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文化的資源としての仏教 №5 [心の小径]

文化的資源としての仏教5                

                                立川市・光西寺住職 寿台順誠

                          往生考⑶――立往生:往生=困

 前回は「大往生」という言葉をキーワードにして、「往生」という言葉の一つ目の意味である「死」をめぐる現代的な問題について記した。今回は、その二つ目の意味である「困」をめぐる問題について考えてみたい。キーワードは「立往生」である。
 しばらく前、どこかの地方で雪が降っていた朝、テレビで天気予報の時間に気象予報士が「(雪のため)立往生などの事故がありました」ということを言っていた。私はこれを聞いて少し驚いた。「立往生」というのは、いつから「事故」の一類型になっちゃったのだろうか、と。………おそらくこれはその予報士が全く言葉の意味を考えずに使用しているだけで、単純な誤用であろうとは思われた。が、少し意識して見ていると、天気予報や交通情報の時間に、この「立往生」という言葉は非常によく使用されていることに気づくはずである。そうした報道などでこの言葉を使用する場合、いったいどれだけの関係者がこの言葉の意味を真剣に考えているだろうか。いささか心もとない。
 「立往生」という場合の「往生」は、一言でいえば「困」という意味で使用されていると言ってよいであろう。「(非常に)困った」時に「往生しちゃった」と言うのは珍しいことではない。但し、この「立往生」は語源的には「弁慶の立往生」に由来するもので、元々この意味での「往生」も「死」を意味するものであった。主君・義経に対する忠義を示す意味で、弁慶が衣川の戦い(1189年)において身体に無数の矢を受けながらも、薙刀を杖に仁王立ちしたまま死んだという話が元になっているのである。この事実をめぐっては、法医学の立場から「死後硬直」ではなかったかという見解も提出されており(上野正彦『死体は語る』文春文庫、2001年、164頁)、様々な議論があるようであるが、真偽のほどは定かではないらしい。それはともかく、「弁慶の立往生」という言葉を使用したときに、これを単に「弁慶が困っている」という意味にとってしまうと、源平のドラマはいつまで経っても終わらなくなってしまう。が、元々はそのように「立ったまま死んだ」という意味であった「立往生」がその後、進退窮まることの喩えとして用いられているうちに、単に「困った」場合に使用する言葉に変化してきたのであろう。そして、今では逆に「車が渋滞に巻き込まれて立往生しています」という言葉を、「車が死んでしまった」という意味に受け取るとおかしなことになってしまうという事態になり、だんだん意味もまともに考えずに使っているうちに、ついに上記の「立往生=事故」というようなおかしな用法まで登場してきたと思われるのである。言葉の混乱、ここに極まれり、という感じがする。
 ところで、「往生=困」ということを考えていて、山本リンダの「こまっちゃうナ」(作詞・作曲 遠藤実)という歌を思い出した。以下に歌詞の一部を記してみよう。

  ♪こまっちゃうナ デイトにさそわれて どうしよう まだまだはやいかしら ………(中略)………… ママに聞いたら 何んにも言わずに 笑っているだけ こまっちゃうナ デイトにさそわれて

 また、歌詞を書いていたら、替え歌を思いついたので、それを以下に記してみる。

  ♪こまっちゃうナ お寺にさそわれて どうしよう まだまだはやいかしら ………(中略)………… 祖母(ババ)祖母に聞いたら 何んにも言わずに 念仏するだけ こまっちゃうナ お寺にさそわれて

 これは単なる戯れ歌であるが、しかしこんなものが案外、世の中の「お寺」とか「往生」とかに対するイメージを映し出しているのかもしれない。10年以上前の話であるが、私はある檀家さんと話していて、たまたま話題がお寺の催しのことになったので、「どうぞ、お寺では法話や勉強会も行っていますので、お気軽にご参加ください」と言ったら、何と当時既に50代後半に達していたその人は、「まだそんな年じゃない!」と言うのだった。ここには、「お寺」だの、まして「往生」だのといった仏教関係の物事は、抹香くさいとか、縁起でもないとか(この「縁起」もこのエッセイではいずれ取り上げなければならない言葉であるが)と思ってしまうような一般的な傾向が垣間見える。その時、私が「老少(ろうしょう)老少不定(ふじょう)不定」(老いも若きも定まりがない=老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らない)という言葉を出して、「でも、まだ50代だからなどと言っていても、人間はいつどうなるか分かりませんよ」と言うと、その人は「言われちゃった…」と渋々私の言うことを受け入れて帰って行ったのだった(ただ、その人はその後もあまり寺には来ないけれど…)。
 以上のことから、私は「立往生」という言葉に表されるような、「往生=困」の用法はできる限り使わないようにしていった方がよいと思っている。もし「往生」にこの意味しかないということになると、我々には布教ということそのものが成り立たなくなるからである。いくら一生懸命「阿弥陀仏の本願を信じて念仏すれば往生できる」と説いてみても、「そうか、念仏したら困ってしまうのか」と思われたのでは、もう何も言うことはなくなってしまうのである。だが、悩ましいことは、おそらく「往生」という言葉の世俗的・一般的用法としては、この「困」の意味で使うことが最も頻度が高いのではないかと思われることである。
 ああ、もう本当に〈往生しちゃう!〉と言いたくなる。…(次回は「往生際:往生=諦」について考える。)


余は如何にして基督信徒となりし乎 №15 [心の小径]

第三章 初期の教会 8

                                             内村鑑三   

 十二月廿四日 クリスマス前夜 測量術ノ試験。「エドウィン」ト共二夜ノ準備二多忙。
 集会ハ午後七時二始マレリ。全基督信徒一体トナリテ出席セリ。午後十一時マデ食事ト茶菓ト雑談。我等ノ愉快限リナシ。

 我々の上級生はクリスマス祝祭に今年は我々に合同した。記念祭は去年よりも大規模に行われた。学校は我々に復習講堂を貸してくれ、我々はそれをうまく装飾した、そして十分の寄附が為されてこの祝祭を本当に楽しいものとした。白と赤の『達磨(だるま)』の角力(すもう)があった、そして赤の方は上級生ジョン・Kによって非常に巧みに着附けられていた。『角顔』Yが身をせるめてその姿になったのであるが、それがはじめ現れたときは誰もそれは『眼あれども見ず耳あれども悟(さと)らざる』普通の人形にほかならないと考えた。突如としてしかしその眼が動き始めた、『足なし達磨』が自分の足で立ち上った、二本の腕が両脇から突き出された、そして全身が踊り始めた。そこへ白い達磨が出て来て彼と相対した、そして二つがヨナタンの行司で角力を取った。ああ、何と滑稽
だったことよ! 彼らが退場するや、現れ出たのは一野蛮人、腰のまわりのほかは裸であった、そしてそれこそは基脅信徒のあいだの最長身者、最年長者としてつねに宗教問題の我々の指導者と自きれていた『長兄』Sにほかならなかった。彼はこの恐ろしい身なりで踊って、退場した。我々は横隔膜がほとんど敗れてしまうまで笑った。我々は我々の救墟主が我々を救うために地上に降りたもうたほど喜んだ。四百年前サヴォナローラはフローレンスにかような聖なるカーェヴブルを制定した、そして修道僧たちは歌いながら踊った、
   『熱と愛と情をもて
   かくキリストの聖(きよ)き狂喜をいだく
   かくも快き嬉しさ、
   かくも清き力づよき喜び、かつてなし。
   叫べ我と、我が叫ぶどとくいま叫べ、
   狂喜、狂喜、聖(きよ)き狂富†』


  十二月廿五日 十時半二集会。我々ノSニ来リテ以来最大ノ愉快(聖ナル)。

 これは真の感謝の集りであった。茶も菓子もこの集会にはなかった。あったのは祈りと真面目な話であった、『長兄』Sが集会を退いた。『宣教師坊主」Oはスリスマス祝祭の歴史と、存在理由についての話を我々にした。じつに誰もみなその朝は真面目であった。ニュー・オーリーンズでは断食と痛梅をともなう四旬節は野蛮きわまる謝肉祭によって先行されると開いた。ただ我々はルイジアナ人ほどには耽溺(たんでき)しなかっただけである。

 この間これ以上何も記入されず、つぎの日にいたる、
 一八八〇年三月廿八日 日曜日 集会ハ興味大イニ減ズ。

 我々はしじゅう自分自身を白熱状態に保つことはできなかった。じつにこの年の春じゅう我々の熱心には決定的な弛緩状態があった。時には会員間の或る些細な事件が全『教会』の平和と調和を乱したことがある。かって我々は祈りのなかで何か『あてこする』ことを言いながら顔を壁に向けて祈ったことがある、もちろん天にいます我らの父によってではなく、その言葉が目指している人によって開かれるためであった。しかしこういうすべてのことにもかかわらず、我々は『我らの集り』をやめなかったのである(へブル十の廿五)。

 六月は宗教的に我々には多忙な月であった。我々は新生第二年記念日を例の歓喜をもって祝った。雪は解けてしまい、好天気が始まって、我々ひきつづき三人の宣教師―アメリカ人一人、イギリス人二人―から訪問を受け、我々の飢えた霊魂は説教とその他の宗教的教訓の十分の供給で養われた。隣りの海港にいるイギリス領事U氏(The Hon.Mr.U)がまた当地にあり、彼が滞在していた家でこれまで我々が目撃したもっとも壮大な規模で聖公会の礼拝が挙行された。その礼拝が少年たちに与えた一般的印象は、それがやや『仏教的』であるということであり、その祈祷書と法衣は宗教のことは単純なるべしという我々の考と必ずしも全く一地するmのではなかった。この礼拝中のいちじるしい事件は、わが半異教徒的な『好人物』U、『翼竜』T、および何人か他のものが、二人のイギリス婦人がその唇を接触させてたがいに挨拶するのを見て大きな声で吹き出したその振舞いであった。我々は聖書でレバンが如何にその息子や娘に接吻したかを読んだが、しかしこれまで実際に接吻しているのを見たことはなかった。我々の不行儀はじつに申訳けなくあった。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


論語 №27 [心の小径]

六三 子、魯(ろ)の大師(たいし)に楽(がく)を語(つ)げてのたまわく、楽はそれ知るべきなり、始め作(おこ)すに翕如(きゅうじょ)たり、これを従(はな)ちて純如(じゅんじょ)たり、皦如(きょうじょ)たり、繹如(えきじょ)たり、以て成る。

                                       法学者  穂積重遠

 「大師」は楽官の長。「たいし」とよむ。「だいし」だと弘法様になる。「翕」は合、「純」は和、「皦」は明、「繹」は聯(れん)、そして「如」は然と同じ。「従」は縦と同じ、思うままに十分な音を出すこと。

 孔子様が魯の楽長に音楽論をしておっしゃるよう、「音楽には一定の型がある。演奏の始めに諸楽器の音が揃(そろ)って出るが、演じ進んで十分に調子を張ると、すべての音が調和して一音となり、しかも各楽器の音が明らかにきこえて互いに消し合わない。そして連続して絶ゆることなく終節に至るのじゃ。」

 孔子様はけっしてコチコチの道学先生ではなく、いっぱしの音楽理論家であり、音楽鑑賞家であり、また音楽実演者であったことは、だんだんと出てくる。何しろ本職をつかまえて音楽論をされるのだから、大したものだ。そしてその議論が西洋音楽シンフォニー論、ソナタ形式論のおもむきがあるではないか。

六四 儀(ぎ)の封人(ほうじん)見(まみ)えんことを請(こ)いていわく、君子のここに至るや、われ未だかって見ゆることを得ずんばあらずと、従者これを見えしむ。出でていわく、二三子(にさんし)何ぞ喪(うしな)うことを患(うれ)えんや。天下道なきや久し。天まさに夫子(ふうし)を以て木鐸(ぼくたく)と為(な)さんとす。

 「木鐸」は金口木舌のベルであって、文事(ぶんじ)のおふれを出すときに振る。武事(ぶじ)には金口金舌の「金鐸」だという。「木鐸」と言ったところに特に意味がある。

 孔子様が衛(えい)の国を去ろうとして、国境の儀の町にとまったとき、関守(せきもり)の役人がおめにかかりたいと申し出て、「諸名士がここを通られるとき、私はいつもお目にかからせていただいています。」と言ったので、お供の門人たちが孔子様のお部屋に通した。やがて出て来て言うよう、「諸君は、先生が今志を得ずしてこの国を去られるとて、何も悲観することはありませんぞ。今や道悪に落ちて天下乱るること久しいので、天が先生を一国にとどめずして四方を周遊せしめ、大いに文教を振興する木鐸ならしめようとするのです。」

 孔子様は別として門人たちは、どこへ行ってもお払箱をくうので、おそらくくさっていたのだろう。ところがこの封人は孔子様にお目にかかって大いに敬服し、君たちの先生は天の大使命を負っていられるのですぞ、諸君も元気を出してシツカリしなさい、と門人たちを激励したのである。「天下をねらう大伴の黒主」ではないが、「儀の封人」なる者、ただの関守ではなさそうだ。

六五 子、韶(しょう)を謂(い)う。美を尽せり、また善を尽せり。武を謂う。美を尽せり、未(いま)だ善を尽さず。

 「韶」は舜の音楽。舜は譲りを受けて天下を得たので、その音楽には平和の気がみなぎっている。「武」は周の武王の音楽。武王は武力で天下を得たので、その音楽には壮大の中に殺伐(さつばつ)の気を含んでいる。

 孔子様が舜の音楽「韶」を評して、「美を尽しまた善を尽せるかな」と言われた。ま た周の武王の音楽「武」を評して、「美を尽しているがまだ善を尽しておらぬ」 と言われた。
                                        
 孔子様は、舜には満点を与えたが、武王の「臣として君を伐(う)」ったことに釈然(しゃくぜん)たらざるものがあったので、両者の音楽にも「美にして善なり」の感じと「美なれども善ならず」の感じとをもたれたのである。孔子様が芸術の基礎に道徳を置く考え方とその平和主義とがあらわれている。

『新薬論語』 講談社学術文庫


出会い、こぼれ話 №41 [心の小径]

 第40話 まゆつば

                                       教育家  毛涯章平

 私が少年時代を過ごした田舎は、ずいぶん辺びな所だったので、夕方暗くなりぎわにお使いに行かされるのが、何よりもいやでした。
 それは、西田のやぶと呼ばれる大きな竹やぶの中を通って行くのがとても怖かったからです。
 その西田のやぶには、狐が住んでいて、通る人を化かすという噂があったので、そこを通る時は、前を見すえたまま、体を固くして小走りにかけぬけて行ったものでした。
 そんな時、自分の足音が誰か後ろから追いかけてくるように思えて、背すじが寒くなりました。

 ある時、私があまり西田のやぶを怖がるので、父が「狐に化かされない秘密の法」を教えてやるといってそっと教えてくれました。
 それは、狐がやぶのどこかにいて、通る人の眉毛を一本一本数えて、全部正確に数え終わると、化かされるのだ。だから西田のやぶに近づいたら、まず自分の眉毛を唾(つば)で十分濡らすことだ。そうすれば、狐が数を間違えるから、絶対に化かされることはな
いというのです。
 私はそれからは、この秘法を実行しました。すると馬糞がおまん十に見えたり、木の葉がお金に見えたりすることはありませんでした。不思議なことに、西田のやぶが怖くないのです。もう走らなくても平気になりました。
 やがて大人になってからある時『まゆつば』ということばが、父から授けられた『狐に化かされない秘法』から生まれたことばであることを知りました。
 私はその時、あの西田のやぶの中を、眉毛を唾でたっぷりと濡らして通った少年の日を、たまらなく懐かしく思い出しました。
 そうして、あの秘法をはじめ、いろいろなことを教えてくれた父親を、改めて有難く思い出すのでした。

『章平先生の 出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館解放


文化的資源としての仏教 №4 [心の小径]

文化的資源としての仏教4                

                              立川市・光西寺住職  寿台順誠

                          往生考⑵――大往生:往生=死

 「大往生って、どういう意味でしょうか?」
 ある人の葬儀を執行したとき、喪主からこのように聞かれたことがある。その時の故人は既に96歳になっておられたので、おそらく親類などの(複数の)弔問客から、「大往生だったね」などと言われたのであろうと察せられた。喪主はそうした言葉を聞いているうちに、その意味を意識的に考え始めることになったのだろうと思われた。
 その際とりあえず私は、「〈安らかに亡くなること〉というほどの意味ではないでしょうか。或いは、故人が既に96歳になっておられたからそのように言われたということであるならば、〈人生を十分に全うした上で、安らかに亡くなること〉とでも言ったらよいかもしれませんね。例えば50代でガンのため亡くなられた人について、〈大往生だった〉とは言いませんからね」などと答えておいた。いずれにせよ、「大往生」という場合の「往生」の意味は、一言でいえば「死」を意味している。
ただ「大往生」と言うためには、ある程度の年に達している必要があると思われるが(何歳から「大往生」と言えるかを確定することは、平均寿命が何歳かによっても変動すると思われるので、非常に困難であろう)、しかし単に年を取ってさえいれば「大往生」と言えるかというと、あながちそうでもないであろう。最近、橋田壽賀子が『文藝春秋』(2016年12月号)に「安楽死で逝きたい」という文章を書いて議論を呼んでいるが(『文藝春秋』2017年3月号)、91歳になった人がこのような主張をしなければならないということ自体が、年を食ってさえいれば「安楽に死ねる」わけではないことの証拠であろう。それどころか、現在(既に2007年に)、超高齢社会(65歳以上の人口が総人口に占める割合が21%を超えた社会)に達した日本においては、むしろ年を取って孤独感や認知症への恐怖感が増せば増すほど、「安らかな死」から縁遠くなるという皮肉な現象が生じてきているとさえ言えるかもしれない。
 実は私はこの間、安楽死・尊厳死に関わる研究をしてきた(少し詳しく記すと2011年4月から早稲田大学大学院人間科学研究科修士課程において「生命倫理学」の勉強を始め、その過程で安楽死・尊厳死について研究するようになったが、現在は2016年4月から研究の場を同大学院社会科学研究科博士後期課程に移して、「日本文化論」という専攻分野の中で「日本文学における安楽死と尊厳死」というテーマと取り組んでいる)ので、上記『文藝春秋』に書かれていることから、知識的な意味において新しく学んだことは何もない(また、私はこのエッセイでは、細かい専門的な問題に立ち入ることはあまりしないことにする)。ただ、同誌3月号の特集に紹介されたアンケート結果を見ると、安楽死・尊厳死に賛成の人の方が反対の人よりもかなり多い(おそらく以前よりも賛成の人の割合は増えている)ということには注目される。つまり、それだけ多くの人が、現在の長寿社会でこそ「安らかに死ねない」という苦悩を抱えており、そうであるがゆえに、かえって「安楽な死」或いは「尊厳ある死」を求める思いが切実になっているのだと思われるのである。
 以上、「往生」という言葉の世俗的・一般的用法としては、まず「死」という意味でこの言葉は使用されることを、「大往生」という言葉をカギにして述べてきた。そして、これに関連して、他方では医療技術の発展等によって、現代人は非常に長期にわたる「死にゆく過程(dying process)」をそれと意識して生きざるを得なくなり、その分だけ長く「病苦」「老苦」、そして「死苦」を深刻に感ずる時代にあって、現在どうしたら「安らかに死ねるか」が多くの人の切実な問題になっていることを確認した。
 しかし、今回私が敢えて言っておきたいことは、「往生」ということと、現在盛んに議論されるようになった「安楽死」「尊厳死」「自然死」「平穏死」等の言葉が、あまり結びつけて語られていないのは問題ではないかということである(「平穏死」については、石飛幸三『「平穏死」という選択』幻冬舎、2012年参照)。或いは、現在では「安楽死」等の流行現象に乗って議論をする場合、それを「往生」(つまり宗教的な概念)と結びつけることは敢えて避ける傾向があるのではないかとさえ思われる。しかし、私は伝統的な「よき死」の表現とも言える「往生」と、現代的な「よき死」を示す「安楽死」等の概念は、むしろ改めて関連づける試みをした方がよいのではないかと思っている(そうした試みの一つとして、神居文彰・田宮仁・長谷川匡俊・藤腹明子『臨終行儀――日本的ターミナル・ケアの原点――』北辰堂、1993参照)。
 「安らかな死」を願う言説が「安楽死」や「尊厳死」といった言葉でだけ語られると、そこでは「自己決定(本人の意思)こそが最も重要である」という前提が立っているために、死にまつわることがすべて自己決定できるかの如き幻想に包まれることになる。この間には、「終活」と称して、死後のことまですべて自分で決めておくことが疑いもなくよいことだという言説が、各種メディアを通じて垂れ流され、死後、自分の好きな花を飾ったり、好みの服を着せて棺桶に入れてもらったり、或いはエンディングノートにちょっとした思い出を記したりする程度のことで、あたかも「安らかな死」が得られるような言説が横行してきた。が、その実、これは「死の商品化」にしかつながっていないように思われるのである。
 「死」を「往生」という言葉で問題にするとき、人は「生き死に」がすべて自己決定できる(本人の意思次第で何とでもなる)という誤解から免れられるという意義があるのではないだろうか。例えば、親鸞の場合、極楽浄土に往生できるかどうかは「他力回向の信心」に依る(すべて阿弥陀仏にお任せする)以外にないということになるが、ここからは「自己決定万能」の考え方は出てこない。昨年亡くなった永六輔の『大往生』(岩波新書、1994年)も「安楽死、尊厳死、ホスピスの話題もこと欠かない」(同書「まえがき」)という状況になり始めた中で書かれたものであるが、当時この本がベストセラーになったということは、20数年前にはまだ「安楽死」等の時代の問題を「往生」の問題として考える傾向が、日本にはあったということであろう。それが、現在では、「往生」という貴重な文化的資源を捨て去って、すべて「自己決定」で問題が解決するかのように語られている。しかし、安心して任せる世界があって、人ははじめて救われるのではないだろうか。死に方や死後のことにまで「自我」を拡大することは(仏教ではこれを「霊魂」として否定し、「無我」を説いているのであるが)、心配(迷い)の種を増やすことでしかないのである。
 以上、「往生=死」について考えてきた。そして、改めて「よき死」を「大往生」として語る文化を取り戻すことが重要だと思うに至った。(次回は「立往生:往生=困」について考える。)


余は如何にして基督信徒となりし乎 №14 [心の小径]

第三章 初期の教会 7

                                             内村鑑三  

 年末までは記すにたる事はない。もっとも我々が日曜礼拝で試みた一つの実験があったが、それはこの集会とクリスマスとのあいだのある時に行われたに相違ない。我々は我々の『話』に倦きてきた、集会を行う方法に何か変化が非常に望ましかった。我々のうちの一人が一つの提案を出した、我々は世の中へ出れば必ず不信者に出逢(であ)うであろう、我々は学校時代に彼らに出遭う準備をすべきである。我々一同その実を議論した、そして最善の方法は『教会』を二組に分け、一つは基督信徒側を、他は不信者側を代表し、各組をして二つの側を交互に取らせることであろうということにきまった。不信者側の者は不信者が発しそうなあらゆる種類の質問を発し、基督信徒側の者はそれに答えることになった。案は賛成を得た、そして次の日曜日から実行されることになった。                                    当日― 集会が新方法で行われた最初の安息日― に、我々は全員を籤(くじ)で二組に分けた、チャグラッドストンが一方に、ボリンブルック、ヒユーム、ギボン、ハクスレイが他方に、居並んだわけである。祈りと食べるものの分配がいつものようにあったのち、論戦が深まった。当日の題は「神の存在」であった。最初の懐疑家フランシスが最初の護教家チヤールスを攻撃した。宇宙それだけで存在して来ることができたという挑戦に対しチャールスは物質にはつくられたものであるまざれのない特徴がある(マクスウェルから借りた議論とおもう)、そしてそのようなものとしてそれは自存していることはできない、ということを示す議論を提出した。第一の攻撃は撃退され、我々の信仰はりっぱに弁護された。実際的のビューに基督教に対陣するはなはだ恐るべき議論はなかった、そしてヨナタンの仕事は彼の反対に応ずるに困難なものではなかった。この宇宙に仕その創造者があったに相違ないこと、この創造者は自存していること、彼は全能にして全智でありたもうこと、それがいまや結論的に証明された。しかしいまや攻撃をするのはパウロの番であって、フレデリックが彼に対することになった。彼らは数日間はなはだ仲がよくなかった、そして我々はかかる顔合せの結果をおそれた。我々はすでに学者的なパウロが自分が答えうる以上の疑いをもっていることを知っていた、そしてこの場合は彼がその神経質的頭脳のなかで製造することのできるもっとも手ごわい疑いを注ぎ出す第一等の機会を彼に与えたのである。僕は認める』と彼は始めた、『この宇宙は創造せられた宇宙であること、そして神は全智にして全能であること、そして何事もこの神には不可能ではないことを。しかしこの神が、この宇宙を創造しそしてそれが彼によって授けられたポテンシャルエネルギーをもって独力で成長発達できるようにそれに運動を与えた後に、― この創造者が自分自身の存在に終止符を打って自分自身を絶滅してしまわないということを、どうして君は僕に証明することができるか? もし彼がすべてのことをなすことができるならば、なぜ彼は自殺することができないのか!』込み入った、ほとんど冒涜的な質問である! 実際的なフレデリックにどうしてこの質問を片附けることができようか? 我々の眼は困惑した護教家の上にすえられた、そして不信者側さえフレッドの答え如何を気づかった。一瞬間披は沈黙していた、しかし勝ち誇るパウロはなおも彼の攻撃をもって迫った。フレデリックは何か言わなければならぬ。勇気を奮い起して、彼は軽蔑の口調をもって言った、『そうだ、馬鹿だけがそんな質問をするのだ』と。『なに、馬鹿?では君は僕を馬鹿というのか?』と慣激したパウロが言い返した。『いかにも、僕はそう言わなければならない』それがフレデリックの断乎(だんこ)とした答えであった。パウロはもはや自分を制することができなかった。『諸君』と彼は起ち上って胸をたたいて言った、『僕はこれ以上ここにいっしょにいることは我慢ができない。』やにわに彼は部屋からとび出した、ドアは荒々しく彼の背後に閉った、そして我々には彼が自分の部屋に着くまでうなっているのが聞こえた。残った我々は閉口してしまった。ある者はパウロが悪いと言い、他の者はフレデリックも悪いと言った。論争中の重要間題は側におしやられた。我々はいまはどうして交戦当事者を和解せしめるかが心配であったた。集会はそれ以上の討論なしに閉会し、新計画は全く廃止された。我々自身には自分が答えうるより以上の疑いがあること、そしておそらく最善の方法は我々が上よりの助けをもって自分自身の心のなかでそれを解決することであろうということを我々は知った。次の日曜日、我々は再び旧い方法をはじめた、そして獅子と牡牛はともに平和に臥(ふ)していたのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


論語 №26 [心の小径]

六〇 子のたまわく、関睢(かんしょ)は楽しんで淫(いん)せず、哀(かな)しんで傷(やぶ)らず。

                                       法学者  穂積重遠

 「関睢」は『詩経』の有名な一篇だが、文王の后(きさき)が夫のためによき側室(そばめ)を得たしと苦心し、それを得ては妻妾よく内助した、ということを歌ったのであって、今日の道徳からは変なものだが、孔子様の言わんとするところは、その詩の文句なり、またそれを歌う音楽なりが極端過度ならぬにつけて、喜びにも悲しみにも節制あるべし、ということである。

 孔子様がおっしゃるよう、「関睢の詩は、楽しみの度が過ぎて正しき道をはずれず、悲しみの度が過ぎて本心を取り失わぬもので、誠にけっこうじゃ。」

 「楽」と「哀」と「淫」と「傷」との対句で、実に金言だ。すぐ有頂天になるかと思うとたちまちペシャンコになるようなことでは、問題にならない。

六一 哀公(あいこう)社を宰我(さいが)に問う、宰我対(こた)えていわく、「夏后氏(かこうし)は松(しょう)を以てし、殷人(いんひと)は柏(はく)を以てし、周人は栗(りつ)を以てす。いわく、民をして戦栗(せんりつ)せしむ。子これを聞きてのたまわく、成事(せいじ)は説かず、遂事(すいじ)は(いさ)めず、既往(きおう)は咎(とが)めず。

 「社」は文字どおり土地の神の社(やしろ)であって、一定の木を植えて神体としたものらしい。宰我は門人宰子(さいし)、字は子我(しが)、弁才(べんさい)で子貢(しこう)とならべられているが、ここでは口が過ぎてしかられ、後には口ほどでもないとしかられ、いわゆる十哲中では優等生でないようだ。

 「柏」は日本では「かしわ」とよむが、中国では「松柏の凋(しぼむ)に後(おく)る」などといってときわ木の「カヤ」である。ここでは「栗」を「リツ」と音でよまなくては「慄」と通ずるシャレにならぬ故、「松」「柏」も「ショウ」「ハク」とよむ。
 最後の三句は当時のことわざらしい。

 哀公が社の神木について宰我にたずねたとき、宰我が「夏の時代には松を用い、殷の時代には柏を用い、周になってから栗を用いるようになりました。それは人民を戦慄させる、という意味であります。」と答えた。孔子様がそのことを聞いておっしゃるよう、「出来たことは言うまい、済んだことは諌めまい、過去はとがめまいが、将来はさような余計なこじつけを申すまいぞ。」

 故実を述べるだけにしておけばよかったのに、例の口が過ぎた上に、先生大きらいな恐嚇(きょうかく)政治が周の国是のようにいったので、真綿で首をしめるようなお小言をちょうだいしたのだ。
                                        
六二 子のたまわく、管仲の器小なるかな。或(ある)人いわく、管仲は倹なるかな。のたまわく、管氏に三帰(さんき)あり。官事(かんじ)摂(か)ねず。いずくんぞ倹を得ん。然(しか)らばすなわち管仲は礼を知るか。のたまわく、邦君樹して門を塞(ふさ)ぐ。管氏もまた樹して門を塞ぐ。邦君両君の好を為すに反坫(はんてん)あり。管氏もまた反坫あり。管氏にして礼を知らば、たれか礼を如らざらん。

 管仲は斉(せい)の桓公(かんこう)を補佐して覇業(はぎょう)を成就した有名な英雄。
 「三帰」を妻を三人もつこととする人もあるが、倹約かどうかという問題だから、「三帰台という「うてな」と解しておこう。台を造るということが昔の中国の王公のぜいたくざたなのだ。「官事」はここでは「家事」というくらいの意味。「反坫」は盃輿を伏せる台。

 孔子様が「管仲の人物は小さいのう。」とおっしゃった。そこである人が、それをケチケチしているという意味と思って、「管仲は倹約なのですか。」とおたずねした。「管仲は家に『三帰台』という『うてな』を設けたり、一人一役でおおぜい召使を置いたりするぜいたくざたであった。どうして倹約なものか。」「それでは管仲は礼を知ってそれにこだわるので、人物が小さいとおっしゃるのですか。」「諸侯の屋敷では門内に植え込みを作って目かくしにするきまりだが、管仲は大夫の分際で私邸の門内に目かくしの木を植えた。また諸侯の交際の宴会に反坫という盃台をつかうことになっているところ、管仲も反坫を用いた。管仲が礼を知っているというならば、誰が礼を知らぬものがあろう。」

 管仲の覇業は孔子様も認められたこと、後に見えるが、手柄におごって潜上非礼(せんじょうひれい)をするようなことでは人物が小さい、と評されたのである。

『新訳論語』 講談社学術文庫


出会い、こぼれ話 №40 [心の小径]

第39話 お礼肥

                                       教育者  毛涯章平

 所用で長野駅から列車に乗った時、発車間際に一人の婦人が外からはげしく窓をたたいた。何事かと思い急いで開けてやると、よほどあわてているらしく、窓わくをくぐつて顔をつっこんできて、通路をはさんで私の反対側の座席に向かって大声で話し始めた。
 「いい?枚本で降りたら、そこにそのまま立っているのよ」
 見ると四・五歳ぐらいの男の子が一人、こちらを向いてうなずいている。母親と、その子どもであることがすぐにわかった。
 わたしは、身をうしろにそらせて、話をしやすくしてやった。
 「降りたら動いちゃだめよ。おばあちゃんが迎えに来てくれるからね。じゃあね」
 甲高い声でこう言い終わると、発車のベルが鳴りだしたので、彼女はさがって手を振り始めた。
 わたしは、母親からも、チビもからもお互いがよく見えるように窓を開けたままにしておいた。
 やがて列車がスピードを増してきたので窓を閉めた。
 そうして、言いようのない味気なさが心に残った
 実は、初めから発車まで彼女は、わたしという一人の乗客の存在を、全く無視していたのである。
 -松本に着いたら、あの子をホームまで連れていってやるつもりでいたのに-

 そんなことがあってからある晩、村の有線放送を聞くともなしに聞いていると、
「今年も柿がたくさんとれました。雪の降る前に『お礼肥』を充分やってください」
と言っているのが耳に入ったりわたしは、このことばを聞いて言いしれぬ味わいと安らぎをおぼえた。
 収穫の後に『お礼肥』をやろうと言っているこの村から生座される果物は、それはもう、うまいに決まっていると思うのだった。

『章平先生の出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


文化的資源としての仏教 №3 [心の小径]

文化的資源としての仏教3                

                                                     立川市・光西寺住職 寿台順誠

                              往生考⑴――はじめに

前回、私はこのエッセイの序文において、仏教の言葉は日本人が「生き死に」について考える際には使用せざるを得ない貴重な文化的資源であるということを具体的に示す意味で、今回から関連する言葉を一つ一つ取り上げていくということ、そしてしばらくは「往生」について考えるということを予告しておいた。
まず真っ先に「往生」という言葉を取り上げるのは、たまたまこの言葉を最初に思いついたからにすぎない。が、やはり浄土教という仏教においては、これがなければ教えそのものが意味をなさなくなると言ってよいほど、重要な問題であることに間違いはないであろう。なぜなら、たとえ経典に「浄土」というものが説かれていたとしても、実際そこに「往生したい(往き生れたい)」と願う人がいなければ、それはまったく絵に描いた餅に過ぎなくなるからである。
ところが、仏教用語の中には、元々の仏教的な意味とはまったく異なる意味で、場合によっては仏教に敵対するかのような意味で使用されているものが多い。「往生」という言葉もその典型的な例の一つと言えるであろう。例えば、「立往生」のように「困った」場合に使われることによって、むしろ「極楽浄土に往生したい」という人を減らすような効果しかもたらさない用法があるのである。
そこで私は、この言葉がまずは宗教的・仏教的な意味ではなく、世俗的・一般的な意味でどのように使用されているのかを確認した後で、仏教的な意味について再考するという順序で話を進めていきたい。そのため、今回はごく一般的な国語辞典において「往生」がどのように説明されているのかを確認しておくことにする。以下、『大辞林 第三版』(2006年)の説明である。

  ①〘仏〙この世を去って、他の世界に生まれ変わること。特に死後、極楽に往って生まれること。「極楽――」
  ②死ぬこと。「――を遂げる」「大――」
  ③抵抗などをあきらめること。断念すること。「いい加減に――しろ」
  ④打開策がみつからなくて非常に困ること。「英語が通じなくて――した」「立ち――」
  ⑤「圧状おうじょう②」に同じ。「無理――」

この『大辞林』の説明を今後の話の枠組として使うことにしたのは、『広辞苑 第六版』(2008年)の説明では上記③④が一つにまとめられてしまっているので、厳密さに欠けると思ったからである。私は③「あきらめること」と④「困ること」は分けておいた方がよいと思う。また、仏教の専門的な辞書で「往生」を引くと(『岩波仏教辞典 第二版』2002年と法蔵館の『新版 仏教学辞典』1995年を確認)、当然のことながら、上記①の意味についての詳細な専門的説明が続くばかりで、他の意味についてはあまり触れられていない。従って、「文化的資源としての仏教」という趣旨において「往生」の意味について考える場合には、そうした専門的な辞書に基づいて話を進めることも適切だとは思えない。
以上のことから、次回以降、私は上記『大辞林』の意味区分に沿って、「大往生:往生=死」(上記②の意味)、「立往生:往生=困」(上記④の意味)、「往生際:往生=諦」(上記③の意味)、「往き生れること:going to and birth in the Pure Land」(上記①の意味)の順で話を進めることにしたい。(なお、上記⑤の「圧状」はここでは除外してもよいであろう。次回は「大往生:往生=死」について考える。)


論語 №25 [心の小径]

五六 子のたまわく、射(しゃ)は皮(ひ)を主とせず。力(ちから)科(しな)を同じくせざるがためなり。古(いにしえ)の道なり。

                                       法学者  穂積重遠

 「皮」は的の中央の皮の張ってある部分、強弓(ごうきゅう)ならば皮をつらぬく。

 孔子様がおっしゃるよう、「弓を射るのに的(まと)皮(かわ)を射ぬくかどうかを要点としない。人の力には強弱があって一様でない故、必ず的皮を射ぬけといっても無理だからであって、それが昔の弓道である。しかるに今日ではその古道が忘れられて、弓術が的皮を射ぬく力くらべになってしまった。なげかわしいことじゃ。」

 弓だけでなく、すべてが力の時代になったことを諷(ふう)されたのであろう。
 初句を、心がまえと作法とが大切で的にあてることを主とせぬ、という意味に解する説もあるが、それだと第二句との連絡がつかぬ。

五七 子貢(しこう)告朔(こくさく)の餼羊(きよう)を去らんと欲す。子のたまわく、賜(し)や、なんじはその羊を愛(お)しむ。われはその礼を愛しむ。

 毎年冬、天子が来年の暦を諸侯に頒(わか)ち、諸侯はそれを祖廟(そびょう)に蔵(おさ)め、毎月朔日(ついたち)に諸侯は羊の生肉を供物にして(「餼」は煮焼せぬいけにえ)朔日を奉告し、その月の暦を民間に施行(しこう)することになっていた。それが「告朔」である。ところが魯では当時告朔の札はすたれていたのに、毎月朔日に羊を殺して供えていた。
 
 子貢が、告朔の礼がすたれたのに羊を殺すのはむだだからやめにしたら、と考えた。
 孔子様がおっしゃるよう、「賜よ、お前は羊をおしむが、わしは礼がおしい。」

 せめては古礼のかたみたる供物が残っているのに、それまでやめてしまったら、古礼は全く忘れられて復興の機会がなくなってしまうだろう、というのが孔子様の気持である。虚礼ではもとよりつまらぬが、虚礼だから廃すべしとのみ考えずに、虚礼を虚礼でなくする工夫もせねばなるまい。

五八 子のたまわく、君に事(つか)えて礼を尽せば、人以て諂(へつら)うと為す。

 「尽」は、当然為すべきことを十分にすること。

 孔子様がおっしゃるよう、「君に対して礼を尽すのは当然のことだのに、今の人はそれを見てオベッカだとそしる。」

 これは孔子様自身に対する世人のそしりを心外とされての言葉らしい。荻生徂徠いわく、
「三家(さんか)強くして公室弱く、人皆三家に附きて公室を軽(かろ)んず。習い以て常となる。故に孔子を以て諂えりとなす者これあり。而(しこう)して孔子俗に違(たが)いて必ずその札を尽す。亦(また)以て公室を張り三家を抑うる所以なり。」

五九 定公(ていこう)問う。君(きみ)臣(しん)を使い、臣君に事うること、これを如何。孔子対(こた)えていわく、君臣を使うにし、臣君に事(つか)うるに忠を以てす。

 定公は魯の君。当時から三家の僣上(せんじょう)横暴に苦しんで、こういう問いを出したのだろう。

 定公が「君が臣を使い、臣が君に事(つか)えるには、どうあるべきだろうか。」とたずねた。
 孔子が答えて申すよう、「君たる者は礼を以て臣を使い、臣たる者は忠を以て君に事う
べきであります。」

 定公は孔子の答があまりにも平凡なのに失望したかも知れない。しかしこの平凡事さえ行われないのが魯の現状だったのだ。孟子は「君の臣を視(み)ること犬馬(けんば)の如くなれば、すなわち臣の君を視ること国人(こくじん)の如く、君の臣を視ること土芥(どかい・どろあくた)の如くなれば、すなわち臣の君を視ること寇讎(こうしゅう・あだがたき)の如し。」と言ったが、孔子様のはさような相互主義ではない。「すなわち」と条件的に言わぬところを注目すべきで、君臣それぞれその道を尽すべし、と言われるのだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫


出会い、こぼれ話 №39 [心の小径]

第38語 おばさん

                                    教育者  毛涯章平

 私が校長として最初に赴任した山の小さな学校に、その学校の名物と呼ばれるおばさんがいた。
 若い頃からその学校に住み込んで、そろそろ定年を迎える年であった。
 だから村じゅうの大人たちは、子どもの頃からおばさんの世話になってきた人が多かった。
 その人たちが学校に来ておばさんと話しているときは、まるで親子のようで、ほほ笑ましかった。
 遠くからきて自炊をしている先生には、ときどき、
 「先生。疲れていなさる、顔色がよくねえぜ。今夜はここで食べておいでな」
と言ってやるのだった。
 またある時は、苦労して手に入れた蜂の子を自慢のつくだ煮にして、その一つまみを銀紙に包んで、母親が病気で寝ているという子に持たせて、
「母ちゃんに、この薬を食べて早くよくおなりなって言っておくれ」
と言っているのを見て、私は幾たび涙したことか。
 おそらくこの母親も、子どもの頃おばさんに世話になった一人にちがいない。

 ある年の三月、新年度の準備作業で、古くなった教室の名札を私が書き賛えることになった。
 そこで各室の札を順々に書いていって最後に公仕室という一枚が残った。
 お手伝いの子どもがきれいに拭いてくれたので、すぐ書こうとして一瞬ためらった。
 「まてよ、これはおばさんが居るところだ。子どもたちにとっても、村人にとっても、おばさんが居る部屋なのだ。とても 「公仕室」などという部屋ではない」
 そう思うと私は迷うことなく「おばさん」と書いた。

 揚げられた札を見て、目に涙を浮かべながら深々と一礼されたおばさんの姿を今も忘れることができない。

『章平先生の出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


出会い、こぼれ話 №38 [心の小径]

 第37話 破廉恥

                                       教育者  毛涯章平

 「破廉恥(はれんち)」とは、辞書によると「恥を恥とも思わぬこと」とあります。
 したがって恥を恥とも思わない人のことを「恥知らず」または「破廉恥漢(はれんちかん)」ともいいます。
 昔から、家庭・学校・地域での子どもの教育の中で『恥を知れ』ということは極めて大切な教訓の一つであったといわれます。
 ふしだらな格好をしていたり、やるべきことをしなかったりすると、子ども同志が「恥くそ恥くそ」と言い合ったものでした。
 また、食事のとき、ご飯をこぼしたりすると、お年寄りが、
「お米を租末にすると、お天とう様の罰が当たって、目がつぶれるぞ」
と言って、食べ物に対する慎しみをしっかり教えてくれたものでした。
 そのほか、日常生活の中で「そんなことは恥ずかしいぞ」とか、「人さまに笑われるぞ」などと、気軽に声をかけてやって、やがて子どもたちが自らを正していけることを願っていたのです。

 これらは、おそらく昭和二十年の敗戦を境に、しだいに失われてきたと言われています。
 しかし、「恥を知る」心は時代を超えて、人間が生きていく上に、特に大切な心がけであるはずです。
 しかるに今日「恥知らず」がいかに多くの人の心を傷つけ、社会を汚濁していることでしょうか。
 彼等の犯す罪を「破廉恥罪」といって「詐欺・窃盗・贈収賄lがその例とされています。ですから、現在世の中に、いかに多くの「破廉恥罪」が横行していることが、驚くばかりです。

 今こそ、これからを生きる人間にとって、「恥を知る」ことの大切さを教えられて育つ幼少年時代をもつことが、どんなに大切なことかを痛感する昨今であります。


論語 №25 [心の小径]

五三 王孫賈(おうそんか)問いていわく、その奥(おう)に媚(こ)びんよりはむしろ竈(かまど)に媚びよとは何の謂(いい)ぞや。子のたまわく、然(しか)らず。罪を天に獲(え)ば祷(いの)る所なきなり。

                                       法学者  穂積重遠

 「奥」は奥の間の神。位置は尊いが、つかさどる所がないというので、いわゆる「統して治せざる」君主に此する。「竈」は「へっつい」の神。位置は低いが台所をつかさどるので、権勢ある重臣にたとえる。

 孔子様が衛(えい)の国に行かれたとき、大夫(たいふ)の王孫賈が、「奥の神よりもへっついの神のごきげんをとれ、という諺があるが、何の意味でござろうかな。」と問いかけた。孔子様が答えられるよう、「どの神のごきげんをとる必要もありませぬ。最後の審判は天にあります。いったん天に対して罪を犯したならば、何神にいのってもむだでござる。」

 王孫賈が、もしこの国で用いられようと思うならば、殿様よりもわしの所へ顔出したらどだ、とほのめかしたのに対して、孔子様は、私は罪を天に獲ておりませんから、何神様におまいりする必斐もござらぬ、とはねつけたのである。孔子様は時々かように、直接法でなくて、そして強い言葉で相手をたしなめられることがある。王孫賈は後に孔子様の「軍旅(ぐんりょ)を治む」というほめ言葉が出ているほどの名臣だからそんなことを言うはずがない、という人があるが、それでは話がおもしろくない。なるほどよく「軍旅を治め」たかも知れないが、したがってまた軍閥(ぐんばつ)の大御所(おおごしょ)でいぼっていたのだろう。

五四 子のたまわく、周は二代に監(かんが)みて郁郁乎(いくいくこ)として文(ぶん)なるかな。われは周に従わん

 「郁郁」は「文盛貌〔文の盛んな貌(さま)〕」とある。

 孔子様がおっしゃるよう、「周は夏(か)殷(いん)二代の制度を参考にして盛んな礼楽文物を建設した。それが今くずれかけてきたのは、まことになげかわしい。わしはあくまで周の文化を護持したい。」

五五 子(し)大廟(たいびょう)に入りて事毎(ことごと)に問う。或(ある)ひといわく、たれか鄹人(すうひと)の子(こ)礼を知ると謂(い)うや、大廟に入りて事毎に問うと。子(し)これを闇きてのたまわく、これ礼なり。

 「大廟」は魯の先祖周公の廟。
 「鄹人の子」とは、孔子様の父が鄹という土地の長官だったことがあるので、そう言ったのだが、名を知りながらこういう呼び方をするのは、軽く見た失敬な口振りだ。なおこういう場合に「何じん」でなく「何ひと」とよむならわしになっている。

 孔子様が大廟㌃参拝しまた祭にたずさわるとき、これをどう致すのですか、次に何がござりますか、と事毎にたずねられた。そこである人が、「あの鄹人の息子は礼を心得ているなどとはいったい誰が言ったのか。大廟にはいるといちいち物をきいてまごついているではないか。」と蔭口をきいた。孔子様がそれを伝え聞いておっしゃるよう、「それが礼なのじゃ。」

 すなわち「事毎に問う」ということが大廟奉仕の礼なのだ、というのであって、もちろん儀式の次第は知ってござるが、知ったかぶりにズンズンやらずに、何も知らぬごとく係の者にたずねながら、進退されるところが、孔子様らしい。イヤ孔子様が礼をご存知ないはずはないから、これは実際まだ諸礼に習熟しておられなかった出仕始めの若い時の話だ、という人もあるが、むしろそう考えない方が味がある。しかし私自身としては、思いも寄らなかっ御宮仕えをすることになったとっさに、この文句が心に浮んで、「事毎に問いつつ」ご奉公しようと考えたことだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫


余は如何にして基督信徒となりし乎 №12 [心の小径]

第三章 初期の教会 5

                                             内村鑑三 

  一八七九年三月九日 我々ノ祈頑会ヲ行フ方法ヲ変更ス。
                                        
 我々はあまりにたくさん坐りつづけることによる『滑液膜炎』をおそれた。一同の要求は短い祈祷であった。同じ事は同一の集りでは繰り返さないことになった。このことは祈祷会を約二十分に短縮した、そして我々は少からず救われたのである。
 この時分であったと患う、一つの挿話(エピソード)が我々のいつもの祈躊会で起ったのは、それは余の日記に書きとめるのを怠ったものであった。その日は水曜日であった、そして我々は学校農場での三時間の実習の後でまったく疲れきっていた。たっぷりの食事と例のいやいやながらする課業との後で、我々は高き力との霊的父通に加わるにはなはだよい気分にはなかった。しかし規則は変更すべきではない、そして鎧が鳴ったときその夜の我々の牧師であったフレデリックは彼の羊を祈祷のために集めた。彼はメリケン粉樽のそばに、頭を講壇のうえに組んだ両腕のなかにうずめて、ひざまずいた、そして短い祈祷をもって集りを始めた。ほかの生徒が彼の後に一人一人つづいた、めいめい集りができるだけ透かに閉じられることを望みながら。我々は最後の者が祈ったときはうれしかった、最後のアーメンが唱えられたとき我らの牧師によって直ちに放免されるのがもどかしかった。それは唱えられ、そして唱和された、しかし牧師は無言であった。彼の使徒的祝祷は来なかった、そして他の何人にも集りを解散する権威はなかった。約五分間の完全な沈黙があった、-その夜にとっては長い時であった。我々はもはやひざまずいていることはできなかった。ヨナタンは牧師のそぼにひざまずいていた。彼はフレデリックはどうしたのかを見ようと頭をあげた。見よ、牧師はメリケン粉樽のうえで熟睡していた、何の祝祷も来なかったのは不思議ではない! 彼の聖なる言葉を待ったならば、我々は終夜坐っていたかもしれない。ヨナタンは考えた、場合は例外である、規則はかかる場合には我々の『世界会議』の承認なしに一時変更を加えらるべきであると。そこで彼は立ちあがった、そして厳粛な声で言った、『我々の兄弟フレデリックは熟睡しているので、神は牧師の職務を行うことを余に許したもうであろう。われらの主イエス・キリストの恵(めぐみ)、云々。アーメン』と。『アーメン』と一同が和した、すっと我々の疲れた頭があがった。しかしフレデ”リックのは樽の上にあって丸太のように動かなかった。チャールスが彼をゆすった、彼は目を醒(さ)ました。彼は祝祷をもって我々を去らしめようとした、-彼は夢の国にあって彼の義務を忘れなかったのである、-しかしそれはすでに唱えられ、我々はいまにも退場しようとしていた。講壇の上で睡ったのはフレデリックがいかにも悪かった、しかし我々はみな彼を許すことができた、我々はみなその夜は非常に眠たかったからである。聖なる使徒たちさえも主の祈りたまいつつあるときに眠ったのである、そして我々若い基督信徒たちが激しい労働と十分な食事との後になぜ眠ってはいけないか!

  五月十一日 日曜日  午後、桜狩り。

  五月十八日 日曜日  午後、森二遠足。

  六月二日 月曜日 我々ノ新生ノ(即チ洗礼ノ)記念日。七兄弟ト茶話会、数時間愉快ナル談話。

 我々の霊的誕生日の記念会。なぜ我々はこの日を記憶せずに我々の母がこのわびしい地上に我々を生んだ日を楽しくすごすのか、余にはすこしも理由がわからない。しかも我が国でも他の国でも多くの基督信徒にとっては、霊的誕生日は我々の滅ぶべき肉体のこの地上への出現の日の半分だけの親切な言葉も美しい贈物(プレゼンツ)も受けないように思われる。

  六月十五日 日曜日  コノ地方ノ鎮守ノ神ノ祭礼日。甚ダ苦悩セリ。然シ余ハ競馬ヲ見物セリ、余ハ「フランシス」ノ伯父サンノ招待ヲ受諾セリ(『肉ノ快楽』ノタメニ)、ソシテ余ハ大食セリ。噫(ああ)!

 我々のピューリタン的安息日は異教の祭礼によってはなはだ乱された、そして余は誘惑に屈した。『我、善を為さんと欲すれども、悪、我と共にありき、我は肉を以て罪の律法に仕えたり、噫、我困苦(なや)める人なりし哉(かな)!』である。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


文化的資源としての仏教 №2 [心の小径]

 はじめに――宗教と文化②

                               立川市・光西寺住職  寿台順誠

3.文化的資源としての仏教

 前回、私は「宗教」というものも、定義しだいで衰退したものと見ることもできれば、逆にむしろ盛んになっていると見ることさえできるということを述べた。すなわち、ある特定の神仏等の存在を確信できなければ「宗教」とは言えないという実体論的定義に立てば、現代では宗教は衰退していることになるし、逆に、あるものが人生に意味を付与したり、人々を統合したりする機能さえ果たしていれば「宗教」と言えるという機能論的定義に依るならば、むしろ現代でも世の中は宗教に満ち満ちていることになるのである。が、現実に関してそのような真逆の解釈を可能にする「宗教」という概念は、実はあまりあてにならない概念ではないかという問題も提示しておいた。
以上のような問題を考える中で、最近私は日本において仏教というものがもつ意義を、「宗教」というよりは、むしろ一種の「文化的資源」として捉えられないかと思うようになった。つまり、仏教の話を、各宗派の教義・教条(宗教的側面)の説明から始めるのではなく、生活の中にほとんど無意識裡に組み込まれているような仏教起源の言葉や行い(文化的側面)を通して構成し直すことはできないか、ということである。それに関して、今ここでは以下の二つのことを述べておきたい。
 一つは、これは仏教だけに関わることではないが、およそ人というものは、どのような思想をもっていても、何らかの意味での「あの世」「来世」といったものについて考えざるを得ない存在ではないかということである。これについては、「マルクス・レーニン主義者(唯物論者)」を自称していた私の友人(仮に「Aさん」としておく)から聞いた話を紹介したい。
Aさんは私より10才ほど年上の「団塊の世代」に属する人で、長年、労働運動をしてきた人だった。が、そのAさんにまたBさんという運動仲間(この人も当然、唯物論者)がいて、もう10数年前のことだが、そのBさんがガンのため50代で亡くなった。Aさんは何度か入院しているBさんの見舞いに行ったが、最後に訪ねた時、ひとしきり話をした後でAさんが帰ろうとすると、もう自分の死期が近いことをさとっているBさんは、Aさんに向かって次のように言ったという。「先に行って、待ってるから」と。………「変だよなあ。唯物論者のくせして、〈待ってるから〉なんて言うんだ。〈来世〉なんて否定してたはずなのに、どこで待ってると言うんだ! でも、人間はそのような世界をどこかで考えざるを得ないものなのかなあ」と、AさんはBさんのことを想い起こしながら私に向かって言うのだった。この話を聞いて私は以下のようなことを思った。
 日頃、私は寺で法事の際に法話をするにあたり、まずは門徒の人たちに向かって「この中で極楽浄土に往生したいと思っている人は手を挙げてみて下さい」と聞くことがある。しかし、大抵の場合、誰一人として手を挙げる人はいない。「浄土真宗の門徒」がほとんど「浄土に往生したい」と思わないほど、現代では世俗化が進行し、宗教が衰退していると言わざるを得ない。が、しかし、それならば逆に、「来世」について何らかのことを考え、それについて言葉を発することを一切禁止するようなことが実際に可能なのかと言えば、そのようなことは唯物論者でさえ、なかなか貫徹できるものではないというほどには、人間は「宗教的存在」だと言えるのではないか、ということをAさんの話は示していると思ったのである。
実は、そのAさんも数年前にガンで亡くなってしまった。そして今改めて私は、「あの世」「来世」にまつわる様々な言葉を、人がいざ最期を迎えた時には、たとえ唯物論者でさえ頼らざるを得ないような、いわば「文化的資源」として考えられないかと思うようになった。
 そこでもう一つ、日本において仏教が一種の「文化的資源」だというとき、京都や奈良の「文化財」としての寺院もそうした資源の一つであるということを述べておきたい。「文化的資源」も「文化財」も英訳すれば “cultural resource” と訳せるであろう。
 もし本当に多くの日本人が「無宗教」だとか「宗教には関心がない」とかと言うのであれば、試しにあらゆる神社仏閣は避けて観光旅行することを想定してみよう。そうすると、どういうことになるだろうか。………例えば京都に行っても、一切の宗教施設には行けないとする。その場合には、国際会議場や二条城のようなものだけ見て、四条河原町や京都駅で飲食や買物をして帰るというようなことになるであろう。しかし、金閣・銀閣や清水寺といったお寺や伏見稲荷のような神社にはまったく行かずに、それで本当に京都旅行をしたと言えるであろうか。………このように日本においては、神社仏閣は旅行が成立するためになくてはならない「文化財」だと言えるであろう。
 さて、一般にもよく使われるような仏教起源の言葉は、以上のような「文化財」(建物)以上に重要な「文化的資源」だと言えるであろう。そうした言葉は、思いつくままに並べてみても、「往生」「四苦八苦」「縁起・因縁」「一大事」「世間」「檀那」等々、枚挙に遑がない。こうした言葉が日本の文化的資源であるというのは、どのような意味でそうなのかというと、(ちょうど神社仏閣がなければ観光旅行も成り立たないのと同じように)私たちが人の「生き死に(生死(しょうじ)生死)」について真剣に考えようとするときには、どうしてもそれを使わざるを得ないという意味において貴重な資源だと言えるのではないだろうか。いくら昨今ではハロウィンが流行り始めたからと言って、ハロウィンでは嫌な日常から離れて変身願望は満たせるかもしれないが、「生き死に」の問題を深く突っ込んで考えることにはつながらないだろう。仏教用語を正しく使えなければ、日本人は「生き死に」の問題をまともには考えられないのではないだろうか。
 「文化」という言葉には、「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果」(『広辞苑』第六版)とか、「社会を構成する人々によって習得・共有・伝達される行動様式ないし生活様式の総体」(『大辞林』第三版)とかの意味がある。これらの定義から分かることは、文化とはあくまで人間が形成した人為的なものでありながら、しかし一朝一夕にできるものではなくて、多年にわたり「人々によって習得・共有・伝達される」(歴史的に蓄積される)ものであるということである。文化というものは、例えばいくら臓器移植法という「法律」が制定されても、長年にわたって形成されたそれを拒否する「文化」の方が日本には強いので、なかなか臓器移植は進まないと言った形で問題化されるものであろう(勿論、「法律」も一種の「文化」ではあるが、この場合には、「法律」という特定の分野と「文化」一般を対比しているのである)。
以上、日本人にとって仏教の言葉とは、「生き死に」について考える際には使用せざるを得ないものとして、人々が多年にわたって使用し、育んできた貴重な「文化的資源」である。次回以降、そうした言葉を一つ一つ取り上げて、その意味について考えていきたい。(つづく)

(次回からしばらくは「往生」について考える予定です。なお、私が住職を務めている光西寺のホームページhttp://www.kousaiji.com/ もお知らせしておきたいと思います。お寺を学びの場とすべく様々な催しをしておりますので、関心のある方はどうぞお気軽にお越し下さい。)


出会い、こぼれ話 №37 [心の小径]

 第36話 一番と一流と

                                       教育者  毛涯章平

 これは明治三十九年の秋、学習院と一高が野球の試合をした時の話です。
 試合が七回まで進んだとき、一高のランナーが二塁から三塁にすべり込んだのです。学習院の三塁手が、送球を受けとってランナーにタッチすると、審判はアウト「を宣告しました。
 ところが、その三塁手がタイムを求め、審判のところに行って、
「いま自分はタッチしたと思ったが、実はランナーに触れていなかったので、セーフにしていただきたい」
と要求したのです。
 審判も彼の真剣な主張を認めて、あらためてセーフを宣告しました。
 この試合は、結局一高が勝ったのですが、一高の応援団は、味方の勝利を喜ぶよりも、敵の三塁手の正々堂々たるプレーに感激の拍手を送ったのでした。
 この事実が、百年を経てなお、さわやかな感じを与えるのはなぜでしょう。

 今日、さまざまなスポーツが盛んですが、試合の目標はいうまでもなく優勝することであり、選手たちは一番を目指して全力を尽くします。それでいて、なお関係者が求め、つめかけた観客が期待し、どのチームも基本としていることは、「スポーツマンシップにのっとり、正々堂々と戦うこと」なのです。
 言いかえれば、勝敗はともかく、選手がスポーツマンとして一流であってほしいのです。
 思うに「一番」とは、一人だけが至り得る座です。「一流」とは、だれもが達し得るところです。
 たとえ試合に負けても、「一流」のチームはあるはずです。成績は少々悪くても「一流の生徒」はいます。
 今や先を争って「一番」をのみ求めることから脱して、他と共に「一流たる」を目ざすことが大切な時代ではないでしょうか。

『章平先生の出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


論語 №24 [心の小径]

四九 子のたまわく、夏(か)の礼はわれ能(よ)くこれを言えども、杞徴(きちょう)するに足らざるなり。殷(いん)の礼はわれ能くこれを言えども、宋徴(そうちょう)するに足らざるなり。文献足らざるが故なり。足らばすなわちわれ能くこれを徴せん。

                                         法学者  穂積重遠

 「杞」も「宋」も国名。「杞(き)人(ひと)天の墜つるを憂う」というので杞憂(きゆう)という熟語が出来、宋の襄王(しょうおう)が敵が陣を固めない前に討つのは不仁(ふじん)だと言って機を失い敗戦したというので「宋襄(そうじょう)の仁」という諺(ことわざ)がある。
 「文献」は今日では文書の意味に用いるが、元来「献」は「賢」で、賢人のこと。
                                        
 孔子様がおっしゃるよう、「わしはよく夏(か)の礼制の話をするが、夏の子孫の国なる杞に十分な証拠の残っていないのが残念だ。わしはよく殷の礼制の話をするが、殷の子孫の国なる宋に十分な証拠の残っていないのが残念だ。つまり古文書が欠けまた故制を知る賢人がいないからで、もし文書と賢人とがあれば、わしの言葉の証拠になろうものを。」

五〇 子のたまわく、禘(てい)の既(すで)に灌(そそ)いでよりのちは、われこれを観(み)るを欲せず。

 「禘」は天子の行う大祭、それを魯(ろ)の国で行うこと自身が、国初からの慣行ながら孔子様の是認されぬところであるが、それがまた形式に流れて誠意がこもっていないので、「見たくもない」と言われたのだ。「濯」は酒を地にそそいで降神(かみおろし)をすること。

  孔子様がおっしゃるよう、「禘の祭も、降神あたりまではまだよいが、それ以後はだれてしまって、観ておられん。」

五一 或(ある)ひと禘の説を問う。子のたまわく、知らざるなり。その説を知る者の天下におけるや、それこれをここに示(み)るが如きかと。その掌(たなごころ)を指(ゆびさ)す。

 最後の一句で孔子様が紙上に活躍する。名文だ。

  ある人が禘の祭の意義をおたずねした。孔子様は、「わしは知らん。もし禘の意義を知る者が天下を治めたならば、そのよく治まることは、ここにのせて目に見るように確かなことじゃ。」と答えて、右の手の指で左の手の平をさされた。

 孔子様は元来魯の国で禘の祭を行うことを是認されぬので、禘の意義を説明すると、自然祖国たる魯を非難せねばならぬから、「知らざるなり」と答えたのであろう。しかし禘の説を知っていれば天下は治まるはずだと語って、かような大切な祭の根本義をわきまえず、みだりにまた形式的にこれを行うようなことだから、政治がうまくいかないのだ、と
暗示されたのである。

五二 祭るに在(いま)すが如く、神を祭るに神在すが如し。子のたまわく、われ祭に与(あず)からざればら、祭らざるが如し。

 初二句は古語だとする説もあるが、孔子様の態度をしるしたものと見たい。

  孔子様が祖先の祭をなさる場合には、あたかもご先祖様がそこにござるごとく、また神を祭られるには、神が目の前に出現されたごときご様子であった。そして常に「自身祭に参列しなくては祭ったような気持がしない。」と言われた。

 ズツト以前のことだが、朝鮮京城に行ったとき、有名な大院君がなくなられた直後で、その邸内の家廟(かびょう)に当主服喪(ふくも)のための仮小屋がしつらえてあるのを見た。古礼にかなった設備でおもしろく思ったが、さらにおもしろく感じたのは、床下に人がはいれるように穴のあいていることであった。そこへ「泣き男」がはいるのだそうで、喪主が堂上で礼拝して慟哭(どうこく)するはずのところを、えんの下の雇われ男が代って泣き、しかも堂上の喪主も実は代人なのだということだった。孔子の時代にも王公・大夫(たいふ)の祭はおそらくそんなことだったのだろうが、孔子様は真心こめて自身で祭られたのである。

※「禘」は原本では「示偏」ですが、このページでは表示できません。

『新訳論語』 講談社学術文庫


余は如何にして基督信徒となりし乎 №11 [心の小径]

第三章 初期の教会 4

                                  内村鑑三  

  十二月一日 H氏ヲ通ジ「メソヂスト」監督教会二入会セリ。
 我々の愛する宣教師、牧師H氏が再び町にあった、そして我々は彼の教派や他のいかなる教派についての賛否を吟味することなしに彼の教会に入会した。我々はただ彼が善い人であることを知っていたにすぎず、彼の教会もまた善くあるに相違ないと考えたのである。

  十二月八日 日曜白 夜、『七兄弟』ト真面目ナル話ヲ為セリ。我々ハ我々ノ心底ノ思ヒヲ相互二告白シ、我々ノ心二大改革ヲモタラサンコトヲ約セリ。
 基督教を受けて以来我々がもった最善の日。はるかに夜半を過ぎるまで我々は語りかつ祈ったと思う、我々が床についてから夜が明けるまでに幾時間もなかったからである。誰も彼もその夜は天使のように見えた。『とげとげの』ヨナタン、『こぶこぶの』ヒユー、『スクルージのような』フレデリックは、その夜は『球形の』フランシスのように円(まる)くあった。懐疑的のパウロはこのような基督教に対しては何らの異議をも見出さなかった。ああ、この夜のような夜がさらに多くあらんことを! 御使の合唱が天にきこえべツレヘムの星が東方の賢者を幼な子イエスのもとに導いたあの夜は、この夜にまきって美しくあったか!

  十二月廿五日 クリスマス 我々の救拯主ノ地上ニ来リ給ヘルヲ祝セリ。我々ノ愉快、
限リナシ。
 我々がもった最初のクリスマス。三年級はこの祝賀に『無信仰』であった。彼らは翌年我々をまねたのである。


  十二月廿九日 日曜日 夜、油二就テ云々、云々。
 この日はその年の最後の安息日であった、そして両級の基督信徒たちは終らんとする年のすべての失敗と欠点、来らんとする年のすべての希望と可能性を真剣に考えつつあった。我々の祈祷と奨励とはその夜は常になく熱心であった。しかるに突然、我々は誰かが叫ぶのを開いた、i教授が帰って来た、彼は種油(たねあぶら)をもって石油と同じ光力を発せしめうることを我々に証明するであろうと。じつは当局は数週間前に布告を発した、輸入品はできるだけ節約すべし、すべてペンシルヴァニアの山地とニュー・ヨークから来ている石油は内地産の種油で代用されなければならないと。我々のヤンキー・ランプはそれゆえ全部没収され、植物油を燃す新しいランプが我々に支給されたのである。しかしその発する光はアメリカの鉱物油の発する光にくらべてみじめなほど貧弱であって、それが我々の学業を怠けるによい口実となった。I氏は数学の先生であって、我々は彼をはなはだ好かなかったのである。その日曜日の夜は彼はアルコールで十分飽和(ほうわ)されていた、彼の運動と発声の器官は完全には彼の思うようにならなかった。学生の一人が新しいランプについて例の不平を述べたに対し、彼は答えた、諸君の方にもう少し常識があれば問題は一変することになるであろう、自分は科学的方法をもって自分の言明を諸君に実地証明しようと思うと。機会は我々が彼をいかに考えていたかを彼に実地証明するによい時であった。基督信徒も非基督信徒もともにこの実地証明に結束した。わが半異教徒的三年級の兄弟宅のうちの数人、『角顔』Y、『好人物』U、『翼竜』Tのような連中は、自分宅の聖書を床に投じ、いきなり騒ぎの現場に突進した。教授の科学的実地証明は我々の欲したところのものではなかった。我々は彼を外に連れ出し、雪の中にころがし、彼を目がけておびただしい雪つぶてを投じ、あらゆる種類の非紳士的の名で彼を呼んだ。当時最善の宗教的気分にあった我らのチャールスがそのような非基督信徒的な行為をしないように我々に懇願した、しかし一切は無駄であった。アルコール興奮剤に影響されていた憐れな教授が雪のなかで十分に酔いをさまされたのち、生徒たちは聖なる集会に引き返した、そしてそこにはこれらの小さなテオドシウスたちを礼拝室から閉め出す一人の聖アムプローズもいなかった。その日曜日の夜に我々の経験した気持はけっして忘れることはできない。わずかな懺悔(ざんげ)の祈祷が唱えられた、そして集会は翌年まで休会となった。我々の誰もが感じた、キリストはその集会にいましたまわなかったことを、あるいはもしいましたもうたとしても、我々のうちの数人が憐れな教授を雪つぶてで打とうと宝から飛び出すやいなや彼はそこを立ち去りたもうたことを。我々の実際的基督教が我々の理論的基督教よりいかにはるか遅れていたかを我々はその夜真剣に感じたのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


文化的資源としての仏教 №1 [心の小径]

はじめに・・・宗教と文化1                                                                               

                               立川市・光西寺住職 寿台順誠

1.日本の宗教

 日本では自分の宗教について尋ねられると「無宗教(no religion)」と答える人が多い。しかし、これは西洋的な「無神論(atheism)」とは異なり、「反宗教的(antireligious)」な性格は薄い。現に多くの日本人は、自分は「無宗教」だと言いながら、同時に何の抵抗もなく様々な宗教行事に参加したり、宗教施設を訪れたりする。
生まれた時はお宮参りをし、結婚式はキリスト教会で挙げ、死んだら葬儀は仏式で行うという日本人の一般的な宗教行動のパターンは、近年崩れつつあるとはいえ、現在なお保たれている。このような日本人の宗教のあり方は、宗教学的には「重層信仰(syncretism)」として説明されることが多い。日本の宗教統計調査では一人の人が神道と仏教の両方にカウントされるので、宗教人口が総人口の約1.5倍にもなってしまう(文化庁「宗教統計調査」参照。http://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/shumu/=2017年2月7日閲覧)。「無宗教」だと自覚している人が多い日本は、実は極めて「宗教が盛んな国」だとも言えるのである。こうした矛盾を、私たちは一体どのように考えたらよいだろうか。

2.宗教の定義

 そこで、そもそも「宗教」とは何なのか、という定義の問題を考えてみたい。これによって、以上の矛盾はある程度整理がつくと思うからである。ただ宗教の定義は宗教学者の数ほどあるとも言われ、簡単には整理できないものである。が、今は話を分かりやすくするために、一般によく用いられる「実体論的定義」と「機能論的定義」の対比において、宗教を考えることにする(宗教の定義については、『岩波哲学・思想事典』岩波書店、1998年、711-713頁;『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、255-263頁等参照)。
まず「実体論的定義」とは、宗教を「何らかの超自然的・超人間的な存在を信ずること」と定義するものである。一例として、以下のような定義が挙げられる。

  憲法でいう宗教とは「超自然的、超人間的本質(すなわち絶対者、造物主、至高の存在等、なかんずく神、仏、霊等)の存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為」をいい、個人的宗教たると、集団的宗教たると、はたまた発生的に自然的宗教たると、創唱的宗教たるとを問わず、すべてこれを包含するものと解するを相当とする。従って、これを限定的に解釈し、個人的宗教のみを指すとか、特定の教祖、教義、教典をもち、かつ教義の伝道、信者の教化育成等を目的とする成立宗教のみを宗教と解すべきではない。(津地鎮祭訴訟名古屋高裁判決、1971年)

 これは三重県津市で市立体育館建設の際に行われた地鎮祭が政教分離原則(憲法20条)に反するのではないかと争われた訴訟の控訴審判決の中で宗教を定義したもので、この判決ではこの定義に基づいて当該地鎮祭を宗教行為と認定し違憲判決を下した(ちなみに、津地裁及び最高裁では合憲判決が出された)。この定義は、地鎮祭がたとえ習俗化したものだとしてしても、それは「宗教」であって公的な場で行われるべきものではないとするもので、その意味では極めて広い同種の現象をカバーできる定義である。にもかかわらず、この定義を法的意味ではなく宗教的な意味に解して、文字通り特定の「超自然的、超人間的本質…の存在を確信し」ている人が、今の日本でどれほどいるのかと考えると、やはりそれほど多くないということになるのではないだろうか。つまり、宗教というものを「特定の超越的な存在を実体的に信ずること」と定義する限り、日本人の多くは「無宗教」にならざるを得ないであろうと思うのである。
 それならば、次に宗教を「機能論的定義」で考える場合には、どういうことになるであろうか。この定義は、あるものが人生に意味を与える機能を果たしたり、社会統合の機能を果たしたりすれば、それは「宗教」と言えるというものである。例えば、宗教を「究極的関心事(ultimate concern)」だと言ったパウル・ティリッヒ(1886年-1965年・ドイツのプロテスタント神学者)の定義や、「宗教は、人生の人間自身による解釈」だとした内村鑑三(1861年-1930年)の定義は、まさに宗教を人生への意味付与の機能から説明するものだと言えるであろう。但し、こうした形で宗教を説明すると宗教の範囲が広がりすぎるという問題がある。私は35年ほど前、名古屋の同朋大学という真宗大谷派の学校で仏教(浄土真宗)を学んだが、その頃、ある先生がティリッヒの定義を出して、「例えば、ある人の究極的関心事がパチンコをすることにあるとすれば、その人はパチンコ宗の信者だ」というような説明をするのを聞いたことがある。パチンコに夢中になる人などを例に挙げるのはあまりに宗教を安っぽくする感じがするが、それこそマルクス主義のような思想に命がけでコミットした人たちの歴史があることを思えば、機能論的定義ではあらゆる主義主張が十分「宗教」だということになってしまい、物事の区別がつかなくなってしまう恐れがあるわけである。
 また、「信念と行事との連帯的な体系」とか、「教会と呼ばれる同じ道徳的共同社会(教会のない宗教は存在しない)」とかといった言葉で宗教を説明したエミール・デュルケーム(185-1917年・フランスの社会学者)の定義は、宗教を社会統合の機能として説明するものだとされるが、こうした定義に基づくならば、世の中は宗教に満ち満ちているということになるであろう。私は若い頃、自分がしている僧侶としての仕事の意味がよく分からず、法事を勤めるたびに檀家の人に「皆さんは、なぜ法事をするのですか?」と聞きながらお勤めしていたことがあったが、それに対する答えで一番多かったのは、「親族の親睦会をしているのだ」というものだった。当時私はそういう答えに接するたびに、意地悪く「それなら、なぜ親族でもない僧侶を呼ぶのですか? 僧侶が呼ばれるのだから、単に親睦会というだけでなく、やはり「仏法を聞く事」という意味が法事にはあるのではないですか?」などと言い返したりしていた。が、とにかく社会統合の機能を果たすものが宗教だと言うならば、別に仏法など真剣に聞かなくても、「親族の親睦会」をするだけで十分「宗教」になってしまうのである。
 このように宗教を機能論的に捉えるならば、現代でも世の中は宗教に満ち溢れていることになる。日本の宗教的なあり方に即して言えば、「無宗教」だと自覚している多くの日本人においても、様々な儀礼に参加したり、神社仏閣を訪れたりすることは何らかの「機能」を果たしているのであり、それは立派な「宗教」だと言うことができることになるであろう。
しかし、前記のように実体論的に言うならば、日本人はほとんど「無宗教」だということになるのに、逆に機能論的に言うならば、日本は「宗教が盛んな国」だということになるのは、「宗教」という概念自体があまりに不安定であることを示すことではないだろうか。同じ言葉を使いながら、現実がこれほど真逆に解釈できるとすれば、その言葉自体が何ものも示していない、或いは御都合主義的に何でも好きなものを示しうる、あまり頼りにならない概念だということになるだろう。それならば、「宗教」という概念をめぐるこうした問題を乗り越える道は、一体どこにあるのだろうか。(つづく)


論語 №23 [心の小径]

四六 季氏(きし)、泰山(たいざん)に旅(りょ)せんとす。子(し)、冉有(ぜんゆう)に謂(い)いてのたまわく、なんじ救うこと能(あた)わざるか。対(こた)えていわく、能わず。子のたまわく、鳴呼かつて泰山は林放(りんぽう)に如(し)かずと謂(おも)えるか。

                                      法学者  穂積重遠

 「泰山」は当時魯(ろ)の領内の名山、「泰山に登りて天下を小(しょう)なりとす。」などという言葉がある。
「旅」は山の祭。天子なり諸侯なりがすべき祭であるのを、大夫(たいふ)たる季氏がしようとするから、僭上(せんじょう)なのである。「冉有」は門人冉求(ぜんきゅう)、字(あざな)は子有(しゆう)、孔子より若きこと二十九歳。

 李氏が泰山の祭をしようとした。そこで孔子様が当時季氏の執事だった門人冉有に、
 「とんでもない非礼僭上なることだが、お前はその過ちを正し救うことができないか。」
と言われた。すると冉有が「もはや決定してしまって、やめさせるわけにまいりません。」と答えたので、孔子様が慨嘆(がいたん)しておっしゃるよう、「ああ泰山の神が林放に及ばぬと思っているのか。林放でさえ礼の根本を心得て質問をしたではないか。泰山の神がどうしてさような非礼の祭を受けられようぞ。」

四七 子のたまわく、君子は争う所なし。必ずや射(しゃ)か。揖譲(いつじょう)して升(のぼ)り、下って飲む。その争いや君子。

 「揖」は両手を胸の前で組み合せて上げる中国風のあいさつ。
 「升下而欽」を「のぼりくだりしかしてのましむ」とよむ人もある。負けた者に罰杯(ばつはい)を飲ませるので、それは堂上でするのだから、そうよむ方が古射礼(こしゃれい)にかなう、というのだ。あるいはそうかも知れないが、前記のよみ方の方がおもしろい。強いて罰杯といわないでもよかろうし、「升る」のは、堂上といわんよりは、むしろ射場というべきだろう。

 孔子様がおっしゃるよう、「君子は争いを好まず、したがってあまり勝負事をしないが、するとすればまず弓の競射か。たがいに一礼し『どうぞおさきへ』とゆずりあって射場にのぼり、勝負がきまり射場をおりてから仲よく酒を飲む。その争いはまことに君子らしい。」

 撃剣(げっけん)とか角力(すもう)とかいうことになると、相手を打つとか投げるとかいう直接の闘争なので、孔子様は好まれず、競ベ弓は相手を射るのではなく的に当て合うのだから、これならばといわれたのだろう。今日のスポーツ観念からいうとあまりにも古くさいが、「その争いや君子」というところに重点があるのだ。いわゆる「フェヤープレー」で、スポーツのみならず、政争も今後願わくは「君子の争い」でありたい。そしてまた今日のように、何かというとすぐ「闘争」にしたがるのはおもしろくない。孔子様も当時の闘争気分を心配して、「争う所なし」といわれたのだろう。

四八 子夏(しか)問いていわく、巧笑(こうしょう)倩(せん)たり、美目盼(へん)たり、素(そ)以て(もって)絢(けん)を為(な)す、とは何の謂(いい)ぞや。子のたまわく、絵の事は素(しろ)きを後(のち)にす。いわく、礼は後か。子のたまわく、われを起こす者なり、商(しょう)や、始めて与(とも)に詩を謂うべきのみ。

 「詩」は「セン」「ヘン」「ケン」韻がふんである。「倩」は愛嬌エクボ。「盼」は字面通り黒目と白目とがキッパリ分れていること。「絢」はアヤ。「素」は白粉(おしろい・ごふん)。「われを起す者は商なり、始めて」と切る人もある。「起」は前に出た「発」(二五)と同じ。

 子夏が「詩に『笑い上手で愛嬌がえくぼ、美しい目がパツチリと、おしろいつけてさてもあでやか。』とあるのは、何の意味でござりますか」とおたずねした。孔子様が「絵でいえば、まず彩色をして最後にごふんで仕上げをするようなものじゃ。」と言われた。すると子夏が「なるほど礼は仕上げでござりますな」と言ったので孔子様が感心しておっしゃるよう、「わしも教えられる。商よ、お前は詩の話せる男かな。」

 「絵の事は素より後にす」とよんで、まずごふんで下塗をし、上に彩色を施す、という意味に解する人もあるが、前後の関係上前記の方がよさそうだ。美人が頬紅をつけた上におしろいをはいていっそう紅顔が美しいように、また絵も最後にごふんで仕上げをして五彩が引立つように、色ならば白にたとうべき純正な礼が人の行為の最後の仕上げであって、心の誠(まこと)がなければ礼も虚礼であり、礼がなくては心の誠もあらわれぬ、という意味になるのだ。
 子貢(しこう)も同じほめ言葉をちょうだいした(一五)。末句にはちがったよみ方もあるが、子貢の場合と調子を合せてみた。
 古註(こちゅう)にいわく、
『子貢は、学を論ずるに因りて詩を知り、子夏は詩を論ずるに因りて学を知る。故に皆与(とも)に詩を言うべし。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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