしい形相で、せわしなくあたりを見回しています。
「危ういところでした。艇長の時元操作が一瞬でも遅れたら、我々は、ピルグリム三世ごとグレンデルに噛み砕かれて、西暦2030年の現実に吐き出されるところでした」
「・・・・・」
徳治さんの言った聞きなれない時元操作とは、、相手からは感知されない異時元に移動する操作です。カオリさんがいればもっと明確に説明できるでしょうが、たぶん、縄文時代を訪れた時に位置した時元差のバリアーのことではないかと思います。
「おみごとでした、艇長・・」
「いや、まさに間一髪で、グレンデルの餌食になるところだった・・・」
言葉とはうらはらに、徳治さんとZAEMONは、まるで何事もなかったように、平静を取り戻しています。
グレンデルとは、イギリス最古の英雄叙事詩「ベオウルフ」に登場する恐るべき食人鬼の名です。
「グレンデルは、宇宙十字軍の主力兵器の一つで、総重量が、地球の単位でいう40万トンを超(こ)超えているのではないかと思われる恐ろしい重さで、大抵の建造物であれば、難なく破壊して踏みつぶしてしまう巨大なバトルツールです。見かけはロボットのようですが、生命があるのではないか、と思われるふしもある、まるで妖怪のような兵器で、始末に負えません」
さらに驚いたことに、巨大妖怪兵器グレンデルの説明をする徳治さんの手には、いつの間に用意したのか、コップになみなみと注がれた、見るからに清涼な飲料が二つ、捧げ持たれているではありませんか。
「ピルグリム三世は、一瞬の間に時間の壁に隠れました。おそらくすでにお気づきの通り、縄文の時と同じ原理です。異時元に移動したわれわれは、もうグレンデルに気付かれる危険はありません。ひとまずこれを・・・」
わずかな時間に矢継ぎ早に訪れた想定外の展開にあっけにとられていた僕には、すぐさま差し出されたコップに手を出す余裕など、とてもありません。
「それを飲んで、気を落ち着けなさい、ハヤト。これから我々が遭遇する危険は、とてもこんなことではすまないのだ」
ZAEMONは、ゆったりと、喉を鳴らして、その清涼な飲み物をのみ下しています。
僕は、たったいまの興奮が冷めずに震え続ける手を伸ばして、言われるままに、徳治さんが差し出しているコップを受け取り、わずかにミントの香りのするそれを口にふくみました。
それは、相変わらず美味でした。激しかった胸の動悸が、瞬く間に収まってきます。
しかし、と僕は、冷静をとりもどしながら、今見せられたばかりの現象を分析してみました。
(一体、西暦2030年の日本で何が起こっているのか。その全体像は・・世界は・・地球は・・)
(我が家はどうなっているのか・・・パパ、ママ、そして、だいいち、僕自身がどうなっているのか)
いまの僕はもう、西暦2014年の気の弱いボク、水嶋ハヤト少年ではありません。そう自覚すると、なんとしても、この錯綜した状況の本質を確かめたいという、強い欲望が突き上げてきました。
(西暦2030年の僕は、いったい、どこで、何をしているのだろうか、それが知りたい!)
「待ちなさい、ハヤト!」 
いちはやく僕の意志を読み取ったZAEMONが押しとどめようとするのをしり目に、僕は迷うことなく、宇宙船ピルグリム三世の出入口の不思議な扉に突進して、体当たりしたのです。
やはり僕の想像にまちがいはありませんでした。扉に激突するはずの僕は、何の抵抗もなく扉を素通りして、外へ転がり出ていたのです。
そして、
「あーっ!」
あの、運動会のときと同じです。一瞬、鳥になって飛んだときのような、無自覚の意識のなかで、ZAEMONの叫びが聴こえたのです・・・
「ハヤト! 西暦2030年の現実(リアル)に巻き込まれるぞ!」
                                 つづく


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