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気ままにギャラリートーク~平櫛田中 №18 [文芸美術の森]

《夜半翁(やはんおう)》 

                           小平市平櫛田中彫刻美術館 
                                         学芸員 藤井 明

夜半翁.jpg
挿図.jpg

                               呉春≪与謝蕪村像≫

 作品のモデルは江戸時代の俳人で、文人画家としても知られる与謝蕪村です。摂津国(現・大阪府)に生まれ、享保年間(1716~1735)頃江戸に下り、江戸の俳人夜半亭宋阿(そうあ)の内弟子となりました。宋阿の死後、俗化した江戸俳壇をきらって放浪の旅に出ましたが、後に京都に移り、俳諧師として夜半亭二世を継承しました。
 この作品の共箱の蓋には「仿(ほう)月渓」とあり、月渓、つまり呉春が描いた画像に倣って作られたことが分かります。
 呉春が描いた蕪村の画像はいくつか知られていますが、とくに京都国立博物館によって所蔵されている作品(挿図参照)とは、ともに剃髪で坐像であることをはじめ、眉の形、手のしぐさ、身にまとう羽織、さらには左脇に冊子が置かれている点まで非常によく似ています。制作にあたり参照するというレベルをこえて、そのまま引き写しが行われているのです。
 これが研究を目的とした習作であれば分かりますが、田中はこれを当時の主要な美術団体である院展に作品として出品しました。田中が活動した近代は個性や創造が重視された時代でしたので、田中のこうした行為には腑に落ちない印象を受けます。一体どういうことなのでしょうか。
 そこで考えられるのは、田中が参照したにちがいない京都国立博物館の蕪村像の中に、蕪村の魂や精神が宿っているような強いリアリティを感じ取り、そのため彫刻にする際あえてその表現に自分の創造を加えるのではなく、そのまま引き写しを行ったのではないかということです。美術作家が肖像を制作する際、モデルをよく見て正確に写し取ろうとしますが、それと同じことをここでも行ったのではないでしょうか。その行為の中には、そうすることで蕪村の魂や精神まで写し取りたいという思いがあったと考えられます。
 もちろん、過去の作品を参照することで表現の幅を広げていこうという意図もあったでしょうし、平面である絵画から立体へ写し取ることによる思いがけない効果もねらっていたのかもしれませんが、田中の意識の中核には上記のような意志があったように思えます。こうした制作に対する姿勢は田中と同時代の作家の中にはあまり見当たりませんが、江戸時代以前には珍しいことではありませんでした。それだけにこの≪夜半翁≫は、伝統と近代の狭間で活動をつづけた田中らしさが感じ取れる作品であると言えるでしょう。

* * * * * * * * * * * *                                                                       平櫛田中について 

平櫛田中は、明治5年、現在の岡山県井原市に生まれ、青年期に大阪の人形師・中谷省古のもとで彫刻修業をしたのち、上京して高村光雲の門下生となる。その後、美術界の指導者・岡倉天心や臨済宗の高僧・西山禾山の影響を受け、仏教説話や中国の故事などを題材にした精神性の強い作品を制作した。
大正期には、モデルを使用した塑造の研究に励み、その成果を代表作《転生》《烏有先生》など。昭和初期以降は、彩色の使用を試み、「伝統」と「近代」の間に表現の可能性を求め、昭和33年には国立劇場の《鏡獅子》を20年の歳月をかけて完成した。昭和37年には、彫刻界でのこうした功績が認められ、文化勲章を受章する。
昭和45年、長年住み暮した東京都台東区から小平市に転居し、亡くなるまでの約10年間を過ごした。昭和54年、107歳で没。


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