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季節の記憶・いだようの写真散録 №177 [文芸美術の森]

「昼下がり」                              自然写真家  いだよう

2017年2月下期分.jpg

                                                                              冬の日差しにきらめく海。思い思いに日向ぼっこするウミウたち。
行き交う漁船もどこかのんびりだ。

いだようのFacebookページ : https://www.facebook.com/idayoh/


『知の木々舎』第187号目次(2017年2月下号編成分) [もくじ]

現在の最新版の記事を収録しています。ご覧になりたい記事の見出しの下のURLをクリックするとジャンプできます。検索の詳細については手引きをご覧ください。

【心の小径】

出会い、こぼれ話 №37                                   教育者    毛涯章平
 第三十六話  一番と一流と
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-11-3

論語 №24                                                            法学者  穂積重遠
 四九 子のたまわく、夏(か)の礼はわれ能(よ)くこれを言えども・・・
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-11-2

余は如何にして基督信徒となりし乎 №11                                   内村鑑三
 第三章 初期の教会 4
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-11-1

文化的資源としての仏教 №1             立川市・光西寺住職  寿台順誠
  はじめに--宗教と文化 1
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-11

【文芸美術の森】

季節の記憶 №177                                        自然写真家  いだよう
 「昼下がり」 
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-14-1

西洋百人一絵 №81                                 美術ジャーナリスト    斎藤陽一
 ムンク「叫び」
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-13-7

にんじんの午睡(ひるね) №4                            エッセイスト  中村一枝
 ともだち
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-13-6

フェアリー・妖精幻想 №56                        妖精美術館館長  井村君江
 妖精たちの野の饗宴 2
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-13-5

芭蕉「生命の賛歌」 №24                                        水墨画家    傅  益瑤
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-13-4
 荒海や 佐渡によこたふ 天の河

石井鶴三の世界 №88                                    画家・彫刻家  石井鶴三
 沓掛から星野温泉のあいだを往復す1952年/ くらしき1954年
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-13-10

はけの森美術館Ⅲ №23                                  画家  中村研一
  宗谷(南極)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-13-2

ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №26      早稲田大学名誉教授    川崎 浹
  第一章 近代アネクドート 20
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-13-3

【ことだま五七五】

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №10                      川柳家  水野タケシ
 2月1日&8日放送分
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-13-1

【核無き世界を目指して】

続・対話随想 №10                                            エッセイスト  関千枝子
 関千枝子から中山士朗様へ                      
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-1

丸木美術館から見える風景 №44   原爆の図丸木美術館学芸員  岡村幸宣
  原爆文学研究会
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-01-10-7

【雑木林の四季】

浜田山通信 №188                                         ジャーナリスト  野村勝美
 Jアラート
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-12

私の中の一期一会 №137         アナウンサー&キャスター    藤田和弘
 果たして、復活はなるのか?松坂大輔(36)とタイガー・ウッズ(41)・・・
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-14

徒然なるままに №13                                     エッセイスト 横山貞利
 歌曲「平城山(ならやま)」追想
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-11

パリ・くらしと彩りの手帖 №116          在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ
  ポンピドーセンター40周年
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-13

気楽な稼業ときたもんだ №53           テレビプロデユーサー     砂田 実
 岡田嘉子さんの物語
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-10

BS-TBS番組情報 №132                                    BS-TBS広報宣伝部
 2017年2月のおすすめ番組(下)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-9

ロワール紀行 №49                           スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎
  美しいシャンボールの城塞(シャトオ)2
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-6

バルタンの呟き №8                             映画監督  飯島敏宏
  「春一番、そして啓蟄」
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-8

ZAEMON 時空の旅人 №8                                  文筆家  千束北男
 第三章ピルグリム三世3、第四章            
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-7

私の葡萄酒遍歴 №38                  ワイン・グルマン  河野 昭
 ワインへの道・・・カリフォルニア2
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-5

医史跡を巡る旅 №23                                  保健衛生監視員  小川 優
 「紀行シリーズ」~上野公園散策
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-4

地球千鳥足 №100     グローバル教育者・小川地球村塾塾長    小川彩子
  触れ合いの旅、もちろん医者とも触れ合いが! ~アルゼンチン、アメリカ~ 
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-01-26-3

いつか空が晴れる №10                                   渋沢京子
 ―セビジャーナス(K先生のこと)3
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-12-3

【ふるさと立川・多摩・武蔵】

玉川上水の詞花 №187                        エッセイスト  中込敦子
 アケビ(あけび科) 
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-11-11

赤川Bonzeと愉快な仲間たち №84                   銅板造形作家  赤川政由
 大分の彫刻シリーズ
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-11-10

旬の食彩 僕の味 №93         レストラン「ヴァンセット」オーナー    大澤 聡
 カルパッチョ
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-11-9

立川陸軍飛行場と日本・アジア №142              近現代史研究家   楢崎茂彌
 愛国第1号機・2号機、立川から満州に向かう
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-11-8

線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №73                岩本啓介
 ゆりかもめ  
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-11-7

押し花絵の世界 №33                         押し花作家  山崎房枝
 「白夜のクリスマスローズ」
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-11-6

渋紙に点火された光と影 №10                  型染め版画家  田中 清
 老人(男)/老人(女) 
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-11-5

プラタナスがくれた贈り物 №4          プランナー  しおみえりこ
 音楽のある風景3  Fantastic journey ATHENS  ギリシャ/アテネ 2003.5
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-11-4

【代表・玲子の雑記帳】                         『知の木々舎 』代表  横幕玲子
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2017-02-13


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発行回数・月に2回(上期・下期)ネットマガジンを発行します。
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「もくじ」・「執筆者紹介」・「代表玲子の雑記帳」・「心の小径」・「文芸美術の森」・「ことだま五・七・五」・「雑木林の四季」・「ふるさと立川」・「核無き世界をめざして」があります。
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西洋百人一絵 №81 [文芸美術の森]

ムンク「叫び」

                                   美術ジャーナリスト・美術史学会会員  斎藤陽一

 エドヴァルド・ムンク(1863~1944)が30歳のときに制作した「叫び」(1893年)は、“一度見たら忘れられない絵”と言われ、その強烈な表現力によって、画家の代表作となっている。絶えず死を意識し、自分の内なる狂気に言い知れぬ恐怖を抱き続けたムンクの心情が、画面に噴出しているような絵である。

 この絵が描かれたいきさつを、ムンク自身が次のように描き残している。
 「私は友人2人と一緒に道を歩いていた。ちょうど太陽がまさに沈みかけようとしており、空は血の色に赤く染まっていた。・・・青いフィヨルドと町の上に、火と血の舌が這い回った。友人たちは先に行ってしまい、私だけがあとに残っていた。その時、何とも知れぬ恐怖に震えながら、私は自然の大きな叫び声を聞いた。」

 一見すると、「叫び」という題名は、中央の“男の叫び”を表していると思ってしまうが、ムンクによれば、どうやら男は、突然聞こえた恐ろしい叫びに、目を見開き、両手で耳をふさいでいるらしい。しかし、同時に自らも何か叫んでいる、と見ることも出来よう。彼は今、言いようのない恐怖に憑りつかれているのである。男の顔は青白い髑髏のようであり、死の恐怖をかきたてる。それは、言うまでもなく、ムンク自身の不安な心理状態を反映している。とともに、この絵を見る私たちも、瞬時に、その恐怖と不安に巻き込まれてしまうという吸引力を持つ。
 
 ムンクと親しかった友人の話によれば、彼は、強い酒を飲まずには大きな通りを横切ることが出来なかったというし、周りの風景を見回すということも出来なかったという。自分を取り巻く外界に恐怖を感じるという一種の神経症だったのかもしれない。
 「叫び」で描かれた背景は、うねり、渦巻き、目まいを起こしそうであり、空は燃え上がる炎か、流れる血のようになって、男に襲いかかる。だが、誰も助けてはくれない。左隅の二人の男は、後ろ姿を見せて、冷たく遠ざかっていく。
 
 その少年時代に、ムンクの母や姉、弟たちが相次いで死去するという出来事が起こり、彼は「次は自分の番だ」と怯えて育った。もともと激しやすく神経症的な気質の父はますます偏屈になり、ムンクに暴力をふるうこともあった。祖父は狂気の中で死んだということもあり、ムンク自身によれば「病と狂気と死は、私のゆりかごをたゆたい、それは生涯にわたって私につきまとう黒い天使だった」という。

 ムンクの絵画とは、そのような自分の内面をひたすら凝視し、その渦巻くような葛藤を、激しい色彩と筆致によって表現した「自己告白」とでも言うべきものだった。
 同時に、ムンクが生み出した作品は、ムンク個人の気質や心情を超えて、画家が生きた「世紀末」という時代の不安や孤独を象徴するという普遍性をもっていたがゆえに、ムンクは、世紀末ノルウェーの傑出した画家となったのである。

081ムンク.jpg

                      ムンク「叫び」(1893年。オスロ国立美術館)


にんじんの午睡(ひるね) №4 [文芸美術の森]

ともだち

                                    エッセイスト  中村一枝

 古い友人三人と連れ立ってお昼を食べに行った。。それぞれの息子たち三人が幼稚園の頃からの、近所の友達である。幸いなことに息子たちが50歳になっても母親同士元気で仲が良い。
 私にはその手の50年来40年来の古い友人もいれば、この3、4年、急速に親しくなった、いくつも年下の友達もいる。数にしたら両手を広げても足りないぐらいだ。その中の一人が最近私に聞いた。「あなた、お友達多いいけどわたしって何番目の友達なの? 一番じやないよね」
 「ひえーっ」という感じで私は絶句した。小学生ならいざしらず、80になってそういうことを本気で聞いてくる彼女の幼さというか順真さに驚いた。子供も兄妹もいない彼女は昨年夏ご主人を亡くしていまだに立ち上がれないでいる。その心境が理解できた。
 人間関係がその人間をつくる、とよく言ったのは私の父、尾崎士郎で、彼の人間関係の多さと広がりはかなり特殊なものだった気がする。それで得をしていることもあればそのために誤解されたり傷付いたリ、いろいろ損をしていることも多かった。生きていく上で人間関係というのはある意味不可欠である。
 「そういうの、ごちゃごちゃしてていや」という友達もいる。かと思えば、なにごともゆるやかにかきとってしまう友達もいる。どっちが得と言う話ではない。生き方の問題なのだ。
 父もそうだったが突き詰めれば人間が好きということになる。人間関係ほどおどろおどろしくて、それでいてなつかしいものもないのだ。なつかしいぶんだけ、また面倒くさいのも事実なのだ。昨今、近所付き合いにしろ親類付き合いにしろどんどん薄らいでいるのはめんどうなことは避けて通ろうという知恵でもある。わたしの母は十一人兄弟で、二人が夭折した後でも9人いた。わたしが子供の頃ごたごたが起きるのは母方の方だった。人間の数が多いうえに眉毛も濃かったが性格も濃かったのだろう。男まさりの祖母のおかげで大ごとにはならずに済んでいたが、そのややこしい雰囲気に子供のわたしはおばあちゃんちはどうしていつも喧嘩になるのかなと思っていた。
 人の性格はまさに百人百様で、一人には面白く思えることも別の一人には許せないほど腹の立つこともある。相性が悪い、そりが合わない、そういう言い方で片付けてしまえる話なのに、これが一つずれると忘れられないほど悔しい、不愉快な話になっていくから不思議である。
 ケンカしてもさらりと忘れる。父はそういう人だった気がする。わたしは一人っ子で育ち兄弟間の葛藤など何ひとつ知らずに通り過ぎてきたから、喧嘩というのもほとんど知らない。そういう雰囲気が起きそうになると逃げ出してしまうほうだ。その代わり、一人っ子の弱みで強いものに頼ったり、時には強引に自分の方にねじ伏せたり、ということもよくあるのだ。
 「人間ってそういうものなのよ。しようがない」とわたしがいうと、「あんたはいつもそうやって総括してすませるんだからずるいのよ」と、また、友達に言われた。


フェアリー・妖精幻想 №56 [文芸美術の森]

妖精たちの野の饗宴 2

                                 妖精美術館館長  井村君江 

月夜の輪踊り

 ダニエル・マックリース(一八〇六-七〇)の想像の中には、生まれ故郷の豊富なアイルランド妖精があったようで、彼の描いた『フォーンと妖精たち』(一八三四頃)では、必ずしも妖精は美しいライト・エルフだけではなく、醜いできそこないや恐しいダーク・エルフなどさまざまな種類の妖精が、月夜に牧神(オアン)の笛に合わせて輪踊りをし
ている。
 ダーク・エルフたちは、黄色い月の夜に飛ぶフクロウやコウモリと戦っているようでもあり、土手の闇にひそむものは日本の三猿、「見ザル、言ワザル、聞カザル」と同じポーズをみせ、ぶどう酒に酔って耳まで赤くなり、笛の音に陶酔している牧神と対照をなしてうずくまっている。民間伝承とギリシャ神話との大らかな混合が、月夜の饗宴をにぎやかにしている。
 サヴェジ・クーパー(生没年不明、一八八五-一九〇四に活躍)も月夜の野原で、妖精が饗宴をしている情景を描いている。『妖精の踊り』(一九〇四)では青い薄衣をひるがえして踊る小さな妖精のまわりに、キノコやタンポポの綿毛、アザミの花などが大きく描かれていなければ、この妖精は美しい人間の乙女そのものにみえる。また、芥子の花とクローバーの花に囲まれ、澄んだ空の黄色い月光を浴びて眠る『ティタニア』(一九〇〇)
も、人間の女性を理想的にまで美しくした姿を見せている。
 妖精が月夜の野原で、不思議な音楽に合わせて話になって踊ると、そのあとに「妖精の輪(フェアリー・リング)ができると言われる。輪の大きさは直径十センチのものから中に家が建つほどの大きさまであり、輪に落ちると足の指がすり切れるまで何年も踊りつづけねばならないとか、家を建てると崇られるとも、幸運に恵まれるとも言われる。
 輪のできる原因を科学的に考えると、一夜のうちにキノコの胞子で草が酸性になり、枯れて丸い輪ができるのだそうである。が、この一晩のうちに突然緑の草地が丸くはげる不思議な現象を、昔の人々は妖精の仕業にしたわけである。
 しかしこの「妖精の輪」は画家たちの恰好の主題で、エリザベス・ハイフェ(一八九九-?)も素足に緑の草をふんで、黄色い樹の間でまるで楽器のようにみえるブルーベルの花に囲まれてかろやかに踊る、三人の蝶の翅のはえた妖精たちを描いている(『妖精の輪』)。

妖精とキノコ

 フィッツジエラルドが妖精のテーブルに描いたキノコを、トマス・ヘザレー(生没年不明、一八五八-七三に活躍)は、ある絵では腰かけにしたり、またある絵ではベッドにしている。
 雨や霧が多く、古木の多いイギリスの草地にはさまざまな種類のキノコがはえる。その奇妙な色や形は、妖精が夜っぴてせっせと育てたように思えるし、キノコ自身が不思議な存在に思えてくる。
 キノコや蘇苔類(せんたいるい・特に石や木に生えるライケン)は妖精の食べ物であるとも考えられているので、妖精画には欠くことのできない小道具のひとつである。
 ヘザレーの『キノコに休む妖精』(一八六〇頃)に描かれた、薄い透き通ったスカートだけをまとい、白い大きなキノコに横たわる金髪の美女は、枕元に腰をおろすカゲロケの透き通る麹をつけた女性とともに、明るい妖精(ライト・エルフ)である。それと対照的な暗い妖精(ダーク・エルフ)たちは、とがった三角帽子をかぶり、木の根のように固く小さな身体で、カタツムリに乗った小さな輝く妖精たちに弓をむけている。妖精画家は粘っこい感じの軟体動物のカタツムリを画面に添えることで、裸婦に近い妖精に、よりエロティックな雰囲気を漂わせている。

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                      エドワード・ホブレイ『パックと蛾』 

『フェアリー』 新書館


芭蕉「生命の賛歌」 №24 [雑木林の四季]

荒海や 佐渡によこたふ 天河(あまのがは)

                                     水墨画家    傅  益瑤

荒海や.jpg

                                                                               日本海の沿岸を越後の国から越中へ向かった芭蕉は長旅の疲れで体調を崩したのか、記録は簡略な記述でその多くは謎だ。出雲崎の海岸あたりから佐渡ケ島を遠望して読んだこの句は、芭蕉の世界観と宇宙観の哲学である。
 絵は激しい動乱の世の中を荒海に見たて、「清醒の覚悟」が芭蕉の姿として描かれた。現実から目をそらさない、逃げない、自分を騙さない、という清醒。芭蕉の心の中にはすでに天の川は存在していた。禅定な心を持っていたと言うべきか。

『傅  益瑤 「奥の細道」を描く 芭蕉「生命の賛歌」』  カメイ株式会社


ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №26 [文芸美術の森]

反権力と鋭さ

                              早稲田大学名誉教授  川崎 浹
                                        
 アネクドートとは本来口から口へと伝えられる、かげろう(晴蛤あるいは陽炎)のように移ろいやすい存在で、民話と同じくいつしか文字に固定されたころから「文学」に昇格したジャンルである。
 近代アネクドートでは、人を笑わせる要素は必ずしも重視されてはいなかった。かわりに歴史的なできごとや著名な人物像を対象にし、ニュース性を尊重し、のみならずコシャンスキイは『個人的修辞法』(一八三二年)で「アネクドートの目的はなんらかの徳(ときには悪徳)の性格や特徴を示し、面白い出来事やニュースを伝えること」と定義している。すでに見てきたように近代アネクドートは道徳的な教訓の要素を結構大切なものとしてふくんでいた。これは現代のアネクドートにはまったくない傾向である。
 アネクドート的視点から以後の一九世紀ロシア文学を見渡すとき、クルイロフの動物寓話やサルティコフ・シチェドリンの風刺小説などが射程に入るが、これらはすでに文学ジャンルとしてのアネクドートの枠からはみでている。
 また一九世紀後半のアネクドート文学はもっぱら回想という形をとり、登場人物もすでに宮廷の著名人や貴族、作家など古典化したタイプに限られてくる。
 なによりもプーシキンはもちろんのこと、レールモントフ、ゴンチャロフ、レスコフ、ツルゲーネフ、ネクラーソフ、べリンスキィ、トルストイ、ドストエフスキィ、チェーホフ、メレジコフスキィ、象徴派の詩人たちその他の大作家、詩人たちが名作、傑作を世に出しはじめた。
 さらに一九世紀前半において無視できないのは、輸入されたラドクリフやユジェヌ・シュウなどの、またロシアの作家も書いたゴシック・ロマン(怪奇・恐怖小説)の流行である。
 他方で、七〇~八〇年代になると、都市市民たちに読みやすいユーモア短編を提供する「木っ端」「目覚まし時計」といった多くの雑誌が輩出し、チェーホフも初期の小説をすべて、こうした娯楽雑誌に投稿、掲載していた。となると、本来かげろう的な存在であったアネクドートの影がいよいよ薄くなるのはやむをえない。
 たとえば一九世紀のちょうど半ばに伝えられた、つぎのアネクドートなど、主題はきわめて深刻とはいえ誰に新鮮な鸞きや笑いなあたえることができるだろうか。すでにピョートル大帝で使用済みの、またその後もくり返されるモチーフの、それも冴えない表現にすぎない。

 クリミア戦争(一八五三-五六年)のとき、いたるところであかるみにでた(兵士による)略奪行為に憤激した陛下(ニコライ一世)は後継者(息子)との会話でこういわれた。
 「どうやら、ロシア中で泥棒をしないのは、私とお前だけみたいらしいな」

 それでもアネクドートを生みだしたロシア人の笑いの精神はジャンルこそちがえ「大文字の文学」の系譜のなかに、ナンセンス、諧謔、ユーモア、機知、アイロニーとして生きつづける。
 また強調しなければならぬのは、貴族たちが好んだアネクドートが教訓や箴言や思いがけないニュースを伝えながら、時とともにとどめの鋭さをましてきたという事実である。そして最終的なジャンルの確立をはかったのが、もっとも反権力的な生き方をしたプーシキンとビヤーゼムスキイだったことは、たいへん興味ぶかい。なぜならかれらの反権力的な姿勢と鋭い機知をふくむジャンルの確立が、二〇世紀の政治アネクドートへと受けつがれるからである。

『ロシアのユーモア』 講談社選書


はけの森美術館Ⅲ №23 [文芸美術の森]

宗谷(南極)

                                        画家  中村研一

宗谷.jpg

                                                着彩 21cm×32cm 

*************                                                                【中村研一画伯略歴】

鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

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中村研一記念はけの森美術館正面

石井鶴三の世界 №88 [文芸美術の森]

沓掛と星野温泉のあいだを往復す1952年/くらしき1954年 

                                画家・彫刻家  石井鶴三

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            沓掛と星野温泉のあいだを往復す 1952年 (130×177)

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                      くらしき 1954年 (144×202)

**************                                                                           【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社


読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №10 [ことだま五七五]

                読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆2月1日と8日放送分

                               川柳家・コピーライター  水野タケシ

川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」、2017年2月1日放送分の内容です。

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                   投稿者に大人気!AD桃佳さんも

「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)がキャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
http://fm839.com/program/p00000281
2月1日の再放送の音源は、こちらから! https://youtu.be/CK2x3Mcp2sw
 
【質問】
川柳を読んでますと皆さま、お上手にひらがなカタカナ漢字を使われますね。コツとかありますか?センスですか?(緑区・かたつむりさん)
回答の音源はこちら…… https://youtu.be/CK2x3Mcp2sw

【今週の一句】180句の投句がありました!!たくさんのご投句ありがとうございます!!
(みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略)
・本番へ予習が盛ん宴の席(初投稿=京のみっちゃん)
・ドキドキす合否通知と袋とじ(秦野てっちゃん)
・歳よりも歳に見られる歳になり(入り江わに)
・醜聞へイメチェンという切り返し(離らっくす)
・TPPハートのエース出てこない(かぎかっこ)
・あさひろ氏池上さんに見えるかな(ラジゴ)
・半世紀連れ添い分かる痒いとこ(アキちゃん)
・唇が何か言いたげ言っちゃえよ(けんけん)
・トランプを全否定する不寛容(りっちーZ)
・また負けたレジ横季節限定品(不美子)
・新記録「人類初」の達成感(龍龍龍)

☆あさひろさんの「ボツのツボ」
「トランプ大統領相変わらずネタ元に。今週は恵方巻きネタも多くありました。恵方巻き北北西に進路取り/同じ趣意句複数あり。中で秀逸氏はさすが。ボツのツボは『いつもいるあいつから見りゃこのオレも』龍龍龍さん。居酒屋で、公園で、図書館で、パチンコ屋で、あ~、あいつは俺だ!」

・やりづらいアメもムチをも好む奴(北の夢)
・川柳の仲間に一人美人居る(六文銭)
・無視すると核のボタンを押しそうだ(東海島田宿)
・バットマン偽物やんか!「バッタもん」(子ワニ)
・心ない男にあった下心(キャサリン)
・綱取りの次はヨメ取り急かされる(のりりん)
・不思議だな海の魚に塩気なし(荻笑)
・ストーブ点けてアイスを食べるく(恵庭弘)
・弾まない旅というのに夫とじゃ(酔とぉよ)
・大企業さえも未来は予測不可(クッピー)
・140文字で政治ができるとは(ユリコ)
・龍ケ崎有名にした稀勢の里(グランパ)
・開運のスポット欲しい暇な寺(鵜野森マコピィ)

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・輪の中に猫が家族の顔でいる(やんちゃん)
・アラレちゃん実写化するなら是非おとわ(ミストラル)
・桃佳ちゃん詠んでちょうだい俺の歌(パリっ子)
・キャンプイン尾頭付きの鰯食う(フーマー)
・追い出したいの心の鬼を(かたつむり)

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                        かたつむりさんの今朝のファクス

・小百合スト永遠なのよ老忘れ(鈴木紘一)
・公園のベンチにもある指定席(夢見夢子)
・恵方巻恵方わからずひとまわり(東林間ひろぴぃ)
・黒じゃなきゃいいと灰色横行す(光ターン)
・大好きな君とは行けぬ露天風呂(どんぶらこ)
・死ぬまでは生きているんだ私たち(平谷妙子)
・綱口上四字熟語より素直な語(司会者=あさひろ)

☆タケシのヒント!
「素直な語、というのが、どうも、しっくりこなくて……。なんとかならないですかね?と放送中盛んに言われていたあさひろさん。そのこだわりは、今まで精進されてきたおかげとおもいます。たとえば、『口上は四字熟語より自然体』としてみてはどうでしょう。相撲も句作りも、ゆったり、慌てずに、が共通点です。」

・毎日のニュースのトップトランプ氏(つや姫)
・インフルが家族の絆深めおり(ただのおやじ)

本日の秀逸!・恵方巻恵方わからずひとまわり(東林間ひろぴぃ)
2席 ・綱取りの次はヨメ取り急かされる(のりりん)
3席 ・唇が何か言いたげ言っちゃえよ(けんけん)

【お知らせ】
さて、アノ東海大相模高校の最寄り駅でもあり、水野タケシも住む、小田急相模原こと「おださが」。
去年、駅そばの松ケ枝公園で、第1回「おださが・さくら祭り」を行い、1万人(!)を超える方が集まり、大いに盛り上がりました!!
 第2回の今年は、さらにクオリティをあげようと、私が審査委員長になり「おださが川柳コンテスト」をおこなうことになりました!!
おださが以外の方も広く応募いただけますので、ふるってご参加くださいませ!!

◎お題 「おださが」もしくは「さくら」に関する川柳
◎締切 3月15日
◎賞品 おださがで使えるお食事券や記念品など
◎結果発表 3月25日(土)の「第2回おださがさくら祭り」において
 
(ご送付先・お問い合わせ先)
おださがさくら祭り実行委員会・イケメンの青島さんまでメールでお願いします
ka.hi.1928since2013@gmail.com

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                  イケメンの青島さんがお待ちしていま~す!

【放送後記】
優れた川柳との出遭いはもちろんうれしいのですが、それ以外の皆様からのメッセージにも大変魅かれるものがあります。
だいたい7時半にスタジオ入りして皆さんからの作品を拝見しますが、読みふけって、笑ったり、うなずいたり、ほっこりしたりしていると、あっという間に放送の時間になってしまいます。
皆さま、これからも、これまで同様メッセージもお寄せくださいね!
タケシ拝

◆2月8日放送分の内容です。

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                    弟さんが受験真っ盛りのAD桃佳さんも
2月8日の再放送の音源は、こちらから! https://youtu.be/69e6uZBX3ao

【質問】
「本家紙面の毎日新聞の万能川柳のボツハガキはどうなるのでしょうか?
官製はがき1枚が約3グラム。毎月約1万通として約30キロ。年間で400キロ。
故松方弘樹さんが釣り上げた巨大なマグロくらいになります。
全てを保管しているのでしょうか?それとも処分しているのでしょうか?
焼却なら空に、リサイクルならティシュやトイレットペーパーに、保管してるなら、千代田区一ツ橋に、私は一体どこに思いを馳せたらいいのでしょうか?
お教えください。」(ユリコさん)
回答の音源はこちら…… https://youtu.be/69e6uZBX3ao

【今週の一句】182句の投句がありました!!たくさんのご投句ありがとうございます!!
(みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略)
・べんちゃらは言うが諫めはしない首相(ひと)(秦野てっちゃん)
・暴言とサインが彼のルーティーン(離らっくす)
・寒い中何処からと無く花の香が(六文銭)
・戸を開けたみんなあわてて飲み込んだ(荻笑)
・鉄火場がカジノと洒落て見る陽の目?(キャサリン)
・太っても痩せてもウフフ新婚さん(りっちーz)
・金の鬼世界がみてる次の策(ラジゴ) (添削例)次の策世界がみてる金の鬼
・訃報です思わず耳をすます朝(平谷妙子)
・真珠婚重ねた愛はミルフィーユ(やんちゃん)
・町内に一人か二人トランプ氏(雷作)
・ひょいひょいとぶらり天国オフョイさん(鵜野森マコピィ)
・狂犬の猫なで声にしてやられ(司会者=あさひろ)
・受験の日猫も背筋をちと伸ばし(不美子)
・咳をする人ほどマスクしていない(のりりん)
・孫育ち節分の豆口の中(アキちゃん)
・宿題を片付けてから解散せぇ(恵庭 弘)

☆タケシのヒント!
「恵庭さんの句、語尾に注目です!『解散だ』『解散よ』『解散へ』……などでは、この痛快な、突き抜けた表現にはなりません。想いは語尾に宿ります。皆さんもぜひ、語尾に一工夫してみてください。」

・あの世でも釣ってください200キロ(釣り人)
・カレンダー丸みがとれてはや2月(かたつむり)

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                       かたつむりさん、今朝のファクス

・連日のトランプニュース飽き飽きす(つや姫)
・あんなことされたのにまだ牡蠣が好き(ユリコ)
・マティスさんその貫禄は大統領(東海島田宿)
・内と外どこが境か豆をまく(夢見夢子)
・ノンアルで酔うことできる芸達者(北の夢)

☆あさひろさんの「ボツのツボ」
「今週182の投句。中には桜美林大学インターンシップ生桃佳ちゃんへの応援メッセージもあり喜んでいます。有難うございます。今日も小顔に写るように後にポジション取り。さて、今週のボツのツボ。『週刊誌発売日なら通院費』(北の夢)文春の日は血圧、新潮の日は整形で肩こり治療。」

・スイーツを睨み視食しスルーする(パリっ子)
・近頃は指が口より物を言う(グランパ) (添削例)近頃は口より指が物を言う
・孫も今これくらいかな振り返る(けんけん)
・神々に欲しい仏の慈悲深さ(龍龍龍)
・ロトセブン買わん十億要らんから(どんぶらこ)
・水素水並んだ棚が高カカオ(入り江わに)
・メーカーの都合大きなバレンタイン(クッピー)
・重箱に入れて格上げ花見弁(光ターン) (添削例)重箱で花見弁当格を上げ
・壁を越え穴掘ってまで出る自国(酔とぉよ)
・膝枕腕枕ああ夢枕(鈴木紘一)
・接待のスコアに悩む安倍首相(フーマー)
・義理チョコも今年限りと見栄を張る(東林間ひろぴぃ)
・暗い過去写す鏡に紅を描く(ただのおやじ)

本日の秀逸!・膝枕腕枕ああ夢枕(鈴木紘一)
2席 ・神々に欲しい仏の慈悲深さ(龍龍龍)
3席 ・宿題を片付けてから解散せぇ(恵庭 弘)

【お知らせ】
今朝は、あらためて、私のブログ、「水野タケシの超万能川柳!」をご紹介させていただきます。

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このラジオ万能川柳を文字に起こした「読むラジオ万能川柳」もご好評いただいていますが、その他にも、皆さんにご参加いただいているフォト575やスクラップ川柳、猫川柳なども毎日更新しています。
その他、おださがさくら祭り川柳コンテストなど、川柳や俳句の最新の情報をアップしています。
個人の川柳ブログでは、日本で最も読まれているブログの一つですので、ぜひご覧ください。
水野は漢字、タケシはカタカナ。水野タケシで検索するとヒットします。

【放送後記】
大学生ADの桃佳さん。交通情報などもアナウンスしていますが、そんな彼女に平谷妙子さんから「桃佳さんどんどん上手になっていますね」とメッセージをいただきました。
番組終了間際の、あさひろさんと桃佳さんのトークで、この平谷さんからのメッセージを紹介していました。桃佳さん「すっご~~~く、うれしいです!!」と女子大生らしい喜び方をしていましたよ!!
平谷さん、いつも心温まるメッセージありがとうございます!!
皆さま、投句は火曜日朝8時締切ですが、メッセージなどは当日朝でもかまいませんので、ぜひお送りくださいませ!!
タケシ拝
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水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」 http://ameblo.jp/takeshi-0719/


雑記帳2017-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-2-15
一昨年に続いて、2度目の高田瞽女ツアーに参加しました。

瞽女体験ツアーは文化庁の助成を受けて、「高田瞽女の文化を保存・発信する会」などが企画した事業で、数年前から実施されているものです。
室町時代から続いた瞽女の歴史は昭和52年にとだえます。
たまたま、企画者の一人、ゆうえんの斎藤弘美さんと知り合いだったことから、誘われて参加するようになりました。

今年は冬の上越が舞台です。
雪を想定してブーツを新調してのぞみました。
残念ながら、今年は雪が少なく、新調したブーツは役立たずに終わりました。

高田駅に集合して先ず向かったのは瞽女ゆかりの曹洞宗点林寺。芸能の守護神、弁財天を祀り、旅廻りをして芸を磨いてきた瞽女たちは毎年、5月13日の「妙音講」に集いました。ちょうどボタンの季節で、瞽女はボタンの匂いで寺を思ったということです。

上杉謙信が戦勝祈願をした寺だったことでもわかるように、弁財天は実は戦の神様でもあります。
天林寺の本尊の弁財天は年一度の御開帳のときだけしかみられませんが、剣を持った姿でえがかれています。

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                   住職によく似たちょっとメタボの弁財天

高田は軍隊の街、料亭文化が花ひらきました。
明治時代から続く老舗の料亭「長養館」は、師団の軍医だった森鴎外もたびたび訪れたとか。築100年を超える、黒板塀の美しい数寄屋の建物は、建築当時の姿を留めて改修されています。
豪雪の高田では、庭の木々は雪吊りでは間に合わず、雪囲いが施されています。

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        日本海の海の幸いっぱいの会席膳。壱の膳の左上は珍しいサメのぬた。

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                              雪囲い 

北国街道筋にある、町屋を利用した交流館「高田小町」では、この日、瞽女の門付け風景を再現するイベント「あわゆき道中」が行われました。ツアーの私たちも、雪国の女性用防寒具「角巻」をきて、雁木の通りを散策しました。
雁木は日本海側の豪雪地に見られた屋根付きの歩航路で(公道ではなく私有地です)、各地で消えていく姿を高田は今も残していて、その長さは16キロにも及びます。

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 瞽女さんにふんしての「あわゆき道中」
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                                雁木 

宿泊先の温泉「くわどり湯ったり村」は、海沿いの国道8号線(加賀街道)から桑取川沿いに山道を登った、桑取谷の行き止まりにありました。上越市から建物を借りる形で第三セクターが運営しています。従業員はみな、村の住民、過疎の村にあって、250円の日帰り入浴も人気です。薄味の夕食は、長養館に負けないおいしさでした。

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                             「湯ったり村」夕食 

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      「湯ったり村」付近の民家。かやぶきではなくなっても屋根の形は残している。 

夕食前、宿の近くの古民家で、長岡瞽女最後の親方、小林ハルさんの孫弟子という、横川恵子さんの瞽女歌の演奏会がありました。
門付け歌の後の一番の演目は「葛の葉子別れ」。
おなじみの最後の場面、「恋しくば 訪ね来てみよ 和泉なる 信田の森の 恨み葛の葉」まで、40分以上もの長い段ものです。通しで演奏する機会もめったにないということでした。(瞽女でさえ、一人ではなく3人で語り継いだというほどのものです。)
そして、高田瞽女と長岡瞽女では節回しも微妙にちがうのだということでした。

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      雪に埋もれた「ゆったりの家」。いろいろなイベントが開催される地域の集会所。

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                             横川恵子さん  

翌日、幼いころ、瞽女さんが村をたずねてきたことをおぼえているという、お年寄りの話を聞きました。
昭和16年生まれの曽我さんの家は「酒屋」の家号を持つ村有数の瞽女宿でした。
春と秋、瞽女さんがいくつもの谷をこえて村里にやってくる、娯楽の少ない時代に瞽女の訪れは子供心にも待ち遠しい、嬉しい出来事だったのでした。瞽女宿では家族同様に彼女たちをむかえたということです。

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                      車座になって蘇我さんの話を聞く。

桑取谷では、旧暦の小正月に、五穀豊穣を願って、集落の若者や子供たちが馬に扮し、各戸をまわって、家々の茶の間で馬をまねて飛び跳ねる、「馬」という珍しい行事がありました。過疎化が進み、昭和53年にとだえていたものを、全国でも珍しいこの行事を次世代に継承したいと、地元有志の手で平成10年に復活させました。
昨夜の古民家「ゆったりの家」で、「馬」を見学しました。

根曲がり竹を使って畳を掃く「田ならし」のまねごとのあと、馬に扮した青年が「ヒヒーン」と馬の鳴き声をあげながら客間に飛び込んできて、囲炉裏の3つの角で3回ずつとびはねる、それを3周という、体力の要る行事です。子供の馬、成年の大馬も登場します。
馬が元気に飛び跳ねてホコリが立てばたつほどその年は豊作になると言われています。

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                               田ならし

今、全国で地域おこしが叫ばれています。
上越市はそのさきがけのような土地なのだそうです。
市は、集落ごとに取り組んできた課題を、合併後も無くさないように応援していると聞きました。
この日、「馬」を見物に全国から大勢の観光客がつめかけていました。
集落に唯一つある中学校では総合学習として学校あげてこの行事に参加していました。
全校生徒23名が馬に扮して飛び跳ねました。

見物客に「馬」の説明をし、伝統行事を進行したのは、東京出身で村の青年と結婚した若い女性でした。
そして、隣村の土口(どぐち)では、都会からやって来た若者たちが一人暮らしのお年寄りを見守るケア事業を運営しているのを、たまたまこの朝のNHKTV『小さな旅』で紹介していました。
瞽女を受け入れてきたこの谷は、人を呼ぶ魅力をもっているのだと、「高田瞽女の文化を保存・発信する会」の関さんは話していました。

旅の最後は再び高田に戻って一昨年誕生した「瞽女ミュージアム」です。
瞽女を描いた画家、斎藤真一の作品を瞽女関連の資料とともに展示しています。

斎藤真一の絵は、彼のシンボルの色である「赫」が見る者を魅了します。
それは、盲目の瞽女が視力を失う前の眼に焼きついた、幼いころに見た太陽の色であり、彼がヨーロッパを放浪中に見たアンダルシアのジプシーの衣の色だといいます。
多くの戦友の死を目にし、戦後ひきあげてきて何を描けばいいのか思い悩んでいた斎藤に「日本を描きなさい」と勧めたのは藤田嗣治でした。
中世の色濃く残るヨーロッパの田舎を旅し、東北の祭りに日本を探すうち、高田瞽女最後の親方杉本キクイさんを知ったことで、瞽女の生き方に深い感銘をうけたのでした。

ミュージアム誕生のきっかけとなったのは斎藤氏一のコレクター、池田敏章さんが140点にあまる斎藤の作品を瞽女のふるさと、高田に寄贈したことです。
今回の旅にも池田さんは同行していましたが、いまや、斎藤真一研究家としてファンにはカリスマ的存在になっているようでした。それでも、2022年の斎藤真一生誕100年までにやるべきことのリストのなかに、『知の木々舎』を忘れてはいないと、元自衛官の池田さんは何処までも律儀でした。

◆2月も半ば、梅の花が見ごろです。いつも通う学習館の近くに幹は桜で花は梅の木があると話題になっていました。よくみると、桜の幹の割れた間から梅がのびているのです。そろそろ花粉の飛ぶ季節です。

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私の中の一期一会 №137 [雑木林の四季]

  果たして、復活はなるのか?松坂大輔(36)とタイガー・ウッズ(41)・・・
      ~松坂は「誰に何を言われようが、自分を信じて進むだけです」と語る~

                          アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 テレビはトランプ大統領に振り回され過ぎの感じがするのは私だけだろうか。
 日米首脳会談で両首脳がゴルフを楽しみ、安倍首相は“信頼関係を築けた”とご満悦のようだが、少なくともメディアは、拍手して一緒に喜んでいてはいけないのではないだろうか。
 ドナルド・トランプが異色の大統領なのは確かで、その本性を見極めにくい存在である。
相変わらず危険な臭いがするし、短命に終わる予感すらあるではないか。いつ何時、問答無用でバッサリやられるか分からない不気味さも消えていない。安易に信用せず“監視”を怠らないほうがいいと私は思う。
 連日トランプニュースが溢れる中で、気になったのは稲田朋美防衛大臣の理解不能の国会答弁である。
 南スーダンの国連平和維持活動(PKO)に派遣されている陸上自衛隊部隊が、日報に首都ジュバで「戦闘」があったと記載していたことについて、衆院予算委員会で「法的な意味での戦闘ではなく、武力衝突だった」と答弁したのである。
「戦闘」があればPKO参加5原則や憲法9条違反になり自衛隊は撤退が必要になる。だから「武力衝突」とか「法的な意味での戦闘ではない」と逃げ(ごまかし)の答弁をした。撤退はさせない意向だからだ。
 「戦闘行為」と「武力衝突」はどう違うのか。「法的な意味での戦闘」とはどういう戦闘なのかの説明はない。
 事実は一つしかない、深刻な事態があったことは確かなのである。
 理解不能な答弁をした稲田防衛相が辞任を求められたのは当然である。命がけの任務を強いられている自衛隊の派遣部隊からも辞任要求した方がよいのではないかとさえ思う。こんなアホな防衛大臣の基では、いつ戦死者が出てもおかしくないだろう。ふざけた話だ。
 法務大臣にも「辞めろ」という声が出ている。“親分”は呑気にトランプさんとゴルフをしている場合ではないかも知れませんよ・・・
 私は「怪物・松坂大輔に復活の予感漂う・・」というネットの記事に興味をそそられて読んでみた。
松坂大輔は現在、プロ野球ソフトバンクのキャンプ地宮崎の2軍にいる。
 2015年から日本球界に復帰し、ソフトバンクと3年12億円の大型契約を結んで今日に至っているのだが、帰国後に右肩手術に踏み切った影響もあって、この2年間は未勝利である。
 そんな松坂が「誰に何を言われようが、自分を信じて進むだけです」というコメントを発しているのを目にした時、怪物の心境にどのような変化があったのかを知りたいと思った。
 昨年10月2日、日本復帰後初の1軍昇格を果たし、日ハムの優勝が決まった後の楽天戦のマウンドに立った。初回にいきなり3安打を打たれ、与えた四死4に暴投も加わって5失点と惨憺たる結果に終わったのである。
松坂大輔といえば、夏の甲子園で球史に残る活躍を見せ「平成の怪物」と呼ばれた高校野球のヒーローであった。プロ入りしてからは西武のエースであり、WBC日本代表の大黒柱として活躍した。メジャーでもレッドソックスのワールドシリーズ優勝に貢献している・・・しかし今はその面影はない。
 統計をとった訳ではないが、「あの勇姿をもう一度見たい」という人より、かつての「栄光を汚して欲しくない」、「晩節を汚すのは見ていられない」という人の方が多いのではないか。
 だがしかし、今の松坂大輔には「引退」という選択肢はない。
 スポーツ情報誌Number Webによれば、松坂大輔は2016年12月、プエルトリコのカロリナを本拠地とするカロリナ・ジャイアンツというチームでプレーをしていたのである。
 冬期リーグのある日、試合後にNumberの記者に語ったのが「誰に何を言われようが、自分を信じて進むだけだ」という言葉だった。
 松坂は“まだまだ出来る”という気持ちを捨てていない。“もっとうまくなりたい”という向上心も36歳にして衰えていない。プエルトリコに乗り込んだのも“前に進むため”であった。
 冬期リーグの初戦は、4イニング1安打2失点だったが、6四球とコントロールは乱れた。
2戦目はノーワインドアップにして、2ーシムなど速球主体のピッチングにしたら、5回3安打1失点と好投できた。狙った通り内野ゴロでアウトを取れたことと四球が2つで済んだことに満足感があったという。
 3試合目は速い球に詰まった当たりが多かった。4回を投げ6安打2失点。
 最終の4試合目は、7回までマウンドに立ち、3安打1失点と確かな手応えを残せたのである。
 このプエルトリコ遠征は「まだやれる」という復活への自信を深めることになった。
 宮崎キャンプでの松坂はハイペースで調整を続けている。
 プエルトリコでプレーしていたこともあって、初日から「身体が動いているから」とブルペン入り、フリーバッティングにも登板して打者に対して投げた。
 7日には239球の投げ込みを行ったが、今の時期としては異例の球数だだろう。中指にマメができたので3日間はノースローだったそうだが、10日は、また185球の投げ込みを続けている。
 昨年までは、手術した右肩の状態を常に考えなければならず、100球投げるのもしんどかったそうだ。
 それが「今年は“肩に不安がなくなった”ので、200球投げても痛み出ない。ストレスの一つがなくなったのだ。9キロの減量にも成功した。200球も投げればやはり疲れる。だが、疲れてからは無駄な動きがなくなるので、入れるべきところで力を入れられるようになる。フォーム固めには最適だという。
 14日にはシート打撃に登板、打者7人に投げ2本の二塁打を打たれた。疲労は今がピークだそうで最速136キロしか出ていない
 見守った工藤監督は「まずは第一段階だね」とだけしか言わなかった。
 長年苦しんだ肩や肘の不安がなくなったことが、平成の怪物にやる気を出させたことは確かなようだ。
 キャンプは順調でも、オープン戦という実戦で結果が出なかったら、復活は遠のいてしまう。
 もしオープン戦で松坂が投げたら、テレビは中継するだろう。ぜひ見てみたい。
 もう一人、「復活」か「引退」か、で注目を浴びているのが、長年ゴルフ界の頂点に君臨してきたタイガー・ウッズである。
3度も腰の手術を経験して、2015年秋からツアーを離れていたタイガー・ウッズが、昨年10月13日に開幕する16~17年シーズンの初戦「セーフウェイ・オープン」に出場すると自身のホームページで明らかにした時、米ゴルフ界はどよめいた。
 初日を前にチケット2万8000枚が売れたのである。“タイガーのツアー復帰”を多くのファンが待ち望んでいた証だ。
タイガーは「僕のリハビリは問題なくきている。計画を練る段階にきた。プレー出来るかどうかは回復次第だが、まだ終わりではない」とカリフォルニア行きを約束した。
しかし、あと3日で大会初日という10月10日、「実戦に向けての準備が整わなかった」として突然出場はキャンセルされてしまった。
 がっかりしたファンに向かって、ツアー35勝のジョニー・ミラーが「彼がタイガー・ウッズでいることは苦労なのだ」と語って、苦しむタイガーの心境を代弁したという。
 私は、タイガーの試合を何度も実況したが、確かにタイガーは一人だけ規格外の技量の持ち主で、神懸かりショットを何度も目にした。上手い上に強さも発揮した。
 ツアー79勝のタイガー・ウッズが、つまらないミスや凡プレーをしたらファンは失望するだろう。
 復帰すれば、ファンの誰もが“往年のタイガー・ウッズがそのままを戻ってきた”と期待するに違いない。
 だが、ジョニー・ミラーは「それは無理だ」とゴルフチャンネルの放送で断言している。
 ツアー仲間のポール・エージンガ-は「冷静さが消えた。自信もなさそうだ。焦っているように見える」と語り、あの頃のタイガーらしさは消えてしまったと指摘している
 “あのタイガーをもう一度見たい”というファンの期待にタイガーが応えるのは至難の業なのである。
 アメリカのメディアには、タイガーがメジャー大会に優勝しなければ“真の復活”と見なさない風潮がある。
 だから、たとえツアーに復帰できても「メジャー優勝を果たせなければ、キャリアの終わりが近いと考えるべきだろう」という厳しい指摘さえメディアにはあるのだ。
 心・技・体が整って復帰出来ても、タイガーにはメジャー優勝が義務づけられると思っていい。
 タイガー・ウッズは10日、出場予定だったジェネシス・オープンとホンダ・クラシックへの出場を取りやめると発表した。不安要素がいっぱいなのだろう。タイガーは今苦しんでいる。
 「タイガー・ウッズでいることは苦労する」と言ったジョニー・ミラーの言葉は核心を突いている。。
 松坂大輔にも当てはまるかも知れない。
 タイガー・ウッズと松坂大輔、二人にとって2017年は勝負の年になる。


パリ・くらしと彩の手帖 №116 [雑木林の四季]

ポンピドーセンター40周年記念

                    財パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ

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ポンピドーセンター 赤いのはエスカレーター
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これを見ればポンピドーの印とわかる
 
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 建物の反対側にはこんな煙突みたいなものがにょきにょき。
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上から吊るされているのがポンピドー大統領の顔。細い金属の線で描かれている。
  
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ツオンブリの今回の展覧会(ポンピドーセンターで)と初期の作品群(これが現在の大展覧会の展示です。初期の作品は何かを消してあるだけで、これが出発点 )                

                                                                                                                                                 もう随分前からフランス最大の現代美術館、サントルポンピドー(ポンピドーセンター)は、創立40年祭を盛大にやるぞと繰り返していたが、いよいよその日が来たのだ。それまでもフランスに美術館は色々とあったが、現代美術を国単位で扱うような入れ物はなかったのだ。当然、その時生きていたアーテイストたちがそれぞれ、思い思いの展覧会に出品していたから、現実に作品を見る機会は色々とあったのだろうが、その時代をリードする芸術家の作品として、特別に収納するところなどはなかったけれど、それぞれのいいアーテイストの残したものを保存するために記念館というようなものが色々と出来たけれど、それが現代アーテイスト全体を迎えるためのひとつの立派な建物になったのは初めてで、これが今から40年前の出来事だったわけなのだ。広い敷地を掘って掘ってどうなることかと思っていたのだったが、ある日から工事が急速になったと思って見ていると、いきなり巨大な煙突のようなものがいくつも突き出てきた。こうして、これが美術館に行くのを見守ることができたのだった。私のうちからはメトロに乗って10分ほどで、降りればそこが美術館なのだからありがたい。
 ポンピドー大統領といえば、ドゴールが大統領の時に首相に迎えられた人だったが、そのあと、彼自身が大統領となったわけで、間もなく始まった病と闘いながらの身となった。それまで、代々の大統領たちのクラシックな王宮趣味の一言に尽きるエリゼ宮、つまり大統領官邸は、ヴェルサイユ風が好まれていたのに、このポンピド-夫妻の現代美術のはっきりとした好みによってすべてに変化が起き、調度品一切が新しい美術に取って代わられたのであった。そしてこの事実は、その時代に生き制作する作家達にとっては一層の張り切り方が全国にひろがったのであった。古くから伝わるようなものには常にその価値が保障されているけれど、今に生きる作家達のものはいい藝術であるかないかの疑問はもたず、同時代に生きていく人々にとって、より価値のわかりやすいものであるかどうかによるものなのだから。
 ポンピドー大統領といえば、ある日、日本のジャーナリストの集まりがあって、みんなでレストランで食事をしていた時に、ラジオのニュースが流れて大統領の死を伝えたのだった。それは1974年4月2日だった。私たちは全員揃って感無量だったのを覚えている。そして、この現代美術を愛好する大統領夫妻のために作られたのがこの現代美術館だったのだ。大統領の死後、夫人のクロードーポンピドーもここでの新しい美術展にはよく通っておられたが、不思議と一般の人々が来る前の時間に、他を閉めてお迎えしていたのを思い出すが、なぜ一般人と一緒ではいけなかったのだろうか。こうして生まれたのが、今から40年前の1977年のことだったのだ。イタリアの建築家、ピアノが代表する建築家グループによって作られたものだが、この辺りに住む人にとっては、従来の建築物とはあまりに違ったものが、土から出て来たのだから、すっかり肝をつぶしたに違いない。そして、建物の横腹、それも外側に付けられたエスカレーターによって、一番上の6階まで上ることができるようになっている。まず下から大きなホールに入るとポンピドー大統領のポートレートが吊るされている。これも現代作家の作品として。また、このようにして、現在生きている世界から分離することなくそこに身を寄せ、楽しむことができるのだ。開館時間は、1年中朝は11時から夜は10時までだ。下の階には、書籍と、定期刊行物がたくさんあって、こちらの方の行列もいつも外まであふれている。ここは美術だけの城ではなく、文化一般のための場なのだから当然のことだ。常設の現代美術館は4、5階にあり、それ以外の壁面では同時進行で、いくつもの展覧会が見られる。2年ほど前から、写真専門のスぺ-スも開かれた。そして一番のお楽しみの大展覧会は6階だ。今回の40周年を祝うにあたっては、現代美術館も、その他のすべての特別展も、現在やっているすべてを二日間にわたって、無料にした。多人数の家庭ではこの機会にすべてを見てまわろうという計画を立てたに違いない。入場するために並ぶ人の列は建物の最上階から目に見えるはるかかなた迄続いているようだった。 この二日間の時間割は、土曜日は、いつもの11時にオープンしたが、終わったのは朝方の2時という素晴らしさだ。私のような夜型は、帰りのことを考えなくてよいなら、夜にたっぷりと見せてもらいたいところなのだが。現在、特別展で、大会場を占めているのがアメリカの画家、トウオンブリ(Twonbly)で、この画家、すべてを消してしまうというのが出発点で、写真家であり、詩人であり、その何でも消してしまおうという描き方から生まれたこの作家こそいかに現代そのものを代表しているかということなのだと言う。コンピューターで調べてみると彼がすべてを消そうとしているのがよく見える。この40周年を祝う二日間にポンッピどーセンターを訪れた人の数は何と9万人に近かったという。素晴らしい知の木々舎といってもいいだろうか。ただし、昨年、現代美術館の館長がかわってから色々と変化が現れて、今は日本人作家の松谷武判の作品が入った。何十年来パリにいて、鉛筆の芯を使って白い画面を塗るつぶしての仕事をお続けているが、なかなかいいもので、私などもつい手が出て、小品を2店持っているからもう一つ嬉しい。ポンッピどーセンターの大々的な40周年の賑わいは、このフランスで絵も何か一つの区切りが落ちたような気さえするイヴェントだった。

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今年の日本映画祭でも10数本の真新しい映画をみてもらったところだ。

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 私たちがパリを出発点として、フランス各地で開いている日本映画祭の、「金の太陽」も今年で11年目だ。パリで始まり、日本文化センターでバトンタッチをしてから、希望のあるフランスの町や日本の新しい映画を見たいと希望する組織のあるところには映画祭が駆けつけるという具合だ。地方の映画館が主宰するならば、その入場料の一部を、もしも公の組織や日本愛好会のような組織からの要請ならば、無料だ。しかもこの映画祭のために毎年数人の監督さん達が出席し、制作した映画について観客に話をし、また質疑応答もあるというきめ細かさである。1年目には出ししぶっていた監督さん達も、今ではあちらから早々と資料を送って下さったりして、観客との関係もただその映画を見るということにとどまらない。地方公演にも自分の映画の行くところに同行する時間のゆとりがあれば、観客達との縁が始まるのだ。かつては日本の映画を外国に輸出するのが仕事のユニジャパンなどもこの映画祭がパリで生まれたのでどうぞよろしくと挨拶しても、世界中で日本映画祭を始めるけれど、これが続いた試しがない、といささかきついお言葉を賜ったこともあったが、11年目の今は、時々嬉しい一言を連絡の紙に走り書きしてくださるようになった。”パリから帰ってくる監督さん達もみんな喜んでいますよ”などと走り書きがあると私たちも大満足だ。とにかく、世の中の景気が敏感に反映するこのようなイベントは、ややもすれば、大きな応援から、今年はちょっと無理で、などと言われると途端に響く。今年などはまさにそれが響いて大きい会場が取れなかった。映画祭を背負っている私たちは、みんな手弁当の無料労働者だ。日本語の映画をフランス語に訳すという重い責任を持っている一人のスタッフ以外はただただ、日本映画への関心と、日本を愛する気持があれだけのエネルギーの元となっているのだろう。その上、最近の日本に対する関心はこれを更に増幅しているものだ。日本に対する関心は、日本の食に興味が持たれるようになって、開かれてきた。寿司から始まって、今では、日本の味、そのものに関心を持つ人がぐっと増えたからだ。映画の作品選びにもそのことは大いに影響した。特に昨年のフェステイヴァル、丁度10周年記念に当たった昨年度などは映画を選ぶ私たち自身までその影響を受けた位に選ばれた映画と観客の期待がぴったりだったと言えよう。感じだった。その分、ヨーロッパの物語のように理屈で押していくのとはまさに反対の、日本の、言わないところに含みがあったり、時には言っていることとは裏腹の本音などを受け取ってほしい時など、もう少し複雑な日本人の感情をわかってもらえるような土壌の準備が出来かかってっているのではないかという気がするのだ。日本人を理解するためには、それでもやっぱり是非日本に行ってもらいたいものである。最近、オリンピックのためもあって、官民一体となっての努力が実を結んできたのか、日本に旅する人の数がぐっと増えたようだし、嬉しいことである。メトロに乗ってみているとあちこちの駅で、日本旅行のポスターが今までは考えられなかったような値段の広告をしているのだ。500ユーロなどというのも見た。日本円で7、8万円というところか。私もこれでもう6年、故郷を見ていない。2011年の日本の大災害で、フランスで、日本の音楽家による二つのコンサートを開いて寄付金を集めたのだったが、その頃ルーヴル美術館前の道、リヴォリ通りで駆けて、ひっくり返って、それ以来ハンデイキャップカードの所持者になってしまったのだ。それ以後の日本を私は知らないのだ。2011年の秋だったか、早稲田の毎年の行事である、卒業生の集まりと並んで、高校の青山の同窓会からの通知で、最後の同窓会をするから来いという同級生からの命令がきたので、是非行こうと考えた。早稲田のと青山のと同じ週だったので、短期間の旅でも両方に出られると考えたからだ。それがこの怪我がもとで、諦めたのだ。パリでも早稲田の会はあるが、初めは隔月で、飲もう会 とゴルフ会になってしまったから行かなくなったし、最近の新年会では、持ち寄りのものを競売したり、若者達を中心に賑やかに楽しくやっているようだが、私など椅子に座り込む年寄り組は、会費を払った上で、終わってから他に食事に行かなければならないということになって、今年は諦めたところだ。付き合いが悪いのか、サービス精神が不足しているのか,わからないけれど、どうも苦手なのだ。日本映画祭、金の太陽の11年目が、パリでの上映の後、フランスの地方版で、終わろうとしている今、民族性、国民性などを知ってもらうためには映画という、誰でもが簡単に見ることのできるものがいかに大きな役割を果たしてくれるか。それを改めて感じる今日この頃である。さて12年目となる、来年の日本映画祭はどんな映画が主役になるのだろうか。

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日本大使公邸で大使を囲む監督さんたち

浜田山通信 №188 [雑木林の四季]

「Jアラート」

                                  ジャーナリスト  野村勝美

 寒い日が続いていたのでTV漬け。トランプと小池知事、さらに石原慎太郎の見たくもない瞬き顔を見ていたら、「全国瞬時警報システム(Jアラート)」なる字幕がでる。「国から緊急情報(地震・武力攻撃など)が発信されると区の防災行政無線より自動的に放送される設備です。放送が流れた際は、テレビ・ラジオの情報にご注意ください。放送される情報は以下のとおり。○国民保護に関する情報、弾道ミサイル、航空攻撃、ゲリラ・特殊部隊攻撃、大規模テロ、その他国民保護に係る緊急情報 ○緊急地震速報(震度5弱以上)○気象などの特別情報。平成29年2月21日11時00分頃、全国瞬時警報システム全国一斉訓練実施、防災行政無線からテスト放送」。
 一瞬ナンダコリャと思った。弾道ミサイルや航空攻撃(私は空襲にあっている)といえば戦争ではないか。いくら臨時警報を出されても我々は逃げたり避難することなどできるわけがない。ミサイル攻撃や核攻撃には何やら途中で迎撃する武器があるらしいが、まずミサイル攻撃が始まったら一巻の終わりだろう。私はアホらしくなってすぐ忘れてしまった。
 ところが最近のアベ・トランプ会談や国会でのテロ等準備罪、南スーダンでの戦闘行為についての審議をみていると、アベさんは本気で日米同盟が、戦争を防止してくれると思っているらしい。北朝鮮もまた日米会談にあわせてミサイル発射実験をやり、日本はおろかアメリカ本土の攻撃もできるぞと脅しをかけた。こんなことをやりあっていたら、ひょうたんから駒がでたり、窮鼠猫をかむなんてことにならないともいえぬ。そんなのんびりしたことではなく、日本は敦賀あたりの原発に一発のミサイルが命中したら全滅である。北はもちろん神風特攻の気持だろうから自爆攻撃である。イスラム国はほとんど無手で神風特攻をやっていて、この連中がケイタイ核爆弾を持つ日も遠い日ではないだろう。それまでに人間同士が、宗教、宗派、国家、民族を乗り越えて仲良く生きていけるような方策はないものか。
 国際情勢をいくら考えてもどうなるものでもない。浜田山でも去年から低金利、マイナス金利のおかげか古い住宅の建て替えが目立ち、もう10年前の街並みがすっかり変わった。私の甥が35年のローンで土地つき戸建て住宅を昨年買ったが、借家の家賃と同じくらいのローンでよいらしい。これってアメリカの何年か前のサブプライムローンじゃねえのかと思ったが、90歳近い老人の心配することではない。
 商店の方も相変わらず転廃業が多い。メインロード商店街ではハイタウン一階のイタリヤレストラン「カプリチョ」が25年間で廃業、「サーティワンアイスクリーム」のあとには「炭焼鶏はし」が開業した。長さ一間もありそうな赤提灯が目立つ。駅前のローソン2、3階には「メガロス24浜田山」が開店。野村不動産ライフ&スポーツの経営。健康産業は大ブーム。


徒然なるままに №13 [雑木林の四季]

 歌曲「平城山(ならやま)」追想

                                    エッセイスト  横山貞利

   「平城山」 歌詞 北見志保子  作曲 平井康三郎
   人恋ふは 悲しきものと 平城山に
             もとほりきつつ 堪え難かりき。
   古(いにし)へも 夫(つま)に恋いつつ 越えしとふ
             平城山の路に 涙落としぬ。

 この「平城山」の歌詞は、北見志保子の歌集「花かげ」に収められている二首の和歌である。志保子は、大正9年(1920年)から、奈良の知人宅に寄寓して奈良周辺を逍遥していた時、平城山にある「磐之媛陵」(いわのひめりょう)に詣でて「平城山」二首を読んだようである。
 当時、志保子は、夫の歌人橋田東声の弟子である12歳年下の浜忠次郎と恋におちて深く愛し合っていた。しかし、この恋は果たされず浜忠次郎はフランスに留学させられてしまって、志保子は傷心の裡に奈良に逃れて彷徨っていたのである。その煩悶の中で平城山の「磐之媛陵」で、磐之媛皇后の仁徳天皇への熱い恋慕について想い出したのであろう。志保子は歌の道を歩んでいたから「万葉集巻第二」に収録されている磐之媛の仁徳天皇に対する恋歌四首を当然知っていたと思われる。だから、いまの自分に通じる想いと感じていたと考えていいだろう。仁徳天皇と磐之媛皇后については古事記、日本書記、日本紀に詳細に記述されている。

    万葉集巻第二 相聞
 磐媛皇后 天皇を思(しのび)て作らす歌四首
君が行き 日長くなりぬ 山尋ね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
  右の一首の歌は、山上憶良臣が類聚歌林に載す
かくばかり 恋つつあらずは 高山の 岩根しまきて 死なましものを
ありつつも 君をば待たむ うち靡(なび)く 我が黒髪に 霜の置くまでに
秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへの方に 我が恋やまむ
 以上の四首は、磐之媛皇后の仁徳天皇に対する熱き恋こころを詠んでいる。

 志保子は当然上記の四首を読んでいたと考えるのは「平城山」の歌詞の二番目に「古へも 夫に恋つつ 越えしとふ 平城山の路に 涙おとしぬ」と詠んでいる心情が磐之媛に相通じているように思えるからである。

 志保子は、大正11年(1922年)7月東声と別居したのち離婚が成立したので大正13年末に浜忠次郎と結婚した。その後、志保子は専ら歌の道に励み、大正14年(1925年)には歌誌「草の実」に参加した。そして昭和2年(1927年)には歌誌「青垣」創刊とともにその同人になった。翌年処女歌集「月光」を出版した。戦後、昭和25年(1950年)には慶応大学の聴講生になり、釈超空(折口信夫)について国文学を学び、武田祐吉に万葉集の指導を受けた。その頃には、女流歌人として認められて新年歌会始にも召された。昭和27年(1952年)に「花宴」を創刊して独自の境地を拓き、後進の育成に尽くそうとして新しい出発を期した。

 この歌「平城山」は、同じ高知県出身の平井康三郎が曲をつけて昭和10年(1935年)に発表された。わたしが、「平城山」を最初に聴いたのは中学の終わりか高校に入学した頃であろうか。ラジオで「平城山」を聴いて「あゝ、いい歌だなァ」と感じて、それ以降この歌がすっかり好きになってしまった。わたしの記憶では、立川清澄(東芸大卒、二期会所属、バリトン歌手)の「平城山」を聴いて一層感動したことをいまも想い出す。若き頃の感慨であるが、青春時代のロマンティックな心情を持ち合わせていたころが懐かしくなる。偶にyou tubeで「平城山」を聴いていると瞼が熱くなってくる自分に気がつく。戦後、昭和2、30年代の日常は貧しかったが、心だけは貧しくなかったような気がする。

   北見志保子 絶唱五首
 開かれし永劫の門を入らむとし植ゑた緋桃をふと思いたり
 石門の扉に向きてためらひもなく入らむとして夢さめにけり
 出づることなき永劫の門にむきゐて急ぎ歩みし今朝覚めて思ふ
 灰色の扉ひかれしはわが為となき門を入らむと急げり
 朝庭に下りてみたれば緋桃の花は乱れをみせて過ぎゆくところ  
          宿毛市立・宿毛歴史館「北見志保子」より


気楽な稼業ときたもんだ №53 [雑木林の四季]

  岡田嘉子さんの物語

                             テレビ・プロデューサー  砂田 実

 それにしても、ソ連でお会いした岡田嘉子さんには衝撃を覚えた。数多くの困難を乗り越え、人生の壮絶なドラマをご自身の内に秘めて僕の前に立った六十五歳の彼女は、いまだ美しく、魅力あふれる女性だった。それまでの苦労をまったく感じさせない、「平穏に幸せに暮らしてきた気品ある女性」といったイメージに、かえってこの人の並ではない心の強さを感じた。奔放な恋愛遍歴の末、演出家・杉本良吉と厳冬の樺太の吹雪の中、ソビエト連邦に越境する。しかし、杉本はスパイ容疑で銃殺され、自身もソ連の劣悪な環境の刑務所に十年近くも幽閉された。並みの人間ならば何度も命を絶った(妙な表現だが)かもしれない修羅場を生き抜いてきた人物とは、どうしても同一には見えなかったのだ。それに今の日本人にはない、きれいな江戸弁が懐かしい。
 今は亡き大スター江利チエミも、敬愛の念をこめながら、岡田さんとともにモスクワの街を語り、インタビューをこなしてくれた。つまり、このキャスティングは大成功と言えたわけだ。インテリ風のキャスターではなく、お茶の間で人気絶頂の江利チエミで正解だったのだ。
 岡田さんは、われわれがお会いした頃は、モスクワ放送の日本語アナウンサーを経て、穏やかな結婚生活を送りながら、モスクワの舞台に女優として立っていた。その五年後、亡き夫・滝口新太郎の遺骨を抱いて、彼女は三十五年ぶりに祖国日本の土を踏む。モスクワ五元中継に携わったメンバーで作った「モスクワ会」で、彼女を一夕の晩餐の席にお招きし、楽しく彩りの濃い時を過ごすことができた。

 その後、岡田嘉子さんから頂いたお手紙をそのまま披露しよう。

 モスクワではじめて皆様にお逢いしてからほぼ十七年。私が里帰りしてかたも十二年。
今更のようにあれよあれよとただ、目をむくばかりの時の早さです。
 あの時以来、一度も皆様とお顔を揃えたことはないのですから、モスクワ会のお知らせ
を受けた時は、お懐かしさのあまり、一も二もなく出席のご返事をいたしました。なにし
ろあの時は、約三十年ぶりで故国の芸能界の方々とご一緒できたのですから、その懐かし
さ、嬉しさは強く心の底に焼きつけられたのです。
 あの当時のまま、モスクワ河のほとりの私の住居も、主(あるじ)不在で寂蓼をかこっているので、いいかげんにこちらの仮住まいを引き上げなければと考えているのですが、何しろ十余年の生活で深く根を下ろした雑物を引っこ抜くのが大変です。
 でも年金もたまっていることを思えば、やっぱり私にはあちらが安住の地のように思われるのですが……。

 自身の言葉どおり、十四年間日本で暮らした後、再びモスクワへ戻られた岡田さんは、平成四年(一九九二)モスクワの病院で、誰に看取られることなく八十九歳の波乱に満ちた生涯に幕を閉じた。

『気楽な稼業ときたもんだ』 無双舎


BS-TBS番組情報 №132 [雑木林の四季]

BS-TBS 2017年2月のおすすめ番組(下)

                                      BS-TBS広報宣伝部

~祝デビュー55周年~ 舟木一夫・永遠の青春スター

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2017年2月17日(金)よる7:00~8:54

★舟木一夫が語る自分史と歌の全て!

出演:舟木一夫/片岡鶴太郎

歌謡界に輝く「永遠の青春」舟木一夫が、平成29年(2017年)に芸能生活55周年を迎える。
今もなお日本を代表する歌手として絶大な人気を誇る舟木のこれまでの軌跡を歌とトークで振り返る。
「高校三年生」「高原のお嬢さん」「絶唱」など自身のヒット曲はもちろん、歌手を目指した頃の想い出の唄も披露。
そして、ナビゲーターに片岡鶴太郎を迎え舟木のファン代表として舟木との対談に挑む。
テレビにほとんど出演しない舟木が語る自分史と歌のすべて。

お相撲さん歩

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2017年2月19日(日)よる7:00~8:54

★相撲部屋の日常に密着!力持ちで優しいお相撲さんの魅力が満載!

出演:佐渡ヶ嶽親方、琴奨菊、宮崎美子、草野仁ほか

古くから日本人に愛されてきた大相撲。そんな相撲の魅力と言えば、己の肉体のみを使い、力と力、技と技がぶつかり合う究極のスポーツであること。そして、それと同時に伝統や格式、独自の文化、力士のおおらかなキャラクターなども相まって、老若男女を問わず多くの人々に愛されている。
番組では、相撲部屋での日常に密着。真剣な稽古場から、力士たちの自由な散策による人々や文化に触れ合う姿、各部屋の歴史や伝統を彩る名勝負を辿っていく。
今回、密着するのは大関・琴奨菊が所属する“佐渡ヶ嶽部屋”。起床~稽古~ちゃんこの準備~自由時間、そして“番付発表”まで力士たちの日常生活に迫る。
また、知性派タレント・宮崎美子が佐渡ヶ嶽親方、琴奨菊とともに国技館がある両国の街を散策。土俵上では見せない姿や、街の人々とはどんな出会いが!?
さらに、佐渡ヶ嶽部屋の歴史と伝統を彩る名勝負を一挙公開。MCに草野仁を迎え、解説のみならず時代や力士の背景なども併せてひも解いていく。

高嶋政宏の旅ライダー

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2017年2月24日(金)よる7:00~8:54

★高嶋政宏が電気オート三輪で気ままに旅するガチンコ旅!今回は富士山の絶景を求め東海道へ。

出演:高嶋政宏
※高嶋政宏の「高」は正式には「はしごだか」です。システムの都合上「高」となっております。

映画・ドラマで活躍する高嶋政宏。実は“超”のつく旅好き!仕事やプライベートで世界各国を旅する旅マスターでもあるんです。そんな高嶋政宏が、ソーラーパネルを積んだ電気オート三輪車に跨がって日本各地を旅します。どんなルートを走るか、どんなお店に立ち寄るかは高嶋政宏の気分次第!充電のため、行く先々でコンセントをお借りしながら、ゴールを目指します。
今回は「日本の名峰・富士山を拝む旅」をテーマに、東海道を下りながら、その町の富士山絶景ポイントを巡ります。もちろん立ち寄った町々の知られざる名物や、昭和の風情が残る老舗など、観光スポットとはひと味違う様子を、地元の方々と触れ合いながらご紹介!
新国立競技場建設工事で、富士山が見えるようになった国立競技場跡地をスタートし、横浜、鎌倉などに立ち寄りながら江ノ島の富士山と夕景の絶景ポイントへ。さらに、日本が誇る温泉町・熱海の十国峠からの富士山や、西伊豆の温泉から見える富士山など、ゴールの富士山の麓・富士山本宮浅間大社を目指して旅します。
さて、気ままなガチンコの旅は、どうなるのか?乞うご期待!!


バルタン星人の呟き №8 [雑木林の四季]

「春一番、そして啓蟄」

                                     映画監督  飯島敏宏

 このところ、僕は天気予報に釘づけです。なにしろ、今年は、こまめに零下40℃級の大寒波とやらがやってきて、南関東を除く日本中が、想定外の大雪や低温に見舞われているようです。幸いなことに、と言っては他の地方の方々に叱られるでしょうけれど、関東、特に東京は、毎日の寒暖の差に弄ばれこそすれ、災害という災害には見舞われずに過ごしています。
 「江戸に幕府の本拠を置いた徳川家康は、慧眼だったねえ・・・」
  「いや、そもそもは、太田道灌じゃないの?」
  「蘆と浅利ぐらいしかない干潟を、これだけのものにした三菱が凄い!」
 近ごろ漸く日が伸びてきて、やや薄明るくなってきた早朝6時30分のラジオ体操に集まるわが街の爺様がたの、いじましく公園の遊具に捕まりながらかわす毎日の話題も、トランプvs安倍会談&ゴルフの見え透いた朝貢?外交を声高に云々した後には、衰え始めた体にとっては、もっともっと身近な、気温問題が切実に取り上げられているようです。
 細々と、とはいいながら、当面は年金に支えられて長寿の域に達した気楽な老人たち、と言ってしまえばそれまでですが、彼らだって、最高年者は、あの戦争で、お国のためにと言って、戦場に駆り出され、むごい目に遭った人だったり、次は、食うや食わずの敗戦直後を乗り切った世代だったり、この街では、低年令呼ばわりされる団塊世代も、安倍さんが軽く口にする戦後の繁栄を築くために、寝食を忘れ、身を削って働き続けた過去を、引きずっているのです。
 八十路の半ばに達した僕自身も、少国民時代に厳しく鍛えられた肉体もすっかり萎んでしまって、このところの日替わりの寒暖の差には、昨年あたりとは全く違う影響を受けています。
  「なにしろ80過ぎるとね・・・」
と、先輩たちが口癖のように嘆くのを聞いて、
  「なあに、そんなこと気にしちゃいけませんよ。百歳過ぎて、なお活躍中の聖路加病院の日野原さんをご覧なさい、映画界の伝説の人、新藤兼人監督をご覧なさい、百歳にして立派な映画をお撮りになったじゃありませんか。積極的に体を使っていれば、歳なんて・・・」
などと、無責任に励ましていたのが、ついこのあいだのことだったような気がするのですが、いま僕自身が現実にその歳になってみると、ああ、何と無責任な励ましをしていたのだろうか、と自戒するあり様です。
 現に、つい一週間ほど前にも、自分では素早い身のこなしをしたつもりで、街の集会場の駐車場に張られた地上ほんの10センチほどの鎖を飛び越え損ねて見事に転倒、強かに肋骨を打ちつけてしまって、未だにひくひく疼いていることを告白しなければなりません。いつまでも若い心算でいるうちに、いつのまにか、著しく筋肉が委縮して動作が重くなり、神経の末端から感度が衰えてきているのです。
 しかし、然しです。暦の上とはいえ節分を過ぎ、春を迎え、稀勢の里も、ようよう優勝して横綱を張り、彼の国でいう春節も過ぎて、わが街のあちこちの庭を、白梅紅梅が飾りはじめ、カラスの制空権を奪って南からの渡り鳥と言われる尾長たちの囀りがけたたましく響きわたり、湧水池の底の泥に蹲って、水が温む日までじっと耐えていた泥ガメが、そろりと手を動かすのを目撃すると、やれ頭痛だ、やれ腰が痛い、やれ眼の奥が、とか、不具合なところばかり探して、やるべきことに一向に手を出せない状況でいた僕でさえも、                                                  「今週末には春一番が吹くかもしれません・・・」
という、お天気キャスターのお告げに、
  「やらねば・・・」
の思いに掻き立てられるのです。
 啓蟄を待たずに、いまごろは、わが庭の地中の虫たちも蠢き始めているに違いありません。昨秋に埋めたチューリップの球根も、すでに地表近くにまで芽を伸ばしているに違いありません。
  「やろう!起ちあがろう!」
  決心こそすれ、では、何をするのか・・・
  まずは、書斎の整理をして、と決意して、捨てるために束ねかけた古本の中から、ふと、小冊子が、ボクに呼びかけているのに気がつきました。
 ワーズワースの詩集です。掌サイズのハードカバーで、手あかの跡もありません。
  「え?」
  彼の肖像画が、額に手を当てて、思想にふけっています。
  そうだ、そんな時代が、ボクにもあったのだ。
  イギリス旅行に行った時に、身の程知らずに原書を買い求めて、辞書と首っ引きで挑戦しようと試みたことが・・・
  何故だろう、なぜこの本がいま、僕に呼びかけたのだろう。捨てると決めた雑本の中から、脇に飛び出して・・・

 昨年の暮れ、学生時代に僕と机を並べたことのある女性が亡くなっていて、つい先日、偲ぶ会があったのです。その席で、つい最近、彼女がある難解な英語原書を翻訳して出版したことが披瀝されたのです。現役の英文学科の教授が感服した見事な日本語訳書だという注釈つきでした。
  卒業後は、全くの専業主婦として五人の子供を育て上げ、生涯を終えたとばかり誰もが思っていた彼女が、実は、卒業後も営々と絶えることなく英語の勉強に勤しみ続けていたのです。そのことが、アウト・プットにばかり専念して、一向にイン・プットせずに今日を迎えてしまった僕に、ショックを与えて、あの日からずっと呼びかけられていたのだと、気がついたのです。
  「まだ、間に合うのよ、飯島さん・・・」
と・・・
 啓蟄を前にして、あなたのなかでも、きっと、何かが、蠢き始めているに違いありません。
  まだ、間に合うのです。たとえ、あなたが、何歳であっても。
  その何かを、歳にめげずに、僕は探し続けたいと思っているのです・・・

      To the cuckoo                       William Wordsworth

       O Blithe New-comer I have heard
       I hear thee and rejoice:
       O Cuckoo! shall I call thee Bird,
       Or but a wandering Voice?


ZAEMON時空の旅人 №8 [雑木林の四季]

第三章 ピルグリム三世つづき

                                       文筆家  千束北男

                              (三)
「時間というものが、前後だけに、つまり、縦列一本で進行しているという考えでは、いつまでたっても、タイムマシンや、惑星間宇宙船は完成しはしない。光の速度をはるかに超える高速、つまり、超速を必要とするからだ。光速や、最近ようやく存在が確実になったニュートリノなどは論外、というような超々スピードでなければ、時間を追い越すことは不可能なのだ。つまり、スピードで時間を超ええよう、と考える地球人の物理学では、どこまで行ってもこの理論はあきらかにできない・・現に光速は、せいぜい秒速299792,458キロメートル、つまり・・」
「約、30万キロでございます、艇長」
「に過ぎないのだから・・・つまり・・」
「どんな推力のロケットを作っても、遅すぎて使えないということです」
ZAEMONが言葉を繋ごうとした瞬間をねらって、ボクはすかさず、
「ワームホールは使えないの?」
と口に出してから、
「しまった!」
と思ったのですが、おそかったのです。
ZAEMONが、我が意を得たりとボクを指さしたのです。、
「でかしたぞ!ハヤト君!わかってるじゃないか!まさしくワームホールだ。 ワームホールは、アインシュタインの相対性理論などから考えられた、時間的に離れた二つの穴をつなぐトンネルと考えていい」
ここで、突然、ZAEMONが、両手を上げて空を振り仰いだのです。まるで、天上の誰かに呼びかけるように。
「もうちょっとのところだったのだよ、アインシュタイン!もうちょっとで、ワシも、ワシ自身の宇宙船も、完璧になるところだったのだよ!アインシュタイン!せめて君があと十年生きていれば、地球温暖化の重大犯二酸化炭素を発生しない核分裂エネルギーの研究を完ぺきなものにして地球を救えたかも知れぬのに・・きみは、核爆発という破壊の手助けをしたところで地球から飛び去ってしまったのだ・・ああ・・」
(とつぜん、ZAEMONの声が感情的に乱れたのは、あの、相当な費用を注ぎこんで廃墟になった鏡だらけの実験棟や、屋根の抜けたサイロ・・・失敗と挫折の日々を思い出したのにちがいない)
とボクは思ったのです。それにしても、あの偉大な科学者アインシュタインを、名探偵シャーロック・ホームズが、ワトソン君!とやるみたいに呼ぶZAEMONとは、一体どれほどの科学者だったのだろう・・それとも・・・
「エキゾチック物質がカギだったのだ!」
また、ボクの考察を遮って、ZAEMONの口から新しい単語が飛び出しました。
「ワームホールを開いたままの状態にしておく物質です」
と、すかさず徳治さんの解説が入ります。
「つまり、反重力の負のエネルギー、つまりマイナスエネルギーのことだ」
「これが失われると、ワームホールは消えてしまう。とだけ理解していただけば充分です」
まるで熟練した同時通訳のように、徳治さんの解説がZAEMONの難しい話を、解りやすくしてくれます。
「タイムマシンを間違った理論で作ると、完成すると同時に、真空のゆらぎのためにたちまち自爆してしまう危険性がある。つまり・・つまり・・」
「つまり、艇長のおっしゃりたいことは、バルタン星人の宇宙船の移動は、重力バランスの移動であって、速度の移動ではないのだということ・・でしょうか」
眉ひとつ動かさずにZAEMONの話しに聞き入っていた転校生夏樹香織さんが、低いトーンで、冷静に尋ねるのです。いったい夏樹香織とは何者なのか・・・ボクの興味は、その方向に向かいます。
「そう! そのとおり。ごくごく簡単にいえば、過去、現在、未来が同時に進行しているのだから、時間の旅は、わずかな時間軸移動だけでよろしい、というわけだ。同軸で回る隣の歯車に飛び移るときに生ずるかもしれないごく僅かなずれは、彼らの宇宙文明では、「揺れ」という言葉で処理される極微細なものなのだ」
「バルタン星人などの、先進文明を持つ生命体の棲息あるいは居住する惑星には、すでに惑星間高速移動網が出来あがっていて、中間点には、接続(ハブ)ステーションがたくさんあり、各惑星の生命体がネットワーク的に交流し始めている、と称える人もいます」
ちょ、ちょっと待ってください。
山本久美子先生! これほどの知識をそなえた小学六年生って、いままで受け持った中にいましたか? すくなくとも、ボクたちの周りには、皆無ですよね・・・
ひょっとすると、ZAEMONが夏樹香織さんをピルグリム三世号のゲストに迎えたのは、ひ孫のボクのあこがれの先輩だからなどという甘い親切なんかじゃなくて、なにか他にもっと重大な目的があってのことかもしれない。とすれば、その目的とは・・・
なんだか急に、ボクには、夏樹香織先輩までが謎めいて見えてきました。ただの天才少女ではない・・
「左様・・仰せのとおり、恥ずかしながら、もはや地球人の科学知識は、この宇宙で取り残されつつあるといっていいほど遅れているのだよ」
もうたくさん! これ以上詰め込まれたらボクの頭はパンクだ! 肝心なことは、これだ!
「ところで艇長、ピルグリム三世は、いつ出帆するんですか? ボクには、三日間しか時間がありませんが・・」
黙って聞いていると、際限なく続きそうな宇宙講話にピリオドを打ってもらおうと、質問してみたのです。
ボクはまだその時点では、たとえ、もしピルグリム三世と称するこの乗り物が本物だとしても、宇宙に向けての出航までは、ありえないと思っていたからです。ボクの許された休暇が、わずか三日間だということは、ZAEMONは百も承知のはずなのですから。
そのとき、ZAEMONの口から驚くべき答えが飛び出しました。
「ピルグリム三世号は、すでに出帆して航海中なのだ」
「ええっ!・・・・」
開いた口がふさがらない、とはこのことです。
しかし、
ZAEMONの顔を見ると、真顔ではありませんか。
「・・・・」
徳治さんは、見ると、これも、ボクを見返して深くうなずいてきます。
「・・・・」
夏樹香織先輩も、平然としているのです。
「じょ・・じょうだんじゃ・・」
思わずボクは、座席から立ち上がりそうになりましたが、シートベルトが作動して、ぐっと引きもどされてしまいました。
たしかに、艦橋の操舵室中央にある棒状のものの頂点が、点滅しています。
しかし、音も、揺れも、感じないのです。
「ZAEMON! これはいったい、どこまでが本当で、どこまでがジョーダンなのか・・・ボクは・・」
言いかけたボクの口が、開けられたままフリーズします。
信じられないものを見たからです。
たったいま、暖炉の上の木靴の上に坐っていたバルタン星人ピピンとパパンのフィギュアが、いつの間にかZAEMONの両肩の上にいるのです。そうです。いつの間にかそこに移動してきているのです。しかも、動いている! ということは、かれらは、フィギュアではない!ということです。すなわち、身長30センチに満たない小さな生きたバルタン星人!ということです。
あの、実験室の鏡の中に無数に映っていたバルタン星人のフィギュアは、いま、目の前に、ここにいる、ふたりのバルタン星人だったのです。
神出鬼没という言葉を思い出します。いつどこにでも現れるのです。
「コンニチワ、 ミズシマ・ハヤト君!」
こうして声を揃えて挨拶する、生きているバルタン星人ピピン、パパンだったのです。声をそろえて、挨拶する、と書きましたが、声は聞こえませんでした。でも、ボクの頭の中に、たしかに聞こえたのです。念送(ねんそう)念送とでも名付ければいいかもしれません。
「こんにちは、ピピン、パパン」
ボクより先に夏樹香織さんが挨拶を返したのは、かれらから、彼女の頭の中にも同時に、「コンニチワ」にあたる信号が送られたからに違いありません。
「こ、こんにちは、ピピン、パパン」
ボクは、あわてて声に出したあと、思わず、
「クリストファ・コロンバス!」
と、心の中で叫んだのです。パパが、驚いた時の表現として使う英語です。なにかの本に、
「おったまげた!」
とありました。いま、ボクがとりあえずそんな単語を思い出したのは、そのほかに、ほんもののバルタン星人に出会った驚きを表す言葉が見つからなかったからなのです。
ところが、おったまげることは続いて起こります。
ふたりのバルタン星人が、大笑いしたのです。あきらかに、僕の心を読みとったのです。読想(どくそう)読想とでも名付けたくなりました。この先、油断なりません・・・ 
         
                  第四章 バルタン星人登場!

まん丸な眼と、セミに似て二つに分かれたとんがり頭、ザリガニのはさみのような両腕。
でもテレビの中のバルタン星人はこんなに小さかったか?ボクのイメージでは、すくなくともボクよりも大きいはずでした。
「がらが小さいので、しばしば子供に間違えられるが、立派な大人の双生児で、ピピンが兄、パパンが妹、宇宙船の操縦に関しては、バルタン星でこの二人の右に出るものはない」
ZAEMONが紹介しているうちに、二人が操縦桿に取りついて、あれこれ操作しながら歌いだしたのですが、
これが、なんともふしぎなメロディーと歌詞でボクには、もちろん意味もわからないし、情感の持ちようが無いというか・・・
「バルタンの舟歌(ふなうた)舟歌です。馴れてきますと、これはこれで、なかなかいいもので・・・」
と、徳治さんが、曲にあわせてなにか口ずさみます。
何十分の何拍子なのか、地球人のボクたちにはなじみのないせわしなく不規則なリズムと、奇妙に変化するメロディーラインなのですが、ふしぎに、いらだたしく神経にさわるものではないのです。
小さな双子のバルタン星人ピピンとパパン! 彼らの操縦で宇宙への旅に出る。しかも、同乗するのが、夏樹香織先輩。
山本久美子先生! これは決してファンタジーではありません。現実にボクの身に起こった出来事の日記なのだ、ということを、あらためてもうしあげます。
これではもう、ピルグリム三世がほんものの宇宙船であろうとなかろうと、ボクの奇妙な曽祖父ZAEMONが巧んだ、なにか素晴らしいイベントに招かれたのだ、と信じて乗っているほかないじゃありませんか。
「な、なに、バルタン星人が操縦する宇宙船だって?!」
パパが聞いたら、興奮しすぎて卒倒するか、あるいはひょっとすると反対に、羨望のあまりつかみかかってくるかもしれません。
「あっ・・・」
そのときボクは、重大なことを思い出しました。
「ZAEMON! 三日間しかないんだよ!ぜったい三日間で帰るって、ママに誓ったジャン!」
「ははは、心配することはない。誓いなどというものは、破るためにある・・・」
「だめ、だめ、心配するよ、ボクは! そんなことになったら、家族旅行にいかれないジャン!」
夏樹香織さんの前で、ジャンことばで、だだっ子のように取り乱したくはありませんでしたが、水嶋家にとって夏休みの家族旅行は全てに優先する行事なのです。それがだめになることは、許されません!
まして、こんな、カボチャ風な乗り物に乗って空を飛ぶなんて、ママが、
「保険は掛かってるんでしょうね!」
から始まって、反対理由を30項目以上は並べるにきまっています。行き先が宇宙だなんて、とてもいえません。ママでなくても、誰が信じるでしょう。
「ぜったい、ダメ!」
我が家では、ママのこのひとことが出たら、すべてが終わりです。
「ZAEMON! これだけは断わっておくけど、怖がってるんじゃないんだよ、ボクはそんな臆病者じゃない、ぜったいに!」
なにしろ夏樹香織さんの前ですから、それだけは、ハッキリしておかねばなりません。
「だいじょうぶ! ミズシマ・ハヤト君。当然三日後の予定時刻に、さっき私たちのいた地球上の時点に戻ってくるように、プログラミングしてあると思う。そうですよね、艇長!」
「なんと、おどろいたことに・・」
というフレーズは、ボクたちの担任、山本久美子先生の十八番なんですが、まさに、なんと、おどろいたことに、夏樹香織さんが、操縦桿に取り付いているバルタン星人ピピンとパパンの肩に手をかけながら、涼しげな声でそう言い切ったのです。
でも正直のところ、そのあと、ボクの身体がぶるぶるっと震えたのは、武者震いだったのか臆病風だったのか、一応ここは、一瞬、戦慄がはしった、と書いておきます。
ピピン、パパンの歌にひきかえ、航海中のピルグリム三世はじつに静かです。エンジン音とか、噴射音らしきものが、まったく聞こえないばかりか、それふうの振動もないのです。

「そろそろ、われわれのミッションについて話さなければならないだろう・・な・」
ZAEMONが切り出しました。
「はい、わたくしも、その頃合いではなかろうかと・・」
ZAEMONが、まるで自分の影と問答しているような、徳治さんとのやりとりです。
「ハヤト。香織さん。よく聞きなさい。実は、君たちには、大変重大な任務(ミッション)任務が課せられているのだ」
ミッション! そらきた! と思いました。
やはりこれは、ZAEMONが巧んだすばらしいトリックのミステリー・ツアーとか、スパイものみたいなイベントだったのだ。いま、テレビや映画で人気のある刑事ドラマ「ご同輩!」のように、ボクと夏樹香織さんがコンビになって、犯人探しの旅に出る。いや、ミッションというから、ひょっとするとスパイ・アクション風のものか・・・そんな類の夏休みイベントが用意されているに違いないと思ったのです。楽しむだけ楽しんで、時間切れになったところで、途中下車すればいい・・
「重大ミッションを帯びたわれわれの旅で遭遇するすべての出来事は、ゲームでも、遊びごとでもない、その時そこの現在で起こっている現実(リアル)現実の出来事なのだ、ということをまず言っておきたい。時空の旅でそこをあやまると、取り返しのつかないことになる」
ZAEMONが、また、僕の心の中を読み取っています。
「さきほどの、バームクーヘンにたとえた時間の理論を思い出してください」
「過去、現在、未来が、同時に経過している、ですね?」
夏樹香織さんの頭の回転の速さは、あきれるばかりです・・
「ところで、諸君にあたえられる重大なミッションを明かす前に、まず、このピルグリム三世について、言っておかねばならないことがある」
なぜか、ここでZAEMONは、今までの威厳に満ちた態度と違った、なにか、膨らんだ風船が急にしぼんでゆくような深いため息をついてから、
「つまり、普通の人たちが宇宙船と呼ぶ、時空を旅するマシーンに関しては、残念ながらわれわれ地球人の研究は、先進文明を持つ異星人には遠く及んでいないという現実だ・・・」
そこでまたひとつ、さらに長いため息が入ります。
「じつは、この、ピルグリム三世にしてからが、本当のところ、私の作ったマシーンではなく・・つまり・・いうなれば、もらいものなのだ・・」
「もらいもの? なに? どういうこと? それ・・・誰からもらったんですか?」
「・・・・・」
「・・・・・コホ・・」
黙りこんだZAEMONの代わりに、徳治さんが小さく咳き込みますが、なぜかここでは、ZAEMONの代弁をしません。
「コホン・・・」
徳治さんのこんどの咳は、ZAEMONに何かを促すように聞こえました。
やがて、沈黙に耐え切れなくなったZAEMONは、消え入るようにちいさな声でつぶやきました。
「つまり・・いま、われわれが乗っている、このピルグリム三世は、私、水嶋次郎左衛門の創った宇宙船ではなく、バルタン星人の宇宙船なのだ・・・」
「え?」
ZAEMONが何を言い出したのかわかりませんでした。
「つまり、借り受けたと言うか、要するに彼らが創りあげた宇宙船だと言うことだ」
胸につかえていたものを吐き出すような、ZAEMONのくるしそうな言葉です。
「バルタン星人からの借り物だっていうの?」
ZAEMONの口から飛び出した意外な告白に、ボクはびっくりしたのですが、なぜか夏樹香織さんは、まるでそのことが想定内だったかのように、ぜんぜん動じません。
(なぜ、バルタン星人の宇宙船に・・・)
ピピンとパパンに視線を送っても、かれらは、操縦に専念している素振りです。
「私のピルグリム三世は、ストリクト星人の攻撃の前に、ひとたまりもなく大破してしまったのだ」
「ストリクト星人? 攻撃? 」
やがて、ZAEMON自身の口から、驚くべき体験と告白が、その場面場面の微妙な感想
とこまかい情景描写をまじえてながながと続いたのですが、ここであまりにも多く日記のページ数をふやすのは、せっかく時間を読んでくださる山本久美子先生に申し訳ないので、ZAEMONの心情をぬきにして簡潔にサマライズすると、以下のようになります・・・
                   つづく


ロワール紀行 №49 [雑木林の四季]

美しいシャンボールの城塞 2

                            スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎

 フランソワ一世は、なぜこのような湿気の多い防禦力のない原野の真中に、この壮麗なシャトオを営んだのであろうか。
 その動機について、色々の臆測がある。
 「恋と狩と戦と生を愛した」といわれる彼は、ことのほか狩猟に熱中した。
 彼の最も愛した狩場は、獲物の多い、このシャンボール一帯の深い森と広大な原野であった。しかし、居城のブロワからここに馬を駆るには、最短距離を走っても十二哩の道程であった。そのため、ここに簡単な狩小屋を設け、そこに寝泊りして終日、好きな狩猟に堪能した。
 とにかく、彼の狩にたいする愛着の程度は、ルゥイ十二世の王女、クロォド・ドゥ・フランスと、結婚したときの話でも想像できる。
 結婚式が終ると、彼は祝宴にも出ずに、直ちに着替えて、近くの森に狩猟にでかけた。それから数日間、ブレソワ地方の森を駈け廻り、ブロワの城に戻らなかった。花嫁クロォド王妃は、泣きながら、幾夜も待ったという。それほど狩猟狂の彼のことだから、好きな狩に便利なこの地を選んだのだろう。
 彼は、ここにブロワやアムボワーズの城を遥かに凌ぐ、己れの勢力と趣味を誇示するシャトオを作り、そこで楽しみたいと考えた、というのがその一つの説である。
 異説によれば、クロォド妃とブロワの放館に暮していた彼は、別居の愉しみを味いたくなった。
 この年若く不覊精惇な王は、王妃の眼から逃れて、多くの美女たちに囲まれ、愛する女性と恋を語らい、生を楽しむのに恰好な城館を作りたいと思った。というのがもう一つの見方である。
 しかし、クロォド王妃は早世しているから、この話は潤色しすぎている。尤も、王が王妃を余り好きではなかったことは、事実のようである。
 その何れにも、それぞれ考証の理由があろう。私はブロワのフランソワ一世翼部を見、シャンボールのシャトオを歩き、その美しい森を眺めながら考えた。恐らくイタリアの、あの明るく美しい風光を知った彼が、陰鬱なプロワを逃れ、ここに豪壮華麗なシャトオを建てたくなったのだろう。
 加うるに、広大な森には獲物が多い。
 それにもまして、何ものをも恐れぬ王の豪放潤達な気性に、人生とは自由に生きることにあり、というルネッサンスの火が燃え移つたのであろう。             
 とにかく、シャトオというより宮殿(バレ)というべき、規模と意匠の城館である。
 一六六八年以降、ルゥイ十四世によりヴェルサイユに営まれたような、華麗な官延生活の最初の試みが、それに先立つこと一世紀半も前に、ここに展開されたという事実は、大いに注目に値する。
 フランソワ一世の宮廷は、当時のフランスの、思想と芸術の源泉であった。
 まず優雅、洗錬された社交、豪著と快楽にたいする趣味が強調された。音楽、狩り、遊び、恋の戯れ、風俗も精神もすべて自由であった。ルネッサンス時代の人々は、キリストには帰依(きえ)するが、その教義に従った生活はしない。彼等は来世よりも現世に満足を求めた。生の激しい快楽を追求すること、二十世紀の人々と同じであった。
 フランソワ一世は、豪著を愛した。宮殿と庭園と女性の美を愛した。「貴女たちのいない宮廷は、バラのない春である」と王はいう。彼は夜毎、日毎、美女に覆われた男でもあった。彼の宮廷は、多くのイタリア芸術家を快よく招いた。レオナルド・ダ・ヴィンチは、ロワールのアムボワーズに近いクルーに、フランソワ一世から邸宅を貰い、移り住んだ。彼が死ぬまで、そこに暮したのも、この時代である。
 来るものは拒まず、の包容力でイタリア文化を吸収し、このロワール河畔のシャトオに、宮廷に、フランス・ルネッサンスの最初の花が咲き始めたのである。
 貴族の子弟は競ってイタリアに行き、フィレンツェ、パァドォヴア、フェララなどで学んだ。フランソワ一世の宮廷は完全にイタリア化し、通訳や翻訳も不要だったという。
 この滔々たるイタリア文化の摂取の渦中にも、その思想やシャトオの建築様式において、彼は決してフランス精神を忘れていなかった。イタリアン・ルネッサンスを模倣し消化し、序々にフランス的な独自なものを生みつつあった。
 それは王のみではなく、フランスの建築家や職人気質の中に、反撥しつつあった感情であり現象でもあった。その一つの現れとして、一五三九年八月十五日のヴィレル・コトレの勅令で、フランソワ一世は、フランス王国の公文書と裁判書類は、ラテン語を中止し、すべて「母国語フランス語にて」記すべきことを命じた。
 フランス独自の感覚で、後世、フランス・ルネッサンスと呼ばれる、一つの文化が生まれつつあった。ローマ帝国の五世紀に亘るガリア占領以来、フランスの公用語であり日常語でもあったラテン語は、ここに勢力を失うことになった。のちに、ヨォロッパ諸国の上に大きな影響力を与え、外交、舎公用語として、今日に至るまで話され書かれる、優雅なフランス語の絢爛たる発展が始まったのも彼のお蔭であった。

『ロワール紀行』 経済往来社


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