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フェアリー・妖精幻想 №87 [文芸美術の森]

童話作品に描かれた妖精界

              妖精美術館館長  井村君江          

パリの『ピーター・パン』

 『水の子』の前身が「陸の子」即ち人間の子であり、結局のところそのどちらでもなかったように、ジェイムズ・バリのピーター・パンも生後一週間で逃げ出した半人半妖、つまり「半端っ子(ビトウィックスト・アンド・ビットウィン)」であり、「永遠の子供」である。
 『ピーター・パン - 大人にならない子供』は、一九〇四年初演の戯曲であるが、その前身は『小さな白い鳥』という作品で、生まれる前の赤ん坊はみな小鳥で、ネヴァネヴァランドで生まれる日を待っている。
 舞台で上演されたこの物語にさまざまな筋がつけ加えられ、『ケンジントン公園のピーター・パン』(一九〇六)と『ピーター・パンとウエンディ』(一九一一)という作品が出来上がった。
 多くのすぐれた挿絵画家が、現代に生まれた妖精の傑作であるピーター・パンの世界を競って視覚化し、すぐれた夢のある一巻に作っている。アーサー・ラッカムは『ケンジントン公園のピーター・パン』(一九〇六)の作品を、フランシス・ベッドフォード(一九二)、マーベル・アートウエル(一九二〇)、エドムンド・プランピエド(一九三二)等は後者の作品に挿絵を描いている。
 しかしこの二つの作品でピーター・パンはその姿も生い立ちや展開される物語も違うのである。例えば前者ではピーター・パンは「山羊に乗って笛を吹いている裸の赤ん坊」であり、後者では「筋だらけの枯れ葉と木の汁で作った服を着ている」とあり、また前者にはメミー・マナリングという女の子が春の大そうじの時に必ず来てくれるが、ウエンディもティンカー・ベルも登場しない。そのかわり、ケンジントン公園の門が夕方の「閉め
出し時間」になると、ほおずきの提灯をさげて夜の宴会にお出ましとなるフェアリー・クィーンのマブ女王をはじめ、落ちていた切手をいい絵本だと思いこんで飽かず眺めるドワーフや、公園の入口に貼ってある集会のポスターにいたずらをして書き替えてしまう小さい妖精たちが登場する。
 アーサー・ラッカムの古典的なピーター・パンでは、ケンジントン公園の蛇池のほとりで、人間界から逃げ出してきて古木の枝にすわり、烏と話をするピーター・パン坊やが描かれている。画面の事物のひとつひとつ、木や島、赤ん坊、ネズミが非常に手馴れた筆致でリアルに描写されているが、どこかこの世でないファンタスティックな情調の漂いがある、不思議な光景である。
 神経のような細い枝をのばし、奇妙な曲線をみせて土からはい出している根を持つ、赤い実をつけたトネリコの古木が中心に配されているが、現実の人間も超自然の生きものも、その木を中心にして生存しているようである。
 ラッカムの他の画面にも、木に群がる地下のノームや、木の根の形がそのままドワーフの姿になったものなどが好んで描かれている。これは命の源としての古木崇拝(アニミズム)をラッカムが持ち、それを描こうとしたこと、そこから彼の妖頓たちが姿を現わすことが窺えるのである。リアルな描写のネズミであっても、よくみるとマフラーをしている、というように、動物を凝人化し、それに服を着せるということから始まり、それを発展させて妙な姿、変わった手足をした妖精になっていくという、ラッカム独自のリアルとファンタスティックを巧みに交錯させた手法で、特色ある異界(アザー・ワールド)を創りあげている。
 『ピーター・パンとウエンディ』の物語では、ケンジントン公園の妖精たちの特徴をすべて集約したような形で、ティンカー・ベルが登場している。蝶のような翅をつけ、すばやく飛び回り、光のように見える手のひらくらいの大きさの女の子として描かれている。ティンカー・ベルは、身体が小さいので一度に一つの感情しか入らないため、根っから悪い妖精にもなり、良い妖精にもなるし、怒りっぽく嫉妬深い。
 マーベル・アートウェルは、ティンカー・ベルをトンボの麹をつけた白いドレスの可愛い女の子にし、ピーターのそばで手伝いをするところを描いている。ピーターのタイツとヘルメット姿は、現代のクリスマス・パントマイムの舞台衣裳デザインのようで、事実アートウェルの絵からぬけ出したようなピーター・パンの舞台を筆者は観ている。
 エドムンド・プランピエドのティンカー・ベルは蝶の翅をつけた薄いスカート姿であり、ピーターの笛に合わせ幸福そうに(妖精は「ハッピー」を「ダンシー」と言う)踊っている。戯画家でもありペン画が得意なブランピエドは、この本にも各場面のペン画のカットを入れているが、彼がデザインした生まれ故郷ジャージーの切手にも見られるような、非常に軽妙で面白い構図の捉え方をしている。しかし水彩の着色画はより印象的で、水墨画を思わせる大胆なブラシ使いの岩やぼかしの手法が幻想的な世界をよく現出させている。
 フランシス・ベッドフォードのピーターの世界はまったく対照的で、精妙な描線で緻密に構成された背景と人物とが、見る人を異界へ引き込むような感じの画面である。建築家を志し、風景画を得意としていたベッドフォードの手堅い筆使いが感じられるのである。寝室の開いた窓から入ってくるピーター・パンの足元を照らす一筋の光の源を探っていくと、水さしの緑によく目をこらさねば見えぬほど小さな女の子の姿で、麹を持ったティンカー・ベルが描かれている。この本は緑のクロスの表紙に金箔の押しで笛を吹くピーター・パン、それに聞きほれる人達、ローソクを消そうとするティンカー・ベルなどが描かれ、美しい装幌になっている。

A.ラッカム「ピーターパン」.jpg
アーサー・ラッカム「ピーターパン」

『フェアリー』新書館


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にんじんの午睡(ひるね) №35 [文芸美術の森]

子供の思い

                    エッセイスト  中村一枝

 子供のころわたしの母はわたしにおとなの小説を読ませないようにと腐心していた。そうは言っても父の商売は小説家であり、いやでも本は送ってくる。わたしは病弱て一人っ子。外遊びのできない分、そこいらにある本を手当たりしだい読んだ気がする。赤ん坊の時からの友達ミーコなど読書について親から干渉を受けたことはないと言うし、母がどうしてそんなことに神経質になっていたのかいまだに不思議だ。グリムもアンデルセンもたいていの童話は男と女の話なのに、母の生真面目さは今ではとても考えられない。当時の若い母親は生まれたばかりの女の子を童話の中のお姫さま以上に類い稀なものにしたかったのかもしれない。童話の主人公は大抵お姫さま王子様と決まっていて、それが艱難辛苦を乗り越えて結ばれるのがその筋がきだった。童話の中のお姫さまがいとも安易に王子さまと結ばれるのも母は嫌だったのかもしれない。
 わたしが小学校にあがるまえ、父は新聞に成吉思汗の小説を書いていた。書き上がると必ず二階の書斎に母を呼んで読み聞かせた。この話は前に書いた気もしているが、それだけ子供ごころに印象深く残っているのだ。成吉思汗の母が敵方ので別の部落の武将に略奪される悲劇、そんな深刻な話を私は母の膝を枕に聴いた。その時の抑揚のついた父の声まで聞こえる気がする。子供は真実を見分ける目を持っている。それは今も昔もおなじた。今は子供が読んではいけない本なんてないだろうし、子供も見分ける目は持っている。母が読んで欲しくない本は私にはすぐわかった、ルパン全集とかいわゆる講談本、通俗的といえばその通りにしても、面白いことは確かである。母はそういう本を借りてくるのもいやらしかったらしい。
 母は十一人の兄妹がいた。一番下は私と同じ小学生で一年上だった。祖母の家に行くと、「あんたたち二階で遊んでおいで」と言われる。その末の叔母は踊りを習っていて、俗世間のことに詳しい。私は初めてうちとは別世界のあることを知ったのだった。そこでは男と女の話は年中あるらしいし珍しいことでもなさそうなのだ。踊りの世界がまた複雑で、更にお金の面でも私の想像のつかない色々のことがあるらしい。十一人の末っ子であるたこちゃんは幼い肩にいろいろ背負い込んでいるらしい。私には初めて知った世間のトビラだった。
 たこちゃんのおさらい会に隅田劇場というところにも行った。日本舞踊というものを見たのは生まれて初めてのことだった。仲間同士のオーバーな挨拶やら、会場の雰囲気は私はあまり好きになれなかった。わたしがそれ以上近付かなかったのは、率直さとか、わかりやすさとかと縁遠い、その雰囲気に馴染めなかったのだ。貧しい中でお金持ちの人と競り合い戦っているたこちゃんにはむしろ応援する気分はあったが、あの雰囲気には到底馴染めなかった。今習い事の世界も随分様変わりしたと言う話だ。母の十一人いた兄妹達も二人しか残っていない。でも子供が背伸びして大人の世界をのぞいて見たい思いは昔も今も同じ気がしている。

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渾斎随筆 №11 [文芸美術の森]

歌材の佛像 2

                    歌人  會津八一

 これだけを、私は、決して竹尾さんへの御愛想に云つたつもりは無い。ただの人が、ただに見て過ぎる路傍の草叢でも、植物學者の手にかかれば、すぐ何十何種と、はっきり分類される。そして一々學名までつけて標本に作られたら、整然たる鑑別には服すとしても、そこには、もはや、たくさんの乾いた標本があるだけで、一筋の路傍の草の、味も気分も無くなる。やれ衣紋の刀法だの、臺座の寸法だのと、平素、枝葉の末に走って、とかく大聖世尊を忘れがちな吾々には、ほんとの傍の歌らしいものは詠みにくいのであらう。しかし私などが、今さら信心ぶったことを詠みにかかつても、始まらないことであるし、歌はおのづから歌で、信心とは別な一つの道であって見れば、自分は、ありのままに此の道を行く。これがもとから、そして今でも、私の腹である。
 もとの京都帝国大學の濱田博士は、學間の上では、私とは専門も近いし、若い頃からの知りあひで、懇意であった。この人も、私の歌が好きで、昔出した歌集を一首も残さず暗誦してゐるといふほどであった。もっとも、その暗誦を、目の前で聞いたのでは無いが、畫家の曾宮一念君のところへ行って、そんなことを吹聴した末に、いくつも歌って見せたといふことを、あとで曾宮君から聞いた。しかし、いくら懇意にしても、無理に歌の贔屓まで、しなければならぬといふ義理があるわけも無いから、やはりいくらか私の歌が好きであったのは確かであらう。が、そのもとはと云へば、専門の上から、互に似たり寄ったりのことを知ってゐたので、あちらが私の歌の素材によく通じてゐたとも云へるし、こちらの歌が、あちらの美術史の試験に及第したとも云へるところであらう。世間では、よく「天ハ二物ヲ興へズ」などといって、作家の能力の狭さを歎げくけれども、いやしくも作家と名乗るほどのものは、とにかく一能だけは有るらしいが、鑑賞家の方は、五物も六物もあるらしく見せながら、つきつめて見ると、實は一物もあぶなつかしい人が多いやうに思ふ。だからせっかく歌が解つても、佛像が解ると云ふわけに行かないやうに、佛像に理解があっても、必ず歌の判断が出来るといふわけにも行かない。そこへ行くと濱田君などは、両方が解って、自分では絵も描けたし、その上に書道の方まで解ってくれたらしいから、此の人などは、私などにとっては、それこそありがたい知己の一人であったと云ふべきであらう。
 この濱田君あたりが見たならば、観心寺、室生寺、法華寺などの観音を詠んだ私の歌を、いきなり私のエロにしてしまはずに、これこそ日本美術史上、際立って特色の強かったその時代の、官能的な持ち味が滲み出して、ついこんな歌になったのであり、また同じ時代のほかの一面として、東寺の五大明王などになると
   たちいれば くらき みだう に ぐんだり の しろき きは より
   もの の みえくる
   ひかり なき みだう の ふかき しづもり に をたけび たてる
   五だいみやうわう
といふやうな、こんな密教的な、いはば印度臭い、神怪な趣味にもなったのだといふことが、よくわかってくれたであらう。だから好んで百済観音や夢殿観音の、幽寂な微笑を、歌ってゐた私が、忽ちこの平安初期の妖艶な肉感に着目したとしても、それをただ私だけのエロのせゐにして、したり顔でゐるならば、鑑賞家としては、申譯のない不用意だと云はねはなるまい。
 私は叉、新薬師寺の有名な香薬師(かうやくし)如来の像が好きで、かつて
   ちかづきて あふぎみれ ども みほとけ の みそなはす とも
   あらぬ さびしさ
と詠んでゐる。これをその常時、友人の山口剛などは、含津は平素人を見くだして、鼻であしらってゐるものだから、いざ彼が近よって拝みに懸つても、こんどは佛さんの方で、あひてになさらない。と、いかにも痛快らしくその気特を書いてゐるが、なるほど佛さんがあひてになってくれないといふ淋しみは、まさしく私の気持であるが、それにしても、かうした感じは、あの像を見たものならば、殆んど誰もが、身にしみて覚えがある筈の、あのうっとりとした、特有の眼つきからも来てゐることを、山口などは知らなかった。そしてみんな私のせゐにして、何か特別の見つけものでもしたやうな物の云ひ方をしてゐるのである。
 しかし思へば、私が奈良の歌を詠み出したのは、三十年も前のことで、それに櫻井、山口、吉江等の批評的な序文をつけて、『南京新唱』として世に送つてから、すでに二十年にも近い。その間に、世上では、奈良美術の研究や鑑賞が、思つたよりも流行って来て、今では「観心寺の眉」とか「香薬師の眼つき」とか云つただけでも、説明なしにうなづく人がだいぶ多くなったから、今さら不足を云ふことも無いやうなものだが、これ位のことにでも、二三十年はかかるといふのであると、かりそめにも詩歌の作を後世に遺すといふことも、随分心細いことであるらしい。つくづくと考へられることである。        (昭和十七年正月十八日夜稿)

『會津八一全集』 中央公論社

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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №57 [文芸美術の森]

ユーモアのペレストロイカ 7

            早稲田大学名誉教授  川崎 浹

アネクドートが現実に 八〇年代の終わりにバルト沿岸国に独立と民主化の人民戦線運動が起こり、ソ連にも連鎖反応をおこした。八九年のまだ寒い四月、私は友人の政治学者中村逸郎さんに連れられて、モスクワの人民戦線に会いに行った。メンバーの若い奥さんも入り口で腕組みして見張り、KGBがあとをつけてきたのではないかと、ひどく緊張していた。私もアカデミアホテルで待ち合わ芸しているときから、警戒を怠らなかった。ペレストロイカ当初の多幸症症候群はとっくに過ぎていた。
 その際、人民戦線のメンバーがレーニンを犯罪者呼ばわりしたことに私はすっかり驚いた。驚かねはならぬほど、当時はまだ共産主義の勢力が強かったということだ。人民戦線の幹部はKGBだったという通説があるが、中核メンバーの労働者には関係ない。かれらは熱くなって、ゴルバチョフも党の改革派も信用できないことを説いた。それでも政治の最前線をゆく彼らにしてなお盲点があった。この一節で私がいいたかったのは、つぎのアネクドート的実話である。
 民族紛争問題に言及し、各共和国の離反を嘆いた人民戦線メンバーに、中村逸郎さんが虚をつくようにして、笑いながらいったのである。
 「いっそ、ロシア共和国が独立したらどうですか?」
 当時の政治的文脈のなかではまったく意表をつく「とどめ」だったので、メンバーたちも絶句した。私も面白い独創的な冗談だと思って、文学者ではないはずの中村さんのアネクドート的才能に感心した。ところが、一年有余後には、これがアネクドートではなく現実の話となったのである。
 右のとどめは「行列がなくなる」と同じく、しかも比較にならぬほどスケールの大きな予見だった。当時ロシア人はだれもそんなことを考えていなかった。米国に在住していたソルジェニーツィンだけは同じことを考えていたらしく、九〇年九月に発表した『甦れ、わがロシアよ』(木村浩訳、NHK出版)で、一二の共和国を切り離して身を軽くすることを提案し、ソ連人をあっといわせたが、九一年末から翌年にかけて、実際そうなったのだ。

エリツィンへの共感

 八九年三月、ソ連史上初の代議員選挙が行われたとき、改革派の先頭をきっていた「アガニョーク」誌の編集長コローチチに、私もずばりこういったことがある。これも中村さんにつぐくらいの突っ込みだと思うのだが、どうだろう。

 「いっそソ連ほ社会主義を捨てたらどうですか」

 しかし前日ゴルバチョフに会ったばかりのゴルバチョフ路線の継承者コローチチは「共産主義にも良い共産主義と悪い共産主義があります」といって、回答をさけた。かれはいつ「悪い共産主義」に拘束され、投獄されるかと本心おびえていた。そして、三カ月後に第一回人民代議員大会(一九八九年年五月)が開かれた。まだ「人民」などという言葉が使用されていたのだ! 保守派の議員が多数を占めていることが判明した! このときゴルバチョフがいった。

 「同志諸君!我々はペレストロイカの時期において、これまで暮らしてきたより、もっと良くなるだろう!」
 「我々がですって?」とホールの中から声が響いた。
 「で、あなたは何者です?」と今度はゴルバチョフが聞いた。
 「私は党中央委員のエリツィンですが」
 「だったら、あなたも良くなりますよ」

 この直後こういう事件がアネクドートのなかで生じた。

 第一回ソ連人民代議員大会がおこなわれていた。とつぜん自動銃をもった男が突入してきた。
  「ボリス・エリツィンはどこにいるのか?」
 ホールでは代萬員たちが共感の笑みをうかべてエリツィンのほうを指さした。
 男は安全装置をはずすといった。
  「ボーリヤ(ボリス・エリツィンの愛称)、伏せろ!」

 当時、政界でのエリツィンの立場はまだ弱く、このアネクドートには民衆の直接の支持のうえに立っていた「ポビユリスト」エリツィンへの民衆の共感があらわれている。だが二年後にはエリツィンが画策してソ連邦解体の引き金をひき、ソ連大統領だったゴルバチョフの梯子(はしご)をとり去った。
 過去のロシア帝国には混迷の時代もしくは動乱の時代と呼ばれるいくつかの節目があり、現状もまさにそのとおりだが、こうした混沌の時代にはアネクドートが現実となり、現実がアネクドートふうに見えてくるものだ。

『ロシアのユーモア』 講談社選書




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石井鶴三の世界 №119 [文芸美術の森]

諏訪1952年/車中1954年

                画家・彫刻家  石井鶴三

1952諏訪.jpg
諏訪 1952年 (203×143)
1954車中2.jpg
車中 1954年 (202×141)


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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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はけの森美術館Ⅲ №53 [文芸美術の森]

緑院(婦人像) 

                   画家  中村研一

(緑陰)婦人像.jpg
クレパス 34cm×23cm

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鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面 

 


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フェアリー・妖精幻想 №86 [文芸美術の森]

童話作品に描かれた妖精界 3

              妖精美術館館長  井村君江

『プークが丘のパック』と『水の子』

 ルドヤード・キップリングの『プークが丘のパック』(一九〇六)は、物語の発端が『夏の夜の夢』である。しかし物語の舞台は、サセックスのロングスリップで、その草原にある妖精の輪の中を舞台に見立て、ダンとユーナの兄弟が芝居の稽古をしているところへ突然パックが現れる。
 「小さな男の子の姿、薄茶色の皮膚、とんがり耳に獅子鼻でやぶにらみ、ソバカスの顔、いかつい肩、うす気味わるい笑いを浮かべている」とあり、ホプゴブリンの不気味な面が強調されている。
 アーサー・ラッカム(一八六七-一九三九)が描いたのは、この物語の中でパックが語る昔話の場面である。ヘンリー八世時代のロムニーの沼地の場面で、ウィットギフト夫人と二人の農夫のところにフェアリーたちが押しかけ、宗教改革でイギリスは混乱に陥った。この国にフェアリーはもう住めないから、舟を仕立ててフランスへ逃してくれ」と、カエルのような声で口々に頼んでいるところである。
 ウィットギフト夫人にだけはフェアリーが見えるが、あとの二人にはキーキー声は聞こえても姿は見えていない。トンボの翅をつけた少女のような美しいものから、ネズミのような顔や烏の足をした気味の悪いダークエルフたちがさまざまな表情をみせ荷物をまとめ、子供を背負っている。彼らは、フランスへ集団脱出しようとひしめき合い、夫人の裾を引っ張って頼んでいる。物語の成り行きでは夫人は彼らに舟を与え、一人だけ残ったパックは夫人の子孫に妖精を見る力を与える。ダンとユーナは夫人の子孫なのでパックが見えるのである。撤密なペン画の上に水彩をほどこしたこの給は、ヴィクトリア・アルバート美術館に現在は所蔵されているが、挿絵ではなく独立した一幅の作品として描かれたものである。
 チャールズ・キングスレイの『水の子』(一八六三)は、煙突そうじの少年トムが、厳しいグライムズのところから逃げ出し、水に入って「水の子」に変身し、水の底の自由な世界でフェアリーたちとつきあいながら冒険を重ねていき、ついには広い愛の心を知り、親方を許すというやや教訓的な物語である。
 トムと妖精たちが展開する、水の底のさまざまな場面が画家たちの想像をかきたてたようで、ラッカムをはじめヒース・ロビンソン、ウィルコックス・スミス、ウオーリック・ゴーブル、アン・アンダーソンなどが特色ある挿絵をつけて、それぞれ美しい本にまとめている。
 無防備な水の子供になってしまい、トンボや魚の攻撃に遭い、餌にされるところを、美しい水の妖精が救ってくれ、他の子供たちと共に緑の水藻 や白い水蓮の花に囲まれた妖精の女王の裳裾につかまりながら泳いで行く。妖精の女王はそうした小さな子供たちを守る妖精の代母(フェアリーゴッドマザー)のような役割であるが、特にウォーリック・ゴープルの暖かい線と色彩の挿絵は、よくその世界と妖精の特徴をとらえ、抒情性のある水の世界を描いている。

『フェアリー』 新書館


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にんじんの午睡(ひるね) №34 [文芸美術の森]

チョコと汀女と

               エッセイスト  中村一枝

 つい先ごろ、隣の奥さんから「うちの娘、最近アルバイトに行ってるんですよ」というはなしをきいた。わたしより10才以上若い奥さんで、すでに3、40年の付き合いがある。おっとりとした口調ともの腰の柔らかい人である。それがね、と、彼女が急におかしそうに笑い出した。「チョコレート屋さんなんですよ、白金にある。」ウソーと言いかけてわたしは急いで言葉を飲み込んだ。「あのミントチョコの?」
 私が白金にあるミントチョコに出会ったのはかれこれ3、40年前。多分お店ができたばかりの時である。当時姑の中村汀女は下北沢に住んでいた。俳人としても、女流の著名人としてもめきめきと頭角を現わし始めたときだった。いま思うと私は何にも知らないくせに生意気な女の子で、始め、汀女さんときいてもその俳句さえ一つも知らなかった。おいおい本人を知ることになり、今になってもっと俳句のことなど聞いておけばよかったと悔やんでいるくらいだ。ところで最初のミントチョコを口にしたのは汀女の家である。「これね、白金か何か知らんけど美味しいチョコらしいっていただいたのよ。」
 当時汀女の家に行くと、部屋中おかしや果物で埋まっていた。その時もらったのがミントチョコで、わたしはその包装紙を頼りに白金まで訪ねて行った。あれから、チョコもお菓子も国内外を問わず手に入るようになったが、私にとって今でも1番すきなチョコなのだ。その大好きなチョコの店にとなりの娘さんがアルバイトに行こうが行くまいがなんの関係もない話なのになぜかウキウキするところが、わたしのミーハー度なのだろう。
 中村汀女と言う名前を初めて聞いた時は何も感じなかった。本当に知らなかったのだ。姑となってからも汀女と一緒に暮らしたことはないし、どこかへ一緒に行ったこともない。おっかなびっくり遠くから眺めてていただけだったとは随分勿体無いことをした気もする。ミントチョコと汀女さんなんておよそ合わない気がするのだが、熊本という、日本の中でも一種独特な地域に育ち当時としてはとてもおおらかに育った女の子。汀女が女学校時代に書いていたノートを見ると、当時の時代の先端を先取りしていた気もある。結婚した相手が大蔵省の官僚であった。普通その辺で夫の反対 とか、妨害とかありそうなものだが、夫は妻の才能と力を深く認めていた。その度量の広さとか、才覚の深さとか、当時の男としては珍しかったに違いない。ある意味汀女を延ばしたのは一つには夫の存在があったのではと思えてならないのだ。それともう一つ、汀女の夫重喜が横浜税関長の時代、横浜の新しい風を汀女なりに吸収したことはとても大きい。こういうユニークな人を身近に見ながら何も知らなかったことが悔やまれる。チョコレートは当時ハイカラの先端だった。そして汀女はいつも先を見ている人だった。

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渾斎随筆 №10 [文芸美術の森]

 歌材の佛像 1

                   歌人  会津八一

 私はこれまで、割合にたくさん古い時代の佛像を歌に詠んで来た。その中でも、飛鳥、奈良、平安あたりが一番多く、時にはずつと下って、室町、江戸にまでも及んでゐる。まづ飛鳥時代としては
        法隆寺百済観音
 ほほゑみ て うつつごころ に ありたたす くだらぼとけ に
 しく もの ぞ なき
        同夢殿救世観音
 あめつち に われひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を
 きみ は ほほゑむ
奈良時代では
         東大寺盧舎那仏
  おほらか に もろて の ゆぴ を ひらかせ て おはき はとけ
  は あまたらし たり
                     聖林寺十一面観音
  さくはな の とは に にほへる みほとけ を まもり て ひと
  の おいに けらし も
          新薬師寺十二神将
  たぴぴと に ひらく みだう の しとみ より 迷企羅(めきら)が たち
  に あさひ さし たり
と、いろいろあって、そして平安時代の初期に入ると
          観心寺如意輪観音
  さきだち て 僧が ささぐる ともしび に くしき はとけ の
  まゆ あらは なり
  なまめき て ひざ に たてたる しろたへ の ほとけ の ひぢ
  は うつつ とも なし
          室生寺如意輪観音
  みほとけ の ひぢ まろら なる やははだ の あせむす まで
  に しげる やま かな
          法華寺十一面観音
  ふぢはら の おはき きさき を うつしみ に あひみる ごとく
  あかき くちびる
などがある。
 すると、批評家の中には、この最後の四首あたりを拾ひ出して、そもそもこれが会津のエロだと云ふものがある。これを云ひ出したのは、私の義弟の櫻井天壇で、かなり古い話であるのに、今でもこれを引きあひにして、遙に呼應せんとする人がある。なるほどエロといへばエロでもあらう。しかし、これを私だけのエロにして、簡単に片づけるといふわけにも行かぬ。
 奈良には、もと竹尾ちよといふ人があった。あちらでは誰知らぬものも無いほどに有名な歌人で、『うたかた』『大和路巡禮の歌』などの歌集もあり、地もとに出来た繒葉書に、この人の歌を刷ったものが、いろいろあったりして、東京にも相當に知られたものである。この人は、後に大阪へ移って、今も健在な松山夫人であるが、この人が、ある時、私の奈良の宿へ訪ねられて、一と晩、歌の話をしたことがある。
 その時、竹尾さん問うて日く、私の歌は、何庭の何寺の佛さまも、同じやうに詠んでゐますけれども、それにくらべて、あなたの御歌の佛さまは一體づつ気持を捉えて、別々に詠んでありますが、伺うした加減で、あんな風に御出来になるのでせうかと。私の聞き違ひかも知らぬが、この時竹尾さんは、いくらか羨ましいことででもあるようにかう云っていら。私はこれに加へて、私もかねてから、此の開きを感じてゐましたが、これは、つまり、御互の性分のちがひ、流儀のちがひから来るので、しかたの無いことでせう。あなたは、いつも人間として、ことに女としての感傷で、佛にすがってお詠みになってゐるから、像としての様式とか技法とかいふことに、こだはりの無い御歌が出来るのでせう。佛教の目から見たら、その方が、ずつと神妙な詠み方なのでせう。私の方では、そこのところが、あなたのやうにまつ直ぐに、ひたぶるには行かない。その上、私は美術の方で、いくらかの心遣ひを持ってゐるので、同じく佛像といふ中でも、しらずしらず、その間に差別をつける。そして同じ御釋迦さんでも、観音さんでも、歌になれば、つい一體づつ詠みわけてゐるやうなことになる。佛さんの方から見たら、これは決して良い態度では無いのでせう。

『会津八一全集』 中央公論社


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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №56 [文芸美術の森]

ユーモアのペレストロイカ 6

            早稲田大学名誉教授  川崎 浹 

 行列が一、二年でなくなる理由

 だがアネクドートは質の低下を見ることにはならなかった。つまり多幸症症候群が消えて、社会がふたたびよからぬ不吉な兆しを見せはじめたからだ。なかには予言的な役割をはたすアネクドートが姿をあらわした。

 ソ連共産党機関紙プラウダが世論調査を行い、行列をしている市民に「行列はいつなくなると思うか」と質問した。すると回答の大方が「行列は一、二年でなくなる」という楽観的なものだった。
 驚いた調査員がその理由を尋ねると、つぎの答が返ってきた。
 「売りにだす商品がないのだから、行列もなくなる」

 私は一九八八年秋からしばしばソ連にかよい、市民の生活をこの目で確かめてきたので、アネクドートの予測どおりになったとだけいっておこう(拙著『カタストロイカへの旅』、岩波書店、一九九三年)。

一〇分間の自由

 八九年にはゴルバチョフはま民族紛争の勃発や経済状勢悪化の責任を問われ、「書記長をやめてもいい」と発言し、九〇年二月のリトアニアとラトビアの独立宣言騒ぎでは、ソ連内務省軍が鎮圧に乗りだした。ゴルバチョフはバルト沿岸諸国の首脳や市民と対話し、「事を急がないように」これ説得に努めてきた。日本の著名な評論家もゴルバチョフに同調していた。それでも……。

 エストニアが一カ月の自由をもとめた。ゴルバチョフは閣僚たちと相談して、拒絶することにした。
 それでエストニア人はしばらく考えてから一日だけの自由をもとめることに決めた。
 ふたたび拒絶された。
 エストニア人は一〇分間の自由をもとめた。ゴルバチョフはこう考えた。「彼ら一〇分間でなにができよう?」というわけで、許可した。一〇分後にゴルバチョフが尋ねた。
 「エストニアではなにが生じているかね?」
 「ミパイル・セルゲビチ、最初の五分間でエストニアはフィンランドに宣戦布告しました。それから五分後に降伏して、捕虜になりました」

 エストニアはソ連領に一九四〇年に強制編入されたが、ソ連の北部に隣接したフィンランドとは、フィンランド湾をはさんで向き合っている。ソ連に従属しているようでしていない「フィンランド化」という言葉がかつてあったが、フィンランドはソ連との間で微妙なバランスの上に立ってきた独立国である。かつてはソ連軍と熾烈な戦闘を交わし、地の利もあって防衛に成功し、ソ連は侵攻をあきらめた。
 エストニアがソ連からの独立をもとめるあまり、一計を案じてそのフィンランドに宣戦布告し、軍門に下って、ソ連との関係を断ち切ったという奇想天外なミステリー・アネクドートである。


『ロシアのユーモア』 講談社選書



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石井鶴三の世界 №118 [文芸美術の森]

松江大橋1950年/上野東照宮・雨の日・花満開1950年

               画家・彫刻家  石井鶴三

1950.松江大橋.jpg
松江大橋 1950年 (128×180)
1950上野東照宮・雨の日.jpg
上野東照宮・雨の日・花満開 1950年 (139×197)

**************
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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はけの森美術館Ⅲ №52 [文芸美術の森]

野祭

                           画家  中村研一

野菜.jpg
墨 水彩 14cm×20cm


************                                          【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面 

 


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往きは良い良い、帰りは……物語 №59 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語
その59  TCCクラブハウスに於ける第5回
  「青嵐(あおあらし)」「新茶(しんちゃ)」
       「竹落葉(たけおちば)」「葱坊主(ねぎぼうず)」

                  コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

◆◆平成30年4月18日◆◆
句会の案内状が届きました。次のとおりです。

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      皐月こふみ会 御案内
  五月十三日 第二日曜ですよ 十三時より於TCC
  兼題=「青嵐」と「新茶」
 会費  千五百円   おいしい昼食付
 千円で景品 お願いです
 出欠は矢太へメールで!
 Yoshihiro Iwanaga     the writer in chief
  ROXCOMPANY
  info@raxcompany.jp
  http://roxcompany.jp
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これを受けて軒外氏はメールのほかに、レターも描いてくれました。

59-7.jpg
新茶です。いい香りがいたします。

◆◆そして当日(5月13日)◆◆
嬉しいことです。 茘子さんの紹介で、河村ゆう子さん、俳号・雲去来(うんきょらい)さんが初体験として参加されました。この俳号は、河村さんが某先生の展覧会を観に行ったとき、ひときわ、心うたれた作品に付いていた「画題」だったのだそうです。想い出のこもった命名由来なのですね。
新しい人を迎えたこともあって、このブログの果たすべき役目についても皆さんで話が交わされました。メンバーだけでなく、多くの人にこのブログを読んでもらう必要がある。どうしたら見られるのか? それを、初めての人に、口頭などで、ささっとお伝えするにはどう言えば良いのか?
そこで一遅氏に書いてもらったのが、次の一文です。有難うございました。

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①知の木々舎(ちのきぎしゃ)で検索→②最新号の目次を見る→③目次の中の、往きは良い良い、帰りは……物語№58のアドレスを開く。これでOK! どなたにもブログがご覧いただけます。
★知の木々舎はSo-Netをプロバイダーにしているので、①の前にSo-Netのホームページからはいるとわかりやすいです。(知の木々舎事務局)
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こうしてブログの存在をPRすることは、こふみ会の会員募集のためとは限らず、通常的に行う「広報活動」のひとつとも言えますよね。お力添えのほどを。

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◆◆さあて、会場には、兼題と席題が張り出されました。◆◆
上の写真、右から『青嵐』『新茶』『竹落葉』『葱坊主』です。お分かりですか、この4題。今回の当番幹事さんの、ひねりの遊び心です。そうです、みんな「植物」に関係アリです。からんでいます。
句会の詠題は普通、衣・食・住と情の4つのカテゴリーの中から、ひとつずつ選んで出すのが良い、そうすれば片寄りが無いから、と言われるのですが、そこを逆手に取って植物ばかり。「しばり」ほどきつくはありませんが、この「オール植物」も仲々のものです。矢太氏らしいなあ。この出題、面白い。
なお、出題のための季語分類では『気候』『生活(行事・文化)』『植物』『動物』というのもありますね。

ご馳走は?
名物、柴又の高木屋の「草団子」。で~んと存在感がありました。深い緑の色もいい。弁当は渋谷の東急東横のれん街の御膳鮨所「関山」製。幹事からの案内状にもあったとおりです。おいしい昼食。写真をご覧くださいな。

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◆◆例によって食べながら、呑みながら◆◆
軽い気持ちで悩みます。皆さん、眉間(みけん)に八の字のシワを寄せたり、アタマを掻きむしったりするわけでは決して無く、「竹落葉(タケオチバ)ってどんなもの? どんなこと?? どんな状態???」呑んだり食べたりしながらです。
しかも、よく分からないまま、いい加減なところで句を作り、提出してしまって……。あとで、じっくり調べたら、ホント? そうだったのか。ふ~ん。
『日本大歳時記(講談社)』では初夏の季語として、先ず、次ぎのように「竹落葉」の説明を始めています。つまり……

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *  
竹、笹などの類は、夏、新葉を生ずると、古い葉を落とす。草木の春、秋と反対に、竹にとっての春は秋であり、竹にとっての秋が春なのである。三、四月ごろ、竹は葉が黄ばんで、他の植物の秋の有様に似て来る。(以下、省略.)
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *  

ということです。上記歳時記の説明は、まだまだ続くのですが……。
今回、ここでは、これ以上は書かぬことに致しましょう。『竹の皮(かわ))脱ぐ』という季語もあって、筍(たけのこ)が関係して来ると、解釈が非常に複雑化して、私の講釈も長々しいものに陥(おちい)ってしまう可能性が高いからです。そうですね、後日、また改めて……ということに致しましょう。皆さんは、どんなふうにお調べですか?

◆◆いよいよ、本日の成績発表で~す。◆◆
★本日のトータルの天は~48点の孝多(おかげさま。)パチパチパチッ。
代表句=新茶届く 元気で暮らせと 書いてある

★トータルの地は~33点の矢太氏。パチパチパチッと拍手。
代表句=幾億の いのちの上に 竹落葉

★トータルの人は~31点の虚視氏。パチパチパチッと拍手。
代表句=千の蛇 原野に放(はな)ち 青嵐

★トータルの次点は~23点の一遅氏。パチパチパチッと拍手。
代表句=新茶摘む 夫婦も若く 富士の峯

パチパチパチッ。皆さん、おめでとうございました。上位3人揃って写真撮影。はい、カシャリッと、今のカメラは音はしませんが。(カメラマン=軒外氏))

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左から人の虚視、地の矢太、天の孝多(敬称略)

◆しかし、しかし、とんでもない失礼を孝多は致してしまいました。短冊を3枚持たなければいけなかったのに、何をあわてていたのか、2枚です。あとの1枚は弥生さんから頂いた『落ち着いて お聞きよ竹の葉 落ちる音』。せっかく拝受したのに、座っていた席の横に辞書などと一緒に置いたままだったのです。ご免なさい、弥生さん。失礼・不謹慎を心からお詫び申しあげます。

◆天位の人に各自が景品と共に謹呈するのが当会慣例の「絵付短冊」。今回は下記の写真のとおりです。ここでは孝多が頂戴した3作(3枚)がきちんと揃っています。

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◆しかし、また、しかし。短冊には「落ち付いて お聞きよ……」となっています。ダメ、ダメ。私が投句用紙に書いたときから誤字だったにちがいありません。勿論「落ち着いて」が正字。これまた、私、孝多のエラー。「あ~あ」申し訳ない限りです。

◆しかし、またまた、しかし。久しぶりにトータルの天。これは嬉しくて、ほくほく。大雨の中、ピチャピチャほくほく。頂いて持ち帰る景品が少し重くて、傘を持ったり、濡れないように袋をさげたり、酔ってもいないのに少しよろよろ。地下鉄、千代田線の駅の構内まで、美留さんが心配そうに付き添ってくれました。有難うございました。おかげさまで、何事も無く、帰宅出来ました。

◆ではまた、皆さん、どうぞ、お元気に。次回を楽しみにに致して居ります。草々。(孝多)

と、書いているところに、素晴らしいものが届きました。

我らが同人、水野タケシ氏の新著『シルバー川柳入門』河出書房新社の「謹呈」です。「出来あがったら、すぐにお贈りします」と言われては居たのですが、こんなに早くとは! 嬉しい、めでたい、おめでとう!
さあて、早速、出版パーティーだあ.。やろう、やろう。盛大にやろう。旗を振りますよ。
タケシ氏の、この前の著作は『これから始める俳句・川柳 いちばんやさしい入門書』池田書店。神野紗希さんとの共著でした。これも良書だったけど、今度のも痛快な語りくち。ヒットするんじゃないかなあ。いいぞ、いいぞ、タケシ~♪。

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第581回 こふみ会・本日の全句
  平成30年5月13日     於 TCCクラブハウス(第5回)

◆兼題=青嵐(あおあらし)    順不同
青嵐 タッチ&ゴーする 群れ雀                              珍椿
吹いて吹いて 海へ落ち込む 青嵐                               孝多
椎(シイ)檪(クヌギ) 楠(クスノキ)小楢(コナラ) あお嵐    鬼禿
青嵐 少年少女 恋を知る                                           美留
もつれ合う 千切れ飛ぶかや 青嵐                             華松
丘こえて 囃子太鼓か 青嵐                                        茘子
青嵐 暗証番号が わからない                                     矢太
ひたと見る 少年の目や 青嵐                                     弥生
息深く 首かけ銀杏の 青嵐                                        紅螺
千の蛇 原野に放(はな)ち 青嵐                                虚視
こいのぼり 雨よ降るまい 青嵐                        雲去来(うんきょらい)
天空に 青嵐(せいらん)吠えて 東京ナウ                    一遅
あの転校生 青嵐連れて やって来た                             軒外
青嵐 別れ話も 切り出せず                                        舞蹴

 ◆兼題=新茶(しんちゃ)     順不同
幼き手 膝に置き待つ 新茶かな                                   紅螺
来訪の 茶畑で飲む 新茶かな                                      珍椿
知覧新茶 飲めば思ほゆ 学徒兵                                   弥生
新茶届く 元気で暮らせと 書いてある                           孝多
掌の中に 弥勒御座する 新茶の香                                 茘子
新茶色 袖にうつして 初見合い                                   華松
かたくなな 窓を開いて 新茶のむ                                 矢太
未(いま)だ修羅(しゅら) 飼い馴らせずや 新茶呑む           虚視
新茶摘む 夫婦も若く 富士の峯                                     一遅
遠距離の 夫(つま)を訪ひ 新茶汲む                                       美留
捨てし夢 ひとつにあらず 新茶くむ                                          舞蹴
高く遠く 新茶の里に 帰りし君                            雲去来(うんきょらい)
新茶飲み 何言うでなく 腰を上げ                                             軒外
小ぬか雨 新茶香るや 門跡寺                                                  鬼禿

◆席題=竹落葉(たけおちば)   順不同
幾億の いのちの上に 竹落葉                                        矢太
笹の舞ふ ルルルルルルル 竹落葉                                  鬼禿
竹落葉 足踏み入れて 天あおぐ                                     珍椿
竹落葉 名の知らぬ鳥 ひとつ鳴き                               一遅
庭先で 根くらべし 竹落葉                                雲去来(うんきょらい)
竹落葉 踏んでるだけで 笑顔かな                                     舞蹴
カサカサと まつわりつくの 竹落葉                                           華松
落ち着いて お聞きよ竹の葉 落ちる音                                        孝多
竹落葉 踏む路の先は 縁切寺                                                    軒外
竹落葉 黄昏のビギン 口ずさみ                                                  紅螺
竹落葉 気付かぬうちの 恋心(こいごころ)                                茘子
戒名に 善と優の字 竹落葉                                                      美留
竹落葉 ほの暗き沼 騒がせて                                                    虚視
婆沙羅越え 下田街道 竹落葉                                                  弥生

◆席題=葱坊主(ねぎぼうず)     順不同
葱坊主 白寿の叔母の 咳ばらい                                       紅螺
葱坊主 おとぎばなしの ピンクッション                            茘子
だんご虫と 遊ぶ幼なや 葱坊主                                       弥生
空より高いのは 心だと歌う 葱坊主                                  軒外
葱坊主 何故か他人に 思われず                                       舞蹴
葱として 最後の矜持(きょうじ) 葱坊主                         美留
葱坊主 アンポ反対 バリケード                                       鬼禿
みぎひだり 心配無用 ねぎ坊主                            雲去来(うんきょらい)
葱坊主 朝日に向い 整列す                                           虚視
葱坊主 五つ数えて 「もういいかい」                             孝多
葱坊主 スタイル・センス 超オシャレ                                 華松
葱坊主 雁首並べて にらんでる                                       珍椿
駅のどか ランドセルひとつ 葱坊主                                  一遅
葱坊主 写真の傾き 正しけり                                          矢太

                                       以上14名(56句)

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フェアリー・妖精幻想 №85 [文芸美術の森]

童話世界に描かれた妖精界 3

              妖精美術館館長  井村君江

『炉端のこおろぎ』とマックリース

 ドイルの妖精の本が世に出た時、批評家たちはクリスマス時期になると広く読まれるディケンズのクリスマスの本と並べて記事を書いたが、クリスマスシリーズの本として競争に耐えうるものと折紙をつけている。この時代、ディケンズの物語は大人から子供まで広い層に読まれており、『クリスマス・キャロル』(一八四三)、『炉端のこおろぎ』(一八四五)などは「永遠のクリスマス文学」と呼ばれていた。
 ディケンズの『炉端のこおろぎ』は「家庭のフェァリー・テール」と副題にあるように、炉端に鳴くこおろぎの声が苦しむ人々の心をやわらげ、妻の誠実さを疑っている夫の心を慰めたりするという物語である。炉端に鳴くこおろぎを中心にヴィクトリア朝時代の人間の生活と心を描き分けた作品である。
 当時有名な挿絵画家やアカデミーのメンバーでもある画家たち五人の絵を、ダルジェル兄弟やスウェインたちが版画に彫って精妙な画面に仕上がっている。時計が十二時を打ち、フェアリーが出没する時間がくると、ツリガネ草の帽子をかぶった裸のエルフや、蝶の麹をつけたエプロンにほうきを持ち、髪飾りをつけたメイドスタイルの家事好き妖精が、時計の振子のブランコに乗って戯れたり、掃除を始めたりする。こうした光景が、マックリースのしっかりしたデッサンで、しかも軽妙でコミカルな筆致で描き出されている。
 扉につけられた挿絵も、まさにこの物語の主題を良く理解しての場面構成がなされている。やかんが沸騰する暖炉の前で、夫婦がゆりかごの赤ん坊に妖精が戯れているのも知らずに、互いにもの思いに耽っている。その情景が、動画のように上部の空間にいくつかのコマに分けて描かれている。炉端の中央にいるこおろぎの背の上に裸の妖精の代母が乗っており、魔法の杖をかかげて次の物語の展開を準備している。滑稽に陥る一歩手前で救われているのは、マックリースの端正で手がたい筆致の故であろう。

『フェアリー』新書館

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にんじんの午睡(ひるね) №33 [文芸美術の森]

食いしん坊 Ⅱ
               エッセイスト  中村一枝

 息子夫婦が、連休明けに、三泊ほど伊豆高原に行ってくると言う。お嫁さんはヨガのインストラクターを何年も前からやっていて、いつも忙しく働いている。恐らく久しぶりの休暇である。
 「そりゃあいいわ。多分道もすいているだろうし、せいぜい美味しいものを食べてゆっくりやすんでらっしゃい」
と、私は言った。頃は新緑の真っ只中、伊豆高原あたりで美味しい食材を食べ放題なんて想像するだけで口の中につばが溜まってくる。
 「あのね」、お嫁さんのTちゃんが笑いながら言った。「わたしたち、食べに行くんじゃなくて、断食しに行くんです。」
 「へえ、断食? 三日間も」
 もともとこの二人はヒンズー教の教えに共鳴し、ふだんでも肉食はしない。食事にも気を付けている。それにしても、食べる事しか頭にないわたしはその主張には共鳴できても我慢できないだろうと思うと、ちょっと恥ずかしかった。
 前にも書いたが、わたしの食いしん坊は多分父親ゆずりである。父の食いしん坊は贅沢というのとはちょっと違った。古い長火鉢で時間をかけて海老煎餅を焼いたり、今はする人もいないが、俸禄(ほうろく)という金物の網みたいなもので豆を煎ったり、大好きな蒲鉾を大事にして少し切ってはくれたりもする。変な食いしん坊たった。
 ところでわたしの愛犬はビーグルという犬種だが、これがまたひとかたならぬ、食いしん坊なのだ。ビーグルという犬種は犬の中でも食いしん坊に違いないが、そのなかでもわが家のモモの食いけはかなりのものだと以前から気にしていた。最近、わたしの足が不自由になり、運動をさせるのがむずかしくなって、今は週三回人を頼んでいる。かの女にもストレスか溜まっているのはわかっていたのだが、ある時冷凍庫をあけることをおぼえたのだ。
 冷凍庫にはモモの食料であるささ身が山ほど入っている。犬の感でモモは察したのに違いない。それからのモモの攻防はすごかった。あの硬い、きっちりした扉を開けたのである。犬だってやったあと思ったにちがいない。たださいわいというか、モモにとっては不運というか、凍っているからそう簡単に食いつけない。それで被害も最小限度に済んでいるのだが、一度味わった蜜の味は忘れられないとみえる。私とモモの攻防戦はそれから既に一週間。それにしてもこの食べものへの執着心、飼い主からの遺伝じゃないかなと、実は密かにニヤリとしている。




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渾斎随筆 №9 [文芸美術の森]

 衣掛柳

                   歌人  会津八一

 わぎもこ が きぬかけやなぎ みまく ほり いけ を めぐり ぬ
 かさ さし ながら               

 奈良猿澤の池の岸に、采女社(うねめやしろ)といふ小さい祠があり、そのわきに、衣掛柳(きぬかけやなぎ)があって、それについて、いにしへの奈良の都の、一人の宮人の悲しい物語がある。私が初めて奈良へ行ったのは、明治四十一年の夏で、この歌は、その時のものの一つである。私はまだ二十八歳の青年で、宿は東大寺の轉害門(てがいもん)に近い對山楼といふのであった。その頃の私は、歴史も美術も、奈良のことはまるで無知であったから、宿へ着くとすぐ、二階の廊下で店を出してゐた名物屋の女から、一冊十銭かそこらの、通俗な名勝案内を買って、それをたよりに、見物を始めたのであった。そして雨の降る中を、宿の浴衣に、傘も宿の番傘で、何はあれ、先づ猿澤の池へ行って、第一にたづねたものは、此の柳であつた。
 其頃の私は、郷里の或る中等學校の教師であった。奈良から国へ帰って、よく調べて見ると、『大和物語』には、こんな風に書いてあった。 

 むかしならの御門につかうまつる采女ありけり。貌(かほ)かたち甚(いみ)じうきよらにて、人々よばひ、殿上人なども、よばひけれど、あはざりけり。そのあはぬこころは、みかどを、かぎりなくめでたき者になん、おもひ奉りける。みかどめしてけり。さてのち、又もめきぎりければ、限なく心憂しと思ひけり。夜晝心にかかりて覚え給ひつつ、恋しく侘しく、覚へ給ひけり。帝召ししかど、事とも思さず、さすがに常には見えつつも、猶ほ世に経まじき心地しければ、よるひそかにいでて、猿澤の池に身をなげてけり。かくなげつとも、御門はえしろしめきざりけるを、ことのついでありて、人のそうしければ、聞こしめしてけり。いとうあはれがり給ひて、池のほとりにおほんみゆきし給ひて、人々にうたよませ給ふ。柿木の人暦
 わぎもこ が ねくたれがみ を さるさは の 池の 玉藻 と
 見る ぞ かなしき
とよめるときに、みかど
 猿澤 の 池 も つれなし わざもこ が 玉藻 かづかば 水ぞ
 ひなまし
とよみ給うける。さて比の池に墓せさせ給うてなん、かへらしおはしましけるとなむ。

 まことにあはれにも、やさしい話である。しかし気がついてみると都が奈良へ移ったのは元明天皇の御代であり、つづいて元正天皇とともに、この二代は女帝であらせられたから、その次の聖武天皇こそ、この「奈良の御門」かと思はれるのに、御唱和の御あひてをしたといふ柿本人麻呂は、和銅一二年には、すでに亡き人であった。しかし池が猿澤であってみれば、まだ藤原の京に都されてゐた文武天皇の後宮の事とも考へられない。それからまた、この『大和物語』の中には、まだ柳のことが無いところを見ると、柳はあとから附け加へたものかと思はれる。それにしても、身投げをするほどのものが、着物を脱いで、岸の柳に掛けてからにするといふことも、あまり至り過ぎてゐる。つまり此の話には、あからさまに、いくつかの無理があって、あとあとから、だんだんと出来上って行ったものとおもはれる。そして、あの祠も柳も、今在るものは、あまり思はせぶりな姿では無い。それにも係らず、私は今でも、あの池の近くを通る時、いつも新しい興味で此の話を思ひ出す。人物や時代の上に、如何ほどの無理があっても、代々の人の心に宿り、口に傳へられて来たものだけに、その奥底には、深く人間の本性に本づくものがあって、そこに感觸するのであらう。今では、考證めいたことが好きになって居る私が、この話に含まれるこれほど明かな難点に、気がつかぬわけも無いし、それだけにまた、此の年になって、まだこんな話に感じを持つ私を、怪しむ人もあるであらうが、詩歌は決して證明された知識ばかりを詠まねはならぬものでもないから、私はやはり、此の歌の作者を恥としない。太陽が決して動くのでなく動くのは地球だと、いくら教へられてゐても、いざ夕碁の實景に臨めば、人はやはり日が西山に沈むといふ。そして誰もそれを咎めない。皆が人間であるからであらう。
 だから、私の詠んで来た歌には、歴史上のことでありながら、歴史學の目から許しかねるやうな、いはゞはした無い傳説を主材にしたものが少くない。其の中の尤なるものは、法華寺の十一面観音の
  ふぢはら の おはききさき を うつしみ に あひみる ごとく
  あかき くちびる
や、同じく「法華寺温室懐古」と題した
  からふろ の ゆげ たちまよふ ゆか の うへ に うみ に
  あきたる あかき くちびる
  からふろ の ゆげ の おぼろ に ししむら を ひと に
  すはせし ほとけ あやし も
などであらう。
 そもそも聖武天皇の皇后は、藤原氏の御出身で、御名は、正しくは天平仁正皇后と申すべきのを、その絶世の才貌のために、世は光明皇后と稱へ、名辞は海外にまでも聞えた。たまたま北印度乾駄羅国王は、希くは肉身の観世音を見奉るを得んと発願して、朝夕に祈念してゐると、ある夜の夢に、菩薩大悲の眞容に接せんと思はば、まさに東海日本国の皇后光明子をこそ拝すぺけれといふ感應があった。国王は思慕のあまり問答師といへる一人の彫工を此の国に遣はした。問答師は久しく法華寺の池畔に潜んで、一日ひそかに行啓を窺ひ、蓮の華葉とともに水底に映じた皇后の玉姿を寫生して、霊像三體を作り、一體はその木組に持ち去り、二體をこの国に留め、今のこの寺の十一面観音は、その一體だといふ。私は少年の頃、この物語を聞いてから、今にいたるまで、絵のやうに鮮かに、その光景を心に刻みつけてゐる。しかし、この話なども、考へてみれば、第一に、ずっと古い所に記録がないし、天平の頃には、もはや北印度には、乾駄羅といふ国が、まだあったにしても、もう美術はあまり盛であったとは思はれないし、その国の人の名を問答師といふのも受取れない。のみならず、此の像の作風から、近頃の手堅い研究家たちは、やはり日本のものとしても、一時代引き下げて、平安初期の密教彫刻の中に、其の位置を定めようとしてゐる。それであるのに、少年時代の興味を其ままに歌った此の歌を、私は今も尚ほ、自分で愛誦する。實際あの暗い御堂の内陣で、尼さんの點けてくれる細い蝋燭の光で、仰ぎ見ると、壇の上の厨子の中の、あの黒い眉と、大きく長く切れた白い目と、鮮かに赤い厨から、たちまち吾々に襲ひかかるあの強い感覚をなにとしたものであらう。おそらく、中世以後のいにしへ人も、この同じ感じの烈しさに戦(おのの)いて、まるで話の中の乾駄羅の国王のやうに、この観音の色身によって、光明皇后を偲び上げようとして、かうした話が作り上げられたのであらう。
 同じ法華寺に、今は一宇の蒸風呂の浴室があって、寺では之を、「からふろ」と名づけ、光明皇后施浴の遺構といってゐる。傳説によると、或る日皇后は、殿中、人無き庭で、澣濯(かんたく)の功徳を宜べる空中の聾を聞かれ、大願を立てて温室を建てさせ、親ら千人の衆生の為めに垢を流さんとさされた。その九百九十九人を見て、最後の一人は、全身瘡痂に被はれ、臭気は室に満ちた。しかも尚ほ皇后は、その哀請を許して、かしこくも玉唇を觸れて、ことごとく五體の膿血を吸うて、之を吐き出したまへる後、ひそかにその人に向つて、「ゆめ、此を人にな語りそ」と宣らせられた。すると、その病人の五體は、一時に大光明を放ち、「后こそ阿閦佛(あしゅくぶつ)の垢を去りたまひつれ。また人に語り賜ふことなかれ。」の一語とともに、光耀馥郁のうちに忽然として行くところを知らなかったといふ。
 しかし『元亨釋書』によれば、この時、皇后は驚喜無量にして、其地に就いて伽藍を構へ、阿閦寺と號すとあるから、そもそもこれは、法華寺中のことで無かったかもしれぬ。それにも係らず、たぶん私は、あの十一面観音の赤い厨から、ひたむきに、この傅説に聯想したものと見えて、やはりやすやすと寺侍にしたがって、かうした歌にしてしまった。また之を何寺のことにしたところで、今の世の中で、たやすく信じられさうな話ではないが、しかし、この話の中には、誰にしても、一度聞いてから、いつまでも身に沁みて應へるところがあるのであらう。もしそれがあるとすると、あらはには信じられぬとしておきながら、やはり、ひそかに信じてゐるのであらう。
                      (昭和十六年十二月四日稿)


『会津八一全集』




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石井鶴三の世界 №117 [文芸美術の森]

松江にて1950年/みつこいどり1950年

               画家・彫刻家  石井鶴三

1950年松江にて.jpg
松江にて 1950年 (128×181)
1950年みつこいどり.jpg
みつこいとり 1950年 (143×195)

**************
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社





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はけの森美術館Ⅲ №51 [文芸美術の森]

天女児

                    画家  中村研一

天女児.jpg
ペン 13cm×19cm

************                                          【中村研一画伯略歴】
鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面 

 


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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №55 [文芸美術の森]

ユーモアのペレストロイカ 5

            早稲田大学名誉教授  川崎 浹

間の芸術

 政治アネクドートが隆盛するためには複数の条件を満たさなければならない。批判に価する体制なり権力者がいて、抑圧下で制作者も緊張しながら、暗示や隠喩や象徴の記号を使いながら、辛辣なとどめや、笑いを注入する。象徴の技法の名手である日本人は芸術空間や時間のなかに巧みに間をもちこみ、これを活かしている。アネクドートの語り手が一行から一行へ、一句から一旬へと微妙な綱渡りを演じるのは、間を尊重するからで、アネクドートも一種の間の芸術である。沈黙のコソマともいうべき間の連鎖の背景には「無」がある。
 詩人パステルナークが森のなかで、沈黙は最高の音楽だといったように、沈黙は象徴芸術のもっとも深い基礎である。政治アネクドートが他のいわゆるジョークや酒落からぬきんでているのは、背景に深い沈黙を擁していたからである。そのとき沈黙は最大の表現となる。あるいは最大の表現をうみだす母胎となる。
 げんにそれを証明した二〇世紀ソ連の亡命作家がいた。七四年にパリで「コソチネソト」誌を創設したマクシーモフは、『犀(さい)の神話』というエッセイでつぎのようにいっている。

 ソ連を去ってから四年をへた。出国してから失ったものは得たものよりはるかに大きい。国に郷愁を感じているのではない。だったらエトアールの売店で「プラウダ」紙を買って読めばすむことだ。それは、私の人生と相互に編みあわされている人びと、私の人間的、文学的うわさがつくられる言語世界、暗い悪の力と対決する人間がもつことのできる真実についての誇らしい気持ち、そうしたものの喪失である。(中略)
 あれはお互いが理解しあう魅惑的な島だった。みながちょっとした言葉や、ちょっとした目配せや、ちょっとした仄めかしでわかりあうことができた。ときには私たちは電話口でただ黙っていたが(おお、これこそ祖国の電話だった)、この沈黙が私たちにはもっとも熱い言葉や説明よりもはるかに雄弁だった。

「緊張と沈黙」はつまるところ個人の問題だが、とはいえ一定の社会的条件下で成立しゃすいことを、マクシーモフはみごとにいいあてている。
 この緊張と沈黙がいっきょに解消されたかのような、多幸症的な時期がゴルバチョフの就任初期にあった。ペレストロイカと同時に情報公開という言葉がゴルバチョフの口から放たれ、それらは直もに世界をかけまわった。緊張と沈黙の精神がいっきょに後退し、これが私のような外国のお節介焼きたちに、同時に芸術作品や政治アネクドートを衰退に向かわ言のではないかと取り越し苦労をさせた。

お祝いのキス

 実際、毒にも薬にもならぬアネクドートが顔をあらわした。ある講義でいちばん面白くないアネクドートの例として、つぎの作品を紹介したら、みんながどっと笑ってくれた。なかなか思いやりのある学生たちだ。

 ゴルバチョフが街を歩いてクレムリンに登庁した。みなが出迎えると、彼のほっべたがうっすらと赤く腫れていた。驚いて尋ねると、ゴルバチョフは答えた。
 「途中で出会った人たちが、みんなしてお祝いのキスを浴びせてくれたのでね」

 多幸症を絵に描いたようなアネクドートだが、読者は笑えるだろうか。さらにゴルバチョフ夫婦の多幸症アネクドート群が発生したが、ロシアの政界では夫人同伴は型破りだったし、夫人の個性も強かったので、だんだん嫌味な皮肉のつよいアネクドートが増えてきた。いちばん通俗的で、有名なのはこれだ。

 ある夜、ライサ夫人がベッドのなかで、横のゴルバチョフ書記長に尋ねた。
「あなた、書記長夫人と寝るって、どんな気分?」

 これは日本でなら倹約家の夫が家計のやりくりのへたな妻に、こういうときと同じ構造だ。「ぼくは山内一豊の妻の夫だよ」。ただし、日頃へそくりを貯めていた「山内一畳の妻」が主人公で、いざというときの蓄えを夫に差しだし、夫をして名馬を買わせ主君への忠勤をはたさせることができたという美談を、読者が私と共有することを前提にしての話だが。

『ロシアのユーモア』 講談社選書


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フェアリー・妖精幻想 №84 [文芸美術の森]

童話作品に描かれた妖精界 2

               妖精美術館館長  井村君江

リチャードドイルの妖精画 2

 挿絵画家として多くの物語につけたリチャードの挿絵は、いずれもその作品をよく語っており、しかも彼独自の世界をそこに現出させているすぐれたものが多い。
 彼の死後、アンソニー・モンタルバが訳した二十九のフェアリー・テールズに三十葉のリチャードの挿絵を入れた『ドイル・フェアリー.ブック』(一八九〇)が記念挿画集として出版された。そこに付された序文には、ドイルが素晴しい技術とイギリスのユーモアと品格のある性格を持ち、その上アイルランドの想像力をも持った魅力ある人物であったことが書かれている。
 リチャードのこうした特色が集約され、最もよく表現されている妖精画の傑作は『妖精の国で』(一八六九)である。
 リチャードは、民間伝承に現れる妖精たちを、昔からの言い伝えに即した姿や服装で描き、愛する妖精たちを思いのままに描いて「フェアリー・アルバム」を一冊作り上げようと思い立ち、それに『フェアリーランド ー フェアリー、エルフ、ゴブリン、ドワーフ、スプライトの国の絵』とひそかに題をつけていた。まず十六点の水彩画と装画を描き(三十四の素描はあとでつけられた)、版画家のエドモンド・エヴァンズに依頼してこの時代で最も大きい木版(フォリオ版)に仕立ててもらった。しかしこの作品がロングマン社から『妖精の国で』として出るまでには、五年の歳月を要したのである。
 ドイルは絵に「エルフ王の凱旋行進」といった題をつけ、その下に物語性のある長いキャプションをたくさんつけている。
 まるで妖精の国の住民が一堂に会したかのような場面である。長いひげをお小姓たちにもたせたエルフ王を中心に、妖精たちが勝利の喜びに踊ったり、カタツムリやリス、小鳥、蝶と戯れ、野原で自由に飛びまわっている。説明によれば「ゴブリン一族、トロール(北欧)、コボルト、ニクシー(ドイツ)、ピタシー(コーンウォール)、ウッドスピリット(木の精)」となっているが、実に国も地方も混同したようなさまざまな種類の妖精が、この王国の住民であることがわかる。
 十六枚の絵には一つの筋が考えられており、三幕のロマンティックな失恋の悲劇になっているが、物語展開の必然性はそれほど強く各場面を結びつけてはいない。
 このことを感じた出版元のリチャード・ロングマンは、アイルランドの詩人で『妖精』の詩で知られていたウィリアム・アリンガムに、ドイルの給に合うような妖精物語詩を書いてくれるよう依頼した。アリンガムは、青い山の王の息子の紫淵のプライトキン王子と、愛すべき湖の乙女(エルフィン・メア)の妖精王女との求愛と結婚の物語詩『妖精の国で』を書いた。
 その結果は、詩人も画家も共に満足がいかなかった。というのはすぐれた芸術家である両者は共に、自分の領域を侵されたくなかったからである。その大きな原因は、ドイルが書いた絵の下のキャプションと、本文となったアリンガムの物語詩とが異なった妖精の国を描いていたことにあった。
 こうした内部事情をよそに本の売れ行きはよく、批評家はドイルの挿絵をのめ、再版が一八八四年に出ることになった。この時アリンガムの詩がドイルの絵とはそぐわないこと、そして、子供の本にはほど遠いものであることを感じていたロングマンは、友人でフェアリー・テールの収集再話で知られていたアンドリユー・ラングに物語をつけてくれるよう依頼し、ラングは『誰でもない王女さま』のお話を書いたのであった。
 ラングはサッカレーの『薔薇と指輪』を念頭に置き、「小さくて醜い小人」が王の赤ん坊でまだ名のないニエンテ(ノーボディ)王女を王からだましてさらおうとした時、魔の谷のマッシュルームランドのコミカル王子が、パックの手を借りて救い出し、めでたしとなる物語である。この時、五葉のドイルの絵が除かれる。そして、前掲の『エルフ王の凱旋行進』などは判型が初版の半分の大きさであることもあって、その一部だけが無着色
で再生されたり、ドイルのキャプションはほとんど削除されて、ラングの物語に合うような説明文が付けられたのであった。
 コミカル王子とこエンテ王女の楽しい物語が、リチャード・ドイルの挿絵付きという形に編集されて世に出たのは、ドイルがすでにこの世を去った翌年であった。

R.Doyle妖精の国で.jpg
リチャード・ドイル「妖精の国で」


『フェアリー』 新書館


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