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玉川上水の詞花 №204 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ネコハギ (まめ科) 

               エッセイスト  中込敦子

nekohagi.jpg 10月早々に上水堤の下草に絡まるようにして、ハギの仲間らしいニューフェースに出会った。

白い蝶型の花の旗弁と言われる扇のように広がった花弁の付け根が、紫色の絵の具を面相筆で色つけたようにくっきり。その澄んだ色がしとやかで大人の色気を。

例によって『草花質問掲示板』に問い合わせたら、ネコハギとのこと。本州から九州、朝鮮・中国に分布し日当たりの良いやや乾いた場所に生えるマメ科の多年草で、地面を這って広がる。直径7~8ミリの花を数個ずつ蔓の所々につける。閉鎖花をつけるそうで、通常の花数は少ないのかもしれない。

3枚セットになった楕円形の小葉も丸っこくて可愛らしいが、葉も蔓も産毛が目立つ。だから猫萩の名前が付けられたと思うのは早合点で、同属のイヌハギに対して付けられたそうだ。しかし、イヌハギの方が図鑑に載ってないことが多く画像がイマイチで、ネコハギとの違いがはっきりしない。

そのうちイヌハギにも会いたいが、ハギに比べて花が目立たず、役に立たないということで『イヌ』がついた落葉低木だそうだ。樹高は1.5メートル位らしい。
 
花 期 
春 3~5月  夏 6~8月  秋 9~11月  冬 12~2月
                  ○

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №98 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

山猫ギャラリー

               銅版造形作家  赤川政由

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猫ドアを、ごしょうかいした、山猫軒ギャラリー。薪すとーぶの、ための、煙突。贅沢にも、銅板で、製作、しました。燕尾服に、山高帽子。ロンドンの、煙突掃除やさんのように、正装してます。いろんなお屋敷に、でいりするために、正装しているとのこです。いいですね。煤で真っ黒くなるのに、燕尾服とは、心意気が、伝わってきます。
30年、やねのうえで、がんばってます。

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山の中に突然あらわれる、不思議な、世界です


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旬の食彩 僕の味 №100 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ワインと料理のマリアージュ

       レストラン・
ヴァンセットオーナー  大澤 聡

ワインの試飲と料理のマリアージュをスタッフと。マリアージュを、考える時いわゆる教科書に、でている相性だとか一般的に言われる、この食材とこのワインは合わないっていうのに縛られて試飲しないようにしています。
最初から決めつけていると何も見えてこないし、発見もないからです。合わないと思われるものにワインをいろいろ合わせて見ると以外にもワインの温度一つで料理とのマリアージュが変わってくるし、抜栓後どのタイミングで飲むかでもいろいろ違ってきます。何種類ものワインを、開けて、当時飲むのか、3日後ななか。一週間置いてみるとかできるのは、お店の特権です。
スタッフとのワインの試飲と料理の試食は自分の感じたことを好き勝手に言います。そのやりとりが新しい料理を作るきっかけに、なったりするので面白いです。

昨日は、お客様と食事へ。鮨とシャンパンのマリアージュ。つまみで白子。シャンパンはブランドブラン。
これぞマリアージュという組み合わせでした!
その後もシャンパンはやはりなんでも合うって感じでした。鮨との相性。
食事の後半シャンパンをグラスに残して温度が上がってきて泡が弱くなっている状態でした。これがとてもよかったです。ネタの温度や香りと良く合いました。赤身との、相性も。ウニとあったのは以外でした。
ワインと料理のマリアージュいろいろ試すのは楽しいですね。
来月からヴァンセットでも白子を使おうと思います。12月はクエもかな。
美味しいものを食べるとつい飲み過ぎてしまいます。自分は、よく撃沈するので気をつけようと思います。ちなみに今朝は元気です。
飲む前に飲んだから。

東京都立川市柴崎町3-5-2むつ花ビル2F  042-526-6716 
ヴァンセット27シェフブログ  http://www.sprasia.com/tv/user/vanset/blog



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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №90 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

玉電(東急世田谷線)  
                       岩本啓介                                  

玉電110周年記念 招き猫電車参上                             
世田谷線の前身、玉川線渋谷駅~玉川駅開通110周年を記念し、招き猫電車が走っています。

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環七横断中の まねき猫                                  
環七通りと平面交差の若林踏切では招き猫電車も信号に従い ストップ&ゴーです。
   
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渋紙に点火された光と影 №24 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

雑草(エノコログサ)

               型染め版画家  田中 清

雑草(エノコログサ).jpg

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多摩のむかし道と伝説の旅 №7 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

お鷹の道からはけの道へ 歴史・伝説。文学をたどる道 2

                       原田環爾
7-1.jpg
 ぬかるんで馬も滑って骨を折ったという「くらぼね坂」を左にやり過ごすと貫井神社の前に来る。湧水が湧き出る泉井があることで知られている。境内の池の中央には朱色の橋が架かり、その先に本殿がある。本殿左奥に入ると湧水口がある。祭神は市杵島姫命と大己貴命。創立は天正18年(1590)、貫井弁財天として奉祀されたが、明治8年神仏分離令により厳島神社と改称。その後貫井村にあった貫井神社を合祀し、以後村社貫井神社と称したという。本殿は昭和60年火災にて焼失し翌年の昭和61年再建された。
 新小金井街道のガードをくぐると薬師通りに入る。武蔵国分寺の薬師堂へ通じる道であることからこの名がある。すぐ左のハケの坂道を上げれば7-2.jpg滄浪泉園がある。大正期に三井銀行の役員、外交官、衆議院議員などを歴任した波多野承五郎氏の別荘として整備された。滄浪泉園の名称は大正8年この庭に遊びにきた元首相犬養毅(雅号・木堂)によって名づけられた。意味は「手や足を洗い、口をそそぎ、俗塵に汚れた心を洗い清める、清々と豊かな水の脇で出る泉のある庭」という。入口に立つ石の門標に刻まれた“滄浪泉園”という文字は木堂翁自らの筆になる。昭和に入り三井鉱山役員川島氏の所有となったが、昭和52年東京都が買収し緑地保全地域に指定された。庭園の面積は比較的狭いが、当初は今の3倍の広さであったという。
7-3.jpg 茶房「はけの道」を右にやり薬師通りを進むと幡随院の前に来る。お寺らしからぬモダンな門の中には修学院離宮を模したという見事な庭園が広がる。幡随院は慶長15年(1610)浄土宗の京都知恩院の末寺として幡随意白道上人によって神田駿河台に新知恩寺として創建されたが、明暦3年(1657)の振袖火事で浅草に移転、更に大正11年関東大震災で被災し昭和14年に現在地に移転した。ところで幡随院は浅草花川戸の侠客幡随院長兵衛(1622~57)とは少なからぬ因縁があるという。長兵衛が花川戸で人夫の口入業者をしていた頃、人を殺めた罪で危うく処刑されるところを幡随院の住職に助けられた。のち顔役となった長兵衛はこのことから自らを幡随院長兵衛と名乗ったと伝える。ただ度重なる火災で証明する資料は無く、住職から住職への口伝えという。
7-4.jpg 7-5.jpg7-6.jpg小金井街道のガードを抜けると西念寺と墓所がある。墓所には多摩の侠客小金井小次郎の墓があり、明治35年造立の山岡鉄舟筆跡になる追討碑「小金井小次郎君追悼碑」が立っている。小金井小次郎の本名を関小治郎と称し、代々名主の家柄で関野新田を開発した関勘右衛門の遠孫に当たる。幕末から明治に小金井、調布、府中を中心に多摩で羽振りをきかした侠客だ。安政3年38歳の時、喧嘩の罪で三宅島へ12年もの遠島の受刑を受けている。赦免後は調布で飯盛茶屋を経営し、深大寺の縁日には小次郎一家が集まって博奕を開帳したという。清水次郎長をはじめ江戸の火消しの大親分新門辰五郎とも親交があった。小次郎を一躍有名にした事件がある。天保11年(1840)小次郎の兄が博打で負けた折の処理をめぐって小川の幸蔵と衝突。小次郎は12人の子分を、幸蔵は20~30人の子分を連れて玉川上水と鎌倉道が交わる二ツ塚で大喧嘩となった。結果は小次郎の灰を使った目潰し戦法で勝ったという。共に死人を出したという。なお西念寺近くの小金井神社には小次郎が寄進した狛犬がある。
7-7.jpg さて西念寺の筋向いの金蔵院の前からいわゆる「はけの道」が始まる。そのスタート地点に谷口家の屋敷がある。元は下小金井村名主の隠居所で、邸内にある金泉草露という湧水は小金井(黄金井)の地名の由来となった。その右隣り辺りに小金井小次郎の関家があった。傍らのハケを上が7-8.jpgる小路(車屋の坂)は北約2km離れた所を流れる玉川上水の畔にあった陣屋へ通じる道であったことから陣屋道と呼ばれる。関勘右衛門はこの道で自宅と陣屋を往還しながら関野新田を開発したのであろう。
7-9.jpg はけの道を進むと程なく「はけの森美術館」前に来る。ここは旧中村研一記念美術館で、元は洋画家中村研一氏が後半生を過ごした屋敷跡であった。昭和16年小金井市に寄贈され平成18年市立美術館「はけの森美術館」として開館した。美術館の裏の「美術の森」はハケを利用した庭園7-10.jpgで、戦後ベストセラーとなった大岡昇平の小説『武蔵野夫人』のモデルになった所だ。ちなみに大岡昇平はここより少し先のムジナ坂の傍らの富永邸に寄寓し、中村研一画伯と親交するなかで小説「武蔵野夫人」が誕生したとされる。小説は野川に近いハケを舞台に大学教授の貞淑な妻道子と、戦地から復員してきた従兄弟の勉との間の微妙な心の動きを描写した心理小説で、昭和26年映画化もされた。道子と勉が野川の水源を訪ねて散歩するシーンが最も印象的である。
 広大な都立武蔵野公園を右にみて進むと次第に野川が接近してきて、やがて都立野川公園との境に架かる二枚橋の袂に来る。以前は橋の袂に塵焼却場とその余熱を利用したプールがあったが今はない。この二枚橋付近は今は二つの公園に挟まれた瀟洒な場所だが、かつては馬の死骸の捨て場で決して気持ちのいい場所ではなかったという。そのせいか二枚橋には奇怪な伝説が残されている。
7-11.jpg7-12.jpg 昔、小金井の東南の淋しい山道を流れる野川に、調布や染谷を結ぶ一本の丸木橋がかかっていた。染谷の庄屋の息子は小金井の山守の娘と恋仲となり、夜毎この橋の袂で逢瀬を重ねていた。やがて村中の評判となり、頑固な庄屋の怒りを買うことになった。二人は実らぬ恋とあきらめ、渦巻く野川に身を投げてしまった。暫くしてその娘の怨念が大蛇になって住みつき、もう一本の幻の丸木橋に化けて村人を惑わし、通る人を川に落とした。庄屋は若い二人の魂を哀れんで二人の供養にと、大木を二枚に挽き割って橋を作り霊を慰めた。以来村人はこの橋を二枚橋と呼ぶ。
7-13.jpg またこんな伝説もある。ある夜、一人の武士が二枚橋を通りかかると、ぼさぼさの白髪の老婆がとぼとぼと歩いてきた。やがて老婆はうづくまってしまったので、武士が問いただすと、病の一人息子を尋ねる所だが息切れして歩けないという。そこで武士は老婆を背負って連れてやることにした。ところがしばらくすると、突然ものすごい怪力で首を締め上げてきた。あわやという時、武士の刀の目貫につけてあった閑古鳥の彫物ががたがた音をたてて二声三声鳴いた。すると老婆は「ああ夜が明ける」と言い残して、風のようにどこかに消えていった。武士はあやうく助かったという。
 いわゆる「はけの道」はここで終わるが、ハケ道はこの先延々と続く。今回はひとまずここまでとし、二枚橋の坂を上って西武多摩川線の新小金井駅か、JR中央線の東小金井駅に至るものとする。
                                                                        

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多摩のむかし道と伝説の旅 №6 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

お鷹の道からはけの道へ、歴史・伝説・文学を巡る道 1

                       原田環爾

 崖線を多摩言葉で「ハケ」と呼ぶ。古多摩川によって削り取られてできたという。多摩にはいくつかのハケがある。武蔵野台地と立川段丘を分ける国分寺崖線、立川段丘と多摩川低地を分ける府中崖線、立川・国立付近の多摩川低地に見られる青柳崖線がある。これら崖線のうち国分寺崖線は多摩地域に於ける最大の崖線だ。立川砂川九番辺りに端を発し、国分寺、小金井、三鷹、調布、狛江を通り、世田谷を下って大田区へ至る全長約30kmの段丘崖である。古くは武蔵野の長土手などと呼ばれた。ハケから流れ出る湧水は川となって崖線下を流れる。野川はそうした国分寺崖線下を流れる川である。水のある所は生活環境にすぐれ、古くから人々が住みつき集落を形成した。そうした集落と集落を人々が行き来してハケ道が発生し、やがてその道筋に文化や歴史が生まれる。実際ハケに沿っては古社寺も多く、またハケを巧みに利用した庭園も多く見られる。戦後ベストセラーとなり、映画にもなった大岡昇平の小説「武蔵野夫人」の舞台にもなった。

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 野川は国分寺駅北側の日立研究所構内のハケからの湧水を集めた大池を水源としている。元は明治期の鉄道事業家今村清之助の子で、今村銀行の頭取を務めた今村繁三が大正時代に建てた別荘であったが、昭和15年日立研究所となった。大池の水門から流れ出た水は崖線に沿って東南方向に流れ、二子玉川の兵庫島付近で多摩川に注ぎ込む全長約20kmの川である。

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 一方、国分寺崖線下に連なるハケ道は、地域によって特別な名称で呼ばれている。例えば国分寺市域の「お鷹の道」、小金井市域の「はけの道」などである。ちなみにお鷹の道は江戸時代の寛延元年(1748)この辺りが尾張徳川家の御鷹場に指定され、鷹狩の折にはこの道筋を行き来したことからこの名が付いた。
今回は国分寺から小金井にかけてのハケ道を辿り、道筋に残る歴史・文化遺産、エピソードや伝説などを紹介したいと思う。

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 西国分寺駅南口を出て史跡通りを抜け、多喜窪通りを越えると崖線を下る鎌倉道に来る。坂東武者が駆け抜けた道筋である。鎌倉道を下ると武蔵国分尼寺跡があり、更に武蔵野線のガードを抜け府中街道を横切ると広大な武蔵国分僧寺跡が広がる。天平13年(741)わが国を浄土にしたいと願う聖武天皇の国分寺造営の詔により、約20年の歳月をかけて創建された。当時3km南の府中にあった国府を鎮護するため、古代中国思想「四神相応の地」に則りこの地が選ばれた。金堂、講堂、七重塔を含む僧寺、尼寺等、七堂伽藍を備えた東西約900m、南北約550mという広大な敷地であった。七重塔は60mもの高さであったと言われる。塔は承和2年(835)落雷により焼失、その10年後男衾郡(埼玉県大里郡寄居町)の長官壬生吉志福正によって再建されたが、元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めの際、分倍河原の合戦の巻き添えですべて灰燼に帰した。ただ元弘の変後の建武2年に建てられた薬師堂が崖線の傾斜面に残されている。新田義貞がお詫びに寄進したものだ。元は金堂跡付近にあったが、江戸時代に現在地に移築再建された。

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 薬師堂前から国分寺駅南の崖線下の不動橋までをお鷹の道という。見どころは中ほどにある真姿の池だ。湧水池と赤い鳥居の弁財天の組み合わせが味わい深い。なお湧水池を真姿の池と呼ぶのにはこんな伝説がある。

6-7.jpg6-8.jpg 今から1150年ほど昔のこと、玉造小町という美しい娘がいた。不幸にも癩病にかかって顔が醜くなってしまった。そこで武蔵国分寺の薬師如来に祈願したところ、21日目に一人の童子が現れてこの池の水で身体を洗えとのお告げがあった。そこで言われた通りにすると、7日目には病は治り元の美しい姿に戻ったという。このことから里人はこの池を真姿の池と呼ぶ様になったという。

6-9.jpg 不動橋でお鷹の道を後にすると殿ヶ谷戸庭園のハケ下の道になる。殿ヶ谷戸庭園は、大正2年から4年にかけて、後に満鉄副総裁になった江口定條氏の別邸として造られた。その後昭和4年、三菱財閥の岩崎彦弥太氏の所有となり、本館、茶室(紅葉亭)などが追加整備され和洋折衷の回遊式林泉庭園が完成した。昭和49年東京都が買収、昭和54年都立庭園として一般公開された。崖線をたくみに利用した庭園で、園内にはハケからの湧水が注ぐ次郎弁天池や、その池を見下ろす紅葉亭があり、絵にも写真にもなる景観を呈している。またレトロな管理棟には江口定條氏や岩崎彦弥太氏が所有した頃の別6-10.jpg邸の様子が写真で紹介されていて興味深い。

 続いて東京経済大学のハケ下の道となる。大学の前身は大倉経済専門学校で、昭和20年この地に移転してきた。構内の東端には新次郎池と呼ぶ湧水を集めた池がある。元は「諏訪の出」と呼ばれていたが、北澤新次郎学長が整備したことからいつしか新次郎池と呼ばれるようになったという。



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玉川上水の詞花 №203 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ヤマジノホトトギス (ゆり科) 

               エッセイスト  中込敦子

yamajinohototogisu.jpgホトトギスの仲間は10種類程あると言われている。上水の土手では、ヤマホトトギスとヤマジノホトトギスの2種類が見られる。

どちらも30~60センチ丈の茎の先端と葉の付け根に腺毛のある花柄を出し、透き通るような白地に紫紅色の斑点を散りばめた花をつける。

この斑点が鳥のホトトギスの胸の斑に似ているところからホトトギス(杜鵑)の名が付けられたといわれる。

ヤマホトギスは6枚の花被片が下向きに反り返り黄斑があるのに対して、ヤマジの方は水平に開き黄斑はなく花数も1~2個しかつけない。

どちらも花の中央にある雌しべの花柱が突き出して3つに分かれ、噴水を上げているように見える。

小松橋下流の斜面にヤマジノホトギスの小さな群落が残っており、間伐の効果か株数が持ち直しつつあるのは嬉しい。

いわゆる園芸種のホトトギスに比べて、野生種は清楚で優しい。

花 期 
春 3~5月  夏 6~8月  秋 9~11月  冬 12~2月 
                    ○ 


 

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №98 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

山猫ギャラリー

               銅版造形作家  赤川政由

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埼玉県越生にある、山猫軒ギャラリーは、今年、30年をむかえました。龍ヶ谷の、山のなかに突然表れる、木造の、洋館。屋根には、銅板の、煙突があり、えんとつそうじのおじさんが、のぼってます。地元の、山から切り出された材木で、作られ、釘を使わない工法が、つかわれてます。まずは、おどろかされるのは、入り口の、扉です。怖そうな山猫の顔が、お出迎え。まさに、ご存知、注文の多いレストランです。
銅板で作られたドアで、口の部分は、ステンドグラスが、使われてます。ボンズ作品としては、めずらしい表情です。11月3日より、一月間。金曜日、土曜日、日曜日で、このギャラリーで、ボンズ&その子の、二人展を、開きます。不思議な、山猫軒ギャラリーに、是非ともお越しください。


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旬の食彩 僕の味 №99 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ジビエのテリーヌ

              レストラン・ヴァンセットオーナー  大澤 聡

秋も深まり、ジビエの季節が始まります。
今年もスコットランド雷鳥、山鳩、山ウズラ、イノシシ、蝦夷シカなど入荷さしています。
もはやヴァンセットの定番になったジビエのテリーヌは、毎年いろいろな、変化を遂げてきました。
今年は、どうなるのか。
頭の中で、試行錯誤しながら一つの形へと進むためには、丁寧な、仕込みが必要です。特にこのジビエ。体内に散弾銃の弾が、はいっているのでその弾を取ります。鶏をさばくのと同様でありますが、骨が折れていたり砕けていたりとなかなか手強いです。毛抜きから始まり、解体。さばく時に体内の、散弾銃の弾を取り除いたり中に、入り込んだ毛をぬいたり。

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胸肉は、さばいた後はマリネ。酒と香辛料。
手羽、モモは、コンフィに。身離れがよくなるのと、旨味がまして、奥深い味わいになります。
骨とスジで出汁をとりこれを煮詰めます。
この煮詰めた出し汁もテリーヌに混ぜ込みます!すべて使い切る。羽根以外です。
しかやイノシシ肩ロースは、小さめに角切りに。山鳩や山鳩、雷鳥の胸肉も小さく切ります。
レバーやハツは牛乳と酒で漬け込んだものを水気を切ってオリーブオイルでソテー。
これらを挽肉に。マッシュルームやグリーンペッパー、クルミを入れます。

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塩、胡椒、卵をいれ入れてこねる。ひたすらこねる。息切れ。
そしてまたしっかりと、粘りがでるまでこねる。手の感覚が麻痺するくらいこねる。
それをテリーヌ型に詰めて焼きます。
160度から180度くらいの温度で一時間半くらいやいて重石をして冷やします。氷水をテリーヌ型の周りにガッツリと敷き詰めて。
これで出来上がりですが、このテリーヌを真空パックにして味が馴染むのを待ちます。とにかく待ちます。最低でも一週間。そうすると味がまとまり美味しくなります。
切り分けてアラカルトなら一枚を皿にのせてミックスマスタードを添えて、
さあ召し上がれ!ジビエのテリーヌの完成!
11月からディナーメニューで最初に登場します。

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立川陸軍飛行場と日本、アジア №151 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 満州(中国東北地方)に派兵された部隊、最初の帰還

           近現代史研究家  楢崎茂彌

  前回紹介したように、上海に派兵された飛行第5連隊の本隊は6月5日に帰還しましたが、満州に派遣された部隊の一部が7月23日に立川に帰還します。「東京日日新聞・府下版」(1932.7.24)は次のように伝えています“去151-1.jpgる四月二十四日桜ふぶきの原隊を後に篠原隊付きとして満州に出征した立川隊の野末一等銃工長(曹長)以下は、二十三日午前七時三分立川駅着の電車で凱旋した。”例によって青年団・在郷軍人会・小学生などの歓迎を受けて、野末曹長一行は56日ぶりに営門に入ります。上海派遣部隊の初帰還に比べて、新聞の扱いは小さく、写真を見ると上官らしき軍人は万歳をしていません。何か微妙な雰囲気を感じるのは深読みに過ぎるでしょうか。連載NO138で紹介したように、飛行第5連隊の満州初派遣部隊は満州事変の直後の11月15日に出動しています。今回帰った軍人たちは、後から行って先に帰るので複雑な気分だったのではないかと思います。
 では、11月に派遣された部隊はどうしているのでしょう。前回紹介したように飛行第連五連隊創立10周年記念祝典で式辞を述べたのは鈴木代理司令官でした。辻連隊長はなぜ参加しなかったのでしょう。
 こうした疑問に「戦史叢書・陸軍航空の軍備と運用」(防衛庁防衛研修所戦史室編 朝雲新聞社・1971年刊)が答えてくれました。同書は、満洲での第5連隊について次のように説明しています。
“四月五日、飛行第五連隊第二中隊(偵察)が満州に転用された。これは同日に発令された第八、第十師団の満州派遣とも関連し、また北満方面の討伐作戦強化に伴い、現地の航空兵力を充実するためである。
… 昭和七年六月六日、陸軍中央部は在満航空部隊を統合強化した。
関東軍飛行隊
飛行隊司令部(長 大江亮一少将ー14期)
飛行第十大隊(長 辻邦助大佐ー17期)    
      本部   内地の飛行第五連隊から要員差出
      第一中隊  在満飛行第五連隊第二中隊充当
…偵察の第十大隊は、偵察機(注 八八式が主体のようであるが、細部不明)各六をもつ三コ中隊、予備機十五を151-2.jpgもつ材料廠からなり、その保有機数は三三機である。総員は四一四名であり、其の操縦者は最小限一八名(うち三分の一が将校)、偵察将校は一八名である。”
 関東軍飛行隊は統合強化の結果、偵察3中隊、戦闘4中隊、爆撃2中隊で構成され、116機を保有することになりました。立川の陸軍飛行第五連隊は、関東軍飛行隊の偵察を担う要員を提供し、辻邦助飛行第五連隊長は関東軍飛行第十大隊長となるために満州に渡っていたことがわかりました。
 7月14日の「東京日日新聞・府下版」には、上海事変に参戦した飛行第五連隊の偵察機が撮影した航空写真が掲載されました。記事は“これは我が五連隊が苦心結果撮影した貴重なもので、一目敵陣地の配備を知り、我が歩兵等がこの写真地図を基として攻撃に効果を高めたものである”と説明しています。地面の無数の小穴は爆弾の跡です。
 満州の関東軍に編入された第5連隊偵察隊の活動記録は見つけることが出来ていないので、小布施氏寄贈の愛国151-3.jpg第四号機(八七式軽爆撃機)の活動報告によって満洲での航空部隊の活動の様子を見てみます。
“八七式軽爆撃機は爆撃及偵察共に容易なるをと、航続時間が少ないために距離に掣肘せられ、遠距離の爆撃には屡屡(*しばしば)参加せざることあり。
…第二回の戦闘参加は村井支隊東支本線河拉河子待避駅(*ハルビンから東へ261km)附近の敵を攻撃中にして、横河子には十列車ありとの情報に接し、四月二十七日、二十五瓩爆弾八発搭載し、午前八時四十分哈爾浜(*ハルビン)飛行場出発同十時四十分我が戦場上空に達し、信号拳銃を発射村井旅団に連絡の後、所命の捜索をなしたるも、特に有利なる目標を発見せず。退却中の敵列車海林(*ハルビンから東へ333km、牡丹江の隣駅)山石中間駅(*石河中間駅と思われる)に停車しありしを以て之を威嚇すべく、同駅北面畑中に全弾を投下し大いなる恐威を与え(司令部より列車、駅等東支線に対する爆撃は禁止せられあり)。午後零時四十分帰還せり。飛行時間四時間に及べり。此日は蒙古風襲来紅塵万丈風荒み、天日を見ること得ざるも、友軍の戦闘を容易ならしむる為空中勤務者の努力により任務を達成帰還せり”(「航空事情・96号」1932年10月刊)【(*)は筆者注、距離や駅名訂正は「東支鉄道年報 昭和七年」によった。】
 東支線とは、中国東北地方の満洲里から哈爾浜を通って中露国境に向かう線と、哈爾浜から南下して長春(満州国時代は新京)に至る中国の鉄道です。長春から大連までは日露戦争により日本が手に入れ満鉄(南満州鉄道)となっていました。この記録によると関東軍司令部は列車や駅に対する爆撃を禁止しています。一般市民を巻き添えにした錦州爆撃が国際世論の批判を浴びたので、この指示を出したのでしょうか。あるいは、この記事は一般向け151-4.jpgの雑誌のものなので、筆者「飛行第YZ大隊第二中隊」氏が、敢えてこのように書いたのかも知れません。
                                                                           
 空中射撃演習
 6月29日、折からの天候不良をついて8機のサムルソンが明野飛行場に向けて飛び立ちました。明野では射撃演習が行われる予定です。サムルソンはこの演習を最後に八八式偵察機に替わるので、最後の演習となるわけです。
 
 日本飛行学校の尹公欣(ユン・コンフム)君、郷土訪問飛行に飛び立つ
 7月6日、朝鮮半島の平安北道出身の尹公欣君(21)が、学友の正田マリ子さんなどに見送られて立川陸軍飛行151-5.jpg場から故郷訪問飛行に飛び立ちます。尹君は、前年5月に日本飛行学校本科を卒業、8月末には操縦科に入り、この年5月には二等飛行士となった優秀な生徒で、操縦する飛行機“白号”はサムルソン2A2、飛行には中村正首席助教官が同乗します。出発に際して尹君は“同乗の教官と共に千八百余キロの空の旅で、先ず日鮮融合の実を見せる考えです。郷里の後援会の人々の期待に副うように慎重に果たしたいと思います。私の微力が日鮮融合に幾分でも役立てば幸いです”と語りました。
 実は、日本飛行学校の生徒の郷土訪問飛行はこれが三度目です。昭和3(1928)年に小西利明君が伊予の松山で墜落死、翌年にも飯田重君が松山付近で墜落して危うく一命をとりとめています。今回は三度目の正直と行きたいところですが、二度あることは三度ある、尹君が操縦する白号も広島に墜落してしまいます。彼は立川に戻り再起を期しますが、日本飛行学校の伏見善一教官は相次ぐ失敗について次のようにコメントしています。(「東京日日新聞・府下版」1932.9.4)
“いろいろな原因があるが、先ず第一に無理がある事である。これは郷里の後援会の日取りその他で、雨の日でも飛ばねばならず、今度の尹君がいい例で雨を侵して急いで大阪を出発したのが主な原因であった。第二は飛行場である。これは飯田君がいい例、学校の庭では狭いがといったのに、何大丈夫だといわれ他に適当なところがないので、近くの学校を離着陸に使用したためで、明らかに無理があった。小西君の時も同様、こうした問題は操縦者の技術が悪いというより、訪問飛行特有の悪い条件によるものである。郷里へ翼を飾って気持ちの上に変化が来て失敗するなどということは、末の末で私は搭乗員に同情しているが、これも研究の一つでどうにでもなるので、今後は慎重を期したい。”
 無理があれば止めればいいのに…。朝鮮人女性飛行士朴敬元さんの郷土訪問飛行は翌年に迫っています。

写真一番上 「駅前で凱旋兵の万歳」       東京日日新聞 1932.7.24
写真2番目 「乙1機の撮影した敵陣地」      東京日日新聞 1932.7.14
写真3番目 「昭和12年6月現在の満洲国全図」「満州鉄道まぼろし旅行」 川村湊著
写真4番目  「第四中隊機」            東京日日新聞 1932.6.30
写真5番目 「地図を研究する両君 向かって右尹君」   東京日日新聞 1932.7.6


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №89 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

越後の山   
                       岩本啓介                                        

かがやく大鳥居 弥彦線                                  
弥彦神社の大鳥居が朝の光に赤くかがやきます。 
 
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雪月花 越後トキメキはねうまライン                             
妙高の裾野を走る『越後トキメキはねうまライン』                                  
『雪月花』は 昔風に言えば豪華な『食堂列車は土用休日の限定運行です。            
一度の乗車で海と山の景色を堪能できます。                                  
その景色には こだわりの海の幸、山の幸もぎっしりです。

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押し花絵の世界 №50 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「コスモスの香り」

                押し花作家  山﨑房枝 

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                       56cm×47cm﨑

秋の花が主役の花絵額コンテスト 入選作品
美しいコスモスが咲き誇る花園にデルフィニウムで制作したブルーの鮮やかな蝶々が舞い降りる様子を表現しました。
後方のコスモスはそのまま使用し、手前のメインのコスモスは花の裏に押し花専用の花貼りシールを貼り、花の形に切り取り花びらの色を濃く見せる事によって遠近感を出しました。
背景は白い布地に淡くパステルで描いています。


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渋紙に点火された光と影 №23 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

尾花

                型染め版画家 田中 清

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玉川上水の詞花 №202 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

コセンダングサ (きく科) 

               エッセイスト  中込敦子

kosendangusa1.jpg 9月末から10日ほどご無沙汰している間に、上水堤の野草は寂れて冬支度に入った気配が漂っていた。自然は季節を先取りしているように思う。
そんな中で目に付いたのが直径1センチ足らずの渋い黄色のボンボンみたいな花を2~3個つけたコセンダングサ (小栴檀草)だった。上水堤の至る所に繁殖しており、秋半ばまでよく見かける。
 世界の温帯から熱帯にかけて広く分布する1年草で、日本に入ったのは大正時代。葉は1枚の葉が大きく切れ込んだ複葉で、このような複葉は羽状複葉と呼ばれる。
その葉が栴檀に似ていることが名前に由来している。
 集合花の周りに白い花弁をつけたセンダングサもあるが、通常見られるのはコセンダングサのようだ。
 頭は筒状花のみで地味でわびしく見えるが、花の後にできる痩果の先端に2~4本の棘があり、衣服や動物の毛にくっつきやすい。
 帰化植物が繁殖力旺盛なのは種子を散布するメカニズムを備えているからだろう。川原などでは群生している。
 
花 期 
春 3~5月 夏 6~8月 秋 9~11月 冬 12~2月 
                      ○   

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №97 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

湯布院の、麓舎コレクション

               銅版造形作家  赤川政由

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湯布院で、 ペンション麓舎(ふもとや)を開いてる佐藤晶さんは、子供の頃からの友人です。広い敷地に、いくつかの、ボンズ作品を、展示してくれてます。この夏、またひとつ作品が、ふえました。大きな岩のようにみえるオブジェです。銅板を叩いて、張り合わせた岩のようにみえるオブジェ。ボンズ作品としては、めずらしい、抽象作品です。板金による造形は、軽いので、空に浮いてるような展示をしました。じつは、手でたたくと、ぼんぼんと、いい音がして、叩く場所によって違う音が、します。音具体的彫刻としても、たのしめます。イメージを大きく広げるため、『ギャラクシーピース』(銀河のかけら)となずけました。広大な宇宙の小さなかけら、私たちもまた、そういう存在ですね。前回ご紹介した、レストラン、ムジカのカッパも、あわせて、訪ねて見てください。


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立川陸軍飛行場と日本、アジア №150 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 第五連隊本隊、上海から帰還

                          近現代史研究家  楢崎茂彌

 列国の目を満州からそらすために日本軍が起こした上海事変は、3月1日に満州国を建国したことで目的は達しました。そして、5月5日には“上海停戦協定”が結ばれます。この日、陸軍は停戦協定成立に伴い上海派遣軍部隊全体の内地帰還の検討を始め、5月10日に“上海派遣軍司令官に対し陸軍部隊(憲兵隊を除く)を全部内地に帰還せしめらるる予定なる旨内報する”(「北支に於ける停戦交渉経過概要」関東軍司令部)と、陸軍部隊の帰還を決めます。立川の飛行第5連隊は4月7日(連載NO146)と4月30日(連載NO147)には一部が帰還していますが、いよいよ本隊が帰還してきます。
150-1.jpg  まず6月1日に、露払いとして村崎勝大尉以下○○名が午後3時14分立川駅に到着しました。村崎大尉率いるこの部隊は、飛行機○○台や器材を陸揚げするため本隊より一足早く大阪に上陸したのです。
 本隊は6月5日午後1時14分品川駅に到着します。新聞は次のように書いています“万歳の嵐、歓呼の渦、殊勲の空軍凱旋 身動きならぬ人の波、旗の波 雨煙る品川駅の歓迎”(「東京日日新聞・府下版」1932.6.6)。品川駅では陸軍首脳の歓迎を受け、い150-2.jpgよいよ立川に向けて出発します。同じ新聞は“上海駐屯四ヶ月数々の勲功を奏したわが立川隊の派遣軍鈴木越郎中佐以下○○名は五日三時八分、軍用列車で立川駅着渦巻く万歳の中を堂々凱旋した。実に百十八日目、将士一人々々死線に飛躍して、武運強く一兵も失わず鈴木指揮官以下が用兵の妙を発揮した輝かしい凱旋であった。”
 今回の作戦で、第5連隊は“武運強く一兵も失わず”に帰還しましたが、中国兵や民衆の命を奪ったのでしょうか。新聞は第5連隊偵察隊の任務を次のように説明しています。
“二月下旬より三月上旬まで百余回の飛行を行ったが、任務は主として敵陣地の偵察で、海軍機や戦闘機のようなはなばなしい手柄はなかったが、何時も友軍のお膳立てをする役柄で、全軍のよき女房役であった。特に敵陣地の写真撮影は最も重大な任務で、我○隊の撮影した写真を基として射撃を行った砲兵の砲弾は百発百中であった”(「東京日日新聞」1932.6.5)。このように、第五連隊は中国人の命を直接奪うことも無く、無事帰還したことになります。直接敵兵と対峙する歩兵と違って、今回は将兵のトラウマは小さかったことでしょう。
 中隊長として上海に派遣された山口槌夫大尉は雑誌「航空事情」に次の様に書いています。
“私は上海事変に立川の航空隊の中隊長として戦闘のはじめから参加しましたが、短期間の浅薄なる体験談を致しますことは甚だ恐縮する所であります。…
 この会戦に参加致しましたのは陸軍側では立川の第五連隊より偵察一大隊(二中隊)、各務原の第一連隊の戦闘一箇中隊であります。
 此等飛行隊は二月十五日に上陸し一方では飛行機を組立て、他方では上海東郊外に支那人を使って飛行場を設備し、十七日夕刻には偵察隊の方では各中隊二機宛試験飛行をやることが出来ました。
 第九師団の攻撃は全般の関係上急ぎますので十七日陸軍の偵察将校を海軍機に乗せて偵察させましたが、十八日からは自隊の飛行機も偵察できる様になりました。…
 海軍の飛行隊は私どもの上陸以前から、お隣の飛行場を使用し主として市街地や敵飛行場などに爆弾投下したり、また空中戦闘等をいたしまして大変陸軍の作戦を援けて貰いました。
 対陣状態になりましてから新式偵察機の一中隊、爆撃一中隊が増加され海軍の方は引き揚げることになりました。
 戦闘に参加した偵察機も戦闘機も共に旧式のものでありまして、皆様御承知の愛国機即ち八八式偵察機や第九一式戦闘機とは比較にならん性能の落ちたものでありましたが、すでに優秀機は満州方面に出払って居まして已む得ず、大胆にも列国監視の上海に之を揚げて出陣したものであります。この所は相手が相手だからともいえますし、上司が私たちの腕を御信頼下さったからだとでも申して置きましょう。
 然し若し敵に優秀な飛行機があったなら一体上海事変はどんなになって居たでしょうか。
 飛行機は平時に於いては其国文化を表彰し、戦時に於いては兵が強弱を知る標準であることを良く考えていただきたいと思います。”(雑誌「航空事情・95号」1932.9航空会刊)(「支那人」は差別用語ですが、敢えて原文通りにしました)
150-3.jpg この文を読むと、市街地と敵飛行場を並列に扱って爆弾を投下することが当時の軍の常識であったことが分かります。
 陸軍飛行第五連隊、創立一〇周年記念祝典
 6月19日、立川の飛行第五連隊創立記念、凱旋の大祝典が、軍民合同町を挙げて行われました。第五連隊の前身に当たる航空第五大隊は大正10年12月に各務原で編成され、翌11年8月飛行第五大隊と改称され、11月10日に立川に移駐して来ました。そして大正15(1926)5月に飛行第五連隊と改称されています。この祝典は創立10周年ではなく、立川に来て10年の祝賀ということのようです。
150-4.jpg 当日は午前9時連隊全員が第二格納庫の前に整列、鈴木代理司令官からの式辞、来賓が祝辞を述べました。10時になると代理司令官や遺族が、航空神社に参拝して空の殉職者の慰霊しました。航空神社は、戦後に太陽神社となり、今は駐車場の一角に祠だけがひっそりと残っています。航空神社については連載NO62でくわしく述べていますのでお読みください。
 午前10時、立川尋常高等小学校(今の立川1小)児童1300名が校庭に集合、小旗を振って軍歌を歌いながら市役所前を通り府立二中(現都立立川高校)下を通り、北に向かって東側の踏み切りを渡り、連隊正門前で立川第一小学校(現市立二小)の児童と合流します。 第一小学校(現市立二小)の児童750人も、10時校庭集合、連隊正門前で尋常小学校児童と一緒に“連隊万歳”を叫びます。
150-5.jpg この頃上空では所沢飛行学校や陸軍航空技術部、飛行第五連隊の爆撃機、戦闘機、偵察機が上空を舞い、曲芸飛行も披露されました。
 夜は提灯行列が行われました。「東京日日新聞・府下版」(1932.6.21)はその様子を次のように書いています。“午後七時半尋高校に集合した群衆は三千5百名、在郷軍人、青年団の指導で東と西に二班に分かれて順次人を加えての大提灯行列は午後九時半前後して連隊正門に入る。連隊では司令官以下全150-6.jpg員兵舎前に整列、町民のお祝いに返礼、万歳万歳の応酬がなりやまず、営庭は火の海となった。この日の賑わいは、立川始まって以来のものであった。”
 小学生の旗行列は当然ですが、大人の提灯行列も出発は小学校です。このことから、学校が国家支配の拠点として使われたことが良く判ります。帝国憲法には“地方自治”の条項はありませんが、日本国憲法は地方自治を規定しています。公立小学校・中学校は市町村のもので、公立高校は都道府県のものです。そして自治体は戦前と違って国家の下部機関ではありません。教育は国民のために行われるもので、その時の政府の意向や国家の意志で歪められてはなりません。小学生が日の丸の小旗を持って行進している写真を見ると、戦前のような国家主義教育を許してはならないと強く思います。
写真1番目  立川駅頭の歓迎振り   東京日日新聞・府下版 1932.6.2
写真2番目  凱旋門をくぐる凱旋兵  東京日日新聞・府下版 1932.6.6
写真3番目  航空神社の慰霊祭    東京日日新聞・府下版 1932.6.21
写真4番目  太陽神社(旧・航空神社)の現在の様子 著者撮影 2017.10.10
写真5番目  小学生の旗行列準備   東京日日新聞・府下版 1932.6.17
写真6番目  提灯行列        東京日日新聞・府下版 1932.6.21


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №88 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

越後の海 信越本線 

                       岩本啓介 

海に一番近い駅  青海川駅   

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              海に近い駅と称される駅は沢山ありますが                                         
              その中でもステキな駅名 一番は ここかな                                        
             『おうみがわ』 空も海も まっ青

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 115系 一次新潟色 米山~笠島・胞姫よなひめ橋俯瞰
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 信越本線快速おはよう・鯨波~青梅・鯨波海岸
                                        


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押し花絵の世界 №49 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「いつの日も」

              押し花作家  山﨑房枝

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                    67cm×52cm 

様々な色のコスモスを使用し、猫はパンパスグラスやラグラスなどの花材て制作しました。
花材で毛並みや目を表現するのは苦労しましたが、出来栄えに満足しています。

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渋紙に点火された光と影 №22 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

雑草(メヒシバ)

               型染め版画家  田中 清

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