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渾斎随筆 №18 [文芸美術の森]

推敲 2

                         歌人  会津八一

 また私がある時、一人で笠置山へ登って、山上で、路を横切って寝てゐる、のんびりとして白い、大きな石を見て詠んだ歌に
  のびやかに みちに ょこたふ この いはの ひとにし あれや
    われ をろがまむ
といふのがあった。これもある人が、「横たふ」が他動詞だからいけないといふので、『鹿鳴集』では、他に「よりふす」と直しておいたが、「よりふす」といへば、何か物によりかかつてゐるやうにも聞えるし、それよりも、やはり響きが宜しくない。この響きとか調子とかいふ話になると、解って貰へないばかりでなく、何か私一人だけの、疳のせゐ位にしか思はれないかもしれぬが、歌などといふものは、文法の作例を作るためにしてゐるのではないから、詠むなら、やはり、自分の気特にぴったりとした歌を詠みたい。とにかく自分で納得の出来るところまで、工夫を押して行きたいものである。それからまた『奥の細道』を見ると、有名な
   荒海や佐渡によこたふ天の川
がある。この「よこたふ」は、理窟をいへば、自動の「横たはる」であるべきところだ。しかし、ここは何うしても「よこたふ」にしておいて貴はなければならないのは、云ふまでもないことであらう。だから、決して芭蕉だからではなく、強く感激した詩歌なればこそ、特別に許されるのだと考へなければならない。今になって『大言海』をみると、芭蕉の此の句を引いて、「よこたふ」の自動を容認してゐる。但し、芭蕉だから、しかたなしに許したのか、誰にでも許すのか、その点は、はっきりしないけれども、とにかく、かうした大きな字引に出て居れば、規則や文法の好きな人たちには、まづまづ一と安心であらうが、一般人間の言葉といふものは、ふわふわとした生き物で、もとは自動とも、他動ともつかぬものであった。漢語などでも、古くは「受」は「うける」にも「さづける」にも通用したし、「估」は「かふ」にも「うる」にも通用した。出来上った文法の尊重もいいが、かうした根本のことも、一應考へてゐてもらはなければならない。しかし、文字や言葉が分化して、云はゞ発達した今の世にあって、故意に自他の区別を践み崩すといふのは乱暴であるし、ただのわがままや酔狂でするのは、決して宜しくないが、表現を一番大切な仕事とすべき詩歌のことであるから、偶然『大言海』に有る無しに係らず、時には我々にも、いくらかの自由を許して貨へるものと思ふ。
 また私は、『鹿鳴集』の末に、「印象」といふ題で、唐詩の譯のやうな歌を数首載せた。その中に韋應物の
  懐君屬秋夜          君ヲ懐ウテ秋夜二屬ス
  散歩詠涼天     散歩シテ涼天二詠ズ
  山室松子落     山室シクシテ松子落ツ
  幽人應未眠     幽人ハ マサニ眠ラザルべシ
といふのを
  あきやまの つちに こぼるる まつのみの おとなき よひを
  きみ いぬべし や
としておいた。この「おとなき」について、これは「松子」が落ちるのだから、當に「おとある」でなければならぬ、といふよううなことを、教へてくれた人も稀にはあったし、ある古人などは、この同じ詩を、まさしく、
  ゆめは まだ かよはぬ まどの 月に ゐて 誰まつのみ の
  おと を きくらむ
と譯してゐるが、これは果してどんなものであらうか。實は、私も最初の原稿には、長い間
  あきやま の つちに ひびきて まつ の み の こぼるる
  よひを きみ いぬ べしや
としておいたのであるが、そのときは「松子」は松毬、即ちマツカサのことかと、うかうかと思ひ込んで、それを漫然と「まつのみ」としておいた。實際そんな風に解釈してゐる人が、世間にも多いやうである。しかし、あのマツカサといふものを枝につけておくと、木が弱ると聞いてゐるので、ある日、實際庭へ下りて、竹竿などで、突けども打てども、たとへ、小枝が折れるほどにやつても、なかなか落ちて来るものでないことを、つくづく悟った。それから考へ直してみるに、「松子」は、枝についてゐるマツカサの鱗片の間から、風のまにまにひらひらと舞ひ落ちる、あの小さい羽根のある、我々の郷里などでマツタネといふもののことらしい。現に『中華大字典』の「松」の所では、これを説明して
  結實為球界、経年成熟、種子可食、俗稱松子。
  實ヲ結ビテ球界トナリ、年ヲ経テ成熟シ、種子ハ食フべシ。俗二松子ト稱ス。
といってゐるのでも、うなづかれる。せっかく、空山の寂莫の中に、松毬(まつかさ)の落ちる明亮な響きを聞くのだといふ心構をしてみたのであるのに、それは少し見當外づれであった。奥山に鳥が一羽鳴いてゐても寂しいし、一羽も鳴かないのもまた寂しい。音がしても、しなくとも、寂しいことにはなる。けれども、今この原詩の場合では、音のせぬ方の寂しさで、たとへば、この韋應物とは同じ傾向の詩人、王摩詰の
  人間桂花落   人間ニシテ桂花落チ
  夜静春山空   夜静カニシテ春山空シ
などいふところと、一味相通じるものがある。あの桂花、即ち木犀科の小さい花が、地びたにこぼれても音がするものでないから、「松子落」もまづ同じやうな気持であらう。私はかう考へ直したので、最初原稿に書き下ろしてから何年かして、あんな具合に、音がせぬやうにやり直したのであって、こん度の「まつのみ」こそは、ほんとのマツノミになったと、自分ではやうやう信じてゐる。

『会津八一全集』 中央公論社

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