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フェアリー・妖精幻想 №83 [文芸美術の森]

童話作品に描かれた妖精界 1

              妖精美術館館長  井村君江

リチャード・ドイルの妖精画 1

 ジョン・ラスキンの『黄金の河の王さま』(一八五一)は、初めは、のちに彼の妻となった十二歳の少女ユーフェミア・グレイに、語って聞かせた道徳寓話(モレル・ファーブル)である。「スチリア地方の伝説」と副題にあるように、物語の舞台もアルプスの山の麓であり、登場する兄弟たちは「シュヴァルツ」(黒、ブラック兄弟)とドイツ名である。
 物語は谷間にかかる滝が夕焼けに黄金に輝くので、黄金の河と呼ばれている河があり、ある日兄弟の家にその河の精の、「南西の風の王」が訪れてくるというものである。彼は長いひげをたくわえた年寄りの小人で、マントをはおり三角帽子をかぶり、それをくるくる回すと水が飛びちり、大きな円球の泡のように水に浮く。その姿や性質は、チユートン系の典型的なドワーフのものである。
 リチャード・ドイルは、その黄金の河の王が兄弟の家のノッカーをたたいている姿を巧みに描いており、この挿画は「」パンチ』時代以後を代表する優れた作品と言われている。
 ちょうどその頃ドイルは、スイスとドイツ地方を旅して実際のアルプスのスケッチをしていたので、それらの風景を織りこんでおり、版画家のダルジェル兄弟の細密な版刷りが、こまかい山の陰影や木々の輪郭を細密な線で表している。一八五〇年にドイルは黄金の河の王さまの姿を描いたが、その鼻をトランペットのように前につき出させ、先の円い形にした。が、悪評だったので、普通の丸い鼻に描き変え、そのため、おそろしく険しい表情だったものが、下ぶくれの髭づら老人の顔に変っている。
 ラスキンは自伝の中でこの作品を「グリムとディヶンズを真似て、そこに自分の本当のアルプス体験を加えて作った物語で、あまり価値があるものとは思えない」と言っているが、ドイルに挿絵をつけてもらったことは幸運だったと書いている。
 ドイルの挿絵によって、この本は当時の社会で広く迎え入れられ、若いバーン=ジョーンズに妖精物語の挿絵を描こうという気を起こさせるほど、人々に影響を与えたのであった。
 リチャード・ドイルは『パンチ』の主幹で編集をしていたマーク・レモンに十六歳で見出され、多くの戯画の傑作を残したが、個人的にも両者の家庭は親しかった。子供に喜ばれる楽しい機知とユーモアに富んでいたマーク・レモンは、物語を作ることが上手であった。そんな彼がこれも彼と親しかったディケンズの子供たちを喜ばせるために書いたものに『魔法の人形』(一八四九)がある。レモンはこの自作のファンタジィの挿絵をリチャードに頼んだ。
  貧しい人形作りのジェイコブ・プラウトの仕事場が、フェアリーたちに侵入され占領されてしまう話である。このタイトルページの画面の中央には恐しげにまなこを見開いたジエイコブがおり、そのまわりを、妖精の女王の古式ゆかしい行列が、取り巻いている。タイトル文字は木の小枝を組合わせたブロック文字で、署名には古いゴシック体の文字が選ばれており、画面全体に中世風の古雅な情趣がある。
 小さな妖精の群れが人形作りに励む場面も、彼らのコスチュームや容姿は中世の職人風である。簡潔化された素朴な筆で、しかも表情豊かな人物動きの多い妖精たちが二十一のカットに描かれ、物語を語っている。

R.Doyle「黄金の河の王さま」.jpg
リチャード・ドイル「黄金の河の王さま」

『フェアリー『 新書館


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にんじんの午睡(ひるね) №31 [文芸美術の森]

隣のひと

               エッセイスト  中村一枝

 この家を建てたのは今から50年以上前の話である。夫と私が近くを歩いていると、夫の知り合いという赤ちゃん連れのご夫婦に出会った。おなじ会社の人だと言う。眼鏡をかけた温厚そうな人だった。その人はすでに家を建てていて、夫と私がここはどうかと思っていた土地の隣の人だった。ご夫婦ともわたしたちより3~4才年長で、奥さんは目鼻立ちのくっきりした綺麗な人だった。まもなくわたしのところには初めての、S家には二人目の女の子が生まれた。Eちやんと名づけられたその子とわたしの家の娘とは赤ん坊のときからの友達で姉妹以上のなかよしだった。窓を開けけると目の前にS家のガラス窓があった。娘たちはよくそこがら話をしていたが、わたしもS夫人もガラス窓に寄りかかっておしゃべりを楽しんだ。彼女は以前から新劇の女優さんを志していて、実際それから何年か後小劇場の舞台にも立った。Eちゃんが中学生のとき、Sさんは、渋谷の方に越した。それでも以前以上に付き合いは深くなった。
 Sさんは家を売るとき、新しく隣りになる家のもち主について色々考えてくれたらしい。
「女の子三人のご家族でね、とても感じのいい方達なの」それが今のとなりのKさんである。そのKさんとも既に30年以上はたつだろう。ざっくばらんで気持ちのいい奥さんははじめから好感が持てた。若い時にはあまり気にならなかったが隣のあり方で日常が変わることもありうる。特に家にいることが多くなってみると、家から見える範囲のことごとくが若い時より気になるのは確かである。以前裏に住んでいたわたしよりはるかに年配のおじいさんが、わたしの家の玄関に植えた八ツ手が気に入らないと文句をつけてきたことがあった。わたしはまだ20代の後半、八ツ手は玄関に植えるものではないですと言われて大いにカチンと来た。何植えようと私の勝手でしょ。余計なことを気にしないでよと言いたかったたが、がまんした。
 最近ゴミ収集車がバカに早く来る。足が不自由になって簡単にゴミ出しがしにくいから早くから用意して待っている。それが日によって遅いと何とも腹立たしい。きのうKさんの奥さんが、この頃ゴミ遅いでしょう、早くから待っているのにと言った。老人ってみんなおんなじなのかと笑ってしまった。三人のお嬢さんはみんな独立して巣立って行った。今はご夫婦二人で悠々自適な老人に見えるが、人生ってそこまで行けば到達点というのはないらしい。おそらく満足感もないのだろう。だったら好きなように生きる。春の驟雨でも来そうなくらいの空を見上げてなんとなく嬉しくなった。そこが私の、年に似会わぬ軽さ、でも老人らしくしているよりいいのではないかと思った。


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渾斎随筆 №7 [文芸美術の森]

奈良の鹿 1

                    歌人  会津八一

 初めて奈良へ見物に来たものの目に、何よりも先づ気になるものは、大軌電車の驛を出て間もなく、人通りの多い街のまんなかで、鹿に邁ふことである。人を見て逃げ出しもせず、人ごみのなかを、悠然と歩いて行くのもある。また行く手に大きいのが四五頭立ち塞がって、貰ふべきものを貰はぬうちは、容易に遠さぬといふ気色を示すものさへある。
 このふてぶてしさも、初めての旅人には、かへつて物珍らしく、何となく、遠い太古のことなどを考へさせられる。『萬葉集』にある数多い鹿の歌が、とりとめも無く、自然と思ひ出されるのも此の時である。そして、昔の寧欒の都大路の景物のかたみとして、この鹿どもが、今の世にうろついてゐるやうにさへ、思ふ人もあるであらう。
 しかし、なるほど『萬葉集』の鹿の歌は、数こそ多いが、一つか二つの例外のほかは、いづれも遠方から囁き聾を聞くといふのが多く、今の吾々がするやうに、ずつと鼻さきに近寄って、つくづくと顔や姿を眺めながら、詠んだと思はれるものは、恐らくただの一つもない。
 例外と私の云つたのは、先づ
  なつの ゆく をしか の つの の つか の ま も いも が
  こころ を わすれ て おもへや
で、角を歌ってはゐるが、この鹿は、比喩として出てくるまでのことで、實際目の前に、その鹿を見ながら詠んだとは思はれない。その頃の日本には、何虞へ行つても、まだ澤山の鹿が居り、狩も盛んに行はれたことであらうから、鹿の角は、夏にはまだ短いといふくらゐのことは、誰しもよく知ってゐたであらう。だから、その常識で「つかのまも」など云つただけのことにちがひない。
 いま一つの例外は
  いやひこ の かみ の ふもと に けふらも か か の こやる
  らむ かは の きぬ きて つぬ つけ ながら
これもやはり、常識的な想像で、ほんとに目の前の鹿を見て詠んだものではない。
 この二首のほかは、いづれも囁き聲ばかりだとすると、『萬葉集』の歌人たちは、伺うしても、生きた鹿の顔を、近寄ってゆっくり見てはゐなかったとしなければならない。
 そもそも奈良の鹿は、随分古くから、春日明神の眷属といはれ、神社の古い記録には、春日の四柱の神々の中で、建甕槌命(たけみかづちのみこと)は、神護景雲二年に、白い毛色の神鹿の背に乗って、常陸の鹿島から、はるばる奈良へ遷って来られたとあって、その鹿が後世には「鹿曼荼羅(しかまんだら)」の畫題にもなり、今あの邉にゐる鹿は、その子孫だといふことを思はせてゐるが、その時神様が、繪に描くやうに、白鹿の背に立てた神木の幹に取り懸けた白銅鏡の面に姿を宿して、ゆらりゆらりと、遠路をやって来られたものとは、なかなか信じにくいが、とにかく、この傳説に、神護景雲とあるのを、聞き捨てにはならない。
 もともと大和の図には、吉野山にも、蔦城山にも、生駒山にも、近くは高圓山(たかまどやま)にも、鹿は何虞にでも棲んでゐて、もとから歌にも詠まれてゐるのに、この傳説では、それ等とは別口に、今の神鹿の先祖が、関東からわざわざやって来たといふので、この話も甚だ腑に落ちかねるが、とにかく、神護景雲といへば、寧欒時代も、もはや末の方であるから、かりに、その遠来の鹿の子孫が、だんだん繁殖したものとしても、そこらへ出て来て、歌や繪の題材になるには、何うしても、次の平安時代以後を待たなければならなかった。
 鎌倉時代の、延慶二年に書かれた『春日権現験記』の繪巻を見るに、保元年中に興福寺で長講繪(ちょうこうえ)をやって、因明(いんみょう)の大疏(たいしょ)を読んだときに、入口の前に毎日鹿が来て立つたこと、建仁三年東大寺との中間の道で、三十頭ほどの鹿が寝てゐるのを明恵上人が見たことなどがあるが、開法の志があって困明を聞きに来たとか、上人の春日参詣を出迎へたのだとか、今日では別に珍しくもないことを、一々特別に奇蹟扱ひにしてゐるところを見ると、これくらゐのことでも、その頃は、ざらにありふれたことではなかつたらしい。だから、その頃の歌は、やはり、たいていは、聲で聞く鹿であった。

『会津八一全集』 中央公論社


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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №53 [文芸美術の森]

ユーモアのペレストロイカ 3

        早稲田大学名誉教授  川崎 浹

書記長の条件

 アンドロポフもつぎの書記長チェルネンコもおのおの就任後一年で亡くなった。

 タス通信。今日九時、長期の重い病いのあとでソ連共産党中央委員会総書記長、兼最高会議議長コンスタンチン・ウスチノビチ・チェルネンコは意識が回復しないまま、自分の職務を全うした。(一九八五年)

 このアネクドートでは、「職務を全うした」という最後の一行にとどめを置いている。したがって書記長になれるためのぎりぎりの条件というのが打ちだされた。

一、身体を支えてもらわずに三歩あるけること。
二、耳打ちしてもらわずに三言はなせること。
三、書記長が死ぬこと。

 三番目は、前書記長が死んで順番がまわってくるという意味なのか、それとも、三歩あるけず、三言はなせなくなったら、いさぎよく本人が書記長として死ぬことなのか。
 私はちょうどチェルネンコが死去した、そのときモスクワに長期滞在していた。赤の広場で行われたチェルネンコの荘重な葬儀を、七、八人の男たちと散髪の順番を待っているときに、ラウンジのテレビで眺めることになった。一人の中年女性党員があちこちの職場から従業員をひっぱりだし、二、三のテレビの前に立ち並ぶことを命じた。    
 私は自分の立場に思いを致した。こうして一見平気な顔を装ってモスクワで暮らしているが、私にはすでに『ソ連の地下文学』という「反ソ的な」著書があった。自分なりに反体制知識人の後尾につながっている。このくだらない葬儀のセレモニーに参加すべきではない。たった一人の外国人として、腰かけたままでいるか、周囲に合わせて起立すべきか、女性が起立しない私ひとりを注意したらどう反撃すべきか、さまざまなロシア語のヴァリアソトを組立てながら、いま考えるとばかばかしいほど悩んでいた。KGBに密告されたら、どうなるか。家族もいるのに……。
 しかし驚いたことに周囲の男性客たちは起立しないどころか、ソファで足組みしたままである。まもなく例の女性が靴の踵をけるようにしてやってくるや、私たちに注意した。「起立して!哀悼の意を表しなさい」。するとラフな服装の男が「我々には我々の哀悼の仕方があるんだ」といって、動じないではないか。軍服やエリートの背広姿も立とうとしない。ソ連も変わったものだ、と私はひとしおの感慨に打たれたが、驚くことはなかった。当時いちはやくクレムリンに電話をかけた男がいたのである。

 チェルネンコの葬儀がおわるとクレムリンに電話がかかってきた。
 「もし、もし、あなた方に党書記長がお入り用じゃないでしょうか?」
 「なにをいう、あなた、馬鹿じゃないか?」
 「そこなんです! 馬鹿で、老人で、病人ときてるんですよ!」

『ロシアのユーモア』 講談社選書


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石井鶴三の世界 №115 [文芸美術の森]

円山公園1967年/妙義1968年

                画家・彫刻家  石井鶴三

1967丸山公園.jpg
丸山公園 1967年 (120×170)
1968妙義.jpg
妙義 1968年 (124×172)


**************
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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はけの森美術館Ⅲ №49 [文芸美術の森]



                   画家  中村研一

猫.jpg
スミ、羽根ペン 19cm×21cm


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【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面 

 



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フェアリー・妖精幻想 №82 [文芸美術の森]

フスロップとゴーブルの妖精画

               妖精美術館館長  井村君江

 異界の消息を伝えるようなウォルター・ド・ラ・メアの詩集の中でも『ダン・アダン・デリイ』(一九二二)は、「炉端のロブ」や「見知らぬ人」「ドワーフ」や「取り替え子(チェンジリング))」など、さまざまな妖精たちが一堂に会した観がある。

  アザミの綿毛のまわりを妖精は踊る
  やがて大きな金色の穏やかな月が
  妖精たちの小さなドングリの靴を染めてい
                 (「廃墟」)

 ドロシー・ラスロップは、この本に黒白の網の目のような繊細な線と点描で、夜の世界で踊り戯れるエルフやピスキーたち - 透き通る羽をつけ、タンポポの綿毛の上で戯れたり、雪の崖下にひそんでいたり、月夜のキノコの原で遊んでいたり、星空の下で髪をなびかせて雪の上を踊ったりする、冷たいトカゲのように細く華奢な妖精たちを描いているが、詩の幻想怪とよく調和している。
 ラスロップは動物好きで、動物を観察して描いたスケッチも多く、飼っていたペットの猫や犬、ウサギなどをモデルに描いた『聖書の中の動物』では、カルデコット・メダルを受賞している。
 そうした手堅いスケッチをもとにしながらも、フェアリーの世界を簡潔なシンボリックな線で創りあげている。蛾の飛ぶ下、キノコの間にすわって緑の妖精はトカゲをかかえながら笛を吹く。その笛に合わせて金髪と薄衣をひるがえして、金のフェアリー・リングの中でトンボの翅をつけた妖精が踊っている。この彩色画は、日本画を思わせるぼかしの着色、微妙な配色、筆描きの線、図案化を醸し出している。
 ドーフ・オーウェンが編纂した『妖精詩の本』(一九二〇)は、中世バラッド『詩人トマス』から、シェイクスピアの『夏の夜の夢』、アリンガムの『レプラホーン』からド・ラ・メアの『ピーコック・パイ』まで、代表的な作品が百篇集められており、英詩における妖精の史的変遷が一巻で見渡せる素暗しいアンソロジーである。
 ウォーリック・ゴーブル(生没年不詳)による、さまざまな時代背景をもって描き分けられた端正で優雅な妖精たちの彩色図版の別刷り絵十六葉と、レプラホーンやメイヴ女王、人魚、愛らしいエルフたちのモノクロームの木版のカットが、妖精の国をより彩どり豊かで奥深いものにしている。
 『夏の夜の夢』の一場面、オベロンが眠るティタニアの前に現れた絵を見ると、その構図や人物配置、色調が日本的であることに気づく。蝶の翅をつけた妖精王は薄い白色の桜の花のもとに漂い、対照的な色彩の妖精女王を画面の下に配した、余分なものを排除し、中心だけを描くという象徴的手法である。
 水中の人魚の画面も、背景を様式化することによって後方へ退け、中心の人魚を浮き上がらせ、その手前に海蛇の頭だけを置いて美と醜とを対照させるという手法もまた、従来の西洋画の手法とは異なっている。
 また『ベンガルの民話と昔話透 (一九一四)や『アルハンブラ』(一九二〇)など東洋の風物や人物を好んで描いており、異界の生きものの王国である妖精の国のセッティングとして、東方のエキゾチシズムと、日本画の持つ簡潔で象徴的な手法や、微妙な色調の組み合せがふさわしいことを知っていたのである。

W.デ・ラ・メア「ダン・アダン・デリ」.jpg

『フェアリー』 新書館


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にんじんの午睡(ひるね) №30 [文芸美術の森]

馬込文士村

               エッセイスト  中村一枝

    この春はまことに奇奇怪怪、つい一週間までは暖房無しにはいられなかったのに昨日あたりは真夏、同じように世界の情勢も一触即発から一変して融和外交に、昨日までの対立は忘れたみたい。手を取り合ってニコニコしている。戦争したり核の力を見せつけたりしないだけでもずっとましだけれど、この春の天候と首脳達の頭の中と何か連鎖反応があるのだろうか。北の国の刈り上げくんの若々しさが目立ち若いはずだった安倍さんの年齢が見えてくる。以前あれほど颯爽としていたプーチンも油か切れてきたみたいだし、世界の運命が首脳たちの年齢と個性で右にも左にも動くというのは以前からあるけれど、今回の刈り上げ君の決断力の素早さ、独裁国家だからということもあるにせよ足を引きずって歩いている老人には想像できなかった。こうやって長生きしていると歴史のかわりゆくさまをいやでもみることになる。
    この三月一八日馬込文士村についての最後の講演会があった。私もいつの間にかここでの古老のひとりになつてしまった。今回、10年のということで馬込文士村の講演会に終止符を打つことになった。今や文士としては忘れられつつある尾崎士郎だが、人間としてはとてもせ魅力的で面白いけひとだったと思う。戦争中、軍に協力的たったというレッテルを貼られ、そのことは講演会でもよく聞かれた。馬込文士村という名称は近藤富枝さんの同名の著書で広く知られるようになった。 今では大森の売り物になっているから不思議だ。いまでこそ普通の住宅地になってしまった大森山王も以前は野原や藪、小さな森の点在するのどかな場所たった。父が宇野さんと暮らしていたことを知ったのはずーっと後のことである。父と宇野さんのことらを聞いた時は、酒を飲むと浪花節を歌い、酒ばかり飲んでいるように見える父親にそんなロマンティックな時があったことを知りとても嬉しかった。前にも何かに書いたが、父が何かの席で宇野さんの姿を見つけ、おいおいと声をかけたときはその場に居合わせた。酒を飲んでは浪花節を唸る父を恥ずかしく思っていたから、まるで高校生みたいな父親をとても好もしく思ったのだ。父は女性にモテたというか女の人から言われると嫌とは言えないタチだった。母はそれで苦労したという。一度私の妹だという女の子を連れた女の人が伊東の家を訪ねて来たことがある。あまり綺麗な人ではなかったが、わたしは一人っ子と思っていた自分に妹がいたというのが妙に嬉しかった記憶がある。父は雑誌に「我覚えなし」とかいう小説を書いた。妹はできなかったが、弟は生まれた。物語の主人公にに自分を投影する楽しみはひとり遊びの妙技だといまでも思う。


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渾斎随筆 №6 [文芸美術の森]

乗馬靴

                   歌人  会津八一

 大正十四年の春、奈良の旅に出かける時、私はいつになく、乗馬ズボンに拍車のついた長靴を穿いて行った。
 これは傳説によると、推古天皇の御宇、攝政であられた聖徳太子は、今の法隆寺の東院にあたる斑鳩宮(いかるがのみや)から、皇居小懇田宮(をはりだのみや)まで、毎日乗馬で御通ひになったと云ふから、ことしこそ、恐れ多いけれども、その御跡を、私も馬上で辿って見たいと云ふのであった。もしこの宿願が叶へば、その實感から、私の太子思慕の情は、いよいよ昂まるのであらう。そして日頃古い歴史を讀む身として、ともすれば何か大切な啓示を、實地から受けられるのではないか。私はそんなにも考へたりした。
 かねて私は、太子には一番ゆかりの深い橘寺(たちばなでら)のあたりで
   くろごま の あさ の あがき に ふませ たる をか の くさね
   と なづさひ ぞ こし
と詠んだこともある。この栗駒は、甲斐の産で、太子もほとほと歎賞されるほどの名馬であったと云はれ、今も橘寺の境内には、この馬の眞黒な銅像が、日光にひかって立ってゐるし、本堂の片隅に、堂守の要るいろいろの御符のうちにも、何のまじなひになるのか、この馬の、愛すべき小形の墨刷の版畫がある。ところが今の私には、乗るべき馬がない。たうとう奈良の市中で見かけた貸馬を借りることにしたが、それを法隆寺村まで曳いて貰って、それから乗り出すといふことになると、事がだいぶむつかしくなるので、馬主との間に話がうまく纏まらなかった。それでつい實行には至らなかった。
   あをによし なら の かしうま たかければ まだ のらず けり
   うま は よけれど
といふのは、この時の歌である。これだけで見ると、ただ料金の高いのに恐れてやめたやうに聞えるが、實際は、あと始末の方法がつきかねるためであった。
 不似合のカーキ色で、重い長靴を穿いて、しかも馬には乗らずに、私が南大和を歩いたのは、この時のことであった。香具山も、それで登って飴計に汗を絞った。
 山を下りて、麓の畑中に立って、汗を拭きながら陸地測量部の地圖を開いて首を捻る私に、そこらで仕事をしてゐた在郷軍人らしい御百姓が近寄って来て、近いうちに、この邊で演習でもあるのかと、兵隊生活を思ひ出したやうな切口上で、ていねいに尋ねたのは、まことに気の毒な間達ひであった。そしてそれから、日の暮近くに、私は疲れ足を、山田寺まで曳いて行った。
   くさふめば くさ に かくるる いしずゑ の くつ の はくしや
   に ひびく さびしさ
   やまでら の きむき くりや の ともしび に ゆげ たちしらね
       いもの かゆ かな
 そのときの二首のうち、第二首は、それこそ何事もない目前の即景であるが、第一首の方は、山田寺に来て、田の中の古い土壇に立てば、冬を越して枯れ伏した草むらの下に、昔の御堂の礎石があって、踐みつける靴の拍車に手ごたへがあって、それが淋しい。と、私のいふところはこれだけであるが、その微かな気特は、やゝ強く私の心に響くものがあって、この歌を成してゐるらしい。
 この山田寺は、案内書などに、寺址(てらあと)としてある方が似合はしいほどで、講堂らしいのが一軒、むかしの講堂址の片隅にあるが、この寺としての気持は、やはり裏手の田圃の中に、野草離々(りり)として今も残る二つの土壇に索めなければならない。そしてそのほかには、建物らしいものもなく、従って、とり立てて云ふほどな佛像など、有るわけも無い。ほんとにてらあとである。それでゐて、此の寺の名は、いやしくも古美術に心得ある人には、よく知れ渡ってゐた。
 それは先づ、百済式と名のつく伽藍配置が、これ等の土壇の位置から確かめられたり、その土壇には、割合に多くの礎石があったり、特色のある鐙瓦(あぶみかはら)や唐式の小さな磚佛(せんぶつ)が、たまには、その邊から掘り出されたりするからであらう。ことに、その鐙瓦には、飛鳥末期の蓮華文様(れんげもよう)があるので、文化史の時代的興味も、人の心に、一つの力を持つのであらう。だから、此所に立つ美術行脚の同行(どうぎょう)たちには、いろいろ温習(おさらひ)に値ひする日課はあるが、しかし、土壇の上では、礎石のほかに、さし當つて、目に入るものとては、枯草ばかりで、草は様式にも文様にもおかまひなく、勝手に枯れ伏してゐるから、初心の同行のためには、案内記などに見る大まかな見取圖が、おはきにたよりになるかも知れない。
 舒明天皇の御世から、皇極天皇の御世へかけて、蘇我入鹿の不臣暴戻は極まるところを知らなかった。これを憎んで、皇太子中大兄王、中臣鎌足を中心に、ひそかに進められた謀議の一味に、皇太子妃の父、蘇我倉山田石川麻呂があった。天皇の四年六月、三韓から調(みつぎ)を進める日、大極殿の御前で、表文の朗読終るのを機として、佐伯子麻呂、稚犬養網田(わかいぬのかひのあみだ)をして、躍り出でて入鹿を斬らしめる手筈であった。しかるに朗読後の石川廠呂は、あまりの緊張に戦慄して、立ちすくみ、あやふく大事を逸せんとしたことは普く世に知られてゐるが、この正直で小心な石川麻呂が、この山田寺創建の願主なのであった。
 その時、中大兄王の勇断によって、入鹿は立どころに誅に伏したが、その後、石川麻呂は、難波の長柄豊崎(ながらとよさき)に都を移された孝徳天天皇の朝に仕へて、右大臣となり、娘、乳娘(ちのいらつめ)は、入って天皇の妃となられた。しかし石川麻呂は好佞な異母弟身刺(むさし)の鑱言のために、二度までも朝使が其家に臨んで、異心を糾問されることになった。それに對して、彼は唯だ、天皇の御前で、まのあたり申開きを申し上げるとのみ云ひ張ってゐた。けれども時の勢は容赦なく進んで、官兵はもはや、その家を包囲しようとした。危くそれを逃れて、次男を連れて、難紋から大和のこの山田の自宅に引き上げて来ると、かねて父の命を受けて、郷里でこの伽藍の造営を見てゐた長男は、途中の或る槻(つき)の大木の下に山迎へた。そしてこの行き懸りに憤慨して、追手の遊撃を勧めたが、石川麻呂は静に我が家に入り、一族寺檜数十人を集め、忠孝の大義を説き、そもそもこの伽藍の建立さへ天皇の御為であること、たとへ身は、鑱に遇うてこゝに果てるとも、大義は長へに忘るまじきこと、逃れて此所に来たのも、臨終の安心を得るためにほかならぬこと、彼はこれを説き了つて、佛殿の扉を開き、生々世々至に他心あるべからずと重ねて誓言して、自ら縊れて死んだ。妻子も後を追って殉(したが)った。そこへ迫って来た追手の大將のうち、大伴狛(こま)は、石川麻呂の自盡を聞いて、途中から引き返したが、兇悪な身刺等は、尚ほ攻め寄せて、寺を圍み、物部鹽(もののべのしほ)にいひつけて、佛殿に入って石川麻昌のすでに息のない屍を斬らせた。盬は大聾で叫めきながら、斬りさ
いなんだ。
 連累の處分は一族にも及んだ。そして彼の遺産の調査に差し向けられた朝廷の使者が、いろいろ鮎検してゐるうちに、重實の上には「皇太子の物」、善本の上には「皇太子の書」として、必ず石川麻昌の自筆で書いてあるのを見つけた。皇太子は、あとで、この復命を聞いて、いたく感動され、忽ち身刺をば筑紫へ、太宰帥として遷された。
 しかしこの後、太子の御所は、晴れやらぬ愁雲に閉されて、妃の造媛(みやつこひめ)のためには、御父の屍をさへ、尚は斬り唇かしめた物部鹽の名を忌んで、食膳の鹽も、近侍の人々は憚つて、堅鹽(かたし)とのみ云ふほどにした。しかし、妃は手いたきこの傷心の為めに病み伏し、ついで薨ぜられ、太子の御感を、ひとしは深くした。ある日、川原満(かはらのみつ)といふものが、皇太子の御前に進んで、二首の歌を奉った。
   やまがは に をし ふたつ ゐて たぐひ よく たぐへる いも
   を たれ か ゐ にけむ
   もと ごとに はな は さけども なにと かも うつくし いも
   が また さきで こぬ
 皇太子は御琴を授けられ、満が自分でこの歌を唱ふのを、つくづくと聞かせられて、厚く物を賜はつたといふ。
 春浅き山村の、夕幕は淋しい。しかし此の廃寺の残礎に腰を下ろして、しみじみと私の覚えた淋しさには、かうした古い話も手傳ってゐたのであらう。

『会津八一全集』 中央公論社


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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №52 [文芸美術の森]

ユーモアノペレスオロイカ 2

             早稲田大学名誉教授  川崎浹


人口の八パーセントが党員に

 プラトンの『国家』を読んでもわかるように、ギリシャ時代からユートピア思想があり、中世、近代、現代とつづいて二〇世紀にソ連共産主義に受けつがれたことは、すでに常識として受けとられている。しかし、ユートピアは手が届かないほど遠かった。

 男が野原に立って、遠くを見ている。男に党員が近づいてきて尋ねた。
 「やあ、どこを見てるのかね?」
 「ええ、どこが住み良いかと思ってね」
 「だったら、言ってるじゃないか。(我々の居ぬ所こそ良き地なり)と」
 「だから見ているんだよ、あんたたちのいない所をさ」

 これには少なくとも二つの下敷きがある。一つは一九世紀の有名な社会派詩人ネクラーソフの詩『ロシアは誰に住み良いか』。二つ目は「我々のいぬ所こそ良き地なり」という諺である。男は党員にうんざりしている。しかし、うんざりしていたのはこの男だけではなかったという、つぎの証言がある。

 屋根から煉瓦(れんが)がおちてきて通行人を負傷させた。群衆がかけつけてきた。皆が怒り狂った。
 「おう、おう、煉瓦が屋根からとんでくるような時代になった。歩くのも怖いくらいだ」
 このとき群衆のなかから一人がかがみこんで被害者の顔をのぞいた。
 「みなさん、この人は機関の人(党員)です」
 みながいった。
 「機関(オルガン)の人がこんなに増えたんじゃ煉瓦も落ちる所がないわなあ」

 一九一七年の革命当時、ソ連の共産党員は二万四〇〇〇人だったが、ブレジネフ死後の一九八三年には一七四〇万人に膨れあがっていた。驚くべきことに、ゴルバチョフが再建政策を打ち出した二年後の八八年にはさらに二四〇万人の党員がふえている。同年、党員候補者も六四万人いた。これをふくめると、二億五〇〇〇万の人口のほぼ八パーセントが党員だったことになる。
 知人のバレリーナも党員になるために頑張っていたが、KGBと共産党首謀の九二年のクーデター事件のときは元の時代に戻るのかとおびえていた。そして直後に共産党が解散してからは、夢がさめたようにただの高民に戻った。それでも自分の内部の共産主義を処理しきれず、屈折した心理をもつ人たちが、中年の一般市民のなかに意外と多い。
「して良いことすら駄目なのである」
 知らぬまにゴルバチョフが登場してしまったが、このまま彼にいてもらうためには、ブレジネフに退場してもらわねばならない。ソ連市民もそう願っていたようだ。こんなアネクドートがある。アンドロボフはそのとき泣く子も黙るKGBの長官だった。

 死がせまっていたとき、ブレジネフがアンドロポフを呼ぶように頼んだ。アンドロポフが枕元に近づいた。
 「ユーロチカ、きみは私の後がまにだれがすわるのか、情報をつかんでいるのだろう?だれがなるのかね?」
 「私です」とアンドロポフは答えた。
 「もし民衆がきみの後について行かなかったらどうする?」
 「そのときはレオニード・イイリイチ、彼らはあなたの後につづくことになります」

 別のヴァリアントでは「民衆」が「党中央委員」になっている。そして、二人はもっと親しげに愛称で呼びあっている。アンドロボフがブレジネフのあとを継いだとき、外国のジャーナリズムはアメリカ音楽を好む理性的な教養ある紳士として彼にスポットを当てた、しかし、民衆は見るべきものを見ていた。いつのころからか、つぎのような「民主義の原則」という名のアネクドートが発生したが、この「プリンシプル」はアンドロボフの時代になっても変わらなかった。

 イギリスでは多くのことが駄目であるが、しかし、して良いことはして良いのである。フランスでは多くのことはして良いのだが、しかし、駄目なものは駄目である。アメリカでは駄目なことすら、してよいのであるが、ソ連では、して良いことすら駄目なのである。

 これをふつうの早さで通読して理解できる読者はアネクドートの天才にちがいない。私などはクリントン大統領弾劾事件を思って、アメリカのことがわかったぐらいである。理解できた読者も「天才」だが、しかし二〇~三〇年も前にアメリカの体質を見抜いたアネクドートの作者、つまりロシアの「エートス」はやはり天才なのだ。

『ロシアのユーモア』 講談社選書

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石井鶴三の世界 №114 [文芸美術の森]

奈良 1967年 2点

                画家・彫刻家  石井鶴三

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奈良 1967年 (172×125)
1967奈良.jpg
奈良 1967年 (172×125)


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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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はけの森美術館Ⅲ №48 [文芸美術の森]

バラ

                   画家  中村研一

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水彩 28cm×27cm


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【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面 

 



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往きは良い良い、帰りは……物語 №57 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語
その57 TCCクラブハウスに於ける第3回
     「蛍烏賊(ほたるいか)」「遍路(へんろ)」「ホワイトデー」「耕(たがや)す」

                       コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

◆◆ナイスなイラスト、2点鑑賞。
先ずは届いた案内状です。
期日は●平成30年3月11日(日)
時間は●午后1時より
会場は●表参道・東京コピーライターズクラブ
会費は●1,500円
当番幹事は●森田一遅&沼田軒外……と書いてあります。
そして、ご覧ください。案内状に添えられたイラストは蛍烏賊(ほたるいか)の刺身です。

「ほたるいか」と言えば、どの歳時記でも、先ず「発光」、次いで、「富山湾」「天然記念物」という3つのキーワードで解説され、多くの例句がそれにならっています。
しかし、今回の当番幹事さんは違います。料理、食材としての蛍烏賊(ほたるいか)にしました。
何故?? 私が思うに、つまり、勝手に推測したところ、次のようなことではないでしょうか。

57案内状.jpg    

◆◆「ほたるいか」は、鰻(うなぎ)に負けないほどのビタミンAを含有するほか、貧血予防に役立つビタミンB12や、血中のコレステロールの上昇をおさえるタウリンも沢山含んでいることが、最近の研究で判明したのだそうですね。それに加えて……

◆◆素朴な塩ゆでをはじめ、刺身に、佃煮に、干物に、焼き物に、煮物に……と、味わいの面からも広く、深く、捨て難いものがある「ほたるいか」ですから、今後、ますます愛好者を増やして行くことが見込まれる、ステキな食材と言えるのではないでしょうか。

◆◆こうしたことを、きっとご存じの幹事さんですから、案内状のイラストも、ナイスなものになりました。「美味しいよ!」

◆◆その案内状とは別に、句会の当日「持ち込みレター」もありました。鬼禿氏から孝多に手渡されたものです。「ちょっと、描いてみましたよ……」「おお、おお、大大サンキュー・ベリー・マッチィー」♪


57鬼禿.jpg

◆◆描かれたイラストは、兼題に従ったお遍路さんです。愉快! しかも1人は「ほたるいか」の装束(しょうぞく)です。幹事さんの似顔にもなっているし……、「レター」を楽しんで頂けて有難い限りです。

◆◆しかし、また、何故、「お遍路さん」は春の季語なのか??

「遍路」と言えばこれを指す、代表的な遍路は弘法大師ゆかりの四国八十八か所の霊場を巡り歩いて拝む「四国遍路」。
この四国遍路にあやかって、坂東、秩父、江戸、京都などにも、遍路と呼ばれる巡拝はあるけれど、それぞれ三十三か所であるとか、弘法大師に限らず観音様めぐりになっているとか、実態は様々なようですね。

◆◆その様々な「遍路」が歳時記には、ひとくくりにして、「春の季語」とされています。分かりにくいなあ。四国でない所の寺々を秋に巡拝したら、それは秋遍路というのかしら。
さらに、ややこしいのは、遍路と同じように思える言葉「巡礼」は、歳時記に載ってないという事実。つまり、「巡礼」に季節は無い。いつ行っても良い、ということか。ウ~~であります。

◆◆そこで孝多は、またまた、勝手な推測をして、次のように解釈することにしました。煩瑣なようですが、書いてみましょう。
『遍路』は春の季語である。何故なら『空海・弘法大師の忌日(空海忌)が3月21日だから。』『四国の山野の厳しい冬の寒さに耐えて温暖な春を迎え、人々も啓蟄(けいちつ)の如く這い出すのだから』。
さらに『遍路の旅程は、巡る円。巡礼は順礼であって、行って還る中心点とヘアピン線。』

ですから、四国遍路以外は季語ではなく、『秩父遍路』なども、その句を無季の句にしたくない場合には季を示す語を添えること。
(強引かなあ。皆さんはどうお考えになりますか。四国遍路を秋に行なった、という場合はどうするか。それも考慮しなくてはいけませんよね。)

◆◆さあて、当日(3月11日)。
席題の「耕す」と「ホワイトデー」が張り出されると同時に、親切な幹事さんは、A-4の紙に手ぎわ良くまとめた詠題の解説を全員に手渡しました。下記の●兼題1、●兼題2、●席題1、●席題2が、それです。

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●兼題1 ほたるいか
光を放って、大群で海面を泳ぐ様子が天然記念物に指定されている、富山湾のほたるいか。新物の釜揚が酢味噌付きのパックに入って、魚屋の店頭に並ぶと、もうそろそろ春ですね。

●兼題2 遍路
1980年代で5万人前後、2000年初頭には8万人と、徐々に増加している、四国お遍路人口。これからは高齢化やインバウンドも考えると、もっと増加するかも。春の季語としては明治期からだそうです。

●席題1 耕す
たがやす。語源は、田を返す。冬の固まった田の土を返して、暖かな空気をたっぷり含ませる仕事は、農耕民族にとっては、始まりの仕事。そして英語の「カルチャー」には「耕す」と「文化」の意味があります。心を耕すことは文化や教養につながるのです。

●席題2 ホワイトデー
これは、日がはっきりしているのに、まだ、正式に季語になっていないようです。バレンタインは季語なのに。ホワイトデーは、永遠にバレンタインデーの裏方です。で、お気の毒でもあり、この場で季語にしたいと思います。

★以上が幹事さんからの説明であり、提案でもあります。そうですよねえ。いい句が出現すれば、正式に季語となる。それが、慣(ならわ)し。「ホワイトデー」を私たちの力で桧舞台に押し上げましょう!

◆◆なお、あまり例を見ませんが、ときには、こんなこともあるんですね。
今回Xさんが選んだ天・地・人の句は3句ともY氏の句でした。ちょっとした珍事です。「あげ過ぎ~、あげ過ぎ~」の声が、あちこちから上がりましたが、勿論、ブーイングではありません。図らずも生じた珍現象に、むしろ朗らかな盛り上げのシャウトです。「ひゃ~」。
賞を受け取ったY氏は、おじぎをしっぱなし。賞を手渡すXさんは、少々赤い顔。賑やかで屈託が無くて、良かったですね。

◆◆キャーキャーやってる皆さんのお顔を着席のままに、鬼禿氏が描いてくれました。


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ご馳走は浜藤の逸品「銀だら西京焼弁当」。酒類も嬉しく、かくのごとし。 

◆◆そうこうしているうちに、いよいよ選句の口頭発表です。
私・孝多は、幹事さんのOKをもらって少々、語らせて頂きました。選んだ8句について、何故選んだか、です。
殊に『眠る土 鍬に目覚めよ 春耕す』については、上等な言葉あそびにもなっている点、高く評価できることを述べました。つまり、我らが師、故・土屋耕一氏のお名前が組み込まれているほか、「眠る」と「目覚め」の対比、「鍬(くわ)」の「秋」と「春耕」の「春」との対比が見事に出来上がっていることへの賞賛です。
それを述べて良かったと思いました。「あっ、そうか。」という某氏のつぶやきが、聞こえたからです。
こうして、お互い、分かり合えることって、良いことですよね。楽しくて、大切な出会いですよね。

◆◆さあて、トータルの成績発表で~す。
得点表の正の字を数えて、係が、声を張り上げます。

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左から地の弥生さん、人の鬼禿氏、天の矢太氏。お3方に拍手!!

◆本日のトータルの天は~51点の矢太氏!
代表句は「何を耕しているのか 老土竜(もぐら)」 パチパチパチッ。

◆トータルの地は~28点の弥生(やよい)さん!
代表句は「片手袋 見つからぬまま ホワイトデー」 パチパチパチッ。

◆トータルの人は~26点の鬼禿氏!

代表句は「病棟の 天井いっぱいの 蛍いか」  パチパチパチッ。


◆トータルの次点は~25点の兎子(とこ)さん!
代表句は「干されもし 炙(あぶ)られてもなお ほたるいか」 パチパチパチッ。

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 天位へ贈る絵付き短冊

皆さん、おめでとうございました。パチパチパチッ。おかげさまで、今回も良い交歓の会でした。

では、また。来月の当番幹事は、小池茘子さんと永井舞蹴さんですね。どうぞ、よろしく。皆さん、お元気に。草々  孝多
                                      (第57話 完)


帰りしな、TCC事務局のお3人のために、気持ばかりの品を孝多は冷蔵庫の中にいれておきました。クラブハウスの中の一室は、毎回、楽しく使わせてもらっています。


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第579回 こふみ会・本日の全句
      平成30年3月11日    於 TCCクラブハウス(第3回)

◆兼題=蛍烏賊(ほたるいか)    順不同
星くずの 生まれ変わりか ほたるいか         舞蹴
波に揺れて 光る命や 蛍いか                              孝多
海底から 浮かびし言葉か ほたるいか                          矢太
ほたるいかに導れ 補陀落(ふだらく)へ向かう               軒外
干されもし 炙(あぶ)られてもなお ほたるいか            兎子
病棟の 天井いっぱいの 蛍いか                                   鬼禿
百光年 波間に歌う 蛍烏賊                                         茘子

命果つ 煌めきあはれ 蛍烏賊                                      美留
ほたるいか 酢味噌のしとねで 海の夢                           一遅
すきとおる 少女の声や ほたるいか                              虚視
ツツイカ目(もく) ホタルイカモドキ 春を告ぐ             弥生
北の空 舞うLED 蛍いか                                             珍椿

◆兼題=遍路            順不同
一つづつ 穢をはがし 遍路いく                                     珍椿
ほろ苦き 未練を抱きて 遍路行く                                  舞蹴
夢を見た 私も遍路笠(へんろがさ) かぶってた              孝多
まっすぐな 道をお遍路の列 消えていく                          軒外
現世(うつしよ)を 上々と云ふ母 遍路みち                    美留
幼な子を 連れた遍路の ゆく山路                                  一遅
すてきれぬ 煩悩(ぼんのう)連れて 遍路旅                    虚視
ふり返れば 遍路大杉漣の 残像                                     鬼禿
遍路消ゆ 無人のバスも 走り去る                                   矢太
遍路行く 花蹴散らして 振りむかず                                兎子
星と眠(ねむ)る  遍路の蓐(しとね) 甘茶蔓(づる)      茘子
遍路旅 出でしかの人 いま何処を                                   弥生

◆席題=ホワイトデー                 順不同
バレンタイン 知らねばホワイトデー 気にならず                虚視
雪解けか 雪崩か妻への ホワイトデー                              一遅
義理なのに 返しやりすぎ ホワイトデー                            美留
おしよせて 引いてゆく波 ホワイトデー                            茘子
シャイなのだ 遠く小さく ホワイトデー                            孝多
ホワイトデー 忘れたふりする 上司                                  鬼禿
義理もらい ホワイトデーで 愛かえす                               兎子
ホワイトデー チョコレートでは 芸がない                         舞蹴
老夫婦 ホワイトデーの レストラン                                  珍椿
ホワイトデー 義理のゴディバかトイスチャー                       軒外
片手袋 見つからぬまま ホワイトデー                               弥生
観覧車 微動だにせず ホワイトデー                                  矢太

◆席題=耕す                         順不同
耕して また耕して 至る天                                          虚視
耕すのは ほどほどにして ごはんにする                             軒外
眠る土 鍬に目覚めよ 春耕す                                           美留
播磨なる 父祖の田耕す 人もなし                                      弥生
耕す人 種蒔く人の 七年目                                              鬼禿
耕せる 心のひだは 柔らかく                                           舞蹴
苗はない 耕すだけが 解となる                                         兎子
耕すわ あいつの心 花の種                                               茘子
何を耕しているのか 老土竜(もぐら)                                矢太
耕して 人はこの星 一万年                                              一遅
アフガンの 荒野耕す クボタです                                      珍椿
耕して 我が現在地は キミの前                                         孝多


                                      以上12名 48句

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フェアリー・妖精幻想 №81 [文芸美術の森]

『ゴブリン・マーケット』と『湖の乙女たち』 2

              妖精美術館館長  井村気家

 ラファエル前派の持つ中世的な情趣と世紀末の病的な細い線にアー÷ヌーヴオーの近代的な装飾性も加味され、それらがモノクロームの細い線の重ね合わせによって錯綜した美を醸し出し、崩壊してゆくエルフィンタウンの退廃美までも表現して、妖しいオベロン王国を現出させている。
 ハウスマンがアイルランドのジェーン・バーロゥの詩に挿絵を描いたように、ラファエル前派の中心人物であるD・G・ロセッティも、妖精の宝庫であるアイルランドの詩人のウィリアム.アリンガムの詩に挿絵を描いている。
 アリンガムはアイルランドの民間伝承の妖精の容姿性質を『妖精』という一篇の詩の中に見事に定着させた詩人で、ラファエル前派の一員でもある。ロセッティの妹クリスティナも『ゴブリン.マーケット』を書く際に、この詩をトマス・キートリーの『妖精神話』の本と共に念頭に置いていたようである。

  天にそびえるお山を登り
  蘭草(いぐさ)茂れる谷間を下り
  狩には行くまい、小人が恐い
  小さい奴ら、気のよい奴ら
  緑の上着に赤帽子
  白いフクロウの羽つけて
  ぞろぞろこっちへやってくる。

 この妖精たちはカエルを番犬がわりにし、黄色い泡のビスケットをかじっている、岩山に住んでいるダーク・エルフであるが、アリンガムは老人のけちん坊の片足靴屋レプラホーンを始め、アイルランドの民間に伝わる一人暮らしの妖精などをさまざまに歌っている。
 しかしその中でD・G・ロセッティが選んで描いた妖精は、いかにもラファエル前派好みのフェの種類に入る人間と等身大の湖の乙女である。
 詩の題名は『湖の乙女たち(エルフィン・メアー)』で、牧人の息子が家のはた織り部屋に現れる三人の美しい娘に恋をし、求めても得られぬままこがれ死にすることを歌った詩である。

 夜ごとはた織り部屋にやってきた、
 白い衣を身にまとう三人の乙女たち
  糸つむを手に -
  (中略)
 調子に合わせてつむぎながら
 湖の妖精の歌(エルフィンソング)を唄う

 白い百合の花のような、三人の乙女たちはある夜、音もなく雪のような羽の上を飛びゆく三羽の鳩のように消えてしまうのであるが、糸をつむぐ三人の乙女の姿にはギリシャ神話の運命の三女珂クロート、ラケシス、アトロポロスの映像が重ねられているようである。
 画面に立つ三人の乙女たちが手に操る三本の糸は、少年の生命の糸のようであり、乙女たちの悲しげな表情は、真の愛を知り、思いをとげられず、自分を滅していく若者の運命に同情しているようである。と同時に、三人の乙女たちは若者を愛に目覚めさせ、空しい思慕と憧憬にやつれさせ、破滅へと導いていく美しい誘惑者でもある。
 有名なダルジェル兄弟の木版技術によって、乙女たちの白い衣と若者の黒の存在とが対照的に仕上げられ、端正で奥行きのある画面となっている。

D.G.ロゼッティ「湖の乙女たち」.jpg
D.G.ロセッテイ「湖の乙女たち」
L.ハウスマン「エルフィンタウンの最後」.jpg
ローレンス・ハウスマン「エルフィンタウンの最後」

『フェアリー』 新書館


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にんじんの午睡(ひるね) №29 [文芸美術の森]

 暗闇坂85(エイテイファイブ)

                  エッセイスト  中村一枝

 わたしには15才年下の弟がいる。15年違うというのはかなりの開きで、弟が生まれた当座はあまりに嬉しくて、学校の友達の誰彼なしに「うち、弟が生まれたの」としゃべりまくった。「弟が生まれてどうしてそんなに嬉しいの?」何人かの友達にけげんな顔をされた。それでも60有余年経てば生まれた当座の、絵本で見た玉のような男の子も老人になる。もちろんその赤ん坊の15才年上の姉はひいおばあさんの年である。ところがこの姉も弟も、年の割にはどこか幼稚で成長しきれないところがある。そこのところは15才違っても似ているきょうだいなのだ。姉の方は、子どものときから本能的な犬好き、それを80年以上ゆるがず持続し続け、いまだに愛犬とズルズルべったりの関係がつづいている。弟は心ならずも独身を通し未だにた1人暮しをつづけている。
 身辺淋しい老人にとって孤独を癒す唯一の慰めが、テレビで孫ほどのかわいい女の子を見つける事らしい。長い年月の間に対象はその度に変わっていく。最近は乃木坂46 というコーラスグループの中に見つけたようだ。このコーラスグループに実際の坂の名前をつけてしまったところがとてもホットでユニークだ。乃木坂は赤坂にあるが欅坂はどこにあるのだろうと考えるのも楽しい。坂の名前を若い女の子のコーラスグループに結びつけるなんて普通思いつかない。さすが才人秋元康である。
 私の住む大森も坂の多い町である。まして山王という地名でもわかる通りどこへ行くにも坂、老人には不便なところだ。子供が幼稚園、小学生の頃からの友達が7、8人いる。初めはみんな若くて生き生きしていた。最近はそれぞれさまざまな悩みを抱えている。以前は韓ドラのファンも多かったし山王カムチヤルブと名乗っていたけれど、この際名前を変えてみようと思った。それでふと思いついたのだ。華やかな若い女の子並みに近くの坂の名前と考えているうちにある坂に突き当たった。あまりにわれわれにぴったりの坂なのだ。もちろん昔からある。暗闇坂、駅に行くのには階段ともう一つ小さい坂、おじいさんもおばあさんも、若い子も若くない子もこの坂を通る。それにしても我々にぴったりの坂があったとは。
 くらやみ坂エイティファイブ85。85は少しサバを読みすぎたが、二、三年たてばみんな似たようなものである。さっそく友達に話したらゲラゲラ笑いだした。実を言えば我々の行く先なんてまさに暗闇坂。こう言う坂を毎日のように登り降りしていたのだ。この暗闇坂はなんと関東大震災にも耐え抜いたという話なのだ。
 私は自分が老いていくという実感がなかった。少なくとも去年までは。それが足の運びがうまくいかない。整形外科やらマッサージやらいろいろ試みているがあんなに好きなテニスもしていない。それでも私の中ではもう一度テニスをしたい思いにあふれている。楽天的であることは決して悪いことじゃない。年を取ってもあんまりお利口さんにはならないほうがいいのだとつくづく思う暗闇坂85なのである。

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渾斎随筆 №5 [文芸美術の森]

鹿の歌二首

                   歌人  会津八一

 私の歌集には、奈良の歌ばかりでもないが、だいたい其の方角のものが多いので、それに因んで『鹿鳴集』とした。編輯には、わりあひに気をつけたつもりでゐたのに、つい取り落した歌が二首ある。それも「庇の鳴くを聞きて」とでも詞書のありさうな歌なので、考へて見れば、まことに不注意のいたりであった。それを、こゝで補っておく。
   しか なき て かかる さびしき ゆふべ とも しらで ひともす,
   なら の まちびと
   しか なき て なら は さびし と しる ひと も わがもふ
   ごとく しる と いはめや も
 時は大正十年十一月、奈良客中のある日の夕碁を、嫩草山(わかくさやま)のわきから、宿に帰る途中に詠んだもので、歌集では『南京餘唱』の後半へ加へるべきものであった。鹿の聲はもとより淋しい。それに私の定宿のある登大路(のぼりおほぢ)あたりの夜はことに淋しい。しかしそれよりも、私の気持の方に、もつと淋しいものがあったのであらう。それから、これは歌集にもあるが、同じ年の早春に
   かすがの の よ を さむみ かも さをしか の まち の ちまた
   を なき わたり ゆく
といふのを詠んでゐる。これも、宿の窓もとなどで、よくある實況ではあるが、やはり私の気持の勝った歌ひ方をしてゐる。この気持がかうじて、最初の二首になったとも云へるであらう。ことによると、私の歌全體の調子にも、この邊に一つ大きな脈が在るのかも知れない。そこでこの二首を採り遺したのは、ほんとに不覚であったと云はなければならぬ。
 しかし『詩経』の「小雅」のなかに、「鹿鳴」と題して三章の詩があるので、書物を好きなものは、とかくそこにこだはるものと見えて、私ののも、そこから出た名では無いかと、さも嬉しげに問ひ寄る物識りが折々あるけれども、『詩経』の「鹿鳴」は、支那の大昔に貴人から群臣に饗宴を賜はる時の音楽の歌詞であって、たとへばその第三章には
 呦呦鹿鳴。食野之琴。イウイウトシテ鹿鳴キ。野ノ琴ヲ食フ。
 我有嘉賓。鼓瑟鼓琴。我二嘉賓アリ。瑟ヲ鼓シ琴ヲ鼓ス。
 鼓瑟鼓琴。和欒且湛。瑟ヲ鼓シ琴ヲ鼓シ。和欒シ且ツ湛(タノシ)ム。
 我有旨酒。以燕欒嘉賓之心。我二旨酒アリ。以テ嘉買ノ心ヲ燕欒セシム。
とあるのでもわかるやうに、同じく鹿が鳴いてゐても、明るく、賑かに、楽しく、私の奈良の一人旅とは、似てもつかぬものである。だから私の歌集の聯想が、そこまで及ぶべき限りではない。しかし奈良公園の或る茶店に、「鹿鳴呦々」といふ扁額が、今もかけてあり、その筆者も、やはりかくいふ私であるが、この場合にも、私はただ「鹿が呦々(いういう)と鳴く」と書いたまでで、『詩経』に出てゐるにしても、その點をあまり重く見ることはやめにして貰ひたい。『詩経』では、馬は蕭蕭(せうせう)となき、鶏は膠々(けうけう)となき、鹿は呦々と鳴く。しかし鹿が饗宴の時だけに呦々と鳴くのではないから、こんなことは、いつも出来るだけあっさりと、自然にして、こだはりを避けたいものだ。さもないと、とかく物が臭くなる。
 つい先頃、交換教授のために佛印からやって来たロシャ人のゴルーペフ博士と、偶然にも一二度落ち合って、茶を飲みながら、いろいろ話をした。しかし御互に、言葉の不自由もあり、あひ手の手もとの様子も不案内なために、せっかくアジャーンタと法隆寺の壁畫の比載とか、佛像の顔に表はれた人種的特色とかいふ、相常な話題になっても、正直なところ、話が充分に掻ゆいところへ行き届くとまでには行かなかった。あちらでも多分さうおもってゐたであらう。ところが、何かのはずみに、「シカ」といふ日本語が出ると、奈良で見て来たばかりのやつを思ひ出したものと見えて、さも嬉しくてたまらぬと云つた風に、急に顔を輝かせながら、手を拍つて、「シカ……シカ」と、まるで子供のやうにうれしげに、この老博士は聾をあげた。「そのシカは何うでした」と尋ねると、私はいっそ日本の奈良の鹿に生れた方がよかったと、儒教美術の通人だけに、まるで本生譚張の返事をされるから、實は私もずつと前から同感でゐるのだとやり返へすと、側に居たほかの佛蘭西の學著は、それでは、これにならないかしらと、両手の人指し指を耳の上のところへつけて、それを角にして、首を振って、角衝合(つのつきあひ)の眞似をしたので、皆で大笑になった。ほんとに鹿は、いつ見ても、誰の目にも面白い。生きてゐるからである。美術も生きてゐるのであらうし、もちろん天然の鹿などより、高偏なものには達ひなからうが、それを活かして見るのは、見る人の目のはたらき一つである。めいめいが、果してどれだけ、ほんとに活きた美術を見てゐるのか、比較することも出来ないが、それでかへっていいのかも知れぬと思ふほど、むつかしいのは美術である。そこにいたると、鹿はとにかく自體が生きてゐるのであ。、出来上りに巧拙もないし、見やうによって生きるの死ぬのといふのでもないから、まことに簡単でそして安心である。あの色合の鮮かさ、動きの軽さ、とりわけ、あの鳴き聾は、大ッぴらで、高ッ調子で、そのくせ、そのまゝ人の心に強く恥み入る。あんな調子で人間の歌も詠めないものであらうか、と、つくづく思ふこともある。かう考へると、『鹿鳴集』とは、私の集の名としては、少し不似合なほどに出来過ぎてゐるのかも知れない。
                             (昭和十六年八月八日稿)


『会津八一全集』 中央公論社




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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №51 [文芸美術の森]

第三章 混迷の時代を生きる

            早稲田大学名誉教授  川崎 浹

1.ユーモアのペレストロイカ
資本主義社会にいたる遠い道のり
 共産主義の七〇年間にピリオドを打つ時代が「思いがけなく」出現した。しかし、内側から見ると、ソ連体制は計画経済システムで人びとの労働意欲を喪失させ、個性的で独創的な人物の活動をおさえ、芸術文学、経済、先進技術の展開にブレーキをかけてきた。一九七〇年代の終わりには「社会主義とは資本主義社会にいたる最も遠い道のりである」ことがほの見えてきた。
 一九八三年にこれらの危機を認識したノボシビルスクの経済学者ザスラフスカヤらが「ノボシビルスク覚書」を密かに中央政府に提出した。心ある者が早くから気づいていたことは、アネクドートが証明している。ゴルバチョフはザスラフスカヤら改革派の路線を、結果がどうなるかまったくわからぬままに、楽天的に踏襲したにすぎない。もちろん彼の意欲と勇気を、シニカルにいえば破滅への勇気を、私も認めるにやぶさかではない。
 一九八五年三月に五四歳のゴルバチョフが党書記長に就任してから、ソ連は共産主義国として残りながら、体制の体質持続をはかるために、さまざまな政策を打ちだし、実験に取り組んできた。しかし、時間を経るとともに、共産主義の枠の中で経済、技術の改革を展開するのが不可能であることがわかってきた。ゴルバチョフが懸命に改善策を打ちだせばだすほど、体制は険しい坂道を巨岩のように転落しはじめた。そしてついにソ連の崩壊を招いた。
 ゴルバチョフが言論の自由をとなえたので、市民はなんでもいいたいことがいえるようになったが、それでもKGBも巨大な軍隊も警察機構も残ったままだった。それにロシア人は過去をふりかえって、いつまた元の社会と生活の慣習に戻るかもしれぬことをおそれ、慎重な態度をとっていた。ここにゴルバチョフの時代になりながらもアネクドートが繁栄した理由がある。
 本章ではペレストロイカ以降の社会変革がアネクドートにどのような影響を与えたか、考えたい。

外車をのりまわすマフイア
 ゴルバチョフが登場したばかりで、まだまったく以前どおりの共産主義だった時代に、私はコーカサスの温泉地ビヤチゴルスクに友人と旅行したことがある。炭坑で傷害をうけた身障者だと称して、定職をもたない、明らかに裏経済のマフィアと思われる人物が私たちのために、串刺し羊肉を早く持ってこいとバーの厨房(ちゅうぼう)に顔をきかせ、そのうえおごってくれ、今度くるときは自分の家に泊まれとすすめた。土地の警察とも親しく握手した。かれはボルガどころかアメリカの黒塗りのシボレー、つまり当時のソ連としてほ希有なことに、「外車」を乗りまわし、私たちを案内すると言い張った。
 当時外国人が国内旅行するときには、必ずソ連人の案内兼監視員がついてまわったが、異様に目つきの鋭い党員の中年女性は私たちが「マフィア」とかかわりを持ったことにあからささまに不快感を示した。翌日、彼女と別れるときに、友人がアドレス帳に住所を書いてもらおうとしたら、その女性は前日のマフィアの筆跡を認めて、「こんなハッム(げす)の下には書きたくない」と、次頁の空白に記入した。
 私はいまでもよく思うのだが、あのマフィアはいまや大手をふって歩く土地の資産家になり、目つきの鋭い潔白な女性党員は、ジュガーノフのエリツィン弾劾(九九年四月現在)の先頭に立っているのか、それとも党員をやめて、ポスト・ペレストロイカの破局に、ただもう諦めの頭(こうべ)をふっているだけなのか。

『ロシアのユーモア』講談社選書


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石井鶴三の世界 №113 [文芸美術の森]

甲州川浦温泉にて1966年/室生寺1967年

               画家・彫刻家  石井鶴三

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甲州川浦温泉にて 1966年 (172×125)
1967室生寺.jpg
室生寺 1967年 (172×187

**************
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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はけの森美術館Ⅲ №47 [文芸美術の森]

残雪

                   画家  中村研一

残雪.jpg
淡彩 ペン 30cm×31cm

************                                         
【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面 

 



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フェアリー・妖精幻想 №80 [文芸美術の森]

『ゴプリン・マーケット』と『湖の乙女たち』1

              妖精美術館館長  井村君江

 ラファエル前派の唯一の女流詩人である、ダンテ・ガブリエル・ロセッティの妹クリスティナの詩集は、同じ派に属する画家たちが色々と挿絵を描き、美しい装傾本として数多く出されている。童謡集『シング・ソング』(一八六二)や『もの言う肖像』にはアーサー・ヒューズ(一八三二-一九一五)がカットを書いているが、童心のあふれた抒情詩の世界を巧みに映像化し、詩集を飾っている。中でも花の精のかわいらしい肖像、月夜のフェアリー・リングの上で飛びはねる無邪気な小妖精たちは印象深い。
 クリスティナの物語詩である『ゴブリン・マーケット』(一八六二)には、兄のロセッティやハウスマンを始め、後世の画家たちが好んで挿絵をつけている。
 ゴブリンたちが売りにきた果物の甘美な味を知った姉のローラは、もう一度食べたいと谷へ行くが、果物を売ることを拒まれて病気になり、妹のリジーが姉を救い出すのが物語の主題である。ゴブリンが売るのは、メロン、ザクロ、シトロンと南の美味な珍しい果物である。これらは禁断の木の実でもあり、快楽、誘惑を象徴するが、報われぬ愛の思いや、断ちがたい欲望(麻薬)もこめられているかもしれない。
 これを売り買いし、味わうことを誘うゴブリンは、誘惑によって人を破滅に向かわせる存在、リビドー(潜在意識)のようである。詩はその様子を「猫のような、ネズミのような顔」「フクロ熊、蜜食い穴熊」と呼び、「カササギのようにしゃべり」「鳩のように啼き」「魚のようにすべっていく」と、野原の小動物の映像で描写されている。
 D・G・ロセッティの挿絵では、典型的なラファエル前派ふうの姉妹ローラとリジーが抱き合う側に、丸く開く窓の外をゴブリンたちが果物をささげながら三日月の下を歩く姿が描かれている。きつねやオウムの顔をしたかわいらしい四匹の動物の顔を持つ生きものになっている。
 ハウスマンはゴブリンたちを、みなマントと帽子の下に身体や顔をかくしたいでたちで、ネズミや鳥の顔をのぞかせ、人間と等身大の得体の知れない不気味な姿を流れる線描で描いているが(一八九三)、ラッカムはゴブリンたちを細い手足をのばして果物を差しだしたり、木蔭からのぞいたりするネズミやモグラ、小鳥から巧みに変形させた小さい奇妙な生きものとして作り出している。
 またマーガレット・タラントの描いたゴブリンたちは、タンポポの綿毛と満月の間を大きな果物や木の実をかかえながら飛んでいく小動物の顔をした生きものになっており、身体の寸法を小さくした、いわばリトル・ピープルの群れにしている。彼女の優雅な筆致はリジーとローラを美しい村の娘ふうに仕立てているが、小動物たちはカリカチュアの筆つきで、出来そこないや不細工であっても不気味さや恐ろしいところはなく、ラッカムのゴブリンたちに近くコミカルで愛すべき生きものたちになっている。
 後年ディズニーの小人たちになって活躍する前身のようである。
 ラファエル前派の最後の一人として、木版による複製模写の技術をもったハウスマンは、『ゴブリン・マーケット』だけでなくその長い生涯においてさまざまな挿絵や作品を残している。中でも白眉といえるものはアイルランドの女流詩人ジェーン・バーロウ作『エルフィンタウンの最後』(一八九四)の作品を、茶色布地に波形変形パターンを金押しし、黒白の線を生かした装幀で包み、繊細な木版刷りの挿絵十五葉を入れて一巻に仕立てたものだろう。
 そこではタンポポの茎のまわりでオベロン王の足もとに輪になってすわる妖精たちは、トンボの翅をもち、耳はとがり、クモの巣のような髪をしている。しかし、その顔つきや姿には奇妙なところはなく、一種の不思議な魅力を漂わせ、華著(きゃしゃ)で垢抜けた身体つきのエルフィンたちである。

D.G.ロゼッティ「ゴブリン・マーケット」.jpg
D.G.ロゼッティ「ゴブリン・マーケット」
A..ラッカム「ゴブリン・マーケット」.jpg
アーサー・ラッカム「ゴブリン・マーケット」
M.タラント「ゴブリン・マーケット」.jpg
マーガレット・タラント「ゴブリン・マーケット」

『フェアリー』 新書館


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