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国営昭和記念公園の四季 №40 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ひまわりの丘

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『知の木々舎』第248号・目次(2019年8月下期編成分) [もくじ]

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【文芸美術の森】

ケルトの妖精 №9             妖精美術館館長  井村君江
 クルーラホーン  2
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-12-8

じゃがいもころんだⅡ №15            エッセイスト  中村一枝
 お盆に寄せて                                                       
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-12-5

渾斎随筆 №39                     歌人  会津八一
 逍遥十三回忌 
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-12-7

石井鶴三の世界 №146              画家・彫刻家  石井鶴三
 モデル 1916年/少女 1920年
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-12-6

過激な隠遁~高島野十郎評伝 №10     早稲田大学名誉教授  川崎 浹
  第三章 帝大学生時代から戦後まで 5
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-12-4

往きは良い良い、帰りは……物語 №72  コピーライター  多比羅 孝
 『昼花火』『鱧』『朝顔』『梅雨寒』
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-07-29-7

正岡常規と夏目金之助 №15         子規・漱石研究家    栗田博行
 子規・漱石~生き方の対照性と友情。そして継承  
   第一章(番外)子規における「ますらおぶりとたおやめぶり」2(再掲)
      ※文末に今後の予定についてのおことわり
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-27-6

西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」№16 美術史研究家 斎藤陽一
 尾形光琳「燕子花図屏風」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-12-3

【ことだま五七五】

日めくり汀女俳句 №40              中村汀女・中村一枝
 四月二十四日~四月二十六日
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-12-2

猿若句会秀句選 №99                                    猿若句会会亭    中村 信
  2019年7月20日
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-07-29-3

草木塔  №46                    俳人  種田山頭火
 千人風呂 4
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-12-1

読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №70              川柳家  水野タケシ
 7月31日、8月7日放送分
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-12

【核無き世界を目指して】

対話随想余滴 №19                                       作家  中山士朗   
 中山士朗から関千枝子さまへ              
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-10-7

【心の小径】

論語 №79                                                          法学者  穂積重遠
 二五三 色みてここに挙(あが)り、翔(かけ)りて後(のち)に集る。・・
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-10-1

余は如何にして基督信徒となりし乎 №70                                内村鑑三
 第十章 基督故国の偽りなき印象 - 帰郷 11
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-10

【雑木林の四季】

浜田山通信 №248                                    ジャーナリスト  野村勝美
 核禁止条約の署名、批准を
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-11-8

私の中の一期一会 №195             アナウンサー&キャスター    藤田和弘
 全英女子オープンに初出場で優勝した“スマイル・シンデレラ渋野日向子”
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-11-9

BS-TBS番組情報 №192                                     BS-TBS広報宣伝部
 2019年8月のおすすめ番組(下)
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-11-7

バルタンの呟き №62                 映画監督  飯島敏宏
 「2020TOKYO」に寄せて
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-11-6

医史跡を巡る旅 №59                                 保健衛生監視員  小川 優
 「博愛精神のルーツをたどる・日本赤十字社の活動」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-11-5

いつか空が晴れる №65                    渋澤京子
 ~ロング ロング アゴー~
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-11-3

梟翁夜話 №45                                    翻訳家  島村泰治
 髯二題:その1「タゴールの美髯」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-11-2

検証 公団居住60年 №38  国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治
 公団家賃裁判一提訴から和解解決まで 10
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-11-1

台湾・高雄の緑陰で №25      在台湾・コラムニスト  何 聡明
 米・中貿易戦の狭間にある台湾
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-11-4

コーセーだから №53          (株)コーセーOB  北原 保
 50歳創業の哲学 14
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-07-26-1
    
地球千鳥足 №125       グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子
 平成最後の日、昭和記念公園と富士山麗を訪問、令和時代へ平和を祈った
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-07-26

Challenge 100 Years! №1           映像作家  石上 淳
 沈黙の90日
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-07-26-3
 
【ふるさと立川・多摩・武蔵】                                                   

赤川Bonzeと愉快な仲間たち №131      銅板造形作家  赤川政由
 安東ケイさんの作品
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-07-25-6

立川陸軍飛行場と日本・アジア №181    近現代史研究家  楢崎茂彌
 軍都立川  秋を謳歌
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-06-25-8

線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №132              岩本啓介
 釧路本線    
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-10-2

押し花絵の世界 №92                                     押し花作家  山﨑房枝
 「Summer visit」
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-10-4

ミツバチからのメッセージ №12 造園業・ミツバチ保護活動家   御園 孝
 野生トウヨウミツバチの北限 6
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-10-3

国営昭和記念公園の四季 №40
 ひまわりの丘
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-14-1

【代表・玲子の雑記帳】             『知の木々舎 』代表  横幕玲子
https://chinokigi.blog.so-net.ne.jp/2019-08-11-10


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愉しく読むために読者への手引き
ネットマガジン『知の木々舎』を愉しくお読みいただくための手引きをご案内します。

発行回数・月に2回(上期・下期)ネットマガジンを発行します。
カテゴリー・記事の分類です。
「もくじ」・「執筆者紹介」・「代表玲子の雑記帳」・「心の小径」・「文芸美術の森」・「ことだま五・七・五」・「雑木林の四季」・「ふるさと立川」・「核無き世界をめざして」があります。
もくじ・ネットマガジンの号数・編成期(×月の上期・下期の別)を表示し、その下に最新の記事のタイトル・見出しが URLをカテゴリー別に掲載しています。
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ケルトの妖精 №9 [文芸美術の森]

クルーラホーン 2

             妖精美術館長  井村君江

 花婿のダービー・ライリーと、花嫁のプリジッド・ルーニーを囲んで、神父とふたりを祝福するために集まった人々の、楽しそうなおしゃべりや笑い声が、家の外までもれていた。
「なあ、ビリー。わしは明日でちょうど千歳になるんじゃよ」
 クルーラホーンが神妙な顔つきで言った。
「ほんとうですか。それはお祝いを述べなけりやならん」と、ビリーはいずまいを正して、
「神の祝福がありますように」とまじめに言った。
 するとクルーラホーンは、「そんなことを二度とわしに言うな」と、あわててさえぎり、しばらくして、おもむろに言った。
「これまで結婚しなかったが、千歳という歳はしおどろきだと思うんだ」
「まったくもってごもっともです。あなたさまがそう思っているんならね」
 ビリーは聞き流しながら、すこしも興味を示さずに言った。
 ところが、クルーラホーンが、
「そのために、こうしてはるばるここまで来たんだよ、ビリー。この家にいるブリジットは背の高いきれいな娘で家柄も申し分ない。そこでわしの花嫁としてさらっていこうと思うんだ」
 と言ったときには仰天してしまった。
「でも、花婿のダービーはなんと言うでしょうね」
「黙れ。おまえにつべこべ言わせるために連れてきたんじゃない」
 クルーラホーンはビリーを一喝した。それからプツプツと例の呪文を唱えると、鍵穴から部屋のなかへ入っていった。ビリーもどうなることかとついていった。
 クルーラホーンは、天井近くに架けわたされた梁の上にちょこんと座って、部屋のなかを見わたしていた。ビリーも別の梁に腰を据えると、脚の下に宴会の食卓を囲んでいるみんなの頭が見えた。
 結婚を祝福するクーニー神父のかたわらには、ダービーの父親と兄弟、それに叔父さんたちと従兄弟たちが座ってにぎやかに酒盛りをしていた。ブリジットの両親と利発そうな兄弟も、その酒盛りに加わっていた。ブリジットの両親は、美しい娘が誇らしげだった。
 ところが、ブリジットが神父に、玉菜が添えられた豚の頭の肉をさしだそうとして、大きなくしゃみをひとつした。食卓を囲んでいたみんなは、びっくりしてブリジットに目を向けた。
 でも、だれひとり「神さま、ご祝福を(だいじょうぶですか)」と言わなかった。こういうときはそう声をかけてもらわなければいけないのに、この場では神父の役目だと思ったので、みんなひかえていたのだ。
 ところが運の悪いことに神父は、ちょうど野菜と肉を口いっぱいにほおばったところで、口を開くことができなかった。
 それで宴会はそのままつづけられていった。
 ビリーがふと気がつくと、クルーラホーンがなぜだか興奮していた。
「ビリー、いよいよブリジットはわしの花嫁だ。くしゃみをして三度、『神さま、ご祝福を』と言ってもらえなければ、妖精になってしまうんだからな」
 とうれしそうだ。
 そのときブリジットがかわいく二度めのくしゃみをし、顔を赤らめたがだれもそれに気づかなかった。
 ビリーは、なんだかこの大きな青い目と透き通る白い肌をもった娘がかわいそうになってきた。
「健康な喜びにあふれている十九歳の娘が、なんで明日で千歳になる醜い老人と結婚しなければならないんだ。気の毒なことだ」とビリーは思った。
 そのときだ。ブリジットが三度めのくしゃみをした。
 すかさずビリーは、
「神さま、ご祝福を」
 と大声で叫んでいた。
 クルーラホーンは顔を真っ赤にして怒った。そしてビリーをにらみつけると、
「おまえはお払い箱だ。これがおまえへの報酬だ」と言って、ビリーの背中をすさまじい勢いで蹴とばした。
 ビリーは酒盛りの食卓のまんなかに頭から落ちていった。
 あいさつもなしに酒盛りに飛びこんできたビリーに、みんな唖然とした。しかし、ビリーがこれまでのいきさつを話すと、全員が心からビリーに感謝した。
 クーニー神父は、すぐさまふたりの結婚式をすませ、ビリーには両親から浴びるほどの酒がふるまわれた。ビリーは心底よい気持ちに酔った。

◆クルーラホーンは、アイルランドの大きな酒蔵に住む妖精。酒蔵の番人とも信じられていて、ワィンの樽の栓がゆるんで雫が落ちていないか見守ったり、召使が盗み酒をしていると樽のかげからふいに出てきたりして恐れさせる。このお礼に酒をもらうので、いつも酔っぱらっている。また三人の召使が酒蔵に忍びこんで飲んでいるといつのまにか四人になっているので、酔ったせいかとよく見るとクルーラホーンが混じっていた、というようないたずらもする。
 この話のように、よその最の酒蔵に入って酒を飲んでしまうという悪さをすることもあり、知らぬ間にワインの樽がからっぽになっていたらクルーラホーンの仕業だと、アイルランドの人々は信じている。
 酒蔵に入りびたっているだけでなく、ご機嫌になると羊や番犬の背中に乗ってひと晩じゅう野原を走りまわり、翌朝には泥まみれの羊や犬とともに息を習して草のなかに倒れたりしているクルーラホーンがときとぎ見つかるともいわれている。
 クルーラホーンは、仲間たちと一緒に住んでいる「群れをなす妖精」ではなく、「ひとり暮らしの妖精」である。ひとりで行動している妖精は、ふつう恐ろしい性質のものが多い。そして「群れをなす妖精」たちが緑色の上着を着ているのに対して、「ひとり暮らしの妖精」は赤。赤はあるいは危険信号、要注意の色といえるのかもしれない。
 クルーラホーンが古い屋敷に住みつくことは、日本の「座敷わらし」や「倉ぽっこ」のような旧家についている妖精と似ている。座敷わらしは、その家が傾くと自分から出ていってしまい、代わりに貧乏神が住みつくが、やせていて少々滑稽な親しみすら感じさせるわが国の貧乏神にあたるような貧乏妖精というのは、ケルトの妖精には見当たらない。


『ケルトの妖精』 あんず堂

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渾斎随筆 №39 [文芸美術の森]

逍遙十三回忌 

                 歌人  会津八一    

 坪内逍遙先生が、なくなられてことしが十二年目で、この二十八日に熱海の御宅では、十三回忌の法要が、いとなまれるといふ風に新聞などで承知してゐる。主催者の方からは、まだ何も知らせて来てゐないが、知らせのあるなしにかかはらず、私などは、その日には御参りをして、つっしんで御焼香をしなければならないところだ。
 私は、少し早熟の方で、早稲田へ入學しないうちから、文學の價値の標準について、今でいへば御恥つかしいほどのことであるがその頃はその頃として、やはり一つ自分特有のものを持ってゐて、それで新聞に物を書いたり同人雑誌を出したりしてゐた。けれども年はまだ若かつたし、學問といへば、初歩といふほどにも踏み込んで居らず、見聞も狭いので、出来るだけ教義を積みたいといふので、東京へ出て學校へはひつたのであるから、今でこそ恥づかしいの何のと自分でもいふけれど、その頃としては、ぽっと出の、ぼんやりした普通の書生さんと、一しょにいろいろの講義を聞いても、一から十まで感服し、それがそのままあたまへはひつて、血になり肉になり、骨にもなるといふ気はしなかった。中には何の糞にもなりさうもないと思ふこともないこともなかった。もともと何のために、わざわざ東京まで出て来て、金も使って學校にゐるのか、まるで意味のないことにもなるから、自分としては出来るだけ気特を平らにして、好き嫌ひをいはず、えり好みをせず、毎週の時間割通りにすべて出席して、ノートも取り、宿題のリポートも、いはれるままに出したものであった。
 さうした私の學生生活の間に、さすがに気廓の大きさ、學識の深さ、廣さ、燃ゆるばかりの熱意、行き届いた親切心、明確な道義心、かぞへ来ればかぞへつくせぬ偉さに、驕慢な私も、あたまを下げたのは坪内先生であった。私が五年間、早稲田で、すなほに辛抱してゐたのは、この先生が一人居られたためであらう。
 けれども、私が坪内先生に、もつと親しい気持で、ますます敬服の度を深めるやうになったのは、明治三十九年の七月に卒業してから暫く越後に帰って有恒学舎の教師をして居り、その後四年たって再び上京してからのことである。この頃のことは、いづれ何かに書いておかねばならぬと思ってゐるが、先生の晩年には、いつの間にか、私が誰よりも一番親しく御ちかづきを願ふやうになり、折々御訪ねをしたり、時としては御訪ねを受けたり、一週間も泊めていただいて温泉で保養をしたり、創作の上で御相談を受けたり、無遠慮な意見を申上げたり、またその間には、私のわがままな無心を申上げたりするやうにさへなった。先生の全集ともいふべき「逍遙選集」は、先生の御懇望を受けて、表紙も、扉も、私の筆で書いてあり、その中に出て来る寫眞で、先生が門下生と寫つて居られるのといへば、私との場合だけである。だから、今からは、もう十二年前になる熱海の御邸で御葬式の時には前後数日間、私が柄にもなく出しゃばって、さしづをしただならぬ顔色をして棺側に頑張ってゐたことが、今でも一つ噺に遣ってゐるけれども、私の気持としては自然のことであった。
 その時、これも先日死なれた内ケ崎作三郎さんが、かけつけて、日本文化に封する先生生前の功労に酬いるために、勲章を賜はるやうに盡力したいと云はれるので、奇妙な思ひっきだとは思ったが、取りあへず、それは何等ですかと尋ねると、初叙だから四等より上はいけなからうといふので、私の友人でも三等ぐらゐの人はいくらもあるのに、今にして先生ほどの人を勲四等には出来ませんと、私は一存でことわった。内ケ崎さんが東京へ締ると、その翌日、やはり代議士のある人が、そんなら一等なら受けて貫へるかどうか、と念を押しに来たが、一等でも大勲位でも御もったいないことで申わけがないが、先生の素志でないからと、私は、奥さんにも誰にも相談せずに、断然御ことわりした。そしてその代りに、かうした文化的な功労者に向つては、国民の代表者として衆議院の力で為し得る一つの事がある。それを御考へ願ひたいと註文をした。それが行はれたものかどうかは知らないが、衆議院は、東京で行はれた御本葬の日に、各政黨を代表する人たちの追悼演説の後に、院議を以て、満場一致先生に敬意を表したのである。
 その後、年々私は熱海に行って老夫人に御眼にかかり、いつも昔噺に時の移るのを忘れたものであるが、たしか三回忌の時かと思ふが、二十名ばかりの弟子どもが参集している
ところへ身延山の日蓮宗大本山の望月大僧正が来て、讀経してくれられた。大僧正は喉が弱くて、小田原の末寺へその頃毎年冬は養生に来てゐられたのであった。そして御経が済むと、われわれに向つて、こんなことを云はれた。愚僧は、こちらの先生の御生前には、御面識もなく、御交際も願ってはをりませんでした。が今日は御忌日と承りまして、御恩返しにと存じてまゐりました。第一に先生は、「法難」の御作で、わが宗租日蓮聖人の精神を天下に御宣揚下さいました。第二に、先生は私どもの弟子坊主、石橋湛山と申しまするものを、ねんごろに御教育下さいました。この二つの御恩は重大でございます。
 その時に、その席に居あほせた田中穂積、金子馬治、中村吉蔵、長谷川誠也、吉江喬松、西村翼の諸君は、もう、とっくに死んで、最近には五十嵐力君も亡くなったらしい。長い間先生の家事向の相談役として殆ど一生を奉仕した稀書複製会の山田清作君も昨年死んだといふ。望月さんももう亡い。そして相馬君や私は、よしんば案内を受けたにしろ、こんなに不便な交通では、あちらまで行き終せるものかしらと、私にはそろそろ卑怯な心が起りかけてゐる。こんな風だから熱海市と早稲田大學とが協同主催でやるといってもこの十三回忌は、かなり淋しい顔解れであらうが、先生の感化は廣くて深いのであるから、早宿田ばかりでなく、ひろく現代のわかい人々が参加して、この供養が厳修されるならば、先生の霊も、さだめし御よろこびであらう。
 私はかつて石橋君に、どこかで遇って、身延の老師の、熱海での言葉を博へたら、石橋君は黙って、目を輝かせていたことがあるが、今、日本中で、ろくろく定見も無いやうな連中まで冷評をしたり、漫画にまで描いたりしてゐるけれども、石橋君は国のためにそれこそほんとに日蓮のいふ不惜身命でやって居るのにちがひない。その精神と武者振を、二人の老人が、あの世から見透して、欣んでゐられるのであらう。

                  『夕刊ニイガタ』昭和二十二年二月二十八日

『会津八一全集』 中央公論社

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石井鶴三の世界 №146 [文芸美術の森]

モデル 1916年/少女 1920年

        画家・彫刻家  石井鶴三

1916モデル.jpg
モデル 1916年 (203×145)
1920少女.jpg
少女 1920年 (212×145)
**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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じゃがいもころんだⅡ №15 [文芸美術の森]

お盆に寄せて

             エッセイスト  中村一枝

 子供の頃、お盆というのは楽しみの一つだった。わたしの家では父はその手のことにはまったく興味はなさそうだったが、母は決まってお盆の準備をした。お供えに、茄子や胡瓜の動物をつくって飾るのも楽しいことだった。戦争中は灯火管制とかで門口で火を炊くのは遠慮したが、伊東に疎開すると大家さんのおばあさんがとれたての茄子や胡瓜をお盆にのせて届けてくれた。満天の星空の下で送り火を炊くのはまた楽しかった。まだアメリカの空襲が来る前のことだった。おばあさんの家にはその外わたしと同い年くらいの男の子とが二人いて、いつの間にかすっかりなかよしになつていたのだ。わたしの母はかなり年をとつてもお盆の習慣を律義に守りつづけ、迎え火送り火の習慣を絶やさなかった。私はいつのまにか遠ざかったが、子どものいる家庭ではなかなかいい習慣だといまも思う。 
 日本の宗教は仏教だと言っても実際は葬式の時にその価値を発揮するわけで、わたしなど普段仏壇は放りっぱなしである。4年前に娘が亡くなって 仏壇の仏様は四人になった。夫の両親、そして夫と娘。私は宗教心というものがとりたててないせいか、お盆だからと言ってとりたてて何をするわけでもない。気が向けばお線香を焚くくらいの不肖の子孫なのだ。それでも心の何処かにお盆とか命日だとかの観念があるのは何故だろうか。娘を葬るとき娘に晴着を着せた。成人式のとき作った晴れ衣裳である。五十二歳で亡くなった娘はその晴着に何度も手を通している。それを亡骸に着せたときは悲しかった。娘を先に見送る羽目になるとは全く思ってもいなかった。あとからあれだけ大きい乳癌に気がつかなかった私の迂闊さを恥じた。それとも気をつかせないように隠し通したのか。彼女の思いを今でも痛いほど感じる。一生思い続けるだろう。彼女の死後細かい字でびっしり書かれた日記帳が何冊も出てきた。私が何かというとすぐ文章を書きたくなる、それと共通の思いを彼女も持っていたんだと思った。時々開いてみるが、細かい字でびっしり書かれた日記帳はとてもいまの私には読み切れない。
 ごく最近子供が幼稚園児の頃からの友人の一人が亡くなった。80になったかならないかだった。10年近く肝臓をわずらっていた。病気のためにはあらゆる努力を惜しまず頑張っていた。いい先生にも良質な病院にも恵まれ、経済的にも恵まれていたのに、肝臓ガンは実にしぶとかった。ガンの種類もかなり難しかったようだ。恵まれた環境の中彼女はもう一度立ち上がりたかったに違いない。この暑さが衰弱して行く彼女にこたえるのではとひそかに案じていた。亡くなったと聞いて一週間以上たってから彼女に花を送りたいと思った。一輪でもいいから送りたかった。お花を送りたいと自宅に電話をすると、「家じゅうひっくり返っているから、九月過ぎてからにして欲しい」という電話があった。頑固で丁重な言葉の中に彼の人知れぬ失意と悲しみを感じた。ふだん明るく苦労知らずの人に思えた彼の内心の悲しみが浮き上がった。人間って複雑で悲しいものです。


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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №10 [文芸美術の森]

激動の時代に反撃する野十郎 1

           早稲田大学余教授  川崎  浹  

 少し話は戻るが、昭和元年(一九二六)、前倒し式の宣言をした「一九三〇年協会」が発足、児島善三郎、佐伯祐三らメンバーは三十歳前後で、「陳腐な自然主義的写実の清算」を公約の目標にしていた。
 高島野十郎のような「自然主義的写実」様式は目の仇にされたことになる。
 三十代半ばの野十郎は二年ごとの発表という制作日程からすれば、この年、昭和元年(一九二六)にはなんらかの形で出品されなければならないのだが(とはいえ、未発見の個展があるかもしれないが)、どこにも出品していないのは、なおしばし自分との格闘がつづいていたのだろうか。その二年後かれが「黒牛会」の結成に参加し、昭和三年(一九二人)、四年、五年と連年で開催された「黒牛会」展に出品した作品が好評を得ているの
は、その結果がでたと見ることができる。昭和四年(一九二九)の『みづゑ』四月号には次のような「黒牛会」第二回展評が掲載された。
 「高島野十郎氏、氏の作品の前に立つ時自ら作家の真摯な敬慶な心を実感せずにはいられない、しかも信仰的である。《壺とリンゴ》最も優れていると思う。《秋の夜》と《早春深夜》は少しく感傷的であると同時に作家の内観上に何物かの苦悶が往来しているかに感ぜしめる、悩みのない処に光りは無い、作家の精進を祈る」。
 次回、翌昭和五年(一九三〇)の『みづゑ』四月号では、「黒牛会」展のなかで野十郎の絵を筆頭にとりあげ、高い評価をあたえている。
 「黒牛会も第三回となり(省略)、昨年よりも総体的に緊張し出品点数も多く充実さを示されたのは同会の進境である。高島野十郎氏はデューラー張りの写実家であるが、真剣な態度で自然を視つめている点において敬服する。《葡萄のある静物》は内容もあり手法として優れていると思う」。
 前回の「黒牛会」展での批評は「作家の精進を祈る」というのもので、野十都の画業に進歩の余地が残っていることを好意的に匂わせていた。しかし今回の展覧会では「作家に敬服する」として、画家の画境がいちだんと成熟し、すでに定着したことを認めている。
こういう定点観測を思わせるような批評を書いたのは、おそらく前回と同じ評者だったにちがいない。こうした感想は現在の野十郎愛好者がいだく印象にちかいものであり、画家の姿勢の基本をおさえている。
 残念なことに、『みづゑ』の批評を野十郎は目にすることができなかった。第三回「黒牛会」展の開催も『みづゑ』の批評も野十郎が渡欧で出航した二、三ケ月後のことなので、かれの手もとに届くのは、かなり後のことだったと思われる。
 「黒牛会」は特定の信条があったわけではないらしく、会員との間につよい結びつきもなかったので、その後の会報告もないまま自然消滅のようにして消えている。
 戦前の美術グループが多彩な活動をなしたことについてここでは書ききれないが、昭和四年、つまり「黒牛会」第二回展が開催された年の九月、パリで国際的に有名になった藤田嗣治が十七年ぶりに日本に帰国した。かれは「院展、二科素通りの記」で日本人画家に絵について、まるでパリのサロン・ドートンヌにいると錯覚するほどスゴンザック、シャガールやルオーやデュフィやブラックの影響が露わであると批判的な感想をのべている。
そういう藤田に野十郎の絵を見せたらなんと言っただろうか。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №16 [文芸美術の森]

                            ≪シリーズ≪琳派の魅力≫

         美術ジャーナリスト  斎藤陽一

  第16回: 尾形光琳「燕子花図(かきつばたず)屏風」 その1
(18世紀前半。六曲一双。各151.2×358.8cm。国宝。東京・根津美術館)

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≪尾形光琳と琳派の系譜≫

 これまで語ってきた、俵屋宗達と本阿弥光悦という二人が活躍したのは、桃山時代から江戸時代初期にかけての時期でした。この二人は、「琳派の先駆」という位置づけをされています。
 そのおよそ百年後の江戸時代中期になって、尾形光琳(1658~1716)が登場しました。光琳は、宗達・光悦に「私淑」し、その美意識を継承しながらも、それを触媒にして独自の美の世界を開花させました。尾形光琳の後世への影響は大きく、「琳派芸術の完成者」とも呼ばれます。昭和時代になって定着した「琳派」の呼称は「光琳」の名前にちなみます。

 第1回の時にお話しした「琳派とは何か?」ということを、もう一度、簡単に押さえておきましょう。
 「琳派」とは“血縁によらず、師弟関係もなく、異なる個性を持った芸術家が、時を隔てて、「私淑」という形で継承されてきた、独特の美意識の系譜”を言います。

≪切り捨ての美学≫

 尾形光琳の代表作が国宝「燕子花図(かきつばたず)燕子花図屏風(びょうぶ)屏風」です。これを所蔵している東京・青山の根津美術館では、毎年、庭園の池に燕子花が咲く初夏の一時期にだけ、公開展示するのが習わしとなっています。

 一見、“華麗な金屏風”とだけ、見てしまいがちです。実際、これまで私が多くの人から聞いた言葉は「琳派って、金色の華麗な屏風絵を描いた画家たちでしょう?」といったものでした。「琳派」というと、この屏風をイメージしている人も多いようです。
 ところが、この仕組まれた単純さの中に、見どころをいくつも秘めた魅惑的な屛風なのです。じっくりと見ていきたいと思います。

 この「燕子花図屏風」は六曲一双形式で、右隻にも左隻にも、描かれているのは燕子花のみ。
 使われている色も、金地、花に群青、葉に緑青というわずか三つの色彩のみです。

 絵画空間を覆う金地は、その美しいきらめきから、屏風や襖によく使われてきました。しかし、もうひとつの役割も担っています。それは、余計なものを覆い隠して、重要なモチーフだけを浮かび上がらせるという役割です。

 写実主義を基本としてきた伝統的な西洋絵画ならば、画家の目に映るさまざまなもの、たとえば、燕子花のほかに、池の水面とか、岸辺の様子、木立、空と雲などを描くところを、ここでは、そういうものは一切省かれています。

 これは、「切り捨ての美学」とも言うべき美意識で、目に見えているものでも大胆な切り捨てを行い、重要なモチーフだけを提示するという、日本絵画の特質のひとつです。皆さんも、屛風絵だけでなく、絵巻や掛幅、浮世絵などで、思い当たるような日本の絵画をいくつも思い起こせることでしょう。

 こういった単純・明快なやりかたによって、右隻から左隻へとつながる燕子花の群れは、リズミカルで色鮮やかな装飾効果を生み出しています。


≪暗示の美学(留守文様)≫

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 この絵の主題は、『伊勢物語』から採られている、と言われます。平安時代の貴族で美男子として知られた在原業平と思われる男を主人公とする“歌物語”です。

 光琳が描いているのは、主人公の貴公子が、京を離れて東路を下る途中、三河の八橋で、一面に咲く燕子花を見て歌を詠み、都に残した恋人を思って涙するという場面です。
 その時、男が詠んだ歌は:

    「から衣 きつつ慣れにし つましあれば 
                                 はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ」
   (唐衣を着慣れるように、慣れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるやって来た旅を
   しみじみと思うことであるよ)

 この和歌は、「かきつばた」という五文字を、句の頭に据えて詠んでいるというところに趣向があります。

 とは言え、この屏風絵の中のどこにも業平らしき人物は描かれていません。それでも、この屏風を見た当時の京の上層階級の人は、これが『伊勢物語』の場面とわかったらしいのです。それどころか、人物が一切描かれていないことを、かえって、判じ物として面白がったようです。これには、機智や遊び心に加えて、平安王朝文学に対する共通の教養が前提となっており、京の上層階級の知的レベルの高さを物語っています。

 このように、古典や和歌などに題材を求めながら、人物を一人も描かず、状況さえ描き込まずに物語を暗示させる、という表現方法は、しばしば日本美術では用いられます。これを「留守文様」と言ったりします。大きくつかめば、これを日本文化全般に見られる「暗示の美学」という言い方もできるでしょう。
 いわば「全部を示さない」とか「部分だけで全体を推し測る」「余情を尊ぶ」ことなどを良しとする美意識、とでも言うことが出来るでしょうか。

 これは、長い間宗教画や神話画が主流であり、物語の内容をキチンと絵画化することが重視された西洋絵画では無かった美意識です。クールベや印象派が登場する以前の西洋絵画では、何よりも人間を描くことが最も重要なテーマとされ、キリストや聖母、聖人たち、ギリシャの神々の姿がしっかりと描かれてきました。聖書や神話の物語絵に人物を描かないことなどは、考えられないことでした。(下図参照)

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(左)ラファエロ「キリストの埋葬」(1507)   (右) ルーベンス「レウキッポスの娘たちの略奪」(1617年頃)

次回からは、尾形光琳作「燕子花図屏風」の魅力の秘密を、具体的に探っていきたいと思います。



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日めくり汀女俳句 №40

四月二十四日~四月二十六日

         俳句  中村汀女・文  中村一枝

四月二十四日

手をふれて朝は朝の香ライラック
           『紅白梅』 ライラック=春
 昭和七年当時の横浜は活気にあふれた港である。外国船の寄港も多く、異国文化の入りやすい町でもある。船の集う埠頭、山下公園、元町、外人墓地、何もかもが汀女には目新しい。オデオン座で見た初めてのトーキー、汀女は常連になった。
 「私はデートリッヒがやけによっばらってちょっと歌ふ鼻声が好きで『モロッコ』を三度見に行った。デートリッヒが、クーパーの兵士をたづねて酒場にあらはれた時、隣にゐた二人づれの本牧ガール型が『やって来たわ』といった……」。
 「花衣」にのった汀女の随筆である。

四月二十五日

春風に船は煙を陸)おか)に引き
             『汀女句集』 春風=春
 横浜という町はいつきてもいい。東京と近いから今は東京のベッドタウン化が進んでいる。それでも山手や元町、中華街、ふ頭の辺りを散策していると、横浜特有の風を感ずる。
 汀女はこの地に五年間も住んだ。今より以上に異国情緒に満ち、開明的な空気があふれていた二十前位の若い汀女にとって、毎日が心に触れる思いがあって、いい句が生まれたのだ。
 「お祖母ちゃんね、オデオン座って映画館、しょっ中行ってたみたい」「へえ、お祖母ちゃんってその頃ヤンママだったんだ」「?」

四月二十六日

帰るべき細道見えて夕桜
           『都鳥』 桜=春
 横浜の神奈川近代文学館で尾崎一雄文庫展が開かれていた。尾崎一雄氏は私の父と同姓だが親せきではない。しかし、結ばれた友情は血のつながり以上のものがある。
 戦争中一雄氏は体をこわし、郷里神奈川県内下曽我にこもっていた。父は空襲激化の東海道線に乗り、リュックを背負ってお見舞いに行った。帰りにはいつも野菜や梅干しのお土産(みやげ)。「いや、あいつんちはいい。家族がまたいいんだ」
 殺伐とした時代に父の唯一の息抜きの場所だった。その時の父の句、
  君の住むよき家にして風薫る

『日めくり汀女俳句』 邑書林

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草木塔 №46

千人風呂 

                俳人 種田山頭火

 誰にあげよう糸瓜の水をとります

 お彼岸のお彼岸花をみほとけに

 彼岸花さくふるさとはお墓のあるばかり

 秋風の、腹立ててゐるかまきりで

 おちついて柿もうれてくる


『草木塔』青空文庫 

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読む「ラジオ万能川柳」プレミアム №70 [ことだま五七五]

        読む「ラジオ万能川柳」プレミアム☆7月31日、8月7日放送分

       川柳家・コピーライター  水野タケシ
  
川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、
読んで楽しむ・聴いて楽しむ・創って楽しむ。エフエムさがみの「ラジオ万能川柳」
川柳家・水野タケシがパーソナリティーをつとめる、
○2019年7月31日放送分です。

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今週も話題に事欠かない相模原!!

「ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
http://fm839.com/program/p00000281
放送の音源は……https://youtu.be/htG4Xd79lM4

【質問】
タケシ師匠の新講座名「やさしい!楽しい!初めての川柳句会」の
「やさしい」とはどんな意味でしょうか?
「優しく指導をしてもらえる」という意味でしょうか?
それとも、「難しい事を易しく教えてくれる」という意味でしょうか。どっちですか?
ひょっとして、どっちもですか?(離らっくすさん)
https://youtu.be/htG4Xd79lM4

(みなさんの川柳)※敬称略 今週は169句の投句がありました!!
・火に油そそぐ吉本記者会見(東孝案)
・ため息をついたら妻いうオナラした?(初投稿=あんのくるみ)
・ブログにはなんでも載せるタケシさん(名人・平谷妙子)
・玄関に靴があふれる夏休み(名人・やんちゃん)
・兄見舞う元気な顔をお土産に(大名人・アキちゃん)
・危険さけもみじマークと車間とる(名人・グランパ)
・グランドも応援団も元気だね(名人・東海島田宿)
・県相のベスト4はアッパレだ(名人・六文銭)
・お日さまと仲良しさんだった昭和の代(名人・龍龍龍)
・国会がバリアフリーじゃないと知り(外科系)
・張本さん貴方の意見にみな「喝!」だ(よっきゅん)
・久々にいらっしゃいませ鰻さん(和こころ)
・待っていたはずの梅雨明けもう懲りた(大名人・光ターン)
・愛犬がホットドッグになる散歩(大名人・秦野てっちゃん)
・ペイアプリ私のスマホぱんぱんだ(大名人・入り江わに)
・暑いけど元気でしょうかクワコちゃん(小把瑠都)
☆あさひろさんのボツのツボ
「ラジオ万能川柳。169の投句有難うございます。「優秀作が多いなあ、選ぶの苦労する」とタケシ師匠。先週の日照不足・梅雨寒から猛暑・酷暑の句材に急変。吉本関連句は今週も。高校野球関連句も多数。そんな中で今週のボツのツボ。『ワタクシは裸婦像よりも裸婦がいい』小把瑠都さん。ワ・タ・ク・シも!」

・佐々木クン見たかったなあ甲子園(大名人・雷作)
・同じモノ行ったり来たりお中元(名人・かたつむり)

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・動きます多分今年の流行語(クッピー)
・こんなにも片付け下手とはアメリカ人(司会者=名人・あさひろ)
・土用丑毎年匂いだけは嗅ぐ(のりりん)
・彷徨いの議員疑員とセミが鳴く(里山わらび)
・聞いたことない芸人も出るテレビ(大名人・けんけん)
・甲子園よりも将来大英断(名人・フーマー)
・ほとんどの球児予選で夏終わる(はる)
・梅雨明けに身構えているカブトムシ(名人・不美子)
・猛暑日だ会社に行くぞ節電に(たつみ)
・難題もかっ飛ばしたい夏の空(黒耀舎)
・お祭りに毎日行ってみたいなあ(ワカメちゃん)
☆タケシのヒント!
「5歳のワカメちゃんのストレートなつぶやきです。ケレン味がありません。誰しもが子供時代に思ったことではないでしょうか。ワカメちゃん、今年の夏を楽しんでくださいね!」

・待ち遠し豪華ゲストと久喜の夏(名人・あまでうす)
・金星をあげた相模はよくやった(ナナチワワ)
・蝉が鳴く数年間の思い込め(すごろく)
・やっと来た夏が来たよと蝉が鳴く(模名理座)
・新喜劇政府予算で笑えない(爽抜天)

◎今週の一句・お祭りに毎日行ってみたいなあ(ワカメちゃん)
○2席・蝉が鳴く数年間の思い込め(すごろく)
○3席・玄関に靴があふれる夏休み(名人・やんちゃん)

【お知らせ】
毎年夏の風物詩、第15回トイレ川柳、現在作品募集中!!!!
https://jp.toto.com/senryu/
締切は8月18日必着、ということで、いよいよ締切まで18日となりました
今年は、去年なかった最優秀賞の賞金20万円が復活!!
このご時世。20万円はうれしい!!
老後の2000万円より、一夏の20万円でしょう!!
さらに、今回は「スポーツとトイレ賞」「中学生・高校生賞」を追加しています。
お子さんにもぜひおすすめください!!

 【放送後記】
梅雨が明けたら、やっぱり暑いですねえ~~!!
週末は句会で埼玉県の久喜に行きますが、なんと37℃の予想!!
熱~い句会になりそうです……。(タケシ拝)

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〇2019年8月7日放送分です。 

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本日はあさひろさんのお誕生日!!おめでとうございます!!

ラジオ万能川柳」は、エフエムさがみの朝の顔、竹中通義さん(柳名・あさひろ)が
キャスターをつとめる情報番組「モーニングワイド」で、
毎週水曜日9時5分から放送しています。
エフエムさがみ「ラジオ万能川柳」のホームページは、こちらから!
http://fm839.com/program/p00000281
放送の音源は……https://youtu.be/6ihQ8cp1BIg

【お知らせ】
毎年夏の風物詩、
第15回トイレ川柳、現在作品募集中!!!!
締切は8月18日必着、ということで、いよいよ締切まで4日となりました
今年は、去年なかった最優秀賞の賞金20万円が復活!!
このご時世。20万円はうれしい!!
老後の2000万円より、一夏の20万円でしょう!!

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https://youtu.be/6ihQ8cp1BIg

(みなさんの川柳)※敬称略 今週は186句の投句がありました!!
 ・バーベキュー夏も一緒に食べている(外科系)
・夢語る嫁の言葉は愚痴だらけ(初投稿=恋するサボテンちゃん)
・夏場にはシミーズノーブラアッパッパ(ただのおやじ)
・甲子園母校出られずホッとする(名人・キジバト交通)
・老いた母花火に見惚れ杖忘れ(名人・やんちゃん)
・死してなお走るディープのDNA(名人・グランパ)
・外へ出る危ない夏がやってきた(名人・平谷妙子)
・イノッチの簡保の笑顔何だった(爽抜天)
・涼しいなスーパー内を三周り(名人・六文銭)
・こんな時だから草の根広げたい(大名人・雷作)
・種付けがハードだったと名馬逝く(小把瑠都)
・大人びた彼女にドキリ夏休み(名人・荻笑)
・ニュース聞くたび韓国の友想う(大名人・光ターン)
・塾生が大フィーバーのタケシ塾(ナナチワワ)
・ごはんより朝からお菓子食べたいの(ワカメちゃん)
・逃亡のチャンス与えている保釈(名人・龍龍龍)
・いくつもの眼鏡リモコン探す日々(名人・マルコ)

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・水やればふっと草木が息を吐く(重田愛子)
・散歩するポチにも日傘ないかしら(名人・鵜野森マコピイ)
・勝利呼ぶ渋野スマイル駄菓子好き(ペンギン)
・夏祭り小遣い握り歩く道(名人・アンリ)
・七夕の夜だけ会えるブース横(大名人・けんけん)
・この次は日向子とプレートランプ氏(大名人・秦野てっちゃん)
・網戸から私に求愛してるセミ(柳王・ユリコ)
・あの笑顔見てて楽しいシンデレラ(東孝案)
・ローカルなトリエンナーレ名を上げる(名人・フーマー)
☆あさひろさんのボツのツボ
「ラジオ万能川柳。猛暑・酷暑関連句が目立ちました。夏休みの宿題?「明日からやると毎日言っている」荻笑。子供だけでなく、お父さんも。禁煙・ウォーキング・早起き。でもボツのツボはこちらに『トランプは知らないだろう原爆忌』フーマー。はたして被爆者の想いは日本政府に届いているのでしょうか。」

・浴衣の子花火に飽きて踊り出し(soji)
・カラオケに弟子もびっくりタケシ節(名人・あまでうす)
・外してもパット笑顔のシンデレラ(里山わらび)
・たまらないウチの貯金とこの暑さ(たつみ)
☆タケシのヒント!
「貯まらないと堪らないのダブルミーニングの句です。暑さと貯金の組み合わせが新鮮。一読、笑って共感しました。投稿されてまだ間もないたつみさん。今後のご活躍が楽しみです。」

・握手しているけど両者笑顔なし(のりりん)
・永遠の28才ご引退(かたつむり)

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・シンデレラ笑顔と共に舞い降りる(グッピー)
・目と鼻にしみるトイレが懐かしい(司会者=名人・あさひろ)
・入れ歯取り老母(はは)は童女の笑い(初投稿・ゆうがお)

◎今週の一句・たまらないウチの貯金とこの暑さ(たつみ)
◯2席・バーベキュー夏も一緒に食べている(外科系)
◯3席・甲子園母校出られずホッとする(名人・キジバト交通)

 【放送後記】
来週14日は、お盆期間中でモーニングワイドもラジオ万能川柳もお休みです。
次回は、21日になります。
楽しみなラジ川が2週間空いてしまう、そのお詫びというわけではないのですが、
すてきなシケタ賞を進呈しますので、ふるってご応募ください。
締切は8月20日(火)の朝8時、必着!!
「今週の一句」の方ではなく、
すべての応募の方から抽選で1名の方に差し上げますので、
初参加の方もお気楽に川柳の投稿をお送りくださいませ。(タケシ拝)

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 水野タケシ(みずの・たけし)
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 1965年生まれ。コピーライター、川柳家。東京都出身。
著書に「水野タケシ三〇〇選」(毎日新聞東京センター)、
「いちばんやさしい!楽しい!シルバー川柳入門」(河出書房新社)、
「これから始める俳句・川柳いちばんやさしい入門書」(神野紗希さんとの共著、池田書店)。
 

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雑記帳2019-8-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-8-15
◆鎌倉街道、今回は小野路から七国山を経て野津田の薬師堂まで歩きます。

小田急線鶴川駅からバスに乗車、先回の執着点、小野路宿通りから歩き始めました。通りの、管理の行き届いた側溝に見られたのはドクダミ科の半夏生です。
二十四節季のひとつ、半夏生は、夏至から数えて11日目、その近辺の5日間にあたります。ちょうどこの時期が植物の半夏生の季節だからと言われているのです。歩いたのは7月3日。まさに半夏生でした。

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小野路宿通り
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側溝の半夏生

通りすがりの小野神社で、小野大明神の灯篭に角倉熊蔵の名が彫られているのに気が付きました。角倉家は江戸から明治にかけて、小野路で繁盛していた旅籠(はたご)でした。

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門倉熊蔵の名がみえる灯篭

神社前を通るメインストリートから脇道にはいると、その道は「御尊柩御成道(ごそんぴつおなりみち)」と呼ばれていました。1617年の造成。
前年、徳川家康が死去。駿河の久能山に埋葬した遺骨を日光へ移したルートが御尊柩御成道なのですが、各地に作られた御成道で明確にこれとわかる道は他には残っていません。馬が4頭並んで通れる道は、当時の街道の倍の広さがありました。

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御尊櫃御成道

迂回してもとの街道に戻り、野津田公園の西入り口付近にあるのが小野路一里塚です。御尊柩御成道が整備されたおりに造られたものであるといわれています。江戸中期には大山道の旅程標識として使われました。
江戸の一里は108間、3974mです。めぼしい街道にはきっちりと一里毎に塚が建てられ、目印に道の両脇に榎の木が植えられました。小野路の一里塚の規模は、東海道、中山道に比べて小さく、街道の格に差をつけたもようです。
また、道中奉行は駕籠かきの代金を塚を目安に設定しました。距離に応じていくらというこの仕組みは今のタクシー料金の設定と変わりません。乗客も駕籠を降りるのは塚のある場所と心得ていたようです。乗る側にも流儀があったのですね。
小野路村の人々が御成道や一里塚造成に多大な労苦を費やしたことに対し、幕府は以後の助郷を免除しました。

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小野路一里塚

野津田公園を左に見ながら進む道は通常の街道の広さです。この坂道を登った頂上にあるのが町田丘の上病院。ここからは下りです。付近に野津田高校もあって、狭い坂道は高校生の自転車通学路になっていました。
ちなみに江戸時代、街道は馬や牛は通れても、大八車はご法度でした。武器をかくすことが出来る大八車を厳しく管理したことは想像にかたくありません。

坂道をくだりおわると57号線にぶつかります。通りを横切って鶴見川にかかる小さな橋をわたると、山崎町を経て七国山(ななくにやま)へと入っていきます。
七国山は標高128.5m。鎌倉時代に鎌倉と上州方面を結んだ鎌倉街道上道の古い標識が現在ものこっています。近隣の本町田や小野路は古くから宿場として栄えました。頂上付近から相模、甲斐、伊豆、駿河、信濃、上野、下野の7つの国を見ることができたため、そのように呼ばれたということです。国とは言っても、その国のランドマークがみえたということでしょうが。一時、トトロの七国山(しちこくやま)とまちがえられたことがありましたが、そちらは東村山市にある狭山丘陵東部の都立八国山緑地がモデルです。

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七国山

七国山山頂からすこし下って行くと、切通の西側に「鎌倉井戸」と呼ばれる1mほどの井戸跡があります。
鎌倉海道の七国山ルートは、鎌倉幕府成立後に拓かれ、峠付近では水に乏しいことからこの井戸が掘られたものと考えられています。ほかに、新田義貞が鎌倉を攻めたとき、軍を進める途中に、ここに井戸を掘り、この井戸の水を軍馬に与えたという伝承もあります。

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鎌倉井戸

井戸掘りの技術は時代によって異なります。江戸時代には10m掘ることも可能になりましたが、鎌倉時代は1mがやっとでした。いずれにしても、水を確保することは人の営みには欠かせません。水脈をみつけるのが得意な人物が強い武将になれた時代もあったのです。加藤清正などもその例でしょう。

昼食は「味の民芸」でうどん御膳をいただきました。疲労回復にと勧められて飲んだ冷やした甘酒がおいしかったです。添えられたレモンがよくあいました。

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ランチと甘酒

昼食後向かったのは薬師池公園です。鎌倉海道に面し、東京都指定の名勝文化財になっている公園には、薬師堂や、古民家、大賀ハスの池があります。

薬師堂は古く天平年間に行基の開基とつたえられますが、室町時代末期に荒廃していた寺を僧興満が再興して福王寺と称しました。現在の薬師堂は福王寺薬師堂のことで、明治15年、今から140年ほど前に再建されたものです。
総檜造りの御堂は内部に贅沢な木組みが施されていて、簗の獅子や龍の彫り物は見ごたえがあります。御堂と外柱をつなぐまがった梁・海老虹梁(えびごうりょう)の透かし彫の龍はなかなかのものでした。(うまく写真がとれなかったのは残念。)
薬師堂の本尊である木造の薬師如来像は平安後期、11世紀ごろの作で、町田市内の木造佛としては最古の仏像です。両脇に日光、月光菩薩を、背後に12神将を従えて、12年に一度、寅年の4月に御開帳されるということです。

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薬師堂
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再建当時流行した火頭窓

公園の一角には江戸時代初期の古民家が移築されています。永井家住宅です。
もとは町田市小野路町にあった農家で、17世紀後半に建築されたものです。町田市に寄贈され、昭和50年に薬師池公園内に移築復元されました。典型的な多摩丘陵地の農村家屋で、多摩地方では最も古い民家に属し、当時の生活を知る上でも重要な古民家です。開口部が少ない上、この時代(5代将軍綱吉・元禄時代)にはまだ畳はなく、床は竹すのこでした。

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古民家

福王寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になり、薬師堂が残っているだけですが、広い公園全体が福王寺の境内でした。阿弥陀堂も今はありませんが、池に橋がかかているのを見て、浄土庭園ではないかと指摘する人もいます。浄土庭園は平安時代から鎌倉時代に流行した庭園の形で、極楽浄土の世界を再現しようと、金堂や仏堂などの寺院建築物の前に池が広がる形をとっています。春分秋分の日の朝陽が池越しに阿弥陀堂の如来の額にあたり、後光がさしているようにみえると、庶民はたいそうありがたがったそうです。浄土庭園といえば、宇治の平等院や平泉の毛越寺、京都木津川のの浄瑠璃寺などが思いうかびますが、その外にも、意外におおくの全国の寺院で採り入れられています。

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薬師池(画面左に橋が架かっているの見える)

薬師池公園の最後の見どころは蓮池です。
「大賀ハス」は、故大賀一郎博士が昭和26年(1951)に千葉県剣見川遺跡の青泥層から2000余年前のハスの実3個を発見し、そのうちの1個だけ発芽に成功したものです。
薬師池公園の大賀ハスは、大賀博士と縁故があった寺や人物から根分けしてもらったものを大切に育てているということです。ちょうど、蓮の開花の季節、早朝に開き始めるという蓮の開花時間はすぎていましたが、運よく少し咲き残った蕾を見つけました。
古代ハスは、今では、国内だけでなく世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っています。 ピンク色の大輪の花は、優雅な美しさと悠久のときを超えた生命力が尊ばれているのだそうです。

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大賀ハス

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私の中の一期一会 №195 [雑木林の四季]

      全英女子オープンに初出場で優勝した“スマイル・シンデレラ渋野日向子”
      ~「プレーオフしたくないから、ワザと3パットします」と言う新人類~

              アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 初めて出場した海外メジャーの全英女子オープンで、日本人として42年ぶりに優勝したプロゴルファー渋野日向子(20)が、一躍“時の人”になった。
 渋野日向子は、去年のプロテストに合格して,この19年シーズンはツアールーキーだが、早くも5月のワールドレディース・サロンパス杯(国内メジャー大会)で初優勝して頭角を表わしていた。
 国内で2勝、賞金ランク2位というルーキーらしからぬ成果を引っ提げて、初めて海外の試合に出たのが全英女子オープンという大舞台だったのである。
 海外では全く無名だから、“ヒナコ・シブノ”なんて誰も知らない。
 だが、そのヒナコ・シブノが初日に7バーディ、1ボギーの6アンダー66でホールアウトして、リーダーボードの上位に駆け上がったから海外のファンは驚いたのだ。
 渋野日向子は「10番で長いパットが入って勢いに乗れた」と振り返ったが、「正直ビックリ、何だか気持ち悪い」と笑ったという。
新聞記事でその発言を目にした私は、“この子は全く物怖じしない子なのかも知れないな”と関心を抱いた。
 海外メジャーが初体験というのに、一日中笑顔を絶やさず、TVカメラを向けられても気にすることなく駄菓子を口にするなんて、プレッシャーでしびれていたら出来ることではない。
 試合中にもギャラリーとハイタッチしてニコニコ。手袋やボールにサインして気易くプレゼンしてニコニコ。小さい子の頭をなでてニコニコ・・・
 その天真爛漫なキャラクターには、“初メジャーのプレッシャー”など、あまり関係ないように見えた。
 キャディとしてバッグを担いだ青木翔コーチ(36)は「特に作戦もありませんでした。経験を積んで欲しかったので、ありのままのゴルフで大舞台にぶつかって欲しかった。よそ行きのゴルフにならなくて良かったと思っています」と4日間を振りかえって語っている。
 予選ラウンドは優勝を狙える好位置につけていたが、最終目標は“来年の出場権がとれる15以内”と控え目であった。
 渋野日向子自身も「全てが経験、欲張らずに攻めのゴルフで、いいプレーを見せたい」としか話さなかった。
 18年のオフにタイ合宿には行ったが、海外経験はそれだけで試合の経験はなかった。
 試合に勝つことを求められて育つ選手が多いスポーツ界で、経験を積むため、無欲でありのままのゴルフを求める青木翔コーチは、次世代型の名伯楽かも知れない。
 笑顔を振りまきながら伸び伸びとプレーする渋野日向子は、2日目には海外メディアから「スマイル・シンデレラ」と名付けられ高感度の注目を集めるようになっていた。
“予選通過できればいいかな・・”と気軽だったせいか、3日目までは余り緊張はしなかったらしい。
 2位でスタートした3日目はさすがに少し緊張していたようだった。
 前半は1バーディ2ボギーとオーバーパーのゴルフで、スマイルも少なかった。、
 9番で3パットのボギーを叩いた時、流れが悪いと思ったのか、10番横の茶店に駆け込んでいる。
 ホールアウト後、「3パットのボギーが一番嫌いで“ブチッと切れた”」と白状していたが、結果的にここで間を取ったのが良かったらしく,直後にバーディが来て、終盤のバーディラッシュにつながった。
  ミスを引きずらず、すぐ気持ちを切り替えることが出来るのが渋野日向子の強みだと言えよう。
 気持ちの切り替えが速いのは、プレーにも表れている。
 彼女のプレーはペースが速い、決めたら迷いなくすぐ打つから見ていて気持ちがいい。
 スマイル・シンデレラは、3日目を終え14アンダーで2位に2打差の単独トップに立ち、最終日を迎えることになったのである。
 日本女子は樋口久子以来、何度も海外メジャーに跳ね返されてきた歴史がある。
 アメリカツアーで賞金女王になったこともある岡本綾子は、87年の全米女子オープンでプレーオフまでいきながら敗れて2位だった。
 日本で6度も賞金女王になった不動裕理も、08年の全英女子オープンで3日目まで首位だったのに、最終日に伸ばせず3位に終わった。
 宮里藍はツアールーキーだった06年、全米女子プロで最終ラウンドをトップでスタートしたが3位でのフィニッシュだった。
 12年の全米女子プロで宮里美香が惜しくも2位、昨年の全米女子プロでは畑岡奈沙がプレーオフで敗れ勝てなかった。
 手が届きそうでなかなか届かないのが、海外メジャーのタイトルであった。
 77年の全米プロで優勝した樋口久子以来42年振りの快挙成るか?・・日本では“期待で大騒ぎ”になっていた。
「明日は緊張すると思いますが、最後まで攻めて頑張れば優勝できるかもしれない。欲張らず・・攻めるのに欲張らずはおかしいですが((笑))でもしっかり攻めていきたいと思います」と語り、優勝なんて考なかったので「緊張しなかった」と答えている。
 最終日のスマイル・シンデレラは、65と猛追してきたリゼット・サラス(米)と17番を終わって17アンダーで並んでいた。
 渋野日向子は18番の2打地点でグリーンが空くのを待ちながら駄菓子を口に入れる(余裕?)があったのだろうか。
 「プレーオフはしたくないから、ロングパットになったら、ワザと3パットします」と青木コーチに言ったというから驚く。
 解説の樋口久子が“新人類だ”と言っていたが、確かに昭和世代には理解できないメンタルの持ち主だと私も思った。
 18番の6メートルのバーディパットは,カップの壁に当って小さくハネてカップに消えた。
 勝った瞬間「ちょっと泣きそうだったが、涙は出てこなかった」と渋野は笑った。
“スマイル”で世界中から注目を浴びた渋野日向子は42年振りに快挙を成し遂げ、スマイルだけではなく実力の持ち主であることも証明した。
「シブコ・フィーバー」・・・
 私が今一番気になっているのは、日本国内の“熱狂ぶり”である。
 帰国早々に出場した日本ツアー「北海道meijiカップ」は“疲労無視”の強行出場であった。
 この試合は38度の発熱などコンディションは良くなかったが、4アンダーの13位タイと健闘した。
 予想されたことだが、大勢の報道陣が渋野日向子の一挙手一投足を追いかけたのである。
 テレビカメラも密着して渋野から離れない。記者・レポーターの過熱ぶりには眉をひそめるものが多くあったようだ。
 ツアー関係者によれば、渋野個人に対する警備体制は、07年に高校生だった石川遼がプロツアーに優勝した直後に匹敵するという。要するに“異常事態だった”と言っていいだろう。
 渋野日向子は無名から突如有名人になって、プライベートまでマスコミがつき纏われるうのだからタマラナイ筈だ。
 休日まで追いかけられれば、スマイル・シンデレラだって「気持ちをコントロールできなくなるかも知れない」と心配になるのも最もだ。
 小泉新次郎と滝川クリステルの寿報道が出たとき「そっちに行ってくれって感じです」といったのは、まさに渋野の本音なのである。
 渋野日向子は、まだ20歳なのだ。彼女のいいところはオンとオフの切り替えが速いことだと言われているが、常に「スマイル・シンデレラ」でいなけりゃいけない・・なんて可哀想ではないか。
 青木コーチなど関係者はマスコミの恐さをよく認識して、“過熱取材”から“渋野日向子という宝”を守って欲しいと私は願っている。
 
 

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浜田山通信 №248 [雑木林の四季]

核禁止条約に署名・批准を

             ジャーナリスト  野村須美

 「悪夢を見るような民主党」といううまい表現がきいて選挙はアベ自民党が勝ったが、年をとると何とも気味の悪い悪夢をよくみる。何かの形をしているわけではないが、気色の悪いことおびただしい。八月はヒロシマ、ナガサキ、敗戦記念日と続く。ことしは韓国との問題が続いた。名古屋では少女像の展示に火をつけるという脅迫状がきて、河村市長はただちに撤去した。京都アニメーションの事件もあったのでびくついたのかもしらないが管理者としては情けない。
 アベさんも他人さまのこととなるとたとえがうまくなるが、自分のことには弁解さえしようとしない。8月9日ナガサキでの平和記念式典に参列しあいさつの中で「唯一の戦争被爆国として『核兵器のない世界』実現にむけた努力をたゆまず続けること。これは令和の時代においても変わることのない我が国の使命です。」といいながら、田上富久長崎市長の訴えた「日本は今核兵器禁止条約に背を向けています。一刻も早く条約に署名、批准してください。」には全く耳を貸そうとはしなかった。ただ「核保有国と非核保有国の橋渡しに勤め、双方の協力を得ながら対話を粘り強く促し、国際社会の取り組みを主導していく決意です」と述べるにとどめた。詭弁というほかない。
 自らが核の傘に入りながら何が核保有国と核反対国との橋渡し役になるというのか。どうして唯一の被爆国が核禁止条約を批准したら橋渡し役ができないのか。
 とにかくいまなお13880発の核兵器があり、アメリカとロシアは両国の間で締結している中距離核戦力全廃条約からの離脱を宣言した。核保有国はいまやイスラエル、パキスタン、インドなどにも拡がり、いつどこで核戦争が始まるかわからない。そうなれば地球は終わりだ。ローマ会議だかが、もう何十年も前から地球滅亡2分前とか3分前とか発表していたが、最近そんなニュースも見ない。恐怖の均衡が続いて皆疲れてしまったのだろう。
 だからといってこのまま放っておいていいわけではない。せっかく2017年に核兵器禁止条約が国連で採択されたのに、唯一の被爆国日本が署名も採択もしていない。これはどう考えても何度繰り返してもおかしい。日本はアメリカの属国だろう。なんだってアメリカの顔色をうかがい、終戦後74年間アメリカのいいなりになってきた。いいなりにせざるをえなかった。しかしせっかく国連が決めたのさえ何だかんだ屁理屈をつけて認めようとしない。
 私は毎晩のように悪夢をみる。脳の構造はひびが入ってきている。同じことを何度も繰り返す。しかし核禁止条約だけはなんとしても署名批准してほしい。
 プラスチックごみや地球温暖化、大問題が次々に地球を襲ってくる。もとはといえば人間の営為からきたこと。人間は反省、自己批判する能力を持っているのだからがんばろう。

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BS-TBS番組情報 №192 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年8月のおすすめ番組(下)

                 BS-TBS広報宣伝部

高嶋ちさ子 麗しのポーランド音楽旅

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2019年8月18日(日)よる9:00~10:54

☆高嶋ちさ子が、初めて訪れるポーランドで様々な音色に出会う

出演:高嶋ちさ子

今年、国交樹立100周年を迎えるポーランド。
日本人にはあまりなじみのない国に思えるが、実はピアノの詩人・ショパンの故郷としても知られる音楽の国で、近年観光客も増加中。果たして高嶋さんにどんな出会いが待っているのか?
高嶋さんが訪れるのは首都・ワルシャワ。ボタンを押すとショパンの曲が流れるベンチや、ピアノの鍵盤模様の横断歩道など、音楽の国らしい風景がある街中を散策。世界屈指の名門国立大学「ショパン音楽大学」では、音楽家を目指す若者に出会う。学生時代に留学していた高嶋さんも若者の思いに共感!?
世界遺産でもある古都・クラクフ。ここは、1222年創建の聖マリア教会から1時間に1回、ラッパの吹奏が町に鳴り響く。世界で最も古いとも言われるショッピングモールには50を超えるお土産店が。しばし旅を楽しみながらポーランドならではのお土産探し!
そして山岳リゾート・ザコパネ。代々ヴァイオリン製作に携わる工房を訪ねる。さらにヴァイオリンを使う地元の民族舞踊楽団を訪れた高嶋さんは・・・?知られざるポーランドの音色に出会います。

映画「日本のいちばん長い日」

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2019年8月17日(土)よる9:00~11:24

☆戦後70年を迎えた今だからこそ、伝えたい。1945年8月15日の知られざる衝撃の真実がいま明らかになる!

【キャスト】
役所広司 本木雅弘 松坂桃李 堤真一 山﨑努 神野三鈴 蓮佛美沙子 大場泰正
小松和重 中村育二 山路和弘 金内喜久夫 鴨川てんし 久保酎吉 奥田達士 嵐芳三郎
井之上隆志 矢島健一 木場勝己 中嶋しゅう 麿赤兒 戸塚祥太(A.B.C-Z)
田中美央 関口晴雄 田島俊弥 茂山茂 植本潤 宮本裕子 戸田恵梨香(特別出演)
キムラ緑子 野間口徹 池坊由紀 松山ケンイチ(特別出演)

【スタッフ】
監督・脚本:原田眞人
原作:半藤一利「日本のいちばん長い日 決定版」(文春文庫刊)
音楽:富貴晴美
2015年/日本

▼日本映画史に誇るべき衝撃と感動の歴史サスペンス超大作!
累計動員100万人を突破した大ヒット作品。史上最大の危機を迎えた日本で、一体何があったのか?2014年9月に宮内庁から発表された「昭和天皇実録」を踏まえ、これまで誰も描くことのなかった今だからこそ描ける歴史の裏側に迫る。
▼昭和史の大家・半藤一利の傑作ノンフィクションを原田眞人監督が完全映画化。
原作は大ベストセラーとして読み継がれる「日本のいちばん長い日 決定版」、さらには昭和天皇とともに戦争終結に導いた鈴木貫太郎の姿を描く「聖断」を参考文献としている。また、監督・脚本は社会派ドラマ「クライマーズ・ハイ」や、家族の姿を描いた「わが母の記」でモントリオール世界映画祭審査員特別グランプリに輝いた原田眞人が丁寧に描く。
▼日本を代表する最高峰のオールスターキャストが豪華総出演
役所広司、本木雅弘、山﨑努、堤真一ら実力を兼ね備えた豪華映画俳優陣に加え、松坂桃李といった若手人気俳優の共演も魅力。キャスト数だけでも総勢130名を超え、映画、テレビ、舞台、狂言界と様々なジャンルから実力派キャストが本映画に集結し脇を固めている。
【ストーリー】
太平洋戦争末期、戦況が困難を極める1945年7月。連合国は日本にポツダム宣言受諾を要求。 降伏か、本土決戦か―――。
連日連夜、閣議が開かれるが議論は紛糾、結論は出ない。 そうするうちに広島、長崎には原爆が投下され、事態はますます悪化する。 “一億玉砕論"が渦巻く中、決断に苦悩する阿南惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣(役所広司)、国民を案ずる天皇陛下(本木雅弘)、
聖断を拝し閣議を動かしてゆく鈴木貫太郎首相(山﨑努)、 首相を献身的に支え続ける迫水久常書記官(堤真一)。

サマーレスキュー~天空の診療所~

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8/14(水)スタート
月曜~金曜午後5 :00~5:54

☆向井理主演!尾野真千子、菅田将暉ら豪華キャスト出演のヒューマンドラマ!
──標高2500メートル。この診療所には、医療の原点がある。

脚本:秦 建日子
演出:日比野朗
制作年:2012年 全10話
出演:向井理、尾野真千子、小池栄子、三浦理恵子、山崎樹範、菅田将暉、小澤亮太、能年玲奈、本田望結、戸次重幸、中田喜子、笹野高史、佐藤二朗、松重豊、時任三郎 ほか

標高2500mという、厳しい環境に実在する小さな診療所をモデルに、“医療の原点”を見つめ直すヒューマンドラマ。医師や医学生、ナースが生きる悩みを抱えながら患者と接し“命とはなにか、医術とはなにか”を体感していく、ひと夏の群像劇を描く。
主人公・速水圭吾を演じるのは、この作品がTBS連続ドラマ初主演だった向井理。速水は大学病院で将来を嘱望されているクールな若き心臓外科医だが、上司からの命令で夏の間、山の診療所で患者を診ることになる。 そして、ヒロイン・小山遥を演じるのは尾野真千子。遥は山小屋を経営する両親に育てられるが、5歳の時、山の事故で母親を亡くしてしまう。その影響から看護師になったが、ある事件をきっかけに逃げるように山小屋に帰ってきた。また、そんな二人を支えるのは時任三郎演じる倉木泰典。倉木は速水が出向く「山の診療所」の責任者。“命とはなにか、医術とはなにか”を体感し、“医療の原点”に気づき変化していく速水と遥に、強く影響を及ぼす。ほか小池栄子、本田望結、笹野高史、佐藤二朗、松重豊ら豪華な実力派俳優陣が出演。

■8月14日(水)
第1話「標高2514Mに急患あり!」
速水圭吾(向井理)は、大学病院で将来を嘱望されているクールな若き心臓外科医だが、上司からの命令で、夏の間、とある山の診療所で患者を診ることになる。標高2000m超えという厳しい環境では、検査機器や薬はごく僅か。最新鋭機器を使いこなし、先端医療で活躍する速水は、存在意義のわからない山の診療所でカルチャーショックと挫折を経験する。
ここでは、医師たちは進歩した現代医療から切り離され、患者に手で触れて、目で見て、会話をし、そこからすべての診断をつけてゆく。そこには「医療の原点」があった。そして山で、ある女性と出会うことによって…。


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バルタンの呟き №62 [雑木林の四季]

        「2020TOKYO」によせて

              映画監督  飯島敏宏

 2020TOKYOオリンピック・パラリンピックまで、あと一年を切りました。最近すっかり鳴りを潜めた日本国内の政治記事に代わって、矢鱈にオリンピックがらみのスポーツネタが、新聞ばかりでなく、NHKをはじめ、テレビ各局のニュースのトップを占めているような気がします。もっとも、週刊誌、月刊誌は、2020TOKYオリパラどころか、その先に待ち受ける超高齢化社会の、死の世界から、さらに死後の世界までがトップを飾っている始末ですが・・・

 僕にとって西暦2020年といえば、バルタン星人の原点と申しますか、宇宙人ものの淵源となった、ケムール人が、地球にやって来る年に他なりません。50年以上前に円谷プロで撮った空想特撮ドラマ「ウルトラQ・2020年の挑戦」です。その頃の僕たちにとっては、遠い遠い未来だった、西暦2020年の地球に他ならないケムール星から、1950年ごろの地球へ、過度に発達した文明と引き換えに、極限まで悪化した環境に耐えるために、醜怪な外皮に包まれた劣悪な体躯と化してしまったケムール人が、健全な肉体を具える地球人を拉致するためにやってくる、という物語でした。
 その設定を発展させて、たび重なる核爆発、核戦争で居住不能にまで荒廃したバルタン星を離れ、宇宙流浪の果てに、いまから50年ほど前の地球に到達して、地球人との共生を求める「ウルトラマンシリーズ・侵略者を撃て」に登場する宇宙人が、バルタン星人なのです。勿論、バルタン星は、未来の地球を示唆する反面教師という設定でした。

 その、2020年が、いよいよカウントダウンの段階にまで迫ってきてしまったのです。正直のところ、「ウルトラQ」を撮っている頃には、西暦2020年といえば、遠い遠い未来でした。まさか、自分自身が、その地球に存在してその日を迎えることになるとは、考えもしませんでした。
 そして、現実はどうでしょう、2020TOKYOオリンピック・パラリンピックのニュース画面、新聞紙面に登場する、日本の陸上水上の候補選手たちの、「ウルトラQ」撮影当時には思いもよらなかった見事な体躯と美しさは、目を見張るどころか、驚嘆すべきものがあるではありませんか。これでは、僕は、大嘘つきだった、といわれても仕方がありません。一時は、来年は、ひっそりと鳴りを潜めて、何処ぞに蟄居してやり過ごそうか、という気もちになりかかってしまいました。

 しかし、しかしです。幸いにも、といっては語弊がありますが、ここへきて、あながちそうではないかもしれない、という気配が、急激にかいま見えて来たのです。大外れどころか、予見を遙かに超えた、地球環境の激変の兆候が、顕われはじめたのです。

 オリンピック競技の開催時期が、日本の、最悪な時季である、という愚かな事実は、オリンピック競技大会そのものが、IOCによる商業主義的な運営によって変貌してしまったことはさておいて、開催に自ら名乗りを上げて獲得してしまった日本の自己責任であることは動かし難い事実です。しかも、これは必ずしも、民意ではなく、徒に経済成長を狙った政策であったのも否めません。復興五輪をうたいながら、膨大な競技施設の建設に事業従事者人口を奪われて、東北の復興は停滞し、さらに、引き続く災害の拡大で、肝心の復興事業は停滞するばかりですが、楽天的な国民性といいますか、いまは、ともかくオリンピック・パラリンピック、とチケットも売り出されて、カウントダウン、気運も盛り上がりつつあるように報じられています。

 冷却のために敷き詰められるということで開発された走路の特殊舗装の効果も確たるものでなく、セ氏40℃を超える高温と、多湿の環境で走り続ける42,195キロメートルマラソンの苛酷さもさることながら、体温を超える水温で、しかも、耐えがたい臭気と、防ぎ得ない細菌に怯えながら泳ぐトライアスロン水泳のテスト泳者をして、その不潔不快に音を上げさせざるを得なかったというニュースもあります。
 異常な高温多湿がもたらす、未経験の熱帯性疫病のパンデミックも十分な対応処置が待たれます。
 さらに、周期的に見て、喫緊の災害対策を求められている、南海トラフの大地震の逼迫もあります。
 さらに、なによりも重大な危惧は、いまや、辺境までも巻き込んだグローバルな過剰経済成長がひき起こすにちがいない戦争です。その果てにあるものは、AIが操縦する兵器による非人道的戦争と、核戦争です。卑近なところでは、北朝鮮をめぐる軍事列強国の対応があります。なかでもとりわけ剣呑なのが、選挙対策に狂奔するトランプ大統領が「北朝鮮のミサイルは、アメリカ本土に届かない、短距離ミサイルであれば、問題ない」と、ツイートするアメリカです。北朝鮮が発射実験を繰り返すミサイルが、グアムには届かなくとも、沖縄、そして、TOKYOには、充分届くのです。カッコ着き挙国一致、この道しかありません」と、「強固な軍事同盟を堅持」しようと、異論を許さずに邁進する日本の2020年です。
 あの日「皇国に生を享けたる諸君の進むべきただひとつの途である」といって学生たちを戦場に送り込んだ東条英機総理大臣と同じフレーズで、「この道しかありません」と唱える道の先に、全国民を巻き込む恐ろしい戦争が待っているのだけは、御免蒙りたいものです。
 レイワよ、平和であれ!2020・8・15平和の日に、靖国にひと柱の霊も送り込むことが無いように、と祈ります。そのために、大嘘つきめ!と叱られるのは大歓迎です。

 8月15日。終戦記念日。


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医史跡を巡る旅 №59 [雑木林の四季]

「博愛精神のルーツをたどる・日本赤十字社の活動」

                      保険衛星監視員  小川 優

太平洋戦争終戦後、日本が戦争を起こすことはなく、また巻き込まれることはありませんでした。それ以前の度重なる戦争の時代に比べると、とても幸せなことです。そしてそのことは赤十字の使命である戦場での救護活動に、当事者として従事せずにいられたということになります。
必然的に、日本赤十字社の活動内容も変わっていきます。平時における赤十字病院の運営と、病院運営を通じた看護教育活動については、前回取り上げました。このほかに平時の活動の柱として、日本赤十字社が主体として関わっている事業には、災害時の救護活動と、血液供給事業があります。

「日本赤十字社創立七十五年記念」

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「日本赤十字社創立七十五年記念」~昭和27年(1952) 記念切手および記念押印

地震、噴火、台風、豪雨と日本は自然災害の多い国です。また国土が狭く、住宅が市街地に密集しているために一度火災が発生すると、大火となります。さらに多くの乗客が利用している列車、船舶、航空機が事故を起こすと、多数の死傷者が発生します。これらの現場で被災者の救護を行う際、現場周辺の医療機関だけではキャパシティの問題として、とても対応しきれません。一方これらの災害時医療は、平時の診療と大きく異なっており、災害時医療について教育訓練された医療従事者が必要とされます。
赤十字救護員はもともとが、戦時看護から発生しただけあり、こうした災害医療についてもエキスパートであるといえ、大きな災害が発生した際には、赤十字から医療チームが派遣されます。

「赤十字思想誕生百年記念」

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「赤十字思想誕生百年記念」 ~昭和34年(1959) 記念切手および記念押印

災害時の救護活動は、明治21年、福島の磐梯山噴火に救護班を派遣したことに始まります。磐梯山の麓、毘沙門沼には「日本赤十字社 平時災害救護発祥の地」碑があるそうです。
以後、戦前だけでも濃尾地震、三陸津波、関東大震災と大きな自然災害ごとに赤十字救護班は派遣され、多くの命を救いました。戦後も南海、福井、新潟、阪神・淡路、東北といった地震・震災や、台風や豪雨災害などの自然災害のほか、日航機墜落事故や桜木町、三河島などの列車事故にも出動しました。法律的には災害救助法や災害対策基本法が整備され、日本赤十字社は指定公共機関となり、災害時活動の責務を担っています。
また災害により被災した人々に対する災害救援物資の配布、被災地のための募金活動も行っています。

「赤十字100年記念」

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「赤十字100年記念」 ~昭和38年(1963) 記念切手および記念押印

もうひとつの血液事業は、輸血の有効性が広く認められるようになって、必要性が高まった事業です。
昭和5年(1930)、東京駅で濱口雄幸首相が銃撃された際、駅長室で輸血する応急的な処置を行って一命を取り留めたことで、「輸血」という言葉が広く知られるようになります。
その後戦地において失血死を防ぐために輸血を行うことも増えますが、あくまで命を救うための緊急措置という認識から、血液型の誤認による不適合事故や、血液を介する感染症の発生も相次ぎます。
また無償的行為であったはずの供血が、第二次世界大戦後には商業血液銀行を介して売買されるようになり、貧しい人々の売血行為を誘発しました。もちろん人間の造血能力には限りがあって、栄養状態や健康状態にも左右されます。造血能力を超えた頻繁な採血は、血球成分や濃度に影響し、輸血を受けた側にも輸血効果の低下というかたちで問題が生じます。いわゆる「黄色い血」です。
さらに昭和23年(1948)、東大病院において供血の病原体汚染に気付かぬまま、患者に輸血を行い、輸血による梅毒感染事故が発生します。また昭和39年には駐日米大使であるエドウィン・O・ライシャワー氏が日本人少年にナイフで刺されて重傷を負った際、治療の際の輸血を原因として肝炎を発症します。

「国際赤十字献血年」

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「国際赤十字献血年」 ~昭和49年(1974) 記念切手

血液の安全な供給が急務となり、昭和27年(1952)に日本赤十字社中央病院に日本赤十字社血液銀行東京業務所を開設、日本赤十字社による血液事業が開始されます。併せて昭和31年には「採血及び供血あつせん業取締法」が施行、輸血、医学的検査以外の、業としての人体からの採血が禁止されるとともに、供血あつせん業が許可制となります。
その後昭和39年、輸血用血液は献血により確保するよう閣議決定がなされ、日本赤十字社以外の民間商業血液銀行の血液供給が縮小、昭和49頃には献血による血液供給100パーセントの体制が確立されます。

「献血発祥之碑」

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「献血発祥之碑」 ~東京都渋谷区広尾 日赤医療センターバスロータリー植込み

日本赤十字社血液銀行東京業務所は輸血研究所、中央血液銀行と名を変えたのち、昭和39年(1964)に日赤中央血液センターとなり、平成18年(2006)に江東区辰巳に移転します。かつて日赤中央血液センターがあった日赤医療センターには、「献血発祥之碑」があります。しかし碑の由来については説明もなく、寂しい限りです。

「赤十字条約成立第七十五周年記念」

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「赤十字条約成立第七十五周年記念」 ~昭和14年 記念切手および記念絵葉書

日赤本社ビルの玄関ロビーには、赤十字の創始者アンリ・デュナンと、日本赤十字創始者の佐野常民の銅像が向かい合わせに設置されています。

「アンリ・デュナン像」

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「アンリ・デュナン像」 ~東京都港区芝大門 日本赤十字社本社ロビー

「佐野常民像」

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「佐野常民像」 ~東京都港区芝大門 日本赤十字社本社ロビー

戦争の時代に世界そして日本において、最初は戦時救護から始まった赤十字活動ですが、その分け隔てのない救済思想は現在もなお、脈々と受け継がれています。

「赤十字思想誕生150周年記念」

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「赤十字思想誕生150周年記念」 ~平成21年(2009) 記念切手および記念押印

これにて日本赤十字社の歴史を辿る、一巻の終わりと相成ります。

「今回の参考文献」

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「今回の参考文献」

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台湾・高雄の緑陰で №25 [雑木林の四季]

米・中貿易戦の狭間にある台湾

         在台湾・コラムニスト  何 聡明

東西冷戦持続中の1970年代米国のニクソン政府はソヴィエトロシアを牽制するため、領土問題で同じく共産国家の中露関係が悪化していた中華人民共和国政府と友好を始め、更に1979年カータ政府は台湾へ亡命していた中華民国国民党政府と断交し、中華人民共和国と国交を結んだ。

全球化(Globalization)を提唱した米国は中国が西側諸国と貿易を促進する事によって得る富で民主化へ転向することを期待し、中国のWTO加入を支持した一方、西太平洋の要に位置する台湾を軽視する政策を取るようになった。だが、平和立国を唱えて国家資本を使い各国と貿易を強化した中国はその巨額の富を行使して着々と陸海空軍の現代化と増強を進めた。更に2013年習近平氏が中国共産党のトップに就任するとアジアとアフリカ大陸、中南米の発展途上国家に援助資金をばら撒く「一帯一路」と呼ぶ経済侵略政策を立案し、2015年にそれを実行に移したのである。今中国は日本を追い抜いて世界第二の経済大国にのし上がった。

2017年1月にトランプ氏が米国大統領に就任すると、長足の経済発展をとげた中国が民主化どころか、経済面で世界制覇を目指す一方、急激に軍備を拡張をしていることに危機感を抱き、2018年6月に対中経済制裁に踏み切った。中国も米国に対抗して米中貿易戦争は現在も進行中である。トランプ氏は同盟国である日本を含む民主主義国家にも貿易不均衡の理由で制裁を加えると恫喝したが、米国が同盟国と中国を同一視するの無理で軽率でもある。その後、米国はEUの代表やカナダ政府と折衝を重ねて制裁は緩和されたようだ。

注目に値するのは米国が西太平洋の要に位置する台湾の戦略的重要性を再認識したことである。1980年に台湾で残存した中華民国と断交後、米国は国内法として「台湾関係法」を立法したが中国に気兼ねして台湾との経済関係は防衛用武器のセールスと一般の貿易に限られた。2016年末大統領に当選したトランプ氏は台湾の蔡英文総統から祝賀電話を受けた時、異例にも蔡氏を「総統」と呼称して中国の不興を買った。2018年3月以降米国国会は米台両政府高官の相互訪問を許す「台湾旅行法」と国防に必需の武器を台湾へ売却する「国防授権法」を立て続けに立法し、大統領が署名公布した。米国防省は台湾海峡は公海であることを強調し、米駆逐艦が台湾海峡を2度航行したと発表し、今後とも米艦艇の台湾海峡航行を続けると声明、それを実行している。台北市内に新築された広壮な「アメリカ合衆国駐台湾会館(AIT)」には米海兵隊員が警備に当たることが決まり、AITビルが大使館と同格の外交機構であることを意味する。

米国の新しい対台湾政策に中国が苛立つのは当然だが、中国が長らく続けている台湾に対する面あてと仕打ちは余りにも粗雑で滑稽でもある。中国政府は台湾へ向かう貨客機の目的地を「台湾台北」ではなく「中国台北」に改めるよう各国航空会社に強要した。また4年前既に台湾の台中市で挙行することが決まっていた2019年8月開催予定の「アジア青年運動会」の取り消しを発表するなどヒステリックな言動を繰り返している。

中国政府は勝手に台湾は先祖より残されたた国土の一部であり、時至れば武力を行使してでも絶対に統一すると恐喝するが、その先祖がどの民族であるかを明らかにしていない。若しその先祖が漢民族ではなく欧亜大陸を一時征服統一した蒙古の覇者ジンギスカン(中国人は元朝の始皇帝と呼ぶ)であれば、ウラジボストックを含む東シベリヤ、中央アジア、イラン、現在はEUのメンバーである東ヨーロッパのオーストリヤ、ハンガリー等々を含む諸国も先祖が残した領土となるが、その広大な地域を中国の一部であるから時来たらば武力で統一するとは公言していない。

中国が若し対米、対欧、対日の貿易戦争で敗北して莫大な財力と投資資金を失い、「一帯一路」に依る世界経済制覇の夢が消えれば、既に現代化した軍隊を駆使して武力で世界覇権の道を選び、その手始めに中国は台湾または尖閣列島の武力奪取に踏み切るかもだ。民主主義諸国は習近平主導の中国が経済と武力の二刀流の使い手であることをよく認識して、対応策を講じなければならない。

商人出身のトランプ大統領は現在アメリカ合衆国内外での評判は毀誉褒貶半々であるが、対内には専制統治、対外には経済と軍事侵略で暴走する共産党一党独裁の中国政府に対抗するトランプ氏の政策とその執行力を筆者は高く評価する、その政策が中国の世界制覇への野望を阻止できると考えるからである。


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いつか空が晴れる №65 [雑木林の四季]

    いつか空が晴れる
          -ロング ロング アゴー―
                      澁澤京子

 子供の頃、祖父の家に遊びに行くと、時々祖父はハーモニカを出してきて「峠の我が家」や「ホームスウィートホーム」を吹き始めることがあった。
晩年の祖父は、よく自分の子供時代のことを話してくれた。夕方になると、庭に蝙蝠が飛んでいた話、床に映るステンドグラスの青い影を海にみたてて、おもちゃの船で遊んだ話・・
子供時代の回想をする祖父に、こうしたノスタルジックな曲はぴったりだった。

祖父は昔、田園都市計画のために欧米に視察に行ったことがあって、特にアメリカを気に入っていた。
ある日、祖父の家で夕食を済ませた後だったと思う。祖父がアメリカをほめるような話をひとしきり話した後、こう締めくくった。
「あんな物資の豊富な国を相手に、日本が戦争をしたなんて、実にバカバカしいことだね。」
「バカバカしいですか?何がバカバカしいんですか?」
父はカッとしたのか、急に声の色が変わった。隣に座った母が無言で制止しなかったら、父がなにを言い出すか分からないような不穏な空気が辺りに流れた。
俯いて怒りを押さえた父は、耳まで赤くなっていた。
戦争に行った父は、友達を戦争でたくさん失った。普段は靖国神社を否定しているような父だったけど、祖父からそういわれるのは我慢ができなかったのだろう。

今年の長い梅雨に体調を崩して入院し、退院したばかりの父はめっきり身体の衰えが目立つようになってきた。
そして父もまた最近は、祖父のように子供の頃や若いころの思い出を語ることが多くなってきた。
Sという早逝した叔父(父のすぐ上の兄)がとても優しかったこと、長女であるE子叔母が若いときとても美人で、銀座を連れて歩くと皆が振り返るのが自慢で、学生の父はよくE子叔母を誘っていろいろと連れ歩いたこと・・
「E子さんが老人ホームから遊びに来てくれって、手紙くれてね、僕は一度会いに行けばよかったと思ってね・・」

また家族団らんのときは、暖炉のある居間で、誰かの伴奏で「ロングロングアゴー」を兄弟姉妹みんなで歌ったりして遊んで過ごしたらしい。そして、それがとても楽しかったこと・・・・
家族団らんのときに、皆でロングロングアゴーを歌う大正生まれの子供たち。なんだか、のどかな時代だったんだなあ、と微笑ましい。

祖父母はもちろん、父の兄も姉たちも皆亡くなって、今はもう父が一人残された。

生前、様々な確執があったのだろう、父の兄も姉たちもそれぞれが仲良く付き合うということはほとんどなかったし、父は祖父に親孝行していたけれど、同時に反感のようなものを持っている部分も微妙にあるのは子供の私にも感じられた。

しかし、最近の父を見ると、父が今、誰よりも懐かしく会いたいのは、祖父母、そして大人になってからはあまり仲良くすることのできなかった、自分の兄や姉たちじゃないかという気がするのである。

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梟翁夜話 №45 [雑木林の四季]

髭二題:その1「タゴールの美髭」

                 翻訳家  島村泰治

髭を生やすと云うか立てると云うか、はたまた蓄えると云うか、近ごろ其れは髭次第だということに気付いた。改めて見れば、生やす髭が無精に思え、立てる髭が気障に見えるから妙だ。髭は蓄えてこそ髭だと思えるまで概ね30年、髭を整える面倒をわがものと思う愛着が凌ぐようになって、いまは髭のない暮らしが空虚にさえ思える。

髭を考えるようになったのは毛に銀が目立つようになってからのことで、毛深い質(たち)だから無精髭を剃り残した顔の黒々とした様子が厭で、剃刀は上等のを選んで、常に青々と剃り上げていた。髭剃りは男子の欣快とすら思っていた。これも質か、40から50にかけて月代から顎へ銀がちらほら混じるようになった。頭髪は鬢(びん)辺りに銀の塊が固まって生えるようになった。

髭も佳かろうと思いはじめたのはその頃である。トルストイやタゴールの見事な銀髭を眺めながら、ぐんと老いればこれも佳かろうと思ったものだ。

髭は人を大仰に見せるものだ。大使館勤務のころ、大使に付きそう通訳として、らしからぬ面相は不味い。けだし銀も混じった整った髭は、面相に品を添えるものだ。20年余の大使館勤務の最後の数年間、丸善などを徘徊して整髭具を見つけ世間の髭自慢を観察し、ようやく自分の髭を拵えた。髭作りは知る人ぞ知る結構な愉しみなのだ。年ごとに銀が増えて我ながら見られる髭になった。毛深い質がしっかり生きたのである。

84歳を過ぎて、わが髭は混じりけのない銀髭になった。月代も伸ばし切って顎下一寸で留めた銀髭は、銀髪と調和してあたかも顔面を囲む銀のリング、われながら見事な銀の衣裳を顔に纏った風情である。頭髪に見られる裾回りの癖毛が髭にも現れて、なかなかの趣だ。九十翁になれば、タゴール並みの美髭を愉しみたいものだと、いまから企んでいる。

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