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雑記帳2017-9-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-9-15
三鷹は何人もの文人の住んだ町、太宰治もその一人です。

作家太宰治は、1939年<昭和14年)東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居、1948年(昭和23年)6月に自死するまでの9年間に、代表作「走れメロス」や「人間失格」、「斜陽」を始め、多くの作品を発表しました。

わが家は、昭和50年代のほぼ10年間、三鷹市に住んで、子育てをしていた時期がありました。
近くに玉川上水がありましたが、当時上水は空堀で、ここで太宰が入水自殺したと聞いても実感がなかったのをおぼえています。(玉川上水は昭和46年に空堀化、下水処理水を利用して水流が復活したのは61年のことでした。)

偶然、旅行会社のツアーに「太宰治の足跡コース」をみつけて、参加してみました。
自分自身がファンではなかったにせよ、今なお、多くの若者を引きつける太宰を少しは知ってもいいではありませんか。

当日は、三鷹駅周辺の太宰が執筆のために借りていた仕事部屋やなじみの酒屋などの跡をめぐり、入水した上水に沿って歩いたあと、下連雀の住宅街を抜けて太宰の眠る禅林寺まで、約2時間半のコースです。

集合は三鷹駅。駅のそばを流れる玉川上水にかかる三鷹橋で、ガイドさんから三鷹の由来を聴きました。
三鷹が発展した契機は2つ。一つは勿論、玉川上水ができたこと、時あたかも明暦の大火のあと、幕府は防災上の政策から、火除地としてこの地を選び、神田連雀町の住民を移転させて開拓にあたらせたことです。私も住んでいた下連雀の名前はここから来ていたのです。もうひとつは昭和4年に中央線に三鷹駅ができたこと。関東大震災を期に進んでいた都内からの移住に弾みがつきました。

その三鷹駅は当初電車庫として開設され、車庫をまたぐ跨線人道橋の「睦橋」を太宰が好み、編集者や弟子たちをつれてよくおとずれていました。

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とおく富士山を望むこの橋の上から太宰がどこを見ていたのかわかりませんが、電車庫は鉄道好きの子供にとっては格好の遊び場です。息子も小学生のころ、日がな一日電車を眺めて飽きませんでした。

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跨線橋から見下ろす三鷹電車庫


太宰の傑作の多くは三鷹時代に生まれました。疎開先の金木町から戻って最初に仕事部屋にしたところが「中鉢家」。今はマンションになっています。太宰はここに毎日弁当を持って通い、「朝」や「ヴィヨンの妻」を書きました。
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中鉢家跡2.jpg
中鉢家跡

「犯人」や「斜陽」を完成させた、二度目の仕事部屋、「田辺肉店」の、道路をはさんだ真向かいに、酒好きの太宰が通った「伊勢元酒店」がありました。跡に建つマンションの1階に、「太宰治文学サロン」が誕生しました。太宰没後60年、生誕100年を記念して、資料展示や情報発信の場にしようと、平成20年に三鷹市が開設したのです。今では市民の交流の場にもなっているということです。

太宰治文学サロン.jpg
太宰治文学サロン3.jpg

ちなみに、三鷹の南北に延びる道路は、新田開発のときの道をそのまま残しています。そして、斜めの道路は、実は玉川上水から引いた用水のあとなのです。

太宰が最後の仕事部屋に選んだのが野川家でした。ここには心中の相手、山崎富栄さんが住んでいました。美容師だった富栄さんは、食事や薬の世話など、献身的に病身の太宰の介護をしたといい、ガイドの斎藤さんはとても彼女に同情的でした。

野川家跡.jpg

野川家のはす向かいには、太宰が作家仲間や編集者と打ち合わせに使っていた小料理屋「千草」がありました。太宰の行方不明時には捜索本部となり、遺体発見後には検死場所ともなったところです。今も多くのファンが集う「桜桃忌」の世話をしたのがここのご主人鶴巻幸之助さんでした。ここから玉川上水はすぐそばです。

小料理屋千草跡.jpg

清流の復活した玉川上水に、太宰の入水したあとをたずねました。むらさき橋を中心に上水に沿って整備された遊歩道は「風の散歩道」と名づけられて、中ほどに、太宰の故郷金木町産の玉鹿石がおかれています。太宰がよく散歩した玉川上水のこのあたりは当時、滝のような流れだったそうです。
散歩道が吉祥寺通りに出会う地点に、上水を挟んで井の頭公園を前にして建つのは山本有三記念館。あいにくと改修中で、中を見ることはできませんでした。

山本有三記念館2.jpg
塀越しに有三記念館
エサンス3.jpg
昼食は有三記念館のそばにあるレストラン「エサンス」で。

昼食後は太宰の旧居のある下連雀の住宅街へ向かいます。
住宅街の中にある井心亭(せいしんてい)は、ある実業家の住居を市が譲りうけて、市民の文化施設にしたものです。太宰一家が住んだ借家はそのすぐ近くにありました。4畳半と六畳、三畳の平屋の小さな家は今も残っていますが、周辺のお屋敷にうもれて、道路から遠目にみるのがやっとでした。
その門柱脇に植えられていた百日紅が井心亭に移植されています。夏のこの時期、百日紅は満開でした。太宰は百日紅が好きだったようで、玉鹿石のそばにも百日紅が植えられていました。

最後の目的地、太宰の眠る禅林寺は、旧居からそう遠くない、連雀通りに建っています。
黄檗宗の寺は森鴎外の墓があることでも有名です。
神田からの住民の移住に伴って創建された寺はもともとは築地本願寺派でしたが、元禄のころ、台風で再建される際に黄檗宗に改宗したということです。太宰は宗派を承知で禅林寺に葬られることを望んでいたといいます。
6月19日の桜桃忌には、いまも太宰を偲ぶ多くのファンが全国から集います。
この日は太宰の誕生日ですが、同時に、奇しくも遺体があがった日でもありました。

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禅林寺山門
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鴎外の石碑
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太宰治の墓


めぐった各所に三鷹市のつくったプレートがあり、「太宰の生きたまち」を町づくりに活かそうとしている様子がわかります。市ではさらに、近々、有三記念館のような立派な太宰治記念館を作る計画をしているそうです。

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雑記帳2017-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-9-1
丸の内は今日本で一番おしゃれな街?です。

1914(大正3)年に竣工した東京駅は100年を期して復原されましたが、何度訪れても、見落としていたものも含めて、そのたびに新しい発見があります。駅前広場も整備されてきました。
新丸ビル7階「丸の内ハウス」のテラスからは東京駅の全景を眺めることができます。

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丸の内南口天井
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駅前広場
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新丸ビル7階のテラスから見た東京駅全景

丸の内にあった旧日本国有鉄道本社ビルは丸の内OAZOになって、東京駅に一番近い商業施設です。
名前のオアゾ(OAZO)は、丸の内地区(O)と大手町(O)を包括的に(AZ)結ぶ、「Office&Amenity ZOne」であることを表現すると同時に、エスペラントで「オアシス、憩いの地」を意味するオアーゾ(oazo)の意味も含んでいるそうです。
このビルの一階〇〇広場(おおひろば)は「丸の内(〇:マル)と大手町(〇:オー)をつなぐ広場」というのが名称の由来。ピカソの『ゲルニカ』の原寸大複製陶板壁画が飾られています。


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大正12年(1923)に完成した丸ビルは戦前期最大のビル。オフィスの低層部をショッピングスペースとした先駆的なもので、近代的なイメージは長い間丸の内を代表する建物でした。その大きさから、建造物の大きさの比較単位として「丸ビル何杯分」などと引用されることもありました。
建築当時、地盤がしっかりしていなかったため、建物の基礎にはオレゴンから輸入した550本の松の木が使われました。日本にはこれほど大きい松材はなかったのだそうです。(ちなみに東京駅には1,100本使われています。)

丸ビルは建て替えられましたが、旧丸ビルの名残として、松の丸太はステンドガラスとともに、行幸通りに面した一角に展示されています。

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床に埋め込まれて展示されているオレゴンの松
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旧丸ビルにあったステンドグラス


丸ビルのそばに、帆船の彫刻があるのをご存知でしょうか。オランダ船リーフデ号です。
1600年、豊後臼杵湾に漂着したことが日本とオランダの外交の発端となったのは広く知られるところですが、その時、徳川家康に呼び寄せられ、のちに貿易顧問となったのが、イギリス人のウイリム・アダムス、三浦按針と、オランダ人ヤン・ヨーステンです。ヤン・ヨーステンは今の八重洲に屋敷をあたえられここに住んだことから、八重洲の名の由来になりました。いつの世も情報を制する者が覇者となる、信長がそうであったように、家康も実にまめに情報収集していたようです。
オランダの東インド会社は当時アジア貿易を寡占していたポルトガルを抑え、日本貿易を独占するまでになるのですが、ヤン・ヨーステンは東インド会社の日本駐在員でもありました。今の日本の経済の中心である丸の内にリーフデ号が飾られているのもなるほどの感がありますね。

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東京中央郵便局の局舎を保存しつつ建て替えられたのがKITTEビルです。KITTEには「切手」と「来て」の意味があるそうです。外壁は旧来のものを残し、中はおしゃれなショッピング街に生まれかわりました。
ビルのそばに植えられているタラヨウは、肉厚の葉が20センチもあり、葉の裏をきずつけて文字を書くことができることから、郵便局の木として、かってはどこの郵便局にもあったのです。

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旧舎を残した高層のKITTEビル
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内部はおしゃれなショップが並ぶ
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タラヨウの葉


ジョサイア・コンドルの設計した三菱一号館は現在、美術館になっています。一号館広場は緑あふれるローズガーデン、オープンテラスのカフェやバーがおしゃれです。

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馬場先通りを行けばお掘の前に明治生命館。
1928年に建設された建物は、太平洋戦争後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収、アメリカ極東空軍司令部として使用されました。
コリント様式の柱が並ぶデザインは古典主義的で、先の中央郵便局のモダニズムと対照をなすものでした。
1997年(平成9年)、昭和の建造物として初めて重要文化財の指定を受けました。

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丸の内仲通りは箱根彫刻の森とタイアップしたアートスポットにもなっていて、草間弥生さんの作品をみつけました。おなじみのかぼちゃのモチーフで、「われは南京」の名前がついていました。
この通りは歩道と車道の広さが同じです。歩道でランチやお茶をゆったり楽しむことができると、丸の内で働くひとたちが羨ましがられるところなのだそうです。

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「われは南京」


◆傅益瑶さんの『芭蕉 生命の賛歌』が終了しました。
風流の人、芭蕉の、5ヶ月間の奥の細道の旅のあとをたどり、一句一句を水墨画に顕した傅さん独特の世界でした。36回、1年半の連載でした。


◆立川にもねぶた祭りがあります。青森出身のラーメン家さんの縁で始まったということですが、羽衣ねぶたは今年で19回目を迎えました。10万人もの来場者を数える一大イベントになっています。

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雑記帳2017-8-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-8-15
立川市の学習館で丸木美術館の岡村さんの話をききました。

終戦記念日のある8月は日本中が平和を考える月です。立川市の柴崎学習館では、毎年この時期に平和人権講座をひらきます。
今年は「ヒロシマ・ナガサキを考えよう」のテーマで、原爆の写真展を始め、1週間、講座や映画の上映が行われました。岡村さんの講座はその最初を飾る講座でした。

原爆投下直後、広島に駆けつけた夫妻は「原爆の図」制作を決意、1950年に第一部「幽霊」を発表します。1950年は、米ソが核開発をはげしく競い始めた年であり、8月には朝鮮戦争が始まった年でもありました。
占領軍の検閲への配慮から「原爆」という言葉は使わず、「八月六日」の題名で発表された絵は、きのこ雲でも焼け跡でもない、生きながらにして肉体を焼かれた人間を描いたものとして、世界に強烈な印象を与えました。

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火    

「原爆の図」は丸木位里、俊の共同製作としても知られています。
戦後、芸術の大衆化という問題意識から、芸術家の共同製作が流行しましたが、理念の先行したその動きは時を待たずしてすたれました。そのなかで、二人でなければ描けないと思いさだめた夫妻の共同製作は夫の位里が亡くなるまで続きました。
水墨の位里、油の俊が共同することで融合し、それは新しい絵画を拓く野心的な試みでもあった、と岡村さんは話していました。

第2部の「火」、第3部の「水」を描きあげたころから、「原爆の図」の全国巡回展が始まります。
広島の爆心地から始まった巡回展は、公民館、学校、映画館、教会、寺社、公園など、会場は170か所以上にもなりました。こんなに多くの会場で見られた作品は恐らく他にないのではないかとも、岡村さんは話していました。
巡回展は立川市でも、1952年にひらかれて、多くの市民が訪れました。
その時の記録集の冒頭には、「二度と広島の悲劇をくり返すなの思いをこめて集まった、何の報われることも求めない青年達によって」この展覧会がもたれたと書かれています。

鑑賞者が増える一方、「原爆の図」は批判にもさらされることになり、夫妻は一つ一つその批判に応えようとしました。
全米にベトナム戦争反対の機運がひろまった1970年、アメリカでの最初の巡回展が実施されました。当時、原爆投下が戦争終結に役だったと思われていたアメリカでの巡回展は快く迎えられたものではありませんでした。その中で、夫妻は犠牲者の中に米軍捕虜もいたことを伝え、その時のやり取りを通して、戦争には被害だけでなく加害の面もあることに気づくのです。
その気づきから、第13部「米兵捕虜の死」、第14部「からす」が生まれました。
「からす」は、差別の中で葬られることもなかった被爆者の遺体にからすがよってくるという、むごいテーマです。
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救出
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母子像
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とうろう流し

原爆の図は15部で完結しますが、夫妻の戦争観の変化は、その後、公害など形を変えた暴力へ視点をひろげ、「南京大虐殺の図」や「沖縄戦の図」へと展開していきました。
それは、歴史の中で切り捨てられる弱者への想像力だと、岡村さんは言います。
傷つき死んでいった人たちにもう一度命を吹き込む作業は、二度と同じような惨禍をひきおこさないようにと訴え、異なる状況で苦しんでいる人を支え励ますことです。
公害や貧困、基地問題など他者の抱える痛みへの想像力はどこかで生命を救っていく、丸木美術館のさまざまな企画は生命を考える活動だと、岡村さんは結んでいました。

丸木夫妻の亡きあと、2015年、原爆の図は再び、米国巡回展を行います。
ワシントンDC、ボストン、ニューヨークを巡った展示の評価は、偏見が全くなくなったわけではないにしろ、1970年とは異なるものでした。特に、屈託のない若者の姿は未来への希望を抱かせるものでした。
ニューヨークの展示はその年のブルックリンパネル展のベスト10にも選ばれたそうです。

原爆の図丸木美術館は埼玉県の東松山市にあり、建物のすぐ後ろを都築川(ときがわ)が流れています。その風景が、大田川の流れる丸木位里の故郷に似ていることから、夫妻がこの川のほとりに美術館を建てたのだそうです。半世紀を過ぎて老朽化した建物を、耐震や空調の設備をそなえたものに建て替えるため、いま、募金を募っています。

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丸木美術館
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都築川の夏

※「原爆の図」の画像はかって『知の木々舎』に連載した『都築川のほとり通信』で使用したものです。


退院からほぼ2カ月がたちました。リハビリは順調です。

退院と同時に週2回のリハビリに通うようになりました。
担当の理学療法士さんとはすっかり打ち解けて、40分があっというまに過ぎます。
リハビリ室に通う患者さんは当然のことながら高齢者が圧倒的に多い。
わたしのように手首を骨折した人もいれば、脚を折った人、脳梗塞の後遺症で不自由になった人…。
骨折の場合も、傷の程度、年齢によって回復状況はみな違う。療法士さんはそれぞれに応じたメニューをつくってくれます。
近年の作業療法の進化はすごい、漫然と通っているだけにみえても、この間に確実に私の左手の自由度が増しました。

慣れてくると、他の患者さんとも顔なじみになります。
皆さん、担当の療法士さんと屈託のないおしゃべりをしている様子、私もいつのまにか、家でのちょっとした出来事なんかを話していました。
昔から、床屋や美容院では、頭をかまってもらう間、客はとりとめの無い話をする、そんな構図がありましたが、療法士と患者の関係も似たようなものだと気付きました。療法士さんはみんな聴き上手です。

そして、彼女はほめ上手です。前回出来なかったことができるようになると、「すご~い」と言ってほめてくれるのです。年寄りだって褒められると嬉しくなるものです。
「心と体は一体みたいなところがあるので、楽しい話をしていると、固まって動かないと思っていた指が動くようになっていることがあるんですよ。」
リハビリ15回目の今日、療法士さんが言った言葉です。

当初言われた通り、手の甲や手首周辺の腫れはかなり改善されたものの、指のむくみはまだとれません。
指は心臓から一番遠く、血のめぐりが悪いからだそうです。
このため、機能の指と言われる3本の指、親指、人差し指、中指を支える指、薬指と小指にまだ力がはいりません。

それでも開始時0.5キロしかなかった左手の握力が10キロになりました。そろそろ筋肉トレーニングが始まります。目標は15キロ。達成したらまた自転車に乗れるのです!

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雑記帳2017-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-8-1

立川のはたけ!見学と交流会

7月上旬、農業経営者クラブと立川市消費者団体連絡会が参加する農消連携会議主催による「立川の畑見学と交流会」が行われました。毎年、この時期に実施する見学会は10年を越えており、市民の都市農業への理解をふかめ、一緒に農業の在り方を考える、良い機会になっています。

今年は新会長の金子さんのこだわりの3つ圃場を見学、給食センターでこの日の給食の試食をしながらの交流となりました。

参加した市民からは、はじめての参加で新鮮だった、こんなに広い農地が立川にあるのを知らなかった、直接話を聞いて農家の努力が判ったなどの声が寄せられました。

◆幸町の植木生産農家 高橋さん

立川市は実は、全国でも屈指の植木の生産地なのですが、需要の大部分が都市の街路樹や大きい施設のため、家庭の消費で注目されることはありません。

高橋さんの畑では、ソヨギ、シラカシ、ハナミズキなど数十種類の植木を栽培、需要に丁寧に対応していると評判です。今の季節の花はなんといってもヤマボウシでした。

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◆柏町のくだもの農家 高橋さん

果物栽培は最近ではハウス栽培が主流です。高橋さんの10棟を越える大型のハウスでは、ブドウ、イチジク、ベリー類、キーウイなど、多品種が栽培されていました。水やりの工夫など、ハウスならではの苦労もあるようですが、雨にうたれることで生じる病気や虫害の心配がなく、ハウスの中でたわわに実った大きなブドウに歓声が上がりました。

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◆西砂町のグランドカバー農家 村田さん

砂川地区はおよそ350年前、江戸の住民に飲み水を供給するために玉川上水が引かれてから開発された農村です。村田さんはその11代目。もとは植木農家だったそうですが、お祖父さんの代から徐々にグランドカバーに転換してきました。現在、シバザクラやタマリュウなどのグランドカバーのほかに、植木や野菜も栽培しています。公道をよこぎり、線路もまたぐ、広い農場に驚きながらの見学でした。

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◆交流会は給食センターで。

この数年、見学地に近く、立川野菜の直売所「ファーマーズセンターみのーれ立川」がすぐそばにある給食センターが、交流会の会場になっています。給食費272円という安さも手伝ってか、参加者には好評です。50人の参加者は8つのグループに別れて、テーブル毎に試食と意見交換を行いましたが、中には給食が楽しみという声もありました。。

この日のメニューはまぜビビンバ、とうふナゲットにはるさめスープ。
 
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食材は全国から。地産地消の観点から出来るだけ立川産の野菜を使いたいと思っているが、立川の農家は少量多品種を栽培する農家が多いので、量的にカバーしきれず、契約してくれる農家が限られているという現状を、栄養士さんから聞きました。

確かに、一軒の農家では対応できないとしても、複数の農家がまとまれば応えられる、それをコーデネートするところがないというのが課題のようでした。

3軒の農家はいずれも若いご当主が対応してくれて、埼玉出身だという参加者からは、「立川は後継者がいて羨ましい」の声もでました。

交流会のあとは、「みのーれ」でお買い物。朝とれたばかりの野菜だけでなく、立川産の小麦粉や豚肉にも関心が集まりました。東京産の銘柄豚「とうきょうX」とまではいかずとも、地元産の豚肉があるということを知る市民はまだ少ないようです。

1992年に施行された生産緑地法の下で、3年後の2022年には納税猶予制度の期限が切れます。このときに農地がいっせいに売りに出されるのではないかと懸念されています。

現在猶予制度を利用している農家が、さらに営農を30年間延長してくれることを祈るばかりです。

一方で、都市の農地は宅地化すべきとした時代は終わりました。ようやく都市の農地が「あるべきもの」と位置づけられて、環境共生型の都市を形成する上で、農地は重要な役割を果たすものととらえられるようになったのです。

交流会などを通して、身近に生産される畑があることが、じつは都市の生活ではとても貴重なのだということがひろく理解されていくことが期待されています。





雑記帳2017-7-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-7-15

お伊勢参りは内宮外宮だけではない! 伊勢参りの王道を行く!

式年遷宮のあった4年前、注目され人気上昇した伊勢神宮に縁あってでかけました。

名古屋で近鉄特急「宇治山田」行きにに乗り換え、到着した近鉄宇治山田駅は有形文化財にも指定されている由緒ある建物です。お伊勢まいりは外宮からと言われ、通常、観光客は駅の目の前にある外宮の入り口をめざします。

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   全長120メートルの宇治山田駅

ところで、正統派の伊勢参りがあるのをご存知ですか。それは、先ず二見浦へ行って禊ぎをすませてから外宮、内宮を巡り、最後に奥の院は伊勢神宮の鬼門にあたる朝熊山(あさまやま)に詣でる、というのが正式な伊勢参りなのだそうです。

今回、それと知らず参加したツアーは、その正統派ルートを辿る旅。外宮の鳥居を横目にバスで二見浦へとむかいました。

車で20分程度の距離にある二見浦は清らかな渚とされ、古来より伊勢神宮を参拝する人はその前に二見浦で禊を行って、身を清めたといいます。この習わしを「浜参宮」と呼んでいました。 

二見浦には天照大神を先導した猿田彦大神と豊受大神(外宮)を祀る興玉神社があります。

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二見興玉神社の鳥居

二見浦のシンボル、夫婦岩は、大小二つの岩を注連縄で結んでいて、沖合700mの海中に沈む猿田彦大御神の霊石と日の大神(太陽)を拝する鳥居としての役割も果たしています。

夏至には二つの岩の真ん中からご来光が見られ、冬至にはここから月があがるということで、この日を狙って観光客も大勢おとずれるとか。

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夫婦岩
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並ぶ絵馬とおみくじ

天照大神の食事を司る神豊受大神(とようけのおおかみ)をまつる外宮は、内宮建設から500年後に、この山田原の地にむかえられました。

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日除橋を渡って外宮の中へ。なぜか左側通行。

 20年ごとの式年遷宮は内宮だけではありません。外宮も含めて末社125社に至るまで改修するのだから大変です。そして、木材は総て有効活用される、窮極のリサイクルです。

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外宮正殿(撮影できるのはここまで)
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隣接する跡地。次ぎの遷宮のときにはここに正殿が建つ。

外宮を出て、バスで15分ほどでいよいよ内宮に到着。

皇大神宮と呼ばれ、天照大神をまつる、我が国で最も由緒あるお宮です。因みに正式名称は「神宮」で、神宮といえば伊勢神宮をさすのです。五十鈴川の川上に、千古の森に囲まれて、2000年の時を越え、古代の佇まいを今につたえている、ともらったパンフレットにありました。

宇治橋にある擬宝珠には遷宮に携わった棟梁の名前や荒祭宮の荒御霊がおさめらています。

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 宇治橋を渡る。ここは右側通行。

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五十鈴川で手を清める

伊勢神宮は日本一のパワースポット。宮内にパワースポットはいくつもあるらしいのですが、巨木はその存在だけでパワーを感じます。これは特に大きいうえ、しめ縄をはっていないので自由に触れるとあって、つるつるです。


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内宮正殿
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パワースポットならぬ巨木も人の手が触ってつるつる

内宮の見どころはなんと言ってもおはらい町とおかげ横町です。

おかげ横町は。江戸時代のおかげ参りの頃の伊勢の様子を再現して、建物や食べ物、様々なイベントなどで、伊勢の風土や日本の文化を楽しむことができます。

松阪牛(まつさかうし)の串焼きやコロッケを食べ歩きしながら、おかげ座神話の館では『知の木々舎』にご縁のあった内海清美さんの和紙人形に再会しました。

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  おはらい町の通り

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 おかげ横町には招き猫やカエルがいっぱい

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おかげ座
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 国生みや黄泉の国、尼の岩戸や八岐大蛇など、おなじみの神話の世界を和紙人形で。

伊勢参りの最後は伊勢志摩の最高峰555メートルの朝熊(あさま)山です。その山頂近くに伊勢神宮の鬼門を守る金剛證寺(こんごうしょうじ)があります。

伊勢志摩スカイラインを走るバスの窓外には手入れの行き届いた神宮林がひろがり、眼下には伊勢志摩の絶景がながめられます。

金剛證寺は弘法大師を中興の祖とするほどの歴史ある寺。現在は臨済宗。竜宮城を思わせる極楽門をくぐって奥の院につづく道は、墓石の代わりに卒塔婆がたちならぶ、珍しい光景を見ました。
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金剛證寺仁王門
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 最長8メートルの塔婆の値段は50万円。石よりは安い?

室町時代には「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」とまで言われて参拝客でにぎわったといいますが、現在では奥の院まで参詣する観光客は少ないそうです。

若干足の便が悪いため伊勢参りと言えば内宮と外宮の参拝ですませる人が多いのか、今回のバス旅も参加者は定員の半分ほど、江戸のおかげ参りを思いながら、偶然とはいえ、ちょっと得した気分ではありました。

雑記帳2017-7-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017ー7-1

◆晴天の霹靂、予想もしなかった入院は意外にも快適!

6月11日、薄暮の頃、道路を横切ろうとして、不覚にも植え込みの木の根に躓いて転倒、左手首を骨折するという、どこかで聴いたような話をまるで地で行く事故が起こりました。

休日ゆえ、駆け込んだ病院で、簡単な検査と応急手当をしてもらい、(その時に言われました。「立派に折れています」)翌日、正式に整形外科を受診、入院、手術と相成りました。先生はレントゲン写真を見ながら、

「2本折れてますね。ばらばらです。あす入院してください。」

「入院って、どれくらいですか?(やばい、15日の更新にかかってしまう)」

「まあ、水曜日(14日)の手術で、数日で退院できますよ。」

「そんなに簡単なんですか。(よかった、それなら4、5日遅れで6月15日号が出せる)」

下手な胸算用をして、はればれと入院したのは、市内で一番新しい総合病院です。

駅にも近いというロケーションの良さは魅力的、4階の大部屋からはちょうど多摩都市モノレールが10分ごとに走ってくるのが見える、見晴らしのいい別の窓からはヤギのいる風景や、晴れた日には遠く山並みもみえると言う。

この時点では土曜日退院をもくろんで、退院さえすれば元通りとばかり意気軒昂でした。


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 部屋からはモノレールが見える。
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  あいにくのお天気で山は見えないけれど…、

しばらく縁のなかった間に病院の進化はめざましく、新しい建物はトイレを初め、設備はまことに快適です。部屋や廊下の洗面所に置いてある手ふきの紙も上質のテイッシュペーパーで、我が家よりもずっと贅沢でした。

骨折の手術なんぞ、本人にとっては重大事だけれど、医者にとってはたいしたことではない。呼び出しがあると、自分で歩いて手術室まで行く。ドラマのようにストレッッチャーになど乗せてくれない。部屋にはいると体育会系の先生がおまちかね。「やあ、いらっしゃい。」「先生、よろしくお願いします。」
若い美人の麻酔の先生の顔をながめているうちに、いつの間にか手術は終了。
唯一自分が病人だと思わされたのは、麻酔から醒めてトイレに行くとき、点滴のポールをひっぱって行かなければならなかったことだけです。その点滴も翌日の正午にはとれました。

入院中の楽しみは食事です。

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入院最初の食事

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手術当日は朝から1日絶食。術後初めての朝ご飯

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朝はご飯とパンが交互に出る。
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  1日1400Calの3度の食事メニュー。 130gのご飯は意外に食べごたえがある。

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月に一度は出るという行事食。6月の行事食は鯵に大葉、ゴマの混ぜご飯、デザートには葛饅頭。

病院は今やサービス業。入院患者が少しでも楽しめるように工夫をこらす。行事食もその一つなら月に一度のコンサートまであります。6月は琴の演奏でした。


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サロンの演奏会風景

術後3日目。土曜日の朝、顔を出した主治医は傷をみて、

「いつでも退院していいですよ。」

「(確かに言われたとおりだ。)そうおっしゃってもこの不自由さでは放り出されても困ります。せめて週明けにして。」

「ではそういうことで。ご家族にも説明しましょう。」

「今日の午後、娘がきますのでよろしくお願いします。」

夕方、仕事を終えて面会にきた娘夫婦にレントゲンをみせながらの説明は、「折れてずれた骨を持ち上げてボルトで固定したので、もう1本のずれていた骨もつられて持ちあがりました。あとはばらばらになっている骨が芽をだして、自然にくっつくのをまちます。抜糸の必要はありません。その間、しっかりリハビリしましょう。」

近頃は入院も退院も簡単なものです。

短い期間だったけれど、看護士さんの観察はたのしかった。若い男性の看護士も増えているようでした。

ちなみにまだ看護婦と呼ばれていた時代でも、男性がいなかったわけではなく、80歳代の知り合いの話によると、「僕の高校の同級生に3人、看護士になったのがいますよ。そのうち2人は精神科に行きましたが、1人は一般の病院でした。」

もう何十年も前だ、女性ばかりの「看護婦」さんの世界で、居心地は悪くなかったかしら。力のいる場面では、きっと重宝されただろうけど…

で、現在の若手男性の看護士さんは年寄りの扱いが上手です。4人部屋なので、聞くともなしに聞こえてくる会話がおもしろい……。

「○○さんのお食事には、調味料に僕の愛情をいっぱいいれてますからね。しっかり食べてくださいよ。」(○○さんは食が進まない様子でした。)

「△△さんは何でもわかってるんですね。覚えていないだけなんだ。いい性格してるなあ。ほんと、いい性格ですよ。」

高齢の女性患者に語りかける彼の声はとてもさわやかでした。

こうして、入院から1週間で、めでたく解放されることになりました。

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最後の食事(19日朝食)

退院してわかったことがあります。

退院をもとの状態にもどっていることだとばかり思っていたのは全くの間違いでした。

添え木をした左手は相変わらず三角巾で吊っていなくてはならず、おれた骨がつくまでは時間がかかり、少なくとも3か月のリハビリが必要なのだそうです。

落ちた筋力を回復するのは大変だと脅されながら、でも頑張ろう。

そんなわけで、『知の木々舎』196号になるはずだった6月下号の更新ならず、9年目にして初めて休刊になったことをお詫びいたします。7月上号が196号になりました。196号には、本来6月下号に掲載するはずだった記事もいくつか載せています。

◆以前『核無き世界を目指して』のコーナーに、丸木美術館学芸員の岡村幸宣さんと往復書簡「記憶への架け橋」を連載していた和泉舞さんが復帰しました。「気随気儘」のタイトルで『雑木林の四季』に登場します。

◆関千枝子さんと中山士朗さんの対話随想が、このたび、『ヒロシマ往復書簡第Ⅲ集』になって、西田書店より刊行されました。被爆71年目の昨年、オバマ大統領が広島を訪問してオバマ効果に湧きましたが、広島が観光都市ではなく、核兵器廃絶、恒久平和のために戦い抜く都市であってほしいという思いで結ばれています。お二人の対話随想は『知の木々舎 』紙面ではまだまだつづきます。

   『ヒロシマ往復書簡 第Ⅲ集2014~2016』  西田書店  1600円(本体価格)

雑記帳2017-6-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-6-1
浅草は名にしおう寺町です。稲荷朝から田原町を歩きました。

集合は東京メトロ銀座線稲荷町そばの下谷神社。
改札を出て地上に出ればビルの間に赤い鳥居が目にはいります。

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下谷神社鳥居

730年ごろの創建で、かっては下谷稲荷神社とよばれていたことが、稲荷町の名の由来です。江戸で初めて寄席興業がおこなわれた境内には「寄席発祥の碑」があります。
隣の「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉」は子規の句です。
拝殿天井の横山大観の龍の絵が有名だそうですが、写真がうまく取れなかったのが残念。
鳥居の下谷神社の字は東郷平八郎の字です。

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子規の句碑

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東郷平八郎の手になる「下谷神社」の字

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神社境内にある下谷稲荷神社

浅草は寺町。下谷神社をでて浅草通りを歩けば、仏壇屋さんがずらり。ここは浅草神仏具問屋、小売店街なのです。

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仏壇の看板が並ぶ浅草通り

浅草通りに交差する清洲橋通りと左衛門橋通りの間には数多くの寺があります。
加納治五郎の講道館発祥の永昌寺、正月のまな板びらきで有名な報恩寺をすぎて源空寺へむかいました。
源空とは法然のこと。道路を挟んで寺の向かいにある墓地には、伊能忠敬と、忠敬の師に当たる高橋至時(たかはしよしとき)、その子、景保の墓があります。
天文学者だった高橋至時は、伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助します。
景保は忠敬の没後、彼の実測をもとに「大日本沿海輿地全図」を完成させましたが、その写しをシーボルトに贈ったことで、囚われて獄死します(シーボルト事件)。45歳でした。地図は当時、禁制品扱いだったのです。国外追放になったシーボルトの方は、のちに恩赦により再来日して幕府を助けます。
伊能忠敬、高橋親子の三人は、「大日本沿海輿地全図」組三人頭とよばれています。
狭い墓地には他にも、谷文晁や幡随院長兵衛夫婦が葬られています。


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伊能忠敬の墓 字は子斉、号の東河の文字がかすかに見える。

続いて「かっぱ寺」と呼ばれる曹洞宗の曹源寺を訪ねました。
明暦の大火により、和田蔵門から移転してきた寺でしたが、当時、一帯は低地で水はけが悪く、水害になやまされていました。そこで、当地の商人、合羽屋喜八が資材を投じて新堀川(現在の合羽橋通り)を開削。工事のおり、かって喜八が助けた近隣の大川に住んでいた河童が手伝ったとの言い伝えがあり、合羽橋の名の由来にもなっています。
河童大明神にはその河童の手がおさめられているというのですが…

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曹源寺の河童明神

同じく明暦の大火により移転してきた日蓮宗の本覚寺の本堂は、仏教寺院には珍しいステンドグラスがつかわれています。

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本覚寺本堂のステンドグラス

通し矢で有名な京都の三十三間堂にならい、家光は江戸にも三十三間堂を創建しました。三十三間堂は元禄11年の大火で深川に移転しましたが、守護神の稲荷大明神はここに残りました。弓矢の錬成道場の的先にあるという意味で、矢先神社と呼ばれます。


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馬を祀る神社とあって、壁にも天井にも馬の絵。

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天井には100頭の馬。それぞれ馬にまつわるエピソードがある。

聖徳寺は気付かずに通り過ぎてしまいそうな小さな寺です。ここに、多摩の住民にはなじみの深い玉川上水を開いた玉川兄弟の墓があります。
玉川上水は今から350年前、膨張する江戸の人口に応じて、多摩川から水を供給するために作られました。羽村から四谷大堰まで40km、高低差の少ない地形を、苦労のすえ、わずか半年で完成させ、神田上水とともに江戸の市民の生活を支えました。
上水からはその後多くの用水が引かれ、武蔵野台地の新田開発が進んだのです。

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聖徳寺の玉川兄弟の墓の碑

かっぱ橋道具街は調理、厨房商品はなんでもそろうと言われる、食関連の道具専門の問屋街です。南北800メートルの通りに170以上の専門店がたちならび、100年以上の歴史を持ちます。
食品サンプルは海外の旅行客にも大人気です。

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合羽橋通り
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本物と見まがうばかりの食品サンプル

商店街の裏にある東本願寺は東京で最大の寺院です。
信長と激しく対立した本願寺は石山合戦を経て、西と東にわかれました、その後、西は豊臣が、東は徳川が支援したことで知られます。
神田に建立された江戸御坊光瑞寺を起源とする同寺は、明暦の大火後、浅草に堂宇を建てて東本願寺別院となり、同時に、もともと浅草にあった西本願寺派の浅草御坊は江戸湾を埋め立てて築地に移転し、今の築地本願寺となりました。

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東本願寺

今日のお昼は「花伝」で。こじんまりしたおしゃれな和食のお店でした。

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盛りつけもおしゃれ、デザートの白玉にはお抹茶がついていました。

◆5月29日、今年始めてのカッコウの声で目がさめました。梅雨入りも間近です。

雑記帳2017-5-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-5-15
五月、昭和記念公園は季節の香りにあふれています。

古民家にこいのぼりや五月人形、外蔵にも兜や鎧の段飾りががそろいました。

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古民家床の間
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外蔵の中も五月飾り

木漏れ日の里では麦畑がひろがって、色づくのもまじかです。
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日本庭園では炸薬が満開。盆栽は今、海外でも人気とあって、園内の盆栽園は大勢の人で込み合っていました。
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幹の白いのが人気とか。
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 室内には高さ10cmほどのミニ盆栽も

ハウスでアート!

立川には米軍基地があった時代の「ハウス」がまだ残っていることは以前、紹介したことがあります。
中でも、ちょっとおしゃれな戸建てが並ぶアメリカ村は全国でも有名ですが、もう一か所、長屋タイプのハウスがあります。
そこの住民で、『知の木々舎』に銅版の作品を紹介している赤川ボンズさんが、「ハウスでアート」をやるから遊びにおいでと誘ってくれました。

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一日目は残念ながら雨でしたが、二日目はまずまずのお天気。
通路を挟んで20軒ほどの平屋の集合住宅の中には、ギャラリーやカフェに解放された住宅もあってにぎわっていました。
路上ではアクセサリーや小物を売る店、有機野菜も並んでいます。
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スペインの古代小麦を栽培している地から買い付けたオリーブオイルを売る店では、ひとしきりのオイル談義でした。酸化させないためには決して高温で調理しないこと、炒めるときに音がしてはいけないのだそうです。それくらいオリーブオイルは熱に弱いのですね。
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3800円はちょっと高くて手がでないので、写真だけ。

有機野菜に取り組み、この月末、ブータンに有機野菜の栽培を指導に行くという響君は、驚くなかれ、まだ中学生です。
響君の作ったネギを買いました。200円。
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ジュエリストのベニータさんは生粋のバルセロナっ子(?)です。
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      ベニータさんのパエリアにはラタトゥーユとスペイン風オムレツが付いて800円。
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ハウスを残そうとよびかけるポスター

昔住んでいて、子供を連れて帰って来た若いお母さん、表で子供と手遊びをする女性。
通りに子供たちの声がひびいて、お茶を飲みながら見守るご近所さんの目がやさしい。
かっては日本のどこにでもあった光景です。

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ハウスがなくなればこんな昔ながらのコミュニテイもなくなる。コミュニティの居心地の良さを、外の人にも知ってもらいたいと、年に一度の「ハウスでアート」を始めて、今年で9年目になりました。

◆最近、立川のヤギがテレビによく登場します。春先、栃木県の預け先からもどってきたヤギたちは家族も増えて、こんなに大きくなりました。開発予定の空き地に、現在17頭が放し飼いされています。
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雑記帳2017-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2017-5-1
今年は日中国交正常化45周年です。

虎ノ門にある中国文化センターでは、記念の「傅益搖が描く中国・日本の祭り絵展」が開かれ、4月24日、開会式の案内をもらって、でかけました。

昨年11月、NHK日曜美術館で、徳島の阿波踊りを描く傅さんが紹介されました。                         来日して35年余、傅さんは、仏教美術の研究や創作に携わる中で出会った日本の祭りに魅せられて、以来、日本の祭りを描き続けてきました。
そして、昨年12月、中国の伝統文化である水墨画芸術を日本社会に広めた功績が高く評価されて、『中華の光賞』を受賞しました。
今年で5回目のこの賞は、毎年国際的に活躍している文化人10人に与えられるという、中国では大変名誉ある賞だということです。

実は5年前、2012年の秋にも、日中国交正常化40年を記念して、傅さんと日本人画家による「中日祝祭文化の風情展」が開かれています。
この年は、尖閣を巡って、日中が緊張関係にあったときだったので、大使館局長や政治家が列席する中で、慎重に言葉を選んだ挨拶がつづいたことを憶えています。
だからこそ、草の根の文化の交流が大切だと誰もが挨拶を結んでいました。
今回の記念展では、来賓の祝辞も、傅さんの受賞を祝う言葉にみちていて、政治色はなく、日中の空気が緩やかなのだと印象づけられました。

博多山笠や京都祇園祭、東北の数々の祭りなど、会場には傅さんの描いた日本の祭りの大作が並んでいました。
中でも、ひときわ大きい祭りが、最新作、100点目の「徳島阿波おどり」です。
傅さん自身も取材中に阿波踊りの「連」に加わっていっしょに踊った様子はテレビで紹介され、話題になりました。徳島とはその後も親交を深めているということです。

そして、縦2メートル、横16メートルの、壁一面のもう一枚の大作が、完成したばかりの「端午頌(節句)」でした。完成後中国に寄贈されたため、日本初公開です。
中国では文化大革命によって、昔からの伝統的な祭りが失われてしまいましたが、祭りは文化であり、家族が集う大切な場所だと見直されて、近年復活の動きがでています。
その動きのなかで、最近復活した湖南省の「端午節」の祭りを題材に描かれました。
人々が竜の守り神を祭る様を描いたこの画は、傅さんが日本の祭りを描く中で培われた技法があますところなく発揮されているようでした。

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目黒川は川面一面の花筏。

4月中旬、目黒から不動前の街歩きに参加しました。
JR目黒駅におりたてば、目の前に権之助坂と行人坂。目黒は坂の多い町です。

行人坂は修験者が修行のために上り下りしたというだけあって、大変な急坂、ここからは富士山がよくみえたということです。

坂の途中に建つ大円寺は、江戸の三大火事の一つの火元になったことで知られています。
江戸は3年にあげず火事に見舞われたといわれますが、この目黒行人坂の大火は、俗に振袖火事と言われた、江戸市中の3分の2を焼きつくした明暦の大火に次ぐ規模のものでした。境内の「五百羅漢石像群」は、当時、大火の犠牲者供養のために造られました
生身(しょうじん)の「釈迦如来立像」や「木造の阿弥陀三尊像」が有名です。

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木の間越しにみえる五百羅漢石像群
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阿弥陀堂

坂を下った先は目黒川。川にかかる太鼓橋は木喰上人によって享保年間に造られ、石造りで太鼓の胴のような形をしていたのでこの名がついたそうです。広重の「名所江戸百景」には太鼓橋から富士山が見える雪景色が描かれています。
目黒川はいまや花見の格好の場所ですが、この日は花チラシの風が吹く中、川面一面の花筏でした。

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目黒川の花筏(白くみえるのは桜の花びら)                                                
川を渡れば目黒通りの大鳥神社は村の総鎮守として、区内最古の神社です。織部式灯篭と呼ばれる「切支丹灯篭」はかって肥前島原藩の下屋敷にあったものです。

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目黒川に平行する山手通りに沿って歩くと、住宅街の中に、多くの寺がたっているのにおどろきます。
そして、目黒と言えば目黒不動尊。寺の名前は龍泉寺(「ろうせんじ)です。文化文政のころには、湯島天神、谷中の感応寺と並んで「江戸三富」と呼ばれた富くじがおこなわれていました。その不動前の商店街の脇を入ればここにもいくつも寺があるのです。

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目黒不動尊

幡龍寺の裏手の岩窟内には山手七福神のひとつ、「石造弁財天」が祀られています。江戸裏鬼門の鎮守だったということです。

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岩窟の弁財天

海福寺は万治元年(1658)、明の帰化僧隠元禅師が深川に開創し、明治になってこの地に移転してきた黄檗宗の寺です。
黄檗宗は京都宇治の万福寺が有名ですが、隠元は江戸にも来ていたのですね。
そういえば、先回の吉原町きのお昼は、黄檗宗の普茶料理でした。


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海福寺の四脚門と特徴ある形の梵鐘

天保2年(858)慈覚大師が開山した成就院は、本尊の薬師如来の蓮華座を3匹の蛸が支えていることから、別名蛸薬師と呼ばれています。
3代将軍家光や家光の異母弟だった保科正之にゆかりの深い寺です。

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保科正之の生母お静の方がわが子の栄達を祈願して奉納したお静地蔵

この日のお昼は不動前駅そばの「ボンジュールカフェ」の、モンサンミシェルのオムレツです。
フランスはモンサンミシェルの修道院を訪ねる巡礼者に宿屋の女将が出した、スフレのようなふわふわのオムレツがもとになっているのだそうです。
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◆東京西多摩の羽村市では、市内唯一の水田「根がらみ前水田」で、裏作を利用して、チューリップを栽培しています。60種類・約40万本ものチューリップ畑は関東最大の規模だそうです。4月下旬に、チューリップは満開になりました。

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◆知の木々舎は5月上193号より、9年目にはいりました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

雑記帳2017-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-4-15
春のお江戸は吉原で。

全国に先駆けて東京に桜の開花宣言が出たのは3月23日でした。ちょうど満開になるのではと思われた4月1日は、時折小雨の降る真冬のような寒さになりました。
この日歩いたのは、東京メトロ日比谷線三ノ輪駅から千束。樋口一葉ゆかりの地は吉原にとなりあわせています。

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                                                                                   三ノ輪駅のすぐそばに建つのは浄閑寺。
吉原に身売りされた女性たちがこの寺に葬られたことから、俗に「投げ込み寺」と呼ばれました。                   その数、2,5000人ともいわれます。遊女たちの霊を弔う新吉原総霊塔が建てられました。
寺の前には小夜衣地蔵、、墓地にはこの界隈をこよなく愛した永井荷風の碑があります。                          若紫と刻まれた墓を見つけましたが、遊女が個人の名前で葬られるのは珍しいことでした。気立てが良くて美人、人気のあった遊女若紫が年期奉公10年のところを5年であけ、恋人と所帯をもつばかりになったところ、酔客の刃傷事件に巻き込まれて命をおとした、それを哀れに思った遊郭の主がたてた墓だそうです。     
また、若紫できづくように、遊女の名を源氏物語から採ったことから、水商売の女性の名を「源氏名」と呼ぶようになったのです。

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浄閑寺
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浄閑寺の入り口に立つ小夜衣地蔵
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永井荷風の記念碑(中に筆がはいっているそうです)
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近くに立つ永久寺は、「江戸五色不動(目黄、目赤、目青、目黒、目白)」のひとつ、目黄地蔵尊で知られています。
五色不動は、三代将軍家光が、天海大僧正の具申により江戸府内に名のある不動尊を指定したといわれていますが、目黄と目青は明治になってからという説もあり、諸説ある中で、色は不動尊の目の色ではなく、方角を表しています。

「たけくらべ」の冒頭にでてくる千束稲荷神社に一葉の胸像がたてられたのは平成20年のことでした。
一葉が旧竜泉寺町に住んだのは、本郷丸山福山町に転居するまでのわずか10か月です。                    周辺の人々の暮らしは貧しく、この間の、遊郭に接する街での生活体験が、後の小説に結実したのです。
荒物、雑貨と駄菓子屋を営んだ店は今は建て替わって、それと言われなければわかりません。                   近くには「たけくらべ」の信如のモデルになった加藤正道氏の墓のある大音寺や台東区立一葉記念館があります。

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                              一葉記念館

吉原は江戸幕府公認の遊郭でした。
日本橋人形町に開業して吉原と称したのが元和元年(1617)ですから、今年はちょうど開業400年になります。
明暦の大火後、人形町から今の浅草寺裏に引っ越して、新吉原と呼ばれました。
180軒の大店、小店が立ち並び、遊女は2、000人から3,000人ほどいたといいます。

ちなみに昭和33年、売春防止法の施工によって、吉原遊郭は消滅、周辺はソープランドになりました。現在、店の数150軒、ソープ嬢の数は3,000人といいますから、江戸時代の吉原とほぼ同じ。時代が変わり、名前が変わっても、結局は同じということでしょうか。
ソープ嬢が遊女と違うのは、目的が親をたすけるための年季奉公ではなく、海外旅行やブランド品欲しさという点で、あっけらかんとして、暗さが微塵もないところでしょう。

吉原歓楽街への正面玄関は大門(おおもん)です。
治安目的と、遊女たちの逃亡を防ぐため、出入りは通常この大門一か所のみでした。
明治44年の大火で焼失、関東大震災で撤去されて、あともありません。
大門から遊郭へ通じる一本の道はむかしのままで、まがりくねっています。
悪所が鷹狩に来た将軍の目に触れてはいけないからといわれていますが、遊女たちが故郷を懐かしんで嘆くことのないようにとの配慮だったというのが本当のところらしい。
入口にあった見返り柳は6代目で、今も健在です。

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                        大門から延びる一本道

遊郭を塀のように囲んでいたのがお歯黒どぶでした。
幅5間、9メートルもあり、入口も大門ひとつということから、遊郭は文字通りの「廓」(城壁や堀,自然の崖や川などで仕切った城・館内の区画)でした。
「たけくらべ」が書かれた明治の頃には3尺となり、今はすっかり埋め立てられています。

お歯黒どぶを歩いて遊郭をひとまわりしたあと、立ち寄ったのは酉の市で有名な鷲神社です。
鷲や鳥に因む寺社の年中行事としてで知られる酉の市は、露店で、威勢よく手締めして「縁起熊手」を売る、年末の風物詩です。
新吉原に隣接する鷲神社の酉の市は、全国にある酉の市の中でも、もっとも盛大だといわれています。立派な熊手が目を奪います。
市の日には通常開けない門を開けて客を遊郭に呼びこんだといい、祭りの賑わいは「たけくらべ」にも描かれています。
鷲大明神はもとは隣の長国寺の境内にあったものですが、明治の神仏分離令によって分離されました。
現在、浅草酉の市は寺と神社両方の境内で開かれてご利益も大と、大勢の人で賑わいます。

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鷲神社
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神社の入り口に飾られた大熊手 
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                        鷲神社に隣接する長国寺 

町歩きの楽しみはお昼です。
今回は普茶料理の「梵」でした。
普茶料理は約300年前、中国、明の隠元禅師が 京都宇治に黄檗山萬福寺を建立した時から伝わる精進料理です。
油や葛を多用、擬製豆腐などもどき料理が特徴。
天ぷらなども下味をつけてあるので、全体に味は濃いめです。
長崎の卓袱料理のように4人でテーブルを囲んで料理を取り分ける食べ方で、銘々膳の永平寺流の精進料理と区別されます。

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食事の前に出た凡字の干菓子
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弁当(桜花ご飯の左上に見えるのは名物の鰻豆腐)
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煮物の古知按蒸
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              天ぷらの中身はサツマイモ、人参、こんにゃく、そうめん揚げ

◆4月1日、真冬の寒さに震えたのに、2日後には東京の桜が満開になりました。
今年の根川の桜です。

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雑記帳2017-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2017-4-1
◆震災から6年。福島の頑張るかあちゃんたちを訪ねました。

立川市の農業委員を務めるようになって、7月で一期3年の任期が終了します。
これを機に、同期の女性農業委員2人でちょっと早目の卒業旅行をしようと計画したのが、福島の農家の女性を訪ねる旅です。
もう一人の女性農業委員、宮城道子さんの研究仲間である福島大学教授の岩崎由美子さんが案内してくれることになりました。
『女性の参画と農業・農村の活性化』の共著のある岩崎さんは、行政政策学を専門とする立場から、地元福島の復興の様子を発信しつづけています。

福島大学のキャンパスのある金谷川駅で待ち合わせ。
岩崎さんの車に拾ってもらって、「までい工房 美彩恋人」の渡邊とみ子さんに会うために、お昼を食べられる郊外のレストランへ向かいました。

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              昼食をはさんで渡邊とみ子さん(左)と岩崎由美子さん 

実はとみ子さんは、復興の現状を伝える「ふくしまの語り部」として全国に講演に出向く活動をしており、2年前には、立川市にも来てもらったことがありました。
飯館村で農家の傍ら、加工施設「までい工房」を企業して、ジャガイモやカボチャの生産、加工、販売を手掛け、ようやく軌道に乗りかけた矢先の原発事故でした。
村を離れざるをえなかったとみ子さんでしたが、飯館村での生産はできなくなってもこれまでの思いと活動を簡単にあきらめたくはありませんでした。
村でつながりのあったかーちゃん達を一人一人訪ねて、避難先の福島市で「かーちゃんの力・プロジェクト」を開始したのです。

プロジェクトは、故郷で大切に育てていたかぼちゃ「雪っ娘(こ)」の種をまくところから始まり、健康弁当や漬物、お菓子、と、生産品目は次第に増えていきました。それらはすべて安心・安全の自主基準を定めた放射線検査を経ています。

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           とみ子さんの「あぶくま茶屋」と看板商品の「かぼちゃのかて飯」 

活動はいま、あぶくまの食文化の伝承・普及へとひろがっています。
そして、凍み餅や凍みダイコンを通した秩父や長野県佐久などとの交流だけでなく、とみ子さんは「雪っ娘」の種をヴェラルーシにおくったそうです。
飯館村のかぼちゃが、同じ原発事故を潜り抜けた遠くの地で芽を吹く、とみ子さんの思いは国境をこえてつながります。

飯館村はこの3月31日、避難解除になりました。
村へ帰る人、帰らない人、帰村は半分くらいと聞きました。
とみ子さんは飯館へは戻らず、「かーちゃんの力プロジェクト」を卒業して福島の土地で「までい工房」を復活させるということでした。

農林水産省は、1992年「農山漁村の女性に関する中長期ビジョン」の公表を契機に、農家の女性の起業を積極的に支援しました。とみ子さんのような起業家は福島県にたくさん生まれました。
そのフロントランナーが、葛尾村の松本久子さんがつくった「おふくろフーズ」です。
凍みもちを筆頭に、地場産の材料で、きな粉や豆菓子などを加工していました。

葛尾村は一足早く、昨年6月に帰村宣言をしました。
今年80才になる久子さんは、避難のとき、「絶対に戻る」と誓ったそうです。もどってここを守らなければ…
帰村宣言がでたとき、孫たちが、みんな一緒に帰ろうと言ってくれたことが一番うれしかった、これでやっとあとの世代につなげられると思ったと言います。
そして、補償が打ち切られても「おふくろフーズ」の再開を望んだのです。

ヨモギ、ごんぼっぱ(オヤマボク)、会津の米、すべてが地場産でできた凍み餅は葛尾村の象徴でした。800連から始めた凍み餅は震災前には8800連、保存が効くので需要が高く、全国へ発送していました。
被災で、その地場の原料が手に入らなくなり、他所から調達するため、今は震災前の半分の規模ながら、徐々に増やしていきたいそうです。10,000連も夢ではない?
新築なった加工場では、久子さんの娘さん2人と二男のお嫁さんが働いていますが、4月からは三春から若いおかあさんが通ってくるということでした。

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「おふくろフーズ」の久子さんたちと凍み餅(手前)

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同行の宮城先生の言葉を借りれば、農家の女性は起業に向いている。
農繁期の住民総出の助け合いには、大勢の食事の世話が欠かせません。そのために、農家の嫁は調理の技術、食材の調達や管理のノウハウを日常的に身につけているからです。
その彼女たちの起業を支えるのは理解あるご主人の存在です。とみ子さんも久子さんも、見守ってくれるご主人に恵まれたことを感謝していました。

旅の二日目は、役場の職員の案内で、帰還困難区域を抱えた大熊町を走り、除染の進んだ居住制限区域の復興整備の様子を見てまわりました。
除染がすすんだ一部の田では、実証田として、田植えがおこなわれましたが、すこしでも放射線量をへらしたいと、放射能を吸着すると言われるハダイコンを撒いたそうです。

東電と町はここにメガソーラー施設を作る計画です。
除染のあとの田に、大きな面積をしめているのは太陽光パネルです。20年の契約だそうです。(それでもとりあえず農地は守れるということで。)
あちこちに除染土がつまれているフレコン置き場は、みな、かっては優良農地だったところです。

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除染作業は進む 
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フレコン(除染土)置き場
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            太陽光パネル設置は現在の居住制限区域の1/4にも及ぶ

新しい給食センターができるなど、帰ってくる町民のための準備はすすんでいます。
でも、今、生きて活動している人の気配は東電関係者と除染や建設関係の作業員だけです。                         道路ひとつ隔てた帰還困難区域はバリケードが張られて立ち入ることはできません。
背たかく枯れた芒の原に柳の木が生い茂り、(それは除染されて整備された土地とは対照的です)荒涼とした風景は「沈黙の春」そのままでした。

人間のいなくなった土地でイノシシはわがもの顔、いたるところにイノシシの掘ったあとが見られました。
放射能の吸着を狙って撒いたひまわりの種は一つ残らずイノシシに食べられてしまったとか。
一方、春の光にれんげの方は芽を出していました。これが育ってほしいと、祈るような根本さんの声でした。

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写真では分かりにくいがイノシシの痕 
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                      春の光にレンゲは芽を吹いた 

根本友子さんは大熊町の農業委員で、全国でも数少ない女性の会長さんです。
彼女も今、大熊町の現状をしらせ、農地をよみがえらせる活動をつづけながら、あちこちに散らばった町民を繋ぐために八面六臂の活躍をしています。

とみ子さんに会った姜尚中さんは、彼女のことを「猛女」と呼んだそうです。                                   九州地方では猛烈に自分の道を開拓してきた女性のことを「猛女」と呼ぶのだそうです。
福島にも「猛女」がいっぱいいました。
そして、その誰もが、ひとりではできなかった、みんなに助けられたと言い、帰ってこれない住民をつなぎたいと言います。

避難解除がでたことで、復興は一段落したかのように思ってはならない。
解除されても、村に帰ると決断した人は高齢者が大半で、住民の半分は帰らないといいます。                        6年は子供の成長には十分長い。小学生なら1年生は卒業です。子供の成長に合わせて帰らない選択をした家族も多いのです。
それでもなお、飯館村が最初にとりくんだのは、子供たちのために一番安全だとされた土地に学校を建てることでした。
復興の新しいステージにたって、それぞれの新たなまちづくりは始まったばかりです。

福島から遠く離れて、原発の恩恵を享受していた、都市に住む私たちはなにができるのか。
せめて、福島を忘れないことだと思います。
原発事故の後遺症は今もつづいているのに、事故がまるでなかったかのように忘れられていくことはあってはならないと思うのです。

◆帰りの電車に乗る前に、いわき駅ビルで福島最後のお昼を食べました。
煮魚定食は立派な鯛の兜煮でした。(1050円)

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雑記帳2017-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2017-3-15
◆世田谷区烏山に、散策マップ片手に寺町巡りをしてきました。

都内有数の住宅地世田谷は、かって武蔵野台地に茶畑や、水田、桑畑の広がる農村でした。
中でも烏山村は、水に恵まれて人口も増え、大正2年の京王線開通によって市街化が始まりました。

大正12年、関東大震災の被害にあった下町の寺々が、区画整理によって、当時烏山村の中でもまだ開発の進んでいなかったこの地域に、次々に移転してきました。
さまざまな宗派の26の寺が建ち並んだ一角は、周辺の開発が進むなかで、静かなたたずまいを残して、小京都の雰囲気のある、散策の地になっています。

寺町は京王線千歳烏山駅から甲州街道を横切って、徒歩で15分ほどのところにあり、1時間半ほどでぐるりと巡ることができます。

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                    区民集会所そばに立つ寺町のマップ

まず入口にあるのが妙高寺。天保改革を行った水野忠邦がねむっていたところ、移転の際、墓だけはゆかりの茨城県に移ったそうな。

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                                                                               多くは木造ですが、中には独特の姿の寺もあります。

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 順生寺
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存明寺
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幸龍寺
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                                  妙裕寺

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                          歌麿の墓のある専光寺

広大な境内を持つ妙壽寺は境内の竹や松の林が保存樹林に指定されています。

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                               妙壽寺                                                                               

寺町のはずれの高源院は浮御堂のある弁天池に、冬場は鴨がおとずれます。
世田谷には多くの湧水がありますが、弁天池は目黒川の水源にもなっていて、世田谷百景のひとつとして、区特別保護区に指定されています。

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                            高源院の弁天池 

烏山寺町のあたりは、関東ローム層の中に地下水層があることが知られています。
それは武蔵野台地の浅い地下水よりさらに浅い地下水で、「宙水」とよばれています。
浅い地下水は枯れやすいため、残っているところは少なく、この烏山寺町以外には所沢などわずかです。

寺の再建にさいしては、話し合いを重ねて、地下水を枯らさないための規制がもうけられました。                            周辺に、都会には珍しく、サクラやアカマツをはじめとする150種以上の植物が茂り、コジュケイや、ヒヨドリ、オナガ、モズなど多くの鳥類をみることができるのは、宙水が守られているおかげなのです。                                  烏山では、水があるから木がそだち、木があるために水が保たれるという自然の循環を、寺がたくさんあるという社会環境が支えてきたといえるでしょう。                                                      さらに、人々は自主的に「環境協定」をむすんで、まちづくりに地下水の保護をうたっています。全国でもユニークな試みだということです。                                        

◆『森の妖精』を連載中の吉川潔さんから個展の案内をいただいて、お邪魔しました。

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会場の「Gallary銀座一丁目」は、華やかな銀座の通りをちょっと路地に入ったところ、銀座一丁目の「奥野ビル」にありました。
関東大震災後、地震に強い建築をめざして建てられたビルは、昔は銀座アパートメントと呼ばれて、銀座界隈でも屈指の高級アパートだったそうです。
そんな時代の外装、内装がそのまま残るこのビルの4階に、ギャラリーがありました。

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奥野ビル正面
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                     今では珍しい手動のエレベーター

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                           会場入り口から中を覗く

今回のテーマは「生きること」。檜の木から出ずる命の精は、新しい命の生命力を表しています。
月1回の連載ですが、『知の木々舎』にも「生きること」のタイトルで、妖精たちは登場しています。
そして、吉川さんの作品の、木も焼き物も、妖精の頭から出ている双葉.は、命の再生と生命力を表しているのです。
会場でひときわ目立つ、大きな作品がありました。

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                                                                              ◆立川市の市の花、コブシが咲き始めました。

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雑記帳2017-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-3-1
平塚は相模湾に面して、相模川の沖積平野に位置しています。

広重の「東海道五十三次」にも描かれている平塚は、東京から60km、圏央道が開通してからは、地の利を生かして注目されている町です。
雪交じりの寒い一日、平塚にあるJA営農・技術センターを見学しました。

三浦半島には、江戸時代、浦賀を始めとする幕府公認の七つ浦がありましたが、平塚にはその流れを汲む漁港があります。
平塚漁港に水揚げされた魚を目当てに、昼食に立ち寄った「平塚漁港食堂」には、悪天候、ウイークデイ、12時前という時間にもかかわらず、大勢の客がつめかけていました。

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           地物の刺身(太刀魚、あじ、めじまぐろ、さわら、すずき)にアジのフライの定食

この日の最初の見学地、JA全農 営農・技術センターは、相模貨物駅にも近い、圏央道ぞいにありました。
消費者にとっては農産物が「安心、安全でおいしい」ことが重要である一方、生産者には「省力、低コスト」が求められます。
昭和37年に開設されたセンターは、生産者と消費者を結ぶ懸け橋として、双方の要求に応えることを目的に、技術革新にとりくんでいます。
また、環境と調和した農業の確立のためには、環境活動も大切な取りくみです。

「はるみ」(米)や、「あじぱわー」(ネギ)、「アンジェル」(ミニトマト)など、開発した多数の育成品種の中でも、短幹の「はるみ」は「きぬひかり」に代わる品種として県の奨励品種になっているという、自慢のお米です。

先ず目についたのは1階ロビーに展示してある土の見本でした。

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          左から米、サトイモ、ダイコン、ダイコンとキャベツの連作体系 水田

残留農薬検査室や場内の研究用ハウス棟などを見学した中で、面白かったのは、害虫の防除に農薬を使わずに天敵を利用する考え方です。
各種作物の難防除害虫として知られるアザミウマやハダニの天敵はカブリダニです。
葉に塗布したカブリダニが雨でながれないようにと開発した「バンカーシート」という名前の保護装置を見せてもらいました。
カブリダニの餌はガマの花粉だそうです。

新技術の開発だけでなく、宿泊施設もそなえて、全国から研修生をうけいれるほか、地元小学校と連携して、農産物づくりの楽しさを体験してもらう食育活動にも取り組んでいるということでした。

次におとずれたのは県営の「花菜ガーデン」です。
全国にある花のテーマパークの中でも、園芸に関する図書がそろっていることが他所にない特徴です。
薔薇が有名だそうですが、この季節に花はなく、図書室の隣の四季ギャラリー でクリスマスローズの展示が目をたのしませてくれました。

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                                                                            ショップの名前がDEAR CAPEK。
なんでチャペックなの? 実は「ロボット」で知られるチェコの作家、カール・チャッペックは園芸家でもあったのです。ここは、園芸をこよなく愛したチャペックを、ガーデンのシンボルにしているのでした。
図書室にも彼の著作「園芸家12か月」がおいてありました。
今もプラハにのこる彼の家をイメージした「チャペックの家と庭」が園内に建てられています。

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                            チャペックの家 

立川市にあるNPO法人多文化共生センター主催の台湾料理講習に参加しました。

去年の秋台湾へ旅行して、食べ物のおいしさにすっかり魅了されたのでしたが、当時は名前もわからず、出された料理を食べることに終始しましたので、今度は調理に挑戦することにしたのです。

NPO法人たちかわ太文化共生センター(TMC)は、立川市およびその周辺に墨働き、同じ地域市民としてこの町で楽しく暮らせること、いわば多文化が共生する街づくりをめざしたボランテイア組織、私の知り合いも参加しています。
外国人の悩み相談や市の委託による翻訳、通訳、青少年むけの多文化啓発事業を開催するなどさまざまな業務の中で、今回はワールドクッキングの開催でした。

台湾出身の古川さんを講師に、この日は、肉羹米粉、手羽中の紹興酒煮、米糕の3種の料理を教わりました。
年に数回里帰りするという古川さんから台中の現状を聴きながら、近々台湾へ旅行する予定の人や台湾出身のスタッフも交えて、和やかな会でした。

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6人前の材料
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メインの肉羹米粉を前に、中国からの留学生、李さん 
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デザートの、三温糖、紹興酒を混ぜて炊きあがったもち米を春巻きの皮で包んで揚げた米糕 
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日本兵の墓があるという台中市のお寺を説明する古川さん



◆立川市の川越緑地にある古民家は、江戸時代の砂川の農家を移築したもので、市の文化財に指定されています。当時の武家住宅に匹敵するほど格式の高いものです。
この季節、古民家には市民から寄贈された雛人形が飾られます。

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小林家住宅、手前の樹はアンズ
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昭和初期のひな人形はお顔がちょっときついのだそうです。

雑記帳2017-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-2-15
一昨年に続いて、2度目の高田瞽女ツアーに参加しました。

瞽女体験ツアーは文化庁の助成を受けて、「高田瞽女の文化を保存・発信する会」などが企画した事業で、数年前から実施されているものです。
室町時代から続いた瞽女の歴史は昭和52年にとだえます。
たまたま、企画者の一人、ゆうえんの斎藤弘美さんと知り合いだったことから、誘われて参加するようになりました。

今年は冬の上越が舞台です。
雪を想定してブーツを新調してのぞみました。
残念ながら、今年は雪が少なく、新調したブーツは役立たずに終わりました。

高田駅に集合して先ず向かったのは瞽女ゆかりの曹洞宗点林寺。芸能の守護神、弁財天を祀り、旅廻りをして芸を磨いてきた瞽女たちは毎年、5月13日の「妙音講」に集いました。ちょうどボタンの季節で、瞽女はボタンの匂いで寺を思ったということです。

上杉謙信が戦勝祈願をした寺だったことでもわかるように、弁財天は実は戦の神様でもあります。
天林寺の本尊の弁財天は年一度の御開帳のときだけしかみられませんが、剣を持った姿でえがかれています。

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                   住職によく似たちょっとメタボの弁財天

高田は軍隊の街、料亭文化が花ひらきました。
明治時代から続く老舗の料亭「長養館」は、師団の軍医だった森鴎外もたびたび訪れたとか。築100年を超える、黒板塀の美しい数寄屋の建物は、建築当時の姿を留めて改修されています。
豪雪の高田では、庭の木々は雪吊りでは間に合わず、雪囲いが施されています。

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        日本海の海の幸いっぱいの会席膳。壱の膳の左上は珍しいサメのぬた。

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                              雪囲い 

北国街道筋にある、町屋を利用した交流館「高田小町」では、この日、瞽女の門付け風景を再現するイベント「あわゆき道中」が行われました。ツアーの私たちも、雪国の女性用防寒具「角巻」をきて、雁木の通りを散策しました。
雁木は日本海側の豪雪地に見られた屋根付きの歩航路で(公道ではなく私有地です)、各地で消えていく姿を高田は今も残していて、その長さは16キロにも及びます。

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 瞽女さんにふんしての「あわゆき道中」
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                                雁木 

宿泊先の温泉「くわどり湯ったり村」は、海沿いの国道8号線(加賀街道)から桑取川沿いに山道を登った、桑取谷の行き止まりにありました。上越市から建物を借りる形で第三セクターが運営しています。従業員はみな、村の住民、過疎の村にあって、250円の日帰り入浴も人気です。薄味の夕食は、長養館に負けないおいしさでした。

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                             「湯ったり村」夕食 

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      「湯ったり村」付近の民家。かやぶきではなくなっても屋根の形は残している。 

夕食前、宿の近くの古民家で、長岡瞽女最後の親方、小林ハルさんの孫弟子という、横川恵子さんの瞽女歌の演奏会がありました。
門付け歌の後の一番の演目は「葛の葉子別れ」。
おなじみの最後の場面、「恋しくば 訪ね来てみよ 和泉なる 信田の森の 恨み葛の葉」まで、40分以上もの長い段ものです。通しで演奏する機会もめったにないということでした。(瞽女でさえ、一人ではなく3人で語り継いだというほどのものです。)
そして、高田瞽女と長岡瞽女では節回しも微妙にちがうのだということでした。

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      雪に埋もれた「ゆったりの家」。いろいろなイベントが開催される地域の集会所。

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                             横川恵子さん  

翌日、幼いころ、瞽女さんが村をたずねてきたことをおぼえているという、お年寄りの話を聞きました。
昭和16年生まれの曽我さんの家は「酒屋」の家号を持つ村有数の瞽女宿でした。
春と秋、瞽女さんがいくつもの谷をこえて村里にやってくる、娯楽の少ない時代に瞽女の訪れは子供心にも待ち遠しい、嬉しい出来事だったのでした。瞽女宿では家族同様に彼女たちをむかえたということです。

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                      車座になって蘇我さんの話を聞く。

桑取谷では、旧暦の小正月に、五穀豊穣を願って、集落の若者や子供たちが馬に扮し、各戸をまわって、家々の茶の間で馬をまねて飛び跳ねる、「馬」という珍しい行事がありました。過疎化が進み、昭和53年にとだえていたものを、全国でも珍しいこの行事を次世代に継承したいと、地元有志の手で平成10年に復活させました。
昨夜の古民家「ゆったりの家」で、「馬」を見学しました。

根曲がり竹を使って畳を掃く「田ならし」のまねごとのあと、馬に扮した青年が「ヒヒーン」と馬の鳴き声をあげながら客間に飛び込んできて、囲炉裏の3つの角で3回ずつとびはねる、それを3周という、体力の要る行事です。子供の馬、成年の大馬も登場します。
馬が元気に飛び跳ねてホコリが立てばたつほどその年は豊作になると言われています。

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                               田ならし

今、全国で地域おこしが叫ばれています。
上越市はそのさきがけのような土地なのだそうです。
市は、集落ごとに取り組んできた課題を、合併後も無くさないように応援していると聞きました。
この日、「馬」を見物に全国から大勢の観光客がつめかけていました。
集落に唯一つある中学校では総合学習として学校あげてこの行事に参加していました。
全校生徒23名が馬に扮して飛び跳ねました。

見物客に「馬」の説明をし、伝統行事を進行したのは、東京出身で村の青年と結婚した若い女性でした。
そして、隣村の土口(どぐち)では、都会からやって来た若者たちが一人暮らしのお年寄りを見守るケア事業を運営しているのを、たまたまこの朝のNHKTV『小さな旅』で紹介していました。
瞽女を受け入れてきたこの谷は、人を呼ぶ魅力をもっているのだと、「高田瞽女の文化を保存・発信する会」の関さんは話していました。

旅の最後は再び高田に戻って一昨年誕生した「瞽女ミュージアム」です。
瞽女を描いた画家、斎藤真一の作品を瞽女関連の資料とともに展示しています。

斎藤真一の絵は、彼のシンボルの色である「赫」が見る者を魅了します。
それは、盲目の瞽女が視力を失う前の眼に焼きついた、幼いころに見た太陽の色であり、彼がヨーロッパを放浪中に見たアンダルシアのジプシーの衣の色だといいます。
多くの戦友の死を目にし、戦後ひきあげてきて何を描けばいいのか思い悩んでいた斎藤に「日本を描きなさい」と勧めたのは藤田嗣治でした。
中世の色濃く残るヨーロッパの田舎を旅し、東北の祭りに日本を探すうち、高田瞽女最後の親方杉本キクイさんを知ったことで、瞽女の生き方に深い感銘をうけたのでした。

ミュージアム誕生のきっかけとなったのは斎藤氏一のコレクター、池田敏章さんが140点にあまる斎藤の作品を瞽女のふるさと、高田に寄贈したことです。
今回の旅にも池田さんは同行していましたが、いまや、斎藤真一研究家としてファンにはカリスマ的存在になっているようでした。それでも、2022年の斎藤真一生誕100年までにやるべきことのリストのなかに、『知の木々舎』を忘れてはいないと、元自衛官の池田さんは何処までも律儀でした。

◆2月も半ば、梅の花が見ごろです。いつも通う学習館の近くに幹は桜で花は梅の木があると話題になっていました。よくみると、桜の幹の割れた間から梅がのびているのです。そろそろ花粉の飛ぶ季節です。

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雑記帳2017-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-2-1
◆「旅するレストラン」のネイミングにひかれて乗ってみました。

昨年春、西武鉄道が週末運行を始めた、題して「旅するレストラン『52席の至福』」は、首都圏にあってちょっと非日常が味わえる「乗って楽しい」「食べて楽しい」空間、という触れ込みです。
九州を走る七つ星まではいかなくても、近くで楽しめるとあって、なかなかの人気。予約をするのが難しかったところ、旅行会社の企画をみつけて応募しました。

出発は西武新宿駅。秩父まで約2時間の旅です。

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                「52の至福」と名付けた車両と秩父駅の看板

キッチン車両と多目的車両に客車2両をつないで、ダイニングスタイルの座席は1車両わずか26席という、ゆったりとした空間で、食事を楽しむことができます。

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                        食堂車の車内風景 

車両をデザインしたのは建築家の隈研吾氏です。
私の乗った2号車の天井は柿渋和紙、車両の仕切りには秩父銘仙がつかわれていました。
絹織物の「秩父銘仙」は、平織りで裏表がないので、表が色あせても裏を使って仕立て直しができるとあって、女性の間で手軽なおしゃれ着として明治後期から昭和初期にかけて全国的な人気を誇りました。私の郷里の四国でも、祖母や母にはなじみがあったのを憶えています。
こんなところで出会えるとは…

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                    柿渋和紙の天井と秩父銘仙の仕切り

昼前に新宿を出るブランチコースと、夕方秩父を出発するディナーコースのうち、私が選んだのはブランチです。せっかくなら景色を見ながら食事を楽しめる方をと思ったのです。

出発してほどなくアミューズが運ばれてきました。
料理の主な食材は沿線の産です。

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          アミューズ(深谷牛のローストビーフツナソース、ケッパー添え)

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 前菜(玉ねぎのオーブン焼き 上にのっているのはトリュフ、中の詰め物の豚ひき肉は埼玉産)

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      パスタ(サツマイモとリンゴのラビオリ) 発酵バターを使ったソースがおいしい。

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                        横瀬の地粉を使ったパン

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               メイン(骨付き豚肉のトロトロ煮込みレンズ豆添え)

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                    カトラリーはイタリアのメプラ社製

秩父到着までの最後の30分は地酒のケーキやガトーショコラなどデザートビュフェを楽しみました。

西武新宿駅で電車を待つ間に見つけた街路樹のトウカエデは表皮の剥がれた木肌が美しい。
ムクロジ科の落葉樹とあるが、今年は暖かいせいか紅くならず散り残っている葉も。

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荒川の支流で一番大きい入間川の橋梁をわたる。
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芦ヶ久保駅を出て最初のトンネルをぬけるとみられる氷柱。

食堂車を走らせる試みは今各地にあり、相席した、板橋から来たという女性のお勧めは、軽井沢と長野を走るしなの鉄道の「ろくもん」でした。
信州の山の幸が堪能できる食堂車です。
塗りの器で出る「ろくもん2号」の小布施の和食がおいしいと話していました。
(「ろくもん1号は軽井沢から長野、2号は長野から軽井沢を走る)
帰宅してネットで調べてみると、こちらは運転日も多く、西武よりも予約が楽そうです。

彼女も私も一人参加でしたが、この日はシニアのカップルが目立ちました。
カシオペアも今はなく、駅弁しか食べられない新幹線はほとんどゆれない。
揺れる列車で食事をするのはなんとなくレトロっぽい雰囲気です。
昔の列車の旅を知る高齢者には懐かしいのす。
サービスをしてくれる若いお嬢さんがういういしくて(質問すると、いちいち「聞いてきます」と言うのも含めて。年寄りが同じことを言ったらたちまちブーイングです。若いというのはそれだけで素敵だ)、わかれ際にメッセージカードをもらいました。

◆「エシカル消費」は新しいトレンドです。

 まだ耳慣れない「エシカルethical」という言葉は、 もともと「倫理的な」という意味で、エシカル消費とは環境や社会に配慮した消費行動をさします。将来にわたって持続可能な社会をつくっていけるという意味で、大量生産や大量消費に代表されるファストフード、ファストファッションの対極にある考え方ですが、必ずしも相反するものでもないようです。

 たとえば、H&Mは、最新トレンドを短いサイクルで世界的に大量生産・安価に販売するファストファッションとして知られています。エシカルとは逆のイメージがありますが、成長と高収益性の維持には社会と環境の両面でサステイナブル(持続可能)な方法で事業を運営することが重要だとして、廃棄物の減少やリサイクルナイロンなどサステナイブル(持続可能)な素材の使用を推進しています。企業にとってもエコロジーや社会貢献は当然という考えが広まっているのです。

 日本では、東日本大震災以降、「自分のためだけではなく、社会や人のために消費する」というエシカル消費の考え方がひろまってきました。フェアトレードやオーガニックもエシカル消費の一つです。愛着のあるものを長く使う。これもエシカルです。
 これまで、消費者は経済では受け身の存在ととらえられてきましたが、エシカル消費を選択することで、もっと能動的で、主体的な消費者になれるというわけです。

立川市にある東京都農業試験場では河津桜がほころび始めました。


雑記帳2017-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2017-1-15
遅まきながらの初もうでは深川で。

今年最初の江戸町歩きは深川です。

隅田川の東岸を占めるエリア、深川の地名は慶長年間(1596~1615)に大坂から移住してこの付近を開発した深川八郎右衛門にちなむといわれています。
木場や花柳街で大いにさかえました。
ちなみに深川は方角でいえば江戸の辰巳(南東)にあたり、辰巳芸者は気風(きっぷ)がいいので有名でした。

地下鉄半蔵門線清澄白河駅から清澄通りにでると、すぐそこは清澄庭園。
元禄期の紀伊国屋文左衛門の屋敷跡でしたが、享保年間に下総関宿藩主久世氏の下屋敷となり、明治には岩崎弥太郎が買いとって、2代目の岩崎弥之助が現在の池泉式回遊式庭園に改修しました。紆余曲折を経て、現在は東京都の庭園になっています。

通りをよこぎるように清澄庭園のそばを流れているのは仙台堀です。
開削を命じられたのが伊達藩で、仙台候松平陸奥守の蔵屋敷があったので、仙台の名がつきました。
食糧や木材の運搬に利用され、隅田川、小名木川とともに江戸の水運の要でした。

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                                                                             仙台掘の橋の袂には奥州へ旅立つ芭蕉の像がたっています。
芭蕉の門人鯉屋杉風がこの地にたてた彩茶(さいと)庵を、芭蕉はしばしば訪れて「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり、元禄2年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出発しました。

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                                                                              ちなみに、深川に移り住む前の芭蕉は全く別人のようです。
小田原町に住んで、妾をおき(当時江戸の単身赴任者にはありふれたこととはいえ)、水道工事こそ本業とばかり、神田上水の改修工事を指揮した芭蕉。
万事にそつなく人当たりも良く、工事の差配にも手抜かりなく、多額の報酬を手にした芭蕉。
活躍の時期は四代将軍家綱の晩年にかさなり、その姿は私たちが抱く芭蕉のイメージとはかけ離れています。
作家の嵐山光三郎氏の『芭蕉という修羅』によれば、後を継いだ綱吉の前将軍時代粛清の嵐を逃れるように、深川に身を隠したらしいのです。38歳のことでした。
そこから58歳で亡くなるまでは後世の人に知られる漂泊の俳人、芭蕉がいます。

通りで目をひいたのが東京市営店舗住宅です。
昭和3年に建設された、鉄筋コンクリートの、48戸の店舗併用の長屋です。戦争にも焼けずに残りました。
1階を店舗、2階を住宅にしたモダンなデザインの住宅は当時、現在の値段に勘算して家賃は32万円だったそうです。

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                                                                               深川は寺町です。
深川江戸資料館の通りに建つ霊巌寺には白河の地名になった奥州白河候松平定信の墓があります。定信の行った寛政の改革は、あまりの厳しさに江戸市民には不評だったものの、白河の人々には名君と慕われ、今でも毎年、市民が墓参りにくるそうです。
境内の地蔵菩薩は、旅人の安全祈願に、江戸を出る主な6つの街道に一つずつおかれた六地蔵の一つです。

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                                                                              霊巌寺と通りひとつ隔てた成等院には木材で財をなした紀伊国屋文左衛門の墓があります。

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                                                                                錦帯橋を建設した岩国藩主吉川堅物の室、養源院の建てた心行寺には深川七福神の一つ、福禄寿が祀られています。江戸中期に始まった七福神信仰は庶民の娯楽でした。
隣接する、大和長谷寺を本山とする法乗院は閻魔堂として知られています。

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                                                                                 江戸時代には成田山信仰が多いに栄え、4泊してわざわざ成田まで行くのも大変だと別院にしたのが深川不動。とにかく娯楽を作って楽しんだのが江戸っ子のようで、その名残はいまでもつづき、この日も、護摩焚きをみようという老若男女で長蛇の列でした。
本殿4階では中島千波画伯の寄贈した大日如来の巨大な天井画が見られます。

深川不動の隣には富岡八幡宮。
当時六万五百坪の社有地を得て、江戸最大の八幡さまでした。
勧進相撲の興業が行われたことから江戸相撲の聖地となり、境内には横綱や大関の碑、巨人力士の碑など数多くの相撲にかかわる碑があります。

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                                                                                 深川と言えばどうしたって深川めしです。
江戸前のアサリと一緒にかきこむご飯は、江戸の漁師たちのおなかをみたしました。
今は深川めしといえば炊き込みご飯を出す店が多いようですが、富岡八幡宮の鳥居近くにある深川宿では、炊き込みと、実際に漁師たちが食べたであろうぶっかけご飯の両方が食べられます。片方だけでも1人前ですから、両方食べるとかなりのボリュームです。ぶっかけの汁は少し甘めのみそ味でした。

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                                                                                  この冬一番の寒気が日本列島をおおって、この日は風の冷たい一日でした。                                おりしもセンター試験の真っ最中。がんばれ、受験生。春は近いよ。

◆お休みしていた『丸木美術館から見える風景』が再開されました。一昨年のアメリカ巡回展以来、多忙を極めていた岡村幸宣さんの、半年ぶりの復活です。『知の木々舎』にとって、大切なコーナーである『核なき世界を目指して』が充実します。


雑記帳2017-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

2017-1-1
あけましておめでとうございます。

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今年は酉年。
干支でいうと、正確には“丁酉”(ひのととり)ということになります。

酉の字は酒を醸す器の象形文字で、「酒」のもとの字です。収穫した作物から酒を抽出する、収穫できる状態である、成熟した状態などを表すため、「成る」「実る」「成熟」の意味があります。

酉は鶏をさして、鶏は朝一番に鳴くことから、酉年は縁起がいい年だといわれています。
この冬は鳥インフルエンザが大流行、鳥にとっては受難の幕開けでしたが、一方で、「とり」は「とりこむ」と言われ、商売などでも縁起の良い干支なのです。

2016年、アメリカの次期大統領にトランプ氏が選出されました。
この結果は大きな驚きを世界中にもたらしました。
政治、外交、経済のさまざまな分野でこれまでとは違った手法をみることになるのでしょう。予測のつかない時代の不安な幕開けです。
それにしても私たちはこれまで気付かなかった民主主義の別の顔を見せられたのでした。
厄介な問題に直面すると、人は心を変える、それが民主主義だといいます。。
或いは、なんでもありこそが民主主義なのだともいいます。                                        私たちはまだ、民主主義をかいならしてはいない。厄介な荷物を手放すのではなく、育てていかなくてはならないのだと思います。

ともあれ、今年が、鳥にちなんだ、いい年でありますように。
『知の木々舎』は春に、九年目を迎えます。

◆年の暮、赤川ボンズさんから小さな展覧会の案内がありました。

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                                                                                 題して「ワイワイガヤガヤ」展。歴代のボンズ工房のお弟子さんや池袋で活動していた「アール・ヌーボー」の旗手たちが参加しての賑やかな展覧会でした。

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30年前かばんやさんの看板に作った作品が廃業で戻ってきた。 
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会場で友人のしおみえりこさんを紹介されました。
えりこさんは、『知の木々舎』文庫の裏表紙をかざった三本のプラタナス「すずかけ三兄弟」を守る運動に参加し、この話を忘れないようにと毎年、三本の木の楽器によるコンサートを開いています。その活動を『知の木々舎』で紹介することになりました。

高畠シードルお披露目会が開かれました。

12月19日夜、恵比寿のフランス、ブルターニュの郷土料理店「ブレッツカフェ クレープリー ル コントワール」に、40人を超す青鬼クラブ会員や早稲田環境塾生が集いました。                                          ワインづくりにはすでに定評のある高畠で、初めてリンゴのシードルが完成したのを祝う会です。
オーナーのラーシェ・ベルトラン氏がブルターニュ出身、店主安部直樹さんが高畠出身とあって、この日のメニュー、前菜やそば粉のガレット、リンゴのデザートにいたるまで、食材の多くが高畠産でした。

ちなみにブルターニュは土地が痩せているため、小麦は穫れません。そこへ、中国原産のそばがイスラム諸国を経由して十字軍によってもたらされ、栽培されるようになりました。                                            貧しい農民や労働者はそば粉を主食とし、ガレットはブルターニュを代表する郷土料理になったのです。

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前菜の中にもそば粉が。 
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そば粉のガレット(中身は野菜や海の幸) 
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                           高畠の無農薬リンゴのデザート

シードルはアルコール度8%、芳醇な香りを楽しみながら、お酒に弱い私でも飲めます。
原料のリンゴは、奥羽山脈の直下、高畠の、43年に及ぶ有機無農薬果樹園の産です。
誕生したシードルには高畠の精神がつまっているとは、出席の星寛治さんの言葉でした。

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                        お披露目された高畠シードル

飲み比べたブルターニュのシードルは、グラスではなく、陶器のお椀で飲むのが正しい飲み方だそうです。

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                                                                              一方、ブルゴーニュの痩せた土地で栽培される葡萄からは、世界に名だたるワインが生まれています。
同席した飲食表象論の専門家で、ワインづくりに精通している福田育弘早大教授によると、生食用の葡萄とワイン用の葡萄はまったく別物だそうです。
有機ワインと無添加ワインとは違う、国産ワインが国産の葡萄を原料としているわけではない、その証拠に国産ワイン生産日本一は山梨ではなく神奈川県だ、などなど、話はつきません。
そして、ワインは栽培から出来上がるまで全くの農産物であること、日本酒が工業製品なのとは全く異なるものだと知りました。

高畠シードルを生んだ「たかはた共生プロジェクト」はトヨタ財団の支援をうけています。
地元の高校や中学校の生徒たちも巻き込んだ講義や実技指導、学校農園の開設で、将来の後継者づくりにつながることが評価されてのことです。
そのトヨタ財団からもスタッフの出席がありました。
30歳代とおぼしき彼は、保育園から引き取った2歳の女の子をつれての参加でした。                            抱っこひもも板についているようす、「こどもが寝る時間なのでお先に失礼します。」と、さっとひきあげるのも格好いい。
現代のイクメンは、思っていたよりずっと軽々と男女の壁をこえているものだと思わされた夜でした。、


雑記帳2016-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2016-12-15
この秋、斎藤先生の公開講座を受講したメモをもとに、広重の絵で「東海道五十三次」をたどってみましょう。(画像はすべてWikipediaから。)

江戸切絵図によると、広重の生家は江戸城と目と鼻の先、馬場先門にある「幕府常火消同心」の長屋でした。お父さんは火消しだったのですね。
13歳のとき両親が相次いでなくなり、火消しの家職を継ぐ傍ら絵に熱中、15歳で歌川豊広に入門して、歌川広重を名乗ります。そして、27歳で家督を譲って後見人になり、代番を務めながら、正式に家職を引いたのはその9年後のことです。

長い間、版元からの依頼もなく、芽が出ませんでしたが、35歳のときに「東都名所」(10枚揃え)を刊行します。そのうちの有名な1枚が品川が海だったころを描いた「高輪之名月」です。
前景をクローズアップした構図に雁の群れを描いて、俯瞰的視点や日本独特の近接拡大の技法が見られ、北斎も好んだというベロ藍を、広重もつかっています。                                                    広重の特徴である俳味と抒情の資質が開花したといわれる絵です。

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                                                                              そして、天保3年~4年、東海道五十三次、55点が世に出ました。
東海道は約500km、126里。男の足で2週間かかりました。
人物画や風俗画しかなかった浮世絵の世界に、風景画のジャンルを確立したのです。

そこには、男と女、年寄り・子供を含むさまざまな年齢層、武士や町人のさまざまな職業、春夏秋冬はもちろん、さまざまな時間帯が描かれていて、見る者を飽きさせません。、
隣り合う宿場をつないだり、がらっと趣向を変えたりして、あたかも自分が旅しているような気分にさせてくれます。

「日本橋 朝の風景」

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大名行列の七つ立ち(午前4時)の風景です。
左下手には棒手振り(ぼてふり)がいて、当時日本橋にあった魚河岸のにぎわいが想像されます。
橋を大木戸正面から描いた構図は、橋を横から見る通常の描き方とは違ってダイナミックです。

◇「品川 日の出」

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大名行列の尻尾を描いて日本橋の続きをあらわしています。時刻は明け六つ(午前6時)。

◇「箱根 湖水図」

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険しい山をデフォルメして、クローズアップした芦の湖を横目に、三島に下る大名行列が見えます。
色彩の豊かさは、セザンヌ、スーラ、モネら印象派の画家たちをを驚かせたといいます。
   「何と広重は印象主義ではないか!」(ピサロ)

◇「三島 朝霧」

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無線彫り(シルエット)と濃淡で、早朝の旅立ちのものうさを表現しています。

◇「沼津 黄昏図」

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月灯りに照らされた沼津宿。夜。
旅人はうしろ姿に描かれ、天狗の面を背負った行者風の旅人だの、勧進のための道具を持つ比丘尼の母娘だの、広重はまことに芸が細かい。

◇「原 朝之富士」

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前年にでた北斎の「赤富士」を意識して「白富士」になっています。
女二人連れに供の男、田んぼには農民の姿が見えます。

◇「吉原 左富士」

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東海道を京にむかうと、通常、富士山を右に見ますが、1か所だけ、左に見える場所があります。それが吉原です。
こちらは馬上に子供3人、季節は夏。

◇「蒲原 夜之雪」

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55点の中でも名作といわれる一枚。 冬。
雪明りを歩く3人の姿に、すれ違っては分かれて行く旅の本質(会者定離)を描いています。
暖かいので本当は雪など降らない蒲原に雪を降らせて、リアリズムではないが、「雪月花」を象徴しています。

◇「鞠子 名物茶店」

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鞠子名物はとろろ汁、現代の茶店は今もあるそうです。
広重は芭蕉の誹風をしたっていました。その芭蕉は鞠子でこんな句を詠んでいます。「梅若葉 丸子の宿の とろろ汁」。
弥次さん、喜多さんらしき人物が登場しています。

◇「赤坂 旅舎招婦」

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現在の豊川市にある御油(ごゆ)は35番目の宿で、遊女の町として有名でした。客を引く留女(とめおんな)は遊女でもあったのです。
御油からわずか1.7kmにある赤坂も同様の宿場でした。
宿が旅人を留めると同時に遊女もいたという、宿の表の顔と裏の顔が描かれています。

◇「庄野 白雨」

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白雨は夕方、突然降りだす雨のこと。  
急な雨に坂道をかけのぼる人、かけ下りる人が描かれています。
墨の濃淡によって竹藪のざわめきまでが表現されています。
笠をかぶりかけだす人、籠かきの恰好や籠の中の人のもようまで、相変わらず細かいですね。

◇「土山 春之雨」

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土山は、鈴鹿峠を下って滋賀県甲賀にはいります。庄野の白雨と違って、今度はしとしと雨。
いつの間にか大名行列が復活しています。
鈴鹿馬子唄に「坂は照る照る、鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」と謡われています。

◇「京都 三条大橋」

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日本橋とは対照的に、橋を横から見る定番の描き方です。日本橋に始まった東海道の旅はこの三条大橋で、上がりです。

◆嘉野ミサワさんの「パリ・くらしと彩の手帳」が復活します。

10月、知の木々舎に原稿を送った直後に自宅に泥棒が入ったと、パリからの連絡でした。データもそっくり失って大変な落胆のご様子でしたが、12月に入って、ようやく新しいパソコンが使えるようになったと、電話をいただきました。
ミサワさんの写真を楽しみにしている読者の皆さん、おまたせしました。少し遅れるかもしれませんが、12月15日号からパリ通信が復活します。

◆今年最後の紅葉狩りは伊豆・修善寺公園で。                                                散り敷いた紅葉の赤と散り残った黄葉のコントラストがきれいでした。

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雑記帳2016-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

2016-12-1
手作り中華まんじゅうでランチはいかが?

秋は地域の学習館の講座が花盛りです。
私たち「食とくらしと環境を考える会」でも、秋の調理実習を行いました。
今年も「立川の野菜はおいしい」と銘打って、地産地消のレシピをつくりました。

春にはトマトと独活を使って、パスタや野菜の寒天寄せをつくりましたが、意外性にとぼしかったので、秋は中華まんじゅうに挑戦しました。                                                                  ドライイーストをつかえば皮も意外に簡単に手づくりできます。
好評だったので、レシピをご紹介しましょう。

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                       この日使用した食材4人前

<材料(4人前/8個)>
※生地
薄力粉200g、 グラニュー糖 大さじ1、 ドライイースト小さじ1、塩ひとつまみ、                           サラダ油大さじ1、 ぬるま湯110cc、 打ち粉適宜

※餡①(4個の分量)
豚バラ肉(薄切り)100g…細かく刻む(ひき肉を使うよりずとおいしい)
酒大さじ1/2、 生姜汁大さじ1/2、 醤油大さじ1、オイスターソース小さじ1.5、
干しシイタケ(もどして粗みじん切り)1枚、 長ネギ(小口切り)1/2本、ごま油小さじ1.5

※餡②(4個の分量)
むきえび75g …流水でよく粗い、背ワタを鳥、包丁の腹で軽くたたいて粗く刻む
こしょう少々、酒小さじ1.5、生姜(みじん切り)10g、醤油小さじ1.5、塩ひとつまみ、
小松菜1/2束(約150g)…塩少々を入れた湯でさっと下茹でし水けを良く絞って細かく刻む
ごま油大さじ1

<作り方>
※生地を作る
①ボールに薄力粉を入れ、ドライイースト、グラニュー糖、塩を加え、菜箸で混ぜ合わせる。人肌のぬるま湯を3~4回に分けて加え、そのつど菜箸で混ぜる。生地がある程度まとまったら、菜箸とボールについた粉をこそげとり、手でこねる。
②生地が一つにまとまり、乾いた粉が完全になくなってきたらサラダ油を加え、手のひら全体で生地を握るようにしてこね、生地に油をなじませる。油が生地に完全になじんだら、麵台に取り出して手のひらの付け根部分に力を入れ、押し出すようにこねる。
③生地が、しっとりと赤ちゃんの肌のようになめらかになったら丸く形をととのえ、ボールに戻す。乾燥しないように、固く絞った濡れ布巾をかけ、室温で30分(夏)~1時間(冬)おいて一次発酵させる。暖房のきいた部屋なら冬場でも短い時間で十分発酵します。

※餡を作る①
ボールに細かくきざんだ豚肉を入れ、調味料を順に加える。調味料を入れるたびに菜箸でほぐすように混ぜる。シイタケ、長ネギを加え、さっと混ぜ合わせ、最後にゴマ油を加える。

※餡をつくる②
たたいたむきえびをボールに入れ、調味料を加えては、そのつどよく混ぜる。刻んだ小松菜を加えて混ぜ合わせ、仕上げにゴマ油をいれてうまみを閉じ込める。

l※餡を包む
①少量の打ち粉をふった麵台に、一次発酵させた生地を、そっととりだす。生地を両手で30cmの均等な棒状にのばし、包丁で8等分に切り分ける。
②切り目に少量の打ち粉をふり、手のひらで軽く押しつぶして円形にする。指先で丁寧に丸く、生地の中心を薄めに、直径10cmになるようにのばす。左手にのばした生地をのせ、中央に1/4量の餡をのせる。
③右手の親指と人差し指ででひだをとりながら包む。最後はしっかりと閉じ、クッキングシートを敷いたせいろにのせる。
④せいろに間隔をあけて並べ(角型せいろなら1段で8個並ぶ)、ふたをして常温で20分ほどおいて、二次発酵させる。包んだときのひだの角が丸くなり、少しふくらんでいれば二次発酵が完了している。

※蒸す
鍋にたっぷりの湯を沸かし、せいろをのせ、強火で15分間蒸す。蒸しあがるまでふたは開けない。

この日のメニューは中華まんに、野菜スープ、中華風浅漬けで出来上がり!!

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 実習中。最近は男性の参加者も目立ちます。
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                                                                           ◆「芭蕉・生命の賛歌」を連載中の傅益瑤さんがNHKEテレ「日曜美術館」に出演しました。

11月27日の日曜美術館では、日本の祭りを水墨画に描く、傅益瑤さんを紹介しました。
傅さんは30年前に来日して、平山郁夫に師事、多くの寺社の知遇を得て、各地に襖絵を残しています。知の木々舎では創刊間もないころから傅さんの「祖道伝東」や「日本の祭り」をとりあげてきました。
番組では、日本各地の祭りを描いてきて、100枚目に当たる今回、徳島の阿波踊りを描く傅さんにスポットがあてられました。

父親の傅抱石さんは20世紀最高の水墨画家と称されましたが、文化大革命の中、失意のうちに亡くなり、自身も農村への下放を経験しました。凍った水田に稲を植えた当時の経験を語る場面は 中国の、革命と称した狂気の時代を思いおこさせました。

傅さんは、日本の祭りにであって、そのエネルギーに圧倒されたといいます。そして、自然や歴史、文化、さまざまな要素が一体となった祭りに魅せられ、全国各地の祭りを水墨画で描いてきました。
こうして100枚目の祭りに、徳島の阿波踊りがえらばれたのです。

画面は阿波踊りを描くために何日も前から取材し、自身も蓮の一員となって踊る傅さんをとらえていました。
傅さんは、日本の盆踊りの中で、もっとも優美だといわれる阿波踊りの、女踊りのしなやかな指の動きが人間の情感のひだを表すことに言及していました。
これまで背景に描いてきた自然を描かなかった、それは徳島では自然はすでに人の体の中にあるからだともいっていました。

中国では今、禁じられていた昔の祭りが復活する動きがあるそうです。
日本で祭りを描いてきた傅さんには、中国政府から中国の祭りを描く依頼がくるようになりました。
傅さんは祭りを描くことを通じて日本と中国のかけはしになりたいと結んでいました。

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                  形見の硯を手に取る傅さん。木製だという。 

11月24日、東京は54年ぶりという、時ならぬ雪に見舞われました。

例年なら、11月も末になるまで銀杏の黄葉が楽しめると気楽に構えていたので、雪が解けた後、あわてて昭和記念公園へ走りましたが、見事に葉をおとしていました。
くやしいので、散り残ったメタセコイヤを撮りました。

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雑記帳2016-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2016-11-15
◆「世界詩人大会」出席のため初訪問した台湾は、美食の間に大会をこなした6日間!

羽田発8:50のJALは、時差1時間の松山空港に11:00到着。はじめての台湾です!

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                           松山空港

空港から大会のある台南市には新幹線で。明理さんの台湾独立連盟を支える青年が出向かえてくれ、彼の運転する車で南港駅へむかいました。
亜細亜大学に留学したことのある彼の説明によると、南港は東京の大田区のような町で、古い工場がたちならび、これまで開発が進んでいなかったのが、新幹線の駅ができたことで変貌中。鉄道は地下にもぐり、広い道路とマンションの建設ラッシュは、これからというエネルギーを感じさせました。

台湾の新幹線は日本の新幹線のノウハウを導入しているだけあって、車内清掃も日本風。
さすがに日本の幕の内とはいきませんが、駅弁だってあります。食欲全開で臨む台湾の最初の食事は駅弁でした。

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                             新幹線と台湾風の駅弁

宿泊先のランディスホテル初日の夜は盛大な歓迎会がひらかれました。

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                           歓迎会のメニューの一部

朝食はバイキング。1500人収容可能なレストランのメニューは豊富です。
おかゆは、のせる具材がいっぱいあって、毎朝たべても飽きませんでした。

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                       朝食でよくたべたおかゆ

2日目、開会式の合間を縫って、高雄在住の何聡明さんが阿霞飯店へ案内してくださいました。偶然にもこの店の創始者、阿霞さんは、明理さんのお母さんの小学校の同級生で、家が貧しくて女学校へは行かなかったけれど、とても頭の良い子だったとか。今では台南で一番おいしいと評判の店になっています。

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         阿霞飯店のメニューの一部 デザートはさっぱりした甘さで抜群においしい

3日目は、歴史博物館や赤篏楼、億載金城など、台南市の観光地をめぐりました。
建物もまだ新しい歴史博物館で、原住民の時代から、大陸からの人の往来があり、やがてオランダや清国の統治時代、戦後の白色革命を経て、民主化した現代の台湾までの歴史が学べます。
大会会場の国立文学館の展示室でも台湾文学とともに台湾の歴史を学びましたが、日清戦争終結から昭和の終戦までの50年間、日本の統治下にあった台湾には、昭和の日本がいっぱいありました。

赤篏楼は台湾で一番人気のある観光地です。
オランダ統治時代、プロビンティアと呼ばれた城は、鄭成功がオランダ軍を破ってのちは台湾全島の最高行政機関となったところです。

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                              赤篏楼

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            市内観光中のランチはくだけた雰囲気で。でも量はたっぷり。 

鄭成功は日本人の母親を持つ平戸出身の英雄です。近松門左衛門の『国姓爺合戦」の主人公、和唐内のモデルになりました。

4日目、台南から高速走路を北上して日月潭へむかう途中、高速道路をおりて、昼食にたちよったのは有名な鳥料理の店です。ここの名物はウコッケイで、ジューシーな肉とパリパリの皮は秀逸。有名人も食べにくるのだそうです。

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          4日目のランチ風景。正面は通訳してくれた大学生のメイちゃん。

日月潭は台湾のほぼ真ん中に位置する台湾有数のリゾ-ト地です。標高の高い巨大なダム湖には大勢の観光客がおしよせていました。

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      4日目ともなれば大会出席者もすっかり打ち解けて(日月潭を航る船上) 

5日目、台北に到着するなり高層ビルのたちならぶのが目に入ります。ここでのハイライトは総統府です。
蔡英文さんによく似た陳さんに案内してもらって中を見学しました。彼女は蔡さんと女学校の同級生だそうです。3年前に来たことのある明理さんの話では、主が変わってから展示する内容も少しずつ変わってきたということです。床の「Power to people」の文字は、政権をゆだねてくれた民衆へ政治が行きとどくようにとの願いがこめられていました。

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                      日本統治時代のままの大統領府

宿泊先のシティホテルは高速道路がすぐそばを走る賑やかな通りにあり、夜景がきれいです。流石「リバービューホテル」の名前どおり。ここで最後の晩餐になりました。

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台湾にいる間、良く魚を食べました。生でも日本と同じようにワサビ醤油で食べられます。
一番よく目にしたのがハタという魚。スズキ科らしい。白身で癖のない味でした。

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            ハタのあんかけの残骸。 わずかに残った尻尾がみえますか?

最終日は出発までの時間を利用して初めて自由時間を楽しみました。
大会参加者の詩をおさめたアンソロジーを含む重たい本は郵便局から船便でおくって、明理さんの案内で二・二八記念館と師範大学を見学しました。                                                           二・二八記念館は旧ラジオ局の建物を利用しています。1947年、進駐してきた中国国民党による弾圧の悲劇は、台湾人にとって忘れてはならない歴史です。旧制台北高等学校を前身とする師範大学はいまも、エリートを輩出する名門大学です。

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                        二二八記念館(旧ラジオ局)

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             師範大学中庭(明理さんのおじさんが学んだ旧台北高等学校)

台湾へ行くときまったとき、ブラジルの李渭賢さんが是非これは食べてくるようにとメールをくれました。
ウナギかナマズのような触感の「饍魚麺」と、たれが抜群に美味しいという「担阿麺」です。飲茶とあわせて、台湾庶民の伝統の味と教わりました。
残念ながらタイトなスケジュールの中で屋台を探す暇もなく、台北市でようやくありついたのが写真の麵です。
午後出発のJALでも機内食がでるため、お昼はささやかに小椀一杯ですませました。スープが美味しい。
そのほかすすめてくださったものはみなこの次に持ち越すことになりました。

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ターミーの店の麵と店頭での作業中の写真(たぶん、屋台ではこんなにスマートではない、もっとごちゃごちゃしているに違いない。なにしろ、李渭賢さんによれば、鍋は開業以来洗ったことがないというのだから。)

6日間、朝昼晩、台湾料理をたべたのに、少しも飽きませんでした。
毎回、目とおなかがいっぱいになった、充実の旅でした。


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