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雑記帳2017-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2017-4-1
◆震災から6年。福島の頑張るかあちゃんたちを訪ねました。

立川市の農業委員を務めるようになって、7月で一期3年の任期が終了します。
これを機に、同期の女性農業委員2人でちょっと早目の卒業旅行をしようと計画したのが、福島の農家の女性を訪ねる旅です。
もう一人の女性農業委員、宮城道子さんの研究仲間である福島大学教授の岩崎由美子さんが案内してくれることになりました。
『女性の参画と農業・農村の活性化』の共著のある岩崎さんは、行政政策学を専門とする立場から、地元福島の復興の様子を発信しつづけています。

福島大学のキャンパスのある金谷川駅で待ち合わせ。
岩崎さんの車に拾ってもらって、「までい工房 美彩恋人」の渡邊とみ子さんに会うために、お昼を食べられる郊外のレストランへ向かいました。

とみ子さんと岩崎さん.jpg

              昼食をはさんで渡邊とみ子さん(左)と岩崎由美子さん 

実はとみ子さんは、復興の現状を伝える「ふくしまの語り部」として全国に講演に出向く活動をしており、2年前には、立川市にも来てもらったことがありました。
飯館村で農家の傍ら、加工施設「までい工房」を企業して、ジャガイモやカボチャの生産、加工、販売を手掛け、ようやく軌道に乗りかけた矢先の原発事故でした。
村を離れざるをえなかったとみ子さんでしたが、飯館村での生産はできなくなってもこれまでの思いと活動を簡単にあきらめたくはありませんでした。
村でつながりのあったかーちゃん達を一人一人訪ねて、避難先の福島市で「かーちゃんの力・プロジェクト」を開始したのです。

プロジェクトは、故郷で大切に育てていたかぼちゃ「雪っ娘(こ)」の種をまくところから始まり、健康弁当や漬物、お菓子、と、生産品目は次第に増えていきました。それらはすべて安心・安全の自主基準を定めた放射線検査を経ています。

あぶくま茶屋2.jpg
かて飯.jpg

           とみ子さんの「あぶくま茶屋」と看板商品の「かぼちゃのかて飯」 

活動はいま、あぶくまの食文化の伝承・普及へとひろがっています。
そして、凍み餅や凍みダイコンを通した秩父や長野県佐久などとの交流だけでなく、とみ子さんは「雪っ娘」の種をヴェラルーシにおくったそうです。
飯館村のかぼちゃが、同じ原発事故を潜り抜けた遠くの地で芽を吹く、とみ子さんの思いは国境をこえてつながります。

飯館村はこの3月31日、避難解除になりました。
村へ帰る人、帰らない人、帰村は半分くらいと聞きました。
とみ子さんは飯館へは戻らず、「かーちゃんの力プロジェクト」を卒業して福島の土地で「までい工房」を復活させるということでした。

農林水産省は、1992年「農山漁村の女性に関する中長期ビジョン」の公表を契機に、農家の女性の起業を積極的に支援しました。とみ子さんのような起業家は福島県にたくさん生まれました。
そのフロントランナーが、葛尾村の松本久子さんがつくった「おふくろフーズ」です。
凍みもちを筆頭に、地場産の材料で、きな粉や豆菓子などを加工していました。

葛尾村は一足早く、昨年6月に帰村宣言をしました。
今年80才になる久子さんは、避難のとき、「絶対に戻る」と誓ったそうです。もどってここを守らなければ…
帰村宣言がでたとき、孫たちが、みんな一緒に帰ろうと言ってくれたことが一番うれしかった、これでやっとあとの世代につなげられると思ったと言います。
そして、補償が打ち切られても「おふくろフーズ」の再開を望んだのです。

ヨモギ、ごんぼっぱ(オヤマボク)、会津の米、すべてが地場産でできた凍み餅は葛尾村の象徴でした。800連から始めた凍み餅は震災前には8800連、保存が効くので需要が高く、全国へ発送していました。
被災で、その地場の原料が手に入らなくなり、他所から調達するため、今は震災前の半分の規模ながら、徐々に増やしていきたいそうです。10,000連も夢ではない?
新築なった加工場では、久子さんの娘さん2人と二男のお嫁さんが働いていますが、4月からは三春から若いおかあさんが通ってくるということでした。

おふくろフーズ久子さん と.jpg
おふくろフーズ凍み餅.jpg
「おふくろフーズ」の久子さんたちと凍み餅(手前)

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同行の宮城先生の言葉を借りれば、農家の女性は起業に向いている。
農繁期の住民総出の助け合いには、大勢の食事の世話が欠かせません。そのために、農家の嫁は調理の技術、食材の調達や管理のノウハウを日常的に身につけているからです。
その彼女たちの起業を支えるのは理解あるご主人の存在です。とみ子さんも久子さんも、見守ってくれるご主人に恵まれたことを感謝していました。

旅の二日目は、役場の職員の案内で、帰還困難区域を抱えた大熊町を走り、除染の進んだ居住制限区域の復興整備の様子を見てまわりました。
除染がすすんだ一部の田では、実証田として、田植えがおこなわれましたが、すこしでも放射線量をへらしたいと、放射能を吸着すると言われるハダイコンを撒いたそうです。

東電と町はここにメガソーラー施設を作る計画です。
除染のあとの田に、大きな面積をしめているのは太陽光パネルです。20年の契約だそうです。(それでもとりあえず農地は守れるということで。)
あちこちに除染土がつまれているフレコン置き場は、みな、かっては優良農地だったところです。

除染.jpg
除染作業は進む 
大熊フレコン置き場.jpg
フレコン(除染土)置き場
太陽光パネル.jpg

            太陽光パネル設置は現在の居住制限区域の1/4にも及ぶ

新しい給食センターができるなど、帰ってくる町民のための準備はすすんでいます。
でも、今、生きて活動している人の気配は東電関係者と除染や建設関係の作業員だけです。                         道路ひとつ隔てた帰還困難区域はバリケードが張られて立ち入ることはできません。
背たかく枯れた芒の原に柳の木が生い茂り、(それは除染されて整備された土地とは対照的です)荒涼とした風景は「沈黙の春」そのままでした。

人間のいなくなった土地でイノシシはわがもの顔、いたるところにイノシシの掘ったあとが見られました。
放射能の吸着を狙って撒いたひまわりの種は一つ残らずイノシシに食べられてしまったとか。
一方、春の光にれんげの方は芽を出していました。これが育ってほしいと、祈るような根本さんの声でした。

イノシシ.jpg
写真では分かりにくいがイノシシの痕 
大熊れんげ.jpg

                      春の光にレンゲは芽を吹いた 

根本友子さんは大熊町の農業委員で、全国でも数少ない女性の会長さんです。
彼女も今、大熊町の現状をしらせ、農地をよみがえらせる活動をつづけながら、あちこちに散らばった町民を繋ぐために八面六臂の活躍をしています。

とみ子さんに会った姜尚中さんは、彼女のことを「猛女」と呼んだそうです。                                   九州地方では猛烈に自分の道を開拓してきた女性のことを「猛女」と呼ぶのだそうです。
福島にも「猛女」がいっぱいいました。
そして、その誰もが、ひとりではできなかった、みんなに助けられたと言い、帰ってこれない住民をつなぎたいと言います。

避難解除がでたことで、復興は一段落したかのように思ってはならない。
解除されても、村に帰ると決断した人は高齢者が大半で、住民の半分は帰らないといいます。                        6年は子供の成長には十分長い。小学生なら1年生は卒業です。子供の成長に合わせて帰らない選択をした家族も多いのです。
それでもなお、飯館村が最初にとりくんだのは、子供たちのために一番安全だとされた土地に学校を建てることでした。
復興の新しいステージにたって、それぞれの新たなまちづくりは始まったばかりです。

福島から遠く離れて、原発の恩恵を享受していた、都市に住む私たちはなにができるのか。
せめて、福島を忘れないことだと思います。
原発事故の後遺症は今もつづいているのに、事故がまるでなかったかのように忘れられていくことはあってはならないと思うのです。

◆帰りの電車に乗る前に、いわき駅ビルで福島最後のお昼を食べました。
煮魚定食は立派な鯛の兜煮でした。(1050円)

いわき煮魚定食.jpg

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