So-net無料ブログ作成

立川市長20年の後に №22 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

立川市長20年の後に№22
革新市政から保守市政への回帰

                                     前立川市長 青木 久

革新市政のほころび
 阿部市長は真摯に市民生活の向上に取り組もうとしていた。しかし、その方針に一貫性が見られなくなっていた。ある日の議会での市長の答弁内容が、翌日には撤回・修正されることがしばしば起こったのだ。しかも、その修正された政策・方針は、支援母体である共産党の政策・方針が反映されていた。 このころ、議会をいつもきまって二人の人物が傍聴に来ていた。実に克明にメモをとる。後にも先にも、これほど熱心な傍聴人を見たことはない。そのうちの一人は、阿部市長から係長として採用して欲しいと要望されたので顔を覚えている。私は市の職員採用には、市の規準に従い、公明に行わなければならないからと断った。だから阿部市長と、何らかの関わりのある人物なのだ……。いつとはなしに、二人の姿を見なくなった。
 立川市は老人手当ての支給や市職員の給与を増額したことで、三鷹市、武蔵野市、八王子市に次ぐ多摩地区で四番目の高い給与水準となり財政状況は悪化、行財政調査報告は、緊急に財政の健全化を図るようにとの批判が出てきた。
 こうした状況に、市議会・市役所の中に、阿部市長の人格や見識は立派だ、しかし一党派の主張・方針が市政に持ちこまれるのは好ましくないという気運が芽生えてきていた。

接戦の末の保守への回帰
 阿部市長に任期が終わる1975年(昭和50)、8月の市長選挙へ向け、革新・保守の両陣営は、6月にはいると候補者の擁立に動き出した。
 阿部市長は、引き続き市政にあたると続投を表明、共産党、社会党は、これを支援するとした。
 保守陣営は、砂川の名家の当主として知名度の高い教育長の砂川昌平氏に打診、本人の同意を得たので出馬の新聞発表をした。ところがその夜、砂川氏は帰宅すると家族の猛烈な反対にあい、賛成を得られないからと立候補の意欲を喪失。翌日には不出馬を発表し、教育長も辞任した。
  これは保守陣営にとって、思いもかけない衝撃だった。一時は呆然としたが、これに代わる候補者を至急に立てなければならない。あれやこれやの候補者が選考対象となったが、最後の頼みの綱として浮上したのが、外科医の岸中士郎氏だった。
  岸中氏も予期しなかった市長選立候補の提案に驚いたが、懸命の懇願を受け、
 「そこまで言われるのなら、私は政治についてはまったくのしろうとだが、お受けしよう」
 こうして、保守陣営の候補者は決まった。
 次は票読みだ。革新・保守の票は近接している。どちらかと言えば、新しい市民の増加で、革新系が優勢だと見るべきだ。ではどうするべきか。勝敗のカギを握るのは、公明党支持者の動向だ。公明党は共産党主導の市政の運営に反対する観点から、岸中候補に理解と支持を示してくれた。
 これに対して、革新陣営は、共産党と社会党の間で、政策をめぐって亀裂が生じていた。
 選挙戦の結果がどうなるのか、両陣営にとっても五里霧中だ。地域の票の掘り起こしに、両陣営ともに激しい活動が繰り広げられた。
 立川市の有権者総数93,500人。投票率66.61%。市民の関心は高かった。 そしてその結果は、

        岸中しろう氏  30,399票
        阿部行蔵氏   29,944票

 岸中士郎氏が勝利した。票差455票。武蔵野・三鷹・小金井・国分寺・国立そして立川市、これまで中央線革新ラインと呼ばれた革新市政は保守系に回帰した。
  岸中市長は、新市長として初登庁したその日、市庁舎正面の垂れ幕「自衛隊の移駐反対」を撤去させた。 岸中市政の体制作りの第一着手は、助役、収入役、教育庁の三役を決めることだ。市の幹部職員からを登用しなければならない。数人が対象なっているのだが、これが決まらない。
 私もその対象者の一人だったのだが、立川市の医師会役員をしている親戚の一人が革新系であり、アクの強い人柄だと反対が出ていると聞いた。また、新市長が全く行政についての知識・経験がないことから、それを危ぶんで対象者が固持したり、議会筋が難色を示したりしたためだ。
 岸中市政は、三役不在で発足した。市議会で質問を受けると、市長は答弁に詰まったり、見当違いのことをしゃべって失笑されたりした。
  それでも、助役・小林真次、収入役・小川富史、教育長・植田栄一と、どうにか三役が決まったのは、市長就任後、二ヶ月が経過していた。
 私が南口再開発事業の報告に市長室へ顔を出すと、
 「青木君、私は医者として生活してきた。多くの人に請われて、それなりに覚悟して市長選挙に打って出た。しかし、市長の椅子に座ってみると、その覚悟が甘かったと思う。政治の現場は厳しいなあ。何はともあれ、市長には責任がある。精一杯がんばるから助けてくれよ」
 市長の机の上に、小さな黒いケースが置いてある。
 「市長、それは診察器具ですか」
 「いやあ、妙なものを見つけられたな。実はこれはテープ・レコーダーだ。議会での答弁や記者会見での私の声を録音している。一人になってから、これを再生して何をどう話せばよいのかを勉強しているんだ。いつまでもシロート市長でいるのは申し訳ないからな」
 私はその熱意に脱帽。岸中市長は、飾り気のない率直な人柄だ。幹部職員は、シロート市長を補佐しようとスクラムを組み始めた。市役所の中に、それぞれの職員が、自らが起動力となって職務に取り組む気運が出てきた。
 革新市政による財政のひずみを正さなければならない。職員組合との給与問題での交渉。予算の削減、合理化の促進へと方向転換がはじまった。これに連係して 岸中市長の母体である医師会はじめ、商工会議所も協力して街づくりに取り組む。
 立川市の「あした」をどのように創出していくか。それには「あさって、しあさって」を見据えた都市の骨格を構想し実現していくことでなければならない。
  私はこうした命題こそが、開発部長の真の職責であると秘かに思った。それをしっかりと胸におさめて、当面する南口の再開発に取り組まないと、場当たりの整理事業にとどまる。
 私たちの目の前には、立川基地の広大な土地がある。これが基地跡地として、その後の有効活用を図るには、国・東京都・防衛庁・近隣市などと緊密に連携していかなければならない。それは一都市にとどまる「都市計画」の枠組みを超える。具体策を伴わない理念や妥協は、無意味であるばかりでなく禍根となるだろう。
 私は首都圏における立川の役割と意義を考えた。政治・経済・文化・教育などが東京に集中している。立川は、その首都圏の中の多摩・武蔵野圏として、東京の機能を支援し、補完する役割がある。都心部から多摩への人口流入は進み、200万人が生活している。
  これらの新しい住民を包み込んだ広域的な生活圏を構築しなければならない。それは新たな都心を創出することだ。達成すべき課題は、都市機能の拡充・地域の生活基盤整備・地域産業の振興、交通網の再編成・文化への配慮などだ。
 私はこの夢を夢のままに終わらせたくないと、思い始めていた。そしてその思いは大きく育っていく。
 その背景には、駅南口再開発事業にかかわる地権者との交渉が続く日々があった。地権者の権利・資産の保護と公共目的とをどう整合させるかだ。何よりも私たちが地権者の信頼をかちえない限り、交渉は進まない。限られた予算枠の中での話し合いは、容易に結着しない。くじけそうになることもしばしばだ。とはいえ、ひたむきな努力はきっと報われると自らに言い聞かせていた。。
 私の中には、都市計画に携わった最初の経験がある。それは砂川町が立川市と合併した直後のことだ。都市基盤整備の一貫として新たな道路を建設することになった。はじめて住民と話し合い、話し合いの難しさを体感した。そして新しい道路が開通したとき、強硬な反対派だった住民の一人から、
  「青木、道ができて便利になったし、地価も上がったし、よくなったよ。ありがとう」
 と手を差し延べられた。その掌の温もりは、それまでの苦労を十分に癒してくれるものだった。
 


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0