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バスク物語 №27 [雑木林の四季]

バスク語                                                                       コリカ - バスク語振興を目指して

                                 翻訳家・文筆家  狩野美智子

 春のバスクの最大の行事は、「コリカ」です。コリカというのは、バスク語で走るという意味です。
 第五回に当る八七年のコリカは、フランス国境の町エンダヤを四月三日に出発し、バスクを縦横に走り続け、四月十二日にビルバオで終りました。その十二日の最後の部分を、私もほんの少し走って参加したのでした。バスク語の振興というのがその目的です。
 バスクの人口二九一万人のうち、バスク語の話し手が六十万しかいないと、バスクの人々はとても心配しています。何しろ、フランコの支配した三十七年間、バスク語は厳重に禁止され、使っているところを見つかると、国家に対する反逆とさえされたのです。学校や勤め先、軍隊もスペイン語です。私の知っているバスク人の中にも、バスク語の話せない人がかなりいるのです。
 フランコの死で、やっとバスク語への重い伽が外れ、今バスク人のバスク語復活への意欲は、並々ならないものがあるようです。
 子供たちにバスク語を教えています。今、小学校でも中学校でも過四時間、バスク語の時間があり、その上、バスク語で教えるイカストラという小学校さえできました。イカストラで学ぶ小学生は、大体全小学校の一・五割位ですけれども、こういう学校が今どんどんふえつつあります。
 大人たちには、バスク自治政府直属のアベという塾、民間の塾としては、アユカという組織があり、各地にたくさんの塾を持っています。コリカはアエカの主催です。

 四月三日夕方七時にエンダヤを出発したコリカの代表は、これをコリコラリというのですが、イカストラの生徒で十歳になる少年でした。テスティゴという三十センチほどの筒を持って、次の中継地まで走ります。彼といっしょに、町の何百人、時には千人をこえる人々があとに続いて走るのです。そして、次の中継地では、選ばれた代表者、コリコラリといっしょに大勢の人々が待ちかまえ、コリコラリがテスティゴを受けとると同時に、いっしょに走ります。こうして、野を越え、山を越え、川を渡り、海のほとりを走り、昼だけでなく、夜中も走り続けて、四月十二日にビルバオに着くのです。全行程二千八十キロメートル、毎日その様子が新聞に出ました。

 十二日、ビルバオのアレナル広場で、私はエドルネの家族とコリカを持っていました。十二時にここに来るというのです。待っている人たちは、次第に増えていきます。若者が中心ですけれども、年配の人もかなり混っています。エドルネの二人の坊やのように、小さい子供もいます。走りたい距離だけ走ればいいのです。
 参加する人は三百ペセタ(一ペセタ=一・一円)払って紙のゼッケンを買います。主催者側では四十万人を見込んでいるそうで、単純に計算しますと、これだけで収入は一億二千万ペセタです。参加者は実際にはこれを上まわったそうですし、この他にも、バッジ、ハチマキ、ポスターなどを売り、更には、出発地と終着地での催しでの食券、飲み物代などもアエカの収入になります。この収益は、イカストラや、アエカの塾の費用の一部に当てるのです。勿論、コリカはお金の問題だけではなく、バスク語熱をバスク中に巻きおこすことが、その大きな目的でしょうけれども。
 最後のコリコラリは、アエカ会長のカルサダ氏でした。彼はテスティゴを高くかかげ、十日間のコリカの終着地、フェリア・デ・ムエストラス前の広場に立ち、二千余キロを持ち継がれたテスティゴの筒の中から、紙をとり出しました。それは、バレンディン・エンベイタの詩でした。八六年秋に亡くなった即興詩人で、彼はバスクの心を歌い、バスク人に愛され、尊敬された人です。バレンディンの詩を、彼の息子でやはり即興詩人であるヨン・エンベイタが歌いました。
 最後に、司会者が、日本からミチコ・カノウがコリカに参加したと告げ、拍手をうけました。急に名前を呼ばれて驚いたのですが、これが、お客に対するバスクのしきたりだと、エドルネが言うのです。彼女が、きっと私のことを司会者に言ったのでしょう。                                  (87・8・30)

『バスク物語』彩流社


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