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武蔵野 №18 [ことだま五七五]

夏 7

                   美術ジャーナリスト・全国良寛会会員  斉藤陽一

   端居(はしい)して亡父の歳をひとつ越ゆ

    敗戦忌母は黙して老いにけり

   窓に置く壜とりどりの夕焼(ゆや)けかな

   向日葵(ひまわり)や敗戦の子らの同窓会

   この奧に百年の家や夏木立(なつこだち)

   百日紅(さるすべり)真白き犬にこぼれ散る


祖道傳東 №14 [文芸美術の森]

第十四回 斬蛇護花
      

                                   画  傅益瑤
                                                        解説 曹洞宗大本山永平寺

傅益瑤 祖道傳東14.jpg

                                             《紙本墨画彩色》 九〇×一二五 軸装

 道元禅師二十四歳のとき、求法の志を立てて、中国宋への渡航を決心しました。
 道元は明全和尚や廓然(かくねん)、亮照(りょうしょう)らと一緒に貞応二年(一二二三)二月、建仁寺をあとにして、博多へと向かいます。
 博多の聖福寺に逗留(とうりゅう)しながら入宋の出航を待つ道元禅師の一行は、賑わいを見せる唐人街の百堂辺などを時折訪れたりしながら、その時を待ちます。
 ある商家の一人娘が、いつも三尺余の蛇にまとわりつかれ、だんだんとやせ衰える娘の不憫(ふびん)さを憂えた両親が、出航の風待ちをする道元禅師にその悩みを相談します。道元禅師は、その娘を旅館の一室に招き、その帰路をねらって、娘の後を追う蛇を扇の要で押さえっけ、黒衣の下から取り出した髭剃りで蛇の首を一刀両断に斬って退治しました。この逸話は『武将感状記』の中にある「妖蛇女子を
慕う事」を描いたもので、道元禅師の入宋にまつわる伝承もみられます。

『祖道傳東』大本山永平寺


遠州七不思議 №9 [文芸美術の森]

 桜ケ池(さくらがいけ)のお櫃納(ひつおさ)め 2

                                文・ 郷土史研究家  石野茂子
                                画・ 型染め版画家  田中 清

「ただいまは普通のお姿(すがた)でしたが、なにとぞ現身(うつせみ)のお姿にお目にかかりたく」
 という法然上人(ほうねんしょうにん)の願いに、阿闍梨皇円(あじゃりこうえん)はたちまち二十尋(ひろ)(約三十六メートル)の大蛇に変わりました。目は鏡(かがみ)を並(なら)べたように鋭(するど)く光り、口からは真っ赤な炎(ほのお)をはき、体のまわりには黒けむりをおこしていて、その恐(おそ)ろしい姿に法然上人と弟子たちは驚(おどろ)きました。
「こんな恐ろしく、すさまじい姿になり、五十六億七千万年ものあいだ、冷たい水の底で暮らすのも、みな末世(まっせ)の者たちのためである。少しも苦労とは思わぬ」
 という言葉を聞いて、法然上人はただただ涙(なみだ)するばかりでした。
「聞くところによると、大蛇には三熱の苦しみがあるといいますが、お師匠(ししょう)さまはいかがですか」
と、法然上人がたずねると、大蛇は涙を流して答えました。
「大蛇には八万四千枚(まい)のうろこがある。この一枚一枚に細い虫が生じて、肉を食うことが昼夜に三度ずつあり、この三熟の苦しみは言葉ではいい表わせぬ」

遠州七不思議13-3.jpg

 そこで、法然上人(ほうねんしょうにん)が大蛇(だいじゃ)に向かって一心に念仏(ねんぶつ))を唱(とな)え、水晶(すいしょう)の数珠(じゅず)で大蛇の頭から尾まで三回なでると、八万四千枚のうろこも小虫も、秋の木の葉が舞(ま)い散るようにはらはらと散り落ちました。これにより、桜ケ池(さくらがいけ)の大蛇(だいじゃ)にはうろこがないといわれています。
 その後、法然上人は阿闍梨皇円(あじゃりこうえん)を供養(くよう)するために、赤飯を檜(ひのき)のお櫃(ひつ)に入れて池に沈(しず)めました。それが「お櫃納(ひつおさ)め」の行事として、今日までずっと続いています。

遠州七不思議13-4.jpg

『遠州七不思議』玲風書房


平家物語における「生」 №4 [文芸美術の森]

三 情もすぐれてふかう…巻七 「忠度都落」

                              元武蔵野大学教授  深澤邦弘

 寿永二(一一八三)年七月二五日の夕暮れ、忠度は西下する一門七千余騎とわかれ、五条京極の俊成の宿所に向って馬を駆けさせていた。従うは童一人、侍五騎。懐中には詠草百首の一巻、「一門の運命はやつき侯」と予知するがゆえに急がれるのである。
 既に木曽勢五万は東坂本にみち、衆徒も合流して怒涛のごとく「只今都へ攻め入る」(巻七「主上都落」)との報。平家は山科に知盛・重衡勢三千余騎、宇治橋に通盛・教経の勢二千余騎、淀路に行盛・忠度勢享余騎を布陣して守りを固めた。しかし一矢も交えることなく突然都へ皆よびかえされる。
 二十四日の「さ夜ふけがたに」宗盛は六波羅に建礼門院を尋ね「……いまはかうにこそ候めれ。」「院をも内をもとり奉ッて、西国のかたへ御幸行幸をもなし参らせて見ばや…」(同)と一門の都落ちの決意を語る。
 あけて二十五日「漢天既にひらきて雲東嶺にたなびき、あけがたの月白くさえ」(同)る卯の刻、六歳の安徳天皇は輿に乗った。国母同輿、時忠・信基・時実、近衛司・御綱の佐等が供奉。一行は七条大路を西へ、朱雀大路を南へと向った。
  この朝、平家の人々は「六波羅、池殿、小松殿、八条、西八条以下、一門の卿相雲客の家々廿余ヶ所、付々の輩の宿所宿所、京白河に四五万軒の在家、一度に火をかけて皆焼き払」(巻七「維盛都落」)ったという。その様を、「及巳刻、武士共奉具主上、向淀地方了者、在籠鎮西」云々、前内大臣巳下一人不残、六波薙、西八條等舎屋不残一所、併化灰燼了、一時之間、煙炎満天、…」 (『玉葉』巻三十八、寿永二年七月廿五日)と兼実は記し、『四部本』は「黒煙都に充ち満ちて、日の光も見ず。猛火眼を遮りて、前後も弁へす。」(巻七「主上都落」)、『延慶本』は「六波羅ノ旧館、西八条ノ蓬屋ヨリ始テ、池殿、小松殿巳下、人々ノ宿所三十余所、一度二火ヲ懸テケレバ、余炎数十丁二及テ、日ノ光モ兄へザリケリ。」 (「平家都落ル事」第三末)と描いている。
 六波羅の地から、都のそこここにいまだ余煙けむる中を、忠度はなぜ都に帰ってきたのか。なんのために俊成邸を尋ねたのか。この時の忠度像をとらえること、対応した俊成像を考えることがこの小論のねらいである。
 テキストは『平家物語 二』(巻七「忠度都落」小学館日本古典文学全集)を使用した。他『平家物語 中』(新潮日本古典集成)・『訓読四部合戦状本 平家物語』(高山利弘編著 有精堂)・『平家物語 長門本』(国書刊行会)・『延慶本平家物語 本文篇上・下』(北原保雄・小川栄一編 勉誠社)・『源平盛衰記 上・下』(有朋堂)を参照した。
 本来「忠度都落」は「忠度最期」(巻九)と表裏一体の物語であり、忠度像もこの二章を通して考えてこそ多面的にとらえられよう。しかし今回は「忠度都落」における「忠度像」を考えてみたいと思う。
 「忠度都落」を便宜的に三つの小段とし、各々に問題点をあげて検証する方法をとった。

                                                                           薩摩守忠度は、いづくよりやかへられたりけん、侍五騎、童一人、わが身共に七騎取ッて返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。「忠度」と名のり給へば、「落人帰りきたり」とて、その内さわぎあへり。薩摩守馬よりおり、身づからたからかに宣ひけるは、「別の仔細候はず。三位殿に申すべき事あッて、忠度がかへり参ッて候。門をひらかれずとも、此きはまで立寄らせ給へ」と宣へば、俊成卿、「さる事あるらん。其人ならば苦しかるまじ。いれ申せ」とて、門をあけて対面あり。事の体何となう哀れなり。

。いづくよりやかへられたりけん、……

・「忠度乗かへ四五騎がほど相具して四づかの辺より帰て…・‥」         (『長門本』巻十四)
・「既二行幸ノ御供二打出ラレタリケルガ、乗替一騎計具テ、四塚ヨリ帰テ…」(『延慶本』第三未)
・「淀の河尻まで下たりけるが、郎等六騎相具して、忍びて都へ帰上る。如法夜半の事なるに……」
 (『盛衰記』賦巻第三十二)
 
 早朝から、行幸に供奉してきた忠度が一門から別れた地点は京の郊外-四塚・淀の河尻-であったか。都へもどった時刻を『盛衰記』は「夜半」とする。

。五条の三位俊成卿の宿所におはして…

 「左京五条四坊十三町」がその地と伝えられている。「歌人として著名な藤原俊戒の五条京極家が存在した。この邸宅には俊成の子の定家も同居していたが、治承四(一一八〇)年の火災によって焼け出されている。この火災の後、俊成は仮寓を転々としたが、遅くとも建久三(一一九二)年には五条京極家を再建し、ここに戻っていた(『明月記』同年三月十四日条)(注1)」という。『廷る平安京(注2)』には、俊成邸を同所とするもその規模は1/4町で位置は不明とある。
 自邸を焼かれてから三年後のことであった。 賀茂川東の六波羅一帯はなお黒煙をあげつゞけていたであろう。東京極大路・五条大路に面した門は固く閉ざされたまゝである。その門の前で馬上の忠度は自ら名のる。しかし、門の内で人々は「落人が帰ってきた」と騒ぎあうばかり。忠度は馬から下り、再びたからかに告げた。
 「別のことではございません。三位殿に申しあげたい(申しあげなければならない)ことがあって帰ってまいりました。門をひらかれずともこの門の際までお立ち寄り下さい」と。
 俊成は即答した。「来られるには事情がおありであろう。忠度殿ならばさしつかえない。お入れ申せ」と。
 開けられた門の際で二人は対面した。俊成七十歳、忠度三十九歳。「その場の情景は何となく哀愁が深い(注3)」。

。さる事あるらん。其人ならば苦しかるまじ。いれ申せ。

 忠度の名を聞いた俊成は、なぜ「さる事あるらん」といい、どうして「其の人ならば苦しかるまじ」と即座にいいえたのか。

注・参考文献
(1)総監修角田文衛『平安京提要』「第二部左京と右京」角川書店 平成九・五
(2)『甦る平安京』平安建都一二〇〇年記念 京都市 平成六・九
(3)佐々木八郎氏『平家物語評講 下』明治書院 昭和四四・一二

『平家物語における「生」』新典社研究叢書


台湾の主張 №2 [雑木林の四季]

父が買ってくれた『児童百科辞典』

                                     元台湾総督  李登輝

 私が、人生の初めにおいて幸福だったのは、生まれた家が比較的経済的に困らず、十分な教育が受けられる環境にあったことだった。父・李金龍は警察学校を卒業して、十数年間ほど刑事をしていたが、当時、台湾で警察学校を卒業する人間は少なく、同じく官費の師範学校を卒業した教師たちとならんで、エリート層に属していた。また母・江錦は、地方の保正(=村長)の娘だったので、我が家はお金に困窮するようなことはあまりなかった。
 父は、恩給の出るまで警察に一定年勤めると、故郷三芝に戻って水利会の組長や農村組合の経理などを歴任したが、戦後は県会議員になった。
 ただ、父が警察に勤めているあいだは転勤が多く、私が国民学校の生徒のときなど、六年のうち四回も転校することになった。転校に次ぐ転校で、私には友だちがなかなかできなかった。また、友だちができても、しばらくすると父の転勤によって付き合いも途切れてしまう。この経験は、多感な少年をいささか内向的で我の強い人間にした。
 そうした子供が考えつくのは、たとえば雨が降ったときに窓の外を見ながら、一人でスケッチをするとか、一人で本を読むことくらいだった。スケッチは、のちに油絵や水彩画、あるいは木版画という私の趣味になった。
 一方、読書の方は、育ち盛りの少年を、年齢にふさわしくない物知りにしてくれた。そのころの私の自慢の「蔵書」は、日本の小学館から出版された『児童百科辞典』だった。
この『児童百科辞典』については、忘れることのできない懐かしい思い出がある。
 小学校四年生のとき台北への修学旅行があったが、その前日になって、私はそれまでなかなか口にできなかった願いを、おっかなびっくり父に言ってみた。
「とうちゃん、台北で『児童百科辞典』と数学の本が買いたい。全部で四円くらいするんだけれど」(私はいまでも、父親のことを〝とうちゃん″と呼ぶ)
 四円といえば、父親の給料の一割半くらいだったろう。ともかく、簡単に子供にわたせるような金額ではなかった。しかし、父は怒るどころか悲しそうな顔をした。
「そんなに欲しいのだったら、なぜもっと早く言わないんだ。いますぐに四円を集めるの難しいよ」
 翌朝、まだ暗いうちに、私は他の生徒と一緒に媽祖廟(道教の祠)の大きな木の下に停まっているバスに乗り込んだ。
 確か、私が座ったのは、前から二番目の席だったと思う。乗車の際のざわめきがやんで、いよいよ出発を待つだけになったときである。私の席の窓ガラスをコツコツと叩く者がいた。顔を上げると、外には傘をさした男が立っている。よくみると、その傘の男は私の父に他ならなかった。父は、早朝から知り合いを回って歩き、私のために四円のお金を集めてきたのだった。
 後に、私はその話をしばしば自分の子供たちの前でしたものだが、傍らで聞いていた年老いた「とうちゃん」は、微笑みながら「そんなことは覚えていないよ」と言うのが常だった。

『台湾の主張』PHP研究所


西北への旅人 №48 [雑木林の四季]

歳月
早大ローバースと早稲田大学-仰ぐは同じき理想の光

                              元早稲田大学総長  奥島孝康

 私の中学、高校時代は、ボーイスカウト愛媛県連宇和島第一隊(和霊隊)一色に塗りつぶされていた時代であった。そういうわけであるから、一九五九(昭和三四)年四月、早稲田大学に入学するや否や、直ちに早大ローバースに入団手続きをとった。そのときのキャプテンが松平頼武氏(現・ボーイスカウト日本連盟理事)であり、たしか理工学部の三年生であった。
 松平氏とは、よくよく縁がある。私は宇和島市立城北中学三年生の夏、第一回富士特別訓練(一九五五年八月、山中湖畔)に参加したが、その帰途、隊長ほか数人の仲間と生まれて初めて上京した。そのとき、宿泊させていただいたところが、松平氏の駒込のお屋敷であった。中学二年生の夏、四国ジャンボリーが高松市の高松城(松平氏の居城)内で開催され、そのとき松平氏の父君(故頼明氏)が日本連盟の役員であることを知った。宇和島第一隊の西田義雄隊長は、そのとき頼明氏と知り合い、そのわずかな縁で図々しくも(?)上京の際の宿舎をお願いしたのであろう。水洗便所なるものを初 めて体験したのもこのときである。
 大学に残って、役職をつとめるようになると、頼明氏が大学の商議員会長をつとめられているのを知り、泊めていただいたお礼を述べる機会があった。そのうちに、松平家は代々大隈さんの後援者のご一家であることも知るようになった。それだけに、頼明氏の早逝が惜しまれてならない。
 ところで、早大ローバースでの私の活動であるが、たしか入団して間もない夏休み前に一度会合があって、早稲田祭に参加して展示会を開こうというような話になった。一〇月になって、早稲田祭の二、三日前のことだったと思うが松平氏から招集がかけられ、二日くらいかけてボーイスカウト展の展示を準備し、会期中は、当番としてやはり二日ほど受付と説明係をつとめた。何人もの美しき女性(?)から質問を受け、ボーイスカウトの目的は「グッド・シチズン」を育成することだと熱弁をふるった記憶がある。しかし、早稲田祭の後かたづけが終わってから卒業までは、一度も連絡がなかった。隊員の名簿ももたない私にとっては、それは早大ローバースでの活動の終わりを意味した。
 当時、私は全生活費を自分で稼がねばならないいわゆる苦学生であり、生きることに精一杯であった。そのため、ついつい私の方から連絡をとる努力を怠ってしまった。三年生になって、家庭教師四口で生活が安定したころは、法律学に夢中になっており、ボーイスカウト運動は念頭から消し飛んでしまっていた。
 私が再びボーイスカウト運動について考えるようになったのは、総長になった以降のことである。まず入隊当時の上級班長だった井上昌俊氏(現・愛媛県連盟理事長)と再会し、次いで、文部省生涯学習審議会副会長として委員である杉原正氏(日本連盟総コミッショナー)と同席するようになったからである。
 いま私は、早稲田大学の改革を「グローカル・ユニバーシティの実現」というスローガンのもとで進めている。それはグローバルな視野と志をもち、ローカルな魂と行動力をもつ若者を育成する大学を再構築する試みである。かつて、グローバルな視野をもった大隈さんのもとに、ローカルな魂と行動力をもつ若者が馳せ参じて、早稲田大学の原型をつくりあげた。私は、早稲田大学をその原点に立ち戻らさねばならないと考えているのである。そして、ボーイスカウト運動もまた他人のために汗を流すことのできる野性味をもったたくましい若者を育成しようとしている。そういう若者こそ、時代が求めている若者ではないか。
私がボーイスカウトの一人として学んだものは、なによりも「グッド・シチズン」という観念であり、それは私の専攻する法律学の原点であるのみならず、社会のインフラストラクチャーともいうべきものである。すなわち、「グッド・シチズン」とは、他者に対する優しさを前提としてのみ成立する観念であり、社会とは他者との関係においてのみ成立する観念である以上、エゴイズムの横行する社会はもはや社会の名に値しない。
 ボーイスカウト運動が社会のあり方を考える契機となり、スカウトたちが他者のために汗を流すことをいとわない社会をつくるために、この運動がしっかり踏みとどまって欲しいと思う。私も今後その方向で頑張り、ボーイスカウト運動を支援したいと思う。幸いなことに、早稲田大学の向かうべき方向と早大ローバースのめざすべき方向は一致しているのだから。
                 〔『早稲田大学ローバース四〇年史』(一九九八年一〇月)〕

〔追記〕 右の文章中に記したようなことが続き、なんと、いま私は財団法人ボーイスカウト日本連盟の理事に就任している。どれくらいできるかはわからないが、私の想いとしては、余生はできるかぎりボーイスカウト活動に参加し、貢献したいと念じている。

『西北への旅人』成文堂


詞集たいまつ №48 [雑木林の四季]

さばく章

                                 ジャーナリスト  むのたけじ 

(2041)小説に二種類がありはしないか。ひまつぶしなどに読む小説は、作者が登場人物にあれこれと着物を着せ品物を持たせて泣いたり笑ったり、寝たり走ったりさせる。文学を構築する小説は、作者も登場人物も着物を脱いでそれぞれにすっ裸となり、読者までも裸にしようとする。

(2042)戦うべき主敵と戦わない者は、味方の中に敵を作り、それと戦うことでわが身を守ろうとする。民衆にとって、身中の毒虫だ。敵方より敵だ。

(2043)うそは一度つくと何度もつくことになるし、何度でもつける。うそであるから。真実は、言うも書くも一度きりだ。一度ですむし一度しかできない。真実だから。真実に対するアンコールは無礼だ。事実は存在する。真実は人がそれを存在させるものだ。事実は、それを作った人が消えても存在する。真実は、それを生まれさせた生き血の歌謡通う限り存在する。生き血が絶えれば、残るものは真実の存在した証拠その記録である。

(2044)人の病巣をメスで抉って開いて、何の手当てもしないで多くの人々の目にさらして見料を取る。これを医者がやったら即座に罪人扱いであろうが、文学者たちはそれを平気でやってきた。患部を抉って開く手口がざんこくでリアルであればあるほど、浴びる拍手はふえて高まった。そんな特権が自分らに許されてきたわけを真剣に考えた文学者が、古今東西を集計して何人いたか。三人いたか四人いたか。特権に応えて人の役に立つメスとなり得た筆やペンは何本あったか二本あるか二本あるか。

(2045)口はあけるためだけでなく閉じるためのものでもある。おべっかのためには、唇をびくとも動かさない。理不尽な圧迫には、一かけらの誓だって漏らさない。眠り薬を飲ませる誘いは、きっぱりと拒む。財布のチャックだって人の口だって、よく閉じると、それだけよくあけることができる。


アナウンサーの独り言 №34 [雑木林の四季]

 花も実も……『この恋は雲の涯まで』

                           コメンテイターキャスター  鈴木治彦

 宝塚の公演『この恋は雲の涯まで』(植田紳爾脚本、尾上松緑演出)をみた。
 正直のところ、かなり忍耐を要するんじゃないかと覚悟を決めで、大劇場へ出かけた。いわゆる〝宝塚の日本物〃と〝大作なるもの〟に私はすこぶる弱い。しかも今度は『この恋は雲の涯まで』一本立てときているので、一層恐れおののいたわけである。そして三時間半近くをみ終わって…結論から先にいうと「ヤレヤレほっとひと安心」…といったところ。芝居全体じっによく出来ている。よくまとまっている。そして皆よく演(や)っている。
 先ず植田紳爾の脚本がいい。既成の史実をものの見事にブッこわして、奇想天外な大ロマンを組み立てたその着想。あれよあれよとみているうちに、ひょっとするとこっちの方が本当で、いままで習った義経の史実が嘘なんじゃないかとさえ思えてきたほどである。各場各段、よく書きこまれている上に山あり谷あり、テンポも早くあきさせない。
 それから演出。尾上松緑の目が随所に感じられて流石(さすが)と思わせた。日本物、とくに気張っていうセリフの瘍合、語尾がまことに頼りなくってしまらないことが多いが、今回はほとんど影をひそめていた。また、適当に歌舞伎的手法をとり入れた舞台効果(たとえば〝毛剃〃の幕切れをかりた中詰の船のへさき等)もすばらしかった。そして、この作者と演出者のきびしい目と熱意に出演者たちもよくこたえた。
 先ず殊勲賞は鳳蘭の義経。演(や)る前から自分でも甲のあとを受けるだけに「苦手」だとか「困っちゃった」とか、しきりにいっていたにもかかわらず、よくぞここまで演(や)ったと思う。セリフにも演技にも情感がこもって、メリハリもきいたなかに華もあり愛橋もあり、歌舞伎の世界でいうなら、さしずめ、あの十五代目羽左衛門の趣きでやり通したのは偉い。もちろん第二部になってから鳳の本領は、いやが上にも発揮されたが、失礼ながら前半をあれだけ出来ると思わなかった。役の上でも義経一人が際立つように書かれているのは確かだが、彼女に力が伴っていなかったら、かえってスキ切れが目立ち、寒々としたものになったはず。鳳の場合、役の重さ、ドラマの大きさに十分こたえたといっていいだろう(途中のエゾの義経の扮装から、今度は彼女の天草四郎時貞がみたくなった)。
 次に大原ますみ。さすが花組へも特別出演しただけのことはあって、宝塚一の娘役という名に恥じない出来はえだった。〝花の哀れ〃を堪能(たんのう)させた品のいい前半の静御前、対照的にガラリとムードを変えた聞達(かったつ)な後半。そのチェンジオブペースも見事だった。
 さて、続いて安奈淳。はっきりいって、この公演に関する限り、彼女の役が軽すぎて気の毒だ。安奈自身も欲求不満だろうし、ファンとしてもあれではおさまるまい。花組(甲)のために書きおろされた脚本をそのまま星組(トリオ)が使っている以上、これははじめから予想もされ、ある程度しかたのないことかもしれない。が、それにしても鳳とのつり合いからゆくと、こしらえ一つとっても役の軽さは隠しょうがない。わずかにドラマの本筋と関係ないフィナーレの歌と踊り(これは圧巻で胸がすく思い)で身分が立ったから救われているようなもの……である。
 そこでこの際、思いきって提言したい。星組ゴールデントリオの絶大な魅力を崩すのはまことにまことに惜しい気がするけれど、宝塚を大きな見地からみた場合、また先々のことを考えた場合、このまま安奈を星組へおくのはけっして得策でないと思う。これだけりっばに育ってきた安奈もこのままでいる限り、いつまでも鳳の弟分(?)の域を出られないのではないかと心配なのだ。すでに大きく花開いた鳳と相手役大原のコンビはそのままに、但馬にもグッと人気が出てきた昨今、ここらで思いきって安奈をほかの組へ移しトップスターの座を与えてみたらどうだろう(古城の抜けた月組か、さもなくば一月限りで甲の抜ける花組か・…‥)。そうすることによって、安奈はもう一段も二段も飛躍し、のびのびと羽ばたくことは間違いない。
 そして但馬久美。もうけ役ながら舞台が大きくなったのに驚いた。鳳と同期なのに、とかく地味で目立たない存在だったのが、『花かげろう』の頼光あたりから俄然(がぜん)トップスターグループの一員としての風格がそなわったことはご同慶の至り。遅咲きの大器も、ようやく自信をつけたらしい。陽の当たりはじめたこれからがいよいよ楽しみな人だ。
 花組から参加した麻月の弁慶と承輝もよかった。神代錦のピンチヒッターとは思えぬ顔のりっはさとセリフまわしの力強さで、ぐいぐい迫ってくる好演。まさに文句なしの敢闘賞だ。そういうスターたちを助け、脇をガッチリかためて舞台をひきしめてくれたのが美吉の吉次、瑠璃のオサヤ、そして永代の青豚。この三人すでに出来上がった役者という感じでうならされた。三人とも技能賞である。
 そのほか目についた若手には可憐なチチを好演した月城千晴がいる。大先輩月丘夢路に似た美貌の娘役で、やがて大原のあとをつぐ者として、来年あたりから大いに出てきそうな気がする。それと峰さを理、高汐巴、寿ひづるの若き男役三人。いずれにもスター候補生としての素質と魅力と可能性をみい出した。
 とにかく新旧の力がガッシリ組み合い、質と量を兼ね備えたこの大作に改めて拍手を贈りたい。
                           (『歌劇』昭和四十八年十一月号)

『アナウンサーの独り言』光風堂出版


軍隊と住民 №34 [雑木林の四季]

第四章 住民と裁判-奪われた静かな夜
一基地の強化と騒音の激化
 l サンダーチーフの移駐

 ふたたび目を首都圏に転ずる。
 朝鮮戦争では横田基地に米極東空軍爆撃隊司令部がおかれ、第92、98爆撃連隊が駐留し、日夜をわかたず朝鮮に出撃した。1951年の11月18日には砂川町中里部落に朝鮮爆撃に向かうB29が離陸直後に墜落、爆弾が炸裂し、民家111戸に大被害を与える。
 新安保条約が批准された1960年、ジョンソン基地から第41航空師団、第3爆撃連隊のB57爆撃機とF102迎撃戦闘機が移駐した。
   ベトナムでは、64年8月トンキン湾事件が起こる。すなわち同年8月2日、米当局は、同日午後米駆逐艦マドックス号がトンキン湾を南西にむけて航行中国籍不明の高速艇(魚雷艇)に襲われ交戦し、付近にいた米空母タイコンデロガ号艦載機も加わり、魚雷艇1隻を航行不能におとしいれ、2隻は北ベトナムの方向へ去ったと発表した。更に8月4日、米当局は、同日夜9時52分マドックス号が魚雷攻撃を受け応戦、一〇時一五分魚雷艇1隻撃沈、10時42分2隻撃沈した。魚雷攻撃はなお続き、午前〇時32分魚雷艇を更に1隻撃沈した模様だがはっきりせず、〇時54分空母ターナージョイ号がサーチライトに照らされ自動火器の弾丸にさらされたが、午前1時半攻撃が終わったと発表した。この「攻撃事件」の発生後、ジョンソン米大統領は、8月4日直ちに国連安保理事会に対しその即時召集と、上下両院に対し必要な決議を要請し、8月5日(現地時間)から5時間にわたって米機が北ベトナムのホンガイ、フクロイなどの魚雷艇基地とビンの石油基地を攻撃したと発表した。(註1)
 現在では、このアメリカ側の発表がでっちあげであったことは定説となっている。そしてその後、米軍は、「北爆」(北ベトナム爆撃)を始めるのである。つまり、トンキン湾事件は、米軍「北爆」の口実になったのであった。ということは、それ以前に米軍は、「トンキン湾事件」に向けて態勢をととのえていたということである。
 その一環として、在日米軍も、トンキン湾事件発生前、佐世保や横須賀から第7艦隊の艦艇がトンキン湾の「哨戒」任務のため出動した。アメリカ軍の北ベトナム到着に伴って、沖縄に駐留する米海兵隊第一師団二万人がトンキン湾の上陸用兵力として待機しており、福岡県板付の米空軍基地では、8月4日F105D戦闘爆撃機を含む米第5空軍1個中隊が「迎撃発進」の猛訓練を開始した。(2)
 横田基地も、こうしたベトナム戦争の戦況に即応して活動し、周辺住民はそれに翻弄される日々が続くのである。
 このトンキン湾事件に先立つ3カ月前の同年5月13日、F105Dサンダーチーフ戦闘爆撃機を主力とし、KC135給油機を含む第35、36、および80戦術戦闘機中隊が板付基地から横田基地に移駐した。そしてこの「雷の親方」F105Dは、64年7月に横田基地に飛来した。この様子を朝日新聞の高木記者のルポは、次のように報じている(同年7月22日付「F105Dの爆音下に-上」)。

  「120、130ホンの音がすると説明してもみんウソだろうというが、実態を知らないからです」と昭島市役所梅林春男企画係長から開いて、やはり「ほんとうだろうか」といぶかりながら堀向地区に入った日の午後、間もなくグワーツと目の前の屋根の向こうからF105D二機が飛び立ってきた。持参の音量計の針は120ホンの間を激しく動く。しばらくすると、今度はザーツと不気味な音。空を見上げていると、四発ジェットの巨体が屋根の上におおいかぶさるように現れ、グワーツ、ドン、ド、ド、ドーンとゴウ音を地上にたたきつけながらゆっくりと飛び去る。耳の奥が痛み、思わず手で耳をふさいだが、ゴウ音は体を揺さぶり、腹のそこまでえぐる。音量計120ホン以上 120、130ホンと一口にいうが、東京都の話では、90ホン以上は、人間の聴力を失う怖れのある危険な状態。…120ホンは人間の耳が耐えうる限界

  地元民はついにたまりかねて、7月7日、代表が佐藤防衛施設局次長に会い「ジェット機の騒音が激しいうえ、事故があった場合危険だ。市内の安全な場所に集団移転したい。住民の土地や家屋を適当な価格で買い上げ、代替地の斡旋をしてほしい」と申し入れた。これに対し、同次長は「東京防衛施設局横田出張所とよく相談してほしい」と一時逃れの答弁をした。結局当局は補償の技術的な困難をいうだけで何ら具体的な対策を提示できないままであった。
 こうした対応について、前記朝日新聞のルポは、「堀向地区を訪れた夜、同地区中央会、和泉会の役員会があいついで開かれた。両方の会合とも『市も防衛庁もいっこうに本腰をいれてくれずに逃げをうつ。いつまでわれわれを見殺しにしようとするのか』と当局の施策への怒りに終始していた」と書いている(同紙7月23日付「F105Dの爆音下に-下」)。
 高木記者はまた、「『米軍が約束した高度を守らず低空で飛ぶなら、こちらは約束の高度までアドバルーンをあげようか』という話まで飛び出した。」「また『調査団が来る日や、デモの日はバッタリ飛ばない』ともいう」と住民の声を伝えている。
 こうした住民の動きを知った社会党は8月17日、地元遠出の代議士を中心とする調査団を同地に送り、同調査団は3日間にわたり調査して廻った。
 同月18日社会党の成田書記長も同地区を視察したが、中村昭島市長は同氏に対し「問題は防衛庁に頼んだだけでは解決できないほど大きい。国の大きな政策の中で民生安定をはかるようにしてもらいたい」と述べ、この問題が本賓的に政府の根本政策に根ざしていることを指摘している。またジェット機の爆音下にある同市立拝島二小の山崎校長は「F105Dなどの新しいジェット機がきてから、子供達が爆音を聞くと耳を押えるようになった。いつまで子供達が耐えていられるか心配だ。そのためか最近は十分間とじっとしていない落ち着きのない子供が増えた」と訴え、市医師会の代表も「乳児が睡眠をよく取れなかったり、騒音によるストレスのためか胃の変調を訴える人や、血圧が上がったという例が
増えている」と述べた。

『軍隊と住民』日本評論社


砂川・私の戦後史 №33 [ふるさと立川]

教職員勤評問題と教育懇談会 2

                                              砂川ちよ

 やがて砂川町では四月の議会が開催された。翌朝のある新聞には大きな見出しで、「全校休業でもむ」と、この議会の様子が書かれていた。たとえば、砂川町議会は久しぶりに波乱をみせた、と。このように、町議会はいつももめ事があたりまえのようになっていたらしい。

N議員
先月の町議会で勤評について協議した時、教育長は都の考え通りにすべてが実施されれば責任をとると明言した。これは議事録にもある。どういう責任をとるのか? また、当日休校にした経過をききたい。
砂川教育長
 都の考えというのは、先に都教育庁が発表した試案のことで、いろいろ難点の多いために現在のように問題になっているのです。砂川町教委としてはこれがそのまま都全体に適用しなければならぬ場合は、砂川町教育委員会として自主的に責任をもって妥当な勤評を実施したいと申し上げたのでした。事実、この試案は都内二十三区に適用されるべきもので、地方の教育委員会は独自の決定でするべきものであることが法にもうたわれています。試案通りに施行するのではなく責任をもって妥当な勤評を行なって行きたいと思います。また、去る二十三日を休業日としたのは、教師の反対のために教育の場を混乱させて子供達に被害を及ぼす事を恐れて休校の処置をとりました。教育基本法第八条第十条からみてもこれは妥当の処置だったと思っています。
N議員
 基本法によると言われたがこれは教育長の職権乱用だ。二十二日夜、各小中学校のPTA会長が二十三日は休校にしないようにあなたに陳情に行ったときいている。その時、善処するといったことばを無視したのはどういうわけか。教育長の独断ですべてがきめられるような砂川町教育の実情を町議員として私は黙視できない。これは教育の間違った革命だ。
砂川教育長
 職権乱用については見解の相違とお答えするしかありません。砂川町教育委員会では、去る十九日夜、緊急協議会を開催、「当日は休校とする」と決議しています。教育の場はあくまで政治的に中立でなければならないという確信にもとづいて教育の場に最も妥当な休校をとりあげました。各PTA会長とは個人の立場で話し合っただけで、いずれも善処したと私は確信しています。
N議員
 中立といえばきこえはよいが、中立とはどういう事か、見解の相違というのもうなづけない。
砂川教育長
 教育の場の中立とはもちろん是々非々という事である。こんどは町の教育行政をあずかる私からあなたにお願いしたい。教育基本法をもう一度十分にご研究のうえご質問をいただきたい。
N議員
 私は研究しつくしてしゃべっているのだ。

 議会ではこのような一コマがあった。愛すべき子供達の教育の場まで大人達はただ政争の具にしてホクソえんでいるえげつなさ。今後勤評問題でもこの町をどんなにか混乱させるだろうが、私はあくまでも純教育的立場に立ってこの問題をとりあつかって行く覚悟をさらにかためた。
 地方教育委員会はいうまでもなく都道府県教育委員会の出先機関ではない。自治法に基いてもそれ自体自主的な教育行政機関であって、当該市町村の教育運営について当該市町村の実状を十分把握し、その実状に即して民主的に責任を遂行する機関である。したがって、たとえ都の教育委員会の要望があったとしても町の実状によっては必ずしも直ちに無批判に全面的にそのままの形で受けいれるべきものではない。それは責任を持つものの当然の姿勢である。ましてや、砂川町のように内に基地問題という異常の事態をかかえ、議会をはじめとして町内、PTAはもちろん、各種団体までま二つにわれ、争っている町としては、せめて教育行政だけでも政党的に中立、是々非々に判断し考慮し実施にうつすのが妥当の処置と考えざるを得ない。町の教育の場に混乱がおこり、教育上児童生徒にプラスにならぬと判断すれば町の実情にそって処置せねばならないのは当然である。
 勤評の目的である教育効果を高めるためにはまことに欠陥の多い都試案をそのままこの町に実施する事は到底不可能の事態を、町内、教職員組合の態度からもうかがえる状態の現在、私はまず教育の場を担当する教職員をはじめ、町内各種団体とも話し合いをし、納得のいく妥当な勤評を実施して行くべきであると考えた。それはつまり教育基本法に合致することでもある。勤務成績の評定については地方教育行政の組織及び運営に関する法律第四十六条に、「県費負担教職員の勤務成績の評定は、地方公務員法第四十条第一項の規定にかかわらず、都道府県教育委員会の計画のもとに市町村教育委員会が行うものとする」と規定されている。したがって計画するのは都道府県教育委員会であり、実施は地方教育委員会である。規則をそのまま解明すれば、都の教育委員会は計画を示すだけであって、地方の実状に即して如何に考え如何に動くべきか、そこには当然実施すべき地教委の自主的判断と考慮とがあるべきである。つまり、都教委の示す試案をそのまま無理に実施させようとする事はまさに時代逆行の越権行為と言わねばなるまい。
 ともかく、わが砂川町教育委員会はこうした法的根拠のもとに、教育という純教育的立場に立って、教育の場を向上させる目的の勤評を実施するため、実施を一か年延期する事、欠陥の多い都試案通りには実施しない事を決議して公文書として都へ送附した。一年の問に目的を達成できる勤評にするための勉強を町民全体によびかけながら、委員会もともに勉強し、話し合って行くことにした。都の試案については都庁より砂川町にきて説明会ももたれたし、PTAなど関係者は教職員より説明をもとめているので、委員会としては都教育委員会や組合に関係しない教育学者や新聞論説委員などを招へいして、勤評についての講演会を開催することにし、議全議員をはじめ全町のPTA、各種団体によびかける事にした。その内容はつぎのとおり。

 砂川町教育委員会では、現在やかましく論議されております教員の勤務評定などについて先生方や父兄の方々にはもちろん、広く一般町民の皆様のご理解を深め、お子様方への教育の実践に役立てていただきたいと考え、来る七月十五日と九月十五日二回にわたってこの道に権威あるお方を招へいしお話をうかがいたいと思います。これにょって皆様方の正しい認識を得られますれば幸いと存じます。何卒、万障お繰り合せの上、多数御聴講下さいますよう、お願方々おしらせ致します。
 場所はいずれも砂川中学校で、講師には埼玉大学教授のK氏と朝日新聞論説委員のE氏をお願いした。

『砂川・私の戦後史』けやき出版


玉川上水の詞花 №73 [ふるさと立川]

ヒルザキツキミソウ (あかばな科)

                                   エッセイスト  中込敦子

hiruzakitsukimisou.jpg 晩春から夏にかけて、待宵草を薄桃色にしたようなヒルザキツキミソウが園児の行列のように並んで咲いているのを、上水堤でもよく見かけるようになった。

草丈は40~60センチ、披針形の葉は互生。ほんのりとしたピンにク色の4枚の花弁は蝶の翅のように軽やかで、花の径は4~5センチ。

北米南部原産のアカバナ科の多年草で、観賞用として栽培されてきたが耐寒性があり、丈夫なせいか各地で野生化しているそうだ。

アカバナ科マツヨイグサの仲間は夕方から開花して、夜間に蛾などによって花粉が媒介されるが、昼間にも開花しているのでヒルザキツキミソウの名前に。別名は桃色月見草、又は昼咲桃色月見草。

花弁はよく見るとハート型をしており、その縁取りはやや濃い目のピンク色で中心部にかけて淡くなり、あえかな風情に。赤と黄色のストライプ模様の萼が、首筋に巻きつけたバンダナに見えるのも楽しい。さらに花弁の基部が筒状になっており、その中から十字の形をした雌しべの柱頭が出ている。柱頭が十字の形をしているのはマツヨイグサ仲間の特徴だそう。

『モグラ通信』http://www.h4.dion.ne.jp/~mogura1/index.htm


ひとつ井戸のもとで №18 [心の小径]

クラーク博士とフロンティア精神 1

                            今井館享有会理事長  新井 明

                       愛農学園農業高等学校 宗教改革記念講演会。                                              一九九四年一〇月三一日。


 敗戦のとき、わたくしは旧制中学の二年生でありまして、天皇のあの 「玉音放送」を山形県の鶴岡というところで聞いたのでありました。天皇はいよいよソ連にたいして宣戦布告をするのだとばかり思って、勇んでいたものですから、戦争は止め、日本は負けた、ということであることがわかり、たいへんに驚き、からだから力が抜けてしまいました。「神国」日本の敗戦など信じられませんでした。
 戦争が終わって間もなく、二冊の本を手にいれました。ひとつは徳田球一の 『獄中十八年』という本。徳田は共産党の指導者でした。戦争中、日本の国策に反対して逮捕され、あちこちの監獄で一八年もの歳月をおくり、敗戦で釈放されたのです。悲憤(ひそう)という書き方ではなく、わりと淡々と、ときに人を笑わせるような文体で書いている。その肝っ玉には感心しました。それからもう一冊の本は、尾崎秀賓(ほつみ)という人の『愛情はふる星のごとく』という本。日本の戦争は不義なる戦争だ、と直感して、ゾルゲの国際諜報機関にはいり、逮捕され、敗戦直前に処刑されました。徳田も尾崎も社会主義の立場から、日本中心主義ではなく、〈日本をこえるもの〉を求めた人びとでした。
 これとは全く異なった立場から〈日本をこえるもの〉を主張した人びとのいたことを知ったのは、少し後のことでした。内村鑑三という人の弟子筋にあたる方がたでした。なかでも、とくに矢内原忠雄-のちに東大総長になる-の著作に接したことは、わたくしにとって幸いなことでした。この方も日本の戦争遂行に反対して、東京帝国大学に居づらくなり、一九三七年に大学を辞しました。キリスト信徒でありました。
 ところで、矢内原忠雄の先生にあたる内村鑑三は、ウィリアム・クラークが教頭をつとめた札幌農学校に、第二回生として入りました。クラークといいますのは、「少年よ、大志を抱け」“Boys, be ambitious"  ということばで有名な、あのクラーク先生です。内村たち第二回生が札幌へ行きましたのは、クラークが日本を離れた後のことで、内村は日本ではクラーク先生に会ってはおりません。しかしクラークの精神がみなぎる学校にはいったわけです。内村たち何人かは第一回生がクラークから受け継いだキリスト教の精神に庄倒されました。すべて『余はいかにしてキリスト信徒となりしか』という本(岩波文庫)に書いてあります。そのなかで内村は、「唯一神教はわたしを新しい人とした」と告白しております。つまり日本を愛するといっても、〈日本をこえるもの〉の立場から日本を愛する視点を、内村は札幌で学んだのです。
 クラークが札幌に残し、内村たちが札幌で継承した精神とは、具体的には、なんであったのでしょうか。それはかいつまんでいいますと、(イ)開拓者精神(未知の分野をひらく)、(ロ)科学的精神(正しいことを正しいとする)、(ハ)ピューリタニズムの精神(創造主をあおぐ)の三点にしぼることができます。この精神をもって荒れ地を切り開いてゆくことを、クラークは教えたのです。この〈辺境〉を生きてゆくときに、内に持つべき精神だと、教えたのです。皆さん、この〈辺境〉の精神というのは、旧来の日本的精神とは、ずいぶん違うものとは考えませんか?この精神こそ〈日本をこえるもの〉の原型でありました。矢内原先生にまで受け継がれた精神でありました。
 本日は宗教改革記念講演ということで、こちらにお招きをいただきました。宗教改革といえばマルチン・ルターの名を思い出します。かれの発表した『キリスト者の自由』(一五二〇年)という薄い本(岩波文庫)をひもといていただけたら、ありがたい。宗教改革の精神とは何でぁったのか、すぐ分かります。ローマの宗教体制に反対ののろLをあげたルターは、その本を出版した翌年、一五二一年にウォルムスの法廷で裁かれます。そのときにかれは 「ここにわたしは立つ」 (“Hier stehe ich”」 とつぶやいたといわれます。かれはここで、〈ドイツをこえるもの〉、いや 〈ローマをさえおえるおの〉 に捕らえられていたのです。かれは人間の裁き以上の力に縛られていたと申せましょう。それが新しい力の源泉であったのです。これは、ヨーロッパの中心たるローマを遠く離れた、当時のドイツでこそ起こりえた出来事であったのです。

『ひとつ井戸のもとで』シャローム図書


こころの漢方薬 №74 [心の小径]

読書日記 七

                           元武蔵野女子大学学長  大河内昭爾

   才市さんの生涯をたずねてみたくなったのは十何年も前になる。とにかく歩いた。けれど、わからないことばかりだった。それでこんな文章が、小説か、伝記か、と問われるとこたえる言葉がない。とにかくこんなふうに書くことが、自分流のよりそい方だった。

 と作者は、『才市』(講談社)の「あとがき」に書いている。
 才市をはじめて世にひろめたのは鈴木大拙の『日本的霊性』である。文盲ながら高い宗教的境地にあるという才市の会得した念仏を哲学的に解明して妙好人の存在を広く世界に示してくれたものだった。 水上勉さんは妙好人の思想を性急に語ろうとしないで、妙好人の息づかいに素直になろうと、その生い立ちから暮らした自然の中にまで自ら身も心も寄せていたふうだった。
 「妙好人とは真宗信仰者でも、文盲にちかい庶民のなかにかくれ住んで、信仰ぶりが美しい人」と作者はいう。妙好とはもともと蓮華の呼称で白蓮華のように穣土に咲く人間だともいっている。
 その一人である浅原才市は嘉永三年(一八五〇)に石見国大浜村字小浜(現在の島根県温泉津町大字小浜)に生まれ、八十三歳で昭和七年同地で死亡した下駄職人である。二十年余を北九州の出稼ぎにすごし、五十をすぎてから故郷に帰って下駄をつくった。作者の執念の裏側には才市が下駄職人だった事実がひそんでいる。作者の母も下駄作りを心得、母の兄も東京で下駄屋を営んでいたし、才市が推定約一万首の歌とも詩ともうけとれる信仰歌を書いた、下駄つくりの際にできるカンナ屑は、作者の父が大工仕事で卒塔婆をけずるときに生じるカソナ屑の思い出につながる。節のない杉だとカンナの背から出てくる屑は、しゆるしゅると出てきて、うすげれば輪になり、少し厚ければさらし布みたいに宙にながく浮いた。父親はこのカンナ層によく字を書いて、小作田へ出る母に用事を書き置く便箋がわりにした。
 「美しい柾目のノートとも思える」そんなカンナ屑に、才市は、

  かぜをひけばせきがでる
  さいちがごほうぎのかぜをひいた
  ねんぶつのせきがでるでる

といった詩を書きつらね、夜になるとノートに清書するのをよろこびとした。死後、歌集にまとめられたものだけでも五千四十一首もあった。才市自身はこの詩歌を「口あい」といった。それは才市の生まれ故郷にのこる俚謡で、口をついてでるつぶやき歌のことであった。
 「桐がわさび畑の水音をためて育つ」と土地の人に聞いて、「その桐が才市の手で下駄にかわる日がくれば、美しいカンナ屑が出てそれが才市にはノートに見えて、カンナ屑に誘われて歌がでたのだと思えた」といい、「木の身がうすく化身して躍り出ることへの感謝だった」と作者はいう。

『心の漢方薬』彌生書房


今日、一途に №24 [心の小径]

「父」朝比奈宗源と、「管長」朝比奈宗源

                              鎌倉・浄智寺閑栖  朝比奈宗泉

 私の父、朝比奈宗源老師は、円覚寺の管長でした。管長という仕事はとても忙しかったらしく、私の幼いころには、父と一緒にどこかへ遊びに行くといったことが、まったくありませんでした。友人たちから父親とどこかに遊びに行ったような話を聞くと、心底うらやましかったものです。しかし、父に何をねだっても無理とは思っていました。私は父の仕事の忙しさを、何となくですが理解していましたので、我慢していました。
 しかし父のほうは、私をいつも観察していたような気がします。人一倍、心配もしてくれていたでしょう。
 私は、東京浅草で生まれました。浅草には「花やしき」という歓楽地がありまして、親戚もその仕事に携わっていたのです。私は大学卒業後、いくつかの職業を経て民放の世界に入ったわけですが、当時、父は仕事の内容がよく分からなかったものですから、「健は最近よからぬ仕事に就いたようだ。やっぱり浅草の血を引いたのかね」などと、しきりに嘆いていたといいます。しばらくして、TBSの仕事で円覚寺の管長(父)にインタビューをしたのですが、「なるほど、これはNHKと似ておる仕事であるわい。これならまあよかろうかな」と、ようやく安心してくれました。それまでは人一倍心配したらしく、いろいろな人に聞いてまわったようです。
 父親の愛とは、そうしたものなのでしょう。友情とも夫婦愛や兄弟愛とも違う、一歩ひいた愛。
 母親は、お釈迦様の慈悲にも似た絶対的な愛の持ち主ですが、父親は常に「社会」というものを見据えながら、チビもたちのことを考えます。だから、一歩ひいたように見えるのです。子どもというものは、母親の愛だけでは不足だと、私は思うています。もちろんこれは、一般論としてです。父親だけ、母親だけでも素晴らしい親子関係を築いている人たちも多いですから。
 父宗源は、裏表のない信念の人でした。円覚書にいる時も家にいる時も、まったく同じだと、両方の父を知る人にいわれたことがあります。円覚寺にいる時の父のことは知りませんでしたが、私にとって、父は父でしかありません。しかし、厳しい人であったことは間違いありません。
 父が円覚寺管長の時、北鎌倉駅のホームを延長するという話が持ち上がりました。国鉄(現1R)のレールは、円覚寺の山門入口の前を通っています。ホームを延長すると、ホームは山門前まできてしまうことになります。これでは円覚寺の山門が、ホームによって封じこめられるような案配(あんばい)になるのです。国鉄の幹部職員が説明にきたのですが、父は烈火(れっか)のごとく怒り、朝早く当時の国鉄総裁に抗議の電話をしたそうです。
「もともとあのレールは海軍の要請があって、敷くことを許したものだ。あくまでもお国のためにだ!そういうことを忘れて、図に乗りすぎた申し入れではないか。実にけしからん。円覚寺の山門を閉じこめるような真似は絶対に許しませんぞ」
 この話は父本人からはもとより、円覚寺の関係者からも聞いたことがあります。理の通らぬことには敢然と対応する父ですから、この話を聞いた時は、またライオンが吼(ほ)えたなと思いました。
 父は檀家さんと話す時も、政財界の方と話す時も、まったく同じでした。戦前は軍人さんたちも、いろいろな相談に訪れたものです。戦後は戦後で、新しい時代の到来によって、生きる指針を見失った元高級軍人の方たちもお見えになりました。父はいつもその人たちの立場に立って、話に耳を傾けていました。まず、徹底的に人の話を聞くというのが父の態度でした。そして決して、後ろ向きのことをいわないのも、父の特徴といえるでしょう。私もときどき同席させられたことがあり、そんな時の父のことをよく覚えています。
 余談ですが、政治家や財界人のみなさんというのは、心配事が絶えない方たちなのですね。今と較べれば、当時の日本は貧しかったのですが、ある意味で夢のある時代でもありました。志が高いゆえに、悩みも大きなものだったのでしょう。
 そのころの父は、本当に忙しそうでした。お話を聞く合間を縫って、畑仕事に精を山すのです。私もしょっちゅう、手伝いに駆り出されたものでした。畑仕事で二~三時間汗を流したあと、円覚寺に戻って管長としての仕事についていました。

『今日、一途に』実業之日本社


季節の記憶・いだようの写真散録 №63 [文芸美術の森]

「老木矍鑠」                             自然写真家  いだよう

5月上期分3.jpg

谷の底からそびえる桂の古木。ひこばえの枝からも盛んに若葉が茂り、全身に鮮やかな緑のマントをまとっていた。


『知の木々舎』第73号・目次(2012年5月上期編成分) [もくじ]

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【心の小径】

今日、一途に №23                 鎌倉・浄智寺閑栖  朝比奈宗泉
 父の日に見る、昨今の親子関係
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23
                                

こころの漢方薬 №73             元武蔵野女子大学学長  大河内昭爾
 読書日記 6  
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23-1

ひとつ井戸のもとで №17                        今井館教友会理事長  新井 明
 「主の大庭で」 3
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23-2

【文芸美術の森】

季節の記憶 №63                                          自然写真家  いだよう
  「老木矍鑠」
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-29-5

高橋由一 №21                     東京芸術大学名誉教授  歌田眞介
  月下隅田川
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-26

言葉あそび入門 №63                                    コピーライター  多比羅 孝
 同席ゲーム その2  題決め連歌句
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-29-1
 
妖精美術館 №39                                         妖精美術館館長  井村君江
 ウオルター・クレイン《『夏の女王またはユリとバラの訪れ』》
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-25-7

じゃがいもころんだ №27                    エッセイスト  中村一枝
 生きざま死にざま 
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-30

祖道傳東 №13                                                      水墨画家  傅益瑤
 承久の乱
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-25-5
                                                   
遠州七不思議 №8               郷土史研究家 石野茂子・型染め版画家 田中 清
 桜が池のお櫃納め 1
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-25-6

獨行道・中川一政の世界 №6                        中川一政美術館
 監獄の横
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-29-3

卵のふる街・白石かずこ詩集 №1                                  詩人  白石かずこ
 卵のふる街  ライオンの鼻歌
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-25-1

木洩れ日の下で №9                           詩人  近藤明理
 お花見
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-01-2

 

【ことだま五七五】

武蔵野 №17              美術ジャーナリスト・全国良寛会会員   斉藤陽一
 夏 6
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-25-2

四季つれづれ №17                                    俳人・ 「古志」同人  松本 梓
 池と蟇
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-27

日めくり汀女俳句 №9                                            俳人  中村汀女
 五月一日~五月三日
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-25-3

猿若句会特選句集 №14                     猿若句会会亭  中村 信
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-26-1

【核無き世界を目指して】

往復書簡 広島・あれから67年 №1                       関千枝子・中山士朗
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-25-4

【雑木林の四季】

自省録 №47                                           元内閣総理大臣  中曽根康弘
  第六章 漂流国日本の行方 ④
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23-10

台湾の主張 №1                                               元台湾総督  李 登輝
 第一章 私の思想遍歴 悲哀の歴史を持つゆえの幸福
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23-11

西北への旅人 №47                    元早稲田大学総長  奥島孝康
 アルバイトの功罪
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23-9

詞集たいまつ №47                                       ジャーナリスト  むのたけじ
 さばく章(2035~2040)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23-8

アナウンサーの独り言 №33               コメンテイター&キャスター   鈴木治彦
  忘れじの「ファイン・ロマンス」
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23-7
                                     
浜田山通信 №73                                           ジャーナリスト  野村勝美
 「永山基準」とは 1
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-26-2

ペダルを踏んで風になる №17                 サイクリスト   高橋慎治
  グラニー・スミス
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-30-1
 

私の中の一期一会 №24           アナウンサー&キャスター   藤田和弘
 新大関鶴竜に頑張って欲しい!~モンゴルの優等生は相撲でも優等生だ~
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-30-2
 

BS-TBS番組情報 №9                                                 BS-TBS広報部
 5月のおすすめ番組(下)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-27-1

パリ・暮らしと彩りの手帖 №7                    在パリ・ジャーナリスト   嘉野ミサワ
 この夏早々と素晴らしい展覧会を見に、パリに来ませんか
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-19

軍隊と住民 №33                                              弁護士  榎本信行
 恵庭、長沼闘争から学ぶこと
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23-6

シニア熱血宣言 №32                                    映像作家  石神 淳
 侘びしきは終活なれど
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23-5

浦安の風 №43                 ソーシャルオブザーバー   横山貞利
 沖縄返還から40年経って思う
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-29-2

【ふるさと立川】

玉川上水の詞花 №72                          エッセイスト  中込敦子
 キバナホウチャクソウ(ゆり科)
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23-4

砂川・私の戦後史 №31                                                           砂川ちよ
 教職員勤評問題と教育懇談会
http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-04-23-3

立川陸軍飛行場と日本・アジア  №56                   近代史研究家  楢崎茂彌
 立川町、電灯町営化に乗り出す・幻の砂川水車発電所

http://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2012-05-01-1
 
                                               
【代表・玲子の雑記帳】                                    『知の木々舎』代表  横幕玲子
  5月3日は憲法記念日
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立川陸軍飛行場と日本・アジア №57 [ふるさと立川]

立川町、電灯町営化に乗り出す・幻の砂川水車発電所

                           近代史研究家・高校教師  楢崎茂彌

 掲載が遅れて申し訳ありません。31日には原稿が上がるように努力していたのですが、昨日になって4月は30日しかないことに気付きました。我ながら大丈夫なのかと不安になります。
 それはさておき、この5月5日に北海道泊原発が定期点検のために稼働を停止し、日本にある原子力発電所54基(福島第一は廃棄が決定しているので50基ですが)がすべて稼働を停止します。原発が止まっても現時点では日常生活に支障が無いことが証明された訳です。野田政権は、福島原発事故の原因究明の調査報告も出ていないのに原発の再稼働に前のめりです。各電力会社は夏の電力需給の予想を出しましたが、不足は猛暑になった場合一日あたり昼数時間起こる訳ですが、会社側の需給予測を第三者機関が公平な目で検討する必要があると思います。何より、福島の事故を踏まえた将来に向けた電力政策を打ち出さないまま再稼働に前のめりの政府には憤りを感じます。今回はタイムリーな話題“電灯町営化”と“水車発電所”を扱います。      
 

 女子消防隊長の氏名判明
 前回の女子消防団のことが気になり、「東京日日新聞(府下版)」を確認してみると、1月5日の記事には“殊に同署(青梅警察署)管内小河内村(留浦【とずら】、川野、古里村の女子消防後援隊も五十人余の代表者が参加する筈で”と書かれており、消防団員そのものでは無いような表現になっています。1月6日には“けふ御親閲を仰ぐ全国消防組のうち府下より参加する紅一点青梅署管内小河内、古里両村女子消防隊はこの日注目の焦点になっているが、晴れの舞台を前に小河内村は隊長河村とくよ、古里村は隊長沢村勝代以下五十名の代表隊員は五日午前十時より青梅小学校校庭で青梅署横尾消防係の指揮を受け予行演習を行ったが、今六日は青梅駅発午前七時八分の上り列車で上京参加し河村とくよ嬢が隊長となって分列行進を行う予定となっている”と報じています。個人名まで特定できたので、何とか調査を進めて報告したい思います。

 立川町、電灯町営化に乗り出す
 三多摩に初めて電灯が点ったのは明治29(1896)年のことで、電力を供給したのは八王子電灯株式会社でした。八王子電灯は10年後に東京電灯に買収されます。関東大震災の年に三多摩に送電していた会社は、名栗川水力電気、成木川水力電気、氷川電気、秋川水力電気などローカルなものも含めてかなりの数に及んでいました。当時の立川村は京王電気軌道株式会社から供給を受けていました。
 ところが「東京日日新聞(府下版)」(昭和4年1月16日号)は“電灯町営運動具体化す”という見出しで、二人の立川町議会議員が意向打診のために逓信省に赴くことを報じています。
 実は、立川では大正4(1915)年にも町営電灯計画が村議会で可決されたことがありました。その経緯は、天野宏司氏が“ガス・電気・水道”(「多摩のあゆみ 100号特集 二〇世紀の多摩」)”で詳説されていますので、簡単に紹介します。
 立川村は明治44年の段階で京王電軌鉄道による供給計画に含まれていましたが、電力供給範囲拡大のペースは遅く、大正2年になって調布・府中、3年に国分寺までと遅々として進みません。いらだつ立川村会は大正4(1915)年にガス発電所建設を含む村営電気事業計画を可決しました。その狙いを天野氏は“既に、京都市・東京市などの都市部はもとより、粕壁町(埼玉県)、伊香保町(群馬県)・明智町(岐阜県)など、農山村・漁村などでも公営電気事業が本格化していたので、これらの地域の実情を見聞きし、使ったところから徴収する「巧妙な課税」手段として期待していたのではないでしょうか。私企業ならば、発電(受電)・配電費用・経営陣・電工・配当金などを電気事業収入でまかなう必要がありますが、公営事業なら純粋に発電・配電の負担だけで済む点も魅力ある事業であったと思われます”と推量しています。一方待兼ねた村山村・大和村・東村山村は大正5年に村山電灯株式会社を設立し独自の電力供給を開始しました。こうした動きに、今の地域独占に近い電力供給制度を見直し、原発に頼らない電力システムを考えるヒントがあるように感じます。                                   
 それはさておき、立川村営電気事業は設立認可すら行われずに立ち消えになってしまいました。天野氏は、計画廃棄や、起債の中止を決めた村会の議事録がないので経緯はわからないが、立ち消えになったのは、大正4年には立川町にも電力供給が開始されたので、わざわざ自前の事業を立ち上げる必要がなくなったからだろうと推量しています。
 その公営電気事業計画が昭和4(1929)年に復活したのはなぜでしょう。新聞は、粕壁町の電気料金は民間会社より安く、警察・学校・消防署は無料、外灯は半額なので立川町民は町営化を熱望していると書いていますが、町の意図を逓信省と京王電軌鉄道との交渉過程から探ってみたいと思います。1月17日に中島町長と二人の代表町会議員が逓信省を訪問し、「主務省は会社の既得権を認む」と言われ帰ってきました。何となく「電気料金の値上げは義務でもあり権利でもある」と高言した東電社長の言葉に重なりますよね。こうなると、町が既得権を京王から買収しなければなりませんが、東京日日新聞は“会社は将来有望の立川町を手放すことであり加えて昨秋以来の感情問題もあるので足元をつけ込んで巨額の主張をするものと予想に難くない。然し町としては町民の多年の熱望する所である竜頭蛇尾には終わらせたくないと、取り敢ず二十一日町議会協議会を開いて前記三氏より逓信省訪問の結果を報告今後の対会社交渉法を決定する筈である”(1月19日)と意気揚がりました。ところが協議会は三氏の報告を聞いてしょげかえり、交渉開始の決議も出ましたが大多数の議員は熱を失い、竜頭蛇尾に終わりそうにみえました。それでも、町会は粕壁・秦野などの公営電灯の経営状況が良いのに励まされ、大正12年に発電所の買収に踏み切り町営化した山梨県谷村町への視察団派遣を決めました。2月6日に町と会社側の第1回交渉が行われ、会社からは課長が出席し“目下井上社長病気のため追って協議の上御返答申上げる。尚その期日は何日とも明答申上げられない”との簡単な回答を得て一行は帰路につきました。町長が出掛けたのに失礼な、本当に病気なら前から分かっている筈ですよね。町は結局2月26日の町会協議会において中島町長の交渉経過報告を聞いたのち、町営化運動打ち切りを申し合わせました。28日の「東京日日新聞」は“しかして、該問題は一万町民の期待をかけられていた問題として、この際打ち切りを声明する事は町としての立場上からも困るので、今月末の町議任期終了まで秘密にしうやむやのうちに葬り去らんとする模様である”と揶揄半分に報じました。なんだか無責任な話しですが、そもそも町が電灯公営化を再び打ち出した狙いは何だったのでしょうか。東京日日新聞(1月30日)の記事に“町としても事の正否は一に将来の財政に甚大なる消息をもたらす事とて”と書いているのを読むと、大正4年の時と同じように、「巧妙な課税」手段として注目したことが町営化の真意であるように思えます。
 しかし、立川町の作戦はなかなかのものがあって、電灯町営化を言い出す一方で、京王電灯値下げ期成同盟会(北多摩郡一町七村か村で構成)を作り、京王電軌鉄道に値下げを迫まっています。期成同盟会は1000名の署名を集め、立川駅北口の商店で計量して100Vの電圧が実際は87Vしかなかった事などを示し、2月14日に逓信省と京王電灯を訪問陳情しました。その結果、立川町の電力町営問題もあるので、電灯料金は5%値下げされることになったようです。
 昭和の電灯町営化については現在のところ新聞以外の情報を入手できていません。立川町役場文書でわかることがあるかも知れません。

 砂川村の水車発電計画
 立川村で村営電気事業計画がたてられた前年にあたる大正3年、砂川村は水車を利用した村営発電所建設計画たて、10月26日の村会で可決されました。この計画については、豊泉喜一さんが、砂川村役場文書を使って詳細に述べておられるので(「『幻の砂川村村営水力発電所』「立川民俗」第12号2001年発行)、概要を紹介します。
57-1.jpg 村長が出した提案理由は、養蚕期に灯火に使われていた石油ランプによる失火が多く、これを防止するために水車を利用した発電所を作り、安価で明るい電灯を安定して供給して養蚕業の発展と村の財政に寄与することだと述べています。立川村に比べると明確ですね。発電所になる水車は砂川七番にある豊泉さんのお宅の東隣にありました。右の写真の道路は五日市街道です。当時、水車は左手にあり今は暗渠となって歩道の下を流れている砂川分水は、当時はここから砂川七番交差点まで東に向かって約4mの落差がある急流となっていました。落差を利用したこの水車が発電に適していたのではないかと豊泉さんは推量しています。村は電気料金は京王電軌鉄道の約三分の二に設定し、当時の全戸数六百戸余りに配電が可能な発電量を見込んでいました。しかし、翌年には京王電軌が立川村に配電を開始し、その2年後には砂川村にも配電が始まりました。村営発電所は計画だけで終わったのか着手されたのかは今のところ不明です。
 砂川村に電灯がついたのは前述のように大正6年のことでした。「新立川市史研究・第5集」は、工場で使う動力線(三相交流線)が立川村に引かれたのは大正13(1924)年のことだと書いています。電気自動車を作った立川製作所の開所が大正11年なので、13年とするには若干の疑問が残りますが、こうして動力の中心が電気に変わり始め、水車は次々と廃止になり昭和15年には立川町にあったすべての水車が活動を停止しました。一方砂川村は昭和3年時点でも動力線は未架設で、水車は精穀・製粉・製糸用に活躍していました。それどころか「玉川上水の水利用と水車」(小坂克信著・玉川上水と分水の会 2000年刊)によると、昭和30年代末まで動いていた水車があり、僕の家の近所にも水車があったことが分かりました。
57-2.jpg そこで早速近所の天王橋水車があった内野重光さんのお宅を訪ねてみました。内野さんのお宅は今は暗渠となっている砂川分水に面しており、分水から水を敷地内に引き込んで水車を廻しました。水車は主に大麦を搗き曳いていました。重光さんは1936年のお生まれなので細かい事は記憶がありませんが、戦前には動力線は残堀川より西には引かれていなかったと記憶されています。「玉川上水の水利用と水車」に載っている内野キヨさん(大正11年生まれ)の聞き取りによると水車の水輪は松で、水輪の南には搗き臼が25個、北には挽き臼が2個あったそうで、かなりの規模の水車だったようです。戦後に電気を動力とした精麦所ができたり玉川上水の流量が減ったこともあり、水車は1948年には使われなくなりました。右の写真は内野重光さんと挽き臼です。こんなに大きな石臼を回す水車の力強さに驚くとともに、水車を発電に利用しようとしたことに納得が行きました。
 福岡県糸島市白糸の「白糸の滝」にある水車(直径3メートル)を使った小水力発電プロジェクトが4月29日に公開されました。市の九州大学研究連携事業で、将来は地元が運営する観光施設や集落全体の電力を賄う計画や構想もあるようです。電力に追いやられた水車が復活して発電に使われるのは嬉しいですね。

写真上    砂川村営水力発電所建設予定地跡    (2012.5.1 著者撮影)
写真下    天王橋水車の石臼と内野重光さん    (2012.4.29 著者撮影)


木洩れ日の下で №9 [文芸美術の森]

お花見             

                                                                       詩人   近藤 明理

今年の春は訪れが遅かった。昨年の大災害の傷がまだ癒えていないために、花も咲くのを遠慮しているかのようだった。そういえば、うぐいすの声も聞こえてこなかった。はしゃいではいけないような空気を鳥たちも感じているのだろうか……。
それでも、四月に入り、例年より遅れて桜は咲いた。温かい日を選んで、花見をしながら、友人たちと石神井川に沿って2キロほど歩いた。友人の一人は昨年末に大切な家族を亡くしたばかり。わたしたちはそのことには触れずに桜並木の下を歩いた。
桜の花影には、いつも亡くなった人たちの気配が感じられる。遠くに連なる木々の間に、振り返って見上げる梢の中に、かつて共に花見をしたことのある大切な人たちの面影がひそんでいるように思われる。だから、人は、桜の下で、楽しそうにふるまいながら、心のどこかで寡黙になるのだ。
年に数日だけの花を愛おしむために桜を植え、花見をするのは日本人独特のものだという。きっと、わたしたちは、単に木や花を見ているのではなく、過ぎていった時間や去っていった人たちと触れ合っているのだ。だから、子供の頃より、年を重ねるにつれて、お花見を大切なことに感じるのだろう。たくさんの思い出や愛が、桜になって、そっと、年に数日だけわたしたちに会いに来るのを、優しく迎えたいという気持ち。外国人にその気持ちを説明するのは難しいかもしれない。
2月から3月にかけて、日本より早く咲く桜を見に、何人かの知人が台湾へお花見に行った。十年ほど前から、台湾に桜の苗木を贈る活動が、日本のいくつかの団体によって行われてきた。日本と台湾の間で、桜と共に友情が育つこと、なにより、桜を愛でる感情を共有できることが素晴らしいと思う。

      *      *       *       *       *
             さくら
                      近藤 明理

   どこから来たのか さくら
   数日前まで
   寒々とした木のシルエットと
   空だけだったのに

   とつぜん
   ふんわりとピンク色の霞
   まわりのものを染め上げる

   不思議がらなくていい ねこよ
   おまえたちも
   そのように
   この世にやって来たのだから

   どこへ行くのか 花びら
   木を離れ
   ひとりひとりになって
   時の風に吹かれ
   次の季節へ 
   次の命へ


私の中の一期一会 №24 [雑木林の四季]

        新大関鶴竜に頑張って欲しい!~モンゴルの優等生は相撲でも優等生だ~

                         アナウンサー&キャスター  藤田和弘  

 今年は寒い日が続いていたが、新緑の季節を迎えてやっと暖かくなった。5月の声を聞けば、間もなく大相撲夏場所が幕を開ける。史上初の6大関による今年の夏場所は大いに盛り上がると思うのは素人考えらしく、親方衆からは喜ぶ声が全く聞こえてこない。幾つかのコメントを並べてみると次のようになる。
  春日野親方(元栃乃和歌)は「大関の安売りだな。そのうち誰か落ちるよ」とそっけない言い方をしている。
 協会理事の尾車親方(元琴風)は「6大関は上位陣が活躍出来ていない証拠でもある。喜ばしいことではない」と現状を分析。協会広報部長の八角親方(元横綱・北勝海)は「大関の地位に満足し、勝ち越してホッとしている。8勝してからの相撲が悪い」と苦言を呈するなど、喜ぶ声がほとんど聞こえないのは驚きである。
言われてみれば、今の大関陣が前半か中盤までに格下相手に星を落とすために、終盤の横綱・大関との対戦で星を潰し合って誰もが優勝争いから脱落してしまうということが問題だと分かった。
大関になるということは、将来の横綱候補に選ばれたということなのに抜け出す者が一向に現れない悩みがあるのだ。これは結構深刻な悩みだ。そこへ更に、夏場所からもう一人大関が加わったら、益々星の潰し合いになって、横綱白鵬一人が有利になる状況が当分続くことが予想出来るという訳だ。確かに、白鵬を脅かす存在が出てこない限り大相撲は盛り上がらないだろうという心配は当たっていて、全くその通りだと思う。
しかし、6大関は前例が無いし問題だからと、鶴竜に「悪いが大関には出来ない」ということは言えない。相撲協会には「直近3場所を三役で33勝以上」という大関昇進の目安が厳然と存在しているからである。
関脇鶴竜(井筒部屋)は3月の大阪場所で大奮闘した。本割で白鵬を破るなど12勝3敗の好成績を挙げた。横綱・白鵬との優勝決定戦で敗れて残念ながら初優勝は出来なかった。しかしこの3場所を10勝、10勝、13勝ときて33勝をクリアしたから大関にしない訳にはいかなかったのである。
昇進の際「観客が喜ぶ相撲を取って、まず勝ち越しを目指したい。一つ一つ白星を重ねることで、優勝など、次の目標も見えてくると思います」とまるで日本人のように控えめに喜びを口にしている。観客を喜ばす相撲とは大関対決に勝ち、横綱に土をつけることに他ならないのだ。
相撲協会は、もう今さら文句を言っても仕方がない。6人の中から「白鵬を脅かす大関」を育てるしかないだろう。だが果たして「白鵬を脅かす強い大関」が出現するだろうか? 出現するとしたら誰だろうか?
 今年の夏場所は強い大関探しの場所と言えるかも知れない。唯一白鵬に勝てる存在だった朝青龍が一昨年の初場所を最後に引退して以来、白鵬は無敵な存在になったのである。この一年では昨年7月場所に日馬富士が14勝1敗で初優勝し、今年の1月場所に杷瑠都が14勝1敗で初優勝しているだけで、あとは全て白鵬に賜杯を持っていかれている。優勝経験者は琴欧州、日馬富士、杷瑠都の3人だけで、稀勢の里と琴奨菊はまだ優勝に届かない。
 その中で、今一番安定している大関は杷瑠都だと言われているようだが、私は秘かに鶴竜に期待している。この2場所連続で白鵬に勝っていることが注目する第1の理由だが、その他に鶴竜が過去に技能賞を6度も受賞している相撲巧者なのが第2の理由である。見る限り、しぶとく粘る相撲が目に付く力士だ。
元横綱の北の湖理事長が「ここ数場所はまわしを取ったら安定している」と評価しているように元来の巧さに加え力強さが出てきたことを認めている。先場所も右下手で白鵬のまわしを引いたら、投げられても揺さぶられても命綱を離さずにじっとこらえ、横綱が巻き替えに来たところで寄って出て大熱戦を制したのだ。まわしを放す悪い癖を克服して粘りを身につけ正攻法で横綱を破ったことは、内容的にも大関に値する相撲を取れると評価されたように思うのだ。
元横綱・大乃国の芝田山親方も「安定した相撲を取っている。右を取るために腰を低くして当たる。低い体勢だと押されにくく前にも落ちない。取った瞬間、前に出れば攻めに繋がる“負けない相撲”だ。楽をしないで諦めずの相撲を磨け」と助言している。
モンゴル出身力士の多くは父親がモンゴル相撲の経験者だと聞いたことがあるが、鶴竜は1985年8月10日に大学教授を父に持つ裕福な家庭に生まれている。本名はマンガルジャラビ-ン・アナンド。正しくはウランバートル出身である。テニス、バスケット、レスリングなどスポーツ好きな少年だった。父親の影響を受けて学業にも励み優等生だったとネット情報に出ているのを見て、大人しい風貌も納得出来る気がした。
子供の頃から家でNHKの相撲中継を見ていて、祖国の英雄・旭鷲山の活躍に魅せられ「相撲への志」が芽生え膨らんでいった。母国で花篭部屋の選考会を受験するまでになったが「不合格」になっても諦めなかった。粘り強い性格の少年だったようである。父の友人に頼んで「入門希望の手紙」を日本語に訳してもらい、日本の相撲関係者に送って井筒部屋入門に至ったという経歴の持主なのだ。
かくして2001年5月に来日、16歳で初土俵を踏み、力士としての生活をスタートさせた。師匠の井筒親方は「変な癖もなく、のみ込みが早かった」と言っているが、モンゴル相撲の経験も無いのが返って良かったのかも知れない。頭も良いから理解力もあったのだろう。モンゴルの力士は総じて日本語が達者だが鶴竜も入門希望の手紙を日本語に訳して貰ったとは、とても思えないほど巧みに日本語をこなしている一人だ。初めは体重が増えずに苦労したらしいが、とにかく愚直に稽古をしたと記事にも書かれているように、組んでよし、突いてよしの相撲巧者として定評がある。
優勝2回の技巧派だった秀ノ山親方(元関脇・琴錦)は「昔の日本人のような相撲で、モンゴルのしぶとさもある。軽量だけど当たった瞬間に相手が少し起きるから脇が空いて差し易くなる」と好感している。
井筒部屋は元関脇の逆鉾、寺尾兄弟がいる、共に相撲巧者という指導環境に恵まれているのがいいではないか。鶴竜は10年の土俵生活で各段優勝の経験は2004年7月に三段目優勝があるだけで、幕下でも十両でも優勝していないのが不思議なくらいだが、着実な歩みで大関になった努力家だ。これからは「右か四つか、左四つか。どちらかに四つをしっかり決めたほうがいい」と自分の形を作ることを指導者達は助言しているが、テレビで見ていて「これは強いな」と感ずることが多かったから、更なる成長に期待が持てる逸材であるように思えてならない。身長187センチ、144キロは一番動き易い体型ではないだろうか。
28日に立浪一門の連合稽古が朝日山部屋で行われ、横綱・白鵬が出稽古に来た新大関・鶴竜と9番、関脇・豊ノ島と5番を取り全勝したという記事があった。鶴竜は「全く歯が立たなかった」と元気がなく、この日は白鵬の他、豊ノ島、安美錦らとの申し合い20番でも6勝14敗と振るわなかった。
新大関として最初の場所は「いつも以上に緊張する」と思うから、深呼吸でもして「落ち着く」ように心掛けるべきだ。大事な初日に勝てば気も楽になれるのではないだろうか
 他の大関にだって期待したいが、物足りなさが目につくのだ。琴欧州は怪我をして以来積極性がなく、もろい負け方をするし8勝してホッとしてしまうタイプに見える。琴奨菊はよくやっているが体力的に限界があるのではないだろうか。日馬富士も好不調の波が大きくて強さが安定しないし怪我が多い。杷瑠都は強い時は強いが、重心が高く掻き回されると崩れやすいから横綱になっても弱い横綱になりそうな気がしてならない。稀勢の里は早くから将来は横綱と呼び声が高かったがポカがあり、やや伸び悩みの感がある。前述の芝田山親方は稀勢の里を横綱候補の一番手に挙げているが、メンタル面での成長があれば「面構えもいい」から鶴竜以上の横綱候補になるだろうと思う。
07年名古屋場所で白鵬が横綱に昇進して以来、5年間も新横綱が誕生していないのは寂しいことだ。協会内には大関陥落の条件を厳しくして危機感を煽り、綱取りへの意欲を掻き立てようという声もあるようだが、夏場所に間に合う話ではない。6大関の夏場所を盛り上げるには大関陣全員の奮起しかないのだ。
私は「お客が喜ぶ相撲を取りたい」という新大関・鶴竜に期待して、テレビ観戦を楽しみたいと思っている。


ペダルを踏んで風になる №17 [雑木林の四季]

グラニー・スミス

         サイクリスト・バイクショップ「マングローブ・バイク」店主  高橋慎治

今年もゴールデンウィークに入り、行楽に趣味にとお休みなのに忙しくしていらっしゃいますね。
最近はウチにも自転車のラリーにあたる「ブルベ」に参加される方がお客様で増えてきました。
200Km、300Kmの走行はお茶の子さいさいの方たちですが、自転車により効率良く快適に乗車出来る様にセッティングやポジショニングのお手伝いや相談をさせて頂くことが多いです。
もちろん、大概のブルベの皆さんは自転車自体の組立や車輪の仕立てなどの根本的な事柄にも積極的に取り組んでいらっしゃいます。
この連休も、関東から東北地方までをひたひたとトータル1,700kmを走る方々がいらっしゃいます。
桜前線を追いかけて北上しますから緯度が上がればまだまだ寒いので、一期一会のお花見も余裕があれば存分に楽しめることでしょう。
昨年のGWは震災の影響で不安と自粛ムードの連休でしたが、お花見も我慢していたサイクリストはこの頃から活動を再開し始めたように記憶しています。

私の近辺では既に桜の花は大方散ってしまって、木々には若葉が出て新緑の装いになっています。
芽吹きの時期を迎えると動物や虫、爬虫類などの活動が活発になって、日本の四季でも活気のあるシーズンに突入します。
沖縄や南西諸島を除く梅雨入り前のこのGWは気候も一番過ごしやすく、また運動をするのにも絶好です。
私はこの時期、新芽の透きとおる様な綺麗な黄緑色が特に大好きで、自転車で里山などに出かけることが楽しくなります。
爽やかな風に揺られて柔らかくしなやかにそよぐ若葉を眺めていると、そのそよ風もまるで若葉で頬を撫でられているかの様に感じられます。
道端の野草などは可愛いリボンのような小さな花をつけ、新緑の黄緑色に更に色をのせてくれます。
私が始めて乗ったスポーツ車(入門車)のブリヂストン・ロードマンがまさにこの新緑の黄緑色のメタリックでした。

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色って、皆さんは好みの色がハッキリしたのはいつ頃でしょうか?
洋服や靴、カバンなどのファッションやアクセサリーなどは流行のカラーが毎年・毎シーズンありますが、ご自身の定番スタイルでは流行色も取り入れつつ好みのカラーもまた外せないですよね。
靴やカバンといったものと同じように、実は自転車も個性やファッションのアクセサリー的な要素があります。
それが「色」、すなわちフレームカラーなのです。
自動車を購入されるときにボディーカラーで悩まない方はいらっしゃらないと思います。
とかく日本人は周りの人たちと同じ状況で安心感を得る傾向があると言われますが、その周りの人たちと同じ状況に満足出来ない個性的な方々がいらっしゃるのもまた事実です。
実は「色」って、各自が「物」に対して固有の「カラー」を持っていたりすることがあります。
百恵ちゃん世代は「真っ赤なポルシェ」ですから「スポーツカーは赤」というイメージがあるのも少なくないと思います。
実際、私が自動車購入において同車種間ではエンジンパワーのあるグレードを重視して選んでいました。
本当ならスポーツカーに憧れがあるので、そういう価値観での自動車選びですから当然ボディーカラーは「~レッド」というように赤系を好んで選んでいました。
自転車においては、やはり最初の黄緑色メタリックの印象があるのでしょうか。
勝負に係わる自転車の色は別にして、趣味的な要素のある自転車では圧倒的に「~グリーン」と緑系が多いのも事実です。

最近の自転車メーカーでは、フレームカラーは1グレード1~2色で、3色あればアッパレでしょうか。
やはり高価なスポーツバイクですから、お仕着せのデザインや色は興ざめです。
「色」は自分自身を表現する個性ですので、流行を追い過ぎず、周りを意識し過ぎず「本当に好きな色」を選ぶことが個性的で格好良いですね。

最初の私の自転車の色に近い呼び名の色は「グラニースミス」という色で、いわゆる青りんごの黄緑色で、大好きな新緑の黄緑色とイメージが合います。
自転車のカラー選びに迷ったときは、目を閉じて好きな場所や好きな景色を思い出してみて下さい。
その場面の中に気持ちの落ち着く心地良い「マイカラー」が必ずあります。
そんな色の自転車でペダルを踏み込めば、きっと素敵な風を感じられるでしょうね♪


【ツール缶】
今回はツールのお話ではありませんが、整備の一環のお話しです。
自動車ではなかなか難しいのですが、自転車ではオーバーホールなどのときに傷や錆など痛んだフレームをリペイント:再塗装してリフレッシュすることができます。

デザインのリメイクやロゴの再生(オリジナル近似)など、ご予算が許せば結構なことが可能です。
逆に、フレームの作り自体は好みなのに色とデザインが派手過ぎて・・・ と言う方はシンプルに「単色」で「ロゴなし」っていうのもありです。
さらに、パーツの総交換のときにリペイントすると、気分は間違いなく「新車」ですよ!


※《私のお気に入り》
実は、完成車メーカーでもカラーオーダーを受け付けてくれるところが幾つかあります。
その中でも「ブリヂストン・アンカー」の、目安として価格が《15諭吉》以上の完成車とそのフレームキットにおいて最大で《1樋口》のアップチャージで、フレームカラー、ロゴカラー、バーテープ、ワイヤーカラー、サドルカラーが設定の範囲から選択できます。

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http://www.anchor-bikes.com/bikes/design.html

さらに、ポジションやライディングに係わる部品のサイズやグレードの選択も設定範囲から可能です。
ここまでくると、セミオーダー車と変わらない内容で、事実これができるのは【ブリヂストン・ANCHOR】だけと言っても過言ではないですね。