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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №113 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

弟子の話

               銅板造形作家  赤川政由

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我が工房には、なんにんかの、わかものが、たずねてきます。そのうちなんにんかは、がんばって、もの作りの、道に、あゆみだしていきます。今回の、新聞に、取り上げらられた、石川くん。も、そのなかのひとりです。いまから、18年ぐらいまえに、たずねてきて、それから、9年間、我が工房て、修行しました。はれて、独立してからは、ヨーロッパのスペインに、いって、広く、世界を、見聞して、その次は、京都(国際都市京都!)に、うつりすみ!

素敵な友人達と、出会い、アメリカ、ニュウョークでグループ展を、ひらいたりと、かつやくしています。そのつど、センスが、みがかれていくようなかんじがします。こんどは、家族をつれて、ドイツにいくとか、二年ほどくらしながら、創作活動を、ずるそうです。楽しみですね。こつこつと、作品を、ためてきたものを、いちどうに、ならべてみると。なかなかのものがあります。今後が、たのしみです。

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立川陸軍飛行場と日本、アジア №165 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

立川尋常高等小学校の6年女子12人が血で日の丸を描く

                     近現代史研究家  楢崎茂彌

 飛行第五連隊、新年初飛行
 昭和8年1月4日、4日後に観兵式に参加する乙式偵察機6機、八八式偵察機8機(いずれも予備機を含む)が、165-1.jpg立川上空で訓練飛行を行いました。
 8日に行われる観兵式に参加する飛行機は第五連隊機と所沢飛行学校、下志津飛行学校からの合計57機。立川上空で合流し、いつものように多摩川沿いに飛び丸子多摩川上空で左折し駒沢練兵場上空を経て代々木練兵場で空中分列式を行う予定です。昨年参加して、そのスピードで観客を驚かせた九一式戦闘機は、今回は参加していません。この新鋭機は前年2月に上海事変に出動し、6月には在満部隊に配属されました。観兵式などに参加する余裕はなかったのでしょう。
 1月8日、57機は立川上空500mで勢揃いすると、時速130km、約4kmにわたる飛行機の列が東に向かいました。

 民間機は最後の初飛行
 第五連隊に遅れること2日、1月6日に立川にある日本飛行学校と御国飛行学校所属のアンリオ機、アヴロ機など165-2.jpg合計十数機が初飛行を予定していました。ところが、6日はあいにく朝から雪から雨、ようやく午後1時になって数機が立川上空を舞っただけでした。日本飛行学校などは立川残留を希望していますが、幸先悪い初飛行ですね。今年中には訪欧飛行を実現したい正田マリコさんは顔を見せませんでしたが、故郷朝鮮半島への飛行を計画している朴敬元さんは意気盛んで “今年こそ是非故郷の地に飛びたく思います。早くて四、五月になりましょう。それまでは飛行機の整備や訓練に万全を期したいと思います。”と語りました。朴さん(右から3人目)も木暮主事(右から2人目)も嬉しそうに笑っています。
 大嵐で仮格納庫を破壊された(連載NO160)日本学生航空連盟は8日に初飛行を行います。活動日は日曜だけど元旦には出来ませんよね。

 落下傘投下実験
 12日からは日本飛行学校がこの年初めての落下傘投下実験を始めました。藤倉工業が製造し海軍に納入するパラシュートを400m上空から投下して途中で開き、7分から8分で地上に到着するという実験です。
165-3.jpg 藤倉工業はゴム引防水布を製造する会社として明治34(1901)年に創業、昭和3(1928)年から飛行機用落下傘を作り始めました。2年後に落下傘研究のために、海軍から廃棄になる気球を借り受けます。その時の公文書が残っています。
“昭和五年十一月十八日起案 官房第三八一一号
 昭和五年十一月二十六日 大臣 横鎮(*横須賀鎮守府)長官 
廃兵器貸与ノ件訓令
 横須賀軍軍需部保管ノ左記整備長主管廃兵器ヲ次ノ條件ニ拠リ藤倉 
工業株式会社取締役社長 松本留吉ニ貸与方取計フヘシ 
一、 落下傘領収試験並制作取扱法等ノ改良進歩ニ関スル研究ノタメ投 
      下試験用及撃留気球ノ各部改良進歩ニ対スル研究用トシテ 
二、貸与期限 昭和六年十一月三十日 
写真の落下傘は、この研究によって改良されたものなのでしょうか、新聞は、投下実験の“成績は百パーセント”と報じています。
 昭和14(1939)年には“藤倉航空工業”が創業され、落下傘の生産を開始します。「落下傘を作る心」(藤倉航空工業1943年刊)の序で松本新太会長は次のように書いています。
“曩(さき)に皇軍降下部隊が、空の神兵として、セレベス島のメナド、スマトラ島のパレンバン等に血戦力闘、不滅の戦果をあげた時、これが落下傘の研究、製作を担当せる当社従業員一同は、銃後国民の誰よりも、より大なる歓喜と誇りを覚えたのであるが、図らずも、陸海軍航空本部長閣下よりは、栄誉ある感謝状を拝戴し、無上の面目を施し得たのであった。その後、
忝くも、当社へ侍従御差遣の恩霈(*おんはい)を拝し
今復、重ねて至尊拝謁の破格の光栄に浴す。惶々(*こうこう:恐れ入る)感涙に咽び‥”、
 皇室がからむと字がやたらに難しくなりますが、天皇に拝謁したのだから、こうして本を出して記録を残したかったのですね。
 先にパラシュート製造をおこなった藤倉工業と藤倉航空工業は関連がありそうですが、いまのところハッキリわかりません。因みに、藤倉工業は戦後に藤倉ゴム工業と改称し、あのキャラバンシューズを製造しています。

 立川尋常高等小学校の六年生女子12人、血で日の丸を描く
 「東京日日新聞・府下版」(1933.1.12)が報じるところによると、1月9日、立川尋常高等小学校の6年女子組165-4.jpgの担任石井訓導(*小学校教諭のこと)が満州派遣軍慰問文を募集したところ、12名の女子児童が諏訪神社に集まり派遣軍の無事を祈願しました。そのあと慰問文について話し合い、血で日の丸を作って戦地に送ることに決め、小指、薬指を安全カミソリで傷つけて出た血で、縦2尺(約60cm)横3尺(約90cm)の白木綿の日の丸を染め上げます。11日には石井訓導に報告して、立川憲兵分遣隊に、この日の丸を慰問文と一緒に持ち込みました。この記事に慰問文の一部が紹介されています。
“私達は内地で毎日寒い寒いといっていますが、満州の皆様を思うと寒い等とはいえません。ウインドの写真を見ますと、全くご苦労のさまがわかりますので、十二人の血の旗を造りました。どうか悪い匪賊を打ちのめして、大雪原の先頭にこの旗を揚げてください。” 分遣隊長は慰問文に感動して陸軍大臣を通して前線部隊に送ることにします。
 満州事変が始まって1年3ヶ月、子供達に軍国主義教育が恐ろしい程浸透している様子がわかります。石井訓導は女子組で慰問文を呼びかけたのに、この日の丸と慰問文は、他の慰問文とは一緒にしないで憲兵隊に持ち込まれています。持ち込むアイディアを出したのは石井訓導に違いありません。持ち込まれた憲兵隊長は次のように言っています“余り奨励したいことではありませんが、十二人の少女の純情から出た行為は立派なものです。”石井訓導より憲兵分遣隊長の方がまともな感覚を持っているように思えるほど、学校は軍事教育一色に染まり始めているようです。新聞も少女達を持ち上げて戦争熱を煽ります。

写真1番目  空中分列式参加の立川機     「東京日日新聞・府下版」1933.1.8
写真2番目  朴嬢をを中心に初飛行の喜び    「東京日日新聞・府下版」1933.1.7
写真3番目  投じた瞬間        「東京日日新聞・府下版」1933.1.13
写真4番目  その日の丸        「東京日日新聞・府下版」1933.1.12


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №104 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

国鉄色のキハ  只見線 
                                 
                                            岩本啓介 

104-2只見線・浅草岳・キハ48-545只見縁結び号+キハ48-1533仙台色.jpg
         浅草岳をいくキハ48                                   
            見上げれば 残雪の浅草岳                                       
眼下には深い緑の田子倉湖   

104-1国鉄急行色キハ47-キハ48-523只見新緑満喫号・只見駅.jpg
                                    キハ48の仙台色と赤の只見縁結び号     


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押し花絵の世界 №64 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「Frower Collection」

                押し花作家  山﨑房枝

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30cm×24cm

沢山の可愛い小花を使用して6つのパターンのアレンジメントを作りました。
それぞれの花器も花や葉、野菜の皮などで仕上げています。


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渋紙に点火された光と影 №38 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

コウモリ傘

              型染め版画家  田中 清

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旬の食彩 僕の味 №101 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

鮎のコンフィ

  レストラン「ヴァンセト」オーナーシェフ  大澤 聡

初夏の味といえばこれ!
鮎。毎年この季節には外せない料理です。
鮎のコンフィ。
今年も頭から尻尾まで柔らかく仕上げました。毎年のことなのですが、これが今のところ一番美味しい気がしています。
コンフィと言えば、鴨や鶏などのモモをコンフィにするのはがフランス料理の定番です。鴨の場合はガチョウの油の中で低温で煮込む料理です。イメージ的に油で煮ると言うと仕上がりが脂っこいような気がすると言う風に思われることがありますが、わりとさっぱりしています。保存食というのがコンフィになりますが、鮎をコンフィにするのは、保存が目的と言うよりも風味を増させる目的があります。
通常は低温のオイルで煮るのがコンフィですが鮎のコンフィは今回は圧力鍋をつかいます。

塩とハーブでマリネした鮎をコンフィにします。しっかり塩を効かせることで鮎の旨味や香りがいきてきます。
鮎は、サラダ油とオリーブオイルの中でコンフィにしていきます。

圧力鍋を使って鮎を煮ると柔らかくはなるのですが柔らかくなるがゆえに取り出しずらいのと崩れることも。
これを解消するために直接鍋に入れずにステンレスのバットにオイルと鮎を入れます。それをお湯をはった圧力鍋のザルの上に。ザルはひっくり返してあり、その上にバットをのせます。これで直接煮ることにならいので、取り出しやすいのです。

柔らかく煮えた鮎は身の水分を保ちしっとりと仕上がります。
これぞコンフィの醍醐味。鮎の風味と旨さを生かした料理です。
この鮎を仕上げに香ばしく焼きあげます。ソースは色々。
オクサリスというハーブ酸味のあるハーブをソースにしたり、トマトやきゅうり、パプリカなど使ったガスパチョのソースにしたり、サラダバーネットと言うキュウリのような爽やかな香りのするハーブを使ったソースを添えたりと今年はバリエーション豊かにいこうと思います。
前菜での提供になりますが、沢山の初夏の野菜と盛り合わせるとメインにもなります。
鮎の骨が気になる人もそうでない人にもオススメ。
コンフィの鮎は骨も柔らかで旨味が凝縮しています。
ソース無しでも十分美味しいのですが、
色々なソースと組み合わせると鮎の表情も変わります。色々な鮎の味わいを楽しんでください。
鮎のほろ苦い味わいを是非ヴァンセットで

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東京都立川市柴崎町3-5-2むつ花ビル2F  042-526-6716 
ヴァンセット27シェフブログ  http://www.sprasia.com/tv/user/vanset/blog

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №112 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

湯布院のおはなし

               銅版造形作家  赤川政由

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半月は、あっというまにやってきます。そろそろご案内することも、なくなるかなと、おもいきや、まだまだ、ありそうです。今回は、大分県の、湯布院の、おはなしです。もともと、由布さんの、麓にある、ペンションふもとやさんは、わたしの、小学校からの、友人で、大分に、帰郷のおりには、必ずたずねる、やどです。家族ぶろ、あり、露天風呂ありの、素敵な宿です、値段も、やたら高い由布院にしては、リーズナブルです。湯布院の、まちの、文字は、本来由布院と、かきます。いつのころから、お湯の、湯布院に、かわりました。別府に、まけないように、温泉を、アピールしようということですかね。この、ペンションの、温泉も、すばらしく、回りの、自然も、あわせて、癒されませ。画像は、ペンションの、中庭で、やまぼうしが、きれいにさいてました。白い花のように見えるねは、がくぶちにあたるそうです。まん中にあるのが、ボンズ作品としては、珍しい抽象オブジェです。タイトルは、ギャラクシーピースと、名付てました。銀河のかけらということですかね。たたくと、音が、たのしく、音具彫刻の、いみもあります。大分てわ、展覧会を、開いたときに、もってかえれず、あずかってもらってますけっこう庭石のようにあってませんか?。中庭の向かいにあるレストランは、豊後うしの、料理が、美味しくいただけます。レストラン(ムジカ)という名前です。ぜひとも一度、お尋ねください。オーナーの名前は、佐藤昌さんです。

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立川陸軍飛行場と日本、アジア №164 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 立川国立間で三多摩青年訓練所特別大演習

              近現代史研究家  楢崎茂彌

 昭和7(1932)年12月11日、東京府主催で三多摩1市10町56村の80青年訓練所の青年2856名が東西両軍に分かれて参加する大演習が行われます。両軍にはそれぞれ第1師団の砲兵・工兵・騎兵と、近衛師団の陸軍飛行五連隊の偵察機一機ずつが参加し臨場感を盛り上げます。
 9時に始まった陸空の偵察戦を皮切りに、9時半に東軍は府中、西軍は立川を出発すると国立駅の真南にあたる多摩川沿いの谷保三屋で両軍は遭遇し激突します。演習終了後一同は国立球場に整列し、香坂府知事は“青年の生命とする元気が漲っていた事は誠に喜ばしい。現在は非常時で若き諸君の力に待つことはきわめて多く、青年の意気は直ちに国勢の消長に反映するものであるから、諸君はよくこの元気を活用して、よく過誤のないように”と講評しました。
 この青年訓練所とはどんなものだったのでしょう。「学制百年史」(文部省1981年刊)は次のように説明しています。
“大正十四年、学校に現役陸軍将校を配属して教練を実施する制度に続いて、小学校修了後業務に従事する青少年大衆に対して兵式訓練の施設を設ける方策として、十五年四月二十日青年訓練所令および青年訓練所規程を公布した。青年訓練所は、「青年ノ心身ヲ鍛練シテ国民タルノ資質ヲ向上セシムルヲ以テ目的」とし(青年訓練所令第一条)、おおむね十六歳から二十歳までの男子を四年にわたって訓練するものであり、教授および訓練科目として、修身および公民科・教練・普通学科・職業科を置いた。設置主体は市町村および私人とし、設置に関して毎年一〇〇万円を支出した。特に訓練修了者に対しては在営年限の半年短縮が認められ、軍務要員教育に関して特に考慮された制度である。”
 教練は在郷軍人が担当したので青年訓練所には陸軍が深く関わりました。第五師団司令部(広島)が発行した“「青年訓練所設立の趣旨に就いて」(1930.広島刑務所印刷)は“国民タルノ資質”を次のように説明しています。“国民の多数に訓練を施して、一旦ことがあった場合には所謂国家総動員の挙に応じて、応分の力を国家のために尽くすという、平素の用意を整えると言うことは真に大切であり‥”。教育勅語を彷彿とさせる文ですね。
 更に“教育を受けることが国民の義務であると同時に権利であるという思想が残残と起こっている時代”に鑑みて、生徒達に青年訓練所の意義を次のように説明するように求めています。
 “只青年訓練所にはいることは嫌だけれど義務だから仕方ない。勿論義務と言っても法律できめたものではなく、道徳的に考えて日本の青年たる者は訓練所に於いて心身の鍛練を積まねばならぬということを義務の側から説かずして、そこで立派な人間になるのは諸君が国家から授けられた所の権利である。権能である。そういう権能を授かって居るのだからこれを使えば立派な国民になれるのに、これを使わないでつまらない人間になるのは真に残念ではないか。青年をして訓練所に入所することが自分たちの特権であるように考えさせて戴きたいと思うのであります”(同書)。国家から授けられた権利を行使した青年が、国家のために尽くす立派な人間になるという、何と国家に都合が良い論理でしょう。天賦人権論は我が国の歴史・文化・伝統にそぐわない、とする自民党改憲草案に共通する論理を感じるのは僕だけでしょうか。 

 不況の暮れに「石川島」景気とランプの村
   昭和7(1932)年12月26日は、石川島飛行機製作所(後の立川飛行機)の給料日です。
  「東京日日新聞・府下版」(1932.12.27)は、700人の職工の平均給与は70円以上、17,8歳の少年臨時工さえ40~50円を稼ぎ、“これがため、同町の商店は大いに潤い、不況の歳末に「景気の神石川島」の豪勢ぶりを示した”と報じています。
  同じ紙面は、小宮村(現・八王子市)にある片倉製糸工場の女工さん達の一年分の賃金は300円だと報じています。月給に直すと25円、石川島の少年臨時工の半分程の低賃金です。当時の労働者の平均本業収入は77円36銭でした(「新版日本長期統計総覧」総務省統計局監修・日本統計協会1996年刊による)。これに世帯員収入や雑収入が加わり、世帯(平均4.07人)収入は86円47銭です。女工さんの低賃金が際立ちますが、世帯を持たない少年臨時工は高給取りです。因みに、この時期の葉書は1銭5厘なので、今の値段はそのざっと4000倍。すると少年臨時工の月給は16万円から20万円の見当になります。これについて石川島側は“子供に大金を持たしましたので、自由に費消する事はよろしくありませんので、特に未成年の家庭には前以て何十何円何銭渡しますからと通知をやって置きました。まあここ四五日は立川の商店も救われるでしょう。”とコメントしました。
  好景気に沸く石川島飛行機製作所と対照的に農村の疲弊はさらに深刻化していきます。連載NO154で紹介したように、貧窮化する農村救済策として打ち出された“時局匡救政策”も予算が先細って行きます。一方、斎藤実内閣は“農山漁村経済更生運動”を“自力更生”の合い言葉のもとに展開
しました。南多摩郡恩方村前田村長は、農村更生は掛け声ばかりで実績が上がらないが、“まず全村一致団結が肝要だ”と記者に語っています。その恩方村全村750戸のうち50戸余りが電灯をやめて、一晩7厘ですむランプ生活に逆戻りしたことを、「東京日日新聞・府下版」(1932.10.25)は“悲しき自力更生の姿”と報じています。
 10月20日、日本青年館で行われた府女子青年団大会で八王子市尋常高等小学校の崎山すい訓導は「女性としての自力更生」と題して“次に万事経済観念を働かせ不幸や辛苦をかみしめて倹約すること。中流以下の生活にありながら数多着物にうきみをやつし、一時的流行に追われ勝ちなことは、よく見受けられることではありませんか。経済的趣味的に自分に調和せぬものは断固打捨て、式服儀礼も改善し身分相応の生活に立ち返らなければなりません”と演説しました。恩方村にはランプが身分相応なのでしょうか。“自力更生”は、今の日本を席巻している“自己責任”と同じ響きがありますね。
 
 第五連隊機、奉天までの長距離耐寒飛行に挑戦
 12月15日立川陸軍飛行場を飛び立ち大刀洗に翼を休めた八八式偵察機3機は、16日には朝鮮海峡を越えてピョンヤンに向かいます。目的地奉天に向かう機上は零下20度の極寒です。
 連載NO110、111で、前年1月に立川の陸軍航空本部技術部の八八式偵察機2機が朝鮮半島で行われた耐寒飛行演習に参加したことを紹介しました。また2月には飛行第五連隊が第七師団と旭川で合同演習を行っています。この演習の9ヶ月後に五
   連隊に満州への出動命令が下されました。今回の長距離耐寒飛行は何に備えるものなのでしょうか。

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写真  大刀洗に安着    「東京日日新聞・府下版」1932.12.16
 


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №103 [ふるさと立川・多摩・武蔵]


『お兄ちゃん いつ帰るの 今度』 京成 柴又駅     

                       岩本啓介

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葛飾 柴又とくれば 帝釈天に寅さん                              

京成柴又駅前の『寅さん』像の近くに『見送るさくら』像が昨年設置されました        

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押し花絵の世界 №63 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「静寂」

                押し花作家  山﨑房枝

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80cm×63cm

静寂の中に色とりどりの紫陽花が咲いている様子を表現しました。
背景は黒い布地にパステルで描いています。


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渋紙に点火された光と影 №37 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

蕨(ワラビ)

               型染め版画家  田中 清

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №111 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

川口町歩き


                          銅版造形作家  赤川政由

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1991年1月のプレートがついている。八年前の、作品、このとしに、とうほく大津波が、やってきたわけだ、鋳物工場の、あとにたった、高層マンション。街の記憶を、のこそうと、かねてより、いつも、仕事を、してきた。建築家の、森行雄先生と、この作品、を、つくる、前面に、鋳物の街のおもいでが、つづられている。ここ、が、かって、鋳物工場だった頃は、道路は、泥んこで、みずたまりには、青いそら、が、うつっていて、真っ白なくもも写していた。子供たちは、おとうさんの、あせまみれの、からだをみながら、あそんだ、いぬも、猫もいた。そんな思いで深い街の記憶を、かたちに、しました。街の、記憶をつくる。でした。このとし、孫娘か、うまれ、その子が、もう、8さいになった。暫くしたら、川口の町歩きに、つれていこう。

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立川陸軍飛行場と日本、アジア №163 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

  立川町制10周年・白木屋の火事に立川から陸軍機出動

                  近現代史研究家  楢崎茂彌

  防衛省は5月8日に、小西弘之参議院議員を、「国民の敵」「あなたがやっていることは日本の国益を損なう」「馬鹿」「気持ち悪い」とののしった自衛隊の三等空佐を懲戒処分ではなくて、訓戒にとどめることを発表しました。本人は「国民の敵」とは言っていないと主張しているようですが、1938年、衆議院で国家総動員法を審議している最中に、佐藤賢了陸軍中佐が宮脇長吉議員を「黙れ!」と怒鳴りつけた事件を連想し、背筋が凍る思いがしました。戦前を反省して定められた「文民統制」をないがしろにしかねない防衛省や政府の姿勢は、民主主義とは相容れないものだと思います。
 
 立川町制10周年
163-1.jpg 1932(昭和7)年12月1日、立川町は町制10周年の祝賀行事にわきました。午前8時小川町長以下町会議員、氏子などが諏訪神社に集まり、玉串を捧げて「町制10周年記念」の奉告式を行うと、そのあと北立川にある熊野神社でも奉告式を行います。政治と国家神道が一体化した時代を感じます。10時40分になって、ようやく町制10周年記念式が立川尋常高等小学校(今の立川一小)で始まりました。正午には祝賀の宴が始まり、空には日本飛行学校、御国飛行学校等の飛行機が五色のテープをなびかせて舞い、屋根すれすれに飛ぶ飛行機からは操縦士が身を乗り出して町制10周163-2.jpg年を祝いました。 祝賀行事に先立って「東京日日新聞・府下版」は“町制十年躍進の立川を語る”という連載をしています。その第1回で鈴木清青年団長(のちに立川市長となる)は10年前の立川村の様子を次のように語っています。“貧弱な村だったのが、大正十一年飛行第五連隊(当時第五大隊)が移転したのをきっかけで発展するようになりました。町になったのはソノ翌年の十二年で、当時は町の中心は役場付近で、駅の前に今の部長派出所と武蔵野料理店のほかは一二件あったばかりで、あとは狸や狐が出る山でした。通りのすぐ後ろは林で何の事はない本紙夕刊子母沢寛氏作「国定忠治」の落葉街道でした。”(1932.11.22)山崎保明さんが描いた「昭和二年立川駅南口」の絵がその頃の様子を彷彿とさせます。
 鈴木清氏が言う通り、第五連隊が移転してきた1922(大正11)年に立川村の人口は前年比28.4%増の6115人となり翌年に町制が施行されました。以後も日本飛行学校、陸軍航空本部技術部、石川島飛行機製作所などの移転が相次ぎ昭和の初めは10%を越える人口増が続きました。1931(昭和6)年には羽田に東京飛行場が出来たため人口の伸びは1%台になりますが、町制10周年のこの年の人口は14279人となっています。これに対して、隣の砂川村は1923年には6463人と立川町と大きく違わなかったのに、立川町制10周年の1932年には立川町の半分に当たる7253人と記録されています。立川陸軍飛行場の吸引力が分かりますね。(人口の統計は「世帯と人口」2018年版、立川市・市民課発行によっています)
 連載「町制十年躍進の立川を語る」最終回で小川町長は下水・道路・公園・中央線の南北をつなぐ道路、などを課題として語っていますが、見出しは“軍都、生かすも殺すも聡明な町民の覚悟一つ”です。東京国際飛行場があった“空の都”から“軍都”への変身が加速していきます。
 
 白木屋(日本橋)の大火事に、立川から航空本部技術部機が出動
 僕が小学生の時に、友達と玉電に乗って渋谷まで行き、地下鉄(当時は今の銀座線しかありませんでした)で日163-3.jpg本橋白木屋に行ったことをうっすらと記憶しています。何のために行ったのかはハッキリしませんが、記念切手を買いに行ったような覚えがあります。当時は今のように記念切手が大量に発行されなかったので貴重品でした。当時の銀座線は駅に近づくと一瞬電灯が消えて、いかにも地下鉄に乗っているという気分になったものです。そのあと白木屋は東急百貨店日本橋店となり、今はその地にコレド日本橋が建っています。
 その白木屋が1932(昭和7)年12月16日、大火事を出しました。「白木屋三百年史」は出火の様子を次のように書いています。“昭和七年十二月十六日午前九時十五分、歳末大売出しとクリスマスデコレーションで店内くまなく華やかに装飾された白木屋の四階玩具売り場の装飾電気器具接触部付近から突然発火、装飾用モールを伝ってかたわらに山積みされてあったセルロイド玩具に、あっという間に引火、火はたちまち店内に広がった”。火の手は5階家具・美術品売り場、6階特売場、7階食堂・ホール、8階店員食堂へと広がり、逃げ惑う客や店員で店内は阿鼻叫喚の有様になりました。
  8分後に日本橋消防署の望楼勤務員がこの火災を発見し、署長は直ちに署員全員に出動を命じます。まず、はしご車が4階の歯科室から医師と看護師を救出しました。更に5階のベランダにはしごを伸ばし、消防手が60kg近くある救出袋を担いでよじ登り、ベランダに避難した人たちは救出袋で次々と脱出します。6階、7階の人たちも消防手がロープで縛って5階に下ろして救出袋で脱出しました。写真を見ると屋上の手前の方に階下から逃げてきた人達が集まっているのが分かります。屋上には動物が飼われており、檻に防火布がかけらます。
  この事態に警視庁消防部(消防も警察の管轄だったのですね)の要請により、所沢陸軍飛行学校近藤少佐が指揮163-4.jpgする八八式偵察機5機と、立川から陸軍航空本部技術部の八八式偵察機2機が救援に向かい、正午過ぎに現地上空に到着し数十本の脱出用ロープを屋上に投げ下ろしました。「東京朝日新聞」(1932.12.17夕刊、2.16発行)は“猛火の白木屋屋上へ 空から救いのロープ 陸軍機の鮮やかな活動で避難者全部救出される”という見出しで“飛行機の人命救助という空からの救援に消防夫も付近の人々も双手をあげ歓呼した。‥火事が下火になると、屋上に駆け上った在郷軍人、消防隊員は投げ下ろされたロープをそれぞれ遭難者の体にくくりつけ素早く救出したので、屋上にあった遭難者は思いがけない飛行機の来援でいずれも無事避難することが出来た”と書いています
  ところが「白木屋三百年史」は“やがて立川と所沢から、陸軍の飛行機が出動、数回屋上めがけてロープを投じ、そのロープで数名のものが救われた”と素っ気ない記述です。同書は、4階以上にいた店員140名が何によって救出されたかを調査した結果を公表しています。それによると、ロープによるもの18名、救助袋24名、救助はしご20名、救助幕1名、店用階段81名としています。そして、店用階段で逃げたものが多いのは、一旦下の階からロープなどで屋上に避難した者が店内階段が安全と知らされて、一団となって逃れたためだとしています。
  火災当日に記者が急いで書いた記事より、白木屋による社員に対する調査の方が正確なはずですから、“立川機大活躍”という訳ではありませんが、数名の命を救っただけでも十分だと思います。
  実は、僕は白木屋の火事に立川から第5連隊が出動したものだと思い込んでいました。三田鶴吉さんも「立川飛行場物語」第126回で “この新聞(*「東京朝日新聞・夕刊」1932.12.17)によりますと、白木屋火災の第一報が陸軍省に入ると、直ちに立川飛行第五連隊に救助命令が出されました”と書いています。しかし、前述のように、この新聞は飛んだのは航空本部技術部の八八式偵察機だと書いています。翌日の読売新聞で確認すると、警視庁から陸軍航空本部に要請があり、所沢飛行学校と立川の技術部から飛行機が飛んだと報じています。やはり第五連隊機ではなかったのです。思い込みは怖いですね。
    一方、火災は、消防職員・消防組員659人、ポンプ車29台、はしご車3台、水管自動車(ホース運搬車)2台、放水銃1台、救助袋3本など、当時としては最大規模の消火活動によって、午後零時半頃ようやく鎮火しました。
 この火災で14人が命を失っています。「白木屋三百年史」は、“この十四名のうち一人の問屋関係者を除いて、すべて店員であったこと、そして重傷者のほとんどすべてが店員であったこと、これが何よりも白木屋の大火に対して世間の賛嘆と同情を生んだのである”と書いています。重軽傷者67名でした。この火災を教訓に警視庁は、翌年「百貨店建築規則」(警視庁令第20号)を制定し、スプリンクラーや屋外に避難階段を設置することなどを義務づけました。

写真1番目 祝賀会場(立川尋常高等小学校) 「東京日日新聞・府下版」 1932.12.2
写真2番目 昭和二年立川駅南口        山崎保明さん画 
写真3番目 火焔の白木屋         「東京日日新聞」 1932.12.17夕刊
写真4番目 飛行機から救助のロープを投下  「東京朝日新聞」 1932.12.16


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №102 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ラストラン国鉄特急色189系 高尾~相模湖 中央線

                       岩本啓介
 
クリーム色の車体に赤いライン『国鉄特急色』は1958年登場以来多くの特急に使われましたが 4月27日 最後の『国鉄特急色』がついにラストラン。豊田発長野行が見納めとなりました。                            
昭和がまたひとつ消えていきます。
  
102裏高尾木下沢梅林189系M51編成ラストラン豊田⇒長野★ (2).jpg
裏高尾木下沢梅林189系M51編成ラストラン豊田⇒長野
                                


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押し花絵の世界 №62 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「ポケットティッシュケース 2パターン」

           押し花作家  山﨑房枝

62.jpeg
幅12cm×奥行8cm×高さ6cm

今回はブルーのデルフィニウムと3色のビオラを使用しました。
スチロール樹脂の透明なティッシュケースに、押し花をラミネートしたシートを差し込んで作れば、簡単に作品を差し替える事ができます。

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渋紙に点火された光と影 №36 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

山百合

               型染め版画家  田中 清

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多摩のむかし道と伝説の旅 №11 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

                   多摩のむかし道と伝説の旅
         -小野路・小山田の防人道から中世豪族小山田氏の里道を行く- 2

                       原田環爾

 ここでは小野路・小山田の防人道を辿ってみる。道筋には小山田氏の旧跡は散在するが、防人を伝えるものはなにも残されていない。ただ防人が見たであろう風景は見ることが出来る。多摩センター駅を出発し、多摩よこやまの道から奥州古道中尾道に進む。小野路から小山田へ入り、大泉寺を経て奥州廃道に入り、小田急多摩線唐木田駅に至るものとする。道筋を下図に記す。

11-1.jpg

 以下、小野路・小山田の防人道の道筋で出会う風景や旧跡を紹介する。
11-2.jpg 多摩センター駅からパルテノン通りを進み、多摩中央公園手前を左に折れ、白山神社の裏手から境内にはいる。白山神社は旧落合村の鎮守で、イザナギ、イザナミを祭神とする。創建年代は不明であるが、棟札には江戸時代の初期元和4年(1618)造営とあり、この年に勧請または再建されたと思われるが、明治初年の火災で詳細は不明である。昭和55年(1980)、多摩ニュータウンの区画整理事業により社殿は解体され現在地に再建された。続いて多摩中央公園通り、青木葉通りを経て落合東遊歩道に入る。遊歩道は落合地区のニュータウンの中を南北に走っている。終端は尾根幹線道路に架かる一本杉橋という吊橋になっている。吊橋を渡る11-3.jpgと緑の樹々に覆われた一本杉公園だ。園内の球場の外周を進むと『多摩よこやまの道』に入る。かつて『多摩の横山』と呼ばれた多摩丘陵がニュータウン化される折、尾根筋を都市基盤整備公団が整備したものだ。多摩東公園から長池公園まで全長9.5kmという。道は程なく多摩市と町田市の市境に沿う小高いハケ道を経て都道156号線に出る。左に折れると景観は鄙びた風景に一変し小野路に入る。この辺りから奥州古道中尾道の道筋になる。市境の路傍に10数基11-4.jpgの石仏石塔が並んでいる。開発で行き場を失った仏達が1箇所に集められたものであろう。急坂を下って行くと小野路浅間神社の参道入口の前に来る。丘へ向かって参道を真っ直ぐ進み、鳥居をくぐって急坂を上るとそこに浅間神社の社がある。浅間神社は富士山を御神体とし、祭神は木花開耶姫である。境内から振り返ればのどかな小野路の里風景が望見できる。浅間神社を後にすると雑木林の道になる。しばらく進むと左手の樹林が途切れて、X里山に囲まれたのどかな畑風景が現れる。更に進むと背丈程の篠竹で囲まれた丁字路11-5.jpgにぶつかる。左は旧小野路宿へ、右は小山田へ向かう道だ。近くに小野路城址があるので立ち寄ることにする。小野路宿への道に入り、更に分岐道を10分も進めば雑木林に覆われた小野路城址に至る。小野路城は大泉寺の位置に小山田城を築いた小山田有重が承安年間(1171~1174)に副城として築いたもので、次男重義が城主であったという。曲輪、土塁、空堀、井戸の遺構があり、小さな祠が有る山頂が主郭と考えられている。ところで城の北寄りに小町井戸と呼ばれている井戸がある。小野小町がこの地にやってきたとの伝承がある。
 11-6.jpg11-7.jpgすなわちその昔、仙人が城山にやって来て霊水を湧出させ、村人に万病を治す水と告げていずこかへ去った。丁度その頃目の病を患っていた小野小町はこの噂を聞いて東国のこの地に下り、千日籠もってこの水で目を洗ったところ全快したという。その後小町は里のきこりと暮らして3人の子供を儲けたといい、そのことからこの里を小野小町村と呼び、いつしか小野路村と呼ぶようになったという。
 さて元の丁字路に戻り小山田へ向け雑木林の小道を進む。道なりに進む11-8.jpgと突然左手を覆っていた樹林が払われ、里山に抱かれてひっそり佇む谷戸の風景が現れる。遠い少年時代に見た夢の様な谷戸の風景だ。やがて谷戸雑木林は途切れ、小道の行く手に農家が現れ、車が走行する道路が見えて来る。農家を右に見送るとすぐ銀杏並木の車道に出る。車道を右に採って萩原園芸センターのあるY字路を左折する。農家が点在する小山田の里風景を見ながら坂道をうねうねと上って行く。程なく丘陵の峰に至ると都立小山田緑地の入口に来る。中央に運動場がある広大な緑地で、特に見晴台から望む小山田の風景は素晴らしい。緑地入口に戻って坂道を下11-9.jpgり、民家の中を抜けると小山田の古刹大泉寺の参道にぶつかる。参道を右へ向かうと、参道沿いに馬駆け観音、秋葉神社などがあり、正面に総門、山門、本堂と続く。特に山門は鬱蒼とした樹林に包まれまさに幽玄の世界だ。本堂の裏手にある山は小山田氏の城館があった所だ。なお参道は鎌倉時代に流鏑馬が行われたという。弓の名手稲毛三郎重成や榛谷四郎重朝はここで腕を磨いたのであろう。
 参道を出て路地を右に採ると鶴見川の流れる通りに出る。地蔵と道祖神が立つ三叉路を右に折れ唐木田方面へ向かう。町田市営下小山田苗園を経て丘陵へ上がる分岐道に入る。分岐点に立つ古びた地蔵と道粗神をやり過ごし集落を抜けとのどかな丘陵の傾斜面の里道となる。左にトンボ池、右に「小山田緑地(小山田の道)」と称する小径がある。どちらをとっても丘陵尾根筋に上がることが出来る。尾根筋に上がると向こうは切り立った崖で、眼下に東京国際カントリーゴルフの広大なグリーンが広がる。かつて鬱蒼と丘陵を覆っていた雑木11-10.jpg林が失われたのは残念ではあるが、それだけに尾根道は明るく見通しがきき、眺望は抜群である。かつて防人が歩いた奥州古道長坂道(奥州廃道)はゴルフ場内を抜けていたと思われるが、今は消滅したのでこの尾根道を進む。ゴルフ場を見下ろしながら進むとやがてゴルフ場は終わり、変わって巨大な水色のガスタンクとその先に塵埃処理場の建屋が見えてくる。やがて道は丘陵を下り車道に合流する。左に大妻女子大、右には小田急電鉄の操車場を見て進めば、終着点の小田急唐木田駅に到着する。旅の終わりである。


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