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雑記帳2018-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-2-15
小金井に武蔵野の新田開発の跡を辿りました。

8大将軍吉宗の時代、玉川上水が開設されて武蔵野の新田開発が進みました。
指揮したのは大岡越前の守、82村が開かれました。南町奉行としてしられる大岡越前守は相当有能な官吏だったようです。
その指揮のもとに実際に開発にあたるのはもちろん農民ですが、東小金井あたりには開発した梶野氏の名前が各所に残っています。

東小金井駅にほど近いところにある「梶野公園」は、子供を遊ばせるために、住民が企画を持ち寄って作られた住民本位の公園として、町づくりの一つのモデルになっています。遊具も何もないだだっ広い公園は実は子供たちにとっては天国、周辺の小高い樹木も残しました。ベンチの下には災害時に備えて煮炊きの道具がおさめられているなど、防災公園でもあります。

梶野公園.jpg

住宅街を縫うように進むと、「くぬぎ公園」にやってきました。猫の額ほどの小さな公園にはカラフルな滑り台。これはこれで子供が喜びそうです。
公園の前にある建物はスタジオジブリです。映画監督の宮崎駿さんが最初に作ったスタジオで、もののけ姫やとなりのトトロなど多くの作品がここで生まれました。

くぬぎ公園.jpg
スタジオジブリ.jpg

新田を開いた梶野氏は群馬県館林から菩提寺を移しました。曹同宗長昌寺は茂林寺の末寺です。境内の薬師堂には応仁年間の薬師如来が安置されています。(市有形文化財)

長昌寺.jpg

玉川上水が出来たのは今から370年前になります。上水からはたくさんの用水が引かれて武蔵野の台地を潤しました。梶野用水もそのひとつです。
用水に並行する梶野通りを玉川上水にむかって北に進む途中に立派な二本の松がみえてきます。明治2年の農兵一揆のあと、植えられ、根元に佇む庚申塔とともに、150年近く梶野通りをみまもってきました。

庚申様の二本松.jpg

玉川上水の堤の桜は江戸時代に歌川広重や葛飾北斎など文化人によって紹介されています。大正12年には名勝小金井として国の名勝に指定されました。ヤマザクラなので改良されたソメイヨシノより寿命は長く、よく手入れされて今日にいたっていますが、最近では小金井公園に押されがち。往時の景観をとりもどそうとの動きもあるとか。

玉川上水桜樹接種の碑2.jpg

その小金井公園は緑地から公園になった、東京で一番大きい都立公園、都内屈指の桜の名所です。

小金井公園のそばの真蔵院には、武蔵野の新田開発に功績のあった川崎平右衛門の供養塔があります。大岡越前のもとで新田開発を指揮しました。石見銀山の開発も手掛けたそうで、なかなかのやり手です。
上記の名勝小金井を作った恩人でもあり、今年は没後250年ということで、郷里の府中市では記念の植樹が行われたと、翌日(2月5日)の朝日新聞多摩版に載っていました。

真蔵院2.jpg
真蔵院。川崎平右門供養塔.jpg

小金井公園を出て、静かな住宅街をぬけていくと、見えてきた林が浴恩館公園です。
ここに、「次郎物語」の舞台になった浴恩館が京都から移築されています。浴恩館の建物は市の文化センターとしてまだ現役です。

浴恩館2.jpg

散策の最終地、お目当ての精進料理をいただく臨済宗・三光院は、京都嵯峨野の曇華院(どんげんいん)の流れをくむ尼寺です。曇華院は竹之御所と呼ばれ、代々皇女が門跡となる格式の高いお寺です。その竹之御所流精進料理を、竹林の中にある十月堂でいただきました。


三光院山門.jpg
三光院2.jpg

三光院の紋ササリンドウを押した三光院最中に続いてだされた皿は色鮮やかなお煮しめです。
三光院精進料理3.jpg
大和芋の磯部巻き、高野豆腐の含め煮、ごぼうの胡麻和え、南京の煮物、ナンテンの葉添え

三光院精進料理4.jpg
  かぶらの茶碗蒸し かぶのすり流し、中に椎茸、にんじん、麩、ぎんなん

精進料理に定番のごま豆腐の後に三光院名物の香栄とうふを味わいました。豆腐を味噌につけ、桜のチップで燻製にした、香栄禅尼考案の自慢のとうふです。

三光院精進料理6.jpg

茄子の田楽には木枯らしという名前がついていました。形が楽器の琵琶に似ていることから、建礼門院愛用の名器「木枯らし」にちなんで名づけられたそうです。

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甘めの西京味噌、振り柚子、茶の葉添え。油で揚げるのではなく蒸し揚げにしてある。

利尻昆布を3時間煮だしたという出しの一口吸物のあとは、締めのおばんと香のものです。おばんは御所言葉でご飯のこと、香のものには出しをとったあとの昆布がでました。

三光院精進料理9.jpg

◆ご夫婦で途上国を好んでバクパッカーを続ける小川彩子さんの『地球千鳥足』が本になりました。帯にあるように「ダマされても スラれても」はたまたガンもなんのその、お二人で訪ねた111か国の中から厳選した50の旅とコラムがつめられています。幻冬舎 1200円(税別)

彩子さん『地球千鳥足』.jpg

 

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雑記帳2018-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-2-1
◆たれが美味しいヤッチェサム、手作りトッポッギはいかが。

私が所属している地域のサークル「食とくらしと環境を考える会」は、地産地消を掲げて、普通の家庭の台所にある食材や調味料を使って簡単に手作りできるレシピを工夫、年に数回、女性センターで講座をおこなっています。
メンバーに韓国出身の朴さんがいて、毎月の例会で、韓国と日本の食文化の違いを学ぶことはおおいのです。
韓国料理と言えばお肉を連想しますが、キムチからもわかるように、実は野菜をたくさん食べるのが特徴です。肉も極力脂肪分の数ない部位を選ぶ、ヘルシイなものです。
その朴さんがいつも感心するのは日本食が塩分控えめであること。慣れないため、最初は頼りないと感じた味も、次第に、これで十分美味しいね、という場面がふえてきました。

今回実施した講座は「たれが美味しいヤッチェサム」。そこで、韓国のお餅「トッポッギ」を手作りしました。
普段、韓国の食材を扱っている店で購入しているトッポッギが手作りできることを発見して、一番喜んだのが朴さんでした。
子育てを終えていま、ダウン症の怜依ちゃんの里親をしている朴さんは、早速家で一緒につくったそうです。怜依ちゃんも大喜びだったとか。

◇トッポッギもちの作り方
≪材料4人分≫ 上新粉150g、片栗粉60g、水150cc
①ボールに材料を入れ、水140ccを加えてよくこねる。10ccは調整用。
②鍋に湯を沸かしておく。(火加減は中火の強火)
③生地を丸め、棒状に伸ばし、食べやすい長さに切りながら、鍋に入れる。浮く上がってきたら10分~15分茹でる。生地は一度に大さじ1くらいがやりやすい。
④茹であがったら水にとる。

◇トッポッギもちと牛肉、野菜の和え物
≪材料≫牛肉150g、にんじん2/1本、乾し椎茸2枚、エリンギ1本、ピーマン2個、ねぎ1本
≪焼き肉のたれ(お肉300g分)≫醤油 大さじ2、酒 大さじ1、ゴマ油 大さじ1、砂糖 大さじ1.5、みりん 大さじ1、玉ねぎすりおろし 大さじ1、ニンニクみじん切り 小さじ1、梨すりおろし 大さじ1、(キウイ、パインでもよい)、コショウ少々   
①焼き肉のたれは材料を合わせておく。
②たれの半量を牛肉と合わせ、下味をつけておく。
③野菜はトッポッギの長さに合わせてきる。にんじんは太目の細切り、椎茸は千切り、ねぎは太さによって筒切りまたはななめ切り。
④湯を沸かし、潮少々を加えて野菜を茹で、取り分けて置く。(今回はトッポッギもちの茹で汁を使う。)
⑤フライパンを火にかけ、牛肉、茹でたトッポッギ、野菜、のこりの焼き肉のたれを絡め、全体が良くからまったらできあがり。

食くらトッポッギ.jpg

◇ヤッチェサム/野菜巻き
≪材料≫豚肉150g、レタス適量、ニンジン2/1本、大根適量、キュウリ1本
≪味噌だれの作りやすい分量≫味噌大さじ3、玉ねぎすりおろし大さじ2、にんにくみじん切り小さじ1、コチュジャン小さじ2、ゴマ油小さじ1、みりん小さじ1、砂糖小さじ1①材料を良く混ぜ合わせてみそだれを作る。
②野菜は太めの千切り、または細めの短冊に切る。(生で食べられるものは何でも良い)
③肉は軽く塩コショウしておく。
④レタスの上に豚肉・野菜・味噌だれをのせ、巻いていただく。

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食くらヤッチェサム2.jpg

◆先行きに暗い話題の多かった昨年末、ICANがノーベル平和賞を受賞したことは久しぶりに聞いた明るい話題でした。その授賞の様子を伝える「核なき世界への熱い思い」が知の木々舎に届きました。授賞式に合わせてオスロに滞在した小寺丸木美術館理事長のオスロ訪問記を1月下号から3回にわたって連載しています。

◆昨年は年末にかけて、多くの記事が終了しました。
いだようさんの季節の記憶が終了し、それに代われるものはないと、暫く、目次で始まる『知の木々舎』をお届けしていましたが、表紙のないのは如何にも…という声をいただいて、1月上号から昭和記念公園の四季の写真を載せています。立川発のインターネットマガジンとしては相性はいいのではないかと思っていますが、いかがでしょうか。

◆東京は4年ぶりの大雪が降りました。追いうちをかけるように48年ぶりという大寒波に見舞われて、日陰の雪はいつまでも溶けません。さらに夜の寒さで凍った歩道は滑りやすく、自転車で出かけるには不向きな状態がつづきました。
雪が降った一週間後、昭和記念公園をたずねましたが、サイクリングロードはまだ走れないと言われて、すごすご引き返すはめに。数年前から入札で管理者を決めている公園は、国営といえども雪かきの予算はないのかもしれない(なにしろ、広大な面積です)と、へんなところで、北国のご苦労の一面が判った気持になりました。一方、日当たりのよい遊歩道では、春を待つ樹木の蕾もふくらみました。

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一週間後もまだ雪の残る昭和記念公園砂川口
2018遊歩道コブシ.jpg
2018遊歩道梅.jpg

◆久しぶりに一茶の句を拾いました。

     一はなに猫がいねつむ座敷哉          文政句帖   政6

     梅どこか二月の雪の二三尺               七番日記   政1

  汚れ雪世間並にはとけぬ也              七番日記   政1

  わかなつみわかなつみ ~ 誰やおもふ 享和句帖   享3

     大雪をかぶつて立や福寿草              文政句帖   政7

    

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雑記帳2018-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-1-15
◆日馬富士暴行事件以来揺れ続けている相撲界を横目に、国技館のある両国界隈を歩きました。

昔、隅田川が大川と呼ばれていた頃、川は下総と武蔵の2つの国の国境でした。その大川にかけられた大橋が両方の国にまたがっていることが両国橋の由来になり、その橋の名前から周辺が両国とよばれるようになったとか。後に南葛飾郡が武蔵国に編入されるまでは現在の両国駅当たりは武蔵ではなく下総国だったのです。

駅を出て歩き始めると国技館は目の前です。年6回の大相撲興業のうち3回がここで開かれています。明治42年に回向院隣に建設されたものの、たび重なる火災や空襲に見舞われ、戦後再建された建物が進駐軍に接収されて、国技館は蔵前へ。昭和59年に現在の地に建物が完成してようやく大相撲は両国に戻りました。

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国技館正面入り口と相撲櫓

国技館前を過ぎて、一番最初の見所が旧安田庭園です。
本庄氏の下屋敷のあったところで、元禄年間に隅田川の水を引いた潮入回遊式庭園として築造されました。明治に入り、旧岡山藩主池田章政の邸宅となった後、明治22年(1889年)、安田財閥の祖である安田善次郎が所有することとなったため、この名がついています。庭園は横網町公園と背中わせになっているので、池越しに、横網町公園にある慰霊堂が垣間見えます。慰霊堂には関東大震災と東京大空襲の犠牲者の遺骨がおさめられています。

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近くには江戸東京博物館。博物館正面横から伸びる北斎通りに、いま人気のすみだ北斎美術館はあります。
現在の墨田区亀沢で生まれた北斎は、生涯に93回も転居したと言われていますが、ほとんど区内を出る事はなかったといいます。その作品は海をこえ、影響を受けたのはゴッホやモネなどの画家にとどまらず、作曲家のドビュッシーは北斎の『富嶽三十六 神奈川沖浪裏』から想を得て、交響曲『海』を作曲したのです。1999年にライフ誌の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に唯一の日本人として選ばれています。その北斎の偉業を発信する場として北斎美術館は2017年に誕生しました。誕生して半年後には来館者数は200万人をこえたそうです。

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北斎美術館が立つ緑町公園のそばに、韮山の反射炉で有名な江川太郎左衛門の江戸屋敷がありました。江戸時代、代官江川家のテリトリーは広く、相模、武蔵、駿河にわたる幕府直轄地をおさめていました。立川にも代官所があった江川太郎左衛門の屋敷がここにあったことは知る人は少ないのではないでしょうか。

北斎通りのもう一つの見どころは野見宿禰(のみのすくね)神社。小さい神社ですが、古事記に登場して相撲の神様とされている野見宿禰が祀られていて、境内には現代の横綱の名前をきざんだ石碑がたっています。その野見宿禰神社のはす向かいにあるあられやさんの店内のディスプレイも北斎にちなむものばかり。

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東あられ店内1.jpg

両国は相撲の町です。都内各地に部屋を構える親方が増えている中で、さすがに両国はまだどこよりも多くの相撲部屋があるようです。時津風邪部屋、八角部屋…、町を歩けばそこここにまわしが乾してあったり、お相撲さんとすれちがうことも…。そのうちのひとつ、錦戸部屋をみせてもらいました。

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まわしは乾すだけで洗濯はしないのだそうです
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なかなか立派な八角部屋
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稽古の土俵も神聖な場所です

水戸泉を出した錦戸部屋にも今はモンゴル出身の力士がいます。昨今、偏ったナショナリズムを危惧させるようなモンゴル人力士排斥の声も聞こえますが、15歳で日本にやってきた少年が言葉も習慣も違う世界でひたすら精進している姿こそ、見習いたいものだと思いました。

相撲にちなむ町では小学校の名前の漢字も相撲字です。

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その両国小学校は芥川龍之介が18歳までをすごした地です。

もうひとつの両国の顔は忠臣蔵。いたるところに四十七士にまつわるエピソードを伝える看板をみかけました。
そして、討ち入りの舞台、吉良邸は本所松坂町公園にあります。忠臣蔵でですっかり悪者になってしまった吉良上野介が、領地ではなかなかの名君だったと言われています。

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本所松坂町公園にある吉良邸と邸内にある吉良上野介の像

時は下って21世紀、12月14日の「義士祭」や同じく12月の「元禄市」など地域の商店街あげてのお祭りは賑やかで、赤穂浪士も吉良上野介も、今は仲良く町おこしに一役かっています。

墨田区には小さな町工場がたくさんあります。歩いてみると、ところどころでメリヤス工場や、それで財をなしたらしい邸宅の跡をみかけました。メリヤスは私たち世代にはなじみの、懐かしい言葉ですが、若い人はそれが何なのかわからないかもしれません。今は「ニット」と名を変えて、地場の大切な産業であることに変わりはありません。

かって隣に国技館があった回向院は、10万人の死者をだした明暦の大火の身元不明者を合葬、供養するために建立されました。鼠小僧の墓があることで知られていますが、今回、新しく、大黒屋光太夫の墓を見つけました。鎖国の時代に、難破して苦労の末ロシアから帰国し、波乱の生涯をとじた光太夫の墓は船の形をしていました。

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船の形をした大黒屋光太夫の墓

回向院の近くの相撲茶屋がこの日のお昼です。ハンサムで人気があった寺尾関(現錣山親方)のお兄さんが開いた相撲茶屋「寺尾」でチャンコをいただきました。(そういえば、錣山親方もこの度の騒ぎの中で話題になった一人でした。)

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このちゃんこ鍋は4人前

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雑記帳2018-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-1-1
◆明けましておめでとうございます。

今年は戌年。戊は茂の漢字に通じるもので、勢い良く葉が茂るような繁栄を表しています。今年は「戌戊(つちのえいぬ)」ということなので、占いでは大きな岩や盛り上がった土に例えられるのだそうです。
一方、戌の漢字は滅(めつ)で、植物でいうと、草木が枯れていく、滅び始める状態を表しているとされます。滅亡と繁栄、相反する意味を持つ年の、波乱を予感させる幕開けです。実際、米朝の危機助長に収束のみえない世界に目をむければ、この1年間の、分断や自国第一主義の流れはとどまるところを知らず、新年を手放しでは喜べない気がします。
とはいえ、縁起を担いで、イヌを祀る神社は暮れのうちから人気のようです。飼い犬を連れて参拝する人の姿がみられました。東京では、青梅市の御岳山山頂(標高929メートル)にある武蔵御嶽神社がおいぬ様の神社として知られています。

◆今年、『知の木々舎 』は10年目を迎える節目の年となりました。

事故で更新できなかった1回を除いて、月2回の更新を続け、この1月で208号になります。これまでにご縁のあった多くの執筆者の方々と読者に改めて深く感謝いたします。
昨年は、長く連載が続いた記事のいくつかが終了しました。写真家のいだようさんの「季節の記憶」、斉藤陽一さんの「西洋百人一絵」、中込敦子さんの「玉川上水の詞花」、、、。何れも読者の強い支持があったもので、寂しさを埋めることはできませんが、一方で、読者や執筆者からの紹介によって、入れ替わるように、新しい記事も生まれています。人の輪が生んだこうしたつながりがこれからも続いていくことを願っています。
発足当時、著名人の著書からの転載は異例で、世の人の目をひき、知の木々舎が知られるきっかけになりましたが、いまでは書き下ろしの記事が大分を占めるようになりました。パリから届く最新のファッションやワイン、美術展の情報は、ジャーナリストの嘉野ミサワさんが現場を駆け回って集めた写真も評判です。遠くサンパウロの読者からはいつも励ましの言葉をもらいます。輪は執筆者だけでなく、読者ともつながっていることを実感します。
今、カテゴリーは「文芸美術の森」「雑木林の四季」「心の小径」「核無き世界を目指して」「ことだま五七五」、編集後記にあたる「代表玲子の雑記帳」の、6つに分類されています。途絶えている「環境日本学」もいつか復活させたいと考えているところです。

◆国営昭和記念公園のお正月です。

これまでに何度かこのコーナーに登場した木漏れ日の里は、昭和30年代の多摩の農村を復元しています。正月には、里全体に、素朴ながら、正月飾りが施されました。 

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長屋門の松飾り
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       古民家の床の間の正月飾り
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  倉のうしろにひっそりと或るお稲荷さんにも正月飾り
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 里の入り口にたつみちしるべに(こもれびの里 武蔵野の農ここにありの字が見える)も正月飾り

同じ公園内でも、日本庭園では豪華な松飾り。庭園内の歓楓亭で出される一月のお茶のお菓子は「松」です。
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日本庭園入り口の松飾り
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           一月のお菓子「松」                                      

歓楓亭のそばにある盆栽苑に正月らしい盆栽を捜しました。

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    カリン
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五葉松

砂川口入り口も正月気分の大凧が飾られました。
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◆この季節、昭和記念公園にも草木に花は少なく、落ち葉の下でひっそりと春を待っているようにみえます。スノードロップが咲き始めたとの知らせを聞いて、花木園へ出かけました。冬のおわりから春先にかけて咲く、春を告げる花として知られています。
ひろい園内を回って探し当てたスノードロップは、群生と呼ぶには数もさほどなく、それと知らなければ気づかずに過ぎてしまいそうな、小さな花でした。

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◆国立(くにたち)市富士見台団地自治会長の多和田栄治さんの『検証 公団入居60年』が本になりました。以前『知の木々舎 』に連載したエッセイを下敷きに、団地の60年の歩みが綴られています。それはそのまま戦後の日本の社会史です。改めて紹介したいと、1月上号から連載を始めました。

     

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雑記帳2017-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-12-15
今年最後のお江戸街歩きは亀戸から押上へ、スカイツリーを目指して歩きました。

集合は総武線亀戸駅。東京の西、多摩に住んでいる身には東の下町は縁のないところですが、中央線お茶の水で乗り換えて両国の隣と聞けば、意外に判りやすいのです。

亀戸はそのむかし、亀の島とよばれる海上の島だった地、石器時代から人が住んでいました。やがて亀村と呼ばれる村ができ、村にあった亀ケ井という湧水の名と混ざってできた亀井戸村が江戸時代に井が消えた由、何でも端折る江戸っ子らしいですね。

駅前から商店街を抜けて進むと、目につくのが梅屋敷です。

江戸時代、呉服屋・伊勢谷彦右衛門の別荘が亀戸にあり、庭の梅の木々をめあてに、江戸中からの見物客でにぎわったとか。亀戸梅屋敷の名で人気を博したこの梅の名所は、多くの浮世絵で題材となっていますが、なかでも浮世絵師・歌川広重が安政三年(1857年)に描いた『名所江戸百景』の「亀戸梅屋敷」は、江戸の時代に海を越え、かのフィンセント・ファン・ゴッホが模写しています。そのゴッホ展は今、上野の東京都美術館で開かれています。

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梅屋敷は明治43年の大雨による洪水ですべて流され、廃園になりましたが、当時の賑わいを偲ぶ名前を冠して建てられた建物は、江東区が委託して、江戸、下町の粋な歴史と文化を発信する拠点になっています。店内でも一番目を引く棚に並ぶのが江戸切子です。

江戸時代後期に製作された江戸切子は、薩摩切子と共に、江戸期のすぐれたガラス工芸品です。薩摩切子は藩主の手厚い保護のもとに、藩の事業として製作され当時の最高の研究と開発の結果出来た美術工芸品でしたが、藩主の衰退、工場の焼失によりその伝統を伝えるものはなくなりました。これに対し、庶民の手により製作された江戸切子は明治維新の政治的改革にも影響を受けず、これまで長く存続している伝統工芸です。江戸切子の特徴として魚子模様の他に、籠目・麻の葉・菊・格子切子などの模様が用いられています。

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亀戸の由来になった亀ケ井は亀戸香取神社にあります。
藤原鎌足が千葉に勧請した香取神社は全国に400もあり、亀戸香取神社はそのひとつです。平将門追討の命を受けた俵藤秀郷がこの香取神社に祈願してめでたく平定したことから、多くの武将や武人の崇敬をうけました。そのため、現在はスポーツ振興の神として多くの参拝客をあつめています。境内には江戸東京野菜の一つ、亀戸大根の碑もあります。

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亀戸の名のもとになった亀ケ井の湧水の井戸

亀戸の北を江戸時代初期に開削された北十間川が流れています。
農業用水だった川は「おわい船」が行きかっていました。
元禄年間、祐天上人が千葉方面に往来の途中、この川に多くの水死体のあるのを見てそれをなぐさめるために供養塔を残した。以来この付近では溺死する者もなく周辺住民にあがめられたという祠が祐天堂です。目黒の祐天寺は上人が晩年、隠居した地です。

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亀戸といえば亀戸天神。
天保年間に、菅原道真の末裔だった大宰府天満宮の神官、菅原信祐が諸国を巡る途中、本所亀戸村にたどりつき、もともとあった天神の小祠に道真ゆかりの飛び梅で掘った天神像を奉祀したのが始まり。寛文2年に大宰府天満宮にならって造営され、現在の形ができました。大宰府天満宮に対して東宰府天満宮と称されたこともあります。

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三つの太鼓橋は男橋、平橋、女橋と呼ばれ、過去、現在、未来を現し、池と橋を人の一生に見立てた“三世一念の理”と言います。3つの橋を渡るごとに心が清められるのだそうです。
1813年、亀戸天神の太鼓橋が再建されたとき深川の芸者衆が太鼓型に帯を結んで橋を渡った様子が周囲の目を引き、太鼓結びの語源になったといいます。4月の藤祭りは有名。
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太鼓橋(上が男橋、下が女橋)
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池にはサギの姿も

亀戸天神の鳥居の近くにある船橋屋はくず餅の老舗です。
江戸時代、通りを渡った向かいに銭座があり、一文銭などの銅銭が鋳造されていました。

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亀戸七福神のうち毘沙門天のある普門院には伊東左千夫の墓があります。
江東天祖神社は、応永2年(1395)に僧良傳が、龍眼寺と共に創建したと伝えられます。柳島村の鎮守です。七福神は福禄寿。龍眼寺はまた萩の寺としてしられています。

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天祖神社

北十間川が横十間川と交わるところで墨田区にはいります。柳島橋をすぎたところにあるのが、日蓮宗の寺院で「柳橋の妙見さま」として知られる法性寺です。葛飾北斎や歌川広重、豊国らの画家や、歌舞伎、落語界の名優ら粋筋の信仰を集めました。近松門左衛門の供養碑もあります。

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没後100年にひ孫が建立したという近松門左衛門の供養碑

十間川はスカイツリーの誕生で水辺が整備され、開発の期待が高まっています。
十間川橋からみたスカイツリーはインスタ映えすると人気、川沿いの路地は昭和と平成が同居するまちとして海外の観光客に人気なのだそうです。

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十間川橋から見たスカイツリー
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路地から見えるスカイツリー

◆『知の木々舎』の執筆者のお一人だった竹山昭子さんの「戦争と放送」が吉川弘文館から出版されました。戦時期の情報操作に果たした放送の役割を描いた、同社が配信する「読みなおす日本史」シリーズの一冊です。2,400円(税別)。


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◆斉藤陽一さんの『西洋百人一絵』が今号で終了しました。チマブーエの「荘厳の聖母」から始まり、ルネサンスから20世紀にいたる西洋絵画の歴史をたどる、5年に亘る連載でした。

◆12月9日、国営昭和記念公園の木漏れ日の里では年末のすす払いです。

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◆来年は戌年です。町のお店のショウケースにも犬がならびました。

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雑記帳2017-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-12-1
西砂を知ろう~ようこそ西砂へ

立川市には地域の学習館が6館あります。いずれも戦後各地に作られた社会人教育のための施設だった公民館が「生涯学習」という名のもとに衣替えしたものです。
それぞれの地域館は、ボランテイアの委員さんたちが、地域の特性を活かした学びの場を地域住民に提供しようとがんばっています。

開発で賑わう立川駅から北へ一里あまり。そこには五日市街道をはさんで、都市とは思えない広大な農地がひろがっています。江戸時代から「代々農家、自分で十何代目」という農家もめずらしくありません。
その中でも、西砂は、立川市のはずれに位置し、横田基地と接する地域です。
近年、市街地よりは土地が安いのを狙って宅地の開発がすすみ、他所から引っ越してくる新住民がふえてきました。そうした住民を対象に、地域を知るための企画が11月に、続けて2本実施されました。

先ず「地元を学ぼう!~西砂、砂川地域の歴史」です。講師は『知の木々舎』の後見人で砂川歴40年の作家、鈴木茂夫さん。ジモテイではない目で、江戸時代から400年に渡る地域の歴史をひもといてくれました。

砂川の歴史は江戸幕府のはじまりとほぼ時期を同じくしています。特に1652年の玉川上水の開通にともない、用水が引かれて新田開発は大きく進みました。
当時の農作物は麦、栗、ひえ、そば、いも、菜、大根、享保年間にはごま、藍、綿、さとうきび、養蚕でした。
一方で、この時代、砂川は尾張徳川家の御鷹場の指定をうけていました。実際に鷹狩が実施されたのは2回ほどでしたが、鷹場に指定されたおかげで担当する部署の役人は500人近くも常在していたのです。

時代は下って、幕末最大の武州一揆の舞台になり、立川の農兵が一揆を多摩川河原に迎え討ち撃退したことは歴史に残る事件です。
幕末開港に伴って、八王子往環を利用して横浜居留地からの往来もあり、明治には宣教師のテストビッド神父が砂川に天主堂を建てました。信者は200人もいたそうです。(このへんのいきさつは鈴木さんの著書『武州砂川天主堂』に詳しい。)

明治初期、玉川上水に通船が通りました。近郊農村からの産物の物流は多くの農家を潤しましたが、もともとが江戸市中の住民の飲み水だった上水の水質汚染を理由に、わずか2年で廃止されました。物流は、代わりに甲武鉄道、後の中央線に引き継がれました。

中華民国の成立やロシア革命、第一次世界大戦を経て関東大震災まで、大正の短い期間はなんと激動の時代だったことか。
この時期に砂川村に飛行場が建設されました。立川陸軍飛行場を舞台に生まれたさまざまなドラマは、わが知の木々舎の「立川陸軍飛行場と日本、アジア」(著者・楢崎茂彌さん)に詳しく描かれています。

そして昭和。戦後の砂川闘争は砂川の名を全国に知らしめることになりました。砂川事件を経て、基地は横田へ移ります。1977年に立川基地は全面変換となり、今その跡地には国の機関や裁判所、国語研究所や国文研、極地研などの研究施設が軒をつらねています。

さて、一週間後の11月19日、いよいよ「ようこそ、西砂へ」のフィールドワークです。
今年は達磨を製作している村野達磨産業と、江戸時代から続く農家、岩田さんの畑を見学しました。

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久しぶりに抜けるような青空の下、学習館をいざ出発

近頃は流し込みの達磨を作るところが主流になっているのに対し、村野さんの達磨は昔ながらの張り子の達磨です。木でできた張り子の型は使い込んだ昔からのもの。古紙に繊維を混ぜて天日干しにした張り子紙は、埼玉県の小川町でつくられています。天日で干したものでなければ強度が出ないのだそうです。

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張り子の型
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張り子紙

夏の暑いときに、3日間かけて、型に張り子紙を張って、型抜きの作業をします。そのあと、粘土で作った底をつけ、胡粉と二カワをお湯でまぜた赤い塗料をぬります。塗った塗料が乾くまで、こちらも作業は3日間。
顔を描いたり金色で模様を描いたりする仕上げの作業には2日間かかります。

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赤い塗料を塗って乾かす
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多摩には今、8軒の達磨工房があるそうです。それぞれ特徴があって、皆ちがうそうな。
正月の拝島大師からはじまる達磨市は、五日市、青梅、高畠不動と続きます。最後は3月の調布深大寺。3月まで達磨を売るところは多摩くらい、達磨市は、今はどこももっと早くしまうそうです。

村野さんは5代目の、180年続いている達磨師です。
縁起ものらしく、顔に描かれる線は鶴、亀、富士山をあらわしています。金色で体の飾りを担当する村野さんの叔母さんは高齢ですが、飾りの中にさりげなく自分のサインを遺すところが職人の粋でしょうか。
筆も独特のもので、この筆を作る人がいなくなれば達磨をつくることもできないと言います。さまざまな職業の職人に支えられて達磨も今を生きているのです。

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村野さん
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どれが鶴か亀か富士山か、わかりますか

13代目という岩田さんの畑は、間口30間の、開発時の規模を今も維持しています。今畑にあるのは大根、ホウレンソウ、こまつな、カブ、ブロッコリー、カリフラワーなど。
消費者の二ーズに応えて何種類もの大根やカリフラワーをつくります。例えばカリフラワーだけでも白、黄色、紫があり、大根も白だけでなく、聖護院大根のように丸いのもあれば、真っ赤な大根も。大きさは今はミニが好まれるとか。モモノスケという名前のついたカブは、外皮の赤い皮をむくと桃のような実が現れます。紅芯大根は外は白くて中が赤いのが特徴です。

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皮をむいたモモノスケ
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中が赤い紅芯大根

ハウスでは多摩では珍しい、博多のカツオ菜が育っていました。勿論お正月用です。
夫の転勤で博多に4年間住んだことがありますが、雑煮にはブリとカツオ菜がかかせません。東京に住む博多出身舎のニーズにこたえるためだとききました。
砂川の農家は古くから、進取の気どりに富み、江戸時代後期には武士をしのぐ豊かさだったと聞いたことがあります。つぎつぎに新しい野菜の栽培に取り組む姿勢は今に始まることではなく、都市近郊農業ならではだと思いました。

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カツオ菜

最後にプチ収穫体験に、大根をひかせてもらいました。
失敗作だという赤カブは直径15cmもある大物で、重さは1.5キロもありました。持ち帰って甘酢漬けにすれば、全体が薄い緋色に染まって美しい一品になりました。

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収穫物を抱えて学習館にもどると、運営協議会のボランテイアのみなさんが作ってくれたお昼が待っていました。地産地消の野菜づくしの献立です。

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大根ステーキの肉味噌かけ、野菜たっぷりの煮物、あやめゆき(カブ)の甘酢づけ、柿の白和え、お味噌汁、ウコッケイの卵かけご飯

あやめゆきはその名のとおり、アヤメの色をしたカブ。その他の食材も、ウコッケイの卵、こんにゃくを含めて、すべて、立川で生産されたものでした。


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雑記帳2017-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-11-15
お金の変遷をたどると歴史がくっきり、貨幣博物館。

日本橋は日本銀行の真前にあるのは貨幣博物館です。古代から現代までのお金にまつわる展示はなかなか見ごたえがあります。10月末、金融広報委員会の主催するバス見学会に参加しました。

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博物館正面入り口
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入館するとすぐ目に着くインドネシア中央銀行からおくられたという巨大なガルーダの像(職員に聞いてもそれ以上の意味はないらしい。)

入口で入念なボデイチェックをうけて入館。
時代をおってお金にまつわる展示物を見て行くと、そのまま日本の社会史になります。
律令に基づく中央集権国家をめざした日本では、7世紀末から10世紀半ばまで、富本銭と呼ばれる銅製のお金がつくられました。708年に鋳造された和同開珎はその代表です。
平城京ではすでに国家が管理する市で、給料として手にいれた銭貨を使って食糧や日用品を購入していました。地域によっては米や絹、麻布などがお金の代わりをしました。
10世紀になると、材料となる銅の生産量が減少、銅銭の発行はなくなり、米や絹などが引き続きその役割を果たしました。

12世紀になると、中国の銭貨(渡来銭)が広く使われるようになりました。当時の日中貿易のは輸出は金、銀、硫黄、水銀、木材に対し、輸入の多くを占めていたのは陶磁器にならんで銭貨でした。
13世紀以降、商品経済の発展とともに、銭貨の使用が浸透していきます。年貢も生産物をそのまま納めるのではなく、代わりに銭貨で納めるようになりました。人々は銭貨を得るために地方の市で生産物を売却し、各地で新たな特産物がうまれました。

この時代、すでに、「徒然草」には、今に通じる金持ちの心得が書かれています。
 ①人間世界は常に移り変わる無情なものと知りなさい。
 ②自分の欲求に用心し、いつでもかなえようとしてはいけない。
 ③銭貨を主君や紙のごとく尊びながら使用する
 ④恥ずかしい目に会っても恨まない
 ⑤正直を心がけ、約束を守る

国として貨幣の発行が再びはじまったのは江戸時代です。
日本銀行本店の場所にあった金座では金貨が、銀座で銀貨が、各地の銭座では銭貨が作られました。16世紀、日本国内における金銀の生産量は鉱山開発と技術革新のもとで飛躍的に増大、銀は海外に輸出されるようになっていたのです。
大坂、江戸、京を中心に両替屋は異なるお金の交換をおこなったほか、預金や貸出、決済など今日の銀行と同じようなサービスを提供して、江戸時代の商品流通を支えました。「金は天下のまわりもの」という考えが定着したのもこの時代です。
江戸の大判小判とともに展示されている、秀吉の発行した天正長大判の大きさと輝きには目がくらみそうです。

日本初の紙幣は17世紀初めに伊勢の商人によって発行された山田羽書(やまだはがき)と言われていますが、その後、多くの藩が藩札を発行しました。透かしや隠し文字をいれるなど、現代の紙幣に通じる偽造対策がとりいれられています。

そして近代。1856年、各国と通商条約を結んで世界市場に参加した日本は、近代化への道を歩み、明治政府は新しい貨幣制度を整えることになりました。1872年、日本銀行と「円」の誕生です。しかし、不平等条約の下では、金貨の流出も招きました。
1897年に導入された金本位制は、第一次世界大戦、金融恐慌を経て、1931年に管理通貨制度へ移行したと学校の歴史で学んだことははまだ記憶にあるところです。

参加者から「使われなくなった旧紙幣や硬貨をもっているけど、プレミアが付いて高く売れることはあるのかしら」との質問に、「100年以上経てば多少の値段はつくかもしれませんが、少なくとも自分が生きている間に値上がりすることはありません。1万円は1万円です。」

同時開催されていた企画展「19世紀日本の風景・錦絵にみる経済と世相」では、貨幣を通して描かれるランドスケープと称し、「オカネカラミエルオモシロニッポン」が紹介されていました。幕末から日本銀行設立までの貨幣・経済の様子や、芝居絵などの日本の風俗や文化、さらには大黒天など幸福と富を願う縁起物を描いた錦絵が並んでいます。わたしたちが思っているよりもずっとお金は身近な存在だったのですね。

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企画展ポスター


21世紀の今日まで、わたしたちの生活を支える大切な役割を果たしてきたお金です。時代の移り変わりの中で、形をかえ、使われ方を変えながら、生き残って来たお金。使ってこそのお金だなあとの思いを強くしました。貰った資料にはこのお金の価値を安定させることが日本銀行の大切な仕事だと結ばれていました。

資料室は撮影禁止ですが、室外フロアの展示物なら可能ということで、いくつか面白いものを見つけました。

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1億円の重さが体験できる一億円の束
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直系1メートルもあろうかと思われるヤップ島の貨幣


◆お昼は貨幣博物館のすぐ近くの築地で。短い昼休みに何軒もかけもちしたいと地図を片手に駆け回るグループや外国人観光客で、築地場外市場は相変わらずのにぎわいでした。

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築地に来たらやっぱり海鮮丼とばかり、ちょっとがんばりました。2,300円。


◆午後の見学場所は証券取引所です。かっては2000人の立会人でごったがえしていた立会場は1999年に東証アローズにうまれかわり、直径17メートルのガラスシリンダーの中で東証社員が市場監視を行うマーケットセンターも静かなものでした。

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農業像.jpg
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入口受付をはさんで農業、商業、工業、交通通信の4つの像がならぶ。それぞれを象徴する稲穂、蛇、ハンマーなどを手にしている。
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マーケットセンター
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新規上場のセレモニーで打ち鳴らされる上場の鐘、五穀豊穣にちなんで鳴らすのは5回。
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株券立会場のパネル。その日の見学団体の名前が張り出されるので記念に写真をとっていくそうな。

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雑記帳2017-11-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-11-1
◆立川防災館では防災の体験学習ができます。

立川市には、昭和記念公園の東に広がる防災基地があります。政府機関・自衛隊・警察・消防・海上保安庁などが集結し、首都機能喪失時の予備拠点になっているところです。立川防災館はその防災基地の一角にあって、楽しみながら防災体験ができる施設です。

防災ミニシアター、地震体験、煙体験、消化訓練、応急救護訓練の、5つのプログラムが用意されていて、それぞれ30分は必要なので、持ち時間に合わせて好きなメニューを選ぶことができます。

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    入館するとすぐ眼につく消防車。子供の見学も多いので展示も子供向けのに。

オリエンテーションを受けた後、防災ミニシアターへ。20年近く前、開設間もないころに訪れた時に上映されていたのは、もし地震が起こったら家族はどうする?というドラマでした。午前10時頃、夫は会社、子供は学校、主婦は家庭で皿洗いの設定はステレオタイプで、当時でさえ、いささか不自然でしたが、その後、東日本大震災も経験して、地震はより身近になり、上映される映像の種類も増えました。

この日のミニシアターでは、東日本大震災当時の映像を選び、大型スクリーンに映し出される被災地の様子に、6年前のあの日を思い出しました。被害は東京にも及んでいました。

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続いて、地震体験室で震度7を体験。揺れたら、まず、身を保護するためにテーブルの下へ。揺れがおさまったら火を消す、ドアを開けて逃げ道を確保するなどを教わりました。

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  M7の揺れはかなりのもの

火事で亡くなるのはほとんどが煙にまかれるのが原因です。煙体験室では、煙にまかれないよう、暗闇を低い姿勢で出口までたどる訓練をします。

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  煙からの避難のパネル

地震と煙を体験した参加者の一人から、「怖かった。体験してなければもっと怖いだろう」の感想が聞かれました。

防災グッズは様々あるけれど、インストラクターがこれだけは是非と教えてくれたのが、懐中電灯、笛、それに底が滑らないスリッパの3点セットです。これなら簡単なので、枕元に置いて寝る習慣もつきそうです。スリッパは靴に履き替えるまでの室内でガラスの破片などで怪我しないためです。

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    防災グッズの展示

そのほか、応急救護訓練室では全身タイプの人形を用いて心肺蘇生法を、7~80人は入れそうな広い消火体験室では消火器の使い方を学べます。また、タッチパネル式の端末で、防災クイズに答える防災資料室などのコーナーもあり、防災館は子供も喜びそうな工夫がいっぱいです。

◆防災意識の高まったところで、今度は防災食の実習です。

特別に準備する非常食ではなく、常時ストックしている缶詰や乾物を使った料理の講習会を開きました。題して「災害時に役立つレシピ」。

用意したメニューは、鍋で炊く黒豆ご飯、わかめと小町麩、きゅうりの酢の物、さば缶のトマト煮、切干大根とシーチキン缶詰のマヨネーズ和え、コンビーフ入りのマッシュポテトです。

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大豆の栄養については広く知られていますが、黒豆にも同等の栄養素がふくまれています。
さらに皮の黒い部分にはアントシアニン(ポリフェノールの一部)が吹くまれているため大豆以上にさまざまな効能、効果が期待できます。

お米3合に黒豆カップ1杯、フライパンで皮がはじけるまで黒豆を煎る手間(10分くらい)を除けばあとは普通のお米を炊くのと同じ。ふたを取った時、ご飯が美しい紫色に炊きあがっているのには感動します。小さく刻んだ梅肉を加えて混ぜれば梅味の黒豆ご飯の出来上がりです。

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黒豆ご飯

麩は小麦粉に含まれるグルテンという植物たんぱく質でできています。ミネラルも多く含み、安価で保存にも最適。消化もよいので離乳食や高齢者の食材としても優れています。

さば缶はこれまた優れもの。缶詰のトマトソースと一緒に火にかけ、さばを適宜潰しながらコーンも入れて一煮立ちさせればできあがり。まことに簡単で想像以上に美味しいです。

切干ダイコンには植物繊維、カリウム、カルシウム、ビタミンBなど、生のダイコンと比較しても豊富な栄養素を含む食材です。煮物だけでなく酢の物にも利用でき、健康食としても大変すぐれています。

牛乳やお湯でもどす、マッシュポテトの元は市販されており、コンビーフ缶は改良されてあけやすくなっています。

上記のメニューははいずれも非常時だけでなく、いつでもおいしく食べられます。簡単に調理できるので一人暮らしの高齢者にもお勧めです。あまったら冷凍保存も。

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できあがり!!

この日、参加者の中に車いすの女性がいました。まだバリアフリーの普及していなかった時代に建てられた女性センターの調理室は障害者に適応した作りではありません。それでも彼女は積極的にに講座に参加しています。

出来上がった一式は相当なボリュームになりますが、「私、全部食べられそう。」そのときに細身の彼女が言った言葉が心に残りました。「障害者はエネルギーが要るのよ。」健常者の障害者への意識をちょっと変える言葉ではありませんか。


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雑記帳2017-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

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まだ紅葉には早い秋、「ろくもん」に乗りました!

6月に切り株に躓いて転倒、左手首を骨折したとき、台湾同窓会の志田さんが「治ったら、ろくもんに乗りましょう」と言って、励ましてくれました。
それを励みにリハビリに励んだ結果、3か月で、左手の可動域は右手と変わらないほどに回復、10月初めの計測では、握力も15.0kgまで戻りました。

もともと、リハビリを始める時、高齢になって骨折した場合、100%回復は無理と言われたところからの出発です。これを全快と言わずして何だろう、と、はればれ、全快記念の乗車となりました。

「ろくもん」は、しなの鉄道の誇る、軽井沢と長野を往復する観光列車です。
長野新幹線が開通したとき、新幹線の止らない在来線はJRから第3セクターに移管されてしなの鉄道になったのです。戸倉、上田、小諸等の駅に停車しながら、2時間弱の信濃の旅を楽しむことができます。名前は、推察のとおり、上田の城主、真田家の家紋「六文銭」から取ったものです。

軽井沢発の「ろくもん1号」は、チーズが人気のフレンチレストラン「アトリエ・ド・フロマージュ」のメインディッシュ、長野発の「ろくもん2号」は小布施の割烹「鈴花」の懐石料理が出ると言うのが売りです。私たちが乗ったのは「ろくもん2号」でした。

しなの鉄道が「ろくもん」を開業してから3年あまり、ちかごろでは、切符がなかなかとれない程の人気だそうです。私も9月初旬に、ネットで予約しようとサイトをひらいて、うろうろしている間に空席が埋まっていくのを経験しました。なんとか運よく滑り込むことができたのでした。

10月2日。長野駅発13:55。JR長野駅の構内から出発します。

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「線路はつづくよ」の筆者、岩本啓介さんによると、しなの鉄道の車両はすべて117系だそうです。

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    2人掛けのコンパートメント

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 九州の七つ星をデザインした水戸岡鋭治氏デザインののれん(上田紬ではありませんが)

乗車してすぐ運ばれてきたのは、小布施の和食料理店「鈴花」のお重です。
栗の産地として有名な小布施は北斎館があることでも知られています。幕末、北斎親娘が逗留し、町に残された作品は、最近の北斎ブームとともに注目されています。何年か前には、町内の舛一酒造の代表、セーラ・カミングさんの町づくりの取り組みが話題を集めたのを覚えています。街づくりへの挑戦は今も続いているのでしょう。

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壱の重(焼き舞茸のお浸しの小鉢、信州産豚ロース味噌漬けの燻製、小布施栗の渋皮揚げ、キュウリメロンの浅漬け、などの肴)

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弐の重は、信州サーモンのつけ焼、無花果護摩胡桃味噌漬田楽、生麩のタレ焼き、などの焼き物、茄子の瑠璃煮、凍み豆腐などの煮物、デザートの籠盛りでした。
籠盛りのぶどう「天山」は、音だけでなく見かけも天蚕の繭を連想させるような美しい緑色をしています。皮ごと食べられて大きさは巨峰の2倍もあり、値段は1房1万円もするという驚きの葡萄です。

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 月見椀

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小布施栗の栗おこわ

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茶の湯の心を大切にと締めは抹茶で。まんじゅうの餡は小布施の栗餡

千曲川を渡ると、窓外は秋色の風景が広がって、刈り取りの終わった田んぼに「はざ掛け」の稲の列です。

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上田駅では真田武将に扮した駅長さんのお出迎えという、大サービスでした。

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14:52 軽井沢到着。

せっかく来たのだからと、通常なら日帰りの軽井沢に一泊することになり、プリンスホテルのコテージに宿を取りました。

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4人分のベッドに風呂、トイレ、洗面所を備えて林の中に点在するコテージは、家族連れや友人同士が宿泊するにはうってつけです。値段はリーズナブル。別棟の温泉や本館での食事にはカートが迎えに来てくれます。

翌日、新幹線に乗るまでの時間を利用して旧軽井沢を散策。室生犀星の旧居と、避暑地軽井沢発祥の地を巡りました。10月ともなれば観光客も減って、避暑地の秋は落ち着いた気配です。林の中の、人気(ひとけ)のない小路をたどると、犀星の旧居は訪れる人もなく、ひっそりとたたずんでいました。軽井沢の清涼な空気や自然を愛した犀星が疎開生活を送ったこの家に、堀辰雄や立原道造ら若い詩人たちが集った様子を想像してわくわくしました。

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犀星の旧居(母屋と離れ)手入れの行き届いた庭の苔が美しい

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最初に軽井沢を避暑地に選んだカナダ人宣教師アレキサンダー・ショーの別荘

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ショー記念礼拝堂

ショーハウスをあとに、二手橋を渡って矢ケ先川沿いに進む道にも人影は見えず、散策のすえにたどり着いたのは万平ホテルです。今軽井沢で人気のホテルの前身は『亀屋旅館』、別荘を建てる前にショーがひと夏滞在した当時は空き家だったそうです。いち早く西洋のライフスタイルを取り入れた万平さんの戦略は見事に当たったと言えます。

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万平ホテル

「ろくもん」の懐石料理に始まって、朝食はホテルのバイキング、熟年女子のおなかは十分満たされて、後は蕎麦だけのはずだったのが、ここで、蕎麦がケーキに化けました。栗がいっぱいのロールケーキは食べ応え十分、お茶はもちろん、ジョン・レノンが愛したロイヤルミルクティです。
旅の締めくくりとしては申し分のないお茶の時間となりました。

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季節のケーキとミルクティ

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雑記帳2017-10-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-10-1
◆「風鈴雅楽」という、ちょっと風変わりな演奏を聴きました。

7月に和泉舞さんから風鈴の演奏会のチラシがおくられてきました。9月9日の「風鈴雅楽コンサート」と、舞さんの舞踏のコラボのお知らせでした。場所は、3年前舞さんが「原爆の図」を舞った町田市の勝楽寺です。

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40人ほどの観客を前に、本堂にはさまざまな風鈴がならんでいました。
演奏するのは世界でただ一人の風鈴演奏家と称する日向真さん。京都、東山に住み、各地に出向いてコンサートをおこなっているそうです。
今回は彼の作曲した曲と舞踏家の舞さんがコラボするという、面白い試みでした。

琴と尺八、シンセサイザーに、人の声と風鈴の音がかぶさって、不思議な世界がひろがります。演奏者を取り巻く風鈴の中で、とりわけ目をひいたのはずらりと並ぶ江戸風鈴でした。
江戸風鈴は一つずつ音がちがい、10個つくれば10個の音があるといいます。
なので気長に探せば気に入った音階の風鈴を手にいれることができるのだそうです。

神仏にささぐ楽の音と称した演奏会に、舞さんは時に神社の巫女さんや時に曼荼羅をイメージさせる踊り子に扮して登場、寺の本堂はあくまでほの暗く、観客も不思議な空間と時間を楽しむようでした。

◆おなじころ、渋谷のミニシアターで「日曜日の散歩者~わすれられた台湾詩人たち~」というドキュメンタリー映画を見ました。会場のシアターイメージフォーラムは、200席ほどの小さい劇場で、マイナーな作品を上映しています。(ちなみに次回公開作品は「三里塚とあの時代」シリーズということでした。)

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1930年代、日本統治下の台湾に、「風車詩社」というモダニズムの詩人団体がありました。植民地支配により言葉を奪われた台湾で、日本語で詩を書き、新しい台湾文学を創造しようとした詩人たちがいたのです。
日本に留学した彼らは、西脇順三郎に師事、日本の文学者たちとの交流を通して、西洋のモダニズムにあこがれを抱きました。帰国後、「風車」を結成し、日曜日ごとに古都・台南を散歩しながら、シュールリアリズム詩についた語り合ったといいます。

画面には留学中の、深大寺に遊ぶ西脇順三郎師弟の映像や、ダリやピカソなどのダダイズムの作家たちの作品がししばしば登場しました。そこに、来日したジャン・コクトーやチャップリンがいて、期せずして、戦前の一時期、日本にこんなのびやかな空気のあった時代をひもとくような気分もありました。

シュールという新しい文化を創造しようとした試みは、しかし、植民地下の台湾では理解されず、「風車」は2年に満たない短命におわりました。

日常のたんたんとしたの風景が流れ、やがて、戦争に巻き込まれていく様子がモノクロのフィルムで紹介されます。そして、戦時下の不自由な暮らしとそれにとどめをさすような空襲(台湾にも空襲があったのです!)。それらの実像のあいだに、彼らの詩ヤエッセイが挿入されていました。

活躍を別の舞台に求めた詩人たちの中には戦後、白色テロで捕えられたり命をおとした人もいました。彼らは日本語で詩を書いたことが裁かれたのです。植民地時代に言葉を奪われだ詩人が、敵国語で詩を書いたことで死刑になる・・・彼は二度殺されたという人もいます。

歴史にうもれていた若い詩人たちが見直されたのは、現在の台湾の歴史認識の変化や「懐日」ブームのおかげでしょうか。このドキュメンタリーは台湾アカデミー賞をはじめ、多くの国際映画賞を受賞しました。2時間にあまる、テーマに恥じぬシュールな作りのドキュメンタリーでした。

ところで、高校時代、西脇順三郎の名前を知った記憶はありますが、彼がモダニズムの詩人であることを、この度改めて知りました。彼の詩の一節です。
 ―脳髄は塔からチキンカツレツに向かって永遠に戦慄する―
もうしわけないけれど、私には意味不明。上映後、挨拶にたった詩人の八木幹夫さんも勉強しなおしたいと言ったほどです。

この映画を紹介してくれたのは詩人の近藤明理さんです。
台湾独立連盟の委員長の傍ら、お父上の王育徳氏を顕彰する事業の打ち合わせに、日本と台湾を往復する忙しい毎日の合間をぬって、昨年の台湾での世界詩人会議に出席したメンバーの同窓会をつくってくれました。

渋谷駅の一番人気のハチコーのいる出口から、青山通りを目指して宮益坂をのぼった先にシアターはありました。えんえんと続く坂を上るうち、渋谷駅がまさに谷底だったのだと実感できます。東京には谷のつくく地名がどれほどあるのか、確かめてみたい気分になりますね。

近くに国連大学や青山学院大学もあるという立地ながら、おのぼりさんにはめったに来ることもない所なので、お昼はシアターの近くで見つけたマレーシア料理の店を選びました。味は魚醤ベースなので日本人には違和感がなく、とに角辛いのが特徴。値段は普段のランチ程度でリ-ズナブルでした。

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手首骨折後、リハビリを始めて3か月になりました。
バラバラに折れていた骨が芽を出し始め、療法士さんは「骨の赤ちゃんができた」と言って喜んでくれました。これから運動して大切に育てていかなくてはなりません。自転車にはまだ乗れませんが、握力は13.0まで回復しました。

すっかり秋らしくなりました。小林マサさんがおはぎをつくってもってきてくれました。

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雑記帳2017-9-15 [代表・玲子の雑記帳]

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三鷹は何人もの文人の住んだ町、太宰治もその一人です。

作家太宰治は、1939年<昭和14年)東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居、1948年(昭和23年)6月に自死するまでの9年間に、代表作「走れメロス」や「人間失格」、「斜陽」を始め、多くの作品を発表しました。

わが家は、昭和50年代のほぼ10年間、三鷹市に住んで、子育てをしていた時期がありました。
近くに玉川上水がありましたが、当時上水は空堀で、ここで太宰が入水自殺したと聞いても実感がなかったのをおぼえています。(玉川上水は昭和46年に空堀化、下水処理水を利用して水流が復活したのは61年のことでした。)

偶然、旅行会社のツアーに「太宰治の足跡コース」をみつけて、参加してみました。
自分自身がファンではなかったにせよ、今なお、多くの若者を引きつける太宰を少しは知ってもいいではありませんか。

当日は、三鷹駅周辺の太宰が執筆のために借りていた仕事部屋やなじみの酒屋などの跡をめぐり、入水した上水に沿って歩いたあと、下連雀の住宅街を抜けて太宰の眠る禅林寺まで、約2時間半のコースです。

集合は三鷹駅。駅のそばを流れる玉川上水にかかる三鷹橋で、ガイドさんから三鷹の由来を聴きました。
三鷹が発展した契機は2つ。一つは勿論、玉川上水ができたこと、時あたかも明暦の大火のあと、幕府は防災上の政策から、火除地としてこの地を選び、神田連雀町の住民を移転させて開拓にあたらせたことです。私も住んでいた下連雀の名前はここから来ていたのです。もうひとつは昭和4年に中央線に三鷹駅ができたこと。関東大震災を期に進んでいた都内からの移住に弾みがつきました。

その三鷹駅は当初電車庫として開設され、車庫をまたぐ跨線人道橋の「睦橋」を太宰が好み、編集者や弟子たちをつれてよくおとずれていました。

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とおく富士山を望むこの橋の上から太宰がどこを見ていたのかわかりませんが、電車庫は鉄道好きの子供にとっては格好の遊び場です。息子も小学生のころ、日がな一日電車を眺めて飽きませんでした。

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跨線橋から見下ろす三鷹電車庫


太宰の傑作の多くは三鷹時代に生まれました。疎開先の金木町から戻って最初に仕事部屋にしたところが「中鉢家」。今はマンションになっています。太宰はここに毎日弁当を持って通い、「朝」や「ヴィヨンの妻」を書きました。

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中鉢家跡

「犯人」や「斜陽」を完成させた、二度目の仕事部屋、「田辺肉店」の、道路をはさんだ真向かいに、酒好きの太宰が通った「伊勢元酒店」がありました。跡に建つマンションの1階に、「太宰治文学サロン」が誕生しました。太宰没後60年、生誕100年を記念して、資料展示や情報発信の場にしようと、平成20年に三鷹市が開設したのです。今では市民の交流の場にもなっているということです。

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ちなみに、三鷹の南北に延びる道路は、新田開発のときの道をそのまま残しています。そして、斜めの道路は、実は玉川上水から引いた用水のあとなのです。

太宰が最後の仕事部屋に選んだのが野川家でした。ここには心中の相手、山崎富栄さんが住んでいました。美容師だった富栄さんは、食事や薬の世話など、献身的に病身の太宰の介護をしたといい、ガイドの斎藤さんはとても彼女に同情的でした。

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野川家のはす向かいには、太宰が作家仲間や編集者と打ち合わせに使っていた小料理屋「千草」がありました。太宰の行方不明時には捜索本部となり、遺体発見後には検死場所ともなったところです。今も多くのファンが集う「桜桃忌」の世話をしたのがここのご主人鶴巻幸之助さんでした。ここから玉川上水はすぐそばです。

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清流の復活した玉川上水に、太宰の入水したあとをたずねました。むらさき橋を中心に上水に沿って整備された遊歩道は「風の散歩道」と名づけられて、中ほどに、太宰の故郷金木町産の玉鹿石がおかれています。太宰がよく散歩した玉川上水のこのあたりは当時、滝のような流れだったそうです。
散歩道が吉祥寺通りに出会う地点に、上水を挟んで井の頭公園を前にして建つのは山本有三記念館。あいにくと改修中で、中を見ることはできませんでした。

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塀越しに有三記念館
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昼食は有三記念館のそばにあるレストラン「エサンス」で。

昼食後は太宰の旧居のある下連雀の住宅街へ向かいます。
住宅街の中にある井心亭(せいしんてい)は、ある実業家の住居を市が譲りうけて、市民の文化施設にしたものです。太宰一家が住んだ借家はそのすぐ近くにありました。4畳半と六畳、三畳の平屋の小さな家は今も残っていますが、周辺のお屋敷にうもれて、道路から遠目にみるのがやっとでした。
その門柱脇に植えられていた百日紅が井心亭に移植されています。夏のこの時期、百日紅は満開でした。太宰は百日紅が好きだったようで、玉鹿石のそばにも百日紅が植えられていました。

最後の目的地、太宰の眠る禅林寺は、旧居からそう遠くない、連雀通りに建っています。
黄檗宗の寺は森鴎外の墓があることでも有名です。
神田からの住民の移住に伴って創建された寺はもともとは築地本願寺派でしたが、元禄のころ、台風で再建される際に黄檗宗に改宗したということです。太宰は宗派を承知で禅林寺に葬られることを望んでいたといいます。
6月19日の桜桃忌には、いまも太宰を偲ぶ多くのファンが全国から集います。
この日は太宰の誕生日ですが、同時に、奇しくも遺体があがった日でもありました。

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禅林寺山門
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鴎外の石碑
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太宰治の墓


めぐった各所に三鷹市のつくったプレートがあり、「太宰の生きたまち」を町づくりに活かそうとしている様子がわかります。市ではさらに、近々、有三記念館のような立派な太宰治記念館を作る計画をしているそうです。

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雑記帳2017-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-9-1
丸の内は今日本で一番おしゃれな街?です。

1914(大正3)年に竣工した東京駅は100年を期して復原されましたが、何度訪れても、見落としていたものも含めて、そのたびに新しい発見があります。駅前広場も整備されてきました。
新丸ビル7階「丸の内ハウス」のテラスからは東京駅の全景を眺めることができます。

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丸の内南口天井
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駅前広場
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新丸ビル7階のテラスから見た東京駅全景

丸の内にあった旧日本国有鉄道本社ビルは丸の内OAZOになって、東京駅に一番近い商業施設です。
名前のオアゾ(OAZO)は、丸の内地区(O)と大手町(O)を包括的に(AZ)結ぶ、「Office&Amenity ZOne」であることを表現すると同時に、エスペラントで「オアシス、憩いの地」を意味するオアーゾ(oazo)の意味も含んでいるそうです。
このビルの一階〇〇広場(おおひろば)は「丸の内(〇:マル)と大手町(〇:オー)をつなぐ広場」というのが名称の由来。ピカソの『ゲルニカ』の原寸大複製陶板壁画が飾られています。


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大正12年(1923)に完成した丸ビルは戦前期最大のビル。オフィスの低層部をショッピングスペースとした先駆的なもので、近代的なイメージは長い間丸の内を代表する建物でした。その大きさから、建造物の大きさの比較単位として「丸ビル何杯分」などと引用されることもありました。
建築当時、地盤がしっかりしていなかったため、建物の基礎にはオレゴンから輸入した550本の松の木が使われました。日本にはこれほど大きい松材はなかったのだそうです。(ちなみに東京駅には1,100本使われています。)

丸ビルは建て替えられましたが、旧丸ビルの名残として、松の丸太はステンドガラスとともに、行幸通りに面した一角に展示されています。

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床に埋め込まれて展示されているオレゴンの松
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旧丸ビルにあったステンドグラス


丸ビルのそばに、帆船の彫刻があるのをご存知でしょうか。オランダ船リーフデ号です。
1600年、豊後臼杵湾に漂着したことが日本とオランダの外交の発端となったのは広く知られるところですが、その時、徳川家康に呼び寄せられ、のちに貿易顧問となったのが、イギリス人のウイリム・アダムス、三浦按針と、オランダ人ヤン・ヨーステンです。ヤン・ヨーステンは今の八重洲に屋敷をあたえられここに住んだことから、八重洲の名の由来になりました。いつの世も情報を制する者が覇者となる、信長がそうであったように、家康も実にまめに情報収集していたようです。
オランダの東インド会社は当時アジア貿易を寡占していたポルトガルを抑え、日本貿易を独占するまでになるのですが、ヤン・ヨーステンは東インド会社の日本駐在員でもありました。今の日本の経済の中心である丸の内にリーフデ号が飾られているのもなるほどの感がありますね。

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東京中央郵便局の局舎を保存しつつ建て替えられたのがKITTEビルです。KITTEには「切手」と「来て」の意味があるそうです。外壁は旧来のものを残し、中はおしゃれなショッピング街に生まれかわりました。
ビルのそばに植えられているタラヨウは、肉厚の葉が20センチもあり、葉の裏をきずつけて文字を書くことができることから、郵便局の木として、かってはどこの郵便局にもあったのです。

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旧舎を残した高層のKITTEビル
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内部はおしゃれなショップが並ぶ
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タラヨウの葉


ジョサイア・コンドルの設計した三菱一号館は現在、美術館になっています。一号館広場は緑あふれるローズガーデン、オープンテラスのカフェやバーがおしゃれです。

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馬場先通りを行けばお掘の前に明治生命館。
1928年に建設された建物は、太平洋戦争後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収、アメリカ極東空軍司令部として使用されました。
コリント様式の柱が並ぶデザインは古典主義的で、先の中央郵便局のモダニズムと対照をなすものでした。
1997年(平成9年)、昭和の建造物として初めて重要文化財の指定を受けました。

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丸の内仲通りは箱根彫刻の森とタイアップしたアートスポットにもなっていて、草間弥生さんの作品をみつけました。おなじみのかぼちゃのモチーフで、「われは南京」の名前がついていました。
この通りは歩道と車道の広さが同じです。歩道でランチやお茶をゆったり楽しむことができると、丸の内で働くひとたちが羨ましがられるところなのだそうです。

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「われは南京」


◆傅益瑶さんの『芭蕉 生命の賛歌』が終了しました。
風流の人、芭蕉の、5ヶ月間の奥の細道の旅のあとをたどり、一句一句を水墨画に顕した傅さん独特の世界でした。36回、1年半の連載でした。


◆立川にもねぶた祭りがあります。青森出身のラーメン家さんの縁で始まったということですが、羽衣ねぶたは今年で19回目を迎えました。10万人もの来場者を数える一大イベントになっています。

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雑記帳2017-8-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-8-15
立川市の学習館で丸木美術館の岡村さんの話をききました。

終戦記念日のある8月は日本中が平和を考える月です。立川市の柴崎学習館では、毎年この時期に平和人権講座をひらきます。
今年は「ヒロシマ・ナガサキを考えよう」のテーマで、原爆の写真展を始め、1週間、講座や映画の上映が行われました。岡村さんの講座はその最初を飾る講座でした。

原爆投下直後、広島に駆けつけた夫妻は「原爆の図」制作を決意、1950年に第一部「幽霊」を発表します。1950年は、米ソが核開発をはげしく競い始めた年であり、8月には朝鮮戦争が始まった年でもありました。
占領軍の検閲への配慮から「原爆」という言葉は使わず、「八月六日」の題名で発表された絵は、きのこ雲でも焼け跡でもない、生きながらにして肉体を焼かれた人間を描いたものとして、世界に強烈な印象を与えました。

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火    

「原爆の図」は丸木位里、俊の共同製作としても知られています。
戦後、芸術の大衆化という問題意識から、芸術家の共同製作が流行しましたが、理念の先行したその動きは時を待たずしてすたれました。そのなかで、二人でなければ描けないと思いさだめた夫妻の共同製作は夫の位里が亡くなるまで続きました。
水墨の位里、油の俊が共同することで融合し、それは新しい絵画を拓く野心的な試みでもあった、と岡村さんは話していました。

第2部の「火」、第3部の「水」を描きあげたころから、「原爆の図」の全国巡回展が始まります。
広島の爆心地から始まった巡回展は、公民館、学校、映画館、教会、寺社、公園など、会場は170か所以上にもなりました。こんなに多くの会場で見られた作品は恐らく他にないのではないかとも、岡村さんは話していました。
巡回展は立川市でも、1952年にひらかれて、多くの市民が訪れました。
その時の記録集の冒頭には、「二度と広島の悲劇をくり返すなの思いをこめて集まった、何の報われることも求めない青年達によって」この展覧会がもたれたと書かれています。

鑑賞者が増える一方、「原爆の図」は批判にもさらされることになり、夫妻は一つ一つその批判に応えようとしました。
全米にベトナム戦争反対の機運がひろまった1970年、アメリカでの最初の巡回展が実施されました。当時、原爆投下が戦争終結に役だったと思われていたアメリカでの巡回展は快く迎えられたものではありませんでした。その中で、夫妻は犠牲者の中に米軍捕虜もいたことを伝え、その時のやり取りを通して、戦争には被害だけでなく加害の面もあることに気づくのです。
その気づきから、第13部「米兵捕虜の死」、第14部「からす」が生まれました。
「からす」は、差別の中で葬られることもなかった被爆者の遺体にからすがよってくるという、むごいテーマです。
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救出
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母子像
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とうろう流し

原爆の図は15部で完結しますが、夫妻の戦争観の変化は、その後、公害など形を変えた暴力へ視点をひろげ、「南京大虐殺の図」や「沖縄戦の図」へと展開していきました。
それは、歴史の中で切り捨てられる弱者への想像力だと、岡村さんは言います。
傷つき死んでいった人たちにもう一度命を吹き込む作業は、二度と同じような惨禍をひきおこさないようにと訴え、異なる状況で苦しんでいる人を支え励ますことです。
公害や貧困、基地問題など他者の抱える痛みへの想像力はどこかで生命を救っていく、丸木美術館のさまざまな企画は生命を考える活動だと、岡村さんは結んでいました。

丸木夫妻の亡きあと、2015年、原爆の図は再び、米国巡回展を行います。
ワシントンDC、ボストン、ニューヨークを巡った展示の評価は、偏見が全くなくなったわけではないにしろ、1970年とは異なるものでした。特に、屈託のない若者の姿は未来への希望を抱かせるものでした。
ニューヨークの展示はその年のブルックリンパネル展のベスト10にも選ばれたそうです。

原爆の図丸木美術館は埼玉県の東松山市にあり、建物のすぐ後ろを都築川(ときがわ)が流れています。その風景が、大田川の流れる丸木位里の故郷に似ていることから、夫妻がこの川のほとりに美術館を建てたのだそうです。半世紀を過ぎて老朽化した建物を、耐震や空調の設備をそなえたものに建て替えるため、いま、募金を募っています。

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丸木美術館
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都築川の夏

※「原爆の図」の画像はかって『知の木々舎』に連載した『都築川のほとり通信』で使用したものです。


退院からほぼ2カ月がたちました。リハビリは順調です。

退院と同時に週2回のリハビリに通うようになりました。
担当の理学療法士さんとはすっかり打ち解けて、40分があっというまに過ぎます。
リハビリ室に通う患者さんは当然のことながら高齢者が圧倒的に多い。
わたしのように手首を骨折した人もいれば、脚を折った人、脳梗塞の後遺症で不自由になった人…。
骨折の場合も、傷の程度、年齢によって回復状況はみな違う。療法士さんはそれぞれに応じたメニューをつくってくれます。
近年の作業療法の進化はすごい、漫然と通っているだけにみえても、この間に確実に私の左手の自由度が増しました。

慣れてくると、他の患者さんとも顔なじみになります。
皆さん、担当の療法士さんと屈託のないおしゃべりをしている様子、私もいつのまにか、家でのちょっとした出来事なんかを話していました。
昔から、床屋や美容院では、頭をかまってもらう間、客はとりとめの無い話をする、そんな構図がありましたが、療法士と患者の関係も似たようなものだと気付きました。療法士さんはみんな聴き上手です。

そして、彼女はほめ上手です。前回出来なかったことができるようになると、「すご~い」と言ってほめてくれるのです。年寄りだって褒められると嬉しくなるものです。
「心と体は一体みたいなところがあるので、楽しい話をしていると、固まって動かないと思っていた指が動くようになっていることがあるんですよ。」
リハビリ15回目の今日、療法士さんが言った言葉です。

当初言われた通り、手の甲や手首周辺の腫れはかなり改善されたものの、指のむくみはまだとれません。
指は心臓から一番遠く、血のめぐりが悪いからだそうです。
このため、機能の指と言われる3本の指、親指、人差し指、中指を支える指、薬指と小指にまだ力がはいりません。

それでも開始時0.5キロしかなかった左手の握力が10キロになりました。そろそろ筋肉トレーニングが始まります。目標は15キロ。達成したらまた自転車に乗れるのです!

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雑記帳2017-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-8-1

立川のはたけ!見学と交流会

7月上旬、農業経営者クラブと立川市消費者団体連絡会が参加する農消連携会議主催による「立川の畑見学と交流会」が行われました。毎年、この時期に実施する見学会は10年を越えており、市民の都市農業への理解をふかめ、一緒に農業の在り方を考える、良い機会になっています。

今年は新会長の金子さんのこだわりの3つ圃場を見学、給食センターでこの日の給食の試食をしながらの交流となりました。

参加した市民からは、はじめての参加で新鮮だった、こんなに広い農地が立川にあるのを知らなかった、直接話を聞いて農家の努力が判ったなどの声が寄せられました。

◆幸町の植木生産農家 高橋さん

立川市は実は、全国でも屈指の植木の生産地なのですが、需要の大部分が都市の街路樹や大きい施設のため、家庭の消費で注目されることはありません。

高橋さんの畑では、ソヨギ、シラカシ、ハナミズキなど数十種類の植木を栽培、需要に丁寧に対応していると評判です。今の季節の花はなんといってもヤマボウシでした。

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◆柏町のくだもの農家 高橋さん

果物栽培は最近ではハウス栽培が主流です。高橋さんの10棟を越える大型のハウスでは、ブドウ、イチジク、ベリー類、キーウイなど、多品種が栽培されていました。水やりの工夫など、ハウスならではの苦労もあるようですが、雨にうたれることで生じる病気や虫害の心配がなく、ハウスの中でたわわに実った大きなブドウに歓声が上がりました。

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◆西砂町のグランドカバー農家 村田さん

砂川地区はおよそ350年前、江戸の住民に飲み水を供給するために玉川上水が引かれてから開発された農村です。村田さんはその11代目。もとは植木農家だったそうですが、お祖父さんの代から徐々にグランドカバーに転換してきました。現在、シバザクラやタマリュウなどのグランドカバーのほかに、植木や野菜も栽培しています。公道をよこぎり、線路もまたぐ、広い農場に驚きながらの見学でした。

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◆交流会は給食センターで。

この数年、見学地に近く、立川野菜の直売所「ファーマーズセンターみのーれ立川」がすぐそばにある給食センターが、交流会の会場になっています。給食費272円という安さも手伝ってか、参加者には好評です。50人の参加者は8つのグループに別れて、テーブル毎に試食と意見交換を行いましたが、中には給食が楽しみという声もありました。。

この日のメニューはまぜビビンバ、とうふナゲットにはるさめスープ。
 
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食材は全国から。地産地消の観点から出来るだけ立川産の野菜を使いたいと思っているが、立川の農家は少量多品種を栽培する農家が多いので、量的にカバーしきれず、契約してくれる農家が限られているという現状を、栄養士さんから聞きました。

確かに、一軒の農家では対応できないとしても、複数の農家がまとまれば応えられる、それをコーデネートするところがないというのが課題のようでした。

3軒の農家はいずれも若いご当主が対応してくれて、埼玉出身だという参加者からは、「立川は後継者がいて羨ましい」の声もでました。

交流会のあとは、「みのーれ」でお買い物。朝とれたばかりの野菜だけでなく、立川産の小麦粉や豚肉にも関心が集まりました。東京産の銘柄豚「とうきょうX」とまではいかずとも、地元産の豚肉があるということを知る市民はまだ少ないようです。

1992年に施行された生産緑地法の下で、3年後の2022年には納税猶予制度の期限が切れます。このときに農地がいっせいに売りに出されるのではないかと懸念されています。

現在猶予制度を利用している農家が、さらに営農を30年間延長してくれることを祈るばかりです。

一方で、都市の農地は宅地化すべきとした時代は終わりました。ようやく都市の農地が「あるべきもの」と位置づけられて、環境共生型の都市を形成する上で、農地は重要な役割を果たすものととらえられるようになったのです。

交流会などを通して、身近に生産される畑があることが、じつは都市の生活ではとても貴重なのだということがひろく理解されていくことが期待されています。





雑記帳2017-7-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-7-15

お伊勢参りは内宮外宮だけではない! 伊勢参りの王道を行く!

式年遷宮のあった4年前、注目され人気上昇した伊勢神宮に縁あってでかけました。

名古屋で近鉄特急「宇治山田」行きにに乗り換え、到着した近鉄宇治山田駅は有形文化財にも指定されている由緒ある建物です。お伊勢まいりは外宮からと言われ、通常、観光客は駅の目の前にある外宮の入り口をめざします。

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   全長120メートルの宇治山田駅

ところで、正統派の伊勢参りがあるのをご存知ですか。それは、先ず二見浦へ行って禊ぎをすませてから外宮、内宮を巡り、最後に奥の院は伊勢神宮の鬼門にあたる朝熊山(あさまやま)に詣でる、というのが正式な伊勢参りなのだそうです。

今回、それと知らず参加したツアーは、その正統派ルートを辿る旅。外宮の鳥居を横目にバスで二見浦へとむかいました。

車で20分程度の距離にある二見浦は清らかな渚とされ、古来より伊勢神宮を参拝する人はその前に二見浦で禊を行って、身を清めたといいます。この習わしを「浜参宮」と呼んでいました。 

二見浦には天照大神を先導した猿田彦大神と豊受大神(外宮)を祀る興玉神社があります。

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二見興玉神社の鳥居

二見浦のシンボル、夫婦岩は、大小二つの岩を注連縄で結んでいて、沖合700mの海中に沈む猿田彦大御神の霊石と日の大神(太陽)を拝する鳥居としての役割も果たしています。

夏至には二つの岩の真ん中からご来光が見られ、冬至にはここから月があがるということで、この日を狙って観光客も大勢おとずれるとか。

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夫婦岩
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並ぶ絵馬とおみくじ

天照大神の食事を司る神豊受大神(とようけのおおかみ)をまつる外宮は、内宮建設から500年後に、この山田原の地にむかえられました。

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日除橋を渡って外宮の中へ。なぜか左側通行。

 20年ごとの式年遷宮は内宮だけではありません。外宮も含めて末社125社に至るまで改修するのだから大変です。そして、木材は総て有効活用される、窮極のリサイクルです。

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外宮正殿(撮影できるのはここまで)
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隣接する跡地。次ぎの遷宮のときにはここに正殿が建つ。

外宮を出て、バスで15分ほどでいよいよ内宮に到着。

皇大神宮と呼ばれ、天照大神をまつる、我が国で最も由緒あるお宮です。因みに正式名称は「神宮」で、神宮といえば伊勢神宮をさすのです。五十鈴川の川上に、千古の森に囲まれて、2000年の時を越え、古代の佇まいを今につたえている、ともらったパンフレットにありました。

宇治橋にある擬宝珠には遷宮に携わった棟梁の名前や荒祭宮の荒御霊がおさめらています。

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 宇治橋を渡る。ここは右側通行。

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五十鈴川で手を清める

伊勢神宮は日本一のパワースポット。宮内にパワースポットはいくつもあるらしいのですが、巨木はその存在だけでパワーを感じます。これは特に大きいうえ、しめ縄をはっていないので自由に触れるとあって、つるつるです。


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内宮正殿
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パワースポットならぬ巨木も人の手が触ってつるつる

内宮の見どころはなんと言ってもおはらい町とおかげ横町です。

おかげ横町は。江戸時代のおかげ参りの頃の伊勢の様子を再現して、建物や食べ物、様々なイベントなどで、伊勢の風土や日本の文化を楽しむことができます。

松阪牛(まつさかうし)の串焼きやコロッケを食べ歩きしながら、おかげ座神話の館では『知の木々舎』にご縁のあった内海清美さんの和紙人形に再会しました。

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  おはらい町の通り

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 おかげ横町には招き猫やカエルがいっぱい

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おかげ座
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 国生みや黄泉の国、尼の岩戸や八岐大蛇など、おなじみの神話の世界を和紙人形で。

伊勢参りの最後は伊勢志摩の最高峰555メートルの朝熊(あさま)山です。その山頂近くに伊勢神宮の鬼門を守る金剛證寺(こんごうしょうじ)があります。

伊勢志摩スカイラインを走るバスの窓外には手入れの行き届いた神宮林がひろがり、眼下には伊勢志摩の絶景がながめられます。

金剛證寺は弘法大師を中興の祖とするほどの歴史ある寺。現在は臨済宗。竜宮城を思わせる極楽門をくぐって奥の院につづく道は、墓石の代わりに卒塔婆がたちならぶ、珍しい光景を見ました。
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金剛證寺仁王門
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 最長8メートルの塔婆の値段は50万円。石よりは安い?

室町時代には「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」とまで言われて参拝客でにぎわったといいますが、現在では奥の院まで参詣する観光客は少ないそうです。

若干足の便が悪いため伊勢参りと言えば内宮と外宮の参拝ですませる人が多いのか、今回のバス旅も参加者は定員の半分ほど、江戸のおかげ参りを思いながら、偶然とはいえ、ちょっと得した気分ではありました。

雑記帳2017-7-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017ー7-1

◆晴天の霹靂、予想もしなかった入院は意外にも快適!

6月11日、薄暮の頃、道路を横切ろうとして、不覚にも植え込みの木の根に躓いて転倒、左手首を骨折するという、どこかで聴いたような話をまるで地で行く事故が起こりました。

休日ゆえ、駆け込んだ病院で、簡単な検査と応急手当をしてもらい、(その時に言われました。「立派に折れています」)翌日、正式に整形外科を受診、入院、手術と相成りました。先生はレントゲン写真を見ながら、

「2本折れてますね。ばらばらです。あす入院してください。」

「入院って、どれくらいですか?(やばい、15日の更新にかかってしまう)」

「まあ、水曜日(14日)の手術で、数日で退院できますよ。」

「そんなに簡単なんですか。(よかった、それなら4、5日遅れで6月15日号が出せる)」

下手な胸算用をして、はればれと入院したのは、市内で一番新しい総合病院です。

駅にも近いというロケーションの良さは魅力的、4階の大部屋からはちょうど多摩都市モノレールが10分ごとに走ってくるのが見える、見晴らしのいい別の窓からはヤギのいる風景や、晴れた日には遠く山並みもみえると言う。

この時点では土曜日退院をもくろんで、退院さえすれば元通りとばかり意気軒昂でした。


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 部屋からはモノレールが見える。
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  あいにくのお天気で山は見えないけれど…、

しばらく縁のなかった間に病院の進化はめざましく、新しい建物はトイレを初め、設備はまことに快適です。部屋や廊下の洗面所に置いてある手ふきの紙も上質のテイッシュペーパーで、我が家よりもずっと贅沢でした。

骨折の手術なんぞ、本人にとっては重大事だけれど、医者にとってはたいしたことではない。呼び出しがあると、自分で歩いて手術室まで行く。ドラマのようにストレッッチャーになど乗せてくれない。部屋にはいると体育会系の先生がおまちかね。「やあ、いらっしゃい。」「先生、よろしくお願いします。」
若い美人の麻酔の先生の顔をながめているうちに、いつの間にか手術は終了。
唯一自分が病人だと思わされたのは、麻酔から醒めてトイレに行くとき、点滴のポールをひっぱって行かなければならなかったことだけです。その点滴も翌日の正午にはとれました。

入院中の楽しみは食事です。

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入院最初の食事

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手術当日は朝から1日絶食。術後初めての朝ご飯

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朝はご飯とパンが交互に出る。
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  1日1400Calの3度の食事メニュー。 130gのご飯は意外に食べごたえがある。

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月に一度は出るという行事食。6月の行事食は鯵に大葉、ゴマの混ぜご飯、デザートには葛饅頭。

病院は今やサービス業。入院患者が少しでも楽しめるように工夫をこらす。行事食もその一つなら月に一度のコンサートまであります。6月は琴の演奏でした。


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サロンの演奏会風景

術後3日目。土曜日の朝、顔を出した主治医は傷をみて、

「いつでも退院していいですよ。」

「(確かに言われたとおりだ。)そうおっしゃってもこの不自由さでは放り出されても困ります。せめて週明けにして。」

「ではそういうことで。ご家族にも説明しましょう。」

「今日の午後、娘がきますのでよろしくお願いします。」

夕方、仕事を終えて面会にきた娘夫婦にレントゲンをみせながらの説明は、「折れてずれた骨を持ち上げてボルトで固定したので、もう1本のずれていた骨もつられて持ちあがりました。あとはばらばらになっている骨が芽をだして、自然にくっつくのをまちます。抜糸の必要はありません。その間、しっかりリハビリしましょう。」

近頃は入院も退院も簡単なものです。

短い期間だったけれど、看護士さんの観察はたのしかった。若い男性の看護士も増えているようでした。

ちなみにまだ看護婦と呼ばれていた時代でも、男性がいなかったわけではなく、80歳代の知り合いの話によると、「僕の高校の同級生に3人、看護士になったのがいますよ。そのうち2人は精神科に行きましたが、1人は一般の病院でした。」

もう何十年も前だ、女性ばかりの「看護婦」さんの世界で、居心地は悪くなかったかしら。力のいる場面では、きっと重宝されただろうけど…

で、現在の若手男性の看護士さんは年寄りの扱いが上手です。4人部屋なので、聞くともなしに聞こえてくる会話がおもしろい……。

「○○さんのお食事には、調味料に僕の愛情をいっぱいいれてますからね。しっかり食べてくださいよ。」(○○さんは食が進まない様子でした。)

「△△さんは何でもわかってるんですね。覚えていないだけなんだ。いい性格してるなあ。ほんと、いい性格ですよ。」

高齢の女性患者に語りかける彼の声はとてもさわやかでした。

こうして、入院から1週間で、めでたく解放されることになりました。

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最後の食事(19日朝食)

退院してわかったことがあります。

退院をもとの状態にもどっていることだとばかり思っていたのは全くの間違いでした。

添え木をした左手は相変わらず三角巾で吊っていなくてはならず、おれた骨がつくまでは時間がかかり、少なくとも3か月のリハビリが必要なのだそうです。

落ちた筋力を回復するのは大変だと脅されながら、でも頑張ろう。

そんなわけで、『知の木々舎』196号になるはずだった6月下号の更新ならず、9年目にして初めて休刊になったことをお詫びいたします。7月上号が196号になりました。196号には、本来6月下号に掲載するはずだった記事もいくつか載せています。

◆以前『核無き世界を目指して』のコーナーに、丸木美術館学芸員の岡村幸宣さんと往復書簡「記憶への架け橋」を連載していた和泉舞さんが復帰しました。「気随気儘」のタイトルで『雑木林の四季』に登場します。

◆関千枝子さんと中山士朗さんの対話随想が、このたび、『ヒロシマ往復書簡第Ⅲ集』になって、西田書店より刊行されました。被爆71年目の昨年、オバマ大統領が広島を訪問してオバマ効果に湧きましたが、広島が観光都市ではなく、核兵器廃絶、恒久平和のために戦い抜く都市であってほしいという思いで結ばれています。お二人の対話随想は『知の木々舎 』紙面ではまだまだつづきます。

   『ヒロシマ往復書簡 第Ⅲ集2014~2016』  西田書店  1600円(本体価格)

雑記帳2017-6-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-6-1
浅草は名にしおう寺町です。稲荷朝から田原町を歩きました。

集合は東京メトロ銀座線稲荷町そばの下谷神社。
改札を出て地上に出ればビルの間に赤い鳥居が目にはいります。

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下谷神社鳥居

730年ごろの創建で、かっては下谷稲荷神社とよばれていたことが、稲荷町の名の由来です。江戸で初めて寄席興業がおこなわれた境内には「寄席発祥の碑」があります。
隣の「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉」は子規の句です。
拝殿天井の横山大観の龍の絵が有名だそうですが、写真がうまく取れなかったのが残念。
鳥居の下谷神社の字は東郷平八郎の字です。

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子規の句碑

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東郷平八郎の手になる「下谷神社」の字

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神社境内にある下谷稲荷神社

浅草は寺町。下谷神社をでて浅草通りを歩けば、仏壇屋さんがずらり。ここは浅草神仏具問屋、小売店街なのです。

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仏壇の看板が並ぶ浅草通り

浅草通りに交差する清洲橋通りと左衛門橋通りの間には数多くの寺があります。
加納治五郎の講道館発祥の永昌寺、正月のまな板びらきで有名な報恩寺をすぎて源空寺へむかいました。
源空とは法然のこと。道路を挟んで寺の向かいにある墓地には、伊能忠敬と、忠敬の師に当たる高橋至時(たかはしよしとき)、その子、景保の墓があります。
天文学者だった高橋至時は、伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助します。
景保は忠敬の没後、彼の実測をもとに「大日本沿海輿地全図」を完成させましたが、その写しをシーボルトに贈ったことで、囚われて獄死します(シーボルト事件)。45歳でした。地図は当時、禁制品扱いだったのです。国外追放になったシーボルトの方は、のちに恩赦により再来日して幕府を助けます。
伊能忠敬、高橋親子の三人は、「大日本沿海輿地全図」組三人頭とよばれています。
狭い墓地には他にも、谷文晁や幡随院長兵衛夫婦が葬られています。


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伊能忠敬の墓 字は子斉、号の東河の文字がかすかに見える。

続いて「かっぱ寺」と呼ばれる曹洞宗の曹源寺を訪ねました。
明暦の大火により、和田蔵門から移転してきた寺でしたが、当時、一帯は低地で水はけが悪く、水害になやまされていました。そこで、当地の商人、合羽屋喜八が資材を投じて新堀川(現在の合羽橋通り)を開削。工事のおり、かって喜八が助けた近隣の大川に住んでいた河童が手伝ったとの言い伝えがあり、合羽橋の名の由来にもなっています。
河童大明神にはその河童の手がおさめられているというのですが…

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曹源寺の河童明神

同じく明暦の大火により移転してきた日蓮宗の本覚寺の本堂は、仏教寺院には珍しいステンドグラスがつかわれています。

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本覚寺本堂のステンドグラス

通し矢で有名な京都の三十三間堂にならい、家光は江戸にも三十三間堂を創建しました。三十三間堂は元禄11年の大火で深川に移転しましたが、守護神の稲荷大明神はここに残りました。弓矢の錬成道場の的先にあるという意味で、矢先神社と呼ばれます。


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馬を祀る神社とあって、壁にも天井にも馬の絵。

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天井には100頭の馬。それぞれ馬にまつわるエピソードがある。

聖徳寺は気付かずに通り過ぎてしまいそうな小さな寺です。ここに、多摩の住民にはなじみの深い玉川上水を開いた玉川兄弟の墓があります。
玉川上水は今から350年前、膨張する江戸の人口に応じて、多摩川から水を供給するために作られました。羽村から四谷大堰まで40km、高低差の少ない地形を、苦労のすえ、わずか半年で完成させ、神田上水とともに江戸の市民の生活を支えました。
上水からはその後多くの用水が引かれ、武蔵野台地の新田開発が進んだのです。

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聖徳寺の玉川兄弟の墓の碑

かっぱ橋道具街は調理、厨房商品はなんでもそろうと言われる、食関連の道具専門の問屋街です。南北800メートルの通りに170以上の専門店がたちならび、100年以上の歴史を持ちます。
食品サンプルは海外の旅行客にも大人気です。

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合羽橋通り
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本物と見まがうばかりの食品サンプル

商店街の裏にある東本願寺は東京で最大の寺院です。
信長と激しく対立した本願寺は石山合戦を経て、西と東にわかれました、その後、西は豊臣が、東は徳川が支援したことで知られます。
神田に建立された江戸御坊光瑞寺を起源とする同寺は、明暦の大火後、浅草に堂宇を建てて東本願寺別院となり、同時に、もともと浅草にあった西本願寺派の浅草御坊は江戸湾を埋め立てて築地に移転し、今の築地本願寺となりました。

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東本願寺

今日のお昼は「花伝」で。こじんまりしたおしゃれな和食のお店でした。

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盛りつけもおしゃれ、デザートの白玉にはお抹茶がついていました。

◆5月29日、今年始めてのカッコウの声で目がさめました。梅雨入りも間近です。

雑記帳2017-5-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-5-15
五月、昭和記念公園は季節の香りにあふれています。

古民家にこいのぼりや五月人形、外蔵にも兜や鎧の段飾りががそろいました。

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古民家床の間
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外蔵の中も五月飾り

木漏れ日の里では麦畑がひろがって、色づくのもまじかです。
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日本庭園では炸薬が満開。盆栽は今、海外でも人気とあって、園内の盆栽園は大勢の人で込み合っていました。
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幹の白いのが人気とか。
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 室内には高さ10cmほどのミニ盆栽も

ハウスでアート!

立川には米軍基地があった時代の「ハウス」がまだ残っていることは以前、紹介したことがあります。
中でも、ちょっとおしゃれな戸建てが並ぶアメリカ村は全国でも有名ですが、もう一か所、長屋タイプのハウスがあります。
そこの住民で、『知の木々舎』に銅版の作品を紹介している赤川ボンズさんが、「ハウスでアート」をやるから遊びにおいでと誘ってくれました。

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一日目は残念ながら雨でしたが、二日目はまずまずのお天気。
通路を挟んで20軒ほどの平屋の集合住宅の中には、ギャラリーやカフェに解放された住宅もあってにぎわっていました。
路上ではアクセサリーや小物を売る店、有機野菜も並んでいます。
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スペインの古代小麦を栽培している地から買い付けたオリーブオイルを売る店では、ひとしきりのオイル談義でした。酸化させないためには決して高温で調理しないこと、炒めるときに音がしてはいけないのだそうです。それくらいオリーブオイルは熱に弱いのですね。
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3800円はちょっと高くて手がでないので、写真だけ。

有機野菜に取り組み、この月末、ブータンに有機野菜の栽培を指導に行くという響君は、驚くなかれ、まだ中学生です。
響君の作ったネギを買いました。200円。
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ジュエリストのベニータさんは生粋のバルセロナっ子(?)です。
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      ベニータさんのパエリアにはラタトゥーユとスペイン風オムレツが付いて800円。
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ハウスを残そうとよびかけるポスター

昔住んでいて、子供を連れて帰って来た若いお母さん、表で子供と手遊びをする女性。
通りに子供たちの声がひびいて、お茶を飲みながら見守るご近所さんの目がやさしい。
かっては日本のどこにでもあった光景です。

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ハウスがなくなればこんな昔ながらのコミュニテイもなくなる。コミュニティの居心地の良さを、外の人にも知ってもらいたいと、年に一度の「ハウスでアート」を始めて、今年で9年目になりました。

◆最近、立川のヤギがテレビによく登場します。春先、栃木県の預け先からもどってきたヤギたちは家族も増えて、こんなに大きくなりました。開発予定の空き地に、現在17頭が放し飼いされています。
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雑記帳2017-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2017-5-1
今年は日中国交正常化45周年です。

虎ノ門にある中国文化センターでは、記念の「傅益搖が描く中国・日本の祭り絵展」が開かれ、4月24日、開会式の案内をもらって、でかけました。

昨年11月、NHK日曜美術館で、徳島の阿波踊りを描く傅さんが紹介されました。                         来日して35年余、傅さんは、仏教美術の研究や創作に携わる中で出会った日本の祭りに魅せられて、以来、日本の祭りを描き続けてきました。
そして、昨年12月、中国の伝統文化である水墨画芸術を日本社会に広めた功績が高く評価されて、『中華の光賞』を受賞しました。
今年で5回目のこの賞は、毎年国際的に活躍している文化人10人に与えられるという、中国では大変名誉ある賞だということです。

実は5年前、2012年の秋にも、日中国交正常化40年を記念して、傅さんと日本人画家による「中日祝祭文化の風情展」が開かれています。
この年は、尖閣を巡って、日中が緊張関係にあったときだったので、大使館局長や政治家が列席する中で、慎重に言葉を選んだ挨拶がつづいたことを憶えています。
だからこそ、草の根の文化の交流が大切だと誰もが挨拶を結んでいました。
今回の記念展では、来賓の祝辞も、傅さんの受賞を祝う言葉にみちていて、政治色はなく、日中の空気が緩やかなのだと印象づけられました。

博多山笠や京都祇園祭、東北の数々の祭りなど、会場には傅さんの描いた日本の祭りの大作が並んでいました。
中でも、ひときわ大きい祭りが、最新作、100点目の「徳島阿波おどり」です。
傅さん自身も取材中に阿波踊りの「連」に加わっていっしょに踊った様子はテレビで紹介され、話題になりました。徳島とはその後も親交を深めているということです。

そして、縦2メートル、横16メートルの、壁一面のもう一枚の大作が、完成したばかりの「端午頌(節句)」でした。完成後中国に寄贈されたため、日本初公開です。
中国では文化大革命によって、昔からの伝統的な祭りが失われてしまいましたが、祭りは文化であり、家族が集う大切な場所だと見直されて、近年復活の動きがでています。
その動きのなかで、最近復活した湖南省の「端午節」の祭りを題材に描かれました。
人々が竜の守り神を祭る様を描いたこの画は、傅さんが日本の祭りを描く中で培われた技法があますところなく発揮されているようでした。

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目黒川は川面一面の花筏。

4月中旬、目黒から不動前の街歩きに参加しました。
JR目黒駅におりたてば、目の前に権之助坂と行人坂。目黒は坂の多い町です。

行人坂は修験者が修行のために上り下りしたというだけあって、大変な急坂、ここからは富士山がよくみえたということです。

坂の途中に建つ大円寺は、江戸の三大火事の一つの火元になったことで知られています。
江戸は3年にあげず火事に見舞われたといわれますが、この目黒行人坂の大火は、俗に振袖火事と言われた、江戸市中の3分の2を焼きつくした明暦の大火に次ぐ規模のものでした。境内の「五百羅漢石像群」は、当時、大火の犠牲者供養のために造られました
生身(しょうじん)の「釈迦如来立像」や「木造の阿弥陀三尊像」が有名です。

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木の間越しにみえる五百羅漢石像群
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阿弥陀堂

坂を下った先は目黒川。川にかかる太鼓橋は木喰上人によって享保年間に造られ、石造りで太鼓の胴のような形をしていたのでこの名がついたそうです。広重の「名所江戸百景」には太鼓橋から富士山が見える雪景色が描かれています。
目黒川はいまや花見の格好の場所ですが、この日は花チラシの風が吹く中、川面一面の花筏でした。

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目黒川の花筏(白くみえるのは桜の花びら)                                                
川を渡れば目黒通りの大鳥神社は村の総鎮守として、区内最古の神社です。織部式灯篭と呼ばれる「切支丹灯篭」はかって肥前島原藩の下屋敷にあったものです。

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目黒川に平行する山手通りに沿って歩くと、住宅街の中に、多くの寺がたっているのにおどろきます。
そして、目黒と言えば目黒不動尊。寺の名前は龍泉寺(「ろうせんじ)です。文化文政のころには、湯島天神、谷中の感応寺と並んで「江戸三富」と呼ばれた富くじがおこなわれていました。その不動前の商店街の脇を入ればここにもいくつも寺があるのです。

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目黒不動尊

幡龍寺の裏手の岩窟内には山手七福神のひとつ、「石造弁財天」が祀られています。江戸裏鬼門の鎮守だったということです。

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岩窟の弁財天

海福寺は万治元年(1658)、明の帰化僧隠元禅師が深川に開創し、明治になってこの地に移転してきた黄檗宗の寺です。
黄檗宗は京都宇治の万福寺が有名ですが、隠元は江戸にも来ていたのですね。
そういえば、先回の吉原町きのお昼は、黄檗宗の普茶料理でした。


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海福寺の四脚門と特徴ある形の梵鐘

天保2年(858)慈覚大師が開山した成就院は、本尊の薬師如来の蓮華座を3匹の蛸が支えていることから、別名蛸薬師と呼ばれています。
3代将軍家光や家光の異母弟だった保科正之にゆかりの深い寺です。

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保科正之の生母お静の方がわが子の栄達を祈願して奉納したお静地蔵

この日のお昼は不動前駅そばの「ボンジュールカフェ」の、モンサンミシェルのオムレツです。
フランスはモンサンミシェルの修道院を訪ねる巡礼者に宿屋の女将が出した、スフレのようなふわふわのオムレツがもとになっているのだそうです。
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◆東京西多摩の羽村市では、市内唯一の水田「根がらみ前水田」で、裏作を利用して、チューリップを栽培しています。60種類・約40万本ものチューリップ畑は関東最大の規模だそうです。4月下旬に、チューリップは満開になりました。

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◆知の木々舎は5月上193号より、9年目にはいりました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

雑記帳2017-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-4-15
春のお江戸は吉原で。

全国に先駆けて東京に桜の開花宣言が出たのは3月23日でした。ちょうど満開になるのではと思われた4月1日は、時折小雨の降る真冬のような寒さになりました。
この日歩いたのは、東京メトロ日比谷線三ノ輪駅から千束。樋口一葉ゆかりの地は吉原にとなりあわせています。

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                                                                                   三ノ輪駅のすぐそばに建つのは浄閑寺。
吉原に身売りされた女性たちがこの寺に葬られたことから、俗に「投げ込み寺」と呼ばれました。                   その数、2,5000人ともいわれます。遊女たちの霊を弔う新吉原総霊塔が建てられました。
寺の前には小夜衣地蔵、、墓地にはこの界隈をこよなく愛した永井荷風の碑があります。                          若紫と刻まれた墓を見つけましたが、遊女が個人の名前で葬られるのは珍しいことでした。気立てが良くて美人、人気のあった遊女若紫が年期奉公10年のところを5年であけ、恋人と所帯をもつばかりになったところ、酔客の刃傷事件に巻き込まれて命をおとした、それを哀れに思った遊郭の主がたてた墓だそうです。     
また、若紫できづくように、遊女の名を源氏物語から採ったことから、水商売の女性の名を「源氏名」と呼ぶようになったのです。

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浄閑寺
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浄閑寺の入り口に立つ小夜衣地蔵
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永井荷風の記念碑(中に筆がはいっているそうです)
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近くに立つ永久寺は、「江戸五色不動(目黄、目赤、目青、目黒、目白)」のひとつ、目黄地蔵尊で知られています。
五色不動は、三代将軍家光が、天海大僧正の具申により江戸府内に名のある不動尊を指定したといわれていますが、目黄と目青は明治になってからという説もあり、諸説ある中で、色は不動尊の目の色ではなく、方角を表しています。

「たけくらべ」の冒頭にでてくる千束稲荷神社に一葉の胸像がたてられたのは平成20年のことでした。
一葉が旧竜泉寺町に住んだのは、本郷丸山福山町に転居するまでのわずか10か月です。                    周辺の人々の暮らしは貧しく、この間の、遊郭に接する街での生活体験が、後の小説に結実したのです。
荒物、雑貨と駄菓子屋を営んだ店は今は建て替わって、それと言われなければわかりません。                   近くには「たけくらべ」の信如のモデルになった加藤正道氏の墓のある大音寺や台東区立一葉記念館があります。

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                              一葉記念館

吉原は江戸幕府公認の遊郭でした。
日本橋人形町に開業して吉原と称したのが元和元年(1617)ですから、今年はちょうど開業400年になります。
明暦の大火後、人形町から今の浅草寺裏に引っ越して、新吉原と呼ばれました。
180軒の大店、小店が立ち並び、遊女は2、000人から3,000人ほどいたといいます。

ちなみに昭和33年、売春防止法の施工によって、吉原遊郭は消滅、周辺はソープランドになりました。現在、店の数150軒、ソープ嬢の数は3,000人といいますから、江戸時代の吉原とほぼ同じ。時代が変わり、名前が変わっても、結局は同じということでしょうか。
ソープ嬢が遊女と違うのは、目的が親をたすけるための年季奉公ではなく、海外旅行やブランド品欲しさという点で、あっけらかんとして、暗さが微塵もないところでしょう。

吉原歓楽街への正面玄関は大門(おおもん)です。
治安目的と、遊女たちの逃亡を防ぐため、出入りは通常この大門一か所のみでした。
明治44年の大火で焼失、関東大震災で撤去されて、あともありません。
大門から遊郭へ通じる一本の道はむかしのままで、まがりくねっています。
悪所が鷹狩に来た将軍の目に触れてはいけないからといわれていますが、遊女たちが故郷を懐かしんで嘆くことのないようにとの配慮だったというのが本当のところらしい。
入口にあった見返り柳は6代目で、今も健在です。

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                        大門から延びる一本道

遊郭を塀のように囲んでいたのがお歯黒どぶでした。
幅5間、9メートルもあり、入口も大門ひとつということから、遊郭は文字通りの「廓」(城壁や堀,自然の崖や川などで仕切った城・館内の区画)でした。
「たけくらべ」が書かれた明治の頃には3尺となり、今はすっかり埋め立てられています。

お歯黒どぶを歩いて遊郭をひとまわりしたあと、立ち寄ったのは酉の市で有名な鷲神社です。
鷲や鳥に因む寺社の年中行事としてで知られる酉の市は、露店で、威勢よく手締めして「縁起熊手」を売る、年末の風物詩です。
新吉原に隣接する鷲神社の酉の市は、全国にある酉の市の中でも、もっとも盛大だといわれています。立派な熊手が目を奪います。
市の日には通常開けない門を開けて客を遊郭に呼びこんだといい、祭りの賑わいは「たけくらべ」にも描かれています。
鷲大明神はもとは隣の長国寺の境内にあったものですが、明治の神仏分離令によって分離されました。
現在、浅草酉の市は寺と神社両方の境内で開かれてご利益も大と、大勢の人で賑わいます。

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鷲神社
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神社の入り口に飾られた大熊手 
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                        鷲神社に隣接する長国寺 

町歩きの楽しみはお昼です。
今回は普茶料理の「梵」でした。
普茶料理は約300年前、中国、明の隠元禅師が 京都宇治に黄檗山萬福寺を建立した時から伝わる精進料理です。
油や葛を多用、擬製豆腐などもどき料理が特徴。
天ぷらなども下味をつけてあるので、全体に味は濃いめです。
長崎の卓袱料理のように4人でテーブルを囲んで料理を取り分ける食べ方で、銘々膳の永平寺流の精進料理と区別されます。

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食事の前に出た凡字の干菓子
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弁当(桜花ご飯の左上に見えるのは名物の鰻豆腐)
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煮物の古知按蒸
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              天ぷらの中身はサツマイモ、人参、こんにゃく、そうめん揚げ

◆4月1日、真冬の寒さに震えたのに、2日後には東京の桜が満開になりました。
今年の根川の桜です。

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