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季節の記憶・いだようの写真散録 №187 [文芸美術の森]

蓮華清澄」          自然写真家  いだよう


2017年7月下期分.jpg


仏様が座るとされる蓮華。それにふさわしく、いつも清らかな姿を撮りたいと願っている。

いだようのFacebookページ : https://www.facebook.com/idayoh/


西洋百人一絵 №90 [文芸美術の森]

ユトリロ「コタン小路」

           美術ジャーナリスト・美術史学会会員  斎藤陽一

 モーリス・ユトリロ(1883~1955)は、何よりも、自分が生まれ育ったパリ・モンマルトルの建物や通りを描くことに執着した。しかし、彼が描き出した風景は、たんなる写実ではなく、その孤独で傷つきやすい魂が感じとった「こころの風景」ともいうべき世界。だから、そのほとんどは、沈黙が支配する寂しげな風景であり、そこにただよう独特の詩情が人々を惹きつける。

 ユトリロの母シュザンヌ・ヴァラドンは、貧しい境遇に育ち、少女時代から生活のために女工、給仕、サーカスの曲芸師などの職業を転々としたあと、画家たちのモデルとなった。
 シュザンヌが18歳のときに、ユトリロはその私生児として生まれた。ユトリロが生まれた頃、シュザンヌは、画家たちの影響を受けて、自ら女流画家として生まれ変わろうとしていた。と同時に、男から男へと渡り歩く自由奔放な生活を送り、幼いユトリロを構うことなく、祖母に任せっきりであった。
 問題は、ユトリロが、外的な刺激にきわめて弱く、他者を脅威と感じる強迫神経症のような子どもだったことである。現代風に言えば、一種の“発達障害”だったかも知れない。あらゆるものに怯えやすい少年は、とりわけ母親に強く執着し、その保護を必要とした。しかし、母シュザンヌは、育児放棄した。
 そのような寂しい環境の中で、9歳頃からユトリロの飲酒の習慣が始まり、17歳のときには重度のアルコール中毒症患者として、精神病院に入れられた。
 担当の医師は、対症療法として、少年に絵を描かせることをシュザンヌに勧めた。これが、画家ユトリロの出発点となった。だからといって、シュザンヌが絵を教えたり、知り合いの画家に指導してもらったわけではない。それ以降も、ずっとほったらかしであり、ユトリロは自己流でひたすら自分が偏愛する侘びしい建物や壁や通りを描いた。

 ユトリロの画家としての生涯は、その画風の変化をとらえて、初期の「モンマニー時代」、数々の傑作が生まれた「白の時代」、後期の「色彩の時代」と、三つの時代に分けられる。
 ユトリロが27歳頃に描いた「コタン小路」(1911年頃)は、「白の時代」を代表する作品である。
 コタン小路は、モンマルトルの丘の北側に位置する細い通り。ユトリロにとって身近でよく馴染んだ裏町である。
 通りと両側の建物は、ニュアンスに富んださまざまな白の色調で彩られている。古びて灰色や茶褐色がかった複雑な白が、ユトリロが偏愛する漆喰の白なのである。
 後年、人から「無人島に行くとしたら、何を持っていきたいですか?」と尋ねられたユトリロは「漆喰をひとかけら持っていくだろうね。そこには、子どもの頃のあらゆる思い出が詰まっているんだ」と答えている。
 本来は、生活道路であるコタン小路は、それなりに人の往来があるはずなのだが、ユトリロ描く路上には、まったく人影がない。
 この白と灰色の支配する世界は、“死の沈黙”を思わせるほど静まり返っているが、よく見ると、突き当りにある石段には、何人かの小さな人影が見える。だが、生気は感じられず、はかなげな黒い影は亡霊のようにも見え、死の階段を登っていく哀しみの影のようにも見える。ユトリロ自身のやるせない哀しみの影かもしれない。
 その果てにある空は鈍い鉛色に塗られ、光はない。そう、ここは、光も風もない世界なのだ。
 よく見れば、ほとんどの窓は閉じられている。これは、住人の視線が放射されない窓なのであり、視線恐怖症でもあったユトリロの意識が反映されていよう。
 「コタン小路」は、特異な感受性をもった画家が、偏愛する白で綴った都会のエレジーなのである。

(注)著作権上の理由で画像はありません。

≪筆者注≫
 この回の「ユトリロ」(No.90)以降、今後取り上げる予定のシャガール、マティス、ピカソ、ルオー、ダリ、ミロ、マグリット、デルヴォー、ジャクソン・ポロック、フランシス・ベーコン(N0.100)までの画家たちの作品は、いずれも著作権保護期間内にあります。
 そのため、本稿では、まことに残念ながら、画像を紹介できません。
 できるだけ、画集等に載っている知られた作品を取り上げる積りですので、作品を見たい方は、ご面倒でも、それぞれの画家の画集等をご参照ください。(斎藤)


にんじんの午睡(ひるね) №13 [文芸美術の森]

たーさんとすえこさん 4

                      エッセイスト  中村一枝

 たこちゃんの駆け落ちは当時の私には一大事件だった。たこちやんは11人兄弟の中でも一番年下で、誰からも子供扱いされて可愛がられていた。私とはおば、姪の間柄になるが、たこちゃんを叔母さんだと思ったことは一度もない。私と一つしか年の違わないたこちゃんはちょっと年上の遊び友だちだったのだ。おばあちゃんはわたしがくると、「たこ、まさちゃんと遊んでおやり」と、当然のように言うのだが、普段は兄弟の一員として大人扱いしてもらえるのに私の出現で急に子供扱いされるのは不本意な事だったに違いない。私はといえば三人の叔母の中でたこちゃんが特に好きだったわけではない。私は私で、少し年上の叔母たちと肩を並べたくてむりに背伸びするのがこれまた一段大人になれたような満足感があつた。

 何人もの兄妹の中でたこちゃんは毎日のように兄や姉の大人の世間話を面白おかしく聞いて育った。私がその頃渋谷の祖父母の家に行きたかったのも、家では聞いたことのない大人の話があけすけに語られる、その面白さだったのだ。大勢の兄弟の中でたこちゃんは毎日大人たちのはなしをそのまま聴いて育っていた。耳年増になるのも当然だった。それはまた私にとっても聞き捨てならない興味のある話なのだ。一人っ子の私には年上の叔父叔母のはなしほどおもしろいものはなかった。「あんた達、まだそこにいたの。さあ上に行って遊びなさい」叔母達に追い払われるまでそこを離れようとしなかった。

 たこちゃんは高校を卒業すると、ある酒造会社に就職した。私は一度その会社にたこちゃんを訪ねた事があった。今でこそ誰でも知っている大きな酒造会社だが、当時はまだ名前もあまり知られていない会社だった。薄汚れた汚いビルの狭い階段を登ると、オフィスがあった。オフィスと言ってもごちゃごちゃしたせせこましいところで、たこちゃんは一日中立ちっ放しで働いているのだ。行き交うおじさん達も着古した背広にシワがよっている。すれ違いに愛想のつもりで声をかけるのが何とも薄汚く、私はそこで働いているたこちゃんに同情した。まもなくたこちやんはそこをやめた。

 次にたこちゃんは二番目の叔父の会社に勤め始めた。もともとたこちゃんは子供の時から踊りを習っていて、将来は日本舞踊で身をたてたいというのが夢だったのだ。叔父の会社も一応銀座の通りに面した場所に構えたといっても、とりあえず一部屋を用意したという感じのところで、叔父の他に人がいたかどうか私にはわからない。叔父の他に一緒に働いていた叔父よりずっと若い赤ら顔の太った男がいた。全体の感じとぬめっとした肌触りが鱈の子そっくりだった。私は密かにたらのこさんと呼ぶことにした。そのたらのこさんがたこちゃんの駆け落ちの相手とわかった時の驚き、よりにもよって何であの人なのか、どうしてあんな人というショック、ましてたらのこさんには奥さんも子供もいるのだそうだ。年頃の娘が憧れを持つにしては何ともそこいらに転がっている中年男だった。たーさんが頭にきて何時もの冷静さを失っていたのも多分に理解できた。私には二人の間から恋愛の美しさが立ち上って来ないその事が悔しいくらい残念だった。二人だけで挙げたひそやかな結婚式とか、神様への誓いとか、ほかの人とだったらきっと心を動かされたさまざまのことが、たらのこさんのおかげで美しく見えないのだ。実を言えば私は全くと言っていいくらいたらのこさんを知らないのにまさに少女の直感としか言いようがない。


フェアリー・妖精幻想 №65 [文芸美術の森]

アルコール中毒の素人画家チャールズ・ドイルの哀しみ

          妖精美術館館長  井村君江


 作家コナン・ドイルの父であるチャールズ・ドィル(一八三二-九三)もまた、精神病院の密室で一人絵筆をとり、妖精を描き続けた画家である。

 八歳年上の兄リチャードが『パンチ』誌の挿絵画家として、また流行画家として人々にもてはやされていたのと対照的に、ダブリンで馬の画家として知られていた父の勧告もあってチャールズは絵描きとしての修業に見切りをつけて、スコットランドの役所勤めをしていた。

 彼はアルコール中毒者になって妻とも別れ、幾度かサナトリウムの出入りをくり返す生活となってしまったが、時折、素人画家として兄のリチャードとはまた異なる、郷愁に似たファンタジー世界を感じさせながら、妖精を主題にした画面を描くようになる。

 チャールズの眼には、道端の草むらの蔭や桜草の間にひそむ妖精の姿が見えるようであり、その妖精の少女は別れた妻メリイのふくよかな顔となり、あるいは木の梢のカーブがそのまま背を曲げて這う姿のゴブリンに変っている。

 アイルランド出身のチャールズの絵には、ケルトの幻想と哀感とが漂っているようである。

 「どちらのプリムローズが咲き誇っているか」や「小鳥から蝶を救った妖精」も、今世紀になってチャールズがサナトリウムの一室で書きつけていた一八八九年頃の絵日記(『ドイル家の日記』一九四八年刊)からのものである。

 許されていた自由な散歩が唯一外界との接触であったチャールズにとって、接するものは現実の人間でなく、自然界にひそむ妖精たちだったのであろうか。小鳥恐怖症であった彼は、あどけない妖精の少女を通して、小鳥に蝶をとるな、ミミズを食べるなと説教している。

 『神よ、鋤(すき)に祝福を』と『五尋(ひろ)の海の下』の人魚の絵の二点は今回(一九八八年九月)筆者がロンドンのファイン・アートギャラリーでめぐり会い、入手したものであるが、ナウム・ギャラリー所蔵の『古き良き仲間』『心はトランプに』も同時代の

小品と見られ、ともに一九〇〇年のサ二サイド療養所内での制作と推定されている。

 馬に鋤を引かせて耕す農夫の廻りに、飛び廻る小妖精の群れの幻想には、アイルランドの豊饒の土の神(デイ・テレーニ)としての妖精たち、農夫を手伝ったり、いたずらしたりする、愛すべきプーカたちの映像が重なり、チャールズの妖精たちは素朴な民間伝承の息吹きを持っている。


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「ドイル家の日記」より
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小鳥から蝶を救った妖精


『フェアリー』 新書簡




芭蕉「生命の賛歌」 №33 [文芸美術の森]

庭掃(はい)て 出(いで)ばや寺に 散柳(ちるやなぎ)

                 水墨画家  溥 益瑤

庭掃て.jpg

 大聖寺町の全昌寺で一夜を過ごした芭蕉は前夜曾良も寺に泊まって詠んだ句を受けて、同じ秋風に吹かれて詠んだ句である。
 絵は、秋風に舞って散る柳の葉を、未だ答えの出ない旅への問い掛けに重ねて思い浮かべた心の姿を描いている。次々に新しく生まれる悩みを両手に受けて、越前の禅寺水平寺へと向かった。

『傅益瑤 奥の細道を描く 芭蕉「生命の賛歌」』 カメイ株式会社


ロシア~アネクドートで笑う歴史 №35 [文芸美術の森]

レーニンとスターリン

          早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「どうしてユダヤ人の鼻は長いのか」

 フルシチョフ時代に移る前にユダヤ人の主題にもふれなければならない。ユダヤ人がいなかったらソ連アネクドートは生まれていなかった、というのがユダヤ人の言いぐさだ。一九二〇年代にひろがったアネクドートにつぎの傑作がある。

 ロシア人がユダヤ人に聞いた。

「どうしてあなた方の鼻はそんなに長いのですか」

 ユダヤ人が答えた。

「どうしてですって。モイセイ[モーセ]が四〇年もの間荒野の旅で、私たちの指づらをひっぱり廻したからですよ。ようし見てやりましょう。十月革命から四〇年後にあなた方の鼻がどのくらい長くなるか」


 いままで私がのべたアネクドートのヴアリアントというのは、日本文学でいえば「本歌どり」、現代ふうにいえば、つぎはぎのコラージュということになる。面白いのは、アネクドートにも主題の伝統というものがあり、二〇年代の「本歌」にたいし、七〇年をへて本歌取りというより、むしろ「返歌」がかえされている例がある。

 つぎの作品は二〇年代の本歌を意識して九〇年代に作られたすいぷん気の長い、スケールの大きなお返しである。

 ロシア人がユダヤ人に聞いた。

「どうしてあなた方の鼻はそんなに長いのですか」

 ユダヤ人が答えた。

「ようし見てやりましょう。共産主義者が七〇年間あなた方の鼻づらをひっぱりまわした後、それでもなお、あなた方に鼻が残っているかどうか」

 ゴーゴリの小説『鼻』にもあるように鼻はプライドの隠喩として使われているので、二〇世紀末の現在のような混迷の時代に陥るとロシア人には鼻はないといえるが、しかし、なんとか鼻をもとうと努力しているのが現在のロシアで、それは愛国主義と民族主義の形をとってあらわれようとしている。

革命政府の大半がユダヤ人

 一九四八年イスラエルに建国するまで、ユダヤ人には自分たちの国土がなかった。それで建国をもとめてシオニズム運動が起こり、さらにユダヤ教という信仰をもちつづげ、他国にいながら強い絆(きずな)で結ばれている。

 団結心がつよく、しかも生活適応力にすぐれたユダヤ人というのは目障(めざわ)りな存在に映ったらしく、ロシアでは帝政時代からユダヤ人は黒百人組という右巽団体から迫害された歴史がある。一七年の十月革命に圧倒的多数のユダヤ人活動家が参加したのも、インターナショナルな人道愛にもとづく共産主義の理念に殉(じゅん)じ、ロシアにおける人種差別の被害から我が身を守るためでもあった。

 ユダヤ人がアネクドートに多くかかわっていることをたとえ冗談にでも自慢するのなら、十月革命にも多くのユダヤ人がかかわっていることをいわなければならない。革命政府の閣僚は二二人いたが、内一九人がユダヤ人であり、ロシア人とグルジア人(スターリン)がわずかに一人ずつである。レーニンと文相ルナチャルスキイの母親はともにユダヤ人の家系だった。

 スターリンは一九三一年「ユダヤ通信」のインタビューで、「我が国ではアンチセミチズム(反ユダヤ)は、ソビエト体制へのつよい敵対行為として法で厳しく処刑されます」と答えたが、その裏で一部のユダヤ人は謀殺と迫害と追放にさらされた。

 戦後のソ連文化界で吹き荒れたコスモポリチズムとの闘争キャンペーンは、ユダヤ系知識人への揺さぶりでもあった。したがって一九四九年にはつぎのようなアネクドートがあらわれた。

 アンチセミチズムとの評判を立てぬためには、

 ジュー(ユダヤ人)をコスモポリートと呼ぶがいい。

 日本でもかつてコスモポリタン(国境、国籍にとらわれぬ世界主義者)あるいはボへミヤンという言葉が気軽に使われ、流行したが、ソ連では指導層が批判するときだけ使用を許されるという禁句だった。


『ロシアのユーモア』 講談社選書

石井鶴三の世界 №97 [文芸美術の森]

小海線発射までの一時間余、懐古園にあそぶ、早朝人をらず1960年/とがくし1961年

               画家・彫刻家  石井鶴三

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小海線… 1960年 (144×200)
1961とがくし.jpg
とがくし 1961年 (143×200)


**************                                 

【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】


明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。

画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。

文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。


『石井鶴三素描集』形文社


はけの森美術館Ⅲ №31 [文芸美術の森]

食卓                                                                                        画家  中村研一


食卓.jpg

ペン、羽根ペン 26cm×35cm

************                                          【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。


小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3


中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面 

 



季節の記憶・いだようの写真散録 №186 [文芸美術の森]

「緑々の渓」               自然写真家  いだよう


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ただただ緑の景色。その緑のなんと表情豊かなことか。



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西洋百人一絵 №89 [文芸美術の森]

クレー「さわぎく(セネキオ)」

          美術ジャーナリスト・美術史学会会員  斎藤陽一

 パウル・クレー(1879~1940)は、カンディンスキーの親友であり、ともに「抽象絵画」を追求した画家である。

 クレーは、スイスで、音楽家の両親のもとに生まれ、芸術的な環境で育った。幼くしてヴァイオリンに習熟し、10歳のときには、ベルン管弦楽団の準団員となった。同時に彼は、詩作と絵画制作にも励んだ。

きわめて内省的で思索的でもあったクレーは、音楽家にも詩人にも画家にもなり得る資質をもっていたが、最終的には、画家になる道を選び、ミュンヘンに移った。


 1920年(41歳)、クレーは、ワイマールの「バウハウス」(新しい総合芸術をめざす研究所兼美術学校)から教授として招かれた。そこには、ミュンヘン時代からの友人カンディンスキーも教授として在任していた。

 二人は隣り合わせた家に住み、兄と弟のように旧交を温め、新しい絵画を追求した。


 とは言え、クレーの描く絵は、「純粋抽象」ではなく、具象の痕跡を残している。だが、たんに具体的な対象を描写しただけのものではなく、画家の心に潜む思念を「形態」と「線」と「色彩」とによってすくい取り、画面に詩的な小宇宙を創り出そうというものなのだ。


 「さわぎく(セネキオ)」は、クレーがワイマール時代に描いた作品。

 「セネキオ:Senecio」とは「さわぎく」を示すラテン語だが、「野菊」としている画集もある。

  確かに、一見すると、黄色やピンク色、赤といった暖色系の明るい色彩が画面を満たし、野菊のようなあどけない少女の顔が描かれているように見える。

 しかし、じっと眺めていると、何だか、もっと手の込んだ、不思議な顔つきに見えてくる。


 “少女”の顔かたちは、円や四角、三角、弧といった幾何学図形から構成されている。左右相称の構図に見えるが、よく見ると、あらゆる垂直線と水平線が、ごくわずかに、ずれたり、浮沈したり、はぐらかされている。

 たとえば、額の中央に引かれた線はほんの少し左に傾き、それに続く鼻の線は、逆に、右にごくわずか傾き、しかも接点でずれている。その下の口は、大きさが異なる長方形がずれて配置されている。つまり、頭の上から口元まで続く線は、微妙なジグザグを描き、顔がごくかすかにゆがんで見えるような心理的効果をもたらす。

 眼も、左右が同じ水平線上からずれて描かれ、その上、瞳孔も左右でわずかに大きさが異なる。これも、一瞬、ぎょろりと眼が動いたかのような錯覚を与える。


 眉も左右で異なっている。左の眉は白い三角形だが、右の眉はぴんとはねている。

 顔の左半分を隠して、右半分だけにして見ると、青年のような顔に見えるが、逆に、左半分だけを見ると、なんだか、白い眉毛を持つ訳知りの老人かピエロのようにも見えてくる。実は、「セネキオ:Senicio」というラテン語は、「Senex:老人」という言葉に由来しているという。


 こうして見ると、この顔は、一筋縄ではいかない謎めいた表情で、私たちを見つめているのに気づく。

 クレーは、生涯を通じて、絶えず新しい絵画的試みをし続けた画家である。そのようにして、彼が紡ぎ出した絵画は、たとえ童画のような純真な装いをしていようと、底に深い思索が秘められている。それが詩的感性と呼応して、幻想的でアイロニーの影が漂う小宇宙が現出するのである。


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クレー「さわぎく(セネキオ)」(1922年。スイス、バーゼル美術館)
 















     

にんじんの午睡(ひるね) №12 [文芸美術の森]

 ターさんとすえこさん 3

              エッセイスト  中村一枝

 物はないが人はあふれる時代だった。私が伊東の中学を終え、東京の高校に通い出した昭和24年のことである。大森から山手線に乗り換える品川駅のホームはいつも人波で溢れかえっていた。ホームの端から線路の上にはじき飛ばされそうで怖かったことをはっきり覚えている。
 ターさんの実家、わたしの母方の祖母の家は渋谷の道玄坂を上ってまた下がっていくところにあった。いわゆる長屋風の小さな家で、そこに母の妹3人と祖父母が暮らしている。孫のわたしから見ても決して豊かとは言えない暮らしぶりだったが、気さくで働き者の祖母のせいでいつも活気があった。わたしはそこで祖母が取りよせてくれる中華の出前を生まれて初めて食べた。大森では食べられない味で、渋谷の家は私の子供時代の舌を啓蒙してくれた場所でもある。
 でもすえこさんにとっては夫の実家であり、戦前の家族のしきたりから言えば一段下がって接しなければいけない家なのだ。私にはそんなことを知るよしもなく、すえこさんが何かにつけて渋谷の家を尊重し、兄貴である叔父たちはもちろん妹たちにまで気を使って接するのが面白くなかった。一人っ子のわがまま娘にとってはすえこさんがいろいろ気を使い相手もそれを当然と受け止めているのが面白くなかったのだ。手前勝手で世間知らずの姪のせいですえこさんはいろいろ迷惑した事が多かったろうと今は思う。すえこさんとの縁は実はこの先もつづくことになる。
 わたしが大学に入った年の、確か二学期の頃、私の両親は疎開生活を切り上げて東京に戻ってくる覚悟を決めたのだった。父が大森山王に家を買ったのだ。それも今まで住んだことがないような立派な家で、敷地も広い。ただかなり古いので手を入れないと住めないというはなしだった。私は嬉しいというよりまるで御殿のようなその建物に驚いた。すえこさんと別れるのは嫌だったが口うるさいターさんにはすこしうんざりもしていた。その前にちょっとした事件があって、わたしもターさんと暮らす事が重荷になっていたのだ。夏休みが終わって東京に戻った時だった。いきなりターさんが言った。「たこから連絡なかったか。」ターさんの顔のただならぬ様子にすえこさんを見ると、すえこさんが目立たぬようにわたしに目配せしたのがわかった。「たこが家出したんだ。おまえのところになんか言ってきたらすぐ知らせるんだ。」ターさんの高圧的な態度に私は余計ターさんには何も言いたくないと思った。
 ターさんが寝た後ですえこさんがそっと教えてくれた。「たこちゃんが家出したの。」その時私が最初に思ったのは、何でそんな大騒ぎするのという感想だった。その後すえこさんがぽつりと言った。「男の人と一緒なの。」その時も、今も私は同じことを言ったに違いない。「すごいじゃあ。」
 そしてなぜだか、たこちやんが誰にもつかまらないようにと、密かに祈っていたのだった。

フェアリー・妖精幻想 №64 [文芸美術の森]

密室の妖精画家 1

             妖精美術館館長  井村君江

狂気の天才リチャード・ダツド
 画家リチャード・ダツドはその六十九年の生涯の三分の二をベスレム病院(二十年)とバークシャーのブロードムア精神病院(二十二年)で送った。
 ケントで経営していた薬局を父がやめ、七歳のとき七人の兄弟たちと一緒にロンドンに出てきて、当時ロイヤル・アカデミーのあったナショナル・ギャラリー近くに住んだことが、画学生たちを通してリチャードを絵画の道へ進ませることになる。
 ロイヤル・アカデミーに学んで画才を表わし、バイロンの『マンフレッド』やシェイクスピアの作品『嵐(テンペスト)』『夏の夜の夢』を主題にした作品を展覧会に出品して注目を浴びる。また、ポイデル・シェィクスピア・ギャラリーの依頼によって「ファンタジー・ピクチャー」という範疇に入る独得の典型的な『パック』を出展している。
 好運なスタートを切った彼であったが、不幸はつぎのようにして始まる。
 ニューボートの市長であったトマス・フィリップス卿に認められ、十か月に及ぶエジプトと中近東の旅に出かけた彼は、エキゾチックな風景画を多くのスケッチに残し、のちに『エジプト脱出』(一八四九―五〇)や『港に泊まるキャラバン』(一八四三)など、この時の英検をもとにSYGYれた絵を描いている。
 しかしこの旅行中に「男女の姿をした悪霊に苦しめられている」という強迫観念に捉われてしまぅ。そして異常な行動があってズイギリスに帰ったが、それでも妄想から解放されず、ついにオシリスの神の命令で悪魔を殺さねばならぬと言って、彼の画家としての将来を楽しみにしていた父親をナイフで刺し殺してしまったのである。
 二十六歳にしてウエストミンスター寺院のホールの壁画を描いていた前途ある画家は、これを期に病院に送られる。その後、彼は四十二年のあいだ再び社会に戻ることなく病院の格子の内に幽閉され、その密室の一隅で、カンバスに向い、ひたすら絵筆を動かし続けることになる。
 彼は自分の画布に詩人としての想像力と異常な熱狂と過去の想い出とを、まるで小宇宙を造営するかのように綿密に描き込んでいった。妖精の図(アザー・ワールド)』という異界がこの時もっともダッドにふさわしい素材であったらしく、『オベロンとティタこアの仲たがい』(一八五四-五八)も『バッカス』(一八六二)も『妖精打者の最後の一撃』(一八五五-六四)も格子の内なる密室での制作である。
 『オベロン』はスパイスの風香るインドからやってきたインドの取り替え子をめぐって、ティタニアと争っている場面であるが、エジプトでの体験が人物の姿やいっ福にとく反映している。
 楕円の額縁の中に描くおとはMダッドが画家おしての初期の頃、信奉し学んだマックリーの手法からきているようだ。自分を責めさいなむ恐怖感の圧迫から逃れる安全な場所を、カンバス内に確保し、その中に世界をすべて描き塗り込めて安堵するという心理の現われのようでもある。
 草原の木の実や蝶が細密画のようにたんねんに描かれ、等身大の妖精たちが劇的なポーズをとっている『妖精打者の最後の一撃』。ここに登場する妖精たちはエジプトやギリシャ、インドの服装をしているし、農民たちの間にマブ女王やナポレオンも姿を見せている。あたかも妖精界は時空を越えた理想郷だとでも言うようである。
 この一つの絵を九年間も描き続け、空白のカンバスは残っていないほど埋めつくされているのに、なぜか妖精打者の振りあげた斧の刃は、彩色が未完に終っていることも謎めいている。
 この世と異界(アザー・ワールド)との次元の留め金がはずれたその狭間から、妖精たちは鮮やかに姿を現わしてくるのかも知れない。

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リチャード・ダッド「オベロンとティタニアの仲たがい」

『フェアリー』 新書簡


芭蕉「生命の賛歌」 №32 [文芸美術の森]

今日よりや 書付(かきつけ)消さん 笠の露

                水墨画家  傅 益瑤

今日よりや.jpg

 旅を共にしてきた曽良とここ山中で離別することになった。病気の曽良は伊勢長嶋へ発つが、芭蕉は大聖寺へ向かう。
 芭蕉の覚悟はいつでも「清醒の覚悟」があった。
 笠に「乾坤無住、同行二人」と墨で書かれた文字は露で消えるかも知れないと、芭蕉の心が清醒に、細やかに現れた姿である。絵はいままでとは違った顔の、寂しい表情をみせている。

『傅  益瑤 「奥の細道」を描く 芭蕉「生命の賛歌」』  カメイ株式会社


     


ロシア~アネクドートで笑う歴史 №34 [文芸美術の森]

レーニンとスターリン 8

           早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 四つの愛

 一九八五年のこと、そこだけは農民たちが自由に自分たちの生産物を売ることのできる体育館のように広いルイノクの入り口で、干し椎茸やレース編みを売っていた老婆が、私に「三〇年間働きづめに働いてきたけど、手にしたものは何もなかった」と訴えたことがある。つぎの作品もよく知られている。

 コルホーズの集会で議長が最初に発言した。
「今日の議題はふたつあります。第一は納屋の修繕で、第二は共産主義の建設についてです。しかし、板がないので、早速、第二の問題に移りましょう」

 唐突ながら、コルホーズと「愛」についてのアネクドートもついでに引用しよう。

 コルホーズで愛についてのスライド付きの講演がおこなわれるとの予告があった。夜になるとホールは入りきれないほど満員になった。講師が弁じはじめた。
「愛には四つのタイプがあります。一つは男と女との問の愛、第二はふたりの女性の問の愛でありまして、第三は男同士の愛であります。ところがここに第四の愛がありまして、それはわが党への愛であります。同志イワーノフ、スライドを持ってきたまえ!」

個人崇拝

 スターリンは作家のネクラーソフにいったというのだ。ヒトラーのやつも悪党だったが、わしには敵(かな)わない、と。だからスターリンのような悪党には痛くも痒くもないアネクドートだが、かれの権力志向の一面を風刺する作品がある。
 私はこれを読むたびに(本当は「聞くたびに」といわねばならないのだが)笑ってしまうので、読者も再度読んでいただきたい。なんど聞いても面白い。

 スターリンはプーシキン記念碑の複数の計画案を検討していた。第一案は、プーシキンがバイロンを読んでいる、というものだった。
 「これは歴史的には正しいが、しかし政治的には正しくない。党の総路線が示されていないのではないか?」
 第二案は、プーシキンがスターリンを読んでいる、というものだった。
 「これは政治的には正しい、しかし歴史的には正しくない。プーシキンの時代には、わたし、同志スターリンはまだ本を書いていなかった」
 第三案が政治的にも歴史的にも正しいことが判明した。それはスターリンがプーシキンを読んでいる記念碑である。こうして記念碑が建てられ、開幕式で、みなが眺めると、スターリンがスターリンを読んでいた。

 プーシキンの時代にスターリンが「生まれていなかった」というかわりに「本を書いていなかった」といわせる所が心憎い。スターリン自身には病症を感じさせないほどの軽さがあって、しかも戦後、スターリンが自分で自分を「個人崇拝」の対象に仕立てていく「総路線」をずばりとえぐりだしている。
 ロシアのアネクドート学者たちは、主題の抽象性と面白さの軽みによって、作品の制作年を推測できる関数を発見するようになるかもしれない。

『ロシアのユーモア』 講談社学術文庫


はけの森美術館Ⅲ №30 [文芸美術の森]

                 画家  中村研一

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彩色 和紙 34cm×25cm

************                                          【中村研一画伯略歴】

鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

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中村研一記念はけの森美術館正面

往きは良い良い、帰りは……物語 №48 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語

その48 「豆飯(まめめし)」「サングラス」「ハンカチ」「滝(瀑布も可)」

           コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

◆≪5月のこふみ会≫は5月14日に行なわれました。二次会は矢太氏、鬼禿氏、珍椿氏と孝多が顔を揃えました。その席で……

◆殊に元気な鬼禿氏と矢太氏が、ほかの二人に……

◆「次ぎの会(6月のこふみ会)は、いつもと趣きを変えた斬新な方式でやってみよう!」と語りかけていました……。

◆というところまでは、前回のブログ(第47話)でお伝えしたとおりです……。

◆その実現の日が6月11日です。と、案内状が届きました。次ぎのように示されて居ります。同じ当番幹事でありながら、孝多は求めに応じて兼題を考えただけ。あとはみんな、矢太氏が進めてくれました。


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        ≪案内状≫水無月の小二三会へ

  ◆◆6月11日(日)午後1時より。

  ◆◆いつもの香音里にて TEL 03-6280-8044

   ※ 案内地図

  ◆◆兼題①豆飯(まめめし)=豆ご飯。豆の飯。でも可です。

      ②サングラス=夏の季語として使って下さい。

     ◆◆当日の席題句は2句です。

  ◆◆以下、いつもと少々変わります。6月は簡単・シンプル!

     ◆◆「花」は無し。

  ◆◆そのため、4句投句、8句選び(天・地・人・客5)と相い成ります。

  ◆◆参加費=△△△円。いつもの半額。

     ◆◆茶菓子だけは幹事が用意します。食事(弁当)は出ません。

        お昼を済ませて来て下さい。

  ◆◆酒やビール、ジュースなど、飲みたい人は各自、ご持参願います。

     ◆◆景品は金額にして合計1,000円程度のものをお持ち下さい。

今までどおり1品ずつ天・地・人の3句にあげても良いし、天・地だけの2品でも構いませんし、天にだけ1品でもよろしいことにします。自由化です。

     ◆◆不肖矢太まで、お早めに、FAXかメールで出欠のご返事を下さい。

  ◆◆FAX△△△・△△△△  info△△△△△△△△

(心機一転、名前変えてみました。不評なら戻しますよ。幹事矢太の独断提案。)

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これに応えて5通の返信レターが届きました。
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 返信レター鬼禿氏より  

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返信レター軒外氏より  

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 返信レター珍椿氏より

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 返信レター孝多より  

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返信レター更歩氏より(残念・欠席)


≪さて、当日は12名!!≫

◆ニューフェイスは小池玲子さんと中尾淳氏。嬉しや! 以下順不同・敬称略にて田村珍椿、永井舞蹴(まいける)、秋元虚視、三橋(みつはし)五七、鈴木沙汰、大谷鬼禿、沼田軒外(けんと)、森田一遅(いっち)、岩永矢太、多比羅孝多の計12名。

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席題は「ハンカチ」と「滝」

◆新しい人が二人も加わったせいか、時々、マジメに、し~んと静まることもありました。真剣は良いけど、深刻はまずいよ……。ですからタイミングを計りながら幹事が、その場の空気を揺らします。「高島屋と芸大が多くなっちゃったね、この会。孝多さんの奥さんも芸大でしたよね。」とか、「ハンカチっていう季語。汗ふき、汗ぬぐいから来てるから夏なんですって。」とか。「季節感って面白いよね、サングラスなんか、今はオールシーズンなのに歳時記上は夏のもの。」とか。

◆「そうそう、こっち、6本ある。ビール、一遅さんからの差し入れで~す。ビールの滝! やあ、やあ、やあ~。」


≪さあて、さて、さて、本日の成績は~≫

◆投句、選句、読みあげも済み、やがて係が正の字で記された得点一覧を見つめながら声をあげます。

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快進撃を続ける矢太氏

◆本日のトータルの天は~40点の矢太氏(パチパチパチッ)

 代表句=豆ごはんに 向って走る 夜汽車かな

◆トータルの地は~37点の五七氏 (パチパチパチッ)

  代表句=一枚の ハンカチで足る 別離かな

◆トータルの人は~33点の虚視氏(パチパチパチッ)

  代表句=想い出は ポツリポツリと 豆ごはん

◆トータルの次点は~小池玲子さ~ん(パチパチパチッ。パチパチパチッ。パチパチパチッ!)初参加で次点なんて、すごいなあ。

   代表句=深緑(ふかみどり) 滝一文字 山を割り

◆今回は「花選び」は無し。で、以上。

 皆さん、おめでとうございました。パチパチパチッ。

  良かった良かった、楽しかったで、お開き。新顔さん、次回は会員として、ぜひご 出席を!

 では、また、お会いしましょう。 お元気に。    (孝多)

                                    第48話 完


※下記します≪本日の全句≫もどうぞご覧ください。お気付きの点がありましたらFAX.048-887-0049孝多までご一報のほどを。


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第570回 こふみ会≪全句≫

平成29年6月11日    於 神楽坂 香音里


◆兼題=豆飯      順不同

山深き 宿の豆飯 豆腐汁               珍椿

皇系の 同じ顔出す 豆ご飯                                    鬼禿

豆飯の 匂う先には 田のそよぐ                               沙汰

平らなる 妻の横顔 豆の飯                                     五七

豆ご飯 母との想い出 鞘(さや)の山                       中尾

豆ご飯 小さなちゃぶだい 吾子の声                          小池

豆ご飯 隠れ棲む身に 季節告げ                               一遅

豆ご飯に 向って走る 夜汽車かな                           矢太

想い出は ポツリポツリと 豆ご飯                             虚視

豆ご飯 とんと食べなく なりにけり                          舞蹴

豆飯の 豆をつまみに ちびりちびり                          孝多

豆ご飯 五合炊いて 妻の旅                                      軒外


◆兼題=サングラス         順不同

サングラス 気の弱そうな 小さな眼                           鬼禿

小江戸やら 小京都にも サングラス                           沙汰

ダムの村 サングラスの美女 バスを降り                      一遅

雲走る 日蝕の海 サングラス                                    虚視

どこへも出かけない 机の上の サングラス                    矢太

いつもより なぜか饒舌 サングラス                            珍椿

サングラス 異界へのツア 日帰り                             軒外

サングラス して 東京はまだ 異郷                              五七

サングラス  誰(だれ)かが誰かの 誰かです                孝多

アロハシャツ 幼顔でも サングラス                            中尾

初ビキニ 君まぶしくて サングラス                            小池

サングラス  勝手にしやがれ ベルモンド                      舞蹴


◆席題=ハンカチ      順不同

ハンカチを ふる手の細く 終列車                                虚視

汗ぬぐう ハンカチの下から 顔(かお)現わる               孝多

一枚の ハンカチで足る 別離かな                                五七

思い切り 振ってさよなら ハンカチーフ                        舞蹴

山間(やまあい)の 瀬にハンケチを 奪われし                沙汰

ハンケチの 染(し)み思い出せない 女の子                   鬼禿

ハンカチは もういらないわ さようなら                        一遅

小さな幸 ハンカチにくるみ 丘をくだる                        軒外

立ち寄った 胸のハンカチーフ 母なみだ                        中尾

あの夜の 白いハンカチが いけないの                           矢太

カフェコーヒー ハンケチの上 ポタリと染み                   珍椿

純白の ハンケチ涼し 通夜の客                                    小池


◆席題=滝               順不同

大滝の 飛沫(しぶき)を浴びし 山想い                         沙汰

滝打ちて 乙女の肌に 容赦なく                                    珍椿

初デート 華厳滝で 記念写真                                       舞蹴

見てみたい 滝を彫る人の 頭脳                                    軒外

滝壺へ 水平方根で 落ちてゆく                                    矢太

天界と この世結びて 滝落ちる                                    虚視

深山(しんざん)の 暮らし友はただ 滝の音                   一遅

いろは坂 車に酔って 滝が華厳に                                 中尾

鉄火場の 背中(せな)に一本 堕る滝                           鬼禿

滝の水 止まり落ち鳴り 止まりけり                              五七

むつまじや 男滝(おたき)女滝(めたき)と 落ちてゆく    孝多

深緑(ふかみどり) 滝一文字 山を割り                         小池

                                        (以上 48句)

季節の記憶・いだようの写真散録 №184 [文芸美術の森]

「こもれびの渓」                自然写真家  いだよう

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変哲もない渓に木漏れ日が射した。とたんに立ち去り難くなった。


いだようのFacebookページ : https://www.facebook.com/idayoh/

西洋百人一絵 №88 [文芸美術の森]

カンディンスキー「空の青」

                    美術ジャーナリスト・美術史学会会員  斎藤陽一

 20世紀は、それまでの芸術の概念を変えてしまうような、様々な新しい芸術の潮流が起こった世紀である。その中でも、「抽象絵画」の登場は、20世紀絵画の最も重要な革新のひとつであろう。
  ワシリー・カンディンスキー(1866~1944)は、その「抽象絵画」の道を大きく切り開いた画家である。

 カンディンスキーが、画家として出発した年齢は遅かった。モスクワの経済的に恵まれた家庭に生まれた彼は、幼児期から音楽と絵画に親しんだ。天性のきわめて鋭敏な感受性と、思索的な厳しい論理的性格を併せ持っていたが、若い頃は、学者としての道を進んだ。
 モスクワ大学では経済学と法律学を専攻、卒業後は法学部助手となった。30歳の時に大学教授に招請されたが、これを断り、もともと好きだった絵画の道を歩むことを決断したのだった。
  そして、当時、パリと並んで、ヨーロッパにおける新しい芸術活動の拠点だったドイツのミュンヘンに移住、そこで、スイスからやってきたクレーと知り合い、やがて二人は手を携えて、「抽象絵画」の道を切り開くことになる。
 とは言え、画家になったカンディンスキーのその後は、試行錯誤の繰り返しで、作風をさまざまに変貌させつつ、完全に具象的形態から解放された抽象作品を描くのは、ほとんど50歳近くになってからであった。

 カンディンスキーは、自身の面白い体験を語っている。
 あるとき、戸外での制作を終えて家に戻った時、アトリエで見覚えのない美しい絵を発見して、息を呑んだ。近づいてよく見ると、それは、まぎれもなく自分の絵だったが、逆さに置かれたものだった。
  そのとき、カンディンスキーの脳裏にひらめいたのは、「自分の絵を悪くしていたのは“対象”だ!」ということだった。そこから彼は、画面から具体的対象を取り除く方向に向かった。

 音楽的素養のあったカンディンスキーは、次のようにも考える。
  “音というものはひとつだけでは何ものをも描写しない抽象的なもの。ところが、作曲家は、音(音符)を純粋な手段として用い、それらを組み合わせることによって、内面から湧き起る感興を表現、人の魂に訴えかけることが出来る。
 同じことが画家にも出来るのではないか。つまり、純粋に「色彩」と「形態」の組み合わせだけで、内面に存在するイメージを表現することが可能なはずである”と。

 「空の青」(1940年)は、カンディンスキー最晩年の作品である。
  それまでには、さまざまな苦難が画家を直撃した。ロシア人として生まれた彼が生きた時代は、第一次世界大戦、ロシア革命とソ連の成立、ナチスの台頭、そして第二次世界大戦と続く激動の時代であり、そのすべてに画家は翻弄された。
 ナチス・ドイツは、カンディンスキーやクレーの作品に「退廃芸術」のレッテルを貼り、カンディンスキーはフランスに、クレーは母国スイスに逃れた。

 この絵は、カンディンスキーが74歳のとき、亡命先のフランスで描いた作品である。
 彼が抽象絵画にたどり着いてからも、その作風は変貌したが、最晩年のこの作品からは、肩の力が抜け、自在で楽し気な遊びの境地が感じられる。
  青く澄んだ空間に、色とりどりの奇妙なものが生き生きと勝手気ままに浮遊している。あるものは鳥のようにも見え、またあるものはエビのようにも見える。だが、これらは、具体的なものではなく、カンディンスキーが青い空間で共鳴させようとしている「色彩」と「形態」の音符なのだ。そこからは、明るく澄んだ光の音楽が聞こえてくる。私たちは、その音楽に耳を傾けさえすればいい。

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                    カンディンスキー「空の青」(1940年。仏・個人蔵)



にんじんの午睡(ひるね) №11 [文芸美術の森]

ターさんと、すえ子さん2

                  エッセイスト  中村一枝

 疎開先の静岡県 伊東で、小学校、中学校を終えた私は次の進学先を東京に決めていた。受験ということがぼちぼち世間の話題に登り始めた頃だった。大学に進むには東京の高校に転校していた方が有利だという話だった。元々東京育ちの疎開っこにとって高校進学を逃したら東京の学校には戻れなくなるのではないかという不安もあった。母の妹三人が通っていたのが渋谷に近いA学院で、ミッションスクールで英語教育のレベルが高いという評判だった。学校の選択など今のように情報の飛び交う時代ではなかった。一つ話を聞けばそこに決めたという簡単さだった。それにしても伊東からの列車通学は女の子にはすこし無理だということで、東京に下宿を探すことになった。真っ先に候補にのぼり誰もが納得したのがターさんのところだった。
 久しぶりに会ったターさんの変わりようは私にもショツクだった。あんなに楽しい親しみにあふれたターさんはもういなかった。所帯を持ち、子供と女房を抱え、エリート官僚とは違う地方公務員のターさんが毎日どんな思いで電車に乗って役所に通っているかなんて、私には全く想像できない事だった。ターさんはほとんど夜遅く酔っぱらって帰ってくる。男が酔っ払ってしつこいのは、私は伊東の狭い家でさんざん見ているから気にはならない。でも父の酔っ払いぶりはあんまり嬉しくはないが、どこか愛嬌があって笑ってしまう事が多い。ターさんの酔いかたには楽しさといったものがなく、無理に自分を納得させようと酔っ払っても辛さが見える。それに父だって酔っぱらうとどう考えてもカッコよさなど吹き飛んで醜態をさらけ出すだけなのだが、ターさんがやるとただの醜さしか見えない。もしかしたら、私の身びいきとも思えるが、私には、ターさんはもっと素敵でいて欲しいという願望があった気がするのだ。今思うとそれは父とターさんの年輪の差、人間の差だった事がわかる。ターさんはその時余裕などあるわけがないのだ。すえ子さんにはそのターさんのやるせなさとか寂しさがわかりすぎるほどわかっていたのだ。ターさんはいつも遅いので夕食は4人だった。私にとっては楽しいおじさんでなくなったターさんのいない食卓の方がずっと気楽で楽しかった。
 「すき焼き、すき焼き、今日はすき焼きです」
 みずきちゃんがスキップを踏みながら嬉しそうに茶の間に入ってくる。その頃になると私にもターさんの家の内情もわかって来たし、毎晩すえ子さんがおかずに苦労して美味しいものを食べさせてくれる、その心づかいが身にしみてきていた。すき焼きなんて何?私がいうとすえ子さんが笑いながらおナべの蓋を開けた。中には肉の代わりに味噌仕立てにしたハマグリと白菜が入っていた。その美味しかったこと・・・、すえ子さんは何事も当意即妙に工夫してしまう頭の良さを持っていた。一晩で古い敷布の使えるところを選んでちょうちん袖の素敵なブラウスを作り、枕元に置いておいてくれたりする。すえ子さんがどんどん素敵な奥さんになっていくのに、あんなにお洒落だったターさんはどぶくれた中年男になっていくのが私にはどうしても納得のいかないことだった。

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