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浜田山通信 №222 [雑木林の四季]

全国高校野球大会

                      ジャーナリスト  野村勝美

 全国高校野球大会は今年で100回になる。戦争中は工場動員で野球どころではない。私は中島飛行機の下請け工場で零戦のプロペラ削りをしていた。
 幼いころから野球少年だった。近くのお寺のお兄ちゃんが「野球界」という雑誌をとっており、見せてくれた。プロ野球はできたばかりで人気は六大学中等学校野球。海草中学の島投手は憧れの的だった。ある日近くの川原で遊んでいると島田商業(静岡)の一言という当時全国的に名の知れたピッチャーが姿をみせ、キャッチボールを始めた。その球の速いこと、とてもおそろしくてバッターボックスに立てないと思った。福井商業のグランドはスタンドもある堂々たるもので、県内外の中学野球部が練習試合に来た。左翼の方で見ていると外野手がものすごいスピードでボールを追ってくる。その迫力に驚いた。
 というわけで、昭和17年福井中学にはいると、キャッチボー-ルをしたのを先輩が見つけて野球部へ入れと強要された。身体は同年の一年生より頭一つ分大きかったし、といって入学早々野球漬けになるのは勉強にも差しつかえると思ったが、当時先輩に逆らえるものではなかった。あの頃一年上の先輩には態度が大きいと下校時によくなぐられた。 
 私に与えられたポジションは三塁手。毎日毎日バント処理の練習だった。先輩が手で転がすボールを猛ダッシュして一塁に投げる。これはこたえた。中学一年といえば、身体はまだ出来上がっていない。ぐったりして帰宅する私を見て、父が学校へ文句をいいに行き私は一か月ほどで野球部をやめた。
 そんなこともあって、中学4年で戦争は終わり、翌1946年、5年のとき、野球部を再建した。今度は最高学年、いばったもので、あれこれ下級生をシッタ激励した。全国中等学校野球大会も復活。福井県予選の出場校はたったの4校。敦賀商業のグランドで行われた。当時敦賀まで行くのが大変で、まだ北陸トンネルもなく山の中をスイッチバックをくり返して2時間ほどかかったはずだ。野球用具は中学が空襲を免れたのと近くの実業団チームの古いものをゆずってもらった。
 出場校はわが福井中学と敦賀商業が第一試合、福井商業と北陸中学が第二試合。第一試合のスコアは
   敦商 0 2 0 0 2 6 12  0 7       29
  福中 0 0 1 0 3 0  2  0 0        6
 とにかく5回までは同点、この同点は私が左越えのスリーベースを打ったもの。NHKがラジオ中継放送していたので福井じゅうが大騒ぎだったと、翌日校長が朝礼でほめてくれた。
 敦賀商業は戦前からの強豪校。この年も北陸代表で西宮球場での復活第一回大会に出場した。たしか後に慶応に行った平古場左腕を擁した浪商が全国制覇した。72年も昔の話、復活第一回、翌年から学制が変わったので中等学校大会の最後だし、ちっぽけなエピソードにもならない話だが、私にとっては懐かしい思い出だ。
 昔と全く違う猛暑の中、球児たち、応援の人たちの無事を祈りたい。

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