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正岡常規と夏目金之助 №3 [文芸美術の森]

      子規・漱石 ~生き方の対照性と友情、そして継承 
                 子規・漱石 研究家  栗田博行

  序 Ⅲ ― 継承 ・・・ 自己決定のタイムラグを超えて

  よく知られているように明治31年、子規は「歌よみに与ふる書」を発表しています。その中でこんな激しい言葉を吐いています。

2-3.jpg「貫之(つらゆき)はヘタな歌詠みにて『古今集』は下らぬ集に有之。…あんな意気地のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしく相成候。」  (再び歌詠みに与ふる書)
「生は(=自分は)国歌を破壊し尽すの考にては無之、日本文学の城壁を今少し堅固に致したく、外国の髯(ひげづら)どもが大砲を発(はな)たうが地雷火を仕掛け(しかけよ)うが、びくとも致さぬほどの城壁に致したき心願有之、」  (歌詠みに与ふる書 六)

  死の時期がさらに近づいていることを意識し始めた子規の、国歌(=日本の文学)への「志」(こころざし)が生んだ叫びでした。
 まるで維新の志士か自由民権運動の闘士のような子規のこの言葉に対して、熊本で鏡子さんとの結婚生活2年目の初春を迎えていた漱石の反応はどうだったか…それを確認できる資料はありません。しかし、松山で子規の「俳門」に入った漱石は、添削を受けるためせっせと熊本から句稿を子規に送っていた時期であり、子規が命懸けで仕事をしていた新聞「日本」に連載されていた「歌よみに与ふる書」を読んでいなかったとは考えられません。ただその時点では、子規のこの思いつめた叫ぶような言葉を、漱石・夏目金之助はあまり深甚に受け止めてはいなかったと想像されます。
 熊本時代は、流産ショックからの鏡子さんの身投げなどのことがあったとしても、結局は初めての子・筆子ちゃんにも恵まれ、苦しみが続いた彼の生涯にあっては一番幸せな時期だったと言えるのです。

3-2.jpg

しかし、そうはいかないライフステージがやってきます。英国留学の国命が下ったのです。拒否も回避もできず(・・・しないで)、結局、彼はこれを受命します。

3-3.jpg  国を出て1年にも充たない明治34年春、彼はロンドンで苦悩し始めます。国力と文明の格差の大きさ、西洋文化へのカルチャーショック、「英語研究の為」という国命への違和感、異国での孤独、鏡子さんからの便りが少ないことへのいら立ち等が重なり、独特な敏感さを持った彼の精神の地盤をゆすり始めたのです。そんな中で、漱石は次のようなメモを残しているのです。         

 〇かう見えても亡国の士だからな、
           何だい亡国の士といふのは、
                               国を防ぐ武士さ 
                                                (漱石全集19・断片9A)

   兵役回避をしたことの負い目を引きずっている自意識から、「亡国の士」という自嘲めいたつぶやきがふっと生まれ、その一瞬後、切り返すように「イヤ、国を防ぐ武士さ」という、「防人=さきもり」に自分を見立てるような言葉でそれを打ち消しているのです。
   明治政府の国命を受けてやって来たロンドンにあって、夏目金之助というエリートの胸中にはこんな自問自答があったのです。この僅か35文字・3行の書記言語(=テキスト)は、のちに漱石となる明治日本男子の、揺らぎ葛藤したこころの動きの正直な記録(=ドキュメント)だと思えてなりません。
  粗末な紙片に書きとめられたこの走り書きは、ロンドンの様子を知らせてくれという子規の求めで書かれた長文の手紙の材料としてのメモ・・・見かけたり頭に浮かんだりしたことを書き留めた沢山のうちの一つ・・・だったと考えられます。子規宛ての書簡もこのメモも、ともに明治34年執筆ということからそんな推定をする次第です。(書きあがった長文のこの手紙は、のちに「倫敦消息」と題されてホトトギスに2回にわたって連載されます 。)
  ロンドンでの内心のひとり言=独白でありながら、誰かに語り掛ける会話体になっていることも、注目に値します。すると、次のように書き換えてみることができるのです。

         金之助 「かう見えても亡国の士だからな、」
                    常規 「何だい亡国の士といふのは、」
                                       金之助 「国を防ぐ武士さ」

  子規の言う「外国の髯(ひげづら)ども」の真っ只中にあって、彼我の国力・文明の格差への実感と西洋文化へのカルチャーショック等が昂じて、やがて「神経衰弱」と自ら言うほどの心境に陥っていく漱石=夏目金之助。そんな彼が、孤独なロンドン暮らしの中でぽつりと呟いたこのモノローグは、遠く離れた日本でさらに死に近づきながら、健筆をふるっている友人・正岡子規との、心の一番奥深いところでの対話として生まれたのではないか、と推察する次第です。(…そのように子規と対話している自分自身には、半ば無自覚だったかもしれないくらいの、こころの奥底で…)
  夏目金之助はそれをメモ書きとして手元にとどめ、子規(正岡常規=既に文学者だった)への手紙(=倫敦消息)に、話題として書き込むことはしませんでした。
 しかしそうではあっても、熊本時代にはあまり重くは受け止めていなかったかもしれない、「日本文学の城壁を今少し堅固に… 」と叫んでいた親友・正岡子規と、同じような精神のグラウンドに、ここで立とうとしたのでした。
 
  とは言っても、この時期の漱石は、まだ文学者でもなく作家でもありませんでした。「英語研究ノ為満二年間英国ヘ留学を命ズ」との辞令を受けてロンドンに来ていた熊本五高の教授でした。
  そのため、子規との心の奧底の対話で生じた「 国を防ぐ武士さ 」という本能的な気概は、「英文学研究」という方向に向かったのでした。それは、明治36年に帰国し、一高・帝大の英語講師を務めながら、明治40年に「文学論」として完成するまでに6年近くもかかる、苦しい大仕事になりました。しかも出版された時、誤植の多さもあって、のちにもうひとりの親友菅虎雄に、「印刷された千部を庭へ積んで火をつけて焚いて仕舞いたい」と言ってしまったような、苦しい大仕事に終わりました。

3-4.jpg   明治34年、ロンドンでひそかにあの 「 国を防ぐ武士さ 」という気概を持ってから、明治40年「文学論」完成までの6年間には、漱石の身の上には痛々しいほど様々なことが、密度高く起こり続けています。
   科学者池田菊苗との出会いと52日間の同居と別れ、その影響からの文学の科学的解明への研究着手、「夏目狂セリ 」という噂が立つほどの集中と没頭、神経衰弱の自覚、子規逝去の報せと悼亡五句詠、そして帰国。
  帰国後の五高退職・一高と帝大へのリクルート、家庭へのいら立ちと実家への鏡子夫人追い返し、別居していた鏡子夫人覚悟の夏目家復帰、三女栄子誕生、教師職への自信の揺らぎと回復、なおも残る教職への厭悪感。そこへ…高浜虚子による文学世界への誘い、文学者としてのデビュー「吾輩は猫である」、続けて「坊っちゃん」の執筆。その世間的な大成功。作家として生きていけるという手応え。

  子規と違って自分探しの期間が長かった夏目金之助でしたが、ここまで来て、やっと文学を自分の本業と思い定め、文学に専心する決心をしたのでした。それが端的に顕れた言葉を、明治391026日の鈴木三重吉宛書簡に記しています。

        「僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に
                            一面に於て死ぬか生きるか、
          命のやりとりをする様な維新の志士の如き
                     烈しい精神で文学をやつて見たい」
 
  5年前ロンドンで子規に手紙を書こうとしていた時ふっと浮かんだ「国を防ぐ武士さ」という想念は、様々な人生苦を重ねた末に、ついに「維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい」という決心として、夏目金之助の中で結晶したのです。

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  この時、子規はすでに没していました。いろいろな苦しい問題を抱えてそこへ来た漱石が、亡友子規を直接意識に上らせていたかどうかはともかく、日清戦争に臨んで、自分とは全く対照的に壮士風の昂ぶりを見せ、のちには叫ぶように「歌よみに与ふる書」を発表していた親友の生き方の印象が、心の一番奥深いところに潜んでいたことは確かでしょう。
  生まれ落ちた境遇や降りかかった運命の違いを超えて、張り合い、呼びかける気持ちのあふれる緊密な交際をした子規・漱石でしたが、二人の人生には、自己決定の大きなタイムラグがありました。しかし、それを超えて精神のバトンタッチ「継承」は、行われたのです。二人は「日本文学の城壁を今少し堅固に」しようとした点で、同志だったのです。
 
   以上、掲題の「子規・漱石 ~ 生き方の対照性と友情 そして継承」という観点を概略説明しました。これをもとに、二人が「明治という国家」の中をどう歩み何を切り開いたか、個人的・時代社会的条件をどう活かし、またそれに制約されたか…彼らの偉大さと限界性の両面を、できるだけ実際に生きた姿を求めて、具体的に見てゆきたいと考えていきます。
  くりかえしますが、近代国家となった日本が、はじめて異国にしかけた戦争=日清戦争をめぐって、病身を押しての従軍と戸籍操作による兵役回避という、際立った態度の違いをみせた二人でした。「戦争と平和。国家と男子の自己」という観点から見れば、それは互いに相容れないくらいの「生き方の対照性」だった筈です。しかし、この二人の間には不思議とも思えるような「友情」が成立し、生涯に亘って続いたのでした。そして、今回掲題した「継承 ・・・自己決定のタイムラグを超えて」 というべき友人関係を実現し、後世の日本人への大切な精神的遺産を残してくれたのです。その過程を追っていきたいと思っています。長い連載になってしまうでしょう。最後までお付き合い下されば幸いです。
 
  次回(1115 日予定)は、第一章として、ともに慶応三年生まれの子規・漱石が、幼年期から少年期にかけてどんな成長の段階を踏んでいったのか、そこにあった共通性と相違を追うことから始めたいと考えています。


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