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国営昭和記念公園の四季 №32 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ムラサキハナナ群生  渓流広場

ムラサキハナナ9 のコピー.jpg

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『知の木々舎』第240号・目次(2019年4月下号編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

ケルトの妖精 №1               妖精美術館館長  井村君江
 白鳥乙女カーと愛の神オィングス
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12-7

じゃがいもころんだⅡ №7             エッセイスト  中村一枝
 一万円札                                                       
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12-6
 
渾斎随筆 №31                        歌人  会津八一
 奇遇 
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12-8

石井鶴三の世界 №137                画家・彫刻家  石井鶴三
 喜光寺 1914年/唐招提寺 1914年
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12-9

過激な隠遁~高島野十郎評伝 №2          早稲田大学名誉教授  川崎 浹
  第一章 一枚の絵の発見 2
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12-4

往きは良い良い、帰りは……物語  №69        コピーライター  多比羅 孝
 『春帽子』『卒業』『汐干狩』『鶯』
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-03-27-6

正岡常規と夏目金之助 №12             子規・漱石研究家    栗田博行
 子規・漱石~生き方の対照性と友情。そして継承  
   第一章 ともに名家にうまれたが 
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12-2

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№8 美術史研究家  斎藤陽一
 俵屋宗達・絵、本阿弥光悦・書「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12-3

【ことだま五七五】

日めくり汀女俳句 №32                 中村汀女・中村一枝
 三月三十一日~四月二日
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-12

猿若句会秀句選 №95                                       猿若句会会亭    中村 信
  2019年3月16日
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-03-27-3

草木塔  №38                      俳人  種田山頭火
 或る若い友 4
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-11-10

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №62                 川柳家  水野タケシ
 4月3日、10日放送分
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-11-9

【核無き世界を目指して】

対話随想余滴 №11                                        作家  中山史朗   
 中山史朗から関千枝子さまへ              
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-10-9

【心の小径】

論語 №71                                                            法学者  穂積重遠
  二二四 子のたまわく、これに語げて惰らざる者は、それ回なるか
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-10-1

余は如何にして基督信徒となりし乎 №62                                  内村鑑三
 第十章 基督故国の偽りなき印象 - 帰郷 3
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-10

【雑木林の四季】

浜田山通信 №240                                     ジャーナリスト  野村勝美
 高田博厚彫刻プロムナード
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-11-6

私の中の一期一会 №188              アナウンサー&キャスター    藤田和弘
 失言オンパレードの桜田義孝五輪担当大臣がついにクビを切られた
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-11-7

BS-TBS番組情報 №184                                     BS-TBS広報宣伝部
 2019年4月のおすすめ番組(下)
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-11-5

バルタンの呟き №55                 映画監督  飯島敏宏
 「皇紀2600年!大政翼賛会?」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-11-4

医史跡を巡る旅 №55                                 保健衛生監視員  小川 優
 「博愛精神のルーツをたどる・日赤の産声」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-03-26-10

いつか空が晴れる №57                    渋澤京子
 -汚れちまった悲しみに-
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-11-2

梟翁夜話(きょうおうやわ) №37                           翻訳家  島村泰治
 「ある時代の終焉」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-11-1

検証 公団居住60年 №30  国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 公団家賃裁判一提訴から和解解決まで 2
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-11

コーセーだから №49           (株)コーセーOB  北原 保
 50歳創業の哲学 10
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-03-26-3
    
地球千鳥足 №120       グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子
  癌になっても旅に出る地球千鳥足夫婦です!~アメリカ合衆国~
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-03-26-1

台湾・高雄の緑陰で №24      在台湾・コラムニスト  何 聡明
 選挙後の台湾事情(友人内山邦昭氏への返信)
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-03-26-2

【ふるさと立川・多摩・武蔵】

赤川Bonzeと愉快な仲間たち №126              銅板造形作家  赤川政由
 川口のまちづくりはここからはじまる町
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-10-8

立川陸軍飛行場と日本・アジア №177    近現代史研究家  楢崎茂彌
 御警護につけ 立川飛行隊の一部 突如出撃命令下る 関東防空大演習 
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-10-7

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №124             岩本啓介
 桜の季節 都電荒川線・面影橋    
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-10-6

押し花絵の世界 №84                                     押し花作家  山﨑房枝
 「Dear flowers」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-10-5

渋紙に点火された光と影 №55        型染め版画家  田中 清
 「薊(アザミ)」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-10-4

多摩のむかし道と伝説の旅 №25                                            原田環爾
  鑓水商人の夢の跡、絹の道・浜街道をゆく 5
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-10-2

ミツバチからのメッセージ №4 造園業・ミツバチ保護活動家   御園 孝
 ニホンミツバチ復活プロジェクト
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-10-3

国営昭和記念公園の四季 №32
 ムラサキハナナ群生 渓流広場
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-14

【代表・玲子の雑記帳】            『知の木々舎 』代表  横幕玲子
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-04-11-8


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ネットマガジン『知の木々舎』を愉しくお読みいただくための手引きをご案内します。

発行回数・月に2回(上期・下期)ネットマガジンを発行します。
カテゴリー・記事の分類です。
「もくじ」・「執筆者紹介」・「代表玲子の雑記帳」・「心の小径」・「文芸美術の森」・「ことだま五・七・五」・「雑木林の四季」・「ふるさと立川」・「核無き世界をめざして」があります。
もくじ・ネットマガジンの号数・編成期(×月の上期・下期の別)を表示し、その下に最新の記事のタイトル・見出しが URLをカテゴリー別に掲載しています。
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ケルトの妖精 №1 [文芸美術の森]

白鳥乙女カーと愛の神オィングス

             妖精美術館館長  井村君江

 オィングスは若さと美と愛の神であり、父のダグダは大地と豊穣の神で、ともにケルトのダーナ神族であった。オィングスの口づけは小鳥となって乙女の口もとにとどき、小鳥のさえずりは愛の想いとなって乙女の心に飛びこむといわれた。黄金の竪琴はやさしく美しい調べを奏でて、聴く者の心を奪った。
 オィングスは、ボイン河のほとりにある妖精の丘の王宮に暮らしていたが、ある夜、ひとり眠っていると、かつて見たこともない美しい乙女が現れた。おもわず寝台から手をさしのべると、乙女はかき消すようにいなくなってしまった。
 夜の白むまで、オィングスは乙女のことを思って寝つかれなかった。
 次の夜も、乙女はオィングスの夢のなかに現れた。その夜は笛を手にして、美しい調べを奏でていた。
 それから一年ものあいだ、毎夜、乙女はオィングスの夢のなかに現れては笛をふき、そして消えてゆくのだった。
 恋に落ちたオィングスは病気になり、しだいにやつれていった。多くの医者がその原因をつきとめられなかったが、フィンゲンという医者だけがオィングスの顔を見て、病は恋のためであることを見抜いた。
 オィングスは乙女がどこかに住んでいると信じて、乙女を探そうと思いたった。フィンゲンは母ボアーンの知恵を借りるようにと告げた。
 ボアーンは、悩む息子の想いを遂げさせるために、一年のあいだ乙女を探したが、見つけられなかった。夫のダグダにも相談したが、ダグダも探しあてることができなかった。
 そこでダーナ神族のマンスターのボォヴに頼みにいった。ボォヴはアイルランドじゅう
を探し、やっと一年ののちにガルディー山の竜の入口(ベル・ドラゴン)の湖のそばで、その乙女を見つけた。
 オィングスは馬車を駆って、ボォヴの王宮にやってきた。ボォヴは、三日のあいだ歓迎の宴を催したのち、乙女のいる湖へとオィングスを連れていった。
 湖のほとりには百五十人の乙女がいた。そのなかに、金の冠を戴き、金の首飾りをつけたひときわ美しい乙女が目に入った。
 「ああ、あの乙女だ!」オィングスは叫んだ。「あの方の名前を教えてください」
 するとボォヴは言った。
 「あの乙女の名はカーといい、コノートの国のウエヴァンの妖精の丘に住んでいる、エタルの娘です」
 オィングスは父ダグダのもとに帰ると、乙女を湖で見つけたことを話した。ダグダは、三頭立ての馬車を仕立てると、乙女の住むコノートの国に出かけた。コノートの国の女王メイヴと王アリルはダグダを歓迎して、宴会でもてなしてから用件をきいた。
 「息子のオィングスがエタルの娘に恋をして、花嫁にほしいと願っている」
 とダグダは頼んだ。
 アリルは「自分たちの力は妖精の乙女にはおよばないのだ」と答えたが、使者を妖精の丘のユタルに送り、ダグダに娘を与えるようにと交渉した。しかしエタルはその申し出をことわったので、戦いとなった。
 ダグダとアリルは連合軍を組織して攻撃をしかけ、エタルを捕虜にした。
 そしてアリルは、「娘をダグダの息子の嫁にしてほしい」と、エタルにふたたび頼んだ。「それはできないのです」エタルはまたしても、その申し出をことわった。

 不審に思ってアリルがそのわけをたずねると、ユタルは、
 「自分の力より、娘のカーにかけられている魔法の力のほうが強いのです」
 と答えた。そして、
 「娘は二年ごとに鳥の姿と人間の姿とに変わって、その年を過ごすのです。次のサウィン(十二月二日)には、白鳥の姿になって竜の口の湖で仲間の百五十羽の白鳥たちと泳いでいるでしょう」
 とアリルに言った。
 ダグダは、王宮へ帰ると息子のオィングスにこのことを知らせた。
 サウインの日に、オィングスは湖に向かった。百五十羽の白鳥が金の首飾りをつけ、頭上には金の冠を戴いて泳いでいた。
 オィングスは水辺に立って、白鳥の姿のカーに呼びかけた。
 「ここに来て、わたしと話をしてください」
 「わたしをお呼びになるのはどなたですか」カーは答えた。
 「オィングスです」
 それを聞くとカーは、オィングスのほうに近づいてきた。
 愛しい気持ちを胸いっぱいに、オィングスがカーを抱きしめると、オィングスも白鳥の姿に変わった。
 そして二羽の白鳥は、美しい白い雲を広げ、湖を巡ってからオィングスの王宮へと、連れ立って飛んでいった。飛びながら白い二羽の烏は美しい歌を歌った。それを聴いたものは、三日三晩のあいだ眠りつづけてしまったということである。
 カーはそれからのち、ずっとオィングスと楽しく暮らしたという。

◆ 気品のある白鳥の神秘的な姿は、「魔法にかけられた美しい乙女」という連想をかきたて、さまざまな伝説を生んできた。ケルト系の神話や妖精物語には、「白瓜乙女」(スワン・メイドン)の話が多くある。
 それらに共通するのは、主人公である乙女が魔法にかけられて白鳥の姿になっていることである。その白鳥が水浴びをしたり踊ったりしている姿に恋した男が、白鳥の羽のマントを盗んで妻にしたり、同じ白鳥になって恋を遂げたりする話があり、これは日本の羽衣伝説に似ている。
 継母の魔法の杖で白鳥に変えられ、九百年もモイルの海をさまよったリール王の四人の王子の話もよく知られているが、これは魔法がとけ人間に戻ると老人になり、すぐ死を迎えたという悲しい話である。

『ケルトの妖精』 あんず堂

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石井鶴三の世界 №138 [文芸美術の森]

喜光寺 1914年/唐招提寺 1914年

             画家・彫刻家  石井鶴三

1914喜光寺.jpg
喜光寺 1914年 (201×104)
1914唐招提寺.jpg
唐招提寺 1914年 (201×142)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №31 [文芸美術の森]

奇 遇

                 歌人  会津八一

 私は一介の老書生で、決して骨董道楽などをするほどの餘裕を持たない。しかし史的研究の必要から、常々いくらか標本数の蒐集を心懸けてゐるだけのことである。其れ故格別人に談るほどの手柄噺などがある筈も無いが、最近に一寸面白いと云へぬことも無からうと、思はれることがあった。
 それは二枚の磚の話である。磚と云へば一種の煉瓦のやうなもので、正方形のものもあり、長方形のものもある。絵や文字が表面にあるものもあるし、側面にあるのもある。叉何も書いて無いのもある。支那では古来「敷瓦(しきがわら)」や「腰瓦(こしがわら)」として用ゐたほかに、墓陵の内壁を築くに用ゐたものもある。かうした磚は一つの墓から教百数千も出て来るが、文字のあるものは割合に少い。文字があれば書風を味はふことが出来るし、時としては同時に年代を知ることも出来るので、書道史の研究家には最も重要とされて居る。しかし最も少いのは繒のあるもので、有名な武梁祠や孝堂山の晝像石などと比較して、ことに珍重されるのである。
 ところが最近、出入の一骨董店から繒のある磚を手に入れたから見せたいといふ便(たより)があったので、早速見に行くと、それは所謂漢式の磚で、圖様は珍らしいはど精巧な人馬の繒でもつた。しかし惜しいことにその磚は上下二枚で一つの繒を成すべきものの下の半分だけで、馬に頭がない。乗ってゐる人物も足だけで上體はない。馬車も車輪だけで、蓋(がい)も駁者も無い。しかし私は四五年も前から別に一枚の磚を持って居た。その方は矢張り二枚あるべきものならば上の半分と見えて、頭ばかりの馬や人物があった。此の磚のことを遽かに思ひ出して、若しやと云ふ心のときめきを感じながら兎も角も直ぐに買ふことにきめた。そして翌朝届けて来るのを待ちかねるやうに合せてみると、正にピッタリと合ふ、人も馬も、車も、輪廓の線までもみんなピッタリ合ふ。のみならず、所々に灰被りらしい紬薬めいたものが附いて居る具合までも同じことだ。私は思はず一人で聾を揚げた。これは千七八百年前に同時に型を脱し、同時に窯を出て、同時に同じ墓壁に用ゐられた、云はゞ兄弟の二枚が、一度発掘されてから長い間別々に流浪した末に、遂に此の私の家の食堂のテーブルの上でめぐり合ったものらしい。奇遇と云ふものであらう。前から持って居た方は最初台湾の或る人が愛蔵してゐたものを、後に下谷方面の或る骨董店から私の手に帰したのであった。こんどのは京橋の或る店から買ったのだが、これは山東省からやって来たと云はれて居る。元来私には餘り面白い話はない。たまたまあればこんな事である。
                『短歌研究』第八巻第二号昭和四十年二月


『会津八一全集』 中央公論社

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じゃがいもころんだⅡ №7 [文芸美術の森]

一万円札

              エッセイスト  中村一枝

 新しい一万円札の肖像が渋沢栄一に決まったと聞いたとき思わずへえーと言ってしまった。渋沢栄一は至って遠い存在だが、その子孫との付き合いは長い。今の家を建てるときに夫と二人で表通りをあるいていたときバッタリ出会ったのが渋沢均さん、栄一の長男秀雄氏の息子さんで、夫とは同じテレビ会社の先輩後輩の間がらだった。聞けば見にきた土地は隣り合わせと言う。帰りがけに私は夫にそっと聞いた。「あの人いい人?」「いい人だよ」滅多に人をほめない彼が言った。隣同士に家を建てた。更に私の家の娘と渋沢さんの次女とが4ヶ月違いに生まれて50年以上の時が流れた。
 渋沢家は途中で引っ越したり、學校も違ったのに、娘たちの交流はずっと続いた。夏になると涼しい場所を求めて私も奥さんも夢中で探し回った。最後に見つけたのが八ガ岳のちょっと人里はなれた別荘地だった。渋沢家は日本有数の財閥ではないかと思っていたが、私の知る渋沢さんは全く違う。毎年の夏わたしは娘とお揃いの簡単な子ども服を二枚作って2人に着せるのがとても楽しみだった。ところでわたしの不器用さは大抵の人が知っている。私の作る子供服はウラ地の糸の処理を全くしていないので表は一応見られるが裏は酷いものだった。そんな服でも二人は大喜びだったし、奥さんも何も言わなかったなと今思う。
 オジイちゃまである渋沢秀雄さんとは何度か夏、ご一緒したこともあった。おばあちやまがまた負けんきの強いかわいい人で、勝負事になると負けん気丸出しがまたかわいい人だった。私と奥さんとがホテルや旅館で食事やもてなしにブツブツ言っていても、文句を言ったり機嫌の悪くなるようなことは全くなかった。「でも、ふたりともやかんなのよ」「やかんって?」私がきくと、奥さんがくすくすわらう。車のなかでばばとオジイちゃまとの議論が始まると、二人の興奮は白熱してきてとても車を運転出来る状態ではなくなるそうだ。「やかんに湯気って言うでしょ。頭は二人ともツルツルだしね。」奥さんは面白がっているのか、笑いながらはなした。個性的と言えばとても個性的な人だったが、中に持っている純粋さが普通の奥さんには見られないところにとても惹かれた。大人の文学少女、と言うべきだったか。大人たちの交流以上のこどもたちの付き合いもずっと続いた。  
 渋沢栄一が女好きだったとはあまり聞かない。女性は一人二人ではなく、子供に至っては十二人はいたと言う話を聞いたことがある。隣の奥さんが笑いながら話した。「どの子もみんなうちの子と似ているのよ。遺伝子が強いのかな。」
 長い間には色々のことがあった。喧嘩もしたし、批判もした。でもお互いに理解していた。良い友達を失ってとても寂しい。娘がなくなって今、Eちゃんがいてくれるのが何よりうれしいのだ。隣のご先祖様が一万円札になるなんてあんまりない話にざわついている。

 元々のあわてものであるわたしは、うっかり間違いをおかした。先週の文章の中に四月からしんねんごうに変わると書いてしまった。先走りもいいところである。改めて新年号は五月からと言うことに訂正よさせていただきます。いいこととは早い方がいいという早とちりである。なんでも楽しそうなことは早いに限るといってもね。閣僚だったらすぐ辞任という話である。ごめんなさい。

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №2 [文芸美術の森]

第一章一枚の絵の発見 2

         早稲田大学名誉教授  川崎 浹

美術学校への進学を反対されて

 宇朗より十二歳年下の弥寿こと野十郎自身は、最初から画家をめざして美術学校への進学を望んだと思われるが、両親が許したとは考えられない。定職のきまらぬ長兄宇朗の例もあり、詩人や絵描きを職業にするなど、当時の親としては考えられなかった。また、ちょうどその頃、明治四十年(一九〇七)、二十五歳の青木繁が父親を亡くして帰郷しているが、一家を支える能力に欠け、画家としても最盛期をすぎ放浪の生活を送っていた。
 野十郎は名古屋に新設されて二年目の旧制第八高等学校に学び、東京帝国大学農学部水産学科に入学した。学業優秀で特待生となり、銀時計組に推薦されたが、栄誉を身につけたくないとでも思ったのだろうか、本人が辞退した。指導教授が残念に思い自分で銀時計を購入して野十郎にあたえた。後年、私が高島さんにつれられて級友だった元愛媛大学学長の香川さんを訪れた際、氏はにこにこしながら「高嶋君は優秀でしたね、首席といって
も我々の間ではずば抜けたトップでしたよ」と言ったことがある。銀時計を背にした若き野十郎の自画像は、教授への感謝の意を表したのか、過去の栄光を刻んだのか、或いは単なる記念写真だったのだろうか。
 学芸員の西本氏は、一年後の野十郎展をひかえて画家の足跡や人脈を洗いだし、調査済み以外の新しい作品を探すことが急務だった。絵と人脈、これは地下の水脈のように微妙につながっている。かれに幸運だったのは、野十郎を支えた友人、知人の多くが存命であり、さらに絵の購入者が野十郎の近親の愛好者で、かんたんに作品を手放さず、絵が比較的散逸していなかったことである。
 企画会議から半年を経た、昭和六十一年(一九八六)四月、西本氏は東京に出張して、関係者に会い、所有者の絵を確認して借用を取り決める五日間の日程をこなした。
 ただ一つかれに不運だったのは、高島さんの東大時代の学友、大橋祐之助が亡くなっていたことである。私は高島さんにつれられて医師の大橋氏と会ったことが何度かある。画家にアトリエを貸したり絵の購入者を紹介したり、高島さんに最も大きな支援をあたえた人ではなかったろうか。私が温厚な感じの大橋医師と何度か、とりわけ新橋で会ったことを、ぼんやり憶えていたのもむだではなかった。多田茂治氏の『野十郎の炎』によると大
橋氏は新橋で医院をひらき、夫人もまた女医で、彼女は大正初めに米独に留学し、パリの国際女医大会では日本代表として登壇し、「次回は日本で」と呼びかけたほどの女性だった。こうした事情で医院には有名人の患者も多く、当時ファッション・デザイナーの先駆けだったマダム・マサコもこのサークルの常連だった。
 初対面の西本氏はおもしろいことを言った。「高島さんが今もご存命だったら、私が展覧会の交渉に伺っても、すんなりと応じてくださったかどうか」。かれは実在する数々の絵や、画家と緑のあった人びととの連日の出会いで、画家がすでにこの世にいないとは思えなくなっているような口ぶりだった。私は西本氏に野十郎の絵三点を確認してもらい、高島さんとの出通いのいきさつを話した。

『過激な隠遁』 求龍堂

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №8 [文芸美術の森]

                          シリーズ≪琳派の魅力≫

         美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                第8回:俵屋宗達・絵、本阿弥光悦・書
                    「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」 
        (桃山時代。一巻。13.5m×34cm。重文。京都国立博物館)

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≪絵と書のコラボレーション≫

 これまで、琳派の先駆である絵師・俵屋宗達のことを語ってきましたが、今回は、俵屋宗達が「絵」を描き、その上に本阿弥宗悦が「書」を書いた作品、つまり二人のコラボレーションによる作品「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」を紹介したいと思います。

 本阿弥光悦(1558~1637)の家は、代々、刀剣の鑑定や砥ぎによって室町時代の足利将軍家に仕えた名家であり、京の上層町衆でした。
 王朝文学や能楽などの素養もあり、才能豊かだった光悦は、書、絵画、陶芸、漆工芸などの分野でも活躍し、一種の「アート・ディレクター」的な役割を果たしました。

 俵屋宗達と本阿弥光悦は、この作品のような、絵と書が共鳴し合う合作をいくつも残しています。
 今回紹介する二人の合作は、宗達が金銀泥で下絵を描いた上に、光悦が和歌を書き連ねた、長さが13mを超える長い巻物です。
 そこに宗達は、岸辺の鶴の群れが飛び立ち、宙を舞い、上ったり下りたりしながら、また岸辺に舞い降りるまでの姿を、流れるような動きとリズムで描き分けています。その上に、本阿弥光悦は「三十六歌仙」の和歌を書き連ねました。光悦の書は「光悦流」と言われるほど、個性的なものでした。
 この長巻のすべてをお見せできないので、その冒頭の部分を上の写真に掲げました。宗達が描いた鶴の数は全部で百羽を超えていますが、この部分を手掛かりにして、千変万化する鶴の飛翔を想像してください。


8-3.jpg≪絵と呼応する書体≫

 和歌巻の最初に描かれている絵(右図)は、岸辺で憩う鶴の群れですが、鶴たちはだんだんと頭をさげつつ、次の飛翔に備えています。(このあと、ぱっと飛び立ちます。)
 そこに本阿弥光悦は、柿本人麻呂(人丸)の次の和歌を書きました。

 「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」

 光悦が描いた「人丸」の「人」という字が、あとで書き入れたように小さく脇にかかれていることにお気づきだと思います。おそらく、光悦は、最初に宗達が描いた鶴の絵のあまりの見事さに息を呑み、いざ筆を執って書き出さんとするときに、一気に書こうと意気込んだあまり、つい「人」の字を書き忘れてしまい、あとから書き入れたのではないか、と想像します。
 
 和歌を書いている部分では、宗達の下絵の鶴の姿に呼応して、光悦の書体も変化しています。
 たとえば、体を膨らませて立つ最初の鶴たちの姿に対応して、「保濃‥‥当」(ほのぼのと)の「保濃」を濃く太く、丸みを帯びた書体で書き始めています。
 しかし、歌の後半部分の「しまかく禮行くふねをしそ思ふ」(島隠れ行く舟をしぞ思ふ)のところでは、鶴たちの直立する細い首と脚に呼応して、「し」というひらがなや「行く」という字を同じような真っすぐな細い書体で書いています。見事な呼吸というべきか。

 ここでは全部をお見せすることはできませんが、ほかの部分でも、絵と書が響き合ったコラボレーションが展開されます。
 これを、光悦や宗達が嗜んでいた能楽の「地謡の間合い」に例える人もいるし、「ジャズのセッション」とか「音楽のデュエット」に例える人もいます。
 
 もともと、和歌などを書くための料紙を美しく装飾すると言う趣向は、平安時代から盛んに行われてきました。しかし、その場合には、あくまでも和歌が主役であり、下絵はあくまでも書の控えめな引き立て役とされてきました。
 ところが、俵屋宗達と本阿弥光悦は、平安王朝の装飾美の伝統を継承しつつも、絵と書が対等に響き合って展開する、新しいスタイルの和歌巻を生み出したのです。

≪文字もデザイン要素≫

 ちなみに、近代以前の西洋美術では、絵の上に直に文字が書かれるということはほとんど見られませんでした。(19世紀後半になって、日本美術の影響を受けたロートレックやミュシャなどが、そこからヒントを得て、ポスターなどで絵と文字の組み合わせによるデザインをやっています。)

 大学時代に私が「西洋美術史」の教えを受け、その後も多くの学恩を受けている高階秀爾先生によれば、「西洋では、ルネサンス以来、絵と文字は別の領域だった。もし、絵画に文字が書かれるとすれば、そのためにわざわざ設けた部分に書くとか、空いた部分に書いた」とのことです。そういえば、お隣の中国の詩画(漢詩と絵が描かれた絵画)でも、空いている部分に詩句や文章を書いたりしています。(高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』筑摩書房)

 ところが日本美術では、「文字」もまた、「絵」と対等の美術的なデザイン要素であるという美意識にもとづいて、平安朝以来、長い間、ごく自然に絵と書のコラボレーションが行われてきました。これも、私たち日本人にはごく当たり前に思われてきたことが、実は日本的な特質だったということのひとつです。

 このような、書と絵が一体となって、流れるように響き合う美の世界が生まれた背景には、直線的な文字である漢字を書き崩して、曲線的な「ひらがな」を発明したということも大きく影響しているでしょう。

 さらに、世界でもまれな文字体系である、日本独特の「漢字かな交じり文」について考察すると、そこにも日本文化の特質が浮かび上がって来て面白いと思うのですが、私には任が重いので、やめておくことにします。
 “絵画と文字”、“和歌とことばの視覚的共鳴”ということについて、私が大いに啓発されたのは、琳派の専門家である玉蟲敏子氏の先駆的な研究です。関心のある方は、氏の著書を読んでみてください。(例:玉蟲敏子著『日本美術のことばと絵』:角川選書、ほか)

 次回は、また俵屋宗達の絵に戻り、宗達が京都の養源院の杉戸に描いた「唐獅子図」と「白象図」を見てみたいと思います。


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正岡常規と夏目金之助 №12 [文芸美術の森]

     子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承 

                   子規・漱石 研究家  栗田博行 (八荒)

             第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅲ

 

豌豆と空豆の花の記憶 幼少期の子規① つづきのつづき

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随筆「吾幼時の美感」の掲載は、明治31年12月新聞「日本」でした。残りの命を想い、あの108文字墓誌銘に自分の生涯をまとめたのが明治31年7月13日の夜のことでしたから、この子規子(血を吐く鳥を名乗ったペンネーム)の名で発表した文章も、命の残り時間を想う流れの中で書いたことでしょう。

しかし、迫ってくる死への予感がもたらす湿り気のようなものは、あの墓誌銘と同様、この文章にも全く漂いません。むしろ幼い日に心惹かれた美しいことを思い出し、それを次々と列挙していく快感に身を任せているような感があります。

 

満2歳すぎに体験した生家の全焼のことは、自分はその時、

バイ へ (提灯のこと)バイ へ と躍り上りて喜びたり、

と母は語りたまいき。・・・

と綴られ、美しくも可笑しみのある原体験として描かれていました。

12-2.jpg 負ぶわれていた母・八重の母性の深みまで伝わってくる文章でしたが、むしろ筆者子規子自身はそのことに無自覚だったかもしれません。ただ、「と母は語りたまいき。」との敬語表現に、八重さんに先立って逝くかもしれない自分…という自覚の念が思わず反映したかもしれませんが …。

 その一節のあと筆の流れは、

我家は全焼して僅に門を残したる程なりければ、さなくとも貧しき小侍の内には、我をして美を感ぜしむる者何一つあらざりき。

と、微かに不幸感の漂う幼な児であったことを伺わせます。ですが、表現しようとしたのは不幸感の対極にあるものだったようです。すぐこう続けています。

   七八つの頃には人の詩稿に朱もて直しあるを見て朱の色のうつくしさに堪へず、吾も早く年とりてあゝいふ事をしたしと思ひし事もあり。

満6歳の頃八重さん父・祖父大原観山の塾で、漢学を学び始めたのでした。そこで年上の子らの添削を受けた習字を目にしたのです。そしてその添削の朱と黒の交わる筆跡を見て「吾も早く年とりてあゝいふ事をしたし」と感じたというのです。また、

   ある友が水盤といふものゝ桃色なるを持ちしを見ては其うつくしさにめでて、彼は善き家に生れたるよと幼心に羨みし事ありき。

という風に、「全焼した貧しき小侍の内」という不幸感はあったものの、それは美しいものへのあこがれの方に、自分の心がいざなわれたことを思い出しているのです。

 

12-3.jpg 22歳の時、落第と脳病に見舞われた親友・大谷君に、自らの「子規」と始めて名乗って、彼と自分を励ましたのと同じような心動きが、31歳の子規の筆の運びにも働いていると言えましょう。

(八注・それにしても「美しい桃色の水盤」などというものを筆者は見たこともないのですが、広辞苑によると中に水を張って花を活けたり、盆石を置いたりする水盆という事です。()

  

それから幼い吾が目に映った美しいものの列挙が始まります。 

こればかり焼け残りたりといふ 内裏雛一対紙雛一対、 

見にくゝ大きなる婢子様一つを 赤き盆の上に飾りて三日を祝ふ時、 

   五色の色紙を短冊に切り、芋の露を硯に磨りて庭先に七夕を祭る時、

            此等は一年の内にてもつと楽しく嬉しき遊びなりき。

  

明治3年満3三歳になる年、妹が誕生します。以来「全焼した貧しき小侍の内」で、隼太母・八重曾祖母・小島ひさ妹・律という家族の暮らしが続いていたのです。

  いもうとのすなる餅花とて正月には柳の枝に手毬つけて飾るなり、

それさへもいと嬉しく自ら針を取りて手毬かゞりし事さへあり。

           昔より女らしき遊びを 好みたるなり。

  

「昔より女らしき遊びを 好みたるなり。」この男の子は、こんな風だったらしいのです。男児のお祝いの端午の節句の記憶は、この随筆「吾幼時の美感」では、ひと言も述べられません。正岡家が貧しくて女の児のひな祭りしか出来なかったとは思えません。火事のあと別の所に新築された正岡家は、貧乏とは言え百八十坪の敷地に玄関も床の間も客間もあるような屋敷だったのですから。その家の跡取りとして育てられたこの男の児は、数え年の五歳となる翌明治4年、袴着のお祝いしてもらっているのですが、 

○上下着の時には…紋付をこしらへて、 

上下は佐伯の久(父方親戚)さんのを譲つて貰ふて、 

大小は大原(母方親戚)の元のを貰ふてさしましたが、 

何様背が低いので、大小につらされるやうぢやと笑はれました。 

(母堂の談話・碧梧桐記)

 

子規本人は書いていませんが()、八重さんの話はこう続いています。 

背が低かつたのはえつぼど(かなり)低かつたと見えて、 

大原の祖父(八重の父)が、朝暗いうちに門に出て居つて、 

何か知らん小さいものが向ふから来ると思ふと、 

それが升ぢやつたなどと話を よくして居りました

 

12-4.jpgそんな男の子であったにもかかわらず、處之介君は武家の家系の正岡家の男の子として、維新後にもかかわらず満5歳くらいから髷を結っていました。殿様へのお目見えの儀に備えてのことでした。(時世の流 で実現はしませんでしたが…。) 

 明治5隼太は隠居し、髷ノボさんは正岡家の戸主となります。ところが二か月もしないうちに父・隼太は病没。八重さんは、大きく実家大原家に頼らざるを得ませんでした。 

八重さんの父で幼子規をよく訓育したという、祖父・大原観山は、「終生不読蟹行書」(=横文字・英語の本)という言葉も吐いたというくらいの西洋嫌いの漢学者で、維新後も髷を落とさなかったような教育者でした。子規は数え年九歳の時までその方針のもと髷をつけたままで育ちました。2歳年上の兄弟のようにして育った従兄弟半の三並良も髷のママで、その父という人が、嫌がる二人のために観山翁に嘆願して、ようやく髷を切るのが許されたのでした。そのあとのことです。 

髷を切つて後も小さい刀をさして居りましたが、余戸(父方の郷村)の祭りで田舎へ行きました時、誰かゞ抜いて見い ヘ といふたけれども 抜けませんのを、陰へ廻つて 裏の畑へ出て自分でどうやらかうやら抜きましたら、手を斬りましてな、それでうちへは辟(帰)れないといふので、シク ヘ 泣いて居つたこともあります(八注・もちろんこの事も本人はどこにも書きとめていません()。) 

 

八重さんの、あの「よつぽどへぼで へ 弱味噌でございました」という言葉は、芯から幼子規をとらえていた母性の冷静な把握の顕れだったのでしょう。 

しかし八重さんだけではなく、兄のために石を投げたりして兄の敵打を」してくれる 12-5.jpgような妹や、「目も鼻もないやうに優しう」してくれる溺愛型の曾祖母にも恵まれて、その「弱味噌」さはむしろ感受性の成長の豊かな土壌となって行ったのでした。

  

明治の一男子の成長過程で、そういう事が起こったのであることを、先に引いた「昔より女らしき遊びを好みたるなり」という回顧の言葉は証言していると思えてなりません。そして幼い命の成長過程で先ず最初に獲得されるのは、実は男の子であれ女の子であれ、「たおやめぶりの心(=女性的なるもの)」であるのが一般なのではないかと、思えてなりません。

「石を投げたりして兄の敵打を」したさんの場合は、例外というより、すでに身につけていた「たおやめぶりの心」が、ひ弱なお兄ちゃんに対しては、もう「母性的なるもの」に成長しかけていた証拠だったのかもしれません() 

 

さんに庇われた弱味噌であったことなど全く触れずに、随筆「吾幼時の美感」は続きます。この続きの一節、縦書きでご覧に入れます。

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12-7.jpg 「東京へ行く其の叔父」とは加藤拓川・恒忠。明治16年、渡欧する直前に子規に上京の機会をあたえ、友人の陸羯南に託した点で子規の生涯の土台を作ってくれた叔父さんです。大原観山翁の3男で、八重さんの2番目の弟にあたる人でした。この人がおねだりした甥っ子に東京から上級品の百人一首を贈ってくれたのです。明治8年、ノボさん8歳の頃でした。 

その曽禰好忠の一葉に、うたのこころの方ではなく、扇の朱色に心ひかれたと回想しているのです。明治初期、武家の家系の跡取りとなった幼い男の子に宿った、女らしき遊びを好みたる=「たおやめぶりの心」の一端です。 

つづく「十二三の頃…」の一節には、「畫など習はずもありなんとて許さ」なかった八重さんの姿が、無心に書きとめられています。そこから、貧しい家計を切り盛りし一人息子・ノボを武家の家系の戸主に育てていこうとする、母親としての深い心うごきが浮かび上がります。 

12-8.jpg実は、このあと十四、五歳のころ少年子規は、三畳ほどの書斎を作って貰っています。兄弟のように育ち髷も一緒に落としてもらったあの三並良が、こんなことを語り残しています。 (三並良「子規の少年時代」) 

お母さんが、近所の女の子に、裁縫を教へて居たので、座敷は終日ふさがって居た。
(ノボさんの書斎の)新築はその為めだらう。 

家計のために「裁縫を教へて居た」八重さんは、ノボのためにこんなこともしたのでした。 

父の早逝という不幸はあっても、このような親心にくるまれて育ち続けているのですから、ノボさんの気分は「畫を習ふ」のを「許されず」とも、いじける方には傾きません。「其友の来る毎に畫をかゝせて僅に慰めたり」いじらしい方へ向かうのです。いつの世も変わらない「子育てと子育ちの両方の機微」といったものを、伺わせてくれる情景です。

 

  ここから随筆「吾幼時の美感」は、次のように展開します。

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ノボさんよ、アンタが「幼時より客観美に感じ易かりし」は、「貧しき家」に生れたお陰だったんだね…」と、幼な子をからかうように、からかいたくなります。あの大いなる子規が、その頃は「常に他人の身の上の妬ましく感ぜられぬ。」ような少年だったとは…。

ところが例によって子規子の筆は、そこから明るく前向きな価値=この場合は、おさな心が惹かれた美=の回想に向かい、活き活きと進みます。述べられている幼い頃の不幸感は、あくまでそのためのイントロに過ぎないかのように…。そして、 

「ひとり造化は富める者に私せず」…造物主だけは貧富の差別なく、貧しい家ながら草や木や花々がいつも芳しい香りを放って、不幸なる貧児を憂鬱より救ってくれたと述べた上で、

「花は何々ぞ」(それはどんな花々だったかというと)と、転じます。

そこから始まる百歩ばかりの庭園で幼子規の心をととらえたものの、キリもないかと思えるほどの列挙・そして到達する「吾幼時の美感」の結論とするところそれがこの随筆の後半になるのですが…、次回にさせていただきます。

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次回51日、正岡常規と夏目金之助 №12

 

豌豆と空豆の花の記憶 幼少期の子規① つづきのつづきのつづき

 

お楽しみください。

 

 

 

 

 


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日めくり汀女俳句 №32 [ことだま五七五]

三月三十一日~四月一日

         俳句  中村汀女・文  中村一枝

三月三十一日
少年のかくれ莨(たばこ)よ春の雨
            『春雪』 春の雨=春
 手鍋提げても、という言葉、今は死語になったかなと思うが、そういう必死の恋愛なんて昨今、めったにお目にかからなくなった。
 道具が一つもなくても、コンビニという便利なもののおかげで住みついたその日から生活を始められる。たちまちおままごとができるから恋もまた手軽である。
 ついたり、離れたりも心の痛みはさほど伴わないらしい。
 そのくせ人はラブストーリーには憧(あこが)れる。切ない感情を共有したいと願う。安っぽいテレビドラマもまたにぎわう由縁である。

四月一日
たんばぼや日はいつまでも大空に
              『春雪』 蒲公英=春
 介護保険の被保険者証なる物が郵送されて一寸(ちょっと)ぎょっとした。よく考えてみると私も貰う資格ありということで、有り難いやら、悲しいやらの心境である。
 初めて年金を貰った時は、むしろ嬉しい方が先に立って、やったーつと思ったのだが、介護保険となるとわが身の行く末がよたよた縮んでいくような切ない気分になってくる。
 友人に介護認定の審査を頼まれている人がいて、「私は何て言うのに当たるの」と聞いてみると、「あんたは自立よ」と冷たく突き放され、何だかほっとするのである。

四月二日
ゆで玉子むけばかがやく花曇
              『春雪』 花曇=春
 江国香織さんの小説「きらきらひかる」を読んだ。本屋で題に惹かれて買ったのだが、私の子供くらいの年齢のお嬢さんの感性がとても気持ちよかった。アル中で情緒不安定な妻とホモの夫のかもし出す日常、アンバランスなのに居心地がいい不思議な小説である。
 今江祥智氏があとがきを書いておられる中で、不意に、この汀女の「ゆで玉子」の句がでてきた。あっ、と思った。
 この句の持つ芳醇でつややかな味わい、そのくせ無機質の匂い、似ているのである。江園さんと汀女の、六十年以上のへだたりなど何一つ障樽にならないのだ。

『日めくり汀女俳句』 邑書林

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草木塔 №38 [ことだま五七五]

或る若い友 3

                俳人  種田山頭火

 枯れてしまうて萩もすすきも濡れてゐる

 椿のおちる水のながれる

 寝ざめ雪ふる、さびしがるではないが

 誰か来さうな雪がちらほら

 ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない

 汽車のひびきも夜明けらしい楢の葉の鳴る

 月がうらへまはつても木かげ


『草木塔』 青空文庫

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読む『ラジオ万能川柳』プレミアム №62 [ことだま五七五]

              読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆4月3日、10日放送分

        川柳家・コピーライター  水野タケシ
  
川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」
2019年4月3日放送分の内容です。 
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ミカちゃんがいない写真の寒いこと
「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が             キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
http://fm839.com/program/p00000281
放送の音源は……https://youtu.be/NyMuSmk39w8

【お知らせ】
仲畑流万能川柳のファン交流会
「第24回万能川柳強運者の集い」、今年は5月18日の土曜日に
東京は竹橋の毎日ホールで行いますが、行われますが、
その2部で行われる「第5回仲畑流大句会」のお題が発表されました!!
今年のお題は「新」です!!新しいの「新」!
「強運者の集いは」全国の万柳ファンが年に1回、一堂に集う会で、投句経験がなくても参加できます。
新元号をきっかけに、より多くの方に参加いただきお楽しみいただくために、
今年から参加費を大幅に値下げしました!!なんと3000円だった参加費が、今年は500円!
もちろん私も参加しますよ!
https://youtu.be/NyMuSmk39w8

(みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略 今週は168句の投句がありました!!
・平成でなかった時代幕を引き(名人・グランパ)
・子供の頃は月の中見えた(恵庭弘) (添削例)月の中見えたな子供だった頃
・不合格それぞれの春きっとある(昔のジョー)
・了見の狭さ拡散ツイッター(名人・入り江わに)
・元号をしゃべりたかったのは総理(名人・東海島田宿)
・桜咲き新番組もラジオから(名人・ポテコ)
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・油断して夜桜見物風邪を引く(名人・キジバト交通)
・新元号令和の礼は深々と(名人・春爺)
・満開の桜梅花にもってかれ(名人・六文銭)
・新元号どこ吹く風と桜花(大名人・光ターン)
・五輪まで持ちそうにない五輪相(小把瑠都)
・元号でリセットされるわけでなし(名人・荻笑)
・満開を見上げて首の重さ知り(名人・アンリ)
・万葉集ベストセラーになる予感(柳王・ユリコ)
・新元号決まり昨日と違う風(大名人・けんけん)
・不器用を起用に演じショーケン逝く(名人・マルコ)
・AIが読み忘れてた万葉集(つや姫)
・和やかになれと令する新元号(和こころ)
・眠っても眠ってもまた来る眠気(ナナチワワ)
・新元号出るまで投句ちょっと待ち(爽抜天)
・新元号発表談話はワタクシが(司会者=名人・あさひろ)
・号外が欲しかったなぁ指くわえ(名人・かたつむり)
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☆あさひろさんのボツのツボ!
「ラジオ万能川柳。今週はさすがに“新元号関連句”が多数。爽抜天さんのように発表を待って投句?あの日11時40分過ぎからどっと到着。そんな中で見事秀逸は『痔』の句でした。師匠のセンスさすが!ボツのツボはかたつむりさんの『あの時間うぐいす嬢も口を閉じ』。統一地方選挙も桜も勝てませんでしたね。」

・親切で譲られた席痔が痛い(パリっ子)

☆タケシのヒント!
「せっかく親切にしてもらったのにトホホ…。この自虐が川柳ですねえ。どうぞお大事になさってください。
ところで、フランス語で痔はなんというのかしらん。」

・「平」和から平「和」を願うこれからも(メン子)
・子が巣立ちしばし男女になる夫婦(名人・不美子)
・万葉の梅の開花の新元号(ペンギン)
・あと5キロ痩せたら君にプロポーズ(辰五郎)
・号外の取り合いどっかの国みたい(のりりん)
・十連休待っている人悩む人(重田愛子)
・ショーケンを駅前でよく見かけた頃(模名理座)
・西暦で昭和は生きる事にする(あやや)

◎今週の一句・親切で譲られた席痔が痛い(パリっ子)
◯2席・満開の桜梅花にもってかれ(名人・六文銭)
◯3席・10連休待っている人悩む人(重田愛子)

【お知らせ】
ここからは、東京都住宅供給公社、JKK東京のお得な情報をお届けします。
JKK東京は、賃貸住宅を管理・運営している、東京都100%出資の団体です。
さて、現在JKK東京とこのラジオ万能川柳では、川柳を募集しています。
お題は「子育て」。締切は4月23日(火)朝の8時。
いつものように、ラジオ万能川柳までお送りください。
発表は4月24日のラジオ万能川柳。秀逸の方1名にはプレゼントもありますので、
ふるってご投稿ください。

【放送後記】
新元号が「令和」に決まり、ちょっとしたお祭り騒ぎ。
ラジオ万能川柳にも沢山の句が寄せられました。
新元号をネタに、こうしてああだこうだ言い合えるのが、何より平和の証てすね。
令和時代もこの平和がいつまでも続きますように。
                            タケシ拝
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○2019年4月10日放送分の内容です。
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ひょっとして雪になるかも相模原?!
放送の音源は……https://youtu.be/d0bLWVefqf0

【お知らせ】
みなさま、6時間半前に終わった
テレビ朝日の「川柳居酒屋なつみ」第2話ご覧いただけましたか?
女将の宇賀さんも、常連客のムロツヨシさんも、
ゲストのリリー・フランキーさんもさらに酔いが回って、
過激にトークや川柳を展開してお楽しみいただけたと思います。
この「川柳居酒屋なつみ」、
テレビ以外にもTVer(ティーバー)という無料のサービスで、日本全国どこでも、
いつでも、再放送をご覧いただけます.
https://tver.jp/
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(みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略)今週は129句の投句がありました!!
・副大臣なんてそもそも必要か(小把瑠都)
・栄誉賞よりも価値ある殿堂入り(名人・東海島田宿)
・じーちゃんはSNSでユリコだと(恵庭弘)
・初仕事コピー1枚気持ち込め(名人・キジバト交通)
・10連休うちの家計は曇り空(名人・やんちゃん)
・投句後に大きなニュース出て焦る(爽抜天)
・体調を整えてから行く健診(重田愛子)
・真ん中はいつか師匠が座る席(大名人・けんけん)
・コンクリートから人へなるの市長さん(初投稿=丹沢66)
・PM2.5なんで小数点なんだ(パリっ子)
・なつみさんあれからわたしかっぽう着(名人・かたつむり)
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・スマホ見て休んでるのか出ぬトイレ(辰五郎)
・選挙前大臣罷免手際いい(大名人・秦野てっちゃん)
・レイワだよテストの赤丸思い出し(ラジゴ)
・一票はこんな軽いか開票日(大名人・光ターン)
・小2でももうお母さん叱りだす(名人・平谷妙子)

☆あさひろさんのボツのツボ
「ラジオ万能川柳。今週は129句。早速「川柳居酒屋なつみ」を題材の句も。美人女将の居酒屋でしかも飲みながら、はたして秀句が出来るのか?師匠!と、ますます疑い深くなるあさひろ。ボツのツボ『丸くなる性格でなく背中です』平谷妙子。そう背中はシャンと性格は丸く。ますます反対方向に傾く私です。」

・春雷のオヤジのエールありがとう(ペンギン)
・イチローに三連敗のチーム安倍(里山わらび)
・平成の最後を惜しみ長く咲き(名人・アンリ)

☆タケシのヒント!
「いつもより長く咲いている桜を詠んだ句。うまくうがっています。また、桜の字を使わないで表現したところもさすが名人。巧みです。」

・忖度が辞任したのも忖度か(名人・入り江わに)
・横一線10年後には上司部下(名人・グランパ)
・選挙過ぎ嵐の後の静けさに(まりぽん)
・傲慢のマ抜けがゴーンというわけか(名人・不美子)
・桜餅葉っぱを食べる派食べない派(のりりん)
・当落を決める一票市議選(司会者=名人・あさひろ)
・ゴーンさん今度出る時宇宙服(名人・六文銭)
・フランス語いぼ痔もカッコ良く聞こえ(柳王・ユリコ)
・政治家も学べ韓日友情賞(名人・フーマー)
・三船美佳新たな旦那とロード二章(よっきゅん)
・そのうちに慣れ親しんでいく令和(模名理座)
・退院日バイバイキンとドキンちゃん(外科系)

◎今週の一席・平成の最後を惜しみ長く咲き(名人・アンリ)
◯2席・忖度が辞任したのも忖度か(名人入り江わに)
◯3席・体調を整えてから行く健診(重田愛子)

【お知らせ】
ここからは、東京都住宅供給公社、JKK東京のお得な情報をお届けします。
JKK東京は、賃貸住宅を管理・運営している、東京都100%出資の団体です。
さて、現在JKK東京とこのラジオ万能川柳では、川柳を募集しています。
お題は「子育て」。締切は4月23日(火)朝の8時。
いつものように、ラジオ万能川柳までお送りください。
発表は4月24日のラジオ万能川柳。秀逸の方1名にはプレゼントもありますので、
ふるってご投稿ください。

【放送後記】
人間を自然の一つとして扱うのが俳句、自然を人間のように描くのが川柳、
という言い方もするのですが、今週の川柳はまさにそんな一句です。
桜の気持ちを忖度するなんて、川柳だけですね!(^_−)−☆
                             タケシ拝
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水野タケシ(みずの・たけし)
1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」 http://ameblo.jp/takeshi-0719/

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雑記帳2019-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-4-15
◆江戸の花見もかくや。3月末の飛鳥山は満開の桜でした。

今年は暖冬といわれながら桜の開花はさほど早くはなく、東京の桜が満開を迎えたのは3月も末でした。
この日、飛鳥山の桜を見るべく集合したのは東京メトロ南北線の西ヶ原駅。ここから王子までを歩きます。

印刷局東京工場、滝乃川警察署を横にみながら、本郷通りを進むと、西ヶ原一里塚の碑がみえてきます。江戸時代、街道の一里ごとに一里塚が築かれ、塚の上には榎が植えられていました。この一里塚は日光御成道の、日本橋から2番目にあたります。23区内には一里塚は18か所あったといわれていますが、当時の位置を保っているのはここだけです。大正時代に市電延長のため、撤去されそうになった一里塚を、渋沢栄一らが保存運動をして残したことが碑に書かれています。

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一里塚の二本榎(とおり向かいにもう1本の榎がある)

将軍の日光参詣のお供は、驚くなかれ、吉宗の時代に最大13万3000人もいたそうです。費用は今の金額にして200億円かかったといいます。当時一番と言われた加賀藩の大名行列でさえ4,000人でしたから、全国の大名がこぞって従った、徳川の威光は推して知るべしです。

伊邪那岐命をはじめとする祭神が7神なので名づけられた七社神社は、古くから西ヶ原の鎮守でした。明治時代の神仏分離によって、現在の古川庭園内にあった無量寺の社が、現在の地にうつりました。もともとこの地にあった神明宮は、樹齢1000年以上といわれる杉があったことから一本杉神明宮とよばれていたことが、江戸切絵図に見えます。この大木の幹がいまも境内に残されています。神楽殿では9月の大祭に「江戸里神楽」が奉納されます。
近くにあるゲーテ記念館は15万点を所蔵し、世界中から研究者が訪れるそうです。

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七社神社
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神明宮の一本杉の幹だけが今も保存されている
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境内にある緑色の御衣黄桜もほころびて
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神楽殿

日本近代経済の基礎を築いた渋沢栄一の屋敷跡が、旧渋沢庭園として区民に開放されています。庭園内にある青淵文庫(せいいえんぶんこ)や晩香炉(ばんこうろ)は、国の重要文化財となって、昔の面影をとどめています。
青淵文庫は、渋沢栄一の傘寿の祝いと、子爵昇爵の祝いを兼ねて、竜門社(現・渋沢栄一記念財団)が贈った鉄筋コンクリート2階建ての建物です。書庫として使われました。「青淵」は、渋沢栄一の雅号です。
晩香廬は、渋沢栄一の喜寿の祝いに清水組(現・清水建設)が贈った洋風茶室です。内外の賓客を迎えるレセプションルームとして使われました。18代アメリカ大統領ユリシーズ・グラントや中国の蒋介石など多くの要人が招かれ、民間外交の場となりました。

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青淵文庫
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晩香廬室内
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庭園内にある渋沢栄一像 小柄な人だったようです。

飛鳥山公園は渋沢庭園のとなりにあります。その入り口にあるのが渋沢史料館です。
渋沢が手掛けた事業は500を数えますが、全て他者に渡して自らは財閥をつくらなかったため、今、渋沢の名を残す企業は渋沢倉庫のみだということです。
史料館の横に立つ平和の女神像は北村西望の作品です。長崎の平和の像を造った北村のアトリエが一時期、西ヶ原にあったのだそうです。

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渋沢史料館
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北村西聖の平和の女神像

飛鳥山公園は、8代将軍吉宗が庶民の行楽のために桜を植樹して開放した日本初の公園です。当時桜の名所は上野、向島、品川御殿山とこの飛鳥山でしたが、中でも飛鳥山は「野暮」といわれながら、庶民に人気のスポットでした。ソメイヨシノが満開のこの日、ふもとのJR王子駅から登ってくる、食料を入れた発砲スチロールの箱やレジャーシートを抱えた人の列が絶えませんでした。桜の季節に近くまでくると、(人の波で)山全体がうなっているようだと言った人がいました。ふもとの公園入口から山の上まで2分というモノレール(あすかパークレール)に乗る手もありますが、こちらは後尾が判らないほど延々の長蛇の列(待ち時間2時間!)でした。

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飛鳥山のふもとは王子駅に沿って音無(おとなし)親水公園になっています。隅田川にそそぐ石神井川が流れにつれて龍野川となり、音無川と名をかえたところは、かっては雨がふるとあふれる暴れ川でした。音無川は、何とかおとなしくしていてほしいという、庶民の願いのこもった名前だとか。土手の桜は花見客でにぎわいました。水を流さなくなった今も、桜の木の下で酒盛りをする人でいっぱいです。商店街には卵焼きで有名な「扇屋」がありますが、ここも行列ができていて、並ぶのをあきらめました。宝くじを買う店のはるか向こうに最後尾の看板を持つ案内人がいたり、評判の絵を見るために美術館を何重にも囲んだり、江戸っ子は気が短かったのを忘れるほど、日本人は並ぶのをいとわないようです。

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音無親水公園(川底いっぱいに花見客のブル-シートが見える)

王子といえば狐です。昔、このあたり一帯は一面の田畑で、とても寂しい場所でした。その中の一本の榎のもとに、大晦日になると関東一円の狐があつまり、衣装を整えて近くの王子稲荷へ初詣でをしたという言い伝えがあります。榎は装束榎と呼ばれました。その様子は広重の浮世絵にも描かれています。言い伝えは今も12月31日の「王子狐の行列」として地元の人々にうけつがれています。

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装束稲荷神社

狐たちの初詣でのゴール、王子稲荷神社は関東稲荷の総社という高い格式を持ち、江戸時代から庶民に親しまれてきました。境内にある「狐の穴跡」は落語「王子の狐」の舞台になっています。

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王子稲荷神社
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王子稲荷本殿の格天井

王子稲荷を少し進めば名主の滝公園です。名称は、王子村の名主、畑野家が屋敷内に滝を造って一般人が利用できる避暑の施設にしたことに由来しています。所有者はかわりましたが、今は飛鳥山公園、音無川親水公園とともに、区立公園として開放されています。
中を歩けば、池あり、谷あり、もちろん滝あり、桜あり、楓あり、橋あり、渓流ありの、規模も様式も、名にしおう大名庭園におとらぬものでした。

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名主の滝公園の男滝

散策の最後は王子神社で締めます。王子の名前のもとになった神社です。
古くは岸村と呼ばれたこの地に、紀州熊野三所若一王子が勧請されて、熊野信仰の拠点になり、名前も王子村となりました。民族芸能「王子田楽」は北区指定の重要無形文化財です。天然記念物の大銀杏ヤ、ユニークな毛髪供養の「毛塚」があります。

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王子神社 のコピー.jpg
毛塚のある関神社は理・美容業界の信仰をあつめているそうです。

お昼は王子駅のそばの小さな店、フルカワヤ。
小さいながらおいしいと評判の店は、食材に、江戸東京野菜や地方の固定種を扱う、シェフのこだわりの店でした。

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前菜は滝乃川人参のパテ、世界で一人しか生産者のいない赤レンコン、早稲田茗荷など・・・
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デザートの焼き菓子にも滝乃川ごぼう(右奥)がつかわれている。

今号がアップされる直前の4月9日、渋沢栄一が新しい1万円札の顔になることが発表され、飛鳥山の渋沢史料館や深谷市にある渋沢栄一記念館が紹介されました。
雑記帳では、何年か前に、深谷の渋沢栄一記念館を訪ねた報告をのせています。

◆花冷えがつづいた今年は、東京でも満開の桜花を長く楽しむことができました。
4月中旬の国営昭和記念公園は、この時期には珍しい、桜と草花の競演が見られました。

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桜とチューリップ(渓流広場で)



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私の中の一期一会 №188 [雑木林の四季]

          失言オンパレードの桜田義孝五輪担当大臣がついにクビを切られた
      ~「安倍・麻生道路」整備事業で「忖度」発言の塚田副国交相も辞任した~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘


 4月5日に塚田一郎国土交通副大臣、10日には桜田義孝五輪担当大臣が、共に“不適切”な発言の責任をとって相次いで辞任した。
 これまでも事実誤認や失態・失言が続いて“無能大臣”のレッテルを貼られていた桜田五輪担当大臣は、10日に都内で開かれた自民党の高橋比奈子衆議院議員のパーティで致命的な失言をした。
 「来年は東京オリンピック、世界中の人が日本にくる。おもてなしの心を持って復興に協力していただければありがたい。そして(大震災被災地の)復興以上に大事なのは高橋さんです」と被災者の気持ちを逆なでするような無神経な発言をした。
 首相はこれまで桜田氏を何度も庇い続けてきたが、東日本大震災の被災地にからむ失言となればハナシは別だった。
 かつて大震災が「東北だから良かった」と口を滑らせて更迭された今村雅弘大臣同様の“即刻辞任”となったのである。
 前回の参院選で自民党は東北地方で苦戦したので、「復興以上に高橋さんが大事」という失言が夏の参院選に及ぼす影響を考え、発言から2時間足らずのスピード辞任になったとみられている。
 桜田氏は、“被災者の気持ちを傷つける失言だった”と反省を口にして発言を撤回、責任を感じて辞表を提出したと語った。
 しどろもどろの答弁や蓮舫議員を「レンポウさん」、石巻市を「いしまきし」と何回もいい間違えるなど失笑もので、閣僚としての資質を問題視する声が多かった桜田義孝衆議院議員である。
 所属する二階派の幹部も「もう庇いきれない」と白旗をあげたという。
 安倍首相は「被災者の皆様に深くお詫び申し上げたい。任命責任はもとより私にあり、こうした事態に至ったことについて、国民にお詫び申し上げる」と陳謝した。 
  それにしても、安倍首相は「何故、あんなお粗末な人を大臣にした」のだろうか。
 政治アナリストの伊藤惇夫氏によれば、安倍首相は昨年9月の総裁選で、何としても3選を果たしたかった。そのため派閥にすり寄る必要があったのだ。
 二階派44人の票を固めて貰うため、大臣ポストを2つ約束したという。
 桜田義孝、片山さつき両大臣の誕生には、そうした事情があったのである。
 五輪担当相はさほど重要ではない。要するに軽量ポストと見られている。
 安倍政権は、加計学園や文書改ざんの問題でも適当な言い訳をして終わりにしようとしている。
 あったこともなかったことにしたり、論点ずらしや批判の矛先をそらすことなどに長けている。
 ただでさえバラバラな野党は、数の力で抑え込こむことができる。
 やりたい放題が通るから、巨悪は何時まで経っても目に見えてこないのだ。
 プレジデントオンラインにも似たような記事が出ていた。
 安倍首相は今回、人事で徹底した論功行賞を行ったというのだ。
 資質がなくても、少々スキャンダルを抱えていても、総裁選で自分を応援してくれた派閥の領袖の推薦に基づいて入閣させただけの話しなのだ。
 だから桜田氏に限らず、問題を起した閣僚が説明責任を果たさなければ、更迭に踏み切るだけのハナシだ。
 マスコミは、閣僚が問題を起すと「首相の任命責任」を指摘するが、適当な言い訳でお茶を濁されてしまうのがオチだ。 
 もう一方の塚田国土交通副大臣は、4月1日に北九州市で開かれた福岡県知事選挙の候補者による集会で「忖度」発言をしたことが命取りになった。
 適材ではなかった桜田大臣の辞任は当然で、むしろ“引導を渡すのが遅すぎた”感さえする。
 しかし同じ辞任でも、塚田一郎副大臣の「忖度」発言は、うさん臭く悪臭が漂うように思えてならない。
 毎日新聞は5日の朝刊で、下関・北九州道路の建設計画を巡って塚田国交副大臣が『安倍首相と麻生副総理の意向を「忖度」して利益誘導したととれる発言をした』と報じ、発言の責任を取って辞任したと1面トップで伝えた。
 ところが産経新聞は、「辞任に“忖度はない”塚田副大臣」という書き出しで始まる記事になっていた。
 塚田氏は「事実と異なる発言で多大なご迷惑をおかけした。国民の皆様に謝罪申し上げたい」と辞任記者会見で“深々と頭を垂れた”ことが強調されているようにも感じた。
 塚田氏は3日の国会でも、『安倍総理、麻生副総理が言えないから私が忖度したという発言について、誠に申し訳ございませんでした。北九州下関道路に関する発言の内容について、それは事実と異なっているということで撤回させていただきました」と陳謝した。
 「何が違っているのか?」という追及にも「私が忖度したことはございません。安倍総理、麻生副総理の地元の案件だから特別に配慮したということはございません」と弁解している。
  だが弁解空しく、塚田氏は辞任に追い込まれたのだ。「トカゲの尻尾切りだ」という声もある
  4月3日の“NHK政治マガジン”に、“注目の発言集”という記事があり、“塚田一郎国土交通副大臣の発言の詳細”が記載されていた。
   福岡県知事選の候補者の集会で、鉢巻を締めて壇上から発言する写真付きの記事でもある。
   ちょっと長いが、演説を聞いてみよう・・
 「道路整備は11年前に凍結された。コンクリートから人へという、とんでもない内閣があった。
   安倍総理大臣は悪夢のようだと言ったが、まさにその通りだ。
   公共事業はやらないという民主党政権が出来て、こういう事業は全部凍結してしまった。
   皆さん、よく考えてください。下関は誰の地盤か?・・安倍総理だ。
   安倍総理大臣から麻生副総理の地元への道路事業が止まっているわけだ。
   吉田参議院幹事長と大家敏志参議院議員が副大臣室に来て『何とかしてもらいたい』と言われた。
 “動かしてくれ”ということだ。
   吉田氏が私の顔を見て『塚田、分かっているな。これは安倍総理の地元と麻生副総理の地元の事業なんだ。俺が何で来たと思うか?』と言った。私はすごく物分かりがいい、すぐ忖度する。
 総理大臣と副総理がそんなこと言えない。森友学園などでいろいろ言われるが、そんなこと実際にはない。
 でも、私は忖度する。
 それで、この道路事業を再スタートするには、いったん国で調査を引き取らせてもらうことになり、今回の予算で国直轄の調査計画に引き上げた・・・」
 発言はもう少し続くのだが、塚田氏は身内の集会で知事候補の応援ではなく“己の自慢話”をしたに過ぎないのではないか・・私はそう感じている。
 塚田氏は国会で「総理や副総理が言えないから忖度したという発言は事実ではない」と弁解しているが、「忖度」しても、「した」と白状するケースはほとんどないと聞いている。
 注目の発言集で読む限り、忖度したのは吉田参議院幹事長とみるべきだろう。
 「塚田、分かっているな」とか「俺が何で来たか分かるな」という副大臣室の情景は妙に生々しいではないか。塚田氏は“副大臣室の事実”を演壇からレポートしていたのである。
 副大臣室で吉田参議院幹事長らが塚田氏の前に現れたとき、国交省の幹部も同席していた筈だから、記録を公開して“やりとりを明らかにすべきだ”という声もあるが、安倍政権は都合の悪い話しには応じないだろう・・・
 プレジデントオンラインは、「何でも、誰でもが、“安倍首相を忖度して利益誘導を計る”ケースがが多過ぎる。日本のこの政治状況は異常だ」と述べている。
 「令和」という新しい時代が、あと半月でやって来るというのに。
 長期政権が故の「驕り」や「緩み」、「惰性の政治」が、まだまだ続くのだろうか・・・


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浜田山通信 №240 [雑木林の四季]

高田博厚彫刻プロムナード

             ジャーナリスト  野村勝美

 3月末、埼玉県東松山市教育委員会から「高坂彫刻プロムナード高田博厚彫刻群」の資料とともに問い合わせの手紙が送られてきた。私が「福井文人会」の世話係をしていた頃の話などを伺いたいとのことだった。ごていねいに私がサンデー毎日にいた頃、文人会の諸先輩に出した日程の都合伺いの手紙のコピーまで同封されていた。もう50年も昔の話だ。とりあえずおぼつかない記憶をたよりに返事を出したが、私が驚いたのは高田博厚さんの彫刻が32体も東上線高坂駅から1キロにわたって展示されていることだった。高村光太郎、タゴール、棟方志功、新渡戸稲造、宮沢賢治、マハトマ・ガンジーなど国際的署名人像や「女のトルソ」など高田博厚をして国際的芸術家たらしめた主要作品のほとんどがプロムナードに並んでいる。一人の作家の彫刻がこんなにも多く展示されているのはおそらく東松山が唯一だろう。私はこのことを全く知らなかったから嬉しさが込みあげた。
 福井文人会というのは、戦後の混乱・復興期が落ちつきをとりもどした昭和42年頃、当時福井市長だった島田博道氏が、たしか民芸の宇野重吉と同級だった関係で文人会を提唱して始まった。あの頃の郷党意識は強く、すぐ中野重治、深田久弥、高田博厚、多田裕計、宇野重吉、水上勉さんらが集まった。いまの若い人は、名前も知らないメンバーかもしれないが、当時はその道の第一人者ばかり、なかでも高田博厚さんは渡欧してロマン・ロランに認められ、国際的に有名になった。パリでは、福井の蟹はうまいぞと言い歩いて「越前ガニ」とあだ名で呼ばれた。話題も豊富で、他愛もない話、戦前の福井の町の様子や田舎の暮らし向きなどが多かった。博厚さんとは関係ないが、中野重治が水上勉に「君のことを皆ミナカミベンと言っているが、ほんとはミズカミだろう」ときくと、「はい、ミズカミです。」と勉さんがかしこまって答えた。上越の水上をミナカミと言い出してから水上をミナカミというようになったという。
 博厚さんには「サンデー毎日」の書評担当時代に、鎌倉に新築されたアトリエへ著者のインタビューで一度お伺いしたことがある。谷合いの静かだが緑濃いこ所だった。紹介した本は講談社現代新書「偉大な芸術家たち ロダン ブールデル マイヨール」である。彫刻のことなど何一つ知らないのに、30年後輩の福井中学(現藤島高校)同窓生というだけで実に親切に手とり足とり教えてもらった。その本をもう一度読みなおしてインタビューを記事にしたが、ほとんどが中身の引用ばかりでいま読み返しても恥ずかしい。同じ頃みすず書房から発表された「ルオー」にも私あてに「一九六七年十月十三日 鎌倉にて 高田博厚」と威勢よくサインしてもらい宝物のようにしまってある。
 東松山のプロムナードには近くなんとしてもでかけるつもりでいる。

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BS-TBS番組情報 №184 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年4月のおすすめ番組(下)

                BS-TBS広報宣伝部

ねこ自慢

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毎週(日)午前11:00~11:30

☆ウチのニャンコが一番かわいい!日本各地で「ねこ自慢」インタビュー!!

まだまだ衰えない「猫ブーム」!今やペットの主役は『猫』なんです!
「ウチのニャンコが一番かわいい!」
毎週、日本各地の猫を飼っているお宅を訪れ、飼主さんに「自慢の猫」についてインタビュー。
ベスト写真や動画を見せていただきながら、かわいい猫の表情や仕草を堪能します。

■4月21日(日)
#1(再)「照英がインスタグラム14万のフォロワーを得る猫を訪問!」
今回は、大の動物好きの照英がインスタグラム14万のフォロワーを得る猫を訪問
★インスタグラムで14万のフォロワー!二匹の人気にゃんこには驚きの特技がありました!!
★ツイッターのフォロワー数が14万のにゃんこ。大人気の秘密は、大俳優〇〇にそっくりな表情をするから。
果たしてどんな猫が登場するのでしょうか?

■4月28日(日)
#2(再)「ブログで人気のスコティッシュフォールドを照英が訪問!」
ウチの猫が一番かわいい!毎週、猫を飼うお宅を訪問。かわいい猫の表情や仕草を堪能。今回は、ブログで人気のスコティッシュフォールドを照英が訪ねます!
★ブログで人気の2匹のスコティッシュフォールド。ビロードのような毛並みの猫の意外な好物、そしてお気に入りの場所は?
★家族をつなぐかわいい天使!2世帯住宅に暮らすスコティッシュフォールド。お母さんの手をつかんでおやつを食べたり、お父さんの足の裏をふみふみしたり!
果たしてどんな猫が登場するのでしょうか?

オトナ女子ストーリーズ

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毎週(日)午前11:30~12:00

☆各ジャンルで活躍・奮闘する女性に密着!

今の時代を生きるオトナ女子たちは、夢を実現させるためにどのような時間を送っているか、どのように時間を使っているか。休日は?リラックスタイムは?そして、譲れないあなたの大切な時間は?

■4月21日(日)
#1(再)「女流し・おかゆ」
ギター一本で日本全国を渡り歩く女流し・おかゆ。地方の飲み屋街を一人で飛び込み交渉し、客のリクエスト曲を即座に披露していく。流しにこだわる裏には亡き母の姿が…歌で生きていくと決めた彼女のストーリーを追う。

■4月28日(日)
#2(再)「鮮魚店・森朝奈」
IT大手・楽天というエリートの道を捨て、家業の鮮魚店で働く森朝奈。早朝、寒さの厳しい中黙々と作業し魚をさばく。その横では幼少から憧れる父が目を光らせる。父の仕事を継ぐと決めた女性のストーリーを追った…。

関口宏が100歳になる時

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~医療は人を幸せにしているか?スペシャル~

2019年4月26日(金)よる9:00~10:54

★関口宏が100才になった時 世の中はどうなっている?「医療」の専門家に聴いて、探ります!

司会:関口宏
パネラー:関根麻里 ほか

日本人の平均寿命は80歳を超え、今や“人生100年時代”。
技術革新はスピードを増し、特にこの20年で日本人の生活は一変した。
そんな時代の変化に戸惑いを感じ、漠とした未来に不安を感じている人もいるのではないだろうか。
そこで、関口宏(75)は考えた。
自分が100才になったその時、世の中はどうなっているのか?
これからの数十年、私たちはどう生きるのか?
ならば、世の人々を代表して聴いてみよう!トップクラスの専門家に…
今回は、「医療」の専門家をゲストに招き、関口宏が忖度無しに質問を投げかけ、「医療」が切り開く未来をあぶりだします。
質問に答えてくれるのは…
天皇陛下の執刀医をつとめた心臓血管外科手術の権威・天野篤氏をはじめ、最先端の医療をリードする医師や専門家。
さらに、ノーベル生理学・医学賞受賞 大隅良典氏も出演!
認知症、アンチエイジング治療の未来について語っていただきます。
新元号に変わる今、新たな時代への明るいビジョンを提示する特別企画です。


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バルタンの呟き №55 [雑木林の四季]

「皇紀2680年!大政翼賛会?」     

                映画監督  飯島敏宏
 さよなら!平成31年、こんにちは!令和元年、めでたくも皇紀2680年です。平成天皇の退位、新天皇の即位、そして、まもなく迎える2020東京オリンピック・パラリンピック。いまや、テレビも、新聞も、雑誌も、ネットも、メディア総揚げで、お祭り騒ぎです。おまけに、お札まで、福沢諭吉が渋沢栄一に、野口英世が北里柴三郎に、樋口一葉が津田梅子に変ります。変わらぬものは・・・まさに相変わらずの政界です。
 あとは、憲法改正(大日本帝国憲法の復活)と、その向こうに見えてきたのが、政党崩壊・・・国会無視の専制内閣誕生・・・大政翼賛政治、やがて富国強兵の軍政内閣から、ついに核保有・・・これは、昭和、平成、そして、もう少しで令和の三代を生きてきた僕の、経験からの妄想です。

 権威ある易断によると、平成31年つまり来年の3月までは、家の建築、土地開発は大凶だとあります。ところが、目下、日本は、嘗ての東京オリンピック直前の日本列島改造と言われた時期同様に、いや、それ以上に、何処に行っても、クレーンが建ち、ブルドーザー、ショベルが動き回っている状態で、2020TOKYO復興オリンピックと唱えながら、災害復興に先んじて、オリンピックの為の新たな施設建築や、環境整備と、趣旨を測りかねる地方創生事業のために、建設労務者が奪われて、肝心の復興は停滞するという大矛盾を抱えたままで進行中です。 

 国会での、政治的な重要課題の審議をおろそかにして、令和に浮かれてはしゃぎ回る内閣の称える、「我が国の進むべき道はこの道しかありません」は、僕には、冷静に考えれば考えるほど、とてもついて行けない「この道・・・」に思えるのです。

 我が国の国書である万葉集からの引用、と銘打って総理府が選んだ新元号令和が、学問的な考察で、事実上は、原点とする万葉の詩そのものが、中国の後漢時代の張衡の詩に影響を受けたものだった、という恥さらしは、失笑で済むかもしれないけれども、なんだか、国粋などという古めかしい言葉を持ち出したくなるような危うさを感じてならないのです。せっかく現在、世界でいちばん平和で、治安が保たれている国と見られて、海外から観光客や留学生が殺到しているこの国が、令和になった途端に、不安定な危険な国に変貌してしまったら・・・75年前同様の危険な道に通じてしまうことになったら・・・

 令という字の象形文字としての本源は、大きな山の前にひれ伏す人間の姿だといいます。律令、命令などの語から推察すると、令は、清い、潔いという意味から転じて、規制し従わせる、という意味もあるとする辞典もあります。律令制度という例が、それを示しています。
 こうなると、遅れ馳せに、この案を、所謂各界の識者からなる最終選考の場、に持ち込んだといわれる意趣に、忖度の疑問を感じてしまうのです。
 いま、日本中のあらゆる媒体で紹介されつつある、元号発表の席で、官房長官が掲げた令の書き巡最後の縦棒の筆跡が、跳ねていますが、仮に、漢字書き取りの試験で、下に抜かずに、撥ねていたら果たして正解とされるのか・・・
 ただし、縦棒を抜いて終わると、片腕をもがれた弥次郎兵衛のように、文字として非常に不安定な形になってしまいます。といって、マでも正解、と断じられると、それならば他の字、卑近な例で、丁、でも、そんな変化が認められるのか、という困った事になるのではないでしょうか。何故か近ごろ、道理が引っ込む、無理が通っている気がしてならないのです。「令」という、見るからに不安定な字が、文字通り、不安定な政治、不安定な生活を暗示する物でなければいいのですが・・
 国際交流の必要が、強調されている今日、日本の国語の令が、REIと発音されるから、そのように表示するらしいのですが、これもまた、むしろ、令は、LEIと表示した方が、REIよりも原音に忠実だし、外国語で発音しやすい、という事も言われています。

 実際に筆を執って令と書いてみましたが、?は、左右均衡で安定しますが、令は、片方が重くて、安定しません。急いで書くときには、ぼくもきっと、マ、で書いてしまうでしょう。もっとも、なんにでも安定を求めるのは、老いた証拠だ、とも言われそうですが・・・
 なに、かに、と、天皇家と元号に託けて、華やかな祝宴、繚乱と咲く桜などを背景に、観衆に「我が国の令和に向かって、しっかりと、国民と共に、全力で、進んでまいります!」と、型通りのジェスチャーで演説する首相の頻出する、テレビニュースを眺めていると、その音声の響きに、80年前の、紀元2600年祝賀会場で、ラジオから朗々と流れた、近衛文麿総理大臣の一億臣民に向けた挙国一致、勇往邁進の演説が併唱されてきてならないのです。
 当時の写真週報を見ると、その背後に、東条英機陸軍大臣の、次なる出番を待ち受ける炯々たる眼光が、・・・
紀元はニセーンロッピャクネーン・・・」
無碍な臣民が、大政翼賛の旗を振っているうちに・・・
最近の首相の言葉が、国民の皆様でなく、皆様、が落ちている気がしますが、これは、杞憂でしょうか・・・


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いつか空が晴れる №57 [雑木林の四季]

     いつか空が晴れる
         ―汚れちまった悲しみにー
                       澁澤京子

 満開の桜が散り始めて、急に気温が低くなった頃、父の具合が悪くなって緊急入院することになった。
心筋梗塞。暖かくなったり、急に真冬のように寒くなったりの温度差が96歳の父の体にはこたえたのだろう。

去年の春も父が入院した病院で、病室の窓からは目黒川の桜並木がよく見える。
絶対安静の状態でベッドに寝た切りの父。毎朝、看護婦さんが排せつ物の処理をしてからきれいに洗ってくれるのだそうだ。
「まだ若いのに、看護婦さんというのは大変な仕事だね、」
「そうねえ。」
「朝、看護婦さんに洗ってもらうたびに、中原中也の詩で(汚れちまった悲しみに・・・)っていうのがあるでしょう?あの詩がなぜか僕の頭の中に浮かんでくるんだよ。」

―汚れちまった悲しみに、今日も小雪のふりかかる・・・・汚れちまった悲しみに、なすところなく日が暮れるー

汚れちまった悲しみに、今日も小雪のふりかかる、か。
父は私に似て怖がりなのだ。病院が嫌いなところも似ているかもしれない。現実を直視できないようなところがあるのだ。
祖母が危篤のとき、父だけ病院から出ていなくなっていたことがあった。父は、自分の母親の死を見届けることが怖くてできなかった。

また、父は昔の人間だから、とても他人に遠慮する性格で、家族に対しても気を使うようなところがあるので、看護婦さんにそういった仕事をしてもらうのが恥ずかしいし、苦痛なのだろう。
そういえば、去年入院したときは、父から火野葦平の「糞尿譚」の話を聞いた。
「人っていうのは、結局最後は糞尿まみれになって死ぬのかなあ・・・・」
絶対安静で寝たきりの父は、しきりに火野葦平の「糞尿譚」の話をしていたっけ。

年を取るということは年々、赤裸々になっていくことなのかもしれない。精神的にも肉体的にも、若さでごまかしてきたものが、年取ることによって一枚一枚薄皮がはがれていくようにはがされていく。身体がまったく利かなくなった時に見る風景は、私が今見ている風景とはまた別のものになっているのだろうか。

余計なものがはがれおちていくということは、自分のちっぽけな意志なんてものは、ほとんど何の役にも立たなかったんだということに気が付いていくプロセスでもあるのかもしれない。

四月とは思えない寒い日で、病院を出ると、雨に濡れた遊歩道には散った桜の花びらがたくさん貼りついていた。



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梟翁夜話(きょうおうやわ) №37 [雑木林の四季]

「ある時代の終焉」

                 翻訳家  島村泰治

激動の昭和を承けて三十年、平成が幕を降ろし令和が舞台に上がる。平成の世、平民皇后の登場で天皇家は様変わりした。連れだって歩まれるご夫妻のご様子に庶民は天皇家をより身近に感じ、跪かれるお姿に先帝にはなかった「象徴天皇」の実像を見た。平成時代は図らずも天皇家の「脱皮」が緒に就いた時代ではなかったか。それは、国史を知る者には皇威落剥の第一歩であり、それを意に介さぬ者には滔々たる民意尊重の兆しが根づくかに思える年月だった。

そう、平成は戦後民主主義が表裏に亘り根づいた時代だ。中央では自民党を軸とする連立政権が常に手綱を握りこの国を御してきたかに見えて、その実態は保守主導の政治風土とはほど遠い。先ずは自民党自体の党内勢力図に左傾化が進み、保守は刻々と色褪せている。保守の旗手たる安倍政権にしてからが、かつて民意を背負って登場した野党政権が唱えて果たせなかった政策を拾い食いしているに過ぎず、今や巷に保守新党への動きさえ見える為体(ていたらく)だ。民意が活性化している証しである。野党諸党の党勢は下降に見えて実はそうではない。本来右よりの政策を自民党の左傾で蚕食されているに過ぎないからだ。

その一切は民意が活性化していることに原因する。昭和から平成へ、民意のベクトルは中道からやや左の微妙な線に収斂した。政党の勢力図で云えば野党の右側、自民主導の連立のやや左側、政治家群像で云えば野党側なら長島、細野、連立側なら額賀、二階止まりの左派が重なり合う辺りが民意に添う政治感覚ということになる。

平成はこのような政治風土の最中(さなか)に終焉する。民意を平均的な世論と捉えれば、日本は将にことを好まぬいいとこ取りの生活哲学に寄りかかる人間たちが、夢の楽園を求めて令和に雪崩れ込む。テレビは文化伝播のメディアとしての機能を失い、哀れ、商売道具に堕するのが眼に見える。メディア本山の新聞にしてもインターネットに実を奪われ凋落の兆しが明らかだ。

割れ鍋に綴じ蓋の摂理は文化にも及んでいる。言葉に無感覚な民意に迎合するものかきが蔓延(はびこ)るなか、名にし負う文学賞の類に既に古の品格はなく、純文学の砦は将に崩落の瀬戸際だ。お笑い芸人の戯れ言に芥川賞とは何ごとぞ。だが、ここで芸人に文学を弄ぶなと迫るのは筋違いだ。それをさせたのは他ならぬ巷の読者、つまり民意だからだ。民意が芸人にペンを握らせたのだから、書くなとは云えない。芸人風情の書きものは読み甲斐がないとする民意が育たなければ、芸人の戯れ言は平成から令和へ、さらに元号を追うごとに増えこそすれ減りはしない。鍋ほどに蓋が育つ摂理だからだ。

さて、そうなれば令和から先、この国は形無しになるではないか。いや、そうとは限らない。割れ鍋の摂理を活かせばこの日本、まだまだ捨てたものではない。民意が分数の分母なら、分母に相当する数字乃至数値の価値をグレードアップすればいいだけのことだ。民意の実態は個々人であり、その思いと行いが直に反映する有機的データだ。ならば、個々人の意識に「よき蓋を求める」思いが僅かにでも根ざせば、ともによりよい鍋を鋳り出すことができる。その鍋をさらによりよいものに鋳り続ければ、やがて誇れるほどの蓋が仕組まれようというものだ。

いま、グローバリズムへの猛省が叫ばれている。平成から令和へ、元号が改まる将にこの機にこそ日本は「国を見直す」べきであろう。民意の視線を外から内へ、日本の本来あるべき姿に改めて見直す千載一遇の機会だ。

世界を一瞥するに、紛争の多くに宗教間の諍いがある。キリスト教とイスラム教のそれは広く深く、そして長く世界の政治経済にまで波及して止まるところを知らない。日本には古来「かんながらのみち(随・惟神)」があり、超宗教的な自然の摂理を法(のり)として奉じてきた。改元の好機に日本は「かんながらのみち」に立ち返らねばならない。日本人の英知を傾けて「われとわが身を省みる」度量を見せねばならない。


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検証 公団居住60年 №30 [雑木林の四季]

2.家賃格差を生む公団家賃高騰のおもな原因

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 公団は1970年代、初の家賃いっせい値上げをする理由に「新旧家賃聞」だの、「公団住宅相互間」の不均衡是正をあげ、その立証の方策もないまま値上げに踏みきった。しかし、結局その立証は無理とわかるや、公団側はこれまでの主張を棚上げして、借家法のいう「経済事情の変動」一般にすがった。ここで新旧団地間に家賃格差を生んだ異常な家賃高騰の原因を確認しておくと、①地価、建設費の暴騰、②金利負担の増大、③関連公共公益施設負担金の増大などがあり、それらの原価すべてを家賃で回収する公団の「原価主義」の破たんの現われであり、政治的には政府の住宅無策に帰する。
 1)『日本住宅公団20年史』によると、6大都市の市街地価格指数は住宅地で、1955年を基準に65年で約10倍、70年は約18倍、73年になると約35倍にバネ上がった。住宅建設費は地価の高騰によって大きな影響をうけ、73年の戸当たり建設費は55年の約8倍となった。そのうち工事費の騰貴が6倍程度であるのにたいし、用地費の騰貴は約23倍という高率になっている。ちなみに、この建設原価が2年後の家賃設定に反映するとして、56年度を基準に75年度の新設家賃は、傾斜初年度平均で7.7倍、傾斜終了後は.9倍に驚異的は上昇を示した。
 2)公団の住宅事業はほとんど民間または政府資金からの借入れでまかなっている。政府資金とはいえ金利は7.6~8.2%と高利で、うち5%(面開発市街地団地では4.5%)分が家賃にくみこまれて居住者が負担している。それをこえる差額分を利子補給金として一般会計から支出する。建設費が増大すれば借入金はかさむ一方で、金利負担はふくれあがり、家賃の高騰をまねく。.81年建設予定団地の家賃のうち金利分が60.8%を占める。公共住宅の建設資金にたいする高金利、償却費、地代相当額として家賃から60%もの金利分とりたて自体が異常である。
 3)用地建設が自治体財政を圧迫し、「団地お断り」が60年代後半から出 はじめた。70年代にはいると用地費、建設費はさらに高騰して関連公共公益施設の負担金が、ますます原価主義家賃を押しあげた。上下水道、道路はもちろん、義務教育の小中学校の用地費や建設費、保育園、幼稚園、児童館から鉄道建設、あるいは駅前広場・駅舎、バス購入費などの負担金も家賃に含めている。1戸あたり100万円の税外負担であれば、その分だけで家賃は5,000~細0円高くなった。


『検証 公団居住60年』 東信堂

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