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雑記帳2019-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-2-1
◆上野のお山は元は全体が寛永寺でした。。

上野の地名は江戸時代初期に、伊賀上野の大名、藤堂高虎の屋敷があったことに由来します。1624年(寛永元年)、天台宗天海僧正の進言で、江戸城鬼門守護の寛永寺が徳川家菩提寺として建立され、門前町として栄えました。(この人はまさに怪僧で、徳川家3代にわたって巨大な寺院の創建にかかわり、あの時代に108歳までいきたというから驚きです。)
1868年(慶応4年)、寛永寺は彰義隊の拠点となり、5月15日、新政府軍の総攻撃を受けて、集まった隊士4,000人のうち3,000人以上が戦死したといわれます。
荒廃した上野の自然が失われていくのを憂えたボードワン博士により、明治6年、上野は日本初の公園に指定され、今日にいたっています。
多くの博物館や美術館、動物園もある上野の森は、いまや都内きっての観光地、1年中、国内外からの環境客でごったがえすようになりました。

集合場所は西郷隆盛の像の前でした。
愛犬ツンをつれたおなじみの西郷ざんの像は、皇室からの500万円の下賜金のほか、2万5千人余の寄付で建てられたそうです。当時も西郷さんは人気があったのですね。
でも、写真嫌いの西郷さんには写真が残っていなかったため、高村光雲がモデルにしたのは軍服を着た西郷さんの肖像画でした。見ると、なかなかの偉丈夫ですが、西南戦争から21年後のこととて、まだ軍服がはばかられて、あのラフな恰好になったということです。
ちなみに、ツンは後藤貞行の作。皇居外苑の楠木正成の像も2人の共作で、後藤は馬を作っています。

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先の、戦死した彰義隊士の墓は明治14年に建立されましたが、墓石には新政府にとって賊軍になる「彰義隊」の名前はありません。「戦士の墓」を刻んだ文字は山岡鉄舟の筆になるもので、この人の字は銀座木村屋の看板にも見られます。

清水観音堂は京都東山の清水寺を模した、舞台造りのお堂です。天海僧正により建立されました。
舞台から見下ろす不忍の池は琵琶湖、弁天堂は竹生島を模しています。
月の松から不忍池を臨む舞台づくりは、江戸時代、浮世絵にも描かれた景観です。

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中央の丸い月の松の中にのぞく青い屋根は弁天堂

進めば正岡子規記念野球場。知の木々舎に連載中の「子規と漱石」にそのうち出てくるかもしれませんが、子規は野球が大好きでした。ベースボールを野球とよぶなど、野球の英語を一つ一つ日本語にかえています。自分の「のぼる」という名前も「ノ(野)ボール(球)」と呼ばせたほどです。そういえば、子規は昨年、野球殿堂入りしました。

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東京文化会館と道路をはさんで、昨年、コルビジェの設計で話題になった国立西洋美術館は、前庭だけで美術散歩ができます。
ロダンの「考える人」や「カレーの市民」、「地獄の門」、ブールデルの「弓をひくヘラクレス」…
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カレーの市民
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弓を引くヘラクレス
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国立科学博物館の横には巨大なシロナガスクジラ。

僧籍にあって大師は特別な存在です。みずからを慈眼大師と呼び、辣腕を振るった天海も、1643年に亡くなり、大師を祀るために、翌年、法輪寺大師堂が創建されました。
のちに寛永寺本坊内にあった慈恵大師の像を移して、2人の大師を祀ったことから、両大師堂と呼ばれ、庶民の信仰を集めるようになりました。本坊は寺の住職の住まいです。

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法輪寺両大師堂

その本坊に住む代々の貫主は京都、天皇につつらなる家系より迎えられました。寛永寺の最後の貫主、公現入道親王は、上野戦争で彰義隊の大将に奉られて、戦後、会津に逃れ、気の毒な生涯をおくりました。皮肉なことに、その時、総督として官軍を指揮したのは兄の小松宮影仁親王だったのです。(こちらは官軍ですから、馬に乗る立派な銅像が公園内にたてられています。)
大師堂の隣にある輪王殿の正門はかっての本坊の表門を移築したもので、あの総攻撃で飛び交った砲弾の痕も残っています。

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法輪殿
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砲弾の痕も生々しい門扉

輪王寺の周辺には今でも多くの私院が立ち並んでいます。
その寺々を横目に国立博物館の裏を巡って行くと、鶯谷を眺める場所に寛永寺の墓地があります。一般墓所とならんで徳川家の霊廟があり、維新の動乱や戦災やを免れた四代、五代の将軍勅額門が残っていて、重要文化財になっています。勅額門とは、天皇直筆の額を賜った門の意味です。

第五代将軍勅額門 のコピー.jpg
第五代将軍勅学門

1698年(元禄11年)建立の寛永寺根本中堂は上野戦争で消失しました。
上野中学校に隣接する現在の根本中堂は、川越・喜多院の本地院を移築したもの、扁額に「瑠璃殿」の字が見えます。本尊は薬師如来。撮影はできませんでした。
境内にある、大阪から逃げ帰った慶喜が一時蟄居したという葵の間を、塀の隙間から覗き見ることができます。

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寛永寺根本中道

国際こども図書館や、黒田記念館を横に見ながら再び上野公園に戻ります。
旧東京音楽学校の奏楽堂は、滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕作が曲を作ったところです。上野公園の生みの親、ボードワン博士の胸像はちょうど公園の中央あたりにあります。

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奏楽堂
ボードワン博士胸像 のコピー.jpg

徳川家康を祀る東照宮は全国に数多くありますが、ここ、上野の東照宮は日光東照宮の10-年後に藤堂高虎によって創建され、三代家光が改修しました。
規模は小さいながら、金ぴかの社殿は徳川の威光をみせつけるもので、改修に際して全国の大名から寄進された石灯篭は200基を超え、銅灯篭も50余、中には6メートルを超えるお化け灯篭もありました。

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上野東照宮
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東照宮に隣接する旧寛永寺五重塔

上野公園の中でも一番高い丘にあるパゴダのそばに、上野大仏の顔のレリーフが安置されています。地震や火事でなんども首がおちては再建されたあと、関東大震災で崩壊した胴体は第二次大戦で金属供出の憂き目にあって、ついに顔だけになってしまったということです。これ以上落ちることはないと、受験生には「合格大仏」として人気とか。

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お昼は花園神社のそばの韻松亭でいただきました。明治の文豪、森鴎外らも訪れたという老舗でした。

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ちなみに上野駅は明治6年の開業。明治24年には青森まで開通しました。当時は26時間かかったそうです。昭和39年に大流行した井沢八郎の歌う「ああ 上野駅」のレリーフは、集団就職の時代を語り継ぎ、今も北の国からの東京の玄関口です。

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A.AKECHI

 伊賀上野で300年(以上?)の長きにわたって藤堂藩の皆様に大変お世話になってきた明智一族の者です。
 東京の「上野」の地名の由来をハッキリ書いていただき、ありがとうございます。
 藤堂藩祖の高虎は、徳川家康の信頼を殊のほか得た人で、上野東照宮は、家康の遺言に基づいて高虎(が天海と二人で)建てたものです。高虎は東照宮の別当寺として寒松院を建て、没後はそこに葬られました。寒松院の跡地は今は動物園になっていますが、今でも高虎はそこに眠っています。
 http://www.pref.mie.lg.jp/TOKYO/HP/43204035387.htm
by A.AKECHI (2019-02-01 20:17) 

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