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私の中の一期一会 №155 [雑木林の四季]

        日本プロ野球初の“二刀流大谷翔平”がいよいよメジャーに挑戦する
  ~「お前がナンバー1だ」と言ってもらえたら幸せ。そういう選手を目指したい~

         アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 プロ野球・日本ハムの大谷翔平選手(23)が11日、日本記者クラブで記者会見を開き、「このオフにポスティングシステムを利用してメジャー(MLB)に挑戦したい」という意向を正式に表明した。
 日本記者クラブの会見場には、海外も含めて200を超すメディアが詰めかけ熱気に溢れたという。
 ファイターズのイメージカラー、青いネクタイを締め、グレーのスーツに身を包んだ大谷翔平が現れたのは、11日の午前11時11分だったという。背番号と同じ「11」が並ぶ演出を偶然と呼ぶのは嘘っぽい。
いかにもワイドショー的で苦笑するしかないが、日本プロ野球の至宝の華麗(?)な転身を前に、メディアも興奮気味だったようである。
 大谷は前日10日に、ポスティングシステムによるメジャー移籍を球団に申し入れ、認められていた。
「来年以降、アメリカで頑張ることになったことを報告したい。約5年間日本ハムにお世話になったが、いろいろな人に支えられてきた。本当に日本球界には感謝の気持ちしかない。恩返しが出来るか分からないが、その気持ちを持ってアメリカで頑張りたい」と大谷は決意を語った。 
 大半のメディアの興味は、“アメリカでも投・打の二刀流を継続するのかどうか”にあったが、まだ所属球団も決まっていないのに明言出来る訳がない。その環境があれば、続けたい気持ちは持っていることは隠さなかった。
 プロ入り直後は、二刀流を現実のものとして考えていた人は少なかった。栗山監督、担当スカウト、大谷本人ぐらいだったという。「投手か、打者か。どちらかにすべきだ」という批判の声が渦巻いた。
 手探りだった大谷の二刀流は徐々に結果が出て、自信を深めていった。16年シーズンは、史上初めて“投手と指名打者”の2部門でベストナインに選ばれ、日本一にも輝いている。貫いてきた二刀流は、今や大谷の“代名詞になったと言ってもいいだろう。
「ファンは二刀流を見に球場に足を運んでくれた。期待してくれる人も多い。もう二刀流は自分だけのものではない」と断言できるまでになった。
 この傑出した才能はメジャーリーグ関係者の目や耳に届き、アメリカのメディアでは「日本のベーブ・ルース」と形容している。
 大谷が花巻東高時代からメジャーリーガーに憧れを抱いていたことは、野球関係者に限らず誰もが知っていることだ。だが憧れだけではメジャーとの距離は縮まらない。
 努力を続けたことによって、昨シーズンはファイターズの日本一に貢献することができた。この達成感が「やっぱりメジャーに行きたい」という気持ちを強くしたと打ち明けている。
 大谷は、“自分はまだ足りない部分の多い選手だ”という自覚も持っているが、“伸びしろがある今”だからこそ、自分を成長させる環境に身を置きたいと願うのだ。
 アメリカでの窓口は大手エージェントの「CAAスポーツ」で、ネズ・バレロ氏が代理人を務める。
青木宣親(メッツからFA)、田沢純一(マーリンズからFA)らの代理人もバレロ氏である。
 大谷は6日にバレロ氏と都内で対面し、正式に契約した。
 大谷翔平には“世界一の選手になりたい”という夢がある。バレロ氏と共に「自分を磨くのに適した球団」を選ぶつもりだ。
 世界一の選手を目指いていくうえで、「必ず通るところ、それはワールドシリーズだ。野球をやっていく上でこの最終目標を是非経験したい」と抱負を語った。
 メジャーリーグは昨年、ドラフト対象外の外国人選手が25歳未満の場合、マイナー契約を結ぶという労使協定を成立させた。今23歳の大谷は、日本を代表する選手なのにマイナー契約しか結べないことになった。契約金が抑えられるのは承知の上で、敢えて今のタイミングを選んだのは、少しでも若いうちにという思いがあるからだろう
 大谷としては、金額交渉よりも「二刀流挑戦」や「プレー環境」を優先する意向が強い。バレロ氏もその考え方に沿って最適の場所を探すことになっているという。
 現代の野球は完全な分業制で成り立っている。投手は“先発”、“中継ぎ”、“抑え”と役割が明確に分かれる。投手一本でいくなら次の登板まで4,5日の間隔が与えられるが、二刀流に休養日はない。
 日本と違って広大なアメリカでは遠征の距離が長い、気候だって違う。身体への負担は日本の比ではないに違いない。何を置いても、まず“メジャーの環境”に慣れる必要があるだろう。
 メジャーリーグのブルワーズで、二刀流の経験があるブルックス・キーシュニックは「こちらで両方やらせてくれるところはない。大金を稼ぐ奴なら、まず無理だ」と断言している。
 両方やるといろいろなことが起きる。「自打球で骨折でもしたらどうする? 100マイルを投げられるなら、投手をやらせたいと球団は考える筈だ」と話した。
 NHKのMLB中継で解説を務めた高橋直樹氏も「大金を出して獲得する選手にリスキーなことはさせない。どのチームも年俸の高いスラッガーはDHで起用している。守る場所があるだろうか。投手として可能性があるのだから、打者は諦めた方がいい」と私見を述べている。
 2006年10月、ホークスとのクライマックスシリーズ、ファイナルステージ第5戦の札幌ドームは、大谷の165キロにどよめきが起こった。日本プロ野球史上の最速記録がマークされた瞬間だったのだ。
 知将として知られる野村克也氏も「俺ならピッチャーで使う。バッターにはいつでも転向できる。165キロを投げる選手なんていないから・・」と話している。
 メジャーでの二刀流は「二兎を追うもの一兎をも得ず」にならないとも限らない。
 ダルビッシュの言う「ナンバー1になれる可能性があるとしたら投手だ。その可能性を取るべきだろう」のコメントには説得力があると私は思った。
 日本ハム5年間に大谷は、通算85試合に登板して42勝15敗の成績を残した。543イニングの通算防御率は2.52である。2015年は22試合に登板、15勝5敗、15勝のうち5試合に完投、完封勝利3という記録は立派なものとしか言いようがない。
 一方、打者としては通算403試合に出場した。1035打数、296安打、打率286、打点166、本塁打48本である。
 身長193センチで97キロ、2012年のドラフト1位は、「ファンにお前が1番と言ってもらうことは幸せ。そういう選手を目指したい」という言葉を残して、いよいよアメリカへ飛び立つ。
 どの道を行くにしても“息の長い活躍”を期待してやまない。


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浜田山通信 №205 [雑木林の四季]

パラダイス文書

              ジャーナリスト  野村勝美

 ことしもあとひと月半、まだ何があるか予測不能だが、これほど嫌なニュースが続いた年はない。この一カ月でもトランプが日本海に原子力空母3隻を並べ北朝鮮を脅しながらアジア各国を回った。毎日毎日メデイアは韓国、中国、ベトナム、フィリピンからトランプ、習近平らの発言と彼らの胸の内を勝手に推測し、それぞれがワケ知り顔でああでもない、こうでもないとコメントする。アベさんは何が何でもトランプさんの腰巾着としてくっついていくのだから、批判をしない、する気もないのなら、おとなしく事実関係だけを報道していればよい。
 国内では何とも気持の悪い、かわいそうな神奈川県座間市の事件。10月31日に見つかって半月もたつのに新聞の見出しは「座間の9人の遺体」事件でもやもやしている。過去に大量殺人事件はあったし、戦前には「死のう団事件」なんてのもあったと記憶しているが、SNSを使って被害者を呼びよせ即殺してバラバラにし、棄てるなど普通の人間なら思いつけない。精神障害なら罪にならないのか。私にも同じ年頃の孫娘もおり、どうにもやりきれない。
 もっと大きく扱ってもらいたいのは、例の「パラダイス文書」。タックスヘイブンの大量の顧客データを国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ)が公開した。去年パナマ文書が発表されて世界の金持ちはうまいことやっているなあと感心させられたが、パラダイス文書の中身はケタが違うらしい。全部で1340万件、47カ国127人の大金持ちの名前がでてきた。イギリス・エリザベス女王の個人資産がタックスヘイブンの投資ファンドで運用され、投資先には年率99、9%の高率を課す家電小売会社などが含まれていた。カナダのトルドー首相のお友達(元上院議員)もケイマン諸島の信託に投資し、首相の自由党の資金源になっている。歌手のマドンナ、投資家のジョージ・ソロス、日本では鳩山由起夫元首相の名前もあった。
 とくに問題なのは、フェイスブック、ツイッター両社にロシアのプーチン政権からタックスヘイブンのファンド経由で、数億ドルの資金が流入したほか、ロシア政府直系のガスプロムも英国バージン諸島にある事業体に投資している。プーチンの娘婿が役員の石油化学大手は、トランプ政権のロス商務長官と関係が深い企業と取引があり、トランプの娘婿クシュナーもロシア側から資金を得ている。
 NHKの調べによると税金逃れで失われた金額は一年で58兆円に上るそうだ。私は経済や経営オンチの最たる者でいくらそれらのニュースを聞いてもよくわからない。日本の株価はバブル崩壊後の最高値をつけたというが、、景気がよくなった実感は全くなく、世界の1%の金持ちが富の50%を持ち、その割合はますます拡大していくことだけは納得がいく。トランプについていっても、彼らはプーチンや習近平らとうまくやっていると思わざるを得ない。

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パリ・くらしと彩りの手帖 №131 [雑木林の四季]

  もう一度、今パリの大美術展で言い残したことなど

          在パリ・ジャーナリストー嘉野ミサワ

フランスのあるテレビ局で起きたこと
 フランスで見るテレビ放送局の女性たちは思い思いの服装で、時にはきっちりとした姿で現れ、時にはかなり大胆な服装で、中が見えてしまうじゃないのという感じだけれど、今回問題になって外された二人組がある。それは体の中身は足以外はよく包んでいるのだが、(足なぞ、皆なが十分出して歩いているし、とくにパリでは暑い時には腿の付け根まで見せている)今回の二人は、むしろ包んだ中身を、ホットに見せようというのか、体の線にすっかり沿った服を着て登場したというのだ。見せるよりもキレの上から感じる度合いの方が、目に毒だということらしい。動かない写真ならあまり刺激もないことだろうから、私のところに入ってきたニュースからちょっと失敬して、お目にかけることにした。この写真の服と、いつも見ている胸の奥まで伺えるような切り込みの服とどうちがうというのでしょう!

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アブダビに生まれたルーブル美術館

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 とにかく次から次えと始まるパリのこのシーズンの大展覧会、是非是非あなたの目で見て欲しいものばかり。好きな人にとってはそれだけでパリに来る価値があるというもの、と言っているうちに、アラブの中の重要国であるアブダビでは数日前にルーブル美術館がオープン。もちろんパリのルーブルではなく、その一部というわけでもないものだが、文化によっても国を世界に示したいという願望だろうが、その新しい美術館の名前にどうしてもルーブルというのを入れたいとフランスと散々議論が続いたのだ。あちらの言い分としてはこの国の人々は、ル-ブルという言葉こそ美術館という意味だと思っているから、この部分がなくては美術品を見るところとは思わないから、どうしても必要だ、という説明で、フランスと長い話し合いがあったことは知られている。その間に、肝心のフランスのルーブルはその宏大な館内で、数世紀前からこれらの東の国々からから来ている宝物がよりよく見られるようにと模様替えをしていた。アブダビの方は、フランスの高名な建築家に超モダンな建物を依頼して、間には、この美術館がすでに収集している美術品の展覧会を、何とあのルーブルでやったり、今までの常識では想像さえできないようなことばかりが起こったのだ。その中には、このところフランスでも知られ始めた、そしてそれまでも関西方面ではでは知られていたという、天井からの紐につかまって、足でバケツの中の絵の具をカンバスに叩きつけて製作するという、日本人の画家の絵までが、そのために、一時、ルーブル入りをしたのである。これらの国とフランスとの裏に何があるかは私は知らないが、何もないということはあり得ないとだけは言えるだろう。こんなと時も時、ルーブルにこそあるべきものが何世紀の間か、アメリカの収集家のもとにあって、それが今、競売に出るということで、フランス中が必死になって寄付集めをしているところ、そんなことも関連してくるのではないかと考えてしまう。大事なことに使われるならば、綺麗なことばかり言って何もしないよりいいことだろうと思うのは私だけだろうか?それは頭の中が、古臭く、狭い人間の思うことなのだろうか?このアラブの国では、王様の長男はデラックスヨットで世界の海をまわっているというが、もう一人の息子は、女も車を運転していいことにしようとか、あの顔を包むベールはいらないなどといろいろ男女が同じという考えを持っていると聞いている。他のことは昔からのしきたりどおりでいいと考えているようだから、兄弟の間に揉め事が起きないことを祈るよりなさそうだが、時間をかけて、変わっていく、静かに、焦らずに、いい方向に行こうとしているのは何より。それが実現するにはどのくらいかかるのか、疑問ではあっても、慌てず、騒がず変わっていくことを、私たちは見守っているばかりだ。

2017年の マルセル・デュシャン賞

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マルセル・デュシャン・コンクールで受賞した作品

 今はグランパレ美術館の付属館のようになっている上院議員の建物の中の美術館では、現在リューベンス展をやっているが、1年ほど前にベルギーのリューベンスの家と美術館を訪れたのと比べては当然のことながらフランス人にはいい機会だろう。
 一方、ポンピドーセンターに戻ると、フランスのマルセル・デュシャン・コンクールで70人以上のアーテイストが競って4つの作品が選ばれ、ずっと展示されていた。そして、その中からこの受賞作品がきまったという発表があった。これはフランスの芸術を世界に広く知らせたいという願望から2000年に創られた賞で、ここフランスの地で制作している作家なら全ての国の人が競えるもので、受賞作は決まってコレクターたちによって買われることになっているし、フランスの美術愛好家たちが大変関心を持っている賞と言えるだろう。今年、2017年の受賞者は、Joana Hadjithomas  とKhalil Joreige の二人のレバノン人の作品だが、この二人は、スクリーンの仕事もいつもいっしょなのだという。そして受賞挨拶はすべてジョアナの挨拶で終わった。この賞を受けると、今後生まれる創作も次々と心優しい、そしてフランス世界一の心がけの美術愛好家たちが次々と買ようになっているからアーテイストにとって大いに嬉しい賞なのだということもこの時、隣に座ったメンバーの女性から聞いた話だ。そう言っても、この賞は、私自身も関心を持っている賞で、フランスの現代美術の賞の中で、大いに待たれるもののひとつには違いないのだ。

アンドレ・ドラン展:これも同じポンピドー・センターで 
 
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 アンドレ・ドランは20世紀の初頭、フォーヴィスム(野獣主義)とキュービスム(立体派)の二つの美術の流れを生んだ画家だといえよう。この人の作品は今でも時々見る機会はあるが、今回のように年代と流れをしっかりと頭に入れられるような展覧会を見るのは珍しいことだ。というか私にとっては初めてなのだ。何の説明もいらない、まさに正真正銘という感じで気持ちがいい。
 ある時は時代によって、ある時はカテゴリーによってまとめられ、余計なもののない地味な色調の壁にしっかりと並んでいる。それは、今時には珍しいし、気持ちの良いものである。1880年生まれのドランが物心つく頃には20世紀初頭、こうして若者が絵を描き始め、マチスやヴラマンクなどを知り、とくにマチスと仕事をしてから、フォーヴになったと言われる。絵の全体を重視し、細部にはこだわらず、思い切った線でまとめ、フォーヴな表現をしたのだ。当時として、実に勇気ある作風だったとも言えよう。綺麗事ではなくて、レアリスムをもとめた結果、あのような作風、原始的な作風になったと言われる。今回、70点の絵。そして多くの彫刻、彼の持っていたいろいろな資料も同時に展示して、この作者の道のりが窺えるような展覧会だ。この会場で見るだけでも、私には今まではっきりとは映らなかったこの作者の行った道が感じられる展覧会だといえよう。私には、そういう役目を持っているように思えるのだ。
 まず写真を見てもらいたい、いや、出来れば、展覧会そのものを見てもらいたいと思ってしまう。美術愛好家は、いい時期に合わせてパリに来ればいいのだ。切符は全部インターネットでとっておけば行列する必要もないだろう。1日に二つ展覧会をみるとして、3日もあれば目的は果たせるはずだ。あとは行き当たりばったり、思い掛け無い収穫もあるだろう。

◆???
 さて、ポンピドーでの展覧会だが、アンドレ・ドランの展覧会のような作品の並べ方を見ると、大体は年代順であり、作品が何かのテーマを意図しているのであれば、それが素直にこちらに伝わってくるような展示がいい。こんな展示のやりかたに慣れて育った私の世代だからだろうか。ポンピドーセンターが気に入っているのもそんなこともあるのかもしれない。何しろ何も知らない子供の頃イタリアの数世紀前の絵や彫刻にお小遣いの全部を捧げて印刷を買ってくる従兄妹が居て、そんなあたりから、ダヴィンチだとかモナ・リザなどというものを知ったのだし、この人の妹の画家は勇気があって、芸大などで、裸のモデルをやったりもしたそうだし、私が高校の時には放課後の自由活動で、美術を選んだが、またこの先生夫婦は私がフランスに来るよりもずっと先にイタリアに移り住んで制作に励んでいるということだった。私の父は作家と言っても小説は1回は書いてみたがあまり読まれなかったのだろう、2冊目というのはなかったから。でもこの小説らしきものの題は、私が生まれた村を舞台にした「三沢村日記」だが、これで、小説を書くことを諦めたのかも知れない。「三沢村日記」といっても娘のミサワはどこにもいないような本だったのだ。子供時代に読んでみたが文明とか思想とかの方向にばかりで、母のような女性が憧れてその作家に会うために親の反対も聞かずに札幌から飛び出して東京に行ったのだと聞いている。もっとも母の叔父が、東京で雑誌の編集長をやっていたから、どこかに安心感はあったことだろう。それに札幌高女時代の上級生が画家で、彼女を何枚も描き、東京に行ってしまった。そして、続いて上京するようにと言っていたというから、それも影響したのかも知れない。その人が書いた、彼女の肖像画はパリにも持ってきて大切に壁に掛けられていたのだ。母は逝ってしまったが、この絵は今も大切にかかっている。母と別れて飛び出した父はやがて、女性と一緒にいると聞いたが、その母が、父のことを悪く言うのを聞いたことは一度もない。いい思い出だけをとっておいたに違いない。そして父が死んでしまうとそのお墓のデザインと、彫ってもらう言葉を私に託して、父が大好きだった真鶴の高台、下に真鶴の岩が見えるところが父のお気に入りだったので、父と小学校がいっしょだったという坊さんのお寺にお墓を作ったのだ。私が選んだ言葉は、父の本の題の「文明の没落・土に還る」から後半をとった。そして、今二人は一つの枠の中で収まっている。私が学齢期になるとき、母は父に強く結婚を迫ったと聞いた。父はこの願いを拒否して、すぐ近くのアパートに移った。結婚だけはしないと言っていたそうだ。わたしが父の本を読むようになって、結婚というタイトルの中身を知って、書いたことにそぐわない生き方をすることは自分に許せなかったのだと理解したのだった。

 さあ、12月に入って始まるのが、フランスの彫刻家セザールの展覧会、そのオープニングが彼がこの世を去ったその日に当たるのだという。19年前のことだ。巨大な親指を作ったり、自動車を次から次へと圧搾して彫刻としたり、常に話題に事欠かかさせない彫刻家だった。その頃の彼は学校でちょうど、学生と助手の間位の存在だったが、パリの美術学校で昼間に寝間着をまとっているのをよく見かけたものだ。彼のアトリエなのか住まいだかわからないうちにも行ったことがある。19年経って、初めての大展覧会だろうから、考えてみれば不思議な気がする。今大いに期待しているところだ。


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BS-TBS番組情報 №149 [雑木林の四季]

BS-TBS 2017年11月のおすすめ番組(下)

                  BS-TBS広報宣伝部 

ザ・撃退!スズメバチ&迷惑生物から身を守れ

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2017年11月17日(金)よる7:00~8:54

☆スズメバチ、ハクビシン、アライグマ、コウモリ…迷惑生物を駆除するスペシャリストに密着取材!

スズメバチ、ハクビシン、アライグマ、コウモリ…迷惑生物を駆除するスペシャリストに密着取材し、住宅街に潜む危険生物の生態や被害の実態を明らかにする2時間番組。
軒下で見つかった直径60センチの巨大な蜂の巣!中には5000匹ものスズメバチが…!
さらに深刻な悪臭・騒音被害をもたらす「都市型迷惑生物」のハクビシンやアライグマ、異常繁殖中の外来生物キョンを追跡。
増え続ける迷惑生物から、どうやって身を守るのか?撃退法や被害を防ぐ方法を紹介する。

昭和の巨星スペシャル 吉田正
“いつでも夢を” 歌い継ぎたい我が青春の歌謡曲

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2017年11月18日(土)よる7:00~8:54

☆今なお、多くの日本人が愛唱する吉田正の至高のメロディーを2時間たっぷりと!

司会:宮本隆治
出演:橋幸夫・長山洋子・三山ひろし
VTR出演:竹山逸郎、中村耕三、鶴田浩二、松尾和子、吉永小百合・マヒナスターズ、フランク永井、美空ひばり
今もなお、多くの日本人が愛唱する吉田正の至高のメロディーを2時間たっぷりとお届けする。
貴重なVTRを交え、魅惑のメロディーに秘められた物語を没後20年を迎えようとする今、改めて発掘する。
スタジオゲストには、吉田正門下生のトップスター橋幸夫が出演!
吉田正との数々のエピソードを語っていただくとともに「潮来笠」、「恋のメキシカンロック」などヒット曲も披露。
そして、吉田正の名曲の数々は知っていても本人とは世代がまったく異なる後輩歌手・三山ひろしと長山洋子も出演!偉大な先輩が遺した伝説を知り、名曲を歌い継ぐ。

極上のクルー極ズ紀行 2時間スペシャル
「海に漂う高級旅館!瀬戸内歴史ロマンクルーズ」

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2017年11月19日(日)午後3:00~4:54

☆新クルーズ船「ガンツウ」の旅!人気歴史学者・磯田道史が瀬戸内の歴史ロマンの世界へ誘う。

ナビゲーター(ナレーション):高橋克典
出演:磯田道史

なんと室料は1泊40万~100万円!高級旅館のような新クルーズ船「ガンツウ」で日本三景の宮島などを周遊。人気歴史学者・磯田道史さんが、瀬戸内の歴史ロマンの世界へ誘う旅。
今回は、先月就航したばかりのクルーズ船「ガンツウ」で行く瀬戸内海周遊の旅。
木を贅沢に使い、ベッドからもお風呂からも海を眺めることができる客室は、まさに高級旅館そのもの!
ミシュラン2つ星の日本料理の名店が監修する食事も、獲れたての美味しい魚介類や地元の山の幸など、絶品のものばかり。
世界遺産・宮島では、数々の著名人が宿泊した名旅館に眠るお宝に、磯田さんが大興奮!
源義経の鎧や弁慶の薙刀などが奉納されている神社がある“国宝の島”とは?
満潮になると首まで海につかり、海からしか見られない珍しい鎌倉時代のお地蔵さんも。
人気歴史学者・磯田道史さんの旅の最中の話には、歴史に関するものだけでなく、いろいろな驚きの発見が満載!


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ロワール紀行 №65 [雑木林の四季]

水に浮かぶジュノオンソー 2

           スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎

 初代カトリィヌ・ブリィソネ夫人
 トォマ,ボォイエは、シャルル八世、ルゥイ十二世、フランソワ一世と、三代の国王に仕えた財務官であった。
 彼の妻、カトリィヌ・ブリィソネは、その頃、この地方で富有を謳われたトゥールの金融資本家ジャック・サンブランセ二家の出だった。この景勝の領地に愛着を示したのも、彼女であるという。
 夫は、フランソワ一世のイタリア遠征に従い、何回もミラノやトスカァナに出かけ、財務官として軍用金の調達や出納を司った。
 留守勝ちの夫に替り、プリィソネ夫人がシャトオの建築に専念した。その指図で、この館はルゥイ十二世治下の後期、一五一三年からフランソワ一世の代にかけ、八カ年を費してできた。
 しかし、今日の姿に完成したのは、三代目の女戎主力トリィヌ・ドゥ・メディシスのときだった。
 ブリィソネ夫人は先ず、マルケ塔を今日見るようにルネッサンス風の装飾で改造した。
 この塔だけを残し、マルケの築いた城塞はすべて取り壊した。マルケ塔に相対して川の中にあった、風車の橋脚だったところを利用して、イタリア風の新しい主館(ロオジイ)を建てた。
 その天窓に庇(ひさし)をとり付けて、装飾的にしたのも、フランスでは初めての試みだという。
 読書室の樫の格天井は、トオマ・ボォイエとカトリィヌ・ブリィソネのイニシァル、丁・B・Cをバタアン化した凝(こ)りようである。これはフランスのシャトーに現存する、唯一の最も古い様式だという。
 ブリィソネ夫人を最初として、この美しい典雅なシャトオは、四百年の問、代代、六人の女城主の問に受け継がれていった。
 王の国庫の管理を命ぜられていたボォイエは、一五二四年、ミラノで死んだ。その二年後、ブリィソネも世を去った。
 フランソワ一世は、相次ぐイタリア戦争による巨額な国庫の赤字を被の責に帰した。
 仕方なくボォイエの息子は、その代償として、このシャトオと領地を王に差出した。
 フランソワ一世は、この付近の森で好きな狩猟を楽しむときの狩小屋に使用したという。

 二代、ディ7ヌ・ドゥ・ポワチエ寵妃
 アンリ二世は王位につくと、十八歳も年上の寵妃ディアヌ・ドゥ・ポワチエに、このシャトオを与えた。
 父王フランソワ一世が、大勢の美女や貴族達を伴いここに遊猟したとき、王太子として随行した彼は、ここでポワチエを見染めたという。そのとき、夜宴に同席していた王太子妃カトリィヌ・ドゥ・メディシスは、女の直感で男心の動きを知った。宴の果てるまで、美しいポワチエは、醜いメディシスの嫉視に苦しめられたという。
 この二人の女性の長い争いは、その時から始まった。
 アンリ二世が王位に即いたのは、ポワチエを見染めてから二年目のことだった。
 とにかく二十三年間、一日の如く、王が恋い焦れた彼女は、美しかった。
 その頃の、或る女性の書いたものに、「彼女は七十歳だというのに、(実際は六十七歳で死んでいる)その美しい顔は、三十歳をちょっとでた位にしか見えなかった。少しも化粧せずに、その肌は雪のように白く、水々しかった。彼女は毎朝、煎じ薬か何かの薬を服用しているという噂だった」と、彼女の美と若さが、讃えられている。
 このシャトオの居間に、イタリア人プリマティシィオの描いた、彼女の肖像画が掛っていた。
 等身大、写実的な絵に見る彼女の印象は、冷智の女である。
 ポワチエはここに住み、この風雅なシャトオを、こよなく愛した。彼女は、川添いの森を切り開き、今日、ディアヌ・ドゥ・ポワチエの庭園と呼ばれる美しい庭を作った。
 その造園費をせがまれた王は、国中の町や村の釣り鐘に、二〇リィヴルの税金を課した。            
 ラブレェは、その狂態を皮肉って、「王は国中の鐘を、その牝馬の頸にぶら下げた」と諷刺した。

『ロワール紀行』 経済往来社


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バルタンの呟き №22 [雑木林の四季]

「デジャビュ?」

                 映画監督  飯島敏宏

 「デジャビュ?」
 おや、と思って、友人からの奥方逝去による喪中ハガキにお悔やみの返事を書きながら聞き流していたテレビに眼を向けた時には、すでに、求められたコメントを述べ終えた小泉新次郎自民党議員が、取り囲む記者団とともに国会の廊下を歩み去る姿が映っていました。
 思惑通り自民の大勝利で終わった今回の衆院選の結果、国民の信頼を得たということで旧臘のまま安倍政権の続投が決まった直後に開かれた自民党議員総会終了後、院内の廊下で待ち受けたマイクに囲まれた彼が、
「これほどの重要政策が、全く党議に懸けられずに閣議決定で施行されることは、議員軽視、政党政治の否定、ひいては、議会制度の崩壊につながる・・・」
と、かなり激越な口調で安倍晋三首相の独断的な政治姿勢を批判した最後に、突き出されたマイクから外れながら呟いた
「デジャビュのようだ・・」
という一言が、ボクの耳を捉えたのです。
 今回の衆院選挙で、小泉新次郎氏が、自民党のイメージ戦略上の大功労者であったことは、支持不支持は別として、否めない事実であることは、皆さんご承知の通りです。解散当初、希望の党という唐突な勃発に遭っての思わぬ躓きを挽回する為に、安倍首相が、メディアの取材を逆手にとって、積極的に各地の街頭に立ち、疑惑には触れず、国難、防衛、経済、政権党の実績、そして北朝鮮の脅威を声高に唱えたのですが、各選挙区で首相の応援演説を遙かにしのぐ効力を示したのは。若き小泉新次郎自民議員の直截、闊達な演説だったと言っても過言でないほどでした。絶対多数の輿に胡坐をかいた安倍首相に、少なからず不満を持つ人々にとって、同じ自民党でありながら、声高に安倍政権のあり方に異論を述べる凛々しさが、保革共に精彩を欠く候補者の中にあって、実に頼もしげに見えたのです。
  粛々、しっかりと、丁寧な説明、経済成長、安定、安心・・・まるで安倍首相のコピペのような決まりきった言葉しか使えない与党政治家の語彙の中に、突然、デジャビュなどと言う言葉が飛び出したので、おや、と思ったのです。
 デジャビュ。大辞典には、一度も経験したことのないことが、いつかどこかですでに経験したことのように感じられる。既視感。とあります。
 小泉氏の発言は、国政に関する重要案件が、政府与党である自民党に計られることもなく、安倍首相の一存で次々に閣議決定されている昨今の政情を評して、戦前の第二次近衛秀麿内閣から東条英機内閣に亘る、政党政治の破綻、議会政治の否定、首相の大宰相的専横独裁化、大政翼賛政治・・・といった第二次世界大戦(大東亜戦争)に至るまでの日本の政治態勢に照らして、それに似たような状況だ、と示唆したものではないかと僕は解釈したのですが・・・デジャビュとして、彼がそこまでイメージして警鐘を鳴らしているのだとすれば、全く顔の見えない今の自民党の中枢、若手議員の中にあって、支持するとしないとに関わらず、一目するに値するだけの政治的感覚と教養を具えた存在ではないか、と思ったので聞き耳を立てたのです。
 たしかに、1981年生まれの彼にとっては、戦前の日本の政情は、デジャビュにちがいありません。1932年生まれの僕たちでさえ、戦前の政情は、幼少から少年になったばかりで、経験したことのないこと、とされても仕方がないほどの実感しか持っていないのですから。
 僕の幼稚園時代は、まったく、政治に振り回されることのない世界でした。我が家の隣のカフェ(現在のクラブ・バー)には東京帝国大学(東大)の学生や、画家、文士(小説家)などがたむろして、ダンスに興じたり、ダミア「暗い日曜日」などの禁じられた歌を唱っていたりしていましたし、僕達の通っていた町のキリスト教会(新教)の幼稚園には、ロシア、イギリス、ドイツ、アメリカの子供も一緒くたに通ってきていました。世界的な大恐慌と言われた不況から漸く立ち直った昭和モダンの時代だったのです。
 横町の遊びには、汚わい船(糞尿を海に運ぶ船)に住んでいた朝鮮人の子も、同胞である半島人として日本人扱いで参加したし、台湾の高砂族は強健な日本兵士として徴兵され、日本で一番高い山と言えば台湾の新高山で(富士山は、最も美しい山)でした。(日韓併合、台湾領有)。イエスキリスト誕生のクリスマスの頃や、春先の復活祭の時期になると、教徒でもない横町のガキ大将も幼稚園にやってきて、プレゼントや卵を獲得していたものです。それが、僕が年長組になる頃には、いつしか、アメリカ、イギリスの子供が来なくなり、ジマ・トリイ・ソロキンというロシア名前のなかよしの子供も、何処かに越して行ってしまいます。
 やがて尋常小学校に上がる頃、富国強兵が謳われるようになりました。国語の教科書にも、ススメススメヘイタイススメがありました。修身では、キグチコヘイ(鼓兵)ハシンデモラッパヲハナシマセンデシタ。遊びも変わって、椅子取り競争やカゴメカゴメ、チャンバラごっこから、水雷艦長だの、兵隊ごっこに。それでもまだ、戦争は、遠い遠い、国から何百里も離れた遠くで行われていたのです。南京が陥落したといっても、美しく提灯や造花で飾られた花電車と、提灯行列のおぼろげな記憶しかありません。
 中学年になり、尋常小学校が国民学校に変り、紀元二千六百年の歌がしきりに歌われ始める頃になると、、大人たちの話の中で、アカとか、ケンペイ(憲兵)とかスパイだのと言う言葉が目立ち始め、体操が体育と呼ばれ、横町のベーゴマが禁止になり、コリントゲームにかわって、多くの駒に混ざっているコミンテルンという一駒を追い出す、面白くもない赤色スパイ排撃ゲームなどが与えられました。角隠しで花嫁衣装のお嫁さんのあいさつ回りについて歩いてお菓子にありついていた僕らが、町内から、お国のために出征する人を送る行列に加わり、日の丸の小旗を持って、万歳をしてお祝いに配られるお菓子を楽しむようになったのです。そのうちに、お菓子の中からまずチョコレートが消え、なにか混ぜ物のあるビスケットになりました。ウサギの糞で造ったらしいと言った子もいましたが、兄貴の話だと、蚕の糞で造られ、大層な栄養があるのだということでした。ゴムから造られていたチューインガムが、噛むうちに口の中で固くなってくる変な松脂製のものになり・・・ガキと呼ばれた僕達が、賢こく逞しい兵隊予備軍として教えを受ける少国民という存在になりました。
 総理大臣という存在を意識したのは、ラジオから聞こえる演説の上手な近衛秀麿さん(第二次)が初めてでした。それがやがて、軍人の東条英機総理大臣に変る頃には、兄貴たちは体力テストで、重い砂袋を担がされ、投擲を投げる(手榴弾」羽目になり、僕たちは、毎朝登校は分団ごとに班長に率いられてゆき、母親たちは、防火訓練に駆り出されるのでした。兵役検査で、疾暦ありの丙種合格だった父親も、徴用ということで狩り出されるのです。
 貴族院、衆議院という名前や、議員という存在は知っていましたが、何をする人かは知らず、政党というと、なにか悪い存在のように思っていました。すでに、近衛内閣総理大臣が全て発令して、政党による議会制は機能していなかったのです。大政翼賛会だとか大日本愛国婦人会だとかが組織されて、町内会長が街を統制して、回覧板、常会といったものが各家庭に入り込んで、国士だの弁士だのの獅子吼(演説)の広告が電信柱にやたらと増え、ぜいたくは敵だとか、なんでも指示的な標語が増えて、パーマネント、ハイヒールが消え、背広の注文が無くなり、甲型国民服だとか乙型国民服だとか、ウチの洋服店で仕立てる服が変ってしまって、町内で始まった定期的な集まりの常会が、集団登校する僕らの分団でも、当番の持ち回りで始まり、集まっても別段相談することもなくて、当番になった肉屋の子の家で出された上等なとんかつに大喜びして、毎回その家でやろうと決めた記憶も鮮明です。しかし、間もなく彼の父親が出征して行き、ややあって、母親がなにか噂にのぼるうちに失踪してしまうのです・・・
 少国民教育の全ては文部省で一括して決められるようになり、団体行動はつねに軍隊式号令のもとで行われ、遠足は行軍となり、国民皆泳の教育指導で、金づちの子は、学校のプールで死ぬ苦しみを味わいました。
 やがて、しばしば全生徒が済美堂(講堂)に集められて、戦場体験者の訓話を聴かされるようになったのですが、いろいろ聞かされた中でも、平出大佐(本人だったかどうかは不明ですが、ヒライデ大佐と云う音読みだけはしっかりと憶えているし、生徒一同がゴム靴を脱いだ裸足の納豆くさい妙な匂いも、記憶に残っている)が熱弁をふるったのは、鮮烈な印象で脳内に刻み込まれています、ワシントン条約とかジュネーブ条約とかいう、日本海軍の戦力を削ぐために、欧米(反枢軸国際連盟)から押し付けられた、軍国日本にとって不利不均衡な軍縮条約を、口を極めて罵っていたことは、戦艦、航空母艦、駆逐艦、などの数まで記憶に残されました。
 折さえあれば学校内でもしきりに富国強兵が叫ばれ、支那(中国)戦線からの帰還兵が、分捕り品だと称する重厚な帯剣青龍刀を引抜いて机上で鍔を上下してシャンシャン鳴らして、民間人に扮して便衣を纏った敵兵を見分け、斬首した方法、手ひどい埋葬の状況を手柄話として語った南京占領談義は、少年になりかかりの僕にとっては、生々しい残虐性と共に強烈な刺激を潜在的な記憶として長く残し続けました。
 スマトラ、インドネシアなど石油産地を閉塞するABCD包囲陣が日本の石油調達の道を閉ざした理由や経緯は、皆、これらの講演からの知識でした。アメリカ、イギリス、中国、そしてオランダのABCDが協力して日本の石油調達機能を閉塞する暴挙をはねのけるためには、日本がリーダーとなって大東亜新秩序建設の戦端を開くしかないのだと、招かれた弁士が獅子吼したのです。
「ABCD包囲陣が石油調達の道を閉ざして、わが大日本帝国の息の根を止めようと圧力をかけている!」
やがて、少国民やよい子のお年玉は、弾丸切手という国債で与えられて、その全てが膨張する軍事費に当てられ、軍需の増大によって生じた品不足が起因して物価は狂乱的に上昇し、食料、衣料が配給制、切符制になり、3時に必ず出ていたおやつはいつのまにかトクハイ(特別配給)があった時だけのサツマイモに・・・
 スパイの存在が強調されて防諜のための密告が奨励され、駐在の警察官や刑事(特高)が毎夜のように我が家に訪れては、世間話を装いながら隣りのカフェに出入りする学生や、文士風の客の様子を聞きだそうとしたり、かつて、ターザン映画やチャプリン喜劇から、活劇チャンバラを楽しんだ映画館の客席の一画には、臨官席と掲示された一角が設けられて特高警察官や憲兵が姿を見せるようになり・・・銭湯の番台に張られていて、ウチの小僧さんや職人たちが、人気女優の出演するので封切りを楽しみにしていた映画が、内容が非常時に相応しくないと、上映禁止になったのは、しっかり覚えています。木下惠介監督の「陸軍」が、出征するわが子を追い続ける母親が女々しいとか、情報局からお叱りを受けたという頃です。
「何もかも、アメリカ、イギリスなどの反枢軸国が悪いのである。米鬼、英鬼を撃て!」
 日本中の子供たち(大人たちも)が、学校でも、新聞でも、ラジオでも、そう煽り立てられたのです。
 ちか頃、急に、新聞や、テレビが、社会面トップになり、政治面がなめらかな記事ばかり目立っていやしませんか?
いま、北朝鮮の普通の人民が、戦前の日本が、国営(!)のNHKラジオ一辺倒のラジオだったのと同じように、国営のテレビ、ラジオだけで情報を得ているとしたら・・・
先頭に立って最大圧力の掛け声をかけている我々の国をどう思っているでしょうか・・・
この呟きは、デジャビュではなく、かつて、日本が、僕達がたどった道なのです。狂乱的に真珠湾に突っ込んで、無謀な戦争に向かって・・・
昭和20年12月8日未明・・・


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ZAEMON 時空の旅人 №23 [雑木林の四季]

第十八章 ボクの見たバルタン星

                  文筆家  千束北男

ピルグリム三世が着陸したバルタン星は、ボクが今までに見たSF映画から想像したような、砂漠のど真ん中や海の上ではありませんでした。ワームホールだの、ブラックホールだのの概念と全く異なる時元異動で到着した地点は、宇宙旅行のハブステーションというのでしょうか、さまざまな形の宇宙航行の乗り物が停泊していて、いわば宇宙の港町とでもいった雰囲気の街で、宇宙旅行のツールやグッズ、ファーストフードなどの販売店やカフェなどもありそうな、例えれば、宇宙人相手の盛り場とでも書きたい繁華なところだったのです。もちろんそこには、バルタン星人以外の宇宙人の姿も数多く見受けられます。
ボクが覚醒した時、船内には誰も残っていませんでした。ZAEMON以下、すでに、船外に出て、ここのリアルに帰属してしまったようです。
ボク一人が、というか、見たことのない地球人の少年が一人でいるのが珍しかったのでしょう、船外に出ると、さっそく物見高そうなバルタン星人が数人寄ってきます。それぞれがかざしている両腕の、ザリガニのような大きな鋏が不気味です。
反射的にペンダントの勾玉を見るのですが、別に差し迫った異常や警戒を伝えてはいません。
「フォ、フォ、フォ」
やがて、ボクの周囲でなんとない私語めいたものが飛び交い始めたので、さすがに心細くなってきました。
と、その時、
「ハヤト!」
「あ・・・」
念送でボクの名が呼ばれ、群れの中から、ありがたいことにピピン、パパンが現れたのです。
「ピッ!」
ピピンが、鋭い笛のような一声をあげます。
すると、観客のあいだに、納得したというような雰囲気が漂って、それぞれに散って行くのです。バルタン星の治安はまずまずのようです。
あたりには、色々な宇宙人が、あるいは形態からみると、宇宙生物と言った方がふさわしい形態の存在までがひしめいていて、繁華を極めています。
ピピン、パパンの先導で、混雑の中に分け入って行きながら、地球以外にも、宇宙の各星々に、これほど多くの生命が存在しているのだという現実にふれて、ボクはそれぞれの存在に目を奪われてしまいました。
「あっ・・・」
すれ違った一人の宇宙人と肩が触れて、思わず身を固くしました。
あきらかに、ストリクト星人と思われる宇宙人がボクを振り返ります。
「・・・・」
どう謝っていいのか、言葉が浮かんできません。
でも、考えるまでもなくその必要はなかったのです。なぜかといえば、いまボクがいるのは、地球時間でいう西暦2016年のバルタン星ですから、地球攻撃のための宇宙十字軍と交戦している時代とは違うので、カレが僕に敵意を抱いたりするはずがないからです。
肩の触れ合ったストリクト星人も、チラッとボクを見ただけで、行ってしまいます。ここのリアルでは、まだ地球は平和な星とみなされているので、地球人のボクもここでは安心だというわけです。

雑踏を抜けた空間に、バス・ストップのような場所があり、そこからバルタンの交通機関スイフティーに乗って移動します。この乗り物は、地球人なら二十人ほどが乗れる、バルタンの乗り合いバスと言ったところです。
バルタン星人は、分身、瞬間移動、テレポーテーションなど、多彩な能力を備えているはずですから、わざわざ乗り物に乗るのは不自然じゃないかとお思いになるかもしれませんが、ピピン、パパンの解説によると、それらの能力を発揮するには、大きなエネルギーが必要なので、日常生活では、あえて乗り合バスを使うのだと言うのです。
スイフティーの燃料は、水素です。ただし、地球とは水素生成法の違いがあって、その燃焼過程で二酸化炭素は発生しないのです。
スイフティーが移動するにつれて、窓外に、目を奪うようなバルタン星の都市の景観が広がってきました。どう表現していいのか、なにしろ美しいのです。それまでボクが抱いていた核破壊と劣悪環境のバルタン星というイメージとは正反対と言って差し支えないほど美しいのです。
といっても、ZAEMONのピルグリム三世と同じように、すべてのデザインの基本思想が地球人とは異なっているので、最初はその奇矯さに戸惑うのですが、何故かすぐにこっちが影響を受けて共感が生まれてくるのです。地球のデザインに比べると、垂直、水平の感覚がほとんどなく、すべてが曲線であるというのが一番適切かも知れません。

ところで、山本久美子先生!
ここで、先生も充分ご存じの、あの、バルタン星人の特徴的な体型について、少し書かせてください・・
ピピン、パパンもそうなのですが、バルタン星人は、男子も女子も、体型的には同一です。性の違いが外見的には分別がつかないほど均一ですので、男女の別をはっきりするために、ちょっとしたアクセサリーを身に着けている個体が多いのです。
服装もすべて均一でと書きたいのですが、バルタン星人のあの外見は、服装というべき衣装や装身具ではなく、体そのものが、激変した環境に適応するためにああなってしまったというのが正解です。
まず、映画撮影用の怪獣の着ぐるみスーツのような肉厚な体表面についてですが、あれは、過酷な環境に耐えるために皮膚の表面が厚く固化した結果で、防御上必要なところが、特に物理的、化学的刺激に耐えるように堅牢な甲羅状に進化した結果なのです。
あの特徴的なザリガニの爪のような腕のことですが、衣服を着たり、食器を使ったり、文字を書いたり、格闘したりと、手先を使うことが極端に減ったために、防御、攻撃のためだけの必要性が、あのような異様な進化をもたらしたのだという説が、考古学的には通説になっているのです。

それにしても、雲ひとつなくはれ上がった空、都会の真ん中でさえ、何処までも遠景をはっきりと肉眼で捉えることが出来る透きとおった空気・・
「いまの東京じゃとても考えられない!」
思わず、そう呟きかかったボクでしたが、
「とんでもない!」
ピピン、パパンが口をそろえて即座に否定しました。
というよりも、ボクの頭の中に、口を経ないで直接その答えが飛び込んできた、と言ったらいいのかもしれません。考えたことがすぐに読み取られてしまうのです。
ピピンがこう伝えてきます。
「この大気は、ありとあらゆる科学的加工を加えて浄化した空気なのです。もしハヤトが、ヘルメットを外してあの空気を呼吸すれば、生命にかかわるような被曝(ひばく)被曝をこうむるのにさほどの時間を必要としません」
「ほんと? あんなに透き通って、青い空が・・信じられない・・」
すると、パパンが伝えてきます。
「バルタン星の回復が完全であれば、我々は、遠い祖先がそうであったように、地球人よりも格段に美しいプロポーションと、赤子のようにすべすべの肌をして、自由に大気を呼吸して暮らしているはずです・・生命を与えられて生まれ出た瞬間は、昔どおりの美しい体をしているのだけれど、外気に触れると同時に、あの肉厚の皮膚をしたマスク体にわが身を閉じ込めてしまう悲しさは、快適な環境に暮らすニンゲンには絶対に理解できない悲しみです」
「こんな高度な科学力を持っていても、解決できないの?」
「これだけ悲惨な環境破壊をもたらした核戦争や、エネルギーとしての、核のおろかな使いかたはとっくにやめていますが、破壊してしまった環境の完全な修復は絶望的です。それでも地球時間でいう二万年を経過するころには、なんとか短時間の呼吸をすることが出来るほどに回復できるかもしれないというはかない予測に立って、現在バルタン星の科学者たちが挑戦してはいますが、バルタン星のだれもが、それが実現するという希望など持ってはいません」
「地球と同じじゃないか・・」
「ちがいます」
「違うって・・どこが違うの?」
パパンから、驚くほど強い言葉が伝わってきました。
「地球は、まだ修復可能なのです! 救えるのです! もっとも、このまま地球を人類にまかせていると、という前提で考えれば、この星と同じ結果になってしまいますが、もしいまのわれわれバルタン星人だったら、地球はまだまだ救いようがあります」
「え? バルタン星人が地球をどうするって?」
「そのご心配には及びません。というのは、われわれバルタン星人は、バルタン憲章で、自星自栽(じせいじさい)自星自栽を誓っているからです」
「自星自栽?」
「他の星には干渉しない、自分の星のことは自分の星で解決する、というルールです。でも、ニンゲンは、かならず近いうちに地球を使い果たしてしまうに違いない、と、バルタン星人以外の宇宙人も考えはじめているのです」
「地球を使い果たしてしまう・・ひどいことをいうじゃないか」
「ひどい言い方かもしれませんが、でも、そのとおりです。近頃の浪費一方の地球人のやり方を見て、他の星の宇宙人や宇宙生物たちにとって、ニンゲンはおそろしく危険な存在だと思われ始めているのです・・・ニンゲンは、地球の自然や資源を浪費したあと始末を、月や火星に求めようとしているからです。ニンゲンのやりくちは、宇宙の摂理に外れている、中には、宇宙の敵だ、とまで過激なことをいう星もあるのです」
ここまで読んで下さった先生はご存じのように、すでに悲惨な西暦2030年の地球のリアルを体験しているボクは、一緒に行動している同志のバルタン星人ピピン、パパンからその話を聞いて、ぞくっと、背筋が寒くなりました。地球以外の宇宙人、というけれども、バルタン星人も、実は地球を狙っているのではないか、という疑いが、ふたたび頭をもたげてきたのです。
「ZAEMONについて、どうしても聞きたいことがあるんだけど・・・」
ボクがピピン、パパンに言おうと考えた途端、
「ああっ!」
突然ボクの頭に強烈な刺激が走り、ピピン、パパンからの念送が断ち切られて、
「・・・・」
パパンからピピンに向けて、注意パルスが走ったのが感じられたのです。どういうことでしょう、パパンがなぜ、ピピンに念送の中止を促したのでしょう。なにか、タブーに触れたのでしょうか、それとも誰か第三者が・・・

山本久美子先生・・・ボクは、先生やこれを読む人たちのために、ボクとピピン、パパンが会話を交わしているように書いていますが、実際は、これだけの会話が、すべて瞬間的な念送のやりとりで達成されてしまうのです。
ボクが頭の中に浮かべた考えを即座に読み取り、直ちにその回答が僕の頭の中に返されてくることを、ボクが勝手に念思だの、念送だのと書いているのですが、それが、読心術などという既製の言葉があてはまらないほどすばやいコミュニケーションだからです。
バルタンの乗り合いバス、スイフティーの僅かひと停留場の短時間で、ボク達地球人の言葉だったら相当に時間のかかる膨大な内容がコミュニケートできてしまうのです。
もし、バルタン星人が宇宙十字軍と手を握って地球を敵としたら・・これはもう、地球人では歯が立たない恐ろしい敵だと言わなければなりません。

あれは教会でしょうか。スイフティーは、とりわけ立派で重厚な感じがする大きな建物の影がおちている広い公園の中央で停車しました。
ここは、バルタン星のセントラルパークとでもいった風情です。公園は、市民や旅行客でにぎわっています。
かつてこの広場の中央の壇上に、著名彫刻家によって創られた、美しかった頃のバルタン星の若い男女の像が、飾られていたといいます。平和の象徴として、崇められていたものですが、その美しさが、あまりにも現在のバルタン星人を嘆かせるものだという意見が出て、撤去されてしまったということです。
その時、像を見知っているピピン、パパンが、ほんの束の間だけその姿に変身して念送してくれたバルタン星人男女の美しさは、ボクには例える言葉が浮かばないほど感動的な、香しいほどの肌に包まれた美しい裸身でした・・・
                               つづく


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医史跡を巡る旅 №31 [雑木林の四季]

「紀行シリーズ」~西洋医学事始め・大分県中津市・後篇

                       保健衛生監視員  小川 優

前回、11月上旬の記事をお休みさせていただきました。私にしては珍しく、ちょっと長く(といっても、三泊四日ですが)熊本旅行に行っておりました。いわゆる「作者取材のため休載します」というやつです。たくさんネタを仕込んできましたので、今後をお楽しみに。

さて、中津篇最終回です。

中津には、かってお城がありました。豊臣秀吉の軍師として名を馳せた黒田官兵衛(孝高)が築城しはじめましたが途中で転封、跡を継いだ細川家が完成させます。その後は奥平家が幕末まで城主となります。

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「中津城」~中津市二ノ丁

現在の城郭は昭和39年に建築されたものだそうで、観光施設となっています。また城域内には、郷土の生んだ偉人である福沢諭吉を記念して、明治37年に建てられた「独立自尊」の巨大な石柱があります。

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「独立自尊碑」~中津市二ノ丁 中津城

目を転ずると、石垣の上に銅像があることに気が付きます。中津出身、日本最初の歯科医師である小幡英之助の銅像です。

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「小幡栄之助銅像」~中津市二ノ丁 中津城

小幡英之助は嘉永3年(1850年)中津に生まれる。藩校進脩館に学び、明治2年(1869年)、叔父でありのちに慶応義塾の塾長となる小幡篤次郎を頼って上京、慶應義塾に入塾する。その後医師として外科を志すが、手先の器用さを見出され、横浜で開業していた米国人歯科医師ジョージ・エリオットに師事し、日本人として初めて西洋歯科学を習得する。
明治7年(1874年)医師国家試験である「医制」が施行され、開業にあたってはこれに合格しなければならなくなった。内外科(総合科)のほか内科、産科、眼科、整骨科、口中科の専門科について試験を行う予定であったが、英之助は「歯科」で出願、ところが近代歯科学に関する知識・技術・経験を持つ者は政府・東大におらず、受験者も英之助のみであった。翌年に医術開業免状が交付され、英之助は医籍第4号、「歯科」専門科としては第1号の医師となった。なお明治17年に歯科医籍が分離するまでは、歯科医師であっても医籍に登録された。
その後東京銀座で開業し、傍ら弟子をとって西洋歯科医療を広めることに努めた。明治42年(1909年)、60歳で脳出血により死去。青山墓地に埋葬される。

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「小幡栄之助墓および顕彰碑」~東京都港区青山 青山霊園

さて、藩の政策もあって、中津の人々は蘭学や近代医学に協力的であったらしく、医学振興のため自ら献体、すなわち死後の解剖を名乗り出る篤志家もいました。中津の円応寺には、富永章一朗氏解剖記念碑があります。

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「富永章一朗氏解剖記念碑」~中津市寺町 円応寺

豪商として知られた富永章一朗氏は明治22年、脚気で亡くなります。生前から献体を申し出ており、近隣の医師らの立ち合いにより解剖されました。その詳しい記録は「剖検録事」として、前回ご紹介した村上医家史料館に残されています。

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「剖検録事」~大江医家史料館所蔵

中津出身の医師で少し時代が下ってから活躍したのが、田原淳(たはら すなお)です。

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「田原淳墓」~中津市新魚町 自性寺

明治6年(1873年)庄屋の家に生まれたが、跡取りのいなかった医師田原春塘の養子となる。第一高等学校、東京帝国大学医学部を卒業、中津に帰郷し義父の跡を継いで開業する。しかし留学の夢をあきらめず、明治36年私費でドイツマールブルグ大学に留学。留学中に師であるルードウィッヒ・アショフとともに心臓の刺激伝達系で重要な役割を果たす房室結節を発見したことを発表、この結節をアショフ・田原結節と名付ける。

奇しくも田原が留学した1903年、オランダのアイントホーフェンは弦線電流計、現在でいうところの心電計を開発します。ところが当時は心臓の刺激伝達の仕組みがわかっておらず、折角得られた心電図のデータも、その意味を理解できませんでした。田原の発見により、刺激伝達系を電気刺激が伝わることにより心臓が正しく拍動することが解明され、心電図の波形の乱れが、心臓の異常個所を知る手掛かりとなることがわかったのです。この成果は、心電図という心臓を起因とする疾病の発見方法、そして治療のためのペースメーカーの開発へとつながり、多くの人を死に至らしめた心臓病の克服に大きく貢献したといえます。
ドイツ留学中田原結節を見出すまでの研究は、莫大な数の心臓の病理標本づくりと、その顕微鏡観察の繰り返しの上に成り立っており、田原の根気と忍耐力は驚くべきものでした。
村上医家史料館には、田原の残した標本スケッチが展示されています。

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「田原淳の標本スケッチ」~大江医家史料館所蔵

明治39年(1906年)ドイツから帰国、福岡医科大学病理学教室助教授となる。さらに2年後には教授となり、後進の育成に従事する。大正3年(1914年)、「哺乳動物の心臓における刺激伝達系統」の研究に対し帝国学士院恩賜賞受賞。昭和9年(1934年)定年退官し九州大学名誉教授、昭和27年(1952年)78歳で死去。

自性寺の田原淳の墓所には、彼の偉業を顕彰する碑が建てられています。また彼の活躍した九大医学部のキャンパスには「田原通り」が、福岡市内には居宅跡の碑があります。こちらは福岡篇でご紹介したいと思います。

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「田原淳顕彰碑」~中津市新魚町 自性寺

三回にわたってお送りしました大分県中津市編、これにて閉幕と相成ります。
次回は舞台を西に移動して、今回見てきたばかりの熊本篇をお送りする予定です。


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いつか空が晴れる №23 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
     -バッハ カンターターその2
                       澁澤京子

 5時に起床。洗面に立つと高齢のクリスチャン女性が静かに洗面をされていた。薄暗い洗面台の窓の外からは雨の音。
朝の坐禅が終わって玄米のおかゆ、そのあとは作務の時間。
「ボイラーのところをイノシシが掘り返してしまって困ってるんですよ、雨合羽ありますからどなたか男性の方、穴埋めのお手伝いお願いします。」
典座のSさんが朝食後、声をかける。

広い厨房でSさんのお皿洗いのお手伝いをした、
「一人で皆の食事の支度、大変でしょう?」
「慣れちゃったから。前日に来てここをあけるんですよ、」
「こんな広い所、一人で怖くない?」
「今回、母と一緒だったから。坐禅堂のところのドアに尻尾引っかかってもがいたんだろうね、タヌキが死んでたの。」
ケラケラ笑うSさんは、お皿を拭きながら少し足を引きずって歩く。
「私、リューマチなんですよ。まあまだ軽いんだけどね。」
「坐禅は大丈夫なの?」
「大丈夫。シスターキャサリンに坐禅すすめられて見性したんですよ、私。そうしたら聖書の今までわからないところが急にわかるようになったの。それで洗礼受けたんですよ。」

建物の奥にはかなり広い本格的な坐禅堂があった、近くには図書室があって、神父さんたちが読んだのだろうか、禅関係の本がかなり並んでいる。窓の外を渓流が勢いよく流れているのが見える、奥多摩の山奥で静かに朽ちていく瞑想の家、神冥窟。
広島で被爆したドイツ人神父、ラ・サール神父が設立したもので、元は広島にあったらしい。キリスト教神秘体験と禅を結び付けようと、坐禅堂を開いた。
禅の「無」とキリスト教の「神」はおそらく似ているのだ、禅では「無字に任せる」という言い方をするけど、それはキリスト教の「神の御心のままに」と同じではないだろうか。自分の無力やどうしようもなさに気が付いたとき、宗教とは関係なく人は誰でもこうした気持ちになるのではないだろうか。

バッハ2-1.JPG
バッハ2-2.JPG

帰りはSさんと、Sさんのお母様、それとA神父と一緒だった。
「今度、コーラスでバッハのカンタータ歌うんですよ。」
Sさんが車の中でドイツ語でバッハを歌い始めた、
「これ詩編なんですよ。」
・・主よ、いつまで私を忘れておられるのか・・
軽い認知症を患っているというSさんのお母様はずっと無言で車の窓の外を眺めていた。

四谷のイグナチオ教会でA神父と別れたのは夕方だった。
雨はまだ強く降っていた。


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台湾・高雄の緑陰で №69 [雑木林の四季]

    台湾と日本の関係について

           在台湾・コラムニスト  何 聡明

 2017年10月22日の衆議院議員選挙で大勝した自由民主党の安倍晋三内閣の続投に反対する日本人は少なくないようだが、台湾では親日派、知日派を問わず大多数の台湾人は安倍内閣の続投を歓迎している。安倍晋三総理は台湾では親台派であると思われ、親日派の元台湾総統李登輝氏と親交があり、台湾の苦境をよく知る日本人であると考えられているほか、安倍内閣なら若し台湾に一旦緩急あれば米国と共に台湾へ駆けつけてくれるだろうと言う期待もあるからである。

 是に反し、反日意識の強い少数の台湾人と親中反日在台湾中国人(通称、外省人、総人口の約8%)は元々親米親台の安倍内閣に不快感と不安を感じているので、安倍内閣の続投には極めて批判的である。反日民衆は過去の中日戦争で中国大陸を侵略した旧日本軍の暴挙を今でも恨みに思い、その多くは将来台湾が中国に併呑されることを望んでいるのだ。台湾は自由民主国家であることを誇りに思っている台湾人は共産党専制の中国に併呑されることには絶対反対の言行をとっている。
 話は変るが、韓国政府は北鮮と有事あるとき、米国の介入は欠かせないが、日本の介入は求めない、即ち米国が望む日米韓軍事同盟を結ぶ意向はないと言う態度を明らかにしている。であるが、米国は日本無しで韓国が守れるとは考えていないだろう。台湾なら日台米軍事同盟を歓迎する。日韓関係が今でも甚だギクシャクしていることが良く分かると同時に、日台関係との違いも分かる。

 戦後、中国国民党の亡命政府を受け入れたために混迷を続けている台湾の今日を作った元凶の一人は、太平洋戦争初期のフィリッピン作戦で日本軍に大敗してバタン半島から脱出したマッカサー将軍である。彼は日本帝国への恨みを深めつつ、1944年にはフィリッピン奪還に成功した。1945年8月15日に日本が連合国軍に投降すると彼は日本占領軍の総司令官として東京入りをするや、GHQ第1号命令で中国国民政府(国府)に台湾駐在の日本軍民の投降を受けるよう命じた。台湾へ進出した国府は平和条約締結前で國際地位未定の台湾人の国籍を勝手に中国籍に変更し、国税の徴収を始め、更に台湾兵を大陸の中国共産党軍との内戦へ投入した、その数は1万5千を越えた。共産軍の捕虜となった台湾兵は朝鮮戦争にも狩り出され、しめて8割以上の台湾兵は帰らぬ人となったのである。台湾へ渡って来た中国政府の無能と腐敗、軍隊の横暴に耐えかねた台湾人は1947年2月27日の夜、台北市内で役人が禁売タバコを売っていた中年女性を強行に取り締まっているのを見かねて、役人を捕らえようとしたが逃げ去られたので、その翌日群衆は政府暴行した役人の処罰を求めて台北の政庁前で抗議デモを行ったが、中国軍に発砲されて死傷者多数を出し、騒動は全島に広まった。228事件の発生である。蒋介石は急遽台湾へ増援軍を派遣したが、GHQがそれに歯止めを掛けなかったのは、仇日意識が未だ強かったマッカーサが50年間日本の植民地統治を受けた台湾人は半日本人(semi-Japanese)であり、台湾人が太平洋戦争中日本軍兵士または軍属として米軍と戦った事実に鑑み、中国政府軍による台湾の半日本人鎮圧は必要であると考えたからであろう。

 マッカーサが徐々に対日感情と日本占領政策を変えたのは、日本人は法を守る文化を持つ頼りになる民族であることを知ったほか、ソ連との東西冷戦が激化し、更に朝鮮戦争が勃発したことで西太平洋に配備されている米軍の最重要補給基地として是非日本に頼らねばならないと悟ったからに違いない。

 戦後一部台湾人エリートは独立国家の創立を考えたが、当時の台湾総督府に反対された。エリートのリーダであった辜振甫は旧日本帝国貴族院議員辜顕栄の息子であり、戦後台湾独立を計った謀反人として中国国民政府に逮捕投獄されていたので、228事件に関わったエリートとして逮捕殺害されずにすんだのである。後日辜振甫は中国国民党に入党、外省人高官の娘を妻に娶り、工商界と政界で頭角をあらわし、1992年には中国国民党政府の全権代表として香港で中国共産党政府の全権代表汪道涵と中・台交流の交渉で活躍した。 

 第二次世界大戦後アジア地域の植民地は殆ど独立を果たしたが、台湾は中国大陸の内戦で共産党に敗れて台湾へ亡命した中華民国の次殖民地として残り、台湾人は38年間の軍事戒厳令を含む半世紀以上にわたり幾多の迫害を受けた。現在台湾人の政権が樹立されているが、その国名は台湾国ではなく中華民国であり、また中華台北でもある。それ故「現状維持」を唱える本土民進党政権は台湾人が立法に全く関与しなかった中華民国憲法を今でも遵法しているのだ。この現状を打開しなければ台湾独立または建国が実現できないのは明白である。その打開策はいろいろ討論と検討されているが、自由民主諸国立会いのもとで台湾の住民投票(referendum)を行うことが最も妥当であると考えられている。台湾政府は公民投票法を制定してるが、その法律は制限の多い笑止な「鳥籠法」と呼ばれ、台湾新憲法の創制を許す条項はない。新憲法の創制が許されないと台湾の法的建国は実現しない。現在国会で3分の2に近い議席を持つ本土民進党がその他本土野党と組み、公民投票法の改正法を通過させることが先ず肝要である。

 台湾と日本との絆をより強固にするために、台湾では公民投票法の改正、日本では憲法の一部修正が待たれる。建国以前の台湾と更なる太い絆造りは日本が米国同様【台湾関係法】を国会で立法することであろう。


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気随気儘 №9 [雑木林の四季]

佐渡仮宿日記№8

                 舞踏家  和泉 舞

6~10日。東京から知人が来訪。
6日。集落の代表から竹トンボのレクチャー。
私は左きき。竹を削るナイフが片刃で左きき用ではない。なんとか逆向きでも削る。
削り過ぎで2つ失敗。3度目の正直で完成。これがよく飛ぶこと!

家の横と裏は竹やぶ。
ちょっと前に代表が「竹タダ。取っても誰も文句い言わない。むしろ取って欲しいぐらいだから。切ってもいいよ」
竹で何か作りたいなぁ~。でも道具ないと出来ないからのちのち。

7日。椎崎諏訪神社にて薪能「敦盛」鑑賞。能学びたい欲が浮上する。

8日。新穂のお祭りにて子供の鬼太鼓。地域毎に鬼太鼓は違うと聞いていた。いつか見て見たいな~と思っていたのが早くも見られてラッキー。
このお祭りには豊岡集落も出店。代表が作った竹製品のおもちゃやコケ玉。子供たちが楽しそうに遊ぶ。その他、集落の人の手づくり品も並んでいた。
次は両津のフリマへ出店すると言う。
私が手作品を作っていると話したら、先日撮影に来た。
集落の回覧板に私の紹介とともに手作り品と畑を掲載するとのこと。
11日回覧板で回ってきました。

午後。佐渡奉行所にて「佐渡民謡の祝祭」
各集落の民謡と踊りを鑑賞。集落によって同じおけさでも踊りが違う。
見たこともない踊りが!
お地蔵さんを手負って踊る。(本物の石地蔵。重い物は7㎏もあるとのこと)。後半。手で支えだんだん身体が前屈みに……観客席から笑いが。
すべて手作業で田んぼをしていた昔の様子を踊る。昔の農具を持ち手順通りに踊ってゆく。まるで声のないお芝居のよう、面白かった~。
昨日から伝統芸能三昧。学び欲沸々沸々。あー習いたい!!
おけさ体験はしてきましたよ~。

10日朝。知人をバス停までお見送り。
バスが来た。あれ?反対側方向。バス停が片側しかないのです。ひとつで充分との話。
反対側で待っていた人を見た運転手さんと乗客の高齢者4人程。知人を見て微笑む。そして、皆知人を見る。それをはたから見ている私と集落の方は大笑い。
なぜって、乗客の顔が一斉に同じ方向へ向くのですもの。たぶん皆心の中でこう呟いている。(見たことない人だわーどこから来たんだ?)

家に戻るまで大笑いの話。
「きっと話掛けられてるわよー。何処から来たとか、色々と……」

佐渡島の中心を運行するバスは例外だが、この辺りや中心から外れたいくつかの路線バスは、手を上げたらバス停でなくても乗せてくれるらしい。
朝はまだ、病院へ行く高齢者が乗車していることもあるけど、昼間は誰も乗っていないらしい。
「運転手さんは毎日ドライブしているのよ」と集落の人。
「前に運転手さんと話ししながら乗ってて、スーパーにこれから行く話したら、その前まで行ってくれたんだけど、街中だから見られた見られた~気まずいったらなかったわ~」大笑い。
「まるでタクシーじゃないですか~それまずいんじゃないですか?本当は」
「いいらしいのよ。この路線は」
ほおおー。凄いですね~佐渡島のバス会社。懐大きい……というか運転手さん毎日一人でドライブよりいいってことでしょうね~。

昼間。ほとんど日中は窓を開け蚊取り線香を置いている。
男性が不思議そうな顔で「どなた?」と言いたげ。
「お試し住宅でお借りしてます」
「ここは母の家だったんです。ああー誰かいてよかった。ずっといてくださいよ~」
あ!息子さんなのね。
車からしいたけ2つと金木犀の枝1本。
「どうぞ。しいたけはこれしかなってなかった。これからだからまた、採ったら持ってきますよ」
え?もらっちゃっていいのかしら?これしかないんでしょ?んん?……気前いい!
金木犀のいい匂い。
本当に佐渡人はこういう人が多いですよ!
ほっとするのよね~こういう感じがー。

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梟翁夜話(きょうおうやわ)№2 [雑木林の四季]

ある辞書へのオマージュ

               翻訳家  島村泰治

秋雨と言えば聞こえがいいが、しばらくの雨続きでうんざりしていたところ、昨日今日と秋の風情が見え隠れる。独歩の武蔵野のそれはないまでも、ここ桶川も至るところ林(この辺りでは山と言うのだが)があって散策に事欠くことはない。それでも、瞑目すれば育った頃にあったはずの『山』は消え、そこにこじんまりした一戸建てを見る、などの経験はよくあることだ。

立冬を過ぎて、この朝夕の冷えが散策の足を鈍らせる。馬齢を重ねる毎に弱みの気管支を厭う気持ちから寒気の訪れを忌み嫌い、生来の寒さ知らずは何処への思いが切ない。それにしても、このところの異常気象はどうやら here to stay のようじゃ。

そう、わたしは半世紀も前に渡米して苦学したのだが、面白いもので、ちょっとした英語の言葉が、状況に釣られて口をついて出るのだ。here to stay などは異常気象が「このままいつくようだ」ほどの意味だが、きっちり三語でわたしにはこれが馴染んでいる。
 
そうだ、話しのマクラに「知恵袋ばなし」絡みのお話しをしようか。知恵袋はYahooのサイトで、気まぐれにわたしが英語指南をしている場所だ。
 
英語は聞いたり話したりの時期を経て「書く」となると、所詮は外国語だから、こちらの文化に根ざしていないだけに、痒いところに手が届くものはなかなか書けないものだ。小賢しく文章を「拵(こしら)える」などしようとする時期があって、あちらの識者の目には噴飯物の作文を、臆面もなく絞りだす。それが、なにかの切っ掛けで背中に冷水を浴びるが如き思いをするものなのだ。
 
これは、実はわたしの身の上話しだ。まだ、青かりし頃のこと、ある英語のものを書いたとき、某外つ国の識者からやんわりと、だが辛辣な批判を浴びせられたのだ。わたしには鉄槌とも感じた一撃だった。前述の文化の根ざしの浅はかさを衝かれて、わたしの鼻は折れた。爾来わたしは母語を操る匠の作品を濫読した。匠たちの筆遣いに吐息をついては、懲りずに書き継いだのだ。
 
その折、わたしは一冊の辞書を見つけた。見つけたとは言え、とうに知られた名著で、知らぬわたしが疎かっただけなのだったが。その辞書は、古今の英語の書き物に見る語法のあれこれを、幾拾万の例文を集めて紹介する稀有なもの。わたしはごく最近まで、この辞書を枕に寝ていたものだ。
 
外つ国の文化はその言葉に顯はれる。言葉が紡ぐ文章には、ふんだんな文化が潜む。わたしは、英語でものを書かんには、これを母語とする民族の文化に深く触れねばならぬ、と自覚している。自国に閉塞する外つ国人たるわれらは、悲しいかな、その言葉で書かれたものを読み漁るほかに、術はない。わたしには、この辞書がその橋渡しをしてくれていたのだ。
 
さて、ある日の知恵袋だ。
『英語表現のなりたちがわかる辞典や参考書を探しています。イディオムや慣用表現などが、単語のどういう意味によってなりたっているのかが分かる本はありますか?少し難しくて専門的な人たちがよく使っている(定番のような)ものを教えてください。』
 
こういう御仁もおられる。わたしにしてみれば、例の辞書のことを知らせる格好の機会だった。
 
『研究社の「活用大辞典」はご存じですか?これは【名著】です。とくに英文を書く人には仕事が楽になります。Ex-word にも載っています。すでにお持ちなら蛇足でした。』

経歴は存ぜぬが、この御仁は幸運だった。サイトというのは捨てたものじゃない、とこんな時につくづく思う。こんな追伸を届けてくれた。

『実際に図書館で見てまいりましたが、非常に詳しく、用例も多く、感動致しました!ありがとうございました!』

いま、こちら『知の木々舎』にも駄文を寄せる機会をいただく傍ら、ネット上でもホームページ二本に和英両語の文章を書き連ねている。母語の日本語はさておき、英語でのもの書きは悦びとストレスが相半ばしている。名代のAIならいざ知らず、英語の名作を読み尽くすなど人知の及ばぬこと。大町桂月の『文章宝鑑』なき(あればご教唆願いたい)英語界では、外つ国人たるわたしが絶え間なく英語の名文を味わう術がない。

年が明ければ八十三歳になる老躯、流石にあれこれの文章を貪りながら英文書きの道を歩んできてつらつら思う。行を折る毎に辞書を引き、三択あれば奇をてらって最後のオプションを選び、文章はひたすら拵えるものと思い込んでいた頃が懐かしい。言葉を一つ選ぶにしても、一本釣りをするか、文脈ともども一網打尽に掬い上げるかの壮大な違いに気付いたのはいつ頃か。辞書を引くとは例文を引くことなり、と悟った時、わたしは例の辞書の只ならぬ価値に気付いた。

そして昨今、わたしは英語を拵えずに絞り出す妙味を覚えた。あたかも母語たる日本語であれこれ『吐く』ように、視界や意識に浮かぶものごとを英語で紡ぐことを覚えた。なにを隠そう、後の乱読の実もあったにしても、紡ぐ術の会得は例の辞書に集められた無尽蔵の『文脈』に出逢ったことが切っ掛けだった。世に星の数ほどある英語書きのための辞書のなかに銓一際際立つある辞書への、これはわたしの懐古のオマージュである。

付記
今は亡き著者への畏敬の念のみで、売らんかなの邪心などさらさらない。それと知らぬ市井の英語書き諸賢のために:研究社『新英和活用大辞典』勝俣銓吉郎 New Dictionary of English Collocations 

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私の中の一期一会 №154 [雑木林の四季]

        水びたしの甲子園でCS強行は醜態!プロ野球のCSは本当に必要か?
    ~3位DeNAの下剋上もいいけれど、優勝した広島は“複雑”に違いない~

         アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 メジャーリーグのロブ・マンフレッド・コミッショナーが28日、ワールドシリーズ開催中のヒューストンで記者会見し、アストロズのユリエスキ・グリエル内野手(33)に「来季開幕から5試合を出場停止処分にする」と発表した。
 グリエルは27日(現地)の第3戦で、ドジャースのダルビッシュ有投手(31)からホームランを打った直後、ベンチで“目尻を指で押さえて両目を細くしながら、スペイン語でアジア人を蔑称する「チニート」という言葉を口にした”というのである。
 マンフレッド・コミッショナーの対応は迅速であった。「MLBは、このような言動を認めない」と語り、事が起きた翌日、第4戦の試合開始前に処分を発表した。
 グリエル?・・聞いたような名前だなと思ったら、2014年には日本のDeNAでもプレーしていたキューバ出身の助っ人だった。翌年は“怪我”を理由に来日せず契約を解除されて話題になった。彼は、もともとアジア人に偏見を持っていたのかも知れない。
 グリエルは球団を通じて「誰も傷つけるつもりはなかった。私の行為で傷つけられたすべての人に 心から謝罪する。深く後悔している」との声明を出したが、このオフには感受性訓練が義務付けられているという。
 グリエルを今季ワールドシリーズの出場停止にせず、来季シーズンとした理由について、MLBはチーム全体を罰する不公平性、本人の異議申し立ての権利を上げている。
一方、ダルビッシュ有は「完全な人間はいない。いろんな人がこのミスから学べると思う」と大人の対応をしたことにより、マンフレッド・コミッショナーから「選手として最上級の対処だった」と賛辞を送られたと報じられている。
 ドジャースは第4戦の試合前、ベンチで円陣を組んで、“ダルビッシュのために勝つ”と結束を誓った。
 ダルビッシュは「素晴らしいチームメイトを持ってとても幸せ」とインスタグラムで明かしたという。
 このニュースは、記事としての扱いは決して大きくなかった。私が興味を抱いたのは、メジャーリーグのコミッショナーの不祥事に対する“素早い言動や的確な対処”である。日本のプロ野球コミッショナーでは、残念ながらこうはいかないだろう。
 今年は、セ・リーグのクライマックスシリーズ(以下はCS)が長雨に祟られ“混乱した”印象が強い。
 特に、ファースト・ステージ第2戦の阪神・DeNA戦は前代未聞の酷さだった。
降り続く雨の中、タイトな日程を理由に試合は強行された。最も美しい球場と言われる甲子園が見るも無残な泥んこ状態になった。内野はまるで水を張った田んぼか池のようで、とても野球場とは思えなかった。それでも試合は9回まで続けられたのである。見るに忍びない気持ちで野球を見たのは初めてだった。
 2002年7月、メジャーリーグのオールスターゲームがミルウォーキーのミラー・パークで行われた時、試合がもつれにもつれ延長11回を終わっても7-7の同点のままだった。
 メジャーリーグには引き分けはないから決着がつくまで試合を行うのがルールだ。だがこの試合は、コミッショナー裁定により引き分けになったのである。
 両軍ベンチに控え選手が殆どいなくなっていた。このまま試合を続けると「試合の質が落ちる」というのが引き分け裁定になった理由であった。
 バド・セリグという名コミッショナーの時代の出来事だが、セリグ・コミッショナー自らが球場で、スタンドのファンに向けて“引き分けにする理由”を説明し了解を求めたのである。
 私はこの試合をテレビで見ていた記憶があるが、今思うと“試合の質”に触れた説明は両軍の選手にではなく球場に来てくれたファンに向けて行われたものだったが、気付けなかったのが恥ずかしい。
 泥んこの甲子園で、雨に濡れながら見続けてくれたファンに“お詫びの一言”もない日本のコミッショナーとは大違いである。
 非常識な決断で試合を強行するのなら、コミッショナーが甲子園まで出向いてファンに説明し、了解を求めていたら、「コミショナーはやめろコール」は出なかったかも知れない。
 作家でスポーツライターの小林信也さんは、池のような水たまりの中で大事なCSが強行される光景に悲しみと疑問を感じたと述べている。
日本のCSは、アメリカのポストシーズンをヒントにパ・リーグが先行して始まり、セ・リーグが追随したものだが、アメリカのように理に叶ったものではない。
 2位以下に大差をつけて優勝しても、広島のようにCSという短期決戦に敗れると日本一になる機会は失われる。3位に入れば、DeNAのような下剋上のチャンスがあるというのは、シーズン終盤までファンに応援の意欲を提供できる点ではメリットがある。
 しかし、それでは公式戦の価値は落ちる心配があり、ファン離れにつながることを覚悟しなければならない。
阪神・DeNAのCSで、雨天中止なら「自動的に2位の阪神がセカンドステージに進出する」という規定があることを今回初めて知った人も多かったのではないか。
 これはファイナルステージにも適用されるので、2日間雨で流れて、もし勝負が決まらなかったら1位の広島が日本シリーズに出ることになっていた。
 勝負と日程、どちらが大事なのか、CSって何のためにあるの?という疑問が出てきて当然であろう。
私は、どうして日程を調整しないのか不思議に思った。「異常事態なので日程を変更します」というコミッショナー裁定を出していたら、もう少しマシなCSに出来たのではないかと思うのだ。
 マンフレッド・コミッショナーだったら、早い段階で試合は中止にしただろう。そして日本シリーズを含めて日程をずらす“コミッショナー裁定”を下したに違いない。ファンを雨でずぶ濡れにしないために・・・
小林信也さんは、日本のプロ野球がアメリカのようなポストシーズンに出来ないのは、チーム数が足りないからだと主張している。
 優勝チームが日本シリーズに出場できない矛盾を解消するにはCSなんかやめてしまうか、チーム数を増やすしかないと考えているのだ。
 仮にセパ両リーグとも8チームずつになり、東日本地区、西日本地区というように4チームずつに分ける。そうなれば地区優勝4チームで、リーグ優勝を争うプレーオフになり、CSに合理性が生まれると語る。
時間はかかるだろうが、両リーグが12球団ずつのプロ野球24球団時代になればアメリカ並みのポストシーズンも可能なのだ。
 チーム数を増やすという考え方は、ポストシーズン充実のためというより、日本プロ野球の未来を本気で議論するに相応しいテーマと言ってもいいだろう。
 それなのに、「NPBやメディアが殆ど語らないのは不思議な現実だ」と小林信也さんは嘆いている。
日本のCSが矛盾だらけなのは、プロ野球関係者なら誰でも分かっている。今のままではCSの改革は不可能だろう。CSは辞めてしまう方が簡単なのだ。
 日本のプロ野球組織を改革することは、そう簡単ではない、既得権益を守る姿勢が強固だからだ。
 プロ野球の球団が特定の都市や地域を本拠地にすれば、人々の活性化にも繋がり地方創生に役立つような気は確かにする。その意味でNPBは、もっともっとプレゼンテーションすべきだろうと私も思う。
 一度決まった日程は変えないというNPBの姿勢が示すように、組織が硬直しているのは確かだ。
 ヒドイ試合を見せられたファンに一言も説明しない日本のプロ野球コミッショナーに、“無能なコミッショナーはやめろ!”コールはファンの怒りなのである。
 グリエル問題に素早く対処したマンフレッド・コミッショナーの爪の垢でも煎じて飲んだらどうだ!


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浜田山通信 №204 [雑木林の四季]

ハロウイーンと排除の論理

                   ジャーナリスト  野村勝美

 楽しみにしていた商店会のハロウイーン行事も季節はずれの台風のおかげでどこかにふっとんでしまい、買物をしてもらった福引も忘れてしまった。実は去年までハロウイーンに何の興味も関心もなかった。日本人は昔から外来のものごとにいかれ、クリスマスなど日本の正月行事よりも盛んになったが、私はちょっとひねくれたところがあって、おもちゃ屋をやっていたころはクリスマス商戦でもうけさせてもらったくせに非キリスト教者のバカ騒ぎを軽蔑していたものだ。ましてハロウイーンなんて、カボチャのイラストをみるだけでそっぽを向いていた。
 ことし急に興味を持ちだしたのは、知り合いの南本史さん(フランス文学、翻訳者)から、「アイスクリームが溶けてしまう前に(家族のハロウイーンのための連作)」という絵本を頂き、目をとおしたからだ。 著者は「小澤健二と日米恐怖学会」といい、南本さんの息子さんの白山春久さんが写真構成をやっている。小澤健二さんはアメリカで大活躍中の音楽家にして作家。小澤征爾さんの甥。白山春久さんも曾祖父が明治のころ蒔絵の第一人者だった白山松哉、祖父が日本画の春邦と、芸術家の血を引いていて、この絵本はみごとな芸術作品になっている。
 おかげで街を歩いていても、テレビを見ていてもハロウイーン関係の商品や宣伝に関心がいき、とくにテレビ番組でタレントたちの仮装がおもしろかった。いまどきの若い男性タレントの女装は、歌ったり踊ったりしても紹介されるまで男とは思いもよらなかった。人間には仮装願望があるんだといまごろになって気付き、どうも我が人生はくそまじめすぎたなあと、かなりいいかげんに生きてきたにもかかわらず、もう少しふざけた生き方をしてもよかったかなと思うのだった。
 こんどの選挙をみると、ほんと、まじめに考えるのがバカバカしくなる。小池某女は本物の魔女になって「サラサラ排除」をやるし、前原某はそれと共謀して自分の党をメチャクチャにしてしまった。排除の論理はファシストの論理でヒトラーやスターリンがやったことだ。アソウさんの「北朝鮮のおかげ」もあって、アベさんには神風が吹き、またまた3分の2をいただき、一夜にして「ケンキョ内閣」になった。アベさんより右のファッショ政党ができちゃったのだから、静かに静かにしていればよしてなもんだ。
 それにしても、投票率が続けて52~3%というのはどういうことなのか。しかも場所によっては、無効票が10%にもなるらしい。この前の選挙の時にも書いたが、50%の半分25パーセントを得票すれば政権がとれるクオーター民主主義が有効といえるのか。メデイアももっとこの現象を調べるべきだ。
 先進国はどこもかしこも排除の論理がはびこりだし、30代の大統領や首相がでてくる。世界がもういっぺんひっくり返ってあげく戦争それも核戦争までいかぬとも限らない。ハロウイーンは、現代のええじゃないか、人類最後のええじゃないか騒ぎかもしれない。

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徒然なるままに №24 [雑木林の四季]

名歌「希望」によせて
               エッセイスト  横山貞利

   「希 望」

       作詞 藤田 敏雄  作曲 いずみ たく(1966年=昭和41)

  希望という名の あなたをたずねて
  遠い国へと また汽車にのる
  あなたは昔の あたしの思い出
  ふるさとの夢 はじめての恋
  けれどもあたしが おとなになった日に
  だまってどこかへ 立ち去ったあなた
  いつか あなたに またあうまでは
  あたしの旅は 終わりのない旅

 この歌詞で始まる「希望」と題されたこの歌は1966年(昭和41)に作られ、1969年(昭和44)に岸 洋子がレコーディングしてから大ヒットした名曲である。
10月22日に投開票された衆院選挙に小池百合子が立ち上げた「希望の党」ですっかり「希望」という言葉が薄汚れてしまい「希望」という語を冒涜しているように思う。しかし、「希望」という言葉には不確定な将来に向かって限りない望みを託した意(おもい)を意味している筈である。わたしは、哀惜、哀愁を帯びたこの歌を聴いていると遠い過去が蘇ってきて苦しくなってくる。
 この歌が作られ、岸 洋子やフォーセインツ(フォーク・グループ)によって若い人たちの心を掴んだ時代にはそれなりの社会的背景があったように思う。1964年(昭和39)に「東京オリンピック」が開催されて敗戦からの戦後復興も一段落したかに見えたが60年代後半から70年代に向け「高度経済成長期」になり、1970年(昭和45)には「大阪万博」が開催されて一見経済成長の恩恵に浴しながら高潮した気分が国民に拡がっていたように見えたけれども、若い世代には厳しい時代だったようにも思う。
 丁度、この当時わたしは報道の現場で日々変わる情況に齷齪していた。1967・8年から全国の大学で始まった全共闘(全学共闘会議)は1969年1月18~19日に東大・安田講堂に警視庁機動隊が突入してヤマ場をこしたが、真剣に学内の民主化、待遇改善などを求めたが必ずしも満たされずに強制的に収束させられた。1968年5月23日には、あの有名な日大経済学部での集会が解散させられた後2000人の学生が白山通りを200メートルわたってデモを行い衆目を集めた。あの時わたしたちの間では「あの日大の学生が・・・」と随分話題になった。学生集会やデモが東大や早稲田だったらそれほど話題にはしないが、日大の学生にまで全共闘運動が波及したのである。
 学生ばかりでなく連合赤軍に突入した若者もいた。そして彼らは1972年(昭和47)2月に「浅間山荘事件」にまで呑み込まれていった。それはある種の狂気としか思えない。
このように見てくると、この当時若い人たちにとっては「歩き進むべき方向性」を見失って苦痛に呻吟していたのであろう。狂気とも思える極端な行動に陥らなくても、自分の居場所も判らないまま、高度経済成長の狭間に身を置いて無気力に生きていた多くの若い人たちがいたことだろう。

   希望という名の あなたをたずねて
   今日もあてなく また汽車にのる
   あれからあたしは ただ一人きり
   明日はどんな 町につくやら
   あなたのうわさも 時折り聞くけれど
   見知らぬ誰かに すれちがうだけ
   いつもあなたの 名を呼びながら
   あたしの旅は 返事のない旅

 わたしにとってもただ我武者羅に仕事に没入する以外にわたしの「実存」を確かめる術を見出せずにいた。しかし、この60年代後半から70年代前半にかけてどうしても関わっていかねばならなかった社会問題があった。それは「成田空港建設」をめぐる土地収用をめぐる騒乱、高度経済成長によって生み出された「公害問題」そして「沖縄」である。それらを考えながら常にわたしを悩ませたのは「国策とは何か」という大問題であった。
 「成田空港建設」のために土地収用代執行をめぐって農民と支援の三派全学連の学生などが抵抗した。抑々、成田の地は戦後満蒙開拓団として満蒙の地にあった人たちを中心にして入植して開拓した農地であった。その地を今度は空港にするから国が取り上げるという「国策」を強いるのは無理があり農民が抵抗するのは当然であろう。農民たちは下肥の池を作ってまで抵抗したが団結小屋の鉄塔が倒されたところで万事休した。

 高度経済成長は、わたしたちの生活を豊かにした。「昭和元禄」という言葉がはやった1969年(昭和44)には、「3C―カラーテレビ、カー、クーラー」の消費を促した。しかし、その裏にはひどい公害(いまだにこの語に違和感がある)をもたらした。水俣―有機水銀、四日市・川崎―排ガス、富山―カドミュウム、都市部での光化学スモックなど将に汚染が広がり今日に至ってもその後遺症に悩まされている人たちがいる。わたしは1973年(昭和48)夕方のメインニュース「ニュースコープ」で13回のシリーズで「汚染列島‘73」を放送した。(このシリーズを共に担当した2人は既に鬼籍に入っている)
 さて、この時期ヴェトナム戦争は熾烈になっていった。沖縄は米軍の最前線基地として機能させられていた。また、横田基地は米軍の最大の兵站基地だった。1968年(昭和43)横田空軍滑走路には早朝から米軍輸送機が次々に戻ってきた。その滑走路南端から500mくらい南にあった都営住宅で朝8時過ぎに中継した。10mの櫓の上にテレビカメラを据えて滑走路に下りてくる輸送機を迎えるとテレビカメラのフレームが一瞬真っ暗になって通り過ぎていった。その轟音と真っ暗な映像は不気味な恐怖を与える。これでは、都営住宅に住んでいる人たちが苦しむのは当然であった。こうした恐怖が日常茶飯事だったのが沖縄である。1972年(昭和47)5月15日沖縄は返還されたが今日に至るも沖縄の状況は変わっていない。1970年ころ、沖縄県祖国復帰協議会の東京行動を1週間にわたって取材した。この時以来沖縄取材を上申しつづけ1972年の「沖縄返還式」の取材を兼ねて許可が下りた。(但し、沖縄取材までの間に調査報道企画を2本制作することが条件だった。そこで「足尾銅山のいま」を2回に分けて取材することにした)。
 さて「沖縄」である。ヴェトナム戦争は1975年(昭和50)4月30日にサイゴンが陥落して終結したが、冷戦は1991年(平成3)にソ連が崩壊するまでつづいた。しかし、沖縄の置かれている状況は全く変わっていない。相変わらずアメリカの世界戦略において太平洋から中近東までの要の基地である。日米安全保障条約がある限り沖縄の役割は増えることはあっても減ることはない。日米安保条約第6条に基づく日米地位協定という片務条約・協定は厳然として機能している。いま、普天間基地の辺野古移転の工事をしているし、東村高江のヘリパットにはオスプレーなどが日常茶飯事飛行着陸を繰り返していつ危険が迫ってくるかわからない状態である。在日米軍基地の74%が沖縄に集中している。そのうえ、集団的自衛権に則り安全保障関連法が発令されて沖縄が巻き込まれる可能性が待っている。完全に日米関係は変質して戦争が待っている、と言っても言い過ぎではない。その要になるのは沖縄である。(わたしは、1972年4月7日―長男の小学校入学式の日―ダウンして6カ月休職したので足尾、沖縄の取材はできなかった。断腸ナリ)。

    希望という名の あなたをたずねて
    寒い夜更けに また汽車にのる
    悲しみだけが あたしの道連れ
    となりの席に あなたがいれば
    涙ぐむとき そのとき聞こえる
    希望という名の あなたのあの唄
    そうよあなたに また逢うために
    あたしの旅は いままた始まる


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パリ・くらしと彩りの手帖 №130 [雑木林の四季]

 今パリでの美術の話題からいくつか

         在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ

◆マクロン大統領
 
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 今日付けのル・モンド紙の見出しが、「私が今ここにいるのは、この国を変える事が私の使命だからなのだ」というマクロン大統領の言葉で始まっている。彼の選挙公約であった沢山の項目の中で、着任わずか数ヶ月で手をつけたものも多い。そしてその度にそれに反対の声があがるのだ。今まで恩恵にあずかってきた人々、いや、恩恵ともなんとも思わずに、そういうものだと受け入れていた人々の向こう側には、常に、常に、裏側の人生を生きなければならない沢山の人々がいたのだ。これをもう少し公平にしようとすれば今までそれを当たり前と思って、いや、当たり前ともなんとも思わずに世の中はそういうものと生きてきた人々にとっては不満の種だ。こうして、少しずつでもその差を縮めて行こうというマクロンのすることが気に入らないのは当然だろう。今年5月に大統領に着任してから、早速に公約の実行に取り掛かったマクロンは、こうしてすでにいくつかの約束を果たし、人々がその結果を固唾を飲んで待っているというのが現状である。そして、その厳しい国民の目にさらされている中で、あのブリジット夫人と愛を交わしているという評判である。日本ではまだまだ、そこまでできるクリマ(雰囲気)はないだろう。愛情の表現ひとつをとってみても、人種、国などの習慣によって違ってくるものだが、フランスの現大統領に限ってこれもまた特別なのに違いない。大統領はこの週末は台風によって大被害にあったフランスの領土を急に訪れたとのことだが、その前に、パリのフィアックにも姿を見せたとのことである。

◆第44回  FIAC

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フィアック展に出品している、コルベール賞を受賞した芸大の女子学生三人。左から島田清夏、北林加奈子・川人綾、後ろは芸大美術の日比野学部長と、はちや教授、そしてコミテ・コルベールのギヨーム・ド・セーヌ会長(写真はピエール・モレル)
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AYA KAWATO 川人 綾 Oriai 織合い, 2017.
モチーフにした作品|サマンサ・ベリー 「ファセット」
木製パネルにアクリル絵具、シルクスクリーンでてきたものが作品です。
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KANAKO KITABAYASHI 北林 加奈子 Peau 肌, 2017.
モチーフにした作品|サマンサ・ベリー 「ファセット」陶土、磁土、糸、羊毛、木など
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SAYAKA SHIMADA 島田 清夏 Voix du Vide : 4600000000 , 2017.
モチーフにした作品|ジャン= クロード・ドゥニャック 「霧のダイヤモンド」
ガラス、ペルチェ素子、冷却ファン、隕石、LED、PC、モニター、カメラ
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上から川人綾、北林加奈子、島田清夏の3人

 いつもとちょっと違った雰囲気のフィアックが終わった。今年がもう44回目だという。あのルーヴルの庭の中に作ったテント張りの展示場から、グランパレに移って、かつてフランスが、世界にパリありと誇示した19世紀末から、20世紀の初めにかけての万国博覧会のために建てた、この8万㎡に近い広大な会場を中心に、向かい側にあるプチ・パレやチュイルリー公園、シックなヴァンドーム広場などもひっくるめて巻き込み、ますますモンダンな催しの感じになってきた。世界の国々から100位の画廊がパリに来て、自分の扱っているアーテイストの作品を誇らしげに並べるのだ。それを初日に見るために来る人々は、まるでどこかのパーテイにでもいくような服装だ。それぞれの画廊が自分の持つ作家を誇らしげに見せるためには、その画廊の枠の中にまだ何も入れていないのではと思わせるほどにからなのが目立つ。世界に商品を見せる場所として買った物枠の中に、画商が座る椅子と机があるだけというのもあった。それが現代の美術の一つの形であり、格好良いということか。あるいは1点主義、というか、中央真ん中にかけた大きな額縁の中の1点。これが勝負ということか。時々ナイーヴな質問が来ると、禅問答かと思うような返事だ。客を馬鹿にしているのではないかと思う場面にも出会った。私の好きな絵、とか、彫刻、という感覚が今までのものとは違っている。画面にただチリを巻いたような壁を演出するために、はるばるパリのグランパレで勝負する権利を買う、ということなのか。
 日本の芸大の女子学生三人がコミて・コルベールの賞をとって、彼女たちの作品がこのコミテの枠の中に並べてあると聞いて、すぐ向かった。コミて・コルベールといえば、グラン・パレ美術館のすぐ近くの、パリのデラックスが、いや、世界のデラックスが店を並べるところだ。いわばオート・クーチュールの街並みで、ここの主人たちが作っている会だから、何をしてもデラックス。その委員会が考えたことは、ここの振興策として、いや、それより、ここの栄華が長く続くために考えたことは、探偵小説を描く人たちにそれぞれ書いてもらったのだ。そして、驚いた事には、この種を巻いたところが日本だといいうことだ。それも日本の芸大に絞って、この芸術大学の作家たちにそのフランス人のスリラー作家たちに託した小説をその人なりに消化して作品を作ってもらうということだった。たくさんの学生が全ての学部から応募した。そこで選ばれた三人がコミて・コルベールの「2070年を夢見て」の受賞者として、今年のフィアックにそれぞれの作品を展示する事を招かれたというわけなのだ。Aya kawato,Kanako Kitabayashi, Sayaka Shimada の三人、それぞれの選んだ小説をもとにかわとさんは「織合い」、しまださんは「からっぽの声」と題する作品を作って、選ばれたのだ。私が会場で、直接会うことができたのは、北林かなこさんだけだったが、この人は「肌」という小説から受けた感動をもとに、誰でもが持っている肌、私たちをいつも外敵からを守ってくれる肌、これを彼女の陶芸専門の芸大での研究を駆使して、肌というものを表現することにしたのだ。言い換えれば、専門の陶芸の術を駆使して、彼女が知る「肌」というものを彫刻したのだといいう。出品されている作品は全て純白。その感触は一つ一つ異なる肌にちがいない。日本の他の芸術大学はもう何十年も前からパリの美術学生のためのアパートを買っていて、いつも何人かが何年かパリで過ごせるようになっているというが、日本で一番古い国立の芸大にはなないというから、付き添いでパリに来られた先生に、こんな機会に考えてはどうですかと言っておいたが、進展するかどうか。ある意味では私立の学校にとっては生徒集めにも役立つことだろうが、相変わらず芸大は狭き門と聞くからそんな必要はないのかもしれない。ある意味では私立のほうが自由で、のびのびしたいい生徒を産んでくれそうだが、今の芸大生を見ていると、しっかりしていて、それでいて自由を身につけている、決して型にはまった学生たちではないと思って嬉しかった。
 今年のフィアックは、完全に現在の美術の動向を反映したもので、世界から集まった100軒の画廊にかかっている作品の数と言ったら、今までの何分の1だろうか。それが、全く現在の美術を反映していると言っては言い過ぎでは無いはずだ。

◆デザイナー、イヴ・サン・ローランのパリの美術館

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イヴ・サン・ローラン
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パリにオープンしたイヴ・サン・ローラン美術館
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彼がいつも描いていた机もそのまま
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その背中にある本
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デッサン
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イヴと夫のベルジェ
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アフリカのアルジェリアに生まれたイヴがこよなく愛したその隣の国モロッコ、ここにも1ヶ月の差で生まれた美術館。モロッコはこの道に、イヴの名前をつけたとのことです。

 10月になってあまりに、大きな重要な美術展が始まり、写真もなかなか入手できない状態になったために、前回では簡単な予報だけにして、次回に回したのだったが、それでもまだ写真が全部集まったとは言えない。いつも夏休みが終わって全てが年末に向かって始まるこの時期が、見に行くのも大仕事だし、それぞれの写真を集めるということは大変だ。写真がいくつかついているものから徐々に始めることにして、今頃アフリカのモロッコで、オープンとなった、オートクーチュールのデザイナー、イヴ・サン・ローランのパリの美術館を紹介しよう。オープンしてそろそろ1ヶ月にもなろうとしているのに、まだまともな写真がない。彼自身がデザインの仕事をしていたパリのアドレスが、そのままミューゼとなって、彼がデザインしていたというシンプルなテーブルもそのまま。この美術館のオープンの数週間前に、彼の才能に魅入られ、一緒に暮らし、常に彼を守ってきた人の死が報道された。もちろん、ピエール・ベルジェのことであり、調べてみると、はっきりと、「夫」という言葉が使われている。フランスで、同性結婚が可能になってからはっきりとしていたのだろう。この美術館もこの人のファンデーションの名前で作られているはずだ。この夫、ピエール・ベルジェに守られていなかったら、このアーテイストの芸術はこの人の生命とともにとっくに消えていたかもしれない。彼と彼の芸術を守ることのできるただ一人の人であったピエール・ベルジェの死は、フランスの音楽界にとっても、またフランスの文化界にとっても大きな損失であると報道された。それほどに、彼はフランスの文化への貢献の大きかった人だったのだ。またアフリカの方のイヴ・サン・ローラン美術館の資料もそろそろ着く頃だからお知らせすることが続々出てくることだろう。今日はこの位にして、パリの新美術館とアフリカはアルジェリアに生まれ、パリに出た後、彼が好んで暮らしていた隣国、モロッコに建設した美術館の写真も少し見ていただくことにしよう。

◆グランパレでのゴーガン展

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 ポール・ゴーガンの展覧会はグランパレ美術館で重要なプログラムの時に使う幾部屋かを巻き込んでのものだ。あの流浪の芸術家が、フランス本土とそのかつて保護領だったところを彷徨って創り上げた作品を、これでもか、これでもか、というように見せてくれる。時によっては、「装飾師ゴーガン」とまで書いている。しかしそれはこの展覧会を見る者にとっては素直に取れる言葉であり、納得のいくものだ。この展覧会に合わせたように、ゴーガンの映画が出て、これを見たが、ゴーガンがたくさん描いている、今はフランスの領土となっているポリネジアのタヒチの女の服までを映画の中で使っている。ただ、このポリネジアの風景をいっぱいに展開してくれる映画は、ゴーガンという画家を描いてはいないのに失望した。ゴーガンはゴッホやロートレックなどの画家を知り、深い影響をうけた。やがて船乗りという職業を捨てて、創作に専念するようになった。紙の上の制作、創作では足りなくなって、立体を作ったり、家具を創ってこれに彫刻を施した。この、一見、混沌としたものが、ゴーガンの芸術の本体であり、強さとも言えるのではないだろうか。19世紀の終わりに生まれたタヒチの女のシリーズなどは、私たちが一般にゴーガンを思うときのものであり、強さに満ちているが、平面的な描写のために装飾的な絵として扱われ、ゴーガンは最後に、貧困のうちに埋没するようにこの世を去ったという。装飾家ゴーガンというテーマが展覧会場にあるのをみて、不満だった私も、この作者のおそらく生涯にわたる作品を1日のうちに見て、結局は納得する形になった。しかし、それは芸術家ゴーガンの価値とは別のものである。この展覧会に頼んだ写真が、大体受け入れられて、受け取ったので、これを一刻も早く見ていただく事にしよう。今回お話ししている大展覧会は、いずれも大体来年初めまで続くから、「パリにちょっと」ができる方には問題ないし、これだけのものを一度の滞在で見られるならば、素晴らしい事である。写真の都合などで、次回に一つ、二つは回さなければならなくなったが、展覧会紹介だけでは、美術展はあまり、という方にはキツイかもしれない。でもこんな事は1年に1回のシーズンであり、それにしてもこれだけのものが出揃う事も稀だ。今は、どこかの国のコレクターが持っている、フランス国王に関する絵をが競売に出るという。ルーブル、そしてフランスこそが、それが必要であり、今までわからなかった事に道筋をつけてくれる絵であり、何としても買い取りたい、とルーブルはもちろん、良きフランス人たちが競売で落とすためにに全国に呼びかけ、お金を集めているという。その付け値が何億だったか、何百億だったか大きい金額に縁のない私はもう忘れてしまったが、とにかく大きな、大きな金額であった事だけは確かだ。はっきりした事が出るようになったらお知らせできるだろう。これでまたワインのお知らせが次回に回る事になってしまった。それから普通のサイクルに戻る事ができるはずだ。今はゴーガンの作品の写真を堪能していただくに止めて。


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気楽な稼業ときたもんだ №67 [雑木林の四季]

独りぽっちの祐天寺
           テレビ・プロデユーサー  砂田 実

 平成二年(一九九九)、世紀の変わり目を前に、二度目の不渡りを出し、倒産した。だが、ここで倒産による“苦労物語″を展開しようとは思わない。今の社会状況では、倒産だとか自己破産の話は枚挙に暇がない。そんな話を聞いても、おもしろいはずはない。それに、僕自身、ここに至るまで、かなり「いいとこどり」で生きてきた人生であると自覚していたし、なによりも本来会社経営などに携わってはいけない種類の人間が、一時の成功に酔い自分自身を見失ってしまったという自覚は持っていた。広尾のマンションを金融に持っていかれ移った先、祐天寺のなんの家具もない小部屋で、「さて、これからどう生きてやろうか」と壁にもたれて考えていた。六十八歳のことである。
 良い体裁を整えるまでは、仕事仲間とはいっさい接触を断とう。あっという間に噂は広まる。知人に会いたいと思っても、相手は、僕が「グチを言いに来るんじゃないか」、人によっては「金を借りに来るんじゃないか」と身構えるに決まっている。冗談じゃない。だが、一人で箱のような小部屋の中で時間を過ごしていると、基本的には能天気な僕でも、心落ち込むこともある。そんな時は、植木さんの大ヒッ品「♪そのうちなんとかなるだろう」をくり返しロずさんだ。
 だが、ありがたいもので、伝え聞いた友人や後輩たちから、連絡が入るようになった。

 業界のドン、ケイダッシュの川村龍夫会長は、僕が倒産したことを知ると、すぐに連絡をくれた。「砂田さん、人生、ノンシャランで行こうよ」。もっともらしいことなど一言も言わない川村氏のこの言葉に僕はすごく励まされた。さらに川村氏は、優秀な弁護士を紹介してくれた。この弁護士さんは、倒産にまつわるやっかいごとを、いとも簡単に僕に有利になるよう運んでくれた。倒産した途端、見下すような態度をとった人間もいるが、川村氏は「そういう時は考えてはだめですよ」と手をさしのべてくれた。心強い人である。
 また、当時のTBS社長の磯崎洋三は、「倒産記念の食事会をしましょう!」と、神楽坂の料亭に招待してくれた。なんと芸者つきである。他にも、音楽評論家の小西良太郎をはじめ、いろいろな人から励ましを受けた。彼らは僕を、フレンチレストランの一流店に、料亭に、高級中華料理店に招待してくれた。彼らは、もっともらしい忠告などいっさいしなかった。会食の場は笑いの連続だった。厚意からくる配慮が身にしみた。

 この時期、僕の状況を承知の上で仕事をくれた相手は、じつにありがたい存在だった。TBS在職時代も、独立を果たした時期も、なにかと仕事をともにした博報堂出身の森江氏は小さいステージの演出の仕事を振ってくれた。なんでも熱海に居を構える森江氏のところへ、同じ熱海に別荘を持つクレイジーキャッツの犬塚弘さんが遊びに訪れた際、相談されたそうだ。犬嫁さんは、女優の熊谷真実らと、杉並区のクリスマスのための催しを企画していた。森江氏の「砂田にまかせたらどうだ?」との発言に、犬塚さんは一も二もなく膝をたたいてくれた、というのが経緯だった。
 犬塚さんが渋いバイプレイヤーとして活躍していることは承知していた。だが、会うのはなんと三十年ぶりである。本当に久しぶりに僕の前に現れた犬塚さんは、まだまだ現役の人間の持つ雰囲気にあふれていて、あいかわらずダンディだった。
 そのクリスマスショーは好評のうちに幕が降りた。客席に、なんと、演劇評論家であり、シェイクスピア研究のの第一人者の小田嶋雄志氏の顔が見えた。打ち上げの酒席で、小田嶋氏は、「温かい、好感の持てる舞台だった」と僕の肩をたたいてくださった。そういった信頼できる人物の言葉は、心の“サプリメント”として、ありがたく飲み込む。「まだまだ俺は大丈夫」という、他人から見たら安易な自己肯定に見えるかもしれない〃気〃の持ち方を信念に変えていった。なにせ「独り合点」だけで生きてきたような男なのであるから。
 だが、そうプラスの話ばかりだけではない。

 ある日、大きな仕事話が舞い込んできた。サッカーW杯日韓大会を前にした、日韓共催のプレイベントである。その日本側の実行責任者から制作全般の依頼がもたらされたのだ。場所は横浜総合競技場。ある政治家がらみの人間を通じての依頼で、紹介されたプロデューサーはMという一見誠実そうな男だった。
 バルブがはじけて以来、大型の官製イベントなり、スポンサーが特定されている催しは極端に減り、結果、詐欺に近いケースが横行し出した。事は単純である。話を持ちかけた側が、そのイベントの準備のための予算を確保せずに、結果の入場券収入を当てにしてプロモートを行なうのだ。冠スポンサーが確定している場合は別として、この手のイベントは水ものの側面が強い。予定していた入場者数をはるかに超える場合もあるし、逆の場合もある。極端に入場者数が割り込んだ場合、携わった多くの人々が大被害を被ることになる。プロデューサーが集まっただけの金を持ち逃げするという例は、いくらでもある世界だ。
 僕は作業を進めながら、なにか不信感をぬぐえずにいた。ある時偶然に、プロデューサーMに対して大きな疑念を抱かざるをえない判断材料が、知人の喜藤氏からもたらされた。喜藤氏はダイエー出身であり、福岡ドーム立ち上げからオープニングイベントの制作に至るまで、ダイエー側の中心人物として実績を上げた人である。このイベントのプロデューサーを自称するMが、時折、福岡ドーム立ち上げに参加していたことを自慢話風にしていたのを、ふと思い出し尋ねてみたのだ。Mは、多くのイベント関連業務を実行する会社の幹部であるが、金銭問題でそのプロジェクトを外された人間であることが判明した。
 僕はMと対面し事をはっきりさせた。独立―自己破産の経験は、多少とも、仕事の実相を確かめる目を養うのに役立っていたということだ。倒産三年後の出来事である。

 それから、僕は本格的に仕事への復帰を実践し出した。
 まず、TBSから渡辺プロを経て独立した当時、大変世話になった電通の小岐頚を訪ねた。小岐須はすでに役員になっていて、予期していたとおり、暖かく迎えてくれた。その感触に力を得て、精力的な人間関係の再構築を始めた。七十歳を過ぎていた。

『気楽な稼業ときたもんだ』 無双舎


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BS-TBS番組情報 №149 [雑木林の四季]

BS-TBS 2017年11月のおすすめ番組(上)

                 BSーTBS広報宣伝部

~その生涯には謎がある~
ケネディ生誕100年 暗殺の真相と知られざる素顔に迫る

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2017年11月14日(火)よる9:00~10:54

☆ジョン・F・ケネディの謎だらけの生涯に迫る!

出演:萬田久子、堀潤

ジョン・F・ケネディ大統領。
国民に愛されながら暗殺という非業の死を遂げたアメリカ大統領。
1964年11月、46歳という若さでこの世を去ったジョン・F・ケネディは、今年生誕100年を迎える。
しかし、その死に至るまでには数々の謎が秘められている!
暗殺の謎を解く重要なカギ。「英雄」「大政治家」「黒い交際」「女の敵」…。
意外に知られていない“謎だらけの生涯”“ケネディの様々な顔”に迫る。

水戸黄門

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毎週(水)よる7:00~7:54

☆武田鉄矢主演。いざ東北へ!黄門さま世直しの旅。

出演
水戸光圀:武田鉄矢
佐々木助三郎:財木琢磨
渥美格之進:荒井敦史
風車の弥七:津田寛治
柳沢吉保:袴田吉彦
柘植九郎太:長谷川純
詩乃:篠田麻里子
蛇骨の升六:中村嘉葎雄
語り:生島ヒロシ

10月からスタートした武田鉄矢主演の「水戸黄門」、早くも物語は中盤へ。
11月8日(水)放送の第6話からは、元AKB48の篠田麻里子が、御老公を狙うくノ一役でレギュラー出演!“お約束”の「入浴シーン」も予定されている。

■11月1日(水)放送
第5話「硯の里の仇討ち(雄勝)」
みどころ:第五話の劇中では、宮城県石巻市の伝統工芸品、“雄勝硯”(おがつすずり)が登場。雄勝硯の歴史はとても古く、室町時代から伝わるとも言われている。程よい固さとなめらかさを併せ持ち、墨の発色が良いのが特徴。さらに今回は東北出身ゲストとして、大船渡市出身の新沼謙治さんが登場。歌手の新沼さんの演技にも注目!劇中でも、その歌声が聞けるかも!?
ゲスト:宅麻伸、高橋長英、相楽樹、加部亜門

■11月8日(水)放送
第6話「愛しき妻は里隠れ(志津川)」
みどころ:第六話からは、新キャストが登場!元AKB・篠田麻里子さんが、里隠れのくノ一として御老公一行の前に立ちはだかります。さらに、敵役として忍びの頭目・蛇骨の升六を中村嘉葎雄さんが演じます。篠田さんが持つクールさと艶やかさ、そして、狡猾な悪役を演じる中村さんの熟練した演技。後半に向けてますます悪党退治の旅が盛り上がりを見せます!
ゲスト:山口馬木也、篠田麻里子、中村嘉葎雄、山崎銀之丞、深沢敦

■11月15日(水)放送
第7話「時の太鼓とじゃじゃ馬姫(一関)」
ゲスト:鈴木梨央、喜多村緑郎、仁支川峰子、加納健次、中田博久、大島宇三郎

壇蜜BAR オトナの蜜会

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2017年11月10日(金)よる11:00~12:00
2017年11月17日(金)よる11:00~12:00

☆壇蜜がバーのママとしてゲストを迎えるトーク番組!

出演:壇蜜
ゲスト:11月10日…又吉直樹/11月17日…北方謙三

壇蜜が壇蜜ならではの切り口でゲストの心の内に入り込み本音を聞き出す大人のトークバラエティー。
”隠れ家バー”のママとして、こっそり飲みに来たゲストと、いろんなトークしちゃいます!
10日のゲストは、小説「火花」で芥川賞を受賞したお笑いコンビ「ピース」の又吉直樹さん。
17日のゲストは、2016年に「大水滸伝シリーズ」全51巻を完成させた、作家の北方謙三さん。


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ロワール紀行 №64 [雑木林の四季]

水に浮かぶ、シュノォンソオ 1
     六人の女が愛したシャトオ

          スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎

 グリィンのジャァジィを一巻き、パッと投げ拡げたような、トゥーレエヌの綬かな丘陵。
 その柔肌(やわはだ)のような起伏に展(ひら)ける畠、葡萄畑、果樹園。
それが、束ね格子(グレン・チェック)、弁慶格子(ホース・ブランケット)、大格子( タアタン・チェック)、白い太縞(チョーク・ストライブ)、杉綾縞(へリング・ボオーン)のような模様となって、消えては現われる。
 その彼方此方に、千鳥格子(ピエ・ド・プウル)のように、剽々(ひょうひょう)と踊る大きい森、小さな森。鄙びた村。教会の鐘楼。白い雲。
 その上に、空碧く、陽光燦々と降り注ぐ。
 走る眼にうつるもの、すべて緑一色。新線に映ゆる、ロワールの五月の美しさである。

 ショォモンから南へ三十粁。
 爽やかな森や丘を縫い流れるロワール。その小さな支流。一筋のリボンのような、シェール川le cherにそう森蔭。そこに寂とした、シュノォンソオChenon-ceuxの村がある。
 新緑、鬱蒼と茂るシュノォンソオの森。
 シャトオの門番小屋(コンシェルジェリイ)から、ほぼ六百米。眼路遥か、一直線に伸びる、シャトオへの森道。その両側から覆いかぶさるように、新緑の若葉、抱きあい、昼なお暗い木の下道。
 その梢をかすかに洩れる、レェスの透し網目のような、細い陽光。その道を外人達と連れ立って、歩くこと暫し。
 忽然と開ける森の眺望。碧空の広さ、高さ。
 木の下闇に慣れた眼に、眩しすぎる強烈さで、クロォム・グリィン、グリィン,グレイ、エメラルド・グリィン、ヴィリジィアン・グリィン、コバルト・グリィンと、ありとあらゆる緑の洪水。水々しい新線。梢梢、爽やかに緑風を揺るがす。
 その空間に、純白に輝くシャトオの美しさ。
 デュパン夫人に招かれて、ここに滞在していたジャン・ジャック・ルッソオが、このシルヴィイと呼ばれる森道から眺めたシャトオの美しさを讃えて、『シルヴィイの小径(こみち)』という詩劇をここで書き、この城館で初演したという。それほど美しい。
 私の訪れた十指に余るシャトオのうちで、その姿の風雅、その配置の斬新、その庭園の美は、蓋し白眉である。
 このシュノォンソオのシャトオこそ、ロワールの女王であろう。
 このシャトオは、領主の製粉所に始まる。
 シュノォンソオの最初の領主は、ジャン・マルケであった。百年戦争の頃、ここにその城砦があったが、焼き払われた。彼は一四三二年、シャルル七世に請願して、城の再建を許された。このシェールの川岸に、風車と水車を利用する、要塞化した製粉所をたてた。
 マルケ塔と呼ばれて、今日残っている円(まる)い櫓(ドンジョン)が、その名残りである。
 中世、封建鎖主の特権の一つに、製粉の独占権があった。
 農民は製粉所を作ることを許されず、収穫した穀物の脱穀、製粉は、すべて領主の製粉所で行う掟だった。今日の源泉課税のようなもので、この方法で確実に税金を取り立てたのだろう。
 この封建法の慣習は、プランス革命までつづいた。
 その頃、領主の国庫ともいうべき製粉所とその貯蔵庫は、堅固に城塞化していたという。
 テルケ一族は、この製粉所で多大の利益を得たが、一家は非常な浪費家で、しだいに領地を手離した。バルザック風ないきさつで、この製粉所とその一帯の土地を、トオマ・ボォイエが買った。

『ロワール紀行』 経済往来社


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コーセーだから №32 [雑木林の四季]

コーセーは国連グローバルコンパクトに参加しました

          (株)コーセー
OB  北原 保

 コーセーはこのほど国連の提唱するグローバルコンパクトに参加することを決め、7月23日に署名を行って、正式に参加企業として登録されました。

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国連フローバルコンパクトのマーク

 国連グローバルコンパクトとはUN GLOBAL COMPACTのことで、通常UNGCと略して呼ばれ、世界中で1万4000を超える企業や団体が署名し、活動に参加しているといわれています。
 UNGCはダボス会議と呼ばれている世界経済フォーラムにおいて、1999年に当時国連事務総長を務めていたコフィー・アナン氏が提唱したもので、その提案は4分野、10原則からなっています。
<人権>
原則 1: 企業は、国際的に宣⾔されている⼈権の保護を⽀持、尊重すべきである
原則 2: 企業は、⾃らが⼈権侵害に加担しないよう確保すべきである
<労働>
原則 3: 企業は、結社の⾃由と団体交渉の実効的な承認を⽀持すべきである
原則 4: 企業は、あらゆる形態の強制労働の撤廃を⽀持すべきである
原則 5: 企業は、児童労働の実効的な廃⽌を⽀持すべきである
原則 6: 企業は、雇⽤と職業における差別の撤廃を⽀持すべきである
<環境>
原則 7: 企業は、環境上の課題に対する予防原則的アプローチを⽀持すべきである
原則 8: 企業は、環境に関するより⼤きな責任を率先して引き受けるべきである
原則 9: 企業は、環境に優しい技術の開発と普及を奨励すべきである
<腐敗防止>
原則 10: 企業は、強要と贈収賄を含むあらゆる形態の腐敗の防⽌に取り組むべきである

以上がその内容ですが、当時は経済や社会環境が非常な勢いでグローバル化の速度を速めており、富の不平等の深刻化と相次いで起こる紛争、貧困、環境破壊などが大きな問題となって、国家や国際機関だけでは解決できなくなってきていました。アナン事務総長は民間企業や団体の参加を求め、世界中の経営トップに「人間の顔をしたグローバリゼーション」に取り組むことを促しました。それがUNGCで、2000年7月26日の国連本部で正式に発足しました。
 現在、日本ではグローバル・コンパクト・ネットワーク・ジャパン(GCNJ)という社団法人が中心になっていますが、環境、人権、女性活躍、サプライチェーンなど14の分科会構成で活動を進めています。
 *なお、グローバルコンパクトのコンパクトは小さいという意味でなく、協定、契約、同意などの意味です。

 コーセーは「美しい知恵 人へ、地球へ。」を、1991年以来企業メッセージとして掲げていますので、1997年には社内に地球環境委員会を設置して環境保全に取組んでいます。その後、創業者の座右の銘である「正しきことに従う心」を全社員の行動憲章として定め、明文化しました。地球環境委員会もより幅広い活動に取組めるようにと2000年代に入ってからはCSR委員会と組織内容を拡大しています。
 今回のUNGCへの署名も、コーセーのCSR活動の一環であり、グローバル社会の一員として、「人権」「労働」「環境」「腐敗防止」の4 分野にわたる10 原則を支持し、実践し、持続可能な社会の実現を目指して取り組む決意の表明でもあります。なお、取り組みの成果は毎年公開することが求められています。

 なお、最近よく耳にする言葉に、SDGs (エズ・ディー・ジーズ)という言葉があります。Sustainable Development Goals(持続可能な開発の目標)の略ですが、UNGCは様々な取り組みに関わっていますが、SDGsもその一つです。
 2015年9月、ニューヨークの国連本部で「国連持続可能な開発サミット」が開催されました。150以上の国連加盟国の首脳が参加して議論が重ねられ、その成果として「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」が採択されました。このアジェンダで掲げた2030年までの行動計画がSDGsです。

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SDGs17の目標

 内容は17の目標と、それをさらに細分化した169のターゲットからなっています。17の目標とは
1 貧困をなくそう
2 飢餓をゼロに
3 すべての人に健康と福祉を
4 質の高い教育をみんなに
5 ジェンダー平等を実現しよう
6 安全な水とトイレを世界中に
7 エネルギーをみんなに そしてクリーンに
8 働きがいも経済成長も
9 産業と技術革新の基盤をつくろう
10 人や国の不平等をなくそう
11 住み続けられるまちづくりを
12 つくる責任 つかう責任
13 気候変動に具体的な対策を
14 海の豊かさを守ろう
15 陸の豊かさを守ろう
16 平和と公正をすべての人に
17 パートナーシップで目標を達成しよう
というものですが、コーセーの製造する化粧品はいまや世界中の人々に使われるようになってきているため、このSDGsのテーマと、今まで行ってきたCSR活動を結びつけ、再整理しなおして、活動テーマの優先順位の確認、特に優先すべきテーマの設定を行って積極的に取組んでいくことになりました。
 重点テーマとしては、3項目目に関連してスポーツ振興による健康増進、スキンケアによるアレルギー予防、ポルフィリン疾患者のQOL向上など。5項目目に関連した化粧品を通じた女性活動支援、タンザニア女子中学生教育支援など。12項目目に関連した品質保証、原材料の環境負荷低減、廃棄物の削減(ゼロエミッション)など。14項目目関係ではセイブ・ザ・ブルー活動に代表されるさんご礁など海洋資源保全など。現在、コーセーは以上のようなテーマを優先的に活動していく予定になっています。
 このSDGsについてはまだ一般的な認知度が低いかもしれませんが、実はピコ太郎さんが国連で宣伝に一役買ったというニュースが話題となりましたが、それはこのSDGs普及のためだったのです。

 なお、余談になりますが、国連の事務次長として長い間活躍し、1992年に国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)事務総長特別代表に就任してカンボジア和平につとめた明石康氏は、小林一俊社長の義理の叔父さんにあたります。直接の関係は無いにしても、今回の国連グローバルコンパクトに署名したことの背景の一つにはなっているのかもしれません。
 また、余談の余談ですが、明石康氏は秋田県出身の方です。彼のお母さんのご実家が、なんと渋谷駅前に銅像のある忠犬ハチ公の生家なのだそうです。大きな農家をされており、大正12年頃に東京帝国大学の上野教授という方が泊まりにこられて、その家で飼われていた秋田犬を大変気に入り、子供が生まれたら譲って欲しいといって東京に帰られたそうです。後日、子犬が産まれて、そのうちの1匹が東京に送られました。それがハチ公なのですが、大正時代のこと、東京まで運ぶのは大変な苦労だあったのではなかろうかと思います。(話が、全く別の方向にそれてしまい、失礼いたしました)


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