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渾斎随筆 №9 [文芸美術の森]

 衣掛柳

                   歌人  会津八一

 わぎもこ が きぬかけやなぎ みまく ほり いけ を めぐり ぬ
 かさ さし ながら               

 奈良猿澤の池の岸に、采女社(うねめやしろ)といふ小さい祠があり、そのわきに、衣掛柳(きぬかけやなぎ)があって、それについて、いにしへの奈良の都の、一人の宮人の悲しい物語がある。私が初めて奈良へ行ったのは、明治四十一年の夏で、この歌は、その時のものの一つである。私はまだ二十八歳の青年で、宿は東大寺の轉害門(てがいもん)に近い對山楼といふのであった。その頃の私は、歴史も美術も、奈良のことはまるで無知であったから、宿へ着くとすぐ、二階の廊下で店を出してゐた名物屋の女から、一冊十銭かそこらの、通俗な名勝案内を買って、それをたよりに、見物を始めたのであった。そして雨の降る中を、宿の浴衣に、傘も宿の番傘で、何はあれ、先づ猿澤の池へ行って、第一にたづねたものは、此の柳であつた。
 其頃の私は、郷里の或る中等學校の教師であった。奈良から国へ帰って、よく調べて見ると、『大和物語』には、こんな風に書いてあった。 

 むかしならの御門につかうまつる采女ありけり。貌(かほ)かたち甚(いみ)じうきよらにて、人々よばひ、殿上人なども、よばひけれど、あはざりけり。そのあはぬこころは、みかどを、かぎりなくめでたき者になん、おもひ奉りける。みかどめしてけり。さてのち、又もめきぎりければ、限なく心憂しと思ひけり。夜晝心にかかりて覚え給ひつつ、恋しく侘しく、覚へ給ひけり。帝召ししかど、事とも思さず、さすがに常には見えつつも、猶ほ世に経まじき心地しければ、よるひそかにいでて、猿澤の池に身をなげてけり。かくなげつとも、御門はえしろしめきざりけるを、ことのついでありて、人のそうしければ、聞こしめしてけり。いとうあはれがり給ひて、池のほとりにおほんみゆきし給ひて、人々にうたよませ給ふ。柿木の人暦
 わぎもこ が ねくたれがみ を さるさは の 池の 玉藻 と
 見る ぞ かなしき
とよめるときに、みかど
 猿澤 の 池 も つれなし わざもこ が 玉藻 かづかば 水ぞ
 ひなまし
とよみ給うける。さて比の池に墓せさせ給うてなん、かへらしおはしましけるとなむ。

 まことにあはれにも、やさしい話である。しかし気がついてみると都が奈良へ移ったのは元明天皇の御代であり、つづいて元正天皇とともに、この二代は女帝であらせられたから、その次の聖武天皇こそ、この「奈良の御門」かと思はれるのに、御唱和の御あひてをしたといふ柿本人麻呂は、和銅一二年には、すでに亡き人であった。しかし池が猿澤であってみれば、まだ藤原の京に都されてゐた文武天皇の後宮の事とも考へられない。それからまた、この『大和物語』の中には、まだ柳のことが無いところを見ると、柳はあとから附け加へたものかと思はれる。それにしても、身投げをするほどのものが、着物を脱いで、岸の柳に掛けてからにするといふことも、あまり至り過ぎてゐる。つまり此の話には、あからさまに、いくつかの無理があって、あとあとから、だんだんと出来上って行ったものとおもはれる。そして、あの祠も柳も、今在るものは、あまり思はせぶりな姿では無い。それにも係らず、私は今でも、あの池の近くを通る時、いつも新しい興味で此の話を思ひ出す。人物や時代の上に、如何ほどの無理があっても、代々の人の心に宿り、口に傳へられて来たものだけに、その奥底には、深く人間の本性に本づくものがあって、そこに感觸するのであらう。今では、考證めいたことが好きになって居る私が、この話に含まれるこれほど明かな難点に、気がつかぬわけも無いし、それだけにまた、此の年になって、まだこんな話に感じを持つ私を、怪しむ人もあるであらうが、詩歌は決して證明された知識ばかりを詠まねはならぬものでもないから、私はやはり、此の歌の作者を恥としない。太陽が決して動くのでなく動くのは地球だと、いくら教へられてゐても、いざ夕碁の實景に臨めば、人はやはり日が西山に沈むといふ。そして誰もそれを咎めない。皆が人間であるからであらう。
 だから、私の詠んで来た歌には、歴史上のことでありながら、歴史學の目から許しかねるやうな、いはゞはした無い傳説を主材にしたものが少くない。其の中の尤なるものは、法華寺の十一面観音の
  ふぢはら の おはききさき を うつしみ に あひみる ごとく
  あかき くちびる
や、同じく「法華寺温室懐古」と題した
  からふろ の ゆげ たちまよふ ゆか の うへ に うみ に
  あきたる あかき くちびる
  からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を ひと に
  すはせし ほとけ あやし も
などであらう。
 そもそも聖武天皇の皇后は、藤原氏の御出身で、御名は、正しくは天平仁正皇后と申すべきのを、その絶世の才貌のために、世は光明皇后と稱へ、名辞は海外にまでも聞えた。たまたま北印度乾駄羅国王は、希くは肉身の観世音を見奉るを得んと発願して、朝夕に祈念してゐると、ある夜の夢に、菩薩大悲の眞容に接せんと思はば、まさに東海日本国の皇后光明子をこそ拝すぺけれといふ感應があった。国王は思慕のあまり問答師といへる一人の彫工を此の国に遣はした。問答師は久しく法華寺の池畔に潜んで、一日ひそかに行啓を窺ひ、蓮の華葉とともに水底に映じた皇后の玉姿を寫生して、霊像三體を作り、一體はその木組に持ち去り、二體をこの国に留め、今のこの寺の十一面観音は、その一體だといふ。私は少年の頃、この物語を聞いてから、今にいたるまで、絵のやうに鮮かに、その光景を心に刻みつけてゐる。しかし、この話なども、考へてみれば、第一に、ずっと古い所に記録がないし、天平の頃には、もはや北印度には、乾駄羅といふ国が、まだあったにしても、もう美術はあまり盛であったとは思はれないし、その国の人の名を問答師といふのも受取れない。のみならず、此の像の作風から、近頃の手堅い研究家たちは、やはり日本のものとしても、一時代引き下げて、平安初期の密教彫刻の中に、其の位置を定めようとしてゐる。それであるのに、少年時代の興味を其ままに歌った此の歌を、私は今も尚ほ、自分で愛誦する。實際あの暗い御堂の内陣で、尼さんの點けてくれる細い蝋燭の光で、仰ぎ見ると、壇の上の厨子の中の、あの黒い眉と、大きく長く切れた白い目と、鮮かに赤い厨から、たちまち吾々に襲ひかかるあの強い感覚をなにとしたものであらう。おそらく、中世以後のいにしへ人も、この同じ感じの烈しさに戦(おのの)いて、まるで話の中の乾駄羅の国王のやうに、この観音の色身によって、光明皇后を偲び上げようとして、かうした話が作り上げられたのであらう。
 同じ法華寺に、今は一宇の蒸風呂の浴室があって、寺では之を、「からふろ」と名づけ、光明皇后施浴の遺構といってゐる。傳説によると、或る日皇后は、殿中、人無き庭で、澣濯(かんたく)の功徳を宜べる空中の聾を聞かれ、大願を立てて温室を建てさせ、親ら千人の衆生の為めに垢を流さんとさされた。その九百九十九人を見て、最後の一人は、全身瘡痂に被はれ、臭気は室に満ちた。しかも尚ほ皇后は、その哀請を許して、かしこくも玉唇を觸れて、ことごとく五體の膿血を吸うて、之を吐き出したまへる後、ひそかにその人に向つて、「ゆめ、此を人にな語りそ」と宣らせられた。すると、その病人の五體は、一時に大光明を放ち、「后こそ阿閦佛(あしゅくぶつ)の垢を去りたまひつれ。また人に語り賜ふことなかれ。」の一語とともに、光耀馥郁のうちに忽然として行くところを知らなかったといふ。
 しかし『元亨釋書』によれば、この時、皇后は驚喜無量にして、其地に就いて伽藍を構へ、阿閦寺と號すとあるから、そもそもこれは、法華寺中のことで無かったかもしれぬ。それにも係らず、たぶん私は、あの十一面観音の赤い厨から、ひたむきに、この傅説に聯想したものと見えて、やはりやすやすと寺侍にしたがって、かうした歌にしてしまった。また之を何寺のことにしたところで、今の世の中で、たやすく信じられさうな話ではないが、しかし、この話の中には、誰にしても、一度聞いてから、いつまでも身に沁みて應へるところがあるのであらう。もしそれがあるとすると、あらはには信じられぬとしておきながら、やはり、ひそかに信じてゐるのであらう。
                      (昭和十六年十二月四日稿)


『会津八一全集』




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