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論語 №52 [心の小径]

一五七 子、顔淵(がんえん)に謂(い)いてのたまわく、これを用うればすなわち行い、これを舎(お)けばすなわち蔵(かく)る。ただわれとなんじとのみこれあるかな。子路(しろ)いわく、子三軍(さんぐん)を行(や)らば、すなわち誰と与(とも)にせん。子のたまわく、暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)死して悔なき者は、われ与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼(おそ)れ謀(はかりごと)を好んで成さんものなり。

                 法学者  穂積重遠

 「用之別行、舎之則蔵(これを用うればすなわち行い、これを舎けばすなわち蔵る)」は古語らしい。行と蔵とが韻を踏んでいる。君に用いられれば進んで腕をふるい、捨てられれば退いて自身の修養をつとめる意。一軍は一万二千五百人ということになっているが、「三軍」とは「三軍団」というのではなく、「大軍」ということ。「暴虎馮河」は、あばれ虎が河を渡るのではなく、「暴」はから手で打つこと、「馮」はかちわたりすること。

 孔子様が顔淵に向かって、「古語に『これを用うればすなわち行い、これを舎けばすな
わち蔵る』とあるが、かく出処進退の宜しきを得るのは、まずわしとお前ぐらいのものかな。」と言われた。すると子路が進み出て、「なるほどそうでござりましょうが、先生が大軍をひきいて出陣される場合には、誰をおつれになりましょうかな。」と言った。その時には顔淵ではお役に立ちますまい、この子路でなくては、という意味合いが露骨である。そこで孔子様が子路をたしなめておっしゃるよう、「虎を手打ちにしたり河をかちわたりしたりして犬死しても後悔しないような野猪武者と道連れはご免だね。もしいくさに行くならば、事に当る前には臆病なくらいに用心し十分に計画を立ててそれを遂行し得る分別者を参謀にしたい。」

 「必ずや」に「わしは元来戦争はきらいじゃが、」の意味をふくんでいる(一五九)。本章にも、いかにも子路らしい態度口ぶりと、子路には特に親しみをもって遠慮なく物を言われる孔子様の様子とがあらわれていて、おもしろい。

一五八 子のたまわく、富にして求むペくんば、執鞭(しつべん)の士と雖(いえど)もわれ亦これを為さん。もし求むべからずんば、わが好む所に従わん。

 「執鞭の士」は文字通。靴を持って王侯の行列の先払いをする下役。

 孔子様がおっしゃるよう、「もし富なるものがこちらから求むべきものならば、『下に下に』の足軽役でもわしはつとめるが、もし求むべきものでないならば、わしはわしの好む聖人の道を楽しみたい。」

 孔子様は富を排斥されるのではなく、富むも富まぬも天命なりとされる。それ故事は天にまかせて、各自の天職を楽しむべきだ、と言われるのである。
一五九 子の慎(つつし)む所は、斉(さい)・戦(せん)・疾(しつ)。

 「斉」は「斎」と通ずる。祭る前に精進潔斎(けっさい)して心を斉(ととの)えるのである。

 孔子様の最も謹慎して考え、また扱われたことは、富と戦争と病気とであった。
 「日本敗れたり」の悪は正に、傾むべきところを慎まなかったことである。

一六〇 子、斉(せい)に在りて韶(しょう)を聞く、三月(さんげつ)肉の味わいを知らず。のたまわく、図(はか)らざりき楽を為すの斯(こと)に至らんとは。

 陳(ちん)の国が舜(しゅん)の末(すえ)だというので韶の楽を伝えていたところ、陳の大夫(たいふ)、田敬仲(でんけいちゅう)が斉に奔(はし)って韶を斉に伝えたのだという。
 「韶を聞くこと三月」とよむ人もある。『史記』の孔子世家(せいか)には「三月」の上に「これを楽しむこと」とある故、その方が正しいのかも知れぬが、前記の方がおもしろい。「三月」は例によって「三カ月」と限ったわけではない。「当分」ということ。

 孔子様が斉に滞在中、韶の音楽を聞き、スッカリ感激して、「これほど大した音楽があろうとは思いもよらなかった。」と讃美され、当分は肉をたべても味も覚えぬくらいであった。

 韶をほめて「美を尽せり、又善を尽せり。」と言われたことは、前に出ている。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №42 [心の小径]

第七章 基督教国にて 9

                       内村鑑三

  五月十四日 「ヱレミヤ」ヲ読ム、大イニ感動ス。
  五月十六日 「ヱレミヤ」ハ余二多大ノ感動ヲ与へタリ。
  五月廿七日 「ヱレミヤ」ヲ読ミテ多クノ利益ヲ得タリ。

 余の宗教的読書はこれまでは『基督教証拠論』とかそれに類するものが多くて、『聖書』そのものは少なかった。それゆえ余は旧約聖書の預言は大概は未来談であり、人類の救拯主が最後に来りたもうた時に『符合一致』をもって世界を驚かせるために人類にむかって述べられたものであるという考えをいだいていた。それで余は早くから預言者の詔書を不可解なものの中に加えていた。余はそれらについては読んだが、しかしそれらを読まなかった。しかし今や半ば好奇心をもって、半ば恐怖をもって、余はヱレミヤをのぞいたのである、院長はかつて、いかなるヱレミヤをも自分はこの構内には入れないつもりである、そういう人は病院内のすべての不幸を見て全院を泣かせてしまうであろうから、と我々に注意を与えたのであるけれども。しかるに見よ! 何たる書よ! かくも人間的な、かくも理解しうる、その中に未来談はかくも少なく、現在を警告することかくも多き! 全巻に奇蹟の起るただ一つの出来事もなく、人なるヱレミヤは人間のあらゆる長所と短所そのまま余に示された。『すべて偉大なる人は預言者と呼ばれてはいけないであろうか』と余は独語した。余は余自身の異教国のすべての偉人を心に列挙し、彼らの言行を比較考量した、そして余の到達した結論は、ヱレミヤに語りたもうたその同じ神は、よしそれほど明瞭ではなくとも、余の国人中の或者にもまた語りたもうたということ、彼はその光と導きとなしに我々を全く棄ておきたまわなかった、いな、もろもろの国のうちで最も基督教的な国に彼が為したもうたように、この長い幾世紀の間、我々を愛し我々を見守りたもうたのである、ということであった。この思想は余の表現力をこえる感激的なものであった。外国伝来の信仰を受けてやや冷却された愛国心は、今や百倍の活気と感銘とをもって余に還(かえ)って来た。余は余の国の地図を眺め、その上に泣いて祈った。余はロシアをバビロニアに、ツァーをネプカドネザールに、そして余の国を義の神を告白することによってのみ救われる無力なユダヤに、比較した、余は余の旧き英語聖書にこのような言葉を書き記した、-
  ヱレミヤ三章一-五節  誰力此ノ懇請(こんせい)ヲ斥(しりぞ)ケ得べキヤ
  ヱレミヤ四章一-十八節 此章十八節ノ概世(がいせい)ノ言、何ノ世二於テ優ルヤ、嗚呼(ああ)我国ヨ、我帝国ヨ、汝願クハ 「ユダヤ」人ノ跡ヲ践(ふ)ム勿レ
  ヱレミヤ九章十八-升一節  北方ノ魯国我邦ノ「カルデヤ」ニアラズヤ 云々

 この時より二年間、余は聖書は預言者のほかはほとんど何も読まなかった。余の宗教的思想の全体はそれによって変化せしめられた。余の友人たちは余の宗教は福音書の基督教よりもユダヤ教の一種であると言う。しかしそれはそうではない。余はキリストと彼の使徒たちからは如何にして余の霊魂を救うべきかを学んだ、しかし預言者たちからは如何にして余の国を救うべきかを学んだのである。                 た
 余はほとんど八カ月間病院勤務を続けた、しかし余のうちにある『疑惑』はこれ以上一刻も耐え得られなくなった。救助は何処かに求められなければならぬ。親愛なるドクターは君は休息を必要とすると言って、余の活動の鈍い肝臓のためにアポリネーリス鉱水を処方してくれた、彼の実際的意見によれば、いわゆる霊的苦悶の全部でなくとも大部分は、消化器の何かの障害によって説明され得たからである。彼の医学上の忠告を好機に、余は余の故国からの幾人かの友人のいるニュー・イングランドに赴いた、場所が変れば何か『幸運』が現れるかもしれないと考えたからである。『幸運』に対する余の異教的な依頼心が、窮迫に陥(おちい)る時に、何時も跳び出したのである。
 悲しい心を抱いて余は病院とそこで得た多くの善き友人たちとを後にした、余の不完全な勤務と、余の身を親愛なドクターの配慮に委(ゆだ)ねてからかくも連かな計画の変更とを深く後悔しつつ。慈善、『愛人』事業は、余の『愛己』的傾向が余の中にて全く絶滅せられるまでは余自身のものでないことを余は知ったのである。霊魂の治癒は肉体の治癒に先行しなければならぬ、すくなくとも余の場合においてはそうである、そして慈善はそれだけでは前者の目的のためには無力であったのである。
 しかし『天使も羨(うらや)む』この事業について何か軽蔑的なことを余はけっして言うのでではない。それはこの広い宇宙の他のも接することのできない高貴な事業である。ある人は異教徒に対する伝道事業はより高貴であると言う。あるいはそうであろう。体は衣よりまさるように、霊魂はその衣裳たる肉体よりまさるからである。しかし我々が蜜柑の皮を内側の果肉から離すように誰が肉体を霊魂から離したことがあるか。肉体を通して霊魂に近づくことなしに、誰が霊魂を救うことができるか。『安全にして往け温かにして飽くことを得よ』主義によって働く宗教の教師が天国から遥かに遠ざかっているのは、『病は金銭(かね)次第』主義によって働く肉体の医師が天語の反対の曲に近くあるのと同じである。もし諸君が愛という二つのギリシャ語の此較的の意味についてやかましく言うならば、PhilantholopyはAgapanthoropyである。『医は仁術(愛の術)なり』とシナの一聖人は言った、そして余の知る限りでは福音書の基督教は、異教徒によって言われたものであっても、この格言を是認するものと思われる。それなら誰が医学をを神学から区別することができるか。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №41 [心の小径]

第七章基督教国にて 8

                       内村鑑三

 四月六日  白痴児童ノ教育二興味ト熱心ヲ加フ。

 この前日、余は余の生涯でこれまで会った最も著しい人の一人に接した。その人は故ジェームス.B.リチャーヅ氏であった、堅忍不抜(けんにんふばつ)な白痴児童教育者として世界的に令名ある人であった。『父を示すこと』はその子らの最低級の者にさえ実際上可能なことを我々に実証する彼の初期の教授法上の経験の幾つかを余は彼のその口から聞いた。余の受けた印象は電撃的であった、そしてその影響は永久的であった。それいらい慈善と教育とは単なる憐憫(れんびん)と効用の事業たることを止めた。両者にはともに高い宗教的目的 ― 唯一の「善」なる神の執行者という ― があると思われた。余が白痴院において看護人たることはいまや神聖侵すべからざる職務に栄化せられ、義務はそれが帯びていたすべての奴隷的要素を振り落した。教会関係ではユニテリアンである彼リチャーヅを、余は余に遺(おく)られた最善の宣宣教師のなかにかぞえるのである。彼の人格、彼の同情の深さは、彼の教師としての異常な天才はさておき、正統信仰的の関係と読書とのなかで養われた余のトリニテリアン(三位一体主義)的偏見の多くを柔げたのである。

 四月八日 人間ノ能力ヲ最モ高ク解セルモノガ、最モ純粋ニシテ最モ高キ姿ニアル「ユニテリアン」主義ノ起源ナルベシ。然レドモ人間ハ自己ノ努カニヨリテ道徳ノ最高処二到達スルコト能ハズ、カクテ人間ハ「キリスト」ヲ引キ下シテ自己ノ弱キ知カニ適応セシムルナリ。神ノ概念ハ、我々ガ「キリスト」二来ルマデハ完全ニ明瞭ナリ。其処ニテ何人モ躓(つまず)クナリ。余ハ屡々思フ、「キリスト」ナカリセバ、余ハ余ノ神ニツキテ如何二明瞭ナル考ヲ有シタルニ相違ナカラント。

 キリストは躓きの石である、ただに昔の異教徒のギリシャ人にとりてのみならず、今日の異教徒の日本人、シナ人、その他すべての異教徒にとりてそうである。ユニテリアン的に彼を解することは神秘的な東洋人にとりては余りに簡単すぎる、しかしトリニテリアン的『理論』はそれに劣らず信じ難くある。誰が余のために石を転がしてくれるであろうか。

 四月十六日 「ファーナルド」ノ『基督信徒ノ真生活』ヲ読ム。
 四月十八日 「ドラモンド」ノ『精神界二於ケル自然法則』ヲ読ミテ、多大ノ興味ヲ覚エヌ。
 四月十九日 『黙示録』ヲ読ミテ大ナル興味ヲ得タリ。

 ファーナルドは余が幾らかでも真面目に読んだ最初のスウェーデンポルグ派の著者であった。いかにも余はこれより約三年前に『アルカナ・ケレスティア』をのぞきはしたが、当時はそれは余の物質的傾向の心には余りに霊的でありすぎた。しかし今や異郷にあり、大なる霊的問題と格闘していて、いかなる種類の神秘主義も余は歓迎した、なぜなら事実においては動かすことのできないことを余は余の霊において飛び越えることができたからである。そのときドラモンドが来て余の科学を霊化した。そして彼ら二人が余を極端に霊的ならしめた。今や余が説明し去ることのできないものは何一つ残っていなかった。そこで余は黙示録を取上げた、余を懐疑家に変えるかもしれないことを恐れて手を触れずにおいた書 ― 帰納的な人間族のたえではなくて天子族のために書かれたものと余の考えた一書であった。しかしもしそれが人間の霊的経験の鮮かな肖像画であるとすれば、その中の各節を例証するに一として余に欠如したものはなかった。三位一体の間隙(かんげき)もまたその方法で橋を架けることができる、そして処女懐胎と復活はたちまち勿論の事の中に数えられる。また創世記と地質学との調和についてのあの恐しい闘い、『セルポーンの博物学』の有名な著者をして狂気に逐いやったその闘い、― それもまた『アルカナ・ケレスティア』の著者の取扱いを受けて、九月の霜が太陽にあたったようにわけもなく融け去るのである。しかし余は多くの人々がするようにけっしてスウェーデンポルグを馬鹿者の一人には数えなかった。彼の心は余の構想力を越えた心であった。そして彼の洞察ははなはだ多くの場合においてまことに驚嘆すべきものである。スウェーデンポルグから完全な真理を得ようと欲する者は躓くであろう、しかし真の学者的謙遜(けんそん)と基督信徒的畏敬(いけい)とをもって彼のもとに行く者は、余は疑わない、大なる祝福を受けて出で来るであろう。彼の教義に初めて接触した時に余の陥ったはなはだしい霊化主義の後では、あの著しい人の余の思想に及ぼした影響は常に健全だった。ここは、しかし、いかなる点においてそれがそうであったかを詳細に述べる場所ではない。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №51 [心の小径]

一五四 子のたまわく、東脩(とうしゅう)を行うより以上、われ未だ嘗(かっ)て誨(おし)うることなくんばあらず。

                  法学者  穂積重遠

 「東脩」という言葉は今の人にはわからなくなったが、私たちの若い時には入学金を東脩といったものだ。「脩」は乾肉(ほしにく)で、今日でいわばハムだが、それを十薗たばねたのが「東脩」で、ちょうど日本なら「かつおぶし」というところ、それを入学のしるLに持って行くのだ。「以上」を、東脩もしくはそれ以上、という意味に解する人もあるが、それではおおしろくない。「東脩を持って来たからには」と取りたい。

 孔子様がおっしゃるよう、「東脩をおさめて入門した以上、教えてやらんことはない
ぞ。」

 「十分に教えてやるぞ」の意に解するのが普通のようだが、文章の勢いからみて、どうもそうは取れない。
 「やらんことはない」ではいかにも不親切に聞えるが、次章に至ってなるほどと思う。

一五五 子のたまわく、憤(ふん)せざれば啓(けい)せず。悱(ひ)せざれば発せず。一隅(いちぐう)を挙げて三隅(」さんぐう)を以て反(かえ)さざれば、すなわち復(ふたたび)せざるなり。

 「慣」は「意通ずるを求めて末だ得ざるの意」。「悱」は「口言わんと欲して末だ能わざるの貌(かたち)」。「挙一隅」の下に「而示之」(これを示し)とある本もある。意味はよくわかるが、ない方が文章はおもしろい。

 孔子様がおっしゃるよう、「どうしてこれがわからないだろうか、ああでもない、こうでもない、と煩悶するところまでいかなければ、いとぐちを開いてやらぬぞ。理論はわかったがどうもうまく言えない、ああ言おうか、こう言おうか、と口をモグモグさせるところまでこなければ、キッカケをつけてやらぬぞ。四角いものを教えるにしても、一隅(ひとすみ)を持ち上げてみせると、ああなるほどとすぐに他の三隅(みすみ)を持ち上げてくるようでなければ、二度と教えてやらぬぞ。」

 これが孔子様の教育法で、孟懿子(もういし)が孝を問うたのに「違うことなかれ」と答えたところ、そのさきを質問もしなかったので教えずに帰ったのなどがそれだ。今日の「啓発」教育ということは、すでに言葉自身がここから出ている。先ごろアメリカの教育団が来て我が国の教育を批判して行ったが、明治以来の教育の一大欠点は、米国教育団を待つまでもなく、すでに孔子様によって指摘されている。すなわち先生が一から十まで噛んでくくめるようにして生徒をひとりあるきさせず、教授が一時間二時間とシャベリつづけて学生に口をきかせなかったことが、小学校から大学に至るまでの通弊(つうへい)だったのである。すなわち先生が親切過ぎたのであって、「誨(おし)うることなくんばあらず」ぐらいがちょうどよかったのである。私は三十年前米国に留学してケース‐メソッドなる臨床討論式法学講義を傍聴(ぼうちょう)じ(参加し、とは気がさして言えぬ) 「法学教育の目的は法律知識を与うるにあらずして 『法律心を鍛錬する(トレーニング‐ザ‐リーガル‐マインド)にあり」との教授の説明に感服して帰って以来、大学の講義の第一時間には必ず『論語』本章を引き、孔子流の啓発教育でいくぞ、と宣言したものだが、実際やってみるとなかなかうまくいかず、結局いつでもこちらから「四隅(よすみ)を挙げる」ことになってしまった。

一五六 子、喪(も)ある者の側(かたわら)に食すれば、未だかつて飽かず。子この日において哭(こく)すれば、すなわち歌わず。

 二章に分けてある本があり、間に「子」があるからその方がよいとの説もあるが、続けてよんだ方がおもしろい。「哭」については、「大声にして涙なきを哭と謂い、細声にして涙あるを泣(きゅう)と謂う。」などという説明があるが、ここではさような形式的なことではなく、「哀悼(あいとう)」の意味。

 孔子様は、喪中の人と同席の場合には、腹いっぱいにめしあがられなかった。また孔子様は、葬式や法事に行って泣いて来られた日には、歌など歌われなかった。

 孔子様の人情の深さ、礼儀の正しさがあらわれている。こんにちの複雑多事な世の中では、必ずしもこうはいかぬが、気持だけはそうありたい。江戸時代には葬式の帰りに近所へ行くことがはやって、川柳の好材料になり、また戦争前までは、葬式や法事が村人の酒の幹会に鳴っていた地方もあるようだ。甚だ持って心ない話である。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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論語 №50 [心の小径]

一五一 子の燕居(えんきょ)、申申(しんしん)如(じょ)たり、夭夭(ようよう)如たり。
                   法学者  穂積重遠
                                        
 「燕居」は「安居」。「申申」は姿形(すがたかたち)のユツタリとのぴること。「夭夭」は顔色のよろこびやわらぐこと。

 孔子様がおひまでうちにくつろいでおられるときには、いかにものんびりしたご様子で、にこやかであられた。
 これが「はしがき」に書いた谷川さんをして『論語』ファンたらしめたという文章だが、実際孔子様を私たちに近づかせる。儀式のときはもちろんキチンとしておられただろうし、小言(こごと)をいわれるときはこわい顔もされたろうが、けっして道学(どうがく)先生然とシャチコバツテにが虫をかみつぶしておられるのではなかった。      

一五二 子のたまわく、甚だしいかな、わが衰えたるや、久しいかな、われ復(また)夢に周公を見ず。

 「周公」名は旦(たん)。周の文王の子で武王の弟。武王の成王を補佐して礼楽制度を整えた。その上、魯の国の開祖なので、孔戸様は常に周公を崇拝しておられたのである。

 孔子様が歎息されるよう、「わしもずいぶん年取ったものじゃ。とんとと久しく周公の夢を見ぬわい。」

 孔子様は若い時から周公を理想とし、魯を周公の遺国たるにふさわしからしめ、周公の道をもって天下を救わんと志し、念々ここにあって夢にまで周公と道を語られたものだが、このごろは年老い気力衰えたか、久しく周公の夢を見ず、しかして周公の道を天下に行わんという大願もついに空しからんとする、となげかれたのである。しかしまた老いてその志ますます盛んなればこそこのなげきあるなれとも考えられるし、老熟して「聖人に夢なし」の域に達されたのだということもできよう。ついでに江戸笑話を一つ。
                                        
 漢学塾の書生が昼寝しているのを師匠が見つけて「宰子(さいこ)昼寝(い)ねたり、子のたまわく云々(うんぬん)」」と小言をいうと、弟子が負けていず、「お師匠様も昼寝をなさるではござりませぬか。」「イヤわしのは周公にお目にかかりに行くのじゃ。」「それでは私のも周公にお目にかかりに行くのです。」「ナ二周公がお前などにお会いになるものか。」「イエ現にただ今もお目にかかりました。」「そして周公が何とおっしゃった。」「お前の師匠にはまだ会ったことがないと。」

一五三 子のたまわく、道に志し、徳に拠(よ)り、仁に依(よ)り、藝(げい)に游(あそ)ぶ。

 「徳は得なり」とあって、道を心に得てわが物とすること。「藝」は前の「行いて余力あればすなわち以て文を学べ」の「文」と同じく、ひろく文藝と解してよかろう。

 孔子様がおっしゃるよう、「人の道を学ぶことに心を向け、学んだところを体得しわが徳として堅(かた)くこれを守り、諸徳の綜合たる仁に至ってこれに安んじ、時に文藝をたしなんで気を養い心をゆたかにする。これが学問の順序じゃ。」

 一転して「藝に游ぶ」といったところがおもしろいが、私などはとかく「藝に游ぶ」が先に立って困る。


『新訳論語』講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №40 [心の小径]

七章 基督教国にて 7

                       内村鑑三 

 二月十八日 疑惑甚シ、少ナカラズ困(くるし)メリ。余ノ心ハ神ノ上二定メラレザルペカラズ。人間ノ意見ハ多様ナリ、然レド神ノ真理二ナラザルベカラズ。神御自身ニヨリテ教へラルルニ非ズンバ、真ノ知識ヲ獲ル能ハズ。

 真理の『選択』との恐ろしき争闘である。イエスは神であるか人であるか。もし余が彼は人であると信ずるならば、余は永遠の地獄の火のなかに罪に定められないであろうか。しかもエマーソン、ガリソン、ローウユル、マーティノー、その他の偉大にして勇敢にして学問ある人々が、彼は人であると言ったという。キリストの神性に対する余の信仰はそのときには余がかくも多大の犠牲を払って放棄した迷信的偶像崇拝だけ愚(おろ)かな根拠のないものであったのである。この点における余の争闘がまだ未解決であるうちに、別派の聖職者たちが余のところに来て、プロテスタントの悪魔たちに欺かれないよう深切に余に警告し、そして祈りをこめて一所懸命に精読するようにと、カーディナル・ギポンスの『我らの父祖の信仰』の一部を余に恵んでくれる。そして余の注意が真剣にこの重大問題の解決に向けられるやいなや、不可知論者はダーウィン、ハクスレイ、ス・へンサーの名において、無用な疑問を放棄して見えるものと触れうるものとに頼るように、余に勧告するのである。つぎに外観はどうみてもマダム・ギュイヨンその人のように敬虔(けいけん)な人々が余に告げる、自分たちの預言者スウェーデンポルグは自分自身の眼で天を見た、そして彼が語ったり書いたりしたことはことごとく絶対に真であることを彼の強大な知力をもって証明したと。しかし偉大な生理学者、博士フりノントは、スウェーデンポルグは純然たる精神異状者であったと言う。禍(わざわい)なるはこれらの論争の渦中にある良心的な異教徒回心者である。むずかしい攻撃を受けることのない安全な位置がないので、その人の心は知識的宇宙の一端から他端へと投げつけられる。もういちど余は余のお祖母さんの『異教の』信仰における平和と静穏を想った。言うをやめよ、おおなんじら教派に縛られた基督信徒たちよ、『ヨーロッパの一年はカセイ(シナ)の百年にまさる』と、諸君は自分が本当はもっていない平和を我々に約束したからである。もしも分争と宗教的怨恨とが望ましいものであるならば、我々は諸君の製造発明にかかる新しい分争に捲き込まれることなしに『カセイ』で十分それをもっていたのである。余はかつて一教師のもとに行き、基督信徒間の教派の、もしありとすれば、その存在理由を質問したことをおぼえている。彼は余に語った、自分の意見によれば教派の存在は真の祝福である、それは異なる諸教派の間に『競争』を生じ、かくて教会のうちにより多くの純潔と神の国のより迅速な生長をもたらすからであると。しかしそれから数カ月ののち、我々自身の新しい教会を起した時に、それは彼の趣味にはなはだかなわない方法で計画されたのであるが、その同じ宣教師は我々の大胆さを鋭く非難して我々に語った、基督教の大義をすでに汚しつつある数百の教派にもう一つの新しい教派を加えてはならぬと。しかし我々は彼の論理を解することはできなかった。もしも教派の存在が『真の祝福』であるならば、なぜ教派の数を増してそれからより多くの利益を得ないのであるか! しかし我々あわれな回心者たちが未だにそう想像しているように、もしそれが詛(のろ)いであるならば、何故それを絶滅し、メソヂスト主義、長老主義、組合主義、クエーカー主義、その他あらゆる有害無害の何々主義をことごとく一大合同体にしようと試みないのであるか。我々は頭が変になっているので、我々の宣教師の友人の通説的言明の謎をすこしも解くことができないのである。

 三月八日 聖潔(きよ)メラルルコトノ重要ナルヲ、層一層、感ジツツアリ。『理想ノ純潔』ハ眼前ニアリ、然レド余ハ其ノ状態二人ルコト能ハズ。アア、我レ悩メル者ナルカナ!

 三月廿二日 「知恵ノ無限ナル土台石」ノ全体二依存シ又(ま)タ其ヲ占有シ得ルニハ、人間ハ余リニ有限ナル被造物ナリ。唯ダ彼ノ為シ得ル事ハ此ノ「土台石」ノ小ナル一角二身ヲ宿スニアリ。此ノ一角ニサエ達スレバ、直二彼ハ安穏平静タルヲ得ルナリ、― 巌(いわお)ノ強キコト此ノ如シ。是レ種々ナル教派ノ存在シ其ガ何レモ成功セルコトノ説明ナリ。

 より人情的にして合理的な『教派』の説明である。フィリップス・ブルックスが余を助けてここにいたらしめたのであると信ずる。

 四月五目 復活日曜日(イースターサンデイ) 美シキ日。霊ハ力ヲ与ヘラレ、余ノ生涯ニ於(おい)テ初ノ天ト不死トヲ瞥見(べっけん)セリ! 鳴呼(ああ)、歓喜量(はか)リ難し 斯(か)カル聖ナル歓喜ノ一瞬間ハ、此ノ世ノ与ヘ得ル凡(あら)ユル歓喜ノ数カ年二値ス。余ノ霊的盲目ハ層一層感ゼラレ、余ハ光ヲ求メテ熱キ祈祷を捧ゲヌ。

 じつに復活の日であった! 連続せる憂鬱、霊との格闘の数カ月の後に、この啓示と休息とは余には筆舌に尽し難く嬉しくあった。余は記憶している、余の前に置かれた彩色卵を舌の味以上の味をもって味わったことを。それにおいて(すなわち、生の時の卵であって茄でて固まらせて彩色してからのではないが)、余は余の霊魂の当時の状態を例証する一つの説教を読んだのである。余の胎生学上の知識の貯えはことどとく精神的解釈のためにいまや余の心に思い浮べられた、そして余は当時霊魂発達のいかなる段階にあったか ― 『卵割期』にあったか、あるいは『桑実期』にあったか、あるいは『孵化(ふか)期』に近くまで進んでゐたか ― と思いめぐらした。まもなく穀は破られるであろう、そして余は翼に乗って余の救拯主と完全とに向って高く舞い上るであろう。おお、もっと光を!


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文の


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №39 [心の小径]

第七章 基督教国にて 6

                       内村鑑三

 一八八五年一月一日 寒シ。昨夜「信仰ニヨリテ義とセラルルコト」ニ就キテ大イニ感ジタリ。終夜、勤務ニ従事セリ。初メテ余ハ患者看護ノ仕事二携ハレリ。余ノ為二途ヲ開き給ヒシコトヲ神ニ感謝セリ。
             
 白痴院に於ける看護人としての第一日。ジョン・ハワード、エリザベスフライ、その他無数の男女の聖徒の名によって聖(きよ)められた宿望の仕事の途が、いまや余に開かれたのである。じつに余は自分自身が聖徒となったと感じた。しかしすでに『律法の行為』によって自らを義としようとするこの余の試みの初めから、一つの声が余の胸中に深く響いた、『人は律法の行いなしに信仰によって義とせられるのである』と。

 一月六日 「ヨプ」記ヲ読ム、大イニ慰メラル。

 再び尊敬すべきアルバート・バーンズの助力をもって。彼の註解書二巻は休むことなく急ぎ読過された。すべての禍いの最終的結果は善であることがいまや余の心に拭いがたく印象された。それいらいかつて余はこの人生観をめったに見失ったことはなかった、最暗黒の雲の唯中でさえも。

 一月十一日 日曜日 終日、勤務二従事セリ、「ハヴァ-ガル」ヲ読ム、精神的ノ事ニテ教へラルル所多シ。

 一月廿五日 日曜日 此ノ人生ハ我々ガ如何ニシテ天国二人ルカヲ教へラルル学校ナリ。此ノ人生ノ最大ノ成功ハ、ソレ故、『貴重ナル永遠的ナル教訓』ヲ学プニアリ。

 新しい教訓が守護天使たちによって教えられつつある。フランシス・ハヴァーガルはそのうちにて最も顕著なものであった。その時まではこの地上的生活が余にとってはすべてのすべてであった、基督教的経論のもとにあってすらも。新しい信仰は、その固有の精神的価値のためよりも幸福な家庭、自由な政府などのような功利的目的のためにより多く信ぜられた。『我が国を欧米のように強大にすること』が余の生涯の最高目的であった、そして余はそれをこの計画を実行するための大きなエンジンと考えたから基督教を歓迎したのである。そしてああ、いかに多くのものがいまなおその社会政治的理由のためにそれを信ずることよ!しかしいまや国を愛する愛は天国を愛する愛のために犠牲にせらるべきであった、国を愛する愛がその最真最高の意味にて余に回復されるがために。

 二月二日 余は神ノ子ナリトノ思想。大イニ勇習得クリ。
 二月十一日 「フィリップス・ブルック」ヲ読ム、、『「イエス」の感化』ト題ス、大イニ勇気ヲ得タリ。

 余は神の子であってその兄弟や同輩ではないという重大な発見、何故に余は『同じ立場』に立って彼に受け入れられようとして、力と純潔において彼と競争しようと努めるのであるか。思い上った此の世の小さな神よ! なんじ自身を知れ、そうすれば事はなんじにとって良く行くであろう。そしてフィリップス・プルックスよ! いかなる悶える霊魂を彼は力づけ支えるのに失敗したか。彼の白法衣下にある何たる深さよ、彼の祈祷書の背後にある何たる広さよ! 彼の著書に思いをこらしながら余は考えた、彼は親しく余のすべての病いを知りそれに投じる特効薬をもっていたのであると。旅人は彼の仙薬を一飲みして息をつく、そして一二週間は唇に歌を口ずさんで前進する、茨しげる山あり谷ありの大地は彼の前に低くされ平らにされて。

 二月十四日 余ノ知ル限リガ余自身ノ知識ト真理ナリ。此ノ世ハ異ナル種々ノ意見ヲ有スルヤモ知レズ、然レドモ其ハ余ノモノニ非ズ、従ッテ余ハ其ノ為ニ責任ヲ負ハザルナリ。
余ヲシテ余ノ知ル所のコトニ関ハラシメヨ、其以上ニ関ハラシメルコトナカレ。

 余の知識の範囲と限界は限定せられるべきであった。いまや余に親授を迫る無数の意見い対して余自身を武装するためであったのである。アメリカは教派の国であり、各自は他を犠牲にしてその数を増大しようと試みる。すでにユニテリアン主義、スウェーデンボルグ主義、クエーカー主義、等々のようなかかる見なれない諸主義が、他の余がすでに熟知しているものは言うにおよばず、余に対して試みられつつあった。憐れな異教徒回心者はどれを自分自身のものとすべきかに途方にくれる、そこで余はそれらの何一つをも受けまいと決心した。いったいいかなる朽つべき人間が夫々其の長所と短所のある幾十の教派の中よりして、『正しい選択』をすることができるか。何故に隣れな回心者をバブテイゾーの語源をもって苦しめ、『浸さる』べきものと思いこませるのであるか、等しく偉大にして敬虔な権威者たちが水のそそぎさえかならずしも彼の永遠の証に必要でないと主張するのに。憐れな回心者に慈悲深くあれ、なんじら『本国の基督信徒』よ、そして広くあれ。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №49 [心の小径]

一四八 子のたまわく、述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む。ひそかにわが老彭(ろうほう)に比す。
                  法学者  穂積重遠

 老彭は殷(いん)の賢大夫(けんたいふ)で、好んで古事を述べたという。長寿の人だったので「老」というのだろう。

 孔子様がおっしゃるよう、「自分は昔の教えを伝えてこれを説明するのみで、独断創作することをしない。信念をもって古の道を好む点において、心ひそかに自らをわが尊敬する老彭にくらべるだけのことじゃ。」

 孔子様は詩・書・易・礼・春秋の五経を作られたが、それは著作ではなくて編纂(へんさん)に過ぎぬ、といわれるのであって、これは孔子様の謙遜(けんそん)の言葉だということになっている。それに相違ないが、同時にこれは孔子様の大信念・大抱負の言明と考えたい。そして「古を好む」ということについては、若い人たちはあるいは保守的で物足りないと思うかも知れないが、私は本書の「あとがき」で、孔子のいわゆる「古」は歴史的の「古」ではない、ということを述べたいと思う。それまでに一つ一章一句をよくあじわって、孔子様の言わんと欲するところを汲み取っておいてもらいたい。

一四九 子のたまわく、黙してこれを識(しる)し、学んでこれを厭(いと)わず、人を誨(おし)えて倦(う)まず。何かわれにあらんや。

 孔子様がおっしゃるよう、「口に出さずに心にきざみ、自ら学んでいやにならず、人を教えてめんどうがらぬ。ただそれだけのことで、ほかにわしには何の取りえもない。」

 これも孔子様の謙遜の言葉であり、同時に孔子様の自ら許されるところだが、「それだけのこと」がどうしてなかなか「大したこと」だということを、私は四十年の大学生活で痛感する。殊に「熱して識す」ができないことだ。
「いずれかわれにあらんや」とよんで、この三事のどれもわしにはまだ出来ていない、の意味だとする脱もあるが、それでは謙遜が過ぎて.かえって孔子様へらしくない。第一六六章第一八〇章から見ても、孔子様このくらいの自慢は言われる。『孟子』公孫丑(こうそんちゅう)章句上に次の一節がある。「子貢(しこう)孔子に問いていわく。夫子は聖なるか。孔子いわく。聖はすなわちわれ能(あた)わず。われ学びて厭わず、教えて倦まざるなり。子貢いわく。学びて厭わざるは智なり。教えて倦まざるは仁なり。仁且(か)つ智、夫子は既に聖なり。」

一五〇 子のたまわく、徳の修まらざる、学の講ぜざる、義を聞いて徒(うつ)る能わざる、不善改むる能わざる、これわが憂いなり。

  孔子様がおっしゃるよう、「修養の至らぬこと、研究の積まぬこと、正しいと知りながらそちらにうつり得ないこと、善からぬと気がつきながら改め得ないこと、この四つの弱点がありはせぬかと、われながらいつも心配していることじゃ。」

 世人の四弊(しへい)を憂いとするのだ、という説もあるが、それではおもしろくない。本章の位置からみても、孔子様自身のことに相違ないと思う。孔子様さえ憂いとされるのだから、われわれ凡人が憂いとせねばならぬことはもちろんだが。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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論語 №48 [心の小径]

一四六 子のたまわく、中庸(ちゅうよう)の徳たるや、それ至(いた)れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。

                  法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「過ぐることなく及ばぬことなく平常にして終始変らざる中庸こそ、実に最高至善(さいこうしぜん)の徳なるかな。しかるに、古代は知らず、その後久しくこの徳をそなえる人がすくない。まことになげかわしいことじゃ。」

 中庸ということは、平凡にして至難な事柄であって、孔子様の最も重んぜられたところであるが、お孫さんの子思(しし)がその教えを受け継いで『中庸』を著し、四書の一つになっているのは、孔子様もさぞご満足であろう。そして今日行われている中庸刊本の本文のはじめに、前註の形で出ている子程子(していし)の言葉に、「偏(かたよら)ざるこれを中と謂(い)い、易(かわ)らざるこれを庸と滑う。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり。」とあるのは、中庸の過ぐることなく及ばざることなき定義である。近来の我が国は、思想も行動も実に極端から極端に走り、中庸の徳に至っては真に「民鮮(すく)なきこと久し」き有様であって、孔子様にお目にかけたら、世も末じゃと嘆息されるであろう。『孟子』公孫丑(こうそんちゅう)章句上に左の一節がある。   
 「子貢(しこう)孔子に聞いていわく、夫子(ふうし)は聖なるか。孔子いわく、聖はすなわちわれ能(あた)わず。われ学びて厭(いと)わず、教えて倦(う)まざるなり。子貢いわく、学びて厭わざるは智なり、教えて倦まざるは仁なり。仁且(か)つ智、夫子は既に聖なり。」

一四七 子貢いわく、もし博(ひろ)く民に施して能(よ)く衆を済(すく)うことあらば如何(いかん)。仁と謂うべきか。子のたまわく、何ぞ仁を事(こと)とせん、必ずや聖か。堯舜もそれ猶(なお)これを病めり。それ仁者は、己(おのれ)立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬(たとえ)を取るは、仁の方と謂うべきのみ。

 子貢が「もしひろく人民に行きわたってよく衆人を救済することができたら、仁といえましょうか。」とおたずねしたので、孔子様がおっしゃるよう、「それができれば仁どころではない。強いていうならば聖か。堯舜のような聖天子でさえ、それができないとてご心配なされたことである。お前は仁なるものを大そうなむずかしいことに考えているようだが、さような聖天子でなければできないようなことではない。仁者は自分についてかくあれかしと思うことを人にもかくあらせんとし、自分が成就したいと思うことを人に成就させる。すなわち人を見ることおのれのごとく、人我(にんが)のへだてのないのが仁である。言いかえれば、高遠なことに思いを馳(は)せるのが仁ではなくて、目の前の自分に引きくらべて人にしむけるのが、仁に至る方法であるぞよ。」

 孔子様がなかなか仁をもって許されないので、子貢が今度は最高標準を持ち出したところ、孔子様は仁とはさような大理想ではなく、むしろ日常茶飯事であるぞ、俗諺(ぞくげん)のいわゆる「わが身をつねって人の痛さを知る」こそ仁の第一歩なれ、と教え、また一面仁とは事業功績ではなく、心がけの問簿だ、ということを説かれたのだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №38 [心の小径]

第七章 基督教国にて 5

                       内村鑑三

 もうひとり病院における感激的な人物はその婦長であった。余の知るいかなる人も彼女より以上に剛毅(ごうき)ではなかった、しかも彼女は婦人であった! 彼女はその注意ぶかい眼をこの少年、あの少女に投げつつ、宏大な建物を隅から隅まで歩きまわった、そして禍いなるかな、ジョニーの靴下をジョージーの脚にはかせ、サブの帽子をスーシーの頭にかぶせた不注意な看護人は。婦人が男子と同様に支配できるということはこの尊敬すべき婦人によって何の疑念もなく余に証明せられた。彼女は確かに基督教的アメリカの産物である、異教国はその婦道にいかなる温雅(おんが)と美徳があっても、これに匹敵するものを産出することはできない。
 もうひとり余が余の病院時代に固く結ばれるようになっ友愛すべき人を、余の角(かど)のある基督教の多くのものを取除いてくれた人として、言及しないではいられない。彼はデラウエア州の出であって、同情では決定的に南部人、熟練した青年医師、宗教告白では聖公会信者、ダンスは軽快で巧妙、すぐれた俳優になることができ、詩を書くことができ、スチュアート家諸王の讃美者、善良、深切、そして友人中で最も思いやりある人であった。
彼の面前では、余の胸中にニューイングランドへの同情と知識によってかもし出された叛逆南部に対する余の偏見はたちまちにして消滅した。余のピューリタン信仰とコロムウェル崇拝とは彼を余の信頼と愛とに受け入れるに何の障害ともならなかった。彼はかつて余を彼のデラウェアの家庭につれて行った、余が彼に余の理想として描いた婦人たちにいやしくも比較されうる真の婦人を余に見せるためであった。彼は言った、そぅいうものは実際にアメリカに存在しはするが、しかしペンシルヴァニアやマサチューセッツにではないと。彼は貸馬車を傭った、そして余をまず知事の家に、次に前知事の家に、等々と余をつれまわった、そして我々が敬意を表した美人の前から出て来るたびごとに、彼は余に問うた、『あれはどうだ?』と。彼女は余の理想にはまだ達しないと告げるや、彼はもう一つ、
それからなおもう一つと試み、余から賛辞を奪取しようと全力をつくした、昔の騎士が戦争相手から自分の偶像のためにそうしたようにである。しかし余は依然として自己に忠実であった、そしてついに彼を失望させた。『君はそれではデラウエアで何が欲しいか』と彼は最後に当惑して余に言った。時は桃の季節であった、余は故国にいたあいだ地理学でデラウエア桃の最上等の品質について学んだ。それゆえ余は州内のその最善のもの若干を要求した。それを彼は早速よろこんで注文してくれた、そして余は余の欲したすべてのものを得てすっかり満足したのである。-余のヤンキー同情心が余を無知のなかに引き留めておいたそのアメリカの半面を余に知らせてくれた人こそ彼であった。度量のある、思いやりのある、真実な、疑心のない、-アメリカ基督の全部がドルとセントによっては、ジョナサン・エド7ヅとセオドア・パーカーと一緒には、歩かないわけである。そこには騎士道的基督教のようなもの、余の国民的心情にはなはだ訴えるものがあるのである。余は少しくこの南部の友人の精神を汲み、彼が余に贈ってくれた「祈祷書」(The book of Common Prayor)から多くの句を暗記した、そして聖公会の諸に出席すること喜びを感じ始めた。神の霊に導かれて、広さは自分自身の信仰のうちに増大しつつある確信とけっして矛盾はしない、そして余はオリヴァー・コロムウエルに対する余の無制限の敬慕とピューリタン型の基督教に含まれているあの貴重な真理に対する余の愛着とを少しも弱めることなしに、余のデラウエアの友人を通して基督教国の半分の味方になったことを、いつも感謝しているのである。
 ただ限られた紙面は余の病院滞在中に余に影響を及ぼした他の善い友人たちや快い感化について記述することを許さない。アイルランドの地からさえ、しかもその紳士階級の中からではないが、インスビレーションとそして余の精神的霊的地平線の拡大化とがやって来たのである。一人の強い人を余は特に記憶している、その人はグラッドストンに崇拝的な敬慕をいだいていた、そしてその人は、余が彼にヴィクトリア女王のような強大な君主をもつことは余の羨望するところであると言った時、足を踏み鳴らし『おれはあの、の-べき婦人の臣民であるよりは、むしろアビシニアの王様に治めてもらいたい』と言って、彼の強い不同意を表明した。しかも誤ってエメラルド・アイル(深緑の島)の代表者とされたこれらの息子や娘たちの中にある何たる心の善良さよ、そしてまた敬虔心よ。
 余の周囲についての以上の叙述とともに、さらに若干の余の日記を掲げること許されたい。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫
                          


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論語 №47 [心の小径]

一四二 子(し)のたまわく、觚觚(ここ)ならす、觚ならんや、觚ならんや。

                   法学者 穂積重遠

 「觚」は酒杯。角(かど)があるので「角へん」もついているのだが、当時はその古制がくずれてわけがなくなっていた。

 孔子様がおっしゃるよう、「觚にカドがなくては、觚であろうや、觚ではない。」

 これは酒杯が故実覧を失ったのによそえて世道(せどう)の頽廃(たいはい)をなげかれたのだが、「婦人婦人ならず、婦人ならんや、婦人ならんや。」「学生学生ならず、学生ならんや、学生ならんや。」「政党政党ならず、政党ならんや、政党ならんや。」何にでもあてはまる。

一四三 宰我(さいが)問いていわく、仁者(じんしゃ)はこれに告げて井に仁ありと雖も、それこれに従わんや。子(し)のたまわく、何すれぞそれ然(しか)らん。君子は逝(ゆ)かしむべし、陥(おとし)むべからず、欺くばし、罔(し)うべからず。

 宰我が「仁徳ある君子たる者、井戸に人が落ちていると知らされたら、イキナリその井戸にとびこむでしょうか。」とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「どうしてさようなことがあろうか。君子は人を故うに専(もっぱ)らで、己(おのれ)を忘れるから、人が落ちたと告げて井戸端までかけつけさせることはできようが、事実もたしかめず手段も講ぜずにあわてて井戸にとびこむほど無分別ではない故、だまして水にはめることはできな。道理のあることであざむかれることはあり得ようが、道理のないことでくらまされることはあり得ない。」        

 宰我は『論語』ではだいぶ評判がわるいので本章も、また愚問を出してしかられた、という風にとる人もあるが、ここはそうではなく、孔子様が世のこと人のことというと我を忘れて乗り出されるので、あるいはだまされて迷惑なさることがありはすまいかと心配して、宰我がそれとなくおいさめしたのに対し、孔子様が、大丈夫だよ、とおっしゃったのだろうと思う。

一四四 子のたまわく、君子博(ひろ)く文を芸び、これを的するに礼を以てせば、亦(また)以て畔(そむ)かざるべきか。
                                        
 伊藤博文(明治時代の大政治家)の名の出所。

 孔子様がおっしゃるよう、「君子たるもの、ひろく書を読んで文物を学ばねばならぬが、、博学なだけでは散漫(さんまん)になる故、人生の物差たる礼をもってしめくくりをつけねばならぬ。そうすれば正しい道にそむかぬようになれようか。」

一四五 子、南子(なんし)を見る。子路(しろ)説(よろこ)ばず。夫子(ふうし)これに矢(ちか)いてのたまわく、子に否なる所あらば、天これを厭(た)たん、天これを厭たん。

 「南子」は衛(えい)の霊公(れいこう)の夫人、不品行で評判の悪かったことは、前にも申した。原文「子所否者」には色々のよみ方があるようだが、一番スラリとしたよみ方に従った。「矢」をチカウとよむのは、矢を折って誓うからだろう。「厭」は「棄て絶つ」いわば絶交すること。神仏ならばバチをあてる、というところか。
                                  
 孔子様が衛の国に行かれたとき、霊公夫人の南子にまみえられたので、子路が快(こころよ)からず思った。子路のことだから、不愉快を顔に出しただけでなく、あのようなな淫婦(いんぷ))に会われるとは何事ぞと、口に出して非難したのかも知れない。そこで孔子様が誓言(せいごん)を立てておっしゃるよう、「わしにやましいところがあるならば、お前がとがめるまでもない、天道様が捨ておかれまい、天道(てんとう)様のバチがあたろうぞ。」

 これはどういう事情だったのかハッキリしないが、南子が好奇心からしきりに会見を求め、辞退しても強(し)いてうながされるので、やむを得ず参殿されたのだろう。子路はもちろん孔子様にいかがわしいことがあったと思ったのではなかろうが、世間がかれこれ言い立てるので、憤慨したものとみえる。そこで孔子様が、人は何とも言わば言え、天道様がご承知じゃ、安心せよ、と子路をなだめられたのだ。

『新薬論語』講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №37 [心の小径]

第七章 基督教国にて―慈善家の間にて 4

                       内村鑑三

  しかし余を彼の崇拝者とし忠実な学習者としたのは彼の宗教でも彼の音楽でもなかった。それは堅実に実行に移された彼の組織的思想であり、岩石突兀(とつこつ)たる、ペンシルヴァこア丘陵を徐々に征服してそれから人類の最も不幸な者たちのために盛んな植民地を作った彼のりっぱな方向をもった意志であり、約七百の狂った霊魂を支配し指導し服従せしめえた彼の管理的手腕であり、実現に彼の生涯と彼の息子たちの生涯を要するであろう微かな将来にまで拡がる彼の大きな野心であった、-これらすべてが彼を余に一の驚異と研究題目たらしめたのであるが、そのようなものは余の郷国にても他の何処にてもかつて余の見たことのないものであった。彼は当時余が悩まされていた頑固な宗教的疑惑を解くのに余を助けてはくれなかったにしても、彼は余に如何にして余の生活と宗教とを最大限に利用するか、慈善は、それがいかに高い繊細な感情をもって裏づけられていても、もしそれを悩める人類に対する祝福たらしめる明晰(めいせき)な頭脳と鉄の意志がなければ、この実際的世界にだて実際の用には僅かしか役立たないものであるということを教えてくれた。いかなる『実践神学』の課程も、この実際家の生きた模範のように、かくも十分に且つかくも印象的にこの評価すべからざる教訓を余に教えることはできなかった。彼こそは病的な宗教性(そう言えるならばに堕(だ)しつつあるところから余を救った人であった、そういう病的な宗教性に悩む人々は、
    『惨(みじ)めさを嘆く、されどどこか甘美なる孤独のなかにて、
    彼らの優雅なる愛、群なる同情を完きつつ、
    惨めなる人々を避ける』
ものなのである。ドクターは最後の時まで依然として余の友人のうちで最も信頼されうる人であった、そして年齢、人種、国籍、気風のあらゆる相違にもかかわらず、余の彼に対して結んだ愛は最も永久的のものとなった。しばしば余のニュー・イングランド・カレッヂ時代に、余の親し芸人たちのうち他の人々が余の心と頭脳について心配してくれた時に、彼は余の胃を記憶し、十分の食事を摂って元気であれと言って、しばしば余に何か実質的な援助を送ってくれたものである。そして余の帰国後にさえ、余の常道を逸した活動方法が倍仰の同じ家に属する多数の人々に余の精神的霊的健全性を疑わしめたとき、余の誠実さを正統的信仰と同棲にけっして凝わず、大洋の彼方から余に救助と声援を送ってくれたのは、彼であった。じつに余を人間化した(humanized)のは彼であった。余にもし余を教えるにただ書籍とカレッヂと神学校とがあるにすぎなかったならば、余の基督教は冷たい頑固な非実際的なものであったであろう。いかに多様な方法をもって大いなる霊が我々を形作ることよ!
 院長夫人はユニテリアンであった。故国でのあらゆる基背教文学の読み物で、余はユニテリアン主義については有利な意見はまったくわだかなかった。余はそれは異教よりさら悪いもの、その外見が基督教に似ているが故により危険なものと考えた。余は告白する、最初は余は彼女を強い疑いをもって眺めたことを。余は彼女は頭脳ぽかりで心がなく、大いなる主の御生涯の中にあるあらゆる柔和にして神聖なほど女らしくあるものに無感覚であると想像した。そして余はこの親愛な女主人の前で、ユニテリアンの教義に対する余の嫌悪を隠さなかった、余は何たる粗野な野蛮人であったろう。しかし見よ! 彼女は彼女自身のユニテリアンの原則にふさわしい行為によって、彼女が心を、じつに柔和な女らしい心を、所有することを証明したのである。余の正統信仰は余を友人とするのに彼女には何の障害ともならなかった。彼女はドクターとともにしばしば余を援助してくれた、また彼以上に、彼女の女らしい本能をもって、余の特殊の苦痛を『嗅(か)ぎ出し』、それに応じて余を慰めてくれた。彼女の最後の病気中きわめで柔和な言葉でしばしば余を想い出してくれた、そして彼女が父の聖国(みくに)にてドロテア・ディックスやその他のユ三テリアンの聖女たちの中に加わる僅か数日前にも、ピューリタンの教養を『矯正し難く』師事したのは忘れられなかった、そして彼女の異邦人に対する最後の伝道事業として、彼女は海のかなたから最も実質的な形のクリスマスの贈物を余に送り、ユニテリアン的でないことを彼女が知っている余の事業の促進を助けた。余は信ずる、かようなユニテリアン主義と和解し得ない正統信仰は「オーソドクス」すなわち「真直(まっすぐ)な教義」と称せられるに値いしないものであると。真の寛大とは、余の解するところによれば、自分自身の信仰には不屈な確信をもちながらすべての正直な信仰はこれを許容し寛容することである。余はある真理は知ることができるという余自身への信仰と、余はすべての真理を知ることができないという余自身への不信仰とが、真の基督教的寛大の基礎であり、あらゆる善意とすべての人間に対する平和的関係との源泉であるのである。もちろん余はこれらの健全な見解に一日にして回心せしめられたのではない、しかし我が尊敬すべき院長夫人が余をこの理想にまで育てあげるに大いに役立ったことは余のまったく疑わないところである。

『余は如何にして霧酢路信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №46 [心の小径]

一三九 樊遅(はんち)、知を問う。子のたまわく、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うペし。仁を問う。のたまわく、仁者は難(かた)きを先にして獲(う)ることを後にす。仁と謂うべし。

                  法学者  穂積重遠

 「民の義」は人間としての道である。『礼記』礼運篇に「父は慈、子は孝、兄は長、弟は悌(てい)、夫(ふ)は義、婦(ふ)は聴(てい)、長は恵(けい)、幼は順、君は仁、臣は忠、十の者これを人の義と謂う。」とあるのがそれ。

 「鬼神」は、前にもあったとおり「おにがみ」ではなく、神霊である。ここでは日本流に「神仏」と言おう。「敬してこれに遠ざかる」とよむ人もある。どちらでも結局おなじことだが、「敬遠」という転用熟語からみて「これを違ざく」の方がよさそうだ。

 樊遅が「知」についておたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「人としての道をよくつとめ、神仏は崇敬するが、近づき狎(な)れて神仏をけがしもてあそぶようなことをしないのが、知というべきじゃ。」さらに仁についておたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「仁者は進んで骨折り仕事を引受け、報酬利得を問題にしない。それが仁というものじゃ。」

 江戸笑話にこういうのがある。これなどは「鬼神をあなどってこれに近づく」ものである。
 貧乏人の女房が難産に苦しんでいると、亭主が井戸端で水をあび、南無讃岐の金毘羅大権現、女房が安産いたしましたら、お礼に金の鳥居を奉納致します、と大声で祈る。女房苦しい中にも聞き兼ねて、コレよいかげんにさっしゃれ、この貧乏人に金の鳥居が上げられるものぞ、という。亭主ぬからぬ顔で、おれがこんぴら様をだましているうちに、お前は早くうんでしまいやれ。

一四〇 子のたまわく、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。

 孔子様がおっしゃるよう、「かりに知者と仁者とが水と山といずれを楽しむかを想像するならば、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむであろう。知者は動いて停滞せざること水のごとく、仁者は安んじて静かなること山のごとくだからである。そして知者は絶えず活動するから楽しみが尽きることなく、仁者はあくせくせぬから長寿をたもち得る。」

 川田順氏著『細川幽斎』によって、幽斎に左の歌のあることを知った。
  山を我が楽しむ身にはあらねどもただ静けさをたよりにぞ住む


一四一 子のたまわく、斉(せい)一変せば魯(ろ)に至らん、魯一変せば道に至らん。

 孔子様がおっしゃるよう、「斉が今一つ改善されると魯ぐらいになろう。魯が今一つ改善されると道義の国になれるのだがなあ。」

 斉は桓公(かんこう)が覇(は)を成した国なので、富国強兵を国是とし、功利主義で礼楽(れいがく)を重んぜぬ。魯は周公(しゅうこう)の後なので、衰微しながらもさすがに礼楽尊重の風がのこっている。世人は斉が強く魯が弱きを見て斉まさり魯おとるとするが、必ずしも然らず、という趣旨であって、孔子様のお国自慢的理想でもあり、またその理想実現の困難を思っての嘆息でもある。


『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №36 [心の小径]

第七章 基督教国にて ― 慈善家の間にて 3

                       内村鑑三

 アメリカ到着後間もなく、余は一ペンシルバニア人医師に『拾われ』た、彼自身最も実際家型の慈善家であった。余の内的性質を少しく検して後、彼は余を彼の保護監督の中に入れることに同意した、そして、余が実際的慈善を最下級からずっと味うようにという期待をもって、余を彼の『看護人』のなかに入れた。変化は余にとっては、帝国政府の一官吏から白痴院(はくちいん)の一看護人となるという、まったく急激なものであった、しかし余はそれを感じなかった、ナザレの大工の子が今や全く新しい人生観を余に教えたからである。
 ここに記させてもらいたいのは、余が病院勤務に入ったのはマルティン・ルーテルをエルフルト僧院に逐(お)いやったとやや同じ目的をもってであった、ということである。余がこの歩みを取ったのは、世界がその方面に余の奉仕を必要とすると考えたためではない、いわんや(たとえ貧しくとも)余はそれを職業として求めたのではない、余はそれを『来るペき怒り』からの唯一の避難所であると考え、そこで余の肉を服従させ、内的純潔の志に到達するよう自身を訓練し、かくして天国を嗣(つ)ごうとしたためである。心底ではそれゆえ余は利己的であった、そして利己主義はいかなる形で現れても悪魔のものであり罪であることを、余は幾多の苦しい経験によって学ぶにいたった。慈善の要求するものは完全な自己犠牲と全部的の自己没却であるが、余がその要求に自分自身を合致させようと努力するなかに、余の生来の利己心はそのあらゆる怖しい極悪の姿をもって余に現された、そして余自身の中に認めた暗黒に圧倒されて、余は意気消沈し、言うべからざる苦悩に悶(もだ)えた。余の存在のこの部分の暗澹たる記録はそのためである。人間存在の明るい面により多く慣れている今日の読者は、是をいくらかでもを真面目に受け取る気にならないかもしれない、しかし苦難者自身にはそれこそ本当の現実の物語であり、長く求められた平和と、それから結果するすべて福(さいわい)な果実とはその中から生じたのである。
 しかし余の内心の争闘を別にして、余の病院における生活は不愉快であることからは遥かに遠くあった。院長は余の幸福に純真な関心をいだきただ自分自身の子供たちに注いだ愛情にだけ次ぐ真の愛惜をもって余の面倒を見てくれた人であった。彼は正しい肉体の状態を正しい品行と行状のためと信じていた、それゆえしぜん彼の余に対する配慮は余の霊魂についてより余の胃についての方が多かった。彼を知らない人々は彼を頑迷な唯物主義者と考えた、彼の特愛の題目『道徳的白痴』(Moral Imbeciility)について彼の語るのを聴いた時に特にそうであった、その『遺徳的白痴』というのは両親の間違いと劣悪な環境によって生ずる体質上の堕落を意味しているものでぁったのである。しかし唯物主義者でも無神論者でも彼はなかった。彼は摂理に堅い信頼を懐(いだ)いていた、生涯を通じて彼を導いた「手」として彼が絶えずそれに言及したことでわかるように。彼は余が彼の世話になるようになったことを単なる偶然以上の或るものに帰しさえした、そしてそのように余を世話しまた見守ってくれた。彼の聖書的知識は広汎(こうはん)であった、そし宗教的告白では厳密に『正統的』ではなかったけれども、彼は無情な主知主義を嫌悪し、ユニテリアン主義を教派のうちで『最も狭い最も乾燥無味なもの』としばしば公言したものである、しかも、それにもかかわらず、彼の夫人はチャーミングなユニテリアン婦人であったし、雇人の大部分はマサチューセッツ州から募集されたのである。彼はなるほど時には『悪魔のように吼えた』(余のアイルランド人の同僚がいつも余に語ったように)、それを開いて全家は震えた、誰もが彼から安全な距離に立とうとこころみた、しかしそれにもかかわらず彼にはその雑多な大家族の全体を包含する心情があった、片端(かたわ)のかわいいジョニーと唖(おし)のかわいいソフィとは我らの婦長と同様に彼に気安くしていた、その有能剛毅(ごうき)な婦長はしばしば院長を寄せつけず、院長には口をきかせないと言ったものである。ドクターの音楽の腕前は相当なものであった、そして家族が退出した後でいくたびも彼は我らの音楽教師の弾くピアノに合わせて歌った、そして余が内心苦悶しているとき、いくたびも余の霊魂は彼がその全熱情を特愛の一緒に投じて
   『ゆるやかに神の手にて拡げられ
    わびしき世界のまわりに
    暗黒は降りる。おお! いかに静かなる、
    彼の御心(みこころ)のはたらきは』
と歌う彼のふるえる声によって静められた。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №46 [心の小径]

一三五 子のたまわく、質文(しつぶん)に勝てばすなわち野(や)、文質(ぶんしつ)に勝てばすなわち史、文質彬彬(ひんぴん)、しかる後(のち)に君子。

                  法学者  穂積重遠

 「質」は「木地(きじ)」すなわち実質。「文」は「かざり」すなわち形式。「野」は野人すなわちいなか者。「史」は文書をつかさどる役人、外交官とか秘書官とかいうところ。「彬彬」の語義は知らないが、字の形から見て、杉の木がならび立つ姿だろう。

 孔子様がおっしゃるよう、「木地が飾りに勝つといなか者じみるし、飾りが木地に勝つと外交官式になる。木地と飾りがほどよくそろったところが、ほんとうの君子というものぞ。」

 おもしろい言葉だ。そまつな木地が飾りもなくむき出しなのは何だろう。

一三六 子のたまわく、人の生くるや直(なお)し。これを罔(し)いて生くるは、幸いにして免(まぬが)るるなり。

 孔子様がおっしゃるよう、「人がこの世に生きていられるのはまっすぐなからだ。まがったことをして生きている者があるではないかというかも知れぬが、それは『まぐれざいわい』というものじゃ。」

 大田道灌が少年の時、父がこの句を引いて教訓したら、屏風(びょうぶ)を持ち出してこれはいかがですか、とおやじをへこましたという話がある。孔子様が聞かれたら「この故にかの佞者(ねいしゃ)を悪(にく)む」と言われよう。

一三七 子のたまわく、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。

 孔子様がおっしゃるよう、「知る者よりも好む者が上、好む者よりも楽しむ者が上じゃ。」

 これはむしろ現代語訳に困るほどの明白平易な言葉だが、実に意味深長な名言だ。「好きこそ物の上部なれ」というが、「すき」の「上手」のという程度ではまだまだなのだ。主として学問を言われたのだろうが、何にでも通用する。
 古証(こちゅう)にいわく、「これを五穀に譬(たと)うれば、知る者はその食(くら)うべきを知る者なり。好む者は食いてこれを嗜(たしな)む者なり。楽しむ者はこれを嗜みて飽く者なり。知りて好むこと能わざれば、すなわちこれを知ること末だ至らざるなり。これを好みて末だ楽しむに及ばざれば、すなわちこれを好むこと末だ至らざるなり。これ古の学者の自ら強(つと)めて息(や)まざる所以のものか。」
                                        
一三八 子のたまわく、中人(ちゅうじん)以上には以て上(じょう)を語(つ)ぐべし。中人以下には持って上を語ぐべからず。

 孔子様がおっしゃるよう、「中以上の学力の者には高等哲理を教えてよいが、中以下の者には深遠な理論を語るべきでない。」

 人を見て法を説く孔子様の教育法だ。性と天道というような根本論は子貢のごとき大学院学生に向かってはじめて説かれたのである。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №35 [心の小径]

第七章 基督教国にてー慈善家の間にて 2

                       内村鑑三

 これがしかし外国旅行の唯一の健全な結果ではない。他のいかなる境遇にあっても異境で生活する時ほど我々が自分自身の中に逐いやられることはない。逆説的のように見えるけれども、我々は自分自身についてより多くを学ばんがために世界に入って行くのである。自己はいかなる場合でも他の国民と他の国とに接触する場合ほど明かに我々に示されることはない。内省はもう一つの世界か我々の目に示される時に始まるのである。
 いろいろの事が協力してこの結果を生ずる。第一にそして何より最も明白に、孤独はいかなる異郷滞在者にも避けられない。そこで結ぶ最善の友情をもってしても、またその言語をいかに自由に使用し得ても、彼は依然として他国人である。そうでなければ楽しく愉快であったかもしれない会話は、動詞を正しい時制や態に変化させ、単数名詞には単数の叙述語を与え(余の国語には知られていないことである)、相互にほんの僅かしか違わない多数の前置詞の中から適当なものを選ぶなど、要求される余計な精神的エネルギーによって、重苦しくさせられる。親睦の晩餐への招待は、きまった食卓作法にかなう把握、岨嚼(そしゃく)、嚥下(えんか)を行うに必要な余計な注意のために、予期された楽しみの多くを奪われる。我々は時には頭髪にブラシをかけずに出席したものである、そして自分の注意がひとたびそのことに向けられるや、我々は食事の全コースじゅう良心は真底まで刺されて坐っていたものである。それゆえ我々はむしろ独りでいて、我々の野蛮な振舞いを鋭い批評眼で見守る貴婦人たちの凝視に邪魔されずに自己流に食事をする方がはるかによいと思ったものである。孤独はかような境遇の下では我々には二倍に楽しくなる。独語と内省とが日々の饗宴とされ、客観的と主観的の自己は相互にたえず交(まじ)わっている。
 第二に、人はその国を一歩出て個人以上である。彼は彼自身の中に彼の国民と彼の民族を担(にな)う。彼の言葉と行為はただ彼のものとしてだけでなく、彼の民族と彼の国民のそれとしてもまた判断される。かくてある意味では、異郷における滞在者はいずれも彼の国の全権公使である。彼は彼の国土と彼の人民とを代表する。世界は彼を通して彼の国民を読み取る。何ものも高い責任感ほど人をしっかりさせるものはないということを我々はしっている。そして余の国は余の行動の卑劣なるか高潔なるかにしたがって非難され或は称讃されるのであると知るとき、あらゆる種類の軽挑(けいちょう)、浮薄(ふはく)、嬌態(きょうたい)は直ちに余から去るのである。余は崇厳なセント・ジェームズ宮殿派遣の大使だけそれだけ厳粛となる。そこから反省と考慮と判断が出てくる。そのように振舞わない者は彼の国民に値しない者であると余は信ずる。
 第三に、我々はみな郷愁の何であるかを知る。それは、ひとの不適合な環境に対する、自然の反動である。あの親しい顔と山と野、我々はいまそれがないのを寂しくおもうが然しそれを我々の心眼から拭い去ることのできないもの、それが我々の心の支配権を求める、我々が新しい環境に合致しようと努力するとき、家郷(ホーム)はその嫉(ねた)む愛をもってますます我々をその懐しい想い田に結びつける。憂愁は来て痛む心を涙に暮れしめ、我々を谷と森に逐いやって黙想と発作的な祈祷にしたがわしめる。我々の眼は西方の大海に沈み行く太陽の後を遂い、家郷にある我らの愛する者らがさし昇る輝きにおいてそれを見る時に、我々は丈夫でここにあってなんじらを想っていると彼らに言ってくれと、それに言うのである。このように霊の国に我々は住むのである。燕は来てまた去り、人々は商いをして儲けたり損をしたりする、しかし家郷からの流鼠者(りゅうざんしゃ)には単調が一年を通じて流れる、― 自分自身との、神との、また霊たちとの交際が(まじわり)。
 モーセが彼の民の救出者として現れる以前にミデアン人の地に逐い遣られたのは、このような何かそういう摂理的の目的をもってであったに相違ない。エリヤの『ベール・シバへの逃避』は、異郷にあって霊魂の孤独の中で神を求めようと努める者に無限の慰藉(いしゃ)を与える事実であった。
   『荒野の石の上に坐せよ、
   ホレブの洞穴に独りあるエリヤのどとくに。
   さらばやさしき声は荒野を通りて来る、
   いらだつ子を慰むる父のごとく、
   苦痛(いたみ)、忿怒(いかり)、恐怖(おそれ)を遂い遣り、
   「人は達し、されど神は近し」と言いつつ。』
聖パウロの『アラビア』は常にかような意味に解釈きれた、なんとなれば異邦人の使徒が内的訓練の時期をもつべきであったということほど自然なことはありえなかったからである、そのために彼は御子(みこ)を『直接に』把握し、そして出て来て世に告げて言った、
 『兄弟よ、われなんじらに示す、わが伝えたる福音は人に由れるものにあらず。我は人よりこれを受けず、また教えられず、ただイエス・キリストの黙示に由れるなり。』

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №45 [心の小径]

V一三一 子游(しゆう)、武城(ぶじょう)の宰(さい)となる。子のたまわく、なんじ人を得たるか。いわく、澹台滅明(たんだいめつめい)という者あり。行くに径(みち)に由(よ)らず。公事にあらざれば未だかったて偃(えん)の室に至らず。

                  法学者  穂積重遠

「澹台」は姓「滅明」は名、字は子羽。孔子より若きこと三十九歳、子游が孔子より若きこと四十五歳だから、子游より年長だ。そして本章以後に孔子様の門人になったらしい。容貌はみにくかったが、見かけに似合わぬ有為な人物で、後に大成して功績があったので、孔子様が「貌(かたち)を以て人を取れば、これを子羽に失う。」と言われたと、『史記』の「仲尼弟子列伝」にある。

 子游が武城の市長になっていたが、孔子様が「お前は誰かシツカリした助役を得たか。」と問われたところ、子游が答えて申すよう、「澹台滅明という者を採用致しました。この者は城に公明正大な人物でありまして、往来を歩くにも近道抜け道をせず、

また公用でなければけっして私の部屋に入ってはきません。」

 孔子様が武城に行かれて子游の市長振りに感心された話が、後に出てくる 

一三二 子のたまわく、孟之(もうし)反(はん)伐(ほこ)らず、奔(はし)りて殿(しんがり)し、まさに紋に入らんとす。その馬に策(むち)うちていわく、敢(あえ)て後(のち)せるにあらず。馬進まざりしなりと。

 「孟之反」は魯(ろ)の太夫(たいふ)。名は側(そく)、「後」は「おくれたる」とよむ人もあるが、ここでは「殿」の意味だから「のちせる」とよんだ。

 孔子様がおっしゃるよう、「孟之反は功(こう)にほこらぬ人だ。まけいくさのしんがりをみごとにつとめたが、城門に入ろうとするとき馬に一鞭あてて、『わざわざしんがりをしたわけではない、馬が疲れて前へ出なかったのだ。』と言った。まことにおくゆかしいことじゃ。」

 敗軍を取りまとめて総くずれにならぬようにするのは、むずかしいことでまたたいせつなことだ。今日の我が国の大敗軍に際して、りっぱにしんがりを務めてしかもその功に誇らぬ昭和の孟之反がほしいものだが、それについて『幼学綱要』に左の物語があることを思い出した。

 「山の内治太夫・進士(しんし)清三郎は松平康重の臣なり。嘗て殿戦(しんがりいくさ)して退く。山内乱射しいて矢尽(つ)く。敵兵最山県源四郎等これを追うこと急なり。清三郎一矢を治太夫に投ず。治太夫止(とどま)り射る。一兵の胸を洞(どう)して松樹に着く。敵すなわち引き去る。山県その矢を康重に送りていわく、善射無双(むそう)なり。康重矢に清三郎が姓名を刻するを見て、これを褒せんと欲す。清三郎いわく、これ治太夫が発する所なり。山の内を召てこれを問う。いわく、清三郎が発する所なり。相譲りて決せず。康垂ならびに二人を褒す。時人称して今の孟之反と為(な)せり。」

一三三 子のたまわく、祝鮀(しゅくだ)佞(ねい)あり而(しこう)して宋朝の美あらずんば、難きかな、今の世に免れんこと。

 「祝鮀」は衛の大夫、字は子魚。弁才で聞えた。「来朝」は宋の公子で、有名な美男子。

 孔子様がおっしゃるよう、「祝鮀のような弁才があり、その上に宋朝のような風采がなければ当世に通用しないとは、なさけないことじゃ。」

「祝鮀の佞あらずして宋朝の美あらば」と読み、衛の霊公の夫人南子(なんし)がその生国(しょうこく)の宋(そう)から美公宋朝を呼び寄せて後宮の風俗をみだし、もし賢太夫祝鮀が弁才をもって内外に周旋することなくば滅亡は免れがたいところだ。と言われたものと解する説もあるが、あまりうがち過ぎるようだ。具体的事実ではなくて一般論だと「しておこう。

一三四 子のたまわく、誰か能(よ)く出ずるに戸に由(よ)らざらん、何ぞ斯の道に由ることなきや。

「斯道(しどう)」の達人、などと今でもこの語を用いる。

 孔子様がおっしゃるよう、「家を出るに戸口を通らぬ者は誰もあるまい。それだのにどうしてこの人の道を通ろうとしないのだろう。」


『新訳論語』 講談社学術文庫 


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №34 [心の小径]

   第七章 基督故国にて - 慈善家の間にて 1

                       内村鑑三

 シナの一聖賢の名言にいう、『山にある者は山を見ず』と。じつは距離は景色に魅力のみでなく包括性をもまた与えるのである。山の真の均整は遠方からのみ見ることができる。
 自分自身の国についてもそうである。ひとはその中に住んでいる間は、それを本当に知らない。ひとはその真の位置、大なる全体の一部としてのそれ、その善と悪、その長所と短所を理解するためには、それから遠ざからなければならな。誰がニュー・ヨークの市についてそ。に定住する市民の或る人々より以上に無知であるか、彼らには中央公園は宇宙における唯一の『荒野』であり、市立博物館はそこから彼らが広い世界をのぞく穴なのである! イギリスの貴族たちは彼ら自身の島帝国について無知であることで有名であるが、その島帝国は彼らの金のかかる世界周遊旅行をもって彼らをいくらかでも英国女王陛下の気のきいた臣下に近いものとするために必要なものときえしているのである。そのようにしてしぼしば、異教徒を回心させるために派遣された宣教師が自分自身が回心させられて帰国する、もちろん彼らの基督教から回心させられるのではないが、しかし自分自身について、基督教国について、基督信徒の『選び』について、異教徒の罪に定められること、等々、等々について、彼らがつねに抱いていた多くの、非常に多くの、意見から回心させられるのである。『可愛い子には旅をさせよ』とは、余の国人の間では誰でも知っている諺である。人の迷夢を醒ますに旅にまさるものはない。
 余の生国についての余の考は、余がそこに留まっていた間はきわめて一面的であった。まだ異教徒のうちは、余の国は余には宇宙の中心、世界の羨望の的であった。『地は五穀豊穣、風土の平穏世界無比、風光秀で、湖水は処女の眼の如く、翠松の丘はその三日月形の眉、国土は精気満ち、神霊の棲む処、光明の源泉。』かようなものであるとじつは余は余の国を考えていた、余がまだ異教徒であった間のことである。しかし余が『回心』したとき、いかに正反対になったことよ! 余は『遠か遥か彼方の幸福の国々』について、四百のカレッヂとユニヴァシティを有するアメリカについて、ピューリタンのホームのイングランドについて、ルーテルの祖国のドイツについて、ツウィングリの誇りのスウィスについて、ノックスのスコットランドと、アドルファスのスウェーデンについて、聞かされた。まもなく一つの考が余の心をとらえた、余の国はじつに『無用の長物』であると。それを善くするために他の国々からの宣教師を必要とする異教国であった。天の神はそれについてけっして多くを考えたまわなかった、神はかくも多年それを全く悪魔の手の中にゆだねたもうたのである。その道徳的社会的の欠陥が話題になるとき、アメリカやヨーロッパではそうではないと我々は絶えず閃かされた。それはいつかマサチューセッツやイングランドのようになり得るかどうか、余はまじめに疑った。もし余の国が存在から拭い去られても世界はすこしも悪くはならないであろうと、余はほんとうに信じた。『日本には納税というよぅな事がありますか』と、宣教師学校にいる一少女が先生に質問したとのことである。可憐な無邪気な子よ、彼女は自分の国民は未だにその国土に『民の膏血(こうけつ)を絞る』強奪や何か他の異教的方法が採られているほどの堕落状態にあり、そして公平と正義は彼女の敬慕するアメリカに特有の事柄であると想像したのである。『国民性を喪失せしめる宣教師の影響力』は、伝道地において全く未知の現象ではない。
 しかし遥か流鼠(りゅうざん)の地から眺めて、余の国は『無用の長物』たることを止めた。それはすばらしく美しく見え始めた、- 余の異教徒時代の怪奇(グロテスク)な美ではなくして、それ自身の歴史的個性をそなえて宇宙の中に一定の空間を占める真の均整のとれた調和的美であった。一国民としてのその存在は天そのものによって命ぜられたのである、そして世界と人類に対するその使命は明白に告知せられた、また告知せられつつある。それは、高い目的と高貴な野心を有する聖なる実在であるように、世界と人類のためにあるように、見えた。そのような輝かしい祖国観が余の幻(まぼろし)に与えられたことは、余の限りない感謝であった。

『余は如何にして基督信徒となりhし乎」 岩波文庫


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論語 №44 [心の小径]

一二七 伯牛(はくぎゅう)疾(やまい)あり。子これを問う。牖(まど)よりその手を執(と)りてのたまわく、これを亡(うしな)わんこと、命(めい)なるかな。この人にしてこの疾あり、この人にしてこの疾あり。
    
                          法学者  穂積重遠

 「伯牛」は門人冉耕(せんこう)の字。十哲徳行四人の一人。癩病(らいびょう)だったといわれる。すなわち「この疾」とは「この業病」という強い意味。

 冉伯牛の病気がわるいというので、孔子様が見舞いに行かれ、窓越しにその手を取ってなげかれるよう、「この惜しい人を亡くすことか、ああ天命なるかな。こういう人にこういう病気があろうとは。こういう人にこういう病気があろうとは。」

 なぜ窓越しに見舞われたか、ということについて、礼がどうのこうのというむつかしい説明があるが、私は病人のねている窓ぎわを通りかかったので、部屋にはいるまももどかしく、思わず窓越しに手を取ったもの、と解釈したい。あるいはいったん病室を辞去したがまた立ちもどって窓越しに、とも解される。悪疾をもいとわず手を握り、繰り返してなげかれたところに、あふれるばかりの人情がある。
 江戸時代の漢学書生たちは、「玉にきず」というところを、「この人にしてこの疾あり」としゃれたものだ。
一二八 子のたまわく、賢なるかな回や。一箪食一瓢飲(いったんしいっぴょういん)陋巷(ろうこう)に在り。。人その憂いに堪えず、回やその楽しみを改めず。賢(けん)なるかな回や。

 「箪」は竹であんだ飯穂。「瓢」は、いわゆる「ひょうたん」ではなく、「ひさご」を半分に割った酒器。「陋巷」はむさくるしい横町。「街」は大路、「巷」は小路。

 孔子様がおっしゃるよう、「賢人なるかな願回は。盛り切り飯に一杯酒で横町の裏店(うらだな)住まい、ほかの人なら貧乏の苦労にかまけてしまうところを、回は相変らず道を楽しんで勉強している。さても賢人なるかな顔回は。」

一二九 冉求(せんきゅう)いわく、子(し)の道を説(よろこば)ざるに非ず、力足らざるなり。子のたまわく、力足らざる者は中道にして廃す。今なんじ画(かぎ)れリ。

 「画」は境界線を引くこと。

 冉求が「先生の説かれる道をけっこうだと思わないのではありまけんか私には力が足りなくてついて行けません。」と言ったので、孔子様が激励しておっっしゃるよう、「ほんとうに力が足りないで中途で行きづまるならやむを得ないが、お前のは力があるのに自分で見限りをつけているのだ。そんなことではだめじゃ。シツカリしなさい。」

一三〇 子、子夏(しか)に謂(い)いてのたまわく、なんじ君子の儒(じゅ)となれ、小人(しょうじん)の儒となることなかれ

 孔子様が子夏におっしゃるよう、「お前は真に徳の高い君子の学者になれ、単なる物知りの小人の学者になるな。」

 伊藤仁斎と安井息軒(そっけん)がそれぞれ左の通り説明している。
 「君子小人は位を以て言う。君子の儒は、天下を以ておのれが任と為し、而して物を済うに志ある者なり。小人の儒は、わずかにその身を善くするに足るを取るのみ、物に及ぼすこと能(あた)わざるなり。子夏は文学余りありと雖も、然れども規模狭小なり。故に夫子(ふうし)その或は小人の儒とならんことを恐る。」
 「けだし子夏は文学を以て称せらる。諸子に比すれば規模やや狭小なり。仲尼(ちゅうに)その末節に滞りて治国の大体に増ざるを懼(おそ)る。いわゆる君子小人は位を以て言うなり。天下を兼ね善くするは。それ君子の儒なり。その身を独り善くするはこれ小人の儒なり。命(めい)に窮達(きゅうたつ)ありといえども、君子の志す所はこれにありてかれにあらざるなり。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №33 [心の小径]

第六章 基督教国の第一印象 5

                       内村鑑三

 余は注意ぶかく余の国籍を読者諸君にかくしてきた(いままでに諸君は大概お判りになったに相違ないが)。しかし余は余自身がシナ人ではないというこの告白はしなければならない。余はあの世界最古の国民に対して―孟子と孔子とを世界に与え、ヨーロッパ人の夢想さえしなかった数世紀前に羅針盤と印刷機を発明したあの国民に対して―種族的関係のあることをけっして恥じないけれども、しかしカントンからきたあわれなクーリーが米国人民によってせめさいなまれるその侮辱と虐待をことごとく余自身で受け取るには、ただ基督教的忍耐を必要とし、それで余の頭脳と心情を正常の状態に保つよりほかはなかった。ここにまた、馬の命名にさえ適用されているアメリカ的へプル語法がシナ人の称呼に用いられる。彼らはみな『ジョン』と呼ばれている、そしてニュー・ヨーク市の深切な巡査さえ我々をその名前で呼ぶのである。『そのシナ人をひろってやれ』は、シカゴの馬車屋のていねいな言葉である、馬車屋には我々は正当な賃銀を支払ったし、セント・.ハトリックの氏子である彼の虚栄心を傷つける事を何もしたのではない。車び同乗していたみなりのりつばな至紳士が自分の胡麻塩翳をとかすのに余に櫛を貸してくれと言った、そして異教国の我々がそういう場合に適当と考えるお礼のかわりに、こう言いながら柳を返した、『ところでジョン、おまえは何処で洗濯屋をしているのかね』と。聡明らしくみえる一紳士は何時われわれが辮髪(べんぱつ)を切ったかをたずねた、そして我々にはこれまで辮髪はなかったのだと聞いて、『おや』と彼は言った、『シナ人には誰にも辮髪があるものと思った。』われわれのモンゴール人種の出を嘲笑することに特殊の喜びをもっているかのようにみえるこれらの紳士達が、自分たちのサクソン人種の長子権に特別に敏感であることは、次の小さな事件によって十分に説明される、 -

  若い日本人技師の一団がブルックリン橋の調査に行った。橋脚の下で吊索(つりづな)の一太一本の構造と張力が論議されていた時であった、シルクハットをかぶり眼鏡をかけ整った身なりの一アメリカ人紳士が彼らに近づいた。『やあ、ジョン』と彼は日本人科学者たちに割り込んだ、『こういうものはシナから来た君たちには恐しく不思議に見えるに違いあるまい、どうだい。』日本人のうちの一人が無礼な質問をきめつけて言った、『アイルランドから来たあなたにもご同様に違いない』と。紳士は怒って言った、『いや、とんでもない、僕はアイルランド人ではない』と。『では同様に我々はシナ人ではない』というのが柔しい返事であった。それは見事な一撃であった、司ルクハット紳士はふくれてしまった。彼はアイルランド人と呼ばれるのを好まなかったのである。

 基督教国の他の非基督教的特徴について語るには余に時が足りない。子供の理解にさえ明らかな単純な道徳をまったく無視してその強固さでは数百万のの金と銀に依存することのできる合法化された富籤(とみくじ)、闘鶏と競馬と蹴球試合の場面で目撃されるような広範な賭博的傾向、スベインの闘牛よりもっと非人間的な拳闘、自由な共和国の人民によりもホッテントット人によりふさわしい私刑(りんち)、規模の大きいことは全世界の貿易に比を見ないラム酒取引、政治における煽動運動(デマゴギズム)、宗教における教派的嫉妬、資本家の圧制と労働者の傲慢、百万長者の愚行、夫の妻に対する偽善的愛情、等々、等々は、如何? これが我々が宣教師によって基督教の他宗教に対する優越性の証拠として受けとるように教えられ文明であるか。ヨーロッパとアメリカをつくった宗教は確かに至高所(いとたかきところ)からの宗教であったに相違ないということを、何たる恥かし気な様子で彼らは我々に公言したことか。もしも今日のいわゆる基督教国をつくったものが基督教ならば、天の永遠の詛(のろ)いをしてその上にとどまらしめよ! 平和は我々が基督教国にて見出し得る最後のものである。混乱である、複雑である、精神病院である、刑務所である、救貧院である!

 ああ、日出(いず)る国の安息、蓮池の静寂が慕わしい! ねむられぬ睡眠から我らを呼びさます汽笛ではなくて、快い熟睡から我々を目醒ます極楽鳥の歌声である。高架鉄道の埃塵(「じんあい)と騒音ではなくて、牛が鳴きながら運ぶ駕籠である。ウォール街投機市場で儲けた血の代価で建てた大理石造邸宅ではなくて、自然の賜物に快い満足をもつ藁ぶき屋根である。太陽と月と星は金銭と名誉とむなしい見せ物よりもより純粋なまたより美しい礼拝の対象ではないか。

 おお、天よ、余は破れた! 余は欺かれた! 余は平和ならざるもののために真に平和なるものを捨てたのである! 余の旧い信仰に立ち帰るには余は今は余りに生長し過ぎている、余の新しい信仰に黙従することは不可能である。おお、祝福された無知が慕わしい!それは余のお祖母さんを満足させたものより以外の信仰を余に知らせずにおいたかもしれない。それは彼女を勤勉、忍耐、真実ならしめ、そして彼女が最後の息を引き取ったとき一点の悔恨も彼女の顔を曇らせなかった。彼女のは平和であった、余のは疑惑である、禍いなるかな余は、余は彼女を偶像崇拝者と呼び、彼女の迷信を憐れみ、彼女の霊魂のために祈った、そのとき余自身はすでに恐怖と罪と疑惑をもって翻弄(ほんろう)されて底知れぬ深淵にふみこんでいたのである。一事を余は将来けっして為さないであろう、―余は基督教をヨーロッパとアメリカの宗教であることによってけっして弁護しないであろう。この種の『外部的証拠』はただ薄弱であるばかりでなく実際にはその一般的影響において有害である。不朽の霊魂を支持しうる宗教は、かような『見せ物』的証拠よりより確実なより深遠な、依って立つべき基礎をもたなければならぬ。しかも余はかつて余の信仰をそのような藁の上に築いたのである。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫




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