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ケルトの妖精 №9 [文芸美術の森]

クルーラホーン 2

             妖精美術館長  井村君江

 花婿のダービー・ライリーと、花嫁のプリジッド・ルーニーを囲んで、神父とふたりを祝福するために集まった人々の、楽しそうなおしゃべりや笑い声が、家の外までもれていた。
「なあ、ビリー。わしは明日でちょうど千歳になるんじゃよ」
 クルーラホーンが神妙な顔つきで言った。
「ほんとうですか。それはお祝いを述べなけりやならん」と、ビリーはいずまいを正して、
「神の祝福がありますように」とまじめに言った。
 するとクルーラホーンは、「そんなことを二度とわしに言うな」と、あわててさえぎり、しばらくして、おもむろに言った。
「これまで結婚しなかったが、千歳という歳はしおどろきだと思うんだ」
「まったくもってごもっともです。あなたさまがそう思っているんならね」
 ビリーは聞き流しながら、すこしも興味を示さずに言った。
 ところが、クルーラホーンが、
「そのために、こうしてはるばるここまで来たんだよ、ビリー。この家にいるブリジットは背の高いきれいな娘で家柄も申し分ない。そこでわしの花嫁としてさらっていこうと思うんだ」
 と言ったときには仰天してしまった。
「でも、花婿のダービーはなんと言うでしょうね」
「黙れ。おまえにつべこべ言わせるために連れてきたんじゃない」
 クルーラホーンはビリーを一喝した。それからプツプツと例の呪文を唱えると、鍵穴から部屋のなかへ入っていった。ビリーもどうなることかとついていった。
 クルーラホーンは、天井近くに架けわたされた梁の上にちょこんと座って、部屋のなかを見わたしていた。ビリーも別の梁に腰を据えると、脚の下に宴会の食卓を囲んでいるみんなの頭が見えた。
 結婚を祝福するクーニー神父のかたわらには、ダービーの父親と兄弟、それに叔父さんたちと従兄弟たちが座ってにぎやかに酒盛りをしていた。ブリジットの両親と利発そうな兄弟も、その酒盛りに加わっていた。ブリジットの両親は、美しい娘が誇らしげだった。
 ところが、ブリジットが神父に、玉菜が添えられた豚の頭の肉をさしだそうとして、大きなくしゃみをひとつした。食卓を囲んでいたみんなは、びっくりしてブリジットに目を向けた。
 でも、だれひとり「神さま、ご祝福を(だいじょうぶですか)」と言わなかった。こういうときはそう声をかけてもらわなければいけないのに、この場では神父の役目だと思ったので、みんなひかえていたのだ。
 ところが運の悪いことに神父は、ちょうど野菜と肉を口いっぱいにほおばったところで、口を開くことができなかった。
 それで宴会はそのままつづけられていった。
 ビリーがふと気がつくと、クルーラホーンがなぜだか興奮していた。
「ビリー、いよいよブリジットはわしの花嫁だ。くしゃみをして三度、『神さま、ご祝福を』と言ってもらえなければ、妖精になってしまうんだからな」
 とうれしそうだ。
 そのときブリジットがかわいく二度めのくしゃみをし、顔を赤らめたがだれもそれに気づかなかった。
 ビリーは、なんだかこの大きな青い目と透き通る白い肌をもった娘がかわいそうになってきた。
「健康な喜びにあふれている十九歳の娘が、なんで明日で千歳になる醜い老人と結婚しなければならないんだ。気の毒なことだ」とビリーは思った。
 そのときだ。ブリジットが三度めのくしゃみをした。
 すかさずビリーは、
「神さま、ご祝福を」
 と大声で叫んでいた。
 クルーラホーンは顔を真っ赤にして怒った。そしてビリーをにらみつけると、
「おまえはお払い箱だ。これがおまえへの報酬だ」と言って、ビリーの背中をすさまじい勢いで蹴とばした。
 ビリーは酒盛りの食卓のまんなかに頭から落ちていった。
 あいさつもなしに酒盛りに飛びこんできたビリーに、みんな唖然とした。しかし、ビリーがこれまでのいきさつを話すと、全員が心からビリーに感謝した。
 クーニー神父は、すぐさまふたりの結婚式をすませ、ビリーには両親から浴びるほどの酒がふるまわれた。ビリーは心底よい気持ちに酔った。

◆クルーラホーンは、アイルランドの大きな酒蔵に住む妖精。酒蔵の番人とも信じられていて、ワィンの樽の栓がゆるんで雫が落ちていないか見守ったり、召使が盗み酒をしていると樽のかげからふいに出てきたりして恐れさせる。このお礼に酒をもらうので、いつも酔っぱらっている。また三人の召使が酒蔵に忍びこんで飲んでいるといつのまにか四人になっているので、酔ったせいかとよく見るとクルーラホーンが混じっていた、というようないたずらもする。
 この話のように、よその最の酒蔵に入って酒を飲んでしまうという悪さをすることもあり、知らぬ間にワインの樽がからっぽになっていたらクルーラホーンの仕業だと、アイルランドの人々は信じている。
 酒蔵に入りびたっているだけでなく、ご機嫌になると羊や番犬の背中に乗ってひと晩じゅう野原を走りまわり、翌朝には泥まみれの羊や犬とともに息を習して草のなかに倒れたりしているクルーラホーンがときとぎ見つかるともいわれている。
 クルーラホーンは、仲間たちと一緒に住んでいる「群れをなす妖精」ではなく、「ひとり暮らしの妖精」である。ひとりで行動している妖精は、ふつう恐ろしい性質のものが多い。そして「群れをなす妖精」たちが緑色の上着を着ているのに対して、「ひとり暮らしの妖精」は赤。赤はあるいは危険信号、要注意の色といえるのかもしれない。
 クルーラホーンが古い屋敷に住みつくことは、日本の「座敷わらし」や「倉ぽっこ」のような旧家についている妖精と似ている。座敷わらしは、その家が傾くと自分から出ていってしまい、代わりに貧乏神が住みつくが、やせていて少々滑稽な親しみすら感じさせるわが国の貧乏神にあたるような貧乏妖精というのは、ケルトの妖精には見当たらない。


『ケルトの妖精』 あんず堂

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渾斎随筆 №39 [文芸美術の森]

逍遙十三回忌 

                 歌人  会津八一    

 坪内逍遙先生が、なくなられてことしが十二年目で、この二十八日に熱海の御宅では、十三回忌の法要が、いとなまれるといふ風に新聞などで承知してゐる。主催者の方からは、まだ何も知らせて来てゐないが、知らせのあるなしにかかはらず、私などは、その日には御参りをして、つっしんで御焼香をしなければならないところだ。
 私は、少し早熟の方で、早稲田へ入學しないうちから、文學の價値の標準について、今でいへば御恥つかしいほどのことであるがその頃はその頃として、やはり一つ自分特有のものを持ってゐて、それで新聞に物を書いたり同人雑誌を出したりしてゐた。けれども年はまだ若かつたし、學問といへば、初歩といふほどにも踏み込んで居らず、見聞も狭いので、出来るだけ教義を積みたいといふので、東京へ出て學校へはひつたのであるから、今でこそ恥づかしいの何のと自分でもいふけれど、その頃としては、ぽっと出の、ぼんやりした普通の書生さんと、一しょにいろいろの講義を聞いても、一から十まで感服し、それがそのままあたまへはひつて、血になり肉になり、骨にもなるといふ気はしなかった。中には何の糞にもなりさうもないと思ふこともないこともなかった。もともと何のために、わざわざ東京まで出て来て、金も使って學校にゐるのか、まるで意味のないことにもなるから、自分としては出来るだけ気特を平らにして、好き嫌ひをいはず、えり好みをせず、毎週の時間割通りにすべて出席して、ノートも取り、宿題のリポートも、いはれるままに出したものであった。
 さうした私の學生生活の間に、さすがに気廓の大きさ、學識の深さ、廣さ、燃ゆるばかりの熱意、行き届いた親切心、明確な道義心、かぞへ来ればかぞへつくせぬ偉さに、驕慢な私も、あたまを下げたのは坪内先生であった。私が五年間、早稲田で、すなほに辛抱してゐたのは、この先生が一人居られたためであらう。
 けれども、私が坪内先生に、もつと親しい気持で、ますます敬服の度を深めるやうになったのは、明治三十九年の七月に卒業してから暫く越後に帰って有恒学舎の教師をして居り、その後四年たって再び上京してからのことである。この頃のことは、いづれ何かに書いておかねばならぬと思ってゐるが、先生の晩年には、いつの間にか、私が誰よりも一番親しく御ちかづきを願ふやうになり、折々御訪ねをしたり、時としては御訪ねを受けたり、一週間も泊めていただいて温泉で保養をしたり、創作の上で御相談を受けたり、無遠慮な意見を申上げたり、またその間には、私のわがままな無心を申上げたりするやうにさへなった。先生の全集ともいふべき「逍遙選集」は、先生の御懇望を受けて、表紙も、扉も、私の筆で書いてあり、その中に出て来る寫眞で、先生が門下生と寫つて居られるのといへば、私との場合だけである。だから、今からは、もう十二年前になる熱海の御邸で御葬式の時には前後数日間、私が柄にもなく出しゃばって、さしづをしただならぬ顔色をして棺側に頑張ってゐたことが、今でも一つ噺に遣ってゐるけれども、私の気持としては自然のことであった。
 その時、これも先日死なれた内ケ崎作三郎さんが、かけつけて、日本文化に封する先生生前の功労に酬いるために、勲章を賜はるやうに盡力したいと云はれるので、奇妙な思ひっきだとは思ったが、取りあへず、それは何等ですかと尋ねると、初叙だから四等より上はいけなからうといふので、私の友人でも三等ぐらゐの人はいくらもあるのに、今にして先生ほどの人を勲四等には出来ませんと、私は一存でことわった。内ケ崎さんが東京へ締ると、その翌日、やはり代議士のある人が、そんなら一等なら受けて貫へるかどうか、と念を押しに来たが、一等でも大勲位でも御もったいないことで申わけがないが、先生の素志でないからと、私は、奥さんにも誰にも相談せずに、断然御ことわりした。そしてその代りに、かうした文化的な功労者に向つては、国民の代表者として衆議院の力で為し得る一つの事がある。それを御考へ願ひたいと註文をした。それが行はれたものかどうかは知らないが、衆議院は、東京で行はれた御本葬の日に、各政黨を代表する人たちの追悼演説の後に、院議を以て、満場一致先生に敬意を表したのである。
 その後、年々私は熱海に行って老夫人に御眼にかかり、いつも昔噺に時の移るのを忘れたものであるが、たしか三回忌の時かと思ふが、二十名ばかりの弟子どもが参集している
ところへ身延山の日蓮宗大本山の望月大僧正が来て、讀経してくれられた。大僧正は喉が弱くて、小田原の末寺へその頃毎年冬は養生に来てゐられたのであった。そして御経が済むと、われわれに向つて、こんなことを云はれた。愚僧は、こちらの先生の御生前には、御面識もなく、御交際も願ってはをりませんでした。が今日は御忌日と承りまして、御恩返しにと存じてまゐりました。第一に先生は、「法難」の御作で、わが宗租日蓮聖人の精神を天下に御宣揚下さいました。第二に、先生は私どもの弟子坊主、石橋湛山と申しまするものを、ねんごろに御教育下さいました。この二つの御恩は重大でございます。
 その時に、その席に居あほせた田中穂積、金子馬治、中村吉蔵、長谷川誠也、吉江喬松、西村翼の諸君は、もう、とっくに死んで、最近には五十嵐力君も亡くなったらしい。長い間先生の家事向の相談役として殆ど一生を奉仕した稀書複製会の山田清作君も昨年死んだといふ。望月さんももう亡い。そして相馬君や私は、よしんば案内を受けたにしろ、こんなに不便な交通では、あちらまで行き終せるものかしらと、私にはそろそろ卑怯な心が起りかけてゐる。こんな風だから熱海市と早稲田大學とが協同主催でやるといってもこの十三回忌は、かなり淋しい顔解れであらうが、先生の感化は廣くて深いのであるから、早宿田ばかりでなく、ひろく現代のわかい人々が参加して、この供養が厳修されるならば、先生の霊も、さだめし御よろこびであらう。
 私はかつて石橋君に、どこかで遇って、身延の老師の、熱海での言葉を博へたら、石橋君は黙って、目を輝かせていたことがあるが、今、日本中で、ろくろく定見も無いやうな連中まで冷評をしたり、漫画にまで描いたりしてゐるけれども、石橋君は国のためにそれこそほんとに日蓮のいふ不惜身命でやって居るのにちがひない。その精神と武者振を、二人の老人が、あの世から見透して、欣んでゐられるのであらう。

                  『夕刊ニイガタ』昭和二十二年二月二十八日

『会津八一全集』 中央公論社

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石井鶴三の世界 №146 [文芸美術の森]

モデル 1916年/少女 1920年

        画家・彫刻家  石井鶴三

1916モデル.jpg
モデル 1916年 (203×145)
1920少女.jpg
少女 1920年 (212×145)
**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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じゃがいもころんだⅡ №15 [文芸美術の森]

お盆に寄せて

             エッセイスト  中村一枝

 子供の頃、お盆というのは楽しみの一つだった。わたしの家では父はその手のことにはまったく興味はなさそうだったが、母は決まってお盆の準備をした。お供えに、茄子や胡瓜の動物をつくって飾るのも楽しいことだった。戦争中は灯火管制とかで門口で火を炊くのは遠慮したが、伊東に疎開すると大家さんのおばあさんがとれたての茄子や胡瓜をお盆にのせて届けてくれた。満天の星空の下で送り火を炊くのはまた楽しかった。まだアメリカの空襲が来る前のことだった。おばあさんの家にはその外わたしと同い年くらいの男の子とが二人いて、いつの間にかすっかりなかよしになつていたのだ。わたしの母はかなり年をとつてもお盆の習慣を律義に守りつづけ、迎え火送り火の習慣を絶やさなかった。私はいつのまにか遠ざかったが、子どものいる家庭ではなかなかいい習慣だといまも思う。 
 日本の宗教は仏教だと言っても実際は葬式の時にその価値を発揮するわけで、わたしなど普段仏壇は放りっぱなしである。4年前に娘が亡くなって 仏壇の仏様は四人になった。夫の両親、そして夫と娘。私は宗教心というものがとりたててないせいか、お盆だからと言ってとりたてて何をするわけでもない。気が向けばお線香を焚くくらいの不肖の子孫なのだ。それでも心の何処かにお盆とか命日だとかの観念があるのは何故だろうか。娘を葬るとき娘に晴着を着せた。成人式のとき作った晴れ衣裳である。五十二歳で亡くなった娘はその晴着に何度も手を通している。それを亡骸に着せたときは悲しかった。娘を先に見送る羽目になるとは全く思ってもいなかった。あとからあれだけ大きい乳癌に気がつかなかった私の迂闊さを恥じた。それとも気をつかせないように隠し通したのか。彼女の思いを今でも痛いほど感じる。一生思い続けるだろう。彼女の死後細かい字でびっしり書かれた日記帳が何冊も出てきた。私が何かというとすぐ文章を書きたくなる、それと共通の思いを彼女も持っていたんだと思った。時々開いてみるが、細かい字でびっしり書かれた日記帳はとてもいまの私には読み切れない。
 ごく最近子供が幼稚園児の頃からの友人の一人が亡くなった。80になったかならないかだった。10年近く肝臓をわずらっていた。病気のためにはあらゆる努力を惜しまず頑張っていた。いい先生にも良質な病院にも恵まれ、経済的にも恵まれていたのに、肝臓ガンは実にしぶとかった。ガンの種類もかなり難しかったようだ。恵まれた環境の中彼女はもう一度立ち上がりたかったに違いない。この暑さが衰弱して行く彼女にこたえるのではとひそかに案じていた。亡くなったと聞いて一週間以上たってから彼女に花を送りたいと思った。一輪でもいいから送りたかった。お花を送りたいと自宅に電話をすると、「家じゅうひっくり返っているから、九月過ぎてからにして欲しい」という電話があった。頑固で丁重な言葉の中に彼の人知れぬ失意と悲しみを感じた。ふだん明るく苦労知らずの人に思えた彼の内心の悲しみが浮き上がった。人間って複雑で悲しいものです。


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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №10 [文芸美術の森]

激動の時代に反撃する野十郎 1

           早稲田大学余教授  川崎  浹  

 少し話は戻るが、昭和元年(一九二六)、前倒し式の宣言をした「一九三〇年協会」が発足、児島善三郎、佐伯祐三らメンバーは三十歳前後で、「陳腐な自然主義的写実の清算」を公約の目標にしていた。
 高島野十郎のような「自然主義的写実」様式は目の仇にされたことになる。
 三十代半ばの野十郎は二年ごとの発表という制作日程からすれば、この年、昭和元年(一九二六)にはなんらかの形で出品されなければならないのだが(とはいえ、未発見の個展があるかもしれないが)、どこにも出品していないのは、なおしばし自分との格闘がつづいていたのだろうか。その二年後かれが「黒牛会」の結成に参加し、昭和三年(一九二人)、四年、五年と連年で開催された「黒牛会」展に出品した作品が好評を得ているの
は、その結果がでたと見ることができる。昭和四年(一九二九)の『みづゑ』四月号には次のような「黒牛会」第二回展評が掲載された。
 「高島野十郎氏、氏の作品の前に立つ時自ら作家の真摯な敬慶な心を実感せずにはいられない、しかも信仰的である。《壺とリンゴ》最も優れていると思う。《秋の夜》と《早春深夜》は少しく感傷的であると同時に作家の内観上に何物かの苦悶が往来しているかに感ぜしめる、悩みのない処に光りは無い、作家の精進を祈る」。
 次回、翌昭和五年(一九三〇)の『みづゑ』四月号では、「黒牛会」展のなかで野十郎の絵を筆頭にとりあげ、高い評価をあたえている。
 「黒牛会も第三回となり(省略)、昨年よりも総体的に緊張し出品点数も多く充実さを示されたのは同会の進境である。高島野十郎氏はデューラー張りの写実家であるが、真剣な態度で自然を視つめている点において敬服する。《葡萄のある静物》は内容もあり手法として優れていると思う」。
 前回の「黒牛会」展での批評は「作家の精進を祈る」というのもので、野十都の画業に進歩の余地が残っていることを好意的に匂わせていた。しかし今回の展覧会では「作家に敬服する」として、画家の画境がいちだんと成熟し、すでに定着したことを認めている。
こういう定点観測を思わせるような批評を書いたのは、おそらく前回と同じ評者だったにちがいない。こうした感想は現在の野十郎愛好者がいだく印象にちかいものであり、画家の姿勢の基本をおさえている。
 残念なことに、『みづゑ』の批評を野十郎は目にすることができなかった。第三回「黒牛会」展の開催も『みづゑ』の批評も野十郎が渡欧で出航した二、三ケ月後のことなので、かれの手もとに届くのは、かなり後のことだったと思われる。
 「黒牛会」は特定の信条があったわけではないらしく、会員との間につよい結びつきもなかったので、その後の会報告もないまま自然消滅のようにして消えている。
 戦前の美術グループが多彩な活動をなしたことについてここでは書ききれないが、昭和四年、つまり「黒牛会」第二回展が開催された年の九月、パリで国際的に有名になった藤田嗣治が十七年ぶりに日本に帰国した。かれは「院展、二科素通りの記」で日本人画家に絵について、まるでパリのサロン・ドートンヌにいると錯覚するほどスゴンザック、シャガールやルオーやデュフィやブラックの影響が露わであると批判的な感想をのべている。
そういう藤田に野十郎の絵を見せたらなんと言っただろうか。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №16 [文芸美術の森]

                            ≪シリーズ≪琳派の魅力≫

         美術ジャーナリスト  斎藤陽一

  第16回: 尾形光琳「燕子花図(かきつばたず)屏風」 その1
(18世紀前半。六曲一双。各151.2×358.8cm。国宝。東京・根津美術館)

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≪尾形光琳と琳派の系譜≫

 これまで語ってきた、俵屋宗達と本阿弥光悦という二人が活躍したのは、桃山時代から江戸時代初期にかけての時期でした。この二人は、「琳派の先駆」という位置づけをされています。
 そのおよそ百年後の江戸時代中期になって、尾形光琳(1658~1716)が登場しました。光琳は、宗達・光悦に「私淑」し、その美意識を継承しながらも、それを触媒にして独自の美の世界を開花させました。尾形光琳の後世への影響は大きく、「琳派芸術の完成者」とも呼ばれます。昭和時代になって定着した「琳派」の呼称は「光琳」の名前にちなみます。

 第1回の時にお話しした「琳派とは何か?」ということを、もう一度、簡単に押さえておきましょう。
 「琳派」とは“血縁によらず、師弟関係もなく、異なる個性を持った芸術家が、時を隔てて、「私淑」という形で継承されてきた、独特の美意識の系譜”を言います。

≪切り捨ての美学≫

 尾形光琳の代表作が国宝「燕子花図(かきつばたず)燕子花図屏風(びょうぶ)屏風」です。これを所蔵している東京・青山の根津美術館では、毎年、庭園の池に燕子花が咲く初夏の一時期にだけ、公開展示するのが習わしとなっています。

 一見、“華麗な金屏風”とだけ、見てしまいがちです。実際、これまで私が多くの人から聞いた言葉は「琳派って、金色の華麗な屏風絵を描いた画家たちでしょう?」といったものでした。「琳派」というと、この屏風をイメージしている人も多いようです。
 ところが、この仕組まれた単純さの中に、見どころをいくつも秘めた魅惑的な屛風なのです。じっくりと見ていきたいと思います。

 この「燕子花図屏風」は六曲一双形式で、右隻にも左隻にも、描かれているのは燕子花のみ。
 使われている色も、金地、花に群青、葉に緑青というわずか三つの色彩のみです。

 絵画空間を覆う金地は、その美しいきらめきから、屏風や襖によく使われてきました。しかし、もうひとつの役割も担っています。それは、余計なものを覆い隠して、重要なモチーフだけを浮かび上がらせるという役割です。

 写実主義を基本としてきた伝統的な西洋絵画ならば、画家の目に映るさまざまなもの、たとえば、燕子花のほかに、池の水面とか、岸辺の様子、木立、空と雲などを描くところを、ここでは、そういうものは一切省かれています。

 これは、「切り捨ての美学」とも言うべき美意識で、目に見えているものでも大胆な切り捨てを行い、重要なモチーフだけを提示するという、日本絵画の特質のひとつです。皆さんも、屛風絵だけでなく、絵巻や掛幅、浮世絵などで、思い当たるような日本の絵画をいくつも思い起こせることでしょう。

 こういった単純・明快なやりかたによって、右隻から左隻へとつながる燕子花の群れは、リズミカルで色鮮やかな装飾効果を生み出しています。


≪暗示の美学(留守文様)≫

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 この絵の主題は、『伊勢物語』から採られている、と言われます。平安時代の貴族で美男子として知られた在原業平と思われる男を主人公とする“歌物語”です。

 光琳が描いているのは、主人公の貴公子が、京を離れて東路を下る途中、三河の八橋で、一面に咲く燕子花を見て歌を詠み、都に残した恋人を思って涙するという場面です。
 その時、男が詠んだ歌は:

    「から衣 きつつ慣れにし つましあれば 
                                 はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ」
   (唐衣を着慣れるように、慣れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるやって来た旅を
   しみじみと思うことであるよ)

 この和歌は、「かきつばた」という五文字を、句の頭に据えて詠んでいるというところに趣向があります。

 とは言え、この屏風絵の中のどこにも業平らしき人物は描かれていません。それでも、この屏風を見た当時の京の上層階級の人は、これが『伊勢物語』の場面とわかったらしいのです。それどころか、人物が一切描かれていないことを、かえって、判じ物として面白がったようです。これには、機智や遊び心に加えて、平安王朝文学に対する共通の教養が前提となっており、京の上層階級の知的レベルの高さを物語っています。

 このように、古典や和歌などに題材を求めながら、人物を一人も描かず、状況さえ描き込まずに物語を暗示させる、という表現方法は、しばしば日本美術では用いられます。これを「留守文様」と言ったりします。大きくつかめば、これを日本文化全般に見られる「暗示の美学」という言い方もできるでしょう。
 いわば「全部を示さない」とか「部分だけで全体を推し測る」「余情を尊ぶ」ことなどを良しとする美意識、とでも言うことが出来るでしょうか。

 これは、長い間宗教画や神話画が主流であり、物語の内容をキチンと絵画化することが重視された西洋絵画では無かった美意識です。クールベや印象派が登場する以前の西洋絵画では、何よりも人間を描くことが最も重要なテーマとされ、キリストや聖母、聖人たち、ギリシャの神々の姿がしっかりと描かれてきました。聖書や神話の物語絵に人物を描かないことなどは、考えられないことでした。(下図参照)

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(左)ラファエロ「キリストの埋葬」(1507)   (右) ルーベンス「レウキッポスの娘たちの略奪」(1617年頃)

次回からは、尾形光琳作「燕子花図屏風」の魅力の秘密を、具体的に探っていきたいと思います。



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ケルトの妖精 №8 [文芸美術の森]

クルーラホーン 1

              妖精美術館長  井村君江

 むかしアイルランドに、ビリー・マック・ダニエルという大酒飲みのならず者がいた。ビリーの毎日の心配ごとといえば、その日の酒にありつけなかったり、酒代をはらってくれそうな人が見つからなかったりすることだけだった。だからだれもビリーに近づきたがらなかった。
 そんなビリーに、近ごろ友達ができた。
 それは、ある冬の晴れた夜のことだった。月がまん丸に白く輝いて、凍てつくように寒い晩、ビリーは家に向かって歩いていた。
「まったく、寒くてたまんないよ。こんなときにゃ、ちょっと一杯ひっかけりや、心も身体も天国ってもんだがなあ」
 ひとり悪態をついていると、
「よし、ビリー、引き受けた」
 と、足元で声がする。見ると、三角の赤い帽子を被り、全休に金の飾りをつけた赤い服
を着て、銀の大きな留め金がついた靴をはいた小さな人が、大きな声をあげていた。
 その小さな人は、酒蔵に住む妖精のクルーラホーンだった。クルーラホーンは一匹狼の妖精だから、みんなから恐れられていたが、ビリーは少しもこわいなんて思わなかった。
「ありがたい。乾杯しようじゃないか」
「よし乾杯しよう。だがね、酒代をだますのはわしには通用せんよ」
「なにをゴチヤゴチヤ言ってるんだ。おまえなんか、木イチゴみたいに摘みとって、おれさまのポケットに放りこむことだってできるんだぜ」
 ビリーが言うと、クルーラホーンは怒って、
「これから七年間、おまえはわしの家来になるんだ」
 と、有無を言わさぬ口調で命令した。
 ビリーは、クルーラホーンの言葉がなぜだかあたりまえのような気がして、いつのまにか言いなりになっていた。そんなわけで、ビリーはこのところクルーラホーンと一緒になっては、悪さをするようになっていた。
 ある日、クルーラホーンに呼びだされたビリーは、古い砦の残る原っぱへ出かけていった。
 待っていたクルーラホーンは言いつけた。
「ビリー、今夜は遠くまで出かけたいから、馬に鞍をつけて引っぱってきてくれ。おまえの分と二頭だ」
 ビリーは見まわしてみたが、原っぱには、すみのほうにイバラの古木が一本、丘の麓から流れてくる小川、とても人の通れそうもない沼地があるだけだった。
「お言葉ですが、厩はどこにあるんでしょうかね」
 と、ビリーは皮肉っぼく言った。
「つべこべ言うな。あの沼まで行って、いちばんしっかりした灯心草を二本取ってくればいいんだ」
 そこでビリーは、丈夫そうな灯心草を二本引き抜いてきた。
 するとクルーラホーンは、自分がその一本にまたがり、一本はビリーに渡して、
「馬に乗れ、早く」と言った。
「どこの馬に乗るんですか」ビリーは聞きかえした。
「わしのように、馬の背に乗るんだ」
「冗談いっちゃ困りますよ。これは灯心草ですよ」
 ビリーはばかばかしくなって言った。
「いいから乗るんだ」クルーラホーンは病癖を起こした。
「好きなようにするさ」と、ビリーは逆らうのをやめて灯心草にまたがった。
 クルーラホーンは胸をはって、
「ボラーン、ボラーン、ボラーン」
と、三回叫んだ。大きくなれというまじないの言葉だ。ビリーも一緒に三度叫んでみた。
すると、灯心草はみるみる大きくなり、土を蹴って跳ねまわる馬になった。
 二頭は全速力で駆けだした。ところがビリーは、クルーラホーンとは逆に灯心草の穂先のほうを持っていたので、馬の背に後ろ向きに乗る格好になってしまった。走りだした馬は立ち止まるようすを見せず、ビリーは馬の尻尾を必死に握りしめていなければならなかった。
 ようやく馬が歩みを止めて、ふたりは立派な屋敷の門の前におりたった。
「さてビリー、わしのするとおりにしてついてくるんだぞ」
 とクルーラホーンは言うと、これまで聞いたことのない呪文を口にした。ビリーもまねをして言ってみた。するとふたりは門の鍵穴をするりとくぐり抜けて、屋敷の庭に立っていた。
 それから家の鍵穴から鍵穴へとくぐり抜けて、ついに酒蔵にたどり着いた。そこには、いろいろな酒が積んであった。ふたりは上等そうな酒からグビグビと飲みはじめた。
 クルーラホーンとつきあうようになってから、ビリーはいつもたらふく飲ませてもらっていたから、この日はつい、
「あんたはまったく、最高のご主人さまですよ」
 と、お世辞のひとつも言ってみた。
 しかし、クルーラホーンは、
「おまえは自分の乗る馬の頭と尻尾の区別もつかない奴だから、いま自分がまっすぐに立っているのか逆立ちしているのか区別もつかないだろう。古い酒ってやつは、猫に言葉をしゃべらせたり、人間がなにを言っているのかわからなくさせたりしちまうんだ。覚えておくんだな」
 と、ビリーのお世辞なんかにはとりあわず、「さあ、ついてこい」と帰り支度をはじめた。
 ある晩、いつものようにビリーは、いつもの原っぱでクルーラホーンと会った。
「ビリー、今夜は馬がもう一頭いるんだ。にぎやかに帰ってこなくちゃならんからな」
 と、言った。
 どリーは「仲間がふえるんなら沼から灯心草を取る役目は、こんどからそいつにやらせよう」と考えながら、灯心草を三本引き抜いた。
 三頭の馬は、夜の道を走ってリマリック地方のとある農家についた。その農家では結婚式が行われようとしていた。(つづく)


『ケルトの妖精』 あんず堂

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渾斎随筆 №38 [文芸美術の森]

 公園の石碑

                 歌人  会津八一

 私は先日白山公園へ行って、ほんたうに久々であの小高い丘に登って、その上にある「新潟遊園記」といふ石碑の前に立った。それを讀めばこれは、明治六年に秋月子爵に書いてもらった文章を、時の縣令楠本正隆さんが石に刻んで建てたもので、縣民がめいめいによく運動をして身體を達者にして、その日その日の業務にいそしむことが出来るやうにこの公園をつくったのだと書いてある。
 また同じ丘の上に、この碑のすぐ近くに「美由岐岡」 -たぶん「ミユキガヲカ」とよむのであらう- といふ文字の石碑が立ってゐる。側面の銘文によれば明治の初めに天皇が此處へ御臨幸になったことを記念するために、杉子爵に願って書いてもらったものを、明治四十五年に建てたのだといふのである。ところがどちらの石碑も多くの市民は記憶に止めてゐないらしく、この丘が「美由岐岡」と名づいてゐることを知る人も少いらしい。
かういふことを考へて見ると、何のためにこれらの石碑が建ててあるのか、縣民の健康といふこと、天皇の臨幸といふこと、これを標識し記念するのは意味のないことではない。しかし全く一般の民衆達からその存在が忘れられるやうになったのは、忘れてゐる市民の責任ばかりでなく、こんな石碑を建てさへすれば、必ず効果があると信じてゐた役人とか、有志とかいふ人達が大きな見込達ひをしてゐたためではあるまいか。この「遊園記」などが漢文でなく - 口語體でなくとも- せめて假名混りで書かれてゐたならば、これほど民衆から疎んじられることも無かつたであらう。決して民衆ばかり責めてゐられるものであるまい。
 日本人は昔から自分自身のもつ文化を強調しないで、すぐ外の大国の文化に一も二もなく頭を下げてしまふ風があった。これは恐らく奈良時代以前から平安時代以後ずつと同じことであった。自分の国の言葉で歌なり文章を書くよりも、中國の詩を作り文を漢字づくめで書く方が、より高尚な仕事である、かういふ考へ方が残念ながら日本には行はれてゐたのである。この風は徳川時代から明治時代に及び、さらに今日に至ってもまだ日本人の頭に残ってゐて、文を綴り或は畫を描き書道に親しむ人々を相當強く交配してゐる。この中國に封する傾倒の情のほかにオランダに感服しその後はアメリカのために目を発されて、欧米の文化に封しても同じやうに傾倒の情を示して来たものである。このことは日本人が己を空しうして大に世界の強大なる各国に傾倒の情を抱いたからこそ、日本の文化生活は割合に早く進んだともいへる。けれども餘りに己を室しうし過ぎて、己れ自らの民族として、國民として前途をどうしたらいゝかといふ判断を往々にして自ら立てることを忘れても平気でゐるやうなことに至らしめたのではなからうか。
 日本人が假名で歌を書き、俳句を作れば、それは日本人の文学として相當なことであり、また價値あるものがその間から生れて来る。しかるに假名の中に漢字を混へるといふ程度を超えて、漢字だけのものを書くといふことが、最も深い學問と、従って價値とを含むものと考へることが随分久しく日本人の間に行はれてゐた。だから如何に下手な漢詩でも、漢詩を作る人は和歌を作る人よりも何かえらくでもあるかの如く思はれる状態であった。それ故に何事も古に戻り、佛数の如きは外國の宗教であるからこれを壓迫して神道の信仰にもどさなければならぬと、随分乱暴な取計ひをさへ敢てした明治の初年に於てすら、漢文を書くことが日本人の最も正しい高尚なやり方であると一般に思はれてゐた。
 ところが今日、その結果新潟市民のために書かれたところの石碑が、新潟市民の誰からも読まれてゐないといふことになってゐる。これは明らかに文化の指導的地位にあったところの縣令その他の役人達の、大きな不心得と不見識から生じたものに達ひない。これと同じことが、将来どういふ形でわれわれの為すことから起って来ないとも保證されない。今日中國に代ふるに欧米をもってして、その表面的な形式を借用しただけで、やはり同じやうなうらみを後世にのこすことがないとは、誰も保證することが出来ないであらう。
 白山公園には、竹内式部のために實に大きな石碑が建てられてゐる。私はその石碑の下に立って碑文を讀みにかかったけれども、餘りに丈高く、首筋が痛くなって讀み終ることが出来ずに帰った。この石碑は有名な日下部鳴鶴氏が揮毫され、文章は星野博士が書かれたものである。およそあの石碑の下に立って、あの文章をあそこで讀み通すことの出来る人は恐らくないであらう。その證據には大正十一年になって、あの長い漢文の意味を縮めて、誰にでもわかりいゝやうに假名まじり文に手短かに書いて、銅板に彫って建ててくれた人がある。これは親切なやり方といはなければならない。この銅板の釋文があって漸くこの石碑の意味がわかるのであるが、何故最初から假名まじりの簡単にして読みやすい書き方を選ばなかったか。昔の形式をいかめしく、むづかしく書いて刻んで飾ってさへおけばどうにかなるであらうなどといふことは、生きた社会指導者のなすべきことではない。いかに立沢なものであつても、生きた関心を、生きてゐる人々に及ぼすところの力のない、いはば無用の長物となってゐるやうなものを作るといふことは愚かなことである。
 若し「新潟遊園記」なり、竹内式部の碑なりを讀まないのが現代人の恥づべき無知であるとするならば、何故これらの碑を讀んで欒しむやうに今の民衆を教育しなかつたか。讀めない民衆も責むべきであらうけれども、讀めぬものを建てて讀むやうに指導しなかつたことは、やはり指導着の責任といはなければならぬ。
 人は何人も世の変化といふものを豫知することは出来ない。しかしある程度まで自分の識見をもって、世の中の成行きを洞察することが出来ないことはあるまい。その識見と洞察とに基いて民衆の赴くところを指導して行くことが必要ではあるまいか。
 今日、文化文化といふ呼び声の非常に高い時代である。けれども、文化といふことは決して特別のことではない。よくものを味つて、両足を地べたに踏みしめて、じっくりと腹の底に味つてからでなければ口にすべきことではない。今までわれわれが中國の文化に封して盲目的に模倣して来たやうなことを、欧米の文化に封してくりかへすやうな愚かさは恨しまなければなるまいと思ふ。
                    『新潟日報』昭和二十二年二月二日

『会津八一全集』 中央公論社

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石井鶴三の世界 №145 [文芸美術の森]

象 1914年/立像 1914年

             画家・彫刻家  石井鶴三

1914象.jpg
象 1914年 (202×142)
1915立像.jpg
立像 1915年 (201×146)
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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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じゃがいもころんだⅡ №14 [文芸美術の森]

友達、80年

             エッセイスト  中村一枝

 Kさんとは子供が幼稚園のときからの友人である。今時分になると、庭の梅の木になった梅で作った、梅干しをかならず持ってきてくれる。私がすつばい梅干しを好きなのを知っているからである。今時、梅干しといえば緊張感の足りない、いい加減の酸味しかない梅干ばかり。Kさんの作るの梅干しは正真正銘の本物である。庭の梅をとって干して、私も作り方は知らないが、口に入れると酸っぱさがひろがる。売っている梅干しとはまったく違う野性の酸味、これがKさんの梅干しなのだ。まず手間が違う。面倒さが違う。Kさんの梅干しを食べたらその辺で売っている梅干しは相撲でいえば幕下、Kさんの梅干しは優勝を狙う横綱である。
 Kさんは家庭の事情で大学に進学できなかった。それが成績優秀な彼女にとってどんなに口惜しかったか。彼女は奧さんになってから通信教育で慶応大学を卒業した。とにかく頑張りやさんなのだ。勤め先でご主人が突然倒れたときは子供たちは中学や高校生、Kさんが3人の子供達に囲まれるようにして玄関に入って来たときの姿は見ていてもつらかった。
 若くしてて未亡人になつた彼女を見ていて、彼女なら3人のお子さんをきちんと育てていけると思ったことは確かである。あれから、4、50年は経つのだろう。あのころ、Kさんを見ていると、元々の頑張りに拍車がかかった気がした。今や八十歳をすぎた彼女の頑張りは更に磨きがかかってきている。髪はきれいな銀髪、元々色白で其れなりに歳老いているが、色白の肌は相応に老いても美しい。彼女についてはいまだに毀誉褒貶の批判も聞こえる。確かに時にやりすぎと思えることもあったが、ここまで来ると彼女の優れた個性と捉えたほうがいいとも思える。夫の亡き後3人の子供達を一人前に育ててここまで来たのはそう簡単なことではなかったろう。彼女の負けん気、自信、それらがあいまっていまがあるのだ。
 今になるといろんなものが彼女の人生のよきアドバイザーになったのだと私は思う。私は、ご主人が亡くなった時彼女ならなんとかやっていけると思った。今や大勢のこども、孫たちに囲まれ、豊かな老後を送る彼女をみると、人生というものの不思議さにおどろいている。好きとか嫌いとか、ここまで来るとそういう問題ではなくなる。一人一人の個性で歳を重ねていくことがわかる。私には決して真似はできないけれど、そういう人と何十年も付き合って、お互いに個性を尊重しあっていることが何より大事と思えてくる。
 友達といえばもう一人、つい先ごろバリにいるみーこに電話が通じた。みーこは以前知の木々舎にバリだよりを送ってきていたが、身辺いろいろあつて、私も心配していたのだが、電話が通じた。今のところパソコンが使えず困っているらしい。でも電話で話をしていると、古い付き合いが戻ってきて、本当に友達っていいなと思えた。彼女とは赤ん坊の時からの友だち、80年の長い付き合いである。タイプも性格も違うけれど、何処か共通しているものがある。少なくとも犬好きという点は共通項。一人っ子同士で、子供のときにはお互い引っ掻きあいの喧嘩もした。彼女のお母さんは、晩年日本を離れてみーこのところに移り住んだ。日本を離れるとき、母のところに暇乞いにきた。お互い底の底まで知りあい、頼り合っていた2人。80になってバリ、日本と離れ合う二人の老母の姿は、いつの間にか私とみーこに重なる。いまも、「みーこ」「かずえちやん」と呼びあっていると、80年前と同じ思いに戻っていくのだった。

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №9 [文芸美術の森]

岸田劉生と野十郎 2

          早稲田大学名誉教授  川崎    浹

 こうした風潮のなかで岸田劉生は、野十郎個展の翌大正十二年(〓些≡)『白樺』の二月号に「製作余談」を掲載し、美術の近代的傾向に対してつよい疑問符を打っている。
「先日来たロシアの未来派の画かき達でも、やっている事が何だか仰山で不自然で、世間的臭味がつきまとっている。一体未来派その他新しい画をかくという人間を見ると、殆ど皆、少なくも落ちついた人間はいない。新しければ新しいもの程、病根を大きく深くしている感がある。どんなにひいき目に見る時でも、何処かに大きな不自然がある」。
 劉生は、近代芸術が深く沈んだ心や既成の美を表現しなくてもいいとか、現代は過去のもので活力を得る事はできないとか主張することに不信をいだき、これからは「静かな深い心境に遊ぶ事は不必要になったのか」と嘆いている。かれは他方で「正しい道は既に生まれている」と言い、それが「美術の堕落」を救うことを期待している。「正しい道は別の処にある。もっと平凡に見える処にある」。
 それは七年前の大正四年(「九「五)に劉生が二十代半ばで描いた《道路と土手と塀(切通之写生)》を根拠にしているのだろう。また右の発言には、野十郎を知っているはずのない劉生が、同じ傾向をもつ同輩後輩をあたかも励ますような口調がある。
 ちなみにダヴイド・ブルリユークについて二一百くわえると、近年ロシアで刊行された『日本におけるブルリユーク』というりつばな画集には、日本と日本人を措いた、いまでも新鮮さを失わない興味ある画と、日本でのかれの足跡が詳しく紹介されている。
 ところで野十郎は「もつと平凡に見える処にある」「正しい道」を見つけていたのだろうか。
 制作は「九≡年とあるので大正十年の初個展に出品されたはずだが、灰皿の絵がある。由緒ある盃や茶器のたぐいと異なり、ただの灰皿である。両方の絵とも灰皿に吸いさしの煙草が置かれ、煙が出ている。一点は還(夜の)》と遷され、煙に焦点をあてることのメッセージが発信されている。後年画家が言った「空気」という言葉を思いうかべる
 と、煙や空気という最も影のうすい「存在」を通しての、本来は何物でもないところのものを表現する、そういう対象との距離の取り方を示す最初の兆候かもしれない。また煙はまもなく消えてなくなるという現象なので、どこかで《蝋燭》の焔につながっているのではなかろうか。
 高島野十郎は三会堂での初個展から昭和五年の渡欧までの十年間に何度展覧出品し、なにをしていたのか。現在分かっているところでは、渡欧半年前の大連での個展開催まで含めると五回出品している。
 野十郎の二度目の個展が開かれた大正十三年当時の画壇では、三大展(帝展、二科展、春陽展)での入選、入賞が大きな社会現象にもなっていた。劉生も《童女舞姿》を出品し、草土社色が強かったが、受賞したのは三岸好太郎や河野通勢だった。
 大正十三年(「九二四)、急進的な青年画家たちの三科造形美術協会が結成される。昭和四年(一九二九)に「日本プロレタリア美術家同盟」が創設されたことも時代の趨勢を感じさせるが、数年で解散せざるをえなかった。昭和六年(一九三二)には満州事変が起こり、いわゆる十五年戦争の硝煙が立ちこめはじめる。


『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂

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往きは良い良い、帰りは……物語 №73 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語
その73  TCCクラブハウスにて
    『昼花火(ひるはなび)』『鱧(はも)』『朝顔』『梅雨寒(つゆざむ)』

              コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

◆◆令和元年(2019年)6月24日◆◆
当番幹事(西村可不可氏&沼田軒外氏)からメンバー各位へ案内状が配信されました。

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期日●七月十四日(日)午後一時より
会場●表参道・東京コピーライターズクラブ
会費=1,500円
兼題1 【昼花火】
 「きょうは運動会やるぞ……」なんていうときに鳴らす、アレです。最近は昼間の観賞
   用に、煙に色をつけたものもあるようです。
兼題2 【鱧(はも)】
 鱧は京料理には欠かせない夏の食材です。関東ではあまり馴染みがないのは、小骨が
  多いためとか。
●景品は3点(合計1,000円くらいご用意ください。)
●出欠席の連絡は七月十日ごろまでに、このメールに返信で沼田までお願いします。
     七月幹事  西村可不可
                        沼田軒外
幹事連絡先=090-3224-1075 (沼田携帯)

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そうですか。あの花火、ドカンドカンと鳴るだけかと思ったら、煙に色がついているんですってえ。まさに昼間用ですね。見たくなりました。
そして、「昼」を、いつもの資料、白川静の『常用字解』で調べてみることにしました。
そしたら、びっくり。『昼』の字は≪「ひる」「ひるま」「日中」の意味で用いられるが、金文や古い文献に、その意味で用いた例が無く、字の成り立ちや、意味を明らかにすることのできない文字である。≫とのこと。
そうですか。ほほお~。身近にありながら、「昼」ってそんな厄介な文字だったのですか。驚きました。
そこで、私がFAXで送った出席の返信は下載のとおりです。いつもと違って、軒外氏の返信レターは無し。今回、氏は幹事さんですから。でも、在ります。「七月の案内状」が見事です。       

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◆◆さて、当日(7月14日)のトピックスとしては……◆◆
その1. 森田一遅氏の紹介による新人さんが入会されました。コピーライターの大取喜想次氏です。ウエルカム!
自己紹介の際、「私は令和という年号を使いたくないと思っている人たちの一人です。」と述べられたのが印象的でした。
「俳号はまだ、無し」と聞いた鬼禿氏が、「それなら、下戸(げこ)だ。この人、酒が呑めないから。」と、命名してしまいました。鬼禿氏とも知り合いだったのですね。    

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今日から会員。コピーライターの大取喜想次氏。

その2. 今回も新鮮感覚の玲滴さんに「句会の感想」を書いてもらいました。彼女にとって「本日のトピックス」は何だったでしょう。

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こふみ会の楽しみの一つはお弁当です。というより、それを挟んで交わされる食談義です。今回は軒外さんおすすめの≪湘南・鎌倉・大船軒≫の鰺の押し寿しでした。「僕はこれが数ある駅弁の中でベストだと思っているんだけど…」。
前回もお弁当で盛りあがりましたね。皆さん、それぞれに想い出の料理や感動の食材について語り始めたら際限なしといった感じ。お弁当にも一家言あるのが面白いです。

私はといえば、いつだったか、知り合いになったおばさんに彼女自慢の鰺寿司をごちそうになったことがありました。多分この季節だったと思います。押し寿しとは違った、また別のおいしさでした。生だから、もちろん駅弁にはなりません。

鱧は西日本、特に私の郷里の愛媛県では、夏、よく食べられる食材です。東の人は食べたことがないかもと思って、照り焼きなんぞで投句してみました。予想通り選にもれました。湯引き以外にも、私は鱧の吸い物が好きでした。吸い口には、今だったら徳島のすだちがいいかと…。鱧は京都の板前の、粋な料理と思われているかもしれませんが、郷里(いなか)なら、おばちゃんだって出来るのが鱧の骨切りです。こっちで作って投句すればよかったかな。

『昼花火 こっちへおいでと 御座候』の「御座候」は、姫路のお菓子屋さんの、直径10cmはあるような大きな今川焼です。お酒の飲めない下戸さん(今度入った大取喜想次さん)の句だったので、さもありなんと思いました。  (玲滴 記)
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大吟醸・澤乃井(孝多からの差し入れ)
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鰺の押寿し・湘南鎌倉・大船軒

◆◆質問にお答えします。◆◆
今回は下記のような質疑応答の欄≪Q&A≫も載せることにしました。
こふみ会発足以来のメンバーである二人、岩永矢太氏と孝多が相談してまとめたものです。

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.こふみ会の短冊は、なぜウラ(白面)に書くのですか。

.自作ではない、贈る、進呈する句を書くのですから、本当は敬意を表してオモテ(金面)に書くべきなのですが、自分の字が下手だからと謙遜して、ウラに書く。こうすれば「書いた人は句の作者ではないですよ」ということが一目瞭然にもなる、という利点も生じます。それ故にウラに書く習慣がついてしまったと申せましょう。
絶対にウラに書くべし、というわけではありません。オモテでもウラでもいいことにしましょう。

.こふみ会の短冊には、絵が描いてありますが、俳画は短冊にではなく、色紙に描くものではないでしょうか?
.色紙とは限らないんですよ。俳画を描く用紙は様々で、短冊、扇面(せんめん)、幅(ふく)と呼ばれる、短冊よりも横が長いもの、など、いろいろあります。先人たちはその場に応じて、あるいは好みによって、それらを使い分けて来たのですね。
しかし、自分の句と共に絵を描いて、自分の句に味を加え、充足をはかったという点では、どれも同じです。
こふみ会の場合は、選者が書く短冊ですから、句の作者自身が描くわけにはいきません。選者が思うままに、勝手に描くため、選んだ句に対して失礼に当たることがあるかも知れません。
そして、それを咎める人も無きにしもあらず、かも知れません。
でも、もともと、こふみ会では、絵を描く描かない、は自由なのです。誤解を招いているようでしたら、ご免なさい。
なお、このブログ上では「俳画」と称したことはなく、『絵付き短冊』と表現しています。

.こふみ会では、その句を天に選んだ人が、その句を短冊に書き、その句を作った人に謹呈するのがナラワシです。短冊に、天位の句を書いて「〇〇選」と、選者名をしたためたうえに、更にに、〇〇さんのハンコも押すということがよく行われています。でも、このハンコ、落款(らっかん)は自分の作品に押すものですよね。
サインだけで、ハンコは押さない場合も多々ありますが、そのハンコも、ひとの作品に押している……。おかしくないですか?
.そのとおりです。他人の作品に自分のハンコを押す。おかしなこと、と言ったら、おかしなことです。
でも、それが容認されているのは、その意気込みを評価する周囲の眼があるからでしょう。気分、気分! ひとの作品に自分のハンコを押すなんて、マナー違反、と極めつけても、句会が楽しくなることは無いでしょう。
総じて、俳句の、形式や作法や規則といった縛(しば)りを、ゆったりと解いて楽しむ。それが、こふみ会の流儀です。カタクルシイのは嫌(いや)ですよね。    

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(色紙) 野茨に からまるはぎの さかり哉    龍之介
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(幅) 白菊と 黄菊と咲いて 日出哉    漱石

掲載の2作品ともに、『筆墨・俳句歳時記(秋)』村上謹 編著(二玄社)からの引用です。       

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「いやあ~、むずかしいなあ」「同類の句が出揃ってしまうんじゃないか?」「鱧っていう字は鱧に似てないね。」「≪梅雨寒く≫でもいいんだよな」……詠題が張り出されると、いろいろな声が、飛び出してきます。
でも、いっとき、シ~ンとなって、次ぎに、ごそごそと動いて、投句して、やれやれ、と肩の力を抜いたりして、最後は係が正の字の得点を計算して「成績発表」です。声高らかに……
★さあて、本日のト―タルの天は~48点の弥生さ~ん
代表句は「梅雨寒や 文字も薄れて 鯨尺」 パチパチパチッ。

★トータルの地は~47点の虚視さ~ん
代表句は「朝顔や 伸び行く先に 夜のあふれる」  パチパチパチッ。

★トータルの人は~42点の孝多さ~ん
代表句は「梅雨寒や ビニールの傘 パンと開く」  パチパチパチッ。

★トータルの次点は~30点の茘子さ~ん。
代表句は「朝顔は 今日の命を 今日で終える」 パチパチパチッ。

皆さん、おめでとうございました。パチパチパチッ。     

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左から人の孝多、天の弥生さん、地の虚視さん、撮影は軒外氏

さあて、さてさて、今回のブログの≪Q&A≫のところにも書きましたが、この「絵入短冊」(俳画にあらず)は、当こふみ会の、今や、名物ではないでしょうか。今回も見応(みごた)えアリですね。     

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当然のことながら、本日の全句も、下載のとおり、賑やか。とくと、ご覧ください。ご質問ほか、お気付きの点がありましたら、多比羅孝多までどうぞ。TEL、048-882-7577  FAX, 048-887-0049  では、また、来月。皆さん、どうぞ、お元気に。
                              第73話 完     孝多

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第595回 こふみ会全句
令和元年(2019年)7月14日     於 TCCクラブハウス

◆兼題=昼花火       順不同
昼花火 静かに見上げる 老女あり          孝多
昼花火 見上げるゴリラ 大欠伸(あくび) 舞蹴
昼花火 病床で聞く 命の音(ね)          茘子
立ち呑みに 飛び込む合図や 昼花火        尚哉
この音に 血騒ぐ人ありや 昼花火          玲滴
アーケード 万国旗垂れ 昼花火             虚視
ツエルニー30番 昼花火で 中断す        軒外
昼花火 二つ鳴って 子らの声                珍椿
昼花火 姉の瞳の まんなかに                矢太
昼花火 こっちへおいでと 御座候          下戸(大取喜想次)
民主主義 危うしどんと 昼花火             可不可
デジャヴュとか 遠く何処かで 昼花火   弥生
新盆と 知らせておくれ 昼花火             華松
今がすべて 君と並んで 昼花火             一遅
パ・パンパン 届け昼花火 保健室          鬼禿
昼花火 手持ち無沙汰で 日暮待つ          紅螺

◆兼題=鱧              順不同
鱧の骨 古都千年の 舌ざわり       鬼禿
鴨川の 夕闇鱧を 刻む音                    可不可
鱧出でて 酒器も涙を 流しけり              尚哉
性悪(しょうわる)の 骨を断(た)ちたし ぼたん鱧 華松
シャツ一枚 鱧裂く人の 無表情              一遅
鱧の味 わからぬまんま 60才               下戸(大取喜想次)
受け流す 心の憂さや 鱧の骨      舞蹴
神妙に 鱧食う異国の 美少年                 紅螺
ゆうげには 父の好みし 鱧の照り焼き  玲滴
夏空を 瞳(ひとみ)に映し 鱧売らる  茘子
鱧選(え)る亡母(はは) 錦市場の 白日夢  弥生
板前の 手仕事 鱧料理                         珍椿
ボケて来て ますます愉快 鱧囲(かこ)む   孝多
鱧を切る もうあの闇に 帰れない           矢太
鱧湯引き 盛る板皿は 魯山人                 軒外
鱧裂かれ 湯に放たるや 反り返り    虚視

◆席題=朝顔           順不同
朝顔の かたへに埋めし 金魚一匹           弥生
朝顔に 今日は笑って 生きてゆく      舞蹴
朝顔が しおれる頃に 昼寝する             下戸(大取喜想次)
朝顔や 今日も明日も 明後日(あさって)も  可不可
朝顔咲く 夢の終わりの その後の    鬼禿
ひとつ咲き またひとつ咲く 朝顔の         軒外
朝顔は 今日の命を 今日で終える            茘子
路地裏に 誰がまいたか 朝顔の咲く   玲滴
朝顔咲く 百歳の住む 家の庭                 孝多
朝顔の つる這うように 腕まわし            華松
朝顔や 伸び行く先に 夜のあふれる         虚視
朝顔や へのへのもへじと 青空へ            矢太
朝顔や 自立の前こそ 蔓が要る               尚哉
放課後の  花壇 朝顔の列                         珍椿
朝顔を 描く筆先の 浅葱色                   紅螺
ジョギングの 道おはよう! 朝顔くん       一遅

◆席題=梅雨寒           順不同
梅雨寒や 折れ線グラフの 頭痛かな          茘子
グーグルに 23℃着る 梅雨寒の朝           下戸(大取喜想次)
梅雨寒に 半袖で出かける 伊達男             一遅
梅雨寒の みまい飛び交う メールかな    玲滴
梅雨寒や いつまで泣いて いるんだい        矢太
梅雨寒や ビニールの傘 パンと開く     孝多
梅雨寒や 疎遠の兄を 思う朝                   紅螺
梅雨寒の せいにしますか 僕の横             華松
梅雨寒や 人影のなき モネの部屋             可不可
梅雨寒に 伺いますと メールする             軒外
故郷(ふるさと)を 捨てし月日や 梅雨寒し   舞蹴
梅雨寒や 文字も薄れし 鯨尺                   弥生
梅雨寒し 息子は部屋から 出てこない        鬼禿
梅雨寒や 髪一房の 重さかな                   虚視
梅雨寒し 私は令和を 使わない                尚哉
ブルブルッと 梅雨寒の朝                         珍椿

                                以上16名 計64句

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №15 [文芸美術の森]

                         シリーズ≪琳派の魅力≫

         美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                      第15回:  本阿弥光悦の茶碗
       「白楽茶碗:銘 不二山」(国宝。長野県・サンリツ服部美術館)
        「赤楽茶碗:加賀光悦」(重文。京都・相国寺)

15-2-2.jpg15-1.jpg 


今回は、本阿弥光悦が作った茶碗をふたつ紹介しましょう。

 光悦は、千利休の弟子だった古田織部から茶道を学び、深く茶に親しんでいたと言われます。晩年の光悦は、楽焼の楽家2代常慶や3代道入から釉薬や窯焼きの知識を得て、興のおもむくまま、手びねりで茶碗を作りました。それだけに、光悦が作った茶碗には、先例にとらわれない何とも自由で斬新な造形感覚が見られます。

≪白雪をかぶった富士山≫

 始めは、国宝に指定されている「白楽茶碗:銘 不二山」(左図)。光悦自身が「不二山」という銘をつけました。
 口縁は丸く作られていますが、故意に歪みがつけられ、かすかにうねるような変化を見せています。
胴の上部は円筒形をしていますが、下部は、ざっくりとへらで削り落として平面的なカットをつくり、丸みを帯びた上部と直線的な下部とがせめぎ合うという、緊張感がうまれています。
室町時代に珍重されていた、中国や朝鮮から伝来した、ゆがみとかいびつなところがひとつもない形の整った茶碗とは趣を異にする、きわめて大胆な造形なのですが、存在感がありますね。凛とした品格さえ漂わせています。

 やはり、この茶碗の大きな魅力は、釉薬の変化がもたらした「景色」にあるでしょう。
茶碗全体に白釉をかけて窯で焼いたところ、下半分は炭化して青黒い色に変じてしまった・・・普通なら「失敗作」として割ってしまうところを、そこは光悦、これを、“雪をかぶった富士山”に見立ててしまいました。光悦は、そこに美を見出したのです。その途端、この茶碗は新しい美意識をまとった名碗に生まれ変わりました。
 俵屋宗達の「風神雷神図」にも通じる、自由で闊達な美意識を感じませんか。

≪切り傷のある赤楽茶碗≫

 もう一つの茶碗は「赤楽茶碗 加賀光悦」(右図)です。
 この茶碗は、かつて裏千家四代が加賀前田藩に仕官した時に所蔵していたので、「加賀光悦」と呼ばれています。

 こちらは、白土の素地の上に、「赤楽」に使う鉄分を含む土を刷毛で塗り、窯で焼いたものです。そのために、全体は赤みを帯びていますが、部分によっては、下地の白が見え隠れして味わい深い「景色」が現れました。

 この茶碗をよく見ると、器のあちこちに、へらで削った切り傷のような痕があるのに気づきます。そして見込み(器の内部)や、腰(器の下部)あたりは、ざらざらとした感触をそのまま見せています。これが、「切り立った断崖」を思わせたり、「岩の塊」を思わせる、この茶碗の風情を生んでいるのです。従来の鑑識眼で見れば「傷物(きずもの)」とされるものでしょう。
 
15-3.jpg 先に紹介した「白楽茶碗:不二山」同様、この「赤楽茶碗:加賀光悦」でも、口縁の作りは滑らかでなく、意図的にかすかな高低をつけ、高台あたりの底の部分では、あえて「ゆがみ」を持たせて作っています。
形が整った、綺麗な茶碗を見慣れた眼には、気ままで奔放な造形に映りますが、こうようなゆがみやいびつ、荒々しい感触、不整形が作る趣きを、光悦は「面白い」と思ったのです。
 シンメトリックで滑らか、綺麗な模様が現れた「窯変天目」のような中国伝来の茶碗は、確かに誰が見ても美しく、完璧と思わざるを得ません。
しかし、そのような理想的な美に加えて、本阿弥光悦は、あえて不完全さがもたらす面白さを愛で、そこに美を見出したのです。


≪「不完全さの美学」≫

ここには、「完全なものをよしとする美学」とは対極にある「不完全さの美学」があります。これは、「不足の美」などとも呼ばれていますが、私たち日本人が受け継いできた感性―「ゆがみやいびつな形も面白い」「不均衡なものに趣がある」「不完全さに余情がある」というような感性に由来するものではないか、と思います。光悦の茶碗は、それを大胆につかみ出して、造形化したものと言えるでしょう。

さらに申し上げれば、本阿弥光悦デザインの「硯箱」のところでも触れたように、この美意識はまた「やつし」「かぶく」「あそび」と言った精神とも呼応するものでしょう。
本阿弥光悦が打ち立てたこのような美学は、俵屋宗達の造形精神とともに、後世、「琳派の美学」として継承されていくことになります。

ちなみに、西洋美術において、長い間、主流となっていたのは「古典主義」の美学です。
「古典主義」の美の規範のひとつは「理想美の追求」です。古代ギリシャの芸術家たちは、人体彫刻や神殿建築において、完璧な「比例美」や、調和のとれた「左右相称の美(シンメトリー)」を追求しました。これが、その後の西洋美術の歴史の中でも、強い規範であり続け、それどころか、「古典主義の美学」は、現在にいたるまで、西洋文化の大きな骨格であり続けています。
このような作例は、西洋の絵画や建築、工芸の分野では枚挙に遑(いとま)がありませんが、ここでは、自然の15-4.jpg植物でさえもシンメトリックに刈り込んで造形した「幾何学式庭園」を図示しておきましょう。
ちなみに、「自然を人間の支配下に置く」と言うのは、西洋文明を支えてきた基本原理のひとつですが、21世紀になった現代、この原理がさまざまな環境問題を引き起こし、破たんをみせているのはご存知の通りです。

私たち日本人も、最初に「幾何学式庭園」を見たときは「美しい!」と思うのですが、しばらくすると、あまりにも人為的過ぎて、落ち着かない気分になることが多いと思います。
15-5.jpg勿論、私たち日本人も、古来、形の整った、シンメトリックな構図を美しいと感じる感性を持っています。たとえば、縄文土器の中にも、そのような作例をいくつも見出すことが出来ます。(右図参照:縄文時代中期。高さ47.5cm。長野・井戸尻考古館)
この美意識は、その後、現代にいたるまでの日本美術でも、規範のひとつとしてあり続けているのも確かです。

と同時に、私たちは、「それだけでは面白くない」「いびつで歪んだものも面白い」とか、「どこか欠けた、不完全なものに妙味がある」とい15-6.jpgうような、「不完全さの美学」をも潜在的に持ち合わせていることは、誰もが感じることですね。
これは結構、複雑・繊細な美意識でもあります。
例として、千利休の弟子であった茶人・古田織部が自らデザインした「織部焼」をひとつあげておきましょう。(本阿弥光悦は、古田織部から茶を習ったと言われています。)
文学の例として、吉田兼好の『徒然草』の一節を引いておきます。
  「花はさかりに月はくまなきをのみ見るものかは」

本阿弥光悦の功績は、このような日本的な美意識を、工芸の分野で、思い切ってつかみ出し、定型を打ち破った斬新な造形表現として提示したということでしょう。
大きく掴めば、「均衡」と「不均衡」、「完全さ」と「不完全さ」とのせめぎ合いの中で、造形感覚を磨いてきたのが日本の芸術家たちではないか、と思います。


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ケルトの妖精 №7 [文芸美術の森]

レプラホーン

            妖精美術館館長  井村君江

 アイルランドのラッテン州モーリス・タウンに住むトム・フィッツパトリックは、ある日のこと、生け垣の根元のところに、小さな見なれないものが動いているのに目を止めた。
 よく見ると、金槌を片手に、せっせと靴をつくっている白いひげの小人の老人だった。「レプラホーンだ」と、トムにはすぐにわかった。三角帽子に赤い上着、革のエプロン、これは妖精の靴屋レプラホーンにちがいない。
 レプラホーンは踊り好きな妖精がすりへらした靴を直すのを仕事にしているが、片方の靴だけしか直しを引き受けない、という変わり者だった。それなのに小金を貯めこんでいて、土の下には宝の壷を九十九個も隠し持っているという噂だ。
 トムは「しめた」と思った。レプラホーンをつかまえて宝物のありかを白状させれば、大金持ちになれるからだ。
 すかさずトムは両手で、レプラホーンのじいを、逃げないようにしっかりつかまえた。
 つかまえられたレプラホーンのじいさんは、いくらもがいても逃れられないとなると、観念して宝のある場所を白状すると言った。ところがその場所が「あっちだ」「こっちだ」とくるくる変わり、トムは靴の底が抜けるほど引きまわされた。
 しかも、「レプラホーンはまばたきする間に消えてしまう」と聞いていたトムは、そのあいだもずっとがまんして、目を見開いたままでいた。
 レプラホーンのじいさんは、
「こんどこそまちがいない、ここだ」
 と、トムを広い野原に連れていった。そこには黄色い小菊が一面に咲いていた。
「あの背の高い小菊の根元に、おまえさんの頭ぐらいの金の壷が埋めてあるよ」
 レプラホーンのじいさんがこう教えたので、ようやくトムがまばたきすると、握っていた手を開くより前に、じいさんは水滴が砂にしみこむかのようにスーッと消えてしまった。
 土を掘る道具がなかったので、目じるしに赤い靴下留めをその小菊の茎に結ぶと、トムは風のように家に飛んで帰り、シャベルを持って戻ってきた。
 ところがどうしたことだろう。見わたすかぎりの野原いちめん、何百という小菊ぜんぶに赤い靴下留めが結んであるではないか。トムはもう、自分が結んだ靴下留めがどれなのかわからなくなってしまった。その根元ぜんぶを掘ったら何年かかるかわからない。
 トムは掘るのをあきらめた。
 レプラホーンが人をだます知恵は、なかなかのものだったということだ。

◆「九世紀の詩人ウィリアム・アリンガムの歌『レプラホーン、妖精の靴屋』の二郎から、レプラホーンの姿はより具体的に想像できる。

  しわでしなびた髭づらエルフ
  とんがり鼻に目鏡を乗せて
  銀のバックル靴につけ
  革のエプロン、膝に靴
  リップ、タップ、ティップ、タップ、ティック、タック、ツー
  背丈は人の指ぐらい
  奴を見つけて、しっかりつかめ
  そうすりやなれる金持ちに

 ところでアイルランドの人たちはレプラホーンを人形にして、まるで日本の大黒さまのようにお守りとして飾っている。レプラホーンを捕まえて宝のありかを白状させ、一獲千金を夢みた昔の名残かもしれない。
 しかしレプラヒーンを見るために必要である頭に乗せる四葉ノクローバーが最近はなかなか見つからないし、レプラホーン自身賢くなって、姿を千変万化させて容易に人間には捕まらない術を わきまえてきたようである。


『ケルトの妖精』 あんず堂

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石井鶴三の世界 №144 [文芸美術の森]

百済観音・虚空菩薩 1914年/虚空菩薩像 1914年

             画家・彫刻家  石井鶴三

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百済観音・虚空菩薩 1914年(201×142)
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虚空菩薩像 1914年 (201×142)

*
*************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №37 [文芸美術の森]

東大寺断想

               歌人  会津八一

 私はこれまで幾度奈良へ出かけて行ったものか、教へて見たこともないが、汽車で行っても電車で行っても、もう奈良が近くなると、私はいつもそわそわと立ち上って、窓をあけて、三笠山のこちらに大きく盛り上がってゐる大佛殿を眺める。おもへは奈良地方には、古くは三大寺、後には七大寺、十大寺、十五大寺、と大きな寺がいろいろあったけれども、この寺こそは、今にしてほんとに奈良の「おほてら」の名にふさほしい。鴟尾の光る、この「おほてら」の大きな屋根を、まだ停りもやらぬ車の窓から眺めただけで、もう奈良に着いてゐるといふ一種の歓びを、胸一ばいに感じる。
 なるほど、この地方には、法隆寺や、唐招提寺や、室生寺などのやうに、そこへ足を移せば、建物や、彫刻や、時として絵画にいたるまで ― やかましく云ふことになれば、たやすく創建のままとは云はれないにしても ― 割合に都合よく纏まって遣ってゐるので、そのほの暗くもの寂びた中に、それぞれ一番古い時代の雰囲気が、まだかなり濃く漂ってゐて、すぐ吾々をその奥へ曳き入れさうにする。けだし大和を行く古寺巡拝者にとって、これが何よりも大きな魅力であるらしい。私などもこの魅力には一とたまりもなく降参して、随処にうつつを抜かしたものである。けれども東大寺になるとそこのところがまるで違ふ。この寺で私どもが打たれるのは、まづその明るさ、そして、その大きと久しさである。詳しくいへば干何百年の久しさの上に亙るところのその大さである。
 聖武天皇が天平十五年十月に、国家的とも、世界的とも、ことによると宇宙的ともいふべき、その雄大な御理想のもとに御重願になったと考へられてゐるあの近江の紫楽の廬舎那佛の造顕を、後に此の地に移さしめられ、その大像をいつきまつらせんために建てさせられたのが、この東大寺であったことは、誰知らぬものもないほどのことであるが、それから後、いつの時代にも上下の庇護と讃仰とを受けて、いつも国史の中心とまでは行かなくとも、あまりかけ離れぬ所で世局の推移に参與したものである。すなはち本願の天皇の御遺物を正倉院に御預りして恙なく今日に傳へたといふ事も大した手柄には違ひないが、その間に或時は平家の目に障はって兵火に罹れば、すぐ後から源氏を大旦那にして全国的安寿のもとに再興するし、元弘の御世には御座所にもなった。三好・松永の騒乱に再び火災に遇っても、江戸時代にはひると、すぐ三度目の甍が空に聳え、明治になれば新らしい技法と新意匠とで目ざましい大修理が加へられた。つまり東大寺は天平時代だけの東大寺でなく、ずつと今日まで歴代の東大寺であったと云へる。たとへば大佛殿にしてもその中庭の大燈籠にしても、ことに本尊の大佛にしても、いづれも天平の●基の上には立ちながら、部分部分には、ありありと代々の變改を見せてるる。寺内には、三月堂のやうにしんみりと寧楽の盛期に堪能させるところもあるが、南大門に立てば、吾等はすぐまた目を瞑って、鎌倉の新容に駭く。それは建築や彫刻ばかりでなく、荘厳、佛具の類から、儀禮行事にいたるまで、その時代時代の文化的活動を、ほんたうによく、反映してゐる。それをこの寺の缺點にしてしまふわけには行かない。
 同じ古都の風物に向ふにしても古物の鑑賞や詩歌の嘯詠に遊ぶものと、史學の研究を名乗る者とは全然別々の道を踐むのであるから研究者ならば、すべからく代々の事相の變遷を在るがままに看取するばかりでなく、そのうちに一貫した展開の暁を掴みにかかるべきであらう。しかるに.いつの間にか、この人々の間にさへ、上代だけを尊重して、中頃から後のことは、ことさらに棄て果てて一向顧みるものにしない傾向が見えるのは、人情といふものであらうか、とにかく面白いまちがひである。先年「東大寺」といふ標題で、随分行き届いた圖録を作ってくれた人々があった。その時、私などはその緻密な用意に感服してゐたのに、一方では、天平以後の資料をあまり採り入れすぎたと云ふところに目かどを立てて、是を以て史的價値に乏しと非難した學者もあったといふが、かうなると、史的といふことのその人の考へ方は、私などとはまるで反対になる。古から今に及び、さらに想を未来にも及ぼしてこそ、ほんとに史的といふものではなからうか。正直にいへば、私のやうに、いい年をした後になっても空想がちな日を送って来たものにとっては、こんなことのけぢめを立てて、物を云ふにも、随分くすぐったい思ひをするが、それは私だけのことで、筋合はやはりかうしたものであらう。
 ところがかうした時局になって寺塔も時によっては迷彩でもあり佛像もどこかへ疎開をしなければならぬといふやうなことになると改めてまた考へさせられるのであるが、一たい美術をば、至上だの永遠だのと、誰が云ひ出したことであらう。さういふ御題目は、ろくろく美術の難有みを知らずに、疎末に扱って平気でやって来た世上のわからず屋には、充分に教へ込まなければならなかったのであらうが、生命は束の間なれども藝術は永遠なりなどと云って見てもつまりは人生あつての藝術にちがひなからう。藝術は人が作るのか自然に産れて来るものか、それはどちらにしても、とにかく人間あつてのことであれば、人間とともに變遷もあり、盛衰もあらう。そしてその背景の時代に、のつぴきならぬ関係があるものならは、時代の消耗を免かれるものではなからう。だから時代を超えた永遠性などを考へるだけ無駄なことである。
 吾々としては、唯いつの果でも反揆と復活とをその葉の上に求めで行くべきである。これこそ人生に於て芸術を永遠ならしめる一つの道、恐らく唯一の道であらう。
                                                     『文藝春秋』第二三巻第二号
                                                        昭和二十年二月

『会津八一全集』 中央公論社

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じゃがいもころんだⅡ №13 [文芸美術の森]

 NHK素人のど自慢

                 エッセイスト  中村一枝

 今年は久し振りに梅雨らしい天気が続いている。しとしと降るでもなくあがるでもない、鬱陶しい空模様は久し振りに味わった。梅雨らしい梅雨だと思う。

 日曜日の昼にNHKでやっている素人のど自慢という番組は私が中学生の頃からあった。ある時、たまたまお昼に帰ってくると夫が一人でこの番組を見ていた。わたしの夫はあるテレビ局の報道に勤めていて家でテレビを見るなど全くしない人だった。それが思いがけず見ていたのがNHKの素人のど自慢である。もともと音痴と称して(これは確かなようだ)家で歌など歌ったことはない。さらに歌謡曲を低俗だと常々言っていたし、第一、家ではテレビは全く見ない人だと思っていた。それが思いがけず見ていたのが素人のど自慢とは、夫のおもいがけない一面をかいまみたようで嬉しかった。それからも彼はほとんどテレビを見なかった。
 実はわたしの方が素人のど自慢にはまってしまったのだ。夫がなくなってから、日曜の昼どきつい、この番組のチャンネルをひねってしまう。なんとみんな嬉しそうだろう。歌の上手い下手は問題ではない。あのステージに立つて声を出す、大勢のお客さんも、遠いところに住む人も、友達も知り合いもひっくるめて、その場に立つ人に同調できる。夫がなくなって何年も経つが、わたしは日曜日のお昼になると、ついNHKのチャンネルをおしてしまう。それに、出演しているお客さん達のなんとも嬉しそうな表情がいい。多分今日の夕食は家中この話で持ちきりになるだろうなと思うだけで楽しい。普通の人たちが全く普通の表情、そのままの日常がうかがい知れて、なんとなく打ち解けた気分になる。この番組が生まれて何十年経つか知らないが。テレビ局に勤めて何十年も経つ夫がなんとなくチャンネルを回して見入った気持ちが分かる気がするのだ。
 今やテレビは日常にかけがえのないものになってきている。テレビができた時、こんなくだらないものと思ったか、それともこの先楽しみと思ったか。わたしは、はじめてのテレビドラマを見てあまりにちゃちっぽいのに驚いた。暫くはドラマは見なかった。電気紙芝居と誰かが言った。正にその通りだった。でも今テレビがいきなりなくなったら、一番こたえるのは老人に違いない。足の具合の悪い人も多い。どこにも出かけられない人にはテレビは救世主に違いないと思う。スイッチをえ押しさえすれば好きな世界へ連れて行ってくれる。それだけにテレビを作る人の責任は重い。
 今日も日曜日の素人のど自慢を見た。出演している人のなんとも嬉しそうな顔、それだけでこの番組の価値はある。だが、一年前NHKにはかなり批判的だったわたしは、素人のど自慢は良いが他はどうなのかと言われると未だに謎で、両手を上げて応援しているわけではない。確かにNHKの作るものは質もいいし内容もある。それでも官製というよろいの影がちらついているのはなぜか。テレビの製作には莫大な費用がかかる。その点NHKはめぐまれているだけにもっともっといいものを作れるはずだ。のど自慢などは多分そんなにお金はかからないなかで庶民の思いをほんわかうけとめているのはたしかである。


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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №8 [文芸美術の森]

岸田劉生と野十郎  1

             早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 野十郎のように自負心と独立心のつよい青年が劉生のような年下か同輩の画家から影響を受ける自分を許すことができただろうか。劉生の《道路と土手と塀(切通之写生)》や《静物》を前にして、そのすぐれた要素を模倣して影響をうけるというより、それとは別の自分の個性を表現しようという競争心、さらには自分をさえ超えていこうとする気持ちのほうがつよかったのではなかろうか。劉生を意識すればするほどそうだったと思う。 
 さて三会堂での初個展やその前後の時期に描かれた作品は、全体的にほぼ写実的技法が根づいているが、これから暫くの時期の特徴は西本氏も指摘するように、生きる力の横溢をワープ(ねじり、よじり、反り)の形で表現していることで、《椿》が代表的である。魅力的な絵であるが、ここには溌刺と咲きにおう赤い花というより、背景の暗色が染みこみつつある爛熟と死のにおいがしないだろうか。《けし》も人を惹きつける絵で、ワープする細い茎がけしの花をささえて黒みをおびた紅い花とともに地球の重力から飛びだしかけている。《早春》も独特の反りをもつ大樹の風景だが、これは雄渾な印象をあたえる。この枝ぶりはずっとのちに描かれたと推定される《御苑の大樹》や《御苑の春》にも及んでいる。これらの大樹を見ていると、私はなんとなく、興がのると「在るに非ず、また在らずに非ざるなり」と言っては両手を交互に下から上へと楕円形にふりまわしていた高島さんを想いだす。
 多田茂治氏指摘の、野十郎が青木繁の影響をうけたとする育夜の雲》もある。これは《落暉》と同系の非写実絵画だが、のちの増尾時代の太陽、とりわけ夕陽の表現につながるのではなかろうか。二つの絵を左右に対比させると、野十郎が当初からぱくぜんと、「月夜」とはいえ月のない闇とか、光そのものにこだわりを持っていたことを示唆している。
 野十郎が《絡子(らくす)をかけたる自画像》を措いた大正九年(一九二〇)の十月には、ロシアから未来派の有力な詩人で画家のブルリユークやパリモフらが来日し、円本の未来派に参加し、大きな刺激をあたえたが、日本官憲の監視下におかれてのち渡米した。日本の前衛派はロシアのみならず、むしろ未来派の本家ともいわれるイタリアのマリネッティともかなり親しく、つよいコンタクトをとっていた。
 同年九月、日本美術院展でルノアール、ロダン、ピサロ、マネ、マティス、ドガ、セザンヌらの油絵が展示された。これ以降、ほぼ毎年泰西洋画の実物が紹介されるようになり、画期的な出来事となった。(つづく)

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けし
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早春
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御苑の大樹

『過激な隠遁~高島野十郎評伝』 求龍堂




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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №14 [文芸美術の森]

             シリーズ≪琳派の魅力≫

            美術ジャーナリスト  斎藤陽一  
                       

            第14回: 本阿弥光悦「樵夫(きこり)蒔絵硯箱」 
             (重文。24.3×22.9×10.2cm。熱海・MOA美術館)

14-1.jpg


≪「やつし」の美学≫

前回紹介した本阿弥光悦の「舟橋蒔絵硯箱」に続いて、今回は、もうひとつ光悦作の硯箱を見てみたいと思います。熱海のMOA美術館が所蔵する「樵夫(きこり)蒔絵硯箱」です。

 この硯箱もまた、光悦独特の、蓋の甲が高く盛り上がった造形が目を引き付けます。高さが10.2cmもあります。
 さらに意表をつくのは、大きくクローズアップで描かれた樵夫(きこり)の姿。造形といい、モチーフといい、光悦の個性が発揮された硯箱です。

 地の部分は蒔絵なのですが、樵夫の腕や脚には鮑貝(あわびがい)を使った螺鈿(らでん)、衣装や背中に背負った粗朶(そだ)には鉛板が使われています。ここでも、重くて渋い光沢の鉛を効果的に使っています。

 樵夫が踏みしめている金色の山道は、蓋を開けると、その内部の硯入れにもつながっており、そこには蕨(わらび)が描かれています。

14-2.jpg さらに、この写真では見えませんが、蓋の裏側にも、箱の底にも、山道はつながるように描かれ、硯箱全体が山のイメージで覆われる仕掛けとなっています。
 この簡潔なデザインと空間的な構成により、早春の山道を樵夫がとぼとぼと歩む情景が暗示的に表現されています。

 これまで、「樵夫の労働」というような卑俗な題材を、蒔絵の器に大きく描くことなど考えられませんでした。いかにも“前衛派”らしい光悦の挑戦ですね。
 その背景には、前回もお話ししたように、当時の「かぶく」気風を反映しているように思えますし、また、日本美術が本来持っていた「遊びの精神」を思い切って発揮したとも思われます。
 もうひとつ、当時の高貴な身分の人や裕福な町衆などが、あえて粗末な環境をこしらえたり想像したりして、そこに身を置くことに「風流」を味わう、という「やつし」の美学とも関係しているのではないか、と考えます。「身をやつす」の「やつし」です。
 この「やつし」への嗜好は、古歌にもしばしば現れていますね。たとえば:

  「秋の田のかりほの庵(いお)庵の苫(とま)苫をあらみ
             わが衣手(ころもて)衣手は露に濡れつつ」(天智天皇) 
 
 もっとも、美学にまで深められた「やつし」とは、単なる粗末や貧しさを装うものではなく、桃山時代のひとつの時代意匠でもあった装飾過剰なまでの贅(ぜい)の美からどんどん引き算をしてゆき、簡素さを徹底する中で浮かび上がる精神性を帯びた美しさ、それのみをさりげなく提示すると言う、手の込んだものだった、と思います。この精神はまた、千利休が茶道でめざした「わび・さび」の美意識にもつながるように思いますが、ここでは深追いをやめておきましょう。

 この硯箱が「樵夫(きこり)」をモチーフとしたことについて、近年では、謡曲「志賀」に題材をとっている、という説が登場していることを付記しておきます。
 この謡曲は、平安時代の歌人、大友黒主が、春の山に木こりに身をやつして現れるという物語です。そう、これも「やつし」の美意識を反映していますね。

 俵屋宗達の「風神雷神図」や本阿弥光悦の蒔絵硯箱を紹介する時、たびたび「遊びの精神」について触れましたので、これに関連して、私が敬愛する日本美術史の大家・辻惟雄先生が挙げている「時代や分野を越えてある日本美術の特質」をご紹介しておきます。辻先生は三つ挙げています。(辻 惟雄『日本美術の歴史』東京大学出版会)

 第一は「かざり」 ― これについては、後の回で、尾形光琳を語るとき、少し詳しく紹介したいと考えています。
 第二は「あそび」 ― 辻先生は、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』から示唆を受けたとして、「一見真面目くさった日本人の生活態度の裏に豊かな遊び心が隠されている」と言います。
 第三は、万物に精霊が宿ると信ずる「アニミズム」 ― 言わば、私たち日本人のDNAに組み込まれている「自然信仰」ですね。

 俵屋宗達や本阿弥宗悦の作品にも、当然、このような特質がしばしば現れていますが、私たちが様々な日本美術に接するとき、このような視点で眺めてみると、はっとするような発見をもたらしてくれます。
 さらに、このような特質は、私たちの周囲を見回すと、現代にも息づいていることに気づくのですが、ここでは、このくらいにしておきます。
                                                             


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ケルトの妖精 №6 [文芸美術の森]

湖の貴婦人ニミュエ モルガン・ル・フェ 2

            妖精美術館館長  井村君江

 瀕死のアーサー王のもとには、騎士ベディヴイアだけがつき添っていた。
 アーサー王はベディヴイアに言った。
「ベディヴイアよ、このエクスキャリバーをもって湖まで急いでくれ。それから剣を湖に投げこみ、そこで何が起きるかを見てきてほしいのだ」
 ベディヴイアはエクスキャリバーを手に湖へ向かった。しかし岸辺に立ったとき、ベデイヴイアはこの剣が輝きを失わず、ち領収書ばめられた宝石が月の光に輝くのを見て、湖に投げいれるのが惜しくなった。そこでエクスキャリバーを木の陰に隠すと、王のところに戻ってきた。
 王は「何を見たか」と聞いた。
「波と風のほかには何も」ベディヴイアは答えた。
「わたしをだましてはいけない。おまえほどの騎士がわたしを欺くとは」と王は嘆いて、ふたたび湖まで行くように命じた。
 ベディヴィアはなんどもエクスキャリバーを投げこむことをためらったが、ようやく、湖の岸辺遠く投げこんだ。
 すると白い妖精の腕が水のなかから現れ、剣をつかんで水底に沈んでいったのだった。
 ついに死を迎えたアーサー王は、この世にはない妖精の島、アヴァロンの島へ、三人の妖精に迎えられて船出していった。この三人の妖精はモルガン・ル・フエとノースガリスの王妃、ウエスト・ランドの王妃と呼ばれる妖精たちであった。船のなかにはアーサー王を守護しつづけてきた湖の貴婦人、ニミュエもいたという。

 ところで、アーサー王の死の戦場にマーリンの姿がなかったのは、ニミュエを愛しニミュエによって魔法を奪われて、生きながら永遠の囚われ人となっていたからだった。それは、アーサー王の婚礼の日にはじまったことだった。
 騎士たちが大広間の円卓についていた。そこへ白い牡鹿がとつぜん駆けこんでくると、そのあとから短い緑の上衣を着て弓矢を持ち、猟の角笛を首にかけ、白馬に乗った女か現れた。ニミュエであった。
 このときニミュエを愛してしまったマーリンは、ニミュエを魔法の力で欺いて、愛をわがものとした。
 しかし、やがてこミュエは年老いたマーリンから解放されたいと思うようになった。そこでマーリンの愛を利用して、ニミュエは、マーリンの魔法の術を自分のものとする企てをめぐらした。
 あるとき、ニミュエはマーリンに言った。
「永遠にとくことのできない、あなたの魔法を使ってきれいな家をつくりましょう。その家でふたりで暮らしたら、どんなにか楽しいことでしょうね」
 これを聞いたマーリンは、「ではそのとおりにしよう」と答えた。
 そこでこミュエは、「でも、あなたにつくっていただくのではなくて、わたしが好きなようにつくりたいのです。どうするのか、わたしに教えてくださいな」と言った。
 こうして、ニミュエはマーリンの術を知ってしまった。
 それからしばらくして、プレセリアンドの森をふたりで歩いているときだった。美しく咲きはこったバラの茂みを見つけ、その木陰に座って、マーリンはニミュエの膝に頭を乗せて眠ってしまった。
 それを見てニミュエはそっと立ちあがると、マーリンに教えられたとおり、バラの茂みとマーリンの体に九度ずつ輪をつくって魔法をかけた。
 眠りから覚めたマーリンは、堅固な牢のなかに閉じこめられ、目に見えない寝床に横たわっているような気がした。それは空中の霧のなかか、地下の洞窟のなかか、知ることもできない牢獄だった。
「おまえはわたしをだましたね。でも、いつまでもそばにいておくれ、この魔汰をとくことができるのは、おまえだけなのだから」
 とマーリンは言った。
 それから、マーリンの姿を見たものは、だれもいなかったのだ。

◆中世の英雄ロマンス『アーサー王物語』には、ケルトの妖精たちが色濃くかかわっている。アーサー王がケルトの血をひく英雄であり、ケルトの妖精が人間と一緒に生きていた時代の物語であるからだ。妖精ニミュエも妖精モルガン・ル・フェも湖の貴婦人(ダーム・デュ・ラック)と呼ばれ、あるときは保護者として、あるときは恋人として、またあるときは敵対者として湖の底から登場してきて、『アーサー王物語』の主役たちの運命を左右する。
 アーサー王は湖の貴婦人ニミュエから運命的な力をもつ剣、エクスキャリバーをもらった。また、のちにアーサー王の円卓の騎士となるラーンスロットは、父王が戦いに破れて死んだとき戦場から湖の貴婦人に連れ去られ、その宮殿で育てられた。この湖の貴婦人もニミュエだった。ニミュエは、館のまわりに湖をつくりだし、人々を遠ざけた。ラーンスロットはそこで騎士としての教育を受けたのち、円卓の騎士になった。このため「湖の騎士」と呼ばれた。
 ニミュエはアーサー王に対してと同様、騎士ラーンスロットへも温かい守護者として登場している。
 アーサー王の死のとき、アヴァロンの島へ迎えいれる湖の貴婦人のひとり、モルガン・ル・フェがアーサーを苦しめてきた妖精であるのは不思議におもえるが、これはケルト神話のモリグーが英雄ク・ホリンに言い寄り、それがかなわないと変身して危難に陥らせようとし、しかし最後はカンムリ烏の姿でク・ホリンの死をやさしく見守るというのに似ていて、妖精の多重性格を物語っている。
 湖の貴婦人は、ケルト神話のメイドランドの女王で戦いの女神であるヴァハや、英雄ク・ホリンに武芸をしこみ魔の槍ゲーボルグを与える影の国の女戦士スカサバにも類似している。ケルト系の妖精フェであり、妖精の保護者、妖精の母親であり、妖精の愛人でもある。
 湖の貴婦人が美しく魔術にもたけ、しかも騎士を守り育てるのは、自分の恋人にして異界の楽園に連れ去るためであるともいえる。
 マロリーの『アーサ主物語』に登場するニミュエには、月の女神ダイアナ(女狩人)、処女の守り神、子どもの保護者と泉の支配者、ケルトの女神ニアヴ(常若の国の王女、妖精の国の女王)、聖女ニニアン、泉の乙女、女魔法使い、性的な誘惑者といったさまざまな映像が重ねられている。


『ケルトの妖精』 あんず堂


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