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ケルトの妖精 №1 [文芸美術の森]

白鳥乙女カーと愛の神オィングス

             妖精美術館館長  井村君江

 オィングスは若さと美と愛の神であり、父のダグダは大地と豊穣の神で、ともにケルトのダーナ神族であった。オィングスの口づけは小鳥となって乙女の口もとにとどき、小鳥のさえずりは愛の想いとなって乙女の心に飛びこむといわれた。黄金の竪琴はやさしく美しい調べを奏でて、聴く者の心を奪った。
 オィングスは、ボイン河のほとりにある妖精の丘の王宮に暮らしていたが、ある夜、ひとり眠っていると、かつて見たこともない美しい乙女が現れた。おもわず寝台から手をさしのべると、乙女はかき消すようにいなくなってしまった。
 夜の白むまで、オィングスは乙女のことを思って寝つかれなかった。
 次の夜も、乙女はオィングスの夢のなかに現れた。その夜は笛を手にして、美しい調べを奏でていた。
 それから一年ものあいだ、毎夜、乙女はオィングスの夢のなかに現れては笛をふき、そして消えてゆくのだった。
 恋に落ちたオィングスは病気になり、しだいにやつれていった。多くの医者がその原因をつきとめられなかったが、フィンゲンという医者だけがオィングスの顔を見て、病は恋のためであることを見抜いた。
 オィングスは乙女がどこかに住んでいると信じて、乙女を探そうと思いたった。フィンゲンは母ボアーンの知恵を借りるようにと告げた。
 ボアーンは、悩む息子の想いを遂げさせるために、一年のあいだ乙女を探したが、見つけられなかった。夫のダグダにも相談したが、ダグダも探しあてることができなかった。
 そこでダーナ神族のマンスターのボォヴに頼みにいった。ボォヴはアイルランドじゅう
を探し、やっと一年ののちにガルディー山の竜の入口(ベル・ドラゴン)の湖のそばで、その乙女を見つけた。
 オィングスは馬車を駆って、ボォヴの王宮にやってきた。ボォヴは、三日のあいだ歓迎の宴を催したのち、乙女のいる湖へとオィングスを連れていった。
 湖のほとりには百五十人の乙女がいた。そのなかに、金の冠を戴き、金の首飾りをつけたひときわ美しい乙女が目に入った。
 「ああ、あの乙女だ!」オィングスは叫んだ。「あの方の名前を教えてください」
 するとボォヴは言った。
 「あの乙女の名はカーといい、コノートの国のウエヴァンの妖精の丘に住んでいる、エタルの娘です」
 オィングスは父ダグダのもとに帰ると、乙女を湖で見つけたことを話した。ダグダは、三頭立ての馬車を仕立てると、乙女の住むコノートの国に出かけた。コノートの国の女王メイヴと王アリルはダグダを歓迎して、宴会でもてなしてから用件をきいた。
 「息子のオィングスがエタルの娘に恋をして、花嫁にほしいと願っている」
 とダグダは頼んだ。
 アリルは「自分たちの力は妖精の乙女にはおよばないのだ」と答えたが、使者を妖精の丘のユタルに送り、ダグダに娘を与えるようにと交渉した。しかしエタルはその申し出をことわったので、戦いとなった。
 ダグダとアリルは連合軍を組織して攻撃をしかけ、エタルを捕虜にした。
 そしてアリルは、「娘をダグダの息子の嫁にしてほしい」と、エタルにふたたび頼んだ。「それはできないのです」エタルはまたしても、その申し出をことわった。

 不審に思ってアリルがそのわけをたずねると、ユタルは、
 「自分の力より、娘のカーにかけられている魔法の力のほうが強いのです」
 と答えた。そして、
 「娘は二年ごとに鳥の姿と人間の姿とに変わって、その年を過ごすのです。次のサウィン(十二月二日)には、白鳥の姿になって竜の口の湖で仲間の百五十羽の白鳥たちと泳いでいるでしょう」
 とアリルに言った。
 ダグダは、王宮へ帰ると息子のオィングスにこのことを知らせた。
 サウインの日に、オィングスは湖に向かった。百五十羽の白鳥が金の首飾りをつけ、頭上には金の冠を戴いて泳いでいた。
 オィングスは水辺に立って、白鳥の姿のカーに呼びかけた。
 「ここに来て、わたしと話をしてください」
 「わたしをお呼びになるのはどなたですか」カーは答えた。
 「オィングスです」
 それを聞くとカーは、オィングスのほうに近づいてきた。
 愛しい気持ちを胸いっぱいに、オィングスがカーを抱きしめると、オィングスも白鳥の姿に変わった。
 そして二羽の白鳥は、美しい白い雲を広げ、湖を巡ってからオィングスの王宮へと、連れ立って飛んでいった。飛びながら白い二羽の烏は美しい歌を歌った。それを聴いたものは、三日三晩のあいだ眠りつづけてしまったということである。
 カーはそれからのち、ずっとオィングスと楽しく暮らしたという。

◆ 気品のある白鳥の神秘的な姿は、「魔法にかけられた美しい乙女」という連想をかきたて、さまざまな伝説を生んできた。ケルト系の神話や妖精物語には、「白瓜乙女」(スワン・メイドン)の話が多くある。
 それらに共通するのは、主人公である乙女が魔法にかけられて白鳥の姿になっていることである。その白鳥が水浴びをしたり踊ったりしている姿に恋した男が、白鳥の羽のマントを盗んで妻にしたり、同じ白鳥になって恋を遂げたりする話があり、これは日本の羽衣伝説に似ている。
 継母の魔法の杖で白鳥に変えられ、九百年もモイルの海をさまよったリール王の四人の王子の話もよく知られているが、これは魔法がとけ人間に戻ると老人になり、すぐ死を迎えたという悲しい話である。

『ケルトの妖精』 あんず堂

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石井鶴三の世界 №138 [文芸美術の森]

喜光寺 1914年/唐招提寺 1914年

             画家・彫刻家  石井鶴三

1914喜光寺.jpg
喜光寺 1914年 (201×104)
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唐招提寺 1914年 (201×142)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №31 [文芸美術の森]

奇 遇

                 歌人  会津八一

 私は一介の老書生で、決して骨董道楽などをするほどの餘裕を持たない。しかし史的研究の必要から、常々いくらか標本数の蒐集を心懸けてゐるだけのことである。其れ故格別人に談るほどの手柄噺などがある筈も無いが、最近に一寸面白いと云へぬことも無からうと、思はれることがあった。
 それは二枚の磚の話である。磚と云へば一種の煉瓦のやうなもので、正方形のものもあり、長方形のものもある。絵や文字が表面にあるものもあるし、側面にあるのもある。叉何も書いて無いのもある。支那では古来「敷瓦(しきがわら)」や「腰瓦(こしがわら)」として用ゐたほかに、墓陵の内壁を築くに用ゐたものもある。かうした磚は一つの墓から教百数千も出て来るが、文字のあるものは割合に少い。文字があれば書風を味はふことが出来るし、時としては同時に年代を知ることも出来るので、書道史の研究家には最も重要とされて居る。しかし最も少いのは繒のあるもので、有名な武梁祠や孝堂山の晝像石などと比較して、ことに珍重されるのである。
 ところが最近、出入の一骨董店から繒のある磚を手に入れたから見せたいといふ便(たより)があったので、早速見に行くと、それは所謂漢式の磚で、圖様は珍らしいはど精巧な人馬の繒でもつた。しかし惜しいことにその磚は上下二枚で一つの繒を成すべきものの下の半分だけで、馬に頭がない。乗ってゐる人物も足だけで上體はない。馬車も車輪だけで、蓋(がい)も駁者も無い。しかし私は四五年も前から別に一枚の磚を持って居た。その方は矢張り二枚あるべきものならば上の半分と見えて、頭ばかりの馬や人物があった。此の磚のことを遽かに思ひ出して、若しやと云ふ心のときめきを感じながら兎も角も直ぐに買ふことにきめた。そして翌朝届けて来るのを待ちかねるやうに合せてみると、正にピッタリと合ふ、人も馬も、車も、輪廓の線までもみんなピッタリ合ふ。のみならず、所々に灰被りらしい紬薬めいたものが附いて居る具合までも同じことだ。私は思はず一人で聾を揚げた。これは千七八百年前に同時に型を脱し、同時に窯を出て、同時に同じ墓壁に用ゐられた、云はゞ兄弟の二枚が、一度発掘されてから長い間別々に流浪した末に、遂に此の私の家の食堂のテーブルの上でめぐり合ったものらしい。奇遇と云ふものであらう。前から持って居た方は最初台湾の或る人が愛蔵してゐたものを、後に下谷方面の或る骨董店から私の手に帰したのであった。こんどのは京橋の或る店から買ったのだが、これは山東省からやって来たと云はれて居る。元来私には餘り面白い話はない。たまたまあればこんな事である。
                『短歌研究』第八巻第二号昭和四十年二月


『会津八一全集』 中央公論社

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じゃがいもころんだⅡ №7 [文芸美術の森]

一万円札

              エッセイスト  中村一枝

 新しい一万円札の肖像が渋沢栄一に決まったと聞いたとき思わずへえーと言ってしまった。渋沢栄一は至って遠い存在だが、その子孫との付き合いは長い。今の家を建てるときに夫と二人で表通りをあるいていたときバッタリ出会ったのが渋沢均さん、栄一の長男秀雄氏の息子さんで、夫とは同じテレビ会社の先輩後輩の間がらだった。聞けば見にきた土地は隣り合わせと言う。帰りがけに私は夫にそっと聞いた。「あの人いい人?」「いい人だよ」滅多に人をほめない彼が言った。隣同士に家を建てた。更に私の家の娘と渋沢さんの次女とが4ヶ月違いに生まれて50年以上の時が流れた。
 渋沢家は途中で引っ越したり、學校も違ったのに、娘たちの交流はずっと続いた。夏になると涼しい場所を求めて私も奥さんも夢中で探し回った。最後に見つけたのが八ガ岳のちょっと人里はなれた別荘地だった。渋沢家は日本有数の財閥ではないかと思っていたが、私の知る渋沢さんは全く違う。毎年の夏わたしは娘とお揃いの簡単な子ども服を二枚作って2人に着せるのがとても楽しみだった。ところでわたしの不器用さは大抵の人が知っている。私の作る子供服はウラ地の糸の処理を全くしていないので表は一応見られるが裏は酷いものだった。そんな服でも二人は大喜びだったし、奥さんも何も言わなかったなと今思う。
 オジイちゃまである渋沢秀雄さんとは何度か夏、ご一緒したこともあった。おばあちやまがまた負けんきの強いかわいい人で、勝負事になると負けん気丸出しがまたかわいい人だった。私と奥さんとがホテルや旅館で食事やもてなしにブツブツ言っていても、文句を言ったり機嫌の悪くなるようなことは全くなかった。「でも、ふたりともやかんなのよ」「やかんって?」私がきくと、奥さんがくすくすわらう。車のなかでばばとオジイちゃまとの議論が始まると、二人の興奮は白熱してきてとても車を運転出来る状態ではなくなるそうだ。「やかんに湯気って言うでしょ。頭は二人ともツルツルだしね。」奥さんは面白がっているのか、笑いながらはなした。個性的と言えばとても個性的な人だったが、中に持っている純粋さが普通の奥さんには見られないところにとても惹かれた。大人の文学少女、と言うべきだったか。大人たちの交流以上のこどもたちの付き合いもずっと続いた。  
 渋沢栄一が女好きだったとはあまり聞かない。女性は一人二人ではなく、子供に至っては十二人はいたと言う話を聞いたことがある。隣の奥さんが笑いながら話した。「どの子もみんなうちの子と似ているのよ。遺伝子が強いのかな。」
 長い間には色々のことがあった。喧嘩もしたし、批判もした。でもお互いに理解していた。良い友達を失ってとても寂しい。娘がなくなって今、Eちゃんがいてくれるのが何よりうれしいのだ。隣のご先祖様が一万円札になるなんてあんまりない話にざわついている。

 元々のあわてものであるわたしは、うっかり間違いをおかした。先週の文章の中に四月からしんねんごうに変わると書いてしまった。先走りもいいところである。改めて新年号は五月からと言うことに訂正よさせていただきます。いいこととは早い方がいいという早とちりである。なんでも楽しそうなことは早いに限るといってもね。閣僚だったらすぐ辞任という話である。ごめんなさい。

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №2 [文芸美術の森]

第一章一枚の絵の発見 2

         早稲田大学名誉教授  川崎 浹

美術学校への進学を反対されて

 宇朗より十二歳年下の弥寿こと野十郎自身は、最初から画家をめざして美術学校への進学を望んだと思われるが、両親が許したとは考えられない。定職のきまらぬ長兄宇朗の例もあり、詩人や絵描きを職業にするなど、当時の親としては考えられなかった。また、ちょうどその頃、明治四十年(一九〇七)、二十五歳の青木繁が父親を亡くして帰郷しているが、一家を支える能力に欠け、画家としても最盛期をすぎ放浪の生活を送っていた。
 野十郎は名古屋に新設されて二年目の旧制第八高等学校に学び、東京帝国大学農学部水産学科に入学した。学業優秀で特待生となり、銀時計組に推薦されたが、栄誉を身につけたくないとでも思ったのだろうか、本人が辞退した。指導教授が残念に思い自分で銀時計を購入して野十郎にあたえた。後年、私が高島さんにつれられて級友だった元愛媛大学学長の香川さんを訪れた際、氏はにこにこしながら「高嶋君は優秀でしたね、首席といって
も我々の間ではずば抜けたトップでしたよ」と言ったことがある。銀時計を背にした若き野十郎の自画像は、教授への感謝の意を表したのか、過去の栄光を刻んだのか、或いは単なる記念写真だったのだろうか。
 学芸員の西本氏は、一年後の野十郎展をひかえて画家の足跡や人脈を洗いだし、調査済み以外の新しい作品を探すことが急務だった。絵と人脈、これは地下の水脈のように微妙につながっている。かれに幸運だったのは、野十郎を支えた友人、知人の多くが存命であり、さらに絵の購入者が野十郎の近親の愛好者で、かんたんに作品を手放さず、絵が比較的散逸していなかったことである。
 企画会議から半年を経た、昭和六十一年(一九八六)四月、西本氏は東京に出張して、関係者に会い、所有者の絵を確認して借用を取り決める五日間の日程をこなした。
 ただ一つかれに不運だったのは、高島さんの東大時代の学友、大橋祐之助が亡くなっていたことである。私は高島さんにつれられて医師の大橋氏と会ったことが何度かある。画家にアトリエを貸したり絵の購入者を紹介したり、高島さんに最も大きな支援をあたえた人ではなかったろうか。私が温厚な感じの大橋医師と何度か、とりわけ新橋で会ったことを、ぼんやり憶えていたのもむだではなかった。多田茂治氏の『野十郎の炎』によると大
橋氏は新橋で医院をひらき、夫人もまた女医で、彼女は大正初めに米独に留学し、パリの国際女医大会では日本代表として登壇し、「次回は日本で」と呼びかけたほどの女性だった。こうした事情で医院には有名人の患者も多く、当時ファッション・デザイナーの先駆けだったマダム・マサコもこのサークルの常連だった。
 初対面の西本氏はおもしろいことを言った。「高島さんが今もご存命だったら、私が展覧会の交渉に伺っても、すんなりと応じてくださったかどうか」。かれは実在する数々の絵や、画家と緑のあった人びととの連日の出会いで、画家がすでにこの世にいないとは思えなくなっているような口ぶりだった。私は西本氏に野十郎の絵三点を確認してもらい、高島さんとの出通いのいきさつを話した。

『過激な隠遁』 求龍堂

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №8 [文芸美術の森]

                          シリーズ≪琳派の魅力≫

         美術ジャーナリスト  斎藤陽一

                第8回:俵屋宗達・絵、本阿弥光悦・書
                    「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」 
        (桃山時代。一巻。13.5m×34cm。重文。京都国立博物館)

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≪絵と書のコラボレーション≫

 これまで、琳派の先駆である絵師・俵屋宗達のことを語ってきましたが、今回は、俵屋宗達が「絵」を描き、その上に本阿弥宗悦が「書」を書いた作品、つまり二人のコラボレーションによる作品「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」を紹介したいと思います。

 本阿弥光悦(1558~1637)の家は、代々、刀剣の鑑定や砥ぎによって室町時代の足利将軍家に仕えた名家であり、京の上層町衆でした。
 王朝文学や能楽などの素養もあり、才能豊かだった光悦は、書、絵画、陶芸、漆工芸などの分野でも活躍し、一種の「アート・ディレクター」的な役割を果たしました。

 俵屋宗達と本阿弥光悦は、この作品のような、絵と書が共鳴し合う合作をいくつも残しています。
 今回紹介する二人の合作は、宗達が金銀泥で下絵を描いた上に、光悦が和歌を書き連ねた、長さが13mを超える長い巻物です。
 そこに宗達は、岸辺の鶴の群れが飛び立ち、宙を舞い、上ったり下りたりしながら、また岸辺に舞い降りるまでの姿を、流れるような動きとリズムで描き分けています。その上に、本阿弥光悦は「三十六歌仙」の和歌を書き連ねました。光悦の書は「光悦流」と言われるほど、個性的なものでした。
 この長巻のすべてをお見せできないので、その冒頭の部分を上の写真に掲げました。宗達が描いた鶴の数は全部で百羽を超えていますが、この部分を手掛かりにして、千変万化する鶴の飛翔を想像してください。


8-3.jpg≪絵と呼応する書体≫

 和歌巻の最初に描かれている絵(右図)は、岸辺で憩う鶴の群れですが、鶴たちはだんだんと頭をさげつつ、次の飛翔に備えています。(このあと、ぱっと飛び立ちます。)
 そこに本阿弥光悦は、柿本人麻呂(人丸)の次の和歌を書きました。

 「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ」

 光悦が描いた「人丸」の「人」という字が、あとで書き入れたように小さく脇にかかれていることにお気づきだと思います。おそらく、光悦は、最初に宗達が描いた鶴の絵のあまりの見事さに息を呑み、いざ筆を執って書き出さんとするときに、一気に書こうと意気込んだあまり、つい「人」の字を書き忘れてしまい、あとから書き入れたのではないか、と想像します。
 
 和歌を書いている部分では、宗達の下絵の鶴の姿に呼応して、光悦の書体も変化しています。
 たとえば、体を膨らませて立つ最初の鶴たちの姿に対応して、「保濃‥‥当」(ほのぼのと)の「保濃」を濃く太く、丸みを帯びた書体で書き始めています。
 しかし、歌の後半部分の「しまかく禮行くふねをしそ思ふ」(島隠れ行く舟をしぞ思ふ)のところでは、鶴たちの直立する細い首と脚に呼応して、「し」というひらがなや「行く」という字を同じような真っすぐな細い書体で書いています。見事な呼吸というべきか。

 ここでは全部をお見せすることはできませんが、ほかの部分でも、絵と書が響き合ったコラボレーションが展開されます。
 これを、光悦や宗達が嗜んでいた能楽の「地謡の間合い」に例える人もいるし、「ジャズのセッション」とか「音楽のデュエット」に例える人もいます。
 
 もともと、和歌などを書くための料紙を美しく装飾すると言う趣向は、平安時代から盛んに行われてきました。しかし、その場合には、あくまでも和歌が主役であり、下絵はあくまでも書の控えめな引き立て役とされてきました。
 ところが、俵屋宗達と本阿弥光悦は、平安王朝の装飾美の伝統を継承しつつも、絵と書が対等に響き合って展開する、新しいスタイルの和歌巻を生み出したのです。

≪文字もデザイン要素≫

 ちなみに、近代以前の西洋美術では、絵の上に直に文字が書かれるということはほとんど見られませんでした。(19世紀後半になって、日本美術の影響を受けたロートレックやミュシャなどが、そこからヒントを得て、ポスターなどで絵と文字の組み合わせによるデザインをやっています。)

 大学時代に私が「西洋美術史」の教えを受け、その後も多くの学恩を受けている高階秀爾先生によれば、「西洋では、ルネサンス以来、絵と文字は別の領域だった。もし、絵画に文字が書かれるとすれば、そのためにわざわざ設けた部分に書くとか、空いた部分に書いた」とのことです。そういえば、お隣の中国の詩画(漢詩と絵が描かれた絵画)でも、空いている部分に詩句や文章を書いたりしています。(高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』筑摩書房)

 ところが日本美術では、「文字」もまた、「絵」と対等の美術的なデザイン要素であるという美意識にもとづいて、平安朝以来、長い間、ごく自然に絵と書のコラボレーションが行われてきました。これも、私たち日本人にはごく当たり前に思われてきたことが、実は日本的な特質だったということのひとつです。

 このような、書と絵が一体となって、流れるように響き合う美の世界が生まれた背景には、直線的な文字である漢字を書き崩して、曲線的な「ひらがな」を発明したということも大きく影響しているでしょう。

 さらに、世界でもまれな文字体系である、日本独特の「漢字かな交じり文」について考察すると、そこにも日本文化の特質が浮かび上がって来て面白いと思うのですが、私には任が重いので、やめておくことにします。
 “絵画と文字”、“和歌とことばの視覚的共鳴”ということについて、私が大いに啓発されたのは、琳派の専門家である玉蟲敏子氏の先駆的な研究です。関心のある方は、氏の著書を読んでみてください。(例:玉蟲敏子著『日本美術のことばと絵』:角川選書、ほか)

 次回は、また俵屋宗達の絵に戻り、宗達が京都の養源院の杉戸に描いた「唐獅子図」と「白象図」を見てみたいと思います。


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正岡常規と夏目金之助 №12 [文芸美術の森]

     子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承 

                   子規・漱石 研究家  栗田博行 (八荒)

             第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅲ

 

豌豆と空豆の花の記憶 幼少期の子規① つづきのつづき

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随筆「吾幼時の美感」の掲載は、明治31年12月新聞「日本」でした。残りの命を想い、あの108文字墓誌銘に自分の生涯をまとめたのが明治31年7月13日の夜のことでしたから、この子規子(血を吐く鳥を名乗ったペンネーム)の名で発表した文章も、命の残り時間を想う流れの中で書いたことでしょう。

しかし、迫ってくる死への予感がもたらす湿り気のようなものは、あの墓誌銘と同様、この文章にも全く漂いません。むしろ幼い日に心惹かれた美しいことを思い出し、それを次々と列挙していく快感に身を任せているような感があります。

 

満2歳すぎに体験した生家の全焼のことは、自分はその時、

バイ へ (提灯のこと)バイ へ と躍り上りて喜びたり、

と母は語りたまいき。・・・

と綴られ、美しくも可笑しみのある原体験として描かれていました。

12-2.jpg 負ぶわれていた母・八重の母性の深みまで伝わってくる文章でしたが、むしろ筆者子規子自身はそのことに無自覚だったかもしれません。ただ、「と母は語りたまいき。」との敬語表現に、八重さんに先立って逝くかもしれない自分…という自覚の念が思わず反映したかもしれませんが …。

 その一節のあと筆の流れは、

我家は全焼して僅に門を残したる程なりければ、さなくとも貧しき小侍の内には、我をして美を感ぜしむる者何一つあらざりき。

と、微かに不幸感の漂う幼な児であったことを伺わせます。ですが、表現しようとしたのは不幸感の対極にあるものだったようです。すぐこう続けています。

   七八つの頃には人の詩稿に朱もて直しあるを見て朱の色のうつくしさに堪へず、吾も早く年とりてあゝいふ事をしたしと思ひし事もあり。

満6歳の頃八重さん父・祖父大原観山の塾で、漢学を学び始めたのでした。そこで年上の子らの添削を受けた習字を目にしたのです。そしてその添削の朱と黒の交わる筆跡を見て「吾も早く年とりてあゝいふ事をしたし」と感じたというのです。また、

   ある友が水盤といふものゝ桃色なるを持ちしを見ては其うつくしさにめでて、彼は善き家に生れたるよと幼心に羨みし事ありき。

という風に、「全焼した貧しき小侍の内」という不幸感はあったものの、それは美しいものへのあこがれの方に、自分の心がいざなわれたことを思い出しているのです。

 

12-3.jpg 22歳の時、落第と脳病に見舞われた親友・大谷君に、自らの「子規」と始めて名乗って、彼と自分を励ましたのと同じような心動きが、31歳の子規の筆の運びにも働いていると言えましょう。

(八注・それにしても「美しい桃色の水盤」などというものを筆者は見たこともないのですが、広辞苑によると中に水を張って花を活けたり、盆石を置いたりする水盆という事です。()

  

それから幼い吾が目に映った美しいものの列挙が始まります。 

こればかり焼け残りたりといふ 内裏雛一対紙雛一対、 

見にくゝ大きなる婢子様一つを 赤き盆の上に飾りて三日を祝ふ時、 

   五色の色紙を短冊に切り、芋の露を硯に磨りて庭先に七夕を祭る時、

            此等は一年の内にてもつと楽しく嬉しき遊びなりき。

  

明治3年満3三歳になる年、妹が誕生します。以来「全焼した貧しき小侍の内」で、隼太母・八重曾祖母・小島ひさ妹・律という家族の暮らしが続いていたのです。

  いもうとのすなる餅花とて正月には柳の枝に手毬つけて飾るなり、

それさへもいと嬉しく自ら針を取りて手毬かゞりし事さへあり。

           昔より女らしき遊びを 好みたるなり。

  

「昔より女らしき遊びを 好みたるなり。」この男の子は、こんな風だったらしいのです。男児のお祝いの端午の節句の記憶は、この随筆「吾幼時の美感」では、ひと言も述べられません。正岡家が貧しくて女の児のひな祭りしか出来なかったとは思えません。火事のあと別の所に新築された正岡家は、貧乏とは言え百八十坪の敷地に玄関も床の間も客間もあるような屋敷だったのですから。その家の跡取りとして育てられたこの男の児は、数え年の五歳となる翌明治4年、袴着のお祝いしてもらっているのですが、 

○上下着の時には…紋付をこしらへて、 

上下は佐伯の久(父方親戚)さんのを譲つて貰ふて、 

大小は大原(母方親戚)の元のを貰ふてさしましたが、 

何様背が低いので、大小につらされるやうぢやと笑はれました。 

(母堂の談話・碧梧桐記)

 

子規本人は書いていませんが()、八重さんの話はこう続いています。 

背が低かつたのはえつぼど(かなり)低かつたと見えて、 

大原の祖父(八重の父)が、朝暗いうちに門に出て居つて、 

何か知らん小さいものが向ふから来ると思ふと、 

それが升ぢやつたなどと話を よくして居りました

 

12-4.jpgそんな男の子であったにもかかわらず、處之介君は武家の家系の正岡家の男の子として、維新後にもかかわらず満5歳くらいから髷を結っていました。殿様へのお目見えの儀に備えてのことでした。(時世の流 で実現はしませんでしたが…。) 

 明治5隼太は隠居し、髷ノボさんは正岡家の戸主となります。ところが二か月もしないうちに父・隼太は病没。八重さんは、大きく実家大原家に頼らざるを得ませんでした。 

八重さんの父で幼子規をよく訓育したという、祖父・大原観山は、「終生不読蟹行書」(=横文字・英語の本)という言葉も吐いたというくらいの西洋嫌いの漢学者で、維新後も髷を落とさなかったような教育者でした。子規は数え年九歳の時までその方針のもと髷をつけたままで育ちました。2歳年上の兄弟のようにして育った従兄弟半の三並良も髷のママで、その父という人が、嫌がる二人のために観山翁に嘆願して、ようやく髷を切るのが許されたのでした。そのあとのことです。 

髷を切つて後も小さい刀をさして居りましたが、余戸(父方の郷村)の祭りで田舎へ行きました時、誰かゞ抜いて見い ヘ といふたけれども 抜けませんのを、陰へ廻つて 裏の畑へ出て自分でどうやらかうやら抜きましたら、手を斬りましてな、それでうちへは辟(帰)れないといふので、シク ヘ 泣いて居つたこともあります(八注・もちろんこの事も本人はどこにも書きとめていません()。) 

 

八重さんの、あの「よつぽどへぼで へ 弱味噌でございました」という言葉は、芯から幼子規をとらえていた母性の冷静な把握の顕れだったのでしょう。 

しかし八重さんだけではなく、兄のために石を投げたりして兄の敵打を」してくれる 12-5.jpgような妹や、「目も鼻もないやうに優しう」してくれる溺愛型の曾祖母にも恵まれて、その「弱味噌」さはむしろ感受性の成長の豊かな土壌となって行ったのでした。

  

明治の一男子の成長過程で、そういう事が起こったのであることを、先に引いた「昔より女らしき遊びを好みたるなり」という回顧の言葉は証言していると思えてなりません。そして幼い命の成長過程で先ず最初に獲得されるのは、実は男の子であれ女の子であれ、「たおやめぶりの心(=女性的なるもの)」であるのが一般なのではないかと、思えてなりません。

「石を投げたりして兄の敵打を」したさんの場合は、例外というより、すでに身につけていた「たおやめぶりの心」が、ひ弱なお兄ちゃんに対しては、もう「母性的なるもの」に成長しかけていた証拠だったのかもしれません() 

 

さんに庇われた弱味噌であったことなど全く触れずに、随筆「吾幼時の美感」は続きます。この続きの一節、縦書きでご覧に入れます。

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12-7.jpg 「東京へ行く其の叔父」とは加藤拓川・恒忠。明治16年、渡欧する直前に子規に上京の機会をあたえ、友人の陸羯南に託した点で子規の生涯の土台を作ってくれた叔父さんです。大原観山翁の3男で、八重さんの2番目の弟にあたる人でした。この人がおねだりした甥っ子に東京から上級品の百人一首を贈ってくれたのです。明治8年、ノボさん8歳の頃でした。 

その曽禰好忠の一葉に、うたのこころの方ではなく、扇の朱色に心ひかれたと回想しているのです。明治初期、武家の家系の跡取りとなった幼い男の子に宿った、女らしき遊びを好みたる=「たおやめぶりの心」の一端です。 

つづく「十二三の頃…」の一節には、「畫など習はずもありなんとて許さ」なかった八重さんの姿が、無心に書きとめられています。そこから、貧しい家計を切り盛りし一人息子・ノボを武家の家系の戸主に育てていこうとする、母親としての深い心うごきが浮かび上がります。 

12-8.jpg実は、このあと十四、五歳のころ少年子規は、三畳ほどの書斎を作って貰っています。兄弟のように育ち髷も一緒に落としてもらったあの三並良が、こんなことを語り残しています。 (三並良「子規の少年時代」) 

お母さんが、近所の女の子に、裁縫を教へて居たので、座敷は終日ふさがって居た。
(ノボさんの書斎の)新築はその為めだらう。 

家計のために「裁縫を教へて居た」八重さんは、ノボのためにこんなこともしたのでした。 

父の早逝という不幸はあっても、このような親心にくるまれて育ち続けているのですから、ノボさんの気分は「畫を習ふ」のを「許されず」とも、いじける方には傾きません。「其友の来る毎に畫をかゝせて僅に慰めたり」いじらしい方へ向かうのです。いつの世も変わらない「子育てと子育ちの両方の機微」といったものを、伺わせてくれる情景です。

 

  ここから随筆「吾幼時の美感」は、次のように展開します。

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ノボさんよ、アンタが「幼時より客観美に感じ易かりし」は、「貧しき家」に生れたお陰だったんだね…」と、幼な子をからかうように、からかいたくなります。あの大いなる子規が、その頃は「常に他人の身の上の妬ましく感ぜられぬ。」ような少年だったとは…。

ところが例によって子規子の筆は、そこから明るく前向きな価値=この場合は、おさな心が惹かれた美=の回想に向かい、活き活きと進みます。述べられている幼い頃の不幸感は、あくまでそのためのイントロに過ぎないかのように…。そして、 

「ひとり造化は富める者に私せず」…造物主だけは貧富の差別なく、貧しい家ながら草や木や花々がいつも芳しい香りを放って、不幸なる貧児を憂鬱より救ってくれたと述べた上で、

「花は何々ぞ」(それはどんな花々だったかというと)と、転じます。

そこから始まる百歩ばかりの庭園で幼子規の心をととらえたものの、キリもないかと思えるほどの列挙・そして到達する「吾幼時の美感」の結論とするところそれがこの随筆の後半になるのですが…、次回にさせていただきます。

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次回51日、正岡常規と夏目金之助 №12

 

豌豆と空豆の花の記憶 幼少期の子規① つづきのつづきのつづき

 

お楽しみください。

 

 

 

 

 


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フェアリー・妖精幻想 №106 [文芸美術の森]

仮面劇、シェイクスピア、バレエとオペラ 9

             妖精美術館館長  井村君江

ブリテンのオペラ『夏の夜の夢』

 メンデルスゾーンの作品から二八年後に、また新たにブリテンがオペラとして作曲した『夏の夜の夢』は、現代でもしばしば上演される。この作品は一九六〇年オールドパーグ・ジュビリーのフェスティバルのために七か月で一気に作曲された。ピーター・ピアーズと作った台本はシェイクスピアの原作に忠実であり、特に森の神秘を音楽で表現しようとし、登場人物の恋人、職人たち、妖精たちの各グループに異る種類の和音を使っている。妖精の表現には工夫がなされ、ハープとパーカッション、鈴が用いられている。
 オベロンはカウンター・テナーで歌われるが、付随旋律には金管楽器が使われ、「パックは歌わず、台詞と飛び廻る動きで天真爛漫さを表現させたい」とブリテンは言っている。
 初演ではジョン・ハイパーが衣裳と装置のデザインをしている。ブリテンの曲を聴いて東洋の絵を想像した彼は、全体の色調を緑色にして、そこに淡い東洋の墨を流したような銀ねず色を入れた結果、神秘的で夢幻的な舞台が出現した。そこに緑色のコスチュームの妖精たちが大きくこしらえられた植物の間を行き交う姿が、紗幕を通して夢のように見えるよう考案されていた。一九六一年にはコヴェント・ガーデンで上演されている。
 一九八六年にピーター・ホールがグラインドボーン・オペラ・フェスティバルで演出したときには舞台装置はジョン・バリイであったが、アセンズの森の木々を子供たちが手で持って動かし、持ち歩くさまが、樹木に生命があるように見えて効果的であった。
 オベロン(ジェイムス・ボーマン)とティタニア(イレナ・コトルバス)はフリル付きの襟をつけた豪華な貴族の衣裳に、銀の星をつけた白く高い髪にとがった耳が出て妖精を示していた。妖精たちはみな子役で、パック(ダミアン・ナッシュ)も赤い髪の小さな子供であるため、オベロンの命令を遂行する使魔(ファリーエール)の役目が強調され、プロスベロとエアリエルの関係が重なって見えていた。
 パックは上下左右に動く、クレーンつきの腰かけに身軽に乗ってオベロンの命令通りに動いたり、中空の樹の葉蔭にひそんで人々の様子を窺ったり軽妙で迅速な動きがよく演出されていた。
 最後はホウキでシーシウスの館の広間をはき清め、新床を祝福する。十二音階のような高音の不可思議な旋律に加えて、ボトムたち職人グループの踊りには、イギリスのフォーク・ミュージックのような旋律が響くこのオペラは、シェイクスピアの作品を再び現代の人々の間に広めていく魅力を豊かに持っているようである。        (完)

『フェアリー』 新書館


◆◆『フェアリー』は今回で終了です。次回より同じく井村君江先生の『ケルトの妖精』を連載します。

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渾斎随筆 №30 [文芸美術の森]

二人侍

                  歌人  会津八一

 今から十四五年前のこと、私がまだ小石川豊川町の女子大學の坂下に住んで居る頃、或る暑い夏の日に、例の如く裸で療転んで居た私は、読みさしの新聞を顔に載せたまゝ、何時しか寝込んで了(しま)つた。玄関の人聾が私の夢を破った。「御免ッ!」「御免ッ!」と頻りに呼ぶ。折から飯焚の婆さんが出かけたものか、聾は室しく頻りに呼ぶ。よく聞けば二人である。一軆其頃、私の門などを叩いて来る位の人にたいした人が有る譯は無いと、私は常々から決め付けて居たから、いつもの通り私は起きもせずに、顔に載って居る新聞紙の下から「誰だ?」と一撃怒鳴って見た。それに應じて「やア居るね。僕だよ。」と一方が云ふ。「吾々だよ」と他の聾が云ふ。「其の吾々は誰と誰だ。名を云ヘ」と私は相變らず寝たままで怒鳴った。「吾々だよ……二人だよ……二人侍(ににんざむらい)だよ」と最初の聾が答へて、其の「二人侍」なる者は格子の外で賑やかに笑って居る。「さてさて五月蝿(うるさ)い奴等だ。名を云へと云ふのに……」と私は渋々起きて、片手に其の新聞紙を提げたまゝ、裸で玄関へ出で見れば、這は如何。「僕」は即ち坪内逍遙先生。それに市島春城先生を加へて、いづれも夏帽子夏羽織の厳然たる二人侍であった。私は恐縮した。二人は大に笑ひながら這入って来られた。
 これは私が、其頃聊か思ふところ有って、中學校の教頭を罷め、急に生活が不自由になったのを憐んで、誘ひ合せて見舞ひに来られ、そして斯う云ふ目に遇ほれたのであった。あまり個人の家を訪ねることをされない逍遙先生ではあったが、此の後も私の所へは幾度も駕を枉(ま)げられ、其間にいろいろの事もあった。が此の日のことは先生も餘程可笑しく思はれたものと見えて、よく話しては笑はれたと聞いて居る。私も折々思ひ出して一人で笑ふことがある。
                        (昭和十年三月八日草)


『会津八一全集』 中央公論社

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じゃがいもころんだⅡ №6 [文芸美術の森]

花散らしの雨

              エッセイスト  中村一枝
 
 三月三十日宵の口から雨が降り出した。花散らしの雨になるか、それとも花の息継ぎの雨になるか、明日にならないと分からない。毎年こうやって、桜の季節になると、天候の変化を刻一刻天気予報などで伝えている。平和という点ではまったくありがたい話だが、微に入り細に入りこ細かすぎるのは日本人の習性なのだろうか。翻って、毎日、新聞やテレビで報じられている事件の多い事、その上、大きい地震や地殻変動がいつ起きるか分からないという。それなのに巷では花見客の恒例の行事は相変わらず開かれている。日本人ってせっかちなのか、のんきなのか、どっちなんだろうと思ってしまう。
 何度か書いたことだが、年をとるということがどんな事なのか、つい一年くらい前までは考えたことがなかった。最近、脚が悪くなって見回すと、道を歩いている老人にスタスタは少ないということに気がついた。杖というものを始めて持ってみた。どう見ても、昔ステッキをついて歩いていた老人のかっこよさとは程遠い。身長があって、背筋がびーんとしていて、顔も真っ直ぐ前を向いていて、目がキラキラしている、そういう人がステッキを抱えてこそ見栄えがしたのだ。今の歩行具の一助としてのステッキとはまるで違う。私は自分がステッキにすがりついて歩いているということに気がついて愕然とした。年を取ると何にでもすがりつきたくなる、その姿勢が老人なのだ。
 ショーケンこと萩原健一氏が亡くなっていたと報じられた。私より遥かに若いけれど、どこか同時代的な感覚もあり童顔の持つ男の色気も爽やかで今だに忘れがたい。萩原健一が活躍していた時代なんてついこのあいだのことのように思っていた。その彼が68歳で亡くなったということはすでに彼の全盛時代から4、50年は経っているということなのだ。人間というのは現実を直視しているようでいて実はそれを何処かすり抜けることでごまかそうという魂胆があるようだ。あら年より若いじゃないと言われることでほっとしながらも逆にそのことが気になって年より若い格好に手を出してとみたりする。でも、いまの私の年まで来ると、誤魔化しはしたくないし、する必要もないということに気がつくのだ。
 四月一日から年号が変わるそうだ。年号なんかあまり興味はないけれど、ひとつ大きい声を出したいことがある。平成という時代は戦争とはまったたく無縁だったということである。これがどんなに素晴らしいことか、貴重なことか。 敵の攻撃もない、勿論空襲などという物騒なものもない。そういう時代が現実に31年間あった。その素晴らしさを平成が終わるにあたってどんなにすごいことか改めて噛み締めたい。それも政府の方針とか、総理の思惑とかとは全く無縁。あくまでも日本国民の意思ではないかとつくづく思うだけに、このことは平成の終わりに特に声を大にして言いたいと思った。新しい元号がふたたび平和の砦になることを願いつつ。

 

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石井鶴三の世界 №137 [文芸美術の森]

法隆寺五重塔塑像 2点 1914年

              画家・彫刻家  石井鶴三

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法隆寺五重塔塑像 1914年 (201×142)
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法隆寺五重塔塑像 1914年 (201×143)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №1 [文芸美術の森]

第一章 一枚の絵の発見

                   早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 すべては《すいれんの池》から始まった

 高島野十郎の名が世に知られ、その絵が多くの愛好者を得るに至った経緯にはひとつの因縁があった。それは一編のドラマのようでもある。
 野十郎が亡くなってから五年目の昭和五十五年(一九八〇)、福岡県文化会館が「近代洋画と福岡県」展を開催し、県出身の画家六十四人の作品九十三点を展示した。坂本繁二郎や青木繁、古賀春江、児島善三郎といった著名な画家の絵はひとりで三、四点が出品されている。
 当時の学芸員で古川智次(現福岡大学教授)が万一の疎漏なきよう最後の捜査をしぼりこむなかで、一枚の絵が綱にかかった。所有者は久留米にある法人経営の会社で、社長がその絵を描いた画家の親戚筋の人だという。画家の名は高島野十郎、作品名は《すいれんの池》(口絵4.省略)。しばらくの間、この絵は多数のなかの一枚としてあつかわれていた。
 しかし学芸員の後藤耕二が事前調査や借用の挨拶で会社を訪れ、絵を会場に搬入して展覧会が始まる頃には、かれは九十三点の絵のなかでも、とくに《すいれんの池》から目を離すことができなくなっていた。他のどの写実派画家ともちがう「主観性を排除した清明さ」に強烈なインパクトをうけたのである。
 さらに五年後の昭和六十年(一九八五)秋、福岡県文化会館は新装なって福岡県立美術館と名をかえた。学芸主任になった後藤氏が企画会議で高島野十郎展の開催を提案した。五年前の「近代洋画と福岡県」展にたずさわった他のスタッフが職場をかわっていたので、《すいれんの池》を知るのはかれ一人だった。企画が会議をとおり、後藤氏はその年入ってきたばかりの学芸員、西本匡伸の資質を見込んで高島野十郎展の担当を依頼した。
 西本氏もまた野十郎の絵がもつ静謐なたたずまいにつよく惹かれていた。当時高島野十郎の資料はまだわずかだった。かれは宮崎県に暮らす高嶋家の次女スエノの子息からの話をもとに精力的に野十郎の探査にとりかかる。

 西本氏は久留米の実家を訪れ、またいちだんと視野がひろがった。野十郎は明治二十三年(一八九〇)の生まれで、本名は高嶋禰壽(やじゅ)、裕福な醸造家の五男二女の四男に生まれた。父善蔵は明治維新の戦にも出た武士だったが、維新後は家業の繁栄につくし、郡会議員もつとめる地方の名士だった。
 野十郎の母カツの祖父種周(たねちか)が伊能忠敬に学んだ測量家で絵図を得意とし、カツの父親である種教(たねのり)は西洋軍学で藩に仕え、国学や和歌に秀で、南画の名手だった。カツの弟つまり野十郎の叔父大倉正愛(まさよし)は福岡県初の東京美術学校洋画科卒業生で、この家系には画才のある者が少なからずいた。しかし前途を約束されていた叔父は三十五歳の若さで亡くなった。
 祖父の大倉種教は晩年ひんばんに娘カツの嫁ぎ先に滞在し、亡くなった息子の話もたえず出たが、絵の名手だった祖父は孫の弥寿(以下新字体)に才能の芽生えを見て、あれこれと手ほどきしただろう。
 
 弥寿の長兄、宇朗は詩人だった。家業は弟にゆずり、禅寺で過ごしたあと、上京して浪漫派の岩野泡鴫や蒲原有明らと交流した。かれはここで明善中学校の後輩、東京美術学校生の青木繁と知り合い、無二の親友となった。しかし送金を絶たれて東京に長くいられず、日本女子大出の新妻をつれて久留米に戻り、実家の広大な別邸に住まって、詩作に興じ参禅に凝った。帰郷した青木繁が訪れてくると、母屋から酒を運ばせ、一緒に痛飲した。
 野十郎は長兄になにかと示唆をうけ、また宇朗が天才と呼んだ青木繁の存在をつよく意識したはずだ。宇朗の家で世話になり大酒を飲んだ分、青木はデッサンや油絵をお礼がわりに残していたので、中学生の野十郎はこれからも洋画のなんであるかを学んだにちがいない。
 憑依(ひょうい)とか憑霊という、霊が人に乗り移ることをさす言葉がある。長兄の宇朗はつよい霊性をもつ人で、明治四十年(一九〇七)、三十歳の頃の体験が本人によって書き残されている。郷里の竹薮で笹の葉を刈っている最中に、自分の意志とはべつに鎌をもつ手が自由自在に動きはじめ、身体の感覚がなくなり、心ここにあらずの「神がかり」の状態におちいった。自在に動く手をむりに止めて、一服すると、遠く汽車の走る音が聞こえ、竹薮の隙間から覗く空もいつものように青い。気を鎮めて作業にとりかかると、ふたたび神がかりの状態におちいり、さらに三度目もそうなったので作業を諦めて帰宅した。その後も別の竹薮で同じ体験を何度もしている。
 明治四十三年(一九一〇)、父善蔵の死後、三十一、二歳だった宇朗は地元の梅林寺で本格的な参禅に没頭するうち、いちど見た阿蘇山のイメージがあらわれ、我が身そのまま噴火し爆裂音となり、しばし混沌の極みにおちいるが、周りの僧も参禅者も手のほどこしようがない。しかし次第に暗黒の恐怖も去り、「五臓六腑、髪毛爪歯、内外あまさず(省略)身も心も脱け更った」。これを「入定(にゅうじょう)」の境地とみずから記しているが、「事後、どうということなしにただ普通に膝を曲げて坐ると、すうっと清浄空に」なった。のちに宇朗は住職となる。宇朗が記している「入定」とは悟りの境地に入ることである。
 私の手もとには宇朗の私家版、宇朗直筆の最後の詩集『虎斑集(こはんしゅう)』がある。そこには座禅に徹した人物の心境が、鉄の鋲でも打ちこむように、とつとつと飾り気のない語で示されている。詩集の最後には病中の「苦闘の宇朗」をスケッチした青木繁の絵写真が掲載されている。私宛ての次男力郎の手紙によると、父の宇朗は屈指の経典『碧巌録(へきがんろく)』に対してすら「禅は端的なもので、このようなくねくりは大乗菩薩の禅ではない」と批判したというから、かなりの心境と自負に達していたのだろう。しかも力郎までが一時、禅寺で雲水の修行をつんでいる。この家系に属するある種の人びとにはつよい無常観とそれに打ちかつための超越をめざす激しい血が流れているのかもしれない。


『過激な隠遁 高島野十郎評伝』求龍堂

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往きは良い良い、帰りは……物語 №69 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語(こふみ通信)
その69 「春帽子」「卒業」「汐干狩」「鶯」
平成31年3月10日(日)  於  TCCクラブハウス
                コピーライター  多比羅 孝(こふみ会同人)記
                   
◆◆平成31年3月1日◆◆
当番幹事(田村珍椿・森田一遅両氏)から案内状が届きました。

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「3月のこふみ会」のお知らせ
年度末のあわただしさと、新しい時代の予感と、
久しぶりの暖かい風に吹かれて、今年の3月がやってきました。
よ~し、ここはひとつ、短冊大量ゲットを目指して、頑張って行きましょう!
期日●3月10日(日) 午後1時より
会場●表参道・東京コピーライターズクラブ
会費●1500円
兼題●【春帽子】【卒業】

●景品は3点(合計千円くらい)ご用意ください。
●出欠席のご連絡は、3月3日(日)までに、
 以下のメール、電話など、一遅までお願いします。
  mrthjm@globe.och.ne.jp
    090-1429-0195
●3月の幹事:田村珍椿/森田一遅
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これに応じた返信レターは……

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いつものとおり素晴らしい軒外氏からのもの。
孝多は毎々、苦しまぎれ。以下、白川静『常用字解』より。

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「卒」の解説=象形。衣の襟(えり)を重ねて結びとめた形。死者の襟もとを重ね合わせて、死者の霊が死体から脱出することを防ぎ、また邪悪な霊が入り込むことを防いだものとみられる。

それで「しぬ、おわる、つきる、ついに」の意味となる。息をひきとると、とり急ぎ襟もとを重ね合わせるので、卒然(にわかなこと。突然)のように「にわかに」の意味に用いる。
≪用例≫「卒業」=事業を完了すること。また、規定の学業課程を学び終えること。「卒中」=脳出血のために、にわかに倒れる病気。「卒倒」=にわかに意識を失って倒れること。(以下略)

★★当番幹事・田村珍椿様、森田一遅様。ご案内有難うございました。出席いたします。どうぞよろしく。★★
          平成31年2月28日          孝多拝
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◆◆いよいよ当日。会場でのトピックス。◆◆
≪その1≫ちょっと手洗いにと思って、私・孝多がそばを通ったら、K氏と可不可氏が話していました。
「暫く離れていたら俳句の作り方、忘れちゃった。難しいなあ。」と可不可氏。退会と再入会のことらしい。「いや、そんなこと無いでしょ。すぐに実力発揮。」と応対しているK氏。ちらりと聞いて私も同感。可不可氏が復活しない筈がありません。
名称未設定 2 のコピー.jpg何しろ可不可氏は多才多芸。句づくりもさることながら、コピーライターとして広告関連のエッセイにも腕をふるい、書もまた良く為(な)して、出版された句集の題字も、自分で書いたほど。当時、渋谷で句と書の二本建ての展覧会も開いています。
こうしたこと、知らない人が多いと思う。知らせたいなあ、皆さんに! と、トイレで、孝多は考えたのでした。本人に確かめたわけではないのですが、きっと俳号の「可不可」は1924年没のチェコの実存主義の作家、フランツ・カフカにちなんだもの。カフカの代表作はご存知『変身』!                      

≪その2≫本日も横幕さんが出席!タイミングをはかって幹事さんがキューを出して、横幕さんがご挨拶。前回はゲストだったけれど今回からは正会員として仲間入り。「俳号は玲滴(れいてき)としました。よろしくお願い致します。前回、景品をお渡しできなかった虚視さん(人)、珍椿さん(地)、紅螺さん(天)には本日、持参致しました。どうぞ、よろしく。」パチパチパチッ!
そこで孝多が立ち上がり、ムカシの≪アイデアル香水≫のキャッチフレーズ「一滴、二滴、三滴、ステキ。」を披露しました。その上で更に、孝多は「玲滴」という俳号の名付け親、S氏のことを皆さんにお話ししました。つまり60年前の氏のTBSテレビのディレクターとしてのご活躍が無かったら、今日に残る「天皇皇后御成婚」のパレードの、綿密にして膨大な映像・音声記録は無かった!という事実。今もって、NHKも舌をまいているというS氏の業績!

さて≪その3≫は、美留さんの快挙。いわゆるダントツで43点。本日のトータルの天。おめでとうございました。パチパチパチッ。 兼題、席題、4句ともに優秀作。「一句稼ぎ」でないところが大きな話題になりました。巻末の≪本日の全句≫にて、「再確認」「再感動」する人も少なくないでしょう。

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≪その4≫は……席上、「鶯を たずねたずねて 麻布まで(菓子舗・青野)」という、あの著名な句を誰かが言い出したとたん、今回の席題の「鶯」は、食べ物でもいいのか、ウグイス色という色のことでもいいのか、場内アナウンスのウグイス嬢(じょう)でもいいのか、鶯を呼ぶ鶯笛でもいいのか……とかとか、それぞれの人から、いろいろなハナシになりました。
しかし、最後は某氏によって、ばっさりと断定されました。「何でもいいんだよね、良くないと思ったら選ばなければいいんだから。」まいりましたあ! そうこうしているうちに時間です。

◆◆さあて、さてさて、本日の成績発表!◆◆
得点を示す正の字を計算して係が声を高めます。

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         左から人の舞蹴、天の美留、地の虚視・撮影=軒外(敬称略)

★本日のトータルの天は~43点の美留さ~ん。パチパチパチッ!
 (代表句は1句に限るのは難しいけど「音程に 迷ひつ鶯 初音かな」)

★トータルの地は~29点の虚視さ~ん。パチパチパチッ!
 (代表句は「小走りに 待ち人来たる 春帽子」)

★トータルの人は~27点の舞蹴さ~ん。パチパチパチッ! 
 (代表句は「春帽子 少女の如く かぶり来る」)

★トータルの次点は~26点の鬼禿さ~ん。パチパチパチッ!
 (代表句は「沖までも ぱんぱんの晴 汐干狩」)

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すっかり定着した絵付き短冊

パチパチパチッ! 皆さん、おめでとうございました。今回も盛会。良かった、良かった。
でもまあ、何としたことか。美味だった飲み食いのことを書き忘れていました。今、書きます。

★先ずは、とり松の「ばらずし」。京都・丹後地区のみにて供されるという伝統的な逸品。鯖をおぼろ状にして数々の具にまぜ、木箱に詰め、段状に重ねて締め、切って取分けて食すという、手のこんだもの。鬼禿氏が推薦して止まなかったと幹事さんから聞いて居ります。

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京都府京丹後市 網野名物「ばらずし」美味!

★次いで純米吟醸「おりがらみ」の「糀」。ラベルのイラストはカメレオン? 日本酒をもっと、もっと、若い女性に楽しんでもらいたいというのが日本中の蔵元の願いとか。そのためのカワイイ仕立てなのでしょうか。甘筋の、この酒の味、そう若くはない男性たちにも好評でした。差し入れに感謝しながら杯を重ねた次第です。

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今は全国的に女性がターゲット

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最近、こふみ会でも、(個性を示す誤用例もありますが)旧仮名を正当に用いた句が目立つようになりました。今回では巻末の≪本日の全句≫にも載っている「鶯」の≪音程に迷ひつ≫や「春帽子」の≪闘病を終へ≫が光っています。「変わりつつ上昇する」「仮名遣いにも留意する」「刺激し合って発展する」いいことですよね。それが「座」の文芸。では、また次回。お元気に。

              第69話 完    (孝多)

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今回のこのブログ、UPされたあとも、筆者として私・孝多は気掛かりでなりませんでした。『卒』のことです。
UPされた文章だけでは片手落ち、大切なことが書いてありません。つまり……

なぜ「兵士」「兵隊」のことを「兵卒」というのか。
なぜ「召し使い」や「従者」のことを「僕卒」とか「従卒」とかというのか。(どうして『卒』という言葉が使われるのか。)
それについて、書いてありません。全く触れません。

『卒」については、ただ、返信レターに、平凡社・白川静の『常用字解』から採って、次のように書いただけです。再記しますと……

『卒』は象形文字である。衣の襟(えり)を重ねて結びとめた形である。死者の衣の襟もとを重ね合わせて、死者の霊(れい)が死体から脱出することを防ぎ、また、邪悪な霊が入り込むことを防いだものとみられる。それで「しぬ、おわる、つきる、ついに」の意味となる。
息を引きとると、とり急いで襟もとを重ね合わせるので卒然(にわかなこと。突然の)のように「にわかに」の意味に用いる。
用例=「卒業」事業を完了すること。また、規定の学業課程を学び終えること。「卒中」脳出血のために、にわかに倒れる病気。「卒倒」にわかに意識を失って倒れること。

引用は以上のとおりでした。
しかし、これでは、いけません! 上記の疑問「なぜ兵卒などには『卒』の字が使われるのか。」についての解決のためには、少しも役に立ちません。全く、触れてないのですから。それが気掛かりだったのです。

そこで、調べることにしました。(面倒なことになりそうだな、とは思いつつ。)
先ずは手元にある白川の『常用字解』以外の漢和辞典を見ることにしよう、と、最初に当たってみたのが、『常用字解』と同じ平凡社、白川静の『字通』。これは無駄でした。厚くて重いだけで、書いてあることは『常用字解』と同じこと。
次ぎに当たったのが学研の『漢字源』と、小学館の『新選漢和辞典』と、博文館の『新修漢和大辞典』と、六合館の『新訳漢和大辞典』。

すると、嬉しや、「白川」には載っていないことが学研と小学館には出ているではありませんか。
学研と小学館には会意文字として『卒』とは、十把一絡(じっぱひとからげ)の者たちのこと。雑兵(ぞうひょう)のこと。召し使いのこと。人夫、人足のこと。下級の兵士のこと。僕(しもべ)のこと。小者(こもの)のこと。従うこと。あわただしいこと。死ぬこと。ついに、終わり、にわかなこと。と、あります。(これで解けました、兵卒や従卒の疑問。『卒』には、そういう意味もあったのですね。)

そして、かつては、雑兵、召し使いなどは、はっきりと身分が判るシルシ付きの法被(はっぴ)のようなものを着せられていたので、それをモトにした『卒』の字が出現したという説を、学研と小学館は採り入れています。
ですから、この点も、死者の襟もとを重ね合わせる、という平凡社の白川静の説とは、大分、へだたりがあります。
違いますねえ。白川は法被や雑兵を無視し、学研・小学館は襟の重ね合わせや死者の霊のことに触れません。どうなのでしょうかねえ。
白川は『卒』を襟合わせの象形文字と見ている状況ですし、(小学館は会意文字)この問題、複雑です。私たちとしては今後も、ずっと、監視を続けていなければなるまい、ということですかね。
なお、博文館も六合館も、短縮されているだけで、内容は学研や小学館と殆ど変わりません。「しもべ」「従う」「下級の軍兵」です。死者の「襟合わせ」についても同様に、ひと言もありません。今後を見守りましょう。(孝多)
* * * * * ** * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

第591回 こふみ会≪本日の全句≫
平成31年3月10日    於 TCCクラブハウス

◆兼題=春帽子     順不同
おーい船が出るぞオ 春帽子      矢太
晴れ晴れと 搭乗口の 春帽子     紅螺
春帽子 鏡の向うは モネの庭          茘子
野をわたる 風にゆらぐよ 春帽子   玲滴(れいてき)
闘病を 終へ春帽子 被る朝             美留
振り向けば 小さく手を振る 春帽子      孝多
安徳帝の もとに沈みし 春帽子    弥生
暑くなく 寒くもなくて 春帽子         軒外
網棚に 忘れられたる 春帽子            可不可(かふか)
越へて来し 絮(わた)止まらせて 春帽子  鬼禿
春帽子 ふわりと降りる 無人駅    一遅
春帽子 少女の如く かぶり来る    舞蹴
いろいろと 色めいてきて 春帽子   珍椿
小走りに 待ち人来たる 春帽子    虚視

◆兼題=卒業                順不同
頬紅く 卒業の子ふたり 山の町    一遅
父帰る 卒業式の その朝に               矢太
あれこれと 卒業する年 八十            珍椿
卒業子 真っ直ぐな瞳(め)の 危うさよ   弥生
卒業の 無き時のなか 面を打つ         虚視
卒業歌 片恋(かたこい)の傷 セピア色   茘子
卒業や 旅の途中の 駅ピアノ     紅螺
ピアノの鍵(キイ) ひとつ叩(たた)いて 卒業す  孝多
卒業を 茶柱たちて 祝う朝       玲滴(れいてき)
好きな子は 好きな子のまま 卒業す   舞蹴
卒業式 詰め襟ホック しめ直し     軒外
仰げば尊し 卒業式の 講堂                鬼禿
鉛筆に 噛みあと残し 卒業す              美留
人生の 卒業式の その先へ        可不可(かふか)

◆席題=汐干刈              順不同
汐干狩 膝まで濡らさぬ 白さかな    孝多
汐干狩 水平線に 貨物船        矢太
汐干狩 少女二人の 腕まくり               紅螺
貝殻の 模様に見とれ 汐干狩      弥生
尻ぶつけ 譲らぬテリトリ 汐干狩    美留
汐干狩 ブルマの尻も 泥のしみ     軒外
汐干狩 いる筈もなき 蛤も       可不可(かふか)
沖までも ぱんぱんに晴 潮干狩     鬼禿
汐干狩 頬打つ風が まだ寒し      舞蹴
尻からげ 一心に掻く 汐干狩      珍椿
背を伸ばし 時々空見る 汐干狩     一遅
親は子を 子は親を見ず 汐干狩     茘子
気がつけば 中洲に一人 汐干狩     虚視
汐干狩 子らの歓声 空に舞い      玲滴(れいてき)

◆席題=鶯      順不同
鶯に 耳かたむける 熱帯魚       矢太
うぐいすの 恐る恐る ホーホケキョ   珍椿
書を閉じて 鶯の声 遠ざかり               紅螺
たどたどし 鶯の鳴くや 天気雨     鬼禿
鶯の 昔返えりか 遠き日に       舞蹴
音程に 迷ひつ鶯 初音かな       美留
鶯の ひと声啼いて それっきり     可不可(かふか)
鶯の けさは初鳴き ねぼけ声      玲滴(れいてき)
鶯鳴き 骨格標本 微動せり       軒外
鶯や 園舎は緑に 塗られゆく      弥生
おっ鶯 読みさしの書を 閉じて聴(き)く  孝多
雲たれる うぐいすは鳴くを 躊躇して  虚視
鶯よ もう少し早く来い 妻逝きぬ    一遅
舞(おどり)子の 鶯と共 天城越    茘子

                                      以上14名 56句
                                    

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №7 [文芸美術の森]

                          シリーズ≪琳派の魅力≫

              美術ジャーナリスト 斎藤陽一

    第7回:  俵屋宗達「蓮池(れんち)水禽図(すいきんず)」 
        (17世紀。一幅。各117×50cm。国宝。京都国立博物館)

 ≪和の水墨画≫

7-1.jpg これまで、琳派の先駆、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」について、5回にわたって紹介してきましたが、宗達の妙技は、水墨画においても存分に発揮されています。その傑作のひとつが「蓮池水禽図」です。
 縦117cm、横50cmの掛幅であり、国宝に指定されています。
 
 蓮の花が咲く池の水面には二羽のカイツブリが泳いでいる。
時刻は、夏の朝でしょうか。空気は靄に包まれており、そこに朝の柔らかい光が降り注いでいる。
 池からたちのぼる水蒸気や、湿り気を帯びた空気まで感じさせる玄妙な墨絵の世界です。

 わが国では、鎌倉・室町時代という中世に、中国から伝わった水墨画の影響を受けて、禅宗寺院を中心に盛んに水墨画が描かれてきました。
 このような状況の中で、中世の水墨画は、中国文化や禅宗などの教えを反映して、一種、精神主義的な絵画、という性格が強いものでした。
同時に、これを受容する将軍家や有力武士階級、公家層などでは、中国の絵画を至上のものとする“唐物(からもの)”尊重の気風がずっと続いてきました。

だから、画僧や絵師たちの間でも、中国の南宋や元の画家たちの画風や、彼らが得意とする主題にならって描く「筆様(ひつよう)」による制作が広く行われました。たとえば、「馬遠様」とか「夏珪様」とか「牧谿様」という具合に、です。(その中でも、雪舟の凄さは、そのようなものを吹っ切った独自の力強い水墨画を生み出したということだと思います。)
 
 このようなことを頭に置いて、宗達の「蓮池水禽図」を見ると、ここに到って、中国伝来の水墨画に見られた固くて強い線は消え、さらには、君子の逸話や儒教的教訓、禅の教えとか、仙境に遊ぶ、と言った精神主義的なものが払拭されて、いかにも日本らしい湿潤な風土がもたらす季節感や情緒が“絵画的に”表現されています。 

≪たらし込みの技法≫

 このような絵画世界を現出させ得たのは、宗達が極めた「たらし込み」の効果によるでしょう。
 「たらし込み」とは、前回にも触れたように、一度紙の上に置いた墨がまだ乾かないうちに、濃淡の異なる墨をその上から垂らし、にじみやムラを故意に生じさせるという技法です。
7-2.jpg 言わば、輪郭線を用いずに、ものの形や質感などを表現する方法です。とは言え、「たらし込み」は偶然に任せるところがあり、結果が出るまではわからない。誰がやっても出来るというようなものではありません。
 宗達が到達したのは、他の人には簡単に再現できないと言われるレベルの、きわめて高度な水準の「たらし込み」なのです。

 「蓮池水禽図」の蓮の部分を見ると、蓮の葉などはほとんど輪郭線を使わず、「たらし込み」による絶妙な墨のにじみ具合で表現されています。
 蓮の花をなぞる線も柔らかくふくらみがあり、これらによって、蓮を包むしっとりとした空気や穏やかな光に加えて、蓮の花のほのかな匂いさえ感じられるようなものとなっています。

7-3.jpg 一方、水面を泳ぐ二羽のカイツブリに目をやると、こちらは、細い墨の線が丁寧に用いられ、繊細な羽毛の濡れた具合や、上方の鳥のぶるっと羽根を震わせる様子まで描写されています。水中に潜って水面に出てきたばかりなのでしょう。

 かくして、この絵に見入るとき、私たち自身も、夏の朝の清涼な空気に包まれ、眼前の水面に引き込まれるのです。
 「蓮池水禽図」は、宗達の水墨画の中でも、卓越して完成度の高い作品であり、「これぞ日本の墨絵!」と言いたくなる“和の水墨画”です。

 次回は、俵屋宗達の絵と本阿弥光悦の書が織りなすコラボレーション作品を取り上げます。


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フェアリー・妖精幻想 №105 [文芸美術の森]

仮面劇とシェイクスピア、オペラ、バレエ 5

             妖精美術館館長  井村君江

ギルバートとサけヴァンのフェアリー・オペラ『アイオランシー』

 ウィリアム・ギルバートが台本を書き、アーサー・サリヴァンが作曲し、「サヴォイ・オペラ」として知られるイギリス固有のいわばコミック・オペラが一八七〇年代に流行した。
 日本では『ミカド』が知られ、オスカー・ワイルドが審美的衣裳を着て『ペイシエンス』を宣伝するために、アメリカまで渡ったことで知られている。ドイリー・カートがその興行主であった。
 作品の一つに『アイオランシー、貴族と妖精』(一八八二)があり、「フェアリー・オペラ」ともいわれるが、一種の社会諷刺ともいえるオペラ・コミックである。
 現実社会で高い地位にある国王の貴族の秘書と貴族たちが、超現実の国フェアリーランドの妖精女王と、たくさんの妖精たちに魅惑されて最後に全員が妖精たちと結婚する物語で、主人公の妖精アイオランシーはフェアリーランドから姿を消し、人間であるチャンセラーと結婚していた(妖精が年をとらずいつまでも若く美しい女の人であるのに、チャンセラーが腰の少々まがった眼鏡をかけた老人姿である対照のさせ方もコミックである)。息子のストレフォンは半人半妖であり、立派な若者に成長した彼は美しい乙女を愛するようになる。
 アイオランシーの息子ストレフオンがチャンセラーの息子であったことを知り、妖精たちは貴族たちを愛するようになり、妖精の女王も、現実の女王の近衛士官と結婚することになるという話で、ロンドンの都会と牧歌的な草原を、またウエストミンスター宮殿とフェアリーランドを対照させ、現実にあり得ないことを妖精たちのこととして舞台で実現させてみせる面白さがある。
 「貴族たち」の団体と「妖精の群れ」のコーラスのかけ合いが、『ペイシェンス』では「兵隊たち」と「村の乙女」の群れとを対照させる手法と似ているが、『アイオランシー』では片方が非現実の妖精であるため、より一層諷刺の効果があがっているようである。

クリスマス・パントマイムの妖精

 魔法の杖の一振りでみすぼらしい服を豪華にし、カボチャを馬車にする不思議でたのもしいカを持つ妖精の代母(フェアリー・ゴッドマザー)は、子供たちがこうあってほしいと思っている妖精像であり、クリスマスの「パントマイム」には重要な役をつとめる。
 パントマイムは一八三〇年代にイギリスで盛んに行われた、一般の人々が休日の楽しみにする気晴し劇のようなものであった。
 もともと一七一七年頃に、ローマを経てロンドンに入ったコンメディア・デラルテの「バレルキナード」の滑稽劇がもとで、フェアリー・テール(『ピーターパン』や『アラジン』『シンデレラ』等)やわらべ歌(『マザーグース』)等が前に付くという、二つの部分から普通は成っている。
 道化役のバレルキンが口上をのべたり、恋仇きピエロと恋人コロンピーヌをとり合ったり、また社会や地位、性を入れ代え、愚かな王さまに賢い召使い、少女のピーター・パンや男性の「がちょうおばさん(マザーグース)」などに、良い妖精や悪い妖精がからんでさまざまな筋が展開する。
 そして背中に翅をつけ美しいドレスを着た妖精の代母(フェアリー・ゴオッドマザー)の杖の一振りで、願い事が叶えられたり、あべこべの地位や性が正しくおさまったり、秩序が戻ってめでたしとなる楽しい喜劇である。
 一八五〇年にJ・ヒッコリ」・ウッドとアーサー・コリンズの書いた『眠れる森の美女と野獣』という作品や『ピーター・パン』、そして『アラジン』等が知られ、よく上演されている。
 「クリスマス・パントマイム」として子供向けのものが多く上演されるが、ヴィクトリア朝時代ではドラマとバレエとオペラの要素に衣裳デザインという絵画の要素を付けて、華やかな舞台を作りあげることが流行した。ウォルター・クレインやウィリアム・ジョン・チャールズ (ウィルヘルム・ピッチャー 一八五八~一九二五)のパントマイムのコスチェーム・デザイン帳が、いまヴィクトリア・アルバート美術館に数冊保管されているが、当時の華やかで夢のある舞台が想像出来る、素晴しいコスチュームのデッサン群である。

『フェアリー』 新書館

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渾斎随筆 №29 [文芸美術の森]

槻の木
                  歌人  会津八一

 もうかれこれ、餘つぽどまへのことになるかも知れない。第一學院の講師室の御ひる時、今迄見えなかった窪田君が忽ち目の前に立ちあらはれて、例のにこやかに
「オイ一つ御願ひがあるのだがね」
 此人から、かう出られると、たいていろくな事で無いから、先づ以って困りながら聞いて見ると、果せるかな字を書けである。
「頼まれて来たのだが、槻の木といふ三字を、横に書いて見せて貰ひたい」
 もう、給仕か何かの辧當箱のやうな硯箱を胸さきへつきつけて動かせない。
「槻の木つて何だ」
「知らない」
 澄ましたものである。敵がかう肉迫しては、我等砲兵は駄目だ。すぐ降参して、たしか學校の赤い罫の便箋の裏へ書いた。生徒の習字でも取り上げるやうに、にこにこと、しかも威厳を見せながら、さっさと引き上げて行った。實に神出鬼没である。
  間もなく其三字を表題に刷った雑誌が贈られて来た。久保田君の家来共の出す雑誌である。私は其三字を見ただけで、ほかは讀まなかった。何うも気に人らぬ書き方をしたものであった。筆が平たくて、字に奥行がない。せいぜい給仕の筆のせゐにしても、それにしても平たすぎる。かういふことを考へ出すと、人の歌などをゆっくり讀んでゐられるものではない。
 これは新聞のやうに折り畳んだもとの『槻の木』のことである。いいことに間もなく休刊といふことになった。いづれ廃刊だらうと私は大に喜んで居た。
 すると昨年かとおもふ。こんどは都筑尾張守がやって来て、やはりにこにこと申されけるには、雑誌はめでたくまた再刊する。もとの文字をあのまゝに使ふ。それについて異存は無いかと、それを云ふのに、しきりににこにこするのである。これまで使ひ古したものを、急に相成らぬといふわけにも行くまい。若しそれが相成らぬならば、此際御書き直しを平に願ひ上げ奉る。ことによるとこんな口上を、うしろの槻の大木の蔭に隠れて居る御大が教へ込んでおいたかも知れない。逃げ路は塞がれて居る。一も二もなく異存無しとしてしまった。そこで尾張守の恭しく差し出される表紙の假組を見るに、これは叉何としたことか、字と字の間が相距ること萬里、各天の一涯に漂って居る。筆の平たいどころの話でない。驚き慌てて一字々々を鋏でくりぬき、にこにことして見物する尾等を前にして、むきになって岡目八目のやりくりを一時間もくりかへし、やうやう渡したのが、近頃の菊版のそれである。が、そのま印刷になって出来て来ると、私は最初よりもつと憂鬱になった。「槻」とい字が「の」の上に乗りかかって居る。毎號同じやうに乗りかけて居る。それを気にしながらもはや二年餘りになるのである。
 そこでこんどは、私の方から書画を以て申し入れて日く、新春を期して面目刷新のつもりで、「槻」と「の」の間を、何とぞ一分だけ御開き相成度く、そこで何んなことになるであらうか。筆の平たいの何のといふのはきりようよしのつもりに産んだ小供の鼻が、思つたより低かった位のことであるが、鼻の下の長過ぎたのを、鋏で切ってゴム糊で貼りつめたりまた伸したりであるから、私はもう知らない。ことによっては、また廃刊を所るやうなことになるかも知れない。
                       (昭和七年十二月十六日熱海にて)

『会津八一全集』 中央公論社


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じゃがいもころんだⅡ №5 [文芸美術の森]

犬の散歩

              エッセイスト  中村一枝

  足の具合が悪くなって2年近く経つだろうか。ちょっとした買い物や、家の中の歩行はなんとかこなせるにしても、一番困ったのは犬の散歩だった。小さい庭はあるにしても運動量の多いビーグル犬にとってはもの足りない空間である。10歳という年齢は、育ち盛りではないがまだまだ運動が必要なときである。犬の方はなんとなく飼い主の事情が違ってきているのは察していたに違いない。それでも小さい庭は散歩場とはまるで違う。贅沢だと言われればその通りだが、やはり自分の都合で犬に不自由な思いをさせていると思うのが一番つらい。
 犬の散歩係の話は以前から聞いていた。そんなばかなと頭から否定していた。自分が散歩できなくなるなんて、想像もしていなかったのだ。犬の散歩係のお世話になるなんて、自分が歩くのが不自由になるなんて・・・。誰しも自分はならないと思う安易さである。思い立ったら吉日ではないが、今やこの手のサービスは探せばいくらでもあった。私の頼んだサービスはウチからはほど近い池上で、その人はバイクに乗ってやってくる。感じのいい三十前後のお姉さんだった。値段はそれ相応に安くはないが、犬をひっぱってもっと足の具合の悪くなる事を考えたらお金の事は二の次になる。
 犬はやってきたお姉さんにすぐなついた。外に出たくてどんなにストレスを溜めていたものかと思う。ただ犬にも飼い主が犬を外に出せない事情と言ったものはなんとなくわかっている気がする。いつも週一回掃除にくるおばさんにこの話をすると、勤めている娘さんが休みの日に一回くらい来てもいいと言ってくれた。散歩係より格安な値段で犬の散歩に連れて行ってくれるというのだ。週2日の散歩ではちょっと可哀想と思っていたから願っても無い話だった。犬はその娘さんにもすぐ懐いて嬉しそうに外に出て行く。犬の散歩係より格安の値段でいいのかなと思うが今は好意に甘えるしかない。ところで犬のお姉さんの来る日には犬も気配を察するのか朝からベランダで下を見ている。
 もう一つ別のことに気がついた。どちらのお姉さんにも犬は喜んでついて行くが、おばさんの娘さんが来ると、その泣き声も微妙に違う。甘えと言うかベタツキというか、それには私も笑ってしまった。姿かたちも遜色ない二人なのに犬にも好みというものがあるのかもしれない。もう一つ聞いてみると、娘さんは会うと全力疾走するらしい。犬はそれも嬉しい事らしく、犬には犬の事情があるものだと改めて感じた。それにしても物言わぬ犬にも伝達の手段があるものなのだ。犬と暮らしていると、通じ合うものが無数にあることを日々感じるのである。


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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №100 [文芸美術の森]

エピローグ 7

          早稲田大学名誉教授   川崎 浹

ソルジェニーツィンが放った「とどめ」

 ロシアにおいては、アネクドートふうにいえば闇が「目をつぶった共産主義」を生みだしたのだが、同時に闇がこの国のカオスモスと民衆のエネルギーを、そして沈黙を背景にした反権力の市民たちの切っ先を生みだした。
 仮にアネクドートがサブカルチャーで、かげろうのように短い生命しか持たぬとしても、アネクドートの精神と形式は、正統ロシア文学にも、時間をかけて浸透している。アネクドート的発想はロシアの詩人や作家たちの発想をつちかった。
 たとえばそのひとり、ロシアを代表するノーベル賞作家にソルジェニーツィンがいる。共産主義は二〇世紀イデオロギーのもっとも壮大な実験だったが、ソルジェニーツィンはこれと闘い、その成果を『収容所群島』で問うた。もし二〇世紀を代表する著書を一〇冊あげよといわれれば、私はひとまず『収容所群島』をあげたい。
 ところが、その『収容所群島』の冒頭の一説が、ほかならぬアネクドート的発想と構造から成っていることに気づいた人がいるだろうか。
 群島はあるにもかかわらず場所は不明である。群島を訪れる者がいるにもかかわらず、イントゥーリストも出札(しゅっさつ)係も場所を知らない。交通機関があるにもかかわらず、行く先の標示がない。すべてが二律背反の関係に置かれている。訪問者と群島の管理人の関係も例外ではない。
 読者を具体的にはどんな場所へ、どのように導くのかわからぬ文章の展開もまた推理小説的なプロセスをたどる。そして旅行先には「警備」という思いがけぬ障碍(しょうがい)が設けられていた。
 しかも以前の近代アネクドートが抱えていた「ニュース性」「ひじょうに珍しい出来事」「無さそうで、しかも実際にあったこと」の条件にさえ適(かな)っている。そして最後はまさにアネクドートそのもののとどめで、この場合、もちろんバレエシューズの爪先ではなく、人生をまっぷたつに断ち切る鋭い剣の切っ先である。

 この不可思議な「群島」へはどうやって行くのか? そこへは絶え間なく飛行機が飛び、汽船がかよい、列車が轟音をひびかせて走っていく。だが、飛行機にも、汽船にも、列車にも行き先の標示はいっさいない。出札係も、ソ連人の旅行を斡旋(あっせん)するツーリストや外人旅行者の世話をやくインツーリストの係員も、もしあなたがそこへ行く切符がほしいといったら、それこそびっくり仰天するだろう。「群島」全体はもちろん、その無数の島々の一つとして彼らは知らないし、聞いたこともないからである。
 「群島」の管理に行く者は、内務省の学校をへてそこへ行く。「群島」の警備に行く者は、軍事委員部をへてそこへ行く。
 そして私やあなたのようにそこへ死に行く者は、必ず一つの関門を通らねばならない。それは逮捕である。(第一章「逮捕」)

 「私やあなたのようにそこへ死に行く者」の一句で、この一節の文脈の逆転劇が生じ、二律背反性のなかの「一律」がぎらりと顔をのぞかせる。「それは逮捕である」という、この切っ先のとどめはどこへ向けられているのか。読者へか、それとも逮捕される者へか。ちがう。それは縛吏(ばくり)を逮捕に向かわせる権力にたいして放たれた切っ先であり、とどめである。このアネクドートととどめの背中には「死に行く老」そして死の世界に消えた者の沈黙がある。そこから『収容所群島』の執筆がはじまり、同時にこの書によって揺るがせられた体制の、二〇世紀ロシアの倒壊がはじまる。
 何百万といわれる収容所犠牲者の「エートス」が、つまり無数のアネクドートを生みだした精神とも霊とも魂とも倫理の規範ともいえるものが、ソルジェニーツィンを執筆にむけてつき動かした。『収容所群島』は地球をかけめぐり、世界を動かした。
 ロシア二〇世紀のシステムをソルジェニーツィンはアネクドートの構造でかかえこみ、アネクドートでとどめを刺した。ソ連体制はアネクドートの「エートス」によって瓦解させられたといえるだろう。
 このアネクドートには笑いがないというかもしれない。しかhし二律背反、二項対立の構造には一項と一項とのずれから生じる笑いの要素が基層としてある。『収容所群島』はペシミスチックな嘆きではなく、権力を笑殺(しょうさつ)する精神によって満たされている。アネクドートは嘆くものではなく、あくまでも笑う精神の様式である。   (完)


『ロシアのユーモア』 講談社選書


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石井鶴三の世界 №136 [文芸美術の森]

寝顔 1907年/頭塔 1914年

              画家・彫刻家  石井鶴三

1907寝顔2.jpg
寝顔 1907年 (106×160)
1914頭塔.jpg
頭塔 1914年 (201×142)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №6 [文芸美術の森]

                     シリーズ≪琳派の魅力≫

            美術ジャーナリスト 斎藤陽一

          第6回:  俵屋宗達「風神雷神図屏風」 その5
  (17世紀。二曲一双。各155×170cm。国宝。京都・建仁寺所蔵。)

6-1.jpg

≪西洋の風神・雷神≫

 これまで俵屋宗達が描いた「風神雷神図」について語ってきましたが、今回は、趣向を変えて、西洋の「風神・雷神」について触れておきたいと思います。

 と言うと、果たして西洋には「風神雷神」にあたる神様がいるのかどうか、という疑問が起こるかも知れませんね。
 自然への畏怖と敬愛を神格化した日本の「風神雷神」とはやや趣きを異にしますが、西洋にも、絵画や彫刻によく取り上げられる“雷神”と“風神”は存在します。

 先ず、“雷神”にあたるのは、ギリシャ神話の主神ゼウス。神々の中の最高位にあり、神々と人間を支配する全能、全権力を持つ存在です。本来は「天空の神」であり、天候を支配する力をもっているのですが、敵や不届き者を倒すときの武器は「雷電(稲妻)」なのです。

6-2.jpg 例えば、太陽神アポロンの息子パエトンが、父の「太陽の馬車」を勝手に持ち出して天空を駆け巡ったとき、馬たちが暴走して世界中に大火災を起こしてしまいました。そこで最高神ゼウスは、雷を放ってパエトンを撃ち砕いた―という具合に、です。

 絵画や彫刻では、ゼウスの「雷電(稲妻)」は三叉または二叉の鉾のようなものとして、象徴的に表されています。
 たとえば、右図は「スミルナのゼウス」と呼ばれている、2世紀頃に制作された大理石のゼウス像(ルーヴル美術館蔵)ですが、その高く掲げた右手には、雷光が握られています。

 次に、“風神”にあたるのは、ギリシャ神話の「風神ゼフュロス」です。
 ゼフュロスを描いた絵でよく知られているのは、ボッティチェリの名作「春(プリマヴェーラ)」(1428年頃。ウフィッツィ美術館)。
 この絵は、今なお、そのテーマの解釈をめぐって様々な謎に包まれている作品ですが、ここでは、右側に描かれた三人の人物に限って見てみます。

6-3.jpg ゼフュロスは、風神とは言っても「西風の神」です。それも、春をもたらす風神です。地中海沿岸では、西から吹く風は春の風とされます。
 ギリシャ神話に登場する男の神々は概して美しい女には眼がない好色な神が多いのですが、ゼフュロスも同様です。
 ある時、彼は、美しい娘を見初め、追いかけて捕まえようとします。彼女は「冬の大地のニンフ」クロリスです。彼女が身にまとっている白い薄衣は「冬の大地を覆う霜」を象徴しているでしょう。ゼフュロスは、捕まえた彼女に「春風」を吹きかけています。
 クロリスは、ゼフュロスに捕まった瞬間、口から花を吐き出して、左の「花の女神」フローラに変身していきます。ボッティチェリは、クロリスとフローラを重なり合うように描くことによって“変身”を暗示しています。

 ギリシャ神話では、このあと、ゼフュロスはフローラと結婚し、自分の妻に「花の王国」を与えることになっています。

6-4.jpg 「花の女神フローラ」は、全身を花で飾り、手もとの籠からバラの花をあたりに撒いています。その足元の野原には、既にたくさんの春の草花が花開いている。
 そう、ボッティチェリは、この3人によって、春風の到来によって、冬の大地の霜が溶け、山野に春の草花が開花すると言う“冬から春への季節の変化”を表現しているのです。
 このように、ゼフュロスは、ちょっと好色な〝春風の神〟です。

日本の「風神」は、必ずしも春風だけを体現したものではありませんね。

 視点を日本の気候風土に戻せば、わが国では、一年を通じて、実にさまざまな種類の風が吹き、雨が降ります。
 試みに、手元の『歳時記』を繰ってみれば、たとえば、「風」だけでも、東風、貝寄風、涅槃西風、春一番、南風、黒南風、青嵐、秋風、初嵐、野分、台風、盆東風、鮭嵐、雁渡し、黍嵐、凩、北風、空っ風・・・「雨」にいたっては、春雨、春時雨、菜種梅雨、夏の雨、卯の花腐し、梅雨、五月雨、虎が雨、夕立、秋雨、時雨、氷雨・・・とまことに多彩に使い分けています。
 四季の変化に富んだ湿潤な気候風土が、このような多彩で繊細な表現を生んだのでしょう。
 
 ちょっと趣向を変えた回となりましたが、今回で俵屋宗達の「風神雷神図屏風」の話は終わりとします。次回は、俵屋宗達の水墨画の名品「蓮池水禽図」を紹介します。


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