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いつか空が晴れる №13 [雑木林の四季]

いつか空が晴れる
    -no woman no cry-

                                                                         渋沢京子

 Y先生のフラメンコ教室に通っていたとき一緒だったMさん。私より一回り以上の年上で、まるでフランスの女優さんのような美人だった。性格もおっとりして優しくて、教室に通ってた若い女の子たち(私も当時若かった)の間では人気者。美人でお洒落で優しい性格の彼女のファンは多く、女ばかりの集団は、憧れの先輩がいるとたちまち女子校化するのである。

 彼女は元ジャズシンガーだった。
「ある時ね、クラブで歌ってから楽屋で休んでいたら、ちょうど夏だったのね、窓が開いていてそこから隣のアパートの物干し台にね、派手なブラジャーとか下着が干してあるのが見えたのよ。そうしたら何とも言えない惨めな哀しい気持ちになって涙が出てきたの。それでそれ以来、歌を歌う仕事はやめたのよ・・」
 彼女の伴侶はクラシックピアニストで、その父親は有名なジャズピアニスト。お稽古の後、稽古場の床に座ってみんなでよくおしゃべりした。
 ドイツから帰ってきてから住む家がなくて、しばらく伊豆に住んでいたこと、お金に困ってビルの掃除婦をしていたこともあるなどと淡々とMさんは語るのである。
「ウソ!Mさんがビルの掃除婦?」
 皆、驚く。
「あら。職業に貴賤はないのよ。掃除婦って立派な仕事だと思うわ。」
 エレガントに微笑むMさん。

 その頃、Mさんはお母様の介護と、それからご主人の健康を気遣ってか、「身体にいい料理」のレシピをたくさん持っていた。
 ごぼうのスープだとか、昆布だしを使った料理など、Mさんを中心に皆で床にメモ帳を開いて、熱心にレシピをメモして帰ったものだった。医者であった父親から病院のいろんな医療ミスの話を聞いていたせいか、Mさんは病院というものを信用していなかった。
 健康のために湘南のほうの気功に通うほど、彼女は東洋医学だけを信奉していたのだ。

 お稽古の後、Mさんは時々腰が痛くなることがあって、私は頼まれて、一生懸命なれない指圧をすることもよくあった。

 ある昼下がり、Mさんから電話があった。
「・・カイロって怖いわね、私、腰が痛くてカイロに行ったのね。そうしたらぎっくり腰になっちゃったのよ・・」
 もう年齢だし、踊りをやめてフラメンコのカンテに行こうかしら、とかそういったフラメンコの話を一時間以上して電話を切った。そしていつものおしゃべりのつもりだったのに、それがMさんとの最後のおしゃべりとなった。

「 ・・・Mさん、亡くなったのよ」という電話を貰ったのはそれから一週間くらいあと。
 受話器を持ったまま、ひざががくがく震えて、立っていられなくなって私はそのままへたりこんだ。あまりにも突然だった。 Mさんは全身を癌に侵されていたのだ。ぎっくり腰ではなかったのだ・・

 中野のお寺でお通夜があって、お通夜の後、皆と別れて私は先に一人で帰った。方向音痴の私は中野区の暗い住宅街をぐるぐると迷い歩き、やっと大通りに出ると赤いランプのついた終バスが走っていた。

 彼女が亡くなったのは49歳。彼女の後を追うように、ピアニストのご主人もその年に亡くなった。とても繊細な感じの優しそうな男の人で、素敵なご夫婦だった。

 あれはいったい何の集まりだったか。フラメンコの教室の仲間数人と六本木で飲んだ時、ワインで酔っ払ったMさんに何か歌ってよ、と頼んだことがあった。
 そして、酔っぱらってご機嫌のMさんは、良く響く低音ヴォーカルでボブ・マーリーの「NO WOMAN NO CRY」を歌ってくれたのであった。Mさんはボブ・マーリーが好きだったのだ。

 Mさんの死以来、私は無添加野菜に凝るのも、健康食もやめた。


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