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玉川上水の詞花 №200 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 ナンテンハギ (まめ科) 

               エッセイスト  中込敦子


nantenhagi.jpg 上水の自生野草保護ゾーンでは秋口になると、ナンテンハギが周囲の野草の間から可憐な散状房を覗かせる。

 四角の稜がはっきり出ている堅い茎に、2葉ずつ出ている葉がナンテンの葉に似ているのでその名が付けられたといわれる。

このナンテンハギの茎はあまり大きくならず、ヨモギなどの野の草の中にまじって、紅紫色の房になった美しい花を見せてくれる。蝶型の花は長さ1センチ5ミリほど。


花の季節も6月頃から秋までひっそりと長く咲いて、上水の土手に野趣美を増してくれるが、秋の花のグループに入れた。秋の深まりとともに他の野草が姿を消していく堤で、ナンテンハギだけは色鮮やかさを増していく。

ヨツバハキの花と似ているが、その花がやや大きくそのため花弁が柔らかな感じを与え、ふと手で包んでみたくなるようなかわいらしさを感じさせる。

ソラマメ属としては珍しく巻きひげがない。

奥秩父の一隅を歩いたとき、裾野に近い山ひだで他の野草の中に群生するナンテンハギを見ることが出来、思わず小休止してその花のもつ野趣に浸ってしまった。


花 期 
春 3~5月 夏 6~8月 秋 9~11月 冬 12~2月 
                  ○  


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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №95 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

大久保病院の看板娘
               銅版造形作家  赤川政由

95-1.JPG

夏の暑さの中、汗だくになって制作した作品。ついに完成。我が、愛車に、積み込み、一路、九州大分の竹田、久住高原の、大久保病院の入口に、とりつけました。高さ、台座100cm本体、130cm。外科医の、院長をモデル。30年前からのお付き合いで、この度久しぶりの制作依頼でした。大久保病院100周年の、記念として、製作しました。この病院には、8体の、ボンズ作品が、あります
 おてんば娘が、おでむかえ、この作品もいれますと、9体になります。

95-3.jpg
このクルマで、九州、大分まではしりました。
背景は、久住山。ワーゲンバスよくはしりました。


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立川陸軍飛行場と日本、アジア №148 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 第五連隊機、八王子市の防空演習に出動

                        近現代史研究家  楢崎茂彌

 長い夏休みから、ようやく復帰しました。8月5日に西砂川学習館、8月12日に砂川学習館で、それぞれの地域の空襲の証言ビデオを上映しました。多くの方に観ていただき有難うございました。これで立川空襲のビデオは一段落ですが、今後も“立川の戦争”にの記録を映像化していきたいと思っています。
 9月9日と10日に「第3回 立川名画座通り映画祭」が行われ、10日に僕が制作した「立川初空襲の記録」が上映されました。上映後、プロの監督などに厳しい批評と御指導をいただきました。ビデオは簡単に内容を作り直せるところが長所です。さらに“立川に住んでいない人にも、分かりやすいビデオ”をめざして精進いたします。

 八王子で防空演習
 昭和7(1932)年5月13日、八王子市で防空演習が行われます。防空総監となった城所八王子市長は次のように語っています、“今回の防空演習挙行に対しては市民の十分な協力を得なければ完璧を期し難い。欧州大戦ではロンドンは百四回、パリは百丗二回、ドイツのダンケルクは百七七回の何れも空襲を受け、非常に多数の死傷者を出したのは周知の事実である。今や「防空なくして国防なし」とまでいわれ”(「東京日日新聞・府下版」1932.5.11)。八王子市の防空演習にパリ、ロンドンを引き合いに出すとはなかなかの度胸ですが、東京府第一の都市である東京市はもう防空演習をしたのでしょうか(当時の東京府には東京市と八王子市しかありませんでした)。
 大正14(1925)年に航空兵科を独立させた陸軍は、東京・千葉・埼玉を舞台に陸軍航空大演習を実施しました(連載NO30)。立川の飛行第5連隊も参加したこの演習は、偵察機と戦闘機による空中戦が中心でした。翌年4月、代々木練兵場を舞台として第2回航空ページェントが開かれ、11機の陸海軍機が東京市を模擬夜間攻撃を行います。しかし、これは市民を巻き込んだ防空演習ではありません。僕がいま分かる範囲で東京市が行った最初の防空演習は、あの桐生悠々が嗤った「関東防空大演習」(1933年)ですが、何となく自信が持てません。
 城所市長はさらに続けて“最近の日支事変のわが空軍の活躍をみても想像に難くない。将来空の脅威は一朝有事の場合最もおそるべきもので、如何にしてこれを防ぐかは世界各国共に専心研究しているところである。”と言っています。満州全域に軍を進める関東軍は、前年(1931年)10月、錦州を爆撃、実質的な都市空襲だと国際世論の批判を浴びました(連載NO143)。市長は、自国がやっているのだから、やられるかも知れないと言っている訳で、これは説得力がありますね。
148-1.jpg 演習に参加する立川の飛行第5連隊の爆撃機(仮想)は三機、指揮官川島大尉は“昼間一回夜間二回位飛ぶつもりだ。爆弾を投下する時の高度は一千米位、建築物によっては何を投下するか判らない。市では最初の防空演習でどの位の程度に防空処置が出来るか当事者の充分の活動を願う”と余裕のコメントを出しています。
 「東京日日新聞」は5月8日に“八市の空に陸に予想される壮観 防空演習漸く近づく”、10日には“ 廿三団体を網羅 愈愈本決まり 灯火管制も諒解済み”、11日には"防空演習戦機動く 駅と浄水場早くも襲わる 敵機の来襲激し”、12日には"警鐘鳴る 昼夜三回に亘り敵機襲来す 壮観!防空演習”、14日には"吾等の空を護れ 風雲俄かに急を告ぐ 高射機関銃隊も参加して 六万市民を総動員す”などと連日大見出しを打って八王子の防空演習を報じます。
 市内の小中学校は、児童に対して防空講話を行い、御真影奉護、空襲に対する避難、防火、防毒などの実演を行うことが決まりました。学校では、御真影(天皇・皇后の肖像写真)を護ることが児童の避難より優先されていた148-2.jpgことがわかります。
 防空演習の想定は某国と日本が交戦状態に入り、ウラジオストックに拠点を持つ某国爆撃機が、行動半径内にある八王子に来襲するというものです。13日午後2時、爆弾・毒ガス弾・焼夷弾(どれも仮想)を積み込んだ3機の乙1型偵察機(サムルソン)が立川陸軍飛行場を飛び立ち八王子市の北西、淺川町方向から進入し、浄水場に毒ガス弾、市の中心部には焼夷弾を投弾すると上空を一周し東の空に飛び去りました。午後5時からの第2回襲撃は南から市内に進入し毒ガス弾を投下、第1小学校の児童たちが避難する局面もありました。午後8時10分「この一撃によって八王子市を撃滅すべし」との川島指揮官の指示を受けた3機は、灯火管制によって真っ暗になった市東部から進入し、一斉に爆弾を投下しました。
148-3.jpg 市民の反応を新聞は次のように書いています、“本町関谷座付近に落つべき爆弾の一つが、一寸的外れに同町五五織物業永井一郎方屋根に落下、家人は意外の物音に驚いて飛び出したが、不発弾と聞いた青年団員五名鉄砲を肩に弾の奪い合いで大騒ぎをした。どこで拾ったのか赤布袋の焼夷弾をほこらかに見せて歩く、トンだ爆弾勇士もあった”“避難誘導に各所に繰り出した八王子署員も、この日の市民が飛行機の爆弾投下を眺めて一向に避難しないのには全く弱らされた。”(「東京日日新聞」1932.5.14)市民が実感を持てないのは無理がありません。
 この演習を第一師団管下の在郷軍人連合支部長鏡山少将は”初めての試みとしてはまことに好成績である”と評し“この気持ちを忘れないで、今後とも防空に心を致されたい”とコメントします。
148-4.jpg これに対して、爆撃を担当した川島司令官は次のようにコメントしました、“…夜間の爆破は全市ともよく灯火管制が出来たようだが、折柄月明かりで目標の評定が容易だった。高度は三百米高射砲の弾丸をいくつか受けたようだったが、総じて八王子市の如きは三方山のためどこから侵入しても楽で、攻撃機側で受ける損傷は少なく市街の被害は甚大である。三回の空襲で八王子市は跡かたもないまでにやられた筈である。なお実際なら昼間一度の爆破で沢山、三機が編隊で一通り投下すれば全滅してしまうものである。勿論飛行機も高射砲を避けるため今日の高度三百米より五六倍の高度をとるものである”(「東京日日新聞・府下版」1932.5.14)
 川島司令官の言葉の前に、鏡山少将の言い分は丸で説得力がありません。防空演習は実際には効果はなく、国民に戦争を意識させ戦争に駆り立てる手段であることが分かると思います。現在、北朝鮮のミサイル実験にJアラートが鳴り、国民に避難を呼びかけることが始められています。これも実際に戦争が始まれば何の効果もないことは、川島司令官が言っている通りだと思います。国民の安全と幸福を守るために戦争が起こらないように外交努力をするのが政府の役割です。
148-5.jpg 八王子市が実際に夜間焼夷弾空襲を受けたのは1945年8月2日未明でした。この日は米陸軍航空軍創立記念日(アメリカは8月1日)にあたり、マリアナ諸島に置いた20航空軍の860機のB29のうち793機を出撃させ最大規模の爆撃をおこなったのです。目標は八王子、水戸、長岡、富山と川崎石油コンビナードでした。八王子市には169機が襲来し焼夷弾1592.8トンを投下し、市街地の80%が焼失し406名の命が奪われました。この空襲は、隣組防空群や警防団の手に負えるものではなく、普段の防空演習は全く役に立ちませんでした(実線で囲まれた範囲が八王子市市街、網で覆われた範囲が焼失地域)。)

 犬養首相暗殺される 五・一五事件
 五・一五事件は皆さんご存知の事件で、中学校の教科書には必ず載っています。中学校歴史教科書で一番のシェアーを誇る「東京書籍」発行の「新しい歴史」は、五・一五事件を次のように記述しています。
“満州を中国から分離することを主張していた現地の日本の軍部(関東軍)は、1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、それを機に軍事行動を開始しました。(満州事変)。満州の主要部を占領した関東軍は、1932年3月、清国の最後の皇帝溥儀を元首とする満州国の建国を宣言し、実質的に支配しました。
 当時の犬養毅内閣は満州国の承認に反対する態度をとりましたが、1932年5月15日、犬養首相は海軍の将校によって暗殺され(五・一五事件)、後継の斉藤実内閣は満州国を承認しました。”
 五・一五事件が満州事変に関係が深いことが説明されています。軍の一部がクーデターを計画した三月事件(連載NO119)十月事件(連載NO139)が、いずれも真相を追究されることなくうやむやに葬られたことが、軍人を増長させ五・一五事件を引き起こすことになったと言えます。
 この三月事件・十月事件に関わった井上日昭が中心となり、一人一殺による国家改造を企てる血盟団がこの年の2月に井上準之助前蔵相、3月には三井合名会社理事長団琢磨を暗殺しています。五・一五時件には、この血盟団員たちも加わっています。首相官邸を襲撃したのは、海軍将校4名と陸軍士官学校候補生5名で、76歳の犬養首相が「話せばわかる」言ったのに対して、将校は「問答無用、撃て」と首相を殺害したことは有名な話です。
 犬養首相の孫犬養道子さんは、この時の様子を次のように回想しています。
“お祖父ちゃまは嫁と孫から一番遠い「突き出た日本間」に暴漢を誘導した。床の間を背に、中央の卓を前に坐り、煙草盆をひきよせると一本を手に取り、ぐるりと拳銃を擬して立つ若者にもすすめてから、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう…」
 そのときであった、母は自由に動かせる眼のはしに、前の五人よりはるかに殺気立った後続四人の「突き出た日本間」に走りこむさまをチラととらえた。
 「問答無用、撃て!」の大声。次々と九つの銃声。「ああ即死だ!」胸に拳銃をつきつけたひとりも最後の瞬間走り去って撃った。彼が走ると同時に、母も反射的に、恐怖にひきつっている弟をそこに棄てると、日本間に駆け入った。
 こめかみと顎にまともに弾丸を受けて血汐の中でお祖父ちゃまは、卓に両手を突っ張り、しゃんと坐っていた。指は煙草を落していなかった。母につづいてこれまた台所から馳け入ったお祖父ちゃま付きのあのテルが、おろおろすがりつく手を払うと、「呼んで来い、いまの若いモン、話して聞かせることがある」と命じてから、ちょっと待て、まず「煙草に火をつけろ」しかし火はつかなかった。テルが激しく震えていたからである。”(「花々と星々と」犬養道子自選集2「ある歴史の娘」・岩波書店1998年刊)
 この事件のあと、元老の西園寺公望は次の首相に海軍大将斎藤実を推挙します。1924年にようやく始まった、国民が選挙によって政府を変えることを可能にした「憲政の常道」(衆議院の多数党が内閣を組織すること)は、たった8年後に銃によって葬り去られました。                                                                                       
写真1番目  「空襲の立川三機」      東京日日新聞・府下版  1932.5.14
写真2番目  サムルソンの実物大レプリカ       著者撮影     2012.8.23
写真3番目  尋常高等学校校庭の高射機関銃  東京日日新聞・府下版 1932.5.14
写真4番目  どこを狙う            東京日日新聞・府下版 1932.5.13
写真5番目  8月2日空襲で壊滅した八王子   米第20航空軍作戦任務報告書


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №86 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

妙高はねうまライン   8月24日
                    岩本啓介                                          

元JR信越本線の妙高高原~直江津37.7キロが現在の妙高はねうまラインです         
妙高の山々と棚田を走る電車の風景を予定していたのですが 生憎の雲隠れ                                            
片貝の棚田のET127系

 
86妙高はねうまラインET127系・関山~二本木★.jpg
                                             
緩やかなみどりの棚田が続きます                                          
『はねうまライン』がゆったり抜けていきます                                      
                        
向日葵とET127系  
 
86.jpg
                                       
地元の小学生が育てた向日葵の向こうに『はねうまライン』                          
夏の終わりを感じます                                       


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押し花絵の世界 №47 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「静物」

             押し花作家  山罪房枝

47.JPG
44cm×41cm
紅葉の葉や花びらなど自然の植物を使用して果物を制作しました。


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渋紙に点火された光と影 №20 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

雑草(メヒシバ)

               型染め版画家  田中 清

雑草(メヒシバ).jpg

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玉川上水の詞花 №199 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

フウセントウワタ (ががいも科) 

            エッセイスト  中込敦子

husentouwata.jpg 秋半ば過ぎに玉川上水近くの線路脇で何とも奇妙な実をつけた植物を見かけた。
ピンポン玉くらいに膨らんだ緑黄色の実に剛毛が生えており、傍らの枝には生成り色の花が咲いていた。
植物図鑑によると、ガガイモ科のフウセントウワタ(風船唐綿)で、晩秋になると実がパカッと割れて、中から綿毛と種子が現れるそうだ。
原産地は南アフリカで昭和10年頃に渡来したといわれ、当初はその実の姿からフウセンダマノキ(風船玉の木)と紹介されていた。
原産地では綿をクッションや枕の中綿に利用されていたので、栽培用として持ち込まれたようだが、温暖な地方で野生化したらしい。
草丈は1~2メートル、太くがっしりした茎に10~15センチ長さの細長い葉がまばらに対生している。花茎の先端部が分岐してその先にオフホワイトの花弁と副花冠を持つ2センチ前後の花を夏から秋にかけてつける。
最近は実がユニークな花材として生け花やアレンジメントにも使われており、花屋さんでも見かける。
 
花 期 
春 3~5月  夏 6~8月  秋 9~11月  冬 12~2月 
                 ○ 
 

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №94 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

万灯みこしの飾り金具

               銅版造形作家  赤川政由

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もう、36年ほどたったかもしれません。
立川曙二の西の、町会神輿。当時の青年会議所の、有志たちが、万灯神輿をつくりました。その胴の部分の、飾り金具。(打ち出しという技法)龍にしたのは、諏訪神社の、お祭りですので、多摩川の、水神様をみたてて、水龍にしました。日本的なものは、はじめてのけいけんで悩みました。いろいろて資料を調べてやっとさがしだしました、
天智天皇の、陣羽織のうらに、描かれていた龍を、参考にしましたが、作者の性格が、にじみ出て、優しい竜になりました。くちのわるい人は、はきがないといっていましたが、品がいいんだと、いいわけしていたのを、きおくしてます。
縁起ものです。これ以降、大きなしごとが、きたようです。7mの、ガリバーの、制作依頼。川口のドンキホーテ。まちづくりが、はじまったのも、この仕事からでした。
毎年、夏の『よいと祭り』になると、この、万灯神輿に、であえます。そして、必ず御利益ありますようにと祈りながら。
さすります。これが、以外とききます。みなさんも見つけたら、ためしてみてください。ただし、両サイドありますので、二匹ともさわらなくてはいけませんよ。


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №85 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

しなの鉄道北しなの線  古間~妙高高原

                       岩本啓介                                   

関東・甲信越地方から次第に消えていくJR115系電車ですが、しなの鉄道はすべて115系、しかもキャンペーンに合わせて 旧国鉄時代の懐かしい塗装で勢ぞろい                                      

初代長野色と妙高の蕎麦畑                                8月24日 

初代長野色は1989年4月に登場し、長野オリンピック開催に合わせ                
1992年より現在の信州色(2代目長野色)に塗装変更されました

45しなの鉄道115系初代長野色・蕎麦の花・妙高高原駅近く★ (2).jpg
 しなの鉄道115系初代長野色・蕎麦の花・妙高高原近く


◆横須賀色と妙高の向日葵                          8月24日 

昭和25年、横須賀線の電車に塗装されたことから                                  
通称『スカ色』とも呼ばれ 親しまれました

45しなの鉄道115系横須賀色・妙高高原駅近く向日葵★ (2).jpg
しなの鉄道115系横須賀色・妙高高原近く・向日葵                                  
 
◆信州色(2代目長野色)と妙高の案山子            8月24日 

立川以西の中央線で 今も見かける信州色です                                      
夕方、青空が戻ってきました                                      
案山子の右手は銀紙の鎌 キラリと光ります

45しなの鉄道妙高高原~黒姫・115系信州色★ (2).jpg
妙高高原~黒姫・115系信州色

◆湘南色と黒姫山                                8月25日   

昭和25年、東海道線の湘南地域の電車に採用された塗装です                        
あちこちで見られた湘南色 首都圏では姿を見なくなりました                        
黒姫山を黒い雲が取り囲みます                                    
この後 雨が降り出し 黒姫山は雲に隠れてしまいました

45しなの鉄道115系湘南色・古間跨線橋・黒姫山★ (3).jpg
しなの鉄道115系湘南色・古間跨線橋・黒姫山
                           
 
                                     




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押し花絵の世界 №46 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「ダリアの花束」

                押し花作家  山崎房枝

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42cm×35cm  


色鮮やかなダリアの花びらを1枚ずつバラバラに分解してから乾燥させて押し花にした後に、花びらをダリアの形に組み立てて丁寧に制作しました。

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渋紙に点火された光と影 №19 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

朝顔
               型染め版画家  田中 清

朝顔.jpg

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玉川上水の詞花 №198 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

キバナノノコギリソウ (きく科) 

               エッセイスト  中込敦子

kibananokogiri.jpg 梅雨明けを迎えた頃、直径10センチ以上もある半球型の黄色の花に鷹の橋近く上水べりで出会った。
近づいて見ると小さな粒状の花がぎっしりとカリフラワーのように房咲きになって、蝶や虫たちが盛んにやって来ている。
見慣れない花だが周囲の下草の間から覗いている葉が細かく裂けているので、キクかノコギリソウの仲間らしいが・・・。
図鑑をめくり捲った結果、ロシアのコーカサス地方原産のキク科の宿根草キバナノノコギリソウで、アメリカやオーストラリアでは野生化しており、日本には明治の中期に小石川植物園に渡来。華やかで香りもいいことから全国で栽培され、切花や花壇に用いられているが、その一部が野生化していると分かった。
草丈は60~100センチ、園芸店ではイエローヤローあるいはヤローイエローの名前で呼ばれている。対生して羽状に細かく裂けて鋸の刃のような葉は、止血効果がありハーブやドライフラワーとしても利用されているとのこと。
 
花 期 
春 3~5月 夏 6~8月 秋 9~11月 冬 12~2月 
       ○         


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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №93 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

北海道士幌町のバス停

               銅版造形作家  赤川政由

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24年ぐらい前の作品。今だ元気で、たいせつにされていた。時計台の、木造のはしらは、腐って壊れたのを、修理したとのこと、?
作品を、空中からぶら下げるはじめての試み、銅板造型が、軽いから出来る仕事です、この町は、じゃがいもと、牛肉の生産で豊かな町。ロデオしてるのは、男爵芋の、バロン。ポテトチップスの原材料ですね。


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №84 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

南武線 西国立                                  

                                                                 岩本啓介
 
84.jpg
                                     
向日葵とカマキリ

今年の8月は夏空に乏しく やむなく3年前の写真を使います。                        
西国立駅近く 道路わきの向日葵にカマキリが乗っかっていました。                    
暑い日で カマキリもじっとしていたのでしょうか 。       


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押し花絵の世界 №45 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「Will You Marry Me?」

                押し花作家  山崎房枝

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                      54cm×45cm  

花のブーケと花束コンテスト 佳作賞受賞作品
私の妹が旦那さんにプロポーズされた際にいただいた花束を押し花にして額に収めました。
コンテストに応募したところ賞もいただけましたし、良い記念になったと妹夫妻も喜んで新居に飾ってくれています。


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渋紙に点火された光と影 №19 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

水紋

              型染め版画家  田中 清

水紋.jpg

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玉川上水の詞花 №197 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

センリョウ (せんりょう科) 

            エッセイスト  中込敦子

senryou.jpg 万両と十両(薮柑子)には上水堤でもよく出会ったが、センリョウ(千両)には2009年正月3日、鎌倉橋上流左岸で初めて出会った。近くの上鈴木稲荷神社に参拝した御利益だろうか…?

 万両と薮柑子に比べて千両は赤い実を対生した葉の上に群がりつけるため華やかで、民家や庭園では千両の方が多く植えられ江戸期以来の栽培歴も長い。

 万両と薮柑子はヤブコウジ科だが千両はセンリョウ科の常緑小低木で、日本では南関東・東海地方~九州・沖縄の林地に生育。高さは50~100センチ。花期は6~7月で、茎頭に穂状花序をつけるが目立たない。

 花には花被がなく、雄蕊は雌蕊の側面から直接伸ばす変わりもので、被子植物にも関わらず維管束の木部は導管でなく、裸子植物同様の仮導管から構成された原始性が特徴だとか。

 また千両は葉の上の方に実をつけるので鳥に食べ られやすく、万両は葉の下に実をつけるので 食べられにくいとも。

 名前についても一説には万両の実は垂れ下がり、千両の実は上向きにつくので万両より軽いから値千金で千両。これらより背丈の低い唐橘は十両、さらに寸足らずの薮柑子は十両で、アリドオシ(蟻通し)は一両と、こじつけにしても面白い。 

 千両の一粒づつに弥陀の雨   篠原二歩

花 期 
春 3~5月 夏 6~8月 秋 9~11月 冬 12~2月 

           ○


線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №83 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

大糸線 南小谷~糸魚川    6月14~15日  

                       岩本啓介    
                                    
大糸線 松本~南小谷区間は電化区間、JR東日本の管轄です。                      
南小谷~糸魚川区間は非電化区間でJR西日本の管轄です。                                          

姫川 鉄橋 発電所              小滝~根知                              
清流“姫川”を渡る鉄橋は大きくカーブしています。                                
後方に姫川第6水力発電所が見えます。
 
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大糸線 小滝~根知・姫川と姫川第6発電所
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北アルプスとキハ120 南小谷~中士・宮本橋
                                         

多摩のむかし道と伝説の旅 №5 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

                        多摩のむかし道と伝説の旅(№5)
                -悲運の武将畠山重忠が踏み固めた鎌倉街道山ノ道-

                       原田環爾

 建久3年(1192)、源頼朝により鎌倉幕府が開かれた。東国の武士達は頼朝を武門の頭領として臣従し政権樹立に大きな役割を果たした。鎌倉街道はこうした東国の御家人達が一朝ことあれば”いざ鎌倉”と馳せ参じる道筋であった。鎌倉街道の主要な道筋は上ノ道、中ノ道、下ノ道の3本であるが、他にも多数の枝道、間道があった。山ノ道もそういった道の一つで、秩父から青梅、日の出、五日市、高尾等、山辺を縫って走る道筋で、上ノ道の裏街道的な役割を担った。山ノ道には混沌とした中世の東国を生きた悲運の武将の悲話が多く残されている。例えば平安末から鎌倉初頭に活躍し武蔵武士の鑑と称された畠山重忠、戦国末に活躍し多摩の三大悲劇の武将と言われた大石定久、三田綱秀、横地吉信等がある。今回はそれらの武将のうち畠山重忠をとりあげる。

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  畠山重忠は桓武平氏の流れをくむ秩父平氏の嫡流で、秩父地方を本拠として武蔵国の中小武士団を統率した坂東八平氏の一つである。治承4年(1180)源頼朝が石橋山で挙兵した時、当初は平氏として頼朝に対峙したが、その後は秩父系の諸豪族を伴って頼朝軍に参陣した。重忠は源義経に従って西国に下り源平戦で目覚しい活躍をした。彼は武勇だけでなく、歌舞管弦等の文化的素養にも優れ、その上礼節を重んじ、他人への思いやりが深い典型的な鎌倉武士であり、武蔵武士の鑑として敬われた。幕府成立後は幕府の重鎮として頼朝の信頼は厚かった。しかし頼朝が亡くなると、執権北条時政の謀略により、元久2年(1205)秩父からわずかの郎党を伴って鎌倉入りするところを二俣川の鶴ヶ峰にて北条軍に包囲され、奮戦の末自決した。畠山氏は滅亡したが、彼の人柄を惜しむ人々は多く、鎌倉道沿いには多くの伝説が生まれた。重忠が辿った多摩地域の鎌倉街道山ノ道の道筋と、そこに残された重忠伝説を紹介する。

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■棒ノ折山の重忠伝説
5-3-1.jpg5-3-2.jpg秩父から名栗へ向かうと名栗湖と呼ばれるダム湖がある。その湖を囲む山々の中に棒ノ嶺と呼ばれる標高969mの山がある。又の名を棒ノ折山と言う。重忠はしばしば居館のある秩父と鎌倉とを往復する機会があった。その際はこの鎌倉街道山ノ道を通ることが多かった。ところが重忠は大変美男子であったので、多くの村の娘達が一目重忠を見ようと道端で待ち受けるのでした。重忠はそれが嫌で、本道を外れ険しい山越えの道に入ることがあった。ところがある時、持っていた杖が折れることがあり、以後縁起が悪いとしてこの道を避ける様になった。このことがあってからこの山を棒ノ折山と呼ぶようになったという。

■畠山重忠の切り石伝説
5-4-1.jpg5-4-2.jpg名栗川の開運橋を渡って、坂道をうねうねと上って行くと都県境の小沢峠に来る。トンネルをくぐると青梅上成木の集落に入る。重忠が次なる松ノ木峠に向かっていた時、辺り一面に何とも怪しげな霧が立ち込め始めた。霧はますます深くなり、ついに周囲は全く何も見えなくなり、岩茸石山へ通じる名坂の山中に迷い込んでしまった。重忠はこれが噂の妖
怪の仕業と察した。渦巻く霧に殺気を感じた重忠は、腰の太刀を抜くや否や『エーイ!』とばかり切り捨てた。すると『ギャーッ!』というけたたましい叫び声とともに、巨大な何かが『ドサーッ』と落ちる音がした。するとたちまち霧は晴れ、そこに真っ二つに割れた巨岩が転がっていた。こうして重忠は無事松ノ木峠を越えることが出来た。以後村人はこの岩を畠山重忠の切石と呼び、この山道を林道として育林に務めたという。ちなみに岩茸石山は高水三山の一つで、隣接する高水山の山頂には常福院があり、その常福院の不動堂は畠山重忠が再興し篤く信仰したと伝える。

■馬引沢峠の重忠伝説
5-5.jpg軍畑で多摩川を渡河し、吉川英治記念館のある草思堂通りを抜けると、即清寺という古刹の前にくる。即清寺は源頼朝の命で畠山重忠が再興した寺という。観梅通りを経て吉野街道に出る。街道沿いを進むと程なく多摩川の支流馬引沢に架かる小さな明治橋の袂に来る。鎌倉街道山ノ道はここで街道を離れ沢に沿って馬引沢峠へ向かう。北斜面の峠道は鬱蒼とした樹林で覆われ、昼なお暗い静寂に包まれた道である。伝えるところでは、心優しい重忠はこの峠を越える時、馬の負担を軽くするため、必ず馬から降りて手で馬を引いたと伝えられる。そのことからこの峠は馬引沢峠と呼ばれる様になったという。

■平井妙見宮の重忠伝説
5-6-1.jpg5-6-2.jpg馬引沢峠を下り、秋川街道をやり過ごし、玉の内川に沿って南下すると平井川に架かる西平井橋の袂に来る。橋を渡り更に南へ向かうと武蔵五日市線の武蔵増戸駅すぐ西の踏切に出る。踏切を渡り、五日市街道を横切り、緩やかな坂道を下って行くと秋川に架かる山田大橋の袂に来る。鎌倉道は大橋袂の急坂を下り秋川の畔に出て渡渉したのであるが、ここに重忠伝説が残されている。即ち元久2年(1205)重忠が郎党134騎を連れて鎌倉へ向かい、平井で宿泊し翌朝出発して秋川の畔までやってきた時、突然北の方から強い光が明滅した。馬は驚いて棒立ちになり、重忠は必死に馬を鎮めようとしたが落馬してしまった。一体何が起きたのかと光の射す方向に目をやると、平井妙見宮の上に北辰(北極星)が強い光で明滅していた。重忠はこれが何を意味するのかわからなかった。馬は暴れて使えないので輿に乗って鎌倉へ向かった。すると相模に入ったところで、鎌倉から一人の家来が息咳切って重忠の元に馳せ参じた。鎌倉で重忠が謀反を起こしたとの噂が流れ、幕府が大軍を動かして重忠を討伐しに来るというのです。郎党達は秩父に引き返すよう進言したが、重忠はこのまま引き返すと謀反の疑いを強くするだけで、身の潔白が証明できないと説得し、そのまま鎌倉へ向かうこととした。そして予想通り二俣川を望む鶴ヶ峰で数万の幕府北条軍に包囲され戦闘状態となった。重忠と家臣はよく戦ったが、所詮は多勢に無勢、ついに重忠は敵の矢に当たって戦死してしまった。享年42歳。平井で見た光は重忠を鎌倉に行かせまいとする妙見様の思し召しだったのです。

■駒繋石峠の重忠伝説
5-7.jpg山田大橋南詰の網代トンネルの傍らから秋川丘陵の尾根道に上る峠道を採ると、左右眼下に広大な芝生で覆われた東京五日市カントリークラブのゴルフ場が現れる。続いて金網のフェンスで囲まれた一般廃棄物最終処理場を左に見て峠道を進むと、やがて尾根道に辿り着く。峠は駒繋石峠とも御前石峠ともいう。峠には駒繋石と言われる奇妙な穴の開いた三角錐の形状をした岩がある。畠山重忠が鎌倉往還にこの峠を通って休息をとろうとした折、丁度馬を繋ぐ適当な場所がなかったので、近くにあった石に指を押しつけて穴をあけ、その穴に馬の手綱を繋いだという。以後この石を駒繋石と呼ぶ様になったと言う。

■田守神社の重忠伝説
5-8.jpg駒繋石峠を越えて長い坂道を上川霊園を左に見て下りきると、秋川街道と丁字路で合流する。その合流点手前で浅川の支流川口川の上流と交差する。川に架かっている橋の名は重忠に因んでか重忠橋となっている。重忠橋の上流側にはあざやかな朱色の屋根を頂いた神社が佇んでいる。田守神社という。伝えるところによれば、畠山重忠が失くした守本尊がこの辺りで見つかり、それを祀ったのがこの神社だという。

多摩地域の伝説はこれで終わるが、重忠が無念の死を遂げた二俣川を望む鶴ヶ峰の頂きには駕籠塚という重忠の内室の墓がある。最後に駕籠塚にまつわる伝説を加筆する。

■鶴ヶ峰の駕籠塚悲話
5-9-1.jpg5-9-2.jpg元久2年(1205)、秩父から134騎の郎党を連れて鎌倉へ向かった重忠一行が鶴ヶ峰に差しかかったところ、雲霞のごとき数万騎の軍勢が二俣川の彼方から攻め寄せてきた。重忠は幕府権力の掌握を狙う北条氏の策謀にかけられたと悟った。家臣らは一度菅谷の館に引き返し軍を整えてから臨むよう進言した。しかし重忠はもしそうすれば無実の我に陰謀があったと疑われることになると家臣を諭し、武士としてここで決戦を覚悟した。子の刻より数時間、畠山一党は果敢に戦ったが所詮は多勢に無勢、重忠
は敵の矢に当たり一族郎党134騎とともに玉砕した。享年42歳。重忠一行が死を決したとの悲報は菅谷の館に達した。重忠の内室はいたたまれず、急ぎ早駕籠で鶴ヶ峰に向かった。しかし内室が鶴ヶ峰に辿り着いた時は、時既に遅く公は戦死してしまっていた。内室は悲しみのあまり、その場で息絶えてしまった。伝説によれば内室は駕籠の中で自害したとも言われ、その亡骸は駕籠の中に入れられたまま葬られたので塚は駕籠塚と呼ばれるようになったという。
                                                                        (原田)


押し花絵の世界 №44 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「Paradise of summer」55cm×46cm  

               押し花作家  山崎房枝

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ハイビスカスやプルメリアなどの南国の花を使用しました。
背景は布地にパステルで描いています。


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