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台湾・高雄の緑陰で №66 [雑木林の四季]

台湾高雄中学の「湾生」

                               在台湾・コラムニスト  何 聡明

 2014年10月田中実加(陳宜儒)の漢文著書<湾生回家>が台湾で出版された。「湾生」とは台湾生まれの日本人の代名詞であり、「回家」はここでは生まれ故郷に帰ることである。自分は台湾生まれの日本人であると著者は明言していたのだが、昨年12月に自分は湾生日本人の子孫でないと自白したので、若い世代の読者は騒然となり、いったい「湾生」とは本当にあったのかと台湾で大きな話題となっただけでなく、その本も発売禁止となった。筆者は日本統治時代に台湾南部の名校高雄中学で学んだので、「湾生」は本当にあったとここで証明する。

 日本統治時代の高雄中学は5年制の中学で、学生の約75%は日本人、約25%は台湾人であった、即ち4人の内1人は台湾人である。従って校内、校外を問わず日本学生と台湾学生の交流は頻繁であった。1945年8月15日に昭和天皇が敗戦を宣告したとき筆者は中学3年生だった。その翌年の3月以後、日本人同窓は続々引き揚げ船に乗って祖国日本へ去った。

 台湾の中央研究院台湾歴史研究所副所長鍾淑敏氏が「湾生回家」の導読で述べた記録に依れば、1946年(昭和21年)3月から1949年8月を最後に台湾より引き揚げた日本人は47万9千5百44人で、その内15万7千3百88人は軍人と軍属であった

 1970年1月のある日、筆者は台湾の首都台北市の松山空港で堀江小学校と高雄中学の同窓であった河野昭君を出迎えることができた。彼と別れて25年後にお互いの健在を確認したときは本当に感無量であった。当時日本では河野君が高中同期会を成立させており、台湾でも既に同期会があったので、両会のメンバーはその後頻繁に文通を交わしただけでなく、1990年代まで何度も日本と台湾で交互に同窓会を開催したのである。

 高雄の母校を訪れた多くの日本同窓は自分は台湾生まれの「湾生」で、生まれ故郷に戻って来たのだと言う。河野君の母上は初代「湾生」であった。同窓のなかには父母が台湾で自分を製造したので発音は同じだが字は「湾製」だと言った。日本は自分の「祖国」だが、台湾は自分が生まれた「母国」だと強調した同窓もいた。

 ある日本同窓は台湾人同窓と幼馴染の知人に会いたくて、同じく湾生の妻を連れて年に2~3回高雄を訪れていた。

 日台同窓の多くは既に往生し、現存者は全て齢90に近い超高齢の翁であるが、生きているかぎり同窓の絆を大切にし、どちらかが最後の一人になるまで交流を続けようと誓い合っている。


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