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余は如何にして基督信徒となりし乎 №20 [心の小径]

第四章 新教会と平信徒伝道 1

                      内村鑑三

 我々が我々のカレッヂを卒業するやいなやめいめい一カ月三十円の給料のある地位を提供された。我々は実用科学を教えられ、我が国の物質的資源を開発するようにされていたのである。我々はけっしてこの目的からはずれなかった。、ナザレのイエスにおいて我々は、大工(だいく)の子であることによって人類の救い主であった人を見たのである、そして我々彼の卑しき弟子たちは、漁夫、技術者、製造者であって同時に平和の福音の伝道者であるかもしれなかっ。漁夫ペテロと天幕製造者パウロとが我々の模範であった。我々はけっして基督教をいかなる種類の聖職制度とも教会主義とも解釈したことはなかった。我々はそれを本質的には平民の宗教として受取る、そして我々が『この世の人』であることは我々が伝道者であり宣教師であることにすこしも障害とはならない。我々は信ずる、我々の科学力レッヂを去った時の我々以上に潔(きよ)められた一組の青年がかって学園を去ったことはなかったと。我々の目的は精神的であった、我々の訓練と到達点とは物質的であったけれども。
 カレッヂの課程を終了した後、余は首府にある我が家にもういちど帰省した、今回は『六兄弟』全部が余とともに上京した。我々の首府滞在はまったく楽しくあった。我々は宣教師から多くの招待を受け、我々がやって来たわずかなことのために称讃され、我々の経験を彼らの集会で語ることを求められた。我々は教会の構造やその管理の方法を学んだ、我々の所に帰ったとき我々自身の教会にそれを応用するためである。遥か北方から、原始林と熊と狼とのなかから出て来たのであるけれども、我々は基督信徒のなかでもっとも知的でない者ではないことがわかった。我々がメリケン粉樽の講壇から聴き青毛布の上で話し合ったことは、首府の諸教会の教えや教養と比較してもっとも粗野な思想ではなかった。或る点では、じつに、専門神学者の配慮のもとに育てられた我々の友人たちよりも、我々はより深いより健全な見解をもっていると我々は考えた。
 余はまた、二年前に余が行ったように、友人と親戚の間に余の伝道事業を続けて行った。異端者の頭目は余の父であった。学問と自分自身の考えについての強い確信とがあって、余の信仰をもって近づくのにもっとも困難な人であった。三年間余は彼に書籍と小冊子を送りつづけてきた、絶えず手紙を書いてキリストに来てその救いを受けるように懇願してきた。彼は貪り読む読書家であって、余の書籍は全然は無視されてはいなかった。しかし何ものも彼を動かすことはできなかった。彼は社会道徳に関するかぎりは正しい人であった、そしてそういう人が常にそうであるように、彼は救いの必要をもっとも多く感ずる人ではなかった。余のカレッヂ課程の終りに、余は余の勉学と精勤のために再び少額の金を授与された、そして余はそれをできるだけ有益に用いることを考えた。余はそれを余の神に祈った。まさにそのとき一つの考えが余に起った、両親に何か贈り物を持って行こうと、そしてこの目的のために在シナ独逸人宣教師ファーベル博士が書いた『馬可講義」にまさる品物は余に思いつかなかった。その著作は五巻であった、そしてそれが意図されたその当の国民の教養をそなえている健全にして広汎な学識の産物として、非常に高く評判されていた、またいまなおそうである。それは訓点のない漢文で書かれていた、そして余は、他の何でなくともそれを読むことの困難が、それを閲読しようという父の知的欲望を刺激するかもしれないと考えたのである。余はこの著作に二円を投じ、行李に入れて父のもとにたずさえて行った。しかし、ああ! 余がそれを父に贈った時に、感謝や満足のいかなる言葉も彼の唇からは出なかった、そして余の心の最善の願いは彼の最も冷たい歓迎に出合ったのである。余は密室に入って泣いた。本は他の屑(くず)物とと箱のなかに投げ込まれていた、しかし余は第一巻を取り出し、それを彼の机の上に置いておいた。他に何もすることのない暇の時に、彼は一頁くらいは読んだであろう、そして再びそれは屑物の中に入った。余はそれを再び取り出した、そして前のようにそれを彼の机の上に載せた。余の忍耐は彼がこれらの書物を読む気にならないだけそれだけ大きくあった。ついに、しかし、余が優勢となった、彼は第一巻を通過した! 彼は基督教を嘲笑すむことを止めた!その書中の何かが彼の心に触れたに相違ない!余は第二巻に対し第一巻に対したと同じことをした。しかり、彼は第二巻をもまた終った、そして基督教を善(よ)く言い始めた。感謝す神よ、彼は来りつつあった。彼は第三巻を終った、そして余は彼の生活と態度に或る変化を認めた。彼は飲酒を減じようとした、そして彼の妻子に対する振る舞いは以前よりも愛情的になりつつあった。第四巻を終った、そして彼の心はへりくだった!『息子よ』と彼は言った、『私は傲慢な人間であった、この日から、お前は信じてよい、私はイエスの弟子となるであろう。』余は彼を教会に連れて行った、そして彼のうちにその全性情の大変動を認めた。そこで聞いた一つ一つの事が彼を感動させた。まったく雄々しく武士らしくあった眼は今は涙をもってうるおった。彼はもはや酒に触れようとしなかった。なお十二カ月して、彼は洗礼を受けた。彼はまったく徹底的に聖書を学んだ、そして彼はけっして悪い人ではなかったのであるけれども、それいらいは彼は基督信徒的人間であった。いかに彼の息子が感謝に溢れたかは、読者の判断にお任せする。-エリコが落ちた、そしてカナンの他の町々は続々と占領せられた。余の従弟、余の伯父、余の兄弟たち、余の母、余の妹、一同が後に従った、そして十年間、摂理の手はつらく我々を取扱い、我々は幾多の深い淵を通過せしめられたけれども、また孜々が告白した信仰は我々をして世人の眼には嫌悪の情を起させるものたらしめ、人生の快楽の多くは御名のために放棄せられることになったけれども、余は信ずる、我々は今なお我々の天上の主に対する愛と忠誠とにおいては国内の他のいかなる家にも劣るものではないと。四年前に、もう一人の家族が我々の家に加えられた。彼女は『異教徒』として我々のもとに来た、しかし一年のうちには、いかなる婦人も彼女より以上にその主なる救い主に忠実ではなかった。善き主は彼女を、わずか一年半我々のもとに留(とそ)まらせただけで、我々から取り去りたもうた。しかし彼女が我々のもとに来たことが彼女の霊魂の救い主を発見する機会であった、そして彼女は主と祖国のためにまことに気高く戦ったのち、彼に信頼しつつ彼の歓喜と祝福に入った。さいわいなるかな、主にありて眠る彼女は、さいわいなるかな、その絆が彼にありまたそれが霊的である我々一同は。
 秋になって余はもういちど北国にある余の活動の野に帰った。余は弟を同行した、我が家は貧しくあった、そして今や余は月給取りとなった以上は両親の荷を軽くしなければならなかったからである。余はエドウィン、ビュー、チャールス、パウロとの共同生活に入った、そして我々はいっしょに一軒の家を持った。それはカレッヂ生活の継続であった、ただ学校寄宿舎よりはそこには少しく自由と快楽とが多くあっただけである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫



論語 №31 [心の小径]

八三 子のたまわく、賢(けん)を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内自ら省みる。

                  法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「賢くて徳のある人を見ては、自分もこの人のようでありたいと思い、賢からず徳のない人を見ては、自分もこの人のようではないかと反省する。」

八四 子のたまわく、父母に事(つか)えては幾(ようや)く諫(いさ)む。。志の従わざるを見ては、また敬(けい)して違わず、労して恨まず。

 孔子様がおっしゃるよう、「父母に過ちある場合には、子として諫めねばならぬが、きびしくとがめ立てするような態度でなく、かど立たぬようジワジワと諌むべきだ。そして諌言(かんげん)がきかれない場合にもほんとに困ったわからずやだなどと敬意を失った気持をもたず、いくら苦労迷惑しても怨みがましくない、それが孝子というものじゃ。」
 めんどうだからいいかげんにしておけ、というのではない。手をかえ品をかえてけんか腰でなく諌むべきだ。やはり重盛諫言などが理想的の「幾諌」であろうか。

八五 子のたまわく、父母在(いま)すときは遠く遊ばず、遊べば必ず力あり。

 孔子様がおっしゃるよう、「父母の存命中は無用の遠出をせぬものぞ。やむを得ず遠方へ旅行でもする場合には、必ず行先を明らかにして、心配をかけぬようにせよ。」
 私の母は、私たちが子供の時から、あまりやかましく干渉はせず、友だちの所へ遊びに行きたいとか、旅行をしたいとかいえば、快く出してくれたが、無断で外出したり、予定以外の寄り道をしたり、帰るといった時刻におくれたりすると、ひどくしかられたものだ。時にはずいぶん窮屈だと思ったこともあるが、それが癖になって、父母いまさぬ老後の今日でも、外出のときには、必ず何時から何時まではどこに居り、何時には帰る、ということを家人に言いのこし、でき得るかぎりその予定をたがえぬようにしており、また妻や息子や嫁や娘にもそうさせる家風になっている。今日のような交通不便の時代には、それがなかなかむずかしいが、同時にそれがいっそうそうさせる家風になっている。家人の安心のためでもあり、火急な事が起った場合の連絡上も必要だ。留守に人が来たり電話があったりした場合に、サアどこに行っておりますか、などは第一体裁もよくないし、また自身としても、どこへ行きどこへ回るということが公言できないようでは、うしろぐらい次第だ。大げさに言えば、出所進退を明らかにする、ということにもなる。

八六 子のたまわく、三年父の道を改むるなきは、孝と謂うべし。

 これは前に出ている。かような重出は数カ所あるが、これは一度言ったのが二度出たのではなく、二度三度言ったことの整理もれであろう。
  古註(こちゅう)に、
「凡そ諸章の重出せるものは、けだし夫子しばしば言い、門人互いにこれを録せるなり。
意味深長、学者宜(よろ)しく玩(もてあそ)びて 審(つまびらか)に思うべきなり。」
とあり、また太宰春台も左のごとく言う。
「論語中語の重出するもの、或は詳、或は略、随時同じからず。意あるにあらざるなり。記者一人にあらず、各自聞く所を記す。異同ある所以なり。」

『新訳論語』 講談社学術文庫



文化的資源としての仏教 №9 [心の小径]

文化的資源としての仏教9                

          立川市・光西寺住職 寿台順誠

        四苦八苦⑵――その論理構造

前回私は一般に「人生の苦の総称」であると説明される「四苦八苦」が、果たして人間の苦をすべてカバーしているものかどうかという疑問を提示して、これを考えるためには、まず「四苦八苦」に表わされた仏教独特の論理構造(思考方法)について理解する必要があると指摘しておいた。以下、それについて考えてみたい。

「四苦八苦」の説明としては、「苦の総称」といった説明の他に、「苦しみを四つあるいは八つに分類したものの併称」(『岩波仏教辞典 第二版』2002年)という説明もなされている。これはいわば「苦の総量」を「四つあるいは八つに分類したもの」という意味に受け取ることができると思うので、この説明もやはり四苦八苦が「苦の総称」であることを示していると考えてよいであろう。
ところで、このように四苦八苦が苦の「分類」だと説明されると、それは「苦の総量を四分割ないし八分割したもの」だと言われているように読めるであろうし、また、「生・老・病・死」乃至「愛(あい)愛別離(べつり)別離苦(く)苦・怨憎(おんぞう)怨憎会苦(えく)会苦・求(ぐ)求不得(ふとく)不得苦(く)苦・五蘊(ごうん)五蘊盛(じょう)盛苦(く)苦」の「四つ」乃至「八つ」の苦は各々並列的に列挙されているもののように受け止められるであろう。しかし、私たちの実態に即して言うならば、はじめの四苦のうち「老・病・死」が「苦」であることは実感しやすいことであるが、「生」(生れてきたこと自体)が「苦」であることには、なかなか思い至らないのではないだろうか。
また、あとの四苦のうち「愛別離苦」(愛する者と離れなければならない苦しみ)、「怨憎会苦」(憎い者と一緒にいなければならない苦しみ)、「求不得苦」(求めるものが得られない苦しみ)は分かりやすいことであるが、「五蘊盛苦」になると、一般にはそもそも何を言っているのか理解しがたい言葉だということになるのではないか。「五蘊」とは人間存在を、「色(しき)色」(感覚器官を備えた身体の意。後に物質一般に意味が拡大)、「受(じゅ)受」(苦・楽・不苦不楽の3種の感覚或いは感受)、「想(そう)想」(対象の像や観念を受動的に受けとる表象作用)、「行(ぎょう)行」(能動的に意志する作用或いは衝動的欲求)、「識(しき)」(認識或いは判断)という五つのモノと作用の集まり(「蘊」の梵語skandhaは「集積」の意)として捉えるもので、その五蘊から盛んに生起する苦を「五蘊盛苦」と言うのであるから、要するにこれは見るもの・聞くもの、やること・なすこと全てが苦である(つまり、総じて人生は苦である)と言っているに等しいであろう。「愛別離苦」等の具体的な苦をいくつ列挙しても、やはりなかなか「五蘊盛苦」には至りつかないのではないだろうか。
以上のことから、「苦」として認識される順序として表現するならば、はじめの四苦は「老苦・病苦・死苦………⇒生苦」として、あとの四苦は「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦………⇒五蘊盛苦」として表すことができるだろう。つまり、前者について言えば「老・病・死」以外にも、後者に関して言えば、「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦」以外にも多くの「苦」を列挙することができるであろうが(そのことを「………」で表している)、そうした「苦」はほとんど無数に列挙できると思われるので、経験論的・帰納法的にどれだけ「苦」を並べ立てたとしても、論理的には「だから総じて人生は苦である」とは結論し得ないという問題があるけれども、しかし我々の人生の実感として言えば、いくつもの「苦」を経験するうちに、ある時点で「信仰上の飛躍」とでも言うべきものが起こって(その飛躍を「⇒」で示している)、「そもそも生まれてきたこと自体が苦である」(生苦)、また「見るもの・聞くもの、やること・なすこと全て苦である」(五蘊盛苦)という認識をもつに至る、ということがあるのではないだろうか。私はここに仏教独特の論理構造・思考方法があるのではないかと思うのである(これは「縁起」という仏教の因果関係論に関わることだと思われるが、これについてはまたいずれ取り上げることにしたい)。

このように考えてくると、四苦ないし八苦でもって人間の苦をすべてカバーできているのか、他にも苦と言えるものはあるのではないかと言っても、むやみやたらに苦のカタログを増やせばよいということにはならないであろう。所詮、帰納法的にどれだけ具体的な苦を並べ立ててみても、「総じて人生は苦である」という真理には到達しないからである。そこで重要になってくるのは、「老・病・死」や「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦」以外に、それを通して「生苦」や「五蘊盛苦」という究極的な苦に至りつく経路になり得るような深刻な苦はあるであろうか、もしあるとすればそれはどのような苦なのか、という問題だと思われる。が、この問題については、「四苦八苦」について記す最終回に改めて述べることにして、次回からはしばらく、「現代における生老病死の苦」について考えてみることにしたい。


出会い、こぼれ話 №46 [心の小径]

第45話 肩書への畏れ

                 教育者  毛涯章平

 菊池寛の短篇「形」には考えさせられる事が多い。
 『摂津の国の侍、中村新兵衛は槍中村といわれて、五幾内中国に知れ渡っていた。
 彼は緋(ひ)の服折を着て金色のかぶとをかぶり、その姿は輝くばかりで、それを見ただけで敵の雑兵は逃げ散った。
 ある時、元服まもない若侍から、明日の初陣に、仮の服折とかぶとを貸してほしいと懇望された。
 新兵衛は快く受け入れて
「これは新兵衛の〝形″じゃわ。これを身につけるからは、われらほどの肝魂を持たいではかなわぬもので」
と言うのだった。
 翌日の戦いに若者は、くだんの服折とかぶとを朝日に輝かせながら一気に敵陣に乗り入れた。すると凧に吹き分けられるようにその一角が乱れ、若武者“何人かを突き伏せて悠々と味方の陣に引き返した。
 そこで新兵衛は二番槍をと、駒を乗り出し真一文字に敵陣に殺到した。
 するとあの若武者の前には、戦わずして浮き足立った敵陣が、新兵衛の前にはびくともしなかった。
 新兵衛はその日に限って雑兵の黒皮鍼(おどし)の鎧(よろい)に南蛮鉄のかぶとをかぶっていたのである。
 新兵衛は、ともすれば突き負けそうになった。
 服折やかぶとを貸したことを後悔する気持ちが頭をかすめた時であった。敵の雑兵の突き出した槍が彼の牌腹(ひばら)を貫いていた。』
 この小説は、形や肩書きがもつ不思議な微妙な力
を物語っている。

 ところで、現在社会的に与えられている様々な「肩書き」は、新兵衛の「形」と同じ意味を持つもので、彼の言うように、この「形」を身につけるからには、それにみ合う中味が伴わなければならない。誰もが常に省(かえり)みて、肩書きに恥じない中味の充実につとめたい。

『章平先生の出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


文化的資源としての仏教 №8 [心の小径]

文化的資源としての仏教8                

            立川市・光西寺住職 寿台順誠

     四苦八苦⑴――はじめに

前回まで五回にわたって「往生」について記してきたが、今回からは「四苦八苦」ということについて考えてみたい。なぜ「往生」の次に「四苦八苦」を取り上げるのかということについて言えば、これも「たまたま次に思いついた」と言う以外に確たる理由はない。が、両者を敢えて関連づけるならば、人が極楽往生(「楽」あるところに往き生まれること)を願うためには、この世の生が「苦」であるという認識がなければならない。従って、「四苦八苦」は「往生」の前提条件だとは、一応、言えるのではないかと思う。
ただ仏教の教義問題として言うならば、「苦」については「四苦八苦」よりも「苦諦(くたい)苦諦」という教えについて解説する方が正道だとは言えるであろう。それは仏教(釈尊)の根本教説である「四諦(したい)四諦」、すなわち「苦諦」(人生は苦であるという真理)、「集諦(じったい)集諦」(煩悩による行為が集まって苦が生み出されているという真理)、「滅諦(めったい)滅諦」(煩悩を滅することで悟りに達するという真理)、「道諦(どうたい)道諦」(煩悩を滅するためには八正道に励むべきであるという真理)の一である。「八正道」とは、正見(正しい見解)、正思(正しい思惟)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行い)、正命(正しい生活)、正精進(正しい努力)、正念(正しい思念)、正定(正しい精神統一)の八つをいう。
しかし、「文化的資源としての仏教」と題するこのエッセイでは、「四諦」のような教義の解説を通してよりも、むしろ実際に日常生活でも使用されている「四苦八苦」という言葉を用いて仏教の人生観に迫る方が適しているであろう。そこでこの言葉を取り上げることにして、今回はまず、やはりごく一般的な国語辞典でどのように説明されているのかを確認しておきたい。以下、『大辞林 第三版』(2006年)と『広辞苑 第六版』(2008年)の説明である。
①非常に苦しむこと。大変苦労すること。「金策に――する」
②〘仏〙生老病死の四苦に、愛(あい)愛別離(べつり)別離苦(く)苦・怨憎(おんぞう)怨憎会苦(えく)会苦・求(ぐ)求不得(ふとく)不得苦(く)苦・五(ご)五陰(おん)陰盛(じょう)盛苦(く)苦の四苦とを併せたもの。人間のあらゆる苦しみ。(『大辞林』)
①〔仏〕生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊(ごうん)五蘊盛(じょう)盛苦(く)苦を合わせたもの。人生の苦の総称。
②転じて、非常な苦しみ。また、さんざん苦労すること。「弁解に――する」(『広辞苑』)
『大辞林』と『広辞苑』とでは、「非常に苦しむこと」といった一般的な意味と、仏教用語としての意味とを記す順序が異なっている。が、この違いは、「四苦八苦」と言えば、一般的にはまず「大変苦労すること」といった一般的意味が思い浮かべられるけれども、その語源は仏教の「生・老・病・死+愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦」にあるということを、『大辞林』は一般人が思い浮かべる順序に沿って、『広辞苑』は「仏教的な意味 → 一般的な意味」という因果関係の順序に従って、説明したものだと言うことができるであろう。私は以上のうち、「非常な苦しみ」といった一般的意味には、これ以上何も加えることがないので、以下では触れないことにして、仏教用語としての意味の方に集中したいと思う。
私が「四苦八苦」について常々疑問に思ってきたことは、「生・老・病・死+愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦」が「人間のあらゆる苦しみ」「人生の苦の総称」であるとされているわけであるが、本当に人間の苦はこの四苦ないし八苦で尽くされているのかどうか、ここに列挙された苦の他に苦はないのか、ということである。ただ、この問題を考えるためには、「四苦八苦」に表わされた仏教独特の論理構造(思考方法)を理解する必要がある。従って、次回は「四苦八苦」の論理構造について考えてみたい。


余は如何にして基督信徒となりし乎 №19 [心の小径]

初期の教会 12

                      内村鑑三

  五月十五日 日曜日 教会ハ『パルマイラ」ニ会合シ、独立に就いて論議ス。意見区々タリ。集会ハ何等確定的結論二達スルコトナクシテ閉会セリ。

 事はいっそう重大となりつつある。すべての基督信徒を会合せしめ、この教会独立という最重要問題について論議せしめよ。ヨナタンは若く理想的にして衝動的である。彼は我々自身を現存の諸教派から分離させ、そして我々自身を新しい独立の一団体として構成することに何ら困難を認めない。しかし『長兄』Sと『クロコダイル』Wは慎重である、そして彼らは我々の間にかような向う見ずは行わせないであろう。『好人物』Uと『宣教師坊主』Oはヨナタンに味方した、しかし彼のように成功に確信があるのではない。我々はその午後は何ら確定的結論に達しなかったのである。

  五月廿二日 日曜日 教会独立ハ会員間ノ世論トナリツツアル。夜、Oト会合シ、彼ト共二憲法ヲ起草ス。
                          
  五月廿三日 Oト会合シ、教会問題二就キ彼ト相談ス。彼二蕎麦ノ御馳走ニナル。

 独立の叫びは優勢になりつつある。Oとヨナタンは待望の独立教会のために憲法の草案を試みる。二十代の二青年がヨーロッパとアメリカの最大の頭脳を悩ました仕事を引受けるべきであるという考え! 無謀である! しかし勇気を出せ!『そは神は賢き者を辱(はずかし)めんとて愚なる者を選び拾えばなり』である。しかし疲れたときには我々をして蕎麦をもって元気を回復せしめよ。

 月末近くに、D氏が我々に第三回目の訪問を為し、例のように我々に対し説教、洗礼、聖餐を執行した。しかし我々は彼の教会―メソヂスト監督協会―から分離するという我々の意図をはなは空手に彼に隠すことはできなかった、そして彼はそのような意図がはなは芸に入らなかった。彼は九日間我々のもとに滞在して彼の伝道地に帰った、―彼が我々になした最も幸福な訪問ではなかった。

 かかる間に、我々のカレッヂ生活はその終りに近づきつつあった。
                                        
  六月廿六日 日曜日 在学最後ノ安息日。兄弟等ハ集会ニテ己ガ心情ヲ吐露セリ。Wハ祈祷ヲ棒ゲタリ。余ハ語レリ、天国ノタメニ余何処二遣(つかわ)サルルモ場所ヲ選バザルベシト。「チャールス」ハ世俗ノ事業ニ従事シナガラ如何二天国ノタメニ働カント欲スルカヲ語レリ、亦シテ彼ハ基督信徒ノ活動ノ此ノ面ノ毒性ヲ強ク義セリ。次イデ「フランシス」、「エドウィン」、「パウロ」、「ヒユー」ソノ後二従ヒ、我等ノ学校生活ノ間二我等ノ集会ニヨリテ如何ニ多ク益セラレクルカヲ語レリ。Yハ我等二奨励ヲ与へタリ。Zハ人類ノ事業ナリトシテ人心ノ改良ヲ強調セリ。「カハウ」モ一夕何事カ彼ノ所感ヲ語レリ。「フレデリック」ハ閉会ノ祈リヲ為セリ。我々ノ学校時代ノ凡テヲ通ジ斯(か)クノ如キ集会ハ無カリキ。

 最も印象的な集会。暑さ寒さを通し、愛と憎しみのうちに、四年の長いあいだ会合した『協会』が今や解放されることになった。サヨナラ、メリケン粉樽よ! 我々は来るべき日にはボストンを訪問し、そのトレモント・テンプルやトリニティー教会に礼拝し、あるいはヨーロッパを巡歴して、バリのノートル・ダムやコロンの有名な大会堂にてミサを聴くかもしれない、ローマの聖ペテロ寺院にて法王の祝祷を受けるかもしれない、しかしフレデリックやヒューのところから使徒的祝祷を宣した時になんじにともなったその魅力、その神聖は、けっして凌駕(りょうが)せられることはないであろう。サヨナラ、聖俗双方の祝宴に我々を一つに引き寄せた愛する水差しよ! 我々が黄金の聖餐盃からあずかるかもしれな葡萄酒は、冷たく泡立った液体がなんじの口から出て来たときに我々の雑多な心を一つの調和した全体に結合させたあの親和力をけっしてもたないであろう。サヨナラ、なんじ、青毛布よ! なんじが我々に提供してくれた『座席』は、我々が将来も持つことのない最も快いものであった。サヨナラ、小さい『教会』よ! その『引力』と子供らしい実験、その口論と当てつけの祈り、その楽しい談話と日曜日午後の清遊のすべてとともに!

  楽しき安息日学校よ! 我に貴きことは
    いとうるわしき宮殿高楼にまさる、
  我が心はつねに歓喜をもってなんじに向う、
       我が愛する安息日家庭よ。

  ここにてはじめて我が頑迷なる心は
    生命(いのち)の途(みち)を示されぬ、
  ここにてはじめて我は善き方を求め
    かくて安息日家庭を得たるなり。

  ここにイエスは立ちて愛の声もて
    来れ、我をなんじの唯一の
  選択(えらび)とせよと懇請(こんせい)したまいぬ、
    この愛する安息日家庭にて。

    安息日家庭よ! さいわいなる家庭よ!
  我が心つねに歓喜をもってなんじに向う、
    我が愛する安息日家庭よ。

『余は如何にして基督信徒とな¥りし乎』 岩波文庫


論語 №30 [心の小径]

七九 子のたまわく、能(よ)く礼譲(れいじょう)を以て国を為(おさ)めんか。何か有らん。能く礼譲を以て国を為めずんば、礼を如何。

                 法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「礼儀正しく譲り合う気持で国を治めるならば、何のむずかしいことがあろうか。国を治めるに礼譲を用いないならば、いったい何のための礼か。」

八〇 子のたまわく、位(くらい)無さを患(うれ)えず、立つ所以(ゆえん)を患う。己を知ること莫(な)きを患えず、知らるべきを為すを求む。

 孔子様がおっしゃるよう、「地位のないことを心配するな、役に立つだけの実質なきことを心配せよ。人が知ってくれぬことを心配するな、知られるだけの事をするようにつとめよ。」

八一 子のたまわく、参(さん)よ、わが道一(いつ)以てこれを貫く。曾子(そうし)いわく、唯(い)。子出(い)ず。門人(もんじん)問いていわく、何の謂(いい)ぞや。曾子いわく、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。

 孔子様が曾子に呼びかけて、「参よ、わしが説きかつ行う道には、一貫した原理があるぞよ。」と言われた。曾子は「はい」と答えた。外(ほか)の門人たちには何の事かわからなかったのか、先生が出かけられたのち、曾子に向かって、「さっきのは何の意味ですか」とたずねたところ、曾子が言うよう、「先生の道は結局忠恕すなわち誠実と思いやりのみ」

 ただ「はい」とのみ答え、また「忠恕のみ」と一言で説明したところに、曾子らしさがある。子貢(しこう)となると、自分の方から持ちかけて、同じ答を引き出している。

八二 子のたまわく、君子は義に喩(さと)り、小人(しょうにん)は利に喩る。

 孔子様がおっしゃるよう、「君子は万事を道義に持っていく。小人は一切を利益に結び付ける。」

 古人が本章について二つの譬(たと)えを設けている。
「同じ飴でも、賢人の柳下恵(りゅうかけい)から見ると、これは老人を養うによいなと思い、大泥棒の跖(せき)が見ると、これは錠前をはずすに役立つなと気がつく。」
「村の長者の蔵に米がいっぱい積んである。君子が見ると、これだけあれば飢饉年にもこの村には餓死人が出まいと思い、小人が見ると、これだけあれば飢饉年には大儲けだと思う。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


出会い、こぼれ話 №45 [心の小径]

第44話 シーッ・そっとしといて

                  教育者  毛涯章平

 私が現職中、ある日の午後、同僚のS氏が私の教室を訪れた。
 妙に教室の中が静まりかえっているので、そっと入口の戸を開けた。
 すると入口に一番近い子が急いで入口まで来て、S氏に向かって、自分の口に人差し指を当てると小声で
「シーッ。そっとしといてください」
と言ったという。
 S氏は不思議に思って、中を見ると、私が机にうつ伏して眠っていた。
「これはまずい。用事は後にしよう」
と思って静かに戸を閉めて帰ったというのです。
「それにしても驚いた。先生が眠ってしまったのを見た子どもたちが、みんなでそっとしておいて、静かに自習をしているのだから」と、S氏はしきりに感じ入って後で話してくれました。
 私は彼の話を聞きながらふと、今は亡き古今亭志ん生師匠の逸話を思い出したのです。
 酒仙と言われた師匠が、あるとき酒に酔って高座に上がり、話しているうちについそこで眠ってしまった。
 そのとき、話に吸い込まれていた客席から、
「そっとしといてやれーっ」と声がかかったという。
 なんとも微笑ましい寄席の光景である。師匠が師匠なら、客もまた粋な客たちであったのだ。
 そういえばいつであったか。午後の時間に一人の子が机にうつ伏して眠ってしまった。そこでみんなに、そっとしておくように言って授業を続けたことがあった。子どもたちは、それを覚えていて、『今日は先生が疲れている』と見てとったのかもしれない。
 この日の小さな出来事は、教師と子どもの関係において、形やきまりを越えた、心のきずなの大切さを、私に教えてくれたと思えてならないのです。

『章平先生の出会い、こぼれ話』 2015年 豊丘村公民館会報


論語 №29 [心の小径]

七五 子のたまわく、士(し)道(みち)に志(こころざ)して悪衣悪食を恥ずる者は、未だ与(とも)に議(はか)るに足らざるなり。

                   法学者  穂積重遠

 「士」はここでは「学徒」というほどの意味。

 孔子様がおっしゃるよう、「いやしくも仁義道徳の学に志すほどの者が、衣服や食事が粗悪なことを恥辱とするようでは、共に道を論ずる資格がないぞよ。」

 弊衣破帽(へいいはぼう)をほこり、栄養などかまうな、というのでないことはもちろんである。   

七六 子のたまわく、君子の天下におけるや、適(てき)も無く、莫(ばく)も無し。義とこれ与(とも)に比(したが)う。

 「適」は「敵」なり、「莫」は「慕」なり、という説もあるが、こじつけのようだ。

 孔子様がおっしゃるよう、「君子が天下国家に処するには、必ずこうしようとか、断じてそうしないとか、あらかじめきめこむことなく、ただ道理の正しいところに従って行動するものぞ。」

 無方針・無原則のご都合主義というのではない。先入主や偏頗(へんぱ)な感情を除き、公明正大であれ、というのだ。

七七 子のたまわく、君子は徳を懐(おも)い、小人(しょうにん)は土(ど)を懐う。君子は刑を懐い、小人は恵を懐う。

 「徳」と「土」「刑」と「恵」が中国音で同音なところからのシャレをふくむのではないかと思う。「刑」は「型」で、典型礼法。

 孔子様がおっしゃるよう、「君子と小人とでは常に考えているところがちがう。君子は徳行を修めることをのみ考え、小人は一身安住の地をのみ考え、君子は国法儀礼にをむかざらんことをのみ考え、小人は恩恵利益を得んことをのみ考える。」

 「君子」を治者「小人」を被治者と見、「君子徳を懐えば小人土を懐い、君子刑を憶えば小人忠を懐う。」とよんで、徳治と法治との比較論と解する説もある。

七八 子のたまわく、利に依りて行えば怨み多し。

 孔子様がおっしゃるよう、「自分の利益本位で行動すれば、人に怨まれることが多い。」

 古註(こちゅう)に「己を利せんと欲すれば、必ず人を害す、故に怨み多し。」とある。

『新訳論語』 講談社学術文庫

余は如何にして基督信者となりし乎 №18 [心の小径]

初期の教会 11

                           内村鑑三

 三月卅一日 教会問題、面倒トナリツツアリ。委員会、夜、開カレ、新建築方計画放棄スルニ決ス。

 じつは我々が買う申込みをした地所が得られないことになったのである、そして他に地所をみつけることができなかったので、『パタゴニア人』Kが言い出したように『我々は
セミラミス女王の庭園にならって我々の教会を空中に懸けるか、あるいは新築の計画をまったく放棄するか、どちらかにしなければならない』のであった。そして我々はかような結論に達したことを悲しまなかった、大きな負債に陥ることを極度に怖れていたからである、- そしてもし我々が礼拝のためにどのような揚所でも持つことができるならば、- それは如何にみすぼらしくあろうと、- 我々は我々の掛け(クレジット)で建てた堂々たる建物より遥かにその方を取りたいと思った。

  四月一七 大工ハ不在ニシテ、事ハ一層面倒トナル。
  四月三日 『長兄』S、大工ト相談シ、事ハ奇麗に片附キサウナリ。
  四月十五日 大工三一十円支払フニ決ス。

 委員会の一員の出しゃばりのエドウィンが一定期間内に材木を用意させるよう大工と取りきめをした。そこで大工は木を伐(き)りに男たちを山にやった。難問はこういうことであった、- ソロモンはエルサレムに神殿を建ててくれるようにヒラムと口約束をした。ヒラムはソロモンを信じた、それで彼はただちに男たちをレバノンにやって王室用にその香柏を伐り倒させた。しかし後になってソロモンは自分が神殿を建てるつもりであったモリヤの山が得られなくなっていることを見出した、他の誰かがすでにそれを所有していたからである、また彼はパロに対して負債に陥るのははなはだ気がすすまなかったが、彼の計画を実行するためにはそれは避けがたいことであった。それで彼は神殿建築の計画を放棄した。しかしレバノンはソロモンのために木を伐るヒラムの男たちの斧で鳴り響いていた。そのうちにヒラムは自分の仕事のためにシドンに下った、そのためソロモンは彼を見附けて新建築についてなされた変更を彼に告げることができなかった。ソロモンがヒラムにこのニュースを伝えるのに手間どっていた一日一日が双方をそれ以上の面倒に巻きこんだ、そしてソロモンと彼の顧問官たちは不安になった。ついにヒラムはツロに帰って来た、ソロモンは神殿は建築されないことになったことを彼に報告した、そして男たちをみなレ
バノンから呼び返してくれと彼に頼んだ。しかしヒラムの男たちは山の中に二週間以上もいたのであり、おびただしい数の香柏はすでに伐り倒されて材木にする下ごしらえができていたのである、そこでヒラムはソロモンがその損失を償(つぐな)ってくれることを望んだ。ソロモンンはこの問題について彼の顧問官たちに尋ねる。『長兄』Sと『クロコダイル』Wはべンタムとジョン・スチュアート・ミルにおいて何事かを読む、そしてソロモンはヒラムと為した契約には玉璽(ぎょくじ)を捺(お)さなかったのであるから、それゆえソロモンはヒラムの損失のために支払う何ら法律的な責任はないと彼らは考える。しかし王の他の顧問官たち、『宣教師坊主』Oとヨナタンとは、考を異にする。ヒラムはソロモンの言葉をヱホバとその契約とを信ずる者の言葉として信頼したのである、そして玉璽が捺されていたかいなかったかは何の相違にもならない。王は支払わねばならぬ、それでなければダビデの家は民衆の信頼を失うであろう。しかしSとWとは彼らの法律的確信に強硬であり、イスラエルの全人民が彼らの議論を可とするのである。Oとヨナタンとは、しかしながら、そのようなやり方に耐えることはできない。彼らはある寒い冬の朝、雪の上で会い、そして自分たちは自分たちだけで責任をになうという結論に達する。彼らはひそかにヒラムに会い、自分たち自身は貧しくあるが、しかし彼が不当に取り扱われているのを見るにしのびないことを彼に告げる。ヒラムはイスラエルの二人の者の誠実に動かされ、自分もまた損失の一部分を負担しよう、そしてイスラエル人からの二十円で自分は満足しようと言う。ヨナタンはまだ学生であり、彼の定収入は一週十銭にすぎない。Oは全額を支払い、ヨナタンは七月に学校を卒業するとき、彼と勘定(かんじょう)を附けるであろう。難問全部はこのようにして二人のソロモンの顧問官たちの側のわずかな自己犠牲をもって片附いた。のちに、『好人物』UとビューとがOとヨナタンとの援助に来て、
あとの二人の者が招いた負債の分を分担した。- 記す価値のないつまらない一事件と読者諸君は言われるかもしれない、しかしこのようなごういう経験は、我々の没頭する神学と哲学の全部よりも神と人とについてより多く我々に教えてくれるのである。

 四月十七日 日曜日 家ヲ探シニ午後「チャールス」ト共二散歩ス。委員会、『長兄』Sノ家ニテ開催サル。

 新築が中止されて、我々はすでに建っている家を探し始める。

 四月廿四日 Oト会ヒ、教会二就イテ彼ト相談ス。
 四月卅目 Oヲ訪問ス。教会ノ独立、始メテ、話題二上ル。

 我々は礼拝の家をもつことにはなはだうまく行っていない。会員はいくぶん落胆しはじめている。我らの聖公会信者の兄弟たちはすでに自分たちの礼拝の家をもっている、それなら我々が一つになり一同が彼らの教会に集まることが何故できないのであるか。『必要は発明の母なり』である。我々が教会をもつことに失敗したことは我々を基督信徒の一致と独立という、より高くより高貴な概念に追いやった。我々を導きたまいつつあったのは聖霊であった!

『余は如何にして基督信者となりし乎』 岩波文庫

出会い、こぼれ話 №44 [心の小径]

第43話 兄ちゃんの慰労会

                     教育者  毛涯章平

 一郎君は、T中学校に入学すると、小学生の頃から大好きだった野球部に進んで入った。
 彼は早朝も放課後の練習も休まず参加して練習にうちこんだ。そうして用具の準備、後片付け、グランド整備など誰よりも熱心に活動するのだった。
 その後二年生になり三年生になっても、彼は正選手に選ばれることはなかった。
 地区大会には補欠としてあげられただけだったが、彼はいち早く気をとりなおして練習に励み、率先して黙々と球拾いに徹するのだった。それを見た弟が、
 「兄ちゃんなんか、球拾いなんだ」
と言っても別段気にすることはなかった。やがて地区大会も終り、県大会出場権を得ることはできなかった。
 「これですべてが終わった」
と一郎は思うのだった。
 結局正選手にはなれなかったが、自分にとっては実に充実した三年間だったと思うと、わけもなく涙がこみあげてくるのだった。
 その日の夕飯は、一郎と弟が、誰かの誕生日かと思うほどご馳走が並んでいた。
 みんなが食卓につくと、父親が改まって言った。
 「一郎は一年生から今日まで、レギュラーにはなれなかったが実に真面目に、よく頑張ってきた。この三年間に得たものはもしかすると正選手以上かもしれないぞ。今夜は『兄ちゃんの慰労会』だ。」
 続いて母が明るく言った。
 「兄ちゃん。本当によくやったね。ごくろうさん。今夜は楽しくやりましょう」
 弟はいつか「兄ちゃんなんか球拾いなんだ」と言たことを思い出していた。
 そこで大きな声で、
 「兄ちゃん。ごくろうさま」
と言った。
 一郎は、もう何も言えなかった。
 「ありがとうございます」
とぎこちなく言うと、深々と頭を下げるのだった。

『章平先生の出会い、こぼれ話』 2015年豊岡村公民館会報

文化的資源としての仏教 №7 [心の小径]

文化的資源としての仏教7                
                 立川市・光西寺住職 寿台順誠

        往生考⑸――往き生れること:going to and birth in the Pure Land

 前回までは「往生」という言葉の三つの世俗的・一般的意味(死・困・諦)について記してきた。今回は最後にその宗教的・仏教的意味について考えてみたい。
実は、「往生」という言葉については、一般によく使用される世俗的な意味よりも、仏教的な意味の方が、簡単で分かりやすいということが言える。例えば、日本語(漢字)を勉強し始めたばかりの非漢字文化圏出身の外国人が「往生」という文字を見たら、まずはそのままストレートに「往き生れること」という意味に受け取るのではないだろうか。実際、この言葉を英訳する場合には、文字通り “going to the Pure Land” や “birth in the Pure Land” と訳されることが多いようである。
 このような英訳を見ることは、日本人にとって、新鮮な驚きをもたらすのではないだろうか。「そうか、往生というのは、そのまま文字通りに受けとめればよいのか!」と。また、「浄土」を “Pure Land” と表すのも、物事を分かりやすくしてくれるであろう。「それならば、我々がいま住んでいる〈穢土〉は “Dirty Land” と言えばよいのだろう」と、我々が住んでいる世界のありようも明らかにしてくれるのである。そして、「それならば、“Dirty Land” は去って “Pure Land” に往きたい」という願いが出てくるのも自然なことであろう。但し、法事などでこの話をする時には、「“Pure Land” というのは、サンリオの “Puroland” ではありませんよ。多摩市のピューロランドであれば、立川からでも車で30分も走れば行くことができますが、ピュアランドは〈西方十万億土〉を過ぎたところにあると『阿弥陀経』には書かれていますので、そんなに簡単には行けません。それに、そこに行くにはやはり行くための手続きがあり、〈阿弥陀仏の本願を心より信じて念仏する〉ということがないとやはり行けませんね」、などと私は冗談めかして注釈を加えることが多い。
 他方、外国人にとっては、「往生」という文字を見ても、そこに「死」や「困」や「諦」という意味があるとは考えにくいであろう。ところが、日本人は「往生」と聞くと、まずは「死」だの「困」だのという意味を連想し、マイナスのイメージをもってしまう場合が多いので、それでこれをストレートに「往き生れること」だとは考えられなくなってしまっているのである。だから、その分かえって仏教信仰にはつながりにくいのではないだろうか。
 しかし、そんな日本人にとっても、「極楽浄土に往生したい」という願いがリアリティをもつ場面はある。もう20年も前になるだろうか、私がまだ30代後半の頃だったが、当時50代でガンのため亡くなったある男性の葬儀を執行したときの話である。通夜の晩の食事の時、故人の奥さん(喪主)から、「主人はとても痛がって亡くなりました。人間はあの世に行っても痛いものでしょうか?」と真剣に尋ねられた。私はその問いを聞いて逆に、「だからこそ、人間は〈往生安楽国=安楽国に往生すること〉を願わざるを得ないのだ!」ということを教えられた気がしたので、その旨を申し上げた。そもそも「極楽(sukh・vat・)」とは「楽あるところ」「幸福が満ちているところ」という意味であり、人間はそのように痛みや苦悩を免れない存在だからこそ、「極楽浄土に往き生れること」を願わざるを得ない存在なのではないか、と。その話を聞いて、その奥さんは「安心しました」と言って下さった。その時、私は実際の痛みに苦しんだ人の話を聞くことによって、「往き生れること」という文字通りの「往生」の意味のリアルな根拠を示されたと感じたのである。
 そうである。やはり人は誰でも、根本的には「安楽国に往生したい」と願っているのである。

 おわりに――往生考のまとめ
今回まで五回にわたって「往生」について考えてきた。最後に、ここまで述べてきたその四つの意味(死・困・諦・行き生れること)がどのように関連し合っているのかを記して、往生考のまとめとしたい。
まず「困」という意味について言えば、この意味で「往生」の語を使用するのは、できる限り減らしていった方がよいであろう。というのは、「往生」をこの意味で使用する限り、人はやはり「往生したい」(つまり「困りたい」)とは思わないからである。が、悩ましいのは、おそらく列挙してきた語法の中では、これが一般的には最もよく使用されているものではないかと思われるので、この語法をやめていくのはなかなか難しいと思うことである。例えば、「車が渋滞で立往生している」ということを、「車が渋滞で困っている」などと他の表現に置き換えようとしても、うまく事柄を表現できないと思うのである。その代わりにどんな表現がよいのか。まさに我々がこれから築いていく文化の問題であろう。
 それから次に、「往生=死」について言えば、確かに「往生」は本来的にはむしろ「生」であって「死」ではないから、これはまったく逆の意味である。しかし、極楽浄土に「往き生れる」ためには、一旦この穢土においては「死」ななければならないので、「死して後、はじめて生れることができる」という意味において、「死ぬこと」は「往き生れること」と必然的に関係していると言ってよいであろう。
 そして、その際に大きな意味を持ってくるのが「往生=諦」の意味である。先に記したように、「諦め」には「諸行無常という真理を見極めた上で、この世の生は断念すること」という意味があると言えるからである。そのような穢土に対する「諦め」を通してはじめて、極楽浄土に「往き生れたい」という願いが生ずるのである。
 だいたい以上のような形で、「困」「死」「諦」という「往生」の世俗的・一般的意味は、「往き生れること」というその宗教的・仏教的な意味と関連し合っていると言えるであろう。こうした道理を弁えながら、極楽浄土に「往き生れたい」という願と信が確立するとき、人ははじめて浄土教徒になることができるであろう。ともあれ、「往生」という言葉を一種の文化的資源として受け取り直すことができるならば、日本人は案外ちゃんとした仏教徒になれるのかもしれない。(これにて「往生考」を終える。次回からは「四苦八苦」について考えたいと思っている。)

論語 №28 [心の小径]

七一 子のたまわく、富とた貴(たっとき)とはこれ人の欲するところなり。その道を以てせざればこれを得るも処(よ)らず。貧(まずしき)と賎(いやしき)とはこれ人の悪(にく)むところなり。その道を以てせざればこれを得るも去らず。君子仁を去りていずくにか名を成さん。君子は終食(「しゅうしょく)の間も仁に違(たが)うことなし。造次(ぞうじ)にも必ずここにおいてし、顚沛(てんぱい)にも必ずこにおいてす。

                            法学者  穂積重遠

 「これは三回の言葉を集めたのだ」との説もあるが、必ずしもそう考えなくともよい。ひと続きの教訓としてリッパに筋が通っている。「仁を違(さ)る」とよむ人もある。「造次」は「さしせまりてあわただしい」「顚沛」は「たおれくつがえる」。

 孔子様がおっしゃるよう、「富貴(ふうき)を欲するのは人情だからそれを欲してわるいことはないが、それが人生の目的ではなくて、仁が最終目的だから、仁にかなう道によったのでなければ、たとえ富貴を待ても君子は安んじない。貧賎(ひんせん)をいやがるのは人情だから、それから去ろうとするのはけっこうだが、仁にかなう道によってでなければ、君子は貧賎から去ることをいさざよしとしない。君子が仁をはなれてどこに君子たるゆえんがあろうや。君子たる者は、一食をすます短い時間でも仁からはなれぬ。サアた
いへんというあわただしい際でも、危急存亡の瀬戸ぎわでも、仁を忘れぬが君子というものぞ。」

 造次顚沛の間にまごついている今日の私たちにとって、頭上から三斗の冷水をあびせら
るような大教訓である。「終食の間も仁に違わず」どころか、一日たべることばかりにあくせくして仁のジの字も思い至らぬ私たちがはずかしい。

七二 子のたまわく、われ未だ仁を好む者不仁を悪(にく)む者を見ず。仁を好む者は、以てこれに尚(くわ)うることなし。不仁を悪む者は、それ仁を為し、不仁者をしてその身に加えしめず。能く一日その力を仁に用うることあらんか、われ未だ力の足らざる者を見ず。けだしこれ有(あ)らん、われ未だこれを見ざるなり。

 「それ仁為(な)り」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「わしはまだほんとうに仁を好む者また不仁をにくむ者を見たことがない。仁を好む者なら最上だが、不仁をにくむ者も、自らは仁を為し不仁者の影響を受けない。それだけのことのできる者をも見ないのは、残念なことじゃ。そしてそれがむずかしいことかといえば、けっしてそうではない。たとえ一日なりとも力を仁に用いようと志す者があるならば、それにも力が足りない者は見たことがない。ことによったらあるかも知れぬが、わしはまだ見たことがないわい。」 

七三 子のたまわく、人の過ちや各(おのおの)その党においてす。過ちを観てここに仁を知る。

 「覚」に二説ある。第一説は、君子の過ち小人の過ちというような過失の種類とする。第二説は、親ばかというような親愛するところに偏する過失とする。前説の方がおもしろいようだ。

 孔子様がおっしゃるよう、「誰にも過失はあるが、過失にもタチの良いのと悪いのとあるから、過失を観察してもその人物の仁不仁がわかる。」

 『韓非子』にこういう話がある。孟孫氏が猟に行って二匹の子鹿をいけどりにし、それを家臣にあずけた。数日たってあの子鹿を持って来いといったところ、親鹿が子をさがして鳴く声があわれなので、逃がしてやったという。いったんは立腹して追い出したが、後に召し返して我が子の付き役にした。

七四 子のたまわく、朝(あした)に道を聞いて夕(ゆうべ)に死すとも可なり。

 孔子様がおっしゃるよう、「朝のうち人の道を学び得たら、夕方死んでも宜しい。」

 これは学者にとっての至上命令として、不肖ながら常に口ずさみ来った言葉だ。貝原益軒の辞世の詩にも、
 平生(へいぜい)の心曲(しんきょく)誰有ってか知らん
 常に天威(てんい)を畏(おそ)れて欺(あざむ)くなからんと欲す
 存順(そんじゅん)没寧(ぼつねい)克(よ)くせずと雖(いえど)も
 朝聞(ちょうぶん)夕死(せきし)あに悲しと為さんや

とある。また漢書に左の物語がある。
 「夏侯(かこう)勝(しょう)と黄覇(こうは)と事に座して獄に繋がる。覇、勝に従って尚書(しょうしょ)を受けんと欲す。勝辞するに罪死すべきを以てす。覇いわく、朝に道を聞いて夕に死すとも可なりと。勝その言を賢なりとして遂にこれを授く。」

 明治以後の教育はあまりにも手段であった。小学教育は中学入学の手段、中学教育は高等学校入学の手段、高等学校教育は大学入学の手段、大学教育は就職の手段、それでは学問でない。学問はそれ自身が目的でなくてはならず、それが結局、その人の人格形成にもなり、国家人類の福利にもなり、学問そのものの進歩発展にもなる。伊藤仁斎曰く
「或人いわく、朝聞夕死とはまたはなはだ急ならずやと。いわく、然らざるなり。人として道を聞かざれば、すなわち生くとも益なし。故に夫子朝聞夕死を以て可なりとするもの
もその道を聞かざるの甚だしきを示すなり。何ぞはなはだ急なりと謂わんや。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


余は如何にして基督信徒となりし乎 №43 [心の小径]

初期の教会 10

                                   内村鑑三

  一八八一年一月三日  『パルマイラ』ヨリ招待。夜九時マデ「ゲーム」ト籤(くじ)。
 我が基督信徒学士たちは彼らの家庭をもっていた、その数人が一つ屋根の下に住んで。彼らの巣は大農場のまんなかに人間どもの住いから離れてあったので、我々は美しいゼノビアの都の名にちなんで、それを『荒野の都』とよんだ。かような招待は実に頻繁(ひんぱん)であった、そしてそれは我々の心を結ぶに大いに役立った。我々に我々の愛餐(あいさん)があったが、我々のは牛肉、豚肉、鶏肉、玉葱、甜菜、馬鈴薯をみな一つの鉄鍋に投げ入れてその中で煮たものでできていたということではウェスレイの弟子たちのそれよりさらに内容あるものであった。基督信徒たちは、男も女も、金属製の容器を取り巻き、それから御馳走になった。これに礼儀作法はあまりなかったのはもちろんである、しかししばしば礼儀作法の厳格さは受餐者の心と心との距離の自乗に反比例する。
『同じ釜の飯を食べた人々』というのは、ほとんど血縁関係のきずなに近い親密さについて語る我々の諺(ことわざ)である、そして一つの同じ主義のために戦いかつ苦しまねばならぬ人々には、司式する聖職の手によってパンをさき葡萄酒を飲むことよりほかに何か結合のきずなが必要であることを我々は信じた、またいまなお信ずるのである。かような一団が『二つの教会』に分れていることができようか、たとえ二つの異なる教沢の聖職が我々の額に十字架の記号を書いたとしても。しかり、我々は一つである、我々が鍋の中で煮た鶏肉が一つであり、ヨナタンがストーヴから出してからビューと分け合った大きな馬鈴薯が一つであったように。

  一月九日 新教会建設委員ノ一人二任命セラル。
 新教会は決定されて、委員がそのために任命された。それは『長兄』S、『クロコダイル』W、『宣教師坊主』O、エドウィンと余自身より成る。

  三月十八日 金曜日 委員ノ会合。地所ト建物トヲ決定ス。
 我々は牧師D氏からアメリカ・メソヂスト監督教会は我々の新教会の建築に四百ドールの援助を与えるであろうということを我々に伝える一通の手紙を得た。我々はそれを与えてもらうことを欲しなかった、我々はただそれを借りたいのである。できるだけ早い機会に返済されるであろう。そのような願いをいだいたには強い理由があった、それは我々にやがてわかるであろう。地所は百ドルかかることになっていた、そして残りを我々は建物に費したくある。しかし、待てよ、兄弟たち、メキシコ領の四百ドルは我が国の紙幣にて約七百円になるであろう、そして諸君はめいめい今のところ月給はわずか三十円をもらっているにすぎないのに、一年内外のうちにこの全額を皆済(かいさい)できる確信があるか? ウーム! 重大である! 我々は教会は欲しい、教会をもたなければならぬ、しかしそれが独……、いや我々にはわからない。

  三月二十日 日曜日 大工来り、新教会堂ノ見積書ヲ示ス。
 建物の設計は結構のようである、しかし我々はかよう義金を造るには借金に撃なければならぬ、ウームー

 三月廿四日木曜日 為替D氏ヨリ到着ス。銀行ニテ現金ニセリ、夜、委員会。D氏に
手紙ヲ認(した)タム。
 金がついに来る。ヨナタンは一時会計係となることとなり、学校寄宿舎の自分の部屋に四インチの厚さの紙幣を持参する。それは彼がその生速にてかつて取扱った最大の金額である。しかし見よ、我が霊魂よ、金はなんじのものではない、当然に教会のものであるのでもない。それは返済せらるべきものである。注意してそれを用いよ。

 三月卅目 「ジョン・K」ノ結婚式午後七時ニ行ハル、牧師Den氏司式。式後、茶菓ノ接待アリ。愉快限リナク、午後十時ニ云ル。S基督信徒ノ間ノ最初ノ結婚ナリ。
 聖公会信者ジョンは、基督信徒青年の間で婚姻の祝福の状態に入った最初の人であった
儀式は公会式で行われ、花頓と花嫁とは聖壇で指輪を交換した。それは我が国古来の風習とはまったくかけ離れたものであった。茶菓が出されたテーブルで新夫婦に成功とお目田とうの挨拶を述べた。しかしクリスマス・イーヴに赤達磨の支度をしてくれた彼が今や良人であることを我々はほとんど信ずることができなかった!願わくはエホバ、汝の家に入るところの婦人をして、かのイスラエルの家を造りなしたるヲケルとレアの二人の如くならしめ給わんことを』である(ルツ四の十一)。彼女は我々が当時計画しつつあった神の家の建築を同様の方法で助けるかもしれない。

『余は如何にしていリスト信徒となりし乎』 岩波文庫


出会い こぼれ話 №43 [心の小径]

第42話 白い虫・黒い虫

                         教育者  毛涯章平

 おともだちの「どんぐり君」は仲間と廊下でキャッチボールをしていて、ボールが玄関から外にとび出してしまいました。
 そこで早速拾いに行こうとして下駄箱から靴を出そうとしました。すると、
『めんどうだな。このまま出てもいいや。すぐそこだもの誰も見ていないし』
と、どこからか聞こえてきたのです。そこでどんぐり君は、上ばきのまま出ようとしました。
 するとこんどは、
『いけないよ。そこは上ばきのままおりる所じゃないじゃないか』
と言っているのです。
「そうだ。きまりは守らなくちゃ」
と思いなおして、どんぐり君は靴にはきかえて、ボールを拾ってきました。

 どうやら、どんぐり君のおなかの中に、白い虫と黒い虫がいて、互いに争っているようですね。
 さっき『上ばきのまま出てもいいじゃないか』と言っているのは、黒い虫の方です。
 また『うそを言っても、わかるものか誰も見ていないから』と言うのも黒です。『誰も見ていなくても、正直に本当のことを言おう』と言ってくれるのは、白い虫の方ですね。
 私たちは、一生この白と黒の争いを心の中で続けているのだと思います。
 大人になっても、黒い虫の方が勢いのよい時がありますが、最後に白い虫が勝つ人になりたいものです。
 この白い虫を強く育てるには読書が第一なのです。
 村では児童・生徒そして幼児のみなさんが良い本をたくさん読んで、白い虫の強い人になってほしいという願いから、誕生日のお祝いに村長さん自ら出向かれて本を贈っているのです。
 これは他に例を見ません。
 どうか、これに応えて、白い虫を強く育てましょう。

『章平先生の出会い こぼれ話』 2015年豊岡村公民館会報

文化的資源としての仏教 №6 [心の小径]

文化的資源としての仏教6                

                             立川市・光西寺住職 寿台順誠

                         往生考⑷――往生際:往生=諦

 前々回は「大往生」という言葉をキーワードにして「往生=死」の意味について、そして前回は「立往生」をキーワードにして「往生=困」の意味について考えた。今回は、「往生」という言葉の三つ目の意味である「諦」について考えてみたい。今回のキーワードは「往生際」である。
 「往生際」という言葉には文字通り「死に際」という意味もあるようである。しかし、この意味ではこの「往生」も「死」という意味になり、「往生=死」についてはすでに考えたので、ここで再び取り上げる意味はないであろう。また、仮に今にも息をひきとろうとしている終末期の患者の所に行って、「往生際が悪い」などと言う場面を想像してみるならば、それは悪い冗談としか言いようがないであろう。それに「往生際の悪い人」という言葉を使用する場合には、やはり一般的には「諦めの悪い人」という意味で使っているはずである。そこで今回の「往生」の意味の焦点は「諦」という語をめぐる問題になるのであるが、実はこの「諦」には以下の二つの意味がある。
 現代では「諦め」という言葉は、一般に「望みを断念すること」という意味に受け取られているが、実はこれは日本的な語法であって、もともと中国語としての「諦」は「つまびらかにする」「まこと、さとり」という意味であり、そこに「断念」の意味はないという。また、仏教においては「諦」は、「真理」を意味する “satya”(サンスクリット語)・“sacca”(パーリ語)の訳語として、「タイ」と読んで用いられてきた。従って、日本でも古くは、「あきらむ」は「物事の道理を明らかにする」という意味だったという。しかし、江戸時代に「諦=断念」の用法が生まれ、日本ではしだいにこちらの意味が主流になったと言われているのである(岡崎義恵『鷗外と諦念』宝文館、1969年、278-280頁;安川民男「鷗外と魯迅の “諦観”」『鷗外』74号、2004年、53-54頁)。
 このことから私は、「諦め」という言葉には二重の意味があると考えるのがよいのではないかと思っている。つまり、「諦め」という言葉は、「物事の道理を見極めた上で断念すること」という意味に受け取るべきではないかということである(寿台順誠「「諦め」としての安楽死――森鷗外の安楽死観――」『生命倫理』通巻27号、2016年、19-20頁)。私は、仏典に説かれたキサー・ゴータミーという女性の話が、その意味での「諦」を見事に表していると思う。幼い息子を亡くして悲しみに打ちひしがれ、息子を生き返らせる薬を求めて釈尊のもとにやってきたゴータミーに対して、釈尊は一人も死人を出したことのない家から芥子の粒をもらってくるようにと言うが、結局そのような家は一軒もなくそれが得られなかったことから、ついに彼女は世の無常をさとって出家したという話である(中村元訳『尼僧の告白――テーリー・ガータ』岩波文庫、1982年、108頁)。人は無理やり「望みを断念しろ」と言われてもなかなかそうできるものではない。が、しかし、「諸行無常」という「真理」が理解できたならば、死んだものを生き返らせるという不可能事は「断念」せざるを得ない。「真理・道理が見極められて初めて、断念すべきものを断念できる」――「諦め」という言葉には、そのような深い意味があると思われるのである。
 以上のようにして、諸行無常の真理をさとったならば、人は今生において永遠に生きることは断念せざるを得なくなる。が、そこに至ってはじめて、それであれば人はこの世の生を終えた後、一体どうなるのか、そしてそういう問題についてどのように考えたらよいのか、ということが真剣な問題になるであろう。そこで次回はいよいよ「往生」という言葉の最後の意味として、最も重要な宗教的・仏教的意味について考えてみたいと思う。(次回は「往き生れること:going to and birth in the Pure Land」について考える。)


余は如何にして基督信徒となりし乎 №16 [心の小径]

第三章 初期の教会 9                                                                 

                                              内村鑑三                            

  七月に上級が卒業した、そして基督教の立場はそれによってはなはだ強められた。彼らのうちに八人の基督信徒があった、すなわち『長兄』S、『宣教師坊主』0、『好人物』U、『翼竜』T、『聖公会』ジョン・K、『クロコダイル』W、『パタゴニア人』K、『角顔』Y、これである。みな実にいい奴であった、そして彼らのうちに半異教的の様子をした者があり、彼らの先祖から受け継いだ罪深い狡猾な傾向の遺物があったにかかわらず、彼らは心の底では純粋な基督教的紳士であった。我々はいっしょに写真を撮(と)り、晩餐(ばんさん)を共にし、近り将来に礼拝堂を建築することについて討議する。一年以内に残る我々八人が彼らに加わるであろう、そしてともに我々はキリストの福音を我々がそのなかに住んでいるその民のもとにたずさえて行くであろう。


  九月十八日 牧師D氏、当地二到着ス。
  九月十九日 日曜日 D氏ヲ訪問セリ・
  九月二十日 夜、D氏ニヨリ英語礼拝。
 D氏は我らの愛する宣教師H氏の代りであって、今回我々の所への二度目の訪問であった。我々は将来の教会の我々の計画について彼に話すところがあった、それに対し彼は全部の同意を与えなかった。


  十月三日 新教会建築ニ就(つ)キ相談。
 数人の基督信徒が活社会に出て行った以上、我々は我々自身のものである一つの教会をもってよい、そして我々はその計画に怠慢ではない。


  十月十五日 牧師Den及ビP両氏、当地ニアリ。我々ハN氏方ニテ彼等二面会ス。

 この年は宣教師から頻繁な訪問を受ける。DenおよびP両氏は聖公会信者である。我々の運動は宗教界の注意をひきつつある。我々は無視されてはいない。


  十月十七日 日曜日 S氏方ニテ集会。六人、洗礼。午後三時、聖餐(せいさん)。
 人数は我々の聖なる仲間に加えられつつある、神に感謝する二つの事が我々には残念であった、すなわち我々がこの小さな場所に二つの教会をもつようになる明白な傾向があった、一つは聖公会、他はメソジスト協会であった。『主一つ、信仰一つ、バブテスマ一つ』と、我々は心の中で考えはじめた。一つでさえ自分の足で立つだけ強くないのに、二つの別々の基督教団体をもつ必要が何処にあるか。我々は我々の基督信徒の経験においてはじめて教派主義の弊害を感じた。

  十一月廿一日 日曜日  当地ノ全基督信徒、集会二出席ス。
 上級の人々が卒業していらい、我々は長いあいだ全員の集会をもったことがなかった。一同ともに相会する以上、我々はもういちど新しい教会について -その大小、その構造、当地にはただ一つの教会を持つことが当を得ていること、などについて- 論議する。


  十二月廿六日 日曜日  『預定』ニ就キテ困惑セリ。
 我々の小さな教会はもういちど『預定』の教義について議論する。朝の章はロマ書九章であった。
 余が種々な色のインクで線を引き書込みをして相当徹底的に汚した旧い聖書の中に、余は大きな疑問符(?)が大きな釣針のようにおそろしい神秘的な華の上にぷらきがっているのを発見する。我らのパウロの悲観的結論はこれであった、『もし神が一つの器を貴(とうと)い用のために、他の器を賤(いや)しい用のために造りたもうたのならば、救われようと試みる何の必要もない、神は彼御自身のものを顧みたもうであろう、そしてそうあるまいとするあらゆる我々の努力にもかかわらず、我々は救われ、あるいは罪に定められるであろう』と。同様の疑いがあらゆる国土のあらゆる黙想的な基督信徒を苦しめる。いや、うっちゃっておけ、我々は預定の教義を了解することができないからとて聖書と基督教とを捨てることはできないのだから。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

論語 №28 [心の小径]

六六 子のたまわく、上(かみ)に居て寛(かん)ならず、礼を為(な)して敬(けい)せず、喪に臨んで哀(かな)しまず。われ何を以てこれを観(み)んや。

                                      法学者  穂積重遠


 「喪に居る」といえば親の喪に服すること、「喪に臨む」といえば他人の葬式に会葬すること。

 孔子様がおっしゃるよう、「人の上に立って寛大でなく、礼式を行う場合に敬意を欠き、葬儀に参列して哀悼の気持がないようでは、全く見どころがないではないか。」


六七 子のたまわく、里(さと)は仁(じん)を美と為す。択(えら)びて仁に処(お)らずんば、いずくんぞ知を得ん。

 「仁に里(お)るを美と為す」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「住むには仁徳の風俗厚き地方がよろしい。住むべき『仁の里』の選択ができないようでは知とはいえない。」

 三遷(さんせん)した孟母(もうぼ)などは、「選択んで仁に処る」知者だったのだ。


六八 子のたまわく、不仁者は以て久しく約に処(お)るべからず。以て長く楽に処るべからず。仁者は仁に安(やす)んじ、知者は仁を利す。

 「約」は貧賤(びんせん)困窮、「楽」は富貴(ふうき)安楽。

 孔子様がおっしゃるよう、「不仁な者は久しく逆境にありえない。しばらくは辛抱もするが、まもなく苦しまざれに悪事をはたらく。また長く順境にもありえない。はじめは自制謹慎もしとうが、やがて意満ち心ゆるんで驕慢奢侈(きょうまんしゃし)に流れる。仁者は仁が身についているし、知者は仁の利益を知っているから、境遇に左右されぬが、不仁無知なる者はそうはいかぬ。」

 最後の二句について伊藤仁斎が、「仁者の仁におけるは、なお身の衣に安んじ足の履(くつ)に安んずるが如し。須臾(しばらく)も離るればすなわち楽むこと能わず。これこれを安と謂(い)う。知者の仁におけるは、なお病む者の薬を利し、疲るる者の車を利するが如し。常にこれを相安んずること能わずと雖も、探くその美たることを知りて捨てず。これこれを利すと謂う。」と言ったのは、要領を得ている。今日の私たちはよほどシツカリ「久しく約に居る」覚悟をかためねばならぬ。かりにも取り乱して、不仁不知と世界の笑いものになりたくない。


六九 子のたまわく、ただ仁者のみ能(よ)く人を好(この)み、能く人を悪(にく)む。

 「好」を「よみす」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「ある人を好みある人をにくむのは、まぬかれぬ人情だが、凡人は私情がまざるから、好むべき人をにくみ、にくむべき人を好むことにもなる。ほんとうに人を好み人をにくむことは公平無私な仁者にしてはじめてできることじゃ。」


七〇 子のたまわく、苟(いやしく)も仁に志せば、悪しきことなし。

 「苟」を「まことに」とよむのが普通のようだが、「恵なし」という消極句につづくには、「いやしくも」の方が力強い。

 孔子様がおっしゃるよう、「ともかくも仁に心を向けていれば、過失はあろうとも、悪事ははたらくまい。」


『新訳論語』 講談社学術文庫



出あい、こぼれ話 №42 [心の小径]

 第41話 ことばの典型

                                   教育者  毛涯章平

 いつかテレビの人気番組『男はつらいよ』を見ていた時である。
 主人公の寅さんが旅から帰って、恋の病で二階で寝ているところへ、妹のさくらが、粥を作って、自分の子どもに持って行かせる場面があった。
 さくらが言う。
 「いいかい、おじさん病気なんだから、『お加減いかが?』って言うんだよ」
 子どもは言われたとおり寝ている寅さんの前にお膳を出して、
 「おじさん、お加減いかが?」と、はっきりと言った。
 これは、ちょっとした短い場面であったが、わたしは見ていて、はっとしたのである。
 ここでは、日常生活の中で、母親が子どもに、その場に応じた『ことばの典型』を、はっきりと見事に示しているのである。
 こうやって、正しいことばづかいが、その場に応じて使えるように身についていくのである。
 家庭や学校で、その場に応じた『ことばの典型』を示していくことは、母国語を正しく使い、言語感覚を磨くうえに、とても大切なことと言われている。
 とくに敬語や謙譲語は、いつも身近で大人が正しく話していると、子どもがそれにふれる機会が多くなって、いつのまにか自然に身についていくものであると言われている。

 私が子どもの頃、家に祝い事があると、よくおはぎを作った。それを近所に配るお使いに行く時、母が、
 「『不出来なものだけど、おあがり下さい』と言って出すのだよ」
と、『典型』を教えてくれた。
 私はそのとおり言って出した。
 今、お使い物に『粗品』と書くとき、母が教えてくれた、あの「口上」を、なつかしく思い出すのである。


『章平先生の 出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


文化的資源としての仏教 №5 [心の小径]

文化的資源としての仏教5                

                                立川市・光西寺住職 寿台順誠

                          往生考⑶――立往生:往生=困

 前回は「大往生」という言葉をキーワードにして、「往生」という言葉の一つ目の意味である「死」をめぐる現代的な問題について記した。今回は、その二つ目の意味である「困」をめぐる問題について考えてみたい。キーワードは「立往生」である。
 しばらく前、どこかの地方で雪が降っていた朝、テレビで天気予報の時間に気象予報士が「(雪のため)立往生などの事故がありました」ということを言っていた。私はこれを聞いて少し驚いた。「立往生」というのは、いつから「事故」の一類型になっちゃったのだろうか、と。………おそらくこれはその予報士が全く言葉の意味を考えずに使用しているだけで、単純な誤用であろうとは思われた。が、少し意識して見ていると、天気予報や交通情報の時間に、この「立往生」という言葉は非常によく使用されていることに気づくはずである。そうした報道などでこの言葉を使用する場合、いったいどれだけの関係者がこの言葉の意味を真剣に考えているだろうか。いささか心もとない。
 「立往生」という場合の「往生」は、一言でいえば「困」という意味で使用されていると言ってよいであろう。「(非常に)困った」時に「往生しちゃった」と言うのは珍しいことではない。但し、この「立往生」は語源的には「弁慶の立往生」に由来するもので、元々この意味での「往生」も「死」を意味するものであった。主君・義経に対する忠義を示す意味で、弁慶が衣川の戦い(1189年)において身体に無数の矢を受けながらも、薙刀を杖に仁王立ちしたまま死んだという話が元になっているのである。この事実をめぐっては、法医学の立場から「死後硬直」ではなかったかという見解も提出されており(上野正彦『死体は語る』文春文庫、2001年、164頁)、様々な議論があるようであるが、真偽のほどは定かではないらしい。それはともかく、「弁慶の立往生」という言葉を使用したときに、これを単に「弁慶が困っている」という意味にとってしまうと、源平のドラマはいつまで経っても終わらなくなってしまう。が、元々はそのように「立ったまま死んだ」という意味であった「立往生」がその後、進退窮まることの喩えとして用いられているうちに、単に「困った」場合に使用する言葉に変化してきたのであろう。そして、今では逆に「車が渋滞に巻き込まれて立往生しています」という言葉を、「車が死んでしまった」という意味に受け取るとおかしなことになってしまうという事態になり、だんだん意味もまともに考えずに使っているうちに、ついに上記の「立往生=事故」というようなおかしな用法まで登場してきたと思われるのである。言葉の混乱、ここに極まれり、という感じがする。
 ところで、「往生=困」ということを考えていて、山本リンダの「こまっちゃうナ」(作詞・作曲 遠藤実)という歌を思い出した。以下に歌詞の一部を記してみよう。

  ♪こまっちゃうナ デイトにさそわれて どうしよう まだまだはやいかしら ………(中略)………… ママに聞いたら 何んにも言わずに 笑っているだけ こまっちゃうナ デイトにさそわれて

 また、歌詞を書いていたら、替え歌を思いついたので、それを以下に記してみる。

  ♪こまっちゃうナ お寺にさそわれて どうしよう まだまだはやいかしら ………(中略)………… 祖母(ババ)祖母に聞いたら 何んにも言わずに 念仏するだけ こまっちゃうナ お寺にさそわれて

 これは単なる戯れ歌であるが、しかしこんなものが案外、世の中の「お寺」とか「往生」とかに対するイメージを映し出しているのかもしれない。10年以上前の話であるが、私はある檀家さんと話していて、たまたま話題がお寺の催しのことになったので、「どうぞ、お寺では法話や勉強会も行っていますので、お気軽にご参加ください」と言ったら、何と当時既に50代後半に達していたその人は、「まだそんな年じゃない!」と言うのだった。ここには、「お寺」だの、まして「往生」だのといった仏教関係の物事は、抹香くさいとか、縁起でもないとか(この「縁起」もこのエッセイではいずれ取り上げなければならない言葉であるが)と思ってしまうような一般的な傾向が垣間見える。その時、私が「老少(ろうしょう)老少不定(ふじょう)不定」(老いも若きも定まりがない=老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らない)という言葉を出して、「でも、まだ50代だからなどと言っていても、人間はいつどうなるか分かりませんよ」と言うと、その人は「言われちゃった…」と渋々私の言うことを受け入れて帰って行ったのだった(ただ、その人はその後もあまり寺には来ないけれど…)。
 以上のことから、私は「立往生」という言葉に表されるような、「往生=困」の用法はできる限り使わないようにしていった方がよいと思っている。もし「往生」にこの意味しかないということになると、我々には布教ということそのものが成り立たなくなるからである。いくら一生懸命「阿弥陀仏の本願を信じて念仏すれば往生できる」と説いてみても、「そうか、念仏したら困ってしまうのか」と思われたのでは、もう何も言うことはなくなってしまうのである。だが、悩ましいことは、おそらく「往生」という言葉の世俗的・一般的用法としては、この「困」の意味で使うことが最も頻度が高いのではないかと思われることである。
 ああ、もう本当に〈往生しちゃう!〉と言いたくなる。…(次回は「往生際:往生=諦」について考える。)


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