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雑記帳2019-8-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-8-15
◆鎌倉街道、今回は小野路から七国山を経て野津田の薬師堂まで歩きます。

小田急線鶴川駅からバスに乗車、先回の執着点、小野路宿通りから歩き始めました。通りの、管理の行き届いた側溝に見られたのはドクダミ科の半夏生です。
二十四節季のひとつ、半夏生は、夏至から数えて11日目、その近辺の5日間にあたります。ちょうどこの時期が植物の半夏生の季節だからと言われているのです。歩いたのは7月3日。まさに半夏生でした。

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小野路宿通り
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側溝の半夏生

通りすがりの小野神社で、小野大明神の灯篭に角倉熊蔵の名が彫られているのに気が付きました。角倉家は江戸から明治にかけて、小野路で繁盛していた旅籠(はたご)でした。

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門倉熊蔵の名がみえる灯篭

神社前を通るメインストリートから脇道にはいると、その道は「御尊柩御成道(ごそんぴつおなりみち)」と呼ばれていました。1617年の造成。
前年、徳川家康が死去。駿河の久能山に埋葬した遺骨を日光へ移したルートが御尊柩御成道なのですが、各地に作られた御成道で明確にこれとわかる道は他には残っていません。馬が4頭並んで通れる道は、当時の街道の倍の広さがありました。

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御尊櫃御成道

迂回してもとの街道に戻り、野津田公園の西入り口付近にあるのが小野路一里塚です。御尊柩御成道が整備されたおりに造られたものであるといわれています。江戸中期には大山道の旅程標識として使われました。
江戸の一里は108間、3974mです。めぼしい街道にはきっちりと一里毎に塚が建てられ、目印に道の両脇に榎の木が植えられました。小野路の一里塚の規模は、東海道、中山道に比べて小さく、街道の格に差をつけたもようです。
また、道中奉行は駕籠かきの代金を塚を目安に設定しました。距離に応じていくらというこの仕組みは今のタクシー料金の設定と変わりません。乗客も駕籠を降りるのは塚のある場所と心得ていたようです。乗る側にも流儀があったのですね。
小野路村の人々が御成道や一里塚造成に多大な労苦を費やしたことに対し、幕府は以後の助郷を免除しました。

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小野路一里塚

野津田公園を左に見ながら進む道は通常の街道の広さです。この坂道を登った頂上にあるのが町田丘の上病院。ここからは下りです。付近に野津田高校もあって、狭い坂道は高校生の自転車通学路になっていました。
ちなみに江戸時代、街道は馬や牛は通れても、大八車はご法度でした。武器をかくすことが出来る大八車を厳しく管理したことは想像にかたくありません。

坂道をくだりおわると57号線にぶつかります。通りを横切って鶴見川にかかる小さな橋をわたると、山崎町を経て七国山(ななくにやま)へと入っていきます。
七国山は標高128.5m。鎌倉時代に鎌倉と上州方面を結んだ鎌倉街道上道の古い標識が現在ものこっています。近隣の本町田や小野路は古くから宿場として栄えました。頂上付近から相模、甲斐、伊豆、駿河、信濃、上野、下野の7つの国を見ることができたため、そのように呼ばれたということです。国とは言っても、その国のランドマークがみえたということでしょうが。一時、トトロの七国山(しちこくやま)とまちがえられたことがありましたが、そちらは東村山市にある狭山丘陵東部の都立八国山緑地がモデルです。

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七国山

七国山山頂からすこし下って行くと、切通の西側に「鎌倉井戸」と呼ばれる1mほどの井戸跡があります。
鎌倉海道の七国山ルートは、鎌倉幕府成立後に拓かれ、峠付近では水に乏しいことからこの井戸が掘られたものと考えられています。ほかに、新田義貞が鎌倉を攻めたとき、軍を進める途中に、ここに井戸を掘り、この井戸の水を軍馬に与えたという伝承もあります。

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鎌倉井戸

井戸掘りの技術は時代によって異なります。江戸時代には10m掘ることも可能になりましたが、鎌倉時代は1mがやっとでした。いずれにしても、水を確保することは人の営みには欠かせません。水脈をみつけるのが得意な人物が強い武将になれた時代もあったのです。加藤清正などもその例でしょう。

昼食は「味の民芸」でうどん御膳をいただきました。疲労回復にと勧められて飲んだ冷やした甘酒がおいしかったです。添えられたレモンがよくあいました。

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ランチと甘酒

昼食後向かったのは薬師池公園です。鎌倉海道に面し、東京都指定の名勝文化財になっている公園には、薬師堂や、古民家、大賀ハスの池があります。

薬師堂は古く天平年間に行基の開基とつたえられますが、室町時代末期に荒廃していた寺を僧興満が再興して福王寺と称しました。現在の薬師堂は福王寺薬師堂のことで、明治15年、今から140年ほど前に再建されたものです。
総檜造りの御堂は内部に贅沢な木組みが施されていて、簗の獅子や龍の彫り物は見ごたえがあります。御堂と外柱をつなぐまがった梁・海老虹梁(えびごうりょう)の透かし彫の龍はなかなかのものでした。(うまく写真がとれなかったのは残念。)
薬師堂の本尊である木造の薬師如来像は平安後期、11世紀ごろの作で、町田市内の木造佛としては最古の仏像です。両脇に日光、月光菩薩を、背後に12神将を従えて、12年に一度、寅年の4月に御開帳されるということです。

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薬師堂
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再建当時流行した火頭窓

公園の一角には江戸時代初期の古民家が移築されています。永井家住宅です。
もとは町田市小野路町にあった農家で、17世紀後半に建築されたものです。町田市に寄贈され、昭和50年に薬師池公園内に移築復元されました。典型的な多摩丘陵地の農村家屋で、多摩地方では最も古い民家に属し、当時の生活を知る上でも重要な古民家です。開口部が少ない上、この時代(5代将軍綱吉・元禄時代)にはまだ畳はなく、床は竹すのこでした。

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古民家

福王寺は明治の廃仏毀釈で廃寺になり、薬師堂が残っているだけですが、広い公園全体が福王寺の境内でした。阿弥陀堂も今はありませんが、池に橋がかかているのを見て、浄土庭園ではないかと指摘する人もいます。浄土庭園は平安時代から鎌倉時代に流行した庭園の形で、極楽浄土の世界を再現しようと、金堂や仏堂などの寺院建築物の前に池が広がる形をとっています。春分秋分の日の朝陽が池越しに阿弥陀堂の如来の額にあたり、後光がさしているようにみえると、庶民はたいそうありがたがったそうです。浄土庭園といえば、宇治の平等院や平泉の毛越寺、京都木津川のの浄瑠璃寺などが思いうかびますが、その外にも、意外におおくの全国の寺院で採り入れられています。

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薬師池(画面左に橋が架かっているの見える)

薬師池公園の最後の見どころは蓮池です。
「大賀ハス」は、故大賀一郎博士が昭和26年(1951)に千葉県剣見川遺跡の青泥層から2000余年前のハスの実3個を発見し、そのうちの1個だけ発芽に成功したものです。
薬師池公園の大賀ハスは、大賀博士と縁故があった寺や人物から根分けしてもらったものを大切に育てているということです。ちょうど、蓮の開花の季節、早朝に開き始めるという蓮の開花時間はすぎていましたが、運よく少し咲き残った蕾を見つけました。
古代ハスは、今では、国内だけでなく世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っています。 ピンク色の大輪の花は、優雅な美しさと悠久のときを超えた生命力が尊ばれているのだそうです。

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大賀ハス

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雑記帳2019-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-8-1
「立川のはたけ!見学と交流会」を行いました。

7月8日(月)、消費者34名を含む53名の参加で今年の畑見学と交流会がおこなわれました。見学先は立川市西部の一番町と西砂町の2箇所、時間的にゆったりとした見学会になりました。

最初に訪れたのは一番町、トマト名人という評判の荒井さんの圃場です。
収穫のピークを過ぎていましたが、ハウスのトマトを見せてもらいました。

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荒井さんが育てているトマトは大玉の「ハナミ」という品種です。
大きくなるためには水やりが大切、でも上から水をかけると病気になりやすいので、地表から上に向けて散水する装置をしてあります。

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ハウスはUVカットハウス。トマトの受粉をするマルハナミツバチがUVカットハウスでは飛んでくれないので、5日に1回、人手で受粉作業をするそうです。
また、アザミウマなど虫の侵入を防いてくれますが、風通しが悪い。こちらも人力でハウスの屋根を開閉する作業は欠かせません。天気予報を聞きながらのこまめな作業になるということでした。

トマトは接ぎ木で育てます。台木は根が密集しているものを選びます。トマトを支え、丈夫に育つのに欠かせないという話を、皆さん、熱心に聞きいっていました。「トマトを接ぎ木するのは初めて知った」と驚く参加者もいました。


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接ぎ木の説明をする荒井さん

3月15日に定植したトマトはそろそろ終了、次は冬の出荷に備えて、8月にほうれん草をうえる準備をしているということでした。

ハウスの後ろに広がるのはトウモロコシ畑です。
品種は「味来(みらい)」。もぎたてを試食させてもらいました。甘いのにびっくり、収穫してすぐなら生でも食べられる、時間がたつと甘味がどんどんへっていく、トウモロコシはその日のうちに食べるのが鉄則です。「味来」はあまくておいしいが、種の流通が少ないのが難点だそうです。
庭先販売は3時からなので残念ながら自慢のトマトを買うことはできませんでした。

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トウモロコシは葉がしっかり育つことが大事
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もぎたては生で食べると甘さ抜群!
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庭先販売のトマト 美味しそう!

次は西砂町のお茶農家、古川さんの畑をたずねました。
古川さんは立川市内では珍しくなった養豚農家でもあります。800頭の豚を飼っていますが、豚コレラの心配もあって豚舎は遠くから見るだけになりました。

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茶畑の向うに見えるのは豚舎

10番茶を摘み終わった茶畑を見学しました。年に16回ほど収穫するそうです。
入間の100aと合わせて200aの畑のお茶はすべてコカコーラ入間工場に納入され、「綾鷹」の原料になります。
以前は畑でキャベツをつくっていましたが、手間がかかったのに対し、お茶は機械化が出来て栽培が楽、本業の養豚の傍らできるということでふみきったということでした。
ただもうからないので、お茶の産地では放棄地が多いそうです。

工場へは粗茶にした段階で納入します。
普通茶葉は成長するとかたくなるので、3番茶くらいまでしかお茶になりませんが、飲料メーカーはブレンドができるため、カテキン目当てにどんな茶葉でもOKだそうです。
お茶は刈ってから2時間半が限界。それ以上経つと発酵するのだそうです。雨がふると品質も落ちます。それにしたって、どこのお茶でも最初に摘んだ葉が一番おいしいと、古川さんは笑いました。
全国の茶畑に見られる霜よけの風車は、お茶の木が活動を止めている冬季はまわしません。3月下旬に芽が動くときに遅霜がある、その時期からまわすのだそうです。

農薬にも質問が集まりました。
時期によってつく虫がちがうので、農薬もそれに応じて変えるという答えでした。
「やぶきた」は味がいいが、木が弱く、カイガラムシなど虫がつきやすい。カイガラムシは卵の時は殻をかぶっているので農薬が効かない。からを破って出てきたときに農薬をかけるのが手間だという話も聞きました。今は「さやまかおり」を栽培しています。品種としては「やぶきた」におよばないが栽培は楽だということでした。

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住宅地のそばに広がる茶畑
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説明する古川さん

古川さんはコカコーラに出荷するためにGAPを取得しています。
GAP(Good Agricultural Practice・農業生産工程管理)は 品質の工場や競争力の強化、消費者に向けた信頼の確保など、持続的な農業経営をめざすとして、国は農家にその取得をすすめています。
オリンピック選手村への納入に必要と、東京都なども盛んに取得をよびかけますが、150項目にわたる細かい審査をクリアしての取得は、実際のところ、都市農業の現場ではなかなかすすんでいません。飲料メーカーが必要なので、契約農家に取得させる、というのが現実でしょう。GAP取得はお茶農家が一番多いのではないかという、古川さんの話でした。
監査は年1回2時間程度、5年に1度は5時間かけて大掛かりな監査があるということです。

昼食・交流は給食センターで行われました。
本日のメニューは夏野菜カレー、短冊サラダ、トウモロコシ。トウモロコシは当初、立川産を使う予定が、天候不良のため量を確保できず、スーパーのトウモロコシになってしまいました。お米は姉妹市大町のコシヒカリです。
野菜や果物はゼリーや人参ピューレなどの加工品が利用されることもあります。立川産のはちみつだってあるのです。それも含めて、立川産野菜の比率は市内の小学校給食全体の13.5%。もっと参入農家が増えてほしいと、栄養士さんならずとも地産地消をのぞむ声は大きいようです。

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お昼は学校の給食と同じように半セルフで
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本日のメニュー

参加者は農家の話に興味津々です。
まだハクビシンの被害はでていない、5月は雨が少なかったので育ちが悪く、収穫遅れ気味、最近の雨の降り方は気になる。どかぶりは地表を流れてしまうのでだめ。雨が地面にしみるにはシトシトがいいいのだが・・・。
福祉作業所との連携など、農業を通じて社会貢献できる、農は社会の様々な分野をつなぐことができるという話は、多品種栽培だけでない、都市農業の多面性を気づかせてくれるものでした。
売れば簡単に宅地になってしまうところに野菜を造り続けている農家の姿に感動したという声もありました。

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農家を囲んでグループの交流がはずみました。

後日、初参加のKさんからメールをもらいました。
「立川でお茶畑や養豚場があること、全く知りませんでした。体験するって大切ですね。
実際に農場で作物を見て触れて、ナスの花の美しさに感動し、木にぶら下がっているぴかぴかのトマトが愛おしくなったり、新鮮なトウモロコシの美味しさに驚いたり、いろいろ体験できました♪
農家の方々とお話できたのもとても良かったです。
ご苦労を聞き、大変な農業を続けて下さっている姿に感謝の気持ちでいっぱいになりました。社会貢献という気持ちがなくては立川で農業を続けるなんて出来ることではないですよね。
立川の農家、少なくはなっているけれど、後継者がいるところが多いし、みなさんいろいろな工夫をし頑張っているというお話を聞いて少し安心しました。」

今回、特筆すべきは職場体験の中学生が参加してくれたということです。
自分の祖父母くらいのおとなに囲まれて十分な意見も言えなかったのではと思いましたが、中には集合前の朝早い時間に植木の剪定作業をしてきたという中学生もいました。
この時期、どこの中学校でも職場体験のカリキュラムが組まれています。市内の様々な業種の中で、農業を選ぶ子供がいるのは都市農業の希望です。後日、農業委員会の現地調査で伺った清水さんの畑では、職場体験の中学生10人が200aの茄子畑の茄子の支柱を建ててくれたということでした。無償の大人のボランティアさんにも恵まれているそうで、地域に根差した農業の形をみる思いがしました。

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雑記帳2019-7-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-8-15
群馬は古墳王国。榛名山の噴火に埋もれていた遺跡は日本のポンペイとも呼ばれています。

先般、百舌鳥古墳群がユネスコ世界遺産に登録されて、古墳への関心がたかまっています。旅行会社もこぞって古墳見学ツアーを組んでいます。東京から日帰りで行ける埼玉や山梨以外にも、群馬県にもあるのを知って参加しました。

その名のとおり、群馬は馬の産地でした。平安時代の延喜式によれば、全国の32牧(まき)のうち、上野国には9牧ありました。そのほかには、信濃16牧、武蔵4牧、甲斐3牧とあります。
天竜川沿いの伊奈谷は、当時日本の最先端をいく馬の産地でした。信州の馬はみなここに集積、調教されて都へ献上されました。672年の壬申の乱で、伊奈と美濃の騎馬軍団に支援された大海人皇子が勝利したことからも、古墳時代に馬は重要な軍事力、抑止力をもっていたといえます。
上野国は、東山道の上坂峠を越えて信州とつながり、伊奈谷とは3世紀末から馬の文化や飼育技術の交流があったようです。

3世紀中ごろに作られた箸墓(はしはか)古墳に始まる古墳時代は、約350年つづきました。この時代、群馬は「上野国(かみつけのくに)」と呼ばれています。
古代には東山道がとおり、(江戸時代には中山道、例弊使街道も通った)、街道を利用した渡来人の往来も多く、半島の技術や文化ももたらされたことでしょう。こうして、馬の産地であるだけでなく、交通の要地でもあったことから、関東の中心地として栄えた群馬には多くの前方後円墳が作られました。発掘されたものだけで14,000基、まだ2,000基以上の古墳がのこっているといわれます。今回訪ねたのはそのうちの一つ、保渡田(ほどた)古墳群です。

関越道前橋インターを降りて15分ほどで、高崎市・上毛野はにわの里公園にある「かみつけの里博物館」に到着しました。

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かみつけの里博物館
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馬の里だけあって博物館の入口にも馬(館内は写真がとれないのでここまで)

博物館の周辺には、二子山、八幡塚、薬師塚の3つの前方後円墳が点在、これらの国指定の史跡は保渡田古墳群と呼ばれています。
新幹線開通工事のおりに発見された3つの古墳は、榛名山の噴火をはさんで30年の間に、順番に作られた模様です。博物館の学芸員、横山さんに古墳を案内してもらいました。

まず八幡塚古墳です。周囲190mの前方後円墳は、道路をはさんで博物館のすぐ前にありました。
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八幡塚古墳
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古墳の周囲には住民手作りの円筒埴輪

20年ほど前、博物館ができたのと同時に、5世紀の造営当時の姿に復元されたそうです。周囲に円筒埴輪がめぐらされ、盾を持った埴輪が古墳の外周をまもっています。一角には54体の動物や人物の埴輪群。この埴輪がなかなか面白いのです。
猪や馬の形をした動物埴輪。髪型やかぶりものから王様らしき人物が想像できる、何やら儀式らしい場面や、人物と動物を組み合わせて狩猟の場面が再現されていて、いくつものドラマをみているようです。中には鵜もいます。首を高くあげ、口に魚を加えた鵜の埴輪があります。頸部には鈴のついたひももついていて、芸が細かい。この時代から鵜飼がすでにあったのですね。

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埴輪群(中央の手を挙げているとり埴輪は相撲とりらしい)
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王様の前で何やら儀式をやっている場面
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鵜や動物の埴輪も

これらの埴輪は6世紀初頭の榛名山の噴火によって半分埋まった状態で発見され、当時の風俗や社会の情報を多くもっているということで注目されているのです。埴輪群は展示用にプラスチック製ですが、古墳の周囲の素焼きの埴輪は市民の手作り、地域のみんなで古墳を守る意味も持っているのだそうです。

8mほど階段を下りて竪穴式石槨の内部を見ることができました。
副葬品は盗掘されてわずかにしか残っていませんが、舟形の石棺は地方の豪族としてなかなかの力を持っていた人物だと推察できます。

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復元された石棺

三つの古墳の中で、榛名山が噴火する前、最初に作られたのが博物館の裏手にある二子山古墳です。
榛名山の東麓に広がる大地に井ノ川の水を利用して水田ができ、豊かな田園がひろがる。森の木が切り倒されて、次々に、周囲の景観が変わるほど開発の進んだのがこの時代でした。学芸員の横山さんは二子山古墳に埋葬されていた豪族を「山麓の開発王」と呼んでいました。半島とのつながりが推測される副葬品もみつかっています。こちらは発見されたときの状態を保つように復元されました。

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二子山古墳

噴火の後に作られた薬師塚古墳は実は古墳の形は残っていません。古墳の上にお寺がたてられたからです。その寺、西光寺には薬師塚古墳から見つかった副葬品が大切に保管されており、石棺はレプリカではなく本物でした。噴火のあとにつくられたからか、他の二つに比べると古墳の規模は少し小さくなっているそうです。巨大古墳の時代が終わったことを象徴するようです。

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発掘された古墳の副葬品を保管している西光寺
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レプリカではない本物の石棺

「かみつけの里博物館」に入ると、足元に、保渡田古墳群だけでなく、群馬県下の多くの古墳が一目でわかる地図も工夫されていて、1500年前の古代人の生活に思いをはせる展示は、子供たちの学習にも力をいれているようでした。

次にむかったのはユネスコ世界の記憶に登録された「上野三碑(こうずけさんぴ)」です。
古墳時代をすぎた8世紀、飛鳥・奈良時代の、高崎市南部地域3キロの範囲内に点在する史跡です。
日本国内に現存する平安時代以前の古碑はわずかに18例に過ぎず、そのうちの3つがこの地にあるのです。日本最古といわれる碑(いしぶみ)が街から離れた山の中に3つも残っているのはなぜなのか、添乗員さんはしきりに不思議がっていました。
碑に書かれた文字は今の日本語の配列になっており、書かれた内容から、当時の社会のありようが浮かびあがってきます。バスは大型車では通れない狭い山道を行きました。

山上碑(やまのうえひ)は完全な形で残る日本最古の石碑です。681年、天武天皇の御代に立てられました。
200段近い石の階段をのぼってたどり着いた山頂には、碑と、碑を刻んだ僧とゆかりの一族の古墳が並んでいました。
碑は放光寺の僧、長利が、母親、黒売(くろめ)の供養のために、黒売と自分の系譜を刻んだものです。隣の古墳は、碑よりも数十年古いもので、黒売の夫を埋葬するためにつくられ、黒売死後、彼女もそこに葬られました。石碑と古墳が並んでたっていることから、古墳文化から仏教文化へ移行する時代だったことがわかります。
碑文は日本語の語順に漢字が並べられていて、現在につながる日本独自の漢字の使用法の原型が示されています。石は自然石。劣化を防ぐために覆屋(おおいや)におさめられていました。
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200段の石段を上った頂上にある石碑と並ぶ古墳(かなりこぶりである)
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覆屋の中の山上碑
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碑に書かれた文字

金井沢碑は726年、奈良時代初期に、祖先の供養、一族の繁栄を願って造立されたものです。一族の佐野氏は先の山上碑に示された豪族の末裔とみなされています。
驚くのは碑文に刻まれた9人の名前のうち4人が女性だということです。
系譜は妻の実家の系譜であり、しかも女性の実名が刻まれています。この時代の、女性を中心とした家族関係が浮かびあがります。
また、碑文に「群馬」の文字があり、群馬という名前が最初に出てくることでも注目される資料です。
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金井沢碑
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金井沢碑に書かれた文字

多胡碑記念館は多胡碑から生まれた記念館です。吉井いしぶみの里公園にあり、山上碑、金井沢碑、多胡碑の3つを並べて学べるようになっています。

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多胡碑記念庵


多胡碑は、和銅4年(711)3月、中央政府からの命により、この地に「多胡郡」が設置されたことを記念した石碑です。碑文が続日本記の和銅4年の条と一致するなど、古代史の貴重な資料となっています。記念館には多胡郡の郡衙(ぐんが)の跡も展示されていました。
他の2つの碑とは違う内容だけに、形や文字の大きさも異なり、自然石ではなく加工石でつくられていました。記念館のある公園内の覆屋も立派なものでした。

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記念館に展示されている多胡碑
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多胡碑の納められていた覆屋
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三碑にはそれぞれ子供にもわかりやすい解説がついている


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雑記帳2019-7-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-7-1
◆鎌倉街道上道、今回は町田市小野路です。

丘陵を超えていく鎌倉街道は、基本的に迂回をしないという特徴があります。山があれば山なりに、谷があれば谷なりにすすむのです。そして、規模の大きな山に阻まれた時は、そこに切通道をつくって進みます。鎌倉街道を語るとき、切通は欠かせません。そのため、鎌倉街道が通っていた丘陵地で、ハイキングコースや遊歩道に切通が多くみられる場合は、そこが鎌倉街道古道である可能性が高いと言えます。

梅雨入り前の一日、この日集合した京王線多摩センターからバスに乗り、恵泉女子大学前から歩き始めました。開発された、大学の前を通る貝取大通りは現在の鎌倉街道のメインストリートにあたります。
メインの通りから外れて、大学の横に入る静かな道を、鳥の声を聞きながら暫く行くと、大山道へ通じる峠にあたるところから、林の中へ入って行く、細い、舗装されていない道があります。昔ながらのこの道こそ、鎌倉古道でした。

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恵泉女子大学正門
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古道への入口
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切通の鎌倉古道を行く

左右の林を切通した道は落ち葉が散り敷き、でこぼこはあっても足にやさしく、1キロほどの道のりを行くと、狭いながらも舗装された道に出ます。「小野路」です。古道からでたところに馬頭観音があり、「小野路宿」へ向かうこの道がかって大勢の人が行き交った道だとわかります。

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馬頭観音


小野郷が現在のどこにあたるのかは定かではなく、武蔵国一の宮である、多摩市聖蹟桜ヶ丘の小野神社あたりか、あるいは現在の府中市を小野郷とする説もあります。
いずれにしても、小野路の歴史は古く、小野路宿を通る街道筋は小田原道、神奈川堂、布田道、府中道、八王子道などがあり、それらの集積する小野路宿は古代から交通の要衝となりました。

小野路宿は古代から中世にかけて、宿場町として栄えました。宿場の定義がはっきりしていなかった時代のこと、戦国時代には一端衰退します。
小野路宿が再び活気を取り戻すのは江戸時代、大山阿夫利神社へ参拝する大山詣でが庶民の間に流行してからです。伊勢参りほどおおげさでなく、3拍4日の小旅行は江戸っ子たちに大人気だったそうです。
幕末の横浜開港以降は、絹の生産地である八王子と輸出港の横浜を結ぶ「絹の道」の拠点として栄えました。開発がすすんで、車の往来の多い通りは、かっての街道の面影をとどめてはいませんが、わすかに生糸の輸送に利用された時代をしのばせる雰囲気が残っています。

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街道で見つけた看板
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街道筋の側溝も管理が行き届いている
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板塀の住居がつづく

その街道に、中世以来の小野路の名主、小島家があります。
名主の仕事は年貢の徴収とともに、治安もつかさどり、武士と同じ、苗字帯刀を許されていました。小島家は関八州36村の中心的存在でした。中でも20代当主小島鹿之助は、幕末の新選組の活動に大きな役割を果たしました。
鹿之助は治安取り締まりのために市ヶ谷にあった試衛館に出げいこを頼みます。これにこたえたのが試衛館にいた近藤勇や土方俊三、沖田総司でした。当時近藤勇らは天然理心流の剣術道場試衛館で腕を磨き、各地に出げいこに赴いていました。中でも足しげくおとずれたのがこの小野路宿でした。小島家には近藤勇の手紙や稽古着、新選組旗印などが伝わり、屋敷内にある資料館に保存、公開されています。

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小島資料館
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資料館は小島家の敷地内にある

近藤勇はかなり筆まめな人だったらしく手紙の量は相当なものです。目を引いたのは七言絶句の掛け軸でした。名声や金銭、華美な暮らしは自分の求めるものではないという自筆の詩からは、近藤勇の人柄がつたわってきます。稽古着の背中のどくろの刺繡は、今みると、むしろ愛嬌のあるように思えます。試衛館の方は跡を示す標識が残るのみですが、ここには近藤勇の人となりが数多く残されていました。
現在の小島家当主は24代。資料館の2階には代々の当主がつけた日記もうずたかく積み上げられていました。これらを保存管理していくのは大変なことだと思わされました。

古道を出て小野路宿へむかうまえに、ちょっと寄り道して布田道を行った先に、「関屋の切通」がありました。現在の調布市布田に通じるこの道は800年前に作られたものです。見事な切通のこの道を、幕末には近藤勇たちが通ったのでした。
道場のある市ヶ谷から小野路宿まではおよそ20キロ。現代人よりずっと速足だった彼らにしてみれば3時間もかからなかったようです。ちなみに坂本龍馬は土佐の藩邸から千葉道場までの15キロを毎日通ったということです。

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布田街道の見事な切通

小島資料館の向いには「小野爾宿粛里山交流館」があります。江戸時代、宿場にあった旅籠を改修し、観光交流の拠点として再整備した施設です。お昼は交流館でいただきました。
交流館で働いているのは地域のボランテイアの人たち。食材はすべて地産地消です。
そばに似た地粉のうどんが美味しかった。デザートは地元の恵泉女子大生がつくる里山マドレーヌ、コーヒーは家政学部で自家焙煎したものだそうです。
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小野路宿里山交流館
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うどんに至るまで食材はすべて地場産

床の間にかかった軸は万葉集からのものでした。
 「赤駒を 山野に放し捕りかにて 多摩の横山 あゆみ行く(?)らん」
万葉の時代、この地からは毎年17頭の馬が大和朝廷に献上されていたということです。

小野神社は交流館のとなりにあります。
神社の創建については明らかではありませんが、小野路は平安時代、武蔵国の国司だった小野孝奏の領地でした。鎮守の小野神社は小野孝奏の7代前の小野篁をまつったものだそうです。ご存知、小野小町は小野篁の孫という説もあります。
武蔵国には府中と多摩、町田に小野神社が3社あります。いずれも学問の神様としてしられています。そのほかに雷神の性格ももっているといわれているのが、ここ町田小野路宿の小野神社だけです。菅原道真が大宰府で亡くなり、魂を鎮めるために天満宮がうまれたのが900年代半ば、天満宮が出来てまだ20年しか経っていないころのこととて、たたりをおそれたのかもしれません。

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小野神社

境内にあった小ぶりの古鐘は戦に持ち運ぶに手ごろな大きさだったため、文明年間(1469~1487)山内上杉と扇が谷上杉が戦った折、山内上杉によって陣中鐘として持ち去られたことが伝わっています。この戦いは「享徳の乱」と呼ばれ、応仁の乱の関東地方でのさきがけになりました。信長登場の70年前に起こった応仁の乱は、およそ40年続き、戦国時代へとむかうのです。

小野神社を後にして、残るは小野路城址まで、坂道を上ったり下ったり、約1時間の道降りをひたすら歩きました。
小野路城は鎌倉幕府の御家人となった小山田有重の拠点である小山田城の出城として築かれました。関東地方の山城としては最古の部類に属します。
小山田氏は秩父平氏の流れを汲み、有重は御家人となったのち同族の畠山重忠と争って滅ぼしたことがきっかけで城を失いました。一族は、戦国時代、甲斐の武田氏に従って岩殿城を任された小山田信繁につながります。
小山田氏が去った後の一帯は、しばらくの間、執権の北条氏がおさめていましたが、時代が下って1477年の「長尾長春の乱」で小山田城とともに、小野路城も落城しました。
落城した本丸跡には小さな祠が建てられました。参道もない祠はそれだけに、昔の姿を保っていると言えます。

二重の土塁が築かれた本丸跡は思いのほか広く、すぐ下に水場があることから、単なる出城ではなく、生活の拠点となっていたことがうかがえます。また、見晴らしの良い本丸からは、遠くから攻めてくる軍勢もよく見え、土塁に守られた本丸は攻めるに難く、恰好の山城だったことがわかります。

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小野路城を囲む土塁のあと
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小野路城址の祠

本丸の下、古道にもどって、林の中にある水場は「小町井戸」と呼ばれています。小野小町が目を洗ったら眼病が治ったという伝説もあります。今は濁って見えますが、標高120メートルの山頂近くにある湧水は珍しく、量は多くはないものの、一年中枯れることはなく、小野路城の人々の生活を支えました。

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小町井戸

なお、甲斐の地で岩殿城主になった小山田信繁は徳川・織田軍から敗走する勝頼を裏切り、勝頼は天目山で自害します。信繁は信長に出仕しましたが、のちに甲斐善光寺で処刑され、小山田氏は滅亡しました。

古道が野津田街道に通じる交差点に古びた道祖神を見つけました。

開発の進む東京では、道祖神が残っているところは少ないのだそうです。

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野津田街道の道祖神

のどかな田園風景がひろがり、アップダウンも多い、小野路城址への道は、鎌倉古道の雰囲気がよく味わえる道でした。街歩きとちがい、足元はしっかりをお薦めします。

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雑記帳2019-6-15 [代表・玲子の雑記帳]

209-6-15
◆今回の街歩きは梅雨入り前の江戸城、北の丸公園です。

現在北の丸公園になっているところは、太田道灌が江戸に城を築いた頃は、関東の守護神でもあった平将門を祭神とする築土神社の旧地でした。
原生林のようだったこの地に入府した徳川家康が、関東代官だった内藤清成らに屋敷を建てさせたので、大官町と呼ばれました。江戸城造営後は北丸と称し、多くの大名屋敷が立ち並びました。
明暦の大火で焼け野原になったのち、御三卿の田安家と清水家が北の丸の西側と東側の半分ずつを所有しました。(ちなみに、御三卿の残る一つは白河領主松平家です。)
明治には近衛師団の兵営地となり、戦後は森林公園として整備され、昭和44年に国民公園となって、市民に開放されています。

集合場所は千代田区役所。区役所前に大隈重信雉子橋邸跡の標識がたっています。
大隈が早稲田大学を造る前の住居で、大学の建設に関する事務方になっていました。雉子坂の由来は、当時清国の勅使をもてなす際、清国人が好んだという雉をここで飼育していたからだそうです。

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千代田区役所
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大隈邸跡地を示す標識

区役所の真ん前にあるのが清水門です。戦に備えた、二重がまえの桝形門になっています。寛永元年、1624年に建てられた当時のままの姿で残され、扉金具には万治元年(1658)の銘があります。8代将軍吉宗の孫、重好が清水家を起こして北の丸の東側半分を所有しましたが、家名は門の名にちなんでつけられました。

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清水門

清水門をはいって上る登城の段々は、現代人にはかなりきついもので、蹴上が30cm以上あります。北の丸への最初の難所です。

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今は草生した登城の段を上る

明治7(1874)年、皇居守護のために、日本陸軍最初の歩兵聯隊である近衛歩兵連隊が創設されると、第一聯隊、第二聯隊が北の丸に駐屯しました。旧田安家跡地に第一聯隊、旧清水家跡地に第二聯隊の兵舎がありました。近衛兵には毎年の徴兵検査で全国から厳選された男子をもってあてられました。昭和20年の終戦まで71年間駐屯し、西南戦争、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争に出征、多くの死者をだしました。皇居の守護の為に採用されたエリートでありながら、戦争のたびに真っ先に駆り出される運命だったのです。聯隊は終戦とともに解散しました。

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第二聯隊兵舎の碑 後ろに細かい字で戦没者の名前が刻まれている。

駐屯する将兵の散策や憩いの場所として、明治31年(1908)には千鳥ヶ淵に面して小公園「怡和園」が整備されました。怡和とは「喜び和らぐ」の意味です。
当時兵舎から外出することが禁じられた兵隊たち(将校は外から通いでした)が、ここから堀の向こう側に拡がる町並みの夜景を眺め、家族を想い涙したといわれます。「かごの鳥」は遊女の世界だけかと思いきや、そうでもなかったのですね。怡和園碑のある対岸には、赤い色が話題になったイタリア会館が眺められます。並んで立っていた日独会館は今はなくなりました。

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怡和園の碑
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対岸のイタリア会館

明治41年(1908)建設された旧近衛師団司令部庁舎は、昭和52年(1977)に一部を改装して東京国立近代美術館工芸館として生まれ変わりました。国の重要文化財になっています。近代美術の中でも工芸及びデザイン作品を展示紹介する、東京国立近代美術館の分館です。日本人が設計した、現存する数少ない遺稿として重要な文化財です。終戦の折、玉音放送を阻止しようとした将校たちの録音盤奪取事件の舞台になったことでも有名になりました。

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国立近代美術館工芸館
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正面の作品 空光秋作 遷移(Succession)

明治時代に流行した勇壮な武将の銅像は北の丸公園にもあります。北白川宮能久(よしひさ)親王の像です。
能久親王の一生は、天皇家に生まれながら、幕末から日清戦争にかけて戦争に翻弄された気の毒な生涯でした。弘化4年(1847)伏見宮邦家親王の第九皇子として誕生、安政5年(1858)上野寛永寺の門跡となりました。徳川家の菩提寺である寛永寺は、代々京都から門跡を迎えることになっていたのです。慶応4年(868)戊辰戦争では、寛永寺門跡という僧籍のまま、皇族でありながら朝敵となり、上野に立てこもった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、逃避先の東北では奥羽越列藩同盟の盟主に担がれることになります。明治3年(1870)、還俗して軍隊に就き、歩兵第一師団長、近衛師団長と出世するも、明治22年(1895)日清戦争に出征して台湾へ。平定したものの、台湾でマラリアにかかって病死しました。明治36年(1903)建立当時は近衛第一・第二聯隊の正面にありましたが、昭和38年に現在の場所に移りました。銅像になってから後も他者の都合で翻弄される運命の人なのでしょうか。銅像はほかに吉田茂像もあります。

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こちらは昭和の建物、科学技術館です。昭和39年にたてられ、当時の近代技術へのあこがれをこめたのか、壁は一面、星のデザインが施されています。
ちょうど、毎年開かれる全国矯正展(全国刑務所作業所製品展示即売会)がひらかれていました。全国の刑務所の受刑者の作品は安くてしっかりしていると評判で、毎年訪れる常連伽もいるほどの人気だということです。

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近代科学館では全国の受刑者の作品展示即売会がひらかれていた。

公園の中で意外に知られていない場所はいくつもあって、その一つに、気象台観測露場があります。平成26年に大手町から移転しました。東京の降水量、気温、蒸気圧、露点温度、相対湿度、雪(降雪・積雪)、気圧をはかっています。

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昭和39年は東京オリンピック開催の年です。柔道競技会場として前年に建設された武道館は、法隆寺夢殿をモデルにした八角形、大屋根の稜線は富士山をイメージしています。日本の武道(柔道、剣道、弓道、相撲、空手、合気道ほか)の稽古場、競技場として、また、はばひろくkンサートや格闘技の工業会場、大学や企業の大規模な入学式や卒業式、株主総会の会場として使用されています。昭和41年にはビートルズのコンサートが行われました。

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武道館 屋根は法隆寺の夢殿を模したという。

武道館の後ろにある弥生慰霊堂は、警察庁、東京消防庁の殉職者を祀っています。西南戦争で戦士した警察官は名誉の戦死者として靖国神社がある一方で、凶悪事件でなくなった場合には追悼の場がなかったことから生まれたの弥生神社です。殆ど知る人もいないようですが、花見客でにぎわうころ、静かにお弁当を食べるに絶好の場所です。

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弥生御影堂

北の丸の西側半分を所有す田安家は、吉宗の次男宗武がおこし、清水家同様、門の名にちなんで田安を名乗りました。門のあたりは、上州方面への道が通じていました、古くは田安大明神があったので、門名に称したといわれています。清水門より少し後の寛永13年築といわれていますが、立派な石垣は清水門には見られない特徴です。

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見事な石垣の田安門

北の丸を囲む堀は、田安門を出た東が牛ケ淵、西が千鳥ケ淵と呼ばれます。淵はダムの意味で、飲料水の確保を目的にせき止められた水域を意味しており、城の防衛上の水域は濠と呼んで区別します。だれもが知る東京の桜の名所、千鳥ヶ淵は、淵全体がチドリの形をしているからと伝えられ、牛が淵は、九段坂が当時非常に急峻で、牛が落ちたためといわれています。田安門のほうが九段坂の上にあたり、牛ケ淵のほうが九段下になります。
九段は、日本橋川から田安台に向けて続く道が、武蔵野段丘を上がるこのあたりに、9層の石段があったことに由来します。

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田安門を出て見下ろす牛ケ淵

田安門を出て、千鳥ヶ淵遊歩道へ向かう途中に、高灯台と大山巌の銅像をみることができます。高灯台のあたりは改修中で、大山巌と並んでいた品川彌次郎の像はどこかへひっこしていました。高灯台は明治4年に東京湾、品川沖の船舶、軍艦の航行の目印の為に建設されたものでしたが、昭和5年に道路をまたいだ現在の地に移転しました。

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高灯台

北の丸公園散策の最後に、千鳥ヶ淵遊歩道を歩きました。戦後植えられた桜の木は、樹齢70年に達し、そろそろ限界です。養生しながら守ってきましたが、若木との世代交代の時をむかえています。全国にある桜もいま、同じような運命ですね。大樹になった老木も捨てがたいけれど、若木の成長を見守るのも元気をもらえそうです。

この日のお昼はル・プティ・トノーでフレンチを。

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オリジナルのパテが美味しい前菜
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メインにはとりとトマトのリゾットで
    

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雑記帳2019-6-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-6-1

◆鎌倉街道上道、今回は鷹の台から、恋ヶ窪、国分寺へ。

鷹の台は江戸時代、尾張徳川家の鷹狩り場だったことに由来する地名。駅の南に玉川上水が流れています。ここから九衛門橋までは実は50年前の私のホームグラウンド。今は中央公園になっている場所はそのころ、東京都の蚕糸試験場があって、周囲はうっそうとした桑畑でした。
上水はその後、昭和40年に淀橋浄水場の廃止とともにいったん空堀になりましたが、昭和61年、昭島市の多摩川蒸上流水再生センターで再生された処理水を流すことで清流が復活しました。この辺りは掘削当時の石組みが残されており、緑豊かな散策路は50年前と変わりません。

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玉川上水は今から360年前、多摩川の水を江戸市中に供給するために掘られた水道用水路です。羽村から四谷大木戸までおよそ50キロ。高低差わずか90cmの工事は難航したと伝えられていますが、当時の技術の高さがしのばれます。
鎌倉橋は鷹の台駅からおよそ1.3キロのところにある。玉川上水にかかる橋です。
この付近を鎌倉街道が南北に横切っていたといわれていることから鎌倉橋を名づけられました。橋の北側の道が、旧鎌倉街道です。橋の北側は宅地開発のため、旧道の道筋は失われています。

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鎌倉橋から玉川上水を見下ろす
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鎌倉橋からJR武蔵野線新小平駅のほうにつながる街道を見る

国分寺市西恋ヶ窪の旧鎌倉街道に西面して建つ古社が熊野神社です。
熊野は古代より神秘的な聖地とされ,奈良時代よりこの地で修行をする者が多かったのですが,寛治4 (1090) 年,白河上皇の熊野御幸があってから政治権力を背景とする宗教的権威が生じ,熊野信仰は飛躍的に隆盛したといわれています。
恋ヶ窪の熊野神社は新田義貞の兵火により消失したと伝わっていますから、この熊野信仰隆盛期に建てられたものの一つでしょう。その後も兵火や自然災害などで再建をくりかえし、現在の社殿は昭和41年に改築されたものとされています。境内に京都聖護院門跡の道興準后の歌碑がありました。
 朽ち果てぬ 奈のみ遺れる 恋ヶ窪 今はた訪ふも 知記りならずや

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歌が詠まれたのは1486年のことですが、このころすでに恋ヶ窪という地名があったことを示しています。
そして、熊野神社に近接する東福寺に、その由来を記した「傾城墓」「傾城墓由来」の石碑がたっています。
鎌倉街道の要所だったこの辺りは中世には遊女屋も多かったのです。その中で、夙妻太夫(あさづまだゆう)という遊女が畠山重忠の寵愛をうけていました。しかし武将の重忠は合戦のため京に赴き、残された夙妻太夫は重忠の帰りを待ちこがれるものの、横恋慕した男に重忠は戦死と告げられて、深く悲しんだ太夫は近くの姿見の池に身を投げたのでした。その死を哀れんだ人々が阿弥陀坂の上に太夫の墓をつくり、松をうえたところ、不思議なことに松の葉は二葉にならず一葉だけになったとか。「一葉松」の由来とともに、恋に殉じた太夫にちなんで、この当たりの地名が「恋ヶ窪」になったことが、碑に紹介されています。
なお、東福寺は江戸時代、熊野神社の別当寺でした。

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東福寺にある傾城墓(右)と傾城墓由来の石碑

その姿見の池はかっては湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み、清水をたたえていた池で、東京都の緑地保全地域にしていされています。「姿見の池の遊歩道」を行けば、湿地や水辺の林をそなえた里山の風景を見ることができます。
鎌倉上道の宿場であった恋ヶ窪の遊女達が、自らの姿を映して見ていたことから、「姿見に池」と呼ばれるようになったということです。

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姿見の池

それとおぼしき街道も、開発によって個人の宅地になっていたり、西武線やバイパスによって断ち切られたり、昔のままに残っている部分は僅かです。
それでもこれぞ鎌倉街道!と呼びたい道に出会いました。
JR西国分寺駅から南下して15分ほどのところにある、国分寺崖線をつらぬく切通しの道がそれです。ここから国分尼寺にいたるまでの区間は史跡として保存されている地域です。

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JR武蔵野線に沿うように行く鎌倉街道の切通

道の西側は「伝祥応寺跡」と称される土塁状の土壇跡、東側は塚跡(盛土遺稿)です。
伝祥応寺跡は、国分尼寺跡のすぐ北側に隣接していることから、長らく国分尼寺の伽藍の一部とされていましたが、近年の調査によってそれよりも700年ほど後、鎌倉末期に建てられたものと判明しました。
切り通しの西側の、高さ12mの土壇を登ると、東西30m、南北45mの広場、そこに堂がたっていたことが推定されます。
街道をはさんで東側には、伝祥応寺の施設の一部と思われる塚跡があります。頂上からは東の方に武蔵国分寺が望める好立地、ここで、秘教とされる密教の祈祷がおこなわれていたのでしょう。

奈良時代の中頃、天平13年(741)聖武天皇の「国分寺建立の詔」によって、諸国に僧寺(そうじ)と尼寺(にじ)の建立が命じられました。当時、続発していた疫病や基金、災害から国家を守り、人々の安寧を祈祷するのが目的でした。
武蔵国分寺は、国府の北の広大な平地と、豊かな湧水に恵まれたこの地に建てられました。僧寺と尼寺を合わせた寺地は、推定で東西8町(約900メートル)、南北5町(550メートル)。僧寺だけを見ても東西3町あまり、南北4町に及びます。武蔵国分寺は全国でも最大級の国分寺でした。

武蔵国分寺跡の西、府中街道とJR武蔵野線の線路を越えたところに国分尼寺跡があります。

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史跡の中で一段と高く盛り土をしているところが金堂跡です。本尊を祀る御堂は、尼寺伽藍の中心にある最も大きな瓦葺建物でした。
上に登ると、推定される建物規模が土質舗装範囲で表示されています。横には、建物の基壇や辻の構造がわかるような見学施設がもうけられています。
建物への水の浸入を防ぐため、水はけを良くするために平地の上に石を組み、高くした部分を「基壇(きだん)」とよびますが、古代建築に基壇はなく、木枠(版)の中に土を盛り1層づつ杵などでつき固める版築と呼ばれる築造法をもちいていました。当時、寺院や宮殿建築において欠かせない工法でした。国分尼寺では1.5mの基壇にあたる部分に4.5m分の土を使っています。

ひときわ目立つ、金堂前面に復元された4本の柱は、儀式などの際に幟を掲げるための柱でした。その名は、幢竿(どうかん)。柱の高さは、金堂の軒先の高さを超えていたと考えられています。金堂前面が重要な儀式の場となり、様々な法会が開かれていたことを示す、全国的にも珍しい例だということです。

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金堂跡と幢竿(向かって左にもう1本ある)

礎石の配置された箇所は尼僧の住まいの跡です。正規の尼僧の他に、修行中の尼僧や召使などが従事して、共同生活を行なっていました。往時と同じ多摩川産の石が柱跡におかれています。房内は扉、壁などで仕切られて複数の窓があり、昼間の居住、勉学の間や寝室などの場になりました。

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尼僧の住まい跡を示す礎石

歩いた5月21日は日本列島に嵐が吹き荒れた日でした。リュックに雨靴、雨合羽と傘の完全武装で臨みましたが、ズボンはびしょぬれ。立ち止まってゆっくり説明を聞くヒマもあらばこそ、国分尼寺の写真は後日撮影したものです。

都立薬用植物園のケシ畑は、花の咲く5月の一時期だけ、一般に開放されます。
通常は防犯カメラの警戒も厳重な、入ることのできない柵の中では、見事なケシの花が咲いていました。アヘンの原料となるケシの栽培は、アヘン法によって厳しく規制され、日本では唯一、ここと、高知県の牧野植物園にだけ、許されています。観賞用のポピーの2倍くらいはありそうな大きな花びらです。

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◆5月末、記録的な暑さのなか、国営昭和記念公園の花の丘では、シャーレーポピーが見頃をむかえました。

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日本庭園の歓楓亭の今月のお菓子は「青楓(あおかえで)」です。
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雑記帳2019-5-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-5-15
◆現代の大人の遊び場、赤坂・六本木は江戸時代は大名屋敷が立ち並ぶエリアでした。

集合場所は地下鉄大江戸線六本木駅。ミッドタウンの駅前広場です。名称こそ駅前広場でも、B1にあるというのがいかにも六本木?
広場の真ん中にの大きな大理石がおいてありました。彫刻家、安田侃作。「意心帰」という名前がついています。

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東京ミッドタウンは2007年3月、港区赤坂9丁目の元防衛庁跡地を再開発し、誕生しました。約130の店舗、美術館、オフィス、公園などがある複合施設です。
敷地内に、国内外の作家のアート作品を配置し、メイン作品の一つが高さ約1・8メートルの白大理石の彫刻「意心帰」です。地球の一部である大理石を地中に戻すという意味がこめられています。
丸みのある優しいフォルム。中央部には人が入ることができる窪みがあります。作者の言葉を借りれば、母体の胎内のイメージだそうです。窪みにはいれば不思議に心も落ち着くのだとか。とおりがかりの親子の、子どもが中に入って楽しそうに遊ぶ様子も見られました。

六本木の名の由来は6本の松があったからとも、杉や松、柳など木の名前のついた6つの大名家の屋敷があったからとも言われています。
ミッドタウンは毛利家本家の下屋敷があったところです。輝元の子、秀成が造り、広さは36万8千坪。
明治には歩兵陸軍の駐屯地になり、大戦後は米軍の接収を経て防衛庁に移りました。自衛隊が市ヶ谷に移ったあとにできたのがミッドタウンです。管理は三井不動産。

ミッドタウン駅前広場を一歩外に出たところにある檜町公園は、毛利家の庭園でした。清水園と呼ばれた名園は創建以来400年間、一般人が入ることは許されませんでした。
屋敷跡に防衛庁が設置されたとき、庭は公園として整備され、現在は都立公園として開放されています。周りに檜が多かったところから「檜町」という地名の由来になりました。

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桧町公園(池の奥にあるのは茶室・清水亭)

公園裏の檜町坂には、創業120年という和菓子の老舗「青野」があります。「ジョブズの料理人」(日経BP社)の中で、アップルのステーブ・ジョブズが愛してとりよせた青野の和菓子が紹介されています。(驚くなかれ! ジョブズは大の和食ファン、和菓子まで好きだったとは。)


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青野本店

その先には赤坂中学校。赤坂通りをはさんだ赤坂小学校からは三分坂(さんぷんさか)が見えます。由来は『急坂のため通る車賃を銀3分(さんぷん:百円あまり)増したためだということです。(坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。「さんぷん」と読み、「さんぶ」ではありません。)坂をのぼりきったところがTBS放送センターです。

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三分坂
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三分坂の付け根、法土寺の築地塀

報土寺は三分坂の付け根のところにあり、小さいながら雷電為衛門の墓があることで知られています。
真宗大谷派の寺のご住職はサービス精神にあふれ、自ら玄関先に出て私たちを迎えて、雷電や梵鐘の説明をしてくれました。

雷電為衛門は明和4年(1767)信州小諸の生まれ。197㎝、172㎏の巨漢、強力ながら、顔容穏やかで、性質も義理がたかったと言われます。(当時の男性の平均身長が150㎝だったことを思えば、抜きんでた巨体だったことが想像できます。)寛政2年(1790)から引退までの22年間に大関の地位を保つこと53場所、254勝10負2分(勝率9割6分2厘)、まさに天下無双の力士でした。当時は横綱の位はなく、大関が最高位でした。
引退後、大火で焼失した梵鐘を支援して復元させましたが、「天下無双雷電」と刻んだことが幕府のお咎めを受け、鐘は取り壊されて雷電は一時江戸払いとなりました。数々のエピソードを残して、文政8年(1926)江戸にて没。
強すぎて雷電だけの禁じ手があったとか。今も、雷電にあやかろうと、現役の力士がやってきます。つい最近は御嶽海が来たのだと、ご住職はうれしそうでした。
現在の鐘は戦時中金属供出の対象になりましたが、無事戻ってきたそうです。

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雷電為衛門の手形石
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雷電為衛門の墓

赤坂を愛した勝海舟の邸あとの標識が、本氷川坂の付け根にある「マウントタウン赤坂」というマンションに立っています。海舟邸跡は赤坂に3か所あるのですが、よほど相性がよかったのか、引っ越しはしても赤坂を離れることはありませんでした。
ここは2度目の邸があった所で、34歳から45歳の9年間、海舟が生涯で一番活躍した時代に居住しました。刺殺しようと訪れた旧土佐藩の坂本龍馬を熱心な門下生に変え、倒幕・維新への転機になったという話はよく知られています。

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勝海舟亭跡

その名の通り、赤坂は坂が多い。急勾配の本氷川坂を登り切れば氷川神社です。白金や麻布にある氷川神社と区別するため、赤坂氷川神社と呼ばれます。祭神はスサノオノミコトやオオクニヌシのミコトなどの3神。
創立は951年と伝えられ、一ツ木台地にあった神社は、8第将軍吉宗の時代に、現在地に移りました。以来、歴代徳川家の崇敬を集めました。。
ここは備前三次藩の邸があったところです。藩主浅野長治の娘が赤穂の浅野内匠頭に嫁いだ阿久里。神社の境内にも浅野家とかかわりのある祠があったりします。
縁結びの神としても知られ、この日も、結婚式を挙げたばかりのカップルに出会いました。

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氷川神社に上る階段

この他にも坂の名前はいろいろ。氷川神社の前にあるのは氷川坂。さらには、アメリカ大使館の横を通る南部坂があります。

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随所に坂の標識がある
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アメリカ大使館

南部坂の名の由来は陸奥南部藩の中屋敷があったためですが、明暦2年(1656)赤穂藩浅野家と邸の取り換えが行われました。南部家は現在の麻布、有栖川公園のある場所へと移転し、そこにも南部坂があります。
忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」の場面は有名ですが、実際には内匠頭の切腹後瑤泉院となっていた阿久里さんは、実家である先の氷川神社境内の三次家の下屋敷に居たため、南部坂には居ませんでした。

勝海舟が最後に住んだ邸は旧氷川小学校の跡地にありました。
明治元年、引退した徳川慶喜に従ってここから静岡にうつりましたが、明治5年に再び上京し、76歳で亡くなるまでここですごしました。
1878年、東京商法学校(現一橋大学)開設のために来日したアメリカ人ウイリアム・ホイットニーは、勝海舟邸の敷地内に家を建てました。ホイットニーの娘クララは海舟の三男梅太郎と結婚し6人の子供をもうけています。「クララの日記」にはホイットニーと勝家の交流が詳しく記されています。その後赤坂病院を建てて伝道をはじめ、赤坂教会になりました。ホイットニー自身がなくなった後は遺族が引き継ぎ、病院がなくなった後も、教会は礼拝堂として今も祈りと宣教の場になっています。

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赤坂教会

赤坂は明治に陸軍歩兵駐屯地があったことから、軍人と花柳界の街として、料亭文化が栄えました。時代をくだって、大使館員や航空会社の乗務員がよく出入りした時代は、華やかなおとなの遊び場になりました。「コパカバーナ」や「みかど」といったナイトクラブやキャバレーが赤坂の顔だった昭和40年代が最も活気にあふれていたという人もいます。さらに、TBSが社屋を構える現在は、多くの若者が行きかい、そのころとは違った新しいにぎわいを見せる場所になっています。

日枝神社は、文明10年(1478)太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのが始まりです。家康が江戸入城の折、、城内に安置して江戸城の鎮守としました。秀忠の江戸城改築に際して場外(麹町)に移り庶民が参拝できるようになりました。明暦の大火後、家綱の時代に、江戸城の裏鬼門にあたる現在の地に改築され、現在の建物は空襲で焼け落ちた後に再建されたものです。6月の大祭、山王祭は、京都の祇園祭、大阪の天神祭と並んで日本三大祭の一つにかぞえられています。
ちなみに、江戸三大祭といえば、神田神社の神田祭、富岡八幡宮の深川祭、この日枝神社の山王祭をさします。

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鳥居の屋根が特徴の日枝神社 階段横のエスカレーターで上る
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インスタ映えすると人気の境内の稲荷神社

日枝神社から赤坂の商店街に戻ってお昼はトルコ料理です。サライのイケメンのお兄さんに給仕してもらいました。

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インテリアもトルコッぽく
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メイン料理のビーフシシカバブ)
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デザートのあま~いのびるアイスクリームやバクラヴァ(左上)
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チャイ

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雑記帳2019-5-1 [代表・玲子の雑記帳]

2015-5-1
『知の木々舎』は10周年! 令和の幕開けと同時に11年目にはいります。

ちょうど10年前の5月、武蔵野の地から文化を発信しようとたちあげたのが、時間も空間も自由な、インターネット・マガジン『知の木々舎』でした。
試行錯誤のうち、半年後には、表紙と目次を備えた今の形が出来ました。

著名な執筆者の著書の転載から始まった知の木々舎でしたが、主旨に賛同した無償の寄稿が徐々に増え、これまでに100人を数える執筆者とご縁をいただきました。
多くの示唆をくださって亡くなった執筆者が何人もいる中で、野村勝美さんの「浜田山通信」は、『知の木々舎』の号数と同じ回数のロングラン、まだまだお元気で連載は続きます。

「文芸美術の森」「こころの小路」「雑木林の四季」「ことだま五七五」に分類されたカテゴリーと並んで大切にしてきたものに、「核なき世界を目指して」があります。
峠三吉や原民喜の詩の紹介のあとに、今も続いているのは、ともに広島で被爆した中山士朗さんと関千枝子さんの往復書簡です。
武蔵野からの発信にちなんだ「ふるさと立川、多摩、武蔵」のコーナーでは、次々に多摩の活動家やアーティストを発掘してきました。とだえている「文化としての環境日本学」も復活させたいカテゴリーです。

上質の、他にはないような品ぞろえを心がけてきた知の木々舎は、今、月間の読者は1万人をこえ、掲載した記事数は8,000余、アクセス総数も430万をかぞえます。
これまでにいただいた数々の激励を胸に、様々な知が集う場所として、新たなステージに向かいます。

◆磯沼ミルクファームは未来を変える牧場です。

2015年、国連は、「持続可能な開発サミット」を開催し、人間および地球の繁栄のための行動計画として、未来をかえるための17の目標、SDGs(Sustainable Development Goals)をかかげました。

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そのうちの12番目に、つくる責任、つかう責任がうたわれています。
物を買って消費する私たちにも、実はつかう責任があり、それは他の目標の達成にも深く関わっています。

例えば、つくる人の労賃、労働年齢や性別、労働環境が適正なものを使いたいと思えば、(1)貧困をなくそう、(3)すべての人に健康と福祉を、(5)ジェンダー平等を実現しよう、(8)働きがいも経済成長も、(10)人や国の不平等をなくそう などと、クリ-ンなエネルギーでつくられたものがいいなと思えば、(7)エネルギーをみんなにそしてクリーンに、(11)住み続けられるまちづくりを、(13)気候変動に具体的な対策を などと、また、地球と環境に配慮して生産・収穫した製品を選べば、(13)や(14)海の豊かさを守ろう、(15)陸の「豊かさを守ろう などと・・・。

一方、つくる側にも、SDGsに取り組む生産者がふえてきました、非営利団体のThenk the Earthが出している「未来を変えるSDGs」の中に八王子の磯沼ミルクファームが紹介されています。
牛と人の幸せな牧場をめざして、家畜福祉(アニマルウエルフェア)に取り組んでいる、磯沼ミルクファームを訪ねました。

京王線山田駅から10分ほど歩くと放牧場がみえてきます。牧場の横の坂をおりていった先に磯沼ファームの牛舎があります。

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殆どの牛が牛舎にもどったあとで、牧場の水飲み場に数等だけ残っていた。
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入口近くにある羊者の親子 まもなく毛刈りのシーズンです。
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ファームは今から60年ほど前、シベリアから帰った磯沼正徳さんのお父さんが牛1頭から始めたということです。1年に10頭ずつ増やしながら、今ではちょうど100頭になりました。。
平成1年から牛を放し飼いにして、首輪でつながない飼い方をしています。首輪でつながないのは牛にとってストレスが少なく、牛が自分のことは自分でできるようにするためです。食べる量を自分で決める、食べ過ぎないことでおなかの病気の予防になるそうです。いわば牛の食育です。
ストレスがあると牛は泣いて訴えます。泣かなければストレスはないと判断できるのです。 
幸せに暮らせるようにした結果、牛は気持ちよくお乳を出すようになりました。気持ちよく出した牛乳は甘くなるということです。肉牛ならオレイン酸がふえて柔らかい肉質になるのも同じです。

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餌の量を自分で管理する牛たちは食べ終わったら自然に後ろにいる牛と交替する。

現在、全国の牧場では130万頭の牛が飼育されていますが、99パーセントはホルスタインです。乳質がさわやかで乳量も安定しているので、飼いやすいといいます。
磯沼ファームでは、ホルスタインのほかに、ジャージー、ブラウンスイスなど6種の牛を飼っています。3種をブレンドした低温殺菌のミルクは東京で一番おいしいとの折り紙付きです。
種類の違う牛を同時に買うのは実はとてもむつかしいことすが、干し草を自由に食べられるようにすることで、クリアーしたということです。

正徳さんはさらに種類を増やしたいと言っています。
フランスの、モンペリアルドというチーズをつくるために、その原料となる乳を出す希少種の牛を飼育している農家があるのにならったそうです。決して効率はよくないが、ブランドを残す努力をしていかなければ、それにつながる文化を残すこともきないと正徳さんは考えています。
人工授精で生まれたガンジーという種類の牛にいたっては、牧場にわずか1頭しかいません。

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1頭しかいないガンジー牛のミウ
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4月に生まれたばかりのジャージー牛の赤ちゃんの名前はバンビ。

飼料は干し草のほか、フルーツや人参ジュースの搾りかすなど、植物性のものしか与えていません。動物性のものとしては、微生物を飼料に加えるだけで十分といいます。
かって牛骨粉などの動物性の飼料をあたえたことがBSE(狂牛病)を引き起こしたことは、酪農業界に苦い教訓となっています。
甘いフルーツは牛も大好きです。

すべてのミルクは母乳です。
赤ちゃん牛を丈夫に育てたいかあさん牛の愛情が、栄養たっぷりな甘いミルクになるのです。磯沼牧場では、「かあさん牛のおくりもの」と呼んでいます。
中でも、命がけで人間に奉仕してくれる牛のメッセージの入ったヨーグルトを作ろうと、日本で唯一、1頭のジャージー牛のミルクだけでつくるプレミアムヨーグルトが自慢です。
牛1頭1頭が名前をもっている牧場では、ヨーグルトにもかあさん牛の名前が記されています。

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かあさん牛のプレミアムヨーグルト

都市で酪農を続けるのにまず問題になるのはにおいです。
防臭対策として、近くにあるコーヒー工場ややチョコレート工場から出る、コーヒー豆やカカアのカスを牛舎に敷き詰めました。

そして、1頭の牛から700tでるという牛糞は堆肥になります。コーヒーやカカオの混じった堆肥はいい堆肥になるということで、近隣の農家だけではなく、全国から注文があるそうです。

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コーヒー豆のカスはにおいを消してくれる
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ふかふかの堆肥の山 内部は60度で発酵している

町のなかで共存していくために、牧場では、この他にも、毎週日曜日乳しぼり体験や石窯ピザづくりなど、見学者を受け入れて、様々な工夫をしています。

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ピザを焼く石窯
 
年間12回のカウボーイ・カウガールスクールは、子牛の名前を考えることから始まる、「牛と人のいい関係を作り上げていくプログラム」です。世話した牛が大きくなって、2年後にはかあさん牛になる、乳牛の一生の始まりのプロセスを共有することで、家畜、牧畜の理解を深めようとしているのです。

牧場を去るとき、ひだまりの丘の斜面に、今は珍しい日本タンポポを見つけました。東京といえども、八王子のこの辺りは、まだまだ豊かな自然がのこされています。

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雑記帳2019-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-4-15
◆江戸の花見もかくや。3月末の飛鳥山は満開の桜でした。

今年は暖冬といわれながら桜の開花はさほど早くはなく、東京の桜が満開を迎えたのは3月も末でした。
この日、飛鳥山の桜を見るべく集合したのは東京メトロ南北線の西ヶ原駅。ここから王子までを歩きます。

印刷局東京工場、滝乃川警察署を横にみながら、本郷通りを進むと、西ヶ原一里塚の碑がみえてきます。江戸時代、街道の一里ごとに一里塚が築かれ、塚の上には榎が植えられていました。この一里塚は日光御成道の、日本橋から2番目にあたります。23区内には一里塚は18か所あったといわれていますが、当時の位置を保っているのはここだけです。大正時代に市電延長のため、撤去されそうになった一里塚を、渋沢栄一らが保存運動をして残したことが碑に書かれています。

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一里塚の二本榎(とおり向かいにもう1本の榎がある)

将軍の日光参詣のお供は、驚くなかれ、吉宗の時代に最大13万3000人もいたそうです。費用は今の金額にして200億円かかったといいます。当時一番と言われた加賀藩の大名行列でさえ4,000人でしたから、全国の大名がこぞって従った、徳川の威光は推して知るべしです。

伊邪那岐命をはじめとする祭神が7神なので名づけられた七社神社は、古くから西ヶ原の鎮守でした。明治時代の神仏分離によって、現在の古川庭園内にあった無量寺の社が、現在の地にうつりました。もともとこの地にあった神明宮は、樹齢1000年以上といわれる杉があったことから一本杉神明宮とよばれていたことが、江戸切絵図に見えます。この大木の幹がいまも境内に残されています。神楽殿では9月の大祭に「江戸里神楽」が奉納されます。
近くにあるゲーテ記念館は15万点を所蔵し、世界中から研究者が訪れるそうです。

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七社神社
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神明宮の一本杉の幹だけが今も保存されている
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境内にある緑色の御衣黄桜もほころびて
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神楽殿

日本近代経済の基礎を築いた渋沢栄一の屋敷跡が、旧渋沢庭園として区民に開放されています。庭園内にある青淵文庫(せいいえんぶんこ)や晩香炉(ばんこうろ)は、国の重要文化財となって、昔の面影をとどめています。
青淵文庫は、渋沢栄一の傘寿の祝いと、子爵昇爵の祝いを兼ねて、竜門社(現・渋沢栄一記念財団)が贈った鉄筋コンクリート2階建ての建物です。書庫として使われました。「青淵」は、渋沢栄一の雅号です。
晩香廬は、渋沢栄一の喜寿の祝いに清水組(現・清水建設)が贈った洋風茶室です。内外の賓客を迎えるレセプションルームとして使われました。18代アメリカ大統領ユリシーズ・グラントや中国の蒋介石など多くの要人が招かれ、民間外交の場となりました。

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青淵文庫
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晩香廬室内
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庭園内にある渋沢栄一像 小柄な人だったようです。

飛鳥山公園は渋沢庭園のとなりにあります。その入り口にあるのが渋沢史料館です。
渋沢が手掛けた事業は500を数えますが、全て他者に渡して自らは財閥をつくらなかったため、今、渋沢の名を残す企業は渋沢倉庫のみだということです。
史料館の横に立つ平和の女神像は北村西望の作品です。長崎の平和の像を造った北村のアトリエが一時期、西ヶ原にあったのだそうです。

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渋沢史料館
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北村西聖の平和の女神像

飛鳥山公園は、8代将軍吉宗が庶民の行楽のために桜を植樹して開放した日本初の公園です。当時桜の名所は上野、向島、品川御殿山とこの飛鳥山でしたが、中でも飛鳥山は「野暮」といわれながら、庶民に人気のスポットでした。ソメイヨシノが満開のこの日、ふもとのJR王子駅から登ってくる、食料を入れた発砲スチロールの箱やレジャーシートを抱えた人の列が絶えませんでした。桜の季節に近くまでくると、(人の波で)山全体がうなっているようだと言った人がいました。ふもとの公園入口から山の上まで2分というモノレール(あすかパークレール)に乗る手もありますが、こちらは後尾が判らないほど延々の長蛇の列(待ち時間2時間!)でした。

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飛鳥山のふもとは王子駅に沿って音無(おとなし)親水公園になっています。隅田川にそそぐ石神井川が流れにつれて龍野川となり、音無川と名をかえたところは、かっては雨がふるとあふれる暴れ川でした。音無川は、何とかおとなしくしていてほしいという、庶民の願いのこもった名前だとか。土手の桜は花見客でにぎわいました。水を流さなくなった今も、桜の木の下で酒盛りをする人でいっぱいです。商店街には卵焼きで有名な「扇屋」がありますが、ここも行列ができていて、並ぶのをあきらめました。宝くじを買う店のはるか向こうに最後尾の看板を持つ案内人がいたり、評判の絵を見るために美術館を何重にも囲んだり、江戸っ子は気が短かったのを忘れるほど、日本人は並ぶのをいとわないようです。

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音無親水公園(川底いっぱいに花見客のブル-シートが見える)

王子といえば狐です。昔、このあたり一帯は一面の田畑で、とても寂しい場所でした。その中の一本の榎のもとに、大晦日になると関東一円の狐があつまり、衣装を整えて近くの王子稲荷へ初詣でをしたという言い伝えがあります。榎は装束榎と呼ばれました。その様子は広重の浮世絵にも描かれています。言い伝えは今も12月31日の「王子狐の行列」として地元の人々にうけつがれています。

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装束稲荷神社

狐たちの初詣でのゴール、王子稲荷神社は関東稲荷の総社という高い格式を持ち、江戸時代から庶民に親しまれてきました。境内にある「狐の穴跡」は落語「王子の狐」の舞台になっています。

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王子稲荷神社
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王子稲荷本殿の格天井

王子稲荷を少し進めば名主の滝公園です。名称は、王子村の名主、畑野家が屋敷内に滝を造って一般人が利用できる避暑の施設にしたことに由来しています。所有者はかわりましたが、今は飛鳥山公園、音無川親水公園とともに、区立公園として開放されています。
中を歩けば、池あり、谷あり、もちろん滝あり、桜あり、楓あり、橋あり、渓流ありの、規模も様式も、名にしおう大名庭園におとらぬものでした。

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名主の滝公園の男滝

散策の最後は王子神社で締めます。王子の名前のもとになった神社です。
古くは岸村と呼ばれたこの地に、紀州熊野三所若一王子が勧請されて、熊野信仰の拠点になり、名前も王子村となりました。民族芸能「王子田楽」は北区指定の重要無形文化財です。天然記念物の大銀杏ヤ、ユニークな毛髪供養の「毛塚」があります。

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毛塚のある関神社は理・美容業界の信仰をあつめているそうです。

お昼は王子駅のそばの小さな店、フルカワヤ。
小さいながらおいしいと評判の店は、食材に、江戸東京野菜や地方の固定種を扱う、シェフのこだわりの店でした。

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前菜は滝乃川人参のパテ、世界で一人しか生産者のいない赤レンコン、早稲田茗荷など・・・
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デザートの焼き菓子にも滝乃川ごぼう(右奥)がつかわれている。

今号がアップされる直前の4月9日、渋沢栄一が新しい1万円札の顔になることが発表され、飛鳥山の渋沢史料館や深谷市にある渋沢栄一記念館が紹介されました。
雑記帳では、何年か前に、深谷の渋沢栄一記念館を訪ねた報告をのせています。

◆花冷えがつづいた今年は、東京でも満開の桜花を長く楽しむことができました。
4月中旬の国営昭和記念公園は、この時期には珍しい、桜と草花の競演が見られました。

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桜とチューリップ(渓流広場で)



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雑記帳2019-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-4-1
春休みの親子料理教室で、油で揚げない簡単コロッケが大好評。

◇コロッケ 
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材料(4人分) じゃがいも…4個(500g) たまねぎ…1/2個(100g) 豚ひき肉…100g   パン粉…カップ1.5(60g) サラダ油(パン粉用)…大さじ1 サラダ油(炒め用)…大さじ1 塩…小さじ1 ソース…少々

作り方 ① フライパンに大さじ1の油を入れて、中火でパン粉をきつね色になるまで炒めたら火を止め、フライパンの熱が下がるまで炒める。
② じゃがいもは電子レンジ(10分)またはゆでる。熱いうちに皮をむき、つぶしておく。
③ たまねぎはあらいみじん切りにして炒め、すき通ったらひき肉を加え、水分がなくなるまで炒める。
④ じゃがいもとひき肉を良くまぜ、食べやすい大きさに丸める。
⑤ 炒めたパン粉の上に丸めたコロッケの種を入れ、よくまぶして形をととのえる。
⑥ お皿にもって出来上がり

◇フルーツサラダ
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材料(4人分) リンゴ…1/2個(160g) キウイフルーツ…1個 バナナ…1本 ヨーグルト…大さじ4 マヨネーズ…大さじ1 砂糖…大さじ1

作り方 ① リンゴは4等分して5mmのいちょう切り。
② キウイフルーツは4等分し、5mmのいちょう切り。
③ バナナは5mmの輪切り。
④ ヨーグルト、マヨネーズ、砂糖を合せてソースをつくる。
⑤ フルーツとソースをさっとまぜ合わせて出来上がり。

◇野菜スープ(さわ煮椀)
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材料(4人分) 豚肉…50g だいこん…150g  にんじん…100g 生しいたけ…2枚 ねぎ…1/2本  油あげ…1/2枚  塩…小さじ1  しょうゆ…大さじ1  酒…大さじ1  水…カップ4

作り方 ① 豚肉は5mm~6mm幅で細切り。
② だいこん、にんじん、しいたけは5mm~6mm幅の短ざく切り、ねぎはななめ細切り。
③ 油あげは2つに切ってから細切り。
④ なべに水カップ4、だいこん、にんじんを入れ、煮立ったらしいたけを入れる。
⑤ 豚肉を入れて色が変わったら油あげを入れる。
⑥ 調味料を入れて味みして、塩かげんをたしかめる。良ければねぎを加え、煮立ったら出来上がり。

油で揚げないコロッケは子どもでも容易につくれると、子どもたちにも大好評でした。
さわ煮椀はたくさんの具材が入る汁物のこと。だし要らずで野菜がたっぷり食べられます。

◆白金台にある松岡美術館を訪ねました。
作品の修復と設備点検のため、6月から長期休館になるので行ってみないかという友人の誘いでした。

前身は昭和50年、貿易や不動産業で財をなした松岡清次郎が、晩年、コレクションを一般公開するために自社ビルに建てたものですが、自然教育園と隣り合わせの現在の建物は平成12年建設という、まだあたらしい、こじんまりとした美術館でした。

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入館してすぐ目につくのはブールデルの巨大な「ペネロペ」のブロンズ像です。
ギリシャ神話「オデッセイ」で、大勢の求婚者をかわしながらユリシーズの帰りを待つペネロペは、想像していた以上に豊穣な女性につくられています。

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ロビーにはこの他、ゼウスやミネルヴァの彫刻とともに、「猫の給仕頭」というジャコメッテイの小さな作品があります。美術館の公式キャラクターが「ねこにゃん」で、どうやら猫は松岡美術館のシンボルのようですが、そのわけがあとでわかりました。
案内してくれた孫の黒川裕子さん(副館長)によると、美術館が所蔵する2000点はすべて松岡自身がオークションに出向いて購入したということです。


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1階と2階にある5つの展示室のうち、第1の展示室は古代オリエント美術を展示しています。現在展示中のテーマは「古代エジプトの女性と女神」。
エジプトはギリシャやローマよりすっと女性の地位が高かった時代でした。そして、エジプト神話にでてくるバステト神は猫の化身です。そういえば、猫のエイジが我が家にいたころ、猫の原産地はエジプトだから暑さに強いのだときいたことがありました。エジプトでは猫は神様の化身として、古くから大事にされてきたのでした。
このほか、セクメトやイシスといった、神話の女神たちは小品ながらみな元気でした。
部屋の中央には文様を施された彩色の棺がよこたわっています。
松岡美術館にはヒエログリフが解読できる学芸員がいるのだそうです。

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彩色木棺

第2展示室は現代彫刻の部屋です。
ヘンリー・ムアとエミリア・グレコの作品が並んでいます。
ムアの巨大な「台に座る母と子」やブールデルの「ペネロペ」など、実は、松岡は屋外展示をしたかったのだそうです。ムアの作品は確かに屋外展示にむいているとみえて、熱海のMOA美術館では実際に屋外に展示されています。

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第3の展示室には、古代東洋彫刻が展示されています。。
偶像崇拝が禁じられていた仏教で、初めて仏像が誕生したのはガンダーラでした。アレキサンダー大王が東方遠征の折に伴った職人たちの手になるガンダーラの仏像はギリシャ彫刻の影響をうけているのがよくわかります。ここでは、さらに、ヒンズーやクメール、中国の彫像たちを見ることができます。

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菩薩半跏思惟像(絵葉書より)

2階の一室では「元気な文様たち」と題する企画展が開かれていました。明時代の景徳鎮を中心とする五彩や青花の展示はなかなか見ごたえがありました。これらの陶磁器が松岡コレクションの原点であり、美術館創設の原点になっていたのです。
宋時代に漢民族が作り上げた格調高い中国陶磁は、元を経て明時代になると、文様、色彩ともに、濃密でエネルギッシュな作風へと変化し、明の末期にはより自由闊達な魅力を増します。描かれる草花や、龍や獅子の文様はまさに器面を闊歩する感があります。
この時代の焼き物が江戸時代の日本に渡来し、影響を与えたことは良くしられています。


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五彩百鹿文壺(絵葉書より)

松岡美術館には松岡がが愛した文楽を題材にした絵画も多数蒐集されています。
今回、もう一つの企画展示室では、その文楽をはじめとして、能や歌舞伎などの伝統芸能を主題とした作品が展示されていました。

さらに、この日、ロビーでパンフルートの演奏を聴く幸運に恵まれました。
パンフルートのパンはギリシャ神話の牧神パンに由来します。竹製の、世界最古の管楽器で、パイプオルガンやハーモニカの先祖といわれています。かってはシルクロードを経て世界中に伝播し、日本でも雅楽で演奏されたこともあったということです。現在はルーマニアの民族楽器として知られています。
この楽器の音が鳥の声に似ている、とか、最初のパンフルートの演奏者は葦に吹く風だ、とか、演奏者の櫻岡史子さんから興味深い話をききながら、「さくらさくら」やカザルスの「鳥の歌」の演奏にしばし耳を傾けました。松岡美術館では折に触れて、ギャラリートークヤミニコンサートを実施しているそうです。

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パンフルートを演奏する櫻岡史子さん
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中庭の桜も見ごろ。

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雑記帳2019-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-3-15
◆鎌倉街道、早春の色に染まる今回は京王線聖蹟桜ヶ丘から小田急線永山まで。

民道の鎌倉街道は、東京には西から、上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)の3種のルートがあることを知ってから、多摩の住民としてそのうちの上道を訪ねて2回目です。今回は多摩市を歩きました。(山あり、谷あり、多摩市は広い!)
鎌倉街道は成り立ちの性格から、わき目もすらずにまっしぐら、山も谷も迂回することなく進むのが特徴です。この辺りは、そうした鎌倉古道が残っている貴重な地域です。

聖蹟桜ヶ丘駅を出発して石畳のある住宅街を歩くうち、木立の間に朱塗りの社が見えてきました。小野神社です。創建は紀元前531年と伝えられ、公式記録としては8世紀にその名があります。平安中期に編纂された「延喜式」によると、武蔵国総社である大國魂神社の一之宮とされ、崇敬を集めました。

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都から赴任してきた国司が国の平安を祈る神社は武蔵国には六つありましたが、まず一番に出向くのが一之宮で、それが小野神社だったというわけです。
六社は、小野神社につづいて、あきる野市の二宮神社、さいたま市大宮の氷川神社、秩父市の秩父神社、さいたま県金川町の金鑚神社、横浜市の杉山神社を指します。

度重なる戦乱や多摩川の氾濫を受けて衰退した時期もありましたが、江戸時代になり、徳川秀忠によって再興されました。慶安元年(1648年)には十五石の朱印も与えられ、以後歴代の徳川将軍に厚く崇敬されたということです。
大正15年、火災で焼失、現在の建物は昭和2年に再建されたものです。
拝殿と本殿がわかれていて、しかも少し離れているのは仏教思想が入ってくる以前のものであることを表しています。また、本殿のカーブした屋根の長さが前後で違う(前のほうが長い)という流れ造りであることなど、随所に古社の歴史を伝えています。

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拝殿
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本殿

圧巻は隋神門です。
朱雀こそないものの、玄武に白虎、青龍の三獣がそろっています。
唐獅子牡丹に兎、風神雷神もいれば、龍も水に住む龍だけでなく、空に住む飛龍まで、なかなか見ごたえがあります。
風神雷神はといえば、雷神の手の指が古式にのっとって3本であったり、それぞれが親子とおぼしき一対になっていたり、昭和初期の再建ながら、非常に凝った造りになっているのです。

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隋伸門の額の下には龍の彫り物
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雷神の親子?(上が子らしい)

小野神社から5分ほど歩いて多摩川の土手にでると、関戸橋に平行して京王線が多摩川を渡っているのが見えます。このあたりが関戸古戦場です。
1333年5月15日、新田義貞の軍勢が幕府軍に敗れて敗退した分倍河原の合戦の翌日、態勢を立て直した新田軍は多摩川を超えて幕府軍を攻撃します。幕府軍は総崩れとなり、5月22日の鎌倉幕府滅亡へとむかうのです。

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このあたりが関戸古戦場

関戸は関所に戸を立てたことから生まれた地名です。
多摩川の支流、大栗川が多摩川に合流する地点は昔、交通の難所でした。鎌倉幕府はそこに関所(霞ノ関)をもうけたのです。
関戸合戦では多くの鎌倉武士が命を落としました。関戸5丁目に「関戸古戦場跡」の表札があります。そのすぐ近くの関戸観音寺は、合戦の有縁無縁の精霊の位牌を祀って、新田、鎌倉両軍の供養も行っています。

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関戸観音寺

真言宗のこの寺は1192年の創建。ご住職が本堂にある寺自慢の曼荼羅の説明をしてくれました。
人が死んで巡る地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道を、本地垂迹を取り入れて衆生にわかりやすく絵図にした曼荼羅です。

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熊野曼荼羅
境内には石仏の六観音像があります。六道に苦しむ衆生を救済するという六地蔵は、多くのお寺にあってなじみのあるものですが、地蔵ではなく観音は珍しいということです。

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石仏の六観音

関戸観音寺を出て再び街道を進むと、ほどなく熊野神社です。
昭和30年代に神社の参道で、16箇所の丸柱の痕跡が発掘されました。これが霞ノ関の南側の木戸柵だと考えられています。現在、発見された柱穴上に木材を立てて目印にしてあります。

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熊野神社
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関所の木戸作跡を示す木材の目印

ちなみに、幕府が倒れたあとも関所は残りました。
管理の手は鎌倉幕府から鶴岡八幡宮、北条氏へと移り、秀吉によって廃止されるまで続きました。
中世の関所は通行人からお金を取ることが目的で、しかも任意の個人が設けることができたのです。廃止されるまで摂津湊から京都の間には、なんと、48もの関所があったということです。

多摩地域では低山の尾根と尾根の間の窪地を谷戸(やと)と呼びます。
人々は谷戸に田を引き、集落を営みました。鎌倉街道はその谷戸と谷戸をつないでつくられたので、旅人は上り下りの多い坂道を歩くことになりました。
現在もその面影を残す道が原峰公園にあります。
入口は尾根筋にあたる現在の住宅街にあるのですが、公園内へはまるで谷底へくだるように降りて行かなくてななりません。さらに谷戸を横目にしながら今度は林の坂道を登っていくと、コミュニティセンターのある街道に出ます。そこから通りをだらだら下れば市役所はすぐです。
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谷に向かって降りていく
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谷底にかかる古びた木製の橋はなかなか趣があります。

市役所の前にはかって街道がにぎわっていたことを示す古市場の標識がたっています。
北条氏が月に6日の六斎市を立てた場所でした。

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古市場跡

市役所からくだってぶつかった大通りや乞田川はさしずめ谷底、ここから永山に向かう道はまた上りの坂道です。
小田急線永山駅から20分ほどのところにある大福寺は弥勒菩薩の寺です。本堂のかたわらにある弥勒菩薩の像は、左手に宝塔のある蓮華を持ち、右手は中指をまげて、禅定にはいって姿をみせています。普通、弥勒菩薩の持つ蓮は花そのものか蕾なので、この姿は非常に珍しいのだそうです。

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大福寺本堂
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弥勒菩薩像

多摩ニュータウンが造成される際、貝取村で個々に祀られていた神社も取り壊されることになりました。その、吾妻神社・八幡宮・牛頭(ごず)天王社の3柱を集めて合祀したのが貝取神社です。
集落に災いをもたらす者が入らないよう入口を見張る牛頭天王は、実は神道の神様ではありません。そのほか、神社なのに、境内には不動明王の石仏があります。さらに、鳥居は両部鳥居になっており、神仏習合の名残がいくつも見られます。新しい街ができても古くからあるコミュニティを大切にしたいとの思いがあったのかもしれません。

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貝取神社の牛頭天王社
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鳥居の足が両部鳥居になっている。

お昼は永山駅そばの「梅の花」で梅ランチをいただきました。

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地方から上京した誰もが東京は坂の多い街だと驚きますが、多摩ニュータウンの坂道はその比ではありません。
貝取山や笛吹峠の地名もそのままに、昭和40年代の開発からまだ50年余の、丘陵の地形を残した町は、広さもさることながら、とにかく坂ばかり。この日、万歩計は17,000歩を示し、翌日はさすがに足がこわばっていました。


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雑記帳2019-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-3-1
◆2月11日、MAT57回目のコンサートが開かれました。

MAT(ミュージック&アートin TAMA)は、戦前、アメリカから贈られ、立川の歴史を見守り続けた3本のプラタナスの木が都市開発のために切られようとしたとき、地元のアーテイストを中心に子供たちもいっしょになって守った話を受け継いでいこうと始まりました。今年で12年になります。
オーボエ、ファゴット、クラリネットのトリオダンシュによる木管楽器の三重奏にくわえて、2011年からは東日本大震災の記憶を伝える活動も仲間入りしました。
津波で泥をかぶった着物をリメイクした舞台衣装の端切れをつなぎあわせたパッチワークプロジェクトです。MATのプロデューサー、しおみえりこさんはよくよくつなぐことが好きなのです。
そして、MATの美術監督は銅板造形作家の赤川政由さんが務めています。

会場のスタジオLaLaLaは多摩モノレールの柴崎体育館駅の近くにありました。
30人もはいればいっぱいになるスタジオは、津波で被災した楽器のオブジェや泥だらけだった着物のリメイク衣装、記憶の断片の布たちのパッチワーク作品を収納するためにオープンしたのだそうです。全国、全世界から寄せられた50cmの布をつなぎ合わせたパッチワークは震災の記憶を伝えながら現在2600枚になるそうです。

この日のメニューは、オープニングにママ友のピアノデュオ、TAMAMA DUOの演奏に、トリオダンシュの三重奏、おまけに赤川さんのライブイベントまである、よくばった企画でした。

木管楽器はそれだけでも優しい音ですが、この日は、さらに音域の低いバスオーボエやコントラファゴット、バスクラリネットも紹介されました。いずれも日本では極めて珍しい楽器です。客は日本初の低音の三重奏を楽しむという贅沢な時間を過ごしたのです。
この日の圧巻はモーツアルトのオペラからの6曲のアリアでした。

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TAMAMA DUOのお二人
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日本では珍しいコントラファゴット
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演奏するトリオダンシュ

会場には、赤川さんの39体の「行田の童」の原画を展示するコーナーもありました。
そして、被災した絹布に描く赤川さんのライブは演奏の終了と同時に完成しました。
絹は絵の具がのりにくいんだとしきりにこぼしながらも、いつの間にか、布には演奏するトリオダンシュの3人が描かれていました。

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◆2月20日、コロンビア大使館にお邪魔しました。

近頃、旅行会社は、ありきたりの海外旅行に飽きた客用に、新しいテーマをさがしている様子です。まだ旅行先としてメジャーになっていない国を大使館と連携して紹介するのもその一つ、というわけで、旅行には行かずとも、未知の国を知る絶好の機会とばかり、コロンビア共和国駐日大使館セミナーに参加してみました。

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大使館の門には革命の指導者(解放者)シオン・ボリーバルの胸像

南米大陸の北端に位置するコロンビアは、ブラジルとは背中合わせです。
19世紀はじめにスペインから独立し、長い内戦を経て、現在のコロンビア共和国が成立しましたが、その後も武装勢力のゲリラ活動があとをたたず、21世紀に入ってようやく治安が安定、旅行者を呼べるようになったのです。

職員のお出迎えを受けて入館、この日は大使は不在で、大使代理からコロンビアの概要を聞きました。

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コロンビアの国旗(黄色は豊かな鉱物資源、青は太平洋とカリブ海、赤は革命で流された血を表す)

コロンビアは花の国。蘭の種類は4000以上、胡蝶蘭は国花です。また、母の日に送るカーネーションの7割はコロンビア産と言われます。
生物をはじめ、人種、文化など、様々な分野の多様性はおそらく世界一。
たとえば、鳥の種類は1921、コロンビアはバードウオッチングの聖地です。蝶は3274種もあります。
生花だけでなく、プリザーブドフラワーの品質の高さも指折りです。

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本物と見まがうプリザーブドフラワーのバラ
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こちらのユリは生花です

スペインの植民地だったことから生まれた、西洋とアフリカ、先住民の融合は文化の多様性を生み、コロンビアの祭りや踊り、多彩な文化をすべて体験するには10年以上かかるといわれるほどです。
日本との修好は120年におよび、バラとカーネーションの輸入は世界でもトップ、もっとも大きな投資国は日本だということです。
2018年のFIFAワールドカップの日本との対戦はまだ記憶に新しく、今年3月の横浜での試合が期待されています。
スポーツはサッカーだけでなく、自転車競技も有名です。陸上では世界チャンピオンを輩出しています。

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室内には黄金博物館の多数の黄金のレプリカが置かれている。
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「モラ」と呼ばれる先住民のデザインの刺繡

大使館の通商部に勤める玉城さんは沖縄出身です。
彼女からは、標高2600メートルの首都ボゴタ、城壁の町カルタヘナ、シュラネバダ山麓の、マチュピチュより600年も古いロストシティなど、コロンビアの観光地が紹介されました。「直行便はないがアメリカかメキシコで乗り継いで、日本から約20時間。行けば満足度は高いですよ。」とおすすめです。
バナナは有機、ドラゴンフルーツをはじめトロピカルフルーツの種類は多く、食事に出されるジュースはお茶代わりなのだとか。手摘みのコーヒー豆は世界で一番マイルドだといわれています。

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午餐会では、大使公邸のシェフのつくったコロンビア料理をいただきました。
ポテトのクリーム焼きやクレオール風チキン、白身魚のココナッツソース和えなど、誰の口にもなじみやすい味でした。
東京ではコロンビアコーヒーを出す店は少ないということですが、マイルドな味は何杯もお替りして飽きませんでした。
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白身魚ノクリームソース和え
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公使館シェフもフレンドリー

◆3月3日のひな祭りを前に、昭和記念公園の木漏れ日の里にもお雛様が飾られました。

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雑記帳2019-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-2-15
◆鎌倉街道は地方と鎌倉を結んだ中世の主要道路、その上道(かみつみち)を歩きました。

私の住んでいる多摩地域では主な幹線道路はみな東西に延びているため、それが多摩の特性をつくっているといわれています。その中で、鎌倉街道だけは南北の道路です。
気を付けてみると、鎌倉街道と名のついた道路はあちこちにある。それもそのはず、中世の鎌倉街道は、道路を政治的に管理した江戸時代以前の、自然発生的な道路だったのです。人が歩けば道になる、こうして鎌倉へ通じる道はすべて鎌倉街道となり、都内だけで30本もあるのだそうです。

その、都内の鎌倉街道には西から、上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)の3つのルートがあり、多摩地域の街道は上道にあたります。その一部を歩いてみました。

JR武蔵野線北府中駅を降りればそこはすぐ鎌倉街道。武蔵野線は街道に沿うようにつくられています。
鎌倉街道をちょっと東にそれて国分寺街道を行くと、「馬場大門のケヤキ並木」にぶつかります。これはそのまま大國魂神社の参道になっていて、日本で唯一国指定の天然記念物です。「馬場」は武蔵国が古来良質な馬の産地で、家康が大坂攻めの際ここで馬を調達したことに由来します。府中では幕末まで馬市も開かれていました。(そういえば、東京にも馬込、駒込、練馬など馬にちなんだ地名が多いですね。)

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天然記念物のケヤキ並木

伝承によると、源義家が前九年の役(1590年)に大國魂神社に戦勝祈願し、凱旋時に1000本のケヤキを奉樹したのがはじまりとか、文献では徳川家康が義家の例に倣って慶長年間に植樹したことが伝わっています。1000年を超えるようなケヤキはさすがに残っていませんが、最も古いものでは樹齢600年を数えるそうです。
ケヤキは育ちが早く、硬いので、家具や健材に適しています。寺社の再建に自前で用意できるような配慮もあったのでしょう。
鳥居の前には御神木のケヤキがましましています。

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御神木と大鳥居

大國魂神社は武蔵国にあるすべての神社の総社です。
総社になったのは大化の改新(645年)後のことですが、創建は古く、2世紀ごろ。祭神の大國魂大神は出雲の大国主神と同根の神で、武蔵国を開き、人々に衣食住の道を教え、医療やまじないの術も授けた、武蔵国魂の神とされています。

総社なので、いろんな神様がいます。
面白いのは、鳥居をくぐってすぐ目につく宮之咩神社。天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀っています。 天岩戸に隠れた天照大神を踊りで誘い出した女神は芸能や安産の神様です。お産の時赤ちゃんが産道につかえずにするりと生まれるようにと、安産祈願に奉納するのは穴のあいた柄杓です。

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宮之咩神社

松尾社に奉られているの大山昨命はは醸造の神様です。
この神様は出雲族の出身だといわれています。
4世紀、天照族との闘いにやぶれて国を差し出した出雲族は、陸路で諏訪から武蔵国にはいったと考えられます。大国主命は人質として出雲に残りました。一方、天照族も東をめざし、こちらは水路で房総半島に上陸、利根川と荒川の2本の川に阻まれて(当時の利根川は現在の綾瀬川とほぼおなじところを流れていました)西進できず、悔し紛れに、川の向こうはコメも育たぬむさくるしい地だと言ったことから、「武蔵」の地名が生まれたのだとか。

御神木はケヤキのほかにもあり、直径5メートルの大イチョウは、樹齢800年を超えるといわれます。一説には妻政子の安産祈願に訪れた頼朝が植えたとも伝えられ、鎌倉の鶴岡八幡宮のイチョウと同い年?
ちなみに、イチョウは平安時代には日本にまだ根付いておらず、唐へ渡った僧たちが薬用に持ち帰った銀杏が芽を吹き、鎌倉時代になって広まったということです。

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御神木の大銀杏

境内の宝物殿の扉をあければ、米俵にまたがる大国主命がお出迎えです。
内には有名な「くらやみ祭り」で奉納される神輿や直径2.5メートルの巨大な大太鼓が鎮座しています。総社である大國魂神社の神輿を中心に、一宮から六宮までそろった華麗な神輿は見ごたえ十分です。祭りに太鼓と山車、神輿がそろうのは全国でもここだけということです。(残念ながら写真撮影はできませんでした)

2階には運慶作と伝えられる、国指定の重要文化財、木造の狛犬や、平安時代の木彫の仏像5体、また、江戸時代初期に東インド会社より日本にもたらされた、世界で3個しかないというビードロ鏡などが展示されています。

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上から宝物殿、拝殿、本殿の狛犬(柵誤しにしか見られない)

武蔵国は現在の東京都と埼玉県のほぼ全域と、神奈川県の川崎、横浜市を含む広大な国でした。奈良時代、全国60箇所の国府のうち、武蔵国には大國魂神社境内を含むエリアに国府が置かれました。
甲州街道をはさんだ神社の北側に、近年発掘された国衙(こくが)跡を見ることができます。国衙とは役所の行政事務を司る建物群のことです。
国衙を中心に東西2,4キロ、南北1,2キロの範囲には4000軒もの住居跡が確認されました。 発掘後埋め戻した建物の柱跡に再現した丹塗りの柱を立て、展示館では柱の設置方法が解説してありました。

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国府跡の展示室

神社に隣接するふるさと府中歴史館では、武蔵国府に関する資料や出土品などのほか、府中の歴史に関する資料が展示されています。
江戸時代に甲州街道の宿場として栄えた宿場の面影を残す展示もあります。
中でも目をひいたのは、常滑焼の大甕にいれられた大量の出土銭でした。多くは永楽銭で、貨幣経済が発展した鎌倉、室町時代にうめられたものです。

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ふるさと歴史館の展示の一部(上が大甕の永楽銭)

歴史館を後にすれば甲州街道と川越街道の交差する地点に高札場があります。ここは府中宿の中心地でした。高札場を囲む朱塗りの柵裏は大國魂神社の御旅所です。

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高札場

天慶の乱(940年)で平将門を討って武蔵守となった藤原秀郷の居館跡には見性寺が建てられました。鎌倉幕府滅亡の直前に新田義貞が本陣を構えたことから、この戦乱によって寺は炎上、その跡が曹洞宗高安寺になりました。足利尊氏が開基となって、全国66箇所に建てた安国寺のひとつです。尊氏は聖武天皇の国分寺創設にならったといいます。

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高安寺
鎌倉街道沿いで武蔵国府の近くにあったことから、寺は重要拠点と見なされ、室町時代、2代から5代に渡る鎌倉公方足利氏が戦のためにここに陣を構えました。墓地のすぐ裏が崖となって落ち込んでいる地形も戦好みか、戦国時代には小田原北条氏の軍事拠点となるなど、数々の戦乱をくぐりました。
明治5年再建の山門は禅宗の寺には珍しい二重屋根で、安政3年再建のの鐘楼とともに東京都の歴史的建造物となっています。
見性寺の時代に、平家滅亡後鎌倉入りを許されなかった源義経が寺にたちよったといい、弁慶が大般若経を書写した伝承を伝える「弁慶硯の井戸」があります。

高安寺を出て西に進み、JR南武線分倍河原駅前の新田義貞像を横目にして、義貞軍が駆け抜けた街道を歩いて、分倍河原古戦場を目指します。

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分倍河原駅前の新田義貞の像

上野国生品神社で挙兵したわずか150騎の義貞軍が鎌倉幕府に不満を持つ関東各地の武士団と次々に合流しながら、最終的には2万騎にふくれあがったといいます。
小手指原や久米川の戦いを制し、破竹の勢いで鎌倉街道を南下する新田軍を、武蔵国最後の要害である多摩川で食い止めるべく、幕府軍は分倍河原に陣をしきました。                          元弘3年(1333)5月15日、この合戦に幕府軍は善戦、新田軍は狭山に敗走します。勝った幕府軍はそれ以上の追撃をしなかったため、体勢を立て直した新田軍は翌日奇襲をしかけて大勝、鎌倉幕府が崩壊したのは、幕府軍が勝利した分倍河原の合戦からわずか1週間後のことでした。
多摩川に注ぐ小さな新田川のそばの緑道には分倍河原古戦場の碑があり、文言は義貞から数えて18代目になる新田義美氏の手になります。

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古戦場あとの碑

大國魂神社から古戦場へ、昼食をはさんでこの日歩いた距離は6.5キロでした。
お昼は美登利寿司でちらし寿司をいただきました。
緑寿司はネタが大きいので都内では昼時には行列ができるという評判の店、その支店の一つです。

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雑記帳2019-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-2-1
◆上野のお山は元は全体が寛永寺でした。。

上野の地名は江戸時代初期に、伊賀上野の大名、藤堂高虎の屋敷があったことに由来します。1624年(寛永元年)、天台宗天海僧正の進言で、江戸城鬼門守護の寛永寺が徳川家菩提寺として建立され、門前町として栄えました。(この人はまさに怪僧で、徳川家3代にわたって巨大な寺院の創建にかかわり、あの時代に108歳までいきたというから驚きです。)
1868年(慶応4年)、寛永寺は彰義隊の拠点となり、5月15日、新政府軍の総攻撃を受けて、集まった隊士4,000人のうち3,000人以上が戦死したといわれます。
荒廃した上野の自然が失われていくのを憂えたボードワン博士により、明治6年、上野は日本初の公園に指定され、今日にいたっています。
多くの博物館や美術館、動物園もある上野の森は、いまや都内きっての観光地、1年中、国内外からの環境客でごったがえすようになりました。

集合場所は西郷隆盛の像の前でした。
愛犬ツンをつれたおなじみの西郷ざんの像は、皇室からの500万円の下賜金のほか、2万5千人余の寄付で建てられたそうです。当時も西郷さんは人気があったのですね。
でも、写真嫌いの西郷さんには写真が残っていなかったため、高村光雲がモデルにしたのは軍服を着た西郷さんの肖像画でした。見ると、なかなかの偉丈夫ですが、西南戦争から21年後のこととて、まだ軍服がはばかられて、あのラフな恰好になったということです。
ちなみに、ツンは後藤貞行の作。皇居外苑の楠木正成の像も2人の共作で、後藤は馬を作っています。

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先の、戦死した彰義隊士の墓は明治14年に建立されましたが、墓石には新政府にとって賊軍になる「彰義隊」の名前はありません。「戦士の墓」を刻んだ文字は山岡鉄舟の筆になるもので、この人の字は銀座木村屋の看板にも見られます。

清水観音堂は京都東山の清水寺を模した、舞台造りのお堂です。天海僧正により建立されました。
舞台から見下ろす不忍の池は琵琶湖、弁天堂は竹生島を模しています。
月の松から不忍池を臨む舞台づくりは、江戸時代、浮世絵にも描かれた景観です。

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中央の丸い月の松の中にのぞく青い屋根は弁天堂

進めば正岡子規記念野球場。知の木々舎に連載中の「子規と漱石」にそのうち出てくるかもしれませんが、子規は野球が大好きでした。ベースボールを野球とよぶなど、野球の英語を一つ一つ日本語にかえています。自分の「のぼる」という名前も「ノ(野)ボール(球)」と呼ばせたほどです。そういえば、子規は昨年、野球殿堂入りしました。

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東京文化会館と道路をはさんで、昨年、コルビジェの設計で話題になった国立西洋美術館は、前庭だけで美術散歩ができます。
ロダンの「考える人」や「カレーの市民」、「地獄の門」、ブールデルの「弓をひくヘラクレス」…
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カレーの市民
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弓を引くヘラクレス
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国立科学博物館の横には巨大なシロナガスクジラ。

僧籍にあって大師は特別な存在です。みずからを慈眼大師と呼び、辣腕を振るった天海も、1643年に亡くなり、大師を祀るために、翌年、法輪寺大師堂が創建されました。
のちに寛永寺本坊内にあった慈恵大師の像を移して、2人の大師を祀ったことから、両大師堂と呼ばれ、庶民の信仰を集めるようになりました。本坊は寺の住職の住まいです。

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法輪寺両大師堂

その本坊に住む代々の貫主は京都、天皇につつらなる家系より迎えられました。寛永寺の最後の貫主、公現入道親王は、上野戦争で彰義隊の大将に奉られて、戦後、会津に逃れ、気の毒な生涯をおくりました。皮肉なことに、その時、総督として官軍を指揮したのは兄の小松宮影仁親王だったのです。(こちらは官軍ですから、馬に乗る立派な銅像が公園内にたてられています。)
大師堂の隣にある輪王殿の正門はかっての本坊の表門を移築したもので、あの総攻撃で飛び交った砲弾の痕も残っています。

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法輪殿
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砲弾の痕も生々しい門扉

輪王寺の周辺には今でも多くの私院が立ち並んでいます。
その寺々を横目に国立博物館の裏を巡って行くと、鶯谷を眺める場所に寛永寺の墓地があります。一般墓所とならんで徳川家の霊廟があり、維新の動乱や戦災やを免れた四代、五代の将軍勅額門が残っていて、重要文化財になっています。勅額門とは、天皇直筆の額を賜った門の意味です。

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第五代将軍勅学門

1698年(元禄11年)建立の寛永寺根本中堂は上野戦争で消失しました。
上野中学校に隣接する現在の根本中堂は、川越・喜多院の本地院を移築したもの、扁額に「瑠璃殿」の字が見えます。本尊は薬師如来。撮影はできませんでした。
境内にある、大阪から逃げ帰った慶喜が一時蟄居したという葵の間を、塀の隙間から覗き見ることができます。

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寛永寺根本中道

国際こども図書館や、黒田記念館を横に見ながら再び上野公園に戻ります。
旧東京音楽学校の奏楽堂は、滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕作が曲を作ったところです。上野公園の生みの親、ボードワン博士の胸像はちょうど公園の中央あたりにあります。

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奏楽堂
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徳川家康を祀る東照宮は全国に数多くありますが、ここ、上野の東照宮は日光東照宮の10-年後に藤堂高虎によって創建され、三代家光が改修しました。
規模は小さいながら、金ぴかの社殿は徳川の威光をみせつけるもので、改修に際して全国の大名から寄進された石灯篭は200基を超え、銅灯篭も50余、中には6メートルを超えるお化け灯篭もありました。

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上野東照宮
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東照宮に隣接する旧寛永寺五重塔

上野公園の中でも一番高い丘にあるパゴダのそばに、上野大仏の顔のレリーフが安置されています。地震や火事でなんども首がおちては再建されたあと、関東大震災で崩壊した胴体は第二次大戦で金属供出の憂き目にあって、ついに顔だけになってしまったということです。これ以上落ちることはないと、受験生には「合格大仏」として人気とか。

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お昼は花園神社のそばの韻松亭でいただきました。明治の文豪、森鴎外らも訪れたという老舗でした。

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ちなみに上野駅は明治6年の開業。明治24年には青森まで開通しました。当時は26時間かかったそうです。昭和39年に大流行した井沢八郎の歌う「ああ 上野駅」のレリーフは、集団就職の時代を語り継ぎ、今も北の国からの東京の玄関口です。

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雑記帳2019-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-1-15

◆都市農業をめぐる環境が、いま、次ぎ次ぎにかわろうとしています。

その中のひとつが農地の流動化です。
都市農地貸借円滑化法により、農地の貸し借りがしやすくなって、新規参入を促しているのです。
あきる野市の取り組みをまなびました。

多摩の西部にあるあきる野市は、都心から40~50km圏に位置しています。
秋川と平井川の二つの川を軸として、秋川丘陵、草花丘陵に囲まれる平たん部と、奥多摩の山々に連なる山間部から形成されています。
八王子、町田、青梅に隣接し、面積は73.47平方キロ、人口80,000人、農地の面積はおよそ7%です。
特産はトウモロコシやノラボウ菜。ノラボウ菜は江戸時代から多摩全域で栽培されるようになりましたが、特にこの地の土地に合っているようで味もいいと評判です。

市では今、新規就農者を3名うけいれています。
市内農家で2年以上の研修などハードルはたかいが、入口を大きくして支援をへらすか、
入口を狭くして支援をてあつくするか、模索はつづいています。
参入は個人だけではなく、法人の参入もあり、現在3法人が就農しています。
また、定年して就農を希望する相談も増えており、新規就農者とは別枠で対応しているということです。

新規参入者2人と法人の生活クラブ生協東京の農地を見学しました。
長屋さんは就農3年目の30代の若い経営者です。
お嫁さんの実家があきる野市にあった縁で当地で就農しました。
就農時の農機具購入は市の補助があり、ネギ、ホウレンソウ、ブロッコリーを栽培しています。
葱は太さと長さがでるように土を上げるなどの工夫をしています。

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長尾さんの畑

工藤さんは就農4年目です。
トウモロコシ、葱を中心にアブラ菜など30品目を栽培していましたが、今は品目をしぼることを検討しているということです。
点在する9反の農地は市内の9軒の農家から借りています。
目指すは反収100万円。反収100万円は農家が農業だけで自立できる数字なのです。

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工藤さんのネギ畑

2軒とも近くの秋川ファーマーズセンターへ納入しています。
秋川ファーマーズセンターは平成5年、多摩で一番早くできた直売所です。当時、多摩が神奈川県から東京都に移管されて100年を記念する様々なイベントがおこなわれていましたが、都下にはまだなかった野菜の直売所は大変な評判になりました。
いまでもトウモロコシの季節には、都内各地からくる車の行列ができます。

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秋川ファーマーズセンター

生活クラブの農地は耕作放棄されていた栗畑の栗の木を伐採、伐根することから始まりました。農家出身ではない小澤農場長の案内で農場を見学しました。
作物の7~8割は固定種だということで、何故手間のかかる固定種を?という質問に、種がとれるから、味に個性があるからという答がかえってきました。
12月の食能セミナーで聞いた「F1は植物的には弱い。だから農薬の力を借りて助けてやることも必要なんだ」という話が思い出されました。すべからく純粋培養されたF1は生命力が弱いということでしょうか。

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長崎生まれの黒田五寸人参は香りが高いのが特徴
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練馬大根の地を引く大倉大根はどこを切っても同じ太さで使いやすい。おでんや煮物に。
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金町こかぶ。そのほか亀戸大根、赤玉器玉(たまねぎ)なども。

◆おせちに飽きたらこれ! 年末の講座用に作ったレシピを紹介します。

中華おこわ2.jpg※中華おこわ
◇材料(4人分)
もち米2合、水(煮汁+戻し汁+水)290cc~300cc(容量の8割)、豚肉100g(醤油大さじ1  酒大さじ1で下味をつける)、干し椎茸2枚、にんじん35g、竹の子30g、干しエビ10g(Ⅿサイズで大さじ1)、ごぼう25g 

煮汁…… 醬油 大さじ1.5  酒 大さじ2  みりん 大さじ1  砂糖 大さじ1  中華顆粒 小さじ1  八角 1 個  ごま油 小さじ1.5

◇下準備 ① もち米は洗ってザルにあげ、水切りしておく。 ② 豚肉は8mmのさいの目に切り、下味をつけておく。 ③ 干し椎茸、エビは水に戻しておく。戻し汁は使うので捨てない。 ④ にんじん、椎茸、ごぼう、竹の子は8mmのさいの目切り、 エビは大きさによって分割する (Ⅿサイズはそのまま)。 ⑤ 煮汁を合せておく。

◇作り方 ① フライパンにごま油をひき、中火で豚肉を炒め、 次に野菜、干しエビを炒め、煮汁を入れて5分ほ ど中火で炒め煮する(この時、鍋の大きさ、火加 減によって煮汁量が変化するので注意!)。 ② 炊飯器にもち米、水と戻し汁、煮汁で290cc の水分量になるように入れ、さっとかき混ぜて から、具材を広げて入れ、普通に炊く。 ③ スイッチが切れたら具材とご飯をまぜて出来上 がり。盛り付けの際に八角を取り出す。

柚子胡椒和え2.jpg※鶏むね肉と野菜の柚子胡椒和え
◇材料(4人分)
鶏むね肉 1枚(250g前後) 
下味……酒 大さじ1 塩 小さじ1/2 こしょう少々 片栗粉大さじ1 和風顆粒だし 小さじ2 柚子胡椒 小さじ1  酒 大さじ1 茹で汁又は水大さじ2
野菜は大根・人参・ねぎ・水菜・白菜など何でも             

◇作り方 ① 鶏むね肉に片栗粉をまぶし、熱湯 の中で少量ずつ茹でる。色が白く 変わって浮き上がってきたら火が 通っているので取り出す。 ② 熱いうちにタレに漬けこむ。 ③ お皿に野菜を添え、鶏むね肉を盛 りつける。残ったタレを野菜にか け、絡めていただく。

さわ煮椀2.jpg※さわ煮椀
◇材料(4人分)
豚肉50g、 大根150g、  人参100g、 生椎茸2枚、 ねぎ1/2本、  油揚げ1/2枚、塩小さじ1、醤油大さじ1、酒大さじ1、水カップ4 

◇下準備 ① 豚肉は5mm~6mm幅で細切り。 ② 大根、にんじん、しいたけは5mm~6mm幅の短冊切り、ネギは繊維に沿って細切り。 ③ 油揚げは2つに切ってから細切り。

◇作り方 ① 鍋に水カップ4・大根・人参を入れ、煮 立ったら椎茸を入れる。 ② 豚肉を入れ色が変わったら油揚げを入 れる。 ③ 調味料を入れて味見して、塩加減を調整 する。良ければねぎを加え、煮立ったら 出来上がり。


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雑記帳2019-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2019-1-1
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◆今年、『知の木々者』は10周年です!!

2009年4月に創刊、以来、月2回の更新をかさねて、1月上号は233号になりました。
暮にサンパウロの李渭賢さんからメールでクリスマスカードが届きました。

「今年一年も知の木木舎のNet Magazine を楽しく読ませて頂きました。感謝申し上げます。あなた様の「雑記帳」は益々多彩、地方の歴史を発掘(?)、深く教えられます。ここブラジルの地方、奥地にはいろいろな歴史的な文化遺跡がありますが、それはポルトガル、スペイン植民地時代のもので、奴隷として連れられてきたアフリカの原始文化、カトリック宣教の遺跡が主で、年代としても400年ものしかありません。日本文化の優雅さがない。「ロシア~アネクドートで笑う歴史」「子規ー漱石」「内村鑑三の余は如何にして基督信徒なりし乎」を読んで後「川柳」でリラックス。このNet Magazineを読んでいる限り長生きは必定。本当にご苦労様でしたと感謝いたしております。
心に残る一つの詩をプレゼント。

   FOOTPRINTS
 One night a man had a dream.
 He dreamed he was walking
 along the beach with the Lord.
 Across the sky flashed scenes
 from his life.
 For each scene, he noticed
 two sets of footprints in the sand;
 one belonging to him,
 and other to the Lord.
 When the last scene of his life
 flashed before him, he looked back
 at the footprints in the sand.
 He noticed that many times along
 the path of his life there was only
 one set of footprints.
 He also noticed that it happened
 at the very lowest and saddest
 times in his life.
 This really bothered him
 and he questioned the Lord about it.
 "Lord, you said that once I decided
 to follow you,
 you'd walk with me all the way.
 But I have noticed that
 during the most troublesome
 times in my life
 there is only one set of footprints.
 I don't understand why
 when I need you most
 you would leave me."
 The Lord replied,
 "My precious, precious child,
 I love you
 and I would never leave you.
 During your times of trial
 and suffering,
 when you see only one
 set of footprints in the sand
 it was then that I carried you."

長い詩ですが、敢えて写しました。あなた様にはご存知の詩でしょうが、人生の終わりにいたって、暫く立ち止まって歩んで来た人生を振り返って見ることができる人は幸いであることをお伝えしたかったのです。振れ合いと言う言葉があります。袖振れ合うも縁と言う諺が日本にありますよね。そのように孤独の人生は存在しない。それは偏屈な哲学者の言い分か・・・
新しい年もまたよき年でありますように祈り申し上げます 」

李渭賢さんは、知の木々舎創刊当時の執筆者のおひとりでした。戦前の台湾で日本語で教育を受けて、美しい日本語を話されます。「サンパウロの街角」からのタイトルで、地球の裏側から原稿を送っていただきました。ペンネームのケネス・リーで検索すると、今でもすぐご覧になれますが、シリーズは20回ほど続きました。
今は寄稿こそないものの、熱心な読者として、『知の木々舎』を支えて下さっているのを実感するメールでした。

◆今年5月で10周年を迎えるのを期に、整理しているた書類の中から、PHP研究所の『ほんとうの時代』を見つけました。亡くなったフリージャーナリストの加藤仁さんが、創刊間もない『知の木々舎 』を取材、4ページに渡って紹介して下さった記事が載っています。

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「ほんとうの時代」の表紙と目次(目次の中にマイネクストステージの字が見える。

「マイネクストステージ」というタイトルはまさに、『ほんとうの時代』のテーマである、50代からの新しい生き方を提案する場にふさわしいものでした。
大人が知的に学び、遊べる場として紹介された記事を、当時の執筆者の皆様にはコピーをお送りしてお知らせしたのをおもいだします。
無名の『知の木々舎』を取り上げてくれた最初のメディアでした。

武蔵野の地、立川で旗揚げしたことから、武蔵野の雑木林に様々な木が生い茂るように、多様な知を提供したいとの思いを込めて名づけた『知の木々舎 』は、「くらしの中へ句読点」をキャッチコピーにしました。このコピーは『知の木々舎』をひらいたときに最初に目に入るテンプレートにはめこまれています。

昨年、これも創刊時にご縁のあった竹山昭子さんから頂いたメッセージには「世に数多ある出版物の寿命は短くて3か月、一般的には3年」とありました。
こうした言葉をかみしめながら10周年を迎えられることに深い感慨を覚えます。

長い間には記事の入れ替えはつきものです。終了の寂しさはおおうことはできませんが、不思議に、入れ替わるように新しい記事が誕生しました。
ご縁をいただいた100人を越える執筆者の皆様とともに、或いは読者とともに、いっしょにつくってきたのだという思いを強くしています。

今年も雑記帳は町歩きを中心に、見過ごしていた小さな事ごとに目をこらして紹介していこうと、思っています。

◆国営昭和記念公園の古民家の倉では、武蔵野の農家に伝わる様々な正月飾りが展示されています。

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◆新年の新たな記事は『西洋美術研究者が語る日本美術は面白い』です。100回に渡って西洋美術を紹介してくださった斎藤陽一さんが、日本美術に挑戦します。
第1回目のシリーズは「琳派の魅力」。「琳派とは何か」を皮切りに、先々のシリーズも見据えた、日本美術再発見の始まりです。ご期待ください。

◆横山貞利さんの『徒然なるままに』が12月をもって終了しました。美しい日本の風景や詞の世界は郷愁にあふれ、わたしたちの琴線にふれるものでした。横山さんとは、『浦安の風』で辛口の世評を展開して、創刊以来のご縁でした。長い間、ありがとうございました。

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雑記帳2018-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-12-15
◆久々のお江戸まち歩きは「神楽坂Ⅱ」です。

前回歩いたjR飯田橋駅から江戸城外堀を渡って坂道を上るコースは極めてポピュラー、誰もが知る神楽坂でしたが、今回はちょっとマイナー。学生時代を早稲田で過ごし、神楽坂は毎日の通学路だったという人さえも知らなかった江戸を巡りました。

集合場所の東西線神楽坂駅の出口にある矢来町は、家光、家綱、綱吉時代に大老を務めた酒井家の江戸屋敷があったところです。小堀遠州の手がけた庭は家光好みとされ、家光はこの屋敷を141回(!)も訪れています。江戸城の大火の折には70日もの長逗留、警護のために周囲を竹やりで囲ったのが矢来町の名の由来とされています。塀にしなかったのは、外を通る人にも庭が見えるようにという粋な計らいだったとも言われています。
  
歩き始めて最初に目についたのが「生田春月旧居跡」。大正から昭和にかけて活躍した詩人は、ハイネの全詩を翻訳しました。ハイネの詩は昭和期の多くの学生に愛されて、春月の名は知らずとも、今、彼の訳したハイネを懐かしむシニアは多いかもしれません。
プレートで分かるようにこの辺りは天神町。矢来町もしかり、町を歩けば牛込、弁天、榎町など、随所に古い町名が残っているのに気付きます。新宿区のプライドが覗くようです。

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大通りから少しはいった通りには製本、印刷の小さな会社がたちならんでいました。かっては賑やかだった業界も今では斜陽産業、人通りもなく、めだつのは大日本印刷の大きなビルだけです。ここは慶安事件で知られる由井正雪の学塾があった場所で、一時は3000人の門弟がいたといわれています。
当時、江戸中にあふれていた浪人たちの不満を幕府に向けた正雪の乱は内通により失敗におわりましたが、徳川家3代続いた武断政治から文治政治へ舵を切る転換点になりました。成功はしなかったものの政治を動かしたという点では、或る意味、本望だったのかもしれません。

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臨済宗の済松寺は京都妙心寺派の寺です。
叔母の春日の局の招きで大奥に上り、大奥の女性たちに禅の教えを説いた祖心尼(俗名おなあ)のために、家光は、350石、1万2千坪の広大な寺院を建てました。芝にある、かの増上寺が500石、2万坪と聞けば、済松寺の格の高さ、大きさは想像がつくというものです。(寺の石高はおよそ大名領地の2000倍に相当するそうです)
敷地を外堀通りで分断され、大半は駐車場になっているため、当時の面影を外から見ることはできませんが、中に入れば庭はまるで深山幽谷のよう、墓地には名のある大奥の女性達の墓が並んでいました。見せてもらった庭は、普段は公開されていないということです。

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済松寺本殿
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谷底に池もある、深山幽谷の気配のある庭 
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祖心尼の墓

その外堀東通りを早大通りを過ぎて北に進めば、元赤城神社跡に小さな田島森神社があります。ここは群馬県大胡から牛込に移住してきた大胡氏が、最初に故郷赤城山麓の赤城神社を勘請した所です。一帯には律令の昔から牛を放牧した官制の牧場がありました。

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田島森神社

仕えた主君は上杉、北条、豊臣、徳川と、変わり身の早かった大胡氏については前回の「神楽坂まち歩き」で述べたとおりです。
現在の赤城神社は神楽坂通りの今も人気のスポットにありますが、建物は建築家・隈研吾氏のデザインで今風に生まれ変わっています。

大胡氏が牛込氏と名を変えて城主になったあと建てた曹洞宗・宋参寺は弁天町にあり、墓地は、歴代の牛込氏の墓と同時に、山賀素行の墓があることで知られています。牛込氏の墓は都指定、山賀素行の墓は国指定の史跡になっています。

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宋参寺の山賀素行の墓

江戸時代前期に兵学を指導した山賀素行は一時期、播州赤穂にも出向いたことがあって、教えを受けた中にのちの大石蔵之助がいたことから、山賀流の陣太鼓は『忠臣蔵』では赤穂浪士の吉良邸討ち入りに欠かせない小道具になりました。実際に打ち鳴らされたことはありませんでしたが、降り積もる雪とともに、舞台効果は抜群でした。雪も創作、この夜は晴天だったということです。

牛込は明治の文豪、夏目漱石のゆかりの地です。その誕生は『知の木々舎』に連載中の『正岡常規と夏目金之助』に、喜久井町の夏目坂とともに詳しく紹介されています。ロンドン留学から帰って来た漱石が一時身を寄せた矢来町の旧新潮社の建物は神楽坂の駅出口の目の前であり、妻鏡子さんの実家のすぐ近くでした。
その漱石が晩年を過ごした早稲田南町の旧居は「漱石山房」と呼ばれ、多くの門人が集いました。亡くなった時は僅か49歳でした。
新宿区では300坪ほどのその地の一部を公園として整備し、漱石生誕150-年にあたる2017年に漱石山房記念館を建てました。 公園入り口には漱石の胸像、園内には猫塚があります。猫塚とはいうものの、「吾輩」の猫ではなく、漱石没後に家族が飼っていた犬や猫、小鳥たちの供養のために建てられたそうです。
「道草庵」では漱石や漱石山房に関する資料が展示されています。


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漱石山房

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道草庵

外堀通りにもどると、通りからちょっと入る形で、目立たないながら多くの寺院がならんでいます。
そのうちの一つ、多門院には松井須磨子の墓があることで知られています。
島村抱月とともに芸術座を組織、新劇女優として全国的に人気を博した松井須磨子でしたが、1918年のスペイン風邪で抱月が急死すると、ニヶ月後、劇場の敷地内で後を逢いました。ふたりの墓は並んで建てることはできませんでしたが、多門院には「芸術比翼塚」があります。
偶然、訪れた日(12月8日)は抱月・須磨子没後100年を記念して、寺では奉納イベントがおこなわれることになっていました。イベントで挨拶をする女優の栗原小巻さんを乗せたタクシーが、坂を登る私たちを追い抜いて行きました。

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多門院
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松井須磨子の墓

和算家の関孝和の墓は浄輪寺にあります。孝和は従来の算木を使う方法から未知数を文字であらわして筆算による代数の計算法を発明しました。その筆算を用いて円周率を小数第11位まで計算した天才です。墓は舟形をしていました。

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舟形をした関孝和の墓

ランチに立ち寄ったラビチュードはフランス家庭料理の店です。
たっぷりの前菜からはじまって、魚料理も肉料理も出る、ボリューム満点のお昼になりました。

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野菜たっぷりのメインディッシュ

ラビチュードの近くには林羅山一族の墓地、地下鉄牛込柳町へ出る途中には近藤勇の道場「試衛館」のあとなどを見ることができます。
林家の墓地は中へ入れず、試衛館跡はその標識がたつのみの、地味なスポットではありますが、江戸初期から幕末まで、流石は牛込・神楽坂、多くの人材や史跡を遺して、興味はつきない場所でした。

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雑記帳2018-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-12-1
◆“東京の頑張る農業応援バスツアー”、今年は小金井市でした。

東京都内で活動する消費者団体と東京都との協働事業である東京都消費者月間の一連の事業の中に、東京の農業を巡るバスツアーがあります。
「食と農」を考える契機として、また東京の農業を応援する活動の一つと位置づけられて、今年で11年目になります。
東京都内からの参加者70名で今年訪ねたのは小金井市の4軒の農家でした。

一番目のNさんは西洋野菜を育てる、若い生産者です。
住宅に囲まれた、さほど広くない畑(25アール)で、ビーツ、サボイキャベツ、カリフローレ、ケール等の西洋野菜の栽培に取り組んでいました。

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サラダ用ケール
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サボイキャベツ
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カリフローレ(生でも食べられる)

きっかけは、サラリーマンから転身して立川市の農家で研修した折に、ロメインレタスに出会ったことでした。まだ西洋野菜を栽培する農家は少なく、単価の高いのが魅力だったと言います。
例えばサボイキャベツなら、都内では1個800円もするそうです。
西洋野菜は使用できる農薬が限られているので、どうしても虫食いは出てきます。
そんな苦労もありますが、直売所やイトーヨーカドーの地場産コーナーで売るほか、レストランでの利用もふえてきたということです。

武蔵野の新田開発に大きな役割を果たした玉川上水は、五日市街道に沿うように流れています。350年前に開かれて以来、この玉川上水から引かれた分水路は武蔵野の農業を発展させました。小金井市には今でも開発時の区割りが残っているのを見ることが出来ます。
五日市街道と小金井公園の間に、「小金井江戸の農家みち」と呼ばれている小道があります。その、1,5キロの小道には11軒の直売所が並んでいて、読売新聞で取り上げられたことから有名になり、町おこしに一役かっています。

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農家みち

この日伺った4軒の農家のうち3軒は、この農家道沿いにありました。
2軒目のOさんの畑は小金井公園のそばにありす。
50アールの広い畑に、果樹から野菜まで多品種を栽培しています。
中でも自慢のルバーブはジャムに加工して人気です。

まだなじみの薄いルバーブはシベリア産。ヨーロッパではよく栽培されている、ふきに似た、たで科の野菜です。食物繊維、カリウム、カルシウムを多く含んでいて、注目の野菜だとか。5月に花が咲いて、収穫のピークは秋です。
葉や花は食べられませんが、茎は程良い酸味があり、ジャムに加工したり、コンポートにすればタルトやパイに使えます。茎の色が赤いほど奇麗なジャムになるのだそうです。
シベリア産だけあって暑さに弱く、今年は暑さが続いてうまく育たなかった、下手だと思わないでと、笑って案内してくれました。

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ルバーブ(茎の赤いのがいい)
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ルバーブのジャム

Oさんのもう一つの自慢は江戸東京野菜です。
畑には芯とり菜、大蔵大根、金町小カブ、亀戸大根などが作付けされていました。
こちらも、今年の夏の暑さや台風の強い風のために育たない野菜が多かったということでした。

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江戸東京野菜の畑 畑の向こうは小金井公園

江戸東京野菜は、江戸時代から昭和40年頃まで、東京都内の農地で栽培されていた固定種です。それぞれの野菜に歴史的な背景や物語があり、旬があります。
品種改良されて来た通常の野菜(F1種)と違って、代々受け継がれてきた江戸東京野菜は、同じように作っても形がそろわなかったり、収穫時期もまばらで量も少ないなど、手間がかかりますが、土地本来の気候風土や地域の特性を活かして育った野菜は個性豊かで味わい深いと、今、注目されているのです。
小金井市では、江戸から続く野菜をつないでいこうとの思いから、江戸東京野菜使用店を認定して普及に努めています。
店はカフェや割烹、お菓子やパン、フレンチレストランや居酒屋までおよんでいます。
いずれも、栽培が大変な中で長年繋いできた農家の思いを商品やメニューに活かそうと努力している様子です。

60アールのSさんの畑は、周囲を住宅に囲まれていました。
ここで、トマトやトウガラシ、ピーマン、玉ねぎ、レタス、枝豆、サツマイモなど、50品目以上の野菜を栽培しています。
中でもブロッコリー、大根、キャベツは小金井の土壌にむいているという話でした。
土づくりは有機肥料を使って安心安全を心がけ、さらには減農薬25%で東京都のエコファーマーの認定に挑戦したいと意欲的です。
回りを住宅にかこまれているため、騒音を避けて早朝のトラクターの耕作はやらない等、都市農業ならではの苦労があるようでした。
みかんの古木は30年になります。
温暖化の影響で、この辺でも美味しい蜜柑ができるようになったのを受けて、早生や極早生だけでなく、清見や晴香などの晩柑類にもトライしたいと語っていました。

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周囲どちらを見ても住宅に囲まれた畑
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直売所の中にも「小金井江戸の農家みち」

小金井にははけと呼ばれる、多摩川が作った崖線があります。
4軒の農家のうち3軒ははけの上、最後にたずねたKさんの畑ははけの下にありました。はけの上と下では気温も2、3度違います。
Kさんは鉢花や花壇苗を生産しています。
2棟のハウスでは今、クリスマス用の出荷を控えた5000鉢のポインセチアがならんでいました。

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出荷まじかのポインセチア

メキシコ原産のポインセチアは、ヨーロッパで品種改良されてきました。
12月に出荷するためには、7月に苗を鉢に入れます。
植物は性質をつかむのに時間がかかるので、50の手習いで始めてから15年になるが、まだまだ分からないところが多いと笑っておられました。
また、肥料の液肥は、購入時に苗とセットになってくるので、マニュアル通りに作ればそれなりに誰でも栽培はできる。そうはいっても、気象などの条件が変わるとマニュアル通りにいかないのが面白いのだそうです。

ポインセチアの赤い花のように見えるのはガクで、ガクの間に小さくついているのが花です。陽が当たりっぱなしではガクは赤くなりません。
家に持ち帰ったら、ガラス越しに陽のあたる窓際において、夜はカーテンを閉めるようにと教えてもらいました。

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昼食と交流は駅近くの前原集会場でおこなわれました。
江戸野菜をたっぷり使ったお弁当はカラフルで ボリューム満点。参加者は大満足でした。

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江戸野菜たっぷりのお弁当

グループに分かれた交流会の私のテーブルでは、農家のWさんの、定年後に就農して100種以上の野菜を作っている話、一年中何かしら作っているので休みはないが、農業は楽しくなければという話に、皆一様に感動した様子でした。特に都内からの参加者には多摩の農業にじかに触れる経験は心に残るもののようでした。

小金井市の女性農業委員の松嶋さんからは農家みちができた経緯をうかがうことができました。この道を再発見し、まちづくりにつなげたのは、町歩きをしていた若いお母さんたちでした。
身近にあるこれだけ豊かな東京の農業がこれからも続いていくことを望まない人はいないでしょう。 けれども相続の度に農地は分割され、切り売りされていきます。後継者がいないという問題を抱えている農家も少なくありません。都市の農地は資産ではなく、農業をするための道具だと考えるような国の施策が必要なのだと思えてなりません。

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小金井市の女性農業委員の松嶋さん


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雑記帳2018-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-11-15
◆再びの小金井公園、江戸東京たてもの園は雨の中…

一昨年の台湾の世界詩人会議に出席した仲間4人の同窓会は、この度はメンバーの志田さんの提案で、江戸東京たてもの園に決まりました。
この半年間、お父上の王育徳氏の記念館建設でいそがしく日本と台湾を行き来していた近藤明理さんがようやく一段落した様子をみてのお誘いでした。
これが思いがけない、明理さんへの贈り物になったのは当日になってわかったことでした。

志田さんも私も何度か訪れたことのある場所ですが、来る度に何かしら新しい発見があり、それも初めての人が一緒だと、また面白いものです。
今回はおもに東ゾーンを案内のボランティアさんと共に廻りました。

東ゾーンには大正から昭和に活躍(?)していた商家や銭湯、居酒屋などが並び、下町の風情を楽しめると人気です。
下町仲通りには伝統的な出桁(いげた)造の商家や、この時代を代表する看板建築の商店がならんでいます。
看板建築は、関東大震災後、鉄筋コンクリート造で建てるだけの資力がない、中小規模クラスの商店によって数多く建設されました。軒を張り出した伝統的な造りと違って、垂直に立つ壁面が特徴です。かつての伝統的な町屋に代わる洋風の外観を持った店舗併用の都市型住居でした。
第二次世界大戦後もバラックを経て、震災後とはデザインを変えた看板建築が数多く建てられましたが、建築基準法改正で建てられなくなったり、80年代のバブル期に取り壊されたりの経緯を経て、現存する建物は少なくなりました。そのいくつかが江戸東京たてもの園に引き取られたのです。

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看板建築の三省堂文具店と花市生花店(左は休憩所)

看板建築は内部も工夫が凝らされています。武居三省堂は明治初期に開店した文具店です。建物は震災後に建てられたもので、前面がタイル張り、内部は狭い空間をすきまなく利用して、信じられないくらいの収蔵量です。

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壁一面の小引き出し
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壁や天井までの空間を利用した棚

道路をはさんだ向かいに建つ大和屋本店は港区白金台に1928年(昭和3)に建てられた木造3階建の商店です。こちらは3階の軒下を出桁造りにするいっぽうで、間口に対して背が非情に高く、看板建築のようなプロポーションです。

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大和屋本店
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店内の昆布や煮干しはほんものそっくり

下町仲通りの付き当りにあるのは子宝湯です。
足立区にあった、東京の銭湯を代表する建物です。
宮崎駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」のモデルになりました。
ちなみに銭湯の経営は肉体的に厳しく、辛抱強い人でないと務まらないと、昔から東北出身者が多かったと聞きました。

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子宝湯
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男湯の脱衣場
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おなじみ、富士山の絵は男湯にだけ描かれた

万徳旅館は青梅市の青梅街道沿いにあった旅館。江戸末期に創建されて、富山の薬売りや江戸からやってくる御岳講の庶民の常宿になっていました。平成9年に移築されるまで現役でした。

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万徳旅館

東ゾーンのはずれに立つのは万世橋交番です。東京駅を建てた辰野金吾の設計によるもので、明治後期のものと言われます。
神田の万世橋からこのたてもの園に移されるとき、解体せずに、トレーラーでそっくり運ばれたそうです。

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万世橋交番

センターゾーンには明治から昭和の初めにかけて国政を担った高橋是清の住まいが展示されています。2・.26事件で命を落とした是清は戦争反対の立場で、軍事予算を削減、軍部に強く抵抗したため、ねらわれたのでした。建築当時のうねりのあるガラスは今では手に入るすべもなく、二階の廊下のひろいガラス窓からは、主も好んだという、建物と一緒に移された庭をみおろすことができます。

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高橋是清邸
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二階の廊下から庭を見下ろす

江戸東京たてもの園を訪れる人の一押しはなんといっても西ゾーンの前川國男邸です。
コルビジェの弟子だった前川が品川・大崎に建てた家はあくまでシンプル。モダンなトイレやバスルームは昭和17年築とは思えず、、彩光に工夫をこらした広い吹き抜けの居間はなんとも居心地よく、何度来てもあきません。

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前川國男邸
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西ゾーンには山の手通りと名づけられた通りをはさんで、前川邸のほかに、田園調布の家やデ・ラランデ邸、三井八郎右邸衛門邸などが建ち並び、思わず住みたくなるお洒落な街をつくっています。
その一角、デ・ラランデ邸でお茶をいただました。晴れていれば外のテラスでとなるのですが、あいにくの雨。明治末期の居間やダイニングルームの窓枠や飾りがおしゃれです。

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デ・ラランデ邸
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デ・ラランデ邸のダイニングルームで
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三井八郎右衛門邸のルネ・ラリックの証明

さて、この日の待ち合わせ場所はたてもの園の入口でした。
正面入り口のビジターセンター(旧光華殿)は、1940年(昭和15)、皇居前広場で行われた紀元2600年を祝う式典のために建設された式殿でした。
その式典に、明理さんのおじいさんがはるばる台湾から参列していたのでした。
式殿は光華殿と名づけられて、翌年、小金井緑地(現小金井公園)に移され、江戸東京たてもの園の開設と同時にビジターセンターとして生まれかわったのです。
少し早目に到着してビジターセンターの歴史を聞いた明理さんは、台湾が日本統治下にあった時代やおじいさんのことを、ご両親から聞いていたことを思い出したようでした。
白色革命で台湾を離れたお父上の記念館が故郷台南市に完成し、先日式典がおこなわれたことを思い合わせると、この日の小金井公園訪問は明理さんにとって、これ以上のタイミングはなかったのではないでしょうか。

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旧光華殿の手すりによりかかり、感慨深そうな明理さん


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雑記帳2018-11-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-11-1
◆『地球千鳥足』の小川彩子さんの小川地球村塾におじゃましました。

府中市にある小川邸で、小川地球村塾のパーテイが毎年、春と秋に開かれています。
小川さん夫妻が100か国以上をバックパッキングして知りあった、世界からのゲストを迎えて、国内の数十人の友人たちが集います。

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今年のゲストはイランのカップル、アミールとマハシです。
アミールは小川さん夫妻がアルメニアで出会って、ジョージアで再会、イランで家庭訪問という、なんともドラマテイックな出会いをした若者でした。
イランでは「My home is your home.]と言うアミールの、夫妻それぞれの実家に招待されて、大歓待をうけたそうです。

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アミールとマハシ
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インテリアもイラン風

この半年の間に、ご主人の律昭さんは事故が相次ぎました、。
室内の階段をすべり落ちて足を骨折したり、自転車でころんで頭をけがしたり。それでも、骨折時には松葉づえと車いすで免許証更新のためにアメリカまで出かけた、めげない86歳です。
こんな元気なお二人は、人生100歳時代を先取りするシニアの手本として、最近テレビでひっぱりだこのようす。三度もテレビ局からのインタビューを受けたことが報告され、日本テレビのインタビューの録画をみせてもらいました。

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挨拶する小川地球村塾村長

16年前にイランで結婚式を挙げた稲葉さん家族も出席していました。
稲葉さんは彩子さんとはバックパックでイランで出会った仲間です。まだイラン旅行がめずらしかった頃のことです。
奥さんもイランが大好きだったので、結婚式をイランであげるべく、大使館にも相談に行ったそうです。そうしたら、なんと、馬車まで出して村をあげての由緒ある結婚式をあげてくれたということです。馬車に乗る二人は現地の新聞にもとりあげられ、この日は、16年前のその新聞記事が紹介されました。(イランの新聞なので、当然、イラン人のアミールが英語で通訳しました。)

壁に、西条八十作詞、近衛秀麻呂作曲の「虹」という歌がかかっています。
詞の中に「彩」という文字がはいっていることもあって、これこそまさに地球塾の歌、と、彩子さんはこれを塾歌にしたのでした。なにしろ、「彩子」は徳富蘇峰につけてもらった名前だからと、「彩」には特別な思いがあるのです。2番は地球村塾の塾生の菊池さんがつくりました。

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ワインやビールでポトラックに持ち寄った料理をつつきながら、秋乗のあちこちで交流が進みます。私も隣のリサ・マイヤーとおしゃべり。
彼女はCAですが、日本語が大好きで、50歳になった今、渋谷の日本語学校で日本語を学んでいます。英語まじりの日本語の会話は、まだ来日して2か月とは思えないほどでした。

自作の絵を披露したり、余興に皿回しをする人もいます。
スピーチでは、運河の船旅でオランダを自転車旅行したという辻さんの話が、いつか自転車旅行をしたいともくろんでいる私には、おおいに参考になるものでした。

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床に座っているのが彩子さん

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皿回しを教わるリサ

そんなこんなで出席者はみな個性派ぞろい。楽しい時間はあっという間にすぎ、「今日の日はさようなら」をみんなで合唱してお開きとなりました。

翌日、アミール夫妻を招いてのお好み焼きパーティでは私も腕をふるう(?)ことになりました。お好み焼きも、具材の豚肉も、初めての経験だと、大層喜んでもらえました。
ただし、具材に不可欠と思っていた桜エビがだめだったのはちょっと残念でした。

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彩子さんの友人、星家でのお好み焼き

イランはいま、アメリカのトランプ大統領の封じ込め政策の下で、猛烈なインフレだそうです。物が入ってこない日々、アミールたちは恵まれた少数派ですが、ブラックマーケットでしのぐくらしは日本の戦後を思わせます。政治的にもなかなか改革はすすんでいません。世界的な風潮になっている、宗教や主張を巡って、リーダーが分断をあおるのはそうすることで統治しやすい環境をつくっているのだと、話は国内外に及びました。

◆東京は農業だけでなく、林業や水産業だってあります。

立川市と昭島市の境に東京都農業試験場があります。東京都の農業に関する試験研究機関ですが、秋にはそこで、「東京の農林水産フェア」が開かれます。よく晴れた秋の一日、多摩川の崖線の上に建つ会場をのぞいてみました。

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農業試験場
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ツリークライミングは子供たちに大人気。
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多摩産の木材で工作教室

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東京紅茶や人参ジャムなど農産物の加工品もこんなにあります。

ちょっと気分転換に、野菜のクイズはいかがですか。

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試食の八丈島のつみれ団子汁はおいしかった! つみれの材料は特産のトビウオとムロアジです。このほか、園芸教室や試験研究の展示もあります。東京の地酒の試飲には行列ができました。
農業も林業も水産業もある、東京は全国の縮図です。その豊かさが地方の豊かさにも思いをはせた一日でした。



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