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季節の記憶・いだようの写真散録 №181 [文芸美術の森]

「山笑う」                                自然写真家  いだよう

2017年4月下期分.jpg

雨に濡れ風に揺らめく樹々。
たわいもないおしゃべりに興じているようにも見えた。

いだようのFacebookページ : https://www.facebook.com/idayoh/


にんじんの午睡(ひるね) №8 [文芸美術の森]

犬にかまれた

                                    エッセイスト  中村一枝
 
 またまた飼い犬に手を噛まれた。愛犬に手を噛まれた話はすでに二度くらい書いている。噛むのは10年くらい前に飼ったビーグル犬、すでに8回も噛まれている。初めのうちは消毒してバンドエイドを貼ってすんでいたのだが、3、4年前から血が出るようになり、さらに私が年をとって対応が素早くできなくなったこともあり、前よりもその頻度がました。
 今回は金曜日の夜噛まれて次の日お医者さんに行ったときは手の甲が二倍くらいに腫れ上がっていた。ちょうど私の誕生日の前の日で、変な誕生祝いを貰ったと思ったくらいである。
 彼女、もも代という名前は二年前に亡くなった娘がつけた。初めて家に来た時はこんな可愛らしい、整った顔だちの犬がいるかと、まさに親バカそのものの可愛がり方をした。今までに14、5頭飼っているが、元々法則とも約束ごとも無視して犬を扱っていた。その報いが今来たかという思いもあった。犬の飼い主としては社会的に不適格としか思えないが、ひと目ももを見てからは、ただかわいいという感情に支配されて情に溺れ込んだということである。年をとって恋に身を持ち崩す年寄りってこういうものかなと思ったりもした。そのせいで、ももはかなり気ままで、独りよがりの、そのくせ甘えん坊の犬になつた。 犬が老いていくのも、自分が老いていくという現実も、私はどうも自分のなかで認めたがらないところがある。女優さんでもきれいな人ほどある年齢に達すると翳りが見えたりする。ももと美人の女優さんを一緒にする気はないが、きっとわたしの中では似たようなものなのだ。だからあなたは変なののとよく言われる。
 それにしても今回は以前に比べて重傷には違いない。「やっぱりトレーナーを探したほうがいいよ」息子の言葉もこの度はおとなしく聴くことにした。実は今までにない事だったが、手の腫れといっしょに痛みまで出てきたのにはさすがにあんまり呑気な気分にはなれなかったのだ。抗生物質の薬をもらい、痛み止めをもらった頃にはかなり病人気分になった。家に帰ってこれ見よがしにももに見せ、あんたのせいでこんなになったんだからと見せびらかした。心なしかももの表情がかげった気はしたが、ごめんなさいという感じはなかった。まあそんなもんだろう、そしてやっぱりももは可愛いのである。
 息子が心配してネットで犬のトレーナーを見つけ、電話番号を貼って行った。意外に近場で15分くらいで来るというのでとりあえずきてもらうことにした。トレーナーのPさんは40くらいの目鼻立ちのはっきりした人だった。ももを見るなり開口一番、「ずいぶん年取っていますね」と言った。いきなり年を取っていると言われて飼い主としてはあまり楽しい気分ではなかった。そのあと彼女はかわいいと撫でるわけでもなく抱いてやろうという感じも見えない。テキパキには違いないが微塵も情らしさを見せない人柄に私はすぐだめ押しをした。多分向こうもそうだったと思った。無い物ねだりとは思うけれど、私は厳格さと愛情をきちんと併せ持つ人に来てもらいたかった。飼い主失格が今更と言われそうだが。この年齢になると、その思いは余計にいや増すものである。結局ももは主人を噛んだことへの悔いも反省もなく、それらしき態度の変化もなく過ぎている。私にわかったのはどっちも年をとりつつありそれでも、自分はまだまだとどこかで執着している思い。犬も人間もその気持ちは変わらない。桜があっさり散っていくようなわけにはいかないのである。年をとるということは犬も人も同じ。可愛い可愛いですぎて行った時代は二度とは戻らないことを改めて思い知った。


フェアリー・妖精幻想 №60 [文芸美術の森]

物語詩の妖精を描いた画家 1

                                  妖精美術館館長  井村君江

十七世紀の妖精物語とその絵画化

 『アーサー王物語』のパロディとも見られるマイケル・ドレイトンの妖精詩『ニンフィディア』やロバート・ヘリックの『ヘスペリディース』で、妖精たちは微細(びさい)にわたる装飾的な描写のうちに美化されて歌われ、かえって陽の光にさらされたように生命がぬけて、人間のミニチュア版になり別枠の異界に納まってしまった感がある。
 『失楽園』で知られるオックスフォードシャーのフォレストヒル出身の詩人ジョン・ミルトンが、この地方の伝承を作品に用いて書いた初期の詩『ラレグロ』(一六三二)や仮面劇『コマス』(一六三四)には、村人たちの語る話にサブリナたち妖精が登場してくるが、かえって生き生きとした性質や姿を見せている。

  語られるさまざまな所業――
  妖精マブがどうやって、凝乳菓子(ジャンケット)を盗み食いしたか、
  乳しぼりの娘がどのようにつねられ、叩かれたか。
  〈修道士のランタン〉(鬼火)に道を迷わされた羊飼いの若者が語るには、
  ゴブリンが汗水たらし精だして、
  ほどよく固まったクリームをひと鉢欲しさに、
  村人たちが十人がかりでも手におえぬ麦の山を、
  一晩でそれも夜が明けぬ前に、
  目に見えぬ穀竿(からざお)で打ち終えた、
  それからこのラバー・フェンドは寝そべると、
  暖炉いっぱいに長々と体を伸ばし、
  毛むくじゃらの手足を火で温めると、
  満ち足りたお腹をかかえ、
  一番鶏が朝を知らせるその前に、
  煙突から外へ、飛びだしたとさ。
                 『コマス』

 この詩篇にうたわれた、一番鶏が啼(な)く直前の農家にひそんでいた妖精たち― ホブゴブリンの一種「炉端のロッブ」ラバー・フェンドが農夫の麦打ちを手伝い、クリームボールを空にし竿を投げ、中空に身体を伸ばして逃げていくところ、マブ女王が星空に浮かんで凝乳菓子を食べているところ、まだベッドにいる乳しぼりの娘を妖精たちがつねっているところ― の三種の妖精をウィリアム・ブレイクは忠実にそして巧みに視覚化している(一八一六-二〇頃)。
 ブレイクは、この詩にはうたわれていない「幽霊(ゴースト)」を登場させ、娘のベッドを引っぱる姿を描いており、この「幽霊」はブレイク自身の言葉では、羊飼いの語る「修道士のランタン」(鬼火)と同じものになっている。ここには、ブレイクの「幽霊」に対する解釈が窺え、興味深い。家と小屋の間を朝の仕事に出かける人間は、この「羊飼いの若者」らしいが、行く手に教会の尖塔が星空の下に描き込んであり、また恐ろしい夜の生き物たちを退散させるまじないのように見える。
 ブレイクのミルトンの詩によるこの水彩画は、トマス・バッツの依頼によって描かれたものであるが、ヘンリー・フューズリは一七九〇年から一八〇〇年にかけてミルトンの『失楽園(一六六七)を中心とした詩篇を絵画化する油彩画シリーズの製作に専念し、「ミルトン・ギャラリー」を意図していた。
 そのうちの一つ『羊飼いの夢』(一七九三)は普通、地上で行われる妖精の輪踊りを空中に描き、夢をつかさどるマブ女王が頭上に夢の象徴である白蛾を飛ばせ、眠る羊飼いのそばにすわっている。右隅には奇妙な顔の夢魔のような小妖精がうずくまって羊飼いを見守っており、輪踊りの妖精がのばす手の先には、夢を作り出す小枝がさしだされている。
 そして、こうした目に見えぬ妖精群の気配に気付いたグレイハウンドがおびえて興奮し、魔術の作用している上空に向い吠え立てている。
 ミルトンの詩の『失楽園で地獄の万魔殿(パンデモニウム)で最下位にいる堕天使は、小さな身体に変身し、羊飼いなどを音楽や踊りで誘惑すると書かれており、それを妖精として視覚化させたのである。
 夢の象徴としての蛾の化身のような姿のマプ女王と、夢の破片のような白蛾をフューズリは好んで描くが、『べリンダの目覚め』(一七八〇-九〇頃)の画面にもそれが描き込まれている。肌の白い空気の精シルフが朝の化粧を用意する傍を、紹介のポーズを見せて駆け抜けるパックは「スパイスの風香る」インドから飛んできたようで浅黒い肌と異様な顔つきが印象的である。
 夢を生み出すマプ女王はミルトンの詩篇には登場していない。フューズリはこういった妖精のキャラクターについての知識を、ポイデル・ギャラリーでも画題として描いていたシェイクスピアから得ていたようだ。
 彼には『羊飼いの夢』の習作として、鉛筆や淡彩の赤チョークの一連の素描があるが、綿密な筆で「月の前で舞うパック」や「コウモリで空を飛ぶエアリエル」が描き込んである。「髪をとかす裸の妖精」がシュロップシャーの民間伝承をもとにしているというように、フューズリは文学やフォークロアの妖精諸に詳しく、それらをもとに独自の奇怪(グロテスク)な映像を作りあげている。
 可視の世界はつねに不可視のリアリティと連関しているとし、好んで画題に「夢魔」「魔術」「夢」「魔女」「幻想」を選んでおり、天使も異教の生き物も根はひとつだとしているが、フューズリは妖精の存在を深く信じてはいなかったようである。
 妖精たちに華やいだ流行のドレスとボンネットをかぶせているのは諷刺の筆ととれるが、特に、その鉾先は当時流行の心霊術にこっていた社交界の貴婦人たちに向っていたようである。

W.Blakeゴブリン.jpg

                       ウイリアム・ブレイク『ゴフリン』

『フェアリー』 新書館


ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №30 [文芸美術の森]

第二章 民衆たちのテーブル・トーク
  市民たちが見たレーニンとスターリン 4

                               早稲田大学名誉教授  川崎 浹  

おもしろうてやがて悲しき祭りかな

 少なくとも現在から見れば、右のレーニンのアネクドートは毒のないユーモラスな作品だが、「一九三〇年代」と記された、もっとたわいない小品がある。

 片方の足に長靴をはいて男が道を歩いていた。
 「長靴をなくしたのですか?」と、気づかって通りすがりの人が尋ねた。
 「いえ、見つけたのです」

 ひと口に三〇年代といってもさまざまだが、内戦がおわり、経済を活性化させるための新経済政策がおわり、スターリソ路線のもとに緊張と粛清と貧困を強いられた時代である。片方の長靴だっておろそかにはできない。となるとこのアネクドートはそれほど単純なものではなく、おもしろうてやがて哀しき祭りかな、となる。

大敗北への批判

 さて、行列に並ばされる不満を「ひげ男」にうさ晴らししたために危うく拘束されかけた男の話にここで戻るが、お互いに腹を探りあうという構図もひとつのパターンになっていて、さまざまなヴァリアントがある。
 ジェーコフといえば独ソ戦で名将の誉れたかい将軍で、戦後、国民的な人気があったために、競争相手の存在をきらうスターリンから遠ざけられた。つぎのアネクドートの時期は、ヒトラーのドイツ軍が一九四一年六月にソ連に侵攻する前のころである。当時、東京にいたソ連のスパイ、ドイツ人ゾルゲをはじめ、種々の情報筋からナチがソ連をまもなく攻撃するという資料がとどいていたにもかかわらず、スターリンは独ソ不可侵条約を信じて情報を最後まで無視しつづけた。
 ついでに説明すると、一九一七年のロシア革命は人民のための人民の政府を人民の手でうちたてることにあったので、すべての国民が資本主義的「階級」に属さない平等な立場にあった。それでレーニン以下お互いに「同志(タワーリシチ)」と呼びあうことになる。それからもう一つ、スターリンにはグルジア訛りがあった。

 ジューコフがスターリンの執務室に入って行った。
 「なにかいいたいことがあるのかね、同志ジューコフ」
 「同志スターリン、西部方面に進出を開始する必要があると私はみなします!」
 「ディテ(出て〕行きたまえ、そのあとでもう一度ケティロン(結論)を聞かせてもらおう」
 ジューコフはスターリンの部屋からでると、軽率にもスターリンを口中でぶつぶつと「豚」呼ばわりした。
 控えの間にいた将軍は、ジューコフの思考の文脈をとらえて、スターリンに報告した。「ジューコフがぶつぶつと口中であなたを豚呼ばわりしていました⊥
 スターリンがジューコフを呼びだすように命じた。
 「ゲオルギイ・コンスタンチノビチ(ジューコフの名と父称)、アナティ(あなた)は私の所からディテ(出て)行って、『豚』のことを考えた。だれのことを念頭においていたのかね」
 「いうまでもありません、ヒトラーのことです、同志スターリン」
 スターリンはいった。
 「私も、ヒトラーだと思う。じゃあ、同志将軍、アナティはだれのことを念融においていたのかな?」

 しかし、このたいして面白くもないアネクドートには、じつはスターリンがヒトラー軍の侵攻に適切な措置をとらず、緒戦の大敗北と甚大な被害をこうむったことへの批判もこめられている。

レーニンの後継という見方

 一九五三年にスターリンが死亡し、モスクワで葬儀がおこなわれたとき、市の中心部で大混雑が生じてパニックをきたし、多数の死傷者をだした。つまりそれほどスターリンの死を悼む者がおおく、かれを慈父とみたり、あるいはまったく反対に苛酷な独裁者と見抜いていた知識人や囚人はいても、無能者あつかいする市民はすくなかったようだ。
 実際、舞二次世界大戦の直前、スターリンは外交官松岡洋右を前例のないことだが駅まで送りにきて、友情あふれる態度をとり、感激した松岡は凱旋将軍のごとく帰国したが、近年公開されたモスクワ古文書館の資料によると、スターリンは松岡洋右を手玉にとって翻弄したのであり、その辣腕の外交術は「無能」などとはまちがってもいえない(平井友義「スターリンの哄笑 - 日ソ中立条約」、一九九八年二月六日、神戸大学での報告)。
 スターリンの集団農場化は惨憺(さんたん)たる結果におわったが、三〇年代における重工業化はかれの功績である。もっとも、ソ連のあの時期の指導者ならだれでも国の重工業化政策をとらざるをえず、またとれば成功をおさめたと指摘する米国の学者もいる。
 それでもスターリンを無能扱いしないと気のすまない識者がいて、こんなアネクドートがある。作中の「火花」とは、革命前哨戦の一九〇〇年末にレーニンが創刊した有名な雑誌である。

  レーニンがスターリンに電話した。
  「〈火花〉の新しい号は気に入ったかね?」
 「たいへん柔らかな紙ですね、ウラジミル・イリイチ」

 スターリンの「偏羞値」や巧緻(こうち)にたけた手腕は別として、これは、かれをレーニンやトロツキイより知性においても政治理念においても低い政治家として見るアネクドートであり、スターリンの政策はレーニンの延長にすぎないとする見方とどこかで通じている。スターリンはレーニンをもちあげ、自分がレーニンの後継者であることを強調した。ソルジェニーツィンは『収容所群島』でこの系図を逆手にとって、スターリンの粛清と収容所の悪夢は、すでにレーニンのときにはじまっていたと指摘する。

『ロシアのユーモア』 講談社選書


石井鶴三の世界 №92 [文芸美術の森]

みやまきりしま1958年/九重・みやまきりしま1958年

                                   彫刻家・画家  石井鶴三

1958みやまきりしま.jpg

                    みやまきりしま 1958年 (144×200)

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                  九重・みやまきりしま 1958年 (144×200)

**************                                                                           【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社


季節の記憶・いだようの写真散録 №180 [文芸美術の森]

「谷間に咲く」                            自然写真家  いだよう

2017年4月上期分.jpg

                                                                                賑やかな桜の里の片隅で、ひっそり咲く桜に、秘めやかな妖しさを感じた

いだようのFacebookページ : https://www.facebook.com/idayoh/


西洋百人一絵 №85 [文芸美術の森]

スーティン「七面鳥」

                                     美術ジャーナリスト、美術史学会会員  斎藤陽一

 一時期、「芸術は爆発だ!」という岡本太郎の言葉が流行ったが、シャイム・スーティン(1893~1943)の絵を見ると、思わず「スーティンの絵は爆発だ!」と言いたくなる。彼は、人物も描いたし、風景や静物も描いた。そのいずれのジャンルでも、形はゆがみ、強烈な色彩が画面に炸裂し、画家の激しい情念が爆発しているような感覚を覚える。
例えばスーティンが、ピレネー山中のセレに滞在して描いた風景画「村」(1924年頃)を見ると、風景はほとんど輪郭を失ってゆがみ、激しいタッチで塗られた原色の絵具が渦を巻き、何が描かれているのか判別しがたい。むしろ風景はスーティンの感興を誘発する起爆剤であって、そこで火がついた画家の主観がそのままイメージとなって爆発した― そんな絵に思えてくる。
スーティンは、“美しいものを美しく描く”という古典主義的な美学や、“三次元の対象を二次元の平面に目に映る通りの疑似空間として再現する”という写実主義の美学から全く解放された画家である。
彼は、自分が対象から“感じ取ったこと”を表現した。何よりも、対象から触発されて自分の内面から湧き起こるイメージに執着した。そういう意味では、スーティンは“絵画の主観化”を推し進めて、「二十世紀表現主義」の先端にいた画家と言えよう。

 スーティンは、当時ロシヤ領だったリトアニアの貧しいユダヤ人家庭に生まれた。正規の教育も受けず、絵を描きながら各地を放浪したあと、20歳のとき、パリにやってきた。そのとき、モンパルナスの酒場で知り合ったのがモディリアニである。二人は、気質も育ちもまるで違っていたが、たちまち意気投合し、親しくなった。都会生活のマナーを知らないスーティンに、ナイフやフォークの使い方を教えたのはモディリアニだったし、何かとスーティンの面倒を見たのもモディリアニだった。モディリアニは、野人スーティンの中に、粗削りだがナイーヴな人間性と、絵画へのひたむきな情熱を感じ取り、愛したのだろう。

 パリのオランジュリー美術館には、スーティンの油彩画「七面鳥」(制作年不詳)が展示されている。
 一見、何が描かれている絵なのか分かりにくいが、描かれているのは、羽をむしられ吊るされている七面鳥である。画面の左上には口を開けた七面鳥の頭部が、中心部分には羽をむしられて赤裸となった体が、激しい筆致と色彩で描かれている。それにしても、異様なモティーフである。

 実は、スーティンは、死んだ動物をたくさん描いた画家なのだ。様々な鳥や牛、ウサギなどである。それも、鳥は羽をむしられ、牛は皮をはがされた姿で描かれる。なぜスーティンはそのような題材をしばしば描いたのか?
 スーティン自身が語った少年時代の出来事がヒントになりそうだ。それは、彼が、村の肉屋が楽し気に鳥の首をはねるのを見て戦慄したという体験である。彼によれば「僕は思わず叫び声を上げようとしたが、店主の嬉しそうな顔を見て、その叫び声を飲み込んでしまった」という。その叫び声は、発されないまま、その後もずっと自分の中にこびりついて離れず、死んだ動物を見るも無残な姿で描くことで、解放されようとするのだ、とも語っている。
 彼が描く動物は、いずれも人間の食料になるために殺された生き物である。言わば人間の生命維持のために、犠牲となった生き物の姿である。この人間生存の現実が、少年スーティンが飲み込んでしまい、その後もまとわりついて離れない「叫び声」の正体である。 スーティンは、その現実を凝視し、自分の中に湧き起る嫌悪感と罪悪感というような情念を画面に吐き出している。
 
 友人モディリアニが貧窮の中で死んでから間もなく、アメリカの富豪で美術収集家のA.C.バーンズが、スーティンの作品100点をまとめて買ってくれることになり、突然スーティンの生活は好転した。それ以降も、折にふれてスーティンはモディリアニへの感謝の言葉を口にし、「今日の私があるのは、モディリアニのお陰」と語ったという。

084スーティン.jpg

にんじんの午睡(ひるね) №7 [文芸美術の森]

桜のこと

                                     エッセイスト  中村一枝

 今年の桜は遅い。スポーツ整形外科で通院している大井町の東芝病院の入り口は知られざる桜の名所である。病院の入り口だから垂れ幕も屋台もなくマイクも皆無。人が集まるわけでもなく、去年は本当にいいお花見ができた。今年もまた頃合いをみはからって病院の診察を予約したのに、この寒さ、枝の先はちぢかんだ花たちが肩を寄せ合い恨めしげに空を見あげている。
 若いころは桜が咲いているのを見てもああと思うだけ。何の感情も湧かなかった。年齢を重ねるごとにほのかなピンクの色合いや小さな花弁のひそやかに重なりあうすがたにも惹かれる。春というのは不思議な季節、すこしずつ寒さがはがれて行き、光が溢れ出す。ちぢかんでいた五感も手足も急に生き生きと元気をとりもどす。なぜだかこの時期はまた締めくくりの季節でさらに新しい事が始まる季節でもある。そんな時桜の開花はまるでうってつけのドラマでもある。
 私の誕生日は4月10日。まさに春らんまんの時に生まれた。そのせいか生来陽気である。子供の頃の私は、この時期というと床についている事が多かった。小さい時からの小児喘息で、日毎に春めいて行く明かるい外の景色をコンコン咳をしながら羨ましげにながめていた。40歳を境に喘息との縁がきれた。これはいまだに不思議である。病気とは縁が切れたが、代わりに年を取っていった。それまで関心のなかった桜に気持ちが動いていった。小学生の時戦争で伊豆の伊東に疎開した。伊東の町の中を流れる松川(別名音無川)の堤には桜が咲いていた。そのころは桜にはなんの興味もなかったが、川沿いの道を喘息に効く薬を持っているというお医者さんのもとによく注射に通った。花見なんて発想はまるで無かった。
 川沿いの我が家の先に川に降りる道があった。そこは一種の浅瀬になっていて、その小さな浅瀬で側に住む家の前のひとがお米を研いでいたりした。すぐそばに掘っ建て小屋があり母親と二人暮しの女の子が住んでいた。わたしよりは2~3歳上のしいちゃんという女の子だった。病気をしたせいで年よりすこし遅れているという話だった。しいちゃんはいつもうすよごれた短いワンピースを着てそこいらの男の子の様に飛び回っていた。顔は汚れて真っ黒だった。そのしいちゃんの家の前にひと抱えもありそうな大きな桜の木があった。それは見事な桜だったはずだ。そこからかなり離れている私のうちが借りている大家さんの家のほうまで花びらがとんでくるほどだった。でも戦争中のあの時代だった。もし桜が食べられる木だったら、日本中から桜の木は消えていただろう。
 しいちゃんは頭はすこし遅れていたかもしれないが、一旦川の中に入るとまるで人魚のように自由自在に川の中を泳ぎまわった。泳ぎのできないわたしはそんなしいちゃんを羨ましさと、一種の畏敬の念をこめて見つめていた。 私の家の隣の男の子たちも普段はしいちゃんをバカにしても一旦水の中に入ると、しいちゃん、しいちゃん、と後を追い回していた。水の中から岩の上に立ちあがったしいちゃんはぼたぼた棚水の垂れるワンピースから小麦色のしなやかな長い足が覗いていて、私はその頃そんな言葉は知らなかったがいまでいうカッコの良さに見とれていた。しいちゃんは事故か何かで割合早く亡くなったと聞いだ。あの掘っ建て小屋 と桜の木、エメラルドグリーンに光っていた川の淀み。私など怖くて近づけなかったのにしいちゃんは底のみえない水の中をスイスイと泳いでいた。はるか昔の遠い話なのに桜の季節になると私はこのことを思い出す。
 桜には様々の思いを膨らませ揺さぶってくれる不思議な力が宿っている。私は国粋主義は好きではないし、何かにつけてそれにつなげるような人たちはもっと嫌だからあまり言いたくないけれど桜はすき、です


フェアリー・妖精幻想 №59 [文芸美術の森]

 シェイクスピアのフェアリーたち 3

                                 妖精美術館館長  井村君江

『嵐(テンペスト)』の世界とエアリエル

 リチャード・ダツド(一八一七-九六)の『黄色い砂浜に来たれ』(一八四二)は『嵐』のプロスベロが支配する魔の島に、妖精たちが難破した人々をいざなっている図である。中央にアーチのように描かれた、岩とも雲ともつかぬ天蓋の上、楽師たちが吹く笛の音に合わせ、天空から砂地へとめぐるように妖精の群れが踊っている。彼らは透き通った夕顔の花の三角帽子を頭にのせ、土蛍のついた妖精の杖(フェアリーウワンド)を手にし、薄い衣をひるがえしている。
 ダンビイが画面の前方に小さなドングリをおいたように、ダッドは貝殻を置くことで、妖精の小さなプロポーションを目立たせている。
 暗い空に溶けこむような、海の色と空の色合いが嵐を感じさせ、魔の島の雰囲気をよく出しており、詩的な情緒をかんじさせる画面になっている。ダッドが狂気に陥る直前に展覧会に出品した作品である。
 デヴィッド・スコット(一八〇六-四九)のエアリエルは、トンボの翅をつけ華奢な身体をそりみにして、白い喋の飛ぶ夕焼け空に漂わせ、長い金髪をなびかせて、怪を超越したような存在になっている(『エアリエルとキャリバン』一八三七)。
地上には空気の精エアリエルと対照的に、土にまみれたキャリバンがカエルとともに横たわり、その手は薪と蛇をつかんでいる。
 荒地のような地上には、頑丈なサボテンが描き込まれているが、その筆致と色彩はダイナミックで、ラファエル前派の人々に賞讃され、「イギリスのドラクロワ」と呼ばれている。
 そのラファエル前派の代表的な画家である、ジョン・エヴェレット・ミレイ(一八二九-九六)の『ファーディナンドを誘惑するエアリエル』(一八四九)は、ロイヤル・アカデミーに出品された作品で、今日ではよく知られたものである。展示された時には、緑のエアリエルが普通の女の子の姿であったことなどから、評判が良くなかった。
 しかし貝殻のハープを手に、音楽でファーディナンドを魔の島に誘いこんでいるエアリエルと、そのまわりに輪になってつらなる、コウモリに似た奇妙な顔と姿の緑の妖精たちの、超自然的な部分と、細密に描きこまれた草木や小鳥、キノコの自然物、ファーディナンドの服や靴の素材感の写実性は、対照的でありながら一体感があり、この給の世界を見事に構成している。
 同様のテーマで描かれているヘンリー・ストック(一八五三-一九三〇)の絵でも、ファーディナンドの写実的な人物描写と、エアリエルの超現実的な妖しさのたいしょうが見事に出ている。
 エアリエルは金髪をなびかせ、白い衣の女性としてえがかれているが、中空にかかるように逆さのポーズに描くことによって、異様な雰囲気を醸(かも)し出すのに成功している。
 ファーディナンドの当惑し、驚愕したような眼付きと、中空に見開かれたような妖しいエアリエルのまなざしが、この場面にふさわしい不可思議な諧調をひびかせている。
 フィッツジェラルド、ヘンリー・タウンゼンド(一八一〇-一八九〇)、ジョセフ・セヴァン(一七九三-一八七九)がそれぞれに描いた作品は、プロスベロに仕える十六年の使魔(ファミリーエール)としての年期が明けたら、こうしたいというエアリエル自身の夢を描いたものである。

  蜂とならんで蜜を吸い
  寝床にするのは桜草
  ふくろうの歌が子守歌
  蝙蝠(こうもり)に乗って空を飛び
  楽しい夏のあとを追う
  枝から垂れた花々の下
  愉快に遊んで暮らすのさ
              (第五幕一場)

 三人の画家とも、エアリエルを男とも女ともつかぬ無性的な姿に描いているが、フィッツジェラルドとタウンゼンドはやや女性的で、セヴァンは少年に近い。
 フィッツジェラルドの印象的なエアリエル(一八五八-六八頃)は、サンザシの白い花の中に身体が溶けていくかのように描かれ、その日は狂者をたたえ、異界へ誘うようである。月の下の花のベッドに身をのばして安らうタウンゼンドのエアリエルは、天使のような鳥の羽をたたみ、魅惑的なまなざしを投げかけている。
 コウモリに乗り、孔雀の羽をひるがえして空を飛ぶセヴァンのエアリエルもまた妖しげな目つきであり、目の描き方によってこの世でない存在としての妖精をきわだたせようと、それぞれの画家たちが試みていたことがうかがえる。セヴァンの水彩は、ヴィクトリア・アルバート美術館所蔵になる油絵の習作であるにもかかわらず、妖精の軽やかさはかえって水彩の方によく表現されているようである。
 多くの画家たちが競うようにシェイクスピアの名場面を描き、それぞれの技量を発揮し、さまざまな特色ある妖精を生み出している。フィッツジエラルドは場面だけでなく、ひとつの台詞から独白の画面を構成し、いくつかの作品に仕立て上げている。『嵐』のプロスベロの一句「我々人間は夢と同じ素材で作られている」というところから『夢を作っている素材』(一八九六-七)という給を描いている。
 しかし初期の絵においても「夢」は、この画家の好んだテーマであり、一八五六年の『とらわれた夢見る人』や『夢』という絵においても、その画面に登場させられているのは、奇怪な姿をした生きものたちであり、妖精と名づけてもよい存在感の稀薄な生き物たちである。
 夢見る人の心象風景は、その人の実現してほしい望みであり、画家本人らしき人物は美しいモデルを描く夢を見、眠れる美しい女性は夢で恋人と会っている。そのまわりには奇妙な夢の破片、欲望の象徴とみえる生きものたちがとりまいている。
 シェイクスピアの一句が画家の描いていた主題に符合し、名場面を作り出したようで、美しい色調とあいまって画題を強くうったえかけてくる作品になっている。

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                     ヘンリー・タウンゼント 「エアリエル」 

『フェアリー』 新書館


芭蕉「生命の賛歌」 №27 [文芸美術の森]

塚も動け 我(わが)泣(なく)聲は 秋の風

                                      水墨画家  傅  益瑤

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                                                                                  金沢での芭蕉は俳人一笑の死を知って落涙した。
「塚も動け」という激しい呼び掛けは、芭蕉の人間的な情けの、瞬間の反応であった。
一笑は芭蕉の心に棲みつく身近な人でもなければ、先輩でもない。最初の悲しみは哀しいが、一旦収まったあとの悲しみはさらに深く抑えることが出来ない。
 なぜ。「生死亦大炱」を極めると、また悲しさが湧いて出る。絵は芭蕉たちの悲しみの深さを措き分けている。

『傅  益瑤 「奥の細道」を描く 芭蕉「生命の賛歌」』  カメイ株式会社


ロシア~アネクドートで笑う歴史 №29 [文芸美術の森]

第二章 民衆たちのテーブル・トーク
  市民たちが見たレーニンとスターリン 3

                               早稲田大学名誉教授  川崎 浹 

タブー

 つぎのアネクドートは「一九二〇年代」とおおざっぱな年月が記されている。

 ラビノビチ(これは典型的なユダヤ人の苗字)はプラカードに「レーニンは死すとも、かれの事業は生きている」と書いてあるのを見て、いった。
「あんたが生きていたほうがよかった、あんたの事業が死んでも」(一九二〇年代)

 レーニンが亡くなったのが一九二四年なので、作品はそれ以後に属するが、右のプラカードがいつごろに流行したかで、さらに制作年の時代の枠がせばめられよう。スターリンがレーニンの事業の僭称(せんしょう)老となり、キーロフやブハーリンなどじゃま者を消し、ソ連作家同盟を創設し、党の規約を強化したのが二〇年代後半である。
 レーニンの人物像はスターリンやフルシチョフらと異なり、ゆるぎなき栄光のもとに維持されてきた。民衆がかれを笑いの対象にすることはタブーとされた。『収容所群島』の刊行がもとで七四年に国外追放されたソルジェニーツィンが、ペレストロイカ期になってなお数年も本国で市民権を得られなかったのは、かれが「聖なるレーニンを冒漬(ぼうとく)した」からだった。
 それほどにレーニンは聖化されていたが、国民のすべてに洗脳が成功していたわけではない。そのため逆にレーニン崇拝がまったくの対立物に転化して、つぎのようなアネクドートになることもあった。

 レーニンは死んだ。だが身体は生き残っている。

 レーニン廟にはいまだに遺体が保存されている。このアネクドートはあきらかに「レーニンの事業は生きている」のもじりである。
 ヨシフ・ラスキソは『フリガン正統派事典』で、ピョートル三世を僭称して反乱を起こしたプガチョフがモスクワ中を引きずりまわされたことを念頭におきながら、レーニンに直接あてたという大胆な人物の手紙を引用している。

 僭称者の死体のように、あんたの死体はモスクワ中で引きずりまわされるだろう。(一九二二年五月二九日、レーニン宛ヴォロノフ書簡より)

 書簡を書いた人物がだれなのか、書簡がどのような形で残されたのか、事情は不明だが、この言葉がアネクドートとして地下を渡り歩いたので、ラスキンがとりあげたのだろう。

つり目の男

 さてレーニンにも関係してくるので、脇道にいったんそれるが、笑いの世界に道化役がいるように、アネクドートの分野でも「イワーヌシカのばか」や「チャパーエフ」や「シュティルリツ」や「チュクチ人」という特定のタイプがいる。
 チュクチ族はシベリアのマガダン州にいるトナカイ猟の遊牧民族、人口一万数千人。モンゴロイド系で、顔は我々日本人とそっくりである。アネクドートではいつも笑い者あつかいを受ける。チュクチという発音もなんとなくユーモラスに聞こえる。

 レーニンが何国人なのか、フランス人とロシア人とドイツ人とチュクチ人が論争した。
 フランス人はいった。
 「レーニンはフランス人です。というのは言葉訛りがフランス語だから」
 ドイツ人はいった。
 「みんなが当時レーニンはドイツ人だといっていた。かれの母親がドイツ人との混血だったし、それに一般にみんなが    レーニンをドイツのスパイだと非難していたではないですか」
 ロシア人はいった。
 「レーニンはもちろん文句なしにロシア人だよ。レーニンが何国人であるか、(我々の敵)どもがなんといおうと、我々はぜったいにレーニンを引き渡さない」
 チュクチ人がいった。
 「レーニンはチュクチ民族のひとでした」
 「どうして、そんなことをいうのですか? レーニンがチュクチ人だったなんて」
 「すばやく動く賢い目をしていたし、それに目がつりあがっていました」

 それぞれが勝手なことをのべているようで、レーニンの民族籍という一貫した主題と筋があり、さらにレーニンを自国民として取りこみたいという「内的な論理」がある。ロシア人はずいぶん情緒的な発言をしているようだが、当時の国内状況を知るならば、かれらの愛国者ふうの言い分にも時代の確かな「論理」があることがわかる。だが「論理」というものは、それを支える枠組みが崩壊すると、宙に浮いてばらばらの断片になる脆さをもっている。したがって「論理」は相対的なものにすぎぬことを念頭におき、さらにアネクドートの付帯条件に「二律背反」性があったことを思いだそう。
 右のアネクドートにおける「二律背反」つまり矛盾は、並行して示される各国代表の視点のちがいとなって潜伏しているが、とりわけ一つの主題を論じるのに大国あるいは「文明国」の論理と、極端に小民族の原始的な遊牧民の論理を同じ土俵のうえで闘わせていることにある。
 結末がどうなるのか聞き手はまったく予想がつかない。この作品も聞き手の期待と「原則的に一致しない答え」を隠している。チュクチ人の「論理」が西欧系の国民代表つまり受信者の意表をつくもので、しかも今までレーニン廟の棺のなかに隠してきたが、じつは隠すことのできぬ事実を指摘している。
 精神的に聖化され触れてはならぬ「レーニンの人相」を衆目にさらすことで、地上にひきおろし、哄笑をよびおこす。「つり目」タイプの日本人よりは、「つり目でない」異質の人種のほうがチュクチ人の論理に虚をつかれ、してやられたという感想をもつのではなかろうか。私の目の前でこれを読んだロシア人ははじけるような笑い声をたてた。
「ドイツのスパイだった」というレーニンへの疑惑は、擾乱(じょうらん)の首都にむけてレーニンが鈴で封印されたドイツの貨車でひそかに送りこまれたための誤解だろう、と私は考える。
 ただし近年、旧ソ連共産党中央委員会に属するモスクワ古文書館の文献が部分的に公開されるようになった。特殊保存部で厳重に密封されていた一件書類「ウラジミル・イリチ・レーニン、索引、四-三-五二」が陽の目を見、それによって一九一七年、革命の年に、総額一五〇〇万マルク以上の金額がレーニンに支払われた事実があきらかになった。当時の紙幣にして膨大な金額の内訳は革命の宣伝費、武器購入費、そしてレーニンとトロッキイの個人費用にあてられている。 

『ロシアのユーモア』 講談社選書                                                       


石井鶴三の世界 №91 [文芸美術の森]

九重1958年2点

                                   画家・彫刻家  石井鶴三

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                         九重 1958年 (144×200)

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                         九重 1958年 (126×175) 

**************                                                                           【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社


はけの森美術館Ⅲ №26 [文芸美術の森]

つる草

                                        画家  中村研一 

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                                             彩色 和紙 34cm×22cm 

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鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

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中村研一記念はけの森美術館正面

往きは良い良い、帰りは……物語 №45 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語
その45 「土筆(つくし)」「蝌蚪(かと)」「沈丁花(じんちょうげ)」「初蝶(はつちょう)」

                    コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

≪平成29年2月25日≫
『神楽坂 登れど未だ 花もなし』という「春待ち」の句を添えた筆書きの案内状がFAXで届きました。ここでは土筆も生え、お玉杓子も泳いでいます。

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上載の文面によれば、三月のこふみ会は十二日(日)十三時から、香音里にて、です。
兼題は「土筆(つくし)」と「蝌蚪(かと)」
当番幹事は五七氏&矢太氏。

◆いかにも春だといった兼題です。ですから、お返しの「返信レター」も、弾んでいます。

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                                                      返信レター 鬼禿氏より

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                                                   返信レター 軒外氏より

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                                                 返信レター 一遅氏より

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                                               返信レター 珍椿氏より

珍椿氏からのレターを、読みやすいように抜き出してみますと、次ぎのとおりです。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
五七様 矢太様
枝には、わた菓子の様な泡状のかたまりがあり、そこから小さなお玉杓子が水溜りに落ちます。佐渡の金山近くの森の中で、そんな光景を見つけることが出来ました。
三月一日  珍椿 拝
三月こふみ会は「参加」です。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

(モリアオガエルのことですね。実際にご覧になったのですか。羨ましいお話です。)

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                                                   返信レター タケシ氏より

タケシ氏のイラスト。こちらは、ぐにゃぐにゃした袋になった寒天質の紐(ひも)の中に入った状態で水中に産み落とされる普通の蛙の卵を示すもの。
お玉杓子になる前の様子です。おや、一匹、気の早いのが袋を破って出てきたようです。(しかし、残念! 氏は欠席。)

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                                                   返信レター 更歩氏より

お玉杓子。こちらは台所の働きもの。長年愛用されて貫禄も付きました。

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                                                   返信レター 孝多より

「科」には「丸いもの」の意味があるそうです。「斗」はそのまま「杓(ひしゃく)」のこと。ご存じ「北斗七星」ですよね。

≪さて当日、3月12日≫
出席者は、順不同で……更歩氏、珍椿氏、鬼禿氏、一遅氏、軒外氏、矢太氏、五七氏。そして矢太氏の紹介によるゲストの永井雅行氏と私、孝多の計9人。
永井氏には次回からは是非、ゲストではなく、メンバーとしてご参加頂きたいものです。お待ちしてま~す。

発表された席題は、予想外。沈丁花(じんちょうげ)と初蝶(はつちょう)でした。

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                                                                                                                                              ◆何故、予想外?? それは兼題だけでなく、席題まで植物と動物だったから。
つまり今回は、4題のうち「植物」で2題、「動物」で2題なのです。
普通なら「動物」や「植物」のほかに、『春分』などという「時候」や『朧(おぼろ)』などという「天文」や『入学』などという「生活」や『針供養』などという「行事」を含めた、いくつかの類別を考え併せて、それぞれの類別から、ひとつずつ出題するわけですが……。
今回は「植物」と「動物」だけ。
幹事さんに、思うところあってのことでしょうけど、真意を、うっかり聞き忘れました。次ぎの句会のときにでも、伺ってみましょう。

◆ところで、私は、かつて(今は亡き)或るお年寄りから、次ぎのように教えられたことがあります。
「季語は6種。『衣』『食』『住』、『自然』と『忌日』と『大宇宙(九天)』。」
だから、出題する時は、この6つのジャンルから季節に適合した季語をひとつずつ選べば良い。そうすれば片寄らない、という次第。
一般の歳時記とは違うジャンル分けです。分かりやすいようだけど、少々、荒っぽい感じがしないでもない。老人独特のエネルギーによる「歳時記への挑戦」だったのでしょうか。

何だかヘンだけど、忘れられない教えです。

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≪「チ」ではなかった沈丁花≫
「チン」か?「ジン」か? 句会の席でも、ちょっと話題になったのですが、 皆さん、あまり深い関心も示されず、消えてしまったハナシでした。
しかしまあ、あとで調べてみましたら、これほど「頑固に断定」されているとは思いもよらなかったことでした。
「ちんちょうげ」を引くと、殆んどの辞書で「じんちょうげ」を見よ、と出てきますが、それっきりです。そっけない。

中には「じんちょうげ」でないと載せていない国語の辞書もあります。
植物図鑑もそうです。いくつかの図鑑に当たってみましたが、「ちんちょうげ」という言葉がひょいとでも出てくるような図鑑は、一冊もありませんでした。「チ」は完全に無視されました。

歳時記なら、親切に、優しく≪「ちんちょうげ」とも呼ばれる≫くらいのことを書いといてくれるだろう……と、思うと、これ、また、ばっさり!「チ」の出番ナシ。
沈丁花の別名として、丁子(ちょうじ)、沈丁(じんちょう)、瑞香(ずいこう)、芸香(うんこう)、ちょうじぐさ、などが挙げられているのみ。(角川・合本俳句歳時記。チクマ秀版社・金子兜太編現代俳句歳時記&講談社・日本大歳時記)無念! 残念!

というのも、孝多は「チンチョウゲ」のほうがまともで、「ジン」は気どり者が鼻をふくらませて言うときの言葉。と思っていたからに、ほかなりません。調べてみるものですねえ。

≪さ~て、さてさて、本日の成績発表!≫
◆こふみ会の賞は「天」「地」「人」「花」「客」の5つ。
◆天に選ばれたら7点。地は5点。人は3点。客は1点。花は名誉だけで得点ナシ。
◆自分以外の人の句を、天に選んだ人が、その句を短冊に書いて作者に差し上げるというのが決まりです。こふみ会発足以来継続しているマナーです。
◆選んだ人は、景品(記念品)として、お土産を、選ばれた人へ、プレゼントします。天に選ばれたら、その日、持ち帰ることが出来るのは短冊と景品と「最高の」嬉しさです。
地に選ばれたら、短冊ナシで景品だけ。人も同様に景品だけ。しかしこの景品に、それを持って来た人の人柄が映っています。一方、客に選ばれた場合は1点をもらうだけ。つまり、短冊も景品もナシ。でもニコニコ。「よ~し、よし、よし。」などと言って酒をちびちびやってます。
◆勿論、短冊や景品は、複数に及びます。一人で、あの人からもこの人からも賞を頂くことがありますから、自分のバッグに入りきらず、まわりの人から、デパートなどの紙袋(手さげ)をもらって、お土産を詰めて帰り支度をするシアワセ者も現れます。
◆しかし、全体として、あまり得点にこだわらないのが、こふみ会らしいところです。いいのを作ったけれど沢山は得点できなかった、でも、いいさ、いいさ。百年後に評価される!と、美味しそうにビールを呑んでいる。
やがて……。幹事が宣言します。「成績発表で~す!」

◆本日のトータルの天は~47点の矢太氏。パチパチパチッと一同拍手。
 代表句=初蝶や 疑ひ深く 舞いあがる

◆トータルの地は~41点の軒外氏。パチパチパチッと一同拍手。
 代表句=つくしんぼ みな居並びて 電車見る

◆トータルの人は~23点の更歩氏。パチパチパチッと一同拍手。
 代表句=密度濃く 次世代うごめく 蝌蚪の池

◆トータルの次点は~19点の孝多。パチパチパチッと一同拍手。 
  代表句=今 何を 考えてましたか 沈丁花

◆トータルの花は~共に2輪の軒外氏、更歩氏、孝多。パチパチパチッ。
 代表句=なま暖かい 夜のかたまり 沈丁花 (軒外)
 代表句=土の香の 天にも届け 土筆伸びる (更歩)
 代表句=蝌蚪の群(むれ) 小石を落として みようかな (孝多)

皆さん、おめでとうございました。パチパチパチッ。今回も、こふみ会らしく、硬軟いろいろ。自由奔放、活達無比の句が揃いました。
それにしても、先回と同様の短冊現象が、続いて今回も出現したのにはびっくりです。天のひとが3本、地のひとが4本!(ちょっとした偶然……でしょうか?)

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                                      左・矢太氏。右・軒外氏。パチパチパチッ。

では皆さん、お元気に。下記の≪36句・本日の全句≫も、どうぞ、ゆっくりご覧ください。またお会い致しましょう。(孝多)

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第567回 こふみ会≪本日の全句≫
平成29年3月12日   於 神楽坂 香音里

◆兼題=土筆(つくし)      順不同
つくし採る 老婆似ている 黄泉の母           一遅(いっち)
頭山 土筆つんつん キャンディーズ                      鬼禿
墓石の 上に十字架 土筆摘む                            五七
土筆んぼ ゆっくり沖(おき)行く 豪華船                  孝多
球追いて 土筆の森に 迷いこむ                           矢太
つくしんぼ みな居並びて 電車見る                       軒外(けんと)
身をつくし 心をつくし つくしかな                         雅行(まさゆき)
放課後に 制服の君と 土筆摘む                           珍椿
土の香の 天にも届け 土筆伸びる                         更歩

◆兼題=蝌蚪(かと)              順不同
役員に なる同期あり 蝌蚪に足                          五七
三一一 蝌蚪なにごともなく 群れる                      矢太
こきざみに 命ふるわす 蝌蚪の池                         一遅(いっち)
密度濃く 次世代うごめく 蝌蚪の池                       更歩
蝌蚪を見る かがむ父の背 子に還(かえ)る             軒外(けんと)
真黒け おたまじゃくしは かえるの子                      雅行(まさゆき)
蝌蚪の群 小石を落として みようかな                    孝多
五線譜に お玉杓子を およがせて                         珍椿
音立てた 主(ぬし)の仕業か 蝌蚪の池                   鬼禿

◆席題=沈丁花(じんちょうげ)  順不同
沈丁の 香や税務署へ 人の列                              五七
沈丁花 別れの文に 実(み)がひとつ                       更歩
なま暖かい 夜のかたまり 沈丁花                           軒外(けんと)
腹ふくれ どんな花だろ 沈丁花                              雅行(まさゆき)
方形の 闇の座標か 沈丁花                                 鬼禿
沈丁花の 角を曲って 二軒目です                           矢太
今 何を 考えてましたか 沈丁花                            孝多
沈丁花 あの人の家はここ                                     一遅(いっち)
沈丁花 ああ沈丁花 沈丁花                                  珍椿

◆席題=初蝶(はつちょう)    順不同
雪渓に 初蝶のゆく メタファ                                   一遅(いっち)
初蝶の 振りに疲れて 死んだ蝶                              更歩
初蝶と 同じ高さに バスの窓                                 五七
初蝶が 私を遠くへ 連れて行く                               孝多
初蝶は 裸婦の端に 写りたり                                 軒外(けんと)
初蝶や 疑ひ深く 舞いあがる                                 矢太
初蝶や 跳ねのあがった ふくらはぎ                          鬼禿
初蝶や どこに行くのか まだ寒し                            雅行(まさゆき)
初蝶は 心もとなき 少女かな                                 珍椿

                                                   以上・36句


季節の記憶・いだようの写真散録 №179 [文芸美術の森]

「雨あがりの朝」                           自然写真家  いだよう

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夜分の雨が上がり、朝日とともに霧が湧きあがる。
満開を迎えていた紅白の梅に霧がからみ合い踊っているようだ。

いだようのFacebookページ : https://www.facebook.com/idayoh/


西洋百人一絵 №84 [文芸美術の森]

モディリアニ「白いクッションに横たわる裸婦」

                                  美術ジャーナリスト、美術史学会会員    斎藤陽一
                                                                               
 1917年、33歳のとき、モディリアニは「最初で最後の個展」を開いたことがある。もっとも、貧しいモディリアニには、自分の金で個展を開くことなど思いもよらなかった。彼の親友に、同じように貧しかった画商ズボロフスキーがいたが、店を持たない“風呂敷画商”だったため、知り合いの女性画廊主ベルト・ヴェィユに頼み込んで実現したものだった。詩人でもあったズボロフスキーは、モディリアニの才能を信じて、献身的に支えた人物である。

 この個展には、三十点あまりが出品されたが、その中に、裸婦像がいくつもあった。
それらは、たくさんの客が個展に入るよう、人目につくショーウインドーに飾られた。ねらいはあたったというべきか、初日には、ウインドーの前は黒山の人だかり。生々しい裸体画を見た人々は、興奮し、大騒ぎとなった。これが、裏目に出た。
 まずいことに、画廊の前に、警察署があった。警官が駆けつけ、ついには署長まで介入して、展覧会禁止命令が出された。そして、初日の夕方には、個展そのものが中止となってしまった。

 アメデオ・モディリアニ(1884~1920)がこの頃描いていた裸婦像というのは、今回とりあげる「白いクッションに横たわる裸婦」(1917年)のような絵である。
 手足を画面で切り取り、背景にも余計なものを描かず、裸体そのものに切り込んでいる。肌は紅潮し、目は潤んだようにこちらを見つめている。確かに、見る者の感覚に直接迫ってくるようなエロティックな裸体であり、挑発的である。
 西洋絵画の歴史には、裸体画の伝統があり、ルネサンス以来、多くの画家たちが裸婦を描いてきた。しかし、モディリアニの作品ほど、裸体そのものに接近し、あたかも女の息づかいや肌色の変化まで感じさせるような迫り方で描いたものはなかった。そこが、本来密室に隠しておくものを人前にさらしたような感覚で受け止められ、大騒ぎのもととなったのである。

 モディリアニは、若い頃に彫刻家をめざしたが、胸の病いのため断念した。実際、彼はいくつかの彫刻作品を残しており、そこには、余計なものを削り落として、無駄のない簡潔なフォルムをつかみ出すという姿勢が見られる。そのように見ると、彼の絵画もまた、彫刻で追求したものと同様、人体のフォルムを、ぎりぎりまで厳しく造形化しようとするものだった。
 モディリアニは、いったん絵画の制作を始めると、激しい集中力を発揮し、「肩は震え、息はあえいだ。顔はゆがみ、しばしば大声を発した」(藤田嗣治の証言)という。そのとき、彼とモデルとの関係は、緊迫したものとなり、モデルは、絵画制作の過程で画家のものとなるのである。

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   モディリアニ「白いクッションに横たわる裸婦」
                  (1917年。ドイツ、シュトゥットガルト、国立美術館)


にんじんの午睡(ひるね) №6 [文芸美術の森]

Viking

                                    エッセイスト  中村一枝

 長生きしているからそういうことに巡り合うものなのかと今、とても不思議な気がしている。
 私が女学生のころ父尾崎士郎はまあまあの売れっ子作家で、父の所には全国から同人雑誌が毎日のように送られてきていた。当時私は中学生でその雑誌を時々勝手に開けて見たり読んだりしていた。どうして私が数ある雑誌の中でそれに目を止めたのか今となっては何も思い出せない。雑誌名がVikingという横文字だったこと、発行先が関西というのもハイカラな匂いがして私は開けたのかもしれない。雑誌に書かれたものについては何も思い出せない。次にVikingを見たのはいつ頃なのか記憶はない。久坂葉子という宝塚-のスターみたいな名前に惹かれたのだろうか。書かれたものについての記憶はまったくない。私が大学生になってからこの久坂葉子という名前だけは記憶している。この人がその後鉄道に飛び込んで自殺したというショッキングな話だった。神戸のお金持ちのお嬢さんだったとか。写真で見るとはなやかな人だったのでよけいあこがれたのかもしれない。その後もVikingはずつと送られてきていたから、そういう消息はその辺から得られたものだろう。何しろ田舎の女学生だった私にはきらめく星のような存在だった。
 それから60年以上は経っている。わたしはしあわせな結婚もし、子供にも恵まれ40を過ぎてからテニスにも熱中した。わたしの家の一段下がった地続きのような場所にテニスコートがある。そのテニスコートで声をかけてくださったのがKさんだった。華奢でほっそりした体なのに男でも取れないホールをよこす。彼女と親しくなって、といってもテニスではない。テニスに関しては私など及びも付かない大先輩なのだ。見かけは細くて、長年鍛えたテニスの日焼けで顔は真っ黒だけど、どこか品のある整った顔つきのひとである。彼女とテニスなどしたことはない。とてもお相手にはなれないのだ。同じ大森の馬込と山王に住み今は家も近い。Kさんの父上はむかしから馬込で内科のお医者さまだった。室生犀星などとも家族ぐるみの親しいおつきあいをしていた。そんないきさつもあって、Kさんとはテニス以外の親しい友達になっていった。私の息子のお嫁さん、私には義理の娘千恵子はヨガのインスラクターで、インド大好き人間だ。と話すとKさんは眼を輝かせた。Kさんもインドか大好きでもう二度か三度行っているらしい。そのとき、Kさんが言った。「わたしの年下の友達でね。インド大好きの人がいるの。文章書く人でね。ほれこれがそうなの」差し出された雑誌をみて私は思わず叫んだのだ。Vikingの雑誌だった。Kさんのことを文学とは縁のない人だと決め込んでいた私のうかつさ。50年の歳月をへてあのVikingに出会ったのだ。聞けばKさんのお友達大西咲子さんはこの雑誌の 同人て。よく寄稿されているという。
 久坂葉子さんは私よりずっと年上の人だと思っていたが二つ違いのお姉さま。さらに知らなかったが、芥川賞の候補にものぼつていたという才媛だった。 50年が一挙に私の目の前に戻ってきた。インターネットで写真も見た。50年前にも見た気がするが、愛くるしい人だった。人と人とのつながりが生み出す不思議な空間というべきもの時間を乗り越え、ぱっと今につながる。あなたはのんきでいいわとよく人に言われる。たぶんいつも時間を忘れている。足がよたついているのにハツラツも何もないのだけど、なぜかいつも明るくいられる。若い身空で鉄道自殺なんて私のような臆病者には想像すらできないが、久坂葉子さんは闇の中に埋没して死んだのではない。光を求めて明るさを求めて、もしかして何かが彼女に呼びかけたのだろうか。没後60年も過ぎてあなたの蘇りに会える。だから人生はいいのよ。


フェアリー・妖精幻想 №58 [文芸美術の森]

シェイクスピアのフェアリーたち 2

                                 妖精美術館館長  井村君江

オベロンとティタエアを描いた人々

 オベロンとティタこアの月夜の出会いを、フランシス・ダンビイ(一七九三-一八六一)は月影のさしこむ下草を舞台に描いている(『「夏の夜の夢」の情景』一八三二)。
  薄暗い闇に光る妖精たちの蛍火の光に照らし出された白いキノコの影に、インドの取り替え子(チェンジリング)が眠り、透き通る蝶の麹をつけた小さな妖精たちは、二人のけんかを恐れてものかげにかくれている。
 画面の前にころがるドングリの実が、妖精たちの身体の大きさを示し、草の葉に光る露の玉が、月の光を反射し、妖精が提げている蛍の幼虫の光のランプとあいまって、微妙な明暗をもつ妖精王国を浮かびあがらせている。
 「眠るティタニア」は画題としてこれまでに定まった感があり、フューズリもダツドもすでに描いているが、ロバート・ハスキソン(一八二〇-六一)はこれを古典的な道具立てを用いて描くことによって、独自のものにしている(『夏至の夜の妖精たち』一八四七頃)。
 甲胃をまとい盾を手にしたオベロン、盾や槍をかざして、クモやカタツムリと戦う妖精の兵士たちには、ギリシャの英雄の面影がある。妖精の好きなヒユツシャの花が下がる、その下に飛ぶパックは、花をつけた昆虫のようにみえる。
 これらの画面を囲むように描かれた半円のフレームと円柱には彫刻が施され、ロバの首をつけたボトムの眠る姿も描かれているが、それらはすべてギリシャ的である。
 動物画家として知られるエドウィン・フンドシーアー(一八〇二-七三)もシェイクスピア・ギャラリーに、ティタニアとボトムの場面を出品している(一八五一頃)。
 ボトムにかぶせられたロバの首や、野ウサギの毛の質感には写実的な素晴しさがうかがえ、ボトムに寄りそう美しいティタニアのエロティックなポーズと、身にまとう薄衣と、その上に散らばるバラの花もまた、精密な写実である。背景の暗がりに浮かぶ子供の顔をしたパック、野ウサギの背にまたがったり、暗がりにひそむ小さな妖精たちの姿や表情には、不思議な情緒が漂う。右上に描かれた小さな空間にみえる星空と月の光が巧みに、全場面を洞窟の暗さにひきこんでいる。

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                    ランドシーアー『ティタニアとボトム』

 ジョン・シモンズ(一八二三-七六)の描くティタニアも、すべて美しい裸婦の姿をしている。
 『飛ぶティタニア』(一八六六頃)は金髪をなびかせ、露のついた薄い衣をまとい、手には土蛍の灯りをかざし、月夜の森の饗宴へと飛んでいく。かげろうのような麹をつけた侍女たちの行列がつづき、ティタニアの四阿(あずまや)を飾るジャコウバラや夕顔、ハニサクルの花々の中には、よく見ると小さな裸体の妖精たちがひそんでいる。
 ともすればエロティックになる画面ではあるが、ヴィクトリア朝の上流階級の洗練された淑女を思わせる表情とポーズのおかげで、エロスと一線を画している。
 デヴォンシャーのプリマスで生まれたジョセフ・ペイトン(一八二一-一九〇一)は、十四世紀イタリアのクリベリーの影響を受け、リッチフィールドのクライスト・チャーチにテンペラで宗教画を描き、早くから才能を認められていた。
 『オベロンとティタこアの仲直り』(一八四七)はウエストミンスター・ホールのコンクールで賞を獲得し、彼の名を広く世に知らしめたものであるが、ロイヤル・スコットランド・アカデミーに出品した『オベロンとティタニアのいさかい』(一八四九)の絵とともに『夏の夜の夢』の妖精王国をあますところなく描いている。ペイトンの絵のファンの一人であったルイス・キャロルは『いさい』に描かれた妖精を数え、一六五人いたと報告している。
 オベロン王はギリシャ的なコスチュームを着ており、頭には蝶の翅の冠をつけ、ティタニアはトンボの翅。パックはコウモリの羽と耳という姿は『オベロンと人魚』(一八八三)でもみられる。
 眠る恋人たちの夢の素材のような、さまざまな大きさの美しいものや、グロテスクな姿や表情をした小さな妖精たちが、それぞれ、木の上や沼の水の中、下草の蔭や、木々の間で劇的な場面をくりひろげている。芥子の花や桃の実、睡蓮や蔦の葉など、細部に至るまで緻密なミニアチュールのような筆致で描きこまれ、妖精画もここにきわまったような感がある。

『フェアリー』 新書館


芭蕉「生命の賛歌」 №26 [文芸美術の森]

わせの香(か)や 分入(わけいる)右は 有磯海(ありそうみ)

                                     水墨画家  傅  益瑤

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                                                                                  越後から越中の市振へ。芭蕉は新湊の那古の浦に着いた。万葉の時代より知られる藤の花の名所担籠を、秋の景色に思いを巡らせて尋ねたが、一見の価値なしと途中で引き返した。
 早稲の稲田を掻き分けるように越中から加賀の国に向かう。黄金色に広がる稲穂を振り返ると、そこに有磯の海が展ベて見えた。
 描かれた芭蕉の視線と、行き交う農婦の視線。この「円通」の軌道は、現実の中に真実が見つかる。絵に添えられた色彩は、人間の情感である。                                                                         

『傅  益瑤 「奥の細道」を描く 芭蕉「生命の賛歌」』  カメイ株式会社


ロシア~アネクドートで笑う歴史 №28 [文芸美術の森]

第二章 民衆たちのテーブル・トーク
  市民たちが見たレーニンとスターリン 2

                               早稲田大学名誉教授  川崎 浹 

作者が隠れるためのジャンル

 アネクドートの作者を特定するのは困難だという話をしてきたが、逆にいえば、アネクドートのなかのアネクドート、政治アネクドートこそは、まさに作者が隠れるためのジャンルなのであり、無数の民衆の評価によって生きながらえ、民衆の意見の総合的な役割をはたす。KGBや指導層が世論のひとつとして、アネクドートを収集し、管理していたことはとうぜんで、アネクドートのなかでアネクドートが語られ、アネクドートがアネクドートにふれる、いわばメタアネクドートがつぎのような形でそのことを示している。

 KGB内でひとりの判事が査問室から大笑いしながら廊下にでてきた。同僚が、ばったり出会ったので尋ねると、「アネクドートの傑作を聞いたものでね」と答えた。
 「じゃあ、聞かしてくれないか」
 「いや、だめだ。いま、それを話したやつに七年の刑をくらわせたばかりだから」

 つまり、同じアネクドートをしゃべれば、こんどは判事自身も「祖国誹誘(ひぼう)・中傷」の罪に問われておかしくないという背景がある。これは細部の異なる似たようなヴァリアントを有する、いわばクラシック・アネクドートともいうべきもので、ソ連人ならだれ知らぬ者もない。
 実際、アネクドートが原因ではないが、政治的な理由で、昨日まで尋問していた者が粛清の嵐をうけて、翌日は自分が尋問した者と同じ留置場にぶちこまれるという事態が、三〇年代半ばには日常茶飯事になっていた。

ふたりの独裁者

 市民にとって政治アネクドートを語ることは、日常生活への欲求不満のはけ口だったが、それをしゃべる危険度は、現在の日本で銃器業法所持してうける刑罰どころではない。こういうアネクドートがある。

  戦争中にパンを買う行列で一人のユダヤ人がため息をついた。
  「こりゃ全部、ひげ男のせいさ」
  早速、逮捕され、厳しい尋問をうけた。
  「あなたはだれのことをいっているのだ」
  「もちろんヒトラーのことでして」
  「そうですか、だったらあなたを釈放します」
 ユダヤ人は立ち上がってドアの所までいき、しかしドアを閉める直前に、判事にこういった。
 「ところで判事さん、あなたさまは、だれのことを念頭においていらしたのですか?」

 ふたりの独裁者ともにひげをはやしていたが、ヒトラーはまのびした鼻の下を埋めるちょびひげのデザインだが、スターリン(一八七九~一九五三)のひげは威圧的だった。
 独ソ戦のさなかのことで、主人公の「ユダヤ人」を「ロシア人」にとりかえてもおかしくないアネクドートだが、文脈のキーワードはあくまでユダヤ人とヒトラーにある。ヒトラーのユダヤ人迫害や大量虐殺をドイツの同胞がこうむっているソ連在住のユダヤ人にして、かれの口実ははじめてもっともらしく聞こえ、また説得力をもちうる弁明である。それで最後にかれが開き直ったのだ。
 判事がもしユダヤ人でなくロシア人だとしたら、人民を裁く者がすでにスターリンを「ひげの男」と考えていたことになる。では「ヒトラーだよ」と答えれば、論理的にはかれもまたユダヤ人の系譜につらなる。つまりこのアネクドートのとどめをたどっていくと、判事の民族籍の問題にまで突きあたる。

「どっちを張りつけるか」

 アネクドートの制作年は不明だが、政治アネクドートについては、扱われている主題や題材でかなり近い時期まで特定できる場合がある。したがってそのようなアネクドートをたどることで歴史を組み立てることができる。
 一般にアネクドート制作者と制作年は不明なのが当たり前のように思われているが、制作年についてはまれに具体的に記されたのがある。それは編者が一読者として記憶していたり、収集の際に昔の読者から伝えられたものだろうが、それにしても、その編者がアネクドートの制作年に研究者のような執着をいだいているのかもしれない。私の手もとにある粗末なパンフレットには、一〇〇篇の作品のうち四〇編に制作年が記されている。そのなかの例をまず引くことから、二〇世紀の歴史としてのアネクドートの第一歩を刻もう。

  住民に住居が与えられた。はだかの壁ばかりで、ある壁面に釘が一本打たれていた。それに家具といえば、レーニンとトロッキイの肖像があるだけだった。住人がいった。「どうしたらいいか、わからないよ。どっちを吊して、どっちを壁に張りつけるのか」(一九二一年作)

 一九二一年と記されている。一九一七年の十月革命後、ロシアでは共産主義だけが正しいとのプロパガンダが徹底し、ボリシェビキの革命路線にそわない陣営を「反革命」と呼んだ。「反革命」には反共産主義、「反動的ブルジョアジー」というレッテルが貼られた。共産主義の独裁体制が消失した現在でさえ、いまだに「反革命」というコンセプトが鎧(よろい)をつけた亡霊のように、平然と専門家たちの間で使用されている。
 ボリシェビキとは共産主義者のなかの過激派を指している。かれらが赤旗を用い赤軍と名乗ったので、「反革命」側は白軍と呼ばれた。革命後、二一年まで数年にわたって赤衛軍と白衛軍との間で血で血を洗う内戦がつづけられ、トロツキイ(一八七九~一九四〇)は赤軍の軍事顧問として軍の強化に貢献した。華々しい才能にめぐまれたトロッキイはレーニン(一八七〇~一二四)と互角に渡りあった。当時はまだレーニンとトロッキイのいずれが主導権をとり、いずれが追放されるか定かではなかった。
 二人は、共産主義者でない「反革命」側からすれば、同じ穴のムジナであるが、レーニンより文学芸術を理解し、雄弁で、レーニンの死後スターリンに追放された、世界革命の唱道者トロツキイには支持者が多く、のちにスターリンにとって都合のわるい連中はすべて「トロツキスト」として粛清されることになる。
 右のアネクドートはレーニンとトロッキイのどちらが勝ち残れるかまだわからぬ、レーニン神話が成立する前の民衆の率直な見方を反映している、驚くべき早い時期の秀作といってよい。
 「住民に住居が与えられた」とは、内戦中の「戦時共産主義」時代に、ボリシェビキによって収奪された貴族、知識人、商人など元有産階級の館(やかた)が、民衆に分配された事実をさす。
 吊す(ボヴェーシチ)にはもちろん絞首刑にするという意味がある。「張りつける」もまた十字架を連想させる。

『ロシアのユーモア』 講談社選書


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