So-net無料ブログ作成
検索選択
ふるさと立川・多摩・武蔵 ブログトップ
前の20件 | -

玉川上水の詞花 №196 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

メマツヨイグサ (あかばな科) 

               エッセイスト  中込敦子

mematuyoigusa.jpg 梅雨の晴れ間の上水堤で、下草の間からバニラアイスを花びらにしたような4弁の花が数輪咲いていた。

姿からしてマツヨイグサの仲間のようで、図鑑で調べたところメマツヨイグサらしい。

メマツヨイグサは北米原産の帰化植物で、明治後期に帰化したと推定されるが、第二次大戦後急速に繁殖。各地の道端や荒れ地、河原などに進出しているそうだ。

オオマツヨイグサ、マツヨイグサなど同属に比べて花の径が3~4センチと小さく可愛らしいので雌待宵草の名に。

その花の中央部にある雄しべは8本、雌しべは1本で長い花柱の先は4裂し、萼片が淡緑色をおびているのが特徴。

花弁の間に隙間のあるのをアレチマツヨイグサと区別されることもある。

花は夕方から咲き始め、朝にはしぼむ1日花であるせいか日中は開花している姿になかなかお目にかかれない。

草丈は生育地によって30~150センチと差が大きいが、上水堤では40センチ前後と小ぶりでしおらしい。

 
花 期 

春 3~5月 夏 6~8月 秋 9~11月 冬 12~2月 

         ○
モグラ通信:http://www.h4.dion.ne.jp/~mogura1/index.htm

             

 

押し花絵の世界 №43 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「月光」52cm×43cm

               押し花作家  山崎房枝

43.JPG

世界押し花芸術祭2012 in 横浜  入選作品
背景には布地にパステルやアクリル絵の具の他にキラキラ光るラメなどを使用し、月に照らされた神秘的な湖を表現しました。


線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №82 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

紫陽花鉄道(箱根登山鉄道) 6月22日  

                     岩本啓介                                  

ライトアップ大平台                                      
今年の紫陽花は開花は遅れ気味と地元の人                                  
あちこち歩き回り いい場所を見つけました。                                      
夜まで粘っていい場所で撮影できました。

82大平台出口踏切ライトアップ.jpg
  


渋紙に点火された光と影 №17 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

森のヴィーナス
              型染め版画家  田中 清


昆虫(森のヴィーナス).jpg

音楽のある風景 №7 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

エイズに負けないで!子ども達 Ban rom sai Thailand

          MATプロデューサー  しおみえりこ

 2007年1月21日〜28日、久々に微笑みの国タイランドへ出かけた。出発間際に何気なく女性雑誌「フィガロ」をめくっていると、チェンマイの郊外にあるというバーンロムサイという名の孤児院の記事が目に止まった。ここは日本人の経営で、エイズで親を失い、母子感染した子ども達の面倒をみているらしい。インフォメーションには、このゲストハウスに泊まることが、ここの子ども達の支援につながるのだという。インターネットで連絡をとってみたら、担当者はバンコクに住む私の友人の20年来の知り合いだった。ならばここに泊まろう。たった1日だったが同行した歌手の尾野玲子さんが子ども達のために、真剣なまなざしでオペラのアリアを歌ってくれた。
  お返しにと、子ども達は「ぞうさん」を歌い、皆で得意の踊りも披露してくれた。ほんの短いひとときだったが、音楽の〈力〉を感じる時間だった。そのうえ代表の名取美和さんは、以前お世話になったチェンマイに工房を持つ染織家、瀧澤久仁子さんとも親しいという。さらにその繋がりが深いことを帰国してから知ることになる。ここへ行きなさいと天からの声が聞こえていたのかもしれない。

 代表の名取美和さんの父上は写真家の名取洋之助。ベルリンのバウハウスを通じて、日本工房を設立。我が友人が社長を務める文化工房の前身だった。そのうえ、国立の時に住んでいた大家さんのパリ時代の友人であり、パリ在住中は美和さんの車を借りてフランス中を走り回っていたという。帰国してから届く、その縁の深さに驚いた。
 昨年、シンガポールを皮切りに、バリ島、タイ、台湾でちくちくきものプロジェクトのワークショップを開催した。タイではチェンマイのバーンロムサイを訪れ、子供たちと9年ぶりの再会を果たした。写真の4人の女子は、9年前のおチビちゃん。
 みんな素晴らしいパッチワークを作ってくれた。最高に嬉しく楽しい時間だった。この時、プミポン国王死去。小さな女の子はタイ語で「王様大好き」と描いてくれた。
7-1.jpg
7-2.jpg

この子たちが作った5×5nextの布は、8月6日 柴崎体育館前の立川公園に全て並べます。皆さん是非手伝いにいらしてください。お願いします。


音楽のある風景 №6 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

バッハを愛した二人の紳士 SHIZUOKA YUYAMA JAPAN

                MATプロデューサー  しおみえりこ

 静岡市のはずれの湯山という別荘地に、クラリネット奏者橋爪恵一の叔父が愛した小さなホールがある。静岡大学理学部教授だった叔父は大学へ出かける前に必ずオルガンで、大好きなバッハの曲を弾いてから大学へ出かけたという。

 バッハハウスのオーナー和田信一郎氏は無類のバッハ好き。若いころ音楽家を目指したが、家業を継がねばならず、音楽の道を諦めたそうだ。だからなおさら音楽への想いが大きかったのだろう。個人の持ち物ではあるが、内部にはりっぱなパイプオルガンもあり、ピアノはもちろん素敵なチェンバロもある。ホールは吹き抜けになっており、響きの良い作りだ。2階にあるパイプオルガン裏の応接間には、膨大な数のバッハに関する書籍、CD、レコード、楽譜が大切に保存されている。日本で出版されているものはとんどあると言う。

 ここは現地のバッハハウスとほぼ同じ大きさだそうだ。バッハを愛した叔父はこのパイプオルガンが弾きたくて、すぐ近くに居を構え、時々弾きに行っていた。

6-1.jpg

 我がスタジオlalalaでは、7月7日から8月5日までアーティストが描くTシャツ展を開催する。今年で3回目。毎回ユニークなこの世で一枚だけの作品Tシャツが登場する。

6-2-1.jpg
6-2-2.jpg

 スタジオの前の公園は心地よい緑の芝生に生まれ変わり、広々とした過ごしやすい公園に生まれ変わった。奥には池もあり蓮の花が見頃になっている。この公園に8月6日、我がプロジェクト「できることをできるだけプロジェクト」の2000枚強の50センチ四方のパッチワークの布を並べる予定だ。この布は、2011年3月11日石巻で津波で被災した着物を入れて作った世界中の子供たちへの応援旗。災害の記憶を伝えるためのメッセージだ。この布を並べるためには、一人でも多くの人の手が必要。お時間ある方は是非手伝いに来て欲しい。

6-3.jpg

よろしくお願いいたします。



lalala しおみえりこHASHIZUME

2carnival@gmail.com

090-2564-3198


NHKworld news






玉川上水の詞花 №195 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ヤブジラミ (せり科) 
               エッセイスト  中込敦子
 
yabujirami2.jpg 初夏の上水土手で、細く裂けた葉に小米のような白い花が一面に咲いて人目をひく。30㎝前後の背丈の茎に、微粒な花と刻みの深い葉がよく調和していると思う。
この可憐な野草の名は気の毒にもヤブシラミ。しかし、その花が散り秋を迎えると、この花の果実は名は体を表わすことが分かる。
 初秋の風景にひたりながら上水の草原を散策している時、ヤブジラミの褐色で卵型の刺状の毛が密生している果実が衣服に付着すると、お手上げである。刺状の毛の先端はカギ状に曲がっており、くっついて離れない。
その状態は一見丸く太ったシラミであり、刺毛はシラミの足のように見える。
植物が子孫を殖やすための知恵には恐れ入る。
群生するヤブジラミの花の最盛期は、糠雨に濡れる上水の野趣を引き立てている。

野を浅く わたりし裾に 草じらみ  高浜 虚子

花 期 
春 3~5月 夏 6~8月 秋 9~11月 冬 12~2月 
         ○   


赤川Bonzeと愉快な仲間たち №92 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

半田市の新見南吉さんの、お話しの木。


              銅板造形作家  赤川政由


92-1.jpeg


いろんな人から、半田市に、制作した作品を見たよと、メールで、連絡がきます。最近、立川市の、市会議院の、瀬さんから、画像がとどきました。半田市役所に、研修訪問したところ、市役所の前庭に、何だか、きになるモニュメントがある。よくみたら、立川市の、ボンズ作品だとわかり、嬉しくなって画像を送ってくれました。制作完成してから、はや、一年がたち、足元の、緑の植栽も、ねづいて、きれいですね。さらに、はながさいたら、素敵でしょうね。地元の市民のかたや、訪れた方々に、喜んでもらえていて、しあわせです。新見南吉さんの、作品が、もっと、もっと、拡がることを、いのります。ゴンギツネも、待ってます。


92-2.jpeg
緑が、きれいに足元を、かざりました。

旬の食彩 僕の味 №98 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ズッキーニと甲殻類のマリアージュ
             レストラン「ヴァンセット」オーナー  大澤 聡

ウチワ海老。セミのような形をした一見するとあまり見た目が良いとは…。
ただ味わいは格別。うまいだしが取れるし、身も柔らかで上品。赤座海老のような柔らかさかな。刺身や味噌汁が美味しいらしいです。
関東ではあまり出回らないそうです。
なのでいつもご用意できないとゆうのが難点。
そしてこの海老、殻が硬いのです。ピチピチの生きたウチワ海老を塩茹でに。
身を外して殻は出汁をとります。今日来たものは卵も付いていました。
バラしてソースに入れたら食感が美味しいです。
ちょうど今はズッキーニが沢山入荷しているので、これとーあわせます。
ズッキーニはスライサーで薄くスライスしていきます。これをサッっと茹でるとパスタのような具合になるのでウチワ海老の出汁と生クリームとトマトを加えたソースと絡めて食べていただきます。ウチワ海老はソースの中で軽く温めズッキーニの周りに添えて。
ソースの中に今回は豪華にウニも!濃厚な旨さを堪能できます。 
このズッキーニのスタイルでカニやオマール海老でもできます。
程よく残ったズッキーニの食感と濃厚なソースがよくあいます。
ワインはシャルドネが良いですね。ブルゴーニュブランでも作りの良いものは料理に負けないので
オススメです。ちなみに作り手はシャトードラヴィルのブルゴーニュブランと合わせましたが良い組み合わせでした。
夏に向けオマール海老の料理もいろいろお出しできると思います。よろしくお願いします。

98-1.JPG
98-2.JPG
東京都立川市柴崎町3-5-2むつ花ビル2F  042-526-6716 
ヴァンセット27シェフブログ  http://www.sprasia.com/tv/user/vanset/blog
ヴァンセットHP http://www.restaurant27.hello-net.info/


立川陸軍飛行場と日本、アジア №147 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

第2次帰還部隊とサムルソン、上海から立川に到着

                    近現代史研究家  楢崎茂彌

 いわゆる“共謀罪法案”(「テロ等準備罪法案」、政府提案の段階では「組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律」で、もともとテロ対策法ではない)についての政府の答弁がコロコロ変わり、内容は曖昧なまま与党は参議院でも強行採決する構えです。個人を監禁したり場合によっては命を奪うことが出来る刑法の規定が曖昧では、人々はいつ権力によって弾圧されるか分からない不安に晒され続けます。曖昧な規定により、当局側の判断で私たちが常時監視の対象にされる社会に道を開きかねない共謀罪法案は廃案にしなくてはならないと思います。歴史を学ぶものとしても、安倍首相の戦前回帰に付き合うのは御免です。

御国飛行学校の映画「飛行家に成るまで」上映中
147-1.jpg 6月13日、共謀罪反対の集会に参加するついでに、国立公文書館によって、開催されている“翔べ日本の翼―航空発達史”を見に行きました。展示物には、地図「大正十三年頃の主な航空路」(出典・航空資料)に“立川”と書きこまれているだけで、他には立川陸軍飛行場にふれた記述はなくてガッカリして椅子に腰掛けました。何気なく正面のスクリーンを見ると、何と連載NO74で紹介した御国飛行学校制作の「飛行家に成るまで」(約10分)が上映されているではないですか。立川陸軍飛行場の西側の芝生の上を機体を前後左右に揺らしながら、ゆっくり飛び立って行く御国飛行学校機にしばらく見入りました。昭和初期の立川陸軍飛行場の雰囲気を知ることができます。機会があったらお出かけ下さい。
147-2.jpg この御国飛行学校が飛行場使用許可期限が切れるこの年(1932年)3月末をもって廃校になりました。「東京日日新聞・府下版」(1932.3.22)は、御国飛行学校を次のように紹介しています“同校はもと山階宮家様御経営に創り、昭和三年三月現校長伊藤酉夫氏が宮家より譲渡され満四ヶ年間、民間飛行士の教育を行い、卒業生数十名に及び、特にこの半数が支那留学生であり一般に知られていたものである”。連載NO80で紹介したように、この学校は映画「進軍」の舞台になり、宮様が作ったので有名だったのですが、記事は格納庫・飛行機・従業員諸共、某社に身売りする予定だとしています。これも調べなくては…。
  
上海から第2次帰還部隊立川へ 
 前回に紹介しましたが、4月7日上海に派兵されていた陸軍飛行第5連隊の一次隊が 立川に帰還しました。この日はもう暗くなった午後6時過ぎに立川駅に着いているのに、沿道には歓迎する民衆が溢れました。
147-3.jpg 2次隊は4月30日午前11時7分に立川駅に到着したので、歓迎ぶりは前回の比ではありません。30日の予告記事は“国民の大きな期待を鵬翼に張って南支の空に転戦三月、立川○○隊山口大尉以下○○名の第二次帰還部隊は、いよいよ今三十日立川着、勲功遂げた晴れの凱旋を行う。針を含んだ秩父颪が吹きまくった去る二月征途についてからすでに桜の春も逝き、営庭の木々は目にしむるような新緑と変わった。八十二日目でなつかしい「われ等の営門」をくぐる勇士の喜びも一入であろう”(「東京日日新聞」1932.4.30)。前回に比べると伏字が少ないですね。
 今回は昼なので、駅から連隊営門までの各戸には国旗が掲げられ「祝凱旋」の看板が並び、立川町、砂川村、昭和村、拝島村などの青年団・在郷軍人会・小学生・中学生などが指定の位置に立って帰還部隊を歓迎しました。駅到着とともに花火が打ち上げられ、空には十数機の歓迎機が飛び交い、2階や屋根の上からも「万歳」の声、夜に帰還した一次隊はかわいそうな気がしますね。新聞やラジオに煽られて熱烈に戦争熱にうなされる民衆には、攻め込まれて殺傷される中国民衆に想像力が及ばないのは当然です。この写真を見ると、新聞や報道が果たす役割の重要さを感じます。
 山口大尉が「山口大尉以下○○○名上海出動中のところ、本日唯今帰りました」と辻連隊長に報告すると、連隊長は「今回の上海戦闘に際しては特に航空写真の出来が良く、砲兵等は我隊の撮影せる敵陣地写真を基として行う射撃は殆ど百発百中だと喜んでいた。乙一型式の活躍としては十分なもので、今回限り廃機となる同式機は、以て瞑すべしというところである。人員器材ともに無事、文字通り功成り名遂げた帰還を喜ぶものである」と訓示しました。
147-6.jpg 右の写真(「東京日日新聞」1932.5.1)には“中隊前で敬礼”と説明がついています。帰還将兵は、縦の列か横の列か迷いますが、山口大尉が“山口大尉以下○○○名上海出動中のところ、本日唯今帰りました”と報告しているので100人以上には間違いなく、左方に縦に並んでいるのが帰還将兵なことが分かります。この後、第三次帰還隊で帰る将兵は、まだ上海に残っています。上海事変には、第五連隊から相当数の将兵が送られたことになりますが、その数は○○○としか公開されない軍事秘密です。
サムルソン機(乙式一型偵察機)引退へ
  辻連隊長が訓示で述べているように、大正11(1922)年、立川陸軍飛行場開設以来、立川の空を飛び続けたサムルソン(乙式一型偵察機)が次々と引退することになっていきます。
147-4.jpg 「東京日日新聞」(1932.5.4)は次のように伝えています“最後の御奉公も無事済んで 丗日凱旋部隊と共に到着した立川○隊の飛行機乙式一型偵察機は三日梱包を解き検査が行われた。凱旋飛行機○台はいずれも所々に生々しい弾痕があり、○隊山口大尉以下勇士の死線に活躍した勲功を物語っている。検査に立会の辻将校も感慨深い体であった。両機はいよいよ今回で「最後の御奉公」となり、近く陸軍機としては廃機となるので○隊では大事に保存することになった”。
 前回紹介しましたが、4月半ばに満州に送られた八八式偵察機は“空中輸送”(現地に飛んで行く)されているの147-5.jpgに、サムルソンは分解・梱包されて立川駅に帰って来ています。立川駅から飛行場まで引き込み線は敷かれていないので、どのように運んだのでしょうか。連載NO20で紹介したように、訪欧大飛行に成功した「初風」は、フランスで分解・梱包され横浜へ、横浜から立川駅までは鉄道で、駅からは牛に曳かれて飛行場に運ばれています。7年後のこの日も牛に曳かれたのでしょうか。「立川飛行場物語・上」(三田鶴吉著・けやき出版1987年刊)は第84回で昭和5年頃の飛行機輸送のことを扱っています。掲載されている写真には“飛行機は解体して駅まで馬力で運んだ。重いものは牛を使った”と説明があります。この写真の撮影年月日は分からないけれど、昭和7年にも馬や牛だった可能性は高いように思います。当時の運搬方法を調べてみます。
 サムルソンは最大時速182km/hに対し八八式は210km/h、すでに戦争を始めている陸軍が満州事変を契機に偵察機を八八式に切り替えていくのは当然のことでした。

 夏休みのお知らせ
 7月15日に福井市で空襲の話をすることになりました。そのあと、8月5日に西砂学習館でビデオ「砂川一番~西砂川の戦災と空襲」(午後1時30分から)を上映し、8月12日には砂川学習館でビデオ「砂川最後の空襲」(午前10時から)を上映します。時間が許せばビデオを観に来てください。その準備やビデオ制作のため、例年よりは少し早いのですが、夏休みをいただきたいと思います。次回は9月下期になります。

写真1番目  「翔ベ日本の翼」のチラシ
写真2番目    「御国飛行学校格納庫」   国立公文書館所蔵
写真3番目  「中町通りを行く部隊」  「東京日日新聞府下版」(1932.5.1)
写真4番目    「中隊前で敬礼」            「東京日日新聞府下版」(1932.5.1)
写真5番目  「上海で活躍した乙式一型機の凱旋」
                   「東京日日新聞府下版」(1932.5.4)
写真6番目  「飛行機輸送」              「立川飛行場物語・上」p240


線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №61 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

しなの鉄道    平原~御代田    5月20日  

               岩本啓介                          

田んぼの中の平原駅
                        
ホームの端っこは田んぼです。
81FI6A0858平原駅横の田んぼ.jpg
                                                    平原駅の横の田んぼ                             

湘南色の電車復活  
                        
国鉄時代の湘南色がしなの鉄道で復活しました。                            
右端は噴煙を微かに上げる浅間山です。

81FI6A1029しなの鉄道・平原~御代田115系湘南色.jpg
 平原~御代田115系湘南の色      


押し花絵の世界 №41 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「ブルーローズ」

                押し花作家  山崎房枝

41.JPG
22cm×17cm


貴重なブルーローズを使用してステンドグラス風に仕上げた作品です。

渋紙に点火された光と影 №16 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

蚕と竹ごのめ

              型染め版画家  田中 清

蚕と竹ごのめ.jpg

押し花絵の世界 №42 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「高幡不動尊の風景」81cm×63cm  
               押し花作家  山崎房枝

42.JPG

 関東三大不動尊の一つに挙げられている日野市の高幡不動尊の五重塔を、紅葉の葉や筍の皮などの花材で表現し、紫陽花の名所として知られている風景を制作して奉納させていただきました。


徒然なるままに №20 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

紫陽花には、梅雨がよく似合う
             エッセイスト 横山貞利

 わたしは、紫陽花が好きだ。特に、梅雨の晴れ間の一時雨粒を宿した紫陽花を見ていると心休まる思いがしてならない。どうしてそうした気分になるのかよく解らないけれども、子どもの頃からの習性なのかもしれない。

   万葉集 二首

 言問はぬ 木すら味狭藍(あじさい) 諸弟(もろと)らが
   練の村戸(むらと)に あざむかえけり
                大伴家持 (巻四)
 (釈注)口のきけない木でさえも あじさいのように色変わる信用のおけないやつも
     いる。まして口八丁の諸弟の練りに練ったご託宣の数々にのせられてしまっ
     たのは、やむをえないことだったわい。

 紫陽花の 八重咲く如 やつ代に おいませわが背子 見つつ思はむ
                 橘 諸兄  (巻二十)
 (釈注)あじさいが次々と色を変えて ま新しく咲くように
     幾年月ののちまでも お元気でいらっしゃい、あなた。
     あじさいを見るたびに あなたをお偲びしましょう。
     (左大臣・橘 諸兄が女の立場にたって詠んだものであるという)
  伊藤 博「万葉集釋注」全11巻(1995年~99年 集英社刊)より

この万葉集に詠まれた二首の紫陽花はガクアジサイであろう。ガクアジサイは古来本州の海岸近くの山野に自生していた。いつ頃からか、このガクアジサイを母種にして品種改良が進んで各種のアジサイが生み出されたということである。また形状もガクアジサイから毬状の丸みのあるものなどがあり、色も白色、淡紅色、青紫色など多彩なアジサイの新種が生まれている。アジサイの花は全部装飾花からなり、4、5片の花弁状のガク片の中に小さな花弁と雄しべ、雌しべがある。初め緑色で次第に白色に変わり、しっかり開くと青紫色になるのが普通なのだそうだ。また、欧米で品種改良されたハナアジサイ(ハイドランシア)も輸入されている。今日では花全体が大きくなっているし、色もそれぞれ濃くなり深紅色、濃青紫色など豊富になっている。


紫陽花は、古来花を干してから煎じて用いると解熱の効果あるといわれて使用されていたらしいが、近年の研究結果では葉などに毒性があることが解ってきたようである。
国語大辞典(小学館)によると
アジサイから園芸品種になったものに、ヤマアジサイ、ハマアジサイ、タマアジサイ、コアジサイ、ツルアジサイなどがあり、欧米で改良されたセイヨウアジサイ、ハイランドアジサイ(ハイドランシア)などがある。
ところで、紫陽花といえば鎌倉の明月院を想い出すが、成就院、長谷寺なども有名である。総じて、北海道から九州までその地域ごとに紫陽花の美しい寺社や公園があって市民の散策コースになっているようである。だから、わたしだけでなくて日本人は紫陽花が好きなのであろう。梅雨のない北海度を除いて、梅雨の晴れ間に紫陽花の花見を楽しんで日頃の憂さをはらすのもいいだろう。今日では、政治の劣化と軌を一にして、人心が荒廃して人間関係が難しい社会状況になっているのだから尚更である。
 小津安二郎 二句
 紫陽花に たつきの白き 足袋をはく
 口づけを うつつに知るや 春の雨
   映画監督らしい色気のある句である。小津安二郎の墓は鎌倉の円覚寺にあって
    道中の紫陽花が美しいとのことだ。墓碑にはただ一字「無」と記されていることを
    小津安二郎日記で知った。
    (都築政昭編「小津安二郎日記―無常とたわむれた巨匠」(1993年 講談社刊)


 


玉川上水の詞花 №194 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

イチヤクソウ (いちやくそう科)

                エッセイスト  中込敦子

itiyakuso2.jpg 上水堤の一ヶ所に10株程度残っていて、梅雨時に葉の間から15センチ前後の一本の花茎を直立させ、梅の花に似た白色の五弁の花を数個つけるイチヤクソウにやっと出会えた。

花には短い柄があり下向きにうつむいたように静かに咲いている。その姿は上水の“先住者”でありながらも淋しげな風情が気にかかる。

1センチあまりの花冠は深く五裂し、雄しべは10本あると言われ、アップで見ると雄蕊は湾曲して花冠の外に突き出している。

円形で縁に僅かな鋸歯がある深緑色の葉は、長い柄を持ち丸葉の野草では珍しく肉厚で艶があり、常緑の多年草である。

利尿などの薬効があることから一薬草。ベニバナイチヤクソウなど仲間は多種あり、ハイキングや山歩きでその静かに咲く花を見ることが出来る。

上水土手で数少な<なったこのイチヤクソウも、盗掘されるなど消える運命を辿りつつあるように感じてならない。

今の環境で充分な生育が出来ないのか、最近は葉は茂っても花茎が伸びないで秋を迎える株が多くなってしまった。
 
花 期
春 3~5月 夏 6~8月 秋 9~11月 冬 12~2月
           ○        


赤川Bonzeと愉快な仲間たち №91 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

日本銅センター賞受賞

              銅版造形作家  赤川政由

91-1.JPG
91-2.jpg
授賞式(右端筆者)

 5月31日。銀座東武ホテルにて、授賞式がありました。日本銅センターという業界で、銅、伸銅の、普及の活動をしている法人です。銅産業の発展に寄与したとのこと。

「銅板を使用した作品を通じ銅の、普及促進と、イメージアップに、貢献」という受賞内容で、全国に銅の造形を設置し、若者たちを、そだて、長年にわたっての活動継続を評価するとのことです。

なにやらありがたいはなしです。44年にわたる活動は、工房を、支えてくれたむしろ沢山の、弟子たちのおかげです。

今後も頑張って制作に、はげみます。

音楽のある風景 №5 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

Le palais du Facteur Cheval Ⅱ

          MATプロデューサー    しおみえりこ 

ミュージック&アート in TAMAは2017年2月に50回目を迎えた。このコンサートは、3本の大きなプラタナスの木をアーティストの友安昭氏や赤川BONZE政由氏が中心となって、子ども達も一緒に残してくれるようお願いした話を伝え続けるコンサートだ。このコンサートのプロデューサーである私が、プログラムの最後に毎回書いてきた<えりごのみ>音楽のある風景のフォトエッセイ。この知の木々舎の中で、さらに読んでいただけるのは嬉しい...,と張り切っていたにも関わらず、ここ2ヶ月ほどすっかりご無沙汰してしまった。
 4月に我が夫クラリネット奏者:橋爪恵一の25年ぶりのリサイタルの準備、本番でおおわらわと並行して一人息子が自宅の近くでイタリアン手打ちパスタ専門店を急遽オープン。怒涛のような日々がやっと終わり、今この原稿を書いている。我が家の男子2名の一大事に翻弄された日々だった。やはり年には勝てないな。とにかくヘトヘト。昔はど平気でこの程度のことはこなしていたような気がする。引き続き、音楽のある風景お送りしたいので、どうぞよろしくお願いいたします。

パリからTGVとローカル電車とバスを乗り継いで約4時間半、オートリーブという静かな村にたどり着く。前回も「音楽のある風景」で紹介したが、この村に存在するシュヴァル宮。ここはこの村で産まれ一生を終えたシュヴァルという名の郵便配達夫が、33年かけてたった一人で造り上げた理想宮だ。画家で詩人のアーティスト成田ヒロシ氏が1991年に現地を訪れ、その感動を蒼いパステルと黒えんぴつで描いたシュヴァルへの連作を、その翌年世田谷美術館ギャラリーにて発表した。最終日ギリギリに作品展を観に行った私は、その圧倒的な存在感に摩訶不思議な世界を垣間見ていた。いつか行ってみたい。そして2005年暮れに初めて現地を訪れたのだが、一人の人間がその「気」を持てば、たった一人でもここまでのことができるのだ!という確かな事実が目前にあった。いつかこの宮殿で自身で描いたシュヴァルへの想いの展覧会を開催したい。そして村人と交流できたらという成田氏。毎年夏にはこの宮殿でJAZZのコンサートも開かれているという。成田氏の絵の世界と共に、私たちの音楽も一緒にシュヴァルとコラボレーションしてみよう。その時シュヴァルは宮殿の上から指揮してくれるのではないだろうか? その日を「夢」見て・・・。
5-1.jpg
奇妙な宮殿を作っていたシュバルは、村人たちからはキチガイ扱いされていた。孤独な彼が自分自身をこの人形に投影していたのではないだろうか
5-2.jpg
シュバルの指揮のもと働く人夫たち。
5-3.jpg
シュバルがつまずいた奇妙な石。その昔、ここオートリーブは海の底だったようだ。この石に出会って、天からの啓示を受け宮殿を作り始めた。
5-4.jpg
 不思議な三人の巨人像。優しい顔をしている。
5-5.jpg
郵便配達を終えると、この見晴らし台に立ち宮殿を眺め、次はどこを作るかと考えていたようだ。
5-6.jpg
見晴らし台から見た宮殿全景。
5-7.jpg
この一輪車で拾った石を運び、セメントで固めていった。建築学的には何の価値もない建物だという。時代は1980代後半。パリ万博の時代だ。当時の文化相マルロー氏が噂を聞き偵察に行き、これはフランスの財産だと認定したため残った。
5-8.jpg
33年かけてたった一人で作ったものだが、かなり大きな規模だ。この宮殿は「夢は叶うものではなく、叶えるものだ。」と静かに語っている。
5-9.jpg
自分が死んだら、宮殿の下に埋めて欲しいと頼んだが、村は墓地ではないのでと却下。それから6年かけて墓場に自分の墓を建てシュバルはこの墓の下に眠っている。


立川陸軍飛行場と日本・アジア №146 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

第五連隊派遣部隊、上海から帰還 交替部隊“満州”に派兵 爆弾三勇士

                  近現代史研究家  楢崎茂彌 

 5月27日PKO活動のために南スーダンに派遣されていた自衛隊が完全撤退しました。政府は去年9月には撤退の検討を始めていながら、11月に新たに現地勢力と武力衝突になる可能性がある“駆けつけ任務”を付与したのです。今回は全員無事撤退したので“ほら、駆けつけ任務は危険じゃないよ”と、国民を慣れっこにさせる狙いがあったように感じます。PKOは当初に比べて大きく変容して、市民保護のため積極的に武力介入もするようになっています。改めて、日本が得意としたはずの“武力によらない国際貢献”を考える必要があると思います。

 第五連隊派遣部隊、上海から立川に帰還
  立川から上海に派遣された陸軍飛行第五連隊の部隊が帰還する事になりました。新聞は次のように報じています。
“上海派遣○○隊長鈴木中佐より一日午前十時、立川○○隊あて 下士○名兵○○○名酒保○名三十一日出帆帰還 の入電あり待たれた立川○○隊の一部凱旋が愈々実現した。この報について○隊では、俄かに色めき帰還を迎える準備に着手した。○○隊では語る
 電文が簡単でよく判らず、どういう命令による帰還かも不明なので、目下○○本部や○団の方に照会中だが、帰ってくることは事実です。…去る二月八日、四十台の官民機と二万人余の人から空陸の万歳を浴びて立川駅を出発して二ヶ月…”(「東京日日新聞・府下版」1932.4.2)
  この部隊の出動の様子を書いた連載NO144の中で、出動の日付を2月12日と断定しました。出発の日付を浅はかに146-1.jpgも断定したことを恥じるとともにお詫びします。
 それにしても、新聞が正確だとすれば、立川出発から一週間もたってから“○月○日出発”と写真入りで報じられた事になります。 それに、今回の電報も21字中5字が伏字です。こうして、軍事色が強まれば強まるほど、立川陸軍飛行場のことを知るのは困難になって行きます。
 4月7日、陸軍飛行第5連隊最初の凱旋部隊(当時の表現です)が立川に帰って来ます。右の写真は品川駅で撮ったものですが、みんな無事帰って来られたことを心から喜んでいる表情ですね。
 午後4時半に品川を出た部隊は午後6時7分立川駅に到着、群衆の万歳の声に迎えられて、地下道を通り北口から第5連隊営門に向かいます。次ぎの写真は、立川駅から第5連隊営門に向かう将兵達です。群衆は警戒線を突破して押し寄せ万歳を叫んでいます。将兵たちの表情は明146-2.jpgるいですね。
 一同が営門前に整列すると辻連隊長が“目的を達して無事帰還したことを祝う。御苦労じゃった”と簡単な慰問の言葉をかけ、設けられた宴席で隊幹部などと勝栗を肴に冷酒で乾杯をして、帰還兵たちは各兵舎に引き揚げます。
 上海事変の目的は、満州国建国の陰謀から列国の目をそらすことでした。関東軍は3月1日に満州国を“建国”したのだから、もう“目的”は達している筈です。第5連隊の撤兵が始まり、これで派兵は終わりかと思うとそうではありませんでした。
 
 第五連隊の交替部隊が立川から“満州”に向かう
 連載NO138で書きましたが、前年の10月15日第5連隊は満州に出動しています。その交替部隊が、4月12日に軍装146-3.jpg検査を終え出発準備完了です。前日には近衛師団長、12日には航空本部長が来隊して訓示を垂れます。
“満開の桜の母隊をあとに篠原直夫以下将校○○名、特務曹長○名、下士○○名、兵○○名合計○○○名の立川○○○隊の地上勤務者の一隊はいよいよ今十四日午前十一時五分立川駅東方乾繭倉庫前仮設停車場発の軍用列車で○○に向かう”(「東京日日新聞・府下版」1932.4.14)
 今回は2月と違って出発日が報道されていますね。13日の府下版は“在満軍の交替に立川隊あす出発”と書いているのに、この日は“○○に向かう”として目的地を伏146-4.jpg字にしているのは、部隊が満州のどこに展開しているかは秘密だからなのでしょうか。
 14日、辻連隊長が“砲火既にやむと言えど諸氏の任務はこれからが重大なのである。原隊の、陸軍の、皇国の名誉を担っている身である事を忘れず、ただ本分を尽くす事のみを隊長として要求する。特に自愛を希望する”との訓示があり、一同は折からの桜吹雪の中、営門を出て立川駅に向かいました。写真を見ると、当然のことですが、帰還部隊に比べると表情は硬いですね。
 乾繭倉庫前広場には立川町、砂川村、昭和村などの在郷軍人会、青年団、小学生、中学生などが押しかけ広場にあふれ、出征部隊が現れると「万歳」の声がこだまします。篠原大尉は“この御芳志に感謝、ご期待を裏切らない事に努力します”と挨拶して列車に乗り込み、汽笛一声列車がすべりだすと、どっと喚声が上がりま名称未設定 5.jpgした。
 見送る群衆の中には、出征する将兵の家族もいます。家族は一般の群衆のようには浮かれてはいない事は、見送る将校夫人たちの硬い表情から伺われます。
 地上勤務者(飛行機を地上で整備する将兵)に数日遅れて八八式偵察機が、陸軍が誇る名操縦士藤田雄蔵大尉などの操縦により満州に空中輸送されます。操縦士や機上機関士は空中勤務者と呼ばれました。中国の中に関東軍が作りあげた傀儡国家“満州国”に派兵される部隊はいつ帰るのでしょうか。

立川一小(現二小)「爆弾三勇士」の歌を教材に採用
 連載NO144で書いたように1月18日、日本側が仕掛けて上海事変を起こします。その一月後に当たる2月18日、日本陸海軍は第一九路軍(上海に配置されていた中国軍)に対して租界から20km以上撤退する事を求め、22日早暁に総攻撃を予定しました。前日の夜、陸軍歩兵24連隊が上海郊外の小村落・廟行鎮(びょうこうちん)を攻撃します。しかし廟行鎮の正面には鉄条網、その後ろに幅4m深さ2mのクリークがあり、その後ろには機関銃隊が配置された強固な防禦線を敷いていました。ここを突破しないと総攻撃が頓挫するとして、工兵隊は3人一組となった工兵が破壊筒(20kgの爆薬を詰めた長さ3mほどの竹筒、本来ならば鉄製)を鉄条網の下に押し込み導火線に点火して爆破する作戦をとりました。しかし、先発の3組は中国軍の烈しい射撃にあってほぼ全員が即死、そこであらかじめ導火線に点火した破壊筒を鉄条網の下に押し込む危険極まりないやりかたに変更します。二組6人の兵士がこの任務に従い、先に突入した組は鉄条網の爆破には成功しますが、一等兵江下武二、北川丞(すすむ)は爆死し、作江伊之助は銃弾で負傷し後に死亡しました。二組目の北川、簗瀬、杉本の一等兵3人は爆破に成功し奇跡的に生還します。こうして総攻撃が開始され午前6時10分廟行鎮の一角が占領されました。
 24日の「大阪朝日新聞」は、“二十三日午後四時○○団司令部発表=二十二日払暁○○第○○○○団は独立で廟行鎮の敵陣地を突破し、友軍の戦闘を有利に導いたが、その際自己の身体に点火せる爆弾を結びつけ深さ四メートルにわたる鉄条網中に投じ、自己諸共これを粉砕して勇壮なる爆死を遂げ、歩兵の突破路を開いた三名の勇士がある。○団以下全○団の将兵はこれを聞き伝え、深き感謝と哀悼の場をささげている。…。”と司令部の発表を伝えています。
 24日の「東京朝日新聞」は次のように報じました。“我が工兵隊の工兵三名は鉄条網を破壊して敵の一角を切崩すため爆死して皇国のために報ずべく、自ら死を志願して出たので、工兵隊長もその悲壮な決心を涙ながらに「では国のために死んでくれ」と許したので、右三人は今生の別れを隊長始め戦友等に告げ、身体一杯に爆弾を巻き付けて点火して「帝国万歳」と叫びつつ飛びだして行き深さ4メートルの鉄条網に向かって飛込んで直ちに壮烈無比なる戦死を遂げた。これがため鉄条網は壊れ大きな穴が出来敵の陣地の一部が破れ、これにより我軍はここより敵陣に突入するを得、廟行鎮に攻め寄せて、まんまとその翌朝陥れることが出来た。”
 もちろん「東京日日新聞」も負けてはいません。24日には“世界に比ありや この気魄 点火爆弾を抱き鉄条網を爆破す 肉一片を留めず”と大見出しを打ちます。
 新聞が陸軍の発表をベースとして「爆弾三勇士」という軍国美談を作りあげ、戦争熱を煽っていったことが歴然とわかります。
 こうして爆弾三勇士は熱狂的なブームとなり、松竹は陸軍省新聞班の後援を受け、日活は第十六師団の後援を受けて映画を制作、演劇界や講談、浪曲など“興行界を挙げて三勇士時代”の様相を呈しました。 朝日新聞と毎日新聞は、それぞれ「肉弾三勇士の歌」「爆弾三勇士の歌」を読者から募集し、合計18000以上の応募があり、毎日新聞の当選作「廟行鎮の敵の陣」の作詩者は何と与謝野鉄幹でした。これには出来レースの匂いがありますよね。
 3月20日、青梅町立尋常高等小学校で学芸会があり、高等科男子が「爆弾三勇士」を上演、尋常科4年男子が「廟行鎮の敵の陣」を歌いました。児童合作による「爆弾三勇士」は、“三勇士出征の場”“支那便衣隊の陣地”“鉄条網破壊の場”の三幕からなり、「東京日日新聞・府下版」(1932.3.19)は“児童の合作によったものとしては頗る巧者で爆弾三勇士の行動がいかに壮烈無比であり、小国民を感激と興奮させているかが分かる”と報じています。上演当日、講堂には2000人が押し掛け、立錐の余地もない盛況だったようです。
 立川第一尋常高等小学校(現在の二小)では、新年度から「廟行鎮の敵の陣」を教材に採用する事を決めました。
 こうして作られた軍国美談が小学校に持ち込まれ、子ども達の愛国心を煽ります。更に1941年から使われた第5期「国定国語教科書(初等科二の二十一)」に“三勇士”として登場します。こんな時代にさせてはなりません。

写真1番目 品川駅に到着した立川凱旋部隊の万歳「東京日日新聞・府下版」1932.4.8
写真2番目 立川に凱旋した部隊                「東京日日新聞・府下版」1932.4.8
写真3番目 駅前通りを進む部隊               「東京日日新聞・府下版」1932.4.15
写真4番目 営門に訪れた小国民               「東京日日新聞・府下版」1932.4.14
写真5番目 見送りの将校婦人団               「東京日日新聞・府下版」1932.4.15
写真6番目 便衣隊との交戦                    「東京日日新聞・府下版」1932.3.19
写真7番目 爆弾を持って鉄条網爆破の三勇士   「東京日日新聞・府下版」1932.3.19

線路はつづくよ №80 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

麦秋の上州路  

                   岩本啓介                                   

JR両毛線 岩舟~大平下   5月19日

80FI6A0415両毛線211系・岩舟山・西友田踏切.jpg
                                   

3・11地震で西側の峰がV字に崩れた岩舟山をバックに麦秋の上州路を走る両毛線です。                                 

麦の刈り取りが終わると 田に水を入れ、田植えの準備が始まるようです。           

前の20件 | - ふるさと立川・多摩・武蔵 ブログトップ