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高畠学 №63 [文化としての「環境日本学」]

環境保護には知的エリートが必要 2

                      中国共産党機関紙「光明日報」記者  馮 水鉾 

 中国には多くの知的エリートがいるが、そのほとんどが現実主義の精神に乏しく、田畑の調査、時代に参与する精神、公共のために問題を解決する精神が欠如し、農村であろうと都会であろうと、一時的居住であろうと定住であろうと、常に、自分自身と時代・地域・事柄を切り離し、小さな影響でもそれを受けることを恐れ、時代の渦に巻き込まれることを恐れ、あらゆる事柄の当事者・参与者となることを恐れる。自分に関係のあることに関わりたがらず、自分に関係のないことには更に関わろうとしない。すばらしい現象を見ても関わらず、不公平なことを見ても首を突っ込みたがらない。総じて言うと、自分の手を汚さず、時代から遠く離れ、自然と隔絶するということが、私たち知的エリートの除き去ることのできない遺伝子である。

 時に、とてもおかしいと考えることがある。大学は公共のものであり、研究所も図書館も学術的刊行物も公共のものであるというように、社会はこれほど多くの資金を使って公共事業を行っているのだから、知識と知恵を十分に集結させる権利があり、その能力を活用してそれらの公共資源を人間の身に投入することで〝公共知識エリート〟をつくり出すべきである。残念ながら今日の中国では、実際の知的エリートは知識を身に着けた後、かえって利己的に、そして萎縮し閉鎖的になり、他者に背を向けてしまっているのである。
 著名な環境保護作家・徐剛が書いた『梁啓超伝』の中で、彼のひとつの思想に、「なぜ彼と同じ時代の海外留学から国に帰ってきた人たちは、中華民族の運命が強烈に表現されることに注目しないのか? なぜ勇敢に革命の宣伝者や指導者になろうとしないのだろうか? 〝梁啓超〃 のように〝地元のために尽くす″という、国家や民族の運命のために奔走し力の限りを尽くすことがあるのだろうか?」というものである。梁啓超は当時、〃海外で学び国に戻ったエリート″として金を稼ぐことに忙しかった。近年の〝海外で学び国に戻ったエリート″もほぼこのような特徴があり、当然ながら彼らは以前と比較し非常に満ち足りている。普遍的にこのような考えが全ての知的エリートに広がった。破壊された環境を代弁するような知的エリートは少なく、困っている民衆のために奔走するような知的エリートも少ない。自分の身や利益を省みず、自然のための公共事業や社会のための公共事業に力を注ぐ知的エリートがどれだけいるだろうか。全く参与しないというのは不可能なことであり、知識の道義であろうと、個人の良心からであろうと実際関わらざるを得ない。しかし参与が多くなることでの面倒を嫌い、更に多く参与することで消耗することを懸念する。また、あたりにはこれほど多くの休養をとれる温室があり、リラックスして眠ることのできる温床があり、多くの賞賛の言葉を受け、甘い蜜を吸うことができ、平穏な故郷で空想をめぐらすことができる。このように、自然を対岸の火として眺め、一山離れたところに牛を放ち、すだれを隔ててお見合いをし、靴の上から足を掻く、こうして自分の身の安全を守るのである。

 知的エリートの〝公共性″の欠如は、恐らく中国の環境保全事業の促進を難しくする重要な原因の一つである。彼らの発言が必要な時、彼らは発言せず、或いは悪人の手先になって悪事を働き、悪人を手助け、悪事を働く。一方で専門家の看板を掲げ、人としての良心に背いて自らの身を立てる。

 水杉(メタセコイア) - 星寛治先生及び日本の友人へ

 二つ、三つ、四つ人類の村落の間に
 空が大地と情感を交わす処に
 硬い岩が海へ流される前に
 貴方の六〇年間で醸し出した汁液を人々が撒き散らした
 そして、この大地に存在するあらゆる柔らかい成長と繋がった
 一緒に繋げば遥かに我々を超えてゆく
 雀に庇護を与え、蛍の幽かな光を揺らして
 神の翼下にかれらの棲家を造り
 烏たちは戦を止めた
 この世に常にこのような樹があり
 他所の樹と一緒に立ち並びたい
 この世に常にこのような樹があり
 人類が誕生する前を奔走し、人類が絶滅した後に枯れてゆく
 この世に常にこのような樹があり
 割れ裂けた大地をしっかりと縫い合う
 この世に常にこのような樹があり
 化石のように強き信念を抱きぬく
 この世に常にこのような樹があり
 命で家を支え、また傍で守り続ける
 この世に常にこのような樹があり
 行き先にその根を留めておく
   二〇〇八年六月二八日 日本東京にて  馮 水鉾 

『高畠学』 藤原書店


高畠学 №62 [文化としての「環境日本学」]

環境保護には知的エリートが必要 1

                      中国共産党機関紙「光明日報」記者  馮 水鉾

 私たちが山形県高島町に行き有機農業を視察したのは、一人の詩人がいたからである。
高度経済成長の時代にこの土地の農民たちは気がついた。日本の急速な工業化は農業と農村を席巻し、農業は一種の工業へと化す - という問題である。土地は商・工業資本にコントロールされ、農民は農業労働者と化す - 彼らは自分たちの地元で〝農業労働者〟となるか、或いは都会に出稼ぎに行くかである。土地は尊厳を失い始め、農民も尊厳を失い始める。

 詩人・星寛治氏は敏感な心でこの問題を捉えた。彼は自分の地元の三八人の若者を招集し、「高島町有機農業研究協会」を立ち上げた。彼らは伝統農業の尊厳を回復させたい、古くからの農村文化を継承していきたい、と考えた。そして田畑を健康で活力のある状態に保ち、村の自然、村人たちの率直さ、臨機応変さ、調和、お互いに親しいこの社会の特徴を保護していきたいと考えた。

 有機農業は難しい農業である。農薬と化学肥料を使わず、土地が本来持つ生産力に依存する。作物自身の被害に対抗する力は確かに低い。化学肥料はやはり農業を便利で容易なものにしてくれ、重い労働を軽くし、利益を大きくする。一方有機農業は農民たちを重い労働のなかに再び戻した。当時の農林水産省は高畠での試みと粘り強さをとても煙たがった。当時の政府は農業の工業化を一心に考えていたからである。

 星寛治氏の詩人という肩書きは彼自身を大きく助けた。彼の書いた詩は東京の文化界でも知名度があり、このことから彼らの村で生産された作物は、都会の消費者との消費提携の形態を獲得した。これらの人々には環境保全グループの人や文化界の先進的思考の持ち主たちを含んでいた。これらの消費提携は彼ら農業従事者を大きく助け、彼らの再生産を保証する利益をもたらすものとなった。

 一九七四年、著名な作家、有吉佐和子が『複合汚染』という本を書いた。著書では星寛治氏の故郷がモデルとなっており、彼らの粘り強い有機農業への取り組みと社会のなかで遭遇した苦悩が描かれている。この本の内容は、当初、新聞紙面での連載から始まったもので、当時の日本社会に与えた影響は非常に大きかった。新聞に掲載されて以来、原剛教授のような鋭い環境問題を追う記者は、日本の有機農業の発展経緯を追跡取材し始め、日本の有機農業がすでに全国化している現在も一途に追跡し研究を行っている。

 一九七四年、日本のある代表団が中国を訪問し、団員のなかの一人に中村という人物がいた。彼は、〝三八人の若者″のなかの一人である。星寛治氏は中国を訪問したことがあり、当時の彼の肩書きは〝農民詩人″であった。日本の有機農業の代表的村となった高畠が〝メッセージの強い発信能力″があるのは全て星寛治氏の存在と強い関係がある。一九七九年、星寛治氏の故郷高畠町では「町民憲章」が作られ、星寛治氏もこの憲章の製作者の一員として、この憲章の第一条に自然保護と伝統文化の保護を強調した。

 三十数年かかって、日本の有機農業は現在の規模にまで発展した。一人の人間が行動を起こすことだけで社会全体にもかなり重要な作用を及ぼす。星寛治氏は有機農業を始めるために、〝柔軟な土地〟から〝健康な食糧〟を育て、その富力と文化力を回復させ、田畑が経済を支えると同時にこの土地の伝統文化を継承し、農業に質の高い文学性をもたらした。その頃、天の人物が冷静にその様子を見つめていた。菊地良一氏である。化学の方面の専門家である彼は、三八人の若者を心配そうに見ていた。有機農業は老人、女性に対し、たくさんの重労働を課しているからである。彼にはフェミニズムの思想があり、女性はあらゆる虐待を受けるべきではないと考えていた。そこで彼は一種の毒性の低い農薬を発明し、それは、ただ一度その農薬を撒けば田んぼの雑草を除去し、作物自身の抵抗力も強化するといった所を持っていた。このことから、高畠の有機農業は二種類のタイプに分けられた。タイプ一として純粋に有機無農薬栽培されてできた米は六〇キログラム三六〇〇〇円で売れる。菊地良一氏の発明した農薬を一度使用したタイプだと、六〇キログラムの米を二六〇〇〇円で売ることができる。ちなみに、有機農業米ではない場合は一六〇〇〇円程度である。彼の発明は多くの人々を有機農業に参加させやすくした。

『高畠学』 藤原書店


高畠学 №61 [文化としての「環境日本学」]

グリーン・ニューデイール農業を培え 1

                                 博報堂ディレクター  水口 哲

法制度の力
 有機農業研究会の設立から三四年目の二〇〇七年夏、遠藤さんに話を聞いた。「年をとるとよ、もう体力任せに除草や除虫はできない。手で草を取る、虫を潰すのが有機農業だから、木陰一つないカンカン照りの田んぼに、四つん這いになっての作業はつらい。体力の衰えをカバーする有機農業用の道具や栽培方法が必要なんだが。ところが、日本の役所も企業も、研究開発に目もくれない」。
 〇七年は、有機農業推進法ができた年だった。「これで少しは変わるかな」との遠藤さんのつぶやきを胸に、翌年、創立会員の一人渡部務さんの田んぼを訪ねた。もともとやっていた「合鴨農法」の隣の田んぼでは、「二回代掻き法」が始っていた。最初の代掻きで、土中に残る雑草の種子を発芽させる。それを二回目の代掻きで土中に埋めた後に、田植えを行なう。「合鴨より除草効率がいい」と、渡部務さんが言う。
 法律が出来てから、「農業試験場の〝変わり者〟がちょくちょく来て、種々の農法を教えてくれるようになった。二回代掻法もその一つ」と言う。
 星さんも、法制度の役割に言及する。「草の根だけでは、普及に限界がある。山形県でも、今年度(〇八年)から有機農業基本計画が制定された。公的推進力で、普及が促進される」。

計算して自然をつくる農業へ
 「次の目標は?」との問いに、渡辺格・慶大名誉教授(生命科学)の発言を紹介してくれた。渡辺氏は、二〇年はど前、「農業技術を、生命世界を豊かにすることに使うべきだ。産業とは別に、生物そのものをつくることを仕事として、それを社会が認めるようにならなくては」と言っていたそうだ。
 有機農業の世界で、「東の星寛治、西の宇根豊」と言われることがある。その宇根さんには正に、『「百姓仕事」が自然をつくる』という著書がある。また、「田んぼの恵み調査」
を全国で展開する中で、次のような数字を明らかにした。「田んぼ一〇アールが〝つくる〟生物は、オタマジャクシ二三万匹。ミジンコ三三九五万匹。ユスリ蚊一一二万匹。タイコウチ二二匹。平家ホタル三二匹。タニシ二八七○匹。トビ虫二一万匹。薄葉黄トンボ一一五○二匹。秋アカネ二二一○匹。ヤマカガシ一・九匹」。

グリーン・ニュ-ディールの農業
 温暖化対策と経済対策の一石二鳥策として、昨年秋に発表された「緑の仕事」(国連環境計画、ILOなど)は、「自然をつくる農業」を、有望分野として挙げている。具体的には土作り、節水農業、減農薬栽培、水を回して使う水管理事業、小規模土木、自然再生の仕事などである。それぞれの、投資額と雇用効果も数字で出している。
 日本には、星さんや宇根さん、水俣の吉本さんなど、素晴らしい実践家がいる。彼らは詩人でもあり、感性に訴える能力も高い。国際会議で彼らの活動を紹介すると、膝を乗り出して「英語で送ってくれ」と言われることが多い。つまり、世界に通用する〝コンテンツ〟はある。
 しかし、彼らの活動を計量化し、全国や世界レベルでの政策にくみ上げたうえで、税金や市場メカニズムを使ってダイナミックに展開するところが、国として弱いのではないだろうか。

緑の〝アポロ″計画
 国連・気候変動枠組み条約の締約国会議のバリ会合(COP13、〇七年)で、温暖化の現状把握、将来予測、緩和策、適応策、資金案は、すべて「測定可能、報告可能、検証可能」でなければならない、という決議がされた。
 これを踏まえ欧米では、様々な指標づくり、スキーム作りが猛烈な勢いで行なわれている。気候科学、生態学、工学などの科学者から計量経済学者、人間行動学者、政策担当者までが動員されていて、気候変動の〝アポロ計画〟を思わせる。そうした土台の上に、排出権取引の欧米統一市場やWTO(世界貿易機関)でのCO2関税が、始まろうとしている。
 かつて大航海時代から近代に入る過程で、欧州は、株式会社制度や国有銀行制度を案出し、大規模にお金と人を回す仕組みを作った。それをテコに、豊かな先進地アジア・アフリヵを抜き去った。同時期、幕府は倹約令という精神運動を繰り返していた。
 それから数百年たった現代、〝炭素本位制″、〝生物多様性本位制″という〝異空間″がつくられつつある。歴史は繰り返すのだろうか。
 自由貿易ルールのより一層の貫徹と同時に、炭素や生物多様性のバンキング、ボローイング、オフセット、バジェットなどの経済的仕組みが、欧米主導でつくられ、市場経済にビルトインされつつある。

環境日本学への道
 そうしたなかで、地域の自然・人間関係・文化を守るには、ベースにある地域の自給経済、共同経済の正統性を世界の市場経済のなかに、理論的・実証的に位置づけ、認めさせる作業が必要だと思う。そこでは、欧米と対等に議論できる環境計量経済学が欠かせない。日本の「感じる文化」、東洋の「統合する文化」に加え、欧米の「数える文化」も磨く。それが、自然・人間・文化の三つの環境を育む環境日本学への道ではないだろうか。

『高畠学』 藤原書店
        


高畠学 №60 [文化としての「環境日本学」]

グリーン・ニューデイール農業を培え 1

                                博報堂デイレクター  水口 哲

 有機農業の誕生
 一九七二年の暮れ、山形県高畠町農協の営農指導員だった遠藤周次さん(当時三二歳)は、職場に置いてあった「協同組合研究月報」に衝撃を受ける。「農薬は、死の農業への道である。これからは、農薬に頼らない農業、儲からないが損もしない農業を目指せ」と書いてあった。「眼から鱗がおちた」。農家に病人が増え、土が変わってきた理由が分かった。
 遠藤さんは六〇年代に町の農協に入って以来、近代化農業の先兵として、効き目の高い農薬や化学肥料を農家に普及していた。「農薬使用に公害意識は無く、近代化だと思っていた」と言う。
 「月報」発行人の一楽照雄氏に教えを請うべく、星寛治さんらと東京に向かった。一楽氏は、全国農協中央会の常務理事を経て(財)協同組合経営研究所理事長に就任し、七一年に日本有機農業研究会(農林中金ビル内)を設立していた。若い農民には雲の上の存在だった。が、若さと切迫感から突き進んでいった。
  七三年の六月に彼を町に呼ぶと、九月には、高島町有機農業研究会を四一名で発足させた。伝統的に青年団活動の盛んな地域でもあったので、その仲間たちが集まった。

 土づくりの力
 「彼らの存在が特異なのは、平均年齢二七歳というのが示すように、ものごころついてから、彼らは化学肥料と農薬を使った近代農業しか知らない人たちだということである。未知の農業、新しい農業を文字通り開始したのだった」(有吉佐和子『複合汚染』)。
 「初めは変わり者集団といわれ、モデルなしの手探りの実践を積んできた」(星寛治)。「化学肥料、農薬、除草剤などを使わずに、有機質肥料だけを施し、土づくりを基本とした」(同)。「三年目、空前の冷夏が襲ってきた。東北地方の冷害は決定的で、地域の作況は半作以下であった。そんな中で、ふしぎなことに有機農業に取組む会員の田んぼだけが、黄金色の稔りを見せた」(同)。
 八〇年から八四年まで五年続きの冷害でも、有機の田んぼは平年作を確保した。これらの経験は有機農業で育てた作物が、異常気象に強い抵抗力を持つことを実証した。
 しかし、理由が分からないままだった。そこで中林達治・京都大学教授(土壌生物学)に質問した。「良く肥えた土の一握りには、ミミズとか目に見える生物だちだけでなしに、
微生物が数億から十数億の単位で生息している。その生命活動のエネルギーが、温かい土の体温を生成する」との答えを得た。試行錯誤の実践が、科学的合理性をもっていたことを確信できた。一〇年の歳月が経っていた。

 協同経済を生む自給経済
 農村社会が本来持っていた「豊かな自給の回復をめざしての出発だったので、その産物 - 虫食いや不揃いの - を消費者に供給するという発想はまったくなかった」と星さんは言う。
 しかし、冷害を乗り越えた三年目の夏、首都圏で消費者運動を熱心に続けている若い主婦のリーダーの訪問を受けた。『複合汚染』以来、安全な食べものを求めて、本物の野菜や有機栽培米の共同購入を目差していた消費者たちだった。彼らとの「提携」という市場外流通が、七〇年代半ばから始まった。

 顔の見える 〝小さな食管制″
 食管制度の時代だったが、自主流通米の制度が打ち出されたばかりでもあった。その合法的なルートを経由して、「〝提携〟といういわば〝小さな食管制″を通して、都市と農村が結びついた」(同)。後に、フランスや米国の有機農家にも「Teikei」は広がった。
 「提携」は、「畑と食卓を結ぶ顔の見える関係づくり」でもあった。七〇年代は世界的に、顔の見えない単一品種・大量栽培のモノカルチャー化が進んだ時代でもあった。そのなかで、「多品種少量生産でも自立できる」(星)農業経営は一見、時代に逆行するものでもあった。
 有機米の「提携」はやがて、消費者が除草など生産活動に参加する形態を生んだ。自給経済が、協同経済を作り出し始めたともいえる。
 八〇年代に入ると、地域に根を張る活動に力を入れた。八六年には、農家組合員を倍増させる。また首都圏の消費者グループとの交流の拡大をきっかけに、スーパーや生協、米穀会社、造り酒屋、味噌醤油の醸造元などに販路が多様に広がっていった。
 さらに若手中堅の農民が機関車となって地域ぐるみの活動が活発になるにつれ、首都圏の大学のゼミが訪れるようになる。九二年に「まほろばの里農学校」が開校すると、様Zマナ夢や目標を抱いて町にやってくる人が全国から増えた。これがきっかけで高畠に移住する人は八○名を超えた。

『高畠学』 藤原書店


高畠学 №59 [文化としての「環境日本学」]

止まったままの時計

                                            名嘉芙美子

 初めて訪れた高畠は、二十一世紀の日本に実在する桃源郷であった。
 東京で生まれ育った私には圧倒的に感じられる豊かさが、そこにはあった。見渡す限りに囲み連なる山々、優しい田園風景。そこで呼吸をする度に、癒しという流行の言葉では表しきることのできない、何か失ったものを取り戻していくような思いがした。

 表面的には豊かに見えても心は貧しく、何かが違う、不自然なことをしていると感じながら過ごす日々だった。街へ出れば、誰かと微笑みを父わすこともなく、熱く魂をぶつけ合うこともなかった。思わず頭を垂れる、深く神聖な気持ちになることも忘れていた。少し飛躍するが、このように不安とストレスが蔓延する社会に生きていては、いくらエコが叫ばれてはいても、環境問題の改善が難航していることも無理はないとまで思ってしまう。他人や、他の生物を思いやる余裕が持てないからだ。息苦しさを、感じていた。
 高畠では、自然と人とが、優しく向き合い、共に生きていた。多くのキーパーソンを生み出し、持続可能な共生型地域社会・内発的発展の成功例を示してきた高畠の場所性には、
どのような仕組みがあるのか。
 そこに存在するのは、五感に冴え渡る自然の豊かさから発展し、人の豊かさと文化の豊かさとで回る三角ループの構造なのではないかと考えた。
 人間の五感に訴える大自然のエネルギーは人々を祈らせ、心身の健康をもたらす、そこに高畠に生きる人々の根本的な豊かさが生まれる。このような人たちが生きる社会に、豊かな文化が形成されていく。
 それは有機農業の発達や、命を耕す学校教育、浜田広介の遺した作品の数々、星寛治先生の強く心に染み入る言葉の感性、今回の合宿でお話を伺った人たちに代表される多くの
キーパーソンがこの土地から輩出されていること等に、如実に表れている。高畠で作られる栄養豊富な有機野菜は、学習能力や文化感性を上げる効果もあるという。
 草木塔にも、自然と人間の間係性が覗える。自然、へ「頂きます」と感謝し、崇拝する心を見て、その説明をきいたとき、周りの田園風景は明らかに違って見えるようになった。より感動的に、神秘的に、魅力的に心に訴えかけてきたのである。そう思っていたら、バスに戻った途端、原剛先生にずばりそれを言われてしまった。
「自然へ祈る心は、人間を豊かにする」
これらの豊かさは、高畠の人達の確固たるアイデンティティを形成し、そこで更に強い人間が作られる。
 この人間文化の豊かさが、有機農業などの共生社会を通じて再び自然へと還元されていく。そしてその自然の豊かさが、また人々の心身を豊かにする。それがまた、豊か共生社会文化を形成する。その繰り返しの輪こそが、高畠をまはろばの里と成しえた構造なのではないか。
 これは早稲田環境塾の理念とも合致する考え方である。

 早稲田環墓は、「環境」を自然、人間、文化の二要素の統合体として認識し、環境と調和した社会発展の原型を地域社会から探求する。
          (第一講座テキスト三頁より引用)

 高畠から帰ってきた後に、この環境認識の理念を読み返してみたら、この塾の第一講座に設定された土地が高畠であったことがすんなり理解できた。
 では私がこの三角構造の始まりだと考えた、五感に冴え渡る自然の豊かさとは具体的にどのようなものか。
 まず視覚から感じるものは圧倒的である。町を囲む緑は荘厳で、同時にとても優しかった。共生農業の田畑や果樹園からも、自然と生物に対する慈しみがにじみ出ていた。暗がりの中、三六〇度どこを向いても瞬いていた、蛍の灯り。澄んだ夜空に差し込む星明り。これらの風景は、まっすぐに人々の心と体に響く。
 まだある。呼吸をするたびに感じた、高畠という土地の空気の甘さ、やわらかさ。二井宿小学校に入った途端、爽やかに香った、校舎の樹のにおい。頂いたお水、米、山菜、そば、さくらんぼ、りんごジュース、お酒などは感動してしまう程の美味しさで、味覚からも高畠の豊かさを強く感じた。
 そして真夜中に響く、ウシガエルの合唱の心地よさ。
 月明かりの下、裸足で踏みしめた草地の、やわらかい夜露の感覚。石のごつごつ。ヒメボタルを捕まえて、手の平にそれがいる、ささやかな命の感触。
 地元の方々はもっともっと土と農業と高畠と触れ合って生きているのだろうと思えば、この豊かな自然を全身で受け止めることから回りだす「高畠=まはろばの里」サィクルは極めて自然で正直であることのように感じられた。
 ただ、私が見たのは現在の高畠であり、高畠とそこに生きる人々が苦難の歴史を乗り越えて今に至ることは、星さんの詩集を拝見しても明らかである。しかしこの高畠の豊かさの構造が、困難にも打ち勝つ人々と社会を作っていったことは間違いないのではないだろうか。
 話が止まらないそば打ちの先生は、深い教養があり、主張があり、確かなアイデンティティとユーモアがあった。口と一緒に動く手はキビキビと気持ちのいい働きぶりで、そばがみるみる変化していく様はまるで芸術の様であった。「このそば打ちは今まで誰一人も失敗したことがない。誰にでもできます。皆さんも、もうプロです。先生です」と惜しげなく言う明るさと優しさに、頭が下がった。
 そば教室にかけてあった大きな時計は、止まっていた。私達が泊まった資料館にかかっていた時計も、二つのうち一つは動いていなかった。
 高畠の人達は皆とても親切で、生き生きとしていた。
 最後に私事で恐縮だが、私は高畠で初めて十割そばというものを知り、その美味しさに感動した。しかし周りの方々や、帰ってから母親から聞いたところによると、一般的な十割そばとはボソボソとしたものであるらしい。
 高畠のホンモノの十割そばを最初に食べることで贅沢な舌を身につけたことを誇りに思い、これからはことあるごとにそれを自慢していこうと思っている。これも、タカバク病の症例の一つかもしれない。

『高畠学』 藤原書店


高畠学 №58 [文化としての「環境日本学」]

『もののけ姫の世界で』 2

                                              関谷 智 

 映画『もののけ姫』はもうひとつ示唆を含んでいる。それは水の清らかさの意義である。映画の中ではタタリ神に呪いをかけられたアシタカの右腕の傷を癒すときに、水をかけて
いる。さらには銃で瀕死の傷を負ったアシタカをサンが運んだ先も、原始の森の湿原である。シシ神の首が飛んだ時に森を破壊したのはシシ神の体内から溢れ出た液体であった。このように水はいのちと切り離せない関係にある。澄んだ水が綺麗ないのちを育むのである。高畠の水の綺麗さは、言うまでも無い。蛙が鳴き、蛍が飛ぶ景観を作り出し、星さんや井澤校長のもとで食農教吉を受けてすくすく育つ小学生の命を育ててきたのも、山から湧き出る水である。水が綺麗であるからこそ、人の心も綺麗に透き通っているのではないか。
 澄んだ水と厚い信仰心が併存し、町全体が自然の鼓動を打つ高畠から帰った今も、私は夜になるとそわそわし始める。蛍が飛んでいないか草むらに目を凝らし、生き物の息使いを確かめようとする。だが、高層ビルのひしめく新宿や渋谷では、もちろん聞こえるはずもない。ネオンがきらめき、夜さえも眠らない町は人の影がひしめいている。高畠と対極にあるような街、新宿で我々は何が出来るのか。

 大都市は非常に便利である。農村と比べて人口やサービス、自然環境の極度の偏りが生まれており、生きていくのに必要なものはすべてと言ってよいはど簡単に手に入る。言い換えれば、大都市の中だけで生きていけるのだ。さらに大都市には非常に大きな憧れを抱かせる力がある。ライフスタイルやファッション、高性能機器からアイドルに至るまで、「フロム東京」(関西方面は知りませんが)は絶対的な力を持つ。その結果、私は、この「大都市東京」に住んでいる人たちの多くは、東京の中に住んで居さえすれば、快適な生活も享受出来、時代の流れに取り残されることはないという安心感を得ているのだと思う。そしてこの安心感は、潜在的に日本各地への視野を狭める事になっているのではないだろうか。全国紙を見て、各地の出来事を理解したと満足し、物産展で美味しいものを食べて、そこの味を味わいきったと喜ぶ。苦い味には蓋をして、美味しいと感じた味を、四七個のポケットにしまい込む。しかし、これでは本当に地方の魅力を理解したとは言えない。私は高畠に行って、高畠の士に触れ、風の音を、水の流れを聴き、おばちゃん達の笑顔と美味しい料理に満足し こぼれんばかりの星空を見た。しかし同時に、高齢化の現実や、農村の気苦労もかいま見させていただいた。私は高畠に、今の高畠を作ってきた人々のすさまじい努力の跡を見た。そして私は、そういうもの全てを含めて、高畠が大好きになった。「フロム高畠」は私にとっ・特別な価値を杓っている.
 私は今、大学生である。将来の仕事は未定であるが、やりたいことがある。それは、「東京」という圧倒的に濃いブランドに対して、地方の魅力がぎゅうぎゅうに詰まった濃いミルクを注ぎ込むことだ。もっともっと東京の人間に、他方の魅力を知ってもらう。実際にその場に行って、考えるのではなく感じてもらう。そんな体験が、一人ひとりの中にブランドをつくり、気づいたらいつのまにか東京中でブレンドコーヒーが出来ている、そんなことをしてみたい。東京の人々が、自分のなかにブランドを持って、もっと地方に目を向けることが、地方の自然や文化伝統を破壊する関わりなく、実は地方に支えられて生きて居るのだという感謝の心をもって関わっていけることにつながるのではないか
 地方からの魅力の発信は、人口、環境問題、福祉の問題への一の有効なアプローチの方法であると思う。私は高畠に行って、こんなことを感じ、また畠に帰りたいと願っている。今度はどんな魅力を東京ににしょっていけるか、わくわくしながら。

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №28 [文化としての「環境日本学」]

願望

                               詩人・「地下水」同人  星 寛治

  まだ見ぬ沖縄の友から
  山原(やんばる)の香気を詰めて
  あおいささげが届いた。
  珊瑚の海をこえ
  三千キロの天空を駆けて
  さやかな形のまま
  竹節にあふれる
  いのちの群れ、

  掌にのせると
  北の冷気に肌をそめて
  とおい赤土のぬくもりを
  ひたひた伝えてくる。
  小刻みな時間とか、
  目の廻る忙しさとかを
  すっと超えるもの、

  ふところの手帳に
  ひしめく暦の
  とらわれの時(とき)、
  失なわれた余白への頗望

  時間バンクに積立てた
  せわしげな時(とき)の総量は
  はたして、
  この空洞の五体を
  癒してくれるだろうか

  青いささげを抱え
  ふと立ちあらわれた
  野性のモモは
  語りかける、
  「はてしない野道を
  ゆっくり、
  ゆっくり歩こうよ、
  くたびれたらタイム、
  そして、また一歩
  足跡など消えてもいいよ。」

  あたり一面の草花や
  鳥や、虫たちや
  風の音や、水の音、
  いのちの饗宴(うたげ)に溶けこんで
  ぼくは直ぐに
  やさしい生き物になる

  幾可学もようの世界から
  解き放たれて
  耕やす土の豊籠や
  あの山なみの曲線や
    円みをおびた水平線に
  ぼくの複眼が吸い込まれて
  かすかに地球の明日が
  見えてくる。

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世羅書房


高畠学 №57 [文化としての「環境日本学」]

『もののけ姫の世界で』 1

                                              関谷 智

 一日目の夜、星寛治さんの軽トラックの荷台で、私は興奮して喋り、歌い、ライトに照らされては漆黒の暗闇に消えゆく農道をちらちら眺めやっていた。高畠についたのはその日の午前中であった。雨が心配されていたが晴れ男原剛先生のおかげでからりと晴れた青空に迎えられた。最初にお会いした星先生の物腰穏やかで、それでいて透き通った瞳に芯の強さを感じさせる姿は、講演の内容もさることながら、高畠の入り口は星さんであると感じさせるものがあった。高畠に入った私たちは、清流に棲む生き物がもつ川の息づかいのようなカジカ蛙の鳴き声に耳をそばだて、森のいのちが美しく漂い舞う光を、驚きをもって見守った。手にとった小さないのちの光はほんのり暖かく、くすぐったかった。昼間に見たぽつねんとした草木塔の姿が、姫と呼ばれる森の小さなホタルのいのちに重なった。小さいけれどその力のもつ抗いがたい力と魅力は、人々の心をつかんで離さないという点で、高畠に到着してからの出来事は、私の日常では経験し得ないことばかりであり、私は一種異様な興奮に包まれていたのである。それは一方では高畠の人々の、よそ者を迎え入れる暖かな態度や、今時の若者のコミュニケーションには切っても切り離せないファーストフードとは全く違う野菜主役の料理によるものであった。食べ物には機械の切なさではなく、人間の手の感触があった。人間の繋がりとでも言ったものだろうか。しかし他方では、私の興奮の要因として、何か自分の座っている和田民俗資料館の畳の部屋を越えて、その外に広がる田んぼの稲の風にこすれる音や、その中に棲む蛙や水蟷螂、そして森の木々の間をうごめく動物たちの息づかいがあった。大きな大きな生き物たちの命の渦の中に自分の存在を溶け込ませていた。都会で生まれ育った私にとって、子どものころに一番記憶に残っているものは、空が黄金色になるまで夢中になって蝉を追いかけたことや、家族でキャンプに行ったときに見た、夜の森で樹液に群がる虫たち、地面を這う蟻を捕まえて観察した経験である。想い出は土や草の匂いと常に一緒にある。決してコンクリートのビルやゲームソフトから生まれるものではない。そしてこの子ども時代の記憶がふと、高畠でよみがえってきた。私の興奮は、そして高畠病と呼ばれる愉快な興奮症状は心の中にしまわれていた大切な思い出のひもがほどけてゆくことにあるのかもしれない。これは言い換えるならば、大地の霊性を感じることであるといえよう。
 大地の霊性などというといささか神秘めくが、それは古代アミニズムの中にあり、またそれ以上のものでもある。山川草木、地上におけるものはなんでも神々のよりどころであるというのが日本の神道に見られるアミニズムであるが、それが今日地球全体が有機的な生命体であるという認識に再生されつつあり、環境問題を考えるうえで大前提として思想的な形成をなしつつある。そこでは人間は大地の霊性に敵対するものと位置づけられてきた。これを日本人の感性に刻み込むように訴えかけたのが、宮崎駿監督の映画『もののけ姫』である。私は高畠から帰ってきて、取り憑かれたようにこの映画を観た。映画の冒頭で流れるテロップには「昔、この国は深い森におおわれ、そこには太古からの神々が住ん
いた」とある。そして生と死をつかさどる「シシ神」や人問に恨みを晴らそうとする動物の怨念がなす、「タタリ神」、モロや乙事主といった動物種を代表する神がみがいる。豊かな森にしか生息しない木霊も、重要な位置で描かれる。森は人の手の届かぬところで驚くほど豊かな生命の循環を持っている。ところがこの世界に神をも恐れぬ人間が踏み込み、森を焼き、動物を殺し、森にいのちをもたらすシシ神の首さえもぎ取った。宮崎氏は映画の中で「怖いのはもののけよりも人である」と人間の女頭に言わせている。神すら睥睨した人間にとってもはやしめ縄や鳥居などは畏怖の対象ではなくなったのであり、むしろ人間の都合のいいように形を変えていった。
 高畠において、しかし、私が感じたのは人間と森との共生関係である。農薬を使わず合鴨を使う農法や、ほじくって手に取ると柔らかく暖かな畑の土を作るミミズや微生物を大切にする、化学肥料を使わない野菜栽培。草や木の中でさえ神を認め、観音岩を大切に保存する信仰心の強さ。それが高畠の大きな魅力の一つである。

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №27 [文化としての「環境日本学」]

遠雷

                               詩人・「地下水」同人  星 寛治

 ふと、
 羊水の海から目ざめると
 窓越しの白い朝に
 シンビジュウムの花がもえ、
 遠雷のように
 歴史の地鳴りが聞こえる

 あの日、
 アラビアの夜を砕いた
 砂漠の嵐。
 朝、瓦礫と化した街並。

 やがて、砂塵が止んで
 さまよう子らの背に
 夕陽が戻ってきた。
 けれど、
 燃えさかる油井の火煙は
 虚無の翼を広げ
 青い惑星を抱いてゆく

 夏、
 はるか東方の
 みづほの国で
 四季の巡りが壊れたように
 ふりしきる雨、
 はてしない雨季の回廊を
 泳いでいる、ぼくたち

 葦を取るぼくの背中が
 ヒリヒリ痛むのは 
 酸(す)の雨にただれたせいか、
 見れば、
 いとしい稲も
 激しい稲熱にもだえている。
 ヒマラヤに黒い雪がふるように
 ぼくの村に硫黄色の雨がふる
 
 あめは
 赤とんぼの羽根も
 きん色の穂波も奪っていった。
 掌にこぼれる
 べっ甲色の粒々も、

 初冬(ふゆ)、
 北を揺がす地鳴りは
 世紀をのし歩いた巨象の
 崩れる音。
 それは、地軸が傾いて
 永久凍土の溶けるように
 白鳥を呼び戻す響きだろうか、
 それとも、
 あらたな混沌の前ぶれなのか、

 遠雷のつたう
 ぼくの村は、
 少し陽が高くなって
 晴着をまとった樹々たちが
 霧氷のイルミネーションを
 点し始めた、
 「ブナはブナでいたい。」
 「ナラはナラでいたい。」
 「りんごはりんごでいたい。」

 里は静かだが
 ゆきに耳をあてると
 ドッ、ドッ、ドッと
 大地の鼓動が聞こえてくる
 やがて春が訪れて、
 いのちの交響曲がひびくのだ。

『果てしない気圏の夢をはらみ』 世羅書房


高畠学 №56 [文化としての「環境日本学」]

鎮守の森との出会い 2

                                             岡一仁志
         
 教育について

 今回の日程のなかで、私が最も感銘を受けたところは二日目に訪問した二井塾小学校での伊澤良治校長のお話だった。
 小学校内給食の自給率五〇%を始めに聞かされたときも驚いたが、それにも増して、このような教育方針を打ち出した校長の熱意と、それに応えた現場の教員の方々の努力が、講演を通じて感じられた。農村地域である当地の特性を生かしてこそ可能な教育実践であるが、小学生の時にこのような経験をさせることによって養われる子供たちの感受性や生きる力など、プラスになることは計り知れない。さらに、年長者(ここでは農業のベテラン、人生の大先輩である高齢の方)と接することにより地域に古くから伝わる仕来りや風習、日本の伝統文化に触れることが出来るということは、大変意義のあることだと思う。
 ちなみに、神社本庁においても、関係団体を通じて自然や伝統文化に触れ合うさまざまな活動を行っている。
 例えば、地域の森を守る運動と青少年健全育成の観点から、神宮御用材の地である長野県木曽郡の赤沢自然休養林内に、森林保全施設を運営し、間伐、植栽、遊歩道整備などの林業体験を通じて、森の多面的機能や自然環境保護育成の理解を深める教室を開設している。また、日本の伝統文化啓発の観点から、日本の伝統精神、文化と切り離すことができない「米作り」を体験して学ぶ「田んぼ学校」を開催している。ここでは稲作体験はもとより、コメの歴史や宗教観などを通し、「日本人とコメ」を再発見する学習を子供を対象に行っている。
 しかし、国の根幹である教育に関して、一宗教法人がどれだけ頑張ってみたところで限界がある。国、または地方自治体が積極的に二井塾小学校のような活動をサポートしてくれることを願うばかりである。校舎の外で見た二、三人の児童がリヤカーにたくさんのネギを積んで畑から帰ってくる姿がとても微笑ましく、私事ながら今夏生まれた私の娘もこのような小学校に入れたいと思った次第である。

 日本の農業の今後、神社との係りについて

 今回の日程のメインである星寛治氏の講演は大変示唆に富むものであった。まきに高島町のみならず、日本の有機農業におけるキーパーソンといえる方だと思う。
 「食」は国家にとって最大の安全保障といわれる中で、我が国の食料自給率の低さは危機的状況であることは今更いうまでもない。「農」に関して全くといってもいいはどの無知である私も、それだけは常々気に掛かっており、今回の講演でそれに対する展望をいくらか聞くことが出来た。
 なるほど高島町においては優れた方々の長年の努力によって有機農業が根付き、初等教育も素晴らしいものがある。しかし、これを高畠町の単なる町興しのひとつにしてしまうだけではなく、高畠の人たちが実践する農業の素晴らしさを全国に伝え広めてゆくことが何よりも大切である。同じことは二井宿小学校での教育についても言えることで、全国から農業を営む人たちや学校関係者が高畠に学びに訪れているようであるが、どのようにすれば全国規模で高畠のような取り組みが広がっていくかは、我々も考えてゆくべき課題ではないかと思う。
 我が国は「豊葦原瑞穂国」というように、まさに稲作によって成り立っている国である。
神道でも、一年を通して行われるコメ作りにおいて時に豊かな実りをもたらし、また、時に災いをもたらす大自然に対する感謝と畏怖の気持が基にあり、豊作を祈り、感謝する「祈年祭」や「新嘗祭」といった祭が最も重要位置を占めている。『古事記』・『目本書記』では、天照大御神が天孫邇邇芸命(ニニギノミコト)に稲穂を託してコメ作りをお命じになったことで、我が国で稲作が始まったとされていることからも、日本人にとって稲作は切っても切り離せない生業のはずである。
 そうでありながら、我が国では市場経済最優先、食文化の変化によって、食料自給率の低下という現在の状況を招来している。かくいう私も神社関係者でありながら、都会育ちでぁるが故に最も大切である稲作を中心とする日本の「農」というものにあまりにも無関心であったと言わざるを得ない。
 星野氏が仰っていたフランスの事例は、今の私たちにとってまさに目標とすべきものであり、今後、我が国は高畠のよぅな農村の復権を全国規模に拡大してゆかなくてはならないと強く感じた。たしかに、現在、我が国が置かれている世界経済体制の中にあっては難しいことだが、食料自給率の問題、その根本にある「農」の問題はもはや看過することはできないだろう。全国規模で日本の原風景を取り戻すことは鎮守の森を再び蘇らせることにも繋がる。そのために自分にできることは何であろうかと、今回の山形の研修で感じた次第である。
              (おかいち・ひとし/神社本庁広報センター広報部)

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №26 [文化としての「環境日本学」]

山居秋瞑(さんきょしゅうめい)
  王経の心象風景

                               詩人・「地下水」同人  星 寛治

  ある日、
  ぼくの胸ふかく
  一つの蓮の実が
  千年の眠りを破って
  ポチッと小さな芽を切った

  唐の昔、王経がうたった
  山居の静ひつ、
  めぐる季節の息づかい、
  向うには
  わずかにひとの気配

  ここに生まれ、
  ひとつ所に住み、
  ぼくは迷いながら時を重ね
  幾つもの旅に出た

  銀河鉄道にのって屋をめぐり
  ときには飛天になって
  見知らぬくにを翔び、
  ふと、騾馬(らば)にゆられ
  黄土平原をよぎり、
  はては、海亀の背に腹這い
  南の島を望み、

  その度に
  ぼくの胸は躍り
  あるいは痛み、
  出合いの波にうちふるえた。
  ひととの出合い、
  風土や、歴史とのめぐり合い

  けれど、
  窓の外に流れるものは
  風景でしかなかった。
  都市の光の渦や
  せわしげな営みさえ
  一幅の絵に納ってしまう

  旅に疲れ、
  この山居に戻ってきて
  柔かい土を踏みしめると
  時代が音をたてて動くのに
  ぼくの呼吸はゆったりと
  別の時を刻みはじめる

  むらききの尾根を発ち
  葦や木の根を洗い
  いわばしる谷の水。
  両手ですくい
  喉をうるおすと
  胃腑をひたし、五体をめぐる
  天然の精気のようなもの。
  あたりは山の香気にみち、

  けれどいま、
  この澄んだ水さえ
  ひとのおごりを溶いている。
  酸性雨、
  放射能、
  そして、大気が運ぶ
  数え切れない人為の塵、
  もう無垢の聖地など
  どこにもないが、

  それでもぼくは
  胸ふかく芽を出した
  千年の蓮を育てつつ
  ひっそりと
  山の層に留まろう

  ゆっくりと時が流れ、
  そこから始まるぼくの旅は
  はてしない自己への旅。

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世羅書房


高畠学 №55 [文化としての「環境日本学」]

守の森との出会い

                                            岡市 仁志

高畠の鎮守の森を訪ねて
                    
 初めて訪れた高畠の郷は、私がこれまで思い描いてきた数十年前の日本の原風景そのものだった。思い描くといっても、私が思い浮かべるのは子供の頃観た映画『となりのトトロ』の世界といった程度で、名作とはいえアニメでしか想像できない私の貧弱な想像力に恥じ入るばかりであるが、その原風景がいまだにこの場所に残っていたことに、素直に感動を覚えた。
 私が思い描く日本の原風景には必ず神社が付随する。田畑の広がる郷に、ぽつりぽつりと鎮守の森があり、表には鳥居が見え、中に小さな社が鎮座する。ときにそれは山の麓にあったりもする。先に述べた『となりのトトロ』でも鎮守の森が重要な役割を果たしている。
 私は、行きのバスでの自己紹介のなかで、「これから行く高畠で期待することは鎮守の森を見て回ること」と言ったが今回の私にとっての目的は、まさに鎮守の森によって育まれた日本の原風景を肌身で感じることにあった。正直に申上げると、私はこれまで「環境」と名の付く学問をしたことがなく、また、昨今の環境問題についても特に専門的な知識をもって接してきたわけではなかったため、今回の高畠合宿でどれだけのことを吸収できるか未知数であった。ただ、「まほろば」とまで銘打つこの高畠の郷に、鎮守の森はどれくらい重要性を占めているかということは大変興味のある問題であった。
 神社といっても、なかには明治神官や京都、奈良などの有名な大社があるが、それは全国に約八万社ある神社の中では極僅かで、大多数の神社が神主1人で奉仕しているか、神主がおらず地域の氏子たちが守っている神社である。なかには小さな祠のような神社もある。しかし、それぞれが今もそこにあるということは、長い年月を通じてその地域の人々に親しまれ、守られてきたのであり、むしろそこに民間に息づく神道の本来の姿があるのである。
 その意味で高畠の郷は、まさに期待通りであった。あたり一面田畑が広がる中に、ぽつりぽつり、こんもりとした森が独立してある風景がいくつも見られ、しかも、その神仕の多くに、きちんと氏子によって管理されている形跡が見られた。特に「ゆうきの里・さんさん」の近くにあった神社(皇大神社)は、鳥居が新しく奉納されており、村の神社として、地域の人が神社に対し豊作を願い、感謝する、はるか昔からの姿がそこにありありと感じられた。
 日程上、ほとんどがバスの中からしか確認することが出来なかったが、鎮守の森を見るたびに、カメラのシャッターを夢中で押していた。田舎の澄んだ空気の中にある田園風景は写真を撮るのには格好の被写体だが、やはりそこに鎮守の森がないと画竜点晴を欠いてしまう。日本の原風景に神社は欠かせないとつくづく思う。

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №25 [文化としての「環境日本学」]

 果樹園だより

                               詩人・「地下水」同人  星 寛治

  奥羽の屋根に
  わき立つ雲を染めて
  陽がのぼるとき、
  あたらしいゆきに包まれて
  里は夢のくにに変った

  山も、木も
  野も、畑も
  荒れた休耕田さえ
  白にめざめ
  はなやいでいる

  むらは無言だが
  ぼくは雪を踏みしめ
  ひとり果樹園に向った。
  すると樹々たちは
  白い盛装で迎えてくれる
  摘み残したりんご二つ、
  紅を溶いて
  元旦の朝にもえて、

  「幻の果実が戻ってきた」
  何年ぶりに
  ぼくがもらった玉杯に
  涙の粒が落ちた
  それは、
  流した汗の総量に
  造物主からの贈り物。
  
  ぼくを囲む樹々たちが
  その樹形に刻んでいる
  三十年の時の重さ。

  桑の古木を掘り起こし
  ふじの細い苗木を植え、
  五年たって初成り、
  十年たって成木に、
  その年、モニリヤ病で全滅、
  土づくりから再起。
  十五年かけて鈴成り、
  つづいて台風、
  冷害、豪雪、日照り、
  無農薬に挑戦。
  ふたたび壊滅、
  回復までに三年、
  来る年も、また
  病虫害とのせめぎ合い、
  あ然とする結果と
  わずかの歓びと
  はてしないくり返し。
    りんごに恋して三十年。
  ふろ、炭焼きの煙から生まれた
  天然の木酢液(エキス)が
  樹々たちの野性を醒まし
  地のみのりを結ばせたが。

  きらめく朝、ぼくは
  生きてきた果樹園の
  手さぐりの履歴書を胸に
  地球の鼓動を聞いている

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世羅書房


高畠学 №54 [文化としての「環境日本学」]

体的に「精神的辺境生」を生きる意志 2                                                              [“ひと”を育んだ風土] 

                                             西村美紀子 

 交流会で星さんが差入れて下さった高畠のお酒は、美味しかった。ワイン党の私が長年米国で暮らしている間に、日本酒は全く別物に生まれ変わっていた。華やかな芳香と雑味のないやわらかな味わいとさらりとした後味。「これは日本酒ではない」と叫びそうになったのを、危ういところで「夢見心地でいただきました」と、こちらも本音で置き換えると、星さんは「今年もイギリスの鑑評会で入賞が期待されているんです」と、遠慮がちに、誇らしげに、そして本当に嬉しそうにおっしゃった。

 第三の出会いは、最近聞き知った高畠からほど遠からぬ旧宿場町のある清酒蔵の話である。奥羽山脈を見上げる最上川沿いにある一六一五年創業の蔵元。当時まだ二〇代だったその跡継ぎが、酒蔵の総監督であり実際の製造・管理を指揮する杜氏なしに自分で酒造りをするという前代未聞のことをやってのけ、しかも「十四代」というその地酒はそれまでになかった類の旨さと質の高さゆえに全国で評判になり、今では入手困難になるほどの人気だという。東京で醸造学を学び、学生時代に友人と酒を酌み交わしながら「清酒で天下を取る」決意を語り、会社勤務後、故郷に帰ったその人は、熟練の蔵人達の信頼と協力を得て、その頃主流であった「淡麗辛口」ではなく「芳醇旨口」という新潮流を生み出し、それが全国を席巻したというのだ。

 星さんにいただいた日本酒の味はその「芳醇旨口」を彷彿とさせるものだったが、地元とはいえ、その酒の蔵元と、酒造業界に革命を起こした高木顕統という上記の人物との直接の影響関係は分からない。ただ、その革命によって、引退する杜氏の後継者難で苦慮していた全国の中小蔵元の跡取り達が高木氏を目標に自ら酒造りを始め、各地で消えかかっていた清酒蔵の灯が再びともったそうである。

 星さんと高木氏、この二人にいくつかの共通点があるように思えてならない。

 固有の特性と歴史を持ち、住民の地縁的生活空間である、「地域」に根を下ろし、効率的近代農業という時代の流れに逆行して、生命を育む有機農業という農業革命を断行した星さんと高畠町有機農業研究会の皆さん。書物や数知れぬ研究会により幅広い知識を身に付け、技術的経済的諸問題解決の中値性を模索し、中央の動向を批判的に隼握しつつ辺境から世界を透視する目を持ち続ける星さん達の三六年にわたる活動や「耕す教育」は、傍流・異端であったものがいつの間にか中央で尊重される、という逆転の現象を生んだ。
 一方、高木氏は、東京での大学・社会人生活の中で実家の酒蔵を日本地図・世界地図上に位置付けることによって、日本酒という文化の継承と家業の存続・発展のために自分が成すべきことを見出し、その伝統文化の重みゆえに誰も考えつかなかった革命を酒造業界に起こした。「十四代」は全国にファンを持つ本流となり、日本酒文化のさらなる発展の契機ともなった。
 世界を透視する目と、確固たる信念と、絶え間ない努力を超えてこの二人のキーパーソンに共通するのは、「中央/中心」を知識として取り込みながら、そこから一定の距離を置き、己の生きる地域の歴史風土に根を下ろして、自分とそれを含む共同体の未来に向けての決断と選択を行うことができる、主体的な「精神的辺境性」といったものではないかと思う。
 今回の高畠への旅から得たものは、雑多で漠然とはしているが、以下のようなことになろうか。稲作農耕文化の国、日本に生まれた幸福と呪縛を受け入れ、中央の主流に呑み込まれることなく、精神的辺境性を保ちつつ、地縁的生活空間としての地域の伝統文化・風土に根を下ろし、生命に感謝しつつ自然と共生しつつ、常に新しい在り方のカタチを模索しながら生きていく意志の重要性。私の「環境日本学」創成参画の旅は始まったばかりである。
(にしむら・みきこ/地球環境戦略研究機関持続性センター環境人材育成コンソーシアム準備会事務局次長)


はてしない気圏の夢をはらみ №24 [文化としての「環境日本学」]

共生のむらへ

                                      詩人・「地下水」同人  星 寛治

  ふと、目ざめると
  地鳴りのように低く
  時の鼓動が聞こえてくる
  もう、ぽくらの村に帰ろう

  そこはイワンの国のよう
  掌に豆だこの人がいて
  土にまみれ、鍬を打ち
  胸につたう汗が勲章だ

  見れば
  森の泉で若水を汲む
  子らの背中がまぶしい
  雪を頂いた山に向い
  ぼくらは地の声を聞こう

  いま列島は
  地ふぶきにかすんでいるが
  やがて、ぼくらの村に春がくる
  まんさく、辛夷(こぶし)、山桜
  菜の花、れんげ、梅、桜桃
  李、梨、りんご、かりんの花
  せきを切って咲ききそう
  桃源郷の花明り

  広がる水面に早苗がゆれ
  帰ってきた燕の影がよぎる
  子らは湯気の立つ乳を汲み
  産みたての卵を割り
  羊毛を紡いだ服を脱ぐ

  ふと、ぼくのファインダーに
  二重写しに浮かんでくる
  海の向うのおとぎの国
  ペンシルバニア州
  ランカスター郡
  エミッシュ村の物語
  四百年の時空をこえ
  文明の孤島のかたちをして
  新教徒の夢が息づく所

  なだらかな丘に沃土が開け
  育ちゆく作物はみな美しい
  耕すのは人と馬で
  道を走るのは幌馬車だ
  種まく人たちは答える
  「陽の出と共に野良に出て
   陽の沈むまで働くことに
   何のふしぎがあろうか」
  だから地味は肥え
  ゆたかな稔りの波、波、波

  野辺に鐘がひびけば
  古風な主屋で
  ランプの団らんがはずむ
  心を耕やし、時をかみしめ
  暮らしの根を伸ばす
  速度も、変化も、情報も
  エミッシュの幸せとは無縁で
  ゆったりと時が流れ
  この楽園にみちみちる
  人と自然の息づかい

  ふと、われに返った今は
  ぼくらの村に戻ろう
  林立するビルや、電光文字や
  洪水のような物量や、競合いや
  途方もない何かに焦がれ
  虚像に踊る姿を後に
  さあ、美しい村に帰ろう

  胸の窓を開けてみないか
  膏い風が分け入ってくるよ
  あの峰を流れる雲は
  はてしない気圏の夢をはらみ
  澄んだメッセージを伝えてくス
  そう、谷の水音に
  じいっと耳を傾ければ
  深く地の薯が聞こえてくる
    豊饒の地にみちみちる
  いのちの鼓動がひびいてくる

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世羅書房


高畠学 №53 [文化としての「環境日本学」]

主体的に「精神的辺境生」を生きる意志 1                                                              [“ひと”を育んだ風土] 

                                             西村美紀子

 バスを降り立った私の目に飛び込んできたのは、高畠の里山と田んぼ、小川に屋敷林であった。関西の田舎で育ち、長く米国で生活し、帰国後東京の住人となった私にとって、今回の山形訪問は、忘れかけていた「ふるさと」との再会になったのかもしれない。そんな旅での人・食べ物・自然との新たな出会いは、しまい込んでいた思い出とともにその土地のイメージを決定づけてしまうことがあるが、私の場合も、高畠行きの直前に甦った懐かしい記憶、高畠での経験、そしてその後の東京での経験という三つの出会いが、山形の風土が育んだ山形びとに対する強烈なイメージを形づくることとなった。
 第一の出会いは、二〇余年前の、月山のふもとで農民によって見事に演じられる「黒川能」との出会いである。長年能を舞うことを趣味にしていた祖母の影響で、京都や大阪の舞台で演じられる能や狂言を観るようになっていた私は、芸能としての能の成立史に興味を持ち、また鑑賞の助けにと仕舞を習いだしたばかりだったが、たまたま黒川の能演者の家に生まれた知人に教えられた、五流の能とは違った黒川能の姿に強く心惹かれた。近代以降の農村環境の激変に堪え、村人自らの意志によって、戦時中も中断することなく、四〇〇年以上守り継がれてきた農耕の神事能である黒川能と、それが自然暦の一部となっている黒川という場所自体に魅せられたのである。黒川能は月山の項から神をお迎えして二月一日・二日に行われる迎春の祭り「大祇祭」、五月の黒川春日神社「例祭」、七月の出羽三山神社の豊作祈年魂しずめの儀式「花祭り」、二月の「新穀感謝祭」と農耕暦の節目ごとに奉納される。とりわけ迎春の大祇祭は黒川の里の人々がひと月前から準備に入る一大行事で、全国各地から熱心な能楽ファンが詰めかけるそうである。
 実は、すっかり忘れていたこの黒川能のことを思い出したのは、原剛先生が高畠行きの前に我々塾生に次のようにおっしゃった時だった。「高畠病に気をつけて下さい。高畠から戻った人は口々に高畠のことを周りの人に話したがり、再び高畠を訪れずにはいられなくなるのです」。この言葉は、ある著名な能楽研究者が自戒の意味を込めて発したという警告、「黒川へは行かぬ方がよい。行けば皆黒川に淫する」を即座に連想させたのである。
 これは単なる偶然ではなかろう。第二の出会いとなる高畠という場所は、神の宿る里、日本の農村の原風景であるといわれる。そこでは村人が春に祖霊神を里宮に迎えて豊作を祈願し、秋の祭りで収穫を感謝し、薪や炭、山菜や何より農耕に欠かせぬ水という恵みを与えてくれる里山に感謝し手入れを絶やさない。神の息吹の感じられる白然を損ねることなく、作物を食する人を損ねることなく収穫を得るために、皆であれこれ試行錯誤し、土と対話しながら有機農業を行う。そこここに建てられた神社仏閣では飽き足らぬと見えて自らの手で石を切り出し、石仏を刻み、そのものに命が宿っているかのような形状の石に草木塔を刻んで、あらゆるものの生命に感謝し祈りを捧げるのである。

 近代以降、生命や自然や伝統文化を蔑ろにして押し進められた開発の結果疲弊しきった都市の住民が高畠病にかかるのにはちゃんとした理由がある。そしてそれは都会人が農民祭事黒川能とその能を守り育てた黒川の里にのめり込む理由とも相通ずるのである。聞くところによると、黒川能が農民によって能という日本の伝統芸能を連綿と継承してきたことの意味を考察し、昭和三四(一九五九)年に『黒川能』という研究書によってその真価を最初に世に問うたのは、高島町有機農業研究会のリーダーで農民詩人として知られる星寛治氏が人生の師と仰がれる、野の思想家、真壁仁氏であったという。

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №23 [文化としての「環境日本学」]

幻視のむら

                              詩人・「地下水」同人  星  寛治

  それはメルヘンの村なのか
  あのむらききの山なみへ
  白い衣をはためかせ
  ゆきの女は去りました

  樹々たちは残雪をはねのけ
  水車はしぶきをあげ
  もえぎの里は一面の菜の花
  赤牛の背に陽炎がもえ
  庭には土をついばむ鶏のむれ

  早乙女のうた声は
  水面をわたる風にのって
  スクール馬車がかけぬけます
  子らの歓声に囲まれて
  爺さんは誇り高い駁者になり

  紅花は梅雨あけの野を染め
  麦秋は蝉しぐれにもえました
  だんだらの丘はぶどう棚
  ルビーの実がひかる日は
  汗にぬれた顔がほころびます

  ぎんぎらの夏は
  川辺に子らの水しぶき
  樹下を吹きぬける風に会い
  螢の川の日暮れには
  茅ぶき屋根の緑に出て
  祭太鼓を聞くのです

  豊穣の秋はいい
  きん色の穂波の中に
  ただ立っているだけで
  ときめきが満ちてきます

  それは季節のおごりのよう
  いいえ地の恵みというべきです
  枝もたわわなりんごや
  打上花火の柿の実を
  子らは木によじのぼり
  小鳥ときそってかじります

  干柿ののれんの下に
  もう漬物も仕込みました
  陽だまりで粟を打ち
  炉端でまゆを紡ぎましょうか
  納屋は薪木で一杯だし
  木枯しの日は納豆を煮よう

  飢えも戦争もない自給のむら
  老いも若きも結び合って
  のびやかに生きている村
  そんなぼくの初夢は
  ふしぎや21世紀のことでした

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世羅書房


高畠学 №52 [文化としての「環境日本学」]

いのちのマンダラ 2

                                                               嶋田文恵

  風土と祈り

 星さんは「祈りの心を失っていない人たちがいる地域では、大規模な自然破壊は行われない」と言う。
 「祈り」とは何か。確かに高畠には、「いのちのマンダラ」を映し出す、目に見えない小さな生物が無数に生きている田んぼを大事にする人たちがいる。子供たちを愛し子供たちの未来のために、いのちと農の教育を実践している人たちがいる。きれいな川と山を維持し、蛍とカジカ蛙を愛護する人たちがいる。土地で取れた新鮮な野菜やコメをおいしく料理する知恵や技術を継承する人たちがいる。この上地の気候、作物、土、はたまた歴史など何でも知っている「人間国宝ともいうべき文化と知恵のかたまりの人(伊澤校長)」がいる。そして何より安心と幸福に満ちた笑顔を見せる子供たちがいる。先祖の人々は「章木塔」いうモニュメントを刻み、人と草木のいのちのつながりに感謝してきた。高畠の「糸たちはその地に「共に生きる」ことに、愛情をたっぷり注いでいるように見える。
 「祈り」とは、まさにこのことなのではなかろうか。すべてのいのちは、自然(宇宙、神、人間を超越したもの)によって生かされ、また自分もその一部であることを自覚(無意識にも)していること。万物は自然の調和によって生かしあっていること。それが「祈り」であり、その心が、高畠には連綿と継承されてきたように思う。
 このように思うとき、まさに明治初期、まだ近代化が屈かぬ東北の地を旅したイギリス人女性、イザベラ・バードが越後から小国峠を越えて置賜盆地に入ったときに記した風景が重なる。
 バードは「米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。〝鍬で耕したというより鉛筆で描いたように〟美しい」「実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である」「美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である」「どこを見渡しても豊かで美しい農村である」などど、この地方を記している。
 実際にはただ美しいだけでなく、そこには先祖たちの幾多の苦労があったことと思う。しかし今回初めて高畠を訪れた旅人である私は、バードがこの地域に対して抱いた感情と、
ほぼ同じ感慨を持って高畠を体験したのである。これはこの地に「祈り」の心が連綿と引き継がれてきたことを意味していないだろうか。

 近代の向こうにあるものと農業

 星さんを中心に高畠の人たちがたどってきた軌跡をみてきた。農民として身をもって体験した農化学薬品の健康被害によって、星さんと仲間たちは有機農業を学び、先駆者としての多くの困難と闘いながらも、その「本物度」を証明し、有機農業の社会的認知を広げてきた。「点」が「面」になり地域社会に広がり、教育や文化に影響を与え、それが町や県という行政をも動かす力となった。
 ここから何を学ぶか。一つは、「一人の人間の意識が社会を変えていく」ことである。それも「足元から」だ。一人の人間の本物の意識は、周りの人々の意識を変え、さらに地域社会の意識を変え、もっと大きな単位の人々の意識を変えていく。その意識の変革が社会の変革を促していく。そうした力が私たち一人一人にもあるのだ。そのことを犀さんと高畠のみなさんは教えてくれたように思う。
 私が学んだ二つ目は、「パラダイムの転換」「近代の向こうにある新しい社会の創造」としての、一つのモデルを高畠に見たことである。それは、農業・教育・福祉・産業が共に生きる「共生社会」としてのモデルである。それはその土地の資源、生活様式を活かした「内発的発展」でなければ難しいように思える。なぜなら近代化の要請は、伝統的な生活様式を持つ地域社会・地域文化をある意味「破壊」することだったからである。
 近代の限界と矛盾が明らかになった現在、日本の産業構造の変革、とりわけ食糧自給の問題が急を要するが、それを実現するためには、国民の意識の変革が必要である。エコブームという時代の後押しは、エコビレッジ、農家民宿やレストランのブームに見られるように、若者や退職者の農指向、自然回帰を促している。「文化は都市にある」のではなく、「文化は農村にある」に人々の意識は変わってきた。それはまた人々が、地域社会での「共生」=つながりの再構築を求めている現われのようにも思える。星さんはこのことを「生命文明への転換」と表現した。
 私たちが大きな歴史の転換点に立っていることは、誰もが意識していることだろう。ではこれからどこに向かっていこうとしているのか。それは、単に近代を否定し逆行する道
ではない。私たちに近代を通ることでしか見えなかった者、わからなかったものがたくさんある。近代という時代を通過したからこそ向こうに見えてきた道。その一つの道をすでに歩いてくれる先達たちが、「タカハタ」にいたのであった。

『高畠学』 藤原書店


はてしない気圏の夢をはらみ №22 [文化としての「環境日本学」]

新アルカディアの寓話

                               詩人・「地下水」同人  星 寛治

  国境のせまいトンネルから
  薄明りがもれている
  見ると苔むした魚板に
  新アルカディア入口とある

  三輌つづきの箱列車は
  汗ふきながら登ってゆく
  スイッチバックをくり返し
  古い親戚を訪ねるしぐさで
  峠の駅々に立寄るのだ

  ふかい峡の回廊をぬけると
  ばっとらんまんの春がひらける
  この山里にあふれる
  めくるめく花明り

  古事を抱いた街に着くと
  きぬずれのさやげに似た会釈
  「ようござったシ、
   ほんとにとおぐから、
   オショウシナ」
  みんな同じ目線で語りかける
  目の湖にあおい森が映るのだ

   ひなびた街はずれから
  直ぐ村みちがつづいている
  桜桃並木の切れ目から
  菜の花、れんげ畑が広がって
  蜜蜂の羽音、蝶の舞い
  昼下りなのに鶏の声、犬の芦
  ふと苗譜の桃源郷を患う

  いい顔をした若者も
  彫りの深いお年寄りも
  すがやかに会釈を交す
  背負い籠に野菜を摘む
  娘たちのふくらはぎに
  陽炎がゆれる

  畑の土は
  かかとが埋るほどに柔かい
  足裏に地の温りが伝わって
  うす紅のりんごの花が散ると
  やがて小さな実を着ける

  麦秋は
  水車がしぶきを上げるときだ
  山裾につづく稲田の絨毯(じゅうたん)も
  ずい分厚みを増したものだ
  朝やけの葉先をおおう
  クモが編んだ銀の皿

  泉のほとりで小屋をとり
  若い夫婦はうなずいた
  「野も山も、空も風も、
   みんな子どもたちの舞台さ」
  葦木供養の石碑(いしぶみ)に背もたれて
  鳥の芦に耳を澄ますふうだ

  明日は森の泉に出かけよう
  みんなで清水を汲み
  あたらしい桃源郷の朝やけに
  身も心も染りたい

『はてしない気圏の夢をはらみ』 世織書房


高畠学 №51 [文化としての「環境日本学」]

いのちのマンダラ 

                                                               嶋田文恵

はじめに

 「高畠、有機農業、星寛治さん」この三つの言葉はかなり以前から私の脳裏にあり、いつかは訪ねてみたいと思っていた。それが早稲田環境塾のスタディツアーという形で実現しきわめて幸運だった。そして多くの気づき、学び、癒し、そして希望をいただいた。
 高畠に何を見たか。それは一言で言ってしまえば「パラダイムの転換」である。どのような思考の枠組みへと転換していくのか。その一つの形を見せてくれたように思う。
 以下、私が高畠で学んだことを、星寛治さんを軸に有機農業と高畠の歴史をたどりながら、いくつかの項目を立てて述べてみたい。そして最後に、高畠を通して私が考えた「近代と農業」について述べてみたい。

近代農業の光と影

 近代の経済効率優先、合理主義、大量生産/大量消費/大量廃棄システムの物質文明社会は、地球資源の無駄遣いと枯渇、深刻な環境汚染、さらには人間をモノとして扱い食といのちをおろそかにした結果による、人間の深刻な肉体的精神的病を引き起こした。人間が作った社会経済システムも、金融危機に見られるように立ち行かなくなった。地球も人類もこのままでは生き延びていけないことは、もはや誰の目にも明確になってきている。
 農業も近代化の中で、効率化や重労働からの解放という光の一方、農薬や化学肥料の影響による深刻な人体や自然に対する影響という影の部分を引き起こしてきた。星さん自身、「近代農業の尖兵」のような役割を果たしていたというか、リンゴの幼果の全滅、健康被害にあい、農薬が命や環境に大きなダメージを与えることを身をもって体験する。さらに自分も被害者だが、消費者にとっては加害者にもなり得る。そぅしたことが転機となって、有機農業を志すのである。

星寛治さんと仲間たち

 星サンと対面するのは初めてであり、たった数時間のお話と二日間を一緒に過ごしただけなのに、私は深い感銘を受けた。哲学者だと思った。まさにキーパーソンとはこういう人のことをいうのだと思った。それは実体験の中で積み上げてきた賜物なのだろう。
 一九七三年に「高畠町有機農業研究会」を三八名の仲間と立ち上げ、リーダーとなった星さんは、①自分との闘い②地域社会との闘い③農政(国)との闘い(星さん)を続けながら、手探りの実践を重ねていった。有機農業は異常気象、干ばつに強い、そして市場相場と一切関係のない「提携」をすることによって、しだいのその価値が認知されるようになる。軌道に乗ったかと思われる頃、星さんは地元の人に、「おまえらずいぶんいい思いしているじゃないか」と言われ、ハッとしたという。地域社会を変えるには「点」から「面」にならなくてはだめだと思ったと言う。
 一九八七年に「上和田有機米生産組合」を立ち上げ、有機農業を広げ始める。そしてここが難しいところだが、有機農業を広げるために一回だけ除草剤の使用を認めた。「妥協した」「今思えばこれが境目だったが、これで広がった」(星さん)と言う。さらに地場産業であった食品会社とも連携し、地域経済の活性化にも貢献する。
 もちろんこうした実績は、星さん一人の力ではなく、そこには星さんたちが有機農業を学んだ先達たち、福岡正信さんや一楽照雄さんたちの協力があった。そして有機農業を始める前からの青年団運動の仲間たちがいた。星さんは突出して有能な人だが、共に支えあう仲間たちがいたからこその賜物なのだと思う。その仲間たちのリーダーとしてここまで有機農業を社会認知させてきた星さんは、やっぱり人並みはずれた大智、人徳を持つ人なのだと思う。それを言葉の端々、私たちとの個人的な会話からも「分感じさせてくれる人であった。

地域・行政を動かす力

 「面」となった力は、さらに地域を動かす力となるり 農業は単に食物を得るだけでなく、人間形成に果たす役割も大きいとの観点から、食農教育に取り組む。「耕す教育」と称して、高畠町の小中学校では三〇年前から学校所有の畑や田んぼを持ち、実際に土に触れる教育を取り入れる。二井宿小学校の伊澤良治校長が見せてくれたスライドでは、子供たちは本当にイキイキと見えた。さらに「いのちの教育」として、二〇年前から都会の子供たちの農業体験を受け入れている。それは、星さんたちが有機農業を地域の中で成功させてきた実績があり、塁さんが高畠町の教育委員長としての任にあったことが、これらを導く大きな力だったといえるだろう。
 地域の力=教育と文化の力は、次に行政を動かす力へと強まっていく。
 高畠町は「たかはた食と農のまちづくり条例」を二〇〇九年四月から施行している。この条例は画期的だ。大雑把なポイントは「自然環境に配慮した農業」「安全・安心な農産物の生産と地産地消」「食青の実践」「農業の多面的機能と交流の場」そして「遺伝子組み換え作物栽培の自主規制」である。すでに多くの遺伝子組み換え作物が輸入されている日本だが、自国での栽培はまだ試験段階にある。農水省はイノゲノムの実績のある稲からまず実用化したい考えのようだが、それを見越して水際で食い止めようという条例を作ったのは、他の地域のことは知らないのだが先駆的であると察する。しかし星さんたちは、「自主規制」からもう一歩踏み込んで「禁止」まで持っていきたかったようだ。有機栽培の農地が増えてきた昨今、他の地域がどのように対応しているのか興味のあるところである。
 星さんは山形県教育振興計画審議会委員長も務めており、二〇〇四年、山形県教育委員会は審議会の答申を受け、一〇年間の第五次山形県教育振興計画を策定した。ホームページを開くと、「星寛治委員長から木村宰教育長へ答申書が手渡されました」のキャプションが付いて、星さんの大きな写真が飛び込んでくる。星さんは「行政もようやくこういうレベルまで達した」と言う。それを動かしてきたの.が星さんたちである。
 星さんは言う。「農と教育は見えないところでつながっている」「パラダイムの転換には教育と文化のカが必要だ」。

『高畠学』 藤原書店


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