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気ままにギャラリートーク~平櫛田中 №12 [文芸美術の森]

《尋牛》

                         小平市平櫛田中彫刻美術館 
                                     主査・学芸員 藤井 明

尋牛.jpg


 仏教説話である『十牛図』の中の「尋牛」を主題にしています。
 老人が行方の分からなくなった牛を探しに山に分け入り、長い旅の末にようやく牛を見つけ出し、その牛をふたたび飼いならして、背中に乗って帰ってくるというものです。仏教の悟りに至る過程をやさしく説いたものですが、前方を見つめ、しっかりした足取りで歩くこの老人には、彫刻の世界で生きていくことを決意した田中自身の姿が重ねられていると考えられています。
 亡くなる数ヶ月前の岡倉天心(思想家、美術評論家)がこの作品を見て、「フランスの若い彫刻家に見せたいものだ。きっと理解してもらえるだろう」と褒め、ブロンズ鋳造するため田中にその石膏原型を所望したというエピソードも伝えられています。
 ところで、この作品は「尋牛」という題名にもかかわらず、肝心の牛はあらわされていません。けれども、不思議なことに作品を見ているうちに、私たちの頭の中には老人の周囲の景色や牛の存在といった、様々な情景が浮かんできます。それらの情景は、この作品の簡潔な表現によって暗示され、生み出されているのです。
 実はこの暗示の手法こそ、天心が理想の表現として、田中をはじめとする当時の若い彫刻家に求めたものでした。全てを表現しないことで、見る人が想像力を働かせる余地を十分にのこし、それによって作品世界を完成させるねらいがあるのです。田中はこれより5年前、三平和尚が修行僧の胸にいきなり矢を突きつけて力量を試したという、中国の仏教書に《活人箭》 のコピー.jpgある話をもとに《活人箭》という作品を作り、その手に弓矢を握らせたことがありました(参考図)。すると天心はこれに不満を示し、「そんなものでは死んだ豚を射ることもできない」と辛辣な批評を下すのですが、これも手に弓矢を持たせるという説明的な表現が、作品のもつ生命感を減じてしまっていると考えたからでしょう。
 上記のような天心が求めた表現手法は、それ以後も作品にたびたび取り入れられ、精神や魂といった目に見えないものまで表現するという、田中芸術の重要な特質を形づくっていきます。その意味でこの《尋牛》は、《活人箭》とともに田中芸術の原点となった作品なのです。そして同時に、百歳を過ぎてもなお理想の表現を目指して歩み続けた、この類まれな芸術家を象徴する作品と言えるでしょう。

写真右:のちに天心の教えに従って改作された《活人箭》 井原私立田中美術館蔵

* * * * * * * * * * * *                                                                       平櫛田中について 

平櫛田中は、明治5年、現在の岡山県井原市に生まれ、青年期に大阪の人形師・中谷省古のもとで彫刻修業をしたのち、上京して高村光雲の門下生となる。その後、美術界の指導者・岡倉天心や臨済宗の高僧・西山禾山の影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品を制作した。
大正期には、モデルを使用した塑造の研究に励み、その成果を代表作《転生》《烏有先生》など。昭和初期以降は、彩色の使用を試み、「伝統」と「近代」の間に表現の可能性を求め、昭和33年には国立劇場の《鏡獅子》を20年の歳月をかけて完成した。昭和37年には、彫刻界でのこうした功績が認められ、文化勲章を受章する。
昭和45年、長年住み暮した東京都台東区から小平市に転居し、亡くなるまでの約10年間を過ごした。昭和54年、107歳で没。


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