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雑記帳2019-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

209-6-15
◆今回の街歩きは梅雨入り前の江戸城、北の丸公園です。

現在北の丸公園になっているところは、太田道灌が江戸に城を築いた頃は、関東の守護神でもあった平将門を祭神とする築土神社の旧地でした。
原生林のようだったこの地に入府した徳川家康が、関東代官だった内藤清成らに屋敷を建てさせたので、大官町と呼ばれました。江戸城造営後は北丸と称し、多くの大名屋敷が立ち並びました。
明暦の大火で焼け野原になったのち、御三卿の田安家と清水家が北の丸の西側と東側の半分ずつを所有しました。(ちなみに、御三卿の残る一つは白河領主松平家です。)
明治には近衛師団の兵営地となり、戦後は森林公園として整備され、昭和44年に国民公園となって、市民に開放されています。

集合場所は千代田区役所。区役所前に大隈重信雉子橋邸跡の標識がたっています。
大隈が早稲田大学を造る前の住居で、大学の建設に関する事務方になっていました。雉子坂の由来は、当時清国の勅使をもてなす際、清国人が好んだという雉をここで飼育していたからだそうです。

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千代田区役所
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大隈邸跡地を示す標識

区役所の真ん前にあるのが清水門です。戦に備えた、二重がまえの桝形門になっています。寛永元年、1624年に建てられた当時のままの姿で残され、扉金具には万治元年(1658)の銘があります。8代将軍吉宗の孫、重好が清水家を起こして北の丸の東側半分を所有しましたが、家名は門の名にちなんでつけられました。

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清水門

清水門をはいって上る登城の段々は、現代人にはかなりきついもので、蹴上が30cm以上あります。北の丸への最初の難所です。

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今は草生した登城の段を上る

明治7(1874)年、皇居守護のために、日本陸軍最初の歩兵聯隊である近衛歩兵連隊が創設されると、第一聯隊、第二聯隊が北の丸に駐屯しました。旧田安家跡地に第一聯隊、旧清水家跡地に第二聯隊の兵舎がありました。近衛兵には毎年の徴兵検査で全国から厳選された男子をもってあてられました。昭和20年の終戦まで71年間駐屯し、西南戦争、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争に出征、多くの死者をだしました。皇居の守護の為に採用されたエリートでありながら、戦争のたびに真っ先に駆り出される運命だったのです。聯隊は終戦とともに解散しました。

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第二聯隊兵舎の碑 後ろに細かい字で戦没者の名前が刻まれている。

駐屯する将兵の散策や憩いの場所として、明治31年(1908)には千鳥ヶ淵に面して小公園「怡和園」が整備されました。怡和とは「喜び和らぐ」の意味です。
当時兵舎から外出することが禁じられた兵隊たち(将校は外から通いでした)が、ここから堀の向こう側に拡がる町並みの夜景を眺め、家族を想い涙したといわれます。「かごの鳥」は遊女の世界だけかと思いきや、そうでもなかったのですね。怡和園碑のある対岸には、赤い色が話題になったイタリア会館が眺められます。並んで立っていた日独会館は今はなくなりました。

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怡和園の碑
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対岸のイタリア会館

明治41年(1908)建設された旧近衛師団司令部庁舎は、昭和52年(1977)に一部を改装して東京国立近代美術館工芸館として生まれ変わりました。国の重要文化財になっています。近代美術の中でも工芸及びデザイン作品を展示紹介する、東京国立近代美術館の分館です。日本人が設計した、現存する数少ない遺稿として重要な文化財です。終戦の折、玉音放送を阻止しようとした将校たちの録音盤奪取事件の舞台になったことでも有名になりました。

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国立近代美術館工芸館
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正面の作品 空光秋作 遷移(Succession)

明治時代に流行した勇壮な武将の銅像は北の丸公園にもあります。北白川宮能久(よしひさ)親王の像です。
能久親王の一生は、天皇家に生まれながら、幕末から日清戦争にかけて戦争に翻弄された気の毒な生涯でした。弘化4年(1847)伏見宮邦家親王の第九皇子として誕生、安政5年(1858)上野寛永寺の門跡となりました。徳川家の菩提寺である寛永寺は、代々京都から門跡を迎えることになっていたのです。慶応4年(868)戊辰戦争では、寛永寺門跡という僧籍のまま、皇族でありながら朝敵となり、上野に立てこもった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、逃避先の東北では奥羽越列藩同盟の盟主に担がれることになります。明治3年(1870)、還俗して軍隊に就き、歩兵第一師団長、近衛師団長と出世するも、明治22年(1895)日清戦争に出征して台湾へ。平定したものの、台湾でマラリアにかかって病死しました。明治36年(1903)建立当時は近衛第一・第二聯隊の正面にありましたが、昭和38年に現在の場所に移りました。銅像になってから後も他者の都合で翻弄される運命の人なのでしょうか。銅像はほかに吉田茂像もあります。

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こちらは昭和の建物、科学技術館です。昭和39年にたてられ、当時の近代技術へのあこがれをこめたのか、壁は一面、星のデザインが施されています。
ちょうど、毎年開かれる全国矯正展(全国刑務所作業所製品展示即売会)がひらかれていました。全国の刑務所の受刑者の作品は安くてしっかりしていると評判で、毎年訪れる常連伽もいるほどの人気だということです。

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近代科学館では全国の受刑者の作品展示即売会がひらかれていた。

公園の中で意外に知られていない場所はいくつもあって、その一つに、気象台観測露場があります。平成26年に大手町から移転しました。東京の降水量、気温、蒸気圧、露点温度、相対湿度、雪(降雪・積雪)、気圧をはかっています。

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昭和39年は東京オリンピック開催の年です。柔道競技会場として前年に建設された武道館は、法隆寺夢殿をモデルにした八角形、大屋根の稜線は富士山をイメージしています。日本の武道(柔道、剣道、弓道、相撲、空手、合気道ほか)の稽古場、競技場として、また、はばひろくkンサートや格闘技の工業会場、大学や企業の大規模な入学式や卒業式、株主総会の会場として使用されています。昭和41年にはビートルズのコンサートが行われました。

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武道館 屋根は法隆寺の夢殿を模したという。

武道館の後ろにある弥生慰霊堂は、警察庁、東京消防庁の殉職者を祀っています。西南戦争で戦士した警察官は名誉の戦死者として靖国神社がある一方で、凶悪事件でなくなった場合には追悼の場がなかったことから生まれたの弥生神社です。殆ど知る人もいないようですが、花見客でにぎわうころ、静かにお弁当を食べるに絶好の場所です。

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弥生御影堂

北の丸の西側半分を所有す田安家は、吉宗の次男宗武がおこし、清水家同様、門の名にちなんで田安を名乗りました。門のあたりは、上州方面への道が通じていました、古くは田安大明神があったので、門名に称したといわれています。清水門より少し後の寛永13年築といわれていますが、立派な石垣は清水門には見られない特徴です。

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見事な石垣の田安門

北の丸を囲む堀は、田安門を出た東が牛ケ淵、西が千鳥ケ淵と呼ばれます。淵はダムの意味で、飲料水の確保を目的にせき止められた水域を意味しており、城の防衛上の水域は濠と呼んで区別します。だれもが知る東京の桜の名所、千鳥ヶ淵は、淵全体がチドリの形をしているからと伝えられ、牛が淵は、九段坂が当時非常に急峻で、牛が落ちたためといわれています。田安門のほうが九段坂の上にあたり、牛ケ淵のほうが九段下になります。
九段は、日本橋川から田安台に向けて続く道が、武蔵野段丘を上がるこのあたりに、9層の石段があったことに由来します。

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田安門を出て見下ろす牛ケ淵

田安門を出て、千鳥ヶ淵遊歩道へ向かう途中に、高灯台と大山巌の銅像をみることができます。高灯台のあたりは改修中で、大山巌と並んでいた品川彌次郎の像はどこかへひっこしていました。高灯台は明治4年に東京湾、品川沖の船舶、軍艦の航行の目印の為に建設されたものでしたが、昭和5年に道路をまたいだ現在の地に移転しました。

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高灯台

北の丸公園散策の最後に、千鳥ヶ淵遊歩道を歩きました。戦後植えられた桜の木は、樹齢70年に達し、そろそろ限界です。養生しながら守ってきましたが、若木との世代交代の時をむかえています。全国にある桜もいま、同じような運命ですね。大樹になった老木も捨てがたいけれど、若木の成長を見守るのも元気をもらえそうです。

この日のお昼はル・プティ・トノーでフレンチを。

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オリジナルのパテが美味しい前菜
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メインにはとりとトマトのリゾットで
    

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