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渾斎随筆 №20 [文芸美術の森]

中村彝君と私 1

                                                    歌人  会津八一

 私と中村君との間には、交際といふほどの交際があったわけではない。會ったのは一昨年の十二月一目で、あとにも先きにも、それが唯の一度きりであった。だから、此の人の平素の性行とか生活とかいふやうなことは、殆ど何も知らなかったが、この一度きりの面會から、その時蒲圑に埋まってゐた此の人の顔が、今も目さきにちらついて離れないほどの印象を受けた。そしてその後には、あちらからも、短い問に、幾人かの若い人たちをよこして、私に會はせようとされるやうになった。
 私は元来、絵でも彫刻でも、展覧會でゆっくりと鑑賞の出来ないたちで、どこの會場でも、あのたくさんの観衆と一しょに、あのたくさんの絵を、一枚一枚ていねいに見て行くことは、たまらないほどの苦痛である。それで、いつもそわそわと、少し慌て気味に、受附から下足へ急ぐ。ところが、中村彝といふむづかしい名前に、私が気のついた頃から、この人の作は、この落ちつかない私の足を、いつも床板に吸ひつけるやうに引き留めたものである。そこで、いつとなしに、一度會って見たいといふやぅな気拝が、ひそかに起ってゐたものらしい。すべてに無精な私の流儀としては、豪らいと恩ふ人があつても、すぐ訪ねていって合ってみるとか、それを話の種にでもするとかいふことは、あまりせぬことにしてゐるから、實際「田中館老人」や、エロシェンコの肖像などで、かなり深く感服してゐたものと見える。
 ところが、たうとう此の人と面會することになった。それは、ある日曾宮(そみや)一念君が、あちらの使者として、やって来ての口上に、こちらから御伺ひするのが順序ではあるが、足の利かない病人のことであるから一度御遊びに御いでを願ひたい、といふのであった。こんな場合に、いつも出渋るのが例であるのに、私はすぐ承知して、日取りの約束をした。そしてその日になると、曾宮君が迎ひに来てくれた。何も手土産の用意も無かったので、これでも持って行って見せてやらうと、私が云ひ出したのは、大英博物館の、大きな重いパルテノン寫眞集で、曾宮君はそれを横抱きにしながら、先きに立って門を出た。私の居るのが下落合の三丁目、両君は二丁目で、あまり遠くも無いので、まもなく中村君のところへついた。曾宮君は、玄関へまはると少し遠いと、どれほどのことでもないのに、そこがいかにも曾官君らしく、裏口から入って、勝手を抜けて、いきなり寝室へ先導した。と見ると、そこに主人は寝てゐたといふよりは、気楽に仰になってゐたといひたい。白い蒲圑とシーツの中から、黒い髪の伸びた、血色のいい、元気一ぱいな顔が、驚くほど逞しい右の腕とともに出てゐた。黒い二つの目が私を迎へた。長年の病苦や孤獨と闘ひ抜いて来たといふやうな、寂しさも、わびしさも、この部屋の何所にも無かった。まるで花畑から折って来たばかりの向日葵の大きな一輪を、そこへ投げ出したやうに、鮮かに輝くこの人の風手は、まづ以て、大きな以外であった。
 挨拶もそこそこに、我々はすぐ話し出した。最初、ほんの少しばかり共通の二三人の友人の噂などをしてから、すぐ美術のこと、美術家のこと、まるでほかのことと、いろいろのことをそれからそれへと話した。その間に、この人の、あの麗(うらら)かな、晴やかな言葉のうちに、自然や人生の姿も、藝術の魂も、あの根強い人格の匂ひとともに、刻々に私に迫るのを覺えた。ことに奥深く見通して、熱烈に感激しながら、なみなみならぬ理智の力で掴んでゐるらしい藝術観が、ただの世間噺のうちにも、濁りもなく、曇りもなく、自由に躍動するのが嬉しかった。
 ついいろいろの話しをして、出前の洋食の御馳走になったりして、二三時間にもなるので、暇を告げて歸つた。歸りがけに気がついて見ると、蒲團の下に一冊の小さいフランス語の字書が、かなり手擦れて窺き出してゐた。その古び方から、病床のつれづれも、不自由も思われたので、私はいった。いづれ近いうちにまた御訪ねしたいが、寝てゐる君が、何かさしあたって、知りたいとでも思ってゐられることがあれば、うかがっておいて、偶然私の知ってゐることなら、この次に来てそれを御話しするし、私がよく知らないことなら、遽か仕込みの勉強でもして来てそれを話さう。書物などならば、借り集めて持って来ることにしてもよろしい。私がかういふと、中村君はたいへん喜んで、まるで待ちかねてゐたといふ風に、言下に二つ三つの証文を出された。まづ支那の陶磁器の知識がほしい。それから、奈良の彫刻を、もつと明確な寫眞で知りたい。しかしまた、奈良地方の自然の色調や情趣、今の奈良人の生活などを、私のやうに寝てばかりゐて旅行の出来ない病人に見せる方法は無いものであらうか。そんな書物を一つ作って貰へないものであらうか。まだ何か註文があったが、大體こんなことであった。
 中村君の枕もとへ、パルテノンを置いて掃ってから二三日して、その頃、大分縣臼杵満月寺址で、田舎の寫眞星さんに撮らせて、持って歸ったばかりのキャビネ二十枚を、私は中村君に贈った。それは、あの日最も熱心な質問を受けた有名なこの石佛群の説明を補ふつもりであった。すると翌日届いた禮状のなかに、パルテノンの彫刻よりも、よけいに自分を感激させるものが、此の石佛群の製作の中にあると、中村君は云つて来た。祖先の美術の中に、これほどのものを見出すことの力強さにも云ひ及んであった。ここにも、中村君の自由で、眞率な、しかも愛国的な態度があらはれてゐて、私は動かされた。


『会津八一全集』 中央公論社


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