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続・対話随想 №14 [核無き世界をめざして]

 続対話随想14 中山士朗から関千枝子さまへ 

                                          作家 中山士朗
 

 今回、四度目のペースメーカーの入れ替え手術を受けましたが、四度目ともなれば、感染症が気遣われ、そのために抗生物質による治療がほどこされました。その副作用によって、入院中もそうでしたが、退院後も食欲がなく、まったく食事を摂ることができず、体重も五キロも減ってしまい、瘦せ衰えてしまいました。鏡に映る自分の顔になんとなく死相が現れているように感じられたものでした。手術後にはたびたび血液検査が行われましたが、白血球の数値は良好とのことでした。けれども、動悸、息切れめまい、食欲不振が続き退院後一週間経ってようやくそうした症状が収まり、少しずつ食事が進むようになりました。
 関さんとの往復書簡が始まった当初、蜂窩織炎に罹り、入院したことがありました。この病気は、皮下及び深部の密度の粗結合組織中に起こる急性の化膿性炎症のことをいうらしいのですが、つまり、私の体質は白血球の数値に影響を受けやすいということなのでしょう。
 そのようなことをあれこれ回想しておりましたら、昭和三十五年に「被爆者健康手帳」の申請をした際、医師の診断書に白血球の数値の異常が記入されていたことがふと思い出された次第です。そして、現在八十六歳になるわが身を振り返りますと、今更、そのことを嘆いていても仕方がなく、あるがままに生きるしかないと思っております。
 ここまで、今回の入院中の憂鬱なことばかりを書いてしまいましたが、その反面、私は別府によって生かされた自分というものを強く感じないではいられませんでした。
 私が四十三年間住んだ東京から、まったく誰一人知った人のいない別府に移って来たのは、平成四年のことでした。その直後に、右心房完全ブロックによる新機能不全で倒れ急遽入院となり、人工心臓ペースメーカーの埋め込み手術が行われ、私の命が保たれたのでした。東京にいた時分にも、会社、自宅、通勤途上で失神発作を起こしましたが、すぐに検査ができなかったために、その原因が通っていた大病院でも解明されませんでした。
 別府に移住するに際して、知人から紹介してもらったのは、新別府病院の循環器内科部長でしたが、通院するようになって間もなく倒れたのでした。その手術を担当してくださったのは、私が現在診てもらっている、定年後に別府温泉病院に移られた中尾先生、そして現在は新別府病院の院長となっておられる中村先生でした。
 別府市内には現在、内竈に独立行政法人 国立病院機構・別府医療センターがあり、鶴見には国家公務員共済連合会・新別府病院があります。前者は戦前には陸軍病院、後者は海軍病院でした。私がペースメーカーを植え込んでもらった新別府病院は、通院をはじめた当初は、質素な木造建物でしたが、その後改造が重ねられ、一年ほど前に新型救命緊急センター、日本医療機能評価認定施設としての立派な施設が完成しました。私は今回その新しい病棟に入院し、その恩恵を受けたのでした。そのエントランスホールの正面の壁には、
 Science  & Humanity
        科学する心と人間愛

 「理念」の言葉が掲げられていました。
 私がこのたびの入院で、私が別府によって生かされたと強く感じるようになったのは、私が二十五年前に通院するようになった頃からの人々に出会ったからです。時を同じくして病院のレントゲン技師として配置された人と、今回の入院中、看護師に付き添われてレントゲン室を訪れたときに偶然出会ったのでした。パソコンで受付患者の名前を見て、驚きの眼でもって私を見つめ、私と十六年前に亡くなった妻の名前を言い、妻が私より十四歳年上であったことや、レントゲン室に通っていた私たちの様子をよく記憶し、語ってくれました。私も一目見た瞬間に、彼だったとわかりましたが、こちらは相手一人の記憶ですみますが、彼は無数の患者を相手に記憶しなければならないなかで、私たち夫婦の名前と杖を突いて歩いていた妻の行動を即座に語った記憶力には驚嘆しました。それとも、私たち夫婦がよほど変わった組み合わせとして記憶に残っていたかもしれません。恐るべきことであります。
 また、手術が終わって間もなく、メーカーとしての最終チェックがありましたが、その担当者は、二十五年前の植え込み手術のときにも立ち会ってくれた人でした。正確に機能していることを告げたあとで、「今度の機器は十年より少し先まで持ちますよ」と言いました。十年先になると、私は九十六歳になりますが、そんな年齢まで生きてはいたくないと思います。
 私が別府によって生かされたという思いは、別府に移住して来たことによって、瀬戸内海を通じて広島を客観的に、冷静な目で捉えて作品が書けるようになったことではないでしょうか。
 「原爆亭折り父子」で日本エッセイスト・クラブ賞を頂けたのも、その後多くの短編小説やエッセイを書き残すことができたのも、またそれらの仕上げとして関さんとの『ヒロシマ往復書簡』を書き続けることができたのも、生かされたお陰だと思っています。


丸木美術館から見える風景 №46 [核無き世界をめざして]

幻の牛

                            原爆の図丸木美術館学芸員  岡村幸宣

2月、名古屋出張の帰りに、藤沢駅前のビルの6階にある藤沢市民ギャラリーへ立ち寄った。

この市民ギャラリーに来たのは、ちょうど10年前、2007年に開催された「藤沢市30日美術館 藤沢と丸木位里・俊展」以来。
神奈川県立近代美術館の水沢勉さんと初めていっしょに仕事をさせていただくなど、思い出深い展覧会だった。今回は、最終日を迎えた山内若菜さんの《牧場》の展示を観るのが目的だ。

彼女から初めて連絡があったのは、記憶が正しければ、2013年に神奈川県立近代美術館・葉山で開催された「戦争/美術 1940-1950」展の少し後だったと思う。この展覧会に感動した彼女は、館長の水沢さんのもとを訪ね、君の絵は丸木美術館に合うかもしれない、と推薦されたそうだ。

その後、展覧会の案内状をもらい、初めて実際に絵を観たのは、2015年5月の銀座・中和ギャラリーでの個展だった。
会場には、福島県浪江町の牧場を取材した際の風景を題材に描いたという、壁いっぱいの大作が飾られていた。
一見儚げで、しかし、土と風の匂いのする作品。現実の風景と心象風景が入り混じったようでもあり、過去と現在の時間が折り重なるようでもあった。
彼女は文化交流としてロシアをたびたび訪れているそうで、シベリアの強制収容所と福島・飯館村の廃墟のイメージがつながったという《ラーゲリと福島》などのイメージの飛翔した作品も、印象に残った。
テーマはまっすぐ直球勝負だが、絵の表現は決して表面的ではない。これなら丸木美術館で展覧会をやっても面白そうだ。
会場に立っていた、華奢で小柄な画家に声をかけると、やります、という予想外に力のある声と、こちらを見つめる強い視線がかえってきた。

丸木美術館の2階アートスペースで彼女の個展を行ったのは、2016年3月のこと。
見るからに気持ちが高まっていた彼女は、会場の壁に収まりきらないほど横に大きく広がった《牧場》の絵を運び込み、部屋中にぐるりと展示した。そして、それだけでは気が収まらずに、1階の奥のロビーにも、天井から床まではみだすほどの大きさの《福島のお母さん》の絵も2点展示した。
彼女の熱い思いを、丸木美術館の小さな空間は受けとめきれなかった。学芸員としては、作品の大きさを制御すべきだったのかもしれないが、すっかり圧倒されてしまったぼくは、ロビーの窓を封鎖して、さらにもう1点《福島のお母さん》の絵を展示したいという彼女の提案を却下するだけで精いっぱいだった。

会期中には、二本松市在住の詩人・関久雄さんの自作詩の朗読に合わせて彼女が絵を描くというイベントや、浪江町に残って牛を飼い続ける「希望の牧場」の牧場主・吉沢正巳さんの講演会も行われた。
《牧場》の大作には、その「希望の牧場」で生き、死んでいく牛たちの姿が描かれていたが、墨の勢いが強すぎたのか、「真っ黒で何が描いてあるかわからない」という感想も少なくなかった。
それでも、絵に心を動かされる人は多く、来場者も日を追うごとに増えていった。この展覧会をきっかけにして、岡山県の中学校で絵を展示する機会も生まれたと聞いた。

そうした経緯があっての藤沢展である。
会場に入った途端、画面が明るく、牛たちの姿が浮かび上がってくることに驚いた。どうやら、中学校の生徒たちの感想を参考にして、加筆したようだった。
幾重にも墨を塗り重ねられた深い闇の上に白い絵の具がほとばしり、幻のような牛の姿を形づくる。
「わかりやすさ」ばかりが良い訳ではないけれど、彼女の内にある福島へのまなざしを他人が共有することに大切な意味が生じる作品だから、こうした変化は効果的だった。

土の色、星の光、貼り重ねた和紙の上に流された墨の中から浮かび上がる人や生きものたちの姿を見ているうちに、この絵が小さな宇宙のようにも見えてきた。
「3.11」後の私たちが生きる世界、そして「3.11」よりずっと前から受け継がれてきた宇宙。
それが、彼女の身体を通って、目の前に現れてきたような感覚。

丸木美術館での作家トークの際、「私には絵しかない、絵を描くことしかできない」と、観客の質問から遠ざかるように、青ざめながら何度も繰り返していた彼女の姿を思い出す。

客足の途絶えた夕暮れの美術館で、《原爆の図》の前に勝手に和紙を広げて、憑かれたように模写に没頭していた後ろ姿も。

時に危うく感じられる一途さで、彼女がどこまで内なる宇宙を拡げ、深めていくのか。これからもじっくり観続けていきたいと思いながら、会場を後にした。

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【「原爆の図保存基金」へのご協力のお願い】
《原爆の図》は、近年、ますます歴史的・社会的な意味が大きくなり、美術史的な視点からも20世紀を代表する絵画作品として、国内外で高く評価されつつあります。
一方で、丸木美術館は、建物の老朽化や、展示室・収蔵庫の温湿度管理および紫外線・虫害・塵埃対策の未整備などの現実的な問題に直面しています。将来的に《原爆の図》は、人類の普遍的な財産として、重要文化財や世界遺産に選ばれる可能性もあるでしょう。しかし、すでに画面上には虫食いなどの深刻な被害が表れ、このままの状態では作品の保存に支障が出ることは間違いありません。

そこで、50周年という節目を期に、《原爆の図》の保存管理が可能な新館建設と資料整理・保存公開のためのアーカイブ設立を目的とした「原爆の図保存基金」を立ち上げました。
詳細は追ってこのHP上で公開していきます。

郵便振替口座
口座名称:原爆の図保存基金
口座番号記号:00260-6-138290
寄付金額は任意となりますが、1万円以上寄付された方には記念誌をお送りいたします。
10万円以上寄付された方のお名前は、新館に掲示いたします(希望制)。
この寄付は寄付金控除の対象となります。
詳しいお問い合わせは、原爆の図丸木美術館(0493-22-3266)まで。


続・対話随想 №13 [核無き世界をめざして]

 続対話随想13 関千枝子から中山士朗様へ

                                    エッセイスト  関 千枝子

 本当ならここは中山さんの複信が入るはずなのですが、中山さんがペースメーカーの取り換え手術の前であり、目に何か炎症が生じて体調が悪く、もうひとつ落ち着かないということがありまして、私の「報告」をつづけてもう一回入れることにしました。
 ペースメーカーの入れ替え、経験のない私は簡単に思っていたのですが、大きな手術なのですね。それに当たって誓約書やらなにやら、いろいろ書類をとられて(このごろ病院面倒ですものね)、中山さんがナーバスになられるのもよくわかります。それに、私、近頃、同年配の方々(ヒバクシャでなくても)急に弱る方が多くて気にしているのです。この一年でずいぶん友を亡くしました。そして具合が悪くなっている方も多く、気にしています。
 誤解されると困りますが、私、中山さんの手術には何の不安も持っていません。電話で話す中山さんの声には張りがあります。声が変わってしまいいわゆる老人声になる方が多いし、耳が弱る方も多いのですが、中山さんの声若いです。私も幸い、目、耳、声などが元気なのはうれしく思っています。不器用な私は、目がだめになったらもう暮らしていくことはできないなどと思い、目がいいことをありがたく思わなければと思います。
 
 私の方は、この三月、四月、忙しくなりそうです。前の便で報告したシェフタルさんをこの間、被団協の事務局長田中熈巳さんに紹介しました。田中さんは、前からとても立派な方だと思っているのですが、安保関連法制違憲訴訟の原告になっておられ、この間、法廷で陳述もされました。それを読みまして、シェフタルさんに会ってもらいたいと思いました。シェフタルさんは、前にも書きましたが、日本滞在三〇年、日本語もうまいし、日本のことに精通しておられます。とても進歩的で平和主義者です。学者として、特高のことを調べたりしていますが、原爆のことに突っ込む勇気がなかったと言われます。原爆を投下した国、加害の国の国民としての複雑な思いは私にもわかります。そしてオバマが広島に行ったことで、勇気をもらったと言います。オバマ広島来訪についてはいろいろ考えがありますが、シェフタルさんがそういう風にとらえて、原爆のことに取り組もうと決意されたのなら、悪いことではないと思いました。そしてシェフタルさんを応援してあげたいと思い、ぜひ被爆者できちんと生きてきた方を紹介したいと思いました。田中さんにお願いしましたところ、田中さんも快く承諾してくださいまして、ちょうどビキニデーで焼津に行くから、静岡で会いましょうと言ってくださいました。シェフタルさんは浜松在住なので、静岡でお会いできればありがたいわけです。
 行きがかり上、私も静岡に行くことになりまして、一緒にお会いしました。私は田中さんが長﨑のヒバクシャだということくらいしか知らなかったのですが、親類を多くなくされ、お金がなかったのでしばらく働いてお金を貯めて東京理科大にいらしたこと(授業料が安かったかららしいです)、大学生協の運動を長くなさったこと、東北大にお勤めになっていたことなど初めて知りました。私は、被団協のような様々な考えの方がいる団体がともかくうまくまとまっているのは田中事務局長の力が大きいと思っているのですが、田中さんがもう今年位で事務局長もやめにしたいのだが、と言われるので、もう少し頑張って下さいと無責任なことを言ってしまいました。被爆者団体もいろいろあって自民党から左まで、いろいろありますからというと、シェフタルさんが、自民党?と驚くので、広島など、昔から自民党が強くて有名なところですよ、と言ってしまいました。そして「被爆者にはいろいろな考えの方がおられます。超保守から左翼までいろいろ。しかし、原爆だけはもうごめん、世界中のどこにも落としたくない、それだけは一致しています。これは絶対にわかってください。書いてください」と言ったのです。
そして、どんな方に体験を聞いても、さまざまなことに忘れっぽくなっている方も、あの日のことだけは、きちんと語ります。これをわかってほしいのですが(たぶんシェフタルさん、わかって頂けたと思いますが)。
 そのほかにも、前々回でお話ししたパリの松島かず子さんの映像制作も三月末から始まります。この準備打ち合わせも大変なのですが、とてもハードなスケジュールになりそうです。
 四月初め、松島さんとともに広島に入るのですが、撮影がすんだら、戸田照枝さんのところにお見舞いに行こうかと思っています。戸田さんのこと、往復書簡ではあまり書いていないのですが、国泰寺高校三年のときの同窓生で、後に彼女はクリスチャンになり、広島YWCAで地道な活動をつづけました。原爆詩や手記の朗読を熱心にされ(朗読グループ)、私の活動をつねに親身になって支えてくださった友です。第二集で、二〇一四年の八月四日のフィールドワークで、広島には珍しく雨が降り、雨が降ったので、中学生の参加者は学校から不参加命令が出て(事故を心配して)来なかったのですが、そのことを書いた文章で八〇代の参加者が「このくらいの雨で近頃の子どもはなんねえ」と怒った話を書いていますが、その怒った八〇代の女性が戸田さんです。
 元気だった戸田さんが、昨年お年明けから急に体調がおかしくなり、結局すい臓がん、大手術をやり手術は成功した、はずなのですが、腰痛がひどく、再発と分かり、私はとても心配で、撮影がすんだら彼女のところに飛んでいこうかと思っているのですが。とても心配です。たくさんの友が先に逝ったのですが、彼女のことを思うと叫びだしたいくらいです。長生きするのはいいことかもしれませんが、多くのゆかりの人を失うことでもあるのですね。でも、またそれだけに、生きている間は全力でしっかり生きなければと思うのです。
 ここでやめるはずでしたが、新ニュースを知りました。沖縄の摩文仁の平和記念公園に「全学徒隊の碑」ができ、除幕式があったというニュースです。沖縄戦での学徒の悲劇はひめゆり隊や鉄血勤皇隊など有名校のことはよく知られていますが、全部の学徒が動員され悲惨な目にあっているのです。有名校は「力がある」ので、記録や文集を出せますが、弱小校はできません。戦争の悲劇が有名校だけの物語に終わる。私は常々これは問題だと思っていました。広島の疎開地作業動員学徒の悲劇も同じです。国民学校高等科のことなど誰も知りません。この記事を読んで私は沖縄はやったな!と思いました。沖縄の場合、元学徒の要望を聞いて県がつくってくれたそうです。
これまで私、平和資料館の展示にきちんと入れてもらうことのみを考えていましたが、そうか、碑があったらなと思いました。広島でも運動できないかしら。広島市が作ってくれるなど考えられないですね。でも何とかできないかしら。途方もないことを考えています。


続・対話随想 №12 [核無き世界をめざして]

続対話随想⑫ 関千枝子から中山士朗様へ

                                   エッセイスト  関 千枝子

 なんだかばたばた忙しくて、すっかり遅くなってしまいごめんなさい。忙しさの所以は、この前にも書きましたアメリカ人の大学の先生シェフタルさんの、ヒバクシャへのインタビューのお手伝い、(と言ってもこの人に話を聞いてみれば、という程度のお手伝いなのですが)、それに加えてこれは前に書きましたかしら、パリ在住の日本女性(夫はフランス人)、で、松島かず子さんという方がいらして、原爆の、それも私の「少年、少女のフイールドワーク」に興味を示し、ぜひそのことを映像にしたいと言われるのです。これも着々進んでいまして、今パリとメールのやり取りで「詰め」の作業です。まあ、そんな雑用で忙しいのですが、今日は、シェフタルさんもお呼びし、私も話を伺って驚いた田戸サヨ子さんの話をいたしましょう。
 これも不思議な縁でして、昨年暮れ、私も入っている「図書館友の会」で話をする機会がありました。私が、「横浜の図書館を考える集い」で、一応代表として「活躍」いたしましたのは、もうふた昔前。今、私は、図書館に関してこれということもできず、地道な活動をしている皆様には申し訳ないありさまですが、その会で「図書館に関わり続けて40年」と言ったことで、私などが話していいのかしらと忸怩たる思いで、でも、これが私の図書館活動の最後の働きかもしれないと、お話をしたのです。その会に田戸義彦さんという横浜で建築士をしておられる方が出席しておられて、自分の母親・サヨ子さんの自分史を読んでほしいと一通の自分史(まだ第一部なのですが)を渡されました。
驚きました。田戸さんは、当時第二市女生だったそうで、教室を借りていた第三国民学校で被爆したようです。第二市女という学校があったことは知っていましたが、どんな学校やら知らず、建物疎開には動員されていないようで、前から疑問に思っていました。またこの方(私より一年上)、工場に動員されていたが、その日は電休日で学校に登校、被爆したと。つまり第三国民学校で被爆したわけで、私の被爆地(宇品の我が家)とは歩いて一二、三分の近さですそれに、この方、被爆後、爆心地を通って帰っているので。六日に爆心地を通った方など稀だと思います。私のクラスメートの母たちにしても、子どもを探しに入るのは翌日ということが多く、六日に爆心地に入った人の話など聞いたことがありません。いろいろな意味で、驚きましたので、有楽町のレストランに、田戸さん親子、シェフタルさんを呼んでお話を伺いました。
 まず、田戸サヨ子さんのお元気でしっかりしておられるのにびっくり。東大和にお住まいで、遠いのですが、疲れも見せずニコニコしておられます。お連れあいが体調を崩し、施設に入られたので、少し暇ができたとのことですが、まあ、本当にシャンとしておられます。
 サヨ子さんは、お父さんは早く亡くなられ、このころは、お母様ときょうだいと鷹匠町(爆心地から近い)に住んでおられましたが、母子家庭で、生活は大変だったようです。三篠国民学校の高等科を卒業しますが、卒業しても挺身隊にとられて働かされるだけなので、高等科卒の生徒を入れる女学校があるというので第二市女に行ったそうです。第二市女は高等科を卒業した子を入れる女学校として昭和一八年に実科女学校を母体にできたと広島原爆戦災誌の学校編にあります。だから、女学校と言っても一,二年生はおらず、高等科を卒業しては入った三年生から上の学校だったのですね。もっともサヨ子さんはそんなこともよくわからず、挺身隊を嫌って入学したのに、入ってみると女学校の三年生も勤労動員とのことで、三,四日学校で簿記を習っただけで、すぐ日本製鋼所に動員されました。工場は向洋にあり(広島駅の一つ先)、飛行機の部品を鋳物で作っていたそうです。入学から四か月たちましたが、学校のことも先生も級友もほとんどわからないままでした。
 八月六日は一か月に一度の電休日、学校に来て教室に座り、久しぶりの登校がうれしかったそうです。そこへピカ。爆風。級友の泣き叫ぶ声を聴きながら机の下にうずくまったまましばらく動けなかったそうです。気づくと窓ガラスは全部壊れ部屋はめちゃめちゃ、「痛い痛い」と友達はみな教員室へ行ってしまい、けがをしていないサヨ子さんともう一人の友達だけが残っている。そこへ助けてという声がしたので見ると、もう一人の友が引き戸の下でないている、助け出すと脚が折れたらしい。近くには陸軍共済病院があるので、.そこへ行こうと友を助けながら病院に向かったのですが、病院に向かう火傷やけがをした人の一団にあい、ショック。病院もいっぱい。長時間待って、板をあてがい包帯をぐるぐる巻いて、おしまい。
 私は不思議に思い、自分たちだけで病院に行くことを考えたのですか、先生に相談しなかったのですか、と聞くと、自分たちで病院に行こうと思ったと。先生にもあまりなじみはなく、それにほかの友達もどこかへ行ってしまってよくわからなかったからとのことです。新しい学校の新しいクラス、級友の名前もよく知らない。教師の指導などなかったのでしょうね。
私が不思議に思ったのは、私もあの後、父に言われて、祖母を連れて大河の知人の家に向かい、その時。第三国民学校のすぐ近くを通っているのですが、その時はまだけがや、火傷の人などみかけませんでした。おそらくピカから一時間以上たっていると思いますが、その時はまだやけどで逃げて来る人に会わなかったのです。私が火傷のものすごさを知ったのはずっと後でした。サヨ子さんのお話を聞くとなんだかすぐ病院に行ったように思えるのですが、彼女は火傷の人を見たという、このあたり確かめたのですが、彼女は確かに見たという。ただこれはいくら話してもわかりませんでした。何しろあの頃、私たちは腕時計など持っていませんから、正確に、あれは何時かわからないのです。
 とにかくサヨ子さんは大分待って友の手当てが終わってから、幸いその友の家が近かったので送り届け、もう一人の友といっしょに御幸橋に向かいます。橋の向こうは真っ赤な炎。ここから先はいけない、橋のところでずっと座っていたら、誰かが「通れるぞ」、というので皆で一斉に電車道を進んだ,鷹野橋まで来た時、火のトンネルを抜けたが、見渡す限り焼け野原で驚いたそうです。でも、紙屋町まで電車道を歩けたのに、そこから相生橋までが、道が残骸で一杯で通れない。サヨ子さんは紙屋町までは兵隊の手で道が片付けられていたが、そこから先はだめだったと言われるのです。私は八月六日に宇品方面から幕臣に入った人の話は初めてで驚いてしまいました。
やっと相生橋まで来て鷹匠町の方を見ると、そのあたりは壊滅、家など何もない。これはだめだとわーわー泣いたと言います。
 鷹匠町の人はいざというとき、川内村に逃げることになっていたので、そこに行こうと思い友は大芝町が家なので、励ましあって横川橋めざして歩くと、ひとりの青年に、足が痛くて歩けないから助けてくれと頼まれ、少女二人で青年を助け歩きます。横川橋で大芝に帰る友と別れ、今度はサヨ子さん一人で青年を助け、もう夕暮れになった道を、祇園町山本の青年の家にたどり着きました。結局その日は、青年の家で泊まることになるのですが、その家は農家で牛を一頭飼っていて、なんとその日、牛乳風呂に入れてもらったそうですよ。
 川内村に行ったが母は来ておらず、心配ですが、九日にお姉さんが川内村に来ます。お姉さんは、住吉橋(爆心から一・五㌔)の郵便局で働いていましたが、建物の下敷きになり、その後黒い雨に降られましたが、けが一つなく無事だったそうです。その日、川内村から捜索トラックが出るというのでお姉さんと二人乗せてもらい、自宅のあたりに行来探しますがお母さんは見つかりません。時間がかかっているうちに川内村に帰るトラックは出てしまい、置いてけぼりになったので驚きますが、仕方なく、横川の方に向かって歩き出すと、バラックの収容小屋ができていました。二つ目の収容小屋で横たわっているお母さんを発見したのです。お母さんは外傷は大したことはなかったがひどい熱です。十一日になって汽車が通っていることが分かり、宮島口の宮内村のお母さんの実家にお母さんを負ぶって転がり込みます。ここでやっとお母さんを布団の上に寝かせることができたのです。
 九日に、横川の方にバラックの収容所ができていたなど私も初めて聞きました。トタン屋根で畳が敷いてあり、壁はむしろが下げてあったそうです。畳などよくあったなと思いまが、考えてみると建物疎開で壊した家の資材、すべて兵隊たちがどこかへ持っていって軍が再利用したようです。とたんにしろ、畳にしろ、どこかへ保管してあったのではないか、それが緊急収容所に使われたのではないかしら。
 おかあさんは一四日になくなるのですが、その前に、伯母さんの家に疎開していた小学校六年の妹を伯母に連れてきてもらい、会わせることができたのはよかったと。私はおばさんの所にどうして連絡できたの?と聞いてしまったのですが、電報を打ったとのことです。なるほど、私の家のあった宇品など市内は、そのころはやっと電気が直ったくらい、電報など考えもつかなかったのですが、宮内くらい離れていると、そのあたりは平常通りなのですね、宮内村から伯母さんの友和村まで電報を打つことが可能だったわけです・
 おかあさの実家でそのまま世話になっていたサヨ子さんたちきょうだいは復員してきた兄と一緒に一一月に呉線の小屋裏の県営住宅に移ることができきょうだい四人で暮らしました。兄は国鉄で働き姉は郵便局が再開して働く。しかしサヨ子さんは、家の仕事で大変でした、コメの配給が少ないので、何とか手に入れなくてはならない、芋一つ買うのも一五歳の少女には大変でした。それで学校はそのまま行けなくなってしまいました。学校がどうなったのか、わからないし、あの日一緒に逃げた友も、その後どうなったやら、全くわからないと言います。
 一九四八年、姉の勤め先の局長の世話で祇園に移り、ここで妹の友人の関係でカトリックの教会を知り、三菱重工の祇園製作所の臨時工で働くことになりました。当時三菱は工員たちに定時制高校に行くよう勧めていたので、高校生になります。祇園線の車両一つが三菱の工員で一杯になるくらい、定時制高校に皆行ったそうです。「学校に行くのはうれしくてよく勉強した。国語が大好きだった」。なるほど、サヨ子さんは文章が確りしていますものね、こうして、可部定時制高校の一期生で、広島大学工学部に入った義登さんと知り合い、大恋愛結婚。お子さんを七人!も生むのです。
 そして、病気もせず、)暮らし、自分は原爆病にもならずけがもせず、だから被爆者手帳もいらないと思い込んでいたサヨ子さんは、平成元年になってから、ある日めまいで倒れ入院し、姉に言われ、被爆者手帳を申請しました(このころはもう東京に住んでいた)。係の人に話しても、六日に爆心地を歩いて生きているはずはない、あなたは嘘吐きだなど言われてしまった、しかし、第二市女で被爆したことは直ぐ証明が付くので、被爆者手帳を取得します。その時、たくさんの放射能を浴びたはずなのに、こうして元気で生きていることの不思議さ、「自分が生かされていること」を感じ、地域のヒバクシャの団体にも入り、近所の小学校でも語って来たというのです。
 彼女の話の紹介長くなってしまいました。私の初めて聞くような事実が多かったので、驚きました。そして彼女が戦後三菱重工の臨時工になり、工場の奨励で定時制高校に行ったことも素晴らしいと0思いました。原爆のため、あのまま学校に行けず、悔しい思いをした人も多いのですから。当時の三菱重工可部、なかなかやるな、と思いました。私は戦後の学校の明るさを思い出しました。校舎も壊れ、貧しい教育環境の中なのに、あの頃の学校の楽しさ。学ぶことの楽しさ。先生たちも手探りだったけれど、私はあの時代に、民主主義の大切さをわかったのだと思っていますので。


続・対話随想 №11 [核無き世界をめざして]

 続・対話随想⑪ 中山士朗から関千枝子様へ

                                        作家  中山士朗

 お手紙拝見しながら、いつに変わらぬご活躍ぶりに感心いたしております。
 これまでに送っていただいた『ヒロシマ往復書簡』の書評を読んだときにも感じられたことでしたが、そのいずれもが女性の方で、其の交流範囲の広さに改めて関さんの活力というものを思った次第です。その根底にあるものは、ご自身語っておられますように、”生きている限りちゃんと生きよう”という強い意志の表れで、草庵に篭りきりの私とではその気持ちのあり方に雲泥の差があるように思われます。
 しかし、関さんのこの気迫に引き込まれての五年間は、朝日新聞記者の宮崎園子さんが、いつか<記者有論>で、「広島から思う 家族たどり戦争を知ろう」と題して、晩年になって多発性骨髄腫に罹り、八八歳で亡くなったご自分の祖母の「最終章」について書かれておりましたように、最終章に入った私の、被爆者として生きたいことの記憶と記録を残す大切な時間となったのでした。
 こうした思いも、私の友人の高田君が年賀欠礼の葉書を印刷して送って来たことから端を発したものですが、その手術は成功し、無事に退院したという知らせを野村君から聞いております。手術の日からしばらくして高田君の家に電話してみたのですが、留守で通じなかったものですから、心配しておりましたが、結果がよくて何よりだと思っております。関さんの言葉に従って、能力の落ちてくるところを、自分でちゃんとつかみ、そこを「補完」しながら暮らしていくのも、最終章という言葉で表現された宮崎さんが,最近の朝日新聞に「心苦しい歴史 日本人直視を」という表題で、佐世保の元教員、渡邊さんが、翻訳で証言集のアーカイブ化に協力したことをコラムに書いていました。
 これはネット上の被爆地の立体地図に被爆者の証言を記録した「ナガサキ・アーカイブ」を一〇年、同様の「ヒロシマ・アーカイブ」を一一年に開設したものです。全世界からいずれも年間平均十万のページビューがあるそうです。
 それについて、「過去の資料の価値を今の世にあった形で、発信するミッション。技術はあくまで補助で、体験を語り継ぐ人の営みこそが大切」と渡邊さんは話しているそうです。
 このたびの関さんの手紙を読みながら、ふとこの宮崎さんが書かれたコラムが思い出されたのでした。パリ在住の松島かず子さん、静岡大学の教員のM・シェフタルさんは、ともに関さんの「ヒロシマの少年少女たち」に感銘を受けられ、そして直接会って話を聞きたいと思われたのだと思います。
 しかし、わが身に置き換えて考えてみますと、先刻の最終章の話ではありませんが、関さんの健康のことも気になります。お会いになって話を聞く対象者が、今ではごく少数に限られるのではないでしょうか、その一人として狩野美智子さんをご紹介されたのだと思いますが、その狩野さんも、自ら<戦中のアナウンサー>と名乗られる来栖琴子さんと同様に老人施設に入っておられると知り、改めて戦争を体験した人の最終章を覚えずにはいられません。来栖さんのいらっしゃる熊本県ああああ阿蘇村の老人施設を一度お尋ねしたいと思っているうちに大地震となり、遠い場所になってしまいました。
 狩野さんのことは、以前、関さんからご本を送っていただき読ませていただきましたので、よく存じ上げておりますし、最近、ご子息との対談集が彩流社から発行されたことを新聞で知りました。母から被爆の実相を聞いておきたいという思いから、作られた本だと記憶しております。
 こうしたことからも、関さんの『ヒロシマの少年少女たち』を、翻訳によってアーカイブ化されることが望ましく、参考までに宮崎さんが書かれたコラムの内容をお伝えしました。
 それにしても、狩野さんが、「玉音放送」あった後もラジオ放送を聞いておられたことを知り、あの「玉音放送」のあった日のことを思い出していました。
 母がバラック小屋で臥せっている私に、
 「日本は戦争に負けたんよ」
 と告げに来ました。
 それを聞いて、熱い涙があふれ、火傷した顔面に伝わるのが分かりました。
 原爆で破壊された広島に電灯が点るようになったのは、その年の暮れ近くになってからではないでしょうか。それまでは、夜になると蝋油に布で縒った芯を浸し、灯火としたのです。したがって破壊された家屋からラジオを取り出しても、使えなかったのです。後に必要があって「戦後のラジオ放送」について調べたことがあります。
<ラジオ放送に¥「天気予報」が復活したのは、日本がポツダム宣言を受諾し、終戦の玉音放送が全土に流された七日後の、昭和二〇年八月二十二日のことであった。
 三年半ぶりの予報復活は、人々に改めて平和を実感させた。それは、戦争が終わって灯火管制から解き放たれ、気兼ねなく電灯を明るくした時の喜びに似ていた>。
 このことから察して、天気予報の復活に合わせて、一般のニュースも流れるようになったのではないでしょうか。特に放送局(当時は、JOAK第一放送と言っていたように記憶していますが)は、GHQがまず最初に管轄下に置いたと言いますから、狩野さんがポツダム宣言の解説を聞かれたのもその頃だったのではないでしょうか。


丸木美術館から見える風景 №45 [核無き世界をめざして]

ミュンヘンの《原爆の図》

                     東松山市・原爆の図丸木美術館学芸員  岡村幸宣

冬のミュンヘンは最高気温も零度に満たず、街のあちこちに雪が積もる。
「戦後:太平洋と大西洋の間の美術1945-1965」を観るため、ハウス・デア・クンストを訪れた。
ハウス・デア・クンストは、日本語に訳せば「芸術の家」。ギリシャのパルテノン神殿のような巨大な列柱が正面にならぶ、壮麗な外観の建物で、1937年にヒトラーによって建てられている。
開館時にはナチスの推奨する芸術を一堂に集めた「大ドイツ芸術展」を開催し、同時期に別会場で前衛美術に「退廃」の烙印を押す「退廃美術展」が開かれたことも知られている。

そんな複雑な過去を背負う建物が当時のまま展覧会場として使われていることには驚いたが、さらに、ナイジェリア出身のオクウィ・エンヴェゾー氏が館長を務めていることも、自分にとっては驚きだった。彼は2015年に非欧米圏出身者で初めて国際現代美術展ヴェネツィア・ビエンナーレの総合キュレーターを務めるなど、世界を代表する優れたキュレーターの一人だ。
そして、今回の展覧会は、そのエンヴェゾー氏が重要な企画の中心的役割を担っていた。
準備には、8年の歳月をかけたという。第2次世界大戦が終結した1945年から20年間の大規模な世界の変動を、西洋的な視点をずらして多焦点化しつつ、8つのテーマ別セクションを設けて、65カ国の258人の芸術家による350点の作品によって再考しようという試みだ。

たしかに日本でも2015年を中心に、「戦後70年」あるいは「1950年代」などをテーマにした展覧会は開催されたが、その多くは、あくまで日本国内における美術の動向を再考する展覧会だった。                             果たしてドイツの展覧会はどのように「戦後」を回顧するのか。期待に胸を膨らませながら、美術館の扉を開いた。

最初の「余波――零時と原子の時代」の章では、丸木位里・俊夫妻の《原爆の図》より、第2部《火》と第6部《原子野》が招致されている。私がこの展覧会を訪れたのも、この展示を見るのが大きな理由だった。                      展示室には、2段掛けされた《原爆の図》のほか、彫刻家イサム・ノグチの原爆をモチーフにした作品や、山端庸介による長崎の被爆写真、アラン・レネ監督の映画『ヒロシマ・モナムール』の一部など、原爆の惨禍を喚起する作品が並び、展覧会全体の印象を決定づけるほどの強いインパクトを与える。

しかし、会場の奥へと進むうちに、この企画の真価は、その後の章で明らかになることに気づいた。
米ソの冷戦が本格化し、芸術の潮流も東西に分断されていく「戦後」の時代。もっぱら東側諸国では社会主義リアリズムが隆盛し、西側諸国はアンフォルメル、と呼ばれる抽象表現主義が席巻した。
展覧会は、こうした歴史を踏まえつつ展開されるが、その欧米中心的な視線を意識的に揺さぶるのが、第6章「コスモポリタン・モダニズム」だった。ここでは、自由や開放的という従来の「コスモポリタン(国際人)」の概念が、亡命、移住、ディアスポラへ変化した、と定義されなおす。
そして「新たなハイブリッド」は、(旧)植民地出身者が西洋で学び、あるいは抑圧を逃れた難民が故郷を離れて安全な場所を見つけたときに現れるとも位置づけられる。

実は、出品作のキャプションには、通常の作品名と作者名、生没年に加え、生誕地、死没地まで丁寧に記されていた。
その理由が、はじめはよくわからなかったが、この第6章でようやく理解できた。たとえば、ナイジェリア南部のオニチャで生まれロンドンで没したウゾ・エゴヌのように、この章では、非欧米圏から欧米圏に活動の場を移した芸術家の作品が数多く紹介されているのだ。

そこで初めて、展覧会の重要なテーマが「越境」であることに気づいた。
さらに第7章「形を求める国家」では、「戦後」に独立を勝ち取った旧植民地における「ナショナリズム」の多義性も示唆される。
戦後に広がった「グローバリズム」の概念は、今日、一部の強者のための画一的な社会を生み出しつつある。
しかし、世界はもっと多様で多義的なものだ。人びとは今も境界を越えて移動を続け、国家の概念は否応なしに揺らいでいる。
その反動のように、各地で時計の針を逆戻しするような「ナショナリズム」の動きが台頭しているが、この展覧会は、その荒波に芸術で対峙する、渾身の試みとも受けとれる。混沌の時代だからこそ、多様な世界の豊かさを見つめていきたい。
芸術は、その想像力のための重要な源泉なのだと、あらためて実感した。

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                                                                             【丸木美術館からのお知らせ】
現在開催中の企画展「美しければ美しいほど The more beautiful it becomes」(4月9日まで)
1984年、丸木夫妻は《沖縄戦の図》を描きました。それは絵画というメディアを通じて、沖縄戦の恐怖を今日まで伝える作品です。それから30年あまりが過ぎた現在。沖縄の、なにを見て、なにを聞き、どのように表現することができるのでしょうか。

参加作家=嘉手苅志朗、川田淳
協力=佐喜眞美術館、Barrack、木村奈緒、西尾祐馬
イベント共催=早稲田大学メディアシティズンシップ研究所
企画=居原田遥

◆シンポジウム「沖縄の情報は本当に伝えられていないのか」
3月26日(日) 15時より 予約不要・無料(要展覧会チケット)
登壇者=伊藤守(メディア研究/早稲田大学教授)、津田大介(ジャーナリスト/メディア・アクティビスト)、毛利嘉孝(社会学/東京芸術大学教授)、新垣毅(琉球新報社東京報道部長)
モデレーター=木村奈緒(フリーライター)
共催=早稲田大学メディアシティズンシップ研究所


続・対話随想 №10 [核無き世界をめざして]

  続・対話随想⑩ 関千枝子から中山士朗さまへ

                                   エッセイスト  関 千枝子

 お手紙に体のことと言いますか、今、昔からの友達たちが、いま一つ健康状態がよくないようだというようなことが書いてあり、私も「本当に!!」」と思ってしまいました。昨年暮れには喪中欠礼葉書も多かったし、年賀状にも「今年で終わりにする」というのが多かったのです。昨年は、有名人で忘れられない人々の死も多く、がっくりくる年もありました。。この喪失感、なんとも言えませんし、自分自身、弱ったな、という感じもあります。仕事が遅くなった、歩くスピードがガタ落ちそのほかいろいろ。
 でも、また昨年は、私より年上の方で、壮者をしのぐ元気さで頑張っている方に何人もお会いし、励まされました。また、死の寸前まで、悪い体で書き続けたとももあります。生きている限りちゃんと生きたい、と思います。私、目も、耳も悪くありません。このことだけでも、ありがたいと思います。少し自分の能力の落ちているところを、自分できちんとつかみ、そこを,「補完」すればいいと思います。
 さて今年は昨年よりさらに忙しくなりそうなのですが、その第一の」目玉商品」?が、外国人。外国に住んでいる方の取材です。
 その一人が、パリに住む松島かず子さんで、昨年お会いしたのですが、私の『ヒロシマの少年少女たち』に大変関心を抱かれ、映像にしてみたいと言われるのです。松島さんは半分しろうとのような方なのですが、そのような「作者」にでも、フランスは大分助成金をくださるようです。さすが文化の国!一方、フランスと言えば、核を持つ国でもあり原発の推進国でもあります。そのフランスの人々に、原爆の恐ろしさを少しでも知っていただければ。私はとても喜んで案内役を承諾しました、
 もう一人は、浜松に住むアメリカ人のM・シェフタルさんです。静岡大学の教員で、29年も日本に住み、日本語もとても上手ですが、原爆のことはその被害の酷さも知り、原爆投下の国の人間として、長年とても行けなかった。昨年オバマさんが広島に行ったので、勇気をもらって本格的に原爆に取り組もうと思ったと言います。オバマの広島行きも、意味があったのだ、と笑いましたが。シェフタルさんは私の本を読んで、一番先に私にインタビューを申し込んできました。お会いしたところ、体は大きいし、ちょっと威圧されましたが、とてもまじめで真剣なことが分かりました。彼の場合、ジョン・ハーシーの『ひろしま』のように何人かの方に遭わなければどうしようもない、そして被爆のことと、それから70年をどういうふうに生きてこられたか、話を聞いてまとめるしかないだろうと思いました。
 それで、先日、あなたもご存じの狩野美智子さんに会ってもらいました。狩野さんはいま小田原の老人施設におられます。
 小田原は浜松と東京、品川と真ん中で、ちょうどよいということもありました。
 中山さんにも差し上げたかと思いますが、私は、中山さんと往復書簡を始める前、狩野さんと往復書簡を交わしています。狩野さんと私の「共通点」と言いますと東京の私立の女学校から、広島(長崎)に一年前に行き被爆したということでしょうか。ともに、父親の仕事のためで、行った先の地理も知らず、親戚もなく、知り合いもなく…・というところは似ていますね。ともに東京では、歴史と伝統のある女学校で、公立の学校に比べ、のんびりしていたと思います。狩野さんは転校した翌日から、かの有名な三菱茂里町工場に学徒動員で働きに行かされ、魚雷を作らされているのですが、茂里町工場って幕臣に近いのですね、1.5キロないくらい。そこでピカ。あっという間に工場が倒れ、下敷きになったようです。
 結局山に逃げ、そこで一夜明かすわけですが、家族は生きているかどうか本当に心配されたようです。そのあとのこと、生き方、結婚、子どもを持ち、教員を経て、スペインのバスクに興味を抱く、本当にすごい一生なのですが、こんなことを書いていてもきりがないので、話の大部分ははし折って、私も初めて聞いてびっくりした話を書きましょう。
 彼女、帰り着いた自宅で(爆心から3キロ)、敗戦のラジオを聞いているのですが、あの、例の「玉音放送」の後もラジオを聴いているのですよ。そしたら、あの後ラジオ(当時はNHKとはまだ言いませんでしたね。JOAKは東京で、地区によりJO〇〇といっていましたね)。そのラジオで、ポツダム宣言の解説やら、日本は、本州と九州、四国、北海道そのほか小さな島々だけの小さな国になってしまった、これまでとは違うということをしっかり解説したのですって。だから彼女は、その時、敗戦とこれからどうなるのかすべて理解したらしいのです。狩野さんは私と学年では二年上で、一五歳です。一三歳の私とはかなり違うと思うのですが、びっくりしました。
 それにあの敗戦の。いわゆる「玉音放送」を聞いた人はたくさんいますが、その「後」を聞いたなど言う人、今まで聞いたこともありません、びっくりしてしまいました。ラジオが当時のことで聞きにくかったこともありますが、あの放送の意味が分かった人も茫然自失してしまって。それから後ラジオを聴く人などいなかったということでしょうか。
 私も、放送を聞いて茫然とし、大人たちもみなぼんやりしていますので、一人抜け出して学校に行きました。するとひとり生き残っていた友が、誰に聞いたか、夢を見たのか、ウジで一杯の腕を振り回しながら「日本もあんとな爆弾を作ったんと。もう大丈夫じゃ、今度はアメリカをやっつけるのじゃ」と叫ぶ、それを聞きながら堪えられず、庭に出て泣いたことをよく覚えています。あの日(8月15日)は大変な日でした、


続・対話随想 №9 [核無き世界をめざして]

   続。対話随想⑨ 中山士朗から関千枝子様へ

                                       作家  中山士朗

 何時しか、私たちの往復書簡も五年目に入ってきました。そして、今年の十一月には八七歳になるのかと思うと、何か生きているのが不思議な気持ちになります。
 前回の関さんの手紙に先輩、同僚の死、また今回の手紙では同年配、同期生の死について触れられていましたが、私の身辺でも、そうした知らせが届いております。先日も、関さんもご存じだろうと思いますが、私と露文科で一緒でした高田亘君から、年賀欠礼の挨拶状が届きましたが、それには一月十一日に開腹手術で腎臓、膀胱の一部と尿道を切除すると記されていました。暮れに、互いの現況を話し合い、この年齢になると何が起こっても不思議ではないね、と話したところでした。私自身もこの三月に心臓のペースメーカーの入れ替え手術(三度目)をしなければならないが、この年齢で、手術に耐えられるものかどうか不安だと話したところでした。
 そんな話をしたせいか、手術の末尾には「やっと入院日、手術日が決まり、『さあ来い』の心境です。いくら考えても結論は同じ、なるようにしかならないということです。敵も強壮ですが、自らギブアップはしないつもりです。かなうことなら今生でもう一度お会いしたいですね」と書いてありました。
 年が改まった早々、暗い話になってしまいましたが、関さんのお家のファミリー行事のことは、ほのぼのとした雰囲気が伝わってきました。最近、私と年齢が近い人たちから、ひ孫ができたということをしばしば聞かされていますので、ことによったら関さんも曾祖母になったのかな、ふと想像しています。エッセイストクラブ賞を受賞された時の、お嬢様とご一緒の写真が思い出されましたので。「今年でやめよう」と提案されなくてよかっ
たと思っております。
 けれども、考えてみますと、私たちの、これまでの往復書簡では、それぞれの家庭内について書いたことはありませんでしたね。前回の私の手紙で、私の妻が満州の中央銀行に勤務していたことを、関さんが初めてお知りになったように、これまで互いの生活について語ったことはありませんでした。内容が『ヒロシマ往復書簡』ということなので、自然にそうなったのだと思いますが、人によっては、「著者の生活のにおいが感じられない」という意見もありましたが、私たちの仕事は、記憶を記録にし、後世代の人たちがこれを読んで戦争について、原爆について考える原点にして欲しいことを目的にして書いているのですから、それはそれで致し方のないことだと考えています。
 関さんが手紙に戦争の酷さ、残酷さを知り、何があっても、戦いは嫌だと思っている世代、つまり戦争の恐ろしさを肌で知る層が減っていく恐ろしさを書いておられましたが、私もそのように感じています。
 私は現在、新聞は地元紙の大分合同新聞、全国紙の朝日新聞の二紙しかとっていませんが、この一月七日の両紙に日本会議の成り立ちを探った上で、安倍政権による改悪に向けた動きを批判する内容のもので、各書店でベストセラーランキング上位に入った本だそうです。私はこの『日本会議の研究』という本が出版されたことは知っておりましたが、購読しておりません。しかし、このたびの東京地裁の差し止めを命ずる決定を知ったとき、戦前の言論弾圧を思い出さずにはいられませんでした。
 そうこう思いながら、朝日新聞を広げていますと、私が常日頃愛読しております鷲田清一さんの「折々の言葉」一月七日の八日のエッセーが目に入りました。
 <前を向いて絶望する勇気>夏目房之介
 これは漫画家、岡崎京子の仕事を漫画評論家の目でとらえたものです。
 「女の子が落ちて壊れる姿に目を塞ぐのではなく、逆にこれいな物語に整えるのでもなく、それを自分の根っこに引き寄せ凝視すること。時代の中にきちんと置。いてみること。それを描ききる中にしか希望の糸口もない?」。

 <戦争が起こってしまってから反対運動をする自信も勇気もおそらくない、だからこそ今のうちにやらなくては> 藤枝玖美子
 これは詩人の藤枝玖美子が、「シリーズ・今を生きる<5>女・母と娘」≪1981年≫の編集者の松林依子に語った言葉です。
 「おかしい、ひどい、きなくさいと思っても、周囲から睨まれ、脅かされ、詰問されたら、それに臆せず贖い続ける強さは、きっと自分にはない。だから、『考えすぎ』と言われても、傍は見ずに、今やらなければならないことを問うている」。
 
 この「折々のことば」が意味するものは、今の日本にとってきわめて大切な言葉だと思います。


続・対話随想 №8 [核無き世界をめざして]

続対話随想⑧ 関千枝子から中山士朗様

                      エッセイスト  関 千枝子

 実はこの手紙、昨年(2016年)の内に出すつもりで、一応書いていたのですが、書き終えてから、なんとなく気に食わなくなり、手直ししようと思っているうち、押し詰まってきまして。実は私、年末年始は「家事」のため大変忙しくなるときで。我が家はこのごろ正月にファミリー大集合をやる習慣でして、文字通りの怠け者の節季働き、ひどいことになります。私は、正月の物もほとんど自分で作りますので、それも大変なのですが、掃除片付けが一苦労で。
 何しろ「紙」が多い家でして、整理できていない(ものばかり)、紙(大事な資料なのですが)があふれ、この片付け大変です。私、足は悪いのですが、腰は痛むことはないのですが、この大みそかは、腰痛で本当にまいりました。
 ともかく「ファミリー行事」もすみ、腰もよくなりまして、きょう三日から通常生活に返るというわけで、この往復書簡の⑧の手直しにとりかかっています。
 昨年二〇一六年は、なんとも芳しくない年のように思えました。トランプ現象に代表される世界の「右傾化」が心配です。ヨーロッパでも偏狭な思想の人々が台頭しているようですし、私は、私や中山さんの生まれた頃の日本を思い出してしまうのです。よその国に君臨し「権益」を主張してなにも疑わず、満州を「王道楽土」と信じ、命を惜しまぬことを讃え、軍国美談にした(爆弾三勇士)あのころ。若い人たちは「あのころ平和なんて言えなかったのですね」と言いますが、私たちは、中国人をやっつけることがいいこと、平和な世界を作るのだと信じたのです。「東洋平和のためならば、なんで命が惜しかろう」とうたったこと、私、忘れません、「シナをやっつける事(暴支膺懲)は正義でした。私は安倍さんの「積極的平和論」を聞くたびそれを思い出します。
 暮れのニュースで、今年の株の乱高下を言っていましたが、「トランプ」期待で最後は株高で終わったと言っていました。なんだか変ですね。

 中山さんの奥様が満州中央銀行にいらしたことを中山さんの手紙で知りました。私、そんなことを全く知らず、驚いてしまいました。とにかく「国策」と言ってしまえばそれまでですが、多くの日本人が、「王道楽土」の満州に夢と希望を持ったことに間違いありません。奥様の就職の事情は分かりませんが、やはり期待を持っておられたのではないでしょうか。あの時、日本中が満州に沸き立ったのですから。私は、私のクラス(私の学年は昭和六年と七年、まさに「満州事変―満州帝国設立」の年生まれの学年です)には、必ず「満」の字がつく名前を持った友達がいました。満佐子とか満智子とか。本当に「満州ブーム」だったのです。
 そしてあの戦争の最後、一番悲惨な目に遭ったのは満州の辺境にいた開拓民の女と子どもで、置き去りにされ、あるいは自決、あるいは、現地民に助らられて「残留」せざるを得なかった。その悲劇はその子供達にまで及んでいます。

 昨年末、マスコミは、パールハーバーに行った安倍晋三氏を大写しにしました。謝罪をせず、和解と不戦を訴え、日米同盟を明日を拓く希望の同盟と自賛したようです。
 何だか漫画のようだと思いました、ヒトラーよりもムッソリーニよりも早く隣国を侵略した日本。そのファシスト(枢軸)を倒しながら、戦後は戦争に明け暮れ、テロも戦争だと報復し、さらにテロをあおっているアメリカ。来年は、もっと「猛々しい」政権になるようですから、この同盟を希望というのはなんとしてもおかしいのですが。それに日本は、アメリカの忠実な同盟国(しもべ)として、いかに民が反対しようと基地を作り、危ないとどこの国も購入を敬遠しているオスプレイをぶんぶん飛ばし、原発は再稼働し、プルトニウムをじゃんじゃん作ろうというのですから、漫画と言おうか、悪夢と言おうか。
パールハーバーに行って悪いとはわたくし言いませんが、もっと行ってもらいたいところは、アジアに山のようにあるのですが。
 どうにも釈然としない年末でした。

 先日の手紙で平幹二朗さんの死のことに触れましたが、平さんだけでなく、同年配の友を多く失った年でもありました。有名人の方も多く亡くなったのですが、さほど有名でない人で、私の良き取材先だった人もあり、毎日新聞での同期生もあります。同期生の死というのは悲しいのですが、その年代、戦争のむごさ、残酷さを知り、何があっても、戦いは嫌だと思っている人が多い世代です。戦争の恐ろしさを肌で知る層が減っていくのはやはり恐ろしい。
 とにかく死ぬはずだったのに死ななかった私たち、こうなったら一日でも長く生きなければなりません。
 私、子どもたちに高齢化したので正月のファミリー行事を今年でやめようか、と提案するつもりだったのですが、言い出せずに終わりました。腰痛が収まってきて元気になると、まだやれそうと思ってしまうのですね、私、どうも楽観論者のようです。


丸木美術館から見える風景 №44 [核無き世界をめざして]

原爆文学研究会

            東松山市・原爆の図丸木美術館学芸員  岡村幸宣

クリスマス・イヴは神戸で、原爆文学研究会に参加した。
初めて研究会に呼ばれて、1950年代の《原爆の図》の全国巡回について報告したのは、2009年8月のこと。
以来、狭い意味の「文学」という枠にとらわれず、原爆/核の表現を今日的な視点から読み込んでいく人たちの中で、さまざまな刺激を受け、多くのことを学んできた。
この研究会がなければ、『《原爆の図》全国巡回――占領下、100万人が観た!』(新宿書房)という本をまとめることもなかっただろう。

とはいえ、途中から誘われて入会した立場なので、研究会創設以来の中心メンバーのことは、お世話になっている割に、これまであまり知る機会がなかった。
今回の研究会で、中心メンバーの一人である坂口博さん(火野葦平資料館館長)の長年の仕事をまとめた『校書掃塵 ―坂口博の仕事Ⅰ―』(花書院)を入手し、頁をめくりながら、あらためて、そのことに思い至った。

『校書掃塵』は、筑豊を拠点に活動する坂口さんの、火野葦平や「サークル村」などに関する論考50本と、22誌の総目次解題をまとめた書誌篇をあわせて、全体で600頁を超える大著だ。

目にとまったのは、「あとがき」に「ここ十数年は自らの嗜好による仕事よりも、依頼されたものが多く、もともと取り組みたい問題に向かう余裕がなかった。もちろん、さまざまな関係性のなかで、多くは数人の協働作業による仕事は、それはそれで新たな知見を得る、いい機会となっている。二十代、三十代をほとんど孤独に進み、そのまま進むことを想定していた私にとって、考えられない事態である」と記されていたことだ。
このくだりは、原爆文学研究会や、ほぼ同時進行していた筑豊・南部合同研究会/戦後文化運動合同研究会といった活動を指すのだろう。

1950年代のサークル文化運動に近づくための、サークル的な研究活動。
そうした仕事を通して、坂口さんは、「個人的営為としての文学表現から、集団創造への力点の移動はもとより、文化運動・文学活動における「下から」の方向性は、けっして譲れないものとなっている。文学に限らない現在の閉塞状況を打ち破るためにも、その裾野からの拡がりに期待したい。トップダウンではなく、ボトムアップ方式こそが、新たな地平を拓く」との思いを強めていった。

「著名な詩人・小説家といった表現者を産み出す背後に、数多くの〈無名〉の表現者がいる。彼/彼女らを視野に入れてこそ、ひとりの表現者の世界も見えてくる。そして、この作業に終わりはない」――こうした坂口さんの言葉は、《原爆の図》を手がかりにして、未知の一九五〇年代の人びとの姿を追い続けてきた自分にとっても、実感をともなって響いてくるものだった。

丸木夫妻の押入れからガリ版刷りの資料を見つけて、《原爆の図》全国巡回展の動向を調べはじめたばかりの頃、丸木美術館の関係者も含めてほとんど反響がなく、「孤独」のままに調査を進めていた自分にとって、原爆文学研究会との「出会い」は、(褒められるにせよ、厳しい意見を頂くにせよ)初めてきちんと仕事に向き合ってくれる人たちとの「出会い」でもあった。
なぜこの人たちは、これほど巡回展に興味を持ってくれるのだろうと、不思議でならなかった。
東京南部の『詩集 下丸子』、大阪の『ヂンタレ』、広島の『われらの詩』、筑豊の『サークル村』と、各地で忘れられつつあったサークル運動に関心を寄せる研究者が同時期に現れていたと知ったのは、ごく最近のことだ。
そして《原爆の図》もまた、こうした文化運動と深く関わりながら全国を巡回していたから、自分でも知らないうちに、その大きな渦の中に足を踏み入れていたのだった。

2016年は、9月にその文化運動研究の中心的存在だった道場親信さん(和光大学)が急逝するという悲しい出来事があった。
道場さんの単著『下丸子文化集団とその時代――1950年代サークル文化運動の光芒』(みすず書房)が刊行され、私から見れば1950年代研究のオールスター・キャストによる共著『「サークルの時代」を読む――戦後文化運動研究への招待』(宇野田尚哉・川口隆行・坂口博・鳥羽耕史・中谷いずみ・道場親信、影書房)もまとめられて、ひとつの区切りとなるような一年だった。

その一年の最後に、『《原爆の図》全国巡回』も、平和・協同ジャーナリスト基金の奨励賞を頂いた。
元朝日新聞社の岩垂弘さんが主宰し、市民の寄金によって支えられている、小さいけれども、大切な思いが込められた賞だ。

2017年には、丸木美術館が開館50周年を迎える。
今年もまた、過去に生きた人びと、そして今を生きる人びととともに、《原爆の図》を見つめ続けていきたい。

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続・対話随想 №7 [核無き世界をめざして]

続・対話随想⑦ 中山士朗から関千枝子様へ

                                         作家  中山士朗

 満蒙開拓平和記念館を訪問されたお話、深い関心を寄せて読ませていただきました。なぜならば、十五年まえに亡くなった十四歳年上の妻が満州中央銀行(一九四〇年に本店入行)に勤めていましたので、終戦直後における満州各地での悲惨な状況、引揚げの際の苦難について、結婚した当初しばしば私に語ってくれていたからです。そして、私も問われるままに広島の被爆の実相を話し、そのころから書きはじめた原爆に関する習作も最初に読んでくれていましたから、その当時の私たちの生活風景が思わぬことでよみがえったのでした。言うなれば、私たち夫婦は戦争の傷によって結ばれ、戦後を懸命に生きてきたのかもしれません。
 関さんが、今年(二〇一六年)九月一八日は、満州事変勃発八十五年の節目の年でありながら、メディアが全く無視していることに憤っておられることは私にはよく理解できます。関さんの言われるように、昨年から今年にかけて、戦争の悲惨な体験があれだけ報じられたのに、十五年戦争のきっかけとなった満州事変についての報道、満州国の建設、開拓に国民を熱狂させ、その悲惨な結末について語ろうとしない現状は、歴史認識の違いを他国から指摘されても致し方ないことだと思われます。
 関さんの手紙を拝見して直ぐに思ったのは、妻が残して置いた『満州中央銀行の想い出』『満蒙終戦史』『満州の記録』の三冊の本でした。 
 『満州中央銀行の想い出』は、東京中銀会の編集によって昭和四十六年五月二十九日に発行された写真集です。
 このアルバムは、引きあげ時の厳しい制限のなかで持ち帰られた数少ない写真を集め、、中央銀行を主体に編集されたものですが、その中には/新京大同大街/満州電電公社/大同広場・同記念碑/首都警察庁/国務院と官公署街の大通り/司法部建物/熱河旧清朝の離宮/奉天大広場、奉天駅/新京児玉公園/などの写真が掲載され、末尾には/豊満ダム/熱河の離宮跡/満州特産の大豆の集荷風景/が収められていました。これらは限られた少数の写真にすぎませんが、その建物や風景が作り出した威容さは、「王道楽土」の片鱗をうかがわせるものでした。
 いま一冊の『満蒙終戦史』は、編者は満蒙同胞援護会で、昭和三十七年七月二十日に河出書房新社から限定出版(妻の本には、限定版№739の刻印)されたものです。924ページにもおよぶ、終戦当時満蒙に在った同胞の、ありのままの姿と引揚げの実相を記録して編纂されたものです。
 この資料からは、満州、関東州からの引揚者だけで百二十七万人余に及ぶ海外からのほとんどの引揚者にとって、地縁や人縁を失った内地で、生活を建て直すことがいかに苦渋をもたらしたかを知ることができます。
 三冊目の『満州の記録』は、一九九五年八月九日に集英社から発行された二百四十六ページにも及ぶ資料集です。五十年目にロシアで発見された満映・満鉄のフィルム三百巻(そのほかにソ連軍撮影によるフィルム)から映し出された満州の歴史が集約されています。
 そこには李香蘭主演の劇映画『迎春花』、森繁久彌ナレーションの啓蒙映画『北の護り』、特急あじあ号、皇帝溥儀、建国パレード、新京、大連、ハルビンの街並み、ロシア人・モンゴル族の生活や習慣などが収録され、満州および中国本土・日本の年表が収録されていました。そのなかで私がもっとも関心が寄せられたのは、昭和十七年五月二十一日の建国十周年を迎えての「興亜国民動員大会」の写真と、『開拓団の家族』『開拓の花嫁』の写真でした。
 「興亜国民動員大会」の写真は、大同広場の中央銀行前で行われ、六万五千人もの参加者があったと説明されていました。中央銀行の建物の威容さを見ながら、そのころに妻が入行したことを想像したのでした。
 このたびの関さんから頂いた手紙から色々と調べておりましたら、歴史は繰り返されると、しみじみと思いました。今もって国策によって犠牲を強いられるのは、国民だということが一層明確になりました。
 というのは、原発の事故もそうですが、以前書きましたように、議会で拍手を持って送られた南スーダンPKO隊員が死亡した場合、国の命令の戦死者として靖国神社に合祀するとでもいうのだろうか、と疑問を投げかけたことがありました。
 そして、隊員が出発する日の家族との別れの様子をテレビ、新聞で見ながら思ったことは、戦前に外地に赴く兵士の見送りと少しも変わらないということでした。すると、着任して間もない昨十二月三日の新聞記事に、防衛省が南スーダン駆け付け警護付与で、陸自PKO弔慰金増額の記事が出ていました。
 つまり派遣した陸上自衛隊の部隊が任務中に死亡したり、重度障害になったりした場合の弔意・見舞金の最高限度額を、現行の六千万円から九千万円に引き上げる方針を決めたということです。安全保障関連法案に基づく新任務「駆けつけ警護」を付与したことに伴う措置で、任務を実施した際は、一回当たり八千円の手当を隊員に支給することも決めたようです。一方、手当については、現在も「国際平和協力手当」として一日一万六千円が隊員に支給されていて、これとは別に駆けつけ警備で出動した隊員に対し、一回あたり八千円を新たに支給するというものです。
 この事例から、関さんが手紙に書いておられた「村の一年分の収入に当たる報奨金」をちらつかせて、満蒙開拓者を送り出した話と共通するものを覚えました。今日は、暗澹とした気分の手紙になってしまいました。


続・対話随想 №6 [核無き世界をめざして]

続・対話随想⑥ 関千枝子から中山士朗様へ

                                    エッセイスト  関 千枝子

 中山さんの原稿頂いてから返事が大変遅くなりました。すみません。実はパソコンがダウンしてしまい、一週間使えず、大変だったのが遅れの主原因です。パソコンがダウンするとさまざま連絡が届かない、送れないなど困ったことだらけなのですが、原稿でさえ、もう手書きでは書けなくなっている自分を発見、びっくりしました。なるべく手紙など「手書き」を増やし、字が書けなくなるというような不都合をなくしたいと思っているのですが。これも機械ボケか、老化現象か。
ともかく、この間、中山さんのお手紙にありましたように平幹二朗さんの死、それの前後に私のかつての先輩同僚等の死が相次ぎまして、いささかショックでした。今年は、私たち昭和ゼロ年代の人々、殊に文化芸能で活躍した人々の死が多いと思っていましたが、平さんは、私たちの往復書簡でも、何度か取り上げさせていただいたので、ショックが大きいです。
 実は、平幹二朗さんの死が伝えられる前、私は「勇気凛凛」でした。十月二十二,二十三日、長野県飯田に行き、満蒙開拓平和記念館を見学、地元の人々とも交流し、感銘を受け、元気をもらったからなのです。
 実は今年は、満州事変勃発八十五年の年です。あの戦争は柳条湖事件に始まる満州事変に始まったのです。一応「節目の年」だし、事件があった九月十八日には、新聞なども相当報道すると思っていました。ところがメディアは全く無視でした。私の知る限り沖縄タイムスのコラムで見たのが唯一の例外で、あとはどこも全く「音なし」でした。
昨年から今年にかけて、戦争の悲惨な体験があれだけ報じられたのに、戦争のきっかけとなった(日本軍が仕掛けた)満州事変。そしてそれで「満州国」がでっち上げられ、満州に多くの国民が「熱狂した」のです。「王道楽土」だと。あのとき庶民はこの戦争が十五年続き、悲惨な結末になるとは夢にも思わなかった。そして、満州開拓に駆り出された(奮い立って行った人ももちろんいるでしょう)。人々、ことに、女性と子どもの惨憺たる死、取り残された「残留孤児」「残留婦人」。あの戦争の最大の悲劇の一つです。
 戦争の惨禍は語っても、発端になった満州事変のことは忘れられていると、憤懣に堪えないとき、私たちの往復書簡にも何度か登場している、例の竹内良男さんのフィールドワークで「満蒙開拓平和記念館」の見学ツアーがあることを知り、ぜひ参加したいと思いました。竹内さんはこのごろ、ヒロシマを通しての戦争と平和の学習活動にますます熱心で、今年は、定例の学習会を持っています。四〇人くらいは入れるこじんまりした、しかし、駅に近い会場で、毎月一度の割合で行なっていますが、好評で、この頃は月に二回のこともあります。フィールドワークもされ、私は彼のおかげで似島に行き、栗原貞子さんの護憲の碑を知り、高暮ダムのことも知りました。竹内さんは信州人ですから、松代大本営や無言館にも行っています。今度のフィールドワークは神宮寺(丸木位里、俊さんの絵がある)、平岡ダム(中国人連行者の追悼碑がある)なども見るとても壮大な企画でした。私はぜひこれに参加しようと思いました。
 満蒙開拓平和記念館は長野県飯田の郊外阿智村というところにあるのですが、実は私、飯田の女性グループの方と非常に親しくしているのです。
 女性年のころ、飯田の公民館で、「生き方講座」という講座が開かれ、多くの女性たちが自律的な女の生き方を学び、講座終了後も活動をつづけました。飯田の公民館の平和の集まりに呼ばれた私は、そのグループの一人、関口房子さんと知り合い、四半世紀ご縁が続いています。満蒙開拓平和記念館ができた時、一度来てくださいと言われていたのですが、東京から飯田まで行くのは高速バスで4時間かかります。私の体のことを考え関口さんは強く勧めませんでした。この機会に久しぶりに飯田に行きたいと思いました。関口さんに話しますととても喜んでくださり、竹内さんの当初の予定にはなかった飯田の女性史のグループ(満蒙開拓の方々への聞き取り等をされている)との交流も企画してくださいました。
 張り切っていたのですが、ツアーが中止になってしまいました!参加者が少なかったのです。竹内さんもショックで、「満蒙開拓のことに関心が薄いのだろうか」と、とてもがっかりしておられました。
 私もツアー中止に驚きましたが再計画(来年春以降になる)を待たず、個人で行こうと考えました。それは、9月初め風邪をひき(単なる風邪でしたが)とても直りが遅く、3週間くらいとても変で、トシを考えざるを得なくなり、「来年は元気かどうかわからない、今年どうしても行っておこう」と思いつめました。結局友人と二人で、飯田まで行きました。
 新宿から飯田までバスで四時間、皆さん心配してくださったのですが、大変順調でした。腰の痛い方は長時間のバスはこたえるのですね。私は膝が悪く片足は人工関節ですが、腰は悪くないのです。バス四時間くらいは平気ということが分かっただけでも大収穫です。
 飯田に着くとその晩飯田のシルクホテルで、満蒙開拓の当事者たちの詳しい調査や聞き書きをなさった女性史のグループの方々一〇人と交流会を持ちました。記念館ができたのも、この方々の調査が下敷きというか、ベースにあることも知りました。また満蒙開拓(とにかく二十五万人という人が行かされたのですから)という民族大移動のようなこと、その主力が長野県だったことはよく知られていますが、殊に伊那、飯田が多かったこと(ほかの地区の三倍、五倍という数です)。これは何だろう。長野の農村の貧しさだけでは説明できません。非常に熱心な教員がいたこと。また村の一年分の収入に当たるような報奨金をちらつかせたことなど。こんな村長さんの中には敗戦後責任を感じ自殺した人もあったそうです。話は尽きませんでした。開拓に行った当事者はほとんど亡くなっている今ですが、残留孤児で帰国した人の子どもたちがまだいます。たくさんの問題を抱えて。まだまだ聞き取りの仕事はつづくようです。
 この交流会、女たちばかりの会に一人男性がいらしたのですが、その男性・野口次郎さんの車で記念館まで行きました。野口さんは元高校の先生で、ボランティアで記念館の案内をしておられます。詳しい資料や説明をいただきました。二時間半でも時間が足りないくらいでした。
 野口さんとはこれまた深いご縁があります。野口さんの亡き妻、房子さんは、「生き方講座」の中心メンバーでした(関口房子さんと“両房子”で活動)、長野で母親大会があった時は委員長に推された人です。
 生き方講座で女の自立を学んだ野口房子さんは、男性も生活面で自立を、と、夫次郎さんに炊事、洗濯、家事一切を教えました。おかげで次郎さんは妻の死でも困ることはなく、しかも「妻の遺産全部を受け継ぎ」(妻の残したネットワークすべてを受け継いで)社会活動に奮闘、記念館ができてからは、案内(説明)ボランティアに懸命です。元先生ですから、説明もとてもうまいのです。
 私は房子さんの葬儀に参加しています。「今年一三回忌ですから」。実は一二年前の葬儀に、私は参加しています。考えるとこの時飯田に行ったのを最後に、飯田行きがとだえていました。一二年たち、私の髪はすっかり白くなっており杖突きなのに、野口さんは変わらないみたいにみえます。年に一度はしまなみ海道を四国から本州まで歩くのだそうです。あまりのお元気に、「お幾つになられたのですか」と聞いたら「八六歳」だそうで、またびっくり。飯田までバスで来たことくらいを威張ってはいられないと、頑張らなければ。野口さんに「元気」をもらいました。

 張り切って東京に帰って、新聞を開けたら、平幹二朗さんの死。驚きました。中山さんは、「平さんが”その時”を予知していたのではないか」と思ったと書いておられますが、私は、今も連続ドラマに出演中、今後の予定もぎっしり詰まっている平さん、まだまだ「やる気」一杯だったのではないかと思います。おそらく。そんなことも考える暇もない突然の死だったのかもしれない、と思います。でも、死としては、苦しくなくて、いい死に方かしら、俳優は現役で死ぬのが一番だから、など思いながら、「喪失感」でいっぱいです。
 息子の平岳大さん、スペインに旅をしているのをテレビで見ました。岳大さん、スペインが好きで殊にバスクに興味を持っているとか。
 実は、私がこの往復書簡という「形」を生み出したのは、友人の狩野美智子さんとのやり取りが最初で.それは『広島、長崎から 戦後民主主義を生きる』(彩流社)という本にまとめました。狩野さんは長﨑のヒバクシャですが、彼女の仕事としてはバスク研究者の方が有名というか、いい仕事でしょう。彼女、「たまたま」バスクのことを知り、のめりこんでいくのですが、平一家の原爆とのかかわりと、狩野さんの被爆体験、こじつけかもしれませんが、原爆とバスク(ゲルニカ)、何か縁があるように感じました。
 平幹二朗さんの仕事で、誰も言いませんが、私はテレビの「剣客商売」が大好きでした。藤田まことの秋山小兵衛と平幹二朗の田沼意次、まことに良き取り合わせでした。先日同じ日に「剣客商売」が三本放送され、見入ってしまいました。平幹二朗は俳優座から出た正統派の舞台俳優、かたや藤田まことは」大衆演劇、お笑いから出た人です。しかし平幹二朗は藤田さんをとても尊敬しているように思えました。藤田さんと言えば、もう大分前ですが「徹子の部屋」に出たとき、ふいに平和の大事さを言われ黒柳さんがどぎまぎしたように見えたのを覚えています。平さんも藤田さんも。戦争の悲哀、悲惨を、身をもって知る人でした。
 


続・対話随想 №5 [核無き世界をめざして]

中山士朗から関千枝子様

                                         作家  中山士朗

 このたび関さんから手紙が届いたのは、十月二四日でした。
 手紙の冒頭には、
 <今年もいろいろ世の中動き激しく、とにかく大変な時に生きているな、と思います。このところ年配の、つまり、戦争の悲惨を身にしみて知っている人々がたくさん亡くなったのもショックで、「昭和一桁世代もそろそろ終わりかな」など憮然とします。九月初めに風邪をひき、なかなか治らず、つくづくと年齢を感じました.そんなとき同年齢の人の死を聞くと,ギクッとするのですが>と書かれていました。
 そして、杉山千佐子さんの死について触れておられました。杉山さんは名古屋の空襲で“片目”、“顔の半分”を失うという重傷を負われましたが、生きるために働き続け、一〇〇歳まで空襲の被害者の補償を国会に働きかけ、救済のための法案の実現に向けて生涯を捧げ人でした。けれども、国の戦争被害は国民全部で耐え忍ぶべきだという「受忍論」の壁(このことは、私たちの往復書簡の中でも取り上げたことがありました)に阻まれ、法案は通りませんでした。
 このこともさることながら、その日の新聞に、平幹二朗さんの死去(享年82)の報が報じられていて、改めて身近な世代の死を思わずにはいられませんでした。平幹二朗さんについては、私たちの「往復書簡」の中で、互いに何度か書かせてもらいましたが、私がもっとも印象に残っているのは、二〇一四年の広島原爆忌に放映された「徹子の部屋」における黒柳徹子さんとの対談でした。以前にも書いたことでしたが、その対談の中で、平さんは母親が爆心地から六〇〇メートルの地点で被爆し、終生、原爆症に悩みながらも、平さんを俳優に育てるために懸命に生きたことを語っていました。そして、最後に、この「一一月で八〇歳になり、残り少ない人生を考える時期になると、亡くなった友だちの死が思われるようになった。もっと生きたかったに違いない。その命を頂きながら、生かされているのだと思います。」
 と結んでいました。
 平さんは遅生まれのため、六年生の時に縁故疎開したために被爆しないですみましたが、遊び仲間であった、中学一年生になったばかりの友達は、建物疎開作業に駆り出されて被爆死したのでした。
 平さんの葬儀は二八日東京都港区の青山葬儀所で営まれましたが、俳優や舞台関係者、ファンら、約六〇〇人が訪れたと新聞に報じられていました。平さんと同じ、俳優座出身の俳優、栗原小巻さんは弔辞の中で「俳優は役の中に真実があるということを演じる姿で教えてくださいました。平さんの芸術への強い意志と純粋な精神は息子の平岳大さんに引き継がれます」と述べていました。
 長男で喪主の俳優平岳大さんは挨拶のなかで、最後の晩、平さんは孫を抱き、ミルクをあげて、大好きなワインをたくさん飲んだという。「家に送り届けた私に『岳、もう帰りなさい、ふふっ』と笑った父。幸せだったと思います」と以上は、朝日新聞の記事によるものですが、それを読んだとき、私は「帰りなさい」と言った平さんの言葉から、平さんにはその時が訪れたことが自ずとわかっていたのではないでしょうか。原爆症と闘いながら、息子を俳優に育て上げることに専念した母親の許へ、平さんは静かに帰って逝ったに違いない、と私は安堵感に似た思いにとらわれたのでした。
 そして、関さんの手紙が届いた前日,つまり十月二十三日のNHK・Eテレの「日曜美術館」の再放送を観ておりましたところ、たまたま丸木美術館の学芸員・岡村幸宣さんが、「丸木位里・俊の絵」について解説されている場面に出会ったからです。
 その日の番組のテーマは、”戦後を代表する傑作三つ一堂に”ということで、<丸木位里・俊、香月泰男、川田喜久治一九四五年の記憶を未来へ、黒と沈黙と苦闘の物語>とありました。
 平塚市美術館で開催されましたが、それぞれが絵と写真を通して、見る側に未来を忘れないための黒のメールを、過去の記憶を交錯させて記憶させるという構成になっていました。つまり沈黙の時間というのでしょうか、それとも黒の黙示録とでもいうのでしょうか。そんなことを考えながら観たことでした。丸木位里・俊さんの「幽霊」の場面では墨の濃淡について、黒はすべての色を表現することができることなどを岡村さんは説明されていました。
 これまで私たちの『ヒロシマ往復書簡』で、しばしば岡村さんの明晰な文章を引用させて頂きましたが、映像を通じて初めてお目にかかることができたのでした。やはり想像したとおりの、素晴らしい学芸員の風貌姿勢を感じました。
 そして、丸木位里さんは原爆が投下された直後の広島に入られた時の様相を、ご自身で語っておられる場面がありました。この言葉は、私たちの『ヒロシマ往復書簡』第Ⅱ集(和泉舞さんの舞踏と、栗原貞子さんの護憲の碑)の中で、引用させてもらった、丸木位里・俊夫妻の言葉でした。

 食べ物もなく、薬はなく、家は焼け、雨にたたかれ、電灯はなく、
 新聞はなく、ラジオはなく、医者もなく、
 屍や、傷ついた人にうじがわき、はえが群生して群がり、音を立てて飛びかっておりました。
 屍の匂いが風に乗って流れました。   (後略)

に始まる原子野をうたった詩でした。

 ここからは余談になります。
 関さんは、私と早稲田の露文科で同級だった萩元晴彦君になぞらえて、岡村さんが高校時代に野球選手だったことを書かれ、想像できないようなお話でしたが、逆に私はその話を聞いて、なるほどと思いました。私自身もかつて野球少年でした。戦争が終わり、被爆の傷がようやく治まった時、友人に誘われて野球部に入部しましたが、やけどで引き攣れた手首では、バットが握れないことが分かり、退部しました。キャッチャーが目標でした
 こうした経緯がありましたが、早稲田での体育での単位を取得するときには軟式野球の実技を安倍球場で受けたのでした。そこでもキャッチャーの位置につきました。そんなこともあって、文学部の対抗野球試合があった時、露文科では萩元君が投手で、私が捕手として出場したのでした。その時、確か野村勝美君(毎日新聞であなたの先輩に当たる)も内野手として出場していたはずです。野村君は、福井中学の野球部にいたと聞いたことがあります。萩元君は旧制松本中学時代にエースとして甲子園に出場していました。
 「そして早稲田大学のロシア文学科に入学しましたが、その卒業論文はチェーホフ論でした。その頃の彼は、『萩元晴彦著作集』の中で、
 『僕は、早稲田大学のロシア文学科の学生で、同人雑誌に掲載するチェーホフ論を書いていたが、同時にサルトルにも埴谷雄高にも椎名麟三にも熱中していたし、太宰治は神様同然であった』と書いてありました。
 この著作集には、「遠くへ行きたい」「オーケスタらがやって来た」などのプロジュースをはじめ、「あゝ甲子園」「北京にブラームスが流れる日~小澤征爾・原点へのタクト」、サントリーホール、カザルスホールの綜合プロでヂューサーとしての仕事の集約がなされています。
 読み直しながら、岡村さんが「原爆の図」の展示のプロジュースされる姿と重なるものがありました。
 そして、私たち夫婦が別府に移住してきて間もない頃に訪ねてきてくれたことや、小説新潮の書評欄に「原爆亭折りふし」を取り上げてくれたこと、日本エッセイストクラブ賞の受賞式に出席してくれたことなどが思い出されるのでした。


続・対話随想 №4 [核無き世界をめざして]

続・対話随想❹ 関千枝子から中山士朗様

                                    エッセイスト  関 千枝子

 今年もいろいろ世の中動き激しく、とにかく大変な時に生きているな、と思います、このところ同年配の、つまり、戦争の悲惨を身にしみて知っている人々がたくさん亡くなったのもショックで、「昭和一桁世代もそろそろ終わりかな」など憮然とします。9月初めに風邪をひき、なかなか治らず、つくづく年齢を感じました。そんなとき同年齢の人の死を聞くと、ギクッとするのですが。
 そんな中で100歳まで頑張られた人々の死も報じられます。むのたけじさん、杉山千佐子さん。これらの方々に対してはただ、頭を下げるのみですが。中でも杉山千佐子さんは「すごい」というしかありませんでした。名古屋空襲で、“片目”、顔の半分くらいを失う重症を負いながら、「生きるために」働き続け、かたわら、空襲の被害者(傷害を受けた人)への保障を叫びつづけて半世紀。会を立ち上げ、戦争の災害に痛めつけられながら、声も出せない人々を励まし、仲間にし、国会議員に話をし、何度も「救済」の法案を作らせるのですが、戦争の被害は国民全部で耐え忍ぶべきだという「受忍論」の壁に、法案は通らず。全国を駆け回り、訴えるのですが、交通費を少しでも節約したいといつも深夜バス。深夜バスは相当体にこたえます。九〇歳を過ぎてもバスで駆け回る姿にはびっくりしました。
 杉山さんの場合、一般的な傷害者としての福祉は受けているのですが、火傷をしてのケロイドが残っている場合、体が動かないとかの支障がないと何の恩恵も受けないのですね。ケロイドのため、仕事に就けなかった人もあると、杉山さんは憤慨していました。
 私たち広島・長崎の被爆者は、十分とは言えませんが、一応被爆者としての恩恵があります。医療が無料なのはありがたいし、私などは割合早くから膝関節が悪くなったので、健康管理手当も受けております。空襲の被害者があまりにも「受忍」させられていることに、申し訳ないような気持ちになったものです。
 百歳近くなって、杉山さんは車いすになり、耳も遠く、目もほとんど見えない状況になったのですが、それでも講演に(遠くまで)来られました。声があまりにも大きく、張りがあり、びっくりしました。「いうことは決まっているし、耳も悪くなると余計なことが耳に入らないからかえって良い」と、一方的にガンガンしゃべられるのですが、その迫力、会場の人静まり返って聞いていました。
 しかし、百歳を超えるまで頑張っても、思いが届かなかった、杉山さん。どんなに悔しかったことか。
 
 十月十五日、例の竹内良男さんのヒロシマ連続講座で丸木美術館の学芸員・岡村幸宜さんのお話を聞きました。「原爆の図」のアメリカ展示の報告と思っていったのですが、それだけではなく、「原爆の図」が描かれてから六十六年、「図」がたどってきた「旅」と言いますか、作品を描くだけでなく一人でも多くの人々に見てもらうこと、それも「闘い」であったのですね。大変中味の濃い話でした。
 アメリカで「原爆の図」の展示は四度目だそうですが(最初は一九七〇年)、今回はニューヨーク、ボストン、ワシントンDCという大都市三カ所(DCで開くのは初めて)、延べ来館者一万一千人を超え、多くの人にインパクトを与えたようです。二〇一五年アメリカでのベスト展示会の二位に選ばれたそうです。オバマの来広のことだけでなく、「原爆の図」のアメリカ巡回のことが、もっと報道されていいのに、と思いました。
 個人的にうれしかったこと、この展示のプロデューサー早川与志子さんは、元日本テレビの報道ディレクターで、アメリカ留学して英語も達者です。アメリ留学後、報道より展覧会の方に興味を持ち、日本テレビ事業部で仕事をしました。展覧会のプロです。私の取材相手であり友人で、何度か彼女プロデュースの展覧会のことを記事にしました。女性の問題でも大変気が合い、彼女の定年後、何か二人でやらないかと、いろいろ思案したこともあったのですが、これはうまくいかず。このところ少し疎遠になっていました。そこへ「原爆の図」アメリカ巡回です。これは、彼女でなければできない仕事です。素晴らしい仕事をやり遂げたと思います。
 もう一つうれしかったのは、展覧会の「客」の中に山本定男さんの姿を見たことです。彼は広島の合唱団の連盟のドンですが、私の国泰寺高校三年のときの同級生です。彼がこの時期被爆者の代表として国連に行ったことは、新聞などで知っていましたが、映像で元気そうな姿を見て感激しました。(わが同級生、亡くなった方多く、病気で外出できない方も多いのです!)。山本さんは、二中から来ました。二中は「あの日」の前日は一年生、二年生全員が県庁付近(平和大通り、今の資料館の近く)の疎開作業に出ていました。五日の午後、二中と我が二県女に妙な指令が出ました。一部は東練兵場に行き農作業をするようにというのです、二県女は一年生全部と,二年生の半分が東練兵場に行き、私のクラスのみ雑魚場の建物疎開作業場に残り全滅しました。私は六日欠席し、生き残ったことはすでにご承知のとおりです。二中は二年生に東練兵場に行くよう命令されたそうです。疎開作業に残った一年生は全滅、二年生は多少のやけどをしましたが助かりました。もちろんこれは偶然の結果ですが、二年生たちは複雑な思いを抱いています。ニューヨークで「原爆の図」の前に立った山本さんの思い、私はよくわかります。
 岡村さんの話は、今回のアメリカ展示にとどまらず原爆の図の「旅」の話でした。
「広島壊滅」の報を聞き、故郷の広島に駆け付けた丸木夫妻は、その惨禍に驚き、怒りました。画家である自分たちは、これを絵にして残さなければならないと決意しました。絵の最初の第一部「幽霊」「火」「水」ができたのは一九五〇年ですが、まだ占領中です。展示をしようとしても占領軍を恐れ、「原爆の図」という題名ではと言われ、始めは「八月六日」と言う題にしたそうです。公民館、学校、寺、駅舎など、展示できるところでどこでも展示しました。100万人が見たと言います。
 こんな中、アメリカで展示をしてやるという人が現れました。どういう人かわからない、もしものことがあったらと、夫妻は急いで模写版を作りました。8作者自身が模写するのだから模写版というべきかどうかわかりませんが)。でもこうして、もう一つの「原爆の図」が出来上がりました。そのころになってアメリカでと言ってきた人物が、怪しい人であることが分かり、夫妻はアメリカ展示を断りました。思いがけず二つになった原爆の図、全国展示会は「倍」に増えました。世界にも渡りました。
 一応展示ブームが終わった一九六七年、夫妻は埼玉県東松山に美術館を作りました。「一日に一人でもいい、見たい人がいれば、ここに来れば絵がみられる、という思いだったのです。その後、支援者の手で七四年に美術館の栃木館ができ、「もう一つの原爆の図」はそこに飾られることになりました。栃木館はその後閉館になり、「もう一つの原爆の図」は広島の現代美術館に納められ、最近展示会が開かれ、岡村さんも見に行ったそうです。
 私は驚きました、丸木美術館栃木館とは私結構付き合いがあり、ある時期夏のイベントのとき、欠かさず行っていたのです。栃木館のイベントは八月九日にあり、本館の、イベントは六日なのでいけないが、それならいけるね、と、私は喜びました。六日に広島に行き、八日に帰京すればいけますから。栃木館のボランティアの方々もいい方ばかりでした。あの栃木館の絵が「もう一つ」の「原爆の図」だったなんて。私は全く知らず、ただただびっくりしました。それにあの「もう一つ」の絵が広島現代美術館に行っていたなんて。現代美術館でもう一つの」原爆の図」が展示された話など聞いたことありません。 それこそ常時、展示してもいいのに。おかしいですね。
 終わって皆でお茶を飲んでひと時おしゃべりしたのですが、岡村さん、高校時代は野球少年(青年)だったことを知りびっくりしました。いろいろな資料館で学芸員の方を知っていますが、岡村さんは非常に優秀な学芸員だと思っています。野球少年とイメージが結ばなかったのですが、でもそれは私の偏見かも。優秀なテレビ報道マンの萩元晴彦さん(註TBS→テレビマンユニオン、中山さんと早稲田大学ロシア文学科の同期)も野球少年でしたね、岡村さんの都立立川高校はついに甲子園には出なかったけれど、萩元さんは甲子園投手ですものね。すみません、横道にそれました。 
 まだまだ報告することがあるのですが、もう長すぎますね。後はこの次にします。


続・対話随想 №3 [核無き世界をめざして]

中山士朗から関千枝子様へ

                                        作家  中山士朗
 
 お手紙拝見しながら、私自身の年齢からくる体力、気力の衰えを思い、残された時間の中でやるべきことは何なのかと考えています。そして、自然界の異常現象とも言える熊本・大分地震や、それに続く十月八日の阿蘇山の爆発的噴火に遭遇いたしますと、仏教の世界の<無常、無我≫ではありませんが、万物が変転して常住できず、すべての存在は、仮の結合であって、主宰をもたないというはかない存在のように思えてならないのです。殊に原爆に逢着した身にとっては、心の片隅に、終生そうした思いが付きまとっていたように思えるのです。
 けれども。関さんのお手紙を読む都度、自分の生命を生き尽くすような、その行動力には打たれます。
 このたびの手紙の冒頭には、
 <今夏の広島で「やるべきことはやった」など大きなことを言ったのですが、少し冷静に考えてみますと、自分なりに「やった」けれど、それでいいのか、「何も変わっていない→好転していない」思いでいっぱいです。>
 とありました。
 そのように書かれていましたが、私はそのように思っていません。というのは、この十月三日の大分合同新聞に掲載されていました【シカゴ共同】発の、≪シカゴで原爆展≫という見出しの記事を読んでいたからです。
 
 <米中西部シカゴの日本文化会館で一日(日本時間二日)「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」が始まった。広島、長崎両市が主催し、動員学徒の遺品や写真を展示、原爆投下の悲惨さを伝え、核兵器廃絶を訴える。二九日まで。
 シカゴは今年五月、被爆地・広島に歴史的訪問を果たしたオバマ米大統領の地元。広島市と長崎市はオバマ氏に原爆展を視察するよう求める連名の要望書を送付した。広島市によると、シカゴで原爆展が開かれるのは2007年~08年以来。>」

 会場では、オバマ氏が広島を訪れた際に寄贈した折り鶴と、広島で被爆した白血病のために一二歳で亡くなった佐々木禎子さんの折り鶴が並べて展示されていることが報じられていました。そして最後に、広島原爆資料館の志賀賢治館長の「できるだけ多くの人に足を運んでもらえれば嬉しい」の言葉で結ばれていました。
 この記事の中の、〔動員学徒の遺品や写真を展示〕の個所を読んだとき、関さんが、今年六月末広島に行かれた際、広島原爆資料館を訪ね、副館長兼学芸課長の加藤秀一さん、学芸課長補佐の宇田川寿子さん、学芸員の落葉裕信さんに会われて「建物疎開動員学徒のコーナー」の設備、展示の在り方について話し合われたことを思い出しました。これまで「動員学徒の遺品や写真」と表示されたことはなく、一般の資料と混合して混合して展示されているために、動員学徒の悲劇が薄らいでいるという関さんの指摘によって、展示の目的が集約されたように感じられたのでした。
 そして、「安倍靖国参拝違憲訴訟」の筆頭原告として関さんが法廷に立たれていることは承知していましたが、このたびの手紙によって、「原告尋問」の内容を初めて知りました。
 その中で関さんが建物疎開で死んだ少年少女たちがなぜ、「英霊」として靖国神社に合祀されなければならないのか、また合祀の辞退を認めない制度について、信仰の自由、首相の「公式参拝」は憲法違反(二〇条政教分離)について発言されていることを初めて知りました。
 たまたま、この手紙が届いた一〇月七日の朝日新聞に〔生前退位 揺れる対応〕―-日本会議と神政連、見解示せず、という見出しの記事の中に、安倍内閣の閣僚と所属する国会議員懇談会に名を連らねているのです。
 こうした事実を知るにつけ、安倍内閣が”強い日本を取り戻す”と言い、閣僚をはじめ、議員の靖国参拝を例年行い、G’7首脳による伊勢・志摩サミットが開催された道筋も理解できるというものです。さらに、憲法改正、自衛隊の海外派遣へと繋がります。議会で拍手を持って敬意を表され、送られた南スーダンPKO派遣隊員の死は国の命令の戦死者として靖国に合祀されるとでも言うのでしょうか、
 首相の靖国神社への公式参拝が憲法違反である、この関さんの言葉から戦前のさまざまのことがよみがえって来るのでした。つまり戦争は、老人によって決められ、その犠牲になるのは、戦争で働ける年代の者とその家族です。
 <日米同盟を強化し、ともに核なき世界をめざして活動するのみ>
 この防衛相の自衛隊の役割を問われた時の言葉のうつろさは、オバマ米大統領が広島を訪問して演説した際に、安倍首相が応えた言葉と同じものでした。
 今日は、関さんにこれからは決して無理をされず、ご自愛の上執筆活動に専念していただくようお願いするつもりでしたが、年がいもなく怒りの手紙になってしまいましたこと、深くお詫びいたします。


続・対話随想 №2 [核無き世界をめざして]

関千枝子から中山士朗様へ

                                   エッセイスト  関 千枝子

 今夏の広島で「やるべきことはやった」など大きなことを言ったのですが、少し冷静に考えてみますと、自分なりに「やった」けれど、それでいいのか、「何も変わっていない、→好転していない」思いでいっぱいです。
なにしろ、ヒバクシャの最大の願い「核なき世界」だって、めどさえ見えず、オバマさんの夢だけでは困るのですから。「忘れ残り」でなく、まだまだ書くべきことが山ほどある、と思います。
しかし、というか実は、広島から帰ってから雑用と、旅の後始末のようなことで忙しく、何から書いていいのやら、混乱しているうち、九月初めからとてもひどい風邪にかかってしまい、これがなかなか治らず、閉口いたしました。
 風邪だな、と思ったのは三日の土曜日の晩で、次の日は日曜日です。医者は休み。救急医療を利用するほどのことでないし、と思いながら、五日の月曜日は、例の「安倍靖国参拝違憲訴訟」の原告尋問の日です。この日八人の原告が代理人(弁護士)の質問に答えるのですが、私はこのトップバッターで九時半には裁判所に行かなければならず、かかりつけのクリニックに行っている暇はありません。この「原告尋問」、裁判所はこんな手間のかかることをしたくなくて始めそっけなく、弁護士たちの二年間の努力で勝ち取った原告尋問です。文字通りこれが裁判の山になります。尋問の順番を変えてもらう(後にしてもらう、クリニックでとりあえず点滴などしてもらってからいく)ことも不可能ですし、気分の悪いまま、東京地裁に駆け付けました。日曜日は声もでず、心配したのですが、(原告尋問で声が出なければ尋問になりませんから)、この日は声は出たので、ちょっと安心です。
 私の話すことは、私があの八月六日、建物疎開作業を欠席したため、命を取り留め、作業をしていたクラスメートは全滅したということです。この頃の裁判所はなかなか新式?の機材も整備していて、ボードに全滅したクラスのクラス写真を映し出し、弁護士が質問します。声だけの一問一答よりわかりやすいわけです。原爆が一日前であっても一日後であっても間違いなく私は死んでいたこと、建物疎開作業に従事し、死んだ少年少女たちが靖国神社に「英霊」として合祀されており、私がそのことにこだわり続けてきたことを言いました。私のクラスは昭和六年、七年、満州事変の年の生まれで、平和の日を一日も知らず育ち、皆、模範的「少国民」でした。しかし彼女らが、もし生きていたら、「やはり平和がいい、平和の裡に人生を送りたかった、」と思っているに違いない。靖国神社の中で「ここは私にいる場所でない、私は戦の神さまになりたくない」と思っているに違いないと言いました。そして、戦後「日本国憲法」の草案が発表された時、教師が説明してくれたのですが、黒板に大きく書かれた「戦争放棄」の字を見て、「友が生きていたら、どんなに喜んだろうに」と悔しく思ったことを話しました。この憲法の話、ポピュリズムかもしれませんが、皆、とても共感してくれるので。
 弁護士の「尋問」の後、相手側弁護士の尋問も入ります。「あなたは靖国神社参拝を認めないのか」といった質問も入ります。私は「靖国神社も一宗教。個人が信仰するのは自由。しかし、靖国が戦前と同じ考えでで一人の例外も許さず、靖国の神にしてしまい、合祀は嫌だという人も絶対”辞退”を認めないのはおかしい。個人の信仰は自由だが、首相の「公式参拝」は絶対にいけない。これは完全な憲法違反である(二〇条、政教分離)ことを、しっかり申しました。
 そのあと、ほかの方々の「尋問」も本当に素晴らしかったのですが、午後に入ると本当に私ふらふらになり、大事な「尋問」の最中に意識が遠くなるような感じになり、驚いてしまいました。四時半終了、弁護士会館で報告会、これも私、原告筆頭ということになっていますので、最後の挨拶をしなければなりません。
 この日の帰りは我ながら驚きでした。地下鉄は逆方向に乗り間違えてしまうし、駅の下りエスカレーターに乗ろうとすると足が震えてどうにもならないし、やっと家に帰りつき、昼にうどんをすすっただけなのでご飯を食べなければと、こんな時のためにレンジで温めればすぐ食べられるものをいつも用意しているのですが、グラタンを出して温めて一口食べると、その油臭さ、どうにものどを通りません。仕方なく寝てしまったのですが、朝になっても「おかしい」ので熱を測ってみたら8度。驚きました。
私、風邪をひくことはあっても、熱を出したことはこの二〇年ほどなかったのです。丈夫さが自慢だったのにと、慌ててクリニックに行きました。このクリニックわが棟の一階で薬局も持っているので、便利なのです。普通の風邪なのですが、「トシだし」肺炎になったら大変だから、入院したほうがいいなんて言われて、原告尋問の二回目もあるし、困るなと思ったのですが、とにかく点滴をしてもらい、薬をもらい、一日様子を見ることになりました。熱はすぐ下がリ、入院は勘弁してもらったのですが、咳やタンはなかなか収まらず、それが収まってからも体調が変です。食欲がなく、もう一つやる気がないというか、回復まで3週間近くかかってしまいました。こんなこと初めてです。つくづくトシを感じました。
 そんなことで仕事めちゃめちゃ遅れ、困ったことです。西田書店日高さんのところにも第Ⅲ集のことで行かなければならないのに、まだ、行ってない始末です。
 その間いろいろあって、広島関係のことも、思わぬ縁がつながったり、話はたくさんあるのですが、何から書いていいのやらと言ったありさまです。次回から一つ一つ、ほころびを解きほぐしながら、書いてゆきます。
 つくづく思いましたのは、もう自分が若くないことです。急がなくてはならないという思いにもつながり、少し焦りもあります。でも、考えてみれば、「あの日」、死んでいたところ七一年お釣りをもらって生きているのです。七一年というときの長さ、大事にし、言うべきことはちゃんと言っておかなければなりませんね。
 なんだか自分の病気の報告だけでつまらない便りになってしまいました、これではとても「随想」だなど言えませんね。書くことは少しも苦にならなかった私なのに、この程度の長さの文章でも途中で休まないとくたびれます。まだ風邪の後遺症ですね。でも、食欲も出てきましたし、気候も涼しくなってきましたし、次の便りはもう少しまともな文章を書きます。


続・対話随想 №1 [核無き世界をめざして]

中山士朗から関千枝子様へ

                                         作家  中山士朗

 私たちの往復書簡は、この九月をもってひとまず第Ⅲ集としてまとめ、一区切りすることにしました。けれども。関さんにしても、また私にとっても、忘れ残りがあります。残された時間はわずかではありますが、終わらざる時の証として書き継いで行かなければと思っています。
 関さんの第Ⅲ集の最後の手紙に「二〇一六年年夏の広島、やるべきことはやり、充実した五日間でした」と書かれていました。その内容がこと細やかに記されていて、読みながら関さんご自身の健康を慮っておりました。その反面、広島市がオバマ大統領訪問を機に、「原爆商売都市」に変容しつつある姿に悲憤慷慨されている、関さんの心情は痛いほど伝わってきました。
 オバマ氏の折り鶴にあやかって、繁華街の食事処でも、料理が出る前の時間を利用して、客に千羽鶴に用いる鶴を折ってもらう店も現れた、との報道記事を目にしたことはありましたが、関さんから「折り鶴タワー」の話を聞き、その愚かさに言葉を失ってしまいました。
 その事実を知ったとき、私は往復書簡の最後の手紙に、樫山文枝さんに朗読してもらった「鶴」のことを書き残しておいて良かった、とつくづく思ったことでした。なぜならば、その時鳴いていた鶴は、あの日に亡くなった少年、少女達だったからです。
 建物疎開作業に動員されて被爆死した六千名の中学、女学校生徒の記憶はいつしか忘れ去られ、「折り鶴タワー」に変身するこの時、関さんが広島平和記念資料館における「建物疎開動員学徒」コーナーの資料充実の交渉に当たられたことや、広島市立中央図書館の資料保存に奔走されたことは、貴重な仕事となり、後世に引き継がれていくものと確信しています。
 被爆七十一年目に当たる今年は、オバマ大統領の広島訪問によって広島は終わったという声を耳にするようになりました。しかしその反面、被爆三世の人たちの間で、祖母、祖父から被爆についてもっと詳しく聞いておけばよかったという声が聞かれるようになった事実を知り、記憶の継承の場として始められた私たちの往復書簡が、オバマ大統領広島訪問の年に第Ⅲ集で終わることができたのは、偶然とはいえ死者たちの無言の計らいがあったからではないか、と私は心底そのように感じています。
 私がそのことを強く感じたのは、八月六日のNHKテレビ番組『にっぽん紀行』-それからの人生を聞かせてください~広島ネオン街の語り部会―、そして八月二〇日の朝日新聞≪記者有論≫に、「広島から思う 家族たどり戦争を知ろう」と題して執筆された大阪社会部・宮崎園子さんの文章からでした。

<にっぽん紀行>
 この語り部の会は、広島のネオン街にあるスワロウテイルという、一軒のバーでしたが、そこでは毎月六日に、原爆の被害者たちによる「語り部の会」が開かれていました。その日は一〇人の若者で一杯になるそうです。この会を始めたのは、バーの店主で被爆三世でもある富恵洋次郎さんです、
 「被爆者の話はどん底から人生を這い上がり、どのような幸せな人生を歩むのか教えてくれる」
 と、富恵さんは語っています。
 番組の内容は、原爆の記憶が薄れてゆく中、ネオン街の「語り部の会」はなぜ若者たちの心に響くのか、心の風景を探ったものでした。
 その日私が視聴したのは、原爆で被災して孤児となり,ヤクザの下で靴磨きしながら生計を立てていた少年が、後に原爆にまつわるすべての記憶から逃れるために、隣県の岡山に移り住み、そこでの人との出会いによって自己を再生し、事業に成功した人の話が語られていました。質問を受けて、「原爆、それは地獄でした」と答え、被爆直後の悲惨な生活の日々を淡々と伝えていました。集まった若者たちは。真剣な面差しで聴き入っていました。そのなかに涙を流しながら、身じろぎ一つせず語り部に視線を注いでいる女性の姿がありました。
 この女性は、上京して商業デザイナーを志していましたが、挫折して広島に帰り、自分の道を模索していました。彼女はインタビューされた時、
 「被爆した祖母から、もっと詳しく話を聞いておけばよかった」
 と答えていました。
 そして、会が終わった後、語り部との別れに際し、
 「生きる勇気をいただきました。ありがとうございました」と、お礼の言葉を述べている光景がきわめて印象的でした。

<記者有論>広島から思う
 -―大阪社会部・宮崎園子
  (全文引用させていただきました)
 被爆七一年の広島・平和公園。平和記念式典の取材を終え、石垣に座って原稿を書いていると、杖をつくおばあさんがそばに腰を下ろし、ふうっと息をついた、しばらくしたらまた歩き、また休みをとる。
 気になったので声をかけてみた。せきを切ったように、一五歳だった「あの日」を語り始めた。
 爆心地から一・二キロで自宅の下敷きになった。一緒にいた姉と弟は遺骨すら見つからない。兄二人は戦死。父は四九年、原爆症とみられる症状で死去。別の場所で被爆したもう一人の兄は一〇年前に他界した…・。
 八六歳になった。がんは胃や大腸などにいくつも患った。それでも、毎年、八月六日は慰霊のため平和公園に必ず来る。入院先からでも向かう。
 家族には体験を話すのだろうか。
 「ばあさんが、またわけのわからん昔話を言うて、と、思うとるんでしょう。興味はないと思いますよ。」
 そう言いつつ、「ちょっとでも記憶に残ってくれたら」と、孫たちを夕方の灯篭流しに連れて行くという。
 そんな話を聞きながら、広島出身の私は祖母のことを思った。
 あの日、一八歳。爆心地から一・五キロで被爆し、顔半分をやけどした。
 「地獄を見た」と繰り返した。晩年多発性骨髄腫と診断され、「六〇年たっても原爆に殺される」と。
 私がのちに我が子に語り継ぐためにも、きちんと知りたい。でも聞くことで古傷をえぐりはしないか。そんな怖さがあった。いつか話してくれたら。そんな風に思っていた。
 でも、もう聞けない。
 昨夏、祖母は八八歳で逝った。その名前は、今年の平和式典の冒頭、この一年に亡くなった被爆者五五一一人の名簿の一人として原爆死没者慰霊碑に納められた。
 あの日だけでなく、それからの人生をもっと聞きたかった。子や孫、ひ孫を授かり、何を思ったか。毎年の原爆忌、どんな気持ちだったか。
 太平洋戦争を語れる世代は今や人口の一〇人に一人ほど。戦争の生々しいリアルな光景は遠のき、やがて教科書の出来事になっていく。
 でも、自分の家族をたどって行けば、戦争の時代を生きた誰かがいる。「忘れたい。でも忘れられない」「語りたくないけど、伝えておきたい」。人生の最終章を迎え、そう苦悶している人たちが」。
 多くの被爆者たちを取材してきた。「記者さんには話しやすいが、家では話しにくい」「でも家族には知っておいてほしい」とも。私の祖母もそんな葛藤を抱えたままだったのだろうか。
 教科書に記された歴史には、どこかとっかかりを感じにくい。自分自身につながる戦争。それを知ることこそ、私たちの社会が歩むべき道を考える一歩になるのではないか。

 以上が宮崎さんの文章です。
 私はこれを読み終えたとき、私たちの往復書簡第Ⅱ集四五の「死者のバックル」で引用させていただいた、成川彩記者が朝日新聞の「be2」で書かれた記事を思い出さずにはいられませんでした。これは、女優、映画プロデユーサー・監督の杉野希妃さんについて書かれた短い文章でした。
 <「なぜ映画を作るのか。細々とでも平和の世の中を作りたいから」
 原点は広島、祖母が被爆者だ。生き延びてなお友を亡くした過去に苦しんだ。一方の祖父は、元飛行少年兵。機材不足で出撃を免れた。
 「広島に生まれ育ち、平和教育を繰り返し受けてきた。平和は私の生き方のベースです」。>
 
 今回は、引用を多く使わせていただいたために長くなってしまいましたが、こうした真摯な文章に出会いますと、私たちの「往復書簡」が”記憶の継承の場”となり、”戦争と平和を考える原点”になって欲しいとの思念から始まったことが、少しずつ浸透していくのではないかと考えています。
                                                                               


対話随想 №46 [核無き世界をめざして]

 関千枝子から中山士朗様へ

                                    エッセイスト  関 千枝子

 八月四日は、そんなことですっかり疲れてしまい、外で夕食を食べる気にならず、コンビニでおにぎりを買い、ホテルの部屋でぼそぼそ食べながらテレビを見ていましたら、先ほどの録画がNHKの地方ニュースの中で出てきました。私の顔を見て驚きました。まあ、ひどい顔。皺だらけで、まぎれもない「ババア」。テレビカメラは容赦ありませんね。やれやれ。
 五日午前中に、鯉城同窓会に参りました。鯉城同窓会の事務局の久保木さんは、とても同窓生の資料の保存に熱心です。≪45≫で書いた「紫雲2号」について、鯉城同窓会で保存したいと言っておられたのに、私が図書館の方を選んだので、そのお詫びです。問題の『ある悔恨』と、筆者と思われる宮本恭輔さんの作品はコピーしてありますので、それを同窓会館に贈ることを申しました。それから、ほかの資料についても相談いたしました。私は、そうした昔の生徒たちが作った雑誌や新聞など学校の図書室で保存しているものと思っていたのですが、どうも国泰寺高校の図書室はそうしたことにあまり熱心でないように思われたので。久保木さんのお話では、昔、国泰寺高校の図書室はとても大きかったらしいのですが、校舎の改築?(模様替え?)の際、小さくなってしまい、様子が変わったということです。今時、図書室を大きく充実させるならともかく、小さくしてしまうなど、あまり聞いたこともなく、驚きました。そういえばずいぶん前の話ですが、私のクラスメートから国泰寺高校の図書室が大きくなり内容も充実させるので、卒業生たちの作品等も揃えたいという話があり、私から中山さんにお願いして、出版されている作品を送っていただいたことがありましたね。その図書館が年月を経て、“小さくなった”ようです。
ともかく、同窓会館には展示に使える広い部屋もあり、そうした資料も大事に取っておく、卒業生の中には図書館に勤めた司書資格のある方も多く、その方々に整理をお願いしているということで、安心しました。ただ、前から感じていることですが、資料の保存ということに関して、あまりに関心が薄い方が多いことです。本当にこれは問題ですね。その意味でも昨日行った広島中央図書館の対応はとてもうれしかったです。 
 午後、建物疎開作業で亡くなった少年少女たちの慰霊碑巡りのフィールドワークです。今回は私が拙著『ヒロシマの少年少女たち』で問題提起した、遺族年金支給のとき外国籍の人が切られたことで、朝鮮半島出身者が死者の数の中に入っていないこと、その人々が国民学校高等科の生徒で、慰霊碑さえもないことなどを訴えたくて、フィールドワークの前に説明の時間をとっていただきました。主催のYWCAの方々のお骨折りで、平和記念公園に近いところでお部屋を借りることができました(多分ご厚意で無料)。
 フィールドワークには、毎回思いがけない方々が来てくださるのですが、今回、亡くなった西組の級友の親戚の方や、今田耕二さんの奥様も来てくださったのには驚きました。今田さんは、たまたまほかの用もあって、兵庫県から来ておられ、参加されたようです。今田さんとは本当に長い付き合い、いろいろお世話になったのですが、奥様とお会いするのは初めてです。
NHKや例のドキュメンタリ―映画の撮影者も見えて、会議室はぎゅう詰めです。私は懸命に疎開地後片付け作業のことや、それにまつわる問題点を説明しました。慰霊碑巡りですから、慰霊碑の説明をしますが、慰霊碑もない、いや名前も数もわからなくなっている少年少女がたくさんいること、だからこれから回る平和大通りや旧雑魚場町には、これらの生徒たちをしのぶものは何もないが、これから歩く道にはその子供たちの血や汗が染みているはずです、もしかしたら道の下に、まだ骨があるかもしれない。それを偲んで歩いてください、とお願いしました。
この日は猛暑、かなりきつかったです。参加者も四〇人で多かったし、時間内に終わらせるのは大変で、早足になります。フィールドワークの終わりに、私は思わず、「みなさん、今日は暑い中を歩かせてしまい、ごめんなさい。でも私のクラスメートたち、一二,三歳の子どもたちは、この暑い中、炎をくぐり、焼けて熱くなった道を逃げ惑ったのです」と言ってしまいました。
 この後、私はドキュメンタリー映画の方々に、私の母校の碑文の前で語るはずでした。碑文は「殉国学徒の碑」とあり、「純真な愛国の至情」で犠牲となった「英霊」と称えられています。私はその前で「殉国の至情」とは何かと疑問を呈し、中山さんが第2集の中で書かれている言葉(34ページ)「六十八年経った今も、被爆者たちは後遺症に悩まされながら生き、やがて訪れてくる死を待つのみですが、国家から欺かれた生涯だと考えざるを得ません。戦争と同じく国策によって推進された原発も、同じ道をたどるような気がしてなりません」という文章を読もうと思っていました。ところがこの日、近くで工事をやっていて、音がやかましく入ってきます。監督は「ここでは音が取れない」と言われます。やむなくホテルに行くことにしました。この日、私は宿が取れず、撮影スタッフの方々がとったホテルで、その一部屋を分けていただいたのですが、そのホテルにタクシーで向かいました。私と製作者の矢間さんが乗ったタクシーの運転手(女性です)、どうも変なのです。妙に道を曲がりやたら時間がかかります。おまけに喋りまくるのですが、右翼的で、日本も核兵器を持つべきだ、など言うのです。驚き、不愉快になりました。タクシー代も2000円くらいかかり、私驚いたのですが、物を言う元気もない。ホテルでまず水を飲んだのですが、ぐっしょり汗をかいていたので、なんだか寒くなり、変な具合です。
スタッフの部屋で私が話し、それを撮影するのですが、一応,「殉国」への疑問と中山さんの文章は読んだのですが、あとはレロレロです。大庭さんのことも説明したのですが、わかっていただけたかしら。とにかく私は寒くなってしまい、部屋に引き上げ、そのまま風呂に入りました、衣服を脱ぎ棄てると汗で「搾れるほどぐちゃぐちゃになっているので驚きました。かなり長時間風呂に入りようやく寒さが取れました。でも、もう、夕飯など食べる気もなくそのままベッドに転がっていました。
 六日朝。NHKの方と七時半に国泰寺町の第二県女の慰霊碑のところで会う約束です。起きて身支度を済ませるや否や飛び出しました。このホテル朝食付きなのですが、食べている暇はありません。タクシーに飛び乗り急ぎました、驚いたことにあっという間についてしまい料金は八二〇円ほどでした。昨日のあの女タクシードライ―バー何だったのだろう、またまた腹が立ってきました。
NHKの若いアナの方はもう来ていらして、会場の椅子運びを手伝っておられます。彼は少し緊張気味で、自分は鳥取局から手伝いに来ていて原爆のことも大して知らず、勉強中です、と控えめです。自分の駆け出し時代を思い出して好感が持てました。式の参加者で会場が込みだす前に、リハーサル。式典の放送のあとに、周辺の模様が入るようで、私の昨日のフィールドワークの説明があり、私が最後に叫んだ「少年少女たちはこの炎天下、炎の中を逃げたのですから」といった録音が入り、そのあとに私が1分少々しゃべるのだそうです。ヒバクシャが望むのは核兵器の廃絶、遠い夢ではなく今すぐに、と申しました。テストしてみて、OK,この調子でいきましょうということになりました。
人が続々きます。山中高女の生き残りの方が挨拶に見えます。毎年来ていて私のことを覚えておられるようです。NHKの方に、当時のこといろいろ語られます。食べるものもなく、食べた雑草のこととか、何年たってもあの日のこと、戦中の暮らしのつらさは忘れられませんね。第二県女関係も去年より多かったようです。昔のクラスメートの親類の方とか。思いがけない新しい顔もあります、うれしいのは下関の河野睦さん、この方、原爆の一週間前くらいに転校してこられて「東組」に入り、東練兵場で被爆。(もし西組に転入したら間違いなく死んでいます。)戦後すぐ下関に帰られ、第二県女の思い出は一週間しかないのです。それが何年か前、私の本のことでこの雑魚場の慰霊碑のことなど知られ、毎年見えるようになりました。下関でヒバクシャの会でご活躍、下関の方々も毎年広島に来て展示などをなさるので、その前にまずここにきて、と言われるのですが、なかなかできることではありません。東組と西組が生死を分けたことの不思議を私の本で知り毎年、熱心にお参りしてくださいます。
福山から平賀(水木)栄枝先生。戦前山中、戦後は第二県女の先生、二つの学校に関係していた珍しい経歴で、再編成後は中学の教師を選ばれ、国語の先生として生涯を貫き、そして今もお元気なのです。昨年と少しも変わりません。昨夜NHKで私のフィールドワークの様子を見たと言われ、「良かった。ありがとう」と手を握ってくださいました。先生お幾つになられました、と聞いたら「数えで九十五歳よ』。「先生百まで頑張りましょう!」と思わず言ってしまいました。
八時十五分、原爆投下時間、中央公園の収録を終えて周辺地区の模様の中継、いよいよ本番です。なんとか一言を短く入れ、無事終了。
あのNHKの若いアナの方はその後私に葉書をくださいました。「原爆のこともあまり知らなかったが、本当に勉強させていただきました。これからも学び続けかかわっていきたい」という真摯なお手紙でした。私、このごろいろいろ取材されますが、取材者からお礼の手紙をいただくことはそう多くはありません。とてもうれしく思いました。NHKも会長問題などで、近頃評判悪いですが、こうした若い方がいっぱいおられるということに、未来への希望を持ちました。
六日朝の「スケジュール」もすっかり終わって、急にお腹がすいてきました。考えたら昨日、早昼を食べた切りです。お腹もすくはず。東京から来た大学生、堀池美帆さんもまだ朝ご飯食べてないというので、一緒にファミリーレストランに。
堀池さんとは彼女が高校一年生の時広島で初めて会いました。原爆や戦争のことに熱心な高校生に驚きましたが、次の日(八月六日)資料館の前で外国人の人をつかまえては平和をどう思うとインタビューしている姿を発見、またびっくり。以来の付き合いです。毎年広島に来、私のフィールドワークにも何度も参加、東日本大震災ではボランティアに行ったり、とにかく積極的です。でも、高校では「変わり者」だったらしく、文化祭では戦争と平和の問題をテーマにしようとして否決されたと残念がっていましたが、めげず、立ち向かっていく強靭なばねのようなものも持っています。二人姉妹ですが妹は私と違い、社会問題に興味を持たないと言っておりましたが、その妹さんをだんだん説得したようで、今年の広島には妹さんを連れてきました!びっくりしました。
この日、妹さんは平和公園におり、自分は雑魚場に来たと言いますので、一緒にご飯を食べました。その後、中央公園に向かい、そこで妹さんを探す彼女と別れ、私は資料館に行き学芸課の落葉さんに会いました。
実は、私、今回フィールドワークのことをNHKだけでなくいろいろのところから取材されたのですが、その方々から聞いた話で、資料館から出ている数字で「ヒロシマ原爆で死んだ学徒は七二〇〇、うち建物疎開作業の学徒は五八四六人」とあるのだそうです。この数字を出せば、「いかに建物疎開作業の学徒の死が大勢かということが分かりますね」と言われたので、「ちょっと待って」と言ったのです。建物疎開作業の学徒の死が五八四六というのは少なすぎますが(それは朝鮮半島出身者を除いたため)とにかくこれが資料館の公式数字です。しかし、広島の勤労学徒の死を七二〇〇人というのは多すぎます。建物疎開以外の死亡学徒が一六〇〇人以上ということになりますが、これは変です。
学徒の勤労動員は工場が主ですから、広島ではほとんど周辺地域に位置し、死者は少なかった。中心部にいたのは師団司令部、貯金局、電話局など事務作業の職場、女子学生が多いところで、どう見積もっても数百人です。
 私は、これは日本中の工場動員勤労学徒で空襲で死んだ数ではないかと考えました。準軍属認定運動のとき、全国の死亡勤労動員学徒の遺族と連携し運動し、これらの犠牲者も準軍属と認定されました。その数字が間違って伝えられたのではないかと思うのです。全国の工場等の空襲で死んだ学徒は豊川海軍工廠、光海軍工廠、大阪造兵廠、長崎の原爆で犠牲になった学徒等が多いのですが、これらを集めても千数百人、ほかの死亡者と合わせて一六〇〇人くらいだろうと思えます。
 落葉さんの話ではこの七二〇〇人という数は、二〇〇四年建物疎開作業で死んだ学徒の企画展をやったときのリーフに乗っている数で、それがそのまま残ってしまったようです。私は七二〇〇人という数は全国の勤労学徒の数であろうということを説明し、修正してほしい旨を申しました。とにかく広島原爆のことに関しては全国の方が広島の資料館を信頼しておりますので、落葉さんにしっかり訴えました。予約もなしに行ったのに、時間を都合して会っていただきました落葉さんに感謝です。
 それから外に出てぶらぶらしているうち知った顔に会い。堀池姉妹にも会い、皆で昼ご飯を食べました。この日は大分疲れましたので、ここでいったんホテルに帰り少し休息。  夕方、五時に灯篭流しの受付のところで例のドキュメンタリーの人々と会う約束をしていますのでタクシーに乗り「灯篭流しの受付」と言ったら「知らない」というのですね、灯篭流しは知っているけれど、どこに受付があるか知らないというのです。昨日のタクシーのこともあり少しいやになりましたが、とにかく元安橋に行って、と少しきつい調子で言ってしまいました。
 元安橋のあたりは人だかりでにぎやか、死んだ人の魂に送る灯篭流しがまるでお祭りのようで、少し腹立たしく思えましたが、西名みずほさんも来てくださいましたので、灯篭に大庭里美さんの名前を入れることをドキュメンタリーの製作者たちに承知してもらったことを報告しました。灯篭は4面あります。最初の面に「安らかの眠れません」と書き次の二つの面に「核兵器廃絶/全原発廃炉の日まで」、そして最後の面に「大庭里美」の名を入れ、その下に、「あなたも安らかに眠っていないでしょう、怒り続けていてください」と書きました。
制作の矢間さんも監督の原村さんも、昨日、西名さんからもらった大庭さんの資料を読んでいただけたようで、なぜ私が大庭さんの名を灯篭に書きたいか、思いが分かっていただけたようです。とにかく彼女は、ヒロシマのヒバクシャの大多数が核の平和利用に酔っていたころ、孤軍奮闘原発の危険性を叫び続けていた人、もし彼女が生きていたら彼女こそドキュメンタリーに出演すべき人なのです。昨日私は体調不良で最後の方はしどろもどろになってしまったのですが、原村監督は「この灯篭であなたの思いは伝わりますよ」と言ってくださいました。
 
 二〇一六年夏の広島、やるべきことはやり、充実した五日間でした。
しかし、広島に対しては、腹立たしいものを感じました。今年の広島は確かに人が多かった。オバマ効果ですか、外国人の数も多く、子ども連れが目立ちました。オバマ効果で子どもたちにも広島への関心を呼んでいるとしたら、これは確かにいいことでしょう。しかし、広島市は「原爆商売都市」になっているのではないかとさえ思いました。ホテルはバカ高く(昔から広島は八月五日はホテル難で高いのですが)、一部かもしれませんが、タクシーの人は原爆のことをあまり知らない。不勉強としか思えない。一番はらだたしかったのが、「折り鶴タワー」でした。
 折り鶴タワーと聞いた時、市の施設かと思ったのですが、商業ビルのようです。平和公園のすぐ近くに建ったの背の高いビルで、折り鶴の碑を見下ろすようだと、建設の前から反対をする人もいたようですが、とにかくよく目立ちます。この日行ってみた市民の人が怒っていたのですが、この背の高いビルにエスカレーターで入るのですが、これで入場しようとすると入場料(エスカレーター代)一七〇〇円もとられるのですって。それで折り鶴を折りなさいと紙を渡され、3枚折って、ビルに取りつけられた巨大な箱のようなものに折り鶴を投げ入れると、ハイ。五〇〇円。何だ、これは、と皆、かんかん怒っていました。私、聞いただけで呆れて行きませんでしたが。
 六日の市長宣言にしてもあまりにお粗末で、長崎の市長宣言、市民の言葉が立派だったので、少し恥ずかしくなりました。
 広島は原爆商売都市になってはいけません。観光地でなく、核兵器廃絶、恒久平和のために闘い抜く都市であってほしいのです。これでは、私、本当に、「安らかに眠れません」。

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    対話随想を終えて

 対話随想46えらく長くなりましてすみませんでした。報告したいことがありすぎました。これで「対話随想」編を終わりにします。この対話随想編、「往復書簡」の第3集として本にいたします。1集、2集と同じ西田書店から出版します。たぶん、年末ごろになると思います。
 はじめ、私たちの手紙のやり取り、今夏をもって終わりにしてもいいと思っていたのですが、さまざまなことがあり、まだまだ書きたいことが残っています。今しばらく、このブログをお借りして書き続けたいと思います。資金のこともあり、3集までは出版の予定ですが、この後は無理かもしれません、先の予定はわかりませんが、「続・対話随想」として書かせていただきます。このところ多忙で執筆が遅れている丸木美術館の岡村さんのエッセイもまた入ってくることになると思います。次回からの「続対話随想」、よろしくお願いします                    関千枝子 中山士朗


対話随想 №45 [核無き世界をめざして]

 関千枝子から中山士朗様へ

                                    エッセイスト  関 千枝子

 広島に八月三日から七日まで行ってきました。今年の広島は大変な炎暑、それにスケジュールが過密だったものですから、体力の限界、「ヘロヘロ」といった感じで帰ってきました。なるべく約束の仕事も断わって、家にいるようにしたのですが、留守中のコンピュータのメールを見るだけでも時間がかかり、家にいてもあまり静養にならず、計画はすべて遅れ遅れで、「トシ」を感じながらこの文章を書いています。 
 前回、前々回にからんでご報告すべきこともたくさんあるのですが、これは後程改めて書くことにしまして、二〇一六年八月六日前後の広島の報告にしぼらせていただきます。
 
 八月三日に広島に入り、広島駅からそのまま可部線に乗り換え緑井に参りました。これは前にも書きました、国泰寺高校創設の年(一九四八年)私が文芸部の私部長をしているときに出した雑誌「紫雲」の第2号に出た小説「ある悔恨」のことで、緑井に住む医師・高橋真弓さんと親しくなり、彼女がぜひ今年も会いましょうと言ってくださいましたので、彼女のクリニックがある緑井に行くことにしたのです。私、堀場清子さんのおじいさまの今井病院があったということで緑井に、一度行ってみたいと思っていたのです。今井病院が原爆のとき、大勢のけが人が運び込まれ、堀場さんもにわか看護者になり大奮闘された話を聞いていましたから。
 緑井は、今は広島市内(安佐南区)ですが、昔は可部の近くで遠いところという感じでした。いまでも電車で20分くらいかかり、かなりありますね。堀場さんによると、すぐトラックでけが人が運び込まれたといいます。何事が起ったかわからず、大騒ぎをしているうちに、けが人が運び込まれてきて、収容所になってしまった。東京の女学校から広島第一県女に転向された堀場さんは体調を崩し、おじいさまのお家で静養しておられたらしいですが、非常事態に少々の悪さなど言っておられませんね。大やけど、大けがの人々、まだ15歳の少女に、どんなにショックだったか。
 今井病院は今存在しませんガ、その跡地にやはり病院が経っています。大きな病院です。今井病院がいかに大きな医院だったか分かります。当時、まだ本当に田舎町だった緑井で、今井病院だけが頼りと、次から次へ病人が運び込まれたのでしょう。
 緑井の街を高橋さんに案内していただき、そのまま車で広島まで連れていっていただき、この日は一日、高橋さんにお世話になってしまいました。
 四日はまず広島中央図書館に行きました。「原爆を伝える――次世代につなぐヒロシマ・ナガサキの本」という企画展をやっており、その中に、私が寄贈した「紫雲」第2号も展示されているというので見に行ったのです。
 「紫雲」は割合大きくスペースをとって、展示されていました。解説の文章を付け、「紫雲」の実物を展示、中を開けて見ることは難しいだろうということで、「ある悔恨」の部分を大きくコピー、読みやすくし、展示してあるという配慮のされ方でした。説明はそう長くはできないので、多分この小説の実際の体験者であろう原邦彦さん(一中の倒壊校舎の生き残り、原民樹の甥)のことは書いてありましたが、実際の作者である(と思われる)宮本恭輔さんのことは書いてありませんでした。しかし、まあ、これは仕方ないことでしょう。宮本恭輔さんは一介の町医者。しかも割合早い時期に東京に出て、広島で彼のことを知る人も少ないのですから。
広島市中央図書館の方は大変丁寧で、私が来ていることを知ると、担当課長や担当者が来てくださり、話をしました。このあと、私はで資料を調べるために、七日にも図書館に寄ったのですが、この時は副館長さんが出てこられて、一九四八年にこのような作品が高校二年生の手で書かれたことの意義をよくわかってくださり、永久に保存すると言ってくださいました。この「紫雲」2号に関しては、鯉城同窓会でも欲しがっていたのですが、やはり市立図書館に寄贈してよかったと思いました。(多くの人に読まれ利用されること、あの当時の紙質の良くない雑誌ですから、保存を考えると図書館が一番です)。
 図書館からNHkへ。あなたのところにも取材にいらした出山さん、あの方が私の建物疎開の少年少女たちに拘っているのをよくわかってくださって今回全面的に協力取材してくださいました。この日にスタジオで撮影。五日のフィールドワークも初めから最後まで撮影してくださり、さらに六日、わが校の慰霊碑のところでラジオの取材もあるというのでびっくりです。
 スタジオの撮影は、『第二県女二年西組』の一節(ごく短くですが)の朗読もあり、以前の私のフィールドワークの写真なども入って私、少々びっくりいたしました。ニュース(広島ローカル)の中に入るので、そう多くのことは語れないのですが、とにかくリハーサル一回でうまく?収録できました、そのあと出山さんに予定を聞かれ広島テレビに行くと言い、話しているうちに私がお会いする予定だった西名みずほさんを、出山さんがよく知っておられることが分かり、びっくりしました。
 西名さんは、大庭里美さんの娘さんです。第2集の終わりの方(163ページ)に大庭里美さんのことを書いているのですが、ご記憶でしょうか。

 これも前にご報告したと思いますが、「シロウオ」という原発立地を断念させた町のことを書いたドキュメンタリーを製作した人々が、その第2弾を描いた映画の製作をめざしています。その製作・脚本の矢間秀次郎さんから、ヒロシマからフクシマ、といった構想の第2作を作るので、私の五日のフィールドワークを全部撮影したいという申し込みがありました。さらに私に六日の夜の灯篭流しに参加してほしいというのです。私、この方々の原発に対する強い気持ち、よくわかり、ドキュメンタリ-の製作には大いに賛成しますが、広島のヒバクシャたちは、原発に賛成し、核の平和利用はいいことと思い、原発の安全性を疑わなかった人が多いというのも事実です。私にしても、割合早くから原発に疑問を持っていましたが、決して十分な抵抗記事を書いたかというと、ジャーナリストの端くれとして自責の念すら持っています。(第2集の51話「無名の死者への詩碑」で書いた通りです)。そんな時代から核や原発に対し、先駆的な運動を広島で、孤軍奮闘頑張っておられた大庭さんに、あまり援助することもできませんでした。大庭さんは、二〇〇五年急死されるのですが、その後、大庭さんのグループ・プルトニウム・アクション・ヒロシマとも連絡がつかなくなり、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。
 そんなことを矢間さんに申し上げたのですが、大庭さんと言っても誰も知りません。私のフィールドワークは、原爆のときに建物作業で死んだ少年少女たちのことですから原発には直接関係ないからとお断りしたのですが、かまわない、と言われます。結局、灯篭流しの灯篭に大庭里美さんの名前を入れることを承知してもらったのですが、これでいいのかなと忸怩たる思いがありました。
 ヒロシマ行きも迫ったある日、ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会の中川幹朗さんから手紙が届きました。この方は、最近「証言 生きている町 原爆で灼かれた材木町・中島本町」というパンフを出され,いただいたので、私たちの「往復書簡」をお送りしたのですが、大庭さんの記述を読み、驚いてわたくしに手紙を下さり、大庭さんの娘さんの西名さんのことを教えていただいたのです。
 私も驚き、西名さんに連絡、この日会いに行くことにしたのですが、出山さんと西名さんが知り合いとは知らず、本当に驚きました。出山さんも驚いて私が広島テレビまで行くというと、NHKから広島テレビまで歩いて十分くらいの近いところなのに、「暑いから大変です」とタクシーを呼び、広島テレビまで送ってくださいました。
出山さんは、若いころ、大庭さんを取材したことがあり、大庭さんのことをよく知っておられるのです!
 西名さんと会えて本当によかったです。西名さんがお母さんの思いをきちんと受け継いで、「平和のことにとても熱心なアナウンサー」として頑張っておられることもわかりましたし、プルトニウムアクション・ヒロシマも、その流れを受け継いでいる人々が地味ながら活動を続けておられることもわかりました。灯篭流しの灯篭に、大庭さんの名前を入れることも承諾をいただきました。
 ごめんなさい。実はここから後が本当に書きたいことなのですが、もういつもの倍近くは学なってしまいました。ここまでを前編としてもう一度続きを書かせていただきます。


対話随想 №44 [核無き世界をめざして]

中山士朗から関千枝子様へ

                                         作家  中山士朗

 <鶴>
 私たちは二〇一二年四月から「往復書簡」を開始しましたが、当初、アメリカのオバマ大統領の広島訪問が実現することなぞ、まったく予期していませんでした。
 前回の関さんの手紙のなかに、オバマ大統領の折り鶴のことが書かれていました。
 これはオバマ大統領が広島市に寄贈した手作りの、四羽の折り鶴でした。新聞の記事によりますと、広島訪問直後に原爆資料館を見学した際に、出迎えた広島市立吉島中学校三年の花岡佐妃さん(一四)、私立中島小学校六年の矢野将惇君(一一)に名前と年齢を聞き、二人が英語で答えると、オバマ氏は「ベリーグッド。これからも勉強頑張って」と言って握手し、折り鶴を渡したと記述されていました。
 資料館の記帳には、次の言葉が残されていました。

 ”私たちは戦争の苦しみを経験しました。ともに、平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう。“
  
 私が通っていた中島小学校は中島地区にありましたが、爆心地からの至近距離は、中島
本町河畔(平和公園北詰で、相生橋の南たもと)で、約一〇〇メートル、最も遠い距離は、吉島町の南端で約二・四キロメートルでした。中島小学校は、八〇〇メートルほど離れた位置にあったのではないでしょうか。原爆が投下された時、付近一帯は、建物疎開作業で大勢の中学低学年生が出動していて亡くなりました。私の従弟、広島二中一年生であった伊豫五三は、新大橋(爆心から距離五〇〇メートル)の東詰めで被爆し、亡くなりました。その橋の近くにあった、中島新町の母の実家は、建物疎開ですでに取り壊されていました。
 私は新聞を読みながら、七一年の歳月を経て、同じ母校の生徒である矢野君がオバマ氏から折り鶴を受け取ったことも驚きでしたが、中学三年生の花岡さんの写真を見ながら、私が被爆した時と同じ年齢だったことを思い合わせ、私たちがいかに幼い頃から戦争に組み込まれていったかを思い知らされたのでした。
 オバマ氏の広島訪問については、これまで私は率直な感想を述べました。けれども、この折り鶴に託されたオバマ氏の人間としての良心は、確りと伝わってくるのでした。
 
 このたびの表題は、「鶴」にいたしました。
 六月二八日に広島を訪問したオバマ氏が、原爆資料館に寄贈した折り鶴.について書きながら、樫山文枝さんが別府市市民劇場に招かれ、七月二日に別府市内のブルーバード劇場でトークショーが開かれた日のことを思わずにはいられませんでした。樫山さん主演の「孤島の太陽」という四八年前の映画に深い感銘を覚えた大分市の稲田静真さんが、樫山さんに依頼して上映実行委員会を作り、今回の上演に至ったいきさつを新聞で知りました。昨年五月に大分市民劇場が呼んだ劇団民芸「海霧」に樫山さんは出演されましたが、その折、頼んで実現の運びとなり、樫山さんの舞台挨拶が実現したということでした。
 私はその記事を読みながら、オバマ氏の広島訪問と言い、樫山さんの別府来訪と言い、何か運命的な出会いのように思えてならないのです。
 前々回の手紙に関さんが添えてくださった、自然写真家・いだよう氏の「梅雨渓」の写真と「雨の季節は渓流撮影が楽しい。岩も木立も木の葉もしっとり艶やかになって風情たっぷりだ。水嵩も増すので変哲もない川が見応え十分になってくれる〕、この短く、美しい文章を再読しました。そして、私たちの「往復書簡」の底を流れる七〇年余の歳月を経た伏流木が、今や清冽な源流となり、川の上流の風景を形作っているのを感じます。
 一九八五年に広島中国放送が、<被爆四〇周年報道特別番組>として、「鶴」という番組が制作されました。これは、広島一中遺族会、広島一中同窓会、広島大学医学部の協力を得て、「星は見ている」(広島一中遺族会編)の中から、一六人の遺族を選び、日本各地を訪ねるという番組内容でした。広島一中の「追憶の碑」には、建物疎開作業、そのほか学校防衛の任に当たっていて被爆した生徒
  一年   二八七名
  三年    五五名
 その他    九名

の名前が刻まれています。
その時の一一三ページにも及ぶ台本を開いてみますと、原作・インタビューは、私、朗読、ナレーションは樫山文江さんになっています。一六人のそれぞれに樫山さんのナレーションがあり、作品の冒頭と終わりには、出水市に鶴の北帰行の撮影を背景に、樫山さんの朗読が入っているのです。構成は、秋信利彦さんでした。秋信さんは、戦後はじめての天皇と記者団の会見の場で、「原爆についてどのように思っておられますか」と広島の記者として、悩んだ末に質問した中国放送の記者でした。その秋信さんと樫山文枝さん、私の三人は、長い時間をかけてTBSの録音室で採録したのでした。
 
 朗読
  <タイトル前のプロローグ>から
  昭和二〇年八月六日、広島市に原子爆弾が投下されてから四一年の歳月が経った。
  その日、私たちの前から不意に姿を消してしまった大勢の学友は、今どこにいるのだろうか。未だに子どもの死に場所も判明せず、遺骨の一片もない遺族は、今もあの日を生きつづけているにちがいない。その当時、事実として伝えられ、伝えられ方も事実として受け止め、深くは確かめようとはしなかった。それが死者に対する礼儀のように思われた。
 しかし、四〇年経った現在、その事実を深く確かめてゆくと、曖昧な部分が残る。
其の曖昧な部分を明確にすることが死者への供養になるのではないだろうか。
                                              (出水に向かう車中)

 出水市荒崎地区に。毎年一〇月中旬から三月中旬にかけて遠く、シベリアから鶴が飛来してくるということを耳にしたのは、戦後だいぶ経ってからである。
 その後、新聞でニュースを読むたびに、あの日の死者たちの霊魂が鶴に化身して、この世に舞い戻って来たのだと思うようになった。一度そのように思い込むと、それが真実だと確信するようになった。私がそのように思いつづけた理由の一つには、あの日、醜い姿で死んでいった者たちの霊魂は、最も美しいものに化身していなければならないはずだったからである。
 私が実際に出水市に行って鶴の群れを見たのは、今から五年前であった。
                          (鶴の群れ。優雅な鶴)
 鶴が舞う姿は美しい。しかし、その鳴き声は決して美しいものではなく、野性的な声の中に一抹の哀切がこもっていた。あの日の死者たちは、忽然とこの地上から消えていった。
                                (舞う鶴)
 儀式があり人々が哀しむ中で別れを告げたものではなかった。醜く焼けただれた手を虚空に差しのべ、水を求めながら、誰からも気づかれずに死んでいった幾千、幾万人の無念の声を私は聞いたように思った。その声の中に、亡くなった同級生の声も混じっていた。
                             (大空に向かって鳴く鶴)  
<エピローグ>
 私は今旅を終えようとしている。
 私が会った遺族の人たちは、すでに七〇歳後半から八〇代にさしかかっていた。私の両手をとり、あたかも自分の息子が帰ってきたかのように錯覚され、手を震わせた方もあった。
 大勢の息子や孫にかこまれ、穏やかに暮らしていても亡くなった息子の話しになると、声もとだえがちであった。いちように話されたことは、今でも、あの日家を出て行ったときの幼い顔のままであるということだ。そして、一方では、毎年、亡くなったときの年齢に、一つずつ年を加えているのだ。「もう二度とお目にかかることはありませんでしょう。私はよく生きて、あと二,三年です」との言葉をしばしば耳にした。一期一会とは、まさにこのことであろう。私は重い気持ちを引きずりながら、遺族の人たちと別れを告げなければならなかった。
 遺族にとって、戦後は死ぬまで続くに違いない。しかし、私は、死者たちが死者として、肉親の中で生きつづけていることを知り、ふと心が安らぐのを覚えた。
                            (北帰行/遺族の顔)
 やがて時が来て、鶴たちは私の知らない、遠い北の土地にふたたび帰ってゆく。
 私は,夕陽に向けて飛翔する鶴を眺めながら、その日を想像した。すると、私一人がこの地上に残されるような寂しさを覚えた。私がこの世から去っても、鶴たちは毎年一〇月になるとこの地を訪れ、未来永劫に、あの時の悲痛な声でなきつづけるにちがいないのだ。
                     (いよいよ帰る鶴/鶴さかんに呼び交わす)

 以上が、樫山さんに朗読していただいた個所です。そして、この作品は、月間ギャラクシー賞を受けたと聞いています。
 樫山さんがブルーバード劇場に見える日。もしお時間があればお目にかかって三一年前のお礼を申し上げたいと、稲田さんに予めお願いしておきましたが、あいにく空港からの到着時間が二〇分遅れたために、お会いすることはできませんでした。後日、マネージャーの方と電話で話しましたところ、樫山さんは「鶴」の朗読を覚えていて下さったそうです。樫山さんに、私たちの『ヒロシマ往復書簡』Ⅰ、Ⅱ集を送っておきました。


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