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バルタンの呟き №34 [雑木林の四季]

「喜びも悲しみも幾歳月」 

               映画監督 飯島敏宏

 日本の映画とテレビドラマ音楽の世界で、最も長く輝き続けた星、とでも申し上げるべき作曲家、木下忠司さんが、4月の30日に老衰で亡くなられていたという訃報が、数日後の新聞に、決して麗々しくない活字で載せられていました。と同日に、奥様の名で、葬儀などは親族だけでお済ませになった、というお手紙が届きました。訃報にも、お手紙にも、文面には、老衰にて死去、とありました。恐らくは忠司さんの遺言通りに、葬儀は故郷の浜松で、限られた親族だけで行われたようです。文字通り、102歳の天寿を全うしたと申し上げて差し支えない生涯だと思います。
 僕の見た新聞の訃報欄には、「水戸黄門」の主題歌その他の作曲家、とありました。確かに「水戸黄門」の主題歌は、映画、テレビに長年の間流れて、もっとも人口に膾炙した主題歌でしたから、そう記されても、仕方がないかもしれませんが、主として実兄の木下惠介監督の映画の殆ど全ての音楽を作曲されただけでなく、その他の劇場映画監督作品の劇伴音楽を担当された総本数は、実に、350本以上に上る筈です。「水戸黄門」が、テレビに登場する以前に、劇場映画で、恐らく現在75歳以上の方々の殆どがご存知の、灯台守夫婦の日本全国各地の灯台を巡る年月を描いた木下惠介監督作品「喜びも悲しみも幾歳月」の主題歌、若山彰が、高らか謳い上げる「〓おいら岬のォ 灯台守はァ~ 妻と二人ィで~」で始まる大ヒット主題歌があります。テレビドラマでも、「〓空が泣いたら 雨が降る 山が泣くときゃ 水が出る 俺が泣いても ナンにも出ない」切なく泣かせる渥美清の「泣いてたまるか」シリーズの主題歌、寅さんでおなじみ山田洋次監督「男はつらい」シリーズの主題歌と、泣き笑いを巧みに盛り上げる伴奏音楽など、など、など。

 直接僕が担当させて頂いたTBSのテレビ番組だけでさえ、7年間、毎週続いた「木下惠介劇場人間の歌シリーズ」「木下惠介アワー」などだけでも計700作以上なのですから、他局を含めた総数は、驚異的な数になる筈です。
 木下忠司さんが活躍された当時は、現在のように、シリーズ全作の音楽を事前に作曲録音しておいて使い回したり、既製の劇伴用音楽を切貼りしたりするのではなく、一話一話、その度に打ち合わせを行い、作曲し、スタジオにオーケストラを集めて、撮影、録画した内容に合わせて生演奏して録音する訳ですから、僕がTBSに在籍して国際放映(旧新東宝)や松竹、その後木下惠介プロダクションで仕事をしていた25年以上の間は、毎週のようにスタジオでお会いしていたことになります。

「惠介兄貴は怒ってばかりいたけれど、僕は、いままで、一度も、辛いとか、苦しいとか思ったことがないんだ。苦労したってことがないんだよ」
 101歳になられた一昨年の秋、車で近くを通りかかったので、ふと掛けたご機嫌伺いの電話に、身の回りを勤めていたお手伝いさんに代わって、直に出られて、いきなり「あそびにおいでよ!」ということになりで、毎年春先から晩秋までお住まいの八ヶ岳山麓の森の中にある別荘をお訪ねした時の事でした。前年、フィルムセンターで行われた生誕100年の記念パーティーの話から、ひとしきり、よもやまの思い出話になった中で、ふと、そう、呟かれたのです。
「軍隊に行った時もそう。皆、重い荷物しょって徹夜で行軍して、疲れて倒れそうなのだけれど、僕は、馬に乗っていたでしょう、だから・・・」
 ちっとも辛くなかった、とおっしゃるのです。お兄さんの木下惠介監督からは、しばしば、中支戦線を輜(し)輜徴(ちょう)徴(武器弾薬糧秣などの運送)兵として行軍、その際に脚を傷めた経験を伺ったことがあるので、当然僕も聞かされているとお思いだったのでしょう。
 ちなみに、木下惠介監督には、恐らくその際の経験から生まれた「戦場の固き約束」「戦場の女たち」など、終生映画化を望まれて果たせなかった日支(日中)戦争下の苦衷な経験を題材にしたシナリオがあります。当時の軍隊は、召集された際の位階に学歴が関連しましたから、馬に乗っていた、とおっしゃる忠司さんは音楽学校出の扱いで将校だったのでしょうか。しかし、いくら馬上の身であろうと、食料も乏しい苛酷な戦線の延々と続いた強行軍で、辛くも苦しくもなかった筈はありません。

「戦後もね、さてこれからどうしようかなと思っていたら、兄貴から、忠司、やってごらんと言われて・・・」
 戦後間もない1949年、木下惠介監督が、時代劇の大スターだった「バンツマ」こと阪東妻三郎を、大方の意表を衝いて、現代劇の、しかもホームドラマの雷オヤジに起用した松竹映画「破れ太鼓」に、監督からそう誘われて、楽天的な音楽好きの息子役で俳優として出演すると同時に、劇伴音楽を手掛け、劇中で役の上で自らピアノを弾いて歌った主題歌「破れ太鼓」の大ヒットから、映画音楽の世界に入り、その後の、「喜びも悲しみも幾歳月」「二十四の瞳」と続く木下惠介監督作品の劇伴音楽を担当することになり、遂には、日本映画、テレビの劇伴音楽家の泰斗と言われる存在になったのです。

「だから、今日まで、僕は、苦しいとか、辛いとか、苦労したことがないんだ・・・」
と、仰りながら、
「お勝手さん!あれをお出しして、僕にもお酒・・・」
と、お勝手(炊事場)で働いていた派遣らしいお手伝いさんに声を懸けて、
「人が、年中変わるので、名前、憶えていられないんだ。だから、お勝手さんと呼んでるんだよ、ははは・・」
「いいんですよ、先生、それで、ふふふ」
 通ってきているお勝手さんとも、和やかなやり取りです。
「こんな山の中で、寿司なんて気味が悪いだろうけど、なかなかなんだ」
 電話で僕を誘ってから、予め頼んでくれておいたらしい寿司の出前を出すように促して、車椅子を自ら脚で操って、卓に進み、お勝手さんが置いたぐい飲みのお酒を、喉を鳴らすように美味しそうに煽りながら、
「奥さん、お酒は?」
 同行して、傍らに恐縮気味に控えていたわがカミさんにも、薦めて下さるのでした。
「ほんとうに、僕は、一つも、苦労したことがないんだよ、飯島さん・・・」
と、何かまたひとつ想い出を探るように、述懐されていたのが、お目にかかった最後になりました。101年という自らの一生を振り返って、そう言い切れる忠司さんが、素晴らしい、とも思ったり、羨ましいとも思えたり、なんですか、僕自身もふと、自身のこれまでの一生を振り返った時に、そう言い切れるものかどうか、考えてしまうのでした。
 親しく差し向かいでお酒をご馳走になっていながら、常に何か厳しさを感じていた木下惠介監督とはまったく逆で、忠司さんとのお酒は、慈父か、親密な伯父の前にいる、という感じなのです。
「ふふふ、飯島さん、ほんとうに兄貴は、いつも怒ってばかりいたね、ふふふ」
 木下惠介監督が、僕を前に据えてお酒を召し上がる時に、忠司さんが同席されたことは一度もないのですが、恐らく、愛玩してやまない弟の忠司さんとやりながら兄としてぶつける憤りと、僕の場合と、惠介監督の憤りの対象が合致していると承知しておられたのでしょう。僕も、忠司さんがそうおっしゃるのを伺いながら、あれこれと、木下監督が憤慨されていた事を、思い出していました。浮かんでくる情景には、政治に関する憤りもあり、日本一と決めていた弁当やに裏切られた憤りもありました。
「ふふふ、ふふふ」
 時折、思い出し笑いをされながら、お勝手さんに、お酒を満たしてもらいながら、
「この周り、バブル時代に、みんな建てて、今じゃ、誰も来ない・・・でも、静かでね、此処は・・・」
 実に静かに、時間が流れていました。

「老衰にて死去しました・・・」
とある、奥様の名の記されたお知らせの手紙を見ながら、僕はあの日の八ヶ岳山荘での、ゆっくりと忠司さんの周りに流れていた時間を思い出しています。
「飯島さん、僕は、辛いとか、苦しいとか思ったことがないんだよ・・・」
 息子ほど若輩の僕をさんづけで呼んで、派遣のお手伝いさんも、お勝手さん、と呼んで接した木下忠司さんは、きっと、静かに、静かに、あの世界に歩いて行ったに違いない。と、僕は勝手に決めています。
 そういえば、僕も、いえ、木下惠介監督の助監督時代からのお付き合いである山田太一さんや、同じ助監督だった横堀浩司さんも、ただの一度も、忠司先生と呼んだことがない気がします。

 あれだけ長いお付き合いの間に、忠司さんがお怒りになったことは、たったの一度きりでした。僕が、木下惠介プロダクションにいた時のプロデュース番組の、ある(当時)若いディレクターが、予め打ち合わせで決めて録音された曲を、その後の作業で、忠司さんに断りなく、入れ替えたりカットしたりした時だけです。惠介監督にも寵愛されて、忠司さんにも可愛がられていた彼が、どんな注文も、大抵は「ああ、そうね、いいよ」と聞き届けてくださるのに慣れて、軽く考えてしまったのでしょう。
 でも、その時は、ディレクター本人を叱ることはなさらずに、それを許した僕を軽く叱り、その代り、以後、そのディレクターの担当する話の音楽打ち合わせ、録音には、一切お出でにならず、お弟子さんが、譜面を持って指揮棒を振りに来たのです。
「僕のいないところで、自由におやり・・・」

ということだったのでしょう。絶対の自信がなければ、でき難い寛容です。木下忠司さんのこの優しさが、僕にとってはつらい事でしたが・・・合掌


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