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『知の木々舎』第237号・目次(2019年2月下号編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

フェアリー・妖精幻想 №103          妖精美術館館長  井村君江
 仮面劇、シェイクスピア、バレエとオペラ 6
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12-11

じゃがいもころんだⅡ №3               エッセイスト  中村一枝
 さよならテニスコート                                                       
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12-9
 
渾斎随筆 №27                       歌人  会津八一
 山口剛君のこと 1 
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12-10

石井鶴三の世界 №134               画家・彫刻家  石井鶴三
 胸像1906年/ 藤島英輔氏・千曲川原1907年
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12-8

ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №99 早稲田大学名誉教授  川崎 浹
  エピローグ 3
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12-5

往きは良い良い、帰りは……物語 №67   コピーライター  多比羅 孝
 『お年玉』『松の内』『富士山』『水仙』
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-28-6

正岡常規と夏目金之助 №9           子規・漱石研究家    栗田博行
 子規・漱石~生き方の対照性と友情。そして継承  
   第一章 ともに名家にうまれたが 
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12-7

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№4 美術史研究家  斎藤陽一
 シリーズ「琳派の魅力」3  俵屋宗達「風神雷神図屏風絵」その3
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12-6

【ことだま五七五】

日めくり汀女俳句 №28                 中村汀女・中村一枝
 三月十九日~三月二十一日
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12-4

猿若句会秀句選 №93                                       猿若句会会亭    中村 信
  2019年1月19日
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-28-2

草木塔  №34                       俳人  種田山頭火
 山行水行 10
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12-3

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №58                 川柳家  水野タケシ
 2月6日、13日放送分
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12-2

【核無き世界を目指して】

対話随想余滴 №7                                    エッセイスト  関千枝子   
 関千枝子から中山士朗さまへ              
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-10-8

【心の小径】

論語 №68                                                         法学者  穂積重遠
 ニ一二 子のたまわく、われ知ることあらんや。知ることなきなり。
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-10-1

余は如何にして基督信徒となりし乎 №58                               内村鑑三
 第九章 基督教国にて - 神学の一瞥 5
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-10

【雑木林の四季】

浜田山通信 №236                                  ジャーナリスト  野村勝美
 ああ 心愛ちゃん
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-11-6

私の中の一期一会 №184           アナウンサー&キャスター    藤田和弘
 東京五輪のメダル候補、競泳のエース・池江璃花子が‟白血病”を公表
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-11-7

BS-TBS番組情報 №180                                   BS-TBS広報宣伝部
 2019年2月のおすすめ番組(下)
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-11-5

バルタンの呟き №51               映画監督  飯島敏宏
 「右側のポケット」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-11-4

医史跡を巡る旅 №53                              保健衛生監視員  小川 優
 「西洋医学事始め・日本最初の腑分け」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-11-3

いつか空が晴れる №53                     渋澤京子
 -冬の夜「魔王」-
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-11-2

梟翁夜話(きょうおうやわ) №33                           翻訳家  島村泰治
 「グリーンズのある生活」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-11-10

検証 公団居住60年 №26   国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 大資本奉仕の実態と用地買収の黒い霧 6
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-11-1

コーセーだから №47           (株)コーセーOB  北原 保
 50歳創業の哲学 8
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-27-2

地球千鳥足 №119    グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子
 1+1=2を願いつつ、合わせて1人前になりにけり                                  https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-12-28-1
    
シニア熱血宣言 №111                                        映像作家  石神 淳
  余命
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-27

木漏れ日の下で №21          詩人・エッセイスト  近藤明里
 王育徳紀念館
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-01-26-9

【ふるさと立川・多摩・武蔵】

赤川Bonzeと愉快な仲間たち №123               銅板造形作家  赤川政由
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-10-7
 赤川ボンズ作品展覧会

立川陸軍飛行場と日本・アジア №173    近現代史研究家  楢崎茂彌
 東京府連合青年団大会
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-10-6

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №120             岩本啓介
 富士急行線    
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-10-4

押し花絵の世界 №80                                    押し花作家  山﨑房枝
 「ビオラのワルツ」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-10-3

渋紙に点火された光と影 №51        型染め版画家  田中 清
 「山百合」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-10-2

多摩のむかし道と伝説の旅 №21                                            原田環爾
  鑓水商人の夢の跡、絹の道・浜街道をゆく 1
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-10-5

国営昭和記念公園の四季 №28
 紅梅
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-14-1

【代表・玲子の雑記帳】            『知の木々舎 』代表  横幕玲子
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-02-12-1


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フェアリー・妖精幻想 №103 [文芸美術の森]

仮面劇、シェイクスピア、オペラ、バレエ 6

             妖精美術館館長  井村君江

 「妖精の森」「魔法の湖」(泉にほんとうの水を入れたり噴水をあげたりする)、「中国の庭」の三つの情景を設定して、場面転換で目を楽しませるように工夫がされていて、まさに十七世紀イ二ゴ・ジョーンズ式のスペクタクルである。
 この時の振付はフレデリック・アシュトンで、マイケル・エアトンがコスチュームと舞台装置をデザインした。これもまたイニゴ・・ジョーンズの仮面(マスク)劇の衣裳を念頭においてデザインしたということである。
 エアトンによれば、イニゴ・ジョーンズとパーセルは五〇年の隔たりがあり、共作をしたという記録はないが、「同じ十七世紀の作曲家とデザイナーであるので、精神的な協力関係があったであろう」と書いている。
 エアトンのデザインによる、オベロンのマントを広げたポーズのスケッチは、躍動感のあるリズミカルな線と、キジや孔雀の羽でできた頭飾りをかぶり、仮面を膝につけたブーツの足先をのばした斬新なスタイルが印象的である。これをそのまま踊り手ロバート・ヘルプマンが身につけて、マーガレット・ローリングのティタニアと共に舞台で踊っている。
 パックのコスチューム・デザインも斬新で、モダン・アートの様式化を見るようで、右肩から半身だけ蔦をからませたシャツとタイツ姿になっている。頭には、巻いた角がつき全体の印象は森のフォーンのようである。ジェイムズ・ケニーがこのコスチュームでパックを踊った。
 エアトンのこうした一連のコスチューム・デザインのスケッチが残っているが、そのまま独立した絵画作品と思えるほど達者な線と水彩で描かれている。踊りの動きを一瞬とめたような決まったポーズの踊り手たちの人物像は、筆致の動きと相まって指の先まではりつめた躍動感がみなぎっている。
 この頃から、画家やイラストレーターたちが、劇やバレエ、オペラの舞台デザイン、コスチューム・デザインに目を向け始め、レオン・アン・バクストやチャールズ・リケッツのように、自在な色彩と新しいスタイル、パターンで形と色の美を作っていった。それが登場人物の動きと照明の光によってさまざまに動いていく。
 ロイ・フラーの薄いサーキュラーのスカートが呉まざまなライトに渦巻き、交錯する光の芸術のようなモダン・バレエなどでは、空間の動き、瞬間の美の制作に、画家たちも参加してくるのである。
 クロード・ロヴァト・フレーザー(一八九〇~一九二一)もリケッツに学び、画家から舞台デザイナーへ転向した一人である。戯画を描きパントマイム衣裳をデザインしていたが、俳優のハーバート・ビアボン・トリーに出会ったことが大きく転向するきっかけであった。
 『アフリカン・フェアリー』の衣裳デザインは、詩人ウォルター・ド・ラ・メアの唯一の劇作晶「フェアリー・プレイ『クロッシングス』」のコスチユーム・デザインで、一九二一年制作でカンヴァスの裏に「ステージ・ドレス・アフリカのフェアリー」とある。オートミール紙にペンと灰色のインクに水彩とボディカラーを使って描かれ、版画のような質感が出されている。
 コンスタント・ランバートが編曲し、指揮もし、フレデリック・アシュトンの振付、マイケル・エアトンのコスチューム・デザインと舞台デザイン、ロバート・ヘルプマンの踊りによるこのサドラーズ・ウェルズの『妖精の女王』は、成功を収め、舞台写真とデザイン画をつけて、一九四八年に一冊の本にまとめられたほどであった。
 パーセルが自在にシェイクスピアを改作し、音楽をつけ、当時流行の中国趣味(シノワズリー)をつけ加えるという時代錯誤(アナクロニズム)を敢えて行いながら、自分の『妖精の女王』をまとめたことは、後世の人に深い影響を与えた。
 例えばデヴィッド・ギャリックなどは『夏の夜『の薗芝の妖精と恋人たちに筋をしぼり、そこに『嵐』のエアリエルをつけたし、自在に構成し直して、『妖精たち』(一七五五)を書いているのである。またサドラーズ・ウェルズの舞台で、パーセルの曲に合わせた妖精たちの美しい群舞は、十九世紀のロマンチック・バレエの舞台をそのまま移行していったようである。


『フェアリー』新書館

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渾斎随筆 №27 [文芸美術の森]

 山口剛君のこと 1

                       会津八一                 

 學問は廣く深く、識見も秀で、多くの學生から尊敬の深かった山口剛君が、急に逝くなられたことは寔に惜みても餘りあることである。殊に私は一番古くからの友達として、一層感慨に堪へない。山口剛君は私と一緒に明治三十五年の四月に、もとの東京専門學校の高等学科に入学された。それから私は大學部に進み、山口君は豫科は二期だけにして高等師範郭へ進まれ、明治三十八年に国漢文科を首席で卒業された。後に山口君の話では、同じクラスで共に一學期だけ暮したと云はれるが、申訳ないことに、私の方ではその頃の記憶がない。で私の意識に始めて登って来た山口剛君は、明治四十三年の秋、二人共暫らく田舎の中學の教師をした後で、その時丁度一緒にまた東京へ出て来て早稲田中學の教員として赴任して来たその時であった。それから少し遅れて、もう逝くなったが、あの横山有策君がアメリカから締って来て、英語の教員になられ、この三人がその當時は一番新参の若い教員であったので、自然親しく交際することになった。アメリカのハーヴァードから掃って来た横山君は、シェイクスピアの研究に、相當の造詣を持ってゐられたやうであった。山口剛君はその當時既に、日本文學、殊に徳川時代の文學について豫程深い學殖を持ってゐられたやうであった。そして吾々三人は折々落ち合って、めいめいが新しく読んだ所も書物の話をしたり、一緒に名物を食べ歩いたりした。そして私と山口君とは郷土玩具の蒐集をしたことなどもあった。
 その當時の山口剛君は、晩年よりももつと寡獣な地味な研究家で、毎日こつこつ勉強された。そして或時自分の研究の一部分だといって、私に見せられた、フールスキャップに書いた徳川期の書物の書抜きが、厚さ四五寸もあるので、私かに驚いたことがあった。さうかうするうちに山口君は先づ高等師範部へ、そして私は文學部へ兼任することになった。そしてそこでは『徒然草』を講義するのが連年山口君の仕事であった。私は山口君のやうな人が大學部の文學科へ講義に出られたならば、學生の為に幸福であらうと思って、再三口入の役を勤めたものである。叉横山君に封してもひそかに同じ役目を勤めたものであるが、その當時は所謂自然主義全盛の時代で、早稲田の文學部が其運動の有力な中心點であった為であるか、横山君のシュイクスピアとか、山口署の徳川文學が容易に迎へ入れられる気色が見えなかった。其頃は自然主義でなければ文學でなかったのである。さうしてをるうちに偶然にもシェイクスピアの三百年祭が早宿田で行はれることになり、これを機として、當時既に引退して居られた坪内先生の後を受けて、横山君は首尾よく英文科に出講されるやうになったが、山口君が文學科の方に出られるやうになったのは、それからずつと後で、慥か国文科といふものが新設された時からであると思ふ。それ迄は山口君は、高等師範部で毎年同じ『徒然草』を繰返し繰返しして講義してをられた。そしてその所在なさに、毎年いくらかづゝ説明の順序を変へて見たり、譬喩のとり方を替へて見たり、そんな事に変化を求めて、せめてもの慰めにしてをるといふやうな不平を、いつもひそかに私は聴かされて居た。つまり其頃はまだ山口君の時代は来なかったのであった。しかし、さういふ云はば不遇の時代にも、山口君の研究は着々として続けられてゐた。いはば逆境に在りながら断へず倦まず撓まず晩年に見るやうな大成の素地を造って居られたのである。それから文壇の風潮は四五年目毎に幾度か変ったし、我が學園の風潮も次第に変つて来た。そして最後に山口君が學生の目前に全力を以て活躍される時が来た。
 山口君は私と知った頃は浅草の松葉町といふ所に住んでをられた。そして後に駒形の河岸の叔母さんの家へ越されたのであった。そして某所で山口君の全財産とも生命とも云ふべきあの夥しい書物を、あの大震火災の為に悉く焼いて、殆んど身を持って免れたといふありさまであった。その時の山口君の悲観の様子は目もあてられぬほどであった。その後はしばらく本郷に居り、本郷から雄司ケ谷に越して来て窪田空穂君の隣りで住はれた。そこで私はいつも思ふのであるが、山口君が晩年に、教壇でも學界でも、辯説や、文筆で、あの目覚しい活躍を始められるやうになったが、全く発表といふことを考へずに、二十幾年の間只管蘊蓄に没頭してゐられた同君が、かういふ積極的態度に出られるやうになったのは三つの原因があるのではないか。一つは時勢が向いて来たこと、一つは今迄大切に飾っておかれた数千冊の書物を一夜のうちにに失って了はれてそれが心機一転の動機となったこと。第三には、それまで私のやうな引込思案の者とばかり交際をしてをられた山口君が、窪田君のやうな、文壇の裏も表も知りぬいた年長者の隣りに住むやうになって、何かと発表といふことを考へられる機縁となったこと。此の三つであらうと思ふ。(『早稲田率報』昭和七年十二月)


『会津八一全集』 中央公論社

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じゃがいもころんだⅡ №3 [文芸美術の森]

さよならテニスコート

              エッセイスト  中村一枝

 寒いけれど春は確実に近づいている。春に先駆けてこんな決断をするのはなんともわれながらくやしいのだが、18才で白血病の治療に入る事を宣言した池江璃花子さんのことをおもえばわたしのは単におばあさんの繰り言にすぎない。以前40歳からのテニスと言うエッセイを書いたことがある。50くらいの時だろうか。テニスをはじめて長年の宿痾だった喘息と決別した話である。喘息と綺麗さっぱりわかれられたんだからそれでいいじゃない、と言われそうだが、長年慣れ親しんできたテニスとの別れは恋人との別れもかくやという気もする。とにかく徒歩五分くらいのところにテニスコートがあり、柵がなければ飛び降りていかれる距離である。朝、天気さえ良ければ頭にビビっと電流が走る。何をおいてもテニスへ行こうという気持ちである。その間には大腸癌の手術という事件もあった。テニス仲間の仲良しの田中鈴江さんを亡くした事もある。
 それでも40年続けてきたのはもう一人の相棒、青木さんのおかげでもある。正直、実直、誠実そのもの、お世辞は一切なし。欲も誇張も全くなし。峠の一本杉みたいなひとだからこそわたしは下手くそなテニスを続けてこられたのだ。彼女とは息子同士が小学一年のときから中学三年まで同じ学校である。青木くんは始めから終わりまで東大出の優等生。息子はいつもすれすれの成績、さらにバンクまがいの頭、おかしな格好で誰かを驚かせた。今思うと、それなりに親をハラハラさせながら、どこかとぼけた愛嬌で卒業した。その間青木さんは干渉がましい事を一つも言わず黙って見ていてくれた。彼女はそういうひとなのだ。テニスコートでは元々運動神経もありテニス以外バレーでも有能だった彼女。中村さんと離れたほうがあなたは伸びると言われながらも、私の下手くそなテニスに40年も付き合ってくれたのだ。わたしは元々運動神経は鈍い上に瞬発力もない。よくそんなのにテニスやってると言われながら、40年続いたのは青木さんのおかげなのだ。家から見えていたテニスコートが最近、工事で全く見えなくなった。いろんなことのあった40年、それはまたわたしが懸命に生きつづけた40年でもあつた。
  これから毎日、私はテニスコートを横目に見ながら駅に急ぐ事になるだろう。青木さんは私より若いうえに能力もあるのでまだテニスを続けて行くだろう。駅への行き帰りテニスのラケットを持った人達に出会うと自然に口が綻ぶ。およそ自分とは無縁のものと思っていたテニスとの長い付き合い、それが私の足の具合が悪くなり、歩くのもスムースに進まなくなるという思いがけない事態が起きて幕をひくことになった。これも年齢のせいと思えば諦めもつく。いろんな思い出が頭をよぎる。このコートはわたしにとって人生をふみかためた忘れられぬ土なのだ。春に先駆けてコートを去る、それもまたいいじゃないか。

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石井鶴三の世界 №134 [文芸美術の森]

胸像1907年/藤島英輔氏・千曲川原1906年

              画家・彫刻家  石井鶴三

1907年胸像.jpg
胸像 1907年 (186×125)
1906年藤島英輔氏・千曲川原.jpg
藤島英輔氏:千曲川原 1906年 (187×124)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №99 [文芸美術の森]

エピローグ 3

        早稲田大学名誉教授  川崎  浹

気ままな展開

 アネクドートが百パーセント世相や世論を反映しているという確信を私が抱いたのは、すでに第三章でのべたが、チュルネンコ書記長の葬儀になんらの哀悼も示さないソ連人の実像を目の当たりにして、私がひどく驚き、他方でその後接した「葬儀の直後クレムリンに電話をかける男」のアネクドートが、二枚の隙間のない板のようにぴたりと重なって以来である。「アネクドートを鏡にソ連の世相をきる」というありきたりのキャッチフレーズが出てきたとしても、決して誇張ではない。
 ゴルバチョフが情報公開を進めながらも、体制の体質はそれほど早くは改善されなかったので、アネクドートは情報を抑制する体質の残滓(ざんし)のなかでけっこう栄えた。情報公開に安心したせいか、皮肉なことにかつての独裁者たちもアネクドートのなかで気楽に復活しはじめた。
 このころにはアネクドートはすでにアルメニア放送の二行詩のように短い作品ばかりでなく、伝達や印刷の自由化にともないその長短は発信者の意図や趣味しだいとなった。とくにポスト・ぺレストロイカの時期に発生した新ロシア入アネクドートは、沈黙に裏打ちされた重い制約から解かれて、自由気ままに展開されている。もちろんアネクドートの伝統に拠りながらも、それまでにないどこか自堕落でカーニバル的な、めっぽう陽気でシニカルな作品が派手な裾を引きずるように輩出してきた。

大地から吹きでるユーモア

 それでもなおアネクドート・ジャンルの宿命として、長い物語にはなれないので、自ずと限界生じる。となるとアネクドートは正統的・支配的な文化ではなく、その社会内で培養される特定グループが持つ独特の二次的な下位文化、つまりサブカルチャーなのだろうか。そうでもあり、そうでないともいえるだろう。
 サブカルチャーといいきるには、アネクドートは四行詩からなるチャストゥーシカ(俗揺)同様、あまりに深い民族的な土壌に根ざしている。ここでチャストゥーシカを持ちだしたのほ、アネクドートを話すかわりに、女性は女性同士で食卓を囲んで、同じユーモアでもリズミカルな歌であるチャストゥーシカを楽しむことが多いからである。
 チャストゥーシカにたいして、アネクドートは男性に属するという学者の説がある。その証拠に生活アネクドートで圧倒的に笑われているのは姑(しゅうとめ)であって舅(しゅうと)ではない。私自身はアネクドート好きの女性に会った記憶があまりない。
 なぜだろうか。アネクドートのとどめであるプアントがバレーシューズの爪先ていどの優美な磯知であれば、女性も同調できるが、プアントがフェンシソグの剣の切っ先ほど鋭くなると、このような攻撃的な精神は女性には合わないからではないか、と私は考える。いわんや政治アネクドートの危険性を考慮すればなおのことである。
 アネクドーはサブカルチャーとしてあっさり切り捨てるためには、前述の作家マクシーモフの言葉で語られた、沈黙を最高の表現とするような背景がアネクドートにあって、作品が沈黙のもつ重みに支えられたという事実を、顛祝しなければならない。
 ロシアの自然、あるいはシベリアの大森林(タイガ)が内にはらむ沈黙と闇がロシア文化の根底に横たわっている。彼らがいかに復活祭(マスレンニチャ)のカーニバル的で饒舌(じょうぜつ)な表現をとろうと、それは冬の暗い時間を黙々と歩きながら、あるいは黙して坐り、耐えた沈黙のパラドクスにすぎない。
 ロシア文学は「暗い」とよくいわれる。私もすでに一〇月から降りしきる灰色の雪に埋もれていくモスクワの道路や辻公園を見ながら、先の見えないトンネルで立ち往生したような暗澹(あんたん)たる気分になったことがある。ロシアの冬は長すぎると日本の一年を知ったロシア人もいう。
 しかしまたロシア文学は「深い」ともよくいわれる。深い所には光が届かないので暗い。「暗い」と「深い」はロシアの民族と文学にとっては同義語だろう。長く暗い冬をすごして、タイガの奥地の凍土のなかからのぞく「アイヌねぎ」の茎を見つけたときの繊細な感動を、農村派作家のアスターフイエフが『魚の王様』(群像社)で伝えている。
 深く暗い沈黙の大地から一瞬のユーモアが吹きでる。これがアネクドートの機知と笑いの根である。ドストエフスキイの言葉を借りて「ユーモアとは奥深い感情の機知である」といいかえることもできる。ロシア人にとって「奥深い感情」とは調和と混沌が混在する。


『ロシアのユーモア』 講談社選書

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正岡常規と夏目金之助 №9 [文芸美術の森]

     子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承 
           子規・漱石 研究家  栗田博行 (八荒)
     第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅱ
    明治の書生たちの交遊の心 二
       …ほととぎすを名乗ったこと・子規の出自と生い立ち①
                            (つづき)の(つづき)の(つづき)
           
  おさらいです。
  正岡常規君が、代表的なペンネームとなる「子規」を最初に名乗った相手は大谷藤次郎君でした。一高生になってすぐのころ文学への関心が同じだったことから夏目金之助君より先に交際を深め、「親友」と位置付けていた同窓生でした。それに気づいたことから、思わず深入りして子規漱石の出自と生い立ちを追うことから離れ、明治の一部エリート層の青年の間に潜流していた精神的気風に触れることになりました。

9-1.jpg

  それは、明治20年前後に同世代の若者として活発に「書生付き合い」をした人たちの中に横溢していた、相手の人生苦や金銭面の都合(懐具合)に配慮に富んだユーモア感覚で応対する気分があったという事でした。

「明治の書生たちの交遊の心」、この回で最後にしますがもう少しフォローさせてください…。
 一高を退学し、もう「書生」ではないライフステージに踏み込んだ大谷君は、2年余り大9-2.jpg阪と津山で療養しながら、人生の歩みを模索します。明治25年、「脳痛」の病を克服し得たのでしょう…郷里の津山で5年間教員として働きます。その後さらに、大阪に出て汽船会社に勤める等、実業界の人となり、清国に渡った時期もあります。さらには子規没後ですが、中外商業新報という経済紙の論説の執筆者として社会に発言することを仕事とします。その間是空の名で、俳人・文人としても筆を執りつづけ、子規との親交を書き記した内容を沢山含む「浪花雑記」という随筆を残しました。それは、この世代の明治日本人の思索と人生の跡をたどる貴重な資料のひとつとなっています。(八注・埋もれかけていたそれを発掘してくれたのが、前述した故和田克司氏でした。)大谷是空藤次郎。実業界を生きた教養人として生涯を全うしました。昭和14年、73歳での没でした。

 時間をさかのぼります。
 明治23年1月7日、退学後郷里津山で療養していた大谷君は、冬休みで松山の実家に帰っていた正岡君に近況を知らせます。
 烈寒の砌(みぎり)御病気の御隙(おひま)も無之候や
と、まず子規の具合を一旦は尋ねますが、自分のことについて
 小生は兎角捗々しからず 殊に此頃はmelancholyに
     閉口罷在申候 胸中の事談る(かたる)に友なく実に
                      自分ながら自分が分らぬ位にて…
                          故里にありて猶孤客の思有之候
  時々書画骨董抹茶を喫して慰居申候 
                              ・・・人生の末路恐ろしく存居候
と、「脳痛」と呼んできた自分の状態がかなりな所へ来ていることを、極めて率直に知らせます。そして
           子規兄 玉案下   是空子
と結び、最後に三句を追記します。
  中国の月に来て鳴け子規
         鳴くならば我にも鳴かせ子規
                 四国から中国渡れ子規
 正岡君子規と呼び自分を是空としている点、そして3句の内容から言っても、大谷君の胸中に正岡君が血を吐いた頃からの二人の文通のハート(=文体)が、健在であることが分8-6.jpgかります。句意は三句とも「自分の所へチョット寄っておいでよ、子規を名乗った正岡君ヨ」という呼びかけです。決して「自分の身の上に血を吐く鳥よ、やってこい」という意ではありません(笑)。暮に、東京へ向かう途中君を訪ねるかもしれないという知らせがあって、大谷君は心待ちにしたのでした。
 1月23日,正岡君は周囲の心配をよそに旅立ちます。ところが、瀬戸内の船旅が悪天候で大きく遅れてしまい、船酔いと嘔吐で体調も崩し、大谷君が待ち受けている津山には行けそうになくなります。そこで松山を出て2日後の1月25日、多度津から大谷君にことわり状を出します。その結びに、いずれ近いうちには会いに行きたいが、それまでは
  小生の代参として端書を使にして隔日位には差出し お百度をあげ                         9-6.jpg     可申候
と述べ、葉書でお百度参りのようなことをすると約束したのです。
 
孤独とmelancholyに苦しむ友人の人恋しい気持ちを受けとめた図星の提案でした。筆と郵便ポストしかないこの時代に、今のメールかラインのコミュニケーションのようなことを葉書でするというのです! さらに行けなくなったことを詫びて
 大慈大悲の御心もて御海容奉祈候
(ゆるしてくれたまへ)
 南無阿弥陀仏 
続け 常規凡夫事 色身情仏より とふざけて名乗り、大谷君には本願寺の大和尚 大谷是空大師弘法大師に見立てたネームを謹呈。 
    中国をかすめて飛ぶや子規 
とつけてこの手紙を締めます。ウイットに富むというのはこの事でしょうか…。
  それから3日後静岡までたどり着いた子規は旅宿から大谷君に葉書によるお百度参りの一回目を実行します。全部で70回をこえる往復となったようですが、こんな第一信となっています。
                    お百度参り第一
 御前様がこのまゝでおかくれ遊ばしたら(亡くなろうものなら)
  一社の神に祭り 治頭(アタマを癒す)神社と稱へ(となえ)
      脳病の者はお百度をあげると吃度(キット)直る様に可致候
「君が亡くなったらお社に祀って治頭神社ととなえ、頭痛もちがお百度参りをすれば必ず治るようにしよう」・・・よくまあこんな発信が、筆書きで漢文脈の挨拶言葉が常識だった時代に、そして悲痛に訴えてきた相手に対して出来たものだとあきれ、かつ感嘆せざるを得ません。その上でこう締めくくっています。
 直らぬ様なら祀もむだゞから 直るなら直ると今から
                          保護可被成候(自愛なされんことを・・・
          明治二十三年一月廿八日
         静岡大東館にて  帰りがけの子規 拝

「落第・脳痛・退学」と「喀血」、大谷君子規自身も人生の試練に見舞われ、一段と苦難に立ち向かわざるを得ない境涯にありました。その中でこんな発信をしているのです。これが子規になり始めたころのあの書生気分を喪わず、むしろさらに強めていた正岡常規君のこころの状態だったのです。
 ふつうなら、降りかかった苦難を同情し合い暗く深沈と傾斜しかねない流れを、ユーモア(=俳諧味)の目線で、同病相哀れむの反対、同病相励ます方向に転換しているのです。・・・もちろん大谷君は、これを愉快に受け取ったことでしょう。だからふたりの「お百度参り」と名付けた葉書の往復は、70回を超えて続いたのです。
 
9-3.jpg 子規の青春随筆「筆まかせ」には、その「お百度参り」についてこんなやり取りも筆写・保存(思い起こしてのコピー)されています
 明治23年7月19日に、帰郷していた松山から発信しているのですが、今度は大谷君(大阪滞在中)が見舞いもかねて松山を訪ねたいと言ってきたのに、どうも来る報せがないので、「お百度参り」(29回目)でこの絵葉書で、(ノーコメントで)問いかけたのです。「筆まかせ」に自らこう注釈しています。

    これは「なしてこんか」という判事物也 「なして」とは
                    津山地方の方言にして何故の意なり。
と、自分が大谷君に出した判じ絵の意味を説明。彼にすれば快心の絵手紙だったのでしょうか・・・。「梨」と「手」と「キツネ」と「蚊」で「なしてこんか」というわけです。

 9-4.jpgこれに対して大谷君からも絵手紙が返ってきてそれを、模写しています。
 これです。そして
 「おばいねばすぐゆきます」(=尾葉稲葉酢具雪枡)ということならんか。」と説明をつけ、「蓋し是空子の叔母、阪府病院に在るなり。」とコメントしています。(どういう事情かは不明。)
 筆者(八荒)は、この判じ絵を読み取るのに悪戦苦闘しましたが、ヤット分かりました。右一番上は馬の「尻尾」らしいです。その下は「葉」。さらにその下は「稲」。左上は再び「葉」。そして御酢を入れた「徳利」。その下の絵は「雪の結晶」と「升」らしい。これで、この判じ絵じの意味するところを
 「おばいねばすぐゆきます」(=尾葉稲葉酢具雪枡)と、ヤット読み取れたのでした
 これに対して、子規はすぐ絵手紙で大谷君に問いかけます。
  それが下の一葉です。(繰り返しますが子規が自分で筆写・保存しておいたものです)
9-7.jpg これについて子規は 
 余の判じものは「おばさんいつかへる?」の意也(=大葉 三、五、蛙)の意也。(筆まかせ 御百度参り廿九及び三十)と解説コメントをつけています。大きな「葉っぱ」、五匹の「蛙」、そして「?」。それで「おばさんいつかへる?」となるのですが、この時代にクエッションマークとは! 英語が苦手で、それも書生時代2度の落第の原因の一つだったようですが、こういう点では感度のいい青年だったのですね(笑)
 今盛行中のラインやメ―ルの「写メ」とか「スタンプ」といったことを、筆書き・郵便のみ・デジカメなし・コピー機もなしという明治20年代にあって早々と着想し、楽しみながら実行していたのです。
 お百度参りと名付けた70回を超える軽快な葉書の往復。自身の病勢について悲痛な発信をしたことから提案されて来たのでした。それは、大谷君にとって大きな癒し効果を生んだことでしょう。
  病癒えたのでしょう・・・明治25年10月、大谷藤次郎君は故郷津山にもどって教職に就き、この地の中学校教育の創成期に貢献します。以後この稿の最初に述べたように文人的教養に富んだ実業世界の人として生涯を全うするのですが、子規との交遊の貴重さに気づいた時から浪花雑記を記し始めたのでした。また子規没後も、数多くの子規についての回想を記しています。その一つに
  〇・・筆まめといふ事に於ては恐らく君以上のものはなからう、
  友人の手紙の面白きものはチャンと別に写し取つてあるし
      友人の俳句は其人其人の句集を作(つ)て写してある、
出すだけではなく、相手からの返信も写して保存し、句集にまでしていた人であることに気づき、感嘆しているのです。実はそれを最初に経験をした人が大谷君自身だったようです。
  僕が久しぶりに君の処へ行(つ)た時に笑天句集(僕当時の別号)と題するものを取り出されたには驚いてしまったのである
  久しぶりに会った友人から、文通の中で楽しんで書き付けた俳句を、「これ、キミの句集だ」と、まとめ綴ったものを見せられたのです。「驚いてしまった」のは当然のことだったでしょう。「笑天とはボクの当時の俳号」と語っていますが、落第して落ち込みかねない時に、「笑天様 聖天 様 焼天 様」と呼びかけられた愉快さからでしょうか、そのあと何回か「笑天」の俳号を使った跡も見られる大谷藤次郎・是空君でした。

  明治30年6月21日、音信のしばらく途絶えていた子規から大谷君に(お百度度参りの葉書ではなく)、一通の書簡が届きます。挨拶の言葉に続いて       
    ・・・小生漸次衰弱に赴(おもむき) 
                            先日も一嵐(ひとあらし)してやられ
        命ばかりは助かり侯へども今に天井を詠(なが)め居候
                         到底永いことはあるまじくと存候 
    乍併(さりながら)昨今は余程快方に向ひ
        食慾も十分睡眠も十分熱は八度以下と定まり候故
  まだ五日や十日に死(ぬ)る気遣も無之候間御放慮奉願候
    いざといふ時御暇(いとま)も出来兼候故 あらかしめ御暇こひ迄
                         如斯御座候 謹言
      明治三十年六月廿一日
                                  子 規   大谷 兄

  初めて子規と名乗った相手であった大谷君へのわかれの言葉でした。精神の強靭さは続いていましたが、子規の肉体は、この時こんな自覚をするまでに病んでいたのでした。これを受け取った太谷君は、
          僕は之れを見て真に真に泣いたのである
と回想しています。「真に真に」というくりかえしの中に、壮年期を健常に実業世界を歩んでいた大谷藤次郎君の、慟哭の声が聞こえてくる気がします。
  此の手紙ばかりは別にして保存して居る、
  之れを見ても君が生死の境に処して晏如として(安らかに落ち着いて)
                          乱れざるを知るに足るのである
そして5年後に、絶筆三句を詠んで静かに永眠した子規を紙上で知ってのことでしょう、この回想の文章を次のように結んでいます。
    文芸上の偉人として尊敬すべきは勿論なれども
      斯くも生死の境に悟到せるは
          蓋し古今稀有の偉人とするに足ると信ずるのである
                   〔日本 明治36・1・5〕
  大谷藤次郎・是空子規との出会いで、大きな人生の影響を受けた人びとの一人です。

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「明治の書生たちの交遊の心」とした項、これで終わりとします。次回から、子規・漱石の幼年期からの成長過程に目を向けなおしますが、本人が書いたもの・周囲の証言の多さから、また文学者として先に生死し、与えた影響の深さの点からも、子規を軸として先行して述べてゆきます。
  次回・3月1日、正岡常規と夏目金之助 №10
     第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅲ
          豌豆と空豆の花の記憶 幼少期子規①
                                        お付き合いください。


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西洋美術研究者が語る「日本画は面白い!」№4 [文芸美術の森]

              シリーズ≪琳派の魅力≫
                            美術ジャーナリスト 斎藤陽一

          第4回:  俵屋宗達「風神雷神図屏風」 その3
  (17世紀。二曲一双。各155×170cm。国宝。京都・建仁寺所蔵。)

4-1.jpg

≪運動感と絵画空間の広がり≫

 今回は、風神と雷神、それぞれの動きに注目してみます。

 先ず右隻の「風神」。
 大きな風袋を両手で握りしめ、右足で地を踏みしめ、左足を蹴り上げながら、全速力でこちらに駆け抜けてくるような動きを示しています。リボンのように見える細長い天衣は後方にひらひらとなびいている。宗達は、ここに「風」というものの本質を形象化しています。
 次に左隻の「雷神」。
 雷神は、うしろにかついだ連鼓を打ち鳴らしながら、地上めがけて舞い降りてくるような力強い姿で描かれています。これは、天空から雷鳴を轟かせながら落下する「雷」という自然現象を象徴しているのでしょう。

 この二つの神に見られるのは、それぞれが画面の枠外、こちら側に突き抜けてくるような運動感です。そのとき、絵画空間は枠を超えて広がっていく。これが、この屏風絵の大きな魅力のひとつであり、世に「鑑賞者を包み込むような絵画空間の広がり」と賞讃されるゆえんです。

 このような絵画空間を生み出すもうひとつの重要な要素は、宗達独特の「雲」の表現でしょう。
これは、それまでの日本絵画に描かれていた平面的で装飾的な雲ではなく、ふんわりと柔らかく、風に乗って流れる軽やかな雲です。この雲の動きがまた、風神・雷神の動きを助ける役割を果たしている。
 宗達が描く雲には、繊細な立体感が表現されており、これが、いかにも空中に浮いているような量感と深みを感じさせます。

4-2.jpg 宗達が、このような柔らかで軽い雲を描くときに使っている技法は、彼が水墨画で駆使した「たらし込み」と呼ばれる技法です。
 「たらし込み」とは、一度置いた墨がまだ乾かないうちに、それとは濃淡の異なる墨を上から垂らし、にじみやムラを故意に現出させる技法です。いわば、輪郭線を使わずに、ものの形や質感を繊細に描き出す技法です。
 
 宗達が到達した極めて高度な水準の「たらし込み」の例として、水墨画の最高傑作とされる「蓮池水禽図」がありますが、この絵については、回をあらためて紹介したいと思います。
 この「風神雷神図」でも、水墨画で培った「たらし込み」を応用して、このような独特の雲の効果を生んでいるのです。

≪立てて眺める屏風絵≫

 今度は、「風神雷神図屏風」を立てた姿で眺めてみます。屏風は、本来、このような形で室内に置かれる調度品だということを想起しましょう。

4-3.jpg

 このようにして眺めると、右隻、左隻それぞれの中央がくぼんで、風神と雷神の姿が立体的に浮かび上がり、二つの神のにらみ合いがより鮮烈に映ります。

 さらに、こちら側に突き出た中央の二面は、風神、雷神それぞれの視線の流れがこちら側に放射されるのを助けています。
 おそらくここには、このような姿で室内に置かれる屏風というものを考慮に入れた宗達の計算が働いていると考えられます。

 本来、日本家屋の室内は、昼でも薄暗い。夜には行燈の光に揺れる室内空間です。そのような薄暗い部屋に置かれた金屏風は、ほのかな照明の中で柔らかい光を放ち、妖しくも幻想的な雰囲気を演出する調度品でもあったでしょう。おそらく宗達は、このようなことも意識していたに違いありません。私は、宗達の「風神雷神図屏風」を、人工的な照明を消した暗い空間で“ゆらゆらとゆれる行燈の光で見てみたい”という思いに駆られます。

 次回は、「風神雷神図」の構図に潜む曲線美と、この二神の肉体感というものについて、注目してみたいと思います。
                                                                  (次号へ続く)


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日めくり汀女俳句 №28 [ことだま五七五]

三月十六日~三月十八日

         俳句  中村汀女・文  中村一枝

三月十六日
春月の坂ゆるやかにしたがへる
            『春暁』 春の月=春
 体調を崩した母が入院することになった。この三月で八十九歳を迎えた母にとって入院はお産以来の初体験に近い出来ごとである。
 父が死んで三十数年弟と二人暮らしをしてきた母だが病院暮らしは、する方もされる方も気がかりだ。「母には入院は僕のお産以来なので」。弟が付き添いの若い看護婦さんに言った。
 「お産って何年前ですか?」
 「僕の時だから五十一年前かな」
 二十前後の看護婦は目をぱちぱちしている。五十年の歳月の重さが急にずーんと私の胸にのしかかってきた。

三月十七日
薄紅梅の色をたたみて桜餅
          『汀女句集』 桜餅=春
 彼岸が近づくといつおはぎを作ろうかなと思う。私のおはぎはちょっとしたものだと自画自讃。汀女は「あなたのは本当に美味しいわ。お菓子の舌の肥えてる私が言うんだから間違いないわよ」。お世辞でない褒め言葉だった。
 四十年以上前、隣家のおばさん永井さんから教わった。ご主人が戦前の日本郵船勤務でヨーロッパにもついて行った小柄なおばさん。彼女からクラシックな味のする洋食も、昔風の煮ものも暗い冷たい台所で習った。ページが開かないくらいぼろぼろになったノート、今も時々開いている。

三月十八日
花の雲かりそめならぬえにしのみ
         「汀女芝居句集」 花の雲=春
 お彼岸は忙しい。明大前にある中村家の墓、小田急線生田にある父の墓それぞれに墓参りをする。
 花屋で仏花として売っている花束は好きではない。私は故人に相応しい花を選ぶ時間もおよそ墓参りの一つだと思っている。ゴムや紐(ひも)でひとくくりにし、そのまま投げ込むように置かれていると自分まで情無くなる。
 仏教徒ではない私はそこに骨が入っているからというそれだけで、亡き人とのつかの間の対話を楽しむ。色とりどりの花が風にゆらいでいる中、ふっと自分を取り戻す時間でもある。


『日めくり汀女俳句』邑書林

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草木塔 №35 [ことだま五七五]

山行水行 11

                 俳人  種田山頭火

 月夜、あるだけの米をとぐ

 空のふかさは落葉しづんでゐる水

 石があれば草があれば枯れてゐる

 お月さまが地蔵さまにお寒くなりました

 水音のたえずしていばらの実

 うしろから月のかげする水をわたる

 しぐるる土に播いてゆく


『草木塔』青空文庫 

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読む『ラジオ万能川柳』プレミアム №58 [ことだま五七五]

              読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆2月6日、13日放送分

             川柳家・コピーライター  水野タケシ
  
川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」、
2019年2月6日放送分の内容です。 

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  イラストもお待ちしています~す!!

ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
http://fm839.com/program/p00000281
放送の音源は……https://youtu.be/VpdWQD24rwc

【質問】
このたびは、スポンサーさんが付かれたとのこと、
おめでとうございます!
大坂なおみ選手のように直球でお尋ねします。
ズバリ、川柳と俳句の違いを教えてください。
「俳句は季語が入る」まではわかるのです。
が、ある意味「川柳は時事ネタ」ということで、カブる部分もあるかと思います。
その差を、教えてください。よろしくお願いします!!
(あややさんのお父さん・アッちゃんさん)
https://youtu.be/VpdWQD24rwc

 (みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略)
208句の投句がありました!!
・寒いねと労わりあえる冬が好き(マルコ)
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・日韓の天気晴朗波高し(初投稿=ヤス)
・空いていてつまらなかった観光地(重田愛子)
・突然の宣言ファンに冬嵐(名人・入り江わに)
・主義主張さらっと変える身のこなし(名人・グランパ)
・孫の手にみかんのせると甘くなり(やんちゃん)
☆タケシのヒント!
「聞くだけで気持ちが暗くなるニュースが多い中、ほっと癒される、可愛らしく、すこやかな作品です。やんちゃんさん、実感の句でしょうね。」
・統計官不正ニュースで日が当たり(名人・東海島田宿)
・じゃあこれに決めたと読めるJKK(大名人・雷作)
・断髪のハサミで切った師弟愛(背番号6)
・廃棄しちゃいかんと買った恵方巻(大名人・光ターン)
・パクリあい重ね発展した文化(名人・龍龍龍)
・取り敢えずインフル外と豆を撒く(爽抜天)
・豚の為せっせと作る恵方巻(アカエタカ)
・月2回インフルエンザかかるとは(ナナチワワ)
・尾畠さんハグの数はギネスもの(名人・六文銭)
・親方の相撲道ってこれっすか(大名人・秦野てっちゃん)
・ワタクシはあまでうすではないと貴(小把瑠都)
・こんないい命名しててなんという(名人・かたつむり)
・暖かさ立春限定マジックだ(名人・ポテコ)
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・ひとときの過ちだけで変わる末(メン子)
・俺だってたまにゃ爆買いしてみたい(クッピー)
・ ゴミ箱できっと泣いてる恵方巻(大名人・けんけん)
・この今も世界のどこかで子供泣く(恵庭弘)
・福のためまめな連絡鬼嫁に(稀哲旅)
・気前よくなおみ嵐に栄誉賞(辰五郎)
・虐待のニュース見ない日いつになる(まりぽん)
・日持ちする物に替えたら恵方巻(大名人・ユリコ)
・統計に真実無しという統計(司会者=名人・あさひろ)

 ☆あさひろさんのボツのツボ!
「ラジオ万能川柳。「川柳のポイントは表現の核に発見があるかだ!」と師匠。成る程ボツ句の多くは事実や事象を並べただけのものが多いかも。しかし今日のボツのツボはフォークでなくてもいいじゃんという発見が。『スパゲティ箸で食ってもスパゲティ』喫茶店でナポリタンを気取って食べてる不美子さん。」

・性能が良すぎて困るレコーダー(名人・アンリ)
・花田家の話題つきないバラエティー(模名理座)
・五輪相副音声がでかすぎる(外科系)
 
◎今週の一句・孫の手にみかんのせると甘くなり(やんちゃん)
◯2席・パクリあい重ね発展した文化(龍龍龍)
◯3席・空いていてつまらなかった観光地(重田愛子)
 
【お知らせ】
東京都棟住宅供給公社、JKK東京のお得な情報をお届けします。
さて、現在JKK東京とこのラジオ万能川柳では、川柳を募集しています。
お題は「つながり」。つながりといえば、
昨年末の川柳特番で、ナナチワワさんの
「震災に1人じゃないと教えられ」が思い出されますねえ。
締切は2月26日(火)朝の8時。
いつものように、ラジオ万能川柳までお送りください。
発表は、27日のラジオ万能川柳。秀逸の方1名にはプレゼントもありますので、
ふるってご投稿ください。

【放送後記】
先週はポテコさん、今週はやんちゃんさんと名人昇進が続きました。
おめでとうございます!パチパチパチ!
また、稀哲旅(ひちょりたび)さんは、2年半ぶりのご投稿。
これからもどうぞよろしくお願いいたします!^_−☆
                               タケシ拝

=======================================
◆2019年2月13日放送分の内容です。 

58-4.jpg
放送の音源は……https://youtu.be/mn_VZv6cd2I

【お知らせ】
じつは昨日12日、ちっちゃなちっちゃな大ニュースがありました!!
昨日は新聞休刊日で、毎日新聞はお休みだったんですが、
なんとスポーツニッポン、スポニチに万能川柳が載ったんですねえ。
あさひろさんは気が付きましたか?
じつはこのきっかけは、ラジ川でも有名人の離らっくすさんなんです。
https://youtu.be/mn_VZv6cd2I

 (みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略)
144句の投句がありました!!
・立春をこえて明るい陽の光(昔のジョー)
・言い過ぎた撤回すると謝罪なれ(キャサリン)
・自画自賛した作品は選に洩れ(アカエタカ)
・ワクワクと引き出し開けてチョコはなし(名人・キジバト交通)
・ニホンジンよりもなおみはセカイジン(名人・龍龍龍)
・ばれたのか激辛チョコを妻がくれ(マルコ)
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☆タケシのヒント!
「川柳も『掴み』が大事。『ばれたのか』という上五で一気に句の世界に引き込まれましたね。読み手の想像力を刺激する秀作です。」

・大袈裟かどっちへ転ぶ気象庁(大名人・けんけん)
・キャッシュレスいろんな罠がありそうで(名人・アンリ)
・陽だまりを猫と分け合うシクラメン(名人・やんちゃん)
・レオパレスほくそ笑んでる引越屋(名人・鵜野森マコピイ)
・寒すぎるおふざけ動画寒波越え(背番号6)
・現金をキャッシュレス化で増やすヤツ(大名人・秦野てっちゃん)
・使い捨てマスクを洗って使う老母(のりりん)
・辛党もチョコはいつでも受け付けます(パリっ子)
・殺処分せめて言い方変えて欲し(名人・不美子)
・ああとんだイノシシ年だ豚コレラ(名人・荻笑)
・くら寿司の億かも知れぬ請求書(名人・フーマー)
・モテモテのWタケちゃんチョコ競う(名人・かたつむり)
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・とりあえず自分チョコだけ買っておく(よっきゅん)
・スポニチが売り上げ急に増やした日(小把瑠都)
・何もかも台無しにした悪ふざけ(ナナチワワ)
・漬物で野菜取ってる長野県(名人・平谷妙子)
・北国の苦労が分かる首都の雪(つや姫)
・名付け親団塊世代遺し逝く(大名人・光ターン)
・スケートもスキーも観ない受験生(名人・春爺)
・スポニチの売り上げ伸びそ休刊日(名人・はる)
・歳時記を手にコンビニの指令室(爽抜天)
・大会社動かす離らっくす氏の句(大名人・ユリコ)
・ツイッター人の倫理を丸裸(クッピー)
・手の届かぬ場所が出てきて知った老い(模名理座)
・初雪に揺れる心は変わらない(メン子)
・CMの白いお皿で春を知る(重田愛子)

☆あさひろさんのボツのツボ!
「ラジオ万能川柳。今週は144の投句、有難うございます。うち113句がボツとなりました。アカエタカさんのように自信作なのに何故ボツ?と感じておられる方も多いのでは無いでしょうか。そこで、今週のボツのツボは『僕なんか誰にも選ばれ無いのかな』恵庭弘。そして私あさひろも「ボクもボツ」でした!」

◎今週の一句・ばれたのか激辛チョコを妻がくれ(マルコ)
◯2席・大袈裟がどっちへ転ぶ気象庁(大名人・けんけん)
◯3席・寒すぎるおふざけ動画寒波越え(背番号6)

 【放送後記】
一時期の勢いはないバレンタインイベントですが、
ラジ川ではまだまだ大人気!たくさんの甘酸っぱい作品が届きました。
ありがとうございます!(≧∇≦)
                               タケシ拝
 
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水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」 http://ameblo.jp/takeshi-0719/


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雑記帳2019-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-2-15
◆鎌倉街道は地方と鎌倉を結んだ中世の主要道路、その上道(かみつみち)を歩きました。

私の住んでいる多摩地域では主な幹線道路はみな東西に延びているため、それが多摩の特性をつくっているといわれています。その中で、鎌倉街道だけは南北の道路です。
気を付けてみると、鎌倉街道と名のついた道路はあちこちにある。それもそのはず、中世の鎌倉街道は、道路を政治的に管理した江戸時代以前の、自然発生的な道路だったのです。人が歩けば道になる、こうして鎌倉へ通じる道はすべて鎌倉街道となり、都内だけで30本もあるのだそうです。

その、都内の鎌倉街道には西から、上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)の3つのルートがあり、多摩地域の街道は上道にあたります。その一部を歩いてみました。

JR武蔵野線北府中駅を降りればそこはすぐ鎌倉街道。武蔵野線は街道に沿うようにつくられています。
鎌倉街道をちょっと東にそれて国分寺街道を行くと、「馬場大門のケヤキ並木」にぶつかります。これはそのまま大國魂神社の参道になっていて、日本で唯一国指定の天然記念物です。「馬場」は武蔵国が古来良質な馬の産地で、家康が大坂攻めの際ここで馬を調達したことに由来します。府中では幕末まで馬市も開かれていました。(そういえば、東京にも馬込、駒込、練馬など馬にちなんだ地名が多いですね。)

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天然記念物のケヤキ並木

伝承によると、源義家が前九年の役(1590年)に大國魂神社に戦勝祈願し、凱旋時に1000本のケヤキを奉樹したのがはじまりとか、文献では徳川家康が義家の例に倣って慶長年間に植樹したことが伝わっています。1000年を超えるようなケヤキはさすがに残っていませんが、最も古いものでは樹齢600年を数えるそうです。
ケヤキは育ちが早く、硬いので、家具や健材に適しています。寺社の再建に自前で用意できるような配慮もあったのでしょう。
鳥居の前には御神木のケヤキがましましています。

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大國魂神社大鳥居 のコピー.jpg
御神木と大鳥居

大國魂神社は武蔵国にあるすべての神社の総社です。
総社になったのは大化の改新(645年)後のことですが、創建は古く、2世紀ごろ。祭神の大國魂大神は出雲の大国主神と同根の神で、武蔵国を開き、人々に衣食住の道を教え、医療やまじないの術も授けた、武蔵国魂の神とされています。

総社なので、いろんな神様がいます。
面白いのは、鳥居をくぐってすぐ目につく宮之咩神社。天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀っています。 天岩戸に隠れた天照大神を踊りで誘い出した女神は芸能や安産の神様です。お産の時赤ちゃんが産道につかえずにするりと生まれるようにと、安産祈願に奉納するのは穴のあいた柄杓です。

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宮之咩神社

松尾社に奉られているの大山昨命はは醸造の神様です。
この神様は出雲族の出身だといわれています。
4世紀、天照族との闘いにやぶれて国を差し出した出雲族は、陸路で諏訪から武蔵国にはいったと考えられます。大国主命は人質として出雲に残りました。一方、天照族も東をめざし、こちらは水路で房総半島に上陸、利根川と荒川の2本の川に阻まれて(当時の利根川は現在の綾瀬川とほぼおなじところを流れていました)西進できず、悔し紛れに、川の向こうはコメも育たぬむさくるしい地だと言ったことから、「武蔵」の地名が生まれたのだとか。

御神木はケヤキのほかにもあり、直径5メートルの大イチョウは、樹齢800年を超えるといわれます。一説には妻政子の安産祈願に訪れた頼朝が植えたとも伝えられ、鎌倉の鶴岡八幡宮のイチョウと同い年?
ちなみに、イチョウは平安時代には日本にまだ根付いておらず、唐へ渡った僧たちが薬用に持ち帰った銀杏が芽を吹き、鎌倉時代になって広まったということです。

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御神木の大銀杏

境内の宝物殿の扉をあければ、米俵にまたがる大国主命がお出迎えです。
内には有名な「くらやみ祭り」で奉納される神輿や直径2.5メートルの巨大な大太鼓が鎮座しています。総社である大國魂神社の神輿を中心に、一宮から六宮までそろった華麗な神輿は見ごたえ十分です。祭りに太鼓と山車、神輿がそろうのは全国でもここだけということです。(残念ながら写真撮影はできませんでした)

2階には運慶作と伝えられる、国指定の重要文化財、木造の狛犬や、平安時代の木彫の仏像5体、また、江戸時代初期に東インド会社より日本にもたらされた、世界で3個しかないというビードロ鏡などが展示されています。

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大國魂神社本殿 のコピー.jpg
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上から宝物殿、拝殿、本殿の狛犬(柵誤しにしか見られない)

武蔵国は現在の東京都と埼玉県のほぼ全域と、神奈川県の川崎、横浜市を含む広大な国でした。奈良時代、全国60箇所の国府のうち、武蔵国には大國魂神社境内を含むエリアに国府が置かれました。
甲州街道をはさんだ神社の北側に、近年発掘された国衙(こくが)跡を見ることができます。国衙とは役所の行政事務を司る建物群のことです。
国衙を中心に東西2,4キロ、南北1,2キロの範囲には4000軒もの住居跡が確認されました。 発掘後埋め戻した建物の柱跡に再現した丹塗りの柱を立て、展示館では柱の設置方法が解説してありました。

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国府跡の展示室

神社に隣接するふるさと府中歴史館では、武蔵国府に関する資料や出土品などのほか、府中の歴史に関する資料が展示されています。
江戸時代に甲州街道の宿場として栄えた宿場の面影を残す展示もあります。
中でも目をひいたのは、常滑焼の大甕にいれられた大量の出土銭でした。多くは永楽銭で、貨幣経済が発展した鎌倉、室町時代にうめられたものです。

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歴史館青磁白磁 のコピー.jpg
ふるさと歴史館の展示の一部(上が大甕の永楽銭)

歴史館を後にすれば甲州街道と川越街道の交差する地点に高札場があります。ここは府中宿の中心地でした。高札場を囲む朱塗りの柵裏は大國魂神社の御旅所です。

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高札場

天慶の乱(940年)で平将門を討って武蔵守となった藤原秀郷の居館跡には見性寺が建てられました。鎌倉幕府滅亡の直前に新田義貞が本陣を構えたことから、この戦乱によって寺は炎上、その跡が曹洞宗高安寺になりました。足利尊氏が開基となって、全国66箇所に建てた安国寺のひとつです。尊氏は聖武天皇の国分寺創設にならったといいます。

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高安寺
鎌倉街道沿いで武蔵国府の近くにあったことから、寺は重要拠点と見なされ、室町時代、2代から5代に渡る鎌倉公方足利氏が戦のためにここに陣を構えました。墓地のすぐ裏が崖となって落ち込んでいる地形も戦好みか、戦国時代には小田原北条氏の軍事拠点となるなど、数々の戦乱をくぐりました。
明治5年再建の山門は禅宗の寺には珍しい二重屋根で、安政3年再建のの鐘楼とともに東京都の歴史的建造物となっています。
見性寺の時代に、平家滅亡後鎌倉入りを許されなかった源義経が寺にたちよったといい、弁慶が大般若経を書写した伝承を伝える「弁慶硯の井戸」があります。

高安寺を出て西に進み、JR南武線分倍河原駅前の新田義貞像を横目にして、義貞軍が駆け抜けた街道を歩いて、分倍河原古戦場を目指します。

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分倍河原駅前の新田義貞の像

上野国生品神社で挙兵したわずか150騎の義貞軍が鎌倉幕府に不満を持つ関東各地の武士団と次々に合流しながら、最終的には2万騎にふくれあがったといいます。
小手指原や久米川の戦いを制し、破竹の勢いで鎌倉街道を南下する新田軍を、武蔵国最後の要害である多摩川で食い止めるべく、幕府軍は分倍河原に陣をしきました。                          元弘3年(1333)5月15日、この合戦に幕府軍は善戦、新田軍は狭山に敗走します。勝った幕府軍はそれ以上の追撃をしなかったため、体勢を立て直した新田軍は翌日奇襲をしかけて大勝、鎌倉幕府が崩壊したのは、幕府軍が勝利した分倍河原の合戦からわずか1週間後のことでした。
多摩川に注ぐ小さな新田川のそばの緑道には分倍河原古戦場の碑があり、文言は義貞から数えて18代目になる新田義美氏の手になります。

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古戦場あとの碑

大國魂神社から古戦場へ、昼食をはさんでこの日歩いた距離は6.5キロでした。
お昼は美登利寿司でちらし寿司をいただきました。
緑寿司はネタが大きいので都内では昼時には行列ができるという評判の店、その支店の一つです。

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私の中の一期一会 №184 [雑木林の四季]

        東京五輪のメダル候補、競泳のエース・池江璃花子が‟白血病”を公表
        ~桜田五輪担当相の「がっかりした」発言が国会で波紋を呼んでいる~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 2020年東京オリンピックのメダル候補と目される競泳の池江璃花子(18)は12日、「白血病と診断された」ことを自身のツイッターで公表した。
 高校生スイマーの池江璃花子は「水の申し子」とも呼ばれ、泳ぐ度に記録を更新して競泳女子界のエース的存在だっただけに、このニュースは日本中に大きな衝撃を与えたといっても過言ではない。
 新聞に池江選手のツイッター全文が、以下のように掲載されている。
「応援してくださる皆様、関係者の皆様へのご報告があります。日頃から応援、ご支援を頂きありがとうございます。
 この度、体調不良としてオーストラリアから緊急帰国し検査を受けた結果、「白血病」という診断が出ました。私自身、未だに信じられず、混乱している状況です。
 ですが、しっかり治療すれば完治する病気でもあります。今後の予定としては、日本選手権の出場は断念せざるは得ません。
 今は少し休養を取り、治療に専念し、1日でも早く、また、さらに強くなった池江璃花子の姿をみせられるよう頑張って行きたいと思います。
 これからも暖かく見守っていただけると嬉しいです。  池江璃花子」・・(原文のまま)
  池江璃花子は1月18日から2月10日までの予定で、オーストラリアのゴ―ルドコーストで合宿を行っていた。
 指導する三木二郎コーチは2週目の合宿後半、肩で呼吸をしている池江選手に気付いたという。
 そういうしんどそうな池江の様子を三木コーチはあまり見たことがなかった。
 振り返ってみると、昨年の11月W杯東京大会後に「疲労が抜けない」と話す池江がいた。
 今年1月3日の‟初泳ぎ”でも、泳いだ後のインタビューに「体がだるくて、年々疲れが取れないと感じる」と答えていた。
 1月13日の今年初のレースでは、最も得意な100メートルバタフライで、自己ベストの56秒08より4秒以上もタイムが遅かったのだ。
 1分0秒41のタイムに、池江は「自分でもビックリするくらい遅かった」と呆然としていた。
 オーストラリア合宿では微熱もあったというから、彼女の体調に異変が生じていることが明らかになったのである。
 2月4日に日本人医師がいる現地の病院で血液検査をしたところ、‟すぐ帰国すること” を勧められた。
 今月8日に帰国すると都内の病院に直行、そのまま入院した。検査の結果はなんと「白血病」であった。
 記者会見したルネサンスの吉田正昭社長は「池江選手は病気を早期に発見出来たが、詳細はまだ判明していない。復帰の時期は現時点では未定です」と語っている。
 ‟血液のがん”ともいわれる白血病は、血液に含まれる白血球や、白血球を生み出す元の細胞が異常に増殖する病気で、20歳未満の人がかかる癌の中では最も多いといわれている。
 ‟進行の速さ”や‟癌になる細胞の種類”によって「急性骨髄性白血病」とか「急性リンパ性白血病」などに分類される。「慢性骨髄性」や「慢性リンパ性」もあるので、4タイプあることになる。
 症状は病状によって違うが、貧血や全身の倦怠感、無気力、寝汗などが挙げられるという。
 風邪の症状にも似ていたりするので、健康診断などで偶然‟見つかる”こともあるらしい
 ‟抗がん剤”や‟分子標的薬”、‟骨髄移植”など治療方法も様々だから、まずは詳しい病状を調べる必要があるのである。
「白血病の治療」はかなり進んでおり、現代では絶望的な病気ではなくなった。
 池江選手が、仮に‟骨髄性”だとすると、治療に1年ぐらいはかかるのが一般的で、東京五輪への出場は厳しくなると言わざるを得ない
 30年前、急性骨髄性白血病にかかり闘病経験をもつ俳優の渡辺謙さんは、池江璃花子の白血病公表を知って「今の医学を信じ、自分の生命力を信じ、前を向いて焦らずにしっかり治療に専心してください。祈っています」とツイートした。
 池江璃花子は13日、ツイッターを更新、「昨日からたくさんのメッセージをありがとうございました」と感謝の思いを綴っている。
 「ニュースで流れる自分の姿に少し不思議な気持ちになります。神様は乗り越えられない試練は与えない。
 自分に、‟乗り越えられない壁はない”と思っています。私にとって競泳人生は大切なものです。
 ですが、今は完治を目指して焦らず、周りの方々に支えていただきながら戦っていきたいと思います。
 励ましのメッセージの中に「骨髄バンクに登録した」とか「輸血、献血をした」などたくさんのメッセージを頂きました。必ず戻ってきます。改めて皆様のメッセージとご協力に心から感謝します。池江璃花子」・・・
 過酷な現実と向き合うことになった18歳に寄せられる各界からの激励は後を絶たない。
 医療ガバナンス研究所の上昌広理事長は、「池江選手のような一流のアスリートが定期的に血液検査を受けていなかったのではないか」と指摘し、早期発見と報道されていることに疑問を呈している。
 理事長によれば、一般的に‟貧血”は競技成績にダイレクトに影響するという。男女を問わず一般人より筋肉量が多いアスリートは‟貧血になり易い”という。特に,生理がある女性は尚更である。
 最近は定期的に血液検査を受けるアスリートが増えてきているが、まだそれほど多くないのが現状のようだ。
 もし、池江選手が早くからヘモグロビンの濃度をチェックしていたら、昨年末、或いは1月の時点で‟本当の意味での早期診断”が出来ていたかも知れない。
 白血病は‟進行の速い癌”であり、恐いのは‟出血”である。脳で出血が起これば命に関わる。
 検査の数日遅れが取り消しのつかない結果を招くこともあるからホントに恐いのだ。
 今は、採血しなくてもヘモグロビンの濃度を測定できるようになった。採血に比べれば精度は落ちるが「アストリム」という測定装置もある。
 選手やスタッフがその気になれば容易にヘモグロビン検査を実施することが出来る。
 数日診断を早めるだけでリスクを相当減らすことが出来るだろうと説いている。
 水泳競技に限らずあらゆるスポーツ分野のアスリートは、上昌広理事長の「定期的なヘモグロビン濃度測定をすべきだ」という考えを警鐘と捉え、転ばぬ先の杖にして欲しいと私は思った。
 桜田義孝五輪担当相が、池江璃花子の白血病公表について「金メダル候補ですから、日本が期待している選手ですから、本当にガッカリしています」などと‟非常識発言”をしたからタマラナイ。
 翌日の国会で野党から一斉に批判を浴びて、自らの発言を撤回して謝罪する羽目になった。
 しかし、責任の取り方は「辞任以外にない」と求められても「職責を全うできるよう努めてまいります」と辞任を拒否した。
 一方、予算委員会の場で‟五輪の根本原則を定めた五輪憲章”について聞かれると「話には聞いているが、自分で読んだことはない」と答えた。これでは、また問題化するかも知れない。
 国民は池江璃花子が完治することを願っている。
 白血病に詳しい北大病院血液内科の豊嶋崇徳教授は「約7~8割の患者は抗がん剤治療で白血病細胞が消える「完全寛解」の状態になる。その後も抗がん剤治療を2年程度続けることで約3~4割の患者が「根治可能」だと語っている。
 池江選手には期待も大きいだろうが、まずは治療に専念することが先決である。
 東京の次でもまだ24歳、それでいいではないか。焦らず完治に向けて頑張って欲しい。
 


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浜田山通信 №236 [雑木林の四季]

ああ 心愛ちゃん

             ジャーナリスト  野村勝美

 父親に虐待されたあげく殺された野田市の小学4年生、心愛(みあ)ちゃんのことを思うと頭がおかしくなる。TVや新聞に出てくる心愛ちゃんのなんとかわいいことか。こんな女の子を父親が手にかけるとは、私には想像を絶する。
 これまでにも母親がわが子を橋の上から川に突き落として殺したという事件があった。でも今回のケースは特別のように思う。いずれ父親と母親の精神的欠陥つまり精神病によるものと結論づけられるのだろう。精神病となるとメディアは深く追求しない。学校や警察や児童相談所の対応を批判し終わりにしたい。その気持ちもわからないではない。しかしそれでは第二、第三の心愛ちゃんが必ず出てくる。なにしろ児童虐待の疑いで警察が児童相談所に通告した件数は、昨年8万人を超えたそうだ。「心理的虐待」=言葉による脅し、無視などが57326人で全体の7割。暴行など「身体的虐待」は14821人、食事を与えないなど「育児放棄」7699人、性的虐待が258人。昨年は東京目黒区で船戸結愛(ゆあ)ちゃんが両親の虐待で死亡した。
 家庭というものはもうすっかり壊れてしまったのだろうか。野田の場合は一歳の妹がいる。この子はこの先誰が育てるのだろう。心愛ちゃん、結愛ちゃん、いずれも愛の字が入っている。心優しい、愛に満ちた人間になってほしいという親の願いが込められた名前のはずだ。
 もう一昨年のことだが、戸井田道三門下で早大露文科の後輩(といってもヒロシマ、ミナマタ、公衆衛生の権威)荘田智彦さんよりもらった日野原重明、堀文子さんの対話集をパラパラめくっていたら、日野原さんの発言の中に次のような言葉があった。「4年生になると“愛”という字をおぼえる。そして、“愛の真ん中には心があるんだよ”と教える。こうすると、子供たちも漢字の素晴らしさに気づきます」 たしかに愛という字の真ん中に心がある。心愛ちゃんや結愛ちゃんの親も”愛”らしさを求めて我が子の名前に愛を使ったのだろう。
 それがどうして虐待になってしまうのか。心理学の分野はこのところ大進化をとげている。TVのコメンテーターに心理学者が必ず登場する。この人たちも今回の事件についてはあまり冗舌ではない。学者がとうとうと持論を展開するケースではないのだ。
 日野原さん、堀さんはともに100歳を越えて、昨年、今年とこの世を去った。女性は瀬戸内寂聴さん以下まだ何人か現役バリバリがおられるが、男性は梅原猛さんも亡くなり、外山滋比古さんくらいか。悲しい話のあとに90歳のことを書くのは気が引けるが、日野原さんの「人生、90歳からが面白い」から二、三の箴言のようなものを。
 まだまだ僕にとって新しいことはたくさんある。
 豊かな人生に、友人は欠くことができまい。
 自分の可能性を信じて、いきいきと生きようではありませんか。

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BS-TBS番組情報 №180 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年2月のおすすめ番組(下)

                BS-TBS広報宣伝部

昭和歌謡ベストテン 泣ける!哀愁のご当地メロディー大放出SP

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2019年2月16日(土)よる6:30~8:54

☆懐かしいあの日が甦る!昭和歌謡をベストテンでお届け!

司会:関根勤、長峰由紀アナウンサー(TBSアナウンサー)
ゲスト:堀内孝雄、川中美幸、山本譲二、丘みどり、三山ひろし
VTR出演:美川憲一、福田こうへい、千昌夫、森昌子、鶴岡雅義と東京ロマンチカ、ロス・インディオス、大津美子、狩人、岩崎宏美、五月みどり、宮路オサム、平尾昌晃、ロス・プリモス、こまどり姉妹、橋幸夫、ペギー葉山、ビリーバンバン、八代亜紀、大川栄策、水前寺清子、金井克子、三田明、ザ・ワイルドワンズ、宇崎竜童、黒沢年雄、牧村三枝子、松崎しげる、北山ミレイ、ジュディ・オング、瀬川瑛子、菅原洋一、田代美代子&和田弘とマヒナスターズ、佐々木新一、伊東ゆかり、ささきいさお、デュークエイセス、柏原芳恵、因幡晃、平和勝次とダークホース、尾藤イサオ、伊藤咲子、ジェリー藤尾、渡邊真知子、小椋桂

「昭和歌謡ベストテン」が2時間30分のスペシャルバージョンで大復活!
泣ける、哀愁のご当地メロディーのベストテンの発表と昭和を彩った名曲を蔵出し大放出!
50人の昭和のスターの映像と50曲を超える歌い継ぎたい名曲をお楽しみください!
♪北国の春 ♪越冬つばめ ♪小樽のひとよ ♪コモエスタ赤坂 ♪東京アンナ ♪あずさ2号 ♪聖母たちのララバイ ♪一週間に十日来い ♪なみだの操 ♪カナダからの手紙 ♪ラブユー東京 ♪浅草姉妹 ♪潮来笠 ♪南国土佐を後にして ♪白いブランコ ♪舟唄 ♪さざんかの宿 ♪三百六十五歩のマーチ ♪津軽恋女 ♪他人の関係 ♪美しい十代 ♪想い出の渚 ♪港のヨーコ ヨコハマ ヨコスカ ♪時には娼婦のように ♪みちづれ ♪愛のメモリー ♪石狩挽歌 ♪魅せられて ♪命くれない ♪知りたくないの ♪愛して愛して愛しちゃったのよ ♪あの娘たずねて ♪小指の思い出 ♪銀河鉄道999 ♪女ひとり ♪春なのに ♪わかってください
他にも、名曲を多数お届けします!

マー君の冬休み3

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2019年2月17日(日)夕方5:00~5:54

☆メジャーリーグで活躍を続ける田中将大投手の冬休みに完全密着!
激闘のウラに隠された真実に迫るとともに、普段は見ることができない本当の素顔をたっぷりお届け!

出演
田中将大(ニューヨーク・ヤンキース)
小島瑠璃子
松井裕樹(東北楽天ゴールデンイーグルス)
山下健二郎(三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE)

ニューヨーク・ヤンキースに移籍後、日本人初となる5年連続2ケタ勝利の大記録を達成!プレイオフでも全米を震撼させるピッチングを見せた田中将大投手。そんな「マー君」こと田中投手が疲れた体と心を癒し、来シーズンに備えて冬休みを楽しむ姿に完全密着する特別番組第3弾。激闘のシーズンのウラに隠された真実に迫るほか、普段は見ることができない本当の田中将大投手をじっくり、たっぷりお届けする。

<プレイバック2018>
メジャーデビュー5年連続2ケタ勝利の大記録を達成した2018年。その激闘の裏側を自ら語る。さらに2018年に実現した、大谷翔平選手との夢対決を本人解説。奪った2つの三振、その真実が明らかに!?

<冬休みに密着!>
後輩・松井裕樹投手と山下健二郎とともに「DIY」にチャレンジ!愛息のために机と椅子を手作りすることに。さらに前回に続き、釣りをしに海に向かったマー君。小島瑠璃子と釣り対決!ターゲットは海の王者・真鯛。見事釣り上げ、食す事ができるのか?

LIVE ON!うた好きショータイム

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毎週(木)よる9:00~9:54

☆夜のひとときを上質で本格的な音楽で彩ります!

司会:由紀さおり、山口智充

由紀さおりとぐっさんこと山口智充のふたりが番組の司会!
毎回一組のアーティストをゲストにお迎えして、いまこそ聴きたいゲストアーティストの名曲と様々なテーマでゲストとの楽しいおしゃべりをライブ感あふれるテンポでお届けします!

■2月21日(木)
ゲスト:渡辺美里
「My Revolution」「恋したっていいじゃない」など名曲大熱唱!伝説の西武球場ライブの秘話も!さらにぐっさんと仲の良い美里さんから、ぐっさんのおすすめモノマネレパートリーも!トークライブももりだくさん!
♪My Revolution、♪恋したっていいじゃない、♪BELIEVE、♪10years、♪始まりの詩、あなたへ、♪冬の星座

■2月28日(木)
ゲスト:稲垣潤一
クリスマスキャロルの頃には・ドラマティックレインなど名曲熱唱とドラム演奏もあります!趣味の車の話ではぐっさんと意気投合で意外な一面も!お見逃しなく!
♪1ダースの言い訳、♪クリスマスキャロルの頃には、♪1969の片想い、♪夕焼けは、君のキャンパス、♪ドラマティック・レイン、♪夢であいましょう


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バルタンの呟き №51 [雑木林の四季]

右側の胸ポケット            

                    映画監督  飯島敏宏

 「なにがめでたい!」の佐藤愛子さんは、「これっきり!」と、断筆宣言をなさったようですが、僕としては、一方で、命の終わる時まで書き続けます! とおっしゃる瀬戸内寂聴さんにあやかろうと決めて、わずか86歳!にして、近頃しきりに自覚症状を覚え始めた加齢性脳萎縮症という、高齢になれば、誰しもが避けて通れない症状の進行と折り合いを付けながら、僕としても、恥ずかしながら、なにか、この世の中に、僅かでもいいから寄与できることが出来ないか・・・と、今年も、春節にちなんで、改めて、バルタンズ・アイ、あの大きな目で世の中を見つめて呟き続けていこう、と、干支の変わるこの春節に臨んで誓ったものです。
ですが、さて、と開いた新聞でまず目を射たのは、
「ああ、今年もまた一陽来禍・・・」
と、連日生中継されている、ばかばかしさに呆れる国会の予算委員会の報道と記事写真でした。
ご承知の通り、新元号を俟つ今年の干支はイノシシ、猪突猛進の歳です。来年に東京オリンピックパラリンピックを控えて、というより実は差し迫った選挙をひかえて、安倍ニッポンは、「成長々々」の実績連呼です。なにやらその成長の実績が、役人の忖度数字で粉飾されていた気配でもありますが・・・攻める野党も、一向に足並みがそろわず・・・頼みのマスコミ、新聞にしても、一面トップが政治ではなく社会ネタの「嵐」一時閉店記事で、バルタンの眼も、何処を向いていいのやら、ただ徒らにきょろきょろ見回してもと、諦めかけた途端・・・ありました、ありました。

見るだに嘆かわしい、あの食材の大量棄捨のシンボル「恵方巻き」です。ふんだんな具材を巻き込んだ、立派な太巻きが、燃えるゴミのなかに、半齧り、あるいはひと口齧っただけの、いや、恐らくは売れ残りなのか、丸のまま包装もというものを含めて、どさっと・・・無惨としか言いようがありません。
昨年来、いや、一昨年来、新聞その他で取り上げられながら、結局、このありさまは、何でしょうか。
「恵方に向けて一本まる齧り・・・」
こんなもの鵜呑みしたって、福が来るはずがないじゃありませんか。
関西のどこの神社から始まったのかよく知りませんし、知りたいとも思いませんが、先日ある会合で出会った関西の某名刹宮司氏に、恵方巻きのそもそもの来歴を伺ったところ、
「ありゃ、どこぞの海苔やが、考えはったんとちゃうやろか」
の一言でした。
神社ばかりでなく、それに乗って、コンビニその他、食品関係業者が始めたのでブームになったもののようで、この春節には、某デパートの食堂街フロアに出店する全店が、食種によっては、これが太巻きなのか不可解!なものまで、全店「恵方巻き」イベントが組まれる有様でした。
関東もんの僕が呟くのもなんですが、一切れ一切れ、良く斬れる包丁で丁寧に切っていただくほうが、得も言われない口福が訪れるのとちゃいまっか・・・
成長々々の掛け声で生まれた過剰消費の社会現象は、「恵方巻き」ばかりではありません。
恵方巻きと同様に、凄まじい過剰供給の一例に、服飾を取り上げても、その弊害が顕著にみられます。既製ブランドのスーツ類では、過剰供給どころか、店頭に並ぶことさえなく捨てられるものが夥しい量に達した、という新聞報道がありました。

ところで、ちかごろ、家人ばかりでなく、各週刊誌の見出しからも執拗に迫られている、終末期!を身近に控えて、せめてものせめて身近からの断捨離ということで、永年の間見ることもなく溜まるにたまった写真類を整理している際に、僕が生まれた昭和初期の物と思われる、セピア色に褪色したある集合写真を見て、おや、と、気がついたのですが、名士を含む、見るからに上級の紳士と見受けられる人々の列の中に、三つ揃いのスーツで、縞柄の上質な生地仕立てながら、上衣の胸ポケットが、右側にある洋服を着ている方が一人おられたのです。
「あっ」
と、思い当たったのは、僕が、注文洋服屋の倅だったからかもしれません。
昔は、ある程度着古した服の縫製を丁寧にほどいて、生地をクリーニングして、補正しながら再び縫い直して殆んど新調のようにようにする「裏返し」という作業が、結構頻繁にあったことです。一部上場会社の高給取り社員でも、昔はサラリーマンは洋服が看板で、生地に懲り、柄に拘り、仕立てに凝って月賦ばらいで上等な背広を仕立てたものです。裏返して胸ポケットの部分を、かけはぎして、左に新たなポケットを付ける技法もありました。

 予め渡された予定通りの質問に、側近の手で作成された原稿の読み上げではぐらかし、自分の声で真摯に答える事をしない閣議決定専横の議会中継に倦んで、議員諸先生の洋服を眺めると、圧倒的に上質な麻生副総理の服を筆頭に、高価な注文仕立ての洋服を着ている閣僚、議員諸氏も見かけますが、殆んどが、高級ブランドであっても、昔、吊るし、と総称された、似たり寄ったりの類似デザインの黒系既製服を着ておられます。間違っても、裏返しに仕立て直した服は見かけられません。でも、若い議員先生はともかく、古手の先生方には、自宅のクローゼットに、以前無理して作った注文服の、今のような化学繊維や無織生地ではない、重厚な生地を体躯に併せて裁断して、仮縫いまで施した洋服が眠っているのではないかなあ、などと考えて、保守系幹部議員、お一人おひとりのお顔を拝見しています。そうです、「ぼーっとしてるんじゃねえよ!」、と、国民に言われる前に、右側にポケットが来てもいいじゃないですか、初志を思い出して、自分の体に合わせた服を着て、自分の声で、自分の心に従って、自分を信じて、議員としての職務を果たしていただければなあ・・・この国の行く道が開けるのでは・・・と、呟きたいのです。挙国一致で自衛隊員募集に、自治体が積極的協力を、などと災害救助に結び付けて叫ばれると、昔を思い出してしまうのです。挙国一致に次に来たのは、国家総動員! 一億一心!でした。専守防衛で、戰爭をしない自衛隊だから、やりがいのある仕事として自衛隊に入ったのです。同盟の名の下に、他国の防波堤、前線基地にされる恐れのある、あるいは、救援ではなく、他国の戦争をお手伝いさせられる恐れのある自衛隊に応募しようとする若者が・・・いると思う方が不思議だと思うのですが・・・


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医史跡を巡る旅 №53 [雑木林の四季]

「西洋医学事始め・日本最初の腑分け」

             保健衛生監視員  小川 優

平成7年(1995年)に発行された「近代解剖教育記念切手」です。
明治26年(1893年)に日本解剖学会が創立され、近代解剖教育体制が整備されて100年を迎えたことを記念して発行されました。

「近代解剖教育記念切手」

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近代解剖教育記念切手

医学の勉強の基本は、人間の体の仕組みを知ることから始まります。
体の構造、そして健康な状態がどうなっているかを知らないと、どのような状態が異常なのか、つまり病気なのかの判断もつかず、さらにいかにすればそれが治せるか、ということがわかりません。医学を学ぶ者は必ず、解剖学に触れざるを得ないのは、こうした理由からです。

西洋医学が導入されるまで、つまり東洋医学の時代には、観念的な陰陽五行説に基づく中国医学や、実証・経験主義的な考えで、実際に人間に試して体に良いもの、悪いものを区別し、治療法を探していく古方派などがありました。どちらも体の内部の構造や、各部の働きについて重視することがなかったために解剖知識は必要なく、さらには死生観や、仏教的考えから遺体に畏怖の念があり、江戸時代の後期まで医学教育としての解剖は行われてきませんでした。
日本における解剖は、西洋から近代医学が伝えられるようになり、もたらされた貴重な医学書の内容を確認することから始まったといえます。しかしながら、「腑分け」に対するアレルギーは強く、多くの人に受け入れられるまでに、極めて難路であったことは容易に想像されます。

記録に残り、社会的な意味でのエポックメーキングとなった日本最初の解剖は、宝暦4年(1754年)に山脇東洋によって行われました。

「日本近代医学発祥地」

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日本近代医学発祥地~京都市中京区六角通

実践主義の古方(古医方)の医師であった山脇東洋は、自らの診療を通じ、古来伝えられている五臓六腑説に疑問を抱いていました。人の内臓によく似ていると言われていたカワウソを解剖したり、ドイツ生まれの解剖学者ヘスリンギウス(ヴェスリングとも)が記し、オランダ語でも刊行されていた解剖書を入手して知識を深めていましたが、真偽を確かめることができず、疑問は増えるばかりでした。
そんな時東洋は、六角獄舎に繋がれた重罪人5人が処刑されることを知ります。京都所司代に若狭藩医であった小杉玄適らと連名で、刑死人の遺体の下げ渡しと、解剖許可を誓願し、これが認められることとなります。

「山脇東洋観臓地」

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山脇東洋観臓地~京都市中京区六角通

時に宝暦四年(1754年)閏二月七日、西土手刑場で5人の刑は執行され、首は晒されます。うち一人の体は六角獄舎に戻され、筵の上で屠者により開腹されました。その罪人の名は屈嘉(くつよし)であったと伝えられます。
解剖が行われた六角獄舎跡には、「日本近代医学発祥地」と「山脇東洋観臓地」の碑が建てられています。

「山脇社中解剖供養碑」

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山脇社中解剖供養碑~京都市中京区新京極 誓願寺墓地

東洋は、罪人といえどその身を以て新たな知見ををもたらしてくれた屈嘉に感謝し、その魂を慰めるために六角獄舎から少し離れたところにある誓願寺で、法要を営みます。

「山脇東洋解剖碑所在墓地碑」

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山脇東洋解剖碑所在墓地碑~京都市中京区新京極 誓願寺墓地

賑やかな新京極の路地裏に誓願寺はあり、屈嘉と、その後東洋一門によって解剖された刑死人14人を供養するために建立された碑が今でも残っています。ただし、碑自体は風雨による痛みがひどいため、平成6年に建て直されたものです。供養碑に刻まれた戒名のうち、「利剣夢覚信士」が屈嘉です。

誓願寺墓地には、山脇東洋夫妻の墓もあります。

「山脇東洋夫妻の墓」

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山脇東洋夫妻の墓~京都市中京区新京極 誓願寺墓地

ただし、ここには東洋夫妻は葬られていません。
解剖5年後、東洋はその結果を「蔵志」にまとめます。内容的にはごく簡単なものですが、初めて日本人が記したものとしては、正確で画期的なものでした。刊行まで5年を要していますが、やはり解剖という行為に対しての、周囲からの批判を考えてのことでした。

「山脇東洋墓」

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山脇東洋墓~京都市伏見区深草 真宗院墓地

山脇東洋、本名は尚徳。ほかに移山、玄飛、道作を名乗る。宝永2年(1705年)、禁裏の侍医を務める山脇家門下の清水立安を父とし、山脇玄脩のもとで学び、その後養子となります。古医方の後藤艮山にも師事することで実証主義に触れたことが、解剖の必要性を感じ、実行する原動力になったと考えられます。ちなみに解剖に立ち会った時、東洋は49歳でありました。
東洋は宝暦12年、往診先でふるまわれた食事にあたり、58歳でその生涯を閉じます。亡骸は山脇家の菩提寺である、伏見区深草の真宗院に葬られました。


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いつか空が晴れる №53 [雑木林の四季]

            いつか空が晴れる
            -冬の夜『魔王』―
                     澁澤京子

 友達の家で炬燵にあたって話をしているうちに夜も更けてきて、往来から、かち、かち。火の用心。の声が聞こえてきた。2,3人で歩いているらしい。火の用心の見廻りする人たちの暖を取る場所が番小屋と呼ばれるのを、私は岡本綺堂の小説で知った。

子供の頃、祖父の家に泊まりに行くと、寝る前はよく祖父に頼まれて、岡本綺堂の「半七捕物帳」かシャーロックホームズを枕元で朗読した。祖父は「半七捕物帳」と「シャーロックホームズ」が好きだったのだ。
祖父の寝室は書斎を寝室に改造したもので、本棚の下にはマントルピースがあり、そこには普通のストーブが置かれていた。本棚のほかにも、出窓になっている窓辺には祖父の本がたくさん積まれていた。四角いガラスケースに入った、金色の美しい時計が夜になって静かになると、コチコチと規則正しい音を立てていた。祖父が昔アメリカから買ってきた時計だった。シャーロックホームズも半七捕物帳も、子供の私にはそれほど面白いとは思われなかった。むしろその頃よく読んでいた怪盗ルパンとか江戸川乱歩の少年探偵団の方がずっと面白いと思っていたけれど、大人になってから読み返してみると、半七捕物帳には江戸~幕末のころの東京の様子が、シャーロックホームズは19世紀末のロンドンの雰囲気がよく伝わってきて、ある時代、ある都市の雰囲気を楽しめる小説でもあるのだ。

声をからして朗読しているうちにスースーッと祖父の寝息が聞こえてきて、祖父が寝てしまうと私は本を閉じて、祖父の隣に敷かれたお布団にもぐりこんで一緒に眠った。
カーテンを閉めた出窓のガラスは、風が吹くと時折カタカタと音を立てていた。昔の家は今よりもガラスが薄かったので、特に冬の夜などは風の唸り声とガラス戸の鳴る音は布団にもぐった真っ暗な中でも聞こえてきた。

シューベルトの『魔王』の話を祖父から聞いたのも、やはり冬の夜、布団を並べて一緒に寝ているときだった。
一人の騎士が病気の息子を抱いて、夜の闇の中、馬を急いで走らせている、
「父さん、魔王が見えないの?」
熱を出した息子は幻覚を見る
息子よ、あれは木の影だ。
「父さん、あの声が聞こえないの?」
息子よ、あれは風の音だ。
父親にしっかり抱きしめられて、うわごとを繰り返していた息子は、結局父親の腕の中で亡骸となっていた、という話である。
祖父からこの話を聞いた後、私は真っ暗な中で聴こえてくる風の音が怖くて怖くて眠れなかったことがあった。
隣からは祖父の安らかで規則正しい寝息が聞こえてきて、私だけいつまでも眠れなくて布団にもぐっていた。

私は寝つきの悪い子供だったので、しんとした夜中、世界中で目が覚めているのは私一人だけという感じをよくもった。子供のとき、死についてすごく恐怖感を持ったのも、寝つきが悪かったせいだ。明日はどうなるかわからない、いつ心臓が止まるか誰もわからない、生きているということは、ちょっと先は闇の、まるで綱渡りをしているようなものなのに、家族や他の人たちはよく平気で喋ったり笑ったりしていると考えていた。

父には、20歳の若さで病気で亡くなった兄がいた。ハンサムで優しくて、誰からも愛されるような青年だったらしい。祖父にとってこのゲーテの魔王の話は、若くして息子を亡くしてしまった父親の、口に出せないような悲しみと辛い思いがいろいろとあったのに違いない、と今になって思う。


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梟翁夜話(きょうおうやわ) №33 [雑木林の四季]

「グリーンズのある生活」

                 翻訳家  島村泰治

年末までふた月、頃合いを見計らい雑煮用に小松菜を蒔いた。ついでに、好みの漬け物に仕立てて欲しいと野沢菜を三畝、鳥たちの餌にとのらぼう菜を三畝、ままよと青梗(ちんげん)菜を四畝、いつも虫にやられて散々な目に遭う小松菜の保険にと正月菜という珍な葉ものを蒔いた。それとは別に、冬の定番ほうれん草と菜飯に欠かせぬ高菜はすでに蒔いてある。占めて六種の葉もの、グリーンズがわが菜園に蒔かれた。(米語では畑ものをproduce、葉ものをgreensという。)

群馬の藤岡で中学同窓の平井が百姓をしている。百姓とはいえ彼は著書まで残す乳牛の権威だ。昨年末、久し振りに訪ねた時、話しの流れで小松菜が虫にやられて葉っぱものは手に負えぬとこぼしたところ、ならばと彼がある知恵を授けてくれた。発芽から10日が勝負だと、その数日間に軽く土壌処理をすればいい、とその段取りを伝受してくれたのである。

そう、平井の話を余談にしようか。名は洋次、これをようつぐと読む。本人の述懐を交えて語れば、彼は中学時代、とても目立つ存在ではなかった。遠慮なく言わせてもらえば、下から数えて何人ほどで、わが庵を立ててくれた大工の加藤武司とおっつかっつの生徒だった。もう一つ言わせてもられば、2人いた平井のうち1人は調布で、こちらは英語部にいたから覚えていたが、もう1人、つまり洋次の印象がとんとないのである。ある年の同窓会で洋次に藤岡へ来てくれと招かれた。そんなだから正直気乗りはしなかったが、強いてという勢いに負けてよかろうということになったのである。思えば、あれが縁というものだろう。

某名画の鑑賞で高崎を訪れたことがあるが、藤岡は上信越の曲がり角以上の知識がなく、群馬は近いながらほぼ未知の地だった。このとき私は我が同窓、平井洋次の豊かな一面を知ったのだ。聞けば幼少から牛には縁が深かったとか、それをきっかけにひたすら乳牛の飼育にその後の年月を過ごし、日大では獣医学を専攻、研究成果を著作にまとめて出版した。これが今なお斯道のガイドブックになっているという。

平井の辿った道をなぞれば、中学の「学業」などは何の指針にもならないことの格好な例だ、と私は改めて人間力の涵養に半端な甲乙丙は邪魔にこそなれこれぞという意味はない、という実感を深くしているのだ。

その平井から貰った知恵を早速試さんがために、わが家の菜園はこのたび葉もののオンパレードになった。野沢菜の如きは例年四つ葉で食い荒らされて、軒並み葉っぱが網状になる惨状だったものが、なんと、今年は四つ葉、五つ葉やがて芯が立ち上がるまでに成長してもすくすくと育ったのである。いつもなら二葉でやられていた小松菜もしごく元気だし、青梗菜も負けじと伸び、間引きが楽しみなほどにほこってくれた。

グリーンズが溢れる菜園は何にも代えがたい財産だ。スーパー経由の葉ものの貧弱さ、味気なさを思えば、畑から抜いたばかりの葉ものを間髪入れず口にできる贅沢は、到底金では買えない醍醐味だ。怪しからん話だが、これまで虫たちがその贅沢をほしいままにしていたわけで、思えばえらい損をしていたことになる。

私は漬物に目がない。酸味を好むことから、むしろやや発酵が過ぎた奴を選んで食べる。幸い愚妻が漬物作りが得手だ。東京農大の小泉教授の影響か発酵ものに凝っており、見事に成長した野沢菜が今年は格好な野沢菜漬けに変身した。小皿に出てくる二箸ほどのわが家の野沢菜は、日々朝飯の愉しみを心地よく増幅してくれる。

2月に入って、菜園の小松菜は雑煮を賑わして去り、野沢菜は取り尽くされて樽に入った。青梗菜の畝は数株を残して土が顕れている。そう、のらぼう菜は鶏たちの好物、これは春が深まれば寸を伸ばし鶏舎の食事を賑わす筈だ。かくてわが菜園ではかつてない葉もののオンパレードが見られた。平井の知恵のおかげである。

葉ものの間隙を縫って、友人たちに評判の玉ねぎが何百株も素直に育っている。こちらはモグラとの戦いが残っている。どうだ、モグラはなんとかならぬか、と牛の平井に聞いてみようかと思っている。


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