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ロワール紀行 №77 [雑木林の四季]

アムボワーズの城 2

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 アムボワーズの城はシャルル八世により、美しく改造され、イタリア風の装飾で飾られた。
 その時代の著名な建築家アンドルール・デ‥セルソォの言ったごとく、こシャトオは今日もロワール左岸の丘の上に、「誇らしげに、岩石の上で四方を牌睨」している。
 シャトオは最初、東、北、南に張った翼面をもつ、三つの館からできていた。現在はロワールに画した北翼のロォジィ・デュ・ロワとユルトー、ミニムの二つの塔だけが残っている。
 この王の館(ロオジィ・デ・ロワ)は十九世紀になって、アルジェリアの愛国者、マスカラのアミール族長アブドゥル・カァディルが、幽閉されていたところとして有名である。
 今日、アルジェリア独立問題でフランスは頭を悩ましているが、この問題は、時に消長はあったが、一八三〇年頃からの長い歴史的事件である。
 彼は、アルジェリアを植民地化しようとしたフランスにたいし、モロッコのサルタン、アブドゥル・ラハマーンと共に、諸部族を糾合して抗戦した。
 しかし武運拙なく、共に捕えられ、アブドゥル・カァディルはツウロン要塞、ポォの城塞などに転々と幽閉の生活をつづけ、最後にこのアムボワーズの城で、一八五三年ナポレオン三世により釈放されるまでの約十年間、流鏑の日を送った
 かつての南翼の入口だったユルトーの塔を見ても、その装飾の華麗さは眼をみはらせるものがある。
 アムボワーズの圧巻は、サン・テユベール教会堂であろう。その内部の彫刻、浮彫装飾の素暗しさ。シャルル八世の残した建物のなかで、最も華麗精緻を極めている。
 しかし、彼の不慮の死のため、改装工事は中途で取止めとなった。一四九八年四月七日、イースタァの日のことであった。
 王は城の中庭で、テニスの試合に興じていた。ゲームは好調だった。王は、その優勢ぶりを見せようと思い、自ら王妃アンヌ・ドゥ・ブゥルタァニュを呼びにいった。
二人で睦まじく語らいながら、戻ってきた王は、誤って館の出口の楯石(まぐさいし)で頭を強く打った。
 その瞬間は痛いと思っただけで、大したこともなかった。
 王は再びテニスを始めた。しばらくすると、彼はコォトに倒れ、人事不省に陥入った。
 そのまま、意識を回復することなく、そのイースタァの夜の十一時に死んだ。おそらく、頭部の内出血のためだろう。
 ガイドの話によれば、今日でもこのアムボワーズの城に、不慮の死をとげたシャルル八世の亡霊が、昼夜を分たず出没するという。
 だから……と、ガイドは真面目くきって続ける。
 もし、貴方がたが、背が低くて太っちょで、十五世紀凧の黒ヴェルヴェットと金色の衣裳を着た一見、崎形のように無恰好な男が、不愉快な表情で歩いているのに出合ったら、どうか、彼にお辞儀して下さい。
 ―何故ですって?
 彼は王ですから、フランスを作った王の一人ですから。

 次の王ルゥイ十二世は、王位に即くとまもなくアムポワーズを捨て、プロワ城の中に、今日、ルゥイ十二世翼部として有名な館を新築し、移り住んだ。
 フラソソワ一世のあと王位を継いだアンリ二世は、好きな野試合で騎士モンゴメリィの槍を誤って眼に受け、死んだ。
 彼亡きあと、新・旧両教徒の抗争は、宗教戦争の内乱にまで発展した。ギュイーズ公を首領とする、狂信的なカトリック教徒の専横は、目に余るものがあった。
 王后カトリィヌ・ドゥ・メディシスは、「神は私を三人の幼児と分裂した三国と共に残した」と嘆いた。
 新教徒(ユグノー)はギュイーズ打倒の計画を樹てた。
 その首謀者ラ・ルノーディは一五六〇年三月六日を期し、王とその二米の滞在するプロワを襲撃する陰謀を企てた。ユグノーは武装し、密かにプロワとアムボワーズに集合する計画だった。
 しかし、この密謀は裏切者により、ギュイーズ側に洩れた。
 ギュイーズは王后、幼王等を、防禦力なきプロワから要害アムボワーズに、ひそかに移した。(つづく)

『ロワール紀行』 経済往来社


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