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気ままにギャラリートーク~平櫛田中 №5 [文芸美術の森]

《岡倉天心胸像》 

                         小平市平櫛田中彫刻美術館 
                                            主査・学芸員 藤井 明

岡倉天心胸像.jpg
 
 

 今年は生誕150年と没後100年にあたるため、最近何かと取り上げられることが多い岡倉天心です。若干26歳で東京美術学校(現在の東京藝術大学)の校長となり、またアメリカのボストン美術館でも東洋美術部長として勤務しました。
 そのアメリカ滞在中のことです。日本人の仲間と道を歩いていると、向こうから来たアメリカ人から「おまえたちは何ニーズ?チャイニーズ?ジャパニーズ?それともジャワニーズ?」とからかわれました。すると彼は即座に英語で「我々は日本の紳士だ。あんたこそ何キーか?ヤンキーか?ドンキーか?モンキーか?」とやりかえしたそうです。学生時代に外国人の通訳をつとめたほどの英語力はもちろんですが、この機知と胆力はたいしたものですね。天心という人物をよく示すエピソードだと思うのですが、いかがでしょうか。
 作品を見てみましょう。天心が着ている服装は、開校当時の東京美術学校の制服です。天心からの注文で黒川真頼(まより)という学者が奈良時代の役人が着ていた服装を参考にして考案したものです。しかし、教員と学生たちの評判は散々でした。制服を知り合いの家に預けておいて、登校前にこっそり着替える輩もいたようです。それでも天心の方は得意になってこの制服を着て、時々馬にまたがって登校することもありました。
 ブロンズで作られた全身は、仏像のように金箔が押されています。田中は若い頃、天心が結成に関わった彫刻団体に加わり、彼からたびたび作品の批評を受けています。それは短い期間でしたが、自分の芸術と人生を大きく変えてしまうほどでした。田中にとって天心は、神や仏に匹敵するような存在だったのです。だから作品の金箔は、天心に対する尊敬の気持ちのあらわれに違いありません。
 本作は腰から下を欠いた胸像ですが、東京藝術大学の構内に建てられた六角堂にはその全身像が鎮座しています。意外にも天心は女性のような華奢な手をしていたそうで、全身像を作る際、田中は次女の手をモデルにして制作しました。大学美術館に立ち寄った際は、ぜひその手の表現にも注目してみてください。

* * * * * * * * * * * *                                                                       平櫛田中について 

平櫛田中は、明治5年、現在の岡山県井原市に生まれ、青年期に大阪の人形師・中谷省古のもとで彫刻修業をしたのち、上京して高村光雲の門下生となる。その後、美術界の指導者・岡倉天心や臨済宗の高僧・西山禾山の影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品を制作した。
大正期には、モデルを使用した塑造の研究に励み、その成果を代表作《転生》《烏有先生》など。昭和初期以降は、彩色の使用を試み、「伝統」と「近代」の間に表現の可能性を求め、昭和33年には国立劇場の《鏡獅子》を20年の歳月をかけて完成した。昭和37年には、彫刻界でのこうした功績が認められ、文化勲章を受章する。
昭和45年、長年住み暮した東京都台東区から小平市に転居し、亡くなるまでの約10年間を過ごした。昭和54年、107歳で没。


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