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フェアリー・妖精幻想 №103 [文芸美術の森]

仮面劇、シェイクスピア、オペラ、バレエ 6

             妖精美術館館長  井村君江

 「妖精の森」「魔法の湖」(泉にほんとうの水を入れたり噴水をあげたりする)、「中国の庭」の三つの情景を設定して、場面転換で目を楽しませるように工夫がされていて、まさに十七世紀イ二ゴ・ジョーンズ式のスペクタクルである。
 この時の振付はフレデリック・アシュトンで、マイケル・エアトンがコスチュームと舞台装置をデザインした。これもまたイニゴ・・ジョーンズの仮面(マスク)劇の衣裳を念頭においてデザインしたということである。
 エアトンによれば、イニゴ・ジョーンズとパーセルは五〇年の隔たりがあり、共作をしたという記録はないが、「同じ十七世紀の作曲家とデザイナーであるので、精神的な協力関係があったであろう」と書いている。
 エアトンのデザインによる、オベロンのマントを広げたポーズのスケッチは、躍動感のあるリズミカルな線と、キジや孔雀の羽でできた頭飾りをかぶり、仮面を膝につけたブーツの足先をのばした斬新なスタイルが印象的である。これをそのまま踊り手ロバート・ヘルプマンが身につけて、マーガレット・ローリングのティタニアと共に舞台で踊っている。
 パックのコスチューム・デザインも斬新で、モダン・アートの様式化を見るようで、右肩から半身だけ蔦をからませたシャツとタイツ姿になっている。頭には、巻いた角がつき全体の印象は森のフォーンのようである。ジェイムズ・ケニーがこのコスチュームでパックを踊った。
 エアトンのこうした一連のコスチューム・デザインのスケッチが残っているが、そのまま独立した絵画作品と思えるほど達者な線と水彩で描かれている。踊りの動きを一瞬とめたような決まったポーズの踊り手たちの人物像は、筆致の動きと相まって指の先まではりつめた躍動感がみなぎっている。
 この頃から、画家やイラストレーターたちが、劇やバレエ、オペラの舞台デザイン、コスチューム・デザインに目を向け始め、レオン・アン・バクストやチャールズ・リケッツのように、自在な色彩と新しいスタイル、パターンで形と色の美を作っていった。それが登場人物の動きと照明の光によってさまざまに動いていく。
 ロイ・フラーの薄いサーキュラーのスカートが呉まざまなライトに渦巻き、交錯する光の芸術のようなモダン・バレエなどでは、空間の動き、瞬間の美の制作に、画家たちも参加してくるのである。
 クロード・ロヴァト・フレーザー(一八九〇~一九二一)もリケッツに学び、画家から舞台デザイナーへ転向した一人である。戯画を描きパントマイム衣裳をデザインしていたが、俳優のハーバート・ビアボン・トリーに出会ったことが大きく転向するきっかけであった。
 『アフリカン・フェアリー』の衣裳デザインは、詩人ウォルター・ド・ラ・メアの唯一の劇作晶「フェアリー・プレイ『クロッシングス』」のコスチユーム・デザインで、一九二一年制作でカンヴァスの裏に「ステージ・ドレス・アフリカのフェアリー」とある。オートミール紙にペンと灰色のインクに水彩とボディカラーを使って描かれ、版画のような質感が出されている。
 コンスタント・ランバートが編曲し、指揮もし、フレデリック・アシュトンの振付、マイケル・エアトンのコスチューム・デザインと舞台デザイン、ロバート・ヘルプマンの踊りによるこのサドラーズ・ウェルズの『妖精の女王』は、成功を収め、舞台写真とデザイン画をつけて、一九四八年に一冊の本にまとめられたほどであった。
 パーセルが自在にシェイクスピアを改作し、音楽をつけ、当時流行の中国趣味(シノワズリー)をつけ加えるという時代錯誤(アナクロニズム)を敢えて行いながら、自分の『妖精の女王』をまとめたことは、後世の人に深い影響を与えた。
 例えばデヴィッド・ギャリックなどは『夏の夜『の薗芝の妖精と恋人たちに筋をしぼり、そこに『嵐』のエアリエルをつけたし、自在に構成し直して、『妖精たち』(一七五五)を書いているのである。またサドラーズ・ウェルズの舞台で、パーセルの曲に合わせた妖精たちの美しい群舞は、十九世紀のロマンチック・バレエの舞台をそのまま移行していったようである。


『フェアリー』新書館

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渾斎随筆 №27 [文芸美術の森]

 山口剛君のこと 1

                       会津八一                 

 學問は廣く深く、識見も秀で、多くの學生から尊敬の深かった山口剛君が、急に逝くなられたことは寔に惜みても餘りあることである。殊に私は一番古くからの友達として、一層感慨に堪へない。山口剛君は私と一緒に明治三十五年の四月に、もとの東京専門學校の高等学科に入学された。それから私は大學部に進み、山口君は豫科は二期だけにして高等師範郭へ進まれ、明治三十八年に国漢文科を首席で卒業された。後に山口君の話では、同じクラスで共に一學期だけ暮したと云はれるが、申訳ないことに、私の方ではその頃の記憶がない。で私の意識に始めて登って来た山口剛君は、明治四十三年の秋、二人共暫らく田舎の中學の教師をした後で、その時丁度一緒にまた東京へ出て来て早稲田中學の教員として赴任して来たその時であった。それから少し遅れて、もう逝くなったが、あの横山有策君がアメリカから締って来て、英語の教員になられ、この三人がその當時は一番新参の若い教員であったので、自然親しく交際することになった。アメリカのハーヴァードから掃って来た横山君は、シェイクスピアの研究に、相當の造詣を持ってゐられたやうであった。山口剛君はその當時既に、日本文學、殊に徳川時代の文學について豫程深い學殖を持ってゐられたやうであった。そして吾々三人は折々落ち合って、めいめいが新しく読んだ所も書物の話をしたり、一緒に名物を食べ歩いたりした。そして私と山口君とは郷土玩具の蒐集をしたことなどもあった。
 その當時の山口剛君は、晩年よりももつと寡獣な地味な研究家で、毎日こつこつ勉強された。そして或時自分の研究の一部分だといって、私に見せられた、フールスキャップに書いた徳川期の書物の書抜きが、厚さ四五寸もあるので、私かに驚いたことがあった。さうかうするうちに山口君は先づ高等師範部へ、そして私は文學部へ兼任することになった。そしてそこでは『徒然草』を講義するのが連年山口君の仕事であった。私は山口君のやうな人が大學部の文學科へ講義に出られたならば、學生の為に幸福であらうと思って、再三口入の役を勤めたものである。叉横山君に封してもひそかに同じ役目を勤めたものであるが、その當時は所謂自然主義全盛の時代で、早稲田の文學部が其運動の有力な中心點であった為であるか、横山君のシュイクスピアとか、山口署の徳川文學が容易に迎へ入れられる気色が見えなかった。其頃は自然主義でなければ文學でなかったのである。さうしてをるうちに偶然にもシェイクスピアの三百年祭が早宿田で行はれることになり、これを機として、當時既に引退して居られた坪内先生の後を受けて、横山君は首尾よく英文科に出講されるやうになったが、山口君が文學科の方に出られるやうになったのは、それからずつと後で、慥か国文科といふものが新設された時からであると思ふ。それ迄は山口君は、高等師範部で毎年同じ『徒然草』を繰返し繰返しして講義してをられた。そしてその所在なさに、毎年いくらかづゝ説明の順序を変へて見たり、譬喩のとり方を替へて見たり、そんな事に変化を求めて、せめてもの慰めにしてをるといふやうな不平を、いつもひそかに私は聴かされて居た。つまり其頃はまだ山口君の時代は来なかったのであった。しかし、さういふ云はば不遇の時代にも、山口君の研究は着々として続けられてゐた。いはば逆境に在りながら断へず倦まず撓まず晩年に見るやうな大成の素地を造って居られたのである。それから文壇の風潮は四五年目毎に幾度か変ったし、我が學園の風潮も次第に変つて来た。そして最後に山口君が學生の目前に全力を以て活躍される時が来た。
 山口君は私と知った頃は浅草の松葉町といふ所に住んでをられた。そして後に駒形の河岸の叔母さんの家へ越されたのであった。そして某所で山口君の全財産とも生命とも云ふべきあの夥しい書物を、あの大震火災の為に悉く焼いて、殆んど身を持って免れたといふありさまであった。その時の山口君の悲観の様子は目もあてられぬほどであった。その後はしばらく本郷に居り、本郷から雄司ケ谷に越して来て窪田空穂君の隣りで住はれた。そこで私はいつも思ふのであるが、山口君が晩年に、教壇でも學界でも、辯説や、文筆で、あの目覚しい活躍を始められるやうになったが、全く発表といふことを考へずに、二十幾年の間只管蘊蓄に没頭してゐられた同君が、かういふ積極的態度に出られるやうになったのは三つの原因があるのではないか。一つは時勢が向いて来たこと、一つは今迄大切に飾っておかれた数千冊の書物を一夜のうちにに失って了はれてそれが心機一転の動機となったこと。第三には、それまで私のやうな引込思案の者とばかり交際をしてをられた山口君が、窪田君のやうな、文壇の裏も表も知りぬいた年長者の隣りに住むやうになって、何かと発表といふことを考へられる機縁となったこと。此の三つであらうと思ふ。(『早稲田率報』昭和七年十二月)


『会津八一全集』 中央公論社

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じゃがいもころんだⅡ №3 [文芸美術の森]

さよならテニスコート

              エッセイスト  中村一枝

 寒いけれど春は確実に近づいている。春に先駆けてこんな決断をするのはなんともわれながらくやしいのだが、18才で白血病の治療に入る事を宣言した池江璃花子さんのことをおもえばわたしのは単におばあさんの繰り言にすぎない。以前40歳からのテニスと言うエッセイを書いたことがある。50くらいの時だろうか。テニスをはじめて長年の宿痾だった喘息と決別した話である。喘息と綺麗さっぱりわかれられたんだからそれでいいじゃない、と言われそうだが、長年慣れ親しんできたテニスとの別れは恋人との別れもかくやという気もする。とにかく徒歩五分くらいのところにテニスコートがあり、柵がなければ飛び降りていかれる距離である。朝、天気さえ良ければ頭にビビっと電流が走る。何をおいてもテニスへ行こうという気持ちである。その間には大腸癌の手術という事件もあった。テニス仲間の仲良しの田中鈴江さんを亡くした事もある。
 それでも40年続けてきたのはもう一人の相棒、青木さんのおかげでもある。正直、実直、誠実そのもの、お世辞は一切なし。欲も誇張も全くなし。峠の一本杉みたいなひとだからこそわたしは下手くそなテニスを続けてこられたのだ。彼女とは息子同士が小学一年のときから中学三年まで同じ学校である。青木くんは始めから終わりまで東大出の優等生。息子はいつもすれすれの成績、さらにバンクまがいの頭、おかしな格好で誰かを驚かせた。今思うと、それなりに親をハラハラさせながら、どこかとぼけた愛嬌で卒業した。その間青木さんは干渉がましい事を一つも言わず黙って見ていてくれた。彼女はそういうひとなのだ。テニスコートでは元々運動神経もありテニス以外バレーでも有能だった彼女。中村さんと離れたほうがあなたは伸びると言われながらも、私の下手くそなテニスに40年も付き合ってくれたのだ。わたしは元々運動神経は鈍い上に瞬発力もない。よくそんなのにテニスやってると言われながら、40年続いたのは青木さんのおかげなのだ。家から見えていたテニスコートが最近、工事で全く見えなくなった。いろんなことのあった40年、それはまたわたしが懸命に生きつづけた40年でもあつた。
  これから毎日、私はテニスコートを横目に見ながら駅に急ぐ事になるだろう。青木さんは私より若いうえに能力もあるのでまだテニスを続けて行くだろう。駅への行き帰りテニスのラケットを持った人達に出会うと自然に口が綻ぶ。およそ自分とは無縁のものと思っていたテニスとの長い付き合い、それが私の足の具合が悪くなり、歩くのもスムースに進まなくなるという思いがけない事態が起きて幕をひくことになった。これも年齢のせいと思えば諦めもつく。いろんな思い出が頭をよぎる。このコートはわたしにとって人生をふみかためた忘れられぬ土なのだ。春に先駆けてコートを去る、それもまたいいじゃないか。

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石井鶴三の世界 №134 [文芸美術の森]

胸像1907年/藤島英輔氏・千曲川原1906年

              画家・彫刻家  石井鶴三

1907年胸像.jpg
胸像 1907年 (186×125)
1906年藤島英輔氏・千曲川原.jpg
藤島英輔氏:千曲川原 1906年 (187×124)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №99 [文芸美術の森]

エピローグ 3

        早稲田大学名誉教授  川崎  浹

気ままな展開

 アネクドートが百パーセント世相や世論を反映しているという確信を私が抱いたのは、すでに第三章でのべたが、チュルネンコ書記長の葬儀になんらの哀悼も示さないソ連人の実像を目の当たりにして、私がひどく驚き、他方でその後接した「葬儀の直後クレムリンに電話をかける男」のアネクドートが、二枚の隙間のない板のようにぴたりと重なって以来である。「アネクドートを鏡にソ連の世相をきる」というありきたりのキャッチフレーズが出てきたとしても、決して誇張ではない。
 ゴルバチョフが情報公開を進めながらも、体制の体質はそれほど早くは改善されなかったので、アネクドートは情報を抑制する体質の残滓(ざんし)のなかでけっこう栄えた。情報公開に安心したせいか、皮肉なことにかつての独裁者たちもアネクドートのなかで気楽に復活しはじめた。
 このころにはアネクドートはすでにアルメニア放送の二行詩のように短い作品ばかりでなく、伝達や印刷の自由化にともないその長短は発信者の意図や趣味しだいとなった。とくにポスト・ぺレストロイカの時期に発生した新ロシア入アネクドートは、沈黙に裏打ちされた重い制約から解かれて、自由気ままに展開されている。もちろんアネクドートの伝統に拠りながらも、それまでにないどこか自堕落でカーニバル的な、めっぽう陽気でシニカルな作品が派手な裾を引きずるように輩出してきた。

大地から吹きでるユーモア

 それでもなおアネクドート・ジャンルの宿命として、長い物語にはなれないので、自ずと限界生じる。となるとアネクドートは正統的・支配的な文化ではなく、その社会内で培養される特定グループが持つ独特の二次的な下位文化、つまりサブカルチャーなのだろうか。そうでもあり、そうでないともいえるだろう。
 サブカルチャーといいきるには、アネクドートは四行詩からなるチャストゥーシカ(俗揺)同様、あまりに深い民族的な土壌に根ざしている。ここでチャストゥーシカを持ちだしたのほ、アネクドートを話すかわりに、女性は女性同士で食卓を囲んで、同じユーモアでもリズミカルな歌であるチャストゥーシカを楽しむことが多いからである。
 チャストゥーシカにたいして、アネクドートは男性に属するという学者の説がある。その証拠に生活アネクドートで圧倒的に笑われているのは姑(しゅうとめ)であって舅(しゅうと)ではない。私自身はアネクドート好きの女性に会った記憶があまりない。
 なぜだろうか。アネクドートのとどめであるプアントがバレーシューズの爪先ていどの優美な磯知であれば、女性も同調できるが、プアントがフェンシソグの剣の切っ先ほど鋭くなると、このような攻撃的な精神は女性には合わないからではないか、と私は考える。いわんや政治アネクドートの危険性を考慮すればなおのことである。
 アネクドーはサブカルチャーとしてあっさり切り捨てるためには、前述の作家マクシーモフの言葉で語られた、沈黙を最高の表現とするような背景がアネクドートにあって、作品が沈黙のもつ重みに支えられたという事実を、顛祝しなければならない。
 ロシアの自然、あるいはシベリアの大森林(タイガ)が内にはらむ沈黙と闇がロシア文化の根底に横たわっている。彼らがいかに復活祭(マスレンニチャ)のカーニバル的で饒舌(じょうぜつ)な表現をとろうと、それは冬の暗い時間を黙々と歩きながら、あるいは黙して坐り、耐えた沈黙のパラドクスにすぎない。
 ロシア文学は「暗い」とよくいわれる。私もすでに一〇月から降りしきる灰色の雪に埋もれていくモスクワの道路や辻公園を見ながら、先の見えないトンネルで立ち往生したような暗澹(あんたん)たる気分になったことがある。ロシアの冬は長すぎると日本の一年を知ったロシア人もいう。
 しかしまたロシア文学は「深い」ともよくいわれる。深い所には光が届かないので暗い。「暗い」と「深い」はロシアの民族と文学にとっては同義語だろう。長く暗い冬をすごして、タイガの奥地の凍土のなかからのぞく「アイヌねぎ」の茎を見つけたときの繊細な感動を、農村派作家のアスターフイエフが『魚の王様』(群像社)で伝えている。
 深く暗い沈黙の大地から一瞬のユーモアが吹きでる。これがアネクドートの機知と笑いの根である。ドストエフスキイの言葉を借りて「ユーモアとは奥深い感情の機知である」といいかえることもできる。ロシア人にとって「奥深い感情」とは調和と混沌が混在する。


『ロシアのユーモア』 講談社選書

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正岡常規と夏目金之助 №9 [文芸美術の森]

     子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承 
           子規・漱石 研究家  栗田博行 (八荒)
     第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅱ
    明治の書生たちの交遊の心 二
       …ほととぎすを名乗ったこと・子規の出自と生い立ち①
                            (つづき)の(つづき)の(つづき)
           
  おさらいです。
  正岡常規君が、代表的なペンネームとなる「子規」を最初に名乗った相手は大谷藤次郎君でした。一高生になってすぐのころ文学への関心が同じだったことから夏目金之助君より先に交際を深め、「親友」と位置付けていた同窓生でした。それに気づいたことから、思わず深入りして子規漱石の出自と生い立ちを追うことから離れ、明治の一部エリート層の青年の間に潜流していた精神的気風に触れることになりました。

9-1.jpg

  それは、明治20年前後に同世代の若者として活発に「書生付き合い」をした人たちの中に横溢していた、相手の人生苦や金銭面の都合(懐具合)に配慮に富んだユーモア感覚で応対する気分があったという事でした。

「明治の書生たちの交遊の心」、この回で最後にしますがもう少しフォローさせてください…。
 一高を退学し、もう「書生」ではないライフステージに踏み込んだ大谷君は、2年余り大9-2.jpg阪と津山で療養しながら、人生の歩みを模索します。明治25年、「脳痛」の病を克服し得たのでしょう…郷里の津山で5年間教員として働きます。その後さらに、大阪に出て汽船会社に勤める等、実業界の人となり、清国に渡った時期もあります。さらには子規没後ですが、中外商業新報という経済紙の論説の執筆者として社会に発言することを仕事とします。その間是空の名で、俳人・文人としても筆を執りつづけ、子規との親交を書き記した内容を沢山含む「浪花雑記」という随筆を残しました。それは、この世代の明治日本人の思索と人生の跡をたどる貴重な資料のひとつとなっています。(八注・埋もれかけていたそれを発掘してくれたのが、前述した故和田克司氏でした。)大谷是空藤次郎。実業界を生きた教養人として生涯を全うしました。昭和14年、73歳での没でした。

 時間をさかのぼります。
 明治23年1月7日、退学後郷里津山で療養していた大谷君は、冬休みで松山の実家に帰っていた正岡君に近況を知らせます。
 烈寒の砌(みぎり)御病気の御隙(おひま)も無之候や
と、まず子規の具合を一旦は尋ねますが、自分のことについて
 小生は兎角捗々しからず 殊に此頃はmelancholyに
     閉口罷在申候 胸中の事談る(かたる)に友なく実に
                      自分ながら自分が分らぬ位にて…
                          故里にありて猶孤客の思有之候
  時々書画骨董抹茶を喫して慰居申候 
                              ・・・人生の末路恐ろしく存居候
と、「脳痛」と呼んできた自分の状態がかなりな所へ来ていることを、極めて率直に知らせます。そして
           子規兄 玉案下   是空子
と結び、最後に三句を追記します。
  中国の月に来て鳴け子規
         鳴くならば我にも鳴かせ子規
                 四国から中国渡れ子規
 正岡君子規と呼び自分を是空としている点、そして3句の内容から言っても、大谷君の胸中に正岡君が血を吐いた頃からの二人の文通のハート(=文体)が、健在であることが分8-6.jpgかります。句意は三句とも「自分の所へチョット寄っておいでよ、子規を名乗った正岡君ヨ」という呼びかけです。決して「自分の身の上に血を吐く鳥よ、やってこい」という意ではありません(笑)。暮に、東京へ向かう途中君を訪ねるかもしれないという知らせがあって、大谷君は心待ちにしたのでした。
 1月23日,正岡君は周囲の心配をよそに旅立ちます。ところが、瀬戸内の船旅が悪天候で大きく遅れてしまい、船酔いと嘔吐で体調も崩し、大谷君が待ち受けている津山には行けそうになくなります。そこで松山を出て2日後の1月25日、多度津から大谷君にことわり状を出します。その結びに、いずれ近いうちには会いに行きたいが、それまでは
  小生の代参として端書を使にして隔日位には差出し お百度をあげ                         9-6.jpg     可申候
と述べ、葉書でお百度参りのようなことをすると約束したのです。
 
孤独とmelancholyに苦しむ友人の人恋しい気持ちを受けとめた図星の提案でした。筆と郵便ポストしかないこの時代に、今のメールかラインのコミュニケーションのようなことを葉書でするというのです! さらに行けなくなったことを詫びて
 大慈大悲の御心もて御海容奉祈候
(ゆるしてくれたまへ)
 南無阿弥陀仏 
続け 常規凡夫事 色身情仏より とふざけて名乗り、大谷君には本願寺の大和尚 大谷是空大師弘法大師に見立てたネームを謹呈。 
    中国をかすめて飛ぶや子規 
とつけてこの手紙を締めます。ウイットに富むというのはこの事でしょうか…。
  それから3日後静岡までたどり着いた子規は旅宿から大谷君に葉書によるお百度参りの一回目を実行します。全部で70回をこえる往復となったようですが、こんな第一信となっています。
                    お百度参り第一
 御前様がこのまゝでおかくれ遊ばしたら(亡くなろうものなら)
  一社の神に祭り 治頭(アタマを癒す)神社と稱へ(となえ)
      脳病の者はお百度をあげると吃度(キット)直る様に可致候
「君が亡くなったらお社に祀って治頭神社ととなえ、頭痛もちがお百度参りをすれば必ず治るようにしよう」・・・よくまあこんな発信が、筆書きで漢文脈の挨拶言葉が常識だった時代に、そして悲痛に訴えてきた相手に対して出来たものだとあきれ、かつ感嘆せざるを得ません。その上でこう締めくくっています。
 直らぬ様なら祀もむだゞから 直るなら直ると今から
                          保護可被成候(自愛なされんことを・・・
          明治二十三年一月廿八日
         静岡大東館にて  帰りがけの子規 拝

「落第・脳痛・退学」と「喀血」、大谷君子規自身も人生の試練に見舞われ、一段と苦難に立ち向かわざるを得ない境涯にありました。その中でこんな発信をしているのです。これが子規になり始めたころのあの書生気分を喪わず、むしろさらに強めていた正岡常規君のこころの状態だったのです。
 ふつうなら、降りかかった苦難を同情し合い暗く深沈と傾斜しかねない流れを、ユーモア(=俳諧味)の目線で、同病相哀れむの反対、同病相励ます方向に転換しているのです。・・・もちろん大谷君は、これを愉快に受け取ったことでしょう。だからふたりの「お百度参り」と名付けた葉書の往復は、70回を超えて続いたのです。
 
9-3.jpg 子規の青春随筆「筆まかせ」には、その「お百度参り」についてこんなやり取りも筆写・保存(思い起こしてのコピー)されています
 明治23年7月19日に、帰郷していた松山から発信しているのですが、今度は大谷君(大阪滞在中)が見舞いもかねて松山を訪ねたいと言ってきたのに、どうも来る報せがないので、「お百度参り」(29回目)でこの絵葉書で、(ノーコメントで)問いかけたのです。「筆まかせ」に自らこう注釈しています。

    これは「なしてこんか」という判事物也 「なして」とは
                    津山地方の方言にして何故の意なり。
と、自分が大谷君に出した判じ絵の意味を説明。彼にすれば快心の絵手紙だったのでしょうか・・・。「梨」と「手」と「キツネ」と「蚊」で「なしてこんか」というわけです。

 9-4.jpgこれに対して大谷君からも絵手紙が返ってきてそれを、模写しています。
 これです。そして
 「おばいねばすぐゆきます」(=尾葉稲葉酢具雪枡)ということならんか。」と説明をつけ、「蓋し是空子の叔母、阪府病院に在るなり。」とコメントしています。(どういう事情かは不明。)
 筆者(八荒)は、この判じ絵を読み取るのに悪戦苦闘しましたが、ヤット分かりました。右一番上は馬の「尻尾」らしいです。その下は「葉」。さらにその下は「稲」。左上は再び「葉」。そして御酢を入れた「徳利」。その下の絵は「雪の結晶」と「升」らしい。これで、この判じ絵じの意味するところを
 「おばいねばすぐゆきます」(=尾葉稲葉酢具雪枡)と、ヤット読み取れたのでした
 これに対して、子規はすぐ絵手紙で大谷君に問いかけます。
  それが下の一葉です。(繰り返しますが子規が自分で筆写・保存しておいたものです)
9-7.jpg これについて子規は 
 余の判じものは「おばさんいつかへる?」の意也(=大葉 三、五、蛙)の意也。(筆まかせ 御百度参り廿九及び三十)と解説コメントをつけています。大きな「葉っぱ」、五匹の「蛙」、そして「?」。それで「おばさんいつかへる?」となるのですが、この時代にクエッションマークとは! 英語が苦手で、それも書生時代2度の落第の原因の一つだったようですが、こういう点では感度のいい青年だったのですね(笑)
 今盛行中のラインやメ―ルの「写メ」とか「スタンプ」といったことを、筆書き・郵便のみ・デジカメなし・コピー機もなしという明治20年代にあって早々と着想し、楽しみながら実行していたのです。
 お百度参りと名付けた70回を超える軽快な葉書の往復。自身の病勢について悲痛な発信をしたことから提案されて来たのでした。それは、大谷君にとって大きな癒し効果を生んだことでしょう。
  病癒えたのでしょう・・・明治25年10月、大谷藤次郎君は故郷津山にもどって教職に就き、この地の中学校教育の創成期に貢献します。以後この稿の最初に述べたように文人的教養に富んだ実業世界の人として生涯を全うするのですが、子規との交遊の貴重さに気づいた時から浪花雑記を記し始めたのでした。また子規没後も、数多くの子規についての回想を記しています。その一つに
  〇・・筆まめといふ事に於ては恐らく君以上のものはなからう、
  友人の手紙の面白きものはチャンと別に写し取つてあるし
      友人の俳句は其人其人の句集を作(つ)て写してある、
出すだけではなく、相手からの返信も写して保存し、句集にまでしていた人であることに気づき、感嘆しているのです。実はそれを最初に経験をした人が大谷君自身だったようです。
  僕が久しぶりに君の処へ行(つ)た時に笑天句集(僕当時の別号)と題するものを取り出されたには驚いてしまったのである
  久しぶりに会った友人から、文通の中で楽しんで書き付けた俳句を、「これ、キミの句集だ」と、まとめ綴ったものを見せられたのです。「驚いてしまった」のは当然のことだったでしょう。「笑天とはボクの当時の俳号」と語っていますが、落第して落ち込みかねない時に、「笑天様 聖天 様 焼天 様」と呼びかけられた愉快さからでしょうか、そのあと何回か「笑天」の俳号を使った跡も見られる大谷藤次郎・是空君でした。

  明治30年6月21日、音信のしばらく途絶えていた子規から大谷君に(お百度度参りの葉書ではなく)、一通の書簡が届きます。挨拶の言葉に続いて       
    ・・・小生漸次衰弱に赴(おもむき) 
                            先日も一嵐(ひとあらし)してやられ
        命ばかりは助かり侯へども今に天井を詠(なが)め居候
                         到底永いことはあるまじくと存候 
    乍併(さりながら)昨今は余程快方に向ひ
        食慾も十分睡眠も十分熱は八度以下と定まり候故
  まだ五日や十日に死(ぬ)る気遣も無之候間御放慮奉願候
    いざといふ時御暇(いとま)も出来兼候故 あらかしめ御暇こひ迄
                         如斯御座候 謹言
      明治三十年六月廿一日
                                  子 規   大谷 兄

  初めて子規と名乗った相手であった大谷君へのわかれの言葉でした。精神の強靭さは続いていましたが、子規の肉体は、この時こんな自覚をするまでに病んでいたのでした。これを受け取った太谷君は、
          僕は之れを見て真に真に泣いたのである
と回想しています。「真に真に」というくりかえしの中に、壮年期を健常に実業世界を歩んでいた大谷藤次郎君の、慟哭の声が聞こえてくる気がします。
  此の手紙ばかりは別にして保存して居る、
  之れを見ても君が生死の境に処して晏如として(安らかに落ち着いて)
                          乱れざるを知るに足るのである
そして5年後に、絶筆三句を詠んで静かに永眠した子規を紙上で知ってのことでしょう、この回想の文章を次のように結んでいます。
    文芸上の偉人として尊敬すべきは勿論なれども
      斯くも生死の境に悟到せるは
          蓋し古今稀有の偉人とするに足ると信ずるのである
                   〔日本 明治36・1・5〕
  大谷藤次郎・是空子規との出会いで、大きな人生の影響を受けた人びとの一人です。

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「明治の書生たちの交遊の心」とした項、これで終わりとします。次回から、子規・漱石の幼年期からの成長過程に目を向けなおしますが、本人が書いたもの・周囲の証言の多さから、また文学者として先に生死し、与えた影響の深さの点からも、子規を軸として先行して述べてゆきます。
  次回・3月1日、正岡常規と夏目金之助 №10
     第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅲ
          豌豆と空豆の花の記憶 幼少期子規①
                                        お付き合いください。


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西洋美術研究者が語る「日本画は面白い!」№4 [文芸美術の森]

              シリーズ≪琳派の魅力≫
                            美術ジャーナリスト 斎藤陽一

          第4回:  俵屋宗達「風神雷神図屏風」 その3
  (17世紀。二曲一双。各155×170cm。国宝。京都・建仁寺所蔵。)

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≪運動感と絵画空間の広がり≫

 今回は、風神と雷神、それぞれの動きに注目してみます。

 先ず右隻の「風神」。
 大きな風袋を両手で握りしめ、右足で地を踏みしめ、左足を蹴り上げながら、全速力でこちらに駆け抜けてくるような動きを示しています。リボンのように見える細長い天衣は後方にひらひらとなびいている。宗達は、ここに「風」というものの本質を形象化しています。
 次に左隻の「雷神」。
 雷神は、うしろにかついだ連鼓を打ち鳴らしながら、地上めがけて舞い降りてくるような力強い姿で描かれています。これは、天空から雷鳴を轟かせながら落下する「雷」という自然現象を象徴しているのでしょう。

 この二つの神に見られるのは、それぞれが画面の枠外、こちら側に突き抜けてくるような運動感です。そのとき、絵画空間は枠を超えて広がっていく。これが、この屏風絵の大きな魅力のひとつであり、世に「鑑賞者を包み込むような絵画空間の広がり」と賞讃されるゆえんです。

 このような絵画空間を生み出すもうひとつの重要な要素は、宗達独特の「雲」の表現でしょう。
これは、それまでの日本絵画に描かれていた平面的で装飾的な雲ではなく、ふんわりと柔らかく、風に乗って流れる軽やかな雲です。この雲の動きがまた、風神・雷神の動きを助ける役割を果たしている。
 宗達が描く雲には、繊細な立体感が表現されており、これが、いかにも空中に浮いているような量感と深みを感じさせます。

4-2.jpg 宗達が、このような柔らかで軽い雲を描くときに使っている技法は、彼が水墨画で駆使した「たらし込み」と呼ばれる技法です。
 「たらし込み」とは、一度置いた墨がまだ乾かないうちに、それとは濃淡の異なる墨を上から垂らし、にじみやムラを故意に現出させる技法です。いわば、輪郭線を使わずに、ものの形や質感を繊細に描き出す技法です。
 
 宗達が到達した極めて高度な水準の「たらし込み」の例として、水墨画の最高傑作とされる「蓮池水禽図」がありますが、この絵については、回をあらためて紹介したいと思います。
 この「風神雷神図」でも、水墨画で培った「たらし込み」を応用して、このような独特の雲の効果を生んでいるのです。

≪立てて眺める屏風絵≫

 今度は、「風神雷神図屏風」を立てた姿で眺めてみます。屏風は、本来、このような形で室内に置かれる調度品だということを想起しましょう。

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 このようにして眺めると、右隻、左隻それぞれの中央がくぼんで、風神と雷神の姿が立体的に浮かび上がり、二つの神のにらみ合いがより鮮烈に映ります。

 さらに、こちら側に突き出た中央の二面は、風神、雷神それぞれの視線の流れがこちら側に放射されるのを助けています。
 おそらくここには、このような姿で室内に置かれる屏風というものを考慮に入れた宗達の計算が働いていると考えられます。

 本来、日本家屋の室内は、昼でも薄暗い。夜には行燈の光に揺れる室内空間です。そのような薄暗い部屋に置かれた金屏風は、ほのかな照明の中で柔らかい光を放ち、妖しくも幻想的な雰囲気を演出する調度品でもあったでしょう。おそらく宗達は、このようなことも意識していたに違いありません。私は、宗達の「風神雷神図屏風」を、人工的な照明を消した暗い空間で“ゆらゆらとゆれる行燈の光で見てみたい”という思いに駆られます。

 次回は、「風神雷神図」の構図に潜む曲線美と、この二神の肉体感というものについて、注目してみたいと思います。
                                                                  (次号へ続く)


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フェアリー・妖精幻想 №102 [文芸美術の森]

仮面劇。シェイクスピア、バレエ、オペラ 4

             妖精美術館館長  井村君江

ヘンリー・パーセル作曲の劇音楽『妖精の女王』

 十七世紀後半のイギリスを代表する作曲家であるヘンリー・パーセル(一六五九?-一六九五)は、王室付属礼拝堂少年聖歌隊の一人として、音楽の道を出発し、ウエストミンスター寺院のオルガン奏者ともなり、わずか十八歳で王室弦楽団の常任作曲家となって才能を表わした。
 彼の劇音楽は一六九〇年から亡くなるまでの五年間のあいだ作曲されている。『妖精の女王』(全五幕)は一六九二年、前年に『アーサー王』、一六九四年には『嵐』、『インドの女王』ほか四十曲を次々と作曲していて、この年は驚異の年(アヌス・ミラピリス)であった。
 『妖精の女王』の台本はE.セットルともバーセル自身だという説もある。トマス・ペターンの演出で、一六九三年、ドーゼット・シェターガーデンで上演された。
 シェイクスピアの『夏の夜の夢』を大幅にカットしたいわば五幕の改作版で、ヒポリタは登場せず、各幕は、転身の場面で終わるようになっていた。池に白鳥を浮かべてドラゴンに仕立てたり(一九七八年に筆者がケンブリッジの野外劇で観た時は花火があがった)、「シナの庭」という一幕があったり、搭乗する妖精の中にモブサという名の妖精がいたり、アポロや中国の人々がいて踊るというように、バロック音楽と劇とバレエのスペクタクル
中心のオペラともいえるようである。
 ついでに記せば、パーセルの死後オペラのスコアが紛失し、劇場に返却してほしい旨の広告が.一七〇〇年に出た。その時は発見されず、一八三七年頃にオルガン奏者のR・l・S・スティヴンスが入手して、ロイヤル・アカデミーに保管されていることがわかったのが、一九〇三年のことであった。
 ヴォーン・ウィリアムズがケンブリッジでの上演をすすめ、やっと初演後二二八年経った一九二〇年に復活上演が実現したのである。
 その七年後にはロンドンのルドルフ・シュタイナー・ホールでも上演されている。
 『妖精の女王』は野外劇としては初めてドイツのエッセンそして、フランス語でブリュッセルで上演され、コンスタント・ランバートがイギリスでもコヴエント・ガーデンの野外で上演するとよいと主張し、それ以後しばしば野外で演ぜられるようになっている。
 コンスタント・ランバートはこの『妖精の女王』を三幕に縮少し、「ドラマとオペラとバレエの要素をもった仮面劇」としてアレンジし直し、サドラーズ・ウェルズ・バレエ団の上演台本として、一九四六年にコヴェント・ガーデンで上演した。
 コンスタント・ランバートは、この他にも『オベロン王の誕生日』の群舞をサドラーズ・ウエルズで演出している。この時もパーセルの音楽を使っている。shかし、ここで興味深いことはこの作品が『妖精の女王」の四幕とミルトンの『コマス』に基づいていることで、曲はロウズとパーセルの違った七曲を使い、モダンバレエの名手ロバート・ヘルプマンが振り付けをしていることである。
 ランバートはパーセルが改作のために削除したものを、もう一度シェイクスピアの方へ戻そうと意図しており、オベロン、ティタニア、パックの三人に焦点を当て、インドの取り換え児(チェンジリング)をめぐってオベロンとティタニアが月夜にいさかいをする森の場面を幕開きにもってきている。


『フェアリー』 新書館

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渾斎随筆 №26 [文芸美術の森]

帝展の日本画を観て 4

                  歌人  会津八一

 帝展といふやうな絶好な機関を利用して、日本畫の持ち得る最も濃厚強烈な色調の最高限度を、しらずしらず競争的に研究して行けることは、むしろ願っても無いことゝ私も思ふ。しかしあの部屋々々の壁から壁につゞく、色彩交響楽の雑然たる刺戟には実以て疲らされる。塗り立てゝさへおけばそれで絵になるといふやうに考へて居る畫家ばかりでもあるまいが、何分にもあの大きさの畫画では、よほど調子を強くせねば納まりがつかぬらしい。それは丁度廣い野原の果と果とでメガホンで話して居る人のやうに、傍で聞いても気恥かしい位に馬鹿調子である。何とかしても少し落ちついた本味のあるところを見せて貰へぬものかしら。なるほど場内には水墨もの淡彩ものも無かつたとは云はぬ。しかしほんの一二枚のほかは墨そのものゝ持ち味も充分出て居ない。近頃は裸體を描きたがるのは西洋畫家ばかりでは無くなったが、其いひ草によれば、あまりに裸體の美しさに着物は着せぬのだといふ。若し墨色の持ち味がわかつたら大でこでこの彩色は無情に着せられたものであるまい。その場の持ち味さへわからぬ人達が畫をかくのがそもそもの間違ひではないのか。
 なるほど特選『たにまの春』、特選『おぼろ』、特選『緑庭』これらは彩色のなくてならぬ絵だ。しかし無鑑査『威振八荒』は彩色によって何を得て居るか。特選『多武峰の春雪』その原圖の彩色の目まぐるしさよりも単色(モノクローム)の写真版の方を心やすくおもふのは私だけであるか。委員山内多門氏の『深山路の夏』などになると、あの彩色のために余計に興味の中心が失はれて居るではないか。
 一體この帝展といふ所は墨の持ち味などを語るべき場所柄では無いのかもしらぬが、いやしくも墨をたのみとする位の人々は、題讃、題識、落款、印章、今少しく文字の趣味があってほしい。特選の『雪路』には何か詩のやぅなものが二三十字書いてあるらしいが、如何に近づいて見ても私などには読めないやうな所に書いてあった。会員小室翠雲氏の『周濂渓』の題讃はあれで書面から超越しては居らぬか。委員水田竹圃氏の『振衣濯足』の左の一幅の落款はあんなところでいゝものか。委員湯田玉水氏の『盤谷悠々』には漫然と韓退之の文章を一つ書きつけてあるが、良寛風といへはいへぬこともない弱々しい文字の調子で、畫画の平衡を破らなかったといふ以上に書畫の積極的契合から来るべき妙味がどこにあるか。要するに見ぬやうな所に書いたり、あつても無くともいゝやうに書いたりする位ならば最初から書かぬがいゝではないか。あつても無くもがなの彩色をすると同様に無意義のものではないか。
 委員池上秀畝氏の『渭塘奇遇』にも澤山の文字があるが、そもそもが支那小説の挿絵といふ所をあまり出てゐない畫で、其畫と同様に文字にもいやしくも芸術的気分といふやうなものが動いて居ない。一體此畫をこれ程に工芸的にするには、此文字も與って大に力ありといへる位の文字である。

 観来って私は帝展の日本畫部に望む。帝展の唯一の目的が若し大衆の芸述的教化にあるにしても、或は文芸家自身の向上進歩にありとしても、もつと謙遜な、もつと正直な、もつと眞率な、もつと熱意のあるものを並べて見せて貰ひたい。今日の吾々の生活から云つても、又吾々の畫家の技量からいっても、吾々の持つべき美術は、放漫な大作よりも小品にあるとおもふ。小品といへばすぐ責塞ぎの投げやりものゝやうにおもはるゝのであるが、私のいふのは、感ずべきを感じ捕ふべきを揃へて、隅々までも、余白にまでも、気と力との満ち\たものをいふ。しかしことによると帝展あたりの畫豪の多くは、口には小品を軽んじながら其実は、引き締った簡潔な、芸術味の強い小品などは出来なくなって居るのではないかを私は危ぶむものである。

 今の世の中で、中学生などの一番欲しがるものは試験の鮎数と運動会のメダルだ。そのメダルがよしんば銅でも鉛でも、其図案の価値あものに彼らの心を牽くといふのならば、何も文句は無いのであるが、彼等の腰に下がるメダルはきまつて金銀七宝の張り分けで、其図案はといへは、いつも希臘の女神だ、月桂冠だ、獅子だ、遠い昔の武器だ、そんな風の所謂よしありげなものが附いて居るといふまでゞ、それが見られるほどにこなされて居たためしが無い。美術的よりも金銀七宝でありたい、そして出来るだけ大きくありたい、これが常に彼等の熱心なる願ひである。この愚かしき願こそはまた世間大衆の願ひであり、同時にまたこれ帝展畫家の顧ひでは無いか。もし此暗合が帝展の影響から起るものとすれば、私は其徹底した感化の威力に封して取り敢へず敬意を表するのであるが、もし事実が其反封に、大衆が此所まで美術家達を引っ張って来たものとすれば、私は全くいふ所を知らない。とにかく帝展から掃って来てつくづくと思ふことは、学生の時計の鎖から、あの厭ふべき七宝のメダルの影を潜める日は、帝展の畫家の多くが落ち着いたモノクロームの小品に、真剣に自己の芸術を研くの日であらねばならぬ。
 そして文部省が帝展によって行はんとする大衆の芸術的教化といふことも、それから始めて多少の意義を生じて来るべきであり、我が国の芸術及び芸術家の向上は、すべて其時を待たねばならぬといふことである。       (十月十五日)

『会津八一全集』 中央公論社

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じゃがいもころんだⅡ №2 [文芸美術の森]

冬来りなば春遠からじ

                     エッセイスト  中村一枝

 日射しの明るさは春めいているが風の冷たさはまさに真冬の真っ最中。それにしても毎年毎年四季があり、その度に、寒い、暑い、心地いいとか言って、あの花が咲いた、この木が芽吹いたとニュースで報じられる国ってほかにあるのかなと思う。きようは北風が強いと言って慌ててマスクをつけたり一枚余計に着たり。雪の情報などはうっかりすると生死に関わりかねないから必要だとしても、どこの国でもこんなに克明に伝えてくれるものかといつも思う。
 天気はともかく今とても気になっているのが、どっちが始まりで、どっちが発端なのかよくわからないのが海上での威嚇の問題だ。はじめに聞いた時は日本が何もしないのに先方が勝手に文句を言っているように見えた。でも韓国側からすればそうとばかりは聞いておられないこともあるらしい。双方がもう一度冷静に確かめ合ったらどうかと思うが、子供だってわかるその辺の冷静な判断が、向き合うと、お互いカッカとしてくるのは長い間の歴史の積み重ねなのだろうか。それにしてもこの二つの国、戦争を挟んでやっと普通に話しあえる国になったと思っていたのにそうでもないらしい。両国の因縁は何しろ太古の昔からあったとしても、やはり太平洋戦争中の日本軍の暴挙は日本人として決して許されないことだ。そのための裁判の結果が今、陽の当たる場所に出てきたということだろう。
 それにしても日本人と韓国人とはとてもよく似ている。中国人よりも似ている。でも中身も文化もまるで違う。わたしには韓国人の友達が1人いる。すでに付き合って五十年近い。始まりは道を挟んだ近所の人だった。黒々とした目もとの涼しい典型的な韓国美人のママ、そして男の子二人。その下の子が息子と同級生だった。六年生の時は卒業対策委員とかいう役を二人してやることになった。そのおかげで済州島出身のママと踏み込んだ話もするようになり、それまで無縁の存在だった韓国について少しずつ知るようになる。
 ある時ちょっと目のきついおじさん二人がたずねてきたことがあった。そして、彼女のことについて聞くのである。「あすこの家の事で困ることはないか?」 「いいえ何にも」、笑いながら答えた。その時、わたしははじめて、国が違うということでこんなにも神系をビリビリさせている人たちがいることに気がついたのだ。
 韓流ブームにのめり込んで韓国ドラマを何本見ただろう。もう一人の友達はやはり韓国ドラマがきっかけで苦手な電気工事も自分でクリアするようになったそうだ。彼女のように外側から韓国文化に深く入り込む人もいる。今も韓流ブームは決して衰えてはいない。民間ではこれほど柔軟な日韓交流があるのに。公の席ではぎくしゃくした対応が未だに続いている。こんなに近い国なのにアフリカのコンゴ並みの知らなさ・・。どうも日本人の中にある、韓国組し易しとか、日本の方が優れているという、昔からある変な優越感に影響されているのではないか。わたしとYさんとは子どもとは関係なく、同じ地元ということもあって今だに仲良しである。日韓関係がスムースに行く為には以前からある変なわだかまりを全て拭い去るしかないのだが、実際にかかわつている人たちにそれが通じるかというのが鍵かもしれない。

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石井鶴三の世界 №133 [文芸美術の森]

寝顔 1907年/光子・幸子 1907年

              画家・彫刻家  石井鶴三

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寝顔 1907年 (189×125)
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光子・幸子 1907年 (186×125)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №98 [文芸美術の森]

エピローグ 2

             早稲田大学名誉教授  川崎   浹

風刺という妥協

 ロシアでも現代アネクドート論を展開している学者は、私が知るかぎり皆無なので、すべては私の推論にすぎないが、レーニン、スターリン時代から、「雪どけ期」、「停滞の時代」、ペレストロイカ、ポスト・ペレストロイカ時代をへて、明らかにアネクドートの質は変化している。
 スターリンの独裁と弾圧が俄烈をきわめた一九三六~三七年を中心とする前後の一定の時代には、アネクドートは痕跡を恐れてたちどころに闇に消えただろうし、アネクドートの発生する可能性がもっとも制限された時期だと思われる。スターリンについてのアネクドートを検討する際には、それがいつ、どのような内容で生じたかが問題になる。
 キーロフ殺害事件のアネクドートは、時間的に事件の発生と密着していることが、作品の緊迫性から推定できる。あり得ることとあり得ないこと、つまり存在と非存在の境界すれすれの線上で成立するスリルが、ここにはあった。これにくらべて、スターリンとチャーチルが飛行幾で小悪魔に遭遇するアネクドートが民話的で、ひどくユーモラスなのは、ルーズベルト、チャーチル、スターリンらが終戦処理を協議したヤルタ会談(一九四五年)後の一時期、弾圧と戦争の緊張から解放された社会の作品だからである。
 恐怖の対象そのものにはかならなかったために、アネクドートで扱いかねたスターリンが、ユーモアという余裕をもつ枠のなかで復活するのは、主として彼の死後、市民が独裁者に呪縛されなくなって以後のように思われる。
 つづくフルシチョフ時代に社会的規制が緩和されると、アネクドートはそのぷん羽根をのばした。民衆は自分たちの生活感覚で政策のよしあしを判断するので、経済的にめぐまれぬ民衆は、自由になっただけアネクドートで思いのたけをのべ、ついには切手のフルシチョフに唾をはくまでになる。
 この間、従来どおりに、ユダヤ人の町オデッサと、辺境の文芸都市アルメニアのアネクドートがソ連中に電波や口コミで放出された。ここから発信されたアネクドートには傑作が多い。
 六〇年代後半から八〇年初めまでつづくブレジネフ時代は、アネクドートの全盛時代である。ひとまず政局が安定し、店頭の長蛇の列に並びさえすれば最低の生活は保障されている。監視体制はゆるまなかったが、弾圧や制裁も以前のようではなくなった。亡命作象のアレクサンドル・ジノビエフは、民衆がソ連体制を憎んでいたとばかり見るのは誤りで、彼らは体制をそれなりに容認し、妥協の道を見いだしていたと指摘している。
 体制に順応しながら、市民はアネクドートの風刺で妥協しようとしている。少なくとも結果的にはそういえる。というのは、体制に妥協しなかった反体制派は収容所に入れられるか追放されるかしたからである。
 それでもなおブレジネフ政権末期のころ、民衆の不満は爆発寸前まできているという風評だけはあった。革命は起こさないほうがいいという外からの亡命者(ソルジニーツィンら)の呼びかけすらあった。というわけで市民は耐乏生活を強いた体制の維持者に向けて、攻撃という風刺の的をしぼった。しかし、ブレジネフはどこかとぼけた表情で得をしたようだ。市民たちから愚弄されているにもかかわらず、アネクドートのブレジネフはどこか愛嬌があり、ユーモラスである。
 この時期のアネクドートはとどめの切っ先が鈍くなったが、よりユーモラスで娯楽的になり、もちろん発信の環境は厳しいとはいえ、市民が隠れて食堂でスリリングなコミュニケーションを楽しんでいるという風景が浮かびあがる。


『ロシアのユーモア』 新潮社選書


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往きは良い良い、帰りは……物語 №67 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語(こふみ会通信)
その67 TCCクラブハウスにて
 『お年玉』『松の内』『富士山』『水仙』
                      コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)
                       
◆◆平成30年12月29日◆◆
下載のとおり、当番幹事、沼田軒外、西村弥生、板倉紅螺3氏連名により案内状が届きました。メールやネットなどに疎い私・孝多に対しては、わざわざ郵送です。いつもながら感謝!です。

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* * * * * ** * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 
     「一月こふみ会」のお知らせ
世の中はクリスマスが終わり、正月に向けての大掃除、日本の暮れは忙しい。そんな中、新春こふみ会のご案内です。
期日●一月十三日(日)午后一時より
会場●表参道・東京コピーライターズ・クラブ
会費●1.500円
兼題【お年玉】
〃  【松の内】
●景品は三点(合計1,000円くらい)ご用意ください。
●出欠席の連絡は一月六日(日)までに、このメールに返信で沼田までお願いします。
                  一月幹事   沼田軒外
                                                   西村弥生
                                                         板倉紅螺
         幹事連絡先=090-3224-1075 (沼田携帯)
* * * * * ** * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

これに応じて私・孝多は下記のように『常用字解』白川静・平凡社を引用して、出席の返信と致しました。
でも、ここに示された甲骨から篆文までの様子では、どこからテンが入って、「玉」になったのか、不明ですね、残念。また、後日、調べなおしをしないといけません。

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◆◆さて、当日、1月13日……◆◆
席のあちこちで≪もの忘れ現象≫が発生しました。
聡明なY氏でさえ、TCCからあずかった大切なものを、どこに置いたか分からなくなってしまって、そわそわ、うろうろ。やがて「あったあ」の歓声。
ユリイカ! 我れ発見せり~。パチパチパチ。
また、句の「清書チェック」の最中には、H氏から突然、奇声があがりました。「ヒエッ~。俺、今、どこをなおそうと思ってたんだっけ? 忘れっちゃったよお~。」
話題が、日本酒の銘柄に及んだときには、「あれぇ~、何だっけ?」
「ほら。う~ん。う~ん。ほら、人の名前と同じやつ。」と、K氏。
「久保田ですね。」と、救いの手がさしのべられて「アリガト!それそれ!久保田!」で、一件落着といった一幕。
孝多なんぞもひどいもので、前回、某氏が立て替えておいてくれた金銭を、銀行の封筒に入れて、そのまま家に置いて来てしまって……。
「ごめん、ごめん、二月には忘れずに持ってきますう~。」
さらに忘れものは筆記用具一式。そのため、隣近所にはご迷惑をおかけしました。左隣の軒外氏からは絵の具(短冊用)、右隣の茘子さんからは鉛筆やら筆ペンやら……。お借りしました。
締め切り近く、ご多忙のところ、失態、失礼、申し訳ないことでした。でも、皆さん、どうぞ、どうぞ、お使いください。と、優しい笑顔で屈託無く、誠に有難いことでした。

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◆◆上掲のとおり兼題・席題が張り出されると……◆◆
やはり話題にのぼったのは松の内。門松を飾っておくのは、慣習として関東は6日まで、関西は14日までとされている。その期間が松の内、という次第。
でも、少し早めに、年末、12月30日ころから松飾りを立て始めるのは、極く、普通なことになっているようですよね。
さすれば、年末の何日間は勘定に入れないでおく、という考えなのですか、ねえ。

張り出されて話題になった、もうひとつは「富士山」。
これについてはいくつもの案が出されました。①として「富士山」自体は季語ではないから、別にレッキとした季語を加えるべし。あるいは、たとえば「初富士」「寒の富士」などのように加工すべし。
②として、富士山が季語ではないことを認めつつ、無季の句として作句する。
③として、たとえば平成31年の今の富士(たとえば「睦月富士」ではなく)平成31年の夏(未来)の富士だと思って作句する。もしくは平成30年の夏(過去)の富士として、その想い出を句にする。
などなど、いずれにせよ、各自、自由に想を構えて結構、というハナシとなりました。さて、出来は如何に?

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◆◆女性言葉の大切さ、選句していてつくづくと……◆◆
最近、句の中に「女性言葉」を見かけることが多くなりました。嬉しい限りです。有難いことです。美しいヴォキャブラリーとの出会いです。
女性メンバーが増えたからです。男たちだけでしたらとてもとても、こんな言葉づかいは出来ぬものと思われます。
今回に限っても、はた、と胸を突かれる「女性発想」「女性言葉」「女性表現」は……

『その負けを 帳消しほんの お年玉』  紅螺
『初富士を 見んと車窓の 頬の跡』  美留
『袂(たもと)引く 甘き香りよ 黄水仙』 茘子
『水仙や 亡母(はは)の手ずれの 花鋏(はなばさみ)』 弥生

上記のように多数です。これからも、ますます磨きのかかった良い作品を見せて頂きたく存じます。フレー、フレー、女性軍!

◆◆さあて、さてさて、いよいよ本日の成績発表!◆◆
得点を示す「正」の字を数えて、係が申しあげま~す。

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左から人の弥生、天の矢太、地の孝多 撮影=軒外(敬称略)

★本日のトータルの天は~44点の矢太さ~ん。
代表句は『富士山や 我の底にも マグマあり』 パチパチパチッ。

★トータルの地は~33点の孝多さ~ん。
代表句は『初富士や 逢えなくなる日も いつか来る』 パチパチパチッ。

★トータルの人は~28点の弥生さ~ん。
代表句は『水仙や 亡母(はは)の手ずれの 花鋏(はなばさみ)』

★トータルの次点は~共に23点の茘子さんと一遅さ~ん。
代表句は茘子『袂(たもと)引く 甘き香りよ 黄水仙』 パチパチパチッ。
    〃  一遅『水仙の どさりと活けて 叔母の家』  パチパチパチッ。

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パチパチパチッ! 皆さん、おめでとうございました。
天位へ贈られる絵付きの短冊にも、新年の元気があふれているようです。良き年のスタート! 皆さんの一段のご健勝、ご活躍を祈念致します。        (孝多)
                                              第67話 完

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第589回 こふみ会全句
 平成31年1月13日  於  TCCクラブハウス

◆兼題=お年玉     順不同
お年玉 袋は五圓 昭和の子           虚視
老いてうれしや 息子にもらう お年玉      茘子
お年玉 現代相場は 一葉か                          軒外
赤珊瑚の 指輪の手より お年玉                    弥生
もらっても あげても笑顔 お年玉                 舞蹴
図書券に 非難囂々(ひなんごうごう) お年玉  美留
年玉は 散財の日や 孫五人                               一遅
お年玉 もらい上手(じょうず)な 女の子            孝多
年玉を せがむ子もなし 静か静か                       鬼禿
年下の 父から年玉 もらう夢                             矢太
その負けを 帳消しほんの お年玉                       紅螺
駄菓子屋は 年玉おどる 子等はねる                    珍椿

◆兼題=松の内     順不同
まだまだまだ 床の温(ぬく)さや 松の内    鬼禿
佳き姿 町に行き交う 松の内                       孝多
朝湯して 昼夜(ひるよる)飲んで 松の内          紅螺
見慣れし町が 違ふ貌(かほ)する 松の内            弥生
民主主義 きしむ音して 松の内                          虚視
来し方も 行く末も獏(ばく) 松の内                  茘子
今年こそ 新たな誓い 松の内                             舞蹴
松の内 焼き場の母の 骨白し                             美留
松の内 神来し気配 なくもなし                          軒外
松の内 のたりのたりと 街歩き                          珍椿
朝寝して 昼飲んで夜飲み 松の内                       一遅
松の内 くるりと地球 まわりけり                       矢太

◆席題=富士山     順不同
けさ帰国 あゝ日本の 富士の山                          鬼禿
富士山や 我の底にも マグマあり                       矢太
初富士や 逢えなくなる日も いつか来る               孝多
町は遠く 露台の富士の 真っ白き                       一遅
窓越しの 小さな富士山 神田川                          茘子
口ずさむ 昭和の歌や 富士の山                          舞蹴
初富士を 見んと車窓の 頬の跡                        美留
高く高く 富士より高く 凧揚がれ         軒外
沈み行く 国見下ろして 冬の富士         虚視
初詣帰り 境内で 富士登山                                珍椿
落日の 燃えて初富士 シルエット                        弥生
淑気満つ 奥谷博の 赤き富士                             紅螺

◆席題=水仙     順不同
青空に まっすぐ黄水仙の 花畑                          珍椿
水仙の どさりと活けて 叔母の家                       一遅
袂(たもと)引く 甘き香りよ 黄水仙                  茘子
住む人も なき庭に咲く 黄水仙                           紅螺
水仙や 亡母(はは)の手ずれの 花鋏(はなばさみ)  弥生
断崖に 咲く水仙や 香の強し           虚視
水仙や 風のリズムに 抗(あらが)えず      美留
白々と 水仙一輪 石仏(いしぼとけ)       鬼禿
水仙を 一輪さして 春来たる                              舞蹴
エレベータから 水仙の香が 降りてきた              矢太
水仙や 今夜はお前と 話そうね                           孝多
老落を 見て見ぬふりせば 水仙香る         軒外

                                         以上12名48句

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正岡常規と夏目金之助 №8 [文芸美術の森]

     子規・漱石~生き方の対照性と友情・そして継承 
        子規・漱石 研究家  栗田博行 (八荒)

第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅱ
    明治の書生たちの交遊の心
       …ほととぎすを名乗ったこと・子規の出自と生い立ち①
                            (つづき)の(つづき)の(つづき)
           
 喀血した明治22年の晩秋、大磯の松林館という格の高い旅館で保養中だった大谷君に誘われて、「四日大尽」と自ら名付ける豪遊をしたのでした。
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 去るに当たって 
  「一村の 家まばらなる 紅葉哉」と詠み、「始めありまた終あり、人間の栄耀(派手・贅沢)もしつくして先づはこれまで めでたし めでたし」と、この紀行文を結び、大満足で下宿に引き返した第一高等中学校本科二年の書生正岡常規君でした。

8-1.jpg それにしてもこの大尽旅行の奇妙さは何なのでしょう・・・。一体何が、この四日間の豪遊を可能にしたのでしょう。富裕層の出であったらしい大谷君はともかく正岡君は、旧松山藩の奨学制度常磐会の給費七円で月を過ごす書生だった筈です。大谷君の奢りだったのでしょうか・・・れにしても謎は残ります。

 昭和11年、つまりこの「四日大尽」から47年後、そして子規没後35年という時を経て、この疑問を解いた人がいました。柳原極堂翁です。東京根岸の子規庵を守り続けた寒川鼠骨と並んで、子規への敬愛から松山で「ほととぎす」を発行し、一生子規を顕彰し続けた人でした。この人にして、永い間こう思っていました。

 8-3.jpg 「四日大尽」は・・・其の紀行の題名が大尽とあり、又、文の内容に見るに、旋館の待遇が大尽扱ひとなつてをり、彼等貧乏書生の分際として甚だけしからぬ事と思つて疑つてゐた
  (柳原極堂・子規の「下宿がへ」についてー講談社版子規全集⑩)
  そして昭和11年、この人は同年代の老人となっていた大谷是空氏に問うてみたのです
  近く是空氏に合ひ、其の懐旧談を聞き得て漸く                  其謎が解けたのであつた。
明治も大正も終り、昭和も11年になってやっとその疑問が解けたというのです。
     松林館に変りものの何とか云ふ番頭がゐて是空氏とは已に懇意にな         つてをり、是空氏を通じて子規のことも多少聞き知つてをり、正岡                    さんは面白い方のやうですねなどと噂もしてゐた、
      其処へ近日子規が遊びに来るといふ事になつたので是空と其の番頭                    とが種々話し合つた結果 大尽扱ひを以て子規を驚かし、且つ慰めよ                  うという策謀が成立し、仲居や男衆にも、改め其旨言ひふくめありと               は固より知るよしもなき子規は、車を館に乗りつけたのであつた。
ということだったのです。正岡常規君「めでたしめでたし」と大満足で終えたあの大尽遊びは、長逗留していた是空君と、親しくなっていた番頭さんとが打ち合わせて企画した大接遇パフォーマンスだったらしいのです。
 おそらく大磯駅には正岡様御迎えと銘打った人力車が待っていて、玄関に縦づけ」するや否や、「お客さまだよ」「おいでだよ」と叫んで男衆も女衆も、皆玄関の式台までお迎へするという筋書きだったのでしょう。それは満点の演技で実行されたのでしょう。
 演出とは「知るよしもなき子規」の方は、「余は優然として式台に上れば彼等皆もつたいなさうに余を拝みたり」と、大いにこの最高の接客サービスの流れに乗ります(乗せられます)。三つ指ついての深いお辞儀を、「拝」まれているとまで、ホントに思ったのでしょうか。文飾に過ぎないのでしょうか・・・貧乏書生正岡君を思い起こすと、つい大笑いしてしまうのを禁じ得ません。
 「女どもに護衛されて」入った部屋は床の間付きの八畳敷、まるで文人画のような庭に接し、絨毯の上に敷かれた座布団は、座れば「ゴブリとはまる」ほどの分厚さで「其心持」ちのよさに、「汽車のつかれは一時にほうり出されてあとかたもなし、・・・
 演出を大谷君と気脈を合わせた大番頭さんも相当の達者物で、大谷君から仕入れていた子規君の喜びそうな、
  「此頃のかたは詩(漢詩)なんどつくる人はないやうですが、何ですか、               やつぱり詩を作る人は文学士になるのですか」
など問うたりするおもてなし! よっぽど愉快っだったのでしょう、「覚えず大笑を催したり」と続けています。因みにこの「四日大尽」という紀行文では、正岡君はこの番頭さんを、すっかり旅館の主人と思い込んで接しています。これがのちに日本文学史に名を遺すあの大子規となる正岡君の貧乏書生時代の振る舞いだったと思うと、また吹き出してしまいます。

しかしです。
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 この二人の明治の青年の、この時の境遇を思い返すと、この可笑しい交遊の底に流れているもう一つの心情が浮かび上がってきます。
 正岡君は、半年前に血を吐いた青年。大谷君は、一年前の落第と今年も続く「脳痛」から退学を決意していた青年。深刻な人生問題に見舞われた二人の若者の間に底流していた、言葉にしなかたもの・・暗黙の心くばりが見えてくる気がするのです。

 先ず大谷君子規を松林館に誘った心意です。退学を心に決めて松林館に滞在していた彼が、孤独感もあって、「親友」と位置付けてくれていた友に「来ないかい」と呼びかけたくなったことが伺えます。落第した昨年夏の、「うかれだるま」と名乗っての激励。神経病をへて退学を考え始めた頃の自分への、喀血した友が子規と名乗って同病相可笑しがるような返信…それらをしみじみと思い返しての呼びかけとなったのでしょう。格の高い旅館への滞在経費のことは、云うも野暮、ごく自然に大谷君持ちだったと思われます。
8-5.jpg 子規の方は、この点では天衣無縫の少年のようなライフステージに居ました。よく寄席に通っていた19歳の頃、こんなことを自ら書いています。木戸賃がないので友人たちに、
 「多少を借り来りて 之をイラッシャイといふ門口に投ずること屡(しばしば)なれども 未だ曾て後に其人に返済したることなし」。(青春随筆・筆まか勢「寄席」明治十九年)
 後年成熟したオトナになっての回想にはこんな記述が見られます。
「以前ニハ人ノ金ハオレノ金トイフヤウナ財産平均主義二似夕考ヲ持チタリ 従ツテ金ヲ軽蔑シ居リシガ」(仰臥漫録・明治三十四年)
 もちろんこんな書生気分を脱却して、きちんとした生活人としての成熟をのちに遂げるのですが、そのころまでの正岡常規君は、正味そんな青年だったようなのです。

 これは日清戦争直後、あの松山52日間の同居の時の漱石子規回顧談を思い起こさせます。(八注・もうトシは、大分いっていたのですが・・・。)
   「其から大将は(子規は)昼になると蒲焼を取寄せてご承知の通りびちやびちゃと音をさせて食ふ。其れも相談もなく自分で勝手に命じて勝手に食ふ。」(序Ⅱ・ホトトギス・明治41年9月1日)
 その代金を、東京に帰る時「君払っておいてくれたまへ」、さらに「金を貸してくれ」と云って壱〇円持っていき、「恩借の金子は当地にて正に使い果たし候」と言ってきたという、あのエピソードです。
 貧乏士族の家に生まれ育ちながら、ここまで金銭に関して天衣無縫に育ったのは子規を育んだ母・八重の母性、その実家の大原家の庇護が関係していますが、もう一つ、明治のこの頃の書生たちの交遊関係の中に存在したある気風が関係したと思へてなりません。
 「書生」とはこの時代、富裕も貧生も入り混じってのエリート層でした。一目置き合い好感を持ち合う知的レベルの高い若者の間に、「人ノ金ハオレノ金トイフヤウナ財産平均主義」といった気分が、ある広がりを持ってあったのではないでしょうか。その中を自由自在に交友したのが正岡常規君・・・。そして多くの場合、彼は「貸してくれ」の側の書生だった気がします(笑)
 金之助と名付けられれて、(八注・連載第4回)金銭には独特の敏感さを持って育っていた夏目君は、あの愚陀仏庵での同居期間中に、チラとは子規のそのような振る舞いに感じるものは持っていたのでしょうが、そこから言を挙げてやり取りをするようなことは全くしなかったでしょう。子規のその振る舞いを受け入れ、苦笑とともにそれを懐かしみ振り返ったのは、子規の7回忌の頃のことでした。それも独特のユーモア=俳諧味に味付けしして・・・

 8-6.jpg一方大谷君の方は、松林館への正岡招きについての金銭の負担については、おくびにも出した気配がありません。書生仲間でこの上もない仲の、そして貧乏な友人を、金銭的には富裕な方であった彼が、退学し離別していく淋しさから「きてくれよ」と招くにあたってごく自然にそうなったのでしょう。大谷君にとっては、番頭さんとの呼吸のあったあの大接遇パフォーマンスの成功こそが、子規と名乗ってきた正岡への別れに当たっての返礼の、一番の目的だったのでしょう。
 そのようにして実現した、「四日大尽」と名付けたあの豪遊の間、正岡君の方は、ほんとうに全く宿賃を気にもかけず過ごしたのだったか? また、その経験を紀行文に綴り始めた段階でもその点について、無心のママだったのか‥という興味深い難問があります。
 わかりません。しかしひとつ、こんな推定は出来そうです。
 もし少しはそのこと(宿賃)が念頭に浮かんだとしても、そして松林館あげての大歓迎になにか身に過ぎたものを感じてはいたとしても、筆はそちらへは向かわなかったという事です。正岡常規はすでに子規を名乗り始めていました。その一番最初の名乗り相手の大谷君との四日間の交遊を、彼はあの手紙のように前向きで、かつ面白おかしく風流な味わいの文章にまとめたかったのです。俳諧目線(八注・明治期のユーモア感覚)で反芻することこそ、筆を走らせる心の本能的な動きだったのではないでしょうか。金銭のこと、互いに抱えていた深刻な病気、離別の感傷などを、その文章からさておいたのではないでしょうか。愉快な味付けをするために・・・
 大分後のことですが、ロンドン以来の深刻な鬱状態にあった夏目金之助君が、「吾輩は猫である(明治38年)「坊っちゃん」(明治39年)書くことができたのも、これと似た心の機微が働いた気がします。
 「俳諧味」、それは明治期のこの時期に物を書く時の、一つの心情の流れを反映した文体でした。子規はその創始期の一人だったのです。あの時期の書生たちの交遊を支えていたあの雰囲気が、喀血にめげない子規の陽性な気質をさらに強いものにし、あの俳諧味の文体を生みだした土壌だったと思われてなりません。
8-2.jpg もひとつ興味深いのは、70歳を超える老人になっていた大谷君柳原極堂君が、あの松林館滞在のことを昭和11年に話し合った時にも、宿代をだれが持ったかなどという話題が出た気配が少しもないことです。

 以上述べてきたエピソード(人間的情景)の登場人物、正岡・大谷・夏目・柳原・・・実は皆、慶応3年の生まれなのです。彼らがそろって満二十歳代であった明治20年代に、わが国ではこんな気風が、一部エリート層には濃厚に存在していたのでしよう。そのころ、後にあの大漱石となる夏目君さえもそんなエートス(=精神的気風)染まった若者の一員だったのではないでしょうか・・・

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 この時代のこの人たちの交遊を、彼らが残した書簡や自分のために書いた文章から見てゆくと、なんだか大漱石の言葉「明治の精神」といったものの一端に触れるような気がしてくるのですが、いかがでしょう。
「こころ」でその言葉に込めたのとは意味が違うヨ・・・と、漱石はチョット機嫌が悪いかもしれませんが・・・

子規・漱石の生い立ちからお話しさせていただくつもりで章を立てたのですが、発見に引きずられて脱線が続いてしまっています。次回もこの脱線を続けさせていただきます。 
 2月15日、正岡常規と夏目金之助 №9
 
  第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅱ
          明治の書生たちの交遊の心㈡
                                        お付き合いください。

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №3 [文芸美術の森]

                          シリーズ≪琳派の魅力≫

             美術ジャーナリスト 斎藤陽一

         第3回:  俵屋宗達「風神雷神図屏風」 その2

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17世紀。二曲一双。各155×170cm。国宝。京都・建仁寺所蔵。)

≪扇面形式の構図≫

 今回は、俵屋宗達の「風神雷神図屛風」の構図に注目してみたいと思います。

 風神、雷神それぞれの動きと視線の方向にそって直線を引いて見ると、二つの線は、画面の下方で結ばれる。そこを「扇の要(かなめ)」と想定すれば、この絵の基本的な構図は「扇面形の構図」であることに思い到ります。

 宗達は“絵屋(えや)絵屋”「俵屋」の主(あるじ)主でした。“絵屋(えや)絵屋”とは、一種の絵画工房のようなもので、大きなものでは屏風や襖、掛幅などを制作しましたが、「俵屋」の主力商品は高級な「扇」でした。俵屋の扇は、京の裕福な階層にたいへん人気があったと言われます。
 だから、宗達も、日頃、工房の職人たちとともに、扇の絵付けに精を出していたにちがいありません。
 扇の形というのは、上方に広がり、下方にすぼむという制約の多い形です。そこに絵を描く時には、描く対象を絞り切って単純化した上で、思い切ったクローズアップや、大胆なトリミングを行なうことが必要とされます。
画面の制約は、これを逆手に取れば、かえって斬新な絵が生まれ得る。このようなことを日常的にやっている中で、宗達のデザイン感覚は磨かれていったに違いありません。
 「風神雷神図屏風」は、そのような感覚を大きな屏風絵に応用したものと見ることができるでしょう。
 

≪余白の美学≫

 もう少し、画面構成について見てみましょう。

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 「風神」を右端のやや上に、「雷神」を左端上に配した結果、中央部分に大きな三角形の空間が生まれています。そこには何も描かれていない。が、求心性のある「余白」です。
 何も描かれていない広い「余白」であるがゆえに、屏風をじっと眺めているうちに、私たちの意識は画面中央の奥へ奥へと誘い込まれる。そして、その先へどこまでも広がる無限の奥行きのようなものを感じてきます。何も描かないことが、そのような「表現効果」をもたらしているのです。

 日本美術に出会うまでの西洋の伝統的な絵画では、ルネサンス以来“画家の視点”を重視する「合理主義」を基本としていました。
ですから、画家が見た三次元の現実を、二次元のカンヴァスの上に、遠近法や明暗表現などの技法を駆使して、「疑似的現実」として再現することが重要視されてきました。それゆえ、極端な言い方をすれば、西洋の画家たちは、自分に見えるもので画面を埋め尽くすことに意を用い、背景に何も描かなかったり、余白をそのままにしたりしておくことは「欠陥部分」と思えるほど、耐えられないことだったと言えるでしょう。

 ちょっと余談になりますが、20世紀において「構造主義」をバネにして独自の「記号学」を構築したフランスの哲学者ロラン・バルトが日本に来たことがあります。その時、彼は、過剰なまでの論理的・構築的「記号」によって隙間なく体系化された西洋文化とはまったく異質な日本文化に揺さぶられ、「空白」とか「空虚」の意味を考察しました。
  ロラン・バルトの文章はとても難解で、理解するのが大変なのですが、内田樹氏によれば、どうやら彼は、「西洋では、“空(くう)”はそのままにして置くことが出来ず、埋め尽くさなければならない存在であり、“間(ま)”もまた、そのままでは欠陥部分であって何かでつなぎとめなければならないもの」― そのような精神が西洋文化を硬直化させているのではないか、と考えていたようです。
 これに対して、日本文化の諸現象の中に、西洋とは異質な「空」や「間」という「表徴」(signes:シーニュ)を見出し、バルトは自らが揺さぶられただけでなく、西洋文化を揺さぶるものだと感じとったようです。(参考:ロラン・バルト著『表徴の帝国』、『エクリチュールの零度』ほか)

 19世紀後半に至るまでの西洋絵画のアカデミックな規範のひとつは、「絵筆を使って画面を完璧に仕上げること」でした。この場合の「完璧」とは、「筆跡」が残らず、塗り残しも無い絵、という意味です。「空白」や「空虚」は、「欠如」だと考えるのです。
 塗り残しや塗りムラなどのある絵は「絵画」とは言えず、「絵画以前の習作に過ぎない」とか、「ぞんざいなデッサンに過ぎない」という扱いでした。
 一方、モネら印象派の画家たちは、素早く自在な筆致により、筆跡や塗りムラを意に介せず、眼前の“印象”を掬い取ることを重視しました。言ってみれば筆跡の集積によって画面を構築することを選択したのです。これはアカデミズム絵画とは真っ向から対立する画法です。
 だから、印象派の画家たちは、その同時代的表現と相まって、宗教画や神話画など歴史画を重視するアカデミ3-3.jpgズム絵画観の厚い壁に阻まれて、悪戦苦闘したのです。

 そして、ポスト印象派のセザンヌ(左図参照)あたりから、「色を塗っていない塗り残し部分もまた、彩られた部分と対等な絵画表現である」という、より自覚的な表現が行われるようになりました。

 ところが、日本絵画では、何も描かれていない空白もまた、絵画的な意味を持っています。はるか昔から、「余白」は、描かれたものとせめぎ合ったり、枠外に広がる空間を暗示させたりする絵画表現のひとつであり、描かれたものと対等な役割を演じつつ、余情を醸し出すもの、と当然のように認識されてきたのです。現代の私たち日本人もそう思っていますね。

 皆さんも、京都の寺院を参観したときなど、何面もある襖の片隅に、ほんの少し草花や小鳥が描かれているだけで、あとは大きな余白のまま、というような襖絵を見たことがあるのではないか、と思います。それでも、私たちは、余白を含めた全体を絵画空間と認識し、その絵画世界に引き込まれる。そのまま移ろいゆく季節の情感にひたることができます。

 これは「余白の美学」ともいうべきものであり、日本美術、ひいては日本文化に広く見られる特質ともなっている美意識です。たとえば、和歌や俳句などの短詩形文芸や茶道、華道、さらには、坪庭や庭園、能や歌舞伎と言った分野での美意識を考察すると、この「余白の美学」なるものを見出せるかと思います。皆さんで試みてください。
 
 次回は、「風神雷神図」の運動感と絵画空間の広がりについて考察してみたいと思います。

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フェアリー・妖精幻想 №101 [文芸美術の森]

仮面劇。シェイクスピア、バレエ、オペラ

             妖精美術館館長  井村君江

シェイクスピアの劇「夏の夜の夢」と「嵐」 3

 後に幼児の舞台出演が禁止になってくるとそのかわりが工夫され、一つの方法として棒使い人形(ペプサート)を使って、「からし種」や「豆の花」などの妖精の小ささと身軽さとを強調させたりした演出がある。人形ははっきりと超自然的な存在を示すことが可能であり、また何体かの同じパックなどの人形を用意し、素早さを出すことも可能で面白い効果が出る。しかし生命を通わせた演技ではないので、人間とのからみに工夫がいるようであった。
 また、舞台装置や小道具、すなわちクモの巣を舞台全体にはりめぐらし、またはキノコや花を大きくすることによって、それとの対照で人間の大きさを小さくみせたりの工夫がなされている。
 一九八六年のビル・アレキサンダー演出によるストラットフォードでの舞台がそれであった。人間の背の高さよりも高い草の葉末に光るボールのような露の玉や、腰かけられるほど大きい松ぼっくりの間を妖精たちが飛びまわるさまは、妖精王国そのものが現出したような印象を与え、観客席にいるわれわれもまた下草の中にいる気分にひき込まれた。
 『嵐』では魔術師プロスベロの使魔エアリエルは、人間たちの間で活躍する唯一人の妖精であるため、妖精王国を背景にもたず、そのためもあってか、これまでの舞台で演出家の解釈によって、実にさまざまな容姿、服装で登場させられている。
 例えば、一九五七年ジョン・ギルグッド扮するプロスベロに対するブライアン・ベッドフォードのエアリエルは、全身を葉脈が入った葉のような薄い緑のタイツをつけていたかと思えば、一九七〇年のイアン・リチャードソン扮するプロスベロに対するベン・キングスレーのエアリエルは、腹部に苔のかたまりをつけているだけでほとんど全裸であった。
 またギルグッドのプロスベロの名演技で知られるオールド・ビック・シアターの一九七四年のピーター・ホール演出の舞台では、マイケル・フィーストがエアリエルを演じたが、純白のつめ襟とタイツの衣装が端正な顔に似合う、精霊らしいエアリエルであった。
 一九八二年のデレック・ジャコビ扮するプロスベロに対するマーク・リランスのエアリエルは、裸身を強調するようにタイツの上に動脈と静脈を模様のようにからませ固めた白い髪を立たせた姿で、身軽に宙を飛ぶように消えたり、太鼓で曲を奏で、また歌ったりして魅力的であった。
 これと対照的な演出で、フリルのついた襟飾りをつけたエアリエルがまるでプロスベロの分身のように付き添ってあまり動かず、その意思通りに行動するというエアリエルの演出もある。
 一九八八年のストラットフォードの舞台は、ジョン・ウッド扮するプロスベロに対してダンカン・ベルがエアリエルで熱演であった。上半身は裸で葉っぱのような薄いズボン姿のエアリエルが、ワイヤーをつたって天井から登場する演出で、身のこなしも軽く、超自然的存在の感じがよく出ていた。それに対するプロスベロが魔術者で、魔の島の支配者というにはあまりに現実的な衣装と演技であったため、この時は両社の間にこうつうの魔術空間の広がりがないように思えた。
 現代の額縁舞台(プロセニウム・ステージ)のように、幕という第四の壁で観客と隔てられ、遠くにおさまっている空間ではなく、エリザベス朝時代の劇場空間は、張り出した舞台(エプロン・ステージ)と、中舞台に柱やバルコニーやカーテン付きの楽屋が中央にあり、その天井の「天国」や奈落の「地獄」があって、立体的に舞台を使えた。たしかにこの方が妖精という超自然の生き物たちが神出鬼没、変幻自在に活躍できるにふさわしい舞台空間であったように思われる。


『フェアリー』 新書館

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渾斎随筆 №25 [文芸美術の森]

帝展の日本画を観て 3

                  歌人  会津八一

 次に何よりも苦しく感じたことは、圖様の情成なり気持なりの上に統一の無い絵が多いこと、これは数へ切れぬほど多い。たとへば特選の『鹿』にしても鹿を描いた筆の調子で行くならば上から下がる蔦の蔓はあんな風では無い筈だ。委員の山田耕雲といふ人の『南瓜』の下に雪宜居る小鳥がまるで南瓜と緑が無さ相。委員の木島桜谷といふ人の『灰燼』にしても、私の目には火焔は火焔で人物は人物としか見えない。何でも『海鴨喜雪』とかいふ題で鴨の群を描いたのがあった。あれなども私は生きたものゝ配合といふ気持ちにどうしてもなれない、武者絵の戦争も見るといふ調子に騒がしい。『惜春』といふ絵は三種の鳥が別々に描き込んであった。その内で大きな雉が突飛な所にとまって居るのに驚かされた。すべてかうした不調和は、畫面が手腕以上に大きい時、即ち一部分々々の揮毫に、其時々の全的精力を用ゐつくして、全局に気塊の行きわたる余裕の無い時にえて起り易い。配合は美しさを増すためのものであるのに、融和の妙が無く、雑然として混合の形になるならば配合は寧ろ厄介な重荷である。鹿ならば鹿だけ、南瓜なら南瓜だけでいゝから気特のたっぷりしたものが見たい。昔日本に妙な畫家が居た。其人は謝礼が十圓も多ければ松の木を一本多く畫き、五圓多ければその上に鶴を飛ばしてくれた。五百圓も出したら畫面一ばいに百羽の鶴を飛ばしたかどうかは私は聞いて居ないが、とにかく献立の多いのをいつの世も大衆は喜ぶものだが、芸術家が其御機嫌を迎へるためにしらず知らず自分の芸術境の静寂を破るのは今も昔も変わらぬらしい。南瓜ならば南瓜だけ、しかも一つでいゝから確かな南瓜がほしい。南瓜を一つかいて大きい絹地が填らぬといふこともなからうとはおもふが、それが填らぬ位ならば、まあもつと小さいものに描くがいゝ。
 ところが此所に『望の月夜』といふ特選がある。これは構圖なり色なり相應な出来映とはおもふが、雲に乗って月宮殿から訪れて来る仙女の群は顔も衣裳も六朝式であるのに、それを迎へるものは顔も衣裳も平安朝式の官女である。一體平安朝の美人といふものは、歴史上あの頃あんな顔が流行したといへばそれまでの話ではあるが、それにしてもあの時代の畫家が、美人をばかく見てかく描いたといふ所に美術としては深い意義がある。六朝時代にも今日の如くいろいろな女の顔があった。それを顧愷之は自分の美人観と芸術眼とを以てあんな風に描いた。今この二つの様式の美人を平気で一幅の中に納めるといふことは、たとへば写楽の女と歌麿の女をならべて一枚の絵に描くも同然で、たまゝ其筆者の無限や無感激を證明するものでなければならぬ。それから又あの仙女の群の中に車を牽く白馬は、歩いてゐるものとは私には思へない。馬の彫刻の附いた車を仙女が押して行くと見る方が近い。恐らく作者はあの馬を御物の龍頭水瓶の紋様あたりから抜きとつて其まゝ此所へ置いたのであらう。其原料の不消化からであるか、それとも或は苦心の博採を誇らんとして故さらに此道を選んだのか、とにかく馬は動かない。そして此馬が最も雄弁に語るものは全幅を渾融せしめるだけの感激の欠乏である。感激なしに描く人々、そしてあの大きいものを纏め上げやうとする人々、驚くべき人々である。尚ほ驚くべきは、それを何とかして纏め上げる人々、そしてそれを正しい美術として疑はぬ人である。       
 さなきだに厚みの乏しくなり易い日本畫である。その畫幅を大きくすればするほど比短所をさらけ出さずには済まない。特選『羽子の音』、この二人の若い女の姿態の輪廓には争ひがたいほどの強い西洋味がある。それだけに尚更ら其奥行の乏しさが目立つ。この乏しさは或は西洋風の強い濃淡でも、或は畫面に比例した東洋風の強い線の力でもこれを救ふことが出来やう。しかしながら最も簡単でしかも最も有効な方法は、唯だ畫面を今少し小さくすればいゝ。『蛍』といふ絵も同じくして救はるべき弱さを特つ。

 最も私の驚くのは植物の幹や枝の描き方である。からからの空洞でなければ、むくむくとふやけて見えるものが多い。委員山内信一氏の『巣籠』の松、同じ委員吉田秋光氏の『松』、永田氏の『梢上映日の松』、高田氏の『牡丹』、雜喉氏の『瀧川』の藤、平間氏の『庭の花』の葵などがみなそれだ。それから沢山の枝がみな平面的に排列して居るものは『春香麗日』の木瓜、『訪春』の梅、『閑林』の松、『新春麗日』と『冬ざれ』の南天その他限りの無い。
 それから葉の排列の平面的なものといへば、私は遠慮なく委員勝田勝琴氏の『霜暁』の粟の葉や、特選の『おぼろ』の櫻の若葉、委員阿部春峰氏の『芙蓉』などをさへ見逃さない。ことにこの芙蓉はあらゆる葉が畫面にへばりついて皆なこちらを向いて居るのである。しかし恐らくは此人々の手もとにあるべき小さい下園には松も空洞でなく、芙蓉の茂みにも相当の奥行きを持って居るのであらう。大なる畫面と、工業的な製作法とによって、其人々自身の自由な下園にあふれて居たであらうところの気魄と真賞味を奪ひ去ることの恐ろしさは、誰よりもよく其人々自身が自覚して居る筈ではないか。


『会津八一全集』 中央公論社


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じゃがいもころんだⅡ №1 [文芸美術の森]

じやがいもころんだ

              エッセイスト  中村一枝

 「じやがいもころんだ」という題は、はじめてこのインターネットマガジン『知の木々舎』に原稿を書かせていただいた時に偶然つけた題名だった。二、三年たって題名を変えてみようかということで、「にんじんの午睡(ひるね)」と名付け、野菜シリーズにでもしようと思っていたのだが、月日がたつにつれて「じやがいもころんだ」への思いがふくらんでくる。こんなにうってつけの題をを変えることはないだろうという思いは、もう二度とこんな題は思いつかないという確信に変わってきた。そういえば、友達の、パリに住む嘉野ミサワから、「いい題をつけたね。私はそんな題、思いつかないもの」とほめられたこともあった。
 元々私は、じゃがいもが大好きなのだ。始まりはコロッケである。戦前のご飯のおかずといえば、のり巻き、卵焼き、お芋の煮ころがしといったものが多かっだ。コロッケは今ほど庶民的でもなく、まあご馳走だった。母の料理で記憶に残っているのはチキンライス、戦前にしてはハイカラな料理だった。コロッケを家で作ってもらったかどうか記憶はない。結婚して一番たくさん作ったのは多分コロッケ、じゃがいもとの付き合いはそこから始まる。
 こどもが出来てからは子供が喜ぶ食材の一位ではないかと思う。料理の種類の多さとあらゆる料理への順応性を考えるとき、ポテトのもつはば広いその包容力にただ敬意を表するしかない。人参よりもはるかに見栄えもさえない。色だってとても綺麗でなく形に至ってはさまざま。それがひとたび火を通すとじゃがいもの特性がさまざまに変化する。味一つを取っても何にでも順応できる。こんなにも多種多様に使いこなせる食材はない。自己主張は一切しないのに、他の食材の旨味も上手に引っ張り出す。他人(ひと)の味は邪魔しないが、だれとでも共存できる。醤油、甘辛、塩バター味、単純塩味、砂糖・・・。もともとが味の特徴がうすい? いやそんな事はない。何にでもスルリとほどけて、持ち前の人当たりの良さを発揮する。こんなに何にでもするりと溶け込める、こんな女性がいたら?と、ふと思った。野菜中の野菜といっても言い過ぎではない。
  もう一つ言えばじゃがいもは、典型的に大衆的な野菜の一つでもある。北海道生まれの私の友達は戦争中嫌という程じゃがいもを食べさせられた。今もじゃがいもというだけで身震いするという。じゃがいもへの思いもまたそれぞれなのだ
 果たして二度目の「じやがいもころんだ」がゴロゴロうまく転がってくれるかどうか、私にもわからない。新しい年、平成の終わりにうまく乗れるかどうか、煮てよし、潰してよし、ごった煮もよし、「じやがいもろんだ」で2019年も元気な年にしたいものです。

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石井鶴三の世界 №132 [文芸美術の森]

胸像1906年/母1907年

              画家・彫刻家  石井鶴三

1906胸像.jpg
胸像 1906年 (187抜123)
1907母.jpg
母 1907年 (186×125)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №97 [文芸美術の森]

エピローグ ユーモアとロシア人 1

           早稲田大学名誉教授  川崎  浹

 アネクドートはユーモアではない、とロシアの学者クルガーノフはいう。しかし、同じロシアのアネクドート学者のセドーフはクルガーノフに真っ向から反対し、アネクドートはユーモアであると主張する。
 辞典によっては、ユーモアは面白いこと、滑稽なこと、おかしなこと、微笑をさそうような内容を意味していて、皮肉や風刺とは区別している。しかし、英国のユーモアが皮肉にみちていることは誰でも知っている。『西洋思想大事典』(平凡社)ではユーモアはまた風刺とも融けあっている。やはり笑いにさまざまな変容があるように、ユーモアもお国柄に応じて変わると考えたほうがいいのではなかろうか。皮肉や機知や風刺でいろどられるロシアのアネクドートはユーモアの一種類である。
 さらにいえば一種類どころか、ロシア一国内ですら時代とともに幾通りものタイプに変容する。一八~一九世紀のアネクドートは貴族たちの手になる、時間のリズムがゆっくりした、おおらかな作品である。そこには短いながら「物語」があり、登場人物も宮廷人や上層階級である。
 さらに形式が洗練されるにしたがい、短い物語がいっそう短くなって教訓や箴言の傾向も加え、最後のとどめが機知と笑いで磨きをかけられ、二〇世紀に受け継がれるものとしてアネクドートが完成する。
 一八世紀から一九世紀にかけて変質したアネクドートは、二〇世紀になってさらに大変革をとげる。現代アネクドートは近代アネクドートの編みだした形式を借りながらや「革命」と内戦時代の殺戮(さつりく)をくぐって、さらに辛辣なとどめを考案することで、その風刺の矛先を支配層というよりは権力層といったほうがふさわしい体制そのものに向けて、放つ。こうしたアネクドートの機能は前世紀にはまったく考えられないタイプ、もしくは小ジャンルを構成するとさえいえる。

三角関係が崩れたとき
 貴族たちのアネクドートは、スポーツに喩えればポールのやりとりをする相互のコミユニケーショソにすぎなかったが、同じ遊戯でも、共産主義時代のアネクドートは市民同士のコミュニケーションでありながら、さらに権力体制が一枚くわあって三角関係が成立する。
 ソ連時代のアネクドートは緊張を要する三角関係の中心にあって、たえず均衡をとりながら存在しつづけてきた。つまりアネクドートは抑圧された市民の不満を晴らす安全弁であるが、特定の市民がアネクドートに熱中しすぎたり、アネクドートの内容がよほど「祖国誹誘(ひぼう)」的な「悪質」なものだったり、アネクドートを利用する密告者がいたり、時代が箝口令(かんこうれい)をしくに等しい抑圧の厳しい時期だったりすると、三角関係のバランスが崩れ、アネクドートの発信者は収容所に送られた。
 近代アネクドートは逸話的で、写実的な傾向が目立ったが、現代アネクドートは非写実的、寓意的、隠喩的、象徴的である。それは近代アネクドートの最終的に洗練された方法をとりいれた結果であるが、それを採用せざるをえなかったのは、レーニン、スターリン時代には体制への直接的批判にたいする制裁が厳しく、反権力的「犯罪」への不参加のアリバイを成立させるために、かげろうのようにできるだけ痕跡を残さず、短時間で口頭のコミュニケーションをすませる必要があったからだ。
 もちろん、二〇世紀にアネクドートが活性化するのは、ロシア民族の笑いと検閲への特別の才能に支えられてのことである。彼らの笑いへの感性は政治、社会状況の抑圧のもとに突然変異的にあらわれたものではない。プーシキンの近代的アイロニーについてはすでにのべたが、ゴーゴリの重層的な「存在論」的ともいえる笑い、シチェドリンの風刺、ドストエフスキイの諧謔、チェーホフのユーモラスなアイロニーを生みだす一九世紀ロシア文学と、アネクドートを潜行させる二〇世紀の民衆は同じ土壌のなかで生きている。


『ロシアのユーモア』 講談社選書

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