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往復書簡・記憶に架ける橋 №2 [核無き世界をめざして]

記憶に架ける橋 2

                                      舞踏家  和泉 舞

岡村幸宣さんへ

 ご質問を要約すると下記の3点になると思います。勘違いがあれば言って下さい。
 Q1なぜ《原爆の図》全作品をライフワークとして舞踏化しようと決意したのか。
 Q2.《原爆の図》のなかに潜んでいる「身体感覚」について当時どのように見ていたのか。
 Q3.Q2の「身体感覚」が舞踏化しようという決意にもかかわっていたのか。
 
 ご質問に答えるには、原爆をテーマに踊り始めた原点からお話した方がよいと思いました。また、いつかはなどとのんびり思ってきた核保有国での海外巡演ですが、原発事故から必要に迫られている気配を感じます。日本は元より世界いえ地球は原発自爆に陥る危機的状況を抱えています。被爆70周忌を期に始動するためにも、原点に帰るのは好い機会だとも思いました。
 そのために資料整理をしています。その中の「私と原爆との出逢い」・「原爆の図と私」に答えとなるような文章がありました。書いたことすら忘れていましたので、タイミング良く現れたものだと感心しています。

 原爆をテーマに始めて踊ったのは、2003年京都国際会館で行われた「第3回世界水フォーラム」に於ける「水をください」です。その頃に書いた「私と原爆との出逢い」より引用致します。(『』内引用文)
 『会場内は方々からやってきた外国人が多く、まるでどこかの国の路上さながらでした。インフォメーションの上には大きなスクリーンがあり、いつ起こるかわからないイラク戦争関連の生中継が映し出されていました。3月20日開戦の日にこの公演は行われたのです。』
  ミサイルがいつ発射されるかという最中、会場スタッフとの打ち合わせ、その後会場から少し離れた大スクリーンで現状を見ていました。奇しくも上演16:30前に勃発、イラク戦争が始ってしまいました。
『悔しさと悲しさともどかしさの入り混じった感情が交差し、いたたまれない思いに心は苦しく重くなる。微力な自分に情けなくなる。一体私は何をしたらいいのか。泣いたところで戦争は終わるわけではない。自分に出来ることをー』
当時の私は、悔しさと無力感に打ちひしがれそうでした。創作を積み重ねる毎に「原爆の図」に対峙する気持ちは現在進行形で変化しています。その点については、追々お話して行きたいと思います。
 『真実を知れば知るほど頭は垂れ下がり、辛くてわけもわからず涙が溢れてくる』
 毎年8月6日原爆の日か~と、傍観している立場から行動する立場にはなった者の力不足に葛藤する日々を送っていました。ここが原点です。

 Q1=「なぜ全作品を舞踏化しようとしたのか」そのひとつにイラク戦争勃発で感じた"悔しさ、もどかしさ、情けなさ”があります。1公演だけで終わらせるようなテーマではないと思ったのです。そして、「原爆の図」へと繋がって行くのです。ご指摘のように2003年から取り組んでいます。
 公演を創作するにあたり、色々な資料を読み、被爆者の方からもお話を伺い、勿論「原爆の図」画集と出逢い→丸木美術館へ初めて訪問し原画を観たことなどを経て、日本人として何も知らなかったことにショックを受けました。原爆を受けた被害者の方々は元より戦争時代を潜ってきた人々へ、大変申し訳ない気持ちになりました。これは決意のひとつです。

この種の問いは取材を受けると必ず聞かれることで、すでに記事をお読みになりご存知でしょうが、一番のきっかけは、《必然とも思える出逢い》でした。
 今でこそインターネットを駆使して知りたいことを調べるようになりましたが、当時の私はそんな知恵は全く浮かびませんでした。資料は事実を知る手懸かりにはなるけれども、やはり被爆者の方とお話しなければ片手落ちだと思っていました。
  しかし、どうやって出逢えるかと考えあぐねていたのです。そこに息子が中学校でもらってきた一枚のチラシ「町田市非核化平和宣言20周年記念イベント」裏面に記された“被爆体験談・銀林恵美子さん・親江会(江戸川区被爆者の会会長)”という文字が飛び込んで来たのです。
  「やっと見つけた!」驚きとともに嬉しさが込み上げてきたのを鮮明に覚えています。
勿論、そのイベントに行きました。終演後、銀林さんに声をかけ、個人的お話しを伺えないかとお願いしましたら快く承諾。後日お宅を訪問することになりました。その日か次にお会いした日か定かではありませんが、「親江会で建てた石の慰霊碑があるので見に行きませんか」と、滝野公園(葛西駅近辺)へ連れ行って頂きました。その慰霊碑は、丸木さんが原画を描き、丸木さんの提案で親江会の方々や会を支える方たちが掘ったものとのことでした。岡村さんは行ったことはありますか?
 その時点では微かに「原爆の図」を舞踏化しようと思っていました。
 現地に着くと今ではお馴染みになった”鳩と母子像”が大きな石に彫られていました。その石碑を前に「私は丸木美術館の理事をしており…」と言うではないですか!しかも、此処江戸川区は私が小さな頃から育った場所であり、実家もあるのです。

 話が後になりましたが「原爆の図」は、学生時代に社会科の教科書で第5部少年少女の姉妹の絵を観たことがあるようなというだけで、等身大の絵が15部もあるとは知りませんでした。図書館で初めて画集を開いたときからなんとなく浮かんではいたのです。
 このように立て続け起こる「原爆の図」へ導かれるような出来事、特に丸木美術館との縁ある話を伺った時、ふと原爆の図画集が開かれた映像が浮かんできました。これをやらなければならないと、私の中で確約した瞬間です。丸木美術館へ初訪問した時には、「この人々を再生させるのか」と思い観ていました。

 人からするとこれは大仕事だと言われますが、私の中では決意という強い思いで始まったのではなく、なんとなく導かれて行ったのです。説明するのは難しいのですが、私の人生の中でやらなければならない大事なこと。それは自分の為であり、人類の為にもなり……直感というか感覚的な感触が内面から訴えかけて来る感覚なのです。それは何度「原爆の図」を見ても起きる感覚と感情でもあります。ある種私が意識的に決意しているのではなく、原爆の図に描かれている人々や亡き被爆者たちの決意が、私の背中を押している感じです。8月公演「第5部少年少女」後、更に輪をかけ急かされている感じがします。ですから何としても海外公演を実現しなければならない思いに駆られているのです。
これはQ2の答えにも繋がりますね。

ここまで細かく「原爆の図」舞踏化に至るまでの経緯を思い返したことはありませんでした。原点に振り返ることで初心に戻ることができました。この機会に感謝致します。

 Q1だけで長くなってしまいました。Q2、Q3については次回に回したいと思います。その他に「受けとめる側の問題」や「芸術の役割」で記された岡村さんの言葉から浮上してきた思いは追々お伝えしようと思います。

和泉舞.jpg

写真:「水をください」の筆者 (撮影:吉田隆一)


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