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雑記帳2019-4-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-4-15
◆江戸の花見もかくや。3月末の飛鳥山は満開の桜でした。

今年は暖冬といわれながら桜の開花はさほど早くはなく、東京の桜が満開を迎えたのは3月も末でした。
この日、飛鳥山の桜を見るべく集合したのは東京メトロ南北線の西ヶ原駅。ここから王子までを歩きます。

印刷局東京工場、滝乃川警察署を横にみながら、本郷通りを進むと、西ヶ原一里塚の碑がみえてきます。江戸時代、街道の一里ごとに一里塚が築かれ、塚の上には榎が植えられていました。この一里塚は日光御成道の、日本橋から2番目にあたります。23区内には一里塚は18か所あったといわれていますが、当時の位置を保っているのはここだけです。大正時代に市電延長のため、撤去されそうになった一里塚を、渋沢栄一らが保存運動をして残したことが碑に書かれています。

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一里塚の二本榎(とおり向かいにもう1本の榎がある)

将軍の日光参詣のお供は、驚くなかれ、吉宗の時代に最大13万3000人もいたそうです。費用は今の金額にして200億円かかったといいます。当時一番と言われた加賀藩の大名行列でさえ4,000人でしたから、全国の大名がこぞって従った、徳川の威光は推して知るべしです。

伊邪那岐命をはじめとする祭神が7神なので名づけられた七社神社は、古くから西ヶ原の鎮守でした。明治時代の神仏分離によって、現在の古川庭園内にあった無量寺の社が、現在の地にうつりました。もともとこの地にあった神明宮は、樹齢1000年以上といわれる杉があったことから一本杉神明宮とよばれていたことが、江戸切絵図に見えます。この大木の幹がいまも境内に残されています。神楽殿では9月の大祭に「江戸里神楽」が奉納されます。
近くにあるゲーテ記念館は15万点を所蔵し、世界中から研究者が訪れるそうです。

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七社神社
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神明宮の一本杉の幹だけが今も保存されている
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境内にある緑色の御衣黄桜もほころびて
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神楽殿

日本近代経済の基礎を築いた渋沢栄一の屋敷跡が、旧渋沢庭園として区民に開放されています。庭園内にある青淵文庫(せいいえんぶんこ)や晩香炉(ばんこうろ)は、国の重要文化財となって、昔の面影をとどめています。
青淵文庫は、渋沢栄一の傘寿の祝いと、子爵昇爵の祝いを兼ねて、竜門社(現・渋沢栄一記念財団)が贈った鉄筋コンクリート2階建ての建物です。書庫として使われました。「青淵」は、渋沢栄一の雅号です。
晩香廬は、渋沢栄一の喜寿の祝いに清水組(現・清水建設)が贈った洋風茶室です。内外の賓客を迎えるレセプションルームとして使われました。18代アメリカ大統領ユリシーズ・グラントや中国の蒋介石など多くの要人が招かれ、民間外交の場となりました。

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青淵文庫
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晩香廬室内
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庭園内にある渋沢栄一像 小柄な人だったようです。

飛鳥山公園は渋沢庭園のとなりにあります。その入り口にあるのが渋沢史料館です。
渋沢が手掛けた事業は500を数えますが、全て他者に渡して自らは財閥をつくらなかったため、今、渋沢の名を残す企業は渋沢倉庫のみだということです。
史料館の横に立つ平和の女神像は北村西望の作品です。長崎の平和の像を造った北村のアトリエが一時期、西ヶ原にあったのだそうです。

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渋沢史料館
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北村西聖の平和の女神像

飛鳥山公園は、8代将軍吉宗が庶民の行楽のために桜を植樹して開放した日本初の公園です。当時桜の名所は上野、向島、品川御殿山とこの飛鳥山でしたが、中でも飛鳥山は「野暮」といわれながら、庶民に人気のスポットでした。ソメイヨシノが満開のこの日、ふもとのJR王子駅から登ってくる、食料を入れた発砲スチロールの箱やレジャーシートを抱えた人の列が絶えませんでした。桜の季節に近くまでくると、(人の波で)山全体がうなっているようだと言った人がいました。ふもとの公園入口から山の上まで2分というモノレール(あすかパークレール)に乗る手もありますが、こちらは後尾が判らないほど延々の長蛇の列(待ち時間2時間!)でした。

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飛鳥山のふもとは王子駅に沿って音無(おとなし)親水公園になっています。隅田川にそそぐ石神井川が流れにつれて龍野川となり、音無川と名をかえたところは、かっては雨がふるとあふれる暴れ川でした。音無川は、何とかおとなしくしていてほしいという、庶民の願いのこもった名前だとか。土手の桜は花見客でにぎわいました。水を流さなくなった今も、桜の木の下で酒盛りをする人でいっぱいです。商店街には卵焼きで有名な「扇屋」がありますが、ここも行列ができていて、並ぶのをあきらめました。宝くじを買う店のはるか向こうに最後尾の看板を持つ案内人がいたり、評判の絵を見るために美術館を何重にも囲んだり、江戸っ子は気が短かったのを忘れるほど、日本人は並ぶのをいとわないようです。

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音無親水公園(川底いっぱいに花見客のブル-シートが見える)

王子といえば狐です。昔、このあたり一帯は一面の田畑で、とても寂しい場所でした。その中の一本の榎のもとに、大晦日になると関東一円の狐があつまり、衣装を整えて近くの王子稲荷へ初詣でをしたという言い伝えがあります。榎は装束榎と呼ばれました。その様子は広重の浮世絵にも描かれています。言い伝えは今も12月31日の「王子狐の行列」として地元の人々にうけつがれています。

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装束稲荷神社

狐たちの初詣でのゴール、王子稲荷神社は関東稲荷の総社という高い格式を持ち、江戸時代から庶民に親しまれてきました。境内にある「狐の穴跡」は落語「王子の狐」の舞台になっています。

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王子稲荷神社
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王子稲荷本殿の格天井

王子稲荷を少し進めば名主の滝公園です。名称は、王子村の名主、畑野家が屋敷内に滝を造って一般人が利用できる避暑の施設にしたことに由来しています。所有者はかわりましたが、今は飛鳥山公園、音無川親水公園とともに、区立公園として開放されています。
中を歩けば、池あり、谷あり、もちろん滝あり、桜あり、楓あり、橋あり、渓流ありの、規模も様式も、名にしおう大名庭園におとらぬものでした。

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名主の滝公園の男滝

散策の最後は王子神社で締めます。王子の名前のもとになった神社です。
古くは岸村と呼ばれたこの地に、紀州熊野三所若一王子が勧請されて、熊野信仰の拠点になり、名前も王子村となりました。民族芸能「王子田楽」は北区指定の重要無形文化財です。天然記念物の大銀杏ヤ、ユニークな毛髪供養の「毛塚」があります。

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王子神社 のコピー.jpg
毛塚のある関神社は理・美容業界の信仰をあつめているそうです。

お昼は王子駅のそばの小さな店、フルカワヤ。
小さいながらおいしいと評判の店は、食材に、江戸東京野菜や地方の固定種を扱う、シェフのこだわりの店でした。

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前菜は滝乃川人参のパテ、世界で一人しか生産者のいない赤レンコン、早稲田茗荷など・・・
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デザートの焼き菓子にも滝乃川ごぼう(右奥)がつかわれている。

今号がアップされる直前の4月9日、渋沢栄一が新しい1万円札の顔になることが発表され、飛鳥山の渋沢史料館や深谷市にある渋沢栄一記念館が紹介されました。
雑記帳では、何年か前に、深谷の渋沢栄一記念館を訪ねた報告をのせています。

◆花冷えがつづいた今年は、東京でも満開の桜花を長く楽しむことができました。
4月中旬の国営昭和記念公園は、この時期には珍しい、桜と草花の競演が見られました。

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桜とチューリップ(渓流広場で)



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雑記帳2019-4-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-4-1
春休みの親子料理教室で、油で揚げない簡単コロッケが大好評。

◇コロッケ 
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材料(4人分) じゃがいも…4個(500g) たまねぎ…1/2個(100g) 豚ひき肉…100g   パン粉…カップ1.5(60g) サラダ油(パン粉用)…大さじ1 サラダ油(炒め用)…大さじ1 塩…小さじ1 ソース…少々

作り方 ① フライパンに大さじ1の油を入れて、中火でパン粉をきつね色になるまで炒めたら火を止め、フライパンの熱が下がるまで炒める。
② じゃがいもは電子レンジ(10分)またはゆでる。熱いうちに皮をむき、つぶしておく。
③ たまねぎはあらいみじん切りにして炒め、すき通ったらひき肉を加え、水分がなくなるまで炒める。
④ じゃがいもとひき肉を良くまぜ、食べやすい大きさに丸める。
⑤ 炒めたパン粉の上に丸めたコロッケの種を入れ、よくまぶして形をととのえる。
⑥ お皿にもって出来上がり

◇フルーツサラダ
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材料(4人分) リンゴ…1/2個(160g) キウイフルーツ…1個 バナナ…1本 ヨーグルト…大さじ4 マヨネーズ…大さじ1 砂糖…大さじ1

作り方 ① リンゴは4等分して5mmのいちょう切り。
② キウイフルーツは4等分し、5mmのいちょう切り。
③ バナナは5mmの輪切り。
④ ヨーグルト、マヨネーズ、砂糖を合せてソースをつくる。
⑤ フルーツとソースをさっとまぜ合わせて出来上がり。

◇野菜スープ(さわ煮椀)
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材料(4人分) 豚肉…50g だいこん…150g  にんじん…100g 生しいたけ…2枚 ねぎ…1/2本  油あげ…1/2枚  塩…小さじ1  しょうゆ…大さじ1  酒…大さじ1  水…カップ4

作り方 ① 豚肉は5mm~6mm幅で細切り。
② だいこん、にんじん、しいたけは5mm~6mm幅の短ざく切り、ねぎはななめ細切り。
③ 油あげは2つに切ってから細切り。
④ なべに水カップ4、だいこん、にんじんを入れ、煮立ったらしいたけを入れる。
⑤ 豚肉を入れて色が変わったら油あげを入れる。
⑥ 調味料を入れて味みして、塩かげんをたしかめる。良ければねぎを加え、煮立ったら出来上がり。

油で揚げないコロッケは子どもでも容易につくれると、子どもたちにも大好評でした。
さわ煮椀はたくさんの具材が入る汁物のこと。だし要らずで野菜がたっぷり食べられます。

◆白金台にある松岡美術館を訪ねました。
作品の修復と設備点検のため、6月から長期休館になるので行ってみないかという友人の誘いでした。

前身は昭和50年、貿易や不動産業で財をなした松岡清次郎が、晩年、コレクションを一般公開するために自社ビルに建てたものですが、自然教育園と隣り合わせの現在の建物は平成12年建設という、まだあたらしい、こじんまりとした美術館でした。

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入館してすぐ目につくのはブールデルの巨大な「ペネロペ」のブロンズ像です。
ギリシャ神話「オデッセイ」で、大勢の求婚者をかわしながらユリシーズの帰りを待つペネロペは、想像していた以上に豊穣な女性につくられています。

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ロビーにはこの他、ゼウスやミネルヴァの彫刻とともに、「猫の給仕頭」というジャコメッテイの小さな作品があります。美術館の公式キャラクターが「ねこにゃん」で、どうやら猫は松岡美術館のシンボルのようですが、そのわけがあとでわかりました。
案内してくれた孫の黒川裕子さん(副館長)によると、美術館が所蔵する2000点はすべて松岡自身がオークションに出向いて購入したということです。


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1階と2階にある5つの展示室のうち、第1の展示室は古代オリエント美術を展示しています。現在展示中のテーマは「古代エジプトの女性と女神」。
エジプトはギリシャやローマよりすっと女性の地位が高かった時代でした。そして、エジプト神話にでてくるバステト神は猫の化身です。そういえば、猫のエイジが我が家にいたころ、猫の原産地はエジプトだから暑さに強いのだときいたことがありました。エジプトでは猫は神様の化身として、古くから大事にされてきたのでした。
このほか、セクメトやイシスといった、神話の女神たちは小品ながらみな元気でした。
部屋の中央には文様を施された彩色の棺がよこたわっています。
松岡美術館にはヒエログリフが解読できる学芸員がいるのだそうです。

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彩色木棺

第2展示室は現代彫刻の部屋です。
ヘンリー・ムアとエミリア・グレコの作品が並んでいます。
ムアの巨大な「台に座る母と子」やブールデルの「ペネロペ」など、実は、松岡は屋外展示をしたかったのだそうです。ムアの作品は確かに屋外展示にむいているとみえて、熱海のMOA美術館では実際に屋外に展示されています。

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第2エミリアグレコ のコピー.jpg

第3の展示室には、古代東洋彫刻が展示されています。。
偶像崇拝が禁じられていた仏教で、初めて仏像が誕生したのはガンダーラでした。アレキサンダー大王が東方遠征の折に伴った職人たちの手になるガンダーラの仏像はギリシャ彫刻の影響をうけているのがよくわかります。ここでは、さらに、ヒンズーやクメール、中国の彫像たちを見ることができます。

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菩薩半跏思惟像(絵葉書より)

2階の一室では「元気な文様たち」と題する企画展が開かれていました。明時代の景徳鎮を中心とする五彩や青花の展示はなかなか見ごたえがありました。これらの陶磁器が松岡コレクションの原点であり、美術館創設の原点になっていたのです。
宋時代に漢民族が作り上げた格調高い中国陶磁は、元を経て明時代になると、文様、色彩ともに、濃密でエネルギッシュな作風へと変化し、明の末期にはより自由闊達な魅力を増します。描かれる草花や、龍や獅子の文様はまさに器面を闊歩する感があります。
この時代の焼き物が江戸時代の日本に渡来し、影響を与えたことは良くしられています。


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五彩百鹿文壺(絵葉書より)

松岡美術館には松岡がが愛した文楽を題材にした絵画も多数蒐集されています。
今回、もう一つの企画展示室では、その文楽をはじめとして、能や歌舞伎などの伝統芸能を主題とした作品が展示されていました。

さらに、この日、ロビーでパンフルートの演奏を聴く幸運に恵まれました。
パンフルートのパンはギリシャ神話の牧神パンに由来します。竹製の、世界最古の管楽器で、パイプオルガンやハーモニカの先祖といわれています。かってはシルクロードを経て世界中に伝播し、日本でも雅楽で演奏されたこともあったということです。現在はルーマニアの民族楽器として知られています。
この楽器の音が鳥の声に似ている、とか、最初のパンフルートの演奏者は葦に吹く風だ、とか、演奏者の櫻岡史子さんから興味深い話をききながら、「さくらさくら」やカザルスの「鳥の歌」の演奏にしばし耳を傾けました。松岡美術館では折に触れて、ギャラリートークヤミニコンサートを実施しているそうです。

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パンフルートを演奏する櫻岡史子さん
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中庭の桜も見ごろ。

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雑記帳2019-3-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-3-15
◆鎌倉街道、早春の色に染まる今回は京王線聖蹟桜ヶ丘から小田急線永山まで。

民道の鎌倉街道は、東京には西から、上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)の3種のルートがあることを知ってから、多摩の住民としてそのうちの上道を訪ねて2回目です。今回は多摩市を歩きました。(山あり、谷あり、多摩市は広い!)
鎌倉街道は成り立ちの性格から、わき目もすらずにまっしぐら、山も谷も迂回することなく進むのが特徴です。この辺りは、そうした鎌倉古道が残っている貴重な地域です。

聖蹟桜ヶ丘駅を出発して石畳のある住宅街を歩くうち、木立の間に朱塗りの社が見えてきました。小野神社です。創建は紀元前531年と伝えられ、公式記録としては8世紀にその名があります。平安中期に編纂された「延喜式」によると、武蔵国総社である大國魂神社の一之宮とされ、崇敬を集めました。

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都から赴任してきた国司が国の平安を祈る神社は武蔵国には六つありましたが、まず一番に出向くのが一之宮で、それが小野神社だったというわけです。
六社は、小野神社につづいて、あきる野市の二宮神社、さいたま市大宮の氷川神社、秩父市の秩父神社、さいたま県金川町の金鑚神社、横浜市の杉山神社を指します。

度重なる戦乱や多摩川の氾濫を受けて衰退した時期もありましたが、江戸時代になり、徳川秀忠によって再興されました。慶安元年(1648年)には十五石の朱印も与えられ、以後歴代の徳川将軍に厚く崇敬されたということです。
大正15年、火災で焼失、現在の建物は昭和2年に再建されたものです。
拝殿と本殿がわかれていて、しかも少し離れているのは仏教思想が入ってくる以前のものであることを表しています。また、本殿のカーブした屋根の長さが前後で違う(前のほうが長い)という流れ造りであることなど、随所に古社の歴史を伝えています。

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拝殿
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本殿

圧巻は隋神門です。
朱雀こそないものの、玄武に白虎、青龍の三獣がそろっています。
唐獅子牡丹に兎、風神雷神もいれば、龍も水に住む龍だけでなく、空に住む飛龍まで、なかなか見ごたえがあります。
風神雷神はといえば、雷神の手の指が古式にのっとって3本であったり、それぞれが親子とおぼしき一対になっていたり、昭和初期の再建ながら、非常に凝った造りになっているのです。

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隋伸門の額の下には龍の彫り物
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雷神の親子?(上が子らしい)

小野神社から5分ほど歩いて多摩川の土手にでると、関戸橋に平行して京王線が多摩川を渡っているのが見えます。このあたりが関戸古戦場です。
1333年5月15日、新田義貞の軍勢が幕府軍に敗れて敗退した分倍河原の合戦の翌日、態勢を立て直した新田軍は多摩川を超えて幕府軍を攻撃します。幕府軍は総崩れとなり、5月22日の鎌倉幕府滅亡へとむかうのです。

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このあたりが関戸古戦場

関戸は関所に戸を立てたことから生まれた地名です。
多摩川の支流、大栗川が多摩川に合流する地点は昔、交通の難所でした。鎌倉幕府はそこに関所(霞ノ関)をもうけたのです。
関戸合戦では多くの鎌倉武士が命を落としました。関戸5丁目に「関戸古戦場跡」の表札があります。そのすぐ近くの関戸観音寺は、合戦の有縁無縁の精霊の位牌を祀って、新田、鎌倉両軍の供養も行っています。

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関戸観音寺

真言宗のこの寺は1192年の創建。ご住職が本堂にある寺自慢の曼荼羅の説明をしてくれました。
人が死んで巡る地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道を、本地垂迹を取り入れて衆生にわかりやすく絵図にした曼荼羅です。

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熊野曼荼羅
境内には石仏の六観音像があります。六道に苦しむ衆生を救済するという六地蔵は、多くのお寺にあってなじみのあるものですが、地蔵ではなく観音は珍しいということです。

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石仏の六観音

関戸観音寺を出て再び街道を進むと、ほどなく熊野神社です。
昭和30年代に神社の参道で、16箇所の丸柱の痕跡が発掘されました。これが霞ノ関の南側の木戸柵だと考えられています。現在、発見された柱穴上に木材を立てて目印にしてあります。

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熊野神社
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関所の木戸作跡を示す木材の目印

ちなみに、幕府が倒れたあとも関所は残りました。
管理の手は鎌倉幕府から鶴岡八幡宮、北条氏へと移り、秀吉によって廃止されるまで続きました。
中世の関所は通行人からお金を取ることが目的で、しかも任意の個人が設けることができたのです。廃止されるまで摂津湊から京都の間には、なんと、48もの関所があったということです。

多摩地域では低山の尾根と尾根の間の窪地を谷戸(やと)と呼びます。
人々は谷戸に田を引き、集落を営みました。鎌倉街道はその谷戸と谷戸をつないでつくられたので、旅人は上り下りの多い坂道を歩くことになりました。
現在もその面影を残す道が原峰公園にあります。
入口は尾根筋にあたる現在の住宅街にあるのですが、公園内へはまるで谷底へくだるように降りて行かなくてななりません。さらに谷戸を横目にしながら今度は林の坂道を登っていくと、コミュニティセンターのある街道に出ます。そこから通りをだらだら下れば市役所はすぐです。
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谷に向かって降りていく
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谷底にかかる古びた木製の橋はなかなか趣があります。

市役所の前にはかって街道がにぎわっていたことを示す古市場の標識がたっています。
北条氏が月に6日の六斎市を立てた場所でした。

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古市場跡

市役所からくだってぶつかった大通りや乞田川はさしずめ谷底、ここから永山に向かう道はまた上りの坂道です。
小田急線永山駅から20分ほどのところにある大福寺は弥勒菩薩の寺です。本堂のかたわらにある弥勒菩薩の像は、左手に宝塔のある蓮華を持ち、右手は中指をまげて、禅定にはいって姿をみせています。普通、弥勒菩薩の持つ蓮は花そのものか蕾なので、この姿は非常に珍しいのだそうです。

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大福寺本堂
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弥勒菩薩像

多摩ニュータウンが造成される際、貝取村で個々に祀られていた神社も取り壊されることになりました。その、吾妻神社・八幡宮・牛頭(ごず)天王社の3柱を集めて合祀したのが貝取神社です。
集落に災いをもたらす者が入らないよう入口を見張る牛頭天王は、実は神道の神様ではありません。そのほか、神社なのに、境内には不動明王の石仏があります。さらに、鳥居は両部鳥居になっており、神仏習合の名残がいくつも見られます。新しい街ができても古くからあるコミュニティを大切にしたいとの思いがあったのかもしれません。

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貝取神社の牛頭天王社
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鳥居の足が両部鳥居になっている。

お昼は永山駅そばの「梅の花」で梅ランチをいただきました。

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地方から上京した誰もが東京は坂の多い街だと驚きますが、多摩ニュータウンの坂道はその比ではありません。
貝取山や笛吹峠の地名もそのままに、昭和40年代の開発からまだ50年余の、丘陵の地形を残した町は、広さもさることながら、とにかく坂ばかり。この日、万歩計は17,000歩を示し、翌日はさすがに足がこわばっていました。


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雑記帳2019-3-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-3-1
◆2月11日、MAT57回目のコンサートが開かれました。

MAT(ミュージック&アートin TAMA)は、戦前、アメリカから贈られ、立川の歴史を見守り続けた3本のプラタナスの木が都市開発のために切られようとしたとき、地元のアーテイストを中心に子供たちもいっしょになって守った話を受け継いでいこうと始まりました。今年で12年になります。
オーボエ、ファゴット、クラリネットのトリオダンシュによる木管楽器の三重奏にくわえて、2011年からは東日本大震災の記憶を伝える活動も仲間入りしました。
津波で泥をかぶった着物をリメイクした舞台衣装の端切れをつなぎあわせたパッチワークプロジェクトです。MATのプロデューサー、しおみえりこさんはよくよくつなぐことが好きなのです。
そして、MATの美術監督は銅板造形作家の赤川政由さんが務めています。

会場のスタジオLaLaLaは多摩モノレールの柴崎体育館駅の近くにありました。
30人もはいればいっぱいになるスタジオは、津波で被災した楽器のオブジェや泥だらけだった着物のリメイク衣装、記憶の断片の布たちのパッチワーク作品を収納するためにオープンしたのだそうです。全国、全世界から寄せられた50cmの布をつなぎ合わせたパッチワークは震災の記憶を伝えながら現在2600枚になるそうです。

この日のメニューは、オープニングにママ友のピアノデュオ、TAMAMA DUOの演奏に、トリオダンシュの三重奏、おまけに赤川さんのライブイベントまである、よくばった企画でした。

木管楽器はそれだけでも優しい音ですが、この日は、さらに音域の低いバスオーボエやコントラファゴット、バスクラリネットも紹介されました。いずれも日本では極めて珍しい楽器です。客は日本初の低音の三重奏を楽しむという贅沢な時間を過ごしたのです。
この日の圧巻はモーツアルトのオペラからの6曲のアリアでした。

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TAMAMA DUOのお二人
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日本では珍しいコントラファゴット
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演奏するトリオダンシュ

会場には、赤川さんの39体の「行田の童」の原画を展示するコーナーもありました。
そして、被災した絹布に描く赤川さんのライブは演奏の終了と同時に完成しました。
絹は絵の具がのりにくいんだとしきりにこぼしながらも、いつの間にか、布には演奏するトリオダンシュの3人が描かれていました。

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◆2月20日、コロンビア大使館にお邪魔しました。

近頃、旅行会社は、ありきたりの海外旅行に飽きた客用に、新しいテーマをさがしている様子です。まだ旅行先としてメジャーになっていない国を大使館と連携して紹介するのもその一つ、というわけで、旅行には行かずとも、未知の国を知る絶好の機会とばかり、コロンビア共和国駐日大使館セミナーに参加してみました。

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大使館の門には革命の指導者(解放者)シオン・ボリーバルの胸像

南米大陸の北端に位置するコロンビアは、ブラジルとは背中合わせです。
19世紀はじめにスペインから独立し、長い内戦を経て、現在のコロンビア共和国が成立しましたが、その後も武装勢力のゲリラ活動があとをたたず、21世紀に入ってようやく治安が安定、旅行者を呼べるようになったのです。

職員のお出迎えを受けて入館、この日は大使は不在で、大使代理からコロンビアの概要を聞きました。

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コロンビアの国旗(黄色は豊かな鉱物資源、青は太平洋とカリブ海、赤は革命で流された血を表す)

コロンビアは花の国。蘭の種類は4000以上、胡蝶蘭は国花です。また、母の日に送るカーネーションの7割はコロンビア産と言われます。
生物をはじめ、人種、文化など、様々な分野の多様性はおそらく世界一。
たとえば、鳥の種類は1921、コロンビアはバードウオッチングの聖地です。蝶は3274種もあります。
生花だけでなく、プリザーブドフラワーの品質の高さも指折りです。

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本物と見まがうプリザーブドフラワーのバラ
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こちらのユリは生花です

スペインの植民地だったことから生まれた、西洋とアフリカ、先住民の融合は文化の多様性を生み、コロンビアの祭りや踊り、多彩な文化をすべて体験するには10年以上かかるといわれるほどです。
日本との修好は120年におよび、バラとカーネーションの輸入は世界でもトップ、もっとも大きな投資国は日本だということです。
2018年のFIFAワールドカップの日本との対戦はまだ記憶に新しく、今年3月の横浜での試合が期待されています。
スポーツはサッカーだけでなく、自転車競技も有名です。陸上では世界チャンピオンを輩出しています。

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室内には黄金博物館の多数の黄金のレプリカが置かれている。
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「モラ」と呼ばれる先住民のデザインの刺繡

大使館の通商部に勤める玉城さんは沖縄出身です。
彼女からは、標高2600メートルの首都ボゴタ、城壁の町カルタヘナ、シュラネバダ山麓の、マチュピチュより600年も古いロストシティなど、コロンビアの観光地が紹介されました。「直行便はないがアメリカかメキシコで乗り継いで、日本から約20時間。行けば満足度は高いですよ。」とおすすめです。
バナナは有機、ドラゴンフルーツをはじめトロピカルフルーツの種類は多く、食事に出されるジュースはお茶代わりなのだとか。手摘みのコーヒー豆は世界で一番マイルドだといわれています。

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午餐会では、大使公邸のシェフのつくったコロンビア料理をいただきました。
ポテトのクリーム焼きやクレオール風チキン、白身魚のココナッツソース和えなど、誰の口にもなじみやすい味でした。
東京ではコロンビアコーヒーを出す店は少ないということですが、マイルドな味は何杯もお替りして飽きませんでした。
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白身魚ノクリームソース和え
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公使館シェフもフレンドリー

◆3月3日のひな祭りを前に、昭和記念公園の木漏れ日の里にもお雛様が飾られました。

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雑記帳2019-2-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-2-15
◆鎌倉街道は地方と鎌倉を結んだ中世の主要道路、その上道(かみつみち)を歩きました。

私の住んでいる多摩地域では主な幹線道路はみな東西に延びているため、それが多摩の特性をつくっているといわれています。その中で、鎌倉街道だけは南北の道路です。
気を付けてみると、鎌倉街道と名のついた道路はあちこちにある。それもそのはず、中世の鎌倉街道は、道路を政治的に管理した江戸時代以前の、自然発生的な道路だったのです。人が歩けば道になる、こうして鎌倉へ通じる道はすべて鎌倉街道となり、都内だけで30本もあるのだそうです。

その、都内の鎌倉街道には西から、上道(かみつみち)、中道(なかつみち)、下道(しもつみち)の3つのルートがあり、多摩地域の街道は上道にあたります。その一部を歩いてみました。

JR武蔵野線北府中駅を降りればそこはすぐ鎌倉街道。武蔵野線は街道に沿うようにつくられています。
鎌倉街道をちょっと東にそれて国分寺街道を行くと、「馬場大門のケヤキ並木」にぶつかります。これはそのまま大國魂神社の参道になっていて、日本で唯一国指定の天然記念物です。「馬場」は武蔵国が古来良質な馬の産地で、家康が大坂攻めの際ここで馬を調達したことに由来します。府中では幕末まで馬市も開かれていました。(そういえば、東京にも馬込、駒込、練馬など馬にちなんだ地名が多いですね。)

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天然記念物のケヤキ並木

伝承によると、源義家が前九年の役(1590年)に大國魂神社に戦勝祈願し、凱旋時に1000本のケヤキを奉樹したのがはじまりとか、文献では徳川家康が義家の例に倣って慶長年間に植樹したことが伝わっています。1000年を超えるようなケヤキはさすがに残っていませんが、最も古いものでは樹齢600年を数えるそうです。
ケヤキは育ちが早く、硬いので、家具や健材に適しています。寺社の再建に自前で用意できるような配慮もあったのでしょう。
鳥居の前には御神木のケヤキがましましています。

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御神木と大鳥居

大國魂神社は武蔵国にあるすべての神社の総社です。
総社になったのは大化の改新(645年)後のことですが、創建は古く、2世紀ごろ。祭神の大國魂大神は出雲の大国主神と同根の神で、武蔵国を開き、人々に衣食住の道を教え、医療やまじないの術も授けた、武蔵国魂の神とされています。

総社なので、いろんな神様がいます。
面白いのは、鳥居をくぐってすぐ目につく宮之咩神社。天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祀っています。 天岩戸に隠れた天照大神を踊りで誘い出した女神は芸能や安産の神様です。お産の時赤ちゃんが産道につかえずにするりと生まれるようにと、安産祈願に奉納するのは穴のあいた柄杓です。

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宮之咩神社

松尾社に奉られているの大山昨命はは醸造の神様です。
この神様は出雲族の出身だといわれています。
4世紀、天照族との闘いにやぶれて国を差し出した出雲族は、陸路で諏訪から武蔵国にはいったと考えられます。大国主命は人質として出雲に残りました。一方、天照族も東をめざし、こちらは水路で房総半島に上陸、利根川と荒川の2本の川に阻まれて(当時の利根川は現在の綾瀬川とほぼおなじところを流れていました)西進できず、悔し紛れに、川の向こうはコメも育たぬむさくるしい地だと言ったことから、「武蔵」の地名が生まれたのだとか。

御神木はケヤキのほかにもあり、直径5メートルの大イチョウは、樹齢800年を超えるといわれます。一説には妻政子の安産祈願に訪れた頼朝が植えたとも伝えられ、鎌倉の鶴岡八幡宮のイチョウと同い年?
ちなみに、イチョウは平安時代には日本にまだ根付いておらず、唐へ渡った僧たちが薬用に持ち帰った銀杏が芽を吹き、鎌倉時代になって広まったということです。

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御神木の大銀杏

境内の宝物殿の扉をあければ、米俵にまたがる大国主命がお出迎えです。
内には有名な「くらやみ祭り」で奉納される神輿や直径2.5メートルの巨大な大太鼓が鎮座しています。総社である大國魂神社の神輿を中心に、一宮から六宮までそろった華麗な神輿は見ごたえ十分です。祭りに太鼓と山車、神輿がそろうのは全国でもここだけということです。(残念ながら写真撮影はできませんでした)

2階には運慶作と伝えられる、国指定の重要文化財、木造の狛犬や、平安時代の木彫の仏像5体、また、江戸時代初期に東インド会社より日本にもたらされた、世界で3個しかないというビードロ鏡などが展示されています。

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上から宝物殿、拝殿、本殿の狛犬(柵誤しにしか見られない)

武蔵国は現在の東京都と埼玉県のほぼ全域と、神奈川県の川崎、横浜市を含む広大な国でした。奈良時代、全国60箇所の国府のうち、武蔵国には大國魂神社境内を含むエリアに国府が置かれました。
甲州街道をはさんだ神社の北側に、近年発掘された国衙(こくが)跡を見ることができます。国衙とは役所の行政事務を司る建物群のことです。
国衙を中心に東西2,4キロ、南北1,2キロの範囲には4000軒もの住居跡が確認されました。 発掘後埋め戻した建物の柱跡に再現した丹塗りの柱を立て、展示館では柱の設置方法が解説してありました。

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国府跡の展示室

神社に隣接するふるさと府中歴史館では、武蔵国府に関する資料や出土品などのほか、府中の歴史に関する資料が展示されています。
江戸時代に甲州街道の宿場として栄えた宿場の面影を残す展示もあります。
中でも目をひいたのは、常滑焼の大甕にいれられた大量の出土銭でした。多くは永楽銭で、貨幣経済が発展した鎌倉、室町時代にうめられたものです。

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ふるさと歴史館の展示の一部(上が大甕の永楽銭)

歴史館を後にすれば甲州街道と川越街道の交差する地点に高札場があります。ここは府中宿の中心地でした。高札場を囲む朱塗りの柵裏は大國魂神社の御旅所です。

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高札場

天慶の乱(940年)で平将門を討って武蔵守となった藤原秀郷の居館跡には見性寺が建てられました。鎌倉幕府滅亡の直前に新田義貞が本陣を構えたことから、この戦乱によって寺は炎上、その跡が曹洞宗高安寺になりました。足利尊氏が開基となって、全国66箇所に建てた安国寺のひとつです。尊氏は聖武天皇の国分寺創設にならったといいます。

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高安寺
鎌倉街道沿いで武蔵国府の近くにあったことから、寺は重要拠点と見なされ、室町時代、2代から5代に渡る鎌倉公方足利氏が戦のためにここに陣を構えました。墓地のすぐ裏が崖となって落ち込んでいる地形も戦好みか、戦国時代には小田原北条氏の軍事拠点となるなど、数々の戦乱をくぐりました。
明治5年再建の山門は禅宗の寺には珍しい二重屋根で、安政3年再建のの鐘楼とともに東京都の歴史的建造物となっています。
見性寺の時代に、平家滅亡後鎌倉入りを許されなかった源義経が寺にたちよったといい、弁慶が大般若経を書写した伝承を伝える「弁慶硯の井戸」があります。

高安寺を出て西に進み、JR南武線分倍河原駅前の新田義貞像を横目にして、義貞軍が駆け抜けた街道を歩いて、分倍河原古戦場を目指します。

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分倍河原駅前の新田義貞の像

上野国生品神社で挙兵したわずか150騎の義貞軍が鎌倉幕府に不満を持つ関東各地の武士団と次々に合流しながら、最終的には2万騎にふくれあがったといいます。
小手指原や久米川の戦いを制し、破竹の勢いで鎌倉街道を南下する新田軍を、武蔵国最後の要害である多摩川で食い止めるべく、幕府軍は分倍河原に陣をしきました。                          元弘3年(1333)5月15日、この合戦に幕府軍は善戦、新田軍は狭山に敗走します。勝った幕府軍はそれ以上の追撃をしなかったため、体勢を立て直した新田軍は翌日奇襲をしかけて大勝、鎌倉幕府が崩壊したのは、幕府軍が勝利した分倍河原の合戦からわずか1週間後のことでした。
多摩川に注ぐ小さな新田川のそばの緑道には分倍河原古戦場の碑があり、文言は義貞から数えて18代目になる新田義美氏の手になります。

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古戦場あとの碑

大國魂神社から古戦場へ、昼食をはさんでこの日歩いた距離は6.5キロでした。
お昼は美登利寿司でちらし寿司をいただきました。
緑寿司はネタが大きいので都内では昼時には行列ができるという評判の店、その支店の一つです。

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雑記帳2019-2-1 [代表・玲子の雑記帳]

2019-2-1
◆上野のお山は元は全体が寛永寺でした。。

上野の地名は江戸時代初期に、伊賀上野の大名、藤堂高虎の屋敷があったことに由来します。1624年(寛永元年)、天台宗天海僧正の進言で、江戸城鬼門守護の寛永寺が徳川家菩提寺として建立され、門前町として栄えました。(この人はまさに怪僧で、徳川家3代にわたって巨大な寺院の創建にかかわり、あの時代に108歳までいきたというから驚きです。)
1868年(慶応4年)、寛永寺は彰義隊の拠点となり、5月15日、新政府軍の総攻撃を受けて、集まった隊士4,000人のうち3,000人以上が戦死したといわれます。
荒廃した上野の自然が失われていくのを憂えたボードワン博士により、明治6年、上野は日本初の公園に指定され、今日にいたっています。
多くの博物館や美術館、動物園もある上野の森は、いまや都内きっての観光地、1年中、国内外からの環境客でごったがえすようになりました。

集合場所は西郷隆盛の像の前でした。
愛犬ツンをつれたおなじみの西郷ざんの像は、皇室からの500万円の下賜金のほか、2万5千人余の寄付で建てられたそうです。当時も西郷さんは人気があったのですね。
でも、写真嫌いの西郷さんには写真が残っていなかったため、高村光雲がモデルにしたのは軍服を着た西郷さんの肖像画でした。見ると、なかなかの偉丈夫ですが、西南戦争から21年後のこととて、まだ軍服がはばかられて、あのラフな恰好になったということです。
ちなみに、ツンは後藤貞行の作。皇居外苑の楠木正成の像も2人の共作で、後藤は馬を作っています。

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先の、戦死した彰義隊士の墓は明治14年に建立されましたが、墓石には新政府にとって賊軍になる「彰義隊」の名前はありません。「戦士の墓」を刻んだ文字は山岡鉄舟の筆になるもので、この人の字は銀座木村屋の看板にも見られます。

清水観音堂は京都東山の清水寺を模した、舞台造りのお堂です。天海僧正により建立されました。
舞台から見下ろす不忍の池は琵琶湖、弁天堂は竹生島を模しています。
月の松から不忍池を臨む舞台づくりは、江戸時代、浮世絵にも描かれた景観です。

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中央の丸い月の松の中にのぞく青い屋根は弁天堂

進めば正岡子規記念野球場。知の木々舎に連載中の「子規と漱石」にそのうち出てくるかもしれませんが、子規は野球が大好きでした。ベースボールを野球とよぶなど、野球の英語を一つ一つ日本語にかえています。自分の「のぼる」という名前も「ノ(野)ボール(球)」と呼ばせたほどです。そういえば、子規は昨年、野球殿堂入りしました。

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東京文化会館と道路をはさんで、昨年、コルビジェの設計で話題になった国立西洋美術館は、前庭だけで美術散歩ができます。
ロダンの「考える人」や「カレーの市民」、「地獄の門」、ブールデルの「弓をひくヘラクレス」…
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カレーの市民
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弓を引くヘラクレス
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国立科学博物館の横には巨大なシロナガスクジラ。

僧籍にあって大師は特別な存在です。みずからを慈眼大師と呼び、辣腕を振るった天海も、1643年に亡くなり、大師を祀るために、翌年、法輪寺大師堂が創建されました。
のちに寛永寺本坊内にあった慈恵大師の像を移して、2人の大師を祀ったことから、両大師堂と呼ばれ、庶民の信仰を集めるようになりました。本坊は寺の住職の住まいです。

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法輪寺両大師堂

その本坊に住む代々の貫主は京都、天皇につつらなる家系より迎えられました。寛永寺の最後の貫主、公現入道親王は、上野戦争で彰義隊の大将に奉られて、戦後、会津に逃れ、気の毒な生涯をおくりました。皮肉なことに、その時、総督として官軍を指揮したのは兄の小松宮影仁親王だったのです。(こちらは官軍ですから、馬に乗る立派な銅像が公園内にたてられています。)
大師堂の隣にある輪王殿の正門はかっての本坊の表門を移築したもので、あの総攻撃で飛び交った砲弾の痕も残っています。

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法輪殿
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砲弾の痕も生々しい門扉

輪王寺の周辺には今でも多くの私院が立ち並んでいます。
その寺々を横目に国立博物館の裏を巡って行くと、鶯谷を眺める場所に寛永寺の墓地があります。一般墓所とならんで徳川家の霊廟があり、維新の動乱や戦災やを免れた四代、五代の将軍勅額門が残っていて、重要文化財になっています。勅額門とは、天皇直筆の額を賜った門の意味です。

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第五代将軍勅学門

1698年(元禄11年)建立の寛永寺根本中堂は上野戦争で消失しました。
上野中学校に隣接する現在の根本中堂は、川越・喜多院の本地院を移築したもの、扁額に「瑠璃殿」の字が見えます。本尊は薬師如来。撮影はできませんでした。
境内にある、大阪から逃げ帰った慶喜が一時蟄居したという葵の間を、塀の隙間から覗き見ることができます。

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寛永寺根本中道

国際こども図書館や、黒田記念館を横に見ながら再び上野公園に戻ります。
旧東京音楽学校の奏楽堂は、滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕作が曲を作ったところです。上野公園の生みの親、ボードワン博士の胸像はちょうど公園の中央あたりにあります。

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奏楽堂
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徳川家康を祀る東照宮は全国に数多くありますが、ここ、上野の東照宮は日光東照宮の10-年後に藤堂高虎によって創建され、三代家光が改修しました。
規模は小さいながら、金ぴかの社殿は徳川の威光をみせつけるもので、改修に際して全国の大名から寄進された石灯篭は200基を超え、銅灯篭も50余、中には6メートルを超えるお化け灯篭もありました。

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上野東照宮
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東照宮に隣接する旧寛永寺五重塔

上野公園の中でも一番高い丘にあるパゴダのそばに、上野大仏の顔のレリーフが安置されています。地震や火事でなんども首がおちては再建されたあと、関東大震災で崩壊した胴体は第二次大戦で金属供出の憂き目にあって、ついに顔だけになってしまったということです。これ以上落ちることはないと、受験生には「合格大仏」として人気とか。

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お昼は花園神社のそばの韻松亭でいただきました。明治の文豪、森鴎外らも訪れたという老舗でした。

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ちなみに上野駅は明治6年の開業。明治24年には青森まで開通しました。当時は26時間かかったそうです。昭和39年に大流行した井沢八郎の歌う「ああ 上野駅」のレリーフは、集団就職の時代を語り継ぎ、今も北の国からの東京の玄関口です。

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雑記帳2019-1-15 [代表・玲子の雑記帳]

2019-1-15

◆都市農業をめぐる環境が、いま、次ぎ次ぎにかわろうとしています。

その中のひとつが農地の流動化です。
都市農地貸借円滑化法により、農地の貸し借りがしやすくなって、新規参入を促しているのです。
あきる野市の取り組みをまなびました。

多摩の西部にあるあきる野市は、都心から40~50km圏に位置しています。
秋川と平井川の二つの川を軸として、秋川丘陵、草花丘陵に囲まれる平たん部と、奥多摩の山々に連なる山間部から形成されています。
八王子、町田、青梅に隣接し、面積は73.47平方キロ、人口80,000人、農地の面積はおよそ7%です。
特産はトウモロコシやノラボウ菜。ノラボウ菜は江戸時代から多摩全域で栽培されるようになりましたが、特にこの地の土地に合っているようで味もいいと評判です。

市では今、新規就農者を3名うけいれています。
市内農家で2年以上の研修などハードルはたかいが、入口を大きくして支援をへらすか、
入口を狭くして支援をてあつくするか、模索はつづいています。
参入は個人だけではなく、法人の参入もあり、現在3法人が就農しています。
また、定年して就農を希望する相談も増えており、新規就農者とは別枠で対応しているということです。

新規参入者2人と法人の生活クラブ生協東京の農地を見学しました。
長屋さんは就農3年目の30代の若い経営者です。
お嫁さんの実家があきる野市にあった縁で当地で就農しました。
就農時の農機具購入は市の補助があり、ネギ、ホウレンソウ、ブロッコリーを栽培しています。
葱は太さと長さがでるように土を上げるなどの工夫をしています。

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長尾さんの畑

工藤さんは就農4年目です。
トウモロコシ、葱を中心にアブラ菜など30品目を栽培していましたが、今は品目をしぼることを検討しているということです。
点在する9反の農地は市内の9軒の農家から借りています。
目指すは反収100万円。反収100万円は農家が農業だけで自立できる数字なのです。

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工藤さんのネギ畑

2軒とも近くの秋川ファーマーズセンターへ納入しています。
秋川ファーマーズセンターは平成5年、多摩で一番早くできた直売所です。当時、多摩が神奈川県から東京都に移管されて100年を記念する様々なイベントがおこなわれていましたが、都下にはまだなかった野菜の直売所は大変な評判になりました。
いまでもトウモロコシの季節には、都内各地からくる車の行列ができます。

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秋川ファーマーズセンター

生活クラブの農地は耕作放棄されていた栗畑の栗の木を伐採、伐根することから始まりました。農家出身ではない小澤農場長の案内で農場を見学しました。
作物の7~8割は固定種だということで、何故手間のかかる固定種を?という質問に、種がとれるから、味に個性があるからという答がかえってきました。
12月の食能セミナーで聞いた「F1は植物的には弱い。だから農薬の力を借りて助けてやることも必要なんだ」という話が思い出されました。すべからく純粋培養されたF1は生命力が弱いということでしょうか。

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長崎生まれの黒田五寸人参は香りが高いのが特徴
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練馬大根の地を引く大倉大根はどこを切っても同じ太さで使いやすい。おでんや煮物に。
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金町こかぶ。そのほか亀戸大根、赤玉器玉(たまねぎ)なども。

◆おせちに飽きたらこれ! 年末の講座用に作ったレシピを紹介します。

中華おこわ2.jpg※中華おこわ
◇材料(4人分)
もち米2合、水(煮汁+戻し汁+水)290cc~300cc(容量の8割)、豚肉100g(醤油大さじ1  酒大さじ1で下味をつける)、干し椎茸2枚、にんじん35g、竹の子30g、干しエビ10g(Ⅿサイズで大さじ1)、ごぼう25g 

煮汁…… 醬油 大さじ1.5  酒 大さじ2  みりん 大さじ1  砂糖 大さじ1  中華顆粒 小さじ1  八角 1 個  ごま油 小さじ1.5

◇下準備 ① もち米は洗ってザルにあげ、水切りしておく。 ② 豚肉は8mmのさいの目に切り、下味をつけておく。 ③ 干し椎茸、エビは水に戻しておく。戻し汁は使うので捨てない。 ④ にんじん、椎茸、ごぼう、竹の子は8mmのさいの目切り、 エビは大きさによって分割する (Ⅿサイズはそのまま)。 ⑤ 煮汁を合せておく。

◇作り方 ① フライパンにごま油をひき、中火で豚肉を炒め、 次に野菜、干しエビを炒め、煮汁を入れて5分ほ ど中火で炒め煮する(この時、鍋の大きさ、火加 減によって煮汁量が変化するので注意!)。 ② 炊飯器にもち米、水と戻し汁、煮汁で290cc の水分量になるように入れ、さっとかき混ぜて から、具材を広げて入れ、普通に炊く。 ③ スイッチが切れたら具材とご飯をまぜて出来上 がり。盛り付けの際に八角を取り出す。

柚子胡椒和え2.jpg※鶏むね肉と野菜の柚子胡椒和え
◇材料(4人分)
鶏むね肉 1枚(250g前後) 
下味……酒 大さじ1 塩 小さじ1/2 こしょう少々 片栗粉大さじ1 和風顆粒だし 小さじ2 柚子胡椒 小さじ1  酒 大さじ1 茹で汁又は水大さじ2
野菜は大根・人参・ねぎ・水菜・白菜など何でも             

◇作り方 ① 鶏むね肉に片栗粉をまぶし、熱湯 の中で少量ずつ茹でる。色が白く 変わって浮き上がってきたら火が 通っているので取り出す。 ② 熱いうちにタレに漬けこむ。 ③ お皿に野菜を添え、鶏むね肉を盛 りつける。残ったタレを野菜にか け、絡めていただく。

さわ煮椀2.jpg※さわ煮椀
◇材料(4人分)
豚肉50g、 大根150g、  人参100g、 生椎茸2枚、 ねぎ1/2本、  油揚げ1/2枚、塩小さじ1、醤油大さじ1、酒大さじ1、水カップ4 

◇下準備 ① 豚肉は5mm~6mm幅で細切り。 ② 大根、にんじん、しいたけは5mm~6mm幅の短冊切り、ネギは繊維に沿って細切り。 ③ 油揚げは2つに切ってから細切り。

◇作り方 ① 鍋に水カップ4・大根・人参を入れ、煮 立ったら椎茸を入れる。 ② 豚肉を入れ色が変わったら油揚げを入 れる。 ③ 調味料を入れて味見して、塩加減を調整 する。良ければねぎを加え、煮立ったら 出来上がり。


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雑記帳2019-1-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2019-1-1
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◆今年、『知の木々者』は10周年です!!

2009年4月に創刊、以来、月2回の更新をかさねて、1月上号は233号になりました。
暮にサンパウロの李渭賢さんからメールでクリスマスカードが届きました。

「今年一年も知の木木舎のNet Magazine を楽しく読ませて頂きました。感謝申し上げます。あなた様の「雑記帳」は益々多彩、地方の歴史を発掘(?)、深く教えられます。ここブラジルの地方、奥地にはいろいろな歴史的な文化遺跡がありますが、それはポルトガル、スペイン植民地時代のもので、奴隷として連れられてきたアフリカの原始文化、カトリック宣教の遺跡が主で、年代としても400年ものしかありません。日本文化の優雅さがない。「ロシア~アネクドートで笑う歴史」「子規ー漱石」「内村鑑三の余は如何にして基督信徒なりし乎」を読んで後「川柳」でリラックス。このNet Magazineを読んでいる限り長生きは必定。本当にご苦労様でしたと感謝いたしております。
心に残る一つの詩をプレゼント。

   FOOTPRINTS
 One night a man had a dream.
 He dreamed he was walking
 along the beach with the Lord.
 Across the sky flashed scenes
 from his life.
 For each scene, he noticed
 two sets of footprints in the sand;
 one belonging to him,
 and other to the Lord.
 When the last scene of his life
 flashed before him, he looked back
 at the footprints in the sand.
 He noticed that many times along
 the path of his life there was only
 one set of footprints.
 He also noticed that it happened
 at the very lowest and saddest
 times in his life.
 This really bothered him
 and he questioned the Lord about it.
 "Lord, you said that once I decided
 to follow you,
 you'd walk with me all the way.
 But I have noticed that
 during the most troublesome
 times in my life
 there is only one set of footprints.
 I don't understand why
 when I need you most
 you would leave me."
 The Lord replied,
 "My precious, precious child,
 I love you
 and I would never leave you.
 During your times of trial
 and suffering,
 when you see only one
 set of footprints in the sand
 it was then that I carried you."

長い詩ですが、敢えて写しました。あなた様にはご存知の詩でしょうが、人生の終わりにいたって、暫く立ち止まって歩んで来た人生を振り返って見ることができる人は幸いであることをお伝えしたかったのです。振れ合いと言う言葉があります。袖振れ合うも縁と言う諺が日本にありますよね。そのように孤独の人生は存在しない。それは偏屈な哲学者の言い分か・・・
新しい年もまたよき年でありますように祈り申し上げます 」

李渭賢さんは、知の木々舎創刊当時の執筆者のおひとりでした。戦前の台湾で日本語で教育を受けて、美しい日本語を話されます。「サンパウロの街角」からのタイトルで、地球の裏側から原稿を送っていただきました。ペンネームのケネス・リーで検索すると、今でもすぐご覧になれますが、シリーズは20回ほど続きました。
今は寄稿こそないものの、熱心な読者として、『知の木々舎』を支えて下さっているのを実感するメールでした。

◆今年5月で10周年を迎えるのを期に、整理しているた書類の中から、PHP研究所の『ほんとうの時代』を見つけました。亡くなったフリージャーナリストの加藤仁さんが、創刊間もない『知の木々舎 』を取材、4ページに渡って紹介して下さった記事が載っています。

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「ほんとうの時代」の表紙と目次(目次の中にマイネクストステージの字が見える。

「マイネクストステージ」というタイトルはまさに、『ほんとうの時代』のテーマである、50代からの新しい生き方を提案する場にふさわしいものでした。
大人が知的に学び、遊べる場として紹介された記事を、当時の執筆者の皆様にはコピーをお送りしてお知らせしたのをおもいだします。
無名の『知の木々舎』を取り上げてくれた最初のメディアでした。

武蔵野の地、立川で旗揚げしたことから、武蔵野の雑木林に様々な木が生い茂るように、多様な知を提供したいとの思いを込めて名づけた『知の木々舎 』は、「くらしの中へ句読点」をキャッチコピーにしました。このコピーは『知の木々舎』をひらいたときに最初に目に入るテンプレートにはめこまれています。

昨年、これも創刊時にご縁のあった竹山昭子さんから頂いたメッセージには「世に数多ある出版物の寿命は短くて3か月、一般的には3年」とありました。
こうした言葉をかみしめながら10周年を迎えられることに深い感慨を覚えます。

長い間には記事の入れ替えはつきものです。終了の寂しさはおおうことはできませんが、不思議に、入れ替わるように新しい記事が誕生しました。
ご縁をいただいた100人を越える執筆者の皆様とともに、或いは読者とともに、いっしょにつくってきたのだという思いを強くしています。

今年も雑記帳は町歩きを中心に、見過ごしていた小さな事ごとに目をこらして紹介していこうと、思っています。

◆国営昭和記念公園の古民家の倉では、武蔵野の農家に伝わる様々な正月飾りが展示されています。

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◆新年の新たな記事は『西洋美術研究者が語る日本美術は面白い』です。100回に渡って西洋美術を紹介してくださった斎藤陽一さんが、日本美術に挑戦します。
第1回目のシリーズは「琳派の魅力」。「琳派とは何か」を皮切りに、先々のシリーズも見据えた、日本美術再発見の始まりです。ご期待ください。

◆横山貞利さんの『徒然なるままに』が12月をもって終了しました。美しい日本の風景や詞の世界は郷愁にあふれ、わたしたちの琴線にふれるものでした。横山さんとは、『浦安の風』で辛口の世評を展開して、創刊以来のご縁でした。長い間、ありがとうございました。

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雑記帳2018-12-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-12-15
◆久々のお江戸まち歩きは「神楽坂Ⅱ」です。

前回歩いたjR飯田橋駅から江戸城外堀を渡って坂道を上るコースは極めてポピュラー、誰もが知る神楽坂でしたが、今回はちょっとマイナー。学生時代を早稲田で過ごし、神楽坂は毎日の通学路だったという人さえも知らなかった江戸を巡りました。

集合場所の東西線神楽坂駅の出口にある矢来町は、家光、家綱、綱吉時代に大老を務めた酒井家の江戸屋敷があったところです。小堀遠州の手がけた庭は家光好みとされ、家光はこの屋敷を141回(!)も訪れています。江戸城の大火の折には70日もの長逗留、警護のために周囲を竹やりで囲ったのが矢来町の名の由来とされています。塀にしなかったのは、外を通る人にも庭が見えるようにという粋な計らいだったとも言われています。
  
歩き始めて最初に目についたのが「生田春月旧居跡」。大正から昭和にかけて活躍した詩人は、ハイネの全詩を翻訳しました。ハイネの詩は昭和期の多くの学生に愛されて、春月の名は知らずとも、今、彼の訳したハイネを懐かしむシニアは多いかもしれません。
プレートで分かるようにこの辺りは天神町。矢来町もしかり、町を歩けば牛込、弁天、榎町など、随所に古い町名が残っているのに気付きます。新宿区のプライドが覗くようです。

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大通りから少しはいった通りには製本、印刷の小さな会社がたちならんでいました。かっては賑やかだった業界も今では斜陽産業、人通りもなく、めだつのは大日本印刷の大きなビルだけです。ここは慶安事件で知られる由井正雪の学塾があった場所で、一時は3000人の門弟がいたといわれています。
当時、江戸中にあふれていた浪人たちの不満を幕府に向けた正雪の乱は内通により失敗におわりましたが、徳川家3代続いた武断政治から文治政治へ舵を切る転換点になりました。成功はしなかったものの政治を動かしたという点では、或る意味、本望だったのかもしれません。

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臨済宗の済松寺は京都妙心寺派の寺です。
叔母の春日の局の招きで大奥に上り、大奥の女性たちに禅の教えを説いた祖心尼(俗名おなあ)のために、家光は、350石、1万2千坪の広大な寺院を建てました。芝にある、かの増上寺が500石、2万坪と聞けば、済松寺の格の高さ、大きさは想像がつくというものです。(寺の石高はおよそ大名領地の2000倍に相当するそうです)
敷地を外堀通りで分断され、大半は駐車場になっているため、当時の面影を外から見ることはできませんが、中に入れば庭はまるで深山幽谷のよう、墓地には名のある大奥の女性達の墓が並んでいました。見せてもらった庭は、普段は公開されていないということです。

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済松寺本殿
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谷底に池もある、深山幽谷の気配のある庭 
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祖心尼の墓

その外堀東通りを早大通りを過ぎて北に進めば、元赤城神社跡に小さな田島森神社があります。ここは群馬県大胡から牛込に移住してきた大胡氏が、最初に故郷赤城山麓の赤城神社を勘請した所です。一帯には律令の昔から牛を放牧した官制の牧場がありました。

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田島森神社

仕えた主君は上杉、北条、豊臣、徳川と、変わり身の早かった大胡氏については前回の「神楽坂まち歩き」で述べたとおりです。
現在の赤城神社は神楽坂通りの今も人気のスポットにありますが、建物は建築家・隈研吾氏のデザインで今風に生まれ変わっています。

大胡氏が牛込氏と名を変えて城主になったあと建てた曹洞宗・宋参寺は弁天町にあり、墓地は、歴代の牛込氏の墓と同時に、山賀素行の墓があることで知られています。牛込氏の墓は都指定、山賀素行の墓は国指定の史跡になっています。

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宋参寺の山賀素行の墓

江戸時代前期に兵学を指導した山賀素行は一時期、播州赤穂にも出向いたことがあって、教えを受けた中にのちの大石蔵之助がいたことから、山賀流の陣太鼓は『忠臣蔵』では赤穂浪士の吉良邸討ち入りに欠かせない小道具になりました。実際に打ち鳴らされたことはありませんでしたが、降り積もる雪とともに、舞台効果は抜群でした。雪も創作、この夜は晴天だったということです。

牛込は明治の文豪、夏目漱石のゆかりの地です。その誕生は『知の木々舎』に連載中の『正岡常規と夏目金之助』に、喜久井町の夏目坂とともに詳しく紹介されています。ロンドン留学から帰って来た漱石が一時身を寄せた矢来町の旧新潮社の建物は神楽坂の駅出口の目の前であり、妻鏡子さんの実家のすぐ近くでした。
その漱石が晩年を過ごした早稲田南町の旧居は「漱石山房」と呼ばれ、多くの門人が集いました。亡くなった時は僅か49歳でした。
新宿区では300坪ほどのその地の一部を公園として整備し、漱石生誕150-年にあたる2017年に漱石山房記念館を建てました。 公園入り口には漱石の胸像、園内には猫塚があります。猫塚とはいうものの、「吾輩」の猫ではなく、漱石没後に家族が飼っていた犬や猫、小鳥たちの供養のために建てられたそうです。
「道草庵」では漱石や漱石山房に関する資料が展示されています。


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漱石山房

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道草庵

外堀通りにもどると、通りからちょっと入る形で、目立たないながら多くの寺院がならんでいます。
そのうちの一つ、多門院には松井須磨子の墓があることで知られています。
島村抱月とともに芸術座を組織、新劇女優として全国的に人気を博した松井須磨子でしたが、1918年のスペイン風邪で抱月が急死すると、ニヶ月後、劇場の敷地内で後を逢いました。ふたりの墓は並んで建てることはできませんでしたが、多門院には「芸術比翼塚」があります。
偶然、訪れた日(12月8日)は抱月・須磨子没後100年を記念して、寺では奉納イベントがおこなわれることになっていました。イベントで挨拶をする女優の栗原小巻さんを乗せたタクシーが、坂を登る私たちを追い抜いて行きました。

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多門院
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松井須磨子の墓

和算家の関孝和の墓は浄輪寺にあります。孝和は従来の算木を使う方法から未知数を文字であらわして筆算による代数の計算法を発明しました。その筆算を用いて円周率を小数第11位まで計算した天才です。墓は舟形をしていました。

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舟形をした関孝和の墓

ランチに立ち寄ったラビチュードはフランス家庭料理の店です。
たっぷりの前菜からはじまって、魚料理も肉料理も出る、ボリューム満点のお昼になりました。

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野菜たっぷりのメインディッシュ

ラビチュードの近くには林羅山一族の墓地、地下鉄牛込柳町へ出る途中には近藤勇の道場「試衛館」のあとなどを見ることができます。
林家の墓地は中へ入れず、試衛館跡はその標識がたつのみの、地味なスポットではありますが、江戸初期から幕末まで、流石は牛込・神楽坂、多くの人材や史跡を遺して、興味はつきない場所でした。

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雑記帳2018-12-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-12-1
◆“東京の頑張る農業応援バスツアー”、今年は小金井市でした。

東京都内で活動する消費者団体と東京都との協働事業である東京都消費者月間の一連の事業の中に、東京の農業を巡るバスツアーがあります。
「食と農」を考える契機として、また東京の農業を応援する活動の一つと位置づけられて、今年で11年目になります。
東京都内からの参加者70名で今年訪ねたのは小金井市の4軒の農家でした。

一番目のNさんは西洋野菜を育てる、若い生産者です。
住宅に囲まれた、さほど広くない畑(25アール)で、ビーツ、サボイキャベツ、カリフローレ、ケール等の西洋野菜の栽培に取り組んでいました。

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サラダ用ケール
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サボイキャベツ
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カリフローレ(生でも食べられる)

きっかけは、サラリーマンから転身して立川市の農家で研修した折に、ロメインレタスに出会ったことでした。まだ西洋野菜を栽培する農家は少なく、単価の高いのが魅力だったと言います。
例えばサボイキャベツなら、都内では1個800円もするそうです。
西洋野菜は使用できる農薬が限られているので、どうしても虫食いは出てきます。
そんな苦労もありますが、直売所やイトーヨーカドーの地場産コーナーで売るほか、レストランでの利用もふえてきたということです。

武蔵野の新田開発に大きな役割を果たした玉川上水は、五日市街道に沿うように流れています。350年前に開かれて以来、この玉川上水から引かれた分水路は武蔵野の農業を発展させました。小金井市には今でも開発時の区割りが残っているのを見ることが出来ます。
五日市街道と小金井公園の間に、「小金井江戸の農家みち」と呼ばれている小道があります。その、1,5キロの小道には11軒の直売所が並んでいて、読売新聞で取り上げられたことから有名になり、町おこしに一役かっています。

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農家みち

この日伺った4軒の農家のうち3軒は、この農家道沿いにありました。
2軒目のOさんの畑は小金井公園のそばにありす。
50アールの広い畑に、果樹から野菜まで多品種を栽培しています。
中でも自慢のルバーブはジャムに加工して人気です。

まだなじみの薄いルバーブはシベリア産。ヨーロッパではよく栽培されている、ふきに似た、たで科の野菜です。食物繊維、カリウム、カルシウムを多く含んでいて、注目の野菜だとか。5月に花が咲いて、収穫のピークは秋です。
葉や花は食べられませんが、茎は程良い酸味があり、ジャムに加工したり、コンポートにすればタルトやパイに使えます。茎の色が赤いほど奇麗なジャムになるのだそうです。
シベリア産だけあって暑さに弱く、今年は暑さが続いてうまく育たなかった、下手だと思わないでと、笑って案内してくれました。

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ルバーブ(茎の赤いのがいい)
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ルバーブのジャム

Oさんのもう一つの自慢は江戸東京野菜です。
畑には芯とり菜、大蔵大根、金町小カブ、亀戸大根などが作付けされていました。
こちらも、今年の夏の暑さや台風の強い風のために育たない野菜が多かったということでした。

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江戸東京野菜の畑 畑の向こうは小金井公園

江戸東京野菜は、江戸時代から昭和40年頃まで、東京都内の農地で栽培されていた固定種です。それぞれの野菜に歴史的な背景や物語があり、旬があります。
品種改良されて来た通常の野菜(F1種)と違って、代々受け継がれてきた江戸東京野菜は、同じように作っても形がそろわなかったり、収穫時期もまばらで量も少ないなど、手間がかかりますが、土地本来の気候風土や地域の特性を活かして育った野菜は個性豊かで味わい深いと、今、注目されているのです。
小金井市では、江戸から続く野菜をつないでいこうとの思いから、江戸東京野菜使用店を認定して普及に努めています。
店はカフェや割烹、お菓子やパン、フレンチレストランや居酒屋までおよんでいます。
いずれも、栽培が大変な中で長年繋いできた農家の思いを商品やメニューに活かそうと努力している様子です。

60アールのSさんの畑は、周囲を住宅に囲まれていました。
ここで、トマトやトウガラシ、ピーマン、玉ねぎ、レタス、枝豆、サツマイモなど、50品目以上の野菜を栽培しています。
中でもブロッコリー、大根、キャベツは小金井の土壌にむいているという話でした。
土づくりは有機肥料を使って安心安全を心がけ、さらには減農薬25%で東京都のエコファーマーの認定に挑戦したいと意欲的です。
回りを住宅にかこまれているため、騒音を避けて早朝のトラクターの耕作はやらない等、都市農業ならではの苦労があるようでした。
みかんの古木は30年になります。
温暖化の影響で、この辺でも美味しい蜜柑ができるようになったのを受けて、早生や極早生だけでなく、清見や晴香などの晩柑類にもトライしたいと語っていました。

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周囲どちらを見ても住宅に囲まれた畑
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直売所の中にも「小金井江戸の農家みち」

小金井にははけと呼ばれる、多摩川が作った崖線があります。
4軒の農家のうち3軒ははけの上、最後にたずねたKさんの畑ははけの下にありました。はけの上と下では気温も2、3度違います。
Kさんは鉢花や花壇苗を生産しています。
2棟のハウスでは今、クリスマス用の出荷を控えた5000鉢のポインセチアがならんでいました。

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出荷まじかのポインセチア

メキシコ原産のポインセチアは、ヨーロッパで品種改良されてきました。
12月に出荷するためには、7月に苗を鉢に入れます。
植物は性質をつかむのに時間がかかるので、50の手習いで始めてから15年になるが、まだまだ分からないところが多いと笑っておられました。
また、肥料の液肥は、購入時に苗とセットになってくるので、マニュアル通りに作ればそれなりに誰でも栽培はできる。そうはいっても、気象などの条件が変わるとマニュアル通りにいかないのが面白いのだそうです。

ポインセチアの赤い花のように見えるのはガクで、ガクの間に小さくついているのが花です。陽が当たりっぱなしではガクは赤くなりません。
家に持ち帰ったら、ガラス越しに陽のあたる窓際において、夜はカーテンを閉めるようにと教えてもらいました。

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昼食と交流は駅近くの前原集会場でおこなわれました。
江戸野菜をたっぷり使ったお弁当はカラフルで ボリューム満点。参加者は大満足でした。

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江戸野菜たっぷりのお弁当

グループに分かれた交流会の私のテーブルでは、農家のWさんの、定年後に就農して100種以上の野菜を作っている話、一年中何かしら作っているので休みはないが、農業は楽しくなければという話に、皆一様に感動した様子でした。特に都内からの参加者には多摩の農業にじかに触れる経験は心に残るもののようでした。

小金井市の女性農業委員の松嶋さんからは農家みちができた経緯をうかがうことができました。この道を再発見し、まちづくりにつなげたのは、町歩きをしていた若いお母さんたちでした。
身近にあるこれだけ豊かな東京の農業がこれからも続いていくことを望まない人はいないでしょう。 けれども相続の度に農地は分割され、切り売りされていきます。後継者がいないという問題を抱えている農家も少なくありません。都市の農地は資産ではなく、農業をするための道具だと考えるような国の施策が必要なのだと思えてなりません。

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小金井市の女性農業委員の松嶋さん


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雑記帳2018-11-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-11-15
◆再びの小金井公園、江戸東京たてもの園は雨の中…

一昨年の台湾の世界詩人会議に出席した仲間4人の同窓会は、この度はメンバーの志田さんの提案で、江戸東京たてもの園に決まりました。
この半年間、お父上の王育徳氏の記念館建設でいそがしく日本と台湾を行き来していた近藤明理さんがようやく一段落した様子をみてのお誘いでした。
これが思いがけない、明理さんへの贈り物になったのは当日になってわかったことでした。

志田さんも私も何度か訪れたことのある場所ですが、来る度に何かしら新しい発見があり、それも初めての人が一緒だと、また面白いものです。
今回はおもに東ゾーンを案内のボランティアさんと共に廻りました。

東ゾーンには大正から昭和に活躍(?)していた商家や銭湯、居酒屋などが並び、下町の風情を楽しめると人気です。
下町仲通りには伝統的な出桁(いげた)造の商家や、この時代を代表する看板建築の商店がならんでいます。
看板建築は、関東大震災後、鉄筋コンクリート造で建てるだけの資力がない、中小規模クラスの商店によって数多く建設されました。軒を張り出した伝統的な造りと違って、垂直に立つ壁面が特徴です。かつての伝統的な町屋に代わる洋風の外観を持った店舗併用の都市型住居でした。
第二次世界大戦後もバラックを経て、震災後とはデザインを変えた看板建築が数多く建てられましたが、建築基準法改正で建てられなくなったり、80年代のバブル期に取り壊されたりの経緯を経て、現存する建物は少なくなりました。そのいくつかが江戸東京たてもの園に引き取られたのです。

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看板建築の三省堂文具店と花市生花店(左は休憩所)

看板建築は内部も工夫が凝らされています。武居三省堂は明治初期に開店した文具店です。建物は震災後に建てられたもので、前面がタイル張り、内部は狭い空間をすきまなく利用して、信じられないくらいの収蔵量です。

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壁一面の小引き出し
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壁や天井までの空間を利用した棚

道路をはさんだ向かいに建つ大和屋本店は港区白金台に1928年(昭和3)に建てられた木造3階建の商店です。こちらは3階の軒下を出桁造りにするいっぽうで、間口に対して背が非情に高く、看板建築のようなプロポーションです。

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大和屋本店
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店内の昆布や煮干しはほんものそっくり

下町仲通りの付き当りにあるのは子宝湯です。
足立区にあった、東京の銭湯を代表する建物です。
宮崎駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」のモデルになりました。
ちなみに銭湯の経営は肉体的に厳しく、辛抱強い人でないと務まらないと、昔から東北出身者が多かったと聞きました。

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子宝湯
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男湯の脱衣場
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おなじみ、富士山の絵は男湯にだけ描かれた

万徳旅館は青梅市の青梅街道沿いにあった旅館。江戸末期に創建されて、富山の薬売りや江戸からやってくる御岳講の庶民の常宿になっていました。平成9年に移築されるまで現役でした。

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万徳旅館

東ゾーンのはずれに立つのは万世橋交番です。東京駅を建てた辰野金吾の設計によるもので、明治後期のものと言われます。
神田の万世橋からこのたてもの園に移されるとき、解体せずに、トレーラーでそっくり運ばれたそうです。

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万世橋交番

センターゾーンには明治から昭和の初めにかけて国政を担った高橋是清の住まいが展示されています。2・.26事件で命を落とした是清は戦争反対の立場で、軍事予算を削減、軍部に強く抵抗したため、ねらわれたのでした。建築当時のうねりのあるガラスは今では手に入るすべもなく、二階の廊下のひろいガラス窓からは、主も好んだという、建物と一緒に移された庭をみおろすことができます。

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高橋是清邸
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二階の廊下から庭を見下ろす

江戸東京たてもの園を訪れる人の一押しはなんといっても西ゾーンの前川國男邸です。
コルビジェの弟子だった前川が品川・大崎に建てた家はあくまでシンプル。モダンなトイレやバスルームは昭和17年築とは思えず、、彩光に工夫をこらした広い吹き抜けの居間はなんとも居心地よく、何度来てもあきません。

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前川國男邸
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西ゾーンには山の手通りと名づけられた通りをはさんで、前川邸のほかに、田園調布の家やデ・ラランデ邸、三井八郎右邸衛門邸などが建ち並び、思わず住みたくなるお洒落な街をつくっています。
その一角、デ・ラランデ邸でお茶をいただました。晴れていれば外のテラスでとなるのですが、あいにくの雨。明治末期の居間やダイニングルームの窓枠や飾りがおしゃれです。

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デ・ラランデ邸
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デ・ラランデ邸のダイニングルームで
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三井八郎右衛門邸のルネ・ラリックの証明

さて、この日の待ち合わせ場所はたてもの園の入口でした。
正面入り口のビジターセンター(旧光華殿)は、1940年(昭和15)、皇居前広場で行われた紀元2600年を祝う式典のために建設された式殿でした。
その式典に、明理さんのおじいさんがはるばる台湾から参列していたのでした。
式殿は光華殿と名づけられて、翌年、小金井緑地(現小金井公園)に移され、江戸東京たてもの園の開設と同時にビジターセンターとして生まれかわったのです。
少し早目に到着してビジターセンターの歴史を聞いた明理さんは、台湾が日本統治下にあった時代やおじいさんのことを、ご両親から聞いていたことを思い出したようでした。
白色革命で台湾を離れたお父上の記念館が故郷台南市に完成し、先日式典がおこなわれたことを思い合わせると、この日の小金井公園訪問は明理さんにとって、これ以上のタイミングはなかったのではないでしょうか。

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旧光華殿の手すりによりかかり、感慨深そうな明理さん


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雑記帳2018-11-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-11-1
◆『地球千鳥足』の小川彩子さんの小川地球村塾におじゃましました。

府中市にある小川邸で、小川地球村塾のパーテイが毎年、春と秋に開かれています。
小川さん夫妻が100か国以上をバックパッキングして知りあった、世界からのゲストを迎えて、国内の数十人の友人たちが集います。

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今年のゲストはイランのカップル、アミールとマハシです。
アミールは小川さん夫妻がアルメニアで出会って、ジョージアで再会、イランで家庭訪問という、なんともドラマテイックな出会いをした若者でした。
イランでは「My home is your home.]と言うアミールの、夫妻それぞれの実家に招待されて、大歓待をうけたそうです。

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アミールとマハシ
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インテリアもイラン風

この半年の間に、ご主人の律昭さんは事故が相次ぎました、。
室内の階段をすべり落ちて足を骨折したり、自転車でころんで頭をけがしたり。それでも、骨折時には松葉づえと車いすで免許証更新のためにアメリカまで出かけた、めげない86歳です。
こんな元気なお二人は、人生100歳時代を先取りするシニアの手本として、最近テレビでひっぱりだこのようす。三度もテレビ局からのインタビューを受けたことが報告され、日本テレビのインタビューの録画をみせてもらいました。

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挨拶する小川地球村塾村長

16年前にイランで結婚式を挙げた稲葉さん家族も出席していました。
稲葉さんは彩子さんとはバックパックでイランで出会った仲間です。まだイラン旅行がめずらしかった頃のことです。
奥さんもイランが大好きだったので、結婚式をイランであげるべく、大使館にも相談に行ったそうです。そうしたら、なんと、馬車まで出して村をあげての由緒ある結婚式をあげてくれたということです。馬車に乗る二人は現地の新聞にもとりあげられ、この日は、16年前のその新聞記事が紹介されました。(イランの新聞なので、当然、イラン人のアミールが英語で通訳しました。)

壁に、西条八十作詞、近衛秀麻呂作曲の「虹」という歌がかかっています。
詞の中に「彩」という文字がはいっていることもあって、これこそまさに地球塾の歌、と、彩子さんはこれを塾歌にしたのでした。なにしろ、「彩子」は徳富蘇峰につけてもらった名前だからと、「彩」には特別な思いがあるのです。2番は地球村塾の塾生の菊池さんがつくりました。

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ワインやビールでポトラックに持ち寄った料理をつつきながら、秋乗のあちこちで交流が進みます。私も隣のリサ・マイヤーとおしゃべり。
彼女はCAですが、日本語が大好きで、50歳になった今、渋谷の日本語学校で日本語を学んでいます。英語まじりの日本語の会話は、まだ来日して2か月とは思えないほどでした。

自作の絵を披露したり、余興に皿回しをする人もいます。
スピーチでは、運河の船旅でオランダを自転車旅行したという辻さんの話が、いつか自転車旅行をしたいともくろんでいる私には、おおいに参考になるものでした。

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床に座っているのが彩子さん

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皿回しを教わるリサ

そんなこんなで出席者はみな個性派ぞろい。楽しい時間はあっという間にすぎ、「今日の日はさようなら」をみんなで合唱してお開きとなりました。

翌日、アミール夫妻を招いてのお好み焼きパーティでは私も腕をふるう(?)ことになりました。お好み焼きも、具材の豚肉も、初めての経験だと、大層喜んでもらえました。
ただし、具材に不可欠と思っていた桜エビがだめだったのはちょっと残念でした。

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彩子さんの友人、星家でのお好み焼き

イランはいま、アメリカのトランプ大統領の封じ込め政策の下で、猛烈なインフレだそうです。物が入ってこない日々、アミールたちは恵まれた少数派ですが、ブラックマーケットでしのぐくらしは日本の戦後を思わせます。政治的にもなかなか改革はすすんでいません。世界的な風潮になっている、宗教や主張を巡って、リーダーが分断をあおるのはそうすることで統治しやすい環境をつくっているのだと、話は国内外に及びました。

◆東京は農業だけでなく、林業や水産業だってあります。

立川市と昭島市の境に東京都農業試験場があります。東京都の農業に関する試験研究機関ですが、秋にはそこで、「東京の農林水産フェア」が開かれます。よく晴れた秋の一日、多摩川の崖線の上に建つ会場をのぞいてみました。

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農業試験場
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ツリークライミングは子供たちに大人気。
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多摩産の木材で工作教室

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東京紅茶や人参ジャムなど農産物の加工品もこんなにあります。

ちょっと気分転換に、野菜のクイズはいかがですか。

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試食の八丈島のつみれ団子汁はおいしかった! つみれの材料は特産のトビウオとムロアジです。このほか、園芸教室や試験研究の展示もあります。東京の地酒の試飲には行列ができました。
農業も林業も水産業もある、東京は全国の縮図です。その豊かさが地方の豊かさにも思いをはせた一日でした。



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雑記帳2018-10-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-10-15
◆「雑木林には神様がいる」!

所属する団体で、この春「暮らしの中の漢方」というテーマで学習会をしたところ、予想以上の反響で、人気が高かったことから、その続きとして、秋に、都立薬用植物園の見学を企画しました。講師は春にお願いした生薬協会の山上勉さんが務めてくださいました。

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園内には立派な温室もある。

急に気温のさがった9月26日、20人の参加です。

小平市にある薬用植物園は9,500坪。植物園としては規模は小さいほうです。
小石川植物園ははその5倍、調布の神代植物園は16倍もあります。
規模としては小さいけれど 栽培されている植物は1,600~1,700種もあり、種の数としては相当なものです。
漢方植物、山野草、雑木林のゾーンに別れ、雑木林は3分の1を占めます。

山上さんの説明を聞きながら園内を歩いて、ごく身近にある樹木や草が漢方の材料になることを学びました。そのうちの幾つかをご紹介しましょう。

先ず目についたのは桜の木。樹皮は桜皮と呼ばれせきとめに効きます。
次ぎに山上さんが是非と言って案内してくれたのがオタネニンジン(朝鮮ニンジン)のコーナーでした。
原産地は北朝鮮のペクトゥ山。
江戸時代、病気の親の薬代にと身を売った娘たちを詠んだ川柳があります。「大病に女衒のみゆる気の毒さ」
この高価な朝鮮ニンジンに関心をもったのが8代将軍徳川吉宗で、全国に忍びを送って調査させた記録が「野州日光見聞録」として、今も残っています。 
由来は吉宗自ら種をうえたことから、この名がつきました。
直射日光や風をきらう、連作ができない(土地がやせるので収穫後7年は作付けできないと言われます)など、栽培は難しく、今でも高価です。

薬用植物は様々な部位が生薬になり、部位によって呼び名も変わります。
たとえば、葛の根は葛根(カッコン)、葛の花は葛花(カッカ)のように。
すいかずらの花は金銀花、葉は忍冬と呼ばれます。
漢方薬の中でも最もよく利用されているマメ科の甘草は根が使われます。
リュウカクサン、カッコントウ、トンプクなど、ツムラの生薬127種のうち95種までカンゾウが使われているのだそうです。取り過ぎると低カリウム欠症になるので、トンプクなどの服用には時間をあけるなどの注意が必要です。
ちなみにノカンゾウ、ヤブカンゾウといった野草のカンゾウはユリ科で、全く別の種類です。

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根がこんがらがるので筒の中で栽培されています。

秋の七草のうち、はぎ、オミナエシ、フジバカマ、キキョウ、クズの5種は生薬になります。例えばキキョウ湯はのどの痛みに効きます。

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クズ(風邪や胃腸炎に)
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ハギ(根はめまい、のぼせに効く)
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オミナエシ(解熱、解毒作用があるといわれる)
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フジバカマ(利尿作用がある)
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トウガン(薬用部位は種。利尿、消炎、排膿など)
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ヘビのような形をしたヘビウリ(かっては実のエキスをしもやけ等に使った。食べられます)

この植物園で一押しはケシ・アサ栽培区でしょうか。
ケシはモルヒネなどのアヘンアルカロイドを含み、鎮痛、鎮咳薬等の製造原料となります。
アヘン法により栽培は禁止されているため、数か所の防犯カメラに二重の囲いという厳重な警戒ぶりです。
10月に播種し、5月開花のケシ畑は、ゴールデンウィークには2,000人以上の来場者で賑わうそうです。
ケシを栽培しているのは全国に、ここと、四国の牧野記念植物園のみです。

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厳重な金網の向こうにケシ・アサ試験区

新薬は単一成分なので合成できるため、新しいものがでるとどんどんとって代わられます。一方、多成分系の生薬は合成ではできないため、寿命は長く、葛根湯は1500年も飲まれています。

薬用部位が根の場合は摘芯、摘花を行って、花を咲かせないようにします。
植物は花だけがすべてではないのです。終わってもすてきなものはたくさんあります。たとえば、シモバシラ。秋の花がおわって、枯れた茎に冬、氷の結晶がついて美しい霜柱になります。花がすべてではないのは人も同じですね。

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山野草コーナーに咲き残っていたシモバシラの花

最後に、「神様に会いに行きましょう」と、案内されたのはクヌギとコナラの雑木林です。
キンラン、ギンランなどの希少種も見られる林の中で、山上さんはある年、カタクリの群生する場所が変わっているのにきづきました。
だれの仕業か。・・・蟻です。
かたくりにはわずかだがエライオソウムという甘い物質があり、それを蟻が好む。→エライオソウムはわずかなので、種が残る。→蟻はそれを自分の巣から別の所に運ぶ というわけです。
このことは、実は、同じ場所に長い間同じものを育てると土地がやせてしまう、連作障害を防いでいるのです。
「ゴミになった種を巣からはこびだすのって、蟻の本能じゃないですか。」
「そう言ってはあまりにも夢がない。蟻を使って連作障害を避ける自然の摂理を作ったのは神様しかできないではありませんか。私は毎日神様に会いにここに来ているのです。」素敵な山上さんの言葉でした。


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薬用植物園の雑木林

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雑記帳2018-10-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-10-1
仙北市の旅の2日目は田沢湖町での収穫体験。きりたんぽにも挑戦しました。

二日目も雨。
前夜、農家とペンションに分かれて宿をとった私たちは、再び、迎えのバスに乗り、収穫体験予定のアグリアサノファームにむかいました。
この雨では畑に入るのは難しいと言いながらも、職員さんが用意してくれた長靴と雨合羽に着替えるうちに、ほどなくアサノファームに到着。元気な浅野さんがでむかえてくれました。

アサノファームでは仙台など各地からの収穫体験者をうけいれています。
自然農法で育てた野菜は元気でおいしいいと評判だそうです。
「今年の一番の畑の敵は、タヌキとカラス、それに高温と日照りだったわね。」
そういえば、我が立川でも、農家の悩みはカラスとハクビシン、ムクドリの大軍です。

雨が少し小降りになったのを見計らって、浅野家のすぐ近くにある畑でトウモロコシをもぎました。
タヌキを3匹つかまえたという、ネズミ獲りを大きくしたようなタヌキ獲りのワナと一緒に、カラス除けのカイトが畑に存在をほこっています。「線路はつづくよ」で、岩本さんが撮った写真にもカイトがあったことを思いだしました。カイトはあんまり役に立たないようだと浅野さんは笑っていましたが、結構、あちこちで活躍したのですね。
わなにかかったタヌキはご主人が山へ放したそうです。3匹はそれぞれ別のときにわなにかかったけれど、大きさから判断して、家族かもしれないと浅野さんは話していました。山で家族が再会できたとしたら、嬉しいですね。


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トウモロコシ畑で今年の出来具合を説明する、元気な浅野さん
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今年の人気者(?)カイト
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これで3匹捕獲したタヌキワナ

多品種を栽培している畑ではどの野菜もみんな元気。大葉が虫食いでないのに、みんなびっくりでした。農薬の代わりに天敵をつかうのだという話でした。

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虫食いのない、みごとなオオバ

収穫の後は浅野家の居間でお焼き作りをしました。長野のお焼きとちがって、こちらは餅粉の皮に中身は甘いあんこです。
ホットプレートで焼く、ちょっと焦げ目のついた餅粉の皮がなんともこうばしくて美味しかった!

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餅粉の皮にあんこをつつんでおやきを作る作業も和気あいあい。

お昼は民宿「かまど」で、もいだトウモロコシを味わいました。
出された漬物は多種多様、中でも自慢の葡萄漬けは美しい色あいです。まだ葡萄のとれない今の季節は、カシスで色を出すのだとか。秋田では主婦は漬物がつくれなければ一人前とは言えないのだそうです。

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秋田のつけものたっぷりの昼食は囲炉裏を囲んで

雨はずっと降り続き、雨足は大きくなるばかり。
農家のおかみさんたちはみんなして「かまど」へ手伝いにやってきていました。
囲炉裏のある「かまど」は格好の交流の場になりました。
田沢湖町の民宿では一軒に負担が集中しないように、お互いに助け合う、そんな仕組みを作っています。

昼食後はこの旅の唯一の観光地、田沢湖畔をバスでめぐりました。
あいにくの雨では、水深日本一という、美しい緑青の湖もそれと判らず、金色に輝くたつこ姫の像も雨にけぶるばかり。さすがに観光客もまばらでした。

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雨の田沢湖

1940年に発電、農業用水の利用のためと称して、酸性の源泉水の流れ込む玉川から水をひいた結果、田沢湖のクニマスはすがたを消しました。近年、中性化の取り組みを進めて、まだ生物の住める環境ではないが、徐々に水質はもどってきているという話もききました。
                                                          
宿に帰りついて、その夜は娘さんに教えてもらいながらきりたんぽ作りに挑戦です。
炊いたご飯を面棒で荒つぶし、きりたんぽ用の四角い串にまきつけていきます。1本にご飯120gが目安です。意外に簡単に作り方をマスターして褒められました。
夕食にでた美味しいきりたんぽ鍋は、出しは比内鶏でした。

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きりたんぽ作り
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ブドウ漬けは甚吉の夕食にも出ました。

三日目は乳頭温泉です。

温泉郷を取り巻くブナ林を、天気がよければ散策の予定でした。
バスの中で見せてもらった、輪切りにしたブナの板は直径30cm、これで樹齢90年ということです。ブナは杉に比べればはるかに成長が遅いのです。
成長が遅いため、樹は固くて重く、細工が難しいので建材には向きません。おまけに腐りやすいときています。
建材にはむかないけれど、植林された杉と違って保水力が強く、緑のダムとも言われます。
戦後の一時期、伐採されたこともありましたが、まがった樹を残したのが幸いして、ブナ林は復活しました。

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直径30cm、これで樹齢90年!
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雨のため車窓から撮ったブナの林

ブナの実はクマの大好物です。集めたドングリを溜めて置くクマ棚は鳥の巣のようだとか。また、春先の酸っぱい新芽も、クマは食べるのだそうです。
そして、ブナ帯はふしぎに、縄文文化帯と一致します。
豊かなブナ林は生き物に優しく、クマだけでなく、縄文文化も育んだのでした。

乳頭温泉郷は秋田の誇る秘湯です。 7湯のうち、黒湯温泉に浸かり、鶴の湯温泉でお昼と食べるという、贅沢な温泉巡りをしました。

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緑がかった乳白色の黒湯温泉
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鶴の湯温泉本陣
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ミズなどの山菜、イワナ、山の芋汁の昼食
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名物山の芋鍋 自慢の山芋だんごはつなぎもなく、おどろくほど粘りがあっておいしい。

雨に叩かれた3日間でしたが、秋田仙北地方を堪能した旅でした。
添乗員のほかに職員のお三人が付き添ってくれ、二度とない旅になりました。
田沢湖駅のホ―ムまで見送ってくれた、田口さん、伊藤さん、そして坂本君、ありがとうございました。

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雑記帳2018-9-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-9-15
◆角館祭りのやま行事は優雅で過激! お殿さまにもお会いしました。

JR東日本の「大人の休日倶楽部」のパンフレットに「五感楽農体験ツアー」を見つけたのは、夏に入ったばかりのころでした。「仙北市を暮らすように旅する」と副題がついていました。

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仙北市は10年前、角館町と田沢湖町、西木村などが合併してできた市です。
今回は、その仙北市とJR東日本の共同企画として、角館の「やま行事」、田沢湖の「トウモロコシの収穫体験」、そして、秋田の誇るブナ林の散策と秘湯めぐりが組まれていました。宿は民宿です。

最近は、物見遊山を卒業して、滞在型や社会科見学など、少し変わった形の旅がふえています。9月8日からの三日間、日程に都合がついたのを幸いに、参加を決めました。参加者は9名。予想より少ない人数でしたが、当事者にとってはまたとない贅沢な旅になりました。

9月8日、東京駅を昼前に出発した「こまち」はほぼ3時間で角館に到着。
駅では歓迎の横断幕でむかえてもらいました。

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9月7日から3日間行われる角館祭りの「やま行事」はユネスコの世界文化遺産になっています。「やま」とよばれる巨大なもっこに、人形やお囃子、踊り手をのせた17台の曳山が町中を煉り、優を競うのです。人形は源平煮合戦にちなむ武者人形だったり、歌舞伎の十八番からとられたりしますが、すべて丁(ちょう)内の人の手作りです。祭りの期間中は学校も休みになり、曳山の時間帯は交通規制で車は締め出されます。男も女も、一年中で一番気合いが入る、町を挙げてのお祭りです。

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駅そばの資料館前にかざられた「やま」
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やまの一つの武者人形

角館は言わずと知れた陸奥の小京都です。武家屋敷通りは観光の目玉になり、春の桜をめあてに多くの観光客でにぎわいます。
江戸時代中ごろから、この角館を治めていたのは佐竹家でした。
地元の寺社である神明社と成就院薬師堂の祭礼は、参拝と同時に佐竹家当主の上覧をあおいで、その伝統は今もうけつがれています。
佐竹家の現在の当主、敬久氏は今、秋田県知事です。そして、佐竹知事は角館では今でもお殿さまなのです。

ヤマは各丁内から武家屋敷通りを目指し、お殿さまの御座所の前でおやま囃子が披露されます。大小の太鼓や鼓、笛や三味線の演奏に合わせておぼこ姿の女性がヤマの前舞台で踊るおやま囃子は、ヤマが丁内を出発する時から納められるまで続きます。

私たちも駅で角館の文字のはいった半纏を着せてもらって、道々、屋台をのぞきながら、上覧の行われる武家屋敷通りを目指しました。車の通らない武家屋敷通りを歩けるのは一年中でこの時だけだということです。
最初に目をひいたのは「ババヘラ」。お婆さんがヘラですくってくれるアイスです。秋田県では何処へ行ってもババヘラの屋台をみることができるそうです。働き者の秋田の女性の象徴でしょうか。アトピーの孫でも食べられると言ってお婆さんがコーンに盛ってくれたババヘラは、乳成分のほとんどはいっていない、あっさりとした味でした。

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おばあさんがばらの形に盛るのに3年かかったというババヘラ

観光客にお馴染みの武家屋敷通りは江戸時代そのままに残り、食事処も武家作り。街並みの保存にはきびしい規制があるようです。角館のしだれ桜は、佐竹藩にお輿入れのお姫様が京都から持参した苗木がもとになったとか。開花の時期には町中にしだれ桜が咲き誇ります。

あいにくの雨模様に、道中どこのヤマにも雨除けのビニールが被せられていましたが、お殿さまの前ではホロをはずして人形を見せなければなりません。組み立てた角材をとりはずすのもなかなかの作業、さいわい17台の最後のヤマの上覧を見ることができました。

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やまの舞台で披露されるおやま囃子の手踊り

囃子に合わせて二人の女性が踊る手踊りの、シンクロした手の動きはしなやかで、思わずみとれてしまいます。紫や絣の衣裳をつけて踊る女性は名にしおう秋田美人。踊り手だけではありません。ご一緒してくれた職員も、宿の娘さんたちも、みな秋田美人でした。

そして、なんと、私たちは世が世なら拝謁できないお殿さまと御座所で記念撮影することができました。床の敷き物ですら、今でも許可が無ければ誰も踏むことができないのだとあとから聞いて赤面しましたが。

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武家屋敷通り
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お殿様の御座所(佐竹の家紋が見える)
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御座所の中で記念撮影

市役所の庁舎で休憩ののち、陽が落ちて、すっかり暗くなってから「やまぶっつけ」を見物しました。
このころには大人から小さい子どもまで祭り装束の家族連れが通りにあふれています。
狭い通りで二台のヤマが出会ったとき、どちらが道を譲るかは談合とぶつけ合いで決めるのです。観光用とはいえ、ぶつけ合いは迫力のあるものでした。囃子の奏者も踊り手もぶつかり合うヤマの手すりにしがみついて耐えます。ぶつけ合った後にもおやま囃子は競われるからです。それが3回も続きます。
観光用にアレンジされたものとは別に、本番のぶつかり合はもっと過激です。火花がとび、ヤマを曳く角材が天をつく、けが人が出たこともあると、祭りから帰って来た宿の娘さんから翌日聞いた話です。最終日の本番のやまぶっつけは深夜から早朝まで、町内のあちこちで繰り広げられるということでした。

やまぶっつけを見学して田沢湖町にある民宿に着いたのは夜も更けていました。
田沢湖の民宿の歴史は古く、昭和45年の田沢湖国体のおりに全国に先駆ける形で誕生しました。それ以降、規制緩和のもとに、民宿は全国に広がっていきました。

農家民宿とペンションタイプの中から私が選んだのは農家民宿でした。
民宿「甚吉」は築100年にもなるという建物、おかみさんの心づくしの夕ご飯は、きのこたっぷりの芋の子汁にイワナの塩焼き、秋田の食材満載のご膳でした。

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甚吉の看板
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築100年の甚吉(上写真2枚は翌日雨の晴れ間に撮ったもの)
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きのこたっぷりの芋の子汁
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ぶなの森で育った「石神大根」は驚くほどジューシー

◆『ロシア~アネクドートで笑う歴史』の筆者、川崎浹さんのインタビュー番組が公開されます。公開日時は以下です。
 テレビ東京「美の巨人たち」
 「高島野十郎の蝋燭」は地上波で9月29日(土)夜10時。
  衛星放送「BSジャパン」で10月6日(土)夜10時。

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雑記帳2018-9-1 [代表・玲子の雑記帳]

218-9-1
気温8度の地下神殿は絶好の避暑地。

例年になく梅雨開けが早かった今年は、これまでにない暑さに悩まされることになりました。「命にかかわる危険な暑さ」と言う言葉を何度耳にしたことか。熱中症で病院に運ばれる高齢者もあとをたちませんでした。「不急不要の外出はさけましょう」まるで、台風時のような呼び掛けが毎日の挨拶でした。
そんな中、「神秘の絶景大谷資料館&碧く透き通る木の俣渓谷」の日帰りバスツアーを見つけました。

四国の庵治石や水石のような硬い石を見なれた私には、なじみのないものでしたが、栃木県産の大谷石は、昔から一般の住宅にもつかわれていました。コンクリートが普及するまでは、土台石としても利用されていたのです。

石の特徴や用途はWikipediaによると、「軽くて軟らかいため加工しやすく、さらに 耐火性に優れている。このため住宅(かまど、石塀・防火壁、門柱、敷石・貼石など)、蔵や倉庫、大きな建築物の石垣、斜面の土止め石(擁壁)といった幅広い用途を持つ。耐火性・蓄熱性の高さからパンやピザを焼く窯や石釜の構造材としても用いられる」。 先日訪ねた行田の足袋蔵にも大谷石は使われていました。
多孔質の独特な風合いは、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトが、帝国ホテル旧本館(東京)に用いて広く知られるようになりました。

宇都宮市の郊外にある採石場の跡が今、資料館になっています。資料館では、8世紀、下野国分寺の土台石として使われた時代からの歴史や、手掘りから機械化された変遷を学ぶことができます。戦争中は陸軍の軍事工場や秘密倉庫にもなったとか、ちょっとミステリアスなところも人気なのでしょうか。

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資料館入り口
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展示室
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資料館近くにあるむき出しの大谷石の岩壁

石はめずらしいことに、山を削るのではなく、地下にむかって掘られたので、120段の階段を下りて行けば平均気温8度の空間がひろがります。広さは2万平方メートル、東京ドーム2個分の未知の空間は、今でも貯蔵庫として使われるほか、多くの映画の撮影やコンサート、舞台公演や展覧会などのイベントに利用されています。

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華道家假屋崎省吾氏の作品の前では朗読やコンサートも行われた。
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フランスのドンぺリオンが日本最初に上陸したときの記念のワインも展示されている。

大谷資料館近辺には食事の場所があまりないので、那須塩原のあたりで、お昼はお弁当です。
日光や那須、塩原などの観光地のある宇都宮は駅便発祥の地、その地の松廼家さんの弁当が出ました。こちらは芭蕉の「奥の細道」に因んだ弁当です。

包みには「あらたうと 青葉若葉の 日の光」。なるほど、芭蕉はこの道をあるいて日光へ入ったのかと、一人うなずいたものです。

深川で暮らしていた芭蕉の、数少ない持ち物の一つに、米入れにしていた「瓢」があったということで、折の中心には瓢の形をした玄米と白米のご飯です。(ちょうど芭蕉の生きた時代、江戸の市民の主食は玄米から白米に変わろうとしていたのです。)米粒が残り少なくなると、弟子たちがそっとお米をいれておいてくれたとか。

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                       「芭蕉気分」と名付けられたお弁当

弁当につきものの、こんにゃくやきのこ、里いも、トウガラシなどはみな芭蕉の好物だったそうです。好物は句にも詠まれてました。
    たけのこや 雅(おさな)きときの 絵のすさび
    ものひとつ 瓢はかろき 我(わが)よかな
    蒟蒻の さしみもすこし 梅の花 

この日、同時に訪ねたのは木の俣渓谷でした。
木の俣川は関東地方第3の大河、那珂側の支流です。那珂川は清流としてしられ、天然鮎の漁獲量が日本一だそうですが、上流の木の俣渓谷にも涼をもとめて、夏は親子連れでにぎわいます。この日は夏休み最後の日曜日とあって、キャンプや水遊びの車で駐車場はいっぱいでした。手をひたせば、冷たい水が心地よい。渓谷に響く子どもたちの歓声をきくと、東京の小学校ではあまりの暑さでプールも禁止になったことが思い出されました。

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エメラルドグリーンも美しい渓谷の流れ
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なぜか名前は巨岩吊り橋、歩くと揺れます。
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珍しいオオバヤナギの群生林

値段を抑えたバスツアーに参加すると、必ずおみやげを買う場所がセットになっています。今回のツアーの最後に益子の外池酒造にたちよりました。奥多摩の澤乃井酒造を見学したあとだけに、今年は酒蔵見学がつづきます。(創業が文政12年(1829年)ということですから、元禄年間に創業した(1610年)澤乃井がいかに古いかが判ります。)
外池酒造の銘酒「燦爛」は今年の全国新酒品評会で金賞を受賞しました。

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外池酒造
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蔵の中は資料展示館
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金賞を受賞した「燦爛」

造り酒屋はどこも地域の産業の担い手としてだけでなく、文化やまちづくりにも貢献しています。古い蔵を利用した併設のカフェギャラリーでは、仕込み水の水出しコーヒーや利き酒ができると人気です。「酒造りは米作り」をコンセプトに田植えや稲刈りも体験するイベントもおこなっているということでした。
参加者はさすがにお酒の好きな人が多いようで、皆両手に重そうな酒瓶をさげての買い物でした。私が買ったのは酒まんじゅう、これが意外においしかったです。

益子に入る前、これも那珂川に注ぐ江川にかかる龍門の滝を見学しました。幅20メートル、高さ65メートルの堂々たる滝です。近くにJR烏山線の烏山駅があり、列車と滝が見られると、鉄路の愛好家もよく訪れる場所だそうです。
道端の野草の中に、季節の花、キツネノカミソリを見つけました。ヒガンバナ科です。あと1か月もすれば秋の彼岸、涼しくなるのがこれほど待たれた年はありません。

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龍門の滝全景
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キツネノカミソリ

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雑記帳2018-8-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-8-15
◆この夏、東京で一番暑かった青梅を訪ねました。

連日の猛暑の中、テレビは毎日のように熱中症予防を呼びかけ、適切な冷房の使用をすすめています。も早節電の声はどこへいって聞かれません。温室効果ガスの削減よりも、熱中症で死者のでることの方が差し迫った問題になったということでしょう。

不要不急の外出は避けましょうと言われながらも、水のそばなら少しは涼しいかと、青梅市は沢井にある小澤酒造の酒蔵見学を思い立ちました。ここは、知の木々者でおなじみの『往きは良い良い、帰りは・・・・・・物語』で俳句の会、こふみ会が吟行したところです。

見学の時間まで多摩川を見下ろすガーデン、澤乃井園でしばし一休み。
庭の一角に鉾杉をイメージした歌碑がたっています。
   西多摩の山の酒屋の鉾杉は
       三もと五もと青き鉾杉
この歌が、大正12年に奥多摩に遊んだ歌人、北原白秋の詠んだ「造り酒屋の歌」の反歌であることを知る人は少ないかもしれません。「造り酒屋の歌」は、 九州、柳川の造り酒屋のあととりだった白秋が、山深い里で酒の仕込みに精出す杜氏たちの姿に、今はない生家を偲んで生まれたのでした。

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澤乃井園ガーデン
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白州の歌碑

多摩川にはたくさんの橋がかかっていますが、澤乃井園の庭から対岸にかかる吊り橋は「楓橋」とよばれています。八世紀の中頃に活躍した中国の詩人・張継(ちょうけい)の詩『楓橋夜泊(ふうきょうやはく)』から採った名前だそうです。橋をわたると、寒山寺の小さな寺堂があります。この寺にも由来があります。明治十八年、時の書家、田口米舫(べいほう)師が中国に遊学、各地を歴訪中、中国寒山寺より寄託された木像の釈迦仏一体を日本に持ち帰り、日本の中で適地を探索していたところ、この沢井の鵜の瀬渓谷を発見、当時の青梅鉄道の社長、小澤太平の支援によって、沿線の名士、文化人の喜捨を得て建立したというものです。(『今は昔 奥多摩見聞録』より) 戦争中供出されて戻ってこなかった鐘も再建されて、今でも渓谷の散策におとずれた人が鐘を突く音が聞こえます。

小澤酒造の創建は元禄15年(1702年)。都内にある9軒(休業中も含む)の蔵元の中でも最も古い歴史をもちます。看板の清酒「澤乃井」の名称はこの知がそのむかし、武蔵国澤井村だったことに因んでつけられたそうです。
創建の時作られた酒蔵は「元禄蔵」と呼ばれ、厚い土壁は外気温を遮り、今でも貯蔵庫として利用されています。
酒米は「山田錦」。食用の一般米と比べて、タンパク質や脂肪分は少なく、保水力が高いなどの特徴を持ち、粒も食用米より大きい。これを35%まで削るのです。酒の銘柄に応じて使用する米の銘柄も変わりますが、これは杜氏の親方がきめます。蒸した米に麹と酒母を加えて仕込んだのがもろみです。仕込みは3回に分けるので三段仕込みと呼ばれます。
仕込み水は高水三山を源に、秩父成層の堅い岩盤から湧き出る石清水が使われています。珍しい横井戸を見学させてもらいました。この水は澤乃井園の中にある岩からも浸み出していて、誰でも飲むことができます。こうして10月末には新酒が出来上がり、酵母を除去した生酒は火入れの後市販されます。清酒の管理は常温でもよいが熱処理をしていない生酒は冷蔵管理を、と、酒飲みには当たり前のことも飲まない私には新鮮でした。

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小澤家母屋
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酒蔵
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日本酒には珍しいj熟成酒「蔵守」も蔵の中で熟成中。
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岩清水の横井戸
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ガ^デン内にも浸み出している岩清水

ガーデン横の多摩川べりを行けば、木立の中に「青年の像」が建っています。
戦争中、青梅に疎開していた彫刻家の朝倉文雄が、50年前の東京オリンピックの際に市に寄贈したものです。

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朝倉文夫「青年像」

戦争中に青梅に住んだ作家や芸術家たちは戦争が終わると東京へもどりましたが、日本画家川合玉堂は青梅にとどまり奥多摩を描きつづけました。川合玉堂美術館は青梅線御岳駅の近くに佇んでいます。
小澤酒造の会長夫人、小沢萬里子さんは玉堂のお孫さんです。ご縁があって、知の木々舎創立まもない2010年に『今は昔 奥多摩見聞録』を書いていただきました。その中で、(多分多摩川の)水を描く玉堂や、弟子たちに向き合う玉堂の姿が紹介されています。美術館の脇には玉堂の画友、清水比庵の歌碑があります。
   山近く 水急(はや)くして まのあたり
             玉堂先生 描きたまへり

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玉堂美美術館
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清水比庵の碑

美術館のそばにはこれも小澤酒造の経営するレストラン「いもうとや」。澤乃井園にある豆腐・湯葉料理の店「ままごとや」の妹分にあたるとつけられた名前です。
昼食時には我慢した甘味をと、冷たいぜんざいをいただきました。
広い窓から見る多摩川は、一週間前の台風の余波か、 緑青の水嵩もまして、一服の涼を感じさせました。

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いもうとや
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多摩川を見下ろす窓辺
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ちなみにお昼は吉川栄治ゆかりの紅梅苑の栗おこわ御膳でした。疎開中、町の人たちとの交流も厚く、慕われていた吉川栄治は戦後、国民的作家と呼ばれたこともありました。住居は記念館になって公開されていましたが、今は残念なことに休館中です。奥さんが始めた紅梅宴も彼女なきあと、その遠縁の人が経営していると聞きました。

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汁もたっぷり、おなかも満足

◆ここで、酒にちなんだ小話をひとつ。日本酒の技と心を伝える酒匠会のリーフレットに紹介されていました。「急須は昔 酒器だった」
最近は若い夫婦の過程では急須のないところが増えているとききますが、その急須、実は昔はお酒のお燗をする道具として考えられたものでした。
中国の明の時代にうまれ、日本へは室町時代につたわりました。江戸後期、11代将軍徳川家斉治下の文化文政期(1804)~29)に煎茶が流行した折、お茶を煎じて出す器具をしてちょうどいいと普及したそうです。
高級茶の玉露用は小型で「きびしょ{急備焼)」と呼ばれ、京都の文人墨客もてはやされました。
注ぎ口と握り手のついたものが普通ですが、握り手のないものは宝便(ほうへい)とよびます。たまには燗酒でも冷酒でも急須に入れて、猪口に注いでみるのはいかがでしょう。

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雑記帳2018-8-1 [代表・玲子の雑記帳]

雑記帳2018-8-1
◆今年も立川の元気な農家をたずねました。

農業経営者クラブと消費者団体が連携して毎年、この時期に行っているのが「畑見学」です。市内北部、五日市街道沿いに広がる、都内でも有数の農地を見学して交流する取り組みは、農家にとっても消費者の生の声を聞くまたとない機会だと期待されているものです。今年は7月中旬、国分寺市と接する、市内東部の3つの圃場を訪ねました。

最初に訊ねた高杉さんの畑は今、トウモロコシです。
当主は50代、軒先販売を主体に、89歳のお母さんは現役の売り子で頑張っています。
新規就農を目指す二人の研修生もうけいれていて、一人は秋田からやってきた若い女性、もう一人は定年退職した元消防士さんです。
1月に種をまいたトウモロコシは寒さに弱い(霜げる)ので、ビニールハウスで冬を越します。5月初めに収穫を始め、7月中旬にはそろそろ終了です。
収穫のタイミングは先端部が茶色にこげかかってきたところ、それを過ぎると粒がかたくなるそうです。その時期は2~3日が勝負といいます。

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一面トウモロコシ畑
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先端が焦げ茶色になって収穫ごろのトウモロコシ

農家がこれだけ神経を使って適期をみきわめ、収穫したトウモロコシは、何と言っても軒先販売が一番でしょう。この時期、トウモロコシの軒先販売には東京でも行列ができます。
高杉さん曰く、「夜間に気温の下がる高地なら甘みはより増すけれど、東京の農家ならどこでも味は一緒です。」

2軒目の網野さんのハウスではエディブルフラワーを栽培していました。エディブルフラワーに取り組む農家は立川ではまだ多くはありません。
水やりには井戸水を使っているそうです。この地域では100メートルもほれば何処でも水が出るということでした。
路地の野菜は今、枝豆とトマトが収穫の時期です。取り立てのトマトと枝豆の試食に歓声があがりました。

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ハウスの中のエデイブルフラワーたち
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黄色のネットの中はきゅうりの苗です。
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立川のトマトはおいしい!

新藤さんは今年2月の東京都農業大会で、最優秀農業者として表彰されました。
代々植木農家でしたが、ご本人は花が好きだったので、花卉農家に転身したとか。ニチニチソウやベゴニア、コリウス、パンジー、ビオラなど、数万鉢の花を栽培しています。
切り花なら近くの日野や西砂に、鉢物なら青梅や砧、大田など、東京にも結構花市場がありますが、新藤さんは青梅に持っていくと話していました。
トネリコの林の一角ではカブトムシを育てています。お土産にカブトムシをもらって、みんなにっこり。

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ハウスの中はポットの花たちでいっぱい
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林の中のカブトムシ

今年は梅雨明けがはやく、猛暑が続いていましたが、欅やトネリコなどの大木の茂る植木畑の中は心地良い風がぬけます。あらためて、都市の中にある樹木の有難さを感じました。東京都でも、オリンピックに向けて、木陰を作ろうと呼びかけているようです。

昼食と交流は例年通り給食センターでおこないました。
この日のメニューは鰻ご飯、マメアジのから揚げに沢煮椀。
経営者クラブでは最初、トウモロコシの試食を検討していたそうですが、皮のついたトウモロコシは給食センターに持ち込むことができず、残念ながらかないませんでした。市内の小、中学校生徒数千人の給食を共同調理する現場では時間や安全面で制約があるのです。
6つのグループに分かれた交流会では和気藹々、活発な意見交換が行われました。
初めての参加者からは異口同音に、普段入れない畑に入れて農家のご主人や奥さんと話ができたことに感動したという声がきかれました。また、以前参加したことがあるが、農家の世代交代が進んでいるのを感じたという人もいました。一方、農家からは、値段を自分で決められないのが悩みという率直な声がありました。

◆7月29日、水野タケシさんの、「シルバー川柳入門」の出版記念パーテイがありました。

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会場の「クルーズクル-ズ」は日本で一番地価の高い鳩居堂の隣のビルにあります。当日の会場は50人ほどの参加者でいっぱい、水野さんの顔の広さ、仲間の多さを感じさせるものでした。
私自身は、「往きは良い良い、帰りは……物語」の風花さん、五七さんやひろばさん、「読むラジオ万能川柳プレミアム」の平谷さんなど、お会いしたことはなくても紙面でおなじみの方々にお目にかかることができました。

挨拶にたった、河出書房の編集担当者、谷口さんの話によると、シルバー世代にとって、川柳はいわば現代のツイッター。水野さんの「シルバー川柳入門」は好評で、間もなく重版も出るとか。売上は西日本豪雨の被災地に贈られるそうです。

水野さんと知の木々舎のお付き合いは、現在61回になる「往きは良い良い、帰りは……物語」からでした。
月1回の俳句の会、こふみ会が開かれると間髪をおかず会の写真がメールでおくられてくる、仕事の早い人だと思ったものです。その後、ご本人の「読むラジオ万能川柳プレミアム」(FMさがみで毎週放送される「ラジオ万能川柳」を文字におこしたもの)が投稿されるようになると、これもまた放送が終わるやいなや原稿が届く、そのフットワークの軽さに舌を巻いたのでした。それはまことに、軽さを武器に世相をきりとる、川柳の申し子のように思えました。

この日、一番の呼び物はあらかじめつくってもらった川柳を「ひど井どつき」なる水野さんが講評するというものでした。ひど井どつき」は俳句会の売れっ子、夏井いつきさんのパロデイというのですから、こちらも如何にも川柳です。
5人の出場者の川柳は、才能あり、凡人、才能なしなどと評価されるのです。お題は「老眼鏡」。今はやりの「ハズキレンズ」でもOKです。
そのうちのお一人、多比羅孝さんの川柳の評価はなんと「才能なし」でした。
多比羅さんは実は、30年前に水野さんが通った「コピーライター教室」の先生です。
「スカッとさわやかコカコーラ」で知られる、コピーライターの草分け的存在。その師匠にむかって「才能なし」とは…と一瞬、誰もが思ったはずです。コピーライターの世界では重鎮でも川柳は畑ちがいということでしょうか。
そして、ひど井先生は自らの模範川柳「南果歩 ハズキレンズを まっぷたつ」を披露し、胸をそらして「川柳はこれですよ、これが川柳です」とおっしゃる。その時の水野さんは少年のようでした。

一方、多比羅さんは、終わりの挨拶で、30年前の教室で、「清少納言に野球を教える」という課題に、水野さんが如何に真剣に取り組んだかをあかしました。その時の姿勢が今日の水野さんを作った、と、あくまでも優しい多比羅先生でした。

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会場の多比羅先生
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ファンのために自著にサインする水野さん

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雑記帳2018-7-15 [代表・玲子の雑記帳]

2018-7-15
◆「手作りニョッキでイタリアン」

食とくらしと環境を考える会の今年のテーマは「たっぷり食べよう 立川の野菜」です。立川の野菜がたっぷり食べられるメニューをつくりました。ジャガイモを含め、野菜は」ほぼ立川産。最近はきのこ生産農家も出ているようですが、エリンギを生産する農家はまだありません。長野産になりました。

◇材料4人分
<ニョッキ>じゃがいも300g(中3個)、薄力粉100g(1カップ)+ 打ち粉用に10g、
塩小さじ1/3、水50cc(固さ調整用)
<トマトソース>トマト2個、玉ねぎ1/2個、ナス1本、ピーマン2個、セロリ10cm、
エリンギ50g、ベーコン50g、エビ100g、オリーブオイル大さじ1、トマトジュース1本、調味料A(ニンニク1片、ケチャップ大さじ3、砂糖大さじ1、塩小さじ1、コショウ少々、ワインまたは酒大さじ2)、調味料B(粉チーズ大さじ1、タバスコ3ふり)

◇ニョッキの作り方
①じゃがいもは電子レンジで8分加熱して柔らかくし、火傷をしないように水にはなして粗熱を取ってから皮をむき、めん棒などでよくつぶす。
②粉と塩をサッと混ぜ合わせ、①を加えて、さらにつぶしながらよく混ぜ合わせる。
③ひとかたまりになるようにこねる。(②の加減を見ながら水を加える。新じゃがを使ったこの日は水はほとんど要らなかった)
④打ち粉を広げた上に4等分しておき、それぞれ直径2.5~3cmの棒状にのばし、1cm幅に切る。
⑤それぞれを団子状に丸め、指でかるく押すか、フォークでみぞをつけ、沸騰したお湯にはなし、茹でる。
⑥浮いてきたら茹であがっているので、一呼吸おいて、穴あきお玉ですくい、皿に取り出す。じゃがいもニョッキの出来上がり。
⑦トマトソースなどで絡めていただく。

◇トマトソースの作り方
①トマトはざく切り、玉ねぎは縦に8mmに切る。ナスは乱切り、ピーマンは2つ割にし8mmに切る。セロリは縦に割り5mm幅に、エリンギは3mm幅の縦に切る。
②ベーコンは1.2cm幅に切る。エビは洗ってから背を開いて背ワタをとる。ニンニクはすりおろしておく。
③オリーブオイル大さじ1でベーコンを炒め、油をだしてから玉ねぎを炒め、透き通ってきたら、ナス→セロリ→トマト→ エリンギの順に加えて、中火の強火で炒める。
④トマトジュースと調味料A、ピーマンを加え、少し煮詰めてから味見をし、良かったらエビを入れる。
⑤④に調味料Bを加えてなじませる。トマトソースの出来上がり。

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◆エディさんのアフタヌーンティをご紹介しましょう。

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昔、私たちのサークルの先生をしていたエディさんが、青梅の日向和田に紅茶の店を開いてもう5、6年になるでしょうか。カナダ出身のエディさんはアメリカ国籍とはいえ、どちらかといえば英国の風の似会う人でした。

そのエデイさんが、多摩川を見降ろす絶景の場所に、バブルのときに建てられてその後廃業した結婚式場を買ったと聞いて、私たちはおどろきました。
まだ生徒だった私たちを、何度か、彼女はクリスマスに招待してくれました。
前身が結婚式場だけあって、トイレは申し分なく広く優雅だったけれど、だだ広いホールは暖房もききにくく(こんな寒い時期にここで結婚式をあげたいと思うカップルはいなかったのでしょう)、日本人なら住まないとうわさしました。
ちなみに、青梅街道に面したすぐそばのへそ饅頭を売る店は昨年、クマが出たとニュースになりました。

打ち捨てられていた建物はペンキもはげ、川を見下ろすテラスの柱もさびていたのを、彼女は長い時間をかけてすこしずつ修復していきました。
今回たずねてみると、見違えるように奇麗になっていました。しかも、屋根には今風にソーラーパネル。脱帽です。

建物を修復しながら、彼女はカフェをひらきました。アフタヌーンティを出すのが念願でした。これてやっぱり英国風。店の名前は「ローズタウンガーデン」です。そうそう、彼女のフルネームはエデイ・タウン、そして彼女は薔薇が大好きなのです。

立川から車で1時間ほど、お昼を食べてからゆっくり出かけてアフタヌーンティにちょうどいい時間になります。テラスで多摩川をみおろしながら、エディさんお手製のアフタヌーンティをいただきました。

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中段のケーキはメーガン妃の結婚式のときに出されたと同じ、レモンとラズベリーのケーキです。そして、ご自慢のスコーンは、スコットランドを巡って食べ歩き、一番気に入ったスコーンのレシピを使ったということでした。

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エディさんの好みのカップもいろいろ

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雑記帳2018-7-1 [代表・玲子の雑記帳]

2018-7-1
行田が日本遺産のまちだと知っていましか?

古代ハスとさきたま古墳群の町として知られる行田市は足袋で栄えた町です。
さきたま古墳群は言わずと知れた日本遺跡、現在、世界遺産登録も視野にいれています。方や、足袋の町は、じつは日本遺産なのです。
このあまりなじみの無い「日本遺産」は平成27年、文化庁が制定した制度です。ストーリーをもったタイトルと歴史がその対象になっているのが特徴です。「和装文化の足元を支え続ける足袋の町行田」は平成29年に日本遺産に認定されました。地域活性化を狙う自治体の申請をうけて、現在全国に67件、オリンピックの2020年までに100件をめざしているということです。ちなみに私の郷里、愛媛県の日本遺産は広島県と共同で、瀬戸内海の雄、村上水軍です。

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市内循環バスに乗って、町歩きの最初の行き先は水城(すいじょう)公園です。
中国を真似て作られた池を持つ水城公園は、もとは忍城(おしじょう)の外堀でした。
広い園内には講道館三船十段の顕彰碑や田山花袋の小説「田舎教師」の文学碑もみられます。湖畔に大正11年築の忍信用金庫が移築されて公開の準備中でした。公園はテレビドラマ「陸王」の撮影現場にもなりました。

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池は中国の庭園をモデルにしたという。
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サギも仲良く池辺を散歩
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「田舎教師」の碑(主人公のモデル小林秀三が行田に住んでいたことにちなんだ)
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池畔に移築された大正11年築の忍信用金庫

行田の足袋は江戸時代中ごろから盛んになり、明治になると西南戦争や日清日露戦争時に軍の足袋の供給を一手にひきうけて栄えました。最盛期の昭和13年には年間約8500万足を生産したといいます。まさに日本一の足袋の町。足袋の生産を担ったのは大企業ではなく、多くの町工場でした。

その足袋の原料や製品を保管していたのが足袋蔵です。蔵は木造や石造り(場所柄大谷石がもちいられた)、モルタルやコンクリート蔵、れんが造りなど多種多様、デザインもさまざま、ひとつひとつに個性があります。現在、行田市内に80棟あるという蔵を巡る町歩きに、市は力をいれています。昭和30年代に、ナイロンストッキングの普及で足袋の需要が急速に減少して、蔵の建設も途絶えました。中には蕎麦屋として再活用されている蔵もあります。

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行田で唯一の鉄筋コンクリート煉瓦造りの大澤蔵
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こちらは木造の足袋蔵
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足元にも案内板

昭和の初め、足袋の生産で一代で財をなした新井八郎氏が贅を尽くして建てた邸宅は、足袋御殿と呼ばれました。足袋御殿は復元されていま「彩々亭」という料亭になっています。個人ではなかなか予約がとれないという彩々亭でお昼をいただきました。

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和牛ステーキがメインのランチ

食後に館内を案内してもらいましたが、趣のある廊下や豪華なシャンデリアなど、大正ロマンあふれる和洋折衷づくり。贅をこらした床の間の柱の材や面取りをした障子の桟などにも目を奪われました。庭もみごなものでした。国登録の有形文化財です。

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ゲストルーム
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廊下の天井
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明かりとりの障子の桟も手がこんでいる。モチーフは川漁に使われた投網。
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ガラス越しに見る庭

商工センターのあるメインストリートには、『知の木々舎』でおなじみの、赤川ボンズさん作の行田の童たちに出会うことができます。 童たちは町にちなんだポーズで39体。全体に昭和っぽい行田のまちに、これもレトロなイメージの童たちは良く似会い、行田の町づくりに一役かっています。 

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古代蓮の葉を持った行田の童

大正の建物、武蔵野銀行行田支店は、数少ない戦前の銀行建築として、また足袋の行田に深く関係がある建物として、貴重な近代化遺産です。行幸で行田を訪れた昭和天皇に食事を出したという応接室を特別に見せてもらいました。

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武蔵野銀行行田支店
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昭和天皇が滞在した応接室

市内でもっとも古い足袋工場、イサミ足袋工場を見学しました。大正6年建築の木造洋風工場は、独特ののこぎり屋根を初め、随所に戦前の大規模足袋工場の姿をとどめています。

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工場ののこぎり屋根
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イサミ足袋の商標(江戸時代の歌舞伎俳優尾上松緑がモデルという)

13工程あるという作業は分業です。近代工業の分業の仕組みは足袋工場がはじまりだそうです。働き手は主に女性ですが、爪先を木槌で叩いてしあげるのは力の要る男性の仕事です。分厚いつま先を縫う難しい工程には、創業時のドイツ製ミシンがメンテナンスをしながら今も使われています。行田ではミシン屋さんが多いのです。

今、日本では足袋の生産はこの行田と徳島県の鳴門の二か所のみになりました。

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ベテランの工員さんが使いこなす創業時からのドイツ製ミシン 

町を歩けばそこここに、高札場跡や枡形門の跡を示す石碑が見つかります。気が付けば、行田は忍城の城下町なのでした。

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水に浮く城として知られる忍城は、昨年、映画「のぼうの城」の舞台になりました。
室町時代築城の城は、豊臣秀吉の関東平定に際し、石田三成らの水攻めにも耐えたことで有名になりました。北条に加勢した城主は小田原城にこもっていたため、城を守った正木丹波守は地元ではお殿さまより人気があるようです。市内の佐間天神社や高源寺に丹波守をしのぶ跡が残されています。

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佐間天神社
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高源寺にある正木丹波守の墓

江戸時代には忍城は川越、岩槻と並んで江戸を守る三城のひとつとして重要な拠点となり、行田は老中阿部家の領地となりました。小姓時代から家光とともに育った阿部忠秋は、明暦の大火で焼け落ちた江戸城の天守閣を再建不要と決断したやり手です。徳川幕府で最も長く老中を務めました。その後、領地換えにより、桑名の松平家が領主になり、明治になるまで松平家がおさめました。幕末に、国防の役目を担って重ねた借金を、維新のどさくさに城の一部を売って支払ったというのですから、流石は松平というべきか、律義なお殿さまだったようです。

忍城は美しい城ですが、天守閣はなく、阿部家三代目正武の時代に完成した改築の際、外堀にあった櫓を本丸に移した経緯があって、築城時のオリジナルの姿ではないという理由で、日本の100名城には選ばれませんでした。最近になって、ようやく200名城の仲間入りをしたのでした。

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