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医史跡を巡る旅 №45 [雑木林の四季]

「林太郎残照」~陸軍軍医学校長時代

                     保健衛生監視員  小川 優

森林太郎、すなわち森鴎外の生涯については、脚気論争の項においてご紹介しましたが、幾つか触れていなかったお話があります。今回はその一つ、陸軍軍医学校長時代の史跡を取り上げてみたいと思います。

「森林太郎肖像」

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「森林太郎肖像」 ~国立国際医療研究センター病院資料展示室展示より

ドイツ留学から帰国し、軍医学校の教官を務めていた森林太郎は、明治26年(1893年)に軍医学校校長に昇格します。

「国立国際医療研究センター病院」

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「国立国際医療研究センター病院」 ~東京都新宿区戸山

陸軍軍医学校は明治19年に設立され、昭和4年(1929年)に牛込区戸山町(現新宿区戸山)に移転しました。今、その跡地は国立国際医療研究センター病院になっています。

林太郎が校長として勤務した時代は、麹町区富士見町(現千代田区富士見)、現在の逓信病院の場所にありました。校長に昇格した翌年、日清戦争が勃発して校長兼務のまま、第2軍兵站部軍医部長として大本営が置かれた広島や戦地、そして台湾へ赴くこととなります。
帰国後は軍医学校長を兼務したまま近衛師団軍医部長を務めますが、明治32年(1899年)に昇任と同時に第12師団軍医部長として福岡県小倉に転勤となり、軍医学校長を解任されます。この小倉への転勤は、林太郎にとっては不本意なものだとされ、実質的な左遷と取られています。

「森鴎外愛用の机」

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「森鴎外愛用の机」 ~東京都新宿区戸山 国際医療研究センター病院資料展示室

やがて林太郎が東京に戻り、再び軍医学校長となる日が訪れます。日露戦争も終わった明治39年(1906年)のことです。ただし今回は校長であった期間は短く、翌年に陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に昇任任官するとともに、その任を解かれます。
国際医療研究センター病院には林太郎も愛用したと伝えられる校長室の机が残っています。病院内の資料展示室で一般に公開されており、このあとご紹介する東京第一衛戍病院関係の資料も多数展示されています。

「陸軍軍医学校校長室」

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「陸軍軍医学校校長室」 ~国際医療研究センター病院資料展示室展示

陸軍軍医学校には病院が併設されていました。東京第一衛戍病院、のちに東京第一陸軍病院と改称されます。東京近郊に駐留する部隊の病気やけがの兵士、日清・日露戦争中・後には戦傷・戦病者を治療、収容しました。

「衛戍病院診療録」

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「衛戍病院診療録」 ~国際医療研究センター病院資料展示室展示

その当時の診療記録、カルテが残されています。

「衛戍病院診療録 脚気」

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「衛戍病院診療録 脚気」 ~国際医療研究センター病院資料展示室展示

当時大きな問題であった脚気患者のものもあります。

折角ですから、この辺りに軍医学校、あるいは衛戍病院時代の遺構がないか探してみました。

「境界石?」

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「境界石?」 ~新宿区戸山

古そうですし、現在の国際医療研究センターの敷地からは道を挟んでいますので、戦後の国立東京第一病院時代のものではなさそうです。

「地下道入口?」
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「地下道入口?」 ~新宿区戸山

そしてその近くにある国際医療研究センターの石垣に、地下道らしきものを埋めた跡があります。軍医学校と陸軍病院を結んでいた、との説もありますが、確証は持てません。
いずれにせよ戸山に軍医学校が移った時には、すでに林太郎が大正11年(1922年)にこの世を去った後ですから、この地を林太郎が訪れたことはないと考えられます。

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