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季節の記憶・いだようの写真散録 №191 [文芸美術の森]

「たおやかに」         自然写真家  いだよう

2017年9月下期分.jpg

ヒガンバナに覆いかぶさるように咲いていた萩。揺れて始めて風の起こるを知った。

いだようのFacebookページ : https://www.facebook.com/idayoh/



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西洋百人一絵 №94 [文芸美術の森]

ルオー「郊外のキリスト」

            美術ジャーナリスト、美術史学会会員  斎藤陽一

 ジョルジュ・ルオー(1871~1958)は「20世紀最大かつ最後の宗教画家」と呼ばれたりする。これには、少々、注釈が要るだろう。

 長い間、西洋絵画の主流は、聖書に主題をとった「宗教画」だったが、19世紀後半、「同時代的表現」を志向する「印象派」の登場をきっかけに、下火になっていく。
 西洋社会の激変もその背景にある。18世紀末に勃発したフランス革命に象徴されるように、それまでの王侯貴族やカトリック教会による支配構造が崩壊、19世紀には、産業革命の進展によって経済力を持った市民階級が主役に躍り出た。これに伴い、絵画状況も激しい変革期を迎え、20世紀に入るや、「同時代性」から「主観化」「抽象化」「純粋造形」の追求といった多様で革新的な芸術潮流が生まれる。さらに、物質文明の進展や、それとうらはらな分配の不平等の増幅、二度にわたる大戦に象徴される大量殺りくという「神なき時代」の到来などによって、人々の信仰心も希薄になり、宗教画はますます影が薄くなった。
 ルオーは、そのような20世紀に、新たに浮き彫りになった“人間存在の悲惨さ”を感じ取り、独自の宗教画を描くことにこだわった画家である。

 キリスト教的風土とは言えない日本でも、独特のキリスト観を持つルオーの絵を好む人は多く、わが国の美術館でもその作品を目にする機会は多い。例えば、出光美術館は、いくつもの油彩画とともに、ルオーの大判版画集「ミセレーレ」の全作品(銅版画58点)を所蔵しているし、パナソニック汐留ミュージアムは、ルオーをコレクションの中核としている。
 今回は、見ごたえのあるルオー作品を所蔵するブリヂストン美術館のコレクションから、「郊外のキリスト」(1920年、ルオー49歳)を取り上げる。

 冴え冴えとした月が夜空に浮かぶ郊外の町― 1本の煙突と古びた小さな家並みは、ここが貧しい労働者たちが住む場末の通りであることを感じさせる。季節は、もの悲しい晩秋か、あるいは、ものみな寒気に凍てつく冬か。冷涼とした風景である。
 そこに、人気のない道をとぼとぼと辿る三つの人影・・・
 中央の白衣のひとはキリストと見てよい。連れの二人はやや小さく描かれ、一見、子どものように見えるが、ルオーが描く心象風景のなかでは、人物の大小は写実的なものではない。弟子と見てもいいし、民衆を象徴する存在と見ることも出来る。
 そう、これは、貧しさや悲惨さに苦しむ人たちのそばに、音もなくそっと現れるキリストなのである。そして、これがルオーの心にあるキリストのイメージである。

 かつて、長い間、西洋キリスト教社会では、キリストは、この世の終末のときに人々を裁く絶対的な「審判者」であった。だが、ルオーのキリストは、神の国にあって人類に君臨する強い「王者」ではない。
 貧しい者や悲しみに沈む者、病める者、老いたる者・・・そういった弱い人たちの傍らにひそやかに現れ、一緒に涙を流しながら、その重荷をともに担ってくれる「同伴者キリスト」― これがルオーのキリストである。画家は、ステンドグラスを思わす太い線と簡潔なかたち、重厚な色彩によって、聖書の風景を静かに描き出す。

 ルオーが描くキリストの姿は、ある絵では法廷で“人間たちに裁かれるキリスト”であり、また別の絵では“人間に捕らえられ、辱めを受けるキリスト”だったり、“激しく傷めつけられ、死に赴くキリスト”だったりする。
 これらのキリストは、自らの惨めさと痛みにより、同じ悲惨さの中にいる人間と共にいて涙を流すキリストである。そこにルオーは救いと愛を見出す。
 ときに、ルオーの絵画世界では、人間存在の悲しみは、道化師や売春婦のイメージで提起される。一方、20世紀の経済至上主義と金権支配、爛熟した物質文明は、醜い姿のブルジョワや恐ろしげな顔つきの裁判官のイメージで表される。

 「郊外のキリスト」は、そのような絵画思想を持つ20世紀人ルオーの心象風景なのである。
 そしてそこが、異教徒である日本人をも惹きつけるところであろう。
 「同伴者キリスト」のイメージは、たとえば、四国八十八か所を回る巡礼が、常に弘法大師が傍にいて守ってくれるという気持ちから笠に書く言葉、「同行二人」に通じるものがある。
 何よりも、私は、この絵を見ると、江戸時代の俳人与謝蕪村の句が思い起こされる。
                                        
   「月天心 貧しき町を通りけり」  蕪村

(注)著作権上の理由で画像はありません。


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にんじんの午睡(ひるね) №17 [文芸美術の森]

ターさんとすえこさん 8

                    エッセイスト  中村一枝

 私がすえこさんの具合があまり良くないという話をきいて病院に会いに行ったのは、娘が生まれて多分三か月位後のことである。手術はうまくいったものの体調は今ひとつはかばかしくないということで、すえこさんはT病院に再入院していた。病院はその頃、改修工事の真っ最中だった。以前私が病室の窓から見た周囲の牧歌的な風景はすっかりなくなっていた。窓は開かないようにくぎ付けされていた。わたしはその点でも今入院せざるを得なくなったすえこさんにとても同情した。
 久しぶりに会ったすえこさんはすっかり面やつれしていて顔色もよくなかった。でも悪い部分はみんな取って後は慣れだけという病院側の言い分に間違いはない。すえこさんはただ現状に適合できなかった。体がまず受け入れなかった。そして、体はもちろん、心もボロボロになりつつあることに誰1人気づかなかったのだ。とても微妙なことだが、すえこさんはと言うより、その頃の病院は患者の訴えを聞いても今ほど患者サイドに立つわけではなかった。まして執刀者のTは実力者であり本人もそれを充分承知している。彼としては最大のサービスを提供しているつもりでやっているのに患者が受け容れない。医師としては最大の屈辱なのだ。でも彼はそんな事であれこれ言っているわけではなかった。すえこさんの我がままだというひともいた。わがままだと言われればまさにそうだろうが、胃の全摘をうけた友人などは今だに人と食事はできないと言っている。今は周囲の理解がかなり進んでいるから違うと思うが、個人個人の違いをひとまとめにはできないのだ。すえこさんはしばらく入院したあと、また別の病院での治療も受けた。品川駅の近くにある病院は庶民的で居心地も悪くなさそうだった。大事なすえこさんに病気になられてターさんは、不安だったに違いない。ターさんにとってすえこさんが元気でいることが一番の安心であったのだ。
 この原稿を書きはじめたとき、わたしはすこし、思い違いをしていたことがある。書いているうちに少しずつそれがわかってきた。確かにT病院の医師がすえこさんと向きあって術後いろいろ方法を教えてくれたらすえこさんの後半の人生が変わったのではないかと、ちょっと恨みっぽい気持ちがあったのだが、当時、彼としてはやはりできるだけのことはやったのだろう。すえこさんの娘のみずきちゃんと話をしているうちにそのことに気がついた。
 みずきちゃんは東京での教員生活を終えたあと、同じ教員のご主人と農業をして暮らしている。時々新鮮な野菜や果物を千葉から送ってくれる。もしすえこさんが生きていたらそういう娘の生き方をとても喜んだに違いない。戦争中も戦後もすえこさんは生活を楽しみながら生きていた。わたしはいつも前向きの生き生きしたすえこさんが好きだった。病気が人生を変えてしまったけれど、私はすえこさんの生き方からいろいろ教えてもらったのだ。私がすえこさんと関わったのは物のない時代だった。その中ですえこさんは生き生きと人生の楽しさを教えてくれた。たーさんは無骨そのものの男だったが、すえこさんと並ぶとなぜかびったりうまがあつた。たーさんとすえこさん、私が子供時代ににみた夢はいまも生き続けている。


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フェアリー・妖精幻想 №69 [文芸美術の森]

雑誌や本を飾る妖精挿絵画家(イラストレーター)たち 1
              
              妖精美術館館長  井村君江

『パンチ』に始まる挿絵入り雑誌の大流行と妖精画家

 『パンチ』誌(Punch,or The London Charivari)は、一八四一年発刊以来、鋭い社会政治の諷刺戯画(「カートゥーン=漫画」の言葉を流行させた)を載せ続け、ジョージ朝、ヴィクトリア朝時代の市民に広く読まれた。そして、この雑誌に所属していた戯画作者から多くの優れた挿絵画家が生まれた。ジョージ・クルックシャンクをはじめ、ジョン・リーチ、リチャード・ドイル『不思議の国のアリス』で知られるジョン・テニエル、小説家でもあるウィリアム・サッカレー等が代表として挙げられよう。
 『パンチ』誌の編集長のマーク・レモンは作家でもあり、『フェアリー・テールズ』(「三匹の熊」「魔法の人形」を含む)を書いている。また、ドイルやチャールズ・ベネットに挿絵をえがかせ、戯画絵描きから独立した挿絵画家い育てると同時に、黄金期挿絵本の時代にさきがけて挿絵本を作った人であるとも言える。
 ドイルはマーク・レモンに十代で見出され、『パンチ』の表紙を描いた。その人物像が『パンチ』の諷刺戯画の典型であるが、大胆にデフォルメされたユーモラスな描き方は、超現実の小人「親指トム」に実在感を容易に与えているし、近づき難い政治家や各界の要人の回りをさまざまなポーズで飛ぶ妖精たちにも存在感を与えている。
 こうした種類の絵画は画家の自在な想像力から出てくるものであり、現実の絆や階級の制約を越えて、自由な筆の先から生れてくるもので、超自然の生き物である妖精たちも同じような源から息づいてくるのも頷けよう。『挿絵入りロンドンニュース』、『グラフィック』、『ピクトリアル・ワールド』、『ペニー・イラストレイテッド』誌と、この時代に次々と同系列の挿絵入り雑誌、週刊誌、月刊誌が刊行され、とくに『ワンス・ア・ウィーク』
や『良い言葉』、『コーンヒール・マガジン』等になると、詩歌や古典紹介のために、よりファンタスティックで夢のある挿絵が付けられてくる。一方でヨーロッパから入ってくるベローやグリム、アンデルセンの英訳本に挿絵を付けたり、本国で出される妖精物語(フェアリーテイルズ)の挿絵を描いたり、次々と生れる創作童話に挿絵やデザインが必要となってくるという具合に、挿絵画家たちの活躍が目立ってくる。

D.マックリース「炉端のこおろぎ」.jpg
ダニエル・マックリース絵、チャールズ・デイケンズ作「炉端のこおろぎ」
R.Doyle「妖精の国で」.jpg
リハード・ドイル「妖精の国で」

『フェアリー』 新書館


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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №39 [文芸美術の森]

認識のズレ

            早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 スターリン時代を終えフルシチョフの時代に進むまえに ― といってもスターリンはゴルバチョフ時代にふたたびキリストのように復活するのだが ― 戦争の終結という歴史的事実にふれなければならない。
 一九四一年から四五年までの第二次大戦でソ連は七〇〇万人の死者をだした。ドイツ軍に八〇〇日間包囲され、守りぬいたレニングラードでは、六四万人の餓死をふくむ八〇万人の犠牲者をだした。
 ついに戦争は終わった。それでも苦労はつづく。

 レニングラード市内の肉店に行列ができた。ちょうどひとりの老女の前で肉が売り切れてしまった。
「お婆さん、しょげることはないさ」と売り子が彼女を慰あた。「いまは一時的にたいへんだけど。やがて共産主義になれば……」
 すると老女が答えた。「驚くもんかい。あたしゃ包囲戦を耐えてきたのだからね。あんたの共産主義とやらだって耐えてみせるわよ」

 面白いのは、共産主義への道をふみだして三〇年、スターリンが共産主義の指導者として胸をはっているのに、まだ共産主義が実現されていないという民衆の認識である。ふたつめの面白さは、老女が共産主義を「忍耐する」ものとして受けとめていることから生じるズレの感覚ととどめの効果である。
 レーニン、スターリンの時代は血みどろの内戦と、テロと弾圧と粛清の時代だったので、アネクドートの話し手も対応をひとつ誤ると身の破滅につながった。スターリンのアネクドートはいま読んでも、アネクドートの奥から当時の熾烈な現実がパノラマのように躍りでてきて、かげろうのアネクドートを背景に後退させてしまう。実際、スターリン時代にどこの誰がいつどこで、こんなアネクドートをしゃべれたのだろうか、という印象をつい抱いてしまう。
 スターリン自身と太刀打ちするためには、アネクドートがよほどの迫力をもつか、逆にアネクドート本来の軽みにスターリンを引きずりこんで笑うしかない。プーシキン像の建設や飛行機の翼を切る小悪魔との取引など、その一例だろう。
 しかし軽みと笑いの分野では、プーシキン像建設の例のように、ひどく面白くはあるが、スターリソを愛橋のある善人あつかいすることになりかねないので、難しい。
 ただし直接スターリンが登場しないスターリソ時代の一般的なアネクドートで面白いものは、重くとも軽くともすんなり受け入れることができる。いずれにしろ、スターリソ時代にどれほどの数のアネクドートが潜行したのかはっきりしないが、多くは活字にならぬまま過去の闇に消えてしまったのだろう。


『ロシアのユーモア』 講談社選書

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石井鶴三の世界 №101 [文芸美術の森]

法隆寺1963年/熊本城宇土櫓1963年

               画家・彫刻家  石井鶴三

1963法隆寺.jpg
法隆寺・雨雷鳴 1963年 (115×171)
1963熊本城宇土.jpg
熊本城宇土櫓 1963年 (201×144)

**************
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社


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はけの森美術館Ⅲ №35 [文芸美術の森]

朝顔                   
                   画家  中村研一

朝顔.jpg
35cm×23cm

************                                          【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面 

 


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季節の記憶・いだようの写真散録 №190 [文芸美術の森]

「西瓜の色に」         自然写真家  いだよう

2017年9月上期分.jpg

「秋海棠 西瓜の色に 咲きにけり」と松尾芭蕉が詠んだように、まさに西瓜色のシュウカイドウ。
味も良いのか、花を鹿に食べられてしまう被害が出ていると聞いた。
鹿さんも猪さんも、もう少しどうにかしなければいけないんじゃないでしょうかねぇ。


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西洋百人一絵 №93 [文芸美術の森]

ピカソ「アヴィニョンの娘たち」

                                 斎藤陽一(美術ジャーナリスト、美術史学会会員)

 パブロ・ピカソ(1881~1973)が91年の生涯の間に残した作品は、油彩画、版画、壁画、彫刻、陶芸、舞台衣装など、あらゆる造形芸術の分野に及ぶ。
 どのくらいの点数があるのか、専門家でさえ、正確には把握できないほどの多さである。
 さらに、ピカソのピカソたるゆえんは、一定の様式にとどまることなく、生涯を通じて創造と破壊を繰り返し、変貌を続けたことにある。
 それゆえ、1点を選ぶことはなかなかに難しいのだが、あえて選べば、ピカソが20代半ばに制作した「アヴィニョンの娘たち」ということになろう。「キュビスム」なる全く新しい絵画を世に知らしめた記念碑的作品だからである。

 ピカソが、スペインのバルセロナから、親友のカルロス・カサヘマスと連れ立って、パリにやって来たのは、1900年、19歳のとき。ところが、翌年、突然にカルロスが自殺してしまう。ピカソが一時スペインに帰っていた間の出来事だった。
 ピカソは大変な衝撃を受け、「自分が傍にいれば防げたのに」と悔やむ。このとき、自分を厳しく見つめて描いたのが「20歳の自画像」(1901年)。やつれた顔は青ざめ、背景にも冷え冷えとした青が使われている。「青の時代」の始まりである。

 1904年、23歳のピカソは、モンマルトルのぼろアパート「洗濯船」に移り、そこの住人であった女性フェルナンド・オリヴィエと生活を共にするようになる。
 ピカソの生み出す作品は、「日記の1ページ」とか「絵画による自伝」、「備忘録」などと言われるくらい、その日その時の自分の心情をきわめて忠実に反映したものが多い。
 フェルナンドとの新しい生活の中で、呪われた「青の時代」は終り、作品に明るいバラ色や温かい土色が使われるようになる。いわゆる「バラ色の時代」である。

 「アヴィニョンの娘たち」が描かれたのは、この時期のこと。元来、開放的な性格のピカソだったが、このときは、誰もアトリエには入れず、ひそかに大作に取り組んだ。そして、出来上がったときに友人たちを招き入れた。
 ピカソの絵を見慣れていた友人たちも、その新作を見て、衝撃を受けた。中には、ブラックのように「石油を飲め、とでも言うのか!」と反発した友人もいた。
 だが、この絵こそ、「キュビスム」の誕生を告げる記念碑的作品だった。
 
 「アヴィニョンの娘たち」― 1904年、26歳のピカソが描いた245×234cmの大作である。現在は、ニューヨークの近代美術館に展示されている。
 「アヴィニョン」と言っても、フランスの古都ではなく、ピカソの故郷バルセロナにある歓楽街アヴィニョーのこと。そして、この「娘たち」は、その街の娼婦たちなのだ。
 
 描かれているのは5人の裸婦。顔も身体つきも、それまで人々が見慣れていたギリシャ彫刻のような美しいものではないし、写実的なものでもない。古代以来の西洋絵画の美学の基準だった「理想美」を捨て去り、ルネサンス以来の伝統だった「写実主義」も否定されている。
 五つの人体も背景のカーテンも、まず「解体」され、次に画家の主観によって「再構築」された結果、鋭い鋭角的な線が複雑に変化しつつ、絡み合い、ダイナミックなリズムを刻んでいる。
 裸婦たちの顔も、同様に、まず複数の視点から見た形に「解体」、それらが主観的に「再構築」され、眼は正面、鼻は真横からという「複数の視点」が合成されている。その結果、あたかも、呪術的な仮面を見るような、強い衝撃力を持つ。
 この頃のピカソは、アフリカの黒人彫刻の持つ土俗的な強い表現に魅せられていた。それらは、西洋美術の美学を超える鮮烈な啓示となった。
 この絵には、「美しい」ものを追求する美学から、「強い」表現を追求する美学への志向が宣言されている。「絵画的力強さ」こそ、その後のピカソ芸術の一貫した美学となるものである。

 もうひとつ重要なことは、この作品では、ルネサンス期に確立され、強固な規範として続いてきた「遠近法」も覆され、人体も背景も徹底的に平面化されていることである。
ピカソが試みたのは、それまで自分を縛っていた西洋絵画の呪縛を乗り越えることだった。
それまでの絵画が規範としてきたのは、与えられた空間の中に人物を配置し、合理的な構成を心がける方法だった。これに対して、ピカソは、徹底した主観化によって人体を造形し、それらの人体そのものが絵画空間を構成する、ということを試みた。
 これらの結果、それまでにない革新的な絵画世界が現出した。
 それゆえ、この絵を見た友人たちは、衝撃を受け、戸惑い、反発したのだった。このようなピカソの絵の新しさを理解したマティスは、それを「キュビスム:cubisme」と名付けた。
やがて、この作品の持つ「力強さと斬新な視点による構成」は、同時代の芸術家たちに強い影響力を発揮し、「キュビスム」は20世紀芸術の大きな潮流となったのである。
 
 (注)著作権上の理由で画像はありません。


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にんじんの午睡(ひるね) №16 [文芸美術の森]

ターさんとすえこさん 7

               エッセイスト  中村一枝

 わたしの母のお供について行った病院ですえこさんの胃癌が見つかったのにはみんな驚いた。でもはやく見つかってよかったという思い、いい先生と病院も紹介してもらってすえこさんはラッキーだとみんな思ったのだ。今から40年も前である。すえこさんにしても、胃癌が見つかったころは、自分は運が良かったのではという思いだったろう。母の妹、わたしには年の近い叔母に当たるまあちゃんが、仕事先で知り合ったT病院のM医師とみょうにウマがあい、澁谷の実家までつれてくると、Mもまたきっぷのいいおばあちやんが気に入ってよくあそびにくるようになった。T病院の外科部長というからなかなか偉いお医者さんだったわけで、それだけで何も知らない庶民の輩はそりゃいいということになったのだ。わたしも何回か会ったことはある。ずっと昔のことで顔も覚えてはいないが、上から目線で物を言うのはそこまで登りつめた医師としては当然だったろう。
 すえこさんの手術は無事にすんだ。胃の全摘、他所には転移もしていないと聞いただけで周りのものは胸をなでおろした。今ほど医学的知識のある時代ではなかった。せいぜい婦人雑誌の付録で得る知識が普通だった。その頃、わだしは上の娘が赤ん坊でそれにかかりきりだった。すえこさんの手術が成功したと聞いてそれだけでよかったと胸をなでおろした。大なり小なり周りの人間の誰もすえこさんの手術後のことにまで気がまわらなかった。切ってしまえばそれで済んだと思ったのだ
 胃や腸がどんなにデリケートなものか頭では多少判っていても、実際なにひとつわかっていなかった。食事の仕方一つとってもまるで以前とは違う。細かくしたり原型をとどめないほど柔らかくしたり、医者も一応は説明するだろうが、とにかく、かなりの根気と配慮の行きとどいた人でないと続かないと思う。すえこさんの手術は完璧と言っていいほどに成功だったことは間違いない。ただその後から続いてきた手術の後遺症については、どんな説明もどんな配慮も彼女を説得できなかった。今は多分違うだろう。食事も治療の一環としての配慮が行き届いているからだ。当時はまだまだ食事は胃を突然失った人にとっては想像のつかない重い習慣だったのだ。すえこさんも、一応の説明を受けたときには耐えられると思ったに違いない。もともと我慢強いすえこさんだった。誰もその時の彼女の苦しみは理解できなかった。
 叔母のまあちゃんにしてみれば、自分の力で滅多にかかれないいい医者を紹介してあげたのにどうして毎日があんなに辛そうなのかという気にもなる。すえこさんにしてみればできればあまり世話になりたくない人にいい病院と医師を紹介して貰ったということだろう。手術は済んだのに、前には想像出来なかった苦しみが始まった。それはどんなに我慢しても後から後から込み上げて来る。医師も看護婦もだんだん慣れるとか治るとか言うけれど、もう3ヶ月経つのにちっともおさまらない。考えれば考えるほどいらいらがつのってくる。私は胃の手術をしたことはないが、その時のすえこさんの気持ちを考えると本当に誰も何一つできなかったと思うことがある。そして誰に悪気などあるわけはなかった。だがすえこさんが自分の意思で医者や病院を選んでいたら少なくとも心の病には至らなかったのにと思えてならないのだ。


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芭蕉「生命の賛歌」 №36 [文芸美術の森]

蛤(はなぐり)の ふたみにわかれ 行(ゆく)秋ぞ
                 水墨画家  傅 益瑤

蛤の.jpg


 芭蕉の旅は、敦賀から終着地の大垣に着いた。
 旅は「死の生は続く」おいう、まさに蓋と身に分かれて、しっかり噛みあった蛤のような出来事の半年であった。
 芭蕉の周りに風流の人が集まり、最初と最後に心が「円通」して、この旅は終わりを迎えた。
  漂泊の旅のあと、五年もの歳月を掛けて芭蕉は「奥の細道」を纏めた。
 「生死亦大矣」の旅は、まだ続く。


『傅益瑤「奥の細道」を描く 芭蕉「生命の賛歌』 カメイ株式会社

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フェアリー・妖精幻想 №68 [文芸美術の森]

コテイングリー妖精事件

                     妖精美術館館長  井村君江

妖精写真と心霊学者
 フェアリーを描いた絵画がロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの画廊をひんばんに飾り、ヴィクトリア女王がそれらのいくつかを買い上げるという時期がしばらく続いた。ところが画家たちが急にこのテーマを出品作品に取りあげなくなってしまう時期がくる。それは世にいう「コティングリー妖精事件」が起こったことに一つの原因をもとめることができる。
 一九一七年の七月、当時十五歳だったエルシー・ライトという少女がゴブリンと話している場面と、従妹の十一歳のフランシス・グリフィスが、小さな妖精の群れに囲まれている場面を撮った五枚のうち、二枚の写真が、心霊学者ガードナーに送られてきた。ヨークシャーのブラッドフォードに近いコティングリーという村の野原で、ポートレートを撮ったところ、蝶の翅をつけた妖精たち知らぬ間に写っていたというのである。
 ガードナーが、この写真を科学的頭脳で多くの迷宮入り事件を解決する名探偵シャーロック・ホームズを創作したアーサー・コナン・ドイルに見せたところ、ドイルは本物の妖精だという記事を一九二〇年の『ストランド』誌十二月号に掲載し。(一九二三年二月に再び同じ主題について寄稿している)。
 少女たちのまわりに浮かんでいる妖精たちは、少女が施術された結果、心霊から出た「気」が、心霊学で言うプロトプラズムとして発散する際に、妖精の姿をとったものと説明し、より詳細に、『妖精の訪れ』(一九二二)にまとめている。
 この妖精は本当に出現したものか偽作(フェイク)なのか「コティングリー妖精事件」はコナン・ドイルが立ち入ったため、かえって迷宮入りし、未解決のまま長いこと立ち消えになっていた。
 ところが、今世紀に入り、一九八二年の『ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・フォトグラフ』誌に、ジョフリー・クローレーが、写真の技術的見地から、合成写真の解明を試みたが、完全な解決とはいえなかった。しかし、一九八四年に八二歳になったエルシー・ライト(ヒル夫人)が、写真の中の妖精は、紙に描いて色をつけ切りぬいたものをピンで止め、特殊撮影をしたものだ、と合成写真であることを告白したのである。
 さらにエルシーは、長いこと本物の妖精であると世間に思わせるためロをつぐんでいたのは、コナン・ドイルに対する思いやりからで、「当時第一次大戦で息子をなくし、この世以外のものに関心を寄せ、自分を慰めていたドイル氏に同情を覚えたからです。二人の小さな村の子供がドイル氏の評判を落とすようなことになるのは恐しいことですから」と説明している。
 ドイルは一九二〇年に、エルシー・ライトの父親に手紙を書き、『ストランド』誌に娘さんの妖精の写真を載せさせていただいたお礼として、五ポンド送ると書き送り、さらに「九三年、『妖精の訪れ』でも写真を使わせてもらう謝礼であるとして、エルシー・ライトに百ポンドの小切手を同封し、「妖精のくれた持参金と思ってほしい」(二月二十六日付)と書きそえて送っている。エルシーとフランシスの妖精の五枚の写真は、現在リーズ大学の「ラザートン・コレクション」が所蔵しており、撮ったミッジ・カメラはアメリカにある。
 二人の少女、及びその父親に宛てたコナン・ドイルの手紙は、一九八七年七月に、ロンドンのサザビイでオークションにかけられ高値で落ちたが、これは妖精事件が現代でもまだ人々の興味を惹いていることを示していよう。
 この世を去った息子と心霊術で交信を試みたり、神秘主義の講演をしていたドイルにとって、妖精の存在を信じることは容易だったであろう。さらに前述したように、精神病院に幽閉されていた父チャールズも、妖精をさまざまに描いていたし、親代わりの伯父リチャードも妖精画家として有名である。そのアトリエによく遊びにきていたアーサーは、小さい頃からキャンバスにさまざま に描かれている妖精と、親しい付きあいをしていたのであった。さらには彼の中にあるケルトの血が、超自然のものたちに特に親しみを感じさせていたことは容易に領けるのである。
 ともあれ、妖精たちは現代の科学的機械であるミッジ・カメラでとらえられることにより、プライバシーを侵害されて怒ったようで、展覧会出品用の大作の画面からは、このあたりから姿を消してしまうのである。

『フェアリー』 新書館


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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №38 [文芸美術の森]

オデッサという街

             早稲田大学名誉教授  川崎 浹

『ユダヤ人は笑う』には、ロシア人がああだこうだと口実をもうけてユダヤ人を解雇するアネクドート、フルシチョフのユダヤ人問題発言、フルツエワ文化相とフランス文化代表団のソ連におけるユダヤ人についてのやりとりなど、無数の事例が引用されているが、ここはひとまず、オデッサとユダヤ人の主題でうちきりたい。
 オデッサといえば、エイゼンシュティンの無声名画『戦艦ポチョムキン』をイメージする人が多いだろう。官憲の容赦(ようしゃ)ない銃撃によって、巨大な石段を転落する群衆、射殺される若い母親、赤ん坊だけをのせた乳母車の暴走。
 私も訪れたことのある町だが、オデッサの暗黒世界をえがいて評判になり、のちパリに住んだ、ミハイル・ジョーミンの『日は鉄格子に昇る』(講談社)がある。それによるとオデッサは昔のアルバンゲリスク(ヴオルガ河口)のように東西の血が渦巻くカオスの港町としてえがかれている。サッカーのようなお祭り騒ぎがあると、一人のスリが一日に車内で二〇個からの腕時計をぬすむ様をジョーミンは書いている。ブレジネフ時代にしてそうだった。
 ニューヨークの郊外にある海岸沿いのプライトンビーチは、一〇万単位の亡命ロシア人から成っているが、その一部はオデッサ出身のユダヤ系である。アネクドートをたどると、どこかでオデッサに行きつく。というのはオデッサにはディアスポラ(パレスチナから離散した)と呼ばれるユダヤ人たちが、早くも一一世紀にすぐれたフォークロアをたずさえて住みついていた。その伝統があるからこそ、オデッサと笑いの文芸が結びつき、ユダヤ人なしにはアネクドートは成立しないくらいの自負を、かれらは抱いてきた。
 ロシア随一の漫談家(アネクドチスト)にニクーリンがいるが、『ニクーリンからのアネクドート』にはオデッサと結びついたアネクドートが多い。かれはアネクドートの内容だけでなく、天才的な話術や独特な表情で視聴者をひきつける。内容はたいしたものではないが、かれが話せば聴衆が腹をかかえて笑うにちがいない、つぎのような作品がある。

 「オデッサでは質問には質問で答えるっていいますが、これは本当ですか?」
 「どうしてまた、あなたはそんなことを知らなきゃならないのですか?」

 制作年代はあきらかでないが、毒がたりないとはいえ次のような政治アネクドートもある。

   KGBに電話がかかってきた。
  「もしもし、KGBですか?」
  「そうですが」
  「デリバソフスキイ通りの一五番地に住んでいるラビノビチをご存じですか?」
  「知っています」
  「かれの庭に納屋があるのをご存じですか?」
  「知っています」
  「納屋に丸太が何本もあるのをご存じですか?」
  「知っています」
  「丸太の全部に金が隠されているのを知っていますか?」
  「いや、ありがとう」
  翌日、ハイモビチがラビノビチに電話してきた。
  「ご機嫌いかがですか?」
  「きみ、ありがとう。鋸で挽いてくれたばかりでなく、斧(おの)で薪割(まきわ)りまでしてくれたよ」

 KGBにかんする一般的なアネクドートを一つこの際紹介しておこう。世論の一部と見るべきだろう。

 「もしもし、KGBですか?」
 「いいえ、火事で焼けましたので、ありません」
 ふたたび電話。
 「もしもし、KGBですか?㍉
 「いいえ、KGBは火事で焼けました」
 またしても電話がかかった。
 「もしもし、KGBですか?」
 「あなたにはもういったではありませんか。KGBは焼けたんだって」
 「それを聞くのが楽しいものですから」

 ニクーリンと並ぶ有名な漫談家にアルカージイ・ライキンがいるが、かれの回顧談にこういうのがある。

 あるとき私はオデッサのゼリョンヌイ劇場の舞台に立った。終わったので「さて、これから家に戻ろうか」といって舞台からホールに跳びおり、出口に向かった。観客たちは私についてきた。こうして私が泊まっていたクラスナヤ・ホテルまで夜道を歩いて帰った。ここで、お互いにあいさつして別れた。
 翌日、私はこれをくり返すことにきめた。
「さて、これから家に戻ろうか」
 舞台から跳びおりる。すると、だれか私のそで口にさわる者がいるではないか。見ると、せいぜい七歳ぐらいの子どもだった。
 「同志ライキン(ライキンさん)! きのうのしゃれ(ホーフマ)はもう今日のしゃれ(ホーフマ)にはなりませんよ」

少年が主役を演じて天才を負かし、実話がアネクドートになるという、オデッサはすごい町なのである。


『ロシアのユーモア』 講談社選書

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石井鶴三の世界 №100 [文芸美術の森]

十和田1961年/鳥取砂丘1961年

               画家・彫刻家  石井鶴三

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十和田 1961年 (143×200×2)
                              
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鳥取砂丘 1961年 (122×172×2)

**************                                   
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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はけの森美術館Ⅲ №34 [文芸美術の森]

山茶花                  

                   画家  中村研一

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                                   スミ、水彩、羽根ペン、30cm×39cm

************                                          【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面 

 


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往きは良い良い、帰りは……物語 №50 [文芸美術の森]

きは良い良い、帰りは……物語
その50 第二回 ≪俳画添え≫「ハンモック」「凪(なぎ)」
                 「跣(はだし)」「心太(ところてん)」

                コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

◆◆平成29年7月24日◆◆
案内状が届きました。もくもくと湧き立つ夏雲の写真が付いています。
* * * * * * * * * : * * * * *
    8月こふみ会のお知らせ
暑中お見舞い申し上げます!
■開催日=平成29年8月6日(日)午後1時より
■場所=いつもの香音里(TEL.03-6280-8044)
■前回同様、酒および弁当はありません。(差し入れ、持参は自由。)
■景品は3点ご用意ください。(計△△△△円ほどの品。)
■新企画好評に付き、今回も「天」の短冊には、全員「俳画」を入れていただきます。
得手、不得手に関わらず、皆さん、楽しんでください。(ご自分の彩色道具、落款などありましたらご持参ください。)
■会費=△△△△円(お茶菓子は幹事が用意します。)
■兼題①=「ハンモック」
   ②=「凪(なぎ)」
■当日、席題二つ出します。作句は計4句。選句は天・地・人・客(5句)計8句です。(花は今回もありません。)
■出欠のご返事をメールかFAXにて、お早目に!お忘れなく!
■当番幹事=小池茘子(れいし)
      永井舞蹴(マイケル)
            mail:mnagai△△△△△△
            FAX=03-△△△△ー△△△△
            携帯=090-△△△△ー△△△△△
50こふみ雲.jpg
* * * * * * * * * : * * * * *

これに応じた返信レターは次ぎのとおりです。

50返信鬼禿.jpg
                                       返信レター 鬼禿氏より

50返信軒外.jpg
  返信レター 軒外氏より
50返信虚視.jpg
       (8月6日の句会、参加します。添付の写真、いいですね。秋元。)
                            返信レター 虚視氏より

50返信珍椿.jpg
(人間ぜい沢に慣れると、ちょっとした暑さでも、朝から1日中クーラーをかけてしまいます。無理を信条として来た昭和生まれの身としては、困ったもんだと思っております。)
                返信レター 珍椿氏より

50返信孝多.jpg
  返信レター 孝多より

50返信更歩.jpg
  返信レター 更歩氏より。残念、欠席。

      舞蹴殿
      小富美句会御案内儀有難存知候。
      初幹事真御苦労様。
      矢太無論出席意御座候!
      矢太
      i-Phoneから送信
            返信レター(メールにて) 矢太氏より

      ご連絡ありがとうございます。
      8月6日、出席いたします。
      よろしくお願いいたします。
      五七
            返信レター(メールにて) 五七氏より

      永井舞蹴さま
      幹事、ごくろうさまです。
      返信が、大変、遅くなり、申し訳ありません。
      8月6日のこふみ会、参加させていただきます。
      よろしくお願いいたします。
      森田一遅
            返信レター(メールにて) 一遅氏より

      舞蹴さま
      ご案内ありがとうございます!!
      8月は残念ながら、欠席でございます!!
      またお会いできる日を楽しみにしています!!
      水野タケシ
           返信レター(メールにて) タケシ氏より。残念、欠席。

◆◆さて当日。席題は「跣(はだし)」と「心太(ところてん)」◆◆
……と発表されれば、途端に、どっと、お喋りが始まります。香音里の部屋。
「≪はだし≫と≪すあし≫はどう違うの?」
「≪はだし≫は伯爵夫人だけ。あとは≪すあし≫さ! アッハハ。」(往年の名画『裸足の伯爵夫人』のこと。)
「いやあ。はだしはフットFOOT。すあしはレッグLEGのような気がするなあ。」
「それにしても、心太でトコロテンと言うのは凄いね。」
「天草(てんぐさ)で作るよね。その天草のことを俗に、ココロブトって言うらしいよ。だから心太って書く……と聞いたことがある。でも、読むときはココロブトではなく、何故かトコロテンだ。この、トコロテンという言葉、どこから来たのか、得体が知れない。分からない。不思議だね。」
「心天と書いてもいい(トコロテンと読む)ようだし……。ヘンだね。」
「そう、そう! あの乾いて固くて、透明みたいになっている四角なやつは≪寒天≫で、カンザラシトコロテン(寒晒しトコロテン)の略だってことは分かるんだけど……。」
「すっきりしないなあ。不可解だあ。」
「でも、凪(なぎ)はいいよ。分かりやすい。中が止まるになっている。」
「メイド・イン・ジャパンの(日本製の)漢字・国字だからね。単純すぎるほど単純。可愛くなっちゃうよ。風が止まって波(なみ)静か。」
……云々云々云々で、ハナシはいつまでも続きます。ガヤガヤと賑やかに。
でも一瞬!いっとき! 会場が凪ぐことがあります。そのとき、句を、作ります。
作った句は1句ずつ、細長い「ペーパー短冊」に書いて提出(投句)するわけですが……。

◆◆今回から新しくなったペーパー短冊◆◆
鬼禿氏が頑張って、新しい投句用紙(ペーパー短冊)を開発してくれたのです。
今までは兎角、使い方、書き方が各自バラバラで、仕上りが奇麗じゃなかったことが多いのですが、その弊を無くするために、1枚1枚のアタマに二重マルのマークを印刷したものを作ってくれたのです。
サンキューです! 句はこのマルの下に書く。いい目印です。これなら10枚でも20枚でも奇麗に揃います。
加えて、ペーパー短冊を詠題ごとにまとめて、張り付ける台紙も、鬼禿氏によって、新しくデザインされました。それらの使い初(ぞ)め が今回だったのです。嬉しい日でした。メルシー・ボクゥ!

◆◆これで2回め。俳画添え。◆◆
案内状にも記されていたとおり、前回やって「好評に付き」第2回俳画添え。短冊に、天の句と共に俳画(と称するもの)を描き添えるべしという企画。
皆さん、選句を終えて、その段階になれば、すいすい、さらさらと描きなさる。
羨ましいなあ。下手な孝多は結局、前回と同様に、短冊に「毛筆の絵」を描き込んで、景品と併せて五七氏(天の句の作者)に手渡しました。氏はニッコリとして、小声で言いました。「この前と同じ趣向ですね。」
(ハイ。同じように「筆」を何回も描けば、少しは上達するでしょうから。今はこれにて、ご勘弁くださいな。)

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皆さん、お見事。絵を添えて。

◆◆さあて、成績発表。(今回も「花」は無し。)◆◆
全員の投句、選句、選句披露が済むと、係が、皆さんの得点を「正」の字で書き入れた「得点リスト」を眺めながら声を高めます。

■本日のトータルの天は~43点の一遅さ~ん。
 代表句は「満天の 無限に落ちる ハンモック」 パチパチパチッ。
    
50こふみ8月2.jpg
天の一遅氏・短冊4枚

■トータルの地は~36点の五七さ~ん。
 代表句は「ハンモック 百年死んで いた心地」 パチパチパチッ。

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地の五七氏・短冊3枚

■ト―タルの人は~35点の虚視さ~ん。
 代表句は「凪の海 裸(ら)となりとろり 溶けて行き」パチパチパチッ。

50こふみ8月3.jpg
人の虚視氏・短冊3枚

■そして、トータルの次点は~31点の軒外さ~ん。
 代表句は「江ノ電に 砂の裸足で 乗ったころ」 パチパチパチッ。

★皆さん、おめでとうございました。パチパチパチッ! 今回も愉快、賑やか。酒も美味。
出席者は11名でした。帰りも良い良い。次回、九月の句会が一層楽しみです。またお会いしましょう。お元気に。(孝多) 
                                            第50話 完

★追伸=たまたま発見したのですが、先日(平成29年8月18日)の読売新聞の連載コラム『暦めくり』に、次のようなことが書いてありました。

★「ところてん」は、もともとは「心太」と呼ばれていた。この「こころぶと」が、なまって、「こころぶてえ」となり、さらに「こころてい」になり、(最後に)「ところてん」となったようだ。

★さてさて、呼び名に対しては、どなたも強い関心をお持ちのようですね。「ところてん」について、皆さんのご意見、ご感想を聴かせて頂けたら幸甚です。

★例によって≪本日の全句≫も下記しております。どうぞ、ごゆっくりご覧ください。
======================================
第572回 こふみ会≪全句≫
     平成29年8月6日    於 神楽坂 香音里
◆兼題=ハンモック       順不同
椰子二本 ハンモックに寝て 二十日月                        鬼禿
二人ハンモックの中で 夢を見る                                 珍椿
堀辰雄の 憂欝のせて ハンモック                              茘子
ハンモック 網目くい込む ポチャ肌に                         軒外
満天の 無限に落ちる ハンモック                              一遅
ハンモックは 巻層雲の 真下です                               矢太
ハンモック 揺らしてあやせし 子の育つ                     沙汰
ヤシの木が 両手を広げて ハンモック                          舞蹴
ゆれている ワタシゆれてる ハンモック                       虚視
木々やさし ハンモックに幼子(おさなご) 眠らせて      孝多
ハンモック 百年死んで いた心地                                五七

◆兼題=凪(なぎ)       順不同
夕凪に 街の灯りが チラホラと                                   舞蹴
凪一瞬 喫水線を 正しうす                                         矢太
凪の海 裸(ら)となりとろり 溶けて行き                   虚視
海猫の 遠く近くに 凪の浜                                         一遅
夕凪の 暑きにご苦労 先ず一献(いっこん)                   孝多
二死満塁 広島全市 夕凪げる                                       五七
夕凪や 首筋にツツーと なまめいて                              珍椿
凪の海 鏡となりて 月二つ                                          荔子
なまぬるい 水飲むごとき 土用凪                                  軒外
朝凪や 夕べの地熱 そのままに                                     鬼禿
磐城(いわき)の凪 地震(なゐふ)る恐(おそれ) 呼び覚まし  沙汰

◆席題=跣(はだし)       順不同
正露丸 跣に踏むや 湯治部屋                                       五七
ヒロシマを 忘れるものか 跣のゲン                               舞蹴
風を切り はだしで走る 日は遠く                                  虚視
草むらを 赤チンキの 跣が走る                                     矢太
グイと踏む 裸足に孤島の 砂熱く                                  一遅
海原に 心弾みて 跣かな                                             沙汰
江ノ電に 砂の裸足で 乗ったころ                                  軒外
太ももまで たくしあげて 裸足に                                  珍椿
靴すてて はだしで跣で かけて来い                               茘子
大夕焼け 裸足に地震(ない)の 兆しあり                       鬼禿
おしゃべりな 跣の爪よ 赤青黄                                     孝多

◆席題=心太(ところてん)     順不同
撃鉄を 引く心持ちで 心太                                           矢太
これという 取得(とりえ)もなくて 心太                       鬼禿
心天 人目しのんで 縁の奥                                           茘子
満員電車 突き出され吾(われ) 心太                             沙汰
心太 むせるすっぱさ 初デート                                     舞蹴
心太 昔ばなしに 日もかげり                                        一遅
私(わたし)を見て 笑っているよ 心太                          孝多
心太 ぬりばし細き 吐月橋                                           珍椿
何ひとつ 解決せずに ところ天                                      軒外
心太 啜る検事を 前にして                                           五七
快楽の 重さは苦く ところてん                                      虚視
                                                              
                                         以上11名 計44句


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季節の記憶・いだようの写真散録 №189 [文芸美術の森]

「竜神潜みて」         自然写真家  いだよう

2017年8月下期分.jpg

岩山の渓谷を辿ると、その奥の奥に竜神の滝と呼ばれる滝が、密やかかつ豪壮な姿を現した。


いだようのFacebookページ : https://www.facebook.com/idayoh/



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西洋百人一絵 №92 [文芸美術の森]

マティス「ヴァイオリンのある室内」

             美術ジャーナリスト・美術史学会会員  斎藤陽一

 画家の中には、音楽の素養のある人が少なからず居る。中でも、世に知られているのは、19世紀新古典派の巨匠アングルだろう。彼はヴァイオリンの名手でもあり、あの天才的ヴァイオリニスト、パガニーニと協奏したこともある。フランス語の「Violon d’Ingres」(アングルのヴァイオリン)には「玄人はだし」の意味がある。
 20世紀の巨匠アンリ・マティス(1869~1954)も、音楽を好み、制作に入る前にヴァイオリンを弾くのを常としたと言われる。しかし、腕前のほどはよく分からない。

 今回取り上げる作品は、画家自身のヴァイオリンが描かれている室内画である。題して「ヴァイオリンのある室内」― 私の好きな絵のひとつ。マティス自身も「私の作品の中で最も美しいもののひとつ」と言っている。

 描かれた時期は1917~18年(49歳頃)。第一次世界大戦の末期である。
 大戦中のマティスは、ものの形を極端に簡素化し、抑制された中間色を用いた抽象的傾向の絵を描いていたが、ここでは、本来の色彩画家がよみがえっている。

 ここは、南フランスのニース。より明るい光と色彩を求めてやってきた地中海に面した町。
 室内は暗く、黒に彩られている。窓の外には強烈な光があふれており、それだけに、目を室内に転じれば、一瞬、真っ黒に見えるのである。つまり、この黒い空間が、戸外の光のまぶしさを引き立てている。マティスがよく使った、そういう逆説的な“黒”である。
 その室内のソファの上に、ケースに入ったヴァイオリンがひとつ。開かれたケースの内側に貼られたビロードの“青”が、窓外の海の“青”と呼応している。
 おそらくマティスは、先ほどまでヴァイオリンを弾いていたのであろう。その余韻がただよう、静かで穏やかな午後の時間が流れる。

 この頃、マティスは『画家のノート』に次のように書いている。
 「私が夢見るもの、それは均衡と純粋さと静けさとを共有する芸術― あらゆる頭脳労働者をその肉体的疲労から癒してくれる、何か心地よい肘掛椅子のようなものなのだ。」
 長年、色彩を「歌わせる」ことによって、「楽園としての室内」を創造することを追求してきたマティスは、もはや迷いなく、自分の世界を見定めている。

 マティスは「色彩は感覚に訴えかける」とも考え、次のように書く。
 「ずべての色彩の関係が見いだされると、そこから、生き生きとした色彩の和音が生まれ、音楽を作曲する時と同じように、ハーモニーが生まれるのである。」
 やはり、マティスの音楽的素養がほの見える絵画論である。しからば私たちは、自宅の白い壁に、マティスの複製画をひとつ飾ってみよう。壁からは「芳しい色彩の歌」が聞こえてくるに違いない。
(注)著作権上の理由で画像はありません。


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にんじんの午睡(ひるね) №15 [文芸美術の森]

 ターさんとすえこさん 6

              エッセイスト  中村一枝
 
 高校、大学と、ターさんとすえこさんの家に下宿して過ごしたわたしだったが、結婚してまたまた、すえこさんの世話になることになった。この出石の家は戦争中からずっと私の父の持ち物だったが戦後ターさんが管理していた。この家の二階に台所をつけてわたしたち新婚夫婦が住むことになった。今思うと一番大変だったのはすえこさんのはずだった。彼女はわたしの未熟な性格も全て承知の上で私たちとの同居を承知してくれたのだ。
 そこで過ごした二年間は、半分は新婚きぶんの抜けやらぬ夢見心地、半分は初めての勤め人生活の緊張感、毎日がわたしの人生のなかで一番充実していた時かも知れない。今はほとんど忘れているが。
 ある日、15歳年下の小学生の弟がボール箱を大事そうにかかえ緊張した面もちでやってきた。道端に捨てられていた犬を拾ったという。当時父の家には三匹くらい犬がいて、弟も、家ではだめだがおねえさんの所ならと小さい知恵をしぼったに違いない。結局、犬はすえこさんの口添えもあり、二階の小さな出窓で飼うことに決まった。白い耳のたった雑種だったが、犬ときくと目のないわたしのことは弟にも見やぶられていたのだ。この犬はラブと名付けられ家を変わってもずっと一緒に暮らした。私の犬第一号である。
 この家で思い出すのは土曜日の夜ごとにたーさんすえこさんと囲んだマージャンである。ターさんと夫はかなりの手だれ、すえ子さんはまあまあ、わたしは全くの素人だったがそれでも少しずつ腕も上がり、土曜の夜の楽しみになった。合間に呑むビールやお茶菓子はいつもすえこさんが手早く用意してくれる。その点でも気働きのできる人だった。すえこさんはその時はとしても楽しそうで、やっと彼女も自分の自由な時間が持てるようになった気がしてわたしもうれしかつたた。
 
 二年ほどしてわたしと夫は別の場所に家を建て、長い間お世話になったたーさんとすえこさんに別れを告げた。父はターさんとすえこさんんに出石の家を多分市価よりは安い値段で譲った気がする。ターさんたちとは離れたが家は近いし交流はずっと続いていた。
 新しい家に移って何年かしてわたしは娘を生んだ。すえこさんはお産婆さんの来る前から、娘の産湯を使わせにやってきて、それも手際よくお湯を使わせてくれた。
 
 「すえこさんて何でもできるんだね。」 
 シャツをたくし上げたすえこさんの二の腕はとてもたくましく、安心して赤ん坊をまかせられる。ずっと昔たーさんのおよめさんになったころのすえこさんはもっと華奢でほっそりしていた。わたしにはかの異国の女優さんみたいなすえこさんが今でも浮かんで来る。
 たーさんは定年近くなって新潟県の方の町の税務署長に栄転、周りのものが気を利かせて町でも名うての芸者さんをたーさんの横に侍らせた。たーさんは彼女の手一つにぎらなかつたらしい。
 その話を聞いてわたしの父が「俺にはとても真似できん「と笑っていた。
 すえこさんへの思いも潔癖さも50年近く経っても変わらないと、みんなの話題になった。
 あるときわたしの母の体の具合が悪くなり、母の二番目の叔母がよく知っているというT 病院にすえこさんは母のお供で行くことになった。思いがけないことだが、母の胃は問題なかったのに行きがけのお駄賃のつもりで検査を受けたすえこさんに癌が見つかったのだ。これは誰にも思いがけない話だったがいちばんショックを受けたのはすえこさんに違いない。長い間の苦労が終わりこれからというときの思いがけぬ宣告だった。これからあとはすえこさん運命としか言いようのない展開で、人生の不合理としか言いようがない。


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フェアリー・妖精幻想 №67 [文芸美術の森]

風刺画家の筆になる妖精2
クルックシャンクほか諷刺画家の妖精像

             妖精美術館館長  井村君江

 諷刺画家としては、ドイルの先輩にあたるのがジョージ・クルックシャンク(一七九二-一八七八)であるが、その父アイザックもまた戯画を描いて有名であり、ジョージは幼い頃から銅版を彫ることを父から学んでいた。当時の代表的な諷刺画家であったジェームズ・ギルレーが死去したあと、未完であった『ナポレオン盛衰記』の最後の銅版を完成させたのが彼のデビューであった。年刊として『クルックシャンク戯画年鑑』が出まわるほど当時の社会では人々に愛され、ロンドンのヴィクトリア時代の生活を見る上でも貴重な風俗画となっている。
 グリムの童話集英訳本に附した挿絵が、彼を有名にした出発であったが、その中に多くの超自然の生きものを描いている。さらに自ら『クルックシャンク妖精文庫』を編んだり、クロフトン・クローカーの『アイルランドの民話集』や、ディケンズ、スコットの作品にも挿絵を描いている。これらの作品にはリチャード・ドイルほどには妖精たちは登場してこない。
 彼の妖精画の代表的なものとして、『タイムズ』誌にのったカットの中から選ばれ彩色された「エルフと靴屋」がある。靴屋の夜なべ仕事をやってほうびにマントと帽子をもらって喜ぶ小人の奇怪な姿など、エッチングの細いペンの動きによって、コミカルな特色ある動きに満ちた妖精たちが生み出されている。
 キートリーの『妖精神話』につけられた巻頭の一枚の挿絵は妖精画として最も知られたものであるが、小高い丘に腰をおろす男の目の前に突然もちあがった妖精丘のありさまが、豊かな妖精の知識に基づいて細密に描かれている。丘の上のフェアリー・リングの周りで踊る妖精たち、もちあがった柱の中からのぞける飲み歌い騒ぐ妖精たちの国の有様。沼からハープをもって現れた湖の妖精を眺めているイタリアのコンメディア・デラルテのマスクをつけたような妖精たち、ドラゴンと戦う妖精騎士、夜空をほうきに乗って飛ぶ魔女の群れ、その間にジギタリスやキノコが細かく描きこまれているという具合に、諷刺画のペンタッチで妖精たちはいきいきとした表情と動作をみせて画面いっぱいに描かれている。
 また、ドイルやクルックシャンクの系列に属する小さな妖精たちを人間のまわりに配する構図で描いていた挿絵画家には、アイルランドの妖精伝承を踏まえたダニエル・マックリースがいる。
 ジョン・リーチ(一八一七-六四)、ジョン・テニエル(一八二〇-一九一四)、サッカレー(一八二-一八六三)なども同じ雰囲気の戯画を描いており、テニエルは『不思議の国のアリス』で、奇怪な動物たちを描いているが、物語上の制約もあって妖精を描いていないのは残念である。
 ジョン・リーチが描いたディケンズの『クリスマス・キャロル』や『インゴルツビ伝説』の挿絵も、当時の雰囲気をよく表現しているが、ゴーストや魔女に比べて妖精はあまり登場してこない。工場の煙と塵にくすんだロンドンの街は、やはり妖精の舞台にふさわしいものではなかったようである。

R.Doyleストラトフォードオンエイヴォンの幻想.jpg
リチャード・ドイル「ストラットフォードオンエイヴォンの幻影」
『フェアリー』 新書館

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