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浜田山通信 №220 [雑木林の四季]

福井地震70年
                       ジャーナリスト  野村勝美

 ワールドサッカーは、オリンピックとともにスポーツナショナリズムがむきだしになるのできらいだ。ナショナリズムには子どもの頃から青春時代にかけて痛い目にあっている。日の丸の鉢巻姿で「ニッポン、チャチャチャ」なんてやられると勝手にしやがれと思う。よって他のことを書く。
 6月28日は、私の郷里福井の地震70年記念日だった。70年前、私は早稲田第二高等学院に入学したばかりで、毎日のように街頭宣伝やデモにでかけていた。この日も飯田場駅頭でビラまきなどをやり、郷里の友人2人と共同で借りていた土建屋の飯場で晩飯になった時、会社の主任が「福井は地震で全滅したらしいぞ」といってきた。電話も通じず、とにかく汽車で行けるところまで行くことにし、次の日、。広瀬豊、兼八善兼、勝木秀夫他3人ばかりと列車に乗った。名前をあげた3人と私は露文科で、広瀬は中学が同級だったが学院は一年先輩、兼八、勝木は2年後輩だったが、4年で進学したため一年浪人した私と同級になった。
 汽車はともかく鯖江まで行った。あとは歩くしかない。福井の町に近づくにつれ二階建ての家は一階部分がぺちゃんこになり、市街地に入ると、一面の焼け野原だった。兼八は市の西方2里ばかりの田舎で、被害はほとんどなかった。広瀬は震源地に近く、父親と妹が家の下敷きになり亡くなった。彼は2年前に母親を病気でなくしている。腹違いの兄がいたが、兄弟仲はうまくなく、生涯苦労が続いた。露文科卒でまともな就職口があるわけでもなかったが、恋人と結婚できた。しかし2人とも結核に冒され療養所暮らしもした。経済成長のおかげもあり、大阪で「月刊SEMBA」が大当たりし、大阪文化人に仲間入りしたが、夫人に先立れる。シャンソン歌手奥田真祐美さんと仲良しになり、最後は病気の面倒をみてもらえたのだから「人間万事塞翁が馬」なのかもしれない。
 勝木は市内だったので家は潰れて丸焼けになった。父と妹がケガをし、余裕のある親戚もなかったので、一家心中を考えたこともあったという。結局長男の勝木が東京に戻り、「ニコヨン」(当時職安のあっせんで働く日雇い労働者の賃金が一日240円だった)をやって一家9人に仕送りすることになり、早々に東京へ戻った。勉強の方も努力家で仏文は東大聴講生になり、ロシア語ではのちにヤクーツク大に招かれたりした。  私の家は、新築したばかりの父の事務所が倒壊したが、祖母がかすり傷を負っただけだった。ただ、私は青春真っ盛り、つきあっていた初恋の彼女は、地震後に起きた水害もあって肋膜炎をおこし、結局別れることになった。勝木のようにニコヨンやってでもかけおちすべきだったが、私にその勇気はなかった。広瀬と兼八はもういない。福井地震の死者3769人。阪神大震災まで戦後最大の被害だった。直下地震の被害は小範囲だが、強烈なものだ。
 終戦の年に空襲で市は焼きつくされたばかりで、よくも再興できたものだ。あの時私が父の立場だったらと思うといまもぞっとする。

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