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バルタンの呟き №38 [雑木林の四季]

          「著作権侵害とオマージュ」 

                            映画監督  飯島敏弘  

 TBSが日曜日夜9時からの日曜劇場でオンエア、好評を得ている連続テレビドラマ実写版「この世界の片隅に」が、エンドロールに「Special thanks to 映画「この世界の片隅に」制作委員会」という標記を入れたところ、アニメ版劇場映画「この世界の片隅で」製作委員会が、「ドラマの内容・表現等につき、映画に関する設定の提供を含め、一切関知しておりません」という声明を公式サイトで発表したという記事が、先日の朝日新聞に載っていました。ネットの上でも、話題になっているということです。
 同記事によると、TBS広報部は、朝日新聞の取材に対して「(エンドロールの表記は)先行して公開されたアニメ映画への尊敬の念を表記したもの」で、「(ドラマは)原作漫画(こうの史代)を実写化したもので、外部の時代考証専門家の指導のもと独自に制作している」と答えた、とあります。
 ボクは、映画、テレビドラマの双方とも見ました。テレビドラマは第二回までですが、アニメ映画は、いまだに、独立系の映画館などで上映されている話題作です。製作委員会が、この時点でそのような見解を公式サイトに載せたのは、テレビで同じようなものを実写版で放映されたのでは、今後の上映(興行)に影響すると見て、両者を峻別しようと試みたと思われます。
 テレビドラマを見て、アニメ版を見た人たちから両者の類似点が幾つかあるという声も上がっているようですから、この先、問題がどうなって行くのか、著作権の侵害にまで、論議が発展して行くかもしれません。テレビドラマ側は、当然原作者からテレビ化の許諾を受けていると思いますが、なぜ、アニメ映画の製作委員会との接触なしなのに、special thanksなどという語句をタイトルロールに載せたのか、そのへんの行き違いを確かめなければ、一概にどちらがどうという訳にはいきません。「尊敬の念」という曖昧な答えでは、全く説明になりませんし、この問題の解決には何の役にも立たない言い訳にしか聞こえません。

 僕自身が関連した似たようなケースに、2013年第66回カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞して大ヒットした、是枝裕和脚本監督「そして父になる」という劇場映画があります。受賞が話題になり、日本国内でも繰り上げ封切りして、ロングランを続け、併せて国内の映画賞も受賞、福山雅治・尾野真千子、真木ゆう子、リリー・フランキーというキャストの魅力もありの結果ですが、それが今回の是枝監督の「万引き家族」同映画賞のグランプリ、金熊賞獲得の基盤になったと言われる作品です。
 映画が封切られた時に、僕の耳に、「以前、あなたがプロデュースした連続テレビドラマと、そっくりだけど・・」というご注進があったのです。さっそく劇場で観たのですが、なるほど良く似ています。見ようによっては、著作権の侵害に当たると思われるほど、良く似ていました。
 僕がプロデュースした作品とは、木下惠介プロダクション制作(製作・松竹テレビ室)で、TBSからオンエアされた、毎週水曜日の木下惠介アワー枠の「わが子は他人」(1970・4月~9月)脚本田向正健 監督木下惠介ほか 出演松山省二・音無美紀子・杉浦直樹・林美智子です。
 木下惠介アワーには、それまでに「記念樹」「三人家族」「喜びも悲しみも幾歳月」などのヒット作話題作があり、「わが子は他人」も当時高視聴率を得た番組ですから、ごらんになって、ああ、あれか・・」と思い出される方もいらっしゃると思います。企画を持ち込んできて脚本化したのは田向正健さんですから、いわば原作者です。みずからけっぱりと称する頑固な人でしたから、ご存命だったら何かおっしゃったかもしれません。実際にあった、産院の赤ちゃん取り違い事件を取材して発想したオリジナル脚本でした。取り違えを知らずに育て上げたわが子は、実は他人の子であった、でも、育て上げたこの子も、わが子なのだ・・・」というテーマは同じです。監督が木下惠介さんですから、色合いはどちらかと言えば「そして母になる」でしたが。育ての母の愛、生みの母の愛の葛藤が、主題です。「そして父になる」が、育ての父の葛藤ですが、まあ、確かに、筋立ては、そっくりと言えばそっくりです。是枝監督が「わが子は他人」をご覧になったかどうかわかりませんが、プロデューサーだった僕にはもちろん、著作権者である木下惠介プロダクションにも、なんらの連絡も無かったようです。一時、「困ったことになったな・・・」と思いました。著作権の侵害は、当該著作物の存在を「知らなかった」では済まされないからです。とはいえ、「そして父になる」は、作品としてばかりではなく、歌手の福山雅治が演技者として本格的に取り組んだ点でも話題になっていましたから、此処で著作権問題を提起すると、マスコミにとって願ってもない好材料にされてしまう可能性がある、と考えたからです。とはいえ、脚本の田向正健さんがオリジナルとして書かれたものである以上、すでに、亡くなっているとはいえ原作者ですし、もし侵害しているとすれば、プロデューサーであった僕としては、看過するわけにはいかないだろう・・・と。

 その時に、ふと思い出したのは、僕が木下惠介プロに出向して間もなく、差し向かいのお酒の席で、木下惠介監督の叙情作として名高い映画「野菊の如き君なりき」の話しになり、いろいろ撮影当時の興味深いエピソードを伺っているうちに、その後、各映画会社、テレビプロダクションが競うように、新人スターを売り出すたびに、伊藤左千夫「野菊の墓」を原作として制作(中には「野菊の如き君なりき」というそのものの題名で)映像化しているけれども、木下惠介監督に許諾を求めて来たり、タイトルを載せたりしたものがないようなお話だったので、お酒の勢いもあって、つい小賢しくも、「そうですね、だいたいが伊藤左千夫の「野菊の墓」(1906)も、ジョン・ゴールズワージー「林檎の樹」(1916)そのものですからね・・・」とやったのです。口に出してから「しまった!」と思ったのですが、後悔は先に立たずで、案の定、木下さんから、「君、それは違いますよ。あれはぜんぜん別ものです。ちゃんと読んで御覧なさい!」ぴしりとやられてしまいました。僕が、なぜそんな話を持ち出したかというと、「林檎の樹」も、老人の若き日の述懐から始まり、彼の若き日のふとした出来心の恋愛を描き、それに想い出の枠をはめて、青年の感じやすく、移ろいやすい心理を、一篇の美しい物語【詩編】にしているところが、「野菊の墓」とほとんど同じ構成で、その後数えきれないほど作られた「都会の学生と田舎の少女の恋心とその後の運命の変転」をストーリーにする「ひと夏のラブストーリーもの」映画の定番のような存在になっていたからです。前掲した年代通り、調べて見れば、恥ずかしい事に、「野菊の墓」は、「林檎の樹」よりも先に発表されているのでした。木下さんが全然違う、と仰ったのは、勿論発表年代ではなく、作品の意味するところの違いだったのですが。
 もし、あえてその両者の淵源を求めるとすれば、ギリシャ悲劇エウリピデスの「ヒポリタス」にまで遡らなければならないのです。「林檎の樹」の冒頭に、「黄金なる林檎の樹、美しく流るる歌姫の声」と「ヒポリタス」の詩編をオマージュしているからです。

 そこで、「わが子は他人」と「そして父になる」の問題に戻ってみて、はたと思い当たったのは、マークトウェインの「王様と乞食」(1881)です。日本では、巖谷小波が翻訳して「乞食王子」(1899)として大評判になり、その後「入れ替わり」ものの元祖のように、枚挙に遑がないほどの類似作品が登場している事実です。
 そう考えて見ますと、「わが子は他人」も、産院の赤子取り違い事件を取り上げてはいるものの、かなり濃密に「入れ替わりもの」の常道を踏んでいるのですから、「本家」ではあるにしても、ひょっとすると、「元祖」ではないのかもしれないのです。
 もし、ここで、本気になって「そして父になる」が「わが子は他人」の原作著作権を侵している、と主張して争うならば、相当のエネルギーと、確固たる勝算がなければ、単に芸能ジャーナリズムの喜びそうな騒ぎを起こすだけに終わるだろう、と判断したのです。
 「わが子は他人」以後、TBSからオンエアされて人気番組になった山口百恵主演「赤いシリーズ」の中の「赤い運命」も取り違い事件ですし、「古都」も怪しい、と百家争鳴になること必定なのです。
 ただ木下各品以後たびたび制作された「二十四の瞳」で、坪井栄原作だけを表示して、何の断りも無しに「僕の書いた脚本の部分を平気で使う」神経には、木下惠介さんは、しばしば憤慨しておられました。
 我田引水になりますが、僕(筆名 千束北男)のバルタン星人などは、special thanksどころか、全く存じ上げないカレがどれだけ登場している事か・・・
 Special thanks to 「映画この世界の片隅に」のタイトル表示が、ほんとうにオマージュなのか、視聴率獲得のための動機、なのかが議論されるべきであって、原作者がアニメ化とテレビドラマ化の権利を振り分けて双方に許諾しているのであれば、まったく著作権的な問題でなく、双方の営業的問題ではないかなという所が、僕の結論です。如何でしょうか・・・


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