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季節の記憶・いだようの写真散録 №56 [文芸美術の森]

「寒風」                               自然写真家  いだよう

2012 1月下.jpg


日が沈んだ後、凍てついた湖面を風が渡ってきた。巣に戻る鳥たちが鳴き交わす声も、その風に乗って届いた。


『知の木々舎』 第65号・もくじ(2012年1月下期編成分) [もくじ]

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【心の小径】

今日、一途に №16              鎌倉・浄智寺閑栖  朝比奈宗泉
 苦しい時こそ家族を見つめる
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-11
                                
こころの漢方薬 №66          元武蔵野女子大学学長  大河内昭爾
 『眼中の人』―「君はいま、何処に・・・・・・」上演によせて 1 
 
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-11-1

ひとつ井戸のもとで №10                         今井館教友会理事長  新井 明
  内村鑑三と新世紀 その1
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-11-2

【文芸美術の森】

季節の記憶 №56                                    自然写真家  いだよう
  「寒風」
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-16-2
 

人里離れた聖堂 №23               美術の書出版『形文社』  岩部定男
  主教(ビショップ)ガンダルフはロンドン塔やロチェスター大聖堂の設計者 2
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-14-2

高橋由一 №14              東京芸術大学名誉教授  歌田眞介
  鱈梅花
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-13-2

言葉あそび入門 №56                                     コピーライター  多比羅 孝
 お『楽』しみの『中」に『豊』かに『実』ったシンメトリー俳句。
 続いては『濁り俳句』を存分(ぞんぶん)に!!
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-14

妖精美術館 №32                                          妖精美術館館長  井村君江
 挿絵画家不詳(W・.H・フーバー?)   《夏の夜の夢》
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-13-1

じゃがいもころんだ №20                 エッセイスト  中村一枝
 山王 カムチャルブ  
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-13-3

「平家物語」紀行 №5                    元武蔵野大学教授  深澤邦弘                                  京都 平家都落の道を往く 七条大宮から大山崎
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-13

祖道傳東 №6                                               水墨画家  傅益瑤
  一葦渡江
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12-9
                                                    
遠州七不思議 №1               郷土史研究家 石野茂子・型染め版画家 田中 清
 三度栗(さんどぐり)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-14-1

【ことだま五七五】

武蔵野 №10         美術ジャーナリスト・全国良寛会会員   斉藤陽一
  春 10
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-11-7

四季つれづれ №10                                   俳人・ 「古志」同人  松本 梓
 梅
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-11-8

日めくり汀女俳句 №2                                           俳人  中村汀女
 一月四日~一月六日
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-11-9

【核無き世界を目指して】

死の影 №10                                                           作家  中山士朗
  四 (1)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-11-6

広島第二県女二年西組 №44                            エッセイスト 関 千枝子        章外の章 二  原爆と靖国 侵略の神
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-11-5

【雑木林の四季】

自省録 №40                                           元内閣総理大臣  中曽根康弘
  第五章 これからの世界を読む ④
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12-8

西北への旅人 №40            元前早稲田大学総長  奥島孝康
 北アルプス縦走
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12-7

台湾人と日本精神 №40                                               老台北  蔡焜燦
  日本人よ、胸を張りなさい。その8
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12-6

詞集たいまつ №40                                      ジャーナリスト  むのたけじ
 めぶく章(1999~2001)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12-5

シニア熱血宣言 №28                   映像作家  石神 淳
  賛Barbizon派
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12-3

アナウンサーの独り言 №26            コメンテイター&キャスター   鈴木治彦
  私自身への質問状
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12-4
                                                
浜田山通信 №66                                           ジャーナリスト  野村勝美
 成城石井開店
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12-1

軍隊と住民 №26                      弁護士  榎本信行
 第三章 長沼事件 1  
                                                                     
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12-2
                  
ペダルを踏んで風になる №10               サイクリスト   高橋慎治
   くるくる
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-15-2

私の中の一期一会 №18        アナウンサー&キャスター   藤田和弘
 「後遺症があったら誰が責任とってくれるんだ」
 ~東京五輪ボクシングのゴールドメダリスト桜井孝夫~
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-15-3

BS-TBS番組情報 №2                                                     BS-TBS広報部
 2月上のおすすめ番組
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-12

パリ・暮らしと彩りの手帖 №2                  在パリ・ジャーナリスト   嘉野ミサワ
 ルクレジオのcarte blanche展覧会                             
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-17 

【ふるさと立川】

玉川上水の詞花 №65                   エッセイスト  中込敦子
 ロウバイ(ろうばい科)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-11-4

砂川・私の戦後史 №25                                                               砂川ちよ
  思いがけず教育委員に
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-11-3

立川陸軍飛行場と日本・アジア  №50              近代史研究家  楢崎茂彌
  即位の大礼の儀式着々と進む
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-15-1
                                               
【代表・玲子の雑記帳】                                『知の木々舎』代表  横幕玲子
 中川一政美術館を訪ねました。    
      
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-15


            *       *      *      *
愉しく読むために読者への手引き
ネットマガジン『知の木々舎』を愉しくお読みいただくための手引きをご案内します。

発行回数・月に2回(上期・下期)ネットマガジンを発行します。
カテゴリー・記事の分類です。
「もくじ」・「執筆者紹介」・「代表玲子の雑記帳」・「心の小径」・「文芸美術の森」・「ことだま五・七・五」・「雑木林の四季」・「ふるさと立川」・「核無き世界をめざして」があります。
もくじ・ネットマガジンの号数・編成期(×月の上期・下期の別)を表示し、その下に最新の記事のタイトル・見出しが URLをカテゴリー別に掲載しています。
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パリ・暮らしと彩りの手帖 №2 [雑木林の四季]

ルーブルのcarte blanche 展覧会

                            在パリ・ジャーナリスト   嘉野ミサワ


  今年三月ののパリの”書籍フェアー”の特別招待国は日本 で、日本は17年ほど前にも招待国で、他から文句が出るのではないかとも思えたが、この辺りの事情には通じている筈の私にとって、想像を超えていたのは、フランス語に訳される本の第一はもちろん英語、そして今ではフランスでも若い人たちは英語が読めるように,話せるようになって来ているから,ここで流通する本の数にしたら,日本の場合とは全く別なのは明らかだが、それにしても翻訳される本の2番目が日本語になったというのには驚いた。日本からは大江健三郎を始め22人の作者が読者のためにやってくるという。翻訳者達も総出でつとめることだろう。私もここに長いから、ノーベル賞帰りの川端康成とルーブル美術館を見たり、安部公房と文学を語ったり、知の木々舎に連載の中村汀女さんとパリを散策したり、思い出は尽きない。ジャン•コクトオを彼のパリのパレロワイヤルの家でインタヴューしたのは1963年10月11日だったが、その前夜に歌い手のあのエデイット•ピアフが死んで、コクトオは先ずそのことばかりを話してやまなかった。そして、帰って来た翌朝、私はコクトオその人の死を知ったのである。

  このことはまたの日に譲るとして、日本でまだ学生だった頃に尊敬していた行動の作家,アンドレ•マルロオが来日して日仏学院での講演でさらに感動し,密かにその著作を集めたものだった。日本に留学していた知人がパリにいるご主人に頼んで、マルロオの”空想美術館”の特別装丁したオリジナルの27番をXマスプレゼントに贈ってくれたのは今でも私の宝物である。パリに来て他の号も買ったが,普通装丁の一般用だ。そして,フランスに来て数ヶ月後に国立放送局が、日本語の番組を始めたのに採用されて、”フランスの12人の作曲家たち”の放送を皮切りに、1ヶ月後には水を得た魚のごとくに自分のプログラムを組んでの仕事が始まったのだった。

  この60年代初期のフランスはドゴール大統領がマルロオを文化大臣に任命し、すべての人が同様に文化の恩恵を受ける権利があるという発想から、それまで,大都会に集中していた、美術、演劇、音楽など多様な文化の形を地方の人々も享受できるものとすべきであるという考えで、各地方にMaison de la Culture, 文化の家を作ることになり、その最初に選ばれたのが、それまでルアーヴルの町の美術館であったものを文化のいろいろな形が受け入れられるものに変えた。そしてその披露式が1961年に行われ,マルロオを迎えて盛大に行われたのだった。それは今から50年前の事、私も出席して取材、日本語の放送を作り、短波で 送ったものだ。私の放送をいつも訊いていたと本に書いたフィリッピンのジャングルに隠れて暮らしていた小野田少尉も聞いて下さったことか。もう一人のファンで諸外国を指揮棒一本で回っていた岩城裕之もしかりだったろうか。

みさわ展覧会4.jpg

          ルアーヴル美術館  美術館の前に、海を背景に建てられている彫刻はアダン。

 さて、最近ではむしろ美術館の名で呼ばれながら、コンサートや演劇など多様な面をみせているルアーヴル美術館は2011年後半から2012年前半にかけて大々的な計画で、いくつもの展覧会を次々に発足させたのである。それはまだあといくつかのプログラムとして 順次変わって行くから,今年 のニコラ•ドスタール展が始まるときにもう一度行こうと思っている。

 パリに戻った翌日はルーブル美術館から興味ある展覧会の前の記者会見への招待が来ていた。それは数年前からルーヴルが始めている、各界の有名人にcarte blanche (白カード)を与えて、ルーヴルの展示室に自分の思うような作品なりを入れて展覧会とするというもので、今まで、ダンサーであり、造形美術作家のヤン•ファーブルや、作曲家のピエール•ブーレーズ、演出家のパトリス•シェロオなどに自由演出をしてもらったものだが、今回は気難しい変わり者のノーベル賞作家、Jean- Marie Gustave Le Clezio, を迎えるのに成功したらしい。ルクレジオはインタヴューには応じないし、テレビやラジオにも出ず、南仏で暮らし続けていると言うのに現代の問題を的確に捉えての作品がすばらしい.その上マスクが良いとあって、憧れる人が日本にもいると聞いた。この記者会見はごくわずかの記者だけで、フランス人でないのは私だけだった。いよいよその展覧会を見たあと、責任者のマダム•マリーロール•ベルナダックがルクレジオがアフリカの彫刻やメキシコの絵画に大変魅せられている事について、さらにアメリカの時代がかったファンタステイックな2台の車も遂にルーヴルの展示に入った事などの説明のあと、記者達が質問できることになった。ところが驚いた事に誰も質問しない。いや誰もあえて質問しないと言った方が当たっているだろう。私は我慢ならなくなって、“あえて質問させて頂きますが” と始めた。私として会見でこんなよけいな事は言う事はない。つまりそういう特殊な雰囲気だったのである。

みさわ展覧会1.jpg

             ルーブル美術館の記者会見の模様 左から二人目がルクレジオ (筆者撮影)
 
 わたしの質問というのはこうだ。“今回の展覧会を見るほどに頭を離れない事がある。それは、ルアーヴルのオープン50年の記念に行って来たばかりで、マルロオの“空想美術館”の著作が頭から離れないことだ。あなたの今回の展示についての話を聞いて、一層その思いを強くしたところだが、ルクレジオさん、あなたにとってこのマルロオの本は今回のあなたの展覧会の創造に何か影響を与えたのでしょうか。”というものだった。ルクレジオはこの瞬間からまるで人が変わったように、滔々と子どもの時からマルロオの著作は自分の遠い道印だった、そして彼が政治家として、納得できない事をした時から、避けて通るようになった時期もあったが、それでもやはり今もすばらしい作家であり、あの空想美術館は私たちの青春を導き、燃えさせたものだから、無意識であったとしてもあなたの言う通りと言っていいだろう。こうして熱して話し続けるルクレジオが終わるとそれで記者会見は終了、ルーヴルの部屋を出るとき、マダム•ベルナダックは私に言った。”あなたの質問がピタリ、すばらしかった。彼はあれからすっかり熱を込めて一気に話しましたね”と。

みさわ展覧会5.jpg

 

みさわ展覧会2.jpg

 

みさわ展覧会3.jpgみさわ展覧会7.jpg
ミサワ展覧会6.jpg

 

展示品3点:上からアメリカ車(ビュイック、これも展示品)、アフリカナイジェリア王朝の女性の頭部、メキシコの画家フリーデカロの自画像

 


私の中の一期一会 №18 [雑木林の四季]

「後遺症があったら誰が責任を取ってくれるんだ」
~東京五輪ボクシングのゴールドメダリスト桜井孝雄~

                          アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 夕刊の小さな死亡記事が目に止まった。「東京五輪で金、桜井孝雄さん70歳が1月10日食道がんのため死去」とあり、アッと思わず声を出してしまった。かつてTBSのボクシング番組「東洋チャンピオンスカウト」で毎週のように実況を担当していた私にとって、桜井孝雄は忘れられないボクサーの一人であった。
 高校時代にボクシングを始めた桜井は中大4年の時に東京オリンピックのバンタム級で優勝して、日本ボクシング史上初めての五輪ゴールドメダリストになった。あれから48年、その後金メダルを取ったボクサーは一人もいない。大学卒業後、鳴り物入りでプロに転向、三迫ジムからデビューした桜井孝雄は「チャンピオンスカウト」の看板選手として活躍したが「相手に打たせずに打つテクニックは抜群」という高い評価を得た反面、打ち合いを避けた冷静なアウトボクシングは「安全運転」と揶揄された。プロ向きではないとまで言われたこともあった。私も実況しながら「何故もっと攻めないんだ、どうして倒しにいかないんだ」と何度も思った。歯がゆさを感じながら実況したことも度々であった。こういう感じ方は実況アナウンサーばかりでなくボクシング担当記者にもあったに違いない。日刊スポーツの荻島弘一編集委員が追悼記事の中で「打たれて後遺症があったら誰が責任をとってくれるんだ」という桜井孝雄の言葉が一番印象に残っていると書いている。
 実は私も全く同じ言葉を桜井から聞いて実況の仕方を考え直した記憶があるのだ。新潟で桜井の試合があった時、宿舎で桜井と二人きりになっていろいろ話をしたが、「もっと打ち合え」という声をどう思うか聞いた答えが強く印象に残った。「ボクシングは危険なスポーツだ。打ち合えと言われても俺は打ち合う気はない。打たれて後遺症が残ったら誰が責任をとってくれるんだ。藤田さんだってとれないだろう」と桜井は言ったのだ。返す言葉がなかった。常にクールで寡黙な男が誤解を恐れず本音を言葉にしたのだろうが「打ち合うのは嫌だ」などと弱気に取られ兼ねないようなことを言うプロボクサーは他にはいない。私は「打ち合え」などと無責任な実況しないでくれと桜井に怒られたように感じた。だからそれ以後桜井の試合で「もっと打ち合え」と言わないよう心掛けたのだ。とにかく稀有な存在であった。
 1968年7月、桜井孝雄は日本武道館で行われた世界バンタム級のタイトルマッチでチャンピオンのライオネル・ローズ(オーストラリア)に挑戦した。軽快なフットワークで好調に滑り出し、2ラウンドに左ストレートでチャンピオン・ローズから早々とダウンを奪ったがフィニッシュ出来なかった。後半は積極さを欠く安全運転となり僅差の判定負けを喫し、世界チャンピオンにはなれなかった。後日、私に「会長が勝っていると言ったから無理しなかった」と言ったのを覚えている。でも「もう少し攻めればよかったかな」とも言ったらしいから桜井なりに「失敗だったかな」と後悔したのかも知れない。三迫会長が「今でも桜井が勝ったと思っている」と言うほど惜敗だったのは確かだが、桜井のボクシングは「殴り合いは嫌いだ」という信念を曲げない所に根本があったのである。
 中大で桜井の2年先輩にあたる田辺清さんは1960年のローマ五輪フライ級の銅メダリストで、技術とパワーのバランスが取れた逸材と言われた人だが、1年生の桜井とスパーリングをした時の感想が面白い。「天才的なボクサーで、打とうとするとステップバック、ひるむと向かってくる猫のような奴だった」と述べているように人一倍敏捷だったことが窺える。桜井が「打たせないで打つ」というスタイルを貫いたのもボクシングというスポーツの本質を見詰め、後遺症があると引退後の人生に響くと考えたからであろう。
 派手に打ち合ってダウンの応酬があるとリングサイドは興奮状態になり会場が大いに盛り上がる。ファンはアマチュアじゃないんだから打ち合え、殴り合え、それがプロだろうという風潮は確かにあった。だが一度もダウンシーンがなくてもいい試合はたくさんあるのだ。私が実況した沼田義明対ルーベン・ナバロの試合は引き分けに終わったが実力伯仲で、互いに一瞬も気を抜けない緊迫感があり面白い試合だった。当時活躍された評論家の大木豊さんがこの放送を新聞で大変褒めてくださったので、実況する上で自信になった思い出もある。
 桜井の試合にはそういう緊迫感は充分にあった。要するに玄人好みの選手だったのである。
 激しいスポーツだけに後遺症が出た選手は多い。田辺清さんもプロ入りして快進撃を続け、当時の世界フライ級チャンピオン、アルゼンチンのオラシオ・アカバロとノンタイトル戦を戦いダウンを奪って6ラウンドTKO勝ちしている。しかし世界挑戦を前に網膜剥離を発症、22戦無敗のまま引退を余儀なくされた。網膜剥離はボクサーに多い後遺症の一つだが、脳に衝撃を受け続けるとパンチドランカーになる危険があるのが一番の問題だろう。ちょっと喋り方が変だなと思う元ボクサーはたくさんいる。パンチを受け続けた影響であることは明らかだ。元世界J・ライト級チャンピオン小林弘は片方の耳が聞こえない。耳にパンチを受け鼓膜を損傷してしまったのだ。日常生活で不便なこともあるだろうと思うことがある。
 輪島功一が世界J・ミドル級のチャンピオンになって初防衛戦を九州でやった時、挑戦者はドメニコ・チベリアというイタリアの選手だった。蛙跳びでカルメロ・ボッシを幻惑して見事王座に就いて勢いがあった輪島は最初から打ちに出て1分過ぎに放った右フックがもろにヒット、チベリアがダウンした。レフリーのカウントが始まった途端、挑戦者のコーナーからタオルが投げ込まれたのだ。アッと言う間に試合が終わってしまった。輪島は一発もパンチを貰うことなく初防衛に成功した。試合後宿舎で祝勝会があり呼ばれて我々も出席したのだが、その席に、負けたチベリアがマネージャーと共に現れて輪島を祝福したのである。陽気なイタリアンらしくギターを抱えて歌を披露するなど敗者とは思えないボクサーだった。私はマネジャーに「まだ戦えたのではないか、タオルを入れるのは早すぎたのではないか」と質問してみたが「彼は国に帰ってからもボクシングをしなければならない。今日は勝ち目がなかった。だから無理をさせなかったのだ」という答えが返ってきたではないか。33歳で初めての世界挑戦だというのに随分アッサリしているなあと驚いた記憶がある。そして選手を大事にするタオルの投げ込みを日本も見習って欲しいと思った。こういうマネージャーを持つ選手は幸せだと言える。あるジムの会長にこの話をしたら全く乗ってこなかった、文化の違いなのだろうか。
 最近の試合を見るとダウンしたらカウントをしないで試合を終わらせるシーンを良く見かける。記録上はKOではなくTKOとなるのだが、レフリーはダメージが残らないうちに終わりにするよう指導されているのだろう。選手のためには良いことだ。「昔は根性!根性!立て!」の一点張りだったから・・
 内山高志の世界スーパーフェザー級の試合を大晦日にテレビで見て、内山のファンになった。彼も冷静で、相手が打ってくるのが見えるようだ。出て行く割にパンチを食わないのに感心した。顔面を狙う前にボディを打ちガードが下がった所で顔面を左で狙って一発で倒してしまった。上手くて強い選手だと思う。
 今年はロンドン五輪があるが、久し振りにボクシングでメダルを取れそうな選手が出てきた。村田諒太がその人である。昨年10月アゼルバイジャンで行われた世界選手権大会でミドル級の銀メダルに輝いた選手だ。特に注目されたのは大会3連覇を狙ったウズベキスタンのアボス・アトエフという強敵に2度のダウンを与えRSC(レフリー・ストップ・コンテスト=プロのTKO)で勝った。以来注目されロンドン代表に決まっている。ミドル級は日本では重量級だが世界では中量級で強豪が一杯いるクラスだから簡単ではないだろうが、桜井孝雄以来の金メダルかとメディアは気が早い。 村田諒太の売りは「馬力とスタミナ」だそうだがアマ111勝92KOという戦績が凄い。26歳の東洋大職員村田の一発に注目してみたいが、くれぐれも無理に「打ち合わない」ことだ。昔からよく聞く「攻撃は最大の防御である」はディフェンスを軽視しては成り立たないのである。桜井孝雄はワンツー・スポーツクラブの会長を務めながら「いつか2人目の五輪金メダリストが誕生して欲しい」と話していたそうだ。せめてロンドン五輪までは生きていたかったことだろう。
 2月5日に三迫ジムでジム葬があると聞いている。


ペダルを踏んで風になる №10 [雑木林の四季]

くるくる

             サイクリスト・バイクショップ「マングローブ」店主  高橋慎治

さてさて、一年で一番寒い時期に突入しましたね。
こんなときは風邪などひかない様に温かくして自転車のお手入れ(メインテナンス)でもしてみましょう。
皆さんは、着ているものが汚れたときは「洗濯」をしますよね。
自動車のボディーが汚れている場合は「洗車」です。
もちろん、自転車も乗り物ですから汚れたら洗車をして下さい。
サビなどが心配な方もいらっしゃるでしょうが、水気をきちんと拭き上げて注油をすれば大概は問題ないはずです。
ただし、ご家庭に常備しているスプレー式の万能OILは、自転車のお手入れにおいては注意が必要です。
特にスポーツ車にはOILとグリスは血液みたいなものですので専用品でのお手入れが大切です。
「こんなもんでいいや」ではなくて、「これでよし!」という様に、「愛情」をもって接して下さい。

さて、ここからが今回の本題ですが、自転車の性格の半分を受け持つ車輪の選択及び調整です。
一般車(ママチャリ)においては、基本的に車輪は最初に組み付けてあるものを廃棄するまで使用することが多いです。
わざわざママチャリのヒルクライム性能を引き上げるために軽量車輪に交換することは殆んどありませんよね。
ところが、初めて買った入門用のロードレーサーでは、車輪などの部品交換で基本性能が大きく変わります。

スポーツ自転車の車輪は、ロードレーサーでもMTBでも使用用途によって車輪の仕立て方がさらに細分化されています。
ですので、相応しい車輪を選ぶ考え方は、ちょうど料理をするときに使う刃物を想像していただくと分かりやすいでしょう。
カッターナイフで魚を捌くことは出来ますが、やはり出刃包丁、柳刃包丁の使い勝手には敵いません。
何が言いたいかはもうお分かりですね?
要望の全てをまかなえる車輪を入手することは難しいってことです。

実は自転車の世界は、実際のツール・ド・フランスなどで使われている車輪や部品、フレームなどプロ選手と同じモノを手に入れることは基本的に可能です。
もちろん安価ではありませんが、自動車のレーシングカーやF1の部品や車体から比べれば自転車のレース用部品の価格はまだ現実的ですよね。

また、個人的にお話した方もいらっしゃるかと思いますが、先程の刃物の話の様に全ての自転車においての基本走行性能の確保は、車輪の選択・調整に起因する事象が大半を占めるものであると私自信は考えています。
いくらメジャーブランドのフレームに大枚を叩いて持ってきても、肝心の車輪がなければ自転車にすらなりません。
ですので、皆さんが考える入門用ロードレーサーの車輪のアップグレードやチューニングにも正当な意味があります。
軽い(しなやかな≒しなる)高価なカーボンリム車輪が良くて、重い(強度&剛性)安価なアルミリム車輪がダメなのではなく、用途とスキルに応じた選択が大事なことです。

車輪に限らず自転車の全てのものは、高価なものが安価なものの何倍も強かったり耐久性があったりというわけではなく、むしろ高性能・超軽量・高効率なんてうたっているモノは非常にデリケートなものが多いものです。

実は巷では、福沢諭吉さんが40人ほど協力してくれないと権利の得られない車輪を贅沢にも普段履きにする方がいらっしゃいます。
本来ならば、そのクラスの車輪はレース仕様バリバリの決戦車輪です。
極論すれば、その日のレースの間だけ機能してくれればいい超高性能車輪です。
でも、レースには参加しないその方にとっては、週末朝練習でのライバルとの対決の材料だったりするのです。
また一方では、毎日往復60Kmの通勤をトレーニングも兼ねて自転車通勤に取り組んでいる方がいらっしゃいます。
そんなシチュエーションであれば、安価で強度のある(重い)車輪でも目的意識を明確にすることで使用価値が明らかに高まります。
また、やはり毎日のことですから、車輪の消耗も目に見えて感じられますし、出来るだけトラブルや消耗品としての出費を抑えられることも有益です。

本来ならば、使われる方の数だけ相応しい車輪の数は必要だと思います。
しかし、理想は非現実的でもありますので、限られた予算と選択肢からのトライになりますね。
もちろん、どんな車輪でも人の手で組み上げられたものですから、最終的な精度確認の調整は必要です。
狂いの出にくい車輪は組めますが、狂わない車輪は出来ません。
当然、車軸の回転調整やタイヤの管理も言うに及ばず大切です。

興味を持って車輪と向き合うと「車輪は生き物」ということを実感せずにはいられません。
乗れば乗るほど整備・調整が必要になり、持ち主の乗り味に変わっていきます。
車輪の変化から自転車の「エイジング」を楽しむのも自転車趣味の一つの拡がりです。

せっかく悩んで手にした相棒ですから、ブランドや価格にとらわれずに使い込んでみてください。
たとえハリウッドスターのような派手さがなくても、ご自身の分身のように可愛がってあげてください。
きっと、冒頭でお話した「愛情」が信頼に応えてくれますよ。

それでは、まだまだ寒いですがクルクルって北風と戯れてみましょうか♪

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【ツール缶】
自転車専用シューズは既に履いていますか?
ロードタイプ又はMTBタイプの2種類ありますが、両方とも自転車をこぐ事を考えた作りになっているので効率や快適性、安全性の向上が期待できます。
ただし、ロードタイプ=歩けない(歩きにくい)、MTBタイプ=歩ける(走れる!)と、大きな違いがあります。
もちろん、ペダル本体もロードタイプとMTBタイプは別物で共有は難しいです。
1台の自転車でも用途に応じて使い分けると有益です。

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※《私のお気に入り》

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OGKヘルメット REDIMOS(レジモス)
http://www.ogkhelmet.com/bicycle/products/redimos/index.html#a-redimos
日本人頭の汗っかきには最高です。
軽くて快適で、ヘルメットを被っているのが気になりません。
チョットお高いですが「安全をお金で買う」という大人感覚がよろしいかと・・・

立川陸軍飛行場と日本・アジア №50 [ふるさと立川]

即位の大礼の準備着々と進む

                          高校教師・近代史研究家  楢崎茂彌
 
 前回“一方オイローパ号は多摩川原で三菱の技師達によって修理され、23日朝ようやく目的地の立川陸軍飛行場に到着しましたが、主がいないのはさびしいですよね。”と書きましたが、実はリンドネル大尉が早起きして、7時半には多摩川原から立川までオイローパ号を操縦していきました。不正確な記述をお詫びします。リンドネル大尉はこのあと東京に引き返し、11時半にはフーネフェルド男爵達と、渋谷にある久邇宮(帝国航空協会総裁)邸を訪れ航空協会の有功賞を授与され、午後には東京會舘での午餐会に臨んでいます。この日の新聞は、大礼行還幸啓(天皇はお召し列車で東京駅から京都に向うので、皇居から東京駅を往復するわけです)当日(11月6日と27日)の皇居付近の交通整理区域が決まったことを伝えています。
 大正天皇の「大喪の儀」は昭和2(1927年)12月26日の「大祓の儀」をもって終わりました。そして12月30日には大礼使官制が公布され、「即位大礼」の日程が決定しました。翌年1月17日の「期日報告の儀」に始まり、11月10日の「即位礼」、さらに11月14日・15日に行われる「大嘗祭」、30日の「皇霊殿・神殿親閲の儀」で終わる長い即位の大礼が始まります。

 第五連隊機敵陣に着陸! 第二回特別航空兵演習
 連載第30回で第1回陸軍特別航空兵演習を扱い、“「東京朝日新聞」(1925.9.29)は“因みに特別航空演習は何分多額の経費を要することとて毎年度施行すること困難なため今後は隔年毎に施行する由”と伝えています。軍縮は経費削減の目的もあったわけですから尤もなことです。”と書きましたが、3年後のこの年、第二回陸軍特別航空兵演習が9月25日から4日間愛知・岐阜・静岡上空で行われました。50-1.jpg東軍は飛行第1連隊(各務原・戦闘)・飛行第2連隊(各務原・偵察)・飛行第7連隊(浜松・爆撃)・下志津飛行学校で構成され戦闘機24機・偵察機16機・軽爆撃機6機、一方の西軍は飛行第3連隊(八日市・戦闘偵察)・飛行第5連隊(立川・戦闘偵察)・飛行第7連隊(浜松・爆撃)で構成され戦闘機24機・偵察機6機・重爆撃機3機、これに統監部飛行機19機を加えると、前回の倍以上にあたる98機が参加する大演習となりました。もちろん前回同様に歩兵部隊・騎兵部隊・高射砲兵部隊も参加しました。戦闘の想定は東軍が三方原を拠点として濃尾平野を占領する作戦を展開し、各務原を拠点とする西軍がこれを撃退するというものです。
 東西両軍飛行隊は25日午前9時には拠点に結集して準備を整える予定でしたが、雨にたたられてしまい西軍機は一機も各務原に到着出来ません。この様子を名古屋新聞(1928.9.26)は“正午を過ぎても西軍根拠地へ来るべき飛行機一台も姿も見せず雨はふり続いている。統監部の見学席のテントに雨を避難の一飛行将校「テントの雨の耐久実験にはもって来いだネ」と、負け惜しみもこのくらいになれば満点だが空を見上げる目のうらめしそうなこと。…三方ヶ原より電報来たって立川飛行第五連隊機三方ヶ原にアン着、天候回復を待つ、とわかったり。アン着のアンは案に相違のアンのことだと説明をきく、三方ヶ原は東軍の根拠地にして立川連隊は東軍の所属である、サテも大胆な”と茶化して報じています。飛行第5連隊機は午後2時45分にようやく自陣の各務原に到着しますが、敵地に安着してしまった飛行第5連隊としては名誉を挽回しなければならない立場になりました。同じ西軍の第3連隊戦闘機24機はこの日の飛来を諦めてしまいました。これでは不戦敗みたいなものですよね。そこで今回の演習の総監井上幾太郎大将は、午後7時になってようやく両軍に命令を発し、作戦開始は26日払暁にずれ込みます。
 26日早朝に西軍指揮官荒蒔少将は浜松方面に結集しつつある東軍の状況偵察に第5大隊(飛行第5連隊)を清水港上空に向かわせました。いよいよ作戦開始です。西軍第3大隊は名古屋上空で東軍偵察機と遭遇しこれを撃退、戦闘が始まります。26日の演習は重爆撃機を擁する西軍の優勢のうちに終わりました。
 27日、西軍は前線着陸場を小幡ヶ原演習場(現・名古屋市守山区)に移す作戦を実行し、両軍の空中戦が展開されます。西軍は28日には知立(名古屋東南の現・知立市)、打越(名古屋東の長久手町・打越)占領を目指し、東軍は矢作川を渡河し前進する作戦を展開しました。劣勢に立っていた東軍は西軍の小幡ヶ原演習場を軽爆撃機で攻撃破壊すると陸上部隊が前進を開始し、白兵戦が始まろうとした午前10時、統監部から戦闘中止の命令が発され演習は幕を閉じます。翌日には98機が空中大分列式を行い、学生、在郷軍人、青年団など2万人以上が見学に押し寄せました。どうやら第5連隊の名誉回復の機会はなかったようです。
 
 第八高等学校生徒、特別航空兵演習に動員される50-2.jpg
 連載第21回で触れたように、宇垣軍縮の一環として大正14(1925)年4月から中学校以上に配属将校が置かれ軍事教練が始められました。この特別航空兵演習には配属将校杉本少佐の指揮下500名の第八高等学校(現・名古屋大学の元教養部)生徒隊が動員されています。生徒達は27日に校庭を出発し天白村秀傳寺に置かれた西軍連隊本部に入りました。村はコーヒーや汁粉、梨などを準備して歓迎をしたようです。三寺院に分泊した生徒達は翌日から軍の指揮下に入り作戦に従事することになりました。制度が始まってまだ3年ですが、これはもう軍事教練の域を越えており、制服と制帽はあの学徒出陣を思わせます。50-3.jpg

 即位の大礼の報道準備が進む
 前々回(48回)に紹介したように、即位の大礼に備えて毎日新聞社はこの年ペラン式の電送写真装置を導入し8月27日には試験電送に成功しました。東京日日は、電話線を利用した電送写真(写真右)は我が国の民間では初めてのもので“男子は昨朝大阪毎日より電送してきたペラン氏…わざと修整を加えず製版した。もしこれに修整を加えて製版すれば紙上には更に鮮明に刷り出される”と胸を張っています。修整が前提か…。
 ライバルの朝日新聞社の電送写真は大きく遅れて、即位の大礼3週間前の10月21日の紙面を飾りました。朝日新聞社は春に電送写真装置導50-4.jpg入の社告をするとベルリンにあるシーメンス・ウント・ハルスケ社で製作を急ぎ、最新式のシーメンス・カルロス・テレフンケン式電送写真装置を完成し、シベリア経由で運ぶと、大阪・京都・東京に装置を設置したのです。記事は世界一の装置と胸を張っていますが、右の写真は上の毎日新聞のものと較べると明らかに解像度が勝っています。当日の東京朝日新聞は“一頭地を抜く朝日の装置、驚くべきその利用の範囲”と題した逓信省工務局長の談話を掲載しました。この機の優越性のお墨付きをもらったようなものです。東宮成婚報道写真空輸競争に敗れた毎日新聞は電送装置を先に導入したのに今回も負けそうです。遅れをとった毎日新聞が、日本電気が開発し試験段階にあるNE式電送写真装置を導入する社告を載せたのは即位の大礼直前の11月5日でした。大阪毎日新聞社・東京日日新聞社の社告は“同式機は我等が多年待望した純国産品であるにのみならず、その実験成績の優秀なる、ドイツ及びフランスの先進国製を凌ぐものがあることが明らかにされた”としながら、機械装置の写真を載せているだけで、電送された写真は公開されていません。さあ実用に耐えるのでしょうか。それにして、立川を舞台とした飛行機報道競争がなくなったのは残念です。

 即位の大礼中継に向けて日本放送協会の中継網工事急ピッチで進む
 日本のラジオ放送は1925年に始まり、この年に朝日新聞社がラジオを使って「朝風・東風」の訪欧大飛行ブームを盛り上げたことは連載第23回に書いたとおりですが、ラジオは東京放送局(JOAK)、大阪放送局(JOBK)、名古屋放送局(JOCK)が別々に開局しています。当時の放送出力は弱いので放送局の周辺数十㎞でしか受信できないため、逓信省が主導して大正15(1926)年8月、三局が解散・統合されて日本放送協会が設立され、日本中どこでもラジオを聞くことが出来るような中継放送網建設が計画されました。折りからの不景気に計画はそう簡単に実現はしませんが、即位の礼を昭和3(1928)年11月10日に行うことが決定すると、中継網の規模を縮小して工事が進められ、即位の礼直前の11月5日に全国放送第一声が発されたのです。竹山昭子さんが、「ラジオの時代」(世界思想社刊)でこの間の動きを詳細に研究記述されています。竹山さんが「知の木々舎」に連載した、「昭和の時代と放送  №22天皇報道に燃えたラジオ、 №23昭和天皇御大礼放送 ②御大礼放送へ向けて始動」をご覧下さい。こうして、昭和天皇即位の大礼を機に新聞・ラジオの報道体制が整えられて行きます。 

 立川の大典記念事業が時間励行・虚礼廃止とは…
  東京日日(府下版1928.923)は“ 立川の時間励行 変わった大典事業 立川町の大典記念事業は財政難の折から、金のかからぬ事業をと時間励行と冠婚葬祭の虚礼廃止等計画されていたが、時間励行の方は先ず町会が範を示す必要ありとその具体案につき過般来中島町長が考究中であったが、大体 一・定刻不参者罰金徴収法 一・出席多少にかかわらず開会する事 その他に内定し近く町会協議会を開いて諮ることになった”と報じています。多少の財政難対策になるにしても、遅刻者に罰金が記念事業とは一寸せこ過ぎない?実際に行われたかは不明ですが。
 帝国航空協会は10月21日から御大礼記念特別飛行競技大会を大阪で開きました。立川からも日本飛行学校と御国飛行学校から合計5名の一等・二等飛行士が参加しましたが、残念ながら好成績を挙げることは出来ませんでした。

写真上      「閲兵式」 (名古屋新聞 1928.9.30)
写真2番目  「地上部隊として参加した八高生徒の宿舎」 (名古屋新聞 1928.9.28)
写真3番目 「ペラン氏電送写真」 (東京日日新聞 1928.8.28)
写真4番目 「昨夜京都都ホテルにて中学生の提灯行列に答えられる秩父宮同妃両殿下」
                                         (東京朝日新聞1928.10.21)


雑記帳2012-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

真鶴にある中川一政美術館を訪ねました。

『知の木々舎』では、昨年から、中川一政画伯の絵を紹介したいと準備をすすめています。
ようやく、町から利用許可がおりたので、掲載方法など打ち合わせるために、年明け、
真鶴へでかけました。

中川画伯が、長年、その光に溢れた穏やかな風土を好んでアトリエを構え、製作した、数百点にのぼる絵が、没後、町に寄贈されて、町立の中川一政美術館ができました。

真鶴町は、その名前の形に似た、太平洋に突き出た半島に位置して、海の幸に恵まれた町。海岸に沿った真鶴通りにはおいしい魚が食べられる店がならんでいて、休日ともなると、首都圏からお目当ての魚を食べにくる観光客の車で、道路は数珠つなぎの渋滞ぶりです。

この日、太平洋は凪いで、陽光にあふれていました。
昼食は港のそばの魚市場にある、町営の魚座(さかなざ)で。

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魚座から見た真鶴港
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店先でイカの天日干し

美術館は相模湾を見おろす、岬の山の中腹にあります。山は、江戸時代、小田原藩が植樹した林におおわれています。林の一部は魚(うお)付きの保安林として大切にされてきました。いま、日本では海と山の生態系をみなおし、漁師が山を育てるいう考え方が見直されています。樹齢数百年という松や樟も多く、美術館の前に聳える樟もその1本です。

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館内の展示室は何とも心地良く、『知の木々舎』の紙面で画伯の絵を見た読者に是非足をはこんでもらいたいと思わせる空間でした。学芸員の新井さんからは、掲載についていろいろ助言をいただきました。

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◆わが家の飼い猫のエイジが、年末にケガをしました。耳がきこえないため、危ないので外に出すのはひかえねばと思っていた矢先でした。毎朝、ゴミ出しにつきあって、嬉しそうにダッシュする姿をみて、つい決心がにぶったのでした。車にぶつかったのです。幸い、傷は軽くて、朝晩の抗生物質と消炎剤で10日ほどでふさがり、折れた前足も1ヶ月もすれば回復するだろうと、医者の見立てです。車については、学習する猫も居れば出来ない猫もいるようで、先代のエイジは利口な猫でした。何かに付け比べられてかわいそうですが、馬鹿な猫ほど可愛い?ということもあります・・・・・。傷のあるほうの、写真の包帯は、嫌がってすぐにとってしまいました。

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◆1年近く連載した田中清さんの「tsunagi~型染め版画の世界」が、好評のうちに前号で終了しました。引き続き、田中さんの型染めを楽しんでいただきたいと、「遠州七不思議」を連載します。掛川に住む郷土史研究家の、石野茂子さんとの共著です。


人里離れた聖堂 №23 [文芸美術の森]

主教(ビシヨツプ)ガンダルフはロンドン塔やロチェスター大聖堂の設計者でもあった 2

                            美術の書出版「形分社」  岩部定男
                                                                                    写真  岩部 径

ウインザー城のノルマン門の中央2階の4半円アーチ下の怪獣頭守護神。1357年の建造の門にNorman Gateの銘板がつけられている。ウイカム造。

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ウインザー城のアルバート・記念礼拝堂(Memorial Chapel)の南側壁の外壁。聖ジョージ・礼拝堂と東西に並ぶ。北のヘンリ8世門が城の山口。

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聖メリー・イフリー教会の西門、洗礼堂、南側画商窓(12世紀)南入口南東窓(15世紀)の後(東)中央塔、聖歌隊席、束内陣の順序に一列に並ぶ。

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聖メリー・イフリー教会の内陣(Chancel)を東北方墓地より望む。内陣の右手奥の2階建は民家。その隣の平屋は教会管轄区内の居住宅と納屋。

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聖メリー・イフリー教会の両側面。左から洗礼堂(Baptistery)。南扉。身廊窓(Navc Window)。塔(Tower)。聖歌隊席(Choir)内陣(Chancel)。

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聖メリー・イフリー教会の西門正面(West Door Facade)。西の戸を閉めて出る人が居る。西門の一階長方形半円頭の壁面は何の装飾彫刻も無い。
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ウエストマーリング・聖レオナード塔の小丘モルト下より東南壁面を望む。塔の右手(北西)には塔に続く外壁だけが残る。現存の塔外部の礼拝堂跡。

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ウエストマーリング・聖レオナード塔の南東壁最下段角基礎石組。1100年主教ガンダルフ指揮による石組の土台。900年の外壁石は青く緑に染みる。

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ウエストマーリング・聖レオナード塔の西壁上部の窓の鉄格子を仰ぐ。鉄分含有石と青緑色石の石組。不定形石を石灰石砂混合(Mortar)で繋ぐ。

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ウエストマーリング・聖レオナード塔の東側壁面下部石積み。壁の厚みで高さと空間を創る。扶壁も水平な一段一段の石積みが基本。900年の外壁。

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ウインザー城ラウンド・タワー(Round Tower)を南の廻路よりモルト中庭越しに塔を望む。12世紀の再建の外壁。外廻路の下に桃に似た花が咲く。

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遠州七不思議 №1 [文芸美術の森]

三度栗(さんどぐり)

                             文・ 郷土史研究家  石野茂子
                              画・ 型染め版画家  田中 清

 弘法大師(こうぼうだいし)が説法をして全国を歩きまわっていたころ。お大師さまが、ちょうど小笠郡(おがさぐん)菊川町(きくがわちょう)三沢(みさわ)にさしかかりました。村の子どもたちが、おいしそうに粟の実を食べていました。おなかがすいていたお大師さまは、子どもたちにたのみました。
 「わたしに、ひとつ分けてくれないか」
 「いいよ」
 子どもたちは、身なりの貧(まず)しいお大師さまに、気前よくさしだしました。                                           
   この村はその日暮らしの毎日で、子どもたちは食べものも少なく、毎年秋には栗を食べておなかの足しにしていました。焼き栗にしてある粟は皮がかたくて、それでも子どもたちはひとつひとつていねいにむいて食べていました。お大師さまも、子どもたちのそばにすわリ、いっしょにむいて食べました。
 栗を食べてすっかり元気になったお大師さまは、子どもたちの頭をなでながらいいました。
 「大事な栗をありがとう。来年から、この村の栗は、三度実をならせよう」
 それからこの村の栗は、毎年秋に三度、実がなるようになりました。

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『遠州七不思議』玲風書房


言葉あそび入門 №56 [文芸美術の森]

お『楽』しみの『中』に『豊』かに『実』ったシンメトリー俳句。続いては『濁(にご)り俳句』を存分(ぞんぶん)に!!

                                                                               コピーライター  多比羅 孝

前回の宿題に対して、またまた、沢山のお答えを頂きました。13名の方から合計22案も、です!有難うございました。
そして、何と秀作の多いことか。元気のいいことか。胸が踊ります。『シンメトリー俳句』。早速、ご披露致しましょう。

いつものように、到着順です。◆は作品。★は作者ご自身による添え書き。◆◆は講評。(多)は多比羅のことです。では、スタート!

1月2日 水野タケシさんより
◆『東北ニ 三・十一 寒キ春』
★多比羅先生、明けましておめでとうございます。本年もご指導よろしくお願いいたします。今年は天災のない穏やかな年になりますように……と祈っていたら、元日のあの大きな揺れ。冷や汗をかいてしまいました。
◆◆本年も、こちらこそ、どうぞよろしく。そして、おっしゃるとおり、穏やかな年でありますようにと、祈る気持は同じです。いや、それにしても、工夫しましたねえ。上記の句、≪三月十一日≫でもよかったのに、あえて、≪サンテンジュウイチ≫でシンメトリーにしましたか!その試みや良し、結果も見事!(多)


1月3日 志満子さんより
◆『一日ニ 二回三回 ヘロヘロニ』
★ 先生、アケオメ~!でございます。新年早々カレシったら……ほんと疲れますぅ~。
◆◆志満子さん、アケオメ~ですね!今年も、自由奔放な志満子調を、楽しみにしてますからね。(多)


1月4日 赤羽デスクワークさんより
◆『円い土 東西南北 大入りニ』
★1月8日からの初場所が楽しみです。新大関の稀勢の里、がんばれ!
◆◆おっとっと。イサミアシだあ。今回の『シンメトリー俳句』は、認定漢字と限定片仮名(10文字)だけで作ること・・・・・・・、それが、前回お伝えした『ルール』でしたけど・・・・・・・。いやいや、上掲の5.7.5は場所前の稽古場での表記、なのですよね。了解!!(多)


1月4日 たっつあんさんより
★本年もヨロシクお願い致します。俳句になっていない、怪しい箇所(文字遣い)があるも・・・・・・。
◆『来月ハ 金土日ハ 東京ヘ』
◆『炎天ニ 出口ヘ車 母ホロリ』
◆『富士山ハ 異口同音ニ 日本一』
◆『春雷ニ 普天間困苦 未来問ウ』
◆◆たっつあんさんのおっしゃる「怪しい箇所」とは、もしかしたら、第2句のことですか?それでしたら、まったく、ご心配無用です。暑い日にお母さんを少しでも歩かせぬようにと、車を出口のそばにぴたりと付けて待っている・・・・・・そんな息子さんの気づかいに、お母さんがホロリとなさったという情景でしょ。快作です!!合計4句。いいのを有難うございました。(多)


1月5日 ダチ瓶さんより
★先生、皆様、空けましておめでとうございます!今年こそ、大大大大飲み会をしてください~(^^)ニコ
◆『盃へ 甘い春雨 米の水』
◆◆あれえ~。またまたイサミアシ~。4日の赤羽デスクワークさんのところで書きましたように、おっとっと、の≪ルール外れ≫。でも、いいんですよね。ニコと笑って飲みましょう。『明けまして』が『(大盃を)空けまして』になるくらい、めでたい正月のことですから。(多)


1月5日 弦太さんより
◆『青春ハ 凧日本中 大空ニ』
★ 明治維新の頃の若者たちのイメージを詠んだ句(苦?)
◆◆いいですねえ!『坂の上の雲』ですか。いや、そのちょっと前?いずれにしても、希望に満ちた大きな句。『凧日本中』。これ、すっかり気に入ってしまいました。(苦)ではありません。秀逸句!有難うございました。以下、自慢話ですが、私はかつて『凧あげよう 空にきれいな 切手張ろう』という句を作りました。句会で、望外のいい点を取りました。以上。(多)


1月6日 一番のりおさんより
◆『V!V!V! 高木中日ハ 目白黒』
★ 明けましてギョーサンおめでとうございます!今年もトラ!トラ!トラ!でいきまっせ!
◆◆あっあっあっ。イサミアシ(ルール外れ)これで3人目。でも、おかまい無しですよね。テキは、ドラゴンの年とばかり舞い上がっていますから、ここらで一発、 Vの烽火を挙げておかなくては、ですよね。今年もどうぞよろしく。(多)


1月6日 八ツ橋さんより
◆『本堂ヘ 赤奉リ 実南天』
★偶然ですが、カタカナの部分をひらがなに変えても左右対称です。
◆◆素晴らしい!殊に「ナンテン」は『難(ナン)を転(テン)ずる』ということで、縁起が良いのですよね。正月らしくて格調も高い、正真正銘のシンメトリー俳句!(多)


1月11日 広葉樹さんより
◆シンメトリー俳句
 『木木舎ニハ 常常答エ 四苦八苦』
 『ハハハハハ 焚火ニ春画 春ハ闇』
★ 知の木々舎のこのコラムへの投稿は毎回苦しめられています。
◆◆『苦しめられ』ながらも、『常常』愉快な作品を届けてくださるそのお力添えに感謝!であります。そして広葉樹さんにとって、『春ハ闇』ではなく『春ハ笑』でありますよう!(多)


1月11日 寿限無さんより
★今年もよろしくお願いいたします。
◆『小春日ハ 画本ニ栞 田ハ黄金』
 『古里ニ 山川草木 自画自賛』
◆◆1句目は対句形式。2句目は四字熟語の活用。いずれもいい語調(リズム)にまとまりました。結構!!こちらこそ、今年もよろしく。(多)


1月11日 青毛のアンさんより
◆『里ハ春 小川ニ水車 青キ空』
 『寒キ日ニ 夫二谷ハ 天国ヘ』 (合掌)
★「白川由美」も入れて作品にしたかったのですが、さすがにムリでした・・・・・
◆◆いやあ、奥さんの名前も・・・・・・・とは、良い着想。締切を気にしないで、これからでも、作っておいてくださいますよう!「白川由美」入りで。(多)


1月12日 ちょうさんより
◆『全員ニ 卒業宣言 古里ハ春』
 『幕開キ 日本美人ニ 目ハ炎 』
★明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。新年早々うっかりしていて、またもや遅刻。申し訳ございません。
◆◆目を炎にしたいものです。獲って食うぞの八岐大蛇の目ではなくて、美しいものに心が燃え立つときの崇高な目の輝き。昇龍のような! こちらこそ、本年もどうぞよろしく。(多)

1月13日 小はくさんより
★多比羅 孝様 いつも楽しませていただいて有難うございます。今日は十三日、締め切りは十一日なのでもう遅いことはじゅうじゅう承知しております。(十三日も十一日もシンメトリーですね) 前々回の出題の答えに離退厭(リタイヤー)を考えるのが精一杯で、前回は難しくてパス、今回もひねり出せずに…。取り敢えず、チャレンジしていることはアピールするために三句。
◆『早春ニ 苦キ茶口ニ 小言言ウ』
◆『青山ニ 赤キ南天 黒キ土』
◆『京ハ春 本堂中ニ 墨香リ』(写経のことです)
★お粗末…。次回は必ず間に合わせます(優しい出題をお願い!)
◆◆よくお寄せくださいました。大歓迎です。添え書きにはご謙遜がいっぱいですが、とんでもない、佳作揃い。揃いといえば、第二句は、青、赤、黒の「色ぞろえ」。技アリ!!第三句の『墨香リ』も流石、小はくさんならでは、というところですね。本年も、どうぞよろしく。(多) 
                  *     *     *     *
                 
公表は以上です。いい作品には余韻があります。今、私は、いい酒を飲んだあとのように、うっとり、陶然としております。しかし、いつまでも、そうはして居られません。『宿題』の説明です。さて・・・・・・。

◆『濁(にご)り俳句』です。これまた私の勝手な命名ですが・・・・・・・。要するに、濁音字と「ン」。計21音字(下記)だけを使って5.7.5を創りましょうというものです。

      ガ ギ グ ゲ ゴ
      ザ ジ ズ ゼ ゾ
      ダ ヂ ヅ デ ド
      バ ビ ブ ベ ボ    ン    (この21音字だけ)
     
◆ただし、次ぎの①②③をルールとします。
◎上記によって創った『濁(にご)り俳句』を表記する際には片仮名、平仮名、漢字など、何を使用してもOKです。→→ルール①
◎季語を入れるか否かも自由です。→→ルール②
◎上記21音字だけなのですから、当然、「半濁音」も「音引き(長音)」も使用不可です。→→ルール③

*ルール③の例(つまりアウトの例)
   全般(ゼンパン)、銀粉(ギンプン)→→不可
   ガード(GUARD警戒)、ビーズ(BEADS飾り玉) →→不可
      道断(ドウダン)、暴言(ボウゲン)→→不可
*念のため、もうひとつ申せば『人事(ジンジ)』はOK!『神社(ジンジャ)』はOUT!
    『男児(ダンジ)』はマル!『男女(ダンジョ)』はバツ!
*さらに、もうひとつ申せば、何故「ン」はOKなのか、ということ。しかし、これは実際にやってみれば、すぐにお分かり頂けることと思います。「ン」は掛け替えのない、大切な「助っ人」です。「ン」を使うことによって、表現の幅は飛躍的に広がります。それだけに、故意に、「ン」を使わずに、と挑戦したくなる人もいるのではないでしょうか。

◆作例には下記のようなものがあります。愚作、お粗末・・・・・・
 『呑軍団(どんぐんだん) グビグビがぶがぶ 午前午後(ごぜんごご)』
 (酒好き連中の一泊旅行です。)
 『蚰蜓(げじげじ)が ズボンじぐざぐ 美人(びじん)だぞ』
   (どうしたわけか、美女が蚰蜓に好かれちゃって。)

◆上載の2句。出来としてはブブブブかも知れませんが、濁音だらけになっていることは確かですね。つまり、ルールには適応しています。

◆さあ、あなたも創ってみてください。例にあるような『添え書き』も、どうぞ、ご自由に。一人、いくつご投稿くださっても結構です。楽しんでお創りください。

◆締切日は1月26日。お時間は微々(ビビ)。お手間は嶄然(ザンゼン)。恐縮です。

◆では、皆さん、お元気に。

◆◆≪事務局からの告知≫◆◆
皆さまからこのぺージにお寄せいただいた作品や添え書きは(掲載を希望しない旨のご連絡がない限り)記名にて本に収録されることがあります。ご了承ください

[追伸]
毎回申しますが、このマガジンに載ったすべての作品(応募作品などを含む)や、文章について、無断利用は決してなさらぬようにお願い致します。著作権の問題があります。お使いになる際は、せめて≪ネットマガジン知の木々舎で見た◯◯さんの作品(文章)≫とだけは明示してください。

[追録]                                          
応募作品の中には≪言葉の誤用か?≫あるいは≪誤字ではないか?≫と疑問に思えるような箇所のある場合があります。
しかし私は原則として≪原文のまま≫、つまり寄せて頂いた表現のとおりに掲載することにしています。
作者が≪意図的に≫そうしているケースだってあろうかと思うからです。
でも、もし≪意図的ではなく≫いわゆる≪エラー≫や≪ミス≫であった場合には、その旨を(あとからでも大丈夫ですから)事務局へご連絡ください。折を見て必ず≪正しいのを≫発表するように致します。
その逆に、皆さんからの作品を当方の手違いによって≪不正に≫掲載してしまった場合には、どうぞ遠慮なくお申し出ください。≪お詫び旁々、訂正≫ということで≪正しいのを≫なるべく早い機会に掲示致します。
よろしくお願い申しあげます。

[事務局より]水野タケシさん、弦太さんのコメントがはいりました。(1月17日)志満子さん、水野タケシさん、たっつあんさん、八ツ橋さんからコメントがはいりました。(1月18日)19日からちょっと留守にしました。留守中、一番のりおさん、かよちゃんさん、ダチ瓶さん、赤羽デスクワークさんからコメントがはいっていました。(1月21日)五郎七さん、小はくさん、広葉樹さん、かよちゃんさん、ちょうさんからコメントがはいりました。(1月26日)寿限無さん、ノウセイさんのコメントが入りました。(1月27日)


じゃがいもころんだ №20 [文芸美術の森]

山王 カムチャルブ    

                                 エッセイスト  中村一枝

 一月半ばに子供たちの小学校時代のお母さんたちで新年会をやった。食べ物は各自持ち寄り、会場は私の家である。既に回を重ねているが、韓流ファンかもしくはシンパであることが会員資格の一つである。中には幼稚園三年保育時代からの友人もいてその子供達が既に四六歳だから、それから数えても四十年來の付き合いである。どちらかと言えば成績優秀・品行方正という子供らでなかったが、親に世話をやかせた分どの子もきちっとした大人になっている。そこでこの会の名前を山王カムチャルブにしようと提案したのは私である。カムチャルブとは今、話題の韓ドラ、「トンイ」の中に出てくる官名で、役人の監察官、いわばお目付役という意味らしい。そういうこと一つでもわあっと盛り上がるところが山王カムチャルブのいい所である。
 私が韓ドラにはまり初めて既に五、六年はたつ。始まりはチャングムだったが、今ではテレビと言えば韓ドラという位熱中している。韓ドラをみていると日本のドラマが今一つつまらない。みんなお行儀よくて、成績のいい生徒みたい。韓国ドラマのどたばた、髪をふりみだしたのが泥臭くみえたのに今ではその泥臭さがぐいぐいドラマをひっぱっていく原動力にみえる。韓ドラの影響は単にドラマにとどまらない。韓国についていろんなことを知りたくなってくる。
 山王カムチャルブの中には在日韓国人のYさんがいる。彼女の家は以前は私の家と道をへだててすぐ近くだった。初めて彼女をみたとき、端正な容姿と、てきぱきとした頭の良いしゃべり方に好感を持った。それが彼女との交流のはじまりである。小学校五、六年で同じクラスになり卒業対策委員とかいうお役目を二人でやって、更に友好を深めた。私たちははじめから、韓国とか日本とかいう意識は薄かった。人間として好感を持ったのである。今では勝手なことを言い合えるいい友だちである。その彼女に何年か前、「私、韓流ファンなの」と言うと、とてもうれしそうな顔をした。
 韓流に興味を持ったことでいろいろと興味の幅が広がった。その一つが韓国料理、たまたま韓国料理を習っていた別の友人に紹介されて、これも通いだして何年かになる。それまで韓国料理と言えば、キムチ、とか焼き肉しか知らなかったのに、さまざまの料理に出会っておどろいている。
 韓国料理の幅の広さ、更に食材の使い方のうまさ、野菜のあつかいの多様さ、その度に感動している。「私、韓国料理、習ってるのよ」と言うと、「韓国料理って辛いでしょう}の一言が返ってくることが多い。冗談じゃない。韓国料理の味付けのほんの一端をみて全てを語ることなかれ、と言いたい。
 同じことが全てに言える。こんなに近い国なのに余りにもかの国を知らなすぎる。
 かの国の歴史も、風土も、風習も、恥ずかしながら韓ドラで知ったことがずいぶんある。
 いかに自分が韓国について何も知らずにいたかとため息と共に重い悔恨の気持ちを味わうことが多い。当時の日本の軍国主義体制の犯したさまざまの忌まわしいできごとを知るにつけても、その思いは一つずつ胸に刺さる。
 Yさんの作ったちゃぷちえとちぢみ、私の作るのより、どこか手だれの味わいがする。
 鳥のつくね、里芋の煮ころがし、白菜の甘酢漬けに鯛ご飯、どれも長年たたみこんだ主婦の味わいだった。日本の山王カムチャルブの味である。


高橋由一 №14 [文芸美術の森]

解梅花

                           東京芸術大学名誉教授  歌田眞介

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           1877(明治10)年   油彩、麻布   54.8×75.8cm

鱈(たら)、梅、揺(す)り鉢、蕗墓(ふきのとう)、荒縄などなど日常どこにでもあるものを、本物がそこにあるかのように材質感を描き分けて表現している。なおかつ、単なる色や形の説明に終わらない品格が感じられる。
 由一は静物でも風景でも遠方から手前への順序で描いた。本図も背景や台を先に、静物は後から描いている。そのことは背景の右下がりの筆触と梅の枝や花の描写、台と蕗葛の関係を近くで見るとよく理解できる。荒縄の描写は見事で重要文化財「鮭」(東京芸大美術館)の描き方と同じである。

『高橋由一作品集』金刀比羅宮


妖精美術館 №32 [文芸美術の森]

押絵画家不詳(W・H・フーパー?)

                               妖精美術館館長  井村君江

妖精 フーバー1.jpg


挿絵両家不詳(W・H・フーパー?)
《ウイリアム・シェイクスピア『夏の夜の夢』》
William Shakespere [A Midsummer Night Dream]
1880年版 38.3×29.5cm
うつのみや妖精ミュージアム蔵

『夏の夜の夢』は妖精物語の名作で、何人もの妖精画家が挿絵をつけているが、この本は挿絵の作者名が定かではない。美しいステンドグラスのように金色の厚い台紙をくり抜き、布の絵をはめ込んだ美しい製本・装丁は、ヴィクトリア朝時代らしい豪重さを感じる。
彩色挿絵は、妖精王オーベロンと王妃ティア一二アが主体で、他の妖精に溶け込んでいるパックは、キューピットのような裸の子どもの妖精として表現されている。端正な筆致と画風はギリシャ神話をほうすつとさせ、それだけ見ても1枚の独立した名画のような美しさである。

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『妖精美術館』フェアリーカンパニー


平家物語紀行 №5 [文芸美術の森]

京都 平家都落の道を往く

                             元武蔵野大学教授  深澤邦弘 

   七条大宮から大山崎
 元暦二(一一八五)年四月廿五日、草津河畔に幌をたてならべ、人々は威儀を正して待ち続けていた。やがて時刻は「酉初」。賢所・神璽を奉安し、「二瓦河市古弊」な船は「高畠橋下方」(『玉葉』による)に接岸した。壇の浦合戦より一カ月後、寿永二(一一八三)年七月の平家都落より一年十一ケ月が過ぎていた。この「草津の津」は文覚・袈裟御前ゆかりの恋塚寺をへて千本通りをさらに南に下った一念寺近く、今、鴨川・桂川が合流している河畔一帯であったという。崇徳上皇が讃岐へ、高倉上皇が厳島へ向ったのもこの地。
 今春、七条大宮より、平家都落の道を歩いた。六孫王神社・羅城門址をへ、一路南へ進めば小枝橋。維新の砲火が最初に開かれたところである。鳥羽離宮の跡に寄る。安楽寿院は鳥羽時代の唯一の遺構、南殿の「秋の山」は公園北の築山として名残をとゞめる。南北八〇〇、東西六〇〇メートルに及んだ大きな池の面影は忍ぶべくもない。城南宮をへて再び川ぞいの道を歩み「草津」 の河畔に座す。

  雪ながら山もとかすむ夕かな
      行水遠く梅にほふ里

 その水無瀬はまだはるか南である。長堤の枯草はやわらかに風にそよぎ、川は早春の陽を映してきらめいて流れていた。今、桂・宇治・木津の三川は男山山麓で合流し西へ流れていく。が、この三川合流地点は酉へ西へ変遷をとげてきた十六世紀後半から二〇世紀前半にかけての治水工事の成果であった。巨椋池は干拓によってすでに喪われ、古代から中世の淀川水系の交通舟運の歴史的遺構はほとんど失われたとのこと。大山崎離宮八幡宮到着は午後六時であった。


祖道傳東 №6 [文芸美術の森]

第六図 一葦渡江 
                                                                 画  傅益瑤
                                                             解説 曹洞宗大本山永平寺

傅益瑤 祖道傳東6.jpg

                 《紙本墨画彩色》 九〇×一二五 軸装

 摩訶迦葉(まかかしょう)大和尚から阿難陀大和尚と、次第に相続された正法は二十八伝して菩薩達磨(ぼさつだるま)に至ります。
 達磨大師は南天竺香至国王の第三子、般若多羅大和尚に師事してその法を嗣ぎました。六十余歳にして海路中国に渡り、梁の武帝に召されて問答をいたしますが、機熟せず、一本の葦を揚子江に浮かべ、その上に乗って夜明け前に岸を離れました。揚子江を渡る達磨大師の表情には、禅の心を弘めようとする、強い意志が読み取れます。
 揚子江を渡って魂の洛陽に行き、崇山(すうざん)の少林寺に入って、石壁に向かって坐禅を組み、そこで動かなくなりました。面壁九年と言われるその端坐の様子をみて、人は壁観婆羅門と称しました。禅宗震旦初祖であります。

『祖道傳東』大本山永平寺


自省録 №40 [雑木林の四季]

第五章 これからの世界を読む ④

                                               元内閣総理大臣 中曽根康弘

海洋国家と大陸国家の対立という構図
 アメリカがイラク戦争をどう決断したかということの背景には、もっと大きな地政学的な対立の構図があったのではないかと私は考えています。これは長期的な国家の性格分析からくる観察です。
 それは、海洋国家勢力と大陸国家勢力の対立の構図というべきものです。その地政学的な要件の違いが、イラク戦争をめぐっての、アメリカとヨーロッパの対立の一つの遠因をなしていて、今後の世界戦略においても、海洋国家勢力と大陸国家勢力の性格上の対立の延長線上で事態が動いていくという感触を私は持っています。
 大陸国家というのは、具体的にはフランス、ドイツ、ロシアなどのことで、これらの国々はヨーロッパ大陸にあって、隣国同士のいさかいや勢力争いで紛争や戦争をくり返してきた歴史があります。例えば、プロイセン(北ドイツ連邦)とフランスの間で戦われた普仏戦争、カイザー・ウィルヘルム2世率いるドイツとフランスの戦いであった第一次大戦、そして第二次大戦にしても、基本的にはヒトラーのナチス・ドイツとフランスの戦いであり、そのフランスをアメリカやイギリスが応援に回るという形でした。
 一方、海洋国家勢力の代表格はアメリカ、イギリスで、英米は密接な関係で同盟を組んでいます。そして、同じ海洋国家として似たような性格を持っている日本がそこへ参加している形です。
 大陸国家の場合は、隣国との喧嘩が多かった歴史があるように、視野が比較的狭い。これに対して海洋国家の場合は、常に水平線を見ているためか、視野は広いところがあります。だからイギリスにしても、大きな植民地帝国を建設することができたし、植民地懐柔政策にも練れているのです。
 ここで興味深いのは、同じ海洋国家といっても、アメリカはイギリスと違って、植民地統治のやり方が稚拙です。アメリカがバグダッドでやっていることとイギリスがバスラでやっていることには随分と差があり、バグダッドではアメリカ軍はみんな鉄兜をかぶり、防弾チョッキを着て、戦車に乗ってやってくるが、バスラでは英国軍は当初、鉄兜もかぶらず、普通の軍服姿で統治にあたっています。植民地統治の経験が豊富なイギリスとその経験がほとんどないアメリカとの違いが顕著に現れているのです。

一強多元世界」が及ぼす三つの変化
 ポストイラク戦争の世界が「一強多元世界」になっていく中で、いくつかの変化が生まれてくると考えられますが、特に、三つの変化に注目すべきだと思います。
 第一は、湾岸地域の政治地図が変わってくる可能性です。イラク暫定統治に関しては、二〇〇四年六月末に、イラク人に主権を委譲することになっていますが、現状から言えば、その後もアメリカ軍は長期的にイラクに駐留することになるとみられます。仮に首都バグダッドや他の都市からアメリカ軍が引き上げても、航空基地および飛行場周辺は確保して長期的に利用することになる可能性大です。当分はテロ対策のため殆どの要所に兵力を配置する必要があるでしょう。
 ブッシュ政権にはアメリカ的な民主主義を広めていこうという性格があるので、こういう形でアメリカ軍のイラク駐留が永続化すると、湾岸周辺で最も脅威を感じるのはサゥジアラビアやシリアであり、次がイランでしょう。さらにエジプトまでのすべてのアラブ諸国もアメリカ軍の湾岸への進出に強い危慎を覚えるに違いありません。
 中世の十字軍以来、キリスト教徒の進出に対して、この地域の回教徒は警戒心と反感を持っています。ましてや、典型的なキリスト教国で、しかもユダヤ人勢力がかなり支配的な力を持っているアメリカが湾岸地域に鎮座することには非常に強い危機感を持つのも当然です。
 だからこそ、イラク占領統治を成功させるためには、イスラエルとパレスチナの独立国家共存体制を実現しなければならないのです。私は、イラク戦争が始まる前から、アメリカがある程度イスラエルを抑えて、パレスチナとの共存体制を速やかに作り上げるための計画と過程を明示し実行しなければならない、それが対イラク統治の鍵だと主張してきました。それをアメリカはロードマップという構想で示してきました。
 一時はアメリカも必死になってロードマップを実現させようとしてきましたが、残念ながら、いまはほとんど中断されています。もしもロードマップが強力に推進されていれば、周辺の湾岸諸国も好感を持ち、アメリカのイラク統治に協力する可能性は高かったのですが、現在は挫折しています。二〇〇四年十一月の米大統領選が近づく中で、在米ユダヤ人勢力の票と資金力を考えると、ブッシュ政権もイスラエルに強圧を加えることができないのかもしれません。それどころか二〇〇四年三月には、パレスチナのイスラム原理主義組織ハマスのリーダーであったヤシン師やランティシ師をイスラエル軍が殺害したことで、パレスチナとイスラエルの対立緊張関係はさらに高まるばかりです。
 こういうイスラエルとパレスチナの状況がイラク問題に不安と混迷を与えています。
 湾岸地域で何か紛争や問題が起きた時に、乗り出して調整役を果たせるのは、むしろ日本です。なぜなら、日本はあの地域では割合に過去に傷がなく、しかもこれまでも経済協力を熱心にやってきたという歴史があるからです。
 したがって、イラク戦争後の湾岸諸国の政治については、日本はアメリカと協力しながら、そして時にはアメリカに忠言しながら、あの地域の安定化に協力していくべきです。日本にはその大きなチャンスが生まれています。二〇〇四年六月アメリカのジョージア州で行われたG8サミットはアメリカと仏独露とが提携協力を図るチャンスなのです。これに成功しないとブッシュ大統領の十一月の再選は難しくなる。七月一日にはイラクに主権を返して新政府が出来ます。日本の首相が働くチャンスです。ちょうど一九八三年のウィリアムズバーグ・サミットで、対立していたレーガン米大統領とミッテラン仏大統領とを私が握手させたのと似たケースだと思います。
 第二に考えるべきは、中東全体の石油政策に変化が起こる可能性です。
 イラク戦争の結果、アメリカがイラクの石油にかなりの支配力を持ち、日産で約三百万バーレルもの原油が得られるようになりました。基本的にアメリカは湾岸の石油の値上がりを嫌う傾向が強いのです。このこと自体は、中東への石油依存度が高い日本にとって決して悪くはないことです。石油価格には不安定要因がこれからもつきものですが、アメリカがイラクの石油をある程度支配して、原油価格や生産体制などに強い発言権を持つようになると、OPEC(石油輸出国機構)との関係にも変化が生ずるかもしれません。
 過去にもあったことですが、石油戦略上、アメリカの発言権が強くなってくると、各国の経済にさまざまな影響が出てくるのは必至です。石油生産国であるロシアやイギリスの経済も石油に多く依存していますし、石油輸入国である日本や中国の経済も同様です。いずれの国も石油価格の変動に大きな影響を受けるのは当然で、アメリカの関与にょる石油政策の変化は考えておかなければならない問題です。
 第三は、戦争の体系そのものが変化するかもしれないという問題です。
 おそらくイラク戦争が始まる前には、サダム・フセインは十三年前の湾岸戦争の繰り返しぐらいにしか考えていなかったのではないかと思います。ところがこの間に、アメリカは最先端兵器の開発を敢行していました。対イラク戦争ではコンピュータを駆使した精密誘導兵器、衛星、航空母艦といったものを有機的に結合させた最先端兵器が、使用されたのです。こうした軍事技術の著しい進展によって、アメリカの戦争のやり方そのものが大きく変わったといえます。可能な限りアメリカ兵を殺さないで戦争をする形に変わってきたのです。そして、さらに軍事技術が進歩すれば、その方法は攻撃する相手国の市民をあまり殺傷させない戦争形態に変ってゆくでしょう。
 私はイラク戦争直前にベーカー駐日大使と話す機会がありましたが、「アメリカがイラクに対して戦争するのはいいとしても、イラク市民を殺さない、そういう新しい型の戦争をやりなさい」と提言しました。
 戦争形態の変化は、発展途上国や普通の国力の国にはあまり大きな影響は出ないかもしれませんが、G8の国々への影響は多大なものになるにちがいありません。いずれも自国の防衛体系や戦争体系を再点検して、彼我の国民は出来る限り殺傷しないで、重要な軍事ポイントだけを長距離から攻撃するような先端軍事技術体系に転換することになるでしょう。この点は当然、わが防衛庁も考慮しなければなりません。
『自省録・歴史法廷の被告として』新潮社 抜粋 


西北への旅人 №40 [雑木林の四季]

北アルプス縦走記

                             元早稲田大学総長  奥島孝康

プロローグ-中房温泉

 ついにその日が来た。二〇〇一年八月一二日、前日浜松市で開催された校友会静岡県支部総会に出席した私は、浜松のホテルで山支度をし、列車で名古屋、松本を経由して、松本駅で合流した仲間と共に、その日の夕方、一気に中房温泉(一四六二M)に到着した。
 中房温泉九代目のオーナー百瀬孝仁さんは早稲田大学の卒業生(昭和一六年一二月の繰り上げ卒業)であり、故関根吉郎先生(名誉教授)のザイル・パートナーでもあったため、なんと、私は特別待遇で内湯付きの個室があてがわれた。ご好意を無にするわけにもいかず、ありがたくお受けしたが、なんとも落着かない気分の一夜であった。しかし、この温泉のすばらしさは格別で、温泉に舌鼓を打つといえば奇妙に聞こえるかもしれないが、山楽会一同納得できる多様で豊かな温泉であった。その夜の料理が、百瀬さんの心づくしの特別なごちそうであったこともいうまでもない。
こうして、「表銀座縦走の起点」である中房温泉の初夜は豪華に過ぎていったのである。

燕岳

 初日(八月二二日)。一行一〇人。木名瀬・瀬山・戸塚・平山・村上・岸・田中・中道・山下・小生。のんびりと午前八時三〇分に出発。一二時四〇分合戦小屋(二三六三M)。ここで大休止し、午後二時四五分燕山荘着。初日であるにもかかわらず、快調。周辺にはトリカブトが群生している。山荘に荷物を残して、手ぶらで燕岳(二七六三M)までの散歩を楽しむ。快晴。頂上近くの白砂の斜面には高山植物の女王といわれる赤いコマクサが群生している。女性的で優美な岩塔群の頂上からの北アルプスの大パノラマを楽しんだが、山荘に帰るころにはガスって見えなくなった。ゆっくり楽しんだのに、山荘から山頂までの往復はわずか六五分余り。このあたり、どこからみても槍ヶ岳の眺めがすばらしく、北アルプス縦走に王手をかけたというたしかな手応えを感じた。
 燕山荘の感じもよかった。コーヒーもおいしかった。若主人の赤沼さんのトークとアルプスホルンを楽しみ、夜空に浮かぶ槍ヶ岳の勇姿にしばし見惚れた。


槍ヶ岳

 二日目(一四日)。午前六時一五分出発。整備のゆきとどいた快適な登山道を、日光キスゲやナデシコの群生を楽しみ、午前一〇時二五分には大天荘に着く。ここで昼食をとり、大天井岳(二九二二M)を往復。このとき大天荘のすぐ裏で雷鳥親子三羽づれに出会う。われわれが見つめると、わずか足元一メートル足らずのところで親鳥が胸をそらせてポーズをとるのがおかしかった。
 一二時すぎに出発して歩き始めると、次第に空模様が怪しくなり、アザミの群生や白リンドウを楽しんでいるうちに、二時近くにとうとう雨となった。喜作新道を雨に打たれながら赤岩岳(二七六九M)を通り越し、三時一五分に西岳荘に到着した。この小屋は百瀬氏の次男の信啓氏が経営されており、連絡があったとかで思わぬ歓待を受けた。雨の上がった夜、槍ヶ岳が迫力あるシルエットを夜空に浮かび上がらせた。
 三日目(一五日)。体調は絶好調。六時一五分出発。水俣乗越まで一気に下る。七時四〇分であった。途中、野猿の鳴き声がかしましい。いよいよこれからがあこがれの槍ヶ岳である。冬の槍(北鎌尾根)は、単独行の加藤文太郎(一九三六年歿)や遺稿集『風雪のビヴァーク』を残した松清明(一九四九年歿)が倒れた難所であるが、それより楽なコースで夏山の天気に恵まれたとはいえ、われわれ一〇名の大部隊は、東鎌尾根のアップ・ダウンを楽しみながら快調に登り、ヒュッテ大槍を一〇時四五分に経て、雷鳴がとどろく中を一二時四五分に槍岳荘に到着し、ついに槍ヶ岳登頂に王手をかけた。
 午後は雨が激しく降ったり止んだりしていたので、午前中という予定から若干遅れはしたが、雨の降る直前ギリギリに槍岳荘に着いたのは大正解であった。歌の文句ではないが、一万尺の昼寝はため息をつくくらい大満足であった。もっとも、平山君はその間に槍ヶ岳を往復したのであるからさすがである。 夜は夜で、山荘の主人であり山岳写真家としても有名な穂苅貞雄氏の差入れのビールとウイスキーのおかげで、槍登頂の前祝いを豪勢にすることができたのであった。以後、今回の山行は前祝いと本祝いの連続である。その夜の星のキラめきは、翌朝の天気をしっかり約束していた。
 四日目(一六日)。午前五時出発、五時三〇分、 とうとう夢にまで見た槍ヶ岳山頂(三八〇M)に立つ。胸が熱くなる。感激をじっくり噛みしめる間もなく、仲間との固い握手とあわただしい記念撮影。続々と登ってくる人々のために、狭い山頂には一〇分ほど滞留したにすぎなかったが、幸運にもこのとき朝日と霧によって発生したブロッケン現象に遭遇した。六時一〇分山荘に戻る。今回の山行のハイライトの一つはこうして終わる。「ついにやった」という達成感に気分が高揚し、「まだまだやれる」という自信が湧いてくるような気がした。
 午前七時二五分、槍沢下。を開始する。あの頂きに立ったのだと感激を新たにしながら、圧倒的な迫力の槍を振り返り振。返り、ダラダラと急坂をいつまでも下。続ける。これを逆に登ると辛いだろうなと思いながら、播隆上人の坊主岩小舎を通り過ぎ、さらにダラダラ下って、ようやく正午に槍沢ロッジに到着。ここでラーメンの昼食をとって、午後二時三〇分に横尾山荘(一六一五M)に到着する。この山荘でメンバー・チェンジ。翌朝二人(岸・中道)が東京へ帰り、新たに四人が加わることになっていたが、午後五時二〇分、予定どおり後続部隊の四人(溝渕・渡辺・上・橘)が元気一杯到着する。風呂を楽しみ、早めに寝る。

奥穂高岳
 
 五日目(一七日)六時四〇分出発、山荘の前で帰京組二人と別れ、立派な横尾大橋を渡って屏風岩をまわりこみ、ひたすら登ると一〇時五五分に涸沢ヒュッテに着く。今日の泊まりの涸沢小屋はもう目と鼻の先。ついつい気がゆるんで、売店のビールやオデンの飲み食いに熱中し、涸沢小屋(二三五〇M)に入ったのは一二時二五分であった。
 かねて写真では知っていたものの、実際に見る涸沢カールはまた格別で、ことに眺望絶佳というべき涸沢小屋のテラスで飲むビールの味は「よくぞ生きていた」と思わせるサムシングがある。できることなら、毎夏このテラスでビールを飲みたいと痛切に、そして哀切(?)に思った。支配人の奥原廣次氏も実に気持ちのよい人で、生ビールを大ジョッキで何杯もごちそうになった。山荘の周辺は、シシウド、バンゴウソウ、イタドリで埋まっていた。この日は、最後のアタックに備え、ゆったりと午後を過ごした。雪すべりを楽しむ仲間もいたが、私はこのすばらしい眺望を心ゆくまで満喫した。
 六日目(一八日)。この日も体調は絶好調。午前六時二五分出発。快晴。順調に高度をかせぎ、九時一五分穂高岳山荘に着く。もう登頂したつもりになって、ここで時間をタラタラ空費したのがチョッピリ残念なことになった。午前一〇時三五分、われわれはついにあこがれの奥穂高岳の山頂(三一九〇M)に立った。その直前、ジャンダルムが下に見えてきたところで、雲が湧き上がり、奥穂の頂上に立ったときには、涸沢カールはもとより、あたり一面すっかり雲におおわれ、槍も見えなくなってしまった。ほんの五分の遅れ。タッチの差といわねばならない。全行程天候に恵まれ、登る途中も、穂高店山荘でも、また下る途中でも、北アルプスの大パノラマを堪能したのであるから、贅沢は言えた義理ではないが、奥穂の頂上からのパノラマを逸したのは、やはりチョッピリ口惜しかったこ とは事実である。しかし、機会はまたある。北穂も西穂もいずれ登ろうとそのとき決意したからである。
 頂上付近で持参のおにぎり等を食べ、午前日時四〇分に下山を開始。午後二時二〇分に涸沢小屋に無事帰着した。まず、全員で固い握手、そして、ビールで乾杯。この感動を全員で分かち合ったのである。この夜、「潤沢音楽祭」があるというので、隣の涸沢ヒュッテへ移動。ここで「カモシカスポーツ」のオーナー高橋和之氏(通称ダンプさん)に出合い、彼の個室の提供を受けた上、ヒュッテのオーナーの小林銀一氏からも盛大な酒の差入れを受けた(私だけ特別にお風呂のごちそうまで受けた)。故吉阪隆正早大名誉教授の設計だというヒュッテはなかなかのもので、この夜音楽祭で教わった「穂高よさらば」を大いに歌い、大いに飲んで、奥穂征服の喜びを爆発させたのであった。嬉しさで酔いを深めながら、人生でこんな夜をあと何回迎えることができるだろうかとボンヤリ考えていた。
 七日目(一九日)。午前六時三五分出発。早稲田尾根をかすめようと、パノラマコースをとることになったが、これがなかなかの難路であった。今回の山行は技術的に難しいところはほとんどないに等しかったが、このコースだけはかなり手こずった。苦労しながらではあったが、八時三五分には屏風のコルにたどりついた。コルのあたりは、ホタルブクロとクガイソウなどのお花畑。小休止の後、ここからはひたすら下りというだけの易しい山道を歩きに歩き、一二時四〇分にようやく徳沢園に着く。途中、慶応尾根の標識は見たが、早稲田尾根には標識さえなく、いつのまにか通り過ぎていた。こうして、今回も名リーダー平山君のおかげをもって、この夏の北アルプス縦走の全行程を一人の脱落者もなく、一人のケガ人も出さず、無事完走し、大成功のうちにこの大縦走は幕を降ろしたのである。戸塚の康さんが、二同の期待に応え、今回も先頭をつとめ、元気で立派に完走したことは記録にとどめておく価値がある。
 徳沢園は、井上靖の小説『氷壁』に登場するところから「氷壁の宿」と呼ばれ、青春の登山体験記としてかつての岳人のバイブルであった『山靴の音』を書いた校友である芳野満彦の冬季登山の基地であり、彼が大学に入る前に小屋番をつとめていた場所でもあった。講釈はこの程度にして、さて、この宿の主人上傑敏昭氏はお父上の代から二代続きの校友である。そして、ここは一〇年ほど前まで早稲田大学のシーズンスポーツである「登山」のベース・キャンプでもあった。事実、私の配偶者は大学二年生のとき、シーズンスポーツでここにテントを張って、あちこち登ったという。そんなご緑によってか、上傑さんのご好意の差入れで、この夜もまた=同今回の縦走の成功を祝って盛大に飲み、同宿の客のひんしゅくを買ったのであった。


エピローグ-中の揚温泉

 八日目(二〇日)。徳沢園を午後八時一〇分に発って、明神池・嘉門次小屋(昼食)、上高地まで下り、ここからタクシーで、午後二時三〇分に山の中腹にあるため穂高の山々がよく見える「中の湯」 温泉に到着した。今回の山行の疲れをいやそうというわけである。私が山楽会の仲間が好きな理由は、こういう遊び心をたっぷり持ち合わせている点である。穂高を見ながらつかる露天風呂は絶品で、もう一度こようと固く心に決めた。その夜の酒がうまかったことはいうまでもない。人生はかくあるべLと、まことに納得のゆく一夜であった。
 翌日(二一日)、温泉ですっかり疲れをいやした一同は、バスで上高地へ引き返し、予約したバスの出る時刻まで、時間つぶしに上高地のあちこちの散策を楽しんだ。バスに乗る直前、沛然と大雨が降り始め、われわれの今回の山行もいかに天候に恵まれたものであったかを改めて思い、その幸運を天に謝したのである。午後六時三〇分新宿着。楽しい楽しい思い出のいっぱいつまった八日間はこれですべて終わりを告げた。何事にも終わりはある(Tout a une fin.)とは、悲しい哉、人の世の定めである。 しかし、いまなお私は、酒が入ると、「穂高よさらば」に加えて、「北穂小唄」、さらには、「剣の歌」(早稲田大学山岳部歌)などの鼻歌をうなりながら、あの日々をなつかしんで、しばし思い出の中にどっぷり浸ることがある。あの日々はまざれもなく、わが人生最良の日々であった。そして、私のこれからの人生に勇気を与えてくれる日々でもあった。
            (二〇〇二年一月二〇日記) 〔『山楽会誌』五号(二〇〇二年五月)〕

『西北への旅人』成文堂


台湾人と日本精神 №40 [雑木林の四季]

第五章 日本人よ胸を張りなさい その9

                                                            老台北  蔡焜燦

日本人よ胸を張りなさい!
 これまで何度もふれてきたが、かつて半世紀もの間、歴史を共有してきた台湾で、いまだ「日本精神」が勤勉で正直、そして約束を守るというもろもろの善いことを表現する言葉として使われている。
 それは、日本の先人達がその叡智をふりしぼって前近代的社会であった台湾を近代化させ、愛をもって民衆の教育に務めた成果なのである。これは歴史の〝真実″であり、戦後日本の進歩的文化人が振りかざすような希望的推測やフィクションとはわけがちがう。
 台湾では我々日本語族の世代が、こうした日本統治時代の輝かしい歴史の側面を孫子の代にしっかりと語り継いでいる。
 いまも戦前の台湾に郷愁を感じる多くの年配者、恰日族と称する日本フアンの近年の若者達。台湾の老いも若きもが日本に好感を寄せ、そして愛し続けている現実を日本人はどのように受けとめてくれているのだろうか。
 反日的な中国や、なにかと歴史問題を振りかざしてくる韓国だけが隣人ではない。親日国家・台湾も日本の隣人であることを是非とも認識していただきたい。

 台湾人がもっとも尊ぶ日本統治時代の遺産は、ダムや鉄道など物質的なものではなく、「公」を顧みる遺徳教育など精神的遺産なのである。こうした遺産は、台湾の発展の基盤となり、またこれからも語り継がれてゆくことだろう。それゆえに、台湾人は、他のいかなる国の人々よりも日本を愛し尊敬し続けているのだ。
 もちろん私も日本を愛し、〝かつての祖国″の弥栄を願う者としては人後に落ちない。
  ただ、日本が立派な国としてあり続けてほしいからこそ、ときに苦言を呈することもある。また国際社会における日本のおどおどとした姿勢に苛立ちを覚え、息子を叱りつける思いで「何をやってるんだ!」と思わず怒りを口にすることもある。そんなとき自分が〝台湾に帰化した日本人″のような錯覚に陥ってしまう。
 そして、現代の日本人の精神的荒廃を嘆くあまり、頭に血が上ってしまうこともしばしばである。
 昨今、日本の警察や医療機関の不祥事、さらには教育現場の荒廃をよく耳にするが、いったいどうなっているのか。かつては台湾を近代化に導き、そして人々から尊敬を集めた警官や医師、そして教師達がなんたるさまか。
 かつての日本人は立派だった。
 公職に就く者の心構えは民衆の絶大な信用を集め、人の生命を預かる者の使命感に人々は崇敬の念をいだいたものである。いま一度、放きを温ね日本人が世界に誇った「魂」を学ぶべきであろう。
 どうぞ心に留めていだきたい。
〝日本″は、あなた方現代の日本人だけのものではない、我々〝元日本人″のものでもあることを。
 私は、台湾にやってくる日本人に説く。
 「自分の国を愛しなさい」と。
 自分の国をも愛せない人が、どうして他人や他の国の人々を愛せるだろうか。自らの祖先を敬い、親兄弟を愛し、そして、そうした人々が幸せに暮らす祖国を愛してこそ、世界の人々を愛せるのだ。
 日本の戦後教育のごとき〝反日教育″が生むものは、祖先への軽蔑と他人を憎悪する卑しさだけであり、決して愛する心を育まない。現代日本の青少年による凄惨な事件の数々や、教育現場の荒廃はこうした戦後教育の悲しい結末であろう。
 もっとも、歪曲した歴史観によって自国をさげすむことは、実に残念であるばかりか、そうした考えに正義感を覚える輩は、ただク無知クとしかみなされないことも肝に命じておく必要があろう。
 それに引き換え、石原慎太郎・東京都知事の中国に対する堂々とした姿勢や、また国政の場で国防の枢要を説いてやまない西村眞悟代議士は、我々台湾人にとっても実に頼もしく映る。国際社会に通用する日本人が少なくなったなかで、彼らは実に立派であると私は評価したい。こうした勇気ある決断や議論こそが日本を救い、そして世界に評価されるのである。

  近年、台湾ではこれまでの国民党主導による反日教育が改められ、新しい歴史教科書『認識台湾』 によって、日本統治時代を正しく評価する歴史教育がはじまった。台湾におけるこうした教育は、将来のアジアの歴史観を大きく変えてゆくことだろう。
 ところが日本では、自虐史観という〝虚構″が、日本人から「自信」と「誇り」を奪い去り、日本国を世界の期待の声に応えることのできない〝自信喪失国家〟につくりかえてしまった感がある。しかし、それはアジア地域を不安定にさせているばかりか、世界の平和構築の障害となっているのである。
 台湾には、日本がいまこそ学ぶべき〝正しい日本史〟がある。
 どうぞ台湾に日本の正しい歴史を学び、自信と誇りを取り戻していだきたい。そして誇りある日本が、アジア地域の安定と平和を担う真のリーダーたらんことを願う。
 日本人よ胸を張りなさい!

『台湾人と日本精神』 小学館文庫


詞集たいまつ №40 [雑木林の四季]

めぶく章

                                ジャーナリスト  むのたけじ 

(1999) 人類の終末を描いた小説、絵画、映画などが数多い。そんな改まった物でなくとも、近くの薬屋へアリ駆除薬を買いに行ったら、若い女性店員が「くすりでは仲々退治できないようですよ。アリは賢くて、人類の亡びたあと地球を支配するのは、アリだというではありませんか」と事もなげに言った。人間全員の滅亡を言う人たちは、それを本当に予想しているか。どぎつい言葉を口にすることで、内心の不安をごまかしているのでないか。人類といったって、みな死期をもつ個人の集合体だ。いのちのバトンタッチの切れる日が、いつか来る。それを覚悟するなら、その最終日までを視野に入れて、いま六〇億の現代人われわれは、人類史の全行程のどの位置で、どんな役まわりをしているか、そこを真剣に考えてみるべきでないか。私個人を打ちあければ、人類史は前半と後半とを区切る大分水嶺にさしかかっている、という思いが、八〇歳になったころからしきりに体内を駆け回るようになった。そう思う理由は、人間界のどの方角も余りに無残に行き詰まって、ただれて、腐って、もはや惰性では五〇センチだって前へは進めなくなった、と判断するからだ。埋葬の斜面から出産の地平へ、俄然と尾根を越えないと、もう歴史のページはめくれないところまで行き詰まっているではないか。地上の全生物を何回も全滅させ得る核爆弾をすでに製造してしまって、貯めておいて、しかも「武器をもてば必ず使う」習性を抑止できる確かな手だては一つも見えない。同族の殺し合う残酷と理不尽は万人が承知していながら、誰もが呆然と眺めているだけである。偉いとされてきたどんな哲人、武人、どんな文人、教祖の言葉や足跡を持ち出しても、争いを止めるのに全く役に立たない。この一事だけを見ても、特定の英雄や偉人の下に、残りの人間がその他大勢をつとめるドラマ仕立ては、事実によって息の根を絶たれた。これからは六〇億人がいたら六〇億の主体が力を合わせて、自分らの足で道を踏み固めて前へ進むときだ。尾根の風はひゅうひゅうと寒く、足場は大きなトゲがはえているように痛く、四方は暗い。この尾根越えに何世紀かかるか、まだ予想できないが、踏み越えて新しい地平に足を入れるとき、人間たちは今より遥かにやさしくなり、ゆったりと生きて、他者・他物との合作に極めて優れた能力を見せるだろう。その最初の行進の中に、私たち現代人が参加している。この苦労は輝いている。何と難儀の仕甲斐のあることよ。

(2000) 夜が朝を産む。

(2001) (生きていること、生きていくことは何を意味するか、何のため生きるのか)― この問いを自分の日常に突き通す。そして日々を生き直す。すると自分がきっとつくり直されていく。むろん自分自身の力で……。どの生命にも、あきらめて望みを捨てる細胞は一つも無い。そこに目ざめる行動こそが、人間生活を高める起点であって、同時に土台となる。それなのに、従来そこが余りにも粗末にされた。だからバラ色の約束をちりばめた権力の奪取も、社会制度の革命も砂の城と同じ結末に落ちた。繰り返して言う。自分が求めれば、誰でも生き直すことができる。自分をつくり直して、生まれ変わることができる。産(う)んでもらったいのちを、みずから産み出すいのちに転じて、よみがえることができる。それができるから、だから人間ですね。だから生きている。よみがえりを求める模栗が初めは各自一人ずつの動きであっても、やがて必ず連動して運動となる。その運動は、布を織るときのオサ(歳)と同じ働きをして、人類史に新しい喜びのページを着実に織りあげていくにちがいない。― 以上の言葉は、ただの願望や掟言ではない。むろん仮説ではない。事実の進行である。新しく生き直す旅へ、彼女はとうに出発した。彼もすでに旅立った。私は一歩踏み出した。あなただって、生き方を変えはじめているではないか。

『詞集たいまつⅣ』評論社


アナウンサーの独り言 №26 [雑木林の四季]

私自身への質問状

                         コメンテイター&キャスター  鈴木治彦

Q1 ヘアスタイルは?
A1 三週間に一度ほど、時間があいたときに、ホテルのバーバーへ行ったりする。合わせ鏡で自分でカットすることもある。ヘアスタイルは無頓着風。若くみえるように、以前より襟あしの毛は長めにしている。
Q2 視力は?
A2 よくタレ目だといわれるが、視力は一・二と一・五と良好。遠視ぎみだが、老眼の進みは遅い。眼鏡をかけるのは、夜、電灯の下で新聞を読む時ぐらい。
Q3 服装、ファッションについて。
A3 冬服十着、夏服十着。毎朝、組み合わせを変えて着ていく。局からは、年に夏・冬一着ずつしかつくってもらえない。サラリーマン・アナだから、衣装はすべて自前。ライトの光で肩のあたりが焼けがちなのが悩み。ワイシャツはすべて、局のクリーニングに出すが、この洗濯代もバカにならない。二十着ある背広の半分は、母が手で織ってくれた布で仕立てたもの。これを着てテレビに出ると、母がよろこんでくれるし評判もいい。
 ネクタイの数は多く、約三百本。紺と茶系統がほとんどだ。カフス、ネクタイピンなども、タンスにキチンと分類し、忙しい朝に支障がないようにしている。
 自分のファッション・センスは甘く採点して、八十点というところ。
Q4 サイフの中身は?,
A4 現金は多い日で五~六万円。クレジットカード(JCB、DC、UC、ダイナースクラブ)のほか、ニューオータニやセンチュリーハイアットなどのホテルのメンバーズカードやキャッシュカード、身分証明書など計十二枚のカートが入っている。京都祇園の豆らくさんという芸妓はんからのプレゼントの濃緑色のサイフを持ちはしじめてから、なぜか、お金がサイフのなかに落ちついているようになった。
Q5 体のサイズは?
A5 身長一六五センチ。体重六五キロ。足二五センチ(靴はTBS内の靴屋さんにオーダーで作ってもらう。悩みのウオノメが、ここの靴屋さんに作ってもらうようになってから、治ってきた)。
Q6 ポケットの中身は?
A6 サイフ、電話帳、手帳、万年筆(手帳書き込み用)、サインペン(街収書のサイン用)、小銭はバラで右の上着のポケットへ。キーホルダーは大きな〝H〟のイニシャル(治彦の頭文字)の物のほかいろいろ。
Q7 プロ野球は好き?
A7 大好きだけど、私は根っからのアンチ江川党。しかし、息子は江川が大好きときている。
 だから、江川がポカスカ打たれたら、次の日わざと新聞の見出しをみせてやることにしている。すると息子の方も、〃奪三振十個!〟なんていうのを、私にみせにくる。互いにそれぞれ、それをスクラップしている。最近は江川が調子よくって親父の方がどうも分が悪い。
Q8 食べ物の好き嫌いは?
A8 ステーキとスシ、カレーライス、四川料理、朝鮮料理、ニンニク料理が好物。スシ、ぶりの照り焼きなんかは好きなのに、頭と尻尾のついた魚は嫌い。食い道楽で、食べに行っておいしかった店は、種目別にビッシリ手帳に書いてある。
Q9 〃飲む、打つ、買う〃について。
A9 〝飲む〃は、毎晩ピール、日本酒二本。ワイン少々。〝打つ〟はまったくなし。〃買う〟?
若いころはともかく、いまはとてもとても。その気にもならないし、チャンスもない。
Q10 好きなテレビ番組は?
A10 なぜかNHKの、ドキュメント番組。ビデオを撮っておき、必ずみるほど。それと料理番組と外国映画。もちろん自分の番組はダーイスキ。
Q11 嫌いなものは?
A11 なんといっても雨。お座敷への招待。女の酔っぱらい。オカルト映画。新劇。
Q12 セックス関心度~
A12 関心度は九〇%。
Q13 気になる女性P
A13 大学生、OL、ホステスさんは興味なし。魅せられるのは、二十五歳から四十五歳くらい までの上品な人妻。または、人妻風な女性。
Q14 若者の性風俗にひと言。
A14 自分の同年輩頃のことを振りかえると、今の若い連中のやってることは信じられないくらい強烈。でも今自分が若かったら、やはり同じことをやってるかもしれない。
Q15 夫、父親としての自己採点と、娘、息子への注文。
A15 ほとんど家にいられないので四十~五十点。娘には明るく、敬語の使える、笑顔のきれい
 な……と注文が多い。息子への願いは、たくましくおおらかに、父親のよい飲み相手に。
Q16 給料は?
A16 銀行振り込みなので、すべて家内のもとへ。
Q17 小遣いは?
A17 食費、本代などで月二十万。しかし家内の方からは三万円だけもらって、あとはアルバイトで自己調達。
Q18 もしアナウンサーになってなかったら?
A18 新聞か雑誌の記者。あるいは会社の宣伝広告担当者になっていたかもしれない。
Q19 最近、腹立たしいことは?
A19 絶対に許せないのは「子殺し」「親殺し」と「衝動殺人」。それに青少年の覚せい剤。
Q20 自慢のペットは?
A20 チャウチャウのレオ (四歳)。
Q21 生活信条は?
A21 〃常に相手の身になって〃〝実るほど頭を垂れる稲穂かな〃

『アナウンサーの独り言』光風社出版


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