So-net無料ブログ作成
検索選択
前の20件 | -

季節の記憶・いだようの写真散録 №68 [文芸美術の森]

「ひととき」                             自然写真家  いだよう

5月下期分3-2.jpg

木々の緑は深みを増して、森は落ち着いた表情を見せる。樹間を抜ける沢音がここちよい。


『知の木々舎』目次・第78号(2012年5月下期編成分) [もくじ]

現在の最新版の記事を収録しています。ご覧になりたい記事の見出しの下のURLをクリックするとジャンプできます。検索の詳細については手引きをご覧ください。

【心の小径】

今日、一途に №24                    鎌倉・浄智寺閑栖  朝比奈宗泉
 「父」朝比奈宗源と、「管長」朝比奈宗源
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-09
                                

こころの漢方薬 №74             元武蔵野女子大学学長  大河内昭爾
 読書日記 7  
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-09-1

ひとつ井戸のもとで №18                         今井館教友会理事長  新井 明
  クラーク博士とフロンテイア精神 1
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-09-2

【文芸美術の森】

季節の記憶 №64                                          自然写真家  いだよう
  「ひととき」

高橋由一 №22                     東京芸術大学名誉教授  歌田眞介
  浅草遠望
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-11-4

言葉あそび入門 №64                                    コピーライター  多比羅 孝
 同席ゲーム その3  相性調べ
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-14
 
妖精美術館 №40                                         妖精美術館館長  井村君江
 ウオルター・クレイン《『シェイクスピアの庭からの花たち』》
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-11-5

じゃがいもころんだ №28                        エッセイスト  中村一枝
 夜明けの道 
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-14-1

祖道傳東 №14                                                     水墨画家  傅益瑤
 斬蛇護花
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-10
                                                   
遠州七不思議 №9               郷土史研究家 石野茂子・型染め版画家 田中 清
 桜が池のお櫃納め 2
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-09-11

獨行道・中川一政の世界 №7                        中川一政美術館
 監獄の横
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-13

平家物語における「生」 №4              元武蔵野大学教授  深澤邦弘
 情もすぐれてふかう・巻七「忠度都落」 1
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-09-10

風説・赤坂テレビ村 №3                                               作家  鈴木茂夫
 『カメラ割りは先(せん)の先(せん)です』 1
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-11-1

卵のふる街・白石かずこ詩集 №2                                詩人  白石かずこ
 手紙・少女
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-11-2

【ことだま五七五】

武蔵野 №18              美術ジャーナリスト・全国良寛会会員   斉藤陽一
 夏 7
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-10-1

四季つれづれ №18                                    俳人・ 「古志」同人  松本 梓
 花二題
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-11-7

日めくり汀女俳句 №10                                            俳人  中村汀女
 五月四日~五月六日
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-10-2

【核無き世界を目指して】
 往復書簡・広島あれから67年 №2         エッセイスト 関千枝子・作家 中山士朗
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-11

【雑木林の四季】

台湾の主張 №2                                               元台湾総督  李 登輝
 第一章 私の思想遍歴 父が買ってくれた『児童百科事典』
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-09-9

西北への旅人 №48                    元早稲田大学総長  奥島孝康
 早大ローバースと早稲田大学-仰ぐは同じき理想の光
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-09-8

詞集たいまつ №48                                     ジャーナリスト  むのたけじ
 さばく章(2041~2045)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-09-7

アナウンサーの独り言 №34              コメンテイター&キャスター   鈴木治彦
  花も実も・・・『この恋は雲の果てまで』
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-09-6
                                     
浜田山通信 №74                                          ジャーナリスト  野村勝美
 「永山基準」とは  2
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-12

ペダルを踏んで風になる №18                 サイクリスト   高橋慎治
  BYOB
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-15-1

私の中の一期一会 №25          アナウンサー&キャスター   藤田和弘
 大飯原発再稼働には反対です~官僚は国民を舐めている!~
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-14-2

BS-TBS番組情報 №10                                               BS-TBS広報部
 6月のおすすめ番組(上)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-11-6

軍隊と住民 №34                                              弁護士  榎本信行
 住民と裁判-奪われた静かな夜
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-09-5
 
浦安の風 №44                 ソーシャルオブザーバー   横山貞利
  後期高齢者になって―わが半生―(前篇)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-14-3

台湾・高雄の緑陰で №30                                     コラムニスト  何 聡明
  台湾と日本の憲法
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-14-4

【ふるさと立川】

玉川上水の詞花 №73                          エッセイスト  中込敦子
 ヒルザキツキミソウ(あかばな科)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-09-3

砂川・私の戦後史 №32                                                           砂川ちよ
 教職員勤評問題と教育懇談会 2
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-09-4

立川陸軍飛行場と日本・アジア  №58                  近代史研究家  楢崎茂彌
 日本航空輸送株式会社着々準備を進める
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-15-2

                                               
【代表・玲子の雑記帳】                                   『知の木々舎』代表  横幕玲子
  ハヤシライスに関するいささかの学問的(?)考
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-15

            *       *      *      *
愉しく読むために読者への手引き
ネットマガジン『知の木々舎』を愉しくお読みいただくための手引きをご案内します。

発行回数・月に2回(上期・下期)ネットマガジンを発行します。
カテゴリー・記事の分類です。
「もくじ」・「執筆者紹介」・「代表玲子の雑記帳」・「心の小径」・「文芸美術の森」・「ことだま五・七・五」・「雑木林の四季」・「ふるさと立川」・「核無き世界をめざして」があります。
もくじ・ネットマガジンの号数・編成期(×月の上期・下期の別)を表示し、その下に最新の記事のタイトル・見出しが URLをカテゴリー別に掲載しています。
それぞれ記事のURLをクリックすると、記事の本編にジャンプできます。
通常は、この方法で読むのが便利です。
執筆者紹介・執筆者の氏名・肩書きをはじめ、略歴を紹介しています。

いろんな読み方
(A)もくじから記事を選ぶ
それぞれの記事見出しの下にあるURLをクリックすると、記事本編にジャンプします。

(B)カテゴリーから記事を選ぶ
画面左上にある各カテゴリー(右にある数字は、収納されている記事の本数)をクリックすると、そのカテゴリーに属する記事が降順(最新の記事から古い記事への順序)で表示されます。その中から、記事を選び出します。

(C)検索ボックスを使う
1.特定の執筆者の記事を探す
検索ボックスに執筆者の氏名を入力して検索すると、その執筆者の記事が降順で表示されます。執筆者の氏名を入力する際は、執筆者名簿に記載してあるとおりに入力して下さい。(例・「青木 久」を「青木久」と入力すると正しく表示されません)
2. 特定の語彙(語・熟語・キイワード)から記事を探す
      入力した語彙を含む記事がすべて表示されます。

(D)ネットマガジンのTOPに戻る
     カテゴリー欄のもくじをクリックする
     画面右上の「ブログトップ」をクリックする。

(E)写真を拡大して見る
その写真をクリックすると、拡大できます。その写真下の空色のタイトルをクリックすると、元の大きさに戻ります。

お読みになったら、ご意見・ご感想をぜひお寄せ下さい。
記事が終わった後に「コメントを書く」という欄があります。そこへ記入してくださればよいのです。より良い『知の木々舎』にしていくために、みなさまのご意見を下さい。


立川陸軍飛行場と日本・アジア №58 [ふるさと立川]

日本航空輸送株式会社着々準備を進める

                                             近代史研究家・高校教師  楢崎茂彌
      

 第五連隊にも117名が入営 
  連載No54で前年12月5日、除隊を翌日に控えた5人の兵卒が大暴れしたことを紹介しましたが、昭和4年1月9日には新たに入営する兵卒達が立川町に入りました。東京日日新聞は“立川飛行第五連隊今年度入営者百十七名は九日中に各連隊区とも立川着それぞれ指定の宿舎にと投泊し九日夜は地方人として最後の一夜を明かして今十日午前八時いよいよ入営する”と報じています。“地方”とは軍隊外の社会“しゃば”のことですね。入営する兵は第1師団管下は(麻布)立川館・(本郷)東屋・(甲府)大東館・(佐倉)伏見屋、第2師団管下は(仙台)中村屋・(福島)立川館・(新発田)中村亭・(高田)中村屋に宿泊しました。それにしても東日本各地から集められるのですね。58-1-3.jpg
 一方立川町からの今年の入営者は9名で、昨年の除隊者9名とともに7日夕中島町長に祝宴に招かれました。9日の立川駅は青梅方面などの入営者の見送りで雑踏し入場券だけで1000枚の売り上げがあったと新聞は報じています。記事は“虚礼廃止の声八釜しい折柄も相変わらず「祝入営」ののぼり小旗で埋まり”とのぼりは虚礼だとする書きかたをしており不思議な気がしました。この時期は“出征”では無いので入営者の気持ちも日中戦争期以降とは違って楽だったはずです。
 翌朝入営兵は在郷軍人会や青年団に案内され第五連隊に入りました。見送りの家族達も入門を許され各中隊長が「確かにお預かりしました」と挨拶したあと、各中隊2機ずつが飛行を披露しました。今回は除隊と違って大暴れなどは考えられないので、入営は無事終わりました。

 しょうもない立川町議会
 前回に扱った立川町の電灯公営問題は、町会によって結局うやむやのうちに終わってしまいましたが、町会が素早く決めたのは町議員8人の関西方面への視察旅行でした。東京日日(府下版)が伝えるところによると、15日の初町会のあとの新年宴会で「お互いに4月1日の改選で再び当選するかどうかは疑問だから」という理由で、土木教育視察の名目をつけて16日に抽選して8人を選んだわけです。町は多額の町税滞納を抱えた上、新小学校建設費の起債問題もあるのに無駄遣いだとの批判が高まりました。19日に町民代表2名が中島町長に抗議を申し入れ、狼狽した町は21日に町会を開き協議します。一部の議員からは中止の声が出たものの、“町会の体面上にも決行の必要あり”という大多数の意見により当初の計画通り行うことを決定して散会しました。中島町長は“多少の反対はあるようだが議員の管外視察費はすでに予算に計上してあるので決行することになった。ただ時期が良くないとの意見があるのでいい、頃合いを見はからって行う心意だ”とコメントし、記事は“当局側の意見としては問題の町税滞納整理直前のことゆえ当分の間反対のほとぼりがさめるまで延期することを申し合わせたので日取りは未定だが、出発は極秘裏に行われるものと見られ反対方面では監視の目を向けている”と疑問の眼を向けています。宝来町有志は、滞納されている町税を徴収出来なければ小学校の起債が危ぶまれるのに、大阪愛知方面までの大名旅行をする議員はけしからんとして町民総会を計画しました。大名旅行が実行されたかどうかは今は分かりませんが、4月1日に迫っているのは町村会議会初の普通選挙です。どうせ当選するわけないという居直りなのでしょうか、電灯町営問題といい立川町会はあんまりです。こんな居直り議員を落選させることができれば普通選挙も大したものですが、どんな結果になるのでしょう。

 日本航空輸送株式会社、着々準備を進める
 連載NO29で紹介しましたが、「朝日新聞訪欧大飛行」(講談社)の著者前野孝則氏は、初風・東風による訪欧大飛行の成功は国の航空政策を推し進める追い風となり、国策会社の日本航空輸送株式会社が昭和3年10月20日に設立されたことから、もともと朝日新聞に訪欧大飛行を持ちかけたのは逓信省航空局の児玉課長と安邊航空官ではないかと推量しています。それを証明するように初風を操縦した安邊航空官は航空局を辞め、日本航空輸送の運航部長に就任しました。彼は旅客機の購入のために11月初めから欧米をまわりました。
 新会社の発起人には渋沢栄一、団琢磨、井上準之助など財界人が名を連ね、資本金1000万円のうち公募株式600万円分への申し込みが140倍という大人気でした。日本航空輸送は国内定期便だけでなく東京・大連線、大阪・上海線の運行も予定し、国は昭和3年以降11年間に亘り1997万円の航空輸送補助を決めています。日本航空輸株式会社定款要項は“政府は公益上必要と認むる時は、相当の金額を給与して各路線に使用する飛行機を買収し、使用することを得”としており、とても朝日新聞東西定期航空会や大阪の日本航空会社が太刀打ち出来るわけがありません。三田鶴吉さんは「立川飛行場物語・第67回」に“同社の路線は東京(立川)ー大阪間がまず最初に営業開始されました。それより前路線返上の交渉が持たれましたが、朝日の東西定期航空会は仙台線を残し、川西の日本航空会社は解散して川西清兵衛社長は新会社の監査役に就任、日本航空輸送研究の井上長一さんは路線返上をせずにがんばっているのが現状でした”と書いていますが、路線返上は交渉などというものではありません。この間の経過を「日本航空史」は次のように書いています“政府では早くから国策として強固な航空会社を設立する計画をたてていたが、これについては当然川西の日本航空会社や朝日の東西航空定期会がその中心になるものと想定されていたところ、昭和2年の半ばに至って政府はこれらの会社を一切無視して、財界の協力の下に日本航空輸送株式会社を創立し、昭和四年四月からこの新会社によってわが国主要幹線の航空輸送事業を開始することが決定したのである。…こうして、日本航空輸送研究所を除く東西定期航空会と、川西の日本航空会社とは、多年苦心経営のその航空路線を、昭和四年三月限りで、新設の国策会社に無条件で引き渡すように引導を渡されたわけである”。逓信省が許可しなければ路線に飛行機を飛ばすことは出来ないわけですから、ご無理ごもっともと言うほかありません。両社の悔しさはいかばかりかと思います。日本航空輸送研究所の路線は大阪(堺)ー今治ー大分線で新設会社の幹線外なので経営が許されたのです。
 1月10日に三宅坂にあった東京第1陸軍衛戌病院で日本航空輸送株式会社陸上機操縦者の体格テストが行われました。10人の一等飛行士は目隠しされて椅子に座りくるくる回されたりする変わったテストに全員合格し、1月18日からは立川陸軍飛行場西地区でサムルソンによる離着陸飛行、長距離飛行などの試験飛行が行われました。入社の飛行士の中には日本飛行学校教官小川完爾氏の名もあります。また、前年には逓信省航空検査所の工事が始まりました。
 2月半ばに安邊運航部長らが帰国し、旅客12人乗りのフォッカー機体12台など注文した飛行機が2月から3月に続々日本に到着することになりました。国策会社の方は着々と準備を整えて行きますが、機体整備や飛行訓練を考えると4月1日の開業は1~2ヶ月遅れるようです。

 ドニエコメット墜落す58-2-2.jpg
 一方の東西定期航空会は間もなく主要路線を取り上げられるので意気上がらないのは仕方ないにしても、1月22日には墜落事故を起こしてしまいました。この日、機体の一部を改造した旅客機ドニエコメット101号は試験飛行のために逓信省検査官機上機関士2名を載せて飛び立ったのですが、飛行場上空で操縦索(操縦翼面を動かすケーブル)が反対についていたのに気づき着陸しようとして失敗し右翼とプロペラなどを破損してしまいました。この事故で駒林監査官だけが打撲傷を負っています。やはり恨みをかっているのでしょうか。試験飛行なのが不幸中の幸いですが、東西定期航空会は旅客を載せた致死事故を一度も起こしていません。立川大阪間はあと2ヶ月だけですが、無事故・安全飛行を祈ります。

写真上    「入営兵士の見送り」                 東京日日新聞(府下版) 1929.1.10
写真下  「墜ちた飛行機」           東京日日新聞(府下版) 1929.1.23


ペダルを踏んで風になる №18 [雑木林の四季]

BYOB

        サイクリスト・バイクショップ「マングローブ・バイク」店主  高橋慎治

GWも過ぎてしばらく経ちました。
サイクリングに限らずスポーツには最適な季節です。

スポーツは、身体と何らかの「道具」を使う状況がほとんどですが、そのスポーツにのめり込んでいくと「道具」には少なからず「こだわり」が生まれてきます。
もちろん一般の方の大半は「スポーツ=趣味」でしょうから、「スポーツ+道具=趣味」という方も少なくないはずです(笑)

よく仲間内で「趣味も格好から」という言い訳ともコジツケとも取れる様なことを聞きますが、まぁ、趣味ですから格好が良いことも本人的には気持ちが豊かになるためには大切なのでしょう。
とまぁ、自分にも身に覚えのあるところをお話しつつも、そこから少し踏み込んでみましょう。

BYOB = Build Your Own Bikes  自分の自転車を自分で作っちゃおうぜぇ!

pedaru18-16910075682_a7b54176b6[1] のコピー.jpg

って言う、若いクリエイティブなフレームビルダーに2011年の暮れに出会いました。

実は、私自身は選手になるそうとう昔の幼少時代に現実逃避(笑)から自転車にハマり、将来の夢は「自転車を作る人(フレームビルダー)」になりたい! というものでした。

あまりにも自転車好きなために、進路相談時に親から「そんなに自転車が好きなら競輪選手になったら?」と言われました。
「競輪」を全く知らない体育の通信簿は「3」しかもらったことのない自転車オタクは、「自転車作りをするなら、自転車を知る事は必須」と考え、「選手をやった後にビルダーになろう」と思った私は競輪選手を目指すことになったのです。

競輪選手になるには伊豆の修善寺にある日本競輪学校(NKG=日本キ〇ガイ学校と呼ぶ同期もいます)に入学すべく、正に手探りで練習に明け暮れ3回目の試験で倍率10倍超の難関を突破し、日本競輪学校第64回生として競輪選手の第一歩を踏み出したのです。

たまにテレビなどで紹介される壁のような登坂走路も苦手ながらもソツなくこなし、厳しいと言われている競輪学校も「自転車バカ」にとっては辛く楽しい環境でした。
平成元年にデビューして競輪界に入って益々自転車漬けの毎日で、自転車が大好きな私にとってはパラダイス(笑)です。

選手生活が過ぎるにつれ自転車オタクぶりには拍車がかかり、現役の頃から選手仲間に自転車に関する事で相談を受けたりもしました。
私は競輪選手としては大した選手ではありません(なんせ体育「3」)でしたが、自転車バカを武器に厳しい競輪界の毎日を戦いました。
競輪選手として16年半を過ごし、その後、自転車店の店主になり7年。
大好きな自転車に囲まれ、皆様のお蔭で何とか起動に乗り、今に至っております。

そんな「フレームビルダーの夢」を忘れかけていたところ、「自転車のフレームを自分で作ってみませんか?」とのお話が舞い込むのです。

「自身の手で自身のフレームを作るもっと開かれたFrame buildingの提案」というコンセプト。
フレーム作りの為のワークショップ 「BYOB Factory Tokyo」 http://byobfactory.blogspot.jp/

私は気持ちのざわめきを感じながら、気がつくと主催者へメールを送った後でした。
お店の業務に支障のない範囲で、この春から通う事になっているのですが・・・
そのへんはマイペースでやっていこうと考えています。

競輪選手生活であつらえた競走用自転車フレームは約40本。
落車でつぶしてしまったり、乗り味が合わず人にあげてしまったりで手元にはわずかしか残っていませんが、現役時代の財産だと思っています。
現役時代にフレーム製作でお世話になったビルダーの井田君はじめ、沢山の方々に感謝致します。
寝食を忘れて向き合える「自転車」に出会えたことを「天職」と信じて、日々精進してまいります。
私自身が納得の出来ない状態ではお客様に商品をお渡しすることはありません。

自転車=サイクリングは生涯スポーツです。
取り組まれる方のレベルやスキルで必要な道具が変わってきます。
もちろん道具自体の進化もあります。
何事も日々勉強、日々精進ですね。

いかがです? もし自分で自転車を作れたら?
格別な風を感じられるのでしょうねぇ♪


【ツール缶】
金属加工をするときに必ず必要になるものが「バイス=万力」です。
卓上クランプ形式の簡単なものから鉄工所で使われる大型のものまで様々ですが、予算と環境が許す限り大型のバイスがよろしいです。

pedaru18-2 のコピー.jpg

蛇足ですが、競輪選手用語では「内助の功=萬力」と言うことがあるとかないとか・・・


※《私のお気に入り》
そこで、万力のお供はヤスリです。
自転車屋の実作業では結構ヤスリの出番は多いのです。
ウチではもっぱら「ツボサン㈱ブライト-900 組タイプ」なのです。

pedaru18-3 のコピー.jpg

http://www.tsubosan.co.jp/info/other/product02.html#650

他のヤスリが使えません。


雑記帳2012-5-15 [代表・玲子の雑記帳]

ハヤシライスに関するいささか学問的(?)考

1.発端は学友とのおしゃべりから
 ゴールデン・ウイークの最中、何年ぶりかで大学時代の友人に声をかけ、立川駅で待ち合わせました。私は、白いシャツにジーンズのジャケットで装い、鏡に向かって背伸びしてみました。心が弾んでいたからです。
 昼前、人混みの改札口から、少し緊張気味に出て来た友人と、互いに手を挙げ、その手を握り合うと、津田のキャンパスで、四年間を共にした懐かしい笑顔になっていました。
 「ところで、お昼は何にする」
 「何でもいいわ」
 「ね、それじゃ、私はハヤシライスを食べたい気分なの」
 「ぴったりの店があるわ。行きましょう」
 私は立川駅ビルに出店している洋食屋「たいめいけん」へと案内しました。「たいめいけん」の名は、はるか昔、先代の店主茂木心護さんの名前を何かの雑誌で知って以来、行ってみたい店になっていました。其の支店がこの度、立川にもできたというのです。
 ハヤシライスを味わいながら、大学での生活を掘り起こすのに夢中になりました。
 「ところで、このハヤシってなんなの」
 「ハヤシはハヤシよ。それ以外の何でもないわよ」
 「あのね、これって西洋料理なの、日本料理なの」
 「この店はね、洋食屋っていうの。だから洋食なんじゃない?」
 「洋食は、西洋料理でもなく、日本料理でもないの」
 「それじゃあ、ハヤシっていうのは、日本語なの」
 こんな話の展開になって、今回はハヤシライスをとりあげます。

ハヤシライス のコピー.jpg

2.「ハヤシライス」名称のいわれ
 ①hash(肉の細切れ)→ハヤシ・ライスが生まれた。
 ②「丸善」の創業者の早矢仕有的(はやし ゆうてき)に由来する。(社史)
 ③料理人・林某が創案したという。
 ①言語学者の楳垣実(うめがきみのる)は、古語の「こまかく切る」という意味を持つ「はやす」という動詞と、英語のハッシュド(Hashed)が結びつき、ハヤシライスになったのであろうと述べている。

3.「ハヤシライス」の定義
薄切りした牛肉とタマネギをバターで炒め、赤ワインとドミグラスソースで煮たものを白飯の上にかけた料理が作る牛肉と野菜のごった煮。幕末から維新後の文明開化のころ、西洋料理の技法を吸収して、日本料理の主体である米飯と融合した「洋食」の一種。

4.誰が「ハヤシライス」の元祖か
 ①元祖と称するが料理店が多数あるが、確定することはできない。
 ②「丸善」日本橋店では、創業者の事跡に因み、提供している。

5.ハヤシライス」のレシピ
A,古典的調理 (ハヤシと名づけられている料理)
①ハヤシビーフ・ロースビーフを五分位の大きさに薄く切り、又玉葱の外皮を去り、輪切りに刻み牛酪を少し鍋へ入れ又チスウのソースを少し入れ煮熟を待ちパンの揚げたるものを出すべし。 (軽便西洋料理法指南)      久野木信善, 明21.11.
②ドライハヤシ・材料 牛肉、馬鈴薯、卵、パン粉、塩、胡椒、
 まず、牛肉の純良なところ、すなわち「ロース」「ヒレ」などを大切のまま、塩、胡椒で味を付け、「ロースト」し、これをさいの目に切っておき、次に馬鈴薯を「ボイル」にし、裏ごしに掛け、さっきの肉と混ぜて、塩、胡椒で味を付け、「ローストパン」に入れ、木の葉の形などとし、卵を塗り、「パン粉」を振りかけ、(バター)少しをその上に載せ、「ロースト」し、一人前に切って食卓に出す。
       『復刻海軍割烹術参考書』イプシロン出版企画 2007年
B.現代的調理
材料・牛切り落とし200g、玉ねぎ大1個、小麦粉 大さじ2、※水 1カップ、※トマトジュース 200CC、※ウスターソース 大さじ1強 、※ケチャップ 大さじ1強、赤ワイン 1/2カップ、※コンソメ 1粒、※ローリエ 1枚、しょうゆ 小さじ1、バター、サラダ油 各大さじ1/2。
玉ねぎは1.5cm幅に千切りにする。、牛肉は一口大に切る。フライパンにバターとサラダ油を熱し、玉ねぎと牛肉を強火で炒める。肉に火が通ったら中火にして、小麦粉を振り入れて3分炒める。水、トマトジュース、ウスターソース、ケチャップ、赤ワイン、コンソメ、ローリエをを加える。よくかき混ぜて、煮たってきたら弱火にして30分煮詰める。
最後にしょうゆを加え、3分煮たら出来上がり。

6.たかが「ハヤシライス」ではあるけれど……
 私は一人で、現代的調理を試みました。ご飯に盛って出来上がり。ともかくも、なぜか懐かしい。私の年代にとっては、日本と西洋が溶け合った「ハイカラ」な味。そういえば、「ハイカラ」も「ハイカラー」が訛った言葉の洋食(?)。
 久しぶりの学術的な考察を友人に報告したところ、
「おかげさまで勉強になったわ。ところで、洋食って、英語の試験の私たちの和訳の答案みたいね。」
「突然何よ。どういうことなの。」
「私たちの和訳は、日本語よ。でも、それは日本の文章とは少しかけ離れている。でも英語じゃない。きっとハヤシライスみたいな混ぜ混ぜだったのよ。」


台湾・高雄の緑陰で №30 [雑木林の四季]

台湾と日本の憲法

                              コラムニスト・ 在台湾  何 聡明 

4月24日に高雄を訪れた日本の「曙会」門脇朝秀会長ご一行と夕食を共にした。門脇会長は98歳の高齢でありながら足しげく年に4~5回台湾を訪れては日台友好に努めておられる方である。私の所属している「南星会」とは10年以上にわたる交流を続けている。南星会とは定年退職を終えた年寄りの集りで、月に一度昼食会を営んで台湾の政治、外交、経済、社会、教育等々について意見を交わすのが目的で13年前に創立した会である。

今回の訪台に同行した元衆議院議員西村真吾氏と南星会のメンバー数人が色々日台関係について意見を交換したが、その中で特に記憶に残るトッピックがあったので、ここで披露したい。

南星会員:「台湾は1945年8月15日終戦後米国のマッカーサーGHQ命令第一号によって中華民国国軍に占領された。台湾で現在使われている憲法は中華民国国民代表総会が1946年12月25日に制定し、一年後に実施されたものだが、台湾人とは全く関係のない憲法である。その翌年の1947年には中国軍が台湾人を大量虐殺した228事件が発生した。1949年中国共産党との闘争に敗れて中国大陸より台湾へ逃亡して来た中国国民党政府自参の中華民国憲法は、台湾人が流亡政府から押し付けられた憲法であるのだ。我々台湾人が自分で台湾憲法を制定しない限り、台湾に憲法は無い。」

西村氏:「それは今の日本憲法にも言えることである。日本憲法は太平洋戦争終戦後戦勝国アメリカのマッカーサーGHQが昭和天皇の名を借りて(1946年11月3日に)日本国に押し付けた憲法であり、その憲法を日本は今日まで施行しているが、色々な問題を抱えている。日本はその憲法を日本の実状と必要に合った修正をするか、新憲法を制定しなければ真の日本憲法だとは言えない。」

西村氏の発言に我々は日台が憲法でも同じ問題を抱えていることを認識したのである。

考えるに、近年来太平洋進出に血道を上げている中国に対して、力不足を感じている米国は、日本の自衛隊が積極的に西太平洋の防衛に投入することを願っているようだが、日本が米国の願いを叶えられないのは、アメリカが日本に押し付けた日本憲法第九条のせいではないのか?そうであれば、米国は自業自得であろう。台湾問題に関しても米国国会で「台湾関係法」を制定していながら、中国政府から圧力が掛かればトントンと口調を変える米国政府には腹が立つ。自由民主主義、人権尊重を唱えるPax Americana(アメリカ主導下の平和)も地に落ちたのか?


浦安の風 №44 [雑木林の四季]

後期高齢者になって―わが半生―(前篇) 

                          ソーシャル・オブザーヴァ―  横山貞利

 5月31日、わたしは後期高齢者の仲間入りをした。振り返ってみると、この75年間は長かったのか、短かったのか。人並みに歩んできた心算だけれど本当にそうだったのか、よく解らない。あれは、小学校の4、5年生の頃だと思うが「果たしてオレは21世紀まで生きられるのだろうか」と思い計算してみたら、63、4歳になることを知って驚いてしまったことがあった。あの頃、戦争があったから「人生五十年」という言葉を周囲の大人たちが話していたし、「村の渡しの船頭さんは、今年六十のお爺さん・・・」(作詞 武内俊子 作曲 河村光陽)という童謡を歌っていたから、なんとなく愕然とした思いにさせられた記憶がある。
 それにしても「”恥”多い人生だった」と思う一方で「やるだけやった」という気もしている。

 わたしが生まれた年は、1937年(昭和12)である。この年は、昭和前半史のエポックメイキングな年で、7月7日盧溝橋事件が起こり日中戦争が本格化して、1945年(昭和20)の敗戦へと泥沼に陥っていった。1944年(昭和19)に国民学校(現在の小学校)に入学したが、信州の中都市では、招集を受け入隊した家族を除いては、戦争の切迫した雰囲気は殆どなかったように記憶している。
 わたしは、長男だったので、明治末年生まれの両親からは、特に目をかけられていたようだ。どちらかといえば、すぐ風邪をひき熱を出すので、かかりつけの医者に往診してもらうことが多かった。国民学校の1年生のときは、それなりに授業があったが、2年生の4月からは、毎日のように学校から1kmくらい離れた欅に覆われた沢まで退避する訓練ばかりやらされた。4年生から高等科(中学や女学校に行かなかった人たちを対象にして2年間授業をける)の生徒たちは、校庭に長方形の穴を掘りそこに教壇を被せて土で覆う防空壕を作らされていた。夏休みに入って、8月155日正午、わたしの家族はラジオの前に正座して”玉音放送”を聞いた。わたしには、”玉音放送”の内容は全く解らなかった。放送が終り暫くして父から「戦争が終わった。日本は敗けた」と知らされた。裏庭の畑に行って向日葵の花を見上げると、空は蒼く輝いて高く、いやに静寂だった。「ああ、戦争に敗けたのか」とは思ったが、「戦争に敗けるとはどういうことなのか」を実感したのは、その年の終わりころになってからだった。何より食べるものがなく絶対的な飢餓に襲われたことだった。父は、中部配電の変電所で2人で交代に24時間勤務をしていたから軍需要員として招集を受けなかったのかもしれない。

 それにしても、小学校、中学校、高校時代は勉強しなかった。ただ、小学校の時、毛涯章平先生(浦安の風41参照)から教えを受けたこと。中学校では、畏友、心友ともいえる俳人・宮坂静生君(現代俳句協会会長、「岳」主宰、信州大学名誉教授)と同級になって以来今日まで変わることなく付き合ってもらっている終生の友を得たこと。また、「あたらしい憲法のはなし」(1947年・昭和22、文部省編)を読んだとき感動したことを忘れることはできない。高校時代には、映画に夢中になり、特にフランス映画に惹かれ、ジュリアン・ディヴィヴィエに傾倒してしまった。小学校時代に松本深志高校の「とんぼ祭」(文化祭のこと)で3年つづけて演劇公演を観て感動したことと相俟って映像表現に惹きつけられた。また、二人の先生の訓えがわたしの生き方の基礎になっているように思う。その一人は故岡田 甫校長で、入学式の訓示で「諸君は“人間形成”に努めねばならない」と話された。たかが15歳の少年に「人間形成」などということの意味が解る筈もなかったが、折にふれて岡田校長が口にされた。もう一人は、一年の時の担任であった故石上 順先生である。石上先生は、折口信夫の弟子であったが、夏休みの宿題で「破戒」の読後感を提出したことから「人間にとって誠実とは何か」についてしばしば話し合う機会がもてた。この二人の先生から学んだことは、今日に至ってもわたしの第一の課題になっているように思う。

 さて、大学受験に当たっては、文学部演劇科を専攻した。もし落ちたら働きながらシナリオを書いて暮すことを覚悟していたが、幸い合格できた。大学では、初めて”学問”と真剣に向かい合い、演劇が「人間の葛藤」の表出であること、それは文学全般に相通じる大命題であることが次第に解ってきた。こうした命題の基本を学べることは嬉しかったし、自分の選択が間違っていなっかったように思えた。その一方で、映画だけはよく観た。文士(三上 寛など)系と言われていた池袋の文芸坐、人生座それに新宿の日活名画座は殆ど毎週のように通った。当時の映画館は、二本立てで、片方の映画を観に行っても結局2本みてしまうから、例えば「第三の男」などそれぞれのシーンの照明の遣い方やアップの遣い方など今でも思いだせる。後年、テレビの画面作りの上でどんなに参考になったかしれない。わたしが好きだったモンゴメリー・クリフトの作品だけは日比谷のロードショー館で観た。

 1962年(昭和37)に、運よくTBSに入社できた。TBSで35年2か月過ごしたが、初めの1/3が報道、残りの2/3は主に調査をやった。報道では、次々企画を出し制作したし、調査では、調査票の作成に報道体験が大変役立った。調査についてはど素人だったから独学であった。特に「複雑さに挑む科学―多変量解析入門―」(講談社・ブルーバックス)はわたしのバイブルであった。また、故林 知己夫先生(文部科学省・統計数理研究所教授・所長)には調査のことは勿論いろいろ教えてもらった。仕事は創意工夫して企画し実践することができるから充足感をもてたことは間違いない。
 それにしても、会社で出世したいと思ったことはなかった。副部長の内示を受けた時には局長に辞退を申し入れたが「ダメだ」の一言のもとにはねつけられた。調査部長の内示を受けた時も同じだった。会社という組織にあっては社の判断に従わざるを得ない。個人的な“拒否の権利(?)”があってもいいと思うが、従わなければ社を辞める以外にはない。さもなければ組織は成立できないことも確かである。
 ある時、局長、部長のやり口に腹を立て、人事部長、人事局長(いずれもニュース時代の先輩)に頼んでライブラリー部(当初は報道ライブラリー)に逃げ出した。これは以前から誘われていたのだが、やったことは殆どライブラリー倉庫の立案から運用開始までのことで、本社のライブラリ-倉庫は報道系の素材、緑山倉庫はドラマやバラエティーなどのパッケージされた番組や不急の素材を納めることにした。この仕事はきつかったが何とか仕上げた。
そのころ丁度CI(Corporate Identity)がブームで、TBSでもやったが、これが大失敗で社内はガタガタになった。CIを委託した社の担当者が「番組を作るのは鍋釜を作るのと変わりがない」と主張されて、CI室のスタッフが反論できなかったと後になって聞いた。番組は鍋釜ではなく、鍋釜でつくる中身である。あのときのCI室のスタッフに制作現場の経験者が一人もいなかったのを思い出した。これでは仕方がない。そのころ、視聴率の仕事は編成局、そのほかの調査の仕事は社長室に纏められていて、その社長室に移った。
 まもなく役員の間でクーデターが起こり、CIを進めた社長は解任された。これを契機に組織替えがあり調査資料局調査部が復活した。わたしは、副部長のまま調査部の再建にとりかかった。暫くの間ラインの仕事と調査の実務を一人でこなしていた。
これではぶっ倒れてもおかしくないと思いながら、何度も粘ってやっと調査が解る一人に戻って貰うのに成功して、やれやれと3,4カ月一息ついた。調査部長になってまもなく、やっと戻ってもらった彼を郵政省(旧)に出向させるという命令を申し渡された。わたしの知る限り事前に人事については部長の了解がなされてきたが、今回は全く埒外におかれたままだった。それでもよくしたもので、一人の人材が調査部にきてくれた。彼は、ラジオをやりたくてTBSに入社したということだった。彼とは、以前から知っていたから、大歓迎であったが、彼は癌を手術した後なので、ゆっくりやらせてほしいと人事にいた仲間から頼まれた。でも、仕事はテキパキとやってくれた。午後3時には必ずお茶を飲みに誘うようにこころがけた。しかし、1年半が過ぎたころから癌が再発して帰らぬ人になってしまった。彼の葬儀後暫らくして専任部長(スタッフ部長)の先輩が矢張り癌で亡くなった。突然のことだった。2年間に2回部員の葬儀を行った部長がいたのだろうか。完全に参ってしまって調査部長を辞めさせてほしいと局長に申し出た。こんな我儘が許される筈がない。当然、馘首されても文句は言えない。しかし、この時も人事局長がたまたまニュース時代の先輩であったので胸に納めて認めてくれた。有難かった。
 そうだ、もう一つ「調査情報」休刊の件があった。「調査情報」は年間予算およそ6500万円で経費節減の対象になった。一時は自分で編集長をやろうかとも思っていた。しかし、諸般の事情でそれはできなかった。この際、思い切って休刊することにした。強硬な批判をあびせられた。それは覚悟していたことだ。そのかわり、定年までに再刊する覚悟で、社長に手紙を書きつづけて直訴した。あれは、1995年(平成7)のことだと思うが、所謂「TBSビデオ事件」が起こって社長以下関係者が国会に呼び出される事態にまで発展してしまった。その後、社長は、2人のプロデュ―サーを馘首し辞任した。この時、社長の置き土産に「調査情報」復刊ができた。嬉しかった。いまは亡き社長に唯々感謝するのみである。
                           (以下次回へ)


私の中の一期一会 №25 [雑木林の四季]

            大飯原発再稼働には反対です~官僚は国民を舐めている!~

                          アナウンサー&キャスター  藤田和弘


 大飯原発の再稼働問題がニュースになっているが、再稼働に納得する国民はまずいないだろう。
 今年の夏が一昨年のような猛暑に(酷暑かも)なったら全原発がストップしている現在、大幅な電力不足が予想されるというのは分かる。そうかも知れない。しかし、だからと言って再稼働を認める気になれないのは隠蔽体質で鼻持ちならない電力会社なんて信用出来ないからに他ならない。
 政府の「需給検証委員会」によれば関西電力管内の供給不足が一番深刻で,再稼働無しの場合、真夏のピーク時に最大で15.7%の(その後14.9%に)供給不足になるという。これは関電が提出した資料を基に試算されたものだろうから何処まで信用するかだが、政府はそれを受けて10日に「福井県おおい町にある関西電力の大飯原発3、4号機を再稼働すれば(企業や家庭の節電努力と合わせてだが)電力不足をほぼ解消できる」という新たな試算を公表し再稼働へ踏み出そうとしている。
 また再稼働無しの場合には、関電管内で大幅な節電目標を設定、目標を下回った企業に罰金を科す「電力使用制限令」の発動も検討中とのこと。これでは地元や周辺自治体に「再稼働か使用制限か」を強く迫るもので、官僚に取りこまれた政府の「再稼働の押しつけ」だと批判する有識者もいるという話も聞いているし、新聞を読みながら不快な気持になった。「電気欲しさ」につけ込んで、黙って言うことを聞けと言わんばかりだ。国民を苦しめる悪代官がいるのに、これを懲らしめる平成の黄門様が何処にもいないのは現代日本の不幸だ。
  一昨年のような酷暑になり原発の稼働ゼロの場合、沖縄を除く全国9電力がまとめた最終的な電力不足は0.3%になったと試算された。それによると関西、九州、北海道の3社が供給不足になるが、関西電力管内の14.9%は飛び抜けて大幅だ。九州は3.7%,北海道は3.1%である。
  安全性の確保に言及もしないで再稼働を言うのは無責任でしかない。再稼働したって、企業や家庭で節電努力をしてくれとも言っている訳で原子力村の身勝手な言い草には呆れるばかりだ。
  新聞には、関連する自治体から反発の声が出ていることも伝えている。滋賀県の幹部は「再稼働で需給の帳尻りが合うという新試算の公表は予想された筋書き、あくまで安全性の確保が条件」と慎重姿勢だ。大飯原発のある福井県でも「日替わりのように試算の数値が変わるのはおかしい。電力不足を理由に再稼働を押し付けるのは間違いだ」と反発している。大阪府の松井知事などは「政府は原発を動かしたくて仕方がないのだろう」と言い、専門家らで構成する大阪府・大阪市エネルギー戦略会議などで検討する考えを示し、再稼働を認める気はないようだ。野田総理も困るだろうが官僚の言いなりだと、こうなるのもやむを得ないと知るべきだ。
  大阪市の橋下徹市長は11日の記者会見で、再稼働や強制的な節電策を行わずに電力不足を乗り切る「第3の案」をエネルギー戦略会議で独自に策定する考えを明らかにして「政府案に並ぶぐらいの具体案を示し関電管内の住民の力で危機を乗り越えていきたい」と述べている。
  この市長はメディアで叩かれることも多いが、官僚や大物を自負する政治家を過激に罵倒し独善的に見えるが、痛快で頼もしい存在だと私は期待している。本当にやってくれそうな気がするから、事なかれ主義の官僚や当選回数の多さだけを誇ってきた政治屋は(政治家ではない)さぞ煙たいことだろう。
  橋下市長の言う「第3案」の中身はそれほど突飛なものではない。余裕のある中部電力などからの電力融通や電力ピーク時の昼間をどう使うかというもので、昼間の数時間を「シエスタ休暇」にするとか、電力の大口需要企業が輪番創業するなどの案が考えられているようだ。探せばいろいろ策は出てくるものなのに官僚は「再稼働ありき」だから「原発を動かす」ことしか考えないのだ。
  橋下発言があったからだろうか、13日の新聞に「関電に4社融通拡大、各5%節電で制限令回避へ」という記事が出た。12日の「需給検証委員会」で需給見通しの最も厳しい関西電力への「電力融通」を拡充することになった。一昨年並みの猛暑になっても余裕のある中部、中国、北陸、四国の西日本4社に10年夏比で5%程度の節電目標を設定して「電力使用制限令」の発動を回避しようというもの。
  4社は電気の周波数が同じ60ヘルツで融通し易い利点もある。融通や強制力を伴わない節電で供給不足を解消出来れば大飯原発再稼働の必要性はなくなる。「電力の融通」を「再稼働」より前に何故議論しないのだろう、これは大きな疑問だ。
 関電への融通に関連して、フル稼働する火力発電所でトラブルが頻発しているとの記事もあったので読んだ。電力需給に余裕のある各社も停止した原発の代わりに火力を長期間稼働させて供給を補っている。しかし需要に応じて供給力を高めると故障の可能性も高まる。今年2月に九州電力の火力発電所が緊急停止する事態が起こったが他社から緊急に融通を受け大規模な停電になる危機を辛うじて回避した。故障の頻発が懸念されるという内容であった。フル稼働しなくても故障は起こり得るものではないのか、事故とはそういうものだ。故障したら融通を受けながら直せばいいではないか。多分原子炉の故障修理より何百倍も簡単な筈だ。
 隠蔽体質の電力会社が、本来なら隠すような故障懸念の情報を出してくる意図は原発再稼働へのコマセみたいなもので、下心が透けてみえる。国民、特に周辺住民は騙されてはいけない。
 問題は政治家にもある。14日のスポーツ紙に与党の前原政調会長が「再稼働しないと関電管内が計画停電になるかもしれない。医療機関や家庭への影響を懸念する」とフジテレビの番組で語ったという記事があった。この人も官僚の操り人形でしかないのかなと感じて暗い気持ちになった。
 13日の夜、NHKのBS1で「世界最大の原発跡地。脱原発に揺れる町」という番組をやっていて最後まで見てしまった。ドイツのルブミンという町は22年前に原発を廃炉にした町だが、未だに除染や原発の解体作業が続いている。放射性物質の中間貯蔵施設もあるため、他の原発からも危険物が持ち込まれるので住民が反発しているというドキュメントだった。この町は事故で原発を廃炉にしたのではない。原発の安全性に疑問を持っただけで廃炉を決意した町なのだ。日本のように福島であれだけの大事故を起こして、なお再稼働を叫ぶ輩とは大違いだ。自分の町、自分の国を大事にする「愛国心」を持っている人達だ。ルブミンでは厳重に放射能を管理しながら解体作業のノウハウを身に付け「要請があれば日本へも行きますよ」という国営の跡処理会社のコメントも放送されていた。ドイツは今9基の原発が稼働しているが2022年に全ての原発を廃止する。去年フランスへ行った時、パリからロワール地方へ向かう高速道路に沿って点々と風力発電の風車が屹立していた、ざっと数えて100基ぐらいはあった。原発大国と言われるフランスだが、やることはやっているなと思ったのを思い出した。ドイツも、これからの10年で風力発電やソーラー発電などクリーンエネルギーへの転換を図るに違いない。しかし10年後に誕生する新たな跡地もルブミンのように何十年と跡処理に苦しむことになるのは間違いない。日本はすでに福島が原発跡地になった。この狭い国に54基もの原発を造ってしまったのだ。跡処理をどうするかなどは、まだ誰も考えていないだろう。100年後にはこの国は滅びているかも知れないと思うと、全く恐ろしいことだ。
 14日には大飯原発の地元、福井県のおおい町議会が「再稼働を受け入」に賛成したというニュースが流れた。「えっ、本当?」と耳を疑う内容だった。県の幹部が押し付けは間違いだと言っていたのに、何故「ウン」と言ってしまったのだろう。汚い奴らが多額の交付金をチラつかせたのだろうか。それにしても「賛成」は残念だ。電気仕掛けの世の中になって多くの時間が経過した日本だから、電気の供給がないと企業も病院も家庭も、社会生活はたちまちお手上げになる現実は確かにある。でも何とか原発を再稼働しないで乗り切る工夫をしようとか、不便は承知で我慢しようという国民はかなり多いだろうと思う。
 ジャーナリストの友人が、ある時「今の官僚は酷いもんだ、国賊だよ」と言っていたのを思い出した。「国賊」にはビックリしたが、昨今の霞が関を見ていると「本当かも知れないなあ」とつくづく思う。私だって電気が停まったら大いに困るだろう。困るけれど「原発を再稼働」してはいけないと考えている。
 関電管内にいる橋下徹大阪市長が、今後どう発言しどういう行動に出るかを注目していきたい。


じゃがいもころんだ №28 [文芸美術の森]

夜明けの道

                                    エッセイスト  中村一枝

 青白い水銀灯に照らし出された温泉町の夜明け。歓楽つきて哀愁のこる、という言葉さながらの風景が広がっていた。鼻紙や包み紙が大通りを風にのってとんでいく。かんからんと空カンが音をたててころがる。三、四時間前までは浴衣すがたの酔客や、もつれ合っていた芸者、女給さんの姿はまったく見えない。
 夜明けが近いという大気の肌合いを感じながら、私は駅に向かってあるいていた。
 当時伊東線というローカル線の終着駅伊東は又、熱海に次いで名の売れた温泉場であった。
 もう何十年も前の話なのに、私の中にはいつもその夜明けの風景がスクリーンを見るように浮かび上がってくる。
 東京の高校に進学した私は伊東から通学するのは無理だと言われ、東京の叔父夫婦の家に下宿していた。生まれてはじめての下宿生活、それはそれで楽しかったが、私の通っていたA学院がその頃珍しい土曜も休みの学校だった。金曜日、学校帰りに品川駅から湘南電車を眺め、あれにのれば三時間足らずで伊東に着くと思ったのが始まりである。伊東始発五時四十五分、駅に着く頃はそれまで暗かった道や建物がすこしずつはっきりしてくる。空が白けていくのが判る。
 あるとき、家を出ようとしたら、家の前に父が立っていた。着流しにステッキを持っている。たしか夕べは徹夜で原稿を書いていたはずなのに、
「駅まで送ってやろう」
 父はぽつんとそれだけ言うとさっさと先に立ってあるき出した。
 父はもともとすこしガニ股である。昼間みると娘ごころにかっこわるいな、と思ったこともある。
 しかし、真っ暗な川沿いの道ではのっしのっしとあるく父の姿はたのもしかった。
 ふだん仲のわるい親子ではなかったが、気軽に会話の弾むという関係ではない。酒を飲むと雰囲気が一変し、浪花節だの、歌だの、ひととおりやってのけるにぎやかな父だが、たいていは寡黙である。子供の時から父の仕事は小説家と知っていたから、黙っているのは小説の筋を考えているのだ、と思っていた。
 父と母は十三歳年齢が違う。小学校に入学したときも、後ろに並ぶ母が美しくて若いのが子供ごごろに自慢だった。父が母を熱愛しているのも判っていたし、それも又嬉しかった。中学三年の時弟が生まれた。それもとても珍しいことらしく、母が友だちに
「奥さん羨ましい、憎らしいわね」
なんて背中をたたかれるのを見ながら、大人のヒミツみたいなものも感じていた。
 伊東へ引っ越したとき、引っ越し荷物の中に古新聞があって何気なく開くと
「才子再び佳人をえたり、尾崎士郞君・・・・・・」
という字面が目に入った。すぐ新聞は取りあげられたが子供ごころに納得したのである。「あのね、この間赤い靴って映画見たんだ」
「うん」
「赤いバレーシューズはいた女の子がその靴をはいたら、踊りはじめて、靴が脱げなくなっちゃうの。その踊るシーンに夜更けの町が出てくるんだ」
「そうか、面白い映画だな」
 父とまともに会話を交わせた満足感がじわーっと体の中に広がっていった。


言葉あそび入門 №64 [文芸美術の森]

同席ゲーム・その3
 相性調べ
                         コピーライター  多比羅 孝

かつて私は或る先輩から、面白い『言葉あそび』を教えてもらいました。

それは『名前あそび』とでも呼んだらいいと思われる『漢字あそび』でした。

珍しくて、とても興味深いものでした。しかし、何か、もう一つ工夫すれば、もっともっと、ぐ~んと楽しさを増すに違いないと、私は直感みたいなものを感じて居りました。

教えていただいたのは、下記のようなものです。図-1をご覧ください。
◆(1)先ず、マス目を作り、サイドAとして、たとえば『ナツメソウセキ』と書き入れ、サイドBに『タヒラタカシ』と入れます。

64-1.gif

◆(2)次いで≪読み≫を始めるのですが、たとえばサイドAの『ナ』とサイドBの『タ』を重ねて読んで、浮かんで来た漢字『鉈(なた)』を合致点のマス目に書き入れます。

◆(3)次ぎは同様に読んで『ナ』と『ヒ』。『なひ』???そんな漢字は無いみたいですから、逆に読んでみますと、あった!『ヒナ・雛』です。よ~し、と、これを合致点のマス目に記入します。図-2を見てください。『鉈』と『雛』が入ったことを示しています。

64-2.gif

◆(4)こんなふうに進めて≪漢字でマス目を埋めて行く≫のです。

◆(5)読み方はAが゙先でもBが先でもOK!さらに音(オン)でも訓(クン)でもいいのです。

◆(6)『ナ』と『ラ』では、ちょっとヘンですが、一応『鳴らす』として、それを書き入れます。次ぎは『タ』と『ナ』で、すんなり『棚』。

◆(7)進めて行くうちに『ヒ』と『ソ』が出逢います。すぐに『砒素』が思い浮かびますが、これはOUT! 漢字が二文字になるからです。つまりマス目に入れる漢字は一文字だけ!というルールに違反するからです。そこで、記入は『密(ひそ)か』となります。

◆(8)このようにして、AとB、またはBとAの≪読み≫を重ねて漢字を作り、マス目を埋めて行くシゴトが暫く続いて、もう、これ以上はナシとなったら終了です。

◆(9)該当する漢字が見つからない場合は、?マークです。図-3をご覧ください。これで終了です。

64-3.gif

◆(10)終了したら数えてみましょう。図-3では、42箇のマス目のうち11箇が?マークで、あとは、どうやら埋まりました。

◆(11)これが、私が先輩から教えてもらった遊びです。埋まったマス目の数が多いと嬉しい、という遊び。

◆(12)勿論、サイドの名前を変えれば中身(なかみ)は変わり、埋めたマス目の数も違って来ます。

◆(13)そこで私は冒頭に記したとおり、もっともっと楽しくなるように『改革』しようと考えました。その結果、勝手ながら下記㋑から㋣までのように決めました。

㋑この遊びに名前を付ける。その名は『二人の相性(あいしょう)調べ』とする。

㋺A、Bいずれか必ず女性であること、とする。

㋩A、Bを重ねて漢字を作ることに変わりはないが、同じ漢字は二度使ってはいけないことにする。(たとえば図-3では『歌』が二度出て来るが、一方を『唄』にするなどして、この問題を解決すること!!それが出来ない場合は?マークとなる。)

㋥ひとマスには漢字一文字だけ、と、限定する。従って、送り仮名を必要とする漢字はOUTとする。たとえば、図-3では『鳴(な)らす』『密(ひそ)か』『試(ため)す』などがあるが、新ルールでは、これをダメとする。つまり、ワン・カンジ・オンリー!!

㋭言葉あそびの慣習に従って清音、濁音、半濁音の変換は自由とする。

㋬『二人の相性調べ』は、『ひとり遊び』の要素を多分に持つが、これを大勢で楽しもうとするときには、あらかじめ、進行・世話人を決めておくこととする。そして・・・・・・

㋣世話人の発案による≪特別共通テーマ≫をサイドAとして設定すること。(たとえば拙案ですが下記の≪図-4≫≪図-5≫≪図-6≫のようにする。)

◆(14)以上を基本的なルールとし、その場に応じての適宜な変更は、世話人の裁量に任せるべし、と、私は考えました。

64-4-2.gif
64-5.gif
64-6-3.gif

(図-4、図-5、図-6のBはいずれも仮りの名前です。) 

★★もう、お分かりでしょう。野口英世(つまり1,000円札)、樋口一葉(つまり5,000円札)、福澤諭吉(つまり10,000円札)とあなたの相性は?というゲーム設定です。(2,000円札のウラには紫式部さんがいますね。漱石先生は何円札でしたっけ?)★★

◆(15)こうした大勢で一緒に楽しむ場合、各自の『マス目を埋めるシゴト』が済んだあとはどうするか・・・・・・??

◆(16)誰が、いくつマス目を埋めてトップになったか。つまり?マークが一番少なくて一番フクザワユキチさんとの相性が良かったのは誰か、などという結果発表と、その表彰は誰が、どう行うのか・・・・・・??

◆(17)それは、やはり、進行・世話人さんにお願いするほかなさそうですね。

◆(18)世話人さんは参加者が記入するためのカードやボ-ルペンなどの筆記用具を、あらかじめ用意しておいたり、≪特別共通テーマ≫を考えておいたり、表彰のための景品を用意しておいたり、仲々タイヘンです。ご苦労さま!!頑張ってください。

◆(19)なお、いつも申して居りますとおり、日本の言葉あそびの慣習として、清音、濁音、半濁音の変換は自由。『ハ』を『バ』としても『パ』としてもOK!!その逆もアリですね。そのことはこの『相性調べ』でも不変です。

◆(20)野口、樋口、福澤の諸氏との相性が良く、皆さんが、ますます福運にめぐまれますよう祈っています。やってみてください、『相性調べ』。

◆(21)上記のお札(さつ)のほか、≪特別共通テーマ≫の候補としては次ぎのようなものも考えられますね。
『万馬券(マンバケン)』『宝くじ(タカラクジ)』『薦被り(コモカブリ)『恵比寿・大黒(エビスダイコク)』『七福神(シチフクジン)』など。

◆◆これらをサイドAとして『相性調べ』をするという案です。そこでお願いですが、大勢で楽しむのにふさわしい、わっと盛り上がるような≪特別共通テーマ≫を考えて、お寄せくださいませんか。

◆◆その他、この遊びの改良案やご意見などもご寄稿頂けたら幸甚です。では、皆さん、お元気に。次回、また。


獨行道・中川一政の世界 №7 [文芸美術の森]

【監獄の横】

                                  真鶴町立中川一政美術館

中川一政6.jpg
油彩 キャンバス 10号P 1917年 

 前回、紹介した「監獄の横」(12M 1917年)と対をなす作品である。今度は、別の側から巣鴨拘置所の長い塀と草むら、道を描いている。
 塀と左側の道は同じ消失点に向かって集束していくが、その道からは右に向かってさらに別な道が分かれている。それにより画面に安定感をもたらしている。
 前回紹介した「監獄の横」と同様、塀の外には守衛が見回りを続けていて、また右の道には籠らしきものを背負った人がこちらに向かって歩いてくる。この2人の登場人物がアクセントとなって画面を引き締めている。
 しかし、画面上部に描かれた空はやや暗く、画面全体に鬱屈とした空気が流れているのが、当時の一政の多感な心情を物語っているように思われる。(真鶴町立中川一政美術館主任学芸員・新井人志)

[中川一政画伯略歴]中川一政画伯写真.jpg
1893年(明治26年)東京本郷に生まれる。21歳のとき最初に描いた作品「酒倉」が岸田劉生に認められ、画家を志すようになった。
 油彩だけではなく、岩彩(日本画)書・篆刻・陶芸・装丁などその創作活動は自由奔放で多方面に渡っている。また屈託のない文章で知られる随筆、紀行文など著書も多く、1961年(昭和36年)には歌会始の召人に選ばれ次の召歌を詠進した。
 御題「若」
   若き日は馬上に過ぎぬ残る世を
     楽しまむと言いし伊達の政宗あはれ
 1949年(昭和24年)真鶴町にアトリエを構え「福浦」・日本一広いアトリエと自慢する箱根「駒ヶ岳」などの制作に励み、1960年(昭和35年)には福浦を描いた「漁村凱風」が全国知事会より東宮御所に献納された。
 1975年(昭和50年)82歳で文化勲章を受章。
 1989年(平成元年)3月2日真鶴町立中川一政美術館が開館する。1986年(昭和61年)に開館した松任市立中川一政記念美術館についで2つ目の美術館となる。
 1990年(平成2年)5月「中川一政美術館1周年記念展」を開催。33点の新作油彩画を発表。同年、秋、パリ市立カルナヴァレ博物館に於いて「奥村土牛・中川一政二人展」が開かれた。
 1991年(平成3年)2月5日死去。享年97歳11ヶ月。同年5月「中川一政書展」を開催。前年から企画していたもので、この展覧会の図録が画伯自身の手がけた最後のものとなる。同年9月、真鶴町名誉町民の第1号となった。

画伯写真撮影  岡畑孝二

真鶴町立中川一政美術館  神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴1178-1
                         http://www.town-manazuru.jp/museum/


浜田山通信 №74 [雑木林の四季]

「永山基準」とは 2 

                                               ジャーナリスト  野村勝美

 久我山に大学時代からの友人、櫛見光さんがいる。早稲田第二高等学院の同級生で、その頃はマラルメ・ランボー派と、私たち左派が呼んでいたグループの1人だった。その彼がもう20年も前から死刑反対運動に肩入れしている。「国家が、犯罪者とはいえ人を殺すのは戦争と同じだよ」という。
 私は作家逸見庸さんの作品が好きで、講演を聞きに行ったり著書もほとんど持っている。ただ死刑にまつわる文章はふれたくない思いが強い。首にロープをかけられる気持、かける刑務官の気持、それを考えるだけで頭が痛くなる。絞首刑は残酷だという人もいるらしいが、方法がいかようであれ、残酷でない死刑はない。
 かねて死刑判決を下す裁判官の心の内はどうなのかということが気になっていた。しかし裁判官というものは、判決文を書くこと以外何も話をしないことが建前になっている。だから囲碁仲間の牧圭次さんの死亡記事で牧さんが「永山基準」を示した最高裁判事だったことを知り、なんとも名状しがたい気分になった。
 永山則夫の連続射殺事件は、1968年秋横須賀の在日米軍基地から奪ったピストルで東京、京都では勤務中の警備員、函館、名古屋でタクシー運転手を射殺した。わずか一カ月の間の犯行で当時「連続射殺事件」として大々的に報道された。
 永山は犯行時19歳。小さい時親に捨てられ学校へもほとんど行っていない。18才未満に死刑は適用しないという少年法の精神をくんでもよいケースだったが、1審は死刑、2審で無期になった。死刑と無期の差は無限に大きい。それが83年7月の最高裁で量刑を不当として差し戻されたのだ。死刑が無期になったのを破棄して差し戻すというケースは戦後初めてだった。しかもこれに「永山基準」と呼ばれる死刑適用基準がついていた。それは「犯行の罪質、動機、態様、ことに殺害の手段方法の「執拗生・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状」の9項目で「それらを総合的に考慮し、やむを得ない場合は、死刑の選択も許される」とした。
 永山則夫の第2次上告審は90年死刑が確定し、97年8月死刑が執行された。48歳だった。永山の犯行は凶悪という以外言いようがない。どの殺人事件もそうだが、被害者、遺族の身になってみれば、殺してやりたいと思うだろう。しかし死刑、無期、破棄差し戻し、死刑確定といじり回された永山の生涯を考えるとやりきれない。誰がつけたか、多分マスコミだろうが、「永山基準」にだけ名を残す悲しさ。牧さんはどんな思いで判決文を書いたのだろう。たとい私が生前、裁判のことを知っていたとしても、牧さんに死刑についても質問はできなかっただろうと思う。 (つづく)


四季つれづれ №18 [ことだま五七五]

花二題

                                俳人・「古志」同人  松本 梓

    子燕も仰ぎ見る子もかしましく
   
    広縁の心安さよ一番茶
   
    半日の労をねぎらふ新茶かな
   
    巣立鳥親の水浴び見てをりぬ
   
    煮て炊いて初筍を余すなく
   
    篠の子採藪動かして現はるる
   
    摺鉢のごとき在所や青田風
   


   いちはつの花咲き出でて我が目には今年ばかりの春ゆかんとす     正岡子規
 
  いちはつはあやめ科の草花で花はふじ色がかった紫、葉の緑は淡く草丈も低い。あやめほどの華やかさは無いが、やさしい感じの庶民的な花である。
  子規の病状は日に日にきびしくなるばかり。来年はいちはつも見ることが出来ないだろうと思う。この世との惜別を、いちはつと今年限りの春に投げかけている。いつも前向きで辛い運命に立ち向ってきた子規も、思わず本心が吐露されたのであろう。亡くなる一年前の作、胸を衝かれる歌である。
 
 
  くちなしの白い花なりこんなにも深い白さは見たことがない      山崎方代 

  梔子の一重咲きは六弁が真ったいらに開き、雨をはじいてよく匂う。秋には愛らしい赤い実をつける。
  山崎方代(やまざきほうだい 大正三年生、歌人)は貧しく、結社に頼らず自由に歌を詠んだ人である。戦争中にインドネシアの戦闘で右眼失明、左眼もかすかな視力であったという。くちなしを指先でまさぐった白、健常者よりするどい質感の白を感じとった。ふだん深緑や深紫は聞くが、白にも深い白があったのである。私は梔子の白は奉書紙の白と思っていたが、方代の白の深さは奉書紙では到底及ばない心底(しんそこ)からの白さであった。

 


BS-TBS番組情報 №10 [雑木林の四季]

BS-TBS 6月のおすすめ番組
                                     BS-TBS広報宣伝部

「こころの歌遺産 ~後世に遺したい日本の名曲~」

BS-=TBSこころの歌遺産.jpg

6月6日(月) 午後6:00~9:00

☆今、日本に必要なことを歌にのせてメッセージとして視聴者の皆さんに届ける名曲の数々。

司会:山本文郎
ゲスト:加藤登紀子 布施明 ほか

「見上げてごらん夜の星を」「シクラメンのかほり」「知床旅情」ほか、日本人には、それぞれの記憶に刻まれた名曲が数多くある。それは、日本人の財産ともいえる名曲、いわば「日本の歌遺産」。『夢と希望』、『美しき日本の風景』、『愛と絆の大切さ』をテーマに昭和が生み出した名曲の数々を紹介。今、日本に必要なことを歌にのせてメッセージとして視聴者の皆さんに届ける。また、ゲストによる名曲の生歌披露も。

夢と希望(テーマ1)
先の未曽有の大震災から1年。この傷から立ちなおれるか不安を抱える人々も多いのではないだろうか。そんな中、希望と喜びに満ちた1960年~1970年代の名曲をご紹介し、元気をお届けします。

美しき日本の風景(テーマ2)
ECOが叫ばれる昨今、日本の旅情と風景の美しさを歌った曲をお届けし、今一度すばらしき日本の自然とその大切さを感じていただきます。

愛と絆の大切さ(テーマ3)
家族や友人との絆を大切にしてきた日本人。しかし昨今、核家族化や孤独死など問題が表面化。人と人の付き合いがき薄になっているから今だからこそ、愛と絆を歌った名曲をお送りし本来の人間の温かさや絆を再考していただきたいと思います。

「極上のクルーズ紀行」

BS-TBS極上のクルーズ紀行#62.jpg

毎週(水)よる9:00~9:54

☆日常の喧噪を離れた優雅な時を過ごす旅、クルーズ。極上な時間を過ごす醍醐味を余すことなく紹介する番組。

ナビゲーター 高橋克典

6月6日(水)
#62「ディズニー・ファンタジー号でゆく 夢と魔法のカリブ海クルーズ」
1998年の就航以来、ディズニー・クルーズラインは、その高いエンターテインメント性を駆使して、全ての世代を楽しませる船旅をプロデュースしてきた。今回は、ディズニー・クルーズライン4隻目の新造船、「ディズニー・ファンタジー号」のデビュー航海前の特別クルーズを、2回に渡ってお届けする。船は、アメリカ、フロリダ州にあるポート・カナベラル港を出発し、美しいカリブ海を周遊。船内にはミッキーマウスをはじめとする、おなじみのディズニーキャラクターも登場。趣向を凝らした施設やイベントの数々…。夢に溢れたディズニークルーズの魅力に迫る。またディズニーワールドのある、全米屈指の保養地としても知られた、フロリダ州、オーランドも紹介する。

6月13日(水)
#63「ディズニー・ファンタジー号 憧れのプライベート・アイランドへ」
アメリカ、フロリダ州のポート・カナベラル港を出発したディズニー・ファンタジー号は、バハマの海に浮かぶ、ディズニーのプライベート・アイランド、キャスタウェイ・ケイへ。マリンブルーの海、白い砂浜…。まるで絵葉書のような風景が広がるこの島では、シュノーケリングや、サイクリングなど様々なアクティビティを楽しむことができる。また船内で繰り広げられる、洗練されたエンターテインメントショーや、オープンデッキでのパーティーもご紹介。フィナーレに用意されたのは、船上から打ち上げる花火の大スペクタクルショー。まさに船名通りの幻想的で夢のようなクルーズをお届けする。

「酒場放浪記スペシャル」

BS-TBS酒場放浪記スペシャル.jpg

6月6日(水)よる10:00~12:00

☆大人気「吉田類の酒場放浪記」と妹版「おんな酒場放浪記」をたっぷり2時間!

出演:吉田類
   栗原友 倉本康子 古賀絵里子

人気番組「吉田類の酒場放浪記」に、4月からは「おんな酒場放浪記」も加わり、注目を集めているBS-TBS酒場放浪記ファミリー。
今回は、6月6日BS-TBSの日に、吉田類特別編を1話放送。
また、「おんな酒場放浪記」では見ることのできない、モデル・倉本康子、写真家・古賀絵里子、料理家・栗原友それぞれの日常を撮影。普段の“本職で働くプロの顔”を紹介する。
さらに、「吉田類」と「おんな酒場放浪記」で同じお店を見比べるべく一挙再放送を。


妖精美術館 №40 [文芸美術の森]

《ウォルター・クレイン編『シェイクスピアの庭からの花たち』》
Flowers From Shakespeare's
 Garden

                                妖精美術館館長  井村君江

妖精 クレイン2-1.jpg

                              1909年版 25.2×19cm

自ら「クレイン・ブック・デコレーション」と呼ぶ、装飾的に簡略化された表紙デザインを開くと、シェイクスピア劇の15の場面から花にまつわる場面をピックアップし、「花のフマンタジー」といえる様式化、装飾化された画面に美しい人物が次々と登場する。
戯曲の内容をよく理解したボーズと構図に合わせ、花の性質をよくとらえ、たくみにデザイン化された衣服をまとった人物たちが、劇中の台詞で言われる花の役を完璧に表現しており、パントマイムの衣装デザインの先駆的内容といえよう。

妖精 クレイン2-2.jpg
妖精 クレイン2-3.jpg
妖精 クレイン2-4.jpg
妖精 クレイン2-5.jpg
妖精 クレイン2-6.jpg
妖精 クレイン2-7.jpg
妖精 クレイン2-8.jpg

                         《シェイクスピアの庭からの花たち》表紙

『妖精美術館』フェアリーカンパニー


高橋由一 №22 [文芸美術の森]

浅草遠望(関屋の里)

                            東京芸術大学名誉教授  歌田眞介

由一・浅草遠望.jpg

                   1878(明治11)年 油彩、麻布 39.9×48.3cm

 空を広く取り入れ、遠景の森の中に浅草寺本堂と塔が小さく描かれている。その空と遠景を切り裂くように手前の草を描いている。
 空や遠景と手前の草々との対比の美しさがこの絵の魅力である。由一は草の勢いを強調するため工夫をしている。近づいて見ると下辺から三分の一まで透明感のある暗褐色で下塗りをしているのだ。それを利用して根元の方はあっさり描いている。それによって下辺が重苦しい印象になるのを防いでいる。水塁画のような切れ味の一品。

『高橋由一作品集』金刀比羅宮


卵のふる街・白石かずこ詩集 №2 [文芸美術の森]

手紙

                                       詩人  白石かずこ

  顔を切られたら三日月になりましたね
  幸福は目もないくせに笑いたがるので
  わたし困りました
  池の側では水仙の瞳 水の上ではあひるの靴
  空の菅は吸取紙 まるで泥棒です
  あなた困りましたね
  字はうごきませんよ 耳はちぎられたのですからね
  失礼ですが あの口もきけません
  胃腸カタルなのです
  それからこの手紙はもやしました
  どうぞ
  封を切らないうちにみて下さい
            さようなら 不幸より

少女

  歯の間から星が飛んで夜になる
  このレンズはあわないといって
  オジイサンの目玉をもたされた
  白いもやの中に馳け出したあたしの
  ソーセージは何処だ!
  ろばや兎や鶏たちのために
  地球のまくったスカートは何処!

『白石かずこ詩集』思潮社


風説赤坂テレビ村 №3 [文芸美術の森]

『カメラ割りは先(せん)の先(せん)です』

                                        作家  鈴木茂夫

 ラジオ武威のテレビ開局は、昭和三十年四月一日と予定されている。
 開局までの残り日数も一ケ月余……スタッフは、準備に追いまくられていた。
 その本拠地・赤坂の丘の上にも、トラックから呼びかける立候補者たちの声が聞こえてくる。昨年暮れ、自由党の分裂によって誕生した日本民主党総裁鳩山一郎が首相の座につき、最初の総選挙に打って出たのだ。分裂していた両派社会党は、合同を公約し、保守陣営もまた、統一への動きを秘めている。保守革新二大政党時代への序盤となる選挙だ。
 赤坂の通りのいたるところに選挙ポスターが張られている。
 テレビニュースを統括している青江副部長は「おい、選挙の立ち会い演説会で、カメラワークの練習やろやないか」と選挙管理委員会の許可を取りつけてきた。
 「ニュースの現場からの生中継ちゅうのが、いちばんテレビの真価を発揮するときやで。ま、これがテレビのバックボーンというわけや」
 青江が所信をしゃべり出して指を突きだすと、とどまるところをしらない。課長の松沢が、子細ありげに頭を下げて席を立った。逃げ出したのだ。デスクもフィイルムの入った缶を手にして席を離れた。機会をうかがっていた峠昭六も、頃合いをみはからって立つ。
 「おい、昭六書、何しに行くんだ」
 青江が呼び止める。昭六は頭をかいた。
 「はあ、つまりタイミングを間違えたみたいです」
 育江が歯をむいた。
 「なんだ、それは、どういうことだ」
 「耳にタコのできていますありがたいお話でありますので、これ以上タコが大きくならないようにと、トンズラを試みたのです。でも、どうやらキッカケをつかものをトチッたようです」
 「馬鹿モン、君ィ、正直に答えりやいいってもんじゃないぞ。でもな、キッカケのつかみ方ってのは、放送屋の必須科目だぜ。ドジをふむなよ」
 青江はそこでこヤツとした。
 二月二十四日……。
 本物のテレビカメラによる最初の練習である。目的地は後楽園球場にほど近い礫川(れきせん)小学校の講堂。テレビ中継車が町の中に初めて姿を見せたのだ。車体の上部が銀色、下部が青色でそこには白抜きで『ラジオ武蔵テレビジョンJOKX・TV』と社名が記してある。中にRCAの映像・音声制御桟器とイギリス・パイ社のカメラ三台を搭載、発電機を牽引し走った。
 技術スタッフは、会場とされた講堂の舞台の左右両翼と中央に、三台のカメラと照明用のライト三基を配置した。発電機が作動しはじめると、ジーゼルエンジン特有の低い唸り音が発生して周囲にものものしく響いた。
 中継車のドアの内側に黒い遮蔽カーテンが下がっている。運転席の背後に、三台のカメラの捉えた映像を映し出すモニターとカメラの操作卓がある。そこにディレクターと、テクニカルディレクターが座つてティレクテイングする。それに背中を向けビデオエンジニアと、オーディオエンジニアが座る。狭い車内は、床から天井までギッシリと機器で埋められており、数人のニューススタッフが立ち並ぶと身動きできない。
 昭六は、フロアディレクターをするようにといわれた。連絡用のヘッドセットをつけて、会場の状況を必要に応じてディレクターに報告するのだ。
 中継車の中では、課長の松沢が最初にディレクティングの稽古をはじめた。三台のカメラの前部の回転板には、四本のレンズが装着されている。
「それじゃ、二カメ、八〇ミリで候補者の正面バストを押さえてみてください」
 テクニカルディレクターの岩崎が、カメラマンにてきぱきと指示する。
 東京一区は、現職の総理大臣はじめ各党派の大物が出馬して、全国一の最激戦区だ。ただこの夜、ここで演説をするのは、まず当達する見込みのない候補者たちだった。
  定刻、演説会がはじまった。会場には空席が目立つ。どうにか百人足らずの人たちが入っていた。
 最初に登壇したのは、無所属の大森育男だった。でっぷり肥った大森は、経済研究所を主宰していると称しているが、実体は総会屋である。永年にわたり、企業の総会で、強引に発音するのに慣れているせいか、その語り口に澱みはない。
 「私が今回立候補したのは、衆議院に当選するとかしないとかということが目的ではない。日本の政治の現状を見るとき、日本の政治に責任を持つべき保守勢力が分裂し、革新陣営に、つけこむ隙を与えていることを憂うるものである。不肖大森は、日本の保守勢力の統一実現に全力をつくしたい……」
 眼をつぶって聞いてるかぎり、納得のいく内容のようだ。だが、派手な格子縞のダブルの背広が、いかにもうさんくさい見過ぎの人物であることを雄弁に語っていた。
 「一カメを本番に撮ってるから、二カメは一五〇ミリでアップを押えて。三カメは場内観客の表情を五〇ミリのワイドショットでいくよ。照明は、正面演壇に集中しておいていいぞ」
 岩崎のかたわらで、几帳面な課長の松沢は、選挙演説の内容とは関係なく、丹念に弁士の姿を眺めていた。
 「生のカメラの撮る映像というのは、こういうものなんだね。もし、これが本番だったら、カメラをつぎつぎに切り替えなきやならないんだな、それじゃ、やってみるかな」
 と松沢は、座り直した。
 「ま、候補者のバストショットを撮ってみて下さい。それから、聴衆の表情にいきたいんですが……」
 松沢の指示があやふやなため、カメラをつぎつぎに切り替えてみるのだが、画面としゃべりの調子が合わない。つまりはキッカケのつかみ方の間がぬけているのだ。
 「話の筋を追っていると、カメラへの配慮がおろそかになってしまう。この仕事は、僕には荷が重いなあ。誰かやり給え」
 松沢の額に脂汗が浮かんでいた。
 聴衆の多くは、退屈して席を立つキッカケを狙っている様子である。
 「ひでえしゃべりだなあ、もう少しマシだとすこしは恰好がつくんだけどな」
 中継車の中の誰かが、候補者のしゃべりをののしっている。ヘッドセットを通して車内のうんざりした空気が昭六にも伝わってくる。ほどなく、ディレクティングする声がばったりと聞こえなくなった。
 「おい昭ちゃん、君んとこのお偉方は、ずらかっちまって車には誰もいないよ」
 テクニカルディレクターの岩崎の生あくびをかみ殺したような声だ。おおかた、みんなして夕食を食べに消えたのだろう。昭六は中継車に戻った。(つづく)

『TBS新調査情報』1996/10


往復書簡 広島・あれから67年 №2 [核無き世界をめざして]

中山士朗さまへ 関千枝子  ②  

 この間の手紙をみまして、原爆症認定の却下のことに付いて、お電話しましたが、その後、新聞を見て、やはり、これは早くお手紙を出さなければ、と思いました。 
 昨3月28日の毎日新聞(東京)の報道によると、「08年4月に緩和された原爆症認定の新基準でも認定が却下された東京、千葉、静岡などに住む被爆者17人と、すでに死亡した2人の遺族の計23人が27日、国に対し、認定申請却下処分の取り消しを求めて東京地裁に一斉提訴したそうです。ほかの地裁でも大阪、名古屋、広島、長崎など7地裁、63人の被爆者が訴訟を起こしており、個別訴訟が各地で再燃しているそうです。19人の病気は、ガン、心筋梗塞、甲状腺機能低下症など。新基準では爆心地から3・5キロ以内、原爆投下後100時間以内に爆心から約2キロ以内に入ったなどのうち癌や心筋梗塞など7疾病にかかり現在も医療を必要とする者には原爆症と認定するとしているのに、却下が多いそうで、原告は記者会見で「ヒバクシャの苦しみを認めてほしい」と怒りをあらわにしたそうです。
 また29日「赤旗」紙 によると、昨28日、認定制度の在り方に関する検討会が厚生労働省で開かれ、改定された基準の下でも大量却下が行われているのはおかしいと、抜本的改善を求めたようです。
  
 私、どう考えても、中山さんのケースが却下されたのはおかしいと思います。こんなのを泣き寝入りしたら、本当に「後世に禍根を残し」ます。記者会見で話した、76歳の方は、長崎で2・2キロで被爆、狭心症を患っているが、却下され、「国は冷たい」と怒っています。この方より、中山さんの方が,爆心にはるかに近く、その後もケロイドや様々な苦しみをされたのに、本当に、国、厚労省など何を思っているのか、腹が立って仕方ありません。中山さん、裁判されませんか。必要なら、私、証人になってもいいですよ。
 往復書簡の第2稿から、生々しく激しい内容になってしまってすみません。
 (追記) この手紙を出した後、中山氏から緊急入院するから、2,3日連絡が取れない、というファクスが入った。その後、2週間以上も連絡がなく心配していたが、入院が長引いたらしい。もう大丈夫とのことだが、高齢期に差し掛かっている被爆者、一日一日が心配である。

03 water.jpg

 

中山士朗から関千枝子さまへ

 お手紙ありがとう。私の原爆症の認定について、被爆地点距離の違いこそあれ、同じ被爆者である関さんが、激しい怒りを持って抗議し、「必要なら、私、証人になってもいいです」と言ってくださいました。このお言葉だけでも、私は十分救われています。
 私は、<被爆者を被爆者として死なしめよ>このことを願っての申請であり、却下への異議申し立てをしたのでしたが、国は放射能起因性に係る高度の蓋然性がないと判断したわけですから、あの日以降生き残り、長年後遺症に悩まされ続けた者たちの死は一体なんだったのか、と心の底から叫びたい思いでいっぱいです。
 そして、私は寺山修司の
 マッチ擦る  つかのま海に霧ふかし
 身捨つるほどの祖国はありや
 この短歌が口ずさまれたのでした。
 私の原爆症認定却下については、訴訟を起こすには、残された時間があまりに短く、其れに費やすエネルギーがあれば、忘れ残りの記を、どこまで続けられるかどうかわかりませんが、つづっておこうと思います。
 特に、関さんから第二信を頂いた直後に「蜂窩織炎」に罹り、即入院となって、二週間の安静生活を余儀なくされましたが、その思いは一層強くなってまいりました。
 関さんから最初に頂いたお手紙の中で、生き残った者の「負い目」について書いておられますが、私とて死ぬまで同じ状況にあるだろうと思います。つまりあの日を体験し、生き残ったすべての人々が、背負い続けた時間なのでしょう。
 私たち被爆者の内部には、一瞬にして、廃墟となった光景が残っています。その廃墟とは、生き残った者が、死者を思う場所であり、流れる時間を思う場所でもあるのです。
 たまたまではありますが、このたび、『知の木々舎』のウエブマガジン「核なき世界を目指して」のコーナーに掲載してくださった拙著『死の影』の中にそうした箇所が描かれて居ることに気づいた次第です。
 …誰からも見離された廃墟の方へ、足を運んだ。廃墟は、全体が錆付いている感じがしたが、そこに立つと、和夫は、あの日死んでいった下級生のことや、同じ学年で全滅したクラスの学友たちのことを思い出した。
 また
 夕陽が廃墟を深紅色に染めると、一瞬燃え立つようになり、どこからともなく叫び声が聞こえてくるようであった。和夫は自分は生き残ったのだ、という実感がどうしてもわいてこなかった、いつも稀薄な空気の中に立っている自分を意識し、亡くなった学友の死とはちがう死のことを考えていた。
 その当時の心象風景が素直に描写されたものですが、そこには私の生涯が予知されていたと思わざるをえません。

(写真)原爆の図「水」 丸木美術館


日めくり汀女俳句 №10 [ことだま五七五]

五月四日~五月六日

                                          句  中村汀女
                                                                     文  中村一枝
 

五月四日

     真上なる鯉幟(こいのぼり)まづ誘ひけり
             『汀女句集』 鯉幟=夏

 雛祭の雛は大人になっても飾るが、鯉幟は大人になるとまず立てない家が多い。
 最近なのか、もう前からなのか、不用になった鯉幟を集めて、広い河原などに何百という鯉を泳がせているところがあるらしい。
 私の行く八ヶ岳高原でも、毎年へんぽんとひるがえる鯉幟を見る。
 形も色も様々な鯉職が広い田園の上に悠々と泳いでいると、これぞ鯉幟と思い、気持ちまで広がって、気分も壮大となる。
 飾り付けは大変だろうが、それまでちまちました路地奥やベランダなどで、ささやかにゆれていた鯉幟は今大空にひるがえって満足気だった。


五月五日

     菖蒲湯(しょうぶゆ)を拭(ぬぐ)ひもあへず出づ子等と
            『汀女句集』 菖蒲湯=夏

 スーパーの店先に菖蒲が積み上げられている。百円とか百五十円とか、今も菖蒲湯に入る若い人もいるのだろうか。
 私が伊東に疎開していた頃、隣の大家さんの家に貰い湯に行った。伊東だからそこのお湯も当然温泉。二十畳くらいの広いタイル張りの浴室には浴槽が二つあり、近所の人もよく貰い湯にきた。当然混浴だった。風呂場は地下一階にあり、浴場のガラス窓をあけると、まわりは鯉の泳ぐ水槽があり、斜面は一面の花や木が植え込まれていた。五月近くなると紫色の菖蒲が花をつける。風呂につかりながらそれを眺めているのは贅沢な気分だった。


五月六日

     青嵐住みなすといふ日数(ひかず)かな
              『紅白梅』 青嵐=夏

 全社にも学校にも緑がなくなった老夫婦の生活でも、週始めと週末とでは何となく心持ちが違う。若い人が花金(はなきん)とか、花木(はなもく)とかいう夜になると、外へ行くわけでもないのに浮き立ってくるものがある。今や土曜も日曜も関係ない身分なのに、ざわめいている町の空気に乗せられて足の運びも軽やかだ。
 ようやく曜日に関係のない身分になれて気楽だと思っていた矢先、伏兵があった。ゴミの収集である。分別ゴミはいつ、可燃ゴミは、資源ゴミはビンの回収は……。おかげで私の頭のゴミ一覧表は無休で稼働している。

『日めくり汀女俳句』邑書林


前の20件 | -