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私の中の一期一会 №164 [雑木林の四季]

      エンゼルスの大谷翔平がメジャーでも二刀流で衝撃的デビューを果たした!
      ~3試合連続ホームランは、エンゼルスのルーキー史上初の快挙だった~

          アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 エンゼルスの大谷翔平(23)が13日(日本では14日)、敵地でのロイヤルズ戦に今季初めて「7番DH」で出場して2安打を放ち、スタメン出場では7試合連続安打となった。
 ネットに速報された記事によると、大谷はこれまでのスタメン6試合では8番DHだったから、7番を打つのは初めてである。
 0-0で迎えた2回1死走者なしの場面で、カウント2-2から相手先発の右腕ハメルが投じた92マイル(148キロ)のインコースへの直球を捉え、反対方向のレフト線に2塁打を放った。映像で見る限りハメルが投げた球は、決して甘い球ではなかった。
 3-4と1点ビハインドの8回には、1塁にランナーを置いて、大谷はセンター前にヒットを打ってチャンスを広げた。結果的にこの大谷のヒットは逆転勝ちのお膳立てになった。味方の犠牲フライで勝ち越しのホームを踏んだのは大谷であった。
 これでマルチ安打は3試合目だが、打席での大谷は常に落ち着いているように見える。初めて対戦する投手ばかりだろうに、緊張しているようには見えないのだ。私の印象は「いとも簡単にヒットを打つ男」である。
 前日の試合も私はテレビ観戦したが、7回の2死満塁で走者一掃の3塁打を記録したとき、アッという間に3塁ベースまで到達したそのスピードに目を奪われた。驚異的といってもいいそのスピードにビックリしたのである。大谷は投、打,走でファンを魅了したと、新聞記事も大絶賛だった。
 13日現在、エンゼルスは12勝3敗とアメリカンリーグ西地区首位にいるが、メジャールーキーの大谷がチームの快進撃に大きく貢献していることは確かである。
 野球の神様ベーブ・ルース以来、メジャーリーグで二刀流に挑戦する選手は現れなかった。21世紀に入って、日本のプロ野球界からその常識を破ろうとする若者が野球の本場に乗り込んだのだ。
 23歳の大谷翔平は、言葉や文化も違う国で、レベルの高い舞台に身を置きながら夢を実現させようとしている。
 予想外の活躍に喜びながらも、「出来過ぎじゃないの?」と半信半疑な気持ちを胸に秘めるファンが多いかも知れないなと思うことがある。
 何故なら、開幕前の大谷はオープン戦で苦しんでいた。投手として13イニングス投げて19失点。打者として 32打席でヒットはたったの4本、打率1割2分5厘という惨憺たるものだったからだ。
 これじゃ「メジャーはムリだろう」という見方が大半を占めていたのも頷ける。
 しかし、日本から海を渡った若者を身近で見ていた名将・マイク・ソーシア監督は違う考えを持っていたのだ。
開幕2日前の記者会見で「我々は違うレンズで彼を見ている。開幕試合では、オオタニを起用するつもりだ」と発表したからメディアは首を傾げたらしい。
 ソーシア監督は「皆さんは打率や防御率ばかりを見ているが、私は調整のプロセスを重要視している。オオタニは確実に成長している」と自信たっぷりに発言したという。
 大谷翔平をよく知る日本ハムの栗山監督も「ベビーフェイスだが、性格は強烈な負けず嫌いだ」と言う。
 “翔平は宿題が大きければ大きいほど輝く”と述べて「やられたままで終わる男ではない」と断言した。
オープン戦で対戦して打てなかったサイ・ヤング賞投手のコーリー・クルーバーから、シーズンに入って2号2ランを左中間に叩き込んだのは“リベンジだった”とみていいかも知れない。
 試合後「今日も内角にきていた。さすがにレベルの高い投手だなと思った。そういう投手から打ててうれしい」とクールにコメントした。
 「開幕前に批判的なコメントをした人たちに言いたいことはあるか?」と記者会見で問われ、「特にない。まだ始まったばかりだし、次の試合から打てなくなるかも知れない。結果に対しての評価は仕方がないことだ」と答えている。
 とにかく、マウンドでも打席でも終始落ち着いていて慌てる素振りは一切ない。
 アスレチックスのメルビン監督は「マウンドと打席の両方で、これだけやれる選手はほとんどいない。とても印象深い選手だ」と褒め称えたという。
 3試合連続本塁打の大谷には、アメリカのメディアも称賛を惜しまない。ヤフースポーツなどは「打者としても投手としても、試合に出る度に二刀流に懐疑的な人々を黙らせてしまう」と報じた。
 『スプリング・トレーニングでオオタニが苦しんだ時、誰もが「はいはい、頑張って!」と言っていた。しかし今や、選べる言葉は「なんてことだ!」しかない』などと手のひらを返す賛辞も目につく有様だ。
 大谷は13日現在、投手として2勝0敗、奪三振18、防御率2.08.
 打者では30打数、11安打、ホームラン3本、打点11、打率367という立派過ぎるものだ。
 だが、この好調を1年間続けられるかというと、“そうは問屋が卸さない”という声も聞こえてくるのだ。
 大魔神としてマリナーズでも活躍した佐々木主浩氏は、「今に“波”が絶対来るだろう。怪我をするかも知れない。不調の時をどう克服していくかは問題だ」と懸念を語る。
 キャンプからずっとやってきて5~6月頃が一番疲れるところで、怪我し易い時期だ。
 夏場の連戦も日本よりは過酷だろう。二刀流経験者が他に誰もいないことも問題になるに違いない。
 メジャーOBだって、“彼がどう調整したらいいか”を的確にアドバイスするのは難しいと言えるのだ。
 弁護士の荘司雅彦氏が『驚くべき快挙でデビューした大谷翔平は「平均値への回帰」という現実を無視できない』とツイートしているのを目にして興味深く読んだ。
 荘司氏の説によれば、出来過ぎの成績はいずれ下降線をたどり“平均値に収斂していく”というものだ。よく我々も“二年目のジンクス”ということを口にするが、それと同じで“出来過ぎの一年目は”やがて平均値に収まっていくのが自然だというのである。
大谷が、プロの世界で“投打で一流”ということは「もともとの平均値がとても高い」と考えてもいいだろう。だから平均値に収まったとしても、“ヒドイ状態にはならない”筈なのだ。
 しかしこの世で、夢のような大活躍が永続することはほとんどない。それは大谷が警戒され、分析されと研究されることを意味する。
 弱点を探られたら大谷だって、そう簡単に勝ち星は手に入らなくなる。連続試合ホームランもなかなか打てなくなってくるだろう。
 アスレチックスのベテラン外野手マット・ジョイスは「オオタニの制球がいい時は、打ち崩すのは難しい。でもメジャー・リーガーは適応に長けている。次の対戦で彼の投球に適応すれば、もうちょっといい試合が出来るだろう」とコメントしている。当然のことだが、分析、研究はすでに始まっているとみていいだろう。
 大事なことは、挫折や失敗があっても、試合を投げずに戦い続けることだと、荘司氏も強調している。
 例え思うようにいかなくても、「平均値への回帰」でいずれ調子が上向いてくる。
 「二刀流なんか無理だ」と言われた大谷は、日本ではそれを成し遂げた。
 「メジャーは無理かも」と言われたが、メジャーで現実に良過ぎる(?)結果も出ている。
 スランプに陥っても「平均値への回帰」によって、必ず復調出来ることを忘れてはならないのだ。
 ロブ・マンフレッド・コミッショナーは、大谷の二刀流デビューを「最大のストーリだ」と称賛した。そして「多くの人々が刺激を受け、同じようにやってみようという選手が出てくるかもしれない。違うことが起こるというのは、どのスポーツにとっても喜ばしいものだ」と語っている。
 大谷効果は、メジャー・リーグに新風を吹き込むことになるかも知れない・・・


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パリ・くらしと彩りの手帖 №135 [雑木林の四季]

パリからお届けする展覧会:きょうは藤田嗣治のこと

              在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ

 藤田嗣治を知らない日本人はそういないのではないだろうか。そしてまたつい最近もわたしの読者から、パリで藤田の絵を買うことが出来る画廊をご存じですかという手紙を受け取ったばかりだった。それで、時々出物のある画廊の前を通ったから聞いてみたら、このところ全然出ないという返事だった。私もパリに来たばかりのころサンジェルマンデプレやモンパルナスなどアーテイストの多い辺りにいたから毎日どっぷりとその雰囲気に漬かっていた。そして藤田の住んでいたカンパーニュプルミエールは私の住んでいたモンパルナス通りから隣りのボワッソナードが始まるところだったから彼のアトリエを見上げて通る事は日常だったし、そうでなくとも藤田の絵を買いたいフランス人に時々ついてきてくれないかと頼まれたりしたものだった。いま住んでいるパリ郊外の隣人のお母さんも一枚持っていると言っている。それなのに、今ごろその作品展をやるという事で、びっくり。 マイヨールの好きだったモデルがついにパリの画廊の多いカルチエにまるでマイヨールtとその友人達のために開いたような画廊だったが、10年か20年前に今度は立派な美術館まで開いてしまったのだった。そしてこの新しい美術館になかなかの企画を持って来てマイヨールを思い出させていたのだったが、どうやら其れもタネがつきたのか最近ではまるでこちらを惑わせていたのだった。それにしても藤田嗣治とはみんなが知っていてもそれでいて展覧会をやるなどとは今まで思いつかなかったのだろうか、それともあのパリに来る度にみんなを困らせていた、なんとも理解出来ない未亡人がいままでさせなかったのだろうか?藤田の死後すぐに美術の研究者が、フジタについての2冊続きの研究書を出して話題になったのだが、これも未亡人の反対で書店で売れないことになった。死の数年前にヴィリエールバクルと言うところに農家を買ったがここではキリスト教徒になる為の心の準備をしていたのであろうか、夫の死後、夫人はこの家を街に寄付したという。いまでは藤田美術館担っているといってもいいだろう。藤田はクリスチアンになり、レオナール藤田になるために、その為の絵を描き続けた。もうこれ以上はできないという限界を感じてこの家を離れたという。そして、モンパルナスの駅と藤田の住んでいた道とのちょうど真ん中にあるモンパルナス通りの教会でお葬式が行われた。     丁度今フランスで50周年記念が行われている学生運動のあの年の事だったのだ。私もここで藤田のお葬儀に参加した一人だが、この本のことは今まですっかり忘れていたが、どうなった事だろうか。今ごろは書店に顔を出しているかも知れない。この展覧会の機会に手直し出来ているといいが。いつからこの素晴らしい企画が持ち込まれたのだろうか。この美術館h今から20年ほど前に作られた物だが、あのフランスの彫刻家マイヨールがこよなく愛した女性モデルがマイヨールの亡き後、彼の彫刻を主とする画廊を開いて、マイヨールをはじめその周りの一連の作品を展示していた物だ。そこにはわたしの好きなクーチュリエの彫刻もかなりなコレクションを見せていた。でもこのミューズ も歳とって遂に別の世界に行ってしまい、その息子達がいろいろと続けて来たがそれも終わりが来たように、寂しいかぎりだったのだが、今回の展覧会で人の入りは素晴らしくて美術館は予定を変更して受け付けている。フランスでは普通はあり得ない事なのだが。
 フランスに来たばかりの 藤田。ヨーロッパの女性や子どもたちのふわふわ飛んでいってしまいそうな感触をどう画面に伝えるか、いや、自分も 実際に頭を刈り込んでみよう、というようにいろいろと工夫を凝らした。シッカロールを絵の具に混ぜたり、色々試したという。そしてその藤田がレオナールフジタに変わっていく。

 この展覧会でフジタに親しみを覚えたら、次はどうしてキリスト教徒になったかという疑問、これを解決できるとしたら、シャンペンのムンに描かれているその為のチャペルを訪れてみる事をお勧めする。彼はここで力尽きたといっているのだから。私はシャンペンを呑んでもその解答を得られるとは思わないが、彼自身が描いているチャペルをみることは彼の精神を観ることにほかならないと思うからだ。





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浜田山通信 №215 [雑木林の四季]

女人禁制という「伝統」

              ジャーナリスト  野村勝美

 一強政治とは独裁政治のことで、とりまきや部下たちが、すべての責任をとったり、忖度してくれたりする。忖度し、責任をとるならまだしも、あったことをなかったことにする。「記憶にある限り、会ったこともない」なんてワケの分からない詭弁が高級官僚の口からとびだし、しばらくするうちに忘れられてしまう。この2、3年、森友、加計、防衛省日報問題、ときどき思いだしたように事件の本質を衝く公文書が出てきても、蛙の面にションベンで、アアアアイヤンなっちゃったである。この先日米、朝韓、米朝首脳会談がつづく。モリカケどころではない、ということになっていく。長生きするとほんとに人間の愚かさ、ばかばかしさ、アホらしさ、情けなさにぶつかっていやになる。
 昔、サンデー毎日でいっしょだった徳岡孝夫(いまでも「新潮45」の巻頭文を書いている大ジャーナリスト)が、私のことをボヤキ屋といっていたが、確かにこの通信もボヤキが多い。ボヤキついでに大相撲の「女は土俵上に上らせない」問題について書く。舞鶴市での地方巡業で市長が土俵上で挨拶中脳卒中を起こしあおむけに倒れた。見ていた女の看護士さんが人口呼吸を施し市長さんは助かったが、行司が「女性の方は土俵を降りてください」と場内放送し、大問題になった。相撲協会は人命に関わる問題でまちがいでしたと謝ったが、TVなどでみると、このところウケに入っているスモウ評論家と称する連中の言っていることがどうもおかしい。土俵に女の人を上らせないのは伝統だからという。スモウは神事であり、女性を土俵に上らせると神様の怒りをかうからなんてことまで言う。
 たしかに女人禁制は明治5年まで山岳信仰や社寺にあったが、理由は女は不浄で穢れを持っているから。死や血がけがらわしいという感覚はいまでも葬式の帰りに家に入る時塩をまいてお清めをすることに残っている。血についてもお産や生理のとき、別火にするためお産小屋に移るということがあった。これは完全な女性蔑視、差別である。女性が上ると土俵がけがれるという伝統、こんなものは即刻やめなければならない。
 財務省次官のセクハラ問題も同根だろう。女性に卑猥な言葉を浴びせる役人など即クビにしろ。私は今年初め「♯MeToo」と題してことしこそ日本も女性ファーストの年にと書いた。しかしこんなことでは、世界で男女平等度114位はさらに下がることはまちがいない。

              ×      ×      ×      ×

 4月6日、毎日新聞で同期だった池田龍夫くんが急性肺炎で死んだ。父君が昭和5年東京駅頭で右翼に狙撃された浜口雄幸首相の秘書をしていたこともあり、政治記者志望だったが、整理部一筋の記者生活だった。しかし記事は定年後も書きまくり、16年にはウエブサイト「ちきゅう座」に連載した記事をまとめて「時代観照、福島・沖縄そして戦後70年へ」(社会評論社)を上梓した。数年にわたる人工透析を続けながらの奮闘だった。

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BS-TBS番組情報 №160 [雑木林の四季]

BS-TBS 2018年4月のおすすめ番組

                                                     BS-TBS広報宣伝部

ノジマチャンピオンカップ 箱根シニアプロ ゴルフトーナメント

160ノジマシニア.jpg
2018年4月19日(木)よる9:00~10:54 「第1日」
2018年4月20日(金)よる7:00~8:54 「最終日」

☆レジェンドゴルファーたちの競演!

「ノジマチャンピオンカップ箱根シニアプロゴルフトーナメント」が、今年も春の箱根で開催される。
国内男子ツアー最盛期の1990年代に活躍していたレジェンド達による円熟の技や、50歳以上とは思えない迫力のプレーをお届けする。
舞台は「箱根カントリー倶楽部」。富士箱根伊豆国立公園内に位置した雄大なロケーションのなか、赤星四郎氏が“あるがまま”を基本に設計し各ホールが独立した個性を有したコース。
本大会は2日間で行われる短期決戦の為、最終日の猛チャージで大逆転が可能となり、昨年はトップと6打差の真板潔が混戦を制して逆転優勝。今年の第3回大会もスリリングな展開が予想される。
P.マークセンが2年連続賞金王となっているシニアゴルフ界。過去二度のシニアツアー賞金王にも輝いた日本プロゴルフ協会会長・倉本昌弘、日本人男子初のメジャー競技大会優勝の井戸木鴻樹、シニア2年目となる川岸良兼など出場予定のレジェンドたちが、打倒マークセンを掲げ、戦略性豊かな箱根カントリーを舞台に繰り広げる熱戦をお届けする。
解説:田中秀道プロ
実況:松下賢次

パナソニック・オープンゴルフ2018

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2018年4月21日(土)午後2:00~3:54 ※生中継/延長なし
2018年4月22日(日)午後1:00~3:54 ※生中継/最大延長120分

☆アジアから世界へ羽ばたけ!2020東京五輪の主役は誰だ?

2008年、真のアジアナンバーワンプレーヤーを決める戦いとして産声を挙げた「パナソニックオープン」。日本ツアーの上位陣と、アジアで戦うプレーヤーたちが相まみえる貴重な場として大会が開催されてきた。
2016年、リオデジャネイロ五輪ではゴルフ競技が112年ぶりに復活。2016パナソニックオープン王者の池田勇太がアジアの頂点から“世界”の舞台へと羽ばたいたように、今年も“2020東京五輪”へつながるアジア屈指の大会として熾烈な優勝争いが展開される。
今年の注目は今大会のチャンピオンでもある池田勇太。
2017年にツアー3勝を挙げ賞金王に輝いた宮里優作は初のマスターズを経験して戻ってくる。その宮里優作と最終戦まで賞金王争いを繰り広げた昨年の賞金ランク2位の小平智、今季から日本ツアーに専念する新選手会長の石川遼など日本ゴルフ界を代表する選手たちが、最高の布陣でアジアの強豪を迎え撃つ。
舞台となる「茨木カンツリー倶楽部」は、記念すべき「パナソニックオープン」第1回大会、第6回大会が開催されたコースでもある。色鮮やかな景観と稜線美にあふれたコースは、前大会後の2011年、高速ワングリーンに改修された。世界基準に適したものへと生まれ変わったグリーン、最高のコースが、最高の選手たちに最高のパフォーマンスを要求することだろう。
解説:丸山茂樹プロ
オンコース解説:田島創志プロ(JGTOコースセッティングアドバイザー)
実況:小笠原亘(TBSアナウンサー)
インタビュー:佐藤文康(TBSアナウンサー)

アスリート夢共演

160アスリート夢対談.jpg
2018年4月15日(日)午前9:30~10:00
2018年4月22日(日)午前9:30~10:00

☆障がい者アスリートと健常者アスリートが、2020へ、その先へ続く「夢」を共に語り合う!

出演:高田千明、塚原直貴

「スポーツを通じて見る夢」それは、障がい者も健常者も変わりありません。
障がい者アスリートと健常者アスリートが、2020へ、その先へ続く「夢」を共に語り合います。
今回の主役は、パラ陸上日本代表・全盲のスプリンター&ロングジャンパー高田千明選手。
5歳の時に黄斑変性症と診断され、高校3年生で完全に視力を失った高田選手は、中学・高校と陸上の他にバレーボール・トランポリン・卓球などでも活躍したアスリート。全盲となってから本格的に始めた陸上でメキメキと頭角を現します。2011年の「世界パラ陸上」では、200mと100mでそれぞれ銀と銅のメダルを獲得。13年からメイン種目にした走り幅跳びでも17年の「世界パラ陸上」で銀メダルに輝いた日本を代表する陸上選手。
そんな高田選手を訪ねたのは、昨年現役を退いた北京オリンピック陸上男子400mリレーの銅メダリスト塚原直貴さん。その塚原さんが、アイマスクを着けて「見えない陸上」の世界に初挑戦。専門種目の短距離はもちろん、アイマスクを着けた走り幅跳びにも挑戦します。驚きのその結果とは…。


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ロワール紀行 №75 [雑木林の四季]

非情の城・ランジェ 4

           スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎

 王の寝室も、数百年前のままに残されている。寝台は天蓋がつき、部厚いカーテンがめぐらされ、その傍に安楽椅子や背なしの椅子などが点々と置かれている。
 意外に思ったのは、その寝台の小さなことである。そのころ、ここに住んだ王侯や王妃は、今日の少年少女位の身長しかなかったのではなかろうか。せいぜい五尺位のように思われる。
 その寝台の上にかけてあるベット・カバァは、粗(あら)い麻の織物である。麻は桐とともに、当時では貴重なものだったようである。
 ホォム・スパァンのように、ごつごつした手織りのラフな感触が、なんとも心地よい。
 西欧の人は、寝台というものに特別の関心があるらしい。好奇心というにはあたらない。
 もっと厳粛なものを感ずるのであろう。
 良きにつけ、悪しきにつけ、人の一生の大半を過す憩いの家具として、東洋人の考え及ばぬ関心の深さである。静かに思えば、まことに合理的な考え方である。
 富豪の間でナポレオンの使用した寝台が、何千万円かで売買されるという話も、歴史は夜作られるという、考え方からであろうか。
 それとも、安眠の中に浮んだ英雄の偉大な創意(アイデア)の、余恵にあずかりたいためか。
 あるいは、「すべての女性は皇帝の夫人となるか、妹になるよりほかに仕方がありません」と、美しいドゥ・スタァル夫人を嘆ぜしめた、その類い稀なる艶聞にあやかりたいというわけか。
 いずれにせよ、彼等のこの心理は面白い。
 どこのシャトオでも、建築や装飾に余り関心を示さなかった観光客が、ひとたび城主や夫人の寝室に案内されると、急に活々として、ガイドに何かと質問する光景を再三経験した。
 ここでも同じである。
 ガイドもそれを心得て、徴に入り細を穿(うが)って説明する。
 昔のフランス王侯の生活の中に、「寝室の儀式」ともいうべきものがあったのも、寝室や寝台の人間生活に占める重要さの、フランス的な考え方に由来するのであろうか。
 当時の王侯は、二つの寝室をもっていた。日常使用する寝室と、儀礼的な行事を行う大寝室である。
 封建時代の王侯は大寝室で、多くの人々に傅(かし)ずかれて、衣服着脱、寝衣着脱などの儀式を行ったという。
 大寝室は、いわば「着衣の間」、「脱衣の間」ともいうべき部屋であった。
 この風習がルゥイ十四世のヴェルサイユ宮にも伝承され、「小御起床(プチ・ルヴエ)」「大御起床(グラン・ルヴエ)」、「小御寝(プhシ・クッシェ)」「大御寝(グラン・クッシェ)」の儀式となったという。
 この名称の大小は、その式に侍べる臣下の人数の多寡によるという。
 この「寝室の儀」の濫觴(らんしょう)は、このランジェ城の大寝室で始まったといわれる。

 バルザックの長編小説『ドゥ・ラソジェ公爵夫人』は、このランジェの何代目かの城主夫人にまつわる物語かと思って読んでみたが、全く関係のない架空の創作のようである。
 この近く、トゥール生まれのバルザックが、このランジェの名を作中人物に借用したのだろう。
 この城は十七世紀中葉まで、フランス王家の世襲財産だった。現在はフランス政府の有となっている。
 シャトオの下につづく寂びた通りに、ラブレエがしばらく住んだと伝えられる、壁の剥げた古雅な家がある。

『ロワール紀行』 経済往来社


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バルタンの呟き №32 [雑木林の四季]

「沖縄の心に寄り添って・・・などと簡単には」

                 映画監督  飯島敏宏

 円谷プロダクションの文芸室員として、今から50年前ごろ、同じ沖縄出身の文芸室長金城哲夫氏とともに、SFドラマ「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」に始まり、「怪奇大作戦」など脚本家として僕と仕事をした上原正三氏が、昨年「キジムナーKids」という、終戦前後の沖縄の子供達を活写した小説を書いて出版(現代書館)したのですが、一読して僕は心底から驚嘆したのです。彼自身の体験を描いた自伝小説ではありませんが、あの戦争の末期、米軍が大挙して上陸して来た沖縄本島に、実際に、少年として彼自身がそこに身を置いていた著者上原氏が、まさにアメリカ兵と沖縄の駐在軍および民間住民が直接戦った戦場沖縄本島そのものの臨場感を出すために、子供達の交わす会話のかなりの部分を、一般の読者には理解できないはずのウチナーグチ(沖縄の言葉)のままにして書かれているのですが、読んでみると、それが、なぜかすんなりと読み進められる、というか、理解できるのです。
 僕が円谷プロで彼ら二人と仕事をしていた時に、何かの折、(たぶん、僕に聞かれては都合が悪い時)に金城氏と上原氏が、ちょこちょことウチナーグチで囁き交わすことがあったのですが、その時には、さっぱり解らなかった言葉が、この小説に登場するキッズたちのそれでは、自然に、あたかも普通の日本語のように、頭の中に浸透して理解されて、無理なく通読できてしまうのです。それほど、ほぼおなじ世代の少年として、あの敗戦時の焦土と化した東京を彷徨った僕たちの境遇と、このキッズたちの境遇が似通っていたからかもしれません。僕が、終戦直後、初めて遭遇した米兵から投げ与えられたラッション(弁当)に驚愕して、彼我の軍事力の違いを見せつけられたことは、僕自身もしばしば書いたり話したりしましたが、このキジムナー(樹上などにすむ妖怪)のような子供たちは、なんと、その後も積極的に占領軍兵舎に忍び込んで、豊かなラッションを盗み出しさえする逞しさなのです。敗戦直後、上野の西郷さんの銅像(維新の雄西郷吉之助)あたりに屯していて、広げかかった僕の母親手づくりの高粱めしベントウを奪い去ろうとした浮浪児(爆撃で家も肉親も奪われた子供達)に勝る生き生きとした生存エネルギーが、活写されていたのです。
 「本土決戦」「一億一心火の玉だ!」「撃ちてし止まむ」「一人一殺」などなど、威勢のいい言葉で上陸してくる米兵に立ち向かう決心をした僕たちが、果たして実際に上陸した彼らと遭遇し、肉親を火炎放射で焼殺された後に、この逞しさを、果たして発揮できただろうかと、いかに僕の敗戦経験などが甘っちょろかったかを、思い知らされたのです。いって
 「沖縄の人たちの心に寄り添って・・・」などと簡単に言ってのけて基地を押し付けようと考える人たちには、この「キジムナーKids」をぜひ読んでもらいたいと思いました。
 敗戦に先立つこと2か月以前に行われていた、米軍の沖縄上陸と悲壮悲惨な戦闘に関しては、当時、もちろん、遠く離れた本土の首都東京の僕たちに、その詳細は知らされていませんでした。さまざまな通信網が張り巡らされた今日では、とても想像できないことですが、当時の沖縄本島では(ある意味では日本全国も)、情報の伝達はラジオだけ、しかも当局によって完全に規制されているNHKだけだったのですから、上原キッズ達や一般民衆は、実際に自分たちが身を置いている沖縄本島の沖には、その後幾何の猶予もなく、彼らに砲弾の雨を降らせることになるアメリカの大艦隊がひしめいていたことや、なんと、島の一部にはすでに米軍が上陸して、火炎放射器などを用いた掃討作戦が始まっている事さえつぶさには知らされなかった、などという想像を絶する事実を、最近書かれた彼のこの小説で、はじめて知ったのです。情報の規制、遮断が、どんなに恐ろしいものなのかを改めて実感できました。永年のあいだ放送に関わってきた人間として実に恥ずかしい事ですが・・・
 沖縄にも数回訪れて、人々と語り、戦争の遺跡史跡を見て、沖縄を多少は理解していたつもりでしたが、こうして実際にそこにいた少年たちの描写として強烈な臨場感で生き生きと活写されてみると、まだまだ、沖縄では、戦争が終わってはいないのだということが、まざまざと実感されたのです。Kidsに託した作者上原正三氏の思いが、胸を突きました。
 戦後、一人一殺と覚悟した筈の米軍兵士と遭遇して、陽気な歓声と、投げ与えられた弁当の豪華さにそれまでの気負いも何処へやら、完全に負かされてしまった少国民の僕、占領軍(CIE)の女性将校が学校に現われレッスン等を手始めに振り撒かれた民主主義教育に、流されるままに順応して行った僕たち少国民と違って、終戦後も、自分たちの生存を確保する為に占領軍と戦い続けた少年妖怪キジムナーKidsの逞しさに、完璧に打ちのめされてしまったのです。まさに、ガジュマルの樹林に忍んで跳躍しまわるという妖怪キジムナーのような、上陸、占領されてもなおしぶとく、悪賢いほどに占領軍を相手に戦い続けた、まさに子どもや少国民ではないkidたちは、僕のいままでの沖縄観を、それこそ目から鱗、一皮むいてくれたのです。これこそ、僕たちが子供の頃むさぼり読んだ児童文学の巨星、坪田譲治の賞を与えられて当然の快作でした。
 彼と沖縄を同郷とする金城哲夫氏が、ウルトラマンの原案作成にこめた、ニライカナイ(豊穣の地)から寄せ来る平和の使徒というメッセージは、しばしば語られてきたのですが、このキジムナーkidsのようなユニークな沖縄少年たちは、この小説でこそ初めて取り上げられたビビッドな沖縄からのメッセージではないかと思いました。
残念なことに、せっかく沖縄の本土返還が実現したあと、テレビ局側の制作者の意図との食い違いと、製作費膨張の責任を背負って、金城哲夫が円谷プロから沖縄に戻って以降、ウルトラマンが宇宙の平和実現のための使徒ではなく、平和を守ると称する戦士に変貌してしまい、さらに、人間に操られる戦闘機器に頼る姿に変わってしまい、しかも平和と豊穣のシンボルであった光の国の内部にさえも権力をめぐる闘争や戦闘能力を競う争いが繰り広げられるに至って、僕は、ウルトラマンのメッセージ性を問われた際に答えようもなくなってしまった昨今でしたので、余計に衝撃を受けたのかもしれません。敗戦と共に戦いを諦めてしまった淡白な僕たち少国民と違った、幾たびもの侵攻にさらされて生き延びてきたkidsの闘いに、完全に脱帽させられてしまった、今回は、呟きならぬ、反省の章ではありました。
 「欲しがりません勝つまでは」ではなく「あきらめません勝つまでは」の精神で、バルタン星人は呟き続けなければ、と自戒しつつ・・・


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ZAEMON 時空の旅人 №33 [雑木林の四季]

 第二十八章  バルタン星の女王カオリ対ストリクト星の女王フリーズ

            文筆家  千束北男

 バルタンの女王カオリと巨大AI怪獣グレンデルの一騎打ちは、こんなことを書くと,不謹慎に思われるかもしれませんが、まるで王城の広場(コロセウム)広場や舞台で披露される名手の悪鬼退治の遊戯や舞のように華やかでした。
 蝶のように華麗に舞い、ハチのように鋭く刺す敏捷さで、強大なグレンデルとしばしわたり合っていたバルタンの女王カオリでしたが、やがて頃合いと見たのか、極めて高い波長の気合いと共に凝固波動をあびせて、なお荒れ狂おうとするグレンデルの動きを瞬時に押し包んでしまいます。
静止した双方が正対したまま、時が流れ、と、その後、驚くべきことが起こりました。
絶対の優位に立っている女王カオリが、グレンデルとの戦いの終止符を打つ攻撃を加えるのではなく、なんと、僕に向けて、
「ハヤト、歌え! 奏でよ!」
と強烈な気配を伝えてきたではありませんか。
我に返った僕は、直ちに洋琴を取り直して、ダルシス・メロスを奏で始めました。熱い想いを込めて、しかし静かに、女王カオリの瞳を見つめて、相聞の歌を歌います。
クール、クール、クール・・・
すると、何ということでしょう、突然、
「ウオオオオーン!」
グレンデルが、空を仰いで、なにか悲しげな咆哮を放ったのです。
いよいよ、カオリを相手に、捨て身の決戦を挑むのか、と思われたグレンデルが、その巨体を反転させて、女王カオリの前にひれ伏したのです。
そして、ゆっくりと身を起こすと、あたかも我々の大行進の再開を促しでもするように、両腕を高くかざして
「ウオオオーン!」
ひと吠えして起ちあがり、逆に自身が大群衆の行進を導くかのように、大宰相府をめざして歩き始めたのです。
すると、クリストファ・コロンバス! なんと、驚いたことに、大宰相の命を受けて発進し、我々に襲いかかる筈だった夥しい数の傀儡政府軍ロボットまでもが、一斉に回れ右をして、大宰相府に向かって進撃しはじめたではありませんか。
いつの間に載ったのか、グレンデルの頭頂には、ZAEMONが、影の徳治さんを伴って立っています。あたかもグレンデルを操縦でもしているように、カオリが持っていた白扇を前方に打ち振っているのです。
狼狽した大宰相が次々に繰り出してくる新手のロボット軍団は、グレンデルが、大口を開けて手当たり次第に呑み込んでしまいます。
美しい見事な翅を精いっぱいに広げながら、大群衆の先頭に立って前進する鳳凰、女王カオリに従って、僕はひたすら歌い、奏でるのです。大群衆が、踊り、舞いながら唱和する平和の歌、ダルシス・メロスが、地上に流れる波紋のように広がって行きます。
バルタン星人ピピン、パパンと対峙して睨み合っていた傀儡政府軍、警察軍の中からも、そして遂には、宇宙十字軍や地球侵略を企てていたストリクト星人からさえも、ダルシス・メロスを口ずさみながら反転して平和大行進に加わってくる者が増えていったのです。

そして、ついに・・・
予想されたおそろしい殺戮戦もなく、LHS平和大行進は、大宰相府門内に進入して行くのです。
そしてついに・・・
鳳凰姿のバルタン星の女王カオリの瞳が、台座にしがみついて歯噛みする大宰相を捉えます。
女王カオリの、どこまでも透視してくる視線に耐えかねて、台座にもたれかかった大宰相は、まるで陽光を浴びた凍土が溶けるように、その正体をさらけ出します。
そしてついに・・・
やはり、その正体は、豪華な衣装の中でわなわなと震える、小さく貧しい体躯のストリクト星人でした。矮小で貧相なストリクト星人が、尊大ぶった大宰相の肉体に憑依していたのです。
大宰相という仮面をかぶり、政財界の欲望をそそのかしてその恩恵をむさぼり、国民の生活を犠牲にして行った、あの狂気としか言いようのない数々の悪政は、地球を乗っ取ろうと試みたストリクト星人が企んだ、地球人類に破滅の騒乱を仕掛けるおそろしい罠だったのです。
いま、僕たちの目前に、貧弱な肉体を曝している大宰相は、あわれな傀儡に過ぎない存在だったとして、
残るは、あの三軍総司令ミス・ディーモン!
と思った刹那です。
「カオリ!」
鋭い声を発して、ひざまずく傀儡軍の中から飛び出してきたのは、他でもない、あの三軍総司令ミス・ディーモンです!
「ケケケケケ・・・・」
嬌声と共に突然巨大化して、爛々と炎を放つ眼をくゎっと見開き、バルタン星の女王カオリを見すえます。強烈な光芒で女王カオリの目をくらませて、すかさず必殺の熱線を浴びせようとしたのです。
「カオリ!」
とっさに琴をおいて立ち上がった僕は、まったく無意識のうちに、両腕を前方に伸ばして、三軍総司令ミス・ディーモンに向けていました。僕の持つ全身全霊の念力を振り絞って、
なんのために・・・
何をしようとするのか・・・
すべての疑問を振り捨てて・・・
一念に、すべてをこめて・・・
放ったのです・・・
すると・・・
信じられない奇跡が起こりました! 
僕の両掌が一瞬バルタン星人の巨大な爪に変化したかのように見えて、そこから、凝固光線が迸(ほどば)迸しったのです。
僕の放った凝固光線は、必死にあがき暴れまくる三軍総指令ミス・ディーモンを捉えて放しません。
ああ、山本久美子先生! 
この瞬間に、全ての事が解ったのです。
山本久美子先生! いまこそ、告白します!
僕は、いつのまにか、バルタン星人と同じ能力を備えていました! いや、違うのです。僕自身が、バルタン星人だったのです! 僕の中に、バルタン星人が共生憑依していたのです。
しかも、
こんなこととは、思ってもみなかった、とは言い切れないのです。
ここに到るまでのある時期に、あるいは僕は、バルタン星人なのではないかと、うすうす想像していたのです。
非力なノロトだったボクを、これほど重大なミッションにつけようとするZAEMONに、
「お前は、ミズシマ・ハヤトが何者であるのかを知らないのだ」
と言われた事を思い起こせば、すべて納得できるのです。
本来のボク水嶋速人に、いつしかバルタン星人が共生憑依して、ミズシマ・ハヤトになっていたのです。

ミズシマ・ハヤトのボクが、凝固光線で固まった三軍司令官ミス・ディーモンに、さらに念力を加えて透視光線を照射すると、耐えきれずに顕(あら)顕われたミス・ディーモンの実体は、もちろん人間ではありません。ストリクト星人です。ストリクト星人が、ミス・ディーモンに憑依していたのです。それも、西暦2030年の現実(リアル)現実で、あの恐ろしい幻術を見せた氷の女王ストリクト星人フリーズだったのです。
ぞくっと、僕の背筋に、冷たいものが奔(はし)奔りました。
正体を曝け出したフリーズが、ふたたび巨大化しながら変化しはじめたのです。そこに現出した女王フリーズの正体は、美しい翅を持った巨大な蛇、魔性の大妖怪とでもいうものでした。
立ち直った妖怪フリーズの放つ超低温の冷熱線は、僕の放つ凝固光線を十分に溶融してしまうほどおそろしい威力です。
「うーむ、む、む」
必死に耐えますが、ともすればフリーズが浴びせてくる冷熱線に包み込まれそうになり・・・
その時です、
女王カオリの姿が、さらに変化して、巨大なクイーン・バルタンの姿を顕(あらわ)顕したのです。
荘厳にして華やかな鳳凰、バルタン星の女王カオリと、魔性の大蛇、ストリクト星の女王フリーズが、万字巴に絡み合います。たがいにたがいの中に憑依して、相手を吸収してしまおうという闘いでしょうか。
その闘いは、まるで溶け合った一本の虹となって、渦を巻き、竜巻のように中空に上り、舞い狂うのです。
しばし、高く、高く、天空に舞い続けた虹の竜巻は、やがて、空の果てに消えて行ったのです。
「ああ・・・」
嘆息と、群衆が交し合うさざめきが、波となってあたりを漂います。
「ハヤト、唄うのだ。唄いつづけるのだ」
おもわず我を忘れ、息をのんで、美しく狂おしい戦いに見とれていた僕に、ZAEMONが念送してきました。
我に返った僕、ミズシマ・ハヤトは、新たに想いをこめて、洋琴を採り、奏で、唄います・・・
やがて、
人間という地球人たちと、十字軍の様々な宇宙生命たちが、一つの唄に溶けあって見上げている空の果てから、静かに舞い降りて来たのは、おびただしい氷の華びらでした。
「オードー」
全場のストリクト星人達から、かなしみ、なげく、声ともつかない声が、漏れました。
そのうちに、大地に降り積もった氷の華びらが集いあって、息も絶え絶えに疲れ果てた、ストリクト星人の女王フリーズの姿になりました。
さらに、さらに、ひたすらに僕は、奏で、唄いつづけました。
ニンジャ美穂と、バルタン星人ピピン、パパン。
ZAEMON、徳治さん・・・人間たちも、並みいる宇宙生命たちも、すべてが空をみつめ続けます・・・
と、
霞空の一角に明るみが見えた、と思うと、姿を現したのは、
カオリです! バルタン星人の女王カオリが、輝かしい光に身を包まれて、舞いながら降りてきて、やがて鳳凰もかなわぬ美しい翅を精いっぱいに広げて地上に降りたったのです。
そこにあった、疲れ果てた氷の女王フリーズの形骸は、うごめきながら、一瞬だけ、美しかった貌を見せたかと思うと、
「オードー・・」
醜悪なディーモンの姿に還るのを懼れるように、すばやく黒い水蒸気となって消滅してしまいました・・・

「ハヤト!」
鋭い念送に起こされて我に返ると、
ZAEMONの眼が、僕に向けられています。
「行くぞ!」
突然巨大化するZAEMONのバルタン星人!
あの、鷹の眼です。鷹の眼が、僕に注がれます。
この時です、いままで、勾玉を通してすべての気配を送ってきたのが、ZAEMONの中の、僕の曽祖父水嶋次郎左衛門だったことがはっきり認識できたのは。
即座に巨大化した僕、精悍なバルタン星人ハヤトは、すかさず、東京湾岸のラー号発射基地にむけて跳びたちます。
並走するバルタン星人ZAEMON、そして追尾してくるニンジャ美穂とピピン、パパン。
やがて、
「ハヤト!」
ZAEMONの念送を待つまでもなく、ラー号発進基地に降下します・・・
ミッションの指示のままに、火星に向けての発射が秒読みに入っていたラー号を、充分に巨大化した僕が捧げ持って発射台から静かに路面におろし、乗務員、乗客全員が脱出するのを見とどけて、天空に運びます。
天空の一画、多分、西暦2030年ごろには、充分地球文明の力でも達することが容易になりそうな地球回周の軌道に運ぶのです。
「その頃には、ラー号は、地球人の宇宙観光旅行に転用されるのではないでしょうか」
と、徳治さんが、楽観的な未来を保証して見せたからです・・・
「あ・・・」
振り返ると、いつのまにか、僕に追走してきたニンジャ美穂の姿が消えていました。
「さようなら、ハヤト」
の念送もなく。
おそらく彼女は西暦2030年の混沌の現実(リアル)現実に立ち戻って、熾烈(しれつ)熾烈な戦いの坩堝(るつぼ)坩堝に身を置くのでしょう・・・

山本久美子先生!
僕は・・・・ボク、西暦2016年、先生が担任する組の水嶋速人少年は、バルタン星人だったのです。いいえ、ボクの中で、はじめて地球に漂着して以来五十年にしてようやく、バルタン星人が、美しい地球の住人として、人間としての共生の夢をはたしているのです・・・
                                                つづく


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医史跡を巡る旅 №38 [雑木林の四季]

「紀行シリーズ」~西洋医学事始め・天草篇

                 保健衛生監視員  小川 優

熊本巡りの締め括りに、天草に渡ります。
熊本駅から天草の本渡までは高速バスを使うのが便利ですが、少し趣向が変わったところで、JR三角線の特急列車と、高速船を使うルートを選択しました。

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「JR天草線 特急A列車で行こう」 ~熊本駅

熊本駅から鹿児島線を経由して三角線三角駅まで運行されている特急「A列車で行こう」号。内装にとても凝った車両で、お洒落です。天草の頭文字、「A」をとってA列車かな?という気もしますが、車内で繰り返しBGMとして、ジャズナンバーの「Take the ‘A’ Train」が流れていて、少々こじつけっぽく若干違和感があります。(あくまでも個人的感想です。)

三角駅からは高速船に乗ります。実は三角には熊本出身の産婦人科医、濱田玄達のお墓があるのですが、時間と交通機関の都合で今回は訪問できずに残念です。

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「天草宝島ライン 高速船」 ~三角港

ところが、ここでアクシデント発生。熊本巡りの間中、台風に翻弄されたことはすでにお伝えしましたが、今回は台風通過後の吹き返しのため湾外の波が高く、高速船が本渡港までは行かずに松島止まりとのこと。さらに松島での高速バスとの連絡が悪く、1時間近くバス停で待たなければならない。往々にして旅先で、予定通りにいかないことはよくあることですから、諦めてプランBに移行します。

予定より1時間近く遅く、ギリギリ日没前に本渡に到着。宿に荷物だけ預けて、急いで目的の場所である城山公園、天草市立天草キリシタン館へ急ぎます。

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「天草市立天草キリシタン館」 ~熊本県天草市船之町

天草市立天草キリシタン館はキリスト教伝来以降、天草・島原の乱、その後の天領となってからの隠れキリシタンの遺物・史料などを展示している施設で、白眉は天草・島原の乱のときに天草四郎軍が用いたと言われる旗指物、「天草四郎陣中旗」の実物です。ただし保存上の理由から実物の公開期間が限られており、通常は複製品が展示されています。
私の訪問の本当の目的はキリシタン館ではなく、その敷地も含む城山公園内にあるキリシタン墓地です。

38画像④.jpg
「城山公園キリシタン墓地」 ~熊本県天草市船之町

もともと周辺に点在していた信徒の墓石を集めて整備されたもので、墓地を見守るようにキリスト平和像が造立されています。

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「キリスト平和像」 ~熊本県天草市船之町

そして、キリスト平和像の前にあるのが、ポルトガル人宣教師ルイス・アルメイダのレリーフを埋め込んだ十字架。

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「アルメイダ記念碑」 ~熊本県天草市船之町

ルイス・デ・アルメイダは医史跡を巡る旅№27、大分篇でご紹介しましたが、日本に最初に西洋医学を持ち込んだとされる宣教師兼医師です。各地で宣教し、1557年大分に洋式病院を開設しました。その後彼が所属するイエズス会の方針のため、病院を閉鎖せざるを得ず、以後は布教に専念、1583年に天草の川内浦で没します。

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「アルメイダ記念碑 由来説明板」 ~熊本県天草市船之町

ポルトガル人ルイス・デ・アルメイダ神父は1583年天草で聖なる生涯を閉じた。
かれは日本における西洋医学の創始者であって総合病院を開設し医療を行うかたわら日本人医師の養成にあたり育児園も創設して広く社会福祉事業に献身した。さらに宣教者として九州各地にキリストの教えの種子をまき精神の医者として力をつくした。
かれは、殉教者荒川アダムやこのキリシタン墓地に記念されている人々の心に信仰の火をともしたが、今もこのキリスト平和像を示しつつ私たちの上に神の愛と恩恵を祈り求めるのである。  

ちなみに15世紀後半の西洋医学とはどんなものだったのでしょうか。
14世紀に始まったルネサンスは、文化、芸術、建築ばかりでなく医学にも影響を与えました。宗教色の強まった中世医学よりも、観察や実証に重きを置いたギリシャやローマ時代の古典医学に学び直そうという考えで、解剖学に基づく実証的な科学の一分野として、近代医学へと変貌しつつあった時代です。医師が、錬金術師や魔女と訣別したともいえるかもしれません。病原体の発見、感染症の予防などには今しばらくの時間は必要でしたが、解剖学を基本とした外科術は日本をはじめとした東洋より、はるかに進んでいたはずです。
ところがこうして日本に伝えられた西洋医学の種子も、鎖国という冬の到来に、芽吹くことなく長い眠りについてしまいます。

一方俗世のわたくしめは、天草の寿司に舌鼓を打ち、熊本最後の夜を楽しんだのでありました。
そして翌日。いよいよ熊本から離れます。天草から乗ったのは、こんな可愛い飛行機。

38画像⑧.JPG
「天草エアライン みぞか号」~天草空港

向かった先は福岡。実は、まだしばらく九州紀行は続きます。


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いつか空が晴れる №33 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
       ―Bach to Africa-

                       渋澤京子

  小さいとき、まだピアノを習い始めのころに、メトードローズというピンクの教本があって、その中で一番好きな曲がバッハのメヌエットだった。軽やかで明るいバッハ。
中学からキリスト教の学校に通うようになって、毎朝の礼拝の前奏として流れるパイプオルガンのバッハのフーガ。重々しく荘厳で、それと礼拝堂の暗さがあって「原罪」というものを身体で感じさせるような陰鬱なバッハ・・

人でも芸術でも、なんでもその対象にステロタイプのイメージを持ってしまえば世界は狭くて退屈なものになってしまう。
バッハといえば荘厳、崇高、数学的、天上的であるとか、アフリカ音楽というと肉感的なリズムであるとか野性的であるとか、人によっては未開の音楽という偏見を持つかもしれない
「ランバレナ~Bach to Africa」バッハのカンタータとアフリカ音楽のミックスされたものを聴いたときは目からうろこだった、
バッハのカンタータをアフリカの太鼓が肉感的に生き生きと蘇らせ、バッハというのはリズムで聞く音楽だったのだということがわかるし、逆にアフリカの太鼓が高度に洗練されて崇高なものだったことをバッハが教えてくれる

要するにお互いがお互いの魅力を最大限に引き出し合っているという相性で、いまさらながら、バッハとアフリカ音楽のレベルの高さと懐の深さに感心したのだった

アフリカ音楽がポリリズムという、二拍子に三拍子が混じっても平気な複合的なリズムを持っていることと、バッハがポリフォニーという多声による複合的な形式を持っている音楽であることが相性の良さに関係あるだろうか。

双方とも多様性を許容する開かれた音楽形式なので、アレンジしやすいというのも、二つの正反対の音楽が調和する原因になっているのかもしれない。

「バッハは音楽の終焉である」と語ったのは、バッハ演奏家でもあったシュヴァイツアーだったけど、おそらくアフリカ音楽は音楽の始まりなのだ。
正反対の個性を持ちながら、見事に融合してしまうバッハとアフリカ音楽の出会い。

「解剖台上のミシンと傘の偶然の出会いは美しい」というシュールレアリスムの謎の言葉があるけど、美っていうのは何より、イキイキした生命力に他ならないのだろうな、と思うのである。

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梟翁夜話(きょうおうやわ)№12 [雑木林の四季]

「ある中山道膝栗毛」

                  翻訳家  島村泰治

私の庵は桶川の在にある。ここは中山道なら日本橋から十里余、六つ目の宿場町で江戸を立つ旅人が最初の宿を取ったそうで旧旅籠の風情を残す造りがいまも散在する。紅花の里などと謂われて将に住めば都、おっとりとした鄙びが捨てがたい町だ。

中山道は日本橋と京の三条大橋を結ぶ六十九次だが、これを木曽福島までの三十八次と切り詰めて仮想膝栗毛を仕組んだ。私の前立腺癌の放射線治療(梟翁夜話「天下の一大事」2018年3月上号参照)が三十八回なことから思いついた卓抜なアイデアで、宿場町名を勘亭流で双六風に書き出して治療終了後日毎にシールを貼るという和み味も加える。シールは大きな金色の奴で達成感を演出している。

これは、不気味な放射線治療に苛立ち気が滅入る私を思い遣ってのわが愚妻の巧みな思いつきだ。可視化できない刻々の治療結果を宿場を重ねるシールの増え具合で「見える化」することで、無機的で味も素っ気もない放射線治療に生気を吹き込んだ。治療のし甲斐が欲しい患者心理を読んだのか、膝栗毛を考案した愚妻の才覚にどうやら一本取られたようである。

膝栗毛は程なく武蔵野路をあとに上州路に入る。放射線治療では尾籠な排泄を照射の精度を狙って調整せよという厄介な作業があるのだが、やればできるもので、宿場を泊まり重ねる毎にどうやらそれを体感で測れるようになったのだ。膝栗毛なら言わば旅慣れてきたのである。

面白いもので、日頃無機的な治療作業を坦々とこなしている技師たちが私の膝栗毛構想に甚(いた)く惹かれている様子なのだ。
 「島村さん、今日はどちら?」
 「もう上州路だよ。倉賀野宿。よろしく頼みます。」
H技師とのふんどしの一件(私の下着がふんどしなのをみて彼が度肝を抜かれ感激した経緯)以来、技師仲間でどうやら私の振るまいが一寸した話題になっているらしい。あの髭の老人は風変わりだと囁くのを垣間聞きしたのだ。それもよかろうではないか。さなくだに退屈極まる治療だからひと節入れないととても保(も)たない。

中山道の膝栗毛なら実は私に実体験がある。もう何年前になろうか、S新聞の企画で「中山道ウオーク」というのに便乗して旧中山道を散策したのだ。軽井沢から木曽の一寸手前まで、宿場町をいくつかに切り分け、数度に亘って歩いた。遊覧バスでA点へ行きB点まで歩きバスはB点に先回りして待機、歩き疲れたわれわれを乗せて帰京という段取りだ。
新宿から新宿まで、山好きな某アテンダントの話に踊らさせて、まだやや若くもあったがよう歩いたものだ。

あれから十年にもなろうか、もう生の中山道を歩くスタミナはなかろうが、わざわざ膝栗毛を放射線治療に編み込んだ愚妻の思惑は、治ったらまた行きましょうとのメッセージかも知れない。乙な気配りだなと、柄になくくしゅんとしている。

時は晩春から初夏へ、三寒四温を絵に描いたような陽気だ。三十八次は流石にまだ遠い。木曽福島に辿り着く頃には、さてどんな心持ちでいるものやら、今日も虚心坦懐で治療に向かう。泊まりは軽井沢宿だ。

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検証 公団居住60年 №8 [雑木林の四季]

4.国立市、夢が嘆きに

       国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 憧れのダンチに入居とはいえ、生活の便からいえば荒野の暮らしに等しく団地住民は自治会にまとまり、行政と公団、公共機関等に働きかけて、日々の暮らしと教育の環境整備につとめてきた。幼児も学童も受難に耐えて育ってきた。
 他方、公団住宅誘致に乗り出した地方自治体は、団地建設に便乗して広大な田畑を住宅地に開発し、都市化の進展に夢をたくしたものの、それも束の間、行政需要には追いつかず、財政もたちまち逼迫。こんなハズじゃなかった、と早々にホゾを噛むことしきり。国立市役所の企画財政課が1972年1月にまとめた『団地調べ 一 人口急増都市国立の場合』(手書きガリ版刷り、25×34センチ、78ページ)からは、この時点での市当局の嘆き、本音がうかがえる。国立富士見台団地の完成から5年たち、ついで同じ富士見台地域に都宮の矢川北と青柳南の両団地の完成をひかえ、国立市は団地誘致の「収支決算」をせまられ、まとめたものである。「まえがき」の一部を引用しておこう。

 「団地は金がかかる」「団地建設は人口急増をともない、学校、保育園の建設、道路整備と生活環境のすべての面にわたる財政投資を要求し、それでなくても貧乏な自治体財政を逼迫させる。だから、いまのままでの団地建設はお断りねがいたい」
 「地方自治体の側から住宅団地の建設を積極的に誘致し、もって比較的安価に、自治体の持ち出し分を少なくして、都市のスプロール化を防ぎ、区画整理を実施しようとしてきたのは、つい数年前のことである。勤労者に安価で質の良い住宅を提供するという意味で公共の団地建設はもっと促進されるべきである。しかし、いままでの関連施設整備は自治体に依存し、ただ大量に建設すればよいという団地建設のやり方は、もはや破綻がきているといえるだろう」

 『団地調べ』はそう前書きしたうえで、国立市の現状と問題点についてう5つの観点から述べる。①団地建設の市財政への影響、②団地が今後必要とする行政量、③団地と他地域との行政水準の相違、④他市団地との比較、⑤団地建設という都市建設のあり方について。わたしもこの前書きには異論はない。
 ただし、③のなかで、いきなりこう書き出しているのには驚いた。自分ではないと避けているだけに、かえって執筆者の心情が透けて見える。

 「一番後から国立市にやって来た団地人が、水洗トイレのある、市立保育園もある一番恵まれた生活をしている。古くから住んで、国立市に貢献してきた市民が不便をしのんでいるのは、納得がいかないという意見がある」

 ここで『団地調べ』の全容を万遍なく紹介するつもりはない。ただ、くじに当たってこの団地に入居してきた住民になんの咎もない行政上の状況にかんして、市当局があえて団地外の地域の市民との間に対立感情をひきだすような立論は、団地住民として許せない。ましてこの観点がその後の市政にもち込まれていたとしたら由々しい問題である。わたし自身、自治会活動その他いろいろな場面で、一部市民のあいだに団地住民にたいし偏見、差別に類する感情が根づよくあることは知らされてきた。団地ができた当初、団地外の人たちにこうした感情、誤解が生じることはあり得ようが、後年『団地調べ』に接して、市当局の発信によるところも大きいことを知った。
 団地の内と外との地域格差は、とくに福祉・公園施設に顕著であるという。市立保育園は富士見台と矢川の両団地に2園だけ、児童館も福祉会館内と矢川北団地内の2か所、いずれも富士見台地域である。都市公園は市内9か所のうち7か所が富士見台地域、野球やテニスなどのスポーツを楽しむ運動場も、富士見台の谷保第3公園と多摩川河川敷にあるのみ、と。この公園について「国立市が造ったというよりは、日本住宅公団区画整理法により、公団と地主が減歩によって土地を提供してできあがった」とのべ、あえて「見て楽しむ美しい、鑑賞と散策にたえる公園にはほど遠い」という。この項の、「かも知れない」を付したつぎの結びにも、執筆者の心情、市の本音が出ている。

 「団地の建設があったからこそ、団地および団地周辺地域の福祉、公園設備はできたのかも知れない。日本住宅公団、東京都からは、土地提供、債務負担、振興交付金等かなりの額にのぼる団地関連施設整備への補助がある。しかし、あるいはそれとは全く反対に、団地ができたたために、その関連施設整備のために市の財源を奪われ、団地以外の地域でのこれらの施設の建設が遅れているのかも知れない。いずれにしても、団地およびその周辺の市民は、国立のなかでは比較的恵まれた生活環境にあるといえる」

 団地建設が人口の爆発的増加によって、地方自治体が予想外に過大な財政負担を強いられたのは国立市にかぎらず、全国共通の問題であった。政府と日本住宅公団が必要な財源保証をせず、高度経済成長にともなう都市化、住宅施策を自治体の犠牲において進めてきたことは、そのとおりである。早々に各自治体が「団地お断わり」を表明したのは当然であろう。
 公団は、「建設月報」1970年5月号の「関連公共施設整備の費用負担について」のなかで、団地建設によって急激に膨張する市町村の財政需要も、長期的にみれば、人口増加にともなう地方税収入、その他の一般財源によって対処できるはず、としている。団地にかかる費用は、10~15年後には団地からの収入で十分補えるというのだろう。ところが、国立富士見台団地の収支決算は、入居時は3,016万円の出超、その後も好転の兆しはみえず、むしろ出超は増え、1965~70年の累計で2億6,758万円の差引き赤字だと『団地調べ』は嘆く。
 市財政を逼迫させた要因については、国立市の文教都市としての特性、市財政の弱さ、地方財政制度の矛盾、とくに公立学校用地取得に国の補助がまったくないなどの超過負担の問題をあげている。しかし、行政サービスにたいする市民の要求、不満を、市民内部あるいは地域間にある差異、団地にかかわる「出超」に目を向けさせ、問題を少しでもすりかえようとしたのであればお門違い、誤りもはなはだしい。

『検証 公団居住60年』 東進堂



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私の中の一期一会 №163 [雑木林の四季]

        今、一番観たい映画は「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」で
  ~報道機関には、「政府のウソを突き止めて国民に真実を提供する役目がある」~

                      アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 スティーブン・スピルバーグが監督した映画「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」が面白そうだ。
 だいぶ前に映画館で予告編を見た時から、「これは絶対観るぞ!」と心に決めて一般公開を心待ちしていた。
30日に映画は公開されたが、この原稿を書いてからでないと落ち着かないので、4月早々に観ようと思っている。1971年頃のアメリカを舞台にした実話の映画化である。
 監督がスピルバーグというのにまず惹かれたが、トム・ハンクス、メリル・ストリープという二人のオスカー俳優が主演というのもいい、楽しみだ。
 「ペンタゴン・ペーパーズ」とは“泥沼と化したベトナム戦争(1960年~1975年)を分析して記録したアメリカ国防省(ペンタゴン)による報告書で、最高機密文書に指定されてきたものだが、2011年6月13日に機密指定が解除されている。
 7000枚に及ぶ膨大な量の報告書だそうだが、当時のアメリカ政府はその存在すらひた隠しにしてきた。
何故秘密にしなければならなかったのか? 国民に知られたくなかった衝撃の事実とは一体何か?・・
 強大な組織ペンタゴンにも内部告発者がいて、報告書の執筆者の一人が“全文をコピーして”ニューヨーク・タイムズのエース記者ニール・シーハンに手渡したことから、ベトナム戦争の政府秘密文書は暴露されることになった。アメリカ政界を揺さぶった実際の事件である。
 映画をまだ見てないので、新聞などに紹介されている“あらすじ”を読んでみることにした。
 機密文書が流出してニューヨーク・タイムズがその内容の一部をスクープした。ライバルに先を越されたワシントン・ポストの女性発行人キャサリン・グラハムと編集主幹ベン ブラッドリーは、残りの文書を独自で手に入れ、全貌を公開しようと奔走する。 
 彼女らは真実を伝えたいという気持ちを駆り立てるのだが、時のニクソン政権があらゆる手段で記事を差し止めようと圧力をかけてくるのは明らかだった。政府を敵に回して、本当に記事に出来るのだろうか・・
 スクープしたニューヨーク・タイムズではなく、ライバルのワシントン・ポスト紙に焦点を当てて描いた映画である。
  財務省の公文書改ざん問題では、佐川尋問でかえって疑惑を深めた国民が多いのではないか。
 官僚に責任を押しつけて“逃げ切ろうとする官邸”の浅ましさ。
 血迷ったとしか思えない“新聞批判の失言”で、危機意識の欠如を露呈した麻生財務相。
 沈みゆく船には碌な乗組員がいないとつくづく思う。
 こうしたタイミングで、「ペンタゴン・ペーパーズ」が一般公開されるなんて、何とも皮肉な感じがする。
 映画好きの藤原帰一東大教授もあの時代、アメリカ政府は戦争の実態(真実)を国民に伝えていなかったのは知っている。ニクソン政権は実態を隠して戦争を続け、泥沼状態になっても“うまくいっている”とウソの発表を重ねていったのだ。
 PKOの日報で「戦闘」を「衝突」と言い換え、文書は残っていないと防衛省に虚偽の答弁をさせて実態を隠蔽した女の防衛相がいた記憶が蘇ってくる。
 この映画が2017年につくられた背景には、トランプ大統領の登場があると藤原教授はみている。
 大統領が“フェイクニュースだ”などと高飛車に悪口雑言をマスメディアに浴びせながら、歴然としたウソを並びたてている。
 そんなトランプ大統領を前にして、マスメディアは政府のウソを暴くことが出来るのだろうか・・・
 事あるごとに執拗に朝日新聞を“誤報メディア呼ばわり”して叩いてきた安倍首相が、その朝日新聞に反撃を食らって、今追い詰められている。
 トランプ大統領のアメリカばかりでなく、日本でもニュースの信頼性が薄れる世の中になった。
 「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」という映画は、「報道機関には、政府のウソを突き止め、本当の事、“真実”を国民に伝える役目があるのだ」というジャーナリズムの原点を思い出させてくれる映画のようである。現代の日本に通じる大事な課題と言えるだろう。
 ロバート・レッドフォードとダスティン・ホフマンが主演した「大統領の陰謀」はウォーターゲート事件の真相を暴き、ニクソン大統領を辞任に追い込んだ二人のジャーナリストの回想録を映画化したものであった。新米記者が先輩と組んで事件の調査にあたり、真相に迫っていくストーリーである。
 私は友人が貸してくれたDVDでこの映画を見たが、二人の記者が打つタイプライターの音が響く中で、“ニクソン辞任”のニュースがテレビから流れるラストシーンを忘れることが出来ない。
ウォータゲート事件は“ディープ・スロート”という謎の情報提供者から助言を得て調査が進んでいく。
 「誤報」という失敗もあった二人の部下に、「家に帰って15分休んだら仕事に戻れ」とミスを攻めなかったワシントン・ポストの名編集主幹ベン・ブラッドリーが、今もなお健在だと聞いて嬉しい気がしたのは何故だろう。現在83歳というから私と同年代なのも奇遇に思った。
 ベン・ブラッドリーは森友問題をどう見るだろうか?批判するメディアを敵視する政権をどう思うかも聞いてみたいものだ。
  アメリカ史上最大の政治スキャンダルと言われた「ウォーターゲート事件」は、相手が大統領といえども権力には屈しないという内部告発者がいたから、悪質な大統領を辞任に追い込むことが出来たのだ。ワシントン・ポストは、「国民に真実を提供する役目」を立派に果たしたと言えるだろう。
 財務省が行った決裁文書の改ざんは、国家の歴史を改ざんしたに等しい許し難い大罪だと言っても過言ではない。
日刊ゲンダイなどは、文書改ざんの事実だけで“内閣総辞職が当たり前”だと書いている。
 国会審議の場に政府に都合のよい偽造公文書を提出してきたのだ、与野党を問わず国民の代表を政府は欺いたに等しいのである。
 国民が今一番知りたいことは、「何故、役所にとって神聖な筈の決裁文書を改ざんしたのか?」という1点に尽きる。
 愛知大学の樫村愛子教授が、毎日新聞の夕刊「特集ワイド」で、英フィナンシャル・タイムズ紙のロビン・ハーディング東京支社長が「政治家がウソをつくというのは世界共通の『常識』だが、官僚が自主的にウソをついたとなると理解されにくい」と述べたことを紹介している。
 欧米先進国やアジア諸国と比べても、日本が文書管理への関心が低く、文書の重要性が十分認識されていない」と批判したとも書いている。要するに、国としてのレベルが低いとみられているということだろう。
 福田康夫元首相は、公文書の保存と管理の法制化を進めた人で、昨年9月に朝日新聞のWEB版のインタビューに「事実の集積が国家だ」と答えている。
 公文書は不当な政治の介入を排除し、役人を守るものだと話し、政権の不当な要求があっても「それは出来ない。記録に残りますよ」と言えばよいのだと語っている。
 27日に行われた佐川宣寿前理財局長への証人喚問は、見ているこちらが恥ずかしいくらいヒドイものだった。
 尋問では「誰が、どういう経緯で、どのように指示して改ざんが行われたのか」を全く答えておらず、真実は何も明らかにならなかった。
 与党の尋問が出来レースになることは予想されたこととはいえ、丸川珠代議員のヒドさは論外であった。
 「理財局に対して安倍総理からの指示はありませんでしたね?」
 「ございませんでした」
 「安倍総理夫人からの支持もありませんでしたね?」
 「ございませんでした」・・・と、すべて尋問というより確認に終始した。
 最後に「総理夫人、官邸の関与はなかったという証言が得られました。ありがとうございました」と言って締めくくったのには呆れてしまった。
 この日のSNSには「茶番だ」、「国民は納得しない」、「最低だ」など批判が殺到したのも無理はない。
元官僚で作家の佐藤優氏が「悪の正体」という面白い文を書いている、以下はそのほんの一部である。
 『ストーブに火をつけたい時「スト-ブに火をつけてくれ」とは言わない。「寒いね」というだけで信奉者は“ストーブに火をつけなくちゃ”と忖度する。
 命令も要請もせずに人を自在に動かす。権力における自らの優位性を手放さない。そんな人物には気を付けた方がいい。これこそ典型的な悪の技法にほかならない』
 文書の改ざんを指示しないのに、財務省が勝手に“書き換えなくちゃ”と忖度したとしたら。
 “悪の技法に他ならない”と言ってもいいだろう。


【お詫びと訂正】
「ワシントン・ポストのの編集主幹ベン・ブラッドリーが83歳でまだ健在」というのはとんでもない間違いでした。
ブラッドリー氏は2014年に93歳で亡くなっていました。
参考にした資料は2005年のもので、当時83歳だったのを同年代でまだ健在だと勘違いしました。
報道の自由についてどう思うか訊いてみたかったのは変わりません。
間違えたことをお詫びします。     藤田和弘


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浜田山通信 №214 [雑木林の四季]

ひとりカヤの外

              ジャーナリスト  野村勝美

 老人性うつというのか、90歳の声をきくようになると楽しいこととかおもしろいことが何もなくなる。これはいかんとお花見に一人ででかけても、どの桜も昔の勢いはない。君たちも老いたなあと感じるばかりでちっとも嬉しくない。話相手もないのでついつい一日中TVを見ていることになる。佐川某が一生懸命に安倍さんは森友学園の土地払い下げに関係ありません、財務省の公文書改ざんにも無関係ですと、国会の証人喚問で答えたが、ばかばかしくて見ておれなかった。そこへ飛び込んできたのが、北の独裁者の中国訪問のニュース。これには驚いた。私は正直いって、ピョンチャン冬季五輪以来の南北融和、首脳会談、米朝首脳会談は、中国が北に冷たいので、体制さえ認めてくれるならば、核もやめ米韓と組むつもりかと思っていた。ところがどっこい、そんな妄想をあざけるように父親も乗って行った緑色の列車で北京を訪問、第一級の歓待をうけた。ニュース画面で見る限り、至れり尽くせりである。
 北が中国の面子をつぶすようなことをいろいろやってきて、たとえば身内の親中派の張成沢を死刑にしたり、異母兄で中国の庇護のもとにあった金正男を暗殺したり、核実験やミサイル発射をくりかえしたりして経済制裁を強化されたはずである。そんな中国に対して会ってくださいと頼むなんて誰も思ってもみなかったのではないか。わが安倍首相も国会の証人喚問を乗り切ってホッとしたであろうところへの衝撃的ニュースに、私もいま報道で知ったばかりでと困惑の体。アメリカも韓国も前もって中国から知らされていたというから日本だけがカヤの外だった。
 もっとも日米同盟なんていっても、アメリカにしてみれば日本は属国にすぎず、古ぼけた兵器を買ってくれるだけでよい。韓国にしても慰安婦や竹島問題、かっての植民地時代の恨みはいまだにあるのに、日本には反韓感情が根強く残っている。なにも米中韓朝のことをいちいち伝えることはないということだろう。
 まあ政治向きのことはどうなったところでどうでもい。孫やヒ孫のことを思うと、もう少し楽な暮らしができるようになってほしいとは思うが、経済や国際情勢、環境、人口問題など考えると果たして20年後に人間は存在しつづけているか。早い話が福島の汚染廃土や原発の廃炉そのものをどうやってやるのか。技術も金もない。ただ先延ばしにしているだけなのに再稼働原発はすでに7基に及ぶ。
 深刻なことは考えないでおこう。スポーツ関係が多少のごたごたはあってもよい。やっぱり貴の花親方の処分問題や女子レスリングのパワハラ問題の方が視聴率がとれるのだろうか、TVのワイドショウも様子が変わってきた。日本という国はなんともおめでたい国だ。こんなに気楽でありがたい国なのに総理大臣は憲法を改正して戦争のできる国にするという。いっそのこと北にならって核武装すれば、北朝鮮も中国、ロシア、アメリカも日本の言うことをきいてくれるかもしれない。

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徒然なるままに №32 [雑木林の四季]

“英語”事始め

            エッセイスト  横山貞利

        Row ,row,row your boat             ボート漕げ、漕げ
        Gently down the stream      優しく流れに沿って
        Merrily,merrily,merrily,merrily   楽しいナ、楽しいナ・・・
   Life is but a dream        人生は夢に如かず
 わたしが最初に覚えた英語の歌である。

1950年(昭和25)4月新制中学に入学した。“新制中学”と書いたのは、1947年(昭和22)4月から導入された現行の学校制度であるからだ。わたしが入学した中学校には市内の2つの小学校から約400人の生徒が入学して8つのクラスに分けられたが、その当時には校舎がなく1年生は小学校の教室を借りていた。そして、2,3年生は道路を挟んだ女子職業学校の教室に間借りしたのであった。兎に角ぶっつけ本番の新学制だから校舎のやりくりだけでも滅茶苦茶だった。3年後に入学した高校でも旧制中学との関係で混乱があったそうだ。

 中学の教科は国語、数学、社会(人文地理と日本史の基礎)、理科(化学、物理、生物の基礎)、図工、音楽そして「英語」であった。
 これらの教科のうち小学校の教科になかったのは「英語」だけで、英語の授業は週3回だったと想う。
 さて、わたしたちが使用した英語の教科書は
   「JACK and BETTY」 (開隆堂出版発行) 
  であった。
  そして表紙をめくると、
(左page)              (右page)
   LESSОN  1(Оne)
            
  I AM JACK               
   JACK                BETTY
 I am a bоy          I am a girl
 I am Jack          I  am Betty
  I am Jack Jоnes         I  am Betty Smith
  
英語を教えてくださったのは、田村先生であった。田村先生は女性で身長150㎝くらいだったであろうか。しかし、美しい顔立ちで穏やかな澄んだ声で親切に教えてくださった。わたしはすっかり魅了されてしまって、最初の授業の時には先生の顔を眺めていて、先生が読まれる「I am a bоy・・・」など上の空で、すっかり田村先生のファンになってしまった。勿論、冒頭に紹介した歌を教えてくださったのも田村先生である。いまでも節をつけて歌うことができる。
 わたしたちが2年生に進級したときには、何故か田村先生はおられなかったと記憶している。多分あのころは教室同様すべてが臨時体制で教師も代用教師が少なくなかった。2年から3年の英語の授業は男性教師だったから、わたしたちが2年に進んだとき田村先生は辞められた後だったのかもしれない。その後の田村先生の動向は判らない。ただ、残念なことは田村先生の「名」を覚えていないことである。
 夏休みに入る前に、有島武郎の「一房の葡萄」を読んだ。そこに登場する女性教師のイメージが何故か田村先生とオーヴァ―ラップして仕方なかったのを覚えている。多分、教室の窓から一房のブドウを採ってくれる先生はきっと田村先生のような方ではなかったか、と想像したのをいまも想い出す。
 あれから60数年の歳月が経ったけれど、未だに「英語」の授業のことを想い出すと田村先生そして「一房の葡萄」の女性教師とが蘇ってくる。 

 いまこの文を書けるのは
      REVISED
   JACK and BETTY
       復刻版
上記のタイトルで、1992年(平成4)開隆堂出版から復刻版(1年生~3年生までの教科書と解説の4冊で箱入りである)が出版され、それが手元にあるからである。 

尚、1992年8月17日、
  TVドラマ「ジャック・アンド・ベティ物語」が放送されている。
  制作・演出 堀川とんこう(敦厚)
  脚本    今野 勉
       の二人の先輩が制作した。
        ただ、残念なのはこのドラマを観そこなったことである。


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BS-TBS番組情報 №159 [雑木林の四季]

BS-TBS 2018年4月のおすすめ番組

                                                      BS-TBS広報宣伝部

高島礼子が家宝捜索!蔵の中には何がある?

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4月6日スタート

毎週(金)よる10:00~10:54

☆高島礼子が 日本全国 の「蔵」をたずね、「家宝」を拝見!

出演:高島礼子

女優・高島礼子が日本全国の「蔵」をたずね、そのお宅の「家宝」を拝見!
時には「開かずの蔵」の鍵を開けて頂き、お宝を大捜索!
さて何が出てくるのか…!?

BS-TBSでは、この春注目の新番組として、4月6日(金)よる10時から、「高島礼子が家宝捜索!蔵の中には何がある?」をスタートします。
「蔵」。それはその地に暮らす人々、その土地の歴史を長きに渡り見守ってきたもの。いわば時代の生き証人。そんな蔵の中には、町の歴史や先祖の想いなど、持ち主も気づいていない“ニッポンの記憶遺産”ともいうべきお宝が詰まっている。そして、日本の古い蔵や家には、光の当たる日を待つお宝がまだまだたくさん眠っているのだ。そこで!この番組では、女優・高島礼子が「蔵」をたずね、そのお宅の「家宝」を拝見!時には「開かずの蔵」の鍵を開けて頂き、お宝を大捜索!
「蔵」は日本人のロマンが詰まった“タイムカプセル”。家宝のほかにも、蔵の中には、その街の歴史や、家族の大切な物語がしまわれていました。驚きと発見、そして感動の旅に、高島礼子さんと一緒に出かけましょう。

日本の旬を行く!路線バスの旅 2時間スペシャル
 「浅田舞・真央がめぐる 新潟縦断200キロ!」

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2018年4月3日(火)よる7:00~8:54

☆浅田舞&浅田真央 姉妹で初めての路線バス旅!

毎週火曜よる8:00から放送中の「日本の旬を行く!路線バスの旅」。4月3日(火)はよる7:00から放送、2時間に拡大してのスペシャル版!
旅人は、番組2度目の登場、浅田舞さん。春間近の新潟県を、南から北へ200キロ大縦断!そして、舞さんの妹・浅田真央さんも登場!浅田舞・真央姉妹、二人では初めての路線バスの旅。「子どもの時以来」という路線バスに大はしゃぎ!二人旅を満喫します。
越後湯沢駅を出発した二人は、路線バスに乗り、南魚沼市・大沢山温泉へ。真っ白に雪化粧した標高2000m級の山々を望む絶景露天風呂に感動!宿泊するのは、里山をテーマにした話題の名宿「里山十帖」。「こんな場所で自給自足の生活をしたい」と将来の夢を語る真央さん。雪を利用した天然の冷蔵庫「雪室」を見学し、野菜の熟成方法などを学びます。さらに二人は、“かんじき”を履いて雪山へ。氷上の妖精たちも、雪上を歩くのには大苦戦!ようやくたどりついた「カエデ」の木から、メープルシロップの原料となる樹液を飲む貴重な体験もしました。新潟の旬の食材を使った夕食を楽しんだ後は、宿に併設の「かまくらバー」へ。ロウソクの火が灯る幻想的な空間で、二人が語り合ったのは…、スケートをやめた理由、仲が悪かった時のこと、今の互いへの思い、そして将来のこと。そして、二人が見せた涙…そのわけとは!?
翌日は小千谷市、新潟市に立ち寄り、最終日は村上市へ。新潟の旬を探しながら、旅します。

にっぽん演歌の夢祭り2018

159にっぽん演歌の夢祭り.jpg

2018年4月14日(土)よる6:30~8:54

☆思い出のそばに歌がある。想像を超えた演歌歌手たちによる迫力のステージ!

出演:五木ひろし、石川さゆり、鳥羽一郎、藤あや子、福田こうへい、市川由紀乃、三山ひろし、丘みどり、杜このみ、西田あい、川上大輔、純烈 ほか
司会:コロッケ

2002年にスタートした日本最大の演歌イベント「にっぽん演歌の夢祭り」。日本の演歌の今が詰まったスペシャルステージの模様を放送!豪華アーティストが集結し、歌で織りなす豪華ステージは圧巻!光と音の演出を駆使した壮大なスケールで、これまで16年間全国公演を続けて約100万人を動員してきた。
出演アーティストは、五木ひろし、石川さゆり、鳥羽一郎など演歌界を支える大御所たちから、今人気上昇中の若手演歌歌手まで幅広く網羅。さらに、司会にコロッケを迎え、巧みなトークで笑いと感動をお届けする。
<予定曲>♪恋歌酒場(五木ひろし)、♪天城越え(石川さゆり)、♪兄弟船(鳥羽一郎)、♪雪深々(藤あや子)、♪南部蝉しぐれ(福田こうへい)、♪命咲かせて(市川由紀乃)、♪お岩木山(三山ひろし) ほか




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ロワール紀行 №74 [雑木林の四季]

非情の城、アンジェ 3

          スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎

 シャトオ建築の様式は、ルゥイ十二位の時代に、住居用の護と戦闘用の城郭と、明確に区別する傾向が現れたといわれる。
 シャルル・ドルレアソがプロワ城の中に、小さな館を作ったのも、この頃である。
 久しく続いた百年戦争後の小康は、堅苦しい城郭の生活に飽きた王侯の心に、悦楽のための蒲洒なシャトオを競わせた。
 その頃、この流行の囁矢を示したのが、アンジュウ公ルネ王である。
 彼は、いままでの厳めしい城砦や城郭を捨て、そのそばに城館だけを建てた。
 アンジェ城の門に近くシャンゼとルキュレの館。ボン・ド・セ城の付近にラ・オート・フォリとリグェットの邸宅。ソォミュール城の傍らにロォネェの館。ボォフォール城のそばに、ラ・ムニトレの邸宅を造営した。これらの邸宅や館はすべて平野に位置し、その規模は大きくないが、いずれも武備はなく、付属の農園や果樹園をもっていた。
 このように武備を伴わない、領主の悦楽や住居としての、シャトオを最初に試み、ロワール河岸に流行せしめたのが、ルネ王である。
 このランジェの城は、住居や悦楽の城館とは異なる。
 今日に残る、戦闘用城郭の典型的なものであろう。中世フランスの築城法を知る上においても、まことに興味深いものがある。
 城の内外の構造を見ると、小さな通路、跳ね橋の架け方、窓のとり方など、細部のどの一つにも、周到な配慮の跡が窺われる。
 その時代の人間が、衆智を集めて考えた防禦の智慧が、今日われわれが、さりげなく歩き眺める城の、あらゆる部分に名残りをとどめている。
 城門から中庭に通ずる路も、馬が辛うじて通れる高さと幅を残して、できるだけ狭く、勾配も中庭に向って、急傾斜になっている。
 この昇り勾配一つでも、乱戦の場合、攻めるに苦しく、守るに有利な設計であろう。
 城主の居館の一階にある「騎士溜の問」から、円塔の頂上に出る石の螺旋階段は、急襲に備えて、一秒も早く配置につけるように配慮されている。
 重い甲胃(かっちゅう)で武装した騎士が、乗馬のまま大した困難もなく、駈け上れるように、その階段は緩く、広く、勾配も無きにひとしく、馬蹄の妨げにならぬように工夫されている。
 城壁はきわめて高く、城の最頂部を延長百三十米に及ぶ投石狭間が城全体を巡っている。火急の場合、そこに多くの守備兵を、瞬時に配置できるように考慮されている。
 さらに、その投石狭間(はざま)の廻廊の上に、円塔の最上階が設けられており、投石狭間まで敵兵に侵されても、さらにその上部に籠って、攻撃できるようにレイ・アウトされている。
 人一人ようやく通れる幅しかない、その長い投石狭間を、ガイドに従って歩く。
 足下の厚板は、すべて取りはずしが出来るようになっており、死角の全然ない投石狭間の、その垂直の視界からは、城壁に攀(よじ)る敵兵の頭上に、石や熱湯を浴せて防ぐことが出来たのが、よくわかる。
 南翼の壁や、広場に画した円塔のあらゆる部分に銃眼があり、そこから覗くと、外部から見たのと異なり、視野広大で、城に近づく敵兵を狙撃するには全く効果的であったろうと思われる。
 このようなランジェの設計は、これと前後して再建されたこの近くのユッセの城に多くの影響を与えたという。
 南翼の主館の最上階に、シャルル八世とアンヌ・ドゥ・ブゥルタァニュが、一四九一年に結婚式を挙げた大広間がある。
 大きな暖炉の前に積まれた、一抱えもある太い薪。ゴシックの大きな椅子。燻んだ壁掛。それらの家具が、なんともいえぬ古雅な、ゴシック風の室内装飾ともに心に残る。
 すべての家具調度は、大きなイムぺリアル・フォリオ版の羊皮本に書かれた神婚歌の楽譜や聖書まで、当時のままに飾られている。
 その日、その時、二人が誓いの言葉を読んだその頁が、開かれたまま保存されている机の上に、ヤルル八世とアンヌ王妃の、小さなポートレェも相対して置かれていた。
 その二人の王と王妃の肖像を眺あながら、私は四六六年前の、その日の、この城の華麗な姿を回想してみた。
 この結婚によって、強大なブゥルタァニュ公とその広大な領地は、やがてフランス王国に属することになった。
 ルウイ十一世が、ブゥルゴォニュ公国とともに、とくに恐れた英国とブウルタアニュ公国に備えて築いたこの城で、その不安の一つを解消する婚姻が結ばれたのも運命の不思議 であろうか。
多くの人々の血を流さずに目的を達することのできる政略結婚というものは、時に臨み、王侯の為すべき義務でもあったろう。
 一人や二人の王子や王女の好嫌の感情は、多くの無辜(むこ)の人民や兵士の生命の犠牲のことを考えれば、統治者として我慢せねばならぬ、封建の宿命の一つであったと思う。
 戦わずして、目的を達するという巧拙の度合より、中世ヒュウマニズムに通ずる一つの掟でもあろう。
 その意味で、現代の人々が感傷的に嫌悪する中世の政略結婚も、必要悪の一つとして、いちがいに非難すべきではないと思う。
                                     〆-


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バルタンの呟き №31 [雑木林の四季]

「サイタサイタサクラガサイタ」

                 映画監督  飯島敏宏

サクラ、さくら、桜・・・テレビも新聞も、そして、日本中が、一斉にサクラだよりです。
強固な同盟国安倍ニッポンを例外とせずにトランプ・アメリカが世界を相手に貿易戦争を布告、金正恩・北朝鮮が中国へ融和の汽車を走らせ、文在寅・韓国も平昌オリンピック以来、圧力圧力とばかり唱えて無策な日本抜きで半島統一路線を推し進めようと急速に変化を遂げ始めた情勢にも拘らず、人気急降下の宰相の愚行が生んだ国会の空転と核心人物尋問の空振りと、無様な隠ぺいに躍起な内憂に明け暮れている政権を尻目に、なにもかもさておいて、なんだか日本中が「サイタサイタサクラガサイタ」で、お花見気分に浮かれ切っているという、このところの、妙なあり様です。
際立った気温、気象の乱調でほぼ日本中を苦しめ通したさしもの冬将軍も、彼岸の中日に各地に大雪を降らせるという置き土産を残して、ようやく日本列島から、遠ざかって行きました。
いよいよ春本番の4月、出発の時、入学、入社の月になりました。入園入学式にはつきものの桜ですが、今年の東京は満開を過ぎて、花吹雪に彩られた入学記念写真になりそうな、やや早めの桜前線の動きです。いまや、少子高齢化超先進国となった日本では、国宝並みに貴重な存在であるピカピカの新一年生の将来に幸あれ、と祈るばかりです。

さて、昭和7年生まれで、昭和13年4月に尋常小学校に入学した僕たちが出会った文部省制定の国語読本は、「サイタ。サイタ。サクラガ、サイタ。」で始まるものでした。東京は本郷の下町気質の町春木町(現・本郷3丁目)に、注文洋服店の三男坊という生を受けた僕は、近所の大勢兄弟のいるガキ仲間と同じように、普段着は兄たちからのお下がり、お古(ふる)古でしたが、一年坊主の入学式の晴れの服は、父親が奮発して、注文服さながらに採寸仮縫いまでして作ってくれた慶応型の服でした。慶応型の服とチョン緒(チョ)緒輪(リン)輪の房のさがった帽子を被ると、湯島天神の氏子の下町っ子が、山の手のいいとこのお坊ちゃんにでもなったような気がしたものです。母親が買い与えてくれる本も、幼稚園児むけの「キンダ―ブック」から、「小学一年生」に変って、「ドテノ土(ツチ)土ソットアゲテ、ツクシノボウヤガメヲダシタ。ツクシダレノコスギナノコ・・・」サトウハチロー?といった類の読み物になりました。
ただし、当時の人気喜劇俳優古川ロッパに似た太っちょの担任の先生とは、折り合いでも悪かったのか、入学早々からよく叱られて、ある時など、何をやった罰だったかは忘れましたが、水の入った重いバケツを両手に持たされて廊下に立たされたのを、揃って優等生だった兄たちに目撃されて、家に帰ると、「やあ、劣等生、劣等生!」とからかわれて、「なにおっ!」と、むしゃぶりついて投げ飛ばされ、「獰猛(どうもう)獰猛!」と綽名されてからかわれたものです。一学期を終えて、初めてもらった通信簿も、学業成績は悪くありませんでしたが、操行は乙、身体検査は栄養不良という、やんちゃで痩せっぽちの一年坊主でした。

当時の世間は、関東大震災からの立ち直りに、大不況の洗礼を受け、首相が暗殺されたり、満州事変、支那事変と、キナ臭くなってはいたものの、僕たちガキの世界には、まだまだ自由が残されていて、町の中にいた白系ロシア人、ドイツ人、朝鮮人(当時は半島人と呼んだ)の子供も一緒になって、路地裏を駆け回ったり、取りつ取られつのベーゴマ遊びなどに夢中で、日が暮れかかって、「ごはんだよ!」と、厳しかったお婆さんが襟首を捕まえにくるまで遊んでいたものです。
やがて、「ススメ、ススメ、ヘイタイ、ススメ」の世の中同様、学校生活にも、次第次第に富国強兵政策が浸透して来て、昭和16年春4年生の新学期には、尋常小学校が国民学校と改められて、「〓国民学校イチネンセーイ!」の斉唱の歌声とともに、定期購読していた「小学生新聞」が「少国民新聞」となり、時間割表では、体操の時間が体育と称されて、準備運動として行われていたNHKラジオ体操が、軍事教練的な錬成体操に変り、通信簿が甲乙平丁から優良可標記にかわり、全校が集う朝礼や祭日式典では、集合の際に、速やかに隊列を整えて番号を唱える軍隊式点呼が行われ、宮城遥拝、教育勅語朗読、君が代斉唱、校長訓示のあと、隊列を組んで、軍隊式の号令のもとに脚を高く振り上げ歩調を取り、指揮台上に立つ校長先生に「頭ァ中ッ」の号令で敬礼する分列行進で一日が始まるようになっていきました。
やがて、あの昭和16年12月8日、「今未明、西太平洋上に於いて、戦争状態に入れり!」の運命の日を迎えて、日本中が緒戦の戦勝の報に沸き立つ頃には、僕ら少国民は、戦闘帽を被り尻手拭いを下げ、ズボンのバンドに短剣よろしく捕縄を吊って、ゲートルの巻き方までマスターして、まるで少年戦士のような訓練に明け暮れて、翌春5年男組になる頃には、投擲(手投げ爆弾)の動作や、手旗信号(両手の小旗を使った通信法)、木杖を使った銃剣術(銃先に装着した短剣で、敵兵を突き刺す訓練)まで、全学の範として鍛えられて、以前は、リュックサックの中の、お結びとゆで卵、栗や、キャラメルのお弁当が楽しみだった遠足が、飲まず食わず列を組んで長距離を歩く行軍となり、プールでは、両手で銃を水面に捧げもつ態勢での立ち泳ぎ、グランドでは、銃代わりの杖を構え、膝と肘で地を掻いて這い進む匍匐前進などなど、特に、軍隊帰りの担任に当たった僕ら男組は、体育授業以外の校外活動の際にも、二隊に分かれて、市街戦まがいの交戦訓練をしたりして、ことばのやりとりは「俺」「僕」は禁句、「自分」、「貴様」の軍隊用語、「とうちゃん」「かあちゃん」は勿論ご法度、読本通りの「お母さん」「お父さん」でもなく、「父が」「母が」「兄が」と改められ、兄貴たちには、「ははは、しゃらくせえなァ、お前!」と笑われながらも、母親からお使いを言いつけられて、「氷一貫目と、牛コマ300匁、以上買って参ります!」と復唱をするような少国民になっていったのです。

現在、80歳台半ばの人たちが、それに当たるのですが、戦後70年以上を経た今日では、少国民という言葉は、死語と言ってよいほど、ほとんど完全に忘れ去られてしまいました。いま、シニアと称される層の厚い後期高齢世代でも、戦後民主主義で育った団塊の世代以降の人たちには、少国民とは何を意味する言葉なのか、全くわからなくなったかもしれません。敢えて定義をすれば、少国民とは、80年以上前に始まった日中戦争(当時日支事変)からエスカレートして大東亜戦争(太平洋戦争、第二次世界大戦)となり、漸く70年前に敗戦(無条件降伏)という惨めな結果で終ったあの戦争のために、時の政府と文部省管轄下の幼少年教育の現場だけではなく、あらゆる新聞、雑誌、放送(NHKのみ)などが、足並みをそろえた大政翼賛一色になり、挙国一致して子供達たち全てを少年兵に仕立て上げようとして作った造語とでも言うべきものなのです。
戦時下の子供たちを描いた物語には、すでに「火垂るの墓」「はだしのゲン」その他多くの名作がありますが、戦争を経験した最後の少国民世代である私たちには、あの戦争の愚かさを後世の日本のために伝え続ける義務があると思うのです。
日本が、中国ばかりでなく、アメリカ、イギリス、オランダなどを敵にまわして戦争をした事実は、今ではまるで無謀だった事が解っていますが、しかし、当時の僕ら少国民には、徹底して神国日本の強さが刷り込まれていましたから、日本の必勝を信じ切っていたのです。僕自身も、徹底して米英を鬼畜と教えられて、乾布摩擦での「一、二、三、四!」の掛け声も、「米、英、撃、滅!」と叫んでいました。
東京の中心部ほとんどが、たび重なる空襲で焦土と化し、いよいよ本土決戦という決心を強いられた時には、もし上陸した鬼畜米英兵と遭遇したら、一億一心火の玉の標語通り、栄養不足のか細い体でも、本気で銃剣を刺し通すつもりでいたのです・・・
「〓貴様と俺とは同期の桜、同じ兵学校の庭に咲く、咲いた花なら散るのは覚悟、花と散りましょ、国のため」。

とことん、少国民として教育された僕たちは、当時、本気で、そう思っていたのです。
が、あの大空襲の晩、初めて我が家が現実の戦場と化し、目の前に落ちてきた複数の焼夷弾の炎に囲まれてみると、たちまち恐怖に陥り、嫌ほど叩き込まれた、濡れ蓆を胸前に抱き、燃えさかる焼夷弾に身を挺しての初期消火など思いもよらずに逃げ伸びた卑怯者でしかありませんでした。
そのトラウマから、勇猛な少国民の仮面はたちまち剥がれて、その先の生き方を見失った僕は、敗戦後暫らくの間は、教科書に墨を塗らされて、180度転換のにわかな自由教育に馴染めずに、登校する気を喪って、毎日のように、国鉄山手線を数周して時間を費やす日々が続きました。上野公園の西郷隆盛の銅像を見るたびに、あの広場で、母親心づくしの高粱飯の弁当を広げざまに奪われかかった時の、対峙した戦災浮浪児の殺気さえ感じた眼差しを、いまだに思い出します。忘れることが出来ないのです。
終戦間もなくは、まだほとんどの人々が、焦土のままの土地に残った半地下の防空壕を利用した壕舎生活か、焼け残り材やトタン板などを集めて作ったバラック住まいでした。僕自身の家族も、三度目に焼け出された借家のお屋敷の焼け残った土蔵に暮らしていたのです。
そんなある日、下校途上の路上で、走ってきた米軍のジープに呼び止められて、敵愾心と恐怖で思わず立ち止まってしまったのですが、ジェスチュアまじりで、近くにある歓楽街への道を尋ねる赤ら顔の白人米兵と、銃を携えた黒人兵の、あっけらかんとした笑顔と馴れ親しげな呼びかけに、恐怖と緊張を解かれて、鬼畜であった筈の相手に、習いたての英語を一生懸命に並べて目的の場所を教えてしまったのです。返礼の積りだったのでしょう、走り去るジープから投げ与えられた、彼らが手をつけかけたラッション(RATION・弁当)の、大きな缶詰やチューインガムまで付いた豪華さに度肝を抜かれて、しかも、それをそこにいた友人たちと競うように拾いに走った時、はじめて情けない敗戦を自覚したのです。

近頃、失われた道徳を取り戻すためと称して、或いは、なぜかそう信じて、いわゆる道徳教育の必要性が、広く唱えられています。たしかに、戦後民主主義教育、或いは、自由主義教育に、無統制、行き過ぎ、教科優先、受験偏重とその反動のゆとり教育、などの弊害がないとは言えないかも知れません。教育の概念として、社会生活を営むための公徳心を培う教育は必要です。しかし、時の権力者による一義一律的な教育、特に、偏向した押し付けの道徳教育や教育の統制は、絶対に行われてはならないのです。そこには、限りない危険をはらんでいるからです。感受性の旺盛な幼児や少年少女に対する教育には、どこまでも周到な心配りが必要です。幼少年時の教育には、きわめて洗脳効果が高いことを、充分意識し、警戒しなければなりません。教育だけは、凶器にしてはならないのです。
ISや、過激派に連れ去られた子供達、無邪気な、頑是ない少年はおろか、未だあどけなさの残る少女たちまでが、徹底した洗脳教育によって、非情な兵士やテロリストに育て上げられている現実は、決して他人ごとではありません。戦後70年以上の歳月をかけてようやく定着した日本の自由と民主主義を喪うことが無いように、少なくとも、あの、いまわしい戦時下の少国民教育だけは、繰り返してはならない、と、ひたすら願う気持ちでこの欄を借りて、地球人の反面教師バルタン星人の口から呟いているのです。

実は、だいぶ前から、昭和一桁生まれの世代からの遺言として、昭和20年3月9日深夜、あの日、国民学校6年生だった僕たち6年男組53名のうち、僅か12年あまりでたった一度だけの生命の終わりを迎えなければならなかった一人の少国民、とんでもなくいいヤツだったクラスメイトの、実に短く終わってしまった生涯のものがたりを書こうと思っています。
「富国強兵」「挙国一致」をモットーに、政党、議会が崩壊して軍国主義が台頭した戦前、そして戦時下でも、子供たちの暮らしは、決して暗いものばかりではありませんでした。たった一人空襲で死んだ友人に降りかかった運命は、その直前まで、底抜けに明るく楽しい生活を送っていたからこその悲劇です。突然ぷっつりと断ち切られたそれは、決してアメリカ軍の空襲からではなく、国民皆兵、少国民教育が齎した死だったのです。修練を重ねた通り、避難する僕たちと手を振りあって別れた後、おそらく徹底して生真面目だった彼は初期消火のために、焔の中に、舞い戻って行ったのではないかと、未だに僕は、信じているのです。あの夜振り撒かれた焼夷弾は、着弾初期は恐るるに足らず、身を挺して消火せよ、と教え込まれた焼夷弾ではなく、B29から降り注がれたのは、ナパーム油脂を充填した火の雨とも言うべき新型焼夷弾であったことは、後々に暴かれた事実です。当然、彼には知る由もなかったのです。彼は、まさしく少国民教育に殺されたのです。
突然訪れた初夏のような暖かさに、早くも散りかかるサクラ、サクラ、サクラ・・・に重ねた思いでの呟きです。

             

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ZAEMON 時空の旅人 №32 [雑木林の四季]

      第二十七章 「巨大AI怪獣 グレンデル登場!」

                                       文筆家  千束北男

山本久美子先 先生!
僕には、察しのいい先生がこの章を読んでいらっしゃる嬉しそうな顔が、容易に想像できます。そうです。先生がとっくに推察なさっている通りのことが起こったのです。
あの奇跡の起きた運動会の時と同じように、群衆の中から、無心に、空に向かってジャンプした僕は、鳥になったように、みごとに飛翔して、巨大埴輪の木馬カムイの間近に着地しました。
すると、騎馬台上のカオリが、瞳を輝かせてまっすぐに僕を見つめ、言葉を放ちました。
「ミズシマ・ハヤト!」
カオリの透き通った声が、広場じゅうに、拡がって行きます。
「さあ、弾きなさい! 唄いなさい!」
それに続いて、
「ハヤトの詞(ことば)詞は・・全ての人々の力となり・・ハヤトの奏でる琴の音は・・鎮めの波となるのです・・さあ、いまこそ奏でるのです! いまこそ唄う時です!」
と、力強く、ためらう僕に念送してきたではありませんか。
そして、カオリの脇に侍している車椅子のZAEMONが、少しの衰えも感じさせないあの鋭い鷹の眼を見開いて、視線が僕を捉え、大きく頷いてみせたのです。
そうです。勾玉の気配は、やはり、ZAEMONの中の、僕の曽祖父、水嶋次郎左衛門の生命(せいめい)生命の遺志が送ってきていたのだと、その時、明確に知れたのです。
カオリの示唆どおり、ただちに肩の洋琴をおろして構える途上で、目の端に、ちらっとでしたが、僕に背を向けて、ピピン、パパンをうながして去ってゆくニンジャ美穂のどこか寂しげなうしろ姿が映りました。
「・・・」
「急ぎ、奏でよ!ハヤト!」
勾玉が、うながします。
僕は、ニンジャ美穂の残影を振り払い、眼を閉じ、無を念じて、琴に指を置き、浮かんでくるそのままにダルシス・メロスを奏で、詞をのせて唄い始めました。
心の底から沸いてくるものは、しかし、いま臨んでいる大群衆の進軍という場にふさわしい、勇壮な鼓舞する詩曲ではありません。
むしろ、古代日本の、相聞の詞歌(しいか)詞歌ともいうべき、静謐(せいひつ)静謐な、愛を交わすにふさわしいことばと音色だったのです。
だが、意外な事に、僕の詞が、大群衆の志気を高めているのだという風に感じられたのです。この場にそぐわないほどゆるい詞が、ともすれば過激な行動に突っ走ろうとする大群衆を、沈静した力強い行動に導いていることが実感されたのです。
クール、クール、クール ダウン・・・冷静に、しかも力強く!
閉じられていた大学の鉄の門扉が、開かれます。一歩外に出れば、認められている大学の自治の範囲からは逸脱することになります。
ザザザ!
銃を構えた警察機動隊と軍の隊列が、流れ込んできて、行進の前を阻み、さらに両側から挟んで、そして後方からも圧力をかけてきます。
警察、軍の隊列が、撃鉄を起こし直す音が、緊迫した空間に響きます。
「決して、挑発に乗ってはいけません!」
先ほどの、GF日本支部代表山本久美子先生の、凛とした声が甦ってきます。
「目標に向かって静かに進むのです」
先頭をゆく木馬風の巨大埴輪カムイに騎乗するカオリに従って、洋琴を奏で、ダルシス・メロスを吟ずる僕がいます。続く群衆全員の大合唱が、行進を推し進めてゆくエンジンです・・・
いま、平和大行進の隊列が、大学の外、銃剣の海に踏み入ろうとしているのです。
その頃、大震災後の広大な埋め立て地に建設された東京湾岸宇宙基地では、いままさに、ストリクト星人がリードする宇宙十字軍発進の火種となる、地球人類の火星侵略の箱舟、ラー号が完成し、搭乗する大宰相府管轄下の科学者、技術者の到着次第、発射台に移動するばかりに準備が整えられ、大宰相の「ゴー」の一声を待ち受けていたのです。
一方、断じてそれを阻止しなければならないという決意で集まった群衆は、続々と集まる人々を加えて、いまや膨大な数に膨らんで、ラー号のドックを見つめています。
彼らの目の前を、ラー号に搭乗する火星開発派推進派の科学者、技術者、官僚などが、物々しい警護陣に守られて、発射台の搭乗口に向かってゆくのが、見えます。
「火星侵略を許すな! ラー号を廃棄せよ!」
群衆とラー号の間には、誰が試みても近づくことが出来ないだけの武装した大軍団と戦闘ロボット群が、銃を構えて並んでいます。大宰相の大命を受けて、僅かでも群衆に不穏な動きがあれば、機密保護という大義名分で、一挙に殺戮してしまう態勢で張りついているのです。
一方、市内各所には、まるで戒厳令が敷かれたように、どんな小さな集会でも、少しでも手続き上の欠陥さえあれば、たちどころに拘束するための機動隊が、待機しています。
一刻も早く、平和大行進の圧力で、大宰相府を機能不全に追い込まなければ、ラー号は火星に向けて発進してしまい、西暦2025年の宇宙十字軍との大戦争を避けることはできなくなる状況です。
校門を出た大行進は、両側を、警察及び軍の警備陣に押し包まれながらも、歩一歩着実に大宰相府めざして前進して行きます…
たとえ一人でも列外にこぼれ出たものは容赦せずに拘束、逆らえば射撃、という警備陣と一触即発の緊迫した状況のまま、平和大行進は粛々と前進しつづけて行きます。
しかも、隊列の進みに連れて、あの街角、この横町から、まるで湧いてくるように、人びとが引きも切らずに加わって、平和大行進の隊列は、終りのない大河のように伸び続けてゆくのです。
そしていま、先頭を行く巨大木馬カムイは、威容を誇る大宰相府が間近に見上げられる地点にまで達しました。
「革命だ!」
「傀儡政権を倒そう」
「新体制の確立を!」
高揚した隊列の中で、昂ぶったつぶやきが聞こえたような気がしましたが、
「叱(し)叱ッ」
多分、山本久美子先生でしょう。冷静な声が、はやる分子を抑えて、大多数の群衆が、僕の歌を追唱します。
高ぶる心をひたすら鎮(しず)鎮めながら、僕はひたすら台上のカオリを見つめて洋琴を弾き、ダルシス・メロスを吟じ続けます。
クール、クール、クール・・・
そして大行進は粛々と、よどみなく前進し続けるのです。
参加する人々は、さらに増え続けて・・・
ああ、でも、やはり、内心で恐れていたことが起こってしまいました。
怪人、妖怪とまで恐れられている大宰相が、意外にも、この平和大行進の申請を、厳格な条件を付けながらも許可したのは、膨張し続ける民衆の不満を解消させようという意図でもなく、反骨の若者たちの慰撫(いぶ)慰撫のためでもなかったのです。
「なにィ、平和大行進だとォ?」
遙か遠くに聳えて見える大宰相府のテラスから哄笑と共に降り下ってきた、割れ鐘のような響きは、大宰相の声です。スフィンクスのような形をした像が対にならんでいるのが、スピーカー群なのでしょうか。
ややあって、豪華というよりもむしろ野卑なほど金(きん)金吉良(きら)吉良金(きん)金に飾り立てられている演壇に、大宰相が姿を現します。
姿を現した大宰相は、まるまると肥えて突き出た腹に、大きな首が載ったような形で、両側に傅(かしず)傅く女性に支えられて、ゆらゆらと立っています。
「なに、わしに、退陣せよだとォ? わしに、そう、ほざくのか!? しっぽを巻いて退散するのは、お前たちの方だろうが!はっはっはっは」
驚くべき肝っ玉の持ち主であるカクタ委員長が進み出て眼前に広げた要望書を、手元のモニターででも読み取ったのか、じっと目を細めていた大宰相が哄笑する声が降ってきます。
大宰相の似非(えせ)似非な寛容の裏に潜めていた恐ろしい罠が、これでした。
大宰相が、天の一角を指さして、何か叫びます。すると、
「シャーッ! ビビビッ!」
とつぜん、稲妻が空を引き裂くのに似た鋭い音がして、次に、ドスーンと、大地に巨大な槌を振り落としたような地響きが、あたりを震撼(しんかん)震撼させたのです。
「なんだ、あれは・・」
「ああっ・・」
隊列に、驚愕の声が広がってゆきます。
「グレンデル?」
ZAEMONが、呟きました。
そうです!
「グレンデル!」
細部はやや違いがあるものの、まさに西暦2025年TOKYOに現れて、思うままに市街地を蹂躙したあの巨大AI怪獣です。
意外も意外、ここに現れるはずのない、西暦2030年の現実(リアル)現実で遭遇したストリクト星人の恐るべき最強兵器グレンデルが、西暦2024年のここ日本に姿を現したのです。
想像を絶するほど巨大で醜怪な、生物ともロボットとも判別できない怪物の出現に、大行進の人々の間に、戦慄のどよめきが、流れわたりました。
グレンデルが出現したということは、あきらかに、大宰相傀儡政権の背後には、西暦2025年に宇宙十字軍を結成して日本に来寇して来るストリクト星人が憑いている、という証拠ではありませんか。
「グレンデルだ! ということは・・」
ZAEMONが、いぶかしげに繰り返します。
大行進の前途に、こんな答えが待っていようとは、ZAEMONも予想していなかったのではないでしょうか、身動きもせずにグレンデルをじっと見上げて何事か推察しているだけです。
台上のカオリは、しかし、グレンデルを無視したように、屹立したまま、大宰相府を睨んで平静を保っています。
「グァオーッ!」
グレンデルが勝ち誇ったように、一声吠え立てます。
「ケ、ケケケ、ケケ・・・」
気味の悪い嬌声が、グレンデルの咆哮に応えます。
グレンデルの背後に展開する大宰相政権側の警備陣の指揮を執っているのは、大宰相をも傅(かしず)傅かせると言われる三軍総司令ミス・ディーモンです。まさに怪物か妖怪のように、耳まであるような大きくて分厚な唇をとがらせ、グレンデルの咆哮に呼応して、人間離れした嬌声を上げたのが彼女です。
怪物グレンデルの出現に、たちまち総崩れするかと思われた大行進でしたが、しかし、カクタ実行委員長以下、じっと機を窺って、隊列を整えています。
と、
大宰相が、大行進の先頭に立つカムイを指さして、高笑いしたのです。
「ははは、面白そうなおもちゃではないか!」
カクタ委員長が、憤然として叫びかえします。
「カムイは、平和の使徒、大行進のシンボルである!」
「なに?シンボルだと?」 
せせら笑うと同時に、グレンデルに命じます。
「ようし、グレンデル! カムイを吹き飛ばしてしまえ!」
「グウォッシュ!」
グレンデルが、大口を開いて咆哮、カムイに熱光線を吹きつけたのです。
ああ、全軍の先頭に立つLHSのシンボルである巨大埴輪トロイが、一撃で粉々に粉砕されて、飛び散ってしまったではありませんか。
「あああっ」
大進軍に悲鳴が沸き起こり、思わず、ざざざ、と後退します。
それに触発されたのでしょうか、
「グオオオーッ!」
こんどは、グレンデルが、叫びとともに、大行進の列に両掌を差し入れて、一挙に三十人ほどの参加群衆を掬い上げて、
「ふぉーッ」
強烈な呼気で吹き飛ばしてしまいます。
「どうした、ZAEMON!反撃しないのか!」
「まだまだ・・辛抱だ」
僕の念送に、そう、応えてきます。カムイの破裂と一緒に、吹き飛ばされたZAEMONは、無事にどこかに着地したようです。グレンデルの所業を傍観しているかのようなZAEMONの答えに、僕は思わず問いかけたのです。
「グレンデルから民衆を救う方策はないのですか!ZAEMON!」
一方、カオリは、どうなったのでしょう。カオリからの念送も途絶えています。
と、そのとき、
微塵(みじん)微塵に粉砕された埴輪騎馬カミュの頭部の一片から、カオリが姿を現したではりませんか。
その様子には、被害を蒙った気配は何処にも感じられません。
無事なカオリの出現に、ホッとする空気が、大隊列に流れます。
「目には目を、は、世界を盲目にする!」
カオリは、右手を挙げて天を指さし、あの、マハトマ・ガンディーの言葉を曳いてなおも不戦を宣言するのです。
すると、何かの光が、カオリの周囲に煌(きら)煌めきながら降りてきて、彼女を押し包んだと見えた後、そこにひときわ体型の整ったバルタン星人の姿が現れたではありませんか。
(ガラスの森の天使カオリは・・・バルタン星人だったのだ!)
カオリのバルタン星人は、直ちに、眩い光芒とともに、僕の視界の全てを占めて、巨大化します。
カオリは、両の爪を開いて天空に翳(かざ)翳しつつ、目を射るような強烈な光を引き寄せて自身を輝かせながら更なる変身を遂げたのですが、
山本久美子先生!
ああ、この姿を、何に譬え、なんと何と表現すればいいのか僕には・・
大蛇(だいじゃ)大蛇をも恐れぬ勇(ゆう)勇雉(けい)雉、あるいは伝説の鳥鳳凰(ほうおう)鳳凰とでも讃えたらいいのか。
身を震わせながら、見る者すべてが思わずわなわなするほど美しい、極彩色(ごくさいしき)極彩色のバルタンの女王カオリに変身したのです。
即時に姿を現して女王に付き従うのは、ピピン、パパンと、そしてニンジャ美穂の三剣士です。
「ああ・・・・・」
女王カオリの美しい威光にうたれた嘆息が、敵味方の境もなく広がってゆきます。
と、一方、グレンデルの腹部からは、湧き出るように、ストリクト星人の群れの出現です・・
バルタン星人ピピンとパパン、ニンジャ美穂は、すみやかに、ストリクト星人と同数の分身となって対峙、彼らを牽制します。
まさに、その時です、僕の体内から、いままでに僕自身が経験したことのない、力強く湧きあがるような感情が迸り出たのは・・・
                                    つづく


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いつか空が晴れる №32 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
       ―bois ton cafe-

                          澁澤京子

 ある日、友人と新宿で珈琲を飲んでいたらしきりに「~ボア トン キャフェ~」と繰り返すボサノバ調の曲がかかっていた、明るくてノリがよくっていつまでも脳裏にこびりつく曲ってある。なんて曲だろう?と思ってさっそく帰ってからネットで調べてみた、ネットは便利です。一発で「bois ton café」がタイトルそのものだったことがわかる。

珈琲を飲もうよ、さあ飲もうよ、というところか。もともとはラフェール・ルイ・トリオというリーゼントヘアのフレンチポップス三人組の歌。you tubeで見ると、往年のクレージーキャッツのような軽いノリで歌っている
こういう明るいシンプルな曲っていいなあ・・

「ハイ、ブラックでお砂糖だけね」
アイちゃんは68歳。山谷の炊き出しの後のティ―タイムでいつもみんなの珈琲をいれてくれる。珈琲が好きなアイちゃんは炊き出しのリーダーでもある。華奢なアイちゃんはユニクロ女性もののジーンズをはいて軽快に飛び回って仕事をする。
「俺はさ、ジャンさんに命助けてもらったからさ、恩返ししているんだよ。」

癌を患っていたアイちゃんは、山友会(ボランティアグループ)のジャンさんに紹介されて、聖路加病院で命を取り留めた。絵を描いたり工作の得意なアイちゃん。アイちゃんの描くサザエさんやドラえもんや天才バカボンの絵は、子供の絵のように邪気がなくって見ているだけで楽しくなる。
「一人でさびしいからさ、漫画描くの、俺。」
「末っ子だったからさ俺、姉二人に可愛がってもらってねえ・・」
68歳の今もまるで小学生のような風貌のアイちゃん。子供の時はさぞかし可愛かっただろう・・

アイちゃんは住み込みでお蕎麦屋さんで働いてた。雪の日、自転車が転倒して鍋焼きうどん八人前をひっくり返したこともあった。居酒屋で住み込みで働いて、毎日焼き鳥を焼いてたこともあった。
「テキヤで焼き鳥焼いてたこともあったよ、俺、焼き鳥のたれを自分で発明してさ、すごく売れたんだよ。」
ところがテキヤの親分が売上金全部を持ってそのまま行方不明・・

「ホームレスって冬がつらいんだよ、地面から冷えるからさ。」
「生きてるとさ、いろんなことあるよな・・」
でもアイちゃんはいつも底抜けに明るい、彼がいるだけで周囲がパッと明るくなる。なんとなくフランスのコメディ映画に出てきそうなアイちゃんにはこの曲がぴったりなのだ。

苦味のない珈琲なんて・・
悲しみのない人生なんて・・

彼は私の人生の先輩でいろんなことを教えてくれる。それで私はまたアイちゃんに会って、珈琲を飲んでおしゃべりしたいと思うのである。




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梟翁夜話(きょうおうやわ)№11 [雑木林の四季]

「撃ちてし止まむ」

                  翻訳家  島村泰治

想い出は時とともに変質するものだとは、ついぞ先ほどまで気づかなかった。先ほどとは言えかし昨日今日ではなく、還暦を過ぎて古稀あたり、ようやく老いの兆しを自覚し始めた頃のことである。

いま、傘寿を越えること三年になって改めてそれと気づいたのには切っ掛けがある。それまでは想い出という言葉からして懐かしさ愛おしさに通じるものの同義語と思い込んでいたのだが、あるストレスフルな出来事を想い出すや、それが異常発酵して、見る間に何とも懐かしい出来事になって私の意識に蘇ったのである。

話は遠く昭和十七年、東京は蒲田の出雲国民学校に遡る。七つ上がりの私は学友とは一つ違い、国民学校(今の小学校)二年の八歳だった。私の言葉好きが目についたのだろう、担任の平山真砂子先生(まだ十代のそばかす美人の先生だ。いずれ知の木で物語らねばならない話がある)は私を殊のほか愛おしんでくださった。ある日、先生の計らいで私は読本から「ぼくの望遠鏡」を朝礼台に立って、先生方と全校生徒を前に朗読した。後で聞いたのだが、父が仕事を休んで校庭の片隅で聞き耳を立てていたという逸話がある。

さて、その切っ掛けの出来事はこのことではない。あることを巡る学友の柳億(やなぎおく)との幼い諍(いさか)いのことだ。大東亜戦争開戦翌年、戦う一億の一人を自認していた私は、それを見込まれたか平山先生から学級文集を編集するように、「本田君と柳君と一緒にね」と指示されたのだ。本田(名前を忘れている)は門に虎の絵が描いてある近くの工場の息子だ。これは一向に罪のない男の子で、先生がなぜ編集員に選ばれたのか分からないほどの言わば平凡な子だった。

柳憶はおかっぱの才走った子で、子供ながら一家言をもっていた。所詮は子供心理だからなにほどのことはないのだが、文集作りでは私と柳がなにかと張り合ったのである。「望遠鏡」以来私は学友たちに一目置かれていたことも原因だったろうか、柳は文集を作りながらとかく私の仕草に難癖をつけた。私もことある毎に彼の言い分に反発した。二人は誰の綴り方をどこに載せるか、ボツにするのは誰と誰などなど、果てしなく抗(あらが)った。それが、文集の表紙の体裁になるや極限に達して破裂(!)したのだ。

本田が職員室に走る。ほどなく平山先生が駆けつけて来られて二人を分ける。分けるといっても取っ組み合いではなく、気色ばんでいた二人の間に入り宥(なだ)めただけのことだが、雰囲気としては一触即発の感があったのかも知れない。

表紙事件の経緯はこうだ。柳は綴り方の文集だからと菖蒲などの花をあしらって「何々文集」にしたいと言い募り、幼いながらやや国粋風のメンタリティーが横溢していた私は、時局を映して「わが荒鷲」の編隊飛行の絵に「撃ちてし止まむ」と題すべしと主張したのだ。先生はじっと考え込まれた。やがて柳と私の顔を交互に覗き込んでこう言われたのだ。

「いまはお国が力一杯戦っているときです。子供たちも同じことです。兵隊さんのご苦労を考えましょう。この文集が慰問袋に入れてもらえるように、みなさんの気持ちを閉じ込めましょう。」

私は咄嗟に快哉を叫んだ。一方、先生は自分の考えには賛成していないと感じてか、柳は沈黙して引き下がった。文集は編隊飛行と撃ちし止まむで作られた。あれが慰問袋に入れられたかどうか、私は覚えていないし、文集はもう手元にはその影もない。

そうして今、私はあの時の柳憶の容子(ようす)を想い出して無性に懐かしいのである。角突き合ったことの空しさ、果たして彼はいま何処にとの感慨がない交ぜになって八十翁が身もだえるのだ。想い出は懐かしさ愛しさのみにあらず、不快から不が溶け去って快が残り発酵して醇化(じゅんか)する。そうか、歳は取るものだと頻りに思う今日この頃である。


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