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フェアリー・妖精幻想 №79 [文芸美術の森]

『老水夫行』と『眠り草」

              妖精美術館館長  井村君江

 サミュエル・T・コールリッジの物語長編詩『老水夫行』(一七九八)が、彼の友人で流行の挿絵画家クルックシャンクが語った「人影が見える骸骨船を見たという不思議な夢にもとずいて書かれている。この詩全体が、幻想的で視覚的なタブローを見る思いがするのは、そのためであろうか。この詩には妖精は現れないが、生き残った老水夫の乗る船を操るのは「南極の精(ポーラー・スピリット)」の仲間である守護の精霊(ガーデアン・デーモン)で、「宇宙の元素の目に見えぬ生きもの」とコールリッジが註で言う超自然の生きものである。
 この詩に四十二葉の挿絵を描いたギュスターブ・ドレは、南極の精霊たちを、背に羽を持ち風になびく金髪に蝶の翅の冠をのせ、薄い衣をなびかせた美しい女性の姿に描いていた。
 また、ウイリー・ボガニー(一八八二~?)は『老水夫行』一篇を、モリスのケルムスコット版のように、ゴチック体活字デザインをし、別刷り挿画二十葉を入れ、帆船に金のアルバトロス(あほうどり)の飛ぶデザインを革押し天金にした装幀で飾り、中世の小写本のような豪華で気品のある詩集に仕立てている。
 イルカ、海蛇、タツノオトシゴ、魚のパターンがアラぺスクとグロテスクの紋様のように入り額縁飾り(プロセニウム)のなかに、物語の筋に沿った、老水夫、アルバトロス、精霊を象徴的にデザインしたモノクロームのカット等は、エキゾチシズムにあふれ、アイルランドの古写本『ケルズの書』(八世紀頃)のデザインに現れる奇怪な生きものに似て
原始的なアニミズムの息使いが感じられる。
 明確な輪郭の線描によるそれらの動物とは対照的に、挿入されている挿絵は色彩のみで描かれ、輪郭のない人物や海、空、船、木などが一つに溶けあったような、幻想的で色彩のシンボリズムとも呼べるような画面である。
 ハンガリー生まれのウィリー・ポガニーは、イギリス生まれの妻と共に、ミュンヘンやパリ、アメリカやイギリスを転々とし、ニューヨークのメトロポリタンオペラ劇場で、装置や衣裳デザインもやるというように、大海を一人漂う老水夫のような生活を送り、コールリッジの老水夫の詩篇に共感を覚えたのであろう。異なった装幀で、三度も同じ詩集本を次々と出したのである。彼はやがて一度は追われたイギリスでエドワード朝時代になってから挿絵画家として迎えられ、一時はアール・デコの流行の波に乗り、挿絵画家としての地位を得ることができた。
 ポガニーがコールリッジの長詩一編を豪華な一冊の詩集に仕立てたように、チャールズ・ロビンソン(一八七〇~一九三七)はシェリーの『眠り草』(一八二一)一編を取り上げ、別刷りの彩色図版十八葉を入れ、各ページに着色二色のカットをつけ、見返しにもモノクロームの線描画を描き、白仔牛革の表紙に金押しでデザインするというように力を入れて豪華な一巻を作っている。
 原題の『センシティヴ・プラント』は学名が(ミモザ・プディカ)で、さわると葉をとじる植物であるが、これをシエリーは光によって、「昼は開き夜は眠る」とし、詩の中でこの性質を用いている。
 この詩はシェリーがイタリアの海で船の転覆で生命を落とす二年前に、イタリアのピサで書かれている。
 この詩の内容は鈴蘭やヒヤシンスなどさまざまな花の咲き乱れる春の庭園で、眠り草は輝く花も香りも色もなくひとりばっちで立っているが、一人の美しい婦人がこの庭園の花の世話をし眠り草にも目をかけてくれる。この婦人は庭園の精霊であり、美の精霊で、愛によってこの花々を咲かせる愛の女神でもある。彼女の死によって庭園には死と荒廃が訪れ、夜と寒さが支配し、眠り草は葉も落ちてしまう。しかし最後に、形のない「愛」と「美」と「歓び」が永遠に残ることを歌っている。
 眠り草は詩人の心を仮託されており、愛の花園を支配する美の化身である婦人を憧れ、その暖い保護を求めている。
 これはそのまま現実のモンキヤツシェル伯爵夫人マーガレット・ジェーンへのひそかな詩人の愛慕の情を歌い上げたもののようである。従って花々を愛育する女神はシェリーのミューズであり、楽園の主であり、植物の生命を育てる精霊であるといえよう。
  チャールズ・ロビンソンによる『眠り草』の挿画と各ページのカットは、作品の意図をよく汲んでおり、百花咲き乱れる花園に薄い衣をひるがえす愛の精霊を、無防備な赤子が、求めるようなまなざしで見上げている図は、象徴的によくこの詩を表しており、背景に描き込まれた建物が古典的な雰囲気を強めている。
 またもう一つの絵のランプを掲げた夜の精霊は、ナイトガウンを身にまとっているが、安眠を守護する羽をつけた天使のようであり、前景の芥子の花が眠りの象徴のように描かれている。背景の闇の奥深くにそびえる不思議な三角の丘につらなる風景の中にしゃれこうべが配され、「死は眠りなり」ということも示されている。挿絵の中でこの絵が独立して百号ほどの油絵に描かれたが、現在ヴィクトリア・アルバート美術館に保存されている。
 シェリーのこの詩は挿絵画家たちの想像力を刺激したようで、ローレンス・ハウスマン(一八六五-一九五九)も独特の世界を繊細なエッチング挿絵で構成している(一八九七)。
W.ボガニー「老水夫行」.jpg
ウイリー・ボガニー「老水夫行」

『フェアリー』 新書館


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にんじんの午睡(ひるね) №27 [文芸美術の森]

ああ百年

               エッセイスト  中村一枝

 この一月から始まったNHKの大河ドラマ、西郷どんが好きで気に入っている。大河ドラマにはあまり興味のなかったわたしが時間のくるのが待ち遠しい。というのも主役を務めている鈴木亮平くんに一目惚れしてしまったのである。そういうおばあさんは多分五万といる。以前朝ドラにも出ていたそうだが朝ドラには興味がないので今回が初対面、役者としてより画面からにじみ出てくる人間味に興味を引かれたというのが本音。私がずっと好きだったのはデビュー当時から近藤正臣。もう、5、60年になる。
 子供の時から本は大好き。身体の弱い子だったから外遊びよりうちの中で本ばかり読んでいた。父親が物書きなのは知っていた。いつも机に向かって何か書いている。多分その真似をしてわたしもなにか書いていた。育った時代は戦争真っ盛りだから子供の読み物も戦時色濃厚、戦国時代から維新まで勇ましい話が多かった。その頃より少し前、わたしの父は朝日新聞に「成吉思汗」を連載していて、原稿ができ上がると決まって二階の部屋で母の前でそれを読んだ。私は母のひざを枕にそれを聞くのが楽しみだった。ジンギスカンの母親がほかの部族の酋長に掠奪されるどころは特に印象的で刺激的だった。多分父も母も母の膝をまくらにねているむすめがどんなに胸をときめかして聞いていたかなど考えもしなかったたはずだ。父の語り口には一種独特の抑揚があり、おそらく父も文章を読みながら、自分の作った物語に浸っていく楽しさを感じていたにちがいない。私はこの物語に触発されて、「じんかん」という絵ものがたりをつくった。
 明治維新にハマったのは多分それから二年くらい先のことだ。静岡県伊東温泉に引っ越しそこの小学校から中学に進学した。玄関先の二畳が私の読書室だった。小学生の時は戦争末期で頭の上をB29や艦載機が通過して行った。帰りがけに何をして行くかわからないというので空襲になると畑の中をかけて帰った。そんな中で読む明治維新の話は尊王攘夷一辺倒でしばらくそれにはまっていた。
 私の父のところには色々な人が出入りしていて、それは多彩だった気がする。そういう中で自分の好みで生き方を決めたというのも、多分父は自分の生きザマを人に押し付けることだけは決してしなかったからだと思う。おかげで私はのびのびを通り越し好き勝手に振舞う事で生き延びてしまった気がする。最近気がつくとおばあさんをとうに通り越している。そのくせ自分はおばあさんなんかじゃないと思い込んでいる滑稽さ。人間って自分のいる位置が段々わからなくなるものかもしれない。
 「一かけニかけて三かけて四かけて五かけて橋をかけ…」と始まるわらべうたのようなものがなんとなく耳に残っている。お手玉をしながら歌うそのうたの中に「西郷隆盛娘です」というそこのところだけ覚えている。私が小さいとき誰かが教えてくれたものだろうが、テレビをみていてふとおもい出した。西郷さんなんて歴史上の人物として遠いひとに思っていたのだが、100年前なんて大昔でもなんでもないことがわかってきて、改めて私は古老なのかなあと一人感心している。




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渾斎随筆 №3 [文芸美術の森]

 西大寺の邪鬼

                       会津八一
                                                   西大寺四三堂にて
   まがつみ は いま の うつつ に ありこせ ど ふみし ほとけ
   の ゆくへ しらず も
 私の歌は、すべて難解だといふ評判を、まへまへから聞いてゐるが、これなどは、恐らく屈指の方かも知れない。
 しかし、私の歌は、奈良地方で、懐古的な気持で詠んだものが多いから、もし人が見て、すぐ解らないところでもあったら、何かの折に、自分で奈良へ行って、西大寺なら西大寺の、その堂の中へはひつて見たら、解るべきものは案外たやすく解るのであらう。しかし、その現場へ行つてもまだ解りにくいことを、書物が教へてくれることもあらう。最初『南京新唱』を出すと、その頃はまだ、面識の無かった吉野秀雄君から、書面で、この歌の質問を受けた。その返事にも、私は先づ旅行と讀書とを勧めておいた。歌枕(うたまくら)を探るために、遠い旅をするといふことは、古い逸話もあるし、近頃では、『萬菓集』の地理的研究が、やかましく云ほれて居るくらゐで、別に新しいことでも無いが、自分の歌のために、人にこれを勧めた私は、いかにも高慢に聞えたかも知れない。けれども、作家は誰にしても、つまりは同じことであらう。歌はわづかに三十一文字の短いものであるから、つい手軽に手が出したくなるのか、気軽に、一日に何百首といふものに目を通すことを何とも思はない。そこで、ものが投げやりになりたがる。従って一首づつにあまり手をかけてゐるわけには行かないと云ふのが一般の風ではなからうか。これはまことに面白くないことである。短くとも、一首づつが獨立した文學であるといふなら、作る方はもちろん、読む方でも、もつと慎重にして貰ひたい。歌は世界に類の無いほど短いものであればこそ、これは大切なことである。それほどにすることも要らないといふならば、歌はそれだけの値打ちがないと、自認するのも同じことである。『萬葉集』などをあけて見て、誰にも気がつかねばならぬことは、わづか五六首の ― 少くも吾々にはそれだけしか傳はってゐない ― 作者でも、尚ほその五六首で、千年の今日まで脾睨してゐる人もある。深く気を入れずに、あまり軽々と、澤山のものを手がけるといふ風は、つとめて一掃したいものである。
 奈良の西郊に、大軌(だいき)電車の西大寺驛があり、そこで下車すれば、すぐ西大寺がある。天平神護元年に稱徳天皇の勅願によって建立せられ、御父聖武天皇御願の東大寺が、迄か東の山の麓に聳えるのに対して、西大寺の名を得た。その建立常時、善美をつくした壮麗絢爛のありさまは、これを距ること久しからぬ、寳亀十一年に記録された此の寺の流記(るき)資財帳によっても、ゆたかに想像されるが、傳説によると、天皇は創建の寺に親臨せられ、玉手を以てみづから熟銅を撹(か)かせられて、四天王像の鑄製に力を致されたといふ。この造像は、恐らく『金光明最勝王経』の所説によって、彿土守護のためにされたのであらう。しかるに、その後、平安時代に入って、貞観二年には、火災のために堂宇は焼け落ち、持國、廣目、増長の三天が失はれた。そしてこの三體は、やがて改鑄されたが、室町時代の文亀二年には、再び火災に邁ひ、この度は、さきに再鑄した三體は逃れたが、これまで天平原作のままでゐた多聞天が、左脚の一部だけを残して、壊滅してしまった。この一體は後に補はれたが、それは木彫であった。寺運の衰微が、おのづからその間にも窺はれる。そしてこの不揃の四天王を、今この寺の四王堂(しおうどう)の中に見るのである。
 ところが、先づ気になることは、四天王が、脚下に践んでゐた邪鬼どもは、二度の業火を経ながらも、殆ど恙なく、いづれももとのまゝに遥しく、今も變らず蹲まってゐる。そもそも邪鬼としいへば、正法に敵封する外道のシムポルである。そのともがらが、外道ながらに、古い藝術の威力を以て、今も揃って踞してゐるのに、その上を践み鎮めでゐる筈の四天王は、護法の名も空しく、いつも旗色が悪く、次第に厳亡して、新作が入り代はるごとに、素質はますます貧弱になった。私がこの歌を詠んだのは、實はこの鮎に容易ならぬ皮肉を感じてのことであった。そして誰しも、實際この堂に立って、この異様な封照を見るものは、たやすく此の感懐を、私とともにするであらう。
 まづ、これくらゐの説明で、あの西大寺の歌は、私の気拝に近い理解を受けるであらう。しかし、その後、私が東大寺の二月堂で詠んだ一首の歌になると、これ等の邪見に對する私の態度はさらに一歩を進めてゐる。その歌は
  ぴしゃもん の おもき かかと に まろぴ ふす おに の もだえ
   も ちとせ へ に けむ
この堂の毘沙門の脚下に伏し轉(ま)ろぶ那鬼の苦悶も久しいかなと、私は慨いてゐる。そしてこの場合、私はいつしか毘沙門よりも、その鬼の方に、より多くの同情を傾けてゐるらしい。

『会津八一全集』 中央公論社


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石井鶴三の世界 №111 [文芸美術の森]

たかまつ岳1965年/湯の又の滝1965年

               画家・彫刻家  石井鶴三
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たかまつ岳 1965年 (120×169)
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湯の又の滝 1965年 (120×169)

**************
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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はけの森美術館Ⅲ №45 [文芸美術の森]

バラ

                    画家  中村研一

バラ3.jpg
水彩 43cm×31cm


************                                         
【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面 

 



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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №49 [文芸美術の森]

ブレジネフの時代 5

            早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 黒いボルガと酒飲み

 「アルメニア放送」は原則としてこのように短い作品から成っているが、すべてが短いわけではない。つぎは長い作品の例である。

 「ソ連人はいかなるカテゴリーに分類できますか?」
 「赤い人と黒い人に分けることができます。黒い人とは ― 黒塗りの〈ボルガ〉を乗りまわし、黒イクラを口にし、黒い裏道から物品を得ることのできる連中のことです。赤い人とは ― 五月一日に赤い鼻をして、一一月七日には赤旗をもって、赤の広場を歩く連中のことです」

 黒塗りの国産ボルガは当時のステータス・シンボルであり、キャビアを常食できるのも、国営商店ではなく、特別のルートから入手できたからである。黒い人とは要するに高級官僚の特権階級を指しているが、他方で当時ソ連経済の一〇パーセント以上を占めていた闇経済のマフィアをも指していておかしくない。赤い鼻は酒の飲み庶民のシンボルである。いうまでもなく五月一はメーデー、一一月七日は革命記念日。

リアリティを持つ世界の形成

 この章を閉じ、つぎの章へ移るに際して、第二章、第三章で共通する現代アネクドートの重要な分母について、まとめておきたい。
 近代アネクドートでは、実際にはありえないような珍奇な出来事を興(きょう)がったとはいえ、ニュース性を重んじたために、「頭でひねりだしたような作り話」ははずされたが、現代のアネクドートはまったく逆である。機知の利いた笑いそのものが重視され、周囲の生活を切り取ってアネクドートの額縁に収めるのではなく、自分で作品を制作する傾向が決定的となり、これがひろく密かに市民の間に伝達された。現実に生じた生活や事件を写実的に切り取るのではないゆえに、一八世紀アネクドートの規範からすれば、それはとうぜん「頭でひねりだした作り話」ということになろう。
 近代アネクドートでは漫然と面白い話を収集したものが多いが、現代アネクドートの作者は、「作り話」とはいえ、標的とそこへの距離が定まっていて、対象にたいする風刺、皮肉、諧調など、笑いの質が明確である。つまり「作り話」にもかかわらず、というより逆に推定と論理を用いての「作り話」だからこそ、現代のアネクドートは作者がここぞと思う所に焦点をしぼり、練りあげた意味をこめることができた。それは対象のなかに弾丸のようにのめりこむのではなく、対象と平行して、反映の鏡のようでありながら、写実ではなく、暗示や象徴や隠喩や抽象という特殊レンズによって、もう一つのリアリティをもつ世界を形成する。
 たとえばプロローグの最初にかかげた「作り話」のアネクドートを聞きながら、私たちはだれも現実の出来事とは思わないが、しかしこれが、真実らしい顔をしている現実より、さらに真実味をおびていることを認める。

『ロシアのユーモア』 講談社選書


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フェアリー・妖精幻想 №78 [文芸美術の森]

「薔薇物語」「妖精の女王」と「コマス」 2

             妖精美術館館長  井村君江 

 スペンサーの『妖精の女王』(一五七九~一五九六)は長篇の寓意叙情詩の傑作であり、六巻まで刊行され、未完ではあるが当時広く読まれた。女王グロリアーナはエリザベス一世を象徴し妖精の女王である。十二人の騎士たちの中心にはプリンス.アーサーが存在しており、中世騎士物語が下敷きになっている。
 ギリシャ神話の神々や精霊、鬼婆(ハゲ)や怪物なども自由に登場し、妖精騎士や好戦的妖精たちも自在に活躍している。
 スペンサーは、「フェアリー」という語を「魅力ある国」「そこに住む者たち」という意で定着させたが、まだ「エルフ」と「フェアリー」を区別なく用いており、おおむね「エルフ」を男の妖精に、「フェ」を女の妖精に用いている。
 スペンサーはアーサー王伝説の湖の精と同種のフェにシンシアやダイアナなどの月の女神を重ねて、妖精の女王を等身大の美しい女王に仕立てている。
 ルイス・フェアファックス・マックレーの描いた挿絵は『妖精の女王』の第三巻の場面であるが、モノクロームの木版画はビアズリーのモノクロームや、モリスのケルムスコット版を見るようである。バーミンガム美術学校出身のマックレーは、同郷のバーン=ジョーンズからラファエル前派のスタイルを学び、特にウィリアム・モリスの感化を受け、さらに手工芸とデザインを勉強し、のちに『ザ・ケスト』誌の専属デザイナーにもなっている。デコラティブな中世の写本イルミネーションの縁飾りのような唐草のパターン、端正な人物のポーズや衣のひだなどに中世趣味の漂う妖精女王と女官たちの一幅である。
 ミルトンの長詩『コマス』(一六三四)は、友人のヘンズローが作曲し、守護天使の役も演じた仮面(マスク)劇であるが、一種の寓意詩ともいえる作品である。
 酒の神バッカスと魔法の女神キルケの間に生れた飲酒と享楽の神コマスは旅人を道に迷わせたり、魔法の酒で顔を変えたりして悪業をする。ブリッジウォーター伯の姫は、羊飼いに化けたコマスに誘惑されるが、守護天使から急を告げられた兄弟が、妖精サブリナの助けでコマスの呪縛を解いて、姫を救うという筋立てである。
 一八五八年に、ダルジェル兄弟が彫った四人の画家たちの三〇枚の銅版画を入れた『コマス』が出版された。図柄はおおむね古典的であるが、当時の妖精像がよく描かれていて、興味深いものである。
 月夜の海辺でモリスダンスを括れ踊るのは、「しなやかなフェアリー、すばしこいエルフ」で、小小川や和泉には「森ノニンフ」が寝もやらず陽気に戯れるという一節の視覚化である。フェアリーはしなやかな肢体を躍動させる少女の姿に、エルフは黒く小さい姿に描かれ、やや滑稽な評おジュと動作をみせている。
 もう一つの画面では、二人の旅人が夜道を迷って沼を歩いて行き、彼らの帽子の上に、ダーク・エルフ(ここではアーチンと言われている)が鬼火を掲げている図で、ピクシー・レッド(ピクシーばかし)に遭い困っている様子が描かれている。エルフはコウモリの羽、動物の尻尾、小動物の顔つきの、いかにも小鬼といったミルトンが否定する悪魔の一群の一人として描かれている。
 月の女神の映像やニンフの姿が重ねられている美しいライト・エルフの間に、ミルトンの生地オックスフォードシャーのフォレストヒルの村の民間に伝わっていたゴブリンやプーカのいたずらを挿絵画家がここに捉えているといえよう。

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ルイス・フェアファックス・マックレー版「妖精の女王」
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ジョン・ミルトン作「コマス」より旅人を道に迷わすアーチン
「コマス」よりモリスダンスを踊るフェアリーたち.jpg
「コマス」より モリスダンスを踊るフェアリーたち

『フェアリー』新書館


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にんじんの午睡(ひるね) №26 [文芸美術の森]

甘いもの好き

               エッセイスト  中村一枝

 今の男の人は年配の人くも若い人も含めてみんな甘い物が好きである。以前甘いものは女の人が好きときまっていた。根っからの飲んべえであった父がむしゃむしゃケーキをほおばっていたと言う姿はあまり思い浮ばない。でも今はケーキ屋でケーキを吟味している半分以上は男のひとで、それに店の人にいろいろ尋ねているのを聞いていると私などよりはるかに造詣が深い。
 わたしの夫の勤め先は赤坂で、当時お洒落なケーキ屋さんが色々あったせいか、夫がよくお土産にケーキを買ってきてくれた。でも自分で食べるということはほとんどなかった。子供のときは父親が横浜税関に勤めていて、よくケーキをもらったらしい。義母のエッセイに出てくる。横浜の税関長だった義父は戦前でもクリスマスにケーキをもらったりということが書かれていた。今は女性よりも男性のほうがケーキ愛好者は多いのではないか。と思ったりもする。
 戦争が始まってしばらくした頃、ふと気がつくとお菓子屋の店先から甘い物が消え始めていたのだ。子供のことだからそれが戦争のせいだとは思いもしなかった。なぜだかあるとき、部屋のタンスの上にキャラメルの箱が乗っているのに気がついた。母が買いだめしたというより、自分も食べるつもりで二、三個置いたのだろう。私はそのキャラメルの箱がいつも気になっていた。上を見てはまだある、まだあると思っていたのだ。最後は自分で食べたかもしれないが気がつくとタンスの上のキャラメルは消えていた。あああの黄色の箱はもう見られないと思った幼い心のショックはいまでも忘れない。お砂糖は配給制から手に入れるのは難しい時代になっていった。一年前には銀座の千疋屋にもオリンピックにもあったショートケーキ。ああ二度と食べられないという思いは子供心に響いた。 
 空襲のくる前にとわが家は伊豆の伊東に疎開を決めた。千坪はある広い敷地の中の小さな隠居所で、六畳二間、八畳という小さな家だったが、私にとっては生活の大変化、そして伊東との繋がりは一生続く事になる。上が六年生、下が四年生の大家さんの孫息子との交流、しっかり者でやり手のおばあさん、一つ一つが初体験だった。私にはこの家で過ごした四、五年は未だに珠玉のようなものである。
 甘いものは何もなかったが代わりに自然の恵みといいうものを肌で知った。尾崎さんってほんとに伊東が好きなのねと言われるが、物の不自由な時代だからこそ知る輝かしき物、自然の恵みも、ひととの交わりも、降る星の如く多彩である。戦争の終には機銃掃射なるものも目撃したのに、あれほど自然に囲まれていたと思い込んでいた場所が今は想像したくもないほどの変わりようなのに、私の中には数十年前が魔法の鏡のように当時の面影がつぎからつぎへと通りすぎていく。この文章を読んだ伊東の友達はきっと言うだろう。あの人また伊東の事書いてる。きっとこのさきもまた書くにきまつてるわ。




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渾斎随筆 №2 [文芸美術の森]

唐招提寺の圓柱

                       会津八一

   おほてら の まろき はしら の つきかげ を つち に ふみ
    つつ もの を こそ おもへ

 これは『鹿鳴集』では「唐招提寺にて」と詞書を附けておいた。自分としても割合に好きな方であり、福島県の天野秀延君が、伊大利風の作曲をしてくれた三首の中にもはひつて居るし、いくらかの好みを寄せる人は、はかにも折々見かけることがある。中にもむかし唐招提寺に住んで居た或る若い坊さんなどは、一應この歌を褒めてくれた後、いつもきまって御寺の景観の自慢になったものだ。「御歌もよろしいのでせうが、私(うち)の寺で詠まれたものが、ことにづぬけて結構におもはれます。」つまり御寺の良さに曳き上げて貰った歌だと云ふことにもなる。
 ところが先夜、ある劇場の廊下で、ひさびさに、一人の青年美術家に出合った。今は舞董装置などに凝って居るが、ずつと前に、私について行って、初めて奈良を見た人である。私が帰りがけに、「のこり なく てら ゆきめぐれ かぜ ふきて ふるき みやこ は さむく ありとも」といふ歌を詠んで興へて居るのは、この人である。廊下の立噺で、この人の云ふところにょると、この「圓き桂」といふ歌は、決して唐招提寺ではなく、実は法隆寺であった。あの日は、法隆寺で暮して、いつしか月は、西院(さいいん)伽藍の中庭の、高い松の杖にさしのぼって回廊の圓い柱の影が、斜めに土間に布いてゐた。それを先生は、櫺子(れんじ)格子の間から覗き込みながら、低い聲ではあったが、明瞭に、「おほてらの……まろき……はしら‥‥‥まろきはしら‥…」と幾度もつぶやいて居られた。と、その人は云ふ。
 これを聞いて、びっくりしたが、云はれて見ると、だんだん思ひ出される。なるほどそんなこともあったかもしれぬ。その晩は西院に日が暮れて、それから、あの砂つぽい路を、東大門へ来ると、扉はもう閉ぢて居て、わきの潜り戸を押し開けて通り抜けた。すると、鐡の長い鎖に着いてあるらしい重い錘の力で、忽ち私たちの後ろに閉ぢたその潜り戸の、けたたましいといふか、何といふか、あの深い寂実を一時に破る大きな物音、そしてそれにつづく再び深い静けさ、いろいろと思ひ出される。それから私たちは、夢殿の前でバスに乗って、奈良へ帰る途中に、またもや下りて、唐招提寺へ立ち寄ったのであった。
 バスを下りて、唐招捷寺の東門から進む頃には、夜はかなり深く暮れて、月はこの寺の木立を高く離れて居た。たしか二人の若い律僧も出て来られて、四人で金堂の石垣の上で、話したり、庭へ下りて、あの粒の大い敷き砂の上を、何といふこともなく歩いたりして、それからまたバスで、奈良の宿へ締り着いたのは、だいぶ遅かった。そして、あの金堂の有名な、ふき放しの列柱の、力強い短い影を、石畳の上に践みながら、「つちに ふみつつ ものを こそおもへ」と詠み据ゑたのは、たしかに此の時であった。それは私によく思ひ出される。
 だから、あの歌が出来たのは、全然唐招提寺であったと云ふには、いくらかの條件がつくにしても、全然法隆寺だとしてしまふことは、尚さら無理であらう。つまり同じ一と晩のうちに、同じ月の下で、法隆寺で萌ざした感興ではあつても、唐招提寺に至って、始めてそれが高調し、渾熟して、一首の歌として纏め上げられたのである。してみれば、この細かいみちゆきはともかくも、やはり唐招提寺の歌としなければなるまい。これが寓眞などであれば、話は少し違って来るのであらう。長い旋行の後に、数多いフィルムの整理を間違へるといふことは、無いことではない。そしてそれは、有ってはならぬことである。しかし同じ寫眞の世界でも、藝術寫眞と銘を打つ人たちは、あちらの海の雲を持って来て、こちらの山の上へ焼きつける位のことは、あまりにも常のことであらう。先日ある人に聞けば、近頃評判になった或る映畫の中では、越後の海岸が、薩摩の海岸と、地つづきに接ぎ合はされて居たといふ。そんなことは、實際は、いくらもやって居るのであらう。また一幅の日本畫の構園を、ばらばらに分解して、それぞれもとのスケッチブックなり粉本なりに、引き戻したならば、もつと面白いことがいくらもあるのであらう。それ等は、すべて藝術の名のもとに許されて居る。それに校べるならば、私のこの歌の場合などは、格別問題にもなるべきものではなからう。しかし、寫眞や日本畫が何うあらうとも、とにかく歌は、誠實に、情をこめて歌はなければならないと、人もよく云ふことであるし、私もさう思って居る。それを恩ふばかりに、これだけの内輪噺を、さも事々しく、ここにありのままに暴露しておくのである。
 こゝまで話が行き着くと、私は今一つ云つておきたいことがある。それは私の歌にあらはれて来た圓柱の、そもそもの正體である。今どきの美術學者は、いひ合はせたやうに、桂の高さとか、直径とか、その比例とか、エンタシスがあるとか無いとか、そんなことを丹念に説明したがる。そして此等の二つの寺の、時代の論定に餘念がなく、その間に、百
幾十年といふ巾の廣い溝を掘るから、一首の歌を一方の寺で詠みかけて、他方の寺で詠み据ゑたといふことは ― ことに學者の片割とも見られてゐる私として ― さだめし少からぬ侮蔑の種となることであらう。しかし私は、それどころでなく、もつと大きい不心得ものであるかも知れぬ。といふのは、奈良の御寺に
見るやうな圓柱に封して、私の持つ限り無い愛着の根柢を、つくづくと洗って見るのに、それはもともと唐招提寺でも法隆寺でもなく、遠い昔の遠い國、ギリシャの神殿にあるらしい。もう三十年以上の昔になるから、進んだ今の世の中では、もちろん口に出して云ふほどのことでもないが、一時私は、無暗にギリシャのことが知りたくなって、其頃手に入るかぎりの幾十冊かの書物で、わづかに渇を癒したことがあった。この頃の、まだ若かった私のあたまに、よほど深く染み込んだものと見えて、パルテノンやテサイオンの圓桂が、今にしても尚ほ私をして奈良のそれ等に興ぜしめるのであるらしい。してみれば、飛鳥と寧樂の見さかひが、附くとか附かぬとかいふ段ではないことになる。つまり私は、見る人によっては、だいそれた気持で、奈良の歌を詠み歩いて居たのかも知れない。が、私としては、これよりほかに何とも致しやうを知らない。そしてまた、此の歌のためにいくらかの好みを見せる人のあるわけも、或は此所にあるのではないかときへ、ひそかに思って居る。
 しかし私は、この歌が、誰からも一様に、好かれて居るなどと思って居るのではない。ことに或る友人などは、『萬葉集』の三方沙彌の
  橘之蔭履路乃八衛爾物乎曾念妹爾不相而
を挙げて、私の注意を求められた。なるほど短かい一首の中に「かげふむ」と云ひ「ものをぞおもふ」と云つて居る。似て居ると云へば随分似て居る方であらう。けれども、この責任を古人に負はせることは出来ないし、ことに私は、二十幾年も謹み慣れた『萬葉集』の、しかも割合に巻頭に近いところにあるこの歌を、全く知らなかったとも云へないから、つまり、責任は私にあるわけである。煎じつめれば、無知か健忘か、模倣か剽竊かの、誹りを免れない形勢のもとにあるのかもしれぬ。しかし私に云はせるならば、似て居ることは似て居るとしても、それは不思議に、言葉だけではあるまいか。言葉が似て居れば、一首の意味も何かと似て来るのは、自然な話ではあるが、それにしても、言葉即ち是れ和歌と、簡単に行くものでもない。とにかく私の歌は、あくまで私の歌で、その動機も、感興も、叙景も、そして徐情も、全然『萬葉菜』とは別のものである。私の作としての、いくらかの持ち味さへもあるのではないであらうか。私はそんな風にひそかに信じて居る。だからこそ、あからさまに此の類似を自分で記したてて、まだ御気のつかれて居ない人々に披露して御参考に供へようとするのである。
                       (昭和十六年四月廿四日稿)


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石井鶴三の世界 №110 [文芸美術の森]

湯の又・やまぶどう1965年/秋田・湯の又1965年

               画家・彫刻家  石井鶴三

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湯の又・やまぶどう 1965年 (169×2×120)
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秋田・湯の又 1965年 (168×119)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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はけの森美術館Ⅲ №44 [文芸美術の森]

バラ

                  画家  中村研一

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水彩 46cm×34cm

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【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

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中村研一記念はけの森美術館正面 

 



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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №48 [文芸美術の森]

花開く「風刺」と「皮肉」ーブレジネフの時代 3

             早稲田大学名誉教授  川崎浹

裏世界を示す覗き眼鏡

 オデッサとアネクドートの関係についてのべたので、ラジオの「アルメニア放送」にもふれないと不公平になる。アルメニアの首都エレバンには私は行きそこねたが、たいへん魅力的な町らしい。それだけでなくアネクドートの土地としても有名だった。『こちらユレバンです』というアネクドート集が私の手もとにあったのに、どこかに消えてしまって残念でならない。しかし、ラジオ「アルメニア放送」発の小品はすでに引用したアネクドートのなかにもちりばめられているし、これからも姿をあらわすだろう。
 アルメニアもまた文芸熟のたかい土地柄であることを前提にしての話だが、なぜ「アルメニア放送」という名の電波だけが自由にアネクドートを公表できたのか、それはアルメニアがザカフカス(南コ-カサス)というソ連邦の最果てにあって、当局の検閲や規制をまぬかれやすかったからだ、という私の推定をモスクワの友人が確認してくれた。
 アルメニアはソ連帝国内にありながら、自由に話し自由に聴くことのできる、いわば特権的な治外法権を思いださせる共和国だった。首都エレバンは標高八〇〇から一四〇〇メートルの高地にあり、そこからは隣接するトルコの有名なアララト山が見えた。そしてアララト山にはアメリカの放送局があった。これはイラクに隣接するサウジアラビアの米軍基地のようなものだが、当時のアルメニアの反モスクワ派にとってはABC放送は味方のように心づよい存在だった。そして何よりもアルメニア文芸屋文化では、笑いが大きな機能を果たしていたという事実をわすれてはならない。この伝統に立った反神話的な「アルメニア放送」は共産主義時代のソ連の典型的な裏世界を示す覗き眼鏡だったのである。
 「アルメニア放送」の基本的な形式は質問と回答という二行詩であり、二項対立である。俳句や短歌のように短い語句でありながら、その背景の文脈にはすでに二律背反的な発想がしかけられている。

 「社会主義とはなにか?」    
 「それは資本主義にいたるもっとも長い道程(みちのり)である」(一九八七年)

 「資本主義は社会主義とどこがちがうのか?」
 「資本主義は人間が人間を搾取するが、社会主義ではその逆である(同じく搾取するということ」‥

 「ソ連市民の書簡のやりとりは検閲されているのか?」
 「いない(ニエット)。しかし、反ソ的な内容の手紙は名宛人には届かない」

 「ソ連邦にも泥棒はいるか?」
 「いない(ニエット)。ソ連の民衆は自分で自分のものを取っているだけである」
 
 「潔白でりっはな人間を買うことはできるか?」
 「買うことはできない。売ることはできるが」
 これには一九六一年作と記されていて、密告制度が風刺されている。同じくフルシチョフ時代だが、六二年の作にはつぎのものがある。

 「食料品と住宅問題をいかに解決すべきか?」
 「食料品の解決には、国境を閉じ、持ち出し(ヴィヴォス)を禁止する」
 「住宅の解決には、国境を開き、出国(ヴィエスト)を許可する」

 「鶏と卵と、どちらが先に存在したのか?」
 「以前は両方ともあったー⊥

 「高齢者のための世界で最も優雅な館はどんなタイプのものか?」
 「クレムリソ」
 
 「人民代議員はどんな人びとから構成されているのか?」
 「なにごとにも能力がなく、同時にすべてに能力をもつ人びとから成り立っている」

 なんらの専門職をもたず、しかも上からのすべての決定に賛成と応じることのできるおおざっぱな能力を皮肉っているのだろう。

『ロシアのユーモア』 講談社選書


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往きは良い良い、帰りは……物語 №55 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語
その55 『福寿草(元日草)』『おでん』『湯冷め』『冬眠』
            TCCクラブハウスに於ける第1回

    コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

◆渋谷区神宮前のTCC(東京コピーライターズクラブ)の事務局の女性3人に年賀状を出しました。初めてです。
「今年から毎月1度、第2日曜日に、クラブハウスをお借りして俳句の会(こふみ会)を開くことになりました
よろしくお願い申しあげます。」といった添え書き付きです。

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◆土曜と日曜はTCCはお休みですから、彼女たちは姿を見せません。句会の当日、彼女たちに何かしてもらうとか、何か手伝ってもらうとか、というわけではありませんが、彼女たちの留守に、彼女たちの職場の一部を使わせてもらうのですから、その御挨拶です。

◆いや、大事な実務もあります。玄関の鍵の受け渡しです。金曜日に矢太氏が事務局へ出向いて、鍵をあずかり、日曜日、句会が済んだあと、その鍵をヒミツの場所へ置いて帰る、という手順だけは、しっかりと守らねばなりません。

◆手間のかかることですが、鍵については暫くこの方法でやってみよう、というのが矢太氏の提案です。そして、そのとおりにすることにしました。

◆当日(1月14日)のための案内状に関しては、当番幹事である私・孝多が詠題だけは決めましたが、あとは、同じ幹事役の矢太氏に、すっかり、おんぶしてしまいました。

◆新会場のTCCクラブハウスは全く初めてだという人が大多数です。そのため矢太氏は丁寧に地図を描き、更に文字で説明したうえに、会費は1,500円で、弁当付き(安いでしょ、会場代がゼロ円ですから、これが出来るんです。)とか、飲み物は前回手つけずだったワインと焼酎と日本酒がありますよ、リッチでしょ、とかと、各位へメールなどで「訴求」してくれました。

◆私、孝多は、メールが不得意。アナログのFAXどまりの少数派です。当日、矢太氏によって配られた会員名簿にも、私のところだけには赤い字で、メールを送ってから電話すべし、と注意書きが添えてありました。

◆では何故、このページのようなブログを書く(打つ?)ことが出来るのか、それは立川市の知の木々舎(ちのきぎしゃ)の事務局の面倒見の良さに甘えているからこそ、とだけ申しあげておきましょう。いきさつを語れば長いハナシになってしまいますから。

◆しかし、まあ、落とし穴ってあるものですね。幹事ですから、私は当日(1月14日)定刻よりも少し前に、会場へと足を運んだのでした。でも、早過ぎたようです。中に入れません。鍵を持ってませんから。

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◆矢太氏が現れるまで、私はクラブハウスのまわりを、うろうろするばかり。最後には、玄関前の石段に腰をおろして、本を読んで居りました。少々早く行っても、予備室みたいな所でお茶など頂いていた今までの神楽坂・香音里とは、ずい分違います。

◆しかし、しかし、結果は大好評。どうして、もっと早くから、ここ、クラブハウスを使わなかったのかという声も聞かれました。普段、TCCに出入りしている某仕出し屋に矢太氏が頼んだ弁当も美味。冷蔵庫があるから飲み物などを、飲む直前まで冷やしておける便利さ。コーヒーなどを自由に差して飲める気楽さ。そして、お互いの顔がよく見える部屋のスペース!! 満足、満足。大賞賛。

◆殊に、いつも作品のプリント係をつとめてくれる鬼禿氏は嬉しそう。隣の部屋に行けば、立派なコピー機が待っている。拡大、縮小、濃淡などの調整が、いとも簡単なうえ、綴じの機能まで活用できる……。

◆今までは、複写を取るには近所のコンビニまで行って、料金を払って、急いで駆け戻らなければならなかったのに。さらに加えて、TCCなら用紙代はかからないのだそうです。機械のレンタル料に含まれているのだとのこと。バンザーイ!

◆ハナシは前後しますが、今回の句会の冒頭、孝多から、新参加の皆様への「承諾のお願い」がありました。≪本日の全句≫として、毎回、その日に作られた会員の全句をブログ上で紹介することになっているのですが、うっかりして、前回、その承諾を得ませんでした。そのため、現段階では、作者名ナシで紹介するに留まっています、と申すのも……

◆多くの人が参加している、あの伊藤園の『お~い、お茶』に応募する作品は、未発表のものに限る、という決まりがありますから、このブログに載せたら、資格が失なわれます。それでもよろしいでしょうか、了承を得たく存じます、という次第。

◆それに対して、皆さんの反応は有難いものでした。「大丈夫!」「載せて下さ~い」「お~いお茶は卒業したよね」「伊藤園向きのものは、いくらでも出来るから。」などなどのお答え。

◆そこで新旧、和気藹々のうちに『孝多のブログ。その見方。』を記したプリントが新しい皆さんに1枚ずつ配られました。めでたし、めでたし。

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◆本日の兼題は『福寿草』『おでん』、席題は『湯冷め』『冬眠』。
出席者は4名のニューフェイスを加えて、計13名。敬称略で下記のとおり。
舞蹴(マイケル)、一遅(いっち)、虚視(きょし)、珍椿(ちんちん)、茘子(れいし)、軒外(けんと)、鬼禿(きとく)、矢太(やた)、孝多(こうた)。そして、ニューフェースの弥生(やよい)、紅螺(くら)、華松(かしょう)、美留(みる)。

◆TCCの会員でもある美留(竹内好美)さんは「岩永さんと多比羅さんばかり忙しそう。何か、私でもお手伝い出来ることがありましたら、おっしゃって下さい」と言ってくれました。大丈夫サンキュー・ベリイ・マッチィ♪ いずれ、近いうちに、きっと、何かの役をお願いすることになるでしょう。よろしく、よろしく。であります。

◆◆◆句会は順調に進んで、さあて、いよいよ、本日の成績発表で~す。◆◆◆

◆トータルの天は、49点でタントツの矢太氏。パチパチパチッ。
代表句は『冬眠へ まっすぐ降る エレベータ』

◆トータルの地は、27点の華松さん。パチパチパチッ。
代表句は『ぷつぷつと おしゃべりするの おでん種』

◆トータルの人は、25点の鬼禿氏。パチパチパチッ。
代表句は『湯冷めする 石鹸カタカタ 神田川』

◆トータルの次点は、共に24点の虚視氏と孝多。パチパチパチッ。
虚視氏の代表句は『ふたつみつ 恥(は)ずべきことや おでん喰う』
孝多の代表句は『福寿草 こっちを向いて 咲いとくれ』

皆さん、おめでとうございました。パチパチパチッ。

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うしろ、「人」の鬼禿氏、前「次点」の孝多、「天」の矢太氏、「地」の華松さん

◆でも、でも、ご免なさい、虚視さん。
確か、次点は2人、と思っていた私、孝多が、写真に撮られる前に、しきりに「こちらへ、こちらへ」と、虚視氏に声をかけ、手招きをしたのでしたが、氏は「違う違う」と手を振るばかり。そうだったかなあ??と私が、ここで引っ込んでしまったのがいけなかった。あとで調べてみたら、やっぱり、虚視氏も次点で、写真に入るべきだったのです。申し訳無いことでした。

◆トータルの「地」に輝いた華松さんについては流石!の一言です。私・孝多も「天」に選ばせてもらったのが、華松さんの『おでん』の句でした。次回も、ぜひ!!

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今回も「天」の短冊には絵を添えて

◆あと片付け。
燃えるゴミはこちらの袋へ。使ったコップなどは洗って……と、女性メンバーが、甲斐甲斐しく立ち働いてくれました。矢太氏は、TCCにあずかってもらう歳時記や筆記用具を箱に収め、孝多は『TCC事務局の皆さまへ、ひとくち』と書いて袋に入れたお菓子を、そっと、冷蔵庫の中に置きました。

◆次回2月の句会は……。
皆さんがTCCの雰囲気に慣れるまで、1月、2月、3月と、当番幹事は矢太と孝多で……と発表してあったのですが、『その必要はありませんよ。2月は私と珍椿とで幹事を引き受けます』と名乗り出てくれたのが、鬼禿氏です。矢太氏も『それでしたら、お任せしましょう』と同意を示され、バトンタッチすることになりました。(ただし、部屋キープなどのTCCとの折衝については、矢太氏が続投してくれるとのこと、感謝!)
こうしたことから、やがて送られてくる鬼禿、珍椿両氏からの『如月(きさらぎ)句会の案内状』を、楽しみに待つことにしましょう。
では、また、皆さん、お元気に。(孝多)
                                                  第55話 完

◆作者名の入った『本日の全句』を下記します。どうぞ、じっくりご鑑賞ください。

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第577回 本日のこふみ会 全句
   平成30年1月14日     於 TCCクラブハウス(第1回)

◆兼題=福寿草          順不同
我が平成 悔いつつ眺める 福寿草                           森田一遅
早々(はやばや)と 咲いて荒野(あれの)の 福寿草    大谷鬼禿
ひいふうみ 黄金の日溜り 福寿草                                 沼田軒外
しんこきゅう 生命(いのち)新(あたら)し 福寿草        秋元虚視
右手は母 左手に福寿草                                                小池茘子
ほっこりと 赤子のような 福寿草                                  清水華松
幸せを 抱え切れずに 福寿草                                        永井舞蹴
矛おさめ 兄に手土産 福寿草                                        板倉紅螺
幸薄き 老女の座すや 福寿草                                        竹内美留
福寿草 こっちを向いて 咲いとくれ                                多比羅孝多
しらじらと 宴(うたげ)のあとや 福寿草                       西村弥生
福引きを そっと忍ばせ 福寿草                                    田村珍椿
福寿草 ポストの赤に 負けまいと                                     岩永矢太

◆兼題=おでん           順不同
何か足りぬ 息子の嫁の おでん種                               軒外
公園で おでん頬ばり コップ酒                                 珍椿
ちくわぶに 慣れて神田の 侘び住まい                         一遅
ぷつぷつと おしゃべりするの おでん種                      華松
気安さに ついつい本音 おでんかな                        舞蹴
銭湯か 肩まで沈めて おでん種                                  鬼禿
ふたつみつ 恥(は)ずべきことや おでん喰う              虚視
コンビニに おでん買ふ背の 孤独かな                          弥生
気心(きごころ)の 知れた仲間よ おでん酒                 孝多
おでん屋で 友待つ夜は 午前様                                  茘子
ふたりおでん もう言いのがれ できませぬ                    矢太
おでん屋の のれんくぐれば 知った顔                          紅螺
やめようぜ 上司のうわさ おでん喰へ                          美留

◆席題=湯冷め           順不同
宿の廊下が 長すぎて 湯冷めして                                珍椿
離縁状 したためしたため する湯冷め                          軒外
湯冷めかな 壁一つ外 くしゃみね                                茘子
湯冷めする 石鹸カタカタ 神田川                                鬼禿
ゾクリとする 恋と湯冷めは 不意打ちで                       華松
湯冷めして 宇宙のはてを 語る宿                                紅螺
湯冷めるを 忘れ絶景 堪能す                                     虚視
ぐちぐちと 目ばかりさめて 湯冷めかな                     舞蹴
湯冷めして 人肌恋し 星一つ                                     矢太
長編や 湯ざめと共に 読み終わる                                孝多
湯ざめして 眠れぬ空に オリオン座                           美留
旅の宿 思わぬ出会い 湯冷めする                               一遅
宥める言葉 さがしておりぬ 湯ざめせり                       弥生

◆席題=冬眠            順不同
若き日は 冬眠・逃避 死んだふり                               紅螺
冬眠を させたいものよ パンダにも                            一遅
殊更に 冬眠せずとも 日々うらら                               華松
冬眠することのない 百代の過客であれ                          軒外
さんざめきは 幻聴ならず 冬眠す                               弥生
冬眠へ まっすぐ降る エレベータ                               矢太
年かさね 冬の眠りの 深さかな                                  茘子
冬眠の 長き目ざめに 大あくび                                  舞蹴
我が物の 蟇(がま)冬眠す 祖父の墓                         美留
クマモンも 冬眠するか 今朝の寒                               珍椿
愛してます 蛇(ぼく)と冬眠 しませんか                  孝多
冬眠の ふりして通す 時効まで                                  鬼禿
冬眠を さめれば囲む 異星人                                     虚視

                                                                        以上13名 52句

                                                      

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検証 公団居住60年 №3 [文芸美術の森]

憧れの団地に入居できて 3

       国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

入居して先ず自治会を結成

 畑と木立ばかりで何もない土地だったから団地ができ、そこに建てたのは2,000戸余の集合住宅と小学校だけだから無理もない。建物は申し分ないが、住民には入居したその日から生活の不便、不安が押し寄せてきた。
 第1から第3まで3街区に分かれ、バス停が5か所もある長大な団地である。ここに公団がつくったのは第1団地内の名店街(18店)だけで、まわりにも商店はごく少なく、食品や日常品の買い物は不便をきわめた。通勤は遠くなり、そのうえ駅からバスで10分、バスの便数も少なく、終バスは9時半と早かった。わたしは毎夜帰りが遅くなるし、バス代の節約もあって自転車をつかい、一橋大学沿いの道路わきに停めていた。団地を一歩離れると道路も暗かった。当初7,400人が住む団地に交番はなく、病気になったらどこに医院があるのか、問題は山積していた。
 団地内は舗装してあっても周辺道路は整備されておらず、雨が降れば泥んこ道、乾けば土ぼこりが舞いあがって洗濯物も干せない始末だった。
 1965年11月に入居するとすぐ、生活の不便を何とかしようと有志が集まって自治会づくりをはじめた。自治会結成を呼びかけ、世話人たちは昼夜をとわず各戸を訪問して、たちまち7割以上の賛成を得、66年1月23日に自治会結成総会をもち、専門部に分かれて活動を開始した。その後はぼ全世帯が加入して、同年4月24日に第1回定期総会をひらいた。それまでに終バスは10時20分まで延長、交番の6月設置も決まるなどの成果をあげた。
 同時に自治会は、関東公団住宅自治会協議会(1960年結成)に加盟した。公団は設立10年にして空き家割り増し家賃という形で家賃値上げをはかり、集会所使用料の値上げ問題もおこり、6月には公団本社へ抗議に出かけた記録がある。
 みんな30代か40歳そこそこと若く、収入も同じ程度のサラリーマンが多かった。ここに自分たちで新しい街をつくるんだと意気に燃えていた。昼間はおもに女性が活動し、男性は勤めから帰ると夜遅くまで熱心に自治会づくりにはげみ、ときには勤めを休んで町役場やバス会社と交渉し、つぎつぎ実績をあげた。この具体的な成果が自治会への結集力を高めていった。
 幼児をかかえた母親たちは、町に保育園はなく、幼稚園も近くになかったので、いちはやく子育てグループをつくり、団地の幼児教室開設にこぎつけた。両親共働きの鍵っ子を放課後は、団地とともに開校した小学校の校長にあずけ、それが学童保育所づくりのきっかけとなった。
 自治会づくりや地域活動に熱心な人たちの、ニュース発行や会議の進行、マイク宣伝、交渉ぶりを見ていると、60年安保闘争のころ学生運動や労組活動などを体験してきた世代を思わせた。
 時代も住民連動に追い風が吹いていた。1967年に美濃部亮吉東京都知事に象徴される革新自治体誕生の波が広がりはじめていた。東京多摩では美濃部当選の年に、市になったばかりの国立市に革新市長が生まれ、やがて中央線沿線は武蔵野、三鷹、小金井、国分寺、立川、日野、ほか公団住宅のある,調布、 缶無、町田の各市も革新自治体に変わった。こうした時代背景もあっって地域は盛りあがり、種々の成果を収めることができた。団地を誘致した自治体では、大規模団地の出現、新たな有権者の大量流入が、その地の旧来の政治地図を塗り替え、新住民の声が町政、市政に一定の影響をあたえた。新住民の数のの多さだけではなく、自治会の結束した発言と日常の諸活動が力となった。しかし新旧住民の融和には長い年月を要した。


『検証 公団居住60年』 東信堂

 

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フェアリー・妖精幻想 №77 [文芸美術の森]

詩集豪華本の妖精挿画 1

              妖精美術館館長  井村君江

『薔薇物語』『妖精の女王』と『コマス』1

 中世イギリス文学の代表であるジョフリー・チヨーサーは、『カンタベリー物語』(一三八七-四〇〇)で妖精王と女王を登場させている。しかし「王妃プロセルピナを従えた妖精の国の王ブルートー」(「商人の話)という詩句には、妖精たちに古典世界のニンフや黄泉の国(ハーデス))の王を重ねており、また、中世ロマンスに登場する死者の国-地下世界を司る妖精王との混同もみられる。こうした構成要素の他に民衆の間では、穀物を実らせてくれる地下の神(デイ・テレーニ)、牛の乳をよく出させ家畜を守ってくれる農家や台所の守護神という土着信仰の神々の役割も持たせられていたようである。
 「アーサー王時代には妖精がいたが、この頃はキリスト教の坊さん達が妖精を追い払って自分がなりすましている」と「バースの女房」に言わせているチョーサーは、妖精の存在を疑いながらも作品に登場させているのであり、ここから当時まだ妖精信仰が人々の間に残っていたことが推定できるのである。
 イタリアやフランスの新しい文学の波に詳しかったチ一=-サーは、中世フランスの韻文ロマンスであるギョーム・ド・ロリスとジャン・ド・マンの手になる『薔薇物語(ロマン・ド・ラ・ローズ)』の部分訳をしている。このロマンスは典型的な寓意的(アレゴリカル)恋愛詩で、恋する女性を薔薇に喩え、「愛の神(ヴィーナス)」の助けを得て「歓待」に導かれ、「恋愛」と「哀憐」の同情を得て「薔薇」に口づけするという一種の宮廷恋愛(コートリー・ラブ)であり、また恋愛技巧論(デ・アルテ・アマンテ)の物語でもある。
 このチョーサーの部分訳を、キース・ヘンダーソン(一八八三-?)とノーマン・ウィルキンソン(一八七八-一九七一)が挿絵をつけ、『薔薇物語』(一九〇八)としてフローレンス・プレスから出している。ケルムスコット版の装幀に似た白の仔羊皮の表紙に緑の紐の付いた瀟洒な一巻である。通常、何人かの画家がオムニバスで挿絵を描く場合、各々の画家の自由な着想にまかせるのが常であるが、作家でもあったヘンダーソン、ケンブリッジ生まれのウィルキンソンの二人は、中世ロマンスの象徴的な世界を深く理解しており、協力して人物や場面、背景の図柄を統一して描いているところが特色で、一人の挿絵画家の作品に見える。
 例えば鳥の羽を肩にはやした「愛の神」は、ウイルキンソンの手によって「花の柔かい着物を身につけ、鳥どもに全身をおおわれ」ているという原文の描写通りに具象化される。彼をおおう薔薇やマーガレットやさまざまの花々、上部には小鳥が飛びかい、身体には虎や豹、羊が自然そのままの姿であたかも洋服のように全身に細かく描きこまれている。
  ヘンダーソンもまたこの「愛の神」の服装を々画家の手になるとおもわれるほど類似した手法で描きこんでいる。彼の挿絵は「愛の神」が愛の心をひきおこす五本の矢を主人公に射かけようと窺っているところで、今度はリスやイタチなど小動物がひそむ春の花々が、夏のひまわりをおおい、足もとに散りしく枯葉の間から草の芽が吹き出、秋の色合いに染まる野の景色の遠方には雪をいただく山が描かれているというように、四季の違いを越えた「愛の園」が象徴的に小さな構成の中に細やかに描き込まれている。二つの絵は色彩と人物の表情にやや相違が窺えるだけである。
N.Wilkinson薔薇物語.jpg
ノーマン・ウイルキンソン「薔薇物語」
『フェアリー』 新書簡


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にんじんの午睡(ひるね) №25 [文芸美術の森]

食いしんぼう

                   エッセイスト  中村一枝

 ここのところ大寒波襲来で日本列島は縮み上がっている。とはいえ、ここ東京の周辺、関東は連日の晴天、がラス戸越しにさんさんたる太陽の光が眩しいほどに差し込んでいる。日脚伸ぶという俳句の季語その通りで、冬至が過ぎたと思ったら日差しの中にも、はや春の息吹が感じられる。四季の移り変わりが明確な日本ならではの現象である。
 寒い時の食事といえば鍋もの汁物といったものが定番で、日が陰ってそろそろ食事というときに真っ先に思い浮かぶのはその手である。体を動かすのも億劫で冷たい水に手をさらすのも尻込みするところだが、今日ふと思いついてカレーを作った。鍋もの同様カレーとかシチューというのも手がかからず冷たい思いをせずにできる冬の定番料理だが、思いついて先週買っておいた冷凍エビを使ってカレーを作る事にした。なんのことはない、こんな手間いらずと思うほど簡単に出来る。玉ねぎ、しようが、ニンニクをみじんに刻み、バターでよく炒める。冷凍庫に眠っていた冷凍エビに起きて頂いて解凍し、適当に切る。トマトとりんご、これも適当。以前は少しとろみをつけようと粉を入れた事があった。インド大好き人間の息子のお嫁さんは本場物のインド料理も作る。粉を入れるのは日本的だと言われ、私も粉はやめた。人に言われるとすぐ真似をするのが私の特性。手作りのローズマリーはたっぷり、その辺りのタイムやオレガノなど、何でも目についた香辛料を入れる。いつもだと残っているコーヒーも入れるのだけど相手のお料理がエビなのでやめた。私のはいつでも決まりがない。適当といえばこれほど適当な料理もない。それでもなんとか出来上がるからふしぎ。
 もともと食いしん坊はお家芸だった。父親がそうだったのは宿命にしても、初めて会った時およそ取り澄まして見えた夫がお好み焼き屋で見せた腕、粉をかき回すことから始まって焼き板に流す手際の良さからひっくり返し方まで、あれで私は魅了されたのだ。私の父もお餅の焼き方から、すき焼き鍋の仕切り方までとても上手だった。蟹のさばき方も堂に入っていて蟹というと父の出番だった。父と夫とはほとんど似たところはないのにそういう細やかさは私など及びもつかない。今頃気がついてもおそい。夫のなくなったあと彼の本棚からむずかしい数学や哲学の本に混じってお料理の本が何冊も出てきた。NHKの今も出ている「きようの料理」の雑誌を買ってきたのは彼だった。ずっと昔、中央公論社から出ていた料理の本も彼が買ってきた。当時彼が食べ物に興味があるとは思ってもみなかった。人間なんて長い間一緒に暮らしても中々本当の姿はお互い見えないものかもしれない。美味しいものを食べるとなぜかこころが豊かになる。それは今も昔も変わらない。贅沢さとは別に心のこもった食卓、一人でもそれは心がけたい。
 私の食いしんぼうは愛犬にも移っている。食べ物となると犬の目が爛々と輝くのは当然にしても、冷凍庫の開け方を覚えてすきあらばと狙っているのには心痛めている。


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渾斎随筆 №1 [文芸美術の森]

 観音の瓔珞(ようらく)

                       
會津八一

 此の春、創元社から出した私の歌集『鹿鳴集』の中に
  くわんおん の しろきひたひ に やうらく の かげ うごかして
  かぜ わたる みゆ
といふのがある。明治四十一年の八月、私が初めて、奈良へ古美術行脚に出かけた折に出来た二十首ばかりの中のもので、場所は、たしか富郷村(とみさとむら)の法輪寺であったやうに記憶して居る。やうに記憶してなどいふと、少しぼんやりして来るが、實際私は、話をするにも、物を書くにも、確かな手帖などを持たないことが多いから、折々こんな物のいひ方をしなければならなくなるのであるが、大正十三年に、春陽堂から出した赤い表紙の『南京新唱』には、この記憶のままに「法輪寺にて」と詞書を附けておいた。ところが、あの本を出したあとで、ふと気がついて見ると、あの寺の講堂の本尊になって居る、一丈あまりもある藤原時代の十一面観音は、額はなるほど白いが、その上の瓔珞を私は思ひ出せない。その後物のついでに寺へ行って、開扉を願って、戸帳を上げて貰って、よくよく拝見したが、やはり瓔珞は見えなかった。で、この春、歌集の原稿を整理する時に、印刷の間際になってから、いくらかの無理さへも忍びながら断然「奈良博物館にて」といふ一群の中へ、あの歌を組み變へさせてしまった。それは、あの奈良博物館の、とりつきの大広間の、正面の大ケイスには、古い頃から比の寺が出陳して居る一體の菩薩像があって、それをば、館では、寺傳に従って虚空蔵菩薩として居るが、私などの目には、観音にした方が、むしろ自然に見えるから、私の歌の観音が、法輪寺のものであって、講堂のでないとすれば、まさしくこちらに違ひないと、かう考へ直したのであった。あの博物館の同じケイスの中には、時代なり、姿勢なり、持物なり、此像とよく似てゐる、私どもの所謂百済観音も、永いこと、しかも此の法輪寺の菩薩と並んで立って居られたものだが、持ち主の法隆寺の云ひ傳へによって、これも一と頃は、虚空蔵にされて居たために、友人の濱田青陵君などは、最初はそれに従って、物に書いたりして居たが、後には観音にして、自分の随筆集の題號にまでしたものだ。とにかく、こんな因縁もあるので、法輪寺の虚空蔵を、私も、何の苦もなく観音にして、此の歌を割り當ててしまったのであらう。
 今年十月、私はまた奈良へ行った。そして法輪寺へも立ち寄って、現任の井上さんにも初対面をした。其時井上さんから、先づ此の歌の話が出た。その御説によると、あの歌は、何うしても、やはり講堂の観音に達ひないといふ。そこで私は、早速瓔珞のことをいひ出して見たが、あちらでは、まるで待つてでも居たやうに、なるほどその瓔珞は、今こそ無くはなって居るが、寺でそれを取り除いたのが、明治四十二年だから、歌の出来た頃には、まだ確に附いて居た筈だと、一枚の古い写真を取り出して見せられた。それを見ると、なるほどこれは、後世の吹き様な添へ物で、當然取り除けなければならぬ代物ではあったが、いよいよこの像だとすれば、私は此の瓔珞をば、詠んだのであらう。私は今さら、いろいろな意味で、此の写真には驚かされた。しかし、よく見るに、此の瓔珞たるや、観音の御額の上に、かぶさるやうに、ほどよく垂れて居るといふのでもないし、叉なかなかたやすく、風などで揺れるやうなものでもなかった。これをば、私の心の中に、忽ち一陣の風を捲き起して、それを動かしたのかもしれぬ。さうだとすれば、むしろこれにも驚かされる。
 むかし、ある人は、鎌倉の長谷にある、あの定印(じょういん)の大佛をみて、お繹迦様は美男子だといふ歌を詠み、あとでまた、阿彌陀さんに詠み直されたとか聞いて居る。釋迦でも、彌陀でも、如来の顔は似たものであるし、『吾妻鏡』の筆者なども、まちがってゐるくらゐだから、其時さう見えたのならば、またそれもよからう。私の方は、観音の白い額の上に、動きさうも無い瓔珞の影を動かして、其所に微風の吹きわたるのを見たことになる。これはまさに何とか大に説の起るべきところかも知れぬが、私は、ともかくもありのま上を此所に記しておく。
                       (昭和十五年十二月十五日稿)
『會津八一全集』 中央公論社


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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №47 [文芸美術の森]

花開く「風刺」と「皮肉」ーブレジネフの時代 3

             早稲田大学名誉教授  川崎浹

 国家機密漏洩罪

 つぎのアネクドートは少し趣向をかえて、民話・寓話形式のパロディらしい作品を紹介しよう。

 ブルジネフがある朝、赤の広場を歩いていて、太陽にあいさつしたくなった。かれは帽子をとって深々と頭をさげた。
 「こんにちは、太陽さん!」
 すると太陽も気まぐれを起こしたか、ブレジネフにお返しをした。
 「こんにちは、フレジネフさん」」
 ブレジネフはあっと驚いてクレムリンにかけこみ、閣僚会議を召集し、起こったことすべてを語った。閣僚会議はながいことかけて、どうしたらよいか協議を練った。夕方になって自分たちの目で確かめるために全員広場にでた。
 レオニード・イリイチは帽子をとって、深々とあいさつした。
 「今晩は、太陽さん!」
 だが太陽はこう返事をよこした。
 「レオニード・イリイチ、あんたなんか、くたばるといいよ!」
 「なあんだって!」とブレジネフは頭にきた。「なんて言いぐさだ?‥なんでそんなことがいえるんだ?」
 「私はいま西側にいるんだ! だからいいたいことがいえるのさ!」

 このナンセンス・アネクドートに登場する太陽のせりふは、ソ連民衆がいいたいことを代弁しているようだ。つまり世論である。
 人類が気軽に宇宙旅行をするころには、二〇世紀は共産主義神話の時代としてふりかえられるだろうが、その際、「クレムリン」と「赤の広場」は神話を構成する重要な神話素として尊重されるだろう。つぎの同じヴアリアントの小品がブルガリアの党書記長トドル・ジフコフにもあるが、これはやはり赤の広場とブレジネフでないとさまにならない。 

 ソ連市民が赤の広場で「ブレジネフの馬鹿野郎」と呼ばわった。早速逮捕され、裁判にかけられ、一五日と一五年の刑を宣告された。一五日は個人侮辱罪として、一五年は国家機密の漏洩罪で。

 このアネクドートが別のルートで私の耳に入ったときは、裁判長が「国家機密漏洩罪であることが知れ渡るので」裁判を拒否した、となっていた。このようにアネクドートは一人歩きする。
 ブレジネフは名誉心がつよいらしく、自著を出したり、自分で自分に勲章をさずけたりした。つぎのアネクドートに登場するスースロフはイデオロギー担当相で、共産主義理論の番犬の役目をつねにはたしてきた人物である。

 ブレジネフが自分の執務室にすわっていると、ちょうスースロフが立ち寄った。
 「ところで、同志でスースロフ、ぼくの本を読んだかね?」
 スースロフはなんだかあいまいに、「読みましたよ。最後まで二度読みました。レオニード.イリイチ」といって、ドアのほうへ後ずさりした。
 「きみ、どこへそんなに急いでいくんだ」とブレジネフがひきとめようとした。
 スースロフが答えた。
 「ええ、三度目を読み直したいと思いましてね。最高傑作ですよ、レオニード・イリイチ」
  スースロフが去ると、ブレジネフは考えた。
 「最高傑作だと、みなが口をそろえていっているから、自分も読んだほうがいいかもしれん」

 ソ連時代の書店の本棚に(ゴーストライターの書いた)ブレジネフの本だけが残っている、とからかったアネクドートを昔読んだような気がする。

『ロシアのユーモア』 講談社選書


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石井鶴三の世界 №109 [文芸美術の森]

那須・白笹山・南白山・黒尾谷川1965年/湯の又・ぶなくり1965年

                画家・彫刻家  石井鶴三

1965那須・白笹山・南白山・黒尾谷山.jpg
那須・白笹山・南白山・黒尾谷川 1965年 (137×174×2)
1965湯の又・ぶなくり.jpg
湯の又・ぶなくり 1965年 (120×169×2)
ぶなくりのみ、たべられるといふ。皮をむいて実をたべる。ちょいとうまい。

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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はけの森美術館Ⅲ №43 [文芸美術の森]

物                  
                   画家  中村研一

果物2.jpg
水彩 羽根ペン 37cm×43cm

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【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面 

 



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