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医史跡を巡る旅 №47 [雑木林の四季]

「林太郎残照」~小倉雌伏

                          保健衛生監視員  小川 優

明治27年、日清戦争が終わります。第2軍兵站部軍医部長として出征していた森鴎外こと林太郎は、割譲された台湾へ台湾陸軍局軍医部部員、のちに台湾総督府陸軍局軍医部長として派遣されます。ところが数か月で解任。この辺りから陸軍軍医としては、経歴に陰りが見られます。
東京大学医学部同期卒業の小池正直が、明治31年(1898年)8月には軍医監に昇進、軍医の人事権を掌握する陸軍医務局長に任じられる一方で、ほぼ1年遅れで林太郎が軍医監に昇進。さらに新たな任地は九州の小倉。仕事は第12師団の軍医部長。
古来上昇志向のある人たちの出世競争は熾烈なものがありますが、かたや中央の輝かしい管理職ポスト、こなた地方の現場仕事、林太郎の失意や如何ほどかと察せられます。

「森鴎外旧居」
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「森鴎外旧居」 ~北九州市小倉北区鍛冶町

明治32年に林太郎が着任した時期は、鉄道はまだ広島止まりで、小倉どころか下関までも到達していませんでした。新橋から神戸までが急行列車で17~18時間。さらに山陽鉄道で広島までが約9時間。広島からは陸路か海路かでも所要時間が異なったと思いますが、途中での宿泊も入れて、東京から4、5日は掛かったのではないでしょうか。
長旅の末、林太郎が落ち着いたのが、小倉北区鍛冶町。今は繁華街の裏通りといった風情ですが、彼が住んでいた家がほぼ当時のままで残っています。

「森鴎外旧居 玄関」
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「森鴎外旧居 玄関」 ~北九州市小倉北区鍛冶町

豪邸とは言い難い、こじんまりとした瀟洒な日本家屋です。玄関と通り土間がそれぞれあって、主人や客人は玄関を使い、使用人は土間を通って裏へ進んだのでしょう。

「森鴎外旧居 座敷」
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「森鴎外旧居 座敷」 ~北九州市小倉北区鍛冶町

勉学に明け暮れた学生時代、輝かしい留学時代、賑やかな陸軍軍医学校長時代はもはや過去のもの、中央の華やかな医学界と文壇からも離れ、静かに一人、座敷に座って林太郎はどんなことを考えたのでしょう。

「森鴎外旧居 裏庭」
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「森鴎外旧居 裏庭」 ~北九州市小倉北区鍛冶町

陸軍将校らしく、小倉では馬に乗って師団司令部に通っていたそうです。かっては裏庭に馬小屋がありました。裏庭にもささやかな石碑があります。

「森鴎外居住鍛冶町宅跡碑」
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「森鴎外居住鍛冶町宅跡碑」 ~北九州市小倉北区鍛冶町

ここ鍛冶町には約一年半住みました。その間も筆は休まず、地元新聞に「我をして九州の富人たらしめば」、「鴎外漁史とは誰ぞ」を掲載します。

「我をして九州の富人たらしめば」
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「我をして九州の富人たらしめば」 ~森鴎外旧居展示物

「鴎外漁史とは誰ぞ」
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「鴎外漁史とは誰ぞ」 ~森鴎外旧居展示物

表の顔である第12師団軍医部長としては、師団兵士の検診、診療、治療はもちろんとして、九州各地を回って徴兵検査の指導・監督を行いました。

「第12師団司令部正門」
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「第12師団司令部正門」 ~北九州市小倉北区城内

林太郎が通った師団司令部は、小倉城址にありました。今も煉瓦造りの正門が残っています。当時は着剣した銃を持った兵士が、昼夜を問わず立哨していたことでしょう。ちなみに第12師団は大正14年に久留米に移転します。

「鴎外橋」
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「鴎外橋」 ~北九州市小倉北区城内

小倉城は近くを流れる紫川を天然の堀としています。そこに平成12年に架けられた歩行者専用橋は「鴎外橋」と名付けられています。

「森鴎外文学碑」
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「森鴎外文学碑」 ~北九州市小倉北区城内

鴎外橋の袂、小倉城址側の広場には面白い形をした鴎外文学碑があります。鴎外の小倉三部作のひとつ、「独身」という作品の中に、小倉にあって東京にないものとして、小倉駅近くの常盤橋の近くにあった広告塔が描かれています。これを模してデザインされたといわれます。六角柱のそれぞれの面々に、鴎外作品から小倉に因む文章を選び、石板に刻んでいます。

「森鴎外記念碑」
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「森鴎外記念碑」 ~直方市殿町 多賀町公園

明治33年10月、林太郎は師団の演習に付き添って小倉の南にある直方を訪れます。直方では地元の名士で筑豊の炭田王の一人、貝島太助の屋敷に泊まります。その縁から、直方駅近くにある貝島太助屋敷跡の多賀町公園には森鴎外記念碑が建てられています。

「森鴎外文学碑」
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「森鴎外文学碑」 ~飯塚市本町 本町商店街アーケード

翌年にも演習で筑豊を訪れ、飯塚宿の呉服屋嶋田家に宿泊します。これを記念して跡地に文学碑が建てられました。

「森鴎外京町住居跡碑」
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「森鴎外京町住居跡碑」 ~北九州市小倉北区 小倉駅前

明治34年(1901年)、林太郎は当時京町と呼ばれた町に移り住みます。この場所は駅前の再開発によって、現在は駅前ロータリーの一部に取り込まれています。

「森鴎外京町住居跡碑 補足プレート」
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「森鴎外京町住居跡碑 補足プレート」 ~北九州市小倉北区 小倉駅前

記念碑そのものも区画整理によってあちこち移され、碑文の整合性が取れない状態が続きましたが、奇しくも現在の設置場所が、旧宅跡であったことがわかったそうです。
この頃、林太郎は判事荒木博臣の長女、志げを後妻として迎えます。
そして明治35年3月、第一師団軍医部長に任ずる旨の発令があり、足掛け4年におよぶ林太郎の小倉時代が終わります。最初は本人としても不本意であったかもしれませんが、林太郎の小倉での年月は、忙しい世俗から離れて、武骨で朴訥な九州人の人情に触れ、心身ともにリフレッシュする良い節目であったかのように思われます。帰郷して林太郎、いや鴎外は、小倉時代を題材として執筆活動にいそしみます。

「森鴎外旧宅 鴎外像」
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「森鴎外旧宅 鴎外像」 ~北九州市小倉北区鍛冶町

鍛冶町の鴎外旧宅の庭先には、林太郎の銅像があります。東京にいたころの険しい表情と異なり、心なしか柔らかな顔つきに見えるのは、気のせいでしょうか。

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