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季節の記憶・いだようの写真散録 №191 [文芸美術の森]

「たおやかに」         自然写真家  いだよう

2017年9月下期分.jpg

ヒガンバナに覆いかぶさるように咲いていた萩。揺れて始めて風の起こるを知った。

いだようのFacebookページ : https://www.facebook.com/idayoh/



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『知の木々舎』第201号・目次(2017年9月下号編成分) [もくじ]

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【心の小径】

出会い、こぼれ話 №50                       教育者    毛涯章平
 第四十九話  転校希望

論語 №35                                              法学者  穂積重遠
 九九 孟武伯(もうぶはく)、子路(しろ)を問う。仁なるか。・・・

余は如何にして基督信徒となりし乎 №24                             内村鑑三
 第四章 新教会と平信徒伝道 5  

文化的資源としての仏教 №13             立川市・光西寺住職   壽台順誠
 四苦八苦 6

【文芸美術の森】

季節の記憶 №191                                 自然写真家  いだよう
 「たおやかに」 

西洋百人一絵 №94                           美術ジャーナリスト    斎藤陽一
  ルオー「郊外のキリスト」

にんじんの午睡(ひるね) №17                   エッセイスト  中村一枝
 ターさんとすえ子さん 8
  
フェアリー・妖精幻想 №69                       妖精美術館館長  井村君江
 『パンチ』に始まる挿絵入り雑誌の大流行と妖精画家

石井鶴三の世界 №101                                画家・彫刻家  石井鶴三
  法隆寺 雨雷鳴 1963年/熊本宇土櫓 1963年

はけの森美術館Ⅲ №35                        画家  中村研一
  朝顔

ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №39     早稲田大学名誉教授    川崎 浹
 市民たちが見たレーニンとスターリン13

【ことだま五七五】

草木塔~種田山頭火  №1                   俳人  種田山頭火
 鉢の子 1

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №24              川柳家  水野タケシ
 9月6日と9月13日放送分

【核無き世界を目指して】

続・対話随想 №23                                     エッセイスト  関 千枝子     
 関千枝子から中山士朗様へ              
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-09-10-13

丸木美術館から見える風景 №50   原爆の図丸木美術館学芸員  岡村幸宣
  語れない記憶 
【雑木林の四季】

浜田山通信 №201                                    ジャーナリスト  野村勝美
 「やすらぎの郷」と「四つの恋の物語」4

私の中の一期一会 №151               アナウンサー&キャスター    藤田和弘
 陸上男子100mで 桐生祥秀が9秒98。“10秒の壁”突破は日本人初の快挙

パリ・くらしと彩りの手帖 №127 在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ
   マクロン大統領は着々と選挙公約を実行:そしてデイオール大展覧会

気楽な稼業ときたもんだ №64     テレビプロデユーサー     砂田 実
 第8章 独立、倒産、そしてそのうち何とかなるもんだ 4

BS-TBS番組情報 №145                                      BS-TBS広報宣伝部
 2017年9月のおすすめ番組(下)

ロワール紀行 №61                             スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎
  月の夜のヴィランドリイ城館 2

バルタンの呟き №19                 映画監督  飯島敏宏
 さらに「後期高齢者運転免許」ロングドライブ

ZAEMON 時空の旅人 №19                                       文筆家  千束北男
 第十四章  不思議な空間 囚われた先はストリクト星人の城塞であった。

私の葡萄酒遍歴 №50             ワイン・グルマン  河野 昭
 ワインへの道・・・新世界3

医史跡を巡る旅 №28                                     保健衛生監視員  小川 優
 紀行シリーズ~西洋医学事始め・鹿児島県

いつか空が晴れる №19                     渋沢京子
  -High noon~
 
気随気儘 №5                                                            舞踏家  和泉 舞
 「天の詔琴4 今を生きる」

台湾・高雄の緑陰で №68        在台湾・コラムニスト  何 聡明
 2017年の台湾国際大学スポーツ夏季大会

地球千鳥足 №106     グローバル教育者・ 小川地球村塾塾長  小川彩子
 国民、犬、蠅まで総幸福の国で松茸たらふく頂いた!~ブータン王国~

【ふるさと立川・多摩・武蔵】

玉川上水の詞花 №200               エッセイスト  中込敦子
 ナンテンハギ(まめ科)

赤川Bonzeと愉快な仲間たち №95                     銅板造形作家  赤川政由
 大久保病院の看板娘

旬の食彩 僕の味 №98     レストラン「ヴァンセット」オーナー    大澤 聡
 ズッキーニと甲殻類のマリアージュ

立川陸軍飛行場と日本・アジア №148                    近現代史研究家 楢崎茂彌
 第五連隊機、八王子市の防空演習に出動

線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №86                       岩本啓介
 妙高はねうまライン    

押し花絵の世界 №47                                             押し花作家  山崎房枝
 「静物」

渋紙に点火された光と影 №20               型染め版画家  田中 清
 雑草(ヒメシバ) 

音楽のある風景 №7                MATプロデューサー    しおみえりこ
 エイズに負けないで!子ども達 Ban rom sai Thailand

【代表・玲子の雑記帳】                   『知の木々舎 』代表  横幕玲子


          *       *      *      *
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西洋百人一絵 №94 [文芸美術の森]

ルオー「郊外のキリスト」

            美術ジャーナリスト、美術史学会会員  斎藤陽一

 ジョルジュ・ルオー(1871~1958)は「20世紀最大かつ最後の宗教画家」と呼ばれたりする。これには、少々、注釈が要るだろう。

 長い間、西洋絵画の主流は、聖書に主題をとった「宗教画」だったが、19世紀後半、「同時代的表現」を志向する「印象派」の登場をきっかけに、下火になっていく。
 西洋社会の激変もその背景にある。18世紀末に勃発したフランス革命に象徴されるように、それまでの王侯貴族やカトリック教会による支配構造が崩壊、19世紀には、産業革命の進展によって経済力を持った市民階級が主役に躍り出た。これに伴い、絵画状況も激しい変革期を迎え、20世紀に入るや、「同時代性」から「主観化」「抽象化」「純粋造形」の追求といった多様で革新的な芸術潮流が生まれる。さらに、物質文明の進展や、それとうらはらな分配の不平等の増幅、二度にわたる大戦に象徴される大量殺りくという「神なき時代」の到来などによって、人々の信仰心も希薄になり、宗教画はますます影が薄くなった。
 ルオーは、そのような20世紀に、新たに浮き彫りになった“人間存在の悲惨さ”を感じ取り、独自の宗教画を描くことにこだわった画家である。

 キリスト教的風土とは言えない日本でも、独特のキリスト観を持つルオーの絵を好む人は多く、わが国の美術館でもその作品を目にする機会は多い。例えば、出光美術館は、いくつもの油彩画とともに、ルオーの大判版画集「ミセレーレ」の全作品(銅版画58点)を所蔵しているし、パナソニック汐留ミュージアムは、ルオーをコレクションの中核としている。
 今回は、見ごたえのあるルオー作品を所蔵するブリヂストン美術館のコレクションから、「郊外のキリスト」(1920年、ルオー49歳)を取り上げる。

 冴え冴えとした月が夜空に浮かぶ郊外の町― 1本の煙突と古びた小さな家並みは、ここが貧しい労働者たちが住む場末の通りであることを感じさせる。季節は、もの悲しい晩秋か、あるいは、ものみな寒気に凍てつく冬か。冷涼とした風景である。
 そこに、人気のない道をとぼとぼと辿る三つの人影・・・
 中央の白衣のひとはキリストと見てよい。連れの二人はやや小さく描かれ、一見、子どものように見えるが、ルオーが描く心象風景のなかでは、人物の大小は写実的なものではない。弟子と見てもいいし、民衆を象徴する存在と見ることも出来る。
 そう、これは、貧しさや悲惨さに苦しむ人たちのそばに、音もなくそっと現れるキリストなのである。そして、これがルオーの心にあるキリストのイメージである。

 かつて、長い間、西洋キリスト教社会では、キリストは、この世の終末のときに人々を裁く絶対的な「審判者」であった。だが、ルオーのキリストは、神の国にあって人類に君臨する強い「王者」ではない。
 貧しい者や悲しみに沈む者、病める者、老いたる者・・・そういった弱い人たちの傍らにひそやかに現れ、一緒に涙を流しながら、その重荷をともに担ってくれる「同伴者キリスト」― これがルオーのキリストである。画家は、ステンドグラスを思わす太い線と簡潔なかたち、重厚な色彩によって、聖書の風景を静かに描き出す。

 ルオーが描くキリストの姿は、ある絵では法廷で“人間たちに裁かれるキリスト”であり、また別の絵では“人間に捕らえられ、辱めを受けるキリスト”だったり、“激しく傷めつけられ、死に赴くキリスト”だったりする。
 これらのキリストは、自らの惨めさと痛みにより、同じ悲惨さの中にいる人間と共にいて涙を流すキリストである。そこにルオーは救いと愛を見出す。
 ときに、ルオーの絵画世界では、人間存在の悲しみは、道化師や売春婦のイメージで提起される。一方、20世紀の経済至上主義と金権支配、爛熟した物質文明は、醜い姿のブルジョワや恐ろしげな顔つきの裁判官のイメージで表される。

 「郊外のキリスト」は、そのような絵画思想を持つ20世紀人ルオーの心象風景なのである。
 そしてそこが、異教徒である日本人をも惹きつけるところであろう。
 「同伴者キリスト」のイメージは、たとえば、四国八十八か所を回る巡礼が、常に弘法大師が傍にいて守ってくれるという気持ちから笠に書く言葉、「同行二人」に通じるものがある。
 何よりも、私は、この絵を見ると、江戸時代の俳人与謝蕪村の句が思い起こされる。
                                        
   「月天心 貧しき町を通りけり」  蕪村

(注)著作権上の理由で画像はありません。


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にんじんの午睡(ひるね) №17 [文芸美術の森]

ターさんとすえこさん 8

                    エッセイスト  中村一枝

 私がすえこさんの具合があまり良くないという話をきいて病院に会いに行ったのは、娘が生まれて多分三か月位後のことである。手術はうまくいったものの体調は今ひとつはかばかしくないということで、すえこさんはT病院に再入院していた。病院はその頃、改修工事の真っ最中だった。以前私が病室の窓から見た周囲の牧歌的な風景はすっかりなくなっていた。窓は開かないようにくぎ付けされていた。わたしはその点でも今入院せざるを得なくなったすえこさんにとても同情した。
 久しぶりに会ったすえこさんはすっかり面やつれしていて顔色もよくなかった。でも悪い部分はみんな取って後は慣れだけという病院側の言い分に間違いはない。すえこさんはただ現状に適合できなかった。体がまず受け入れなかった。そして、体はもちろん、心もボロボロになりつつあることに誰1人気づかなかったのだ。とても微妙なことだが、すえこさんはと言うより、その頃の病院は患者の訴えを聞いても今ほど患者サイドに立つわけではなかった。まして執刀者のTは実力者であり本人もそれを充分承知している。彼としては最大のサービスを提供しているつもりでやっているのに患者が受け容れない。医師としては最大の屈辱なのだ。でも彼はそんな事であれこれ言っているわけではなかった。すえこさんの我がままだというひともいた。わがままだと言われればまさにそうだろうが、胃の全摘をうけた友人などは今だに人と食事はできないと言っている。今は周囲の理解がかなり進んでいるから違うと思うが、個人個人の違いをひとまとめにはできないのだ。すえこさんはしばらく入院したあと、また別の病院での治療も受けた。品川駅の近くにある病院は庶民的で居心地も悪くなさそうだった。大事なすえこさんに病気になられてターさんは、不安だったに違いない。ターさんにとってすえこさんが元気でいることが一番の安心であったのだ。
 この原稿を書きはじめたとき、わたしはすこし、思い違いをしていたことがある。書いているうちに少しずつそれがわかってきた。確かにT病院の医師がすえこさんと向きあって術後いろいろ方法を教えてくれたらすえこさんの後半の人生が変わったのではないかと、ちょっと恨みっぽい気持ちがあったのだが、当時、彼としてはやはりできるだけのことはやったのだろう。すえこさんの娘のみずきちゃんと話をしているうちにそのことに気がついた。
 みずきちゃんは東京での教員生活を終えたあと、同じ教員のご主人と農業をして暮らしている。時々新鮮な野菜や果物を千葉から送ってくれる。もしすえこさんが生きていたらそういう娘の生き方をとても喜んだに違いない。戦争中も戦後もすえこさんは生活を楽しみながら生きていた。わたしはいつも前向きの生き生きしたすえこさんが好きだった。病気が人生を変えてしまったけれど、私はすえこさんの生き方からいろいろ教えてもらったのだ。私がすえこさんと関わったのは物のない時代だった。その中ですえこさんは生き生きと人生の楽しさを教えてくれた。たーさんは無骨そのものの男だったが、すえこさんと並ぶとなぜかびったりうまがあつた。たーさんとすえこさん、私が子供時代ににみた夢はいまも生き続けている。


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フェアリー・妖精幻想 №69 [文芸美術の森]

雑誌や本を飾る妖精挿絵画家(イラストレーター)たち 1
              
              妖精美術館館長  井村君江

『パンチ』に始まる挿絵入り雑誌の大流行と妖精画家

 『パンチ』誌(Punch,or The London Charivari)は、一八四一年発刊以来、鋭い社会政治の諷刺戯画(「カートゥーン=漫画」の言葉を流行させた)を載せ続け、ジョージ朝、ヴィクトリア朝時代の市民に広く読まれた。そして、この雑誌に所属していた戯画作者から多くの優れた挿絵画家が生まれた。ジョージ・クルックシャンクをはじめ、ジョン・リーチ、リチャード・ドイル『不思議の国のアリス』で知られるジョン・テニエル、小説家でもあるウィリアム・サッカレー等が代表として挙げられよう。
 『パンチ』誌の編集長のマーク・レモンは作家でもあり、『フェアリー・テールズ』(「三匹の熊」「魔法の人形」を含む)を書いている。また、ドイルやチャールズ・ベネットに挿絵をえがかせ、戯画絵描きから独立した挿絵画家い育てると同時に、黄金期挿絵本の時代にさきがけて挿絵本を作った人であるとも言える。
 ドイルはマーク・レモンに十代で見出され、『パンチ』の表紙を描いた。その人物像が『パンチ』の諷刺戯画の典型であるが、大胆にデフォルメされたユーモラスな描き方は、超現実の小人「親指トム」に実在感を容易に与えているし、近づき難い政治家や各界の要人の回りをさまざまなポーズで飛ぶ妖精たちにも存在感を与えている。
 こうした種類の絵画は画家の自在な想像力から出てくるものであり、現実の絆や階級の制約を越えて、自由な筆の先から生れてくるもので、超自然の生き物である妖精たちも同じような源から息づいてくるのも頷けよう。『挿絵入りロンドンニュース』、『グラフィック』、『ピクトリアル・ワールド』、『ペニー・イラストレイテッド』誌と、この時代に次々と同系列の挿絵入り雑誌、週刊誌、月刊誌が刊行され、とくに『ワンス・ア・ウィーク』
や『良い言葉』、『コーンヒール・マガジン』等になると、詩歌や古典紹介のために、よりファンタスティックで夢のある挿絵が付けられてくる。一方でヨーロッパから入ってくるベローやグリム、アンデルセンの英訳本に挿絵を付けたり、本国で出される妖精物語(フェアリーテイルズ)の挿絵を描いたり、次々と生れる創作童話に挿絵やデザインが必要となってくるという具合に、挿絵画家たちの活躍が目立ってくる。

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ダニエル・マックリース絵、チャールズ・デイケンズ作「炉端のこおろぎ」
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リハード・ドイル「妖精の国で」

『フェアリー』 新書館


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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №39 [文芸美術の森]

認識のズレ

            早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 スターリン時代を終えフルシチョフの時代に進むまえに ― といってもスターリンはゴルバチョフ時代にふたたびキリストのように復活するのだが ― 戦争の終結という歴史的事実にふれなければならない。
 一九四一年から四五年までの第二次大戦でソ連は七〇〇万人の死者をだした。ドイツ軍に八〇〇日間包囲され、守りぬいたレニングラードでは、六四万人の餓死をふくむ八〇万人の犠牲者をだした。
 ついに戦争は終わった。それでも苦労はつづく。

 レニングラード市内の肉店に行列ができた。ちょうどひとりの老女の前で肉が売り切れてしまった。
「お婆さん、しょげることはないさ」と売り子が彼女を慰あた。「いまは一時的にたいへんだけど。やがて共産主義になれば……」
 すると老女が答えた。「驚くもんかい。あたしゃ包囲戦を耐えてきたのだからね。あんたの共産主義とやらだって耐えてみせるわよ」

 面白いのは、共産主義への道をふみだして三〇年、スターリンが共産主義の指導者として胸をはっているのに、まだ共産主義が実現されていないという民衆の認識である。ふたつめの面白さは、老女が共産主義を「忍耐する」ものとして受けとめていることから生じるズレの感覚ととどめの効果である。
 レーニン、スターリンの時代は血みどろの内戦と、テロと弾圧と粛清の時代だったので、アネクドートの話し手も対応をひとつ誤ると身の破滅につながった。スターリンのアネクドートはいま読んでも、アネクドートの奥から当時の熾烈な現実がパノラマのように躍りでてきて、かげろうのアネクドートを背景に後退させてしまう。実際、スターリン時代にどこの誰がいつどこで、こんなアネクドートをしゃべれたのだろうか、という印象をつい抱いてしまう。
 スターリン自身と太刀打ちするためには、アネクドートがよほどの迫力をもつか、逆にアネクドート本来の軽みにスターリンを引きずりこんで笑うしかない。プーシキン像の建設や飛行機の翼を切る小悪魔との取引など、その一例だろう。
 しかし軽みと笑いの分野では、プーシキン像建設の例のように、ひどく面白くはあるが、スターリソを愛橋のある善人あつかいすることになりかねないので、難しい。
 ただし直接スターリンが登場しないスターリソ時代の一般的なアネクドートで面白いものは、重くとも軽くともすんなり受け入れることができる。いずれにしろ、スターリソ時代にどれほどの数のアネクドートが潜行したのかはっきりしないが、多くは活字にならぬまま過去の闇に消えてしまったのだろう。


『ロシアのユーモア』 講談社選書

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石井鶴三の世界 №101 [文芸美術の森]

法隆寺1963年/熊本城宇土櫓1963年

               画家・彫刻家  石井鶴三

1963法隆寺.jpg
法隆寺・雨雷鳴 1963年 (115×171)
1963熊本城宇土.jpg
熊本城宇土櫓 1963年 (201×144)

**************
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社


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はけの森美術館Ⅲ №35 [文芸美術の森]

朝顔                   
                   画家  中村研一

朝顔.jpg
35cm×23cm

************                                          【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面 

 


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草木塔~種田山頭火 [ことだま五七五]

鉢の子 1

                 俳人  種田山頭火

大正十四年二月、いよいよ出家得度して、肥後の片田舎なる味取観音堂守となつたが、それはまことに山林独住の、しづかといへばしづかな、さびしいと思へばさびしい生活であつた。

 松はみな枝垂れて南無観世音

 松風に明け暮れの鐘撞いて

 ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる

大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た。

 分け入つても分け入つても青い山

 しとどに濡れてこれは道しるべの石

 炎天をいただいて乞ひ歩く


『草木塔』 青空文庫

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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №24 [ことだま五七五]

              読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆9月6日と13日放送分

         川柳家・コピーライター  水野タケシ

川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」、2017年9月6日放送分の内容です。

24-1.jpg
今週も寺田稔さんの句集「春夏秋冬」を手に !! 

「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)がキャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
9月6日の再放送の音源は、こちらから!https://youtu.be/6IfCzFcHceQ  

【今週の質問コーナー】
先日、フジテレビの報道番組(ユアタイム)で仲畑流万能川柳が紹介されていたとのことですが、
裏話も含めて詳しく教えてください。(離らっくすさん)
※質問に関する回答は、コチラ!!https://youtu.be/6IfCzFcHceQ 

【今週の一句】
今週は129句の投句がありました!!たくさんのご投句ありがとうございます!!
(みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略)
・前世はきっとどこかの宇宙人(キジバト交通)
・政活費ああ生活費性活費(キャサリン)
・そんな事笑い飛ばして茄子を焼く(ちゅうおう麻呂)
・瀬戸際に誘い込まれている僕ら(名人・りっちーZ)
・ミサイルは北方四島避け飛ばし(龍龍龍)
・オスプレイ来たらアラート鳴らしてよ(秦野てっちゃん)
・ミサイルの発射で得する奴が居る(司会者=あさひろ)
           (添削例)ミサイルの発射で得をする奴ら
☆タケシのヒント!
「あさひろさんの句、北のミサイルを別の視点から見た、うがちの効いた句です。内容が良いので、五八五の字余りがもったいないですね。省略をきかせて、ゆったり詠んでみましょう。」
☆あさひろさんの「ボツのツボ」
「ミサイルや眞子さま婚約発表会見のネタが多数。そんなこんなを含めて秀逸は茄子を焼く句。ボツのツボ『胃カメラで曲った臍を見破られ』春爺。例年受診しているK大学東病院から突如人間ドックはやりませんという連絡。ひぇ~地域密着じゃなかったの?この黒い腹どこでチェックを?」
・好きなこと悩みの種になることも(グランパ)
・導火線つけて噂を抛りだす(瀬のしろ)
・アラートが鳴った朝でもゴミは出す(入り江わに)
・速達でSPEED辞任した議員(離らっくす)
・へばりつき網戸で歌う油ゼミ(あまでうす)
・窓拭きをしろと朝陽に叱られる(でんでん虫)
・都議会が小池ファーストとなる拍手(東海島田宿)(添削例)都議会は小池ファースト大拍手
・孫帰る犬が甘えにやってくる(やんちゃん)
・ザルの上転がしただけ民進党(名人・アキちゃん)
・マイク手に静かに叫ぶラブソング(海辺のスーさん)
・言っちゃおか言いたいけれどまだ言えぬ(名人・けんけん)
・僕がアレ買ったと知っているネット(名人・どんぶらこ)
・目出度さを半減させた北の核(つや姫)
・太陽と月の下では核実験(名人・酔とぉよ)
・出かければ必ずネタを持ち帰る(名人・光ターン)
・暗記したセリフのような記者会見(名人・荻笑)
・いい男見ると疲れがとれていく(平谷妙子)
・ミサイルに替わるおもちゃを与えたら(六文銭)
・終えてから電気消してるお年頃(名人・ユリコ)
・ICUオレも集中治療卒(爽抜天)
・TEL待つわ今夜は月が綺麗なの(鵜野森マコピィ)
・二つ三つ鉢を枯らして夏終る(雷作)
・黒革の手帳にあったハートの絵(北の夢)
・10代も命がかかる横恋慕(クッピー)
・平和慣れ空襲警報ピンと来ず(かたつむり)
・正恩氏腹部CT見てみたい(外科系)
・エサ食べず夏の分まで眠るネコ(東林間ひろぴぃ)
・眠れない夜は感謝を数え上げ(不美子)
・赤トンボ豪雨の時は何処にいた(あやや)

本日の秀逸!・そんな事笑い飛ばして茄子を焼く(ちゅうおう麻呂)
おめでとうございまーーす!!
2席・太陽と月の下では核実験(名人・酔とぉよ)
3席 ・ICUオレも集中治療卒(爽抜天)

【お知らせ
本日の秀逸の句にも贈られる、寺田稔さんの仲畑流万能川柳文庫「春夏秋冬」、現在絶賛発売中ですので、皆さんもぜひお読みくださいませ!!
寺田稔さんは1940年神戸市生まれ。現在は西宮のお住まいです。
1992年万能川柳デビューの大ベテランで、「テラミノ」さんの愛称で誰からも慕われています。
2015年「良いことも不幸もなくて除夜の鐘」で年間大賞。
その他にも「高いツアー安いツアーも今日は雨」、「人文字の写真の我が子母見つけ」などの名作で知られています。
また、印象的な表紙は、同じ川柳仲間の寺田光夫さんによるイラストレーションです。
こちらもぜひご覧いただきたい力作です。
仲畑流万能川柳文庫のお問い合わせは、
万能川柳クラブ事務局(03-3212-2349)までお願いします。
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【放送後記】
 「いい男見ると疲れがとれていく」という平谷妙子さんの句を紹介しましたが、私の場合は、「いい句」を見ると疲れが吹き飛びます!!
今朝の、秀逸、2席、3席、ウンウン唸りながら選句しましたが、まさにウレシイ悲鳴!!
とくに、ちゅうおう麻呂さんと爽抜天さんは最近投句を始めた方々なので、喜びもひとしお!!
新しい才能との出会いを心待ちにしています!!
                                タケシ拝

2017年9月13日放送分の内容です。
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「これから始める俳句・川柳いちばんやさしい入門書」を手に、あさひろさん

「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)がキャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
9月13日の再放送の音源は、こちらから!https://youtu.be/gygLa8AnabY 

【今週の質問コーナー】
水野タケシさんの本業はコピーライターとお聞きしましたが、タケシさんの代表的なコピー作品を教えてください。(離らっくすさん)
※質問に関する回答は、コチラ!!https://youtu.be/gygLa8AnabY 

【今週の一句】
今週は133句の投句がありました!!たくさんのご投句ありがとうございます!!
(みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略)
・不祥事ら与党に負けてない野党(名人・りっちーz)
・リモコンでミサイル北に戻したい(ラジゴ)
・一国に揺さぶりかける不倫劇(瀬のしろ)
・明日を見て花はまっすぐ咲いている(平谷妙子)
・太ももをくぐる初秋の迷い猫(やんちゃん)
・若い力士よあばれておくれ(かたつむり)
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ラジ川名物・かたつむりさんのファクス!
☆あさひろさんの「ボツのツボ」
「今週の一句“秀逸”に抜かれたのは秦野てっちゃんの抜け毛とミサイルの句でした。3回目の秀逸で名人位獲得です。おめでとうございます!放送では2回目と言ってしまい申し訳ありませんでした。 ボツのツボ『今時はメルカリで買う感想文』かたつむり。夏休みの宿題も今は親要らず?」
・パンダの目上がっていたらどうだろう(名人・けんけん)
・横綱が休みかえって盛り上がり(六文銭)
・不倫などしたことも無いと嘘をつく(西宮フーコー)
・誕生日笑うしかないトシになり(あまでうす)
・気になったBMIの秋サンマ(外科系)(添削例)気になったBMIの初サンマ
・横綱を4人にしててよかったね(グランパ)
・ガッテンを10年見てるが医者通い(司会者=あさひろ)(添削例)ガッテンを10年見てて医者通い
・おお秋刀魚庶民の味じゃなかったか(入り江わに)
・抜けた毛とミサイル元に戻せぬか(秦野てっちゃん)
☆タケシのヒント!
「ラジゴさんから『リモコンでミサイル北に戻したい』という句もいただいたのですが、てっちゃんさんの句はさらに『抜け毛』と組み合わせています。『抜け毛』が入ることによって、より身近に、そして面白さがアップしますね!」
・またドラマ始まりそうよ手が触れて(名人・どんぶらこ)
・協調性使い果たして湯につかる(名人・荻笑)
・何ていう最も強い抗議って(東海島田宿)
・朝顔がバトンタッチで彼岸花(わんわん)
・目標は九九七へアスリート(つや姫)
・ネット上言葉の弾が常に飛び(夢見夢子)
・アメリカにちょっも抵抗する中露(名人・光ターン)
・議事録はあるのだろくか北の国(龍龍龍)
・早すぎだ賀状とお節の予約来た(のりりん)
・古女房待つ家に向く千鳥足(不美子)
・最悪のハリケーン名前可愛すぎ(鵜野森マコピィ)
・経験が私を涙もろくさせ(名人・ユリコ)
・女子の名の台風さらに怖そうだ(パリっ子)
・不倫記事書けばご飯が食べられる(離らっくす)
・あの頃は裸足だったね運動会(アキちゃん)
・民救え忍者派遣金逮捕(海辺のスーさん)
・不倫でもデートの写真撮る疑問(クッピー)
・孫入院助っ人に行くまだ元気(名人・酔とぉよ)
・革命とCMなみに軽く言う(雷作)
・「おめでとう」その涙なら何度でも(あやや)
・気がつくと夕方6時もう暗い(キジバト交通)
本日の秀逸!・抜けた毛とミサイル元に戻せぬかく(秦野てっちゃん)
おめでとうございまーーす!!
秦野てっちゃん、3回目の秀逸で名人に昇進です!!おめでとうございまーーす!!
2席・誕生日笑うしかないトシになり(あまでうす)
3席 ・明日を見て花はまっすぐ咲いている(平谷妙子)

【お知らせ】
 以前も告知しましたが、相模原で初めて「川柳講座」を行います!!
ラジオ万能川柳でもおなじみ、相模原大豆と地酒のセレクトショップ・豊国屋さん(南区新戸=みなみくにいど)で行う、「はじめての川柳」講座です。
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川柳は初めて、という方でも安心して楽しめるワークショップです。
相模原の方も、相模原以外の方も、ぜひ、ご参加ください!!
日時は、9月30日、土曜日。
18時から、カンタンな講座と句会。
こちらは1500円です。筆記用具だけ持ってきてください。
20時から懇親会。生ビールとおつまみ付きで2000円です。
ここで、以前皆さんにもネーミングをお願いした、相模原大豆と柿の種の新商品のお披露目、試食会も行います!!
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おかげさまでネーミングは45案もいただいたのですが、その中から、見事に新商品のネーミングが決定しました!!
その発表も行いますので、こちらもお楽しみ遊びに来てください!!
ご参加の申し込みは、豊国屋さんに電話かメールでお願いします。
電話は046-251-0048です。
勇気を出して、ぜひ、初めの一歩をどうぞ!

【放送後記】
 生放送では「秦野てっちゃん」さんは2度目の秀逸などと申し上げましたが、リスナーの方から貴重なご指摘をいただき、数え直しましたら、見事3回目の秀逸、名人に昇進でした!!
お詫びして訂正いたします!!
秦野てっちゃんさん、ごめんなさい!!
そして、おめでとうございまーーす!!パチパチパチ!!
貴重なご指摘もありがとうございました!!
                                タケシ拝
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水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」http://ameblo.jp/takeshi-0719/ 


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雑記帳2017-9-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-9-15
三鷹は何人もの文人の住んだ町、太宰治もその一人です。

作家太宰治は、1939年<昭和14年)東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居、1948年(昭和23年)6月に自死するまでの9年間に、代表作「走れメロス」や「人間失格」、「斜陽」を始め、多くの作品を発表しました。

わが家は、昭和50年代のほぼ10年間、三鷹市に住んで、子育てをしていた時期がありました。
近くに玉川上水がありましたが、当時上水は空堀で、ここで太宰が入水自殺したと聞いても実感がなかったのをおぼえています。(玉川上水は昭和46年に空堀化、下水処理水を利用して水流が復活したのは61年のことでした。)

偶然、旅行会社のツアーに「太宰治の足跡コース」をみつけて、参加してみました。
自分自身がファンではなかったにせよ、今なお、多くの若者を引きつける太宰を少しは知ってもいいではありませんか。

当日は、三鷹駅周辺の太宰が執筆のために借りていた仕事部屋やなじみの酒屋などの跡をめぐり、入水した上水に沿って歩いたあと、下連雀の住宅街を抜けて太宰の眠る禅林寺まで、約2時間半のコースです。

集合は三鷹駅。駅のそばを流れる玉川上水にかかる三鷹橋で、ガイドさんから三鷹の由来を聴きました。
三鷹が発展した契機は2つ。一つは勿論、玉川上水ができたこと、時あたかも明暦の大火のあと、幕府は防災上の政策から、火除地としてこの地を選び、神田連雀町の住民を移転させて開拓にあたらせたことです。私も住んでいた下連雀の名前はここから来ていたのです。もうひとつは昭和4年に中央線に三鷹駅ができたこと。関東大震災を期に進んでいた都内からの移住に弾みがつきました。

その三鷹駅は当初電車庫として開設され、車庫をまたぐ跨線人道橋の「睦橋」を太宰が好み、編集者や弟子たちをつれてよくおとずれていました。

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とおく富士山を望むこの橋の上から太宰がどこを見ていたのかわかりませんが、電車庫は鉄道好きの子供にとっては格好の遊び場です。息子も小学生のころ、日がな一日電車を眺めて飽きませんでした。

誇線橋1.jpg
跨線橋から見下ろす三鷹電車庫


太宰の傑作の多くは三鷹時代に生まれました。疎開先の金木町から戻って最初に仕事部屋にしたところが「中鉢家」。今はマンションになっています。太宰はここに毎日弁当を持って通い、「朝」や「ヴィヨンの妻」を書きました。
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中鉢家跡

「犯人」や「斜陽」を完成させた、二度目の仕事部屋、「田辺肉店」の、道路をはさんだ真向かいに、酒好きの太宰が通った「伊勢元酒店」がありました。跡に建つマンションの1階に、「太宰治文学サロン」が誕生しました。太宰没後60年、生誕100年を記念して、資料展示や情報発信の場にしようと、平成20年に三鷹市が開設したのです。今では市民の交流の場にもなっているということです。

太宰治文学サロン.jpg
太宰治文学サロン3.jpg

ちなみに、三鷹の南北に延びる道路は、新田開発のときの道をそのまま残しています。そして、斜めの道路は、実は玉川上水から引いた用水のあとなのです。

太宰が最後の仕事部屋に選んだのが野川家でした。ここには心中の相手、山崎富栄さんが住んでいました。美容師だった富栄さんは、食事や薬の世話など、献身的に病身の太宰の介護をしたといい、ガイドの斎藤さんはとても彼女に同情的でした。

野川家跡.jpg

野川家のはす向かいには、太宰が作家仲間や編集者と打ち合わせに使っていた小料理屋「千草」がありました。太宰の行方不明時には捜索本部となり、遺体発見後には検死場所ともなったところです。今も多くのファンが集う「桜桃忌」の世話をしたのがここのご主人鶴巻幸之助さんでした。ここから玉川上水はすぐそばです。

小料理屋千草跡.jpg

清流の復活した玉川上水に、太宰の入水したあとをたずねました。むらさき橋を中心に上水に沿って整備された遊歩道は「風の散歩道」と名づけられて、中ほどに、太宰の故郷金木町産の玉鹿石がおかれています。太宰がよく散歩した玉川上水のこのあたりは当時、滝のような流れだったそうです。
散歩道が吉祥寺通りに出会う地点に、上水を挟んで井の頭公園を前にして建つのは山本有三記念館。あいにくと改修中で、中を見ることはできませんでした。

山本有三記念館2.jpg
塀越しに有三記念館
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昼食は有三記念館のそばにあるレストラン「エサンス」で。

昼食後は太宰の旧居のある下連雀の住宅街へ向かいます。
住宅街の中にある井心亭(せいしんてい)は、ある実業家の住居を市が譲りうけて、市民の文化施設にしたものです。太宰一家が住んだ借家はそのすぐ近くにありました。4畳半と六畳、三畳の平屋の小さな家は今も残っていますが、周辺のお屋敷にうもれて、道路から遠目にみるのがやっとでした。
その門柱脇に植えられていた百日紅が井心亭に移植されています。夏のこの時期、百日紅は満開でした。太宰は百日紅が好きだったようで、玉鹿石のそばにも百日紅が植えられていました。

最後の目的地、太宰の眠る禅林寺は、旧居からそう遠くない、連雀通りに建っています。
黄檗宗の寺は森鴎外の墓があることでも有名です。
神田からの住民の移住に伴って創建された寺はもともとは築地本願寺派でしたが、元禄のころ、台風で再建される際に黄檗宗に改宗したということです。太宰は宗派を承知で禅林寺に葬られることを望んでいたといいます。
6月19日の桜桃忌には、いまも太宰を偲ぶ多くのファンが全国から集います。
この日は太宰の誕生日ですが、同時に、奇しくも遺体があがった日でもありました。

禅林寺2.jpg
禅林寺山門
禅林寺3.jpg
鴎外の石碑
禅林寺5.jpg
太宰治の墓


めぐった各所に三鷹市のつくったプレートがあり、「太宰の生きたまち」を町づくりに活かそうとしている様子がわかります。市ではさらに、近々、有三記念館のような立派な太宰治記念館を作る計画をしているそうです。

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私の中の一期一会 №151 [雑木林の四季]

    陸上男子100mで 桐生祥秀が9秒98。“10秒の壁”突破は日本人初の快挙
     ~「9秒台を出して、やっと世界へのスタートラインに立てたかなと思う」~

       アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 2017年9月9日は日本陸上界にとって、当分忘れることが出来ない日になった。
 福井県の福井運動公園陸上競技場で行われた日本学生対校選手権(通称インカレ)の陸上男子100メートル決勝で、東洋大4年の桐生祥秀(21)が“日本人初の9秒台”となる9秒98の日本新記録をマークして優勝したからである。
 日本の陸上短距離界に長く立ちはだかっていた“10秒の厚い壁”をついに突き破ったことは、日本中を明るくする嬉しいニュースでもあった。
 レース直後の速報タイム電光掲示板が“9秒99”から“9秒98”に変わった時、桐生は「10秒00にならないでくれ」とお願いしたと語る。
 1998年のバンコク・アジア大会で、伊東浩司が10秒00の日本新記録を樹立したが、その時は9秒99を示した電光掲示板が、ほどなく10秒00に切り替わってしまったというエピソードを知っていたからだろう。
 伊東浩司の場合、9秒台までの差0秒01は、距離にして10センチだったと新聞が書いている。
 0秒01の差が“たった10センチ”なら、9秒台も遠からず出るだろうと期待した人が多かったのではなかろうか。
 だが、10秒00から、9秒台までの“10センチ”を日本のスプリンターたちが乗り越えるのに19年もの歳月が流れていたのである。
 日本陸上界にとって、10センチは“たった”ではなく、思いのほか“高い壁”になっていたのだ。
 京都・洛南高3年、17歳だった桐生祥秀が10秒01を出したのは2013年4月の織田記念陸上である。
 歴代2位の好記録、10秒01を叩き出した桐生祥秀は、当然のように「9秒台に一番近い男」として一気に注目される存在になった。
 だが運命は皮肉なもので、桐生には“9秒台の重圧”に苦悩する日々が待ち受けていた。
 東洋大に進学してから低迷が長く続いたのだ。10秒0台の好タイムを出しても会場からタメ息が聞こえてきたりする。右太もも裏のハムストリングの怪我も重なって思うように走れない日々。コーチとの確執も囁かれた。モチベーションは下がり、「もう期待しないで欲しい」と漏らすこともあったという。
 それだけに、大学最後の100メートルで9秒台を出せたことは感慨も一入(ひとしお)であったろう。
 「東洋大に入って、うまくいかないことがあった。このままベストを出せずに卒業というのもよぎっていた。だからすごく嬉しい。4年間クスぶっていた自己ベストをやっと更新できた」と肩の荷を下ろしてホッとした心境を正直に語っている。
 今回の出場も、足の不安があり、ギリギリまでコーチと相談しなければならないという悩みを抱えていた。
 出るとなれば、肉離れしてでも“スタートからいくぞ!”という悲壮な決意さえあったのである。
 何しろピストルが鳴ってから10秒でレースは決着をみるのだ、100メートルは文字通りアッという間の戦いである。
 プレッシャーの中で、ちょっとでもミスがあったら挽回は難しい。その意味では過酷である。
 私はどうしても、競技やレースを実況者の目線で見てしまうのだが、今回の桐生祥秀は“後半も失速しなかった”ように見えたのが一番印象的だった。
 これまで19年間、日本記録保持者だった伊東浩司氏が「桐生は、いつもは先行されると力んで身体が硬くなるが、この日はそれがなかった」と述べている記事を読んで、やはり今までと違う走りだったことを知った。
 桐生祥秀は今回の9秒台達成を「怪我の功名かもしれない」と民放のテレビ番組で言ったらしい。
 いつもの練習では50メートルダッシュなど、短い距離ばかりを走っていたが、太もも裏の張りでスピードを上げる練習は出来なかったという。
 いつもは長くても150メートルだったのに、今回は250メートル、300メートルと・・長い距離を何回も走ったという。
 そのせいか「今回は100メートルが短く感じた。そういうのはありますね・・」と振り返り、「選手は誰でも最後は失速するんです。失速が65メートルだと55メートルの時より失速が遅くなる」と説明した。
 日本陸連科学委員会が公開したデータによれば、これまでの主要3大会(リオ五輪予選、今年の織田記念決勝、日本選手権決勝)と比べて多くの点で良い数字が並んでいるのだ。
 一番目立つのは最高速度到達地点で、桐生はこれまでの3大会では55メートル地点で最高速度に達していたが、今回のインカレでの最高速度は65メートル地点まで伸びていた。
 これまでより“10メートル”もゴールに近い地点までスピードを保って走ったことになるのだ。
 最高速度到達地点が10メートル後ろにずれたために、私の目には “失速していない”ように見えたことを科学的データが教えてくれた。
 陸連では、9秒台を出すための条件として、レース中の最高速度が秒速11.6メートルを越えることを条件としている。今回のデータは、秒速11.67だからこの条件もクリアしている。
 歩数(ストライド)は、終盤に2,4メートル近くまで伸ばし、過去3大会より10センチ前後広がっていた。
 今後どれだけ記録が伸びるのか、期待は大きいが、桐生祥秀が強調する最終目標は世界のファイナリストになることである。
 世界の100メートル決勝に残るファイナリストに「10秒台の選手は一人もいません」と語る桐生は、「9秒台が出て嬉しかったけど、ここからもう一回スタートしていきたい。ようやく世界のスタートラインに立てたてたと思う。これからです」と抱負も明らかにした。
 10秒の壁を乗り越えて、桐生の胸中も変化した筈だ。一時はしぼんでいたモチベーションに再び火が灯ったとしたら朗報である。
 桐生が大学4年間を“もどかしい気持ちで”過ごしている間に、強力なライバルたちが台頭していた。
 今年8月のロンドン世界選手権・参加標準記録10秒12をクリアしたスプリンターたちの顔ぶれは豪華だ。
 山形亮太10秒03.サニブラウン・ハキ―ム10秒06、ケンブリッジ飛鳥10秒08、多田修平10秒08・・ここに、ベスト9秒98の桐生祥秀が加わって日本陸上の新時代を競い合うことになるのだ。
 誰が勝つのか分からない実力伯仲の今年の日本選手権・100メートル決勝を制した18歳のサニブラウンは、長いスライドでグングン加速して2位以下に差をつけて先頭でフィニッシュラインを超える実力を誇る。
 桐生より1学年下で関西学院大3年の多田修平の存在は無視できない。
 今回のインカレでも10秒07の自己ベストを出したが、桐生に次いで2位だった。
 「目の前で9秒台を出されて、めっちゃ悔しい自己ベストだ」と桐生越えの気力は満々だ。
 多田修平は、追い風参考記録ながら100メートル9秒94を出している。あのジャスティン・ガトリン(米)が「素晴らしいスタートの男がいて驚いた」と称賛した逸材である。
 その他、ジャマイカ人を父に持つケンブリッジ飛鳥、それ山縣亮太もいて、陸上短距離陣は多士済々だ。
 新聞によれば、10秒台を桐生は過去10回記録している。山懸亮太は8回、ケンブリッジ飛鳥、サニブラウン・ハキ―ム、多田修平らも10秒0を出して陸上短距離の層は厚みを増している。
 近年の五輪や世界選手権ではファイナル進出ラインが10秒00前後と高水準だが、桐生祥秀に9秒台を出されて日本のライバルたちにも“火がついた”に違いない。
 五輪や世界大会で日本勢が決勝に進出する可能性が現実味を帯びてきたことは確かだ
 2017年9月9日は日本陸上新時代がスタートした日になったと言っていいだろう。

 

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パリ・くらしと彩りの手帖 №127 [雑木林の四季]

 マクロン大統は領着々と選挙公約を実行:そしてデイオール大展覧会

         在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ

マクロン大統領の公約はすでにいくつも手がつけられている

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ハリケーン“イルマ”にすっかりやられた、フランスの海外領土 グアドループのサン・マルタンなどの大被害地を訪れるマクロン大統領    

 フランスの選挙、それから各地に生まれてくる数々のコンサートホール、そして一方2000年も前にローマ軍が地球を北上する折に作られた、中でも素晴らしいオランジュの石を並べた古代劇場での音楽、と夏のおかげでたっぷり酔う時は過ぎて、今やマクロン大統領にとっても、選挙公約を果たす時が来たのだ。一般の大統領への熱はぐっと覚めたようだが、選挙前に公約したことをすでにいくつも実行に移している。これらの政策で喜ぶ人々がいれば、それを不満とする人々も常にあって、むずかしいところだ。今迄、反対が少なかったものとしては、子供の教育に関して小学校のクラスを12人以下にして、先生と生徒の関係が密になるように、先生が子供の一人一人に目が届くようにすることが肝要ということで、教員の数もぐっと増えた。右派の政権になっていたら、しかも選挙の初めに最高点をとって、もう大統領になったようなことまで言っていた候補者などは、教員を減らすことを公約に掲げていたものだ。恐ろしいことだ。日本の小、中學校では今は何人位のクラスなのだろうか。わたしの頃は五十人のクラス迄あったものだが今はどうなのだろう!日本の先生たちは教室が終わってからもきっとかなりの超過勤務でやりくりしているのではないか。日本の学校ではいじめがあって、それに気づかなかった教員が非難されているのを知ったが、そこまで踏み込めるゆとりがあるのだろうか。2011年の被害にあって、家族が亡くなったり、臨時の住宅に暮らし続けたり、それだけいたわってあげなければならないのに、むしろこのことが原因でイジメられたりしている現状だというから、あの神経の細かい日本の素晴らしさはどこに行ってしまったのだろう。こちら西欧では何か恐ろしいことがあって家や店を空ければ、早速に屈強な若者たちが盗りに行くのだ。普段は欲しくても買えないものを、手に入れるいい機会なのだ。最近はどこへ行くのも、持ち物の中身を見せて、爆弾や銃や剣を持っていないことを確かめてもらわなければ通れないのは、今迄起きている数々の惨事を思えば仕方ない、当たり前と解釈せざるをえないが、最近ではスーパーなどに入ると、出口で中身を見せなければならないことが多くなった。わたしも初めはそういうスーパーなどはいかないことにしようと考えていたが、そうなると、欲しいものも買えなくなるというものだ。わたしが拒否したら、それではと自分と一緒に事務所の方に来てくれという。自分では手に負えないと思ったのだろうか。なぜそんなことをするのかの問いに対しては、何かを買って行列してケースで払う人たちは一応いいことにしている。でもあなたのように何も買わなかった顔をして出て行ってしまわれたらかなわないからね。つまり、そんな場合には何かをとって自分のカバンに入れていると考えるのが一番妥当だ、というのだ。そんなに泥棒がいると思うのか、と聞くと、勿論との答え。あなたはフランス人だろうけれど、その同じフランス人が、袋の中を見せなければ店から出られないなんて、恥ずかしいと思わないのか。だって泥棒は、そりゃたくさんいるもの。という問答。
 私の国の日本にだって、泥棒はいるけれど、こんなところでまで盗むようなのは本当に稀なことだと思うけれど、、、冗談じゃない、調べなければいくらでも持って行くに決まっている。これでは「人を見たら泥棒と思え」の教訓になり得るわけだ。わたしの暮らしはこうして、だんだん不便になっていく。いつかある時に一切を捨てて、相手の言うなりになりさえすれば、便利な暮らしに戻れるのだろうが、今の所は強情を張っているということか。
 さて、マクロン大統領の公約問題にもどると、フランスの国鉄に対して、何億、いや、何兆ユーロとかの長年抱えている有名な国鉄の巨額の負債を、こちらの言うことを受け入れればゼロにすると持ちかけたたところだ。それは鉄道で働く人たちの、古くから持つ特権を捨てて、他の職場と同じような条件で働くことを受け入れればだ。国鉄の定年は50歳であり、汽車の運転を学んで職に就いたら、最初からかなりいい給料で、それがあっという間に加速するという特権だ。しかも特急列車などの運転士ともなれば、事務所で仕事をしている人たちとは比べることもできないほどに差がつくのだ。それでは何が特権かというと、まずは国鉄で働く人の給料がいいのはもちろんだが、その家族の移動は殆どただという。此のことがどう決着することになるかは興味のあるところだ。それからもうひとつ、選挙前の公約で、労働者と雇用する人との間の関係の変化がある。今までの複雑な規則では、会社の経営者が人を雇う時は、一旦雇ってしまったら、経営がうまくいかなくてもやめさせることはできない。また、雇ってみたが仕事ができない人だったとか、いろいろ理由があってもすぐやめさせることはできないからやとう方はいつもこわごわだ。会社が発展しようとするいい時期に、臆病になってはいけないと言っても、後のことを考えると手が出ない。このところをもっと簡単にしたら、発展していく時にそれに合わせて有能な人を雇うことができたら、と考えるのは当然。だめだったら、辞めてもらうことができるような契約が可能ならばと考えていた人は多いはずだ。この大統領の提案にはもちろん労働組合が大反対だが、今迄は組合員もいない小さな企業でも、辞めてもらう時には組合の意見というものを聞かなければならなかったのだが、これが、当事者間だけのこととなりそうだ。こうしたら、会社の規模と成績に合わせて、雇用が出来ることになるから、起業家ももっと大胆にことを運ぶことができるはずだ。こうして、小さい企業が大きくなってもっともっと従業員を増やす必要が出来てくれば、失業者の数も減るわけだ。これは小さい企業を起こしている起業家からは大歓迎を受け、もちろん労働組合からはノンの反応。すでに決まったようなものだが、それでも実際にどうなっていくのかしばらく時間が必要ということだろうか。こんな時も時、フランスの元植民地のグアドループを強大なハリケーンが襲った。何日間も荒れに荒れて、美しい、名高いサンマルタンの海辺も世界中からくる観光客のためのデラックスの施設も、ほとんどすべて、なくなってしまった。そして、このハリケーン”イルマ”はようやく向きを変えて、アメリカに向かった。その続きは皆さんもよくご存知のことだろう。マクロン大統領は、ここにも姿を見せ、”必ず元のようにする”と慰めたが、大統領ともなればこれも公約の一つ、後になって出来なかった、で済むものではない。 しかし、それにしてもどうしてこう恐ろしいハリケーンには女性の名前ばかりつけるのだろうか。考えてみると、世の男性たちは、本当は女性を恐れているのかも知れない。

 ところで、2024年のオリンピックはパリにきまった。フランス中が沸き立ちパリではイダルゴ市長を中心にパリ市庁舎前の大広場で、昨日は大きな野外演奏会が開かれた。どこかに書いてあったのだろうけれども、メトロの駅にもホームにも何も書いてなかったから、私はメトロで市役所前の広場まで行き、そこからバスに乗ろうと思っていたのだが、メトロの出口は閉められていて通れない。やむをえず、このメトロで乗ったところまで戻って、市役所を通らない線のメトロに乗り換えた。いくら嬉しいからといって、すべての人の交通の手段をこんなにしてしまっていいものだろうか。私は別なコンサートにかろうじて間に合ったが、ヒヤヒヤだった。かつて私の勤め先だったフランスの放送会館で、ここのオーケストラの創立80周年記念の演奏があり、そのお祝いに駆けつけなければならなかったのだ。オリンピックとは、なぜこんなにやりたいのだろう?いろいろの施設を作らなければならなくなって、たくさんの労働力がいるから、失業者にとっては天の恵みだ。国庫を叩いて、素晴らしいオリンピックを作り上げる。フランスのイメージは上がる。その後のツーリストたち、若者たちがここに来たいと思うことは目に見えている。オリンピックのために来る世界のスポーツマンたちのための宿舎を作るのも大変な費用だが、これもフランスの不足している住居がその後、学生の寄宿舎などに使えるものが残される。そして、健康なポジチヴなイメージが残るというわけだ。そして現実は、膨大な予定外の支出が残されると決まっているのだ。それに、ギリシャ人が発明したこのオリンピックが4世紀末以来途絶えていたものが、1896年にアテネで復活、それからは4年の周期で、日本が第32回目、34回がパリとなったわけだが、考えてみると、ギリシャの後何世紀も経ってこれが復活したのは、フランスで「近代オリンピックの父」と呼ばれるピエール・ド・ クーベルタン男爵の功績と言われている。有名な ピエール・ド・クーベルタン語録. の一つを上げれば、「オリンピックで最も重要なことは、勝つことではなく参加することである。同様に、 人生において最も重要なことは、勝つことではなく奮励努力することである」がそれ以来、人生を支える言葉になっているのだ。

デイオールのオート・クーチュールここから幾多の才能が巣立った

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出品作品の数々と展示風景

 今のパリは長い夏休みの後で、美術館の多くが大展覧会のオープンで賑わっている。見る方にとっては、同じ朝に3つも4つもの大きな催しがあって、とても回りきれない時間割だ。その中で、比較的早くに始まったのが、ルーブルと同じ建物の中にある装飾美術館での大展覧会、クーチュールの世界での王者、デイオール、1950年代から、約50年間、世界を躍らせたパリのオートクーチュールのメゾンだ。イヴ・サンローランが、自分のサインのショーをはじめたのも此の頃だ。そこのクーチュリエとしての姿はいくつもの映画になっているが、彼と生涯を共にしたピエール・ベルジェが数日前に亡くなり、美術館関係者や、音楽関係者たちから、この人がフランスの文化にいかに貢献したかという声が上がっている。こういう人と人生を共にしたサン・ローランが、デザインするとき、外の形だけを創造していたとは考えられない。彼のショーを見るときは、はて、今シーズンのデザインの底にあるものは何だろうと考える楽しみがあり、それが私たち報道の仕事をしているものにとって事前に全く漏れ伝わって来ないでいたときには、ショーで最初に見るデザインから、想像をふくらましていくのだった。そして、だれの、どの絵をインスピレーションのもとにしているかなどと当てるのがまた楽しみだったのだ。しかし、今のオートクーチュールの現状をみると、その未来は決して明るいとは言えない。クーチュリエたちの才能が低下したのだろうか?いや、これは現代社会の進歩と発展が原因に違いない。オートクーチュール全盛時代には世界の国々に、華やかさがあり、特に王国などは大いにこれに貢献してきた。高価で、華やかで、見事な女性たちが必要だった。それが、いつのまにか、外見が変わったのだ。ジーンズなどという、便利なものへの情熱は男女を問わない形で広まってきて、メトロなどに乗っても、顔を見るまでは男女の差もわからないような服装で、モードのトップを行っているという気分の女性たちがいっぱい。そして、これも顔を見るまでは男か女かも判断がつかないような場合が多いのだ。しかも、いくらでも高価なものが買える立場にいる人さえも、くつろぐ服装のためには、皆さんご存知のように、その生地や製品ををわざわざ長いこと機械にかけて洗い、使いに使って、擦り切れたという感じにしたズボンなど現代の象徴なのだ。そうなると、モードに関心の深い人なればこそ、一層そこに気を使うことになって、高価なロングドレスなどは、なりを潜めるというわけなのだ。各国の宮廷が王妃のための美しい装いを必要としていたあの時代がなくなりかかっている今では、もう完全な後戻りをすることは不可能なことだろう。デイオールのようなトップのところで、いつも服を注文していた王妃達は,いちいち仮縫いのためにパリ迄来なくともいいように一度体形を作っておいてこれにあてがい、着せて作ることができたのだった。そして、最後の一回だけクーチュリエの手で、その細部を矯正していたから、デイオールともなると、こういう体型のモデルがいっぱい、日本の皇后のもあるというがどうやら今回の展示には出してないらしい。それに、本人の許可がなければ、王妃の体型など一般の目にさらせるはずはないだろう。今回のデイオール大展覧会では、此のクーチュリエの全てを見せたいとの願いからだろう、いくつもの会場を使って、これでもか、これでもかとでも言うように並べている。私が希望した、このクーチュリエの区切り、区切りの場面の作品の写真を要求したのに、それはできないとの返事だった。その代わり、というか、膨大な写真を送ってくれたから、ただただ彼の作品を次から次へと見ていただくのも楽しいし、それに、余計な説明をつけるよりも、彼のクリエーションをそのままたくさん見ていただく方がデイオールというクーチュリエの仕事をよく知っていただくこと、そして、それもオートクーチュールの全盛時代をたっぷりと見ていただく方がいいと今日は思い直すことにした。


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浜田山通信 №201 [雑木林の四季]

「やすらぎの郷」と「四つの恋の物語」 ④

              ジャーナリスト  野村勝美

 テレビ朝日「やすらぎの郷」は10月いっぱいで終わる。老人たちの最後の生と死のいろいろなありようが、見る者の胸を打つ。戦争中愛し合った監督をアッツ島で玉砕させた九条摂子(八千草薫)も逝き、彼女のために“やすらぎの郷”を創設した往年の芸能界のドンの死も近い。深刻な話ばかりではない。芝居の狂言回しの一人であるマロ(ミッキーカーチス)が、コンシェルジュの松岡伸子(常盤貴子)とできてしまう。40歳ほども年が違う。常盤貴子は20年ほど前まではTVドラマに出ずっぱりで私のごひいき女優だった。近頃はNHKの鶴瓶の「家族に乾杯」で土地の名物を紹介する「家族に一杯」に声だけで出演していて、どうして顔を見せてくれないのか 私は不満だったのだが、「やすらぎの郷」では昔より若々しい。マロよりずっと若い彼女の父親(元高級官僚)が彼女たちに会いにくるがあきらめて帰る。

 先週は同じようなシチュエーションだが、作者たる菊村栄(石坂浩二)のところへ20歳の孫娘が、彼女の父親で栄の息子より若い52歳の男を連れて現れる。あわてまくる栄に、孫娘は、彼は既婚者で自分は妊娠3か月、離婚訴訟中で慰謝料が1500万円要るのという。相手の男はITコンサルタントで年収3500万円ほど。東京葛飾柴又生まれ。麻布高校、東大法学部卒。栄の作品が大好きでシナリオは全部持っている。「“男と女はそういうものです。動物だから仕方ないんです。”―これはおじいちゃんの名作“夜の海”の中で主人公が云った名セリフです」。そしてまた「“森巌の森”でおじいちゃんが書かれた名セリフ“所詮人間は、生まれて、喰って、クソして、アレやって、そうして結局最後は死んでく ”」。私にも大学2年の孫娘がいる。この娘がある日突然、52歳の男を連れて現れたらと思うと…。近頃は、政治家のダブル不倫や元歌手の女代議士の不倫騒動がワイドショーを占領する。「このハゲー」や政治資金詐欺はダメだが、女と男が愛し合うのは、それこそ「動物だから仕方ない」。政治家だからといって、ホテルで同室して「一線は越えていない」「男女関係はない」といっても通らない。もっと堂々としておればよいのにと日ごろは思っているのだが。あるいはLGBTなど性的少数者や性別を意識しない愛もあるようだが、どうも週刊誌的またはワイドショー番組的にはおもしろいらしく、それが政党の存在にまで影響してしまう。

 それにしても70年前の「四つの恋の物語」の、なんと清らかな愛だったことか。とくに第一話の「初恋」。脚本を書いているのが監督になる前の黒沢明、監督は豊田四郎。父親の転勤で女学生の久我美子が、知り合いの家に預けられ、そこの旧制高校生池辺良にほのかな愛を感じる。二人の間を危ぶむ高校生の母親の気持ちを察して女学生は母の形見のオルゴールを残して去っていく。久我美子は旧華族出身。あんなにかわいい女学生はもうどこにもいない。70年の時間の流れはなんという速さだろう。

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気楽な稼業ときたもんだ №64 [雑木林の四季]

よせばいいのに会社設立

          テレビ・プロデューサー  砂田 実

 僕は、昭和六〇年(一九八五)に渡辺プロを退社し、同年四月、テレビ制作会社を立ちあげた。社名は「創都」。赤坂から乃木坂に通じる道の途中にあるマンションの一室からのスタートである。その頃、日本経済の動向にはバブルの兆が見えはじめ、テレビはすでに熟覧期に入っていた。
 僕は制作会社の経営に不可欠なレギュラー番組枠の獲得について思案をめぐらした。だが、TBSには頼りたくない。元部下に頭を下げて頼み込むのも業腹ではあるし、相手も、「無視はできないし、さりとて他のプロダクションとのバランスを欠いても問題だし…⊥と困惑するに決まっている。
 業界動向をリサーチしながら、いろいろと試行錯誤のうちに、「電通制作」にしくはないとの結論に達した。「電通制作」とは、前述したが、局の編成制作を通さずに、電通仕切りで直接番組枠を獲得することをいう。おそらく他局では通用しない作業形態だったと思うし、TBSでもあの時代に限ってのことだったのかもしれない。早速、元同僚にアドバイスを求め、電通-TBSの現場を仕切っている小岐須という男を紹介してもらった。小岐須は、二枚目ではないが魅力があり、しっかりしていそうだが不良っ気を感じさせる男だった。小岐須との付き合いが深まるにつれて、「テレビ探偵団」(TBS)などのレギュラー番組が着実に増えていった。

  会社を立ちあげたばかりの頃、ある企画をTBSに持ち込んだ。
  上海の河口、いわゆる「バンド」と呼ばれる地域に、昭和初期に建てられた古いホテルが残されている。数々の歴史の物語に登場する「キャセイホテル」、現在の「和平飯店」である。そこの二階にあるバーラウンジには、文革時代も続いたジャズバンドが入っている。
  演奏しているのは、厳しい歴史をくぐり抜けてきたであろうに、それを感じさせない陽気なジャズ好きのジイさんたち。彼らが奏でる楽曲のレパートリーは懐かしいジャズのスタンダードナンバーだったり、どういうわけか「北国の春」だったりする。正直言って演奏は恐ろしく下手なのだが、文革を経た上海に、アメリカやヨーロッパや日本といった外国からやって来た人々は、ここに意外性を見たのだろうし、強いノスタルジーを感じただろう。
 一方、東京銀座にも、瀬川昌久さんという素敵に歳をとられたジャズ評論家が束ねておいでの「オールドボーイズ」がいて、それこそ日本の戦後ジャズの草分けとも言えるメンバーがそろっていた。一人ひとりがジャズの有名バンドマスターとして、あるいはスタープレーヤーとして、しっかりと日本のジャズ史に足跡を残した人たちばかりである。
 僕はこのメンバーを上海にお連れして、和平飯店のメンバーと合同演奏会を開き、その記録を番組にしたいと考えた。ノンフィクションの「地球浪漫」という単発枠、タイトルを「響け!我が永遠の上海JAZZ」に決め、ディレクターの選択にとりかかった。考えるまもなく実相寺昭雄の顔を思い浮かべた。実相寺昭雄が、酒場や会食の席で幼い頃に支那に暮らした日々のことをよく語っていたからだ。
 実相寺昭雄は、世間的には「ウルトラマン」シリーズの演出家として有名だろう。当初から映画監督志望だったが、テレビの草創期において、固定化されたテレビ番組のイメージにつねに挑みつづけた男でもあった。彼が作る映像は時に前衛的すぎたりシュールすぎたり。当初、TBSでは多くの理解者は得られなかったが、のちに円谷プロに才能を見出され、「ウルトラマン」シリーズで自由に発揮し、個性的な作品を次々と作り出していった。実相寺は「上海JAZZ」の話を二つ返事で引き受けてくれた。
 数々の歴史の物語を秘めた上海青年文化宮という、おそらく東京で言えば日比谷公会堂にあたるコンサートホールにて、日中オールドボーイズの共演となった。しかも、中国では戦後初めての外人演奏家の公演となる。本番当日、ホールには老若男女を問わず大勢の観客がつめかけた。新しいもの見たさの人々が大半だろう。なにしろ外国人プレーヤーのジャズ演奏を生で聞くのは、昔の上海を知っている八十歳以上の老人を除いては、みな初めてなのだから。
 実朝寺の映像の演出では、特定の数人の観客にターゲットをしぼり、プログラムの進行とともに変化していく彼らの表情をアップで随時挿入していった。バンドの音が出た瞬間と、二、三曲までは、中国人が珍しいものを眼にした時に発する「アイヤー!」というつぶやきとともに、眼をまん丸くして凝視している表情。しかし、曲が進行するにつれて表情が変化していく、自然な手拍子も徐々に力を増していった。ジミー原田のドラムソロやサービス精神あふれるパフォーマンスが、さらに彼らの表情を和ませ、体もリズムに乗って動き出した。
 やがて二時間のコンサートが終盤を迎え、アンコールに達すると、彼らの楽しげな眼に涙がにじんだ。楽屋に引きあげた双方の老ジャズマンたちは、互いに握手をくり返し抱きあった。大成功であった。この番組は、僕の中にも、楽しい大切な思い出として刻みこまれている。
 このツアーで実相寺の意外な一面を見る。帰国の朝、ホテルのレストランに、学生風の日本人女性がいた。せいぜい二十歳をすぎたかどうかの年齢に見える。一緒に食事しながら話を聞くと、一人旅であること(しかし、当時は中国への自由な個人旅行は許されていなかった)、「上海バンスキング」という芝居を見てとにかく上海に来たかったこと……などをポツリポツリと話した。
 それを聞き終えた実相寺は、いきなり娘に鋭い言葉を浴びせた。
「そんな馬鹿な旅行などするんじゃない。まだこの国で若い女の子の一人旅なんてとんでもない。すぐ帰れ!」
 彼女は多少ふてくされた顔で、一応実相寺にぴょこんと頭を下げ、レストランを後にした。
「あの馬鹿が。親の顔が見てぇ!」
 まさかあの実相寺にこんな一面があるとは思わなかった。

 僕が渡辺プロに移った頃、渡辺プロの社員が、「部長、ヤバイですよ。ここに載っている小説の主人公が某民放テレビから業界栗手のタレントプロの幹部に移籍した砂田実と書いてありますよ」とある週刊誌を持ってきた。その週刊誌を読むうちに、僕の表情はこわばった。なんとまったくのエロ小説で、手を変え品を変えのベッドシーンの連続である。その小説の作者は、なんと実相寺昭雄であった。
 僕はすぐに実相寺の会社に電話をした。
「どちら様ですか?」という秘書の問いに「好色の砂田と言ってください」「あのコウショクと申しますと……?」。どうやらどこかの会社名ととったらしい。不審げな声の女性が引っ込み、本人が出てきた。
「お前、上等だな!」
「すみません。あれは遊びですよ、遊び。メシおごります。アハハハハ」
 実相時昭雄とは、おもしろいがわけのわからぬ男であった。

『気楽な稼業ときたもんだ』 無双舎


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BS-TBS番組情報 №145 [雑木林の四季]

BS-TBS 2017年9月のおすすめ番組

                                                     BS-TBS広報宣伝部

芸道56年 男の歴史 北島三郎~伝承 そして感謝~

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2017年9月16日(土)よる6:30~8:54

☆歌手人生56年を迎える北島三郎が“感謝”の気持ちを込めて歌い、語る2時間半。

出演:北島三郎/福田こうへい、北山たけし、大江裕

歌手人生56年を迎える北島三郎が“感謝”の気持ちを込めて歌い、語る2時間半。北島とともに番組の脇を固めるのは、人気演歌歌手・福田こうへい、北山たけし、大江裕の3人。オープニングから北島による「北の大地」、4人そろっての「路遥か」、「演歌兄弟」と、熱のこもった歌唱をきかせてくれる。
股旅に扮して歌う「名月赤城山」、「勘太郎月夜唄」、「旅姿三人旅」などにあわせてユーモアあふれる軽妙なトークを繰り広げるのも見どころの一つ。
「北の漁場」、「兄弟仁義」といった“北島といえば”の名曲も続々登場!
最後は、だれもが知る北島の代名詞ともいえる「まつり」を4人で歌い上げる。

さかなクン大深海SP 地球最後の秘境のナゾ

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2017年9月17日(日)よる7:00~8:54

☆さかなクンが深海や深海生物の謎などに迫るスペシャル番組!

出演
さかなクン 東京海洋大学・客員准教授
奥谷喬司 東京水産大学(現・東京海洋大学)名誉教授 ほか

東京海洋大学客員准教授のさかなクンが、自分の人生を変えるきっかけとなった奥谷喬司・東京水産大学名誉教授と深海や深海生物の謎などに迫る2時間番組。深海生物やその進化の謎について、さかなクンと奥谷名誉教授がわかりやすく解説!
海外で撮影された奇抜な姿の深海魚の映像も盛りだくさん。地球にとって実は非常に大事な、深海の海流の存在とその役割についてわかりやすく解説。
深海調査で活躍している有人潜水調査船「しんかい6500」の秘密にも迫る!メインテナンス中の「しんかい6500」で、めったに見られない部分も紹介。
東京湾にある深海エリア・東京海底谷では、深海魚釣りに挑戦!およそ500メートルの深さから釣り上げたものとは?

森昌子が歌い継ぐ昭和の名曲スペシャル~美空ひばりとの知られざる絆と歌人生~

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2017年9月23日(土)よる7:00~8:54

☆アイドルとして…歌手として…森昌子が綴ってきた人生を懐かしの貴重映像とともにひも解く!

出演:森昌子

昨年デビュー45周年を迎えた森昌子。アイドルとしてデビューし、大人の歌手への成長を遂げたが、早々に引退。一人の女性として3人の子どもを育てたのち、再び歌手の道へ。現在は、昭和の名曲を未来へと歌い継ぐことをライフワークとして活動中。
そんな森昌子がデビュー45周年の記念に開催したコンサートを森昌子自らが解説!懐かしの貴重映像をちりばめながらのエピソード、さらには、師と仰ぐ歌謡界の女王・美空ひばりさんとの今だから話せる思い出などを明かす。
2017年4月におこなわれた45周年コンサート。まずは、このコンサートの様子を見ながら森昌子が自ら、裏話を披露。2部構成のコンサートの第1部はなんとコント!?8歳の小学生に扮した森昌子が縦横無尽に舞台を駈け回る。何故コントなのか?誰が考えているのか?お客さんの反応は?
そして、第2部は、「せんせい」、「越冬つばめ」、「哀しみ本線日本海」など自身のヒット曲はもちろん、愛してやまない美空ひばりさんの名曲「真赤な太陽」、「津軽のふるさと」、「愛燦燦」なども披露する歌パート。ひばりさんの曲への思い、感動のエピソードを語り尽くす。そして、ひばりさんとの思い出の場所を訪れ…。デビュー45周年を迎えた森昌子の過去、と今を浮き彫りにする2時間。


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私の葡萄酒遍歴 №50 [雑木林の四季]

ニュージーランドのワイン産地

             ワイン・グルマン  河野 昭

 北のノースランドから南のセントラル・オタゴまで、ニュージーランドの主なワイン産地は10カ所。NewZealand Winegrowersによると2004年調べのワイナリー数は463軒に上っている。家族経営のブティックワイナリーが多いため、輸出量は飛躍的に増えているものの生産量が世界の消費量に追いつけない。そのためワインの国というイメージは定着していないが、各地で作られるさまざまなワインが数多くの栄誉ある賞を受賞しており、世界的評価はきわめて高い。

 豊かな自然の恵みを受けて丁寧に醸造されたニュージーランド・ワインは、フルーティーで上品な味わいが特徴。その理由は、良質な土壌と気候にある。四方を海に囲まれた海洋性気候のニュージーランドは、1年の温度差が少ないわりに、1日のあいだに四季があるといわれるほど温度差がある。日中は日差しで暖かく、朝晩は海風で冷やされることが葡萄をじっくりと熟成させ甘みを増すのだ。また、ヨーロッパに比べてワイン作りの歴史が浅いため、伝統に縛られずに近代的な手法を取り入れてきたのも個性的なワインを作り上げた理由だろう。ワイン職人の真撃な努力と1人当たりの消費量が21本以上というワインを愛する国民が、ニュージーランドの良質なワインを世界中に認めさせた。

ここでは新世界ニュージーランドのワイン産地を10のエリアに分けてご紹介します。気候や地形が違うそのエリアでは、さまざまな良質の品種が栽培されています。

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◎北島
ノースランド/Northland
カイタイア、ケリケリ、ファンガレイなどの地域。国内で初めてブドウの木が植えられたエリア。
最も温暖なエリアとあって、カべルネ・ソーヴイニヨン、メルロ、シャルドネの3品種がほとんどを占めています。

オークランド/Auckland
クメウ、ヘンダーソン、マタカナ、クリーヴドン、ワイへキ島などの地域。
これらのエリアでは、カべルネ・ソーヴィニヨン、メルロ、シャルドネ、ソーヴィニヨン・ブラン、セミヨン、カべルネ・フランなどが栽培されています。
ニュージーランド国内の大手ワインメーカー、ワイナリーが点在しているのが特徴です。このエリアではボルドースタイルの赤ワインも造られています。西オークランド地区ではギズボーン、ホークス・ベイ、マールボロからぶどうを購入、醸造しているワイナリーもあります。

ワイカト&ベイ・オブ・プレンティ/Waikato&Bay of Plenty
ハミルトン、オハウポ、タウランガなどの地域。
最近のワインブームにより、空いた小さな土地にブドウを植えるワイナリーが増えています。シャルドネ、カベルネ・ソーヴィニヨン、ソーヴイニヨン・ブランがこれらのエリアでの3大品種です。他の地方に比べ湿度が高いエリアでもあります。
ワイカトではシャルドネ、ソーヴィニヨン・ブランの辛口タイプや貴腐ワインも造られています。ベイ・オブ・プレンティではギズボーン、ホークス・ベイのぶどうを加えてワインを造ることもあります。(この項つづく)


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ロワール紀行 №61 [雑木林の四季]

月の夜のヴィランドリィ城館 2

           スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎

 満月。星が無数に燦めく。星屑(スタア・ダスト)も。
 月がシャトオの濠に揺れる。周りの森は黒々と静まり、音一つ聞えない。静かな、静かすぎる初夏の夜。白いスワンが音もなく濠に動き、蛙の声が流れる。

 歩くわれわれの足音に、その声が止む。
 そのあとの寂とした静けさ、木の葉が、そよとも揺がない。その寂寂(せきじゃく)を破ってボンと池に跳びこむ、蛙の音がする。また二つ。
 ヴィランドリィの最初の城は、十二世紀に築かれ、クゥロオムピエールという名で呼ばれた戦闘用の城塞であった。
 フランス王フィリッペ二世とイングランド王リチャアド獅子心王が、一一八九年、平和条約を結んだ所として名高い。
 その後、城塞を取り壊し、フランソワ二世の国務大臣、ジャン・ル・プレトンが一五三二年に、今日、建っているルネッサンス風の城館を作ったという。
 十八世紀に、キヤステファン公爵の所有となってから、有名な造園家ドゥ・セルソオが十五世紀にレイ・アウトしたルネッサンス風の庭園をとり壊し、今日見るような、ゴシック風に改造したという。
 十九世紀になり、カルヴアロ父子二代に亘り、シャトオや庭の模様を替え、主館の傍まで濠を伸ばしたのも、その頃だという。彼等はヴニラクェズやグレコ、ゴヤなどの絵で館を飾った。夜間のため、館の内部に入れず、残念乍ら、その絵を見ることは出来なかった。
 このシャトオは、館よりも庭園の美で有名である。ルネッサンス風城館に配した、ゴシック式庭園の対照の妙。城壁に近い高庭から、池畔の低庭まで上・中・下の三つの庭園を、サラセン風の倚欄や階段でつないだ造園の斬新さ。その庭の形は、色々の「愛」を象徴化したものという。怪奇ともいうべき幾何学的な線でレイ・アウトされたこの庭園は、今日、完全な姿でヨォロッパに残る、唯一のゴシック式庭園として名高い。プゥドル犬のように、刈り込んだ黄楊(つげ)の様々な形は、人工の極致とでもいうべき面白さである。これが西欧風の盆栽であろうか。

 今夜、私が恍惚と聞き、眺めている夜城の音と光の美しさ。
 一九五一年、時のアンドル・エ・ロワール県知事が、夜のシャトオの美しさを惜しみ、夏になると、ロワール城の二、三に夜間照明をつけて、その昼にもまさる美しさを宣伝した。
 すると更らに、この地方に住む建築史家ロベール・ウーダンの提唱で、効果を一層美しく強調することになったという。
 夜のシャトオを舞台として済ぜられる、「音と光(ソン・エ・ルミエール)」と呼ぶ、古典劇の朗読は一九五六年夏から始められた。
 一流の脚本家と作曲家に依頼して、それぞれの城に因む寸劇の台本を作り、それに音楽を加えて、コメディ・フランセェーズの男、女優が朗読したものを、テープに吹き込んだという。
 トゥーレェヌとプレゾワ地方の代表的な六つの坊、シャンボール、シュノォンソオ、ヴィランドリィ、アゼィ・ル・リィドオ、プロワ、アムボワーズ、ブリィサックで五月から八月まで、夜になると「音と光」を駆使した夢のような、中世の夜を再現し、旅情を慰める。
 現在では、それを含めて十二のシャトオで演ぜられている。
 私はこのヴィランドリィの夜のシャトオで、その「音と光」を見聞したわけである。
 ヴィランドリィの場合、台詞はアンドレ・カストロ、音楽は1・W・ガレが担当したという。この「音と光」はロワールを嚆矢として、ヴェルサイユやフォンテェヌブロオ、さてはリビエラのカンヌ沖に浮ぶ、巌窟王で有名なサント・マルグリット島のシャトオでも盛んにやっていた。
 昼のアドミッションは一二五フラン、夜は一五〇フラン。古城を夜も遊ばせずに稼ぐ。フランスの観光政策。その詩情溢るる、商魂の逞しさに感心する。
 イタリアでは、ロォマ、ヴェニス、フィレンツェのいずれでも、これほど企画が進んでおらず、あの名所古跡の夜を遊ばせているのは、まことに勿体ない気がした。
 例えば、月明の夜、フォロ・ロマーノの古跡で、ローマ帝国華やかなりし頃の、皇帝や英雄の故事。さてはローマ郊外、アッピア街道あたりで、凱旋するローマ軍団の戦車(チャリオット)の音でも、テープに流してやったらと思った。
 ローマ市内に無数にある、噴水や史頃も同じである。

 スピィカァから流れるドラマの朗読も、終りに近づいたらしい。
 鳴り響く多くの鐘の音。その交錯した強い鐘の音。
 最初の若い女の、美しい声で ー

 Nuit du Chateau Villandry! Jardin de la France!
 ヌイ・ヂュ・シャトオ・ヴィランドリイ ジヤルダン・ド・ラ・フランス
 Nuit du Villandry! La nuit! nuit! nuit!  
 ヌイ・ヂュ・ヴィランドリイ ラ・ヌイ ヌイ ヌイ

 シャトオ,ヴィランドリィの夜! フランスの庭! ヴィランドリィの夜! 夜! 夜! 夜!……と、静かに美しい声が消えてゆく。またしても、弱く鐘の音が流れる。
 その印象的な声、言葉、音楽、鐘の音。
 身、中世ヴィランドリィのシャトオにある心地。その情緒に浸りながら、私は静かな月の夜の、ヴィランドリィの庭を歩いていた。
 月はまた雲から出て、皎胶(こうこう)とシャトオを照らす。
 何に驚いたのか、近くの森から、黒い鳥が二羽、けたたましく羽掃(はばた)き、飛び立っていった。
 中世フランスの夜が、深く胸に迫る夜である。

『ロワール紀行』 経済往来社



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医史跡を巡る旅 №28 [雑木林の四季]

「紀行シリーズ」~西洋医学事始め・鹿児島篇

              保健衛生監視員  小川 優

江戸時代を終わらせ、明治の代を始めるにあたり、鹿児島、当時の薩摩藩が立役者であったことは間違いありません。幕末には積極的に西洋文明を取り入れ、近代化をはかった薩摩には、西洋医学にまつわる史跡が数多くあります。

「医学院跡」
医学院は安永3年(1774年)、薩摩第25代藩主島津重豪(幕末の名君といわれる成彬の曽祖父。隠居してからも長命で、後に80歳の時に斉彬とともにシーボルトに謁見を許している)によって創設された、漢方の医学教育・研究施設です。武士階級だけではなく町人にも聴講を認め、広く知識の普及を図りました。重豪は医学院だけでなく、のちに薬草園も設置し、藩内の医学の振興と充実に力を入れました。
重豪はこのほかにも藩校として造子館(朱子学)、演武館(武術)、明時館(のちの「天文館」、天文学)などを設立しており、幕末の鹿児島における知識・技術・武術の、振興・普及・向上に尽力した点で評価されているようです。

24①醫學院跡.JPG
「醫學院跡」石碑~鹿児島市山下町 中央公園
24②醫學院跡プレート.JPG
「醫學院跡」石碑説明プレート
24③医学院跡.JPG
「医学院跡」石碑~鹿児島市山下町 中央公園
24④医学院跡プレート.JPG
「医学院跡」石碑説明プレート

石碑は、繁華街の天文館も近い中央公園から国道225号線を挟んで、東千石町側の歩道上に大正12年に設立された石柱状の「醫學院跡」、中央公園内に平成17年になって設置されたモニュメント風の「医学院跡」の二箇所があります。実際の医学院は古い石碑、「醫學院跡」に近いところにあったようです。この「醫學院跡」の碑、かつては半分植栽に埋もれ、肝心の部分が読めない状態でした。

どちらの碑の説明板にも「江戸の医学館を模範として「学規八略」を定め…」の一文がありますが、医学館前身の躋寿館(将軍奥医師多紀元孝が1765年に設立)が医学館と名を変え幕府所管となったのは寛政3年(1791年)で、つまり医学院設立時に医学館はなかったわけです。おそらく「躋寿館(のちの医学館)」と記すべきところを、簡単に省略してしまったのではないかと思われます。

「赤倉の跡」
明治元年(1868年)、薩摩藩は西洋医学を取り入れた医学校と、付属の病院を、現在の南洲公園に設立します。この学校は後に市内小川町に移り、赤レンガ造りの外観から「赤倉」と呼ばれるようになりました。医学館の校長兼病院長として、生麦事件の被害者リチャードソンの検視、戊辰戦争における野戦病院としての軍陣病院の設置などで知られる英国人医師ウイリアム・ウイリスが、軍陣病院で西郷隆盛の弟、西郷従道を治療した縁もあってか招聘され、1869年12月に着任します。新政府はその後、帝国大学医学部を中心としてドイツ式医学一辺倒となりますが、この医学校では主にイギリス式医学を教え、高木兼寛など優れた医師を輩出します。こうして地方における医学教育の雄として名を馳せますが、惜しくも勃発した西南戦争により、1877年、その短い歴史を閉じます。しかしその命脈は連綿と県立鹿児島医学校、県立鹿児島大学医学部、そして鹿児島大学医学部に繋がってゆきます。

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「赤倉の跡」石碑~鹿児島市小川町

石碑は鹿児島駅に近い市電桜島桟橋通電停のある交差点の、南西側の角にあります。小さいながらもなかなか風格のある石碑ですが、詳しい説明版もなにもなく、少し寂しい状態です。

「ウイリス、高木に西洋医学を説く」
海軍における脚気病撲滅で有名な高木兼寛は、明治3年(1869年)から明治5年に上京するまで、ここ鹿児島医学校でウイリスに学び、また治療にもあたります。二人の交流を描いたオブジュがかごしま県民交流センターに設置されています。

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「ウイリス、高木に西洋医学を説く」~鹿児島市山下町 かごしま県民交流センター

「英國大醫ウヰリアム・ウヰリス頌徳記念碑」
「赤倉の跡」で触れたとおり、ウイリアム・ウイリスは鹿児島の西洋医学教育の大恩人といえるでしょう。ウイリスが日本を離れた後の明治26年、かつての教え子が中心となって鹿児島市城山に頌徳記念碑が建てられました。碑の除幕式には高木兼寛も参列したようです。その後この碑は昭和29年に元県立病院跡地へ移転、次に昭和49年に鹿児島大学医学部および付属病院の移転に伴い鹿児島市桜ヶ丘に移設され、さらに平成9年、鹿児島大学医学部創立50周年記念事業として鶴陵会館の落成にあたり、この中庭に据えられました。

28⑦ウヰリス頌徳記念碑.JPG
「英國大醫ウヰリアム・ウヰリス頌徳記念碑」~鹿児島市桜ケ丘 鹿児島大学医学部

非常に管理が行き届いて良い状態ですが、会館の中に入らなければ見ることができず、郷土の恩人の遺徳を偲ぶよすがとしては、もっと万人の触れやすいところに設置したほうが良いのではと、老婆心ながら思ってしまいます。なおこの鶴陵会館には、ウイリスを記念して大ホールにその名を関しており、入り口に氏のレリーフも設置されています。

28⑧ホールレリーフ.JPG
「ウイリアム・ウイリス ホール レリーフ」~鹿児島市桜ケ丘 鹿児島大学医学部

「鹿児島大学医学部付属病院跡記念碑」
医学校が発展した県立鹿児島医学校と附属病院は西南戦争後の明治15年、南洲私学校跡に移転します。その後医学校は一旦廃止されますが、付属病院だけは所管が民営、市営、県営と変わりながらも存続します。しばらく県立鹿児島病院として運営された後に、昭和18年に県立鹿児島医学専門学校附属病院に戻り、さらに昭和33年には病院が国立移管され、鹿児島大学医学部附属病院となります。こうした幾多の変遷を経ながらも、この由緒ある地を離れることはなかったのですが、昭和49年には医学部移転に伴い、鹿児島市宇宿町にとうとう移ることとなります(現在地名は鹿児島市桜ヶ丘)。移転した跡にはいま、国立病院機構鹿児島医療センターがあります。

28⑨鹿大病院跡記念碑.jpg
「鹿児島大学医学部付属病院跡記念碑」~鹿児島市城山町

私学校当時からの門(入り口としての機能は閉鎖されている)、石塀は今も残されており、史跡となっています。記念碑はこの門の閉鎖された壁に設置されていますので、正面に立ってみないとその存在に気付きません。一方私学校は西南戦争末期の市街戦における激戦地のひとつであり、その石塀には今も数多の弾痕が残されています。


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いつか空が晴れる №19 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
    ―High noon―
                                                            渋沢京子

九月は台風のシーズン。那覇から東京に向かう船が欠航して足止めになり、こちらは新学期にはまだ間のある、お気楽な学生の身分。一週間ほど琉球大学の寮に泊めてもらったことがあった。確かその頃、学生証を見せると、各地方にある国立二期校は、気軽に空いている寮の部屋に泊めてくれた。

出窓のついた洋館の広い一部屋を一人で占領して、毎日、首里や那覇の街を見物して歩いた。国際通りの屋台でソーキソバやゴーヤチャンプルで食事をとり、琉球大学の寮に戻るには、首里の石畳の急な坂を、息を切らして上っていかなくてはならない。後ろを振り返ると、家並の向こうに沖縄の青い海が見えた。
夜になると寮に残っている琉球大学の学生が宴会に誘ってくれた。話題はやはり米軍基地の事が多かった。彼らと話をしているうちに、米軍基地に対する考え方が、本土の私たちとは全然違うことに気が付いた。彼らにとっては切実な問題なのだ。

ある日、私は那覇からバスを乗り継いで米軍基地の近くに向かった。ガイドブックで、米軍が放出したレコードばかりおいてある通りがあることを知り、いいジャズのレコードがあるかもしれないと思ったのだ。

バス停から坂を上り、ようやくその通りを見つけた。真昼だった。通りはしんとして人っ子一人姿が見えなかった。ガイドブックにあるように、通りの両側は中古のレコード屋が並び、大概の店は閉まっているか、店の中が暗くてなかなか入る勇気はなかった。

店のショーウィンドウ越しに飾ってあるレコードを見ていたとき、突然視界が暗くなった。
気が付くと、4,5人の米兵に囲まれているのである。私のすぐ横に立っていた米兵の暗い目付きに、浮かびかけた微笑みも凍りついた。
こちらは無防備な短パン姿。咄嗟に私は走って逃げた、夢中になって坂を下り、細い路地を走りぬけ、ようやく人通りのある場所に来ても、暫く心臓の動悸はなかなか止まらなかった。

沖縄の米軍によるレイプ事件や殺人事件。新聞に出るのはおそらく氷山の一角なのだ、実際はどれだけ泣き寝入りした沖縄の少女たちがいただろうか?

そしてそういったことに関して、本土に住む私たちはどれだけ鈍感になっているのだろうか?


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