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西洋百人一絵 №98 [文芸美術の森]

デルヴォー「眠れるヴィーナス」

            美術ジャーナリスト・
美術史学会会員  斉藤陽一

 人一倍内気で傷つきやすい少年がいる。その母親は、過保護だけならまだしも、少年のすべてを自分の意のままに支配しようとし、何かにつけて抑圧的態度に出た。中でも、自分以外の「女は恐ろしい存在」として、息子に、女性に対する恐怖心と警戒心を植え付けた。少年は長く女性恐怖症に陥った。うちに閉じこもりがちの少年は、空想の世界に安らぎを見出した。
 マグリットとともに、ベルギーのシュールレアリスム絵画を代表するポール・デルヴォー(1897~1994)の少年時代は、このようなものだった。
 デルヴォーが、繰り返し描いた、人形のような大きな目と感情のない表情をもつ、冷たく硬質の女性像は、もしかすると、女性に対する抑圧された欲望が、このようなかたちをとっているのではあるまいか。

 22歳のときに、両親から画家の道に進むという承諾を得たデルヴォーは、実にゆっくりとその道を歩んだ。
 35歳のとき、デルヴォーは、ブリュッセルで「スピッツナー博物館」の展示を見て、大きな衝撃を受けた。これは一種の衛生博物館で、そこには、蝋細工によるさまざまな人体や骸骨の標本、病気にかかった人体見本などが展示されていた。
 「この体験は、絵画に対する私の考え方を一変させてしまった」と語るデルヴォーは、ただちに「眠れるヴィーナス」を描いた。これは、スピッツナー博物館のガラスのケースに横たわって展示されていた蝋人形をモチーフにしたものだった。残念ながら、この絵は、のちに画家自身が破棄してしまい、現存しない。

 今回とりあげる「眠れるヴィーナス」(1944年。ロンドン・テイトギャラリー)は、それから12年後の47歳のときに描いた作品である。かつて描いた世界が、新たな装いでよみがえっている。
 
 舞台は、古代建築に囲まれた夜の広場。建物は、緻密に描かれ、古典的な格調高い空間を形成している。デルヴォーは、若い頃、両親の希望で建築を学んだが、挫折した体験を持つ。
 冴え冴えとした夜空には、細い三日月が浮かび、その下には、冷涼とした山々がそびえる。
 この静まり返った舞台の中央、月光を浴びてベッドに眠るヴィーナス。その左には、澄まし顔で立つドレスを着た女性と不気味な骸骨。ヴィーナスの右側、その枕元には夜空に向かって片手を上げる全裸の女。後方の広場にも、数人の女たちが手を上げたり、うずくまっていたりして、不思議なパントマイムを演じている。
 そう、これは、時間が停止して音を失った古代都市の広場で、無表情の女たちがスローモーションで演じる無言劇なのだ。

 精緻に描かれた建築空間と、そこに忽然と出現した人形のような裸婦たち、この意想外の組み合わせによって、冷たいエロティシズムが発散される。
これが、デルヴォーが創り出したシュールな絵画世界なのである。

(注)著作権上の理由で画像はありません。


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にんじんの午睡(ひるね) №21 [文芸美術の森]

大相撲の思い出
              エッセイスト  中村一枝

 大相撲が始まっている。本場所ではないからいつもはあまり話題にならないのに、今年は稀勢の里のけかが治癒、やっと本格的に始動したと言うので盛り上がっていたら白馬富士の暴行事件とかで何となく騒がしい。
 考えてみるとわたしは父の相撲好きに引きずられてかなり小さい時から国技館に行っていた気がする。子供ごころにも双葉山は綺麗でかっこいいとわかっていた。対象的に男女川と言うお相撲さんは綺麗でないという印象が残っている。いまのような国技館ではなくコンクリートがむき出しの殺風景な建物だったと思う。それでも当時もお土産やさんみたいな店があり、そこでお菓子や玩具を買ってもらうのが楽しみだった。半分はそれでついて行った。もう一つ記憶に残っているのは立ち合いのうんざりする長さ。前に書いた気もするが、今の立会いは見ていて飽きることはないが以前はそれが一番嫌だった。だからお相撲に行くのはちっとも嬉しくない。おもちゃを買ってもらえるのと、帰りにどこかで美味しいものを食べられる、それだけなのだ。顔中あばただらけのお相撲さんに会ったときは飛んで帰ってきた。玉錦とか前田山とか照国と言う名前だけはよく憶えている。戦争が終わって疎開先の伊豆伊東から新しい国技館に相撲を見に来た時は高校生になっていた。父の親友の1人、水野成夫氏が升席を持っていた。生まれて初めて間近で取り組みを見た。力士の肌の綺麗さ、息づかい、勝負の迫力、すっかりハマった。
 父は新聞社の相撲批評を書いたり、ほかに趣味とか道楽のない父にとって相撲は生甲斐でもあった。父の相撲批評はわたしが見てもとてもユニークで魅力のあるものだった。文学にちかい批評だったと思う。そんなこともあり、父は自分の桟敷を持つことになった。多分、女性以外では父の一生一度の道楽だったに違いない。父は知り合いのかおをみるたびに「おれ升席を買ったんだ」と、うれしそうに話しかけた。おかげでわたしも大学の頃はよく国技館へ直行した。
 わたしはその頃大好きなお相撲さんが居た。追手風部屋の清水川というお相撲さんだった。実は先代清水川と父との深い繋がりは父も書いている。わたしもそのことはよく知っている。ただ2代目の清水川については土俵のうえで見ているうちに好きになったというわけである。目もまゆもちょっとつり上がった、きりっとした顔つき。それよりも何よりも、上手投の決まった時のスカッとしたかっこよさ、上手投げは先代の清水川の得意技で二代目もそれを引き継いだらしい。
 ところでこの話、この原稿を書いている時、清水川が私の父の名刺に書いたものを偶然見つけたのだ。名刺には先生から話を聞きました、嬉しく思います。ご後援嬉しく思います。と、自筆のペン書きだった。50年も前のものが今何の拍子かで出てきた不思議さ。いま清水川を名乗る力士はいない。でも追手風部屋は現存している。父は私が清水川を好きなことを見ていて娘の気持ちを一言伝えたいと思ったのだ。
 父と先代の清水川とは私などには及びもつかない深い関わり合いがあるらしい。男同士だからわかり合う人生の経緯。それは人間関係の希薄といわれる今でもきっとある気がするのだ。


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フェアリー・妖精幻想 №73 [文芸美術の森]

アイルランドの妖精譚と画家

              妖精美術館館長  井村君江

 クロフトン・クローカーのアイルランドの妖精譚の本は、のちにイエイツが種々の本から選択し編纂する『アイルランド妖精譚と民話』(一八八八)のもとになるもので、妖精物語の宝庫の観がある。
 クローカー本の挿絵は、アイルラント出身でロイヤル・アカデミー会員の画家ダニエル・マックリースとジョン・グリーンとが描いている。
 フロントページの縁飾りには、月夜に花々やキノコ、麦の穂に乗り、戯れ遊ぶ妖精たちが描かれている。昆虫や喋の羽をつけた小さいエルフたちで、同じアイルランド出身のリチャード・ドイルと同系統のリトル・ピープルである。
 肖像画家としても知られていたコーク生れのマックリースは、超自然の生き物のデッサンも正確であり、のちにリチャード・ダッドは彼から影響を受けるのである。老人のけちん坊片方靴屋のレプラホーンの月夜に靴を直す姿も、本書に掲げたトマス・モアの『アイルランド歌曲集』の「レスビア」の挿絵の、美しいレスビアの裾に口づけしたり、バラや水仙の花々の間で剣を構えたり、裸姿で眼鏡をかけ、ヒゲをつけたりしているおかしなリトル・ピープルたちにも、当時の有名人や政治家の似顔が描き込まれているようで、妖精に託した自在な諷刺の筆が笑いを誘う。
 『夏至前夜(ミッドサマーイブ)- 愛の妖精物語』と題し、ホール夫人が書いた物語に十八人の挿絵画家が、さまざまな妖精画を付した赤皮製三方金の豪華本がある。
 六月二十四日の夏至前夜は妖精たちが地上に現われ、薬草が効を奏する膏で、恋人たちは森でベンケイ草を摘み、未来の愛を占う。
 この本では腕を競って挿絵画家たちがカットを描き表紙画デザインも妖精たちで飾っている。マックリースに描かれた妖精たちは、ジギタリスの花の帽子をかぶり、花々の蔭に眠る人間のまわりに、夢のように独自のフェアリー・ランドを作っている。
 月夜に輪踊りをする妖精たちの習性を巧みに使って、へンリー・ウェナートも水の妖精ケルピーたちを女王のまわりに群れさせ、ハスキソンも赤ん坊を抱く母親のまわりに妖精たちを描いている。蝶の羽根をつけた身体に薄い衣を着て手に魔法の杖を持った妖精が、その一振りで夜の醜い邪魔者のダーク・エルフを追い払い、親子に安らかな眠りを授け守護している。
 葉蔭にひそむどこか土の匂いのする野生的なマックリースの妖精の群れとは異なり、ハスキソンの妖精の姿には、ヨーロッパの妖精の代母の像が重ねられている観がある。

ダニエル・マックリース「レスビア」.jpg
ダニエル・マッカリース絵「レスビア」

『フェアリー』 新書館


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日本文化の原風景 [文芸美術の森]

「自強不息」文人の精神文化

                 水墨画家  傅  益瑶

 過般、台北の国立国父記念館で、父傅抱石の生誕百周年記念展が開かれた。
 記念展は中国国内で陳列された作品とは違って、台湾に所蔵されているものが大半を占め、想い出深い《文天祥像》の絵の前に念願かなって立つ事が出来た。
 この絵は描かれた直後に台湾の人によって愛蔵され、今日まで見る機会がなかった作品であった。父からは文天祥の事は詳しく教えてもらっていたこともあって、ようやく巡り会えたその絵の前に立って、旧知の懐かしい人に出会えた思いがした。
 彼の生い立ち、生き方と、その人物の深さは父が詳しく話してくれたすべてのものが、その絵の中に描かれていたのであった。
      ◇
 南宋末期の忠臣だった文天祥は恭帝のときに侵入してきた元軍と勇敢に戦って捕虜の身となってしまった。投降の勧めを幾度も退けて、最後まで忠臣を恭帝に捧げて処刑されてしまった。彼個人の意志は宋の国すべての人たちの心のよりどころでもあった。
 元の総司令官であった帳弘範が「国亡びたり。丞相の忠孝尽きたり。」と詠って、捕虜の文天梓を元の国へ誘った際の歌が残されている。
 それは「宋の国はすでに亡んでしまった。あなたは宰相として尽くすべき任務はすでに無くなっている」と投降を呼びかけたのであった。
 その《文天祥像》を、台北の国父記念館で初めて見たときに、彼の死を悼み、死を愛でる。この死は偉大で最高の価値があり、それゆえ一番悔やまれると話してくれた父の顔が文天祥の顔と重なった。その時の父は「人間の生きる姿勢は歴史から学び取るもの、その真実と美徳は歴史が真実を語っている」のだと言って史実の重要さを教えてくれた。文天
祥の死がなければ彼の人生を感動させるものはない。
 骨があるとはこのことで、その複雑な気持ちが伝わってきた。父の措いた文天祥の絵を見ると、より一層父の事を患い出す。
     ◇
 そうして描いた父の絵は、他にもあって、《屈原》の作品もそうした一枚である。
 戦国時代の楚王に仕えていた屈原が妬まれて失脚。ついに湘江のほとり泪羅に身投げした故事を描いたもので、屈原の苦悩する姿が描かれている。
 人間が生きるか死ぬかという苦しみは、人間の姿が月と比べてどちらが光り輝くのか、というような深い哲学がそこにあると言うことを知らなければいけない、などと、父はこうした時代の背景にある人間関係を具体的に詳しく話して聞かせてくれた。その時、人間の心がいかに美しいものであるかと言うことの例をあげて描いたものが、《文天祥像》であり、《屈原》でもあった。
 私にとって歴史上の人物を勉強するにはこれ以上の方法は見っからないほど幸せなことでした。歴史を学ぶことは、自分を知り、そこに「詩情画意」を織り込む事だと思った。


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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №43 [文芸美術の森]

フルシチョフの時代 4

           早稲田大学名誉教授  川崎 浹

歴史の記憶

 東京への飛行機で知人のロシア人バレエ評論家と席を隣りあわせた。ジェット機の騒音のおかげでかれは声をひくくする必要はなかった(東京のホテルでは声を小さくしたが)。そのとき聞いたアネクドートはロシア人から見た当時の日米の関係をよくあらわしている。

 ソ連の技術が米国に追いつくには、一世紀かかるだろう。日本には? 永久に。

 この種の日本物として当時流行したのに、こういうのもある。

  「エイズは二〇世紀の病気である。日本とロシアにははやらないだろう」
  「なぜか?」
  「日本は二一世紀であり、ロシアは一九世紀だからである」

 ところが、その後日本ではバブルがはじげ、米国経済が復興し、ウインドウズとインターネットのアメリカが地球を席巻した。こうした経過を考えると、アネクドートは歴史の記憶であるという定義が再確認される。
 ロシアではこのように日本の技術への思いこみが強かったので、阪神大襲災で生じた高速道路の倒壊をテレビ画面でうつしながら、逆に「日本の技術」をちくりと皮肉つた。
 いまや日本も清貧の思想とか節約のススメとかが流行にならざるをえない事態だが、こうなると、熱湯と新聞紙だけで食器を洗い、かぜには蜂蜜と薬草でのりきるロシア人は強い。今年もモスクワの知人から悲鳴のように生活苦がもれてくるが、かれらは苦難の山をのりこえるだろう。

がに股

 レニングラードの行列のアネクドートでもわかるように、一九一七年の十月革命以後もソ連人はほんとうの共産主義はまだこれからだという夢をもたざるをえない状態にあった。フルシチョフがスターリン批判をした翌年(五七年)とはっきり記されているつぎのアネクドートがある。

 フルシチョフがコルホーズ員たちの前に姿をあらわした。
 「われわれは一方の足でしっかりと社会主義に立ち、片方の足で共産主義に向けて歩みだした」
 すると聴衆のなかから声あり。
 「まだどのくらい長くわれわれはがに股で立つことになるのですか?」

 つぎのようなアルメニア発の少々理屈ぽいアネクドートが放送で流された。

 「現実の社会主義はなにを示しているか」と聞かれたら、我々はこう答える。
 「現実の社会主義は、自分のなかにすべての先行の社会的、経済的形態を具現している。原始共同体からは生産方法を、奴隷所有社会からは自由の原則を、封建体制からは階級的特権を、資本主義からは解決できぬ矛盾を」

 「奴隷所有社会からは自由の原則を」というのは、自由に奴隷を所有できる原則を継承したという意味である。ギリシャ時代から、農民の移住を禁じたソ連の集団農場時代にいたるまで、「人民」は自由に奴隷のようにあつかわれてきた。


『ロhシアのユーモア』 講談社選書

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石井鶴三の世界 №105 [文芸美術の森]

鬼ケ城1964年/角間・きつりふね・からはなそう・野生ホップ1964年

               画家・彫刻家  石井鶴三

1964鬼ケ城.jpg
鬼ケ城 1964年 (125×172×2)
1964角間・きつりふね・・・.jpg
 角間・きつりふね・からはなそう・野生ホップ 1964年(139×172×2)


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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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はけの森美術館Ⅲ №39 [文芸美術の森]

台北風景

                   画家  中村研一

台北風景.jpg
水彩 30cm×40cm

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【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面 

 



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西洋百人一絵 №97 [文芸美術の森]

マグリット「野の鍵」

         美術ジャーナリスト・美術史学会会員  斉藤陽一

 ルネ・マグリット(1898~1967)は、次回に紹介するポール・デルヴォーとともに、ベルギーを代表する「シュールレアリスム」の画家である。

 マグリットは、1913年、15歳のときに、見本市の回転木馬で一人の美少女ジョルジェット・ベルジュと出会った。幼い二人の交際は、少女の引っ越しによって終わったが、その7年後、マグリット22歳のとき、ブリュッセルの植物園で偶然二人は再開した。二人は結婚し、お互いの影のように寄り添いながら、生涯、連れ添うことになる。
 そのジョルジェット夫人は、どこか秘密めいていたマグリットの暮らしぶりや制作の様子を証言として残している。
 「彼は、ただ妻とポメラニアン犬と、そういうもので出来ている“僕のうち”を愛したのです。・・・“旅に出て一番良い瞬間は、家に帰って来たときだ”と、彼はよく言いました。」
 マグリットは、外出が好きではなく、出かけるのは行きつけのカフェでチェスをする時くらい。いつもきちんと髭を剃り、古びた山高帽をかぶり、身だしなみを整え、秩序だった、目立たない小市民的生活をするのを信条としていたという。およそ芸術家らしくない。
 画家であるにもかかわらず、アトリエを持たず、いつも食堂で描いていた。「彼は、なじみのもの以外は描きませんでした。・・・ルネは、イマジネーションのみで描いたのです。」(ジョルジェット夫人)

 画家マグリットが大事にしたのは、平凡な日常性である。自分の生活を、この信条で律しただけでなく、自ら描く絵画の世界でも「日常性」をテーマとした。
 ただし、マグリットの絵画世界の「日常性」とは、ありふれた見せかけの裏に狂気をはらんだものだった。

 「野の鍵」(1936年。マドリード、ティッセン美術館)は、マグリット38歳の作品。
 私たちが、部屋の中から窓の外の景色を眺めている。いつも見慣れたなじみのある風景である。だから、心は穏やかである。
 ところが突然、窓ガラスに亀裂が生じ、その破片は室内に飛び散る。すると、素通しとなった窓には、依然として、先ほど見ていたものとまったく同じ風景がある。それだけでなく、飛び散っていたガラスの破片にも、同じ風景が映っている。
 先ほど見ていたのは、現実ではなく、ガラスに描かれた絵だったのか。虚構を現実と思い込んで、安穏としていたのか。
 いや待てよ。今は、素通しの風景を現実と思っているが、もしかすると、これも描かれた虚像かもしれない。疑い出すと、そうではないという保証もない。私たちの心は、現実と非現実との裂けめに揺れ動く。
 私たちは、日常生活というものは堅固で壊れないものと思い込んでいるが、もしかすると、それは、ガラスのように脆いものであり、突然、亀裂が生じ、壊れてしまう危険に満ちたものなのかもしれない。
 
 マグリットが描く世界は、身の回りのありふれたものだが、そこに意表をついたイリュージョンを仕掛け、固定観念にとらわれている私たちの日常性を揺さぶるのである。

(注)著作権上の理由で画像はありません。


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にんじんの午睡(ひるね) №20 [文芸美術の森]

草むしり

            エッセイスト中村一枝

 ちょっと放って置くとあっという間に草ぼうぼうの庭になる自宅の庭。「あなた、草の生える庭のあるだけ贅沢よ」なんて言う友達もいる。この草の伸びる勢いは奢る平家もかくやと言うところだが、最近、この草とりが妙に楽しくなってきた。
 思い起こすと八年前亡くなった母が、あまり趣味のない人だったが、小柄な身体で庭の草取りをしゃがみこんでしていた姿を思い出す。
 自分が母に近い年令になるにつれて、この草取りの自在で闊達な楽しさというものが少しずつわかってきた。草を地面から抜くという単純きわまりないようだが、なぜだか一本一本抜いてみるとその手応えが違う。短かくて殆ど茎のない細い草が意外に強靭で地面にしがみついていたりする。するっと手応えもなく簡単に抜ける草もあれば、地面に這いずるようにしがみついている草がシャベルかスコップで土ごと取らないと抜けないしつこさだったりする。木に比べて名もなき草草は日々どんな思いを託して生きているのかと思う事がある。
 少しでも姿がみえなくなると「お母さんまた草取りでしょう、好きだねえ」と笑い話のタネにしていたあの草むしりは、もしかして人生の深いいきさつと関わりがあるのじゃないかと最近思うことがある。人生がどんなに意外性に満ちているか年令を経るにつれてわかってくる。父親が小説家で「人生劇場「という昭和初年の、当時としては空前のヒット作を残したおかげで、わたしは小さい時から人生というものを普通以上に得難い特別なものと思ってきた。人生なんぞやなどと考えたことはないが、人生って生きて行く上の道しるべとして一つずつ印をつけていくように大事なものだいう思いがいつもあった。学生時代のノートには自分でつくっていく人生とかこれからの人生は私自身のものとか気負った文言がみえかくれする。この頃を振り返って考えると人生っていつの間にかついてしまっだ山の上みたいなものだという気がしている。自分では何一つ意識していないのに気が付いてみるとずいぶんも長いこと歩いてきたなと思うからだ。自分が好きなように自分勝手に、人の事などお構いなくとことこ歩いてきたら、いつの間にか高齢者になっていたのだ。思いがけず足腰も不自由になったしいつの間にか周りの人たちが一人去り二人去り、気が付いてみると自分一人が頂上にぼつんといたということである。

 草は黙って生いしげりものも言わず抗いもせず抜かれていく。抜く行為に何の切なさも満足感もない。ただ抜いて周りを綺麗にする事で心がスッキリと晴れる。
 なにも言わなかったし元々おしゃべりではなかった母が気が付いてみるとひとりしゃがんで庭で草を抜いていた。「あらお母さんまた草むしりしてる」〜縁側でケタケタ笑いながら母を見ていた私が、いつか自分が草むしりという行為の中で過ぎて行った人生の至福をかみしめているあの母と同じ姿になっていることが、嬉しくもありちよっと切なくもあるのだった。、

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フェアリー・妖精幻想 №72 [文芸美術の森]

昔話に登場する妖精 2

              妖精美術館館長  井村君江

欧州からやってきた妖精譚

 ヨーロッパで盛んに蒐集、再話された民間伝承の代表的なものを見てみると、イタリアのジョバンニ・ストラバローラの『楽しい夜』(一五五〇-五三「長靴をはいた猫」が入っている)を初め、フランスではド・ルノワ夫人の『妖精物語(コント・ド・フエ)』(一
六九六刊、一七一七英訳。「黄色い小人」が入っている)、シャルル・ペローの『教訓を含んだ過ぎし昔の物語』(一六九七刊)『マザーグース物語』(一七二九英訳。「眠れる森の美女」「親指小僧」が入っている)、グリム兄弟の『子供と家庭のための昔話』(一八一二刊、一八二三英訳「白雪姫と七人の小人」を含む)等がある。また、アンデルセンの『童話集』(「人魚姫」を含む)は、デンマーク本国で一八三五年に出て、一八四六年、一八五〇年と英訳されている。
 英本国でも各地方で妖精物語の蒐集は盛んに行われたが、アンドリユー・ラングの『色分け妖精物語』十二巻(一八八九)、クロフトン・クローカーの『アイルランド南部の妖精譜と伝説』(一八二五)、プレイ夫人がコーンウォール地方の民間伝承を集めた『テマ河とタヴィ河地方の伝承物語(一八三六)。そしてスコットランドのバラッドを集め妖精の詳細な解説を付したウォルター・スコットの『スコットランド辺境地方の吟唱詩歌集』(一八〇一)等が、次々と出ている。
 これら各地方の昔話から、老人の片方靴屋レプラコーンやプーカ、鉱山に住むノッカー、金髪族のタルウィス・ティグなどさまざまな妖精たちが浮かびあがり、挿絵画家たちはその想像力を濾過させて描いた妖精像を次々に付していくことになる。
 昔話の中でも、有名な巨人伝説の一つを描いた一連の作品があり、一八三〇年頃の作と推定されているが画家の名は不明である。「ジャックと豆の木」の変形譜のようであり、現存する四枚の絵からはその最後の場面であることが窺える。
 (一)巨人の台所
 (二)巨人から逃げるジャック
 (三)臼豆の木を切り巨人を落すジャック
 (四)妖精に求愛するジャック
 この順序と推定される。現在の所有者サザビイ勤務のマイケル・ヘゾルタイン氏の話では、(三)までは一緒に購入し、(四)は数年後に入手したとのこと。巨人を退治した後、平和なアルカディアを思わせる池のほとりで、ジャックが妖精に愛をささやくというのは普通の昔話にはなく興味深い。更に遠万に巨人が雲になって消えていくところ、幻の建築物が月の下、山の裾にそびえ、様式化された横にたなびく雲に木々が見え、天使のような羽根をつけた妖精が飛んでいるところからは、一見してブレイクやジョン・マーティンの画面が連想されてくる。
 この昔話を描いたイラストはブレイクらに代表される十八世紀の幻想絵画と十九世紀のファンタジイとを結びつける貴重な作品といわれ、プライトンの「妖精画展」(一九八〇)にも出品され、妖精画集にはたびたび掲載されている。日本では一九八八年十二月に、初めて海を渡り公開された。

『フェアリー』 新書館


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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №42 [文芸美術の森]

フルシチョフの時代 3

           早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 広い住宅、あふれる食料

 フルシチョフは一方で米国に先んじて人工衛星スプートニクを発射して社会主義の威光をたかだかと示しながら、他方では戦後一五年たっても改善しない生活が将来豊かになることを確約して、民衆を引っぼっていかなければならなかった。
 六一年の第二二回党大会でかれは「われわれは一〇年後には米国に追いつき、追い越す」と宣言した。これにたいしては制作年のはっきりしないアネクドートがある。

 フルシチョフが工場で講演した。
 「同志諸君、まもなく我々はアメリカに追いつくばかりでなく、アメリカを追い越すだろう!」
 労働者が彼にいった。
 「アメリカに追いつくことには私たちも反対しませんが、もし追い越せるとなると、ちょっと具合が悪いのです」
 「それはまたどうして?」
 「ええ、私たちの長い背後の道のりが世界中に知られてしまいますので」

 ノルマの設定と見せかけの成果でやりくりしてきた過去と現状への痛烈な風刺である。
 たまたま一〇年後の七〇年代初めにパリに滞在していた私は、当地のロシア語新聞「ロシア思想」につぎのような話がでていたので、その「成果」を知ることになった。

 一〇年前の一九六一年に結婚式をあげたカップルはソ連で数えきれぬほどいただろう。そのなかの一組の周囲の友人たちが結婚式の記念に、フルシチョフの未来への展望を印刷したプラウダ紙を瓶につめて、牧場の一隅に埋めておいた。
 二〇年たって、まただれかの結婚式で、かれらは偶然二〇年前のことを思いだし、シャベルをもって瓶を掘りだしにでかけた。昔、牧場だった場所はいま、人通りの多い駅前になっていた。
 やっとのことで瓶を見出したときには、すでに何事ならんと好奇心のつよい連中にとりかこまれていた。
 アンドレイとオレーグは黄色くなった新聞紙を瓶からひきだし、代わりばんこに声にだして読んだ。
 「我々は二〇年後にはバスと電車に無科で乗ることができるだろう」
 「我々は広い住居で暮らすようになるだろう」
 「我々は充実した医療サービスを享受するようになるだろう」
 「我々はあふれる食料と生活必需品に満足するようになるだろう」
 一行読むたびごとに二人がコメントをつけて笑いとばし、はては見物人たちも大笑いをくりかえした。
 翌日からアンドレイとオレーグほ姿を消し、二度と顔を見せなくなった。二カ月半たって収容所からの便りでやっと消息がわかった。

 「ロシア思想」紙は実際にあった事件だとことわっていた。
 それからさらに一〇年を経、一九八〇年代になっても事情は変わらなかったので、つぎのようにまったく逆説的なアネクドートが発生した。

 西暦二〇〇〇年にむけて、ソ連では一〇人に一人が自家用飛行機を、五人に一人が車を、二人に一人が個人用サンダルを所有するようになるだろう。

 たしかに統計上は、だれのものでもない飛行機と車の数量はふえるだろう。だが、それらは国の財産を無料で使用できる特権階級つまり高級党官僚(ノメンクストゥーラ)のものである。市民の日常生活では、八〇年代の終わりに、日本製サンダルが屋内履きにいいというので、私は土産品としてモスクワのロシア人に頼まれて持参したことがある。マイカーどころか、足下のサンダルひとつすら、かれらのニーズに合う製品がなかったのだ。洗浄トイレや電子歯ブラシはおろか、ラップもティッシュペーパーも一般家庭にはない。


『ロシアのユーモア』 講談社選書


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はけの森美術館Ⅲ №38 [文芸美術の森]

居間

                   画家  中村研一

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水彩 ペン 38cm×53cm

************                                          【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

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中村研一記念はけの森美術館正面 

 



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石井鶴三の世界 №104 [文芸美術の森]

眼鏡橋1963年/長崎港1963年

               画家・彫刻家  石井鶴三

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眼鏡橋 1963年 (143×200)
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長崎港 1963年 (143×200)

**************

【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社


 

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往きは良い良い、帰りは……物語 №52 [文芸美術の森]


往きは良い良い、帰りは……物語
その52 第4回 俳画添え「月(三日月なども可)」「きのこ(茸や菌でも可)」
             「菊」「鶫(つぐみ)」& 赤い靴

            コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

◆◆平成29年9月20日◆◆
私・孝多のところには下記のような案内状がFAXで届きましたが、ほかの殆んどの会員のもとには、メールだったようです。
ですから、出欠の返信も、メールですよね、当然。
紙派の「返信レター」が消えて残念ですけど、こちらが古いだけですよね。

* * * * * * * * * * * * * * * * * *
    10月のこふみ会のお知らせ
朝夕だいぶ涼しくなり、まさに俳句の季節です。
●開催日……10月8日(日)午後1時より~
●場所……いつもの神楽坂「香音里」にて(TEL. 03-6280-8044)
●前回同様、酒および弁当はありません。(ただし、差し入れや自前持参は自由。)
●景品は3点ご用意ください。(合計△△△△円程度の品。)
●会費……△△△△円。(お菓子だけ幹事が用意します。)
●好評につき、今回も「天の句」の短冊には、俳画を入れていただきますので、ご用意を!

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◆兼題①「月」三日月なども可
   〃 ②「きのこ」茸・菌も可
◆席題は当日2題。
◆投句は計4作。
◆選句は天・地・人・各1作および客5作。(合計8作。)
◆出欠のご返事をメールか、FAXで、お早目にお願いします。
◆月当番=永井舞蹴(マイケル)  
                mail △△△△△△ne.jp
                fax    03△△△△△△△
     秋元虚視
◆幹事連絡先=マイケルの携帯 090△△△△△△△△

◆◆◆11月こふみ会のお知らせ◆◆◆
 当番幹事さん(矢太、鬼禿ご両名)の話によれば11月は「よこはま吟行」の予定です。11月12日(日曜)。
 ふるってご参加ください。詳細を10月句会で、ご案内します、とのことです。
                                  以上
* * * * * * * * * * * * * * * * * *
◆◆10月8日のご参集は10名でした。席題は「菊」と「鶫(つぐみ)」◆◆
10名は敬称略・順不同で、茘子、矢太、軒外、一遅、鬼禿、珍椿、舞蹴、虚視、更歩、孝多の面々。

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皆さん、真面目な人ばかりで、時々、シーンとなってしまいます。席題を書いて張り出された半紙を見つめていたり、ガラス戸の外をじっくりと眺めていたり、真剣に考え、句作に集中しようとしている人たちばかりなのです。
そんな時、困らなくてもいいのに困ってしまうのが孝多です。
冗談のひとつも飛ばして、この沈黙の空間を笑顔で揺るがすようにしようか。それとも……。
「ところで皆さん!」と切り出して「あの、カマキリなんかをつかまえて、枝にさしておく鳥はツグミじゃないですよね、」などと言ってみようか……。そしたら、誰かがご自分のケータイやらスマホやらにて即座に調べて、それを読み上げたりしてくれるかも知れない……。

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ツグミ(山渓カラー名鑑『日本の野鳥』より)

ああ、こんなとき、清酒、ビール、焼酎などの飲みものが、たくさん、卓上に並んでいたら、どんなに助かることか。「まず、一献!」なんて声をかけて、「きょうの鮨、うまいですね。幹事、どこから取り寄せたって言ってましたっけ?」などと、肩の力の抜けた他愛のないことに話題を振って……。
そうなのです。孝多は「飲・食・談・作」が好み。つまり、飲んで、食べて、喋って……句を作るのは最後の最後という次第。ケシカラヌ輩(やから)。

ですから、こんな話にもなります。
『もう一度考えてもいいかも知れませんね、いつか話題になった句会の会場のこと。香音里さんに不満があるとか無いとかではなくて、全く、こちらの勝手で、神楽坂(香音里)から表参道(東京コピーライターズクラブのクラブハウス)へ定例句会の会場を移すこと。』
そうすれば、会場費が不要(無料)となって、その分を「美味」の購入に当てられるし(ウッフッフ!)、作品のコピーもこふみ会もちの用紙を使えばタダになるし、用紙、短冊、硯、筆、鉛筆、セロテープ、歳時記、字引などの備品をハウスにあずけて置くことができる(いちいち、持ち入れ持ち帰りをしないで済む)。いいなあ。
『11月、12月の句会の席で、みんなして、このこと、話し合ってみよう。会場移転が決まったら、香音里さんに、なるべく早く、挨拶しないといけないよね。』

◆◆いよいよ大詰め、本日の成績発表!◆◆
締め切り、投句、選句用コピーの作成と配布、選句読みあげ、短冊と景品の手渡し、正の字記入……と続いて、ラストは成績発表! ここで、係が声を大きくします。

トータルの天は~まさしく、ダントツ・ブッチギリで~49点の虚視氏。パチパチパチッ。
代表句=美しき 耳持つひとや 月明(あ)かり パチパチパチッ。

トータルの地は~29点の孝多、有難うございます。おかげさまで~す。
代表句=三日月や 昨日(きのう)私が 切った爪(つめ) パチパチパチッ。

トータルの人は~22点の茘子さん。パチパチパチッ。
代表句=茸狩る 山も野も見ず 暮れ果てる パチパチパチッ。  

トータルの次点は~21点の矢太氏。パチパチパチッ。
代表句=追伸と 書いて筆おく 鶫鳴く パチパチパチッ。
おめでとうございました。

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左から、地の孝多。天の虚視。人の茘子。(この人の右手にご注目! ガーゼのマスクです。気の毒に、仲々ぬけない風邪とのこと。もう良くなりましたか。どうぞ、お大事に。)

* * * * * * * * * * * * * * * * * *
◆◆追記で~す。ますます楽しみな「横浜吟行」◆◆
●案内状に書いてあったとおり、句会が終了すると、11月の句会「横浜吟行」について当番の鬼禿氏から、下記・手作りの豪華レターに基づいて、親切・丁寧な説明がありました。
●集合日時=11月12日(日曜)正午12:00
●集合場所=JR横浜駅下車。東口地下道の突き当り「そごう」B2入口前の広場。
●臨時会費=会員△△△△円。ヴィジター△△△△円。
●兼題 ①赤い靴 ②冬に入る(席題については当日発表)
●出欠の返信はメイルまたはFAXにて矢太まで。なるべく、お早く。
     info……jp あるいはFAX・03-△△△△ー△△△△
●句会は、横浜港めぐりのシーバス遊覧を楽しみ、山下公園、アメリカ山、外人墓地などを巡回見学した後に、港が見える丘公園内の「神奈川近代文学館」の和室にて開かれます。
●句会終了後は、山を下り、中華街の名店「翠香園」にて美味堪能とまいります。このコース、どうぞ、ご期待ください。
なお、念のため、幹事役の鬼禿氏のケータイ番号=△△△ー△△△△―△△△△(万一、迷子になったとき。)

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* * * * * * * * * * * * * * * * * *
◆◆今、気が付いた、タイヘンな「赤い靴」◆◆
前記の「横浜吟行」についての説明の中で、吟行当日の兼題のひとつに『赤い靴』があるという発表がありました。
それに対しては、よ~し、この題だ。「横浜」ならではの、そして、こふみ会ならではの、素晴らしい題だ。秋という季節感もぴったりだ、と、私、孝多は大いに喜んで居りましたが……。
調べておくに越したことはないと、我が家にある、何冊かの本(資料)に当たってみたところ、びっくり!
「赤い靴」は悲運な少女の「かわいそうな」物語だったのですね。知らなかった!と、あわて、恥ずかしい!と頭をかかえる孝多は、今、少なからず、困惑・逡巡(しゅんじゅん)して居ります。
資料の中でも、私には、最も充実していると思われるものが『伝え残したい童謡の謎 ベストセクション』(合田道人(ごうだみちと)著 祥伝社 平成26年8月10日 初版発行です。

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         赤い靴                    詞 野口雨情
                    曲 本居長世

     赤い靴 はいていた 女の子
     異人さんに つれられて
     行っちゃった

     横浜の はとばから 船に乗って
     異人さんに つれられて
     行っちゃった

              今では 青い目に なっちゃって
     異人さんの お国に
     いるんだろう

     赤い靴 見るたび 考える   
     異人さんに 逢うたび 
     考える

『童謡の謎』には「赤い靴」が上記のように紹介されています。
しかし、合田氏が説くところによれば、この歌のモデルになった少女(佐野きみ)は確かに実在したけれど、「横浜から」「船に乗って」「異人さんにつれられて」行ったことは無い。その前に亡くなってしまった、というのですから驚きです。「横浜」は佐野きみとは直接関係ない雨情の作詞上のイメージだったというわけです。ああ、何(なん)と!

では、どこで亡くなった? 東京の麻布十番で。
いつ? 明治44年(1911)9月15日。9歳のとき。

どんないきさつで? 
岩崎きみ(後に父親の姓を受けて佐野きみとなる)は明治35年(1902)7月15日、静岡にて誕生。私生児。父親は刑務所暮らしの、盗みをはたらく男だった。
母、岩崎かよは世間の冷たい目を逃れるように、2歳の娘きみをつれて新天地、北海道へ。その後、きみちゃんは、大人(おとな)の世間のしがらみと、紆余曲折の出来事に巻き込まれて、極めて複雑な生活を送り、最後には幼女を探していた函館在住のアメリカ人宣教師夫妻にあずけられた。

この事実を、鈴木姓になっていたかよは、夫・鈴木志郎の親友である野口雨情に身のうえ話として語った。
このことが後の「赤い靴」の詞のもとになる。

その後、アメリカへの帰国命令がでたとき、宣教師夫妻は、きみちゃんを連れて帰るつもりだったけれど、彼女の病気が重く、それが不可能。やむなく、夫妻はきみちゃんを麻布十番のメソジストの孤児院にあずけた。きみちゃんは病魔と闘いながら息を引き取った。何と、母かよにも知られずに……ということが有志による最近(昭和48年・1973以降)の探査・探索によって判明した。

こうしたいろいろな事を踏まえて……
現在、麻布十番の孤児院のあと地(パティオ十番)には、きみちゃんの像があり、青山の鳥居坂教会には「佐野きみ」の墓があり(父親の名前が佐野安吉だった)、北海道・留守都(るすつ)村には赤い靴公園があり、静岡・日本平には「母かよ」と「娘きみ」の像があり、横浜・山下公園にも海を眺めている少女の像が建っている。

……以上のようなことを私は合田道人氏の著作『童謡の謎』ほか、いくつかの文献から学びました。

はてさて、これらのことを孝多は、句会の仲間に、いつ、どこで、どのように伝えたら良いか。いやいや、兼題の核心に触れることです。こんな間際(まぎわ)になって、ただ混乱を招くだけかも知れません。黙っていようか……。迷う、迷う。そして、あっと気が付きました。幹事さんに相談してみよう! それが一番! そう決めました。

それにしても、野口雨情も、かよさんも、きみちゃんの最期を、ほんとに、全く、知らなかったのかしら。

雨情の「赤い靴」が雑誌『小学女生』に初めて掲載されたのは、大正10年(1921)のこと。きみちゃんが亡くなってから10年後です。
続いて、数々のヒット作を放った雨情が他界したのは昭和20年(1945)。63歳。
きみちゃんの母かよが亡くなったのは昭和23年(1948)64歳。

親が子を、ひと(他人)にあずけるということは「縁を断つ」壮絶な選択、「未練を残さない」厳しい覚悟を示すものだったのでしょうか。胸がしめつけられます。知られずに死んでいったきみちゃん。娘のことは知らずに居ようと懸命に努めたのか、お母さん。親子の悲運というよりほかありません。孝多の個人的な解釈でもありますが……。

ところで野口雨情の作で、人口に膾炙されているのは「赤い靴」のほか、次のようなものですよね。たくさんあります。歌いましょうか。「七つの子」「あの町この町」「青い目の人形」「しゃぼん玉」「雨降りお月さん」「黄金虫」「証城寺の狸囃」「船頭小唄」「紅屋の娘」「波浮の港」。

◆では皆さん、お元気に。「赤い靴」や野口雨情について、何か、教えていただけるようなことがございましたら、ぜひ、ご一報ください。TEL、048-882-7577またはFAX、048-887-0049 どうぞよろしく。
                         孝多 10月吉日 記

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10月8日の天の句。しかし残念。写真では、短冊の天地が少々切れました。

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     第574回 本日のこふみ会全句
             平成29年10月8日   於 神楽坂 香音里

◆兼題=月(三日月なども可)         順不同
故郷(ふるさと)の 夜汽車がはこぶ 月夜かな          舞蹴
美しき 耳持つひとや 月明(あ)かり                    虚視
あかり消し 月待つままに 夢一話          荔子
山の端(は)に ではさよならと 朝の月                    軒外
墨の香の 残る僧坊 月入れり                                  更歩
朝が来て また夜がきて 今日は満月                          鬼禿
中天の 月を愛でて まずは一献                                珍椿
終電の 女は月と 疾走す                                        矢太
満月の 使徒か 月下美人咲く                                   一遅
三日月や 昨日(きのう)私が 切った爪(つめ)    孝多

◆兼題=きのこ(茸や菌でも可)          順不同
毒装備 弱い茸の 抑止力                                         更歩
きのこ狩 鍋喰う順序 ゆずりあい                              虚視
茸きのこ 山の静けさ 聞く耳か                                 孝多
採るべきか 捨て置くべきか 雨後の茸                         軒外
死んでみて やっぱり奴は 毒茸                                 鬼禿
分け入りて 闇夜に白き きのこ山                              珍椿
きのこめし おこげの香り 旅の宿                              舞蹴
茸らは 地球最後の 主ならむ                                    矢太
茸狩る 山も野も見ず 暮れ果てる                               荔子
山の友 こころづくしの きのこ鍋                              一遅

◆席題=菊             順不同
菊の香の 垂直に骨 つらぬきて                                 虚視
大きい!と 言わせる菊の 演技力                              更歩
菊なれど 大輪は不可 野菊佳(よ)し                         軒外
しみじみと 思い出す母 菊の花                                 舞蹴
夕焼けの 光あつめて 菊ひとむら                               荔子
菊が咲く 考えるつもりで 眠ってた                          孝多
菊冴えて 遠くに海を 見る墓標                                 一遅
野菊咲く 運慶仏の 足の指                                       鬼禿
菊一輪 手折って生ける ビンがない                            矢太
東海の 海底に眠る 菊印                                          珍椿

◆席題=鶫(つぐみ)         順不同
朝の日に まっすぐに飛ぶ つぐみかな                       舞蹴
アイゼンで 雪踏みしめて 鶫啼く                               一遅
鶫来て ミス・マープルの お茶の時                            荔子
追伸と 書いて筆おく 鶫鳴く                                     矢太
今、私(わたし) 忙しいんです 鶫鳴く                       孝多
鶫渡る イージス艦の 綱の外                                     鬼禿
鶫たち あの山かの丘 越えてきた                                軒外
枯畑に 鶫の群れ 飛び来たり                                      珍椿
鶫喰う 肉豊かなれど 骨もろく                                   虚視
渡るさえ 身を細くして 鶫かな                                   更歩

                                             以上 10名 40句


    ツグミ(山渓カラー名鑑『日本の野鳥』より)

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季節の記憶・いだようの写真散録 №193 [文芸美術の森]

「鮮やかにヤマウルシ」      自然写真家  いだよう

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あたり一面すっかり錦繍に染まった山道。
ふと上を見上げるとこの日一番鮮やかなヤマウルシが、青空と見事な対比を見せていた。

いだようのFacebookページ : https://www.facebook.com/idayoh/

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西洋百人一絵 №96 [文芸美術の森]

ミロ「月の前の女と鳥」

            美術ジャーナリスト・美術史学会会員   斎藤陽一

  近くにある立川市立けやき台小学校美術主任の峰尾幸仁先生の要請により、5~6年生を前に、「ミロ」を題材にして「絵を描くことの楽しさ」について話したことがある。
 その時、ミロの絵とともに、次のような画家自身の言葉を紹介した。
「私は子どもの頃、デッサンがとても下手だった。・・・それにもかかわらず画家になりたかった。いや、だからこそ画家になりたかったのだ。」

 ミロは、画家としての道を歩き始めてからも、“上手い絵を描こう”とは考えなかった。それよりも彼は、“自分が描きたいものを描きたいように描く”ことにこだわった。
 その結果、彼が生涯を通して絵画世界で謳ったモチーフは、子ども時代の夢を育んだ生れ故郷スペイン・カタロニヤ地方の風土であり、そこで親しんだ鳥や虫やロバ、夜空に浮かぶ月や星、空想で紡ぎ出した生き物たち、たくましい地母神といったものであった。
 つまり、ミロは、幼少年時代から自身の記憶に染み込んでいる“好きなもの”たちを描き続けた画家とも言える。

 私が小学生たちに言いたかったのも、そのことだった。
 すなわち“ひとりひとり顔つきが違うように、ひとりひとり好きなものは違う。あるひとは虫が好きだったり、ある人は乗り物が大好きだったりする。絵を描くときには、上手な絵を描こうというより、自分の好きなものを描きたいように一心に描いたらいい。そうやって出来上がった絵こそ、自分だけの絵であって、それはとても楽しいことなのだ。ミロという画家は、そのことを生涯やり続け、その絵は人々を楽しませ、時に考えさせ、ついには20世紀を代表する画家の一人になった。”

 とは言え、ミロは、自分自身の絵画については絶えず厳しい目を注ぎ、自分が生み出したひとつの様式にとどまることなく、常に新しい創造に立ち向かった画家でもある。過去に描いた絵を焼却したことさえあった。
 だから、その生涯には、作風がさまざまに変貌したが、それらに基調低音として流れているものは、意外に変わりはない。

 「月の前の女と鳥」(ロンドン・テイトギャラリー)は、1949年、ミロが56歳のときに描いた作品である。
 月や星、女、奇妙な生きものなどのかたちが、余分なものを削ぎ落とし、抽象的な記号のように単純化して描かれている。ミロ的記号に還元された、画家の好きなおなじみのものたちである。
 かすかな月の光が照らす大地から、何やら不思議なものたちがひそやかに湧いてくるイメージである。これらは、大地のエネルギーとか、生命の力といったものを象徴するものかもしれない。だからと言って、ミロは冗舌ではない。ゆったりと、ユーモラスに、自然の力を謳う。

 けやき台小学校の小学生たちは、私の話が終わったあと、画用紙と絵具(パステルや色鉛筆など)を与えられ、20分くらいの短時間だったが、自由な発想で絵を描く「ワークショップ」の時間を持った。
 後日、峰尾先生から、その時に子どもたちが描いた絵を全部見せてもらったが、いずれものびのびと絵具を走らせ、奔放な調子の中に、生き生きとした楽しい絵となっていた。峰尾先生も、出来上がった絵を見て、その発想と自由さに驚いたという。

(注)著作権上の理由で画像はありません。


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にんじんの午睡(ひるね) №19 [文芸美術の森]

秋の風邪

               エッセイスト  中村一枝

 二十年ぶりにひどい風邪をひいた。私は子供の時から体がよわく幼い頃は小児喘息の子供だった。春先のふわふわした風、初秋の爽やかな風がふくたびにいつも布団の中でおじいさんみたいに体を膨らませてゴホンゴホンとやっていた。その度に学校を休むのは当たり前だつた。
 それが四十才でテニスを始めてから、すっかり体質が変わってしまったのか、あんなによくひいていた風邪をひかなくなった。そのお医者さんは、喘息の患者がくるとわたしの話をし、運動をすることで気管が拡がったのだと説明していたそうだ。何が効を奏したのかわたしにもわからない。あんな辛い思いから逃れられてわたしはほんとうにうれしかつた。
 それが今年久しぶりに風邪をひいたのだ。久しぶりとなると風邪といえども初めは懐かしさが先にたった。いやあ久しぶりだねえ、いままで何してたの、なんてことばも風邪にかけたくなるくらいだ。そういう油断と余裕が引き起こしたのか、ひと月過ぎても半月過ぎてもちっとも良くならない。熱はないが咳と食欲不振。こういう風邪はわたしの持ち味ではない、と息巻いて見ても始まらない。それにしても昔は良かった、風邪をひいたといえば、起きるな起きるなとだれもが言い、寝ているといろいろなものが枕元に並んだ。今はそうはいかない。喉が乾いたなと思っても、枕元に何かが並ぶわけはないし、犬も心得ていて、わたしが起きるまではふとんから出ようとはしない。その辺りはお前も名犬の一翼を担っているんだと、グズグズ布団の中で考え、考えても何も出てこないと気が付いて起きあがる。わたしが風邪をひいても犬は元気である。多分起きたら散歩と御飯という図式が犬の頭にはめこまれているのだ。
 そんなわけで久しぶりにひいた風邪のせいでなにやら生活が変わってしまったのだ。独立独歩の精神は変わらないにしてもどこか気が弱くなった。人の情が身にしみるのだ。それにしても私の友達は誰も優しい。栗ごはんもシュークリームも弟の買ってきてくれた夕食も、一緒にお蕎麦を食べに行ってくれた友達も、隣近所全部引っくるめていい人たちに囲まれている幸せ。
 風邪をひいてから前より物がなくなる。メガネなどはなくなっては出てきて出てきてはまたなくなる。小学校からの古い友人にその話をしたら、「あんたっていつも物がない、物がないって言ってるでしょ、前置いたところに置いておけばそんなことおきないでしょうに。」道理を説かれてしゅんとしていたら弟が「お父さんだってしょっちゅう何がないアレがないって探し物してたよ」と一言、風邪がぬけていった。


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フェアリー・妖精幻想 №71 [文芸美術の森]

昔話に登場する妖精 1
              妖精美術館館長  井村君江

 民間に伝わる妖精譚の集成

 イギリスで古くから民間に伝わる「エルグーのまり」の話や取り換え子の話、十七世紀に書かれたヘリックの詩など三十五を集め、そこに妖精像の変遷を史的に辿った文を付けて一冊にした最初の本は、ジョセフ・リトソンの『妖精譚 ― 最初の蒐集本』(一八三一)である。緑革装三方金の豪華な装幀本だが、残念なことに絵は入っていない。これはトマス・キートリーの『妖精神話(一八五〇)より十九年早い。
 キートリーのものには巻頭にクルックシャンクが描いた「妖精丘と農夫」の挿絵が入っている。
 しかしシェイクスピアが読み、あるいは執筆のときに用いたかも知れぬエリザベス朝時代の『ロビン・グッドフェローのいたずら』の長詩も収録されており、イギリスの民間で長い間愛されてきたいたずら者のホブゴブリン、ほうきをかついだパックの映像がむしろ強く浮かび上がってくる。
 一方、十七世紀から盛んにヨーロッパで蒐集し再話されていた民間伝承の妖精物語が、十八世紀にイギリスで翻訳され、読まれてくると、「フェ」の映像がケルト系の「フェアリー」やチュートン系の「エルフ」より強くなってきて、これまでイギリスで活躍していたシェイクスピアが創りあげたオベロン王国の小さい妖精たちとは異なった、人間と等身大で魔法を使う女人姿の妖精が、これ以後の童話の中に大きな役割を占めてくる。
 ヨーロッパの昔話に登場するフエとは、『眠れる森の美女』や『シンデレラ』で魔法を使うフエアリー,ゴツドマザー妖精の代母で、主人公の守護者でもある。主人公の誕生の洗礼式に招かれて祝福を与え、杖の一ふりで願いを叶えてくれる頼もしい女性である。その映像にはさまざまな要素が入っている。
 (1)生れた赤児に未来を予言するのはギリシャの運命の女神(クロート、ラケシス、アトロポロス)の影響である。
 (2)洗礼式で幸運(時に不幸)を授けるのはキリスト教の要素であり、異教の存在である妖精がその式に招かれるのはそぐわぬようであるが、超自然の力を備えているからであろう。
 (3)家を守り、豊饒を授ける、土地の霊としての妖精の要素も入っていよう。
 (4)魔法の杖を使ってカボチャを馬車に変えたりするのは、魔女(ホワイト・ウィッチ=良い魔女)に似た能力である。
 ペローの童話集(コント・ド・フェ)が一八二三年に英訳されて出された時の表題は『オベロンの宮廷または妖精の神殿、過ぎし昔の話』で、「鵞烏おばさん(マザー・グース)、パンチおばさんその他による再話」という副題が添えられている。
 この本の表紙の妖精の絵が興味深いのであるが、(挿画家の名なし)、キノコの上につま先立って魔法の杖を手に、王冠を戴き、マントをひるがえすのはギリシャ風であっても、これは夜を司るオベロン王であろう。絵の上部には蜂にのったエアリエルと思われる裸の男の子、そして四人の蝶やトンボなど、昆虫の羽根をつけ、薄いドレスの妖精たちが星を捧げている。
 イギリスでそれまで人々に広く知られているシェイクスピアの妖精の映像に、フランスのコント・ド・フェ(妖精物語)の妖精の代母の姿を重ねた、いわば外来の物を移植する際の翻案的図柄として見ればじつに興味深いものがある。
 グリム童話系の最初の英訳本二巻(一八二三-二六)に二十葉の挿絵を付けたのはジョージ・クルックシャンクであるが、序文を付けたジョン・ラスキンはそのエッチングの技法を高く評価し、調和ある光と影の作る画面を「レンブラント以来のすぐれた技法」としている。
 クルックシャンクの描いた妖精の代母(フェアリー・ゴッドマザー)はシンデレラに登場するものであるが、『クルックシャンク妖精文庫』の「シンデレラのガラスの靴」(一八五四)に描かれた最初の姿がイギリスの人々に強く印象づけられたようである。
 小柄で小太りの身体にマントをはおり(油絵の「シンデレラ」=ヴィクトリア・アルバート美術館蔵=では赤い色)、つば広の三角帽子をかぶってスカートに前かけ、黒い靴という服装であり、妖精の国から来たというより近所に住んでいる農家のおばさんという親しいものである。
 良い魔女(ホワイト・ウイッチ)が人々の生誕を助けたり、薬草の知識を使って病人を治したり特殊な力を発揮するところから、良い魔法使いのおばあさんの映像もつけ加えられていったようである。
 後世になって童話や現代のクリスマス・パントマイムの舞台に登場し、薄いドレスを着て羽根が生え、星の王冠をかぶり、手に魔法の杖を持つフェアリー・ミッドワイフ(日本で仙女さまと呼ばれる)の姿にはほど遠い。
 クルックシャンクは多作であり、鋭い社会諷刺の戯画やディケンズの小説に付けた挿絵などは『クルックシャンク戯画集』四巻(一八一九-二二)にまとめられている。幽霊や怪物など奇妙な姿の生き物が巧みな筆致で描かれており、美しい姿の妖精像は少ないようだ。本書に紹介するのは珍しい彩色の妖精像である。

シャルル・ペロー童話集「オベロンの宮廷または妖精の神殿」.jpg
シャルル・ペロー「オベロンの宮廷または妖精の神殿」
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ジョージ・クルックシャンク「妖精丘と農夫」
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ジョージ・クルックシャンク「シンデレラのガラスの靴」


『フェアリー』 新書館

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東洋文化の原風景 [文芸美術の森]

東洋文化の原風景~水墨画を描いて

               水墨画家  傅益瑶

  ● 中国人の色彩感覚 ●
 中国人の色彩に対する考え方は古くから厳しい定めがあったようで、清王朝の使用した黄色は無断で使用すると王権への反逆行為ということで厳しく罰せられてきた。
 朱色は正、紫色は貴という意味合いをもって、朱色が少し変化した紅色になると、悪として見られた。正しい紅色であれば、正妻が使用し、ピンクに近い紅の色は妾が使用した色であった。水紅色になると、悪になってしまうのです。
 このように色の使い方を間違ってしまうと、ときとして命を奪われてしまうこともありました。
 紫色は王のものとして用いられてきたが、一番悪質なものを悪紫と呼んだ。これらのことは「老紫紅 婦黄緑」と詠まれた古詩が残されていることから窺い知ることができます。
 中国には西洋思想のようにはっきりとした身分の階級は存在しないけれども、儒教の定めには毅然として色によって区分された階級が残されていました。
 また、道教の教えのなかには、色彩は必要ないものとして、色の定めはほとんどみられないが、生命そのものが色彩としてみることができます。

  ● 色彩とはなにか ●
 日本人に比べて中国人はその色彩感覚が乏しいのではないかと思っています。武蔵野美術大学の学生の時に日本画家の麻田贋司先生から教えを受けたが、こと色彩について先生は特別のこだわりを持って授業を行っていました。
 先生は京都の人で、先生の作品を見ると、どれも暗い色彩によって、その諧調を複雑に変えて微妙な色使いで絵を描いていました。その麻田先生の所に、岩彩で描いた課題の絵を持って行くと、「傅さん、どうして色彩感覚がないの」と言われてしまいました。正直言って大変ショックでした。
 そして、こんどは墨絵の授業になって、水墨で描いた絵を先生のところに持っていくと、「傅さん色彩感覚があるじゃないか、墨でこんなにも色彩感覚を出して描けるのは、もともと色彩感覚があると云うことだ」と褒めてくださいました。
 色彩については専門に勉強しなかったので、感覚的なことしか分からなかったが、麻田先生はあの暗い画面の中に、締密に計算した絵の具を使い別けて、美しい色彩の絵を描かれていました。
 早世されてしまった先生から、色を生命として扱うことを教えて頂く機会を失ってしまいました。
 美しい色調の絵と云えば、東山魁夷先生の色感についてずっと関心を持ってその作品を拝見してきました。やはり学生の頃に市川にお住まいの先生の画室に伺って、床から天井まで届く小さな引き出しいっぱいに絵の具が整然と並べて整理されていたのを見て驚いたことがありました。
 先生は同じ系統の色が百五十種類もあると云って、特にブルーの色にはこだわって制作されていました。確かに色彩の感覚は、中国人よりも日本人の方が繊細で、こだわりを持っていることが判ります。
 しかし、日本画家のなかに、絵の具を収集するのを趣味のようにして画室の棚に並べ、一種類でも多くの絵の具のビンを眺めては楽しんでいる姿を見ると、墨一つで描いている水墨画家にはその感覚は解りません。
 東山先生は、その時私の将来を心配して下さって、「絵は苦しむもの。傅さんは美人だから画家になるのはふさわしくない。可哀相だ。だから女優さんになったほうがいいのでは・・・」と、画家としての厳しい修行の道程を有難い言葉で教えてくれたことを覚えています。

 ● 背筋は天と地を結ぶ ●
 中国で水墨画が発達したのは、北宋から南宋の時代にかけてのことでした。それ以前の唐の時代の絵画はとてもきらびやかで、日本の大和絵もこの時代のものが日本に請来されています。その唐代の絵画の材料は豪華で、白い花を描くときには真珠の粉、赤い簪(かんざし)を描くときは珊瑚の粉といった貴重な材料がふんだんに使用されて描かれていました。したがって絵は千年も経過しても色が褪せてこないのです。そういった絵の具で描かれている絵画は装飾性が高く、美しいけれども、水墨画の領域とは違ったものです。
 墨画は普通にその源があって、王義之や顔真卿などの書かれたものを見るととても心が動かされてしまいます。なぜ感動を呼ぶかと云えば、文字を書いたその筆の先が、こころの重きをそのまま見る人に伝えてくれるからなのです。
 子供のころに習った習字の訓練はとても厳しく、嫌いな時間でした。お手本のきれいな文字を眺めては上手く書けない自分に腹を立てた記憶がたくさんあります。その当時のことを思い浮かべると、訓練の第一は筆を持っときの姿勢でした。背筋を真っ直ぐにすることです。人間の背筋は天と地を結ぶアンテナのようなもので、この姿勢をとることが最初の訓練でした。この姿勢で筆を持って文字を書くのです。
 手で筆を持っときに、卵を手のひらに一つ入るくらいの空間を確保して、指先で筆を握るのです。なぜそのように筆を持つかと云えば、軽やかに力の入れ方加減によって太い線も、細い線も自在に書けるからです。
 また墨については、松の根を燃やしてその煤を膠で練り固めた松煙墨と、樹の灰を使った油煙墨があります。
 硯でその墨を擦るときには、中国に「唐墨如病児 把筆如壮夫」と云う諺があるように、力を入れすぎると粒子が荒っぽくなってしまうのです。
 墨は病気の赤ん坊をやさしく愛撫するような気持ちになって擦ることが大事なことであるとして、こころの静まりと手の力の平均さ加減で操るとよい墨ができると云われています。さらに筆を取ったら、英雄豪傑になった気持ちで力をこめる。筆の下に千万人の敵がいても、私一人で堂々と討ち進んで、絶対に勝利するのだと云う志のあふれる激しさを感じながら描いていくのです。
 筆をおろすときの精神は日本のサムライの刀と同じ感覚を持って筆の先が相手を倒す、倒せなかったら私が倒されてしまうと云う考え方と心意気で描いていくのです。迷いと恐れの気持ちを払拭し、英雄豪傑になった気分で描いていくのです。
 病児はリラックス、こころの静まり。壮美とは勇気と決心と云うことです、そうすることによって描く時には迷いなし、と云うことをこの諺は言っています。


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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №41 [文芸美術の森]

抑圧の絆がゆるんだとき~フルシチョフの時代 2

              早稲田大学名誉教授  川崎浹

 一〇年後のソ連内閣

 フルシチョフはスターリン批判後、バレエ団の海外公演など文化交流を押しすすめ、「雪どけ」政策をとったが、「雪どけ」は完全な「春」には向かわなかった。フルシチョフは検閲を廃止する気構えさえ示したが、ある日、前衛画のグループ展で「ろばのしっぽで描いた」ような絵や顔のない肖像画を見て、考えを変え、芸術家たちの自由化をひきしめた。それで芸術家、文学者たちの間に、フルシチョフへのアネクドート的な評価が生じた。

 後世の事典に、フルシチョフは毛沢東共産主義時代の保守的文芸保護者として名をとどめるであろう。

 このアネクドートの背景には、ソ連が隣接する中国に脅威を感じ、将来中国に支配されるのではないかという一般的なな不安が隠されている。当時、中国はソ連最大の仮想敵国で、それを反映するアネクドートが流行っていた。たとえば、カーター大統領がブレジネフの頼みで、米国が開発したタイムマシン・パソコンを覗かせると、ブレジネフはそこに一〇年後のソ連内閣の顔ぶれを見ることができたが、閣僚名がすべて中国語だった、というアネクドートである。

切手が貼れない

 文芸保護者としてのフルシチョフ自身予期しなかった最大の功績は、収容所生活をあつかったソルジェニーツィンの 『イワン・デニソビチの一日』を「ノーブイ・ミール」誌に掲載すべく英断をくだしたことだ。ところが、これはソ連が自国内の収容所の存在を公認したものとして世界的な反響をよびおこした。
 フルシチョフが抑圧の絆をゆるめはじめると、アネクドートは国民の不満のはけ口として盛んに制作されるようになった。もちろん、まだ収容所送りの危険を伴いつつも、六〇年代になると、不満のうさばらしの役割、つまり安全弁としての機能を政府から公認されたようなぐあいだった。
 民衆には知的自由についての関心よりは、物不足にたいする不満のほうが鬱積していた。民衆の怒りがアネクドートになったというべきか、あるいはアネクドートで笑う前に、民衆は本心怒っていたというべきか。そこでつぎのように辛辣なフルシチョフむけのアネクドートが発生した。

 フルシチョフは郵便局にきて、かれの肖像のついた切手がたくさん売られているのを見た。
 「なんで、こんな。みっともないじゃないか。わたしは個人崇拝と闘っとるのに、きみらはわたしの肖像つきの切手を売っている。いったい、ほかの切手はないのかね”」
 「それが、そのう、ニキータ・セルゲビチ、つまり、ほかの切手はぜんぶ売りきれて、これだけが残っておりまして」
 「どうして買わないんだ?」
 「それが、ニキータ・セルゲビチ、みんなが、この切手が貼れないと訴えまして。ぜんぶの切手は貼れるのですが、これだけが貼れないのでして」
 フルシチョフは切手を一枚とって、唾をつけ、封筒に貼ってから、いった。
 「なんだい、きみらは、くだらんことをいって。りっばにつくではないか」
 「それが、そのう、つまり、ニキータ・セルゲビチ、みんながこちらの面に唾をはきかけるものですから」

 切手の表(フルシチョフの似顔絵)に唾をつければ(吐きかければ)、もちろん切手は貼れない。


『ロシアのユーモア』講談社選書




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