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季節の記憶・いだようの写真散録 №183 [文芸美術の森]

「朝涼」                      自然写真家  いだよう
2017年5月下期分.jpg

初夏といえども、山間の朝は涼しい。明け方、水面に朝霧が漂ってきた。
 
いだようのFacebookページ : https://www.facebook.com/idayoh/

にんじんの午睡(ひるね) №10 [文芸美術の森]

ターさんとすえ子さん 1

                    エッセイスト  中村一枝

 ターさんは母の二番目の弟である。若いときから真面目一方で、苦学して大学を出た。私が知ったときには横浜税務署に勤める若い署員であった。私は幼いときからターさん、ターさんと纏わりついていたらしい。ターさんは一時わたしの家に居候していたこともあり、他の叔父たちに比べて優しくて、きゃしゃで、スマートなのが子供心にかっこよく見えたのだ。だいたい背広に白いワイシャツ、ネクタイをきちんとしめた男の人などあまり来る家ではなかったから、そういう様子の良さも好ましく、私は今にターさんのお嫁さんになりたいと思ったのだ。ターさんは私の家にいるとき自分の部屋に置いてあるギターを爪弾きし、「おいマー坊、(私は当時マー坊と呼ばれていた。)ギター弾くから串本節覚えろよ」などと言って、部屋の中を身振り手振りよろしく踊ったりした。
 あるときターさんは胸のポケットから大切そうに一枚の写真を取り出した。横向きに座っている女の人の写真だった。ほっそりした鼻筋の、きれいなおねえさんで、柔らかなウエーブの付いた豊かな髪が肩先にこぼれている。セーラー襟の白っぽいブラウスは当時としてはとても斬新だった。更に細いひもが何本も付いた、かかとの高いサンダルがモダンで、まるで外国の女優さんみたいと私は思った。ターさんはやがてその人をうちに連れてきた。私のことも「姉のうちの子でまさちゃん」と紹介してくれた。
 ターさんは間もなく目黒川沿いの新築のアパートに引っ越した。私は、母の一番下の妹で私と一つ違いのたかこちゃんと一緒にその新婚家庭に遊びに行った。まだ真新しいアパートは木の香りが漂うような清々しい香りに包まれていた。部屋に置かれた座布団も机も鏡台もどれも真新しく、私とたこちゃんはピカピカの道具にただため息をつくだけだった。帰り道たこちゃんが大人っぽい声でいつた。
 「わたし、結婚したくなっちゃった」
 「わたしもよ」
 ターさんに赤紙が来たのはそれから一年くらい後だった。二人の間には宙ちゃんと言う男の子が生まれていた。すえ子さんは相変わらず綺麗だったが前の晩泣きはらしたのか、目の回りが腫れていた。大勢の見送り人の中に在郷軍人会のタスキをかけたおじさんたちが何人もいて、大きな声でしゃべっているのがわたしはたまらなく嫌だっだ。人々のずっと後ろに隠れるように立っているすえ子さんがかわいそうで、その威張っているおじさんたちがいっそう憎らしかった。ただ幸運にもターさんは身体検査が不合格になって二週間くらい後に、軍隊の営門を逃げるように出てきたそうである。
 戦後、出石の家は戦争で家を失った人たちやその知り合いなど、おおぜいの人が身をよせていたことがあったらしい。世の中の秩序がすこしずつ戻って来て、出石の家はターさんがわたしの父から譲り受けた。戦争中も戦後もターさんの生き方は変わることはなかったけれど、わたしが未子さんにお世話になったのはそれから後のことである。
 わたしがターさんの新婚家庭を訪ねてから、時が流れていた。小学生のわたしは高校生、かつてのニキビを潰していたお兄さんは中年のうるさいおじさんに変貌していたのである。(続く)

フェアリー・妖精幻想 №62 [文芸美術の森]

ラファエル前派とテ二ソンのアーサー王の物語1

                   妖精美術館館長  井村君江

 ラファエル前派の画家たち、ダンテ・ガブリエル・ロセッティ(一八二八-八二)、ウィリアム・モリス(二八三四-九六)、エドワード・バーン=ジョーンズ(一八三三-九八)、ジョン・エヴェレット・ミレイたちが好んで描いた画題の一つに、アーサー王物語の人物たちがある。
 アルフレッド・テニソンのアーサー王物語を主題とした『国王牧歌』への挿絵(初版表紙およびデザインはトマス・ウルナー、(一八八九)、モクソン版『テニソン詩集』への装画(二八五七刊)、オックスフォード学生会館(ユニオン)のデベイティング.ホール壁画のアーサー王伝説製作(一八五七)などが彼らにそれぞれ、特にアーサー王を中心とした中世騎士の世界を描かせることになった。
 ここで興味深いことは、一八三四年に炎上したウエストミンスター宮の議事堂内の壁画の主題にアーサー王伝説を選んだ当時のロイヤル・アカデミーの中心者ウイリアム・ダイスが、七つの徳といったモラル的な次第をえらんでいるのに対し、ラファエル前派は彼に無視されている超自然的要素を選んでいることである。
 エドワード・バーン=ジョーンズの『誘惑されるマーリン』(一八七四)には、『マーリンとニミユエ(ヴィヴィアン)』の別題がある。アーサー王の助言者としての力を持つ魔法使いマーリンが、恋に溺れ、愛の虜(とりこ)となって湖の精二ミユ工に自分の術をすべて与えるというもので、バーン=ジョーンズはそれを青衣の女が捧げる書物で象徴させている。
 このあとマーリンはその術でかえって空中の牢(一説には地下の岩屋)に、永久に閉じ込められるのであるが、放心したような目とまかせきったようにカを抜いた手のポーズをみせる白い花の中のマーリンの姿には、恋人メアリー・ザンバコに魂を奪われたバーン=ジョーンズが、自嘲的に自分の姿を描いているようである。彼はこの他、女性の魔力に屈するマーリンを画題に、『魔法の輪』(一八八〇頃)や『潮の精に石の下にとじこめられるマーリン』を描いており、二人の関係のヴァリエーションを画題にしているようである。
 また、テニソンが不義として非難するギネヴィァ王妃と騎士ランスロットの愛を、ラファエル前派の画家たちは美と官能にあふれる宮廷恋愛の世界として措いている。
 バーン=ジョーンズも好んでランスロットを描いたが、『ランスロットの髪(一八九六)は聖杯探求途上のランスロットが、夢に現れた天使に探求の資格のないこと蒼口げられる場面である。棟木の細い枝が荒涼とした戸外の雰囲気を闇の中にきわだたせ、廃屋からもれる光だけが天使と希望の失せたランスロットに射しており、神秘的で侵しがたい感銘深い画面を構成している。
J.Archerアーサー王の死.jpg
ジェイムス・アーチャー「アーサー王の死」
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            エドワード・バーン=ジョーンズ「ランスロットの夢」


『フェアリー』 新書館

ロシア~アネクドートで笑う歴史 №32 [文芸美術の森]

第二章 民衆たちのテーブル・トーク
  市民たちが見たレーニンとスターリン 6

               早稲田大学名誉教授  川崎 浹                        

「スターリンよ、ありがとう」

 つぎは、相手がスターリンでも少しは笑いに近づくアネクドートを二つもちだそう。


 メーデーの行進で、高齢の老人の行列がプラカードをかかげていた。
 「私たちの幸福な少年時代にたいして同志スターリンよありがとうー⊥
 制服をきた男が走ってきた。
 「どうしたのです、あんた方は? 愚弄しようというのですか? あんた方が子どものころはまだ同志スターリンは生まれていなかったじゃないですか!」
「だからこそ、かれに感謝しているんじゃよー⊥

 ある老ポリシェビキがもう一人のポルシェビキにいった。「我々が共産主義まではいきのびられないだろう。しかし子どもたちは‥…・子どもたちがかわいそうだなあ」

 笑いを誘うことは責だが、時代によっては、これもラーゲリ送りまちがいなしのアネクドートではなかろうか。

身の安全に腐心
 つぎのアネクドートは比較的よく知られている作品である。

 深夜、スタ-リソが受話器をとる。
 「どうだい、同志モロトフ、きみ、いつものようにどもっているかね」
 「どもっています。同志スターリン。しかし社会主義建設のために必要だというのでしたら……」
 「いいや、いいよ、いいよ、ゆっくり寝みたまえ」
 受話器をおいて、こんどはミコヤンに電話する。
 「どうだい、同志ミコヤン、バクーでは政治委員は何人いたかね?」
 「二七人です、同志スターリン……」
 「何人死んだ(バギバーリ)?」
 「二六人です、同志スターリン」
 「じゃぁ、ゆっくり寝みたまえ、バクーの二七人目の政治委員君-・」
 こうして受話器をおき、こんどほべリヤに電話する。
 「どうだい、同志べリヤ、君はブハーリンをりっばに銃殺したねヱ
 「りっばに遂行しました、同志スターリン。それでなにか?」
 「いや、別になんでもない。ゆっくり寝みたまえ」
 スターリンは受話器を置くと、こういう。
 「よしと、これで彼らを安心させた。こんどはわし自身も安心して寝ることができる」

 ロシア語の「死んだ(バギバーリ)」は不慮の死をとげることで、病死や衰弱死ではない。ここでは粛清を意味している。同類のアネクドートがあるが、右の作品のほうが暗示的かつ政治的で洗練されている。
 というのは、もうひとつの作品では、ミコヤンにスターリンが「バクーには政治委員は何人いたんだ? うち何人始末したんだったかね? 「二八人いましたが、始末したのは二六名です、同志スターリン」。ここまではほぼ同じだが、そのあとでスターリンがべリヤに電話していう。「あいかわらず若い娘とよろしくやるのに忙しそうだな?」「とんでもありません。それも時と場合によりけりです」
 相手が娘とブハーリンでは緊張感がちがう。いずれにしろ、アネクドートの面白さほ受信者の意表をつく「思いがけないとどめ」 にある。
 猜疑(さいぎ)心がひじょうに強かったスターリンはたえず身の安全に腐心していた。元スターリン秘書の手記がパリの「ロシア思想」紙にでていた。秘書がとつぜん部屋に入ると、配下の話を盗聴マイクで聞いていたスターリンと、瞬間、目が合った。そのとき、秘書が理解したことをスターリンも理解し、それをさらに秘書は理解した。秘密を知りすぎた秘書はのちに投獄をおそれ、亡命せざるをえなくなった。
 スターリンはまたあるときフルシチョフに「なぜ、わたしの目をまっすぐ見ないのだ。なにか後ろ暗いことがあるのか」といった。側近たちもスターリンとの関係にはつねに緊張を要した。
 右のアネクドートに登場するモロトフはスターリン政策の忠実な執行者で、主として外務関係で大きな役割をはたした。かれは吃音だった。五七年、フルシチョフを退陣させる「反党グループ」の首謀者として、モンゴル大便に左遷された。
 また、ミコヤンは貿易関係で活躍した政治局員。六〇年代に商用で来日したことがある。
 当時、モスクワに駐在していた日本人商社マンが交通事故でロシア人を轢死(れきし)させ、長期の刑で監獄に入っていた。ミコヤンは日本人への手土産にその商社マンの釈放をたずさえてきた。なかなかうまい手を使うものだ。商社マンの母親が涙を流してお礼をいうと、ミコヤンは「よかった、よかった、お母さん。母親というものは、子どものことになると、嬉しいときも悲しいときも、涙を流すものですよ」とアネクドートばりの人情外交を演じた。
 反党グループ事件の際にはフルシチョフ側につき、その後もこのようにして政治生命をながらえた。
 べリヤは三八年末に大粛清を実行したエジョフのあとをついで内務人民委員となり、その後の治安をひきうけた。べリヤはスターリンの意志をくみとり、あるいは先取りして実行した冷酷な獄吏である。
 その極端な好色ぶりと性格破綻で知られている。もっとも『クレムリンの子どもたち』(クラスコーワ編、太田正一訳成文社、一九九八年)に登場するべリヤのまじめな技術者である息子は「父は愛情をもったよき家庭人であり、よき父親だった」と信じている。
 ブハーリンはウイーン大学で経済学をまなんだほどのインテリで、理論と実践に秀でた党員だったから、スターリンもかれを危険な競争相手とみなさざるをえなかった。『アルバートの子供たち』にはふたりの緊張した出会いの場面がえがかれている。

『ロシアのユーモア』 講談社選書


石井鶴三の世界 №94 [文芸美術の森]

厳島1959年/宇高れんらく1060年

           画家・彫刻家  石井鶴三

1959厳島.jpg
厳島 1959年 (175×127)
1960宇高連絡.jpg
宇高れんらく 快晴海上きわめてしずか 1960年 (123×174)

**************                                                                           【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社


はけの森美術館Ⅲ №29 [文芸美術の森]

赤まんま

                  画家  中村研一

赤まんま.jpg
彩色 和紙 33cm×24cm

************                                                                【中村研一画伯略歴】

鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面

季節の記憶・いだようの写真散録 №182 [文芸美術の森]

「山の花畑」                            自然写真家  いだよう

2017年5月上期分.jpg

春先から初夏にかけて、登山道わきは花々でにぎわう。
ここでは、イカリソウとチゴユリが競うように咲いて、ちょっとした花畑になっていた。


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西洋百人一絵 №86 [文芸美術の森]

キスリング「ポーランドの少女」

                                   美術ジャーナリスト・美術史学会会員  斎藤陽一

 モイーズ・キスリング(1891~1953)も「エコール・ド・パリ」の画家である。
 彼は、ポーランドの古都クラクフのユダヤ人の仕立て屋の家に生まれたが、1910年、29歳のときにパリにやって来て、モディリアニら、若い画家たちと交わった。
モディリアニが貧窮の中で死んだとき、その葬式費用を全部出したのもキスリングだった。彼は、快活で社交的な人柄で、仲間たちの面倒をよく見た。

 パリにやってきた当初、キスリングは、当時、若きピカソやブラックらが追求していた「キュビスム」の影響を受けたが、やがて、ものの形態を徹底的に分解して画面の上で再構成する「キュビスム」が、自分には向いていないことに気づいた。キスリングは本質的に「色彩画家」であり、フォルムを単純化しつつも、色彩の持つ鮮やかさで画面を構築する絵画に到達する。

 今回取り上げる「ポーランドの少女」は、キスリングが1828年(37歳)に描いた人物画である。
 描かれているのは、美しい花柄の赤いショールを身にまとい、黒いアーモンド形の眼差しで、何やら物思いにふけっているような少女の半身像。華麗なショールの赤が、うごめく文様のように描かれた背景の木の葉の緑色と対比して、鮮やかな視覚効果を生んでいる。
 この黒いアーモンド形の眼と、どこか遠くを見つめているような憂いを帯びた眼差しはは、キスリングが描く女性に特有なもので、夢幻的な雰囲気を醸し出す。
  
 キスリングは、静物画も描いたが、とりわけたくさん描いたのが人物画。油彩画だけでも約500点を数えるという。しかも、その大半が若い女性を描いたもので、この絵のような半身像か胸像という構図を基本とした。
 画家は、1点1点の変化をつけるために、女性が身に着ける衣装や小道具、背景などを変えて描くということをやった。衣装については、モデルの女性に、さまざまな国や地域の民族衣装を着けさせ、作品名にはその地域の地名を冠した。
この作品が「ポーランドの少女」という題名がつけられたのは、モデルがポーランド娘だからではなく、彼女がポーランド風の装束をしているからである。
 したがって、キスリングのこの種の作品には、たとえば「ルーマニアの・・・」「オランダの・・・」「アルルの・・・」などという題名がつけられている。寡聞にしてキスリングの「日本の少女」は知らない。
 キスリングは、この絵画スタイルで流行画家の一人になったのである。

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     キスリング「ポーランドの少女」(1928年。パリ、ポンピドゥー・センター)


にんじんの午睡(ひるね) №9 [文芸美術の森]

不肖の弟子

                                   エッセイスト  中村一枝

 「波「という新潮の雑誌に書いておられる平岩弓枝さんの「なつかしい面影」というエッセイが毎回面白く、さすがだなあと感心して読んでいる。平岩弓枝さんが多分直木賞を受賞された時だと思う。ご実家のある代々木八幡にカメラマンの笹本恒子さんと伺ったことがあった。笹本恒子さんは当時40をいくつかこえたくらい、今は100歳をとうに超えているが足はすこし不自由だが、現在もいろいろのところで活躍されている。私は笹本さんのカメラマン助手としてくっついて行っただけである。
 その時の平岩さんは私より確か一つ二つ年上のはずだが、ぽっと出の女学生のように初々しい人で、あのときのお嬢さんが今は押しも押されぬ時代小説の大家になってしまわれた。ご精進のほどがしのばれる。こんな素晴らしい弟子を持たれて長谷川伸先生は冥土で満面の笑みをうかべておられるたろろうと思った。
 その平岩さんとはおよびもつかないガ、私も若い時から文章を書くのが好きで、そんな縁で帯正子さんの教室に出入りするようになった。
 帯正子さんという人のことは五十年くらい前、女流新人賞を取ったとき美人だなあと感嘆して見た覚えがある。あの頃女流作家といえば美人はいなかった。その前か後か曾野綾子さんが芥川賞を取られた時もまず美人であることに感動した覚えがある。それがどうして帯さんの教室に入ることになったのかその辺のことはみんな忘れている。はじめて自由が丘の駅前のコーヒー店でお逢いした。帯さんは七十は超えていらしたと思うがまだいきいきとした華やかささえ漂わせたきれいな人だった。この人に原稿を見てもらうのは嫌じゃないと、それだけは思つた。
 「月一回、二子玉川でお教室をやっているからよかったらいらっしゃい」
 帯さんはそう言った。着ているものもおしゃれでセンスがいい。何より、初めて会ったのにいいなと思うととたんに緊張感なくなる私の癖で、ずっと前からのお知り合いだった気がしたのだ。帯さんはご自分の書いたものだと言って「ぼんぼん時計」という小説集を下さった。今まで懸賞のようなものに文章を出したことはあっても人について物を書くことなど初めての経験だった。わたしは初めて文章を書く先生に出会ったことでとても高揚した気分だった。父は生きていた時、私の文章を読んでくれたことはあったが差し出がましいことは一切言う人ではなかった。
 あとで考えると帯さんは私の父が尾崎士郎という小説家だったことですこし緊張されていたのだろうか。廻りの人から中村さんは贔屓されてると言われたこともある。帯さんのところで習作した原稿はかなりの数に上る。帯さんは一枚一枚丁寧に見てくださったのだ。それはわたしだけてはない。原稿の終には細かい赤ペンで精緻な批評を書いてださった。もちろん私だけではない、どの人にも心を込めたメッセージが書かれている。先生の赤ペンで埋まった原稿用紙を見ていると、私のような文学以前の文章にも真剣なまなざしで向きあってくださった先生の真剣さがひしひしと伝わってくるのだ。師というものがいるとしたら私にっとってこの人しかいない、今更にあつく感じるのである。帯さんはとていいご主人やお子さんにも恵まれていい人生を送られていたように見えたけれど、心の奥に燃え盛っていた業火のようなものをかい間見ることがあった。自分の才能を犠牲にしたとは思めわないが、あの細かい赤ペンの隙間から帯さんの執念がチラついて見える。不肖の弟子はいまさら恥じ入るばかりなのだ。

フェアリー・妖精幻想 №61 [文芸美術の森]

キーツの『レイミア』と人魚たち

                                妖精美術館館長  井村君江

 イソベル・グロウグ(一八六五-一九一七)は肖像画家、挿絵画家、ポスター・デザイナーそしてステンドグラス制作とロンドンで幅広く活躍したが、両親はスコットランド出身であり、彼女の中のケルトの想像力が好んで画題に浪漫的なものを選ばせていたようである。
 物語性のあるものとしてシェイクスピアの『骨折り損』の挿絵があるが、『誘惑者の接吻』(一八九〇頃)は浪漫派の詩人キーツの『レイミア』に主題をとったものである。蛇身の魔女レイミアが美しい女性に姿を変え、コリントの青年リシウスを誘惑し結婚するまぎわに、正体を見ぬいた哲学者アポロニウスが名を告げると、一瞬のうちにレイミアは恐しい叫び声をあげ、かき消えるという物語である。
 画面の上部に描かれている恋人たちはいま口づけに陶酔しているが、下郡を見れば女性は蛇のうろこに覆われた尾を若者の足にまきつけ、剣と騎士の身体を魔術でしばるように茨を幾重にもまきつけて、恐しい誘惑者の正体をみせている。魔性の恋人の肌は足もとの草地が反射したような、この世のものならぬ青ざめて血の気のない冷たい色で、遠景の川から現れ出たかのようである。二匹のウサギは動物の本能から逃げ出していく。全体に妖しい雰囲気を醸(かも)す微妙な色調の蛇身像である。
 魔性の恋人であっても、人魚は蛇身のレイミアよりは「美しい誘惑者」という呼び名にふさわしいかもしれない。
 海辺の岩に腰かけ、月夜に髪をくしけずる姿は、さまざまな文学や絵画の主題にとりあげられてきているが、ギリシャ神話の半人半鳥のバービーや半人半魚の姿で歌を歌い人を海にひきこむサイレンの映像や、豊饒と海と漁夫の守り神としてのケルトの女神などの映像が重なりあっていき、特に中世時代には、図像学的に人魚は右手に櫛(豊饒の象徴)、左手に鏡(海の満ち引きをしめす月、女性の虚栄の象徴)をかかげる姿で描かれてきた。
 それがしだいに美しい髪をなびかせ、さまざまなポーズをとる美しい女性の姿となり、下半身のうろこが何かエロティックな雰囲気さえ醸す裸婦となってきている。ジョン・ウォーターハウス(一八四九-一九一七)の真珠の首飾りを前に銀の櫛で髪をくしけずり、人を誘うまなざしを向ける『人魚』(一九〇〇)は、その典型であろう。ロイヤル・アカデミーの学位のための製作で、このとき会員に選ばれたが画面はさらに五年間描きこまれた。

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イソベル・グロウグ「誘惑舎の接吻」
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ジョン・ウオーター「人魚」

『フェアリー』 新書館



芭蕉「生命の賛歌」 №29 [文芸美術の森]

むざんやな 甲の下の きりぎりす

                                      水墨画家    傅  益瑤

むざんやな.jpg

 小松の多田神社に詣でた芭蕉は、実盛の遺した兜を観て往時を偲んだ。
武将の死は生贄の犠牲ではなかったのかと無限の愛情を寄せた。武将が被った兜の下に小虫を見つけ、自分の責任までも観じた。
 シェークスピア的な激しい言葉を冒頭に使って、絵は悲しそうに見つめる芭蕉の表情に最高のエロチシズムが見られる。

『傅  益瑤 「奥の細道」を描く 芭蕉「生命の賛歌」』  カメイ株式会社

ロシア~アネクドートで笑う歴史 №31 [文芸美術の森]

第二章 民衆たちのテーブル・トーク
  市民たちが見たレーニンとスターリン 5

                               早稲田大学名誉教授  川崎 浹                        

「だれを殺したのです?」
 ダンテの『神曲』の地獄篇をもじったつぎのアネクドートは、スターリンがレーニンの政策を継いだにすぎないこと、したがってかれの悪もじつはレーニンの継承にすぎぬことをいおうとしている。                                 

  地獄巡りで観光客がガイドに聞いた。
 「ヒトラーが糞尿のなかに首までつかっているのに、スターリンはなぜ腰までしかつかっていないのですか?」
 ガイドは答えた。
 「といいますのは、スターリンはレーニンの肩に這いあがったからです」                                

  スターリンについてのアネクドートでもっとも迫真性のあるのはつぎの作品である。
 レニングラードの実質的な市長だったキーロフは、街を巡回しては市民の話をよく聞く気さくで有望な政治家だったが、一九三四年、とつぜん、ある男に射殺された。一九九八年に米国で亡くなったルイバコフのペレストロイカ初期の有名な小説『アルバートの子供たち』では、スターリンがかれを謀殺したことになっている。これに反論をとなえる評論家もいるが、私が読んだある記事では、暗殺の翌日レニングラードに駆けつけたスターリンが、拉致(らち)されてきた犯人を直接、だれがお前にキーロフ暗殺を命じたのかと尋問すると、犯人は「私の前にいる方です」と答えたという。
 つぎに登場するカリーニンとは、スターリンより四歳年長の古参ボリシェビキのひとり。初期共産主義の人道的な情熱にもえていた古参ボリシェビキの多くは革命後姿を消していくが、カリーニンはこのとき中央執行委員会の議長をしていた。


  キー・ロフが殺された。
  スターリンは党中央委員を集めて伝えた。
 「昨日、我々が熱烈に愛していた同志キーロフが殺された……」
  カリーニンがかれの言葉をよく聞きわけず、尋ねた。
 「だれをですって、だれを殺したのです?」
  スターリンはこんどは大声でいった。
 「昨日、我々が熱烈に愛していた同志キーロフが殺された」
  カリーニンほふたたびいった。
 「だれを、だれを?」
 スターリンはいらだった。
  「(だれを、だれを)って。殺す必要のあった人間を、だ!」

 「語るに落ちた」という構造ととどめがここでは用いられている。近代アネクドートがあつかったのが「ほんとうとは思えないが、実際にあった出来事」なのにたいし、現代アネクドートは逆に「実際にはなかったが、ほんとうと思える出来事」を扱う。だが右のアネクドートは迫力がありすぎて、「実際にはなかったが、ほんとうにあったと思える出来事」でありながら、さらに二転三転して「ほんとうとはおもえないが、実際にあった出来事」ではなかったろうかと思わせる、寓意と象徴が織りまざった風刺の名作である。しかし、主題が切迫しすぎていて、逸品とはいえない。なぜならアネクドートが呼び起こす「笑い」にちょっと遠いからである。
 なお右のアネクドートでスターリンを問いつめる正義派を演じるカリーニンは、三七年の大粛清後は最高会議議長として、二八年間、国家元首をつとめた。ということはモロトフやミコヤンと同じくスターリンの懐刀であったことを意味する。
 つまりカリーニンはスターリソのテロを是認していたのだが、ただ暗殺された相手の名を聞いても、なぜキーロフが殺されねばならなかったのか、急には納得できなかった。ここでは「だれが殺したのか」はカリーニンにはわかっているのだが、「だれを殺したか」、その人間をなぜ殺さなければならなかったかをカリーニンが問題にしている。アネクドートの語り手たちはそう強調したかったのだと、私は解釈する。アネクドートはカリーニンを正義派ではなくスターリソンの同類として扱っているらしい。
 ずっと後になって生じた(その証拠にミーティングというペレストロイカ直後からはやった英語系の単語が使用されている)ヴァリアントでは、ミーティングでスターリンが報告し、質問がくり返されたので、スターリンがべリヤに右のアネクドートのとどめと同じことをいわせているが、はるかに切迫性に欠けるようだ。

『ロシアのユーモア」

石井鶴三の世界 №93 [文芸美術の森]

福島・女沼1959年/福島・男沼1959年

                                  画家・彫刻家  石井鶴三

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             福島・女沼 1959年 (127×174×2)

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             福島・男沼 1959年 (17×174×2)

**************                                                                           【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社


はけの森美術館Ⅲ №28 [文芸美術の森]

赤松

                                       画家  中村研一

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                               スミ 水彩 和紙 32cm×37cm

************                                                                【中村研一画伯略歴】

鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

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中村研一記念はけの森美術館正面

森の妖精 №28 [文芸美術の森]

「生きること」  2017年  木彫(檜)
                                      造形作家  吉川 潔

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  3月に「Gallery銀座一丁目」で開催した2年ぶりの個展(吉川 潔作品展 =生きる こと)は多くの方々に来訪頂き好評のうち終了しました。美術評論家の赤津侃先生に紹介文を寄せて頂き、朝日新聞他数紙に個展情報を掲載してもらいました。
  木彫の「生きること」シリーズを中心に陶器作品・絵画を交え50点程の展示になりました。

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プラハ雑記  1974年 
   
「運転免許証」

私は、大学に入る前の春休み、杉並区のある自動車教習所に通い免許を取得した。
その後たまに運転の機会はあったがあまり必要はなく、いつしか更新時期を逸してしまっていた。プラハの生活が少し落ち着いたころ、日本からの留学生でバイオリニストのシンちゃん(有名な石川 静の同期)から「免許証は簡単に取れるよ。」と勧められプラハ市内の教習所を教えてもらった。日本のような教習所ではなく個人教授でいきなり路上運転から始まる。勿論左ハンドルでの右側通行の運転は初めてだったが、そこそこの運転技術はあったので先生も安心してすぐに街中に出る。バックでの車庫入れもスムーズに出来たのでたった一日の教習で実技はクリアー。その後部屋で道路規則の講習を受けたが、気が抜けるような講習だった。一番強く教えられたのが優先順位。日本はこの無信号交差点での優先順位があまりはっきりしないが、チェコではどちらが優先道路かがとてもはっきりしている。優先道路の場合交差点で止まる必要はなく逆に止まると怒られる。日本のように4方向とも「止れ」となっているような交差点はない。また踏切での一旦停止もないのでこれも止まると追突されてしまう。街中でも郊外でも信号がないロータリー式の交差点が多くこれも慣れるとじつに合理的だ。ただし、ロータリーに入ってどこで抜けていくかは道が判っていないとくるくると回ってしまうことになる。信号はいらないので経済的な交差点である。近年日本でも採用が増える方向があるようだがあまりにも交通量が多いところは難しいかもしれない。 ドイツを筆頭に地続きのヨーロッパ大陸の自動車文化は、車を取り締まるという観念より「いかに便利に使うか」にウエイトがある。 数日後、公式の通訳を入れての実技と法規の試験があった。シンちゃんの友人で日本語の公式通訳のハブリーチカさんを紹介してもらい、彼の立会いの下試験を受けた。交差点での優先順位等すらすらと回答が出来、すぐに合格となった。事前に免税店で購入していたブランデーを彼に渡しておいたのも功を奏したようだ。数日後免許証が警察から発行された。チェコで発行された免許証は生涯免許の為書き換えが必要なく今でも有効だ。日本に帰国後この免許証を基に日本の運転免許証を発行してもらい今でも更新を続けている。元のチェコスロバキア発行の免許証はどこかにあるはずなので今度ゆっくり探してみよう。43年前の若いままの写真が残っているはずだ。 

  
アトリエ・パネンカ 
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カフェギャラリー「アトリエ・パネンカ」 (基本的には毎週 水・木・金の営業です。)
5月の営業予定  オープン日 10日(水)・11日(木)
                    17日(水)・18日(木)・19日(金)
                    24日(水)・25日(木)・26日(金)
                    31日(水)・
6月の営業日                    1日(木)・2日(金)
                      7日(水)・8日(木)・9日(金)
                                  16日(金)
                    21日(水)・22日(木)・23日(金)
                    28日(水)・29日(木)・30日(金)
 ギャラリーへの入場は無料です。
     飲み物 コーヒ― ¥500 他
    木彫教室5月11日(木)&25日(木)am10:00~12:30・
    木彫マリオネット教室5月11日&25日(木)2:00~4:30
      *見学は自由です。

往きは良い良い、帰りは……物語 №46 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語
その46 「猫の仔」「柳の芽」「春の服」「卒業」

                               コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

≪平成29年3月27日≫
現在、最新のこふみ会・会員名簿に載っている方々には、孝多がFAXで案内状を発信しました。
OBやOGの方々にはタケシ氏がメール等で送ってくれました。後述するように、清水桂堂氏の逝去にまつわる「追悼の企画」があるからです。
寄せられた追悼句を(孝多がパソコン駄目男のため)タケシ氏が打ってくれて、そのプリントを句会の席に持参してくれる……という手順です。
上記は勿論、同じ当番幹事である更歩氏と相談を重ねたうえでのことです。
更歩氏にはまた、いつもと同様に、兼題、席題の選び出しを、すっかりお任せしてしまいましたが、おかげで良い「出題」になったと、私は喜んで居ります。
さて、その案内状ですが、下記のとおりです。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
    四月こふみ会のお知らせ(当番幹事=更歩&孝多)
とき=4月9日(日)13時より
ところ=神楽坂 香音里(TEL03-6280-8044)
兼題=「猫の仔」「柳の芽(やなぎのめ)」
席題=当日、2句。
景品(記念品)=花・天・地・人の計4つ。お忘れなく。
会費=△△△円。
出欠のご返事=孝多まで、お早目に。FAX=048-887-0049

◆◆清水桂堂氏追悼句について◆◆
先般お知らせ致したとおり3月16日、桂堂氏が逝去されました。哀惜の情ひとしおです。
つきましては、上記兼題および席題のほかに、有志の方は哀悼の句をお寄せくださいますよう。◆4月7日までに◆おひとり1句◆タケシ氏へメールかFAX、△△△ー△△△ー△△△△にて、お願い申しあげます。
この追悼句に関しては、喜の字氏や、ひろば氏や風歌さんなど、こふみ会のOBやOGの方々にも呼びかけて居ります。
集まりました追悼句は、まとめてプリントして、桂堂氏のご霊前に供えていただくように致します。
ご不明な点などがございましたら、上記、孝多のFAXへご連絡のほど、お願い申しあげます。   不一                平成29年3月27日
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

これに対する返信レターは次ぎの7通です。

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 返信レター 鬼禿氏より

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                        返信レター 一遅氏より
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                       返信レター 軒外氏より
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                                             返信レター 珍椿氏より
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                         返信レター 矢太氏より
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                        返信レター 五七氏より
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                        返信レター タケシ氏より

≪追悼の遺影も飾られて≫
当日、会場には、タケシ氏が、気くばり良く、桂堂氏の額入りの写真を用意してくれました。
お好きだった清酒をお供えして、先ずは一献! 桂堂さん、今日は貴兄を偲んで、句も集めましたよ。あとで、見てやってくださいな。
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しかし、仄聞いたすに、ご遺族も、今は、そっとしておいてほしいとのご様子。(そのため、TCC・東京コピーライターズ・クラブも、お別れの集いとか、偲ぶ会とかというものを開かずに居る。)
そうしたことを考えて、私共の献句も、ご自宅のご霊前までお届けするというのではなく、(初めは、そう思ったのですが、やはり)この、こふみ会という、内輪の席だけのことにしよう。慎もう。ということになりました。一同の合意です。
そこで、「清水桂堂さんを悼んで」と題してタケシ氏がパソコンで打って来てくれた次ぎの一枚を、孝多が読みあげた後に、回覧するに留めました。タケシ氏よ、ご苦労さまでした。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
    清水桂堂さんを悼んで
・もの憂げな 背中消えゆく 大銀河      鬼禿
・三月や 桂堂さんも 逝っちゃった      タケシ
・ひとつ句を 神の抜きたる 花の宴      矢太
・兄逝けり 彼岸の入りの 前日に              孝多
・永遠の 沈黙春の 哲学堂                    五七
・知の地平 そのさらに先 桂堂忌       更歩
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

回覧が済むと、いろいろな話が出ました。
黒でまとめた桂堂氏のおしゃれな服装のことや、句会で初めてもらった短冊が、桂堂氏からのものであったことや、二次会でアメリカの文学(アメリカン・ノヴェル)の話を聞いたことや、桂堂という雅号は、高校時代、書道部の先生から頂いたものであると説明してくれたこと、などなどを、それぞれの人が、飲みながら、食べながら、それぞれの大切な思い出として、盛んに語り合って居りました。
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≪席題は「春の服」と「卒業」≫
張り出された席題を見ても、皆さん、普段より多弁なようでした。
作りやすいようで、作りにくいなあ。
川柳になっちゃうよ。(いやあ~、俳句と川柳、どう違うんだっけ?)
カタカナは、なるべく使わないようにしてるんだけどぉ~
合い服って、いい言葉だよね。
などと、わいわい、がやがやです。そのうちに、時間が来て投句。そして発表。係の手によって、得点を示す「正」の字が用紙にどんどん書き込まれます。さあて、さてさて、本日の最終結果は……?
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◆係が声を張りあげて、成績を発表しま~す! 本日のトータルの天は~42点の孝多。パチパチパチと一同拍手。
 代表句=鉄棒に 跳び付いたりして 卒業だぁ

◆トータルの地は~35点の更歩氏。パチパチパチッと一同拍手。
 代表句=重力を 無化してまろぶ 仔猫かな

◆トータルの人は~33点の矢太氏。パチパチパチッと一同拍手。
 代表句=卒業す とうとう彼奴に 詫びぬまま

◆トータルの次点は~31点の鬼禿氏、パチパチパチッと一同拍手。
 代表句=過去全部 ×して自分を 卒業す

◆トータルの花は~4輪の虚視氏。パチパチパチッと一同拍手。
 代表句=ねこのこを だけばはかなき ほどかろき

皆さん。おめでとうございました。帰りも良い良い!ですね。パチパチパチッ。
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        図らずもシニア3名揃って。左から更歩(地)、孝多(天)、矢太(人)の面々。                                        後方には桂堂氏の遺影。

◆あれ? カメラマンも気が付かなかったのは残念で、お愛嬌。更歩氏の持つ短冊が裏返し。
◆では皆さん、お元気に。下記の≪全句≫も、どうぞ、ごゆるりと、ご覧ください。またお会いしましょう。          第46話 完   (孝多)

======================================
第568回 こふみ会≪本日の全句≫
   平成29年4月9日   於 神楽坂 香音里

◆兼題=猫の仔          順不同
猫の仔や 乳房の大きい 母なりき                            矢太
猫の子ら はっぱ相手に 狩りのまね                          珍椿
忖度も 斟酌もなき 子猫かな                                  タケシ
恋の果て 月がきれいね 猫の仔五匹                        軒外
重力を 無化してまろぶ 仔猫かな                             更歩
自慢気に ルンバの舟で 猫の仔は                            五七
縁(えん)ありて 掌(てのひら)の上 仔猫あり                孝多
猫の子 どこの子 となりの子                                  舞蹴(まいける)
ねこのこを だけばはかなき ほどかろき                      虚視
手の中の 捨て猫の子の 肋骨(あばらぼね)                 鬼禿
ポケットの 中で子猫啼く 少年兵                              一遅

◆兼題=柳の芽          順不同
知らんぷり どこ吹く風か 柳の芽                             舞蹴(まいける)
柳の芽 にほい立つ夜 池の端                                 珍椿
花嫁を のせ遠ざかり 柳の芽                                  虚視
人を待ち 指で触(ふ)れてる  柳の芽                         孝多
グラマンの 掃射の痕や 柳の芽                                タケシ
柳の芽 銀座八丁 征圧す                                       更歩
柳の芽 川面は遥か 彼方なり                                  軒外
バカボンパパに 二度目の恋や 柳の芽                       五七
柳の芽 初経の朝の たよりなさ                                鬼禿
ゆっくりと それでも芽吹く 老い柳                              一遅
柳の芽 目にこそばゆい 朝日かな                             矢太

◆席題=春の服          順不同
重きもの ぬぎすてまとう 春の服                              虚視
日生の おばちゃん春の 服で来る                            五七
春の服 まだまだ寒き やせがまん                              舞蹴(まいける)
春の服 まといてミューシャの 獄中死                          鬼禿
ひさしぶりだね 年上の君は 春の服                            一遅
寒暖の かたち決まらず 春の服                                 更歩
春の服 出して来て 孫偲ぶ                                    珍椿
脱皮せよ メンズショップに 春の服                              孝多
春の服 パーキングメータに 春の服                            矢太
褒められし 言葉は甘く 春の服                                  タケシ
春の服 永久保存の VANスーツ                                軒外

◆席題=卒業           順不同
卒業か いまだ口笛 ユーミンで                                 舞蹴(まいける)
なにひとつ 卒業できず 時は去る                              更歩
尖塔は 雲に隠れて 卒業日                                    タケシ
鉄棒に 跳び付いたりして 卒業だぁ                            孝多
真顔の父母(ふぼ) 卒業式の 朝静か                         一遅
過去全部 ×して自分を 卒業す                                 鬼禿
あなたとは もう卒業ネ 風の街                                  虚視
屋上に 吐き出すホープ 卒業す                                五七
卒業の 写真火にくべ キップ買う                                軒外
卒業す とうとう彼奴に 詫びぬまま                              矢太
あなた様は もう卒業なのに 布団はぐ                         珍椿

                     以上≪本日の全44句≫

◆番外投句  縁側に 躍り出したる 仔猫二匹                鈴木隆祐
               猫の子に 名をつけにけり 寒戻り                    〃
               露弾く コート纏(まと)いし 柳の芽                   〃
                  ※矢太氏の返信レターに、ご紹介あり。特別3句、了。

季節の記憶・いだようの写真散録 №181 [文芸美術の森]

「山笑う」                                自然写真家  いだよう

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雨に濡れ風に揺らめく樹々。
たわいもないおしゃべりに興じているようにも見えた。

いだようのFacebookページ : https://www.facebook.com/idayoh/


にんじんの午睡(ひるね) №8 [文芸美術の森]

犬にかまれた

                                    エッセイスト  中村一枝
 
 またまた飼い犬に手を噛まれた。愛犬に手を噛まれた話はすでに二度くらい書いている。噛むのは10年くらい前に飼ったビーグル犬、すでに8回も噛まれている。初めのうちは消毒してバンドエイドを貼ってすんでいたのだが、3、4年前から血が出るようになり、さらに私が年をとって対応が素早くできなくなったこともあり、前よりもその頻度がました。
 今回は金曜日の夜噛まれて次の日お医者さんに行ったときは手の甲が二倍くらいに腫れ上がっていた。ちょうど私の誕生日の前の日で、変な誕生祝いを貰ったと思ったくらいである。
 彼女、もも代という名前は二年前に亡くなった娘がつけた。初めて家に来た時はこんな可愛らしい、整った顔だちの犬がいるかと、まさに親バカそのものの可愛がり方をした。今までに14、5頭飼っているが、元々法則とも約束ごとも無視して犬を扱っていた。その報いが今来たかという思いもあった。犬の飼い主としては社会的に不適格としか思えないが、ひと目ももを見てからは、ただかわいいという感情に支配されて情に溺れ込んだということである。年をとって恋に身を持ち崩す年寄りってこういうものかなと思ったりもした。そのせいで、ももはかなり気ままで、独りよがりの、そのくせ甘えん坊の犬になつた。 犬が老いていくのも、自分が老いていくという現実も、私はどうも自分のなかで認めたがらないところがある。女優さんでもきれいな人ほどある年齢に達すると翳りが見えたりする。ももと美人の女優さんを一緒にする気はないが、きっとわたしの中では似たようなものなのだ。だからあなたは変なののとよく言われる。
 それにしても今回は以前に比べて重傷には違いない。「やっぱりトレーナーを探したほうがいいよ」息子の言葉もこの度はおとなしく聴くことにした。実は今までにない事だったが、手の腫れといっしょに痛みまで出てきたのにはさすがにあんまり呑気な気分にはなれなかったのだ。抗生物質の薬をもらい、痛み止めをもらった頃にはかなり病人気分になった。家に帰ってこれ見よがしにももに見せ、あんたのせいでこんなになったんだからと見せびらかした。心なしかももの表情がかげった気はしたが、ごめんなさいという感じはなかった。まあそんなもんだろう、そしてやっぱりももは可愛いのである。
 息子が心配してネットで犬のトレーナーを見つけ、電話番号を貼って行った。意外に近場で15分くらいで来るというのでとりあえずきてもらうことにした。トレーナーのPさんは40くらいの目鼻立ちのはっきりした人だった。ももを見るなり開口一番、「ずいぶん年取っていますね」と言った。いきなり年を取っていると言われて飼い主としてはあまり楽しい気分ではなかった。そのあと彼女はかわいいと撫でるわけでもなく抱いてやろうという感じも見えない。テキパキには違いないが微塵も情らしさを見せない人柄に私はすぐだめ押しをした。多分向こうもそうだったと思った。無い物ねだりとは思うけれど、私は厳格さと愛情をきちんと併せ持つ人に来てもらいたかった。飼い主失格が今更と言われそうだが。この年齢になると、その思いは余計にいや増すものである。結局ももは主人を噛んだことへの悔いも反省もなく、それらしき態度の変化もなく過ぎている。私にわかったのはどっちも年をとりつつありそれでも、自分はまだまだとどこかで執着している思い。犬も人間もその気持ちは変わらない。桜があっさり散っていくようなわけにはいかないのである。年をとるということは犬も人も同じ。可愛い可愛いですぎて行った時代は二度とは戻らないことを改めて思い知った。


フェアリー・妖精幻想 №60 [文芸美術の森]

物語詩の妖精を描いた画家 1

                                  妖精美術館館長  井村君江

十七世紀の妖精物語とその絵画化

 『アーサー王物語』のパロディとも見られるマイケル・ドレイトンの妖精詩『ニンフィディア』やロバート・ヘリックの『ヘスペリディース』で、妖精たちは微細(びさい)にわたる装飾的な描写のうちに美化されて歌われ、かえって陽の光にさらされたように生命がぬけて、人間のミニチュア版になり別枠の異界に納まってしまった感がある。
 『失楽園』で知られるオックスフォードシャーのフォレストヒル出身の詩人ジョン・ミルトンが、この地方の伝承を作品に用いて書いた初期の詩『ラレグロ』(一六三二)や仮面劇『コマス』(一六三四)には、村人たちの語る話にサブリナたち妖精が登場してくるが、かえって生き生きとした性質や姿を見せている。

  語られるさまざまな所業――
  妖精マブがどうやって、凝乳菓子(ジャンケット)を盗み食いしたか、
  乳しぼりの娘がどのようにつねられ、叩かれたか。
  〈修道士のランタン〉(鬼火)に道を迷わされた羊飼いの若者が語るには、
  ゴブリンが汗水たらし精だして、
  ほどよく固まったクリームをひと鉢欲しさに、
  村人たちが十人がかりでも手におえぬ麦の山を、
  一晩でそれも夜が明けぬ前に、
  目に見えぬ穀竿(からざお)で打ち終えた、
  それからこのラバー・フェンドは寝そべると、
  暖炉いっぱいに長々と体を伸ばし、
  毛むくじゃらの手足を火で温めると、
  満ち足りたお腹をかかえ、
  一番鶏が朝を知らせるその前に、
  煙突から外へ、飛びだしたとさ。
                 『コマス』

 この詩篇にうたわれた、一番鶏が啼(な)く直前の農家にひそんでいた妖精たち― ホブゴブリンの一種「炉端のロッブ」ラバー・フェンドが農夫の麦打ちを手伝い、クリームボールを空にし竿を投げ、中空に身体を伸ばして逃げていくところ、マブ女王が星空に浮かんで凝乳菓子を食べているところ、まだベッドにいる乳しぼりの娘を妖精たちがつねっているところ― の三種の妖精をウィリアム・ブレイクは忠実にそして巧みに視覚化している(一八一六-二〇頃)。
 ブレイクは、この詩にはうたわれていない「幽霊(ゴースト)」を登場させ、娘のベッドを引っぱる姿を描いており、この「幽霊」はブレイク自身の言葉では、羊飼いの語る「修道士のランタン」(鬼火)と同じものになっている。ここには、ブレイクの「幽霊」に対する解釈が窺え、興味深い。家と小屋の間を朝の仕事に出かける人間は、この「羊飼いの若者」らしいが、行く手に教会の尖塔が星空の下に描き込んであり、また恐ろしい夜の生き物たちを退散させるまじないのように見える。
 ブレイクのミルトンの詩によるこの水彩画は、トマス・バッツの依頼によって描かれたものであるが、ヘンリー・フューズリは一七九〇年から一八〇〇年にかけてミルトンの『失楽園(一六六七)を中心とした詩篇を絵画化する油彩画シリーズの製作に専念し、「ミルトン・ギャラリー」を意図していた。
 そのうちの一つ『羊飼いの夢』(一七九三)は普通、地上で行われる妖精の輪踊りを空中に描き、夢をつかさどるマブ女王が頭上に夢の象徴である白蛾を飛ばせ、眠る羊飼いのそばにすわっている。右隅には奇妙な顔の夢魔のような小妖精がうずくまって羊飼いを見守っており、輪踊りの妖精がのばす手の先には、夢を作り出す小枝がさしだされている。
 そして、こうした目に見えぬ妖精群の気配に気付いたグレイハウンドがおびえて興奮し、魔術の作用している上空に向い吠え立てている。
 ミルトンの詩の『失楽園で地獄の万魔殿(パンデモニウム)で最下位にいる堕天使は、小さな身体に変身し、羊飼いなどを音楽や踊りで誘惑すると書かれており、それを妖精として視覚化させたのである。
 夢の象徴としての蛾の化身のような姿のマプ女王と、夢の破片のような白蛾をフューズリは好んで描くが、『べリンダの目覚め』(一七八〇-九〇頃)の画面にもそれが描き込まれている。肌の白い空気の精シルフが朝の化粧を用意する傍を、紹介のポーズを見せて駆け抜けるパックは「スパイスの風香る」インドから飛んできたようで浅黒い肌と異様な顔つきが印象的である。
 夢を生み出すマプ女王はミルトンの詩篇には登場していない。フューズリはこういった妖精のキャラクターについての知識を、ポイデル・ギャラリーでも画題として描いていたシェイクスピアから得ていたようだ。
 彼には『羊飼いの夢』の習作として、鉛筆や淡彩の赤チョークの一連の素描があるが、綿密な筆で「月の前で舞うパック」や「コウモリで空を飛ぶエアリエル」が描き込んである。「髪をとかす裸の妖精」がシュロップシャーの民間伝承をもとにしているというように、フューズリは文学やフォークロアの妖精諸に詳しく、それらをもとに独自の奇怪(グロテスク)な映像を作りあげている。
 可視の世界はつねに不可視のリアリティと連関しているとし、好んで画題に「夢魔」「魔術」「夢」「魔女」「幻想」を選んでおり、天使も異教の生き物も根はひとつだとしているが、フューズリは妖精の存在を深く信じてはいなかったようである。
 妖精たちに華やいだ流行のドレスとボンネットをかぶせているのは諷刺の筆ととれるが、特に、その鉾先は当時流行の心霊術にこっていた社交界の貴婦人たちに向っていたようである。

W.Blakeゴブリン.jpg

                       ウイリアム・ブレイク『ゴフリン』

『フェアリー』 新書館


ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №30 [文芸美術の森]

第二章 民衆たちのテーブル・トーク
  市民たちが見たレーニンとスターリン 4

                               早稲田大学名誉教授  川崎 浹  

おもしろうてやがて悲しき祭りかな

 少なくとも現在から見れば、右のレーニンのアネクドートは毒のないユーモラスな作品だが、「一九三〇年代」と記された、もっとたわいない小品がある。

 片方の足に長靴をはいて男が道を歩いていた。
 「長靴をなくしたのですか?」と、気づかって通りすがりの人が尋ねた。
 「いえ、見つけたのです」

 ひと口に三〇年代といってもさまざまだが、内戦がおわり、経済を活性化させるための新経済政策がおわり、スターリソ路線のもとに緊張と粛清と貧困を強いられた時代である。片方の長靴だっておろそかにはできない。となるとこのアネクドートはそれほど単純なものではなく、おもしろうてやがて哀しき祭りかな、となる。

大敗北への批判

 さて、行列に並ばされる不満を「ひげ男」にうさ晴らししたために危うく拘束されかけた男の話にここで戻るが、お互いに腹を探りあうという構図もひとつのパターンになっていて、さまざまなヴァリアントがある。
 ジェーコフといえば独ソ戦で名将の誉れたかい将軍で、戦後、国民的な人気があったために、競争相手の存在をきらうスターリンから遠ざけられた。つぎのアネクドートの時期は、ヒトラーのドイツ軍が一九四一年六月にソ連に侵攻する前のころである。当時、東京にいたソ連のスパイ、ドイツ人ゾルゲをはじめ、種々の情報筋からナチがソ連をまもなく攻撃するという資料がとどいていたにもかかわらず、スターリンは独ソ不可侵条約を信じて情報を最後まで無視しつづけた。
 ついでに説明すると、一九一七年のロシア革命は人民のための人民の政府を人民の手でうちたてることにあったので、すべての国民が資本主義的「階級」に属さない平等な立場にあった。それでレーニン以下お互いに「同志(タワーリシチ)」と呼びあうことになる。それからもう一つ、スターリンにはグルジア訛りがあった。

 ジューコフがスターリンの執務室に入って行った。
 「なにかいいたいことがあるのかね、同志ジューコフ」
 「同志スターリン、西部方面に進出を開始する必要があると私はみなします!」
 「ディテ(出て〕行きたまえ、そのあとでもう一度ケティロン(結論)を聞かせてもらおう」
 ジューコフはスターリンの部屋からでると、軽率にもスターリンを口中でぶつぶつと「豚」呼ばわりした。
 控えの間にいた将軍は、ジューコフの思考の文脈をとらえて、スターリンに報告した。「ジューコフがぶつぶつと口中であなたを豚呼ばわりしていました⊥
 スターリンがジューコフを呼びだすように命じた。
 「ゲオルギイ・コンスタンチノビチ(ジューコフの名と父称)、アナティ(あなた)は私の所からディテ(出て)行って、『豚』のことを考えた。だれのことを念頭においていたのかね」
 「いうまでもありません、ヒトラーのことです、同志スターリン」
 スターリンはいった。
 「私も、ヒトラーだと思う。じゃあ、同志将軍、アナティはだれのことを念融においていたのかな?」

 しかし、このたいして面白くもないアネクドートには、じつはスターリンがヒトラー軍の侵攻に適切な措置をとらず、緒戦の大敗北と甚大な被害をこうむったことへの批判もこめられている。

レーニンの後継という見方

 一九五三年にスターリンが死亡し、モスクワで葬儀がおこなわれたとき、市の中心部で大混雑が生じてパニックをきたし、多数の死傷者をだした。つまりそれほどスターリンの死を悼む者がおおく、かれを慈父とみたり、あるいはまったく反対に苛酷な独裁者と見抜いていた知識人や囚人はいても、無能者あつかいする市民はすくなかったようだ。
 実際、舞二次世界大戦の直前、スターリンは外交官松岡洋右を前例のないことだが駅まで送りにきて、友情あふれる態度をとり、感激した松岡は凱旋将軍のごとく帰国したが、近年公開されたモスクワ古文書館の資料によると、スターリンは松岡洋右を手玉にとって翻弄したのであり、その辣腕の外交術は「無能」などとはまちがってもいえない(平井友義「スターリンの哄笑 - 日ソ中立条約」、一九九八年二月六日、神戸大学での報告)。
 スターリンの集団農場化は惨憺(さんたん)たる結果におわったが、三〇年代における重工業化はかれの功績である。もっとも、ソ連のあの時期の指導者ならだれでも国の重工業化政策をとらざるをえず、またとれば成功をおさめたと指摘する米国の学者もいる。
 それでもスターリンを無能扱いしないと気のすまない識者がいて、こんなアネクドートがある。作中の「火花」とは、革命前哨戦の一九〇〇年末にレーニンが創刊した有名な雑誌である。

  レーニンがスターリンに電話した。
  「〈火花〉の新しい号は気に入ったかね?」
 「たいへん柔らかな紙ですね、ウラジミル・イリイチ」

 スターリンの「偏羞値」や巧緻(こうち)にたけた手腕は別として、これは、かれをレーニンやトロツキイより知性においても政治理念においても低い政治家として見るアネクドートであり、スターリンの政策はレーニンの延長にすぎないとする見方とどこかで通じている。スターリンはレーニンをもちあげ、自分がレーニンの後継者であることを強調した。ソルジェニーツィンは『収容所群島』でこの系図を逆手にとって、スターリンの粛清と収容所の悪夢は、すでにレーニンのときにはじまっていたと指摘する。

『ロシアのユーモア』 講談社選書


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