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私の中の一期一会 №168 [雑木林の四季]

           史上初の米朝首脳会談で朝鮮半島は非核化へ第一歩を踏み出した
      ~安倍首相、唐突に日朝首脳会談に意欲。その背景は秋の総裁選にあり?~

         アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 2018年6月12日午前9時過ぎ(日本は10時過ぎ)史上初の“米朝首脳会談”がシンガポールで始まった。
 アメリカのトランプ大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長は、「ちびのロケットマン」とか「老いぼれ」などと互いに“ののしり合い、戦争一歩手前かと懸念されるほどの”敵対関係を続けてきただけに、米朝首脳の話し合いがどうなるか?世界中がその成り行きに注目していたと思う。
 シンガポールからのテレビ生中継を見る限り、会談は終始和やかなムードで進められたようにみえた。
 両首脳が署名した共同声明には、新たな米朝関係樹立など4項目が謡われている。 
1)米国と北朝鮮は、新たな米朝関係を樹立することを約束する。
2)米朝は、朝鮮半島に持続的で安定した平和体制を構築するため努力する。
3)4月の板門店宣言を再確認し、北朝鮮は朝鮮半島の完全な非核化に向けて努力することを約束する。
4)米朝は、(朝鮮戦争の)身元特定済み遺骨の即時返還を含め、捕虜や行方不明兵の遺骨収集を約束する。
 共同声明には 日米韓が求めてきたCVID 「完全かつ検証可能で不可逆的な非核化」の文言は盛り込まれていない。
 “非核化への道筋”はどうなるのか。すでに“保有している核はどう処理するのか?”など大きな懸案も一切語られていないのだ。
 非核化に向けてIAEA(国際原子力機構)の査察が上手くいくという保証はあるのだろうか。
 日本もアメリカも政権がこのまま続くかどうか分からない。新しい政権になった時にどうなるのだろう。
 派手なだけの「政治ショー」では解決できない課題が双方にいくつも残っているという指摘もあったりして、史上初の米朝会談も評価は様々だ。
 会談終了後、トランプ大統領は記者会見して熱弁を振るったが、金正恩委員長は記者会見しなかった。
 世界は、北朝鮮トップの肉声で“非核化への決意”を聴きたかった筈なのに、何故会見しなかったのだろう。
共同声明では、日本が気にしているミサイル問題の行方にも触れていない。
「拉致問題」だって「ちゃんと提起したよ」という大統領の発言はあったが、金委員長がどういう反応したかは不明確だった。「解決済み」とは言わなかったというのは噂の域を出ない。
 記者会見で、北朝鮮が約束を破った時、“軍事行動をとるか”と聞かれたトランプ大統領は「韓国への甚大な影響を考えると軍事行動は非現実的だ」と答えていた。
 また、北朝鮮が嫌う米韓合同軍事演習についても“対話継続中は中断もあり得る”ことを示唆した。
 新たな米朝関係はスタートしたばかりで、すぐに明確な成果を期待するのは無理なのではないか。
 時間をかけて対話を積み重ねていくしかない。
 北朝鮮の国営メディア・朝鮮中央通信は、首脳会談から一夜明けた13日、首脳会談や共同声明の内容について報道した。
 それによると、朝鮮半島の非核化は段階別、”同時行動の原則”の遵守が重要との認識で一致したと報じている。要するに北朝鮮の“段階的な非核化”にアメリカが同意したことを意味している。
「同時行動の原則」とは、非核化の進展に合わせて制裁を緩和していき、その度に何らかの見返りが北朝鮮にもたらされることを意味している。北朝鮮外交の巧みさに舌を巻く思いだ。
 非核化の費用を日本や韓国が負担させられることも覚悟しなければならないかも知れない。
 横田めぐみさんの母、横田早紀江さん(82)が、トランプ大統領の拉致問題提起を評価して「あとは日本政府がやらなくてはならないところに来た」と新聞に語っているのを読んで心が痛んだ。
 10年ほど前になるだろうか、横田さんご夫妻の講演を聴く機会があった。
 あの頃から「国が動いてくれないとどうしようもないんです」と訴えていた横田滋さんも今や85歳。
 いま体調を崩して入院中と聞くとますます胸が痛い。
 拉致被害者の家族の方々の「もう時間がない」という声は心の底からの切実な叫びなのだ。
ソウルの情報関係者が14日明らかにしたところによると、北朝鮮が“日朝首脳会談を行う用意がある”ことをトランプ大統領に示していたことが分かった。
 数カ月以内に首脳会談を開くことを想定して準備を進めているという。
 安倍首相は14日、官邸で拉致被害者の家族会と面会した。
 首相は「拉致問題は日朝の問題、米朝会談を機に北朝鮮と直接向き合いたい」と述べ、日朝会談を実現し拉致問題解決を図る考えを強調したという。
 家族会の飯塚繁雄さん(80)は歴史的な会談で拉致が提起されたことは喜ばしいと期待しながら「日朝間で早く結論を出していただきたい。今までと同じ轍を踏まないように願う。約束が守られ、着実に成果を得る会談をしていただきたい」と強い口調で訴えた。
  安倍首相は“丁寧に説明する”といつも言うが、“説明された”と思う国民はほとんどいない。
 “ウミを出し切る”と言うが、首相自身がウミなのだから、出し切るなら退陣するしかない。
 おまけに“ウソをついてまで、”あったもの“を”ないことに“してきたことを多くの国民は知っている。
 金正恩委員長は、こうした安倍首相の言動を全て知っていると思ったほうがいいだろう。
 家族会・飯塚繁雄さんの「今までずっと騙されてきた・・」というコメントは、北朝鮮にではなく安倍政権に騙されてきたと言いたかったのではないか・・フトそんなことを思った。
 政府は14日夜、安倍首相と金正恩委員長による日朝会談を通じて、拉致問題の解決を目指す動きを本格化させたというニュースが流れた。
 家族会との面会では、「コチラからやりたいと言えば足元を見られる」と漏らし、会談の時期は慎重に見極めると述べたという。
 時期や場所について「機微に触れる」として一切明らかにしなかった。
 「まだ圧力を緩めてはダメだ。中国、韓国も制裁を緩めてはならない」という相変わらずの持論を語ってみせたらしい。
 ところが、その晩には首相サイドが“日朝首脳会談を模索する”動きに転じている。
 唐突に動き出した背景には、「9月の“自民党総裁選”があるからだ」と聞いて私は一気にしらけた。
 拉致問題の解決に向けて突き進む安倍首相の姿は、総裁選で3選を確実にするための”格好のアピール“になる・・だなんて。
 そんなこと知ったら「拉致被害者の家族会はどう思うだろう」と考えないのが“安倍一強政権”なのである。
 金正恩という若き指導者は、祖父や父親が成し得なかった“米国との対話を成し遂げた人物”になった。
 父親のような年齢のアメリカ大統領にも、臆することなく堂々と立ち向かえる度胸の持ち主でもある。
 その外交手腕を侮ることがあってはならないのだ。
 ゴチャゴチャ言い訳はいいから、「早く行動して欲しい」というのが家族会や国民の切なる願いだと思う。
 新聞に「拉致問題解決へ陣容一新だ」という大阪府の男性の投書があった。
「(前略)玉虫色の共同声明についても安倍首相は高く評価。日本政府は拉致問題の進展に期待を寄せているようだが楽観的としか言いようがない。(中略)トランプ大統領の尻馬に乗って「最大限の圧力」を叫んできた安倍政権は、北朝鮮にとってすこぶる印象が悪いだろう。安倍首相は拉致被害者救出の司令塔になると言うだけで、具体的な行動が見られない。(中略)政府は陣容を一度リセットして、行動力のある新しい顔ぶれで拉致問題に取り組んでもらいたい」
 “行動力のある新しい顔ぶれによる日朝会談”・・・私は“いい案だな”と思った。
 


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浜田山通信 №219 [雑木林の四季]

米朝首脳会談の付け

              ジャーナリスト  野村勝美

 ついこの間までどうしようもない奴らだなどと思っていたトランプ米大統領と金正恩北朝鮮委員長が、初の米朝会談を世界中の人々の見守る前でみごとにやり通した。TVのコメンテーターや専門家は例によってなにやかにやと“評価”していたが、私は単純によかったよかったと思うのみだ。
 北が経済制裁を受ける中で、ものすごい金のかかる核爆弾、ミサイル開発を続け、あげく北アメリカにまで届くロケットの発射実験をやり、わが国はその度にJアラームだかで国民が脅された。そのすべてがアメリカとの直接交渉のためのシナリオ通りだったとしたら、金正恩は若いのに凄い戦略家だ。CVID(完全かつ検証可能で不可逆的な非核化)が共同声明にもりこまれなかったと批判する人が多いが、北はどんどん核廃絶に進み、改革開放の道は進むだろう。朝鮮戦争をしかけ、アメリカと死にものぐるいに闘った祖父や父の苦闘を彼は知らない。逆に幼い頃からスイスに学び、ソ連の崩壊も知った。アラブの春やリビアのカダフィの末路を見た。独裁者は権力を維持するにはどうやればよいかを常に考えている。一方トランプはかってのアメリカをとりもどそうとしてアメリカ・ファーストを掲げた。TPPに反対し、G7でも関税問題でケンカを売る。なりふりかまわない暴れようだ。何でも1人で決めてしまう。そんな2人がちょっとしたきっかけで意気投合する。
 こんどの会談でいちばん参ったのはわがアベさんだ。モリカケ問題でノックアウト寸前だったのに昨年の選挙でもこの間の新潟知事選でも北のおかげで大勝利。何しろラチ問題は日本人の8割以上が解決を叫ぶ。すべてトランプさんにまかせ、お願いしていて、自らは何もしない。いくら会談で口添えしてくれたといっても、北から色よい返事があるわけがない。板門店会談で米朝会談の道を開いた韓国文在寅大統領の与党は13日の地方選挙で勝利し、在韓米軍まで撤退されたら日本国の防衛はどうなるのかと防衛省関係は弱音をはく。何がなんでもアメリカさんのポチ、腰巾着たりしアベさん、いよいよ最後の正念場だ。
 アメリカに戻ったトランプさん、北の核廃絶の費用は韓国と日本で払えと言った。その費用2兆ドル、日本円で220兆円。ポチはポチで大変だ。

             ×     ×    ×

 11日夜NHK「鶴瓶の家族に乾杯」を見た。福井の越前市(昔、武生といった。平安時代国府があり、紫式部の父が国司だった古都)を長瀬智也と訪ねる番組。私の一番下の妹が嫁に行った野木という和菓子屋を長瀬がのぞき、甥の繁春君と連れ合いの洋子さんが応対していた。洋子さんは若々しい感じだったが繁春君はヒゲも白髪まじりですっかり老舗の主人の貫禄だった。私の妹夫婦は引退、頭がしっかりしていればどんにか喜んだことだろう。名古屋にいる甥の越野馨介君がメールで知らせてくれた。

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BS-TBS番組情報 №164 [雑木林の四季]

BS-TBS 2018年6月のおすすめ番組

                     BS-TBS広報宣伝部

日本の旬を行く!路線バスの旅

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毎週(火)よる8:00~8:54

☆日本全国の「旬=ベストシーズン」を、のんびり、ゆったり、路線バスの旅!

日本全国の「旬=ベストシーズン」を、のんびり、ゆったり、バスで旅していく。そこには景色・味・人との一期一会の素敵な出会いが!その時期にしか出会えない景色や味、そして地元の人々との触れ合い。旬=ベストシーズンを路線バスで旅します。

■6月19日(火)
#124「富山の初夏!蜃気楼の見える街を目指して」
旅人:花田虎上(第66代横綱若乃花)
路線バスに乗り、今しか出会えない旬を求めて気ままに一人旅。四季折々の魅力が満載、日本の素晴らしさを発見します。今回は第66代横綱の花田虎上(まさる)さんが初夏の富山を巡る1泊2日の旅。富山の旬を食べまくり!絶品グルメ旅!▽富山湾の宝石・白エビ200匹!極上丼▽名物・ます寿司&氷見うどん作りを体験▽鋳物の街!巨大仏像作りに驚き▽自然の芸術!蜃気楼

※6月26日(火)は特別編成のため休止

美しい日本に出会う旅

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毎週(水)よる8:00~8:54

☆にっぽんを、記憶する旅へ。

旅の案内人・語り:井上芳雄 高橋一生 瀬戸康史

四季のうつろい。
霧煙る山々の連なり。清流の清々しさ。海の輝き。桜咲き誇る街並み。
日本はなんと美しいのでしょう。
その美しい国に、驚くほど多彩で豊かな暮らしが息づいています。
受け継がれる手しごとや風習には、土地に寄り添い暮らす人々の姿が見えます。
海の幸山の幸にも、土地ならではのひと工夫。
温泉めぐりも、日本ならではの旅の楽しみです。
お国言葉を聞きながら、心もほっこり。
さぁ、美しい日本を旅しませんか。

■6月20日(水)
#240「新緑の栃木・那須へ~渓谷露天風呂と憧れの花めぐり滝めぐり」
旅の案内人・語り:高橋一生
高橋一生さんが案内する、栃木県 那須高原への旅です。日光の玄関口としても知られる鹿沼は、知られざるサツキの町。全国の愛好家が自慢のサツキを持ち寄ります。きれいに咲かせる秘密は土にあり?城下町・黒羽では、芭蕉も訪ねた禅寺と、墨と染める不思議な藍染めを発見!高原の春野菜といえば、「かぶ」だそう。しかも生で食べるのがおすすめの、通称「トロかぶ」に出会います。そして那須塩原温泉郷では、名湯めぐり&滝めぐりと行きましょう。

※6月27日(水)は特別編成のため休止

~癒・笑・涙・夢~夕焼け酒場

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毎週(土)夕方6:00~6:30

★大衆酒場が舞台。美人女将やご亭主やその家族や常連客が紡いで来た心温まる人情話を探しに行く「ふれあい人情ドキュメンタリー」! 

出演:きたろう 西島まどか

人々は酒場に集い、酒を酌み交わして来た…。それぞれの人生の癒しと、涙と笑いと夢を語りあいながら。下町大衆酒場で待っている人達のもとに番組が訪れ、視聴者が家にいながらも、その下町大衆酒場空間に一緒にいて、一緒に酒を飲み、一緒に会話を楽しんでいるような雰囲気、そして、常連客だけの居場所ではなく、初めての人でも楽しめる雰囲気を演出していきます。下町大衆酒場での「ふれあい人情ドキュメンタリー」。

■6月16日(土)
#193 東京都江東区木場「木場魚松 酔月」
楽しいお酒をいただく前に、高知県の美味しいモノを集めたお店「コウチノ鯨」で店主自ら厳選した名産品をいただく…そして、今宵の夕焼け酒場は…木場で創業37年目を迎えた「木場魚松 酔月」…明治時代から続く魚屋の三代目妻が、木場に酒場が少なかったことから店を始め…今では息子が跡を継ぎ、一緒に暖簾を守る。人気の秘密は、実家が鮮魚店だったことで培った目利きを生かした魚料理の数々。中でも女将考案の“大根煮”は仕入れた魚のアラを使い7時間以上煮込んで1日寝かせ、大根に味をしみ込ませた店自慢の一品。さぁ~テレビの前でご一緒に!夕焼け酒場!!

■6月23日(土)
#194 東京・荻窪「すっぴん」 ※予定

■6月30日(土)
#195 東京・大塚駅前「大提灯」 ※予定




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バルタンの呟き №36 [雑木林の四季]

「コリアとヤマト」

                 映画監督  飯島敏宏
    
 先日、かねてから気にかかっていた事を確かめたくて、秩父の吾野宿という小さな町を、再び訪ねてみました。西武線吾野駅のすぐ近くの、高麗川の清流沿いにある旧秩父道(秩父街道)の伝馬町だったところです。秩父道は、旧鎌倉街道上道の脇道で、鎌倉―町田―児玉―所沢―信濃と続く本道の脇道で、吾野宿は、物資を運ぶ馬や人足を用意して、リレー式に交代する伝馬の拠点として興った小さな宿場で、伝馬の他に役場としての業務を負った問屋、旅人宿など、街道沿いの地産の杉材を使った古い建物なども、現在もそのまま居住している状態で、いわば、生きている有形文化遺産とでもいうべき形で残っている、山間の小さな宿場町なのです。
 この辺りは、古来から幕府直轄の高麗領として代官が支配していた天領でした。 高麗川沿いのこの町を囲む山々からは、徳川時代には、江戸城賄い(増築、修繕)用の木材である杉と共に、細工物用の瓜の木、紙漉き用の楮などが送り出されていました。もともと厳しい寒冷の地であった上に平地が少なく、広汎な耕地や水田が望めず、稲作は行い難い地勢でしたから、周囲を取り巻く山林からの瓜の木の伐り出し、楮を用いた紙漉きなどを生業にしていたのですが、絹産業の発展と共に、当地や秩父地方で生産された生糸を江戸に送る運搬の要衝として大いに繁栄した末に、やがて訪れた絹価格の大暴落以降は、衰退を余儀なくされ、さらに明治17年の秩父困民党の一揆挙兵騒動にも巻き込まれ、そのあげくの名主、地主たちへの懲罰で疲弊してしまったのです。
 さらに、アメリカ発の大正昭和恐慌で、絹産業は壊滅的な打撃を蒙り、それに加えて、戦前戦中の無謀な富国強兵政策による過剰な杉の植林と、戦後の杉材の急激な需要減の煽りで、林業も衰退してしまった街なのですが、現在は、残された豊かな自然と遺された街並みを観光の拠点として、改めて街を興し直そうという、地元住民による試みが行われようとしているところです。
 
 ところで、僕がこの街を再訪したのは、それとは少し違う動機からでした。そもそも、この吾野の属していた高麗郡(飯能)には、古来から、朝鮮半島からやってきた大量の渡来人が住み着いていたのです。高麗という地名からしてが、朝鮮(高句麗)の言葉から来ている訳ですし、有名な飯能の高麗神社の他に、この吾野にも、高麗神社があります。
 奈良時代の大宝律令に、すでに武蔵国高麗郡とあり、今回、僕があれこれとお話を伺ったこの町の古老(といいましても、僕よりもかなり年下の方)が上げたこの辺りの幾つかの地名にも、音的には朝鮮の言葉に、漢字を宛てた地名と思われるものが数多くありました。
 「地名だけでなく、姓名にも、かなりありますよ」
 話しを聞かせて頂いた古老は、古くからのこの地の伝馬宿を継いできた由緒ある家の当主で、彼によれば、続日本紀に、西暦716年、高麗国の滅亡により、この高麗郡に1799名の帰化人を受け入れたと記されているということです。
 これが事実だとすれば、日本の人口が、500から600万人ほどと推察されている時代に、高麗郡総人口5000人の内の1800人が朝鮮半島からの帰化人だったという訳ですから、ぼくが驚くのは当然の高比率です。考えてみてください。これは大変な人数ではありませんか。すでに、高麗神社の存在、その他の遺跡から、この地にはたくさんの帰化人が住んでいたということは漠然と認識していましたが、まさかこれほどの高い比率で帰化人がいたのだとは想像もしていませんでした。
 「多摩にきた渡来人は、百済との交流が盛んだった時代に近畿地方に移り住んできて、大和朝廷に徴用されて、半島の技術や知識を伝えた帰化人に比べたら、僅かなものです」
 でも、それらの帰化人たちが齎したものは、稲作はじめ多種の農耕技術、鋳鉄、窯業、などの技術的なものばかりか、この地に、多様に文化的な貢献を果たしたのです。
 吾野という地名の淵源は、この地に伝わるヤマトタケル(倭建命)の東征伝説(坂石にある我野神社縁起)に遡ります。相武の蝦夷を掃討する途上、山深いこの地に差しかかって道に迷った際、姿を現した弓矢を持った老人や、甲冑を身に付けた童子の道案内で無事にこの地を通り抜けることが出来たので、我野と名づけ、以来、この地にヤマトタケル(日本武尊)とタテミナカタの神(建御名方神)を祀った、とあるのです。後に、我野を吾野と記すようになった、と。
 日本武尊伝説は、日本各地にあり、相模(静岡)の焼津が最も古いものと言われるが、この辺りも、古きには、相武とされていた、というのです。
 吾野から秩父に向かう道には、峻険な山岳(正丸峠)を控えていて、神佛混交の山岳信仰が生まれ、そこに行基菩薩の伝承から、常楽寺(高山不動尊)が建立され、後に空海の密教が山岳信仰と結びついて吾野に大きな影響をもたらしたというのです。

 僕が、初めて奥多摩のこの吾野に来た時に、思わぬ関心を呼び起こされて、再びこの地を訪れることになった次第は、こんな出来事でした。
 宿泊した翌朝、宿主催のプチハイクに参加して、リーダーからの説明を聞きながら周辺を散策して、清冽な高麗川の橋を渡り、高句麗からの渡来人の色濃い高麗(こま)神社の境内で吾野町にまつわる一通りの説明を受けて解散となったのですが、帰途グループと離れてその部落の道を辿るうちに、小さな橋を渡って、川を隔てた向かいの山沿いの道に、朝日稲荷という鳥居を見つけて、この山頂に、稲荷神社が祀られていることに気がついて、苔むした鳥居から山頂に向かう急な参道を伺って、登頂はあきらめたのですが、その道沿いの斜面の一帯に、新旧とりまぜて、夥しい数の墓石、墓標が幾つかの群れに分かれて建てられているのに気が惹かれて覗き込んだのですが、墓石の戒名には、男性の場合は某々之命、女性は某婢または刀自とあり、碑銘が家名の墓石には、通常の某々家乃墓ではなく、某々家奥之城と記されていたのです。高麗の神社のすぐ近くに、明らかに日本古来の神道のものだと思われる墓が、最も古いと思われるものは、木の墓標も朽ち果てて漬物の押し石よりも僅かに大きな石のみというものから、周囲に石柵を巡らせた立派な墓石まで、永い永い歴史を思わせる墓の群れが、山裾に整然と並んだ仏式の墓群と隣接して散在しているのを見て、この一族の存在に強く興味を引かれたのです。
「地名にも姓にも、音で読めばそれが渡来の言葉からのものであると解るものがたくさんあります」
と、古老氏は笑っていましたが、たしかに飯能(はんのう)も入間(いるま)の音読みも、渡来の言葉に当てたと思われますし、この吾野宿は、地理的にも、馬による交通や輸送の至便さでも、峻厳な正丸峠を超えなければならない秩父よりも、飯能、入間方面との交流が深かったのです。
 地誌でもその通りで、吾野村は、元禄三年に、高麗郡から秩父郡に編入されるまでは、古来千年近くの間交流の深い高麗郡に属していたのです。その後村民は機会あるごとに入間郡復帰を幕府に懇願し続けたにもかかわらず、300年以上後の大正10年になって漸く、埼玉県入間郡に編入され、昭和30年、飯能市となったのです。
 ですから、それ程に、帰化人の文化や山岳仏教に影響されたこの地に、山頂に自姓を冠した稲荷神社を祀り、参道の崖に、神道を標榜した墓を残してきた一族は、一体、どんな一族なのだろうという興味を掻き立てられたのが、今回の再訪の目的でした。
 これについては、一日の滞在で解明することは出来ませんでしたが、今回、最も古く、しかも、当時立派であったろうと思われる墓の墓誌に、何某摂津の守と読み取ることが出来たので、おそらく関西、廃藩となった摂津(大阪)の高位だった武家の末裔一族の墓群に違いないと踏んでいるのです。
「あ、その末裔の方が、今、稲荷神社の宮司をしていますから、今度お出でになるまでに、聞いておきましょう」
今回のお礼の電話を掛けた折に、件の古老は、いとも気軽に、まるで昨日の事を聞いておくと言った調子で答えを返して寄こしたのです。この村の時計は、まるで、古代からずっと止まったままのようです。長い時間が、すべてを呑み込んで、同化してしまったのです。

  なんだか空振りをしたような気もしないではない今回の再訪問の結果でしたが、僕は、ひそかに、この町の復興のキイワードはこれではないか、と思い当った気がしているのです。
 これから先、さらに過疎化して、超高齢化時代を迎えなければならないこの街の復興のためには、2年後のTOKYOオリンピックパラリンピックを当て込んで、単に電鉄会社や旅行代理店と組んで、外国からの観光客を誘い寄せる設備を整えるだけではなく、澄み切った空からたっぷりと降り注ぐ陽光と、豊かな森に囲まれて流れる清冽な川と、ゆったりと時間が過ぎて行くこの町の再建に必要な方策は、街の未来を見限って都会に去った若者たちを追って帰還を懇願するのでもなく、先祖が行なった生業のひそみで、外国からの来訪者を、単に観光客として歓待するのではなく、この町には、外国からの来訪者を、移住者として積極的に取りこむ魅力があるのではないか・・・と。そして、それは単に、この町の問題ではなく、超高齢化していまや人口減に打つ手を見つけられずに、衰退を恐れて混迷するこの国の取るべき道は・・・
 高句麗国が滅んで、大和国に流れ込んできた大量な半島の人々を迎え入れて、長い時間の中で同化してしまった古代にひそんで・・・と。


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医史跡を巡る旅 №40 [雑木林の四季]

「紀行シリーズ」~九大病院キャンパス散策・前篇   
      
              保健衛生監視員  小川 優                      

九州大学医学部は明治36年、京都帝国大学福岡医科大学として開設されたのが、直接の沿革となります。前回その揺籃が福岡藩の賛生館であり、修猷館医学所兼併置診療所へと繋がり、これがやがて福岡県立医学校、福岡県立病院となったことをご紹介しました。明治36年に京都帝国大学福岡医科大学となった後は、明治44年工科大学の設立とともに九州帝国大学医科大学へ、更に大正8年には九州帝国大学医学部に改称、戦後の昭和22年には九州大学医学部へと改められます。
歴史の長い医学部だけあって、キャンパス内には、九大医学部で活躍された博士たちの銅像や、顕彰碑が林立しています。なかでもユニークなのが、九大にかかわりのある著名な六博士の名前を、キャンパス内の通りに付けていること。建物の案内の際に説明しやすいですし、なにより先人を身近に感じられられます。

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「医学部正門」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

さてそれでは、正門からキャンパス内に進み、順番に6つの通りをご案内しながら、その付近の像や碑もご紹介していきたいと思います。
まず正門から真っ直ぐ続く通りが、「大森通り」。

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「大森通りプレート」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

福岡医科大学長であり、内臓外科の開祖といわれる大森治豊の名を冠しています。             
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「大森通りプレート拡大」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

大森治豊は嘉永5年(1852年)、上山藩(山形県南村山郡上ノ山町)御典医の子として江戸神田三河町に生まれる。明治12年(1879年)、東京帝国大学医科大学医学科卒業。同年福岡県立医学校教師として赴任、明治18年には校長となり、さらに福岡薬剤学校校長も兼任。同年、帝王切開術を行い、仮死状態であった新生児の気管切開を行うことで、蘇生に成功している。九州への帝大医学部誘致にも尽力、明治36年(1903年)に京都帝国大学福岡医科大学が開設されるにあたり、学長兼附属医院長となり、外科学講座教授として教鞭をとった。明治39年日本外科学会会長に就任。明治42年(1909年)に退官、明治45年(1911)逝去。

大森教授のフロックコートをまとい、威厳あふれる全身像は、この後ご紹介する橋本通りの突き当たり、医学部百年講堂の向かいの「九州大学医学部創立七十五周年記念庭園」の中にあります。

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「大森治豊先生像」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

さて次は正門を入ってすぐに左に分かれるルートへ進んでみましょう。こちらは「久保通り」と名付けられています。

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「久保通りプレート」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

九大耳鼻咽喉科の初代教授で、日本耳鼻咽喉科学の先駆者であった久保猪之吉を記念した通りです。
     
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「久保通りプレート拡大」~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

久保猪之吉は明治7年(1874年)、二本松藩士の子として福島県に生まれる。明治33年(1900年)東京帝国大学医科大学を卒業。明治36年ドイツ、フライブルグ大学に留学し、耳鼻咽喉科領域を学ぶ。帰国後、明治40年(1907年)九州帝国大学医科大学教授に就任する。日本で初めて食道直達鏡を用いるなど当時最先端の臨床技術を用いて治療にあたったほか、無響室の建設や平衡機能の研究など、耳鼻咽喉科学の発展に寄与した。晩年は東京麻布に住み、聖路加国際病院の顧問を務め、昭和14年(1939年)66歳で亡くなる。墓地は青山霊園にある。自身も歌人・俳人としても知られ、妻は俳人の久保より江。

久保通りの突き当たりには、こじんまりとはしていますが、その一方で堅牢なイメージの久保記念館があります。

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「久保記念館」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

昭和2年、九州大学医学部耳鼻咽喉科学教室の20周年の記念に、同門会から寄贈された建物で、治療・研究で得られた記録、標本、図書を丈夫な建造物に保管することを目的としています。医学博物館的性格も持ち、多くの収蔵物を誇りますが、常時公開展示されていないのが残念です。

久保記念館の前庭には、久保猪之吉の胸像があります。

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「久保猪之吉博士像」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

そして像の近くには歌人でもあり、俳人でもあった多才な彼の才能を示すように、歌碑も設置されています。

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「久保猪之吉歌碑」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

「霧ふかき 南独逸の朝の窓 おぼろにうつれ 故郷の山」
ドイツ、フライブルグ留学中に故郷の山を懐かしんで詠んだものと伝えられます。

なお青山霊園の久保猪之吉博士のお墓にも、博士の胸像があります。

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「青山霊園 久保猪之吉博士像」 ~東京都港区青山 青山霊園

久保通りの途中、並木通りの手前には、慰霊塔「崇高な精神」があります。

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「慰霊塔「崇高な精神」」 ~福岡県福岡市東区馬出 九大病院キャンパス

医学の発展のため、その身体を提供した全ての御霊に、感謝と尊敬を込めて建立されました。

まだ入り口でうろうろしているわけですが、長くなりましたので次回に続きます。


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いつか空が晴れる №37 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
   -また見つかった 何が? 永遠がー

                       澁澤京子

 10代のとき、暗誦できるほど好きな詩があった。
「また見つかった、何が?永遠が。海と溶け合う太陽が。」ランボーの詩。最近、いろんな人の訳のランボーを読むことができるけど、私が持っていたのは小林秀雄訳の「地獄の季節」だった。

夏のある日、全く人気のない埠頭をNとKと私は三人で歩いていた。Nが免許をとったばかりだったので18か19歳だったと思う。NもKも浪人生だった。
「晴海埠頭に行ってみないか?」ということで半分はNの車の運転の練習のためにやってきたのだ。
夏の白い陽射しが降り注ぐ橋を渡り、ひんやりした暗い倉庫を歩いていると、目の前に青い海が見えてきた。
どんな話をしていたのかさっぱり覚えてない、NとKのことだから、「ソニーロリンズは軽薄じゃないか?」とか二人はジャズの話をしていたのかもしれない。

わたしは二人を離れて海の近くに行った。海はあくまで青くって、水平線には雲があった。
ふと見ると、少し離れたところに人の頭部くらいの大きさの丸いものがプカプカ浮かんでいるではないか。緊張してたちすくんで、私は二人に声をかけた。
「変なものが浮いてるのよ。」
NもKも急いで私の指さす方に近づいて行った・
「なんだ、ブイじゃないか・・」

なんだ、ブイだったのか、とホッとした途端、目の前の光景が急に変わった。
海も空も太陽もブイも、私を中心にしてまるで生き物のように動いてつながっているのだ。それは、今にも優しく語りかけて来るかのようで、明らかに普通の無機的な風景ではなかった。
あらかじめずっと守られていたことがわかる至福の瞬間だった。すべてはこれでよかったのだ、と。
モノクロの写真がいきなりカラー写真に変わってイキイキと動いてるような不思議な時間はしばらく続いていたと思う。

わたしはKにもNにもそのことを言わなかった。そして、ランボーもきっと同じ経験をしたのに違いないのだと思った。そしてあの時、無性に海の向こうの遠く、砂漠に行きたいと思ったのもランボーの影響だったのかもしれない。

・・人間どもの同意から 
  月並みな 世の楽しみから
  そんなら お前は手を切って
  飛んでゆくんだ・・        「地獄の季節」

ランボーは詩を捨ててアフリカに渡り、まだ若いうちに死んだ。

わたしはランボーよりもずっと長生きしているけど、今でも、あの埠頭での経験、あれはいったい何だったんだろう?と時々思うのである。


 

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梟翁夜話(きょうおうやわ)№17 [雑木林の四季]

「スクワットの話」

                  翻訳家  島村泰治

まだ膝回りになんの障りもなかった頃、私は持論の予防医学を実践して駒込の都立病院に二ヶ月おきに通っていた。わが五体唯一の弱点と自覚していた呼吸器系の内科である。生来の几帳面もあるにはあったが、その病院にはお気に入りの医者がいたことがきちんと通えた理由だった。

その医師S先生は五十絡みのあたりの柔らかい人で私とは所謂馬が合ったのである。診察に名を借りたチェックアップ、いわば予防医学で、その都度私の喉の話はいつかな世間話に堕して、端から見ればなんと酔狂な駒込通いかと呆れられたであろう「雑談診療」だった。私にして見れば、弱みの呼吸器への配慮はあったにせよ、むしろ壮年から老年への心構えを先生との雑談から賢く会得しようとの心積もりがあったのだ。

そこでひと思案した。さしたる病いなしに人並みの時間を割いて貰うには、それ相応の計らいがなければなるまい。私は診察のたびに時の話題が詰まった新刊の週刊誌を先生にと持参することにした。時の話題を読んで欲しいなど殊勝な目的ではない。それとなく十枚セットのビール券を間に挟んで、「面白い記事がありますよ」と言葉を添えて差し出す企みだ。病院は公立ならなおのこと付け届けが厳禁なのは先刻承知だが、それをかいくぐる計らいはそれなりに実りをもたらすことも経験として知っていた。世情に通じるS先生は阿吽の呼吸で巧みに応じてくれた。こうして粋な雑談診療が続いたのだ。

付け届けといえかし、私には治療で依怙贔屓をお願いしようという下衆(げす)な感覚はさらさらなく、目に見える病いがない身が人並みの時間を頂戴する引け目からのお礼心からだった。世間的に砕けたS先生はことさらに礼を言うでもなく、それと知って黙って受け流した。なかなか味な扱いで、これが後にわが母の入院につながるのだが、それは後段に譲らせていただく。

いま思えば、当時私は生活習慣病、平たく言えば糖尿病のはしりの兆候を見せていたようだ。診察の折々に、自分は専門の科目じゃないがと断って先生はそれに関わる問いかけをされた。細々としたことはもう三十年余も前のことだから忘れているが、ある日、こう言われたことを鮮明に記憶している。

 「島村さん、悪いことは言わない、毎日二十回のスクワットをぜひ習慣づけてください。」

仕事柄頭の運動は大丈夫だが、体の運動は明らかに足りない。が、毎日二十回のスクワットなどさしたる運動には・・・ならぬと思ったのは当時の私の迂闊な判断だった。その習慣がつけば生活習慣病は怖くない、といつになくきつく諭すではないか。いまでこそ七十キロ周辺だが当時はゆうに八十はあったろうから、その私の柄を視野に入れながらの諭しだったのだが、その折はさほど真面目には受け取らなかった。それが昨今になって金科玉条のように蘇り、改めて「毎日二十回のスクワット」がずしりと重い諭しになって私の背に、いや膝にのし掛かっているのだ。

あれから三十年、気づけば膝とそれを支える筋肉や腱がめっきり萎えて、立ち居振る舞いを妨げている。「どうだ、身に沁みるだろう」とほくそ笑むS先生が見えるようだ。たしかに身に沁みる。三十年毎日二十回のスクワットをしていたらと思えば情けない、覆水を絵に描いたような為体(ていたらく)だ。

だが、そこはわれながら生来のくそ意地が生きていた。もう二年にもなろうか、私は一計を案じて膝対策を立てた。トイレに通う習慣性を逆手に取ってスクワットを開始した。大小に拘わらず便器に座ること、用を済ませたらその場で十回スクワットをする、と固く決めたのである。二十回ではなく十回だ。日に通う回数を考え、大小ともにとなれば「毎日二十回のスクワット」はクリアできよう、という算段である。以後、その習慣は絶え間なく続き、そのお陰か膝回りに何年か前の軽みが蘇っている。

S先生が駒込から他所へ移られた以後の消息は絶えている。もう私の年代だろうから辞めておられるかも知れない。この辺りの話題でもう一度雑談診療を願えれば嬉しい限りだと思う昨今だ。

余談だが、S先生には八十歳代の母も世話になっている。呼吸器ということであるとき母を診察していただき肺癌を発見、手術から療養まで駒込でお世話になった。私の雑談診療が生きたのである。母の術後経過は良好で五年以内の再発転移がなければという線を大きく越えて、母は百歳まで二年の長寿を遂げた。

だから駒込病院とS先生は忘れ難い。それに輪を掛けて「二十回のスクワット」は重い教訓として、老いの進む私が心に念じるひと言である。


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検証 公団居住60年 №12 [雑木林の四季]

 3.団地を襲った石油ショック、商店街の盛衰

        国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 自治会は1973年度に生活部を新設した。担当分野は、家賃・共益費、公共金の値上げ反対、住宅修繕・補修の要求、生活物資のあっせん、その他である。団地に入居して10年近くは、市役所との折衝、団地周辺の環境整備にふりまわされ、しかしこの段階でようやく一定の解決、改善にむけて目通がついたということでもあろう。かわって自治会に新たな課題が押しよせていた。そんな時代の要請を感じて生活部の新設を言いだしたのはわたしである。自分がやる覚悟なしには言いだせないのが自治会で、部長をひきうけた。
 この年の11月に石油ショックがおこり、主婦たちはトイレットペーパーや洗剤などの買いだめにスーパーへ殺到した。前年に成立した田中角栄内閣の「日本列島改造」政策で地価は暴騰しはじめ、石油ショックを機に商社は投機、買い占めにはしり、物価は狂乱、世は大不況に突入した。
 自治会は日用品の不当値上げを監視して、日々値札を貼りかさねる商店を見てまわったが、地元商店街はスーパーマーケットの進出で、事態はさらに深刻だった。
 12月にはいって自治会は、石油ショックで共同購入していた地元灯油店から断られ、担当者として灯油の仕入先を探さねばならなかった。さいわい小平団地自治会と共同でエッソ石油の取り扱い業者が見つかり、不十分ながら入手することができた。寒空に灯油缶をもって配送車が来るのを待つ長い人の列は忘れられない。ときにはわたしの勤め先に、赤ん坊が凍え死にそうだ、どうしてくれると電話をかけてくる団地住人もいた。
 業者の問題ではなく、メーカーと行政の責任だからと、通産省エネルギー庁、石油連盟とエッソ石油に何度も足を運んだ。国立市に要請したら、しばらくして計量センターが問い合わせてきた。灯油の絶対量の供給不足とは認識せず、油を売るのだから量目不足の問題と勘違いしたのだろう。行政の鈍感さには驚いた。
 そのほかこの年の生活部として、安いオーストラリア輸入牛肉や羊肉の販売、米、味噌、醤油、茶、のりの直送販売、国立白十字のクリスマスケーキ、正月用お餅の共同仕入れもした。おおぜいの知人や娘2人にも手伝ってもらった。いま思うと、想像もつかないほどの好評を博した。申し込みは締め切ったあとも続いた。
 また入居後7年すぎ自治会として初めて不用自転車の回収をした。集積場所からもちだして再利用する人、解体し部品を集めて新しく組み立てる子どもたちもいた。残ったガラクタ自転車約200台を処分した。当時は回収業者がお金を払っでくれた。
 そのはか自治会生活部は公共料金値上げ反対にもとりくみ、運輸審議会で発言、バス会社とも交渉してバス停の改善などをはかった。国鉄運賃についても1977年から80年にかけて値上げ反対署名と毎年約20万円のカンパをあつめて全国的な運動に参加した。
 英米大学出版局の代理店のデスクで、やれ灯油が足りない、牛肉の販売車が来ないと電話を交わし、ときどき行方不明になるわたしに、社長が長期の海外出張をもちかけてきた。要領よく業績は上げてきたからクビではないが、会社か自治会か選択を迫ったのだろう。会社を辞めることにし、脱サラ自営業、洋書輸入のエルベ書店をはじめた。

 ここで、団地周辺の商店街の盛衰をふりかえっておく。
 団地ができた当初は第1団地内の名店街と近くにごく少数の商店があっただけだが、10年後には隣接して商店は急増し、いくつかの商店会が結成された(カッコ内は1976年3月当時の国立市商工会の会員数)。第1団地には富士見台名店街(18店)、ダイヤ街(37店)、谷保駅北口商店会(55店)、パールヒンター(14店、現在はない)、第3団地には富士見台ストアー(8店、現在はない)、近くに矢川銀座商店会がある。富士見台地域で店舗数はそのころがピークだったかもしれない。団地周辺にスーパーが進出してきたのもそのころである。
 大型店といえば、これまで国立駅近くに地元商店の原幸と西友ストアー国立店、70年に開店した紀ノ国屋しかなかった。73年に大店法が制定されるとすぐ、店舗数はすでに過剰ぎみであった富士見台地区に忠実屋、稲毛屋の出店計画がもちあがった。商店会は猛反対し、市の斡旋によって出店を断念する経過はあったが、その後75年になると、大丸ピーコック、サンバード長崎崖、忠実屋(のちにダイエー、現グルメシティ)がつぎつぎ進出してきた。
 はじめにシャッターが目立ちはじめたのは80年代後半、団地内の名店街だった。90年に整備事業にかかり、店舗を大改修、外周通り向けに増設し、カラー舗装をして前庭スペースに道祖神型の石像やフクロウ型のフットライトを設置し、愛称「むっさ21」の看板をかかげたアーケード街にした。それでも店舗数は半減したままで、空き店舗はいまでは一橋大学の学生やNPO団体の活動の場となっている。ダイヤ街を76年当時の図面で確かめると、ここも店舗数は半減の18店、昔からの商店はそのなかのごくわずかである。別の店や改造して飲み屋や事務所に変わっている。
 商店街の盛衰をみるにつけ、時代や生活の変化とその速さを感じる。少子化になって洋品店やおもちゃ屋、文房具店、書店などは消える。高齢化して地域の購買力も購入量も落ちる一方で、客の流れは大型店へ、あちこちにできたコンビニへ、いまでは通販へと分散していく。個人商店は経営がますます難しくなるうえに後継者問題をかかえる。団地自治会は近隣の個人商店を祭りの寄付など頼りにしていたし、地域づくりの有力なパートーナーだった。まわりに進出してきた大型店やコンビニ、さくら通りに建ち並ぶファミリーレストラン等は、「地域」とのつながりにはかかわりなく、地域にとっては穴のように存在している。

『検証 公団居住60年』 東進堂


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台湾・高雄の緑陰で №72 [雑木林の四季]

          日本のカタカナ外語について

           在台湾・コラムニスト  何 聡明

 私は特に日本語が段々カタカナ英語化しているのではないかと心配している。カタカナは英語だけではなくフランス、スペイン、ドイツ、其の他外語にも使われているが、英語は最多であろう。
 戦前より外人の姓名、外国名、地名や常用されていたポルトガル語の「パン」、オランダ語の「ガラス」などのカタカナ外語が使われていたので珍しくない。戦後日本がアメリカに一時統治されたあと、本土で英語の学習が進み、又多くの日本人が欧米へ留学や駐在などで、英語の堪能な人が増えた事はたしかであるが、日本人全てが英語通であるとは考えられない。それなのに、カタカナ英語の数が増え続けているのである。だが、カタカナ英語で発音しても正確に相手に通じるとは限らない。たとえば、英語のLast(最後) とRust(錆び)はカタカナでは同じくラストと書かれる。カタカナにはLとRを分別する字音がないからである。また、tool と twoはカタカナでそれぞれツールとツーと書かれるが、英語の“to”を正確に書けるカタカナがまだ考案されていないからである。文部省はカタカナ外語の未解決問題を早急に解決しなければならないのではと考える。

 数日前、Yahoo日本文版で「金正恩氏がシンガポールに行かない理由」の下記評論を読んだ。其のなかでカタカナ英語のある部分だけを取り出してみた。

 「金委員長にとって最大の関心事は、移動途中も含めて「シンガポールは安全なのか?」ということのはずだ。相手はアメリカでありトランプだ。あらゆる選択肢はテーブル(机)に載っており、その中には北朝鮮内に特殊部隊を送り込み金委員長の首を取る「斬首作戦」や、核関連施設を精密爆撃するサージカル・ストライク(surgical strike=外科手術的攻撃)」などが含まれていることは公然の秘密だ。
  北朝鮮は警備に必要な機材を運ぶ輸送力は全く不十分だし第三国からレンタル(rental=賃貸)する手はある、特殊車両やヘリ(helicopter)を運べたとして万一の事態に対応するためのリハーサル(rehearsal=予演)をやっている余裕もない。
  一方のアメリカは1990年以降、シンガポールとの合意に基づいてチャンギ海軍基地を使用している。米空母の寄港も珍しくなく、シーレーン(sea lane=常用航路)防衛の拠点であり準同盟国でもあるシンガポールとその周辺の軍事情報は着実に蓄積されている。基地からシンガポール中心部まではせいぜい20km。海軍特殊部隊などが強襲作戦を行うための準備を秘密裏に整え、いざという時のためにスタンバイ(stand by=待機)は容易だ。
  首脳警備という観点からすれば、北朝鮮にとってシンガポールは完全アウェー(away=遠く)と言って間違いない。首脳会談が不調に終われば、新たなエスカレーション(escalation=拡大)は避けられない。ここでテイク・チャンス(take chance=やってみる)の決断が絶対ないとは言い切れないだろう。少なくとも金委員長がそう考えたとしても不思議ではない。

 この評論のなかで「ヘリ」と「スタンバイ」だけは字母数において英語より少なく、その他はすべて多い。カタカナ字数を短くするためには、ヘリの様に、スマホ(smart phone),パソコン(personal computer),アメフット(American football)などが使われているが、その言葉の意味を説明をしないと外国人は頭を傾げる。
 常用漢字と平仮名で翻訳すれば短い字母数で表現できるのに、長ったらしいカタカナ英語で字数をふやすのはいかがなものかと私は考えるのである。台湾人の要らぬお節介だと言われることを覚悟してこの文を綴った。

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私の中の一期一会 №167 [雑木林の四季]

    日大アメフト選手の悪質タックルで内田前監督らの“除名処分”が決まった!
~たとえ監督・コーチの指示でも、「やらない」と判断できればよかった~

                            アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 5月6日に行われたアメリカンフットボールの“日大対関学大の定期戦”で、日大の守備選手がパスを投げ終えた関学大のQB(クォーターバック)に背後からタックルして全治3週間の怪我を負わせた。
 アメリカンフットボールでは“QBサック”といってQBに襲い掛かるプレーは許されているが、それはQBがボールを保持している間だけである。ボールを手から離したQBを倒したら“反則”を取られるのだ。
 問題になった場面の映像をみると、関学大のQBはボールを投げ終え無防備な状態にあった。笛も吹かれてプレーの区切りもついていた。そこへ日大の選手が背後から突進しているのだ。明らかに、故意だとしか思えない悪質なものに思えた。
 スポーツマンらしからぬこの違反行為は、「最初のプレーでQBを潰せ」という監督の指示があったからだという指摘が早くからあり、選手非難よりも「日大アメリカンフットボール部の指導体制に問題ありだ」という流れになっていった。
 怪我を負わせた選手が日本記者クラブで行った22日の謝罪会見は、異例の“顔出し会見”で行われた。弁護士の同席も特例で認められたが、宮川泰介(3年=20)と実名を名乗ってのものであった。
 この会見は「被害選手と家族、関学大への謝罪の意味が大きい。顔を出さない謝罪はないだろう」と本人と両親が希望したものだと弁護士が説明した。
 会場にはテレビカメラ20台以上が並び、358人の報道陣が詰めかけたほど世間の注目を集めた。
 宮川選手は、「最初に、本件で怪我をさせてしまった関学大のQB選手、及びそのご家族、関学大アメフト部、及び関西学院大学関係者の皆様、日大アメフト部のチームメイトに対し、この度の事でご迷惑をおかけしましたことを深くお詫び申し上げます」と頭を下げてから、陳述書を読み上げていった。
 悪質なタックルは自分の独断で行ったものではない。「内田正人監督(62)や井上奬コーチ(30)の指示に従って行ったもの」だと説明した。
 これまで指導者の指示を否定して「指導者と選手の間に乖離があった」としてきた日大側の見解とは全く違う内容の陳述であった。
 練習後、コーチから「監督に、お前をどうしたら試合に出せるか聞いたら、“相手のQBを1プレー目で潰せば出してやる”と言われた。“QBを潰しに行くので僕を使ってください”と監督に言いに行け」・
「相手QBが怪我をして、秋の試合に出られなかったらこっちの得だろう」・・
 コーチから「これはホントにやらなくてはいけないぞ!」・・
 監督には「やらなきゃ意味ないよ」と言われた・・
 コーチには「出来ませんでしたでは済まないぞ!」と・・・
 選手が監督に口を利ける雰囲気など全くない・・もう何も考えられない状態だった。
 反則後、相手QBが怪我をして代わったことにも気づかなかった。
 退場になってテントに戻った時、事の重大さに気付いて泣いているところもコーチに見られている。
 5月11日、監督の部屋で両親と一緒に、監督、コーチに面会した。
 父が「個人的にでも相手方の選手とご家族に謝りに行きたい」と申し入れたが、監督からは「今はやめて欲しい」といわれた。
 たとえ監督やコーチに指示されたとしても、自分自身が「やらない」と決断できず、指示に従ってしまった。自分の弱さが今回の原因だ。
 退場になってから今まで、思い悩み、反省してきた。事実を明らかにすることが、償いの第一歩だと決意してこの陳述書を書いた。改めてお詫び申し上げます。
 彼の陳述には誠意が感じられた。犯した行為は間違いだったが、真摯に反省していたように感じた。
 特に、好きだったフットボールがだんだん嫌いになって、「もうフット―ボールを続けるつもりはない」と彼が言った時、20歳になったばかりの若者を不憫に思った人が多かったのではないかと私は思う。
 関東学生アメリカンフットボール連盟(関東学連)は29日、臨時理事会を開き、日大の内田正人前監督と井上奬前コーチを「除名処分」とすることを決定した。
「除名」は最も重い処分で事実上の「永久追放」にあたるという。
 危険なタックルをした宮川泰介選手とチームに対しては「今季の公式試合出場停止処分」とした。
 宮川選手とチームへの処分は再発防止策などの理事会承認を条件に、処分を解除する可能性が残された。
 関東学連による“除名という重い処分”は初めてで、加盟チーム代表や理事による総会で承認を得て最終決定される。
 関東学連の理事ら4人で構成する規律委員会が、日大、関学大の関係者や審判ら約20人から聞き取りを行った。この規律委員会による処分案は賛成16、反対4で承認された。
 規律委員会の森本啓司委員長は、争点となった“反則行為の指示があった”とする宮川選手の主張を「具体的で迫真性がある」と全面的に採用している。
 内田前監督や井上前コーチの発言について「選手の受け取り方に乖離があった」という日大側の主張は、聞き取りの結果「乖離は存在しない」として退けられた。
 指示には“怪我をさせて来いという意図”が込められていたと判断されたことになるして。
 内田、井上両氏は“虚偽発言”を繰り返したとされたことが、除名処分の一因になった。
 宮川選手の監督への直訴について、内田氏が「何を言っているか分からなかった」というのは、井上氏が「内田監督を守ろうとして事実を捻じ曲げたのは明らかだ」と述べ、信用性がないと断じている。
 内田氏は「悪質タックルを見ていない」とされていたが、当日の試合映像を検証した結果、“タックルを見ていた”ことが確認されたと認定している。
 実名を名乗って謝罪会見までした宮川泰介選手は、すでに社会的制裁を受けている。
 彼に再起へのチャンスを与えないことは、教育をモットーとする関東学連としてはありえない」と述べ、秋のリーグ戦での復帰を否定しなかった。
 これまで日大側が関学大側に説明してきた「指導者と選手の間に受け取り方の乖離があった」という主張は一蹴されたものになった。
 学連側の調査では、内田監督が宮川選手に「(反則行為を)やらなきゃ意味ないよ」なんて言っていないという主張も、理事会によって「監督のウソだ」と断定されたのである。
 今後は日大側が立ち上げた“第3者委員会”の調査と“警視庁”の捜査に委ねられることになる。
 怪我をさせられた関学大のQB選手は、27日の関大との試合で実戦に復帰した。
 彼は「直接謝罪を受けて心苦しいというか彼が可哀想に感じた」と話し、「フットボールをする権利はないというのは違う。選手として戻ってきて、正々堂々とプレーする中でまた勝負したい」と語っている。
 宮川選手は、被害選手が復帰したことを新聞で知って、「安堵しました。今後の活躍を祈っています
 選手のお父様が嘆願書の呼びかけをしてくださり、多数の署名を頂いたことを深く感謝いたします」というコメントを30日に発表した。
 加計学園問題で、首相の元秘書官は愛媛県の担当者らと会ったことを1年以上経っても認めようとしない。
 森友問題では財務省が公文書を改ざんしてまで権力者の首相を守ろうとしている。
 日大のアメフト部の不祥事も、すぐ謝罪していればこんな大騒ぎにならなかったかも知れない。
 すぐ謝っていれば解決したかも知れないのに、過ちを認めない。都合の悪いことや問題点を指摘されるとウソを言ってでも誤魔化す・・
 今回の騒動では、日大アメフト部と安倍政権は同じ構図だという見方も多かった。イエスマンで固められ“あったもの”を“なかったこと”にしても恥じないから謝らないのだろう。
 自らの不祥事を顔を晒して語り、自分の弱さを反省しつつ深々と頭を下げて謝罪した20歳の若者の潔さを見習ったらどうだ!
          「優秀な人は自分自身を責めるが、並みの人間は他人を責める」
            NFLマイアミ・ドルフィンズのドン・シュラ監督の言葉である。




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パリ・くらしと彩りの手帖 №136 [雑木林の四季]

マクロン登場から一年のフランスの今

              在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ

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 フランスに突如現われた政治家のエマニュエルマクロンはこの国全ての構図を変えてしまったようだ。優秀な若者として大統領宮殿で働いていたこの人物が数年後には大蔵大臣となって君臨し、そしてあっというまにフランスの大統領になってしまったのである。20数歳年上という婦人も全くこの大統領にとってなくてはならない人ということである。そしてアメリカの大統領が、大統領となってはじめて一国の代表である人物を招待したのがこのフランスの若い大統領だというのだ。それを聞いているフランス人がまづ驚いたのである。若くて気軽だったからではないはずだ。それでもやっぱり今はもう彼も40歳に入った事だろう。そして今そのときのマクロンは大統領どうしのがっしりと組まれたなかで、英語のスピーチをし、ニュースでは、韓国、北朝鮮の核実験ストップの約束、オリンピックと言うスポーツの美名につられていろいろと進展していったり、その後ずさりをしたりで、ほんとうにそのときが来るまではどうなって行くのかわからないといっても良いだろう。とくに日本人の拉致事件の結末は段々と遠のいていくような気さえするものだ。何処の国でも自分達の利益を求めて行動するのは当然のことだろうが、それでも物にはやっぱり程度と言うものがあるのではないだろうか?
 しかし今回突然アメリカの大統領が決めたその大使館のエルサレムへの引っ越しは耳を疑うものだった。パリにある、外国人特派員の役員選挙では異変が起きたのだ。というのはパレスチナ人の数少ない記者の中から一人を名指しで、今回の副会長の席をうけてくれと頼んだのは何と会長と決まったばかりのイスラエル記者だったからだ。長年敵対してきた民族だったのだ。これを拒否しようとしたジャーナリストに対しては、そこに居た全員が何と真剣に勧めたのだ。世界中の会でここまで敵対する国の代表同士が会長と副会長の役をを持つなどと言うことが出来るのは世界でここだけ、私たち自由なプレスの会だけができる事なのだ、世界に誇れることだと言わんばかり話しははずんだ。こうしてみると一年がたち、問題が無ければ2年間それぞれがこの会をを運営していいと言う決まりがあったから、それではまたあと1年続けようということになったのだ。副会長がパレスチナ人のままで。ところが結局はこれを1年やったパレスチナの記者は2年目は 絶対にことわると強くでたのだ。みんなが、この1年の間に特別な事態も起きずホッとしたところで去ろうとしているのだ。。2年目をうけてくれないのかと言う私たちを副会長は拒否した。そしてこう言ったのだ。この過ぎた1年間は、私達同国人の仲間は誰ひとりとして私に口をきく人はいなかった。私にはもうこれ以上の努力はできないと断ったのだ。これで同席した人々にも全て納得がいったのだった。この事を新しい大統領が知っていたかどうかはきいていない。

 さて、ことしのオランジュでは今までi一番大きな資本を出してくれていた銀行が抜けた事で、今年はいつものように二つのオペラが上演出来るかi危ぶまれていたのだが結局は7月はなかなか聞くチャンスの少ないイタリアのオペラ、メフィストフェレス。8月の出し物はあのセセヴィラの理髪師だから、みなさんもおなじみのものだという。これを機にすこし是正しなくてはほかの仕事の都合で労働条件とバランスが取れない、というわけだ。こちらのほうはこれで先ず一段落、一安心という事だ。日本からもどんどんきてほしいものだ。純粋にフランスの文化とはいえないけれどあふれてい4世紀頃のギリシャのすばらしさを味わわせてくれるこのオランジュの劇場で演じられるものはもうすべて魔力がかかっているのだから。日本でも仕事の仕方、、働く時間などのことで、毎日のようにニュースが埋まっている感じだ。今年の初めから、政府は、国鉄の労働者たちとその家族を非常に優遇する古くからの条件をほかの労働と比較できるようなものにすべきと案を練って来たところだ。今年の初めからこの件はつねに政府の案ずるところであり、古くからの特権を失ってはいけないとがんばる関係者や家族の、色々な形のストやプレッションが次から次えと移って行く。国鉄に勤めたら、一生職を失わないことや、家族たちが行楽で汽車に乗る時も無料だったり、すばらしく保護されてやってきたから、この時期特権を失ってはならぬという意見と、それから、ほかの職域と比べてこんな位に保護されているのだから、少し早く譲るべきだ、国鉄の労働はほかと比べてそれほど危険があるわけでは無いのだし、という人々も出てきているのだろう。今年の始めからのこの運動はいまも続いているが、どちらかと言うと、健康な方向で進んでいると言えるのかも知れない。マクロン大統領のもとで産まれた政府の、それぞれの大臣達が、あまりなれないやりくちで進めているにしては綻びをあまり感じないで済むような気さえするのだ。鉄道が引かれたころに、危険な仕事という考えがあったからかも知れないが、そのあと労働者達に、特別な労働条件が与えられて、現在まで来ているのだ。という。いろいろと力づけ、特権をあたえた職業が色々あって、いまはその為には時間を掛けて、無くしていると言って良いのだろうが、これは鉄道が出来、人びとが、老いも若きもヴァカンスに出かけるようになって来てからはいっそうに目立った特権だったから、今少しづつかじ取りをしていると言っても良いのでは無いだろう。
 世界の動きを見ていると、たとえばトランプ大統領が、次々と意見を変えている。一国の運命を背負ってたつ人物としてこんなでいいのだろうかと思ってしまうのはせまいわたしの意見だ。

 今年は、あのひと口に68年と言うようになった1968年の学生運動の事だ。学生運動で、大学が中心で、日本でも東大辺りで、頭に一撃をうけたりした動きがあったと言うが、私たちにして見れば、大学で授業は無いし、ちょうどいい。日本から文楽がパリにきて、日本人はみんなおめかしをして出かけたものを、何かあるといつでも気軽に打てるような姿勢でいる兵隊達の間をかき分けていかなければならず、有名な役者が劇場の責任者だったオデオン座では、学生に気を遣ったスピーチがウケて興奮したのも、その翌朝はその訳者はもう戦場から遠のかされていたのだった。こんな事で、北フランスから慌てて帰国する人びとが続いたのだった。
 あのときから50年経っていると言うのに一体政界は変わっていないのだ。たとえば今回のアメリカ大使館の移転する話にしても、その為には殺される人は出ないだろうか_わたしもそのメンバの一人である外国人記者クラブがあるが、コレは世界の何10カ国からの代表であるできているものjで、そういうのは代表になりたがりやの多いイスラエルの記者が会長になる事はよくある事だ。たとえば日本人はそんんことに余計な時間を使いたくない人や、言葉には問題が無くても避けて通る人の方が多い。イスラエル人はその種の字と人を大事にするし、なにかと賞が出るようなものがあると自分達の民族を選ぶのが常なのだ。でもある時、イスラエル人が会長に選ばれて、そうなるとパレスチナ人に副会長をやって貰いたい。パレスチナが会長では駄目で、そこは先ずイスラエルに鼻をもたせるのだ。こうして、この委員会はとにかく1年を全うした。これらの人々は2年目に選ばれても良いのだ。3年目というのは台のが決まりだ。こうして、委員会は2年目の会長も続けたいイスラエル人が、パレスチナ人を説得にかかった。わたし達は寧ろ意見は無くて、その行方にも好奇心を持っているという訳だった。このときパレスチナ人は頑としてつらぬいた。絶対に引き受けないのである。そして、その理由をみんなの前で説明した。これらのと言うのは、彼がイスラエル人の元で副会長になった事は、特別なことなのである。既にパリで何度か練習してきたら放送局の音楽家達がいいよ、良いよと言ってくれ;るから、またあのオランジュの一の激情、4世紀頃に産まれたあの素晴らしい空間を自由自在に使って酔わせてくれるはずだ。

 さて、ことしの自分の身に起きたことで、いろいろと欠席したり、コンピューターも使えなくなり、思うようなことの出来ない2018年だが、これから少しづつ収まって行けばうれしいが。
 それにしても一度はお約束してしまったセザールの展覧会、、あれだけ有名で、世界中に知られているセザールはいつもいつも沢山の展覧会に出しているのに、彼だけの展覧会と言うものが中々できなかったのはなぜなんだろうと考えてしまった。わたしの夫が、パリ美術学校の生徒だったときに、彼はアトリエの古顔だったから、セーヌ川に近い美術学校を古顔で通していたのだ。そして、フロを浴びたあとに着るタオルの上着をガッチリまとい、威張っていたのだった。いまから考えると懐かしい思い出だ。そのうちにあの親指を何メートルかに引き伸ばして見たり、自動車をつぶして象ってみたり、やりたい事をやって来たものだと思う。こういう人達が新しいものをどんどんつくり、創造していく限り、パリでは退屈する暇はないのだ。
 このなかでのマクロンの仕事にはいろいろの要素があって、いろいろと新発見をさせてくれる。ヨーロッパに関する決議にはドイツと共にしっかりと下基礎を固める。ほかの事ではそれこそ色々な物があるが、彼の決定はそのなかでいつも良い選択のように思える。この人が全能力ではないにしても、そのときの一番よい選択をしているように思えるのだ。ひょっとするとファーストレデイーーの影響もあるのかも知れないが、それは大変結構な事なのだろう。それでもやっぱり若い人々がマクロンの政治に待ったをかけるしるしが出た所。このあたりで、やっぱりそう、マクロンはと言いたい所だ。


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浜田山通信 №218 [雑木林の四季]

栄枯盛衰の世の習い

              ジャーナリスト  野村勝美

 モリカケ問題やら日大アメフト事件は権力者があくまでもシラを切り通し、非核化交渉もさてどうなるものやら。スポーツ関係では相撲がやはりおもしろいし、大リーグの大谷二刀流の活躍で一日中TVばかり観ている。天気の悪い日など一歩も外へ出ず、買いだめした本でも読めばいいのだが、その根気は続かない。2、3人残っている友人に電話をすると、まあそんなもんだよと慰めてくれるだけだ。
 このところ大物芸能人の訃報が続いた。 西城秀樹(63)星由里子(74)朝丘雪路(82)。皆私より大分若いから、彼らの最盛期を私は知らない。とくに西城秀樹は全く興味がなかったので、「傷だらけのローラ」など初めて聴く感じだった。野口五郎とともに新御三家といわれた郷ひろみだけは、出てきた頃、ライバル誌「週刊朝日」がトップ記事で取り上げたので憶えているが、彼のヒット曲も知らない。2回りも年が違うと上の人のことは憶えているが、下の世代のことはあまり記憶に残らない。もっとも西条ひでき、浅岡夢路とメモする始末なので当方のボケも関係ありなのだろう。
 ということで朝丘雪路はよくおぼえている。年も近いし、何よりお色気があった。ボインでかわいいなどという表現はセクハラ的かもしれないが、私は好きな女優の一人だった。津川雅彦と結婚した時は、若くて色男の方がいいのかとがっかりした。長門裕之にはインタビューをして好感を持っていたが、津川は右派的言動もあり、あまり好きではなかった。朝丘の死因はアルツハイマー型認知症だという。私のいちばん下の妹が60代で発病し、もう何も判らない。妻の葬式に来てくれた時はまだ少し変だと思うくらいだったのだが、私自身が郷里の福井へ出かける元気もないので現状は知らない。何一つしてやれることがない―。
 津川は症状については何一つ語らなかったし、マスコミも追及しなかった。当然である。ただ津川がおもちゃ屋の経営に失敗し、借金を払うために雪路名義の住宅を売却したことは記事にあった。美人画伊藤深水画伯の娘で父親の資産をひきついだのだろう。
 津川の経営するグランパという店はドイツの木製玩具など輸入ものが中心で、日本の子供たちに人気のゲームやおもちゃは扱っていなかった。まだベビーブームの影響が残っていて、高級玩具もそれなりに商売にもなった。荻窪駅のタウンセブン一階だったと思うが、当時私もおもちゃ屋をやっていたので見学に行った。荻窪駅北側には菅原文太夫人もおもちゃ屋を開いた。
 その後、アメリカのトイザラスが全国展開した。父ブッシュが来日した目的はトイザラス一号店の開店をあわせたものだったが、そのあおりで日本中のおもちゃ屋、問屋がつぶれた。アメリカのトイザラスもことし廃業した。幼児でもスマホをあやつる時代。栄枯盛衰、世のならいである。
 映画といえば、毎日時代いっしょだった松島利行君が5月11日死去。映画好きで人懐い、いい男だった。80歳。「風雲映画城」「日活ロマンポルノ全史」など。

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徒然なるままに №35 [雑木林の四季]

三つの歌曲を聴く

                     エッセイスト    横山貞利

 日本の歌曲と言えば「荒城の月」、「城ケ島の雨」、「平城山」、「出船」、「初恋」などを想い出す。私にとって、どの曲も忘れ難い曲ばかりである。
   しかし、このところ、ここで紹介する三つの歌曲に嵌ってしまって何となく繰り返して聴いている日頃である。

   「母」  詞 竹久夢二  曲 小松 耕輔
  ふるさとの やまのあけくれ
  みどりのかどに たちぬれて
  いつまでも われまちたもう     幾山河とおくさかりぬ
  母はかなしも            ふるさとの みどりのかどに
                    今もなお われをまつらむか
                    母はとおしも

 何と感動的な詞だろうか。
 竹久夢二(1984年~1934年)と言えば、先ず想い出すのは「宵待草」(作曲 多忠亮おおのただすけ)であろうが、この「母」の歌曲を聴いていて、すっかり魅せられてしまった。わたしが小学5、6年のころから中学、高校時代を通して抱いていた母を想う心情を代弁してくれているように想えてならない。放蕩を繰り返す父に反発した夢二にとって母への敬慕は決して忘れられることができないことであったろう。多感な時期に、父から取り残された母の姿を見詰めつづけた夢二が、父と和解して上京した後も母を想う心情はこの詞に凝縮されているに違いない。                 
 作曲者の小松耕輔(1884年~1966年)は、東京音楽学校(東京芸大音楽学部)を卒業した後学習院などで音楽教師をしながら作曲をしていて、1906年(明治39)にオペラ「羽衣」を発表した。このオペラ「羽衣」は日本の最初のオペラだそうである。「母」は,夢二35歳の時に作曲されたもので、女学校生徒の合唱曲としてよく歌われたということである。

    「くちなし」  詞 高野喜久雄  曲 高田三郎
  荒れていた庭 片隅に
  亡き父が植えた くちなし       
  年ごとに かおり高く       くちなしの木に くちなしの
  花がふえ             花が咲き実がついた
  今年は十九の実がついた      ただ それだけのことなのに
                   ふるえる ふるえる
                   わたしのこころ
  「ごらん くちなしの実を ごらん
  熟しても 口を開かぬ
  くちなしの実だ」と        くちなしの実よ
  ある日の 父のことば       くちなしの実のように
      父の祈り             待ちこがれつつ
                   ひたすらに これから生きよ
                   と父はいう
                   今も どこかで父はいう

 作詞者の高野喜久雄(1927年~2006年)は新潟県佐渡の出身で宇都宮農専(宇都宮大農学部)を卒業し神奈川県内の高校で数学教師をしていた間に、詩作に励んでいた詩人であった。詩集はイタリア語に翻訳されるなど高く評価をされていた。合唱曲「水のいのち」(作曲・高田三郎)は現代を代表する合唱曲であるという。
 作曲の高田三郎(1913年~2000年)は作曲家であると同時に優れた指揮者でもあったという。名古屋出身で武蔵野音楽学校教師科を経て東京音楽学校(東京芸大音楽学部)本科作曲部を卒業(1939年)更に研究科作曲部、聴講科指揮部で学んだ。1948年作曲団体「地人会」を結成。NHKから芸術祭の合唱曲を依嘱されて、高野喜久雄と出会ったという。
 依嘱作品 「わたしの願い」(1961年)、「水のいのち」(1964年)
      「ひたすらの道」(1976年)、「内なる遠さ」(1978年)
      「確かなものを」(1987年)
 歌曲集「ひとりの対話」(1965年~1971年)。
「水のいのち」は、「混声版」、「女声版」、「男声版」の三部作があり200刷を突破しているそうである。また「高田三郎歌曲集」が1999年音楽の友社から発行されている。
 幼少のころからプロテスタント教会に通い、40歳で洗礼を受けカトリック教徒になった、敬虔なクリスチャンである。 

    「九十九里濱」  詞 北見志保子  曲 平井康三郎
     (短歌連曲 三部作)
   沖はるかに  荒れて浪たち   水平線
          日の出近くして  海鳥飛べり

   沖つ浪   みるにはるけし  思うこと
         五百重(いおえ)へだてて わだなりがたし

   わたつみの  太平洋に  まむかいて
          砂濱白し  九十九里なり

 千葉県外房の九十九里浜は太平洋に直面している。この短歌「九十九里浜」に表出された荒々しさ、そして曲想のダイナミズムと相俟って、九十九里浜の男性的な営為をよく導き出して、聴いているわたしに迫ってくる。

 わたしは、九十九里浜が好きなので、70歳で車をやめるまでカミさんと愛犬ミミを乗せて毎年のように九十九里浜に出かけた。わたしのところから東関東自動車道・東金道路を利用して丁度1時間で九十九里浜に着く。初秋の九十九里は全くと言うほど人出がないのでミミと渚を走って遊んだ。ミミは水が嫌いなので渚で波が足元まで押し寄せるギリギリまで意地悪して遊んだ。一望のもとに極東の荒波を見詰めていると、限りない大自然の営為に惹き込まれる。
 作詞者 北見志保子、作曲者 平井康三郎については「徒然なるままに Nо12 平城山 追想」で紹介したので触れないことにする。
 この激しい作詞者の“こころ”を作曲者が見事に表出していて聴取者の全身の皮膚を通して感得させられる。そこにはある種の“恐怖感”のような感覚に堕ち入る。しかし、何度も聴いていると「九十九里浜」に独り身を置いている快さを感じてくるから不思議である。それが「自然の力」なのだろう・・・か。




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BS-TBS番組情報 №163 [雑木林の四季]

BS-TBS 2018年6月のおすすめ番組

                                                      BS-TBS広報宣伝部

高島礼子が家宝捜索!蔵の中には何がある? 2時間スペシャル

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2018年6月8日(金)よる9:00~10:54

☆松阪の蔵で番組最高鑑定額のお宝発見!勝海舟のご子孫も登場!

出演:高島礼子
高島礼子が日本全国の蔵へ!埋もれた家宝捜索の旅に出かける。

今回訪れるのは三重県松阪市。江戸時代は商業の町として栄え、豪商のまちとなった松阪。今も城跡や武家屋敷が残り、レトロな風情が町並みに漂う。そんな松阪で、蔵に埋もれた家宝を求めて、さっそく捜索を開始!
松阪駅から車で約20分の射和集落では、江戸時代に屈指の豪商だったというお宅へ。家宝を見せて頂くと…、なんと勝海舟がご先祖に送ったという手紙が!同封されていたのは勝海舟の肖像写真。そして、蔵の中ではご先祖が写る古い写真を発見!勝海舟とご先祖の関係とは一体!?番組史上最高鑑定額のお宝を発見!?そして勝海舟のご子孫も登場!

由紀さおりの素敵な音楽館 2時間スペシャル

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2018年6月15日(金)よる9:00~10:54

☆由紀さおりとゲストによる「大人の音楽番組」!!

出演:由紀さおり
ゲスト:坂本冬美、伍代夏子、林部智史、濱田めぐみ、松原健之、里見浩太朗

ゲストとともに「カラオケ曲」をテーマに20位~1位までランキングを発表!多くの人々に愛され歌い継がれてきた名曲の数々を紹介。
由紀さおりは、高橋真梨子の代表曲「桃色吐息」の妖艶で濃厚な大人の世界観を表現する。そして、由紀、坂本冬美、伍代夏子による映画主題歌にもなった「セーラー服と機関銃」、「津軽海峡・冬景色」を3人ならではの美麗なハーモニーで歌い上げる。さらに、里見浩太朗は国民的時代劇「水戸黄門」のオープニング曲「あゝ人生に涙あり」を熱唱!一緒に歌えて、一緒に楽しめる名曲満載の2時間スペシャル。

バイタルTV「あの雑誌に密着したら想像以上にスゴかった」

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2018年6月12日(火)よる11:30~12:00
2018年6月19日(火)よる11:30~12:00
2018年6月26日(火)よる11:30~12:00

☆知る人ぞ知る専門雑誌に密着!

日本で発行されている数千もの雑誌の中から知る人ぞ知る専門雑誌に密着!
少数精鋭の編集部員たちの仕事模様と驚き満載のコアな世界に迫る!

■6月12日(火)
#5 「日本全国をクルマ旅!車中泊を楽しむ専門誌『カーネル』」
今年で創刊10周年!車中泊を楽しむ専門誌「カーネル」に30日間密着!今すぐできる簡単DIY術や、オススメのクルマ旅ルート。見ているだけで行きたくなる全国うまいものマップまで。密着取材を通して見えてきた“車中泊”の魅力とは?
▽車中泊を極めた達人が自慢の愛車を披露!
▽専門店を徹底調査!車中泊の必須アイテム売り上げランキング
▽新人記者が車中泊施設「RVパーク」で緊張の初取材!
▽まるでホテル!?敏腕編集長がオススメする超豪華キャンピングカー

■6月19日(火)
#6 「賃貸オーナーの必須アイテム!月刊『家主と地主』」

■6月26日(火)
#7 「創刊93年!製菓業界のパイオニア『製菓製パン』」




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ロワール紀行 №78 [雑木林の四季]

アムボワーズの城 3

           スルガ銀行初代頭取  岡野喜一郎

 恐るべき弾圧が始まった。
 事の露見を知らずに、アムボワーズに続々到着した新教徒は、すべて捕らえられ、虐殺された。今、私が立っているアムボワーズの城門前の広場には、俄作(にわかづく)りの絞首台が立ち並び、絞首と斬首で、夜遅くまで処刑が続いたという。
 処刑者の余りの多さに、絞首台が間に合わず、しびれを切らしたギュイーズ派は、首に縄を巻き城壁から蹴落して絞首し、そのまま吊り下げた。、生きたまま麻袋につめてロワールに投げこんだり、重い石を積んだ馬車の下敷にして轢き殺した。、ありとあらゆる蛮行と惨殺が、笑いと罵声の中に繰り返された。
 カトリィヌ・ドゥ・メディシス、幼王フランソワ二世、その妃マリイ・スチュァート、ギュイ左公などは、その酸鼻と悪臭にも拘らず、晩餐後、城壁の上から、笑いながら処刑を見物したという。
 その神経と残虐さは、とても日本人には分らない。
 「アムボワーズの陰謀」はかくの如く、処理された。しかし、虐殺は解決ではない。
 この恨みは更に深く長く、フランス王国をゆさぶることとなった。
 今日、残っている記録画は、サン・バルテルミィの大虐殺のそれとともに、正視するに忍びない残虐さを伝えている。
 アムボワーズから歩いて、二、三十分のところに、クロー・リュセの町がある。
 ここはフランソワ一世に招かれた、「ルネッサンスの巨人」レオナルド・ダ・ヴィンチが一五一九年五月二日、ここに死ぬまでの、三年間を過したところとして名高い。
 フランソワ一世が与えたと伝えられるその邸館は、小さな橋と急勾配のスレート屋根、白い石と赤レンガの風雅な館である。
 ダ,ヴィンチがここで死ぬ約一年前、一五一八年四月三十目付で認めた遺言書は、次のような書き出しで始まっている。
 この場に今いあわす人々も、後の人々も、皆次のことをよく知って貰いたい。アムポワーズのわが国王陛下の法廷にいるわれわれの目の前で、アムボワーズ郊外クローと称する地に現住する王室画家レオナルド・ダ・ヴィンチは、死のたしかなことと、死ぬ日のたしかなことを考えて、遺言する云々……
 上記遺言人はアムボワーズの聖フロレンティーノ教会内に葬られ、その遺骸は同教会司祭らの手で運ばれることを希望する。
 とあるが、この教会はアムボワーズ城の下、ヴィクトル・ユウゴォ通りとギィノォ河岸通りの交叉するところにある。
 一八六九年、彼の遺骨と推定されるものが発見され、一八七四年、聖ユーべェル教会に改葬されたといわれるが、この遺骨は彼のものと確認されたわけではないらしい。
 その遺言状の中で面白いのは、自分の葬式には松明(たいまつ)六十本を六十人の貧乏人に、参列代を支払って持たせること-の一条である。さらに、この現存するクローの邸宅の動産及び家財道具一式を、召使バッティスタ・デ・ヴィラニス氏に贈与している。ただし、彼がダ・ヴィンチより長生きした場合に-という但し書も面白いが、これは当然のことだろう。邸宅のことについて、何にも言っていないのは、国王から下賜された官舎で、返還の義務があったからであろうか。
 この遺言書を読んでいるうちに、私は一つ疑問が生じた。
 それは、フランソワ一世が、ダ・ヴィンチを、この地に招んだというのが通説になっているが、彼の遺言書の末尾を読むと「最近、崩御された仁慈深き思い出にみてる国王ルゥイ十二世が、このヴィンチに賜った水の権利」と書かれていることである。
 だから、おそらく彼はルゥイ十二世の治下に、ここに移り住んだとも考えられる。
 しかし、年代的に見ると、ルゥイ十二世は一五一五年に亡くなり、フランソワ一世が直ちに王位を継承している。
 史実に拠れば、ダ・ヴィンチはルゥイ十二世の没後、一五一七年イタリアからここに移り住み、三年後の一五一九年に亡くなっている。
 したがって遺書にあるルゥイ十二世から下賜された水利権は、王の生前から親交のあったダ・ヴィンチが、イタリアにいる間に贈与されたものであろう。そう考えないと、辻褄があわない。
 さらに興味深いことは、一五一八年に書かれたダ・ヴィンチの遺言状に出てくる法廷、契約、法廷遺言の形式、公証人や執達吏制度のことである。
 それは今日行われているフランス民法と比して、遜色ないほど完備していたと思われる。
 この年は、日本の文亀十五年にあたり、武田信玄と今川氏親が一時、和睦したりしていた戦国時代の其最中である。
 当時の日本には、とてもこれほど進歩した民法や法律制度はなかったことが、興味深く回想される。(完)

『ロワール紀行』 経済往来社


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バルタンの呟き №35 [雑木林の四季]

       「昭和時代」

                 映画監督  飯島敏宏

 先日、新潟県五泉市の巻(まき)という小さな町の老舗玩具店の招きで、ウルトラ・ファンの集いに出かけたのですが、鯛車(たいぐるま)という、恐らくこの街の鎮守の祭りに出るのでしょう、大きな赤い鯛が台車に乗った山車(だし)の絵が描かれた大売出しの旗の並んだ商店街は、店構えといい、看板といい、昭和の匂いが紛々と漂っていて、ちょっとしたタイムスリップをしたような気がしたものです。平日の昼下がりということで、人通りが全く見られなかったことも、その一因かも知れません。
 商店街の目ぬき通りの角にあるこの老舗玩具店の、全面ガラス張りの大きなショーウインドウを埋め尽くすように並べられたウルトラマンはじめライダーもの、戦隊もの、アニメヒロインなどのフィギュア―群の量に圧倒的されながら、実物大(巨大化する以前の、スーツアクターが中に入る大きさ)のウルトラマン像やライダー像たちが迎えに立っている入り口から店内に入ると、子供の頃欲しくてたまらなかった精巧な電動鉄道模型や、戦後一世を風靡したスーパーカーのミニチュア、果ては、昔懐かしいキューピー人形まで、まるでおもちゃの歴史館さながらに新旧の玩具で埋め尽くされた店内を通り抜けて、向かいにあるこの商店街の交流センターに入ると、今度は逆に、50ほど並べられた椅子に集まって居られた熱心なファン(というよりも、マニアと申し上げた方が適切な)の方々のボクを見つめる目線が、それぞれが、いまや充分老境に達したボクを透して、50年という時を超えて、皆さんがウルトラマンを初めて見た5,6歳の自分たちの茫洋とした幼児の頃の想い出を鮮明化しようとする、といったファンタジックな混流の渦に巻き込まれたのです。
 なんといいますか、遺跡から堀りだされた土器を透して遙か万葉を思うように、というと大袈裟過ぎるかもしれませんが・・・ちょっとしたトークと質問への応答、次々に差し出されるウルトラマンゆかりの本、玩具などへのサインをするボクを透して、会場の皆さんが、はじめてウルトラマンに出会った頃へタイムスリップしたのです。
 あの午後、この街は、時が止まったように無人の街でした。街の中心にある神社は、欄間に大小楠公(昭和まで、忠臣と讃えられた楠正成とその子正行)ゆかりの菊水の図柄の彫られた木造の山門、土壁がむき出しのもと神馬小屋と思しき舎、昇龍の彫られた欄間に僅かに鮮やか紅の痕跡を残す神楽殿に、張られたまま垂れ下がっている引き幕、そして、恐らく、鯛車の山車が門前の街を引き回される祭礼の時以外には、まず賑わうことのない広い境内の向こうには、隣接する曹洞宗寺院の故習に満ちた大伽藍が、ほとんど音という音のない界隈に、毅然とそそり立っているのです。
 もっとも、平日の昼間は、ボクが今住んでいる街も、超高齢化した現在では、まるっきり人の姿が見られない時間がありますが、大規模不動産ディーラーが大量建売して、たかだか50年を満たさずに、新建材で新改築されつつある画一的な家々の並ぶわが街の時間は、留まるどころか、加速度的にその刻みを速めている一方ですので、比較の対象にはなりません。
 さて、翌朝です。昨日訪ねた鯛車の街とは対照的に、すっぱりと過去を清算してリニューアル開発された駅前シティーホテルのレストランで、バイキング式の朝食を取っている時でした。渡されたトレイを持って、「何から取ろうか」と、和洋各種色とりどりの料理が並べられた大卓子に向かった折も折、ロビーにあるテレビから聞こえてきたアナウンサーの声で、「朝丘雪路さんが亡くなられていました」というコメントが、僕の耳を捉えたのです。享年83歳、かねて療養中でしたが、という短いコメントが淡々として彼女の訃報を告げ終わって、すぐにほかの話題に移ってしまいます。ツアー観光に出かけるらしい初老の人たちの小グループや、事務的にてきぱきと食材をトレイに載せて席に着く出張サラリーマンと思われる男性たち、サラダ、フルーツ、スイーツまでじっくりと吟味しながら、幾度も大テーブルと自席を行き交う、旅馴れた感じの若いツアー女子会風の娘たちなどで、レストランは結構込みあっていたのですが、「朝丘雪路」というアナウンスに、ほとんどといっていいほど、料理を取る手を止めて聞き耳を立てたり、仲間と言葉を交わしたりする様子の人は見当たりませんでした。ボクにお粥を注いでくれているスタッフのお嬢さんの手もまた、まったく止まることがありませんでした。
「そうか・・・」と、ボクは思わずつぶやきました。
「誰もいないんだ・・・」
 ここには、あの朝丘雪路さんを知る人がいない。初老と見かけたグループにさえ、朝丘雪路という名は響きを持たないのです。
「そうなんだ・・・」
 この地の名産として、近頃関東でもその名を聴くようになったノドグロの焼き魚に箸をつけながら、あの頃、デビューしたての朝丘さんと共演した俳優さんたちの顔を思い浮かべていました。連続テレビ時代劇を担当するようになったばかりのルーキーディレクターのボクに新番組(山手樹一郎原作「朝焼け富士」 昭和34年TBSテレビ)を持ち込んできた電通企画室のプロデューサーが、稀代の新人として薦めてきたのが、彼女との出会いでした。
「日本画壇の巨匠、美人画で著名な伊東深水の娘、宝塚の娘役・・・」
 いきなり、主役安井昌二さんの相手役ヒロインでした。昭和9年生まれということですから、ボクの2歳下です。その後も引き続いて「大江戸の鷹」「山本周五郎アワー」など矢継ぎ早に仕事をしたので、いわばテレビドラマの同期生、でした。
 芦田伸介、水島道太郎、平幹二郎、原保美、服部哲治、丹波哲郎、天津敏等々・・・
「みんないなくなっちまったな・・・もう」
 撮影(収録)現場のテレビスタジオでは、朝丘雪路さんと呼んだことは、一度もありませんでした。
「ユキエちゃん」
なのです。
 ディレクターのボクだけではありません。AD(演出助手)も、カメラマンも、床山(髷)さんも衣装さんも、みんなそう呼んでいたのは、何を話す時でも、口を開けば必ず、
「ユキエ・・・」
と頭に付けてから話し始めたからです。本名は雪会だったらしいのですが、美人画からの連想だったのでしょう、雪絵、と書くのだろうとばかり思っていました。 
「ひどい近眼だから、誰にでも愛想が良いんだ。誰だか判らないから取りあえずにっこりするんでね、特別に、俺が、なんて勘違いしちゃあいけねえよ。飯島ちゃん」
 その番組で、ユキエちゃんに立ち回りの振りをつけていた長谷川一夫さんの殺陣師の一人だった桜井美智夫さんが、そう注意してくれたことを思い出して、思わず頬が緩みました。
「ゆうべ、花柳のおじちゃまに訊いたら、うん、それでいいだろうって・・・」
 身の程知らずに、新米時代劇ディレクターのボクが、彼女にちょっとした仕草を付けた稽古の翌日のことでした。ボクにとっては神様のような存在だった劇団新派の大御所花柳章太郎さんに、その仕草を見て貰ったというのです。
「ええっ?」
 仰天です。冷や汗三斗です。ボクが、新人とはいえ、すでに宝塚の娘役で人気だったユキエちゃんに、臆面もなく伝授した仕草とは、以前、映画で見た山田五十鈴、水谷八重子さんなどの動きの受け売り(盗み)に過ぎないものだったのですから・・・
 もうひとつ、天然なんとかと言われたほどナイーブなユキエちゃんとの交流で、たぶん、晩年、認知症が進んでいたというユキエちゃんの記憶には残っているはずもない、勘違いしちゃあいけないよ、という思い出が浮かびかかったのですが・・・
「監督、お早うございます!」
 シナリオハンティングの車を運転する現地スタッフのボクを見つめる視線には、老人を労わる優しくも床しい心が満ち溢れているではありませんか・・・
 その日訪れたのは、新潟市内、五泉市蛭野の奥深い山中にある、慈光寺という曹洞宗の古寺でした。
 途中、車を止めて見せて貰いたくなるほど古くまぐわしい無数の野仏や詩碑の建ち並ぶ山道を登ってしばらく、樹齢300年超という杉並木を通り抜けて漸く到達した古刹は、開祖が300年以上前、和尚は上杉謙信の末弟から三代までその係累が勤めたという由緒のある古寺でした。古来厳しい仏法の修験道場だったとかで、現在でも、座禅堂で厳格な修業が行われているとのことでした。江戸時代の全国的な大火で焼失して再建されたという本堂も、相当に古びた趣のある木造建築です。
「昭和30年以前には、誰もここを尋ねる人はいませんでした・・・」
 もちろんボクたちは、特別の許しで、寺のすぐ下まで車で登ってきたのです。話している和尚さんは、ボクより年下のはずですが、厳しい修業の結果か、古来そのままの僧衣の故か、まさに寺の由縁に相応しい古老の昔噺を聴く思いで、寺のあれこれを伺っていたのです。
「戦争中には、東京からの疎開児童を村では収容しかねて、この寺にも、東京の成城学園の生徒さんたちがいましてね、その中に・・・」
 そこで和尚さんの口から飛び出したのが、なんと、小坂一也さんの名だったのです。
「へえ、小坂一也さんがですか・・」
 この山奥の寺に疎開していた成城学園の少年たちの一人が、あのウエスタン歌手で、木下惠介監督の数々の映画出演を経て、映画、テレビのユニークな役者として活躍して、当時木下惠介プロダクションにいたボクが撮った初めての劇場映画、円谷プロ10周年記念の東宝映画「怪獣大奮戦・ダイゴロウ対ゴリアス」に出演してくれた小坂一也さんだったなどという稀有な偶然が、たまたまこれから取り掛かろうとしているシナリオの参考にと、新潟のこんな山深い古寺を訪れたボクに齎されるとは、夢にも想像できませんでした。明治時代、大正時代に続いた昭和時代と今終わろうとする平成時代を、ボクらと共に暮らし続けてきた近上天皇皇后夫妻が退き、新年号の下で行う2020東京オリンピックパラリンピック競技大会に向かって性急な時間を急ぐ今日、見事に、戦争ばかりではなかった昭和時代を思い出させてくれた今回の新潟訪問ではありました・・・

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いつか空が晴れる №36 [雑木林の四季]

  いつか空が晴れる
          -my way-
                       澁澤京子

 若いとき、よくいろいろなところに遊びに連れていってくれたS田さんという叔父さんがいた。20歳で早世した父の兄、つまり私の叔父の慶応のときの親友だった。スキーのジャンプでオリンピックに出場した元スキーの選手。三田に真珠のお店を持っていて、世界中に友達がいた。ある日、「英語の上手い女の子を紹介してくれない?」って言われて、友人のSを紹介してから、わたしとSはS田さんの古いベンツに乗っていろんなところを連れまわされることになる。S田さんはしょっちゅう外国人の接待をしていたのだ。
ケーリーグラントにちょっと似ていた。陽気で、魅力的だった。
慶応OBのやっている会員制レストランとか、当時流行のお店をS田さんは顔パスで入っていく、まだ若くて極楽とんぼのような私とSは、はしゃいでS田さんについて行ったのだった。

青山の岡本太郎さんの家に連れて行ってくれたのもS田さんだった、岡本太郎にスキーの手ほどきをしたのはS田さんだったのだ。玄関を開けるといきなり等身大の岡本太郎の蝋人形が置いてあった、ほとんどしゃべらず、代わりに岡本敏子さんが応対してくれたのを覚えている。
当時、ゲリラが活躍して政情不安定だったアフガニスタンに行く私の友人のために、アフガニスタンの大使を紹介してくれて、通行許可の紹介状を書いてもらったり、とにかく驚くほど顔の広い人だった。宝石を探しに南アフリカに行ったとき、ケープタウンでガールフレンドにばったり会ったとか、私はS田さんからいろんな話を聞いた。

古いベンツには、常に叔父の若いときの写真と手紙が乗せてあった。「修二みたいないい男はいないなあ・・」亡くなって何十年経ってもS田さんは亡くなった叔父の事が好きだった。二人は文字通りの親友だったのだ。
「これ僕のフランス人の恋人。」と言って見せてくれたのは、雑誌の表紙で微笑む金髪の美人。雑誌の古さから言って、彼と同じくらいの年か・・
とにかく当時、彼にはいろんな事情があって、古いベンツが彼の家だったのだ。そこに乗せているのは親友と昔の恋人の色褪せた写真。家庭という安定したものになかなか定着できなかったS田さんにとって家族のようなものだったのかもしれない。

S田さんは羽振りのいいとき、ニューヨークに真珠のお店を出していたことがあった、ところがそこは勝手に宝石店を出してはいけない通りだったらしい、その辺を仕切っているユダヤ人に呼び出されて脅しをかけられた。まだ若いS田さんは強気で警告を無視した。
しかし、脅しを受けてからいくらもたたないうちにS田さんの部下が交通事故で亡くなった・・
「やられた、って思ったよ」さすがのS田さんも怖くなって店をたたんだらしい。
「いいか?この紙幣をよく見てみろ」そこでS田さんはピラミッドに目のついたドル紙幣を取り出して見せる。
「これにはユダヤの秘密が隠されているんだぞ・・」どういう秘密なのかさっぱり忘れてしまったけど、その話を何回も聞いている私とSは、まるで初めて聞いたかのように毎回、彼がポケットから取り出したドル紙幣を感心して見るのであった。

S田さんは晩年、信頼していた部下に裏切られて、三田のお店を乗っ取られた。信頼して、印鑑も通帳も全部を部下に預けていたのだ。
それでも彼はめげずに明るかった。ある日、接待する外国人を例のベンツに乗せて運転している途中、心臓麻痺で亡くなった。車を路肩に寄せてから亡くなったらしい、ハンドルを握る手がなかなか離れなかったというから同乗している外国人の安全を気遣ったのだろう。

「僕のガールフレンドがやってる店があるんだ。」青山にあるカラオケスナックに連れて行ってもらったことがあった、白髪の上品なマダムが出てきた。鳥尾さんといって、元華族の女性だった、GHQのケーディス大佐の恋人だった人だ。
鳥尾さんはきちんと膝をそろえてS田さんの隣に坐っていた。
「男の方を色にたとえると、どんな色だとお思いになる?わたくし、こう思いますのよ、わたくしにとって男の方っていつも水色、空の色のイメージなんですの。そんな感じしますでしょう?男の方っていつも夢を追いかけていて・・」
S田さんはそこで「my way」を歌った、彼の十八番だったのだ。

S田さんはいつも底抜けに明るくてお人好しで誰からも好かれていた。そして風のように軽快に人生を疾走していったのであった。



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梟翁夜話(きょうおうやわ)№16 [雑木林の四季]

「もしも圓朝が英語で語れたら…」

                  翻訳家  島村泰治

私ごとで恐縮だが、いま英語版の「古典落語二十席」という企画を進めている。日本文化紹介の一環に落語という超日本的なジャンルを取り上げ、馴染みの古典落語の代表噺を訳出する試みだ。噺の筋を英訳するのではなく、願わくば近い将来、英語圏に噺家の出現を期待して彼らのための台本を提供しようという狙いである。

実は私はすこぶる付きの落語愛好者で、文楽の格調に痺れ、円遊の粋に嵌(はま)り、柳好の口調に酔い、遂には志ん生の洒脱に時を忘れること一再ならず、落語こそ日本文化の真髄で世界に知らしむべしと、久しく温めていた企画なのだ。

落語を英語で語るという「文化」はなにも昨日今日のことではなく、英語圏の外国人に好事家が何人かおり、すでに上滑りながら語ってはいる。また英語を操る日本人の噺家も登場してはおり、それぞれ独自の切り口で「英語落語」の浸透に努めておられる。惜しむらくは、いずれも所作に頼り過ぎる余り科白回しの妙を伝える域にはほど遠い。ひたすらゲラゲラ笑いを取る滑稽噺に偏り、落語本来の言葉遣いの妙、筋書きの粋などは望むべくもない。

望むべくもない原因はなにか。私が思うにそれは、噺の筋を分からせるために言葉のアヤが置き去りにされているからだ。語るべき言葉が語られていない、言い換えれば台本が不在だということ。いや不在ではなくて、笑いを取る所作に上書きされて消えていることだ。台本が豊かなら所作は抑えていい。

話を戻させていただく。私の考える英語版「古典落語二十席」は、それぞれ速記から起こした臨場感溢れる語り口を英語に移し替えた台本だ。その臨場感なるファクターをどう英語にするかがこの企画の鍵で、その辺りの呼吸がことの成否を左右することになる。

さて二十席の初っぱなは三遊亭圓朝の「心眼」、後年桂文楽が十八番にした名作で、圓朝の速記本から直に訳出、The Mind's Eyeと題して英語で生き返らせた。さしたる所作はなく専ら科白回しが鍵になる噺だ。

私の望みは大きい。これが日本贔屓の外国人好事家の目に止まり、あわよくば、日本の伝統的芸事に惚れ込んでくれる人が「二十席」を介して落語の粋に目覚めてくれたら、一席でも読み込んでそれぞれ地元で一席ご機嫌を伺ってくれたらこんな愉快はないのである。

「心眼」を追って「火焔太鼓」や「井戸の茶碗」が続く。いずれも下訳は出来上がって推敲を待っている。

因みに古典落語の祖といわれながら、三遊亭圓朝は存外にモダンな感覚も豊か、「英国孝子之伝」などと外国物を翻案、換骨奪胎して高座に乗せていた。叶うならば、英語を話す圓朝が登場して私の英訳「心眼」を鮮やかに語ってはくれまいか・・・。呵々。


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検証 公団居住60年 №11 [雑木林の四季]

Ⅲ 70年代、団地の中の環境問題 

       国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

2 マイカーの駐車はどこに?

 マイカー時代は60年代早々に始まっていたが、公団は団地内に駐車場(車庫)を造らなかった。駐車場のない団地への入居だった。
 団地に入居して3年後の1968年12月に府中市で東芝3億円強奪事件がおきた。犯人が使ったカローラを追えと、わが団地にも警察が調べにはいった。そのとき駐車場のないわが団地の敷地内に約700台が、いわば不法駐車していた。犯人のカローラは、犯行現場から3.5キロ離れた小金井市の団地で4か月後に発見された。団地という新しい住様式とマイカー時代への対応にくわえ、犯罪との関係も考えさせられた。
 公団はマイカーの保有者はまだ少数としていたが、実際には60年代にすでに住宅戸数の30%以上保有の団地も少なくなかった。団地内の通路やアプローチに路上駐車し、消防車、救急車の走行の妨げとなり、交通事故の危険が増大していた。公団は、保有者のモラルの問題、取り締まりは警察の管轄を口実に管理を逃れ、自治会にとって駐車対策は長年の悩みの種だった。
 取得用地の地価が高騰するなかで、住宅の建設戸数に追われてオープンスペースは狭まり、家賃の急上昇も抑えるには、有料にしても駐車場設置どころではなかった。政府も公団住宅については抑制策をとっていたのであろう。公団は70年代半ばになって、ようやく住宅戸数の30%程度の建設にふみきった。
 わが団地では、駐車の自主規制を求める声があがり、自治会は交通安全と公害防止の責任から69年4月に交通安全管理委員会を設けてとりくんだ。団地内の、消防車も進入できないような狭い歩行者路(79年に拡幅)の片側を約3メートル間隔に白ペンキで区切って自治会指定の路上駐車場(312台)にし、隣接私有地を借りて駐車場(約300台)を造成、一律1,500円の料金でマイカー管理をはじめた。第3団地の公道でもそれをして新聞沙汰になった。委員は2人1組で深夜パトロールするなど苦労が多かった。
 公道でなくても団地内の歩行者路を車庫代わりにすることに反対、団地内からのクルマ一掃の声が強まり、隣接私有地を借り足して外に徐々に移し、74年には団地内から一掃した。マイカー管理は新たに結成された駐車場管理組合があたり、自治会は交通安全に主力をそそぐことにした。
 居住者の車の保有台数は急速にふえはじめ、不法駐車が目立った。やむなく団地入り口に車止めを設け、さらにそれを固定化して進入禁止にせざるをえなかった。緊急時や引越しのさいには管理者から鍵をかりて出入りした。救急車には車道まで担架で運ぶよう消防署等に申し入れた。車止めを設けると、不埒にもその前に何台も駐車して団地入り口をふさぐことさえあった。
 どこの団地も駐車問題は大きな悩みであった。公団は80年代にはいり事業の主軸を賃貸住宅の新設から建て替えに移すとともに、既設団地の住戸改善や団地環境の整備事業に着手しはじめた。その目玉の一つが駐車場の団地再建設であった。わが団地にも89年に提案され、騒動となった。その経緯は後述する。
 関連して、こんなエピソードも記録しておこう。1990年前後はバブル景気で市財政も潤沢だったのだろう。わたしの住む第2団地に接して谷保第3公園がある。その公園にナイター設備を設けたいと90年2月に市がにわかに団地集会所にきて説明会をひらいた。気軽にだれもが自由に遊べる公園を、利用申込者にかぎられる競技場にすることにもちろん反対だし、まして夜間あたり一帯が煌々と照らされ、人が集まり、このうえ車の出入り、路上駐車がふえでもしたら、たまったものではない。団地住民は大反対と声をあげたら、すぐ断念したらしく、それっきり何も言ってこなくなったことを思い出す。lあぶくゼニで頭が変になった役人たちの一夜の夢だったのかもしれない。

『検証 公団居住60年】 東進堂


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中華の風 №8 [雑木林の四季]

愚昧な農民の意識が人身売買を横行させる

                      中国文化研究家  堂園 徹

日本では死刑判決を受けても実際に死刑が実施されるのは、法務大臣の判子が押されてからである。判子を押したくない法務大臣もいて、死刑判決から死刑が実施されるまで、かなりの時間がある。中国では裁判そのものが二審制であるため、死刑判決が下されるのは早く、また死刑判決がでれば直ぐに実施される。死刑は銃殺で、弾丸は国家の財産であることから、死刑囚から弾丸費用も徴収する。中国は死刑が多いことから、海外の人権団体から頻繁に非難されるので、諸外国からの圧力もあって中国では刑を軽くする方向に進んでいる。それは良い傾向だと思う人もいるが、現実には中国は凶悪犯罪が増え続けており、それは刑が軽くなったからだと思っている中国人も多い。

死刑制度が犯罪の抑止力になっているかどうかは、議論のあるところであるが、中国に長年いると、先進国で言われている人権というのは、先進国と同じ程度の社会環境下で、市民意識の熟成がないと、同じ次元で議論するのは難しいのはないかと思うことがある。少なくとも民度という点では、中国はまだ先進国と同じレベルでないことは確かである。

知人の中国人は、人身売買は昔であれば極刑であったのに、刑罰が軽くなったために子供を攫って売り飛ばす犯罪が増えていると嘆く。子供の売り先は農村で、農民が子供を買う事の違法性も罪の意識もないことから来ている。あるテレビの番組で法意識と罪悪感の欠如した農民を取材していたが、農民の思考回路には日本人としては驚くばかりであった。

河南省に住む農民の陳さん(仮名)は2歳の孫を可愛がっていたが、ちょっと目を離した隙にその孫を攫われてしまった。あちこち探し回った挙句、隣の村のある家で孫に似た子供を見かけたという人がいたのでその家に行くと、子供のいない江蘇省の親戚に送ったと言う。そこで警察に頼んで、江蘇省から子供を取り戻してもらった。ところがその子供は同じ年恰好であったが、陳さんの孫ではなかった。その地域にはこうした身元不明の子供を預かる施設がなく、警察が子供の処理に困っていると陳さんは、「家で子供を預からしてくれ」と頼んだところ警察は同意した。陳さんは子供を預かることで、警察は早く自分の孫を探してくれると思ったそうである。暫くして、警察にその子供の母親だと申し出る女性が現れた。警察は女性の申告だけでは母親かどうか分からないので、親子関係の鑑定をしたところ間違いなく母親であることが分かった。警察は直ぐに陳さんに子供を返すように言ったが、陳さんは自分の孫が戻ってくるまでは返さないと主張して返そうとはしなかった。母親は何度も陳さんの家に押しかけて子供を返してくれと訴えたが、陳さんは子供をどこかに隠してしまい、警察も母親もどうすることもできなかった。母親が来なくなると今度は、子供の祖父が現れて陳さんの家を何度も訪れた。祖父は諦めずに、陳さんの家に通うこと8年、数百回足を運んだ。それでも頑として陳さんは子供を返そうとはしなかった。なぜなら陳さんの孫はまだ見つからなかったからである。

8年間も他人の子供を預かって育てるのは大変である。子供も10歳になり育ち盛りで食費も学費も陳さん一家の負担になり始めた。そこで陳さんは警察に子供を返す代わりに、この8年間の養育費を請求した。警察は即座に拒否したので、陳さんは子供の祖父に養育費を要求した。祖父もその理不尽な要求に応じなかった。陳さんは子供の養育費の負担に堪えられなくなり結局子供を祖父に返した。

子供を預かる施設がないからと言って、子供を民間人の陳さんに預けた警察の行為や、警察の言うことに従わずに他人の子供を監禁して外に出そうとしない陳さんの不法行為に対して強制執行をしない警察のあり方に、日本人としては理解に苦しむが、それ以上に理解できないのは、やはりこの陳さんの意識と行為である。

自分の孫は見つからず、代わりに8年間も育てた子供を返してしまった陳さんは非常に悲しそうであったが、本当に可愛そうなのは8年間過ごした家から、自分の本当の家とは言え全く知らない家に引き渡された子供の方である。引き渡された日、知らない人たちに囲まれて子供は一日中泣きじゃくっていた。この子のこれからの人生にこのことがどのような影響を与えるのかと思うと、陳さんの行為は許しがたいと思うが、陳さん自身はまったく悪いことをしたという意識は全くない。

この事件を法意識の欠如した愚昧な、一農民の行為が引き起こしたものだと、簡単に結論づけることはできない。なぜならこの農民の愚昧さは彼一人だけが持っているのではなく、農村全体に深く浸透した意識だからである。

中国の或る農村では、男女は同棲して子供が生まれるまでは結婚できないのが、その地域の伝統的風俗習慣であるという。地域によっては子供も女子では駄目で、男子が生まれて初めて結婚できると言う。この地域で同棲している32歳の女性は、流産を3度繰り返し、人生が真っ暗になってしまい、思い余って他人の赤子を盗んでしまった。その女性は、自分はもう若くもなく、3度も流産していることから子供を生むことに絶望し、一日も早く同棲している彼と結婚するために、赤子を盗んだのである。

同じ中国人でも都会の人は農村のこうした風俗習慣と農民の意識は全く理解できないという。同じ国でしかもテレビがこれほど普及している現在であっても都会の人と農村の人とでは民度に懸隔の違いがある。しかし同じ国である以上、民度の高い都会では人権を適用し、民度の低い農村では適用しないと言うのは有り得ない。

中国では生まればかりの赤子を奪って売るために、その両親と祖母の三人を殺すという凄惨な事件も起きている。こうした事件を引き起こしているのが、子供をお金で買うという農民の愚昧な意識からきているとすれば、この愚昧な意識に先進国の人権思想を教えるのは、「日暮れて道遠し」と感じる。


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