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文化的資源としての仏教 №7 [心の小径]

文化的資源としての仏教7                
                 立川市・光西寺住職 寿台順誠

        往生考⑸――往き生れること:going to and birth in the Pure Land

 前回までは「往生」という言葉の三つの世俗的・一般的意味(死・困・諦)について記してきた。今回は最後にその宗教的・仏教的意味について考えてみたい。
実は、「往生」という言葉については、一般によく使用される世俗的な意味よりも、仏教的な意味の方が、簡単で分かりやすいということが言える。例えば、日本語(漢字)を勉強し始めたばかりの非漢字文化圏出身の外国人が「往生」という文字を見たら、まずはそのままストレートに「往き生れること」という意味に受け取るのではないだろうか。実際、この言葉を英訳する場合には、文字通り “going to the Pure Land” や “birth in the Pure Land” と訳されることが多いようである。
 このような英訳を見ることは、日本人にとって、新鮮な驚きをもたらすのではないだろうか。「そうか、往生というのは、そのまま文字通りに受けとめればよいのか!」と。また、「浄土」を “Pure Land” と表すのも、物事を分かりやすくしてくれるであろう。「それならば、我々がいま住んでいる〈穢土〉は “Dirty Land” と言えばよいのだろう」と、我々が住んでいる世界のありようも明らかにしてくれるのである。そして、「それならば、“Dirty Land” は去って “Pure Land” に往きたい」という願いが出てくるのも自然なことであろう。但し、法事などでこの話をする時には、「“Pure Land” というのは、サンリオの “Puroland” ではありませんよ。多摩市のピューロランドであれば、立川からでも車で30分も走れば行くことができますが、ピュアランドは〈西方十万億土〉を過ぎたところにあると『阿弥陀経』には書かれていますので、そんなに簡単には行けません。それに、そこに行くにはやはり行くための手続きがあり、〈阿弥陀仏の本願を心より信じて念仏する〉ということがないとやはり行けませんね」、などと私は冗談めかして注釈を加えることが多い。
 他方、外国人にとっては、「往生」という文字を見ても、そこに「死」や「困」や「諦」という意味があるとは考えにくいであろう。ところが、日本人は「往生」と聞くと、まずは「死」だの「困」だのという意味を連想し、マイナスのイメージをもってしまう場合が多いので、それでこれをストレートに「往き生れること」だとは考えられなくなってしまっているのである。だから、その分かえって仏教信仰にはつながりにくいのではないだろうか。
 しかし、そんな日本人にとっても、「極楽浄土に往生したい」という願いがリアリティをもつ場面はある。もう20年も前になるだろうか、私がまだ30代後半の頃だったが、当時50代でガンのため亡くなったある男性の葬儀を執行したときの話である。通夜の晩の食事の時、故人の奥さん(喪主)から、「主人はとても痛がって亡くなりました。人間はあの世に行っても痛いものでしょうか?」と真剣に尋ねられた。私はその問いを聞いて逆に、「だからこそ、人間は〈往生安楽国=安楽国に往生すること〉を願わざるを得ないのだ!」ということを教えられた気がしたので、その旨を申し上げた。そもそも「極楽(sukh・vat・)」とは「楽あるところ」「幸福が満ちているところ」という意味であり、人間はそのように痛みや苦悩を免れない存在だからこそ、「極楽浄土に往き生れること」を願わざるを得ない存在なのではないか、と。その話を聞いて、その奥さんは「安心しました」と言って下さった。その時、私は実際の痛みに苦しんだ人の話を聞くことによって、「往き生れること」という文字通りの「往生」の意味のリアルな根拠を示されたと感じたのである。
 そうである。やはり人は誰でも、根本的には「安楽国に往生したい」と願っているのである。

 おわりに――往生考のまとめ
今回まで五回にわたって「往生」について考えてきた。最後に、ここまで述べてきたその四つの意味(死・困・諦・行き生れること)がどのように関連し合っているのかを記して、往生考のまとめとしたい。
まず「困」という意味について言えば、この意味で「往生」の語を使用するのは、できる限り減らしていった方がよいであろう。というのは、「往生」をこの意味で使用する限り、人はやはり「往生したい」(つまり「困りたい」)とは思わないからである。が、悩ましいのは、おそらく列挙してきた語法の中では、これが一般的には最もよく使用されているものではないかと思われるので、この語法をやめていくのはなかなか難しいと思うことである。例えば、「車が渋滞で立往生している」ということを、「車が渋滞で困っている」などと他の表現に置き換えようとしても、うまく事柄を表現できないと思うのである。その代わりにどんな表現がよいのか。まさに我々がこれから築いていく文化の問題であろう。
 それから次に、「往生=死」について言えば、確かに「往生」は本来的にはむしろ「生」であって「死」ではないから、これはまったく逆の意味である。しかし、極楽浄土に「往き生れる」ためには、一旦この穢土においては「死」ななければならないので、「死して後、はじめて生れることができる」という意味において、「死ぬこと」は「往き生れること」と必然的に関係していると言ってよいであろう。
 そして、その際に大きな意味を持ってくるのが「往生=諦」の意味である。先に記したように、「諦め」には「諸行無常という真理を見極めた上で、この世の生は断念すること」という意味があると言えるからである。そのような穢土に対する「諦め」を通してはじめて、極楽浄土に「往き生れたい」という願いが生ずるのである。
 だいたい以上のような形で、「困」「死」「諦」という「往生」の世俗的・一般的意味は、「往き生れること」というその宗教的・仏教的な意味と関連し合っていると言えるであろう。こうした道理を弁えながら、極楽浄土に「往き生れたい」という願と信が確立するとき、人ははじめて浄土教徒になることができるであろう。ともあれ、「往生」という言葉を一種の文化的資源として受け取り直すことができるならば、日本人は案外ちゃんとした仏教徒になれるのかもしれない。(これにて「往生考」を終える。次回からは「四苦八苦」について考えたいと思っている。)

論語 №28 [心の小径]

七一 子のたまわく、富とた貴(たっとき)とはこれ人の欲するところなり。その道を以てせざればこれを得るも処(よ)らず。貧(まずしき)と賎(いやしき)とはこれ人の悪(にく)むところなり。その道を以てせざればこれを得るも去らず。君子仁を去りていずくにか名を成さん。君子は終食(「しゅうしょく)の間も仁に違(たが)うことなし。造次(ぞうじ)にも必ずここにおいてし、顚沛(てんぱい)にも必ずこにおいてす。

                            法学者  穂積重遠

 「これは三回の言葉を集めたのだ」との説もあるが、必ずしもそう考えなくともよい。ひと続きの教訓としてリッパに筋が通っている。「仁を違(さ)る」とよむ人もある。「造次」は「さしせまりてあわただしい」「顚沛」は「たおれくつがえる」。

 孔子様がおっしゃるよう、「富貴(ふうき)を欲するのは人情だからそれを欲してわるいことはないが、それが人生の目的ではなくて、仁が最終目的だから、仁にかなう道によったのでなければ、たとえ富貴を待ても君子は安んじない。貧賎(ひんせん)をいやがるのは人情だから、それから去ろうとするのはけっこうだが、仁にかなう道によってでなければ、君子は貧賎から去ることをいさざよしとしない。君子が仁をはなれてどこに君子たるゆえんがあろうや。君子たる者は、一食をすます短い時間でも仁からはなれぬ。サアた
いへんというあわただしい際でも、危急存亡の瀬戸ぎわでも、仁を忘れぬが君子というものぞ。」

 造次顚沛の間にまごついている今日の私たちにとって、頭上から三斗の冷水をあびせら
るような大教訓である。「終食の間も仁に違わず」どころか、一日たべることばかりにあくせくして仁のジの字も思い至らぬ私たちがはずかしい。

七二 子のたまわく、われ未だ仁を好む者不仁を悪(にく)む者を見ず。仁を好む者は、以てこれに尚(くわ)うることなし。不仁を悪む者は、それ仁を為し、不仁者をしてその身に加えしめず。能く一日その力を仁に用うることあらんか、われ未だ力の足らざる者を見ず。けだしこれ有(あ)らん、われ未だこれを見ざるなり。

 「それ仁為(な)り」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「わしはまだほんとうに仁を好む者また不仁をにくむ者を見たことがない。仁を好む者なら最上だが、不仁をにくむ者も、自らは仁を為し不仁者の影響を受けない。それだけのことのできる者をも見ないのは、残念なことじゃ。そしてそれがむずかしいことかといえば、けっしてそうではない。たとえ一日なりとも力を仁に用いようと志す者があるならば、それにも力が足りない者は見たことがない。ことによったらあるかも知れぬが、わしはまだ見たことがないわい。」 

七三 子のたまわく、人の過ちや各(おのおの)その党においてす。過ちを観てここに仁を知る。

 「覚」に二説ある。第一説は、君子の過ち小人の過ちというような過失の種類とする。第二説は、親ばかというような親愛するところに偏する過失とする。前説の方がおもしろいようだ。

 孔子様がおっしゃるよう、「誰にも過失はあるが、過失にもタチの良いのと悪いのとあるから、過失を観察してもその人物の仁不仁がわかる。」

 『韓非子』にこういう話がある。孟孫氏が猟に行って二匹の子鹿をいけどりにし、それを家臣にあずけた。数日たってあの子鹿を持って来いといったところ、親鹿が子をさがして鳴く声があわれなので、逃がしてやったという。いったんは立腹して追い出したが、後に召し返して我が子の付き役にした。

七四 子のたまわく、朝(あした)に道を聞いて夕(ゆうべ)に死すとも可なり。

 孔子様がおっしゃるよう、「朝のうち人の道を学び得たら、夕方死んでも宜しい。」

 これは学者にとっての至上命令として、不肖ながら常に口ずさみ来った言葉だ。貝原益軒の辞世の詩にも、
 平生(へいぜい)の心曲(しんきょく)誰有ってか知らん
 常に天威(てんい)を畏(おそ)れて欺(あざむ)くなからんと欲す
 存順(そんじゅん)没寧(ぼつねい)克(よ)くせずと雖(いえど)も
 朝聞(ちょうぶん)夕死(せきし)あに悲しと為さんや

とある。また漢書に左の物語がある。
 「夏侯(かこう)勝(しょう)と黄覇(こうは)と事に座して獄に繋がる。覇、勝に従って尚書(しょうしょ)を受けんと欲す。勝辞するに罪死すべきを以てす。覇いわく、朝に道を聞いて夕に死すとも可なりと。勝その言を賢なりとして遂にこれを授く。」

 明治以後の教育はあまりにも手段であった。小学教育は中学入学の手段、中学教育は高等学校入学の手段、高等学校教育は大学入学の手段、大学教育は就職の手段、それでは学問でない。学問はそれ自身が目的でなくてはならず、それが結局、その人の人格形成にもなり、国家人類の福利にもなり、学問そのものの進歩発展にもなる。伊藤仁斎曰く
「或人いわく、朝聞夕死とはまたはなはだ急ならずやと。いわく、然らざるなり。人として道を聞かざれば、すなわち生くとも益なし。故に夫子朝聞夕死を以て可なりとするもの
もその道を聞かざるの甚だしきを示すなり。何ぞはなはだ急なりと謂わんや。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


余は如何にして基督信徒となりし乎 №43 [心の小径]

初期の教会 10

                                   内村鑑三

  一八八一年一月三日  『パルマイラ』ヨリ招待。夜九時マデ「ゲーム」ト籤(くじ)。
 我が基督信徒学士たちは彼らの家庭をもっていた、その数人が一つ屋根の下に住んで。彼らの巣は大農場のまんなかに人間どもの住いから離れてあったので、我々は美しいゼノビアの都の名にちなんで、それを『荒野の都』とよんだ。かような招待は実に頻繁(ひんぱん)であった、そしてそれは我々の心を結ぶに大いに役立った。我々に我々の愛餐(あいさん)があったが、我々のは牛肉、豚肉、鶏肉、玉葱、甜菜、馬鈴薯をみな一つの鉄鍋に投げ入れてその中で煮たものでできていたということではウェスレイの弟子たちのそれよりさらに内容あるものであった。基督信徒たちは、男も女も、金属製の容器を取り巻き、それから御馳走になった。これに礼儀作法はあまりなかったのはもちろんである、しかししばしば礼儀作法の厳格さは受餐者の心と心との距離の自乗に反比例する。
『同じ釜の飯を食べた人々』というのは、ほとんど血縁関係のきずなに近い親密さについて語る我々の諺(ことわざ)である、そして一つの同じ主義のために戦いかつ苦しまねばならぬ人々には、司式する聖職の手によってパンをさき葡萄酒を飲むことよりほかに何か結合のきずなが必要であることを我々は信じた、またいまなお信ずるのである。かような一団が『二つの教会』に分れていることができようか、たとえ二つの異なる教沢の聖職が我々の額に十字架の記号を書いたとしても。しかり、我々は一つである、我々が鍋の中で煮た鶏肉が一つであり、ヨナタンがストーヴから出してからビューと分け合った大きな馬鈴薯が一つであったように。

  一月九日 新教会建設委員ノ一人二任命セラル。
 新教会は決定されて、委員がそのために任命された。それは『長兄』S、『クロコダイル』W、『宣教師坊主』O、エドウィンと余自身より成る。

  三月十八日 金曜日 委員ノ会合。地所ト建物トヲ決定ス。
 我々は牧師D氏からアメリカ・メソヂスト監督教会は我々の新教会の建築に四百ドールの援助を与えるであろうということを我々に伝える一通の手紙を得た。我々はそれを与えてもらうことを欲しなかった、我々はただそれを借りたいのである。できるだけ早い機会に返済されるであろう。そのような願いをいだいたには強い理由があった、それは我々にやがてわかるであろう。地所は百ドルかかることになっていた、そして残りを我々は建物に費したくある。しかし、待てよ、兄弟たち、メキシコ領の四百ドルは我が国の紙幣にて約七百円になるであろう、そして諸君はめいめい今のところ月給はわずか三十円をもらっているにすぎないのに、一年内外のうちにこの全額を皆済(かいさい)できる確信があるか? ウーム! 重大である! 我々は教会は欲しい、教会をもたなければならぬ、しかしそれが独……、いや我々にはわからない。

  三月二十日 日曜日 大工来り、新教会堂ノ見積書ヲ示ス。
 建物の設計は結構のようである、しかし我々はかよう義金を造るには借金に撃なければならぬ、ウームー

 三月廿四日木曜日 為替D氏ヨリ到着ス。銀行ニテ現金ニセリ、夜、委員会。D氏に
手紙ヲ認(した)タム。
 金がついに来る。ヨナタンは一時会計係となることとなり、学校寄宿舎の自分の部屋に四インチの厚さの紙幣を持参する。それは彼がその生速にてかつて取扱った最大の金額である。しかし見よ、我が霊魂よ、金はなんじのものではない、当然に教会のものであるのでもない。それは返済せらるべきものである。注意してそれを用いよ。

 三月卅目 「ジョン・K」ノ結婚式午後七時ニ行ハル、牧師Den氏司式。式後、茶菓ノ接待アリ。愉快限リナク、午後十時ニ云ル。S基督信徒ノ間ノ最初ノ結婚ナリ。
 聖公会信者ジョンは、基督信徒青年の間で婚姻の祝福の状態に入った最初の人であった
儀式は公会式で行われ、花頓と花嫁とは聖壇で指輪を交換した。それは我が国古来の風習とはまったくかけ離れたものであった。茶菓が出されたテーブルで新夫婦に成功とお目田とうの挨拶を述べた。しかしクリスマス・イーヴに赤達磨の支度をしてくれた彼が今や良人であることを我々はほとんど信ずることができなかった!願わくはエホバ、汝の家に入るところの婦人をして、かのイスラエルの家を造りなしたるヲケルとレアの二人の如くならしめ給わんことを』である(ルツ四の十一)。彼女は我々が当時計画しつつあった神の家の建築を同様の方法で助けるかもしれない。

『余は如何にしていリスト信徒となりし乎』 岩波文庫


出会い こぼれ話 №43 [心の小径]

第42話 白い虫・黒い虫

                         教育者  毛涯章平

 おともだちの「どんぐり君」は仲間と廊下でキャッチボールをしていて、ボールが玄関から外にとび出してしまいました。
 そこで早速拾いに行こうとして下駄箱から靴を出そうとしました。すると、
『めんどうだな。このまま出てもいいや。すぐそこだもの誰も見ていないし』
と、どこからか聞こえてきたのです。そこでどんぐり君は、上ばきのまま出ようとしました。
 するとこんどは、
『いけないよ。そこは上ばきのままおりる所じゃないじゃないか』
と言っているのです。
「そうだ。きまりは守らなくちゃ」
と思いなおして、どんぐり君は靴にはきかえて、ボールを拾ってきました。

 どうやら、どんぐり君のおなかの中に、白い虫と黒い虫がいて、互いに争っているようですね。
 さっき『上ばきのまま出てもいいじゃないか』と言っているのは、黒い虫の方です。
 また『うそを言っても、わかるものか誰も見ていないから』と言うのも黒です。『誰も見ていなくても、正直に本当のことを言おう』と言ってくれるのは、白い虫の方ですね。
 私たちは、一生この白と黒の争いを心の中で続けているのだと思います。
 大人になっても、黒い虫の方が勢いのよい時がありますが、最後に白い虫が勝つ人になりたいものです。
 この白い虫を強く育てるには読書が第一なのです。
 村では児童・生徒そして幼児のみなさんが良い本をたくさん読んで、白い虫の強い人になってほしいという願いから、誕生日のお祝いに村長さん自ら出向かれて本を贈っているのです。
 これは他に例を見ません。
 どうか、これに応えて、白い虫を強く育てましょう。

『章平先生の出会い こぼれ話』 2015年豊岡村公民館会報

文化的資源としての仏教 №6 [心の小径]

文化的資源としての仏教6                

                             立川市・光西寺住職 寿台順誠

                         往生考⑷――往生際:往生=諦

 前々回は「大往生」という言葉をキーワードにして「往生=死」の意味について、そして前回は「立往生」をキーワードにして「往生=困」の意味について考えた。今回は、「往生」という言葉の三つ目の意味である「諦」について考えてみたい。今回のキーワードは「往生際」である。
 「往生際」という言葉には文字通り「死に際」という意味もあるようである。しかし、この意味ではこの「往生」も「死」という意味になり、「往生=死」についてはすでに考えたので、ここで再び取り上げる意味はないであろう。また、仮に今にも息をひきとろうとしている終末期の患者の所に行って、「往生際が悪い」などと言う場面を想像してみるならば、それは悪い冗談としか言いようがないであろう。それに「往生際の悪い人」という言葉を使用する場合には、やはり一般的には「諦めの悪い人」という意味で使っているはずである。そこで今回の「往生」の意味の焦点は「諦」という語をめぐる問題になるのであるが、実はこの「諦」には以下の二つの意味がある。
 現代では「諦め」という言葉は、一般に「望みを断念すること」という意味に受け取られているが、実はこれは日本的な語法であって、もともと中国語としての「諦」は「つまびらかにする」「まこと、さとり」という意味であり、そこに「断念」の意味はないという。また、仏教においては「諦」は、「真理」を意味する “satya”(サンスクリット語)・“sacca”(パーリ語)の訳語として、「タイ」と読んで用いられてきた。従って、日本でも古くは、「あきらむ」は「物事の道理を明らかにする」という意味だったという。しかし、江戸時代に「諦=断念」の用法が生まれ、日本ではしだいにこちらの意味が主流になったと言われているのである(岡崎義恵『鷗外と諦念』宝文館、1969年、278-280頁;安川民男「鷗外と魯迅の “諦観”」『鷗外』74号、2004年、53-54頁)。
 このことから私は、「諦め」という言葉には二重の意味があると考えるのがよいのではないかと思っている。つまり、「諦め」という言葉は、「物事の道理を見極めた上で断念すること」という意味に受け取るべきではないかということである(寿台順誠「「諦め」としての安楽死――森鷗外の安楽死観――」『生命倫理』通巻27号、2016年、19-20頁)。私は、仏典に説かれたキサー・ゴータミーという女性の話が、その意味での「諦」を見事に表していると思う。幼い息子を亡くして悲しみに打ちひしがれ、息子を生き返らせる薬を求めて釈尊のもとにやってきたゴータミーに対して、釈尊は一人も死人を出したことのない家から芥子の粒をもらってくるようにと言うが、結局そのような家は一軒もなくそれが得られなかったことから、ついに彼女は世の無常をさとって出家したという話である(中村元訳『尼僧の告白――テーリー・ガータ』岩波文庫、1982年、108頁)。人は無理やり「望みを断念しろ」と言われてもなかなかそうできるものではない。が、しかし、「諸行無常」という「真理」が理解できたならば、死んだものを生き返らせるという不可能事は「断念」せざるを得ない。「真理・道理が見極められて初めて、断念すべきものを断念できる」――「諦め」という言葉には、そのような深い意味があると思われるのである。
 以上のようにして、諸行無常の真理をさとったならば、人は今生において永遠に生きることは断念せざるを得なくなる。が、そこに至ってはじめて、それであれば人はこの世の生を終えた後、一体どうなるのか、そしてそういう問題についてどのように考えたらよいのか、ということが真剣な問題になるであろう。そこで次回はいよいよ「往生」という言葉の最後の意味として、最も重要な宗教的・仏教的意味について考えてみたいと思う。(次回は「往き生れること:going to and birth in the Pure Land」について考える。)


余は如何にして基督信徒となりし乎 №16 [心の小径]

第三章 初期の教会 9                                                                 

                                              内村鑑三                            

  七月に上級が卒業した、そして基督教の立場はそれによってはなはだ強められた。彼らのうちに八人の基督信徒があった、すなわち『長兄』S、『宣教師坊主』0、『好人物』U、『翼竜』T、『聖公会』ジョン・K、『クロコダイル』W、『パタゴニア人』K、『角顔』Y、これである。みな実にいい奴であった、そして彼らのうちに半異教的の様子をした者があり、彼らの先祖から受け継いだ罪深い狡猾な傾向の遺物があったにかかわらず、彼らは心の底では純粋な基督教的紳士であった。我々はいっしょに写真を撮(と)り、晩餐(ばんさん)を共にし、近り将来に礼拝堂を建築することについて討議する。一年以内に残る我々八人が彼らに加わるであろう、そしてともに我々はキリストの福音を我々がそのなかに住んでいるその民のもとにたずさえて行くであろう。


  九月十八日 牧師D氏、当地二到着ス。
  九月十九日 日曜日 D氏ヲ訪問セリ・
  九月二十日 夜、D氏ニヨリ英語礼拝。
 D氏は我らの愛する宣教師H氏の代りであって、今回我々の所への二度目の訪問であった。我々は将来の教会の我々の計画について彼に話すところがあった、それに対し彼は全部の同意を与えなかった。


  十月三日 新教会建築ニ就(つ)キ相談。
 数人の基督信徒が活社会に出て行った以上、我々は我々自身のものである一つの教会をもってよい、そして我々はその計画に怠慢ではない。


  十月十五日 牧師Den及ビP両氏、当地ニアリ。我々ハN氏方ニテ彼等二面会ス。

 この年は宣教師から頻繁な訪問を受ける。DenおよびP両氏は聖公会信者である。我々の運動は宗教界の注意をひきつつある。我々は無視されてはいない。


  十月十七日 日曜日 S氏方ニテ集会。六人、洗礼。午後三時、聖餐(せいさん)。
 人数は我々の聖なる仲間に加えられつつある、神に感謝する二つの事が我々には残念であった、すなわち我々がこの小さな場所に二つの教会をもつようになる明白な傾向があった、一つは聖公会、他はメソジスト協会であった。『主一つ、信仰一つ、バブテスマ一つ』と、我々は心の中で考えはじめた。一つでさえ自分の足で立つだけ強くないのに、二つの別々の基督教団体をもつ必要が何処にあるか。我々は我々の基督信徒の経験においてはじめて教派主義の弊害を感じた。

  十一月廿一日 日曜日  当地ノ全基督信徒、集会二出席ス。
 上級の人々が卒業していらい、我々は長いあいだ全員の集会をもったことがなかった。一同ともに相会する以上、我々はもういちど新しい教会について -その大小、その構造、当地にはただ一つの教会を持つことが当を得ていること、などについて- 論議する。


  十二月廿六日 日曜日  『預定』ニ就キテ困惑セリ。
 我々の小さな教会はもういちど『預定』の教義について議論する。朝の章はロマ書九章であった。
 余が種々な色のインクで線を引き書込みをして相当徹底的に汚した旧い聖書の中に、余は大きな疑問符(?)が大きな釣針のようにおそろしい神秘的な華の上にぷらきがっているのを発見する。我らのパウロの悲観的結論はこれであった、『もし神が一つの器を貴(とうと)い用のために、他の器を賤(いや)しい用のために造りたもうたのならば、救われようと試みる何の必要もない、神は彼御自身のものを顧みたもうであろう、そしてそうあるまいとするあらゆる我々の努力にもかかわらず、我々は救われ、あるいは罪に定められるであろう』と。同様の疑いがあらゆる国土のあらゆる黙想的な基督信徒を苦しめる。いや、うっちゃっておけ、我々は預定の教義を了解することができないからとて聖書と基督教とを捨てることはできないのだから。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

論語 №28 [心の小径]

六六 子のたまわく、上(かみ)に居て寛(かん)ならず、礼を為(な)して敬(けい)せず、喪に臨んで哀(かな)しまず。われ何を以てこれを観(み)んや。

                                      法学者  穂積重遠


 「喪に居る」といえば親の喪に服すること、「喪に臨む」といえば他人の葬式に会葬すること。

 孔子様がおっしゃるよう、「人の上に立って寛大でなく、礼式を行う場合に敬意を欠き、葬儀に参列して哀悼の気持がないようでは、全く見どころがないではないか。」


六七 子のたまわく、里(さと)は仁(じん)を美と為す。択(えら)びて仁に処(お)らずんば、いずくんぞ知を得ん。

 「仁に里(お)るを美と為す」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「住むには仁徳の風俗厚き地方がよろしい。住むべき『仁の里』の選択ができないようでは知とはいえない。」

 三遷(さんせん)した孟母(もうぼ)などは、「選択んで仁に処る」知者だったのだ。


六八 子のたまわく、不仁者は以て久しく約に処(お)るべからず。以て長く楽に処るべからず。仁者は仁に安(やす)んじ、知者は仁を利す。

 「約」は貧賤(びんせん)困窮、「楽」は富貴(ふうき)安楽。

 孔子様がおっしゃるよう、「不仁な者は久しく逆境にありえない。しばらくは辛抱もするが、まもなく苦しまざれに悪事をはたらく。また長く順境にもありえない。はじめは自制謹慎もしとうが、やがて意満ち心ゆるんで驕慢奢侈(きょうまんしゃし)に流れる。仁者は仁が身についているし、知者は仁の利益を知っているから、境遇に左右されぬが、不仁無知なる者はそうはいかぬ。」

 最後の二句について伊藤仁斎が、「仁者の仁におけるは、なお身の衣に安んじ足の履(くつ)に安んずるが如し。須臾(しばらく)も離るればすなわち楽むこと能わず。これこれを安と謂(い)う。知者の仁におけるは、なお病む者の薬を利し、疲るる者の車を利するが如し。常にこれを相安んずること能わずと雖も、探くその美たることを知りて捨てず。これこれを利すと謂う。」と言ったのは、要領を得ている。今日の私たちはよほどシツカリ「久しく約に居る」覚悟をかためねばならぬ。かりにも取り乱して、不仁不知と世界の笑いものになりたくない。


六九 子のたまわく、ただ仁者のみ能(よ)く人を好(この)み、能く人を悪(にく)む。

 「好」を「よみす」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「ある人を好みある人をにくむのは、まぬかれぬ人情だが、凡人は私情がまざるから、好むべき人をにくみ、にくむべき人を好むことにもなる。ほんとうに人を好み人をにくむことは公平無私な仁者にしてはじめてできることじゃ。」


七〇 子のたまわく、苟(いやしく)も仁に志せば、悪しきことなし。

 「苟」を「まことに」とよむのが普通のようだが、「恵なし」という消極句につづくには、「いやしくも」の方が力強い。

 孔子様がおっしゃるよう、「ともかくも仁に心を向けていれば、過失はあろうとも、悪事ははたらくまい。」


『新訳論語』 講談社学術文庫



出あい、こぼれ話 №42 [心の小径]

 第41話 ことばの典型

                                   教育者  毛涯章平

 いつかテレビの人気番組『男はつらいよ』を見ていた時である。
 主人公の寅さんが旅から帰って、恋の病で二階で寝ているところへ、妹のさくらが、粥を作って、自分の子どもに持って行かせる場面があった。
 さくらが言う。
 「いいかい、おじさん病気なんだから、『お加減いかが?』って言うんだよ」
 子どもは言われたとおり寝ている寅さんの前にお膳を出して、
 「おじさん、お加減いかが?」と、はっきりと言った。
 これは、ちょっとした短い場面であったが、わたしは見ていて、はっとしたのである。
 ここでは、日常生活の中で、母親が子どもに、その場に応じた『ことばの典型』を、はっきりと見事に示しているのである。
 こうやって、正しいことばづかいが、その場に応じて使えるように身についていくのである。
 家庭や学校で、その場に応じた『ことばの典型』を示していくことは、母国語を正しく使い、言語感覚を磨くうえに、とても大切なことと言われている。
 とくに敬語や謙譲語は、いつも身近で大人が正しく話していると、子どもがそれにふれる機会が多くなって、いつのまにか自然に身についていくものであると言われている。

 私が子どもの頃、家に祝い事があると、よくおはぎを作った。それを近所に配るお使いに行く時、母が、
 「『不出来なものだけど、おあがり下さい』と言って出すのだよ」
と、『典型』を教えてくれた。
 私はそのとおり言って出した。
 今、お使い物に『粗品』と書くとき、母が教えてくれた、あの「口上」を、なつかしく思い出すのである。


『章平先生の 出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


文化的資源としての仏教 №5 [心の小径]

文化的資源としての仏教5                

                                立川市・光西寺住職 寿台順誠

                          往生考⑶――立往生:往生=困

 前回は「大往生」という言葉をキーワードにして、「往生」という言葉の一つ目の意味である「死」をめぐる現代的な問題について記した。今回は、その二つ目の意味である「困」をめぐる問題について考えてみたい。キーワードは「立往生」である。
 しばらく前、どこかの地方で雪が降っていた朝、テレビで天気予報の時間に気象予報士が「(雪のため)立往生などの事故がありました」ということを言っていた。私はこれを聞いて少し驚いた。「立往生」というのは、いつから「事故」の一類型になっちゃったのだろうか、と。………おそらくこれはその予報士が全く言葉の意味を考えずに使用しているだけで、単純な誤用であろうとは思われた。が、少し意識して見ていると、天気予報や交通情報の時間に、この「立往生」という言葉は非常によく使用されていることに気づくはずである。そうした報道などでこの言葉を使用する場合、いったいどれだけの関係者がこの言葉の意味を真剣に考えているだろうか。いささか心もとない。
 「立往生」という場合の「往生」は、一言でいえば「困」という意味で使用されていると言ってよいであろう。「(非常に)困った」時に「往生しちゃった」と言うのは珍しいことではない。但し、この「立往生」は語源的には「弁慶の立往生」に由来するもので、元々この意味での「往生」も「死」を意味するものであった。主君・義経に対する忠義を示す意味で、弁慶が衣川の戦い(1189年)において身体に無数の矢を受けながらも、薙刀を杖に仁王立ちしたまま死んだという話が元になっているのである。この事実をめぐっては、法医学の立場から「死後硬直」ではなかったかという見解も提出されており(上野正彦『死体は語る』文春文庫、2001年、164頁)、様々な議論があるようであるが、真偽のほどは定かではないらしい。それはともかく、「弁慶の立往生」という言葉を使用したときに、これを単に「弁慶が困っている」という意味にとってしまうと、源平のドラマはいつまで経っても終わらなくなってしまう。が、元々はそのように「立ったまま死んだ」という意味であった「立往生」がその後、進退窮まることの喩えとして用いられているうちに、単に「困った」場合に使用する言葉に変化してきたのであろう。そして、今では逆に「車が渋滞に巻き込まれて立往生しています」という言葉を、「車が死んでしまった」という意味に受け取るとおかしなことになってしまうという事態になり、だんだん意味もまともに考えずに使っているうちに、ついに上記の「立往生=事故」というようなおかしな用法まで登場してきたと思われるのである。言葉の混乱、ここに極まれり、という感じがする。
 ところで、「往生=困」ということを考えていて、山本リンダの「こまっちゃうナ」(作詞・作曲 遠藤実)という歌を思い出した。以下に歌詞の一部を記してみよう。

  ♪こまっちゃうナ デイトにさそわれて どうしよう まだまだはやいかしら ………(中略)………… ママに聞いたら 何んにも言わずに 笑っているだけ こまっちゃうナ デイトにさそわれて

 また、歌詞を書いていたら、替え歌を思いついたので、それを以下に記してみる。

  ♪こまっちゃうナ お寺にさそわれて どうしよう まだまだはやいかしら ………(中略)………… 祖母(ババ)祖母に聞いたら 何んにも言わずに 念仏するだけ こまっちゃうナ お寺にさそわれて

 これは単なる戯れ歌であるが、しかしこんなものが案外、世の中の「お寺」とか「往生」とかに対するイメージを映し出しているのかもしれない。10年以上前の話であるが、私はある檀家さんと話していて、たまたま話題がお寺の催しのことになったので、「どうぞ、お寺では法話や勉強会も行っていますので、お気軽にご参加ください」と言ったら、何と当時既に50代後半に達していたその人は、「まだそんな年じゃない!」と言うのだった。ここには、「お寺」だの、まして「往生」だのといった仏教関係の物事は、抹香くさいとか、縁起でもないとか(この「縁起」もこのエッセイではいずれ取り上げなければならない言葉であるが)と思ってしまうような一般的な傾向が垣間見える。その時、私が「老少(ろうしょう)老少不定(ふじょう)不定」(老いも若きも定まりがない=老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らない)という言葉を出して、「でも、まだ50代だからなどと言っていても、人間はいつどうなるか分かりませんよ」と言うと、その人は「言われちゃった…」と渋々私の言うことを受け入れて帰って行ったのだった(ただ、その人はその後もあまり寺には来ないけれど…)。
 以上のことから、私は「立往生」という言葉に表されるような、「往生=困」の用法はできる限り使わないようにしていった方がよいと思っている。もし「往生」にこの意味しかないということになると、我々には布教ということそのものが成り立たなくなるからである。いくら一生懸命「阿弥陀仏の本願を信じて念仏すれば往生できる」と説いてみても、「そうか、念仏したら困ってしまうのか」と思われたのでは、もう何も言うことはなくなってしまうのである。だが、悩ましいことは、おそらく「往生」という言葉の世俗的・一般的用法としては、この「困」の意味で使うことが最も頻度が高いのではないかと思われることである。
 ああ、もう本当に〈往生しちゃう!〉と言いたくなる。…(次回は「往生際:往生=諦」について考える。)


余は如何にして基督信徒となりし乎 №15 [心の小径]

第三章 初期の教会 8

                                             内村鑑三   

 十二月廿四日 クリスマス前夜 測量術ノ試験。「エドウィン」ト共二夜ノ準備二多忙。
 集会ハ午後七時二始マレリ。全基督信徒一体トナリテ出席セリ。午後十一時マデ食事ト茶菓ト雑談。我等ノ愉快限リナシ。

 我々の上級生はクリスマス祝祭に今年は我々に合同した。記念祭は去年よりも大規模に行われた。学校は我々に復習講堂を貸してくれ、我々はそれをうまく装飾した、そして十分の寄附が為されてこの祝祭を本当に楽しいものとした。白と赤の『達磨(だるま)』の角力(すもう)があった、そして赤の方は上級生ジョン・Kによって非常に巧みに着附けられていた。『角顔』Yが身をせるめてその姿になったのであるが、それがはじめ現れたときは誰もそれは『眼あれども見ず耳あれども悟(さと)らざる』普通の人形にほかならないと考えた。突如としてしかしその眼が動き始めた、『足なし達磨』が自分の足で立ち上った、二本の腕が両脇から突き出された、そして全身が踊り始めた。そこへ白い達磨が出て来て彼と相対した、そして二つがヨナタンの行司で角力を取った。ああ、何と滑稽
だったことよ! 彼らが退場するや、現れ出たのは一野蛮人、腰のまわりのほかは裸であった、そしてそれこそは基脅信徒のあいだの最長身者、最年長者としてつねに宗教問題の我々の指導者と自きれていた『長兄』Sにほかならなかった。彼はこの恐ろしい身なりで踊って、退場した。我々は横隔膜がほとんど敗れてしまうまで笑った。我々は我々の救墟主が我々を救うために地上に降りたもうたほど喜んだ。四百年前サヴォナローラはフローレンスにかような聖なるカーェヴブルを制定した、そして修道僧たちは歌いながら踊った、
   『熱と愛と情をもて
   かくキリストの聖(きよ)き狂喜をいだく
   かくも快き嬉しさ、
   かくも清き力づよき喜び、かつてなし。
   叫べ我と、我が叫ぶどとくいま叫べ、
   狂喜、狂喜、聖(きよ)き狂富†』


  十二月廿五日 十時半二集会。我々ノSニ来リテ以来最大ノ愉快(聖ナル)。

 これは真の感謝の集りであった。茶も菓子もこの集会にはなかった。あったのは祈りと真面目な話であった、『長兄』Sが集会を退いた。『宣教師坊主」Oはスリスマス祝祭の歴史と、存在理由についての話を我々にした。じつに誰もみなその朝は真面目であった。ニュー・オーリーンズでは断食と痛梅をともなう四旬節は野蛮きわまる謝肉祭によって先行されると開いた。ただ我々はルイジアナ人ほどには耽溺(たんでき)しなかっただけである。

 この間これ以上何も記入されず、つぎの日にいたる、
 一八八〇年三月廿八日 日曜日 集会ハ興味大イニ減ズ。

 我々はしじゅう自分自身を白熱状態に保つことはできなかった。じつにこの年の春じゅう我々の熱心には決定的な弛緩状態があった。時には会員間の或る些細な事件が全『教会』の平和と調和を乱したことがある。かって我々は祈りのなかで何か『あてこする』ことを言いながら顔を壁に向けて祈ったことがある、もちろん天にいます我らの父によってではなく、その言葉が目指している人によって開かれるためであった。しかしこういうすべてのことにもかかわらず、我々は『我らの集り』をやめなかったのである(へブル十の廿五)。

 六月は宗教的に我々には多忙な月であった。我々は新生第二年記念日を例の歓喜をもって祝った。雪は解けてしまい、好天気が始まって、我々ひきつづき三人の宣教師―アメリカ人一人、イギリス人二人―から訪問を受け、我々の飢えた霊魂は説教とその他の宗教的教訓の十分の供給で養われた。隣りの海港にいるイギリス領事U氏(The Hon.Mr.U)がまた当地にあり、彼が滞在していた家でこれまで我々が目撃したもっとも壮大な規模で聖公会の礼拝が挙行された。その礼拝が少年たちに与えた一般的印象は、それがやや『仏教的』であるということであり、その祈祷書と法衣は宗教のことは単純なるべしという我々の考と必ずしも全く一地するmのではなかった。この礼拝中のいちじるしい事件は、わが半異教徒的な『好人物』U、『翼竜』T、および何人か他のものが、二人のイギリス婦人がその唇を接触させてたがいに挨拶するのを見て大きな声で吹き出したその振舞いであった。我々は聖書でレバンが如何にその息子や娘に接吻したかを読んだが、しかしこれまで実際に接吻しているのを見たことはなかった。我々の不行儀はじつに申訳けなくあった。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


論語 №27 [心の小径]

六三 子、魯(ろ)の大師(たいし)に楽(がく)を語(つ)げてのたまわく、楽はそれ知るべきなり、始め作(おこ)すに翕如(きゅうじょ)たり、これを従(はな)ちて純如(じゅんじょ)たり、皦如(きょうじょ)たり、繹如(えきじょ)たり、以て成る。

                                       法学者  穂積重遠

 「大師」は楽官の長。「たいし」とよむ。「だいし」だと弘法様になる。「翕」は合、「純」は和、「皦」は明、「繹」は聯(れん)、そして「如」は然と同じ。「従」は縦と同じ、思うままに十分な音を出すこと。

 孔子様が魯の楽長に音楽論をしておっしゃるよう、「音楽には一定の型がある。演奏の始めに諸楽器の音が揃(そろ)って出るが、演じ進んで十分に調子を張ると、すべての音が調和して一音となり、しかも各楽器の音が明らかにきこえて互いに消し合わない。そして連続して絶ゆることなく終節に至るのじゃ。」

 孔子様はけっしてコチコチの道学先生ではなく、いっぱしの音楽理論家であり、音楽鑑賞家であり、また音楽実演者であったことは、だんだんと出てくる。何しろ本職をつかまえて音楽論をされるのだから、大したものだ。そしてその議論が西洋音楽シンフォニー論、ソナタ形式論のおもむきがあるではないか。

六四 儀(ぎ)の封人(ほうじん)見(まみ)えんことを請(こ)いていわく、君子のここに至るや、われ未だかって見ゆることを得ずんばあらずと、従者これを見えしむ。出でていわく、二三子(にさんし)何ぞ喪(うしな)うことを患(うれ)えんや。天下道なきや久し。天まさに夫子(ふうし)を以て木鐸(ぼくたく)と為(な)さんとす。

 「木鐸」は金口木舌のベルであって、文事(ぶんじ)のおふれを出すときに振る。武事(ぶじ)には金口金舌の「金鐸」だという。「木鐸」と言ったところに特に意味がある。

 孔子様が衛(えい)の国を去ろうとして、国境の儀の町にとまったとき、関守(せきもり)の役人がおめにかかりたいと申し出て、「諸名士がここを通られるとき、私はいつもお目にかからせていただいています。」と言ったので、お供の門人たちが孔子様のお部屋に通した。やがて出て来て言うよう、「諸君は、先生が今志を得ずしてこの国を去られるとて、何も悲観することはありませんぞ。今や道悪に落ちて天下乱るること久しいので、天が先生を一国にとどめずして四方を周遊せしめ、大いに文教を振興する木鐸ならしめようとするのです。」

 孔子様は別として門人たちは、どこへ行ってもお払箱をくうので、おそらくくさっていたのだろう。ところがこの封人は孔子様にお目にかかって大いに敬服し、君たちの先生は天の大使命を負っていられるのですぞ、諸君も元気を出してシツカリしなさい、と門人たちを激励したのである。「天下をねらう大伴の黒主」ではないが、「儀の封人」なる者、ただの関守ではなさそうだ。

六五 子、韶(しょう)を謂(い)う。美を尽せり、また善を尽せり。武を謂う。美を尽せり、未(いま)だ善を尽さず。

 「韶」は舜の音楽。舜は譲りを受けて天下を得たので、その音楽には平和の気がみなぎっている。「武」は周の武王の音楽。武王は武力で天下を得たので、その音楽には壮大の中に殺伐(さつばつ)の気を含んでいる。

 孔子様が舜の音楽「韶」を評して、「美を尽しまた善を尽せるかな」と言われた。ま た周の武王の音楽「武」を評して、「美を尽しているがまだ善を尽しておらぬ」 と言われた。
                                        
 孔子様は、舜には満点を与えたが、武王の「臣として君を伐(う)」ったことに釈然(しゃくぜん)たらざるものがあったので、両者の音楽にも「美にして善なり」の感じと「美なれども善ならず」の感じとをもたれたのである。孔子様が芸術の基礎に道徳を置く考え方とその平和主義とがあらわれている。

『新薬論語』 講談社学術文庫


出会い、こぼれ話 №41 [心の小径]

 第40話 まゆつば

                                       教育家  毛涯章平

 私が少年時代を過ごした田舎は、ずいぶん辺びな所だったので、夕方暗くなりぎわにお使いに行かされるのが、何よりもいやでした。
 それは、西田のやぶと呼ばれる大きな竹やぶの中を通って行くのがとても怖かったからです。
 その西田のやぶには、狐が住んでいて、通る人を化かすという噂があったので、そこを通る時は、前を見すえたまま、体を固くして小走りにかけぬけて行ったものでした。
 そんな時、自分の足音が誰か後ろから追いかけてくるように思えて、背すじが寒くなりました。

 ある時、私があまり西田のやぶを怖がるので、父が「狐に化かされない秘密の法」を教えてやるといってそっと教えてくれました。
 それは、狐がやぶのどこかにいて、通る人の眉毛を一本一本数えて、全部正確に数え終わると、化かされるのだ。だから西田のやぶに近づいたら、まず自分の眉毛を唾(つば)で十分濡らすことだ。そうすれば、狐が数を間違えるから、絶対に化かされることはな
いというのです。
 私はそれからは、この秘法を実行しました。すると馬糞がおまん十に見えたり、木の葉がお金に見えたりすることはありませんでした。不思議なことに、西田のやぶが怖くないのです。もう走らなくても平気になりました。
 やがて大人になってからある時『まゆつば』ということばが、父から授けられた『狐に化かされない秘法』から生まれたことばであることを知りました。
 私はその時、あの西田のやぶの中を、眉毛を唾でたっぷりと濡らして通った少年の日を、たまらなく懐かしく思い出しました。
 そうして、あの秘法をはじめ、いろいろなことを教えてくれた父親を、改めて有難く思い出すのでした。

『章平先生の 出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館解放


文化的資源としての仏教 №4 [心の小径]

文化的資源としての仏教4                

                              立川市・光西寺住職  寿台順誠

                          往生考⑵――大往生:往生=死

 「大往生って、どういう意味でしょうか?」
 ある人の葬儀を執行したとき、喪主からこのように聞かれたことがある。その時の故人は既に96歳になっておられたので、おそらく親類などの(複数の)弔問客から、「大往生だったね」などと言われたのであろうと察せられた。喪主はそうした言葉を聞いているうちに、その意味を意識的に考え始めることになったのだろうと思われた。
 その際とりあえず私は、「〈安らかに亡くなること〉というほどの意味ではないでしょうか。或いは、故人が既に96歳になっておられたからそのように言われたということであるならば、〈人生を十分に全うした上で、安らかに亡くなること〉とでも言ったらよいかもしれませんね。例えば50代でガンのため亡くなられた人について、〈大往生だった〉とは言いませんからね」などと答えておいた。いずれにせよ、「大往生」という場合の「往生」の意味は、一言でいえば「死」を意味している。
ただ「大往生」と言うためには、ある程度の年に達している必要があると思われるが(何歳から「大往生」と言えるかを確定することは、平均寿命が何歳かによっても変動すると思われるので、非常に困難であろう)、しかし単に年を取ってさえいれば「大往生」と言えるかというと、あながちそうでもないであろう。最近、橋田壽賀子が『文藝春秋』(2016年12月号)に「安楽死で逝きたい」という文章を書いて議論を呼んでいるが(『文藝春秋』2017年3月号)、91歳になった人がこのような主張をしなければならないということ自体が、年を食ってさえいれば「安楽に死ねる」わけではないことの証拠であろう。それどころか、現在(既に2007年に)、超高齢社会(65歳以上の人口が総人口に占める割合が21%を超えた社会)に達した日本においては、むしろ年を取って孤独感や認知症への恐怖感が増せば増すほど、「安らかな死」から縁遠くなるという皮肉な現象が生じてきているとさえ言えるかもしれない。
 実は私はこの間、安楽死・尊厳死に関わる研究をしてきた(少し詳しく記すと2011年4月から早稲田大学大学院人間科学研究科修士課程において「生命倫理学」の勉強を始め、その過程で安楽死・尊厳死について研究するようになったが、現在は2016年4月から研究の場を同大学院社会科学研究科博士後期課程に移して、「日本文化論」という専攻分野の中で「日本文学における安楽死と尊厳死」というテーマと取り組んでいる)ので、上記『文藝春秋』に書かれていることから、知識的な意味において新しく学んだことは何もない(また、私はこのエッセイでは、細かい専門的な問題に立ち入ることはあまりしないことにする)。ただ、同誌3月号の特集に紹介されたアンケート結果を見ると、安楽死・尊厳死に賛成の人の方が反対の人よりもかなり多い(おそらく以前よりも賛成の人の割合は増えている)ということには注目される。つまり、それだけ多くの人が、現在の長寿社会でこそ「安らかに死ねない」という苦悩を抱えており、そうであるがゆえに、かえって「安楽な死」或いは「尊厳ある死」を求める思いが切実になっているのだと思われるのである。
 以上、「往生」という言葉の世俗的・一般的用法としては、まず「死」という意味でこの言葉は使用されることを、「大往生」という言葉をカギにして述べてきた。そして、これに関連して、他方では医療技術の発展等によって、現代人は非常に長期にわたる「死にゆく過程(dying process)」をそれと意識して生きざるを得なくなり、その分だけ長く「病苦」「老苦」、そして「死苦」を深刻に感ずる時代にあって、現在どうしたら「安らかに死ねるか」が多くの人の切実な問題になっていることを確認した。
 しかし、今回私が敢えて言っておきたいことは、「往生」ということと、現在盛んに議論されるようになった「安楽死」「尊厳死」「自然死」「平穏死」等の言葉が、あまり結びつけて語られていないのは問題ではないかということである(「平穏死」については、石飛幸三『「平穏死」という選択』幻冬舎、2012年参照)。或いは、現在では「安楽死」等の流行現象に乗って議論をする場合、それを「往生」(つまり宗教的な概念)と結びつけることは敢えて避ける傾向があるのではないかとさえ思われる。しかし、私は伝統的な「よき死」の表現とも言える「往生」と、現代的な「よき死」を示す「安楽死」等の概念は、むしろ改めて関連づける試みをした方がよいのではないかと思っている(そうした試みの一つとして、神居文彰・田宮仁・長谷川匡俊・藤腹明子『臨終行儀――日本的ターミナル・ケアの原点――』北辰堂、1993参照)。
 「安らかな死」を願う言説が「安楽死」や「尊厳死」といった言葉でだけ語られると、そこでは「自己決定(本人の意思)こそが最も重要である」という前提が立っているために、死にまつわることがすべて自己決定できるかの如き幻想に包まれることになる。この間には、「終活」と称して、死後のことまですべて自分で決めておくことが疑いもなくよいことだという言説が、各種メディアを通じて垂れ流され、死後、自分の好きな花を飾ったり、好みの服を着せて棺桶に入れてもらったり、或いはエンディングノートにちょっとした思い出を記したりする程度のことで、あたかも「安らかな死」が得られるような言説が横行してきた。が、その実、これは「死の商品化」にしかつながっていないように思われるのである。
 「死」を「往生」という言葉で問題にするとき、人は「生き死に」がすべて自己決定できる(本人の意思次第で何とでもなる)という誤解から免れられるという意義があるのではないだろうか。例えば、親鸞の場合、極楽浄土に往生できるかどうかは「他力回向の信心」に依る(すべて阿弥陀仏にお任せする)以外にないということになるが、ここからは「自己決定万能」の考え方は出てこない。昨年亡くなった永六輔の『大往生』(岩波新書、1994年)も「安楽死、尊厳死、ホスピスの話題もこと欠かない」(同書「まえがき」)という状況になり始めた中で書かれたものであるが、当時この本がベストセラーになったということは、20数年前にはまだ「安楽死」等の時代の問題を「往生」の問題として考える傾向が、日本にはあったということであろう。それが、現在では、「往生」という貴重な文化的資源を捨て去って、すべて「自己決定」で問題が解決するかのように語られている。しかし、安心して任せる世界があって、人ははじめて救われるのではないだろうか。死に方や死後のことにまで「自我」を拡大することは(仏教ではこれを「霊魂」として否定し、「無我」を説いているのであるが)、心配(迷い)の種を増やすことでしかないのである。
 以上、「往生=死」について考えてきた。そして、改めて「よき死」を「大往生」として語る文化を取り戻すことが重要だと思うに至った。(次回は「立往生:往生=困」について考える。)


余は如何にして基督信徒となりし乎 №14 [心の小径]

第三章 初期の教会 7

                                             内村鑑三  

 年末までは記すにたる事はない。もっとも我々が日曜礼拝で試みた一つの実験があったが、それはこの集会とクリスマスとのあいだのある時に行われたに相違ない。我々は我々の『話』に倦きてきた、集会を行う方法に何か変化が非常に望ましかった。我々のうちの一人が一つの提案を出した、我々は世の中へ出れば必ず不信者に出逢(であ)うであろう、我々は学校時代に彼らに出遭う準備をすべきである。我々一同その実を議論した、そして最善の方法は『教会』を二組に分け、一つは基督信徒側を、他は不信者側を代表し、各組をして二つの側を交互に取らせることであろうということにきまった。不信者側の者は不信者が発しそうなあらゆる種類の質問を発し、基督信徒側の者はそれに答えることになった。案は賛成を得た、そして次の日曜日から実行されることになった。                                    当日― 集会が新方法で行われた最初の安息日― に、我々は全員を籤(くじ)で二組に分けた、チャグラッドストンが一方に、ボリンブルック、ヒユーム、ギボン、ハクスレイが他方に、居並んだわけである。祈りと食べるものの分配がいつものようにあったのち、論戦が深まった。当日の題は「神の存在」であった。最初の懐疑家フランシスが最初の護教家チヤールスを攻撃した。宇宙それだけで存在して来ることができたという挑戦に対しチャールスは物質にはつくられたものであるまざれのない特徴がある(マクスウェルから借りた議論とおもう)、そしてそのようなものとしてそれは自存していることはできない、ということを示す議論を提出した。第一の攻撃は撃退され、我々の信仰はりっぱに弁護された。実際的のビューに基督教に対陣するはなはだ恐るべき議論はなかった、そしてヨナタンの仕事は彼の反対に応ずるに困難なものではなかった。この宇宙に仕その創造者があったに相違ないこと、この創造者は自存していること、彼は全能にして全智でありたもうこと、それがいまや結論的に証明された。しかしいまや攻撃をするのはパウロの番であって、フレデリックが彼に対することになった。彼らは数日間はなはだ仲がよくなかった、そして我々はかかる顔合せの結果をおそれた。我々はすでに学者的なパウロが自分が答えうる以上の疑いをもっていることを知っていた、そしてこの場合は彼がその神経質的頭脳のなかで製造することのできるもっとも手ごわい疑いを注ぎ出す第一等の機会を彼に与えたのである。僕は認める』と彼は始めた、『この宇宙は創造せられた宇宙であること、そして神は全智にして全能であること、そして何事もこの神には不可能ではないことを。しかしこの神が、この宇宙を創造しそしてそれが彼によって授けられたポテンシャルエネルギーをもって独力で成長発達できるようにそれに運動を与えた後に、― この創造者が自分自身の存在に終止符を打って自分自身を絶滅してしまわないということを、どうして君は僕に証明することができるか? もし彼がすべてのことをなすことができるならば、なぜ彼は自殺することができないのか!』込み入った、ほとんど冒涜的な質問である! 実際的なフレデリックにどうしてこの質問を片附けることができようか? 我々の眼は困惑した護教家の上にすえられた、そして不信者側さえフレッドの答え如何を気づかった。一瞬間披は沈黙していた、しかし勝ち誇るパウロはなおも彼の攻撃をもって迫った。フレデリックは何か言わなければならぬ。勇気を奮い起して、彼は軽蔑の口調をもって言った、『そうだ、馬鹿だけがそんな質問をするのだ』と。『なに、馬鹿?では君は僕を馬鹿というのか?』と慣激したパウロが言い返した。『いかにも、僕はそう言わなければならない』それがフレデリックの断乎(だんこ)とした答えであった。パウロはもはや自分を制することができなかった。『諸君』と彼は起ち上って胸をたたいて言った、『僕はこれ以上ここにいっしょにいることは我慢ができない。』やにわに彼は部屋からとび出した、ドアは荒々しく彼の背後に閉った、そして我々には彼が自分の部屋に着くまでうなっているのが聞こえた。残った我々は閉口してしまった。ある者はパウロが悪いと言い、他の者はフレデリックも悪いと言った。論争中の重要間題は側におしやられた。我々はいまはどうして交戦当事者を和解せしめるかが心配であったた。集会はそれ以上の討論なしに閉会し、新計画は全く廃止された。我々自身には自分が答えうるより以上の疑いがあること、そしておそらく最善の方法は我々が上よりの助けをもって自分自身の心のなかでそれを解決することであろうということを我々は知った。次の日曜日、我々は再び旧い方法をはじめた、そして獅子と牡牛はともに平和に臥(ふ)していたのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


論語 №26 [心の小径]

六〇 子のたまわく、関睢(かんしょ)は楽しんで淫(いん)せず、哀(かな)しんで傷(やぶ)らず。

                                       法学者  穂積重遠

 「関睢」は『詩経』の有名な一篇だが、文王の后(きさき)が夫のためによき側室(そばめ)を得たしと苦心し、それを得ては妻妾よく内助した、ということを歌ったのであって、今日の道徳からは変なものだが、孔子様の言わんとするところは、その詩の文句なり、またそれを歌う音楽なりが極端過度ならぬにつけて、喜びにも悲しみにも節制あるべし、ということである。

 孔子様がおっしゃるよう、「関睢の詩は、楽しみの度が過ぎて正しき道をはずれず、悲しみの度が過ぎて本心を取り失わぬもので、誠にけっこうじゃ。」

 「楽」と「哀」と「淫」と「傷」との対句で、実に金言だ。すぐ有頂天になるかと思うとたちまちペシャンコになるようなことでは、問題にならない。

六一 哀公(あいこう)社を宰我(さいが)に問う、宰我対(こた)えていわく、「夏后氏(かこうし)は松(しょう)を以てし、殷人(いんひと)は柏(はく)を以てし、周人は栗(りつ)を以てす。いわく、民をして戦栗(せんりつ)せしむ。子これを聞きてのたまわく、成事(せいじ)は説かず、遂事(すいじ)は(いさ)めず、既往(きおう)は咎(とが)めず。

 「社」は文字どおり土地の神の社(やしろ)であって、一定の木を植えて神体としたものらしい。宰我は門人宰子(さいし)、字は子我(しが)、弁才(べんさい)で子貢(しこう)とならべられているが、ここでは口が過ぎてしかられ、後には口ほどでもないとしかられ、いわゆる十哲中では優等生でないようだ。

 「柏」は日本では「かしわ」とよむが、中国では「松柏の凋(しぼむ)に後(おく)る」などといってときわ木の「カヤ」である。ここでは「栗」を「リツ」と音でよまなくては「慄」と通ずるシャレにならぬ故、「松」「柏」も「ショウ」「ハク」とよむ。
 最後の三句は当時のことわざらしい。

 哀公が社の神木について宰我にたずねたとき、宰我が「夏の時代には松を用い、殷の時代には柏を用い、周になってから栗を用いるようになりました。それは人民を戦慄させる、という意味であります。」と答えた。孔子様がそのことを聞いておっしゃるよう、「出来たことは言うまい、済んだことは諌めまい、過去はとがめまいが、将来はさような余計なこじつけを申すまいぞ。」

 故実を述べるだけにしておけばよかったのに、例の口が過ぎた上に、先生大きらいな恐嚇(きょうかく)政治が周の国是のようにいったので、真綿で首をしめるようなお小言をちょうだいしたのだ。
                                        
六二 子のたまわく、管仲の器小なるかな。或(ある)人いわく、管仲は倹なるかな。のたまわく、管氏に三帰(さんき)あり。官事(かんじ)摂(か)ねず。いずくんぞ倹を得ん。然(しか)らばすなわち管仲は礼を知るか。のたまわく、邦君樹して門を塞(ふさ)ぐ。管氏もまた樹して門を塞ぐ。邦君両君の好を為すに反坫(はんてん)あり。管氏もまた反坫あり。管氏にして礼を知らば、たれか礼を如らざらん。

 管仲は斉(せい)の桓公(かんこう)を補佐して覇業(はぎょう)を成就した有名な英雄。
 「三帰」を妻を三人もつこととする人もあるが、倹約かどうかという問題だから、「三帰台という「うてな」と解しておこう。台を造るということが昔の中国の王公のぜいたくざたなのだ。「官事」はここでは「家事」というくらいの意味。「反坫」は盃輿を伏せる台。

 孔子様が「管仲の人物は小さいのう。」とおっしゃった。そこである人が、それをケチケチしているという意味と思って、「管仲は倹約なのですか。」とおたずねした。「管仲は家に『三帰台』という『うてな』を設けたり、一人一役でおおぜい召使を置いたりするぜいたくざたであった。どうして倹約なものか。」「それでは管仲は礼を知ってそれにこだわるので、人物が小さいとおっしゃるのですか。」「諸侯の屋敷では門内に植え込みを作って目かくしにするきまりだが、管仲は大夫の分際で私邸の門内に目かくしの木を植えた。また諸侯の交際の宴会に反坫という盃台をつかうことになっているところ、管仲も反坫を用いた。管仲が礼を知っているというならば、誰が礼を知らぬものがあろう。」

 管仲の覇業は孔子様も認められたこと、後に見えるが、手柄におごって潜上非礼(せんじょうひれい)をするようなことでは人物が小さい、と評されたのである。

『新訳論語』 講談社学術文庫


出会い、こぼれ話 №40 [心の小径]

第39話 お礼肥

                                       教育者  毛涯章平

 所用で長野駅から列車に乗った時、発車間際に一人の婦人が外からはげしく窓をたたいた。何事かと思い急いで開けてやると、よほどあわてているらしく、窓わくをくぐつて顔をつっこんできて、通路をはさんで私の反対側の座席に向かって大声で話し始めた。
 「いい?枚本で降りたら、そこにそのまま立っているのよ」
 見ると四・五歳ぐらいの男の子が一人、こちらを向いてうなずいている。母親と、その子どもであることがすぐにわかった。
 わたしは、身をうしろにそらせて、話をしやすくしてやった。
 「降りたら動いちゃだめよ。おばあちゃんが迎えに来てくれるからね。じゃあね」
 甲高い声でこう言い終わると、発車のベルが鳴りだしたので、彼女はさがって手を振り始めた。
 わたしは、母親からも、チビもからもお互いがよく見えるように窓を開けたままにしておいた。
 やがて列車がスピードを増してきたので窓を閉めた。
 そうして、言いようのない味気なさが心に残った
 実は、初めから発車まで彼女は、わたしという一人の乗客の存在を、全く無視していたのである。
 -松本に着いたら、あの子をホームまで連れていってやるつもりでいたのに-

 そんなことがあってからある晩、村の有線放送を聞くともなしに聞いていると、
「今年も柿がたくさんとれました。雪の降る前に『お礼肥』を充分やってください」
と言っているのが耳に入ったりわたしは、このことばを聞いて言いしれぬ味わいと安らぎをおぼえた。
 収穫の後に『お礼肥』をやろうと言っているこの村から生座される果物は、それはもう、うまいに決まっていると思うのだった。

『章平先生の出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


文化的資源としての仏教 №3 [心の小径]

文化的資源としての仏教3                

                                                     立川市・光西寺住職 寿台順誠

                              往生考⑴――はじめに

前回、私はこのエッセイの序文において、仏教の言葉は日本人が「生き死に」について考える際には使用せざるを得ない貴重な文化的資源であるということを具体的に示す意味で、今回から関連する言葉を一つ一つ取り上げていくということ、そしてしばらくは「往生」について考えるということを予告しておいた。
まず真っ先に「往生」という言葉を取り上げるのは、たまたまこの言葉を最初に思いついたからにすぎない。が、やはり浄土教という仏教においては、これがなければ教えそのものが意味をなさなくなると言ってよいほど、重要な問題であることに間違いはないであろう。なぜなら、たとえ経典に「浄土」というものが説かれていたとしても、実際そこに「往生したい(往き生れたい)」と願う人がいなければ、それはまったく絵に描いた餅に過ぎなくなるからである。
ところが、仏教用語の中には、元々の仏教的な意味とはまったく異なる意味で、場合によっては仏教に敵対するかのような意味で使用されているものが多い。「往生」という言葉もその典型的な例の一つと言えるであろう。例えば、「立往生」のように「困った」場合に使われることによって、むしろ「極楽浄土に往生したい」という人を減らすような効果しかもたらさない用法があるのである。
そこで私は、この言葉がまずは宗教的・仏教的な意味ではなく、世俗的・一般的な意味でどのように使用されているのかを確認した後で、仏教的な意味について再考するという順序で話を進めていきたい。そのため、今回はごく一般的な国語辞典において「往生」がどのように説明されているのかを確認しておくことにする。以下、『大辞林 第三版』(2006年)の説明である。

  ①〘仏〙この世を去って、他の世界に生まれ変わること。特に死後、極楽に往って生まれること。「極楽――」
  ②死ぬこと。「――を遂げる」「大――」
  ③抵抗などをあきらめること。断念すること。「いい加減に――しろ」
  ④打開策がみつからなくて非常に困ること。「英語が通じなくて――した」「立ち――」
  ⑤「圧状おうじょう②」に同じ。「無理――」

この『大辞林』の説明を今後の話の枠組として使うことにしたのは、『広辞苑 第六版』(2008年)の説明では上記③④が一つにまとめられてしまっているので、厳密さに欠けると思ったからである。私は③「あきらめること」と④「困ること」は分けておいた方がよいと思う。また、仏教の専門的な辞書で「往生」を引くと(『岩波仏教辞典 第二版』2002年と法蔵館の『新版 仏教学辞典』1995年を確認)、当然のことながら、上記①の意味についての詳細な専門的説明が続くばかりで、他の意味についてはあまり触れられていない。従って、「文化的資源としての仏教」という趣旨において「往生」の意味について考える場合には、そうした専門的な辞書に基づいて話を進めることも適切だとは思えない。
以上のことから、次回以降、私は上記『大辞林』の意味区分に沿って、「大往生:往生=死」(上記②の意味)、「立往生:往生=困」(上記④の意味)、「往生際:往生=諦」(上記③の意味)、「往き生れること:going to and birth in the Pure Land」(上記①の意味)の順で話を進めることにしたい。(なお、上記⑤の「圧状」はここでは除外してもよいであろう。次回は「大往生:往生=死」について考える。)


論語 №25 [心の小径]

五六 子のたまわく、射(しゃ)は皮(ひ)を主とせず。力(ちから)科(しな)を同じくせざるがためなり。古(いにしえ)の道なり。

                                       法学者  穂積重遠

 「皮」は的の中央の皮の張ってある部分、強弓(ごうきゅう)ならば皮をつらぬく。

 孔子様がおっしゃるよう、「弓を射るのに的(まと)皮(かわ)を射ぬくかどうかを要点としない。人の力には強弱があって一様でない故、必ず的皮を射ぬけといっても無理だからであって、それが昔の弓道である。しかるに今日ではその古道が忘れられて、弓術が的皮を射ぬく力くらべになってしまった。なげかわしいことじゃ。」

 弓だけでなく、すべてが力の時代になったことを諷(ふう)されたのであろう。
 初句を、心がまえと作法とが大切で的にあてることを主とせぬ、という意味に解する説もあるが、それだと第二句との連絡がつかぬ。

五七 子貢(しこう)告朔(こくさく)の餼羊(きよう)を去らんと欲す。子のたまわく、賜(し)や、なんじはその羊を愛(お)しむ。われはその礼を愛しむ。

 毎年冬、天子が来年の暦を諸侯に頒(わか)ち、諸侯はそれを祖廟(そびょう)に蔵(おさ)め、毎月朔日(ついたち)に諸侯は羊の生肉を供物にして(「餼」は煮焼せぬいけにえ)朔日を奉告し、その月の暦を民間に施行(しこう)することになっていた。それが「告朔」である。ところが魯では当時告朔の札はすたれていたのに、毎月朔日に羊を殺して供えていた。
 
 子貢が、告朔の礼がすたれたのに羊を殺すのはむだだからやめにしたら、と考えた。
 孔子様がおっしゃるよう、「賜よ、お前は羊をおしむが、わしは礼がおしい。」

 せめては古礼のかたみたる供物が残っているのに、それまでやめてしまったら、古礼は全く忘れられて復興の機会がなくなってしまうだろう、というのが孔子様の気持である。虚礼ではもとよりつまらぬが、虚礼だから廃すべしとのみ考えずに、虚礼を虚礼でなくする工夫もせねばなるまい。

五八 子のたまわく、君に事(つか)えて礼を尽せば、人以て諂(へつら)うと為す。

 「尽」は、当然為すべきことを十分にすること。

 孔子様がおっしゃるよう、「君に対して礼を尽すのは当然のことだのに、今の人はそれを見てオベッカだとそしる。」

 これは孔子様自身に対する世人のそしりを心外とされての言葉らしい。荻生徂徠いわく、
「三家(さんか)強くして公室弱く、人皆三家に附きて公室を軽(かろ)んず。習い以て常となる。故に孔子を以て諂えりとなす者これあり。而(しこう)して孔子俗に違(たが)いて必ずその札を尽す。亦(また)以て公室を張り三家を抑うる所以なり。」

五九 定公(ていこう)問う。君(きみ)臣(しん)を使い、臣君に事うること、これを如何。孔子対(こた)えていわく、君臣を使うにし、臣君に事(つか)うるに忠を以てす。

 定公は魯の君。当時から三家の僣上(せんじょう)横暴に苦しんで、こういう問いを出したのだろう。

 定公が「君が臣を使い、臣が君に事(つか)えるには、どうあるべきだろうか。」とたずねた。
 孔子が答えて申すよう、「君たる者は礼を以て臣を使い、臣たる者は忠を以て君に事う
べきであります。」

 定公は孔子の答があまりにも平凡なのに失望したかも知れない。しかしこの平凡事さえ行われないのが魯の現状だったのだ。孟子は「君の臣を視(み)ること犬馬(けんば)の如くなれば、すなわち臣の君を視ること国人(こくじん)の如く、君の臣を視ること土芥(どかい・どろあくた)の如くなれば、すなわち臣の君を視ること寇讎(こうしゅう・あだがたき)の如し。」と言ったが、孔子様のはさような相互主義ではない。「すなわち」と条件的に言わぬところを注目すべきで、君臣それぞれその道を尽すべし、と言われるのだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫


出会い、こぼれ話 №39 [心の小径]

第38語 おばさん

                                    教育者  毛涯章平

 私が校長として最初に赴任した山の小さな学校に、その学校の名物と呼ばれるおばさんがいた。
 若い頃からその学校に住み込んで、そろそろ定年を迎える年であった。
 だから村じゅうの大人たちは、子どもの頃からおばさんの世話になってきた人が多かった。
 その人たちが学校に来ておばさんと話しているときは、まるで親子のようで、ほほ笑ましかった。
 遠くからきて自炊をしている先生には、ときどき、
 「先生。疲れていなさる、顔色がよくねえぜ。今夜はここで食べておいでな」
と言ってやるのだった。
 またある時は、苦労して手に入れた蜂の子を自慢のつくだ煮にして、その一つまみを銀紙に包んで、母親が病気で寝ているという子に持たせて、
「母ちゃんに、この薬を食べて早くよくおなりなって言っておくれ」
と言っているのを見て、私は幾たび涙したことか。
 おそらくこの母親も、子どもの頃おばさんに世話になった一人にちがいない。

 ある年の三月、新年度の準備作業で、古くなった教室の名札を私が書き賛えることになった。
 そこで各室の札を順々に書いていって最後に公仕室という一枚が残った。
 お手伝いの子どもがきれいに拭いてくれたので、すぐ書こうとして一瞬ためらった。
 「まてよ、これはおばさんが居るところだ。子どもたちにとっても、村人にとっても、おばさんが居る部屋なのだ。とても 「公仕室」などという部屋ではない」
 そう思うと私は迷うことなく「おばさん」と書いた。

 揚げられた札を見て、目に涙を浮かべながら深々と一礼されたおばさんの姿を今も忘れることができない。

『章平先生の出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


出会い、こぼれ話 №38 [心の小径]

 第37話 破廉恥

                                       教育者  毛涯章平

 「破廉恥(はれんち)」とは、辞書によると「恥を恥とも思わぬこと」とあります。
 したがって恥を恥とも思わない人のことを「恥知らず」または「破廉恥漢(はれんちかん)」ともいいます。
 昔から、家庭・学校・地域での子どもの教育の中で『恥を知れ』ということは極めて大切な教訓の一つであったといわれます。
 ふしだらな格好をしていたり、やるべきことをしなかったりすると、子ども同志が「恥くそ恥くそ」と言い合ったものでした。
 また、食事のとき、ご飯をこぼしたりすると、お年寄りが、
「お米を租末にすると、お天とう様の罰が当たって、目がつぶれるぞ」
と言って、食べ物に対する慎しみをしっかり教えてくれたものでした。
 そのほか、日常生活の中で「そんなことは恥ずかしいぞ」とか、「人さまに笑われるぞ」などと、気軽に声をかけてやって、やがて子どもたちが自らを正していけることを願っていたのです。

 これらは、おそらく昭和二十年の敗戦を境に、しだいに失われてきたと言われています。
 しかし、「恥を知る」心は時代を超えて、人間が生きていく上に、特に大切な心がけであるはずです。
 しかるに今日「恥知らず」がいかに多くの人の心を傷つけ、社会を汚濁していることでしょうか。
 彼等の犯す罪を「破廉恥罪」といって「詐欺・窃盗・贈収賄lがその例とされています。ですから、現在世の中に、いかに多くの「破廉恥罪」が横行していることが、驚くばかりです。

 今こそ、これからを生きる人間にとって、「恥を知る」ことの大切さを教えられて育つ幼少年時代をもつことが、どんなに大切なことかを痛感する昨今であります。


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