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国営昭和記念公園の四季 №4 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

春待つケヤキ 公園砂川口前広場

砂川口前広場ケヤキ.jpg

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №103 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

行田の童 水まき

               銅版造形作家  赤川政由

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こどもが、働いていた時代。でっちさんでしょうか、あさから、ぁみせのまえの、みずまきです。誰かに、かけてしまったみたいですね。しまったというかおをしてます。足袋の、町です、出路さんも、きちっと旅をはいてます。働く童たちも、何人かいます。この子は、その中の一人です、会いに行ってあげてください。

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立川陸軍飛行場と日本、アジア №157 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

  満州事変1周年・正田マリエさん2等飛行士に 

              近現代史研究家  楢崎茂彌

 満州事変1周年
 満州事変1周年に当たって、城所八王子市長は“事変勃発とともに暴戻極まりない支那に対する国民の憤激一致して国難に殉じ奮い起こったことは、思想界の混乱の矢先国家にため喜ばしいことである…記念日に当たり熱望の満州国は設立され親善によって、今後わが国の権益が擁護され目的の第一歩を獲得したことは軍人各位の奮闘の効が157-1.jpgあったもので…”(「東京日日新聞・府下版」1932.9.18)と語りました。この日に青梅で東京府連合教育会34回総会が行われ、“権益を擁護した皇軍に感謝”する決議があげられたと新聞は報じています。19日の「東京日日新聞」も“九月十八日、皇軍が満州の野に三千万良民とわが権益擁護の義軍を進めてから、その一周年の記念日”と書いています。戦争を始めると、当初政府が“不拡大方針”を声明したことなどは全く忘れ去られ、戦争目的に“権益擁護”が堂々と謳われる社会になってしまうことが分かります。
 21日には麻布歩兵第3連隊が府下の上級女学生3000名を招待して、国防思想の普及のための講演会を開きます。そのあと射撃練習、防毒マスク着用練習などを行い、連隊歌を歌って解散となりました。日本国内もどんどん変えられて行きます。

  金髪美人正田マリエさん 、二等飛行士に合格
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 「東京日日新聞・府下版」(1931.9.20)によると、正田マリエさん(26)は、ドイツ生まれ、正田正雄氏と離婚後母国に戻ろうとしたものの、日本国籍のために入国が許されず、日本に帰って来ます。たまたま、鎌倉に出かけた帰りに、新聞に「日本の女飛行士はまだ駄目だ」書いた記事を見て、一念発起して立川に赴き、1931年8月9日日本飛行学校に入学します。それからは毎日午前3時半に起きて、神田松下町のラッキーハウスから立川に通う熱心な生徒だったようです。
 9月14日に順天堂病院に盲腸で入院したマリエさんは記者に次のように語っています。“日本の旗の下に、ヨーロッパに飛んで見たいと思います。しかしまず免状をとらねばなりません。病気はすぐよくなります。そして多分二カ月後には先生なしで飛ぶでしょう。絵は大好きです。しかし暇がありません。音楽も好きです。日本の芝居も好きです。吉衛門ーハリマヤ大好きです。紅葉狩りやその他いろいろ見ました。”多趣味で日本文化にも大いに興味を持っているようですね。
 雑誌「婦女界」(昭和7年6月号)に、“金髪の女流飛行家正田マリエさんの秘めたる半生”という井上喜久子さんが書いた記事が載っています。この記事によると、彼女の本名はリッチイ・デドウッ、1907年チェコのプラハ生まれ。父は第一次世界大戦で戦死、苦労の末に大学に進学します。そして、たまたま自宅に下宿していた山田義夫氏と愛し合い、結婚して日本に移住しました。義夫氏との間に男の子が生まれますが、両親との折り合いが悪く離婚され、チェコに戻ります。しかし、チェコでは仕事が見つからず、可愛い子どもが住む日本にシベリア鉄道経由で戻って来ました。うーん、こちらの方が記述がより具体的だし、「府下版」の匿名記事より外国に関しては信頼性が高いように思います。でも、何で苗字が“正田”なのかが気になります。因みに井上さんは、マリエさんは電車の中で北村兼子さんの死亡記事を読んで、彼女のあとを継ごうと決意したと書いています。
157-3.jpg それはともかく、マリエさんは実地試験と学科試験に合格し、10月6日に卒業式が行われました。マリエさんは次のように語っています“妾(わたし)は日本の女性として近くライト・プレンの優秀なのを買って訪欧飛行をやります。ブルース夫人、ジョンソン嬢、エツッドルフ嬢などあちらの女性は皆飛行機で日本を訪問しているのに、日本から一人の女性も飛ばないというのは情けない。妾はどうしてもやりますよ。国には弟がいます。妾が女流飛行家になったことをとても喜んでいます。どうか応援して下さい。”(「東京日日新聞・府下版」1932.10.7)マリエさんは落下傘降下の経験もあり、技術も達者なので、日本飛行学校としても応援したいと記事にあります。先輩にあたる朴敬元さんも全く同じ思いを語ってします(連載NO141)。朝日新聞の訪欧大飛行は1925年のことですから、男性飛行士がヨーロッパに飛んだのはもう7年も前のこと、女性飛行士を応援したいと思うものの、このあとマリエさんがどうなったのかが分かりません。平木國夫さんの著書「飛行機家をめざした女性たち」(新人物往来社1992年刊)もマリエさんを取り上げていません。その後のマリエさんの消息をどなたかご存知でしょうか。
 ひところ30名以上にのぼった日本飛行学校で学ぶ中華民国飛行学生は、満州事変前には全員帰国し中国人学生はゼロになっていましたが、8月27日、満州事変後初めて張銘君が入学しました。彼は前年の2月まで東京の語学学校で学んでいましたが、両国の関係が悪化したので一時帰国していたのです。張君は次のように語っています“ごたごたが起きたのは両方に無理があったからです。私は充分日本で飛行機を勉強して将来はフランスにも渡り度いと思う、もう戦争は起こらないでしょう。”(「東京日日新聞・府下版」1932.8.29)その一方“どうか兄や父のことは書かないで下さい”と複雑な胸のうちを語っています。
 連載NO143で紹介したように、どの飛行学校の卒業生もなかなか飛行士として採用されません。
  それでも12歳の少女山下綾子さんが日本飛行学校に入学します。「東京日日新聞・府下版」(1932.10.27)は“あんよはお上手 十二歳娘の初飛行家”とからかい半分の見出しをつけています。同校の伏見教官は、12歳では座席にかけても脚が届かないので、一年目は見学、二年目は教科、三年目に操縦竿を握らせ、17歳になる5年後には一人前のパイロットに仕立て上げると意気ごみを語っています。5年後の1937年は日中戦争の最中です。綾子さんの行く末も気になります。

 墜落相次ぐ立川陸軍飛行場
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 連載NO155で紹介したように、9月21日には九二式戦闘機が立川陸軍飛行場に墜落しました。実はその前々日に日本飛行学校の大岸君が操縦するアヴロ機が着陸に失敗して逆立ちになりました。10月2日には、毎週土日に立川で練習を続けて来た帝都学生航空連盟の慶應義塾大学生山岡嘉郎君が操縦するアンリオ機が、高度70mにあがったところで発動機に不具合が生じ砂川三番に機首をついて不時着(?)します。立川飛行場は事故続きです。
 そのせいかどうかはわかりませんが、この年の秋から、神宮球場で行われる157-5.jpg大学野球リーグ戦を空から応援するのをやめることになりました。新聞は“これは従来の例では飛行機が飛んだ方はキット試合に負けている事が判明し、空からの応援は有難迷惑というのである。”(「東京日日新聞・府下版」1932.10.9)と書いています。しかし連載NO82で紹介したように、初めての飛行機による上空からの応援は法政大学に初優勝をプレゼントしています。やはり事故が心配だったのではないかと推測しますがどうでしょう。


写真1番目  女学生の射撃練習    「東京朝日新聞」 1932.9.22 
写真2番目  昨日卒業したマリエ嬢  「東京日日新聞・府下版」1932.10.7
写真3番目  飛行機にもたれたマリエさん 「婦女界」 1932年7月号
写真4番目  飛行機逆立ち    「東京日日新聞・府下版」1932.9.21
写真5番目  学生機逆立ち    「東京日日新聞・府下版」1932.10.4


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №96 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 雪国の朱備え 五能線  
                       岩本啓介                     
秋田から青森 日本海に沿って走る五能線は人気のローカル線                       
国鉄時代のカラー『朱5号』 通称タラコ色に塗り替えた懐かしい気動車が走ります。                                                    
津軽富士 朱いタラコ 

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朝から岩木山(津軽富士)は雲がくれ・・・                                        
お昼頃まで待って やっと顔を見せてくれました。                                    
板柳~鶴泊               

氷のカーテン 朱いタラコ 
 
 
96-2千畳敷駅★天然氷のカーテン・キハ48-505.jpg
                                                   
千畳敷駅ホーム沿いに切り立つ高さ20mほどの崖が幅100mに渡って凍りいています。冬限定 巨大な『氷のカーテン』です。                          
崖から染み出す地下水が冷たい海風で凍りつき成長したものです。                      
千畳敷駅       

鉛色の空 白波の海 朱いタラコ

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青森は今年一番の雪 海からの風も強烈 立っているのがやっとです。                  
気温マイナス4度でも強風で体感温度はマナナス10度以下に感じます。                
鰺ヶ沢~鳴沢          


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渋紙に点火された光と影 №30 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

神木

               型染め版画家  田中 清

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多摩のむかし道と伝説の旅 №9 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

      八王子千人同心ゆかりの日光脇往還を行く 2

                     原田環爾
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 甲州街道を更に東に進むと追分にくる。追分とは甲州街道と陣馬街道(古くは案下道と称した)の分岐点である。分岐点には江戸時代に造立された道標が立っている。追分には千人頭の萩原頼母や原半左衛門の屋敷があった。
 原半左衛門と言えば十代目胤敦の蝦夷地開拓で知られている。原半左衛門胤敦は天明の飢饉以来の国民の困窮を救い、かつ北方ロシアの侵略の脅威を防ぐため、新天地を蝦夷地に求め幕府に集団移住を願い出た。寛政12年(1800)千人同心の子弟約100人を率いて蝦夷地に渡り、十勝の白糠、勇払に入植し開拓に従事した。開拓は過酷を極め、病人、死者が相次ぎ、ついに引き揚げの憂き目となった。文化2年(1805)胤敦は八王子に大歓迎の中帰還したという。文化10年(1813)81歳で没した。墓は八王子市上野町の本立寺にある。
9-2.jpg 追分から甲州街道を更に東へ進むと交差点「本郷横丁」にくる。北へ伸びる道は秋川街道、南へ伸びる道は松姫通りである。松姫通りの名は交差点から南500mの所に信松尼こと松姫を開基に開創された信松院があることによる。松姫の死後千人同心の創始者大久保長安の尽力で建てられたものだ。生前の松姫はここより少し南の御所水の里(現富士森公園辺り)に草庵を結び、千人同心達により物心両面で支えられていた。ちなみに信松院の墓苑の中ほどには、千人頭達が寄進した玉垣で守られた松姫の墓がある。
9-3.jpg 更に甲州街道を東に進むと交9-4.jpg差点「八幡町」で東京環状(国道16号線)と合する。左折して東京環状に沿って北へ向かう。浅川の手前沿道右に宝樹山極楽寺と称す浄土宗の大寺がある。極楽寺には松姫が案下落ちの折、甲斐から連れてきた3人娘のひとり小督(玉田院)の墓や八王子宿の建設に尽力した長田作左衛門、そのほか千人同心組頭塩野適斎の墓がある。
9-5.jpg 小督は信玄の息子で高遠城主仁科盛信の娘である。病弱で嫁にも行けず若くして亡くなった哀れな娘である。天正 10年(1582)武田が滅亡した時、信玄息女松姫に連れられ八王子案下の里に落ちた。恩方心源院や御所水の里で養育された後、代官大久保長安に請い、元横山村大義寺の西隣に一寺を建立、これを玉田院と称し、ここに住して玉田禅尼と称せられた。慶長13年(1608)29歳で病没した。墓は元は玉田院跡にあったが、正徳5年(1715)盛信の子孫が極楽寺に改葬した。
 9-6.jpg極楽寺を後にして浅川橋を渡るとひよどり山の山裾を切り通した稲荷坂となる。坂の名は中程に覚祐稲荷と称する小祠があることによるのだろう。千人同心の一人小池覚祐により建立されたという。
千人同心街道は稲荷坂から東京環状を離れてひよどり山の山越えの道に入る。交通量は嘘のように減り、樹木が覆う静かな上り道に変貌する。かつての千人隊の足跡を忍ぶのにふさわしい道と言える。ひよどり公園を右に見てS字状にうねうねと上がって行くと「うかい亭」が現れる。更に上って行くと無線中継所の鉄塔と配水塔が目に入る。この辺りがひ9-7.jpgよどり山の山頂に当たる。ちなみに左手路地50mばかりに入った所に9-9.jpg白い塗料で『日光道』と記された高さ30cmばかりの標石が立っている。誰が何時立てたものか不明であるが、ここに日光街道が通っていたことを示す一つの証とも言える。左にひよどり山中学、右に小宮公園を見て下って行く。下り切ると中央自動車道の陸橋の袂に出る。陸橋を渡り引き続き坂を下って行くと中央自動車道の築堤下のトンネルに来る。トンネルを抜け鄙びた集落の中を抜けると車両が激しく行き交う東京環状に復帰する。
9-11.jpg この先、千人同心街道は東京環状と重なるため喧噪な道となる。滝山街道を左にやり、加住丘陵東端の切通しを越えると多摩川の拝島橋の袂にくる。千人隊が日光往還していた頃は橋はなく、ここより上流100mばかりの所にあった拝島の渡しで渡った。多摩川を渡ると拝島大師や大日堂のある拝島宿に入った。現在の奥多摩街道筋である。拝島宿は八王子と日光を結ぶ脇往還の宿場町として賑わった。
 大日堂から西へ進む。大日堂八坊の一つである普明寺を右にやりすごすし、左に龍津寺をやり過ごし、更に啓明学園の前を通って大きく右へ曲がり北に転じると、沿道右手に拝島天神社へ入る小道がある。菅原道真を祀る神社で拝島宿が形成された頃からあった古社という。程なく「拝島三叉路」に来る。奥多摩街道は左の分岐道であるがこれを無視して真っ直ぐ進むと新奥多摩街道と交差する。これを渡って再び東京環状に入り、そのまま進めば拝島駅に至る。
この先、千人同心街道は拝島駅北側を流れる玉川上水の日光橋を渡り、横田基地に沿って箱根ヶ崎に向かうのであるが、本稿ではとりあえずここまでとする。
                                                                        


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地球千鳥足 №110 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 地球の滝に魅せられて~ジンバブエ、ブラジル、ベネズエラ、その他~

               グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子

 自然界に存在する滝に人間は何を感じるだろうか。筆者は偶然出会う滝でも荘厳さを感じて神秘の世界に引き込まれる。周辺の色を反映して水は輝き、複雑な流れと水勢と飛沫の多様性、大地を引き裂く轟音、滝に架かる虹等が多様に人間の情調を掻き立ててくれる。滝の規模が大きいほど圧倒される。滝壺もまたその色や波紋の芸術性で魅惑する。

名だたる滝の魅力: 世界三大の滝と言われるナイアガラ(北米)、イグアス(南米)、ヴィクトリア(アフリカ)、そして世界一の落差980mを誇るエンジェル(南米ベネズエラ)の滝では表現し難い勢いに吞み込まれそうになった。ナイアガラは5回、夫の運転や飛行機で訪ねたが、両側がツララで凍った冬にも訪問、カッパを着て滝の裏側を見たりもした。イグアスの滝は周辺に点在する275の滝の総称だそうだが、ブラジル側はエレベーターを降りるやいなや轟音と共に目前に滝が迫ってくる。水量が多い時はしぶきで何も見えない。アルゼンチン側は歩くが、一望で滝が観られる。船で対岸を渡り山路を登れば「悪魔ののど笛」が、悪魔の唸り声のように「ゴー~!」と唸り、訪問者の心情に応えて異国情調を満足させてくれるだろう。他に真上から見下ろすカイエチュール(南米ガイアナ)の滝も訪れたが、ジャングルの奥深くひっそりと、だが際立つ滝だった。専用の小型機で行き、山中を歩き回り異なる3地点から覗き観るだけの神秘な滝、永遠に記憶に留まる風景だ。

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イギアスの滝(アルゼンチン側) 

これぞ自然の贈り物: エンジェルの滝を有名にしたのは落差の大きさから水が空中に霧状で拡散され滝が消えると言われることだ。場所はギアナ高地の深いジャングル内、この滝への行程は楽ではない。オリノコ川をボートで遡上、急流は降りて歩き小型機も2回乗り換えてカナイマ村の基地に着く。そこからカラオ川を遡上、テント泊、また船で滝の基地へ。更にジャングルの木々の根を踏みながら歩くこと1時間、滝の上部を眺望できる岩場に着く。絶景だ!簡単に行けない場所ゆえ価値があるのだ。歩きが多く体力が勝負だ。

瀑布への畏敬と虹のアーチ:ヴィクトリアの滝は特別だ。幅が広く滝までが間近、盛り上がり迫りくる滝と水煙は自然の驚異そのもの、畏怖を覚える。周りの森林も瀑布の威力を高める絶好の背景だ。滝にかかる虹は有名だが、日によっては遊歩道を歩く眼前に、身の丈ほどの虹が次々と現れる。飛沫が雨となって降って来るので傘とカッパを着けていてもびしょ濡れになる。筆者は全身濡れ鼠で、「歩いてもオ~歩いてもオ~虹は目の前にイ~」と石田あゆみの歌を替え唄にし、幼児が縄跳びをするように虹のアーチをくぐり続けた。霊感を受け、子どもに帰り、「自然は人間より偉大なり!」と唱えつつ、未来への小道を足取り軽く歩き進んだ。シャワーはもはや脅威ではなかった。

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虹のかかったナイアガラ大瀑布

以上すべてが試行錯誤の個人旅と夫婦旅、自らの企画の実践だったが、地球千鳥足の自信を増し人生に躍動を加えた。地球上、人の住むところ何処にでも楽しく出かけられる。膨らみ、束になり、豪勢に飛瀑する滝に魅せられて。

(アメリカ、Angle Press. Inc. 発行、Weekly Jangle第255回、「地球の滝に魅せられて~ジンバブエ、ブラジル、ベネズエラ、その他~」に修正を加えたもの)


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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №104 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

火の用心

               銅版造形作家  赤川政由

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ぎょうだの、わらべ、2月のこのじき火の用心の、見回りをしてます。

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多摩のむかし道と伝説の旅 №8 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

                 -八王子千人同心ゆかりの日光脇往還を行く-

                       原田環爾

日光脇往還は千人同心街道とも呼ばれる。日光街道が江戸日本橋と日光を結ぶ街道であるのに対し、八王子と日光をつなぐ道筋に付けられた名前である。江戸時代、幕府から日光東照宮の火の番を命ぜられた八王子の千人同心達が、その勤めを果たすために彼らの居住地である八王子千人町から日光までの片道全長156kmの道のりを3泊4日かけて往還した道筋である。

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8-2.jpg 千人同心は戦国末期、織田・徳川に敗れた甲斐武田が組織していた小人衆と呼ばれる国境警備の軍事集団を起源とする。天正18年(1590)徳川家康は落城で騒然とする八王子城下の治安回復のため小人衆を活用して八王子城下へ移住させた。天正19年(1591)旧武田の家臣大久保長安が八王子代官として赴任すると、小門町に陣屋を置き、八王子宿を整備し、千人町に拝領屋敷を得て、慶長4年(1599)武田・北条の遺臣からなる千人同心が成立した。
 8-3.jpg千人同心の組織は一隊100人の十隊編成でそれぞれに千人頭を置き、各100人は更に十組に分け、それぞれに組頭を置いた。すなわち千人頭10人、組頭100人、同心900人、総数1010人の組織であった。千人頭は旗本身分、組頭以下は半士半農。すなわち公務の時は武士、それ以外は百姓という特異な身分制度の元にあった。
 8-4.jpgそんな千人同心達の精神的拠り所は松姫(信松尼)でした。松姫は旧主武田信玄の娘で、天正10年(1582)勝頼が天目山田野で自刃して武田が滅びた折、小田原北条氏の庇護を求めて、兄や家臣の幼い娘3人を連れて甲斐を脱出、甲武国境を越えて八王子に落ちていた。
千人同心達の公務は草創期においては世情不安を反映し、関ケ原の戦や大阪冬・夏の陣に駆り出されるなどしたが、安定期に入ると家康を祀る日光東照宮を火気の危険から守るため、慶安5年(1652)「日光火の番」として日光勤番を命じられた。勤番体制は幾度かの変遷を経て寛政年間からは千人頭1名、同心50名の半年交代で行われた。その他の公務として蝦夷地開拓がある。18世紀後半のロシアの南下政策が危惧され、幕府は蝦夷地の直接支配を強化するため、寛政12年(1800)千人同心に開拓と警備に当らせた。我国最初の蝦夷地開拓であったが多数の犠牲者を出した。

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 本稿では千人同心街道のうち、とりあえず多摩地域の八王子千人町から拝島までの道筋を紹介し、沿道に残る旧跡やエピソード、伝説などを紹介したいと思う。

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8-8.jpg 日光勤番の出発点千人町には甲州街道沿いに千人頭や組頭の屋敷が建ち並んでいた。馬場横丁の宗格院は千人同心の集会に用いられたという。寺の裏庭には八王子代官大久保長安が浅川の氾濫防止のために築造した石見土手の石垣の遺構が残されている。千人同心が調練した馬場は宗格院の北側にあった。
甲州街道を東へ向かうと沿道左に了法寺と称する寺がある。境内には稲荷社がある。六社の稲荷を合祀しているという。その一つに文護稲荷というものがある。文護稲荷には千人頭の娘にまつわる悲話が残されている。

8-9.jpg8-12.jpg 江戸時代のこと、追分に千人頭萩原頼母の屋敷があった。頼母には美人の一人娘がいた。その娘が金弥という若者と恋仲になった。近くの槍持の大森助八の女房は何かと二人の力になってやったが、これを知った頼母は不義の交わりと怒り、屋敷内のささげ畑の榎の下で二人を打ち首にしてしまった。すると間もなく大森家の門の上に雌雄の蛇が現れるようになった。その大森家が没落すると今度は隣の大野家の蔵に現れるようになった。ある日のこと、近くに住む百姓の三吉が二人を斬首した豆畑が空地になっているので、これを畑に耕し野菜などを作った。ところが間もなく発狂して死んでしまった。里人は蛇姫様の祟りだとして、榎の下に稲荷社を建て、文護稲荷と名付けて姫と若者の魂を弔った。その文護稲荷は今は了法寺の境内に他の稲荷とともに祀られている。

8-10.jpg8-11.jpg 了法寺から甲州街道を挟んで南側の路地に入ると興岳寺という曹洞宗の寺がある。境内には幕末最後の日光勤番を務め悲劇的な最期を遂げた千人頭石坂弥次右衛門義礼の顕彰碑があり、墓苑には彼の墓がある。石坂弥次右衛門は前任者の千人頭萩原頼母の急死により、急遽代番で日光に赴いた。しかし時は風雲急を告げる幕末、日光が幕府軍と官軍の戦火に晒されようとした時、彼の奔走により一戦も交えることなく日光を無事官軍に引き渡し八王子に帰任した。しかし八王子では官軍への恭順の情勢から一変しており、幕臣として官軍と最後の一戦をすべしとの主戦論が高まっていた。一戦も交えず日光を引き渡した弥次右衛門への風当たりは強く、責任をとって切腹して果てた。介錯は79歳の老父であったという。(つづく)


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立川陸軍飛行場と日本、アジア №156 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

   日満議定書調印式の写真を運ぶ片岡機関士行方不明に

              近現代史研究家  楢崎茂彌

    満州国承認
 日本に亡命中の孫文を助け、満州国承認に反対した犬養毅首相が暗殺されると(五・一五事件)、海軍大将齊藤実が首相に任命され、政党政治がわずかあしかけ8年で、銃弾により幕を閉じました。齊藤首相はしばらく外務大臣を兼任しましたが、7月6日、内田康哉(やすや)南満州鉄道総裁が外務大臣に就任します。内田は「満州問題に対する意見」(1932.5.11)の中で“満蒙は古来独立をして、元又は清の如く支那本部を侵し之を支配したることはあるも、支那本土の支配は受けたることなし。清帝国崩壊後徐世昌、袁又は唐の如きは寧ろ清朝の余勢を利用したるに過ぎず。張作霖に至りては名実ともに独立国を形成し、学良は日本駆逐の為南方を利用したるのみ。”として、満州国承認をめざします。6月14日には衆議院が満州国承認を求める決議案を満場一致で可決します。これは、満州事変処理に関する国内の対立はほぼなくなったことを意味しています。
 内田外相は7月12日にリットン調査団と会見します。リットン調査団は、前年12月10日の国際連盟理事会に於いて満場一致で採択された決議にもとづいて提案された調査委員会で、イギリスのリットン卿が団長で、仏・伊・独・米の委員で構成されていました。「リットン報告書全文」(朝日新聞社・1932.10.15刊)は序編で“もともと調査委員の派遣は日本側の提案で、日本はこれによって連盟の極東問題に対する蒙を啓き、将来再び従前の如き失策を重ねしめない念願からしたものであって、決して、この第三者機関によって我国の対満国策を検討批判せしめ、その拘束を甘受するが如き意図は有しなかったであろう。”と書いています。しかし、この報告書(正確には「「外務省仮訳・国際連盟支那調査報告書」)を読む限りでは、日本が提案したようには読めません。
 内田はリットン卿に“本問題の唯一の解決策は満州国の承認に在り。尤も、若し貴委員等に於いて他の「オルタナチヴ(*他の解決策)あらば喜んで伺うべし”と述べますが、それこそ外交辞令ですよね。
 8月8日に武藤信義陸軍大将が関東軍司令官・特命全権大使・関東長官に任命され、19日には日満議定書が閣議決定され、武藤は“満州国”側と交渉に入ります。25日に、内田外相は衆議院で速やかに満州国承認を行うと表明し、“我国民は…挙国一致、国を焦土にしてもこの主張を徹することに於いては一歩も譲らないという決心を持っていると言わなければならぬ”と胸を張ります。
 昭和7(1932)年9月15日、新京(今の長春)において、武藤全権(関東軍司令官)と、鄭孝胥(チェンシャオシー)“満州国”国務総理の間で日満議定書が調印され、即日発効します。
156-1.jpg こうして満州事変を起こす中心となった石原莞爾が言う“謀略により機会を作製し軍部主導となり国家を強引すること必ずしも困難ならず。"が、関東軍司令官の署名によって実現したのです。
 日満議定書は次の通りです。
日本國ハ滿洲國カ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ獨立ノ一國家ヲ成スニ至リタル事實ヲ確認シタルニ因リ
滿洲國ハ中華民國ノ有スル國際約定ハ滿洲國ニ適用シ得へキ限リ之ヲ尊重スヘキコトヲ宣言セルニ因リ
日本國政府及滿洲國政府ハ日滿兩國間ノ善隣ノ關係ヲ永遠ニ鞏固ニシ互ニ其ノ領土權ヲ尊重シ東洋ノ平和ヲ確保センカ爲左ノ如ク協定セリ
一、滿洲國ハ將來日滿兩國間ニ別段ノ約定ヲ締結セサル限リ滿洲國領域内ニ於テ日本國又ハ日本國臣民カ從來ノ日支間ノ條約、協定其ノ他ノ取極及公私ノ契約ニ依リ有スル一切ノ權利利益ヲ確認尊重スヘシ
156-2.jpg二、日本國及滿洲國ハ締約國ノ一方ノ領土及治安ニ對スル一切ノ脅威ハ同時ニ締約國ノ他方ノ安寧及存立ニ對スル脅威タルノ事實ヲ確認シ兩國共同シテ國家ノ防衛ニ當ルヘキコトヲ約ス之カ爲所要ノ日本國軍ハ滿洲國内ニ駐屯スルモノトス
 前文の“日本國ハ滿洲國カ其ノ住民ノ意思ニ基キテ自由ニ成立シ獨立ノ一國家ヲ成スニ至リタル事實ヲ確認シタルニ因リ”の部分は如何にも言い訳くさいですよね。また二人は秘密の往復文書で、3月10日に本庄繁関東軍司令官と“満州国”側が結んだ協定(連載NO145)を追認しました。

 抗日ゲリラ(大匪団)、撫順炭坑を襲撃
156-3.jpg 調印式当日の様子を現地の新聞は次のように伝えています。
 “爽やかな秋日和、けふ九月十五日は長春の秋祭りだ。満州国側の仲秋節だ、しかも満州国承認の日だ。この歓びの三重奏に長春全市は祝福されて、この佳き日を壽ぐが如く空には一点の雲もなく晴れ渡り天高く澄み爽やかな秋風がさよかに吹いて頬を軽くなぜて行く。早朝から街には警戒兵が右往左往し自動車、サイドカー、の騒音も秋祭りの神社詣の人々を縫って、慌ただしく緊張した空気の内にも喜びの色が溢れ、戸毎の日章旗、新五色旗が日満親善を象徴して朝風に翻る。”(「満州日報」1932.9.16)
 東京の様子を「東京朝日新聞」は次のように書いています。
“午後三時半には在郷軍人会東京府市の旗行列が、軍楽隊を先頭にえんえんたる156-4.jpg小旗の流れとしてやって来た。万歳の連呼と歓呼の爆発三宅坂の一角に夕刻せまるまで際限なく続く。一方参謀本部では同時刻真崎参謀次長以下各参謀連こみ上げる喜を胸につつんで正門前に旗行列を出迎え”(1932.9.16)
満州事変以来、陸軍が満州国建国そして承認を進めて来たことが歴然とする記事です。 
 16日深夜、撫順鉱山が抗日ゲリラに襲撃されました。満州日報は、“柳条湖事件を控えて撫順鉱山を襲撃すべしとの流言あり警戒中、果たして十六日未明数百の大匪団が第一線を突破して炭坑内に乱入し来る未曾有の事件が発生した。”と見出しを打った号外(1932.9.16)を発行しました。この襲撃により民間人5人が殺害されます。16日、関東軍の守備隊が、ゲリラに通じていたとして近くの平頂山集落を襲撃し、住民らを殺害します(平頂山事件)。軍が数百人とも3000人とも言われる非戦闘員を虐殺したこの事件の生存者が、日本の裁判所に賠償を求める裁判を起こしました。最高裁は2005年、事実は認定したものの賠償請求を棄却しました。

 満州国承認を祝う朝日新聞社機、立川陸軍飛行場を飛び立つ
156-5.jpg 議定書が調印される15日午前9時半、朝日新聞社のプスモス3機は立川を出発し羽田飛行場に到着します。一番機には訪欧大飛行に成功した河内飛行士と山本機関士、二番機には熊野飛行士とあの「神風」で有名な塚越機関士、三番機には新野飛行士と富沢機関士という豪華メンバーが搭乗します。10時半に3機は、訪欧大飛行を行った安邊日本航空輸送運航主任などに見送られて出発、午後1時17分に大阪に到着、2時には大刀洗に向かって飛び立ちました。最終目的地は新京です。3機には朝日新聞社村山竜平社長から満州国溥儀執政と全権大使武藤信義関東軍司令官宛ての祝辞が託されています。溥儀宛ての祝辞の内容は次のようなものです。“満州国の正式承認、両国国交開始の日に当たり、謹で執政溥儀閣下に深厚なる敬意を表し、貴国の隆昌を祈る、右言上を乞ふ 昭和七年九月十五日朝日新聞社長村山龍平 満州国国務総理 鄭孝胥閣下 ”
 東京朝日新聞の緒方竹虎編集局長は当初、柳条湖事件を大きく扱った整理部次長に始末書を書かせ(連載NO132)、大阪毎日新聞と連携して関東軍の暴走を抑えようとしたとされていますが(連載NO136)、戦争を支持し始めれば新聞もこんなアッサリ好戦的になるのだと、今更のように思います。今は言論統制は基本的にはありません、戦争への動きを批判し続けるメディアの存在が大事だと思います。
                                                          
 訪欧大飛行の片桐機関士、行方不明となる
 今回使用している“満州国”側の写真は、「大阪毎日新聞」{東京日日新聞」のもので、毎日のライバル朝日新聞には満州国側の写真は載っていません。プスモスが立川を飛び立ったことを報じた翌日の「東京朝日新聞」(1932.9.17)は“新京から飛んだ本社機行方不明 調印写真輸送の使命を帯び 両氏の安否懸念さる”と、新京を午前11時10分に飛び立った、酒井飛行士、片桐機関士が搭乗するプスモスBBAAが行方不明になった事を報じています。調印の写真を載せたプスモスは新京から一気に1500kmかなたの大阪めがけて飛んだのです。記事は“本社では万一夜間不時着陸の場合のため広島、岡山、両練兵場及び立川飛行場に十五日夜から十六日朝にかけて夜間着陸照明装置をして待ち…同機の燃料関係上最長航続時間とする十六日午前零時半も過ぎたが何らの消息がないので、一同悲壮なる気分に包まれながら警戒を続けた。”と報じています。
 酒井飛行士が操縦するプスモス機は、前年エミー・ジョンソン嬢がロンドンから立川まで飛んで来た時に使用した英国デ・ハビランド社製の飛行機です。新京からの飛行について「朝日新聞社史」は次のように書いていま156-6.jpgす。“一方、毎日はこの年、七年三月の新鋭機ロッキード・アルテア型を輸入していた。これは五百馬力発動機をそなえ、最大時速三百七十km/h、航続力は十ないし十六時間だった。これに対して朝日は、プスモス機で十分という考え方だった。プスモス機は手軽で小回りがきき、満州では高粱畑からでも離着陸ができ、リレー式に使えば長距離輸送も十分にこなせたからである。しかし、新京―大阪間無着陸飛行ともなれば、性能のいい大毎のロッキード機が有利であることは否めなかった。”同書によればプスモス機はジプシー105馬力エンジン搭載、最大時速169km/h、航続距離1170kmです。これでは新京・大阪間無着陸飛行は出来ませんから、同書は“乗機プスモスJ-BBAA号は改良を加えて、新京ー大阪間を飛んでもなお四時間半の余裕がある燃料を満載していた”と書いていますが、同じ日に羽田を飛び立ったプスモス3機は、大阪により、大刀洗に一泊しています。一刻でも早く調印式の写真を届けようとして一気に大阪をめざしたことに無理があったようです。駆逐艦も参加して大捜索が行われますが、プスモス機は発見されませんでした。
 その後鳥取県沖合で、機体の破片数百片が発見されますが二人の遺体は発見できず、30日後の10月15日、八王子区裁判所で二人が鳥取県八橋沖合で遭難死亡したものと確認されるに至りました。なぜ八王子の裁判所だったかというと、2人は立川町に住んでいたからです。
 写真1番目 調印の歴史的光景      東京日日新聞   1932.9.16
 写真2番目 晴れの調印式を終えて    大阪毎日新聞  1932.9.16
 写真3番目 参謀本部に繰り込んだ旗行列       東京朝日新聞  1932.9.16
 写真4番目 満州日報号外          1932.9.16
 写真5番目 厚木上空の三機        東京朝日新聞  1932.9.17
 写真6番目 写真上 酒井飛行士 写真下  片桐機関士   東京朝日新聞  1932.9.18


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №95 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

西武多摩湖線  

                       岩本啓介                               

懐かしの赤電 復活 

95赤電復活・西武多摩湖線・一橋学園~青梅街道.jpg
西武多摩湖線・一ツ橋学園~青梅街道
                            
1961~90年に活躍した『レッド×ベージュ』通称赤電が 西武多摩湖線で復活しました。                            
平成も30年、昭和が消えていく中での復活。                              
嬉しい1枚です。                              

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押し花絵の世界 №56 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「里の冬景色」

                押し花作家  山﨑房枝


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30cm×25cm  
筍の皮や里芋の皮で制作した山里の古民家が、雪に包まれている様子を表現しました。
雪山には白妙菊の葉やギンポプラを使用しました。

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渋紙に点火された光と影 №29 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

紫煙

               型染め版画家  田中 清

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №103 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

行田の童

               銅版造形作家  赤川政由

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さくねん、TBSテレビドラマで、さわがれた「陸王」、埼玉県、行田市の、足袋工場が、ぶたいでした。日本一の足袋と、腹巻きをつけた、童が、います。最後のシーンで、すこしうつっていたようです。何かとわだいになる、行田市です。前回は、「のぼうの城」という映画のぶたいにもなりました。電柱地中化による、都市計画で、とりつけられた、童の人形たち、10年近くたたずんでおります。いつか、日の目をみるこてが、あるのをたのしみにしてます。

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立川陸軍飛行場と日本、アジア №155 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

    九二式戦闘機、立川陸軍飛行場に墜落

                    近現代史研究家  楢崎茂彌

   中国初のオリンピック選手
 連載NO152に満洲国のロサンゼルスオリンピックへの参加申請に触れましたが、もちろん参加は認められませんでした。代々木の岸記念体育館に名を残す、岸清一大日本体育協会会長・国際オリンピック委員は、9月29日に行った昭和天皇への御進講で満洲国不参加の経緯を次のように語っています。“支那は加盟丈けは致し南京政府の前外交部長なりし王正廷が委員なれども一回も委員会に出席したことはありません。支那は今回の大会に初めて陸上の選手一名のみを出しました。併し夫は満州国が今回のオリムピックに加盟の上参加せしめんとして中途に於いて思止まりたる劉なる選手でありしことは寧ろ滑稽に思われます”(「第十回国際オリムピック大会に就いて」岸清一述・1932年大日本体育協会刊)≪支那は差別用語ですが原文のまま表記しました≫
 一体どんな経緯で“満洲国”は参加を思い止まったのでしょうか。6月12日にロサンゼルスオリムピック組織委員会から“満洲国の加入は国際オリムピック委員会の承認によりて認められるべし。オリムピック身分証明書は東京岸氏より手に入れられんことを助言す”という好意的な電報が届きます。しかし、同じ日国際オリムピック委員会からは“全般的国際オリムピック委員会の承認を得ざる以前に於いては貴方の参加は遺憾ながら不可能なり”との電報が入り、参加は絶望的になります。
 これに対して岸清一会長は、組織委員会の助言に沿って“満州国”選手団が日本のパスポートを入手して渡米することを勧めます。そして満洲国が参加できないなら日本も不参加のつもりで応援すると申し出ますが、日本の立場を考慮した満洲国側が自主的な参加をとりやめました。(「満州建国十年史」満洲帝国政府編、「明治百年史叢書」・原書房1969年刊による)
 岸清一氏の御進講を読むと、彼がそんな強硬な態度をとったようには思えません。日本のパスポートで入国して満州国選手と名乗ることは流石に出来ないというのが事実だったのではないでしょうか。
155-1.jpg “満州国”選手として参加させる予定だった選手は劉長春(元奉天東北大学学生・陸上短距離)と於希渭(元奉天馮庸大学学生・陸上中距離)でした。中華民国オリムピック委員会は、満州事変への対応に追われオリンピック不参加を決めていたいましたが、“満州国”のこの動きを知ってこの二人を中華民国の選手として参加申請します。於選手は日本人指導者と相談の結果不参加の意志を表示する一方、劉選手は満州国選手として参加することは拒否し満州を脱出し、中華民国選手として参加希望を表明します。しかし中華民国は派遣費用が出せず、民間の募金により参加が可能になりました。中国オリンピック委員会のホームページには、渡航費用は張学良が私費を投じて応援したと書いています。こうして劉長春選手は中国最初のオリンピック出場選手となりました。オリンピックが政治的なものだということを感じる経緯ですね。
 因みに、劉選手は練習不足もたたり100mでも200mでも予選で敗退してしまいます。
 劉選手は中国革命後は大連工学院(今の大連理工大学)で体育学の教授となり、大学にはその功績をたたえる劉長春体育館が建てられており、体育館の脇には彼の銅像が立っています。大連を訪ねた時に知っていれば、ガイドに案内してもらったのに…。

  石川島飛行機製作所(のちの立川飛行機)製の九一式戦闘機が合格
155-2.jpg  東京日日新聞・府下版(1932.8.31)は、九一式戦闘機を大量配置するには中島飛行機だけでは対応できないので、石川島飛行機製作所も制作することになり、8月29日に最初の一機501号が航空本部瀬戸大尉の試験飛行に合格したことを報じています。石川島飛行機は、今年中に数十機を制作することになりました。
 九一式戦闘機の歴史は昭和2年にさかのぼります。この年、従来の甲式四型戦闘機の後継機の競作が指示されました。この競作は陸軍初の国産戦闘機コンペでした。三菱・中島・川崎が応募しますが、いずれも不合格となり、第1回コンペティションはパッとしない結果に終わります。それでも陸軍は155-3.jpgジュピター7型発動機を開発した中島飛行機に競作機NC型の大改修を命じ、昭和6(1931)年12月に「九一式戦闘機」として仮制式が決定します。  甲式四型戦闘機の最大速度は213km/h上昇限度7250mに対して、九一式は281km/h上昇限度8950m(Ⅱ型はジュピターのジュをとった「寿」二型発動機を搭載、320km/h、9700m)と性能が大幅に向上しています(「戦史叢書・陸軍航空兵器の開発・生産・補給」付表第二・日本陸軍機諸元性能表)。見た目も大幅にスマートになっていますよね。
九一式戦闘機は昭和7(1932)年6月に在満部隊に配属されました。「日本航空機総集第5巻中島編」は中島飛行機が制作した九一式戦闘機は約340機、石川島飛行機は101機を制作したと書いています。

 九二式戦闘機、立川陸軍飛行場に墜落
 昭和2年に行われた甲四型戦闘機後継機のコンペで不合格となったKDA-3型を制作した川崎造船所飛行機工場(のちの川崎航空機工業株式会社)は、これに改良を加えKDA-5型を試作します。昭和5(1930)年に完成した試作機一号機は水冷発動機・川崎製BMW-6(500馬力)を搭載し当時の日本最速320km/hを記録、11月には日本最初の最高高度10000m上昇に成功しました。KDA-5の最大速度は320km/h、実用上昇限度9500m、こうして九一式Ⅱ型に勝るとも劣らない性能を発揮したKDA-5を陸軍は満州事変直後の昭和6(1931)年10月に九二式戦闘機として制式採用します。
 一度は競争試作に敗れたKDA-3の改良機を採用することに、陸軍の技術者たちは“競争試作と称しながら落第機を採用するのであれば、競争試作を行う必要はない。落第した会社には、次の合格を期して歯をくいしばり苦境を脱するように努力させるべきで、今回の措置は不適当である”との意見が強かったと「戦史叢書・陸軍航空兵器の開発・生産・補給」は書いています。戦闘機が91式、92式と2年続けて制式に採用されるのも不自然ですよね。
 制式採用の経緯について同書は、民間航空が発展してない日本では不合格機を民間に転用も出来ず、外国に売却155-4.jpgすることも出来なかった。更に試作機を買い上げる予算が認められなかったため、かかる費用は飛行機会社持ちなので、陸軍としては会社救済を考慮したことと、川崎が水冷式発動機を手掛けていることが制式採用の要因となったと分析しています。
 9月21日、この九二式戦闘機が立川陸軍飛行場に墜落します。操縦していた陸軍航空本部技術部の秋田大尉は低空から落下傘で脱出し無事でした。この事故を新聞は、“大きな研究材料 原因調査に着手”と見出しを打って、次のように伝えています。
“九二式は速力、上昇力で世界的に知られたわが陸軍の精鋭機で、前回は今春同じ秋田大尉操縦でピッケー≪いまの155-5.jpgところ意味不明≫で突っ込み上昇せんとした際発動機が停止した例もあり、今回は二回目で川崎製水冷六百馬力の折紙付発動機だけに大きな研究材料になったわけである。なほ落下傘降下でも低空のレコードであろうといわれている。”
 日本飛行学校の片山飛行士が墜落を目撃していました。
“諏訪の森の向こうで火を吐きつつフラフラになったのを、ようよう飛行場の上まで運んだ事がよく見受けられました。百米なかった位で飛降りたので落下傘は開かないかと思われたのですがうまく開きました。見ていてヒヤヒヤしました。”(「東京日日新聞・府下版」1932.9.22)
 立川上空での対応を見ると秋田大尉は相当の名操縦士のように思えるのに二回の事故を起こしています。何か飛行機に欠陥があるに違いありません。「日本航空機総集・第4巻川崎篇」は次のように書いています。
“本機は中島の九一式戦闘機が主として制空戦闘機であったのに対して、特に上昇力と速力および運動性の優れた防空戦闘機(インターセプター)としての性格が強く、それだけに操縦・整備ともに困難をともない、満州方面の基地における厳冬期の特に整備には特に苦労したようである。”
 この機が満州方面に配属されたのは、この年の6月です。9月になっても航空本部技術部(のちの陸軍航空技術研究所)の秋田大尉が操縦したということは、それなりの不安があったのでしょうか。
 
写真上    劉長春選手        パブリックドメインより
写真2番目  甲式四型戦闘機              パブリックドメインより
写真3番目  九一式戦闘機         パブリックドメインより
写真4番目  九二式戦闘機                 パブリックドメインより
写真5番目   紙のようにつぶれた飛行機を土中から掘り出すところ 
                    東京日日新聞・府下版」1932.9.22


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №94 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 小田急線  
                       岩本啓介                         

さよなら ロマンスカー7000系

94小田急はこね90号WB日蔭 富永~栢山.jpg
小田急はこね90号WB日陰 富永~栢山

箱根なら小田急ロマンスカーの利用が多いと思います                        
2階が運転室で1階が展望室のロマンスカー7000系が3月で引退します              
またひとつ 昭和が消えていきます     


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押し花絵の世界 №55 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「押し花七福神」


                              押し花作家  山﨑房枝

55image1.jpeg
65cm×36cm  

紫陽花、クリスマスローズ、薔薇、リネアリス、ホトトギスなど40種類以上の花や葉を用いて丁寧に七福神を制作しました。


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渋紙に点火された光と影 №28 [ふるさと立川・多摩・武蔵]



               型染め版画家  田中 清

竹.jpg


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