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渾斎随筆 №17                          [文芸美術の森]

推敲 1

                             歌人  会津八一                                        

 歌を詠んで、それをその時々の新聞や雑誌などで、一度世間へ出したものをすぐあとから自分でよく読み返して見ると、もういろいろ不満のところが出てくる。それを幾年かの後に、一冊にまとめるやうな時が来ると、標準がずつと高くなってゐて、落第をするものも出て来る。合格しながらも、幾らかの手人を受けるものも出て来る。これは誰にもあることであらう。しかし、めいめいが詠む歌の数は、いつも澤山に出来る人と、随分少い人と、そこに天分もあり流儀もあり、つまり其の人に依ることであるらしいが、妙なもので、澤山作ったから必ず粗製で、後で手人に追はれると限ったものでも無いらしい。
 私の郷里に原宏卒といふ歌人があった。私が二十歳頃、或る田舎の新聞の客員になって、俳句を選んでゐる時、その人は六十何歳かで、歌の方を受持ってゐられた。そして私が四十何歳の頃、八十何歳で東京で亡くなられた。この人などは、人の持って来る短冊に、「一日千首の歌詠みける中に」とか「五百首の中に」とか詞書のついたのを、よく書いたものであった。
 この人が一日に千首とか五百首とか詠んだといふのは、もつとずつと古い頃のことで、私はまだ子供で、その時のことは、よく知らなかったが、何でもその時には、公開の席で、大勢の立合や見物のゐる前で、朝の暗いうちから、紋附羽織袴で坐り込んで、そのまゝ流れるやうに詠んでゆくのを、筆記係が、汗を絞りながら、片端から書いて行つたといふ。昔、西鶴が大阪住書の社頭で、一日に二萬句の俳譜を詠んだといふ話もあるが、今仮に、一分間に一首としても、千首を詠むためには十六時間あまりになって、その間に食事や休息の暇も無い。しかし、原さんほ、とにかく一日に千首を詠み上げて、其の中に、かう云ふ詞書をつけて人に見せるほどのものが、いくらかでもあつたとすれば、質が何うの、主義が伺うのと云ふことは別として、やはり相当なものであったと云はなければならない。
 ところが、私などになると、まるで両極端と云つていゝほどに振はない。ずつと前に出した『南京新唱』の頃を考へるに、明治四十二年の八月から大正十三年までの、十七年の間に、何ともかんとも、とにかく九十八首しか無かったのだから、二年に五首ぐらゐのものにしかならない。つまり私が一年もかかることを原さんは五分間でしたと云ふことになるから、まるで較べ物にならない。
 私の方は、数がこんなに少いのであるが、その一首一首のためには、最初から相当に手数を掛けたつもりでゐたのに、『南京新唱』として纏めて世に出してから、またきにいらないところが、だんだん目について来るので、それにはいちいち工夫もして見た。そして、一昨年『鹿鳴集」の中へ再録知る時には、だいぶ修正を加へけれども、この『鹿鳴集』が出たあとになっても、私は相変わらず同じことをつづけている。まるで山の中で路に迷ったように、ひょっこりと、また元の所へ出て来たりして、やはり『南京新唱』に出した方が、まだいくらか良かったのではないかと、思ひ直して見ることも折々はある。古人も「兩句三年ニシテ得タリ、一吟シテ雙涙流ル」などいってゐるが、私などほ、なかなかそれどころではない。
 たとへば『南京新唱』の中に最初は
   たかむらに さしいるる 日も うらさびし はとけ いまさぬ
   あきしぬの さと
としておいたのがある。これは私のものとしては、いくらか良い方として、人から抄出されたり、自分でも好きな方であるが、日が「さし入る」ので、自動詞であるべきところを、「さしいるる」は他動詞になるから積かでない。「さし通る日」と改めては何うかと、注意してくれた人がある。初めから気がつかぬことではなかつたが、人に云はれてみると、急に気になって来て、いろいろ思案の末に、『鹿鳴集』では「さしいるかげも」と改めて置いた。云ふまでも無く、「かげ」は日光の意味で、つまり、同じことになる。けれども、かう改めたために、私の初から持ってゐた調子の感じが、何時の間にか失はれてゐるらしい。この調子のことは、いかにも話しにくいことでもあり、また話してもなかなか解って貰ひにくいが、とにかく、これでは私の気特にしっくりしない。そこで憩ひ出すのは、『奥の細道』のなかで、芭蕉は、たしか酒田の過で
   暑き日を 海に入れたり 最上川
といふ句を作ってゐる。最上川が海に入るといふのであるから、文法をやかましく云ふならば、「入りたり」といふべきところを、勿論それくらゐのことを、芭蕉はよく承知しながら、かまはず、他動を使ってゐるが、もしこれが文法通りであったならば、調子が詰まって、海に入る最上川の大きな気持があらはれない。やはり、「入れたり」でなければならない。そして、こんな點から芭蕉を非難した人は無かったかと思ふ。しかし、こんなところでも、芭蕉は偉いから、彼にして始めて許される自由だ、などといふ風に考へるのはつまらぬことである。悪いことならば芭蕉がやつても、誰がやつても、悪い筈である。同じことでも、こんな自由を、らくらくと掴み放ってゐるところに、芭蕉の偉さを認めるやうにしたいものである。これほどのことにも、びくびくして、長いこと思案を重ねたり、人の説に動いたりする私の天分の乏しさ、弱さ、といふことも、これで明るみへさらけ出されたやうなものであるが、私は今でも尚ほ、「さしいるる日」に心が洩ってゐる。

『会津八一全集』 中央公論社

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