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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №109 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

南の風の吹くころ

               銅版造形作家  赤川政由

109南の風が吹くころ.jpg

南の風が吹くころ、みなみから、つばめたちが、やってきます。少女は、遠い国の、できごとを、鳥たちから、きいてます。どんなお話しを、きいているのでしょう。欅の、木々が、、若葉にしげる頃、夏が、やってきます。

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立川陸軍飛行場と日本、アジア №161 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

陸軍飛行第五連隊、陸軍特別大演習に参加・直木三十五が大演習を中継放送

              近現代史研究家  楢崎茂彌

 前回、日本飛行学校に志願した12歳の山下綾子さんのことを紹介しましたが、実は連載NO157で彼女のことに触れていたことにウッカリして気づきませんでした。確認を怠って、情けないやら恥ずかしいやら‥、お詫びいたします。

  飛行隊の拠点を立川に置いて、近衛師団演習が行われる
 連載NO151で紹介したように、満州に派遣された飛行第五連隊の部隊の一部は、昭和7(1932)年6月6日付けで、関東軍飛行隊・第十大隊第二中隊に要員を差し出す形で編入されました。そうした意味でも、陸軍飛行第五連隊は戦時体制のもとにあります。
161-1.jpg この年の11月9日から、陸軍近衛師団の演習が武蔵・相模・甲斐・駿河にまたがって行われます。「東京日日新聞・府下版」(1932.10.21)は“実戦を基礎に空の活躍を期待”と見出しをつけ“連隊創立十年今回初めての実戦で得た経験に基づいて一段と活躍を期待され‥。”として、一中隊八八式4機、四中隊乙式4機と無線通信班が参加すると報じています。
 近衛師団演習は、南軍第二旅団が伊豆の伊東付近に陣をしき、北軍第一旅団は伊勢原に拠点を構え、11月9日午前7時南軍、同50分北軍が相模原野に侵攻を開始、両軍は秦野町で遭遇し激戦1時間20分で休戦という想定で始ま161-2.jpgります。両軍の飛行隊の拠点立川陸軍飛行場には朝から緊張が走り、午前7時南軍八八偵察機3機が飛び立ち、酒匂川を迂回し北軍を上空から偵察、北軍乙一型偵察機4機は相模原に直行し南軍を偵察しました。いずれも友軍の作戦展開に重要な役割を果たしたようです。
 飛行班判定官佐藤少佐は次のように評価しました。“南軍は三島に根拠することになっているのだが、飛行場の関係で北軍と共に立川を根拠としたが、戦線に飛ぶコースは別々なので作戦等はお互いに判らない。第一日目の偵察は両軍とも非常に良く完全に任務を果たした。”(「東京日日新聞・府下版」1932.11.10)
 立川陸軍飛行場の重要性を今更のように認識し直します。それにしても、演習なら“激戦1時間半で休戦”となりますが、戦争は演習ではないので、始めれば簡単にやめられません。満州事変を始めたら15年後に負けるまで戦争が続いた現実を直視しなければなりません。

 陸軍飛行第五連隊、陸軍特別大演習に参加
161-3.jpg この年の陸軍特別大演習は、11月10日から13日にかけて、第4師団(大阪)第十六師団(京都)管下の地域で行われました。10月31日に陸軍飛行第五連隊の地上勤務者150人が立川駅から滋賀県八日市陸軍飛行場に向けて出発しました。翌11月1日、第三中隊所属の乙一型偵察6機が八日市陸軍飛行場に向かい、午後5時50分無事到着しました。6機の飛行機に150人の地上勤務者が必要だと知って驚きました。
 大元帥陛下である昭和天皇は10日に大本営が置かれた大阪城に入り、特別大演習は11月11日に始まります。11日は大和平野の争奪戦、第四・第五師団からなる南軍は紀州方面から奈良めがけて進撃、第三・第十六師団からなる北軍は奈良から南下を開始します。
 かつての大演習では一度も行われた事が無かった空中戦が北軍20機、南軍12機の間で展開されます。両軍は奈161-4.jpg良県高田上空4000mで遭遇、互いに有利に持ち込むために急上昇し上空6000mで機関銃を撃ち合う、壮絶な空中戦を行います。地上では南軍が後退、両軍とも一部の部隊を大和平野に残して河内平野に移動します。翌12日、飛行隊は降りしきる雨とたれ込める雲の中、早朝から河内平野上空で空中戦を展開、飛行機から煙の尾を引く模擬爆弾が投下されます。地上の演習は午前11時に一旦中止となり、両軍は最後の決戦に備えるために移動を開始しました。
 空中戦と爆撃だけでは、立川から行った乙一型偵察機の見せ場がありませんよね。「東京朝日新聞」(1932.11.12)によると、乙一型偵察機は12日午前8時、空中戦を観戦する侍従武官石田大佐を乗せて木津川尻飛行場を飛び立ち、上空でしばらく観戦したのち石田大佐は京都深草飛行場に降り、演習の様子を大元帥陛下(昭和天皇)に報告する予定になりました。記事は“空軍の光栄これに過ぎるものはなく両軍飛行将士はいずれも勇みたった”と書いています。見せ場が出来たわけです。
 13日早朝、偵察を続けてきた両空軍は地上部隊と呼応して五十数機が空中戦を展開、地上では南北両軍が数十メートルに接近、両軍が喚声をあげ白兵戦となる寸前、休戦信号弾が発射され大演習は終了しました。昭和天皇は風邪気味のため、演習地に出かける“野外御統監の儀”は取りやめとなりました。

  直木三十五、大演習を中継放送
161-5.jpg この大演習の様子をBK(日本放送協会・大阪放送局が奈良東大寺付近にマイクを立て、大演習の様子を実況中継し、大衆作家で直木賞に名を残す直木三十五が感想を述べる観戦スケッチを企画しました。直木三十五は次のように語ります“まだ演習は見たことがない。それに今度の演習はタンクなんか出ない。タンクが出ると畑を荒らすので損害賠償が多くなるとかで、唯年中行事程度で面白くはないだろうが、見ておいて損にはならないので見に行くわけだ。今後も戦争文学は書くが、実戦と演習とは違うので、大した参考にもならないと思う。
 戦争スケッチを放送するのだが、まさか、ただいま大砲を打ちました、打ちました」でもあるまいし、僕は昔の戦争のことを主として織田、豊臣時代の話をしてみたい‥“として、鉄砲の使用を例として科学兵器を使用した方が勝つというようなことを話したいと言っています(「東京朝日新聞」1932.11.11)。あまり興味をそそらない放送になりそうですね。
 直木三十五はこの年の5月、「日本の戦慄 上海篇」を書き、カフェでの会話の中で、國栖という登場人物に“欧州に於いてこそ軍閥は、不必要かもしれぬが、隣に支那を控えている以上、日本としては、当分、飽くまで、軍国主義だ。支那人を、人間だと考えるから間違ふ。あいつは化物だ。化物退治には、君、武力の外にないんだ。こっちが引込みや、いくらでも、毒気を吹っかけてくるよ。‥‥何故、堂々と、軍部の行動を是認して、支那に対しては、この外に手段はないのだと、日本の生存上、満蒙は、日本に必要だ、という事を、主張しないんだ”と、えらく排外主義を煽る発言をさせています。それに友人が“然し、そりゃ、乱暴だからね。他国を勝手にとるのは”と応え、國栖は“他国か”と呟きます。女給の吉子も“随分侵略主義ね”と応じています。直木の本意はどちらにあるのでしょうか。
 彼は「日本の戦慄」の序文に次のように書いています。“これは、私が、今までに発表した私の作以上を歩まうとするーむしろ、今までの作よりも、私の、本当の欲求から作られるーもし、便宜上、名をつけるなら、社会小説とも言うべき物の、第一篇である。‥敗戦の苦汁を知らぬ国民、あけ切らぬ朝から、笊を抱えて、施米の列に立つまでに到らぬ国民―それが、何時来るか?来た時に何なるか?私は、それを考へて、戦慄している。日本の戦慄であると同時に、私の戦慄である。”
 この序文は、いつか来る敗戦を予感しているようにも読むことが出来るように思います。すると、彼が観戦スケッチで、國栖氏のように戦意を煽るのではなく、織田・豊臣時代の話をすることに、彼なりの狙いがあったのかも知れません。「日本の戦慄」を知って、大衆文学作品を対象とした直木賞に対する見方が変わりました。

写真1番目 訓練飛行を開始した第五連隊機と無線車 「東京日日新聞・府下版」1932.10.21

写真2番目 立川飛行場の空の監視哨   「東京日日新聞・府下版」1932.11.10

写真3番目 飛行機に搭乗するところ    「東京日日新聞・府下版」1932.11.2

写真4番目 飛行隊の活躍        「東京朝日新聞」 1932.11.13

写真5番目 南軍の突撃         「東京朝日新聞」 1932.11.13


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №100 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

しなの鉄道             

                       岩本啓介
スカッとさわやか コカ・コーラ                          
懐かしの『コカ・コーラ』カラー復活                               
国鉄時代から続く信越本線を引き継ぐ『しなの鉄道』                                
懐かしい『湘南色』や『横須賀色』を復活させてきましたが、今度は『コカ・コーラ』カラーをクラウドファンディングという奥の手を使って復活を実現してくれました。                         
頭ちょこんと 黒姫山 

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妙高高原~黒姫
                    
昔、ファミリーサイズと呼ばれていた500ml瓶のコカ・コーラ                       
新聞配達の後 気に飲み干し一息ついたものです                            
赤いロゴマークは 青春時代の思い出です                          

昭和な民家 
 

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コカ・コーラのロゴ入りのグラスがありました                              
薄くて 安っぽく すぐ割れてしまうグラス                                
柔らかくカーブした あのグラスが懐かしい                                


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渋紙に点火された光と影 №34 [ふるさと立川・多摩・武蔵]



               型染め版画家  田中 清

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国営昭和記念公園の四季 №7 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「春爛漫」 残堀川沿いの桜の園

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №108 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ズーラシアのきりん

               銅版造形作家  赤川政由

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  久しぶりに、作品と、ご対面、孫たちをつれて、横浜市の動物園ズーラシアに、いきました?桜の咲いた、園内は、子供たちの、声がいっはい。二人の孫と、娘夫婦と、どらいぶ。三年前に、製作したキリンと、さいも入りで、お出迎え。まごたちも、おお喜び、お弁当もってたのしい一日でした。
  ズーラシアは、サバンナエリア北口の入り口です。画像は、家族。

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立川陸軍飛行場と日本、アジア №160 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 12歳の少女、日本飛行学校に出願

              近現代史研究家  楢崎茂彌

 岩井飛行士が朝鮮に飛行学校を作る決意をする2ヶ月前に、連載NO143“飛べぬ鳥人、日本飛行学校に入学者続々”で紹介した大野資君が東京市深川区洲崎に飛行練習所を開設することが新聞に報じられています。大野君は御國飛行学校を卒業したものの飛行士の職はなく、ツバサタクシーを開業した人物です。彼は自動車事業で稼いだお金でアブロ機を一台買い込み、毎日曜日立川陸軍飛行場で訓練飛行を行っている努力家です。大野君は次のように語っています。“まだ学生が見つからないので見合わせています。飛行機の練習所を造れば自動車で稼いで全部注ぎこまねばなりません、容易なことではありません”(「東京日日新聞・府下版」1932.8.30)。洲崎には翌年に亜細亜飛行学校が開設されていますが、大野君は教官として登録されていません。彼が飛行練習所を開設したかはいまのところ不明です。
160-1.jpg 飛行士の職がないのに飛行学校の人気は高いようで、12歳の山下綾子さんが立川にある日本飛行学校に願書を提出しました。小さい頃から飛行士に憧れていた綾子さんは“飛行士になってどうするという考えはありません。ただ空を飛んで見たいだけです。お父さん達は反対でしたが、私はどうしてもやりたいといいましたので到頭許してくれました。今後、土曜日に立川に通うことを楽しみに勉強するつもりです。小学校の先生やお友達に知れると私恥ずかしいワ”(「東京朝日新聞」1932.10.22)。しっかりした子ですね。ところが(「東京日日新聞・府下版」1932.10.27)は、記事に“空の小学生 あんよはお上手“などと綾子ちゃんを揶揄する見出しをつけています。失礼ですよね。
 この記事によると、日本どころか世界でも初めてと言われる12歳の少女飛行士を受け入れるため、飛行学校の伏見教官は「教練五カ年計画」をたてます。そして新聞記者に次のように語っています“十二歳では座席に腰掛けて足がとどかない。まず第一年は見学、第二年は同乗飛行とそろそろ易しい教科を教えます。教科と言っても「ピストン」といっても一寸わからないでしょうし、部品の名称だけでも大変です。次の第三年より同乗させて操縦桿を持たせ、後二年で操縦術、航法、学科などをみっち160-2.jpgり仕込み十七歳の五年後には「子供の時から叩き上げた」立派な技術を持ったパイロットにし度いと思います。教育は飛行場に来たらわが子として一切を預かってやって見たいと思い、幸い親の諒解を得たので一生懸命やろうと思います” 。11月18日伏見教官が操縦する機が御國飛行学校機と側面衝突を避けるために立川陸軍飛行場の南の畑に不時着しました。綾子さんが乗っていなくて良かった。
 10月には兵庫県明石市から上京した新川初英さん(21)・新川知樹君(18)の姉・弟が御國飛行学校に入学しました。
 空を飛ぶ飛行士への憧れをあおる新聞広告もしばしば掲載されています。「東京日日新聞・府下版」160-3.jpg(1932.10.18)に掲載された「日本飛行教育会」の広告は“飛行家養成 陸海軍少年飛行兵募集 民間飛行家志願者募集 陸海軍少年航空兵志願者は勿論民間飛行士又は機関士として来たるべき飛行時代に活躍せんとせば、先ず第一に本会に来たれ”と謳っています。海軍は昭和4(1929)年、飛行予科練習生制度を作りました。練習生は当初は少年飛行兵と呼ばれていましたから、海軍には少年航空兵はいたものの、陸軍の少年航空兵の制度は1933年に所沢飛行学校令改正によって「飛行学校における生徒教育」が加わることで始められていますから、この時点では陸軍には少年飛行兵はいませんでした。何だか怪しい教育会ですね。因みに「陸軍諸学校生徒採用規則 第四章 所沢陸軍飛行学校」によると、志願できる年齢は操縦17歳以上19歳未満、技術は15歳以上18歳未満とされました。空への憧れが戦争に利用される時代が始まっているのです。

  今度は九一式戦闘機が墜落
 連載NO155で紹介したように、この年の9月21日、九二式戦闘機が立川陸軍飛行場に墜落しました。11月には160-4.jpg九一式戦闘機が墜落します。「東京日日新聞・府下版」(1932.11.8)に墜落写真は載っていますが、説明がついていないので、多摩地域のどこに墜ちたのかはわかりません。このあと、最高時速320km/h世界に誇る高速機・九一式戦闘機は立川に配備されることになります。10日後の「東京日日新聞・府下版」(1932.11.18)は、これによって帝都防空隊としての陣容の一部が完成し、立川町は軍都として一段と重要性を増してきたと、評価しています。けれど、墜落原因などが分からなければ不安ですよね。事故が多く“空飛ぶ恥”と呼ばれるオスプレイ配備を連想しました。

 大暴風雨、三多摩を襲う、学生連盟の格納庫が倒壊
11月14日夜、12年ぶりの秒速20メートルの暴風と豪雨が三多摩を襲いました。八王子市では午後11時に全市停電、青梅町には145ミリの豪雨が降り15日午前1時には停電となりました。元八王子村では尋常高等小学校の屋根が吹き飛ばされ、八王子天神町では20mを越える煙突が真っ二つになるなど大きな被害が出ました。立川でも浸水家屋500戸など未曾有の被害が出ています。
 この暴風雨により、連載NO102で紹介した“飛行に支障を及ぼす飛行場そばの民家”が大きな被害を受けます。「東京日日新聞・府下版」(1932.11.6)は次のように報道しています。“十五日払暁の暴風雨は立川地方秒速十八米に近かったが、北風のため飛行場付近は一層激しく飛行場南方中央部荒畑金藏所有の二階家は屋根をむしりとられて大損害を受けた。この二階家は一昨年夏新築、当時飛行場の離着陸に危険甚だしいと陸軍側から補償による立ち退き交渉があったが、補償額で折合わず金藏氏は一戸程はなれているため、立川の中央でありながら電気もなくランプ生活をしつつも頑張りつづけている問題の家だけに、飛行士連内密で大喜びである”。連載NO109で紹介したように、家の中に入ってくるほど低空で飛行場に侵入してくる飛行機に“なあ‥に、平気だよ、ぶつかりっこは、ねいよ”と動じない金藏爺さん、頑張れ!
160-5.jpg 立川陸軍飛行場の西側にある民間飛行場地区の入り口にあった日本学生航空連盟の仮格納庫が、この暴風雨により倒壊しました。飛行機や部品は梱包してあったので被害はまぬがれたのですが、仮格納庫はワカメのように引き裂かれます。写真を見ると、どうもテントに毛が生えたような格納庫のようです。
日本学生航空連盟は朝日新聞社がバックについていますから、朝日が羽田に移らない限り立川で練習飛行を続けることになります。

写真1番目   綾子さん          「東京朝日新聞」  1932.10.22
写真2番目   不時着現場       「東京日日新聞・府下版」1932.11.19
写真3番目   日本飛行教育会の広告  「東京日日新聞・府下版」1932.10.18
写真4番目   墜落した九一式戦闘機   「東京日日新聞・府下版」1932.11.8
写真5番目   つぶされた立川学生航空連盟格納庫    
                    「東京日日新聞・府下版」1932.11.16


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №99 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

大糸線 小谷 

                       岩本啓介 

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日本海側は大雪が続きましたが、なぜか 小谷はいつもより雪が少なかったそうです。 
おかげで 屋根の雪下ろしは助かりましたとコンビニの店員さん。                      

小谷 春のきざし① 

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小さなトンネルに積もった雪もなくなりました。                                      
線路脇の雪どけもすすんでいます。                                  


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押し花絵の世界 №60 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「春色のプレゼント」

                     押し花作家  山﨑房枝

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27cm×27cm
河津桜、枝垂れ桜、染井吉野の3種類の桜を使用してデザインしました。
作品の中心にはメッセージプレートを入れてプレゼント用にオーダーしていただき、喜んでいただきました。

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渋紙に点火された光と影 №33 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

西

               型染め版画家  田中 清

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国営昭和記念公園の四季 №6 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「武蔵野の春」  木漏れ日の里麦畑

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №107 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

わたしのドン・キホーテ

                   銅版造形作家  赤川政由

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立川北口の新紀元ギャラリーで、わいわいガヤガヤ展といった企画展開いてます。今回はばばばーん問いといったタイトルで、16人の作家が、様々な素材で、出品しとます。わたしの、作品は、ピカソへのオマージュで、こうぼうにあるピカソの、デッサンからイメージ。細工にこだわらす、バババーンと、思いに任せて製作、彫刻的にフォルムをだいじにして制作。このわいわいガヤガヤ展には、わたしの弟子だった作家が、だいぶ成長して、てんじしてます。最初からかぞえると、13回になりました。若い作家っは、ちょっとちがうスタイルで、さんかしました。

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立川陸軍飛行場と日本、アジア №159 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「日満懸賞大飛行競争」の勝者は、除隊兵の失業問題

              近現代史研究家  楢崎茂彌
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 陸軍飛行第五連隊格納庫跡地の開発始まる159-1.jpg
 前回、実に久しぶりにコメントを頂き、とても感激しています。お尋ねの件ですが、三田さんが書いている“通用門”とは、多分北側の門だと思います。右の写真は、陸軍飛行第五連隊の営門があった場所の現在の様子です。ご覧の通り、残念ですが立川陸軍飛行場の存在を偲ばせるものは何も残されていません。連載NO2で書いたように、第五連隊の存在を示すものは、写真左側の公園前にある掲示板「歴史と文化の散歩道」に書いてある“陸軍飛行第五聯隊正門跡”という表示だけです。
159-2.jpg 1990年時点では、飛行場東側には写真のように格納庫群がありました。その跡地は、先日までは夏になると山羊さんが草を食む空き地で、多少の段差があって格納庫の位置が推定出来ました。ところが、最近開発が始まり囲いがされて中が見えません。そこで、跡地の北側にある“IKEA"の3階から写真を撮りました。格納庫の写真は南側にあっ159-3.jpgた陸軍飛行第五連隊本部屋上から、同じ場所を撮ったものです。重機が戦争の記憶を次々と消去しているように感じます。今年も市民の戦争体験を映像に撮り、多くの方に見てもらおうと取材を続けています。
 第5連隊や戦前の飛行場関係の遺品は、連載NO2で紹介したように、陸上自衛隊立川駐屯地史料館に保存されています。

「日満懸賞大飛行競争」の結果は
 前回、御國飛行学校の岩井飛行士が棄権したので興味が薄れたと書いたものの、一応結果は知りたいものです。
 10月15日に“満州国”執政溥儀の引見を受けた5人は、17日朝、柴田飛行士が操縦する8号機を先頭に、初雪舞う159-4.jpg新京(長春)飛行場をまず奉天(瀋陽)をめざして飛び立ちました。間もなく往路一着の9号機(鈴木飛行士操縦)がエンジンの不調で新京に引き返します。早くも波乱含みですね。奉天飛行場に到着した4機は降雪と気温低下のため出発を諦め一泊します。翌日には、松葉飛行士が操縦する5号機のエンジンが凍りつき奉天に引き返し棄権、9号機は遅れを取り戻してレースに復帰します。
 朝鮮半島の蔚山には、柴田飛行士の8号機が18日午後4時1分に到着、鈴木飛行士の9号機は5時に到着しました。4号機(安岡飛行士操縦)と地図を吹き飛ばされて新義洲に引き返した6号機(遠藤飛行士操縦)は京城(現・ソウル)に一泊します。
 翌19日は、魔の朝鮮海峡を横断飛行、福岡県大刀洗には9号機が先着、2分遅れで8号機が到着します。このあ159-5.jpgと、9号機は午後2時14分小幡ヶ原飛行場(名古屋)に到着、2時50分には東京に向けて飛び立ちました。午後3時15分に小幡ヶ原飛行場に着いた名古屋飛行学校の柴田熊雄飛行士が操縦する8号機は、地元名古屋に一泊を決め込みます。何だかおかしな競争ですね。9号機は午後4時32分、羽田の東京飛行場に着陸、新京からの復路飛行時間は往路を3時間以上短縮する15時間12分、堂々たる記録です。鈴木飛行士は次のように語ります“行きも帰りも兎も角一着の栄誉をに159-6.jpgなってこんな嬉しいことはありません。まあ久し振りに大飛行をしたという愉快です。往路は非常に自重しましたが、帰りはスピードを出しました。”(「名古屋新聞」1932.10.20)。満州飛行行進曲とは、かけ離れたコメントで好感が持てますね。
 名古屋に悠々一泊した8号機は、翌20日午前9時51分に羽田に到着します。復路の飛行時間は14時間40分で、9号機より早いことになります。何だか“うさぎと亀”みたいな話です。次いで4号機(安岡飛行士操縦)が午後4時58分に到着しました。午後3時3分に名古屋を飛び立った6号機はエンジンの故障で天竜川原に不時着してしまいました。ここまで来て残念。
 当初は9機が参加する予定で、実際には7機が参加した「日満懸賞大飛行」は、3機だけが無事帰還するという不吉な結果に終わります。
 競争の総合結果は、各地審判員の報告を待って厳重な審査を行うと予告されています。往復とも一着は9号機ですが、往復最短飛行時間は8号機です。どちらが勝ったのか、今のところ「名古屋新聞」に結果の記事を見つけられません。

 本当の勝者は、岩井右内飛行士では
… 
169-7.jpg 「日満懸賞大飛行」に参加し、朝鮮半島全羅北道群山北方に不時着しレースを棄権した、岩井飛行士が飛行学校を建てる計画を立てます。「東京日日新聞・府下版」(1932.11.25)は次のように報じています。“立川町御國飛行学校の教官一等飛行士岩井右内氏は、今回朝鮮群山に飛行学校を開設することになり、今廿五日芝浦から飛行機を汽船輸送する。最初はアンリオBAUB号一台で、同氏が朝鮮子弟の教育に当たる。この学校の出来る場所は、過般岩井氏が東京新京間飛行に不幸不時着したところで、不時着の際土地の有力者の後援からの交渉で成立するのも奇縁である”。不時着した所の朝鮮の子弟に飛行を教えることになった岩井飛行士こそ、この競争の勝者かも知れません。岩井氏が本当に飛行学校を設立したのか、学校はどうなったのかなどが分かりません。ご存知の方お知らせ下さい。  

 飛行第5連隊の除隊式、除隊兵の失業問題
? ?昭和3(1928)年の陸軍飛行第5連隊の除隊日は12月6日でした。その前夜、5人の一等兵が酒の勢いに任せて上官の曹長を襲撃しようとして暴れたことは、連載NO54で「除隊を前に大暴れ」と題して紹介しました。4年後の昭和7(1932)年 の除隊日は普段より早い11月20日と決定しました。この時期も不景気は続き、八王子職業紹介所では、除隊兵の就職に力を入れ在郷軍人会の協力のもと求人開拓に努めたものの、10月20日の時点ではわずか3名の求人があっただけでした。調査によると南多摩郡と八王子市の工場労働者、店員で入隊者は15名、この後がまを埋める交渉には成功したものの、この年の第5連隊除隊者は234名、これ以外の除隊者も加わって就職希望者が殺到し、職業紹介所は悲鳴を上げていると新聞は報道しています。
 この年の第5連隊の除隊者は上海事変や満州の戦線で実戦を体験した兵や下士官たちです。新聞は18日に行われた除隊式の様子を“満期と凱旋の二つの喜び”と報じています(「東京日日新聞・府下版」1932.11.19)。前日の新聞は234名の除隊者のうち求職者は97名、その半数の就職が決まったと報じています。多くの除隊兵が失業者となるのではひどすぎますよね。
 除隊兵の就職については「職業安定行政史」(中島寧綱著・雇用問題研究会1983年刊)が次のように書いています。“昭和6年には、入営者職業保障法が制定された。兵役に服した者が除隊する場合、その復職を保障しようとするのがねらいである。常時50人以上を使っている雇用主に適用された。法律の主な内容は、①入営を理由として不利益な取扱いをしてはならない、②入営のため解雇した場合は、退営後3月以内に再雇用することを要する、③再雇用の場合の労務や給与は、入営直前のものと同等であることを要する、などである。
兵役は納税とともに、旧憲法による国民の二大義務であった。現役兵は一般に2年間入営するのであるが、その場合勤務先を退職するのが普通であった。昭和の初め頃の除隊者は、毎年約7万人。しかし不況のどん底で失業の深刻な時代である。除隊しても原職に戻れない者、就職出来ない者が多く、その数は年々増える傾向にあった。国民の義務を果たすための入営が、それ故に失業を招くとなると、大きな社会問題である。そこでこの立法となったわけである。法律の普及にあわせて職業紹介所は、除隊者の職業紹介に積極的に取り組んだ。就職者数は、昭和5年の353人から、昭和7年に1,064人、同9年には4,719人に増加した。”実際に雇用が増えているようなので、やや救われた気持ちにもなりますが、この法律は50人以上の企業にのみ適用されるもので、しかも例によって罰則を伴わない企業の努力義務を謳ったものでした。
写真1番目 陸軍飛行第五連隊営門があった所  2018.3.10 ? 著者撮影
写真2番目 同上(戦後は米軍が使用)格納庫群? ?1990某日 著者撮影 
写真3番目 現在の格納庫跡地の様子 ? ? ? ? ?2018.3.10? ? ?著者撮影
写真4番目 大刀洗に着いた両飛行士(右・鈴木、左柴田)「名古屋新聞」1932.10.20
写真5番目 鈴木機のゴール入り   「名古屋新聞」 1932.10.20
写真6番目 鈴木飛行士を中心に乾杯   「名古屋新聞」? 1932.10.20
写真7番目 岩井飛行士? ? ? ? ? 「東京日日新聞・府下版」1932.11.25

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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №98 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

南武線 
                       岩本啓介 
                                 

河津桜咲く 谷保駅 

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早咲きの河津桜 伊豆や大井松田が有名ですが、ホームに河津桜が咲く駅もあります    
でも 桜を見上げる人は少ない                     

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押し花絵の世界 №59 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「ウエルカム」

                押し花作家  山﨑房枝

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第6回押し花NIPPON大賞 特別賞受賞作品 17cm×13cm

ウッドプレートにアクリル絵具で着色して文字を書き、その上に押し花やネイル用のストーンを接着してデザインしました。

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渋紙に点火された光と影 №32 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

瓢箪(まどろい)

               型染め版画家  田中 清

瓢箪(まどろみ).jpg

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №106 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

行田の童・子守り

               銅版造形作家  赤川政由

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昔の女の子は、よく」小さな子の子守りをさせられていました。この女の子は人形をおんぶして子守りの練習しています。私の小さい頃は、こんな姿がよくみられました。


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