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雑記帳2019-5-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-5-15
◆現代の大人の遊び場、赤坂・六本木は江戸時代は大名屋敷が立ち並ぶエリアでした。

集合場所は地下鉄大江戸線六本木駅。ミッドタウンの駅前広場です。名称こそ駅前広場でも、B1にあるというのがいかにも六本木?
広場の真ん中にの大きな大理石がおいてありました。彫刻家、安田侃作。「意心帰」という名前がついています。

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東京ミッドタウンは2007年3月、港区赤坂9丁目の元防衛庁跡地を再開発し、誕生しました。約130の店舗、美術館、オフィス、公園などがある複合施設です。
敷地内に、国内外の作家のアート作品を配置し、メイン作品の一つが高さ約1・8メートルの白大理石の彫刻「意心帰」です。地球の一部である大理石を地中に戻すという意味がこめられています。
丸みのある優しいフォルム。中央部には人が入ることができる窪みがあります。作者の言葉を借りれば、母体の胎内のイメージだそうです。窪みにはいれば不思議に心も落ち着くのだとか。とおりがかりの親子の、子どもが中に入って楽しそうに遊ぶ様子も見られました。

六本木の名の由来は6本の松があったからとも、杉や松、柳など木の名前のついた6つの大名家の屋敷があったからとも言われています。
ミッドタウンは毛利家本家の下屋敷があったところです。輝元の子、秀成が造り、広さは36万8千坪。
明治には歩兵陸軍の駐屯地になり、大戦後は米軍の接収を経て防衛庁に移りました。自衛隊が市ヶ谷に移ったあとにできたのがミッドタウンです。管理は三井不動産。

ミッドタウン駅前広場を一歩外に出たところにある檜町公園は、毛利家の庭園でした。清水園と呼ばれた名園は創建以来400年間、一般人が入ることは許されませんでした。
屋敷跡に防衛庁が設置されたとき、庭は公園として整備され、現在は都立公園として開放されています。周りに檜が多かったところから「檜町」という地名の由来になりました。

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桧町公園(池の奥にあるのは茶室・清水亭)

公園裏の檜町坂には、創業120年という和菓子の老舗「青野」があります。「ジョブズの料理人」(日経BP社)の中で、アップルのステーブ・ジョブズが愛してとりよせた青野の和菓子が紹介されています。(驚くなかれ! ジョブズは大の和食ファン、和菓子まで好きだったとは。)


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青野本店

その先には赤坂中学校。赤坂通りをはさんだ赤坂小学校からは三分坂(さんぷんさか)が見えます。由来は『急坂のため通る車賃を銀3分(さんぷん:百円あまり)増したためだということです。(坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。「さんぷん」と読み、「さんぶ」ではありません。)坂をのぼりきったところがTBS放送センターです。

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三分坂
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三分坂の付け根、法土寺の築地塀

報土寺は三分坂の付け根のところにあり、小さいながら雷電為衛門の墓があることで知られています。
真宗大谷派の寺のご住職はサービス精神にあふれ、自ら玄関先に出て私たちを迎えて、雷電や梵鐘の説明をしてくれました。

雷電為衛門は明和4年(1767)信州小諸の生まれ。197㎝、172㎏の巨漢、強力ながら、顔容穏やかで、性質も義理がたかったと言われます。(当時の男性の平均身長が150㎝だったことを思えば、抜きんでた巨体だったことが想像できます。)寛政2年(1790)から引退までの22年間に大関の地位を保つこと53場所、254勝10負2分(勝率9割6分2厘)、まさに天下無双の力士でした。当時は横綱の位はなく、大関が最高位でした。
引退後、大火で焼失した梵鐘を支援して復元させましたが、「天下無双雷電」と刻んだことが幕府のお咎めを受け、鐘は取り壊されて雷電は一時江戸払いとなりました。数々のエピソードを残して、文政8年(1926)江戸にて没。
強すぎて雷電だけの禁じ手があったとか。今も、雷電にあやかろうと、現役の力士がやってきます。つい最近は御嶽海が来たのだと、ご住職はうれしそうでした。
現在の鐘は戦時中金属供出の対象になりましたが、無事戻ってきたそうです。

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雷電為衛門の手形石
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雷電為衛門の墓

赤坂を愛した勝海舟の邸あとの標識が、本氷川坂の付け根にある「マウントタウン赤坂」というマンションに立っています。海舟邸跡は赤坂に3か所あるのですが、よほど相性がよかったのか、引っ越しはしても赤坂を離れることはありませんでした。
ここは2度目の邸があった所で、34歳から45歳の9年間、海舟が生涯で一番活躍した時代に居住しました。刺殺しようと訪れた旧土佐藩の坂本龍馬を熱心な門下生に変え、倒幕・維新への転機になったという話はよく知られています。

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勝海舟亭跡

その名の通り、赤坂は坂が多い。急勾配の本氷川坂を登り切れば氷川神社です。白金や麻布にある氷川神社と区別するため、赤坂氷川神社と呼ばれます。祭神はスサノオノミコトやオオクニヌシのミコトなどの3神。
創立は951年と伝えられ、一ツ木台地にあった神社は、8第将軍吉宗の時代に、現在地に移りました。以来、歴代徳川家の崇敬を集めました。。
ここは備前三次藩の邸があったところです。藩主浅野長治の娘が赤穂の浅野内匠頭に嫁いだ阿久里。神社の境内にも浅野家とかかわりのある祠があったりします。
縁結びの神としても知られ、この日も、結婚式を挙げたばかりのカップルに出会いました。

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氷川神社に上る階段

この他にも坂の名前はいろいろ。氷川神社の前にあるのは氷川坂。さらには、アメリカ大使館の横を通る南部坂があります。

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随所に坂の標識がある
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アメリカ大使館

南部坂の名の由来は陸奥南部藩の中屋敷があったためですが、明暦2年(1656)赤穂藩浅野家と邸の取り換えが行われました。南部家は現在の麻布、有栖川公園のある場所へと移転し、そこにも南部坂があります。
忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」の場面は有名ですが、実際には内匠頭の切腹後瑤泉院となっていた阿久里さんは、実家である先の氷川神社境内の三次家の下屋敷に居たため、南部坂には居ませんでした。

勝海舟が最後に住んだ邸は旧氷川小学校の跡地にありました。
明治元年、引退した徳川慶喜に従ってここから静岡にうつりましたが、明治5年に再び上京し、76歳で亡くなるまでここですごしました。
1878年、東京商法学校(現一橋大学)開設のために来日したアメリカ人ウイリアム・ホイットニーは、勝海舟邸の敷地内に家を建てました。ホイットニーの娘クララは海舟の三男梅太郎と結婚し6人の子供をもうけています。「クララの日記」にはホイットニーと勝家の交流が詳しく記されています。その後赤坂病院を建てて伝道をはじめ、赤坂教会になりました。ホイットニー自身がなくなった後は遺族が引き継ぎ、病院がなくなった後も、教会は礼拝堂として今も祈りと宣教の場になっています。

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赤坂教会

赤坂は明治に陸軍歩兵駐屯地があったことから、軍人と花柳界の街として、料亭文化が栄えました。時代をくだって、大使館員や航空会社の乗務員がよく出入りした時代は、華やかなおとなの遊び場になりました。「コパカバーナ」や「みかど」といったナイトクラブやキャバレーが赤坂の顔だった昭和40年代が最も活気にあふれていたという人もいます。さらに、TBSが社屋を構える現在は、多くの若者が行きかい、そのころとは違った新しいにぎわいを見せる場所になっています。

日枝神社は、文明10年(1478)太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのが始まりです。家康が江戸入城の折、、城内に安置して江戸城の鎮守としました。秀忠の江戸城改築に際して場外(麹町)に移り庶民が参拝できるようになりました。明暦の大火後、家綱の時代に、江戸城の裏鬼門にあたる現在の地に改築され、現在の建物は空襲で焼け落ちた後に再建されたものです。6月の大祭、山王祭は、京都の祇園祭、大阪の天神祭と並んで日本三大祭の一つにかぞえられています。
ちなみに、江戸三大祭といえば、神田神社の神田祭、富岡八幡宮の深川祭、この日枝神社の山王祭をさします。

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鳥居の屋根が特徴の日枝神社 階段横のエスカレーターで上る
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インスタ映えすると人気の境内の稲荷神社

日枝神社から赤坂の商店街に戻ってお昼はトルコ料理です。サライのイケメンのお兄さんに給仕してもらいました。

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インテリアもトルコッぽく
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メイン料理のビーフシシカバブ)
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デザートのあま~いのびるアイスクリームやバクラヴァ(左上)
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チャイ

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