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『知の木々舎』第244号・目次(2019年6月下号編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

ケルトの妖精 №5             妖精美術館館長  井村君江
 湖の貴婦人ニミュエ モルガン・フエ 1
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-12-7

じゃがいもころんだⅡ №11          エッセイスト  中村一枝
 ネクタイ事情                                                       
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-12-8

渾斎随筆 №35                    歌人  会津八一
 一片の石 2 
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-12-9

石井鶴三の世界 №142            画家・彫刻家  石井鶴三
 獅子吼菩薩 1914年/薬師寺如来・十一面観音 1914年
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-12-10

東洋文化の原風景 №3              水墨画家   傅 益瑤
 水墨画を描いて
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-05-29-1

過激な隠遁~高島野十郎評伝 №6     早稲田大学名誉教授  川崎 浹
  第三章 帝大学生時代から戦後まで 1
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-12-6

往きは良い良い、帰りは……物語 №71  コピーライター  多比羅 孝
 『髪洗ふ』『卯波』『青葡萄』『麦笛』
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-05-27-7

正岡常規と夏目金之助 №15         子規・漱石研究家    栗田博行
 子規・漱石~生き方の対照性と友情。そして継承  
   第一章(番外)子規に於ける「ますらおぶりとたおやめぶり」2
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-12-4

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№12  美術史研究家 斎藤陽一
 伝・俵屋宗達「蔦の細道図屏風」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-12-5

【ことだま五七五】

日めくり汀女俳句 №36              中村汀女・中村一枝
 四月十二日~四月十四日
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-12-3

猿若句会秀句選 №97                                     猿若句会会亭    中村 信
  2019年5月17日
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-05-27-3

草木塔  №42                    俳人  種田山頭火
 或る若い友 8
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-12-2

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №66               川柳家  水野タケシ
 6月5日、12日放送分
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-12-1

【核無き世界を目指して】

対話随想余滴 №15                                      作家  中山士朗   
 中山士朗から関千枝子さまへ              
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10-10

【心の小径】

論語 №75                                                          法学者  穂積重遠
 二四〇 圭(けい)を執(と)れば鞠躬如たり、勝(た)えざるが如し。
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10-1

余は如何にして基督信徒となりし乎 №66                               内村鑑三
 第十章 基督故国の偽りなき印象 - 帰郷 7
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10

【雑木林の四季】

浜田山通信 №244                                   ジャーナリスト  野村勝美
 高田博厚遺作、中野重治胸像
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-11-6

私の中の一期一会 №191           アナウンサー&キャスター    藤田和弘
 スポーツ競技に於ける“ビデオ判定”の問題点を考える
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-11-7

BS-TBS番組情報 №188                                   BS-TBS広報宣伝部
 2019年6月のおすすめ番組(下)
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-11-5

バルタンの呟き №59               映画監督  飯島敏宏
 五月雨の晴れ間うれしく
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-11-4

医史跡を巡る旅 №58                               保健衛生監視員  小川 優
 「博愛精神のルーツをたどる・日本赤十字社病院と看護教育」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-11-10

いつか空が晴れる №61                    渋澤京子
 -ジャングル大帝-
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-11-3

梟翁夜話 №41                                   翻訳家  島村泰治
 「あぐら」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-11-2

検証 公団居住60年 №34  国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 公団家賃裁判一提訴から和解解決まで 6
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-11-1

コーセーだから №51         (株)コーセーOB  北原 保
 50歳創業の哲学 12
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-05-26-1
    
地球千鳥足 №123       グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子
 筆者が道を聞かれたほど日本人そっくりさんが往来する国
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-05-26
 
【ふるさと立川・多摩・武蔵】

赤川Bonzeと愉快な仲間たち №128     銅板造形作家  赤川政由
 希望の星
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10-9

旬の食彩 僕の味 №105 レストラン「ヴァンセット」オーナー  大澤 聡
 42歳のヴァンセット
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10-7

立川陸軍飛行場と日本・アジア №180    近現代史研究家  楢崎茂彌
 さらば 立川
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10-8

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №128             岩本啓介
 五月晴れ山陰本線    
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10-6

押し花絵の世界 №88                                    押し花作家  山﨑房枝
 「いとこの結婚式のブーケ」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10-5

渋紙に点火された光と影 №59        型染め版画家  田中 清
 「葱坊主」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10-4

多摩のむかし道と伝説の旅 №29                                            原田環爾
 矢川水辺から谷保田圃へ天神様と為守伝説を巡る道 3
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10-2

ミツバチからのメッセージ №8 造園業・ミツバチ保護活動家   御園 孝
 野生トウヨウミツバチの北限 1
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-10-3

国営昭和記念公園の四季 №36
 紫陽花
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-14-1

【代表・玲子の雑記帳】             『知の木々舎 』代表  横幕玲子
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-12


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「もくじ」・「執筆者紹介」・「代表玲子の雑記帳」・「心の小径」・「文芸美術の森」・「ことだま五・七・五」・「雑木林の四季」・「ふるさと立川」・「核無き世界をめざして」があります。
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ケルトの妖精 №5 [文芸美術の森]

湖の貴婦人ニミュエ モルガン・ル・フエ 1

            妖精美術館館長  井村君江

 アーサー王がまだ若かったときのことである。王ははげしい戦いで傷を受け、剣を失って森のなかをさまよっていた。
 王のかたわらに影のように従っていた魔法使いのマーリンに、王がそのことを告げると、マーリンは予言した。「心配なさいますな。この近くに魔法の力をもった剣がございます。それはあなたさまのものになる剣なのです」
 ふたりは、馬を進めていくと、しばらくして広く美しい湖に出た。
 湖のおもてを見やると、沖あいに水の輪を静かに描いて、美しい綿の衣をまとった乙女の手が現れた。そして輝くような白い手にはひと振りの剣がささげ持たれていた。
 「あれは湖の貴婦人(ダーム・アユ・ラック)と呼ばれる妖精です。湖の底にはこの地上では見られぬ、豪華な調度がととのった美しい宮殿があるのです」とマーリンが言った。
 そして「さあ、あの剣はあなたさまのものです」とうながした。
 アーサー王はマーリンとともに湖に小船を漕ぎだし、湖の貴婦人と呼ばれる妖精のひとり、ニミュエの持つ剣を手にした。すると剣をささげていた白い美しい手は、音もなく水のなかに消えていった。
 この剣こそが、アーサー王の運命と切り離すことのできない名剣エクスキャリバーであったのだ。光り輝く刃は堅いはがねも断ち切ることができ、刀身を納める鞠には受けた傷を治す力があった。そのためエクスキャリバーを身に帯びたものは不死身となった。
 このときからエクスキャリバーは、たくさんのはげしい戦いのなかで、アーサー王を守っていくことになる。

 湖の貴婦人のひとり、モルガン・ル・フェはずっとアーサー王に敵意を燃やしていた。あるときは策略をもちいてエクスキャリバーをだまし取ったり、鞠を盗んだこともあった。またあるときはこれを身につければ身体が燃えあがり灰になってしまうという魔法のマントを贈って、アーサー王の命を奪おうとした。すきがあれば王位算奪と王の殺害を企てていたのだったが、それは愛人のアコーロンを王にして、自分が妃となりたいがためであった。
 ある日、狩りに出たアーサー王は一頭の鹿を追いかけていて、一行とはぐれてしまった。
 騎士ウリエンス王と騎士アコーロンだけが王と一緒だった。しばらく行くと、川辺に出た。
 そこには猟犬に噛み殺された鹿が横たわっていた。アーサー王は合図の笛を吹いたが供のものはだれも現れなかった。代わりに川のなかほどから綿の布で飾られた小舟が漂ってきた。
 三人がこの船に乗りこむと、いっせいに松明が灯り、十二人の乙女が現れて食卓にみちびいた。華やかなもてなしを受けてから三人はそれぞれ豪華な部屋に案内され、眠りについてしまった。
 アーサー王はモルガン・ル・フエの魔法に落ちてしまったのだった。
 眠るアーサー王にモルガン・ル・フエは魔法で邪悪な幻影をつくりだして見せ、王と騎士アコーロンの一騎討ちをしくんだ。名剣エクスキャリバーは、アーサー王のもとからモルガン・ル・フエの姦計によって奪われ、騎士アコーロンの手に渡っていた。
 アーサー王はそれを知ることもなく、戦いははじまってしまった。たがいに剣を抜き放ち、はげしく刃を交えた。しかし王の剣はいつもとちがって切れ味に鋭さをみせなかった。どんなにはげしく打ちおろしてもアコーロンの鎧に食いこまず、アコーロンの振りあげる剣は打ちおろすたびに王の傷を広げた。
 アーサー王は猛り狂ってアコーロンの兜に剣を打ちおろすと、王の持つ剣は根元から折れて血まみれの草の上に落ちた。
 「降伏せよ」とアコーロンは叫んだ。
 「武器はなくしても誇りはなくさない。もしそなたが武器を持たない相手を殺すなら、それはそなたの恥辱となろう」とアーサー王は言いかえした。
 「恥辱なぞ、かまうものか」
 アコーロンがなおもすさまじい一撃を加えようと、手にしているエクスキャリバーを振りおろした剃那、エクスキャリバーはアコーロンの手を離れ、宙を飛んで草の上に転がった。
 モルガン・ル・フェの陰謀を知ったニミュ工が駆けつけ、アーサー王を救ったのだった。王はすかさずエクスキャリバーを拾いあげ、兜もろともアコーロンに斬りつけた。そして不死身の力をもつエクスキャリバーの稗をアコーロンの腰から奪い取った。アコーロンの頭から血が流れだし顔をみるみる赤く染めた。
 モルガン・ル・フェはこのあと、なおもアーサー王の命を狙って策略をめぐらせるが、湖の貴婦人ニミュエがいつもその危難を救うのだった。(つづく)


『ケルトの妖精』あんず堂

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石井鶴三の世界 №142 [文芸美術の森]

獅子吼菩薩 1914年/薬師如来・十一面観音 1914年

             画家・彫刻家  石井鶴三

1914獅子吼菩薩.jpg
獅子吼菩薩 1914年 (201×142)
1914薬師如来・十一面観音.jpg
薬師如来・十一面観音 1914年 (201×142)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №35 [文芸美術の森]

一片の石 2

                 歌人  会津八一

 ところが後に唐の時代になつて、同じ襄陽から孟浩然といふ優れた詩人が出た。この人もある時弟子たちを連れて●(「山+見」)山の頂に登つた。そして先づ羊●(「示+古」)のことなどを思ひ出して、こんな詩を作つた。

  人事代謝あり、
  往来して古今を成す。
  江山は勝迹を留め、
  我輩また登臨す。
  水落ちて魚梁浅く、
  天寒うして夢沢深し。
  羊公碑尚ほあり。
  読み罷めて涙襟を沾す。

 この一篇は、この人の集中でも傑作とされてゐるが、その気持は全く羊●(「示+古」)と同じものに打たれてゐるらしかつた。
  この人よりも十二年遅れて生れた李白は、かつて若い頃この襄陽の地に来て作つた歌曲には、

 ●(「山+見」)山は漢江に臨み、
  水は緑に、沙は雪のごとし。
  上に堕涙の碑のあり、
  青苔して久しく磨滅せり。

とか、また

  君見ずや、晋朝の羊公一片の石、
  亀頭剥落して莓苔を生ず。
  涙またこれがために堕つ能はず、
  心またこれがために哀しむ能はず。

とか、あるひはまた後に追懐の詩の中に

  空しく思ふ羊叔子、
  涙を堕す●(「山+見」)山のいただき。

と感慨を詠じたりしてゐる。
  なるほど、さすがの羊公も、今は一片の石で、しかも剥落して青苔を蒙つてゐる。だから人生はやはり酒でも飲めと李白はいふのであらうが、ここに一つ大切なことがある。孟浩然や李白が涙を流して眺め入つた石碑は、羊公歿後に立てられたままでは無かつたらしい。といふのは、歿後わづか二百七十二年にして、破損が甚しかつたために、梁の大同十年といふ年に、原碑の残石を用ゐて文字を彫り直すことになつた。そして別にその裏面に、劉之●(「二点しんにょう+隣のつくり」)の属文を劉霊正が書いて彫らせた。二人が見たのは、まさしくそれであつたにちがひない。こんなわけで碑を背負つてゐる台石の亀も、一度修繕を経てゐる筈であるのに、それを李白などがまだ見ないうちに、もうまた剥落して一面にあをあをと苔蒸してゐたといふのである。そこのところが私にはほんとに面白い。
  この堕涙の碑は、つひに有名になつたために、李商隠とか白居易とか、詩人たちの作で、これに触れてゐるものはもとより多い。しかし大中九年に李景遜といふものが、別にまた一基の堕涙の碑を営んで、羊●(「示+古」)のために●(「山+見」)山に立てたといはれてゐる。が、明の于奕正の編んだ碑目には、もはやその名が見えないところを見ると、もつと早く失はれたのであらう。そしてその碑目には、やはり梁の重修のものだけを挙げてゐるから、こちらはその頃にはまだあつたものと見えるが、今はそれも無くなつた。
  羊●(「示+古」は身後の名を気にしてゐたものの、自分のために人が立ててくれた石碑が、三代目さへ亡び果てた今日に至つても、「文選」や「晋書」や「隋書経籍志」のあらむかぎり、いつの世までも、何処かに彼の名を知る人は絶えぬことであらう。彼の魂魄は、もうこれに気づいてゐることであらう。またその友人、杜預が企画した石碑は、二基ともに亡びて、いまにして行くところを知るよしもないが、彼の著述として、やや得意のものであつたらしい「左氏経伝集解」は、今も尚ほ世に行はれて、往々日本の若い学生の手にもそれを見ることがある。だから、大昔から、人間の深い期待にもかかはらず、石は案外脆いもので寿命はかへつて紙墨にも及ばないから、人間はもつと確かなものに憑らなければならぬ、と云ふことが出来やう。杜預の魂魄も、かなり大きな見込み違ひをして、たぶん初めはどぎまぎしたものの、そこを通り越して、今ではもう安心を得てゐるのであらう。      (『文芸春秋』第二十二巻第六号昭和十九年六月)


『会津八一全集』 中央公論社
 

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じゃがいもころんだⅡ №11 [文芸美術の森]

ネクタイ事情

             エッセイスト  中村一枝

 最近は経済事情もいいのだろうけど、テレビに出演している男の人のネクタイが年々上等になり、趣味も上昇していて見ていて楽しい。わたしは若い頃からネクタイを買うのが好きだった。好きと行っても、あげる相手は父か夫くらいしか居なかったけれど、一人で銀座の裏通りの男性用の洒落た洋品店をのぞて歩いた。以前はともかく、最近は政治家たちもなにかとみなりにきをくばつているらしく、えっ、と思うようなしやれたネクタイを締めてるのを見ることがある。ネクタイがいくらお洒落でもなかみが全くダサいのも多いから当てにはならない。
 最近は全くひとにネクタイとなどあげたことはないからわからないが、いまは随分たかいのだろうとおもつたりもする。。男性にとつて唯一の見せどころなのだから値を張り込んで当然だろうと思う。事実ネクタイの質感はつけている人間の質感に相当するのだ。最近は全体にラフな格好の人が増えているが、それでも良い男を探す楽しみはまた別である。ネクタイの長さ、結び目の見映え、誰が考えたのだろう。大抵の男に似合う、それもおかしい。クールビズのというのも最初は誰もが身につかず、借り物の感があったが、最近は地方のお役所などでもう当たり前という感じである。みんなが着ているとそれなりに身に沿ってくるから不思議である。
 昨日、安倍さんが訪問したイランの大統領はいっぱい着こんでいたが、あの下の方はどうなっているのか気になった。ステテコ一枚ということもあるのかなと思うとおかしい。あちこちで起きているさまざまの紛争、みんなが下着で戦ったらと思うとおかしい。殺伐な戦いにはならないだろうに。戦いというものか人間が生きている以上必ず起きるものだとしたらなんとか戦いが起きにくいの事を、誰か、考え付かないのか、戦いは下着に限ると。全く人間がどうしてもこうも戦うものなら、戦いにこういう掟を作ったらなどおばあさんはバカな事を考えたりした。戦争は何物も生み出さず、ただお互いに憎しみだけが増幅するものだと分かっているのに。人は分かっていても前に進みたいのだろうか。
 そんな呑気な事を思っている最中に、ホルムズ海峡で日本のタンカーが攻撃を受けた。安倍さんがイラん訪問中を狙ったのかどうか判らないが、いくら遠く離れていても気持ちのいい話ではない。これまでの戦争を見てもまったく偶発的な事件がきっかけで戦争が起きている。世界の指導者の中にはいろいろの考え方もあるのだろうからなんとも言えないが、なんの関わりもない普通の人たちの気持ちを感じ取ってほしいとつくづく思う。無駄な遠吠えと思いたくない。


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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №6 [文芸美術の森]

第三章  帝大学生時代から戦後まで 1

        早稲田学名誉教授  川崎 浹

恩賜の銀時計を辞退して画家の道へ


 大学三、四年生の時に高嶋弥寿は特待生になった。
 森鴎外は、官立学校の特待生で幅を利かせているような人の中には、試験に高点をとって、昇進ばかりをねらう者がいると批判した。弥寿はむしろ反対のタイプで、在学中にも絵を措く余裕をもっていた。ただ学問と両立させねばならなかったので、絵に集中はできなかった。卒業後の助手時代にも外の学校に非常勤で手伝いにゆくとか、或いはそういう将来が待ち受けている生活が見えてくるにつれ、いよいよ二者択一をせまられる。師弟の
義理もからむなかで、画家への道を踏みだすには「大決心を要しただろう。
 教授たちも将来の後継者と思い定めていた学究のとつぜんの変心に驚いて引きとめ、野十郎が慕う長兄の宇朗も「家庭ももてなくなるぞ」と翻意をうながしたが、その段階で野十郎は生涯独身でもかまわないぐらいの気持ちでいたと思われる。
 大正五年(一九一六)、野十郎は二十六歳で、東京帝大水産学科を首席で卒業。魚の感覚に関する研究を行っていた。また卒業時に授与の候補に挙がっていた恩賜の銀時計を辞退した。これで引くに引けぬエリートコースへの退路をたち、同時に栄誉心もかなぐりすて、画業に専念するしかない道を選んだことになる。
 しかし、野十郎より二歳年下の岸田劉生はすでに名をなし、前年、野十郎より三歳年下の中川一政や同じく木村荘八らと草土社を創設していた。ここで《道路と土手と塀(切通之写生)》が出品されるが、ありきたりの風景を見る者をして捻らしめる作品に仕上げる劉生の早熟の才能を弥寿はどう思っただろうか。
 さらにその前年(大正三年)には弥寿の二歳年長の梅原龍三郎が、同世代の石井柏亭や津田青楓、有島生馬らとともに「文展」に反旗をひるがえし二科会を創立している。安井曾太郎も梅原と同年生まれで、すでに長年の滞欧を経験し、弥寿の大学卒業の二年前に帰国、その翌年大正四年(一九一五)に二科展で滞欧作品四十四点を展示する。やはり弥寿卒業の年、かれより七歳も若かった東郷育児が、新しく結成された東京フィルハーモニー
の指揮者、ドイツ帰りの山田耕作と知り合い、楽屋をアトリエ代わりに使うことを勧められ、ここで描いた絵を日比谷美術館で展覧している。

青春の謎 1

 美術学校出身で環境や留学の資金にも恵まれた画家たちに比べると、水棲圏科学研究の分野でこそ将来を属目された秀才高嶋弥寿も、ひとつ道筋をずらすと陽の当たらぬ半端な画学生である。焦りと悩みと反撥を経験したにちがいない。在学中に二十四歳で措かれたと考えられている《傷を負った自画像》がある。
  私は《傷を負った自画像》を目にしたとき、野十郎の青春の謎がとけたと思った。これほど露骨な自己表現はない。自画像は一般に攻撃的でドラマティックな自己表出になりやすいという。この絵は《絡子をかけたる自画像》や《りんごを手にした自画像》よりはるかに攻撃的で、それは攻撃の最も衝撃的な反作用である敗北、攻撃の裏返しとしての敗北の形で露出されている。ある意味でこれほど醜く攻撃的かつ顕示欲の激しい自画像を私は見たことがない。野十郎が生存中だったらこの自画像の展示に同意したかどうか。
 はだけた着物姿で、立て膝の右すねに右の手を当て、惟悼しきった虚ろな眼差しはこちらを見ているようで、実はわずかに逸れている。左首と右のすねに傷口とそこから流れる一筋の血。右手の指にも擦傷か打撲痕跡らしいものがある。鼻血の塊らしきものがあり、下唇も割れている。
 私は傷口を見て、矢で射られた殉教者の聖セバスチアンを連想し、野十郎が当時の自分を擬したのではないかと思ったが、西本匡伸氏も聖セバスチアンの名をあげ、「絵に対する殉教」の姿勢を示していると見る。興味ぶかいのは、当時の野十郎の性格とエピソードを甥の力郎から聞いたうえで、多田茂治氏が《傷を負った自画像》を、実際にだれかと喧嘩して傷つき、それをまっすぐみつめながら描き、そこから虚飾をはいでおのれの正体、
醜さ、夜叉の顔を一筆、一筆塗り重ねていったとしていることである。
 《傷を負った自画像》はコンプレックスや迷いや絶望感をはらんでいるが、それは肖像画の主人公が特待生で通した専門の分野以外の、他の領域で生じたことだろう。そのなかには絵画に専念できないことや、画家として遅れを取っている懸念や焦燥がなかっただろうか。(この項続く)

『過激な隠遁 高島野十郎伝』 求龍堂

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №12 [文芸美術の森]

シリーズ≪琳派の魅力≫
                       美術ジャーナリスト 斎藤陽一

                           第12回:伝・俵屋宗達「蔦の細道図屏風」 
      (17世紀前半。六曲一双。各159×361cm。重文。京都・相国寺)

12-1.jpg

≪抽象画のような絵画世界≫

 今回取り上げる「蔦の細道図屏風」は、伝・俵屋宗達作とされている屏風絵です。賛に自作の和歌を書いているのが、宗達とも交流のあったとされる京の公家・烏丸光広ということだけでなく、簡潔で大胆な構図によって、現代のグラフィックアートを思わせるような斬新な画面を創り出した絵師は“俵屋宗達以外の造形的個性は考えられない”とされるからです。(両隻には、宗達とその工房が用いた「伊年」の印が押されています。)

 この絵には、人物が一人も描かれていませんが、これでも、在原業平を主人公とする歌物語『伊勢物語』からテーマを採っているのです。では、どのような場面を選んでいるかというと・・・
 在原業平が都落ちして東国へ下る途中、駿河国の宇津山の蔦の生い茂った細い山道で、京に戻る一人の修験者と出会います。偶然にも、その男とはかつて顔見知りだったので、業平は、都にいる恋人に手紙を託した、という物語です。その時に業平が詠んだのは、
「駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」という歌。(賛に描かれている和歌は、これではなく、この物語にちなむ烏丸光広自作の七首です。)

 この物語も、しばしば他の絵師によって描かれていますが、大抵は、手紙を託された修験者が山道に消えていくのをじっと見つめる業平の姿を描いています。
 ところが、宗達のこの屏風絵では、人物は一切描かれていません。
 使われている色彩も、「金」と「緑」というたったの2色のみ。その上、構図もきわめて抽象化され、暗緑色の土坡(どは)は宇津山を象徴し、右下から左上に対角線上につながる金色の帯が蔦の生い茂る山道を暗示するという、簡潔そのものの構図です。
 
 よく見ると、山道の蔦は、右側ではやや密度濃く描かれていますが、左に進むにつれて、まばらで、はかなげな薄い色となっています。おそらく蔦の細道を行く旅の心細さを暗示しているのでしょう。

12-2.jpg

 右隻の右上に注目すると、そこに蔦が垂れ下がっています。(上図:右隻)
 そこから書き始められた烏丸光広の書も、上から下へ、太く細く、大きく小さく書き連ねられ、蔦の葉がそのまま和歌の言葉になっていくような趣向になっています。つまり、書も絵もデザイン化されて混然一体となった、まことに前衛的な絵画世界なのです。

12-3.jpg ところで、右隻には烏丸光広の署名が書かれているのですが、どこか、判りますか?
 右図の山の稜線と思われるところに、ごく小さく「光広」と書かれているのです。おそらく光広は、山道をとぼとぼ歩くに人間の姿を思わせるように、ここに小さく署名をしたのでしょう。光広のユーモアを感じさせます。


 ここでちょっと面白いことをしてみましょう。試みに、右隻と左隻とを入れ替えてみるのです。すると・・・

12-4.jpg

 見事につながりますね。(上図)
 こうすると、またまた不思議な空間が生まれ、具象と抽象の絵画世界を行き来しているような、モダンな絵画空間となりますね。面白い仕掛けを考えたものです。

 宗達作品には、他に、アメリカのフリーア美術館が所蔵する屏風絵「松島図屏風」があり、画集などで見ると大変な傑作と思われるのですが、私は実見していないので、割愛します。(実業家フリーア氏の遺言により「門外不出」となっているのです。)
 それでも、これまで取り上げた宗達作品だけを見ても、それまでの日本絵画には類例のない破天荒とも言うべき宗達の造形的個性をご理解いただけたのではないか、と思います。

 これで、一連の俵屋宗達作品の紹介を終わりとし、次回からは3回にわたって、本阿弥光悦作の硯箱や茶碗を取り上げて、また違った角度から「日本的な美意識」を見ていきたいと思います。
                                                                  


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正岡常規と夏目金之助 №15 [文芸美術の森]

子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承 

                         子規・漱石 研究家  栗田博行 (八荒)

             第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅲ

     (番外) 子規に於ける「ますらおぶりとたおやめぶり」 2.

前回のおさらいから始めます。
前回ご紹介した「仰臥漫録」明治三十四年十月十三日の一章は、子規のますらおぶりの重要な到達点でした。自殺決行のギリギリのところまで行く自分をみつめている目の冷 静さと、それを書きとめる15-1.jpgはりつめた写生的な姿勢を,強健無比「大剛のもの」と賞揚したのは中野重治さん。大江健三郎さんも強くそれに賛同されたのでした。
   
加えて、そこまで行ったこの日の日記が「・・夜に入りては心地はれ へ と致申候」と結ばれていることに、筆者(八荒)は、生きることの苦しい局面に立つたびに前進的な結論に到達し次のライフステージに向かう子規の精神性を感じて感嘆し、そこに子規「大剛のもの」ぶりを感じてきたのでした。
  
ところがです。
  
その結びの一節は、その日の情動の結着としてその夜書かれたのではなく、新しく冊子を綴じて「仰臥漫録」(二)として書き始めた後日の書き加えだったと考えられるのです。前回の最後にコラージュでお示しした講談社版子規全集(一)から(二)への変わり目の所から、その推定が成りたちます。

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明治三十四年十月十三日。その日の夜のうちに子規が雑記帳も兼ねた日記,「仰臥漫録」に書きこんでいたのは「古白曰来」の四文字と、自殺の道具として手に取ろうとした小刀と錐の画までだったのです。そこで「仰臥漫録」(一)の紙数は尽きていたのでした。
  
そこで、なぜ子規は後日になって(おそらく十五日)新しく綴り始めた「仰臥漫録」(二)冒頭に、十三15-3.jpg日夜のこととしてこの一節を書き加える気になったのか…。かつその結びの一節がなぜ急に「候文」となってしまったのか…、という新しい疑問がわいてくるのです。

まず、なぜこの一節を書き足す必要を子規は感じたのかという問題から考えてみましょう。
 
文中の四方太とは、八重さんに「キテクレネギシ」と書いた電報用紙を託して,電報を打ってもらって呼び寄せた子規門のひとりです。この日の心動きの上で特別な意 味を持っていた人物(精神科の医者など)という訳ではなく、誰か話し相手が欲しくなって、夕方からでも来てもらえそうな、比較的近居していた人物だったと思います。この日の記述はこう始まっています。(以下、全文引用することになると思います。おつきあいください)

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さんは夕食から夜にかけての家事に備えて、早めに銭湯に出かけたのです。枕元に八重さんが注意深く付き添っている様子です。「余ハ俄二精神ガ変ニナツテ来タ」「例ノ如クナルカ知ラン」とあるのは、この頃常襲していた心身のパニック=「逆上せ」(のぼせ)が来そうだと予感したからです。子規はすでに、「生きているのが不思議」(全集解題担当・蒲池文雄さんの言葉)というくらいの病状にあり、苦痛に耐えかねて絶叫するというようなことも、この年の五月頃からよく繰り返していたのです。この秋の夕方も、その発作への予感が生じ、それを抑えるための話し相手が欲しくなり、それがたまたま四方田クンになったという訳だったのでしょう。

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電報用紙を持って出かけようとする八重さんに,息子を一人にするのを用心している気配が感じられます。直接には、留守中の逆上(のぼせ)発作への心配からなのでしょう。
   
車屋ではなく時間がかかる郵便局までお母さんを行かせようとした自分の「心ノ中ハ吾ナガラ少シ恐ロシカツタ」とありますが、そのわけは、次葉で分かりますが、すでに自殺への心の流れがこの時点で動き始めていて、そのために八重さんの帰宅を少しでも遅らせようと企む自分が「少シ恐ロシカツタ」のです。わが子ノボ(子規)の、そうなりそうな心の傾きにまでこの時の八重さんが気づきかけていたかどうか、その点は不明ですが・・・。
   
しかし、いつも人の出入りの絶えない家の賑わいの中心人物である息子のこころが、「死」という最大の主題に向かって切迫し始めていることは、八重さんの母親としての本能はすでに気づいていたと思われます。なぜなら子規は、この年始めた「墨汁一滴」で、こんな文章も新聞「日本」紙上に発表するところへ来ていたのです。

    一 人間一匹
    右返上申侯 但時々幽霊となつて出られるよう 以特別御取計被可侯也  
                                                          何がし
       明治三十四年月日
             地水火風神中
  これは4月9日掲載ですが、5月9日には、臼歯左右共に失ってしまった身の上を嘆いて
             衛生上の栄養と快心的の娯楽と一時に奪ひ去られ、
                衰弱頓に加はり昼夜悶々、忽ち例の問題は起る
            「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」
 さらにその4日後の5月13日には、こんなところまで行きついていたのです。

15-6.jpg今日は闕。但草稿卅二字余が手もとにあり。(五月十三日

「闕」は「休み」です。そして左が、その手元にとどめ新聞に掲載することを止めにした草稿です。
最初の行に・墨汁一滴(五月十一日記)規とあって
     
試に我枕もとに若干の毒薬を置け。
        
而して余が之を飲むか飲まぬかをかを見よ
となっています。もしこれが日本新聞社に送られ掲載されてしまっていたらと想像するとゾッとします。
  
八重さんが、これらの記事を読んでいて止めたなどというのではありません。八重さんは、我が子の心の帰趨を言葉少ないままに感受し、能うかぎり受容して寡黙に振舞う武士の家系の母親でした。松山藩の儒学者・大原観山の長女であり、武家の正岡家に嫁ぎ、その嫡男・正岡常規を産み、その成長を見守ることに徹した母性の人でした。
  
一方子規の方は、妻子を持たず壮年期を生きている明治の日本男子でした。病気の苦痛が昂進する中、生きる楽しみを失い成すべきことが成せなくなることへの予感に、既に苛まれていました。しかも尚、明治期の日本の「世間」に対して自分というものを死を恐れない「男子」として提示していく気持ちの昂ぶりは、この段階でここまで来てしまっていたのでした。
  
それは絶望の果てというより、日清戦争従軍を強行したあの「ますらおぶりの心」の辿り着いた極致のひとつでした。この「毒薬を置け。」「飲むか飲まぬかをかを見よという表現は、日清戦争従軍に当たって詠んだ(当連載NO1で引用・)
      
「行かばわれ筆の花散る処まで」  (俳句)
      
「かへらしとちかふ心や梓弓矢立たはさみ首途すわれは」  (短歌)
    
これらの辞世めいた俳句・短歌と同じ心情的ルーツを持っているのです。

その彼に、日本新聞社への卅二字の送稿を踏みとどまらせたのは、何だったのか?
  おそらくそれは子規自身の単独の心動きからだったと筆者(八荒)は想像しています。
  彼は孤独ではありませんでした。妻子は無くとも、八重さんも律もいました。お隣には陸羯南一家、また日本新聞のひとびと。ここまでの歩みを支えてくれた親戚の叔父さん集団。そして虚子・碧梧桐・寒川鼠骨・内藤鳴雪・伊藤佐千夫・長塚節・・・子規庵に出入りする文学運動の仲間だけでも、計り知れない人数の人々の中心に彼はいたのでした。離れたところではロンドンには「畏友」漱石、大阪には「親友」太谷是空、松山には柳原極堂他…。これほどの親愛と親炙・共感者の輪の中に生活する人間として実行できるはずのない宣明であることを、引力に逆らえないように自然に悟ったのだと思います。それは哲学や宗教における悟りとは別次元のものだったと思います。彼は、一見愚行の極みであった日清戦争従軍の後、生き延びて漱石の下宿に転がり込んでいた或日、特異な心境吐露の一句を詠んでいます。郊外散策に出た帰り道、「車上頻りに考ふる所あり 知らず何事ぞ」と詞書をしたうえで
                          行く秋や我に神なし佛なし
  と詠んでいます.。自分の態度や生き方を決めていく姿勢の確認のような重大な一句に見えますが、子規自身がその句を生むに至った「車上頻りに考ふる所」の内容について、直接語ったり発表したことは在りません。しかし筆者(八荒)には、この句を得て以後の子規の歩みはすべてそんな心境の上に立って展開されたように見えるのです。「毒薬を置け。」「飲むか飲まぬかをかを見よ。」と記してしまったことも、その原稿を思い立って手元にとどめたのも、その姿勢から出たものだと思うのです。(自殺への傾斜を踏みとどまれたもう一つの大きな要因に、幼年期に獲得したものが大きく働いていると考えていますがそれについては、この稿のあと触れていきたいと思っています。)

15-7.jpg ところで「仰臥漫録」明治三十四年十月十三日のここまでの記述で、八重さんのことを言うところは、全部敬語で結ばれていることにも注目しておきましょう。最初の
  「・・母ハ黙ツテ枕元二坐ツテ居ラレル」から、
    「余ノ言葉ヲ聞キ棄テニシテ出テ行カレタ」まで、

全部敬語結びになっています。おしまいの方で自殺を思いとどまったことを記した後.にも、「其内母ハ帰ツテ来ラレタの敬語表記になっているのです。

子規にとって八重さんは「母君」「母様」「母上」であり、行カレタ」「来ラレタと自然に敬語結びで書きとめる存在だったのです。そして八重さんの方は、少年期以降壮年期に自分に先立って病没する迄、息子「ノボのする一切の行為を受容する無限の母性を、言葉少ない静かな振る舞いの 中で発揮し続ける存在だったのです。
  
その八重さんも出かけひとりになった子規庵で、あの自殺への情動が動き始めます。

15-8.jpg

 以下、その心身の動きの実況中継のような記述が続きます。

       次回NO16はこの続きから始めます。

 はじめに申し上げた、なぜ子規は後日になって(おそらく十五日)新しく綴り始めた「仰臥漫録」(二)の冒頭に、十三日夜の結びとして「再ひしやくり上て泣候処へ四方太参りほときすの話 金の話などいろ く 不平をもらし候ところ 夜に入りては心地はれ く と致申候」の一節を書き加える気になったのか…。かつその結びの一節がなぜ急に「候文」となってしまったのか…という疑問に次回は、踏み込めると思っています。次回、

(番外) 子規に於ける「ますらおぶりとたおやめぶり」 3.

7月1日の予定です。

(パソコンの不具合が始まっており、その結果次第ではNO16以下の掲載が遅れることがあることを、あらかじめお断りします。)
          「子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承  
              第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが」
 とした人間成長の年代記風な枠組みからの脱線が続いていますが、この調子が続くと思います。大いなる文学者になった段階と、成長過程の要素が行ったり来たりするのであることを発見した思いがしています・・・よろしくお付き合い下さい。

 

 

 


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日めくり汀女俳句 №36 [ことだま五七五]

四月十二日~四月十四日

         俳句  中村汀女・文  中村一枝

四月十二日
行春(ゆくはる)や 波止場草なる 黄たんばぼ
     『汀女句集』 行春=春 蒲公英=春
 子供の時、新しい教科書を貰うのは嬉しかった。とりわけ国語は貰った日に最後迄読ん
でしまった。私のように活字には恵まれている家の子供でもそうだったのだから、一般に
本が手に入りにくい家の本好きの子にはなお更の事だったに違いない。
 今でいえば軍国主義一色に彩られている教科書で国側からすれば愛国心の強い克己心に
富む子を育てたかったのだろう。弟橘按が身を投げ海神を沈めたり、山中鹿之助が、我に七難八苦を与え給えと祈ったり、那須与一が扇の的を射ると敵味方喝采したり、英雄澤にはロマンがあった。

四月十三日
雲浮び 何か明るし 春の風邪
            『汀女句集』 春風邪=暮
 春の天気の変わり易さ。昨日は半袖、今日は衿(えり)巻きということもしばしば。寒暖の差の激しい時はよく風邪をひく。
 私は子供の頃、小児喘息の常習者で、今時分はほとんど寝ていた。春めいた空気が家の内にもざわざわ入り込んでいる中、寝床の中から、庭の変化や、外で遊ぶ子供のにぎやかな声を聞いているのはやるせなかった。咳にきくからと、蟻蛤(とんぼ)の乾燥したのをごそっと持ってきてくれた人がいた。
 廊下につり下がったひからびた晴蛤の目玉が、いつもじっとこっちを見ていた。

四月十四日
今別れ 来(きた)りしばかり 春灯(はるともし)
               『花影』 春灯=春
 結婚して十年間、汀女は句作をやめた。大正十三年に長女涛美子、十五年に長男、昭和四年には次男と子供が生まれた。当時の事とてお手伝いはいただろうが、手のかかるいた
ずら盛りの男の子たちには手を焼いた。十三年には、東京から仙台へ、十四年には名古屋、同じ年に大阪、昭和五年には横浜と、目まぐるしい転任の年月でもあった。働き盛りの夫も、多分妻が悠々閑と俳句を作る事は好まなかったのではないか。
 その間、暇があると、鏡花と探偵小説を読んでいた。充電期間でもあった。

『日めくり汀女俳句』 邑書林

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草木塔 №42 [ことだま五七五]

或る若い友 8

               俳人  種田山頭火

 生えて伸びて咲いてゐる幸福

 閉めて一人の障子を虫が来てたたく

 影もはつきりと若葉

 ひよいと穴からとかげかよ

 誰も来てくれない蕗の佃煮を煮る

『草木塔』 青空文庫

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読む『ラジオ万能川柳』プレミアム №66 [ことだま五七五]

                読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆6月5日、12日放送分

          川柳家・コピーライター  水野タケシ
  
川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」
2019年6月5日放送分の内容です。


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今朝は見せるものがないとお嘆きの、あさひろ名人!

「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
http://fm839.com/program/p00000281
放送の音源は……https://youtu.be/WAL55HzeUHo

【質問コーナー】
万能川柳とその他の川柳とでは、大きな違いがどこにあると師匠はお考えですか?
(離らっくすさん)
回答は……https://youtu.be/WAL55HzeUHo

 (みなさんの川柳)※敬称略 今週は172句の投句がありました!!
 ・気温みてメニューを変える妻の愛(名人・グランパ)
・ランドセルとにかく逃げよ変な時(昔のジョー)

☆タケシのヒント!
「『引きこもり』がクローズアップされた1週間、タイムリーな一句でした。ランドセルだけじゃないですね。私たちも逃げましょう。変な時は。」

・最低なことばを産んでいる議員(外科系)
・開会式チケットよりもテレビ買う(名人・キジバト交通)
・大相撲拍手が出ないカウボーイ(初投稿=イノっち)
・福山を岡田がジャマす日曜日(名人・平谷妙子)
・一茂よそれは何でも言い過ぎだ(名人・六文銭)
・日々テレビ出てる教授の胡散臭さ(名人・龍龍龍)
・新聞もテレビも見ないむごさかな(名人・入り江わに)
・母ちゃんと新幹線に乗りたいな(ワカメちゃん)
・恥ずかしいデータ消さなきゃまだ死ねぬ(soji)
・五時に夢中終わった後は不倫夢中(よっきゅん)
・一巻だけ並ぶ本棚ディアゴスティーニ(初投稿=大波小波)
・初めての九州行くぞお一人で(ナナチワワ)

☆あさひろさんのボツのツボ!
「ラジオ万能川柳。172の投句。中にプロ野球ヤクルトの連敗を嘆く人(秦野てっちゃん・よっきゅん・フーマー)、6月に祝日が無いのに落胆する人も複数。そこで今週のボツのツボ。『言い訳にお腹痛いを覚えた子』ナナチワワ。そのうち「金縛りにあってとか親族の葬儀が・・」とか言い出す大人になるのね。」

・友達はよいものと知る舞台袖(ペンギン)
・気まぐれと言ってる人が起こす風(大名人・雷作)
・風じゃない気まぐれなのはあんたでしょ(里山わらび)
・おっぱいがブラと一緒にとれるサギ(名人・荻笑)
・死ぬ前に捨てておきたいモノがある(小把瑠都)
・マスコミがAIよりも怖い時(名人・不美子)
・露出度でヨミ子に完勝酔とぉよ(爽抜天)
・エリートの家庭も悩み有ると知る(のりりん)
・ツバメ来て祖父も笑顔を取り戻し(はる)
・この息子同情もする元次官(名人・フーマー)
・風さえも変えられるぞとニヤケ顔(司会者=名人・あさひろ)
・役演じ私生活でも助さんに(名人・アンリ)
・締め切りが迫り始まる引きこもり(大名人・けんけん)
・ヨミ子さんこまぎれで観る強運会(名人・かたつむり)

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・倒してよナダルフェデラージョコビッチ(クッピー)
・ツバメ来て老人ホーム活気づく(名人・アキちゃん)
・万柳が勝率10割絶好調(パリっ子)
・暑いねぇ知らぬ人にも声かける(模名理座)
・幸せって何かと事件問うてくる(大名人・光ターン)

◎今週の一席・ランドセルとにかく逃げよ変な時(昔のジョー)
◯2席・風じゃない気まぐれなのはあんたでしょ(里山わらび)
◯3席・暑いねぇ知らぬ人にも声かける(模名理

【お知らせ】
全国公募「ぬまづ文芸・川柳部門」いよいよ6月1日、作品募集スタートです!!
さて、2015年から 、静岡県沼津市の沼津市芸術祭、文芸部門「ぬまづ文芸」の川柳部門選者を務めております。
ぬまづ文芸は今年で46回を数えます。沼津市の主催なのに、何故に全国公募なのか。
それは、沼津が、井上靖 、若山牧水、 など著名な文学者たちとのゆかりが深いこと。
そして、当時の市長さんの、「沼津市にとどまらず全国公募にして切磋琢磨して技量を高めよう」
という高い志によるものです。
一人一句の真剣勝負です。全国からたくさんのご応募をお待ちしています。
高校生以下無料ですので、まわりの若い方々にもぜひおすすめください。
詳しくは、私のブログ「水野タケシの超万能川柳!!」をご覧ください!

 【放送後記】
今週もたくさんのご投句ありがとうございます!
今週も初投稿の方がおふたり、ラジ川の輪がどんどん広がっていること実感しています。
その分、当然「狭き門」になってしまい恐縮至極なのですが、
引き続きおつきあいよろしくお願いいたします!m(__)m       タケシ拝

〇2019年6月12日放送分です。 

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かたつむり画伯のシャンシャンのイラストを手に!

放送の音源は……https://youtu.be/9ToJ7ElAK0A

【話題】
川柳にも造詣が深かった田辺聖子さんがお亡くなりになりました。
というわけで、今朝は急きょ、原稿を書き換えてきました。
田辺さんには、『道頓堀の雨に別れて以来なり』(中央公論社、1998年刊)
という川柳に関する名著があるんですが、この小説にこんな文章が載っています……。
https://youtu.be/9ToJ7ElAK0A

 (みなさんの川柳)※敬称略 今週は153句の投句がありました!!
・久々に与野党一致バカ議員(名人・りっちーz)
・あっそうと言えぬ老後の二千万(大名人・春爺)
・あさひろ氏かっこいいとは知れ渡り(名人・平谷妙子)
・父の日を忘れていない母一人(名人・やんちゃん)
・気のせいか令和で増えた大事件(soji)
・靴擦れのことは覚えている旅行(名人・荻笑)
・権力とハンドル握りゃ人変わる(名人・龍龍龍)
・公園でわずかにゆれた4WD(名人・東海島田宿)
・一人なら一千万ですむのかな(あまでうす)
・ボツのツボ秀逸並みに嬉しいな(ナナチワワ)
・山ちゃんに我も成れるか美女野獣(パリっ子)
・ごきぶりのやっつけ方で盛り上がる(味野素子)
・気にしてよ顔のしみより歴史の汚点(初投稿=みなとかおる)
・深緑に噴水高く歌い出す(名人・マルコ)

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・ふれあいはお肌ではなく川柳で(重田愛子)
・この季節ゴミ出しだけはサボれない(大名人・光ターン)
・二千万?百年安心どこ行った(司会者=名人・あさひろ)

☆あさひろさんのボツのツボ!
「ラジオ万能川柳。突然の2000万円!2万円の間違いじゃないの?今週はあの名人も、あの大名人もボツに。壺の中には秀作がいっぱい!そんな中で今週のボツのツボは、“不美子”さん・・のお歳!いつも年齢不詳?詐称?な、お洒落なお歳が今週は「雨が降りそうだから」とだけ。えぇ~、だからどうなのよ~。」

・百分の一秒どんな世界なの(名人・アンリ)
・幸せになる筈だった詩梨(ことり)ちゃん(大名人・けんけん)
・いつの日か私もきっとうふふふふ(メン子ちゃん)
・知らないの?日本は貧しくなったのよ(名人・入り江わに)

☆タケシのヒント!
「急に騒ぎ始めた『老後2000万円』問題。でも、いつかは大問題になると、以前からわかっていたことでもあります。わかっているのに先延ばしにしてきた政治、役所、マスコミ、そして、私たち自身を痛烈に批判する一句です。」

・咄嗟にはサイドブレーキ引けぬかも(はる)
・おじいさんばかりが車走らせる(名人・フーマー)
・小把瑠都サン捨てておきたいモノて何?(のりりん)
・笑えない闇につながる芸の先(黒耀舎)
・カウントをしながら土下座したのかな(柳王・ユリコ)
・子は宝虐待の親許せねえ(名人・鵜野森マコピイ)
・期待大百メートルを九秒で(つや姫)
・愛子さんツーショットは思い出に(名人・ポテコ) 
       (添削例)思い出す愛子さんとのツーショット

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・イノシシがウリ坊隠す爺の軽(爽抜天)
・壁破るカタカナ名のアスリート(大名人・雷作)
・夏物を出したらすぐに冬支度(名人・キジバト交通)
・山ちゃんがどんどんどんどん男前(名人・かたつむり)

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・就活の息子(こ)より母さん深呼吸(名人・アキちゃん)
・雑草は決してザツな草じゃない(あやや)

◎今週の一句・知らないの?日本は貧しくなったのよ(名人・入り江わに)
◯2席・権力とハンドル握りゃ人変わる(名人・龍龍龍)
◯3席・一人なら一千万ですむのかな(あまでうす)

 【放送後記】
最近、珈琲にはまっています。
珈琲の深い香りが気分を変えてくれるからです。
今朝も自分で淹れて、スタジオに持ってきました。
今朝はグァテマラ。深い甘い香りがたまりません。ちょっもしたゼイタク(・˃̵ᴗ˂̵)
        タケシ拝
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 水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
著書に「水野タケシ三〇〇選」(毎日新聞東京センター)、
「いちばんやさしい!楽しい!シルバー川柳入門」(河出書房新社)、
「これから始める俳句・川柳いちばんやさしい入門書」(神野紗希さんとの共著、池田書店)。
 


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雑記帳2019-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

209-6-15
◆今回の街歩きは梅雨入り前の江戸城、北の丸公園です。

現在北の丸公園になっているところは、太田道灌が江戸に城を築いた頃は、関東の守護神でもあった平将門を祭神とする築土神社の旧地でした。
原生林のようだったこの地に入府した徳川家康が、関東代官だった内藤清成らに屋敷を建てさせたので、大官町と呼ばれました。江戸城造営後は北丸と称し、多くの大名屋敷が立ち並びました。
明暦の大火で焼け野原になったのち、御三卿の田安家と清水家が北の丸の西側と東側の半分ずつを所有しました。(ちなみに、御三卿の残る一つは白河領主松平家です。)
明治には近衛師団の兵営地となり、戦後は森林公園として整備され、昭和44年に国民公園となって、市民に開放されています。

集合場所は千代田区役所。区役所前に大隈重信雉子橋邸跡の標識がたっています。
大隈が早稲田大学を造る前の住居で、大学の建設に関する事務方になっていました。雉子坂の由来は、当時清国の勅使をもてなす際、清国人が好んだという雉をここで飼育していたからだそうです。

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千代田区役所
千代田区役所大隈邸跡 のコピー.jpg
大隈邸跡地を示す標識

区役所の真ん前にあるのが清水門です。戦に備えた、二重がまえの桝形門になっています。寛永元年、1624年に建てられた当時のままの姿で残され、扉金具には万治元年(1658)の銘があります。8代将軍吉宗の孫、重好が清水家を起こして北の丸の東側半分を所有しましたが、家名は門の名にちなんでつけられました。

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清水門

清水門をはいって上る登城の段々は、現代人にはかなりきついもので、蹴上が30cm以上あります。北の丸への最初の難所です。

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今は草生した登城の段を上る

明治7(1874)年、皇居守護のために、日本陸軍最初の歩兵聯隊である近衛歩兵連隊が創設されると、第一聯隊、第二聯隊が北の丸に駐屯しました。旧田安家跡地に第一聯隊、旧清水家跡地に第二聯隊の兵舎がありました。近衛兵には毎年の徴兵検査で全国から厳選された男子をもってあてられました。昭和20年の終戦まで71年間駐屯し、西南戦争、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争に出征、多くの死者をだしました。皇居の守護の為に採用されたエリートでありながら、戦争のたびに真っ先に駆り出される運命だったのです。聯隊は終戦とともに解散しました。

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第二聯隊兵舎の碑 後ろに細かい字で戦没者の名前が刻まれている。

駐屯する将兵の散策や憩いの場所として明治31年(1908)には小公園「怡和園」が整備されました。怡和とは「喜び和らぐ」の意味です。
当時兵舎から外出することが禁じられた兵隊たち(将校は外から通いでした)が、ここから堀の向こう側に拡がる町並みの夜景を眺め、家族を想い涙したといわれます。「かごの鳥」は遊女の世界だけかと思いきや、そうでもなかったのですね。怡和園碑のある対岸には、赤い色が話題になったイタリア会館が眺められます。並んで立っていた日独会館は今はなくなりました。

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怡和園の碑
怡和園対岸イタリア会館 のコピー.jpg
対岸のイタリア会館

明治41年(1908)建設された旧近衛師団司令部庁舎は、昭和52年(1977)に一部を改装して東京国立近代美術館工芸館として生まれ変わりました。国の重要文化財になっています。近代美術の中でも工芸及びデザイン作品を展示紹介する、東京国立近代美術館の分館です。日本人が設計した、現存する数少ない遺稿として重要な文化財です。終戦の折、玉音放送を阻止しようとした将校たちの録音盤奪取事件の舞台になったことでも有名になりました。

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国立近代美術館工芸館
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正面の作品 空光秋作 遷移(Succession)

明治時代に流行した勇壮な武将の銅像は北の丸公園にもあります。北白川宮能久(よしひさ)親王の像です。
能久親王の一生は、天皇家に生まれながら、幕末から日清戦争にかけて戦争に翻弄された気の毒な生涯でした。弘化4年(1847)伏見宮邦家親王の第九皇子として誕生、安政5年(1858)上野寛永寺の門跡となりました。徳川家の菩提寺である寛永寺は、代々京都から門税を迎えることになっていたのです。慶応4年(868)戊辰戦争では、寛永寺門跡という僧籍のまま、皇族でありながら朝敵となり、上野に立てこもった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、逃避先の東北では奥羽越列藩同盟の盟主に担がれることになります。明治3年(1870)、還俗して軍隊に就き、歩兵第一師団長、近衛師団長と出世するものの、明治22年(1895)日清戦争に出征して台湾へ。平定したものの、台湾でマラリアにかかって病死しました。明治36年(1903)建立当時は近衛第一・第二聯隊の正面にありましたが、昭和38年に現在の場所に移りました。銅像になってから後も他者の都合で翻弄される運命の人なのでしょうか。銅像はほかに吉田茂像もあります。

北白川宮能久親王像 のコピー.jpg

こちらは昭和の建物、科学技術館です。昭和39年にたてられ、当時の近代技術へのあこがれをこめたのか、壁は一面、星のデザインが施されています。
ちょうど、毎年開かれる全国矯正展(全国刑務所作業所製品展示即売会)がひらかれていました。全国の刑務所の受刑者の作品は安くてしっかりしていると評判で、毎年訪れる常連伽もいるほどの人気だということです。

科学技術館 のコピー.jpg
近代科学館では全国の受刑者の作品展示即売会がひらかれていた。

公園の中で意外に知られていない場所はいくつもあって、その一つに、気象台観測露場があります。平成26年に大手町から移転しました。東京の降水量、気温、蒸気圧、露点温度、相対湿度、雪(降雪・積雪)、気圧をはかっています。

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昭和39年は東京オリンピック開催の年です。柔道競技会場として前年に建設された武道館は、法隆寺夢殿をモデルにした八角形、大屋根の稜線は富士山をイメージしています。日本の武道(柔道、剣道、弓道、相撲、空手、合気道ほか)の稽古場、競技場として、また、はばひろくkンサートや格闘技の工業会場、大学や企業の大規模な入学式や卒業式、株主総会の会場として使用されています。昭和41年にはビートルズのコンサートが行われました。

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武道館 屋根は法隆寺の夢殿を模したという。

武道館の後ろにある弥生慰霊堂は、警察庁、東京消防庁の殉職者を祀っています。西南戦争で戦士した警察官は名誉の戦死者として靖国神社がある一方で、凶悪事件でなくなった場合には追悼の場がなかったことから生まれたの弥生神社です。殆ど知る人もいないようですが、花見客でにぎわうころ、静かにお弁当を食べるに絶好の場所です。

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弥生御影堂

北の丸の西側半分を所有す田安家は、吉宗の次男宗武がおこし、清水家同様、門の名にちなんで田安を名乗りました。門のあたりは、上州方面への道が通じていました、古くは田安大明神があったので、門名に称したといわれています。清水門より少し後の寛永13年築といわれていますが、立派な石垣は清水門には見られない特徴です。

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見事な石垣の田安門

北の丸を囲む堀は、田安門を出た東が牛ケ淵、西が千鳥ケ淵と呼ばれます。淵はダムの意味で、飲料水の確保を目的にせき止められた水域を意味しており、城の防衛上の水域は濠と呼んで区別します。だれもが知る東京の桜の名所、千鳥ヶ淵は、淵全体がチドリの形をしているからと伝えられ、牛が淵は、九段坂が当時非常に急峻で、牛が落ちたためといわれています。田安門のほうが九段坂の上にあたり、牛ケ淵のほうが九段下になります。
九段は、日本橋川から田安台に向けて続く道が、武蔵野段丘を上がるこのあたりに、9層の石段があったことに由来します。

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田安門を出て見下ろす牛ケ淵

田安門を出て、千鳥ヶ淵遊歩道へ向かう途中に、高灯台と大山巌の銅像をみることができます。高灯台のあたりは改修中で、並んでいた品川彌次郎の像はどこかへひっこしていました。高灯台は明治4年に東京湾、品川沖の船舶、軍艦の航行の目印の為に建設されたものでしたが、昭和5年に道路をまたいだ現在の地に移転しました。

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高灯台

北の丸公園散策の最後に、千鳥ヶ淵遊歩道を歩きました。戦後植えられた桜の木は、樹齢70年に達し、そろそろ限界です。養生しながら守ってきましたが、若木との世代交代の時をむかえています。全国にある桜もいま、同じような運命ですね。大樹になった老木も捨てがたいけれど、若木の成長を見守るのも元気をもらえそうです。

この日のお昼はル・プティ・トノーでフレンチを。

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オリジナルのパテが美味しい前菜
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メインにはとりとトマトのリゾットで
    

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私の中の一期一会 №192 [雑木林の四季]

              スポーツ競技に於ける“ビデオ判定”の問題点を考える
          ~栃ノ心・朝乃山の一番は”相撲史に残る誤診”かも知れない~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 日本ハムのドラフト1位ルーキー、吉田輝星投手(18)が交流戦の広島戦でプロ初登板を勝利で飾って喝采を浴びた。
 強力打線で知られるセ・リーグ3連覇の広島カープを相手に,5回を4安打、4三振、2四球、投球数113という立派なもの。リリーフ4人もキッチリ無失点リレーで締めて初登板のルーキーの勝ち星を消さなかった。
 最速は147キロだったらしいが、初回いきなり安打と2四球で迎えた1死満塁の大ピンチに、好打者西川に3球連続の直球勝負を挑んだ。そして見事、空振りの3振に仕留めたのである。
「自分の真っ直ぐは、ある程度通用したのかなと思う。ファームでも5回を投げ切ったことがなかったので、どうせなら本番でやりたいと思っていた。勝利投手よりそっちの気持ちの方が強かった」と笑ったという。
 度胸満点のルーキーは、“21世紀生まれ初の勝利投手”だと新聞に書かれた。
 「勝つことより“5回以上を投げ切るぞ”というメンタルを備えてこそプロなのだ」と吉田輝星は考えているのではないだろうか。
 並みの新人ではない。怪我さえなければ、間違いなく大器としての将来が待っている筈だ。
 ダルビッシュ、大谷翔平、清宮幸太郎,そして吉田輝星・・頼もしい新戦力が、またも日本ハムから生まれようとしている。
 北海道日本ハムファイターズの選手育成手腕は、日本球界ではずば抜けているように思えてならない。
 スポーツ総合誌Numberが、6日に福岡のヤフオクドームで行われたプロ野球・ソフトバンク対中日の試合で起こった“リクエストをめぐる誤審騒動”をビデオ検証の問題点として取り上げて書いている。
 問題のプレーは4-4の同点で迎えた8回表、中日の攻撃中に起こった。
 打者大島がライトポール際のフェンスを直撃する長打を放った。打球は跳ね返って転々と転がった。  
 大島は3塁を蹴ってホームにヘッドスライディングしてのクロスプレーとなった。
 アウトかセーフか、微妙だったのは確かだった。
 土山球審は「アウト」の宣告だったが、与田監督が直ちに「リクエスト」を要求したのである。
 審判団がビデオを検証している間に、4方向からの映像が場内に流されたが、どれもホントに“微妙”だった。
 大島にタッチにいったキャッチャー高谷のミットは空を切ったように見える。
 大島の手が相手捕手のタッチより先にホームプレートに触れているようにも見えた。
「セーフ」ならランニングホームランだが、「アウト」のままならホームランも“まぼろし”になってしまう。
 検証の結果は、判定どおり「アウト」であった。
 この判定に中日ベンチは、一斉に不服のジェスチャーを示したという。だが、ビデオ検証に対する抗議はルール上認められていない。
 同点で試合は再開されたが、その裏ソフトバンクの攻撃でも本塁上でのクロスプレーがあり、この時も「アウト」の判定があった。そして今度は工藤監督がリクエストを要求した。
 この時のビデオ検証では、「アウト」から「セーフ」に判定が覆っている。
 「リクエスト」成功のソフトバンクは、2点を取って試合に勝利し、「リクエスト」失敗の中日は4-6で敗戦という皮肉な結果になった。
  審判団は試合後、「判定変更に値する確証を得られる映像はなかった」という回りくどい説明で記者団に見解を示した。 
  Nunberの記事によると、試合が終わったあと与田監督がビデオを確認して「一番気になったのは、タッチの時、キャッチャーのミットの中にボールがなかったのではないか」と述べて、アウトという判定は誤審ではないかと疑問視している。
 中日側の主張は、「キャッチャー高谷はボールを持った右手をミットに添えてタッチにいっていた。タッチの瞬間には上体が伸びて右手とミットは離れているように見える」という主張だ。
ボールは右手にあって、タッチしたミットの中に“ボールがない”としたら、タッチされていないことになるのでは・・という訳だ。
 リクエストの結果に対する抗議は認められていないのは承知の上で、納得できない中日側は“意見書の提出”をセ・リーグ統括に投げかけようとしたのである。
 結局、意見書の提出は「不可」とされたが、後味の悪さは残ったままになった。
 この問題は後を引くかも知れない。
 大相撲夏場所13日目、10勝すれば大関復帰となる栃の心・朝乃山の一番は、物言いがつく際どい相撲になった。
 復帰まであと1勝がかかる栃の心が土俵際で、すくい投げからの突き落としで朝乃山を横転させた。
 行事軍配は栃の心に上ったが、土俵下の放駒親方(元玉乃島)が手をあげたのだ。
 検査役5人の意見は割れ、何度もビデオ室と連絡を取り、約6分に及ぶ異例の審議となった。
 阿武松審判長が「栃の心のかかとが出ており・・・」と差し違えをアナウンスすると、館内では大ブーイングが起こり騒然となった。
 ビデオを参考にしながら「目の前の審判が正しい。放駒親方の目を重視した」という審判長の説明は説得力に欠けるものだった。テレビを見ていた私にも“納得し難い結論”に思えた。
 繰り返し流されたビデオの映像では、栃ノ心の右かかとは確かに土俵から少し出ているが明らかに浮いていたと思う。
 審判長の「ビデオでは蛇の目とかかとの隙間が見えない・・」という説明は違和感を覚えた。
 最も近くで見ていた放駒親方の「かかとが砂を連れてきた」という表現もどういうことかよく分からない。
 栃の心は支度部屋で報道陣に「見てたでしょ?勝ったと思った」と人目もはばからず悔し涙を流したという。
 “不当な誤審”と感じた人が多かったと思われる。取組み後、相撲協会には“不可解な判定”に抗議する電話が殺到したという。
 スポーツ競技で、審判員の肉眼での判定が難しいときや判定に異議があるときに、録画されたビデオ映像を活用して判定を検証するのが「ビデオ判定」である。
 野球、サッカー、アメリカンフットボール、テニス、卓球などの球技ばかりでなく、柔道、相撲、ボクシングなどの格闘技などでも、“審判の誤審”が生じることはしばしばることだ。
 “不当な判定”もまた誤審であり、ホームタウンデシジョン、政治的圧力も誤審ということになる。
 最近は誤審が起きないよう様々な対策が競技ごとにとられるようになってきている。
 ビデオ判定は、公平性という観点からみても有効な対策といえるのではないだろうか。
 ただし、審判の独立性が保たれないと、誤審は生じる。
 日本のプロ野球では、大リーグの「チャレンジ制度」に倣って、昨年から「リクエスト制度」が導入された。
 クロスプレーをビデオで検証する“リクエスト制度”がそれである。
「リクエスト制度」の一番の問題点は、ジャッジした審判員が「自分達で自分達の誤りを検証する」ことにある。そこには第三者の目がないことが大きな問題なのだ。
 メジャーリーグでは2014年から「チャレンジ制度」が導入されている。
 監督の要求でビデオ検証が行われるのだが、アンパイヤ―はベンチ横でインターカムをつけて、ニューヨークの専用スタジオからの判定を待つだけで、ビデオ検証には加わらないのだ。
 専用スタジオでは全球場の映像が一括管理されていて、そこに待機する8人の分析担当審判員がビデオを判定する。当該審判がビデオ検証に加わらないことは公平性を保つ上で重要だからだ。
 メジャーのほうが日本より、制度としては優れていると言わざるを得ない。
 中日球団は、意見書を出せなかったが、日本のプロ野球における“ビデオ判定の問題点”を提起したと言えるのではないだろうか。
 大相撲だって親方衆以外の専門検査役を置いて、ビデオ判定専門職を要請すれば、ファンのブーイングや相撲協会への抗議電話も減る筈である。
 18年シーズンのリクエスト総回数はセ・リーグが251回、パ。リーグは243回、合わせて494回。
 そのうちビデオ検証で、ファーストジャッジが覆ったのは162回だった。
 リクエスト成功率は32.8%だった。これは誤審を防げた割合である。
 メジャーでは、17年シーズンに1172回のレンジがあり、成功率50,2%だったという。
 いずれにしてもビデオ検証するのは人なのである。
 不信感を募らせないためには、“第三者の客観的な目が大事だ”ということだけは間違いない。


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浜田山通品 №244 [雑木林の四季]

高田博厚の遺作、中野重治胸像

             ジャーナリスト  野村須美

 5月27日、東武東上線の高坂駅に高田博厚彫刻プロムナードを見に行った。案内に来られたのは、今年の3月まで地元の白山中の校長を勤めておられ、現在は東松山市教委勤務の比島順氏である。この人が驚いたことに福井県出身で、母方の親戚に中野重治さんがいるという。東松山でかっての福井文人会の先輩たちにめぐりあったとは。帰宅すると博厚さんの「分水嶺」が書棚から出てきた。昔少しは読んだはずだが、何一つ憶えていない。しかしこれは何としても読まねばならない。なにしろ30年に及ぶヨーロッパ滞在である。暗い谷間の時代、レジスタンスや解放の波瀾の現代史、ロマン・ロランやアラン、ガンジーらとの交流などすさまじいものだ。この時代は日本がドイツと同盟を結んでいたり、フランスのビシー政権がいち早くナチスに屈服したりして、どちらがどうなのかよくわからない。その中で博厚さんは日本人会長として大活躍をする。この「分水嶺」は日本人が20世紀ヨーロッパに築き上げた最高の文学でもある。
 比島さんは福井県松岡町の生まれ。昨年の秋、もう最後になるだろうと85歳の母親と松岡町に出かけた。終戦後も織物業が盛んで、いまも鋸屋根の工場が残っていたという。もっとも取り壊す費用がかかるのでそのままになっている。わびしいけれど致し方ない。
 松岡町から九頭竜川を渡って北へ行くと丸岡町につく。町村合併で昔の町村名は消えてなくなり丸岡は坂井市となった。それでも丸岡城は昔のまま残り、城のふもとに中野重治文学記念坂井市立丸岡図書館がある。中野は1979年8月24日死去。77歳だった。57年に蔵書が丸岡町に寄贈され、翌年中野重治文庫記念丸岡町民図書館が落成した。
 私はこの図書館と生家跡を一度見に行ったことがある。屋敷のすぐそばを丸岡線が走っていた廃線跡を見たり、サンマイ谷まで田ん圃の中を歩いたりした。もうほとんど記憶に残っていないのだが、図書館の入口付近に内田莉莎子さんへの手紙を銅板にしたものがおかれていたように思う。莉莎子さんは魯庵の息の内田巌画伯のお嬢さんで、私の早大露文科の二年先輩だった。内田家は経堂あたりの梁山泊のようなもので、同級だった吉上昭三(ポーランド文学)さんと結婚した。2人の結婚のお祝いの手紙だったように思うが定かではない。
 この中野重治文庫は寄贈された書棚、書斎だけだったが、いまは市立図書館も新築されて見学者が絶えない。そして書庫の中心に立っている中野重治の胸像は、高田博厚さんの遺作になった。博厚さんは中野さんより2年先輩で、亡くなるのも中野さんの方が早かった。先輩はヨーロッパ中をかけめぐり、中野さんは心の中で福井という日本のド田舎を生き抜いた。遺作になった中野重治像は、メガネもかけておらず、いかにも病気と闘っているような風情だが、文庫の書棚の前におかれると、私のような終戦直後からの中野重治ファンにとってはたまらないものがある。東松山市は比島順さんという最高の生涯学習指導員を得て何よりでした。ことしは11月2~4日には日本最大のウオーキングイベント第42回が行われる。成功を祈ります。

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BS-TBS番組情報 №188 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年6月のおすすめ番組(下)

                                                BS-TBS広報宣伝部

名曲誕生!作曲家・浜圭介物語~舟唄そして石狩挽歌~

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2019年6月22日(土)よる6:30~8:54

☆作曲家・浜圭介が、数々の名曲誕生秘話を思い出の地で語り、歌う人生のベストアルバム!

出演:浜圭介
ゲスト:奥村チヨ、八代亜紀、森昌子、細川たかし、門倉由希、石井聖子、パク・ジュニョン、川上大輔、松阪ゆうき/北原照久

昭和歌謡史に燦然と輝く名曲の数々を手掛けてきた作曲家・浜圭介。
戦後の旧満州で生まれ、青森~北海道で幼少期を過ごし、歌手を目指し上京。デビューにこぎつけるも鳴かず飛ばすで、作曲家に転身。
1971年、現妻である奥村チヨに提供した「終着駅」が大ヒット…その後、八代亜紀の「雨の慕情」、「舟唄」や、北原ミレイの「石狩挽歌」など名曲を世に送り出した。
だがその人生は決して順風満帆ではなかった…
番組では、浜圭介が波瀾万丈の半生を思い出の地を巡りながら振り返り、ゲストを交えて歌い旅してゆく。
今年で歌手活動に終止符を打つことを発表している妻・奥村チヨとの貴重な共演も実現!思い出の曲「終着駅」にまつわる秘話を明かすとともに、浜圭介作曲で桂銀淑とのデュエット曲「北空港」を披露する。
さらに、北海道にある細川たかしの邸宅を訪問。名曲「望郷じょんがら」を細川たかしが熱唱する。
そして、無名時代からの友人でブリキのおもちゃ博物館館長・北原照久の別荘では、森昌子らも登場!
浜圭介自らギターを手に取り名曲の数々をゲスト歌手とともに奏でる珠玉の2時間半。

美空ひばりに捧ぐ 五木ひろしの名曲熱唱 想い出めぐり旅

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2019年6月29日(土)よる6:30~8:54

☆五木ひろしが一人の歌手にスポットをあてて、その名曲をカウントダウン形式でお届け!今回は、日本を代表する歌姫・美空ひばり。

出演:五木ひろし
ゲスト:キム・ヨンジャ、市川由紀乃
進行:堀井美香(TBSアナウンサー)
特別出演:加藤和也
ナレーター:向井政生(TBSアナウンサー)

五木ひろしさんが一人の歌手にスポットライトをあて、名曲をカウントダウン形式にしておとどけする名物シリーズの4回目。
これまで「三橋美智也」「船村徹」「戦後三羽烏」と、五木さんがリスペクトする大先輩の名曲を歌ってきた。
今回は、日本を代表する歌手、美空ひばりさん。
小さい頃、ひばりさんの歌を聴いて歌手を夢見た五木さんが、名曲の数々をひばり歌謡に定評があるキム・ヨンジャさん、市川由紀乃さんとともに歌い上げる!
さらに、今回はスタジオを飛び出し、たくさんの想い出がつまったひばりさんのお宅へ伺う。
息子の加藤和也さんに出迎えてもらった五木さんは、当時のエピソードを語り合い大盛り上がり。リビングでは、弾き語りも披露する。

にっぽん!歴史鑑定

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毎週(月)よる10:00~10:54

☆その歴史の謎、私が鑑定します!

出演:田辺誠一

歴史に「WHY」や「if」はつきもの。「なぜ、その人物はその行動をとったのか?」「なぜ、その事件は起こったのか?」「なぜ、それは今も受け継がれているのか?」などなど。この番組は、毎回日本史の「人物」や「事件」「文化」などから、知っていそうで知らない、知っているけどもっと深く知りたい、といったテーマを選び、歴史鑑定士・田辺誠一が徹底鑑定!その「謎」を解き明かし、現代の私たちの知恵につなげていきます。

■2019年6月17日(月)
#80(再)「大奥スキャンダル・絵島生島事件」
内容:江戸時代中期の大奥。奥女中をとり仕切る『御年寄』に若くしてのぼりつめた絵島が、男子禁制の女の園に人気歌舞伎役者を忍び込ませていた!?1500人もの関係者が処罰された、大奥史上最大のスキャンダル。女同士の争いに加え、事件の背後には江戸城の内部抗争が。影で糸を引いていた人物とはいったい誰だったのか。そして渦中の人となった絵島の運命とは?

■2019年6月24日(月)
#202「なるほど!平安時代~ある平安人の一日」
約400年続いた平安時代。大国・中国の文化に習っていた時代は終わり、日本独自の文化が発展していきました。寝殿造りに十二単、仮名文字文化が登場。それに伴い、平安時代の傑作と称される「源氏物語」や、現代のエッセイに通じる「枕草子」などが執筆されたのもこの時代。
平安時代に生きる、とある貴族の一日を追いながら、「平安貴族の衣食住」、「平安貴族の日常」、「冠婚葬祭」から「恋愛事情」まで、その実態に迫ります!


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バルタンの呟き №59 [雑木林の四季]

「五月雨の晴れ間うれしく」

                映画監督  飯島敏弘

    〓さみだれの はれまうれしく のにたてば のはかがやきて
    しらくもを とおすひかげに はやなつの あつさをおぼゆ

五七調の美しい言葉に、叙情的でさわやかな曲のついた小学校唱歌をご存知でしょうか。
もっとも、全国の小学校が、明治以来の、「生活上必要な基礎的な道徳、教養と普通の知識、技能を授ける」場から、日本全国均一の文部省国定教科書による「皇国の道に則りて初等科普通教育施し国民の基礎的錬成をなすを以て目的とする」に変った国民学校育ちの僕たちが習った歌ですから、もはや、とっくに、あの戦争は忘れたというよりも、あった事も知らない子供たちや、若い方々はおろか、ふつうの大人たちに知られていない歌かも知れません。最近、しきりに運転免許の返上を迫られている80代半ばを越した僕ですら、果たしてこの歌に2番以下があったのかどうかさえも確かではないのですから。
でも、幼い頃に刷り込まれた記憶というものは、昨日の夕食に何を食べたかを的確に覚えていないほど衰えた脳の中で、突然息を吹き返したように鮮明に甦って来るもののようです。
というわけで、僕は、今朝、公園でのラジオ体操の後、扇状に広がる広汎な台地を50年ほど前に拓いて宅地化されたわが街を囲む丘の道を、一人、この歌を繰り返し口ずさみながら、歩いてきたのです。
街のほぼ全域が木造一戸建て分譲でしたから、50年を越した現在ではその半分ほどが、子供世代どころか孫までが自立、別居して、老いた夫婦二人、いえ、最近では、主人後家どちらかの独り住まいがめだつという有様です。住民の平均年齢が、すでに後期高齢者年齢を越していますから、町のほぼ中央にある、周200メートルほどは取れるグランドを中心に毎朝行われるラジオ体操会も、老々介護とは言わぬまでも、老々懇親コミュニティーといった状況ですから、終了後、公園から30名ほど固まって出発する、毎朝ルーティンのウオーキングも、ほぼ同年齢の、ほぼ固定したメンバーの、ほぼ同じ内容の会話ばかりなのと、しかも、最近とみにスローになった歩きには、脚の衰えを何とか抑えようと思って歩く僕には、少々辟易するものがあって、近ごろ、週、一、二度は、するっとエスケープを試みて、独りで別の道を、という次第なのです。
歌詞にあるように、五月雨の晴れ間というものは、齢甲斐もなく、若造のごとく、なんとなく儚くて、うきうきするものです。これは、決して僕だけの感情ではないと、思います。独り、誰とも行き違わずに、小高い丘のうえの、見晴らしのいい、樹林の小道を、五七調のリズムのいい歌詞と、快いメロディーの歌を口ずさんで歩けば・・・
僕の場合、そうです。浮かぶのは、あの、ミロの、印象派の、あの、日傘を傾けた絵・・・そして、ああ、
想い出しました。そうです。国民学校六年生の、ある、五月晴れの日、集団疎開地です。日頃から、少国民の錬成という、抑圧された軍国主義教育に押し潰されながら。しかし、確りと目覚め始めた感受性に、抗しようもなく突き上げられ、苛まれながら秘めていた、あこがれの、女先生への想いです。
用向きは、戦況の悪化とともに、減り続ける食料の配給のために、逼迫した疎開学園寮の子供たちのために、村の有力農家に、米の調達に行くことでした。若しかしたら、というよりも、なんとかして、自分一人では持ちきれないだけの米を、という思いで、六年生の僕を連れて、森の抜け道を急いでいたのです。多くの子供たちの餓えを思いながら先を行く先生の後ろ姿を、なんということか、下町育ちの、ませた六年生は、何か浮き立つよろこびに浸りながら、いえ、時に、罪ぶかい動悸さえ覚えながら見つめ続けて、空のリアカーを押していたのです
有力農家の主は、幸いに好漢でした。良家令嬢という噂の高かった女先生が、低く頭を垂れて懇願するまでもなく、気前よく、米袋を二つ、リアカーに乗せた後に、おかみさんに大麦の入った袋を持ってこさせて、僕に合図したのです。気が変っては困ると思った僕は、大急ぎで、おかみさんのところへ行って、ずっしりと重い袋を受け取って、リアカーに乗せました。そして、帰りを急いだのですが、少し重くなったリヤカーを引く先生の姿は、うしろから見つめ続ける僕にも伝わるほど、喜びに弾んでいました。と、突然、何か忘れでもしたように、先生が振り返って、僕を、じっと見つめたのです。先生の目に、涙が、溢れていました。
「よかったね!」
それだけいうと、急に、押して行く僕が躓きそうになるほどのすごい勢いで、リヤカーを引いて行くのです。
森を抜けて、学園寮に続く、開けた道に出た時、まさに、野は、輝いていました・・・

天気予報によると、明日も晴れそうです。
あした、僕は、ウオーキングする仲間に声を掛けて、何かの歌をみんなで唄いながら、尾根道を歩いてみようかな、と、思っています。老人と老嬢ばかりだけれど。
ただし、「故郷」だけは御免です。
「〓うさぎ追いし かの山~」
何故かあの歌を唄うと、どうしても、遠くもない未来に、老人ホームで、無邪気に、声を揃えて唄っている、自分の姿が描かれたリアルな絵が浮かんできてしまうだろうから・・・です。
五月雨の晴れ間うれしく、緑かがやく尾根道を、大勢の老爺老婆が、声を揃えて唄って歩いて行く・・・それぞれが、自分の、いちばん輝いた日を思い浮かべながら。
ま、悪くはないと、思うのですが・・・ 


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医史跡を巡る旅 №58 [雑木林の四季]

「博愛精神のルーツをたどる・日本赤十字社病院と看護教育」

            保険衛星監視員  小川 優

赤十字活動の起こりは、戦時における敵味方区別のない傷病者の救護です。19世紀後半から20世紀にかけては戦争の時代、大きな戦いが次から次へと発生しました。日本が関係したものだけでも慶応4年(1868)戊辰戦争、明治10年(1877)西南戦争、明治27年(1894)日清戦争、明治39年(1904)日露戦争、大正3年(1914)第一次世界大戦と、ほぼ10年おきに戦争が起こっています。赤十字が活躍する機会はたびたびあったわけですが、とはいえ戦争の度に要員と物資を確保していたのでは、追いつきません。平時から準備し、要員を育成する必要が生じます。

明治17年(1884)、第3回赤十字国際会議にオブザーバーとして出席した陸軍軍医総監橋本綱常は、帰国後の報告の中で救護員、特に女性救護員の養成を目指して、赤十字の運営する病院を設立することを提唱します。

「橋本綱常墓」
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「橋本綱常墓」 ~東京都港区西麻布二丁目 長谷寺

弘化2年(1845)、越前福井藩で藩医を勤める橋本家の四男として生まれる。長兄は幕末の思想家で、安政の大獄で処刑された橋本左内。藩医は父長綱から左内が一旦引き継ぐが、左内が御書院番に任じられたため、代わって綱常が11歳で引き継ぐ。文久2年(1862)長崎に遊学、オランダ人医師ポンペ、ボードインそして彼らの弟子の松本良順から近代医学を学ぶ。
明治3年(1870)兵部省に出仕、以後陸軍軍医としての道を歩み、軍医監、東京陸軍病院長、陸軍軍医総監、医務局長を歴任。明治5年(1872)から明治10年(1877)にかけてドイツに留学したほか、明治17年(1884)には陸軍卿大山巌に随行して、ジュネーブ条約加盟のための調査で渡欧。帰国後は条約締結、赤十字社発展に尽力する。明治19年(1886)には初代日本赤十字社病院長(就任時は博愛社病院)に就任。
明治21年(1888)医学博士、明治23年(1890)貴族院議員、明治28年(1895)には男爵、明治40年(1907)には子爵に叙される。明治42年(1909)心臓疾患のために逝去、享年65歳。

まだまだ不足していた医療の提供と、救護要員の育成を目的として、明治19年(1886)麹町区飯田町の博愛社本社に併設する形で病院が開設され、橋本綱常が院長となります。翌年の万国赤十字加盟とともに日本赤十字社病院と名を変え、明治23年(1890)からは看護婦生徒の養成が始まります。当時の日本赤十字社病院規則にはこう記されています。

第一条
日本赤十字社病院は、平時に在りては救護員を養成し、戦時に在ては其の全部又は一部を陸海軍傷病者の収容に供す。
第二条
病院は、皇室仁慈の旨を體し、貧困患者を療養し且一般患者を治療す。

飯田町の病院が手狭になったため、看護婦養成を始めた翌年の明治24年(1891)、御料地の払い下げを受けて現在地の渋谷区広尾、当時は豊多摩郡渋谷町下渋谷に移転します。

「日本赤十字社病院正門」
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「日本赤十字社病院正門」 ~絵葉書

広大な病院の敷地は、赤レンガの塀で囲まれていました。病院建て替えに当たり取り壊されましたが、一部がモニュメントとして残されています。

「日赤中央病院 復元レンガ塀」
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「日赤中央病院 復元レンガ塀」 ~東京都渋谷区広尾 日赤医療センター

移転当時は、レンガ造り二階建ての本館と、木造平屋の病室、手術室、附属室を有していました。

「日本赤十字社病院本館」
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「日本赤十字社病院本館」 ~絵葉書

病院はドイツのハイデルベルグ大学病院を模範とする、宮内省技師の片山東熊博士の設計によるものです。本館二階には院長室のほか、皇族の行啓時や外国賓客来訪時のための貴賓室があり、階下には治療器械室、図書室、医員室、事務室がありました。

「日本赤十字社中央病院病棟」
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「日本赤十字社中央病院病棟」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

病棟の一部は明治村に移設され、現在でも見ることができます。下見板張りの清潔感あふれる建物で、採光のために窓を大きくとっているのと、換気通風のために鎧戸、換気塔が備え付けられているのが特徴です。

「日本赤十字社中央病院病棟 廊下」
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「日本赤十字社中央病院病棟 廊下」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

移築に際して方角的に180度向きを変えて設置されたため、この明るい廊下は本来北向きに窓がありました。日照の乏しい北側でも窓を大きくすることで、少しでも明るくしようとする工夫が見られます。

日本赤十字社中央病院病棟 病室」
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「日本赤十字社中央病院病棟 病室」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

自費患者の病室は特等から三等甲・乙まで、五段階に分けられていました。開設当時の病室は57室、111病床であったとされます。

「日本赤十字社病院外来診療所」
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「日本赤十字社病院外来診療所」 ~絵葉書

その後も建物は増築されて、施設は充実していきます。

「日本赤十字社病院外来本館」
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「日本赤十字社病院外来本館」 ~絵葉書

ほぼ建て増し、建て増しで来た赤十字中央病院ですが、昭和51年までに、日赤百年を迎えるにあたって全面的に立て替えられます。このとき病棟の一部が解体、保存され、明治村に移築されました。

「日本赤十字社病院全景」
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「日本赤十字社病院全景」 ~絵葉書

全体が建て替えられる以前の、病院の全景を記録した絵はがきがこちらです。おそらく戦前のものと思われます。近代的な病院外来本館の背後に、明治村にあるのと同じ、平屋の病棟が連なっているのがわかります。

飯田町の旧病院の建物も一部が移築され、看護婦養成所の教場と寄宿舎となり、全寮制の看護婦教育ができるようになります。
看護婦教育に関しては先立つ明治17年(1884)、高木兼寛らが有志共立東京病院(東京慈恵医院)看護婦教員所を開設しています。日本赤十字社看護婦養成所では一年半の修学期間ののちに、二年の実務期間を経験するものですが、その後も二十年間、戦時および災害時の応召義務がありました。

「日本赤十字社救護員」
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「日本赤十字社救護員」 ~日本赤十字社本社情報プラザ展示物

明治27年(1894)の日清戦争以降、戦地には赤十字旗とともに赤十字救護員の姿がありました。こうして国民には、赤十字といえば白衣の天使というイメージが定着していきます。

「殉職救護員慰霊碑・看護婦立像」
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「殉職救護員慰霊碑・看護婦立像」 ~東京都港区芝大門 日本赤十字社本社前庭

一方で戦地は常に危険と隣り合わせ、ジュネーブ条約に守られているとはいえ、紙の条約は銃弾を止める盾とはなりません。救護員養成開始以後、第二次世界大戦の終結までに戦渦に巻き込まれて亡くなった殉職救護員は1,317人。このほかに関東大震災など災害時派遣において殉職した9人を加え、1,326人の名簿と、功績を記した遺芳録とを収めた殉職救護員慰霊碑・看護婦立像が日赤本社の前庭に設置されています。

第二次世界大戦の終結後、養成所は日本赤十字女子専門学校として独立、学制改革により短期大学を経て、日本赤十字看護大学となっています。

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いつか空が晴れる №61 [雑木林の四季]

    いつか空が晴れる
         -ジャングル大帝―

                   澁澤京子

 子供のとき好きなテレビ番組と言えば、手塚治虫の「ジャングル大帝」と「ターザン」、「わんぱくフリッパー」など人間が動物や自然と仲良くしているようなもの。
特に「ジャングル大帝」のオープニングの曲は大好きで、真っ白で威厳のあるライオン、雄大なアフリカの大地と草原と大空・・あの音楽の影響で、私はアフリカにどんなにか憧れたことだろう。
「野生のエルザ」に出てくるような、野生とともに暮す生活にどんなに憧れただろう。

ちなみに、ジャングル大帝のオープニングテーマを作曲した富田勲さんは、父がテレビ局で仕事をしていた若いときに、一緒に仕事をしていた作曲家で、時たま、箱根にUFOを観察に行ったりして仕事をすっぽかすこともあったらしい。シンセサイザーを音楽にとりいれるような要素がもともとあるような人だったのだろう。

砂漠に不時着して遭難した兵士と、一頭の美しい雌の豹の間におこる恋のような話を書いたのは確かメリメだったと思う。雌の豹と兵士が一定の距離をとりながら一緒に砂漠を彷徨しているうちに、最初は豹に襲われることを恐れていた兵士が、次第に恋に似た奇妙な感情を持つようになる話。

ある夏、八ヶ岳で雨上がりの夕方に散歩していたら、坂の上に大きな牡鹿がこちらを向いて立っているのを見たことがあった。夕陽をバックにして、立派な角を持った牡鹿の姿はあまりに神々しくて、思わずその場に立ち尽くしてしまったことがあった。

また、学生時代の夏休みに、沖縄の無人島でキャンプしていたときのこと。
ある朝、向こう側のビーチに行ってみようと、友人たちとテントの裏側の細い山道を登っていたことがあった。
ふと見上げると山道の登りきったところに、一頭の大きな黒い野生の水牛がこちらに向かってじっと立っていた。マラリアで島民がいなくなった後、その島は野生の水牛の生息地になっていたのだ。
先頭で歩いていた私は、身体が凍りついたように動けなくなった。私の後ろを歩いていた友人たちも立ち止まって沈黙したまま。大きな角を持った水牛は黒い巨大な影のように、私に向かってじっと立っている。ちょっとでも不審な動きをしたら襲いかかってきそうな迫力。水牛はすごく気が荒い。野生だったらなおさらだ。
水牛の目をじっとみながら、私は慎重に静かに後ずさりして、水牛が見えなくなってから、みんなダッシュで走ってキャンプ地まで逃げた。
あれは「聖域」だったんだ、と後で思った、人が決して乱してはいけない野生の聖域だったのだ。

野生の聖域にはとてつもなくデリケートで調和のとれた、美しい音楽のようなものがあって、人はそこにどうしても余計な不協和音を持ち込んで乱してしまうような感じだった。
それはいつも私たちと一定の距離を保っていて、その秘密に触れようとすれば、たちまちだいなしになってしまうような何かでもあるのに違いない。

そして、もしかしたらラスコーの壁画を描いたクロマニヨン人も、私と似たようなことを感じたのではないだろうか?と考えたりするのである。


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梟翁夜話(きょうおうやわ) №41 [雑木林の四季]

あぐら

                翻訳家  島村泰治

髭剃りと並ぶ男冥利にあぐらがある。起きがけの髭の剃り味は、鏡に向かい百面相を尽くして果たす女の化粧の悦楽とさてどちらかというほどのものだ。それを一段としのぐ快感があるとすれば、畳の上でどっかと構える大あぐらだろう。

さて、もってのほかとそのあぐらを禁じられたら、男たるもの立つ瀬がないではないか。その立つ瀬がなくなる羽目になるやも知れぬ事態が出来(しゅったい)、それも嬉々として入れ替えたばかりの人工膝のせいだから茫然自失、言葉もない。せいだと云えば膝が悪いとも聞こえようが、そうとも云えないのだから話が錯綜する。

膝の痛みに堪えかねて人工膝に入れ替え、手術を済ませ退院して数日になる。膝を入れ替えよとは天の声、膝回りの苦痛が嘘のように消えて、将に近年にない快挙と大いに満ち足りているのだが・・・。好事魔多しとやら、良きことの裏に不都合あり、と。骨と骨が摺り合う拷問から解き放されたあとに男冥利が失せなんとしているのだ。そう、あぐらはご法度だという。

人工膝だから、膝を折った上に体重をぎゅっと乗せるなどは論外だ。つまり、正座は厳禁だろう。だが、ゆったりと構える畳の上の大あぐらもならぬとなれば、これは切ない。膝の拷問を逃れたのは限りなく嬉しいが、その代価にあぐらの和みを失うとは情けない。ああならだめでもこうならよかろうと、いまリハビリの専門員にあぐら談判をしている最中なのだが、話が一向に捗(はか)が行かない。リハビリの成果次第であぐらの角度に個人差が出るとのご宣託、冥利と云えるほどのあぐらを認めてもらえるやらどうやら、甚だ心もとないのである。

入れ替えた人工膝はチタンだという。眼鏡フレームなどに使われる軽量金属だ。両膝同時に内側だけの部分にこれが入っている。骨に馴染むのに数ヶ月掛かるという。半年も経てば様子がはっきりしよう。

部分膝とはいえ84歳にして両膝を入れ替えるのは稀有とのことだ。幸い術後の経過はごく順調で、膝回りの鬱陶しさが霧消したのだからよしとすべきだ、あぐらは諦めよと周囲は軽口を叩く。そうかも知れぬ。あの骨が摺り合う悪寒はもう沢山だ。あれが消えただけでも生き甲斐が蘇生した。其れで手を打つのが筋か・・・。

思えば、人間我が儘である。あぐらが無いもの強請(ねだ)りなら、潔く諦めようか。それでも、あぐらの真似事だけでもしたいものだと課せられたリハビリに精を出している。人事を尽くして云々の心境である。


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