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『知の木々舎』第228号・目次(2018年10月下号編成分) [もくじ]

現在の最新版の記事を収録しています。ご覧になりたい記事の見出しの下のURLをクリックするとジャンプできます。検索の詳細については手引きをご覧ください。

【文芸美術の森】

フェアリー・妖精幻想 №95                  妖精美術館館長  井村君江
 花と昆虫と小鳥の妖精たち 2
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-12-9

にんじんの午睡(ひるね) №42                 エッセイスト  中村一枝
 友だち                                                         
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-12-8

渾斎随筆 №19                                  歌人  会津八一
 推敲 3
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-12-7

石井鶴三の世界 №126                    画家・彫刻家  石井鶴三
 湯の又 2点1965年
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-12-5

ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №91 早稲田大学名誉教授  川崎 浹
  第四章 金持ちロシア人を笑う 3
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-12-6

往きは良い良い、帰りは……物語 №63    コピーライター  多比羅 孝
 『寒露(かんろ)』『鵙(百舌・もず)』『案山子(かかし)』『菊枕(きくまくら)』
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-09-28-9

正岡常規と夏目金之助 №2        正岡子規・漱石研究家    栗田博行
 子規・漱石~生き方の対照性と友情。そして継承  序 2
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-12-4

ことだま五七五】

日めくり汀女俳句 №20                        中村汀女・中村一枝
 二月二十五日~二月二十七日
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-12-3

猿若句会秀句選 №89                               猿若句会会亭    中村 信
  平成31年9月15日
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-09-28-6

草木塔~種田山頭火  №27                     俳人  種田山頭火
 天行水行 3
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-12-2

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №50                 川柳家  水野タケシ
 10月3日、10日放送分
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-12-1

【核無き世界を目指して】

続・対話随想 №49                                    エッセイスト  関 千枝子
 関千枝子から中山士朗さまへ              
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-10-8

【心の小径】

論語 №60                                                     法学者  穂積重遠
 一八七 曾子疾あり、門弟子を召していわく、わが足を啓け・・・
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-10-1

余は如何にして基督信徒となりし乎 №50                             内村鑑三
 第八章 基督教国にて - ニューイングランドのカレッジ生活 8
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-10

【雑木林の四季】

浜田山通信 №228                                  ジャーナリスト  野村勝美
 ハーフ・ブリード萬歳
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-11-7

私の中の一期一会 №176         アナウンサー&キャスター    藤田和弘
 阪神17年ぶりの最下位。「超変革」は道半ばで振り出しに戻る?
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-11-8

徒然なるままに №42                        エッセイスト  横山貞利
 「ふるさとは」・・・
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-11-6

BS-TBS番組情報 №172                               BS-TBS広報宣伝部
 2018年10月のおすすめ番組(下)
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-11-5

バルタンの呟き №43                          映画監督  飯島敏宏
 「この道が いつか来た道」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-11-4

医史跡を巡る旅 №46                             保健衛生監視員  小川 優
 「林太郎残照」~明治村の森鴎外・夏目漱石住宅
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-11-3
 
いつか空が晴れる №45                                渋澤京子
  -住大夫の文楽-
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-11-2

梟翁夜話(きょうおうやわ) №25                            翻訳家  島村泰治
 「飴の話」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-11-1

検証 公団居住60年 №19 国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 日本住宅公団設立と公団住宅 3
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-11

中華の風 №11                         中国文化研究家  堂園 徹
 男盗女娼
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-09-27-12

コーセーだから №43                      (株)コーセーOB  北原 保
 50歳創業の哲学 4
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-09-27-11

地球千鳥足 №117  グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子
 Cincinnatiで Sentimenntal Journey ~アメリカ合衆国                            https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-09-27-10
                                       
シニア熱血宣言 №107                                    映像作家  石神 淳
  昔はほんとうに良かった
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-09-27-9

【ふるさと立川・多摩・武蔵】

赤川Bonzeと愉快な仲間たち №120           銅板造形作家  赤川政由
 安東けいさんのしごと
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-10-7

立川陸軍飛行場と日本・アジア №167    近現代史研究家  楢崎茂彌
 奉天までの耐寒飛行・在郷軍人模擬動員演
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-10-6

線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №112         岩本啓介
 秋の足音 しなの鉄道 三才」~豊野    
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-10-4

押し花絵の世界 №72                                  押し花作家  山﨑房枝
 「コスモスの籠」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-10-3

渋紙に点火された光と影 №44              型染め版画家  田中 清
 「春の嵐」Ⅰ
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-10-2

国営昭和記念公園の四季 №20
 秋明菊  日本庭園
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-15-1

【代表・玲子の雑記帳】                   『知の木々舎 』代表  横幕玲子
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2018-10-12


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発行回数・月に2回(上期・下期)ネットマガジンを発行します。
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もくじ・ネットマガジンの号数・編成期(×月の上期・下期の別)を表示し、その下に最新の記事のタイトル・見出しが URLをカテゴリー別に掲載しています。
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フェアリー~妖精幻想 № [文芸美術の森]

花と昆虫と小鳥の妖精 2

                     妖精美術館館長  井村君江

自然と子供を描いたE・ボイル

 花と子供とを好んで描いたエリナー・ボイル(一八二五-一九一六)は、スコットランド、アバディーンシャーのエロン城の持ち主アレキサンダー・ゴードンの娘という名門に生まれ、広大な庭園の自然の中で絵筆をとり、花々や昆虫を描いていた。
 彼女はリチャード・ドイルの『妖精のファンタジー』やアーサー・ヒューズの絵から、装飾性や神秘的な雰囲気の描き方を学んだようである。ブックマン誌の評によれば、「ボイルはラスキンの流れを汲む耽美家であり、優雅で静寂で古風な庭園と自然の持つ美を愛した人」であった。一八六〇年代以前の唯一の女流挿絵画家である。
 正確な観察に基き、それをやや図案化した花や木の実、蛾や蛙のあいだにポーズをとる子供の絵は、ラファエル前派のホルマン・ハントやミレイに愛好された。子供好きのボイルにとって無垢な子供はそのまま妖精なのかも知れず、足元にうずくまる蛙や蛾との大きさの比例がなければ、子供のスケッチとも見える絵である。
 『終りのない話』(一八六八)や『アンデルセンの童話』(一八七四)の挿絵が代表作で、多色木版画は鮮やかな色調のハーモニーを作り出している。ペン画の線描による原画をもとに、十二色以上の色板木を重ねて刷られたため、画面は繊細な線と重厚な色とのハーモニーが響き合い、独得の情趣が漂う。

フラワー・フェアリーの画家C・パーカー

 フラワー・フェアリーの画家として知られるシシリー・パーカー(一八九五-一九七三)の妖精たちは、野に咲く芥子の花やマスクローズ、道端のヒースやプリムローズがそのままあどけない子供の顔になって動きだしてきたようである。
 イギリスの裕福な家庭のつねとして、家庭教師について勉強し、短期間だけクロイドン美術学校に通ったのが唯一の学校教育であった。姉のドロシーが開いていた自宅の託児所に集まってくる子供たちをシシリーはいつも写生しており、純粋なあどけない子供たちに、この世のものでない妖精の映像を重ねていたようである。
 また、生涯の友人であったマーガレット・タラント(一八八八-一九五九)は妖精画家でもあり、二人はともに田園を散索したり、スケッチ旅行をしたりするよい絵描き仲間であった。
フラワ・フェアリー第一作「春」(一九二三)には、姉ドロシーの詩がつけられて雰囲気をよりもりあげているが、一九二三年から約七年間にわたり「夏」「秋」「木」「庭園」「道端」と自然の妖精画シリーズを出し、出版五〇年を迎える前に世を去ったが、生涯にわたって自然の中の妖精を描き続けた画家であった。
 託児所の子供の手堅いスケッチに、自然観察の正確さが相まったように生れた妖精たちは、その花々の色や形や性質をもっている。たとえば芥子の花ならその花びらに似た薄い赤のドレスを優雅に着こなす乙女であり、アザミならトゲの剣をかまえたいたずらっぽい男の子になっている。彼らは単なる花の精ではなく、蝶や蛾やトンボ、カゲロウや蜂の麹を背にはやして花々のあいだを飛び回る精である。
 かつてフィッツジエラルドの画面に登場していた奇妙な暗い生き物たちはすべて姿を消してしまっており、子供の天真欄漫さと純真さと清らかさ、自然の美しさとが重ねられた、誰からも無条件に愛される妖精になっている。

E.Boyle.jpg
エリナー・ボイル画

『フェアリー』 新書館

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にんじんの午睡(ひるね) № [文芸美術の森]

 友だち

                    エッセイスト  中村一枝

 二週ごとに原稿を書くのはそんなに大したことではないとずっと思っていたが、今回はちっとも頭が働かない。なるほどこういうこともあるものかと嘯いて見たが、動かない頭はびくともしない。年のせいだと思ってみたがそんなことは何年も前から判っている。こうやって忍び来るのが老いの衰えの正体なのだ。
 前にも書いたが、伊東に疎開したのは小学5年のと期だから、もう七十余年も前の事である。父の知り合いの紹介で大きな別そうの中に立つ隠居所を借りることになった。伊東についてはなんの予備知識もなく、ただ当時から温泉場としては名前は知られていた。駅からはかなり離れた場所で川沿いの道を歩いていくと、川と田んぼしかない人里離れた所に一段高く石垣を積んだ一画があり、初めて見たときは、お城みたいと咄嗟に思った。私たちが借りた家はそのかたわらのとても小さな家である。もともと大家さんのお父さんの隠居所に建てたということで、大家さんは父が 喜んで借りたいと言ったときはちょと驚いた風だった。もともと家に凝ったり道具に凝ったりという趣味のまったくない父は粗末な家のたたずまいが気に入ったようだった。後々のことだが東京から来る客や編集者はたいていこの小さな家をまさかと思い、すこし先にある豪邸に行ってしまう。笑い話になった。おじいさんとおばあさんしかいないとおもつていたとなりの家にはわたしくらいの男の子二人がいてそれはそれでおもしろかつたが、いまははぶく。
 二学期になるとまた新しい疎開の人が東京からやってきた。三ヶ月ほど早く学校になじんでいたわたしは先輩顔で彼らを眺めていた。その中に切り揃えた前髪がよく似合う可愛い人が目についた。それで近づいて声をかけたのがきっかけである。彼女とは小学校二年、女学校三年間を一緒に過ごした。その後の学校も住んだ場所も遠く離れたのに未だに親友である。初めに反応して 感じたかわいいという印象とはまったく違って、彼女は芯の強い剛気な女の子だった。最初に感じた可愛さだけの女の子ではない。運動神経は抜群だし、何事でも反応が早い。その可愛い顔でなにごともけろっとこなすところがわたしには真似できなくてあこがれた。彼女に言わせると私はとても弱虫で、ちょっと意地悪をするとすぐ泣くのでそれがまた面白かったらしい。彼女のうちに行くと三人お兄さんがいて皆かっこいい。一人っ子の私には手の届かないうらやましさだった。私からみれば何もかも揃っていて、そのどれもが私より上等に思えるのだった。それでも何十年も付き合いがつづいているのは何処かお互い、いい所に惹かれているのかもしれない。気が付かないまま。
 友だちってそういうものではないのか。私には幸いそういう友達が何人もいて老後という思いがけない生活の変化に彩りと励みを与えてくれている。彼女は私にとってずーっと憧れの人それは八十年を尚過ぎてもいつも活発で颯爽としているからだ。流石に昔のような意地悪はしないけど、なんだかじっとしていないいつも動いてるところがおばあさんじやないのだ。もっともその動きの活発さが災いして彼女は何度もよ怪我をしている。怪我でも何でも彼女は自分流にこなし泣きごとひとつ言わないところがなんとも彼女らしい。こういう颯爽としたおばあさんになる事は、いまから思うと当然と言える。もう一人すぐいじめられると涙ぐんで弱気なところを見せるおばあさんは、年をとるほどずうずうしくなつて、いまや対等の構えを見せている。女の歳のおそろしさである。

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渾斎随筆 №19 [文芸美術の森]

推敲 3

                            歌人  会津八一

 いま一つ、同じ私の「印象」のなかで、王之渙の有名な「鶴雀樓二登ル」と題した五言絶句
   白日依山盡    白日ハ山二依リテ盡キ
      黄河入海流        黄河ハ海ニ入リテ流ル
      欲窮千里目        千里ノ目ヲ窮メント浴シテ
      更上一層樓        更ニ上ル一層ノ樓
をば、私は
      うみにして なほ ながれゆく おほかはの かぎりも しらず
   くるる たかどの
と譯しておいた。そしてこの最後の「くるるたかどの」では、弱くて面白くないから、いっそ「くるるけふかな」とでもするか、といった所を思案してゐた。しかしこれも、気がついて見ると、原作で「黄河入海流」といった一句は、黄河の水は混濁してゐるので、海へ出てからも、いつまでも、その部分だけが、色ではっきりと見分けられる、つまり蕪村の
   五月雨や滄海をつく濁り水
といふ俳句を、もつと幾十倍も大きくしたやうな景色かと思ってゐると、どうも、これは、さういふことではないらしい。私は實境に臨んだことが無いから、確かなことは云へないが、鶴雀樓は、山西省も西の果てで、陜西省に近い蒲州府に在ると云ふから、その邊から日本の里数にしても、何百里もさきの海に入るところを遠望したのでは、そんなこまかいことまで見えるわけもない。一體日本では「海二人リテ流ル」などと讀むから、ついこんなまちがひも起るけれども、原文では「流レテ海二人ル」といふことを、文字を倒さまにして云つたまでで、たとへば、李白の天門山を望む七言絶句の
   天門中断楚江開    天門中断シテ楚江開ク
   碧水東流至北廻     碧水東流シテ北に至ッテ廻ル
   両岸青山相対出       両岸ノ青山ハ相対シテ出ズ
   孤帆一片日邊来       孤帆一片日邊ヨリ来ル
の第二旬を、吾々は「碧水東二流レテ北二至リテ廻ル」と讀むけれども、實際の地勢上からは、「廻リテ北二至ル」でなければならぬのと、同じことであらう。さうすると、私の譯の「うみにしてなほながれゆく」は、大きに見當ちがひと云はなければならない。歌は短かいものだから、こんな大きい見込ちがひがあると、あとから気がついて、ひそかに手入をしたぐらゐでは、なかなか立て直るものでないから、これは一とまづ、私の創作といふことにして、撤回するよりほかないかと思ふ。
 私などの手もとは、いつもこんなもので、自作なら、少しでも自分の気分や感激に、ぴったりゆくやぅに、もしまた翻譯などと名乗るならば、少しでもよく原作に合ふやうに、いつまでも工夫を重ねて、時には、文法家に叱られたり、或は二十年も前の舊案に立ち戻ったり、ほんとに気の利かぬ苦心を續けてゐる。これは、決してなまやさしいことではない。
 ところが、こんな風に、一度世間の目に曝したものを、後になって、無暗に手入れをするのは、甚だ宜しくない、といふ意見を、時々聞かされることがある。しかしこれは、人のつくったものを讀むことだけを仕事にしてゐる側から起る聾で、この意見によれば、作者の最初の感激が、折角立派に表現されてあるものを、後から後から手を加へたりすれば、自然の妙味が失はれてゆくから、一切そのまゝ放っておけといふのである。一應もっともではあるが、これは、靂感とか、天才とか、正しい表現とかいふものが、歌よみといへば誰にもあるものと、少し買ひ被ってゐる人の考へ方であらう。そんなものならば、歌よみもなかなか見上げたものであらうが、私のやうな不器用な素人は、とても思ひも寄らぬことである。そして、こんな証文を出す人の中には、表面には、かうした高尚な理屈を云ひながら、實は、自分が、最初に受けた印象を、後になっていろいろと變改されるのが厭だといふだけの、いはゞ、一片の快楽主義から、苦情を持ち出してゐる人も多いらしい。さういふ人たちによれば、如何なる改作も、必ず不愉快なこと、したがって不必要なことであらう。けれども、今の世の歌の中には、作者も、讀者も、みんな居なくなった後にも、尚ほ生き残って、遠い後の世の、うぶな讀者の批判を受けるものも稀には無いとも限るまいから、作者としては、たやすく天才になりすましたり、目の前のこんな種類の、云はば我儘か証文ばかりを、聞いて居るべきものではないのであらう。
                          (昭和十七年四月九日稿)

『会津八一全集』 中央公論社

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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №92 [文芸美術の森]

金持ちロシア人を嗤う 3

                  早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「教養」をプレゼント

 つぎの作品も新ロシア人親子を嘲弄するアネクドートである。

 新ロシア人の息子が父親に近づいて、「パパ、話しがあるんだけど」
 「できるだけ手短に、はっきりと」
 「百ドル」

 小学生が考えつきそうな、たわいない作品だが、日本の知人たちから「うちの子と同じ」、よくわかるという反応があった。新ロシア人のあこぎな商法については、市民はつぎのようなアネクドートで腹いせをしている。

 眼鏡の販売で大成功をおさめた、ひじょうに有名な店の所有者である新ロシア人が、店員たちにいかに客と取引すべきかを教えた。
 きみがレンズをとりあげたとき、客が品物の値段を聞いたら、こう答えなさい。
「一〇ドルです」
 それから間をおき、相手の顔の表情を見る。もし客の表情が神経質にびくつかなかったら、こうつづけなさい。
「縁の代金です。レンズ代はさらに二〇ドル頂きます」
 さらに一瞬がまんして、客を観察しなさい。もしこのとき客の顔の筋肉がすこしも動かなかったら、あえてこういいたすといい。
「レンズ一個の代金です」

 とつぜん学問的な話になるが、博士号は金で買えるという半神話がソ連時代からいまだにつづいている。しかし、つぎの新ロシア人アネクドートにはさらにマイナスの付加価値が計算されているようだ。

 新ロシア人がレストランの席にこしかけて博士候補の証書をくいいるように眺めていた。ボーイがこう尋ねた。
 「お買いになったのですか」
 「どうしていきなり、買ったなんていうんだ。友人たちがプレゼントしてくれたんだよ」

 博士候補の証書などとりわけ新ロシア人たちにほ骨董的価値しかないらしい。とはいえ「教養」と肩書きを欲する別の成り上がり新ロシア人が、「買ったもの」をプレゼントしてもらったのである。いっそう現実的でもあり、荒唐無稽でもあるアネクドートから、世相が浮かびあがってくる。

『ロシアのユーモア』 講談社選書

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石井鶴三の世界 №126 [文芸美術の森]

湯の又 2点 1965年 
                      画家・彫刻家  石井鶴三

1965湯の又.jpg
湯の又 1965年 (120×169×2)
1965湯の又2.jpg
湯の又 1965年 (120×169×2)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社石井鶴三

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正岡常規と夏目金之助 №2 [文芸美術の森]

    子規・漱石~生き方の対照性と友情、そして継承
                    子規・漱石研究家  栗田博行

  序Ⅱ ― 友情 …生き方の違いを超えて

 近代国家となった日本がはじめて外国にしかけた戦争=日清戦争をめぐって、一方は病身を押しての従軍、一方は戸籍操作による兵役回避と、際立った態度の違いをみせた子規と漱石でした。「戦争と平和。国家と男子の自己」と言うような観点から見れば、それは互いに相容れないくらいの「生き方の対照性」だった筈です。しかし、掲題したように二人の間には不思議とも思えるような「友情」が成立し、生涯に亘って続いたのでした。
 日清戦争が終わって間もない明治28年8月27日から10月17日まで、正岡常規と夏目金之助は52日間同居しています。妙なことに、江戸っ子漱石の松山の下宿「愚陀仏庵」に、松山生まれ松山育ちの子規が転がり込んで、ともに暮らしているのです。

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  明治28年5月、従軍から帰国の船中で2度目の大喀血をし、担架で神戸の病院に運び込まれた子規でしたが、何とか生き止めます。そして須磨の保養院に移り、駆けつけた虚子や碧梧桐の看病を受けて余後を養います。お母さんの八重さんも来ました。 

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  ところが、看病の甲斐あって須磨保養院でほぼ病い癒えた子規は、八重さん律さんの待つあの根岸にも、恩人陸羯南のいる「日本新聞社」にも、虚子や碧梧桐が編集に携わる「ホトトギス」にも向かわないで、松山の漱石の下宿にノコノコとやってきて52日間を共に暮らしたのです。子規も漱石も、「明治の書生の奔放な気分」からという年輩では、もうなかったのですが…。一体何が、どう働いていたのでしょうか…。

  子規没後七回忌の漱石の回顧談によると、子規が漱石の松山の下宿「愚陀仏庵」に、やって来た事情はこういうことになります。少し長い引用になりますが、漱石が気分よく話すときの言葉の面白みを楽しんでください。(改行や文字使いなどは、筆者が横書きブログ用に合わせて行っています。)

   「 正岡子規    漱石 談
  正岡の食意地の張つた話か。ハハハハ。さうだなあ。僕が松山に居た時分子規は支那(=遼東半島・筆者注)から帰ってきて僕ところへ遣つて来た。自分のうちへ行くのかと思つたら自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此處に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに当人一人で極めて居る。   
  御承知の通り僕は上野(愚陀仏庵の家主)の裏座敷を借りて居たので二階と下、合せて四間あつた。上野の人が頻りに止める。正岡さんは肺病ださうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいふ。僕も多少気味が悪かつた。けれども断わらんでもいゝとかまはずに置く。                    
  僕は二階に居る大将は下に居る。其うち松山中の俳句を遣る門下生が集まつて来る。僕が学校から帰って見ると毎日のやうに多勢来て居る。僕は本を読む事もどうすること出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でも無かつたが兎に角自分の時間といふものが無いのだから止むを得ず俳句を作つた。                           
   其から大将は昼になると蒲焼を取寄せてご承知の通りぴちや ヘ と音をさせて食ふ。其れも相談もなく自分で勝手に命じて勝手に食ふ。まだ他の御馳走も取寄せて食つたやうであつたが僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。‥‥‥‥‥以下略‥‥‥‥‥」    (ホトトギス・明治41.9.1)

 東京に帰るとき、この蒲焼の代金を「君払っておいてくれたまへ」、さらに「金を貸してくれ」といって壱〇円持っていき、「恩借の金子は当地にて正に使い果たし候」と言ってきたと話が続きます。呼びもしないのに勝手にやって来て、自分の下宿で我が物顔に振舞った子規の、傍若無人な食客ぶりが迷惑そうに語られ、漱石一流の諧謔とともに多少の作話も感じられます。
  しかしこの語り口は、明治22年に22歳で出会って以来、一目置き合って「書生付き合い」をしてきた明治男子の一方が、先に逝ッてしまった一方を「やっこさんメめ…」と懐かしむ、「友情」から流れ出たユーモアと申せましょう。(虚子という、子規・漱石ともの弟分が談話の聞き手だったこともこの語り口に関係したかもしれません。)
  ところが、実際のところは、漱石=夏目金之助は、子規=正岡常規に自分の松山の下宿に立ち寄るようこころを込めて、次のように呼びかけていたのです。

        「…御保養の途次 ちょっとご帰国は出来悪(にく)く候や。…」
       
明治28年5月26日付で、「正岡賢兄 研北」と襟を正して結んでいる長文の書簡の中の一節です。従軍から帰国の船中で大喀血し、瀕死で神戸の病院に運び込また友人子規が、何とか生きとめたという消息を伝え聞いてすぐ出した手紙でした。続けて漱石はこうも書いています。                      
    「小子近頃俳門に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候。」  

  つまり、あのプライドの高い夏目君が、「僕も最近は俳句の門に踏み込もうと思うんだ。オヒマな時は指導していただきたい」とまで言っているのです。のちに「漱石」となる人ならではの、子規を励ます深い心配りのあらわれです。  
2-3.jpg  神戸病院で闘病中の子規が心動かされなかった筈はありません。病い癒えた子規が、八重さん律さんの待つあの根岸にも、恩人陸羯南のいる「日本新聞社」にも向かわず、漱石の松山の下宿にノコノコとやってきて共に暮らしたのは、金之助のこの誘いがあったからのことでした。
  虚子に求められての子規回顧談は、明治41年のものです。すでに「大漱石」になり始めていた彼は、この談中では、9年前の明治28年、自分がこの心配りに富んだ誘いをしたとを全く伏せて、話を作っていたのです。「あの時は、ボクが声を掛けたらやってきてナ」と、得意そうに始たのでは、この回顧談に漂うユーモアは生じません。

 2-4.jpg「呼びもしないのに、やっこさん勝手にやってきて…」という風に話の前提を匂わせ、「此處に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに当人一人で極めて居る。」ということにしたことで、子規が蒲焼を勝手に取り寄せたことも、それを払っておいてくれとしたことも、さらに十円貸してくれと言ったことも、それも奈良で使い果たしたと言う報告も、全部子規という友人の振る舞いと人物味、自分と彼の友達関係を面白おかしく懐かしんでいる人間味あふれる追想談になっているのです。下宿の「上野の人が頻りに止める。正岡さんは肺病ださうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいふ。」というリアルな問題まで含めて‥‥‥。                 
 「君の郷里の松山にチョット寄って行かないかい」…こう呼びかけていたことを全く伏せて、子規のことを高浜虚子に向かって追想した時の漱石の心の奥行きを想うと、筆者は涙がこみ上げるような感動を覚えます。

    桔梗活けてしばらく假の書齋哉  子規                

  漱石の誘いに応じて、ノコノコとやって来た子規が、やってきてすぐ詠んだ一句です。そして、52日間の同居を終えて東京へ帰っていく子規への、俳句の上では師事することとなった漱石の、送別の句は…  
                               
          疾く帰れ 母一人ます菊の庵                 
            秋の雲 只むらむらと別れ哉                
              見つゝ行け 旅に病むとも秋の不二
                  この夕 野分に向て分れけり 
                   お立ちやるか お立ちやれ 新酒菊の花   漱石         
 
  この送別の5句は、明治の日本男子・夏目金之助の、しみじみとしたまごころのこもった「惜別の情」の表現と申せましょう。
 これに対する子規の返しの一句。「漱石に別る」と頭書きして

        行く我にとゞまる汝に秋二つ   子規

 「愚陀仏庵」での子規・漱石二人の52日間の同居生活は、明治日本男子の交際の場面に顕れた「友情 」の極致のひとつと、私には思えてなりません。
 
  しかしそれが、日本国がはじめて行った対外戦争「日清戦争」に際して根本的に生き方が違った二人…病身を押して従軍した男と戸籍を操作して兵役を回避した男…の間に成立したのであることを思い合わせると、子規漱石松山の52日間の同居は、さらに別の深い意味・不思議をはらんでいると思えてなりません。本編ではそれをさらに詳しく考えてみたいと思っています。(大分先のことになりますが…。)
 
  次回111日は、序Ⅲ として、漱石が子規から「継承」した何事かについて考えます。


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日めくり汀女俳句 №20 [ことだま五七五]

二月二十五日
春暁の厨(くりや)しづかに意のままに
            『汀女句集』 春暁=春
 朝、台所に起きてくるとぱーっと明るい光が台所全体を輝かせている。外は冷たい北風の舞う朝なのに台所にだけ春が先取りしている。
 家を建てた四十年前、私はどうしても二階に居間と台所を作りたかった。ふんだんに目の当たる家が欲しかったのだ。二階に台所と居間なんて不便でしょうがないじゃないの」汀女は最後まで納得しかねる顔だった。
 当時そんな家は稀だった。正面切って反対しなかったのは、わがままがむき出しになる嫁の性格を知っていたのだろう。

二月二十六日
靴紐(くつひも)を結ぶ間も来る雪つぶて
              『春雪』 雪礫=冬
              しやてきぼ
 私の家の辺りは昭和十年頃は射的場と呼ばれ、道路から一段と低くなった一帯は小さい川のある草原で子供の遊び場だった。
「あんたの旦那さんはいつもその土手を斜めに走っておんなさった」。汀女が笑いながら話した。長男湊一郎は十歳、その時私は三歳、同じ大森山王にいた。赤い糸はどこかでつながっていたのだ。
 昭和十一年、二二六事件の日、汀女の夫重喜は次の赴任先である仙台へと発った。毎日のように私は駅に向かう道を通る。汀女が歩き、私の父も、そして幼かった夫も歩いた道である。

二月二十七日
指にふとしかと鉛筆吾にも春
           『薔薇粧う』 春=春
 私の友人にもワープロやパソコンを使う人が増えてきている。読みにくい生原稿よりずっと効率がいいと笑う。でも、私は原稿用紙の升目を埋めていくのが好きである。
 父は万年筆一辺倒だった。それもシェファーとかウォーターマン、酔っ払うと人に物をあげたがった。とりわけ万年筆は好対象だった。次の朝けろりと忘れて探し廻っていた。
 父は子供の頃鉛筆をかじる癖があったと随筆にも書いている。父の持っている鉛筆はどれもかどがなかったそうだ。その頃の友人に久しぶりに逢った時「おいシロさん、まだ鉛筆かじっとるかや」中の一人が聞いた。

『日めくり汀女俳句』 邑書林

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草木塔 №27 [ことだま五七五]

山行水行 3

                           俳人 種田山頭火


 おもひでは汐みちてくるふるさとのわたし場

 しようしようとふる水をくむ

 一つもいで御飯にしよう

 ふと子のことを百舌鳥が啼く

 山のあなたへお日さま見おくり御飯にする

 昼もしづかな蠅が蠅たたきを知つてゐる

『草木塔』 青空文庫

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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №50 [ことだま五七五]

              読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆10月3日、10日放送分

                川柳家・コピーライター  水野タケシ
  
◆2018年10月3日放送分の内容です。 
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              きょうはイラストファクスがないと淋しがるあさひろさん
 
 「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)がキャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
http://fm839.com/program/p00000281
放送の音源は……https://youtu.be/zZAX4_cFxws
 
【ご報告】
9月29日土曜日、あいにくの雨だったのですが、相模原は新戸の豊国屋さんで、「初めての川柳句会」を行ってまいりました。参加者は16名。
ラジ川では、けんけん名人、てっちゃん名人、アンリ名人、それからキャサリンさん、重田愛子さん、ポテコさんたちが参加されました。
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https://youtu.be/zZAX4_cFxws

 (みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略)
165句の投句がありました!!たくさんのご投句ありがとうございます!!

【今週の一句】
・真っ直ぐな正義だけでは勝てません(昔のジョー)
・ヘクトとかパスカルだとかもう嫌だ(背番号6)
・ローカル線風を感じる秋の旅(やんちゃん)
・町田にも観光がてら行きたいな(ナナチワワ)
・大量の武器買わないとゲンコツだ(初投稿=大坪実千代)
・寝たふりしいくら給料もらうのか(名人・六文銭)
・困ったな親方ネタが作れない(あまでうす)
・決まり手は協会無理矢理押し倒し(龍龍龍)
・「記録的」被害何回聞くことか(はる)
・このままで終わることない貴乃花(名人・グランパ)
・台風に沖縄の声勝ちました(名人・入り江わに)
・芸能界色んな理由で辞める人(よっきゅん)
・夏物をしまってすぐに冬支度(名人・キジバト交通)
・ここ島田ラジ川を聞く孫と僕(名人・東海島田宿)
・持ち上げて押すのよ風呂の戸と夫(名人・荻笑)
・子供よりわんぱくだよね貴乃花(外科系)
・バンザイよりいいね勝利のカチャーシー(大名人・光ターン)
・何もかも小さきことよ秋を吸う(重田愛子)
・2日目でラーメン恋し欧州路(名人・酔とぉよ)
・沖縄の風が官邸直撃す(名人・秦野てっちゃん)
・誰に聞こ抱いた女の名が出ない(名人・どんぶらこ)
・部屋たたみ張り手一発参議院(名人・春爺)
・よく逃げた今年の漢字「逃」でしょう(小把瑠都)
・4000勝4000回のドラマ生み(名人・不美子)
・仮想より空想の如通貨消え(里山わらび)

☆あさひろさんのボツのツボ
「ラジオ万能川柳。今週は、貴乃花親方引退・台風・逃走犯・内閣改造まで幅広い句材が165句。その他、国連総会に遅刻しながらも「史上最高の成果を上げた」と一般討論演説を行ったトランプ大統領。会場からは失笑が起きたそう。そこで今週のボツのツボは、『国連にお笑い上手名を残し』里山わらびさん。」

・出さないと読まれんと言う大真理(爽抜天)
・大相撲15日では終わらない(キャサリン)

☆タケシのヒント
「こういう切り口の句はないことはないのですが、現在の大相撲の状況を上手く詠んでいます。『貴乃花』の名を詠み込まないところも巧みです」

・39未知の熱出て死ぬ思い(のりりん)
・ダイエット無理よアンタは私の子(名人・けんけん)
・あちらでも見せて下さい名女優(名人・アンリ)
・句会にはなぜかお酒の好きな人(ポテコ)
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・ヘイト売る炎上雑誌焼け落ちた(マルコ)
・真実はどこにおありか?あまでうす氏(かたつむり)
・ノーベル賞無名の人も時の人(クッピー)
・平成の幕引くアムロ貴乃花(司会者=さひろ)

◎今週の一句・大相撲15日では終わらない(キャサリン)
◯2席・台風に沖縄の声勝ちました(名人・入り江わに)
◯3席・4000勝4000回のドラマ生み(名人・不美子)
 
【お知らせ】
このラジオ万能川柳でもおなじみ、仲畑流万能川柳でも大活躍のグランパ名人がこの度、仲畑流万能川柳文庫21「夢の途中」を刊行しました。
グランパ名人おめでとうございます!!
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グランパ(宮原常寿)さんは1948年富山県魚津市生まれ。
2007年9月仲畑流万能川柳デビューで、月間大賞2回、月間賞3回を受賞された実力派です!!

「生まれ死ぬこの間しか愛せない」
「うちわ持ち強にしますと孫5歳」
「この先に何が待ってる子の寝顔」などの名作。
また、絵もお上手なグランパさんのイラストも満載!!
その他、宮本佳則殿堂と、スーパーヒットメーカー・麦そよぐさんの文章も必読です!!
ラジオ万能川柳では、来週の投稿分から抽選で1名様にグランパ名人の貴重なサイン入り句集をプレゼントします。
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これは本当に貴重な句集です!!どうぞ奮ってご応募くださいませ。
仲畑流万能川柳は21号まで刊行。
お問い合わせは万能川柳クラブ事務局(03・3212・2349)までどうぞ。
 
 【放送後記】
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台風24号の爪痕がまざまざと残る相模原の緑道。
今週真に似もまた台風25号が来るとか来ないとか。
皆様どうぞご安全にお過ごしください。
                           タケシ拝

◆10月10日放送分の内容です。 
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                       やっと秋めいてきた相模原
ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)がキャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
http://fm839.com/program/p00000281
放送の音源は……https://youtu.be/xtmOjFKbvvA
 
【質問】
ラジオ川柳で出した句で採用していただいた句は他の川柳コーナーに出してもいいのでしょうか?
仲畑流万能川柳などです。(採用されるかは別問題でしょうが)
あと私はだいたい金曜、土曜日あたりに投句しますが、早すぎますか?
ぜひ教えてください。よろしくお願いします。(ナナチワワ)
 https://youtu.be/xtmOjFKbvvA
 
 (みなさんの川柳) ◎が秀逸、敬称略)
171句の投句がありました!!たくさんのご投句ありがとうございます!!
・スマホだけ最新にしても追いつかず(初投稿、夕やけHOTパーソナリティ=曽我ゆり)
    (添削例)最新のスマホに私追いつけず
・秋晴れでコキ使われる洗濯機(ナナチワワ)
・貴乃花部屋になかった徳俵(名人・春爺)
・築地から銀座へ移動するねずみ(模名理座)
・目があって心に茶柱立ちました(重田愛子)

☆タケシのヒント!
「重田さん、意外にも初の秀逸です。おめでとうございます。大人の秘めた恋愛でしょうか。今週は鋭い風刺の句が多かったのですが、みずみずしい句に惹かれました。『心の茶柱』も好いフレーズですね。」

・AIに負けてたまるか人は勝つ(海辺のスーさん)
・人生をきれいに使いきって逝く(マルコ)
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・台風も次から次と忙しい(まりぽん)
・秋の朝ひじき煮ました届けます(名人・平谷妙子)
・災害は起こる季節を選ばない(恵庭弘)
・ラジ川のひねり王子になったるで(初投稿=辰五郎)
・ヘボチーム全員野球と言いたがり(司会者=あさひろ)
・政治家じゃマッチポンプの平和賞(名人・秦野てっちゃん)
・ポケットに秋があふれる散歩道(やんちゃん)
・運動会大人の怪我率高くなる(背番号6)
・平和賞ほっとしました違う人(名人・東海島田宿)
・不祥事で一番先に誰抜ける(名人・キャサリン)
・オプジーボ安くできたら平和賞(大名人・光ターン)
・崩れそな全員砂丘内閣だ(名人・グランパ)
・秋になりやっと活動始めた蚊(名人・荻笑)
・監督の辞任惜しんで追い風に(名人・アンリ)
・寂しいなああの親方に元がつき(あまでうす)
・この歳じや銀座は無理と雌ネズミ(爽抜天)
・昔なら体育の日って今日なのに(小把瑠都)
・ゴミ捨てを頼まなくてもやる夫(名人・入り江わに)
・最下位も全員野球なんですヨ(名人・六文銭)
・今ここに何しに来たか考える(のりりん)
・入院の友にコスモス写メ送り(名人・不美子)
・アルバムの罠にかかって片付かぬ(大名人・ユリコ)
・三連休何の祝日だったっけ(はる)
・ラジオから聞こえましたよ着信音(名人・酔とぉよ)
・欧州路奥州と聞く貧困さ(名人・フーマー)

☆あさひろさんのボツのツボ
「ラジオ万能川柳。改造内閣等の時事句材から松茸など秋の気配を感じさせる句材まで171の投句。「おーしゅう旅行」と聞いて欧州でなく、奥州を連想し想像力の貧困さを嘆いたフーマーさん。『川柳人みな赤貧と思うオレ』。女史は旅行の後はチェッカーズのライブですぞ!ご安心あれ。あさひろは赤貧です。」

・今どきはドローンで撮影運動会(かたつむり)
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・晩夏の様で初冬の様で(名人・けんけん)
・陸連の悩みのタネは報奨金(クッピー)
・解決もせずに騒いでいる築地(ひさしぶりっちーZ)

◎今週の一句・目があって心に茶柱立ちました(重田愛子)
◯2席・オプジーボ安くできたら平和賞(大名人・光ターン)
◯3席・崩れそな全員砂丘内閣だ(名人・グランパ)
 
【お知らせ】
このラジオ万能川柳でもおなじみ、仲畑流万能川柳でも大活躍のグランパ名人がこの度、
仲畑流万能川柳文庫21「夢の途中」を刊行しました。
グランパ名人おめでとうございます!!
今日はグランパさんのサイン入り句集を1名様にプレゼント!!
先ほど抽選した結果、ナナチワワさんに、決まりました!!
ナナチワワ さん、ご住所をお知らせください!!

 【放送後記】
本日は、ナナチワワデー!
毎日新聞に句が掲載され、ラジ川の質問コーナーに採用され、貴重なグランパさんの句集も当選!!
ナナチワワさん、ぜひ今日、宝くじをお買いください!!W
                            タケシ拝
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水野タケシ(みずの・たけし)
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1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
ブログ「水野タケシの超万能川柳!!」
http://ameblo.jp/takeshi-0719/


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雑記帳2018-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-10-15
◆「雑木林には神様がいる」!

所属する団体で、この春「暮らしの中の漢方」というテーマで学習会をしたところ、予想以上の反響で、人気が高かったことから、その続きとして、秋に、都立薬用植物園の見学を企画しました。講師は春にお願いした生薬協会の山上勉さんが務めてくださいました。

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園内には立派な温室もある。

急に気温のさがった9月26日、20人の参加です。

小平市にある薬用植物園は9,500坪。植物園としては規模は小さいほうです。
小石川植物園ははその5倍、調布の神代植物園は16倍もあります。
規模としては小さいけれど 栽培されている植物は1,600~1,700種もあり、種の数としては相当なものです。
漢方植物、山野草、雑木林のゾーンに別れ、雑木林は3分の1を占めます。

山上さんの説明を聞きながら園内を歩いて、ごく身近にある樹木や草が漢方の材料になることを学びました。そのうちの幾つかをご紹介しましょう。

先ず目についたのは桜の木。樹皮は桜皮と呼ばれせきとめに効きます。
次ぎに山上さんが是非と言って案内してくれたのがオタネニンジン(朝鮮ニンジン)のコーナーでした。
原産地は北朝鮮のペクトゥ山。
江戸時代、病気の親の薬代にと身を売った娘たちを詠んだ川柳があります。「大病に女衒のみゆる気の毒さ」
この高価な朝鮮ニンジンに関心をもったのが8代将軍徳川吉宗で、全国に忍びを送って調査させた記録が「野州日光見聞録」として、今も残っています。 
由来は吉宗自ら種をうえたことから、この名がつきました。
直射日光や風をきらう、連作ができない(土地がやせるので収穫後7年は作付けできないと言われます)など、栽培は難しく、今でも高価です。

薬用植物は様々な部位が生薬になり、部位によって呼び名も変わります。
たとえば、葛の根は葛根(カッコン)、葛の花は葛花(カッカ)のように。
すいかずらの花は金銀花、葉は忍冬と呼ばれます。
漢方薬の中でも最もよく利用されているマメ科の甘草は根が使われます。
リュウカクサン、カッコントウ、トンプクなど、ツムラの生薬127種のうち95種までカンゾウが使われているのだそうです。取り過ぎると低カリウム欠症になるので、トンプクなどの服用には時間をあけるなどの注意が必要です。
ちなみにノカンゾウ、ヤブカンゾウといった野草のカンゾウはユリ科で、全く別の種類です。

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根がこんがらがるので筒の中で栽培されています。

秋の七草のうち、はぎ、オミナエシ、フジバカマ、キキョウ、クズの5種は生薬になります。例えばキキョウ湯はのどの痛みに効きます。

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クズ(風邪や胃腸炎に)
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ハギ(根はめまい、のぼせに効く)
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オミナエシ(解熱、解毒作用があるといわれる)
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フジバカマ(利尿作用がある)
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トウガン(薬用部位は種。利尿、消炎、排膿など)
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ヘビのような形をしたヘビウリ(かっては実のエキスをしもやけ等に使った。食べられます)

この植物園で一押しはケシ・アサ栽培区でしょうか。
ケシはモルヒネなどのアヘンアルカロイドを含み、鎮痛、鎮咳薬等の製造原料となります。
アヘン法により栽培は禁止されているため、数か所の防犯カメラに二重の囲いという厳重な警戒ぶりです。
10月に播種し、5月開花のケシ畑は、ゴールデンウィークには2,000人以上の来場者で賑わうそうです。
ケシを栽培しているのは全国に、ここと、四国の牧野記念植物園のみです。

ケシ畑.jpg
厳重な金網の向こうにケシ・アサ試験区

新薬は単一成分なので合成できるため、新しいものがでるとどんどんとって代わられます。一方、多成分系の生薬は合成ではできないため、寿命は長く、葛根湯は1500年も飲まれています。

薬用部位が根の場合は摘芯、摘花を行って、花を咲かせないようにします。
植物は花だけがすべてではないのです。終わってもすてきなものはたくさんあります。たとえば、シモバシラ。秋の花がおわって、枯れた茎に冬、氷の結晶がついて美しい霜柱になります。花がすべてではないのは人も同じですね。

シモバシラ.jpg
山野草コーナーに咲き残っていたシモバシラの花

最後に、「神様に会いに行きましょう」と、案内されたのはクヌギとコナラの雑木林です。
キンラン、ギンランなどの希少種も見られる林の中で、山上さんはある年、カタクリの群生する場所が変わっているのにきづきました。
だれの仕業か。・・・蟻です。
かたくりにはわずかだがエライオソウムという甘い物質があり、それを蟻が好む。→エライオソウムはわずかなので、種が残る。→蟻はそれを自分の巣から別の所に運ぶ というわけです。
このことは、実は、同じ場所に長い間同じものを育てると土地がやせてしまう、連作障害を防いでいるのです。
「ゴミになった種を巣からはこびだすのって、蟻の本能じゃないですか。」
「そう言ってはあまりにも夢がない。蟻を使って連作障害を避ける自然の摂理を作ったのは神様しかできないではありませんか。私は毎日神様に会いにここに来ているのです。」素敵な山上さんの言葉でした。


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薬用植物園の雑木林

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私の中の一期一会 №176 [雑木林の四季]

          阪神17年ぶりの最下位。「超変革」は道半ばで振り出しに戻る?
~金本監督は「巨人は3位でも辞任、僕は最下位ですから」と成績不振の責任をとった~

               アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 阪神タイガースの金本知憲監督が11日、「今季限りで辞任する」と正式発表したのを知って落胆した人が多かったのではないだろうか。
 前日までは、「来季も金本続投」という球団方針に変わりはないとされていたから、私はこの「突然の辞任劇」に驚き、「何かあるのではないか」という違和感を覚えた。
 金本監督の辞任会見は、実に質素なものだったというサンケイスポーツの記事を読むと、球団職員の慌てぶりが見えてくる。
 球団事務所内のプレスルームは約50人の記者がごった返したが、ひな壇もマイクも用意されてなかった。
 金本監督は立ったままの対応になった。辞任会見というより、ペン記者による囲み取材みたいだった。
 テレビカメラは1台もないから、テレビ会見もない。写真撮影もNGだったらしい。所要時間もたった10分前後で終了している。
 最高指揮官の辞任会見だというのに、揚塩球団社長はこの場にいなかった。
 社長としては無責任ではないのか、何よりも退任する金本監督に失礼だろう・・
 「今年はイケる!」という思いでスタートした筈の金本阪神は、極度の打撃不振が禍いして17年振りのリーグ最下位に終わった。
 ホームラン30本を打てる右の4番打者として期待されたウイリン・ロサリオは全く機能しなかった。2軍暮らしが多く「最大の誤算はロサリオだった」と言っても過言ではないだろう。
 積極的に起用してきた若手達が予想外に伸び悩んだのも大きく響いた。
 昨季ホームラン20本の中谷将大(25)、2年目のドラフト1位大山悠輔(23)、一昨年のドラフト1位で新人王の高山俊(25)らが、チャンスで凡退を繰り返した。
 投手陣の柱になるべき藤浪晋太郎(24)が、2年越しの絶不調に苦しんだのも監督の足を引っ張った。
 成長しつつあった北条史也(24)は、これから追い込みというとき、大きな怪我をして戦列を離れた。
 今季全試合に出場して結果を残したのは、2年目の糸原健斗(26)唯一人だった。 
 球団事務所で会見に臨んだ金本監督は、辞任の理由を「成績不振です。やり残したことは多々ありますけど結果の世界ですから。何より最下位ですから、そこですよ」と語った。口調はキッパリだったそうだ。
 低迷するチームの再建を託されて、「10年かかるところを5年以内でというのが、僕の中でのぶれない目標でした」と語る金本監督だったが2年を残して、“チーム再建道半ば”で身を引くことになった。
 選手の怪我や伸び悩みがあり「選手一人を育てるのがこれほど大変とは・・でも若手が伸び悩んでいるのは我々の責任ですから」とも語っている。最下位の責任を一身に背負っての辞任ということになる。
 チーム状態がなかな良くならず、風当たりが強くなる中で、10月4日に巨人の高橋監督の辞任が発表されたのも、無視できない事態だった。
 「巨人は3位でも辞任。僕は最下位ですから・・」と苦笑交じりに言ったのは、最下位では“続投は許される訳がない”という覚悟が胸中に芽生えていたとも考えられる。
 8日のヤクルト戦(神宮)に敗れて最下位が確定した時、金本監督には「ちょっとヤバイな」という変化もあったっようだ。
 10日は甲子園での最終戦。ベイスターズに勝利した後、金本監督は、ファンにお詫びと謝罪のスピーチをしたが、このスピーチは「辞める、辞めないの深い意味はなかった。本当に謝罪メインの挨拶だった」ことを会見で明かしている。
  シーズンの終盤は、心無い批判にも晒されたが「いろいろな雑音の中でやっていくのがタイガース監督の宿命だから、もとより覚悟の上だった。特に気にならなかった」と話している。
 シーズン最終戦の前に、“ファンには辞任の意向を伝えておこう”という思いはあったのか?と聞かれて、「それもなかったですね。甲子園で勝たないといけないから、そこまで頭が回らなかった」と答えている。
 取材したデイリースポーツの記者も、金本監督の人柄を考えると、本当に辞任の気持ちを固めていたとすれば、スピーチの中に“別れの言葉”を込めた筈だと書いている。
 迷いはいくつかあっただろうが、10日の試合終了時点では「辞めようと思っていなかった」と推察しても間違っていないと私は思う。
 デイリースポーツによれば、事態が急転したのはそのスピーチの後からだった。
 試合後、クラブハウスで揚塩球団社長ら複数の球団関係者が金本監督の元に向かうのを記者が目撃していた。
 それから数時間後の深夜、金本監督が「辞めることになってしまった」とコーチ陣に電話を掛けまくっていたことが分かった。
 「金本監督退任は、表面上は辞任を装ったが、「事実上の解任である」という記事を書いたのは、スポニチ大坂本社の編集委員である。
 甲子園での最終戦の後、揚塩健治球団社長が金本監督を呼んで“辞任を迫った”のが真相だという。
 それまで監督本人の意欲は勿論、谷本修球団本部長も“続投前提で来季の組閣作業”を進めていたから相当驚いたに違いない。
 最下位が見えた今月初め頃、甲子園のスタンドから「金本やめろ!」などのヤジが飛び交い、SNSにも批判が溢れた。
 その頃、電鉄本社では「金本解任」に舵を切り、密かに揚塩社長に伝えられていたとみられる。
 「本社のご意向?・・」、ナルホドそういうことかと私は思った。 
 辞任会見と同じ日、坂井信也オーナーが、電鉄本社で会見、「今季限りでオーナー職を交代する意向だ」と語った。
 金本監督の辞任について「私にも責任がある。辛い思いをさせてしまった。監督を支えられず申し訳ない」と話し、監督と面談の上“謝罪”と“申し訳ないという思い”を伝えたいと語っている。
 2015年に監督を招聘してチームの抜本的改革を託したのは酒井オーナーだ。3年契約の道半ばで去らなければならない金本監督は、さぞ無念であったろう。
 私は金本監督の退任を“非情に残念だ”と思う一人である。“怒り”さえ湧いてくる。
 球団内には、「最下位とはいえ、三顧の礼で迎え入れた金本監督を3年であっさり切ってしまっていいのか」という声があるそうだ。
 また「これではお家騒動ばかりだった暗黒時代と同じじゃないか」と嘆く声もあって、チーム内に波紋が広がっているようだ。
 ほんとうは“球団一丸”とならなければいけないのに、このザマではチームの“ぬるま湯体質の払拭”など実現できる訳がない。また振り出しに戻ることになるのが一番問題だと私は思ている。
 13日、ナゴヤドームで最後の指揮をとった金本監督は「阪神は、常に勝ことを要求されるチームだが、そこを思い切って“なるべく補強を避けて若い選手で造っていく方針”だった。その意味では道半ばだ。
 若手には苦しい練習を課してきた。
 しんどい練習を与えたのにみんなついてきてくれた。これは自信にして欲しい。
 失敗しないと覚えないものでもあるから、どんどん失敗してオッケーだ。
 チャレンジ精神で、前のめりになって失敗して欲しい。
 目を掛けてきた選手が来季以降芽を出し、花を咲かせてくれないと僕まで悲しくなる。
 この1年は勝てなかったので一番しんどかったかも知れない」
 最後の指揮をとった金本監督は、子を思う親のような笑みを浮かべてユニフォームを脱いだ」と新聞が伝えている。
 来年、再来年は“しんどくなくなって”、楽しいかも知れないの、解任するなんて・・
 阪神タイガースは”大きな誤りを犯した”。いま私はそう思っている。
 

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浜田山通信 №228 [雑木林の四季]

ハーフ・ブリード萬歳

                         ジャーナリスト  野村勝美

 最近私にとって最高に愉快だったニュースは沖縄県知事選での玉城デニー氏の当選、それもこれまでで最高得票の394,768票。自民、公明、維新、希望推薦の佐喜真淳氏に8万票の大差をつけた。私もTVの前で陣営といっしょにカチャーシーを踊りたい気分だった。即日開票の夜は日本海を台風24号が北上中で、NHKは台風情報を流しっ放し、翌日の新聞もTVも扱いは比較的に小さかった。辺野古埋め立て反対派が翁長雄志知事と続けて2代選挙に勝ったということは安倍政権にとっても辺野古の埋め立て移転を強行はできないということだ。本土の日本人ヤマトンチュも沖縄県民と同じ行動、意志表示をしなければ民主主義が成り立たない。
 私が何より嬉しかったのは玉城デニー新知事が元米海兵隊員とウチナンチュとの間にできたハーフであること。父親はデニーが三歳のときアメリカに帰国し、母親は働きに出るため伯母に育てられたらしい。この生いたちは一冊の本になりうるもので、まさに戦後の日本、アメリカ、沖縄の象徴的人間像といっていい。私はこの「ハーフ・ブリード」に興味を持っている。身内にもいるし、友人にもいる。混血の人たちが、国境や民族の壁を打破っていくに違いないし、アメリカもまもなく白人より黒人、ヒスパニック、黄色人種が多数派になる。ヨーロッパもいくら排外運動が拡がろうと難民はどんどん増え、血が混ざり合う。人間の長い歴史が、闘争と混血の歴史だったし、そのスピードが21世紀に一層加速されるはずだ。
 大坂なおみを嫌いな日本人はいないだろう。彼女はハイチ人の父親と日本人の母親との間に生まれた。黒人の血が強いのかハーフは黒くなるが、あののびやかな肢体とかわいい表情は私たちをとりこにする。もともとカリブ海一帯がコロンブス以来の典型的なハーフ・ブリード地帯だから、大阪なおみの父親の先祖をたどるとどれほどの血が混ざり合っていることか。日本人は極東の島国で有史以来混血は遅れたが、大和民族といってもこの島国に偶然発生したわけではなく、北方民族と中国、朝鮮半島からと南方からの海洋民族の混血で成立、せいぜい千年しか経っていない。
 前の戦争で中国大陸、インドネシア、フィリピン、南方の島々の女性にどれほどの悪事を軍人たちが働いたかを考えるといちがいには言えない。中南米の混血も同様だが、結果として生まれたクレオール語や文化にはハーフ・ブリードのたくましさ、すごさがある。「サンデー毎日」10月21日号に作詞家なかにし礼さんがフランス人作家と結婚したお嬢さんんの7歳の孫娘のことを嬉しそうに書いている。80歳のじいじの誕生日祝いをくれたが「それがなんと四カ国語である。日本語=パピーおたんじょう日おめでとう、かぜひかないようにね、大すきよ。」以下英語、フランス語、中国語が横文字で書かれている。中国語は学校に友だちがいるからだそうだ。かりに両親が不仲になってもこの子はたくましく生きていくにちがいない。

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徒然なるままに №42 [雑木林の四季]

「ふるさとは」・・・

                            エッセイスト      横山貞利

  ふるさとは遠くにありて思うもの
  そして 悲しくうたうもの・・・
             と詠ったのは室生犀星である。

 この一年ばかり前から床に就いて何となく「ふるさと」についてあれこれ想い出しているうちに眠りについていることが多くなった。わたしが「ふるさと」を離れたのは1955年頃だから60余年も前のことになる。
 わたしの「ふるさと」は信州・松本である。松本城(古い地名から深志城=フカシジョウともいう)の5階に登って北から北西にかけて目で追っていくと、城から1㎞くらい離れたあたりが低い丘陵になっていて、その丘陵の西はずれは途切れて崖になっているのに気がつくに違いない。崖になっているコブのような小高い山は「城山(じょうやま)」といって市民の憩いの場であり、小学校1年生の遠足の場所でもあった。「城山」から北に伸びる小高い稜線は西側が急な崖になっていて雑木や雑草が密集している。この崖の下をJR篠ノ井線と国道19号が通っていて、その先は安曇野から北アルプスに繋がった眺望を楽しむことができる。わが家から城山の上までは600mくらいで、そこから北に向かって尾根伝いに県の畜産研究場まで登って行くと散歩を楽しむ恰好のコースである。中学・高校時代にはよくこのコースの散歩に出かけて浩然の気を養ったように思う。
 
  ところで、松本城のほぼ真北の低い丘陵の頂きにゴシック調の建物がある。この瀟洒な建物がわたしの母校・長野県松本深志高等学校(旧制 長野県松本中等学校)である。この校舎は1932年(昭和7)~1935年(昭和10)までに完成した校舎で現在まで多くの生徒を送り出してきた学び舎である。それまでの校舎は松本城の二の丸にあったが、この新しい校舎で多くの学友が青春を謳歌したことだろう。2003年(平成15)にこの校舎は国の登録有形文化財に指定されたということである。わが家は学校から300mくらい下ったところにあったから、わたしが生まれてもの心ついとき、そこに松本中学(戦後の制度では松本深志高校)があったのである。将に、わたしの人生がスタートした場である。多分、毎日朝晩予鈴などを聞き“チュウガク”と向き合っていなかったら、わたしの人生は全く別の経過を辿っていたに違いないと思う。「孟母三遷」とい言葉があるが、わたしの場合は「そこに中学があったから」と言ってもいいだろう。何しろこの中学は明治9年に有志が集まって組合立中学として創立されたのである。しかし、そんなことは実際に入学した後で知ったことである。それにしても子どものころ独りで中学の校舎や校庭のポプラの木で遊んだ。体育館は2館あって東側の体育館は武道館らしく剣道(板張り)、柔道(畳敷き)に分かれていた。
 あの頃は楽しかった。しかし、1944年(昭和19)国民学校(いまの小学校)に入学すると全てが変わってしまった。戦後、深志高校の「とんぼ祭」(文化祭のこと、校章が蜻蛉―トンボだから)の時に講堂で演じられた演劇が楽しかった。「にんじん」(ルナールの小説を脚色)、「群盗」(シラー)などを観たのを覚えている。

 ふるさと松本を離れて60余年が過ぎた。すっかり大都会の“根無し草”になってしまった。偶に信州・松本に帰っても友人の家に泊めてもらうかホテルで過ごすことになる。菩提寺の前住職は4歳上の遊び仲間であり小学校から高校までの先輩である。もう一人4歳上で旧制松本高校の植物学教授の三男坊とも仲良しだった。この三男坊はワセダを出た建築士である。
 それにしても、子どもの頃から仲間を作って遊ぶということは殆どなく独りであちこち歩き廻っていた。そうすることで何時も発見があったように気がする。こういう姿勢がいつの間にかわたしの行動スタイルになったのだろう。だから社会人になってからも変わらなかったように思う。ただ、小中学校時代何かというとクラスの代表にされちゃうのには参った。いま考えると「何か変だ」と思うと「一寸待って・・・」と口にしてしまうのだから仕方ないのかもしれない。こんな我儘でもなんとか生きられたことを感謝しなければいけないのだろう。特にカミさんには・・・。

    伊東静雄  詠 唱 

   秋のほの明い一隅に私はすぎなく
   なった
   充溢であった日のやうに
   私の中に 私の憩ひに
   鮮(あたら)しい陰影になって
   朝顔は咲くことは出来なく
   なった


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BS-TBS番組情報 №172 [雑木林の四季]

BS-TBS 2018年10月のおすすめ番組

                          BS-TBS広報宣伝部

U-23野球ワールドカップ2018

172u23野球ワールドカップ.jpg

10月26日(金)午後9:00~10:54 「スーパーラウンド第1戦」 (録画)
10月27日(土)午後2:00~4:54 「スーパーラウンド第2戦」 (録画)
10月28日(日)午後2:00~4:54 「スーパーラウンド第3戦」 (録画)
10月29日(月)午前9:00~11:55(予定) 「決勝または3位決定戦」(3位決定戦の場合は録画放送)
※日本が進出しなかった場合は放送なし

☆プロ野球界の将来を担う若手が集結!世界一連覇に挑む!

前回が初大会となった「WBSC U-23野球ワールドカップ」。
日本代表は、記念すべき初代王者に輝き、日本野球の層の厚さを世界に見せつけた。
第2回目となる今大会はNPB若手選手による代表チームで連覇に挑む!
代表選手は、23歳以下の選手から24選手を選出。
プロ野球界屈指の若手選手たちが集い、再び世界の頂に上り詰めることが出来るのか!

ゴルラボ.TV

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毎週(木)よる11:00~11:30

☆ゴルファーの「疑問」や「知りたい!」を解明!

出演:浦大輔、菊池編集長(月刊ゴルフダイジェスト)

「月刊ゴルフダイジェスト」菊地編集長と、ルートDのヘッドコーチ浦大輔氏とがタッグを組み、ゴルフに関するあらゆる謎や様々な疑問に徹底解明します。

■10月18日放送
今回は「4大シャフトの違いを徹底解明!」。
最新鋭の機器「トラックマン」を使用し検証する。大人気のシャフトの違いが明らかに!

■10月25日放送
今回の内容は、「ボールに傷がついている場合、ティショットの置き方でどのくらい飛距離と弾道が違うのか?」。
最新鋭の機器「トラックマン」と「ショットロボ」を使用し、その違いを徹底的解明する!
さらに、飛ばしの女王!林佳世子さんが朝一のティショットをうまくするための最適なストレッチを伝授します。

関口宏の人生の詩II

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毎週(土)ひる0:00~0:54

☆ゲストが関口宏にその人生を語るトーク番組!

彼らの人生の道標となった灯は何だったのか?
どんな人や物との出会いがあったのか?
人生の苦難を乗り越えた一流人をゲストに迎え、素晴らしき明日の人生の応援歌として、人生の道標を聞くトーク番組。日本を代表する方々をゲストに迎え、その方の半生を紐解いていきます。

■10月20日放送
ゲスト:小林亜星

■10月27日放送
ゲスト:藤城清治(影絵作家)


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バルタンの呟き №43 [雑木林の四季]

            「この道は いつか来た道」

                             映画監督  飯島敏弘

 「喉もと過ぎれば熱さも忘れる」とか。 この夏の、命にかかわる、とまで言われた暑さも、このところの涼しさで、世間からあっけなく忘れ去られてしまったような気がするのは、バルタンの僻目(ひがめ)僻目でしょうか!
日替わりどころか、朝夕で温度差が二けたも違う事もあったこの夏の狂乱気象は、人生100年時代といわれてもさほど遠く感じられない高齢?に達した僕としては、相当骨身に堪(こた)堪えましたから、そうそう簡単には忘れられそうもありませんが。でも、どうでしょう。最近の世の中の風潮を見ていると、そんな事にはお構いもなく、暑さだけではなく、諸事万端、喉元どころか、まだ口の中にあるうちに、ころころ忘れさせてしまうような、何かの力が働いているように思えるのですが、これもやはり、僻目でしょうか。
 念のために申し上げますが、呟いている僕バルタン星人としては、決して、世間がとっくに忘れた森(も)森友(り)友加計(かけ)加計の話や、伏魔殿に迷い込んだジャンヌダルク知事が、傷だらけになって、17年ぶりに漸く開場に漕ぎつけた豊洲市場の有害物質、歴史を終えた築地市場が果たして食のエンターテイメントゾーンになれるのかどうか、そのほかのあれこれについて呟きたいわけではありません。いまの日本は、過ぎたことは、たちまち忘れてしまい、何という事もなくなってしまう至極便利なご時世なのですから。

 さて、問題は、過去ではなく未来です。せっかく知の木々の舎に巣篭らせていただいているバルタン老人として、地球が、いや、地球などと大きく構えなくとも、少なくとも、僕がもうしばらく寄留しようと思っているこの日本が、いままさに箸でつまんで口に入れようとしている近未来について、この時点でぜひ、これだけは呟いておかなければいけない義務があると思うのです。なぜならば、僕の眼にはどうしても、表面的にはまったく平穏に見える日本がいま、僕たちが経験させられたあの時代、あの、非情悲惨な大戦へとつながった、思うだにばかばかしい昭和の辿った同じ道を、戰爭を知らずに過ごした平成最後の今、まるでその轍を踏むように、再び歩き始めているように見えて仕方がないのです。

 この歳になる僕でさえ、米軍の巨大爆撃機B29機の無差別焼殺爆撃には、数回、死の縁を追い回された経験はあるものの、この日本に現存する大多数の人々が、戰爭を経験したことのない人たちになってしまいました。善良な人間が、悪鬼に変身して、残酷に相手の命を奪い合うむごたらしい戦場に実際に身を曝した経験がない、戰爭をまるで知らない世代の政治家が、「この道しかありません」と突き進んで行くこの道とは、何処に続いている道なのか・・・しかも、昭和の道筋は、あやまった道筋であったとはいえ、日本が主体的に選んで進んだ道です。しかし、いま日本の指導者と自認している政治家が「この道しかありません!」と進もうとしている道の先で旗を振っているのは、自国の利益だけを確保しようとするアメリカではありませんか。たとえ、戦勝国アメリカが主体となって立案して与えられた憲法であっても、永久に戦争を放棄する、と謳う憲法第9条を、70年以上もの間守り続けてきた平和日本を、何処に連れて行こうというのでしょうか。中国、北朝鮮、ロシア、果ては、現在では隣接の友邦である韓国までを脅威と決めつけて国難とするのではなく、昭和の時代、誤った政策で侵攻、掠奪した周辺諸国との和解と共存を、薄く鋭い剃刀の刃を渡る努力で計ってきた先人たちの努力を踏みにじらずに、さらなる贖罪と援助の努力を惜しむことなく尽くして、友邦として、それら近隣諸国との共存共栄を図る道こそが、「これしかない」道なのではないでしょうか。
 空論と決めつける前に、第二次世界大戦後のドイツの歩んだ道を見れば、おのずからその解は得られるはずです。
謝罪をせず、曖昧な贖罪と賠償の猶予として、すでに莫大な支払いをしてきたにも関わらず、ほとんど明快な関係を取りもどし得なかった自らの過ちを顧みずに、もはや世界の最強国ではないアメリカに追随する道が、決して僕たちの日本の「これしかない」道ではないと、僕は思うのです。
 反戦運動が、戰爭を止めた実績はない、と主張する方々がいます。その通りです。戦争が始まってから反戦運動をしても、戰爭を止めることは出来ないでしょう。戦争が始まる前に、その道を辿るのが誤りである事に気づき、その歩みを押し留めて、立ち止まって、冷静に、みんなで納得できるまで論議を尽くすのが、戰爭を止めることの出来る本当の反戦運動なのではありませんか。
 いまの日本では、与党、野党を問わず、政党政治が混乱、頓挫しています。議会政治が、ほとんど無視されています。長い間に、平和が当たり前と考えているうちに、国民が気づかないうちに、大変危険な状況に陥っているのです。
政党や政治家が混乱を極め、明治維新以来長い間をかけて折角手にした国民による普通選挙と議会制を、富国強兵政策で伸張した軍の力を盲信して政治に関与した軍人に総理の場まで奪われ、大政翼賛、挙国一致、国民総動員の名の下に、全ての言論も統一されて、一挙に、不見識、無策無謀な戦争に突き進んでいって、国土の主要都市の大部分が焦土となり、300万の人命が失われた戦争の昭和と、おなじ道筋を歩き始めているのです。神格化した天皇陛下を捧げ持つかわりに、国民の皆さんの圧倒的な支持によって、という大義の旗をかかげる指導者に導かれて。
 もちろん、指導者は、最強の軍事力と核の傘を差しかけている同盟国アメリカに追随するこの道こそが、強力な武力と軍隊を持たないこの国が、近隣諸国の脅威と拮抗するただひとつの道、と信じているのでしょう。でも、アメリカが、果たして、日本を、対等な同盟国と考えているかどうかは、はなはだ疑問です。特に自国第一主義をモットーにするトランプ政権が、そんな甘い事を考えている筈がありません。抬頭激しい中国、自国攻撃能力をも具える核保有国に至った北朝鮮、そしてロシアの脅威を、立地的にも絶対に有利であり、安価な代償で済む日本に自国の軍事基地を置いて盾にしようと考えているに過ぎない、と断定するのは、乱暴でしょうか・・・いえ、きっと皆さんも、内心ではそう考えていらっしゃるのではないでしょうか。でも、そんなことを言っても、国民の皆さんがその政権を支持しているのだから・・・と。

バルタンは、小さくとも、呟き続けます。何故なら、生き残った戦争経験者が、どんどん少なくなって行くうちに、昭和の戦争がどんなに恐ろしかったか、忘れられてしまうからです。
 でも、再び戦争が起こる時、そこには、人間の兵士が存在しないかも知れません。AIとマシーンの戦場、そこには、生身の人間の感情などは存在しないかもしれません。非情などという言葉では表すことの出来ない残酷が、これからの戦争なのです・・・

 旧来の閣僚に、新しい顔ぶれを補足した内閣が動き始めました。さっそく、新文部科学大臣が、「ある面では、教育勅語の一部分を学校教育の現場で用いるのは至当かも・・」みたいな当該担務大臣の資質が疑われることを口にして、指摘されてからもなお心底から誤りと認める風情が窺われないまま、ずるずると執務についています。
 僕たち昭和世代の国民学校(小学校)では、その教育勅語で、皇国の少国民という名の戦士に育て上げられ、ほとんど飢餓状態のやせ細った身体で腰だめに支えた重い銃剣を、身体ごとアメリカ兵に突き通す訓練を繰り返していたのです。
この夏の暑さを忘れ、台風、地震の災害を忘れ、確実に人類の破滅につながる戦争を他人事として忘れることは、貴方の存在が忘れられることなのでは・・・
声は小さくとも、バルタンは呟き続けます。聞こえますか・・・?


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医史跡を巡る旅 №46 [雑木林の四季]

「林太郎残照」~明治村の森鴎外・夏目漱石住宅

                     保健衛生監視員  小川 優

愛知県犬山市にある明治村は、広大な敷地に、各地から歴史的建造物が移設されており、見応えがあります。今回はその建築物の中から、森林太郎にかかわりのある家をご紹介します。

「森鴎外・夏目漱石住宅遠景」

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「森鴎外・夏目漱石住宅遠景」 ~愛知県犬山市字内山

一見ありふれた民家ですが、この家のすごいところは、文豪が二人も住んでいたということです。明治23年から1年間は森林太郎が住み、その後明治36年から3年間、夏目漱石が借りて住みました。

「森鴎外・夏目漱石住宅玄関」

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「森鴎外・夏目漱石住宅玄関」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

建物としては、当時の中流以上の平均的な住宅ですが、女中部屋があり、自宅に使用人がいることが前提の造りになっています。明治20年ごろに医師中島襄吉の新居として建てられながら、空き家であったものを明治23年、林太郎が借りて住みます。

「森鴎外・夏目漱石住宅座敷」

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「森鴎外・夏目漱石住宅座敷」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

この住宅に住んだ頃、林太郎28歳は公私ともに人生の岐路に立たされていました。明治21年、ドイツ留学から帰国しますが、ほどなく現地で懇意にしていたエリーゼ・ヴィーゲルトが、彼の後を追って来日。なんとか説得し本国にお帰りいただいたところで、あわただしく海軍中将赤松則良の娘、登志子と結婚。下谷区上野花園町に、赤松家に用意してもらって新居を構えます。

「森鴎外居住之跡」碑

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「森鴎外居住之跡」碑 ~東京都台東区池之端三丁目

結婚の翌年、明治23年には長男於莬(おと)も生まれ、エリーゼ事件の清算とも言える「舞姫」を発表して本格的に文壇活動を始めた矢先、登志子と離婚します。
離婚の理由は、鴎外研究家の興味の的となっていますが、今となってははっきりしません。ただ現実として、妻の実家に用意してもらった家に、妻が出て行った後も居座ることはできず、幼子を連れて林太郎は転居を余儀なくされます。
こうして移り住んだのが、本郷駒込千駄木にあったこの家です。

「森鴎外・夏目漱石住宅広縁」

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「森鴎外・夏目漱石住宅広縁」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

この家で林太郎、否鴎外は「しがらみ草子」を編集刊行、「文づかひ」を著述、発表し、文筆活動に傾斜していきます。また林太郎としては明治24年に医学博士号を授与されます。
そして明治25年、同じ千駄木の高台に新居を建て、父母を呼んで同居します。

「観潮楼跡(森鴎外住居跡)」

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「観潮楼跡(森鴎外住居跡)」 ~東京都文京区千駄木

明治26年には、前回ご紹介した通り軍医学校長に就任。翌27年には日清戦争が勃発し、出征します。
こうした私生活、軍医、そして文筆活動ともに多忙で、激動の時期に一時的にせよ住まっていたのが森鴎外・夏目漱石住宅になります。

「森鴎外・夏目漱石住宅書斎縁側」

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「森鴎外・夏目漱石住宅書斎縁側」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

ちなみに夏目漱石はこの家で「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」、「草枕」といった名作を執筆しています。「吾輩は猫である」に描写されている家の特徴とよく似ており、縁側に佇むと今にものそりと、「吾輩」が寄ってくるような気がします。



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いつか空が晴れる №45 [雑木林の四季]

     いつか空が晴れる
            -住大夫の文楽ー

                        澁澤京子

 「最初、東京に出てきて驚いたのは、かっこいいだけでおもろくもなんともない男の人がもてるところ・・大阪やったら絶対もてへんで、と思ったの。」
阪神のお嬢さん学校を出た女性で、おっとりした感じの友達がこんなことを言っていた。
かっこつけたり、気取ったりする人間は「ええかっこし」なんであって、関西ではおもろくない人間と思われるらしい・・

うーん・・。私の知っている東京の人間に気取る人っていうのがほとんどいないのはみんな親しいせいか・・(基本的にはシャイである・誰に対しても人当りがソフト・肩肘はらない・ゆるやか・それでいて打ち解けるまで時間がかかる・率直である・個人主義・他人と微妙な距離をとる・権威主義が嫌い、等々・・)といった特徴を持った付き合いやすい人が多いような気がするけど、一見、人当りがよくて社交的なようで割とシャイな人間が多いので、関西人から見ると、冷たく気取っているように見えるのかもしれない。
東京の人間は、確かにインパクトにはかけるが、よく見るとお洒落みたいなノリで、なにげに「ええかっこ」しているのかもしれない。
「いかにも」という感じの仰々しいもの、「どうだ」とばかりに構えたりするものを嫌い、その代り、ユーモアと軽さではぐらかそうとするところが、関西人から見ると半端な気取りと「ええかっこし」に見えるのかもしれない。

自分の中の「ええかっこし」について考えてみる。こうやって文章書いていても「ええかっこし」がいつの間にかやってきて、何気にかっこつけようとしているんじゃないか?もっと自分を壊さなあかんね・・

昔、妹と母と、今は故人となった竹本住大夫の文楽を聴きに行ったことがあった。鼻水、涙も流しっぱなしで義太夫を語る住大夫には、義太夫にはまったく素人、字幕見ないと何を言っているのかよく分からない・・の私も圧倒されて釘点けになった。思わず涙が出てきたことがあった(演目が何だったのかはさっぱり忘れた)
―成っても成らんでも、一生かけるから修行です
―自分がええかっこしていては、絶対に人の心は動かせません―住大夫

人が何かに命がけで取り組むときはいいかっこなんてできないものなあ・・
どんな人でも苦しい時期とか、カッコつける余裕もなく無我夢中で生きる時がある。

どうにもこうにも切羽詰まった時期があって、禅堂に駆け込んだときがあった。警策でたたかれて、涙も鼻水もたらしっぱなしで無我夢中で坐ってた私。

名人と呼ばれる人は、いつもああいう崖っぷちのようなぎりぎりの状況でお稽古してるんだろうか、と、自分の中の「ええかっこし」を反省するのである。


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梟翁夜話(きょうおうやわ) №25 [雑木林の四季]

「飴の話」

                          翻訳家  島村泰治

白髭を蓄え作務衣などを着込み、転ばぬ先と口実を構えて杖を使い、私は常日頃老けムードを漂わせている。傘寿を三歳越えていればそれもよかろう、と周囲も見て見ぬ振りをしている。じつは髭は照れ隠し、作務衣は襤褸(ぼろ)隠しの設えなのだが、それと気づくお人はいるようでいない。その私が、こと甘味になると俄然幼子の心境に立ち返る。飴などそのいい例だ。

学校に未だ上がらぬ頃、育った蒲田の南六郷の辺りは町工場や細工職人の店を挟んで住まいが連なっていた。出雲国民学校への途中、どぶ川のほとりに子供相手の駄菓子屋があった。子供の目にも小ぶりのその駄菓子屋は、なけなしの小遣いを「散財」する場だったが、子供たちにはメッカだった。蝉採りのモチもメンコもベーゴマも、みな其処で買った。そんななかに鉄砲玉があった。

そう聞いて微笑まれる方は、どうやら私と似たり寄ったりの歳のはずだ。鉄砲玉とは真っ黒なビー玉に似た黒糖の飴で、子供の口には持て余すほど大きかった。味は濃厚でしっかり甘く、ビー玉だから堅い。その気ならば一個で一時間は保つという頼もしい飴だった。

私はこの鉄砲玉が大好物で、すぐに咬みたくなるキャラメルなどよりはあの頑固さが気にいっていた。いくらだったかとんと忘れたが、しがない小遣いで賄えたのだからほどほどだったろう。鉄砲玉を口に放り込んで転がしながら、味とは別に玉が歯にぶつかって立てる音を味わったものだ。前歯と奥歯で立てる音に高低があり、玉が減りながら別な感じの音に変わってゆく様が面白いと思ったものだ。

昨今、メタボがどうしたとかで私は甘みを制限されている。塩分もというから、何のことはない「甘いも辛いも」ままならぬ境地に追い込まれている。縷々話しを聞けば、健康のためというから敢えて抗う気持はない。ないが、虎屋や舟和を切られた上に飴風情も禁制とは情けない。せめて鉄砲玉ぐらいはと愚妻に掛け合えば鉄砲玉とは何のことか、と逆ねじを食った。これはこういうものだと話しをしたら、流石に甘みに飢えた私の思いにほだされたか、このところ飴の物色に立ち会ってくれている。

これは追い風、と私は鉄砲玉探しを始めた。だが、哀しいかな、これが何処を探してもないのである。固有名詞としては失せても、あの形状の固い黒糖の丸飴はどこかにはあろうと見て回ったが、ない。黒糖飴はあるにはあるが、どれもへたり腰のものばかり、とても私の目に、いや口に叶うものがないのである。

飴を求めて数ヶ月、いま私はほぼ鉄砲玉は諦めている。片目は開けて気にはしていようが、見つかる望みはほぼ絶えている。

たかが飴のことで詰まらぬ神経を、と反省の念が沸いてきた矢先、ひょんなことで味な昔風な飴を発見して、何処かほっとしている。称して「たまり玉」。醤油のたまりを仕込んだ小粋な堅めの丸飴だ。同じ玉だからと屁理屈を捏ねて、いま私はたまり玉に凝って鉄砲玉を忘れようとしている。

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