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医史跡を巡る旅 №39 [雑木林の四季]

「紀行シリーズ」~西洋医学事始め・福岡篇

              保健衛生監視員  小川 優

九州は日本の近代医学黎明期において、重要な役割を果たした地です。本稿の「西洋医学事始め」でも、大分、鹿児島、中津、熊本そして天草と取り上げてきましたが、今回は福岡篇です。

福岡を幕末に治めていたのは筑前黒田家の福岡藩。福岡藩は幕府から、当時日本で唯一海外に開かれていた長崎を警備する役割を命ぜられており、通商相手のオランダを通じて最新の海外の事情に触れる機会がありました。こうした中で、西洋の事情に通じ、開国論者であった福岡藩第11代藩主である黒田長薄は、慶応3年(1867年)に賛生館という医学校を設立します。大坂の適塾で緒方洪庵のもとで学んだ武谷祐之が頭取となり、附属の診療所では漢方、西洋医学の両方を用いて治療が行われます。廃藩により医学校、診療所ともに廃止の危機に瀕しますが、賛生館に所属していた有志の医師らにより明治6年(1873年)、修猷館医学所兼併置診療所が開かれ、これがやがて県立福岡医学校と、学校病院に移行します。後に京都帝国大学第二医科大学となり、九州大学医学部へとつながります。
そして賛生館開設に係わった医師の一人で、福岡の医学教育の黎明に貢献したのが百武萬里です。

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「百武萬里墓」 ~福岡県福岡市博多区御供所町 順心寺

寛政6年(1794年)、福間浦で医者の家柄に生まれる。京都で医学を学んだあと、文政8年(1825年)長崎のシーボルトの門下生となる。その後博多市小路町に蘭方医として開業。安政元年(1854年)没。

医学教育と並んでのもうひとつの彼の偉業が、武谷祐之の父、武谷元立とともに天保12年(1841年)、博多大浜で刑死人の解剖を行ったことです。この解剖では、百武自ら執刀しています。ところが当時の宗教観からすると、人体を解剖することは民衆の非難を浴びかねない行為で、それから逃れるために百武も一時郊外の箱崎に逃れざるを得ませんでした。
百武萬里のお墓は、市営地下鉄祇園駅からほど近い寺町の順心寺にあります。そして百武のお墓の隣にあるのが、伊勢田道益のお墓。

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「伊勢田道益墓」 ~福岡県福岡市博多区御供所町 順心寺

彼については詳しい経歴が伝わっていませんが黒田藩の侍医であり、墓前にある顕彰碑によると寛政9年(1797年)頃、刑人の解脈(解剖)を行ったとあります。

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「伊勢田道益顕彰碑」 ~福岡県福岡市博多区御供所町 順心寺

これが事実とすれば、百武萬里に遡ること半世紀前、京都の山脇東洋による腑分けが宝暦4年(1754年)、杉田玄白・前野良沢らの小塚原の刑場における腑分け(解剖)見学が明和8年(1771年)、中津の村上玄水による解剖が文政2年(1819年)ですから、かなり早い時期に行われたことになります。伊勢田道益はこの解剖の成果を「解体図絵」にまとめたといわれますが、これは現存しません。

さて、賛生館が後の九大医学部につながることをお話ししましたが、この九大で活躍したのが中津篇でも登場した病理学者の田原淳です。

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「田原淳先生住居之跡」 ~福岡県福岡市中央区天神

ドイツ留学から帰国後、京都帝国大学福岡医科大学の助教授となり、翌年には35歳という若さで教授に就任します。

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「田原淳先生住居之跡説明プレート」 ~福岡県福岡市中央区天神

彼の住居跡には、現在記念碑が建てられています。天神という福岡の繁華街の中心部、警固公園の向いになります。人通りは多いのですが、石碑に目を止める人はまずいません。

一方、九大医学部キャンパスには田原淳の名を冠した「田原通り」があります。
伏線をしっかり張ったところで、次回は九大医学部キャンパス巡りを御送りします。


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