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バルタンの呟き №44 [雑木林の四季]

         「地方創生とはいうけれど」

                         映画監督  飯島敏弘

 昭和7年(1932)生まれの僕は、ひと足遅れの戦中派です。もう2年早く生まれていれば戦場に駆り出された、集団疎開世代というわけです。集団疎開とは、学校ごとに集団で、空襲を避けて主要な都市部から各地方に合宿することです。2020TOKYOオリンピック・パラリンピックを迎えようとする今日、疎開などという言葉は、死語になっているかもしれないのですが、少国民と呼ばれた僕たちは、昭和20年3月10日に、首都東京一挙無差別焦土化作戦で、一挙数十波にわたって米軍巨大爆撃機B29数百機が、焼夷弾の雨を降らせた東京大空襲に遭遇するまでは、帝都東京の防空の足手まといになるという理由(当時は、ヒトラー・ユーゲントを倣った種の保存!という触れ込みだった!)で、全国に先がけた実験校として、昭和19年5月6日、親元を離れて、栃木県の那須に臨時に設立された那須戦時疎開学園に集団疎開していました。
 やがて8月には、更なる空襲の激化に対応して、正式に発令され、東京中の約40万名の国民学校(小学校)児童が続々と各県に疎開(広がる)して行ったのです。
 
  ところが、約10か月の疎開学園生活の後、翌年の春3月6日、僕たち6年生だけが、中学受験のために、さらに爆撃が頻繁になりつつあった東京に帰ってきていたのです。今考えてみると、実に行きあたりばったりの政策に振り回されたと思いますが、それでも、旧本郷区の僕たちの場合は、降り注ぐ焼夷弾の雨の中を何とか逃げおおせたのですが、絨毯を外側から渦巻き状に敷き詰めるように焼夷弾の雨を降らせた軍民無差別の爆撃で、その夜僅か二時間余で、東京中心部の大凡が焦土化、爆撃による犠牲者は30万人という夥しい数にのぼり、その中心にあって、人口密度が高かった本所、深川、江戸川などの下町では、帰京した6年生クラスの大半が焼死した学校が希有ではなかったのです。不幸中の幸いと言っては語弊がありますが、爆撃の円周にあたっていた台地の本郷小では、校舎や住居は失われたものの、僕ら6年生の犠牲者は、僅かに一名だけでした。
 
  僕たちの過ごした那須戦時疎開学園は、那須連峰の裾野の那珂川沿いに広がる、那須御用邸を包括する広大な国有林につながる敷地にあった施設、東京府立第四中学校の夏季錬成道場をそのまま使用したので、疎開した当初は、指導教諭や、寮母(母親代わりの女性)などの志も高く、敷地内の、森、川畔、田畑や、鳥、魚、昆虫など、都会っ子の僕たちには全てがもの珍しく、まったく未経験だった農作業や川遊びに、ともすれば親兄弟との別れの寂しさもまぎれるほどの楽しさもありました。
  やがて8月の政令で、全面的に正式の集団疎開が開始されて、村内の寺院や、学園敷地に隣接する黒磯町の旅館などが疎開児童で溢れるようになり、僕らの場合も、実験段階ではなくなった上に、志の高かった当初の指導教諭が徴兵された後には、後任教諭の苛酷な皇国少国民教育指導要綱一辺倒の指導と、地元協力者の援助態勢も崩れて、環境が一変、飢えと、不平不満と、意欲の低下かの不潔、荒廃、勉学の遅れなども生じたのですが、戰爭が終り、「時の消しゴム」が、辛い思い出も淡くしてくれたのでしょうか、今でも折々に集う当時の仲間と語り合う時には、それも、カーテンの向こうにあるような、懐かしみの想い出の風景のようにソフィスケイトされていたのです
もっとも、僕と一緒に疎開した、当時4年生だった弟に言わせれば、
  「冗談じゃないよ!最上級生の兄貴たちと違って、低学年の俺たちは、辛くて悲しくて、毎晩布団にくるまると、泣けて、泣けて、声出すと兄貴になぐられるから、寝間着の袖噛んで堪えてたんだぞっ!・・・しかも、俺たちは終戦後一年間も、放ったらかしにされて・・・兄貴たち6年生がいなくなっちまってからは、町の学校の奴らにも舐められるし、そりゃあ惨めだったんだからな」
 となるのも致し方ありません。戰爭が終って、疎開児童の存在意義がなくなったのですから、皇后さまが疎開児童に賜ったお歌も、疎開学童の国有林立ち入り御免の特例も効力を失っていたのでしょう。でも、そうは言いながら、70年余を経た今となると、辛かった辛かったと零す弟たちにとってさえ、今では、あの頃のいろいろな想い出がすっかりソフィスティケートされて、懐かしさ一杯の第二の故郷、今風にいう聖地になっていたのです。
 
  さて、東北新幹線那須塩原駅で在来線に乗り換えてひと駅、現在はローカルの宇都宮線終着駅となった旧東北本線黒磯駅でホームに降り立ち、往時の面影を求めようと見まわす僕の眼に映ったのは、全面改築中の駅舎を包み隠すように幕を張り巡らした工事中の足場でした。20年ほど前に一度、クラスのみんなと回顧旅行で訪れた時には、疎開当時の記憶と結びつく旧い建物や店が並んだ活気のある黒磯駅前から道場までの光景でしたが、それが、全くと言っていいほど見知らぬ街に様変わりするようなのです。
  黒磯駅前には、東北新幹線の開通で、那須塩原駅に皇室御用邸下車駅の栄光をうばわれてしまったせいか、紅葉が見ごろの繁忙期にもかかわらず、観光客らしき姿はおろか、通行人さえも見当たりません。「地方創生」の掛け声で注ぎこまれる交付金で行われている駅前再整備事業なのでしょう、一帯がすべて工事中で、全国どこでもあるコンクリートと鉄の街に変貌しかかっている状態でした。駅前広場を複雑に交錯する誘導柵をたどって、構内タクシーに乗って行き先を告げると、思わぬ方向に走り出したのです。芭蕉もたどった奥州街道に繋がる本通りはバイパスして、地元出身の詩人土井晩翠の名を冠して風情のあった晩翠橋も、全くデザインの異なるコンクリートの橋に掛けかえられている見知らぬ道を走り抜け、あっという間に告げた場所に着いたのです。
  旧那須戦時疎開学園、府立第四中学校錬成道場の門柱に代わって、新たに建てられた都立高校名の記された石の門には、立ち入りお断りのチェーンが掛けられていましたが、地元育ちの運転手さんが、平然とチェーンを外して乗り入れて行く道は、嬉しい事に、見覚えのある深い森に分け入ってゆく昔どおりの幅の狭い砂利道で、同行のカミさんに、
「ほらあの楢の木の節の蜜に、カブトムシがいて、取ろうと思って近づくと決まって、大きなスズメバチがたかってくるんだ・・・」
 思い出話などをきかせながら、禁を犯してこわごわ渡ったことのある旧東北本線の鉄橋が現われる筈のカーブを曲がると、僕の眼に飛び込んできたのは、頭上に高々と、銀色に光る東北新幹線の硬質なデザインの鉄橋の向こうに、赤さびた旧東北本線の鉄橋が、痩せた裸身を隠すように姿を見せている光景でした。我が家に帰りたさに夜間線路伝いに逃亡を企てた児童も辿った鉄橋の線路に敷かれた二枚の渡し板を歩くのは、遙かに下を流れる那珂川が足もとに見える、昼間でもぞくぞくするほど怖い、禁断の近道だったのです。
「駅に行くには、すごく近道で、むかし僕も通学する時、これを渡りましたよ。ちょっと、怖いこともありましたね・・・」
運転手さんは地元育ちらしく、僕のむかし話に割りこんで、きます。
 先年、仲間たちと再訪した時には原形のまま残っていた寮の建物は、その後の失火で焼失してしまったと聞いていましたが、ほぼ原型の設計で再建されていて、焼け残った調理場の一部と、講堂は疎開時のまま存在していましたが、管理人のいる様子もなく静まり返っていました、周囲を見回しますが、体操場だった前庭は、いわゆる強兵(つわもの)強兵どもの夢のあとどころか、主木のクロマツの周囲を美しく躑躅が覆っていた前庭の築山は雑木雑草の団塊となり、坂を下って農場を通り河原に通じる道の入りの辺りは倒木を重ねるようにして塞いであり、道場が使われている様子ではなくなっています。
 「那珂川は、東日本大震災以降にも、氾濫して、流れも変わりましたからね・・・川で泳ぐ者(もん)者は、今は、いませんし。でも、行ってみますか?間庭さんとこへ」
事情を知った運転手さんが、間庭さんという、当時管理していた農家への道を降りて、声を掛けてくれ、出てきたお婆ちゃん(私よりも年下!多分あの頃幼児)に許しを得て庭を抜け、広々とした草地を歩いて、嘗て覚えのある川への道を見つけたのですが、そこも柵で隔てられていて、その先は、雑木や草が覆いかぶさっていて、犬猫さえ分け入りかねる状態でした。
 「去年も今年も、誰も来なかったねえ、道場には・・」
という声で、振り返ると、気になったのか、間庭さんのお婆ちゃんが立っていました。
 「近頃の年寄りは、カラオケだのばかりで・・・草刈りなんかは一切しねえから」
月の輪熊も出なくなって、けもの道さえ塞がっている、という実情を聞かされたのです。周囲の山の木々も葛の蔓に覆い尽くされて、全く手を入れた形跡もありません。
 疎開の時、下町育ちのワルグループと、川遊び(体育の水練です)のついでにスイカやトマトを失敬して河原で食べたほど広かった間庭さんの田や畑でしたが、
 「爺さんと二人ではとても出来ねえから、一昨年でやめただよ・・・」
という事で、田畑だっだったはずの草ぼうぼうの荒地の向こうに、見覚えのある大きな柿の木が、採る人もなくびっしりと実をつけていました。鎚で豚の眉間を叩く屠殺を手伝わされて震え上がり、こわごわその戦果のトンカツに噛みついた恐ろしい想い出の牛舎も、天秤で汚わい担いだ道も、全てが草木に覆われて消滅していました。間庭さんだけでなく、周囲の農家もほとんど後継者は無く、廃業せざるを得ないのが実情だという話でした。
 すっかり消沈しての戻り道、僕たちが空腹を紛らわそうと、食べるために歯磨き粉を買った門前の古くからあった薬種屋も、畳屋も、ヤミでお粥や餅を食べさせた食堂も、すべて廃業か転業をしている事実を見せつけられる思いでした。
黒磯駅周辺の大規模な再開発計画で、あちこち部分的に作業し終った、西欧のどこかの街に似たような急造レトロ風の石畳とガス灯風な石柱の街灯が並び、通りかかる人影もなく、僅かに二三人の工事人の槌音だけで静まり返っています。
 百五十年より遙か昔の年号の書かれた古びた木製の看板を掲げた老舗の和菓子やさんから、名代のまんじゅうを蒸かす湯気が、細々と立ちのぼるのだけが、変貌しつつある駅前目抜き通りの、動きでした。
 「再開発と言っても、街の人には、関心ないですよ。とっくに諦めて・・・このまま、変んないです、きっと」
そう言われてみれば、駅前通りの各所に「年金感謝セール」という。意味がよく解らない売り出しの旗が、うなだれるように立っていました。
 チップにと、わずかな釣銭を断るのを押し返しながら、生まれ故郷のこの町に帰ってきたという運転手さんが呟いたように、町は静まりかえってっています。

  70年とは、本当に昔々・・の歳月です。国敗れて山河・・・ではなく、荒廃ありきだったのです。でも、一体、何に、破れたのでしょうか。
 さきの戦争に、ではありません。現在の戦争、ではないでしょうか。日本にとっての国難は、決して中国や韓半島の国、ロシアではありません。自作自演の国難です。
  政権維持のために、としか考えられないむりやり推し進めようとする、過剰な経済的発展こそが、各国が競い合ういわゆる成長経済こそが、いま世界中に対立と戦争を引き起こしているのだと実感しました。さきの、僕たち少国民までを戦闘員に育て上げようとしなければならなかったようなあの無策無謀な戦争を引き起こしたのは、僅かな戦勝に酔い痴れて、自国の戦力を過信して、資源貧国日本が欧米の植民地政策を真似て東アジア、南太平洋諸国に進攻する富国強兵策の戦争につき進んだ自作自演の国難だったのを、忘れたのでしょうか。戦争を知らないリーダーが、「この道しかない」と国民の皆さんと共に」突き進もうとする今、戰爭を僅かにかすめた僕たちが、その行く末に何が待ち構えているのかを呟かなければ・・・
  地方創生と称えるけれど、この街のように、少子高齢化した地方の実情を反映する事なしに、単に票田の施肥のための事業として、或いは、グローバルに成長をむさぼる経済活動の犠牲となりつつある日本国内の農業、酪農を棄捨するのを厭わない創生こそが、逆に地方破壊の元凶なのでは・・・と、考えさせらてしまう、第二の故郷訪問でした。
 
 日本中、各地方で、多額の国費が注ぎこまれて、創生ならぬ破壊の槌音が聞こえるのですが・・・創生が廃頽を招き、地方の所得を奪い、国費(国民の税金)で助成するという悪循環が、何を以て、国内経済の好循環というのでようか・・・

  

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