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往復書簡・記憶へ架ける橋 №4 [核無き世界をめざして]

記憶へ架ける橋4   

                                       舞踏家  和泉 舞

岡村幸宣さんへ

 土日の出張お疲れ様でした。このように講演をしたり、聞いたりする中で色々なことを思い考える機会があるのですね。

 岡村さんが言うように、丸木夫妻はじめ原爆を表現する者は必ず突き当たる「よかったか、悪かったか」の葛藤から逃れることはできないと、私も思います。

 岡村さんの「引き裂かれるような感覚」も私の創作から舞台上での「苦闘や悶絶の日々」も、1945年~心身の苦しみを抱えている被爆者からすれば微々たる感覚なのかもしれません。
 苦しみの多少の問題は別として、葛藤するのは逃れずに対峙しているからで、その誠意は持ち続けていなければいけない気がします。葛藤が無くなったら、自分を省みる必要があるかもしれません。

 被爆者やそのご遺族の「そっとしておいてほしい」という気持ちを心の奥に止めつつ、そうですかとやめてしまうのではなく、風化させぬ為に続けていくことは、おっしゃるとおり「死者たちへの追悼であると同時に、今を生きる私たちのため」でもあると思います。
 奇しくも3・11から原発→放射能→原爆(広島・長崎)に関心を持つ人が増え、非核芸術も注目されつつあることは、きっかけが何にしろよい兆しであると思います。

 宮城・福島の人々が口にする「忘れられてしまうのでは……」という不安感は、原爆においても同じではないかと思います。当事者やその遺族の中には、「そっとしておいてほしい」という方もいますが、何らかの方法で伝えていかなければ風化してしまいます。事実を知る方が存在しなくなった時代に、原爆の事実も亡きものになることをもお望みなのでしょうか?幸い平和資料館には遺品や被爆証言の本・映像などもあり、そうならずにすみますが……。

 この書簡を始めるきっかけにもなりました関千枝子さん×中山士朗さんの往復書簡『核無き世界をめざして-広島あれから67年No11』の中山さんのお話に「井伏鱒二さんが、原爆という巨大なものを描くには、あらゆる分野からの視点を総合し,表現したものでなければ不可能だという意味のことを語っていた」と書かれておりました。全く同感です。

 アーサー・ビナードさんの「原爆は、過去の出来事を語り継ごうと思っては風化してしまう。原爆というレンズを通して今を見ることが必要だ」とのお話で、写真家・石内都さんを思い出しました。
 平和資料館へ所蔵された衣服や遺品の写真を撮り、写真展や画集を出されていますよね。石内さんの写真から、その服を着ていた人の思いが伝わってきます。
 このように岡村さんの言う”原爆への窓口”のルートが多様にある現状は、知る機会が多くなるということであり、望ましい方向へ歩んでいるのだと思います。

 さて、前回棚上げした質問についてお話ししなければなりませんね。
 Q2.《原爆の図》のなかに潜んでいる「身体感覚」について当時どのように見ていたのか。
  Q3. Q22の「身体感覚」が舞踏化しようという決意にもかかわっていたのか。

 丸木美術館へ初訪問したときの思いを書いた「原爆の図と私」から引用致します。(『』内引用文)

 『原爆の図の画集を見ました。きっと原画を見たら、恐ろしさと苦しむ視線に胸を締め付けられるのでは、と思っていました。しかし、それは傍観的な見方であると反省することになるのです。

  等身大の人々に囲まれ 口を閉ざし 目が釘づけになる
  こちらを見ていないのに じっと見つめられている気分  
  いつの間にか吸い込まれ 同化してゆく
    喪失感
  なにもない 全てを失ってしまった 空虚感
  生きているようで 死んでいる なのに 心は重くなる

 共演する息子とともに見に行きました。美術館を出てからも話が出来ませんでした。それは、何か大事なものを見失ってしまいそうだったからです。(中略)私はいつの間にかその人々の虜になっていました。
死を見つめることで生がもっと輝いてくる……死へと刻々と向かっているのを知っているからこそ、限られた時間を精一杯生きようと思えるのだと私は思っています。その世界は私の舞踏の世界でもあるのです。だからこそ、この「原爆の図」を一部ずつシリーズとして創作したい、この人々をもう一度再生させてみたいと思うのです。』

 大野一雄先生の舞踏は、身内が若い頃に亡くなり、戦争で同胞が亡くなるのを見てきた体験が、自然に滲み出てくるのです。
 死者への祈りは大切なメソッドです。稽古でよく言われた言葉「私たちは死者の上を歩いている。その上を歩く。」
 一にも二にも歩行が基本の舞踏。どんな気持ちで死者の上を歩いて行くのか……私の踊りの根源でもあります。
 死者への思いと原爆の図に描かれた人々が共鳴し、私の中で「二度と原爆による死者を出さないで欲しい。核兵器を無くして欲しい」という切なる思いで訴えかけてくるのです。
 「原爆の図シリーズ」への理由をなんとか探しだそうとするならば、このようなことかもしれませんが、本当は理路整然としたものはなく”出逢ってしまった”だけなのです。
 答えになっているでしょうか?お聞きになりたかったのは、こういうことでしたか?

 「銀林さんがどんな橋を架けて下さったのか」とのお話がありましたね。
 推測ですが、追悼碑を見せたかったのは、丸木夫妻との関わりを大切していたからではないでしょうか?追悼碑は心の支えでもあったかもしれません。俊さんに可愛がっていただいたと言ってましたし……大切な想い出がいっぱい詰まっている追悼碑なのだと思います。
 だから、学芸員である岡村さんには見せたかった……もちろん、丸木夫妻が原爆の図に込めた核兵器廃絶への継承も願ってのことと思います。


銀林さん証言映像 http://www.youtube.com/watch?v=NOyvLcwhRII


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