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気ままにギャラリートーク~平櫛田中 №11 [文芸美術の森]

《森の行者》

                             小平市平櫛田中彫刻美術館 
                                     主査・学芸員 藤井 明

森の行者.jpg

 

一人の僧侶が蓮の蕾を前にして、瞑想にふけっています。平滑な台座の表面には蕾のほかに何も表されていないため、僧侶の周囲には空間が大きく広がって感じられます。
大正5年に田中が所属していた日本美術院の同僚画家である今村紫紅が亡くなり、同年美術院によって紫紅の遺作展が企画されました。この作品はその時出品されたものです。その頃の美術院では同人作家が亡くなると遺作展を催し、他の同人たちも小さな作品を数点出品して、売上金をそのまま遺族に渡すことが行われていました。当時は展覧会に無審査で出品できる同人になっても生活が安定しない作家が多かったので、遺族を救済する目的でそのようなことが行われていたのです。 
この作品の台座は、木の輪郭がそのまま形に活かされています。また、通常なら制作の都合で取り除かれる木心も、台座の内部に残されています。よく見ると樹皮もきれいに除去されていません。木という素材の特性が露わになっているのです。
明治中期までの木彫作品の多くは、物の形を正確に写し取ることが主要な課題とされていましたので、彫刻技術を誇るような表現になることはあっても、素材の特性はあまり強調されない傾向にありました。
 しかし、明治40年に岡倉天心を会頭として日本彫刻会が結成されると、高村光雲門下の米原雲海、平櫛田中らによって、低迷がつづく木彫界の革新を目指して、木彫特有の表現が探求されました。この《森の行者》は、そうした活動に連なる作品なのです。
そうした活動の背景には、ロダンをはじめとする西洋彫刻に対して芸術家たちの理解が進み、その反作用で自国の技法や表現に関心が強く向けられるようになったことがあったようです。日本画がそうであったように、伝統的な技法と表現を背景に持った木彫も、西洋彫刻との出会いと交錯の中で自らの存在理由を明確にしていく態度が一層求められていったのでした。この作品も、そうした視点を少し加えてご覧いただきたいと思います。

* * * * * * * * * * * *                                                                       平櫛田中について 

平櫛田中は、明治5年、現在の岡山県井原市に生まれ、青年期に大阪の人形師・中谷省古のもとで彫刻修業をしたのち、上京して高村光雲の門下生となる。その後、美術界の指導者・岡倉天心や臨済宗の高僧・西山禾山の影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品を制作した。
大正期には、モデルを使用した塑造の研究に励み、その成果を代表作《転生》《烏有先生》など。昭和初期以降は、彩色の使用を試み、「伝統」と「近代」の間に表現の可能性を求め、昭和33年には国立劇場の《鏡獅子》を20年の歳月をかけて完成した。昭和37年には、彫刻界でのこうした功績が認められ、文化勲章を受章する。
昭和45年、長年住み暮した東京都台東区から小平市に転居し、亡くなるまでの約10年間を過ごした。昭和54年、107歳で没。


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