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私の中の一期一会 №151 [雑木林の四季]

    陸上男子100mで 桐生祥秀が9秒98。“10秒の壁”突破は日本人初の快挙
     ~「9秒台を出して、やっと世界へのスタートラインに立てたかなと思う」~

       アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 2017年9月9日は日本陸上界にとって、当分忘れることが出来ない日になった。
 福井県の福井運動公園陸上競技場で行われた日本学生対校選手権(通称インカレ)の陸上男子100メートル決勝で、東洋大4年の桐生祥秀(21)が“日本人初の9秒台”となる9秒98の日本新記録をマークして優勝したからである。
 日本の陸上短距離界に長く立ちはだかっていた“10秒の厚い壁”をついに突き破ったことは、日本中を明るくする嬉しいニュースでもあった。
 レース直後の速報タイム電光掲示板が“9秒99”から“9秒98”に変わった時、桐生は「10秒00にならないでくれ」とお願いしたと語る。
 1998年のバンコク・アジア大会で、伊東浩司が10秒00の日本新記録を樹立したが、その時は9秒99を示した電光掲示板が、ほどなく10秒00に切り替わってしまったというエピソードを知っていたからだろう。
 伊東浩司の場合、9秒台までの差0秒01は、距離にして10センチだったと新聞が書いている。
 0秒01の差が“たった10センチ”なら、9秒台も遠からず出るだろうと期待した人が多かったのではなかろうか。
 だが、10秒00から、9秒台までの“10センチ”を日本のスプリンターたちが乗り越えるのに19年もの歳月が流れていたのである。
 日本陸上界にとって、10センチは“たった”ではなく、思いのほか“高い壁”になっていたのだ。
 京都・洛南高3年、17歳だった桐生祥秀が10秒01を出したのは2013年4月の織田記念陸上である。
 歴代2位の好記録、10秒01を叩き出した桐生祥秀は、当然のように「9秒台に一番近い男」として一気に注目される存在になった。
 だが運命は皮肉なもので、桐生には“9秒台の重圧”に苦悩する日々が待ち受けていた。
 東洋大に進学してから低迷が長く続いたのだ。10秒0台の好タイムを出しても会場からタメ息が聞こえてきたりする。右太もも裏のハムストリングの怪我も重なって思うように走れない日々。コーチとの確執も囁かれた。モチベーションは下がり、「もう期待しないで欲しい」と漏らすこともあったという。
 それだけに、大学最後の100メートルで9秒台を出せたことは感慨も一入(ひとしお)であったろう。
 「東洋大に入って、うまくいかないことがあった。このままベストを出せずに卒業というのもよぎっていた。だからすごく嬉しい。4年間クスぶっていた自己ベストをやっと更新できた」と肩の荷を下ろしてホッとした心境を正直に語っている。
 今回の出場も、足の不安があり、ギリギリまでコーチと相談しなければならないという悩みを抱えていた。
 出るとなれば、肉離れしてでも“スタートからいくぞ!”という悲壮な決意さえあったのである。
 何しろピストルが鳴ってから10秒でレースは決着をみるのだ、100メートルは文字通りアッという間の戦いである。
 プレッシャーの中で、ちょっとでもミスがあったら挽回は難しい。その意味では過酷である。
 私はどうしても、競技やレースを実況者の目線で見てしまうのだが、今回の桐生祥秀は“後半も失速しなかった”ように見えたのが一番印象的だった。
 これまで19年間、日本記録保持者だった伊東浩司氏が「桐生は、いつもは先行されると力んで身体が硬くなるが、この日はそれがなかった」と述べている記事を読んで、やはり今までと違う走りだったことを知った。
 桐生祥秀は今回の9秒台達成を「怪我の功名かもしれない」と民放のテレビ番組で言ったらしい。
 いつもの練習では50メートルダッシュなど、短い距離ばかりを走っていたが、太もも裏の張りでスピードを上げる練習は出来なかったという。
 いつもは長くても150メートルだったのに、今回は250メートル、300メートルと・・長い距離を何回も走ったという。
 そのせいか「今回は100メートルが短く感じた。そういうのはありますね・・」と振り返り、「選手は誰でも最後は失速するんです。失速が65メートルだと55メートルの時より失速が遅くなる」と説明した。
 日本陸連科学委員会が公開したデータによれば、これまでの主要3大会(リオ五輪予選、今年の織田記念決勝、日本選手権決勝)と比べて多くの点で良い数字が並んでいるのだ。
 一番目立つのは最高速度到達地点で、桐生はこれまでの3大会では55メートル地点で最高速度に達していたが、今回のインカレでの最高速度は65メートル地点まで伸びていた。
 これまでより“10メートル”もゴールに近い地点までスピードを保って走ったことになるのだ。
 最高速度到達地点が10メートル後ろにずれたために、私の目には “失速していない”ように見えたことを科学的データが教えてくれた。
 陸連では、9秒台を出すための条件として、レース中の最高速度が秒速11.6メートルを越えることを条件としている。今回のデータは、秒速11.67だからこの条件もクリアしている。
 歩数(ストライド)は、終盤に2,4メートル近くまで伸ばし、過去3大会より10センチ前後広がっていた。
 今後どれだけ記録が伸びるのか、期待は大きいが、桐生祥秀が強調する最終目標は世界のファイナリストになることである。
 世界の100メートル決勝に残るファイナリストに「10秒台の選手は一人もいません」と語る桐生は、「9秒台が出て嬉しかったけど、ここからもう一回スタートしていきたい。ようやく世界のスタートラインに立てたてたと思う。これからです」と抱負も明らかにした。
 10秒の壁を乗り越えて、桐生の胸中も変化した筈だ。一時はしぼんでいたモチベーションに再び火が灯ったとしたら朗報である。
 桐生が大学4年間を“もどかしい気持ちで”過ごしている間に、強力なライバルたちが台頭していた。
 今年8月のロンドン世界選手権・参加標準記録10秒12をクリアしたスプリンターたちの顔ぶれは豪華だ。
 山形亮太10秒03.サニブラウン・ハキ―ム10秒06、ケンブリッジ飛鳥10秒08、多田修平10秒08・・ここに、ベスト9秒98の桐生祥秀が加わって日本陸上の新時代を競い合うことになるのだ。
 誰が勝つのか分からない実力伯仲の今年の日本選手権・100メートル決勝を制した18歳のサニブラウンは、長いスライドでグングン加速して2位以下に差をつけて先頭でフィニッシュラインを超える実力を誇る。
 桐生より1学年下で関西学院大3年の多田修平の存在は無視できない。
 今回のインカレでも10秒07の自己ベストを出したが、桐生に次いで2位だった。
 「目の前で9秒台を出されて、めっちゃ悔しい自己ベストだ」と桐生越えの気力は満々だ。
 多田修平は、追い風参考記録ながら100メートル9秒94を出している。あのジャスティン・ガトリン(米)が「素晴らしいスタートの男がいて驚いた」と称賛した逸材である。
 その他、ジャマイカ人を父に持つケンブリッジ飛鳥、それ山縣亮太もいて、陸上短距離陣は多士済々だ。
 新聞によれば、10秒台を桐生は過去10回記録している。山懸亮太は8回、ケンブリッジ飛鳥、サニブラウン・ハキ―ム、多田修平らも10秒0を出して陸上短距離の層は厚みを増している。
 近年の五輪や世界選手権ではファイナル進出ラインが10秒00前後と高水準だが、桐生祥秀に9秒台を出されて日本のライバルたちにも“火がついた”に違いない。
 五輪や世界大会で日本勢が決勝に進出する可能性が現実味を帯びてきたことは確かだ
 2017年9月9日は日本陸上新時代がスタートした日になったと言っていいだろう。

 

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パリ・くらしと彩りの手帖 №127 [雑木林の四季]

 マクロン大統は領着々と選挙公約を実行:そしてデイオール大展覧会

         在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ

マクロン大統領の公約はすでにいくつも手がつけられている

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ハリケーン“イルマ”にすっかりやられた、フランスの海外領土 グアドループのサン・マルタンなどの大被害地を訪れるマクロン大統領    

 フランスの選挙、それから各地に生まれてくる数々のコンサートホール、そして一方2000年も前にローマ軍が地球を北上する折に作られた、中でも素晴らしいオランジュの石を並べた古代劇場での音楽、と夏のおかげでたっぷり酔う時は過ぎて、今やマクロン大統領にとっても、選挙公約を果たす時が来たのだ。一般の大統領への熱はぐっと覚めたようだが、選挙前に公約したことをすでにいくつも実行に移している。これらの政策で喜ぶ人々がいれば、それを不満とする人々も常にあって、むずかしいところだ。今迄、反対が少なかったものとしては、子供の教育に関して小学校のクラスを12人以下にして、先生と生徒の関係が密になるように、先生が子供の一人一人に目が届くようにすることが肝要ということで、教員の数もぐっと増えた。右派の政権になっていたら、しかも選挙の初めに最高点をとって、もう大統領になったようなことまで言っていた候補者などは、教員を減らすことを公約に掲げていたものだ。恐ろしいことだ。日本の小、中學校では今は何人位のクラスなのだろうか。わたしの頃は五十人のクラス迄あったものだが今はどうなのだろう!日本の先生たちは教室が終わってからもきっとかなりの超過勤務でやりくりしているのではないか。日本の学校ではいじめがあって、それに気づかなかった教員が非難されているのを知ったが、そこまで踏み込めるゆとりがあるのだろうか。2011年の被害にあって、家族が亡くなったり、臨時の住宅に暮らし続けたり、それだけいたわってあげなければならないのに、むしろこのことが原因でイジメられたりしている現状だというから、あの神経の細かい日本の素晴らしさはどこに行ってしまったのだろう。こちら西欧では何か恐ろしいことがあって家や店を空ければ、早速に屈強な若者たちが盗りに行くのだ。普段は欲しくても買えないものを、手に入れるいい機会なのだ。最近はどこへ行くのも、持ち物の中身を見せて、爆弾や銃や剣を持っていないことを確かめてもらわなければ通れないのは、今迄起きている数々の惨事を思えば仕方ない、当たり前と解釈せざるをえないが、最近ではスーパーなどに入ると、出口で中身を見せなければならないことが多くなった。わたしも初めはそういうスーパーなどはいかないことにしようと考えていたが、そうなると、欲しいものも買えなくなるというものだ。わたしが拒否したら、それではと自分と一緒に事務所の方に来てくれという。自分では手に負えないと思ったのだろうか。なぜそんなことをするのかの問いに対しては、何かを買って行列してケースで払う人たちは一応いいことにしている。でもあなたのように何も買わなかった顔をして出て行ってしまわれたらかなわないからね。つまり、そんな場合には何かをとって自分のカバンに入れていると考えるのが一番妥当だ、というのだ。そんなに泥棒がいると思うのか、と聞くと、勿論との答え。あなたはフランス人だろうけれど、その同じフランス人が、袋の中を見せなければ店から出られないなんて、恥ずかしいと思わないのか。だって泥棒は、そりゃたくさんいるもの。という問答。
 私の国の日本にだって、泥棒はいるけれど、こんなところでまで盗むようなのは本当に稀なことだと思うけれど、、、冗談じゃない、調べなければいくらでも持って行くに決まっている。これでは「人を見たら泥棒と思え」の教訓になり得るわけだ。わたしの暮らしはこうして、だんだん不便になっていく。いつかある時に一切を捨てて、相手の言うなりになりさえすれば、便利な暮らしに戻れるのだろうが、今の所は強情を張っているということか。
 さて、マクロン大統領の公約問題にもどると、フランスの国鉄に対して、何億、いや、何兆ユーロとかの長年抱えている有名な国鉄の巨額の負債を、こちらの言うことを受け入れればゼロにすると持ちかけたたところだ。それは鉄道で働く人たちの、古くから持つ特権を捨てて、他の職場と同じような条件で働くことを受け入れればだ。国鉄の定年は50歳であり、汽車の運転を学んで職に就いたら、最初からかなりいい給料で、それがあっという間に加速するという特権だ。しかも特急列車などの運転士ともなれば、事務所で仕事をしている人たちとは比べることもできないほどに差がつくのだ。それでは何が特権かというと、まずは国鉄で働く人の給料がいいのはもちろんだが、その家族の移動は殆どただという。此のことがどう決着することになるかは興味のあるところだ。それからもうひとつ、選挙前の公約で、労働者と雇用する人との間の関係の変化がある。今までの複雑な規則では、会社の経営者が人を雇う時は、一旦雇ってしまったら、経営がうまくいかなくてもやめさせることはできない。また、雇ってみたが仕事ができない人だったとか、いろいろ理由があってもすぐやめさせることはできないからやとう方はいつもこわごわだ。会社が発展しようとするいい時期に、臆病になってはいけないと言っても、後のことを考えると手が出ない。このところをもっと簡単にしたら、発展していく時にそれに合わせて有能な人を雇うことができたら、と考えるのは当然。だめだったら、辞めてもらうことができるような契約が可能ならばと考えていた人は多いはずだ。この大統領の提案にはもちろん労働組合が大反対だが、今迄は組合員もいない小さな企業でも、辞めてもらう時には組合の意見というものを聞かなければならなかったのだが、これが、当事者間だけのこととなりそうだ。こうしたら、会社の規模と成績に合わせて、雇用が出来ることになるから、起業家ももっと大胆にことを運ぶことができるはずだ。こうして、小さい企業が大きくなってもっともっと従業員を増やす必要が出来てくれば、失業者の数も減るわけだ。これは小さい企業を起こしている起業家からは大歓迎を受け、もちろん労働組合からはノンの反応。すでに決まったようなものだが、それでも実際にどうなっていくのかしばらく時間が必要ということだろうか。こんな時も時、フランスの元植民地のグアドループを強大なハリケーンが襲った。何日間も荒れに荒れて、美しい、名高いサンマルタンの海辺も世界中からくる観光客のためのデラックスの施設も、ほとんどすべて、なくなってしまった。そして、このハリケーン”イルマ”はようやく向きを変えて、アメリカに向かった。その続きは皆さんもよくご存知のことだろう。マクロン大統領は、ここにも姿を見せ、”必ず元のようにする”と慰めたが、大統領ともなればこれも公約の一つ、後になって出来なかった、で済むものではない。 しかし、それにしてもどうしてこう恐ろしいハリケーンには女性の名前ばかりつけるのだろうか。考えてみると、世の男性たちは、本当は女性を恐れているのかも知れない。

 ところで、2024年のオリンピックはパリにきまった。フランス中が沸き立ちパリではイダルゴ市長を中心にパリ市庁舎前の大広場で、昨日は大きな野外演奏会が開かれた。どこかに書いてあったのだろうけれども、メトロの駅にもホームにも何も書いてなかったから、私はメトロで市役所前の広場まで行き、そこからバスに乗ろうと思っていたのだが、メトロの出口は閉められていて通れない。やむをえず、このメトロで乗ったところまで戻って、市役所を通らない線のメトロに乗り換えた。いくら嬉しいからといって、すべての人の交通の手段をこんなにしてしまっていいものだろうか。私は別なコンサートにかろうじて間に合ったが、ヒヤヒヤだった。かつて私の勤め先だったフランスの放送会館で、ここのオーケストラの創立80周年記念の演奏があり、そのお祝いに駆けつけなければならなかったのだ。オリンピックとは、なぜこんなにやりたいのだろう?いろいろの施設を作らなければならなくなって、たくさんの労働力がいるから、失業者にとっては天の恵みだ。国庫を叩いて、素晴らしいオリンピックを作り上げる。フランスのイメージは上がる。その後のツーリストたち、若者たちがここに来たいと思うことは目に見えている。オリンピックのために来る世界のスポーツマンたちのための宿舎を作るのも大変な費用だが、これもフランスの不足している住居がその後、学生の寄宿舎などに使えるものが残される。そして、健康なポジチヴなイメージが残るというわけだ。そして現実は、膨大な予定外の支出が残されると決まっているのだ。それに、ギリシャ人が発明したこのオリンピックが4世紀末以来途絶えていたものが、1896年にアテネで復活、それからは4年の周期で、日本が第32回目、34回がパリとなったわけだが、考えてみると、ギリシャの後何世紀も経ってこれが復活したのは、フランスで「近代オリンピックの父」と呼ばれるピエール・ド・ クーベルタン男爵の功績と言われている。有名な ピエール・ド・クーベルタン語録. の一つを上げれば、「オリンピックで最も重要なことは、勝つことではなく参加することである。同様に、 人生において最も重要なことは、勝つことではなく奮励努力することである」がそれ以来、人生を支える言葉になっているのだ。

デイオールのオート・クーチュールここから幾多の才能が巣立った

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出品作品の数々と展示風景

 今のパリは長い夏休みの後で、美術館の多くが大展覧会のオープンで賑わっている。見る方にとっては、同じ朝に3つも4つもの大きな催しがあって、とても回りきれない時間割だ。その中で、比較的早くに始まったのが、ルーブルと同じ建物の中にある装飾美術館での大展覧会、クーチュールの世界での王者、デイオール、1950年代から、約50年間、世界を躍らせたパリのオートクーチュールのメゾンだ。イヴ・サンローランが、自分のサインのショーをはじめたのも此の頃だ。そこのクーチュリエとしての姿はいくつもの映画になっているが、彼と生涯を共にしたピエール・ベルジェが数日前に亡くなり、美術館関係者や、音楽関係者たちから、この人がフランスの文化にいかに貢献したかという声が上がっている。こういう人と人生を共にしたサン・ローランが、デザインするとき、外の形だけを創造していたとは考えられない。彼のショーを見るときは、はて、今シーズンのデザインの底にあるものは何だろうと考える楽しみがあり、それが私たち報道の仕事をしているものにとって事前に全く漏れ伝わって来ないでいたときには、ショーで最初に見るデザインから、想像をふくらましていくのだった。そして、だれの、どの絵をインスピレーションのもとにしているかなどと当てるのがまた楽しみだったのだ。しかし、今のオートクーチュールの現状をみると、その未来は決して明るいとは言えない。クーチュリエたちの才能が低下したのだろうか?いや、これは現代社会の進歩と発展が原因に違いない。オートクーチュール全盛時代には世界の国々に、華やかさがあり、特に王国などは大いにこれに貢献してきた。高価で、華やかで、見事な女性たちが必要だった。それが、いつのまにか、外見が変わったのだ。ジーンズなどという、便利なものへの情熱は男女を問わない形で広まってきて、メトロなどに乗っても、顔を見るまでは男女の差もわからないような服装で、モードのトップを行っているという気分の女性たちがいっぱい。そして、これも顔を見るまでは男か女かも判断がつかないような場合が多いのだ。しかも、いくらでも高価なものが買える立場にいる人さえも、くつろぐ服装のためには、皆さんご存知のように、その生地や製品ををわざわざ長いこと機械にかけて洗い、使いに使って、擦り切れたという感じにしたズボンなど現代の象徴なのだ。そうなると、モードに関心の深い人なればこそ、一層そこに気を使うことになって、高価なロングドレスなどは、なりを潜めるというわけなのだ。各国の宮廷が王妃のための美しい装いを必要としていたあの時代がなくなりかかっている今では、もう完全な後戻りをすることは不可能なことだろう。デイオールのようなトップのところで、いつも服を注文していた王妃達は,いちいち仮縫いのためにパリ迄来なくともいいように一度体形を作っておいてこれにあてがい、着せて作ることができたのだった。そして、最後の一回だけクーチュリエの手で、その細部を矯正していたから、デイオールともなると、こういう体型のモデルがいっぱい、日本の皇后のもあるというがどうやら今回の展示には出してないらしい。それに、本人の許可がなければ、王妃の体型など一般の目にさらせるはずはないだろう。今回のデイオール大展覧会では、此のクーチュリエの全てを見せたいとの願いからだろう、いくつもの会場を使って、これでもか、これでもかとでも言うように並べている。私が希望した、このクーチュリエの区切り、区切りの場面の作品の写真を要求したのに、それはできないとの返事だった。その代わり、というか、膨大な写真を送ってくれたから、ただただ彼の作品を次から次へと見ていただくのも楽しいし、それに、余計な説明をつけるよりも、彼のクリエーションをそのままたくさん見ていただく方がデイオールというクーチュリエの仕事をよく知っていただくこと、そして、それもオートクーチュールの全盛時代をたっぷりと見ていただく方がいいと今日は思い直すことにした。


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浜田山通信 №201 [雑木林の四季]

「やすらぎの郷」と「四つの恋の物語」 ④

              ジャーナリスト  野村勝美

 テレビ朝日「やすらぎの郷」は10月いっぱいで終わる。老人たちの最後の生と死のいろいろなありようが、見る者の胸を打つ。戦争中愛し合った監督をアッツ島で玉砕させた九条摂子(八千草薫)も逝き、彼女のために“やすらぎの郷”を創設した往年の芸能界のドンの死も近い。深刻な話ばかりではない。芝居の狂言回しの一人であるマロ(ミッキーカーチス)が、コンシェルジュの松岡伸子(常盤貴子)とできてしまう。40歳ほども年が違う。常盤貴子は20年ほど前まではTVドラマに出ずっぱりで私のごひいき女優だった。近頃はNHKの鶴瓶の「家族に乾杯」で土地の名物を紹介する「家族に一杯」に声だけで出演していて、どうして顔を見せてくれないのか 私は不満だったのだが、「やすらぎの郷」では昔より若々しい。マロよりずっと若い彼女の父親(元高級官僚)が彼女たちに会いにくるがあきらめて帰る。

 先週は同じようなシチュエーションだが、作者たる菊村栄(石坂浩二)のところへ20歳の孫娘が、彼女の父親で栄の息子より若い52歳の男を連れて現れる。あわてまくる栄に、孫娘は、彼は既婚者で自分は妊娠3か月、離婚訴訟中で慰謝料が1500万円要るのという。相手の男はITコンサルタントで年収3500万円ほど。東京葛飾柴又生まれ。麻布高校、東大法学部卒。栄の作品が大好きでシナリオは全部持っている。「“男と女はそういうものです。動物だから仕方ないんです。”―これはおじいちゃんの名作“夜の海”の中で主人公が云った名セリフです」。そしてまた「“森巌の森”でおじいちゃんが書かれた名セリフ“所詮人間は、生まれて、喰って、クソして、アレやって、そうして結局最後は死んでく ”」。私にも大学2年の孫娘がいる。この娘がある日突然、52歳の男を連れて現れたらと思うと…。近頃は、政治家のダブル不倫や元歌手の女代議士の不倫騒動がワイドショーを占領する。「このハゲー」や政治資金詐欺はダメだが、女と男が愛し合うのは、それこそ「動物だから仕方ない」。政治家だからといって、ホテルで同室して「一線は越えていない」「男女関係はない」といっても通らない。もっと堂々としておればよいのにと日ごろは思っているのだが。あるいはLGBTなど性的少数者や性別を意識しない愛もあるようだが、どうも週刊誌的またはワイドショー番組的にはおもしろいらしく、それが政党の存在にまで影響してしまう。

 それにしても70年前の「四つの恋の物語」の、なんと清らかな愛だったことか。とくに第一話の「初恋」。脚本を書いているのが監督になる前の黒沢明、監督は豊田四郎。父親の転勤で女学生の久我美子が、知り合いの家に預けられ、そこの旧制高校生池辺良にほのかな愛を感じる。二人の間を危ぶむ高校生の母親の気持ちを察して女学生は母の形見のオルゴールを残して去っていく。久我美子は旧華族出身。あんなにかわいい女学生はもうどこにもいない。70年の時間の流れはなんという速さだろう。

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気楽な稼業ときたもんだ №64 [雑木林の四季]

よせばいいのに会社設立

          テレビ・プロデューサー  砂田 実

 僕は、昭和六〇年(一九八五)に渡辺プロを退社し、同年四月、テレビ制作会社を立ちあげた。社名は「創都」。赤坂から乃木坂に通じる道の途中にあるマンションの一室からのスタートである。その頃、日本経済の動向にはバブルの兆が見えはじめ、テレビはすでに熟覧期に入っていた。
 僕は制作会社の経営に不可欠なレギュラー番組枠の獲得について思案をめぐらした。だが、TBSには頼りたくない。元部下に頭を下げて頼み込むのも業腹ではあるし、相手も、「無視はできないし、さりとて他のプロダクションとのバランスを欠いても問題だし…⊥と困惑するに決まっている。
 業界動向をリサーチしながら、いろいろと試行錯誤のうちに、「電通制作」にしくはないとの結論に達した。「電通制作」とは、前述したが、局の編成制作を通さずに、電通仕切りで直接番組枠を獲得することをいう。おそらく他局では通用しない作業形態だったと思うし、TBSでもあの時代に限ってのことだったのかもしれない。早速、元同僚にアドバイスを求め、電通-TBSの現場を仕切っている小岐須という男を紹介してもらった。小岐須は、二枚目ではないが魅力があり、しっかりしていそうだが不良っ気を感じさせる男だった。小岐須との付き合いが深まるにつれて、「テレビ探偵団」(TBS)などのレギュラー番組が着実に増えていった。

  会社を立ちあげたばかりの頃、ある企画をTBSに持ち込んだ。
  上海の河口、いわゆる「バンド」と呼ばれる地域に、昭和初期に建てられた古いホテルが残されている。数々の歴史の物語に登場する「キャセイホテル」、現在の「和平飯店」である。そこの二階にあるバーラウンジには、文革時代も続いたジャズバンドが入っている。
  演奏しているのは、厳しい歴史をくぐり抜けてきたであろうに、それを感じさせない陽気なジャズ好きのジイさんたち。彼らが奏でる楽曲のレパートリーは懐かしいジャズのスタンダードナンバーだったり、どういうわけか「北国の春」だったりする。正直言って演奏は恐ろしく下手なのだが、文革を経た上海に、アメリカやヨーロッパや日本といった外国からやって来た人々は、ここに意外性を見たのだろうし、強いノスタルジーを感じただろう。
 一方、東京銀座にも、瀬川昌久さんという素敵に歳をとられたジャズ評論家が束ねておいでの「オールドボーイズ」がいて、それこそ日本の戦後ジャズの草分けとも言えるメンバーがそろっていた。一人ひとりがジャズの有名バンドマスターとして、あるいはスタープレーヤーとして、しっかりと日本のジャズ史に足跡を残した人たちばかりである。
 僕はこのメンバーを上海にお連れして、和平飯店のメンバーと合同演奏会を開き、その記録を番組にしたいと考えた。ノンフィクションの「地球浪漫」という単発枠、タイトルを「響け!我が永遠の上海JAZZ」に決め、ディレクターの選択にとりかかった。考えるまもなく実相寺昭雄の顔を思い浮かべた。実相寺昭雄が、酒場や会食の席で幼い頃に支那に暮らした日々のことをよく語っていたからだ。
 実相寺昭雄は、世間的には「ウルトラマン」シリーズの演出家として有名だろう。当初から映画監督志望だったが、テレビの草創期において、固定化されたテレビ番組のイメージにつねに挑みつづけた男でもあった。彼が作る映像は時に前衛的すぎたりシュールすぎたり。当初、TBSでは多くの理解者は得られなかったが、のちに円谷プロに才能を見出され、「ウルトラマン」シリーズで自由に発揮し、個性的な作品を次々と作り出していった。実相寺は「上海JAZZ」の話を二つ返事で引き受けてくれた。
 数々の歴史の物語を秘めた上海青年文化宮という、おそらく東京で言えば日比谷公会堂にあたるコンサートホールにて、日中オールドボーイズの共演となった。しかも、中国では戦後初めての外人演奏家の公演となる。本番当日、ホールには老若男女を問わず大勢の観客がつめかけた。新しいもの見たさの人々が大半だろう。なにしろ外国人プレーヤーのジャズ演奏を生で聞くのは、昔の上海を知っている八十歳以上の老人を除いては、みな初めてなのだから。
 実朝寺の映像の演出では、特定の数人の観客にターゲットをしぼり、プログラムの進行とともに変化していく彼らの表情をアップで随時挿入していった。バンドの音が出た瞬間と、二、三曲までは、中国人が珍しいものを眼にした時に発する「アイヤー!」というつぶやきとともに、眼をまん丸くして凝視している表情。しかし、曲が進行するにつれて表情が変化していく、自然な手拍子も徐々に力を増していった。ジミー原田のドラムソロやサービス精神あふれるパフォーマンスが、さらに彼らの表情を和ませ、体もリズムに乗って動き出した。
 やがて二時間のコンサートが終盤を迎え、アンコールに達すると、彼らの楽しげな眼に涙がにじんだ。楽屋に引きあげた双方の老ジャズマンたちは、互いに握手をくり返し抱きあった。大成功であった。この番組は、僕の中にも、楽しい大切な思い出として刻みこまれている。
 このツアーで実相寺の意外な一面を見る。帰国の朝、ホテルのレストランに、学生風の日本人女性がいた。せいぜい二十歳をすぎたかどうかの年齢に見える。一緒に食事しながら話を聞くと、一人旅であること(しかし、当時は中国への自由な個人旅行は許されていなかった)、「上海バンスキング」という芝居を見てとにかく上海に来たかったこと……などをポツリポツリと話した。
 それを聞き終えた実相寺は、いきなり娘に鋭い言葉を浴びせた。
「そんな馬鹿な旅行などするんじゃない。まだこの国で若い女の子の一人旅なんてとんでもない。すぐ帰れ!」
 彼女は多少ふてくされた顔で、一応実相寺にぴょこんと頭を下げ、レストランを後にした。
「あの馬鹿が。親の顔が見てぇ!」
 まさかあの実相寺にこんな一面があるとは思わなかった。

 僕が渡辺プロに移った頃、渡辺プロの社員が、「部長、ヤバイですよ。ここに載っている小説の主人公が某民放テレビから業界栗手のタレントプロの幹部に移籍した砂田実と書いてありますよ」とある週刊誌を持ってきた。その週刊誌を読むうちに、僕の表情はこわばった。なんとまったくのエロ小説で、手を変え品を変えのベッドシーンの連続である。その小説の作者は、なんと実相寺昭雄であった。
 僕はすぐに実相寺の会社に電話をした。
「どちら様ですか?」という秘書の問いに「好色の砂田と言ってください」「あのコウショクと申しますと……?」。どうやらどこかの会社名ととったらしい。不審げな声の女性が引っ込み、本人が出てきた。
「お前、上等だな!」
「すみません。あれは遊びですよ、遊び。メシおごります。アハハハハ」
 実相時昭雄とは、おもしろいがわけのわからぬ男であった。

『気楽な稼業ときたもんだ』 無双舎


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BS-TBS番組情報 №145 [雑木林の四季]

BS-TBS 2017年9月のおすすめ番組

                                                     BS-TBS広報宣伝部

芸道56年 男の歴史 北島三郎~伝承 そして感謝~

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2017年9月16日(土)よる6:30~8:54

☆歌手人生56年を迎える北島三郎が“感謝”の気持ちを込めて歌い、語る2時間半。

出演:北島三郎/福田こうへい、北山たけし、大江裕

歌手人生56年を迎える北島三郎が“感謝”の気持ちを込めて歌い、語る2時間半。北島とともに番組の脇を固めるのは、人気演歌歌手・福田こうへい、北山たけし、大江裕の3人。オープニングから北島による「北の大地」、4人そろっての「路遥か」、「演歌兄弟」と、熱のこもった歌唱をきかせてくれる。
股旅に扮して歌う「名月赤城山」、「勘太郎月夜唄」、「旅姿三人旅」などにあわせてユーモアあふれる軽妙なトークを繰り広げるのも見どころの一つ。
「北の漁場」、「兄弟仁義」といった“北島といえば”の名曲も続々登場!
最後は、だれもが知る北島の代名詞ともいえる「まつり」を4人で歌い上げる。

さかなクン大深海SP 地球最後の秘境のナゾ

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2017年9月17日(日)よる7:00~8:54

☆さかなクンが深海や深海生物の謎などに迫るスペシャル番組!

出演
さかなクン 東京海洋大学・客員准教授
奥谷喬司 東京水産大学(現・東京海洋大学)名誉教授 ほか

東京海洋大学客員准教授のさかなクンが、自分の人生を変えるきっかけとなった奥谷喬司・東京水産大学名誉教授と深海や深海生物の謎などに迫る2時間番組。深海生物やその進化の謎について、さかなクンと奥谷名誉教授がわかりやすく解説!
海外で撮影された奇抜な姿の深海魚の映像も盛りだくさん。地球にとって実は非常に大事な、深海の海流の存在とその役割についてわかりやすく解説。
深海調査で活躍している有人潜水調査船「しんかい6500」の秘密にも迫る!メインテナンス中の「しんかい6500」で、めったに見られない部分も紹介。
東京湾にある深海エリア・東京海底谷では、深海魚釣りに挑戦!およそ500メートルの深さから釣り上げたものとは?

森昌子が歌い継ぐ昭和の名曲スペシャル~美空ひばりとの知られざる絆と歌人生~

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2017年9月23日(土)よる7:00~8:54

☆アイドルとして…歌手として…森昌子が綴ってきた人生を懐かしの貴重映像とともにひも解く!

出演:森昌子

昨年デビュー45周年を迎えた森昌子。アイドルとしてデビューし、大人の歌手への成長を遂げたが、早々に引退。一人の女性として3人の子どもを育てたのち、再び歌手の道へ。現在は、昭和の名曲を未来へと歌い継ぐことをライフワークとして活動中。
そんな森昌子がデビュー45周年の記念に開催したコンサートを森昌子自らが解説!懐かしの貴重映像をちりばめながらのエピソード、さらには、師と仰ぐ歌謡界の女王・美空ひばりさんとの今だから話せる思い出などを明かす。
2017年4月におこなわれた45周年コンサート。まずは、このコンサートの様子を見ながら森昌子が自ら、裏話を披露。2部構成のコンサートの第1部はなんとコント!?8歳の小学生に扮した森昌子が縦横無尽に舞台を駈け回る。何故コントなのか?誰が考えているのか?お客さんの反応は?
そして、第2部は、「せんせい」、「越冬つばめ」、「哀しみ本線日本海」など自身のヒット曲はもちろん、愛してやまない美空ひばりさんの名曲「真赤な太陽」、「津軽のふるさと」、「愛燦燦」なども披露する歌パート。ひばりさんの曲への思い、感動のエピソードを語り尽くす。そして、ひばりさんとの思い出の場所を訪れ…。デビュー45周年を迎えた森昌子の過去、と今を浮き彫りにする2時間。


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私の葡萄酒遍歴 №50 [雑木林の四季]

ニュージーランドのワイン産地

             ワイン・グルマン  河野 昭

 北のノースランドから南のセントラル・オタゴまで、ニュージーランドの主なワイン産地は10カ所。NewZealand Winegrowersによると2004年調べのワイナリー数は463軒に上っている。家族経営のブティックワイナリーが多いため、輸出量は飛躍的に増えているものの生産量が世界の消費量に追いつけない。そのためワインの国というイメージは定着していないが、各地で作られるさまざまなワインが数多くの栄誉ある賞を受賞しており、世界的評価はきわめて高い。

 豊かな自然の恵みを受けて丁寧に醸造されたニュージーランド・ワインは、フルーティーで上品な味わいが特徴。その理由は、良質な土壌と気候にある。四方を海に囲まれた海洋性気候のニュージーランドは、1年の温度差が少ないわりに、1日のあいだに四季があるといわれるほど温度差がある。日中は日差しで暖かく、朝晩は海風で冷やされることが葡萄をじっくりと熟成させ甘みを増すのだ。また、ヨーロッパに比べてワイン作りの歴史が浅いため、伝統に縛られずに近代的な手法を取り入れてきたのも個性的なワインを作り上げた理由だろう。ワイン職人の真撃な努力と1人当たりの消費量が21本以上というワインを愛する国民が、ニュージーランドの良質なワインを世界中に認めさせた。

ここでは新世界ニュージーランドのワイン産地を10のエリアに分けてご紹介します。気候や地形が違うそのエリアでは、さまざまな良質の品種が栽培されています。

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◎北島
ノースランド/Northland
カイタイア、ケリケリ、ファンガレイなどの地域。国内で初めてブドウの木が植えられたエリア。
最も温暖なエリアとあって、カべルネ・ソーヴイニヨン、メルロ、シャルドネの3品種がほとんどを占めています。

オークランド/Auckland
クメウ、ヘンダーソン、マタカナ、クリーヴドン、ワイへキ島などの地域。
これらのエリアでは、カべルネ・ソーヴィニヨン、メルロ、シャルドネ、ソーヴィニヨン・ブラン、セミヨン、カべルネ・フランなどが栽培されています。
ニュージーランド国内の大手ワインメーカー、ワイナリーが点在しているのが特徴です。このエリアではボルドースタイルの赤ワインも造られています。西オークランド地区ではギズボーン、ホークス・ベイ、マールボロからぶどうを購入、醸造しているワイナリーもあります。

ワイカト&ベイ・オブ・プレンティ/Waikato&Bay of Plenty
ハミルトン、オハウポ、タウランガなどの地域。
最近のワインブームにより、空いた小さな土地にブドウを植えるワイナリーが増えています。シャルドネ、カベルネ・ソーヴィニヨン、ソーヴイニヨン・ブランがこれらのエリアでの3大品種です。他の地方に比べ湿度が高いエリアでもあります。
ワイカトではシャルドネ、ソーヴィニヨン・ブランの辛口タイプや貴腐ワインも造られています。ベイ・オブ・プレンティではギズボーン、ホークス・ベイのぶどうを加えてワインを造ることもあります。(この項つづく)


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ロワール紀行 №61 [雑木林の四季]

月の夜のヴィランドリィ城館 2

           スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎

 満月。星が無数に燦めく。星屑(スタア・ダスト)も。
 月がシャトオの濠に揺れる。周りの森は黒々と静まり、音一つ聞えない。静かな、静かすぎる初夏の夜。白いスワンが音もなく濠に動き、蛙の声が流れる。

 歩くわれわれの足音に、その声が止む。
 そのあとの寂とした静けさ、木の葉が、そよとも揺がない。その寂寂(せきじゃく)を破ってボンと池に跳びこむ、蛙の音がする。また二つ。
 ヴィランドリィの最初の城は、十二世紀に築かれ、クゥロオムピエールという名で呼ばれた戦闘用の城塞であった。
 フランス王フィリッペ二世とイングランド王リチャアド獅子心王が、一一八九年、平和条約を結んだ所として名高い。
 その後、城塞を取り壊し、フランソワ二世の国務大臣、ジャン・ル・プレトンが一五三二年に、今日、建っているルネッサンス風の城館を作ったという。
 十八世紀に、キヤステファン公爵の所有となってから、有名な造園家ドゥ・セルソオが十五世紀にレイ・アウトしたルネッサンス風の庭園をとり壊し、今日見るような、ゴシック風に改造したという。
 十九世紀になり、カルヴアロ父子二代に亘り、シャトオや庭の模様を替え、主館の傍まで濠を伸ばしたのも、その頃だという。彼等はヴニラクェズやグレコ、ゴヤなどの絵で館を飾った。夜間のため、館の内部に入れず、残念乍ら、その絵を見ることは出来なかった。
 このシャトオは、館よりも庭園の美で有名である。ルネッサンス風城館に配した、ゴシック式庭園の対照の妙。城壁に近い高庭から、池畔の低庭まで上・中・下の三つの庭園を、サラセン風の倚欄や階段でつないだ造園の斬新さ。その庭の形は、色々の「愛」を象徴化したものという。怪奇ともいうべき幾何学的な線でレイ・アウトされたこの庭園は、今日、完全な姿でヨォロッパに残る、唯一のゴシック式庭園として名高い。プゥドル犬のように、刈り込んだ黄楊(つげ)の様々な形は、人工の極致とでもいうべき面白さである。これが西欧風の盆栽であろうか。

 今夜、私が恍惚と聞き、眺めている夜城の音と光の美しさ。
 一九五一年、時のアンドル・エ・ロワール県知事が、夜のシャトオの美しさを惜しみ、夏になると、ロワール城の二、三に夜間照明をつけて、その昼にもまさる美しさを宣伝した。
 すると更らに、この地方に住む建築史家ロベール・ウーダンの提唱で、効果を一層美しく強調することになったという。
 夜のシャトオを舞台として済ぜられる、「音と光(ソン・エ・ルミエール)」と呼ぶ、古典劇の朗読は一九五六年夏から始められた。
 一流の脚本家と作曲家に依頼して、それぞれの城に因む寸劇の台本を作り、それに音楽を加えて、コメディ・フランセェーズの男、女優が朗読したものを、テープに吹き込んだという。
 トゥーレェヌとプレゾワ地方の代表的な六つの坊、シャンボール、シュノォンソオ、ヴィランドリィ、アゼィ・ル・リィドオ、プロワ、アムボワーズ、ブリィサックで五月から八月まで、夜になると「音と光」を駆使した夢のような、中世の夜を再現し、旅情を慰める。
 現在では、それを含めて十二のシャトオで演ぜられている。
 私はこのヴィランドリィの夜のシャトオで、その「音と光」を見聞したわけである。
 ヴィランドリィの場合、台詞はアンドレ・カストロ、音楽は1・W・ガレが担当したという。この「音と光」はロワールを嚆矢として、ヴェルサイユやフォンテェヌブロオ、さてはリビエラのカンヌ沖に浮ぶ、巌窟王で有名なサント・マルグリット島のシャトオでも盛んにやっていた。
 昼のアドミッションは一二五フラン、夜は一五〇フラン。古城を夜も遊ばせずに稼ぐ。フランスの観光政策。その詩情溢るる、商魂の逞しさに感心する。
 イタリアでは、ロォマ、ヴェニス、フィレンツェのいずれでも、これほど企画が進んでおらず、あの名所古跡の夜を遊ばせているのは、まことに勿体ない気がした。
 例えば、月明の夜、フォロ・ロマーノの古跡で、ローマ帝国華やかなりし頃の、皇帝や英雄の故事。さてはローマ郊外、アッピア街道あたりで、凱旋するローマ軍団の戦車(チャリオット)の音でも、テープに流してやったらと思った。
 ローマ市内に無数にある、噴水や史頃も同じである。

 スピィカァから流れるドラマの朗読も、終りに近づいたらしい。
 鳴り響く多くの鐘の音。その交錯した強い鐘の音。
 最初の若い女の、美しい声で ー

 Nuit du Chateau Villandry! Jardin de la France!
 ヌイ・ヂュ・シャトオ・ヴィランドリイ ジヤルダン・ド・ラ・フランス
 Nuit du Villandry! La nuit! nuit! nuit!  
 ヌイ・ヂュ・ヴィランドリイ ラ・ヌイ ヌイ ヌイ

 シャトオ,ヴィランドリィの夜! フランスの庭! ヴィランドリィの夜! 夜! 夜! 夜!……と、静かに美しい声が消えてゆく。またしても、弱く鐘の音が流れる。
 その印象的な声、言葉、音楽、鐘の音。
 身、中世ヴィランドリィのシャトオにある心地。その情緒に浸りながら、私は静かな月の夜の、ヴィランドリィの庭を歩いていた。
 月はまた雲から出て、皎胶(こうこう)とシャトオを照らす。
 何に驚いたのか、近くの森から、黒い鳥が二羽、けたたましく羽掃(はばた)き、飛び立っていった。
 中世フランスの夜が、深く胸に迫る夜である。

『ロワール紀行』 経済往来社



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医史跡を巡る旅 №28 [雑木林の四季]

「紀行シリーズ」~西洋医学事始め・鹿児島篇

              保健衛生監視員  小川 優

江戸時代を終わらせ、明治の代を始めるにあたり、鹿児島、当時の薩摩藩が立役者であったことは間違いありません。幕末には積極的に西洋文明を取り入れ、近代化をはかった薩摩には、西洋医学にまつわる史跡が数多くあります。

「医学院跡」
医学院は安永3年(1774年)、薩摩第25代藩主島津重豪(幕末の名君といわれる成彬の曽祖父。隠居してからも長命で、後に80歳の時に斉彬とともにシーボルトに謁見を許している)によって創設された、漢方の医学教育・研究施設です。武士階級だけではなく町人にも聴講を認め、広く知識の普及を図りました。重豪は医学院だけでなく、のちに薬草園も設置し、藩内の医学の振興と充実に力を入れました。
重豪はこのほかにも藩校として造子館(朱子学)、演武館(武術)、明時館(のちの「天文館」、天文学)などを設立しており、幕末の鹿児島における知識・技術・武術の、振興・普及・向上に尽力した点で評価されているようです。

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「醫學院跡」石碑~鹿児島市山下町 中央公園
24②醫學院跡プレート.JPG
「醫學院跡」石碑説明プレート
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「医学院跡」石碑~鹿児島市山下町 中央公園
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「医学院跡」石碑説明プレート

石碑は、繁華街の天文館も近い中央公園から国道225号線を挟んで、東千石町側の歩道上に大正12年に設立された石柱状の「醫學院跡」、中央公園内に平成17年になって設置されたモニュメント風の「医学院跡」の二箇所があります。実際の医学院は古い石碑、「醫學院跡」に近いところにあったようです。この「醫學院跡」の碑、かつては半分植栽に埋もれ、肝心の部分が読めない状態でした。

どちらの碑の説明板にも「江戸の医学館を模範として「学規八略」を定め…」の一文がありますが、医学館前身の躋寿館(将軍奥医師多紀元孝が1765年に設立)が医学館と名を変え幕府所管となったのは寛政3年(1791年)で、つまり医学院設立時に医学館はなかったわけです。おそらく「躋寿館(のちの医学館)」と記すべきところを、簡単に省略してしまったのではないかと思われます。

「赤倉の跡」
明治元年(1868年)、薩摩藩は西洋医学を取り入れた医学校と、付属の病院を、現在の南洲公園に設立します。この学校は後に市内小川町に移り、赤レンガ造りの外観から「赤倉」と呼ばれるようになりました。医学館の校長兼病院長として、生麦事件の被害者リチャードソンの検視、戊辰戦争における野戦病院としての軍陣病院の設置などで知られる英国人医師ウイリアム・ウイリスが、軍陣病院で西郷隆盛の弟、西郷従道を治療した縁もあってか招聘され、1869年12月に着任します。新政府はその後、帝国大学医学部を中心としてドイツ式医学一辺倒となりますが、この医学校では主にイギリス式医学を教え、高木兼寛など優れた医師を輩出します。こうして地方における医学教育の雄として名を馳せますが、惜しくも勃発した西南戦争により、1877年、その短い歴史を閉じます。しかしその命脈は連綿と県立鹿児島医学校、県立鹿児島大学医学部、そして鹿児島大学医学部に繋がってゆきます。

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「赤倉の跡」石碑~鹿児島市小川町

石碑は鹿児島駅に近い市電桜島桟橋通電停のある交差点の、南西側の角にあります。小さいながらもなかなか風格のある石碑ですが、詳しい説明版もなにもなく、少し寂しい状態です。

「ウイリス、高木に西洋医学を説く」
海軍における脚気病撲滅で有名な高木兼寛は、明治3年(1869年)から明治5年に上京するまで、ここ鹿児島医学校でウイリスに学び、また治療にもあたります。二人の交流を描いたオブジュがかごしま県民交流センターに設置されています。

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「ウイリス、高木に西洋医学を説く」~鹿児島市山下町 かごしま県民交流センター

「英國大醫ウヰリアム・ウヰリス頌徳記念碑」
「赤倉の跡」で触れたとおり、ウイリアム・ウイリスは鹿児島の西洋医学教育の大恩人といえるでしょう。ウイリスが日本を離れた後の明治26年、かつての教え子が中心となって鹿児島市城山に頌徳記念碑が建てられました。碑の除幕式には高木兼寛も参列したようです。その後この碑は昭和29年に元県立病院跡地へ移転、次に昭和49年に鹿児島大学医学部および付属病院の移転に伴い鹿児島市桜ヶ丘に移設され、さらに平成9年、鹿児島大学医学部創立50周年記念事業として鶴陵会館の落成にあたり、この中庭に据えられました。

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「英國大醫ウヰリアム・ウヰリス頌徳記念碑」~鹿児島市桜ケ丘 鹿児島大学医学部

非常に管理が行き届いて良い状態ですが、会館の中に入らなければ見ることができず、郷土の恩人の遺徳を偲ぶよすがとしては、もっと万人の触れやすいところに設置したほうが良いのではと、老婆心ながら思ってしまいます。なおこの鶴陵会館には、ウイリスを記念して大ホールにその名を関しており、入り口に氏のレリーフも設置されています。

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「ウイリアム・ウイリス ホール レリーフ」~鹿児島市桜ケ丘 鹿児島大学医学部

「鹿児島大学医学部付属病院跡記念碑」
医学校が発展した県立鹿児島医学校と附属病院は西南戦争後の明治15年、南洲私学校跡に移転します。その後医学校は一旦廃止されますが、付属病院だけは所管が民営、市営、県営と変わりながらも存続します。しばらく県立鹿児島病院として運営された後に、昭和18年に県立鹿児島医学専門学校附属病院に戻り、さらに昭和33年には病院が国立移管され、鹿児島大学医学部附属病院となります。こうした幾多の変遷を経ながらも、この由緒ある地を離れることはなかったのですが、昭和49年には医学部移転に伴い、鹿児島市宇宿町にとうとう移ることとなります(現在地名は鹿児島市桜ヶ丘)。移転した跡にはいま、国立病院機構鹿児島医療センターがあります。

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「鹿児島大学医学部付属病院跡記念碑」~鹿児島市城山町

私学校当時からの門(入り口としての機能は閉鎖されている)、石塀は今も残されており、史跡となっています。記念碑はこの門の閉鎖された壁に設置されていますので、正面に立ってみないとその存在に気付きません。一方私学校は西南戦争末期の市街戦における激戦地のひとつであり、その石塀には今も数多の弾痕が残されています。


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いつか空が晴れる №19 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
    ―High noon―
                                                            渋沢京子

九月は台風のシーズン。那覇から東京に向かう船が欠航して足止めになり、こちらは新学期にはまだ間のある、お気楽な学生の身分。一週間ほど琉球大学の寮に泊めてもらったことがあった。確かその頃、学生証を見せると、各地方にある国立二期校は、気軽に空いている寮の部屋に泊めてくれた。

出窓のついた洋館の広い一部屋を一人で占領して、毎日、首里や那覇の街を見物して歩いた。国際通りの屋台でソーキソバやゴーヤチャンプルで食事をとり、琉球大学の寮に戻るには、首里の石畳の急な坂を、息を切らして上っていかなくてはならない。後ろを振り返ると、家並の向こうに沖縄の青い海が見えた。
夜になると寮に残っている琉球大学の学生が宴会に誘ってくれた。話題はやはり米軍基地の事が多かった。彼らと話をしているうちに、米軍基地に対する考え方が、本土の私たちとは全然違うことに気が付いた。彼らにとっては切実な問題なのだ。

ある日、私は那覇からバスを乗り継いで米軍基地の近くに向かった。ガイドブックで、米軍が放出したレコードばかりおいてある通りがあることを知り、いいジャズのレコードがあるかもしれないと思ったのだ。

バス停から坂を上り、ようやくその通りを見つけた。真昼だった。通りはしんとして人っ子一人姿が見えなかった。ガイドブックにあるように、通りの両側は中古のレコード屋が並び、大概の店は閉まっているか、店の中が暗くてなかなか入る勇気はなかった。

店のショーウィンドウ越しに飾ってあるレコードを見ていたとき、突然視界が暗くなった。
気が付くと、4,5人の米兵に囲まれているのである。私のすぐ横に立っていた米兵の暗い目付きに、浮かびかけた微笑みも凍りついた。
こちらは無防備な短パン姿。咄嗟に私は走って逃げた、夢中になって坂を下り、細い路地を走りぬけ、ようやく人通りのある場所に来ても、暫く心臓の動悸はなかなか止まらなかった。

沖縄の米軍によるレイプ事件や殺人事件。新聞に出るのはおそらく氷山の一角なのだ、実際はどれだけ泣き寝入りした沖縄の少女たちがいただろうか?

そしてそういったことに関して、本土に住む私たちはどれだけ鈍感になっているのだろうか?


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地球千鳥足 №106 [雑木林の四季]

国民、牛、犬、蠅まで総幸福の国で松茸たらふく頂いた! ~ブータン王国~  

    グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子

管理された観光だった!
パロ空港につくと「こんにちは!」とガイドのキンレさんが迎えてくれたのでこちらも「クザンポー(今日は!)」。彼は英語も日本語も話した。この国では勝手にバックパックの旅は出来ない。個人で行ってもガイド付きのハイヤーで既定の場所を案内してもらうだけだ。伝統的なチベット文化を守り将来に伝える王家中心の保守的国家で、管理された観光を体験するのがブータンの旅だ。すぐに首都ティンプーへ向かい、市のど真ん中にあるガリンカ・ホテルにチェックイン後、政治の中心を担うタシチョ・ゾンと第三代国王を記念したメモリアル・チョルテンを訪問。山々の斜面に立つゾンという美しい建物は城塞、政府出張所兼僧院というが、大変存在感がある異文化建築だ。ゾンの近くには集落があり集落を結ぶ道路は舗装されて運転に支障はないがその道路に牛や犬が歩き回り、ぶつからないよう車は注意して進む。人、車、動物、昆虫まで麗しく共生する社会だ。ヒマラヤの碧空に映えて聳え立つメモリアル・チョルテンは3代国王を記念して2代目王妃の発願で建立された仏塔形式の寺院でマニ・ラコルという円柱を回して参拝したが、観光客は行程が同じで、行く所、入る食堂どこでも「また会いましたね!」。

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メモリアル・チョルテン

ブータンの食事は蠅を追いながら 
国民聡幸せは良いが食べ物はどこに行っても同じだ。レストランではお皿に蠅が集まって来るので手で追いながらの食事、ブータン仏教は生き物への殺生はご法度なのだ。道端の物売りから大発見した太くて堅めの松茸を4本500円で買ったらレストランでガイドが焼いてくれた。香りは少ないが歯応え充分、嬉しい体験だった。トウモロコシも焼いて売っており、日本と同じ100円、モチモチして美味だった。

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500円で買い、焼いてもらって食べた松茸

首都も国中も工事中だらけ! 
初日は早めにガイドと別れ首都ティンプー市内を散策したが商店街はほんの一区画、スーパーはまだ見かけない。中心に交番のボックス、手信号の警察官がいる。信号機は皆無だが小規模ロータリーが数多くある。増改築のための工事中が多いが労働力は国民は高いのでインドからとか。大発展途上だ。教育は英語で行われ皆英語を話す。宿泊したガリンカ・ホテルは交番のボックスを見下ろす10字路交差点にあり眺望最高!警察官は8時過ぎ登場、近くの道路上に10匹以上の野犬が寝そべっているが車は犬の間をゆっくり走る。

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民族衣装を着せてもらった
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ワンちゃんたちが寝そべるティンプー市内

段々畑が美しいアルプスの谷に虹 
かつての「冬の都」プナカゾンへ。2つの川の合流点に建ち、玄関の橋には風情のある装飾がなされ、宗教文明の香りで圧倒される。牛の身体に山羊の頭のタッキンという国獣を見て、焼き石で水を暖める民家の木製風呂、ドツォも体験、民族衣装も着せてもらった。僧院建築は窓周辺の装飾が美しく豪華、広い中庭を囲んで正面に本堂があり、本堂には釈迦本尊が祭られ風格がある。パロとティンプー間、3150mのドチュ・ラ峠からの見晴らしは最高。段々畑が美しい緑の谷にかかった虹、忘れない。

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緑の山あいを車で走り回った
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窓の装飾が美しいゾンの正面

人も車ものんびりの国、国の経済を支えるのは水力発電という。観光客は世界中から来るが先ず大自然の美しさ、固有の文化、GNH(国民総幸せの国)に魅かれてだろう。アルプスの少女が真ん中で遊んでいそうな、なだらかな緑の丘を越えて毎日案内してくれた知識豊富なガイド、キンレさん、有難う!(アメリカ、Angle Press. Inc発行、Weekly Jangle第269回、「国民、犬、蠅まで総幸福の国で松茸たらふく頂いた!~ブータン王国~」に修正を加えたもの)


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私の中の一期一会 №150 [雑木林の四季]

    不調の阪神・藤浪晋太郎投手にイップス疑惑?・藤浪の“苦悩”を考えてみた。
    ~北のミサイルが日本上空を通過、Jアラートで避難対策の杜撰さが分かる~

         アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 北朝鮮が事前の通告もなしにミサイル発射したことで29日は、早朝から大騒ぎになった。
 ミサイルは北海道の渡島半島や襟裳岬の上空を通過し,約14分間飛行して襟裳岬の東1180キロの太平洋上に落下した。
 安倍首相は「これまでにない深刻かつ重大な脅威だ」と記者団に語り、「政府はミサイルの発射直後から、ミサイルの動きを完全に把握しており、万全の態勢をとってきた」と危機感を表した。
 政府はミサイルの上空通過に備え、直ちに北海道や東北など12の道や県に“Jアラート”(全国瞬時警報システム)で避難を呼び掛けたのである。
 NHK総合も8時からのテレビ小説「ひよっこ」を飛ばして、ミサイル報道に当てるなど大忙しの様相であった。
 Jアラートが鳴った12道県の住民からは「逃げろといわれても、何処に逃げていいのか分からない」というような問い合わせが、各自治体に多く寄せられたと新聞は伝えている。
 安倍首相が言う万全の態勢とはミサイルを撃ち落とす態勢のことであって、ミサイルから身を護る対策は含まれていないのではないか。記事を読みながら、そんな気がしたのは私だけではないだろうなと思った。
 内閣官房の国民保護ポータルサイト「弾道ミサイル落下時の行動について」には、“速やかな避難行動”とか“正確かつ迅速な情報収集”と書かれているという。
   1)アラートが鳴ったら出来る限り頑丈な建物や地下に避難する。2)物陰に身を隠すか地面に伏せて頭部を守る。3)窓から離れるか、窓のない部屋に移動する。・・戦争当時を思い出した人も多いだろう。
 北海道のえりも町は、町の中心部に地下に避難出来るような頑丈な建物などない。ましてやシェルターのある一般家庭など日本中にあるとは思えない。
 ミサイルからの具体的な避難場所を明示できる自治体なんて、何処にも存在しないのではないか。
 私はたまたま小野寺防衛相が「ミサイルはロフテッドで発射された・・」などと記者団に説明しているシーンをテレビで見たことがあるが、咄嗟に思ったことは“ロフテッドって何?”であった。
   要するに“ロフテッド”などという専門用語をそのまま使われても、一般人にはチンプンカンプンでしかないのだ。
 政府は29日、Jアラートを通じて12道県の617市町村にミサイル情報を伝えたようだが、7道県16市町村で情報伝達にトラブルがあったという。
 旭川市のケーブルテレビで情報を伝える“文字放送が流れなかった”。青森県鶴田町では誤って“訓練用のメールを送信”してしまった。防災無線の“音声が流れなかった”というように・・・
 首相が「これまでにない深刻かつ重大な脅威だ」という割には、自治体の対応が杜撰極まりないのだ。
 「避難行動をしろ」と言われても、〇「何処に逃げていいのか分からない」〇「隠れる所がなく、ただオロオロするばかりだった」〇「電車の中でどうしようもなかった」〇「寝たきりの親を短時間で移動させるのは難しい」・・など困惑した人達の声ばかりが溢れたことも確かだ。
 発射から10分程度でミサイルが飛来すると推定された青森県の防災管理課長は「想定される危険について国がもう少し具体的に周知してくれないと、自治体は情報を発信しづらい」という実務体験からの指摘は一考に値すると私は思う。
 本当にミサイルを撃ち込まれたら、政府のいう現行の避難行動では国民の命を守りきれないことだけは確かであろう・・・
 8月16日、京セラドームで行われた広島との試合に,約2カ月半ぶりに先発した阪神の藤浪晋太郎投手にイップス疑惑が囁かれている。阪神ファンの私には気懸りな疑惑だ。
 イップスとは、精神的なことが原因でスポーツの動作に支障をきたし、自分の思い通りのプレーが出来なくなる「運動障害」だと考えるのが一般的である。 
 1930年前後にアメリカで活躍したプロゴルファーのトミー・アーマーは、今までスムーズに出来ていた短いパットを突然ミスするようになった。最初は単なる「パット恐怖症」と思われたが、症状はひどくなる一方で、やがてトーナメントからの撤退を余儀なくされるまでになった。 
 当時のゴルファーの間でも、この「パット恐怖症」は誰にもあることで悩みのタネだったが、イップスという表現はまだなかった。
 後年トミー・アーマーが出版した著書「ABCゴルフ」の中で、パットをミスして“ひゃあ”とか“きやあ”と口から出る声をYIPS(うめき声」と名付けたため、「イップス」という言葉が広く知られるようになったといわれている。
 最初、イップスという表現はゴルフの分野で用いられるのが一般的だったが、最近ではテニス、野球、サッカーをはじめ、あらゆるスポーツで使われるようになっている。 
 藤浪晋太郎は8月16日、京セラドームの広島戦に2カ月半ぶりに先発登板した。
 4回2/3イニングで107球を投げ、被安打7、失点3でKOされたが、目立ったのは“与四死球7”であった。
 2回に、大瀬良大地投手の左肩にすっぽ抜けた直球が直撃した。大瀬良はその場にうずくまった。
 4回にも菊池涼介の左肩にすっぽ抜けた変化球を当てている。この時は両軍がホームベース付近に集まり球場は騒然となった。
 この日も藤浪の制球難は改善されなかったが、与えた7つの四死球は“全て右打者”に対してのものであった。
 J-CASTニュースのデータによると、この日右打者への投球が「ボール」と判定された割合は52.7%(55球のうち29球がボール)であり、左打者へのボール率は30.7%(52球のうちボールは16球)だった。
 データで見る限り、藤浪は右打者を相手にすると急に制球を乱すことが分かる。
 藤浪は、もともとコントロールのいい投手ではないが、問題は年々四球や死球の数が増えていることだ。
 一つのデータを見つけた。
                        打者数    与四球      与死球
        2013年  563     44        2
            14    704     64(3位)     11(2位)
            15    840     82(1位)     11(1位)
            16    734     70(1位)     8(2位)
     17    183     33         3
                                       (5.5人に1個) (61人に1個)
          (17・5・27現在だから、広島戦の7四死球などは含まれていない)
 2年目から制球難に苦しんできたことが分かるデータだ。与四球の多さは困ったものだが、問題は“死球の多さ”にある。
 この中には15年に広島・黒田博樹投手の顔付近に、あわや死球というボールを2球続けて黒田を激怒させた。今年4月には、ヤクルトの畠山和洋の顔面にぶつけて乱闘になったものも忘れられない出来事だ。
 年々ひどくなる制球の乱れは、単なる“荒れ球”として片づけられない深刻さ秘めているのだ。
 過去のデッドボール禍がトラウマになって、右打者への投球をコントロールできなくなったとなれば、“イップス”の疑いが囁かれても仕方がないだろう。
 27日の巨人戦は、6回まで無失点の投球を続けていたが、7回一死から死球を与えて崩れ,タイムリーや暴投、四球などで失点し、途中降板となった。
 金本監督は「5、6回まではほぼ完璧でしたね。次もありますよ」と試合を作ったことは評価していた。
 素質はピカイチなのに、年々制球が悪くなるのは技術的に欠陥があるというより“心の問題”なのではないかという指摘は無視できないのではないと私は思っている。
 右打者に「当ててはいけない」という緊張感で、いつものように腕が振れない。意図したところにボールを投げられない。練習ではちゃんと投げられるのに、試合になると身体が意図したように動かずストライクは入らないとなれば、選手生命にも関わる大問題になる。イップスは恐ろしい心の病なのだ。
 藤浪晋太郎がイップスでないことを切に願うのみだ。
 次回投板は9月3日の中日戦と聞いている。復活の自信を取り戻せるように頑張って欲しい。   

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浜田山通信 №200 [雑木林の四季]

「やすらぎの郷」と「四つの恋の物語』③

              ジャーナリスト  野村勝美

 8月29日、北朝鮮のミサイルが日本上空をとんで襟裳岬の東1180キロの地点に落ちたというので日本中大騒ぎになった。私は8時すぎに甥のメールで起こされたので、Jアラートが鳴ったり鳴らなかったところがあったとか起き上がってTVをつけるまで何も知らなった。Jアラートで人々を脅かしておいて、実際になにができるのか、北海道の上空通過2分前にサイレンがなっても、何もできないし、たとえ頑丈な建物に逃げ込めたとしても、もし核ミサイル攻撃だったならどうすることもキャンノット、はいそれまでーよ。そんなことはヒロシマ、ナガサキと2発の原爆を落とされた日本国民は百も承知のはずで、Jアラートやらで空襲警報のようなものを鳴らすなんて茶番としかいえない。そしてこのことを評論家とかコメンテーターとか称する連中は誰一人何も言わない。

 だいたい北朝鮮問題は元をたどれば、近くは朝鮮戦争、戦前に逆のぼれば、8月29日が記念日だった韓国併合にいきつく。朝鮮半島を植民地にしたから戦後、ソ連、米国に占領され、南北分断された。すぐスターリンの支持を得た金日成が南に侵攻し、マッカーサーが反撃、北は鴨緑江まで追い詰められた。ここで毛沢東が義勇軍を派遣し、追い返し、ようやく休戦協定が結ばれる。この間わが日本国は膨大な大特需の恩恵をもらい、敗戦で餓死者も出すほどの惨状から復興できた。

 戦争はもうかる。実際に戦争になったなら現代では勝者も敗者もないだろうが、戦争になるかもしれないというのは、軍需産業にはよだれがでるくらいありがたいものだ。日本は衝突ばかりしているイージス艦や故障続きのオスプレイ、パトリオット誘導弾、SM3を買わされ、沖縄本島は完全基地化される。日本でも土建屋や軍需産業の下請け業者がにこにこして待っている。

 メディアもいっしょになってタイコを叩く故、「日本はアメリカさんが守ってくれるのだからオスプレイが内地の基地に配置されても仕方ないでしょう」なんていう視聴者の声がマイクにのる。

 「やすらぎの郷」と「四つの恋の物語」のことを書くつもりでいたのに、老人の楽しみをミサイル合戦が奪っていく。「やすらぎの郷」はこの作品の最大のヒロイン“姫”(八千草薫)の死が近づき、“姫”を愛し続けた「やすらぎの郷」の創始者で昔の政界から芸能界の大ボスだった加納英吉(織本順男)が姿を現す。一シーン、一シーン、死の近い老人には涙なしには見られない。コラムニスト亀和田武が「“やすらぎの郷”は世紀の問題作だ」と書いていたけれど、同時代を生きてきた人間にはこたえられない楽しさ、おもしろさもある。中央棟にはカサブランカというバーがある。ハッピーちゃんというバーテンダーがかわいい。石坂浩二がラスティ・ペンというカクテルを頼む。ハッピーちゃんが「ラスティネイルの変形ですね。錆びた釘っていう意味で、ハンフリー・ボガードが愛したカクテルです」という。カサブランカ、ハンフリー・ボガードとくれば。イングリッド・バーグマン。私はもう無条件降伏だ。


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パリ・くらしと彩りの手帖 №126 [雑木林の四季]

「夏も終わりぬ、だが道はすき、宿安く、堪えられない9月のヴァカンスは出番」

                     在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ

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今回この街の観光局のお世話で、この街の写真家でこの街の写真に凝り固まった挙句、飛行機まで操縦するようになって、街の航空写真までとるようになったというJean Louis Zimmermannジャン・ルイ・ジンメルマンさんの作品を貸していただくことができた。

 今年もオランジュに7月と8月の2回行ったから、汽車には全部で12時間乗ったわけだ。こうしてオペラを二つ見てくる。あの古代劇場で見ると、私には全てがいいのだ。どんなプログラムでも、素晴らしく見え、素晴らしく聞こえてくるのだ。古代人のやった事は、とにかくすごい、2千年近くも経っているというのに、三十年通っていても飽きない。何しろ1万人入る劇場だから、それなりにポピュラーなプログラムを選ぶことになる。あの劇場で前衛的なものをやったりしたら、呆れられてしまうかもしれない。今の前衛的な作品が後世になって、演奏時の当たり前のものになっていたら、どうだろう。いや、やっぱり、あの、今から100年とか200年前の、あのイタリアが得意だったものだったら後世でも今と同じ価値が感じられるものだろうか。等々色々考えてしまうのだ。パリのオペラでも、時々現代作曲家に依頼してやっているのだが、そうなると、まずは座席が全部埋まるなどという現象は見られないのが常である。それで、まずは観客というものを教育する手段として、そのオペラをほんの1、2回公開してとったヴィデオを町の映画館に無料で提供し、映画館は普通の映画の料金を取る。この方式で、一般のお客さんや子供達にオペラを味わってもらう。こうして気長にオペラファンを作ろうという方式なのだ。これはパリのような都会では一応の成果を上げる事だろう。でもオランジュにオペラを見に来るのはフランスの全国からと、オペラ好きの外国人が主だから、そんな教育をしてもあまり効果はないに決まっている。今年からオランジュの新しいディレクターはモンテカルロから来ているが、安い方の席を一層安くして子供達でも簡単に入れるようにすると決めた。高い席は高いことが幸せな人たちのために手をつけないという。いい考えだ。ただ、長年連れ添ってきた銀行がこれから同伴できないと言ってきたとかで、色々と深刻な悩みが起きているらしい。まあ、このような不安は常につきまとっているのだから、なんとか今回も突破できるのではないだろうか、等と無責任なことを言ってはしかられそうだが。1年前からこのオランジュのコレジーのデイレクターになったジャン・ルイ・グリンダはモナコのオペラ座の責任者でもあり、また演出家としても活躍している人だが、オランジュはまた特殊だから、その運営はなかなかの難しい役だろう。しかも、フランス中の音楽や演劇のフェスチヴァルなどがこのところ経済的に非常にきついと、叫びを上げている時も時、より多くの人たちが来られるようにと切符代を低く抑えたのだ。良い席の常連に向けては勿論そのままだが、そういう観客に向けては、より一層高くしたほうが商業的には良いのかもしれないが。う。それよりもいくつもの善意で毎年実現しているここのオペラがなくなってしまう事も有りうるから、良い考えのある方は是非是非積極的に連絡していただければありがたいのだが。今回の痛手は大きな支えのひとつであったフランスの大手の銀行が手を引いた事から未来が危ぶまれる状態になったもので、考えると私までが恐ろしくなるものせいだ。

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主役アイーダのエレナ・オッコナー
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ラダメス護衛官
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 アイーダももちろん7月のオペラ、リゴレットと同様に、イタリアの作曲家、ジュゼッペ・ヴェルデイの作曲、1871年に、エジプトのカイロで初演となった。古代のエジプトとエチオピアのあらそい、エチオピアの王女のアイーダと、エジプトの王女アムネリスと武将のラダメスとの恋の三角関係がこの作品の骨子になっている。さらにそこに絡めた戦争や嫉妬がその美しい音楽をさらに印象深いものとしている。アイーダ役に待たれていたソプラノ歌手が出演不可能となったために、急遽アメリカの新人歌手、エレナ・オッコナーが起用された。アメリカでデビューしたばかりの新人で、オペラは初めてだったがオランジュのアイーダに立派な足跡を残した。音楽はフランス国立放送の、ナショナル・オーケストラの伴奏でいつものように、7月のオペラと同様に、数日後に全国にこのオペラが放送された。来年も再来年もオランジュからのお便りをしたいものです。いい風が吹いてきますように。

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オランジュの凱旋門
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アンチック劇場(街の中の道からみる風景)円形劇場に入ると石の石が円形に並ぶ。中からの舞台はこれ。

オランジュは南フランスの街で、海は見えないけれど、コート−ダジュールと言えるそうだ。アヴィニョンは汽車で15分。面積74.2km。人口30000、ヴォークリューズという県の中にある。rローマ全盛の時代にもう知られていた街。リヨンにも近い。是非早くおいでください、オペラがオランジュの古代劇場で続くうちに。






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気楽な稼業ときたもんだ №64 [雑木林の四季]

  シンさんのティオペペ

         テレビ・プロヂューサー  砂田 実

 渡辺晋さんの話をしておこう。
 シンさんは、時と場合によっては怖い人である。だが同時にとても優しい人でもある。当時、僕の自宅が社長宅に近かったこともあって、困難なテーマがあると、よく夜半にお宅に伺った。いつも「ところで砂ちゃん、飯は?」と尋ね、お手伝いさんに食事の用意を命じてくれた。
 昭和五五年頃になると、シンさんは出社されることが少なくなり、ある日、地方の病院に入院した。政治家も著名な経営者も、急に入院すると世間の興味本位な憶測に見舞われる。したがって、かなり徹底した隠蔽が行なわれた。それがさらに噂を呼び、シンさん癌説が流れ出した。数ヶ月後、社長復帰の報に社員一同安堵するが、出社されたシンさんの顔を見てショックを受けた。美男と言われたシンさんの端正な顔の一部分が、ゴツソリそげているのである。あきらかに過酷な手術を物語っていた。一瞬言葉を失う人々に、「うん、ちょっとデキものが深くまで入っていて、すっかり除いたのよ。大丈夫、大丈夫」と明るく受け答えしていたが、そのシンさんの表情に、かえって僕は癌であることを確信した。
 だがシンさんは相変わらず明るく強かった。さすがに夜の交際は控えたが、通常の多忙な毎日に復帰する。一つ気がかりだったのは、お好きな食前酒「ティオペペ」を執務中でも離さないことである。つまり、昼間からつねに赤い顔で人に接するのだ。社員の間からも不満がもれはじめる。ある日、僕も顔見知りの政界人が社長室を訪れ、帰り際に僕に耳打ちした。「砂田君、シンさんの昼酒はやめさせたほうがいい。俺だからいいけど」。こういう場合の「俺だからいい」は「俺もダメだ」ということである。そして、噂は広がるだろう。
 僕は意を決して社長室に入り、シンさんと向き合った。「社長、昼間の酒はおやめいただけませんか」という僕の言葉に、シンさんはやや間を置いて答えた。
「砂ちゃんな、俺、これを呑んでないと、頭の中で虫が暴れているみたいでつらいんだよ」
 日頃愚痴などけっして言わないシンさんのこの言葉に、僕は「わかりました」と言うしかなかった。症状は進行しているのだ。やがて手術でそがれた頬の部分の中心に膿が出はじめ、手鏡を持って時折ぬぐっている場面に遭遇することが増えていった。
 昭和六二年(一九八七)一月三一日、シンさんは還らぬ人となった。
 シンさんの死は、日本の芸能史の大きな章の終わりを意味していた。それほどシンさんがこの業界に占める位置は大きかった。現在、渡辺グループは美佐夫人と二人の秀れた娘たちとで形を変えて栄えている。それが音楽業界をリードしつづけたこの不世出の男の、けっして幸せな終末とはいえない物語に華を添えている。この芸能界の巨人と間近に接することができたことは、僕にとって貴重な体験だったと思う。

『気楽な稼業ときたもんだ』 無双舎


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ロワール紀行 №60 [雑木林の四季]

月の夜の、ヴィランドリィ城館 1
  「音と光(ソン・エ・スミエール)」の恍惚

          スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎

 満月が、美しい夜だった。
 遙かのカァヴを走りすぎる車の、ヘッド・ライトの光だが、一瞬閃(ひらめ)いて、音もなく、遠い森に消える。
 そのあとの一層の黒さ。
 われわれの車のエンジンの響きだけが、夜に拡がってゆく。軽い振動が、肌に心地よい。
 フランスの五月、爽かな田園の夜のドライヴ。車窓を開くと、プゥンと草の香が、ガソリンの匂いとともに流れこむ。
 ロワールの夜の気配が、顔を浸す。
 晩餐のブドウ酒のせいか、夜風に吹かれて、心もはずむ。
 月光の夜、トゥールからシノン街道を、西へ数粁。夕食後の腹こなしに、夜のシャトオに出かける。黒々と沈む、田舎道を走ること二十分余り。シェール川がロワールに注ぐ、合流点に近く、ヴィランドリィの小さな村がある。

 星が流れた。
 螢が飛んでいる。
 車を降りて、シャトオへの爪先(つまさき)上りの砂利道を歩く。寂とした夜を、無言で歩む人々の足音が、驚くほど強く響く。
 道の左右の田畑から蛙の声。地虫のジィー、ジィーいう声。それらに混じって、驢馬の喘息もちのような囁き声がする。
 日本の初夏の、田圃(たんぼ)道を歩くような気配。
 馥よかな夜気が、身を包む。
 門番小屋(コンシェルジュリー)をすぎ、古めかしい城門を越え、静かに城への階段を登ってゆく。スイス、カナダ、アメリカ、イタリアなどの人々、それに私。
 月光を浴びた私達の影が、黒く長く石段に映る。まるで中世の夜を歩くような錯覚。
 城壁に近い高庭にでる。限下に・中庭をへだてて、シャトオの主館が立っている。
 それが八方からの、強い投光器に、白々と浮き出している。それをとりまく、ゴシック庭園の庭木の怪奇な姿。

 その時、ラウド・スピィカァから、若く美しい女の声が流れる。
 Ce soir(ス.ソワール)…Ce soir(ス・ソワール)……ああ、この夜……と何回も情をこめて、繰り返す。それにつづいて、シャトオ・ヴィランドリィの夜を賞でる、詩の朗読が始まった。
 その美しいフランス語のアクサン、低音気味の韻律、優雅な詩句は、聴く人々を、夢の世界に誘う。
 ひとしきり続いた誦詠(しょうえい)が終ると、また蛙の声が賑やかに聞えてくる。爽かな夜風が、頻を撫でる。しのびやかに、庭を歩く跫音(あしおと)までが、旋律となって、耳にせまる。
 シャトオの櫓も屋根も、月光を浴びて美しく濡れている。夜は黒く、寂として声もない。彼方の森が黒く長く、月下に眠っている。
 雲が月を遮ったとき、ひとしきりの沈黙が破れ。又、音が、しのびやかに流れ出す。
 この城にまつわる古典劇めいたものを、男女で朗読する。その台詞のやりとりの、問にまざって、床を踏む足音、感情的な女の声、騎士らしい男の声、怒りを含んだ声、鎧の音、等々。それがテープに重なって、流れる。
 それらの言葉と音は、中世のこの城の、この夜を再現する。その間、照明は次々に消え、又照らし、照明する場所を転々と変え、城と庭を夜空に浮き出させる。
 ラゥド・スピィカァから流れる、その朗読のクラシックな言い廻しは、聞きとれない。
 しかし、そのフランス語の抑揚を開いていると、語られていることの、大凡その見当はつく。
 しばらくして、若い女の声で、城と夜を讃える抒情的な歌が流れる。
 それがヴィランリィの池や森にこだまして、しばし中世の夜に溺れる。(つづく)

『ロワール紀行』 経済往来社


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BS-TBS番組情報 №144 [雑木林の四季]

BS-TBS 2017年9月のおすすめ番組

                                                    BS-
TBS広報宣伝部

ふれあい!乾杯!日本ご当地はたらき旅
~第2弾 北海道の大地と富山の海編~

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2017年9月10日(日)よる7:00~8:54
☆人とふれあい、共にはたらき、そして食べる。ニッポンの素晴らしさ再発見する旅の第二弾!
出演:中村俊介、紅蘭
全国津々浦々その土地ならではのお仕事が根付く日本!そんなご当地仕事を体験しに芸能人が数日間、各地に出発!昼は地元の方と働いて、夜はその日払いのお給料で乾杯!ふれあい!大宴会!
数日間のはたらき旅は忘れかけていた人との絆や、お金をもらう大変さ、日本各地の豊かな文化などいろんなことに気がつく旅番組。人とふれあい、共にはたらき、そして食べる。ニッポンの素晴らしさ再発見する旅の第二弾!
▽中村俊介×富山湾
寒流と暖流が流れ込み「天然のいけす」とも言われる富山湾。「富山湾の宝石」シロエビが旬を迎えている季節に、地元漁師の元ではたらき旅。中村俊介さん、まずはシロエビ漁から。そして地元の漁師から「オイボ=大魚」と言われる「イシナギ」を1本釣りで狙う。
▽紅蘭×十勝
酪農王国・北海道の十勝。希少なジャージー牛を飼育する酪農家の元ではたらき旅。子ども5人の大家族の酪農一家でお世話になり、朝は5時から夕方までのハードな仕事!現代っ子の紅蘭さんはこなせるのか?感動の仔牛出産に遭遇し、名づけ親にも?!

日本の旬を行く!路線バスの旅 2時間スペシャル
「把瑠都が巡る!夏の北海道 釧路湿原から知床半島へ」

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2017年9月12日(火)よる7:00~8:54
☆元・大関の把瑠都が路線バスを乗り継ぎ、夏の北海道を巡る!
旅人:把瑠都
元・大関の把瑠都が北海道東部の大自然と旬を巡る路線バスの旅。
旅のスタート地点は釧路駅。釧路市民の台所、釧路和商市場では名物の「勝手丼」を頂き、日本最大の湿原、釧路湿原ではカヌーツーリングを体験。中標津ではキノコ採りを楽しむ。最終目的地は羅臼。巨大なタラバガニを頂き、ホエールウォッチング、カラフトマスの水揚げを体験、名産の羅臼昆布の漁にも挑戦する。

美しい日本に出会う旅 2時間スペシャル
「高橋一生が旅する伊勢・熊野~感動!日本最古の温泉と神宿る滝へ」

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2017年9月13日(水)よる7:00~8:54
☆俳優・高橋一生が伊勢・熊野三山を旅する特別企画!
旅人:高橋一生
語り:瀬戸康史
今回の2時間スペシャルは特別編。旅の案内人の高橋一生が伊勢・熊野三山を旅する2時間スペシャル。旅の始まりは伊勢神宮から。古の人々がいくつもの険しい峠を越えて歩いたという熊野古道の伊勢路をたどり、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)を目指す。海老の街・尾鷲や熊野・丸山千枚田に立ち寄り、日本最古の温泉といわれる湯の峰温泉で一泊。翌日は、世界遺産「つぼ湯」で身を清め、いよいよ神々が棲む聖地・熊野三山へ…。
語り(ナレーション)を担当するのは同じく“旅の案内人”をつとめる瀬戸康史。舞台での共演をきっかけに、プライベートでも親交が深い二人ということで、「旅人」と「語り役」として、番組上で掛け合いをする演出も予定している。


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バルタンの呟き №19 [雑木林の四季]

さらに「後期高齢者運転免許」ロングドライブ

                       映画監督  飯島敏宏

 最高の暑さ連日更新中だった昨日の朝急に思い立って、東京町田市の我が家から八ヶ岳南麓海抜1150メートルの山荘まで、この夏初めてのロングドライブでやってきました。ひと頃は、タクシーはじめ営業運転の上限とされた一人一日350キロ走行を頻繁にしたこともある僕ですが、いまの僕にとっては、130キロ程度でも充分にロングドライブと称していい距離になってしまいました。
 30年来慣れ親しんだゴールドではなく、前回までの呟きで皆様すでにご承知の、艱難辛苦?の果てにやっと手にした青い免許証!を携えてのロングドライブの顛末です・・・

 まず、起き抜けにラジオ体操を行いながら、健康状態を自問自答、気分、意欲を推し測った上で、毎日のルーチンワーク通り仏壇に手を合わせて、先祖、両親その他の霊にそそくさながら祷りを捧げたのちに、朝食を軽めにすませ、血圧、脈拍を計り、数十年の間、医者は変われど薬変らずで「この薬を飲んでいるからこそ」と強いられてきた血管拡張の薬と、先般の検診で追加された「血液の質の向上に効果があります」というマルチビタミン剤を飲み、近ごろ薦められるままに、旅行の度に携行するようになった健康保険証の写しその他、「順番を決めて確認すればいいのよ」との女房殿の忠告通り、財布、小銭入れ、手帳、筆記具など旅行七つ道具をいちいち確認してカバンに詰め、さて、
「どうしてこんなにたくさん積んで行かなくちゃならないのかしら・・・」
という女房殿のぼやきに
「ほんとに、どうしてこんなにたくさんになるんだ」
と相槌を打ちながら、えっちらおっちら、冷凍食品などぎっしり詰めた大型アイスボックス他、多くの荷物を、
「ああ、なんだってこんな、石段を上がり降りする土地を買ったのか・・」
と、数十年前にすべき後悔をいまさら繰り返しつつ、転ばぬように細心の注意を払いながら、車のトランクに運び終えて、ようやく運転席に収まり、まずシートベルトを着けて、後席の待ちくたびれて寝入ってしまった愛犬と、やや不安そうな表情で乗り込んでくる女房どのをバックミラーでとらえながら、
「80キロ以下で行くからね、居眠り運転、逆走、巻き込みに注意、道路標識の確認・・・」など、例の認知度受験した辺鄙な教習所の係官の温顔を思い浮かべながら、聞こえよがしに暗誦してみせてから、おもむろにエンジンを起動、前後左右、首をまわして確認、日も高々くなってからの、炎暑のはじまりになって漸くの出発になってしまいました。
 免許証の色がゴールドから青に変わったことが、ああ、これほどのトラウマになろうとは、考えても見なかったことです・・・
「運転手さん、どちらからいらっしゃいました? 免許証拝見できますか?」
あの時の、あのうら若い警察官のいかにもうれしそうな顔! 思うだに、口悔しい違反でした。手を上げて親しげに近づいてきたあの警察官!
「なにか事件でもありましたか?」
僕も、同乗のカミさんも、本当にそう思っていたのです。然し、空とぼけの芝居だとでも思ったのでしょう、彼の作り笑いは、お面のようにそのまま固定していました。
 ああ、あの時、差し出された手に、いそいそと運転免許証を取り出して渡してしまった不覚!相模大野警察交通課のドル箱!の右折禁止交差点で、30年来の優良運転手の僕を陥れて、いかにも嬉しそうだったあのうら若い警察官に、言ってやればよかった!
「右折のウインカーを出した時点で、交差点に隠れて、証拠の映像を君の端末に送ったヤツに教えてやれよ! 銀座四丁目交差点の交番に行って見ろ!ちゃんと、スピーカーで、間違いを注意してくれるんだぞ! それこそが交通安全に繋がる行いだろう!って」

 そんなことを頭の中で反芻しながら、一般道の標識をいちいち読み上げつつ安全を計って運転していたのですが、さて、通い慣れた中央高速道に入り、大月を過ぎ、笹子トンネルを抜ける頃になるとすっかりリズムに乗って、ハンドルを握る手も軽やかになり、やがて勝沼から甲府盆地にさしかかる頃には、前方で、ややもたついていると見えたト大型トレーラーを難なく追い越して、高揚した快感のままふと気が付けば、メーターの針は、かつて若かった頃でさえめったに経験した覚えのないところにまで振れているではありませんか。
「あぶないあぶない、この先の、下り坂左カーブのところは、昔からのスピード取締りのドル箱だった・・・」
と思い出して、不自然でなくややスピードを緩めつつカーブを回ると、果たして、カーブの先左手の高速バス停にひそむように停車している覆面パトカーを認め、その前方に一台の乗用車があり、傍らに警察官と初老の夫婦らしい姿を見た時には、
「ワオ・・・」
などと、小声で、平生口にしたことのない音声を発するほど、久方ぶりに試みたスピード運転の楽しさに浸り切っていたのです。

 かくて、口笛さえ吹きたい爽快なドライブで山荘にたどり着いて車のドアを開けると、なんと、オゾン不足の薄い大気を通貫して照りつけていた太陽光線のあまりの暑さに、走行中ぶっ通しで冷房していた車内よりも遙かに冷たい風が、僕達を迎えてくれたではありませんか。しかもです。出発時にカーナビが予告した到着時間を、ほんの僅かしか超えていませんでした。
 さっそく、わが後期高齢ドライブを心配していた娘や息子にSMSを送って、無事到着を告げる傍ら、「こちらは、寒くて!」とつけ加えていました。
 まだまだ運転免許の自主返上なんて、とんでもない!行政の思いつき政策に踊らされてそんなことをしたら、この貴重な人生の残照の時間を、ただひたすら、否応なく近づいてくる身体的不自由とボケと死を畏怖する24時間の累積にしてしまうではないか・・・
 ロングドライブを難なく終えて、高揚した気分のまま、トランク内の荷物、ワンちゃんの駕篭、食料の詰まった大型クーラーを運び込んで、早速室内の清掃に掛かっている女房殿を手伝いながら、
「免許の自主返上なんて、まだまだ考えられないよ、なあ!」
勿論、同調を期待して声を掛けたのです。
「八王子から入る心算じゃなかったの? 中央道へ・・・八王子バイパス経由で」
少し、険のある問いかけだったのです。
 カーナビは、高速自動車道優先の設定ではありませんでしたから、うっかり誘導されるままに漫然と渋滞の一般道を走っていました。やや緊迫してきた感のトイレと、愛犬の暑さ負けの状態緩和のために立ち寄ったコンビニで、ひそかにスタッフ道を訊きました。
「ここからじゃ、八王子インターまでややこしい道をバックしないで、直進で高尾から圏央道で・・・」
と、慣れた調子で教えられて、何食わぬ顔でその経路をたどって来たのです。
「須玉で高速降りた次の交差点、入った時はもう赤だったわよ・・・」
たしか、それを見た直後にバックミラーで確かめた女房殿は、眠っていたようでしたが・・・

 あの、鄙びた教習所での運転技能検査コース、同乗したお歴々の、クランクで乗り上げたり、一時停止見落とし、車庫入れ不能などを尻目に、完璧と思われる運転を終えたつもりが、
「あれでは急ブレーキとは言えません、追突します。急ブレーキは、踵で、思い切りガンと踏んで・・・」
 満点だろうと踏んで、只一つのㇾ点のつかない講評に眼をそばだてていた僕の慢心を見抜いた検査官の慈顔が思い浮かびました。
「事故は、思いがけない時に起るのです」

 翌朝、完璧なロングドライブのつけは、満身にやってきました。僅かに3時間ほど、アクセル、ブレーキを踏んだだけの右足が、筋肉の緊張でこちこちに攣っていました。ラジオ体操をしてみると、膝にも腰にも痛みがあり、ふくらはぎも固まっています。右の手首にも、やや違和感があります。
「この次、またここでお会いできることを祈ります」
あの検査官が結んだ言葉です・・・
「後期高齢者の皆さん!あなた方は、やはり、後期高齢者なのです。それを納得して、高齢をエンジョイしませんか?」
 これから、団塊の世代の皆さんにも及んでくる、後期高齢者運転免許更新のための認知度検査、後期高齢者講習についてのバルタンの呟きでした・・・


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ZAEMON 時空の旅人 №19 [雑木林の四季]

「ZAEMON時空の旅人」         

                                               文筆家  千束北男

      第十四章 不思議な空間 囚われた先はストリクト星人の城塞であった。

そこは、中空に浮かぶ不可思議な城砦(シャトル)城砦でした。
天才か狂人かと言われた建築家アント二・ガウディーがデザインしたスペインの教会にも似た、あるいは、二歳の幼児が粘土で捏ね上げた偶然の傑作のような、実にユニークな形をした巨大な城砦が、しかも地に接することなく浮かんでいるのです。ストリクト星人の女王、フリーズの城砦です。
たった一人、巨怪グレンデルの指につままれたままこの城砦に運ばれてきて虜囚となった僕は、いま、その中の、コロシアムのような広大な広場に、手鎖をはめられて引き据えられているのです。
城砦の全体に、磁気のような力が働いているのでしょうか、戒めのかけられている僕自身も、透明なカプセルに包まれて浮遊しているという、ふしぎな情景です。
カプセルを透して僕の耳に直接とどいてくる荘厳な響きを持つ音響は、音楽と一応は呼ぶ他はない、人間世界のものとは全く違う冷徹な旋律でありながら、儚く美しい透明さを人間の頭脳に響(ひび)響かせる、ある種の洗脳作用をもたらすもののようです。
広場には、雑多な星人や生物達で混成された宇宙十字軍が勢ぞろいしています。そしてもちろん、彼らすべても浮遊しているのです。西暦2016年に日本のリニア鉄道実験線で試用されている磁力の原理と似た環境と申し上げればおわかり頂けるでしょうか。十字軍には、さまざまな宇宙人、なかには人(じん)人と呼びかねる身体条件の宇宙生物も加わっているために配慮された重力環境なのでしょう。
そんな中で、戒めを施されて浮遊している僕ですが、なぜかまったく恐怖を感じずに、物珍しい宇宙生物群の中に、ひたすらバルタン星人の姿を探し求めていました。
宇宙十字軍の中核は、ストリクト星人です。しかし、圧倒的多数のストリクト星人とおぼしき宇宙人は、体格の貧弱な宇宙人のうちでも、もっともか細い貧弱な体をしているのです。地球人類の肉体を欲しがる理由がよくわかります。
その首魁は、ストリクト星人クイーン・フリーズという超低温の宇宙人だと聞かされていましたが、いま僕の眼前に、荘厳な音響の高まりとともに、幾重にも重なった氷のベールを脱ぎ棄てながら姿を現しつつあるのは、小蝋燭のように貧弱な体躯のストリクト星人とは全く異る、優美そのものの姿でした。強いて一言で表せば、氷の女神。全身が極めて美しい透明な氷で作りあげられたように、きらきらと輝いています。しかもその表面には絶え間なく、透明なルビーの赤、煌めく氷の雫が流れ続けて・・
クイーン・フリーズの両サイドには、強靭そうな美男宇宙人剣士二人がともなっています。
やがて、フリーズの唇が開いて、
「オードー」
と聞こえる声が全会場に流れわたります。ストリクト星人の儀式なのでしょうか、もっとも近い言語に変えるとすると、摂理(オーダー)摂理でしょうか。彼らの信仰する宇宙の造物(ザ・クリエ―)造物主(ター)主を指しているのだと思います。
続いて、床を揺るがすボリュームで、
「オードー」
おなじ声が、宇宙十字軍全軍によって斉唱され、次第に厚みを加えながら拡がって行くと、城内全域に、狂信的な祭祀の気があふれかえります。
そして、その大音量の神秘の斉唱に応えるように、
クイーン・フリーズが、氷の女神から、あらためて第二態に変りはじめたではありませんか。
それにつれて、流れていた音楽的な旋律はうってかわり、生まれの兆しの、はげしい鼓動が聞こえ、ルビーの赤の奔流を切り裂くように顕われた女神の第二の姿は・・・
一転して、半ば透明に近い淡いブルーの、蝶のような羽翅を具えた、恐ろしいほどに、こよなく美しい生命体だったのです。
「オードー」
の斉唱は、ますますテンポを速め、
「オードー・・オードー・・オド、オドオドオド、ド、ド、ド、ド、」
広場全域に熱狂的な波動が広がり続けます。
その眼です。その瞳です。
惹き込まれてしまいそうな女王フリーズの危険な瞳に、僕の姿が捕えられています。
「宇宙十字軍の名において、裁判(さばき)裁判を行う・・・」
天からの響き渡る声とともに、侍従する二人の剣士の剣が抜かれ、正鵠に僕を指します。
恐怖というよりも、なぜか僕自身が、僕から抜け出て、客観的にこの情景を眺めているかのような気分です・・

山本久美子先生! 
地球人類が宇宙の盟主だと思い込んでいる西暦2016年のボクたち地球人の驕った認識が、全く笑止な妄想に過ぎないのだということが、いま、証明されるのです。

女王フリーズの美しい翅がゆれて、ことばが、流れ出ます。
決して、あたりに響き渡る音声ではなく、耳元にささやかれる声音なのですが、それで充分全場に伝わる力強いことばなのです。
それは、僕を裁くことばではなく、地球人類を裁くことばとして僕に伝えられました。
けっして一方的に宣告するのではなく、反論の機会も与えられるのですが、そのたびに、二人の剣士たちの剣が、「オードー」の声とともに、左右から、僕の喉元にひやりと突き付けられるのです。
「地球に生命をゆだねる生物たちのひとつの種であるにすぎない地球人は、数多の種の犠牲によって生命を繋ぎ、地球に君臨している。まさしく摂理(オード―)摂理に逆らう存在ではないか・・」
「ちがう! たまたま現在は、文明の優位性で地球上の生物の生命サイクルの頂点にいるだけで、場合によっては、人類も、他の生物の犠牲になることがある。人類は、造物主に与えられた智から得た文明の力で、いまの位置を保っているのだ。他の惑星で生命活動する宇宙人その他の存在も、同じことではないのか? ストリクト星人もふくめて・・」
「では、その地球人の文明とやらについて訊ねよう。原子核(アトム)原子核は、造物主(ザ・クリエーター)造物主が許した、物質の最小の単位である。物質が物質であるための最小の単位を破壊することは、造物主の摂理(オード―)摂理に適うことではない。摂理は、絶対である。造物主の摂理に逆らう行為を平然と行う地球人は、造物主の摂理の下にある宇宙人全体の敵といわねばならない。その上、地球人は地球人同士が常に争い、原子核を爆発させることで敵対する人類を殺戮し覇を競い合う愚行を繰り返し、あれほどに恵まれた地球の環境を破壊しつづけてきたではないか」
「地球人は、過去の悲惨な経験から、充分に核戦争の愚を心得ている。核の軍事使用が最低限で収まるように、各国が核装備をやめる方向で話し合い、僅かだが、核の減少に努めている」
「なぜ僅かなのか、なぜいま、ただちに廃止できないのか?」
「それには、各国のおかれている種々の事情があって・・・」
「各国とはなにか。全人類がグローバルに、地球という単位で核の破壊をやめればよいことではないか。国などという単位は、地球にのみ存在する不都合な存在である。各国が、それぞれの思惑で行政を行う必要性など、われわれには理解できない制度だ」
「・・・・」
「自らの星の類いまれに豊かな埋蔵資源を枯渇するまで掘り出し、過剰なエネルギー浪費によって支えられるむなしい繁栄を追い求め、原子核の濫用に奔り、廃棄物の最終処理の目算もないままに原子力発電を強行し続け、相次ぐ事故を防ぎ得ずになお稼働し続ける無謀無節操は、自らの破滅につながる当然の道ではなかったか」
「・・・・」
「成長が継続しない限り成り立たない経済とは、経済本来の意義とほど遠い過剰期待の経済ではないか」
「・・・・」

山本久美子先生・・・
フリーズが口にするすべてのことが、常々先生が教室で教えてくださっていることと一致するではありませんか。ですから僕は、フリーズの一問一問に、なす術もなく沈黙してしまうほかなかったのです。
「いまだかつて、地球はいかなる他惑星からも攻撃されたことがない。にもかかわらず、地球人はたえまなく他惑星を敵視し、窺い、収奪し、居住する生物の生存を危うくしている」
「・・・・・」
「火星に例を求めても然り。火星は、常に、地球人の監視と敵視のもとにおかれてきた・・・」
この時、宇宙十字軍の一角から、すすり泣きのような、かすかな響きが起こるのを、僕は聞きつけました。この場に火星生物でもいるのでしょうか。
「火星には、地球の海中に棲む蛸のようなあたまの大きな火星人がいて、地球人には想像外の巨大な規模の運河を掘るほどの高度な科学力を持ち、地球侵略の機会をうかがっている、と、当初地球人は空想した・・・」
「そうだ、たしかに・・・私たちの親の世代はそんな想像をした・・・」
と、僕は頷きました。
「やがて、地球人の手で火星の探査が行われたが、西暦1976年バイキングⅡ号によって火星の苛酷な環境が明らかになった。大気の95パーセントは、二酸化炭素、気温は、マイナス55度以下と判明、地球人は、その環境の発見によって、火星に、生物は存在せず、と自分たちの適応能力から推し測って、結論づけた。しかし、その環境に対応して生きている火星人にとっては、住み心地のよいところだといわねばならない・・」
「・・・・」
「ところが、西暦2008年、火星に到達した米国探査機フェニックスが、地面をスコップで掘り、水を発見、地中に多くの水分が残っていること、地中深くには温かい水があり、生物がいる環境があるのではないかという疑問を持った」
「・・・・」
「そこで手を引くのが摂理ではないのか・・・」
「・・・・・」
「ところが逆に、人間は、摂理に逆らって、開発を考えた。中途半端な文明のもたらした過剰な経済活動、贅沢、浪費、そして人類同士のおろかな戦争による地球環境の破壊によって
地球という天体をついに使い果たす状況に陥った地球人は、火星に資源を求め、稀少物質の調査、あるいは快適な移住先として、他惑星である火星の資源、環境を収奪しようと企てている。火星探査ミッションとして、NASAは、火星に生命の痕跡を探るための探査車キュリオシティーを送り込もうとし、アトラスロケットで、フロリダ州ケープカナベラルから打ち上げる予定であるという。宇宙十字軍から見れば、それは明らかに人類による火星侵攻ではないか」
「西暦2009年には、ハワイのクック望遠鏡が、火星大気にメタンガスを発見。メタンは、重力が地球の四分の一という火星の条件から失われているはずと考えられていたが、現にに存在するのは、現在でもメタンが発生している証拠ではないかと」
「13000年前に、地球上に落ちた隕石「ALH001」から、バクテリア化石に見える0・1ミリの芋虫を発見。30億年前に火山の爆発で火星を飛び出した隕石が地球まで飛んできたと証明された。人類にとっての生存(ハビタブル)生存可能地(ゾーン)可能地は、恒星との距離が適当で、水が液体として存在でいるところである。しかし、そのようなところには必ず先住の生命体がいるのは、自明の理ではないか。ソレを駆逐して占有しようとする地球人類は、まさに宇宙の敵」
「でも・・・」
僕の口を封じるように、フリーズは、次々に罪状をたたみ掛けてきました。
「でも、しかし、だから、しかたがない、せざるを得ない・・・みんな地球人の事情ではないのか。摂理に逆らって、原子核を破壊し、放射能をまき散らし、自己本位の繁栄のために膨大なエネルギーを消費し、争い、廃棄物を拡散する地球人・・・」
「オードー」
全場、フリーズの一言一言に同感を唱和する響きが僕のまわりを渦となって包みこみます。
しごく当然に思えるフリーズの地球人に対する罪状告発ですが、僕の中には、どうしても解けない疑問が頭をもたげてきました。しかし、
「待ってくれ・・」
手を挙げよう、と意識しただけで、まだ動作に移る前に、二人の剣士の剣が喉元にぴたりと突きつけられてしまうのです。
「月に対しても、人類は侵略の手を伸ばしている。すでに人類は月面に上陸し、石塊を盗掘し持ち帰った。人類は、地球で手に負えなくなった廃棄物、放射能汚染物質や、原子力発電の燃えカスを月に持ち込もうとしている」
(一言だけきいておきたいことがある。なぜ、君たち宇宙十字軍と称するものが、日本を標的にしたのかということだ)
ストリクト星人フリーズの一方的に展開する地球人の罪状陳述が続けられるうちに、僕の中に生まれていた疑問を、念想してみたのです。すると、意外な答えが、返ってきたではありませんか。
ハヤブサのプロジェクトだというのです。
(ハヤブサが、火星に何をしたのか)
(ハヤブサは、日本がイトカワと名付けた小惑星にたどり着き、物質を盗み獲ろうとして失敗したが、かろうじて微細な粉末と気体を持ち帰った。そして、ハヤブサ二号も、1999JU3と人間が勝手に符牒した別の小惑星目指して打ち上げられた。ハヤブサのプロジェクトの狙うところは、小惑星ではなく、あきらかに火星と月である) 
(どんな根拠があるのか)
(日本は、すでに火星探査機のぞみを打ち上げ、アメリカが軍事的な意図を持つ火星基地や火星探査ロボットを送り込む計画に加担して主要部品を製造提供している。それに・・)
(待て! それは平和利用と聞いている。軍事であれば、日本の憲法では許さないはずだ)
(その証拠に、最近火星に撃ち込まれた正体不明の機器に、日本文字で偉光とあった)
(それは中国のものではないのか? 宇宙開発で後れを取った中国が撃ち込んだものでは・・日本の感覚では偉光とは名付けない)
僕の抗議を、フリーズは無視しました。隼と偉光、その微妙な違いは、漢字圏の東洋人以外には理解できないようでした。
(日本は、原子力発電での最終処理ができない放射性物質を、月に廃棄しようとしている。
これはあきらかであるし、西暦2024年、日本から火星に向けて発進した宇宙船「ラー」号は、火星の探査、開発を担う技術者たちを積んだ火星侵略のための移民船である)
(火星移民? ラー号?)
フリーズは、ふたたび天から降り注ぐように、声を高めました。
「西暦2024年、日本からSETIを通じて、ラー号の発進を告げてきたのは、まさしく宣戦布告ではないか。火星生物からの要請を受けて、摂理を全うするために宇宙十字軍が結成されたのだ」
「待て! 摂理を信じ、宇宙十字軍に加わっているのは、全宇宙人だというが、異なる考えを持つ宇宙人がいるのではないか? 少なくともバルタン星人が加わっていない・・・バルタン星人はどう考えているのか」
「かれらは、かつて地球への移住をもくろみ失敗した経験から、宇宙十字軍には加わらず、独自の行動をとろうとしているだけで、地球人を許すつもりはない」
「目には目を、は世界を盲目にする・・・報復では物事はけっして解決しない・・・」
だが、僕の抗議はここで黙殺されました。
「オード―」
威圧と怒りを含んだフリーズの音声にあわせて、
「オード―」
宇宙十字軍全軍が斉唱する祷りの反響する中で、僕は、怒りの叫びを、声を振りしぼってぶつけたのです。
「ストリクト星人は、宇宙十字軍と称して、その実、宇宙の独裁者を目指しているのではないか!」
しかし、僕の声は、カプセルの中に閉じ込められて、他の宇宙人たちには届きません。
(ならば、地球人は? 違うというのか?)
フリーズから心の声で尋ね返されて、僕は、答えることが出来ませんでした。
「摂理に逆らう地球人類は、全宇宙人、および、全宇宙の命あるものの敵である!」
高らかに告げられ、僕の裁判は、フリーズの専断で、永久禁固で結審してしまったのです。
「オード―」
美しい翅に包まれて姿を消してゆく、ストリクト星人フリーズ。
その翅が、不可思議な旋律と混じりあって、広場にあふれかえる、
「オード―」
の斉唱に乗って飛び去ってしまうと、浮遊していた夥しい数の宇宙人、宇宙生物たちも、たちまち消えてゆきます。
「見るがいい! ハヤトよ。地球人類との戦いはすでに終了しているのだ。これが、西暦2025年の我々宇宙十字軍と人類の闘いなのだ。見るがいい! 正義を持つ者と、持たざる者の闘いを!」
天からの声が告げたとたん、二人の剣士に剣を突き付けられるまま気体のカプセルに閉じ込められている僕の脳裏に、いやおうなしに、西暦2025年の宇宙十字軍の地球侵攻のありさまが、まるでリアルタイムで僕がそこにいたような生々しい鮮明さで送り込まれて、再現されたのです・・・


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私の葡萄酒遍歴 №49 [雑木林の四季]

ニュージーランドの歴史と概要

            ワイン・グルマン  河野 昭

 ニュージーランドに葡萄の樹が上陸したのは1819年と言われている。隣国オーストラリアから北島のケリケリに持ち込まれた。その北島に初めて葡萄畑が出来たのは1835年、南島でも1875年にはワイン生産が始まった。ニュージーランドでも葡萄を広めたのはキリスト教だった。キリスト教ではパンはキリストの体、ワインはキリストの血と考えられており、ミサの時には必ずワインを用いる習慣がある。 キャプテン・クックに発見された島は、ヨーロッパ大陸でもそうだったように、キリスト教の布教と葡萄栽培という密接な関係を持ちながら国内に広がっていったのだ。

 1870年代以降、ワイン造りを本業とする人々、今で言うワインメーカーが現れた。しかし、20世紀初頭に制定された酒類製造販売規制が、ワイン産業の発展を妨げてしまう。

 細々と続いていたワイン造りに弾みがつくのは、大量の酒が求められた第二次世界大戦中のこと。ワインの価格急騰は、家族経営だったワインメーカー達に設備投資のチャンスを与えてくれた。

 ところが戦時中、儲け主義に走ったがためにワインの質が低下する。つまり需要に生産量を追いつかせるため、水を加えたり砂糖を加えたりした商品が販売されたのだ。驚くことにこの風習は、1980年代初めまでまかり通っていたのだそうだ。

 近代的なワイン醸造が始められたのは1973年になってからで、葡萄とワイン研究で有名なドイツ・ガイゼンハイム研究所のベッカー博士によりミュラートウルガクの栽培を奨励されてからと言える。葡萄栽培とワイン造りは急激に広まったが、低品質なワインの大量生産はその後の悲劇を呼んだ。葡萄とワインの生産過剰を憂慮した政府は1985年に大英断を下した。「減反令」が公布され、一千万NZドルを投じ、全土の25%の畑から葡萄の樹を抜いてしまった。

 生産量の減少は高品質ワインを生む良い結果となり、マールボローのソーヴイここヨン・ブランがコンテストで頻繁に賞を取るなど、ニュージーランド・ワインの評価が世界的に高まった。高品質ワインの産地は南島を中心に拡大し、わずか5年で、失われた面積に相当する新しい土地が開拓された。これにより、安価なワインの大量生産ではなく、優良な品種の本来の持ち味を引き出すことこそ、生産地を支える第一条件であることが証明された。1996年には原産地統制呼称法が成立し、ピノ・ノワール、メルロやシラーの導入、高級ワインへの亜硫酸無添加、スクリューキャップの定着など、わずか数十年で、次々と生産地を変え、様々な試みに果敢に挑戦するニュージーランド・ワインは、伝統的な旧世界のワインをしみじみと味わうこととは対極的な楽しみを教えてくれるような気がする。

個人のワイン消費量は30年間で10倍

 この国のワイン産業の発展に重要な役割をはたしたのが、ワインを常飲するイタリアやギリシャ、クロアチアなどヨーロッパ大陸からこの地に移り住んだ人々である。彼らは消費だけでなくニュージーランド・ワインの質の向上に多いに貢献している。1960年代、410万リットルだったワインの年間生産量は、1980年代前半までに5770万リットルに急増、驚異的な成長を遂げた。この頃から世界的にも注目を集めるようになり、オーストラリアやアメリカのワインメーカーがニュージーランドで葡萄栽培を始め、ニュージーランドのワインメーカーに資本参入するようになる。

 ニュージーランド・ワイン協会の統計によると、成人一人当たりのワイン消費量は1960年代初頭の年間2本から、1990年代後半の年間21本へ10倍の伸びを示している。1989年に酒類販売法が改正され、スーパーマーケットでもワインを購入できるにようになったのが大きいことは言うまでもない。(参考:日本は2006年現在一人当たり3本の消費)。


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コーセーだから №30 [雑木林の四季]

フランスのリヨン市にコーセー研究所分室を設置

            (株)コーセーOB  北原 保

 コーセーは今年の7月31日、EU圏で初めての研究拠点をフランスのリヨン市に置き、「コーセー研究所 フランス分室」を設置することを決定しました。研究活動は10月からスタートする予定ですが、当面はコーセーの研究員が1名常駐して、老化メカニズムの解明など皮膚科学に関する研究を行います。

 もともと、コーセーは創業の頃よりお客さまに品質に優れた化粧品を供給するため、研究開発にはとりわけ力を注いできました。創業者である小林孝三郎は、15歳で茨城県の高等尋常小学校を卒業するとともに上京し、高橋東洋堂という化粧品メーカーに就職しました。ほとんど丁稚奉公といってもいいような勤め方だったようですが、仕事熱心で真面目、しかも負けず嫌いの性格が評価され、その会社で工場の責任者を務めていた田邊誠一氏からかわいがられ、化粧品に関するさまざまな教えを受けました。田邊氏は当時日本一の調香師といわれていた人で、化粧品の製造方法はもちろん処方の作り方、香水の調合などまで学んだといわれています。そのような若い頃の経験から、小林孝三郎の化粧品の品質に対するこだわりは、自らの信念ともなっていたようです。

 そのため、優れた品質を実現する一番の要となる生産施設=工場には事業規模を上回るような立派な施設を次々に建設してきました。最初の志茂町工場(北区赤羽の近く)こそアパートを改造したような規模のものでしたが、2年目には同じ北区内に豊島第一工場、豊島第二工場を作り、6年目にはやはり北区内に栄町工場を作りました。その後も埼玉県狭山市に狭山工場、東京の板橋区に板橋工場、埼玉県上尾市に上尾工場、群馬県伊勢崎市に群馬工場をと次々に建設してきました。

 一方研究開発に関しては、創業当初は知り合いの企業から研究責任者に来てもらっていましたが、次第に大卒の研究陣を自社で採用し、徐々に研究体制を整えてきました。2代目の社長だった小林禮次郎氏は父である創業者の意向もあって、早稲田大学理工学部の応用化学科に進み、1951年卒業と同時にコーセーに入社したのですが、コーセーで最初の大卒社員だったといいます。当時の研究室はまだ小さな一部門でしたが、その後、小林禮次郎氏が責任者を務めるなどして次第に規模を拡大させ、1956年に研究部が正式にスタートしました。さらに1964年には研究所として完全に独立した組織となりました。現在は北区王子に主に製品研究を行うコーセー研究所、研究に関する情報や特許関係を扱う技術情報センター、板橋区小豆沢に皮膚生理や化粧品の新規素材などの研究を行う基礎研究所の3研究所体制をとっています。創業70周年を機に、新たな研究所の建設が計画され、2019年3月には完成する予定となっています。新しい研究所は基盤研究所として、基礎研究所と技術情報センターの機能を統合したものとなる予定です。

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コーセー研究所
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建設予定のコーセー基礎研究所

 現在の3研究所の機能を補完する形で今回の「コーセー研究所 フランス分室」は設置されることになります。

 フランス分室は、リヨン市に本社のあるCTI BIOTECという会社の研究施設の一部に同居させていただく形をとります。EU圏では皮膚科学に関する最先端研究が盛んに行われ、薬品や化粧品の新規有効成分の開発、有効性・安全性の評価研究等で世界をリードしています。しかも、フランスのリヨン市は先進的なライフサイエンスに関する研究施設が集まっている地区でもあります。CTI BIOTEC社も2009年リヨン市に設立以来、主に幹細胞研究と再生医療分野の研究を行っていますが、その分野ではパイオニア的存在でもあります。

 従って、今回の分室設置によって、コーセーの未来の新しい化粧品に関する研究が一段と加速するものと期待されています。また、コーセーは同じ地区にある、フランスで2番目の規模を持つ大学病院であるリヨン市民病院と、2014年以来、再構築皮膚モデルを用いた共同研究を行っていますが、その研究も現地で進められるようになり、成果が期待されます。

 昨今は、化粧品業界も以前とは異なるスピードでグローバル化が進展しています。コーセーも国内だけにとどまらず、グローバルビジネスの拡大に力を注いでいますが、研究の分野もグローバル化のスピードが加速するものと思われます。

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リヨン研究室のコーセーブース
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リヨン研究室の教養スペース

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