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論語 №39 [心の小径]

一一三 子、陳(ちん)に在(いま)してのたまわく、帰らんか、帰らんか、わが党の小子狂簡(しょうしきょうかん)、斐然(ひぜん)として章(あや)を成せども、これを裁する所以(ゆえん)を知らず。

                  法学者  穂積重遠

 「党」はここでは同志同学の意味。「狂簡」は、「志(こころざし)大にして事に略なるなり」とある。

 孔子様は天下を周遊して陳の国まで釆られたが、どこにも受けいれられず、仁義礼楽をもって天下を救おうとの志がついに行われ得ないのを知り、翻然大悟(ほんぜんたいご)しておっしゃるよう、「帰ろう、帰ろう。うちの若者たちは、気位ばかり高くて実行がまだ身についておらぬ。五彩(ごさい)目もあやな錦は織りなされたが、それを裁断して衣服にするところまでにまだ至らぬ有様じゃ。サア魯に帰って青年を教育し、大いに人材をつくってわが道を後世に伝えよう。」

 『論語』を孔子一代記とするならば、本章は最重要の転回記録である。伊藤仁斎は、「夫子(ふうし)当初天下を周辞して以て道を行わんと欲す。ここに至りてそのついに行われざるを知る。故に後学を成就(じょうじゅ)して以て道を来世に詔(つ)げんと欲す。然れども中行(ちゅうこう)の士は必ずしも得べからず、而してわが党の中子は 志大にして事に略なり。与に道に進むべしと錐も、しかもその或は中正を過ぎんことを恐る。ここにおいて魯に帰りてこれを裁せんと欲す。」と説明した。そして孔子が当世に志を得なかったことは、「これ夫子の不幸なりと雖も、然れども万世の学者に在りてはすなわち実に大至幸なり。」という仁斎の言葉に、私は心の底から同感共鳴する。

一一四 子のたまわく、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は旧悪を念(おも)わず、怨みここをもって希(まれ)なり。

 伯夷・叔斉兄弟の物語は、あまりに有名だからここには略するが、家庭的にも国家的にも一生不遇(ふぐう)で、古川柳(こせんりゅう)にいわゆる「ひからびた死骸があるとわらび取り」という悲惨な最期をとげたので、そこで「怨みたりや」という問題を生ずること、後に見える。

 孔子様がおっしゃるよう、「伯夷と叔斉が道徳的潔癖家酔だから、不正不義をにくむこと甚(はなは)だしいが、事をにくんで人をにくまず、かつ過ぎ去った他人の旧悪をいつまでも根にもつような狭量(きょうりょう)ではないから、人を怨みまた人に怨まれることが少ない。」

一一五 子のたまわく、たれか徴生高(びせいこう)を直(ちょく)と謂うや。或ひと醯(す)を乞う、これをその鄰(となり)に乞いてこれに与う。
                                        
 孔子様がおっしゃるよう、「いったい誰が微生高を正直者というのか。ある人が酢を無心したとき、自分のうちに無かったのに、隣家からもらって与えた。無いなら無いとことわり、隣からもらったのならそう言えばよいが、自分のうちのもののような顔をして与えたのなら、正直者どころではない。」

 この「直」を「融通のきかぬばか正直」と解し、どうしてなかなか気がきいているではないか、とはめたのだ。

 「人の美を掠(かす)めてわれの恩を市(う)るもの」との古証はあまりの酷評だ、とする説もある。結局は「隣からもらいました」と言ったか言わぬかの問題だろう。本書のごときは申すまでもなく先人の受売りで、正に「隣に乞いて与うる」ものだが、「隣からもらいました」と正直に白状しておく。

一一六 子のたまわく、巧言令色(こうげんれいしょく)足恭(すうきょう)、左丘明(さきゅうめい)これを恥ず。丘(きゅう)も亦これを恥ず。

 「足恭」の「足」は「過」と同じ。「左丘明」はどういう人かわからぬが、孔子様の尊敬した先輩らしい。孔子様は自分のことを名を呼んで「丘」といわれる。

 孔子様がおっしゃるよう、「巧言令色で丁寧過ぎることは先輩左丘明の恥じたところ、
この丘もまたこれを恥じる。心の底に怨みをいだきながら友達顔をするような裏表のあることは、先輩左丘明の恥じたところ、この丘もまたこれを恥じる。」

『新訳論語』講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №28 [心の小径]

世の中へ―感傷的基督信徒 4

                        内村鑑三

翌朝朝食後、余は再び舟にのった。男たちは櫂(かい)を取ったた、余が切に聞きただしたかったのは前夜の無事平穏(へいおん)についてであった。全部の秘密はいまや余に説明せられた。『宿屋の亭主はやはりあの老人です』と男たちの一人が言った、『しかし、旦那、昨夜あんなに家じゅうを静かにさせたのはあなたでした。若いお客様の邪魔になるといけないから自分も飲むまい、と彼は召使たちに話しました、それには家内じゅうがびっくりさせられました、そのためにありがたく思わなくはなかったのですが。なぜなら彼らが酒呑み亭主に雇われていらい初めて、昨夜は不平の声、奴鳴り芦、そのほかの騒ぎなしにいられたのですから。』『そうです』ともう一人の男が言った、『内儀(かみ)さんは前の晩はありがたかったと礼を述べていました。内儀さんは今朝我々があの家を立つ前に言いました、昨夜はよく眠った、今までこんなに気持ちよく眠ったことはなかったと。』
『万歳!』と余は叫んだ、そして余が飲酒癖の恐しさと勇敢な抵抗の勢力を男たちに説いていたとき、天さえ我々の勝利に加わったかと思われた、なぜならたちまち風は追い風に変り、帆をふくらませて、意気揚々と我々を港に運んだからである、そこで余は心配している友人たちに余の断乎(だんこ)たる拒絶に冠した勝利を、― 酒神自身がその徳利をなげうち、平和な休息がそのつみなき家族に与えられたことを、― 告げたのである。
 しかし余の霊魂のなかの真空は以上のようなかかる僅かな経験によって消滅されるものではなかった、それ自身が空虚である感傷的基督教が以前にも増してそれをより大きくより顕著にしたので一層そうであった。望んだ満足を余自身の国土に見出すことができないで、余はラセラスのように、余の国とは国柄を異にする国に ― すなわち基督教国に ― 余の探求を拡げることを考えた、そこでは基督教が数百年のあいだ疑う余地のない勢力と感化を及ぼして来たのであるから、平安と歓喜とは、異教生れの我々には思いおよばないような、真理の真剣な探求者には何人にも容易に獲得せらるるような、量をもって見出されるに相違ないと余は想像した。愛する者たちとの別離の苦痛、余のような境遇の者にはほとんど耐え難い重い入費、あらゆる人間的経験のうちであの最も悲惨な異境での無一物の流竄(りゅうざん)漂泊、― すべてこれらのことは、切望した褒美をかち得てそれによって余の生存を耐えやすくするために、喜んで忍ばるべきであった。
 しかし個人的満足の追求がこの大胆な歩みを取ることを余に強要した唯一の動機ではなかった。余を生んだ国土はその青年のすべてから何か国土の名誉と栄光に対する惜しみない寄与を要求する、そして余は余の国土の忠実な子となるため、我が国の境界のかなたに拡がる経験と知識と観察とを必要とした。第一に人となること、次に愛国者となることが、余の外国行の目的であった。!
 余の貧しい家族の心からの犠牲と過去三年間の余の節約の結果とによって、余は世界最大の大洋を横ぎる乗船券を得るに足るだけの資金を用意した、すべてそのほかのことは余を異境に餓死せしまたまわないであろうう彼の御手に委ねまつった。すでに敬虔(けいけん)な基督信徒であった余の慈父は万歳と祝福とをもって余を送り出した、彼の持っていた一切のものとともに、彼の愛子に対する心情と愛惜とを、自作の和歌に表わして、余に与えた、
   ききしのみまだ見ぬ国に神しあれば
       行けよ我が子よ何おそるべき
 別離の時の厳粛きは教理が抑えることのできない自然の情を我々から引き出した。父は摂理の護(まも)り絶えず我が子の上にあらんことをとの胸張り裂くる祈祷の後、我が家になお保存されていた先祖の位牌のもとに余をつれて行き、そこで余に告げた、なんじが我が家の閾(しきい)をまたいでこの危険な航海に出立する前になんじの亡き祖父の霊に挨拶せよと。『お前の御視父様がここにおいでになったら』と彼は涙ながらに言った、『全くの夷狄(いてき)と考えておられた人々のところへ自分の孫が行くということを開かれたらどんなにかびっくりなさったにちがいない!』余は頭を垂れた、そして余の霊魂は余の天の父と余の先祖の亡き霊とに同様に向けられ、一種の黙想の中に祈祷と回想とを同時に行った。教義学の先生たちは我々の行為がいかにも仏教的または法王的であるとして我々に対し顔をしかめられたかもしれない。しかしその時は我々の議論する時ではなかった。
我々は我々の神、我々の国、我々の祖先を愛した、そしてこの厳粛な機会にそれらすべてを記憶したのである。
 国を愛するの愛は、他のすべての愛のように、別離の時にその最善最高の状態にある。家郷にあるときには我々にとって単に川や谷、山や丘の集合に過ぎないあの不思議な或る物が、今やあの生きている或る者 ― 霊に化せられた自然 ― に変形せられ、そして女がその子に語るように、我々を高貴な行為に呼び出す、- 著名な母にふさわしく生きまた死ぬように若いグラッカス兄弟を送り出すコルネリアのように。永遠の雪を白く戴いて厳然と西空に懸かるかなたの秀峰 ― あれは彼女の純潔な眉、国民の心の鼓舞者ではないか。峰をめぐる松に蔽われた山々、その麓に横たわる黄金の畑 ― あれは余に乳をふくませた胸、余を取り上げた膝ではないか。またその足もとに打寄せ飛沫(ひまつ)となって砕ける波、それは彼女が堂々たる歩調で前進する時にその衣の縁につけた真珠ちりばむ飾りではないか。かくも純潔な、かくも高貴にしてりっぱな母 ― 彼女の子らは彼女に忠信たるべきではないか。余は彼女の岸を去った、そして、直ちに、他国の旗をひるがえし異人種の船員の乗組んだ船に乗った。船は動き始める、― 母国よ、サヨナラ、―
 動揺数時間ののち、わずかにかの秀峰の巓(いただき)が眺められうるのみ。『一同甲板に』と我々は叫ぶ、『愛する愛する国土にもう一度敬意を。』波高き水平縁の下に彼女は没しつつある、そして我々の心は深き厳粛感をもってクエーカー詩人の言をかりて言う、
  国々の中なる国よ、汝に我らは捧ぐ、
  我らの心、我らの祈り、我らの奉仕を惜しみなく。
  汝のために汝の子らは高貴なる生涯を送るべし、
  汝の危急に際しては汝のために死をば辞せじ。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №27 [心の小径]

 第五章 世の中へ ― 感傷的基督教 3

                       内村鑑三

 (一八八四年)三月十四日 涙ヲ以テ「ジョン・ハワード」伝ヲ読ム。余二大ナル喜ビト慰メトヲ与フ。    

 余の旧(ふる)いアダムの皮膚をひと思いに脱ぎ捨てるに失敗したことは、余を駆(か)って自分自身の手の業(わざ)に慰めを見出さしめるに至った。そして何故それがいけないのか。感傷的基督教は、あらゆる他の感覚の快楽のように、たちまち気抜けしたものとなり、何かさらに現実にして実質的なものが飢えている霊魂を落着かせておくのに必要とされる。『実践的の愛こそ基督教の本質ではないか』と余は自問自答し始めた。なるほど不滅の仏陀はそれを人が涅槃(ねはん)の法悦に入る四つの条件の第一として教えた。『わが兄弟よ、人みずから信仰ありと言いてもし行いなくば何の益あらんや、その信仰いかで彼を救い得んや』と高貴な使徒の重い訓戒(くんかい)は言っている。祈祷会感傷主義、野外集会心理電気現象、―それによってただ一人の乞食が腹を満たされないとすれば、そういうものはいった何になるであろう! 我々は氏神に月詣(つきまい)りをする時には路傍の乞食に何か固形の実質的な物を与えたものである、しかしいまや基督教に回心して、我々空虚な言葉のほかには何物をも彼らに与えない。かようなことはあるべきではない、我が霊魂よ! 蝦(えび)で鯛を釣るように、基督信徒は教義の空言を他人に分与することによって自分の天国に入ることができる。そこで余は英語で書かれた小冊のジョン・ハワード伝を買い、一心不乱にそれを一読また再読した。『こういう人になろう』と余は自分自身に言った、そして余はすでに世界のあらゆる懲治監(ちょうじかん)を訪ね、熱病にかかった兵士を看護しながらついに死んでゆく自分を想像した。余はまたチャールス・ローリング・プレースの『ゲスタ・クリスティ』を買った、そしてキリストを真に愛するすべてのものにふきわしい使命を余に確信せしめるに必要な一切をそこに見出した。余の基督教的慈善観はそのときいらいいちじるしく変化したけれども、あのニュー・ヨークの慈善家が余の思想と行為との全体の傾向に及ぽした健全な感化は余の感謝し得るすべてにまきるものである。


  六月六日。午前七時三十分、宿ヲ立ツ。『夷(えびす)』港二テ一隻ノ舟ヲ雇ヒ、水夫四人之ヲ漕(コ)ギ、鷲崎(わしざき)二向ケ出発セリ、附近ノ海底ヲ研究スルタメナリ。鷲崎こテ十一屋ニ宿泊セリ。

 もういちど政府勤めをして、余は別の学術旅行に派遣されたのである。Sという小島に滞在中のこの舟行、―余はこれを余の禁酒主義が完全に試験された時のものとして特別に記憶している。依然として頑固(がんこ)に禁酒主義を基督教の信仰告白の一部として主張していたので、たとえきわめてもっともらしい理由をもって差出されてもあの火のような液体には触れまいと余は慎重に注意していた。前章に暗に言及されているように、飲酒は余の国の国民的礼儀の大部分を成し、真心こめた杯を拒絶することはそれをを差出す人の求める友情と親交とを拒絶することである。そして他のいかなる点でも、政府の役人の資格で旅行している時に、いっしょに親しく酒をのもうと言われて主人役の気持を害しはしないかというこの絶え間のない心配より以上に、基督教が余の肉に痛い棘(とげ)となることはなかった。しかし聖なる誓約は破棄せらるべきではなかった、それで余は頑張った。
 しかし新しい試練に鷲崎で出会うことになった、その文明の最果ての地、寂しい一漁村では、『十一屋』は旅人が一夜の宿を見出すことのできる唯一の家であったからである。その宿屋の亭主は酒樽から生れた酒神として全島に知れ渡っていた常習的な酔払いであった、彼の『神酒』に対する讃美がはなはだ強いことと、仲間に対する気前のよさが嫉妬ぶかいまではげしいこととは、彼の仙薬をともに酌んでその神々をすら喜ばせる液体にさらに一つの賞賛を加えることなしにはいかなる人間をも自分の屋根の下で一夜を過すことを許さないのを常としたほどであった。彼の倣然(ごうぜん)たる手で差出された時にただの一人としてかつて彼の杯を拒絶する勇気をもったものがあったということを聞かない、そしてあなたが鷲崎に行かなければならないならば、すくなくとも一生に一度はあなたはその禁酒主義を棄てなければならない、という話をきかされた。余の答えはこれであった、『鷲崎には行く、しかし酒には触れない』と。余を送り出した小部落は二つの対角線的に反対の原則の支持者の間で行われることになった奇妙な勝負の結果如何でまったく大騒ぎになっていた。
 その日の薄暮近くであった、はなはだ恐れられていた『十一屋』の門口に余が立ったのは。そこで余を追えた人は齢のころ六十ほどの老人であった、姿はやつれ、背は低く、生涯にわたるアルコール性薬物使用の紛れのない徴候を帯びていた。余はただちに彼を全島にあれほど評判の男と認めた、そして事に応じて振舞おうと用心していた。田舎宿屋の亭主の慇懃(いんぎん)と愛想のすべては彼には全く欠けていた、そして彼が余にその夜の宿をしぶしぶ与えることに同意する前に余は余の官職を彼に告げなければならなかった。例の通り湯を浴び茶をのんで後、宿の内儀さんが余のもとに来て、夕食の前に『飲む』かと尋ねた。『一滴の酒もやらない、おかみさん』と余は決然と答えた、事はすべて余の最初の返答にかかっていると確信して。内儀さんは引き下った、そしてすぐに若者が膳をもって現れた、その上には飯と野菜とゆでた貝が程よく並べられていた。太陽と海に終日さらされたことは余の胃に簡単な夕食を速やかに平らげる準備をさせたのである。それから余は本当の決戦を待ち構えた、いつ老人がそのしなびた腕に徳利をかかえて現れるかと。
しかしそういう様子はなかった。間もなく寝床は余のために用意された、何の妨害もなしに余は心地よい平和の一夜を過した。余は考えた、余の友人たちは単に余をわどかしたにすぎなかったのである、老人に悪魔的の習慣があるという話は全部まったくそのためにこしらえられたものであると。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫



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論語 №38 [心の小径]

一一〇 子張(しちょう)問いていわく、令尹(れいい)子文(しぶん)、三たび仕えて令尹たれども、喜ぶ色なし。三たびこれを已(い)められて、慍(いきどお)る色なし。旧令尹の政(まつりごと)は必ず以て新令尹に告ぐ。如何。子のたまわく、忠なり。いわく、仁なるか。のたまわく、未だ知らず、いずくんぞ仁を得ん。崔子(さいし)斉(さい)の君を弑(しい)す。陳文子(ちんぶんし)馬十乗あり。棄(す)ててこれを違(さ)る。
他邦に至ればすなわちいわく、なおわが大夫(たいふ)崔子のごときなりと。これを違(さ)る。一邦にゆけばすなわち又いわく、なおわが大夫崔子のごときなりと。これを違る。何如。子のたまわく、清(せい)なり。いわく、仁なるか。のたまわく、未だ知らず、いずくんぞ仁を得ん。

                  法学者  穂積重遠

 「令尹」は楚の国務大臣。「子文」姓は闘、名は穀於菟(どうおと)、子文は字(あざな)。「崔子」は邦の斉の太夫、名は杼(ちょ)。「陳文子」も斉の大夫、名は須無(すうむ)。「馬十乗」車一台に馬四頭だから、馬四十頭。当時は馬の数が富の一標準だった。

 子張が「楚の子文は、三度令尹に任ぜられましたが喜ぶ様子もなく、三度免職されたが不平の色もなく、やめる時には新令尹に詳細の事務引き継ぎをしました。その行いはいかがですか。」とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「忠実なことじゃ。」「仁ではありませんか。」「サア、どうか知らんが、それだけでは仁とはいえまい。」「今一つ伺いますが、崔子が斉の荘公(そうこう)を倒したときに、陳文子は、馬の四十頭もあるような富を捨てて国を去りました。そして他の国へ行きましたが、『ここにもわが大夫崔子のごとき悪人がいる』と言って、そこを去りました。また他の国へ行きましたが、そこでも 『なおわが大夫山崔子のごときなり』と言って立ち去りました。これはいかがですか。」「清廉潔白(せいれんけっぱく)なことじゃ。」「仁ではありませんか。」「サア、どうか知らんが、それだけでは仁とはいえまい。」

 孔子様の仁の採点は相変らずからい。
 子文の「清」は日本の武士道にはかなわない。豊前中津の儒者屋梁田(やなだ)正紀は『論語』中からこの章を削除したという。

一一一 季文子(きぶんし)三たび思いて後行う。子これを聞きてのたまわく、再びせばここに可なり。

 「季文子」は魯の大夫季行父のおくり名。

 李文子は三度考えてから行った。孔子様がおっしゃるよう、「二度でよかろう。」

 孔子様はいつも人によって道を説かれる。季文子は優柔不断なのでこう言われたのであろう。「三たび」「ふたたび」というのも、必ずしも度数の問題ではない。

一一二 子のたまわく、甯武子(ねいぶし)、邦(くに)道あればすなわち知、邦道なければすなわち愚(ぐ)、その知や及ぶべし、その愚や及ぶペからず。

 「甯武子」は衛(えい)の大夫、名は兪(ゆ)、。「その愚や及ぶべからず」は、ここではほめ言葉だが、俗用には転じて「ばかさ加減がお話にならぬ」という意味に使う。「はしがき」にはその用い方をした。

 孔子様がおっしゃるよう、「甯武子は、国が納まっているときは表に立って腕をふるい、あっぱれ知恵者だといわれるが、国が乱れると蔭にまわって損な役回りを買い、利害を知らぬばか者のように見える。その知恵者たるところはまねができるが、そのばか者たるところは及びもつかない。

 ここで「愚」というのは、作りあほうをして一身の安きをはかるという意味ではない。
古註(こちゅう)にいわく、「成公道なく国を失うに至りて、武子その間に周旋し、心を尽し力を竭(つく)し、艱険(かんけん)を避けず、およそその処るところ、皆知巧の士の深く避けて肯(あ)えて為(な)さざるものなり。しかも能(よ)く卒(つい)にその身を保ちて以てその君を済(すく)う。これ愚の及ぶべからざるなり。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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文化的資源としての仏教 №15 [心の小径]

文化的資源としての仏教15                

          立川市・光西寺住職 寿台順誠

                            縁起と因縁⑴――はじめに

前回まで「四苦八苦」について記してきたが、その最後に私は、今回からは仏教の論理構造(思考方法)の問題をさらに深める意味で「縁起・因縁」という言葉について考える、ということを予告しておいた。そこで今回はまず、言葉のごく一般的な意味を確認しておきたい。以下、『大辞林 第三版』(2006年)の「縁起」と「因縁」の項目を写すことにする。

【縁起】
①物事の吉凶の前兆。きざし。前ぶれ。「――がよい」
②社寺の起源・由来や霊験などの言い伝え。また、それを記した文献。「石山寺――」
③事物の起源や由来。
④〘仏〙因縁によってあらゆるものが生ずること。

【因縁】
〔「いんえん」の連声。基本的な原因すなわち「因」と、それを助成する機縁すなわち「縁」〕
①〘仏〙事物を生ぜしめる内的原因である因と外的原因である縁。事物・現象を生滅させる諸原因。また、そのように事物・現象が生滅すること。縁起。
②前世から決まっていたとして、そのまま認めざるを得ないこと。宿命。「これも何かの――だ」
③前々からの関係。縁。「浅からぬ――」
④由来。来歴。いわれ。「――を語る」「いわれ――」
⑤言いがかり。

『広辞苑 第六版』(2008年)の説明も以上とほとんど違いはなく、特に【縁起】の方はただ①~④の順序が違っているだけであるが、【因縁】については、『広辞苑』では以上の①と②が一緒にされて「宿命」(運命)という意味が「仏教用語」に含められてしまっている。しかし、厳密に言えば、仏教的には「因縁」は運命論ではないので、これら(①仏教本来の意味と②運命論的な意味)はやはり以上のように分けておいた方がよいであろう。また、⑤の「言いがかり」という意味が『広辞苑』には独立したものとしては載せられておらず、単に「因縁をつける」という語法があることが付記されているだけである。従って、全体として『広辞苑』よりも『大辞林』の説明の方が正確だと思うので、後者を上に写したしだいである。
さて、以上の【縁起】の④と【因縁】の①に示されているように、仏教用語として考える場合には、この二つの言葉はまったく同義のものなので、敢えて分ける意味はない(そもそも「縁起」というのは「因縁生起」の略にすぎない)。どちらも因果に関する仏教の根本思想を表す言葉であり、その最も代表的な教説として「十二因縁」があるが、これを「十二縁起」と言い換えても意味はまったく違わない。十二因縁(縁起)とは、「無明(無知)→行(潜在的形成力)→識(識別作用)→名色(名称と形態)→六処(六入・六つの領域、眼耳鼻舌身意の6感官)→触(接触)→受(感受作用)→愛(渇愛、妄執)→取(執着)→有(生存)→生(生まれること)→老死(老い死にゆくこと)」という十二の項目の因果関係によって、人の苦悩のありようを示すものである。すなわち、何ゆえに「老死」の苦があるのかというとそれは「生」があるからであり、それならば「生」の因はなんであるかというと「有」であり………結局、苦の最も根本的な原因は「無明」によるものである、従って「無明」が消滅すれば「行」も消滅し………結局、「老死」の苦も消滅する、という因果関係を表しているのである。この縁起説が一体何を意味しているのか自体が、昔から仏教学では大きな論争になってきた極めて重要な課題であるが、今その論争には立ち入らないことにする(このエッセイではもっとずっと後で触れることになるとは思うが)。
が、とにかく仏教用語としてだけ考えるならば、「縁起」と「因縁」を区別する意味はないのであるが、しかし元々は仏教に由来する言葉が、日常生活ではどのように使われているのかを考えるこのエッセイでは、この二つの言葉があながち同一の意味を示すわけではない場合があることに着目して、以下の話を進めたい。例えば、「縁起が良い・悪い」とは言うが(上記【縁起】の①の意味)、「因縁が良い・悪い」とは言わないし、「因縁をつける」とは言うが(上記【因縁】の⑤の意味)、「縁起をつける」とは言わない。「縁起が良い・悪い」も「因縁をつける」も、仏教の因果論がどこかで捻じ曲げられて使われることによって登場した語法ではないかと推測されるが、具体的にはどのようなプロセスを経てこのような言葉使いが派生したのか、ということが気になる。いま私はこの問題を解く手がかりを持ち合わせていないが、このエッセイでは可能な限りこのプロセスを明らかにした上で、改めてこれらの派生した言葉が、仏教本来の因果論としての縁起説とどのように関係しているのかを考えてみたいのである。
ただこうして「縁起と因縁」についての話を始めたばかりで、このようなお断りをするのはいささか心苦しいが、以上のような派生語のルーツを突きとめることは容易なことではないだろう。もしかしたら、そのようなことはそもそも不可能なことかもしれない。従って、今回はこの予告だけにとどめておきたい。それで、この問題に何らかの目処が立つまで、しばらくの間(場合によっては、数か月間になるかもしれないが)このエッセイを休ませていただきたい。が、そうは言っても、この休止状態を永遠に先送りするつもりはないので、ある程度のところで見切りをつけて、仮に以上の語法のルーツを辿ることが不可能だと考えるに至ったならば、話を別の形で展開するなどのことを考えることにしたい。が、とにかくその点を見極めるために、しばらく猶予をいただければと思うしだいである。…(つづく)

なお、上に縁起(因縁)は仏教の因果論だと記したが、実は「因果」という言葉自体が仏教由来の言葉である。そこで参考までに、【因果】についても以下に『大辞林』の説明を写しておきたい。
【因果】
❶(名)
①原因と結果。「――関係」
②〘仏〙㋐今ある事物が以前の何らかの事物の結果であり、また将来の何らかの事物の原因であること。 ㋑自分のなしたよい行為や悪い行為に応じて、それに相当するよい報いや悪い報いがあること。 ㋒現在の不幸は、前世での悪業によっているということ。「これも――とあきらめる」
❷(形動)文ナリ 不運な巡り合わせであるさま。いやな運命にあるさま。「――な生まれつき」「――なやつだ」


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №26 [心の小径]

 第五章 世の中へ ― 感傷的基督教 1

                       内村鑑三

 五月十二日 大会終ル。驚クべキ効果アリキ。教会ハ復興シ、良心ハ試ミラレ、愛ト一
 致ハ著シク強メラル。ソノ一般的性格、甚ダ「ペンテコステ」的ナリキ。

 全くのところ、集会は我々一同に有益であった。熱心は高潮に達し第二次会がさらに一週間続いたほどであった。余にはその光景は生れてかって見たことのなかったものであった。いわゆ『リバイバル』が首府の諸教会に始まったのである、そしてすこしく精神生理学を教えられた余にはその運動はやや病的に見えた。カーペンターはその精神生理学において、猫の啼きまねをする癖がついた在院者の一人の修道女のまねをして、一修道院全体が猫の啼きまねをするようになったという例を、我々に語っている。リバイバル現象のうち少なくともその多数は、交感神経の異常作用として説明され得たのである。しかしその運動が最高の教会権威者と聖職紳士諸君とによって鼓舞(こぶ)され支持されたとき、余は自分の懐疑(かいぎ)を押えつけ自分自身をそのときの支配的感情に左右せられるにまかせた。自分ではけっして説明することはできないがしかしそのために真実さを減じないものの、その神秘な感化によって、彼らの霊魂に臨(のぞ)んだ歓喜 ― 眼がかつて見たものまた耳がかつて開いたものを凌駕(りょうが)していると彼らが語った歓喜 -そういう歓喜について話す多くの人々を余が見また聞いたとき、余の科学は同様の歓喜を自分自身もちたいという余の願望によって逐いやられた。この言うべからざる霊の賜物をどうして獲得するかを熱烈な一メソヂスト説教者によって教えられたので、余は余の心的幻想の焦点を余の『偽(いつわ)る心』の上に定め、一方、ハクスレイ、カーペンター、ゲーゲンバウルに対しては、地獄から起った幻想に対するように余の眼を閉じて、ひたすら熱心にその事業に専念した。しかし、ああ!『なんじの罪なんじに赦(ゆる)されたり』との喜ばしい声は、余の肉体的心的霊的いずれの鼓膜によってもとらえられるにいたらなかった。呻(うめ)きかつ胸を打つこと連続三日の後に、余は旧態依然たる同じ堕落の子であった。余には、希望と歓喜に満つる天の恩寵の特別の対象として基督信徒の仲間の前に余自身を示すというはなはだ羨(うらや)むべき特権は、拒否されたのである。余の失望はじつにいたましかった。余は『リバイバル』をその起源が心理電気的現象phenomena psychoelectical)である催眠術の一種として説明し去るべきか、あるいは余の堕落の深さがそれに対する余の非感受性の真の原因であるのか。しかり、世界はただの一日や一週では創造されなかった、そしていまだに余はメソヂストの友人によって指示された過警りさらに『自然な』過程を経て再創造されることを希望してさしつかえない。
 日ごとにまた週ごという信者の間に友人知人の増加するにつれて、余の宗教は急速に感傷主義(センチメンタリズム)に傾いていった。宗教的談話の御馳走にあずかることはしばしば度をすごした、そして周囲の暗黒の支配を征服するという厳粛な責任についてよりも我々は基督信徒の茶話会と晩餐会についてより多く考えた。田舎の教会から出て来たばかりで子供らしい無邪気とッ軽信をもって余は首府基督教のトルコ風呂社会に飛び込み、少女の唄う讃美歌と誰の感情をも害しない説教とによってなだめられなでられたのである。神の国は完全な休息、善意の不断の自由な交換がある国であると想像され、そこでは茶話会と求愛とが自由交際自由恋愛の宗教の承認をえて耽溺(たんでき)されえた。宣教師は教会経費の未払金すべてを支払うであろう、そして彼らもまた我らの周囲にある仏教その他の厭(いと)うべき迷信と戦いぬくであろう。しかし我々は、もはや木石に頭を下げない親愛なる兄弟たち、新しい信仰によって与えられた婦人の権利をもつ愛らしい姉妹たちは、― いざ茶話会と教会親睦会に行き、そこで『結ぶ絆はさいわいなるかな』を歌い、祈り、泣き、夢み、喜ぼうではないか。迫っばらえ、男女七歳にして席を同じうすることを禁ずるあの儒教的迷信、女性からその高貿な性をはなはだ低める慎しみと服従とを要求するあの仏教的ナンセンス(たわごと)を。愛は相互の問題である、そして天それ自身もこのあまねく浸透している聖なる力に促(うなが)された若々しい心の交わりに干渉することはできない!
 おお、基督教的自由よ、なんじ、浸水したライデンの城塞で暗澹たる飢餓ととスペイン人の剣戟(けんげき)に抵抗し、スイスフィールドの薪束(まきたば)に軽蔑を示し、バンカー・ヒルの頂上に血を流したものよ、いかにしばしばなんじは滅亡から生れたサイレンたちに、ジュピター多情な子に、なんじの名を貸し与えたことよ! おお、なんじの名は、なんじが律法より高く彼らを挙げる前に、シナイにまず導かれてそこで律法の尊厳を学ぼうとしない人々には、用心ぶかく隠しておかれるように。なんじの喜びの音ずれは、拘束から逃れようとむなしく努力しつつある人々のためのものではなく、律法に合致しようと苦心努力しているときに、なんじに助けられて律法を自分の意志となさしめられる、あの選ばれた神の子らのためのものであった、と我々は信ずる。しかし幾何級数をなす回心者の数的増加が翌日の使者たちによって目論まれている時(全く許すべからざる人間性の弱点ではないけれども)、この厳格な自由の観念ははなはだはっきり異教徒の前に置かれてはならない。それゆえこのようにして新たに加えられた回心者のうちには多かれ少なかれ実際道徳の弛緩(しかん)があり、霊の自由についての快楽義的観念が彼らの間に生れた。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №37 [心の小径]

一〇六 子貢(しこう)問いていわく、孔文子(こうぶんし)何を以てこれを文と謂(い)うや。子のたまわく、敏(びん)にして学を好み、下問(かもん)を恥じず。是を以てこれを文と謂う。

                  法学者  穂積重遠

 「孔文子」は衛(えい)の太夫(たいふ)孔圉(こうぎょ)のおくり名。

 子貢が「孔文子はどうして文をおくり名されたのでありますか。」とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「利口な人は勉強せず、また位高く年寄った人は目下の人に物をきくのを好まぬものだが、あの人は敏にして学を好み、下問を恥じなかったので、孔文子のおくり名がついたのじゃ。」 

一〇七 子(し)、子産(しさん)を謂う。君子の道四つあり。その己を行うや恭(きょう)、その上(かみ)に事(つか)うるや敬、その民を養うや恵、その民を使うや義。

 「子産」は衝の太夫公孫僑(きょう)の字(あざな)。春秋時代の名臣。ここの「君子」は上に立つ人。

 孔子様が子産を評しておっしゃるよう、「行儀よくその身をたもち、敬って君に事(つか)え、恵み深く人民を育て、道理正しい人の使い方をするという、人の上に立つ君子たる道を四つまで備えた人であった。」

一〇八 子のたまわく、晏平仲(あんぺいちゅう)善(よ)く人と交(まじ)わる。久しくしてこれを敬す。

 「晏平仲」は斉(せい)の太夫。名は嬰(えい)。「人これを敬す」となっている本もある。それだと、人が晏平仲を敬する、ということになるが、前記の方がおもしろい。

 孔子様がおっしゃるよう、「晏平仲は人と交際する道を心得ていた。交際が久しくなると、狎(な)れすぎて敬意が薄らぐものだが、彼にはその心安立(こころやすだ)ての失礼がなかった。

 晏平仲については、「晏子(あんし)の御者(ぎょしゃ)」ということわざまで出来ている有名な物語があって、その人柄がわかる故、『史記列伝』の本文を書き下しにしておこう。

「斉の相(しょう)晏子出でて行く。その御の妻(さい)門間より窺(うかが)うに、その夫(ふふ)、大蓋(たいがい)を擁(よう)し、駟馬(しば)に策(むちう)ち、意気揚々として自得せり。既にして御者家に帰る。妻去らんことを請(こ)いていわく、晏子長(たけ)六尺に満たず。身斉国(せいこく)に相として名諸侯に顕わる。妾(しょう)その志を観るに、常に以て自ら下るものあり。今子は長八尺、すなわち人の僕御となり、自ら以て足れりと為す。妾これを以て去らんことを求むるなりと。その後ち御者自ら抑損(よくそん)す。晏子恠(あやし)みてこれを問う。御者実を以て答う。晏子薦(すす)めて以て大夫と為す。」

一〇九 子のたまわく、藏文仲(ぞうぶんちゅう)、蔡(さい)を居(お)くに、節(せつ)に山(やま)し、梲(えつ)に藻(そう)す。何如(いかん)ぞそれ知(ち)ならん。

 「藏文仲」は魯(ろ)の太夫、孫辰(そんしん)。当時知者といわれた。「蔡」は亀ト(きぼく)、国に大事あるとき焼いてその甲の割れ方により吉凶をうらなう。「節」は柱の頭の枡形。「梲」は梁の上の小柱。

 孔子様がおっしゃるよう、「藏文仲は、諸侯でなくてはもてない亀トを所有し、しかもそれを置く室の柱の頭に山の形をきざみ、梁の上の小柱に藻(も)の模様をかくというような、天子の宗廟(そうびょう)まがいの装飾を施した。さような古礼も知らず非礼僭上(せんじょう)をあえて する者が、何で知者であろうぞ。」

『新訳論語』 講談社学術文庫

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文化的資源としての仏教 №14 [心の小径]

文化的資源としての仏教                

             立川市・光西寺住職 寿台順誠

                           四苦八苦⑺――おわりに

「四苦八苦」の抱える問題については、初回に「生・老・病・死+愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦」という「四苦乃至八苦」でもって人間の苦をすべてカバーできているのか、という問いを提起した。が、二回目に、その論理構造(「老苦・病苦・死苦………⇒生苦」「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦………⇒五蘊盛苦」)から考えて、「………」の部分に他の具体的な苦を列挙し、例えば「五苦十苦」とか「六苦十二苦」とかと、むやみやたらに苦のカタログを増やせばよいものでもないとした上で、重要なのは「老・病・死」等以外に「生苦」「五蘊盛苦」という究極的な苦への経路になり得るような苦があるとすれば、それは何なのかという問題であるとして、それについては最終回に改めて考えるということにしておいた。以下、この問題について考えてみたい。

「老・病・死」等以外に、人間にとってどのような根本的な苦があるのかを考える際、まず参考になるものとして、「貧・病・争」が挙げられるであろう。これは、幕末・維新から戦前・戦後にかけての近代化の過程において興ってきた新宗教(新興宗教)が、これらと取り組むことによって勢力を拡張してきたと言われる諸問題のカタログである。伝統的な仏教の「老・病・死」にも新宗教の「貧・病・争」にも「病」が入っているが、後者は前者よりも社会的な問題として挙げられているという性格が強いであろう。また、伝統的な仏教では「老・病・死」は人間の力では解決(解消)し得ない根本苦として提示されているが、新宗教が「貧・病・争」の問題と取り組むという場合には、貧困・病気や争いごとを現実的に解決(解消)するという現世利益の性格が強いと言ってよいであろう。このことから、伝統仏教に属してきた者として言えば、仏教には苦の問題を社会や政治の問題として認識して、現実的に解決しようとする姿勢が弱かった、そしてそのように伝統仏教教団は社会的・政治的な問題を扱うことが苦手だったので、新宗教に信者を奪われることになってしまった、ということが反省させられる。が、反面、苦の問題をすべて現実的に解決しようとする(また解決できるとする)ならば、結局それはもっぱら政治運動・社会運動に委ねられていくことになる(むしろその方がよい)ということになって、宗教的な面が弱くなってしまうと思われるが、宗教的な問題をすべて政治・社会の問題に還元すればよいというものでもないであろう。その点では、新宗教のもつ宗教性が問われるのではないかと思うのである。
そこでさらに、「老・病・死」等以外の根本的な苦が何かあるかと考えると、ホスピスが取り組んできた「スピリチュアル・ペイン(spiritual pain)」が挙げられるであろう。宗教の世界でも、1970年代後半以降、それまでの新興宗教とは異なる新しいタイプの新宗教が登場してきており、それを「新新宗教」という用語を使って区別する研究者もいるが、そうした新新宗教においては、新興宗教が取り組んだ「貧・病・争」の現実的諸問題よりも、豊かになった現在の時代社会の中での意味や生きがいの喪失といったことの方が強調されるようになっているとも言われる。そして、新新宗教の大きな特徴として「スピリチュアリズム(霊性)」が挙げられている。
話を「スピリチュアル・ペイン」に戻すと、これは、ホスピス運動の創始者であるイギリスの医師シシリー・ソンダース(1918年~2005年)が提唱した、末期癌など重篤で回復が困難な患者の全人的な痛み(total pain)の緩和に関わるものである。緩和ケアでは患者の苦痛は、身体的な苦痛(physical pain)、社会的な苦悩(social pain)、メンタルな痛み(mental pain=不安・いらだちや孤独感など)とスピリチュアル・ペイン(人生の意味の喪失・死の恐怖など)の四つの側面から全人的に捉えられなければならないと言われている。「スピリチュアル」という言葉は、「精神的」とか「霊的」とかと訳すことができるものであるが(私自身は「精神的」とするのが最もよいと思っているが)、「メンタル(な痛み)」の方も「精神的」と訳されることが多いので(私自身は「メンタル」を「心理的」と訳して「スピリチュアル=精神的」と区別した方がよいとは思っているが)、「精神的」だとmentalとspiritualの区別ができなくなってしまうし、また「霊的」とするといろいろ(実体化された「霊魂」「幽霊」等と)意味の取り違えが起こるので、現在ではこのようにカタカナ英語のまま使用されることが多くなっている言葉である。が、いずれにせよ、こうした「スピリチュアル・ペイン」を含む「全人的な痛み」もまた、現代の仏教がどのように取り組むべき苦のカタログに加えられるべきものであろう。

以上、「老・病・死」等以外にどのような根本苦と言えるものがあるかを考えてみた。「貧・病・争」も、「スピリチュアル・ペインをはじめとする全人的な痛み」も、現代の仏教が取り組むべき苦のカタログに加えるべきものであろう。しかし、それもやはり伝統的に「四苦八苦」の論理構造の中に位置づけて考えるべきものであろう。例えば、「老苦・病苦・死苦・貧苦・争苦………⇒生苦」といった具合に、である。この思考枠組の中に新たな苦のカタログを位置づけていくというところに、「四苦八苦」を「文化的資源」として活用する道があると思うからである。
今回で「四苦八苦」の話を終えるが、次回からはその論理構造(思考方法)の問題をさらに深める意味で、「縁起・因縁」という言葉について考えることにしたい。(なお、私が住職を務めている光西寺のホームページhttp://www.kousaiji.com/ もお知らせしておきたいと思います。お寺を学びの場とすべく様々な催しをしておりますので、関心のある方はどうぞお気軽にお越し下さい。)

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №25 [心の小径]

 第五章 世の中へ ― 感傷的基督教 1

                       内村鑑三

 『それゆえ、見よ、わたしは彼女をいざなって、荒野に導いて行き、ねんごろに彼女に語ろう。その所でわたしは彼女にそのぶどう畑を与え、アコルの谷を望みの門として与える。その所で彼女は若かった日のように、エジプトの国からのぼって来た時のように、答えるであろう。主は言われる、その日には、あなたはわたしを「わが夫」と呼び、もはや「わがバアル」とは呼ばない。』-ホセア二の十四、十五、十六。
 そのように余の夫である主は、余をその平和な母教会から逐いやりたもうた時に、御自身に語りたもうたに相違ない。彼は真空を余の心の中に創造してこのことを為したもうたのである。自分の家庭に自分の一切を所有する者はなんぴとも荒野へは行かない。自然は真空を忌む、そして人間の心は宇宙にある他のいかなるものにもまさりそれを忌むのである。余は宗教事業の活動も科学的実験の成功も満たすことができない空虚な場所を自分のうちに見出した。その空虚の正確な性質が何であるかは、余は識別することはできなかった。おそらく、余の健康は衰えつつあり、そして余は休息とより安易な仕事を慕っていたのであろう。あるいは、余は急速に生長して成年期に入りつつあったので、伴侶をもとめる自然のあの抵抗しがたい要求が余をしてかくも憔悴と空虚とを感ぜしめたのかもしれない。いずれにせよ、真空は存在していた、そしてそれは何ものかをもって如何にかして満されなければならぬ。余はこの空漠たる宇宙に余をして幸福と満足を感ぜしめることのできる何ものかが存在していると考えた、しかしその何ものかが何であるかは余にはまったくわからなかった。生理学者のナイフによって大脳を取去られた鳩のように、何処へであるか、また何故であるかを知らずに、ただじっとしていられないがゆえに、余は出発した。この時から、余の全精力はこの真空をみたすというこの一つの仕事に投入せられたのである。

 一八八三年四月十二日 意気消沈、元気ナシ。
 四月甘言 我ガ過去ノ罪ヲ深ク悔ユ、而(しか)して自己ノ努カニ依リテ自己ヲ救フニハ余ノ全然無能力ナルヲ感ジクリ。

 癒しがいつか将来きたるために、天使が時々降りて来て余の霊魂のよどんだ池永をかき乱しつつあった争うべからざるしるしである。

  五月八日 第三回基督信徒大会、午前九時、新栄通長老教会ニテ開会。余ハS教会ヲ代表セリ。祈祷ト議事、午前ニアリ。全国信仰状態ノ報告、午後ニアリ。信徒ハ総数五千ヲ教フ。午後六時閉会。

 この年は基督教が初めて我国に伝えられでから的二十年後であった。信徒は全人口四千万のうち五千をかぞえた―じつに小さな群であった、しかし四半世紀以内に(!)彼らの周囲にある無知と迷信の塊り全部を発酵させようという聖なる野心に燃えていたのである。この楽観的な希望はT氏というきわめて楽天的なタイプの年長の一兄弟の行った計算が基礎になっていた、たとえ五千の基督信徒のおのおのが一年に僅かただ一人の霊魂をキリストに導くにすぎないほど怠慢であるとしでも、会衆はその短い期間内に全国において生きた霊魂の数を幾層倍に膨脹せしめるはずであるというのである。なるほど新しい回心者数の増加はその三、四年間は二五から三三パーセントであった、そして我々の間の最も冷静な頭脳といえども来るべき四半世紀間の平均増加率が二五パーセントであることを疑わなかったのである。しかしながらいまこの記念すべき会合から十年後に筆をとっていて、余は歴史が我々の期待し或は予言したものとは全く別のものとなったことを読者諸君に告げる悲しい仕事をもっている。全国にはいま三五、〇〇〇の基督信徒があるという、しかも年々の増加率は急速に減少しつつある。しかり、一国民は一日では回心することはできない! さもあらばあれである! 我々の目的は量的であるとともに質的でもある。生れて初めて嬰児(えいじ)の生長するのを見た人は、それは一週間に一ポンド増したのであるから、それゆえ齢(とし)が三十になるころには大型の象とおなじ大ききになるはずであると考えたのである。我々自身の怠惰も神御自身の知恵も、信徒の数値をつねに比較的低い数字にとどめておいたのである。
 将来は何であるにせよ、我々の夢はその日には栄光をもって燦然(さんぜん)としていた。異口同書に一致したことは、まごうかたなきペンチコステが十八位紀間以上人間の経験であることを止めていた後に始まったということである。そしてそういうことが本当に事実であったというあらゆる徴(しるし)があった。第一、罪に対するはなはだしい苦悶があった。すべての者が泣いた、そしてかような場合に泣くことができない者は木石漢(ぼくせきかん)と考えられた。奇蹟的の回心が幾つか伝えられた。宣教師学校の一団の子供が非常な霊の力を与えられ、街上にてかわいそうな仏教巡礼者をつかまえ、ともに祈り、ともに議論し、袈裟を脱がせ、彼にイエスを自分の救趣主として告白することを余儀なくさせたという。どもりで仲間に有名であった一青年は、その束縛が除かれ、使徒ペテロの熱火と自由そのままに説教したという。そのうえに、我々のなかに一人の朝鮮人がいた、あの隠遁(いんとん)国民の高貴の生れの代表者であった! 彼はこの時から一週間前に洗礼を受けた、そして自国の服装をいかにもいかめしくまとって我々と座をともにしていた。彼もまた自国語をもって祈った、その最後のアーメンをのぞいては我々には解らなかった、しかし力強くあった、彼の存在と不可解さとがなおさらその光景をベンテコステ的にさせたからである。それを完全にそうならせるにはただ物質的な焙の舌さえあればよかったのである、しかしこれを我々は自分自身の想像をもって補った。我々一同は何か奇蹟的なすばらしいことが我々の上に臨みつつあるのを感じた。我々は太陽がなおも頭上に輝いているかどうかを疑いさえしたのである。



『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №36 [心の小径]

一〇二 子のたまわく、われ未だ剛者を見ず。或(ある)ひと対(こた)えていわく、申棖(しんとう)。子のたまわく、棖(とう)や慾(よう)、いずくんぞ剛を得ん。

                  法学者  穂積重遠

「申棖」は門人かどうか正確でないが、孔子様が遠慮なくこきおろしておられるところをみると、門人らしい。

 孔子様が「わしはまだ剛者というべき人物を見たことがない。」と言われたので、ある人が「申棖」と指名した。孔子様がおっしゃるよう、「棖のような慾張りがどうして剛であり得ようぞ。」

 剛者などはいくらもいそうなものだ、とその人は思って申棖を持ち出したのだ。しかし孔子様の剛は、気が強いの押しが強いのというのではなく、私情によって正義をまげない道徳的の剛なのだから、慾心があっては剛者たり得ないのだ。西郷南洲が、命もいちぬ名もいらぬ金もいらぬという男ほどやっかいな相手はないが、そういう男でなくては共に天下国家を論じ得ない、と言ったとのことだが、それが正に孔子様のいわゆる剛者なのだから、そこらあたりにはメツタにいそうもない。

一〇三 子貢いわく、われ人のこれをわれに加うるを欲せざるや、われ亦これを人に加うるなからんを欲す。子のたまわく、賜(し)や、なんじが及ぶ所にあらざるなり。

 子貢が「私は、人が自分に対してしてしてくれては困ると思うことを、自分もまた人に対してしたくないと考えています。」と言った。孔子様がおっしゃるよう、「それはけっこうだが、なかなかむずかしいことで、まだまだお前などの及ぶところでないぞ。」

 これはすなわち「己(おのれ)の欲せざる所人に施(ほどこ)すなかれ。」で、孔子様は別の機会にその言葉を子貢に授けられた。要するにこの点がむしろ子貢の欠点だったのであろうし、それ故にこそ子貴自身もそれを心がけているのだ。
 門人の中でも子路と子貢とには特別の親しみを持っておられたようだ。それで孔子様も心安(こころやす)だてにズケズケと物を言われる。

一〇四 子貢いわく、夫子(ふうし)の文章は得て聞くペし。夫子の性と天道とを言うは、得て聞くべからざるなり。

 「文章」はその人の徳が容貌言語にあらわれた所、「天道」は人が天から受けた徳性、「天道」はすなわち「天命」で、人の徳性の本体である。逆にいえば、天に在って末だ人に与えられないときは「天道」といい、それが人の心にそなわってまだ事に応じて動かないのを「性」といい、それが具体的にその人の言行にあらわれたのが「文章」なのだ。

 子頁が言うよう、「先生の御徳は一言一行の上で常に拝聴拝見し得たが、先生の人性論と天道論とはなかなかうかがえないところであった。そのご講義を今日承って、欣喜(きんき)感激の極(きわみ)だ。」
 今の若い人たちが『論語』を読んでおそらく感ずるであろうごとく、孔子様の教学があまりにも実践的であり、具体的であるために、子頁は夫子の言行に啓発されながらも、多少「哲学がない」というような物足りなさを感じていたのだろう。そこへいよいよ奥義(おうぎ)たる人性論、天道論を聴き待て、夫子の実践道徳に堅剛鶴巌な根本哲理の存することを知り、いわゆる手の舞い足の踏む所を知らなかったのである。/

一〇五 子路聞くことありて未だこれを行う能(あた)わざれば、ただ聞くことあらんを恐る。

 子路は善言を聞けばただちにこれを行わんと欲したので、一つ善言を聞いてまだそれを行い得ないうちにまた一つ善言を聞くであろうことを心配した。

 善を行うに急なる子路の率直勇往(そっちょくゆうおう)を力強く言いあらわした名文だ。孟子に「子路は人これに告ぐるに過ちあるを以てすれば、すなわち喜ぶ。」とあるのと併せて、正直一本気な子路のおもかげが活躍する。

『新薬論語』 講談社選書


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出会い、こぼれ話 №51 [心の小径]

 第50話 白い運動靴

                  教育者  毛涯章平

 終戦直後の、極度に物資が不足していた時に、私は復員し懐かしい新卒校に復職した。秋の運動会が近づいた頃、ある日下宿に帰ると、奥さんが、
「はい、先生」
と言って、真新しい白い運動靴を私の前に差し出された。当時は配給をいくら待っていても、なかなか手に入らない貴重品だったのでびっくりしていると、
「父ちゃんが『うちの先生が運動会に地下足袋じゃあ恥ずかしい』って、手に入れてきたのです。どうぞお使いなすって」
と言われるのだった。
 そういえば、私は運動靴が手に入らないので、黒の編み上げズックを履いていたのだった。しかも全校体操は若手が指導することになっていたので、私も時々指揮台に上がって練習していたのだった。
 たまたま運動場の近くを通りかかったご主人が、
『うちの先生が地下足袋で四季台に上がっている。あれでは恥ずかしい』
と、自分のことのように思われたのである。
 私は、真っ白な運動靴を前にして、胸がつまって言葉も出なかった。
 思えば「うちの先生」「おらが学校」を大事にする気風が、どんなに教育を支えてきてくれたことか、また教育尊重の風潮が教師たちをどれほど励まし力づけてくださったことか、
 涙なくしては語れない事例が思い出されてならないこのごろである。

『章平先生の出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


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文化的資源としての仏教 №13 [心の小径]

 四苦八苦⑹――現代の生苦

         立川市・光西寺住職 寿台順誠

「今の私は、とっても不幸。…それで、なぜこんなに苦しくなってしまったのかと考えて、これが悪かった、否、あれが悪かった………と辿っていくと、結局、私が生まれてきたことが悪かった、と思ってしまうの。」

もう40年以上前の大学一年生の時のこと。私はまだ18歳だったが、夏休みで名古屋に帰省した際の飲み会の席上、高校三年の時に同じクラスだった人で当時浪人していたある女性と、たまたま隣の席になって話し込んで以来、私は「見事」現役合格を果たした者として彼女の受験相談に乗ることになった。そしてその夏休み中、何度も彼女と会うことになった。最初、私は単に受験勉強のハウツーを教えればよいのだと思ってそうしていたのだった。が、彼女は心ここにあらずの状態で虚空を見つめていることが多かった。「どうしたの?」と聞くと、「私、ウツなの」と言うのだった。そして、夏休みも終わる頃、ふと勉強の手を止めて彼女が発したのが、上の言葉である。私はその時、とうてい自分などには答えられない難問を突きつけられた気がして、何の言葉も返せないまま、東京に戻らなければならなくなった。それは、ついぞ味わったことのない、本当に苦い体験だった。
後年、私は仏教を勉強するようになり、「老病死の苦」がなぜあるのかと言うと、それはそもそも「生」によって起こるのだ、といった縁起の教えについての講義を受けるようになると、「あの時、彼女が言っていたのはこういうことだったのではないか」、と思うようになった。だから、私は仏教の教えについて、最初に講義を受けたのは専門の学僧からであったが、それが実際の人生に関係することだと初めて教えてくれたのは彼女だったのだと思っている。私たちが「生老病死の苦」を認識する順序として言えば、既に述べたように「老苦・病苦・死苦………⇒生苦」という順になるが、因果関係の順に従って言えば「生苦→老苦・病苦・死苦」となる。当時の年代から言って彼女の話には「老病死」の問題はまだ出ていなかったけれども、しかしそこには仏教の論理構造(思考方法)が見事に表れていたと思う。

さて、以下では、「現代の老苦・病苦・死苦」が、どのような「現代の生苦」に由来するのかについて考えてみたい。
前回までに私は、「現代の老苦・病苦・死苦」の深刻さが長く引き延ばされたものであるところにある、ということを述べてきた。そこでこのことと「現代の生苦」との関係を考える場合、欧米において起こされてきた「生」と「死」の両極に関する訴訟が参考になると思う。それはwrongful life(不当生命)訴訟・wrongful birth(不当出生)訴訟、そしてwrongful living(不当延命)訴訟と言われるものである。最初の「不当生命」訴訟とは、子が先天性障害を持って出生した場合に、子自身(本人)が、医師の過失がなければ障害を伴う自分の出生は回避できたはずである、と主張して提起する損害賠償請求訴訟であり(訴えられるのは主として医師だが、場合によっては親も訴えの対象になるようである)、次に「不当出生」訴訟とは「不当生命」訴訟と同じ内容の条件下で親が医師を訴える訴訟であるが、これらの訴訟(そしてそこで主張される「生まれてこない権利right not to be born」)は、欧米における出生前診断の普及とともに登場してきたものである(日本では「不当出生」訴訟に当たるものはあるが、「不当生命」訴訟は起こされていない。また、欧米でも「不当出生」訴訟は認められてきたが、「不当生命」訴訟の方は斥けられてきたようである。加藤秀一「「生まれない方が良かった」という思想をめぐって――Wrongful life訴訟と「生命倫理」の臨界――」『社会学評論』55(3), 2004年;八幡英幸「出生の評価と存在の価値――Wrongful life訴訟との関連を中心に――」『先端倫理研究』2, 2007年等参照)。そして最後の「不当延命」訴訟とは、末期には延命治療をしないで欲しいという望みを書面で残しておいたのに、それが無視・誤解されて蘇生・延命させられてしまった人が、それによって生じた損害賠償を求めて起こした訴訟である(この訴え自体は斥けられているようである。Holly Fernandez Lynch, Michele Mathes and Nadia N. Sawicki, Compliance with Advance Directives:Wrongful Living and Tort Law Incentives, The Journal of Legal Medicine, 29, 2008等参照)。
以上のような訴訟によって、「現代の生苦」の根本には優生思想があり、そして結局それが原因となって、健康・長寿という本来であれば喜ぶべきことによって老病死の過程が引き延ばされていることが、その分よけいに「苦」であると感じざるを得ないものになってしまっている、ということが示されているのではないだろうか。「不当生命」「不当出生」訴訟が優生思想に影響されて出てきたものであることには、多言を要しないであろう。障害を負って生まれてきた人が(或いはその人を生んだ親が)その生を「不当・悪(wrongful)」だと思わなければならないこと自体、何と悲しいことであろうか。が、そのようにひたすら「優生」を求めて「劣生」を排除しようとするところに生ずる「現代の生苦」こそが、一生懸命アンチエイジングに取り組んで老いを隠し、ひたすら健康であることを演出して病であることを見せないようにし、そうして長く引き延ばされた死の過程の最期はピンピンコロリと逝けることを夢想して生きなければならない、という「現代の老苦・病苦・死苦」につながっていると思うのである。
「生殖技術を優生学的に利用することは、子どもを親の願うままの存在として親の意識に縛り付け、奴隷化することであり、人間としての自立性を侵すものになってしまう」(小島優子・黒崎剛「「生殖革命」は人間の何を変えるのか」黒崎剛・野村俊明編著『生命倫理の教科書――何が問題なのか――』ミネルヴァ書房、2014年、178頁)、というところに優生思想の問題性はあると言えるだろう。現在、一方では以前よりも人権・民主主義の思想が普及しているにもかかわらず、皮肉なことに早くから(生まれる前からさえ)差別・選別を進め、未来に向かって生きる人の希望を奪う優生思想がはびこる時代になってしまっている。「現代の生苦」の根本はこうした優生思想の支配にあり、それが因となって健康・長寿もまた苦に満ちたものになってしまうという果が生じている――これが「現代の生苦→現代の老病死苦」の因果関係だと言えるであろう。(次回は「四苦八苦」のまとめとしてその問題点を記すことにしたい。)


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №24 [心の小径]

第四章 新教会と平信徒伝道 5

                       内村鑑三

  九月廿三日 日曜日  国祭日。空二一点ノ雲ナシ。午後一時三岡教会二集合シ、共ニ博物場ノ庭二赴(おもむ)ク。歌詠み、茶話会、輪投ゲアリ。一同終日歓ヲ尽セリ。

 この日は我が教会員のための『野外運動日』であった、我々はいつも一年に二回―春と秋とに―これを繰り返した。我々がまだ『異教徒』であったころは、野外園遊会と言えば、不自然に気分を浮き立たせる有毒な飲料と、『鬼ごっこ』と称して『鬼』に名ぎされたものは誰でも『港』から迷い出たものを捉(つか)まえ捉まえられたものは自分が鬼になるという遊びとがあった。しかし新しい宗教は我々の気質を改良してしまった、そして我々は以前と同じだけ野外の空気と無邪気な遊戯を楽しんだけれども、歌詠みとお茶とを『鬼ごっこ』とアルコール飲用とに代用した、そしてかような変化から得た楽しみは、回心しない我らの友人たちが今なお耽(ふけ)っているものにくらべて、はるかにすぐれたものであることを知った。余はすでに読者諸君にいかに我々が冬季に一つの共同の鉄鍋のまわりで心をともに結び合わせたかを語った。『雪ごもり』の時にも、『博物場の庭』でも、我々は合同した教会括動が有効なるためににこう親睦会に期待するところが多かったのである。

 この日と年の終りとの間には記すに足る何事も我々の経験には入って来なかった。余は宗教的世俗的双方の仕事に多忙であった。教会の状態はこの頃までにはかなり落着いていた。我々がこの年の始めに誓ったように、M・E・ミッションに返済せられる金は徐々に入り来りつつあった。必ずしもすべてのものが自分の割り当て分を非常に快く支払ったのではない、しかしそれにもかかわらず彼らは支払ったのである。年の暮近く、ジョンと余は首府にあった、そして、我々はミッションとの我々の勘定を清算すべき金を託されていたのである。

  十二月廿八日 銀行ヨリ金ヲ引キ出シ、牧師S氏二支払へリ。
     S教会ハ独立セリ。
     歓喜、筆舌ニ尽シ難シ!

 二年間の節約と勤勉の結果は教会の負債からの我々の自由であった、そして我々が歓喜と感謝をもって躍るのは当然であった。ここに我々の大憲章(Magna Charta)がある、―
  一、金壱百八拾壱円参拾壱銭也
      首府ニテ一八八二年十二月廿八日
 ヨナタン・X殿ヨリ金壱百八拾壱円参拾壱銭也領収候也 但シー八八二年教会建築補助ノタメS基督信徒へノ貸付金(金六百九拾八円四十銭ノ内M.E.ミッションニ支払ハルベキ残高也                    J.S

 我々は今や何人にも何物をも負わないことを感謝した、二年間無利息で金を使わせてくれた我々に対する援助に感謝の念をわだく以外には。
 我々の教会独立が我々がかつて属していた教派に対する公然の反逆として意図されたと考える人があれば間違いである。それは我々が目指した一つの大目的に達しようとする、すなわち我々自身の能力と資質(神の与えたまいし)の完全な意識に達しようとする、そして己が霊魂の救いのために神の真理を求める他の人々に妨げとなる邪魔物を取り除こうとする、一つの謙遜(けんそん)なこころみであったのである。自分自身に頼ることを知っている者のみが自分が実際にどれだけのことをすることができるかを知っている。依頼の人はこの宇宙にあっていちばん無力な存在である。その会員が不必要な贅沢(ぜいたく)に多額を費やす余裕がある多くの教会が、資金の欠乏を嘆いている。多くの教会はただその会員が自分の『道楽』のいくらか止めることができさえすれば自分の脚で立つことができるのである。独立は自分自身の能力の意識的自覚である。そしてこれは人間的活動の分野における他の多くの可能性の自覚の端緒であると余は信ずる。これが、いかなる種類の独立であれ独立というものを見る、最も深切かつ最も哲学的な見方である。それを、反逆として、あるいは少数の野信心家が無考えの大衆を煽動したものとして、烙印を押すのは寛大なことではない、その特長は『悪をおもわない』ことであるべき基督信徒紳士にありては、特にそうである。

  十二月廿九日 首府滞在ノS教会員、午後一時フランシス方二集ル。共ニ朝草公園(モーニング・グラス・パーク)ノ『梅屋』ニ赴き、夕食ヲ共ニシ、我等ノ教会ノ独立ヲ祝賀セリ。

 これは我々の第一回の『七月四日』であった。フランシス、『クロコダイル』W、『翼竜』Tが我々と一所であったと思う。Tはいつもの蛮的な格好で自分のもとにはこぼれた最初の吸物椀の中身をのみ込んだ。そして後で給仕女に吸物の中には何がはいっていたのかときいた。その中にはいくつか小さな蜆(しじみ)が入っていたという返事をきくや、彼は教会独立があまり嬉しくて椀の中のすべてのものは前方口腔で行われる咀嚼(そしゃく)の過程なしに食堂を通過させたと告白した。その本当のの説明は彼が本当ははなはだ空腹だったことであったと思う。

 余の教会の独立とともに余はそれに別れを告げた。教会はそれ自身の別個の歴史を要する、諸国民福音化の大問題に対するすべての関係においてそれを記述するためである。本文を書きつつある時から四年前、余は余の旧い母教会を訪問した、そして余が最もありがたく満足に思ったことには、余が十三年前に去った時よりそれははるかに盛んな状態にあるのを知ったのである。同じ忠実な牧師、『宣教師坊主』Oは、教会に対する彼の全霊的献身に対し一銭の報酬を受けず、余の卒業した学校で教えて彼の生計をたてているのを知った。会員は約二百五十をかぞえた。彼らは二人の有給伝道者を聘(へい)し、盛んなY・M・C・Aを有し、力強い禁酒同盟を創立しこれを維持していた。一八八五年、我が国におけるすべての教派の基督信徒の間に非常な大括動を見た年の年間において、有力教会のいくつかの頭割りの献金額は次のごとくであった。
   独立邦人教会             七円三十二銭
   組合教会                 二円六十三銭
   長老派および和蘭改革派(ダッチレフオームド) 二円
   メソヂスト教会              一円七十四銭
   英国聖公会                  一円七十四銭
   等々
 この比較は我々の教会の優勢を語って余りがある。彼らは約一千円を要する新教会を建てた、そしてそれはやや余がヴァージニアで見た『黒人教会』のように見えたけれども、余がかつて小使いであり番人であったあの『一軒の半分』にくらべて決定的な改善であった。鍵がみんな揃っている新しいオルガンもあった。彼らは遠からず新しい石造の教会を建てる相談をしていた。それは本当に、言葉の完全な意味で独立であるところの、全国唯一の教会である。ただに財政的にのみならず、教会制度的に神学的に、彼らは彼ら自身の責任において彼らの基督教的事業を続けており、きわめて喜ばしい結果を得ていた。彼らには彼らに独得の組織と原則があった、そして主は彼らの特徴を聖なるものとして保存することを欲したもうと我々は信ずる。彼らに果すべき特別の使命がある、そしてその単純と満足とのうちにある彼らをなんぴとをしても乱さしむることなかれ。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №35 [心の小径]

九九 孟武伯(もうぶはく)、子路(しろ)を問う。仁なるか。子いわく、知らざるなり。又問う。子いわく、由(ゆう)や千乗(せんじょう)の国その賦(ふ)を治めしむペし、その仁を知らざるなり。求(きゅう)や何如。子いわく、求や千室の邑(ゆう)百乗の家これが宰(さい)たらしむペし。その仁を知らざるなり。赤(せき)や何如。子いわく、赤や束帯して朝に立ち、賓客と言わしむペし。その仁を知らざるなり。

                  法学者  穂積重遠

「賦」は元来租税のことだが、それからおしひろめて、兵事・民事をふくめた政治全般をいう。「赤」は門人、姓は公西(こうせい)、字(あざな)は子華(しか)。「千乗」「千室」「百乗」は数の問題ではなく、結局「大諸侯」「大都会」「大家(たいか)」ということ。
「乗」は前に説明した(五)。「室」は「戸」。

 孟武伯が子路のことを「仁者ですか。」とたずねたのに対して、孔子が「存じません。」と答えたので、さらに押し返して質問したところ、孔子が申すよう、「由は大諸侯の国の政治を扱わせ得るだけの腕前がありますが、仁かどうかは存じません。」「それでは求(冉有(ぜんゆう))はどうですか。」「求は大都会の市長や大夫(たいふ)の家の執事がつとまりますが、仁かどうかは存じません。」「赤はどうですか。」「赤は衣冠束帯で朝廷に立ち外国のお客様と応接させることはできますが、仁かどうかは存七ません。」

 この場合にも孔子様はたやすく仁をもって人に許されず、手腕や実績だけでは仁とはいえぬ、ということをほのめかしておられる。安井息軒(やすいそっけん)いわく、「仁の道は至大なり。三子才徳優れたりと雖も、未だ全名に当る能わず。然れども亦不仁者にあらず。故に知らざるを以てこれに答う。」

一〇〇 子、子貢に謂いてのたまわく、なんじと回といずれか愈(まさ)れる。対(こた)えていわく、賜(し)や何ぞ敢えて回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて て二を知る。子のたまわく、如かざるなり。われなんじが如かざるに与(く)みせん。

 「われとなんじと如かざるなり」とよむ人もある。それだと、わしさえも及ばぬ、と言われたことになって、いささかはめ過ぎるようだ。

 孔子様が子貢に、「お前と顔回とどちらがまさると思うか。」と言われると、子貢が「とんでもないこと、私ごときがどうして回と太刀打ちできましょう。回は一を聞いて十を知ります。私は一を聞いて二を知るに過ぎません。」と答えたので、孔子様がおっしゃるよう、「なるほどお前は回に及ばぬ。わしはお前が回に及ばぬと言ったことに賛成しよう。」

 子貢は顔回に及ばぬことを自ら認めつつ、しかし私も一を開いて二を知る程度ではあります、という自信を示し、孔子様は、前にも「往を告げて乗を知る者」とほめたくらいで
、子貢のよく己を知ることを賞し、その顔回につぐ才能を認められたのである。子貢の明敏と孔子の含蓄(がんちく)と、打てば響く師弟談話の様子が目に見えるようだ。

一〇一 宰予(さいよ)晝(ひる)[昼]寝(い)ねたり。子のたまわく、朽(く)ちたる木は雕(え)るべからず。糞(ふん)土の牆(しょう)は杇(ぬ)るべからず。予においてか何ぞ誅(せ)めん。子のたまわく、始めわれの人におけるや、その言(こtば)を聴きてその行いを信ぜり。今われの人におけるや、その言を聴きてその行いを観る。予においてかこれを改む。

「晝[昼]寝」を簡単に「ひるね」と解する人と、「寝」は寝室をいい、昼間から寝室へ引っこんだ、と解する人とある。いずれでも同じようなことだが、簡単な方に従おう。あるいは「晝」は「畫〔画〕」の誤りで、寝室に壁画をかかせたので潜上(せんじょう)だとしかられたのだ、と解する人もあるが、それはあまりに考え過ぎだ。要するに、ひるねにしてはしかられ方がひど過ぎるというのだが、宰予はふだんからえらそうなことを言うので、口ほどにもないとしかられたのだろう。
 途中にも「子のたまわく」があるので、元来二章なのだという人もあるが、ひと続きに読まないとおもしろくない。前段は宰予に対する直接のお小言、後段はいわば孔子様のひとりごとなので、「子のたまわく」をはさんだのだろう。

 宰予がひるねをしたので、孔子様がことごとくご立腹で、「くちた木は彫刻のしようがなく、土塀(どべい)の土台が糞(くそ)まじりの泥では上塗りしてもしかたがない。予(宰予)のような性根のくさった者は小言をいう張り合いもないわい」としかられたが、ややあってまたおっしゃるよう、「わしは今まで人を観るのにその言葉を聴いただけでその行いもそうあろうと信じたものだが、今後はその言葉を聴いただけでなくその行いを観た上で信用することにしよう。予〔幸子〕で失敗したから、方針を変えた。」
                                        
 孔子様には不似合いと思われるほど猛烈にして皮肉なおしかりだ。よほど情状がわるかったとみえる。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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出会い、こぼれ話 №50 [心の小径]

第49話 転校希望
                 教育者  毛涯章平

 ある日の放課後、T君が真剣な顔でやってきた。
「先生。ぼくを鎌田の学校へやっとくれ」
と言うのである。
 どうやら本気で転校希望を申し出したようなので、私も本気で聞いてみた。
「どうして鎌田の学校へ行きたいの?」
 彼はそれに答えて、
「先生が、ぼくばっかり叱るもんで」
 じっに清々とした屈託のない話しぶりに、私は腹が立つどころか、むしろ嬉しかった。
 考えてみれば、この子はひといちばい元気で、いつもじっとしていられないので、私は気が気でなく、毎日のように注意をくりかえし、時にはこっぴどく叱ることもあった。
 それでいつのまにか、
「先生はぼくばっかり叱る」
と思うようになったのだろう。
 そこで私は次のように言ってやった。
「よし。わかった。先生も考えておくから、家に帰ってお父さん、お母さんに相談してごらんよ」
 彼は素直に承知して帰っていった。
 私はT君が帰った後、ご両親には何も連絡しなかった。
 それは、あのご両親なら必ず彼の言うことを軽く受け流して、本人によくわかるように言い聞かせて下さるに違いないと信じたからであった。
 翌朝、彼はいつものように元気にやってきて、
「先生。ぼくこの学校にずっといるでね」
「どうした。鎌田の学校へ行くんじゃなかったの?」
と言うと、彼はにこにこしながら、
「母ちゃんが、卒業まで先生のところに、おいてもらえってさ」
「そうか。じゃあおいてやることにするかl
 私はこう言って、彼の頭を力いっぱいなでてやった。

『章平先生の出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


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文化的資源としての仏教 №12 [心の小径]

文化的資源としての仏教12                

            立川市・光西寺住職 寿台順誠

                            四苦八苦⑸――現代の死苦

今回は「現代の死苦」について考えることにするが、これに関してはまず、世界的に「死の社会学」の第一人者とも言えるイギリスのトニー・ウォルターという社会学者の議論を、少し紹介しておきたい(残念ながら彼の著書は翻訳されていないが、以下の議論についてもっと詳しく知りたい人は、Tony Walter, The Revival of Death, Routledge, 1994, chapter 4, pp.47-65をご覧いただきたい)。

ウォルターは、「伝統(traditional)」社会から「近代(modern)」社会、そして「ネオ近代(neo-modern)」社会へと、人々の死に関する考え方がどのように変わってきたのかをいろいろな側面から明らかにしている。例えば、急性病(感染症)が主たる死因であった伝統社会においては、人は病気になると早く死んでしまい、また他人が死ぬのを周りの人も頻繁に見ていたわけであるが、癌(成人病)が主な死因となってきた近代社会になると、人が死にゆく様は日常からは見えない所に隠されるようになり、従って他人が死にゆくところはめったに見なくなった。ところが、近代において死がそのようにタブー化されていたことへの批判が高まり、生活習慣病としての癌の治療技術も進歩してきたネオ近代(つまり現代)では、死にゆく過程(dying process)が引き延ばされ、人が死にゆく姿は公開される(現在ではインターネットなどを通じて本人が自ら公表する)ようにさえなっている。

ここでウォルターが「ネオ近代」と言っているのは、社会学において他に(アンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベックによって)「後期近代(late modernity)」「第二の近代」「ハイ・モダニティ(high modernity)」等と表現されているものと同じ意味のもので、「近代の個人主義」と言っても従来は何でも個人が選択できるわけではなかったところ、近代性がさらに進んだ現代(ネオ近代)では、例えば出生前診断・遺伝子操作のような生に関わる問題や死に方・死後の葬られ方のような問題まで、むしろ個々人の自己責任で決定しなければならなくなった、という時代社会のあり方を言い表すものである。とにかく、前々回に確認した高齢化や前回述べた疾病構造の変化と相まって、現代においては人が死にゆく過程が非常に長引くようになっており、その中で死にゆく本人にあらゆる選択が迫られることになった、というところに「現代の死苦」があると言えるであろう。


以上、ウォルターの議論を用いて現代における死苦を確認したが、この「近代」から「ネオ近代」への移行をさらに具体的に示す意味で、以下、二つの関連する映画に触れてみたい。

一つは有名な黒澤明監督の『生きる』(1952年)である。毎日、書類の山に判子を押すだけの無気力なお役所仕事をしていた主人公(市役所の市民課長)が、自分が癌で余命いくばくもないことを知ったことから自分が生きていることの意味を考えざるを得なくなり、苦闘の果てに市民のための公園を作って死んでゆくという作品であるが、当時まだ癌告知(インフォームド・コンセントなど)は一般化していなかったし(映画では主人公は偶然自分の病気を知ってしまうというストーリーになっている)、ひとこと「癌」と言うだけで即「死」に直結すると考えられていた時代の話であり、実際、映画では主人公は自分が癌だと知って数か月で死ぬという設定になっている。この作品は日本映画の中でも「名作中の名作」と言えるものだと思うが、その後の「癌(告知)物」(これは同種の映画についての私の言い方である)でも、だいたいは主人公が告知されてから死ぬまでの数か月を描く作品が多いであろう(その後の作品では時代の風潮に合わせて「告知」される筋立てになっており、その点だけが『生きる』とは異なっている。2007年にリメイクされた松本幸四郎主演のテレビドラマ『生きる』がまさにそういうものである)。こうした「癌(告知)物」は、癌という病気をまるで腫れ物にさわるように扱っている点で、それをひたすら隠そうとしていた「近代」にマッチした作品だと思うが、実は私は現代(ネオ近代)では、もはやそのような筋立てでは現実に合わなくなっているのではないかと思ってきた。確かに、黒澤の『生きる』を最初に見たときは本当に感動したし、今改めてこの作品から学ぶべき点は多いが、その後の「癌(告知)物」にはほとんど見るべきものはない。

そこで二つ目に紹介しておきたいのが、『50/50 フィフティ・フィフティ』という2011年のアメリカ映画(ジョナサン・レヴィン監督)である。これは、27歳の主人公(酒もタバコもやらない青年)が腰の痛みを感じて病院で検査したところ、5年生存率50%の脊髄癌であると宣告され、その日から生活環境が一変して苦悩の日々を送るという映画である。が、この映画はコメディタッチのもので、さほど深刻にならずに所々笑って見ることのできる作品でありながら、インフォームド・コンセント、カウンセリングのあり方や患者を取り巻く人間関係に関して、極めて本質的な問題を提起する作品になっている。映画は、最後に手術も成功して、今後も主人公は希望をもって生き続けていくであろう、ということを予感させて終わっている。が、現代人は、仮に癌告知を受けたとしても、かつてのようにドラマティックに数か月で死ねるわけではなく、「フィフティ・フィフティ」の状態の中を生きていかざるを得ない、という「ネオ近代」の状況を見事に示した作品だと思う。そして、そのように「フィフティ・フィフティ」の状態で長引くdying processを生きなければならないところに、「現代の死苦」があるのではないかと思うのである。

ここ三回にわたって「現代の老苦・病苦・死苦」を考えてきた。これらに共通しているのは、老病死がかつてよりも大幅に引き延ばされているがゆえに、長く苦しまなければならないということである。そこに、現代ではPPK(ピンピンコロリ)という生き方・死に方が推奨されたり、或いは安楽死や尊厳死が話題になったりする所以があるのである。それならば、こうした「現代の老苦・病苦・死苦」は何に由来するのであろうか。そこで「文化的資源としての仏教」の論理構造(「老・病・死………⇒生」)を現代に生かそうとするこのエッセーでは、次に「現代の生苦」について考える必要が出てくるのである。次回はそれについて考えてみたい。

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №23 [心の小径]

第四章 新教会と平信徒伝道 4

                       内村鑑三

 一月六日  二百円ヲ牧師D氏二電報為替ニテ送ル。
 我々はD氏の教派に対し我々の負債を全部支払ってただちに彼の要求に応じようと試みた。しかしこれは我々にはいかなる手段をつくしても為しえなかった。我々は兄弟たちにかなり重い税金を課していたのである、そしてこれ以上彼らから取り立てることはできなかった。C教授の金は今囘の分割払いの主要部分を占めた。その金を到着してからこうも早く手放すにあたり我々ははなはだ幸福でなかった。

 一月七日 明日ノ献堂式ノ準備二多忙。
 一月八日 S教会ノ献堂式、午後二時二始マル。
 出席者、約五十。今日我々ハ此ノ教会ヲ神二献グ。願ハクハ彼ノ栄光、此ノ処ヨリシテ此ノ地方二輝キ出デンコトヲ。
 我々が担わなければならなかった共通の重荷は我々の心を結び合わせた、そして我々は今や正式の合同に入り、そして公けに我々自身の教会を神に献ぐべきであった。小さい木造建築は五十人の合唱するハレルヤで震動した、― 禍(わざわ)いなるかな、我らの気の毒な隣人は! 我々のオルガンは、鍵(けん)が二つ調子が合わなかったが、F君の指に触れてきわめて大きい音の讃美歌をうなり出した。いとたかき神の御名にむかって我々はこのみすぼらしい住居を献げる、我々の献げることのできるすべてのもののうちにて最善最上のものである! これをして真のシェキナたらしめよ、そして彼の臨在をしてダビデの賢い子の豪華な神殿におけるがごとくにそこにわいて現実ならしめよ。彼は砕けたる悔いし心はいかなる衣裳をまとっていてもこれを好みたもう、そして彼の最も好みたもう教会にはパイプ・オルガンとステーンド・グラス窓と洗礼盤の必要はないのである。澄んだ一月の太陽は、きわめて粗末な生地のカーテンで一部分おおわれた二つの窓を通して、何も塗ってない白木の腰掛の上に輝いた、ときに我らの親愛なOは感謝の中に頭をたれた謙遜な会衆の上に彼の祝祷(しゅくとう)を述べた。我々は身のしまる乾燥した冬の空気の中で彼の語りたもうた声をほとんど開くことさえできた、いわく『我まことになんじらに告げん、この貧しき寡婦(やもめ)はすべての者より多く投げ入れたり』と。ルカ二十一の二。

 二月十六日 木曜日 S教会ノ規則作成ノタメ、O、W、「ジョン」と会ス。月曜日、火曜日、木曜日、金曜日ヲ会合ノ日ト定ム。
 我々が礼拝の家を献げた以上は、教会規則の何らかの成文が絶対必要になった。実行委員四人がかかる規則の草案を用意する権能を与えられた。我々は基督教会のうちのこの最も独得な教会を規律すべきもの、― 基督教における本質的なものはすべて保有し、そしてそれを我々の新しい環境に適合させること ― を考えることになった。七日間討議が継続した、その結果、教会組織の概略の骨格ができた。会合は祈祷をもって開かれ、祈祷をもって閉ざされた。我々は恐しく熱心であった、小さな囲炉裏を囲み、鉄瓶は湯気を噴(ふ)いて響き渡る音楽を我々に歌ってくれているのを開きながら、数ヵ条また数ヵ条、片付けて行った。ヨナタンの突進的思想はOの冷静な判断によって緩和された、ジョンの便宜的な考えはWの合法性によって時勢に合うように訂正された。全文は有効となるに今や教会会議の承認を必要とした。

 三月六日  教会ノ建物二移転セリ。
 彼らは余に教会の二階に一室を提供してくれた、しかし無料ではなかった。余は集会場を掃除し、教会図書室の面倒を見、小使と番人とのすべての義務を引受け、そして部屋代として一カ月二円を会計に支払う責任があった。余はかような便利な教会役員を他の何処にも見たことはない。この日から余の部屋は兄弟たちの常例の押掛け場所となった。

 三月十三日 今年十月マデニ教会ノ負債ヲ皆済スべク相互二誓約ヲ為セリ。
 我々の負債返却は無期限に延期されてはならない。すべてのものをして自分の割当て分を特定期間内に支払う決心を為さしめよ。もし君が十カ月間西洋料理を中止すると想像せよ、それは君に君の割当て分の半額を支払うようにさせるであろう。もし君が来年まで古いジャケツとパンツで我慢すると想像せよ、それは君に共同負債の君の分担分を完了できるようにするであろう。我々各自の純収入は一カ月二十五円であった、そして来る十月までに丸一月(まるひとつき)の給料を支払うことになったのである。

 九月二日 A-製材揚二兄弟TSト出立セリ。余ハ、夜、説教セリ。

 九月三日 朝、A-製材場ヲ辞ス。H氏方二泊り、説教セリ。製材場二於ケル前途ノ見
込ミ有望なり。
 Å-製材場における伝道地の開設は我々の教会の歴史における最も記念すべき挿話(エピソード)の一つであり、また我々が成就した他のいかなる事業よりもよく我々の合同の基督教事業の方法を例証するものである。製材場は、我々の土地から約十五マイル、山岳地方にあった、そこに政府は巨大な松の森林を板と材木とにしようとついさきごろアメリカ製タービン製材機を導入したところだった。馬車道が我々の土地から新しい製材場まで建設されることになり、測量者が新道路の踏査に派遣された。偶然なことに我らの『好人物』Uがこの探検隊の主任測量者であった、そして彼は自分の仕事に従事するかたわら製材場の周囲に作られた小植民地に聖書と基督教を紹介するに全力を尽した。路筋(みちすじ)が決定するや、最終的の測量が我らの教会会計係ビューに託された、彼は山中に滞在中、一人の甚だ貴重な霊魂をキリストに連れて来るに成功した、『達磨』という綽名のOであった。いまや道路が測量されて、その建設に任ぜられた者は我々の教会の他の一員H氏であった。彼もまた同僚に伍してキリストのために働いた、そして原始林の死の沈黙の中の彼の言葉は無効ではなかった。道路が立派に完成する前に、もう一つの貴重な霊魂が主のために得られた。その間に『好人物』Uが製材場に蒔いておいた種子は発芽して立沢な生長をなしつつあった。そこの人たちは新道路の開通を待ちこがれていた、彼らは我々に、来て自分たちに福音を伝えてくれとの伝言をよこした。そこで余はこの使いに兄弟TSとともに派遣されたのである、そして我々は一人の基督信徒によって踏査され、一人の基督信徒によって測量され、一人の基督信徒によって建設された道路を踏んだ最初の人であった。一片の材木もこの道路の上を運ばれない前に、平和の善き音ずれを運ぶ者の足がその上にあった。それは本質的に基督教的道路であった、そして我々はそれを「通」とよんだ。『すべての谷は高くせられ、すべての山と丘とは低くせらるペし』、栄光の王が入り来り拾わんがために。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №34 [心の小径]

九六 或ひといわく、雍(よう)や仁(じん)なれども佞(ねい)ならず。子のたまわく、いずくんぞ倭を用いん。人に禦(あた)るに口給(こうきゅう)を以てすれば、しばしば人に憎まる。その仁を知らず、いずくんぞ佞を用いん。

                  法学者  穂積重遠

「雍」は門人冉仲弓(せんちゅうきゅう)の字。師より若きこと二十九歳。
「佞」は弁才、「佞人(ねいじん)」というほどの悪い意味ではない。
 ある人が雍は仁者だけれども惜しいことには弁才がない。」と評した。孔子様がおっし令るよう、「弁才などは
くてもよろしい。口前(くちまえ)だけで人と応対するとしばしば人に憎まれることになるが、雍にはその心配がない。仁者だかどうだか知らないが、弁才などはなくてもよろしい。」

 「その仁を知らず」の一句に味がある。孔子様はなかなか仁をもって人に許されない。

九七 子、漆雕開(しっちょうかい)をして仕えしむ。対えていわく、われこれ未だ信ずること能わずと、子説(よろこ)ぶ。

 門人「漆雕開」字は子若(しじゃく)。あるいは「漆雕啓(しっちょうけい)」ともいう。そしてここに「吾(われ)」とあるが弟子が先生に対して「吾」という言葉は遣(つかわ)ないはずだから、「啓」の誤記だろうという説がある。

 孔子様が漆雕開に仕官をすすめたところ、「私にはまだ自信がござりません。」と答えたので、孔子様がお喜びになった。

 仕官就職を急ぐことを常にいましめられる孔子様が、もうよかろうと仕官をすすめられたのだから、相当の者だったに相違ないのに、モツト勉強致しませんでは、とおことわりしたので、その篤学自重とくがくじちょう)を喜ばれたのである。          

九八 子のたまわく、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。われに従わん者はそれ由(ゆう)か。子路(しろ)これを聞いて喜ぶ。子のたまわく、由や勇好むことわれに過ぎたり。取り材(はか)る所なし。
 「材(ざい)を取る所なし」とよむ人もある。いかだの材料にはならぬ、と冗談を言われたのだというのだが、前との続きがつかないようだ。
 孔子様が歎息して、「道義の行われぬ乱れた中国に住む気はしない。いかだにでも乗って海外へ行ってしまいたいものじゃ。その時わしについて来る者は由かな。」と言われた。子路がそれを聞いて、おおぜいの門人の中で自分だけがたのみになる者とお見出しにあずかった、どんなもんだい、と得意になった。すると孔子様がおっしゃるよう、「由は勇気のある点ではわしも及ばんが、どうも見さかいがなくて困るよ。」

 孔子様の言葉は、道の行われざるをなげく気持を強くあらわす形容で、実際にいかだに乗ろうと言われるのではあるまい。これが顔回(がんかい)か曾子(そうし)ならば、まあさようにおっしゃらないで、となだめそうなところを、正直者でそそっかしい子路はすぐ、おもしろい、お供しましょう、と乗り気になったので、勇気余って分別(ふんべつ)が足らん、と孔子様に笑われたのだ。
 孔子様はその時日本に来ようとされたのだ、と誰だったかが言ったが、もちろんでたらめだ。しかし結果においては、『論語』がいかだに乗り海に浮んで日本に来たことになるのではあるまいか。ところで、せっかく来て千六七百年も逗留した日本をも、ついに「道行われず」と見限って、いかだに乗り海に浮んでアメリカにでも行ってしまわないようにしたいものだ。


『新訳論語』 講談社学術文庫

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出会い、こぼれ話 №49 [心の小径]

第48話 無宿題証明書

          教育者  毛涯章平

 ある土曜日の放課後、
 「明日の日曜日は宿題が無いからたくさん遊んでおいで」
と言ってみんなを帰した。
 しばらくしてY君が引き返してきた。
 「先生。明日は本当に宿題は無いんでしょ」
と念を押すように言った。
 「ああ、本当だよ。Y君は嬉しいだろう。うんと遊んでおいでよ」
と言うと、嬉しいけど何か困っているようだった。
 わけを聞くと、宿題が無いと言っても母ちゃんが信用しないので遊べないというのだった。彼が
「本当に無いことをお手紙に書いてほしい」と言うので私はとっさに思いついた。

   無宿題証明書
一、明日の日曜日は宿題がありません。
一、外で元気に遊ぶことが宿題と思って下さい。
   右証明いたします   担任 毛涯章平⑳

 私がゆっくり読んでわたすと、彼は大喜びで駆け出していった。

 彼は帰宅すると急いで証明書を母親の前にさし出すだろう。それを見たあの母親がどんな顔をなさるか、想像してみた。
 だまって彼の頭をなでて
「明日はうんと遊ぼうよ」と言ってくれるにちがいないと思った。
 そして、その想像が適中したことを、月曜日の母親からの便りで知って、嬉しかった。

 古語に次の教えがある。
『王ハ三駆シテ前禽ヲ失ウ』
 その意は、王たる者は狩りに出て、三方から勢子に狩り出させるが、一方を開けておいて、そこから逃げていく鳥獣は追わないというのである。
 われわれも、規則やしきたりで制約を受けてはいるが、せめて一方は開けて、お互いを許し合うゆとりを持ちたいものである。

『章平先生の出会い。こぼれ話』2015年豊岡村公民館会報


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文化的資源としての仏教 №11 [心の小径]

文化的資源としての仏教11                

             立川市・光西寺住職 寿台順誠

                            四苦八苦⑷――現代の病苦

今回は「現代の病苦」について考えてみたい。が、それを考える上で、まず現代の疾病構造の変化をめぐる問題を見ておくことにする。

現代における疾病構造の変化は、「急性病から慢性病へ」「感染症から生活習慣病へ」として示されている(加藤眞三「患者学のすすめ(その1) 急性病から慢性病の時代へ」『医と食』2(3)、2010年、144-146頁)。世界的には今でも感染症で死亡する人が最も多いが、先進諸国では癌や心臓病が死亡原因の多くを占めるようになっているのである。日本では、戦後すぐの1947年には死因の「1位が結核、2位が肺炎、3位が脳卒中」となっていたのが、国民皆保険が実現した1961年には「1位が脳卒中、2位が癌、3位が心臓病」となり、2010年になると「1位が癌、2位が心臓病、3位が脳卒中」へと変化している(癌が死因の1位になったのは1981年頃である。『平成23年版 厚生労働白書』26頁)。
「生活習慣病」という言葉は、それまでは加齢という要素に着目して「成人病」(「主として、脳卒中、がん、心臓病などの40歳前後から死亡率が高くなり、しかも全死因の中でも上位を占め、40~60歳くらいの働き盛りに多い疾患」=「成人病」は昭和30年代に厚生労働省が行政用語として使い始めた言葉)と言われていたものが、その後、生活習慣に着目されるようになる中で、1996年に公衆衛生審議会により「食習慣、運動習慣、休養、喫煙、飲酒等の生活習慣が、その発症・進行に関与する疾患群」として定義され直したものである(『平成26年版 厚生労働白書』24-25頁)。が、この概念に対しては批判がある。例えば、「がん放置理論」(『患者よ、がんと闘うな』文藝春秋、1996年)で有名な近藤誠医師は、心疾患や脳血管疾患は「加齢とともに死亡率が急上昇しており、老化現象としての側面が強い」とし、また癌の増加についても「食事や環境中の発がん物質の影響」や「長いき」(多くの人が発がん率の高い年齢に達するようになったこと)に原因があるとして、かえって生活習慣病という言葉によって人々が有害な物質を減らす行政の仕事や老化現象に気づきにくくなり、「ライフスタイル変更に駆り立てられる」ことになってきたことを批判している(近藤誠『成人病の真実』文藝春秋、2004年、272-274頁)。
が、この「生活習慣病」という概念のもつ最も本質的な問題は、これによって何でも「病気」にされてしまうという現象が出てきて、「医療化(medicalization)」の流れに拍車をかけていることであろう。例えば、酒癖が悪い人は「アルコール依存症」、ヘビースモーカーは「ニコチン依存症」、女性の生理に伴う苛立ちは「月経前症候群(PMS)」、ぼんやりしている子どもや聞き分けのない子どもは「注意欠陥多動性障害(ADHD)」、血糖値が高い人は「糖尿病」、クレアチニン値が高い人は「腎臓病」、コレステロール値が高い人は「高脂血症」、そして血圧が高い人は「高血圧症」といった具合である。また、従来は単なる「うつ状態」として病気とは認識されていなかった人が、「新型うつ病患者」(気分障害患者)と見なされるようになり、1999年から6年間で、その数が43万人から92万人へと倍加したとも言われている。ここまでくると、やはり病気の多くはむしろ「医原病(iatrogenesis, iatrogenetic disease)」だと言わざるを得なくなるであろう(志水洋人「医療化論の動向――逸脱行動の医療化から疾患概念の拡大へ――」『年報人間科学』35、2014年;細見博志「健康と病気――「逸脱」としての病気と拡大する「医療化」――」『言論文化論叢』19、2015年;三澤仁平「医療化論のゆくえ」『応用社会学研究』57、2015年等参照)。

さて、以上に記したことから、「現代の病苦」とは一体どのようなものだということが言えるであろうか。私にはそれは二重の意味での苦であるように思われる。まず第一に、主たる病が結核のような感染症から生活習慣病に移った現代においては、病と付き合わねばならない時間が長くなっている分だけ病苦も増しているということが言えるであろう。確かに、かつて皆が急性病で死んでいた時代には、患う時間は短くても一時の苦痛は非常に大きなものだったであろう。が、現代はかつてよりも、そうした一時の苦痛は小さいかもしれないが、しかしそれが慢性的に続くことに苦しまねばならないという問題があるであろう。
それから第二に、上記のように生活習慣病という概念が、病を治すよりもかえって病気(医原病)を生み出してしまう側面があるということから言えば、いわば無用な苦を創り出しているということが言えるのではないだろうか。そして、そういうことを通して、いつしか「人のための医療」であったはずのものが「医療のための人」へと、あるべき順序が転倒してしまうところに「現代の病苦」があるのではないだろうか。また「健康」ということに関して言えば、とかく現代においては、生きるための前提条件としての健康を大事にするのではなくて(そのための健康が極めて重要であることには異論はないが)、むしろ「健康のために生きる」ということに(場合によっては、「健康のためなら死んでもよい」といった皮肉な事態にまで)、目的と手段の順序が逆転してしまう傾向があるであろう。
医療技術が進歩して、かつては治せなかった病も治すことができるようになったこと自体は、間違いなく喜ばしいことである。が、反面、従来は単なる「癖」や「性格」のようにして考えられてきたことが何でも「病気」にされてしまい、その状態が慢性的に続くという時代を私たちは生きている。何とも悩ましい時代である。(次回は「現代の死苦」について考えることにする。)

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