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続・対話随想 №33 [核無き世界をめざして]

 関千枝子から中山士朗さま

              エッセイスト  関 千枝子

 昨日(二〇一八年一月二二日) 国会が開かれ、総理の施政方針演説が行われました。トランプのアメリカについてゆく、憲法は大いに論議してほしいと、年頭の記者会見より“控えめ”ですが、改憲への熱意ありありです。心配一杯の年明け。憲法改悪も、今年が山でないかと思っております。
 安倍総理の施政方針で“もちろんのこと“でしょうが、核兵器禁止条約のこと一言も触れていません。先日、ICANのフィン事務局長が来られた時も、忙しいとか日程が合わないとかで会いもせず、フィンさんと国会議員の対話の会でも、外相に代わって(外国訪問中)の外務副大臣は、フィンさんと目を合わそうともせず、ひたすらペーパーを読み上げるだけ。結局核の傘に守られている日本は立場が違うと言うのですが、誠にみっともない、「唯一の被爆国」と言っているにに、何をしているとわめきたい気分でした。
 フィンさんは、NHKテレビの九時のニュースでインタビューに答え、「いろいろの考えがあるのは、十分承知している。問題は。それで終わらせないで、議論してほしい、本当に核の壁が役に立つものか、議論を盛り上げてほしい」と言っておられました。その通りだと思うのですが、政府に合わせて、というわけではないでしょうが、核兵器禁止条約のことは、これで終わり、現実は難しいよ、と言った考えが世間に横行していて、条約のことはこれで終わり、被爆者の証言だけは好きなだけやりなさい、と言った空気になっているのではないかと、心配です。
 安倍首相の施政方針について各党の質問が行われていますが、日本共産党の志位さんの質問にも核兵器禁止条約とそれに署名もしない(もちろん批准しない)政府の態度についての質問はありませんでした。もちろんほかの党も。条約のことはもう“すんだこと”みたいです。志位さんの質問で、沖縄の米軍機の事故が相次いでいることを言ったのですが、それについて内閣府の松本文明副大臣が、「それで何人死んだんだ」とヤジを飛ばし、問題になり、結局辞任しました。国会が始まって早々の暴言とお決まりの辞任騒ぎですが、あまりの発言にあきれ果てます。これで安倍人気は相変わらず高いというのですが、本当に、この国どうなっているんだ、と言いたい。
とにかく、核兵器禁止条約の問題このままうやむやになっては困ると私イライラしています。先日、「なぜ、ヒバクシャを語り継ぐのか」という集会があり、国連軍縮コーディネーターであり平和活動家であるキャサリン・サリバンさん、川崎哲さん(ピースボート共同代表、ICAN国際運営委委員)、山田玲子さん(東京都の被爆者組織・東友会の副会長)が語るというので行ってきました。皆さんとてもいいことを言われ、共感できるのですが、どうして日本政府を動かせるかというと、川崎さんにしても、私たちの意見を広げていく(この会での話を一人でも多くの人に伝える)、地方議会にはたらきかける(議会の意見を国にあげる)日本の自治体の9割は平和市長会議に入っているのでこれはかなり力になる、そして自分の選挙区の国会議員に働きかけるという風なことでしたが、何だか私、むしゃくしゃ腹が立ってきました。私たちも、今までいろいろの集会で、今日話したことを一人が一人に伝え、広げていこうと何度も話し合いました。でも…。本当に広がっていったのか、そんなことでは権力側の圧倒的な宣伝にかなわないのではないか。地方議会の決議にしても、「慰安婦問題」などでずいぶん努力しました。いい決議を出した議会もあります。だけど、それで問題が広まったか。地方議会のことはあまりメディアも書きませんし、一般の人には.広がらない。国会議員など今の国会のあり様を考えると、絶望的です。もっと国民の議論を盛り上げる効果的な方法はないのだろうか。考えてしまいます。この日の集会の主催団体は「被爆者証言の世界ネットワーク」という団体でこの証言集会に続けて、大学などでワークショップを開くらしいのですが、そんな試みもメディアは無視のようです。
とにかく、かなり多くの人が「核抑止論」を信じていることは確かです。北朝鮮の脅威が言い立てられるとさらに不安は高まります。しかし核抑止論=核を持つ国を増やさないというやり方では結局核を持つ国を増やしてしまい、北朝鮮のような国が出てしまった。しかし、北朝鮮の核に大騒ぎをしている、そ.れなのに、七〇〇〇発以上も核兵器を持っているアメリカに何の恐れを持たないおかしさ。この間、なにかのミスで、ハワイで、ミサイル攻撃があると大騒ぎになったようですが。私はあの「間違い」を笑えません。核兵器の発射ボタンを間違って押す危険性だってあるわけです。私は、トランプさんが核ボタンを押してしまうのではないかと、その方が怖いです。
画期的な「核兵器禁止条約」、なんとか日本政府の考えを変えさせる方法はないものか、せめて世論を盛り上げることはできないものか、私は今かっかとしています。
一月一九日には女性「9条の会」の学習会で山内敏弘先生(元一ツ橋大学教授)のお話を聞きました。はじめ希望者は二十数名で心配しましたが、最終的に四十人以上集まってホッとしたのですが、もしかしたら先生はもっと大きな集会を期待されていたのではないか、と思いました。昔、山内先生に来ていただいた時(一〇年くらい前かな)百人近い人が来たと思うので。でも、私たちの会も高齢化し、今、四十人参加者を集めるのはしんどいです。山内先生のお名前を知る人も減ってきた感じです。結局若い方で憲法に興味を持つ方が増えていないということでしょうか。でも、私は最終的に四十人集まったことに少し力が出、元気を出そうと思いました。山内先生の話もとても分かりやすくよかったです。
安倍首相は、憲法9条はそのままにして3項を付け、自衛隊の存在を憲法に明記すると言っています。これだと「自衛隊の存在は国民のほとんどが認め、愛されているのだから…・ということで、そのくらいいいのではない?」と思う人もいそうですが、この3項追加は、とても恐ろしいことになる、と話されました。日本の社会全体が「軍事優先主義」に転換し、徴兵制や軍事的徴兵制が合憲化する、現在の自衛隊法では防衛出動時に土木建築や輸送を業とする者に業務従事命令を出すことができるが、罰則はないが。これらについて罰則が制定される恐れがある、自衛隊の基地建設のための強制的な土地収用も合憲となる、軍事機密が横行する、防衛費はますます増え、社会保障費が削減されるだろう。軍学共同で学問の自治、大学の自治も制限される、自衛官に対する軍事規律は強化され、敵前逃亡や抗命在が死刑になる可能性が高い、など、驚くような変化が起きることが話されました。怖い怖い。私は一九四六年、はじめて新しい憲法の案が示された時、「戦争放棄」の言葉に、原爆で全滅した友のことを思い、彼女らが生きていたら、と思いました。そして戦争なんかいらない、軍隊なんていらない、と思いました。
「戦争をする国」にどんどん近づいていきそうな今の様子ですが、とにかく戦前には戻らせないと、心から思います。
この次の日、一月二〇日、例の竹内先生の会の主催で元京大の小出裕章先生のお話を聞く会がありました。この日は173人の会場が満員で参加を断わるありさまでした。しかし聞けば聞くほど放射能の怖さを思いました。人間は、地球上に普通では存在しないプルトニウムという恐ろしきものを作ってしまった。プルトニウムは核兵器を作るよりほかにどうしようもない代物。そのプルトニウムを作り出す原発をまだまだ使い続け、輸出までしたいこの国、本当に恐ろしいです。


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2017オスロ訪問記 №3 [核無き世界をめざして]

オスロで感じた核なき世界への熱い思い
    2017・12・5~15 オスロ訪問記 3

          丸木美術館理事長  小寺隆幸・美和

12月11日夜 Nobel Peace Prize Concert  核廃絶のメッセージが若者達に
           
オスロ2-1.jpg 翌日、オスロ郊外のテレノアアリーナで恒例の平和賞コンサートが開催されました。私達は若いSさん夫婦と一緒に参加しました。彼女が中学生の時に隆幸が東京で教えたのですが、その後オスロ大学大学院で学び、ノルウェーの方と結婚し、オスロの博物館で働いています。
 このコンサートはノーベル平和賞委員会主催。平和のメッセージを広める目的で1994年から毎年行われています。2年前から会場をこのノルウェー最大の屋内アリーナに移し、若者たちに平和賞のメッセージを伝えるため若いタレントを毎年招いています。今年は6歳から15歳の子どもたちのサーカスLe Petit Cirqueをカリフォルニアから招きました。またノルウェーやスウェーデンの若い人気歌手も出演していました。
 司会はナイジェリア出身のイギリス人俳優Oyelowoさん。彼はマーチン・ルーサー・キング牧師を演じてゴールデン・グローブ賞にノミネートされた俳優です。またナイジェリアでテロリズムの影響下にあった少女たちの教育とリハビリのために基金を創設して活動する人権運動家でもあります。だからこそ司会として彼が語った言葉の端はしに、核のない平和を希求する思いが込められていました。
 開幕前にスクリーンに映し出されたのはサーローさんの国連でのスピーチをアニメーションで表現した映像でした。これはキャサリンやロバートらが製作した“If You Love This Planet”で、サーローさんのメッセージを世界中の人々に届ける素晴らしい映像です。下記でご覧いただけます。 
オスロ2-2.jpg 熱気あふれるステージが始まりました。それと共に、核の問題を考える様々なメッセージが何度も挿入され、また司会者や歌手たちも自分の言葉で平和への願いを語っていました。歌の合間に前日の授賞式やトーチパレードの映像、核に言及した過去の平和賞受賞者、ノエルベーカー、キング牧師、エルバラダィ、佐藤栄作、IPPNW、バグオッシュ会議、ダライラマ、オハマ大統領などのスピーチの抜粋が挿入されました。また世界各地の市民や子どもたちの呼びかけが映し出されました。その中に知人でメキシコ在住の被爆者山下さんもいました。その映像が歌と調和し参加者の思いが高まる中でLe Petit Cirqueの子ども達が人と人とが支えあう平和な世界を表現したのです。
オスロ2-3.jpg 続いてサーローさんの国連演説の映像が映され、世界各国駆け付けたICANのメンバーがステージに上がりました。中央に被団協の田中さんや藤森さん、横オスロ2-4.jpgに川崎さんやキヤサリンもいました。
 さらに核実験のフイルムを逆回しにした映像も流れました。きのこ雲が収束し消えていく様子は核のなくなる世界を暗示しています。そしてメインの被爆ピアノの演奏です。レジェンさんが弾き、スウェーデンの19歳のザラ・ラルソンさんと共に“God Only Knows ”を歌いました。「きみがいない、そんな世界は意味がない」と歌い終わると大きなLOVEが浮き上がりました。
オスロ2-5.jpg オスロ2-6.jpg再び平和賞受賞者のマララ、マンデラ、ゴア、マータイさんのメッセージ。最後はレジェンドさんの熱唱。歌い総立ちの拍手がなりやみませんでした。会場を埋め尽くした1万の若者たちや市民が芸術を通して核のない世界への思いを共有した瞬間でした。

12月12日 Ban the Bomb 展開幕
オスロ2-7.jpg
 翌日正午からノーベル平和センターで「核兵器を禁止せよ」と題する展覧会が開幕。来年11月まで1年間展示されます。そこで私達は副館長のLiv Astrid Sverdrupにお会いす
ることができました。実は10月6日にノーベル平和賞がICANに決まった翌日、Livさんから旧知の山根さん(立命館大学国際平和ミュージアム・前副館長)にICAN受賞に関連した1年間の長期展示への協力要請があり、山根さんは「原爆の図」の展示もLivさんに薦めてくださったのです。そのことをお聞きし、来日するLivさんを成田でお迎えする予定でしたが、関空着に変更となり、広島・京都のみを訪問し帰国するというタイトな日程ですので結局お会いできませんでした。そこでオスロでオスロ2-8.jpgお会いし「原爆の図」について知っていただくことも今回の訪問の目的でした。Livさんはスペースの関係で「原爆の図」が展示できないことを残念に思うとおっしゃり、わざわざ私達を案内し説明して下さいました。
 この展示の中心は写真家SimChiYinが撮った“Fallout”と題された5セットの2枚組写真です。すべて米国と北朝鮮の核施設の写真をセットにしたものです。写真左はアリゾナの大陸間弾道ミサイル基地のタイタンⅡミサイル、右は北朝鮮のミサイル基地がある地域の写真で、中国国境から撮ったものです。ほかにも北朝鮮の核施設の煙突とアメリカバンフォードに1944年に作られたプルトニウム炉の煙突の対比など考えさせられるものばかりでした。Simさんは、「21世紀に核実験を行っている唯一の国と、最初に核実験をして使った国。両国は核の方程式の両端にあるが、脅威とそれに対抗する脅威の危険なサイクルの中に“今日”は閉じ込められている」と書いています。日本では北朝鮮の悪だけが語られますが、今も世界を何回も破滅させる核兵器を実戦配備している巨悪は語られません。この展示は現実を冷静に本質的に見る重要性を提起しています。
 ここでは平和賞にちなむ展示を毎年行っていますが、誰が受賞するかわからない8月時点で優れた写真家を選び、受賞が決まり次第2か月で関連展示を創るという契約をするそうです。Simさんも10月6日に初めて核兵器禁止をテーマとすることを知ったのです。それから短期間で構想を決め、北朝鮮の国境に近い中国の村やアメリカの6つの州を駆け回ってこれらの写真を撮ったそうです。
オスロ2-9.jpg 別の部屋にLivさんが日本から運んだ遺品5点が展示されていました。広島平和資料館の防空頭巾とかばん、長崎原爆資料館のロザリオと腕時計、立命館国際平和ミュージアム所蔵の弁当箱です。広島・長崎の写真の前でスタッフの方が参観者や授業として来た高校生に説明していました。オダネルが撮った「焼き場の少年」は何を物語っているかと問いかけていることに共感しました。
 オスロ2-10.jpgほかにも原爆ドームの中をヴァーチャルリアリティで体験するコーナーなどもありました。これから1年、オスロを訪ねる世界の多くの人々がこの展示から核を考え始めることでしょう。
 核問題ではありませんが、1階の〝Shifting Boundaries”、屋外の“Wall on Wall”という写真展も印象深いものでした。また午前中に訪ねたオスロのホロコースト博物館でもいろいろ考えさせられたのですが割愛します。
 国内世論調査では核禁止条約に日本も加わることに賛成が57%。秋田や岩手などでは7割の自治体で条約参加決議が挙がっています。被爆者国際署名も広がっています。来年はその声をさらに広げ、日本政府に翻意を迫るよう取り組むことが国際社会に対する被爆国の市民としての責務だと思いました。米国がいっ北への軍事行動に踏み切るかもしれない今日、戦争になれば真っ先に犠牲になるのは何十万もの北朝鮮、韓国、そして沖縄の民衆です。だからこそ核禁止は私達の切迫した課題です。Livさんは「廃絶は可能である。夢を現実にすることができる」と書いています。あきらめず光を目指して這ってでも行く、その思いを持ち続けようと思います。


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続・対話随想 №32 [核無き世界をめざして]

   続対話随想32 中山士朗から関千枝子さまへ

                   作家  中山士朗

 新しい年に入っての関さんのお手紙、しみじみと読ませて頂きました。
 同年代の被爆者の死、これまで核廃絶の運動を支えてくださった多くの人々の死が告げられていました。そうした状況の中で、丸木美術館の小寺隆幸・美和ご夫妻の「2017.12.7〜15オスロ訪問記」は貴重な記録だと思いました。とりわけ12月10日の授賞式とスピーチ、講演の内容は、記録にとどめ、後世に引き継がなければならないことだと思いました。関さんが提案されたように、知の木々舎さんにお世話願えれば、私たちの往復書簡がいっそう生きてくるのではないかと思われます。
 辰濃和男さんの死去、昨年の12月13日の朝日新聞で知りました。辰濃さんは75〜88年にかけて「天声人語」の執筆を続けられ、2015年から昨年4月までたびたび沖縄を訪れ、体調を崩した後も車椅子で取材を続けておられたことを記事で知りました。
 私は、辰濃さんが執筆されていた当時の「天声人語」は、丹念に読んでいました。その美しい、余分なものを削り取った文体、透明な感性に惹かれていました。関さんの手紙にありましたように、私がエッセイスト・クラブ賞を受賞した日、会場で選考委員として私の文章を褒めてくださいました。私にとって終生忘れ得ぬ記憶となったのでした。今回の関さんのお手紙によって、辰濃さんが私たちの『ヒロシマ往復書簡』を読んでいて下さったことを知り、大変嬉しく思いました。
 余談になりますが、私は吉村昭研究会の機関誌に「私の耳学問」と題して、吉村さんが日常何気なく話された言葉を思い出しながら、連載(現在16回)で書いておりますが、このたび必要があって辰濃さんの文章を引用したものを書きました。
 引用したのは、2004年に岩波書店から発行した日本エッセイスト・クラブ編『父のこと 母のこと』の、辰濃さんの「あとがき」の言葉でした。受賞式の日、吉村さんも出席してくれていましたので、辰濃さんの私の作品への言葉を聞いていました。
 その本ができた時、私は吉村さんに送りました。折り返し吉村さんから「良かったな」というお祝いの電話をもらいました。
 この本は、日本エッセイスト・クラブ賞が五二回目を迎えた記念に作られたもので、受賞作一五〇編の中から選ばれたものでした。このたび改めて開いてみますと、二十名の人の作品が収録されていて、その中に関さんと私の名前がありました。ほかに、小林勇、森茉莉、竹田米吉、萩原葉子、庄野英二、大平千枝子、石井好子、安住敦、坂東三津五郎、芥川比呂志、高峰秀子、沢村貞子、篠田桃紅、渡辺美佐子、志村ふくみ、中野利子、柳沢桂子、岸田今日子さんなど、著名な人の名前が連なっています。

 そのときの<あとがき>です。
   娘が父のこと、母のことを書く。
   息子が母のこと、父のことを書く。
   そこにはさまざまな形で描かれるさまざまな
   日常のできごと、日常の物語があるのだが、
   いってみればそれは書かれる側、
   つまり母であり、父である人の
   <愛する>という動詞の具現なのだ。
   親と子の間にもろもろの感情――反発、怒り、
     嘆き、悔恨などなどなどが含まれていようとも、
     子が描く父、母の像はなべて私には
     たまらなくなつかしく思える。
 私はこの文章を引用した吉村研究会の四十号記念誌を日本エッセイスト・クラブ事務局の飯山千枝子さんに送りました。辰濃さんのお目に止まれば、と思ってのことでしたが、かないませんでした。
 その直後に、辰濃さんの死を新聞で知りました。十二月六日、老衰のため東京都内の病院で死去。享年八十七.私と同年だったことに、感慨深いものがあります。ここで改めて。ご冥福をお祈りいたします。
お手紙にありました佐伯敏子さん、丸浜江里子さんの死がありました。
 佐伯さんにつきましては、昨年十一月十九日の朝日新聞、鷲田清一氏の「折々のことば」には手記「ヒロシマに歳はないんよ」から、 
      ヒロシマには歳はないから。
      あの日のまま何十年たってもあの日そのまま
      
 の鋭い言葉が引用されていました。
 今一つは、ローマ法王が被爆写真の配布を指示したというニュースでした。
 この写真はナガサキで撮影されたもので、亡くなった弟を背負った少年が火葬場で順番を待っている姿を映したものでした。この写真をカードに印刷し、「戦争が生み出したもの」との言葉をつけて広めるように指示したとありました。そして「かみしめて血のにじんだ唇により悲しみが表現されている」、また「これが戦争の結果」だとメッセージを送っています。法王は昨年十一月に核軍縮をテーマにしたシンポジウムの参加者に「核兵器は人類の平和と共存しない」と述べるなど、核廃絶を求めるメッセージを世界に投げかけていると報道されています。


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続・対話随想 №31 [核無き世界をめざして]

  続対話随想31 関千枝子から中山士朗さまへ

              エッセイスト  関千枝子

 二〇一八年の年が明けました。とりあえず、新しい年を祝いたいのですが、安倍首相の年頭所感が、明治礼賛、明治維新一五〇年キャンペーン、そして、「新しい時代にあるべき姿を示す憲法」に改憲したいというのですから、いやになってしまいます。私は、今こそあるべき姿は「戦争放棄」だと思うのですが。そして「核兵器禁止条約」のことなど、もう、彼の頭にはないようです。
 
 昨年は、核兵器禁止条約が国連で採択され、それに関連してノーベル平和賞をICANが受賞するといううれしいことがあったのですが、それに対する日本政府の態度、本当に腹立たしいものがあります。このままにしておいたら、条約のことも、また、忘れ去られていくのではないか。どうしたらいいか、イライラしています。私は、昨年参加したある会で、日本政府に条約に署名批准せよという請願署名をしたらどうかと提案したのですが、誰も相手にしてくれませんでした。国連への署名はまだ続いていますが、私、世界の平和運動家たちは、ヒバクシャに、「まず、あなた方の政府をどうにかしなさいよ」、と言っているのではないか、と思ってしまうのです。署名五百万集めた、だけど選挙したら、条約に冷たい政府が圧倒的に勝利。日本という国いったいどうなっているの、と言われているような気がしてなりません。
 
 ノーベル賞授賞式、サーロ-節子さんの演説も立派だったし、オスロには大勢の世界の平和主義者が集まり素晴らしかったようです。丸木美術館の小寺理事長がオスロに行かれた報告書を出されました。詳しい報告で、私たちの知らないことがいっぱい。これを岡村さんの割り込みのように、私たちの書簡の間に入れてもらったらどうかしら。知の木々舎に相談してみるつもりです。

 さて、昨年ですが、多くの先輩同僚、友人たちを失くしました。多くの被爆した友人たちも世を去りました。人には寿命があり、死は仕方がないと言えばそれまでですが。
原爆関係でなくても、例えば、朝日新聞の元「天声人語」欄の辰濃和男さん、残念でした。辰濃さんは天声人語で私の『広島第二県女 二年西組』のことを書いてくださり、それでたいそう本が売れたのですが、その後も図書館のことなどで何度か書いていただいたのです。中山さんの『原爆亭おりふし』が、エッセイストクラブ賞受賞の時、辰濃さんはクラブの理事長でしたが、受賞作選評の時、評担当者がなんだかわけわからないことをしゃべり、ちょっと嫌な感じだったのですが、辰濃さんが、中山さんの文章の美しさを言ってくださり、ほっとしたことを覚えています。
 私たちの往復書簡も差し上げていたのですが、「いいお仕事をしておられますね」というお葉書いただきました。その時、沖縄の取材に行っている、これがひと段落してからゆっくり感想を書きますとあり、心待ちしていたのですが、その後、お便りもなく第Ⅲ集が出た時、お邪魔ではないかとお送りしなかったのです。それが‥‥。新聞で訃報を知り驚きました。辰濃さんは自然に強く、四国の巡礼などもされ、足腰の丈夫な方で、ずっと長生きされると思っていたのです。ショックでした。
 ヒバクシャも肥田舜太郎さんはじめ、多くの方が亡くなりましたが、佐伯敏子さんを偲ぶ会に参加したことを報告したいと思います。佐伯さんは、親族一三人を失い、その被爆体験は鬼気迫るものがあります。原爆供養塔の清掃を四〇年続け、遺骨の身元捜しにも、力を尽くされました。佐伯さんは、もっとも有名な語り部(彼女は自分では語り部とは絶対言わなかった。証言者です、と言っておられたそうです)です。東京で偲ぶ会があるというので参加しました。例の竹内良男さの会で、堀川恵子さん(『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』の作者)などの呼びかけで、東京でやるというので、伺ったのですが、、七七歳で倒れてから二〇年、広島でも彼女をよく知る人は少なくなっており、広島では偲ぶ会を開けないと聞き、びっくりしました。佐伯さんは倒れて施設に入られてからも、訪ねてくる方たちや、メディアの人には、積極的に対応し、語られたと聞いているのですが。
 行ってみると受け付けは石川逸子さん。昔の東京都葛飾区上平井中学の先生だった方がいっぱいおられ、しばらく、など挨拶され、驚きました。やがて、その訳が分かりました。佐伯さんは、自分のすさまじい体験を手記にまとめ、広島の学校などに送り、体験を若い人たちに伝えたいと思ったのですが、どこからも反響がなく、がっかりしていました。そこへ一九七六年、上平井中学のヒロシマ修学旅行が始まりました。上平井中学の江口保先生は、中学、女学校の慰霊碑の前で、遺族を探し出し、娘や息子を亡くした体験を語ってもらうことを企画していました。人前でしゃべったことなどないからと尻込みするお母さんたちを励まし、語らせました。生徒たちは感動し、お母さんたちはやがて「語り部」と呼ばれるようになるのですが。そんな中で、江口さんは佐伯さんの存在を知ります。佐伯さんの熱い証言、上平井中学の先生の思い、ぴったり合い、長い交流が始まります。石川逸子さんも、この時上平井中学の先生だったのです。 話を聞くほどに,佐伯さんと先生方との思いのつながりが分かりました。
 佐伯さんの証言のすさまじさには圧倒されます。一三人もの親族を亡くしたこともですが、親族との葛藤も率直に書いています。あの戦時下、みな自分の家庭があり、まず、家族に食べさせなければなりません。親類でもすげなくせざるを得ないことがあります。ほかの地の空襲でも親を失った子が親類に引き取られ(国が面倒を見ないので、無理やり押し付けられ)親類にいじめられ、いまだに自分の体験を書けない人がいます。親類への遠慮で。佐伯さんの証言は誠に率直。きれいごとでない真実が分かるのです。しかし、その後、親戚とのトラブルは無かったのかしら。
 佐伯さんのことは四〇年にわたる供養塔の清掃がありその名は忘れられないと思いますが、上平井中学の江口先生のことなども、もはや多くの方が知らなくなっていることも残念です。彼は上平井方式と呼ばれるヒロシマ修学旅行を作り出しました。当時は今と違いひとつの学校に長くいられた。修学旅行に熱心な先生方は上平井に長くとどまり平和教育に頑張ったのです。江口先生は定年後も広島に部屋を借り「ヒロシマ修学旅行を助ける会」を作りました。もちろんボランティアです。退職金も年金もつぎ込んでの活動でした。、江口先生も、もう一つヒロシマでは評判が良くなかったようで、亡くなられた後も広島に胸像を作ろうという話があったのですが、そのままになっています。江口さんも実に率直にものを言われる方だったので、煙たく思われたのかもしれません。
 ヒロシマ中学旅行も激減、いま東京の公立校などゼロに近い状況です。上平井中学もすっかり変わりました。上平井のヒロシマ修学旅行の記録どこかに保存されていると聞いたことがありますが、本当に残っているかどうか心配なことです。
 「佐伯さんを偲ぶ会」には広島からも多くの人が駆け付け、二次会もにぎやかにやって,実のある会でした。
 
 このあと、一二月一二日には丸浜江里子さんの葬式がありました。丸浜さんが癌であることは知っておりましたが、私より一〇歳以上若い丸浜さんの死は衝撃でした。彼女は杉並の草の根の人々の原水爆禁止署名のこと(第五福竜丸の被曝を受けて)に関心深く、その研究を一冊にまとめ本にしたばかり。九月にこの話を、竹内さんの会で報告され、それを聞いたばかりです。その時も、私、体のこと気遣ったのですが「大丈夫」と顔色もよく見え、少し安心していたのですが。
 彼女は私の女性ニューズ時代、「最後の、ヘビーな取材をした人」です。都立の学校で式の時の日の丸君が代の強制が厳しくなり、式のマニュアルも決められ、その通りにしないとダメ。都立高校にはそれぞれの学校でユニークな式があった、都の教育委員会は少しおかしいのではないかと、保護者達が立ち上がった。その中心が丸浜さんで、取材してしっかりした考えに感動、この闘いの後も交流が続きました。彼女が元教員で、歴史の研究者であることも知りました。原爆のことに興味を持つ彼女は、八・六に広島に来てくれ、私、広島中を引っ張りまわし、熱中症寸前の状態にしたこともあります(すみません)。
 彼女はずっと杉並の住人で、杉並に対する思いも強かった。それで彼女の興味が杉並の女たちから始まった原水爆禁止署名になったということもあるようです。そして彼女は熱心で、とことんやる人でした。昨夏頃から秋にかけ、彼女からくるメール、情報が主ですが、量も多くて、私は「鬼気迫る」ものを感じていました。
 彼女の葬式にはたくさんの方が来ておられました。当然ですが、会場が狭くて大部分の人は式の間中、外にいることになりました。天気が良かったので、まあ、よかったのですが。それにこのごろの葬式、友人の弔辞などなくて、電報をいくつか読み上げるだけ。ほかにもこんな葬式があり,このごろの斎場、時間を早く切り上げるためか友人の言葉などなくて、電報をいくつか読み上げただけ。この日は、最後に遺族の話があり、お連れ合いだけでなく、もお子さんたちもそれぞれ語られたのでよかったのですが。
失礼ですが、私はなんとなくお連れ合いが江里子さんの実力を「軽く見て」小さい斎場を選ばれたのではないかと思ったりしました。実は前にもこんなことがあって。その時は備える花までがたりなくなって、いったん捧げた花を下げて、もう一度使うありさまでした。丸浜さんの時はそれはなく、花は十分ありましたが。
 しかし、丸浜さんの市民運動への業績を語る言葉、欲しかったなあ。
 丸浜さんの共通の友人と式場で会ったのですが、丸浜さんは「人を仲間に誘うことがとてもうまかった」のですって。そして仲間に入れてしまうと、あなたはこれをして、と役を分担させることもうまかったそうです。私たちそれが下手で、つい一人で背負い込むことが多いのですが、彼女はとてもそれがうまかった。だから今日こんなに多くの仲間が来たのよ、ということでした。そして二人が交わした言葉は「とにかく彼女はやるべきことを最後まで(死の直前まで)やったわね」ということでした。すぐれた方のあまりにも若い死。本当に残念です。


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2017オスロ訪問記 №1 [核無き世界をめざして]

オスロで感じた核なき世界への熱い思い  
         2017.12.7~15 オスロ訪問記 1            

                                    丸木美術館理事長 小寺隆幸・美和 

 ノーベル平和賞授賞式に合わせてオスロを訪れました。核兵器廃絶国際キャンペーンICANの受賞は核なき世界を希求するすべての人々への激励であり、世界の仲間と共に祝いたかったからです。
  ICANの運営委員であるピースボートの川崎哲さん、被団協代表委員の田中照巳さん、ICANの中心メンバーであるヒバクシャ・ストーリーズのキャサリン・サリヴァンさんやロバート・クロンキストさん。彼らは皆2015年に行われた「原爆の図」アメリカ展の実現こ協力してくださった方々です。受賞スピーチをされたサーロー・節子さんとも、2015年 4月の評で会議の際にニューヨークで、翌年8月にはピーター・カズニックさんらの平和ツアーで広島でお会いしました。とりわけニューヨークで高校生に語られた時の感動的な場面について以前も書きました。(「戦争と性」2016年春号)
オスロ1.jpg その方々が世界101か国(地図の赤の国々)の468もの市民体と繋がり、草の根からの反核運動を作りだし、ついに核兵器止条約を制定させたのです。そして上記の皆さんは「原爆の図をその取り組みと結び付けようと働きかけてくださいました。
 核兵器禁止条約制定は1980年代からの被爆者の国際社会への訴えを原点に生まれたものですが、直接の出発点は2010年国際赤字の声明でした。それを受け、ノルウェー、メキシコ、オースリア政府が核兵器の非人道性についての国際会議を3回開催したのです。そして2015年春のNPT再検討会議でもオーストリアなどはNGOと協力して「人道の誓約」を掲げて訴えましたが会議自体は一致点を見いだせず決裂。そこで秋の国連総会に「人道の誓約」を捏起し128か国(日本は含まず)が賛同。こうして2016年から核禁止条約の議論を始めることが決まったのです。
オスロ2.jpg 「原爆の図アメリカ展」はこのようなターニングポイントの年に開催され、国連総会での議論が繰り広げられていたさなかに、オーストリア・メキシコ・日本の国連大使、国連軍縮上級代表、IC赴けメリカのNGOの方々らが「原爆の図」を見に来られたのです。それを組織してくださったのがサリヴァンさんとピースボートUSAでした。私たちの取り組みはささやかですが、核禁止条約の大きなうねりの一端となり世界の市民と繋がったのです。
オスロ3.jpg 10日の授賞式はオスロ市庁舎(写真上)で行われました。その中に入れるのは、ICANのメンバーも30名くらいです。世界から集まったICANの方々、日本から駆け付けた被爆者の方々と共に、私たちは市庁舎の向かいにあるノーベル平和センター(右中)でのパブリックビュウイングに参加しました。その会場の前でアルゼンチンの画家の方とお会いしました。彼女も反核を絵で表現されているそうです。神戸から高校生が折った千羽鶴をもって駆け付けた高校の先生ともお会いしました。
 会場内は日本から駆け付けた高齢の被爆者の方々も含め200名の人であふれ、スクリーンに映し出される実況中継を見ながら大きな拍手が起きました。
オスロ4.jpg

12月10日授賞式とスピーチ
 http//nuclearban>org/nobelでご覧になれます
 式は市庁舎の大広間で1時から行われました。国王や首相、閣僚、議員、各国大使らが列席。米国など核保有国の大使は欠席するという大人げない対応でしたが日本の大使は参列しました。
オスロ6.jpg
 まずノルウェー・ノーベル委員会のライスアンデシェン委員長が授賞理由を述べました。彼女は「核兵器の問題は政府や専門家だけの問題ではない。ICANは一般の人たちを新たに関与させていくことに成功した」、「核なき世界の実現への運動に新たな方向性と活力を与えた」と称えたのです。核兵器が再び使われる可能性が高まっているという危機感のもとでICANという新たな市民運動を支えるメッセージが込められていました。そして事務局長のベアトリス・フィンさんとサーロー・節子さんに証書とメダルが手渡されました。
オスロ7.jpg 続いてアメリカのジョン・フェジェンドさんがボブ・マーリンの「リデンプション・ソング」(救いの歌)を歌いました。その中で次のように歌われたのです。
 「精神的奴隷の状態から自分自身を解放せよ。俺たちの精神を解き放てられるのは他の誰でもなく俺たち自身なのだ。原子力など恐れるな。やつらに時まで止めることはできやしない。」
 オスロ8.jpg彼が招かれたのはグラミー賞受賞歌手というだけではないでしょう。彼はまたアメリカの刑事司法制度の改革を使命とするFree Americaキャンペーンを主宰し、受刑者の刑務所内における罪の償いと社会復帰を促進し、刑期を終えた出所者が希望を持ち更生できるよう支援を訴えています。http://digitalcast.jp/v/25084

 次に記念講演。2児の母である若いフィンさんの真撃でひたむきで力強いスピーチに共感しました。
 「批判する人達は、私達を非理性的で現実に基づかない理想主義者であると言います。しかし私達は唯一の理性的な選択を示しています。」
 オスロ9.jpg「核兵器は私達を自由にするとされてきましたが、実際は私達の自由を否定しています。核兵器による支配は民主主義に対する侮辱です。」
「核兵器禁止条約は暗い時代における一筋の光です。核兵器の終わりか、それとも私達の終わりか。核を持つ国が武装解除できると考えることは非理性的なことではありません。恐怖や破壊よりも生命を信じることは理想主義的なことではありません。それは必要なことなのです。」
 「私達市民は、偽りの傘の下に生きています。核兵器は私達を安全になどしていません。核兵器は私達の土地や水を汚染し、私達の体に毒を与え、私達の生きる権利を人質にとっているのです。私達の運動は、理性を求め、民主主義を求め、恐怖からの自由を求める運動です。私達は未来を守るために活動する468団体の運動員です。道義上の多数派の代表者です。死よりも生を選ぶ数十億人の代表者です。私達は共に核兵器の終わりを見届けます。」
 日本政府は「核の傘」が日本を守ると言います。「傘」というと防衛的なものだと錯覚している人も少なくありませんが、それは「偽りの傘」であり、自分たちが勝つためには相手国の民衆数十万を殺してもよい、広島・長崎を繰り返してもよいという論理です。そのことに真っ先に気づいた被爆者の声がフィンさんら世界の市民を動かしているとき、日本政府がそれに背を向ける、悲しい現実です。
 ICANは名もない草の根の市民の集まりです。わずかなスタッフですが、その一人がフィジーの女性だそうです。彼女は太平洋の核実験により死産や重い病気が引き起こされる現実を身近に感じてきました。広島・長崎の被爆者とともに、世界各地のヒバクシャの方々の核への怒りと悲しみを共有する世界の市民がICANを担い支え、国益のために人間を軽視する国際社会の「常識」に果敢に挑戦し、歴史を変える大きな一歩を踏み出したのです。


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続・対話随想 №30 [核無き世界をめざして]

 続対話随想30 中山士朗から関千枝子様へ

                   作家  中山士朗

 平成三十年の新年を迎えました。  
 天皇退位が二〇一九年に決まりましたので、「平成」最後の年となります。平成が終わるということは、昭和、平成を生きた私には、戦後が終わったことへの深い感慨をもたらします。私はこれまで元号が変わっても、何時も昭和の年数に換算して日々の生活を送っていました。ですから、今年は昭和九三年になるのです。
 「百年河清を俟つ」という中国の諺がありますように、ヒバクシャである私は、核兵器廃絶を心底から願っていました。しかし、その思いとは逆に世界は核抑止力を背景に拡大していくとき、昨年(被爆七二年。昭和九二年】の七月には核兵器禁止条約が採択され、一二月には、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)がノーベル平和賞を受賞し、被爆者の証言に世界の目が注がれるようになったのです。
 したがって、核兵器廃絶への一歩が踏み出されたばかりの、年頭の「ヒロシマ往復書簡」ということになりますが、平常どうりの心境で臨みたいと思います。

 お手紙を読み、戦争中に反戦を貫き、治安維持法で起訴されたクリスチャンが原爆が投下された時、広島刑務所に収容されていたということを初めて知りました。
 市内・吉島町にありました広島刑務所は、通称「吉島の監獄」と言われていました。私が通っていた中島小学校の近くにあり、友達のなかには刑務所の官舎に住む生徒もいましたし、学校から先生に引率されて刑務所の内部を見学に行ったこともありました。そして、中学校に入学して間もなく、広島刑務所の先の埋め立て地に陸軍飛行場が建設されることになり、モッコをかついで土を運ぶ勤労奉仕に駆り出されました。その時、母が縫ってくれた肩当てをあてがって、二人一組で暁部隊の兵士が盛ってくれる土を運びましたが、その重さが幼い私たちの肩に食い込み、腫れ上がった記憶がいま思い出しても鮮明に残っています。
 戦後になって、私が通っていた中学校は爆心地近くにあったため校舎は全壊焼失しましたので、市内・翠町にありました第三国民学校の間借り教室で授業を受けるようになりました、ところが、橋が決壊していたために、私の家がある舟入川口町から翠町に行くためには、広島刑務所のある対岸を行き来する渡し船を利用するしか方法がありませんでした。
 私たちはその船頭さんから、被爆当日の、彼の父親の話を聞いたことがありました。
 後で分かったことですが、吉島の陸軍飛行場建設作業に通っていたころに、私は彼の父親の船頭さんが漕ぐ船で対岸を行き来していたのです。私はこの話を渋沢栄一記念財団発行の『青淵』の平成一五年八月号の「水の上の残像」のなかで書いていますので、引用してみます。
 <父親の沖元重次郎さんは、原爆が投下された当日の朝も、いつものように渡し船を漕ぎ、吉島方面から江波や観音町の新開地にあった三菱造船や三菱重工に通う職員、工員、徴用工、動員学徒などを乗せて櫓を漕いでいた。原爆が投下された時刻には、川の中程で被爆したが、川面のことゆえ遮蔽物が何一つないために、ほとんど全身火傷に近い状態だったという。
 市の中心部から吉島に避難してきた被災者は、憲兵によって負傷の程度を確かめられ、乗船できる者とそうでない者とに分類された。その整理を青い衣服をまとった刑務所の囚人が手伝った。
 そのために、沖元さんは自身も負傷しているにもかかわらず、船が沈みそうになるほど被災者を乗せ、棹で水面を搔き分けながら舟を対岸に進めた。そして、折り返した。
 何度も往復しているうちに、沖元さんは体力を完全に使い果たし、夕方近くには、江波側の土手にしゃがみこんでしまった。>
 関さんの手紙に「<ヒバクシャ遺産の継承>などと言っても、吉島刑務所のことなど思いつく人はいないのではないかと思いました」と書いてありましたが、実は『青淵』の平成一六年九月号に「黄葉の記」という題で、広島刑務所に勤務中の安東荒喜氏の<ある書簡>という手記を紹介しています。
 この手記は、二一世紀への遺言という副題の付いた「いのち」という冊子に掲載されたものでした。この冊子は、大分県原爆被害者団体協議会、大分県生活協同組合連合会、大分県連合青年団が中心となって「聞き書き語り残し」実行委員会を設け、平成七年八月に出版されたものです。その中に故安東荒喜氏(明治二二年生まれ。昭和五〇年二月九日没。八五歳)の文章が私の目に止まったのでした。原稿が募集された折り、夫人の二三子さんが、ご自身の体験記に添えて、夫がかつて書いた被爆直後の被害状況報告書を提出した経緯があったので「ある書簡」とされたのでした。
 この「命」を贈呈してくれたのは、大分県被害者団体協議会の事務局長の佐々木茂樹さんでした。原爆が投下された時、佐々木家も安東家も同じ広島刑務所内の社宅に住まい、佐々木氏の父親と安東氏は同じ職場で受刑囚の矯正、指導に当たっていたのでした。安東氏は広島刑務所を最後にその年に退官され、出身地の大分に戻られましたが、佐々木氏の父親は、その後盛岡、札幌正管区、松江、山口、福岡と転勤し、大分刑務所長を最後に退官され、平成四年四月に八八歳で亡くなられています。
 被爆当時、七四,三四四平方メートルの敷地内には舎房、工場、官舎、宿舎などの建物があり、職員二五〇人、収容者一一五四人がいました。当日、広島刑務所に勤務中に被爆した安東荒喜氏が被害者報告書を認めておられなかったら、また、夫人がこれを今日まで保存されていなかったならば、私たちは広島刑務所における被爆の実相について知ることはなかったであろうと、紹介の冒頭に私は記しています。

      「ある書簡」
               大分市  安東荒喜 

客月六日午前八時十分 警戒警報及空襲警報発令下ニアラザル当市全域ニ亘リ空襲アリ
其後今尚、戦慄ヲ覚ユルモノ有之 当時小生ハ戒護課ニ於テ書類捺印中先異様ナル光線ヲ認メタルモ其何者タルヤヲ探知セズ  且最初ノ事デモアリ何等ノ不安ヲ感ズルコトナク依然検印中約十秒経過後大爆音ヲ聞クニアラズシテ突如「グラグラ」ト言フ一大音響ト共二戒護建物大破  天井ヲ始メ瓦其他ノ落下物無数 中二自分ハ二間位吹キ飛バサレテ戒護中央近クニ在ルヲ意識ス時真ノ暗黒(ゴミ散乱ノ為)間モナク外部ヨリ光輝ヲ認メタルヲ以テ其方向ニ脱出左前膊部ニ縫合四針ノ負傷ヲ始トシ外十数ヶ所ノ擦過傷ヲ受ケ上半身ハ血ニ染ミ其何人タルヤヲ判別出来ザル程ニ有之 戒護本部前ニ停立一瞥スルニ各工場各舎房共全部崩壊収容者ハ屋根ヨリ脱出スルモノ救ヲ求メルモノ阿鼻叫喚実ニ惨害の極ニ有之候
 軽症者ヲ督励救助ニ努メ併而、戒護検索に任ジ所内ヲ一巡スレバ各種通用門各非常門各事務室ハ何レモ一瞬ニシテ倒壊、各官舎ハ或ハ倒壊或ハ大破ノ状況ニシテ所内出火十ヶ所余ニ至リタルモ何レモ完全消火 火災ニ至ラザリシハ不幸中ノ幸イニ有之候
 右災害ニ依リ収容者即死十四名・重傷八十八名、職員即死四名(津国技手、山口技手、宮野部長・乗元教誨師)、重傷三名ニ有之  無傷ノモノハ職員及収容者ヲ通シ一人モ之無候
 工場又ハ舎房内ニ在リシ者ハ打撲傷 外部ニ在リシ在リタルモノハ光線ニ依ル火傷ニ有之候 市内ハ全部消失而カモ同時ニ各方面ヨリ出火消防器具ナク.消防ニ従事スル人ナク身ヲ以テ逃ゲントスルニ止ムル(後半略)

 後半は、子息の救出に出向くように都の所長の心配りが伝えられましたが、多数の部下、看守が家を忘れて救助に戒護に懸命に努力している現状を見て、折角の厚意を断り逡巡する心の内、そして後刻に調査をし、息子の死を確認した時の心境が語られていました。
 関さんが言われるように、広島刑務所に関しては、その沿革、敷地の規模に関する記録はありますが、被災状況の記録は見当たりませんね。しかし、被爆七二年の歳月を経て広島刑務所について語っている人々との出会いというか、縁というものを改めて感じています。

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続・対話随想 №29 [核無き世界をめざして]

  続対話随想29 関千枝子から中山士朗様へ

              エッセイスト  関 千枝子

 今日は、新しい話題を。実は私たちの往復書簡Ⅲ集を差し上げた伊藤真理さんから頂いた感想のなかに、石浜みかるさんのこと(正確に言えば彼女のお父さんのこと)が書いてありました。石浜さんのお父さん(石浜義則さん)はクリスチャンで戦争中に反戦を貫き、街頭で語り、「宮城遙拝」をしなかったため、治安維持法違反で起訴されました。原爆のとき、広島の吉島刑務所にいらしたのです。このことは一九九〇年頃、石浜さんが児童向けの小説の形でお書きになったのを私も読んだ覚えがありました。伊藤さんに言われて、はっと私も思い出し、石浜さんに連絡を取ってみました。吉島刑務所で被爆なんて体験談がそう出るものでなし、これから出ることはまあないでしょうから(当時刑務所にいた人は今生きていたら若くても九〇代後半でしょう)。
 石浜みかるさんはお元気で、さまざま資料を頂いたのですが、驚くことばかりでした。石浜義則さんは、二〇歳でクリスチャンになり、歯医者の下で働き、独学で資格を取り神戸で歯科医をしていたようです。石浜さんの教派はクリスチャンでも小さいグループで、教会もなく街頭伝道をしていたため、一九三三年に逮捕。アメリカとの開戦直前の一九四一年九月に再逮捕。一九四三年裁判で実刑判決。神戸の歯科医院を閉じ、妻子を妻の実家(瀬戸内海の周防大島)に預け、自分は広島の吉島刑務所で服役。
 八月六日原爆。広島刑務所は塀が高いので、その陰になり政治犯の受刑者五二人は全員無事。千人ほどいた刑事犯受刑者のうち四〇人が死に、三〇〇人ほどが重傷を負ったそうです。
 石浜さんたちは独房から出られず、大声で助けを求めていると、囚人の中で自主的に四人が扉を角材でぶち抜き、石浜さんたちを助けてくれました。四人中一人は朝鮮人だったそうです。当時朝鮮人の囚人は多くいて中には独立運動家もいたそうです。
 七日以後、体力のある囚人四〇〇人が遺体の片づけ作業に駆り出されました。広島の惨状は、この人たちから聞いたそうです。
  政治犯五二人は、八日に山口刑務所に移されることになり、数珠つなぎにされ広島の街を歩き、廿日市から汽車に乗り山口に。敗戦は山口の刑務所で聞いたけれども、一向に釈放されない。一〇月八日にまた広島刑務所に帰され、一〇月一〇日にやっと釈放されました。石浜さんは行き場のない三人の朝鮮人運動家を連れ、周防大島(妻の実家)に帰り、朝鮮人三人にご飯を食べさせたそうです。朝鮮人三人は、ここにしばらくいたのち、朝鮮に帰国しました。
  石浜義則さんは歯科免許をはく奪されていたので、九州でしばらく歯科助手をし、三年後に免許を返してもらい、神戸に戻り歯科医師再開、伝導も再開したそうです。
    三人の朝鮮人のうち、姜寿元さんは韓国被爆者協会理事になっておられ、三二年後訪日された時、再会。「ともに吉島刑務所にいた」という石浜さんの証言で姜さんは被爆者手帳を獲得したのだそうです。
 石浜義則さんは手記を残しておられるのですが、「長崎の証言」のなかで書いておられるので、広島の人は吉島刑務所の被爆のことなど知らないのではないか、「ヒバクシャ遺産の継承」などと言っても吉島刑務所のことなど思いつく人もいないのではないかと思いました。また刑務所は知っていても朝鮮人の独立運動家のことなど、考える人はいないのではないか、などさまざまなことを考えました。
    さらに石浜みかるさんは、キリスト教の「満蒙開拓団」のことも調べておられて、今、本をつくっておられ、その最終段階だそうです。満蒙開拓団のこと、私も関心を持っていまして(私の生まれたころ起こった満州事変、満州国のことに関連しますので)、満州国のもたらした最大の悲劇が開拓団の最期だと思います。それで、昨年から二度も満蒙開拓記念館に行ったりしているのですが、キリスト教の開拓団があったとは知りませんでした。この人々も決して満州に行きたかったわけではなかったと思いますが、行かざるを得なかったのでしょう。そして悲劇的な末路になるわけです。詳しいことは、石浜さんの本のできあがりを待つことにしたいと思いますが、とにかく貴重な歴史の掘り起こしだと思います。
 いずれにしても大きな問題なので私が一人で聞くのは惜しく、竹内さんの会でぜひやっていただきたいと思っています。
 私、原爆のことに関して、いろいろ取材もしましたし、かなり知っていると思っていました。しかし吉島刑務所のことや、そこにいた政治犯のことなど考えてもみませんでした。満蒙開拓のキリスト教開拓団のこともそうです。本当に我が身の無知を思い、もっともっと勉強しなければならない、そして記録はしっかり残さなければならないと思っています。
 竹内さんの会では一二月三日に佐伯敏子さんを偲ぶ会をいたします。佐伯さんはあんなに有名な方なのに享年九七歳。倒れてから二〇年ということで、広島でも、会ったことがあるという方が少なくて、広島では偲ぶ会は成立しないのだそうです。時を感じます。佐伯さんの会のことは、次回に報告できると思います。


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続・対話随想 №28 [核無き世界をめざして]

   続対話随想28 中山士朗から関千枝子様へ

              エッセイスト  関 千枝子

 歳月という言葉が、このたびの手紙にはありました。
 広島で供養塔の清掃、遺骨の遺族探し、被爆証言を四十年以上も続けた佐伯敏子さん(十月三日逝去。享年九七)の死は、まさに二〇一七年のヒロシマの風化を象徴していると言えます。テレビで観た私の記億では、病床の佐伯さんに核兵器禁止条約の採択が告げられた時、「良かった」と微かに頷く場面があったように記憶しています。
 それにつけても、関さんが書いておられるように、一〇月二七日の国連総会で、日本政府が「核兵器禁止条約」にも触れもせず、昨年出した案よりも交代した「核兵器廃絶案」を、多くの国々から痛烈な批判を受けたことを思い出さずにはいられません。
 二〇一六年オバマ大統領が広島の原爆慰霊碑の前で核廃絶への希望を語りましたが、それに呼応して、安倍首相は、
 <熾烈に戦いあった敵は七十年の時を経て、心の靭帯を結ぶ友となり、深い信頼と友情によって結ばれた同盟国となりました。そして生まれた日米同盟は世界に希望を生み出す同盟でなければならない。>
 <核兵器のない世界を実現する。その道のりがいかに長く、いかに困難なものであろうとも、絶え間なく努力することが、いまを生きる私たちの責任であります。>
 <日本と米国が力を合わせて世界に希望を生み出す灯火となる。この地に立ち、オバマ大統領とともに、改めて固く決意しています。そのことが広島、長崎で、原子爆弾の犠牲となったあまたの御霊の思いに応える唯一の道である。私はそう確信しています。>
 こうしたメッセージを送っているのです。
 それにも関わらず、この十月、二〇一七年のノーベル平和賞が核兵器禁止条約の制定の原動力となった非政府組織ICANに授賞が決まりましたが、これには広島、長崎の被爆者が連携し、核の非人道性を訴えてきたことが大きく作用しています。にもかかわらず安倍首相は受賞への公式コメントを出しませんでした。
 二〇一六年のオバマ大統領と慰霊碑の前で語った言葉は何だったのでしょうか。
 そのようなことを考えておりましたら、十月二十日付の朝日新聞に「皇后さま今日八十三歳 回答全文」が出ているのが目に止まりました。これは、皇后さま八十三歳の誕生日に当たり、この一年について尋ねた宮内記者会の質問に文書で回答を寄せられたものです。被災地への思い、国内各地への旅、学者、スポーツ選手のすがすがしい引退、陛下譲位についての感謝について述べられていて、その中にノーベル賞について触れておられました。
 その項の見出しは「平和賞 被爆者の努力に注目」とありました。
 <今年もノーベル賞の季節となり、日本も関わる二つの賞の発表がありました。
 文学賞は日系の英国人イシグロ・カズオさんが受賞され、私がこれまでに読んでいるのは一作のみですが、今も深く記憶に残っているその一作「日の名残り」の作者の受賞を心からお祝いいたします。>
 続いて、
 <平和賞は、核兵器廃絶国際キャンペーン「ICAN」が受賞しました。核兵器の問題に関し、日本の立場は複雑ですが、本当に長い長い年月にわたる広島、長崎の被爆者たちの努力により、核兵器の非人道性、ひと度使用された場合の恐るべき結果等にようやく世界の目が向けられたことには大きな意義があったと思います。そして、それとともに、日本の被爆者の心が、決して戦いの連鎖を作る「報復」にではなく、常に将来の平和の希求へと向けられてきたことに、世界の目が注がれることを願っています。>
その続きには、大勢の懐かしい人たちとの別れが綴られていました。その中に、医師の日野原重明先生の名前も出ていました。
原爆投下から十五年の一九六〇年八月六日、皇太子(当時二六歳)だった天皇陛下は、似島(にのしま)に渡り、行き場のない原爆孤児たちのために造られた民間養護施設「似島学園」を訪問されました。
 瀬戸内海に浮かぶ似島は、一九四五年八月六日、広島に原爆が投下された後、この小さな島に臨時の野戦病院が置かれ、約一万人の被爆者が運び込まれました。後に大量の遺骨や遺品が見つかりました。
 私は被爆直後に比治山に遊離し、放心状態で山の麓に停車している軍用貨物列車を見下ろしていました。この列車は、比治山の麓近くにある陸軍被服廠、兵器廠と宇品港を結ぶために設けられた鉄道でした。貨車の傍にいた兵士たちが「負傷者は、集まれ」と合図していました。この声を聞いて、大勢の負傷者はいっせいに赤土が露出した山肌を滑るようにして、貨車をめがけて下りて行きました。体を酷く焼かれた私には、その気力、体力がなく、その場にうずくまって貨車が去って行くのを見送っていました。それからしばらくして私は兵士に背負われて、山の東斜面の中腹にあった臨時救護所に運び込まれたのでした。あの時貨車に乗っていましたら、似島に送られ、家族の者との再会も果たせず死んでいったはずです。私たちの広島一中では、学校付近の建物疎開作業に従事していた一年生の多くが似島に送られ、亡くなっています。
 話が横道に逸れてしまいましたが、陛下の似島訪問が、後の天皇、皇后のこれまでの五一島訪問のきっかけとなったのです。
 こうしたことなぞを思考しておりますと、ノーベル平和賞は核兵器を史上初めて非合法化する核禁止条約に向けて努力し、広島、長崎の被爆者と連携して核の非人道性を訴え続けてきたICANの活動を評価したものでした。しかるに、安倍首相は核兵器禁止条約が国連で採択されましたが参加せず、このことについての何ら公式のメッセージも発していません。自民党は、多数の民意を得てこのたびの戦況を勝利したと言っておりますが、次のような民意があることも知っておいてもらいたいものです。
「核の傘」の下にあっても条約に参加することICAN(わたしはできる)
                   (神栖市) 寺崎 尚
 この短歌は、一〇月六日付朝日新聞の「朝日歌壇」に、水田和宏選として掲載されたものです。
 こちらは十月三十日「朝日俳壇」金子兜太選の(奈良県広陵町)松井 矢菅さんという人の句ですが、私の現在の心境に沁みこみました。
    腰据えて癌との戦大根蒔く


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続・対話随想 №27 [核無き世界をめざして]

続対話随想 27  関千枝子から中山士朗へ

               エッセイスト  関 千枝子

  選挙は、予想通り自民党の「圧勝」でした。小選挙区なので、票数以上に自民が議席をとったこともあり、自民党の人々も「手放しで喜んでいない=敵失で勝った=」ようですが、とにかく自民圧勝には違いなく、来年早々の国会から憲法での攻防が始まるでしょう。
 この選挙は「話題」は多くて、民進党の前原さんの考えた「希望」へのなだれ込みが、小池百合子の「選別発言」=全員を認める気はさらさらない=で、あの大人気が一挙に崩れ落ちました。それに怒った民進党の枝野さんたちが「立憲民主党」を立ち上げ、大変共感を集め、予想を大きく上回る得票で「野党第一党」、になりました。小池さんの『選別』にあたっての「上から目線の物言い」「不寛容さ」が反感を読んだと言いますが、私は『選別』の内容だと思います。改憲と安保関連法案を認めることが中身では、だれでも怒ってしまいますからね。「どこに一票入れるの!」と困っていた人々の票が「立憲」に集まったのはいいことでした。
 ただ、私は、あの都議選で、小池さんの「ファースト」に集まった票が一体どこへ行ったのか(自民に戻ったのか)不思議でなりません。ポピュリズムというものの「怖さ」を思いますが…・・。
 それよりも、これだけ大事な選挙なのに投票率の悪さが気になりました。台風のせいもありますが。一八歳一九歳が今度初めて選挙ができるというのに、その投票率はさらに悪い。とても気になりました。 若い層が政治に無関心ということ、困ったことですが、どうしてこうなってしまったのでしょうね。
若い方々と言えば、私、このごろ驚き、「反省」したことがあります。前の手紙で。有楽町で憲法9条の宣伝をしたのに、署名も。チラシをとる人も少なかったことを書きましたね。あの日もショックでしたが、あの数日後、女性「9条の会」で、フィールドワーク(戦跡を見る会)をしたのですが、それに参加した若い二〇台の女性の方(9条の会の会員ではなかい)が、「くじょうの会って、どういう意味ですか?」と聞いたのです。9条を知らないのです!「九条(くじょう)ネギじゃないのよ!」と思わず言ってしまいましたが。この若い女性、こういう会に参加するだけあって戦争の証言の引継ぎというか、証言を記録に残すなど、熱心に活動している人です。だから、びっくりしてしまったのですが。彼女、「9条」をのこと以外にも、よく質問してくれたのですが、ある霊園のなかに、ハルピン学院の碑があったのです。なぜこんなところに碑があるのか、それはわからないのですが、案内の人も、ハルピン学院のことなどあまり知りませんので、私が少し説明したのですが、彼女は「哈爾濱」のこともよくわからないようですし、「白系露人て、何ですか?ロシアのなかの地域の名ですか?」と聞くのです。白ロシア(ベラルーシ)のようなことかと思っているようです。私、びっくりしました。「白系露人」も、もう死語のようです。あの頃、哈爾濱とか奉天(瀋陽)とか、「満州」のちょっとした都市の名前は、小さな子どもでも知っていましたので、驚きました。戦争の証言などを聞いているのに、満州事変のことも知らないのです。私、事あるごとに戦中のことなど話すのですが、若い方たち、よくわからないまま聞いていたのかしら。何をしていたのだろうという思いで、本当に反省しました。前に建物疎開作業なんて言っても誰もよく知らないのだから、と言われ、中、高校生たちに被爆体験を話す時は、建物疎開とは何か説明するようにしているのですが、説明ばかりたくさんあってもくどくどしいし、本当に困りますね。
歳月と言えば、広島で供養塔の清掃を四〇年以上も続けたことで有名な佐伯敏子さんが十月三日に九七歳で亡くなったのですが、その偲ぶ会を十二月三日に例の竹内良男さんらの肝いりで行うことになりました。佐伯さんは親族を一三人亡くし、その被爆証言は本当に迫力があります。原爆の時、自分の一家だけでも大変なのに、親戚の人が焼けだれて逃げて来ても、面倒を見ることができず、すげなくした、ということがあります。原爆だけでなく普通の空襲でもそんなことがあり、戦災孤児の方のなかには、親戚との軋轢から証言も書けないという人がいます。佐伯さんの証言はそのあたりも、率直で生々しく、私も驚嘆して読みました。
佐伯さんは供養塔の清掃や遺骨の遺族探しの活動が称えられ、広島市民賞をもらっていますが、脳梗塞で倒れられてから二〇年、もう佐伯さんのお元気なころを知る人も少なく、広島では偲ぶ会もできないということです。なんだか寂しくなりました。私も佐伯さんとは実は詳しくお話を聞いた覚えはないのですが、この会に参加しようと思っています。「ヒロシマに歳はないんよ」と言っていた佐伯さん、核兵器禁止条約の採択の話は分かっていたのでしょうか。
それにしてもまたまた腹立たしいのが、一〇月二七日の国連総会で日本政府が核兵器禁止条約にも触れず、昨年出した案よりさらに後退した「核兵器廃絶案」を出し、多くの国々から痛烈な批判を受けたことです。本当に恥ずかしいと思い、怒り心頭です。
とにかく私、今の心境は、簡単には死なないぞ、ということです。国会で改憲案が通り、来年か再来年に国民投票ということになるかもしれません。若い人たちの真剣に今の憲法の大切さを言わなければ。戦争を知る「ババア」は死なないで、頑張らなければ、と思っています。

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続・対話随想 №25 [核無き世界をめざして]

   続対話随想25 関千枝子から中山士朗さま

                      エッセイスト  関 千枝子

 怒ること、驚くようなことばかり起きて、いろいろ忙しくもあり、なかなか筆が取れずにいました。
 腹が立つこと第一。画期的な「核兵器禁止条約」ができたのに、批准など全く考えない日本政府です。もともと、日本は核兵器廃絶条約に乗り気でなく、そのため、岸田前外相は「ヒロシマナガサキに来てくれ」とオバマを招いたり、私から見ればまことに姑息な行動をとっていたのですが、条約の採択会議にも出席もせず、世界の国々に対して恥ずかしいと思っていました。安倍首相は、広島、長崎の式典の挨拶でも条約に一言も触れず、批准する意思はないと言い、長崎の被爆者は、あなたはどこの国の総理ですか、と怒りを表明しました。アメリカの核の傘にいる(抑止力の壁)国の悲しき性(さが)かもしれませんが、なんとも情けないです。政府支持の低下に閣僚を入れ替えましたが、「人気取り」の目玉商品の河野外相も、核兵器禁止条約を「アプローチが違う」とか、ひどい態度です。河野外相のお父さんの洋平氏は今の政府のやり方にかなりはっきり反対していますから、ちょっと期待する人もいたようですが、太郎氏は岸田外相と全く同じです。今の自民党では、安倍氏に批判などできるはずもない。閣僚になったら違うことなど言えるはずもない。河野太郎氏など、昔あれほど言っていた原発のことなども一言も言いませんね。結局,トクをしたのは安倍氏でしょう。人気が少し持ち直したそうですから。
 そんなときに、北朝鮮のミサイル、水爆実験騒ぎ。北朝鮮の.やり方は感心しませんが、日本の対応も異常で、新幹線を止めたり、全テレビが一斉に緊急の画面に変わり避難の呼びかけとか、どうも過剰すぎると思いました。そこへ石破氏などが、非核3原則の見直しを言ったりして、本当に怖いと思いました。石破氏は.そのあとは発言していないようですが、テレビの番組で、右翼の評論家?が同様の見解を語っているのを見て本当に怖いと思いました。被団協は核兵器廃絶の署名をまだとり続けていますが、こんなことをするより、日本政府の核兵器廃止条約を批准せよという署名を集めたらどうですか、と被団協に提案してみたのですが‥‥。

 ここまで書いて一休みしていたら、その間目まぐるしく政治の世界変わりまして、降ってわいたよう解散。小池百合子都知事の「希望」が選挙に出ると「小池人気」を頼みに、民進が「希望」に入るという騒ぎ、そんな馬鹿なと思っていましたが、民進の議員たちは「了承」のようで、いったい、一度は政権をとった党が事実上解散でいいの?とあきれ果てていましたら、図に乗った小池氏、「厳しく選別する」と言います。その選別の基準は、改憲と安保関連法を認めるかどうか、ということですから、とうとう彼女本性が出たな、と思いました。さすがに、民進のなかでも「リベラル派」は、「希望」に入らない人々で、新しい党を作りました。私は、「こと」がよく見えてきた、と思っています。一度は政権もとった最大野党が、事実上解党となるのは悲しい話ですが、二大政党論の中自民党でないということで、寄せ集め、根本のところ(憲法に対する態度)などでちがいのある人々が集まって作った政党、こうなるのも無理はなかったように思えます。このところの政界の大騒ぎ、選挙前の大バタバタということで、マスコミも大騒ぎですが、二大政党論のことを言う人いませんね。私は、二大政党、日本では絶対だめだと思っているのですが。
 この事態になったのは、自民党員でありながら自民党都連のたてた候補に逆らい、勝手に立候補し、予想を上回る大差で当選、その後の都議選でも「チルドレン」を圧勝させた小池人気です。「改革」とか、しがらみのない政治とか言った言葉に皆、酔ってしまう。野党、市民連合と言ったところが束になっても成功しなかった知事選挙で、小池さんが、自民党候補を破ったのは、多くの人々を驚かせ、熱狂させました。とにかく彼女は、選挙上手。それで、小泉元総理は、郵政選挙のとき、引っ張り出させて、落下傘候補第一号、期待通り選挙に勝ち、女性初の防衛大臣になったり「活躍」。彼女は女性総理第一号を夢見たと思います。しかし、彼女は安倍氏の”直系”ではなさそうだし、自民党都連とも相性はよくなかったようです。しかし、私など、小池さんの、政治というか政党遍歴、また、その保守的な考え方を知っている者には、「小池人気」が不思議でなりませんでした。
 とにかく、この国の人々、「改革」と言った言葉にすぐ惑わされるようです。安倍さんも、小池さんも「改革」と言います。皆、「改革」大好きです。「しがらみのない」もそうです。
 小泉さんが人々を昂揚させた言葉。改革、規制緩和、あるいは小さな政府。だけど、郵政民営化で、人々の暮らしよくなったの?といいたくなりますが。でもみなそんなことは忘れてしまい、また、熱狂する。このこともう詳しく書くスペースもありませんが、とにかく、この現象、怖いです。それは戦争の始まりのころ、満洲ブームとか、爆弾3勇士への「感激」、何か、そんなことを連想させるのです。
 そんなことを思っていたら、安倍さんは、北朝鮮問題と少子化とをあげ「国難」なんて言い出しました。満州事変の後、世界から孤立化し国際連盟から抜けた日本で「国難」が大いに使われたことをいやでも思い出さずにはいられません。

 とにかく、今度の選挙、大変な事になりそうです。選挙騒ぎの起こる前、秋、来年の国会で安倍氏が憲法改悪、特に9条の改悪の妙な案を出して来そうだというので、改憲反対憲法を守る全国署名を3千万集めようという運動が起こりました。3千万署名なんて大変な事ですが、これをやらなければ危ない、憲法は本当に崖っぷち、今年から来年が山と思います。私は、安保関連法案反対で女性だけの訴訟に入っていますが、その人々と一〇月八日、有楽町のマリオン前広場でリレートークとこの3千万署名の署名集めをしました。スピーカーが何人集まるか心配していましたが三〇数人集まり、若い方々もおり(私たち世代より若いという意味ですが)安心しました。しかし、三時間半もしゃべったのに、チラシを受け取る人が少なく署名をした人も一〇〇人ちょっとで、私はショックでした。銀座に遊びに行く人々で、憲法のことにも政治にも無関心な人が多いのかもしれないけど。それにしても。
 それから、核兵器禁止の方、ノーベル平和賞を「アイ キャン」が受賞しました。禁止条約採択に貢献した世界の市民団体です。ヒバクシャの方のなかには、被団協がもらうと期待していた方もあったようです。しかし、私、被団協でなくアイキャンがもらったのは、少し「皮肉」があったように思えてなりません。ヒバクシャたちはその長い闘いを褒められました。しかし、ヒバクシャたちの国の政府は、条約採決の会議に参加もせず、今も批准をするどころか、実に冷たい態度です。世界は、この政府の態度をどうにもできない「ヒバクシャ」たちに、もっとしっかりしろと,暗に言っているように思えます。私は、今度は、政府に批准せよという署名運動をすべきではないかと思います。北朝鮮の核が言われる今、「抑止の壁」でなく、核兵器の禁止、廃絶しか、道はないと。このままでは、「非核三原則」の見直しを声高に言う人が出てきそうですから。







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続・対話随想 №24 [核無き世界をめざして]

 続対話随想24 中山士朗から関千枝子様へ

                   作家  中山士朗

 お手紙拝見しながら、いつもながらの関さんの熱い思いを感じています。
 とりわけ、筑摩書房の文庫版に収められている貴著『広島第二県女二年西組』が一〇版を重ねられたことを知り、何よりも嬉しく思いました。これぞまさしく神様が関さんにご褒美として贈ったものに相違ありません。これまでの関さんの生涯をかけたお仕事を顧みる時、当然のことだろうと思っています。中国新聞の西本さんの発言にありましたように、原爆の本が読まれなくなった時代にあって、関さんのご本が版を重ねていくのは、以前に書きましたように、まさに、
  ライフ  イズ  ショート
  アート  イズ  ロング
 と言わねばなりません。
 中国放送の秋信さんが残された仕事も、それと重なってきます。
 現在、私は、強くそのことを感じるようになりました。
 とりわけ、このたび緊急で検査入院し、大腸に癌があることが判明しましたので、余計そのことを意識するようになりました。それより少し前から、呼吸が苦しく、歩行もままならない状態が続いていました。かかりつけの病院で血液検査の結果、貧血が判明し、急遽、別府医療センターに検査入院したのでした。総合診療の結果、大腸癌が発見され、貧血はそのことが原因でした。すぐさま輸血をし、鉄分を含んだ薬剤が投与され、呼吸が楽になり、歩行も以前に戻りました。現在、通院しながらの経過診療が行われていますが、私自身はこの年齢になっての手術はごめんこうむりたいと思っています。
 医師から直接に大腸癌を伝えられましたが、その言葉を衝撃的なものとして受け取らない存在としての、私自身に気づいたのでした。
 なぜならば、私の父は後に、原爆症認定の病名となった心筋梗塞で、六五歳で亡くなりました。母は七七歳でS状結腸癌と分かり、余命九〇日と診断されたのでした。
 姉も七八歳で、母と同名の癌となり、手術を受けましたが、現在、痛苦に耐えながらの生活を続けています。母と姉は、私が臨時救護所にいることが判るまでの五日間、爆心地近くにいた私を探す毎日を送ったのでした。姉は、徴用先の会社があった己斐の近くで<黒い雨>に遭っていますが、ひっきょう母と姉は私を捜し歩いたがために、ともに後年、同じ病名の癌にかかったものと私は常々こころ苦しく思っていました。そうしたことから、現在八六歳になる私が癌と宣告されても、敢えて驚くこともなかったのです。
 その時、私は二人の女性の言葉を思い出さずにはいられませんでした。
 その一人は、関さんの姉上・黒川万千代さんが、急性骨髄性白血病の病床で、「原爆症認定の申請をしたのは、お金が欲しいのではない。原爆のためという言うことをはっきり認めて欲しいのだ。放射能が六五年経っても仇をする恐ろしいものだということを認めて欲しいのだ」、この言葉を残して逝かれたのでした。認定までの二年を待たずして黒川さんは亡くなられたのでした。
 今一人は、往復書簡第Ⅲ集の「あとがき」の中で引用しました宮崎園子さんの祖母(享年八〇)の言われた言葉でした。
 <あの日、18歳、爆心地から一・五キロで被爆し、顔半分をやけどした。
 「地獄を見た」と繰り返した。晩年、多発性骨髄腫と診断され「六〇年たっても原爆に殺される」と。>
 それと同時に、関さんの手紙にありました県病院の緩和ケア病棟で戸田照枝さんが語った言葉を思いださずにはいられませんでした。特に国民学校高等科の生徒の時、勤労動員で国鉄の無線の仕事をしていましたが、原爆が投下された時、広島駅の近くにあった建物は崩壊し、大勢の動員学徒が下敷きになりました。彼女は、運よく脱出できましたが、親しい友人を救うことができないまま、その場を逃げるより仕方がなかったのです。そのことがずっと気にかかり、罪深い自分を意識し、その思いがキリスト教の教会に足を向けさせ、クリスチャンになったのでした。
 先日の関さんお手紙で、戸田さんがこの八月六日に教会で被爆証言をされるということを知りましたが朝日新聞の宮崎園子さんが取材に当たられたということを知り、不思議な縁のつながりをお覚えずにはいられません。この記事は、八月六日の朝日新聞全国版の一面に載ったのでした。
 八月三〇日、私の身に癌が発症し、余命がいよいよ狭まって来たことを否応なしに認めなければならない時、被団協代表委員の谷口稜曄さんが、癌のため死去されたことが報じられていました。享年八八でした。
 谷口さんは一六歳の時、自転車で郵便配達中に、長崎の爆心地から一・八キロのところで被爆。背中を焼かれて三年七カ月の入院の後も完治せず、手術を繰り返していました。二〇一〇年五月、ニューヨークの国連本部でのNPT再検討会議では、各国政府代表を前に演説し、約三〇〇人の出席者から総立ちで拍手を受けたと新聞に報じられていました。
 このようにして、私を含めて被爆体験者が確実に数を減らしていく時、関さんとの『広島往復書簡』を第Ⅲ集までまとめることができたのは、ありがたいことだと思っております。現在も書簡の往復は続いておりますが、書ける間は、書き続けたいと思っています
追伸 関さんのお手紙で戸田さんの訃報を知り驚いています。次便で触れたいと思います


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続・対話随想 №23 [核無き世界をめざして]

  続対話随想23 関千枝子から中山士朗様へ

               エッセイスト  関千枝子

 昨日からブログが21、私の文章に変わりました。カラ梅雨を嘆いています。そして今…。関東では八月一日から二週間以上雨が降り続き日照不足で野菜の生育が遅れ,価格暴騰、プールも海岸も上がったりで嘆いています。本当に妙な天候。困ったことです。

 さて、この夏の報告ですが、まずうれしいこと、私の「広島第二県女二年西組」文庫版、九刷りまで行っているのですが、私はもうこれでおしまいかと思っていましたら一〇刷りが決まったと筑摩書房から連絡が来ました。本当!と言ってしまいました。「原爆物」は売れないのだそうです。私の本などが、文庫版で10刷り、ハードカバーから数えて32年も生き続けていること、ありがたいことだと思います。
 七月二八、二九日、博多で開かれている政教分離全国大会に行きました。
 その帰り、博多の誠座という素人劇団が私の「広島第二県女二西組」の朗読劇を上演するというので、その稽古を見に行きました。これは、前に関西の様々な演劇活動でご活躍の熊本一さんが、私の四半世紀前に書いた脚本で、大阪や生駒のシニア劇団で上演してくださっていることを「往復書簡第Ⅲ集」でも書きましたが、六月にシニア劇団の全国交流大会が博多で開かれ、熊本さんは生駒の劇団を率いて参加され、「…二年西組」を上演されたのです。それを見た博多の誠座の方がこれを見て感動され、自分たちの劇団で八月五日に上演したいと言われるのです。どんな劇団かさっぱりわからないのですが、ありがたいことと思い、とにかく稽古を見に行くことにしました。政教分離大会がすんでから行ったので、稽古が終わる直前だったのですが、年寄りの女性たちあり、女子高校生おり、小学生もひとりあり、何とも幅広くびっくり。うまいとは言えず、群読もバラバラで、これでやれるのかしら、と不安になったのですが、皆さん一生懸命です。靖国神社のことなど、かなり厳しい場面もあるのに力まず普通に群読しておられます。演出の指揮をとっているのが、座長らしいのですが、若くてまたびっくり。
 稽古が終わって食事をしながら話したのですが、座長の井口さんはまだ三二歳、高校の時から演劇が好きで、演劇好きな仲間と誠座を作った。普段は介護の勉強をしている。自分の座だけでは人数が足りないのでシニアの女性グループの協力を得たと。高校生、小学生はこの上演だけの参加のようです。今年だけで終わらず三年ごとにもう一度上演したいなど言うので、「私、三年先まで生きているかどうかわからないけど」と言ったら「じゃ二年先にやりましょう」ですって。あまり軽やかで、楽しげなので驚いてしまいました。私が構えすぎているのかも、ね。
 それから新幹線で広島へ、博多―広島って、たった一時間なのですね。近い!
 その夜、広島で、YWCAの難波さんと打ち合わせ、翌日はリニューアルなった資料館の東館を見学しました。なんだかきれいすぎ整理されすぎていて、どうも物足りない。これは他の方も同じような感想を持たれる方が多いようです。それから県立病院緩和ケア病棟の戸田さんの所に行きました。戸田さんは八月六日に、教会で、被爆証言をするのだそうですが、それを朝日新聞の宮崎園子さんも取材するのだそうで、宮崎さんの車で県病院まで連れて行ってもらいました。
 戸田さんは一度県病院から出されて鷹野橋中央病院にいたのですが、(なんだか緩和ケアの規則でずっといられないとかで)そこがあまりあわなかったようで、鷹野橋にいたころは声に元気がなく心配していたのですが、諸事親切で病室もとてもきれいな県病院に帰ってきて、とても元気そうです。再発したがんの進行も止まっているとかで、痛みもないようです。
 六日に語る被爆体験の原稿を見せてくださいました。こんな自分のことを書いていいじゃろうか、聞かれました。彼女、宇品の一番北、御幸橋に近いところに家があったのです。御幸通りを行進する軍靴の音・陸軍の港宇品港に向かう兵隊の行進、それを日常聴いて育ったわけです。七人きょうだいで五人は男、そのうち四人を戦争末期に失っています。二人は結核で、二人は戦地で。骨もない帰国。人前では泣くこともできずじっと耐えていたお母さんが夜、一人になってワーッと泣いたその声が忘れられないと。もちろん書いていいことよ、書かなければいけないことよ、と言いました。
 原爆で屋根も吹き飛んでしまって柱だけが残っているようになった家で、戸田さんの帰りを心配しながら待っていたお母さん。夜になって、駅前の国鉄の作業場から帰ってきた戸田さんを見て、どんなにうれしかったか。
戸田さんは自分は運よく助かったが、建物の下敷きになった友を救えなかった。その苦しみを抱えて、戦後、生きてきたわけです。高校三年のとき、私たちは、国泰寺高校の一期生として知り合ったが、こんなことを話したこともなかったのです。
 いちど東京に帰り、八月四日から広島入り。中国新聞を見ると、市中の慰霊碑が、天満川岸の現在の場所が、川の整備だかなんかでまずくなり、慰霊碑が基町高校(市中の後継校になっている)に移されるという記事です。この前、パリの松島さんに撮影していただいたのが、最後の撮影になったのかもしれないと、不思議な思いになりました。もう一つ、中国新聞のコラムで元山口放送の磯野恭子さんが亡くなられたことを知りました。磯野さんは優れたドキュメンタリストで、民間放送で、女性で初の役員にもなられた方です。コラムには彼女が満蒙開拓団の番組を作られ、初めて問題を明らかにしたと書いてありました。彼女は社会問題に敏感な方で満蒙のことは私知りませんでしたが、原爆のことも、ずいぶんいいドキュメンタリーを作っています。ことに胎内被曝の原爆小頭児を扱った「母さんの声が聞こえる」は名作で、私もその感動を忘れられません。中国新聞の方ももうそのことを知らないのか、原爆報道のことはまったく書かれていないのが残念でした。
 中国新聞の西本さんとも会いました。西本さんのお話によりますと資料館は今整備中の本館がメインで。東館はつけたりのようなものだから、あれでいいのだ、というようなことでした。それから往復書簡のこと、今もブログ上でやりとりが続いていますが、あとはお金が続かず、本にはできないだろうと言いましたら、西本さんは気になるようなことを言われました。原爆物の出版など興味を持っている人はあまりいない、中国新聞はデータがあるので、色々出版しているが、売れないのでただで配ってしまう。在庫があると税金を取られる、それはかなわないので、ただで配ってしまう方が損が少ないと。私の『第二県女』はよく売れている方だと。西本さんによると原爆物のノンフィクションで一番売れているのは大江健三郎のヒロシマノートであれで70万部くらいだそうです。やれやれ、私たちの往復書簡まだずいぶん西田書店に残っているけれど、あれ、西田書店の迷惑になるのではないかしら。心配になってきました。
 フィールドワーク少しでも涼しい方がいいと5日の午前中にやりました。(去年までは午後)。しかし、日差しのきついこと。暑いこと。YWCAの方、気にして車いすを出そうかと言われたのですが断りました。私が車いすで参加者に汗水泥で歩かせては、申し訳ないから。歩くのは平気ですが、立ってしゃべるのがきついのでその時の椅子を用意していただき(難波さんの軽自動車で運んでもらいました)、とにかく私、ちゃんと歩きました。皆様にあの日、少年少女たちは、炎熱の日に火のなかを逃げ回ったこと、慰霊碑を案内したが、慰霊碑もない、名前もわからなくなっている国民学校高等科の子どもたちのことを考えてほしいと訴えました。この日もフランスの松島さんや、共同通信などの取材があったのですが、共同の記事は北海道新聞に出ました。北海道新聞とはまた奇妙な縁ができるのですが、それはまたこの次。
 六日の朝は、第二県女、山中の慰霊碑のところで慰霊祭。いつも福山から見える平賀先生の姿が見えず、お歳(九五歳を超えられたはず)なので、さては、と緊張したのですが、つい数日前骨折されたのですが、いたってお元気で来年はどうしてもと頑張っておられるそうで安心いたしました。
 この後お茶など飲みながら暇をつぶし、お昼に鷹野橋の日本基督教団の教会に。なんだか私がたくさんの人(クリスチャンでない)人を連れ込んだみたいで申し訳ないようでしたが、戸田さんの証言とてもよかったです。松島さんも取材していました。
 その日の夕方、平和公園の近くのレストランで、松島さん、堀池美帆さん、私、それに後から西名さん(前に話しました大庭里美さんの娘さん)も加わり夕食をいたしました。この場で初めて会った人も多いのに、大いに話は盛り上がりました。
 そんなことでこの日の平和式典の様子は、テレビなどで知るだけでしたが、核兵器廃絶条約に触れない首相、そのことに何だか控えめな広島市長、怒り狂いました。
 七日、台風が来るというので割合早く広島を出、帰って新聞を見ると朝日社会面トップの戸田さんの記事、全国版で出たのだ、と驚きうれしくなりました。教会の方も喜ばれたかな?
 九日、長崎、相変わらず核兵器禁止条約に触れない首相、それに鋭く迫った長崎市長見事!ついヒロシマと比べてしまいますね、長崎の被爆者も「あなたはどこの国首相なのだ!」と迫ったそうです、立派でした。
 帰ってからも連日バタバタしていたのですが、十九日、土曜日、TBSの報道特集で中国放送の秋信記者のことを取り上げていてびっくりしました。私、彼とはあなたの番組「鶴」の取材のころ初めてお会いしたのですが、その後、昭和天皇への原爆についての鋭い質問で感心していました。報道特集で言われたので、びっくりしたのですが、小頭児のことに最初に気づかれたのは、秋信さんだったのですね。その後「キノコ会」の結成に協力というか、中心になって支えられたのですね。驚き、このことをしっかり取り上げら、この時期の原爆報道にされたTBS(金平記者)に感動しました。
 
 あまり長くなりました。この辺で終わらせます。まだ書きたいことがありますが、次回に持ち越します。 


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続・対話随想 №22 [核無き世界をめざして]

  続対話随想22  中山士朗から関千枝子様へ

                   作家  中山士朗

 このたびの「9条の会」に始まり、「核兵器禁止条約」、朝日新聞、<社説余滴>「憲法に胸を躍らせた時代」、日本子どもを守る会の「平和祈念集会」で出会われた人々とのこと、松島和子さんとのヒロシマ取材、その折の元日本生協連理事長竹本茂徳さんの話、広島県病院の緩和ケア病棟での戸田さんの話、日本でただ一つの民間で運営している、八王子にある原爆資料室の話など、心にしみるものばかりでした。
 この手紙が届いたのは七月二五日でした。
 奇しくもそれから以後、私たちが「ヒロシマ往復書簡」で語った人たちのことが新聞やテレビで報道されたのでした。
 七月二七日の朝日新聞では、俳優・渡辺美佐子さんらの広島。長崎で被爆した人の体験記を読む朗読劇「夏の雲は忘れない」が、福岡県宗像市の大島で公演された記事が出ていました。この公演は三十年以上にわたって続けられ、来月には千回を迎えるそうです。九州では、八月五日に福岡県八女市、六日に大分県日田市で公演。八月八日に広島県廿日市市、二十九、三十日に広島市で貸し切り公演があるそうです。
 以前、私たちの「往復書簡」について書評を寄せてくださった都留文科大学の非常勤講師・丸浜江里子さんが紹介されていました話が、このたびの新聞でも伝えられていました。十二歳で終戦を迎え、その後。俳優となった渡辺さんは、八〇年にテレビの対面企画で初恋の人との再会を望んだのでした。ところが現れたのは、男の子の両親でした。渡辺さんは小学生時代に親しくしていた友人が広島に転校し、被爆して亡くなったことを初めて知り、そして、その遺骨も見つからなかったことを教えられたのでした。両親は「本当に死んだのかわからなくて、お墓が造れない」と話されたそうです。
 「普通の人が殺されていく理不尽さを感じた」
 と渡辺さんは語っています。
 「その子がおしりをたたいてくれて、今日まで朗読をやらせていただいています」
 そして、戦後七二年を迎えて、
 「どんどん遠くなるのは仕方がないけど、絶対忘れてはいけないことがある」
 とも語っていました。
 私は、これまで「往復書簡」のなかで、このたび亡くなられた元聖路加国際病院理事長・日野原重明さんの朝日新聞に連載されていました「あるがまま行く」というエッセーの中から、何度か引用させていただきました。日野原さんは七月一八日に一〇五歳で亡くなられましたが、その直後の七月二九日の新聞に「読者の皆様に最後のごあいさつ」の見出しで(五月下旬に口述筆記)とされた文章が載っていました。

 <私が「あるがまま行く」を書き始めたのは、二〇〇二年一〇月五日、私が九一歳になった時でした>。
 <私のエッセーは、私の全力疾走の様子を読者の皆様に報告する形で、今日まで続いてきました。こんなにも長く連載できたのは、私と一緒に走ってくださった読者の方々の応援があってのことです。ここに感謝とともに皆様に最後のお別れをしたいと思います。今まで本当にありがとうございました>。
 <この人生で国内外を飛び回ってきた私ですが、心の故郷はやはり聖路加病院です>。
 <(前略)スタッフの方たち、そして私の意志を受け継いで聖路加を率いて下さっている福井院長。最後までありがとうございました>。
 <自宅の庭には、妻の遺骨がほんの少しばかりまかれています。亡き妻はここに静かに眠っていると思います。私の名をつけた真紅の薔薇「スカーレットヒノハラ」と、妻の名を付けた「スマイルシズコ」も、今頃、長野県中野市の一本松公園で花を咲かせていることでしょう>。
 <これからの季節は、紫陽花が美しく咲くと思います。紫陽花は丸く、ボールのような形なので、私はボールフラワーとニックネームを付けました。まだ緑色のつぼみが日に日に膨らんでいくのを眺め、ボールのような花がきれいに色づくのを楽しみにしています。これで、私からのメッセージを終わりにしたいと思います>。
 そして、八月一日のNHK総合テレビの「クローズアップ現代+」で、<日野原重明さんの遺言”死”をどう生きたか≫を観たのでした。
 その中で、日野原さんは、
 <一九七〇年、よど号ハイジャック事件から生還した時、私はタラップを降りて靴底が大地を踏みしめた瞬間、その感触に、「これからは、生かされたこの感謝の思いを他の人々に返していくのだ」という使命感を覚えました。「この命を、未来へと続く若い人たちのため生きていきたい」>。
と語っていました。
 一九九五年三月二〇日の地下鉄サリン事件では、当時、日野原さんが院長を務めていた聖路加病院では、当日は、午前中に六四〇人もの患者を受けいれ、その治療に当たったが、その決断にスタッフ全員が覚悟を決めて取り組んだことも、紹介されていました。
 番組のなかでは触れられていませんでしたが、私たちの『ヒロシマ往復書簡』Ⅲ集「再び「生」と「死」を考える」の章で、一九九四年、疎開学童七八〇人を含む一四八五人の命を奪った「対馬丸」の沈没事件についての日野原さんの言葉について触れています。
 <今を生きる子どもたちに、歴史的事実を伝えること、戦時下の子どもたちの「魂」に触れてもらうこのテーマでした>
 <太平洋戦争で、どれだけ罪のない大人が、子どもが尊い命を失ったことでしょう。対馬丸撃沈の悲劇は、戦争の悲惨さを物語る出来事の一つとして、決して忘れてはいけないものです>。
と、「対馬丸からのメッセージ<命>」と題した音楽劇が上演された時の言葉でした。
 そして、小さな虫の死について触れ、次のような言葉を残していました。
 <どんな小さな昆虫でも生きたいと思って努力しているというのに、私は今、ぼうっとした意識でつい、指先でこの昆虫を壁に押し付け、殺してしまったのだ。私は強い後悔の念を抱きました>。
 <思えば私自身、この虫のように、自分の力が及ばない理由でいつ死んでしまうか分からないのです。事実、私は一九七〇年によど号ハイジャック事件の人質になりました。奇跡的に解放され、改めて眺めた空や海は、以前とは違う輝きを放っていました。これからの生涯をかけて、命の尊さを訴え続ける、その決意はあの時、芽生えたのでした。
 <こんなことを考えながら、晴れた晩秋の日曜、私は軒先にパンジーの花が色とりどりに咲いているのをただ眺めていたのでした>。
 日野原さん一〇三歳の時の「私の証 あるがまま」の言葉でしたが、口述筆記による「読者の皆様に最後のごあいさつ」の結びに、<色づきはじめた紫陽花を眺めながら、私からのメッセージを終わりにしたいと思います>と、語りかけられた時の情景と重なるのを覚えました。
 「生」と「死」、私たちの『ヒロシマ往復書簡』のテーマでもあります。

 

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丸木美術館から見える風景 №50 [核無き世界をめざして]

語れない記憶

    東松山市・原爆の図丸木美術館学芸員  岡村幸宣

仕事柄、8月は休みが少ないので、夏の展覧会は見逃すことが多いのだが、先日、駆け足で「ヨコハマトリエンナーレ2017―島と星座とガラパゴス」を見た。
紛争や難民・移民の問題、英国のEU離脱、ポピュリズムの台頭などにより大きく揺れ動く世界の状況を、「接続」と「孤立」をテーマにして考えるという国際芸術展。
特に注目して観たのは、3.11後に陸前高田に移り住んだアーティスト・瀬尾夏美さんの展示だった。

友人の小森はるかさんとの二人展や、鞆の津ミュージアム「原子の現場」展など、最近、彼女の作品を観る機会が多くなっている。
惨禍の記憶を現地で聞きとり、視覚的なイメージで伝達するという表現手法が、ぼくにとっては、丸木夫妻の仕事を想起させるところがあるからだ。

もちろん、1950年代と2010年代では時代背景も大きく違うので、表現手法は異なる。
隠された原爆の惨禍を多くの人びとに等身大の群像図で伝えた《原爆の図》に対し、瀬尾さんの作品はひとりひとりの鑑賞者に向き合うように、ささやかな声で記憶を伝える。小さな画面に描かれた世界に、鑑賞者がそっと耳をすませるような展示だ。

しかし、絵と(詩のような)言葉で、互いの特性を補完しあいながら、観る側の想像力を刺激する、という点は似ている。
また、語りの際の人称の問題も興味深く、丸木夫妻も瀬尾さんも、聴き取りでありながら半一人称(瀬尾さんの言葉によれば「宙ぶらりん」)のような手法をとっている。
他者の記憶を器のように受け入れながら、自己表現に落とし込む、という立ち位置であることが、そうさせているのかもしれなかった。

今回、瀬尾さんの作品は、横浜美術館と横浜赤レンガ倉庫1号館の2会場にあった。
横浜美術館では、震災・津波における生者と死者、記憶と忘却の対比を、《二重のまち》という、なかば物語化された世界で表現していた。
赤レンガ倉庫1号館では、陸前高田での震災前の聴き取りを出発点にして聴いた遠い戦争の記憶や、「語れなさ」を求めて東京や広島に取材した、さまざまな言葉の断片を展示していた。絵が添えられている作品もあれば、短い言葉だけが展示されている作品もあった。
2階の廊下の閉ざされた窓の前には、「語れなさ」を示す短い言葉が、ぽつり、ぽつりと並んでいた。

1946
夫を戦地で亡くして、こどもを栄養不足で死なして、家も焼けてしまって、自分も原爆症いう人もおるけえ、あんまり気の毒で何も話せんが。
広島県広島市 .2016

1955
兄貴は戦争から帰ってきたが、なんいも語らにゃあ人になってすまった。
岩手県遠野市 .2015

語られた記憶のかたわらには、常に語られなかった記憶が存在する。
そんな忘れられがちな事実を、そっと提示するインスタレーション。
若い世代のアーティストが、「被災地」の現場に身を投じて身近に生きる人たちの話を聞くうちに、戦争の記憶に関心を向け、やがて広島にたどり着いたというプロセスは、やはり、非常に興味深い。

夕方には、浅草橋のギャラリーで、瀬尾さんの話を聞く機会があった。
作品に言葉を取り入れたのは3.11の後だった。言葉は早いメディアなので、急速な状況の変化に対応するために必要だった。絵は追いかけるように、だんだんできていった。
そんなふうに、彼女は語った。表現の必然の中で方法論を見出していったということが、よくわかった。

現在の風景の時間軸をずらすことで、過去の記憶を宿す。
そんな言葉も、印象に残った。その独特なアプローチで彼女が可視化させていく、消えそうな歴史の物語は、これからも続いていくのだろう。その先に、どんな世界があらわれるのか。そっと耳を澄ませて、彼女の仕事を、見続けたい。

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【連続講座のお知らせ】
「原爆の図 丸木位里と俊」講師:岡村幸宣(丸木美術館学芸員)
会場はいずれも立川市柴崎学習館にて。
9月22日(金)午後2時~4時 原爆の図立川展と立川平和懇談会
10月20日(金)午後2時~4時 1950年代の原爆の図全国巡回
11月17日(金)午後2時~4時 丸木夫妻の絵画表現と原爆の図
12月15日(金)午後2時~4時 今日における原爆の図
定員25名、保育若干名(1歳~就学前)
申込みは柴崎学習館(042-524-2773)へ


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続・対話随想 №21 [核無き世界をめざして]

  続対話随想21 関千枝子から中山士朗様へ

               エッセイスト  関千枝子

 東京は今日から梅雨明けです。梅雨明けと言っても、そもそも、今年梅雨があったの?というほど東京はいいお天気続き、取水制限が始まるのではないかと言われています。九州の方にあんなに降って!不公平!これも政治が悪いからよ!と八つ当たりしたくなるのですが。
 政治はもうめちゃくちゃな感じですが、この間いいこともありました。
 七日、私が世話人を務める、女性「9条の会」で私が強硬に主張して七月七日「戦争の始まり」を考える会を開きました。戦前の体験者が戦争の酷い体験はしっかり語るのに、戦争の始まりのことを聞かれると、さあ、むにゃむにゃ。私の同級生なども、昭和一六年一二月八日までは日本は平和でいい国だったなど平気で言うのに驚いてしまいます。つまり中国との戦争のことをすっかり忘れている、日本の加害の歴史が忘れられている!(若い人は本当に知らない)のは困ると、七月七日と九月一八日に集会を開くことを提案しました。重慶爆撃のDVDを映写、その後、私が教育勅語のことを語ったのですが、はじめ七月七日など言っても、皆様まったくわけわからず、人が集まらないというので、私、自分のブログでも宣伝して、四〇人も集まり、熱心に聞いていただけました。大学生も来てくれてうれしかったです。
 この七日、(奇しくも七日)、国連で「核兵器禁止条約」が採択されました。内容も実に立派で、一二二か国もの賛成で成立、予想以上の国が賛同しました。カナダ在住のヒバクシャ、サーロー節子さんが「この日を七〇年待った」と言っておられたという報道に、私も胸が熱くなりました。被爆以来のいろいろな思いが胸にぐっときて「ヒバクシャ」が持ち上げられすぎているような気がしましたが(被爆者でない人たちの反核のさまざまな運動もある)、ヒバクシャというと、政治的に中立、どこの政党にも属さないということで、ヒバクシャが核廃絶をいうと、超保守的な人びとも反対できない、ということもあります。
 とにかく核兵器を、非人道的な兵器で違法と断じ、核抑止力だけではだめと、核による威嚇まで禁止したのですから、完璧です。非現実的と反対した日本(唯一の被爆国と言っているくせに)、本当に恥ずかしい。岸田外相の「ヒロシマナガサキに来てください」の弁がいかにいい加減なものであったかわかるというものです。これから核を持つ国々、その核の壁に依存し、遠慮している国々をいかに説得していくか、まだまだ大変ですが、とにかく歴史的第一歩にちがいありません。
  七月一四日、朝日新聞「社説余滴」アメリカ総局長(元国際社説担当)沢村亙さんが、「憲法に胸を躍らせた時代」というタイトルで書かれたコラム、お読みになりましたか?沢村さのお母様は、この一月に亡くなっていますが、広島での被爆体験を三万三千字も書いておられるのですが、それと別に『戦後』の手記があるそうで、当時祇園高女の四年生だったお母様は一九四六年三月、「憲法改正草案要綱」が発表された時、クラスで新聞を持ち寄り、授業をしたと書いてあるのです。「戦争放棄」の言葉に驚きと喜びが交錯。権利という言葉に驚き…・教室がざわめき歓喜と興奮、「新時代の到来に胸が高まる」様子が書かれています。
 沢村さんは、広島中の女学校で「憲法教育があったのか」と疑問を持ち、私に聞かれたのです。私は、「それはないと思う、広島市内の学校は、あの当時まだ借り校舎だったり、分散授業をしていたり、まだ大変だった。私の第二県女も校舎が倒壊してしまい、広島女専に仮住まい、先生も、たりないところは女専の先生が時々授業をしてくださっていた。そんな社会科の授業で女専の後藤陽一先生が、憲法草案のことを言われたので、私は、先生が「戦争放棄」「象徴天皇」と黒板に書かれたことが印象的なのですが、たまたま後藤先生が若手の熱心な社会学の先生だったからでしょう。祇園高女は当時は廣島市外、建物疎開作業には動員されていませんし、上級生が勤労動員先で被爆し、亡くなった方がおられますが、市内の学校よりは被害は少ない。もちろん校舎は焼けていない。だから 勉強もかなり充実していたのではないか。それにしても「憲法改正草案要綱」の掲載された新聞を生徒が持ち寄ったというのには驚きました。生徒自身で、こんな知恵が出たとは思えませんし「優れた教師がいたのではないか」、といいました。私は、当時まだ女学校の二年生、新しい憲法の先進性、臣民から国民、主権者になったことなど、その時はさっぱりわからなかったのですが、沢村さんのお母様は、私より二年上らしく、かなり「新時代の到来」が分かっていたようです。沢村さんは、「アメリカ総局長になることは決定しているが、行く前にこれをコラムにしたい」と言っておられました。沢村さんは七月初めに赴任されたようですので、コラム掲載は赴任後になったのですが、約束はきっちり守ってくださいました。それにしても、「憲法に胸を躍らせた時代」という見出しも素敵ですね。

 一六日、日本子どもを守る会の「平和祈念集会」に参りました。私の『ヒロシマの少年少女たち』を読んで、とても喜んでくださいました長田五郎先生(長田新先生の三男)がぜひ話すように言われ、私は、何をどう話すべきか迷ったのですが、やはりこの会も「核兵器禁止条約の採択の喜び」から始まりましたので、「原爆の子」のことから入りました。あの本がどんなに大変な時代に出されたか。朝鮮戦争の最中、レッドパージの嵐が吹きすさぶ中ですから。「原爆の子」のなかに、建物疎開作業の生き残りが何人か手記を書いていますが、その中の片岡脩さん、私の組の生き残りの坂本節子さんのことを語りながら、あの作業の意味、靖国合祀や、忘れられた国民学校高等科(朝鮮半島出身の子が多い)の話をし、また生き残りたちが核兵器廃絶、不戦を願い、真剣に生き抜いたことを語りました。

 この日、私以外にも核兵器禁止の署名をとった高校生とか、さまざまな方が話をされたのですが、驚いたことに、「原爆の子」の執筆者の一人森滝(寺尾)安子さんがいらしていて驚きました。森滝市郎先生の娘さんで、今、広島で大活躍中の森滝春子さんのお姉様です。寺尾さんは、「原爆の子」初版のとき長田先生の家に招かれ、一人ずつ長田先生の署名の入った本を頂いたと、ボロボロになったその本と、例の「新しい憲法の話」(これは復刻版ですが)を持ってこられ、話をされました。私は、森滝安子さんが東京におられることも知らず、本当に驚きました。どの方の話もヒバクシャとしても思い、憲法の喜びの話で感慨深いものがありました。

 もうこれで、いつもより長くなってしまいましたが、こんなことをしていますと、ずっとお約束していたパリ在住の松島和子さんのヒロシマ取材の話書けなくなってしまいます。松島さんは八月三日から一〇日まで、またヒロシマに来られるそうですので、非常に簡単にしますが、三月末から四月にかけてのヒロシマ取材のこと、報告させていただきます。

 松島さんとは去年初めて会ったのですが、『ヒロシマの少年少女たち』に興味を持たれ、ぜひ取材したいと言われました。そしてとにかく真剣で、素晴らしい方と思いましたので、私が案内役を務めましょうと申し出たのです。二歳ですか、幼いお子様持ちであることもすごいと思いました。

 三月二九日来日、フランス人のカメラマン、日本人でスイスに住む録音の人、この二人は男性で、ユニークな取り合わせです。三〇日、まず丸木美術館取材、丸木さんは、原爆の図で第5部という早い時期に「少年少女」をテーマにしておられるのです。松島さんの映画にこれをオープニングに持ってこられるといいと思い、まずここに案内しました。

 三一日には八王子の原爆資料室に行きました。場所も遠いし、小さな小さな資料室ですが、日本でただ一つの民間で作り運営している原爆の資料室だからです。ここには建物疎開作業で被爆死した広島二中一年生の豊島君の焼け焦げた衣類と豊島君のお母さんが被爆直後に大連にいるお父さんに出した手紙のコピーも残っています。こうした被爆衣類はもちろん広島の資料館に行けばありますが、ガラスケースの中の遺品を見るのと、ここのように生の衣類を手に取ってみるのでは全く迫力が違います。フランス人たちも、真剣なまなざしで衣類を撮影していました。

 一日、早朝から新幹線で、新大阪。在来線に乗り換え兵庫県の住吉で、元日本生協連理事長の竹本茂徳さんのお話を聞きました。この日本の生協活動のリーダーは、あの時修道中学の二年生で、建物疎開作業で市役所のすぐそばに出動、市役所の陰になる所で弁当番をしていたため、奇跡の生き残りになるのです。有名な方である竹本さんが、私のクラスと同じ雑魚場地区の生き残りとは知りませんでした。竹本さんも体の衰えはあると言っておられましたが、二時間しっかり話してくださいました。竹本さんのお姉さんは日銀に勤めており、お父さんが見つけて草津の自宅まで運びますが、重体。お父さんが庭のトマトを絞ってジュースにして飲ますとおいしいとごくごく飲み、七日の朝亡くなったそうです。

 二日から学徒の慰霊碑回り。私のいつものフィールドワークと違い、平和通りの端から端までそれと雑魚場地区全部回るのですが、車を使いますし、一日で回れると思ったのですが、天候の悪かったこと、カメラの方がとても丁寧に仕事をなさるので時間が予想以上に罹ったこと。途中で別の「用事」ができ、三日がかりの仕事でした。

別の用事とは県病院入院中の戸田さんのところに見舞いに行ったこと(これはNHKの出山さんの頼みもありまして)、国泰寺高校の放送部の取材があったためです。これも面白いと松島さんたちも乗り気で賛成、取材してくださいました。

 まず、平和通りの西端から。広島一中三年生と広島第一県女一年生が働いていたところは平和大通りから少し北、小網町のあたりのようです。そこに郵便局がある。そこの脇に荷物(弁当)を置いた、と、濱田平太郎さんに聞いたのですが郵便局はどうしてもわからず、あきらめたのですが、大体の位置はわかり撮影。ほかの学校(市中など)は少し南、大通りのところにいたらしい(濱田さんの話)のですが、小網町から天満川を少し下った岸辺に市中の慰霊碑に行きました。私も市中の慰霊碑に行くのは久しぶりですが、よく掃除されていてきれいでした。この慰霊碑の下に市中の生徒らしい骨を埋めたと市中から来た国泰寺の同級生に聞いた覚えがありますが、本当に取っ手を付けた敷石がありました。骨を確かめますかと言ったのですが松島さんはためらわれ、そのまま西に向かって走りますが、後日フランス人にカメラマンは確かめたいと言い、彼らだけ来て、取っ手を開けて見たと言ってました、むき出しの骨でなく、かめが入っていたそうです。ここから平和大通り全部、雑魚場、そして平和大通りの最東端鶴見橋まで、少年少女たちの作業場のあとを見せました。鶴見橋の撮影をしたのは最終日。ここでは、中山さんの文章を読み、被爆直後のことを偲び、ここでは生存者も多かったが重いやけどを負った人が多く、「原爆乙女」に、ここで火傷をした人が多かったと、和田雅子さんのことを語り、手記の一部を読みました。

 県病院の緩和ケア病棟戸田さんの部屋では戸田さんの被爆の話、私も初めて聞く話でした。国泰寺高校放送部の人たちは私の「広島第二県女二年西組」に興味を持っているようなので、さまざま話をしました。彼、彼女らは、なぜ第二県女の私が国泰寺一期生なのか、それもよくわからないようなので話をし、近いところだから、と、第二県女の慰霊碑にも案内したのですが、原爆のことに、普通の高校生よりも関心深いと思われる彼女らが(部員女性の方が多いので彼女らに統一しました)建物疎開作業のことなどほとんど知らないのに驚きました。そのなかでは平和教育が熱心だと言われる袋町小学校の卒業生が。彼女の先輩・袋町国民学校高等科の生徒がこのあたりで作業中に死んでいることなど全く知らないのに、驚きました。でも、彼女ら、よく話を聞いてくれうれしかったです。とにかく松島さんの取材、密度の高い取材でした。

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続・対話随想 №20 [核無き世界をめざして]

続対話随想20  中山士朗から関千枝子様へ

                   作家  中山士朗

 関さんのお手紙によって岡田禎次さんの訃報に接したとき、二〇一四年に今田耕二さん、二〇一五年に栄久庵憲司さんが亡くなられたことを思い出しました。
 それより少し前、五月三〇日の新聞で、岡ヨシエさん(八六歳)が亡くなられたことを知りました。
 岡さんは新聞ではじめて知ったのですが、「広島に原爆」第一報を伝えた人でした。爆心地から一キロ圏内で被爆。当時、比治山女学校(現比治山女子中、高校)三年生で、広島城本丸の地下壕にあった中国軍管区司令部で軍施設や報道機関などへの警報の伝達を担当していました。壕の外に出て広島県福山市の歩兵連隊司令部に「新型爆弾にやられた。広島は全滅状態」と電話で伝えました。これが、原爆投下の第一報とされました。岡さんは戦後、被爆の後遺症で苦しみながら、当時の体験を伝え、平和を訴える講演活動に力を注ぎましたが、五月一九日午後九時二分、悪性リンパ腫のため広島市中区の病院で死去されたことが新聞で報じられていました。
 こうした同年代の死を考え、関さんの『広島第二県女二年西組』が、「全国シニア演劇大会」で上演されたというお手紙を読みながら、アメリカの詩人ロングフェローの詩を思い起こしました。私の記憶ちがいでなければ、中学校で英語の時間に最初に習った言葉でした。
       Life  is   short
                    Art  is   long
 つまり、「人生は短く。芸術は長し」という詩の意味が、現実のこととして理解できるのでした。
 このたび私たちの『ヒロシマ往復書簡』第Ⅲ集が発刊されましたが、その中で、<「広島第二県女二年西組」(ちくま文庫)が増し刷りされました。ちょうど九刷で、「九」という数はなかなかいいぞとご機嫌です。考えてみますと、ハードカバーの初版から数えてちょうど三〇年です。原爆のドキュメンタリーや記録で三〇年生き続けているものは、そう多くありません。正直、うれしいし、今は影も形もない小さい学校の、小さなクラスの物語がこれからも読み継がれるよう、願っています。>
 と、関さんは書いておられますが。芸術はやはり長しです。
 今田さんにしても、岡田さんにしても、栄久庵さんにしても、中国軍管区司令部で働いていた岡さんにしても、被爆体験を後世に伝える仕事を残して逝ったのでした。こうした人たちのことを思うとき、「人生は短く、芸術は長し」という言葉の意味の深さを改めて感じています。この場合、芸術とは、その人が生涯かけて残した仕事と解してよいのではないでしょうか。
 関さんが有限の命のなかで書き残された『広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち』が版を重ねていることは、何よりもそのことをよく物語っているのではないでしょうか。
 この手紙を書いている最中に、第Ⅲ集に書かせてもらった歌人の相原由美さんから,葉書が届き、偶然とはいえ、今、私たちが話合っていることの内容が伝わったかのごとき文面でした。
 <ご縁があって御著『天の羊』を読む機会に恵まれ、今日、小雨の中、自転車で碑まで行ってきました。後ろの夾竹桃が大木となり、うす紅の花をつけていました。サイド・オマールさんの母を思う遺影が身にしみます。お元気でいらしてください。>
 
 絵葉書にしつらえられた葉書の表面には、夾竹桃を背景に,興南寮跡の石碑が写されていました。南方特別留学生の銅板写真を埋め込んだ石碑の前には、花が供えられていました、
 『天の羊―被爆死した南方特別留学生』は、昭和五七年五月に三交社から発行されましたが、後に日本図書センター『日本原爆記録・一三巻』に採録されています。
 相原さんからの葉書が届く前、関さんを通してのご縁となりました、ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会の中川幹朗さんから頂いた葉書にも『天の羊』を熟読したとの文面がありました。そして、手紙の末尾には、相原さん同様に私の健康を気遣う言葉が添えられていました、
 現在、私たちは、『ヒロシマ往復書簡』第Ⅲ集を完了したところですが、最近になって、
私のこれまでに書いた作品を読んでみたいという声を耳にするようになりました。けれども。私の初期の本は、出版社が倒産したために絶版となっています。しかし、こうして三十五年前の本を探し出して読んでくださる方がいらっしゃることを知ると、作者冥利に尽きるというものです。そして、やはり仕事を残しておいて良かったと思っております。
 パリに住んでおられる松島和子さんとの原爆ドキュメンタリー取材撮影のお話、楽しみにしております。また、テレビ局からの『広島第二県女二年西組』の映像化の構想、実現することを祈っています。いつか、余命わずかと言っておられましたが、私もそうですが、もう少し生きていなければなりません。
 NHKの出山知樹さん、大阪局に転勤された由。先に朝日新聞の宮崎園子さんが広島総局に転勤されたことを関さんから聞いた時、私も関さん同様に、<記者有論>広島から思うの記事を『ヒロシマ往復書簡』に全文引用させていただいたことが原因で左遷かと内心、心配しておりました。ところが、五月二七日の新聞に、「反核から今募る思い」と題して、オバマ氏広島訪問からの一年という大きな記事を書いておられ、また六月三日には広島平和記念資料館について、「リニューアル東館を歩く」と題して、被爆の記憶をどう伝えようとしているのか、館内を歩き、記者の目で「示し方」のありようを議論すべきことを提案されていました。こうした大きな記事を読んで、私の心配が杞憂であることがわかり、安堵しているところです。


丸木美術館から見える風景 №49 [核無き世界をめざして]

ふたりの画家

     東松山市・原爆の図丸木美術館学芸員  岡村幸宣

 1967年5月、原爆の図丸木美術館は開館した。今年は開館から50周年という節目の年に当たる。

 写真家の本橋成一さんから、丸木夫妻の写真集『ふたりの画家』を、新たに編みなおして、質の高い写真集にしたいという提案を受けたのは、2年ほど前のことだった。それなら、50周年にあわせて写真展を開催しましょう、と逆に提案して、展覧会が実現することになった。本橋さんの写真を丸木美術館で展示するのは、2012年の『屠場』以来、5年ぶりだ。

 本橋さんは、1984年にスライド作品『ひろしまを見た人』の撮影で、初めて丸木夫妻に出会った。監督はドキュメンタリ映画の巨匠・土本典昭さん。土本さんの指示の通りに《原爆の図》を撮影しつつ、「自分ならこう撮る、とこっそり指示を離れては、土本さんに見つかって怒られていた」という。

 そのとき本橋さんは、丸木夫妻の暮らしに惹かれ、「どんな所でどんなものを食べ、どんな話をしているのか。そして、どのように絵を描いているのか。「反戦画家」として知られている丸木位里・丸木俊ではなく、さらにその奥に広がる位里さん、俊さんの世界を知りたかった」と、スライドの仕事が終わってからも、東松山に通って写真を撮り続けた。

 この時期、丸木夫妻の仕事は映画やテレビ番組などで何度も映像化されているが、本橋さんほど多くの写真で2人の画家の日常を記録した人は他にいない。

 5月5日の開館記念日には、歌手の小室等さんも来館され、本橋さんと対談をして下さった。2人とも、生前の丸木夫妻と親交があったから、50周年にふさわしい、とても楽しいトークになった。

 5月20日には、原爆文学研究会との共催で、本橋成一さん監督の映画『ナージャの村』の上映会を行った。チェルノブイリ原発事故で汚染されたベラルーシの小村ドゥジチに暮らす人びとの慎ましい生活を、四季折々の美しい映像とともに淡々と記録した作品。

 本橋さんは今春に、ベラルーシを再訪していて、上映後には映像とトークでその報告もして下さった。人の手を丹念にかける暮らしを営んでいた村が、人影も見えず、荒れ果てて廃村寸前であるという現実に、「復興」の困難さを思い知る。トークの聞き手は、原爆文学研究会会員で、哲学を専門とされる柿木伸之さんが務めて下さり、歴史の記録には残らない人間関係の中から聞こえる声にいかに共感できるかと、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの記録文学『チェルノブイリの祈り』を参照しながら、本橋さんの思いを引き出して下さった。

 東松山駅近くの焼きとり店に場所を移した懇親会の席では、九州・島原の山間部出身の若い研究者が、「映画は批判的に見なくてはいけないと思いつつ、登場する村の老婆の姿が自分の故郷の祖母にそっくりで、恥ずかしながら心を動かされた」とそっと打ち明けてくれた。

 当初は原発事故の実態を撮るためにベラルーシを訪れたという本橋さんだったが、そこに見出したのは、炭鉱や魚河岸、屠場、旅芸人の一座など、本橋さんが一貫して関心を寄せ続けている、(消えゆくかもしれない)ささやかな「共同体」――人びとが支え合って生きる姿だったのかもしれない。その問題意識には、自由学園や共働学舎、あるいは上野英信の筑豊文庫の影響を受けてきた本橋さん自身の人生が反映されているようにも思う。

 本当のことを言うと、本橋さんがなぜ丸木夫妻の写真を撮り続けていたのか、ずっと不思議に思っていた。無名の人たちを撮り続けていた写真家が、すでに国際的にも評価されている芸術家の写真を撮ろうと思ったのは、どうしてなのか。

 今回の展覧会の準備のため、本橋さんの写真に目を通しているうち、その理由が少しだけわかったような気がした。写真には、丸木夫妻だけでなく、2人をとりまく大勢の人の姿が映っていた。それぞれが支え合いながら、大地に根ざした暮らしを営み続ける小さな「在り処」。きっとそこに、本橋さんは惹かれたのではないか。《原爆の図》の画家というだけでなく、その「在り処」を作りだした芸術家を撮りたかったのではないか。

 本橋さんの写真や映像は、センチメンタルなノスタルジーと紙一重かもしれない。けれども、社会から忘れられそうになりながら肩を寄せ合って生きる人たちにも「豊かな物語」があるのだと記録することには、重要な意味があるだろう。

 沖縄から来た文学研究者のMさんが、「ベラルーシ再訪映像に、『あなたの送ってくれた写真集を何度も見ている』とナージャのお母さんが語る場面があった。村が失われていく中で、本橋さんの仕事は、現地の人たちの心の支えになっていたのではないか」と、最後に感想を聞かせてくれたことが、心に残った。

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【丸木美術館からのお知らせ】

8月2日(水) 立川市柴崎学習館 平和人権講座「ヒロシマ・ナガサキを考えよう」
午前10時 岡村幸宣(原爆の図丸木美術館学芸員)のお話「原爆画家・丸木位里と俊」
午後2時 16ミリ上映『HELLFIRE:劫火―ヒロシマからの旅』

8月6日(日) 丸木美術館ひろしま忌
広島から時間も距離も遠く離れた埼玉県の都幾川のほとりで、《原爆の図》とともに広島の惨禍へ思いをはせます。
屋内イベント(★)参加費500円・入館料別途
【当日のスケジュール】

12:00~ 丸木美術館クラブ・工作教室 案内人:万年山えつ子(画家)&石塚悦子(画家)
輪切りにした木に木の実を貼って壁掛けをつくろう。

13:00~13:50 ★神田甲陽講談「ヒロシマ・ナガサキ・アンド・ピース」
広島の「折り鶴の少女」、長崎の「嘉代子さくら」、そして原爆投下後の一人の米兵の苦悩などを織り交ぜた創作講談。

14:00~14:20 ★北久保まりこ短歌朗読「平和を求める祈り」
国内外で朗読パフォーマンスを通じた表現活動を行っている歌人の北久保まりこさんによる短歌朗読。

15:00~15:30 城西川越中学・高校 和太鼓「欅」演奏
毎年恒例、地元の若者たちの力強い和太鼓演奏。

16:00~16:40 ★堀場清子さん講演「私の原爆体験&《原爆の図》とのつながり」
15歳のときに広島で被爆を体験され、占領下の原爆表現の検閲についても詳細に研究されてきた詩人の堀場清子さんのお話。

17:00~18:00 ★白崎映美&東北6県ろ~るショー!!(小)
出演=白崎映美(Vo.) / 西村直樹(Ba.) / 岡田修(三味線)。震災に苦しむ東北を思い、鬼に化身した白崎映美が庄内弁で歌います。「まづろわぬ民」の歌声が丸木美術館に響きわたる!!

18:15~18:30 ひろしま忌の集い

18:30~ とうろう流し


続・対話随想 №19 [核無き世界をめざして]

 続対話随想19 関千枝子から中山士朗様へ

             エッセイスト  関 千枝子

 遅くなってしまいましたが、三月末から四月初めまで、パリに住む松島和子さんの原爆ドキュメンタリー取材撮影に付き合ったことを報告するはずでしたが、その前に書くことがたくさんできてしまいました。
 まず、岡田悌次さんが亡くなられたことです。岡田さんは、戦争末期に東京の都立五中からお父様の転勤で広島一中の四年生に転入。そのまま勤労動員先の江波の旭製作所で働いておられました。八月六日、原爆後、幟町の自宅に帰ってみると、家はまる焼け、これは父母も危ないと思ったそうですが、ご両親は栄橋に避難していることが分かり、一家3人で一晩栄橋の下で過ごしたそうです。、岡田さんのお父さんは、興銀の支店長で、支店長ですから出勤が遅く、まだ家にいらして無事だったわけですが、支店にいた銀行員七人は全員死亡。この中に濱田平太郎さんのお姉さんもいらしたわけです。濱田さんが、後に岡田さんのことを知り、私、岡田さんを紹介したのですが、被爆後六〇年以上もたっているのに、岡田悌次さんはすぐ「七人」という数字を言われたそうです。濱田さんも感激しておられました。岡田さんのお父様は、自分が支店長で出勤時間が遅かったため助かり、行員は全部死んだことに、苦しまれていたのではないか。だから七人という数を、常に口に出されており、岡田さんもそのことを覚えておられたのだと思います。
 岡田悌次さんは戦後割合早く東京に戻り、都立五中に帰られるのですが、原爆のことを語ることはなかったようです。成人して銀行員になりますが、ずっと原爆のことを話さなかった。それが被爆五〇年のとき、国立の平和祈念館から被爆体験を求められ、原爆の体験記を書くことを決意された。そのころ、私はある友人から岡田さんを紹介され、一中の被害のデータなどを少し教えまして、それで岡田さんと知り合いました。
 岡田さんは書き上げた手記を英語、フランス語、ドイツ語に訳し、祈念館に提出されるのですが、その時ドイツ語訳を手伝われたのが、例の河勝さん。都立五中の同級生です。都立五中は、一年のときにクラスが決まるとずっとそのままクラス替えがなく上に進んだようで、同級生は大変仲がいいそうです。
 河勝さんは、その翻訳で原爆に関心を持たれ、原爆にのめりこんでゆき、河勝さんと私の縁ができるのですが。その後数多くの河勝さんの原爆の本は、都立五中の同級生岡田、河勝の友情、さらに五中で同じクラスにおり広島市に自宅のお寺があり、山中高女在学中の妹さんを建物疎開作業で亡くされた栄久庵憲司さんとの友情、ヘルプで、出来上がるのです。岡田さんは、洒脱な紳士で、ガンの手術後、お体の調子がすぐれないことは聞いていましたが、亡くなったことはとても残念でした。
 もうひとつ残念なこと。中山さんのところにも来られた例のNHKの出山さん。今度大阪局に転勤が決まってしまいました。彼、自分から広島局勤務を申し出られて、三度目の広島という方です。おそらく彼、定年まで、広島にいたいと思っておられたのに、二年にして転勤とは。思わず「あまり私のこと、いろいろ取り上げてくださったので、罰を食らったのではないの!」などと言ってしまいました。それはなくて、人事の「玉突き現象」ということのようで、これは「宮仕え」の辛さ、仕方ないのでしょうが, 彼、お連れ合いも原爆のことで、熱心に仕事されていますし、お子さんがたの学校のこともあり、出山さん一人大阪に行き(単身赴任)、家族は広島で暮らすようで、お気の毒。
 でも、とてもいいこともありました。先日某テレビ局の方から連絡がありまして、私の「広島第二県女二年西組」を番組にしたいというお話がありました。なんでもあの本が出たころ、私を取材したことがあって、そのころ私は横浜に住んでいたころで、山下公園でお会いしたそうです。私は覚えていないのですが、彼は私の本のことを記憶にとどめておられて何とか番組にしたいと言われるのです。大変うれしいことですが、もう六月、少し遅いのではないかと思いましたら、来年に向けての構想だそうです。驚きました。こんな話が実現するのかどうかも、まだわからないのですが、自分の仕事に自信が出てくるような気がします。
 そんなことで、少しうれしくなっているとき、奈良県生駒の熊本一さんからうれしい連絡が入りました。六月二日から四日まで、博多で「全国シニア演劇大会」が開かれたのですが、そこに参加出演された報告です。今、全国で高齢者(定年後)演劇をしようというシニア素人劇団が盛んで、今度、そんな大会が開かれたらしいのですが、生駒と大阪でシニア演劇塾を開いておられる熊本さんは、生駒の方の「らくらく演劇塾」を引っ提げて参加。「広島第二県女二年西組」を上演されたのです。前にも報告したと思いますが、三〇年くらい前、関西芸術座という関西一のプロの劇団で「…二年西組」を上演してくださり、関西の有名な方の脚色で大好評だったのですが、芝居としてのうまさと別に原作者として少し、思いの違いがありまして、私ならこういう風に書くのだが、という素人脚本を書いて熊本さんに渡したのです。私が素人脚本を渡してもどうなるものでもなく、そのままになったのですが、驚いたことに熊本さんはこの素人の脚本をそれから四半世紀も捨てずにとっておいてくださいまして、二〇一五年に、今年こそあれを上演しましょうと言ってくださったのです。私の元の物より少し縮めたのですが、靖国の問題もきちんと入れたものを二〇一五年一二月に大阪のシニア劇団「豊麗線」、二〇一六年三月に生駒の「楽々演劇塾」で上演してくださいました。いずれも熊本さんの高齢者演劇塾の教え子たちです。
 今度の博多には生駒のメンバーを連れて参加してくださいました。私も博多まで行ってみたかったのですが、ほかにいろいろ用事がありまして行けなかったのですが、熊本さんからとてもよくできたと報告がありました。「皆様二回目で上手になられたのですね」といいましたら、そうではない、「みなにうまくやろうと思うな。心を,理解せよ、と言ったらよくなったのですよ」ということで、私も感激してしまいました。
 この大会、北は北海道から九州宮崎まで全国から参加していますが、近頃流行りのお笑いのような劇が多く、その中で「大真面目硬派の異色のドラマ」だったそうですが、観客世紀から見て感動した福岡の劇団(これから立ち上げ上演するところ)が、、八月の立ち上げ公演にぜひこれをやりたいと言ってこられました。熊本さんは、ぜひこの朗読劇を全国に広めたいと言ってくださっているのですが、確実に一つ広まったわけで、ありがたいと思っています。
 報告ばかりで長くなりました。パリの松島さんたちを案内した話は、この次に回します。


続・対話随想 №18 [核無き世界をめざして]

続・対話随想18 中山士朗から関千枝子さまへ

                  作家  中山士朗

 このたびの関さんおお手紙を拝見しながら、私自身が日ごろ感じていることの鬱憤が一挙に吹き上がってくるのを覚えました。
 このところ、新聞、テレビで報じられる内外のニュースを見たり聴いたりしながら、気分は暗澹とするばかりです。
 何か救いようがない、人類破滅、ひいては地球崩壊につながっていく恐れさえ感じさせる、病める国内外の政治家たちの発言を聞いておりますと、まさに世紀末の訪れを感じずにはいられません。よくよく考えてみますと、この狂った政治家たちに共通しているのは、戦争体験がなく、力によって強い国をつくり、国民を守るという口実のもとに軍備を増強し理不尽にも事を構えることに、何ら躊躇することはありません。
 現在、米朝間(日本も含めてですが)の現状を見ていますと、今から七十六年前に始まった太平洋戦争のころの日本を思わずにはいられません。
同時に、その戦争はオバマ前大統領が広島訪問の際に、
<七十一年前、雲一つない明るい朝、空から死が落ちてきて、世界は変わった。閃光と炎の壁は、都市を破壊し、人類が自ら破壊するすべてを手に入れることを実証した>
 とスピーチしたように、原子爆弾という取り返しのつかない破壊兵器をもたらしたということも。
 そして、国連での核兵器廃絶条約(協定)の動きにも関係なく、その使用、開発が公然と語られる現在の世界情勢のなかにあって、私たちが五年かけて綴った『ヒロシマ往復書簡』は一体何だったのだろうかと、自問自答したのでした。
 その時、以前、「往復書簡」の中で、円覚寺管長・横田南嶺さんと親交のあった坂村真民さんの、『坂村真民全詩集』の中の「バスの中で」という詩を引用したことを思い出しました。
 
 この地球は一万年後/どうなるかわからない/いや明日/どうなるかわからない/そのような思いで/こみあうバスに乗っていると/一人の少女が/きれいな花を/自分より大事そうに/高々とさしあげて/乗り込んできた/その時/わたしは思った/ああこれでよいのだ/たとい明日/地球がどうなろうと/このような愛こそ/人の世の美しさなのだ/たとえ核戦争で/この地球が破壊されようと/そのぎりぎりの時まで/こうした愛を/失わずにゆこうと/涙ぐましいまで/清められるものを感じた/いい匂いを放つ/真っ白い花であった/
 また、別の「何かをしよう」の詩には、
 何かをしよう/みんなの人のためになる/何かをしよう/よく考えたら自分の体に合った/何かがある筈だ/弱い人には弱いなりに/老いた人は老いたなりに/何かがある筈だ/生かされて生きているご恩返しに/小さいことでもよい/自分にできるものをさがして/何かをしよう/一年草でも/あんなに美しい花をつけて/終わってゆくではないか/
 最初の「バスのなかで」の詩をあらため直しておりますと、その先見さには驚嘆せざるを得ません。そして、私たちの「往復書簡」が“生かされて生きているご恩返しに”、自分にできることをなしたまでだ、という気持ちになることができたのでした。
 関さんのお手紙のなかに書いてありました、長野県阿智村の満蒙開拓平和記念館における天皇・皇后を迎えた際の横断幕に「奉祝 天皇、皇后陛下」と書かれ、日の丸の小旗を振って迎えたという話に、私はふと昭和一五年十一月一〇日に宮城前広場で天皇皇后がお出ましになり、「紀元二千六百年」の大式典が催されたことを思いだしました。五万人の
国民が広場に集まり、「君が代」を斉唱したという記録が残っています。総理大臣近衛文麿が壽詞(夜ごと・お祝いの言葉)を、高松宮宜仁親王殿下の奉祝の詞が奏上されたと報じられています。この様子はラジオが中継で全国に放送し、電飾電車が走り、提灯行列、旗行列が日本各地で華々しく繰り広げられたのでした。
 戦後七二年経た今も、こうした気風が国民の間に根付いていると、私には思えないのです。
ましてや、象徴としての存在となられた天皇とともに皇后が長年続けておられる戦跡訪問の旅は、戦死者の霊を慰め、平和を誓うことに心を寄せられたものと私は思っています。関さんが原告の一人になっておられる「安倍靖国参拝違憲訴訟」の判決文に、「英霊に哀悼の意を捧げ、恒久平和の誓いを誓った」という引用の個所がありました。
 広島の原爆慰霊碑の前で、「先ほど、私とオバマ大統領は、先の大戦において、そして原爆によって犠牲になったすべての人々に対して、哀悼の誠をささげました」と語っている言葉同様に空しさが感じられます。なぜならば、その後に、「日本と米国が力を合わせて世界に希望を生み出す灯火となる。この地に立ちオバマ大統領とともに、改めて固く決意します。そのことが広島、長崎で、原子爆弾の犠牲になったあまたの御霊の思いに応える唯一の道である。そう私は確信しております」と語り、日米同盟が世界に希望を見出す同盟であることを強調しました。その言葉は自衛隊の海外派遣を可能にしたのでした。そして最近では、米国の北朝鮮への空母出撃に際しては、護衛艦を派遣したのでした。つまり、日米同盟は軍事同盟にほかならず、日本列島は、日米間の防波堤と化していくのではないかという恐れが私にはあります。
 関さんの手紙にもありましたが、先日の北朝鮮のミサイル発射情報などで、主要鉄道の九割が「停止」し、市民生活に影響が出たことが新聞に奉じられていました。なかには、化学兵器を恐れて、換気扇を止めることを決めた地下鉄もあるということでした。今後、さらにこうした問題が身近に発生してくるでしょうね。
 このたびの関さんの手紙は、さまざまのことを考えさせる内容の物でした。不勉強を痛感しています。


丸木美術館から見える風景 №48 [核無き世界をめざして]

ピカドン

    東松山市・原爆の図丸木美術館学芸員  岡村幸宣

 3月はじめに、一宮市三岸節子記念美術館の杉山章子学芸員(当時)、奥田元宋・小由女美術館の永井明生学芸員とともに、広島市内三滝町の丸木スマの遺族宅で、作品調査を行った。
 押入れにあった箱の中から、多くの作品が出てきたという情報は事前に聞いていたが、掛軸を開くたびに初めて見る作品が次々と現れて、私たちは何度も歓声をあげた。こういうとき、学芸員の仕事は本当に楽しい。
 発見された作品のいくつかは、7月1日からはじまる一宮市三岸節子記念美術館の「丸木スマ展 おばあちゃん画家の夢」で公開されるが、とりわけ特筆されるのは、《ピカドン》と題が記された軸装画の発見だろう。遺族の方々も、最近まで存在を知らなかったというから、未公開の可能性も高い。
 70歳を過ぎて天真爛漫な自然讃歌の絵を描きはじめたことで知られる丸木スマだが、私の知っている範囲で、10点の原爆の絵が現存している。それらの絵は、いくつかのヴァリエーションに分けることができるのだが、今回発見された《ピカドン》は、今まで見たことのない視点から描かれており、新鮮な印象を受けた。
 画面中央を横切る橋の上を、両手を半分前に上げた人や、全身が血に染まった子どもなどが歩いて行く。橋の下には水が流れ、真っ逆さまに落ちていく人や、血を流して仰向けに倒れる人、水に向かって顔を近づける人、子どもを背負って息絶える人の姿も見える。青い絵具の中に頭や体が見え隠れしているのは、川に沈んだ人たちだろうか。緑の草が生えた川岸には、傷を負って歩く人や地面にしゃがみこんでいる人もいる。絵の舞台は、スマが被爆した自宅から近い三滝橋、流れる川は太田川(放水路)だろう。
 あの日、1945年8月6日、スマは早朝に起きて、夫の金助とともに、広島市内の中心部・土橋の建物疎開の跡へ、薪をもらいに大八車を曳いて出かけた。朝食までには家に戻るつもりで、薪を車に積んで引き返す途中、これから建物疎開に行く隣組の人たちとすれ違い、それが運命の別れとなったという。
 午前8時15分に原爆が投下されたときには、爆心地から2.5kmの地点にある自宅に帰りつき、着替えをしようと廊下に立っていた。天井が崩れ落ち、スマは床の下に抑えつけられたが、家族に助け出されて外を見渡すと、家という家は崩れ、あちこちで煙が上がっていた。やがて牛の群れや、何百人という焼けただれた人たちが逃れてきた。スマは金助とともに三滝の川の橋の下に避難したが、そこには血まみれの人たちが逃げ込んでいた。今まさに橋の下にいるような視点の《ピカドン》の絵はそのときの光景を描いたのかもしれない。
 画面中央にひときわ大きく描かれた2人の被爆者のうち、右の人物は手を前に出して歩く「幽霊」の像で、丸木夫妻の《原爆の図》の原形のようなイメージだが、驚いたのは左の人物の描写だった。
 これまでうずくまる被爆者として、横向きに紹介されてきたデッサンが、90度左方向に回転した状態、つまり縦向きの、すわりこむ被爆者として描かれていたのだ。背景が一切描かれていないデッサンでは、縦横の向きまでは判別できない。《ピカドン》のような風景画にデッサンのイメージが取り入れられていたことで、初めて作者の意図を理解できた。
 よく見ると、その胸には、小さな子どもの頭のようなものが描かれている。あるいは、乳房が露出しているのかもしれない。いずれにしても、頭を抱えてじっと耐えている、傷ついた女性の姿だ。
 そうだったのか、と思った。もう命がない、と思っていた人が、実はまだ呼吸をしていて、しかもその腕の中には、今まで気がつかなかった小さな命が、しっかり守られているような、そんな気がした。
 今までさんざん見ていたイメージなのに、それでもまだ、新しい発見がある。だから絵というものは面白い。原爆のことも、そう簡単に、わかったようになってはいけないと自戒する。

48ピカドン.JPG

「丸木スマ展 おばあちゃん画家の夢」
一宮市三岸節子記念美術館 7月1日(土)~8月13日(日)
〈関連行事〉
◆講演会「生命讃歌 ― 丸木スマの宇宙」
講師=永井 明生 氏(奥田元宋・小由女美術館学芸員)
日時=7月29日(土) 午後2時~(開場 午後1時30分)
◆スペシャルギャラリートーク <要観覧券>
講師=岡村 幸宣 氏(原爆の図丸木美術館学芸員)
日時=7月15日(土) 午後2時~
〈お問い合わせ〉
一宮市三岸節子記念美術館
〒494-0007愛知県一宮市小信中島字郷南3147-1
TEL.0586-63-2892 FAX.0586-63-2893
※この展覧会は、9月9日より11月18日まで原爆の図丸木美術館に巡回します
(それぞれの館のみの展示で巡回しない作品もあります)


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