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雑記帳2018-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-6-15
きみちゃん像は麻布十番にもありました。

台地と谷地で形成された麻布は坂の多い町です。
縄文時代から人が住み、8世紀初頭には竹千代稲荷、9世紀には善福寺が創建されるなど寺社の門前町として栄え、江戸時代には武家屋敷が建ち並ぶようになりました。
明治の近代化とともに、台地の上と谷で、富裕層の住宅地と零細商工業地とに分化がすすみました。

かって「土筆が原」と呼ばれた広尾一帯は、しばしば将軍家の鷹狩りが催されたところです。二代将軍秀忠が鷹狩りをした際に立ち寄って稲荷神を勧請したと伝えられる広尾稲荷神社には、戦禍を免れた江戸時代の拝殿や大正時代に再建された本殿が現存しています。
拝殿の天井には日本最初の洋画家、高橋由一が描いた龍の絵が見られます。これは彼の最後の日本画だと言われています。

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広尾稲荷神社
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高橋由一の天井画

東京メトロ広尾駅に近い有栖川宮記念公園は、麻布台地を取り込むように造られた庭園です。江戸時代には盛岡南部藩の下屋敷でした。南部藩はのちに、屋敷替えで南麻布に移転しましたが、南部坂の名称はそのまま残っています。
明治29年、有栖川宮家の御用地となり、有栖川家がとだえたあとは高松宮家が預かって後に東京市に賜下され、その後も、1959年に東京都から港区に移管されるという変遷をたどって、現在は区立公園として親しまれています。
台地を利用して造営された園内は丘があったり、渓谷や池があったりと起伏に富み、高台の木立はまるで高原のよう、都内とは思えないほど緑豊かな自然に恵まれています。木立の向こうに見える都立中央図書館は蔵書が充実していることでファンも多いと聞きました。

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都立中央図書館

港区、ことに麻布は大使館の多いことで知られています。
皮切りは、安政5年、江戸幕府が日米修好通称条約に基づいて、善福寺に、アメリカ合衆国公使館を設けたことでしょうか。初代中日総領事タウンゼント・ハリスが逗留しました。慶応2年には別の寺院にプロシア公使館も設けられました。
今、港区にある大使館の数は70近く、そのうち、20以上の大使館が麻布十番商店街周辺に集まっています。

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通りすがりに見た韓国大使館

空海が開山したと伝えられる善福寺は、都内では浅草寺、深大寺に次ぐ古刹の一つ、鎌倉時代に親鸞が訪れて浄土真宗に改宗されたと言われています。本堂は300余年の歴史を持つ文化財的建物。他にも、樹齢750年以上、都内最大のイチョウがあるなど、見るものも多く、周辺は寺町の様相を見せています。

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ハリス逗留の記念碑
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都内最古、最大の銀杏の木

麻布散策のもう一つの目玉スポットは安藤記念教会です。
1917年創設の、都内でも珍しい石造りの教会です。創立者安藤太郎は、函館戦争で榎本武揚に従軍、明治政府の下で大蔵省、外務省に登用され、初代のハワイ総領事に就任しました。そこで基督教と出会い、洗礼を受けて、1888年にハワイで最初の日本人教会を設立しました。帰国後は日本禁酒同盟を結成して禁酒運動に取り組みます。建物は東京都指定の歴史的建造物に指定されています。
安藤記念教会の通りを北へ進むと西町インターナショナルスクールがあります。創立者の松方種子は松方コレクションで有名な松方家の出身、松方家は薩摩の出でした。

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安藤記念教会

麻布十番商店街は善福寺の門前町として300年以上栄えてきました。300余りの店舗が軒を連ね、昔ながらの飲食店や服飾店など100年以上の歴史を持つ老舗と、新しいショップが仲良くならんで、にぎわっています。大使館の多い土地柄、外国人も多く、国際色豊かな雰囲気をかもして人気の商店街です。

その一角に、「赤い靴」のきみちゃんの像があることをご存知でしょうか。
『知の木々舎 』に連載の『往きは良い良い、帰りは……物語』の中で、童謡「赤い靴」が取り上げられたことがありました。そこに書かれていたのは、野口雨情の作詞した「赤い靴を履いていた女の子」が「異人さんに連れられて行っちゃった」のはほんとうではなかったというのでした。
赤い靴の岩崎きみちゃんにまつわるエピソードはいろいろあります。
母親のかよさんが再婚した夫とともに開拓民として北海道へ渡る際、小さかったきみちゃんを連れて行くわけにもいかず、きみちゃんは横浜にある教会の宣教師の養女になりました。きみちゃんが6歳のとき、宣教師夫妻はアメリカに帰国することになりましたが、結核にかかっていたきみちゃんは船に乗ることは許されず、孤児院に預けられました。きみちゃんを看取ったその孤児院が麻布の鳥居坂教会にあったので、麻布十番商店街はパティオにきみちゃんの像をたてたのです。

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さすが麻布、パテイオもお洒落です。

幸薄かったきみちゃんを偲ぶ像は全国にあり、横浜や小樽、静岡、函館など岩崎家やきみちゃんに関わりのあった各所に置かれています。生き別れた娘のことを野口雨情に語ったかよさんは、きみちゃんが宣教師夫妻とともに幸せにくらしているものとばかり思っていたのでした。きみちゃんが9歳で亡くなった麻布鳥居坂教会の跡地には十番稲荷神社が引っ越してきました。

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十番稲荷神社
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十番稲荷の真向かいにある塩の店。店内には世界中の塩が集められている。

◆ご近所でフランス人の落語の会がありました。

週1回のサークル仲間がいつも利用するランチのお店のオーナーが、このたび初めて企画したというイベント、シリルコピーニ(日本名は尻流複写二)さんの落語会に誘われて、のぞきました。

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カフェ「ビヨンド」

演目は同時通訳の形で「寿限無」と「味噌豆」。
日本に住んで16年というシリルさんの流暢な日本語に客は感心しきりです。

自分は落語家とは言わず、あくまで落語パフォーマーだと謙遜(?)するシリルさん。師匠について苦労して修行し、前座から二つ目、真打と呼ばれるようになっていくのが本当の「落語家」なのだそうです。
演目そのものはどうということはありませんでしたが、手招きの仕方が日本とフランスではまるで逆、など、フランス人から見た日本人をマクラにしているのが面白く、独特の語り口も手伝って、興味深く聞きました。

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落語パフォーマー尻流複写二さん
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店の前でシリルさんと一緒に記念撮影。

一つだけ覚えていってと教えてくれたのが「サバ」というフランス語。魚のサバになれている日本人なら覚えやすいに違いないという心遣いでしょうか。
昔、女優で売りだしたばかりのイザベラ・ロッシーニが、コマーシャルの中で発する言葉が「サバ」だったことを思い出しました。あう人ごとに「サバ(元気?)」と声をかけていました。(彼女は今では父親と同じ、押しも押されもしない映画監督です。)スペルはça.va.
シリルさんは、最近では、フランス人の落語をききたいという声で、あちこちに呼ばれることが増えたということでした。

店のオーナーは、語学学校を経営している女性です。なので店では中国やインド、アメリカなどいろんな国の留学生が働いています。
いつも私たちのテーブルの世話をしてくれるのはドイツからの美人の留学生、コリンさんです。サークルのメンバーには、ご主人の仕事の関係でドイツに住んでいたというYさんや、昔スイスに留学していたHさんがいるので、毎回、ちょっとしたドイツ語の会話が弾みます。今や国際的には全く出番の無いドイツ語でも、おしゃべりとなれば別。コリンさんもうれしそうです。近くの学習館で私たちと同じようなサークル活動をしているグループもお昼に利用しているらしく、この日、会場にはそんなシニアの姿を沢山見かけました。


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雑記帳2018-6-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-6-1
昭島市にあるリサイクル洗瓶センターを見学しました。

立川市に隣接する昭島市は工業団地をかかえるほか、横田基地にも近いため、防衛省からの交付金がおりることから、面積は小さいながら財政的にはゆとりがあるようで、地域の学供施設(会館)が11箇所もあります。お金を何に使うかは自治体の勝手ですが、市民からみれば羨ましいところ、住民の文化活動も活発です。
また、水のきれいなまちとしても知られ、都内では唯一、都から供給を受けないで、水道事業が成立している市でもあります。

目指す洗瓶センター「きょうされん」は、駅から徒歩10分余りの工業団地の中にありました。
いまから、25年前、瓶のリユースをすすめたい生協と、障害者の働く場所を確保したい福祉施設の思いが重なって生まれました。

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便利なプラステイックに押されて瓶の利用は苦戦していますが、環境の視点からも、食品の保存上からも瓶は優れ物、リユースがもっと普及してほしいと思っています。

作業所の職員、黒沢さんから説明をうけたあと、工場内をみせてもらいました。
今扱っている瓶の種類は36種。様々な形や大きさに対応してきました。風島や山名h氏、長野県などの酒造会社のものが大半ですが、中には杉並区や練馬区など都内自治体からもものもあります。こちらは形も大きさも不ぞろいのため、一旦は業者が引き取って分別したあとにセンターにもちこまれます。

一日に持ち込まれる瓶の数は30,000本。年間440万本の瓶を洗います。洗浄自体は機械ですが、ラベルなど落ちない場合は手動です。選別や取り出し、給瓶や積み下ろし、洗い終わった瓶をケースにつめて割れないようにケースごとラッピングする作業など、工程には最終的には人の手がかかせません。難しいラッピングをみごとにこなす作業員はみんなの人気者です。

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障害には身体障害や知的障害、精神障害などさまざまある中で、「きょうされん」は、それぞれの障害に特化した職場ではなく、障害の違うひとたちが一緒に働く場所をめざしました。60人の従業員(センターでは利用者さんとよばれています。)の中には、病気のために障害をかかえるようになった元会社経営者もいれば、大人になって発達障害だと分かった人もいるのです。
時給は150円~550円。仕事の内容によって異なりますが、熟練すると、健常のスタッフよりも早く上手に作業をこなすようになります。平均月収は55000円。通常の福祉作業所で働く人の賃金に比べればずっと高いけれど、目指すは一般労働者の最低賃金です。また、全国でも珍しい、交通費の支給されます。

所内には「にじの会」という自治会があり、会長、役員は選挙で選ばれます。
総会で、その年の目標を決めたり、レクレーションの中身も決めるのです。全員で小旅行を楽しむこともできます。メンバーのメンバーによる、メンバーのための会です。失敗しても責めない、誰もが参加できる、がモットー。普通に、まことに人間らしい職場だとは思いませんか。

報酬は細かく分けられた各作業の評価が目安になります。その項目が妥当なのかは常に見直しが必要だし、いったい、評価することに意味があるのか、あるいは、障害者にはここまでの作業しかできないという思い込みが壁をつくっているのではないか、など、考えなければならない課題はたくさんあると黒沢さんは話してくれました。

今後国内ではさらに高齢化がすすみ、労働力が減っていく時代、誰もが障害者になるかもしれない社会で、安心して働ける職場づくりは、何処もが抱える問題です。 
きょうされんの「にじの会」の形は障害者の職場だから可能だったのではない。労働者は、自らの意思で、働きやすい環境をつくりだしていく。政府が成立を目指す働き方改革は別の面でクローズアップされているようですが、現場ではすでに、新しい働き方改革は始まっているのではないか、そんな気がしました。

◆芝増上寺は徳川家の菩提寺です。

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14代将軍家茂の正室、和宮の誕生月にちなんで、境内にある、和宮ゆかりの茶室「貞恭庵」で5月27日、お茶会が開かれました。
茶室は、和宮が晩年くらした南部藩上屋敷の住まいから増上寺に移したもので、武家の作りは簡素ながら趣のあるものでした。
アヤメ祭りで名高い潮来から運んできたというアヤメなど160本余りの花菖蒲で、一夜限りの菖蒲園をつくりあげたそうです。

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床の窓からは潮来から運んだというアヤメ
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網代の天井
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4畳半の茶室の床の間と床窓

5月は端午の節句ゆえ、お菓子は口粽(ちまき)。邪気を払うという言い伝えがあります。また、供されたお茶は静岡県足久保の産です。

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足久保は安倍川の支流足久保川の流域で、静岡茶発祥の地。鎌倉時代から茶葉で栄えた歴史ある地域です。
駿府に隠居した徳川家康は茶の湯を好み、中でも足久保のお茶を愛でたといわれています。綱吉時代から60年間、足久保のお茶は江戸城へ「御用茶」として献上されました。
静岡茶の心にブレンドされるため、単独で流通することは少ないそうですが、この日は特別に足久保茶をわけてもらいました。

茶がらにはたんぱく質やカロチン、食物繊維が豊富です。お茶の栄養を100%利用するために、出がらしの茶葉を細かく刻んでふりかけにしたり、乾燥させて粉末にしたりしますが、亭主の茶雅馬茶道教室の先生のお勧めは、鰹節をかけておひたしのように味わってほしいということでした。ポン酢やめんつゆも良しなので、早速試してみようと思っています。

和宮は維新後いったんは京都に帰りますが、兄の明治天皇の勧めで再び東京にもどります。その時住んだのが赤坂にある南部藩の上屋敷でした。
家茂との結婚生活は長くはありませんでしたが、仲むつまじかったようで、死後、徳川家の霊廟に、家茂と並んで葬られています。

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雑記帳2018-5-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-5-15
子ども食堂を知っていますか。

1980年代、介護が社会全体の問題としてとらえられるようになったことを追いかけるように、2010年代に子どもの貧困が社会的に注目されるようになりました。
2013年には子どもの貧困対策の推進に関する法律が成立したのを機に、こども食堂の活動が活発になったと言われています。
子ども食堂をやってみたいという希望者も多く、2016年に300か所だった子ども食堂は2018年には2200箇所以上にひろがっています。

『知の木々舎』のスタッフ、小林マサさんは、立川市にある子ども食堂でボランティアをしています。月1回開かれる「いちばん子ども食堂」を訪ねました。
名前は食堂が一番町にあることから名づけられました。会場はお蕎麦屋さんの好意で店が休みの日に貸してもらっています。
NPO法人「ワーカーズ・コープ」が、農家から野菜の提供を受けたり、地域のボランテイアの力を借りながら、運営しています。

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看板もかわいく
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入口に立つボランテイアは元小学校の校長先生です。

3時になると子供たちがやってきて、助け合いながら自習の時間です。食事は5時から。

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こどもたちが自習をしてい間にボランテイアが食事の用意
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提供された筍は事前に家でゆがいてきました。

参加していた子供は12名ほど。途中から赤ちゃんをつれたお母さんたちも参加しました。
近所の西砂児童館のチラシを見てやってきたそうです。実はワーカーズ・コープはその児童館の指定管理者にもなっているのです。こども食堂の参加者も児童館の利用者が多いようでした。

7、8人の大人に交じって高校生のボランティアがいました。りゅうせい君です。
りゅうせい君は小学校から通っていた児童館の卒業生、今では立派な活動家です。調理や子どもの見守りにかかせない戦力になっているようでした。
食事の前に手を洗ううこと、いただきますなどの指導も堂に入っているし、赤ちゃんづれのおかあさんには「味噌汁、あついので、こっちに置きますね」という心遣いもなかなかきめがこまかいのです。

この日のメニューは筍づくし。筍ごはんに筍の天ぷら、筍とフキ、里いもの煮もの、それにノラボウやカブの塩もみとコロッケでした。
狭い部屋は子どもたちの「おかわり!」の元気な声にあふれます。いまは食事時間を二部制にして定員40名をうけいれているということでした。
子供は無料、大人300円。これは次回の食材を仕入れる貴重な財源になります。

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筍づくしのご飯

一般に、子ども食堂が必要となる背景には、親の貧困の進度が深まり、介護問題や労働問題などが重なった末、育児放棄などで満足に食事のできない子どもができたという事情があります。
一方で、貧困家庭でなくても、一緒に食べる家族がいない「孤食」、いつも同じ物を食べる「固食」、一種類しか食べ物がない「個食」などの「こしょく」が社会全体に広がっています。子ども食堂は栄養管理と同時に、ボランテイアなど多くの人々が携わることで子どもの孤立を防ぎ、「食」を通じて子どもたちを支援する大きな機能があるのです。

「いちばん子ども食堂」は特に貧困を前に出さず、「誰でも利用できる場所」にしています。そこに集う子どもや若いおかあさんたちとも、一緒にご飯をたべることから生まれるつながりを大切にしているようです。「貧困や孤食など、本当に支援を必要とする子どもにどうすれば来てもらえるか」という課題をかかえながら、しっかり、孤立しがちな世代や地域の子どもの居場所になっているようでした。

◆マサさんは西砂児童館で月2回開かれる「フリースペース」でもボランティアをしています。そこで子どもの日に柏餅を作るというので出かけました。

フリースペースは、こども食堂に先だって、公民館が地域で果たす役割のひとつにこども対象の企画を掲げ、9年前に西砂公民館で始まりました。予算もなく、マサさんたちが自宅の台所にある食材を持ち寄って、子どもたちと一緒に料理をすることから始めたそうです。3年たって児童館に引き継がれた後も、マサさんはお手伝いを続けています。

この日参加していた子どもは25名。柏餅とトン汁、焼きおにぎりを作りました。
ワーカーズ・コープの小笠原さんは、包丁やピーラー、ホットプレートなど、子どもには危険がいっぱいなので、注意に気を配っていました。危険だから使わせないのではなく、全員参加でみんながトライ出来る指導をしています。

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説明するワーカーズ・コープの小笠原さんとマサさん
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なまのかしわの葉
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上新粉をこねてつくった皮にあんこを包んで柏の葉を巻いて蒸します。
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ごぼうのささがきもできるよ。

地域のボランテイアのおじさんおばさんに混じって、この日もりゅうせい君の姿がありました。子どもたちにとっては頼もしいお兄さんです。
「ふざけるんだったら出て行っていいよ。みんなで楽しくやろうね。」
「お口はチャックでお願いします。ぜったいにけがをしないようにね。」

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りゅうせい君
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柏餅のできあがり!
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めいめいがにぎったおにぎりもホットプレートで焼きおにぎりに。
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こどもたちが切った野菜でトン汁もこの通り。

フリースペースの活動は最初から理解されたわけではなく、協力者も少なかったといいます。また、閉鎖的な地域ではありましたが、9年経過した現在では、農家が柏の葉を提供してくれるまでになりました。マサさんは高齢だし疲れるけれど、子どもたちの「やめないで」の声に押されて続けているのだと笑っていました。

◆5月、昭和記念公園の木漏れ日の里に鯉のぼりが泳ぎました。

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雑記帳2018-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-5-1
◆前回の飯田橋に引き続き、神楽坂を歩きます。

4月初めに、満開をすぎたとはいえ、まだ桜花の散り残る江戸城外堀を歩いてから3週間後、周囲はすっかり葉桜になった季節に神楽坂を巡りました。

JR飯田橋駅の西口を出て、堀を渡る牛込橋の建設にあたったのは阿波徳島の蜂須賀忠英(ただてる)、初代小六から数えて3代目にあたります。橋のたもとの置き石をよくみると「はちすか」の文字が見えます。堀の川幅は当時の弓矢の届かない距離でした。

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牛込台地に開かれた何本もの坂道の中でメインの通りが神楽坂通りです。今、観光客に人気のスポットは、多くのショップがならびます。ここは3代将軍家光のお気に入りの大老、小浜藩主酒井若狭守の屋敷があったところです。ここから毎日、牛込橋をわたって若狭守は江戸城に出勤、橋までの1kmが登城道として整備されたのでした。江戸城内で火事にあった家光が長期にわたって酒井家に逗留した折、警護のために屋敷に矢をめぐらせたことから矢来町の地名になりました。

外堀は防御のためだけではなく、江戸の物資輸送の手段にもなりました。さすが江戸の街づくり、幕府は神田川から運河を引き込み、牛込橋手前に湊を作ったのです。全国から江戸湾に集結した荷船は、大川(隅田川)に入り、柳橋から神田川を上って神楽河岸へと運ばれました。荷揚げされた物資を人足が籠にせおって運んだ軽子坂は神楽坂通りの1本東の坂です。町名に揚場(あげば)が残っています。上方から運ばれた品々は「くだり物」と呼ばれて重宝されました。逆に江戸から送られる物品は「くだらない物」でした。たがて、「くだらない」物も年月かけて品質をあげ、「くだる」ものをしのぐまでになりましたが、言葉だけは残りました。

神楽坂は狭いエリアにたくさんの路地があります。有名なかくれんぼ横丁は、かくれんぼをして遊んだというより、前を歩いていた人がこの横丁にある料亭に入ると、突然目の前から消えてしまうことから定着したといわれています。神楽坂の料亭は夜の国会と呼ばれたこともあり、大臣の取材にはりこんでいた記者たちの目もくらませたのでした。

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かくれんぼ横丁
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料亭「うを徳」の粋な黒塀

軽子坂を上っていくと、石畳の路地があります。鎌倉古道と兵庫横丁の交わるところは神楽坂で最もインスタ映えのするスポットだそうです。和可奈はその昔、女優の木暮実千代の妹さんが経営、作家や脚本家、映画監督が執筆のため投宿していたことで知られています。「ホン書き旅館」と呼ばれました。

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鎌倉古道の石畳
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「和可奈」

人口100万の江戸は当時世界一の大都会。そのうち町民は25万人ほどでした。参勤交代で江戸にやってくる侍はもちろん単身赴任とあって、江戸は圧倒的な男社会。人口の男女比では女性は2割をきっていたようです。幕府は吉原や四宿の遊郭を公認しましたが、公認ではなくとも、寺社の門前には多くの岡場所がありました。天台宗行天寺の門前にも赤城神社と共に門前には岡場所があり、それが神楽坂花柳界発症の地と言われています。行天寺の跡は今は寺内の名前のついた公園になっています。

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寺内公園

律令の時代、この地は牛の放牧地でした。馬の放牧地が馬込の名前に残ったように、牛込の地名になったのです。家康が江戸を開く前、ここには小田原の北条氏に仕えた牛込氏の居城がありました。牛込氏は群馬県赤城の出で、大胡氏を名のっていましたが、13世紀に南関東に進出して牛込に改名、牛込城を築きました。北条氏滅亡のあとは徳川家臣としてつかえました。北条氏の前は上杉だったと言いますから、変わり身の早い人だったようですね。戦では落城しなかったものの、台地の上から川の向こうの江戸城を見降ろすのはよろしくないと、城はこわされて牛込氏は転封、あとに光照寺が神田から移って来たというわけです。

地蔵坂にある光照寺は牛込城の本丸跡です。毘沙門天脇の大手門通りは、本丸に通じる道で、この先に大手門があったと伝えられています。また、毘沙門天前の小さな通り、兵庫横丁は。先の鎌倉街道と牛込城の城下町をつなぐものでした。

光照寺はもともとは神田にあったものが、天保2年に移転、出羽国松山藩主酒井家の菩提寺になりました。今は小さな寺ですが、境内には歴代の藩主の墓があり、墓の好きな人にはなかなか見ごたえがあります。

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神楽坂通りにある善国寺の本尊は毘沙門天。江戸三毘沙門天に一つとして信仰を集めました。狛犬は犬ならぬ虎で、「石虎」は立派な尻尾をもっているものの、顔は猿に近く、当時、実際に虎を見た人はいなかったのです。

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毘沙門天
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石虎

神楽坂には「熱海湯」という、立派な銭湯があります。芸者さんたちは出勤前とお座敷がはねた後の2回通う銭湯はかかせません。最盛期には700人、現在でも30人余の芸妓を抱える神楽坂にあって、「熱海湯」は繁盛しているのです。まだ店を開ける前の風呂場をみせてもらいました。

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定番の富士山の絵がある浴場
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ふろあがりに飲むコーヒー牛乳などの飲料も定番
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脱衣場の立派な格天井

坂ばかりの界隈は狭いながら結構、きつい。お昼は毘沙門天近くの、坂の上のテラスと自称する「縁香園」で中華料理をいただきました。

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雑記帳2018-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-4-15
◆東京の桜の名所は数々あるけれど、江戸城外堀の桜は意外と穴場?

今年の桜は早く、3月のうちに東京はもう満開を迎えていました。それでも、雨や嵐に会うこともなく、花の期間は意外に長くて、4月初日にはまだ散り残った桜を楽しむことができました。今回の散策は飯田橋から市ヶ谷です。

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木の間越しに堀沿いを走る電車が見えるので人気のスポット

集合場所の飯田橋駅は、1894年<明治27年)に甲武鉄道の新宿・牛込間が開通した時に開業した牛込駅が前身です。1928年に中央本線の複々線化に伴い、従来設置していた牛込駅と飯田町駅の近距離電車ホームを分離して誕生しました。JR市ヶ谷、飯田橋あたりはちょうど外堀に沿うように現在のJR中央線が走っています。カーブのきつい飯田橋駅は現在工事中。駅ホームが少し西に移って、電車とホームの間があいている苦情も解消されそうです。

飯田橋駅から神楽坂へ向かう牛込橋は牛込御門(見付け)のあったところ。江戸城の石垣が残っています。ちなみに見付けとは「敵を見つける」という意味で、枡形 (ますがた) をもつ城門の外側に面する部分。見張りの番兵を置き、江戸城には36見付があったといわれます。現在は四谷見付・赤坂見付などが呼称として残っています。
牛込御門は江戸時代、田安門を起点とする「上州道」の出入口として、交通の要衝でした。

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牛込橋に残る石垣

駅から数分、都内屈指の交通の便の良さを誇る地に東京逓信病院があります。ここに、かって与謝野鉄幹と晶子が暮らした住居がありました。二人が教鞭をとった、神田駿河台の文化学院は昨年、97年の歴史を閉じました。


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逓信病院の敷地の中にある与謝野鉄幹・晶子の住んだ住居跡

逓信病院のすぐそばには日本赤十字社の跡です。明治10年の西南戦争のとき、佐野常民が起こした博愛社が敵味方の区別なく傷兵の手当をしたのが我が国の赤十字の始まりといわれています。明治19年博愛社という病院が飯田橋駅付近に立てられ、日本赤十字社と名を改めました。

外堀は牛込台地の底に築かれました。今、線路や堀を見降ろしながら花見客であふれる、ひときわ小高い土手は、その時に掘った土で築かれた土塁の跡です。オフィスが立ち並ぶ中にある法政大学は、受験生に人気のあるとおり、一等地にあるのですね。


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土塁から眺めた対岸の桜
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土塁のそばの法政大学

土手を歩けば対岸に台地を上るたくさんの坂が一目瞭然です。 神楽坂、庾嶺坂(ゆれいざか)、逢坂、浄瑠璃坂、長延寺坂、左内坂…。

浄瑠璃坂は寛文12年(1672年)、この坂の辺りで仇討があったことで知られています。

宇都宮藩家老の奥平内藤允(くらのじょう)が、寛文8年、同じ家老の奥平隼人と刃傷沙汰をお越して切腹、内藤允の子、源八が元宇都宮藩士とともに隼人を打ち取った、源八らは自首した後、助命されて伊豆大島に流され、のちに許されて伊井家ほかに全員が召し抱えられたという、世にいう浄瑠璃坂の仇討です。元禄15年の赤穂浪士の討ち入りに先だつこと30年、赤穂事件はこれを手本にしたと思われ、仕官を期待した浪士たちもいたのでしょう。

長延寺坂は昔この地にあった寺の名前がついたものです。江戸市中引きまわしの刑罰はこの坂を上りました。罪人は伝馬町牢屋敷から小塚原の刑場までおよそ20キロ、まさしく江戸じゅうを引きまわされて、江戸市民にとってはちょっとした見物ものでした。罪状を記した看板を掲げ隊列を作って坂の多い江戸市中を行くわけだから、従者には重労働だったと同情してしまいました。

庾嶺坂は江戸初期、このあたりが美しい梅林であったことから、二代将軍秀忠が中国江南小の梅の名所大庾嶺にちなんで名づけたといわれています。なまって「ゆうれいざか」といわれることも。由来を知らない後世の人には全く違う連想があるかもしれません。

地下鉄半蔵門線の虎ノ門駅構内に、江戸城の立派な石垣が展示されているのにおどろいたことがあります。虎ノ門はさすが文科省のお膝元、石は見事なものでした。それほどではないにしても、有楽町線、南北線の乗り入れる、メトロ市ヶ谷駅構内にも江戸歴史散歩のコーナーがあるのです。

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その市ヶ谷駅を出れば亀岡八幡神社は目の前です。文明10年(1478年)、大田道灌が江戸城の鎮守として、鎌倉の鶴岡八幡神社を移したのが始まりです。高台にある境内からは防衛省が目の前。江戸時代にここにあった「時の鐘」はさぞ遠くまで響いたことでしょう。

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区内唯一の珍しい青銅の鳥居
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境内から見える防衛省の建物

飯田橋から市ヶ谷を巡って、散策の最後の地点は東京理科大学です。前身の東京物理学講習所は明治14年に設立されました。当時、自然科学の教育を行う場は、ここと東京帝国大学以外にはありませんでした。2年後に東京物理学校と改称されましたが、日本の近代化を担う多くの教員を排出しました。漱石の「坊っちゃん」も物理学校出身でした。漱石と懇意だった三代目校長の中村恭平は「吾輩は猫である」の苦沙弥先生のモデルになりました。

理科大の近くにフランス政府が管理運営する文化センター、アンスチチュ・フランセ東京がありなす。今日のお昼はセンターの芝のガーデン、ラ・ブラスリーで。新緑の下の木漏れ陽と吹きぬける風がスパイスのランチには、客の多くが屋外を希望する様子でした。


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緑が美しいグリーンピースのポタージュ
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メインのチキン
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リッチなデザート

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雑記帳2018-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-4-1
都内唯一の渓谷、等々力渓谷をたずねました。

武蔵村山に端を発して立川を通る国分寺崖線は田園調布まで続いています。その崖線の果てる手前にある等々力渓谷は23区唯一の自然の渓谷として知られており、約1キロメートルに渡って遊歩道が整備されて、都民の憩いの場になっています。

東急大井町線等々力駅からすぐのところに、渓谷への入口があります。そこは、かって東急電鉄が開発したゴルフ場のあとを示すゴルフ橋のたもとです。

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渓谷から見上げたゴルフ橋

ここから渓谷へ高低差約10メートルの階段をおりていくと、とたんに「ここが東京?」の風景にぶつかります。
ケヤキやシラカシ、コナラ等の雑木が茂り、野鳥の声もきこえます。

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野鳥の案内板。このほかに地質や植生の案内板が随所にある。
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湧水のひとつ。

崖線には多くの湧水があります。等々力渓谷で一番の水量を誇っていたのは不動の滝です。この滝の轟く音が等々力の名前の由来になったと言われたほど、かってはここで滝に打たれる修験者もいたといいます。残念ながら湧水は年々へっているのが現状です。

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不動の滝

その不動の滝を開創以来有しているのが等々力不動尊です。平安末期の1100年ごろに開かれた霊場は等々力のお不動様として親しまれててきました。周辺には稚児大師堂や稲荷神社、役の行者を祀る祠もあります。境内から渓谷を見降ろすバルコニーはさながら小型の清水の舞台のようです。

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等々力不動尊
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バルコニーから崖下をみおろす。
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稚児大師堂

渓谷東側崖面には、古墳時代末期から奈良時代にかけて作られた古墳が幾つもみつかっています。中でも横穴3号墳は完全な形で残っており、人骨とともに耳環や土器などが出土しました。埋葬品の須恵器は1000度もの高温で精製されるもので、当時、朝鮮からもたらされたもの、埋葬者はこれらを多く保有していた有力者だと推定されています。

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横穴3号

田園調布へ続く渓谷周辺にはこの横穴3号墳以外にも、大塚古墳、御岳山古墳、狐塚古墳など、おおくの遺跡がみつかっています。中でも大塚山古墳は高さ10メートルもある堂々たる前方後円墳。方形の部分が小さいのでホタテ型古墳と呼ばれます。世田谷区は昔から住宅街として知られ、邸宅の立ち並ぶ街をあるいてみると、その坂のけわしさに驚くほどですが、多摩川を見下ろして坂の上に広がる街は、今も昔も、日当たりの良い一等地だったのですね。


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大塚山古墳
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邸宅の並ぶ街は坂だらけ

散策の最後は奥沢の浄真寺です。奥沢のこのあたりは戦国時代には奥沢城がありました。北条氏が滅びると同時に奥沢城も陥落。80年後城跡に創建された寺は九品仏として知られ、江戸じゅうの信仰を集めました。


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参道 奥に見えるのは総門
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総門にかかる扁額
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仁王門

佛堂が三宇あり、中央の堂に上品上生・上品中生・上品下生、北の堂に中品上生・中品中生・中品下生、南の堂に下品上生・下品中生・下品下生の計九品の佛像が納められていることから、九品仏の名前がついたのです。

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三宇ある佛堂の、これは上品堂
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それぞれの佛堂に3体の阿弥陀がおわす。階位に応じて手指の向きや組み方が異なるらしい。頭部が青いのは髪の毛を剃った頭をあらわしているのだそうです。

今年は気温が高く、まだ3月というのに、初夏の陽気。桜だけでなく、みかけたシャガやシャクナゲも満開でした。ちょうどこの日、気象庁は東京の桜が満開になったと発表しましたが、広い浄真寺の境内の桜はなかなか見ごたえがあり、秋には亦違った趣がありますよ、と、ガイドさんが誘うのでした。


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雑記帳2018-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-3-15
◆弥生3月は雛の月。今年はちょっと豪華なお雛様をたずねました。

埼玉県には有名な人形の町がいくつもあります。岩槻、鴻巣、春日部…
人形の材料になる桐の木がたくさんあったからだそうです。
バス旅行の案内に、浦和・二木屋の雛まつりを見つけて参加しました。

先代が政治家だったという主の実家の、鋳物で有名な川口から移築した建物は築80年の国登録有形文化財。季節の行事を大切にということから、五節句のひとつ、ひな飾りも一般無料公開しています。ちなみに、五節句は1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日にあたり、それぞれ、七草、桃、菖蒲、笹、菊の節句とよばれます。

日本こそ世界に冠たる人形王国と言う主が日本全国から集めた雛人形は数千体にものぼり、毎年、3月3日の前後4日間に、客室の半分を閉めて、その一部を展示しています。
説明役の仲居さんの解説で、雛人形の歴史や意味を教えてもらいました。

雛には3種類、信仰の雛、愛玩のひな、鑑賞用の雛があります。
信仰の雛は、古来の厄除け、邪気払いの信仰に根ざしたものです。さるぼぼや梟のようなつるし飾りがそれにあたります。つるし飾りは一つ一つ意味があり、たとえば、梟は不苦労、さるぼぼは禍が去るなど、いずれも子の幸せを願う気持がこめられています。
愛玩の雛は平安時代のひゐな遊びからきた人形遊びの雛です。そして、江戸時代に、現代の雛に通じる鑑賞用の雛がひろまりました。

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部屋いっぱいに飾られた愛玩の雛
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鑑賞の雛段

享保雛、有職雛、次郎左衛門雛、古今雛へと変化する雛人形の歴史は京都から江戸へ移っていく歴史です。今に通じる古今雛はガラス目が特徴です。それ以前の人形の目は筆で描かれていました。

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享保の雛
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有職の雛
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次郎左衛門雛
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古今雛

内裏雛は古来は雄雛がむかって右、雌雛は左とされてきました。男は陽、女を陰とする陰陽説にもとづいたものです。今でも京都を中心に関西ではこの並べ方をするそうです。
これに対して、江戸は流石に武家の文化、刀を抜いたときに雌雛を傷つけることのないよう、向かって左に雄雛を配するようになったといいます。

雛人形の世界にも名人がいます。江戸三名人と呼ばれた作家たち、仲秀英、川端玉山、原秀月の作品を一度にみることができました。

西と東では内裏雛の並べ方がちがうだけでなく、お道具にも違いがあります。御殿雛は関西のものだそうです。

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このほか、高さ70cm以上の大型のお雛様もありました。

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庭にもお雛様。

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二木屋庭4.jpg

桃の月の献立は雛にちなんだ献立です。
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箸付(枝豆寄せ 花びら百合根 美味汁)と凌ぎ(あさりちらし寿司)、上は前菜~五人雛見立~鶏松風、蛸柔煮、牛蒡有馬煮、海老芝煮、ホタル烏賊塩辛

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お椀 蛤潮椀

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造里~親王雛見立~鮪、カンパチ、寄せ生海苔、山葵

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煮物 丸茄子、新じゃがいも、蓬麩

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強肴(鹿児島産黒毛和行ステーキ)とお食事(籾殻竈抱きご飯、赤出し、香物)

デザートは埼玉らしく、桜羊羹と五家宝でした。 

◆こちらはご近所、日野塾脇本陣のお雛さまです。

立川のお隣、日野には甲州街道の宿場がありました。
本陣跡には、本陣としては都内で唯一当時の建物が残されています。
幕末、この地にあった天然理心流野道場に集った新撰組のメンバーは数年前のNHK大河ドラマですっかり有名になりました。
本陣の建物は今、市の資料館になっていて、この時期には毎年、雛人形愛好家の人達によって雛まつりが開かれます。メインの人形は市内の旧家が所有する140年前のものだそうです。
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雑記帳2018-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-3-1
たちかわ多文化共生センターのワールドクッキングは今年はタイ料理。
現在立川市には3,500人の外国人が住んでいます。
多文化共生センターは日本語教室のほか、無料相談窓口を開いて法律や生活上の相談に応じる活動をしています
毎年11月には昭和記念公園みどりの文化ゾーンで世界ふれ合い祭りを開催、30余国の人々が集います。

女性センターでのワールドクッキングも今年で7回目。今年はタイのグリーンカレーをつくりました。市内でタイ料理店を経営する、タイ人のペンサワット・トゥンさんが講師を勤めてくれました。

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≪材料≫6人分
ジャスミンライス3合 
骨付きモモ400g  なす2本  タケノコ90g  赤ピーマン2/1個  ピーマン1個
ホーラパーの葉20g  コラカミン4g
ココナッツシュガー100g  ナンプラー25cc  サラダ油40cc  コンソメ5g
水400cc  鶏ガラ 塩少々

≪作り方≫
①野菜と鶏肉を一口大に切る。
②ジャスミンライスを炊く。水の量は白米と同じ。
③お湯に鶏ガラをいれて鶏ガラスープをつくる。
④鍋にサラダ油を入れ弱火で約10分グリーンカレペーストを炒める。
⑤いい香りがしてきたら、ココナッツミルク半量を数回に分けてかき混ぜながら入れる。⑥油がでてきたら、残りのココナッツミルク、鶏ガラスープをいれ、沸騰したらなすをいれ、15分ほど煮る。
⑥ココナッツシュガーとナンプラー、コンソメで味を整える。
⑦タケノコと2種類のピーマンをいれ、一煮たちさせる。
⑧最後にコブミカンの葉、ホーラパーの葉を入れて完成。

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今日の食材
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手前緑色の葉はコブミカン(スダチに似た柑橘類)その奥がホーラパー(シソ科)

 ※日本の鶏肉の皮は油が多いので皮は除いた方がいい。
 ※ココナッツミルクはタイでは調理の度、そのつど生からしぼる。時間がたつと油がでてくるので、缶詰のココナツミルクは国内では使われない。

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ピーマンは煮込まないので色鮮やかです。
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テーブル中央にあるのは甘いアイスミルクティ(タイは暑いので、これを飲みながらバイクの運転をする若者が多い。)

会場にはタイ文化を代表するグッズも並んでいました。

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タイの伝統楽器、キム。
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トウンさんは楽器の演奏もできます。
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奥さんの知子さんは日本人。二人の店「アユタヤ」は立川駅の南口にあります。

微笑みの国と言われるタイはいま、軍事政権のもとにあります。
先代の9世、プミポン国王は在位期間もながく、国民に慕われていましたが、一方で、8世を暗殺したという噂もありました。8世は極端に在位期間が短かかったのです。それなのに人気があったのは、軍隊を抑える強い力があったからだといいます。そして、現在の10世は、何十人もの愛人がいることで、人気がないのだそうです。

タイは徴兵制がしられていますが、期間は結構フレキシブルで、学生なら夏休み中でいいとか。食事は外食が多く、一日2食は外で食べるとか、トゥンさんの話しぶりからは、決して窮屈ではないタイの暮らしがうかがえるようでした。

「ここで習うだけでなく、どうぞ家でも作ってみてください。そして、ご近所の人にも教えてあげてください。二尾のくらしの中に外国の文化をとりいれてみる、それが私たちの目指す多文化共生なのです。」が、同会の小林さんの挨拶でした。

東京都写真美術館が比寿ガーデンプレイスの中にあります。

2月中、「インヴィジブル(見えないもの)」のテーマで展覧会がひらかれていました。
その一角に井村君江さんの「コティングリー妖精事件」の展示があるという知らせを受けて出かけました。

事件は約100年前、英国北部のコティングリー村でおきました。村に住む2人の少女が、家の近くの草むらで戯れる妖精の姿をとらえた2枚の写真を撮影したというのです。3年後、話を聞きつけた神智学者エドワード・ガードナーが少女たちにカメラを与えたところ、2人はさらに3枚の妖精写真を撮影し、心霊現象に傾倒していたコナン・ドイルも加わった大論争が巻き起こりました。

会場には、はがきを4分割したサイズの5枚の妖精写真をはじめ、妖精写真を研究するために収集された心霊写真や関係者のスナップ写真など約40点が並んでいました。井村先生が2001年に英国のオークションで落札したガードナーの遺品の数々です。

結局写真は偽造であったことで事件は幕をとじるのですが、普及し始めたカメラが眼に見えないものまでを映すと信じられた時代もあったのです。無垢な少女と妖精の織りなす幻想的なイメージは今でも色あせていないのかもしれません。

写真美術館というだけあって、カーテンでしきられた展示室は暗室のようでした。
暗室を逃れて外にでると、テントをはった賑やかな一角が眼にはいりました。
聞けば、有機や地産地消で頑張っている地方の生産者に農水省が声をかけて毎週日曜日に開いているマルシェだとか。恵比寿マルシェはなかなかのにぎわいでした。

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東京都写真美術館
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恵比寿マルシェ

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雑記帳2018-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-2-15
小金井に武蔵野の新田開発の跡を辿りました。

8大将軍吉宗の時代、玉川上水が開設されて武蔵野の新田開発が進みました。
指揮したのは大岡越前の守、82村が開かれました。南町奉行としてしられる大岡越前守は相当有能な官吏だったようです。
その指揮のもとに実際に開発にあたるのはもちろん農民ですが、東小金井あたりには開発した梶野氏の名前が各所に残っています。

東小金井駅にほど近いところにある「梶野公園」は、子供を遊ばせるために、住民が企画を持ち寄って作られた住民本位の公園として、町づくりの一つのモデルになっています。遊具も何もないだだっ広い公園は実は子供たちにとっては天国、周辺の小高い樹木も残しました。ベンチの下には災害時に備えて煮炊きの道具がおさめられているなど、防災公園でもあります。

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住宅街を縫うように進むと、「くぬぎ公園」にやってきました。猫の額ほどの小さな公園にはカラフルな滑り台。これはこれで子供が喜びそうです。
公園の前にある建物はスタジオジブリです。映画監督の宮崎駿さんが最初に作ったスタジオで、もののけ姫やとなりのトトロなど多くの作品がここで生まれました。

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新田を開いた梶野氏は群馬県館林から菩提寺を移しました。曹同宗長昌寺は茂林寺の末寺です。境内の薬師堂には応仁年間の薬師如来が安置されています。(市有形文化財)

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玉川上水が出来たのは今から370年前になります。上水からはたくさんの用水が引かれて武蔵野の台地を潤しました。梶野用水もそのひとつです。
用水に並行する梶野通りを玉川上水にむかって北に進む途中に立派な二本の松がみえてきます。明治2年の農兵一揆のあと、植えられ、根元に佇む庚申塔とともに、150年近く梶野通りをみまもってきました。

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玉川上水の堤の桜は江戸時代に歌川広重や葛飾北斎など文化人によって紹介されています。大正12年には名勝小金井として国の名勝に指定されました。ヤマザクラなので改良されたソメイヨシノより寿命は長く、よく手入れされて今日にいたっていますが、最近では小金井公園に押されがち。往時の景観をとりもどそうとの動きもあるとか。

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その小金井公園は緑地から公園になった、東京で一番大きい都立公園、都内屈指の桜の名所です。

小金井公園のそばの真蔵院には、武蔵野の新田開発に功績のあった川崎平右衛門の供養塔があります。大岡越前のもとで新田開発を指揮しました。石見銀山の開発も手掛けたそうで、なかなかのやり手です。
上記の名勝小金井を作った恩人でもあり、今年は没後250年ということで、郷里の府中市では記念の植樹が行われたと、翌日(2月5日)の朝日新聞多摩版に載っていました。

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真蔵院。川崎平右門供養塔.jpg

小金井公園を出て、静かな住宅街をぬけていくと、見えてきた林が浴恩館公園です。
ここに、「次郎物語」の舞台になった浴恩館が京都から移築されています。浴恩館の建物は市の文化センターとしてまだ現役です。

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散策の最終地、お目当ての精進料理をいただく臨済宗・三光院は、京都嵯峨野の曇華院(どんげんいん)の流れをくむ尼寺です。曇華院は竹之御所と呼ばれ、代々皇女が門跡となる格式の高いお寺です。その竹之御所流精進料理を、竹林の中にある十月堂でいただきました。


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三光院の紋ササリンドウを押した三光院最中に続いてだされた皿は色鮮やかなお煮しめです。
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大和芋の磯部巻き、高野豆腐の含め煮、ごぼうの胡麻和え、南京の煮物、ナンテンの葉添え

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  かぶらの茶碗蒸し かぶのすり流し、中に椎茸、にんじん、麩、ぎんなん

精進料理に定番のごま豆腐の後に三光院名物の香栄とうふを味わいました。豆腐を味噌につけ、桜のチップで燻製にした、香栄禅尼考案の自慢のとうふです。

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茄子の田楽には木枯らしという名前がついていました。形が楽器の琵琶に似ていることから、建礼門院愛用の名器「木枯らし」にちなんで名づけられたそうです。

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甘めの西京味噌、振り柚子、茶の葉添え。油で揚げるのではなく蒸し揚げにしてある。

利尻昆布を3時間煮だしたという出しの一口吸物のあとは、締めのおばんと香のものです。おばんは御所言葉でご飯のこと、香のものには出しをとったあとの昆布がでました。

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◆ご夫婦で途上国を好んでバクパッカーを続ける小川彩子さんの『地球千鳥足』が本になりました。帯にあるように「ダマされても スラれても」はたまたガンもなんのその、お二人で訪ねた111か国の中から厳選した50の旅とコラムがつめられています。幻冬舎 1200円(税別)

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雑記帳2018-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-2-1
◆たれが美味しいヤッチェサム、手作りトッポッギはいかが。

私が所属している地域のサークル「食とくらしと環境を考える会」は、地産地消を掲げて、普通の家庭の台所にある食材や調味料を使って簡単に手作りできるレシピを工夫、年に数回、女性センターで講座をおこなっています。
メンバーに韓国出身の朴さんがいて、毎月の例会で、韓国と日本の食文化の違いを学ぶことはおおいのです。
韓国料理と言えばお肉を連想しますが、キムチからもわかるように、実は野菜をたくさん食べるのが特徴です。肉も極力脂肪分の数ない部位を選ぶ、ヘルシイなものです。
その朴さんがいつも感心するのは日本食が塩分控えめであること。慣れないため、最初は頼りないと感じた味も、次第に、これで十分美味しいね、という場面がふえてきました。

今回実施した講座は「たれが美味しいヤッチェサム」。そこで、韓国のお餅「トッポッギ」を手作りしました。
普段、韓国の食材を扱っている店で購入しているトッポッギが手作りできることを発見して、一番喜んだのが朴さんでした。
子育てを終えていま、ダウン症の怜依ちゃんの里親をしている朴さんは、早速家で一緒につくったそうです。怜依ちゃんも大喜びだったとか。

◇トッポッギもちの作り方
≪材料4人分≫ 上新粉150g、片栗粉60g、水150cc
①ボールに材料を入れ、水140ccを加えてよくこねる。10ccは調整用。
②鍋に湯を沸かしておく。(火加減は中火の強火)
③生地を丸め、棒状に伸ばし、食べやすい長さに切りながら、鍋に入れる。浮く上がってきたら10分~15分茹でる。生地は一度に大さじ1くらいがやりやすい。
④茹であがったら水にとる。

◇トッポッギもちと牛肉、野菜の和え物
≪材料≫牛肉150g、にんじん2/1本、乾し椎茸2枚、エリンギ1本、ピーマン2個、ねぎ1本
≪焼き肉のたれ(お肉300g分)≫醤油 大さじ2、酒 大さじ1、ゴマ油 大さじ1、砂糖 大さじ1.5、みりん 大さじ1、玉ねぎすりおろし 大さじ1、ニンニクみじん切り 小さじ1、梨すりおろし 大さじ1、(キウイ、パインでもよい)、コショウ少々   
①焼き肉のたれは材料を合わせておく。
②たれの半量を牛肉と合わせ、下味をつけておく。
③野菜はトッポッギの長さに合わせてきる。にんじんは太目の細切り、椎茸は千切り、ねぎは太さによって筒切りまたはななめ切り。
④湯を沸かし、潮少々を加えて野菜を茹で、取り分けて置く。(今回はトッポッギもちの茹で汁を使う。)
⑤フライパンを火にかけ、牛肉、茹でたトッポッギ、野菜、のこりの焼き肉のたれを絡め、全体が良くからまったらできあがり。

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◇ヤッチェサム/野菜巻き
≪材料≫豚肉150g、レタス適量、ニンジン2/1本、大根適量、キュウリ1本
≪味噌だれの作りやすい分量≫味噌大さじ3、玉ねぎすりおろし大さじ2、にんにくみじん切り小さじ1、コチュジャン小さじ2、ゴマ油小さじ1、みりん小さじ1、砂糖小さじ1①材料を良く混ぜ合わせてみそだれを作る。
②野菜は太めの千切り、または細めの短冊に切る。(生で食べられるものは何でも良い)
③肉は軽く塩コショウしておく。
④レタスの上に豚肉・野菜・味噌だれをのせ、巻いていただく。

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◆先行きに暗い話題の多かった昨年末、ICANがノーベル平和賞を受賞したことは久しぶりに聞いた明るい話題でした。その授賞の様子を伝える「核なき世界への熱い思い」が知の木々舎に届きました。授賞式に合わせてオスロに滞在した小寺丸木美術館理事長のオスロ訪問記を1月下号から3回にわたって連載しています。

◆昨年は年末にかけて、多くの記事が終了しました。
いだようさんの季節の記憶が終了し、それに代われるものはないと、暫く、目次で始まる『知の木々舎』をお届けしていましたが、表紙のないのは如何にも…という声をいただいて、1月上号から昭和記念公園の四季の写真を載せています。立川発のインターネットマガジンとしては相性はいいのではないかと思っていますが、いかがでしょうか。

◆東京は4年ぶりの大雪が降りました。追いうちをかけるように48年ぶりという大寒波に見舞われて、日陰の雪はいつまでも溶けません。さらに夜の寒さで凍った歩道は滑りやすく、自転車で出かけるには不向きな状態がつづきました。
雪が降った一週間後、昭和記念公園をたずねましたが、サイクリングロードはまだ走れないと言われて、すごすご引き返すはめに。数年前から入札で管理者を決めている公園は、国営といえども雪かきの予算はないのかもしれない(なにしろ、広大な面積です)と、へんなところで、北国のご苦労の一面が判った気持になりました。一方、日当たりのよい遊歩道では、春を待つ樹木の蕾もふくらみました。

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一週間後もまだ雪の残る昭和記念公園砂川口
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◆久しぶりに一茶の句を拾いました。

     一はなに猫がいねつむ座敷哉          文政句帖   政6

     梅どこか二月の雪の二三尺               七番日記   政1

  汚れ雪世間並にはとけぬ也              七番日記   政1

  わかなつみわかなつみ ~ 誰やおもふ 享和句帖   享3

     大雪をかぶつて立や福寿草              文政句帖   政7

    

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雑記帳2018-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-1-15
◆日馬富士暴行事件以来揺れ続けている相撲界を横目に、国技館のある両国界隈を歩きました。

昔、隅田川が大川と呼ばれていた頃、川は下総と武蔵の2つの国の国境でした。その大川にかけられた大橋が両方の国にまたがっていることが両国橋の由来になり、その橋の名前から周辺が両国とよばれるようになったとか。後に南葛飾郡が武蔵国に編入されるまでは現在の両国駅当たりは武蔵ではなく下総国だったのです。

駅を出て歩き始めると国技館は目の前です。年6回の大相撲興業のうち3回がここで開かれています。明治42年に回向院隣に建設されたものの、たび重なる火災や空襲に見舞われ、戦後再建された建物が進駐軍に接収されて、国技館は蔵前へ。昭和59年に現在の地に建物が完成してようやく大相撲は両国に戻りました。

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国技館正面入り口と相撲櫓

国技館前を過ぎて、一番最初の見所が旧安田庭園です。
本庄氏の下屋敷のあったところで、元禄年間に隅田川の水を引いた潮入回遊式庭園として築造されました。明治に入り、旧岡山藩主池田章政の邸宅となった後、明治22年(1889年)、安田財閥の祖である安田善次郎が所有することとなったため、この名がついています。庭園は横網町公園と背中わせになっているので、池越しに、横網町公園にある慰霊堂が垣間見えます。慰霊堂には関東大震災と東京大空襲の犠牲者の遺骨がおさめられています。

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近くには江戸東京博物館。博物館正面横から伸びる北斎通りに、いま人気のすみだ北斎美術館はあります。
現在の墨田区亀沢で生まれた北斎は、生涯に93回も転居したと言われていますが、ほとんど区内を出る事はなかったといいます。その作品は海をこえ、影響を受けたのはゴッホやモネなどの画家にとどまらず、作曲家のドビュッシーは北斎の『富嶽三十六 神奈川沖浪裏』から想を得て、交響曲『海』を作曲したのです。1999年にライフ誌の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に唯一の日本人として選ばれています。その北斎の偉業を発信する場として北斎美術館は2017年に誕生しました。誕生して半年後には来館者数は200万人をこえたそうです。

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北斎美術館が立つ緑町公園のそばに、韮山の反射炉で有名な江川太郎左衛門の江戸屋敷がありました。江戸時代、代官江川家のテリトリーは広く、相模、武蔵、駿河にわたる幕府直轄地をおさめていました。立川にも代官所があった江川太郎左衛門の屋敷がここにあったことは知る人は少ないのではないでしょうか。

北斎通りのもう一つの見どころは野見宿禰(のみのすくね)神社。小さい神社ですが、古事記に登場して相撲の神様とされている野見宿禰が祀られていて、境内には現代の横綱の名前をきざんだ石碑がたっています。その野見宿禰神社のはす向かいにあるあられやさんの店内のディスプレイも北斎にちなむものばかり。

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両国は相撲の町です。都内各地に部屋を構える親方が増えている中で、さすがに両国はまだどこよりも多くの相撲部屋があるようです。時津風邪部屋、八角部屋…、町を歩けばそこここにまわしが乾してあったり、お相撲さんとすれちがうことも…。そのうちのひとつ、錦戸部屋をみせてもらいました。

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まわしは乾すだけで洗濯はしないのだそうです
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なかなか立派な八角部屋
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稽古の土俵も神聖な場所です

水戸泉を出した錦戸部屋にも今はモンゴル出身の力士がいます。昨今、偏ったナショナリズムを危惧させるようなモンゴル人力士排斥の声も聞こえますが、15歳で日本にやってきた少年が言葉も習慣も違う世界でひたすら精進している姿こそ、見習いたいものだと思いました。

相撲にちなむ町では小学校の名前の漢字も相撲字です。

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その両国小学校は芥川龍之介が18歳までをすごした地です。

もうひとつの両国の顔は忠臣蔵。いたるところに四十七士にまつわるエピソードを伝える看板をみかけました。
そして、討ち入りの舞台、吉良邸は本所松坂町公園にあります。忠臣蔵でですっかり悪者になってしまった吉良上野介が、領地ではなかなかの名君だったと言われています。

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本所松坂町公園にある吉良邸と邸内にある吉良上野介の像

時は下って21世紀、12月14日の「義士祭」や同じく12月の「元禄市」など地域の商店街あげてのお祭りは賑やかで、赤穂浪士も吉良上野介も、今は仲良く町おこしに一役かっています。

墨田区には小さな町工場がたくさんあります。歩いてみると、ところどころでメリヤス工場や、それで財をなしたらしい邸宅の跡をみかけました。メリヤスは私たち世代にはなじみの、懐かしい言葉ですが、若い人はそれが何なのかわからないかもしれません。今は「ニット」と名を変えて、地場の大切な産業であることに変わりはありません。

かって隣に国技館があった回向院は、10万人の死者をだした明暦の大火の身元不明者を合葬、供養するために建立されました。鼠小僧の墓があることで知られていますが、今回、新しく、大黒屋光太夫の墓を見つけました。鎖国の時代に、難破して苦労の末ロシアから帰国し、波乱の生涯をとじた光太夫の墓は船の形をしていました。

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船の形をした大黒屋光太夫の墓

回向院の近くの相撲茶屋がこの日のお昼です。ハンサムで人気があった寺尾関(現錣山親方)のお兄さんが開いた相撲茶屋「寺尾」でチャンコをいただきました。(そういえば、錣山親方もこの度の騒ぎの中で話題になった一人でした。)

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このちゃんこ鍋は4人前

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雑記帳2018-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-1-1
◆明けましておめでとうございます。

今年は戌年。戊は茂の漢字に通じるもので、勢い良く葉が茂るような繁栄を表しています。今年は「戌戊(つちのえいぬ)」ということなので、占いでは大きな岩や盛り上がった土に例えられるのだそうです。
一方、戌の漢字は滅(めつ)で、植物でいうと、草木が枯れていく、滅び始める状態を表しているとされます。滅亡と繁栄、相反する意味を持つ年の、波乱を予感させる幕開けです。実際、米朝の危機助長に収束のみえない世界に目をむければ、この1年間の、分断や自国第一主義の流れはとどまるところを知らず、新年を手放しでは喜べない気がします。
とはいえ、縁起を担いで、イヌを祀る神社は暮れのうちから人気のようです。飼い犬を連れて参拝する人の姿がみられました。東京では、青梅市の御岳山山頂(標高929メートル)にある武蔵御嶽神社がおいぬ様の神社として知られています。

◆今年、『知の木々舎 』は10年目を迎える節目の年となりました。

事故で更新できなかった1回を除いて、月2回の更新を続け、この1月で208号になります。これまでにご縁のあった多くの執筆者の方々と読者に改めて深く感謝いたします。
昨年は、長く連載が続いた記事のいくつかが終了しました。写真家のいだようさんの「季節の記憶」、斉藤陽一さんの「西洋百人一絵」、中込敦子さんの「玉川上水の詞花」、、、。何れも読者の強い支持があったもので、寂しさを埋めることはできませんが、一方で、読者や執筆者からの紹介によって、入れ替わるように、新しい記事も生まれています。人の輪が生んだこうしたつながりがこれからも続いていくことを願っています。
発足当時、著名人の著書からの転載は異例で、世の人の目をひき、知の木々舎が知られるきっかけになりましたが、いまでは書き下ろしの記事が大分を占めるようになりました。パリから届く最新のファッションやワイン、美術展の情報は、ジャーナリストの嘉野ミサワさんが現場を駆け回って集めた写真も評判です。遠くサンパウロの読者からはいつも励ましの言葉をもらいます。輪は執筆者だけでなく、読者ともつながっていることを実感します。
今、カテゴリーは「文芸美術の森」「雑木林の四季」「心の小径」「核無き世界を目指して」「ことだま五七五」、編集後記にあたる「代表玲子の雑記帳」の、6つに分類されています。途絶えている「環境日本学」もいつか復活させたいと考えているところです。

◆国営昭和記念公園のお正月です。

これまでに何度かこのコーナーに登場した木漏れ日の里は、昭和30年代の多摩の農村を復元しています。正月には、里全体に、素朴ながら、正月飾りが施されました。 

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長屋門の松飾り
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       古民家の床の間の正月飾り
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  倉のうしろにひっそりと或るお稲荷さんにも正月飾り
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 里の入り口にたつみちしるべに(こもれびの里 武蔵野の農ここにありの字が見える)も正月飾り

同じ公園内でも、日本庭園では豪華な松飾り。庭園内の歓楓亭で出される一月のお茶のお菓子は「松」です。
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日本庭園入り口の松飾り
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           一月のお菓子「松」                                      

歓楓亭のそばにある盆栽苑に正月らしい盆栽を捜しました。

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    カリン
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五葉松

砂川口入り口も正月気分の大凧が飾られました。
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◆この季節、昭和記念公園にも草木に花は少なく、落ち葉の下でひっそりと春を待っているようにみえます。スノードロップが咲き始めたとの知らせを聞いて、花木園へ出かけました。冬のおわりから春先にかけて咲く、春を告げる花として知られています。
ひろい園内を回って探し当てたスノードロップは、群生と呼ぶには数もさほどなく、それと知らなければ気づかずに過ぎてしまいそうな、小さな花でした。

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◆国立(くにたち)市富士見台団地自治会長の多和田栄治さんの『検証 公団入居60年』が本になりました。以前『知の木々舎 』に連載したエッセイを下敷きに、団地の60年の歩みが綴られています。それはそのまま戦後の日本の社会史です。改めて紹介したいと、1月上号から連載を始めました。

     

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雑記帳2017-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-12-15
今年最後のお江戸街歩きは亀戸から押上へ、スカイツリーを目指して歩きました。

集合は総武線亀戸駅。東京の西、多摩に住んでいる身には東の下町は縁のないところですが、中央線お茶の水で乗り換えて両国の隣と聞けば、意外に判りやすいのです。

亀戸はそのむかし、亀の島とよばれる海上の島だった地、石器時代から人が住んでいました。やがて亀村と呼ばれる村ができ、村にあった亀ケ井という湧水の名と混ざってできた亀井戸村が江戸時代に井が消えた由、何でも端折る江戸っ子らしいですね。

駅前から商店街を抜けて進むと、目につくのが梅屋敷です。

江戸時代、呉服屋・伊勢谷彦右衛門の別荘が亀戸にあり、庭の梅の木々をめあてに、江戸中からの見物客でにぎわったとか。亀戸梅屋敷の名で人気を博したこの梅の名所は、多くの浮世絵で題材となっていますが、なかでも浮世絵師・歌川広重が安政三年(1857年)に描いた『名所江戸百景』の「亀戸梅屋敷」は、江戸の時代に海を越え、かのフィンセント・ファン・ゴッホが模写しています。そのゴッホ展は今、上野の東京都美術館で開かれています。

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梅屋敷は明治43年の大雨による洪水ですべて流され、廃園になりましたが、当時の賑わいを偲ぶ名前を冠して建てられた建物は、江東区が委託して、江戸、下町の粋な歴史と文化を発信する拠点になっています。店内でも一番目を引く棚に並ぶのが江戸切子です。

江戸時代後期に製作された江戸切子は、薩摩切子と共に、江戸期のすぐれたガラス工芸品です。薩摩切子は藩主の手厚い保護のもとに、藩の事業として製作され当時の最高の研究と開発の結果出来た美術工芸品でしたが、藩主の衰退、工場の焼失によりその伝統を伝えるものはなくなりました。これに対し、庶民の手により製作された江戸切子は明治維新の政治的改革にも影響を受けず、これまで長く存続している伝統工芸です。江戸切子の特徴として魚子模様の他に、籠目・麻の葉・菊・格子切子などの模様が用いられています。

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亀戸の由来になった亀ケ井は亀戸香取神社にあります。
藤原鎌足が千葉に勧請した香取神社は全国に400もあり、亀戸香取神社はそのひとつです。平将門追討の命を受けた俵藤秀郷がこの香取神社に祈願してめでたく平定したことから、多くの武将や武人の崇敬をうけました。そのため、現在はスポーツ振興の神として多くの参拝客をあつめています。境内には江戸東京野菜の一つ、亀戸大根の碑もあります。

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亀戸の名のもとになった亀ケ井の湧水の井戸

亀戸の北を江戸時代初期に開削された北十間川が流れています。
農業用水だった川は「おわい船」が行きかっていました。
元禄年間、祐天上人が千葉方面に往来の途中、この川に多くの水死体のあるのを見てそれをなぐさめるために供養塔を残した。以来この付近では溺死する者もなく周辺住民にあがめられたという祠が祐天堂です。目黒の祐天寺は上人が晩年、隠居した地です。

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亀戸といえば亀戸天神。
天保年間に、菅原道真の末裔だった大宰府天満宮の神官、菅原信祐が諸国を巡る途中、本所亀戸村にたどりつき、もともとあった天神の小祠に道真ゆかりの飛び梅で掘った天神像を奉祀したのが始まり。寛文2年に大宰府天満宮にならって造営され、現在の形ができました。大宰府天満宮に対して東宰府天満宮と称されたこともあります。

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三つの太鼓橋は男橋、平橋、女橋と呼ばれ、過去、現在、未来を現し、池と橋を人の一生に見立てた“三世一念の理”と言います。3つの橋を渡るごとに心が清められるのだそうです。
1813年、亀戸天神の太鼓橋が再建されたとき深川の芸者衆が太鼓型に帯を結んで橋を渡った様子が周囲の目を引き、太鼓結びの語源になったといいます。4月の藤祭りは有名。
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太鼓橋(上が男橋、下が女橋)
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池にはサギの姿も

亀戸天神の鳥居の近くにある船橋屋はくず餅の老舗です。
江戸時代、通りを渡った向かいに銭座があり、一文銭などの銅銭が鋳造されていました。

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亀戸七福神のうち毘沙門天のある普門院には伊東左千夫の墓があります。
江東天祖神社は、応永2年(1395)に僧良傳が、龍眼寺と共に創建したと伝えられます。柳島村の鎮守です。七福神は福禄寿。龍眼寺はまた萩の寺としてしられています。

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天祖神社

北十間川が横十間川と交わるところで墨田区にはいります。柳島橋をすぎたところにあるのが、日蓮宗の寺院で「柳橋の妙見さま」として知られる法性寺です。葛飾北斎や歌川広重、豊国らの画家や、歌舞伎、落語界の名優ら粋筋の信仰を集めました。近松門左衛門の供養碑もあります。

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没後100年にひ孫が建立したという近松門左衛門の供養碑

十間川はスカイツリーの誕生で水辺が整備され、開発の期待が高まっています。
十間川橋からみたスカイツリーはインスタ映えすると人気、川沿いの路地は昭和と平成が同居するまちとして海外の観光客に人気なのだそうです。

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十間川橋から見たスカイツリー
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路地から見えるスカイツリー

◆『知の木々舎』の執筆者のお一人だった竹山昭子さんの「戦争と放送」が吉川弘文館から出版されました。戦時期の情報操作に果たした放送の役割を描いた、同社が配信する「読みなおす日本史」シリーズの一冊です。2,400円(税別)。


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◆斉藤陽一さんの『西洋百人一絵』が今号で終了しました。チマブーエの「荘厳の聖母」から始まり、ルネサンスから20世紀にいたる西洋絵画の歴史をたどる、5年に亘る連載でした。

◆12月9日、国営昭和記念公園の木漏れ日の里では年末のすす払いです。

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◆来年は戌年です。町のお店のショウケースにも犬がならびました。

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雑記帳2017-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-12-1
西砂を知ろう~ようこそ西砂へ

立川市には地域の学習館が6館あります。いずれも戦後各地に作られた社会人教育のための施設だった公民館が「生涯学習」という名のもとに衣替えしたものです。
それぞれの地域館は、ボランテイアの委員さんたちが、地域の特性を活かした学びの場を地域住民に提供しようとがんばっています。

開発で賑わう立川駅から北へ一里あまり。そこには五日市街道をはさんで、都市とは思えない広大な農地がひろがっています。江戸時代から「代々農家、自分で十何代目」という農家もめずらしくありません。
その中でも、西砂は、立川市のはずれに位置し、横田基地と接する地域です。
近年、市街地よりは土地が安いのを狙って宅地の開発がすすみ、他所から引っ越してくる新住民がふえてきました。そうした住民を対象に、地域を知るための企画が11月に、続けて2本実施されました。

先ず「地元を学ぼう!~西砂、砂川地域の歴史」です。講師は『知の木々舎』の後見人で砂川歴40年の作家、鈴木茂夫さん。ジモテイではない目で、江戸時代から400年に渡る地域の歴史をひもといてくれました。

砂川の歴史は江戸幕府のはじまりとほぼ時期を同じくしています。特に1652年の玉川上水の開通にともない、用水が引かれて新田開発は大きく進みました。
当時の農作物は麦、栗、ひえ、そば、いも、菜、大根、享保年間にはごま、藍、綿、さとうきび、養蚕でした。
一方で、この時代、砂川は尾張徳川家の御鷹場の指定をうけていました。実際に鷹狩が実施されたのは2回ほどでしたが、鷹場に指定されたおかげで担当する部署の役人は500人近くも常在していたのです。

時代は下って、幕末最大の武州一揆の舞台になり、立川の農兵が一揆を多摩川河原に迎え討ち撃退したことは歴史に残る事件です。
幕末開港に伴って、八王子往環を利用して横浜居留地からの往来もあり、明治には宣教師のテストビッド神父が砂川に天主堂を建てました。信者は200人もいたそうです。(このへんのいきさつは鈴木さんの著書『武州砂川天主堂』に詳しい。)

明治初期、玉川上水に通船が通りました。近郊農村からの産物の物流は多くの農家を潤しましたが、もともとが江戸市中の住民の飲み水だった上水の水質汚染を理由に、わずか2年で廃止されました。物流は、代わりに甲武鉄道、後の中央線に引き継がれました。

中華民国の成立やロシア革命、第一次世界大戦を経て関東大震災まで、大正の短い期間はなんと激動の時代だったことか。
この時期に砂川村に飛行場が建設されました。立川陸軍飛行場を舞台に生まれたさまざまなドラマは、わが知の木々舎の「立川陸軍飛行場と日本、アジア」(著者・楢崎茂彌さん)に詳しく描かれています。

そして昭和。戦後の砂川闘争は砂川の名を全国に知らしめることになりました。砂川事件を経て、基地は横田へ移ります。1977年に立川基地は全面変換となり、今その跡地には国の機関や裁判所、国語研究所や国文研、極地研などの研究施設が軒をつらねています。

さて、一週間後の11月19日、いよいよ「ようこそ、西砂へ」のフィールドワークです。
今年は達磨を製作している村野達磨産業と、江戸時代から続く農家、岩田さんの畑を見学しました。

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久しぶりに抜けるような青空の下、学習館をいざ出発

近頃は流し込みの達磨を作るところが主流になっているのに対し、村野さんの達磨は昔ながらの張り子の達磨です。木でできた張り子の型は使い込んだ昔からのもの。古紙に繊維を混ぜて天日干しにした張り子紙は、埼玉県の小川町でつくられています。天日で干したものでなければ強度が出ないのだそうです。

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張り子の型
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張り子紙

夏の暑いときに、3日間かけて、型に張り子紙を張って、型抜きの作業をします。そのあと、粘土で作った底をつけ、胡粉と二カワをお湯でまぜた赤い塗料をぬります。塗った塗料が乾くまで、こちらも作業は3日間。
顔を描いたり金色で模様を描いたりする仕上げの作業には2日間かかります。

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赤い塗料を塗って乾かす
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多摩には今、8軒の達磨工房があるそうです。それぞれ特徴があって、皆ちがうそうな。
正月の拝島大師からはじまる達磨市は、五日市、青梅、高畠不動と続きます。最後は3月の調布深大寺。3月まで達磨を売るところは多摩くらい、達磨市は、今はどこももっと早くしまうそうです。

村野さんは5代目の、180年続いている達磨師です。
縁起ものらしく、顔に描かれる線は鶴、亀、富士山をあらわしています。金色で体の飾りを担当する村野さんの叔母さんは高齢ですが、飾りの中にさりげなく自分のサインを遺すところが職人の粋でしょうか。
筆も独特のもので、この筆を作る人がいなくなれば達磨をつくることもできないと言います。さまざまな職業の職人に支えられて達磨も今を生きているのです。

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村野さん
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どれが鶴か亀か富士山か、わかりますか

13代目という岩田さんの畑は、間口30間の、開発時の規模を今も維持しています。今畑にあるのは大根、ホウレンソウ、こまつな、カブ、ブロッコリー、カリフラワーなど。
消費者の二ーズに応えて何種類もの大根やカリフラワーをつくります。例えばカリフラワーだけでも白、黄色、紫があり、大根も白だけでなく、聖護院大根のように丸いのもあれば、真っ赤な大根も。大きさは今はミニが好まれるとか。モモノスケという名前のついたカブは、外皮の赤い皮をむくと桃のような実が現れます。紅芯大根は外は白くて中が赤いのが特徴です。

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皮をむいたモモノスケ
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中が赤い紅芯大根

ハウスでは多摩では珍しい、博多のカツオ菜が育っていました。勿論お正月用です。
夫の転勤で博多に4年間住んだことがありますが、雑煮にはブリとカツオ菜がかかせません。東京に住む博多出身舎のニーズにこたえるためだとききました。
砂川の農家は古くから、進取の気どりに富み、江戸時代後期には武士をしのぐ豊かさだったと聞いたことがあります。つぎつぎに新しい野菜の栽培に取り組む姿勢は今に始まることではなく、都市近郊農業ならではだと思いました。

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カツオ菜

最後にプチ収穫体験に、大根をひかせてもらいました。
失敗作だという赤カブは直径15cmもある大物で、重さは1.5キロもありました。持ち帰って甘酢漬けにすれば、全体が薄い緋色に染まって美しい一品になりました。

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収穫物を抱えて学習館にもどると、運営協議会のボランテイアのみなさんが作ってくれたお昼が待っていました。地産地消の野菜づくしの献立です。

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大根ステーキの肉味噌かけ、野菜たっぷりの煮物、あやめゆき(カブ)の甘酢づけ、柿の白和え、お味噌汁、ウコッケイの卵かけご飯

あやめゆきはその名のとおり、アヤメの色をしたカブ。その他の食材も、ウコッケイの卵、こんにゃくを含めて、すべて、立川で生産されたものでした。


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雑記帳2017-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-11-15
お金の変遷をたどると歴史がくっきり、貨幣博物館。

日本橋は日本銀行の真前にあるのは貨幣博物館です。古代から現代までのお金にまつわる展示はなかなか見ごたえがあります。10月末、金融広報委員会の主催するバス見学会に参加しました。

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博物館正面入り口
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入館するとすぐ目に着くインドネシア中央銀行からおくられたという巨大なガルーダの像(職員に聞いてもそれ以上の意味はないらしい。)

入口で入念なボデイチェックをうけて入館。
時代をおってお金にまつわる展示物を見て行くと、そのまま日本の社会史になります。
律令に基づく中央集権国家をめざした日本では、7世紀末から10世紀半ばまで、富本銭と呼ばれる銅製のお金がつくられました。708年に鋳造された和同開珎はその代表です。
平城京ではすでに国家が管理する市で、給料として手にいれた銭貨を使って食糧や日用品を購入していました。地域によっては米や絹、麻布などがお金の代わりをしました。
10世紀になると、材料となる銅の生産量が減少、銅銭の発行はなくなり、米や絹などが引き続きその役割を果たしました。

12世紀になると、中国の銭貨(渡来銭)が広く使われるようになりました。当時の日中貿易のは輸出は金、銀、硫黄、水銀、木材に対し、輸入の多くを占めていたのは陶磁器にならんで銭貨でした。
13世紀以降、商品経済の発展とともに、銭貨の使用が浸透していきます。年貢も生産物をそのまま納めるのではなく、代わりに銭貨で納めるようになりました。人々は銭貨を得るために地方の市で生産物を売却し、各地で新たな特産物がうまれました。

この時代、すでに、「徒然草」には、今に通じる金持ちの心得が書かれています。
 ①人間世界は常に移り変わる無情なものと知りなさい。
 ②自分の欲求に用心し、いつでもかなえようとしてはいけない。
 ③銭貨を主君や紙のごとく尊びながら使用する
 ④恥ずかしい目に会っても恨まない
 ⑤正直を心がけ、約束を守る

国として貨幣の発行が再びはじまったのは江戸時代です。
日本銀行本店の場所にあった金座では金貨が、銀座で銀貨が、各地の銭座では銭貨が作られました。16世紀、日本国内における金銀の生産量は鉱山開発と技術革新のもとで飛躍的に増大、銀は海外に輸出されるようになっていたのです。
大坂、江戸、京を中心に両替屋は異なるお金の交換をおこなったほか、預金や貸出、決済など今日の銀行と同じようなサービスを提供して、江戸時代の商品流通を支えました。「金は天下のまわりもの」という考えが定着したのもこの時代です。
江戸の大判小判とともに展示されている、秀吉の発行した天正長大判の大きさと輝きには目がくらみそうです。

日本初の紙幣は17世紀初めに伊勢の商人によって発行された山田羽書(やまだはがき)と言われていますが、その後、多くの藩が藩札を発行しました。透かしや隠し文字をいれるなど、現代の紙幣に通じる偽造対策がとりいれられています。

そして近代。1856年、各国と通商条約を結んで世界市場に参加した日本は、近代化への道を歩み、明治政府は新しい貨幣制度を整えることになりました。1872年、日本銀行と「円」の誕生です。しかし、不平等条約の下では、金貨の流出も招きました。
1897年に導入された金本位制は、第一次世界大戦、金融恐慌を経て、1931年に管理通貨制度へ移行したと学校の歴史で学んだことははまだ記憶にあるところです。

参加者から「使われなくなった旧紙幣や硬貨をもっているけど、プレミアが付いて高く売れることはあるのかしら」との質問に、「100年以上経てば多少の値段はつくかもしれませんが、少なくとも自分が生きている間に値上がりすることはありません。1万円は1万円です。」

同時開催されていた企画展「19世紀日本の風景・錦絵にみる経済と世相」では、貨幣を通して描かれるランドスケープと称し、「オカネカラミエルオモシロニッポン」が紹介されていました。幕末から日本銀行設立までの貨幣・経済の様子や、芝居絵などの日本の風俗や文化、さらには大黒天など幸福と富を願う縁起物を描いた錦絵が並んでいます。わたしたちが思っているよりもずっとお金は身近な存在だったのですね。

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企画展ポスター


21世紀の今日まで、わたしたちの生活を支える大切な役割を果たしてきたお金です。時代の移り変わりの中で、形をかえ、使われ方を変えながら、生き残って来たお金。使ってこそのお金だなあとの思いを強くしました。貰った資料にはこのお金の価値を安定させることが日本銀行の大切な仕事だと結ばれていました。

資料室は撮影禁止ですが、室外フロアの展示物なら可能ということで、いくつか面白いものを見つけました。

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1億円の重さが体験できる一億円の束
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直系1メートルもあろうかと思われるヤップ島の貨幣


◆お昼は貨幣博物館のすぐ近くの築地で。短い昼休みに何軒もかけもちしたいと地図を片手に駆け回るグループや外国人観光客で、築地場外市場は相変わらずのにぎわいでした。

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築地に来たらやっぱり海鮮丼とばかり、ちょっとがんばりました。2,300円。


◆午後の見学場所は証券取引所です。かっては2000人の立会人でごったがえしていた立会場は1999年に東証アローズにうまれかわり、直径17メートルのガラスシリンダーの中で東証社員が市場監視を行うマーケットセンターも静かなものでした。

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入口受付をはさんで農業、商業、工業、交通通信の4つの像がならぶ。それぞれを象徴する稲穂、蛇、ハンマーなどを手にしている。
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マーケットセンター
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新規上場のセレモニーで打ち鳴らされる上場の鐘、五穀豊穣にちなんで鳴らすのは5回。
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株券立会場のパネル。その日の見学団体の名前が張り出されるので記念に写真をとっていくそうな。

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雑記帳2017-11-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-11-1
◆立川防災館では防災の体験学習ができます。

立川市には、昭和記念公園の東に広がる防災基地があります。政府機関・自衛隊・警察・消防・海上保安庁などが集結し、首都機能喪失時の予備拠点になっているところです。立川防災館はその防災基地の一角にあって、楽しみながら防災体験ができる施設です。

防災ミニシアター、地震体験、煙体験、消化訓練、応急救護訓練の、5つのプログラムが用意されていて、それぞれ30分は必要なので、持ち時間に合わせて好きなメニューを選ぶことができます。

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    入館するとすぐ眼につく消防車。子供の見学も多いので展示も子供向けのに。

オリエンテーションを受けた後、防災ミニシアターへ。20年近く前、開設間もないころに訪れた時に上映されていたのは、もし地震が起こったら家族はどうする?というドラマでした。午前10時頃、夫は会社、子供は学校、主婦は家庭で皿洗いの設定はステレオタイプで、当時でさえ、いささか不自然でしたが、その後、東日本大震災も経験して、地震はより身近になり、上映される映像の種類も増えました。

この日のミニシアターでは、東日本大震災当時の映像を選び、大型スクリーンに映し出される被災地の様子に、6年前のあの日を思い出しました。被害は東京にも及んでいました。

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続いて、地震体験室で震度7を体験。揺れたら、まず、身を保護するためにテーブルの下へ。揺れがおさまったら火を消す、ドアを開けて逃げ道を確保するなどを教わりました。

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  M7の揺れはかなりのもの

火事で亡くなるのはほとんどが煙にまかれるのが原因です。煙体験室では、煙にまかれないよう、暗闇を低い姿勢で出口までたどる訓練をします。

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  煙からの避難のパネル

地震と煙を体験した参加者の一人から、「怖かった。体験してなければもっと怖いだろう」の感想が聞かれました。

防災グッズは様々あるけれど、インストラクターがこれだけは是非と教えてくれたのが、懐中電灯、笛、それに底が滑らないスリッパの3点セットです。これなら簡単なので、枕元に置いて寝る習慣もつきそうです。スリッパは靴に履き替えるまでの室内でガラスの破片などで怪我しないためです。

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    防災グッズの展示

そのほか、応急救護訓練室では全身タイプの人形を用いて心肺蘇生法を、7~80人は入れそうな広い消火体験室では消火器の使い方を学べます。また、タッチパネル式の端末で、防災クイズに答える防災資料室などのコーナーもあり、防災館は子供も喜びそうな工夫がいっぱいです。

◆防災意識の高まったところで、今度は防災食の実習です。

特別に準備する非常食ではなく、常時ストックしている缶詰や乾物を使った料理の講習会を開きました。題して「災害時に役立つレシピ」。

用意したメニューは、鍋で炊く黒豆ご飯、わかめと小町麩、きゅうりの酢の物、さば缶のトマト煮、切干大根とシーチキン缶詰のマヨネーズ和え、コンビーフ入りのマッシュポテトです。

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大豆の栄養については広く知られていますが、黒豆にも同等の栄養素がふくまれています。
さらに皮の黒い部分にはアントシアニン(ポリフェノールの一部)が吹くまれているため大豆以上にさまざまな効能、効果が期待できます。

お米3合に黒豆カップ1杯、フライパンで皮がはじけるまで黒豆を煎る手間(10分くらい)を除けばあとは普通のお米を炊くのと同じ。ふたを取った時、ご飯が美しい紫色に炊きあがっているのには感動します。小さく刻んだ梅肉を加えて混ぜれば梅味の黒豆ご飯の出来上がりです。

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黒豆ご飯

麩は小麦粉に含まれるグルテンという植物たんぱく質でできています。ミネラルも多く含み、安価で保存にも最適。消化もよいので離乳食や高齢者の食材としても優れています。

さば缶はこれまた優れもの。缶詰のトマトソースと一緒に火にかけ、さばを適宜潰しながらコーンも入れて一煮立ちさせればできあがり。まことに簡単で想像以上に美味しいです。

切干ダイコンには植物繊維、カリウム、カルシウム、ビタミンBなど、生のダイコンと比較しても豊富な栄養素を含む食材です。煮物だけでなく酢の物にも利用でき、健康食としても大変すぐれています。

牛乳やお湯でもどす、マッシュポテトの元は市販されており、コンビーフ缶は改良されてあけやすくなっています。

上記のメニューははいずれも非常時だけでなく、いつでもおいしく食べられます。簡単に調理できるので一人暮らしの高齢者にもお勧めです。あまったら冷凍保存も。

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できあがり!!

この日、参加者の中に車いすの女性がいました。まだバリアフリーの普及していなかった時代に建てられた女性センターの調理室は障害者に適応した作りではありません。それでも彼女は積極的にに講座に参加しています。

出来上がった一式は相当なボリュームになりますが、「私、全部食べられそう。」そのときに細身の彼女が言った言葉が心に残りました。「障害者はエネルギーが要るのよ。」健常者の障害者への意識をちょっと変える言葉ではありませんか。


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雑記帳2017-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

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まだ紅葉には早い秋、「ろくもん」に乗りました!

6月に切り株に躓いて転倒、左手首を骨折したとき、台湾同窓会の志田さんが「治ったら、ろくもんに乗りましょう」と言って、励ましてくれました。
それを励みにリハビリに励んだ結果、3か月で、左手の可動域は右手と変わらないほどに回復、10月初めの計測では、握力も15.0kgまで戻りました。

もともと、リハビリを始める時、高齢になって骨折した場合、100%回復は無理と言われたところからの出発です。これを全快と言わずして何だろう、と、はればれ、全快記念の乗車となりました。

「ろくもん」は、しなの鉄道の誇る、軽井沢と長野を往復する観光列車です。
長野新幹線が開通したとき、新幹線の止らない在来線はJRから第3セクターに移管されてしなの鉄道になったのです。戸倉、上田、小諸等の駅に停車しながら、2時間弱の信濃の旅を楽しむことができます。名前は、推察のとおり、上田の城主、真田家の家紋「六文銭」から取ったものです。

軽井沢発の「ろくもん1号」は、チーズが人気のフレンチレストラン「アトリエ・ド・フロマージュ」のメインディッシュ、長野発の「ろくもん2号」は小布施の割烹「鈴花」の懐石料理が出ると言うのが売りです。私たちが乗ったのは「ろくもん2号」でした。

しなの鉄道が「ろくもん」を開業してから3年あまり、ちかごろでは、切符がなかなかとれない程の人気だそうです。私も9月初旬に、ネットで予約しようとサイトをひらいて、うろうろしている間に空席が埋まっていくのを経験しました。なんとか運よく滑り込むことができたのでした。

10月2日。長野駅発13:55。JR長野駅の構内から出発します。

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「線路はつづくよ」の筆者、岩本啓介さんによると、しなの鉄道の車両はすべて117系だそうです。

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    2人掛けのコンパートメント

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 九州の七つ星をデザインした水戸岡鋭治氏デザインののれん(上田紬ではありませんが)

乗車してすぐ運ばれてきたのは、小布施の和食料理店「鈴花」のお重です。
栗の産地として有名な小布施は北斎館があることでも知られています。幕末、北斎親娘が逗留し、町に残された作品は、最近の北斎ブームとともに注目されています。何年か前には、町内の舛一酒造の代表、セーラ・カミングさんの町づくりの取り組みが話題を集めたのを覚えています。街づくりへの挑戦は今も続いているのでしょう。

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壱の重(焼き舞茸のお浸しの小鉢、信州産豚ロース味噌漬けの燻製、小布施栗の渋皮揚げ、キュウリメロンの浅漬け、などの肴)

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弐の重は、信州サーモンのつけ焼、無花果護摩胡桃味噌漬田楽、生麩のタレ焼き、などの焼き物、茄子の瑠璃煮、凍み豆腐などの煮物、デザートの籠盛りでした。
籠盛りのぶどう「天山」は、音だけでなく見かけも天蚕の繭を連想させるような美しい緑色をしています。皮ごと食べられて大きさは巨峰の2倍もあり、値段は1房1万円もするという驚きの葡萄です。

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 月見椀

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小布施栗の栗おこわ

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茶の湯の心を大切にと締めは抹茶で。まんじゅうの餡は小布施の栗餡

千曲川を渡ると、窓外は秋色の風景が広がって、刈り取りの終わった田んぼに「はざ掛け」の稲の列です。

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上田駅では真田武将に扮した駅長さんのお出迎えという、大サービスでした。

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14:52 軽井沢到着。

せっかく来たのだからと、通常なら日帰りの軽井沢に一泊することになり、プリンスホテルのコテージに宿を取りました。

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4人分のベッドに風呂、トイレ、洗面所を備えて林の中に点在するコテージは、家族連れや友人同士が宿泊するにはうってつけです。値段はリーズナブル。別棟の温泉や本館での食事にはカートが迎えに来てくれます。

翌日、新幹線に乗るまでの時間を利用して旧軽井沢を散策。室生犀星の旧居と、避暑地軽井沢発祥の地を巡りました。10月ともなれば観光客も減って、避暑地の秋は落ち着いた気配です。林の中の、人気(ひとけ)のない小路をたどると、犀星の旧居は訪れる人もなく、ひっそりとたたずんでいました。軽井沢の清涼な空気や自然を愛した犀星が疎開生活を送ったこの家に、堀辰雄や立原道造ら若い詩人たちが集った様子を想像してわくわくしました。

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犀星の旧居(母屋と離れ)手入れの行き届いた庭の苔が美しい

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最初に軽井沢を避暑地に選んだカナダ人宣教師アレキサンダー・ショーの別荘

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ショー記念礼拝堂

ショーハウスをあとに、二手橋を渡って矢ケ先川沿いに進む道にも人影は見えず、散策のすえにたどり着いたのは万平ホテルです。今軽井沢で人気のホテルの前身は『亀屋旅館』、別荘を建てる前にショーがひと夏滞在した当時は空き家だったそうです。いち早く西洋のライフスタイルを取り入れた万平さんの戦略は見事に当たったと言えます。

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万平ホテル

「ろくもん」の懐石料理に始まって、朝食はホテルのバイキング、熟年女子のおなかは十分満たされて、後は蕎麦だけのはずだったのが、ここで、蕎麦がケーキに化けました。栗がいっぱいのロールケーキは食べ応え十分、お茶はもちろん、ジョン・レノンが愛したロイヤルミルクティです。
旅の締めくくりとしては申し分のないお茶の時間となりました。

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季節のケーキとミルクティ

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雑記帳2017-10-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-10-1
◆「風鈴雅楽」という、ちょっと風変わりな演奏を聴きました。

7月に和泉舞さんから風鈴の演奏会のチラシがおくられてきました。9月9日の「風鈴雅楽コンサート」と、舞さんの舞踏のコラボのお知らせでした。場所は、3年前舞さんが「原爆の図」を舞った町田市の勝楽寺です。

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40人ほどの観客を前に、本堂にはさまざまな風鈴がならんでいました。
演奏するのは世界でただ一人の風鈴演奏家と称する日向真さん。京都、東山に住み、各地に出向いてコンサートをおこなっているそうです。
今回は彼の作曲した曲と舞踏家の舞さんがコラボするという、面白い試みでした。

琴と尺八、シンセサイザーに、人の声と風鈴の音がかぶさって、不思議な世界がひろがります。演奏者を取り巻く風鈴の中で、とりわけ目をひいたのはずらりと並ぶ江戸風鈴でした。
江戸風鈴は一つずつ音がちがい、10個つくれば10個の音があるといいます。
なので気長に探せば気に入った音階の風鈴を手にいれることができるのだそうです。

神仏にささぐ楽の音と称した演奏会に、舞さんは時に神社の巫女さんや時に曼荼羅をイメージさせる踊り子に扮して登場、寺の本堂はあくまでほの暗く、観客も不思議な空間と時間を楽しむようでした。

◆おなじころ、渋谷のミニシアターで「日曜日の散歩者~わすれられた台湾詩人たち~」というドキュメンタリー映画を見ました。会場のシアターイメージフォーラムは、200席ほどの小さい劇場で、マイナーな作品を上映しています。(ちなみに次回公開作品は「三里塚とあの時代」シリーズということでした。)

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1930年代、日本統治下の台湾に、「風車詩社」というモダニズムの詩人団体がありました。植民地支配により言葉を奪われた台湾で、日本語で詩を書き、新しい台湾文学を創造しようとした詩人たちがいたのです。
日本に留学した彼らは、西脇順三郎に師事、日本の文学者たちとの交流を通して、西洋のモダニズムにあこがれを抱きました。帰国後、「風車」を結成し、日曜日ごとに古都・台南を散歩しながら、シュールリアリズム詩についた語り合ったといいます。

画面には留学中の、深大寺に遊ぶ西脇順三郎師弟の映像や、ダリやピカソなどのダダイズムの作家たちの作品がししばしば登場しました。そこに、来日したジャン・コクトーやチャップリンがいて、期せずして、戦前の一時期、日本にこんなのびやかな空気のあった時代をひもとくような気分もありました。

シュールという新しい文化を創造しようとした試みは、しかし、植民地下の台湾では理解されず、「風車」は2年に満たない短命におわりました。

日常のたんたんとしたの風景が流れ、やがて、戦争に巻き込まれていく様子がモノクロのフィルムで紹介されます。そして、戦時下の不自由な暮らしとそれにとどめをさすような空襲(台湾にも空襲があったのです!)。それらの実像のあいだに、彼らの詩ヤエッセイが挿入されていました。

活躍を別の舞台に求めた詩人たちの中には戦後、白色テロで捕えられたり命をおとした人もいました。彼らは日本語で詩を書いたことが裁かれたのです。植民地時代に言葉を奪われだ詩人が、敵国語で詩を書いたことで死刑になる・・・彼は二度殺されたという人もいます。

歴史にうもれていた若い詩人たちが見直されたのは、現在の台湾の歴史認識の変化や「懐日」ブームのおかげでしょうか。このドキュメンタリーは台湾アカデミー賞をはじめ、多くの国際映画賞を受賞しました。2時間にあまる、テーマに恥じぬシュールな作りのドキュメンタリーでした。

ところで、高校時代、西脇順三郎の名前を知った記憶はありますが、彼がモダニズムの詩人であることを、この度改めて知りました。彼の詩の一節です。
 ―脳髄は塔からチキンカツレツに向かって永遠に戦慄する―
もうしわけないけれど、私には意味不明。上映後、挨拶にたった詩人の八木幹夫さんも勉強しなおしたいと言ったほどです。

この映画を紹介してくれたのは詩人の近藤明理さんです。
台湾独立連盟の委員長の傍ら、お父上の王育徳氏を顕彰する事業の打ち合わせに、日本と台湾を往復する忙しい毎日の合間をぬって、昨年の台湾での世界詩人会議に出席したメンバーの同窓会をつくってくれました。

渋谷駅の一番人気のハチコーのいる出口から、青山通りを目指して宮益坂をのぼった先にシアターはありました。えんえんと続く坂を上るうち、渋谷駅がまさに谷底だったのだと実感できます。東京には谷のつくく地名がどれほどあるのか、確かめてみたい気分になりますね。

近くに国連大学や青山学院大学もあるという立地ながら、おのぼりさんにはめったに来ることもない所なので、お昼はシアターの近くで見つけたマレーシア料理の店を選びました。味は魚醤ベースなので日本人には違和感がなく、とに角辛いのが特徴。値段は普段のランチ程度でリ-ズナブルでした。

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手首骨折後、リハビリを始めて3か月になりました。
バラバラに折れていた骨が芽を出し始め、療法士さんは「骨の赤ちゃんができた」と言って喜んでくれました。これから運動して大切に育てていかなくてはなりません。自転車にはまだ乗れませんが、握力は13.0まで回復しました。

すっかり秋らしくなりました。小林マサさんがおはぎをつくってもってきてくれました。

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雑記帳2017-9-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-9-15
三鷹は何人もの文人の住んだ町、太宰治もその一人です。

作家太宰治は、1939年<昭和14年)東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居、1948年(昭和23年)6月に自死するまでの9年間に、代表作「走れメロス」や「人間失格」、「斜陽」を始め、多くの作品を発表しました。

わが家は、昭和50年代のほぼ10年間、三鷹市に住んで、子育てをしていた時期がありました。
近くに玉川上水がありましたが、当時上水は空堀で、ここで太宰が入水自殺したと聞いても実感がなかったのをおぼえています。(玉川上水は昭和46年に空堀化、下水処理水を利用して水流が復活したのは61年のことでした。)

偶然、旅行会社のツアーに「太宰治の足跡コース」をみつけて、参加してみました。
自分自身がファンではなかったにせよ、今なお、多くの若者を引きつける太宰を少しは知ってもいいではありませんか。

当日は、三鷹駅周辺の太宰が執筆のために借りていた仕事部屋やなじみの酒屋などの跡をめぐり、入水した上水に沿って歩いたあと、下連雀の住宅街を抜けて太宰の眠る禅林寺まで、約2時間半のコースです。

集合は三鷹駅。駅のそばを流れる玉川上水にかかる三鷹橋で、ガイドさんから三鷹の由来を聴きました。
三鷹が発展した契機は2つ。一つは勿論、玉川上水ができたこと、時あたかも明暦の大火のあと、幕府は防災上の政策から、火除地としてこの地を選び、神田連雀町の住民を移転させて開拓にあたらせたことです。私も住んでいた下連雀の名前はここから来ていたのです。もうひとつは昭和4年に中央線に三鷹駅ができたこと。関東大震災を期に進んでいた都内からの移住に弾みがつきました。

その三鷹駅は当初電車庫として開設され、車庫をまたぐ跨線人道橋の「睦橋」を太宰が好み、編集者や弟子たちをつれてよくおとずれていました。

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とおく富士山を望むこの橋の上から太宰がどこを見ていたのかわかりませんが、電車庫は鉄道好きの子供にとっては格好の遊び場です。息子も小学生のころ、日がな一日電車を眺めて飽きませんでした。

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跨線橋から見下ろす三鷹電車庫


太宰の傑作の多くは三鷹時代に生まれました。疎開先の金木町から戻って最初に仕事部屋にしたところが「中鉢家」。今はマンションになっています。太宰はここに毎日弁当を持って通い、「朝」や「ヴィヨンの妻」を書きました。

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中鉢家跡

「犯人」や「斜陽」を完成させた、二度目の仕事部屋、「田辺肉店」の、道路をはさんだ真向かいに、酒好きの太宰が通った「伊勢元酒店」がありました。跡に建つマンションの1階に、「太宰治文学サロン」が誕生しました。太宰没後60年、生誕100年を記念して、資料展示や情報発信の場にしようと、平成20年に三鷹市が開設したのです。今では市民の交流の場にもなっているということです。

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ちなみに、三鷹の南北に延びる道路は、新田開発のときの道をそのまま残しています。そして、斜めの道路は、実は玉川上水から引いた用水のあとなのです。

太宰が最後の仕事部屋に選んだのが野川家でした。ここには心中の相手、山崎富栄さんが住んでいました。美容師だった富栄さんは、食事や薬の世話など、献身的に病身の太宰の介護をしたといい、ガイドの斎藤さんはとても彼女に同情的でした。

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野川家のはす向かいには、太宰が作家仲間や編集者と打ち合わせに使っていた小料理屋「千草」がありました。太宰の行方不明時には捜索本部となり、遺体発見後には検死場所ともなったところです。今も多くのファンが集う「桜桃忌」の世話をしたのがここのご主人鶴巻幸之助さんでした。ここから玉川上水はすぐそばです。

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清流の復活した玉川上水に、太宰の入水したあとをたずねました。むらさき橋を中心に上水に沿って整備された遊歩道は「風の散歩道」と名づけられて、中ほどに、太宰の故郷金木町産の玉鹿石がおかれています。太宰がよく散歩した玉川上水のこのあたりは当時、滝のような流れだったそうです。
散歩道が吉祥寺通りに出会う地点に、上水を挟んで井の頭公園を前にして建つのは山本有三記念館。あいにくと改修中で、中を見ることはできませんでした。

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塀越しに有三記念館
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昼食は有三記念館のそばにあるレストラン「エサンス」で。

昼食後は太宰の旧居のある下連雀の住宅街へ向かいます。
住宅街の中にある井心亭(せいしんてい)は、ある実業家の住居を市が譲りうけて、市民の文化施設にしたものです。太宰一家が住んだ借家はそのすぐ近くにありました。4畳半と六畳、三畳の平屋の小さな家は今も残っていますが、周辺のお屋敷にうもれて、道路から遠目にみるのがやっとでした。
その門柱脇に植えられていた百日紅が井心亭に移植されています。夏のこの時期、百日紅は満開でした。太宰は百日紅が好きだったようで、玉鹿石のそばにも百日紅が植えられていました。

最後の目的地、太宰の眠る禅林寺は、旧居からそう遠くない、連雀通りに建っています。
黄檗宗の寺は森鴎外の墓があることでも有名です。
神田からの住民の移住に伴って創建された寺はもともとは築地本願寺派でしたが、元禄のころ、台風で再建される際に黄檗宗に改宗したということです。太宰は宗派を承知で禅林寺に葬られることを望んでいたといいます。
6月19日の桜桃忌には、いまも太宰を偲ぶ多くのファンが全国から集います。
この日は太宰の誕生日ですが、同時に、奇しくも遺体があがった日でもありました。

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禅林寺山門
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鴎外の石碑
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太宰治の墓


めぐった各所に三鷹市のつくったプレートがあり、「太宰の生きたまち」を町づくりに活かそうとしている様子がわかります。市ではさらに、近々、有三記念館のような立派な太宰治記念館を作る計画をしているそうです。

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雑記帳2017-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-9-1
丸の内は今日本で一番おしゃれな街?です。

1914(大正3)年に竣工した東京駅は100年を期して復原されましたが、何度訪れても、見落としていたものも含めて、そのたびに新しい発見があります。駅前広場も整備されてきました。
新丸ビル7階「丸の内ハウス」のテラスからは東京駅の全景を眺めることができます。

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丸の内南口天井
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駅前広場
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新丸ビル7階のテラスから見た東京駅全景

丸の内にあった旧日本国有鉄道本社ビルは丸の内OAZOになって、東京駅に一番近い商業施設です。
名前のオアゾ(OAZO)は、丸の内地区(O)と大手町(O)を包括的に(AZ)結ぶ、「Office&Amenity ZOne」であることを表現すると同時に、エスペラントで「オアシス、憩いの地」を意味するオアーゾ(oazo)の意味も含んでいるそうです。
このビルの一階〇〇広場(おおひろば)は「丸の内(〇:マル)と大手町(〇:オー)をつなぐ広場」というのが名称の由来。ピカソの『ゲルニカ』の原寸大複製陶板壁画が飾られています。


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大正12年(1923)に完成した丸ビルは戦前期最大のビル。オフィスの低層部をショッピングスペースとした先駆的なもので、近代的なイメージは長い間丸の内を代表する建物でした。その大きさから、建造物の大きさの比較単位として「丸ビル何杯分」などと引用されることもありました。
建築当時、地盤がしっかりしていなかったため、建物の基礎にはオレゴンから輸入した550本の松の木が使われました。日本にはこれほど大きい松材はなかったのだそうです。(ちなみに東京駅には1,100本使われています。)

丸ビルは建て替えられましたが、旧丸ビルの名残として、松の丸太はステンドガラスとともに、行幸通りに面した一角に展示されています。

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床に埋め込まれて展示されているオレゴンの松
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旧丸ビルにあったステンドグラス


丸ビルのそばに、帆船の彫刻があるのをご存知でしょうか。オランダ船リーフデ号です。
1600年、豊後臼杵湾に漂着したことが日本とオランダの外交の発端となったのは広く知られるところですが、その時、徳川家康に呼び寄せられ、のちに貿易顧問となったのが、イギリス人のウイリム・アダムス、三浦按針と、オランダ人ヤン・ヨーステンです。ヤン・ヨーステンは今の八重洲に屋敷をあたえられここに住んだことから、八重洲の名の由来になりました。いつの世も情報を制する者が覇者となる、信長がそうであったように、家康も実にまめに情報収集していたようです。
オランダの東インド会社は当時アジア貿易を寡占していたポルトガルを抑え、日本貿易を独占するまでになるのですが、ヤン・ヨーステンは東インド会社の日本駐在員でもありました。今の日本の経済の中心である丸の内にリーフデ号が飾られているのもなるほどの感がありますね。

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東京中央郵便局の局舎を保存しつつ建て替えられたのがKITTEビルです。KITTEには「切手」と「来て」の意味があるそうです。外壁は旧来のものを残し、中はおしゃれなショッピング街に生まれかわりました。
ビルのそばに植えられているタラヨウは、肉厚の葉が20センチもあり、葉の裏をきずつけて文字を書くことができることから、郵便局の木として、かってはどこの郵便局にもあったのです。

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旧舎を残した高層のKITTEビル
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内部はおしゃれなショップが並ぶ
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タラヨウの葉


ジョサイア・コンドルの設計した三菱一号館は現在、美術館になっています。一号館広場は緑あふれるローズガーデン、オープンテラスのカフェやバーがおしゃれです。

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馬場先通りを行けばお掘の前に明治生命館。
1928年に建設された建物は、太平洋戦争後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収、アメリカ極東空軍司令部として使用されました。
コリント様式の柱が並ぶデザインは古典主義的で、先の中央郵便局のモダニズムと対照をなすものでした。
1997年(平成9年)、昭和の建造物として初めて重要文化財の指定を受けました。

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丸の内仲通りは箱根彫刻の森とタイアップしたアートスポットにもなっていて、草間弥生さんの作品をみつけました。おなじみのかぼちゃのモチーフで、「われは南京」の名前がついていました。
この通りは歩道と車道の広さが同じです。歩道でランチやお茶をゆったり楽しむことができると、丸の内で働くひとたちが羨ましがられるところなのだそうです。

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「われは南京」


◆傅益瑶さんの『芭蕉 生命の賛歌』が終了しました。
風流の人、芭蕉の、5ヶ月間の奥の細道の旅のあとをたどり、一句一句を水墨画に顕した傅さん独特の世界でした。36回、1年半の連載でした。


◆立川にもねぶた祭りがあります。青森出身のラーメン家さんの縁で始まったということですが、羽衣ねぶたは今年で19回目を迎えました。10万人もの来場者を数える一大イベントになっています。

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