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論語 №48 [心の小径]

一四六 子のたまわく、中庸(ちゅうよう)の徳たるや、それ至(いた)れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。

                  法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「過ぐることなく及ばぬことなく平常にして終始変らざる中庸こそ、実に最高至善(さいこうしぜん)の徳なるかな。しかるに、古代は知らず、その後久しくこの徳をそなえる人がすくない。まことになげかわしいことじゃ。」

 中庸ということは、平凡にして至難な事柄であって、孔子様の最も重んぜられたところであるが、お孫さんの子思(しし)がその教えを受け継いで『中庸』を著し、四書の一つになっているのは、孔子様もさぞご満足であろう。そして今日行われている中庸刊本の本文のはじめに、前註の形で出ている子程子(していし)の言葉に、「偏(かたよら)ざるこれを中と謂(い)い、易(かわ)らざるこれを庸と滑う。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり。」とあるのは、中庸の過ぐることなく及ばざることなき定義である。近来の我が国は、思想も行動も実に極端から極端に走り、中庸の徳に至っては真に「民鮮(すく)なきこと久し」き有様であって、孔子様にお目にかけたら、世も末じゃと嘆息されるであろう。『孟子』公孫丑(こうそんちゅう)章句上に左の一節がある。   
 「子貢(しこう)孔子に聞いていわく、夫子(ふうし)は聖なるか。孔子いわく、聖はすなわちわれ能(あた)わず。われ学びて厭(いと)わず、教えて倦(う)まざるなり。子貢いわく、学びて厭わざるは智なり、教えて倦まざるは仁なり。仁且(か)つ智、夫子は既に聖なり。」

一四七 子貢いわく、もし博(ひろ)く民に施して能(よ)く衆を済(すく)うことあらば如何(いかん)。仁と謂うべきか。子のたまわく、何ぞ仁を事(こと)とせん、必ずや聖か。堯舜もそれ猶(なお)これを病めり。それ仁者は、己(おのれ)立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬(たとえ)を取るは、仁の方と謂うべきのみ。

 子貢が「もしひろく人民に行きわたってよく衆人を救済することができたら、仁といえましょうか。」とおたずねしたので、孔子様がおっしゃるよう、「それができれば仁どころではない。強いていうならば聖か。堯舜のような聖天子でさえ、それができないとてご心配なされたことである。お前は仁なるものを大そうなむずかしいことに考えているようだが、さような聖天子でなければできないようなことではない。仁者は自分についてかくあれかしと思うことを人にもかくあらせんとし、自分が成就したいと思うことを人に成就させる。すなわち人を見ることおのれのごとく、人我(にんが)のへだてのないのが仁である。言いかえれば、高遠なことに思いを馳(は)せるのが仁ではなくて、目の前の自分に引きくらべて人にしむけるのが、仁に至る方法であるぞよ。」

 孔子様がなかなか仁をもって許されないので、子貢が今度は最高標準を持ち出したところ、孔子様は仁とはさような大理想ではなく、むしろ日常茶飯事であるぞ、俗諺(ぞくげん)のいわゆる「わが身をつねって人の痛さを知る」こそ仁の第一歩なれ、と教え、また一面仁とは事業功績ではなく、心がけの問簿だ、ということを説かれたのだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №38 [心の小径]

第七章 基督教国にて 5

                       内村鑑三

 もうひとり病院における感激的な人物はその婦長であった。余の知るいかなる人も彼女より以上に剛毅(ごうき)ではなかった、しかも彼女は婦人であった! 彼女はその注意ぶかい眼をこの少年、あの少女に投げつつ、宏大な建物を隅から隅まで歩きまわった、そして禍いなるかな、ジョニーの靴下をジョージーの脚にはかせ、サブの帽子をスーシーの頭にかぶせた不注意な看護人は。婦人が男子と同様に支配できるということはこの尊敬すべき婦人によって何の疑念もなく余に証明せられた。彼女は確かに基督教的アメリカの産物である、異教国はその婦道にいかなる温雅(おんが)と美徳があっても、これに匹敵するものを産出することはできない。
 もうひとり余が余の病院時代に固く結ばれるようになっ友愛すべき人を、余の角(かど)のある基督教の多くのものを取除いてくれた人として、言及しないではいられない。彼はデラウエア州の出であって、同情では決定的に南部人、熟練した青年医師、宗教告白では聖公会信者、ダンスは軽快で巧妙、すぐれた俳優になることができ、詩を書くことができ、スチュアート家諸王の讃美者、善良、深切、そして友人中で最も思いやりある人であった。
彼の面前では、余の胸中にニューイングランドへの同情と知識によってかもし出された叛逆南部に対する余の偏見はたちまちにして消滅した。余のピューリタン信仰とコロムウェル崇拝とは彼を余の信頼と愛とに受け入れるに何の障害ともならなかった。彼はかつて余を彼のデラウェアの家庭につれて行った、余が彼に余の理想として描いた婦人たちにいやしくも比較されうる真の婦人を余に見せるためであった。彼は言った、そぅいうものは実際にアメリカに存在しはするが、しかしペンシルヴァニアやマサチューセッツにではないと。彼は貸馬車を傭った、そして余をまず知事の家に、次に前知事の家に、等々と余をつれまわった、そして我々が敬意を表した美人の前から出て来るたびごとに、彼は余に問うた、『あれはどうだ?』と。彼女は余の理想にはまだ達しないと告げるや、彼はもう一つ、
それからなおもう一つと試み、余から賛辞を奪取しようと全力をつくした、昔の騎士が戦争相手から自分の偶像のためにそうしたようにである。しかし余は依然として自己に忠実であった、そしてついに彼を失望させた。『君はそれではデラウエアで何が欲しいか』と彼は最後に当惑して余に言った。時は桃の季節であった、余は故国にいたあいだ地理学でデラウエア桃の最上等の品質について学んだ。それゆえ余は州内のその最善のもの若干を要求した。それを彼は早速よろこんで注文してくれた、そして余は余の欲したすべてのものを得てすっかり満足したのである。-余のヤンキー同情心が余を無知のなかに引き留めておいたそのアメリカの半面を余に知らせてくれた人こそ彼であった。度量のある、思いやりのある、真実な、疑心のない、-アメリカ基督の全部がドルとセントによっては、ジョナサン・エド7ヅとセオドア・パーカーと一緒には、歩かないわけである。そこには騎士道的基督教のようなもの、余の国民的心情にはなはだ訴えるものがあるのである。余は少しくこの南部の友人の精神を汲み、彼が余に贈ってくれた「祈祷書」(The book of Common Prayor)から多くの句を暗記した、そして聖公会の諸に出席すること喜びを感じ始めた。神の霊に導かれて、広さは自分自身の信仰のうちに増大しつつある確信とけっして矛盾はしない、そして余はオリヴァー・コロムウエルに対する余の無制限の敬慕とピューリタン型の基督教に含まれているあの貴重な真理に対する余の愛着とを少しも弱めることなしに、余のデラウエアの友人を通して基督教国の半分の味方になったことを、いつも感謝しているのである。
 ただ限られた紙面は余の病院滞在中に余に影響を及ぼした他の善い友人たちや快い感化について記述することを許さない。アイルランドの地からさえ、しかもその紳士階級の中からではないが、インスビレーションとそして余の精神的霊的地平線の拡大化とがやって来たのである。一人の強い人を余は特に記憶している、その人はグラッドストンに崇拝的な敬慕をいだいていた、そしてその人は、余が彼にヴィクトリア女王のような強大な君主をもつことは余の羨望するところであると言った時、足を踏み鳴らし『おれはあの、の-べき婦人の臣民であるよりは、むしろアビシニアの王様に治めてもらいたい』と言って、彼の強い不同意を表明した。しかも誤ってエメラルド・アイル(深緑の島)の代表者とされたこれらの息子や娘たちの中にある何たる心の善良さよ、そしてまた敬虔心よ。
 余の周囲についての以上の叙述とともに、さらに若干の余の日記を掲げること許されたい。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫
                          


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論語 №47 [心の小径]

一四二 子(し)のたまわく、觚觚(ここ)ならす、觚ならんや、觚ならんや。

                   法学者 穂積重遠

 「觚」は酒杯。角(かど)があるので「角へん」もついているのだが、当時はその古制がくずれてわけがなくなっていた。

 孔子様がおっしゃるよう、「觚にカドがなくては、觚であろうや、觚ではない。」

 これは酒杯が故実覧を失ったのによそえて世道(せどう)の頽廃(たいはい)をなげかれたのだが、「婦人婦人ならず、婦人ならんや、婦人ならんや。」「学生学生ならず、学生ならんや、学生ならんや。」「政党政党ならず、政党ならんや、政党ならんや。」何にでもあてはまる。

一四三 宰我(さいが)問いていわく、仁者(じんしゃ)はこれに告げて井に仁ありと雖も、それこれに従わんや。子(し)のたまわく、何すれぞそれ然(しか)らん。君子は逝(ゆ)かしむべし、陥(おとし)むべからず、欺くばし、罔(し)うべからず。

 宰我が「仁徳ある君子たる者、井戸に人が落ちていると知らされたら、イキナリその井戸にとびこむでしょうか。」とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「どうしてさようなことがあろうか。君子は人を故うに専(もっぱ)らで、己(おのれ)を忘れるから、人が落ちたと告げて井戸端までかけつけさせることはできようが、事実もたしかめず手段も講ぜずにあわてて井戸にとびこむほど無分別ではない故、だまして水にはめることはできな。道理のあることであざむかれることはあり得ようが、道理のないことでくらまされることはあり得ない。」        

 宰我は『論語』ではだいぶ評判がわるいので本章も、また愚問を出してしかられた、という風にとる人もあるが、ここはそうではなく、孔子様が世のこと人のことというと我を忘れて乗り出されるので、あるいはだまされて迷惑なさることがありはすまいかと心配して、宰我がそれとなくおいさめしたのに対し、孔子様が、大丈夫だよ、とおっしゃったのだろうと思う。

一四四 子のたまわく、君子博(ひろ)く文を芸び、これを的するに礼を以てせば、亦(また)以て畔(そむ)かざるべきか。
                                        
 伊藤博文(明治時代の大政治家)の名の出所。

 孔子様がおっしゃるよう、「君子たるもの、ひろく書を読んで文物を学ばねばならぬが、、博学なだけでは散漫(さんまん)になる故、人生の物差たる礼をもってしめくくりをつけねばならぬ。そうすれば正しい道にそむかぬようになれようか。」

一四五 子、南子(なんし)を見る。子路(しろ)説(よろこ)ばず。夫子(ふうし)これに矢(ちか)いてのたまわく、子に否なる所あらば、天これを厭(た)たん、天これを厭たん。

 「南子」は衛(えい)の霊公(れいこう)の夫人、不品行で評判の悪かったことは、前にも申した。原文「子所否者」には色々のよみ方があるようだが、一番スラリとしたよみ方に従った。「矢」をチカウとよむのは、矢を折って誓うからだろう。「厭」は「棄て絶つ」いわば絶交すること。神仏ならばバチをあてる、というところか。
                                  
 孔子様が衛の国に行かれたとき、霊公夫人の南子にまみえられたので、子路が快(こころよ)からず思った。子路のことだから、不愉快を顔に出しただけでなく、あのようなな淫婦(いんぷ))に会われるとは何事ぞと、口に出して非難したのかも知れない。そこで孔子様が誓言(せいごん)を立てておっしゃるよう、「わしにやましいところがあるならば、お前がとがめるまでもない、天道様が捨ておかれまい、天道(てんとう)様のバチがあたろうぞ。」

 これはどういう事情だったのかハッキリしないが、南子が好奇心からしきりに会見を求め、辞退しても強(し)いてうながされるので、やむを得ず参殿されたのだろう。子路はもちろん孔子様にいかがわしいことがあったと思ったのではなかろうが、世間がかれこれ言い立てるので、憤慨したものとみえる。そこで孔子様が、人は何とも言わば言え、天道様がご承知じゃ、安心せよ、と子路をなだめられたのだ。

『新薬論語』講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №37 [心の小径]

第七章 基督教国にて―慈善家の間にて 4

                       内村鑑三

  しかし余を彼の崇拝者とし忠実な学習者としたのは彼の宗教でも彼の音楽でもなかった。それは堅実に実行に移された彼の組織的思想であり、岩石突兀(とつこつ)たる、ペンシルヴァこア丘陵を徐々に征服してそれから人類の最も不幸な者たちのために盛んな植民地を作った彼のりっぱな方向をもった意志であり、約七百の狂った霊魂を支配し指導し服従せしめえた彼の管理的手腕であり、実現に彼の生涯と彼の息子たちの生涯を要するであろう微かな将来にまで拡がる彼の大きな野心であった、-これらすべてが彼を余に一の驚異と研究題目たらしめたのであるが、そのようなものは余の郷国にても他の何処にてもかつて余の見たことのないものであった。彼は当時余が悩まされていた頑固な宗教的疑惑を解くのに余を助けてはくれなかったにしても、彼は余に如何にして余の生活と宗教とを最大限に利用するか、慈善は、それがいかに高い繊細な感情をもって裏づけられていても、もしそれを悩める人類に対する祝福たらしめる明晰(めいせき)な頭脳と鉄の意志がなければ、この実際的世界にだて実際の用には僅かしか役立たないものであるということを教えてくれた。いかなる『実践神学』の課程も、この実際家の生きた模範のように、かくも十分に且つかくも印象的にこの評価すべからざる教訓を余に教えることはできなかった。彼こそは病的な宗教性(そう言えるならばに堕(だ)しつつあるところから余を救った人であった、そういう病的な宗教性に悩む人々は、
    『惨(みじ)めさを嘆く、されどどこか甘美なる孤独のなかにて、
    彼らの優雅なる愛、群なる同情を完きつつ、
    惨めなる人々を避ける』
ものなのである。ドクターは最後の時まで依然として余の友人のうちで最も信頼されうる人であった、そして年齢、人種、国籍、気風のあらゆる相違にもかかわらず、余の彼に対して結んだ愛は最も永久的のものとなった。しばしば余のニュー・イングランド・カレッヂ時代に、余の親し芸人たちのうち他の人々が余の心と頭脳について心配してくれた時に、彼は余の胃を記憶し、十分の食事を摂って元気であれと言って、しばしば余に何か実質的な援助を送ってくれたものである。そして余の帰国後にさえ、余の常道を逸した活動方法が倍仰の同じ家に属する多数の人々に余の精神的霊的健全性を疑わしめたとき、余の誠実さを正統的信仰と同棲にけっして凝わず、大洋の彼方から余に救助と声援を送ってくれたのは、彼であった。じつに余を人間化した(humanized)のは彼であった。余にもし余を教えるにただ書籍とカレッヂと神学校とがあるにすぎなかったならば、余の基督教は冷たい頑固な非実際的なものであったであろう。いかに多様な方法をもって大いなる霊が我々を形作ることよ!
 院長夫人はユニテリアンであった。故国でのあらゆる基背教文学の読み物で、余はユニテリアン主義については有利な意見はまったくわだかなかった。余はそれは異教よりさら悪いもの、その外見が基督教に似ているが故により危険なものと考えた。余は告白する、最初は余は彼女を強い疑いをもって眺めたことを。余は彼女は頭脳ぽかりで心がなく、大いなる主の御生涯の中にあるあらゆる柔和にして神聖なほど女らしくあるものに無感覚であると想像した。そして余はこの親愛な女主人の前で、ユニテリアンの教義に対する余の嫌悪を隠さなかった、余は何たる粗野な野蛮人であったろう。しかし見よ! 彼女は彼女自身のユニテリアンの原則にふさわしい行為によって、彼女が心を、じつに柔和な女らしい心を、所有することを証明したのである。余の正統信仰は余を友人とするのに彼女には何の障害ともならなかった。彼女はドクターとともにしばしば余を援助してくれた、また彼以上に、彼女の女らしい本能をもって、余の特殊の苦痛を『嗅(か)ぎ出し』、それに応じて余を慰めてくれた。彼女の最後の病気中きわめで柔和な言葉でしばしば余を想い出してくれた、そして彼女が父の聖国(みくに)にてドロテア・ディックスやその他のユ三テリアンの聖女たちの中に加わる僅か数日前にも、ピューリタンの教養を『矯正し難く』師事したのは忘れられなかった、そして彼女の異邦人に対する最後の伝道事業として、彼女は海のかなたから最も実質的な形のクリスマスの贈物を余に送り、ユニテリアン的でないことを彼女が知っている余の事業の促進を助けた。余は信ずる、かようなユニテリアン主義と和解し得ない正統信仰は「オーソドクス」すなわち「真直(まっすぐ)な教義」と称せられるに値いしないものであると。真の寛大とは、余の解するところによれば、自分自身の信仰には不屈な確信をもちながらすべての正直な信仰はこれを許容し寛容することである。余はある真理は知ることができるという余自身への信仰と、余はすべての真理を知ることができないという余自身への不信仰とが、真の基督教的寛大の基礎であり、あらゆる善意とすべての人間に対する平和的関係との源泉であるのである。もちろん余はこれらの健全な見解に一日にして回心せしめられたのではない、しかし我が尊敬すべき院長夫人が余をこの理想にまで育てあげるに大いに役立ったことは余のまったく疑わないところである。

『余は如何にして霧酢路信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №46 [心の小径]

一三九 樊遅(はんち)、知を問う。子のたまわく、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うペし。仁を問う。のたまわく、仁者は難(かた)きを先にして獲(う)ることを後にす。仁と謂うべし。

                  法学者  穂積重遠

 「民の義」は人間としての道である。『礼記』礼運篇に「父は慈、子は孝、兄は長、弟は悌(てい)、夫(ふ)は義、婦(ふ)は聴(てい)、長は恵(けい)、幼は順、君は仁、臣は忠、十の者これを人の義と謂う。」とあるのがそれ。

 「鬼神」は、前にもあったとおり「おにがみ」ではなく、神霊である。ここでは日本流に「神仏」と言おう。「敬してこれに遠ざかる」とよむ人もある。どちらでも結局おなじことだが、「敬遠」という転用熟語からみて「これを違ざく」の方がよさそうだ。

 樊遅が「知」についておたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「人としての道をよくつとめ、神仏は崇敬するが、近づき狎(な)れて神仏をけがしもてあそぶようなことをしないのが、知というべきじゃ。」さらに仁についておたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「仁者は進んで骨折り仕事を引受け、報酬利得を問題にしない。それが仁というものじゃ。」

 江戸笑話にこういうのがある。これなどは「鬼神をあなどってこれに近づく」ものである。
 貧乏人の女房が難産に苦しんでいると、亭主が井戸端で水をあび、南無讃岐の金毘羅大権現、女房が安産いたしましたら、お礼に金の鳥居を奉納致します、と大声で祈る。女房苦しい中にも聞き兼ねて、コレよいかげんにさっしゃれ、この貧乏人に金の鳥居が上げられるものぞ、という。亭主ぬからぬ顔で、おれがこんぴら様をだましているうちに、お前は早くうんでしまいやれ。

一四〇 子のたまわく、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。

 孔子様がおっしゃるよう、「かりに知者と仁者とが水と山といずれを楽しむかを想像するならば、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむであろう。知者は動いて停滞せざること水のごとく、仁者は安んじて静かなること山のごとくだからである。そして知者は絶えず活動するから楽しみが尽きることなく、仁者はあくせくせぬから長寿をたもち得る。」

 川田順氏著『細川幽斎』によって、幽斎に左の歌のあることを知った。
  山を我が楽しむ身にはあらねどもただ静けさをたよりにぞ住む


一四一 子のたまわく、斉(せい)一変せば魯(ろ)に至らん、魯一変せば道に至らん。

 孔子様がおっしゃるよう、「斉が今一つ改善されると魯ぐらいになろう。魯が今一つ改善されると道義の国になれるのだがなあ。」

 斉は桓公(かんこう)が覇(は)を成した国なので、富国強兵を国是とし、功利主義で礼楽(れいがく)を重んぜぬ。魯は周公(しゅうこう)の後なので、衰微しながらもさすがに礼楽尊重の風がのこっている。世人は斉が強く魯が弱きを見て斉まさり魯おとるとするが、必ずしも然らず、という趣旨であって、孔子様のお国自慢的理想でもあり、またその理想実現の困難を思っての嘆息でもある。


『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №36 [心の小径]

第七章 基督教国にて ― 慈善家の間にて 3

                       内村鑑三

 アメリカ到着後間もなく、余は一ペンシルバニア人医師に『拾われ』た、彼自身最も実際家型の慈善家であった。余の内的性質を少しく検して後、彼は余を彼の保護監督の中に入れることに同意した、そして、余が実際的慈善を最下級からずっと味うようにという期待をもって、余を彼の『看護人』のなかに入れた。変化は余にとっては、帝国政府の一官吏から白痴院(はくちいん)の一看護人となるという、まったく急激なものであった、しかし余はそれを感じなかった、ナザレの大工の子が今や全く新しい人生観を余に教えたからである。
 ここに記させてもらいたいのは、余が病院勤務に入ったのはマルティン・ルーテルをエルフルト僧院に逐(お)いやったとやや同じ目的をもってであった、ということである。余がこの歩みを取ったのは、世界がその方面に余の奉仕を必要とすると考えたためではない、いわんや(たとえ貧しくとも)余はそれを職業として求めたのではない、余はそれを『来るペき怒り』からの唯一の避難所であると考え、そこで余の肉を服従させ、内的純潔の志に到達するよう自身を訓練し、かくして天国を嗣(つ)ごうとしたためである。心底ではそれゆえ余は利己的であった、そして利己主義はいかなる形で現れても悪魔のものであり罪であることを、余は幾多の苦しい経験によって学ぶにいたった。慈善の要求するものは完全な自己犠牲と全部的の自己没却であるが、余がその要求に自分自身を合致させようと努力するなかに、余の生来の利己心はそのあらゆる怖しい極悪の姿をもって余に現された、そして余自身の中に認めた暗黒に圧倒されて、余は意気消沈し、言うべからざる苦悩に悶(もだ)えた。余の存在のこの部分の暗澹たる記録はそのためである。人間存在の明るい面により多く慣れている今日の読者は、是をいくらかでもを真面目に受け取る気にならないかもしれない、しかし苦難者自身にはそれこそ本当の現実の物語であり、長く求められた平和と、それから結果するすべて福(さいわい)な果実とはその中から生じたのである。
 しかし余の内心の争闘を別にして、余の病院における生活は不愉快であることからは遥かに遠くあった。院長は余の幸福に純真な関心をいだきただ自分自身の子供たちに注いだ愛情にだけ次ぐ真の愛惜をもって余の面倒を見てくれた人であった。彼は正しい肉体の状態を正しい品行と行状のためと信じていた、それゆえしぜん彼の余に対する配慮は余の霊魂についてより余の胃についての方が多かった。彼を知らない人々は彼を頑迷な唯物主義者と考えた、彼の特愛の題目『道徳的白痴』(Moral Imbeciility)について彼の語るのを聴いた時に特にそうであった、その『遺徳的白痴』というのは両親の間違いと劣悪な環境によって生ずる体質上の堕落を意味しているものでぁったのである。しかし唯物主義者でも無神論者でも彼はなかった。彼は摂理に堅い信頼を懐(いだ)いていた、生涯を通じて彼を導いた「手」として彼が絶えずそれに言及したことでわかるように。彼は余が彼の世話になるようになったことを単なる偶然以上の或るものに帰しさえした、そしてそのように余を世話しまた見守ってくれた。彼の聖書的知識は広汎(こうはん)であった、そし宗教的告白では厳密に『正統的』ではなかったけれども、彼は無情な主知主義を嫌悪し、ユニテリアン主義を教派のうちで『最も狭い最も乾燥無味なもの』としばしば公言したものである、しかも、それにもかかわらず、彼の夫人はチャーミングなユニテリアン婦人であったし、雇人の大部分はマサチューセッツ州から募集されたのである。彼はなるほど時には『悪魔のように吼えた』(余のアイルランド人の同僚がいつも余に語ったように)、それを開いて全家は震えた、誰もが彼から安全な距離に立とうとこころみた、しかしそれにもかかわらず彼にはその雑多な大家族の全体を包含する心情があった、片端(かたわ)のかわいいジョニーと唖(おし)のかわいいソフィとは我らの婦長と同様に彼に気安くしていた、その有能剛毅(ごうき)な婦長はしばしば院長を寄せつけず、院長には口をきかせないと言ったものである。ドクターの音楽の腕前は相当なものであった、そして家族が退出した後でいくたびも彼は我らの音楽教師の弾くピアノに合わせて歌った、そして余が内心苦悶しているとき、いくたびも余の霊魂は彼がその全熱情を特愛の一緒に投じて
   『ゆるやかに神の手にて拡げられ
    わびしき世界のまわりに
    暗黒は降りる。おお! いかに静かなる、
    彼の御心(みこころ)のはたらきは』
と歌う彼のふるえる声によって静められた。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №46 [心の小径]

一三五 子のたまわく、質文(しつぶん)に勝てばすなわち野(や)、文質(ぶんしつ)に勝てばすなわち史、文質彬彬(ひんぴん)、しかる後(のち)に君子。

                  法学者  穂積重遠

 「質」は「木地(きじ)」すなわち実質。「文」は「かざり」すなわち形式。「野」は野人すなわちいなか者。「史」は文書をつかさどる役人、外交官とか秘書官とかいうところ。「彬彬」の語義は知らないが、字の形から見て、杉の木がならび立つ姿だろう。

 孔子様がおっしゃるよう、「木地が飾りに勝つといなか者じみるし、飾りが木地に勝つと外交官式になる。木地と飾りがほどよくそろったところが、ほんとうの君子というものぞ。」

 おもしろい言葉だ。そまつな木地が飾りもなくむき出しなのは何だろう。

一三六 子のたまわく、人の生くるや直(なお)し。これを罔(し)いて生くるは、幸いにして免(まぬが)るるなり。

 孔子様がおっしゃるよう、「人がこの世に生きていられるのはまっすぐなからだ。まがったことをして生きている者があるではないかというかも知れぬが、それは『まぐれざいわい』というものじゃ。」

 大田道灌が少年の時、父がこの句を引いて教訓したら、屏風(びょうぶ)を持ち出してこれはいかがですか、とおやじをへこましたという話がある。孔子様が聞かれたら「この故にかの佞者(ねいしゃ)を悪(にく)む」と言われよう。

一三七 子のたまわく、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

 孔子様がおっしゃるよう、「知る者よりも好む者が上、好む者よりも楽しむ者が上じゃ。」

 これはむしろ現代語訳に困るほどの明白平易な言葉だが、実に意味深長な名言だ。「好きこそ物の上部なれ」というが、「すき」の「上手」のという程度ではまだまだなのだ。主として学問を言われたのだろうが、何にでも通用する。
 古証(こちゅう)にいわく、「これを五穀に譬(たと)うれば、知る者はその食(くら)うべきを知る者なり。好む者は食いてこれを嗜(たしな)む者なり。楽しむ者はこれを嗜みて飽く者なり。知りて好むこと能わざれば、すなわちこれを知ること末だ至らざるなり。これを好みて末だ楽しむに及ばざれば、すなわちこれを好むこと末だ至らざるなり。これ古の学者の自ら強(つと)めて息(や)まざる所以のものか。」
                                        
一三八 子のたまわく、中人(ちゅうじん)以上には以て上(じょう)を語(つ)ぐべし。中人以下には持って上を語ぐべからず。

 孔子様がおっしゃるよう、「中以上の学力の者には高等哲理を教えてよいが、中以下の者には深遠な理論を語るべきでない。」

 人を見て法を説く孔子様の教育法だ。性と天道というような根本論は子貢のごとき大学院学生に向かってはじめて説かれたのである。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №35 [心の小径]

第七章 基督教国にてー慈善家の間にて 2

                       内村鑑三

 これがしかし外国旅行の唯一の健全な結果ではない。他のいかなる境遇にあっても異境で生活する時ほど我々が自分自身の中に逐いやられることはない。逆説的のように見えるけれども、我々は自分自身についてより多くを学ばんがために世界に入って行くのである。自己はいかなる場合でも他の国民と他の国とに接触する場合ほど明かに我々に示されることはない。内省はもう一つの世界か我々の目に示される時に始まるのである。
 いろいろの事が協力してこの結果を生ずる。第一にそして何より最も明白に、孤独はいかなる異郷滞在者にも避けられない。そこで結ぶ最善の友情をもってしても、またその言語をいかに自由に使用し得ても、彼は依然として他国人である。そうでなければ楽しく愉快であったかもしれない会話は、動詞を正しい時制や態に変化させ、単数名詞には単数の叙述語を与え(余の国語には知られていないことである)、相互にほんの僅かしか違わない多数の前置詞の中から適当なものを選ぶなど、要求される余計な精神的エネルギーによって、重苦しくさせられる。親睦の晩餐への招待は、きまった食卓作法にかなう把握、岨嚼(そしゃく)、嚥下(えんか)を行うに必要な余計な注意のために、予期された楽しみの多くを奪われる。我々は時には頭髪にブラシをかけずに出席したものである、そして自分の注意がひとたびそのことに向けられるや、我々は食事の全コースじゅう良心は真底まで刺されて坐っていたものである。それゆえ我々はむしろ独りでいて、我々の野蛮な振舞いを鋭い批評眼で見守る貴婦人たちの凝視に邪魔されずに自己流に食事をする方がはるかによいと思ったものである。孤独はかような境遇の下では我々には二倍に楽しくなる。独語と内省とが日々の饗宴とされ、客観的と主観的の自己は相互にたえず交(まじ)わっている。
 第二に、人はその国を一歩出て個人以上である。彼は彼自身の中に彼の国民と彼の民族を担(にな)う。彼の言葉と行為はただ彼のものとしてだけでなく、彼の民族と彼の国民のそれとしてもまた判断される。かくてある意味では、異郷における滞在者はいずれも彼の国の全権公使である。彼は彼の国土と彼の人民とを代表する。世界は彼を通して彼の国民を読み取る。何ものも高い責任感ほど人をしっかりさせるものはないということを我々はしっている。そして余の国は余の行動の卑劣なるか高潔なるかにしたがって非難され或は称讃されるのであると知るとき、あらゆる種類の軽挑(けいちょう)、浮薄(ふはく)、嬌態(きょうたい)は直ちに余から去るのである。余は崇厳なセント・ジェームズ宮殿派遣の大使だけそれだけ厳粛となる。そこから反省と考慮と判断が出てくる。そのように振舞わない者は彼の国民に値しない者であると余は信ずる。
 第三に、我々はみな郷愁の何であるかを知る。それは、ひとの不適合な環境に対する、自然の反動である。あの親しい顔と山と野、我々はいまそれがないのを寂しくおもうが然しそれを我々の心眼から拭い去ることのできないもの、それが我々の心の支配権を求める、我々が新しい環境に合致しようと努力するとき、家郷(ホーム)はその嫉(ねた)む愛をもってますます我々をその懐しい想い田に結びつける。憂愁は来て痛む心を涙に暮れしめ、我々を谷と森に逐いやって黙想と発作的な祈祷にしたがわしめる。我々の眼は西方の大海に沈み行く太陽の後を遂い、家郷にある我らの愛する者らがさし昇る輝きにおいてそれを見る時に、我々は丈夫でここにあってなんじらを想っていると彼らに言ってくれと、それに言うのである。このように霊の国に我々は住むのである。燕は来てまた去り、人々は商いをして儲けたり損をしたりする、しかし家郷からの流鼠者(りゅうざんしゃ)には単調が一年を通じて流れる、― 自分自身との、神との、また霊たちとの交際が(まじわり)。
 モーセが彼の民の救出者として現れる以前にミデアン人の地に逐い遣られたのは、このような何かそういう摂理的の目的をもってであったに相違ない。エリヤの『ベール・シバへの逃避』は、異郷にあって霊魂の孤独の中で神を求めようと努める者に無限の慰藉(いしゃ)を与える事実であった。
   『荒野の石の上に坐せよ、
   ホレブの洞穴に独りあるエリヤのどとくに。
   さらばやさしき声は荒野を通りて来る、
   いらだつ子を慰むる父のごとく、
   苦痛(いたみ)、忿怒(いかり)、恐怖(おそれ)を遂い遣り、
   「人は達し、されど神は近し」と言いつつ。』
聖パウロの『アラビア』は常にかような意味に解釈きれた、なんとなれば異邦人の使徒が内的訓練の時期をもつべきであったということほど自然なことはありえなかったからである、そのために彼は御子(みこ)を『直接に』把握し、そして出て来て世に告げて言った、
 『兄弟よ、われなんじらに示す、わが伝えたる福音は人に由れるものにあらず。我は人よりこれを受けず、また教えられず、ただイエス・キリストの黙示に由れるなり。』

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №45 [心の小径]

V一三一 子游(しゆう)、武城(ぶじょう)の宰(さい)となる。子のたまわく、なんじ人を得たるか。いわく、澹台滅明(たんだいめつめい)という者あり。行くに径(みち)に由(よ)らず。公事にあらざれば未だかったて偃(えん)の室に至らず。

                  法学者  穂積重遠

「澹台」は姓「滅明」は名、字は子羽。孔子より若きこと三十九歳、子游が孔子より若きこと四十五歳だから、子游より年長だ。そして本章以後に孔子様の門人になったらしい。容貌はみにくかったが、見かけに似合わぬ有為な人物で、後に大成して功績があったので、孔子様が「貌(かたち)を以て人を取れば、これを子羽に失う。」と言われたと、『史記』の「仲尼弟子列伝」にある。

 子游が武城の市長になっていたが、孔子様が「お前は誰かシツカリした助役を得たか。」と問われたところ、子游が答えて申すよう、「澹台滅明という者を採用致しました。この者は城に公明正大な人物でありまして、往来を歩くにも近道抜け道をせず、

また公用でなければけっして私の部屋に入ってはきません。」

 孔子様が武城に行かれて子游の市長振りに感心された話が、後に出てくる 

一三二 子のたまわく、孟之(もうし)反(はん)伐(ほこ)らず、奔(はし)りて殿(しんがり)し、まさに紋に入らんとす。その馬に策(むち)うちていわく、敢(あえ)て後(のち)せるにあらず。馬進まざりしなりと。

 「孟之反」は魯(ろ)の太夫(たいふ)。名は側(そく)、「後」は「おくれたる」とよむ人もあるが、ここでは「殿」の意味だから「のちせる」とよんだ。

 孔子様がおっしゃるよう、「孟之反は功(こう)にほこらぬ人だ。まけいくさのしんがりをみごとにつとめたが、城門に入ろうとするとき馬に一鞭あてて、『わざわざしんがりをしたわけではない、馬が疲れて前へ出なかったのだ。』と言った。まことにおくゆかしいことじゃ。」

 敗軍を取りまとめて総くずれにならぬようにするのは、むずかしいことでまたたいせつなことだ。今日の我が国の大敗軍に際して、りっぱにしんがりを務めてしかもその功に誇らぬ昭和の孟之反がほしいものだが、それについて『幼学綱要』に左の物語があることを思い出した。

 「山の内治太夫・進士(しんし)清三郎は松平康重の臣なり。嘗て殿戦(しんがりいくさ)して退く。山内乱射しいて矢尽(つ)く。敵兵最山県源四郎等これを追うこと急なり。清三郎一矢を治太夫に投ず。治太夫止(とどま)り射る。一兵の胸を洞(どう)して松樹に着く。敵すなわち引き去る。山県その矢を康重に送りていわく、善射無双(むそう)なり。康重矢に清三郎が姓名を刻するを見て、これを褒せんと欲す。清三郎いわく、これ治太夫が発する所なり。山の内を召てこれを問う。いわく、清三郎が発する所なり。相譲りて決せず。康垂ならびに二人を褒す。時人称して今の孟之反と為(な)せり。」

一三三 子のたまわく、祝鮀(しゅくだ)佞(ねい)あり而(しこう)して宋朝の美あらずんば、難きかな、今の世に免れんこと。

 「祝鮀」は衛の大夫、字は子魚。弁才で聞えた。「来朝」は宋の公子で、有名な美男子。

 孔子様がおっしゃるよう、「祝鮀のような弁才があり、その上に宋朝のような風采がなければ当世に通用しないとは、なさけないことじゃ。」

「祝鮀の佞あらずして宋朝の美あらば」と読み、衛の霊公の夫人南子(なんし)がその生国(しょうこく)の宋(そう)から美公宋朝を呼び寄せて後宮の風俗をみだし、もし賢太夫祝鮀が弁才をもって内外に周旋することなくば滅亡は免れがたいところだ。と言われたものと解する説もあるが、あまりうがち過ぎるようだ。具体的事実ではなくて一般論だと「しておこう。

一三四 子のたまわく、誰か能(よ)く出ずるに戸に由(よ)らざらん、何ぞ斯の道に由ることなきや。

「斯道(しどう)」の達人、などと今でもこの語を用いる。

 孔子様がおっしゃるよう、「家を出るに戸口を通らぬ者は誰もあるまい。それだのにどうしてこの人の道を通ろうとしないのだろう。」


『新訳論語』 講談社学術文庫 


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №34 [心の小径]

   第七章 基督故国にて - 慈善家の間にて 1

                       内村鑑三

 シナの一聖賢の名言にいう、『山にある者は山を見ず』と。じつは距離は景色に魅力のみでなく包括性をもまた与えるのである。山の真の均整は遠方からのみ見ることができる。
 自分自身の国についてもそうである。ひとはその中に住んでいる間は、それを本当に知らない。ひとはその真の位置、大なる全体の一部としてのそれ、その善と悪、その長所と短所を理解するためには、それから遠ざからなければならな。誰がニュー・ヨークの市についてそ。に定住する市民の或る人々より以上に無知であるか、彼らには中央公園は宇宙における唯一の『荒野』であり、市立博物館はそこから彼らが広い世界をのぞく穴なのである! イギリスの貴族たちは彼ら自身の島帝国について無知であることで有名であるが、その島帝国は彼らの金のかかる世界周遊旅行をもって彼らをいくらかでも英国女王陛下の気のきいた臣下に近いものとするために必要なものときえしているのである。そのようにしてしぼしば、異教徒を回心させるために派遣された宣教師が自分自身が回心させられて帰国する、もちろん彼らの基督教から回心させられるのではないが、しかし自分自身について、基督教国について、基督信徒の『選び』について、異教徒の罪に定められること、等々、等々について、彼らがつねに抱いていた多くの、非常に多くの、意見から回心させられるのである。『可愛い子には旅をさせよ』とは、余の国人の間では誰でも知っている諺である。人の迷夢を醒ますに旅にまさるものはない。
 余の生国についての余の考は、余がそこに留まっていた間はきわめて一面的であった。まだ異教徒のうちは、余の国は余には宇宙の中心、世界の羨望の的であった。『地は五穀豊穣、風土の平穏世界無比、風光秀で、湖水は処女の眼の如く、翠松の丘はその三日月形の眉、国土は精気満ち、神霊の棲む処、光明の源泉。』かようなものであるとじつは余は余の国を考えていた、余がまだ異教徒であった間のことである。しかし余が『回心』したとき、いかに正反対になったことよ! 余は『遠か遥か彼方の幸福の国々』について、四百のカレッヂとユニヴァシティを有するアメリカについて、ピューリタンのホームのイングランドについて、ルーテルの祖国のドイツについて、ツウィングリの誇りのスウィスについて、ノックスのスコットランドと、アドルファスのスウェーデンについて、聞かされた。まもなく一つの考が余の心をとらえた、余の国はじつに『無用の長物』であると。それを善くするために他の国々からの宣教師を必要とする異教国であった。天の神はそれについてけっして多くを考えたまわなかった、神はかくも多年それを全く悪魔の手の中にゆだねたもうたのである。その道徳的社会的の欠陥が話題になるとき、アメリカやヨーロッパではそうではないと我々は絶えず閃かされた。それはいつかマサチューセッツやイングランドのようになり得るかどうか、余はまじめに疑った。もし余の国が存在から拭い去られても世界はすこしも悪くはならないであろうと、余はほんとうに信じた。『日本には納税というよぅな事がありますか』と、宣教師学校にいる一少女が先生に質問したとのことである。可憐な無邪気な子よ、彼女は自分の国民は未だにその国土に『民の膏血(こうけつ)を絞る』強奪や何か他の異教的方法が採られているほどの堕落状態にあり、そして公平と正義は彼女の敬慕するアメリカに特有の事柄であると想像したのである。『国民性を喪失せしめる宣教師の影響力』は、伝道地において全く未知の現象ではない。
 しかし遥か流鼠(りゅうざん)の地から眺めて、余の国は『無用の長物』たることを止めた。それはすばらしく美しく見え始めた、- 余の異教徒時代の怪奇(グロテスク)な美ではなくして、それ自身の歴史的個性をそなえて宇宙の中に一定の空間を占める真の均整のとれた調和的美であった。一国民としてのその存在は天そのものによって命ぜられたのである、そして世界と人類に対するその使命は明白に告知せられた、また告知せられつつある。それは、高い目的と高貴な野心を有する聖なる実在であるように、世界と人類のためにあるように、見えた。そのような輝かしい祖国観が余の幻(まぼろし)に与えられたことは、余の限りない感謝であった。

『余は如何にして基督信徒となりhし乎」 岩波文庫


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論語 №44 [心の小径]

一二七 伯牛(はくぎゅう)疾(やまい)あり。子これを問う。牖(まど)よりその手を執(と)りてのたまわく、これを亡(うしな)わんこと、命(めい)なるかな。この人にしてこの疾あり、この人にしてこの疾あり。
    
                          法学者  穂積重遠

 「伯牛」は門人冉耕(せんこう)の字。十哲徳行四人の一人。癩病(らいびょう)だったといわれる。すなわち「この疾」とは「この業病」という強い意味。

 冉伯牛の病気がわるいというので、孔子様が見舞いに行かれ、窓越しにその手を取ってなげかれるよう、「この惜しい人を亡くすことか、ああ天命なるかな。こういう人にこういう病気があろうとは。こういう人にこういう病気があろうとは。」

 なぜ窓越しに見舞われたか、ということについて、礼がどうのこうのというむつかしい説明があるが、私は病人のねている窓ぎわを通りかかったので、部屋にはいるまももどかしく、思わず窓越しに手を取ったもの、と解釈したい。あるいはいったん病室を辞去したがまた立ちもどって窓越しに、とも解される。悪疾をもいとわず手を握り、繰り返してなげかれたところに、あふれるばかりの人情がある。
 江戸時代の漢学書生たちは、「玉にきず」というところを、「この人にしてこの疾あり」としゃれたものだ。
一二八 子のたまわく、賢なるかな回や。一箪食一瓢飲(いったんしいっぴょういん)陋巷(ろうこう)に在り。。人その憂いに堪えず、回やその楽しみを改めず。賢(けん)なるかな回や。

 「箪」は竹であんだ飯穂。「瓢」は、いわゆる「ひょうたん」ではなく、「ひさご」を半分に割った酒器。「陋巷」はむさくるしい横町。「街」は大路、「巷」は小路。

 孔子様がおっしゃるよう、「賢人なるかな願回は。盛り切り飯に一杯酒で横町の裏店(うらだな)住まい、ほかの人なら貧乏の苦労にかまけてしまうところを、回は相変らず道を楽しんで勉強している。さても賢人なるかな顔回は。」

一二九 冉求(せんきゅう)いわく、子(し)の道を説(よろこば)ざるに非ず、力足らざるなり。子のたまわく、力足らざる者は中道にして廃す。今なんじ画(かぎ)れリ。

 「画」は境界線を引くこと。

 冉求が「先生の説かれる道をけっこうだと思わないのではありまけんか私には力が足りなくてついて行けません。」と言ったので、孔子様が激励しておっっしゃるよう、「ほんとうに力が足りないで中途で行きづまるならやむを得ないが、お前のは力があるのに自分で見限りをつけているのだ。そんなことではだめじゃ。シツカリしなさい。」

一三〇 子、子夏(しか)に謂(い)いてのたまわく、なんじ君子の儒(じゅ)となれ、小人(しょうじん)の儒となることなかれ

 孔子様が子夏におっしゃるよう、「お前は真に徳の高い君子の学者になれ、単なる物知りの小人の学者になるな。」

 伊藤仁斎と安井息軒(そっけん)がそれぞれ左の通り説明している。
 「君子小人は位を以て言う。君子の儒は、天下を以ておのれが任と為し、而して物を済うに志ある者なり。小人の儒は、わずかにその身を善くするに足るを取るのみ、物に及ぼすこと能(あた)わざるなり。子夏は文学余りありと雖も、然れども規模狭小なり。故に夫子(ふうし)その或は小人の儒とならんことを恐る。」
 「けだし子夏は文学を以て称せらる。諸子に比すれば規模やや狭小なり。仲尼(ちゅうに)その末節に滞りて治国の大体に増ざるを懼(おそ)る。いわゆる君子小人は位を以て言うなり。天下を兼ね善くするは。それ君子の儒なり。その身を独り善くするはこれ小人の儒なり。命(めい)に窮達(きゅうたつ)ありといえども、君子の志す所はこれにありてかれにあらざるなり。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №33 [心の小径]

第六章 基督教国の第一印象 5

                       内村鑑三

 余は注意ぶかく余の国籍を読者諸君にかくしてきた(いままでに諸君は大概お判りになったに相違ないが)。しかし余は余自身がシナ人ではないというこの告白はしなければならない。余はあの世界最古の国民に対して―孟子と孔子とを世界に与え、ヨーロッパ人の夢想さえしなかった数世紀前に羅針盤と印刷機を発明したあの国民に対して―種族的関係のあることをけっして恥じないけれども、しかしカントンからきたあわれなクーリーが米国人民によってせめさいなまれるその侮辱と虐待をことごとく余自身で受け取るには、ただ基督教的忍耐を必要とし、それで余の頭脳と心情を正常の状態に保つよりほかはなかった。ここにまた、馬の命名にさえ適用されているアメリカ的へプル語法がシナ人の称呼に用いられる。彼らはみな『ジョン』と呼ばれている、そしてニュー・ヨーク市の深切な巡査さえ我々をその名前で呼ぶのである。『そのシナ人をひろってやれ』は、シカゴの馬車屋のていねいな言葉である、馬車屋には我々は正当な賃銀を支払ったし、セント・.ハトリックの氏子である彼の虚栄心を傷つける事を何もしたのではない。車び同乗していたみなりのりつばな至紳士が自分の胡麻塩翳をとかすのに余に櫛を貸してくれと言った、そして異教国の我々がそういう場合に適当と考えるお礼のかわりに、こう言いながら柳を返した、『ところでジョン、おまえは何処で洗濯屋をしているのかね』と。聡明らしくみえる一紳士は何時われわれが辮髪(べんぱつ)を切ったかをたずねた、そして我々にはこれまで辮髪はなかったのだと聞いて、『おや』と彼は言った、『シナ人には誰にも辮髪があるものと思った。』われわれのモンゴール人種の出を嘲笑することに特殊の喜びをもっているかのようにみえるこれらの紳士達が、自分たちのサクソン人種の長子権に特別に敏感であることは、次の小さな事件によって十分に説明される、 -

  若い日本人技師の一団がブルックリン橋の調査に行った。橋脚の下で吊索(つりづな)の一太一本の構造と張力が論議されていた時であった、シルクハットをかぶり眼鏡をかけ整った身なりの一アメリカ人紳士が彼らに近づいた。『やあ、ジョン』と彼は日本人科学者たちに割り込んだ、『こういうものはシナから来た君たちには恐しく不思議に見えるに違いあるまい、どうだい。』日本人のうちの一人が無礼な質問をきめつけて言った、『アイルランドから来たあなたにもご同様に違いない』と。紳士は怒って言った、『いや、とんでもない、僕はアイルランド人ではない』と。『では同様に我々はシナ人ではない』というのが柔しい返事であった。それは見事な一撃であった、司ルクハット紳士はふくれてしまった。彼はアイルランド人と呼ばれるのを好まなかったのである。

 基督教国の他の非基督教的特徴について語るには余に時が足りない。子供の理解にさえ明らかな単純な道徳をまったく無視してその強固さでは数百万のの金と銀に依存することのできる合法化された富籤(とみくじ)、闘鶏と競馬と蹴球試合の場面で目撃されるような広範な賭博的傾向、スベインの闘牛よりもっと非人間的な拳闘、自由な共和国の人民によりもホッテントット人によりふさわしい私刑(りんち)、規模の大きいことは全世界の貿易に比を見ないラム酒取引、政治における煽動運動(デマゴギズム)、宗教における教派的嫉妬、資本家の圧制と労働者の傲慢、百万長者の愚行、夫の妻に対する偽善的愛情、等々、等々は、如何? これが我々が宣教師によって基督教の他宗教に対する優越性の証拠として受けとるように教えられ文明であるか。ヨーロッパとアメリカをつくった宗教は確かに至高所(いとたかきところ)からの宗教であったに相違ないということを、何たる恥かし気な様子で彼らは我々に公言したことか。もしも今日のいわゆる基督教国をつくったものが基督教ならば、天の永遠の詛(のろ)いをしてその上にとどまらしめよ! 平和は我々が基督教国にて見出し得る最後のものである。混乱である、複雑である、精神病院である、刑務所である、救貧院である!

 ああ、日出(いず)る国の安息、蓮池の静寂が慕わしい! ねむられぬ睡眠から我らを呼びさます汽笛ではなくて、快い熟睡から我々を目醒ます極楽鳥の歌声である。高架鉄道の埃塵(「じんあい)と騒音ではなくて、牛が鳴きながら運ぶ駕籠である。ウォール街投機市場で儲けた血の代価で建てた大理石造邸宅ではなくて、自然の賜物に快い満足をもつ藁ぶき屋根である。太陽と月と星は金銭と名誉とむなしい見せ物よりもより純粋なまたより美しい礼拝の対象ではないか。

 おお、天よ、余は破れた! 余は欺かれた! 余は平和ならざるもののために真に平和なるものを捨てたのである! 余の旧い信仰に立ち帰るには余は今は余りに生長し過ぎている、余の新しい信仰に黙従することは不可能である。おお、祝福された無知が慕わしい!それは余のお祖母さんを満足させたものより以外の信仰を余に知らせずにおいたかもしれない。それは彼女を勤勉、忍耐、真実ならしめ、そして彼女が最後の息を引き取ったとき一点の悔恨も彼女の顔を曇らせなかった。彼女のは平和であった、余のは疑惑である、禍いなるかな余は、余は彼女を偶像崇拝者と呼び、彼女の迷信を憐れみ、彼女の霊魂のために祈った、そのとき余自身はすでに恐怖と罪と疑惑をもって翻弄(ほんろう)されて底知れぬ深淵にふみこんでいたのである。一事を余は将来けっして為さないであろう、―余は基督教をヨーロッパとアメリカの宗教であることによってけっして弁護しないであろう。この種の『外部的証拠』はただ薄弱であるばかりでなく実際にはその一般的影響において有害である。不朽の霊魂を支持しうる宗教は、かような『見せ物』的証拠よりより確実なより深遠な、依って立つべき基礎をもたなければならぬ。しかも余はかつて余の信仰をそのような藁の上に築いたのである。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫




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論語 №43 [心の小径]

一二四 子のたまわく、回(かい)やその心三月(さんげつ)仁(じん)に違(たが)わず。その餘(よ)はすなわち日に月に至るのみ

                  法学者  穂積重遠

「三月」は例によって数をいうのではない、「久しく」ということ。「その餘」を仁以外の「諸徳」とし、根本の仁に違わないので諸徳が毎日毎月積み重なる、の意に解する説もあるが、このあたりは門人の比較論だから、「餘人」とする説に従う。

 孔子様がおっしゃるよう、「顔回は幾月も引き続いてその心が仁をはなれぬが、ほかの連中は、ある月ある日にたまたま仁までゆくかと思うと、じきに脱線してしまう。」

一二五 季康子(きこうし)問う。仲由(ちゅうゆう)は政(まつりごと)に従わしむべきか。子いわく、由(ゆう)や果(か)、政に従うにおいて何かあらん。いわく、賜(し)や政に従わしむべきか。いわく、賜や達(たつ)、政に従うにおいて何かあらん。いわく、求や政に従わしむべきか。いわく、求や藝(げい)、政に従うにおいて何かあらん

 国君(こっくん)の場合には「政を為す」といい、大夫(たいふ)の場合には「政に従う」という。政局を担当すること。「果」は資性剛決。「達」は心胸穎悟(しんきょうえいご)、「何かあらん」は「何の(かた)きことかあらん。」

 季康子が「子路(しろ)は政治に当らせ得ますか。」と問うた。孔子答えて申すよう、「由(ゆう)は決断力がありますから、政治に当るくらい何でもありません。」「子貴は政治に当らせ得ますか。」「賜は事理(じり)に明らかですから、政治に当るくらい何でもありません。」「求(きゅう)は政治に当らせ得ますか。」「求は才能がゆたかですから、政治に当るくらい何でもありません。」

 安井息軒(そっけん)」髭いわく、『政を為すの害、優柔不断より大なるはなし。故に性果(せいか)なる者は以て政に従うべし。達と藝との如きは、すなわちもとより言うを俟(ま)たず。」
 三門人の特色を指摘するとともに、世人は政治というと最上至難のことのように思うが、
果断・明敏・有能の人ならばできることで、何も大したことではない、の意をふくむ。要するに政治技術は末で、身を修め徳を養うことが根本なのだ。′

二六 季氏、閔子騫(びんしけん)をして費(ひ)の宰(さい)たらしめんとす。閔子騫いわく、善(よ)くわが為に辞せよ。もしわれを復(ふたたび)することあらば、すなわちわれは必ず汶(ぶん)の上(ほとり)にあらん。

 門人「閔子騫」名は損(そん)、孝行で名高く、二十四孝の一人だ。「顔淵(がんえん)閔子騫」とならび称せられるので、江戸の儒者先生は「残念ぴんしけん」という地口(じぐち)を言ったことが、三馬(さんば)の『浮世床』に出ている。「汶」は魯(ろ)と斉(せい)の境の川。

 魯の大(たいふ)季氏が、領地の費の代官にしようと思って、閔子騫を招いた。閔子騫が使者に言うよう、「どうぞ私のためにおことわり申してください。もし今一度お召しになるようなことがあると、私は必ず汶の川向うに参ってしまいますぞ。」

 門人で季氏に仕えた者は、子路(しろ)冉求(せんきゅう)をはじめ何人かあるが、よく季氏を補佐して正道に立ちもどらせ得ればけっこうなことなのだから、孔子様はそれを悪いとは言われず、ただ補佐のしかたについて時おり小言も言われたのだ。しかし閔子騫は潔癖(けっぺき)で、季氏ごとき不臣の者には仕えたくなかったのだが、そのことわり方が婉曲(えんきょく)でしかも断然たるところ、いかにもその人らしい。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №32 [心の小径]

第六章 基督教国の第一印象 4

                       内村鑑三

 二、自国の風俗習慣に固執するシナ人は基督教社会に不体裁をもたらす。-なるほど辮髪(べんぱつ)とだらりとした下ばきとはボストンやニュー・ヨークの街上で見てはなはだ体裁のよいものではない。しかし諸君はコルセットと締めつけた腹部とはペキンやバンカウの街上で見て美しいものと思うか。『しかしシナ人はその習性は不潔であり、他人との取引は狡猾(こうかつ)である』と諸君は言う。余は東洋の港々にさまよっている高貴なコーカサス人種のいくつかの見本を諸君に見せることができればよいと思う、あたかも十の帝位を転覆させてしまったかのような風体(ふうてい)でサン・フランシスコ検疫局によって監禁されている憐れな痘痕面(あばたづら)のシナ人のように、彼らは不潔であり、臭気を放ち、濃(う)み潰(つぶ)れている。伝えられるシナ人の道徳的不正行為については、-諸君はかつてシナ人が市瞥察署に爆弾を投じ、アメリカ女性に白昼暴行するのを聞いたことがあるか。もし社会的秩序と品位とが諸君の目的であるならば、なぜドイツ人排斥法とイタリー人排斥法をも同様に制定しないのであるか。諸君がかくも苛酷(かこく)に迫害する憐れなシナ人の不正行為とは何であるか、彼らが無防禦であることと諸君のゴート人的な(野蛮な)意志に卑劣に服従することだけではないか。願わくは我々の国土にいるコーカサス人種在留者の不正行為が教えられシナ人のそれと量りくらべられんことを! もし我々がアメリカにいる孤立無援のシナ人に為される半分だけの侮辱を我々の国土に在留するアメリカやイギリスの市民に為したとすれば、我々は間もなく砲艦隊に見舞われ、正義と人道との名において、その人間としての唯一の価値は彼らが青い目と白い皮膚をもっていることにあってそれ以上の何ものにもないあの無価値な浮浪人(ふろうにん)の生命のために、頭割り五万ドルを支払うことを強要せられるであろう。キリスト教国は、パウロとケパによって唱えられた福音に加えて、もう一つ他の福音を所有しているようにみえる、それが他の憎むべき事とともに
教えるのはこれである、 -
 <力は正義である。そして金銭こそその力である。>

 三、シナ人はその低賃銀によってアメリカ人労働者に損害を与える。―これは他の二つの理由よりもっともらしく聞える。それは輸入労働に適用せられた『保護貿易制度』である。余はシナ人がもう一口多く米の飯が食べられるために、いかなるアメリカ人の家庭も日曜日に鶏肉パイを奪われるのを見たくはない。しかしアメリカの国家的良心をしてこの間題を自問自答せしめよ、―乳と蜜の流れる四、〇〇〇、〇〇〇平方マイルの土地は六五、〇〇〇、〇〇〇のその人民に十分な広さではないか。アイダホ、モンタナ、その他には、カントンとフウチョウの密集した人口がバッファロー(野牛)やグリズリー・ベアー(おおぐま)とあらそって人類のために土地を征服する機会が与えられるいかなる空間も残っていないのであるか。神の聖なる書に、あるいは自然の化石板に、アメリカは白色人種のみによって所有せられなければならないという仮定を証明することになる言明が、発見されうるのであるか。あるいは諸君が自分の虚栄心にすこしも触れられずに議論きれたいならば、諸君は次のように説得されるがよい、-容赦しないユダヤ人が異教徒ギベオン人に惜しまなかっただけの愛を憐れなシナ人に惜しむなかれと、すなわち.彼らを諸君に『薪(たきぎ)を伐(き)り水を汲むことをする者』となし、諸君はそのチュートンあるいはケルトの出にふさわしいより堂々たる職業に行けと。彼らをして諸君のカフスとカラーとシャツとを諸君のために洗濯せしめよ、そうすれば彼らは小羊のような柔和さをもって、また諸君の仲間のコーカサス人洗濯屋の請求する半額で、諸君に奉仕するであろう。あるいは彼らをアリゾナやニュー・メキシコの鉱山に送り、地獄のような暗黒の地底から我々が白昼あれほど尊重する金属を取出さしめよ。『ストライキ』は、諸君のうちの誰かがそれを行う方法を教えなければ、まだ隣れな異教徒のあいだには知られていない。かくも柔和な、かくも不平を言わない、かくも勤勉な、かくも低廉(ていれん)な労働者というものは、諸君は日の下に何処にもほかに発見することはできない。彼らをそのように彼ら独得の産業の方面に使うことは諸君のキリスト教的信仰告白にふさわしいばかりでなく諸君のポケットに有利でもあることを、カナダ国境でしばしば演じられた『シナ人密輸入』の行為によって一度ならず諸君は証明したのである。嫉妬と酒屋とから生れた『政策(ポイシーズ)』によって、なぜ諸君と同じ仲間のものを祝福することを拒絶するのか。なぜ律法と預言者を信じ他国人に対し深切慈悲でないのであるか、これは万軍の主が天の窓を諸君に開いて溢るるばかりの祝福を諸君に注ぎ出したまわんためである。しかし現状では、シナ人排斥法の全趣旨は反聖書的、反基督教的、反福音的、反人道的であるように余には思われる。孔子のナンセンス(たわごと)でさえもこれよよりは造かにまさることを我々に教えるのである。
  (註)『わたしは一時はこの国にシナ人の氾濫することに恐怖をいだいていたことを認めるであろう。しかしこの数年間はわたしは何の恐怖もいだいたことはない。‥‥我々が彼らなしに何を為そうとするか、わたしにはわからない、わたしは彼らがこの国に来る外国人のうちで最も静かで勤勉でまったく推賞すべきクラスのものであると言うをはばからない。これほど学ぶに早いクラスのものはほかになく、これほど忠実な者ほない。― カリフォルニア州上院議員スタンフォード。

『余は如何にして基督信徒になりし乎』 岩波文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №31 [心の小径]

第六章 基督教国の第一印象 3

                     内村鑑三

 他のいかなる点においても、しかしながら、基督教国はその人民の間に依然として存在している強い人種的偏見の点においてより以上に余に異教国のように見えたことはない。『不名誉の世紀』の後にも、幾多の残酷非道な方法によってその土地を奪取された森林の鋼色人種は、依然として一般人には野牛やロッキー山の羊より以上のものとはみなされず、野獣のように罠に掛けられ狩猟されている。今日デボンの牡牛とジャージーの牝牛を輸入するように、しかもまさに全く同じ目的のために、彼らがもともとアフリカから輸入した一千万のハム人種については、約三十年前多大の同情と基督信徒的兄弟愛が示され、そしてあのサクソンの義人ジョン・ブラウンから始まり国民の精華五十万が、神のかたちをしたものを売買するという不法を購うために屠(ほうむ)られることになった。そして彼らは今は『黒ン坊』と同じ車に乗るまでに謙遜になったけれども、彼らは自分の血をもって購った種族から自分を適当の距離に引離しておくことによって、彼らのヤベテ人種の誇りを依然として維持する。南方デラウェア州へ余はかつて友人の一人に彼の客として連れて行かれたが、余はそこで一つの町に全部が黒人に引渡されている特殊区域があるのを見出して驚いた。このようにはっきり人種的差別をすることは余にははなはだ異教徒らしく見えると友人に告げるや、彼は力をこめて答えた、自分は基督信徒となって『黒人』と同一区域に住むよりはむしろ異教徒となって彼らから離れて生活したいものだと。

 しかし彼らの感情がインディアン人とアフリカ人に対して強烈で非基背教的であっても、シナの子らに対して彼らがいだく偏見・嫌悪・反感は我々異教国のものがかつて類例を見たことのないものである。宣教師をシナに送ってその息子と娘を孔子のナンセンス(たわごと)と仏陀の迷信とから基脅教に回心させようとする国、-その同じ国が、その土地の上に投ずる一シナ人の影をさえ嫌悪する。この地球面上にこのような変則はかつて見られなかった。基督教外国伝道は、子供の遊び、セルバンテスの機智をはたらかせた騎士道よりもっと子供っぽい騎士道であるか、それはそれを送る国民によってこれほどまで嫌われる国民に送られなければならないのであるか。

 シナ人をして基督信徒アメリカ人にとってかように好ましくないものたらしめる主な理由は、余の了解するところでは三つある。

 「シナ人は彼らの貯蓄をすべて故郷に持ち去る、かくして国をを貧しくする。-すなわち、彼らがアメリカ人に受け入れられるためには、米国で儲けたものをみな消費し、空手で帰郷しなければならない。自分たち自身には勤勉貯蓄の教訓を説く人々からこういうことを開くとは奇妙な教義である。『すべて人にせられんと思うことは、なんじらまた入にもそのごとくせよ』である。我々の国に来るアメリカやヨーロッパのすべての商人、学者、技術者、-彼らはその所得をすべて我々のところに残しておき、彼らの受取りとなる銀行勘定なしで帰国するか。我々は彼ら一人一人に金貨で一カ月二百、三百、四百、五百、八百ドルを支払っても、彼らはほとんどその三分の一も普通には我々の国では使わず、自分の故国で安楽と慰籍を買うために残額を持って帰るではないか。しかも我々は感謝をもって、絹布の衣服と青銅の壷の贈り物をもって、またしばしば勲章とそれに附随する年金をもって彼らを送る。彼らは我々が支払った金に相応する貢献をした(少くとも我々はそう想像する)、そして我々は彼らに盗まれたとは考えない。シナ人は鉄道をロッキー山脈に切開く手助けをしまたカリフォルニアで葡萄園を親培し濯漑したのに、いったいいかなる法律によって自分の所得はこれをすべてアメリカに置いて行くことを強制せられるのであるか。彼らは金をただで持ち出すのではない、自称基沓信徒たちが時には無防禦の異教徒に砲口を向け、乳をふくませている母の胸かち柔かな赤ん坊をさらって行ってそういうことをやったように。シナ人は彼らの持ち去る金録と等価値の仕事をあとに痍して行くのである。壷は今や自然の本来の法則によって彼らのものである、そしてなんじは誰なれば神聖な所有権を正直な労働の子らに拒むのであるか! 我々『憐れむべき異教徒』は我々の御雇外国人を栄誉と儀礼をもって送り、そして彼ら『祝福された基督信徒』は嘲笑的な言葉をもって我々を蹴り出す。こういう事があり得るか、おお復讐の神よ!

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №42 [心の小径]

一二二 子華(しか)、斉(せい)に使いす。冉子(せんし)その母の為めに粟(ぞく)を請う。子(し)のたまわく、これに釜(ふ)を与えよと。益(ま)さんことを請う。のたまわく、これに庾(ゆ)を与えよ。冉子これに粟五秉(ぞくごへい)を与う。子のたまわく、赤(せき)の斉に適(ゆ)くや、肥馬に乗り軽裘(けいきゅう)を衣(き)たり。われこれを聞く、君子は急を周(すく)いて富めるに継がずと。原思(げんし)これが宰(さい)となる。これに粟九百を与う。辞す。子のたまわく、なかれ以てなんじの鄰里(りんり)郷党に与えんか。

                  法学者  穂積重遠

 「子華」はすなわち「赤」で、孔子様に外交官に適すると評された門人、ここでも国際便節に出かけたのだ。「粟(ぞく)」ここでは「アワ」ではなくて玄米の扶持米。それ故「ぞく」とよむ。「釜」は六斗四升で我が国の五升七会五勺弱〔約、一〇、三リットル〕。「庾」は十六斗で、一斗四升三合七勺余〔約、二五・九リットル〕。「秉」は十六斛(こく)「五秉」だと七石一斗八升五合九勺余〔約、一、三キロリットル〕になる。なお「釜」と「庾」の上にも数字があったのが落ちたのかも知れない。それでないとあまり開きが大き過ぎるようだ。「九百」は斗か石か不明。「原思」は門人原憲(げんけん)、字は子思(しし)。五家を「鄰」となし、二十五家を「里」となし、一万二千五百家を「郷」となし、五百家を「党」とする。地域的相互扶助団体で、いわば「隣組」だ。古歌に「里人の軒をならべて住む宿は五つまでこそ隣なりけれ」とあって、中国の「鄰」の制度が我が国に伝わって「五人姐」になったことを示す。また武蔵の国の「児玉党」などというのが、『源平盛衰記』あたりに出てくる。「なかれ」を下につけて「与うることなからんか」とよむ人もある。

 子華が斉に使節として行ったとき、冉求(せんきゅう)が、留守居のその母に扶持米を与えてください、とお願いした。すると孔子様が「五六升やったらよかろう。」と言われた。「それではすくな過ぎますから、今すこし増してください。」と重ねてお願いした件で、「それでは一斗五升与えるよう。」とおっしゃった。しかるに冉求は自分のはからいで、七石余も与えた。そこで孔子様が、「赤が斉に使いするに、肥えた馬に乗り軽い毛ごろもをきるという大した仕度で出かけた。それくらいなら留守の用意もできているはずである。『君子は急場を救うが富のつぎたしはせぬ。』という諺を聞いたことがあるが、お前のやり方は『富めるを継(つ)ぐ』というものじゃ。」とさとされた。また孔子様が魯の大夫(たいふ)になられたとき、門人の原思を執事に採用して俸禄米九百を与えることにしたところ、原師は「多過ぎます」と辞退した。孔子さまがおっしゃるよう、「多すぎるなら隣組に配給するなどもよいではないか。」
 
 『孟子』に、「以て取るべく、以て取ることなかるペし。取れば簾(れん)を傷(やぶ)る。以て与うべく、以て与うることなかるべし。与うれば恵(けい)を傷る。」とあるが、冉求はあたうべからざるを与えたのだから「恵を傷る」ものであり、原思の場合は取るべきを取るのだから、「廉を傷る」ことにならぬのである。人に金品を与えるのもなかなかむずかしいものだ。古川柳にいう「人に物ただやるにさえ上手下手」

一二三 子、仲弓(ちゅうきゅう)に謂いてのたまわく、犂牛(りぎゅう)の子(こ)辛(あか)くして且つ角(かく)ならば、用うるなからんと欲すと誰も、山川(さんせん)それこれを舎(す)てんや。
                                        
 仲弓がその父のくだらぬ人物であることを悲観しているのを慰め励まされた言葉と思う。確証はないが、そうした方が話がおもしろい。したがって「謂仲弓」を「仲弓を謂いて」でなく、「仲弓に謂いて」とよみたい。「犂牛」は「ぶち牛」。駄牛(だうし)で祭のいけにえにならぬ。「角(つの)あらば」とよむ人もあるが、角の有無の問題ではなくて、角の形の問題だから「角(かく)ならば」とよむ。「舎」を「おく」とよむ人もある。これはどちらでもよかろう。

 孔子様が仲弓に向かっておっしゃるよう、「ぶち牛の子でも、色が赤くて角のかっこうがよければ祭のいけにえに用いまいと思っても、山川の神が捨ておかれようや。お前も父親のことなどクヨクヨせずに、自身の勉学修養に粁出しなさい。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №30 [心の小径]

第六章 基督教国の第一印象 2

                      内村鑑三

 金銭(かね)はアメリカでは全能の力であるという噂は、我々の実際的経験の多くによって確証された。我々のサン・フランシスコ到着の直後、『基督教文明』に対する我々の信仰は我々の仲間の一人の身にふりかかっ不幸によって厳しく試みられた。彼は五ドル金貨一枚を入れた財布を掏(す)られたのである!『基督教国にも異教国のように掏摸(すり)がいる』と我々は相互に戒めあった、そして落胆と混乱の中に我々が盗難にかかった兄弟を慰めていたときに、年寄りのi一婦人が(この婦人は後で我々に語るところによれば、善人たると悪人たると人類の普遍的救済を信じているとのことであったが)我々の不幸をひどく心にかけ、掏摸、強盗、追剥(おいはぎ)、そのほか罪深い人類のあらゆる犯罪が自分の国にもやはり無くはないとて、今後の危険について我々に注意を促してくれた。我々がただ願ったことは、しかしながら、我々からあの大切な五ドル金貨を奪った暴漢がけっして天国に行かずに実際に永遠の地獄の火の罪にさだめられることであった。
 しかし我々がシカゴに来た時のことであった、最高の精神的意味のマモニズムが眼前に現れたのは。停車場食堂で移民列車四日間の激動の後に、我々の霊魂の元気恢復者をありがたく想起しながら、我々は冷鶏肉(コール・チキン)のそれぞれ一片で元気を恢復したが、そこで我々は皮膚は黒く毛髪は縮れ、まざれもないハム系人種のしるしのある一群の給仕人に取巻かれた。我々が卓上の賜物(たまもの)にあずかる前に頭を垂れるや、その一人が我々の肩を叩いて言った、『みなさんはりっぱな人だヨ!』と。我々が彼らにその信仰を告げるや(我々はマタイ伝十章三十二節の文字通りの意味を信じていたのである)、彼らは我々に自分たちはみなメソヂスト信者であり、神の国の普遍的拡張に多大の関心をいだいている旨を告げた。まもなくそこにもう一人のハム人が現れた、彼は彼らの教会の執事であると紹介された。彼は我々にはなはだ深切であった、我々相互の信仰の我々の国における進展について我々が告げたことに彼は興味あり気に耳を傾けた。我々は我々に共通の主なる君のために好意と奨励とを交換した。彼はまる二時間我々に附添ったが、そのとき出発の時刻が来た。彼は我々の旅行鞄をみな肩に担いで、我々の切符が調べられる場所にまでついてきた、彼の我々に対する注意と深切はこの通りであった。丁重に厚く感謝して我々は手を出して荷物を受け取ろうとした、それに我々のメソジスト執事は反対した。かえって我々に向かって彼の薄暗い手を差し伸べて言った。“Jist gib me somding”(まあいくらかやってください)と。彼は我々の旅行鞄を保管していた、そしてただ“somding”(いくらか)だけが彼の手からそれを取り返すことができた。機関車のベルは鳴っている、彼と議論する時ではなかった。我々はめいめい五十セント貨を彼の手に投じた。我々の所持品は我々に引き渡された、車室へと我々は急いだ。そして列車が動き始めたとき我々はびっくりして互に顔を見合せた、そして言った、『愛さえここでは物々交換である。』それいらい我々は黒人執事の深切な言葉にけっして信頼しなかった。
 その後二年、余が再びフォール・リヴァー汽船の船上で新しい絹洋傘を盗まれた時には、その汽船の善美をきわめた装飾と妙なる音楽とはその下にひそむ不届きの根性を夢にも知らせなかったので、もういちど余の異教的無邪気さを解放したのであるが、-そのとき余は生れてただ一度だけ、家なき他国人からその恐ろしい窮乏の時に雨除けを盗むことのできたあの呪うべき悪魔が罪に定められることを祈ったほど、それほど鋭く余はその不幸を感じたのである。四世紀以前のシナ文明さえなんぴとも路に落ちた物を拾わなかった社会状態を誇ることができた。しかるにこの基背教国の河の上で、ハンデルとメンデルスゾーンの音楽に魅惑された浮御殿の中で事は盗賊の巣におけるがごとく不安であったのである。
 じつに基督教国における物事の不安は我々にはまったく勝手の違うところがある。余はこれら基督教国の人々の間ほど鍵を広く用いるのを見たことが無い。我々異教国の家庭の者は鍵を持ちうることははなはだ少ない。我々の家は大概は誰にでも開け放しである。猫は楽しげに自由勝手に出入りし、人は微風に顔を吹かせて昼寝をする。しかも召使や隣人にはいやしくも我々の所有物を犯す心配は感じられない。しかるに基督教国においては事はまったく異なる。金庫や鞄に鍵がかかっているばかりではない。あらゆる種類のドアと窓と、箪笥、引き出し、氷箱、砂糖壺、一切である。主婦は腰に鍵束の音を立てながら用事に歩きまわる、独身者は夕方家に帰ってまず手をポケットに突っこんで約二三十の鍵の束を取出して自分の寂しい部屋を開けてくれる一つの鍵を探し出さなければならない。家は表てのドアから針箱まで錠がかかっている、あたかも盗みの霊が空間のすべての立方インチに浸透しているかのように。我々の国には、人間のうち最も疑い深い人が言ったものと思うが、こういう諺がある、『煙を見れば火事と思え、人を見れば泥棒と思え』と。しかしよく鍵のかかっているアメリカの家庭のようにこの命令が文字通りに実行されているのを見たことがない。それは現代の横溢(おういつ)する貪欲(どんよく)に応ずるように変更された小型の封建的居城である。セメント造りの部屋と石造りの円天井を必要とし、ブルドッグと警官隊とによって警戒される文明が基督教的と称せられうるかどうかは、正直な異教徒の真面目(まじめ)に疑うところである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波書店

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論語 №41 [心の小径]

一二〇 子のたまわく、雍(よう)や南面(なんめん)せしむべし。仲弓(ちゅうきゅう)、子桑(しそう)伯子(はくし)を問う。子のたまわく、可なり。簡なり。仲弓いわく、敬に居て簡を行い以てその民に臨まば、亦可ならずや。簡に居て簡を行わば、すなわち大簡なるなからんや。子のたまわく、雍の言(げん)然(しか)り。

                  法学者  穂積重遠

 「仲弓いわく」以下を別章にしている本もあるが、一章にした方がおもしろかろう。しかし後段は前段の続きではなく、むしろ前段の証明である。
 天子は政治を聴くに「南面」して座する。臣下は「北面」。日本でも昔「北面の武士」などといった。
 「子桑伯子」はどういう人かわからない。

 孔子様が門人冉薙(ぜんよう・字は仲弓)をほめて、「薙は人君として南面させてもよい人物じゃ。」と言われた。かくまで言われるには理由がある。仲弓がかつて子桑伯子のことをおたずねしたときに、孔子様が、「よい人物じゃ。大まかでコセコセしない。」 と言われた。すると仲弓が、「心のもち方は慎重で、する事は大まかなのが、君として民に臨む道ではありますまいか。気持も大まか、する事も大まかでは、大まか過ぎはいたしませんか。」とおたずねした。孔子様が感心して、「なるほど薙の言うとおりだ。」とおっしゃった。かような事もあったので、孔子様が仲弓を人君の度がある、と辞されたのである。

一二一 哀公(あいこう)問う。弟子(ていし)いずれか学を好むとなす。孔子対(こた)えていわく、顔回なる者あり、学を好めり。怒りを遷(うつ)さず。過ちを弐(ふたた)びせず。不幸短命にして死せり。今やすなわち亡し。未だ学を好む者を聞かざるなり。

 顔回が死んだのは、三十二歳ともいい、四十二歳ともいう。いずれにしても若死であった。「人生五十」なので、それ以下で死ねば「短命」なのだ。

 哀公が「門人中誰が一番学問が好きか。」とたずねたとき、孔子は「顔回と申す者がござりまして、学問が好きでありました。そして腹を立てても八つ当りせず、同じ過ちを二度としませんでした。ところが不仕合せにも短命で亡くなりまして、今はこの世におりません。それ以外には本当に学問が好きと申すべき者を存じません。」とお答えした。

 弟子三千人、六藝(ろくげい)に通ずる者七十二人、その中で「学を好む者」はタッタ一人、というところをみると、孔子様の「学を好む」とは、読書好きという程度ではなく、「怒りを遷(うつ)さず、過ちを許せず」というような修養の芸をすることなのだ。そしてその修養工夫をほんとうに楽しむ者は、数多い門人中にも顔回だけだった、と言われたのであって、前にもあったように、仁とか学とかに対する孔子様の採点は非常にからいのである。
 「怒るな」「過ちすな」とは言われず、「怒りをうつすな」「過ちをふたたびすな」と言われるあたりが、孔子様の教えの実際的なところだ。そしてこれがなかなかむずかしいことで、私なども、過ちを二度三度するはおろか、この歳になっても腹立ちまぎれに女房子や戸障子にまで当りちらして、あとでわれながらあさましく思うことが絶対にないとはいえない。古川柳にも、「しかられた下女(げじょ)膳立(ぜんだて)のにぎやかさ」とあって、あんまりみっともよいものではない。
 顔回をかなしみ惜しむ孔子様の言葉は、後にも何度か出てくるが、この章などもまことに情愛の深い文章だ。「今やすなわち亡し」を、学を好む者今はなし、の意味に解する人があるが、それには「亡」の字では当らぬし、第一そんなよみ方をしては、せっかくの名文の方が死んでしまう。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №29 [心の小径]

   第六章 基督教国の第一印象

                       内村鑑三

 余が基督故国と英語国民とを特別の尊敬をもって眺めていたことは余としては全く弁解のできない弱点ではなかった。ヲロシアのフレデリック大王をしてフランス文物の奴隷的崇拝者たらしめたものは同じ弱点であった。余はすべて高貴なもの、有用なもの、向上的なものを英語という運搬車を通して学んだ。余は余の聖書を英語で読んだ、バーンズの註解書は英語で書かれていた、ジョン・ハワードはイギリス人であった、ワシントンとダニル・ウェブスターはイギリス人の子孫であった。『ダイム・ノヴェル』(十セント小説)はかつて余の手中に置かれたことはなかった、スラング(俗語)などは、― その言葉そのものをも英語国民の間に生活してずっと後まで知らなかった。余の基督教的アメリカ観は高潔で宗教的でピューリタン的であった。余は教会堂のある丘、聖歌と讃美をもって響き渡る岩山を夢みた。へブル語法はアメリカ庶民の一般に通用する言葉であり、ケルプとケルビム、ハレルヤとアーメンは街上の通俗語であると考えた。
 余はしばしばたしかな証拠をあげて聞かされた、金銭(かね)はアメリカではすべてのすべてであり、それはそこでは全能のドルとして礼拝されている、人種的偏見はそこではきわめて強く、黄色の皮膚とアーモンド形の眼は嘲笑の的、犬の吠える目標として通っているほどである、等々、等々と。しかし余がこういうような申立てを何か真相に近いこととして信用することはまったく不可能であった。パトリック・ヘンリーとエブラハム・リノンカーンの国、ドロテア・ディックスとスチーヴン・ジラードの国、― それがどうしてもマモン教礼拝と人種差別の国でありえよう! 余には事を判断する異った眼があると考えた、―異教文明にまさる基督教文明の優越性について読みかつ開いたことに対する余の確信はそれほど強くあった。じつに余の心に描かれたアメリカのイメージは聖地のそれであった。

 一八八四年十一月廿四日の夜明けがた、余の狂喜した限はまず基督教国のかすかな光景をとらえた。もういちど余は余の下等船室に降りた、そこで余はひざまずいた、― その瞬間は余がその時の一般乗客の興奮に加わるにはあまりに重大であった。低いコースト・レーンジ(海岸山脈)が余の視野にいよいよ明瞭になってきたとき、自分の夢はいまや実現せられつつあるという感じが感謝の念とともに余を圧倒し、涙ははげしく頬を流れ落ちた。まもなくゴールデン・ゲートを過ぎた、そしていまや余の視野に現われた煙突と檣頭(しょうとう)はすべて天を指す教会の尖塔のように見えた。我々は上陸した、― 約二十人の青年の団体.であった、― そして余の国の人々に特別の深切を示すことで知られていた一アイルランド人所有の旅館に貸馬車で連れて行かれた。余のこれまでのコーカシア人種との知合はおおむね宣教師とであったから、その考えが余の心に密着していた。それで街上で出会う人はすべて余に高い基督教的目的に満ちた同じ数の教役者のように見えた。余は長子どもの集りの中を歩いていると想像せざるをえなかった。ただ徐々として、きわめて徐々としてであった、余がこの子供らしい理想を棄てたのは。

 しかり、少くともある意味のへブル語法はアメリカでの普通の語法であることを知った。まず第一に誰でも一つヘブル名前をもっている、馬でさえそこでは鮮麗名をつけられている。我々は極度の畏懼(いく)と尊敬の念なしには決して発音しなかった言葉が、労働者、御者、靴磨き、その他のよりりっばな職業の人々の唇に上る。わずかな立腹にも一々何かの宗教的誓言がともなう。ホテルの談話室(パーラー)で我々は外見立派な一紳士に新しい大統領当選者(クリーブランドであった)をどう思うかと質問した、彼の力をこめた答は強烈にへブル的であった。『By G―(―様にかけて)』と彼は言った、『あいつは悪魔だ。』紳士は後で頑固な共和党員であることがわかった。我々は移民列車で『東部』に向って出発した、汽車が急停車して我々がほとんど座席から投げ出されそうになったとき、同乗客の一人は彼の立腹をまた別のへブル語法で表現した、『J―Ch―(イー・キー)』と、そしてそれにつれて足を踏み鳴らした。その他かくのごとしである。すべてこのようなことはもちろん我々には全く耳なれないことであった。まもなく余はすべてこのようにヘブル語法の底に横たわる深い聖品濫用罪を発見することができた、そして余はこれらを十誡第参条の公然な蹂躪(じゅうりん)と考えた、この誡の特別の用法と意義とをを余はこれまではけっして理解することができなかったが、しかしここにはじめて『生きた実例』をもって教えられたのである。
 アメリカ人の日常の話に宗教用語の使用がきわめて一般的であることはこういう話があるほどである。― 一フランス人移民が一冊の英仏辞典をたずさえ、アーブル出発の初めから彼が聞いた英語をひとつひとつそれで引いた。フィラデルフィア埠頭に上陸するや、彼が人々の話してるのを聞いた最も普通の言葉は『ダム・デヴル(damm-devil)であった。彼は直ちに自分の辞書に向かった、しかしその中にかような言葉を見出すことができないで、こんなに普通の語が載っていない辞書はアメリカではこのううえ何の役にも立たないに相違ないと考えて、それを棄ててしまったというのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫            


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論語 №40 [心の小径]

一一七 顔淵(がんえん)・季路(きろ)侍す。子のたまわく、なんぞ各(おのおの)なんじが志を言わざる。子路いわく、願わくは車馬衣軽裘(しゃばいけいきゅう)、朋友と共にし、これを敝(やぶ)りて憾(うら)みなけん。顔淵いわく、願わくは善に伐(ほこ)ることなく、労を施(うつ)すことなけん。子路いわく。願わくは子の志(こころざし)を聞かん。子のたまわく、老者はこれを安んじ、朋友はこれを信じ、少者(しょうしゃ)はこれを懐(なつ)けん。

                  法学者  穂積重遠

 「労に施る」とよむ人もあるが、前の句とヨミも意味も変えて「施す」としたい。「老者には安んぜられ、朋友には信ぜられ、少者には懐かれん」とよむ人もあるが「志を言う」のだから、前記のごとく働きかけでありたい。

 顔淵と季路(子路)とが孔子様のお側に侍していたとき、孔子様が「どうだ、お前たちめいめいの志を言ってみないか。」と言われた。すると子路が、「車でも馬でも上等の上着でも軽い毛皮の外套(がいとう)でも、友人に融通し破り棄てても惜しがらぬように、どうかなりたいものと思います。」と言った。すると顔淵が言うよう、「善事をしても自慢せず、骨折りを人に押しつけることのないように、どうかなりたいものと思います。」
 そこで子路が、「ひとつ先生のお志をうかがいたいものであります。」と言ったので、孔子様がおっしゃるよう、「年寄りを安心させたい、同輩を信用したい、若い者をなつかせたい。」

 孔子様とふたりの高弟との打ち解けた話が見え聞えるようだ。そして各人の言うところがそれぞれふさわしく、そして大げさでないのがよい。子路がまず口を切りまた先生をうながすところがその人らしい。孔子様の大願はさすがに平和にして雄大、全人類を包含(ほうがん))している。私自身ももちろん及ばずながら、今までこれを目標とし来たのだが、面目ないことには、老者を安んじ得ぬうちに自分が安んじられる老者になってしまった。

一一八 子のたまわく、己(や)んぬるかな。われ未だ能くその過ちを見て内自ら訟(せ)むる者を見ず。

 孔子様がおっしゃるよう、「だめじゃのう。わしはまだ、自分で自分の過ちを発見して自分で自分を責める者を見たことがない。」

一一九 子のたまわく、十室(じっしつ)の邑(ゆう)、必ず忠信丘(きゅう)の如き者あらん、丘の学を好むに如かざるなり。

 孔子様が紆っしゃるよう、「家数十戸バカリの小村でも、丘ぐらいの忠実信義の者はひとりやふたりは必ずあろう。ただ丘ほどの学問好きがないのじゃ“

 自分はけっして生れながらの聖人でも賢人でもない、ただ勉学修養に骨折っただけだ、とは孔子様の口癖である。それではあまりご自慢に過ぎるというので、「いずくんぞ丘の学を好むに如かざらん」とよませ、「わしぐらいの学問好きもありそうなものじゃ」の意とする説もある。しかし孔子様は好学の点では自ら許しておられたのであって、サア皆もわしに続け、と若い者を激励された言葉と見る方がおもしろい。

『新訳論語』 講談社学術文庫

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