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立川市長20年の後に №21 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

立川市長20年の後に№21
革新市長の一声から再開発に曙光がさした
                                     前立川市長 青木 久

開発計画を市民参加で基本から見直そう
 1971年(昭和46)8月、鈴木市長満期退任に伴う市長選挙が行われた。保守系からは地元財界の実力者・万田勇助氏が、革新系からは共産党と社会党が推薦する都立大学教授の阿部行蔵氏が立候補した。当初の予想では、それまでの立川市政にあっては、保守系が優位に立って市長の椅子を守ってきていたことからして、万田候補優勢とみられた。
 しかし、社会の状況は様変わりしていた。1967年(昭和42)、革新系の美濃部亮吉氏が都知事となって以後、反公害・社会福祉・憲法擁護を訴える革新候補が自治体首長となる傾向が生まれていた。神奈川、京都、滋賀、大阪、岡山、島根などの知事。横浜、名古屋、大津、京都、神戸などの市長。そして
東京都の市長では、武蔵野市、田無市、日野市、保谷市、町田市などを革新系が占めていた。
 こうした状況からして、保革両陣営は熱い選挙戦を繰り広げた。その結果は、
   阿部行蔵氏         26,983票
   万田勇助氏          18,981票
 大差で勝利した第10代立川市長阿部行蔵氏はすぐさま革新市政に着手した。
  「汚職と利権をなくす」
  「いのちと暮らしを守る」
  「基地返還をすすめ、豊かで平和な立川をつくる」
 この三項目を市政の柱とすると宣言。
    「自衛隊の移駐反対」
 という垂れ幕を市庁舎正面に吊した。
 市議会に向け、翌1972年(昭和47)年度から、老人・身障者への手当てと中小企業への緊急融資を行う条例を提起した。
 その内容は、老人手当てとして約3400人いる70歳以上の老人に、毎月1,200円を、身障者には月額1500円を支給する。中小企業には緊急融資を行うなどであった。
 また、立川駅南口再開発への取り組みについて、
 「市政は住民本位、民意を大切にすることが根本だ。これまでの計画は、いったん棚上げして、計画を根本から見直そう」
 この一声から、膠着していた泥沼に曙光がさした。それまで、開発反対の立場にあった、革新政党が与党となり、市民の立場に立って開発を推進すると転換したからだ。
 阿部市長も、この年の12月には、市民との初の対話集会に出席して、理解を求めた。とはいえ、担当者がこれまでの開発事業の経緯を熟知していないと、話し合いはすんなり軌道に乗らない。
 翌1972年(昭和47)5月、異動で私は総務部長から福祉部長に転じた。私の耳には、市政の最大の事業である立川駅南口再開発事業は、停滞しているとの噂が聞こえてくる。気にはなるのだが、当面は福祉が本務だと、業務に打ち込んだ。着任して3ヶ月、福祉の業務の骨格がどうにか把握できた。
 ところが8月末のある日、阿部市長は私の席まで足を運んでこられた。
 「青木君、現場に出てくれ。私も頑張る。君は企画財政部長として、計画の統括をして欲しい」
 阿部市長は、敬虔なキリスト者だ。その誠実さを私は今も敬愛している。私は即座にお引き受けした。 この開発に立川市の発展の成否がかかっている。
 私は南口の区画整理事務所を本拠にして活動をはじめた。事務所は、南口の大通りの四つ角に昭和初年に建てられた元農工銀行二階建てのビルだ。
 市民参加の立川市駅南口都市改造計画調査委員会が発足、再開発反対の市民も、対話集会に参加した。市民の意見をくみ取り、計画の一部にも手直しが加えられた。
 住民の意向をくみ取って、市政を展開するのは、保守であれ、革新であれ、地方行政の大原則だ。  私たちは都市計画の観点から、再開発で都市機能と、地権者の資産価値も向上することを訴える。これに対して反対住民は、それが権力的な計画であり、地元住民の生活の低下につながると反論する。建前としての反対の蔭には、地権者の資産の評価、減歩などによる、利害の思惑が根底にある。
 地権者一人一人との交渉がはじまると、誠意と根気が話し合いの基礎だ。金額についての議論はもちろんだが、お互いの信頼をどのようにして生み出すかが問題だった。
 立川市の計画によって、地権者が不当な損失を受けないことを、地権者個々人に理解してもらう。それは私たち担当者を信頼してもらうことが不可欠だ。
 私たちは、倦むことなくひたすら、話し合いを重ねた。公正な土地の評価、買い上げによる地権者の損失が出ないように、細心の配慮をした。いつしか、市民の表情が柔和になり、お互いが笑顔になった。
 1974年(昭和49)2月、錦町1丁目の48街区に位置した建材業・鈴木伊一郎さんの建物の移転工事に着手できた。それは、再開発の歯車が大きく動き始める転機だった。これに続いて、錦町地区では、次々に移転工事が進んだ。柴崎町地区では、1975年(昭和51)に「東武ストア」の建設に着工。南口駅前大通も再開発の手がつき始めた。この後も、地道な話し合いは繰り返された。翌1975年(昭和50)1月、市民の要望を採り入れた事業計画変更が認可された。

立川市を多摩の中核として構想しなければ
 まだまだ時間はかかるが、南口再開発は着実に進んでいる。市政の中枢機構を預かる私としては、立川を多摩の中核とする構想を発展させなければならない。
 先輩、専門家の意見を求めた。当時、府立二中(現立川高校)での同期生・石川要三君は、青梅市長を経て中堅衆議院議員として活躍していた。石川君は、思うところを話し出すと止まらない。
 「青木、立川市が多摩の中核として発展することは、単に立川市にとっての問題じゃないぞ。膨張拡大する首都圏にとって、人の流れを支えるのは交通網だ。大量輸送の決め手は鉄道だ。多摩地区と都心を結ぶ東西の動脈は中央線だ。これを高架・複々線化すれば、一般道路の渋滞・輸送効率は計り知れない。立川の発展こそが西多摩全域の発展をもたらす」
 私たち二人の間に、意見の食い違いはない。私も主張する。
 「首都圏の基幹となる鉄道は、東海道・東北・中央・総武・常磐の5線だ。国鉄当局は、通勤輸送向上5方面作戦と銘打って、線路の整備拡充に努めてきている。しかしだ、中央線への取り組みは大きく遅れている。それはとりもなおさず、多摩地区の発展の遅れだ。すでに、立川市が中核として国鉄に働きかけ、中央線の立体化複々線化を進めている。そのこと立川駅南口再開発は、連係しているんだ」
 それぞれの立場で、この構想に取り組もう。私たちは、よく話し合い、情報を交換した。

米軍基地返還・陸上自衛隊駐屯
 アメリカ軍立川基地は、1963年(昭和43)から滑走路の延長計画を放棄、1969年(昭和44)、飛行業務の停止を発表した。ベトナム戦争の終結と、大型機の離着陸に適しないことが理由だった。
 基地拡張に反対する「砂川闘争」は、1955年(昭和30)以来、20年にわたる闘いの終結を向かえる。
 アメリカ軍から立川基地の全面返還の方向が見えてきた。
 1971年(昭和46)、東京都は、立川基地跡地利用を前提とした「広場と青空の東京構想」を発表。さらに首都圏整備委員会も、立川基地跡地利用の基本構想を発表。つづいて立川市議会も基地跡地の平和利用計画案を発表した。
 1972年(昭和42)3月、陸上自衛隊の立川基地移駐に反対して、阿部市長以下の幹部職員は基地正門前に座り込んだ。ところが、陸上自衛隊の先遣隊47人は、ヘリコプターで基地に移駐。肩すかしにあい、阿部市長は部下と共に、慌てて基地内に駆けつける一幕もあった。
 基地の跡地の利用について、国は業務地、大規模公園、留保地と三分割し、有償方式で処分をするという構想を固めつつあった。
 革新は、自衛隊の移駐を、新たな基地問題として激しい反対闘争を繰り広げる。一方では、国の有償処分方式に対する反対など、さまざまな議論が錯綜しはじめた。
 こうした状況の中で、私は基地跡地問題を、政治的にではなく立川市の都市機能の向上という観点から捉えることが、何よりも重要であるという見解を阿部市長に伝えた。
 私には、基地反対を叫んで、共に体をはった砂川の仲間の声が聞こえる。あの叫びを、平和で豊かな立川の町造りの芯に据えようと誓っていた。

 


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コメント 2

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自衛隊員差別事件
by NO NAME (2010-05-23 21:50) 

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革新市政については市民目線という点では良いが、彼は自衛隊員住民登録拒否事件という人種差別、犯罪もおこした。
人権を考える革新ならそこも指摘するべきだと思います
by NO NAME (2011-10-03 00:11) 

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