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文化的資源としての仏教 №13 [心の小径]

 四苦八苦⑹――現代の生苦

         立川市・光西寺住職 寿台順誠

「今の私は、とっても不幸。…それで、なぜこんなに苦しくなってしまったのかと考えて、これが悪かった、否、あれが悪かった………と辿っていくと、結局、私が生まれてきたことが悪かった、と思ってしまうの。」

もう40年以上前の大学一年生の時のこと。私はまだ18歳だったが、夏休みで名古屋に帰省した際の飲み会の席上、高校三年の時に同じクラスだった人で当時浪人していたある女性と、たまたま隣の席になって話し込んで以来、私は「見事」現役合格を果たした者として彼女の受験相談に乗ることになった。そしてその夏休み中、何度も彼女と会うことになった。最初、私は単に受験勉強のハウツーを教えればよいのだと思ってそうしていたのだった。が、彼女は心ここにあらずの状態で虚空を見つめていることが多かった。「どうしたの?」と聞くと、「私、ウツなの」と言うのだった。そして、夏休みも終わる頃、ふと勉強の手を止めて彼女が発したのが、上の言葉である。私はその時、とうてい自分などには答えられない難問を突きつけられた気がして、何の言葉も返せないまま、東京に戻らなければならなくなった。それは、ついぞ味わったことのない、本当に苦い体験だった。
後年、私は仏教を勉強するようになり、「老病死の苦」がなぜあるのかと言うと、それはそもそも「生」によって起こるのだ、といった縁起の教えについての講義を受けるようになると、「あの時、彼女が言っていたのはこういうことだったのではないか」、と思うようになった。だから、私は仏教の教えについて、最初に講義を受けたのは専門の学僧からであったが、それが実際の人生に関係することだと初めて教えてくれたのは彼女だったのだと思っている。私たちが「生老病死の苦」を認識する順序として言えば、既に述べたように「老苦・病苦・死苦………⇒生苦」という順になるが、因果関係の順に従って言えば「生苦→老苦・病苦・死苦」となる。当時の年代から言って彼女の話には「老病死」の問題はまだ出ていなかったけれども、しかしそこには仏教の論理構造(思考方法)が見事に表れていたと思う。

さて、以下では、「現代の老苦・病苦・死苦」が、どのような「現代の生苦」に由来するのかについて考えてみたい。
前回までに私は、「現代の老苦・病苦・死苦」の深刻さが長く引き延ばされたものであるところにある、ということを述べてきた。そこでこのことと「現代の生苦」との関係を考える場合、欧米において起こされてきた「生」と「死」の両極に関する訴訟が参考になると思う。それはwrongful life(不当生命)訴訟・wrongful birth(不当出生)訴訟、そしてwrongful living(不当延命)訴訟と言われるものである。最初の「不当生命」訴訟とは、子が先天性障害を持って出生した場合に、子自身(本人)が、医師の過失がなければ障害を伴う自分の出生は回避できたはずである、と主張して提起する損害賠償請求訴訟であり(訴えられるのは主として医師だが、場合によっては親も訴えの対象になるようである)、次に「不当出生」訴訟とは「不当生命」訴訟と同じ内容の条件下で親が医師を訴える訴訟であるが、これらの訴訟(そしてそこで主張される「生まれてこない権利right not to be born」)は、欧米における出生前診断の普及とともに登場してきたものである(日本では「不当出生」訴訟に当たるものはあるが、「不当生命」訴訟は起こされていない。また、欧米でも「不当出生」訴訟は認められてきたが、「不当生命」訴訟の方は斥けられてきたようである。加藤秀一「「生まれない方が良かった」という思想をめぐって――Wrongful life訴訟と「生命倫理」の臨界――」『社会学評論』55(3), 2004年;八幡英幸「出生の評価と存在の価値――Wrongful life訴訟との関連を中心に――」『先端倫理研究』2, 2007年等参照)。そして最後の「不当延命」訴訟とは、末期には延命治療をしないで欲しいという望みを書面で残しておいたのに、それが無視・誤解されて蘇生・延命させられてしまった人が、それによって生じた損害賠償を求めて起こした訴訟である(この訴え自体は斥けられているようである。Holly Fernandez Lynch, Michele Mathes and Nadia N. Sawicki, Compliance with Advance Directives:Wrongful Living and Tort Law Incentives, The Journal of Legal Medicine, 29, 2008等参照)。
以上のような訴訟によって、「現代の生苦」の根本には優生思想があり、そして結局それが原因となって、健康・長寿という本来であれば喜ぶべきことによって老病死の過程が引き延ばされていることが、その分よけいに「苦」であると感じざるを得ないものになってしまっている、ということが示されているのではないだろうか。「不当生命」「不当出生」訴訟が優生思想に影響されて出てきたものであることには、多言を要しないであろう。障害を負って生まれてきた人が(或いはその人を生んだ親が)その生を「不当・悪(wrongful)」だと思わなければならないこと自体、何と悲しいことであろうか。が、そのようにひたすら「優生」を求めて「劣生」を排除しようとするところに生ずる「現代の生苦」こそが、一生懸命アンチエイジングに取り組んで老いを隠し、ひたすら健康であることを演出して病であることを見せないようにし、そうして長く引き延ばされた死の過程の最期はピンピンコロリと逝けることを夢想して生きなければならない、という「現代の老苦・病苦・死苦」につながっていると思うのである。
「生殖技術を優生学的に利用することは、子どもを親の願うままの存在として親の意識に縛り付け、奴隷化することであり、人間としての自立性を侵すものになってしまう」(小島優子・黒崎剛「「生殖革命」は人間の何を変えるのか」黒崎剛・野村俊明編著『生命倫理の教科書――何が問題なのか――』ミネルヴァ書房、2014年、178頁)、というところに優生思想の問題性はあると言えるだろう。現在、一方では以前よりも人権・民主主義の思想が普及しているにもかかわらず、皮肉なことに早くから(生まれる前からさえ)差別・選別を進め、未来に向かって生きる人の希望を奪う優生思想がはびこる時代になってしまっている。「現代の生苦」の根本はこうした優生思想の支配にあり、それが因となって健康・長寿もまた苦に満ちたものになってしまうという果が生じている――これが「現代の生苦→現代の老病死苦」の因果関係だと言えるであろう。(次回は「四苦八苦」のまとめとしてその問題点を記すことにしたい。)


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №24 [心の小径]

第四章 新教会と平信徒伝道 5

                       内村鑑三

  九月廿三日 日曜日  国祭日。空二一点ノ雲ナシ。午後一時三岡教会二集合シ、共ニ博物場ノ庭二赴(おもむ)ク。歌詠み、茶話会、輪投ゲアリ。一同終日歓ヲ尽セリ。

 この日は我が教会員のための『野外運動日』であった、我々はいつも一年に二回―春と秋とに―これを繰り返した。我々がまだ『異教徒』であったころは、野外園遊会と言えば、不自然に気分を浮き立たせる有毒な飲料と、『鬼ごっこ』と称して『鬼』に名ぎされたものは誰でも『港』から迷い出たものを捉(つか)まえ捉まえられたものは自分が鬼になるという遊びとがあった。しかし新しい宗教は我々の気質を改良してしまった、そして我々は以前と同じだけ野外の空気と無邪気な遊戯を楽しんだけれども、歌詠みとお茶とを『鬼ごっこ』とアルコール飲用とに代用した、そしてかような変化から得た楽しみは、回心しない我らの友人たちが今なお耽(ふけ)っているものにくらべて、はるかにすぐれたものであることを知った。余はすでに読者諸君にいかに我々が冬季に一つの共同の鉄鍋のまわりで心をともに結び合わせたかを語った。『雪ごもり』の時にも、『博物場の庭』でも、我々は合同した教会括動が有効なるためににこう親睦会に期待するところが多かったのである。

 この日と年の終りとの間には記すに足る何事も我々の経験には入って来なかった。余は宗教的世俗的双方の仕事に多忙であった。教会の状態はこの頃までにはかなり落着いていた。我々がこの年の始めに誓ったように、M・E・ミッションに返済せられる金は徐々に入り来りつつあった。必ずしもすべてのものが自分の割り当て分を非常に快く支払ったのではない、しかしそれにもかかわらず彼らは支払ったのである。年の暮近く、ジョンと余は首府にあった、そして、我々はミッションとの我々の勘定を清算すべき金を託されていたのである。

  十二月廿八日 銀行ヨリ金ヲ引キ出シ、牧師S氏二支払へリ。
     S教会ハ独立セリ。
     歓喜、筆舌ニ尽シ難シ!

 二年間の節約と勤勉の結果は教会の負債からの我々の自由であった、そして我々が歓喜と感謝をもって躍るのは当然であった。ここに我々の大憲章(Magna Charta)がある、―
  一、金壱百八拾壱円参拾壱銭也
      首府ニテ一八八二年十二月廿八日
 ヨナタン・X殿ヨリ金壱百八拾壱円参拾壱銭也領収候也 但シー八八二年教会建築補助ノタメS基督信徒へノ貸付金(金六百九拾八円四十銭ノ内M.E.ミッションニ支払ハルベキ残高也                    J.S

 我々は今や何人にも何物をも負わないことを感謝した、二年間無利息で金を使わせてくれた我々に対する援助に感謝の念をわだく以外には。
 我々の教会独立が我々がかつて属していた教派に対する公然の反逆として意図されたと考える人があれば間違いである。それは我々が目指した一つの大目的に達しようとする、すなわち我々自身の能力と資質(神の与えたまいし)の完全な意識に達しようとする、そして己が霊魂の救いのために神の真理を求める他の人々に妨げとなる邪魔物を取り除こうとする、一つの謙遜(けんそん)なこころみであったのである。自分自身に頼ることを知っている者のみが自分が実際にどれだけのことをすることができるかを知っている。依頼の人はこの宇宙にあっていちばん無力な存在である。その会員が不必要な贅沢(ぜいたく)に多額を費やす余裕がある多くの教会が、資金の欠乏を嘆いている。多くの教会はただその会員が自分の『道楽』のいくらか止めることができさえすれば自分の脚で立つことができるのである。独立は自分自身の能力の意識的自覚である。そしてこれは人間的活動の分野における他の多くの可能性の自覚の端緒であると余は信ずる。これが、いかなる種類の独立であれ独立というものを見る、最も深切かつ最も哲学的な見方である。それを、反逆として、あるいは少数の野信心家が無考えの大衆を煽動したものとして、烙印を押すのは寛大なことではない、その特長は『悪をおもわない』ことであるべき基督信徒紳士にありては、特にそうである。

  十二月廿九日 首府滞在ノS教会員、午後一時フランシス方二集ル。共ニ朝草公園(モーニング・グラス・パーク)ノ『梅屋』ニ赴き、夕食ヲ共ニシ、我等ノ教会ノ独立ヲ祝賀セリ。

 これは我々の第一回の『七月四日』であった。フランシス、『クロコダイル』W、『翼竜』Tが我々と一所であったと思う。Tはいつもの蛮的な格好で自分のもとにはこぼれた最初の吸物椀の中身をのみ込んだ。そして後で給仕女に吸物の中には何がはいっていたのかときいた。その中にはいくつか小さな蜆(しじみ)が入っていたという返事をきくや、彼は教会独立があまり嬉しくて椀の中のすべてのものは前方口腔で行われる咀嚼(そしゃく)の過程なしに食堂を通過させたと告白した。その本当のの説明は彼が本当ははなはだ空腹だったことであったと思う。

 余の教会の独立とともに余はそれに別れを告げた。教会はそれ自身の別個の歴史を要する、諸国民福音化の大問題に対するすべての関係においてそれを記述するためである。本文を書きつつある時から四年前、余は余の旧い母教会を訪問した、そして余が最もありがたく満足に思ったことには、余が十三年前に去った時よりそれははるかに盛んな状態にあるのを知ったのである。同じ忠実な牧師、『宣教師坊主』Oは、教会に対する彼の全霊的献身に対し一銭の報酬を受けず、余の卒業した学校で教えて彼の生計をたてているのを知った。会員は約二百五十をかぞえた。彼らは二人の有給伝道者を聘(へい)し、盛んなY・M・C・Aを有し、力強い禁酒同盟を創立しこれを維持していた。一八八五年、我が国におけるすべての教派の基督信徒の間に非常な大括動を見た年の年間において、有力教会のいくつかの頭割りの献金額は次のごとくであった。
   独立邦人教会             七円三十二銭
   組合教会                 二円六十三銭
   長老派および和蘭改革派(ダッチレフオームド) 二円
   メソヂスト教会              一円七十四銭
   英国聖公会                  一円七十四銭
   等々
 この比較は我々の教会の優勢を語って余りがある。彼らは約一千円を要する新教会を建てた、そしてそれはやや余がヴァージニアで見た『黒人教会』のように見えたけれども、余がかつて小使いであり番人であったあの『一軒の半分』にくらべて決定的な改善であった。鍵がみんな揃っている新しいオルガンもあった。彼らは遠からず新しい石造の教会を建てる相談をしていた。それは本当に、言葉の完全な意味で独立であるところの、全国唯一の教会である。ただに財政的にのみならず、教会制度的に神学的に、彼らは彼ら自身の責任において彼らの基督教的事業を続けており、きわめて喜ばしい結果を得ていた。彼らには彼らに独得の組織と原則があった、そして主は彼らの特徴を聖なるものとして保存することを欲したもうと我々は信ずる。彼らに果すべき特別の使命がある、そしてその単純と満足とのうちにある彼らをなんぴとをしても乱さしむることなかれ。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №35 [心の小径]

九九 孟武伯(もうぶはく)、子路(しろ)を問う。仁なるか。子いわく、知らざるなり。又問う。子いわく、由(ゆう)や千乗(せんじょう)の国その賦(ふ)を治めしむペし、その仁を知らざるなり。求(きゅう)や何如。子いわく、求や千室の邑(ゆう)百乗の家これが宰(さい)たらしむペし。その仁を知らざるなり。赤(せき)や何如。子いわく、赤や束帯して朝に立ち、賓客と言わしむペし。その仁を知らざるなり。

                  法学者  穂積重遠

「賦」は元来租税のことだが、それからおしひろめて、兵事・民事をふくめた政治全般をいう。「赤」は門人、姓は公西(こうせい)、字(あざな)は子華(しか)。「千乗」「千室」「百乗」は数の問題ではなく、結局「大諸侯」「大都会」「大家(たいか)」ということ。
「乗」は前に説明した(五)。「室」は「戸」。

 孟武伯が子路のことを「仁者ですか。」とたずねたのに対して、孔子が「存じません。」と答えたので、さらに押し返して質問したところ、孔子が申すよう、「由は大諸侯の国の政治を扱わせ得るだけの腕前がありますが、仁かどうかは存じません。」「それでは求(冉有(ぜんゆう))はどうですか。」「求は大都会の市長や大夫(たいふ)の家の執事がつとまりますが、仁かどうかは存じません。」「赤はどうですか。」「赤は衣冠束帯で朝廷に立ち外国のお客様と応接させることはできますが、仁かどうかは存七ません。」

 この場合にも孔子様はたやすく仁をもって人に許されず、手腕や実績だけでは仁とはいえぬ、ということをほのめかしておられる。安井息軒(やすいそっけん)いわく、「仁の道は至大なり。三子才徳優れたりと雖も、未だ全名に当る能わず。然れども亦不仁者にあらず。故に知らざるを以てこれに答う。」

一〇〇 子、子貢に謂いてのたまわく、なんじと回といずれか愈(まさ)れる。対(こた)えていわく、賜(し)や何ぞ敢えて回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて て二を知る。子のたまわく、如かざるなり。われなんじが如かざるに与(く)みせん。

 「われとなんじと如かざるなり」とよむ人もある。それだと、わしさえも及ばぬ、と言われたことになって、いささかはめ過ぎるようだ。

 孔子様が子貢に、「お前と顔回とどちらがまさると思うか。」と言われると、子貢が「とんでもないこと、私ごときがどうして回と太刀打ちできましょう。回は一を聞いて十を知ります。私は一を聞いて二を知るに過ぎません。」と答えたので、孔子様がおっしゃるよう、「なるほどお前は回に及ばぬ。わしはお前が回に及ばぬと言ったことに賛成しよう。」

 子貢は顔回に及ばぬことを自ら認めつつ、しかし私も一を開いて二を知る程度ではあります、という自信を示し、孔子様は、前にも「往を告げて乗を知る者」とほめたくらいで
、子貢のよく己を知ることを賞し、その顔回につぐ才能を認められたのである。子貢の明敏と孔子の含蓄(がんちく)と、打てば響く師弟談話の様子が目に見えるようだ。

一〇一 宰予(さいよ)晝(ひる)[昼]寝(い)ねたり。子のたまわく、朽(く)ちたる木は雕(え)るべからず。糞(ふん)土の牆(しょう)は杇(ぬ)るべからず。予においてか何ぞ誅(せ)めん。子のたまわく、始めわれの人におけるや、その言(こtば)を聴きてその行いを信ぜり。今われの人におけるや、その言を聴きてその行いを観る。予においてかこれを改む。

「晝[昼]寝」を簡単に「ひるね」と解する人と、「寝」は寝室をいい、昼間から寝室へ引っこんだ、と解する人とある。いずれでも同じようなことだが、簡単な方に従おう。あるいは「晝」は「畫〔画〕」の誤りで、寝室に壁画をかかせたので潜上(せんじょう)だとしかられたのだ、と解する人もあるが、それはあまりに考え過ぎだ。要するに、ひるねにしてはしかられ方がひど過ぎるというのだが、宰予はふだんからえらそうなことを言うので、口ほどにもないとしかられたのだろう。
 途中にも「子のたまわく」があるので、元来二章なのだという人もあるが、ひと続きに読まないとおもしろくない。前段は宰予に対する直接のお小言、後段はいわば孔子様のひとりごとなので、「子のたまわく」をはさんだのだろう。

 宰予がひるねをしたので、孔子様がことごとくご立腹で、「くちた木は彫刻のしようがなく、土塀(どべい)の土台が糞(くそ)まじりの泥では上塗りしてもしかたがない。予(宰予)のような性根のくさった者は小言をいう張り合いもないわい」としかられたが、ややあってまたおっしゃるよう、「わしは今まで人を観るのにその言葉を聴いただけでその行いもそうあろうと信じたものだが、今後はその言葉を聴いただけでなくその行いを観た上で信用することにしよう。予〔幸子〕で失敗したから、方針を変えた。」
                                        
 孔子様には不似合いと思われるほど猛烈にして皮肉なおしかりだ。よほど情状がわるかったとみえる。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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出会い、こぼれ話 №50 [心の小径]

第49話 転校希望
                 教育者  毛涯章平

 ある日の放課後、T君が真剣な顔でやってきた。
「先生。ぼくを鎌田の学校へやっとくれ」
と言うのである。
 どうやら本気で転校希望を申し出したようなので、私も本気で聞いてみた。
「どうして鎌田の学校へ行きたいの?」
 彼はそれに答えて、
「先生が、ぼくばっかり叱るもんで」
 じっに清々とした屈託のない話しぶりに、私は腹が立つどころか、むしろ嬉しかった。
 考えてみれば、この子はひといちばい元気で、いつもじっとしていられないので、私は気が気でなく、毎日のように注意をくりかえし、時にはこっぴどく叱ることもあった。
 それでいつのまにか、
「先生はぼくばっかり叱る」
と思うようになったのだろう。
 そこで私は次のように言ってやった。
「よし。わかった。先生も考えておくから、家に帰ってお父さん、お母さんに相談してごらんよ」
 彼は素直に承知して帰っていった。
 私はT君が帰った後、ご両親には何も連絡しなかった。
 それは、あのご両親なら必ず彼の言うことを軽く受け流して、本人によくわかるように言い聞かせて下さるに違いないと信じたからであった。
 翌朝、彼はいつものように元気にやってきて、
「先生。ぼくこの学校にずっといるでね」
「どうした。鎌田の学校へ行くんじゃなかったの?」
と言うと、彼はにこにこしながら、
「母ちゃんが、卒業まで先生のところに、おいてもらえってさ」
「そうか。じゃあおいてやることにするかl
 私はこう言って、彼の頭を力いっぱいなでてやった。

『章平先生の出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


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文化的資源としての仏教 №12 [心の小径]

文化的資源としての仏教12                

            立川市・光西寺住職 寿台順誠

                            四苦八苦⑸――現代の死苦

今回は「現代の死苦」について考えることにするが、これに関してはまず、世界的に「死の社会学」の第一人者とも言えるイギリスのトニー・ウォルターという社会学者の議論を、少し紹介しておきたい(残念ながら彼の著書は翻訳されていないが、以下の議論についてもっと詳しく知りたい人は、Tony Walter, The Revival of Death, Routledge, 1994, chapter 4, pp.47-65をご覧いただきたい)。

ウォルターは、「伝統(traditional)」社会から「近代(modern)」社会、そして「ネオ近代(neo-modern)」社会へと、人々の死に関する考え方がどのように変わってきたのかをいろいろな側面から明らかにしている。例えば、急性病(感染症)が主たる死因であった伝統社会においては、人は病気になると早く死んでしまい、また他人が死ぬのを周りの人も頻繁に見ていたわけであるが、癌(成人病)が主な死因となってきた近代社会になると、人が死にゆく様は日常からは見えない所に隠されるようになり、従って他人が死にゆくところはめったに見なくなった。ところが、近代において死がそのようにタブー化されていたことへの批判が高まり、生活習慣病としての癌の治療技術も進歩してきたネオ近代(つまり現代)では、死にゆく過程(dying process)が引き延ばされ、人が死にゆく姿は公開される(現在ではインターネットなどを通じて本人が自ら公表する)ようにさえなっている。

ここでウォルターが「ネオ近代」と言っているのは、社会学において他に(アンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベックによって)「後期近代(late modernity)」「第二の近代」「ハイ・モダニティ(high modernity)」等と表現されているものと同じ意味のもので、「近代の個人主義」と言っても従来は何でも個人が選択できるわけではなかったところ、近代性がさらに進んだ現代(ネオ近代)では、例えば出生前診断・遺伝子操作のような生に関わる問題や死に方・死後の葬られ方のような問題まで、むしろ個々人の自己責任で決定しなければならなくなった、という時代社会のあり方を言い表すものである。とにかく、前々回に確認した高齢化や前回述べた疾病構造の変化と相まって、現代においては人が死にゆく過程が非常に長引くようになっており、その中で死にゆく本人にあらゆる選択が迫られることになった、というところに「現代の死苦」があると言えるであろう。


以上、ウォルターの議論を用いて現代における死苦を確認したが、この「近代」から「ネオ近代」への移行をさらに具体的に示す意味で、以下、二つの関連する映画に触れてみたい。

一つは有名な黒澤明監督の『生きる』(1952年)である。毎日、書類の山に判子を押すだけの無気力なお役所仕事をしていた主人公(市役所の市民課長)が、自分が癌で余命いくばくもないことを知ったことから自分が生きていることの意味を考えざるを得なくなり、苦闘の果てに市民のための公園を作って死んでゆくという作品であるが、当時まだ癌告知(インフォームド・コンセントなど)は一般化していなかったし(映画では主人公は偶然自分の病気を知ってしまうというストーリーになっている)、ひとこと「癌」と言うだけで即「死」に直結すると考えられていた時代の話であり、実際、映画では主人公は自分が癌だと知って数か月で死ぬという設定になっている。この作品は日本映画の中でも「名作中の名作」と言えるものだと思うが、その後の「癌(告知)物」(これは同種の映画についての私の言い方である)でも、だいたいは主人公が告知されてから死ぬまでの数か月を描く作品が多いであろう(その後の作品では時代の風潮に合わせて「告知」される筋立てになっており、その点だけが『生きる』とは異なっている。2007年にリメイクされた松本幸四郎主演のテレビドラマ『生きる』がまさにそういうものである)。こうした「癌(告知)物」は、癌という病気をまるで腫れ物にさわるように扱っている点で、それをひたすら隠そうとしていた「近代」にマッチした作品だと思うが、実は私は現代(ネオ近代)では、もはやそのような筋立てでは現実に合わなくなっているのではないかと思ってきた。確かに、黒澤の『生きる』を最初に見たときは本当に感動したし、今改めてこの作品から学ぶべき点は多いが、その後の「癌(告知)物」にはほとんど見るべきものはない。

そこで二つ目に紹介しておきたいのが、『50/50 フィフティ・フィフティ』という2011年のアメリカ映画(ジョナサン・レヴィン監督)である。これは、27歳の主人公(酒もタバコもやらない青年)が腰の痛みを感じて病院で検査したところ、5年生存率50%の脊髄癌であると宣告され、その日から生活環境が一変して苦悩の日々を送るという映画である。が、この映画はコメディタッチのもので、さほど深刻にならずに所々笑って見ることのできる作品でありながら、インフォームド・コンセント、カウンセリングのあり方や患者を取り巻く人間関係に関して、極めて本質的な問題を提起する作品になっている。映画は、最後に手術も成功して、今後も主人公は希望をもって生き続けていくであろう、ということを予感させて終わっている。が、現代人は、仮に癌告知を受けたとしても、かつてのようにドラマティックに数か月で死ねるわけではなく、「フィフティ・フィフティ」の状態の中を生きていかざるを得ない、という「ネオ近代」の状況を見事に示した作品だと思う。そして、そのように「フィフティ・フィフティ」の状態で長引くdying processを生きなければならないところに、「現代の死苦」があるのではないかと思うのである。

ここ三回にわたって「現代の老苦・病苦・死苦」を考えてきた。これらに共通しているのは、老病死がかつてよりも大幅に引き延ばされているがゆえに、長く苦しまなければならないということである。そこに、現代ではPPK(ピンピンコロリ)という生き方・死に方が推奨されたり、或いは安楽死や尊厳死が話題になったりする所以があるのである。それならば、こうした「現代の老苦・病苦・死苦」は何に由来するのであろうか。そこで「文化的資源としての仏教」の論理構造(「老・病・死………⇒生」)を現代に生かそうとするこのエッセーでは、次に「現代の生苦」について考える必要が出てくるのである。次回はそれについて考えてみたい。

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №23 [心の小径]

第四章 新教会と平信徒伝道 4

                       内村鑑三

 一月六日  二百円ヲ牧師D氏二電報為替ニテ送ル。
 我々はD氏の教派に対し我々の負債を全部支払ってただちに彼の要求に応じようと試みた。しかしこれは我々にはいかなる手段をつくしても為しえなかった。我々は兄弟たちにかなり重い税金を課していたのである、そしてこれ以上彼らから取り立てることはできなかった。C教授の金は今囘の分割払いの主要部分を占めた。その金を到着してからこうも早く手放すにあたり我々ははなはだ幸福でなかった。

 一月七日 明日ノ献堂式ノ準備二多忙。
 一月八日 S教会ノ献堂式、午後二時二始マル。
 出席者、約五十。今日我々ハ此ノ教会ヲ神二献グ。願ハクハ彼ノ栄光、此ノ処ヨリシテ此ノ地方二輝キ出デンコトヲ。
 我々が担わなければならなかった共通の重荷は我々の心を結び合わせた、そして我々は今や正式の合同に入り、そして公けに我々自身の教会を神に献ぐべきであった。小さい木造建築は五十人の合唱するハレルヤで震動した、― 禍(わざわ)いなるかな、我らの気の毒な隣人は! 我々のオルガンは、鍵(けん)が二つ調子が合わなかったが、F君の指に触れてきわめて大きい音の讃美歌をうなり出した。いとたかき神の御名にむかって我々はこのみすぼらしい住居を献げる、我々の献げることのできるすべてのもののうちにて最善最上のものである! これをして真のシェキナたらしめよ、そして彼の臨在をしてダビデの賢い子の豪華な神殿におけるがごとくにそこにわいて現実ならしめよ。彼は砕けたる悔いし心はいかなる衣裳をまとっていてもこれを好みたもう、そして彼の最も好みたもう教会にはパイプ・オルガンとステーンド・グラス窓と洗礼盤の必要はないのである。澄んだ一月の太陽は、きわめて粗末な生地のカーテンで一部分おおわれた二つの窓を通して、何も塗ってない白木の腰掛の上に輝いた、ときに我らの親愛なOは感謝の中に頭をたれた謙遜な会衆の上に彼の祝祷(しゅくとう)を述べた。我々は身のしまる乾燥した冬の空気の中で彼の語りたもうた声をほとんど開くことさえできた、いわく『我まことになんじらに告げん、この貧しき寡婦(やもめ)はすべての者より多く投げ入れたり』と。ルカ二十一の二。

 二月十六日 木曜日 S教会ノ規則作成ノタメ、O、W、「ジョン」と会ス。月曜日、火曜日、木曜日、金曜日ヲ会合ノ日ト定ム。
 我々が礼拝の家を献げた以上は、教会規則の何らかの成文が絶対必要になった。実行委員四人がかかる規則の草案を用意する権能を与えられた。我々は基督教会のうちのこの最も独得な教会を規律すべきもの、― 基督教における本質的なものはすべて保有し、そしてそれを我々の新しい環境に適合させること ― を考えることになった。七日間討議が継続した、その結果、教会組織の概略の骨格ができた。会合は祈祷をもって開かれ、祈祷をもって閉ざされた。我々は恐しく熱心であった、小さな囲炉裏を囲み、鉄瓶は湯気を噴(ふ)いて響き渡る音楽を我々に歌ってくれているのを開きながら、数ヵ条また数ヵ条、片付けて行った。ヨナタンの突進的思想はOの冷静な判断によって緩和された、ジョンの便宜的な考えはWの合法性によって時勢に合うように訂正された。全文は有効となるに今や教会会議の承認を必要とした。

 三月六日  教会ノ建物二移転セリ。
 彼らは余に教会の二階に一室を提供してくれた、しかし無料ではなかった。余は集会場を掃除し、教会図書室の面倒を見、小使と番人とのすべての義務を引受け、そして部屋代として一カ月二円を会計に支払う責任があった。余はかような便利な教会役員を他の何処にも見たことはない。この日から余の部屋は兄弟たちの常例の押掛け場所となった。

 三月十三日 今年十月マデニ教会ノ負債ヲ皆済スべク相互二誓約ヲ為セリ。
 我々の負債返却は無期限に延期されてはならない。すべてのものをして自分の割当て分を特定期間内に支払う決心を為さしめよ。もし君が十カ月間西洋料理を中止すると想像せよ、それは君に君の割当て分の半額を支払うようにさせるであろう。もし君が来年まで古いジャケツとパンツで我慢すると想像せよ、それは君に共同負債の君の分担分を完了できるようにするであろう。我々各自の純収入は一カ月二十五円であった、そして来る十月までに丸一月(まるひとつき)の給料を支払うことになったのである。

 九月二日 A-製材揚二兄弟TSト出立セリ。余ハ、夜、説教セリ。

 九月三日 朝、A-製材場ヲ辞ス。H氏方二泊り、説教セリ。製材場二於ケル前途ノ見
込ミ有望なり。
 Å-製材場における伝道地の開設は我々の教会の歴史における最も記念すべき挿話(エピソード)の一つであり、また我々が成就した他のいかなる事業よりもよく我々の合同の基督教事業の方法を例証するものである。製材場は、我々の土地から約十五マイル、山岳地方にあった、そこに政府は巨大な松の森林を板と材木とにしようとついさきごろアメリカ製タービン製材機を導入したところだった。馬車道が我々の土地から新しい製材場まで建設されることになり、測量者が新道路の踏査に派遣された。偶然なことに我らの『好人物』Uがこの探検隊の主任測量者であった、そして彼は自分の仕事に従事するかたわら製材場の周囲に作られた小植民地に聖書と基督教を紹介するに全力を尽した。路筋(みちすじ)が決定するや、最終的の測量が我らの教会会計係ビューに託された、彼は山中に滞在中、一人の甚だ貴重な霊魂をキリストに連れて来るに成功した、『達磨』という綽名のOであった。いまや道路が測量されて、その建設に任ぜられた者は我々の教会の他の一員H氏であった。彼もまた同僚に伍してキリストのために働いた、そして原始林の死の沈黙の中の彼の言葉は無効ではなかった。道路が立派に完成する前に、もう一つの貴重な霊魂が主のために得られた。その間に『好人物』Uが製材場に蒔いておいた種子は発芽して立沢な生長をなしつつあった。そこの人たちは新道路の開通を待ちこがれていた、彼らは我々に、来て自分たちに福音を伝えてくれとの伝言をよこした。そこで余はこの使いに兄弟TSとともに派遣されたのである、そして我々は一人の基督信徒によって踏査され、一人の基督信徒によって測量され、一人の基督信徒によって建設された道路を踏んだ最初の人であった。一片の材木もこの道路の上を運ばれない前に、平和の善き音ずれを運ぶ者の足がその上にあった。それは本質的に基督教的道路であった、そして我々はそれを「通」とよんだ。『すべての谷は高くせられ、すべての山と丘とは低くせらるペし』、栄光の王が入り来り拾わんがために。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №34 [心の小径]

九六 或ひといわく、雍(よう)や仁(じん)なれども佞(ねい)ならず。子のたまわく、いずくんぞ倭を用いん。人に禦(あた)るに口給(こうきゅう)を以てすれば、しばしば人に憎まる。その仁を知らず、いずくんぞ佞を用いん。

                  法学者  穂積重遠

「雍」は門人冉仲弓(せんちゅうきゅう)の字。師より若きこと二十九歳。
「佞」は弁才、「佞人(ねいじん)」というほどの悪い意味ではない。
 ある人が雍は仁者だけれども惜しいことには弁才がない。」と評した。孔子様がおっし令るよう、「弁才などは
くてもよろしい。口前(くちまえ)だけで人と応対するとしばしば人に憎まれることになるが、雍にはその心配がない。仁者だかどうだか知らないが、弁才などはなくてもよろしい。」

 「その仁を知らず」の一句に味がある。孔子様はなかなか仁をもって人に許されない。

九七 子、漆雕開(しっちょうかい)をして仕えしむ。対えていわく、われこれ未だ信ずること能わずと、子説(よろこ)ぶ。

 門人「漆雕開」字は子若(しじゃく)。あるいは「漆雕啓(しっちょうけい)」ともいう。そしてここに「吾(われ)」とあるが弟子が先生に対して「吾」という言葉は遣(つかわ)ないはずだから、「啓」の誤記だろうという説がある。

 孔子様が漆雕開に仕官をすすめたところ、「私にはまだ自信がござりません。」と答えたので、孔子様がお喜びになった。

 仕官就職を急ぐことを常にいましめられる孔子様が、もうよかろうと仕官をすすめられたのだから、相当の者だったに相違ないのに、モツト勉強致しませんでは、とおことわりしたので、その篤学自重とくがくじちょう)を喜ばれたのである。          

九八 子のたまわく、道行われず、桴(いかだ)に乗りて海に浮かばん。われに従わん者はそれ由(ゆう)か。子路(しろ)これを聞いて喜ぶ。子のたまわく、由や勇好むことわれに過ぎたり。取り材(はか)る所なし。
 「材(ざい)を取る所なし」とよむ人もある。いかだの材料にはならぬ、と冗談を言われたのだというのだが、前との続きがつかないようだ。
 孔子様が歎息して、「道義の行われぬ乱れた中国に住む気はしない。いかだにでも乗って海外へ行ってしまいたいものじゃ。その時わしについて来る者は由かな。」と言われた。子路がそれを聞いて、おおぜいの門人の中で自分だけがたのみになる者とお見出しにあずかった、どんなもんだい、と得意になった。すると孔子様がおっしゃるよう、「由は勇気のある点ではわしも及ばんが、どうも見さかいがなくて困るよ。」

 孔子様の言葉は、道の行われざるをなげく気持を強くあらわす形容で、実際にいかだに乗ろうと言われるのではあるまい。これが顔回(がんかい)か曾子(そうし)ならば、まあさようにおっしゃらないで、となだめそうなところを、正直者でそそっかしい子路はすぐ、おもしろい、お供しましょう、と乗り気になったので、勇気余って分別(ふんべつ)が足らん、と孔子様に笑われたのだ。
 孔子様はその時日本に来ようとされたのだ、と誰だったかが言ったが、もちろんでたらめだ。しかし結果においては、『論語』がいかだに乗り海に浮んで日本に来たことになるのではあるまいか。ところで、せっかく来て千六七百年も逗留した日本をも、ついに「道行われず」と見限って、いかだに乗り海に浮んでアメリカにでも行ってしまわないようにしたいものだ。


『新訳論語』 講談社学術文庫

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出会い、こぼれ話 №49 [心の小径]

第48話 無宿題証明書

          教育者  毛涯章平

 ある土曜日の放課後、
 「明日の日曜日は宿題が無いからたくさん遊んでおいで」
と言ってみんなを帰した。
 しばらくしてY君が引き返してきた。
 「先生。明日は本当に宿題は無いんでしょ」
と念を押すように言った。
 「ああ、本当だよ。Y君は嬉しいだろう。うんと遊んでおいでよ」
と言うと、嬉しいけど何か困っているようだった。
 わけを聞くと、宿題が無いと言っても母ちゃんが信用しないので遊べないというのだった。彼が
「本当に無いことをお手紙に書いてほしい」と言うので私はとっさに思いついた。

   無宿題証明書
一、明日の日曜日は宿題がありません。
一、外で元気に遊ぶことが宿題と思って下さい。
   右証明いたします   担任 毛涯章平⑳

 私がゆっくり読んでわたすと、彼は大喜びで駆け出していった。

 彼は帰宅すると急いで証明書を母親の前にさし出すだろう。それを見たあの母親がどんな顔をなさるか、想像してみた。
 だまって彼の頭をなでて
「明日はうんと遊ぼうよ」と言ってくれるにちがいないと思った。
 そして、その想像が適中したことを、月曜日の母親からの便りで知って、嬉しかった。

 古語に次の教えがある。
『王ハ三駆シテ前禽ヲ失ウ』
 その意は、王たる者は狩りに出て、三方から勢子に狩り出させるが、一方を開けておいて、そこから逃げていく鳥獣は追わないというのである。
 われわれも、規則やしきたりで制約を受けてはいるが、せめて一方は開けて、お互いを許し合うゆとりを持ちたいものである。

『章平先生の出会い。こぼれ話』2015年豊岡村公民館会報


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文化的資源としての仏教 №11 [心の小径]

文化的資源としての仏教11                

             立川市・光西寺住職 寿台順誠

                            四苦八苦⑷――現代の病苦

今回は「現代の病苦」について考えてみたい。が、それを考える上で、まず現代の疾病構造の変化をめぐる問題を見ておくことにする。

現代における疾病構造の変化は、「急性病から慢性病へ」「感染症から生活習慣病へ」として示されている(加藤眞三「患者学のすすめ(その1) 急性病から慢性病の時代へ」『医と食』2(3)、2010年、144-146頁)。世界的には今でも感染症で死亡する人が最も多いが、先進諸国では癌や心臓病が死亡原因の多くを占めるようになっているのである。日本では、戦後すぐの1947年には死因の「1位が結核、2位が肺炎、3位が脳卒中」となっていたのが、国民皆保険が実現した1961年には「1位が脳卒中、2位が癌、3位が心臓病」となり、2010年になると「1位が癌、2位が心臓病、3位が脳卒中」へと変化している(癌が死因の1位になったのは1981年頃である。『平成23年版 厚生労働白書』26頁)。
「生活習慣病」という言葉は、それまでは加齢という要素に着目して「成人病」(「主として、脳卒中、がん、心臓病などの40歳前後から死亡率が高くなり、しかも全死因の中でも上位を占め、40~60歳くらいの働き盛りに多い疾患」=「成人病」は昭和30年代に厚生労働省が行政用語として使い始めた言葉)と言われていたものが、その後、生活習慣に着目されるようになる中で、1996年に公衆衛生審議会により「食習慣、運動習慣、休養、喫煙、飲酒等の生活習慣が、その発症・進行に関与する疾患群」として定義され直したものである(『平成26年版 厚生労働白書』24-25頁)。が、この概念に対しては批判がある。例えば、「がん放置理論」(『患者よ、がんと闘うな』文藝春秋、1996年)で有名な近藤誠医師は、心疾患や脳血管疾患は「加齢とともに死亡率が急上昇しており、老化現象としての側面が強い」とし、また癌の増加についても「食事や環境中の発がん物質の影響」や「長いき」(多くの人が発がん率の高い年齢に達するようになったこと)に原因があるとして、かえって生活習慣病という言葉によって人々が有害な物質を減らす行政の仕事や老化現象に気づきにくくなり、「ライフスタイル変更に駆り立てられる」ことになってきたことを批判している(近藤誠『成人病の真実』文藝春秋、2004年、272-274頁)。
が、この「生活習慣病」という概念のもつ最も本質的な問題は、これによって何でも「病気」にされてしまうという現象が出てきて、「医療化(medicalization)」の流れに拍車をかけていることであろう。例えば、酒癖が悪い人は「アルコール依存症」、ヘビースモーカーは「ニコチン依存症」、女性の生理に伴う苛立ちは「月経前症候群(PMS)」、ぼんやりしている子どもや聞き分けのない子どもは「注意欠陥多動性障害(ADHD)」、血糖値が高い人は「糖尿病」、クレアチニン値が高い人は「腎臓病」、コレステロール値が高い人は「高脂血症」、そして血圧が高い人は「高血圧症」といった具合である。また、従来は単なる「うつ状態」として病気とは認識されていなかった人が、「新型うつ病患者」(気分障害患者)と見なされるようになり、1999年から6年間で、その数が43万人から92万人へと倍加したとも言われている。ここまでくると、やはり病気の多くはむしろ「医原病(iatrogenesis, iatrogenetic disease)」だと言わざるを得なくなるであろう(志水洋人「医療化論の動向――逸脱行動の医療化から疾患概念の拡大へ――」『年報人間科学』35、2014年;細見博志「健康と病気――「逸脱」としての病気と拡大する「医療化」――」『言論文化論叢』19、2015年;三澤仁平「医療化論のゆくえ」『応用社会学研究』57、2015年等参照)。

さて、以上に記したことから、「現代の病苦」とは一体どのようなものだということが言えるであろうか。私にはそれは二重の意味での苦であるように思われる。まず第一に、主たる病が結核のような感染症から生活習慣病に移った現代においては、病と付き合わねばならない時間が長くなっている分だけ病苦も増しているということが言えるであろう。確かに、かつて皆が急性病で死んでいた時代には、患う時間は短くても一時の苦痛は非常に大きなものだったであろう。が、現代はかつてよりも、そうした一時の苦痛は小さいかもしれないが、しかしそれが慢性的に続くことに苦しまねばならないという問題があるであろう。
それから第二に、上記のように生活習慣病という概念が、病を治すよりもかえって病気(医原病)を生み出してしまう側面があるということから言えば、いわば無用な苦を創り出しているということが言えるのではないだろうか。そして、そういうことを通して、いつしか「人のための医療」であったはずのものが「医療のための人」へと、あるべき順序が転倒してしまうところに「現代の病苦」があるのではないだろうか。また「健康」ということに関して言えば、とかく現代においては、生きるための前提条件としての健康を大事にするのではなくて(そのための健康が極めて重要であることには異論はないが)、むしろ「健康のために生きる」ということに(場合によっては、「健康のためなら死んでもよい」といった皮肉な事態にまで)、目的と手段の順序が逆転してしまう傾向があるであろう。
医療技術が進歩して、かつては治せなかった病も治すことができるようになったこと自体は、間違いなく喜ばしいことである。が、反面、従来は単なる「癖」や「性格」のようにして考えられてきたことが何でも「病気」にされてしまい、その状態が慢性的に続くという時代を私たちは生きている。何とも悩ましい時代である。(次回は「現代の死苦」について考えることにする。)

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №22 [心の小径]

第四章 新教会と平信徒伝道 3

                    内村鑑三

 十月廿三日 我々ハY・M・C・Aヲ組織ス。副会長二任ゼラル。


青年のための特別の仕事が緊要となった、そしてY・M・C・Aが我々の仕事に加えられた。我々がこの夏首府にいたあいだに得た考えである。


 十一月十二日 Y・M・C・Aノ開会式。聴衆、約六十。会後、強飯(こわめし)ノ接待。甚ダ有望ナル集り。

                
我々の小さな教会はその最高の収容力までいっぱいになった。強飯は米を小豆といっしょにたいたものであり、いつも祝いの時に供される。それはうまいものであるが、消化不良の諸君はそれに触れない方がよい、ただ強い胃だけがそれに耐えることができるからである。― 余は当日の演説者の一人であったのを憶えている。余の題は『帆立貝と基督教との関係』であった。要点は地質学と創世記とを調和させるにあった、そして帆立貝がこの目的のために特に選ばれたのである、ペクテン・エソエンシス(Pecten yessoensis)なる種は我が国の海岸にある最も普通の軟体動物であり、その貝は化石として豊富に発見されあからである。『進化』、『生存競争』、『適者清生存』というような語句が我々の仲間のなかで耳にされつつあった、そしてそのころ我が国に台頭し始めつつあった無神論的進化論者に対して一撃が必要と思われたのである。余の題は奇妙に響いたが、青年たちはよく余のいうことを聞いた。


  十一月十五日 火曜日 W及ビOト午後三時二会合シ、教会二就キ相談ス。全会衆四時ニ会シ、教会ノ将来二就キ議ス。― 教授C博士ノ送ラレレシ米国金一百ドル($100)ヲ受取ル。


 委員三人の予備会談ののちに全会衆の総会がつづいた。いまや我々は実際生活の荒海に乗り田して、人間的存在は我々が教室の中で想像していたよりもっと真実にして真剣な事柄であることがわかった。物事は我々が意図し計画したようには動かなかった。必ずしも我々のすべてが教会について灼熱的に熱心ではなかった、そして若干の興味の弛緩(しかん)が或る方面に認められた。我々はすでに四百ドルの借金をしてしまっていた、そして教会の一般経費は小さくはなかったのである、我々は我々の説教者には何も払わなかったのだが。如何にしてこれらすべての困難に処するかが、集会にて決定せらるべき問題であった。何一つ善い考は出て来なかった。ただ我々をして自分の財布の紐を解く覚悟あらしめよ、我々はその事のために自分の有する一切のものを捧げることを要求されるかもしれないからである。我々は嘆息と不安とをもって散会した。― 『宣教師坊主』Oは彼の塒(ねぐら)に帰る、そして見よ、何物かが彼を待ちつつある。米国金で一百ドルの小切手である、『イエスを信ずる者の契約』の創始者によって教会に送られたのである、ニュー・イングランドの彼の家から送られたのである! エホバ、エレ ― 主は備え納わん―よ、なんじら兄弟たちよ! 我々は天にいます父に捨てられているのではない。善いおとずれは会衆中に拡まる、そして希望は我々のうちに生き返る。


 十二月十八日 日曜日 激シシキ吹雪。余が説教セリ。教会ノ中二吹キ込ム雪ニテ甚ダ難渋セリ。


 我々の安普請(やすぶしん)の木造建物は防雪的でなかった、そして我らの婦人席はその日は使用に耐えなかった。彼らを運ぶ橇(そり)は雪中にて動かず、我らは家に着くに困難した。我々はかような天候の時のかような集会を忘れない。


 十二月廿九日 木曜日 午後全部二捗り多忙。万端ノ用意、夕暮前二成レリ。集会ハ午後六時二始マリヌ。三十人二及プ兄弟姉妹出席セリ。我々ノSニテ有セシ最善ノ集会。一同ハ己ガ心情ヲ語り、思ヒノママニソノ夜ヲ楽シム。九時半二及プ。


 常例のクリスマス祝祭が教会員全部が町に帰っていることのできるこの日まで延期されていた。これは本質的に基督信徒の集りであった、二年前のクリスマスのときのような達磨の相撲や野蛮人の踊りはもはやなかった。この夜我々の感じた喜びは夷に精神的であった。この年は全体として成功の年であった、そして我々の成就した仕事は小さくはなかった。快なるかな苦後の楽、である!


 一八八二年一月一日 日曜日 一同、午後、教会二会シ、己ガ感情を表白ス。D及ビH両氏ヨリ手紙。落胆甚シ。


 事はこうであった、我々が互に「新年おめでとう」を言い合い、過ぎ去ったばかりの一年間の神の祝福を喜んでいた間に、二通の手紙が我々によって受け取られた、一は我々の愛する宣教師の友人、牧師H氏から、他は牧師D氏からであった。後者は短いするどい手紙であった、彼は独立教会を作るという我々の計画には十分に同意を与えることができない旨を簡単に述べ、そして彼の教会が我々に礼拝の家を建てるために用立てた金の幾部分でも電報で返済するように要求したものであった。彼の手紙は我々の行動に対する彼の断固たる不同意と解釈された、そしてそれはもし我々が彼の教派から離れようとするならば我々の勘定を彼の教会と清算するようにという要求によって強要されたものであった。そして彼の手紙に対するそのような解釈は全然不合理ではなかった、なぜならば我々の財政状態は彼にはよく知られていたに相違ないし、また彼の言葉はいくらかでも我々の動機に対する心からの同情の気特を伝えるにはあまりに少なかったからである。もしメソヂスト監督教会ミッションは我々が我々の所にその教派の教会を創立するために金を貸してくれるのであれば、我々は決してその援助を求めなかったであろう。我々の独立は、メソヂスト主義に対する反抗としてではなく、天にいます我々の主に対する我々の真実の愛着と我が国民に対する我々の最高の勘定との表現として、意図されたものである。ミッションはくれると言ったのであるけれども、我々はその金を借りたのである。我々はみなそのころは若くあった、そして我々の血気もまた盛んであった。『すぐ払おうじゃないか、C先生の金注まだ手がついて旨い、教会の金庫を最後の一銭まで空にして我々の借金を片附けよう!』と一人が言った。『賛成!払おう!』と一同が応じた。ヨナタンは会計係ビューと相談して教会金庫品達し得るすべての金額を電報為替でD氏に送る責任を託された。その地の二つの基書徒団体を固く結び合せたものにして一月元日のこのはなはだあ。がたくな茎紙に勝るものはなかったと写る。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №33 [心の小径]

九三 子、公治長(こうやちょう)を謂(い)う。妻(めあ)わわすべきなり。縲絏(るいせつ)の中に在(あ)りと雖(いえど)もその罪にあらざるなりと。その子(むすめ)を以てこれに妻わす。子、南容を謂う。邦道(くにみち)有れば廃(す)てられず、邦道無きも刑戮(けいりく)を免(まぬが)ると。その兄の子を以てこれに妻わす。

                        法学者  穂積重遠

 この章を二章に分ける本もある。いずれでもよかろう。
 公冶長は門人。鳥の言葉がわかったと伝えられる。どこそこの谷に人が死んでいると鳥が語り合っているのを聞いて、その母に知らせてやったところ、かえって殺人の嫌疑(けんぎ)を受けて投獄され、弁解しても信じてもらえない。するとある日のこと、牢屋の柵の上ですずめが、向うの往来で車がひっくりかえり穀物がこぼれているから食べに行こう、とさそい合ってるのを聞いて、獄吏(ごくり)に申し出たので、人をやって見させたらそのとおりであった。それで嫌疑がはれて放免されたという。もとより俗説だが、おとぎ話としてもおもしろい。
「縲絏」は「縄目」捕縛(ほばく)されること.
「南容」も門人、名は括(かつ)、字(あざな)は子容。

 孔子様が公冶長を評して、「あれなら娘を嫁にやってもよろしい。入牢したこともあるが、無実の罪だったのだ。」と言われ、自身の婿にされた。また南客を評して、「あれは慎み深い男だから、治まった国なら任用されようし、乱れた国でも刑罰にあうようなことはあるまい。」と言われ、兄さんの娘を嫁にやられた。
                                        
 孔子様は結婚についても人物本位だったのである。公冶長はともかくも牢にはいった人間だからうちの娘をやり、南容は安全第一だから兄の娘をやったので、「けだし兄に厚くして己(おのれ)に薄くするなり」という説があるが、「これ己(おのれ)の私心を以て聖人を窺(うかが)う」ものだ。

九四 子、子賎(しせん)を謂う。君子なるかな、かくのごとき人。魯(ろ)に君子なかりせば、これいずくにかこれを取らん。

 「子賎」は門人宓不斉(ふくふせい)の字(あざな)。「孔子より少(わか)きこと四十九歳」とあるから、晩年の門人だろう。

 孔子様が子賎を評しておっしゃるよう、「君子であるかなこの人は。さすが魯の国には君子の先輩が多いからで、それでなければどうしてかような若者が出ようぞ。」

 私に言わせれば、「魯の君子者」とは結局孔子様とその高弟たちに外ならぬ。この先生あり、この兄弟子たちあり、よい後進(こうしん)が出ないはずがない。

九五 子貢(しこう)問いていわく、賜(し)や何如(いかん)。子のたまわく、なんじは器(き)なり。いわく、何の器ぞや。のたまわく、瑚璉(これん)なり。

 「瑚璉」は宗廟(そうびょう)の祭に用いる玉を飾った貴重な食器。

 孔子様がたれかれと門人たちの批評をされるので、子貢が「私はいかがでござりましょぅ。」と水を向けた。すると「お前は道具だ。」と言われたので、子貢いささか平らかならず、「何の道具でござりまする。」と押しかえしたら、「瑚璉だよ。」とおっしゃった。

 これは、国家の重きに任じ得べき有用の材だとほめられたのだが、同時に「君子は器ならず」おまえはまだまだ道具たるを免れぬ。今一息修行して真の人になれといましめ、はげまされたのである. 
 この間答は前章の続きで、孔子様が子貢を評されたにつき、子貢が「それでは私は」とおたずねしたのだ、とする人もあるが、必ずしもそうではあるまい。本章の方がズっと前の話だろう。しかしならべて読むと、孔子様が若い者はほめて引き立て、高弟たちはたしなめ抑(おさ)えられるおもむきがある。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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出会い、こぼれ話 №48 [心の小径]

第47話  赴任旅費

                  教育者  毛涯章平

 私が現職の頃、就職二ケ月近くたつと、職場では赴任旅費が話題になった。「引っ越しのトラック代ぐらい出そうだ」などと皮算用をし合う先輩もいた。
 そのころは初任給が七〇円ほどで、何やかやと天引きされると手取り六〇円程度であった。
 そこから下宿代、書籍代などを支払うと、手元に残るのはせいぜい二〇円ほどであった。
 その頃、近く赴任旅費が出ると聞かされたのである。
 ある日事務室に呼ばれてその袋を渡された。放課後一人になって袋を開けてみた。中には一〇円札が九枚と四五銭入っていた。
 その夜は、当時の私にとっては大金の九〇円の使い道をあれこれ考えた。
 自分の本も筆も墨も紙も欲しかった。しかし最後にもう一〇円足して全部父母に差し上げることにした。
 考えてみれば、いままで年老いた父母にずいぶん厄介をかけてきたものである。苦しい家計をやりくりしながら私を卒業させてくれたのである。
 土曜日になると、私は急いで家に帰った。そしてお茶の時、
「はい、お小遣い」
と、つとめて気軽に父母の前に差し出した。
 父母は、たかが就職して間もないわが子がくれる小遣いがどれほどかおよそ察しがつくらしく、母が
「気持ちだけで十分。ありがとう」
と言って受けとった。そうして封筒を開けてみて、ことばがつまってしまった。
 それから、こみ上げてくるものをこらえるように急いで仏壇の前に行くと、封筒を供えて手を合わせた。
 父はそれを見てぽつりとつぶやくように言った。
「これでお前も安心だ」
 以来、このひと言が、何かにつけて私を背後から支えてきてくれたように思えてならないのである。

『出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館解放


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文化的資源としての仏教 №10 [心の小径]

文化的資源としての仏教№9 

             立川市・光西寺住職 寿台順誠

                            四苦八苦⑶――現代の老苦


今回からしばらく、前回確認した「四苦八苦」の論理構造(思考方法)が、現代においてどのように生かされるのかを考えてみたい。仏典には、単に抽象的な総論として「生老病死の苦がある」というだけではなくて、各々の苦についての具体的な様相も描かれているはずであるが、私は僧侶ではあっても仏教学者ではないので、仏典に即してそれを解説する能力は持ち合わせていない。それに、「文化的資源としての仏教」と題されたこのエッセーにおいては、仏典の解説をするよりも、「現代における生老病死」がどのような問題を抱えているのか、そしてそれを考える際に前回確認した「老苦・病苦・死苦………⇒生苦」という論理構造がどのように関係するのかを考える方がよいであろう。そこで今回はまず「現代の老苦」について考えてみたいと思う。


「人間は死ぬものだということは知っていたけれど、自分の人生の行く末に、死よりもずっと手前にこういう悪魔の陥穽とでも呼ぶべきものが待ちかまえていようとは、若いときには考えも及ばなかった。歳を取るのか、私も。どういう婆さんになるのか、私は。」(有吉佐和子『恍惚の人』新潮社、1972年)


これは有吉佐和子『恍惚の人』の一節である。この作品は日本において(世界的にも)いち早く認知症の問題を正面から扱ったものとして、出版当時大変な反響を呼び、ベストセラーとなった。また、翌1973年に公開された映画(豊田四郎監督)も大きな話題になったが、特に認知症の老父を演じる森繁久彌の真に迫る演技は、いま見ても衝撃的である。日本が、65歳以上の高齢者が総人口の7~14%を占める「高齢化社会(aging society)」に入ったのは1970年、高齢者が14~21%を占める「高齢社会(aged society)」に入ったのが1995年、高齢者が21%を超えた「超高齢社会(super-aged society)」に入ったのが2007年という高齢化の流れを見ると、『恍惚の人』がいかに先駆的な作品であるかが分かるであろう。

確かに、この作品ではまだ、「認知症」ではなく「痴呆」「ボケ」という言葉が使われていたこと、共働きであるにもかかわらず老父の介護を嫁が一手に引き受けていたことや、介護の制度や施設がまったく整っていなかったこと等の限界は見受けられる。が、それでもやはり上に引いた一節は、現代における老苦の本質を表す言葉だと思う。つまり、一言で簡単に「老病死の苦」などと言うと、何か人間はいとも簡単に「老いて、病んで、死ぬ」と言われているような気がしてくるのであるが、実は高齢化が進む現代においては、人はそれほど簡単には死ぬことさえできず、その「手前に…悪魔の陥穽とでも呼ぶべき」大変な状態があるということを、『恍惚の人』は世界で最初に白日の下に晒した作品だと言えるのである。

そして、今の日本では「認知症800万人時代」とさえ言われるようになっている。これは2013年11月から2014年7月にかけて、4回にわたりNHKスペシャルで認知症が取り上げられた番組のタイトルであるが、これは2013年時点では厚労省の調査で推定462万人の認知症者が存在しており、これに予備軍である高齢者も加算すると800万人に上ると試算されていたことを示している。その後、関連する報道に接するたびにこの数は増えて、今では2025年頃には「認知症1000万人時代」がやってくるとまで言われるようになっている。また、これは大学院の先輩から教えてもらったことであるが、2012年度の行方不明者総数81,111人中、認知症による行方不明者は9,607人、2013年度は総数83,948人中、10,322人が認知症だったという(横瀬利枝子「徘徊による行方不明を経験した家族の苦闘――若年性認知症者を介護する配偶者の語りから――」『生命倫理』25(1)、2015年)。2007年に、91歳の認知症男性がJR共和駅(愛知県大府市)で電車にはねられ死亡した事故で、85歳の妻らに賠償するよう判示した裁判が問題になったのも記憶に新しい(但し、名古屋地裁では妻と長男に、名古屋高裁では同居していた妻だけに賠償を命じたが、最高裁では妻・長男とも賠償責任はないとされた)。


実は、私はこの文章を書いた今年6月上旬頃、92歳になる義母がどうしても白内障の手術を受けたいと言うので、(白内障の手術自体は簡単なものでも、92歳の人が手術に耐えられるかどうかを検査しなければならない等のことがあって)数週間にわたり毎週2・3回も複数の関係病院に付き添わねばならない生活を送っていた。が、その最中に病院の待合室で義母が「もう(こんなに迷惑ばかりかけて)早く死んでしまいたい」とか、「もういつ死んでもいい」とかと繰り返すのを聞いて(義母は以前からしょっちゅうそんなことばかり言っているのであるが)、「今から目の手術をする人が、そんなこと言いなさんな。全く何のために付き添っているのか、分からなくなってくるじゃないか!」などと叱りつけながら、暗澹とした気分に陥っていた。が、終わりの見えぬ義母と私のこの「病院珍道中」において私は、死ぬに死ねない苦悩を抱えた義母を見ながら、いつしかそれに将来の自分を重ね合わせて、我が身の行く末について考え込まざるを得ない自分をも発見するのであった。ともかく、「現代の老苦」は、いまだ出口の見えないトンネルの中を進行しているようなものだという気がする。この闇はいつ晴れるのであろうか。否、その前に、この闇は一体どこから来たのであろうか。

(なお、認知症については、仏教の無我説との関係で述べておきたいことはあるが、それはまた機会があれば改めて述べることにしたい。次回は「現代の病苦」について考えてみたい。)

余は如何にして基督信徒となりし乎 №21 [心の小径]

第四章 新教会と平信徒伝道 2

                      内村鑑三

 十月十六日日曜日 朝、K君説教ス。我々ハ初めて『南通』ノ我々ノ新教会ニ会ス。
 K君は長老派信者であった。カレッヂ卒業生ではなかったが、我々の基督信徒への貴重な加入者であった。彼はまだ青年であったが、深い霊性と広い基督信徒の経験のある人であった。

 我々が首府にあって不在の間、『宣教師坊主』Oは我々のための礼拝の家を捜すに精出した。彼が見つけた所は一つ建物の半分であって、二百七十円という値段で手にいれたのである。我々の部分は約五間に六間、板葺屋根、そして建坪の2倍という広さの庭があった。それは棟割(むねわり)長屋として建てられていて、台所と囲炉裏がそれの非常に大きな部分を占めていた。我々は教会の一般経費を助けるために二階の一部屋を貸した。下界はすべて教会用に設備された。ヒューは我々のため六脚の岩乗(がんじょう)な腰掛けを注文した、そしてそれは男子出席者用に当てられた。婦人達は畳の上に坐った、説経壇のまん前であった。説経壇は高くなった壇ともっとも簡単な出来のテーブルとから成っていた。しかしそれは我々の『初期の教会』のメリケン粉樽説教壇にくらべて断然たる改良であった。これらの席が収容し得る以上に多くの出席者があった時には、床に切込まれた長方形の空間を占める大きな囲炉裏は松板で被われた、そしてその上に拡げた毛布はさらに約十人の席を供した。家は五十人が出席すれば最高の収容力までぎっしりつまった、そして冬季になってストーヴが説教壇の前の大きな空間を占領してそのために煙突が説教者の顔を会衆の男子人口の視界から隠すころには、家のすべての隅々は自分にいちばん具合よく思われるように坐ったり寄りかかったりしている何種族かの人類によって満されたのである。この時分にはすでに我々にはオルガンもあった。我々の友人、牧師Den氏の寄贈にかかる、-その種類のものとしては最も完全ではなかったが、聖歌をリードするには会衆にはこれで十分であった。めぐみある摂理はF君というこの楽器を美する音楽家を備えたもうた、彼は同じく教会への貴重なもう一人の参加者であった。天井は床のうえ十尺以上はなかったので、五十人あるいはそれ以上の蛮声の合唱でふくれたオルガンの捻(うな)りは、いとも怖しい性質の不協和な発動もって建物をふるわせた。壁を隔てて住む我々の隣人の平和はかくしてはなはだ侵害された、まったく不当でない彼らの苦情は絶えなかった。またわざわいなのは二階に下宿したものであった!日曜日は週間の最善の日であるので、兄弟たちは朝の非常に早くから礼拝の家に出かけた、そして夜の礼拝が午後十時におわって一同が自分の巣に退却するまでは、その家には何かしら人間の声のしないことはなかった。生れて初めて我々は自分の家を持った、そしてそれをいかなる家もかつて用いられなかったように用いたのである。そのころ入会した教会の最年長会員はそれを『旅籠屋』と呼んだ、それは我々が元気を回復するために人生の旅路のいかなる時にでも立寄ってよいところであった、そして彼が立ち寄るのは高齢の多忙な生活において彼が必要とする休息の機会の頻繁なるだけ頻繁であった。それは同時に読書室、教室、委員会、休息室、倶楽部室であった。我々の横隔膜を破らんばかりの笑い、我々の心の奥底を動かした悔悟のすすり泣き、我々の頭脳のうち最も大きな最も健全な頭脳を悩ました議論、取引と金儲け計画の話、すべてがこの最も便利な家の中で聞かれた。このようなのが我々の教会であった、そして我々はかつて全世界叢にそれに似たものを見たことがなかった。
 合同と独立のための働きはまことに活溌におし進められた。我らの聖公会賃の兄弟姉妹は彼らの礼拝の家を捨てて我々と合同しようとし、自分たちの書籍とオルガンを持って来た。彼らに家を買う援助をした英国教会伝道協会(The Church Missionary Society)はその家を協会自身のために使用しようとした、そしてその『回心者』は我々メソヂスト信者と合同してメソヂスト監督教会ミッションに我々の負債を返済しようとした。両者は負債が返済されおわるやいなやそれぞれの教会を去り、二つの教会を一つの独立自生の教会に構成することになった。計画は賛成された、そして我々は自分たちとしてはそれについて何の困難も感じなかった。ただ我々の外部の友人たちがその計画の当否と成否、および我々の将来に横たわっているかもしれない重大な困難についていろいろ議論をしたにすぎない。しかし我々は我々の将来については盲目であった、そして我々の『祝福された無知』のおかげで、合同は気を使い過ぎる我々の友人たちの憂慮した困難は何らなくして達成されたのである。
 新教会の組織は想像されうる最も簡単なものであった。我々の信条は信徒信条であった、教会規律は五年前に我々をニュー・イングランド教授によって起草された『イエスを信ずる者の契約』を基礎にした。教会は五人の委員会によって管理された、そのうち一人は会計係であった。すべて普通の事務は彼らによって処理された、しかし会員の入会退会というような、『契約』が触れていなかった問題が起った時には、全教会が召集された、そして全会員の三分の二の投票がそれを有効とするに必要とされた。教会はその会員のすべてにその為に何ごとかを成す事を要求した。彼らのうちなんぴとも怠惰であるべきでなかった、もし他に何もすることができなければ、彼をして我々のストーヴの薪を挽(ひ)かしめよ。一人一人がその成長と繁栄に責任があった、そしてこの点では『宣教師坊主』Oは我らの教会の最も小さい会員である我らのかわいい『お松嬢』より以上に責任はなかった。もちろん、必ずしも我々のすべてのものが説経をしたいとは思わなかった。そこで『宣教師坊主』O、『クロコダイル』W、『聖公会』ジョンおよびヨナタンが順番に説経壇を占領した、また長老教会信者の友人K君はこの方面で大いに我々を助けてくれた。ヒューは我々の誠実な会計係であり、我々の会計を複式簿記でつけた。特別訪問委員会があり、そこでは我々の善良なエドウィンが最も目立って見えた。会員中の年少者は聖書売りの仲間を作り、聖書とトラクトを近隣の町々村々に売り歩いた。我々ぼ多くはおおむね新しい土地のの踏査に、測量に、鉄道建設に、等々と、町の外に滞在していた、しかし彼らはみな町にいる我々のように基督教の仕事に忙しかった。我々は進んで、いかにして全部の機構が我々の目指す大目的にむかって働いたかを見たいとおもう。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫



論語 №32 [心の小径]

八七 子のたまわく、父母の年は知らざるべからず。一はすなわち以て喜び、一はすなわち以て懼(おそ)る。

                       法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「父母の年齢は記憶していなくてはいけない。そして一面ではその長寿を喜び、他面では老いさきの短いことを心配しつつ、一日をも惜しんで孝養をつくすべきだ。

「樹(き)静かならんと欲すれども風止まず、子養わんと欲すれども親待たず」「孝行のしたい時分に親はなし」ということにならぬようというのだ。「ちちははのしきりにこいし雉の声」とやら、私はこのごろともすれば両親の歳を指折りかぞえ、今年九十いくつに八十いくつ、まだ絶対に生きていられぬ年齢でもないなどと考える。
                                    
八八 子のたまわく、いにしえ言(こと)の出(いで)ざるは、躬(み)の逮(およ)ばざるを恥ずるなり。

 孔子様がおっしゃるよう、「古人が軽々しく物を言わぬのは、自分の実行がそれに伴わぬことを恥じるからだ。」

 今の人は責任に実行もできぬことを言う、との非難を言外にふくむ。

八九 子のたまわく、約を以てこ失う者は鮮(すくな)し。

 孔子様がおっしゃるよう、「引きしめ過ぎてしくじる者はすくない。」

「引きしめれば失策がすくない」と解するのが普通だが、すこし強く言ってみた。

九〇 子のたまわく、君子は言(こと)に訥(とつ)にして行いに敏(びん)ならんことを欲す。

  孔子様がおっしゃるよう、「君子たる者、口不調法(ぶちょうほう)にして行動敏活(びんかつ)なれ。」

 必ずしも訥弁(とつべん)がよいというのではないが、口ばかり達者なのは困る。
 第一次世界大戦当時英国に留学していたころ、議会で陸軍次官テナントが何カ月前とかに某部隊が大打撃を受けたが、その損失は即座に補充された、という報告をしたので、損失を即座に補充したのはけっこうだが、報告がこんなにおくれたのはどうしたものだ、と一議員がつめよったところ、その時次官少しもさわがず、この『論語』の文句を文字通り英訳したのではないかと思われるような答をして、みごとに質問の鋭鋒をそらした、という新聞記事をほほえましく読んだことがある。            

九一 子のたまわく、徳孤(こ)ならず、必ず鄰(りん)あり
                                        
 孔子様がおっしゃるよう、「徳は孤立しない、必ず隣が出来る。」

 有徳者の感化(かんか)影響である。舜(しゅん)の居る所、一年にして村を成し、三年にして郡を成したという。

九二 子游(しゆう)いわく、君に事(つか)えてしばしばすれば、ここに辱(はずかし)めらる。朋友にしばしばすれば、ここに疎(うと)まる。

 子游(しゆう)が言うよう、「君に事えるにあまりしつこくすると、軽んじ侮(あなど)られることになる。友と交わるにあまりしつこくすると、うとまれきらわれる。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


出会い、こぼれ話 №47 [心の小径]

第46話 落下傘げんこつ

                  教育者  毛涯章平

 私は現職中、一貫して厳しく指導しようと心掛けたことは、次の三点だった。
○他人に迷惑をかけたとき
○みんなで決めた約束を守らないとき
○友だちをばかにしたり、いじめたとき
 だから、このどれかに当たる時は、本気で叱った。ときにはげんこつをその子の頭上にかざした。
 けれども、小さなかわいい子どもたちが、怖そうに首をすくめるのを見ると、懸命にこらえて、とっさに手のひらを開いて、その子の頭を力いっぱいなでた。
 そうして、「もうやるなよ。いい子なんだから」と言ってやるのだった。
 いつしか子どもたちは、『落下傘げんこつ』と呼ぶようになっていた。
 ところが、ある時落下傘が開かないことがあった。
 それは、四年生の秋の遠足の日のことであった。
 目的地の山の峰で遊んだ後、昼食というとき、数人の女の子が顔色をかえて訴えてきた。水筒の水がほとんど無くなっているというのだった。
 私は、『これは単なるいたずらでは済まされない』と思った。そこで全員を集めて問いただすと、五人の男子が素直に名乗り出た。
 私は、この行為がどんなに他人を困らせる悪いことかを話して聞かせて、
「いいか。今日は落下傘が開かないぞ。この味をしっかり覚えておくのだ」
と、一人一人にげんこつをくれた。五人は悲しそうに泣いた。見ていた女の子たちも泣いた。
 そして私もー
 卒業後ある年の同級会に立派に成人した彼等が、「あの時は落下傘が開かなんだ。その時先生は、わけを話してくれた。だから一生忘れない。有り難かった」と話すのを聞いて、私はもう嬉しいやら恥ずかしいやらで胸がつまってしまった。

『章平先生の出会い。こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


余は如何にして基督信徒となりし乎 №20 [心の小径]

第四章 新教会と平信徒伝道 1

                      内村鑑三

 我々が我々のカレッヂを卒業するやいなやめいめい一カ月三十円の給料のある地位を提供された。我々は実用科学を教えられ、我が国の物質的資源を開発するようにされていたのである。我々はけっしてこの目的からはずれなかった。、ナザレのイエスにおいて我々は、大工(だいく)の子であることによって人類の救い主であった人を見たのである、そして我々彼の卑しき弟子たちは、漁夫、技術者、製造者であって同時に平和の福音の伝道者であるかもしれなかっ。漁夫ペテロと天幕製造者パウロとが我々の模範であった。我々はけっして基督教をいかなる種類の聖職制度とも教会主義とも解釈したことはなかった。我々はそれを本質的には平民の宗教として受取る、そして我々が『この世の人』であることは我々が伝道者であり宣教師であることにすこしも障害とはならない。我々は信ずる、我々の科学力レッヂを去った時の我々以上に潔(きよ)められた一組の青年がかって学園を去ったことはなかったと。我々の目的は精神的であった、我々の訓練と到達点とは物質的であったけれども。
 カレッヂの課程を終了した後、余は首府にある我が家にもういちど帰省した、今回は『六兄弟』全部が余とともに上京した。我々の首府滞在はまったく楽しくあった。我々は宣教師から多くの招待を受け、我々がやって来たわずかなことのために称讃され、我々の経験を彼らの集会で語ることを求められた。我々は教会の構造やその管理の方法を学んだ、我々の所に帰ったとき我々自身の教会にそれを応用するためである。遥か北方から、原始林と熊と狼とのなかから出て来たのであるけれども、我々は基督信徒のなかでもっとも知的でない者ではないことがわかった。我々がメリケン粉樽の講壇から聴き青毛布の上で話し合ったことは、首府の諸教会の教えや教養と比較してもっとも粗野な思想ではなかった。或る点では、じつに、専門神学者の配慮のもとに育てられた我々の友人たちよりも、我々はより深いより健全な見解をもっていると我々は考えた。
 余はまた、二年前に余が行ったように、友人と親戚の間に余の伝道事業を続けて行った。異端者の頭目は余の父であった。学問と自分自身の考えについての強い確信とがあって、余の信仰をもって近づくのにもっとも困難な人であった。三年間余は彼に書籍と小冊子を送りつづけてきた、絶えず手紙を書いてキリストに来てその救いを受けるように懇願してきた。彼は貪り読む読書家であって、余の書籍は全然は無視されてはいなかった。しかし何ものも彼を動かすことはできなかった。彼は社会道徳に関するかぎりは正しい人であった、そしてそういう人が常にそうであるように、彼は救いの必要をもっとも多く感ずる人ではなかった。余のカレッヂ課程の終りに、余は余の勉学と精勤のために再び少額の金を授与された、そして余はそれをできるだけ有益に用いることを考えた。余はそれを余の神に祈った。まさにそのとき一つの考えが余に起った、両親に何か贈り物を持って行こうと、そしてこの目的のために在シナ独逸人宣教師ファーベル博士が書いた『馬可講義」にまさる品物は余に思いつかなかった。その著作は五巻であった、そしてそれが意図されたその当の国民の教養をそなえている健全にして広汎な学識の産物として、非常に高く評判されていた、またいまなおそうである。それは訓点のない漢文で書かれていた、そして余は、他の何でなくともそれを読むことの困難が、それを閲読しようという父の知的欲望を刺激するかもしれないと考えたのである。余はこの著作に二円を投じ、行李に入れて父のもとにたずさえて行った。しかし、ああ! 余がそれを父に贈った時に、感謝や満足のいかなる言葉も彼の唇からは出なかった、そして余の心の最善の願いは彼の最も冷たい歓迎に出合ったのである。余は密室に入って泣いた。本は他の屑(くず)物とと箱のなかに投げ込まれていた、しかし余は第一巻を取り出し、それを彼の机の上に置いておいた。他に何もすることのない暇の時に、彼は一頁くらいは読んだであろう、そして再びそれは屑物の中に入った。余はそれを再び取り出した、そして前のようにそれを彼の机の上に載せた。余の忍耐は彼がこれらの書物を読む気にならないだけそれだけ大きくあった。ついに、しかし、余が優勢となった、彼は第一巻を通過した! 彼は基督教を嘲笑すむことを止めた!その書中の何かが彼の心に触れたに相違ない!余は第二巻に対し第一巻に対したと同じことをした。しかり、彼は第二巻をもまた終った、そして基督教を善(よ)く言い始めた。感謝す神よ、彼は来りつつあった。彼は第三巻を終った、そして余は彼の生活と態度に或る変化を認めた。彼は飲酒を減じようとした、そして彼の妻子に対する振る舞いは以前よりも愛情的になりつつあった。第四巻を終った、そして彼の心はへりくだった!『息子よ』と彼は言った、『私は傲慢な人間であった、この日から、お前は信じてよい、私はイエスの弟子となるであろう。』余は彼を教会に連れて行った、そして彼のうちにその全性情の大変動を認めた。そこで聞いた一つ一つの事が彼を感動させた。まったく雄々しく武士らしくあった眼は今は涙をもってうるおった。彼はもはや酒に触れようとしなかった。なお十二カ月して、彼は洗礼を受けた。彼はまったく徹底的に聖書を学んだ、そして彼はけっして悪い人ではなかったのであるけれども、それいらいは彼は基督信徒的人間であった。いかに彼の息子が感謝に溢れたかは、読者の判断にお任せする。-エリコが落ちた、そしてカナンの他の町々は続々と占領せられた。余の従弟、余の伯父、余の兄弟たち、余の母、余の妹、一同が後に従った、そして十年間、摂理の手はつらく我々を取扱い、我々は幾多の深い淵を通過せしめられたけれども、また孜々が告白した信仰は我々をして世人の眼には嫌悪の情を起させるものたらしめ、人生の快楽の多くは御名のために放棄せられることになったけれども、余は信ずる、我々は今なお我々の天上の主に対する愛と忠誠とにおいては国内の他のいかなる家にも劣るものではないと。四年前に、もう一人の家族が我々の家に加えられた。彼女は『異教徒』として我々のもとに来た、しかし一年のうちには、いかなる婦人も彼女より以上にその主なる救い主に忠実ではなかった。善き主は彼女を、わずか一年半我々のもとに留(とそ)まらせただけで、我々から取り去りたもうた。しかし彼女が我々のもとに来たことが彼女の霊魂の救い主を発見する機会であった、そして彼女は主と祖国のためにまことに気高く戦ったのち、彼に信頼しつつ彼の歓喜と祝福に入った。さいわいなるかな、主にありて眠る彼女は、さいわいなるかな、その絆が彼にありまたそれが霊的である我々一同は。
 秋になって余はもういちど北国にある余の活動の野に帰った。余は弟を同行した、我が家は貧しくあった、そして今や余は月給取りとなった以上は両親の荷を軽くしなければならなかったからである。余はエドウィン、ビュー、チャールス、パウロとの共同生活に入った、そして我々はいっしょに一軒の家を持った。それはカレッヂ生活の継続であった、ただ学校寄宿舎よりはそこには少しく自由と快楽とが多くあっただけである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫



論語 №31 [心の小径]

八三 子のたまわく、賢(けん)を見ては斉(ひと)しからんことを思い、不賢を見ては内自ら省みる。

                  法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「賢くて徳のある人を見ては、自分もこの人のようでありたいと思い、賢からず徳のない人を見ては、自分もこの人のようではないかと反省する。」

八四 子のたまわく、父母に事(つか)えては幾(ようや)く諫(いさ)む。。志の従わざるを見ては、また敬(けい)して違わず、労して恨まず。

 孔子様がおっしゃるよう、「父母に過ちある場合には、子として諫めねばならぬが、きびしくとがめ立てするような態度でなく、かど立たぬようジワジワと諌むべきだ。そして諌言(かんげん)がきかれない場合にもほんとに困ったわからずやだなどと敬意を失った気持をもたず、いくら苦労迷惑しても怨みがましくない、それが孝子というものじゃ。」
 めんどうだからいいかげんにしておけ、というのではない。手をかえ品をかえてけんか腰でなく諌むべきだ。やはり重盛諫言などが理想的の「幾諌」であろうか。

八五 子のたまわく、父母在(いま)すときは遠く遊ばず、遊べば必ず力あり。

 孔子様がおっしゃるよう、「父母の存命中は無用の遠出をせぬものぞ。やむを得ず遠方へ旅行でもする場合には、必ず行先を明らかにして、心配をかけぬようにせよ。」
 私の母は、私たちが子供の時から、あまりやかましく干渉はせず、友だちの所へ遊びに行きたいとか、旅行をしたいとかいえば、快く出してくれたが、無断で外出したり、予定以外の寄り道をしたり、帰るといった時刻におくれたりすると、ひどくしかられたものだ。時にはずいぶん窮屈だと思ったこともあるが、それが癖になって、父母いまさぬ老後の今日でも、外出のときには、必ず何時から何時まではどこに居り、何時には帰る、ということを家人に言いのこし、でき得るかぎりその予定をたがえぬようにしており、また妻や息子や嫁や娘にもそうさせる家風になっている。今日のような交通不便の時代には、それがなかなかむずかしいが、同時にそれがいっそうそうさせる家風になっている。家人の安心のためでもあり、火急な事が起った場合の連絡上も必要だ。留守に人が来たり電話があったりした場合に、サアどこに行っておりますか、などは第一体裁もよくないし、また自身としても、どこへ行きどこへ回るということが公言できないようでは、うしろぐらい次第だ。大げさに言えば、出所進退を明らかにする、ということにもなる。

八六 子のたまわく、三年父の道を改むるなきは、孝と謂うべし。

 これは前に出ている。かような重出は数カ所あるが、これは一度言ったのが二度出たのではなく、二度三度言ったことの整理もれであろう。
  古註(こちゅう)に、
「凡そ諸章の重出せるものは、けだし夫子しばしば言い、門人互いにこれを録せるなり。
意味深長、学者宜(よろ)しく玩(もてあそ)びて 審(つまびらか)に思うべきなり。」
とあり、また太宰春台も左のごとく言う。
「論語中語の重出するもの、或は詳、或は略、随時同じからず。意あるにあらざるなり。記者一人にあらず、各自聞く所を記す。異同ある所以なり。」

『新訳論語』 講談社学術文庫



文化的資源としての仏教 №9 [心の小径]

文化的資源としての仏教9                

          立川市・光西寺住職 寿台順誠

        四苦八苦⑵――その論理構造

前回私は一般に「人生の苦の総称」であると説明される「四苦八苦」が、果たして人間の苦をすべてカバーしているものかどうかという疑問を提示して、これを考えるためには、まず「四苦八苦」に表わされた仏教独特の論理構造(思考方法)について理解する必要があると指摘しておいた。以下、それについて考えてみたい。

「四苦八苦」の説明としては、「苦の総称」といった説明の他に、「苦しみを四つあるいは八つに分類したものの併称」(『岩波仏教辞典 第二版』2002年)という説明もなされている。これはいわば「苦の総量」を「四つあるいは八つに分類したもの」という意味に受け取ることができると思うので、この説明もやはり四苦八苦が「苦の総称」であることを示していると考えてよいであろう。
ところで、このように四苦八苦が苦の「分類」だと説明されると、それは「苦の総量を四分割ないし八分割したもの」だと言われているように読めるであろうし、また、「生・老・病・死」乃至「愛(あい)愛別離(べつり)別離苦(く)苦・怨憎(おんぞう)怨憎会苦(えく)会苦・求(ぐ)求不得(ふとく)不得苦(く)苦・五蘊(ごうん)五蘊盛(じょう)盛苦(く)苦」の「四つ」乃至「八つ」の苦は各々並列的に列挙されているもののように受け止められるであろう。しかし、私たちの実態に即して言うならば、はじめの四苦のうち「老・病・死」が「苦」であることは実感しやすいことであるが、「生」(生れてきたこと自体)が「苦」であることには、なかなか思い至らないのではないだろうか。
また、あとの四苦のうち「愛別離苦」(愛する者と離れなければならない苦しみ)、「怨憎会苦」(憎い者と一緒にいなければならない苦しみ)、「求不得苦」(求めるものが得られない苦しみ)は分かりやすいことであるが、「五蘊盛苦」になると、一般にはそもそも何を言っているのか理解しがたい言葉だということになるのではないか。「五蘊」とは人間存在を、「色(しき)色」(感覚器官を備えた身体の意。後に物質一般に意味が拡大)、「受(じゅ)受」(苦・楽・不苦不楽の3種の感覚或いは感受)、「想(そう)想」(対象の像や観念を受動的に受けとる表象作用)、「行(ぎょう)行」(能動的に意志する作用或いは衝動的欲求)、「識(しき)」(認識或いは判断)という五つのモノと作用の集まり(「蘊」の梵語skandhaは「集積」の意)として捉えるもので、その五蘊から盛んに生起する苦を「五蘊盛苦」と言うのであるから、要するにこれは見るもの・聞くもの、やること・なすこと全てが苦である(つまり、総じて人生は苦である)と言っているに等しいであろう。「愛別離苦」等の具体的な苦をいくつ列挙しても、やはりなかなか「五蘊盛苦」には至りつかないのではないだろうか。
以上のことから、「苦」として認識される順序として表現するならば、はじめの四苦は「老苦・病苦・死苦………⇒生苦」として、あとの四苦は「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦………⇒五蘊盛苦」として表すことができるだろう。つまり、前者について言えば「老・病・死」以外にも、後者に関して言えば、「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦」以外にも多くの「苦」を列挙することができるであろうが(そのことを「………」で表している)、そうした「苦」はほとんど無数に列挙できると思われるので、経験論的・帰納法的にどれだけ「苦」を並べ立てたとしても、論理的には「だから総じて人生は苦である」とは結論し得ないという問題があるけれども、しかし我々の人生の実感として言えば、いくつもの「苦」を経験するうちに、ある時点で「信仰上の飛躍」とでも言うべきものが起こって(その飛躍を「⇒」で示している)、「そもそも生まれてきたこと自体が苦である」(生苦)、また「見るもの・聞くもの、やること・なすこと全て苦である」(五蘊盛苦)という認識をもつに至る、ということがあるのではないだろうか。私はここに仏教独特の論理構造・思考方法があるのではないかと思うのである(これは「縁起」という仏教の因果関係論に関わることだと思われるが、これについてはまたいずれ取り上げることにしたい)。

このように考えてくると、四苦ないし八苦でもって人間の苦をすべてカバーできているのか、他にも苦と言えるものはあるのではないかと言っても、むやみやたらに苦のカタログを増やせばよいということにはならないであろう。所詮、帰納法的にどれだけ具体的な苦を並べ立ててみても、「総じて人生は苦である」という真理には到達しないからである。そこで重要になってくるのは、「老・病・死」や「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦」以外に、それを通して「生苦」や「五蘊盛苦」という究極的な苦に至りつく経路になり得るような深刻な苦はあるであろうか、もしあるとすればそれはどのような苦なのか、という問題だと思われる。が、この問題については、「四苦八苦」について記す最終回に改めて述べることにして、次回からはしばらく、「現代における生老病死の苦」について考えてみることにしたい。


出会い、こぼれ話 №46 [心の小径]

第45話 肩書への畏れ

                 教育者  毛涯章平

 菊池寛の短篇「形」には考えさせられる事が多い。
 『摂津の国の侍、中村新兵衛は槍中村といわれて、五幾内中国に知れ渡っていた。
 彼は緋(ひ)の服折を着て金色のかぶとをかぶり、その姿は輝くばかりで、それを見ただけで敵の雑兵は逃げ散った。
 ある時、元服まもない若侍から、明日の初陣に、仮の服折とかぶとを貸してほしいと懇望された。
 新兵衛は快く受け入れて
「これは新兵衛の〝形″じゃわ。これを身につけるからは、われらほどの肝魂を持たいではかなわぬもので」
と言うのだった。
 翌日の戦いに若者は、くだんの服折とかぶとを朝日に輝かせながら一気に敵陣に乗り入れた。すると凧に吹き分けられるようにその一角が乱れ、若武者“何人かを突き伏せて悠々と味方の陣に引き返した。
 そこで新兵衛は二番槍をと、駒を乗り出し真一文字に敵陣に殺到した。
 するとあの若武者の前には、戦わずして浮き足立った敵陣が、新兵衛の前にはびくともしなかった。
 新兵衛はその日に限って雑兵の黒皮鍼(おどし)の鎧(よろい)に南蛮鉄のかぶとをかぶっていたのである。
 新兵衛は、ともすれば突き負けそうになった。
 服折やかぶとを貸したことを後悔する気持ちが頭をかすめた時であった。敵の雑兵の突き出した槍が彼の牌腹(ひばら)を貫いていた。』
 この小説は、形や肩書きがもつ不思議な微妙な力
を物語っている。

 ところで、現在社会的に与えられている様々な「肩書き」は、新兵衛の「形」と同じ意味を持つもので、彼の言うように、この「形」を身につけるからには、それにみ合う中味が伴わなければならない。誰もが常に省(かえり)みて、肩書きに恥じない中味の充実につとめたい。

『章平先生の出会い、こぼれ話』 2015年豊丘村公民館会報


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