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西洋百人一絵 №85 [雑木林の四季]

パスキン「3人の裸婦」

                                  美術ジャーナリスト・美術史学会会員     斎藤陽一

 モディリアニやスーティンら、20世紀初頭に、パリにやってきた一群の異邦人の画家たちは「エコール・ド・パリ」(パリ派)と呼ばれている。
 彼らは、特定の絵画運動の旗印のもとに集まった画家たちではなく、ときには酒場で大騒ぎをしたり、市民のひんしゅくを買うような放縦な生活を送りながら、それぞれ、独自に個性的な絵画表現を追求した。
 かれらの多くは、モンパルナスを拠点としており、モディリアニ(イタリア)とスーティン(リトアニア)がユダヤ人だったように、その多くはユダヤ系の画家であった。互いに助け合ったり、刺激し合ったりしながら、パリという大都会に画家として生きていこうとした。
 他には、今回取り上げるパスキン(ブルガリア)や、キスリング(ポーランド)がおり、ユダヤ人ではないが日本の藤田嗣治も彼らと親しく交わり、「エコール・ド・パリ」の一員に加えられることもある。
 また、同じ頃にモンパルナスで活動し、彼らよりはるかに長く生き、築きあげた独創的な絵画世界によって「20世紀を代表する巨匠」となったピカソ(スペイン)やシャガール(ロシア出身のユダヤ人)も、大きな捉え方をすれば、その若き日は「エコール・ド・パリ」の中にいた、とも言えよう。

 さて今回は、「エコール・ド・パリ」の一人ジュール・パスキン(1885~1930)の作品を見たい。取り上げる絵画は「3人の裸婦」― 画家の典型的な画風を示している。
 パスキンは、ブルガリアのユダヤ人の家庭に生まれたが、家を出奔し、各地を渡り歩いた後、1905年、20歳のときにパリにやってきた。
 彼がパリで創り出したのは、この「3人の裸婦」に典型的に見られるような、しどけなく横たわる裸婦を、水彩のような淡い色彩で包みこんだ、エロティックで倦怠感漂う絵画世界である。
 しかも、パスキンの描く女たちの多くは少女たちである。まだ成熟していない裸の少女が、時には一人、時には数人で描かれ、繊細な線と靄のような淡い色彩によって、幼くも儚いエロスを発散している。
                                                                               
 このようなパスキンの絵は、パリで人気を博し、画家は売れっ子となった。その需要に応じて、パスキンはさらにこのタイプの絵を量産する。
 しかし、このような絵を描き続けることは、パスキンの本意ではなかった。もっと本格的な壁画サイズの絵画世界を構築すること、これが画家としての夢だった。
 元来傷つきやすく繊細な精神の持ち主だったパスキンは、そのような自分に嫌気がさして享楽的な生活に陥り、人妻との不幸な恋愛にも疲れ果てて、ついには、45歳のときに自殺によってその生涯を閉じた。
 彼が描く少女たちに見られるうつろな倦怠感は、画家自身のものだったのかも知れない。

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                    パスキン「三人の裸婦」(1930年。オスロ、個人蔵)


芭蕉「生命の賛歌」 №28 [雑木林の四季]

しほらしき 名や小松吹(ふく) 萩すヽき

                                      水墨画家    傅  益瑤

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 金沢から小松に着いた芭蕉は、可憐な背丈の松を吹き抜ける一条の風を見た。振り返ると辺り一面の萩やすすきの穂にも風が吹く。萩とすすきの穂が波を打ち、海でないものが海らしく見えた。
 しほらしきは名も無いこと、海景に松の木は無くてはならぬもの。描かれた芭蕉の姿は小さな松の木に姿を変え、風に吹かれる。

『傅  益瑤 「奥の細道」を描く 芭蕉「生命の賛歌」』  カメイ株式会社


はけの森美術館Ⅲ №27 [雑木林の四季]

                                        画家  中村研一

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                                             彩色 和紙 27cm×30cm 

************                                                                【中村研一画伯略歴】

鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

中村研一美術館正面.jpg
中村研一記念はけの森美術館正面

私の中の一期一会 №141 [雑木林の四季]

    「私、浅田真央はフィギュアスケート選手として終える決断をいたしました」
        ~軸足の左ひざの怪我で密度の濃いジャンプの練習が出来なかった~

                            アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 12日に行われたフィギュアスケート・バンクーバー五輪の銀メダリスト浅田真央の「現役引退会見」は、大々的なニュースとなって日本中を駆け巡った。
 この日は、早朝から並んだカメラマンたちを含めて、総勢430人に及ぶ報道陣が会見場につめかけたというから私は首を傾げた。いくら人気スポーツ選手の真央ちゃんが引退するからと言って騒ぎ過ぎに思えたからである。
 主催者発表では、ム-ビ-50台、スチールカメラマン100人、記者、レポーターは多数、台湾など海外メディアも詰めかけたとなっている。
 浅田真央の引退は、国の内外からも高い関心を集めたことは確かで、イギリスでは権威ある公共放送が、いち早く引退を報道して、“マオ・アサダが世界に残した功績は大きい”と伝えた。
 ロシアのスポーツ専門誌・電子版やアメリカのフィギュア専門誌「アイスネットワーク」、中国、韓国などでも浅田真央引退をニュースとして速報したという。
 特に「アイスネットワーク」は、フィリップ・ハーシェ記者が「アサダ引退の影響は今後数年間続くだろう。アサダは、トリプルアクセルと氷上の優雅さによって記憶される」と書いて、銀盤に舞った“マオは風に舞う羽のよう”だったと回想している。
 浅田真央は何百万ものTV視聴者や会場の人々の心をつかんだことは確かで、これは絶賛するしかない。
 NHKが、この引退会見を現場からニュース特番として“生中継”したことに私は違和感を覚えた。
 民放の芸能ワイド番組みを真似したような、NHKらしからぬ異例の対応に思えたからだ。
 もしかして、“森友”や“共謀罪”で揉めている国会審議から国民の目をそらすため、政権への「忖度」かも知れないと疑ってみたりした。
 ビデオリサーチの調べによれば、NHKが生中継した「浅田真央の現役引退会見」の平均視聴率が5.0%だったことが分かった。同じ日の夜7時から放送の、フジテレビ「引退特別番組、浅田真央26歳の決断~今夜伝えたいこと~」は7.3%であった。ともに通常番組より高い数字が出たのである。
 浅田真央は前日に、ブログで引退を発表していたから引退をすでに知っているファンは多かったと聞いている。とにかくスポーツイベントでもない“浅田真央の引退会見”をNHKが生中継したのに驚きながら、テレビ画面を見つめることとなった。
 真っ白なジャケット姿で会場場に現れた“真央ちゃん”は、溢れそうになる涙をこらえ30秒ほど言葉が出なかった最後を除けば、終始笑顔を絶やさない会見であった。
 2014年春から1年間の休養を挟んで復帰してから、いい形でスタートできた。でもそこから、“今のスケート界についていけるかな”という思いが強くなった。身体の辛い部分も多くなった。
 何とか頑張ろうという気持ちでやったが、16年12月の全日本選手権で12位になって「もういいんじゃないか」と思った。ハッキリ引退を決めたのは今年の2月だった。
 平昌五輪に出るという最終目標が葛藤になって、“やらなきゃいけないんじゃないか”という思いが強く、引退発表が延びてしまった。
 ソチ五輪のあとの世界選手権で引退していたら“まだやれる”と思ったかも知れない。望んで復帰して挑戦した結果は良くなかったが、挑戦してよかった。
 今は「やり残したことはない。トリプルに挑戦して終えられたことは自分らしかったと思っている」
 「今後はどんな形でも、スケートに恩返しができる活動をしていきたい、笑顔で前に進んでいきたい」と淀みなく言葉をつないで会見を終えた。
 浅田真央は16年シーズンの初戦、フィンランド杯でトリプルアクセルを回避して2位という結果に終わったが、前年の世界選手権前から“左ひざ膝蓋炎”という怪我に苦しんでいたのだ。
 左足は、トリプルアクセルを跳ぶときの軸足だけに、練習で跳べば跳ぶだけ悪化した。怪我をして完治しないうちに、練習しなくてはと焦ることになるのだ。
 腰痛と言う持病にも悩まされた。過去にはショート、フリーの両日とも痛み止めの薬を飲んで出場した試合もあった。
 足と腰に故障を抱えていては、密度の濃いジャンプの練習などつめる訳がない。代名詞とまで言われたトリプルアクセルが、怪我のため満足のいくジャンプが出来なかったのだ。辛かったに違いない。
 治療しても完治しないままシーズンに入り、急場しのぎに振付を変更することにしたが、パフォーマンスは落ちるばかりだった。
 モチベーションを保てなくて当然だった。怪我を抱える多くのアスリートに共通する苦しみである
 引退会見では怪我の話は出なかったが、やはり怪我は“引退の決断”に大きく影響したと私は確信している。
 アスリートは怪我とどう向き合うのか。これは指導者を含めた大きな課題だと私は常々思っている。
 浅田真央には、“体験者としてどういう意見”を持っているか聞いてみたい気がしている。
 アスリートの怪我で、私が気にしているのは横綱・稀勢の里と二刀流の大谷翔平である。
 横綱・稀勢の里が春場所で左肩付近に重傷を負いながら強行出場して、感動的な逆転優勝を果たした。
 あれは勝ったから“よかった”、“凄い”、“立派だ”、“さすが横綱”などと賛辞ばかりが飛び交ったが、もし負けていたらどうだったろう。本人はもとより協会や親方まで非難の嵐にさらされたのではないだろうか。
 日本相撲協会が先月末に公表した診断書によれば「左大胸筋損傷、左上腕二頭筋損傷で約1ヶ月の療養が必要」とされていた。さらに精査したようである。要するに2カ所を痛める重症だったのだ。
大相撲は巨体同士の肉弾戦だから、「痛みが取れたから大丈夫・・」と言う訳にいかないのだ。
 稀勢の里は5月14日初日の夏場所に向けて稽古を再会しているらしいが、無理は禁物だと強く言いたい。。
 稀勢の里の怪我は多分1か月では完治しないだろう。下手をするとキャリアの終焉を早めることになり兼ねないと私は心配している。
 マラソンの有森裕子さんが、競技者の立場から、“スポーツは根性が大事。痛くても我慢して頑張る姿をよしとする風潮”は怖いと語っている。
 私は理事長か親方に「夏場所は休め」と言って欲しいと思うが、多分言わないだろう。
 稀勢の里は自分で「決断」するしかない。有森さんの言葉をよく考えて欲しいものだ。
 日本プロ野球の至宝とも言うべき日ハムの大谷翔平は、9日に登録を抹消され現在リハビリ中である。
 大谷は去年の日本シリーズで走塁中に右足首を痛め、3月のWBC出場を辞退した。
 右足の状態が万全でない中、開幕から打者として試合に出て頑張っていた。
 8日のオリックス戦でサードゴロを打った時、左足を痛めてしまい途中で交代したのである。
 検査の結果は左太もも裏の肉離れで全治4週間というものであった。
 中田翔も怪我で離脱中だ。投打の主力を欠いた日本ハムは下位低迷中で、彼らの復帰が待ち遠しいだろう。。
長引いている大谷の右足首は“手術もありか”という声もあるらしいから心配である。
 もう一人のアスリート、箱根駅伝の山登りで「新山の神」と呼ばれた富士通の柏原竜二(27)が去る4月3日に現役引退を表明した。
 東洋大時代は、箱根駅伝の5区山登りで1年から4年まで4年連続区間賞を獲得して、3度の東洋大総合優勝に貢献した。金栗賞と言われる最優秀選手賞も3度手にした箱根駅伝の逸材であった。
 そんな柏原も、度重なる怪我など故障続きで、「引退を表明している今も完治していない。復帰のメドもたたないことから、競技の第一戦から退く決断をした」と引退の理由を語った。
 昨年11月熊本で10マイルに出場したとき腰を痛め途中棄権したが、この時引退が頭をよぎった。
 富士通の福島監督には「早すぎるんじゃないか」と留意されたが、1月にアキレス腱も痛めていて満身創痍の状態になっていたそうだ。今後は社業に専念する。
 アスリートたちに共通して言えることは、一つ怪我をしたとき完治させないと、庇いながら競技を続けると別の所に故障が生じるのだ。それも完治しないうちに無理をすると何時しか満身創痍になってしまう。
 最近は競技年齢が延びているのに、26歳の浅田真央、27歳の柏原竜二が、共に「怪我」で競技の第一線を退くことになったのは惜しいことだ。アスリートの怪我は“痛い”ことが多いだろう。
 だが痛いのを我慢して無理することが勇気ではない。“休んでじっくり治す”のがホントの“勇気”かも知れない・・私はそう思った。


浜田山通信 №192 [雑木林の四季]

波多野裕造と大岡信

                                   ジャーナリスト  野村勝美

 ついこの間ペギー葉山が死んだ。新聞TVの扱いは小さかった。あいにくというのは変だが、前日からスケートの浅田真央の引退報道があったため、TVは全局がニュース、ワイドショウを真央一色に染めた。フィギュアスケートは冬のスポーツの華だし、何より彼女はもう何年も氷上のアイドル、美人でかわいい。テレビ局は専属にしたい下心もあるので、一日中、他のニュースが割り込む余地はない。
 私はスポーツナショナリズムが大嫌いで、若いころからオリンピックで日の丸が上がったり、君が代が演奏されるとチャンネルを切り替えた。ワールドサッカーも地区予選から大騒ぎする。ヨーロッパリーグなど、日本人選手が得点したとなるとほめたたえる。移民問題や国際結婚は普通のことになっており、アベさんだってトランプファーストだ。当のトランプ夫人は東ヨーロッパのスロベニアだかの出身、娘ムコはユダヤ人である。とにかくもう美しい国ニッポンファーストはやめましょう。
 まあ若い人には死んだ年寄りなどどうでもよいし、私にしたところで、あああいつも死んだか、まあしようがないくらいの感想だが、同時代を生きてきたものとしてはやはり、寂しく悲しい。ペギー葉山の、「土佐の高知の播磨屋橋で、坊さんカンザシ買うを見た」が流行っていたころ、私は取材の出張で高知に行ったことがある。歌詞に出てくる坊さんのお寺にお参りして、宿で夜食のあとくつろいでいると暴力団の射ち合いがあって、現場を観に行ったりした。彼女の日本人離れした歌は大好きだったが、同時代を生きてきた人にはそれなりに思い入れがあり、なにがマオちゃんだということになる。
 この冬は年寄りの有名人が多く死んだ。大岡信は、私の同期生だ。詩人で文化勲章受章者。毎日新聞で同期だった増田れい子(エッセイスト、女性で初の論説委員、犬田卯・住井すゑの二女)からいろいろ話をきいていたので、昔からの知り合いのように思っていたが、会ったことはない。彼と彼女は東大文学部でも同期、同人誌を佐野洋らとやっていて、卒業後読売新聞に入った。昭和28年入社は新聞各社専売制、夕刊復活で採用が多く、私は横浜支局で朝日の天声人語で有名な深代惇郎といっしょに察回りをしたことがある。抜いた抜かれた等に関心がなく、心優しい豊かな男だった。
 毎日で同期入社だった波多野裕造も2月17日だかに死んだと毎友会(同窓会)会長をやっていた平野裕が知らせてくれた。慶應出で、語学の達者な男だった。英独仏露とイタリアだったかスペイン語だったかとにかく5ヶ国語の読み書きはペラペラ、辞書を一度引いたら憶えてしまう才能の持ち主だった。家柄が能の笛だか鼓だかの大倉流か何かの宗家の息子で、京都の色白美男子でもあった。私が毎日をやめた'77年頃、外信部をやめて外務省に入省、最後はアイルランド大使になった。大使といえば勅任官、同期でいちばん出世したことになる。5年ほど前に一度会ったことがあり、「再婚したいが、娘が反対してなあ」と言っていたが、いい男だった。


徒然なるままに №17 [雑木林の四季]

ミモザの花

                                    エッセイスト  横山貞利 

 少々旧聞になるが、3月8日の「国際女性(婦人)デー」前にミモザの花の出荷が始まったと新聞に写真入り記事が掲載されていた。わたしが住んでいる浦安では、漸くアカシアの葉のように萌えだしてきたばかりだから、温室栽培のミモザの花の出荷なのだろう。イタリアでは「国際女性(婦人)デー」にミモザの花を男性が女性に贈るそうで、これに因んで日本でもミモザの花を出荷するのであろう。
 3月8日が「国際女性(婦人)デー」に指定されたのは、1904年3月8日に米国のニューヨークで女性労働者が「婦人参政権」の要求を掲げてデモしたのに因んで、国連が1975年(国際婦人年)3月8日、この日を「国際女性(婦人)デー」に定めて加盟国に呼びかけて成立したのである。

 ところで、わたしはミモザの花を見る度にフランス映画「ミモザ館」を想い出す。「ミモザ館」はジャック・フェデー監督が妻のフランソワーズ・ロゼー主演(「ミモザ館」の女主人)で製作した名作である。日本で公開されたのは1936年(昭和11)で、この年のキネマ旬報ベスト1位になっている。だから、わたしが観たのは再上映である。しかし、女主人公が歳下の若者に好意をもって助けようとする心理を理解できなかった。高校時代以降、フランス映画にすっかり魅了されてしまった。ジャック・フェデーの「外人部隊」/ジュリアン・ディヴィヴィエ「望郷」、「舞踏会の手帳」/ルネ・クレマン「禁じられた遊び」/マルセル・カルネ「天井桟敷の人々」、「嘆きのテレーズ」/アンドレ・カイヤット「裁き終わりぬ」など想い出すままに列記してみた。こうした過程で、わたしはフランス映画の虜になってしまったことは間違いない。この他、イタリアの「ネオレアリスモ・新リアリズム」と言われた映画、ヴィットリオ・デ・シーカ「自転車泥棒」/ロベルト・ロッセリーニ「無防備都市」/ルキノ・ヴィスコンティ「揺れる大地」。イギリス映画では、キャロル・リード「第三の男」等々ヨーロッパ映画はできるだけ観た。アメリカ映画はたくさん観たが、いま想い出してみると、大好きな俳優モンゴメリー・クリフトが主演したフレッド・ジンネマンの「ここより永遠(とわ)に」、シドニー・ルメット「十二人の怒れる男」などがよかった。このうち「裁きは終わりぬ」と「十二人の怒れる男」は陪審制度に問題提起した名画である。そうそう、チャーリー・チャップリン「ライムライト」も忘れられない。それにしても、わたしはすっかりジュリアン・ディヴィヴィエに惹かれて、生き方を決定づけられたように思う。

 上京後は、池袋西口から15分ほど離れた母の従姉がやっていた学生アパートで暮らした。池袋の東口には文士系と言われた「文芸坐」と「人生坐」の二つの映画館がたった。文芸坐は邦画、人生坐は外国映画であった。特に人生坐ではパリ祭(1789年フランス大革命が始まった日、即ちバスチューユ監獄を解放した7月14日Quatorze Juillet=建国記念の祝祭日)の週にはフランス映画特集を上映したので毎日通った。その他の日にもアパートを出ても気が変わって大学へは行かずに文芸坐か人生坐で2本立て映画を観ていた。この他にも新宿の伊勢丹前にあった日活名画座にも殆ど毎週通った。当時、文芸坐、人生坐、日活名画座などでは2本立て上映だったから、1本観てあっても結局2本観てしまうので同じ映画のカメラワークや照明の仕方まで覚えてしまった。こうした作業はその後の仕事に役立った。また、セルゲイ・ミハイロヴィチ・エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」を観て「モンタージュ理論」を試みてみたが、効果があったかどうかは判らない。映画のスクリーンは大きいが、テレビの受像機は精々30~30数インチ未満だったから映像効果は比較にならない。例えば1965年(昭和40)の終戦特番で広島の原爆ドームの天井鉄柵から太陽を撮った映像から原爆のキノコ雲に切りかえる時一瞬ピカット輝かせて切り替えるようにしたのだが、当初1秒(16ミリフィルムで36コマ)素通しフィルムに繋いだけれど全く緩慢で、0.5秒(18コマ)に詰めたけれど不可で、最終的には0.1秒強(5コマ)にして初めてピッカという感じが出た。しかし、こんなことをやっても映画のもつ映像の迫力と比較にならない。また、23時の「ニュースデスク」のOAでフィルムを2本同時にスタートしてフェードイン、フェードアウト、カットイン、ディゾルブ(オーバッラプのこと)したが効果があったかどうか解らない。自分がディレクター席でナマ放送しているのだから客観的には観られない。ОA後同録フィルムでモニターすればいいのだが・・・。ただ、わたしは、どんな特番も再放送で観ることはしないことにしていた。兎に角アラばかり気になってしまうので止めたのである。必ず「何であんな繋ぎ方したのか、あの画とこの画の繋ぎ方は逆だ」など反省点ばかりが気になってしまうのである。それにくらべてナマ中継がいい。運動部にいた頃、相撲やボクシングなどでは一瞬で勝負が決定し、そのナマ中継は印象的だった。それにしても報道現場で30代半ばまで画作りに試行錯誤した。あのころは若く真剣にフィルム編集に取り組んだ、と思う。

 ギヨ―ム・アポリネール 「ミラボー橋」
     
  ミラボー橋の下 セーヌが流れ
     二人の恋が
   なぜこうも思い出されるのか                    
 喜びはいつも苦労のあとに来たものだ

   夜よ来い 時鐘(とき)よ打て
   日々は去り行き私は残る
           (以下三節 略)


パリ・くらしと彩りの手帖 №120 [雑木林の四季]

フランスの大選挙も大詰めに、、、

                  在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ

 フランスという国は休みが多い。いや多いように見えるのかもしれない。とにかく年が明けると、フランス人はもう休みの計画だ。いやそれはもう前年の夏から始まっている事だと言えるだろう。彼らの話を聞いていると、いつも働き、生活している時期と時期との間に休暇があるのではなくて、休暇という目的が先にあって、これをより楽しく実現するために、普段はみんな働いているという事なのだ。しかもこの数日、パリでもテロのニュースがない。やっぱり復活祭だからなのだろうか?このキリストの喪に服する金曜日、そして祈る土曜日、キリストが生き返る復活の日曜日、それに続く喜びの復活の月曜日の祭日、世界中のキリスト教徒、カトリック教徒にとっての喜びの日なのだ。そして、この日はあらゆるお菓子屋やシェフが考えた卵のお菓子が作られるし、どこの主婦でもやる事は卵を茹でて、いろいろな色に塗り、これを庭に隠し、子供達がそれを探して歩くという楽しい遊びなのだ。もちろんフランスの事だから、それを食べるのも大きな目的だけれど。今の法皇様のフランソワはヴァチカンにも銀行があり、これを通じて大金が不法に隠され、動いているのを知って、これを正そうとしているから、場所柄、暴力団のうごめくイタリアのどまんなかにあって、そちらの方でも法皇様は危険にさらされているのではないかと無信心の私までが心配しているところだ。漏れ聞くところを総合すると、今の法皇様は、神様にと同様に人間にも深い慈しみの心を持った方のようで、彼に何かがあったら、まずキリスト教の世界が安定を保たないのではないかと思われるのだ。さて、とにかくテロの大事件もなく復活祭の休みがあけてホッとしたところだが、日本にとって、北朝鮮の核戦争の可能性、叔父を死刑にし、兄を外国で殺させたという恐ろしい国が挑発するのに、日本が可能な射程距離にあると聞いては、私なども、パリにいて落ち着かない思いだ。ただ、幸いな事にこんな考えをそらす事ができるのは、今はフランスの大統領選挙だ。と言っても、候補の一人が、マルセイユで演説をするときに、狙おうと計画していた二人組かが捕まったから、この選挙に関連して、何かをしようという動きがないわけではない。それどころか、彼らにとってのいいチャンスに違いない筈だ。もう2、3ヶ月続いているこの選挙運動では、最初の左派、右派からの候補者選びで、大勝した右派のサルコジー時代の首相、私には、なんとも力量のなさを感じさせる候補だったが、私が大統領になって欲しいと思う右派の、現在もボルドーの市長であり、これも元首相をやっていた政治家があっさりと彼に負けて、あっけなく消えてしまって残念だ。どちらも同じ保守党なのだが、ボルドーの人々は、右も左も彼に満足して、感謝しているという存在なのだ。私が特別知っているわけではないのだが、現象として不思議でならないから、彼に大統領になってフランスの政治がどうなるかを見たいという、好奇心かもしれない。自分がこの国に住んでいるのに、こんな好奇心が働くようではダメだとも思うのだけれども。さて、この2、3ヶ月の騒ぎのあと、今から1週間ほど前に、国会議員などの500のサインを集めてようやく立候補出来ることになった大統領候補が揃った。全部で十一人。そして来週の日曜日が選挙だ。1回でバッチリと当選しないのが普通だから、最高点を取った二人の間で、どちらが選ばれるかが答えとなるのがいつもの形だ。私たちは数ヶ月前から毎日のように早くから立候補が決まっている候補者の抱負を聞かされて来ていたわけだがこの選挙に向けて、新たに立候補宣言して来た人たち、この人たちの名前などは今まで聞いたこともないものばかり。大統領選挙のある年になると1週間ぐらい前に、このような立候補宣言をし、その掲げるところは、「老後の暮らしをよくすること」だとか、「お金のかかるヨーロッパのグループから出ることが肝要」とかを唱える。、それ以外の話は1分位の持ち時間では云っている暇はないし、それに本当は他に言うことはないのかもしれない、などと意地悪な勘ぐりをしてしまう。ある人は毎回大統領選挙になると立候補するが、その間は、何をしているのかも殆ど知られていない、などというのもある。つまり大統領選挙の機会に自分の意見を一つだけ聞いて欲しい、そしてそのためには、少々お金を使うのも仕方がないだろう。ということのようだ。それ以外に、早くから沢山の人々を集めて、各地で演説をしている候補者たちの使う費用の出どころはどこだとゆさぶりをかけられる。政党を代表して、その政党が払うのは当然だ。それからいうと今度のアメリカの大統領はアメリカ屈指の富豪だそうだから、そちらは問題がなさそうだ。フランスでは、ルイ・ヴィトンでも立候補しなければ、そんなことはあり得ないし、みんなお金の問題でひっかかるのだ。以前の大統領のサルコジーもその費用のことで、誰に貢がせたとか、いろいろの噂でエリゼ宮の主人でいる間中、常に問題にさらされていたと言っても言い過ぎではなさそうだ。フランソワ・フィヨンなどはサルコジーの時代に首相を務めていたが、力のなさそうな政治家が何だろうと私の目には見えていたのに、一方これもサルコジーの元で、首相をやっていたボルドー市長のアラン・ジュッペ、私がいつか大統領をやらせてみたいと常々思っていたボルドー市長と競って、ずっといい成績で、候補の場を勝ち取ってしまった。それで歩きながら、鼻歌を歌っているところをテレビで見せるほどにごきげんだったのだが投票日が近づいてくるとスッパ抜きで名高い新聞が、この人の国会議員としての秘書に夫人を使っていて、その夫人は国会の関係事務所の人は見たこともない。そして、その給料は非常に高いものだ。国民の税金を搾取するものだ。という解説がついていた。そしてその1週間後には、今度は、夫人だけではない、大学を出たばかりの娘も同様な人事に使っている、と暴いた。家族のメンバーはあらゆることに精通しているから、秘書にするということはよくあることで、珍しいことではないが、国会で、これらの秘書たちが直接関係する筈の事務の人が、彼女らの顔も見たことがない、知らない、と言ったことから、もめにもめて、選挙前のぎりぎりだというのに裁判所から出頭を命じられた。それでもしぶといこの候補は、さらに選挙が迫った今、すっぱぬきの新聞が、フランスでは100ユーロ以上の贈り物を受けてはいけないという規則があるのに、フランスで名高い高級紳士服の店の主人から贈られた服を着て歩いていたことも報じられた。それでもしぶとく、まだ立候補するといい続け、しかもこんなスキャンダルが次から次えと入って来ても立候補を続けると宣言しているそのしぶとさ、彼の繰り返し表明している経済政策は、役人の数を減らすことだというが、いわゆる役人たちは自分のポストにしがみついて離さないだろう。だから結局首を切られるのは、学校の先生たちだよ、というのが通説となっている。国にとって一番大事な国民の教育といいう仕事を預かる先生たちをどんどんクビにするというのだろうか?
十一人の候補者のうち、女性はただ二人、やっぱり女性が二人ぐらいいないと、という感じで、入れられて来たのだろうとしか思えない候補者だ。一応その11人の名前を挙げておこう。、

1;Nathalie Artaud  ナタリー・アルトー

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11人の候補者はこの人とMarine le Penを除いて全て男性だ。

2:Francois Asselinaud フランソワ・アッセルノオ

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3:Jacques Cheminadeジャック・シュミナード

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4:Nicolas Dupont-Aignan ニコラ・ヂュポンテーニャン

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5:Jean Lassalle ジャン・ラッサル

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この上の人たちは選挙に当選したら、何をする、と言った公約などはなく、自分の言いたいことを言うための場としてこの選挙戦を選んだだけだろう。あるいは人の目に触れることがこよなく好きなどというのもいるかもしれない。でもそれなら、選挙と選挙の間の年月にもう少し発展することだって出来るのではないか?
そしてこれから下の6人が一応自分のいうことを持っている候補者だ。さて、もう2、3ヶ月来飽きるほどに見ている顔、そしてその掲げる戦略の主たちが、下の6人である。

6:Francois Fillon フランソワ・フィヨン 

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右派の代表候補として大勝し、後から種々のスキャンダルをすっぱ抜かれた候補者。これが右派の代表候補

7:Benoit Hamon ブノワ・アモン 

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        これが若き社会党の代表候補。ほとんど知られていなかった。

8:Marine le Pen マリーヌ・ル・ペン

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国民戦線の党首で、政党を作った父を追い出してしまった。ナチに対するような目で見られている。 

9:Emmanuel Macron エマニェル・マクロン 

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現大統領のもとで、財務大臣を務めたが立候補を決めると辞職した30代の秀才。学生時代の哲学の教師、20歳年上の女性を射止めた。

10:Jean- Luc Mélenchon ジャン・リュック・メランション 

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     ああまた出てきたな、と言われるが、その左翼ぶりは今でも十分伺える。

11:Philippe Poutou フィィップ・プートウ 

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        候補者の中でも最も左翼と言われる組合育ちの労働者  

 何がバレてもしぶとく立候補を続けるというのがこの中の一番上の名前のフランソワ・フィヨンだ。次の ブノワ・アモンが社会党を引き連れての候補者だが、彼の名前は社会党の党員以外にはほとんど知られていなかった。これは社会党という党が話題に上らなくなっていることを示すものでもあるのだろう。今回の立候補で、この人が意外にはっきりとした意見を持ち、その政見を語れる人だったという発見だったと思わせたのだったが、教育に熱心で、文句を言うところはないが、それにしても何故これほど一般に知られていなかったのだろうと思わせたが、政治家としてのカリスマ度がないからではないだろうか。
 マリーヌ・ル・ペンはあのみんなが恐ろしがる政党、この人の父親のル・ペンが作った政党、ナチの再来とばかり毛嫌いされているし、何をするにも彼らが勝たないようにしなければとなるのがきまりだ。こういう敵があるところでは、他と手を組むことも可能なのだ。、道を塞がなければとなっていく。私の周りを見ても、信じられないほどだ。信じられないようなことばかりだ。音楽記者の集まるレストランを決めるのにも、せっかくいい条件の話があっても、ああ、あそこはねぇ ル・ペンたち一行がこの店に集まったことがあると聞いたから、あそこは絶対に行かない、と条件の悪い方に決まってしまうのが常だ。ル・ペンのグループが何かの集まりにここの一部屋を貸したことがここまで後々に響くとは、レストラン側すら思わなかったに違いない。でも私が何よりも驚いたのは、政治の話題など出てくることもない私たち音楽記者のグループがそんなレストランには行くものかと息まいていて、そんな雰囲気の社会になると、逆に何かのひょっとしたことから、そっちの方に行ってしまわないかと警戒を強めるのだ。私が大好きな街、オペラのオランジュはあのローマ風の野外劇場が、いよいよユネスコの世界遺産に登録されたというが、ここの市民が10年くらい前に選んだ市長がこの党員、そのために、オランジュの音楽祭は別の街にと探したが、あんな素晴らしい劇場を持つ街などフランスでは他にあるはずがないから、結局新しい市長との話し合いを経て、落ち着いたのである。そして、その数年後、なんとこの市長が再選されたという。街の人に聞いてみると、この市長はゴミの回収などきちんとやっていて悪くないから、という説明があった。とにかくフランスで、唯一だったこの派の市長とあって、フランス中が観察していたというような時代から、今は何人くらいに増えているのだろうか。フランスに不満分子がいる限り、このようなグループが消えることはないだろう。ただ、私にとってわからないのは、どうしてそんなに彼らが会場を借りただけ、それも1回だというのに不思議でたまらない。自分もそちらにい引きずられていくような危険を感じるのだろうか?私流の観察を書いてみたが、この日曜日にどんな結果が出るか楽しみであり、恐ろしくもある。候補者の人気は毎日のように発表されるが、それがよく変わるので、ついていけない。マクロンとルペンが頭に入ったと発表された日の翌日には違う名前といった具合だ。若いけれどもマクロンならばバカなことはしないのではないか、と、彼の1年ほどの財務大臣時代にやったことから想像できる。


気楽な稼業ときたもんだ №56 [雑木林の四季]

さよならザ・ピーナッツ

                              テレビ・プロデューサー  砂田 実

 昭和五〇年(一九七五)二月、ザ・ピーナッツは引退を宣言する。渡辺プロダクションは、引退記念コンサート「さよならザ・ピーナッツ」を企画した。日本の歌い手としては、初めての引退コンサートだったのではなかろうか。そして、その演出を、僕は日本テレビの秋元近史とともにナベシン社長から依頼される。秋元は、大ヒット番組「シャボン玉ホリデー」のプロデューサーである。普通は、コンサートの演出が二人ということは、まずありえない。だが、ザ・ピーナッツに並々ならぬ愛情を感じていた秋元と僕は、立場を超えた心情で結ばれ、舞台の完成を目指して協力を誓いあった。
 とは言っても、秋元近史と僕は、まったく個性の異なるディレクターなのである。ひとつの目標に向かった共同作業とは言え、心の底にはやはりライバル意識も潜在する。さらに、同じ渡辺プロのハナ肇が、強引に協力を申し出てきた。ハナさんにしてみれば、可愛い妹分たちの引退公演だから張りきろう、ということだったのだろうが……。それでなんと、「シャボン玉ホリデー」でクレイジーキャッツとピーナッツがやっていたコントをやろう、と言う。僕は引退コンサートの趣旨に合わずに、そこだけ悪目立ちするのではないかと危倶したが、秋元は大喜びである。
 それならばと、「俺はラストを仕切る」と宣言した。ザ・ピーナッツが歌う本当に最後の曲だ。ラストの曲でこのコンサートの評価は決まるだろう。引退をかぎりなく惜しむフアンの誰もが納得できる幕の引き方は何なのか? たんなる惜別のセンチメントに流されることなく、やはり二人の優れた歌唱による〝終わり〟の表現を追求したい。
 僕は悩みに悩むうちに、大ファンだったシャンソンの巨星シャルル・アズナブールの「帰り来ぬ青春」のメロディに、あえてオリジナルの詞をつけようと思い立った。作詞を依頼するのは、シャンソンの訳詞から始め、類稀なる才能によって日本を代表する作詞家になっていた、なかにし礼以外には考えられなかった。なかにし礼は素晴らしい作詞で期待に応えてくれた。この一曲だけで、引退コンサートのすべてを表現しているといっても過言ではない。

『帰り来ぬ青春』 ザ・ピーナッツ
作詞‥なかにし礼 作曲∵ンヤルル・アズナブール

 あの頃私たち十七の少女だった
 歌うことが好きなだけの
 何も知らぬ 子供だった

 初めて日劇の舞台を踏んだ時
 私たちはふるえすぎて
 歩くことも 出来なかった
 互いのドレスを 互いににぎりあい
 ドレスを手あかで汚してしまった

 あれから月日は 流れたけれども
 いつでも手をとりあい はげましあった

 愛する人に出逢い 愛されることも知って
 それでもなお その愛を
 たち切って泣いた事もあった

 歌うことと 踊ることの稽古のくりかえし
 傾けた情熱は 何のためだったのだろう

 何かに糸ひかれ 目かくしされたまま
 私たちは唄って来た 最初から最後まで

 歌うことが私たちの生きているあかしだと
  素直に信じて 声かぎり唄ってきた

 何かに糸ひかれ 目かくしされたまま
 はじまった私たちの 不思議な一日が今
 新しい朝を迎え 終ろうとしている
 もっと不思議な 素晴らしい一日のために

 * さよならよき友 さよならよき人よ
 二人で一緒のあいさつは これが最後
 さよなら姉さん さよなら妹
 二人で一人の 人生ともお別れ

 たった二十数行の詞の中に、彼女たちの歌い手としての人生のすべてが表現されていた。そして、アズナブールの原曲を、みごとなアレンジにより素晴らしい彩りに完成してくれた宮川泰の才能も記しておくべきだろう。それぞれがプロの仕事だった。NHKホールを超満員にした観客の感動は、そのまま電波にのってテレビの前の全国のザ・ピーナッツ・ファンの感動も誘った。
 そして、そのステージの幕が降りて以来、ザ・ピーナッツは再び人々の前に現れることはなかった。

『気楽な稼業ときたもんだ』 無双舎


バルタン星人の呟き №11 [雑木林の四季]

「サイタ サイタ サクラガ サイタ」

                                     映画監督  飯島敏弘

                (1)
 4月です。春です。サクラです。新学期です。ランドセル、新しい靴、ピカピカの一年生です。そして、せんせいです。今回は、先生について、呟いてみたいと思います。みなさんにもきっと、思い出の先生がいらっしゃるでしょう。
 小学一年生にとって、クラス担任の先生は、親と、幼稚園、保育園の先生、保母さんとはちょっと違う、初めての他人との接触とも言うべき存在で、かれらの人格形成に非常に強い影響を与える大きな存在ではないか、と思うのですが・・・昭和7年生まれの私の歳ではもう、小学校との関係といえば、毎年一度、地域の小学校から、社会人先生ということでお呼びがかかって、新一年生に鉛筆の削り方を教えに行くだけになってしまいましたから、はたして、小学校の先生が、昔のように生徒と一緒に持ちあがりで、卒業まで同じ組を担任して行くのが原則なのか、一年ごとにクラス編成も担任も変わってしまうのか、さえ知らないのです・・・それにもう、何処へ行っても、「仰げば尊しわが師の恩・・」と歌いつつ、生徒、先生、保護者ともども、涙湛える卒業式もないでしょうから・・・「三年B組金八先生」以来、「仰げば・・」にとって替わって歌われた「贈る歌」さえ、近頃では違う歌に変ってしまったというではありませんか。それでもなお、今回は、先生について呟きたいのです。

 昔は、というよりも、僕達の子供時代ですから、大昔は、といった方がよいのかも知れませんが、学校の先生と言えば尊敬の対象であり、校長先生などは町の名士扱いでした。先生の存在は、尊敬の対象ではなく、生徒たちにとっても、保護者たちにとっても、進学の為の評価と便宜の物差しで測る関係に過ぎない、という見方が普遍的のように言われていますが、実際に、子供たちにとって、それほど希薄な対象になってしまったのでしょうか。確かに、一部の親たちは、教育委員会や、教師を、子供たちの教育を担う奉仕者のように見るむきもあるようですが、子供たちにとっては、決してそんなことはないだろう、と思いながら、この稿を書いています・・・

 つい先日、「戦時中の学童集団疎開を語り継ぐ」をテーマにしたシンポジュームに出席しました。パネラー席に並んでいたのは、昭和7,8,9年生まれの疎開経験者四人の方々でした。
 昭和一桁生まれの子供には、一年刻みで、それぞれ大違いの運命が待ち受けていました。あの戦争とのかかわり方です。僕は、昭和7年東京都本郷区(現在文京区)の、七、八人の居職(住み込みの職人)と二人の丁稚(小僧)と三人の女中さん(お手伝い)がいる注文洋服店の生まれで、男4人女1人計5人の兄弟妹の三男でした。当時としては、まあ、標準よりちょっと多いかなと言ったところです。長兄が4年生まれですから、戦争末期には大学から学徒動員で海軍省理事生に、次兄が5年生まれで中学3年の勤労動員から志願で特別幹部候補生(特攻隊)、私が7年、弟が9年生まれで共に学童集団疎開という具合です。少し離れて13年生まれ、未就学の妹は、お祖母さんに連れられて父の郷里へ縁故疎開でした。

 国民学校(小学校)児童の集団疎開の第一陣は、公式には、昭和19年8月と記録されています。一般的な例では、国民学校3年生以上6年生までが、学校単位で各地方に出発したようですが、東京都の場合は、正式の政令が出た後に、改めて各区ごとに疎開先が振り分けられましたので、すでに疎開していた先から再び別の地域へ疎開するという混乱もありました。
 このシンポジュームは、「太平洋戦争末期の学童疎開の経験を語り継ぐことは、我々世代の責任でもあり、戦争の不条理を訴え、平和への道につながる」という趣旨だったのですが、集まった聴衆も、セミナーの性質上、ほとんどが、いわゆる後期高齢者の方々ばかりでしたから、語り継ぐというよりも、語り合うシンポジュームになってしまいました。
 パネラーの方一人一人の経験談を聞いて、ひと口に疎開と言っても、学校単位で同じ屋根の下で暮らす集団疎開と、個人の家に預けられる縁故疎開では全く条件が違ったのは当然として、同じ学童集団疎開でも、疎開先の事情によって大きな違いがあったことがよく解りました。
 学童集団疎開の受け入れ先は、各地の温泉街の観光旅館や駅前の商人旅宿か、お寺が殆どでした。一つの学校が一つの施設で収容しきれずに、二か所三か所に分散寄宿した例もあります。縁故を頼る個人疎開の中でも、親たちの郷里の親戚を頼って預けられる疎開の他に、今回のパネラーの一人のように、地方に全く地縁血縁のない地方に、親たちの僅かな伝手を頼って、他人の家に一人で預けられるケースもあったのです。
昭和17年までは、「帝都防衛を逃れて疎開などとは以ての他! 来るべき本土決戦のために、一億一心、火の玉となれ!」と言ってきた東條内閣だったのですが、昭和18年4月、初の米軍艦載機帝都東京侵入が行われるに及んで、急転、「本土決戦に臨み、帝都(および拠点都市)防衛の足手まといを除く」ということで急遽実施された児童疎開ですから、疎開先の児童の教育、食糧確保、施設経営などの責任は、ほとんどすべて、引率の教師と在京の父兄(保護者)の肩に負わされていたのです。
 疎開当初は、許されていた保護者の現地訪問面会で疎開児童と肉親との接点が僅かに残されていたのですが、その後戦況がますます悪化すると、東京では、衣類、食料品などがひっ迫した上に、鉄道乗車券の取得もままならなくなり、いよいよ帝都東京空襲が切実になってきた昭和19年末頃には、保護者が疎開地を訪れることもほとんど出来なくなって、疎開先によっては、乏しい配給で飢餓に近いほどの空腹にあえぐ子供たちの食料調達なども、すべてが同行した先生の才覚で、現地の協力的な農家などに頼って細々と維持されなければならなかったのです。

 当日のセミナー受講者の中に、はからずも90歳を大きく超えてなお矍鑠としたもと教員の女性がいて、生徒を引率して集団疎開した経験を積極的に発言して頂けたこともあって、学童集団疎開を、多角的に理解することが出来ました。さらに、疎開児童を受け入れた地域からの来場者の発言で、たしかに、疎開児童を排斥したり、苛めたりした地域もあったけれども、都会の子供を好意的に受け入れて友だち関係を築き、戦後から今日に至るまで、毎年相互訪問して交流を深めている、というケースも披露されたのです。

 学童集団疎開は、帝都東京の40万の子供たちを空襲から救ったと、高く評価する論説も説もあります。その反面、折角疎開しながら、昭和20年3月はじめに、中学校受験のために疎開地から東京に戻った6年生のうち、3月10日未明に行われた米軍B29重爆撃機による東京焦土化作戦のいわゆる絨毯爆撃で、家屋密集地帯だったために最も被害の大きかった本所深川方面だけで3万名余の生徒が犠牲となった、という事実も披露されて、セミナーとしては、学童疎開は、結局、戦争が生んだ、あってはならない悲劇であった、という纏めで終わったのです。中学受験のために帰京して、3月10日の空襲で犠牲になったのは、僕のクラスでは、前号に触れたように、僅かに一名でしたが・・・
 15年ほど前、京都の撮影所で仕事している時分のある日、阪急電車駅で電車を待つ間に話しかけられた高齢者に何年生まれかと訊かれて、昭和7年と答えた途端に、
「ああ、一番勉強していない歳だ・・・」
と言われたことがありますか、まさしくその通り、勉強しようにもその環境が全く与えられなかった生まれ年なのです。

 ところが、セミナー終了後の、中華料理店の大テーブルを囲んでの、パネラー、聴講者合同の懇親会になると、酒を汲みかわしながら、経験者それぞれのエピソードが披露されるうちに、どこか、あの頃を懐かしむ気持ちが支配してきて、「疎開経験を語り継ぎ、反戦を唱える」という趣旨から外れて、傍目で見れば、老先生を囲んで、学童疎開を懐かしむ同窓会のような雰囲気になってしまったのです。
「ああ、やっぱり・・・」
と、僕は思いました。いつの場合もそうなってしまうからです。
僕達の学校仲間は、終戦以来今日までの70年の間、ほぼ隔年といっていいほどの頻度で、小学校仲間たちに声を掛けては男女取り混ぜて同期会を開いてきたのですが、何時の場合も、辛かった集団疎開の話をしながら、いつの間にか、あの頃を懐かしむ会になってしまうのです。このセミナーでも、やはりそうなってしまったのです。
「忘却とは、忘れ去ることなり・・・」という、戦後大ヒットしたラジオドラマ「君の名は」(後に、佐田啓二、岸恵子主演で松竹が映画化)で、菊田一男が冒頭の決まり文句に使った、あまりに当たり前の語句でありながら、しかし一種不可解な、なにか哲学じみた惹句がありましたが、まさにその通りなのです。
 時間というものは恐ろしいもので、あれだけひもじくて、辛くて、悔しくて、愚かしかった学童疎開の経験が、時間が経つにつれて、ちょうど、真珠貝が、体内にこじ入れられた堅く尖った核を、やわらかな舌に包みこんで、ゆっくりゆっくり、長い時間をかけて舐めつづけるうちに、やがて、まろやかな美しい珠に変えてしまうように、辛かったこと、悲しかったことも、時間の作用によって風化してしまい、なぜか、楽しかった思い出に転化してしまうのです。そして、その思い出の中心に、必ず、先生がいるのです。

 今から20年ほど前、あるテレビ局の戦後50年記念ドラマ募集に応えて、僕は、自分が経験した学童集団疎開の実録をもとにしたドラマ企画を提案して、佳作に選ばれたことがあります。少年少女期の集団疎開が、児童たちの人間形成にどんな影響を与えたかをテーマにしたドキュメンタルドラマの企画でしたが、その時には、戦時疎開学園の敷地や建物がほとんどそのまま残っていたので、現地ロケでドラマ化しようと思ったのです。
「実現したら製作費は、どの位・・・」
企画審査中に局側から問われて、
「少なくとも50人の男の子を丸坊主にして、30人の女の子をおかっぱ頭にして、現存する学寮の障子を張り替えたりするなど、当時を再現して、出来れば夏、秋、冬、初春の4回現地ロケをするとして、ざっと3億円でしょうか・・」
と答えたせいかどうか、結局佳作入選に終わってしまったのです。残念なことにその学校寮は、数年前に漏電とかで焼失してしまい、企画はそのまま今日まで氷漬けになっていますが・・・
 その中心にも、先生がいるのです。小学校低学年から卒業まで、感受性の最も高い時に触れ合い、ほぼ一年の間、親から離れて育った疎開児童たちと明け暮れを共にした先生こそ、いわば、育ての親というべきなのかもしれません。

 「やっぱり、先生だな。」
宴たけなわの中で、ひときわ大きな声で、パネラーの一人が、結論づけました。
「なんといっても、引率の先生の影響が、一番大きいよ!」
私達疎開学童世代の人格形成にもっとも大きな影響を与えたのは、ほぼ一年間寝食を共にした担任の先生だった、というのです。

 教育勅語を暗唱させ、声を揃えて、首相の業績を讃える幼稚園。その学園の小学校建設についての疑惑に世論が沸き立ち、政権が火消に大わらわになり、マスコミが売り上げ向上のチャンスとばかりに煽り立てる一方、この機に乗じて、教育勅語復活礼賛の向きも公然と唱えられる教育カオスあるいは、坩堝のような、指針のない、あるいは、誤った教育理念で、戦後の自由、民主主義教育を全否定して、単一な指針で纏め上げようとする、混迷がつづいている現在、かつて、暗唱させられた教育勅語、軍人勅諭、戦陣訓で、人格形成の最も貴重な少年期の大半を過ごした老いたるバルタン星人は、何を呟こうというのでしょうか。
 教育勅語を金科玉条として暗記、斉唱させられた僕ら下町のガキどもは、当初こそ、
「朕、思うに・・」と始まる勅語をもじり、
「朕、思わず屁をたれた・・・」
と漏らして、こわいこわい祖母に、眼から火が出るほど、ぶん殴られた腕白が、軍人勅諭を唱え、裸足の雪中行軍、と教育されて行くうちに、銃剣の先に取りつけた剣で鬼畜米兵を突き刺す腰だめの銃剣術を身に着け、着火した焼夷弾に身を投じる戦時少国民に染め上げられ、変貌して行ったのです。自爆テロに身を投じるISLの青年、核を抵当に富を勝ち取る将軍様を心底から讃える北鮮の若い婦人・・・
 教育勅語の部分使用、などという安直な道徳教育を容認する、教育勅語教育を受けたことのない世代が、戦後民主主義教育を全否定して標榜する教育とはいったい・・・
 おそらく将来ただの一度も、ナイフ(肥後の守)で鉛筆を削る機会などない一年生が、鉛筆を削ってみせる僕の手もとを、一生懸命、ひたむきに見つめる視線に、若年期教育の責任の重大さを痛感するのです・・・


ZAEMON 時空の旅人 №12 [雑木林の四季]

第七章 「宇宙十字軍」

                                       文筆家  千束北男


ZAEMONの要請に、ひとつ、深いため息をついてから、徳治さんは、僕が想像だにしなかった、信じられないほど恐ろしい出来事を、一気に語ってくれたのです。
「東京オリンピックの開かれた西暦2020年には、世界大戦争時代とでも呼ばなければならないほど、地球上の各国が入り乱れて戦争を引き起こしていました。いや、国同士の戦争ばかりでなく、同じ国の中でも、いろいろな勢力の間に戦争が繰り返されるありさまで、国連の存在などは、まったく意義も能力も失ってしまったのです。資源、領土、宗教、人種などが絡んだ争いですが、すべての争いの根底にあるのは、資源や富の分配でした。つまり極端な貧富の格差が生んだ命の奪(うば)奪い合いでした。日本の場合は、米ロの関係に巻き込まれる形で、あやうく中国と北朝鮮を相手に戦争が勃発しそうなところまで緊迫した場面もあったのですが、日本国憲法が戦争を禁じていたために、ギリギリの外交交渉で自制することができたのです。ねばり強く外交交渉を重ねているうちに、相手国側の国内事情の変化もあって、なんとか妥協することが出来たからなのです。東洋の神秘といわれましたが」
「幸いなことに、日本には、ほかの地域のような、人種的対立、宗教的な対立が根底になかったこともある・・」
しかし、戦争以外のいったい何がこの酸鼻な荒廃をもたらすことができるでしょうか。
「でも、結局は戦争したのでしょう。これはあきらかに戦争による荒廃じゃありませんか。不戦の憲法を持ちながら、日本はいったいどこの国と戦争したのですか」
「日本で行われた戦争の相手は、地球上のどこの国でもなかった・・・」
「え?」
「日本は、全宇宙を相手に戦わなければならなかったのです」
「全宇宙を相手に? どういうことですか、それは。やめてください、徳治さん。僕は、つくり話でなく事実を知りたいのです」
「そのとおり、徳治さんの話しているとおりが事実なのだ」
徳治さんとZAEMONが、真面目くさって返してくる荒唐無稽としか思えない返答に、僕はとうとう笑い出してしまいました。
「ははは、話が突飛すぎて、僕にはまったくわかりませんが、日本が、どこの国とでもなく、全宇宙を相手に戦争しただなんて、そんな荒唐無稽な話を信じる歳ではありません・・」
「宇宙十字軍が、地球人殲滅のためにやってきたのだ」
ZAEMONの口調はあくまで変わりません。
「宇宙十字軍だなんて・・・なんですかそれは、そんなものがあるんですか・・・地球人殲滅? どういうことか、ますますわかりません!」
二人にからかわれているような気がして、少し不愉快になってきました。
「日本は、たまたま宇宙十字軍の地球人殲滅の第一の標的に選ばれたに過ぎないのです」
徳治さんとZAEMONのますます真面目な返答を聞いて、僕は、はっと、気がついたのです。
前々から、ずっと持ち続けていた疑いが、あらためて頭をもたげたのです。
(そうか、おかしいおかしいと思っていたが、やっぱりこれはゲームだったのだ! ZAEMONが作ったに違いない精巧きわまりないゲームにちがない。とすると、ボクの役割はなんだ? 帝国の王子? すると、カオリは、帝国の姫君・・・)
ZAEMONが、僕に向けている鋭い眼光にめげまいと、僕は、大声を出しました。
「ZAEMON! 僕は、現実を知りたいんです。ゲームやファンタジーでなく、西暦2030年の日本の姿、現実を見たいのです!」
ふと、眼前に広がる廃墟のむこうに見つけた国会議事堂らしき建物に、不気味な旗がひるがえっているのが目を引きました。髑髏に十字架の異様な旗印。これが、いわゆる宇宙十字軍の旗印だとでもいうのでしょうか。これは、滑稽だが、かなり精巧にできているジオラマだ。
「よろしいですか、ハヤトさん、いま、目の前にあるこれこそが現実なのです。これが、西暦2030年の日本の現実なのです」
「重なる大災害の後、ようやくオリンピックをやり終えたものの、政治的、経済的に混乱していた西暦2025年の日本に、突然、宇宙十字軍が進攻してきたのだ」
「また宇宙十字軍ですか・・・そんなものがなぜ日本に攻めて来なければならないのですか!」
「よろしいですかハヤトさん。正しく申し上げると、まず、それ以前に、すでに民主主義国家としての日本は存続していなかったのです」
「日本が民主主義国家として存続していなかった? どういうことですか、どうしてそんなことが・・・」
「無理を押して開催した東京オリンピックの後遺症というべきでしょうか。日本は、その後たちまち極端な不況に陥ってしまったのです。経済の成長こそが国民の支持をつなぎとめる政策だと信じ込んでいた政権は、慌てふためいて次々に奇矯としかいえない思いつきの経済政策を打ち出したのですが、世界の潮流を読み違えた金融出動が、すべて的外れに終わってしまい、結局は経済的な混乱から、総辞職に追い込まれたのです。その後は、絶え間なく短期政権の乱立を繰り返したあげくに、最終的には、業を煮やした財界が、軍を動かして権力を握り、財界が支配する傀儡政権を出現させたのですが、その末路は・・
国民の最低生活さえが保障されないという、悪魔と手を結んだ非人間的な、切り捨てごめんの政治が行われる恐慌社会が到来してしまったのです」
「いびつな経済成長政策がもたらした極度の貧富の差が、さしも穏健な日本国民の辛抱の限度を超えたのだ」
「株式会社政府打倒の激しい闘争が各地で繰り返されると、政権は躍起になって、軍、警察による強硬な取り締まりを行ったのですが、闘争はますます過激化するだけでなく、ついには、警察や軍の内部からも同調者が出るありさまで、内戦にこそ至りませんでしたが、西暦2025年ごろには、ほとんど無政府状態になってしまったのです」
「そんな・・・・・」
僕が、信じられないと口に出す前に、徳治さんが言葉を続けます。
「そんなところへ、宇宙十字軍が攻め込んできたのですから、ひとたまりもありませんでした」
「・・・・・」
「ごらんの通りです。この光景が、その結果に他ならないのです」
「ゲームや、ファンタジーであってほしいと思うのは当然だが、ハヤト、これが、西暦2030年の日本の現実なのだよ・・・」
ZAEMONは、とっくに僕の心のなかを読み取っているのです。
それにしても、どういうことか、眼前の光景のなかに、人間の姿がまったく見当たりません。人々はいったいどうしたのでしょう。
(やはりこの光景は、精巧にできたジオラマか、バーチャルな映像では・・・)
となおも質問を投げかけようとしたその時、
「あああっ!」
「うおーっ!」
ズン、と、下から突き上げるような衝撃がピルグリム三世を襲ったのです。
僕たち三人は、天井に叩きつけられ、
「おおおおおっ!」
態勢を立てなおす間もなくこんどは、
「うわっ!」
床に叩きつけられたのです。
そして、
眼前のスクリーンに突如、画面からはみ出るような巨大な眼球が、浮かび上がり、しかも、その視線が僕をとらえているではありませんか。巨大な眼の瞳には、小さな僕の姿が映っています。
なにか、想像を絶するほど大きな生物の眼、
「ぐおーっ!」
叫びとも、地響きともつかない大音響が、なおもピルグリム三世を振動させて響き渡ったと思うと、今度は、
「こ、これは・・」
さしもの徳治さんが言葉を失います。
僕たち全員が、床ごと、ぐぐぐっと、持ち上がってゆくのです。
なにかとてつもなく巨大なものが、ピルグリム三世を掴みげて振り回そうとしているのかもしれません。
その時です。車いすのZAEMONが動きました。
ZAEMONの恐るべき敏捷な動きは、文字通り電光石化、眼にとまらない速さでした。
なんと、車いすごと天井に叩きつけられたはずのZAEMONが、一瞬の動きで、まるで獲物に襲い掛かる鷹のように操縦席に移動して、徳治さんから操縦桿を奪い取ったのです。
と、次の瞬間、
スクリーンに映っていた巨大な顔面が、強烈な打撃を受けたかのように、苦痛にゆがんで、遠のいていきました。
「グレンデル!」
ZAEMONと、徳治さんが同時に叫びました。
いま、突然襲ってきた巨大な怪物の名でしょうか、
バルタン星人が作ったというピルグリム三世には、危害を加える相手に対して、瞬時に強烈な衝撃を与える装置られているようです。
怪物は、思わぬ衝撃をうけて取り逃がした獲物を探そうと求めて、恐ろしい形相で、せわしなくあたりを見回しています。
「危ういところでした。艇長の時元操作が一瞬でも遅れたら、我々は、ピルグリム三世ごとグレンデルに噛み砕かれて、西暦2030年の現実に吐き出されるところでした」
「・・・・・」
徳治さんの言った聞きなれない時元操作とは、、相手からは感知されない異時元に移動する操作です。カオリさんがいればもっと明確に説明できるでしょうが、たぶん、縄文時代を訪れた時に位置した時元差のバリアーのことではないかと思います。
「おみごとでした、艇長・・」
「いや、まさに間一髪で、グレンデルの餌食になるところだった・・・」
言葉とはうらはらに、徳治さんとZAEMONは、まるで何事もなかったように、平静を取り戻しています。
グレンデルとは、イギリス最古の英雄叙事詩「ベオウルフ」に登場する恐るべき食人鬼の名です。
「グレンデルは、宇宙十字軍の主力兵器の一つで、総重量が、地球の単位でいう40万トンを超(こ)超えているのではないかと思われる恐ろしい重さで、大抵の建造物であれば、難なく破壊して踏みつぶしてしまう巨大なバトルツールです。見かけはロボットのようですが、生命があるのではないか、と思われるふしもある、まるで妖怪のような兵器で、始末に負えません」
さらに驚いたことに、巨大妖怪兵器グレンデルの説明をする徳治さんの手には、いつの間に用意したのか、コップになみなみと注がれた、見るからに清涼な飲料が二つ、捧げ持たれているではありませんか。
「ピルグリム三世は、一瞬の間に時間の壁に隠れました。おそらくすでにお気づきの通り、縄文の時と同じ原理です。異時元に移動したわれわれは、もうグレンデルに気付かれる危険はありません。ひとまずこれを・・・」
わずかな時間に矢継ぎ早に訪れた想定外の展開にあっけにとられていた僕には、すぐさま差し出されたコップに手を出す余裕など、とてもありません。
「それを飲んで、気を落ち着けなさい、ハヤト。これから我々が遭遇する危険は、とてもこんなことではすまないのだ」
ZAEMONは、ゆったりと、喉を鳴らして、その清涼な飲み物をのみ下しています。
僕は、たったいまの興奮が冷めずに震え続ける手を伸ばして、言われるままに、徳治さんが差し出しているコップを受け取り、わずかにミントの香りのするそれを口にふくみました。
それは、相変わらず美味でした。激しかった胸の動悸が、瞬く間に収まってきます。
しかし、と僕は、冷静をとりもどしながら、今見せられたばかりの現象を分析してみました。
(一体、西暦2030年の日本で何が起こっているのか。その全体像は・・世界は・・地球は・・)
(我が家はどうなっているのか・・・パパ、ママ、そして、だいいち、僕自身がどうなっているのか)
いまの僕はもう、西暦2014年の気の弱いボク、水嶋ハヤト少年ではありません。そう自覚すると、なんとしても、この錯綜した状況の本質を確かめたいという、強い欲望が突き上げてきました。
(西暦2030年の僕は、いったい、どこで、何をしているのだろうか、それが知りたい!)
「待ちなさい、ハヤト!」 
いちはやく僕の意志を読み取ったZAEMONが押しとどめようとするのをしり目に、僕は迷うことなく、宇宙船ピルグリム三世の出入口の不思議な扉に突進して、体当たりしたのです。
やはり僕の想像にまちがいはありませんでした。扉に激突するはずの僕は、何の抵抗もなく扉を素通りして、外へ転がり出ていたのです。
そして、
「あーっ!」
あの、運動会のときと同じです。一瞬、鳥になって飛んだときのような、無自覚の意識のなかで、ZAEMONの叫びが聴こえたのです・・・
「ハヤト! 西暦2030年の現実(リアル)に巻き込まれるぞ!」
                                 つづく


BS-TBS番組情報 №136 [雑木林の四季]

BS-TBS 2017年4月のおすすめ番組(下)

                                      BS-TBS広報宣伝部

お宝映像大発見!昭和歌謡スター大集合3

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2017年4月16日(日)よる6:00~8:54
※途中ミニ枠あり

☆昭和歌謡のヒット曲を、スター達の生歌と当時のお宝映像で贈る!至極の歌謡大全集第3弾。

司会:井上順、豊田綾乃(TBSアナウンサー)
ゲスト:五月みどり、橋幸夫、マヒナスターズ、渚ゆう子、葛城ユキ、ニック・ニューサ <出演予定順>

昭和歌謡のヒット曲の数々を当時の懐かしの映像で振り返りながら、ゲストの歌手ご本人による生歌とトークで展開する歌謡曲大全集、第3弾。今回は放送時間も計3時間に拡大し、多彩なゲストが登場。今回は、司会の井上順も生歌を披露。かまやつひろしさんとのエピソードも語る。
そして、都はるみ、西郷輝彦、ザ・ピーナッツ、八代亜紀、森進一など、スターたちの貴重な映像をたっぷりご紹介!
【スタジオ披露曲】 (出演予定順)
●五月みどり 「温泉芸者」「おひまなら来てね」
●橋幸夫 「雨の中の二人」「恋をするなら」
●マヒナスターズ 「愛して愛して愛しちゃったのよ」「誰よりも君を愛す」「泣かないで」
●渚ゆう子 「京都の恋」「京都慕情」「さいはて慕情」
●井上順 「お世話になりました」
●葛城ユキ 「ボヘミアン」「ヒーロー(Holding Out for a Hero)」
●ニック・ニューサ 「サチコ」「放されて」

【VTR紹介曲目】  (紹介予定順)
「東京セレナーデ」都はるみ、「あれから一年たちました」小林幸子、「命燃やして」石川さゆり、「東京ららばい」中原理恵、「北国行きで」朱里エイコ、「かもめ」西郷輝彦、「うすなさけ」中条きよし、「美しい別れ」いしだあゆみ、「情熱の砂漠」ザ・ピーナッツ、「ともしび」八代亜紀、「星の砂」小柳ルミ子、「終着駅」奥村チヨ、「あゝ無情」アン・ルイス、「越冬つばめ」森昌子、「あなたしか見えない」伊東ゆかり、「いけネェいけネェもういけネェ」井上順、「味噌汁の詩」千昌夫(※味噌汁の噌は正しくは口ヘンに曽)、「六本木ワルツ」フランク永井、「シクラメンのかほり」布施明、「アメリカ橋」狩人、「襟裳岬」森進一、「これで日本も安心だ!」植木等

ノジマチャンピオンカップ箱根 シニアプロゴルフトーナメント

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2017年4月20日(木)よる7:00~8:54 「1stラウンド」
2017年4月21日(金)よる7:00~8:54 「Finalラウンド」

☆日本プロゴルフ界のレジェンドたちによる、シニアツアーが熱い!

国内シニアツアーの2017年度の開幕戦「ノジマチャンピオンカップ箱根シニアプロゴルフトーナメント」がいよいよ開催となる。国内男子ツアー最盛期の1990年代に活躍していたレジェンド達による円熟の技の数々や、50歳以上とは思えない迫力のプレーを、会場そして放送で味わえる。闘いの舞台は「箱根カントリー倶楽部」。富士箱根伊豆国立公園内に位置した雄大なロケーションの中、赤星四郎氏が“あるがまま”を基本に設計し各ホールが独立した個性を有したコースだ。
シニア転向1年目で4度優勝を果たし2016年の賞金王に輝いたプラヤド・マークセン、昨年の第一回大会のチャンピオンで地元・神奈川県出身の秋葉真一、過去二度のシニアツアー賞金王にも輝いた日本プロゴルフ協会会長・倉本昌弘、日本人男子初のメジャー競技大会優勝の井戸木鴻樹、今年シニアデビューとなる川岸良兼など出場予定のレジェンドたちが、戦略性豊かな箱根カントリーのコースをどの様に攻略していくのか注目だ。
解説:金子柱憲プロ
実況:松下賢次

もう怖くない!? がん医療最前線

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2017年4月23日(日)よる7:00~8:54 【第一夜】
2017年4月30日(日)よる7:00~8:54 【第二夜】

☆がんは治る時代へ!がん治療&予防、超早期発見の最新情報が続々登場。

ナビゲーター 真矢ミキ
監修・コメンテーター 冨田 勝(慶應義塾大学先端生命科学研究所 所長)
ナレーション 南果歩(女優) 武田広

日本人の死因第一位「がん」。長きにわたり“不治の病”として恐れられてきた「がん」であるが、いま、医学とテクノロジーの進歩によって“がんが治る時代”の幕が明けようとしている。この番組では、二夜に渡って「最先端治療」「がん予防食」「超早期発見法」「がんとの向き合い方」などをテーマにしたドキュメンタリーを軸に、究極の謎であった“がん”の黒幕に迫っていく。
ナビゲーターは女優の真矢ミキ。監修・コメンテーターは、わずか一滴の唾液からがんを発見する新技術を開発し、いま世界から注目を集める医学・工学博士の冨田勝氏。
放送時の反響にこたえ、再放送が決定。2週連続でお送りする。

【第1夜】「ここまで来た!驚異の最新治療法」
第1夜は、見れば、「がんはもう怖くない!」と言いたくなる、最新のがん治療技術が続々と登場。国内・国外のがん研究の現場を取材し、「新時代のがん治療」を紹介する。
▽風邪ウイルスががんを治す!?“毒をもって毒を制す”驚異のウイルス療法
▽がんを “兵糧攻め”!?栄養補給の道を断ち、がん細胞の増殖を防ぐ。雅楽奏者・東儀雅美さんも受けた日本発の治療に海外が注目。
▽免疫力をパワーアップして、がんを倒す!最新の免疫療法とは?
▽オバマ前大統領も大注目!近赤外線を利用して、がん細胞のみをピンポイントで叩く最新治療とは?

【第2夜】「予防食、超早期発見、がんとの共存」
最新のがん治療技術を紹介した第1夜に続き、第2夜は、「がんに負けない食生活」「超早期発見の画期的方法」「もしがんになったら、どう向き合うのか?」の3大テーマを中心に、最新研究によって、100年来の謎だった“がんの黒幕”にまで迫っていく。がん闘病中の女性に密着したドキュメントも。
▽がんに負けない食生活で注目される意外な食品とは?ステージ3の肺がん発見から16年生存!鍵は「植物性乳酸菌」!?
▽“早期発見”から“超早期発見”へ!キーワードは「代謝異常」。わずか一滴の唾液でわかる、革新的ながん診断とは?
▽がんを引き起こす“黒幕”を発見!100年の謎とされたその物質はコレだ!
▽がん予防を導く “茶色い宝石”!?腸内フローラとがんとの驚くべき関係とは?
▽もしもがんになったら…。乳がん闘病中の女性に密着取材。なぜこんなに前向きに生きられるのか?
▽“乳がんサバイバー” 乳がん患者のためのNPO法人代表の女性に密着
▽未来のがん治療の象徴…医師・看護師・薬剤師ら全スタッフが垣根を越えて行う“チーム医療”とは?
▽がんと闘う子どもたちを支えるプロフェッショナル、“チャイルド・ライフ・スペシャリスト”に密着。


ロワール紀行 №53 [雑木林の四季]

シヨォモンの城
     失意の、二人の女性が住んだ

                             スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎

 ブロワから南へ二十粁。
 新緑したたるトウール街道の美しい森を抜けては入り、ロワールの岸を下ると、アムボワーズを指呼に望み、シヨォモン・シュル・ロワールChaumont-sur-L'oireの小さな町がある。
 シヨォモンのシャトオほ、美しい公園にかこまれてロワールの流れを一眸におさめる景勝の台地にある。ここから望む、ロワールの風景は絶佳。
 だがこの美しい景観も、眺める人の境遇によっては、裏街(うらまち)の溝川(どぶがわ)にも劣るものらしい。
 十九世紀の初め、スタァル夫人が、ここにしばらく無聊(ぶりょう)をかこっていたことがある。
 或る日、シャトオの主人が失意の彼女を慰めながら、ここから眺めるロワールの美しさを自慢した。
 彼女は憂鬱そうに答えた。「まったく、ここの風景はそれは美しうございますわ、でも私には、Bac(バアク・ヴェルサイユ南方の小村)の小川の方が、よほど好ましく思われます。」
 その自由主義思想のため、ナポレオンの忌諱(きい)に触れた彼女が、パリを追放され
このシャトオにしばらく滞在していたときの挿話である。
 この美しいシャトオは、一五二〇年に再建された。シヨォモンの古い城は、二回も焼かれた。最初は、所有者アムボワーズ家のお家騒動、二度目はルゥイ三世に取り潰された。
 彼は王権を確立するため、各地に割拠する大諸侯の権力を減殺しようと試みた。
 ブウルゴォニュ、アンジュウ、プロヴァンス、アムボワーズなどの諸侯を破り、その領土の大半を没収し、フランス王国強化の基礎を固めた。一四七七年のことであった。
 アムボワーズ家の居城の一つ、ここのシャトオは、そのとき完膚なきまでに取り壊されたという。
 その後、城郭でない城館としてシャトオの復活が許され、アムポワーズ車のシャルル一世、シャルル二世の二代にわたり再建された。
 正面から見る外観は、堅固な城郭のような印象を与えるが、側面から見ると、僅かに北西巽部と西塔だけが要塞化しているのみ。他の大部分は、単なる住居用の城郭の構造である。
 この建て方では、いくら中世でも戦闘の用にはならなかったであろう。徳川幕府の築城禁止令に似たようなことが、中世フランスでも行われていたことは興味深い。
 シャトオの様式は、ゴシックにルネッサンスの滲透した典型的なもので、お伽(とぎ)の城のような華麗さである。
 中世フランスの歴史は、女が彩(いろど)る。
 このシャトオもプロワやシュノォンソオなどのように、女性にまつわる話が多い。
 アンリ二世は好きな騎馬試合で、誤って騎士モンゴメリィの槍を眼にうけ、死んだ。一五五九年のことであった。
 王妃カトリィヌ・ドゥ・メディシスは、王の寵妃ディアヌ・ドゥ・ポワチエを、美しいシュノォンソオの城館から追い立て、このシヨォモンの城に、移り住まわせた。
 何時、暗殺されるかと、悍婦メディシスの復讐を恐れつつ、ポワチエが憂愁の日を送ったのも、ここのシャトオであった。
   悲境にあって、幸福の日を思い起すに、まさる悲しみはない。 -ダンテ
 彼女はここで楽しかった昔日を追想しつつ余生を過した。
 ボワチエは、日常、黒と白の衣裳しか身につけなかったという。それがまた彼女の美しさを一層深めたという。
 シャトオを警護した「騎士溜の間」の石壁に、ポワチエの肖像画が飾られていた。カンヴァスに見る素顔の彼女は、非常に知的な印象の女性である。
 それにしても、この顔を、王が二十三年間も飽かず眺め、恋い焦れたのであろうか。王様は、流石に偉いものである。
 ルゥヴルにジャン・グゥジョンの、『狩をするディアヌ』と題する、雄鹿に騎(の)り二匹のグレイハウンドを従えた、ポワチエの美しい彫刻があるそうだが、残念ながら見落した。
 ルウイ十二世とアンヌ・ドゥ・ブタルクァニュの紋章とともに、シャト才の廊下や壁、部屋のマントルピィスなどに、ディアヌ・ドゥ・ポワチエのイ一のイニシアル「D」の、モザイクのパタアンが、眼についた。
 Chaumont(ショーモン)の名は、何回も焼かれた城《Chaudmont》の意味から出たという。それはまた、アンリ二世の胸を二十三年も焼き焦した、寵妃ポワチエへの熱愛。その長い歳月、一日千秋の思いで、復讐の日を待った王妃メディシスの、嫉妬に燃ゆる女心の激しさをも、併せ意味するのであろうか。
 いずれ劣らず、美しく才たけたマダム・ドゥ・スタァルとマダム・ドゥ・ポワチエ。この二人の失意の女性によって、このシャトオほ私の心に印象づけられる。

『ロワール紀行』 経済往来社


私の葡萄酒遍歴 №42 [雑木林の四季]

第二章チリワインの生産地 3

                                  ワイン・グルマン  河野 昭 

7)Leyda Valley(レイダー・ヴァレー)                                                  サンアントニオ・ヴァレーの東の低い沿岸山脈の丘の谷間を、Leyda Val:ey(レイダー・ヴァレー)と言うが、最初にこの地に葡萄の植え付けを行つたワイナリーが、ビーニャ・レイダだったので、「レイダー・ヴァレー」と呼ばれるようになったと言われている。
そのビーニャ・レイダが牽引車となつて、サンアントニオ・ヴァレーの開発が活発に行われるようになつたので、この地だけ個別にDO栽培地に指定されたようである。

8)Maipo Vailey(マイポ)
マイポ・ヴァレーのブドウ栽培は、大都市サンティアゴに近いことから、19世紀中葉、フィロキセラがヨーロッパの葡萄畑を荒らす前に、ボルドーから直輸入した苗木から始まった。
それが、チリを多様なボルドー系品種(カベルネ・ソーヴイニヨン、ソーヴイニヨン・ブラン、メルロー、カルムネール)の宝庫にした始まりである。

マイポは、気温が最も高く、セントラル・ヴァレーでは最も小さな栽培地域だが、19世紀から続く伝統的な大手のワイナリー(コンチャ・イ・トロ、サンタ・リタ、サンタ・カロリーナ等)もあれば、1990年代に生まれた新興ワイナリーもある。

工業スケールの大規模農園から実験的で小規模ブティック・ワイナリー、又、有機栽培の農園まで、実に多種多様なワイン造りが展開されている。加えて、近年は外国資本も参入している。
その中心に大都市サンティアゴ(人口600万)を抱えるこの産地は、名実ともにチリワインの中心である。

マイポは基本的にボルドー系の赤ワインの里であるが、「Aito Maipo一アルト・マイポ」と呼ばれる、アンデスの麓を這い登る栽培地は、アンデス山脈から吹き降ろす冷涼な風の影響で、昼夜の温度差が極めて大きい。それが、タンニンのしっかりした風味の良いワインを産む。
アルマヴイヴァ、アウレア・ドマス、カサレアル(サンタ・リタ)、ハラス・デ・ビルケ(ケプレダ・デ・マタル)、ヴイネード・チャドウイツタ(エラスリス)など、チリで最も賞賛されている赤ワインを生み出した。

Rapd ValLy (ラベル・ヴァレー)は、サブリージョンであるカチャポアル・ヴァレーとコルチャグア・
ヴァレーで構成されている。
カチャボアルとコルチャグアは、瓶のラベルの産地表示にラペル・ヴァレー以上に頻繁に見られる産地名であるが、それは、ラペル・ヴァレーという呼称は両サブリージョンのブレンド品に限定使用されているからのようだ。

9)Cachapoal Valley(カチヤポアル・ヴアレー)
サンティアゴからパンアメリカン・ハイウェイを車で2時間ほど南下したところに位置するカチャポアル・ヴァレーは、海岸山脈とアンデス山脈に囲まれているから、渓谷内の夏場の気温は30度以上に上がる。
しかし、海岸山脈の渓谷から流れ込む海風と東側のアンデス山脈から流れ下る冷気で、夜間は冷やされるから、昼夜の寒暖の差は大きい。
それが色のしっかりした、フルーティーでかつまろやかなワインを生んでいる。また、比較的乾燥しているため、ほとんどすべてのブドウ園にはドリップ式灌漑が設置されている。

概して赤ワイン用ブドウの栽培地と言えるが、丘陵地帯の一部では高品質のシャルドネも栽培されている。カベルネは勿論だが、チリで最もメルローの栽培に適した産地のひとつとされている。近年、カルメネールの栽培も行われるようになつた。
近隣のラペル湖は避暑用のコテージが多く、大衆的な観光地となつており、夏場にはウォータースポーツを楽しむ人々で賑わいを見せている。

10)Co:chagua Valley(コルチヤグア・ヴァレー)
サンティアゴから車で南へ約2時間30分のところに位置する。 ここ十数年でもつとも成長している産地で、丘陵地に向かつて今なお拡大を続けている。

この地も昼夜の温度差は大きいが、海岸山脈に近い地域は、冷たい潮風の恩恵を受けて、フルーティーでバランスいいワインが生産される。
主なフイン生産拠点は平野部のナンカグア、サンタ・クルス、パルミージャ、ペラリージョなど。

肥沃な平野部から離れ、痩せた土壌の丘陵地帯では、厳しい自然条件の中から、糖分、タンニンの凝縮されたブドウから、プレミアム・ワインが生産されている。特に、アパルタ、ニンケンといった産地は世界的なフイン専門誌でも注目される存在となつている。

外国投資も積極的に行われており、ラポストル・マルニエやロス・チャイルド・ラフィテなど、世界的に有名なワイナリーと地元フイナリーとのジョイントベンチャーが実現されている。
メルローやカルメネールといつた品種でも優れた成果を上げているが、この地域は特にカベルネ・ソーヴィニヨンの栽培に適していると言われ、ここ十数年の間に同品種の栽培が顕著に拡大してきている。
また、近年産地の大きな期待を集めている品種としてシラーがある。

コルチャグア・ヴァレーは、今ではチリ各地で行われるようになったワイン街道ツアー発祥の地である。中心の街サンタ・クルスには、産地の歴史をテーマとした博物館や5つ星ホテルもあり、毎年3月の収穫祭は農村の伝統料理とワインに舌鼓を打つ人々で大変賑わいを見せている。


いつか空が晴れる №14 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
      -sunny~敗北を抱きしめてー

                                              渋沢京子

 日本はまだ敗戦後の占領期のままなのではないのかと思ったのは、イラク戦争のブッシュ大統領の声明に間髪入れず、小泉元総理が何の躊躇もなく「テロとの戦い」とこぶしをふりあげたときだった。いくら日米同盟があるためとはいえ、これってアメリカの言いなりではないの、もしかして戦後はまだ終わっていなかったんじゃないの?と。

 子供の頃、祖父の家に遊びに行くと、その洋館の部分にはアメリカ人一家が住んでいて、ヘンキーという年の近いアメリカ人の子供とよく一緒に遊んだ。
 祖父の家は、別に大した邸宅でもなかったけど、家の半分は戦後進駐軍に接収されて、その流れでアメリカ人が住んでいたのだ。ヘンキーは大人から見るとやんちゃな可愛い子供だったようだけど、同じ子供の私から見るとただの乱暴な子供でしかなかった。
 春になると庭にはおたまじゃくしからかえったばかりの小さな黒い蛙の赤ちゃんがたくさん歩いている。ヘンキーが家からマッチ箱を持ってきて、それを蛙のお家にしようと、二人でマッチ箱の中に蛙の赤ちゃんを入れた。蛙の小さなお家なので、二、三匹のつもりがヘンキーは次から次へとマッチ箱に小さな蛙を詰める、マッチ箱の取り合いの末、ヘンキーは私に渡すまいとマッチ箱をボール代わりに何度も何度も空に放り投げた。やっとヘンキーから取り上げたマッチ箱を開けてみると、小さな蛙はほとんどが団子状に絡まり死んでいた。
 それ以来、私はヘンキーとは遊ばなくなった。私と遊ぼうと雨の中でヘンキーが楽しそうに踊ってるのを見ても庭には出なかった。母が家の中に遊びにいらっしゃいと余計な気を利かしてヘンキーを呼んだけど、家の中には入ってこなかった。
 そして次に祖父の家に行ったとき、ヘンキーはアメリカに帰国していた。

 子供の時によく見たドラマ、「サンセット77」も「パパは何でも知っている」も「ルーシーショー」もすべてアメリカ製のものだったし、私の世代でアメリカ的な生活に憧れた子供は多かったろう。バービー人形でよく遊んだし、青春時代はどっぷりアメリカ音楽に浸っていた。伊東ゆかり、弘田三枝子など歌謡曲の歌手も進駐軍相手に歌っていた歌手が多かった。
 戦前の二村定一やエノケンのジャズに比べて、敗戦後の日本人のジャズには何かうっすらと暗さが漂う、それは日本人のためのジャズではなく、進駐軍、アメリカ人相手に聞かせていたジャズのせいなのだろうか。
 弘田三枝子のsunnyを聞いていると、上手いだけに何かとても切ないようなやるせない気持ちになるのだ。

 そしてその切なさは、いまだに混迷状態が続いているイラク、中東に対する思いにもつながっていく。かつて学生のときバックパッカーとして歩き回った中東では日本人であるというだけであんなに歓迎されたのに、と。


私の中の一期一会 №140 [雑木林の四季]

      森友学園問題でよく使われた言葉、「忖度」(そんたく)について考えてみた
~安倍首相は「財務省近畿財務局の忖度はあったと認めるのが一番」と松井大阪府知事~

                           アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 日本維新の会代表・松井一郎大阪府知事が報道陣の取材に対し、森友学園への国有地売却に関する“安倍晋三首相の対応を批判した”と26日の日刊スポーツ社会・芸能面が報じていた。
 25日に都内で開かれた党大会の後、「火に油を注いだのは皮肉にも安倍総理だ。財務省近畿財務局の忖度があったとハッキリ認めるべきだ」と松井知事が発言したというのである。
 松井大阪府知事は橋本徹前大阪市長と共に、安倍晋三首相と近い関係にあると言われている人だけに、“何を思って”安倍批判ともとれる発言をしたのかに、私は興味を抱いた。
 23日の証人喚問で、籠池泰典氏から「梯子を外された」と悪者扱いされた松井知事は、森友問題の本質を分からなくしているのは「忖度はない」と強弁し過ぎる総理自身にあると主張している。
新聞によれば、松井知事は“森友学園の籠池氏が安倍首相や昭惠夫人の名前を使って、財務省と国有地の売買交渉をした”と考えているのだ。
 なぜ手続きがスピーディに進んだのか?を考える時、昭惠夫人の存在を省く訳にいかない。
 「神風が吹いた・・」と籠池氏も驚くような便宜が図られたとしたら、それは首相の知らないところで財務省近畿財務局の  「忖度」が行われたからだ・・松井知事はそう考えていると思われる。
 首相も“そういう忖度はあり得る”と丁寧に説明すれば、国民も納得するだろう。“全く忖度はない”と強弁するからこういうことになる・・・という論法である。
 松井知事の持論は、忖度にも「良い忖度」と「悪い忖度」があって、「今回は、財務省職員が忖度してサービス精神旺盛な対応をした。でも違法性はない。だから“悪い忖度”ではない」というものなのだ。
 言われてみれば、そうかも知れないが、今更「忖度があった」なんて首相が言ったら大変なことになるだけではないのか。
 私は、忖度に「良い、悪い」があるとは知らなかったので、この機会に“忖度ってどういうものか”を考えてみたいと思った。
 三省堂国語辞典の編集委員で日本語学者の飯岡浩明さんによれば、従来は“母の心を忖度する”とか、“彼の行動の意図を忖度する”のように使われていて、単純に「相手の心を推し量る」場合などに普通に使われていた。だがここ何十年かの間に“忖度”の用法が変わってきていると指摘している。
 最近では、“上役などの意向を推し量る”場合に使うことが多くなった。おべっか、へつらい、上位者に気に入られようとして・・など上役の意向を推察するようなときに使われるようになった。
 “上役の意向を忖度する”意味で使われると、普通に使われていた“忖度”という言葉が“汚れてしまった”感じがすると嘆いている。
 辞書の“忖度”を説明するページに、「役人が政治家の考えを忖度する場合などに使う・・」というような例文を入れる必要があるかも知れないとさえ口にしているのだ。
 “忖度”という言葉が汚れて、“良くないこと”のように使われている現状では、“良い忖度”があると言うのは無理かもしれないと私は思った。
 辞書には、忖度と同じような表現に“斟酌”(しんしゃく)という言葉も載っていて、こちらも「相手の事情や心情をくみとる」時に使われるとあった。
 “単純に相手の心情を推し量る”のが「忖度」で、心情を推し量ったうえで、“それを汲み取って何らかの処置をする”のが「斟酌」だというのだ。
 「何らかの処置・・」イコール「手心を加える・・」としている辞書もあって、“忖度”と“斟酌”では、使い方が違うようである。日本語の難しいところだ。
 籠池氏が外国特派員協会で講演した時、この「忖度」という日本語が外国人記者になかなか理解されず、通訳が苦労したという話しもあった。
 云々を“でんでん”と読んだ安倍首相には、“忖度”を(そんたく)と読めたかどうか、という心配もあったりして・・・
 面白かったのは、元東京地検特捜部の検事だった郷原信郎氏の『官僚の世界における“忖度”について』という3月26日のブログである。
 23年間、検察という官僚組織にいた経験から「確かに言えること」として書かれている。
 ほとんど引用になってしまうが、紹介してみたい。
 郷原信郎氏に言わせれば、“忖度”という言葉は“典型的な官僚世界の用語”だという。
 組織の上位者の意向を、指示や命令を受けることなく推察して、その“上位者の意向に沿うよう行動する”のが「忖度」である。
 他人には分からないように行うのがミソで、“忖度”はされる側には分からないことが多い。
分かるようなものは“忖度”とは呼ばない。直接確認したり、指示・命令に従うのであれば“忖度”する必要が生じないからだ。
 「直接、意向を確認しにくい内容」の案件や「確認し指示を仰ぐと差し障りが生じる事柄」のような時、「忖度」が行われる。
 しかし忖度した人に「忖度したでしょう?」と聞いても、「しました」と肯定する人はあまりいないという。
 官僚の世界では、忖度の習性を身につけ、それを確実に行える人物が“能力の高い官僚”と評価される。
 いちいち上役の意向を確認しなければ対応できないような人間は無能とみなされるそうだ。
 郷原氏は、国会で「忖度した事実はない」と答弁する首相は、官僚の世界における忖度の意味を理解しているとは思えないと書いている。
 忖度することは、官僚にとって特別なことではない。違法・不当な行為は、後にそれが指摘されれば処分につながるので、通常は意図的に違法・不当な行為は行わない。
 だから、“忖度があったのか”とか、“忖度がどの程度影響したのか”を解明しようとしても、ほとんど無理だろうと述べている。
 官僚の世界は終身雇用制で、年功序列が維持されるピラミッド型の組織である。おまけに内閣人事局に各省庁の幹部人事が握られている。
 政治の世界も国会は与党が圧倒的多数で、その与党内も小選挙区制のため、公認候補の決定権を持つ党幹部に権力が集中している。こうした状況は最も忖度が働きやすい構図なのだと指摘している。
 郷原信郎氏は、森友学園の土地売却を巡る問題がここまで深刻化したのは、国有地売却の経過や交渉についての財務省の文書・記録が「廃棄した」とされたからだとみている。
 情報の隠蔽で、権力が忖度の実態を覆い隠しているように見えることが問題だという訳だ。
 森友への国有地払下げや小学校認可に「自分も妻も一切関与していない。もしそんなことがあったら首相どころか国会 議員も辞める」と啖呵を切った手前、安倍首相は「忖度」も「寄付も」あったなんて言える訳がない。
 籠池泰典という人物は、証人喚問ぐらいで降参するようなタマではなかった。
 偽証罪に問われるかも知れない場で、『昭惠夫人が「安倍晋三からです」といって100万円を寄付してくれた』という具体的で強烈な爆弾を投げつけたのだ。一気に安倍一強は大ピンチに陥ってしまった。
同点の9回裏、2死満塁3ボール、2ストライク、次の1球を投げ間違えると、試合に負ける・・のような状況に似ているかも知れない。
 大誤算の自民党は29日、籠池氏は“偽証の疑い濃厚だ”として告発の検討を始めたようだが、昭惠夫人の「寄付はしていない」だって疑おうと思えば疑える。どちらかがウソを言っているのは確実だからだ。
 今回は異例のスピードで国有地の払い下げが行われたことが分かっている。だが財務省にその時の交渉経過の記録や決済書類が残っていないというのは、どう考えても怪しい。
 安倍一強政治の弊害が、森友学園問題で、“忖度”という具体的な形で表れてきたとみる識者もいる。
 メディアやジャーナリストに疑惑を解明する責任があると言われるが、マスコミの世界も忖度と無縁ではないのは悲しい現実である。国会のゴタゴタは、まだまだ当分続くだろう。
 “政権投げだし?” まさかと思うが、安倍首相には「投げ出しの過去」があるからなあ・・


パリ・くらしと彩りの手帖 №119 [雑木林の四季]

ロダンもこれで一安心?あとは私に思いがけないことばかり。

                         在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ


カミーユ・クローデル美術館オープン

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 どの人がどの人の弟子で、どうなって、というような事を知っている人にとってはその関連比較がまた興味あると事に違いないのだ。そしてもともと美術館の建物だったとはいえ、新しく発足するにふさわしい建物に変身し、これを取り巻く街並みはどこか私たちがいつも見慣れたパリに近い街のものとは違って魅力あるところだ。ここのすぐ近くにトロワといいう町があるが、確かここにはあのルノワールが若い頃住んでいたところで、ルノワールの彫刻など、いろいろと見るものがあるし、またこの街には現代美術を集めていたコレクターがあって、街にすっぽり寄付したという事で、昔々、私が訪れた頃、驚くほど当時の最先端の美術作品が見られたという記憶がある。パリから来て、一回りするのに最適のコースになることだろう。今回できたカミーユ・クローデル美術館と合わせて、午後からのプロムナードになるに違いない。
 今回の彫刻家ロダンの死後100年の機会の大展覧会によって18−19世紀の美術、特に彫刻が新しい目で見られている。そしてまた、この機会にたくさんの本が出版された。それぞれの特徴は違うけれど、その中で、ロダンの研究者の一人であるヴィクトリア・シャルルの新しい本”ロダン”(出版社エイロル)は研究者たちが資料として使えるようにも考えているし、そして何よりも写真がたっぷりとあっていい。訳をつけなくても楽しめるだろう。訳があったら更にいいだろうけれど。日本でもどこかの出版社が考えてくれる事を切に希望するところだ。

勅使河原三郎

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                                                                                                                                               さて今度は少し彫刻を離れて、本当の人体の話だ。今年も勅使河原三郎がパリのシャイヨー劇場に来るというので、実は楽しみにしていた。電話がきて、来るでしょうと言われたので、あの人のは楽しみですと答えると、では、公演の日が私の休みとぶつかるから今から入れておく、当日は誰かここの人に頼んでおくから、と言われてホッとしたのが実情。そして、その日、頼まれていたからという若いお嬢さんとようやく会えて、案内されたのは真ん中の席。ふと気がつくと前の人は二人前はありそうな横幅の女性で、髪型もそれに合わせているといった感じ。勅使河原氏はこういう事には関係なく舞台の、奥行きではなく、幅で作ったに違いない演目を「柔軟な沈黙」(Flexible Silence)と題している。まるで端から端まで、全員が移動する形で作ったような舞台で、リズムに合わせて、一番左の端に入ったと思うと次は右の一番はじ。その度に、私は首を思い切り伸ばすと見えて来る。と言ってうっかりしていれば、次の人の背中になるからストップ、こうして終わりになった。左と右の間には消えた時間から考えてもいろいろな事はやっている暇はない筈だ、とすると全体を通して左ー右、右ー左と移動していただけなのだろうか、理屈をつけて、腹が立たないように自分を諌めた。それにしても何たる不運。殆ど上下もない動きに見えたが、私から見えないところで、いろいろな動きを見せていたのだろうか?もっと早くに出て行くか席を換えてもらうべきだったのだろうか?一人で、問答を繰り返しての夕べだった。舞台を作る人はこういう場合もある事を想定して、少なくとも舞台の幾つかの地点で盛り上がりを仕掛けるなどの工夫をしてもらいたいものだ。勅使河原三郎だったら、それだけでも私の機嫌は治ったかもしれないのだ。前回の公演の事を思い出してみた。真ん中でこそないけれど椅子が段になっていたから、問題なかった。パリの昔からある方のオペラ座にはロッジュと呼ばれる部分があって、昔はその中に主人や召使の一族が入ったもので、お付きのものなどはたとえ座れても舞台が見えない、音楽もあまり届かないようなところだから、こんなところに席が来るとひどいものだ。それで、これから、こういう席をなくすための工事をする予定とオペラ側は繰り返している。でも、この150年前のパラスに手を入れるといいうのは、このパラスの持つ階級制そのものの否定だから、難しい事になるかもしれない。結局は古い方のオペラ座(オペラ・ガルニエと建築家の名前で呼んだり、パレ・ガルニエと古い方をパラス扱いにして呼んだりしているが、昔はオペラを見に来る人は貴族や富裕層だったから、あれで十分だったのだろう。今は階層の問題ではなくて、オペラが好きかどうかということとあとは安いものは5ユーロから切符はあるから、それほどお金の問題とも言えなくなっているのだ。バスチーユができる前に、私はフランスに来てすぐからパレガルニエの方で、定期購入のメンバーになっていたが、学生でも買える程度だったのである。選挙で、左派が勝利して、ミッテランが大統領になった時に作ったのがバスチーユ・オペラと国立図書館で、これらはすでにフランスの王様達があの時代に実現したことばかりで、オペラ座をフランス革命の象徴の広場であるバスチーユに作ったところに意味があるのだ。これは建築コンクールで選ばれたカナダ人が作ったもので、大体出来上がった頃にこの建築家と一緒に見学して回れたのはありがたかった。考えてみれば、リヨンのオペラを作ったフランス人の建築家はあれ以来、アラブの国々などからの注文も多く、世界的になってしまって、出来たばかりのリヨンのオペラを嬉しそうに一緒に見学して、いろいろ話してくれたのは今となっては楽しい思い出の一つだ。建築家自身の説明で、彼が当時の常識に反して、オペラ座に赤や黒の金属板を使ったので、キャバレーみたいと言われた上、「オペラ座の周りにつけた光が赤いので評判悪いんだ。ほら昔の”紅灯の巷”みたい、と言われるんだ」と。今から2、30年は昔のことだ。それから、宝飾店のカルチエが作った現代美術館の建物をパリに建てた。2016年に30周年記念をやったところだ。これが大いに話題となって、次から次へと注文が舞い込んだ。今ではフランスを代表する建築家として、アラブの国にルーヴル美術館を作り、丁度今頃披露されることだろう。ルーヴルという名前をそんなに軽々しくつけられては困るとフランスでは議論が高まっていたが、その火も石油で消し止められたらしい。本物のルーヴルの方ではアラブ方面から来ているルーヴルの宝物を十分に観賞してもらえるように、ルーヴルの中に入り口も独自の入り口まで持つルーヴル宮殿の一翼全体をアラブの美術の専門部分として、これだけでも訪れることもできるようにしたのも数年前のことである。ここにある宝物は、少なくとも最初はただで持ち帰ったものが多いのかも知れない。いや、はっきり言って、発掘者が研究のために持ち帰ったものが多いはずだ。こうして考古学者の研究室にあったのだ。もしそうでなかったら、これらの宝はルーヴル美術館ではなくて、石油のおかげでとっくにエッフェル塔よりも高い新しいビルに取って代わられていたのかも知れない。

パリの日本人音楽家たち

  音楽の記事を書いているものと、音楽学者とがいっしょになって作ったPMI と言うグループがある。Presse Musicale iInternationale 国際音楽記者会とでも訳しておこうか、でもこれをパリで作ったのは、フランスの放送局を中心に音楽記者として活躍していたアントワーヌ・リヴィオというスイス人だったが、数年間は本当に幾つかの国から年1回の集まりとなるといろいろの国からも参加があったけれど、結局は長期的には難しいことで、各国で同じようなグループを作るようになったらしい。という訳で、今もインターナショナルと言っているのもまさにその通り、何カ国の記者達がいるかわからないが、結局は、フランス、それもパリに住んでいるものが圧倒的多数なようだ。この記者会に出席するときには、みんなが音楽の話をする。当たり前に思われるだろうが、例えば私のように美術にもワインにも情熱をもって向き合う人間は、ああそれでは音楽の専門ではないのかということになる。これは音楽の方は本当はわかっていないんだよというに等しい。こういう人の書く記事は、「2楽章の最後のところで、ヴァイオリンの弓が滑って、音がきまらなかった」という類の書き方をする。やっぱりしっかり見ているんだなと感心できる人もいるし、また演奏者の全体がただ気に入ってしまう人もいる。今すでに時々記事を書いているという人が音楽で知られる日本の雑誌のレギュラーになったとかで、パリにいる日本人音楽家達が「恐ろしいことだ」と騒いでいた。私はその人を知っているけれど、書いたものは見たこともないし、恐ろしくもない。これがどうなっていくか、興味はあるけれど、ここで日本の雑誌が簡単に読める訳ではないから、このインタナショナルのグループの中の小さな出来事に過ぎないことなのだろう。
 似たようなことなのだが、フランスには幾つかの街に国立の音楽学校がある。その中で、パリの国立がやっぱり一番光っているから、国立と言えば、誰でもパリのを考えるのだろう。地方の数都市にある国立でいい成績の人がパリで最終となり、あとはどういう人の弟子になるといった問題となるのだ。そしてもう一つ厄介なことに、それぞれの町が持っている音楽学校の他にフランス全国に国立の名をつけたところがかなりの数があって、それは意外に小さいところだったり、つまり自分たちではまかないきれないところが国の援助で作っているといった、いろいろの存在があるらしい。そうなると、そういうところで教えている人が故郷に帰って、コンサートなどをするのに肩書きに国立音楽学校教授などとしてしまう、あるいは、本人の意思ではないのに、うまく利用していくオーガナイザーがいたりして、そうなると、そんなコンサートのチラシが目に入ったら大変、嘘の肩書きを使っていると言われてしまうのだ。そういう意味で、音楽の人たちは色々とデリケートであると同時に、そちらの方もややこしいのだ。今まで、付き合っていた人同士が、その一枚のチラシによって嘘つきになり、口も利かなくなるのを何回見てきたことか。狭い、狭い世界なのである。例えば、私たちの属するPMIのメンバーに、そこの催しにおいで下さいと声がかかることがあるが、条件がはっきりしないときや、交通費をもってくれないなどというときには受けてはいけないと言われる。でも今から交渉しても遅いでしょう、と責任者に云うと、あなたは良いかもしれないけれど、他の人にまでそうしてくれということになるから気をつけなさい。と言われるのだ。色々とむずかしいものだ。

 さて、後2週間ほどでパリの隣町ブーロニュの森の向こうの島、スガン島にできた大コンサートホールの落成式となる。この数年で、パリには3つの大きな、そして音響も抜群な、ホールが生まれ、が生まれ、ぜんせいきか悠然と構えていた、シックなホールが次々とジャズのホールに変身したりで、、嬉しいと同時に、何か後ろ髪を引かれるような思いもする。今まで、自動車のルノーを作ってきたあのセーヌのスガン島の上全体がこのコンサートホールにかわるという感じだ。しかもその建築をしたのはすでに第2のポンピドーセンターをフランスの東に作った日本人建築家。こんなに沢山コンサートホールができてしまったら、私たちは一体どうなるのだろう!


浜田山通信 №191 [雑木林の四季]

教育勅語③

                                     ジャーナリスト  野村勝美

 もし森友学園事件が起こらなかったなら、今ごろ安倍昭恵名誉校長の瑞穂の国記念小学院は盛大に開校式をあげ、籠池理事長はモーニングに白手袋で高々と教育勅語を児童とともに朗誦し、「アベ首相ガンバレ、ありがとうございました」の声が何千万円もの補助金も得て建てられた木造校舎にこだましていただろう。もちろん国有地が8億円もディストカウントされ、開校の認可が素早く認められたことなど国民も市民も知ることなく、右派系の人たちはバンザイ、バンザイで記念行事に参加しただろう。籠池理事長夫人諄子氏はあれほどひんぱんに昭恵さんとメールをすることもなく、ただ感謝感激だっただろうし、昭恵さん付きの谷査恵子さんや近畿財務局、大阪航空局、松井大阪府知事、稲田防衛庁長官もお祝いにかけつけたかもしれない。
 とにかくすべては順調に、うまく進んでいたのだ、。歯車がくるったのは、ついひと月ほど前、朝日新聞のスクープから始まった。火をつけたのは豊中市会議員の木村真さん。木村さんは瑞穂の国記念小学院の建設現場で生徒募集のポスターを見た。教育勅語が書かれていて「やばい」と感じたそうだ。それで財務局に契約書などの情報公開請求をすると金額部分などが黒塗りだった。もし木村さんが豊中市議でなく、ポスターも見なかったなら、朝日が記事にすることもなかった。
 悪事はいつか露見する。天網恢々疎にしてもらさずという。そしてつかまったのだが、関係した人たちは、悪事をなしたとは思っていなかったに違いない。安倍首相は国会答弁で森友学園について「妻から先生の教育に対する熱意はすばらしいと聞いております」「いわば私の考え方に非常に共鳴している方」と言っているし、熱烈な支持者もいっぱいいた。籠池氏はもちろん皇国主義教育でうまいことをやってやろうと計画してのことではないだろう。
 事件の全貌はいまや明々白々だ。国有地の安売りも学校認可も、事件発覚と同時に役所や政治家の忖度によって、超法規的に片付けられた。小学校に安倍記念と冠名をつけたかった人には「しつこい男」とトカゲの尻尾切りされた悪のヒーローは、「首相を侮辱した」として国会に証人喚問され、神風ならぬ台風に見舞われた。
 気の毒だが、籠池泰典ひとりが悪者にされ、諄子夫人が言うように、「主人はブタ箱、学園は破産」に追い込まれることは目に見えている。マスコミも一件落着で、深追いはしないだろう。それでなくとも、一強についていくのは身についた習性。TVにはアベさん側のコメンテイターが次々に現れる。「週刊朝日」4月7日号で室井佑月さんが、ツイッターに「田崎史郎さん、あなたネットで田崎スシローって言われてるの知ってますか」と出ていることを紹介していたが、田崎史郎も稲田朋美も私の中学(高校)の後輩。別に関係ないけど腹立たしい。


徒然なるままに №16 [雑木林の四季]

四月は「巣立ち、旅立ち」の時機である

                                                       エッセイスト 横山貞利

 今年もまた四月を迎え、「巣立ち、旅立ち」の時機になった。入園式、入学式、進級、入社式など新しいスタートに向かって第一歩を踏み出す。そうした出発は意義深く、それぞれの人生への第一歩として終生忘れ得なことである。特に「小学校の入学式」は一生忘れ得ない出発ではないだろうか。小学校入学とは、親の庇護から巣立ってヨチヨチ歩きであっても人生への第一歩を踏み出す区切りなのである。その道は決して平坦ではなく楽な道程ではない。山あり谷ありの隘路の連続であろう。それでも、その道以外には選べる道はない。だから、歯をくいしばり一歩一歩確実に歩いていかなくてはならない。
 兎に角、人生行路は常に凪ばかりではなく、強風や大波浪の嵐のほうが多いだろう。それでも悪戦苦闘しつつ自らの目標に向かって進んでいかなくてならない。そうした体験を通して独立した個人として自らの実存を追及して確立しいくのである。
 それが人生だ。

 わたしは、1944年(昭和19)に長野県松本市立田町国民学校に入学した。小学校は1941年(昭和16)以来「国民学校」と称され、わたしたちは「少国民」と呼ばれていた。こうした動きは日中戦争の泥沼化そして太平洋戦争への序章であったように思う。
 「国民学校ハ皇国ノ道二則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」(国民学校令第一条)。
わたしは何も解らないまま少国民であった。例えば、神社の前では直立姿勢で立ち最敬礼した。そうしたことを誰かに教えてもらったわけではなく無意識の裡にやっていた。勿論「国家神道」のことなど知らなかったから、大人がやっているのを観ていたのかもしれない気もするが記憶はない。
 さて、田町国民学校(小学校)であるが、正門は東側に通用門は南側にあった。正門に立ってみると、校庭(グランド)の先に木造2階建ての校舎が南北に建っていて1階の部分だけ真ん中が1教室分開いていた。その空いている部分の先に「奉安殿」があって、そこには「昭和天皇、皇后」のご真影(写真)と「教育勅語」が奉納されていた。そして校舎の南北には渡り廊下があって児童の登降口つづいて体育館があった。南の体育館には広い教壇があり正面には白木の長い扉があって学校行事や祝祭日には「ご真影」が移された筈だが、扉が開けられることはなかった。教壇の中央には大きな机が置かれ、そこには紫の袱紗に包まれた白木の箱がおかれていた。その中には「教育勅語」が入れられていた。
学校行事―入学式、卒業式それに学期の始業式、終業式など、祝祭日―紀元節(2月11日)、天長節(4月29日)、明治節(11月3日)などには、先ず国歌「君が代」を全校児童が斉唱する。そして校長が袱紗に包んだ箱を捧げで最敬礼をしてから徐に袱紗と箱を開けて奉書紙に書かれた「教育勅語」を両手に捧げて朗読した。勿論「教育勅語」の内容など解るはずのなかったが、当時はこれが最高の儀式(仕来り)であった。その間、児童たちは直立不動の姿勢で整列しなければならなかった。こうした式次第は翌年1945年(昭和20)8月15日に太平洋戦争が敗戦で終わるまで続けられた。そして気がついた時には奉安殿とともに正門の右側にあった二宮金次郎の石像も取り払われていた。奉安殿があったところにはコンクリートが拳大に砕かれていたのを憶えている。
 「教育勅語」は1948年(昭和23)に衆院「教育勅語等排除に関する決議」、参院「教育勅語等の失効確認に関する決議」により排除・失効が決まった。
 わたしは、2年生のときには女性教員の小林先生のクラスになった。多分小林先生は戦争で男性教員がいなくなったので代用教員として赴任されたのではないかと思う。翌年の1946年(昭和21)4月に3年2組毛涯章平先生のクラスになったが、その時には小林先生は居られなかったように記憶している。わたしにとって毛涯先生は人生を考えることや生き方を教えて戴いた師匠である。現在も毛涯先生の教えが基本であり指標になっているように思う(毛涯先生ついては「浦安の風42「恩師 毛涯章平先生」参照)。
 田町国民学校は翌年の1946年(昭和21)には田町小学校になった。尚、田町小学校は1960年代終わりころに開智小学校に合併されてなくなった。
 
 これが、戦時中の小学校(国民学校)時代の体験であった。この体験こそわたしの人生において、すべての出発点になっているように思う。

  「巣立ちの歌」                 「旅立ちの日に」
   詞 村野四郎 曲 岩河三郎          詞 小嶋 登  曲 坂本浩美
.
 花の色 雲の影                  白い光の中に山なみは萌えて
  なつかしいあの思い出              遥かな空の果てまでも君は飛び立つ
 過ぎし日の窓にのこして                限りなく青い空に心ふるわせ
 巣立ちゆく今日の別れ                 自由を駆ける鳥よふり返ることもせず
 いざさらば さらば先生                 勇気を翼にこめて希望の風にのり
 いざさらば さらば友よ                  このひろい大空に夢をたくして.
 美しい明日の日のために     


BS-TBS番組情報 №135 [雑木林の四季]

BS-TBS 2017年4月のおすすめ番組

                                      BS-TBS広報宣伝部     

(新番組) 諸説あり!

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2017年4月8日スタート
毎週(土) よる10:00~10:54

☆森羅万象に諸説あり!諸説の裏に新たな真実あり!

出演:堀尾正明 吉川美代子

「聖徳太子は実在したのか?」
「邪馬台国はどこに存在したのか?」
「巨大ピラミッドはどのようにして作られたのか?」
「未解決事件の犯人は?」
あらゆる人類の歩み、そして森羅万象に…「諸説あり!」
この番組では、森羅万象…あらゆる事象について、世に存在する様々な「諸説」を掘り起こし、徹底検証。諸説の裏に隠された真相を手繰り寄せれば、新たな真実が浮かび上がる!
番組のMCを務めるのは堀尾正明と吉川美代子。ニュースからバラエティまで、数々の番組出演によって培われたトーク力と専門家にも劣らない知識量で番組を盛り上げる!

▼4月8日
#1「謎多き英雄 真田幸村の正体」
ゲスト:伊東潤
真田幸村といえば、“日本一の兵(ひのもといちのつわもの)”と讃えられた戦国武将。歴史小説・ドラマ・映画からアニメやゲームの世界まで、幸村を主人公とした作品は数多く、その存在は人々を魅了し続けている。しかし実は、真田幸村に関して残された歴史資料は少なく、その実像は謎に包まれている。それゆえに、実は幸村は実戦経験ゼロだった?幸村は徳川家康のスパイだった?など幸村に関する諸説は多く存在する。果たして真田幸村とは何者だったのか?真田幸村にまつわる様々な諸説を徹底取材。そこから浮かび上がる真田幸村の真実の姿とは?!

▽4月15日
#2「最強伝説に諸説あり 本当の宮本武蔵」(仮)
ゲスト:黒鉄ヒロシ
二刀流、自ら著した兵法書「五輪書」、巌流島の決闘のエピソードなどでお馴染みの宮本武蔵。最強の剣豪として語り継がれているが、本当に武蔵は強かったのだろうか?近年、宮本武蔵に関する新たな諸説が続々と浮上している。番組では宮本武蔵最強伝説にまつわる諸説を徹底取材。諸説から浮かび上がってくる真実の宮本武蔵像とは?

由紀さおりの素敵な音楽館 2時間スペシャル

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2017年4月14日(金)よる9:00~10:54

☆由紀さおりとゲストのコラボでお届けする名曲の数々!4月から毎週金曜よる9時放送。

司会:由紀さおり
ゲスト:五木ひろし 坂本冬美 / 伊東ゆかり / 森山愛子 林部智史

「歌謡曲」「ポップス」「ジャズ」「童謡」など、あらゆるジャンルの音楽に精通する歌手、由紀さおりがホストをつとめる、本格的な音楽番組!ゲストには名だたるアーティスト達を招き、彼らとの化学反応によって生まれる音楽・トークが見どころ!実力派アーティストたちが、歌とトークで魅せる、夜のひと時・・・「音楽に浸る至福の1時間」をお届けします。
4月から、放送時間が毎週金曜日のよる9時に移動。
そして4月14日は、メインゲストに五木ひろし、坂本冬美を迎えて豪華におくる2時間スペシャル。
数多くのヒット曲を持つ、五木ひろしの特集では、各界の著名人が選ぶマイ五木ひろしソングを紹介。選ばれた曲は、五木ひろし自身は勿論のこと、由紀さおりや、ゲストたちも熱唱する。また、「女性シンガーソングライター特集」では、由紀、坂本に加え、森山愛子、林部智史も参加して珠玉のハーモニーを見せる。また、和製ポップスを牽引してきた伊東ゆかりも登場する。

あなたの知らないイタリアへ

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毎週(月)よる11:00~11:30

☆イタリア人クリエイター達の仕事や、行きつけのレストランに密着し、イタリア人ならではの流儀の本質に迫る人物ドキュメンタリー。

新しい物、優れた物、美しい物、そして美味しい物を創造し、世界に発信し続けてきた伝統ある国、イタリア…。この番組は、欲深き感性とこだわりの美意識を持ち、仕事や生活に革新的な創造性を発揮するイタリア人たちの文化の裏側にある、哲学と流儀、そしてその源となる「食」の本質にインスパイアされるアーバン・アドベンチャー…。毎回、ファッション、建築、デザイン、音楽、工芸、アートなど、様々なジャンルで活躍するイタリア人クリエイターを取り上げ、彼らが物を生み出している現場を訪ねて、その創造性の源を探る。また、彼らの行きつけのリストランテへ案内してもらい、どんな物を食べて創造性溢れる仕事をしているのか、食べることと物を生み出すことの関係をも、紐解いていく。

▽4月3日
第101話 「世界中に愛される現代クラシック音楽界の旗手(ドリアーニ)」
今回の舞台小さな村ドリアーニ。主人公はミラノを本拠に世界で活躍する音楽家、ルドヴィコ・エイナウディさん。ワイン作りの盛んなドリアーニという小さな村の丘にスタジオを兼ねた別荘を持っています。ドリアーニはエイナウディ家の故郷。祖父のルイジさんはイタリア共和国で大統領となった人。ルドヴィコさんは幼い頃からクラシックの教育を受けましたが、青年時代にロックと出会い、ジャンルを超えた音楽作りを始めます。クラシックをベースにロック、ポップスなどの要素を取り入れたミニマル・ミュージック。今では映画やCM音楽など多方面で使用されています。彼の別荘で音楽のルーツや創作の秘密を聞きます。彼のお気に入りレストランは「OSTERIA BATTAGLINO」。シェフのマルコさんは伝統料理に革新をもたらそうとチャレンジを続ける料理人。ルドヴィコさんはマルコさんの料理を絶賛!さて、世界的な音楽家を唸らせるその料理とは?

▽4月10日
第102話 鞣革クリエイター シモーネ・レミさん(フィレンツェ)
 


気楽な稼業ときたもんだ №56 [雑木林の四季]

性格も一流の日出ちゃん、月ちゃん

                              テレビ・プロデューサー  砂田 実

 ザ・ピーナッツとは、労音のステージを中心に、多くのコンサートを作り全国をまわった。僕は、初日の舞台を東京で完成させてから、必ず二、三ケ月後に地方の小都市での公演をふいに覗きに行くことにしていた。ピーナッツには、その心配はまったくないのだが、勝手に自分たちの演じやすいように構成や演出を変えてしまう不届き者もいるからだ。
 コンサートツアーの途上、「ピーナッツは指示どおりきちんと演じてくれているであろう」との信頼感から、僕は出番前の楽屋を訪れた。しかし、その日僕を迎えた彼女たちは、意外にもなにか吹っ切れない表情だ。
 「なにか困ったことでもできたの?」と尋ねると、姉の日出ちゃんが答えた。
 「ほら、一部と二部の衣装替えの時間に、砂田さんが入れた新人がいるじゃない。これが舞台の回を重ねるごとに、どんどんファンが増えて、いまや大騒ぎなのよ」
 衣装替えをバンド演奏で埋めるという安易な手法を避けたかったのと、知り合いのマネージャーから売り込まれた楽曲がことのほか気に入ったので、「グレープ」という男性の新人フォークデュオを出演させたのだった。「とにかく見て判断しよう」ということで、僕は開演ベルの鳴る客席へ潜り込んだ。
 一部の終演近く、客席の前方がざわめき出す。「グレープ」がソデから出るや、大きな拍手と矯声が交錯して、雰囲気がガラリと変わった。なんと、公演の回を重ねるうちに口コミでファンが増え、客席の前方を彼らの女性ファンが占領していたのだ。ピーナッツの持ち場が再びはじまると、最前列の女子高生風はステージを無視してマンガを読みはじめる始末だった。これはいけない。
 終演後、再びピーナッツの楽屋へ戻った僕は、「わかった。申し訳ない。だが、もうツアーから彼らをはずすわけにはいかない。なにか考えて手を打つ」と告げるしかなかった。
 その僕の苦渋の表情を見て、日出ちゃんは言った。
 「でも砂田さん、しょうがないよ。あたしたちも、有名になっていく段階で、今とは逆の場面を何度も見てるもの。そのステージのメインのはずだった先輩たちよりも、あたしたちが出ていくと、はるかに大きい歓声があがって……。嬉しいんだけど困ったっていう経験を何度もしたからね。そんな時にスタッフに当たり散らしている先輩は、なんかちょっと悲しくて恥ずかしかったよ。だから今回はこのままのステージでいくしかないよ」
 「『グレープ』の人気がどんどん上がっていく時に、こんな形で立ち会うってことも、それはそれでおもしろいわね」と妹の月ちゃんも言葉を重ねた。
 こういったドラマが、いろいろな場面でくり返し演じられていって、大衆音楽というものは成熟していくのだろう。ご存じと思うが、「グレープ」の一人は、のちのさだまきしである。
 黙って二人の話を聞いていた僕は、またピーナッツが好きになった。
 苦労させてしまったこともある。新潟での公演の際のことだ。
 僕は、そのツアーやリサイタルで初披露の、オリジナルの楽曲やミュージカルを必ず入れていた。構成・演出屋の仕事は、手を抜けば際限がない。大スターの仰るとおりに曲順を並べただけでも、「構成・演出‥何某」とタイトルに出るのだ。だけれど、それでは僕のプライドが許さない。だから、僕が演出する時には、誰にでも必ずオリジナルを作っていた。後述する、ちあきなおみの「ねえあんた」もそうだし、加藤登紀子にもそうだった。みんな、嫌がったり面倒くさがるどころか、真撃にとりくんでくれた。僕も毎月レコードを三十枚近く買い込んで片っ端から聞き、楽曲の引き出しを増やしていたから、相手もそういう努力をわかってくれていたのか、僕が演出した歌い手たちは、僕が投げる変化球に果敢に挑んでくれた。また、それができる実力派が多かったことも幸いだった。
 一日目に振り付け稽古、二日目に歌い手が入りリハーサル、三日目に本番というスケジュールでやっていたテレビ番組でも、オリジナル曲を歌わせるくらいだったから、一ケ月ほど準備期間があるコンサートは、さらに腕が鳴る。

 ピーナッツの新潟公演を控えたある日、当時絶滅寸前だった朱鷺を懸命に保護しているお爺さんの記事を新聞で目にした。これだ!ご当地テーマのオリジナルミュージカルを、トップスターのピーナッツが演じてくれるとなったら、新潟の人たちは大感動するに違いない。
 そのお爺さん役を誰にしようか、と思案した。新劇の役者では、もっともらしい芝居をされるし、歌も十分じゃないだろう。当事のシャンソンのメッカ「銀巴里」にいた、工藤勉という年配のシャンソン歌手を思い出した。彼はかなりユニークな歌手で、秋田弁で自分の故郷の厳しさを歌った楽曲がすばらしかった。歌を聞いていると、怒涛さかまく海を見つめて佇む情景が目に浮かぶようだった。朱鷺を心血そそいで保護する無骨なお爺さん役にはピッタリだ。
 しかし、稽古初日に「まいったな」と僕は頭を抱えた。ものすごく下手なのだ。それに、途中で歌が出てこなくなることもしばしば。舞台稽古に入っても、何度もストップとなる。舞台稽古にはテンポがある。それが工藤さんのお陰でお手上げになる。ピーナッツを見ると、二人で暗い顔して俯いている。ところが僕には一言も言ってこない。普通のスターなら、「なによ、どうにかしてよ」とむくれるところだろう。だが、やはりつらかったようだ。通常の十数倍の稽古を重ね、どうにか本番をこなした新潟からの帰りの列車の中、彼女たちは、ポッリと「砂田さん、今回はつらかったわ」ともらした。

『気楽な稼業ときたもんだ』 無双舎


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