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余は如何にして基督信徒となりし乎 №14 [心の小径]

第三章 初期の教会 7

                                             内村鑑三  

 年末までは記すにたる事はない。もっとも我々が日曜礼拝で試みた一つの実験があったが、それはこの集会とクリスマスとのあいだのある時に行われたに相違ない。我々は我々の『話』に倦きてきた、集会を行う方法に何か変化が非常に望ましかった。我々のうちの一人が一つの提案を出した、我々は世の中へ出れば必ず不信者に出逢(であ)うであろう、我々は学校時代に彼らに出遭う準備をすべきである。我々一同その実を議論した、そして最善の方法は『教会』を二組に分け、一つは基督信徒側を、他は不信者側を代表し、各組をして二つの側を交互に取らせることであろうということにきまった。不信者側の者は不信者が発しそうなあらゆる種類の質問を発し、基督信徒側の者はそれに答えることになった。案は賛成を得た、そして次の日曜日から実行されることになった。                                    当日― 集会が新方法で行われた最初の安息日― に、我々は全員を籤(くじ)で二組に分けた、チャグラッドストンが一方に、ボリンブルック、ヒユーム、ギボン、ハクスレイが他方に、居並んだわけである。祈りと食べるものの分配がいつものようにあったのち、論戦が深まった。当日の題は「神の存在」であった。最初の懐疑家フランシスが最初の護教家チヤールスを攻撃した。宇宙それだけで存在して来ることができたという挑戦に対しチャールスは物質にはつくられたものであるまざれのない特徴がある(マクスウェルから借りた議論とおもう)、そしてそのようなものとしてそれは自存していることはできない、ということを示す議論を提出した。第一の攻撃は撃退され、我々の信仰はりっぱに弁護された。実際的のビューに基督教に対陣するはなはだ恐るべき議論はなかった、そしてヨナタンの仕事は彼の反対に応ずるに困難なものではなかった。この宇宙に仕その創造者があったに相違ないこと、この創造者は自存していること、彼は全能にして全智でありたもうこと、それがいまや結論的に証明された。しかしいまや攻撃をするのはパウロの番であって、フレデリックが彼に対することになった。彼らは数日間はなはだ仲がよくなかった、そして我々はかかる顔合せの結果をおそれた。我々はすでに学者的なパウロが自分が答えうる以上の疑いをもっていることを知っていた、そしてこの場合は彼がその神経質的頭脳のなかで製造することのできるもっとも手ごわい疑いを注ぎ出す第一等の機会を彼に与えたのである。僕は認める』と彼は始めた、『この宇宙は創造せられた宇宙であること、そして神は全智にして全能であること、そして何事もこの神には不可能ではないことを。しかしこの神が、この宇宙を創造しそしてそれが彼によって授けられたポテンシャルエネルギーをもって独力で成長発達できるようにそれに運動を与えた後に、― この創造者が自分自身の存在に終止符を打って自分自身を絶滅してしまわないということを、どうして君は僕に証明することができるか? もし彼がすべてのことをなすことができるならば、なぜ彼は自殺することができないのか!』込み入った、ほとんど冒涜的な質問である! 実際的なフレデリックにどうしてこの質問を片附けることができようか? 我々の眼は困惑した護教家の上にすえられた、そして不信者側さえフレッドの答え如何を気づかった。一瞬間披は沈黙していた、しかし勝ち誇るパウロはなおも彼の攻撃をもって迫った。フレデリックは何か言わなければならぬ。勇気を奮い起して、彼は軽蔑の口調をもって言った、『そうだ、馬鹿だけがそんな質問をするのだ』と。『なに、馬鹿?では君は僕を馬鹿というのか?』と慣激したパウロが言い返した。『いかにも、僕はそう言わなければならない』それがフレデリックの断乎(だんこ)とした答えであった。パウロはもはや自分を制することができなかった。『諸君』と彼は起ち上って胸をたたいて言った、『僕はこれ以上ここにいっしょにいることは我慢ができない。』やにわに彼は部屋からとび出した、ドアは荒々しく彼の背後に閉った、そして我々には彼が自分の部屋に着くまでうなっているのが聞こえた。残った我々は閉口してしまった。ある者はパウロが悪いと言い、他の者はフレデリックも悪いと言った。論争中の重要間題は側におしやられた。我々はいまはどうして交戦当事者を和解せしめるかが心配であったた。集会はそれ以上の討論なしに閉会し、新計画は全く廃止された。我々自身には自分が答えうるより以上の疑いがあること、そしておそらく最善の方法は我々が上よりの助けをもって自分自身の心のなかでそれを解決することであろうということを我々は知った。次の日曜日、我々は再び旧い方法をはじめた、そして獅子と牡牛はともに平和に臥(ふ)していたのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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