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西洋百人一絵 №87 [雑木林の四季]

アンリ・ルソー「女蛇使い」
                                  美術ジャーナリスト・美術史学会会員  斎藤陽一

 アンリ・ルソー(1844~1910)は、一般に「素朴派」の画家とされるが、なかなか一筋縄ではいかない画家である。
 「素朴派」とは、ある特定の流派を指すのではなく、専門的な美術教育を受けず、全くの独学で自分の好きなような絵を描いた一群の素人画家たちのこと。一見、子どもが描いたような稚拙な表現に、独特の素朴な味わいがある。
 確かにルソーも「素朴派」の特徴を備えているが、画家自身の人生や私生活は謎めいており、その作品には、人を失笑させる稚拙さがある反面、驚くほどの写実性と虚構性が交錯し、白日夢のような幻想世界を現出させる画家でもあるのだ。

 「女蛇使い」(1907年)は、ルソー62歳の作品である。長年、パリ市入市税関の下級職員として過ごしながら、40歳頃から絵を描き始めたルソーは、作品を審査不要の「アンデパンダン展」に出品するのを常とした。
 ところが、初期の絵を見た人々の反応は、「目に涙を浮かべて笑い転げていない者は1人もいなかった」という具合だった。その後も、「ルソーの作品はアンデパンダン展の大きなアトラクションだった。何百人もの人々がその前に立ち、笑った」(W.ウーデ)。

 ところが、1907年の「サロン・ドートンヌ展」に、ルソーの「女蛇使い」が展示された時、それまでのルソーの絵につきものだった哄笑や嘲笑は「突然ぴたりと止んだ」。

 うっそうと茂る熱帯林のかたわら、月の光を浴びて、ひとりの女が笛を吹いている。たくましく黒いシルエットに目だけがきらりと光っている。
 よく見れば、女の首には蛇が巻きついている。いやそれだけではない、彼女の足元にも首をもたげた3匹の蛇、さらに密林の木に胴体を巻きつかせて鎌首を伸ばしてくる大蛇もいる・・・そう、彼女は、笛の音色で自在に蛇をあやつる蛇使いなのだ。妖しい調べに魅せられて、密林の木々や草むらさえ、蛇のようにうごめきだしているように見える。
 夜空に浮かぶ白い月、熱帯林の濃密な緑、女の黒いシルエットと金色の眼、蛇たちの黒いうごめき・・・それらが織りなす幻想世界に、水鳥の紅が効いており、さらなる夢幻的な趣きを添える。

 ルソーは、60歳頃から熱帯の密林風景をしきりに描き始めた。それらの絵に描かれた木々の幹や枝のたたずまいや、一枚一枚丁寧に描き込まれた葉の描写が、あまりにリアルなので、人々は「ルソーは熱帯に行ったことがあるのかも知れない」と思ったりした。ルソー自身も「兵隊としてかつて熱帯地方に派遣された」と語ったが、実はこれはルソーがしばしば行った虚言のひとつで、実際には一度も行ったことはなかった。彼が通ったのはパリの植物園で、熱帯の植物を熱心に観察し、それを自分の絵に生かしたのである。

 ルソーは、描く対象のひとつひとつにのめりこみ、それを愚直なまでに丁寧に描く。そのとき、ルソーの中では、ものの大小の違いや全体の遠近感は念頭にない。彼の関心を引くものは遠くにあっても大きく描き、そうでないものは近くにあっても小さく描く。ルソーの描く人物は、いずれも人形のように正面向きである。彼は人間をそのような姿でしか把握していないからである。木々の葉っぱは、異常な集中力を見せて、一枚一枚を愛おしむように描写する。でありながら、時には、夢想家ルソーが夢見た非現実的な妖しいものも、画面に登場したりする。
かくして出来上がった絵からは、既存の絵画には見られない、写実と虚構と夢想が交錯する不思議な詩情が放射される。
 当初、人々は、そのようなルソーの絵を見るたびに笑い転げたが、ルソーの写実性と虚構性と夢想が見事なかたちで溶け合った「女蛇使い」の前では、その呪術にかかり、言葉を失ったのである。

087アンリ・ルソー「女蛇使い」.jpg

            アンリ・ルソー「女蛇使い」(1907年。パリ、オルセー美術館)

芭蕉「生命の賛歌」 №30 [雑木林の四季]

石山の 石より白し 秋の風

                  水墨画家    傅  益瑶

石山の.jpg

 那谷寺の境内はいくえにも岩石が寄り添い、老松に囲まれた岩上には観音堂が建つ。
 秋の風は、中国では雲もなし、霧もなし、すべてが澄んでの「清明」とされ、白しはその姿である。石山の岩肌は、メッセージを持って、秋風によって意思が運ばれる。秋風の生命が岩に宿って、メッセージが清明に伝えられる。秋風に感謝する気持ちが芭蕉の自然観照だ。


『傅  益瑤 「奥の細道」を描く 芭蕉「生命の賛歌」』  カメイ株式会社


私の中の一期一会 №143 [雑木林の四季]

          安倍晋三首相が表明、“2020年に改正憲法の施行を目指す”と
    ~9条1項、2項を維持したうえで自衛隊を明記した条文を追加すると提起~
                                        アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 安倍首相は8日、衆議院予算委員会の集中審議で、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と表明した。憲法記念日に、改憲推進派の集会に寄せたビデオメッセージでは「9条1項、2項は維持し、自衛隊の存在を明記する条文を追加する」と具体的に述べていた。
 集中審議で、その意図や条文の具体的な中身を質されると、あれは自民党総裁としての考えであり「この場では首相としての答弁だけに限定する」と強調して具体的な中身には言及しなかった。
誰もが驚いたのは民進党の長妻昭氏に答える場面で、「自民党総裁としての考え方は、“読売新聞”に詳しく書いてある。熟読していただきたい」と発言したことだ。
 浜田委員長から「不適切なので、今後気を付けていただきたい」と注意されたが、国会の答弁で特定の新聞を読めとは“あまりにもひどい”と野党側の反発を招いた。
 野党議員を見くだす態度があからさまで、真摯に答弁する気は皆無に思える。長期政権の驕りから“国会軽視”であ り、“国民を愚弄している”に等しいと腹立たしく思った。
 私は読売、産経を購読していない。でもネットに出ていた読売新聞3日付けの1面には“総裁インタビュー”ではなく“首相インタビュー”とタイトルがついていた。読売新聞は“首相としての考え”を記事にしているのを首相は知らないらしい。無責任な言い逃れと思われても仕方がないだろう。
 森友学園問題の答弁もヒドイものが多い。答弁に思えない答弁だってある。最近、籠池前理事長が、一連の交渉経過について昭惠夫人にその都度報告していたことを明らかにした。
 民進党の議員に「学園と昭惠氏はヅブヅブの関係だ」と指摘されると、例によってムキになった。
 「品の悪い言葉はやめたほうがいい。それが民進党の支持率に表れている」とまるで“的外れ”な発言をしている。都合の悪い質問に、まともに答えないのは今に始まったことではないけれど・・・
 だいぶ前のことだが、やはり衆院の予算委員会で長妻昭氏が自民党の改憲草案について「谷垣総裁の時に作ったものだから僕ちゃん知らないと聞こえた」と投げかけられ「全く言ってないことを言ったかの如くいうのがデマゴークなんですよ。これは典型的な例ですよ。典型的ですよ。言っていません」とまくし立てていたのを思い出した
 この時、海外で安倍首相のウォッチをしているユタ大学の東照一教授が「レベルが低く首相らしさに欠ける。感情のコントロールが出来ておらずトランプ気味になっている。重厚さ、知的さ、リーダーが持つ太っ腹な部分に欠ける。首相の器ではない」と酷評していたのを思い出した。全くその通りだ。
 首相が、9条改正に言及したことで、自民党内に波紋が広がっているという報道もある。
 元幹事長の石破茂氏は「党内でこういう議論は一回もしていない。長い議論の積み重ねを全く無視していいとはならない」と戸惑いを見せた。
 ポスト安倍候補と言われる岸田外相も「今のところ9条改正は考えていない」と述べている。
 公明党も困っているかも知れない。
 自民党の国対幹部は、「議論促進を狙ったのなら逆効果かも知れない。憲法審査会も混乱必至だ」と真意を測りかねている。
 首相が突然、9条改正に触れたのは議論の活性化を狙ったのではなく、森友問題から身を守るためにナリフリ構っていられないというのが本音ではないのか。私はそんな気がしてならない。
 自民党内でも麻生派と山東派の合流が実現するなど、ポスト安倍への動きが活発になりそうである。
籠池氏は、まだ幾つか爆弾を抱えているかも知れない。トカゲの尻尾切りでウヤムヤにしようとした安倍官邸の策は失敗するかも知れないのだ。
ボンヤリしていた、「終わりの始まり」という言葉が私の中で、次第にハッキリしてきている。
◎14日から始まった大相撲夏場所の初日、横綱・稀勢の里は小結・嘉風に敗れ、黒星スタートになった。
 あれだけ“3場所連続優勝に期待”などとメディアに囃し立てられたら稀勢の里も「休場する」とは言い難かっただろうと想像する。稀勢の里は可哀想だ。彼のお父さんは泣いているかも知れない。
 稽古の再開も“非公開”にしたりしたのは怪我が治っていない証だったのだ。
 無理を承知で「出ます」と言ったのは、相撲協会への“忖度”だったのだろうか。
 相撲解説の北の富士さんは、休場させたかったのではないだろうか。稽古で左を使えないことを指摘して「怪我は治っていない。出るなら慎重に相撲を取って優勝を狙わないことだ」と新聞に語っていた。
 放送席にいた舞の海さんも、稽古と本番は全く違う“嘉風は全力で来ますよ”と心配していた。
 横綱が左を差せれば何とかなるかなと思って見ていたが、嘉風は左を差させなかった。出足も良かった。
 稀勢の里は何も出来ずに土俵を割ってしまった。思った通り、怪我は“完治にほど遠い状態”のようである。
 煽るメディアが悪いが、休めと言わない協会や親方も良くないと私は思っている。
 「途中休場もあり得るな」というのが初日を見ての感想であった。
◎今年の阪神タイガースは好調で14日現在首位に立ち、貯金も二桁の10になった。糸井の加入が大きいのは確かだと思う。
 6日に甲子園で行われた広島戦で、0-9の劣勢を跳ね返し、大逆転勝利を収めたと知った時、ウソじゃないかと思った。あの試合をテレビで見ていたが、あまりにもポカスカ打たれるので「今日はダメだ」と途中でチャンネルを変えていたのだ。
 「阪神が衝撃の9点差大逆転勝利で首位奪取」と新聞が報じたように、阪神球団にとっては歴史的な大逆転劇だったのである。しかも強い広島を抜いて首位に立ったのだからスゴイことだった。
 阪神の先発はドラフト6位のルーキー福永で、プロ初登板だった。緊張が災いしたのだろう、序盤に丸の2ランなど4回までに10安打を浴びて6失点するKOデビューとなった。
 リリーフした松田も5回に阿部、丸に連続タイムリーを打たれ3点を追加される始末。5回終了で0-9の大敗ムードとなった。相手の広島は、反対に“今日はいただき”と安心したに違いない。だが“安心ではなかった”のである。
 阪神は、5回裏1死3塁から梅野がセンターへヒットしてやっと1点を返した。反撃というより、少しでも点を取っておこうぐらいの気持ちだったのではないだろうか。
 ところが6回裏が劇的なイニングになったのだから野球は分からない。
 まず先頭の高山がフォアボールで歩くと北条が三塁線を破る二塁打で続いた。この無死2、3塁から糸井のセカンドゴロで1点入り9-2。2死となったが中谷は死球で出塁、鳥谷の高くバウンドした打球を一塁手堂林が弾いて内野安打になり北条が生還して9-3となった。
 試合の流れは完全に阪神に傾いていた。広島の先発岡田はストライクが入らない。糸原も四球で満塁になった。ここで岡田が暴投して4点目が入る。
 甲子園は異様な雰囲気に包まれていた。続く梅野が四球でまたも満塁。広島はここで、ピッチャーを岡田から中田にスイッチした。ところが中田の制球が定まらない。原口が押し出しの四球を選んで9-5と4点差に迫った。こうなると阪神は押せ押せムードになる。このイニング2度目の打席に立った高山がライト線に満塁の走者を一掃する三塁打を放ったのだ。打者一巡の猛攻で一挙7点が入った。9-8の1点差になるなんて誰が想像しただろうか。
 高山は「打ったのはフォーク。みんなで作った満塁のチャンス、後ろへつなぐことだけを考えた」と試合中に談話を出している。
さらに7回は1死1,2塁から鳥谷のセカンドゴロを二塁手西川が弾いた。2塁ランナー江越は本塁へ頭から飛び込み一旦はセーフになったが、ビデオ判定になり、17分に及んだ判定結果はアウトになった。「江越はタッチされた感じはなかったが、判定だから仕方がない」と潔かった。
 2死Ⅰ,2塁で試合は再開。打席の糸原は「好調の梅野さんにつなげば何とかしてくれると思った」そうだが、センターへタイムリーヒットを放った。ついに9-9の同点となったのである。
 糸原に期待された梅野は右中間に2点タイムリー三塁打を打って11-9と試合をひっくり返してしまった。奇跡の逆転はこうして生まれたのである。
 試合後金本監督は「僕も長いことプロ野球にいるが初めてですね。お客さんに申し訳ない気持ちで一杯だった。何かちょっとでも盛り上げてくれたらと思っていた。若い選手とベテラン選手の粘り。最後まであきらめない気持ちで、全員で勝てた」と総括した。
 金本監督は、結果が出なければ誰であっても容赦なくスタメンから外す。新人王の高山も、育成の星の原口、ベテランの鳥谷、3連続ヒーローの梅野もミスの翌日はベンチを温める。外国人のキャンベルも同様だ。
 タブーのない実力主義を貫いている。
 金本知憲という監督の最大の長所は選手操縦術の巧みさにあると私は思う。こうなったら優勝して欲しい。

浜田山通信 №194 [雑木林の四季]

2020年までもつか

                        ジャーナリスト  野村勝美

 2020年の東京オリンピックまであと3年、私はただ今満88歳目前で、ずっと前から、いくらなんでも生きてはおれないだろうからと全く関心がなかった。まわりを見てもオリンピックムードはどこにもないし、話題にもならない。もともと前にも書いたがスポーツナショナリズムが大きらいなので、北京の時も日ノ丸をまとってウイニングランなどよくできるなと思ったものだ。大昔、東京オリンピックの時は、水泳を担当し、それなりに興奮もしたが、水泳日本は終戦直後の面影なく、「泣くな山中毅」なんて雑感記事を書くだけだった。以来オリンピックなんて人口が多くて、体がでかく、金持ちの国の選手が勝つに決まっているじゃないかと、国旗、国歌を掲げる大会がきらいになった。
 11日に小池都知事が、神奈川、千葉、埼玉県で行われる五輪競技会場の仮設費500億円を全額東京都が負担すると発表した。東京オリンピックと都市の名前をつけてはあるが、実質は日本五輪だし、リオ五輪でもアベ首相が、何やらキャラクターに扮して登場して愛嬌をふりまいたくらいだから、全額東京都負担とは何ごとかと思ったら、いやいやオリンピック経費の全体は1兆8千億円で、まだ8~9千億円は誰が負担するのか決まっていないのだという。国家財政は超赤字、都だって豊洲だけでもどれだけかかるか。どうもきちんと計算もしないで誘致を決めたらしい。そのうちなんとかなるだろうは、植木等以来のお家芸なのだ。
 2020年といえば、アベ首相は右派集会にビデオメッセージを寄せて、「20年を新しい憲法が施行される年にしたいと強く願っている」と言ったそうだ。どうもこの人は強気にガンガン押しまくれば、皆が自分についてくると思い込んだらしい。森友学園問題であれほどカミさんもろとも国会やメデイアに追求されても支持率は下がらないし、メディアは読売系を抑えておけば大丈夫だと思い込んでいるようだ。
 しかしついこの間まで、トランプ相場や北朝鮮のミサイル発射などでことごとくアベ首相に有利に作用した国際情勢が、韓国の文在寅大統領の登場や中国の一帯一路の実現で一挙に風向きが変わった。いちはやく尻尾をふりに行ったトランプ氏にはもう一度会ってくださいと頼んだらしいが、大統領自身がFBI長官解任問題やロシアなど外交関係でそれどころではない。連休中にドイツやイギリスへ行ったが、メイ英首相などに「あの人何しにきたの」とバカにされる始末。唯一ロシアのプーチンさんだけはいい顔をしてくれたらしいが、どれほど金を積んでも北方四島は帰ってこない。要するにもう四方八方ふさがりなのだ。
 せめて憲法改正をやって戦後政治史に名前を残したいと、20年改正憲法施行の大号令となったのだが、足元の自民党だっていままでのよう唯々諾々と、ふらつき始めた親分のあとについていくことはない。(5月12日記)


徒然なるままに №19 [雑木林の四季]

もう一度、カッコウの啼き声を聴きたい

                  エッセイスト  横山貞利

 わたしが上京してから60年余になる。それまでの昭和20年代は、生まれ育った信州・松本で過ごした。わが家から少し丘陵を登れば頂きまでで畑がつづいており、いまの季節にはカッコウの啼き声がしきりに聞こえてきた。それが晩春の光景であった。しかし、懐かしい丘陵の景色は見る影もない。丘の頂まで家並みで埋め尽くされて、わたしが満喫した昔日の面影を想いうかべることは不可能になってしまった。やはり「故郷は遠くにありて想うもの・・・」(室生犀星詩集)なのかも知れない。 しかしながら、人は少年期を過ごして心に沁みたイメージを消し去ることはできないものである。仮令、それが単なるイリュージョン(幻想)に過ぎないのかもしれないが・・・。それにしても、もう一度カッコウの啼き声を聴きたい・・と思う。

  「故郷」(詞 高野辰之 曲 岡野貞一)
  兎おいしかの山  小鮒釣りしかの川
    夢は今もめぐりて 忘れがたき故郷
 
  近年、わたしが歳を重ねたためなのか、この唱歌「故郷」を想い出すと瞼が重くなって哀しくなってしまう。因みに、高野辰之は北信州の中野の出であり、岡野貞一は鳥取の人で、高野、岡野共に東京音楽学校(東京芸大音楽学部)の教授であった。なお、岡野はわたしが学んだ高校の校歌を作曲している。

  さて、大学の入学式のことである。当時は全学部の新入生が一堂に会するような大きな場がなかったので学部ごとに講堂で入学式が行われた。その時司会をされたのは樫山欽四郎教授(ドイツ哲学・実存主義、劇団民芸の樫山文枝の父)であった。樫山教授は次の通り話された。

 諸君おめでとう。私は諸君がこの大学に入学したから「おめでとう」と言うの  ではない。諸君が「文学部」に入学したから「おめでとう」と言いたいのである。
  何故ならば「文学部は、人生を学ぶ“場”である。だから、おめでとうと言いた  いのである」。

  これが、樫山教授の言葉であった。この言葉を聴いた時、一瞬身体が硬直し、全身が痺れたような旋律が走った気がしたのを、いまも記憶している。そんなことで学部長の谷崎精二教授(エドガー・アラン・ポー全集など米文学、谷崎潤一郎の弟)の訓示など全く覚えていない。
  講義では、学科長の河竹繁俊教授のイプセン「野鴨」の講義に関心させられた。河竹先生は翌年3月に退任されたから、わたしたちが最後の教え子である。その後、河竹先生は国立劇場(三宅坂)の建設委員長になられたと記憶している。本田安次教授(文学部を経て教育学部教授)の「日本芸能史Ⅰ―歌舞伎の発生まで」、郡司正勝教授の「日本芸能史Ⅱ―歌舞伎中心に江戸時代から明治初年まで」などの講義は魅力的であった。郡司先生には演劇博物館で折口信夫「日本芸能史ノート」の研究会を開いていただけたので参加したが大変楽しい研究会だった。本田先生には「卒論―風流(ふりゅう)の研究」でお世話になった。教授一人に学生一人なので懇切に指導いただけたのは有難かった。本田先生は文化庁の民俗芸能に関する委員会の委員長を務めておられたのでご多忙だったことだろう。河竹繁俊先生のご子息だった登志夫講師が「演劇概論」を担当なされて、ギリシャ演劇の成立を中心に講義された。登志夫先生は後に教授になられたが、「作者の家―黙阿弥以降の人びと」二巻(1980年講談社文庫)を著わされた。この本によって、黙阿弥の妻女・糸さんと養子の河竹繁俊先生が黙阿弥の歌舞伎台本の管理に苦労した経緯を知ることができた。文学部では試験などで点数をつけられないので殆どレポートか論述テストであった。その他に2,3年生の夏休みには民俗芸能などのレポートを提出した。わたしは、2年の時、伊那の「遠山神楽」(本田教授)、3年の時は「木曽踊り」(郡司教授)にレポートを提出した。もともと自分の関心事であった「演劇、芸能」を専修したのだから魅力的であったことは言うまでもない。

  こうした学業の後、幸運にも在京ラジオ・テレビ会社に入社できた。入社試験は、一次が筆記試験(一般知識、語学、作文)、二次は集団討論(12、3人でグループになって討論する)、三次は個人面接だった。入社できたのは30人弱だった(技術関係は別採用であった)。

  それにしても、大学時代以降カッコウが啼く季節には信州にいなっかたから、この60年余カッコウの啼き声聴いていない。しかし、仮に信州にいても人家が増えて状況が変わってしまったからカッコウの啼き声を求めて徘徊しなければならなかったであろう。これから後、カッコウの啼き声を聴くことができるのだろうか。何とも侘しく寂しいことである。

釈超空歌集「いのちなりけり」 二首
 石上 順 還る
 わたなかの 島にとかげを 食ひつくし なほ生きてあるを おどろきにけむ
 なにのために たゝかひ生きて かへりけりむ よろこひ難きの いのちなりけり

  石上 順先生は、わたしの高校1年の担任教師(国語、古文)で恩師であった。石上先生については折をみて書き残しておきたいと思う。

気楽な稼業ときたもんだ №58 [雑木林の四季]

ちあきなおみの裏代表曲「ねえ あんた」1

                                   テレビ・プロデューサー  砂田 実

 ピーナッツの 「帰り来ぬ青春」も深い想いがあるが、この曲にも楽しい思い出がある。
 ちあきなおみの「ねえ あんた」であるい
 昭和四九年(一九七四)頃のこと、クレイジーキャッツの面々と、熱海へ遊びに出かけた時のことだ。夕食が終わってしばらくしたところで、ハナさんが、「砂さん、ちょっとつきあってくれる?」と僕を誘った。
 ハナさんは酒豪であるが、僕は一滴も呑めない。「もう一度温泉に入って寝たいな」と思っていたが、ハナさんの厚意の表れと理解して二人で旅館から近くの巷へ出た。ハナさんの付き人も、当然のことのようについてこようとしたが、「ガキは帰れ」との一言に、「どうかご無事で」とヘンな返答をして我々を見送った。この一言の意味がのちほどわかる。
                                        
 ハナさんは、出会う人出会う人が「みんな友達」みたいな人物である。そして、善意の押し売りでも有名である。やがて、熱海の町の中心を抜けてちょっと裏ぶれた筋に入った。さらに進むと、古びてどこか淋しげな「紅灯の巷」のようなところに出た。
 「ここが糸川あたりです。砂さんもキライじゃないだろう」と含み笑いをしながら、小指を立てた。僕は一瞬、「まいったな」と思った。もちろん、ハナさんの言うようにキライであるはずはない。だがこの手の場所で厳粛な作業を行なうのはキライなのである。糸川あたりのお姐さんたちには失礼な話だが、どうにもその気にはなれない。なにも女房に対するモラルなどというアホなことを言うつもりはない。単純に、ほんの数時間前に、あるいは数十分前に見も知らぬ相手と事を行なったであろう女性と、同じ事をするのがイヤなだけである。
 だがハナさんは、「砂さん、終わったら声をかけるから。まあ、アセることはないから。充分時間とってあるから」と、さっさと部屋へ消えてしまった。僕の部屋にも、当然女がきた。いかにも「浮世の波にもまれもまれて、ここへきたのよ」といった感じのお姐さんだった。「あ、そうだ!」。とっさにひらめいたことがあった。こういう時に、妙に機転が利くのも僕の身上だ。
「こんな好機がまたとあるものか」とひざを打った。

 当時、ちあきなおみのコンサートをちょうど一ケ月後に控え、プランを練っている最中だった。このコンサートならではの、ちあきのためのオリジナル楽曲のコンセプト作りで悩んでいた。ちあきなおみならではの発想、ちあきだったら誰よりもうまく演じ歌ってくれるであろう作品のヒントを得たような気がした。
 僕はそのお姐さんに言った。
「俺、二、三日前に遊んで病気もらっちゃったんだよ。だから今日はムリ。それよりゆっくり雑談して過ごそうよ」
 お姐さんは顔色も変えずに言った。
「見かけによらず好きモンなんだね。でもお兄さん、良心的ね。優しいんだ。そういう人
アタシ好きよ」
 それから、問わず語りに自分の身の上を話しはじめた。僕が知っている世界とはまったく異質の人生がそこにあった。その話が真実か創作かはどうでもよかった。こういった時は真実と受けとって黙って聞くにかぎる。しかし、不幸の連続のような人生を通過してきたにしては、彼女は明るく優しかった。それに考えられないくらいお人好しだった。
 そうだ、これでいこう。フラれてもフラれても、男を、それもかなりな極悪な男を求めつづけ、自分から苦労を呼び込む女の人生の歌。ちあきにピッタリだ。きっと彼女だったらすばらしい表現で伝えてくれるだろう。
 僕は彼女の話に引き込まれた。やがて、ハナさんの声がした。こんな時こんな場所でもハナさんの声はけっして小さくない。
 「砂さーん、そろそろいいかい?」
 帰り道、「砂さんもやるもんだね。ずいぶん長丁場だったぜ。グァバハハハ」と笑うハナさんに、「そうなんだよ。いや、ありがたかった」と僕は答えた。

『気楽な稼業ときたもんだ』 無双舎

ロワール紀行 №54 [雑木林の四季]

 オルレアン公ルゥイ・ドルレアン

                     スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎

 トウールからロワールに沿って遡る子こと六十八粁、車で約三時間。ロワールに架かる橋を右岸に渡ると、ブロワである。
 町は、まことに古く燻んでいる。しかし、かつての王都にふさわしい静寂と気品が感じられる。おそらく、今日では観光客のほか、訪う人も少ないであろう。
 ここに宮廷のあったころ、人口一万五千、現在二万八千。フラソスによくある古雅で瀟洒(しょうしゃ)、典型的なブレゾワ地方の小都市である。この付近は、フランスで最初のアスパラガス栽培地として、今日でもフランス一の産額を誇っている。
 この町の歴史は、遠くメロヴィンガ王朝に遡る。この古代フランス王国の時代、すでにここに城砦らしいものが築かれたという。
  昔から、ロワールの国における要衝の一つであった。中世初期、この地方はシャティロン家の領地だった。ブロワに最初にシャトオを作ったのも、何代目かのシャティロン伯爵である。彼は若い寵妃とともに、ここに住んだ。
 その後、オルレアン公ルゥイ・ドルレアンが、この城を譲り受けた。
 公はブロワ城を買ってから十六年後、百年戦争の真最中、パリでブゥルゴォニュ公ジャソ・サン・プゥルに暗殺された。これを契機として、国も貴族も市民も農民も、フランスは二つに割れた。暗殺されたルゥイ・ドルレアン公の未亡人、ミラノ・ドゥ・ヴァレンタイン妃は、このブロワに隠棲し、悲憤の日を送った。
 「私にはもう希望もない、愛する夫に先立たれ、どうして生きてゆけましょう」
 彼女は、傷心のあまりその年のうちに死んだ。夫に殉ずる妻の心、中世フランスにおける、最もロマンティクな挿話(そうわ)と伝えられる。

 オルレアン公シャルル・ドルレアン
 ルゥイ・ドルレアンの息子、シャルル・ドルレアンがブロワの城を相続した。
 彼は十五歳でボーヌ・ダルマニヤックと結婚し、父の仇を討つため、ブゥルゴウニュ公とイギリスに挑戦した。
 しかし、彼も悲運の城主だった。
 百年戦争の激戦の一つ、アザンククールの敗戦のさい、イギリス軍に捕われ、英国に幽閉された。彼はそこで四分の一世紀、実に二十五カ年、虜囚の生活をすごした。
 彼は十五世紀において、フランソワ・ヴィヨンと並び称される、中世フランスの代表的詩人でもあった。
 幽囚の日々、故国の妻に送った愛情の詩、その切々胸を打つ詩集『獄屋の歌』Lievre de la Prisonは、フランス文学の古典として著名である。終戦とともに、彼は釈放されフランスに戻った。しかし、愛妻は彼の長い虜囚のうちに、既に世を去っていた。人生の無常というべきか。
 この悲運の公爵はオルレアン城に住まず、このブロワに余生を送った。
 奨められるままに、当時十四歳のマリィ・ドゥ・クレーヴと再婚した。彼、四十六歳のときだった。
 シャルル公は、この娘のような新妻と静かに暮すため、このブロワ城の中庭に面し、今日、シャルル・ドルレアンの柱廊と呼ばれる、ゴシックの館を新築した。
 この館は、規模こそ小さいが、百年戦争の終了を境として、ロワール河岸に流行しはじめた武備を伴わない―単に館主の住居を目的とした―シャトオ建築の一つとして、有名である。
 二階建ての、階下は石造、多くの入口をもつアーケェドが中庭に面し、階上はレンガ造り、いずれも装飾の少ない地味な作りである。
 後年、何人かの王侯により、次々に増築された、ブロワ城の贅(ぜい)を尽した他の館に比し、この簡素な建物はまことに対照的である。虜囚として二十五カ年、英国にすごした悶々の年月を偲び、この簡素な館に満足したのであろうか。
 レンガ建築が、ロワール河畔のシャトオに広く用いられるようになったのは、十五世紀の終りから十六世紀の初めにかけてだといわれる。石とレンガを同時に使用した、十五世紀最初の建築として、この小さなシャルル・ドルレアンの柱廊はシャトオ建築史上、とくに名高い。
 私の眼の前に立つ、その風雅な館は、赤レンガのこぢんまりした建物である。そのレンガが風雪に褪(あ)せ、古雅な色調の肌が誓えようもなく美しい。
 その傍に、大きなマロニエの古木が一本、新線の姿に赤白い花をつけていた。樹齢、数百年をへたと思われるこの老木は、この館(やかた)の主の、悲しい生涯を知るのであろうか。
 彼はここに隠棲し、フランソワ・ヴィヨンなどの文人詩客を、しばしば館に招き、歌会や文学論に余生を過したという。
 無軌道な詩人ヴィヨンは、殺人や窃盗など数々の罪を重ね、二度も絞首刑を宣せられた。しかし、このブロワのシャルル・ドルレアン公の法廷で裁かれた時は、幸運にもプリンセス生誕の特赦で、一命を救われた。ともに詩作を競い、風雅の道を語った、公の好意と伝えられる。
 シャルル公が六十八歳のとき、マリィは男の子を生んだ。その生誕四年後、彼は七十一歳で世を去った。この王子がのちに「人民の父」として、敬慕された名君、ルゥイ十二世である。

『ロワール紀行』 経済往来社

BS-TBS番組情報 №138 [雑木林の四季]

BS-TBS 2017年5月のおすすめ番組

                      BS-TBS広報宣伝部

美しい日本に出会う旅

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毎週(水)よる8:00~8:54

☆にっぽんを、記憶する旅へ。

旅の案内人・語り:井上芳雄 高橋一生 瀬戸康史

四季のうつろい。
霧煙る山々の連なり。清流の清々しさ。海の輝き。桜咲き誇る街並み。
日本はなんと美しいのでしょう。
その美しい国に、驚くほど多彩で豊かな暮らしが息づいています。
受け継がれる手しごとや風習には、土地に寄り添い暮らす人々の姿が見えます。
海の幸山の幸にも、土地ならではのひと工夫。
温泉めぐりも、日本ならではの旅の楽しみです。
お国言葉を聞きながら、心もほっこり。
さぁ、美しい日本を旅しませんか。
今年春から、新しい旅の案内人として井上芳雄、高橋一生、瀬戸康史、3人の俳優が登場。

■5月17日(水)
「若葉香る山梨 水晶輝く昇仙峡と絶景!身延山参り」
若葉芽吹く春、山梨の旅に出かけます。新緑の昇仙峡はかつて水晶の里でした。受け継がれる神社の秘宝と、匠の技とは?身延山久遠寺では圧巻のしだれ桜が迎えてくれました。悟りの石段を登り、荘厳な朝勤へ…。高橋一生さんがご案内します。

5月24日(水)放送は瀬戸康史さんが案内する「茨城」、5月31日(水)放送は井上芳雄さんが案内する「琵琶湖」を予定。
※変更の可能性あり

東京とんかつ会議

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2017年5月27日(土)午後5:00~5:30
※毎月最終土曜放送

☆<とんかつ>をこよなく愛する3人の食通が名店を紹介!

出演:山本益博(料理評論家)、マッキー牧元(タベアルキスト)、河田剛(グルメアナリスト)
進行:岩瀬恵子

<とんかつ>をこよなく愛する3人の紳士。
食の世界を知り尽くした3人は、日本を代表する料理<とんかつ>の名店を食べ歩き本当に美味しい<とんかつ>の名品を提供するお店を、殿堂入りとして、その栄誉を讃えている!
それが、3人による「東京とんかつ会議」。
番組は、その殿堂入り名店に3人が一同に会し、改めて暖簾をくぐり、“旨さの真髄”を紐解く。
次回5月27日(土)は銀座の名店を訪れます。

バイタルTV「御朱印ジャパン」

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毎週(火)よる11:30~12:00

☆大人気の”御朱印”を深掘り!

出演:はな、西脇資哲

「御朱印」。8世紀ごろに写経を納める証しにもらう「納経印」が起源とされており、その歴史は古く、知る人ぞ知るものとして親しまれてきた。
それが近年、若者からお年寄りまでが楽しめるブームとなっている。
そんな御朱印ブームだが、まだまだ一般には知られていないことも盛りだくさん。
この番組では、御朱印の初歩的知識はもちろんのこと、神社によって様々なデザインがあったり、レアなものがあったりと、「御朱印」の奥深い楽しみ方を全国の寺・神社を巡って紹介していきます。

■5月23日(火)
「絶景観音様とご利益“黒招き猫”~笠森寺~」
千葉県にある絶景観音様「笠森寺」で御朱印めぐり!日本でただひとつ『四方懸造り』観音堂とご利益満点“黒招き猫”。

■5月30日(火)
「東京下町さんぽ御朱印めぐり~南蔵院・寛永寺」
葛飾・南蔵院、上野・寛永寺で東京下町さんぽ御朱印めぐり!開運の鐘、出世牛、縛られ地蔵、お散歩しながらお朱印集め。

バルタンの呟き №13 [雑木林の四季]

 「駅弁と駅便」

                          映画監督  飯島敏弘

 「戦後強くなったものは、女性と靴下」という言葉が、世間を風靡した時代がありました。
 人絹(人造絹糸)とかスフ(ステイブル・ファイバー)とか、すぐに擦り切れてしまう靴下から、ナイロン(nylon)という新素材の開発をきっかけに俄然丈夫になった靴下と、参政権を得た女性たちが、想定外の国会議員を選び出した時期と重なります。
 いつの間にか超高齢者の列に組み入れられる齢になってしまった僕ですが、最近、なにかの集まりで、かつて一時的に流行したこの種の言葉を引き合いに出してものを言うと、相手さんの反応がどうも頼りなくて、戸惑うことがしばしばあります。女性が強いのは昨今当然のことですし、戦後というと、僕達にとっては、未だ鮮やかに記憶している時代なのですが、考えてみれば、あれからすでに70年も経っているのですから、戦後という言葉自体が、世間一般にとっては、もはや、馴染のない言葉なのかもしれません。
 アメリカと戦争をしたことさえ知らないと言われる若い世代が、あの戦争をどう考え、平和のありがたさをどう感じているのか、僕にはもう見当が付かなくなってきました。その一方、国民の信頼を専横的に保有していると信じている我が国の政権は、「もはや戦後ではない」「戦後レジウムからの脱却」「美しい日本」と、目まぐるしく目標値を変えて、どうやら、オリンピックイヤーの2020年には、何が何でも新しい憲法のもとに「新しい日本」を築きあげるつもりらしいのですが、そのリーダーたちがすでにあの戦争の恐ろしさ惨めさを味わっていない世代なのですから、どんな「新しい日本」になって、彼らに巧妙に煽動されたポピュリズムがどっちを向くのか、僕には見当もつかなくなってきました。
 ですから、単に憲法九条といっても、九条とは日本国が戦争を永久に放棄する取り決めだとは知っていても、どんなことを書いてある条文なのかを、余ほど噛み砕いて説明しないと、重大な判断なのだという自覚は生まれないのではないでしょうか。
 もともと煽動に弱い国民性ですから、「外国の侵攻から国土国民の生命財産を守るために邪魔な条文だから」とお上から言われると、すんなりとその改正を鵜呑みしてしまうのではないかと心配するのです。
毎朝のラジオ体操終了後のウオーキングでは、わが街の男たちは、近頃なぜか政治談議に話題が偏ってきて、今朝などは、「シン・ゴジラ」を見て、安倍首相が自民党員に「ぜひ見るように」と言ったとか言わないとかで、普段行くことのない映画館に足を運んだ、というわが街の右翼系論客が「憲法九条のある限り、侵略してきた外敵ゴジラに、自衛隊がたった一発の銃弾を撃ち込むために、あれほど煩雑な手続きを踏まなければならないのがよく分かった」というかと思えば、「いや、総理大臣が決意さえすれば、現憲法九条のもとで、正面切って充分に、侵入する外敵を撃退できることが分かった」という、左翼系論客がいるのです。平均年齢75歳以上と推定される男たちです。
 50年前に、わが地球に共存を求めて侵入してきた宇宙流民バルタン星人に対して、断固撃退を主張する防衛軍首脳から意見を求められて、敢えて、「まず、話し合ってみたらどうか」と科特隊ムラマツ隊長に提案させた僕としては、昨今の北朝鮮を巡る情勢に臨んで、北朝鮮に対して、圧倒的な軍事力を有しているかに見える米軍の傘の蔭に身を隠しながら「断乎制裁」を声高に叫ぶわが国の政権の首脳のあり方よりも、北朝鮮との対話を試みようとするかに見える韓国の新大統領文氏の方が一回り大きく思えてしまうのです。
 「夕べ枕頭に立ったバルタン星人が、僕にこう呟いたのだけれど・・・」と前置きして、
 「韓国と北朝鮮が、相互に歴史的な譲歩を行って統一を果たして、米国とも相互的に譲歩をして和平の交渉を成り立たせた後に、日本に対してだけは、国民の感情的な問題として、あの時アメリカの尻馬に乗って脅しをかけた感情的な恨みが残されてしまった・・・」
と、語り終わった時、わが街の男たちの90パーセント以上を占める右側論客たちは、声を揃えて、
 「だから、監督は、かくれ左翼と言われるんだ・・」
と、宣ったのです。
 「右とか左とかいう問題じゃないでしょう!この街は、厚木基地からも横田基地からもさほど離れていないのですよ。北朝鮮ミサイルの照準は、アメリカでもない、沖縄でもないこの街に合されているんです!アメリカが報復爆撃で北朝鮮を壊滅した時には、僕達は、この街ごと消滅してしまう・・・」
 「SFとしては、面白いけれども、そんな絵空事は非現実的で、ノンセンスですよ、平和ボケ・・・」
 オールラウンドの論客、ミスター・ノウ・オールの結論が出て、鮮やかな鶯の声が聞こえたのを汐に、なごやかにウオーキングは続きました。いつか、僕達わが街の男たちは最近の、駅弁の味の向上ぶりの話から、耳の遠くなった誰かが聞き違えて、語呂合わせのように、駅便(駅の便所)が恐らく世界一清潔な国だ、とまじめに論じはじめて、笑い興じながらそれぞれの街角で散って行くのです。
 「また明日・・・」
 「また明日・・・」
 そう言いながら、僕はこんど、後ろから嫁姑問題を語り合いながら歩いてくるわが街の女性方にこの問題を投げかけてみよう、と考えていました。戦後70年、ますます丈夫になってきたわが街の、恐らく、原発必要論者の亭主にお構いなく反対票を投じているに違いない、丈夫な靴下を履いた女性たちに・・・

ZAEMON 時空の旅人 №14 [雑木林の四季]

「ZAEMON 時空の旅人」第十四回

                                文筆家  千束北男

                          第九章    ニンジャ美穂

「うれしい・・ふふ、忘れられたかと思って・・」
そう言いながら、ニンジャ美穂と名乗った女性兵士の指さす丘の上に、なにか乗り物のようなものが見えます・・
それが、いま、僕を後部座席に乗せて、ニンジャ美穂が操縦して疾走している乗り物です。疾走と言っていいのか、それは地面を走るのではなく、地上一メートルほどの中空に浮かんで疾る、エアロ・スクーターとでも名づけたい乗り物です。
後部座席の僕の腰は、両脇でしっかりと固定され、背もたれは、頭部まで完全にホールドされる作りです。ふと、この走りの感覚には、覚えがあるような気がしました。
なんだろう・・いつのことだったか・・
「急ぎます。この辺にはカレらのような宇宙人が多くて危険ですから」
ニンジャ美穂の注意を聞いて、両脇の取柄を握る手に力をこめます。
と同時に、グン・・と、おぼえのある、背中の圧迫感です。
「そうだ!」
思い出しました。この感覚は、ZAEMONが八ヶ岳研究所まで僕を乗せていった、あのピックアップトラックが発進した感覚と似ているのです。
コマ落としのフィルムを見るように、周囲の景色が断続的にスキップして移り変わっていくのもそうです。スピードという基準では測ることのできない移動感覚なのです。
と、
「見覚えがありませんか、ここ・・」
ニンジャ美穂の声でふと我に返ると、僕たちは、いつのまにか、峠らしきところに静止していました。大きな楡の木が、太枝をひろげて木陰をつくっています。
「あ・・」
楡の木が、突然に鮮明な記憶をよみがえらせたのです。
「僕たちがよく遊んだ場所じゃないか、ここ・・」
「男子みんなで私をつかまえて、ここへ連れてきて・・」
そうです。カクタ、イチノセたちクラスのワル数人と一緒になって、逃げ回るニンジャ美穂を捕まえて、この楡の木の太枝にくくりつけて置き去りにしたことを、思い出しました。
すると、それが思い出の坩堝の蓋を開けたかのように、当時の記憶があざやかに甦ってきます。
「ミホがほんとにニンジャだったら、逃げ出せるはずだ」
といったのは、イソハタだったか・・
僕たち四人のマフラーをつなげて縛ったのですが、結び方が悪かったのか、それともニンジャ美穂が何かの手立てを使ってすり抜けたのか、僕らがちょっと目を離したすきに見事に逃げられて、ニンジャ美穂に伝説をひとつ献上してしまったのです。
その根もとに、道祖神があります。石に彫り込まれた歓喜佛(かんきぶつ)歓喜佛が、昔どおりにほほえんでいます。
「あ・・・」
見覚えがあるどころか、向こうに見えるのは、僕たちの小学校ではありませんか。
ゴーヤの葉に包まれた小学校の校舎が、僕が通っていた頃と、全く変わらない姿でそこにあったのです。
「五年生の時の運動会、憶えてます? 80メートル走の時です。みんなに離されていたハヤト君が、信じられないほどすごいラストスパートで、一着になった時のこと」
「え?」
「鳥になったのです。ハヤト君・・」
「なんだって? 鳥になった? 見たの?」
ノロトと仇名された僕がいつものようにビリになりかけた時、
「鳥になれ! ハヤト! 鳥になるんだ!」
ZAEMONの声を聞いて、
「よし! 鳥になろう!」
と、念じて一等賞になったあの時、
「一瞬、ハヤト君が鳥みたいに飛んだ!」
ニンジャ美穂が、クラスの連中にそう言ったけれども、誰にも相手にされなかった、というのです。
僕は、あれがZAEMONの仕業だったと信じているけれども、それがニンジャ美穂には、ちゃんと鳥の飛ぶ姿に見えたらしい。
「なつかしい、あの頃が・・・」
ニンジャ美穂が、聞こえるほどもない小声でぽつりと洩らすのを聞いて、僕はふと別な感情にとらわれて、彼女の胸もとに揺れている勾玉のペンダントを見つめていました。
僕たちは、誰かの意思で動かされているのではないのか。もし、そうだとすればそれは何者なのか・・
学校には、誰もいないようです。ただ誰も見えないというのではなく、人のいる気配がないのです。
まるで静止画のように、動くものが全くないのです。
「・・・・」
ある予感にとらわれて、ニンジャ美穂を振り返ったのですが、彼女は、首を横に振ってから、こんどは、深く頷くのです。
ということは、僕の予感のとおり・・・学校の向こうは・・
「あ、待って・・・」
ニンジャ美穂の制止を振り切って、僕はスクーターから飛び降り、学校裏の丘に駆け上がりました。下方に広がっている、いや、広がっているはず、の街を見ようとしました。
我が家のある街です。
「ああっ!」
予感は的中していました。
探すまでもなく、わが家ばかりか、そこに存在していた街そのものがないのです。ありません。
丘の上から我が家を遠望するときの目印になった、団地の給水塔の姿も見当たりません。
つまり、およそ僕の視界に映る限りの範囲に、健全な建物は、一つとして存在していなかったのです。とてつもなく巨大な槌でも天から振り下ろされたように、街全体が無残に潰されて、瓦礫の海とでも言ったらいいように平たく広がっているのです。
「まるでわざとそうしたように、奇跡的に、学校だけが残されたのです。この街は、完全に消滅して誰一人いないのです」
「・・・・・」
「グレンデルのしわざです。宇宙十字軍の・・・」
グレンデル! 宇宙十字軍! またも、ピルグリム三世のなかでZAEMONの口から出た名が、ニンジャ美穂の口から飛び出します。
「僕の家は、僕の家族は、どうなったのか・・・」
「・・急がないと・・このへんには、危険な宇宙人が頻繁に現れるのです」
ニンジャ美穂は、僕の質問に答えようとせずに、ひたすらせきたてて僕をエアロ・スクーターに乗せ、いきなりフル・スロットルでその場を離れます。
小学校を卒業した後、僕たちは別々の学校に進んでばらばらになり、日が経つにつれて疎遠になり、やがては、時たま道ですれ違うことがあっても、目を合わせることがなくなってしまったのです。
「みんなからニンジャ美穂と言われて、こちらもその気になって飛びまわっていたあの頃が、今になってみると、まるでメルヘンだったように遠くて・・・」
その通りだ、と思いました。あのころの記憶が現実だと思えないほど、いま、僕が目にしている西暦2030年の日本の現実が悲惨だという事でしょうか。でも、受け容れることを拒否することはできないのです。
ニンジャ美穂の説明では、西暦2025年の宇宙十字軍との戦争を待つまでもなく、東京オリンピック・パラリンピックが行われた西暦2020年には、すでに、時の政権の無謀な成長経済政策の暴走が原因で、基幹事業や人口の集中が、災害から再構築された新東京へと加速度的に激しくなり、国内の人口構成が極端に歪んで、新東京以外の日本中至る所が過疎化して、無人都市、放棄都市があいついで生まれ、廃墟のような姿をさらしていたというのです。でも、なぜか僕の記憶は断裂的で、そのあたりの知識は全く欠落していたのです。
「どうして君が、僕の危ういところへ駆けつけてくれたのか、とても偶然とは思えないし、不思議な気がするけど・・」
「・・・・」。
「まさか、虫の知らせだなんて言わないだろうね」
「セレンディピティー・・といいましたっけ」
「予感? 僕たちが出会う、なにかの予感が働いたとでもいうの?」
「予感ではなく・・・・」
「わかった!」
答えは、やはり、彼女の胸にあるペンダントです。僕のと同じ、勾玉のような形の。
「それだ! それにちがいない!」
あの時、たしかに僕のペンダントが、光ったのを思い出しました。
ニンジャ美穂が、肯きます。 
「勾玉が、ハヤトの危機を救けよ、という気配を伝えてきたときには、まさか、と思いました・・あまりにも唐突だったから」
「勾玉が気配を・・どういうこと?」
「言葉が聞こえてくるわけではありません。でも、気配が、すべてを伝えてくるのです」
僕のペンダントが光ったのはたしかですが、気配とは、いったい・・誰が、どこから送ってくるのだろう。
「気配の導きであの場に駆けつけたのです。でも、間に合ってよかった。ゴメンなさい。焦って、手荒いことをして怪我をさせてしまった・・」
「いや、こんなものは大した怪我じゃない、心配しなくていい、ちょっと打っただけだ・・」
ニンジャ美穂の口調から、だんだん堅苦しさが消えるのと同時に、僕の方でも、だんだん蘇ってくる昔の記憶の中で、ようやくニンジャ美穂の形が整ってきました。
「ハヤトがあんなところに倒れていたというのは、たぶん・・」
急斜面を滑降するスキーのように実に巧みにエア・スクーターを操って、深い谷のようなところを滑り下りながら、ニンジャ美穂が、喋り続けます。
「たぶん、どうだったの・・教えてくれよ。僕は、なにがあったのかまったく覚えていないんだ」
僕の口調も、友だち口調に変わっています。
「でも・・こんなこと言ってもいいのかな・・」
そうでした。昔のニンジャ美穂は、言いにくい時はちょっと言い渋ってみせたのです。相手の興味をひく効果を高めるためのテクニックとして・・
「だいじょうぶだ、どんな話を聞かされても・・・さっき、ひどいものを見てしまったからね・・」
「たぶん・・ハヤトは、ストリクト星人に捕えられて、人間牧場へ連れてゆかれるところを逃げ出したのか、それとも抵抗して、記憶を失うほどの打撃を加えられたのか・・それでなければ捨てられたか・・・」
「人間牧場? 捨てられた? なんだいそれ・・どうして? なぜ? 僕にはさっぱりわからないけど?」
次々にニンジャ美穂の口から飛び出してくる言葉が、ほとんど僕のボキャブラリーにない言葉の連続なので、ぼくはまるで発育途上の幼児のように???を連発するフールになるしかなかったのです。
「ストリクト星人が欲しがっているのは、強靭な肉体なのです」
「ということは・・僕は強靭ではないということ?」
「ちがいます。そういうことじゃありません、もっと・・」
「もっと、なんなの・・」
「もしかすると・・と思って、ちょっとおそろしかったのですが・・」
ニンジャ美穂が口ごもります。
だんだん、しびれが切れてきて、言葉がきつくなっていきます。
「回りくどい言い方をするね、大丈夫だよ僕は・・」
「でも・・」
「だから、ニンジャ美穂らしくさ、知ってることを全部教えてくれないか」
「ハヤトが、さっき、昔のことをいろいろ思い出してくれたので、ほっとしたんだけど、もし、そうじゃなかったら・・こんなことをしてるのが、すべて無駄だったかと思って・・」
「無駄? そうじゃなかったら? どういうこと? 頼むからさ、洗いざらい、ぜんぶ説明してくれないかな」
身の危険を冒して僕を救ってくれた恩人と言っていいニンジャ美穂に向かって、僕は思わず、語気を荒げて問い質していました。自分自身の身に起こっていることがまったく理解できない苛立ちが、そうさせたのです。
「信じられないことだと思うでしょうけど・・」
ニンジャ美穂が、話しはじめます。
でも、山本久美子先生、ここからさきの、ニンジャ美穂の口から出たことを、ここにすべて書くのは、ぜったいやめたほうがいいと、何度も何度もためらったのです。でも、お許しください、ありのままを正確に書くのが日記です。ですから、書かねばなりません・・
ですから、ここからの一ページ分は、どうぞ一気に読み飛ばしてください。そしてすぐに忘却の籠に投げ捨てていただきたいのです。いくら、どれほどに、凛となさっている山本久美子先生でも、すくなくとも一週間の絶食に耐えていただかなければならないほどひどい事実が、ご存じのあのニンジャ美穂、ソバカスだらけのいじめられっ子から、まるでギリシャ神話のアマゾネスの兵士のように逞しく変身した甲賀美穂君の口から語られたのです・・・
ここからはすべてくとうてんをむししてしかもかんじもかかずにぜんぶひらがなでいっきにかかないとかけないのでせんせいもけっしてとちゅうでもどることなくひといきでよんでくださいすとりくとせいじんはいけどりにしたにんげんをにんげんぼくじょうにとじこめておいてきがいはくわえないかわりにさいていげんのえいようをあたえてしいくするのですにくたいがけんこうでなくすてるときめたにんげんからはすべてのきおくをけしさってしまうためにあるしゅのロボトミーしゅじゅつのようなものをほどこしてしまうというのですロボトミーとかきましたがこれはけっきょくのうのいちぶまたはぜんぶをとりさってしまうというおそろしいしゅじゅつですつまりすとりくとせいじんはにんげんのせいめいとかちのうはいらないけれどもけんこうなにくたいはひつようなのですけんこうなにくたいにじぶんたちがはいりこんでそのにんげんになりすましてしまうというのです。

あの恐ろしく残虐な宇宙人たちに取り囲まれていた僕を助け出したニンジャ美穂でしたが、
「もしかすると・・」
と、口ごもったのは、せっかく危険を冒して助け出した僕が、もし、人間牧場で不適格者と認定されておそろしい手術をされたあと捨てられた人間だったとしたら、と心配したのです。
「助けても無駄かもしれないといったのは、そういうことだったのか・・」
「ハヤトは、きっと、なんらかの方法であのおそろしい人間牧場から逃げ出すことが出来たのです・・でも」
「でも・・・・?」
「ここまで来る途中、いろいろと昔のことを思い出すことができたので、安心しましたけど・・」
「安心した、って、君は何を心配していたの?」
山本久美子先生! お許し下さい・・ときおり、カバンの中に、サキだのポーだの著名な外国作家の幻想小説の本を忍ばせていらっしゃる先生のことですから、きっと理解していただけると思ってお尋ねしますが、地球人類よりも高度な文明を持つある種の宇宙人には、憑依(ひょうい)憑依という能力が備わっているのをご存知ですか?
小学生のボクが、こんなことを申し上げるのは変だとお思いになるかもしれませんが、今ここにいる僕は、西暦2030年の、二十四歳の僕なのだという事を、ご理解くだされば、不自然ではないとお分かりただけるものと思います。
憑依とは、英語では、POSSESSEDとか、WALK INというらしいのですが、日本語で説明すると、憑(と)憑りつく、とか、乗り移るとかいう言葉が当てはまるのでしょうか。要するに、相手の中に入り込んで、相手に成りすましてしまう能力を持っているということなのです。
「信じられません! そんなこと。まったく非科学的じゃありませんか!」
あるいは、逆に先生は、凛、としてそうおっしゃるかもしれませんが、そうなのです。地球の科学知識では考えられない原理が、しばしば宇宙では働くのです。
あえて失礼なことを書いて、先生を怒らせたいわけではないのですが、おゆるしください。先生が、科学的でないとお思いになるとすれば、それはあくまで、地球人類の科学知識で判断なさろうとするからにほかなりません。ここは、宇宙人の科学領域での話です。
「理解できましたね! それでは、先へ進みます・・」
教室での山本久美子先生のいつもの口癖通り、先へ進ませていただきます・・・
                                                      つづく

私の葡萄酒遍歴 №44 [雑木林の四季]

アルゼンチン

第一章 アルゼンチンの国の概要と歴史

                ワイン・グルマン 河野 昭

アルゼンチン国の概要
アルゼンチン国は、ホルヘ・ルイス・ボルヘス氏(作家・詩人)、ホウーリオ・コルターサル氏(作家)、エルネストサバト氏(作家)、レネー・フアヴァロロ氏(医師)、ホウアン・マヌエル・フアンヒオ氏(自動車競走)、ペレス・エスキベール氏(ノーベル平和賞受賞者)、ルイス・フエデリコ・レロアー氏(ノーベル化学賞受賞者)、リオネール・メツシ氏(サッカー選手)の人たちの国である。また、タンゴやサッカー、アサード(焼肉)やエンバナーダ(ミートパイ)のように美味しい物の国でもあり、情熱的で友情あふれる人達の国でもある。もちろん、アルゼンチンワインを忘れてはならない。

ワインは時代から時代に伝えられた国民的な飲み物である。一口飲めばそれを仕事に伝え、文化になると言われている。2010年にはアルゼンチン国家の飲み物として選ばれ、食卓に並ぶ唯一の経済的の支えとなってくれるものと知られている。1960年代後半には1人当たりの飲酒量は90リットルを超えたと記録されている。
栽培面積は南アメリカでは2番目で、世界では3番目だとされていて、その面積は374万1274平方キロメートルになる。景色は様々で、荒野と氷河の跡地が混合していて、谷や山脈がもあれば、森林から温帯草原まである。また、たくさんの河は大西洋に注ぐ。西には雄大なアンデス山脈が連なっていて、ヒマラヤの山々に続く、世界で2番目の高さで競うアコンカグア山がある。

アルゼンチン国には、その他、大変きれいな場所がいくつかある。例えば、パタゴニア地方にはペリト・モレノ氷河と北にはイグアスの滝がある。

アルゼンチン国の経済は外国移住者が入った殖民地時代から20世紀前半まで農業輸出国として知られていた。その時代には、農業だけではなく、家畜産業、鉱物産業、エネルギー資源産業、漁業産業などが盛んであった。その中でも、葡萄栽培産業が盛んであった。それは、気候は言うまでもなく、地理的にも良いコンディシヨンが整っていた為で、葡萄栽培に適していたからだ。

私達のワインは、世界のワイン業者に知ちれている中では一番遅れて市場に出ている国として知られているが、我々の先祖が持って入れた古いヨーロッパの品種を受け継いで栽培している。

ラテン系なのかヨ一口ツパ系なのか
新しいのか古いのか
その対立は我々人間が決める
それが唯一なる祝福なのだ
私たちのワインも同じで、文化の基となるもので
シンプルな生産力で世界に誇るものとして見せてくれる
私たち人間としてそうだが、私たちのワイン同じなのだ

いつか空が晴れる №15 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる

       -「日曜はダメよ」とパン屋とソクラテスー

                                                  渋沢京子

  五月晴れの休日、ぶらぶらと散歩がてらタワーレコードに寄ってナナ・ムスクーリの「日曜はダメよ」の入ったCDを買う。時々、どうしてもこの曲が聴きたい、となる、まるで身体が必要な食べ物を自然に欲するように。
 休日の渋谷は若いカップルや外国人観光客でにぎわっていて、歩道には宮下公園から追い出されたのだろう、「事故で片足を無くして働くことができません」と書かれた段ボールを立てて蹲っているホームレスのおじさんを横目に通り過ぎて家に帰ってきた。

 昔、一番、行ってみたい外国はギリシャだった。一番憧れていた国はギリシャだという祖父にお土産を買ってくることを約束して、はじめてアテネに行ったのは学生の時。夏だった。
 抜けるような青空と青い海。日陰のない強い陽射しの中をパルテノン神殿まで登ったこと、日射病に注意の看板が坂道を曲がるごとに立っていたこと、街のところどころの日陰には猫がたくさんいたこと、中東風の顔立ちの人が多かったこと、白い石造りのギリシャ風の民家でアジの開きを売って犬と暮らしている日本人の漁師さんに会ったこと、確か遠洋漁業の漁師さんだった。ギリシャが気に入って住み着いているのだという、オデュッセウスの海と日本の海はつながっていたのだ。確か昔読んだ記憶では「葡萄酒色の海」という形容詞がしきりに出てきて不思議に思ったことがあった、葡萄酒色の海って?
 夜九時ぐらいまで日が明るくて、夜中過ぎても路地で子供たちが遊んでいたこと、公園で、すごい美青年が日光浴していたこと・・ワイン祭りに行ったこと・・
 何しろ昔の事なので思い出すのは断片的なことばかり。
一緒に行ったのは大学の同級生のK(彼女はその後、反原発で有名な映像ドキュメンタリー作家となった)

 泊まっているユースホステルの近くのパン屋さんのおじさんと親しくなり、ある朝、彼が突然「私の祖先はソクラテスなんだ。」というのにはびっくりした、ソクラテス?まさか?
Kと笑い転げると、パン屋のおじさんは真剣な顔で「本当にソクラテスの子孫なんだぞ」と店の外まで追いかけて主張した。
 なんとなくチルチルミチルの想い出の国に出てきそうな、のどかな感じのパン屋さんだった。というか、ギリシャの国自体が黄昏というより、想い出の国に近いんじゃないだろうか。メリナ・メルクーリのような美人の気のいい娼婦には会えなかったけど、ソクラテスの子孫には会ったのだ。

 ギリシャは貧しいかもしれないけど、路地で遊ぶ子供たちの表情は底抜けに明るくてかわい。子供たちの写真を何枚も撮ったけどその後、盗難にあって紛失。

 街のところどころで見かける老人が必ず持っているお数珠を、祖父へのお土産に買って帰ってきた、確かそのお数珠は、宗教的なお守りではなくて、数を数えることによって老人のボケ封じになるとかそういわれたので、そのように説明して祖父に渡すと、祖父はとても喜んでくれた。

私の中の一期一会 №142 [雑木林の四季]

今村復興大臣が、東日本大震災は「まだ東北で良かった」と失言して“クビ”になった
~「国境なき記者団」が“報道の自由度・世界ランキング”を発表、日本は72位へ大幅ダウン~

                          アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 宮城県女川町の仮設住宅に住むお年寄りが「何でこんな人が大臣になるのだろう」と怒り,嘆いたという記事が新聞に載っていた。
 今や「前」となった今村雅弘復興相(70)は25日、所属する自民党二階派のパーティで、笑いながら登壇して「お騒がせしております」と挨拶してからスピーチを始めた。
 その場で飛び出したのが、東日本大震災の被害について「まだ東北で、あっちの方だったから良かった。これがもっと首都圏に近かったりすると莫大な、甚大な被害があったと思っている」という発言をしたのである。
 東北の各被災地には、大震災から6年を超える歳月が流れても、まだ仮設住宅を出られない避難者たちがたくさんいるのだ。
 言うに事欠いて「東北で良かったはないだろう・・」と誰しもが思った。
 南相馬市の桜井勝延市長は、“東北で良かった”という差別的発言を耳にして「震災で犠牲になった2万人に対する冒涜だ」と激怒した。26日の河北新報がそう書いている。
 岩手県の達増拓也知事は「聞いた瞬間、身が凍るような衝撃を受け、怒りが湧いた」とコメントした。
 復興大臣の“心ない発言”に、心を踏みにじられた自治体の長や被災者たちから強い批判の声があがったのは当然であろう。
 今村前復興大臣は今月4日、原発事故の自主避難者に対し「本人の責任だ」と述べて批判されたばかりだった。
 4日の会見では、今年の3月末で住宅支援を打ち切られた自主避難者への今後の対応を記者に問われ、「自主避難者なんて“本人の責任でしょう”、住宅支援打ち切りが気に入らないなら裁判でも何でもやればいい」と発言したのだ。“聞き捨てならぬ大臣の発言だ”としてマスコミは一斉に厳しい批判を今村大臣に浴せた。
 自主避難者の耳には、“失言”などではなく“暴言”に聞こえたのではないだろうか。
 「大臣自身が実情を知らないのではないか」と記者に追及されてブチ切れ、「無責任だなんて許さん!」とか、「謝りなさい!」、「2度とくるな!」などと激怒する始末。とうとう「うるさい!」と怒声を記者に浴びせ、一方的に会見を打ち切ってしまったのである。CNNの記者を恫喝したトランプ大統領を真似た訳でもあるまいに・・人間的にも度量の狭いお粗末な大臣であった。
 “自己責任”発言は“失言だった”と撤回して謝罪したが、その日のスピーチで「東北で良かった」という失言が飛び出したところをみると、“政治家の謝罪”が如何にナンセンスであるかがよく分かる。
 一度は庇って続投させた安倍首相も、さすがに二度目は許せず、“更迭止むなし”となった。
 26日の今村復興相辞任に関する記者会見で安倍首相は「被災地の皆様の心に寄り添いながら復興に全力を挙げる、これは揺るぎない内閣の基本方針であります」と神妙に謝罪するしかなかった。
 「自己責任」発言が問題になった時には、被災者より今村大臣に寄り添って、続投させたくせによく言うよ・・・
 今村氏は、昨年8月の内閣改造で初入閣したのだが、復興相に就任するとき「復興相かあ・・」と落胆していたというエピソードが残っている。
 歴代内閣は復興相を軽量ポストとして扱ってきたらしい。当選回数を重ねながら入閣できない待機組に実績を与える“調整ポスト”として使われてきたのだ。
 だから安倍首相の言う“被災者の皆様の心に寄り添いながら復興に全力を挙げる大臣などいなくても”別に不思議ではないのである。
 “なるべきでない人材の登用”が一番の問題だという指摘があるが、そんな指摘も安倍首相には馬耳東風だろう。
 「何でこんな人が大臣に・・」と言うのは復興大臣ばかりではない。稲田朋美防衛大臣と金田勝年法務大臣をみれば分かるではないか。“なるべきでない人材”が主要閣僚になっている典型と言ってもいいだろう。
 “安倍一強”の弊害の一つは、“閣僚の失言”や“不祥事”を庇い続けて恥じない“政権の驕り”にあると私は思っている。
 今月は山本幸三地方創生相が、大津市のホテルで開かれた地方創生セミナーで、文化財観光の振興を巡る案内方法やイベント活用が十分でないのは「一番のがんは学芸員だ。観光マインドが全くない。この連中を一掃しないとダメだ」と発言して批判された。
 新聞によれば、山本大臣は新しいアイディアにも学芸員は文化財だからと全部反対する。“学芸員だけの文化財では、観光立国で生きていくことは出来ない”と学芸員を攻めたのだ。
だが、美術館も博物館も「どうしたら来館してもらえるかを真剣に考えている学芸員は大勢いる」と学芸員側からは反論が出ていた。
 「一番のがんは文化学芸員だ」と発言する前に、「がん」や「一掃する」というような言い方が“不適切”だと思わない無神経さに私は嫌悪感を覚えるのだ。
 山本大臣は、「一掃」は言いすぎだったと発言を撤回して謝罪したが、“発言した事実”は消去できないことを知っておくべきだろう。
 驚いたのは、自民党の二階俊博幹事長が講演で「(マスコミは)余すところなく記録を取り、一行でも“悪いところ”があれば首を取れと・・。なんということか」と述べたという報道だ。
 今村大臣の辞任はマスコミのせいだと言わんばかりの発言に聞こえるではないか。
 「(記者)の首を取ったほうがいいくらいだ。そんな人は初めから排除して、入れないようにしなきゃだめだ」と続けたのはメディアへの脅しに他ならない。
 政権与党の幹事長という“権力者の脅し”にメディアは屈してはいけない。
 一行でも、一語でも“悪いところ”があれば追及するのはメディアとして当然なのだから・・・
 共産党の志位委員長が「一番反省しなければいけない人が、マスコミに責任を転嫁して、ああいう発言をするのは言語同断だ」と批判しているが全く同感である。
 安倍一強に、“都合のよいところだけを報道させておけばよい”という驕りの意識が垣間見えて不愉快だ。
 国際NGO「国境なき記者団」(本部はパリにある)がこのほど、“2016年の報道の自由度世界ランキング”を発表した。
180の国や地域が対象になっているが、日本は“72位”である。前年15年は61位だったから1年の間に11ランクも順位が下がったことになる。
 テロの脅威、ナショナリズムの台頭、政治の強権化、政治的影響力を持つ富豪らのメディア買収など、時代背景は当然のように“報道の自由度”に影響してくる。世界的に“報道の自由度は損なわれつつある”というのだ。
 報道の自由度は、「良い状況」「どちらかと言えばよい」「問題がある」「厳しい」「とても深刻の5段階評価になっているが、日本は「問題がある」に位置付けられている。
 ランキングも、2010年の日本は11位でベスト10入りも夢ではなかった。しかし、その後順位は下がる一方で14年59位、15年61位とダウンを続けた。特にこの1年がひどく11ランクの急降下だ。
 国境なき記者団は、世界各国のジャーナリストらが集まった国際NGOで毎年、14団体、ジャーナリスト、特派員、調査員、法律専門家、人権活動家ら130人が50の質問に答える形で報道の自由度を評価し、それをまとめたものをランキングとして発表している。
 14団体、具体的な基準、130人の内訳などは公表されない。意図的にランキングを高める行動をとられると公平性を欠くため、全て非公開だ。
 日本が「問題がある」に位置付けられた理由を推測すると、特定秘密保護法にあるように思える。
 国境なき記者団は、予てから日本の特定秘密保護法が、取材の方法次第で記者も処罰され兼ねない点に疑問を抱いてきた。施行から1年余りが経過して、多くのメディアが“自主規制”したため独立性が失われていると判断されたのだ。とりわけ安倍首相に対する自主規制になっている現状に「問題がある」と思われたようである。
 世界ランキング上位には、フィンランド、オランダ、ノルウエー、スエ―デンなど北欧諸国が名を連ねている。
  主な国では、ドイツ16位、英国38位、米国41位、フランス45位、イタリア77位 ロシア48位、中国76位、シリア77位、北朝鮮179位、最下位180位はエリトリアとなる。
 日本の72位は主要7カ国(G7)では最下位だ。
 報道の自由度の後退をニュースとして伝えたのはHNK,朝日新聞、日経新聞だけのようだが、菅官房長官は21日の会見で「我が国で表現の自由、報道の自由は極めて確保されている」と述べた。でもホントだろうか・・・

徒然なるままに №18 [雑木林の四季]

 憲法記念日に寄す

                                    エッセイスト  横山貞利 

 GW(ゴールデンウィーク)を迎えた。今年のGWは4月29日~5月7日まで9日間だろう。この間の人出は警察庁の予測によれば全国で6、576万人に達するということである。毎年のことながら5月3日の「憲法記念日」には一部の人たちを除いてはシンポジュームなどに出席することはなく、大概の人たちは「憲法記念日」を気にすることはあるまい。即ち、それほど「憲法記念日」の恩恵を享受しているのでる。
 1946年(昭和21)11月3日に「日本国憲法」が公布され、翌年1947年(昭和22)5月3日施行された。「日本国憲法」施行から70年経ったが、この間、わたしたちは「日本国憲法」に則り、憲法が保障している“自由”や“基本的人権”などによって守られて生きているのである。これこそが「日本国憲法」に由来する恩恵なのである。

 ところで、1946年11月3日の「日本国憲法」発布の記念式典に当時の東京大学総長であった南原 繁が「日本国憲法」の趣意を述べているので要約を記しておきたい。

〇 終戦一年二か月余、その間、敗戦の汚濁と痛手を一身に負うた国家も、その旧い形骸を脱し廃墟のなかから、いま新たな建設への全貌を明らかするに至った。今回の憲法改正の事業は実にそれにほかならない。
〇 第一に、そとの世界に対し戦争放棄と平和国家理想の宣言で、かくのごときは、その精神に於いて実にわが国家有史以来の敗戦により払った犠牲の血の教訓である。
〇 第二に、民主的根本変革である。新憲法の根本はその全体にわたって、民主主義精神の拡大強化にある。それこそ新日本国家の基本的性格であり「民主日本」、「平和日本」の名のもとに新しい性格の表現である。
〇 第三に、かような民主主義国家の内部にあって、人間個人の完全な自由が確保される。国民の基本的人権を侵すべからざる永久の権利として保障されている。
○ 武力の戦いは、われらから去り、これよりは主義と理想と性格の戦いである。われわれはこの新たな平和の戦いにおいて、栄光ある勝利を獲得し、われわれの祖国再建の偉業を成就せずに已まない。

 以上が南原 繁の式辞の大要である。南原 繁は貴族院議員として憲法改正に係わる一方で教育刷新委員会において学校制度改革を指導推進した。1946年(昭和51)のサンフランシスコの講和会議を前に「全面講和」を主張して、時の総理・吉田 茂から「曲学
阿世の徒」と決めつけられた。講和会議においては49カ国が調印し、ソ連、チェコ、ポーランドの3国が調印しなかった。この時点から冷戦がスタートしたと言ってもいい。
 戦後、最初の転換点になったのは1950年(昭和25)に勃発した「朝鮮戦争」であるように思う。15年戦争=1931年の満州事変から支那(中国)事変)、太平洋戦争=で疲弊した経済は国連軍の兵站基地になることで特需景気になり、紆余曲折はあったけれど60年代の高度経済成長へと繋がっていった。こうした動向はベトナム戦争特需と相俟っていた。政治的にも上述の通りサンフランシスコ講和条約によって「占領軍による支配」から「国家主権」を回復し、同時に日米安保条約により基地を米軍に提供することで冷戦時代の最前線基地になった。そして1991年(平成3)にソ連が崩壊し冷戦が終わった。
 このように現在の日本の構造は1950年代に成立したと言ってもいいだろう。
 それにしても、最近の情況を見ていると日本人は幼稚化しているような気がする。これが平和ボケというものなのか。わたしの杞憂なのかもしれないが・・・。

 薫風の候、緑が萌えだし芍薬や躑躅、モクレンなどが綺麗に咲き誇っている。行楽には絶好な季節である。労働環境が厳しい現在、束の間の休日を楽しむと同時にもう一度「日本国憲法」を読んで欲しい、と思う。

  前原 繁 三首
  「昭和二十年 暁光」
 ヨーロッパ戦線終了したれば 壁に貼りし 世界地図はたたみてしまひぬ
 けふよりは詩篇百五十日に 一篇詠みつついけば 平和来なむか
 眞夜ふかく極まるときし 東(ひんがし)の暁の光の ただよふにかあらし
                    南原 繁・歌集「計相(けいそう)」より


パリ・くらしと彩りの手帖 №121 [雑木林の四季]

選挙が終わらなければ何も手につかない現在のフランス社会

                   在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ

フランスの大統領選挙、第一次で絞られた二人が5月7日第2次に。

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ルペンとマクロン

 前回はフランスの大統領選挙の直前のお便りだったが、十一人の候補者の中で、多くの支持を集めた二人を対象に2週間後の5月7日の日曜日に再投票が行われることになった。ここ迄はいつものことなのだが、いまだかつてなかった現象が起きたのである。それはもう、フランスが第五共和国となってからいつも大統領選挙では右と左の二つの大政党の代表に絞られて、第2回投票へとなっていたのに、今回はそのどちらからも第2回投票に進む候補者はいなかったということだ。今まで、長いこと保たれていたフランスの政界にに根本的な変化が起きたと言うことなのだ。そして、自分は左派の人間ではあるけれど社会党の党員ではない。すべての人に平等のチャンスをという運動をしている39歳のマクロンが11人の候補者の中のトップで、23、86%、そして、フランス中をギョッとさせたのは、極右の国民戦線の党首であるマリーヌ・ル・ペンが21%43で2位になったと言う現実だ。こうなったら、もうなんでもいい、まずは、この極右政党の進出を阻まなければフランス中がダメになってしまうという悲壮な感覚で、これをせき止めるために、伝統ある右も左も党員たちに、決定投票にはマクロンに票を入れるべきと、それぞれに合図を送ったのだった。左派の人間だと言っているマクロンに、票を入れるようにと、ラジオやテレビを通じて、右派までが合図したのだ。そして、次の決定版を待つこの2週間、二人の候補はフランス中を駆け巡っている。もっとも敏感な選挙民を持つ地区を優先的に回ったことから、この相容れない二人の候補者はその2週間足らずの最終戦中、もうすぐ工場が閉鎖され、失業することになっている工員たちの前で、何度か顔合わせをすることになったと報道されている。自分が大統領に選ばれればそんなことはさせないと二人とも云ったわけだ。そしてこの水曜日の夜、この二人の最後のテレビ討論が予定されているから、その聴取率はピークに達するにちがいない。その4日後が投票日だ。今までは大統領が5年後に再選されて、2期目を務めることが多かったが、現大統領が再立候補しないと決意したのは、再選される可能性があまりに低いこと、そして哀れな票数で恥ずかしい思いをしたくないからだという一般の見方が本当であろう。とにかく、何をしても、ダメだ、とか、この任期中に何一つできなかった、しなかった、の批判ばかり。あれほど大量の殺人がイスラムの名で犯され、絶えず振り回され続けた4年間だったと言えようが、失業者の数は一旦やや減ったものの、今また増えているとか、いろいろ言われながら、大統領の座を去るのは無念なことだろう。その中で、1年間、彼の大蔵大臣を務めたマクロンが、最近の政見発表の機会に、ちら、ちらっと、今の大統領がやったことがいろいろある、時間が経って、それがよく成長するものもあるだろう、というようなことを発言したのは、最終戦になる以前に現大統領がマクロンを押すような素振りがあったこともあって、現大統領へのいたわりの印なのだろうか?とすら思う。
 私の 次のパリからのお便りは、新しい大統領、そして内閣が発足してからになる。楽しみであると同時に恐ろしさが纏わっている今回の選挙、フランスの不満分子たちがどのくらいいるのか、そのひとたちが真剣に自分たちの不満について考えずに、それをただ目の前の選挙にぶつけるとしたら、本当に恐ろしいことになりかねない。マリーヌ・ル・ペン はシャトーで生まれ、あの政党を作った父の娘だ。そしてマクロンは地方の町に生まれ、学校の成績抜群で、早々と目をつけられる存在だった。卒業してすぐ、ロッチルド銀行の仕事をし、その優秀さをすぐに認められ、財を作ったが、銀行をやめて、大統領の官邸での仕事に就いた。その3年近くの間、特に目立つ行動や、口出しはなかったと言うが、オランド大統領が、その後、彼を大蔵大臣に任命しての1年間は、あっという間に幾つかの、新しいことを決めて、それが今もうまくいっている。例えば、シャンゼリゼのようなところで、日曜日に店が全部閉まっていてはツーリストが買い物もできないと不満を言われ続けていたものを、従業員が、日曜日の高い賃金に満足で、やりたいというならば開いてもいいということになった、しかもその決めたことが実行されるまでの期間は 非常に短いから、もうすでに、当たり前のことのように実行されているのだ。店は儲かるし、働くひとも、希望者はいい給料をもらえるし、外国人ツーリストたちも満足、フランスにとってこんないいことを早く実行し、すでに昔からやっているような感じすらするのだ。私の個人的なマクロンの思い出は、2年ほど前のことだけれど、大蔵省でのプレスの集まりに遅れて行ったら、もう始まっていたが、大臣不在だった。そこに遅れて入ってきたマクロンが私を見て、握手するために詰まっている記者たちの間を分けて来たのには驚いた。彼は、他の記者達とは出る前に一人一人に挨拶してあったのだろうかと思ったが、とにかく新顔を見て挨拶に来たわけだ。今まで、そんな大臣を見たことがなかったから私にとっては大きな驚きだった。そして会議の終わる少し前にこれからアメリカでの会議に行って来ますと、出て行ったのだった。

大阪市が万博を2025年に開きたいと、パリの国際万博局に申請

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パリにある国際万博事務所に申請中の大阪市
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万博事務所長と、大坂市の責任者達が、パリの日本大使を囲んでいるところ。

 1970年に万国博覧会を催した大阪市が、東京オリンピックの5年後、2025年に2度目の大坂万国博覧会を催すことになった。なったと言ってもこの国際万国博覧会のメンバー国のおメガネに叶わなければ許可が出ないのだという。そしてそのテーマは、”人々の生活の質の向上に向けたものでなければならない”のという。では50年近く前のあの大坂万博のテーマは何だったのかと日本代表に質問したら、日本でいろいろな機械や技術の発展が目覚しかったからそれがテーマだったという。なるほど、そういう時代に、日本は世界に向けて発信し、日本の技術が世界に高く評価されたあの時期の事だったのだ。あれから世界に日本の研究や技術が轟いて、ソニーのような会社の知名度が上がり、それまでは日本語を学ぶ事のできる学部はあっても、そこに登録する学生は、まるで、特殊な趣味を持っている人のように思われていた。それで、日本語を勉強する人はこれまでわずか数人だったのに、このときから、爆発的に急増して、それまで年に2、3人だった日本語のクラスが、登録するためには前の晩から並ばなければならないほどに、一挙に急増してしまったのだ。それに対処する構えがまだまだ大学の方に出来ていないから、日本語学科の先生は二人しかいないという事で、パリに着いてすぐから日本向けの日本語放送を担当する事になってしまった私まで、引っ張り出して、両方を掛け持ちしなければならなくなった。それというのも、日本語科の日本人の先生はパリに住んでいた文学者の森有正と、早稲田の私の先輩の藤森文吉の二人で、教室に溢れる学生数に、とても手が回らないからと悲鳴を挙げてきたからだ。そしてそれから数年経つと日本語の優秀なフランス人も何人か出て、教師陣も揃って行ったのだった。今回の大坂の万博が今から8年後に実現するならば、そのテーマと成る”私たちはどんな未来の社会を創るべきか”も十分に考えを練って、明快な答え、明快な道を世界に発信しなければならない。2025年の5月3日から11月3日までと申請している大坂万博の5年前、2020年には、アラブの国、ドバイが、”水”をテーマに万博を開く事が決まっているという。そして、2025年のそれには、締め切りまでにまだまだ他の国が立候補してくる可能性も大きいという事だ。

ストラスブール国立オーケストラによるベルリオーズ作曲の”トロワの人々”コンサート形式の演奏を聴く

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コンサートホール全景。えんじ色の深い凹凸の壁がいい音響を創っている
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歌い手はそれぞれ出てきて正面のいすに˜すわって出番を待つ
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赤いドレスが主役の一人、メゾ・ソプラノがマリアンヌ・クレバッサ
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歌い手たちの出番が終わった、赤いドレスの歌手をオーケストラの奏者たちもブラヴォーとたたえているところ。そのすぐ近くの左にいる黒髪の女性達が日本人で、今は四人目が入ったところだとか。私が前から知っているヴァイオリニストの小川英知香(エチカ)さんはもう20年になるという。

 私も属している音楽ジャーナリストと音楽学者の会に、突然、ストラスブールの国立オーケストラからの招待状が飛び込んできた。フランスの誇る作曲家、エクトール・ベルリオーズのオペラ、5幕ものだ。長い、長いオペラだから、なかなか上演されることがない。それを、コンサート形式でやるというのだ。私たちのグループはみんなでこのご招待に応じた。フランスのなかの、それもここのように国立のオーケストラでも、なかなか聞く機会がないからだ。汽車とホテルはオーケストラが持ってくれるのだという。願っても無いご招待で、パリにいても聞く機会のないこの曲、全曲を聞く事ができるのだ。5幕の長いオペラだから、何と5時間半も続いた。間に2度わずかの休みがあったけれども。歌い手はみんな舞台に並んだ椅子に座って、出番を待つというやりかただ。粒ぞろいの歌い手達が、オーケストラと見事なアンサンブルを生んだ。パリの新聞社、外国人の音楽記者達を集めたのも、こんな機会は稀で、貴重だからだ。しかも今回、この地方の新しい責任者達が、文化に対するしっかりした考えを持って集まった、こういう時期にこそ、大きな飛躍が可能になるのだ。オーケストラの演奏会場はもとより、練習するための広い空間など、オーケストラが力いっぱいの演奏ができるような空間が用意されていた。私には久しぶりぶりに会える若い友人がこのオーケストラにいるのも楽しみの一つだった。パリの音楽院で勉強した後、20年も前に、このオーケストラに就職した若い友人、ヴァイオリニストの小川英知香(おがわえちか)さんは、今では他に2、3人の日本人音楽家達と共にオーケストラの力となっているのだ。アルザス地方の大都市であるここからは、20キロも走ればドイツだという。この街を走っている市内電車も、近々ドイツ側まで乗り入れる事になっているという。今でもドイツ語に近い方言で話す人たちがかなりいるとのことだ。こんな時代になって、ヨーロッパを離れようという大統領候補がいるという事は本当に残念な事だ。英国もついにそうなってしまったが、ヨーロッパを離れる手続きは長い道のりというから、その間に政府が変われば如何なるかわからない。フランスでは、あと数日で大統領決定戦、フランス人が、フランスにとって危険の少ない道を選んでくれる事を、外国人である私達も期待している。労働者の給料を何パーセントあげるとか、舌先の言葉に惑わされないでもらいたいものだ。

 さあ、後数日で、フランスの未来がある程度想像できる事になろう。右も左もこの危機感のためにこそマクロンに1票をいれるようにと合図しているが、どのくらいの人がそれを聞き入れるか、棄権して投票しない人がどのくらい出るかもその結果に大きく影響するだろう。昨日はそのための労働者組合のデモがあった。日本にもかつてナチのような時代があった。その苦しみを知った人には理解出来るはずである。私が子供の頃、うちには中国人がたくさん来ていたが、みんな日本の名前を持っていて、日本人という事になっていた。お巡りさんに聞かれたら、支那の人なんてこないよと言えと言われて育ったものだ。父はそのために刑務所に入った事もある。泥棒といっしょだったと、後になって璞をつけた感じだったのを思い出す。                                                                      さあ、後5日間の辛抱!!!

気楽な稼業ときたもんだ №57 [雑木林の四季]

さよならザ・ピーナッツ

                                TVプロデューサー  砂田 実

 この本を書くにあたって、自分の過去の作品の資料をまったく残す習慣のない僕は、念のために「ウイキペディア」を検索していて、その記述に驚いた。ザ・ピーナッツの引退記念アルバムの中で、なんと言っても心に残るのは、「帰り来ぬ青春」であると感想を述べてくれている。さらに、「このレコードのライターノートを書いた砂田実氏というテレビプロデューサー云々…」とあるのを見て、なにがなんでもこのレコードを探し出したいという想いに駆られた。
 僕自身はこのレコードを持っていない。のちにCDになっているとはいえ、「帰り来ぬ青春」は、元のレコードのボーナストラックとしてのみ存在し、CDには入っていない。だが、なんとかしてこのレアな記念アルバムを探し出し、またこの曲を聴いてみたいという想いは強くなる。日ごろ親交の深い、キングレコード出身の音楽プロデューサー浅田氏に頼んでみると、彼の友人が所有していたこのレアモノを探し出し届けてくれた。
 ライターノートでは、作曲家・宮川泰、ザ・ピーナッツの成長に深くかかわった僕の親友すぎやまこういち、当時の評論家の大御所・野口久光、キングレコード・ディレクター牧野剛、それに僕の五人が、それぞれのザ・ピーナッツへの深い想いを書いていた。せっかくなので、僕の書いたライターノートをご紹介しておこう。

 ザ・ピーナッツ、この二人の秀れた才能を誰もが認めそして賞賛します。勿論僕もフアンの一人と自認しています。
 然し彼女達の歌い手としての足跡に思いを及ぼすと、実に様々な感慨が僕の胸に去来します。多少の前後はありましょうが、日本のショウビジネスの世界に、始めて近代を持ち込んだ渡辺プロダクションの誕生と成長が、そのままザ・ピーナッツの歴史でもあるからです。
 ザ・ピーナッツは引退する迄現役でした。
 ヴエテランではあっても決して大御所と云ったイメージではありませんでした。常に前向きの姿勢で“歌”に立ち向かっていても決して、“ど根性″等と云うものが売り物ではありませんでした。歌がとにかく上手くても決して新人歌手にお説教をすると云ったイメージは全くありませんでした。彼女達と云えども、何度かの恋にめぐり逢ったり別れたりの経験があったと思いますが、決してプライバシーを売り物にしたり利用したりと云う事からは無縁でした。
 どうして僕がこんな羅列をするのかと云うと彼女達が実に自然に歌い手としての人生を生き得たからで、それが渡辺プロダクションのイメージタレントとして、歌手生命を全う出来たと言う事と無縁ではないからです。そしてその事実が日本の芸能界では極めて稀な現象であるからです。
 どろどろに生きて尚かつ秀れた歌い手であり得る存在も僕は否定しようとは決して思いませんが、むしろピーナッツの生き方に、これからのタレントの一方向を見出すのです。
 二人が、昔デビューの時、日劇の初舞台で、無意識のうちに、お互いのスカートの裾をしっかりとにぎり合いながら歌っていた、という想い出話を聞いた事があります。その精神はヴエテランになり、そして引退のためのステージをつとめる迄一貫して変わらなかったと思うのです。僕はその話を聞いて何と云う幸せな事だろうと思いました。何故なら、他のどの歌い手さんにお互いにしっかりとスカートの裾をにぎり合いながら歌手生活を生きられる相手がいるでしょうか。絶対により孤独な人生しか存在し得ないからです。
 これからも、いつ迄も、そう云った幸せな情況を、大切に新しい人生に向かって歩いて下さい。
                                 TBS―TVプロデューサー 砂田 実

 三十五年前に自分が認(したた)めた文章を見て、ザ・ピーナッツの引退という出来事に対して、今感想を書くことを求められても、きっと同じ文章を書いたであろうと思う。「帰り来ぬ青春」を聞きながら、数々の想い出が胸に去来し、演出という仕事を積み重ねてこれた幸せをしみじみ思う。それにしても、数多くのコンサートの演出を手がけてきた自分史の中でも、この仕事はもっとも心に残る仕事だったと思う。
 ザ・ピーナッツという存在に、改めて心から感謝したい。

 じつは、個人的な後日談がある。引退した後、まったく人々の前には姿を現すことのない彼女たちだが、僕は何度か会う機会があった。姉の日出ちゃんは、引退後、沢田研二と結婚した。沢田が怪我で入院したことがあり、見舞いに出向いたところ、そこに日出ちゃんがいたのだ。現役のころはファッションリーダーでさえあった彼女が、髪を無造作に束ね化粧っけもまったくない姿で看病をしていた。多少さびしい気持ちになりながら病室を辞すると、彼女が走って追いかけてきた。そして、「砂田さん、あたし幸せだからね」と凛とした表情で言った。その後、沢田と離婚に至るが、あの時、日出ちゃんが見せたのは、元トップスターとしての、そしてまた一人の女としての矜持だったのかもしれない。

『気楽な稼業ときたもんだ』 無双舎

バルタンの呟き №12 [雑木林の四季]

「そうだったのか! 教育勅語」          

                                    映画監督  飯島敏宏

 森友学園問題に端を発して、幼稚園、小学校などの子供たちの教育問題がしきりに論じられ、特に修身(道徳)教育の一環として、教育勅語を取り入れることの是非が問われているようです。国粋的な言動の著しい稲葉防衛大臣が、教育勅語を教材として授業に取り上げるのを、むしろ好もしいと是認する発言をしたばかりか、その容認を閣議決定してしまったという話には、本当に吃驚しました。これには、インド人も吃驚!どころではなくバルタン星人も本当に吃驚しました。
 昭和一桁生まれで、戦時少国民教育を徹底的に叩き込まれた世代の一人として、教育勅語の否定こそが、主権在民の憲法のもとに進められてきた戦後民主主義教育の根幹だと思っていたからです。
 しかも、いわゆる歴史認識的に申し上げると、終戦直後の昭和22年、民主主義に即した教育を行う為に、旧来の教育勅語を補完して教育基本法が制定され、昭和23年には、衆参両院それぞれで、教育勅語排除の執行が決議されている筈ですし、平成18年には、科学技術の進歩、少子高齢化などに対応して改訂するなど、これまでの政権が実情に即して有機的に対応してきた施策を、いとも簡単に放擲してしまったからです。
 文部科学省、教育者(先生、教育委員会、各種教育団体指導者)などが拳拳服膺しなければならないのは、むしろ教育勅語ではなく、教育基本法およびそれを補完するためにある学校教育法に則った教育であり、あえて検討するならば、戦後の経緯を無視して問答不要に閣議決定することではなく、同法を改めて公開論議した上で、実情にそぐわなければ、時代に即したブラッシュアップを試みることではないでしょうか。

 僕らが少国民時代には「朕思フニ・・・」と暗唱させられはしたものの、内容については、「親に孝行するのは当たり前、兄弟や友達と仲良くするのも当たり前・・」という訳で、中身を考えたことなどありませんし、124代天皇の棒暗記とペアで唱えたばかりで、今ではとても全文どころかほとんど一部分しか諳んじることなどできません。
 「・・・父母ニ孝ニ兄弟二友二夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ・・・」
 稲田防衛大臣のように、信念を持って是とする方々は別として、現在の世情を歎じて修身教育の必要性を漫然と感じて、教育勅語も良しとする人たちは、多分教育勅語のこの部分だけをとりあげて、良しとしているのだと思いますが、それでしたら、ここで改めて「教育勅語の他の部分は、主権在民の憲法に則さない、君主国家主義ではないか」と荒立てて申し上げなくとも、古来、孔子さまの教えだの、仏教の高僧だのから先祖代々浸透してきた公徳教育で充分ですし、教育基本法や指導要領にも、すべて網羅されている道徳ですから、いま、改めて修身教育の一環として、思想的に危なっかしいところを取り除いてまで、教育勅語を引用する必要性はまったく無いのではないでしょうか。

 といいながら、自らを振り返ってみますと、はたして教育勅語についてどの程度心得ているのだろうか、と心配になって、ちょっと調べて見たのですが、たしかに戦時中棒暗記を強いられて、事あるごとに拳拳服膺したものの、その何たるかについては、ほとんど無知だったことを思い知らされました。
 すでに平均年齢が75歳と言われる、わが町の中央公園で毎朝行われているラジオ体操後のロングウオーキングでかわされる話題でも、森友幼稚園、稲葉防衛大臣がらみで、教育勅語問題がしばしば登場していますが、圧倒的多数が保守派高齢者であるせいか、「親を敬い、兄弟仲良く、友を信じ、国を愛し、いざという時には国を守る・・・いいじゃないですか、そもそも、現在の嘆かわしい道徳上の諸問題は、戦後の日教組教育の弊害であって・・・」といった類いの論調が主流で、それに首を傾げて呟く僕は、「やっぱり監督は隠れ左派だね」と揶揄われている始末ですが・・・
 「ちょっ、ちょっと待ってよ!違うでしょう! なんじ臣民、天壌無窮の皇運を扶翼すべし・・・憲法に記されている主権在民とは相容れないでしょうこの文言は・・・」
 「だから、全部じゃなくて、為になる、いいところだけ子供たちに教えれば・・・」
 わが街では、まるで、毒を除けば美味、というフグ談義みたいなことになってしまうのです。
 というわけで、明日ふたたび彼らと論じるために、教育勅語に関して下調べした豆知識をここで呟かせていただくことにしましょう。

 明治5年。維新政府の文部省が、学制を敷いて、小学教育を始めた際の教則では、修身の教科は最下位に置かれ、教育現場で用いられる道徳、法律などの説話その他、ほとんどが欧米のそれらからの翻訳だったのです。
時の文部大臣榎本武揚が、文部省が命じて、東京大学教授中村正直に取りまとめさせた草案が、「知育の一方で、徳育の兼ね進まざるもの」ということで、同案に対する不満の建議者であった内閣法制局長官井上毅に命じて改めて立案させた教則案を、明治23年、山形有朋内閣が閣議決定して明治天皇に上奏したのですが、井上毅が、草案作成を引き受ける条件として挙げた七箇条の内の「君主は、臣民の良心の自由に干渉してはならぬ」という条項を尊重して、強制力の強い勅語としてではなく、上奏した案を、強制力の強い勅語としてではなく、たとえば御製のような形で御名御璽を頂くに止めて流布したのが、「教育勅語」であり、正しくは「教育に関する勅語」だったのです。
 恥ずかしながら、僕も今日まで、「教育勅語は、明治天皇が臣民のためにお作りになった」と少国民時代に教えられた通りの認識で教育勅語の論議をしていたのです。
 明治天皇の理解を得た文部省は、各学校に謄本を配布して、式日を定めて「生徒を全集して勅語を奉読すること」と訓示したのですが、当初から、宗教関係者を中心に修身教育の一元化に反対する教育者も多く、中でも、キリスト教徒であった大学教授内村鑑三が、勅語奉読の際、敬礼を拒否して教職を解かれるという事件もあったのですが、劣勢を予想されながら勝利を収めた日露戦争の勝因の一つに教育勅語の貢献があった、と海外で評価されたことから、昭和初期に到って、次第に戦時色が濃くなるにつれて、式日ごとの教育勅語奉読が恭しく神格化した儀式になり、昭和生まれの僕達が小学生になった頃には、礼服に身を包んで肩章を帯びた校長先生が、まず宮城を遥拝し、近上天皇の御真影を拝し、純白の手袋を嵌めて、奉勅殿から恭しく取り出した桐箱入りの勅語を捧げ持って演壇に向かい立ち、箱から出し、帯を払い、巻物を解き拡げ、恭しく翳しながら悠然と重々しい韻調をつけて奉読するのを、頭を垂れたまま、咳払いを堪えつつ、ひたすら「御名御璽」を待ち続ける、あの儀式にまで昇華したのです。あの、一億一心火の玉の淵源がここにあったのです。この言葉が、戦争を知らない高齢者世代の方々には、かくれ左派と映るのでしょうか。ニュースをご覧なさい、現在、北朝鮮の激越なコメンテーションの中に、一億一心火の玉に似た語句がしばしば登場していますぞ・・・
 池上彰さん風にいえば、これが、「そうだったのか!教育勅語」です。 あらためて、全文をお読みになれば、「徳器を成就する」以前に、まず「皇統を神格化する」文言が羅列されていることにお気づきになると思うのです。
 さて、ここまで知った上で、「教育勅語」の不都合なところを伏字にして、子供たちに一体何を教えようというのでしょう。
 明日はきっと日本晴れでしょう、わが街の外周道路から、遠く丹沢の峰越しに、ちらりと富士の山頂も姿を見せてくれるに違いありません。今夜ゆっくりと休養して、明日の論戦に備えることにして・・・                            (布告過程は、国学院大学教授大原康夫氏の著書による)

ZAEMON 時空の旅人 №13 [雑木林の四季]

第八章  西暦2030年の現実(リアル)世界

                                       文筆家  千束北男

「キエーッ!」
夜鳥の叫びのような鋭い声を聞いて、僕は、覚醒しました。まず、開いた目に最初に映ったのは、灰色に、どろんと曇った空でした。上空には強風が吹いているのか、雲の端がめくれあがっているように見受けられました。
「鳥・・・」
カラスとは比べ物にならないほど巨きな黒色の鳥が、いっぱいに翼を広げて上空を旋回しながら、僕を見下ろしています。
見知らぬところに、倒れている僕でした。ZAEMONの警告どおり、西暦2030年のリアルタイム(現実の時間)に属してしまったのです。
あたりは、スモッグとも霧ともつかない濃いガスに包まれています。身を起こして、周りに目をこらすと、草らしい草も生えていない荒涼とした荒地が、ガスに包まれてひろがっているように見えました。
太陽が、分厚いガスをかき分けるようにして辛うじてわずかな光を地球に届けている、といった感じです。
「さむい・・・」
身震いを誘う寒さにおどろきながら起ちあがった僕ですが、歩き出そうとして、ふと、足もとにある汚れきった水たまりに映るわが身に気付いて、あまりのことに、息をのみました。
立っているのは、まるで老人のようにやせ衰えた見知らぬ男です。此処が、2030年の地球だとすると、僕の年齢は、二十四歳のはずです。背中には、覆いもなく、むきだしに、洋琴のような楽器を背負っています。
「いったい・・・」
僕は、わざと声に出して、自分に問いかけました。本当に自分の声かどうか確かめたかったからです。
「ここは・・・」
濁った灰色の空で弧を描いていた巨きな鳥は、僕が動き出したのをみて、あきらめたようにひと声叫び残して、遠く飛び去ってゆきました。
大気に含まれている成分のせいか、眼に、つよい刺激を感じます。
「此処はどこなのだろう」
「此処で僕は何をしているのだ」
「この身なりは・・なぜ、洋琴などを・・」
次々に湧き上がる疑問を解こうと、頭の中に蓄積されている夥しい記憶を探ってみるのですが、なぜか直前のできごとの記憶は欠落しているのです。
「なにがあって、なぜ、記憶がつながらないのだろう・・・」
あらためて僕自身を観察して、何かの手がかりを見つけ、こうなる直前の出来事を思いだそうとするのですが、何も浮かんできません。
ここにいるリアルの僕は、ブルーに染まった兵士の服らしいものを着て立っているのですが、長い間よほど苛酷な環境におかれていたらしく、色があせていて、袖口などはボロボロにほつれています。その上に、洋琴を袈裟懸けに背負っているという様です。
おそろしいことに遭遇したような記憶が残っているのですが、それが何だったのかは、漠然としていて、具体的に思い出せないのです。
と、
ふと、何かが気になります。
「え・・・・」
何かの気配があったのです。が、見透せる範囲には、僕のほかには、誰もいません。
ふと、ちょっとした重みを感じて、首から吊るされているペンダントに気付きました。
これです。気配は、ここから出ていたのです。
古代日本の勾玉をかたどったような形をした極めて小さなものですが、それから、いま、僕の注意をひく気配が届いたのです。
(これは大切な勾玉だ。どんなことがあっても、これだけは手放してはいけない)
だれかに、そう命じられた覚えがあります。しかし、これが何なのか、なぜそれほど大事にしなければならないのか、などは、全く思い出せません。
とりあえず僕は、気配に従って歩き出しました。
歩きながら、注意深く周囲を観察して、状況を判断しようということです。
何か巨大な建物の土台らしいコンクリート、地面から突き出ている鉄骨、などの形状を総合すると、この辺りが、かつて近代的な市街地であった形跡が読みとれます。
歩き始めて間もなく、呼吸が苦しくなりました。大きく息を吸い込んでも、呼吸の苦しさには、変化がありません。
「空気中の酸素量が欠乏している・・はたしてこれが地球なのか?」
とつぜん、なにか、使命感のようなものが、意識の中にあることに気が付いたのです。
続いて、
「カオリ・・・」
キイワードのように、脳裡にうかんできた言葉です。
「カオリをさがす・・・」
という使命感だったのです。
「カオリに会わねばならない」
胸元に下げられた勾玉のペンダントから、そう命じてくるのです。
しかし、カオリとは誰なのか、どうして会わなければならないのか、僕にはわかりません。
「カオリ・・」
口に出してみると、なぜか、使命感とは別の感情がわいてきました。なにか、胸にひびく、切ない感情に似たものです。
「カオリに会いなさい」
気配に命じられるままに、ふたたび歩き出します、息苦しさに耐えて、歩くほかはありません。ひたすら歩き続けるのです。なにかに命じられるように・・・・、

やがて、息苦しさに加えて、ひどい空腹感がおそってきました。果実や木の実でなくともいい、草のようなものでもいい、味覚などどうでもいい、口に入りさえすれば。
行く手を押し包んでいるスモッグに目を凝らすのですが、見透せる視界の何処にも、人間の姿は見つかりません。人間の存在をうかがわせる建物もありません。
と、
近くに、乗り物らしきものの残骸がありました。ヘリコプターのような形態の、半ば解けている機体です。重量のあるものに叩きつぶされたような壊れ方で、半分土に埋まっています。
単に撃墜されたものではないようです。
突然、こんな環境の中に一人でいるのだ、孤独なのだという恐怖が頭をもたげて、
「誰か! 誰かいないのか!」
大声で叫んでみるのですが、スモッグの中に僕の声が空しく響いてゆくだけで、何処からも誰からも返事が聞こえてきません。
疲れ果てて、足が止まり、やがて言いようのない絶望感にかわって座り込むと、寒さと恐怖が入り混じった震えが来ました。がたがたと全身が震えだして、立ち上がろうとしても立ち上がることが出来ません。
と、そのときです、
「キッ」
いきなり、すぐ耳元で、叫び声がしたと思うと、なにか極端に柔かなものに抱きしめられたのです。
「う・・・」
反射的に振り払って身構えると、叫びをあげて飛び退った主は、奇妙な形態の動物です。裸体で、二本の足で直立しています。ですが、人間ではありません。サルとも違う。やせた貧弱な体にくらべて、呼吸器が異常に発達しているのか、胸郭が特に大きい印象がする、二体の生き物たちです。
「やあ・・・・」
近づいてくるカレらにむかって、できるだけの笑顔をみせて親愛の情をこめた挨拶を試みたのですが、挨拶を返してくるどころか、意味不明な嬌声を上げてつかみかかってくるではありませんか。
「ニンゲン!」
「ニンゲン!」
聞きようによっては、たしかにそう聞こえる声を上げながら、体とは不釣り合いに長い手長エビのような細い手で、絡み付くような攻撃をしてくるのです。不可解な攻撃です。
殺したり、傷つけたりするというのではなく、どうやら、僕を捕まえようとしているような攻撃です。あまり殺意のようなものが感じられない攻撃が、ただし、執拗に加えられてくるのです。
最初のうちこそは、絡みついてくるカレらの手を払いのけながら、
(どうやら、この生きものは、われわれ人間より知能的に下等のようだ)
(カレら同士で交わす言葉のようなものは、単純で、深い意味を持つとは思えず、文明的にも・・・)
などと観察しながら後ずさりする僕でいられたのですが、あまりの執拗さに、
「ぐおーっ!」
喉が避けるほどの声を振りしぼって威嚇したのですが、カレらは一向にたじろぎません。しかたなく僕は、絡みついてくるカレらの腕を振り払いながら後ずさりするほかありません。
それにしても、カレらの手足はニンゲンとは違う動きをするので、次の動きを予測することが実に困難でした。恐怖感はないものの、カレらの攻撃をかわすことは、ちょうど、サッカーのドリブル名人とからみあうような難しさがあって閉口しました。
やんわり、やんわり、やんわり、カレらの手足が絡みついてくるのを振り払っているうちに、いつの間にかスタミナを奪われる感じで、だんだん息苦しくなってきました。やはり、大気中の酸素が極端に不足しているようです。
いつのまにか、高をくくってはいられないほどの疲労が、襲ってきました。蜘蛛の糸にかかった羽虫のように、動きが取れなくなってきます。
「もう、だめか・・・・」
と思いながら、それでもなお脱出を試みているうちに、だんだん気が遠くなり、ついにあきらめかけたそのとき、
「グェッ」
僕に絡みついていた二体のカレらが、同時に強烈な打撃を受けたような悲鳴を上げ、僕を放して飛びのいたではありませんか。
見ると、
これも、不可解な形状の生物が三頭、正確な三角形の布陣を敷いたように、カレらを包み込んで、にらみ合っているのです。
どうやら、カレらは、僕などどうでもよくなるほどの宿敵に出会ってしまったようです。
その後の出来事をここで詳らかに書きたいのですが、それは、どれほど寛容な神様もお許しにならないでしょう。それほど残酷極まりないものでした。
現れた三頭の異様な生物は、一瞬の動きでカレらをつかまえると、
「くわっ!」
大きな口を開けて、牙をむき出し、そこに立ちすくんでいる僕をそっちのけに、カレらを・・・・
眼に飛び込んできたそれからの光景の恐ろしさに耐えきれず、僕は、金縛りにあったように、逃げるのも忘れて、その場に立ちすくみました。何とも表現できない恐怖から目を背けることもできずに、そこから逃げ出すことも忘れて、固まってしまったのです。
やがて、
僕の耳に小さな音が入りこんできました。耳をすますと、それがだんだん近づいてくるにつれて、
「・・・」
なぜか、ほっとしたのです。
その音は、私にとって友好的なもの、と思えたからです。
今になって思い出したのですが、私の胸に下げていた勾玉のペンダントが、そのとき一瞬でしたが、ピッ、と光ったような気がします。
でも、
その音に向かって、あらんかぎりの声をふりしぼって救けを求めようとしたとき、
「あぶないっ!」
人間の言葉が聞えたと同時に、ドン!と激しくつきとばされ、そのあと、どこかにおちてゆく感覚を感じたところで、ふたたび記憶が途絶えてしまいました・・・

つぎに記憶がつながるのは、なにものかに抱きかかえられている感覚です。僕を抱きかかえているのは、さいわいにも、全面ヘルメットをかぶっている人間でした。恐らく女性・・・そこまで感じた時に、
「苦しくありませんか?」
こんどこそは、話しかけてくる、正真正銘の人間の言葉です。
その声を、どこかで聞いたおぼえがありましたが、いつ、どこのことだったのか、定かではありません。
「いえ、だいじょうぶです」
なぜか、呼吸は、非常に楽になっていました。
気がつくと、いつのまにか、僕自身もカプセルのような全面ヘルメットを被っていたのです。
呼吸が楽になっているのは、どうやらヘルメットのおかげのようです。
「ありがとう。もう大丈夫だから・・・」
自力で起きあがろうとする僕でしたが、高いところから突き落とされたときに、はげしく腰を打ったのか、言葉とは裏腹にすぐには立ちあがれません。
「ごめんなさい、手荒なことをして・・・」
言葉の調子からすると、僕のことを知っている人物のようです。
僕の背にあった洋琴を手にして、埃を払いながら壊れていないか調べてくれているのですが、僕には、確とした覚えのある人ではない気がします。
どうやら、この女性が僕を突きとばして、カレら怪人獣たちの争いから、救けだしてくれたのでしょう。
僕の視線を感じたのか、ふと、その女性が顔をあげます。
「あれは、けっこう残虐なE・Tですから・・・」
「E・T?」
「そうです。宇宙人です」
こともなげに、そういうのです。
「だってここは、地球でしょう? 日本でしょう?」
「カレらは西暦2025年に、宇宙十字軍としてこの地球にやってきた宇宙人です」
またしても、宇宙十字軍です。記憶の中にきざみこまれているキイワードです。
「あのETたちは,地球人よりも進化が遅れていて知能が低いうえに、カレら同士が・・・」
何か恐ろしい言葉をさけるように、言いよどんだのです。
私を襲ったカレらが、あとから現れたカレらにどんな仕打ちを受けたか、いま想像しても、鳥肌の立つ思いがします。
「ごめんなさい、突き飛ばしたりして。でも、ああでもしないと、危なく見えたので・・」
危ないどころの話ではありません、もう少し彼女が現れるのが遅かったら、僕もおそらくカレらのように・・
彼女の言葉で、いましがた目の前でおこなわれたあの残虐なシーンが甦ってきて、思わず吐き気をもよおしてしまい、その先は聞きたくない、とジェスチュアで示しながら、なんとか立ちあがりました。
あの気味悪い宇宙人たちの執拗な攻撃は、僕にかなりの疲労をもたらしていました。朦朧としたまま、彼女の肩に手を乗せて、いま僕が置かれている身の回りの状況を少しでも把握するために、しばらく周囲を見回しているほかはありません。
彼女から戻された私のものらしい洋琴を、前からそうなっていたように、背にまわします。
あたりは相変わらず濃厚なスモッグに包みこまれています。湿度が非常に高く、しかもかなりの高温です。上空で大きな気流の乱れでもあるのか、時折、靄の中を稲妻のような閃光が交錯しています。
「助けてくれてありがとう・・・」
たしかに少々手荒な方法ではあったけれども、あのひどい状況から助けだしてくれた礼を言いながら、はじめて、正面から冷静に相手を見ました。
彼女は、僕と同じ戦闘服のようなものを着ているけれども、あきらかに僕とは違う、きちんとした装備を備えている、兵士か、あるいは何か特殊な任務をもった女性、と観察しました。・・
「あ・・」
みると、彼女の胸に、僕とおなじ勾玉のペンダントが下がっています。
「ふふ、まだ、お気づきになりませんか?」
「え?」
「ご存じの筈です。私を・・」
笑みを浮かべたまま、正面からまじまじと僕を見つめる女性兵士です。
「僕が?」
記憶があるような気もして、彼女の視線の眩しさに耐えながら訊き返したのですが、思い出せません。
「私です。ミホです」
「ミホ?」
たしかに、ミホということばは、記憶のなかで形が出来ましたが・・・
「コウガ、ミホです」
「コウガ・・ミホ・・」
「そうです、甲賀美穂です」
「ニンジャ? ニンジャ美穂だというのですか? あなたが?」
濃厚なスモッグに包まれた広漠とした破滅の風景の中で、彼女の微笑が、あたたかく僕を押し包んで・・・
                            つづく

BS-TBS番組情報 №137 [雑木林の四季]

BS-TBS 2017年5月のおすすめ番組(上)

                                      BS-TBS広報宣伝部

バイタルTV
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2017年5月1日スタート
毎週(月)~(木) よる11:30~12:00

月曜から木曜、よる11:30から12:00の時間帯に、6つの新番組がイッキにスタート!

◆月曜よる11:30~11:45
【バイタルTVナビ~いい大人が○○する方法~】
出演:敦士 柴犬まる
この番組は、バイタルTVの「カタログ」のような番組。
その週の「バイタルTV」各番組の内容がバッチリわかります。

◆月曜よる11:45~12:00
【大人の秘密基地】
出演:石井正則
お笑いコンビ・アリtoキリギリスの石井正則さんが、男の憧れ「秘密基地」を自宅に作り上げた方のもとにお邪魔します。

◆火曜よる11:30~12:00
【御朱印ジャパン】
出演:はな
大の仏像好きとして知られるタレントのはなさんが、現在静かなブームとなっている「御朱印」の楽しみ方を、全国の寺・神社を巡りながら紹介していきます。

◆水曜よる11:30~12:00
【人生カラオケ劇場】
出演:蟹江一平 緋田康人 春風亭一之輔
スナック、居酒屋、健康ランド。地元の方たちが集うカラオケスポットを訪ね、お客さんたちの人生物語、自慢の歌を披露して頂きます。

◆木曜よる11:30~11:45
【一年中魚だけ食べるテレビ】
出演:生田よしかつ
出演するのは築地魚河岸仲卸「鈴与」の三代目主人、生田よしかつさん。生田さんが魚を選び、名店で料理してもらい、美味しく頂く。とにかく「魚」のみの15分間。

◆木曜よる11:45~12:00
【シブすぎ技術に男泣き!】
地味だけどスゴイ!ニッポンのモノ作り。
出演:見ル野栄司
元・半導体製造エンジニアという異色の経歴をもつ「理工系漫画家」の見ル野栄司さんが、自らの体験をもとに、
コツコツと仕事をする「技術職人」を描く話題のコミックエッセイを映像化。

動物の赤ちゃん大集合!パート3~涙と笑いの密着1000時間~

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2017年5月7日(日)よる6:00~6:54/7:00~8:54

☆かわいい動物の赤ちゃんが続々と登場!

ゲスト:熊田曜子、IMALU
進行:江藤愛(TBSアナウンサー)

「動物の赤ちゃん」に特化した「感動」「喜び」「笑顔」「可愛さ」…そんな、あらゆる“要素”が詰まった動物バラエティ第3弾!
日本全国で生まれた、可愛い動物の赤ちゃんが大集合!スタッフが長時間かけて密着して撮り上げたVTRや、飼育員だから撮れた,とっておきの貴重映像、赤ちゃんの成長記録をお届け!!
登場する赤ちゃんは!
■すみだ水族館「マゼランペンギンの赤ちゃん」
■多摩動物公園「チーターの赤ちゃん」
■モンキーエンターテイメント「ニホンザルの赤ちゃん」
■埼玉県こども動物自然公園「プーズー(鹿の一種)の赤ちゃん」
■宇部市ときわ動物園「カワウソの赤ちゃん」
など、盛りだくさん。さらに視聴者が自分たちで撮影したかわいいペット動画「投稿!我が家の溺愛ペット」や、初めて盲導犬候補を迎え入れるお宅(パピーウオーカー)に完全密着!盲導犬を目指す子犬と共にとともに成長していく家族の様子も紹介!顔がゆるみっ放しの3時間番組!

演歌若手3人衆!山内惠介・市川由紀乃・三山ひろしスペシャル
~三波春夫「大忠臣蔵」に挑戦~

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2017年5月13日(土)よる6:30~8:54

☆演歌界の若手三人衆、山内惠介、市川由紀乃、三山ひろしが、三波春夫の名曲を歌う!

出演:山内惠介 市川由紀乃 三山ひろし

デビュー16年の「演歌界の貴公子」山内惠介。いまや若手歌手の代表格!2年連続の紅白歌合戦出場を果たし、今年2月には初の座長公演を大成功のうちに終えた。市川由紀乃は、昨年、デビュー23年で念願の紅白に初出場。演歌界のニューヒロイン誕生に、ファンの期待はますます膨らむ。そして、山内と同じく2年連続紅白出場の三山ひろし。5月末には初座長公演も控え、その勢いはとどまることを知らない。
そんな注目の演歌界の若手3人が一堂に会したプレミアムなスペシャルコンサート、テーマは、三波春夫の長編歌謡浪曲「大忠臣蔵」。三波春夫が心血を注ぎ創作し、自ら演じた、3時間25分におよぶ壮大な「歌」と「語り」の世界に、三波春夫を尊敬する3人が全力で挑む!稽古の模様や公演の舞台裏、さらには三波春夫の懐かしいVTRもお届けする。3人の歌声も、ヒット曲から新曲まで、三波春夫さんの名曲のカバーも、たっぷりとご覧いただく。


私の葡萄酒遍歴 №43 [雑木林の四季]

第二章 チリワインの産地4

                                    ワイン・グルマン  河野 昭

11)CuricO Valley(クリコー・ヴアレー)
すぐ南のマウレに次いでチリで2番目に大きいワイン生産地。19世紀末、フランス系品種のブドウが導入されて以来、チリの主要な大手ワイナリーの多くはこの地に居を構えてきた。

1979年にスペイン・バルセロナの有名なフイナリー、ミグル・A・トーレスがこの地にワイナリーを設立した。それをきつかけとして、チリにおける葡萄栽培とフイン醸造技術の近代化が急速に進んだことは、チリではよく知られたエピソードである。「量より質」をポリシーとする名門トーレス家のチリ進出が重要な役割を果たした事は間違いない。

1990年代に、サン・ペドロがこの地に投資した葡萄畑は、南米最大で、1,200haもある。
テーノ(Teno)とロントゥエー(Lontue)の2本の河川によって潤うこの産地一帯は、冬場に700mmの雨が集中する地中海性気候に属している。5ヶ月以上続く夏場は、沿岸山脈と太平洋高気圧の影響を受けて雲ひとつ無い晴天に恵まれるから、 古くから農業地帯として発展してきた。そのため、灌漑システムもよく整備されており、多彩なテロワールを生かした葡萄栽培が行われている。
現在この地域では、実に様々な品種のブドウが栽培されていて、赤ワイン用18種、自ワイン用14種もある。

12)ltata Valley(イタタ・ヴアレー)
イタタ川の南に位置するイタタ・ヴァレーは、植民地時代にチリで最初に葡萄栽培が行われた地域。
現在でも当時植樹されたスペイン系品種のパイスが多く残つている。
近年、フランス系品種のカベルネの栽培が増えてはいるが、パイス支配的な地域である。
ソーヴィニヨンやシャルドネなどモスカテルなどの栽培がまだまだ支配的な地域である。

この地域は、冬場の降雨量が1000mmを超えるため人工灌漑を必要としない。夏場の気温も中央部の産地より高いため、ブドウ栽培を容易にしている。そのため、植民地時代には多くの生産者を引きつけたが、19世紀末以降サンティアゴ近郊でのブドウ栽培が普及するにつれて、ブドウ栽培地としての重要性は次第に小さくなつていつた。

しかし、フイン生産の近代化、輸送条件の改良、また栽培に適した新しい土地が再発見されたことなどにより、近年この地域への注目が高まり、コンチャ・イ・トロなどチリを代表する生産者が本格的開発を行い先駆的な働きをしている。

13)Bio‐Bio Valley (ビォビォ・ヴァレー)
フランスのメドック地方とよく似た気候条件の地で、長らく地元消費用ワインを産してきたが、イタタ・ヴァレー同様、ここ数年で新たな高品質フイン産地として生まれ変わろうとしている。
この地域の特徴は、年間1300mmを超える雨量によつて育まれた豊富な地下水と、夕方に発生する霧にある。寒冷な気候のため、収穫はチリ中央部の産地よりもlヶ月以上遅れる。

シャルドネ、ゲヴェルツトラミネール、リースリングなどの自品種の栽培に適しており、ヨーロッパの産地と同様、酸味のしっかりした良質なワインを造ることを可能にしている。
また、内陸の平野部や沿岸の傾斜地で、ピノ・ノワールやカベルネ・ソーヴィニヨンなどの赤品種においても興味深い成果を上げている。

14)Majeco Valby(マジェコ・ヴァレー)
チリのワイン産地の最南端。ビオビオ・ヴァレーの更に300km南にあり、サンティヤゴから車で8時間のところに位置している。
この地での本格的なブドウ栽培が始まったのはわずか数年前、葡萄畑はナウェルブータ山脈の山麓に隠れるように営まれているに過ぎない。

マジェコ・ヴァレーは、チリ最南端の栽培地(南緯38度)とは言え、北半球に当てはめれば、ほぼシチリアのパルレモに相当する。しかし緯度からは想像できない涼しさである。それは太平洋沿岸には山脈と言えるものが無く、大きく広がる河口から南極から流れてくる冷たいフンボルト海流の影響をまともに受けるからである。
年間を通して降雨が多い上に風も強く、収穫はマイポ川流域より2ヵ月も遅れるなど、厳しい自然条件下にある。
しかし、それが、果樹を引き締め、酸味のバランスに優れた、他のチリワインにはない多様なミネラル分を含んだ素晴らしい「SOL de SOL(ソル・デ・ソル)、シャルドネーアキタニア)」のような質のいいワインを生み出している。

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