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フェアリー~妖精幻想 № [文芸美術の森]

花と昆虫と小鳥の妖精 2

                     妖精美術館館長  井村君江

自然と子供を描いたE・ボイル

 花と子供とを好んで描いたエリナー・ボイル(一八二五-一九一六)は、スコットランド、アバディーンシャーのエロン城の持ち主アレキサンダー・ゴードンの娘という名門に生まれ、広大な庭園の自然の中で絵筆をとり、花々や昆虫を描いていた。
 彼女はリチャード・ドイルの『妖精のファンタジー』やアーサー・ヒューズの絵から、装飾性や神秘的な雰囲気の描き方を学んだようである。ブックマン誌の評によれば、「ボイルはラスキンの流れを汲む耽美家であり、優雅で静寂で古風な庭園と自然の持つ美を愛した人」であった。一八六〇年代以前の唯一の女流挿絵画家である。
 正確な観察に基き、それをやや図案化した花や木の実、蛾や蛙のあいだにポーズをとる子供の絵は、ラファエル前派のホルマン・ハントやミレイに愛好された。子供好きのボイルにとって無垢な子供はそのまま妖精なのかも知れず、足元にうずくまる蛙や蛾との大きさの比例がなければ、子供のスケッチとも見える絵である。
 『終りのない話』(一八六八)や『アンデルセンの童話』(一八七四)の挿絵が代表作で、多色木版画は鮮やかな色調のハーモニーを作り出している。ペン画の線描による原画をもとに、十二色以上の色板木を重ねて刷られたため、画面は繊細な線と重厚な色とのハーモニーが響き合い、独得の情趣が漂う。

フラワー・フェアリーの画家C・パーカー

 フラワー・フェアリーの画家として知られるシシリー・パーカー(一八九五-一九七三)の妖精たちは、野に咲く芥子の花やマスクローズ、道端のヒースやプリムローズがそのままあどけない子供の顔になって動きだしてきたようである。
 イギリスの裕福な家庭のつねとして、家庭教師について勉強し、短期間だけクロイドン美術学校に通ったのが唯一の学校教育であった。姉のドロシーが開いていた自宅の託児所に集まってくる子供たちをシシリーはいつも写生しており、純粋なあどけない子供たちに、この世のものでない妖精の映像を重ねていたようである。
 また、生涯の友人であったマーガレット・タラント(一八八八-一九五九)は妖精画家でもあり、二人はともに田園を散索したり、スケッチ旅行をしたりするよい絵描き仲間であった。
フラワ・フェアリー第一作「春」(一九二三)には、姉ドロシーの詩がつけられて雰囲気をよりもりあげているが、一九二三年から約七年間にわたり「夏」「秋」「木」「庭園」「道端」と自然の妖精画シリーズを出し、出版五〇年を迎える前に世を去ったが、生涯にわたって自然の中の妖精を描き続けた画家であった。
 託児所の子供の手堅いスケッチに、自然観察の正確さが相まったように生れた妖精たちは、その花々の色や形や性質をもっている。たとえば芥子の花ならその花びらに似た薄い赤のドレスを優雅に着こなす乙女であり、アザミならトゲの剣をかまえたいたずらっぽい男の子になっている。彼らは単なる花の精ではなく、蝶や蛾やトンボ、カゲロウや蜂の麹を背にはやして花々のあいだを飛び回る精である。
 かつてフィッツジエラルドの画面に登場していた奇妙な暗い生き物たちはすべて姿を消してしまっており、子供の天真欄漫さと純真さと清らかさ、自然の美しさとが重ねられた、誰からも無条件に愛される妖精になっている。

E.Boyle.jpg
エリナー・ボイル画

『フェアリー』 新書館

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にんじんの午睡(ひるね) № [文芸美術の森]

 友だち

                    エッセイスト  中村一枝

 二週ごとに原稿を書くのはそんなに大したことではないとずっと思っていたが、今回はちっとも頭が働かない。なるほどこういうこともあるものかと嘯いて見たが、動かない頭はびくともしない。年のせいだと思ってみたがそんなことは何年も前から判っている。こうやって忍び来るのが老いの衰えの正体なのだ。
 前にも書いたが、伊東に疎開したのは小学5年のと期だから、もう七十余年も前の事である。父の知り合いの紹介で大きな別そうの中に立つ隠居所を借りることになった。伊東についてはなんの予備知識もなく、ただ当時から温泉場としては名前は知られていた。駅からはかなり離れた場所で川沿いの道を歩いていくと、川と田んぼしかない人里離れた所に一段高く石垣を積んだ一画があり、初めて見たときは、お城みたいと咄嗟に思った。私たちが借りた家はそのかたわらのとても小さな家である。もともと大家さんのお父さんの隠居所に建てたということで、大家さんは父が 喜んで借りたいと言ったときはちょと驚いた風だった。もともと家に凝ったり道具に凝ったりという趣味のまったくない父は粗末な家のたたずまいが気に入ったようだった。後々のことだが東京から来る客や編集者はたいていこの小さな家をまさかと思い、すこし先にある豪邸に行ってしまう。笑い話になった。おじいさんとおばあさんしかいないとおもつていたとなりの家にはわたしくらいの男の子二人がいてそれはそれでおもしろかつたが、いまははぶく。
 二学期になるとまた新しい疎開の人が東京からやってきた。三ヶ月ほど早く学校になじんでいたわたしは先輩顔で彼らを眺めていた。その中に切り揃えた前髪がよく似合う可愛い人が目についた。それで近づいて声をかけたのがきっかけである。彼女とは小学校二年、女学校三年間を一緒に過ごした。その後の学校も住んだ場所も遠く離れたのに未だに親友である。初めに反応して 感じたかわいいという印象とはまったく違って、彼女は芯の強い剛気な女の子だった。最初に感じた可愛さだけの女の子ではない。運動神経は抜群だし、何事でも反応が早い。その可愛い顔でなにごともけろっとこなすところがわたしには真似できなくてあこがれた。彼女に言わせると私はとても弱虫で、ちょっと意地悪をするとすぐ泣くのでそれがまた面白かったらしい。彼女のうちに行くと三人お兄さんがいて皆かっこいい。一人っ子の私には手の届かないうらやましさだった。私からみれば何もかも揃っていて、そのどれもが私より上等に思えるのだった。それでも何十年も付き合いがつづいているのは何処かお互い、いい所に惹かれているのかもしれない。気が付かないまま。
 友だちってそういうものではないのか。私には幸いそういう友達が何人もいて老後という思いがけない生活の変化に彩りと励みを与えてくれている。彼女は私にとってずーっと憧れの人それは八十年を尚過ぎてもいつも活発で颯爽としているからだ。流石に昔のような意地悪はしないけど、なんだかじっとしていないいつも動いてるところがおばあさんじやないのだ。もっともその動きの活発さが災いして彼女は何度もよ怪我をしている。怪我でも何でも彼女は自分流にこなし泣きごとひとつ言わないところがなんとも彼女らしい。こういう颯爽としたおばあさんになる事は、いまから思うと当然と言える。もう一人すぐいじめられると涙ぐんで弱気なところを見せるおばあさんは、年をとるほどずうずうしくなつて、いまや対等の構えを見せている。女の歳のおそろしさである。

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渾斎随筆 №19 [文芸美術の森]

推敲 3

                            歌人  会津八一

 いま一つ、同じ私の「印象」のなかで、王之渙の有名な「鶴雀樓二登ル」と題した五言絶句
   白日依山盡    白日ハ山二依リテ盡キ
      黄河入海流        黄河ハ海ニ入リテ流ル
      欲窮千里目        千里ノ目ヲ窮メント浴シテ
      更上一層樓        更ニ上ル一層ノ樓
をば、私は
      うみにして なほ ながれゆく おほかはの かぎりも しらず
   くるる たかどの
と譯しておいた。そしてこの最後の「くるるたかどの」では、弱くて面白くないから、いっそ「くるるけふかな」とでもするか、といった所を思案してゐた。しかしこれも、気がついて見ると、原作で「黄河入海流」といった一句は、黄河の水は混濁してゐるので、海へ出てからも、いつまでも、その部分だけが、色ではっきりと見分けられる、つまり蕪村の
   五月雨や滄海をつく濁り水
といふ俳句を、もつと幾十倍も大きくしたやうな景色かと思ってゐると、どうも、これは、さういふことではないらしい。私は實境に臨んだことが無いから、確かなことは云へないが、鶴雀樓は、山西省も西の果てで、陜西省に近い蒲州府に在ると云ふから、その邊から日本の里数にしても、何百里もさきの海に入るところを遠望したのでは、そんなこまかいことまで見えるわけもない。一體日本では「海二人リテ流ル」などと讀むから、ついこんなまちがひも起るけれども、原文では「流レテ海二人ル」といふことを、文字を倒さまにして云つたまでで、たとへば、李白の天門山を望む七言絶句の
   天門中断楚江開    天門中断シテ楚江開ク
   碧水東流至北廻     碧水東流シテ北に至ッテ廻ル
   両岸青山相対出       両岸ノ青山ハ相対シテ出ズ
   孤帆一片日邊来       孤帆一片日邊ヨリ来ル
の第二旬を、吾々は「碧水東二流レテ北二至リテ廻ル」と讀むけれども、實際の地勢上からは、「廻リテ北二至ル」でなければならぬのと、同じことであらう。さうすると、私の譯の「うみにしてなほながれゆく」は、大きに見當ちがひと云はなければならない。歌は短かいものだから、こんな大きい見込ちがひがあると、あとから気がついて、ひそかに手入をしたぐらゐでは、なかなか立て直るものでないから、これは一とまづ、私の創作といふことにして、撤回するよりほかないかと思ふ。
 私などの手もとは、いつもこんなもので、自作なら、少しでも自分の気分や感激に、ぴったりゆくやぅに、もしまた翻譯などと名乗るならば、少しでもよく原作に合ふやうに、いつまでも工夫を重ねて、時には、文法家に叱られたり、或は二十年も前の舊案に立ち戻ったり、ほんとに気の利かぬ苦心を續けてゐる。これは、決してなまやさしいことではない。
 ところが、こんな風に、一度世間の目に曝したものを、後になって、無暗に手入れをするのは、甚だ宜しくない、といふ意見を、時々聞かされることがある。しかしこれは、人のつくったものを讀むことだけを仕事にしてゐる側から起る聾で、この意見によれば、作者の最初の感激が、折角立派に表現されてあるものを、後から後から手を加へたりすれば、自然の妙味が失はれてゆくから、一切そのまゝ放っておけといふのである。一應もっともではあるが、これは、靂感とか、天才とか、正しい表現とかいふものが、歌よみといへば誰にもあるものと、少し買ひ被ってゐる人の考へ方であらう。そんなものならば、歌よみもなかなか見上げたものであらうが、私のやうな不器用な素人は、とても思ひも寄らぬことである。そして、こんな証文を出す人の中には、表面には、かうした高尚な理屈を云ひながら、實は、自分が、最初に受けた印象を、後になっていろいろと變改されるのが厭だといふだけの、いはゞ、一片の快楽主義から、苦情を持ち出してゐる人も多いらしい。さういふ人たちによれば、如何なる改作も、必ず不愉快なこと、したがって不必要なことであらう。けれども、今の世の歌の中には、作者も、讀者も、みんな居なくなった後にも、尚ほ生き残って、遠い後の世の、うぶな讀者の批判を受けるものも稀には無いとも限るまいから、作者としては、たやすく天才になりすましたり、目の前のこんな種類の、云はば我儘か証文ばかりを、聞いて居るべきものではないのであらう。
                          (昭和十七年四月九日稿)

『会津八一全集』 中央公論社

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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №92 [文芸美術の森]

金持ちロシア人を嗤う 3

                  早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「教養」をプレゼント

 つぎの作品も新ロシア人親子を嘲弄するアネクドートである。

 新ロシア人の息子が父親に近づいて、「パパ、話しがあるんだけど」
 「できるだけ手短に、はっきりと」
 「百ドル」

 小学生が考えつきそうな、たわいない作品だが、日本の知人たちから「うちの子と同じ」、よくわかるという反応があった。新ロシア人のあこぎな商法については、市民はつぎのようなアネクドートで腹いせをしている。

 眼鏡の販売で大成功をおさめた、ひじょうに有名な店の所有者である新ロシア人が、店員たちにいかに客と取引すべきかを教えた。
 きみがレンズをとりあげたとき、客が品物の値段を聞いたら、こう答えなさい。
「一〇ドルです」
 それから間をおき、相手の顔の表情を見る。もし客の表情が神経質にびくつかなかったら、こうつづけなさい。
「縁の代金です。レンズ代はさらに二〇ドル頂きます」
 さらに一瞬がまんして、客を観察しなさい。もしこのとき客の顔の筋肉がすこしも動かなかったら、あえてこういいたすといい。
「レンズ一個の代金です」

 とつぜん学問的な話になるが、博士号は金で買えるという半神話がソ連時代からいまだにつづいている。しかし、つぎの新ロシア人アネクドートにはさらにマイナスの付加価値が計算されているようだ。

 新ロシア人がレストランの席にこしかけて博士候補の証書をくいいるように眺めていた。ボーイがこう尋ねた。
 「お買いになったのですか」
 「どうしていきなり、買ったなんていうんだ。友人たちがプレゼントしてくれたんだよ」

 博士候補の証書などとりわけ新ロシア人たちにほ骨董的価値しかないらしい。とはいえ「教養」と肩書きを欲する別の成り上がり新ロシア人が、「買ったもの」をプレゼントしてもらったのである。いっそう現実的でもあり、荒唐無稽でもあるアネクドートから、世相が浮かびあがってくる。

『ロシアのユーモア』 講談社選書

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石井鶴三の世界 №126 [文芸美術の森]

湯の又 2点 1965年 
                      画家・彫刻家  石井鶴三

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湯の又 1965年 (120×169×2)
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湯の又 1965年 (120×169×2)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社石井鶴三

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正岡常規と夏目金之助 №2 [文芸美術の森]

    子規・漱石~生き方の対照性と友情、そして継承
                    子規・漱石研究家  栗田博行

  序Ⅱ ― 友情 …生き方の違いを超えて

 近代国家となった日本がはじめて外国にしかけた戦争=日清戦争をめぐって、一方は病身を押しての従軍、一方は戸籍操作による兵役回避と、際立った態度の違いをみせた子規と漱石でした。「戦争と平和。国家と男子の自己」と言うような観点から見れば、それは互いに相容れないくらいの「生き方の対照性」だった筈です。しかし、掲題したように二人の間には不思議とも思えるような「友情」が成立し、生涯に亘って続いたのでした。
 日清戦争が終わって間もない明治28年8月27日から10月17日まで、正岡常規と夏目金之助は52日間同居しています。妙なことに、江戸っ子漱石の松山の下宿「愚陀仏庵」に、松山生まれ松山育ちの子規が転がり込んで、ともに暮らしているのです。

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  明治28年5月、従軍から帰国の船中で2度目の大喀血をし、担架で神戸の病院に運び込まれた子規でしたが、何とか生き止めます。そして須磨の保養院に移り、駆けつけた虚子や碧梧桐の看病を受けて余後を養います。お母さんの八重さんも来ました。 

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  ところが、看病の甲斐あって須磨保養院でほぼ病い癒えた子規は、八重さん律さんの待つあの根岸にも、恩人陸羯南のいる「日本新聞社」にも、虚子や碧梧桐が編集に携わる「ホトトギス」にも向かわないで、松山の漱石の下宿にノコノコとやってきて52日間を共に暮らしたのです。子規も漱石も、「明治の書生の奔放な気分」からという年輩では、もうなかったのですが…。一体何が、どう働いていたのでしょうか…。

  子規没後七回忌の漱石の回顧談によると、子規が漱石の松山の下宿「愚陀仏庵」に、やって来た事情はこういうことになります。少し長い引用になりますが、漱石が気分よく話すときの言葉の面白みを楽しんでください。(改行や文字使いなどは、筆者が横書きブログ用に合わせて行っています。)

   「 正岡子規    漱石 談
  正岡の食意地の張つた話か。ハハハハ。さうだなあ。僕が松山に居た時分子規は支那(=遼東半島・筆者注)から帰ってきて僕ところへ遣つて来た。自分のうちへ行くのかと思つたら自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此處に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに当人一人で極めて居る。   
  御承知の通り僕は上野(愚陀仏庵の家主)の裏座敷を借りて居たので二階と下、合せて四間あつた。上野の人が頻りに止める。正岡さんは肺病ださうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいふ。僕も多少気味が悪かつた。けれども断わらんでもいゝとかまはずに置く。                    
  僕は二階に居る大将は下に居る。其うち松山中の俳句を遣る門下生が集まつて来る。僕が学校から帰って見ると毎日のやうに多勢来て居る。僕は本を読む事もどうすること出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でも無かつたが兎に角自分の時間といふものが無いのだから止むを得ず俳句を作つた。                           
   其から大将は昼になると蒲焼を取寄せてご承知の通りぴちや ヘ と音をさせて食ふ。其れも相談もなく自分で勝手に命じて勝手に食ふ。まだ他の御馳走も取寄せて食つたやうであつたが僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。‥‥‥‥‥以下略‥‥‥‥‥」    (ホトトギス・明治41.9.1)

 東京に帰るとき、この蒲焼の代金を「君払っておいてくれたまへ」、さらに「金を貸してくれ」といって壱〇円持っていき、「恩借の金子は当地にて正に使い果たし候」と言ってきたと話が続きます。呼びもしないのに勝手にやって来て、自分の下宿で我が物顔に振舞った子規の、傍若無人な食客ぶりが迷惑そうに語られ、漱石一流の諧謔とともに多少の作話も感じられます。
  しかしこの語り口は、明治22年に22歳で出会って以来、一目置き合って「書生付き合い」をしてきた明治男子の一方が、先に逝ッてしまった一方を「やっこさんメめ…」と懐かしむ、「友情」から流れ出たユーモアと申せましょう。(虚子という、子規・漱石ともの弟分が談話の聞き手だったこともこの語り口に関係したかもしれません。)
  ところが、実際のところは、漱石=夏目金之助は、子規=正岡常規に自分の松山の下宿に立ち寄るようこころを込めて、次のように呼びかけていたのです。

        「…御保養の途次 ちょっとご帰国は出来悪(にく)く候や。…」
       
明治28年5月26日付で、「正岡賢兄 研北」と襟を正して結んでいる長文の書簡の中の一節です。従軍から帰国の船中で大喀血し、瀕死で神戸の病院に運び込また友人子規が、何とか生きとめたという消息を伝え聞いてすぐ出した手紙でした。続けて漱石はこうも書いています。                      
    「小子近頃俳門に入らんと存候。御閑暇の節は御高示を仰ぎたく候。」  

  つまり、あのプライドの高い夏目君が、「僕も最近は俳句の門に踏み込もうと思うんだ。オヒマな時は指導していただきたい」とまで言っているのです。のちに「漱石」となる人ならではの、子規を励ます深い心配りのあらわれです。  
2-3.jpg  神戸病院で闘病中の子規が心動かされなかった筈はありません。病い癒えた子規が、八重さん律さんの待つあの根岸にも、恩人陸羯南のいる「日本新聞社」にも向かわず、漱石の松山の下宿にノコノコとやってきて共に暮らしたのは、金之助のこの誘いがあったからのことでした。
  虚子に求められての子規回顧談は、明治41年のものです。すでに「大漱石」になり始めていた彼は、この談中では、9年前の明治28年、自分がこの心配りに富んだ誘いをしたとを全く伏せて、話を作っていたのです。「あの時は、ボクが声を掛けたらやってきてナ」と、得意そうに始たのでは、この回顧談に漂うユーモアは生じません。

 2-4.jpg「呼びもしないのに、やっこさん勝手にやってきて…」という風に話の前提を匂わせ、「此處に居るのだといふ。僕が承知もしないうちに当人一人で極めて居る。」ということにしたことで、子規が蒲焼を勝手に取り寄せたことも、それを払っておいてくれとしたことも、さらに十円貸してくれと言ったことも、それも奈良で使い果たしたと言う報告も、全部子規という友人の振る舞いと人物味、自分と彼の友達関係を面白おかしく懐かしんでいる人間味あふれる追想談になっているのです。下宿の「上野の人が頻りに止める。正岡さんは肺病ださうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいふ。」というリアルな問題まで含めて‥‥‥。                 
 「君の郷里の松山にチョット寄って行かないかい」…こう呼びかけていたことを全く伏せて、子規のことを高浜虚子に向かって追想した時の漱石の心の奥行きを想うと、筆者は涙がこみ上げるような感動を覚えます。

    桔梗活けてしばらく假の書齋哉  子規                

  漱石の誘いに応じて、ノコノコとやって来た子規が、やってきてすぐ詠んだ一句です。そして、52日間の同居を終えて東京へ帰っていく子規への、俳句の上では師事することとなった漱石の、送別の句は…  
                               
          疾く帰れ 母一人ます菊の庵                 
            秋の雲 只むらむらと別れ哉                
              見つゝ行け 旅に病むとも秋の不二
                  この夕 野分に向て分れけり 
                   お立ちやるか お立ちやれ 新酒菊の花   漱石         
 
  この送別の5句は、明治の日本男子・夏目金之助の、しみじみとしたまごころのこもった「惜別の情」の表現と申せましょう。
 これに対する子規の返しの一句。「漱石に別る」と頭書きして

        行く我にとゞまる汝に秋二つ   子規

 「愚陀仏庵」での子規・漱石二人の52日間の同居生活は、明治日本男子の交際の場面に顕れた「友情 」の極致のひとつと、私には思えてなりません。
 
  しかしそれが、日本国がはじめて行った対外戦争「日清戦争」に際して根本的に生き方が違った二人…病身を押して従軍した男と戸籍を操作して兵役を回避した男…の間に成立したのであることを思い合わせると、子規漱石松山の52日間の同居は、さらに別の深い意味・不思議をはらんでいると思えてなりません。本編ではそれをさらに詳しく考えてみたいと思っています。(大分先のことになりますが…。)
 
  次回111日は、序Ⅲ として、漱石が子規から「継承」した何事かについて考えます。


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フェアリー~妖精幻想 №94 [文芸美術の森]

花と昆虫と小鳥の妖精たち 1

                   妖精美術館館長  井村君江

W・クレインの花の妖精たち

 挿絵の構図の簡略化や様式化、装飾化が進んでくると、超現実的な雰囲気や幻想性が加わり、それがかえって妖精界にふさわしい画面になってくる。
 ラファエル前派のウィリアム・モリスらのいわば私家本制作の工房ともいうべきケルムスコット・プレス(一八九一年設立)に見られるような、手作りの木版挿絵と活字で、中世のイルミネーションのような装飾デザインと、格調のある白く薄い羊皮紙の表紙本を作る造本技術は、十九世紀に多くの豪華な本を造り出す源になった。そしてまた、モリスの美術工芸)アーツ・アンド・クラフツ)運動も書物デザインとともに挿絵画家の位置を向上させていった。
 それと同時に一方においては、十九世紀末あたりからグラビア印刷技術やオフセット(四色平版)など、新しい印刷技術が発達したことなども、造本を中心にした挿絵装飾デザインの多様化をうながした。挿絵画家はもちろんのことカバー・デザイン、装傾、頁の活字、カットの装飾デザイナー、グラフィック・デザイナーたちが、アール・ヌーヴォー運動とも相まって多数輩出し、書物も部屋の装飾の一つとして見立てることが強調されるようになった。
 それと共に平行して、モロッコ革や裏革の表紙の染めや金箔押しの飾りを付けたりする、造本というより工芸技術に近い腕を持った職人たちや、見返しのマーブル紙の色染めを刷る技術者たちが多く出て、書物を一つの工芸品として創りあげる機運が高まっていたことも忘れてはならないことであろう。この時期、シェイクスピアの作品や十九世紀詩人の詩集のさまざまな豪華本が、有名な挿絵画家との共作によって生れているのである。本の装飾としての額縁飾りやカットなどの幻想美を生むために、超現実の妖精たちは恰好の主題として活躍の場を再び与えられる。
 挿絵は文学作品への隷属を逃れて、それ白身独立した別世界を作ることになっていくが、印刷業の家に生れたウォルター・クレインは、絵本挿絵の世界に新風を吹き込んだ画家の一人である。書物装飾(ブック・デコレーション)は挿画と活字と内容とが一つの書物を芸術品に作り上げることにあると唱え、その仕事を自ら「クレイン・ブック・デコレーション」と呼んでいた。
 そのクレインの「花の精(フローラ)のファンタジー」ともいえる、さまざまにパターン化された花の乙女の多色刷り石版画や、『シェイクスピアの庭からの花たち』(一九〇六)と名づけられた一巻などは、この時代の代表的な書物といえるものであろう。各頁は一枚の紙を二つ折にして袋綴じにし、中の木版画に重みが与えられている特別な造本に「なっている。各頁の花々の精のような人物画は、シェイクスピア劇の十五の場面から花に言及されたシーンをとりあげ、花のプァンタジーともいえる画面に仕立てていったものである。
 狂ったオフェリアによって配られる「思い出の花」ローズマリーは、その細い葉のドレスにピンクの花飾りをつけた細身の女性が思い出を振りかえるポーズをとっており、また『冬物語』でパーディタが村人に差し出す「太陽と一緒に寝て、また太陽と一緒に涙ぐんで目を覚すキンセンカ」(四幕三場)は、黄色い花のドレスを着た乙女が、沈む太陽を背に靴をぬぎ、キンセンカの上衣を手にしているというように、戯曲の内容をよく理解し
た構図やポーズを描いている。さらに花の怪質をとらえて、巧みにデザインされた服装をまとった人物たちは、劇中の台詞で言われる花の役をその表情とポーズでよく表現している。後世のパントマイムの衣裳デザインの先駆といえるほど、興味深い着想による、花と人との競演である。

W.クレイン「シェイクスピアの庭からの花たち」.jpg
ウイリアム・クレイン「シェイクスピアの庭からの花たち」

『フェアリー』 新書館

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にんじんの午睡(ひるね) №41 [文芸美術の森]

バンの話

                     エッセイスト  中村一枝

 このところ近くにバン屋さんが、二、三軒オーブンした。バン好きのわたしのことで当初はあっちのバン、こっちのバンと食べ歩いて、バンの味を満喫していた。今でこそバンの味とか言ってあっちのバンこっちのバンと食べ歩き、好きなバンを賞味できるが、戦争が終わってしばらくしてもバンを賞味するなんて贅沢は許されなかった。ある日学校から帰ると、下宿先の伯母が「今日バンの配給があったのよ。食べる?」と言って出してきたのか、とうもろこし入りのバンだった。戦後初めて食べたバンらしいバンだった。その美味しかったこと、一切れ一切れを細かくちぎって、全部無くなるまで惜しみ惜しみ食べた。なん年ぶりかのバンらしいバンだった。爾来なん十年、私はご飯よりパン、パンがあれば何もいらないと未だに一日二食はバンを食べている。
 バンの味に関してもひとそれぞれ、あすこのバンが美味しい、ここのバン最高、と薦められて色々のバン屋を試してみるが、自分の好みはあまり変わらない。パン屋の変遷を眺めて見ても、わたしが感激して食べたとうもろこしバンを作っていたバン屋さんもとうの昔に姿を消した。そこで作っていたクリームパンとかチョコレートパンとか昔からあるひなびた味。最近はこういう味のバンが消えている。値段も上がった。見た目にお菓子っぽい衣装映えするパンが増えている。
 一斤の焼きたての食パンを真ん中から割って匂いを嗅ぐと、ぷーんとイーストの匂いが漂ってきた。その真ん中をかき出して食べるというお行儀の悪い食べ方のおいしかったこと。イーストの味なのか、ぷーんと立ち上る香ばしさ、要するに野蛮な食べ方が美味しかったのだ。戦前のある日いわゆる食パンの類いが姿を消した。戦争だから仕方ないと子どもなりに思った。戦争が終わったあと、大学の工学部に通っていたいとこが変なブリキの箱を持って、伊東までやってきた。そのブリキの箱に溶いたメリケン粉を入れて電気を通すと、なんとパンっぽいものができたのには驚いたおぼえがある。少なくともバンまでは行かなくてもバンに似た味がした気もする。
 戦後初めてどこからかもらったハーシーのチョコ、チョコってこんなに美味しかったのか。しゃれた包装の包みを眺め、無くなるのが惜しくて惜しくて最後の一切れまで口の中に転がしていた。食べ物を惜しみ惜しみ食べるのは、父親が、郷里から送ってくる海老煎餅を長火鉢の火で丹念にやきあげ、もの惜しそうに口の中に入れていたその姿、その辺りが原点かもしれない。いまたいていのものはお金さえ払えば手に入る時代である。二度と不自由な時代には戻りたくないと思うのは、そいいう時代を通り越して来た人間だからこそで、そこいら中にものが溢れていたら、ものが無いということさえ想像するのは難しいに決まっている。たったひとつ残っていた、タンスの上の森永のミルクキャラメル、それが毎日一つずつ減って行くのが本当に悲しかった。
 そういう時代を経験してきた人間には二度とああいう時代には戻りたくないという切実な願いにつながつていく。

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渾斎随筆 №18 [文芸美術の森]

推敲 2

                         歌人  会津八一

 また私がある時、一人で笠置山へ登って、山上で、路を横切って寝てゐる、のんびりとして白い、大きな石を見て詠んだ歌に
  のびやかに みちに ょこたふ この いはの ひとにし あれや
    われ をろがまむ
といふのがあった。これもある人が、「横たふ」が他動詞だからいけないといふので、『鹿鳴集』では、他に「よりふす」と直しておいたが、「よりふす」といへば、何か物によりかかつてゐるやうにも聞えるし、それよりも、やはり響きが宜しくない。この響きとか調子とかいふ話になると、解って貰へないばかりでなく、何か私一人だけの、疳のせゐ位にしか思はれないかもしれぬが、歌などといふものは、文法の作例を作るためにしてゐるのではないから、詠むなら、やはり、自分の気特にぴったりとした歌を詠みたい。とにかく自分で納得の出来るところまで、工夫を押して行きたいものである。それからまた『奥の細道』を見ると、有名な
   荒海や佐渡によこたふ天の川
がある。この「よこたふ」は、理窟をいへば、自動の「横たはる」であるべきところだ。しかし、ここは何うしても「よこたふ」にしておいて貴はなければならないのは、云ふまでもないことであらう。だから、決して芭蕉だからではなく、強く感激した詩歌なればこそ、特別に許されるのだと考へなければならない。今になって『大言海』をみると、芭蕉の此の句を引いて、「よこたふ」の自動を容認してゐる。但し、芭蕉だから、しかたなしに許したのか、誰にでも許すのか、その点は、はっきりしないけれども、とにかく、かうした大きな字引に出て居れば、規則や文法の好きな人たちには、まづまづ一と安心であらうが、一般人間の言葉といふものは、ふわふわとした生き物で、もとは自動とも、他動ともつかぬものであった。漢語などでも、古くは「受」は「うける」にも「さづける」にも通用したし、「估」は「かふ」にも「うる」にも通用した。出来上った文法の尊重もいいが、かうした根本のことも、一應考へてゐてもらはなければならない。しかし、文字や言葉が分化して、云はゞ発達した今の世にあって、故意に自他の区別を践み崩すといふのは乱暴であるし、ただのわがままや酔狂でするのは、決して宜しくないが、表現を一番大切な仕事とすべき詩歌のことであるから、偶然『大言海』に有る無しに係らず、時には我々にも、いくらかの自由を許して貨へるものと思ふ。
 また私は、『鹿鳴集』の末に、「印象」といふ題で、唐詩の譯のやうな歌を数首載せた。その中に韋應物の
  懐君屬秋夜          君ヲ懐ウテ秋夜二屬ス
  散歩詠涼天     散歩シテ涼天二詠ズ
  山室松子落     山室シクシテ松子落ツ
  幽人應未眠     幽人ハ マサニ眠ラザルべシ
といふのを
  あきやまの つちに こぼるる まつのみの おとなき よひを
  きみ いぬべし や
としておいた。この「おとなき」について、これは「松子」が落ちるのだから、當に「おとある」でなければならぬ、といふよううなことを、教へてくれた人も稀にはあったし、ある古人などは、この同じ詩を、まさしく、
  ゆめは まだ かよはぬ まどの 月に ゐて 誰まつのみ の
  おと を きくらむ
と譯してゐるが、これは果してどんなものであらうか。實は、私も最初の原稿には、長い間
  あきやま の つちに ひびきて まつ の み の こぼるる
  よひを きみ いぬ べしや
としておいたのであるが、そのときは「松子」は松毬、即ちマツカサのことかと、うかうかと思ひ込んで、それを漫然と「まつのみ」としておいた。實際そんな風に解釈してゐる人が、世間にも多いやうである。しかし、あのマツカサといふものを枝につけておくと、木が弱ると聞いてゐるので、ある日、實際庭へ下りて、竹竿などで、突けども打てども、たとへ、小枝が折れるほどにやつても、なかなか落ちて来るものでないことを、つくづく悟った。それから考へ直してみるに、「松子」は、枝についてゐるマツカサの鱗片の間から、風のまにまにひらひらと舞ひ落ちる、あの小さい羽根のある、我々の郷里などでマツタネといふもののことらしい。現に『中華大字典』の「松」の所では、これを説明して
  結實為球界、経年成熟、種子可食、俗稱松子。
  實ヲ結ビテ球界トナリ、年ヲ経テ成熟シ、種子ハ食フべシ。俗二松子ト稱ス。
といってゐるのでも、うなづかれる。せっかく、空山の寂莫の中に、松毬(まつかさ)の落ちる明亮な響きを聞くのだといふ心構をしてみたのであるのに、それは少し見當外づれであった。奥山に鳥が一羽鳴いてゐても寂しいし、一羽も鳴かないのもまた寂しい。音がしても、しなくとも、寂しいことにはなる。けれども、今この原詩の場合では、音のせぬ方の寂しさで、たとへば、この韋應物とは同じ傾向の詩人、王摩詰の
  人間桂花落   人間ニシテ桂花落チ
  夜静春山空   夜静カニシテ春山空シ
などいふところと、一味相通じるものがある。あの桂花、即ち木犀科の小さい花が、地びたにこぼれても音がするものでないから、「松子落」もまづ同じやうな気持であらう。私はかう考へ直したので、最初原稿に書き下ろしてから何年かして、あんな具合に、音がせぬやうにやり直したのであって、こん度の「まつのみ」こそは、ほんとのマツノミになったと、自分ではやうやう信じてゐる。

『会津八一全集』 中央公論社

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石井鶴三の世界 №125 [文芸美術の森]

戸倉・千曲館・三時 1964年/上田・たなばた 1964年

                       画家・彫刻家  石井鶴三

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戸倉・千曲館・三時 1964年 (170×125)
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上田・たなばた 194年 (170×125)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社石井鶴三

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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №91 [文芸美術の森]

金持ちロシア人を嗤う 2

                  早稲田大学名誉教授  川崎 浹

「無教養」を笑う

 市場といっても、資本主義の需給関係に立つ市場ではなく、前近代的なバザールである。彼らはこのバザールで手段をえらはず荒稼ぎしたというイメージと、その無教養、非倫理性という点で、貧しい市民たちから腹いせの徹底的な嘲罵(ちょうば)をうける。
 私も自分の目で「新ロシア人」の豪勢な別荘を見たことがある。彼はカザフ石油公団の総裁で、石油を横流ししたことは明らかだ。つれの作曲家もそういっていた。初老の新ロシア人は「日本は土地がせまいから(こんな別荘はできないだろう)」と豪語した。地下のジムにはバーベルが置いてあった。
 アネクドートにおいて「新ロシア人」たちは相手に呼びかけるとき、日常的に用いられるタワーリシチやレビヤータではなく、ブラート(兄弟)から派生した、一般には使わない「プラタン」を用いる。これはマフィア同士の呼びかけで、またマフィアややくざ(レケチール)を指す名詞としても用いられる。たとえば「モスクワ・ソンツェヴォ・グループのメソバー」はロシア語で「プラタンイス ソンチェラスコイ フリガードウイ(原文・ロシア文字)」といわれる。そうした事情を知って読むと、つぎのアネクドートの「プラタン」と「あんた」の微妙な使い分けがわかって面白い。そして彼らのシンボルマークは必ず車のベンツとメルセデス(当時は別会社)である。

 交差点で赤信号になったので、ベンツとメルセデスがとまった。メルセデスの窓から新ロシア人の宝石の指輪でいっぱいの手がのびてきて、もう一人の新ロシア人が運転しているベンツの窓をノックした。
 「プラタン、トベルスカヤ通りにはどう行けばいいのかね?」
 まったく、答がない。
 「あんた、トベルスカヤにはどうやって行くのか聞いてるんだけど?」
 どんな反応もない。
 それでメルセデスの新ロシア人が見ると、ベンツのドライバーの手には指輪も腕輪もなかった。
 「なんだ、あんた、宝石類はもってないのかい?」           
 ベンツの新ロシア人はがまんできずに、やっとのことで車からでてきた。すると深い金製の長靴をはいていた。
 「見ろい、ブラタン、トベルスカヤにはああ行って、こう行って、それからこうだ」と金製の長靴の爪先でさしながら教えた。

 モスクワのトベルスカヤ通りといえば、東京の銀座通りだが、いままで車できたことがないのだから、成金かよほどの「田舎者」ということになる。新ロシア人の「無教養」を笑うばかばしいほど荒唐無稽な作品が、いくらでも出てくる。

 新ロシア人が貴金属店にやってきてキリストのついた十字架を見せながらいった。
 「これと同じ型で一〇キロのものを作ってくれないか。ただ体操選手ぬきでな」

 「無教養」を笑われているが、しかし、「新ロシア人」が話題になったころ、週刊紙「論拠と事実」は、「新ロシア人」夫婦の七〇~八〇パーセントが高学歴であるとの統計を掲載していた。これを伝えると、ある在日ロシア人女性は「学歴と教養人であることはちがいますからね」と、あくまで市民の見方に荷担していた。

 新ロシア人が通行人をはねた。ベンツからでてきた新ロシア人が、やっと地面から立ち上がった被害者にむかって叫んだ。
 「気をつけろ、うすのろ野郎!」
 「なんですって? バックしてまたはねる気ですか?」

 一般市民が新ロシア人を道徳的にまったく信用する気がないことが伝わってくる。

『ロシアのユーモア』 新潮社選書

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往きは良い良い、帰りは……物語 №63 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語
その63 TCCクラブハウスに於ける 第9回
 「寒露(かんろ)」「鵙(百舌・もず)」「案山子(かかし)」「菊枕(きくまくら)」

                コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

◆◆平成30年8月29日◆◆
当番幹事(舞蹴氏と茘子さん)から案内状が届きました。
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上記の文面は、次のとおりです。

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こふみ会 ご案内
残暑お見舞い申し上げます。
重陽の節句、9月9日の句会のお知らせです。
今回お弁当はちょっと趣向を変えロケ弁にしました。
皆様のお気に召すとよろしいのですが。
ご返事9月1日までに、茘子まで必ずお送りくださいませ。
お弁当の購入がありますので。
FAX=03ー△△△△ー△△△△
TCC高橋様、お部屋の予約をお願いします。
兼題=寒露・鵙(もず)
場所・時間=9月9日 第二日曜 13時から 於TCC
会費=千五百円   千円の賞品お忘れなく。
当番幹事  舞蹴・茘子
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これに応じた軒外氏の返信。毎回のこと、イラストが実に素晴らしい!
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一方、孝多は、山と渓谷社『日本の野鳥』の中からモズのイラストを写して、返信レターにして居りました。こちらはモノクロ。
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◆◆さて、当日、最も嬉しかったのは……◆◆
その1=半紙4枚が張り出されると同時に、幹事さんから、懇切、丁寧に、下記のような詠題の解説書きが配られたこと。

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寒露(兼題)
二十四期の一つ黄経195度の日であり、陽暦十月八・九日頃。改正月令博物誌によると「この月冷寒次第につのり、露凝んで霜とならんとするゆえ、寒露と名ずく」とある。少しひんやりと感じ始め、すべてのものが透明度を増す。晴れあがった日などでも、すでに暑いとは思わなくなり万事過ごしやすい候。

鵙(兼題))
秋に原野や人家付近に独棲し、木の枝にとまって尾を上下に動かしながら、キーイッ、キーイッ、キイキイキイと鋭い声で鳴く。その鳴き声が引きしまるように澄んだ秋の大気と通じるので、鵙日和、鵙の晴れなどと用いている。羽色は、頭は栗色、背は灰色、翼は黒褐色で、翼の中央に一つの白斑がある。小鳥ながら肉食貪欲である。「百舌鳥」「伯労鳥」とも書く。

菊枕(席題)
菊の花を摘んで陰干しにして乾かし、それを詰めて枕にしたもの。
菊の露を飲んで不老不死になったという伝説が中国にあり、菊枕は邪気をはらい、頭、目を清くするというので、老寿の人が愛用したという。九月九日の重陽に花を摘むのが良いとされる。

案山子(席題)
農作物の鳥獣害を避ける手段で、三通りある。
一、田の神を迎えて豊饒を祈り、また害を避けようとする方法で、神の依代の人形や神札を田畑に立てたり、注連(しめ)を張ったりする。二、襤褸(らんる・ぼろ)・頭髪・獣肉・肴の頭など、悪臭のあるものを焼いて串に挟んだり、注連に下げたりする。三、物音を立てたり、鳥獣を吊るし下げて恐れさせる方法。
竹や藁(わら)などで人形を作り、蓑笠などを着せ、弓矢を持たせたりして一本足の棒で、田畑の畦に立てる。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

嬉しかったこと、その2=過日届いた、虚視氏からのメール提言を受けて、矢太氏が皆さんに説明して、今回より≪各自が天に選んだ理由を口頭発表すること≫になりました。それが予想以上にスムーズに、誠意をもって行われた嬉しさ。爽やかさ。(その余波で、無得点の句に関する言明にも耳目が集中し始めました。)

嬉しかったこと、その3=次回10月の句会は「鎌倉への吟行」に決定したこと。鎌倉在住の軒外氏が友人、久保田潤氏と禅や仏を描く≪2人展≫を開きなさる。それを見学したあと里見弴ゆかりの席にて句会。兼題の一つは「多情多恨」に因んで「情」ということに相成りました。パチパチパチッ! 発起人(幹事)は鬼禿氏と一遅氏。ああ、今から楽しみ、楽しみ。発起人さん、御苦労さま!!

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◆◆教えてもらいました、「ロケ弁」のこと◆◆
8月29日付けのFAXで頂いた9月の句会の案内状にも記してあった美味しい「ロケ弁」。

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何も知らない私・孝多は「ロケ弁って、駅弁のことかな?」くらいに思って、けろりと食べてしまいました。
しかし、帰宅途中の電車の中で、何だか、気になり始めました。そこで翌日、幹事さんだった茘子さんにFAXでおたずねしました。「教えてくださ~い。ロケ弁って駅弁の別称ですか~?」
お答えは違いますって。ああ、たずねて、良かった、良かった。
ご多忙のところ、茘子さんにはご迷惑だったでしょうに、FAXにて親切に教えてくださいました。有難うございました。ロケのためスタジオで食べる弁当のこと、なのですね。分かりました。
しかし、しかし、隔世の感アリでした。今は、スタジオにロケーション・マネージャー用の「弁当の案内パンフレット(カタログ)」が何通も置いてある。それを見て頼むと持って来てもらえる。電話一本! 缶詰め状態になっているのですから、待ってましたとばかり、みんなで飲食する……のだそうですね。初めて知りました。
映像処理にも音響処理にもコンピューターが介在するのが当たり前という時代になったからでしょうね。
ムカシはどうだったのですか?との茘子さんからのご質問にお答えすべく、ここに記述いたせば……
ムカシはスタジオは神聖な場所、大切な写真を撮(と)る、音を録(と)る。そのための、身の引きしまる場。とても、とても、飲食どころではありませんでした。
では、当時の、スタッフ(ロケ隊)はどこで食事をしたか? 国民休暇村、宿泊できる海の家、山の家、民宿、有名ホテルの別館……などでした。
時には撮影機材やモデルの衣裳や被写体となる製品などを積んで移動するためのクルマを活用して、若いスタッフが、町まで買い出しに行って来たりしたものです。そのクルマは、モデルやスタイリストやヘア・メイクの人達がひと休みする場にもなっていました。

◆◆さあて、さて、さて、本日の成績発表で~す。◆◆

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左から地の舞蹴、人の孝多、虚視、天の矢太の各氏。(撮影=軒外氏)

◆トータルの天は~43点の矢太氏。
代表句「鵙鳴けば どこぞの小さき 骨の鳴る」パチパチパチッ。

◆トータルの地は~42点の舞蹴氏!
代表句「仕上げたる 手に香の残る 菊枕」 パチパチパチッ。

◆トータルの人は~共に27点の虚視氏と孝多!
虚視・代表句「寒露降(お)り 白明(しらあけ)の野 静まれり」パチパチパチッ。
孝多・代表句「人は下に 高々と鳴く 鵙の天」パチパチパチッ。

◆トータルの次点は~21点の鬼禿氏!
代表句「あのTシャツを 案山子に着せる 一周忌」パチパチパチッ。

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皆さん、おめでとうございました。恒例となった絵付き短冊12枚。多士多彩。おかげさまで、今回もいい句会でした。
いつものように、本日の全句を、下記のとおりご紹介します。じっくりご覧ください。
ご意見、ご感想も承りたく存じます。ではまた。次回は、そうでした。鎌倉吟行! 楽しみですねえ。皆さん、どうぞ、お元気に。またお会いしましょう。草々 孝多                   (第63話 完)

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第585回 こふみ会・全句
平成30年9月9日    於TCCクラブハウス(第9回)

◆兼題=寒露     順不同
目を閉じる 寒露の音なき 音を聞く         矢太
寒露降(お)り 白明(しらあけ)の野 静まれり     虚視
ヘリ数機 向かう地に幸 野は寒露                  紅螺
アリと同じ 病ひと友云ふ 寒露の日                美留
待たれるは 暑気一掃の 寒露かな                  孝多
寒露の候 月がますます うまそうに                 軒外
何ひとつ 誇るものなし 寒露かな                   舞蹴
脱ぎ捨てられし 夏着の褪せて 寒露かな           弥生
雨戸開け 裾前揃える 寒露かな                    珍椿
即ミスト化 二十一世紀の 寒露                     鬼禿
寒露踏む 湿原の空に 朝の星                      一遅
うたかたの 季節空行く 野は寒露                   茘子

◆兼題=鵙      順不同
空冴えて 背中(せな)押す寒気 鵙の声            茘子
生も死も 一回きりと 鵙が鳴く                       舞蹴
人は下に 高々と鳴く 鵙の天                        孝多
青々と まだ生きており 鵙の贄(にえ))             鬼禿
鵙鳴きて 北の大地の 震へけり                     美留
堕落して 地獄に落ちて 鵙の声                     紅螺
はやにえを 見る高鳴きを聞く 鵙を見ず             軒外
巡回の 医師帰り窓に 鵙啼く                        一遅
日暮れて 木梢の先に 百舌鳥一匹                   珍椿
鵙鳴けり 青硝子の天 砕けよと                      虚視
鵙鳴けば どこぞの小さき 骨の鳴る                  矢太
ひきちぎられし カナリアの首 鵙猛(たけ)る        弥生

◆席題=案山子      順不同
振りむけば 笑い声して 案山子ひとり                舞蹴
高き声す 幼な児案山子を 真似ており               紅螺
あのTシャツを 案山子に着せる 一周忌             鬼禿
畑あらし IT案山子が 不審番                        珍椿
無残やな 嵐のあとの 捨て案山子                   弥生
ゴム銃の 的は本家の 田の案山子                   矢太
海老蔵で 睨みきかせる 案山子かな                 美留
子ら走り 黄金の防人 案山子立つ                   一遅
アロハ着て 男はつらいね 案山子殿                  茘子
大地裂け 立つことならず 地に案山子                虚視
とんびは雲を呼び 案山子は風を追う                  軒外
人は去る 案山子は残る 風が吹く                    孝多

◆席題=菊枕        順不同
臨終の 君にあたえし 菊枕                           珍椿
一周忌 母の香かすかに 菊枕                        一遅
幽玄へ 我を誘(いざな)へ 菊枕                     美留
今宵(よい)こそ 異床同夢ね 菊枕                   茘子
仕上げたる 手に香の残る 菊枕                    舞蹴
若き日の 夫の夢見る 菊枕                           矢太
菊枕に 一筋残りし 白髪かな                         鬼禿
病む母や 菊の枕も 間に合はず                      弥生
夫婦<めおと)には あらず手縫いの 菊枕            孝多
酔ったまま 死にたしと思う 菊枕                     紅螺
まどろめば つかのまの死 菊枕                      虚視
菊枕の いい匂いッたら ありゃしません              軒外

                                      以上 12名48句

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正岡常規と夏目金之助 №1 [文芸美術の森]

    子規・漱石~生き方の対照性と友情、そして継承
                    子規・漱石研究家  栗田博行

  序Ⅰ ― 生き方の対照性

                       「卑怯な振舞をしてはなりませぬ」。

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  会津藩にあった「什(じゅう)」という子供たちの集まりの掟の一節です。近来、日本社会にいじめ問題が言われだしたころから、漠然とではありますが、「卑怯を嫌う気持ちが消えたからでは…」と感じていました。ふと「什」の掟に当たってみて、「ヘエ…」と小さな驚きがありました。
  「四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ」の項に続いて、「五、弱い者をいぢめてはなりませぬ」が挙げられているのです。そしてそれらの前に、「三、嘘言(うそ)を言ふてはなりませぬ」ともあったのでした。少年時代、古老から「ヒキョウと言われたら、日本の男は、ハラ切って見せたんヤ…」などと聞かされたことも、蘇ったりしました。
  今の時代の難問「いじめ」を考える中で出会っただけに、これらの価値観は古ぼけたアナクロな道徳の教条ではなく、時代や人種を超えて「あるべき根源的対人感覚」とでもいうべき普遍性を持っているのではないか…と思いました。
  そんな思いを、20年余り引きずってきました。それが、いったん三島由紀夫に行ったりして迂回を重ねた思考の末に、最近になって子規や漱石を考えることにも重なってしまい、冒頭に掲題した「子規・漱石 ~ 生き方の対照性と友情 そして継承」 という観点に辿り着いている次第です。


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  互いに一目置き、張り合いながら肝胆相照らす仲でもあった正岡子規と夏目漱石。
  よく知られているように、二人は文学の領域で、近代日本の精神史に大きな足跡を残したのでした。この二人の、明治日本男子としての「生き方の対照性」が一番際立って顕れたのは、日清戦争をめぐってでした。

  子規は、すでに日本新聞の社員として、結核の病身を押して健筆をふるっていたものの、日清戦争が始まると(明治27年7月)、同僚や友人が次々遼東半島へ渡っていく中で、自分が病身であることを慮外において、「文学者も、征かねば卑怯だ」という想いを募らせてしまったのです。そして、

   「行かばわれ筆の花散る処まで」  (俳句)
       「かへらしとちかふ心や梓弓矢立たはさみ首途すわれは」  (短歌)

とまで詠んで、明治28年4月 日本新聞記者として従軍を決行、遼東半島に渡ってしまいました。子規=本名・正岡常規、明治の日本人男子の一典型です。 

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 これに対して、漱石=本名・夏目金之助は、その3年前の明治25年4月、帝国大学英文科2年在籍中に、当時兵役免除の地であった北海道岩内郡吹上町町に戸籍を移すということをしています。漱石夫人鏡子さんの後年の回想によると、これは「兵役回避」が目的でした。この「送籍」を、夏目家の誰が企て進めたかを推定する資料は欠無なのですが、その事実は、北海道岩内町の戸籍簿に記録され残っています。

その2年後の明治27年、日清戦争が始まってしまうと、兵役回避の「送籍」について夏目金之助は、(筆者の推測では、)「自分は卑怯だったのではないか…」と、苦悩し始めます。そして妙な転宅を重ねた末に、鎌倉円覚寺の僧房・帰源院に1-2.jpg飛び込み、参禅修行をします。 
 年末から年始にかけて10日間のその修行は、「なんの収穫もなかった」とのちに述懐するような結果に終ります。
 下山するとすぐ、やはり親友だった菅虎雄の介添えで、英字新聞「ジャパン・メール」に就職しようとしますが不採用に終わります。
  そして結局は、友人子規の郷里の松山まで「都落ち」し、松山中学の英語教師になってしまった帝大卒の学士・夏目金之助でした。
  この一連のことがらを「漱石の第一期ノイローゼ」として沢山の論が書かれていますが、私はプライドの高い神経質な精神が苦しむべきことを苦しむ、きわめてまともなこころの動きの軌跡だったと考えています。

 日清戦争は、明治維新を経て近代国家となった日本がはじめて行った対外戦争でした。この国家の一大事に際して、かくも際立った態度の違い=「生き方の対照性」をみせていた子規・漱石だったのです。そしてこの事は、二人の生涯のその後のあゆみに、それぞれ「根源的」と言ってもいい大きな影響を与えます。それを、この連載の主題のひとつとして、詳しく追ってゆこうと思っています。
  ところが、これほどの生き方の違いを見せながら、(-明治という時代にあって「戦争と平和。国家と男子の自己」という根本的な次元で-) 二人の間には不思議とも思えるような「友情」が成立し、生涯にわたって続いたのでした。これもまた大きな主題なのです。
  
  次回10月15日は、序にかえて Ⅱ として、二人の間のこの「友情」の一端を垣間見ていきます。
 
                                        平成三十年八月二十七日

筆者略歴
1-5.jpg栗田博行  正岡子規・漱石研究家。元NHKプロデューサー。
1939年松山市生まれ。早稲田大学文学部卒。1963年NHK入局。教育・教養番組を中心に制作現場を歩む。         
「大江健三郎・私の子規」、「人間・正岡子規」(坪内捻典・司馬遼太郎共演)、「司馬遼太郎・大江健三郎対談 子弟の風景」(吉田松陰と子規を論評)、「司馬遼太郎 雑談『昭和への道』」(NHKブックス「昭和という国家」に再録)などを手掛けた。
講座「人間・正岡子規~迫りくる死を睨みすえ生ききった力 」 「人間・夏目漱石~北海道送籍がその生涯にもたらしたもの」 講演「月給四十円~子規が墓誌銘に込めたもの」「漱石―明治という時代との格闘」など。いずれも全時間、原文や証言、関連資料をスクリーン提示する手法で行っている。

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フェアリー~妖精 №93 [文芸美術の森]

「夏の夜の夢」と「嵐」 5

                     妖精美術館館長  井村君江

R・A・ベルとP・V・ウッドローフ

 ロバート・アニング・ベル(一八六三~一九三三)は彫刻家であり挿絵画家で、モザイクとステンドグラスのデザイナーとしても活躍した。
 ウエストミンスター寺院の西側の扉の上にある半円型の部分(テンパヌム)のモザイクや、ロンドンの議事堂のモザイク絵は傑作といえよう。初期の仕事はウォルター・クレインの影響が強いのであるが、シェイクスピアの『嵐』(一九〇一)の挿絵とブックデザインにも、木版の重厚さを枠の線で出そうとしているところが窺える。
 シェイクスピアの作品への挿絵は、『夏の夜の夢』(一八九五)『ラムのシェイクスピア物置(一八九九)『シェイクスピアの女主人公』(一九〇五)を十年の間に次々と出している。
 飾り枠で囲まれ、壁画のようにパターン化された雲やブドウの蔓の中に坐る、耳のとがったパック。しかしよく見ると三日月と星とが描かれてあり、中空高く飛翔している図であることがわかる。
 ステンド・グラスの図案のように四角い枠の中に描かれた乙女の裸身姿の妖精たちは、雲や海草や草花のパターンの中に美しいポーズをとり、ナットに用いたくなるような魅力に富んでいる。
 『嵐』(一九〇八)を同じように描いても、ポール・ヴィンセント・ウッドローフ(一八七五~一九四五)の世界は端正であり、エアリエルも子供っぽさをぬけて魅力ある若者の表情と身体つきをしている。ちょうどシェイクスピアの舞台で演じる若い俳優の姿を見るようである。
 ウッドローフはインドのマドラス生まれで、挿絵のほかステンドグラス、書物の装丁そしてポスター画家でもあったところから、実際の舞台の登場人物を念頭において描いたようである。
 エアリエルが、花々が咲き、虹のかかる中空に白い羽衣と白くひだのある衣をなびかせて浮かんでいるところなど、幻想的で美しく、手にしているのはヘルメスの杖のようで、古曲的な道具が似合う画面を作り出している。
 ウッドローフは人魚のほか妖精は描かず、あとはエアリエルをさまざまな姿で登場させているだけである。ファーディナンドやトリユンキロなど、人間と共に描くところには、白の薄い影のような透き通る姿にして中空を飛ばせたり、木蔭にひそませたりしているが、こうした描き方は夢や影の存在である妖精を描出するのに効果的である。
 ロバート・ヘリックの妖精詩『ヘスペリディース』(一八九七)やブラウニングの詩『すべて世は事もなし』二九一三)、そして『シェイクスピアの頃』(一九〇〇)に挿絵を描いているが、『嵐』の表紙が緑のクロスにドルフィンとタツノオトシゴに水藻をあしらったデザインを金箔で押した豪華本であるように、美術工芸(アーツ・アンド・クラフト)運動に関係していたこともある。ウッドローフはいずれもこのように美しいカバーデザインの書物を作っている。

R.アニング・ベル「嵐」のエアリエル.jpg
ロバート・アニング・ベル「嵐」のエアリエル

『フェアリー』 新書館



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にんじんの午睡(ひるね) №40 [文芸美術の森]

無認可保育園の話

                       エッセイスト  中村一枝

 子供が幼稚園の頃、もうかれこれ六十年以上前の話である。当時、四歳児だった彼らもとうに50を超えた。母親達もそれなりに年を重ねているが、その交流は今だにつづいていて、つい最近も住む場所を離れても逢う機会があった。当時はまだ初々しかったママたちが年を重ね70代80代の年になるのは当然のことだ。それでもお互い顔を見れば何十年を一気に乗り越えてあの時代に戻れるから不思議である。
 実はわたしは幼稚園というものに行ったことがなかった。体の弱いわたしを父も母もかなり過保護に見ていたらしい。一人っ子で、さらに体の弱い私は超過保護に育てられた。と今はやや自嘲を込めて思う。実際弱かったのだが、親の思い込みの深さもあったろう。真綿に包まれると言うそのままの過保護なそだちかただつた。と言ってもやっと生まれた一人っ子、それも、よく風邪をひく赤ん坊をどうやったら無事に育てられるかと父親も母親も必死だなったのだ。私は自分が親になった時どうやって子供を育てたか、無我夢中というのが現実である。あんまりえらそうな事は言えない。
 ある日母が「ちょっといい話を聞いた」と道の途中にある幼稚園の話をし始めた。母が会つたのはとても感じの良い40くらいの女の人で、どうもそこの幼稚園の人らしいという。それがきっかけだったが、見た目にはいわゆる幼稚園らしい色彩も形もない、ちょっとオンボロな場所だった。それでも入園式には20人くらいはいたのだろうか、今ではまったく忘れてしまった。ただここで出会った、ほか何人かとはお母さんも含めていまだに深いつながりを続けている。いかにも昔風の女のひとのあたたかい笑顔ひとつで成り立っていたような小さな保育園だった。今こんな、ボロいできそこないの幼稚園などあるわけがない。時代が変わったのよというけれど、こういう時代に生きるようになることがどんなにつまらないか、残念ながら今のわたしにはそれを証明する力もない。その幼稚園が実は無認可幼稚園だったと聞いても特に驚いた覚えもない。今何もかもきっちり整備され間違いひとつ許されないことの方がよほどおかしいことにもっと気付くべきなのだ。あの汚い、小さなオンボろの保育園には無限の楽しみが満ち満ちていた。
 今は何事にもあれ、快適、便利清潔さの方に目が向いてしまいがちだが、不便のなかにも含蓄があり、不自由ささの中にある生活の幅もこれ又生きて行く上でとても大事な事だとだと思うべきかもしれない。
 自由で伸びやかな幼稚園も一年二年経つうちに新しい子供達や、親達が入ってきて雰囲気が変わってくる。息子は入園した時から怪獣を抱いていないと幼稚園には入れない子供だった。あるおかあさんから「おたくの息子さんが怪獣を持ってくるのでうちの子も持ってくって聞かないの、怪獣を園にもつてくるのはやめていただけませんか。」わたしもかなり意固辞な母親だった。流石に面と向かってでは無かったが、多分心の中でつぶやいていたに違いない。「家中の怪獣数珠つなぎにして持って行きなさい。誰が何を持って来ようが自由じゃないの。子どものことだ、そのうち忘れるのに、30から40の母親はそれぞれも自己主張の塊だった。それもこれも今は懐かしい。若気の至りである。
 

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渾斎随筆 №17                          [文芸美術の森]

推敲 1

                             歌人  会津八一                                        

 歌を詠んで、それをその時々の新聞や雑誌などで、一度世間へ出したものをすぐあとから自分でよく読み返して見ると、もういろいろ不満のところが出てくる。それを幾年かの後に、一冊にまとめるやうな時が来ると、標準がずつと高くなってゐて、落第をするものも出て来る。合格しながらも、幾らかの手人を受けるものも出て来る。これは誰にもあることであらう。しかし、めいめいが詠む歌の数は、いつも澤山に出来る人と、随分少い人と、そこに天分もあり流儀もあり、つまり其の人に依ることであるらしいが、妙なもので、澤山作ったから必ず粗製で、後で手人に追はれると限ったものでも無いらしい。
 私の郷里に原宏卒といふ歌人があった。私が二十歳頃、或る田舎の新聞の客員になって、俳句を選んでゐる時、その人は六十何歳かで、歌の方を受持ってゐられた。そして私が四十何歳の頃、八十何歳で東京で亡くなられた。この人などは、人の持って来る短冊に、「一日千首の歌詠みける中に」とか「五百首の中に」とか詞書のついたのを、よく書いたものであった。
 この人が一日に千首とか五百首とか詠んだといふのは、もつとずつと古い頃のことで、私はまだ子供で、その時のことは、よく知らなかったが、何でもその時には、公開の席で、大勢の立合や見物のゐる前で、朝の暗いうちから、紋附羽織袴で坐り込んで、そのまゝ流れるやうに詠んでゆくのを、筆記係が、汗を絞りながら、片端から書いて行つたといふ。昔、西鶴が大阪住書の社頭で、一日に二萬句の俳譜を詠んだといふ話もあるが、今仮に、一分間に一首としても、千首を詠むためには十六時間あまりになって、その間に食事や休息の暇も無い。しかし、原さんほ、とにかく一日に千首を詠み上げて、其の中に、かう云ふ詞書をつけて人に見せるほどのものが、いくらかでもあつたとすれば、質が何うの、主義が伺うのと云ふことは別として、やはり相当なものであったと云はなければならない。
 ところが、私などになると、まるで両極端と云つていゝほどに振はない。ずつと前に出した『南京新唱』の頃を考へるに、明治四十二年の八月から大正十三年までの、十七年の間に、何ともかんとも、とにかく九十八首しか無かったのだから、二年に五首ぐらゐのものにしかならない。つまり私が一年もかかることを原さんは五分間でしたと云ふことになるから、まるで較べ物にならない。
 私の方は、数がこんなに少いのであるが、その一首一首のためには、最初から相当に手数を掛けたつもりでゐたのに、『南京新唱』として纏めて世に出してから、またきにいらないところが、だんだん目について来るので、それにはいちいち工夫もして見た。そして、一昨年『鹿鳴集」の中へ再録知る時には、だいぶ修正を加へけれども、この『鹿鳴集』が出たあとになっても、私は相変わらず同じことをつづけている。まるで山の中で路に迷ったように、ひょっこりと、また元の所へ出て来たりして、やはり『南京新唱』に出した方が、まだいくらか良かったのではないかと、思ひ直して見ることも折々はある。古人も「兩句三年ニシテ得タリ、一吟シテ雙涙流ル」などいってゐるが、私などほ、なかなかそれどころではない。
 たとへば『南京新唱』の中に最初は
   たかむらに さしいるる 日も うらさびし はとけ いまさぬ
   あきしぬの さと
としておいたのがある。これは私のものとしては、いくらか良い方として、人から抄出されたり、自分でも好きな方であるが、日が「さし入る」ので、自動詞であるべきところを、「さしいるる」は他動詞になるから積かでない。「さし通る日」と改めては何うかと、注意してくれた人がある。初めから気がつかぬことではなかつたが、人に云はれてみると、急に気になって来て、いろいろ思案の末に、『鹿鳴集』では「さしいるかげも」と改めて置いた。云ふまでも無く、「かげ」は日光の意味で、つまり、同じことになる。けれども、かう改めたために、私の初から持ってゐた調子の感じが、何時の間にか失はれてゐるらしい。この調子のことは、いかにも話しにくいことでもあり、また話してもなかなか解って貰ひにくいが、とにかく、これでは私の気特にしっくりしない。そこで憩ひ出すのは、『奥の細道』のなかで、芭蕉は、たしか酒田の過で
   暑き日を 海に入れたり 最上川
といふ句を作ってゐる。最上川が海に入るといふのであるから、文法をやかましく云ふならば、「入りたり」といふべきところを、勿論それくらゐのことを、芭蕉はよく承知しながら、かまはず、他動を使ってゐるが、もしこれが文法通りであったならば、調子が詰まって、海に入る最上川の大きな気持があらはれない。やはり、「入れたり」でなければならない。そして、こんな點から芭蕉を非難した人は無かったかと思ふ。しかし、こんなところでも、芭蕉は偉いから、彼にして始めて許される自由だ、などといふ風に考へるのはつまらぬことである。悪いことならば芭蕉がやつても、誰がやつても、悪い筈である。同じことでも、こんな自由を、らくらくと掴み放ってゐるところに、芭蕉の偉さを認めるやうにしたいものである。これほどのことにも、びくびくして、長いこと思案を重ねたり、人の説に動いたりする私の天分の乏しさ、弱さ、といふことも、これで明るみへさらけ出されたやうなものであるが、私は今でも尚ほ、「さしいるる日」に心が洩ってゐる。

『会津八一全集』 中央公論社

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ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №90 [文芸美術の森]

2 金持ちロシア人を嗤う 1

              早稲田大学名誉教授  川崎 浹

惨憺たる時代に

 情報公開が進むにつれて、アネクドートは口頭から紙片におおっぴらに印刷されるようになった。
 現代アネクドート集は質のわるい紙にタイプで打った薄っぺらなものから、ユーモア新開、。パンフや一冊の本になったものまで、さまざまな形で無数に発行されている。ペテルブルグの郊外電車では、少年が乗りこんできて、前口上よろしく艶笑小話の新聞を売ってまわっていた。いま私の手元にも『きわどいアネクドート』という名の本があり、俗謡のほかに、男の視線で女を笑うセクシュアル・ハラスメソトすれすれの小話がうんざりするほど紹介されている。
 一冊にまとめられた政治アネクドートですら、なかにはセックスがらみの作品があり、レーニンとかれの愛人で、妻ともいえるクルーブスカヤとの性賢が露骨に皮肉られている。聖域あつかいされている二人を、性をとおしておとしめるという理由づけもわからぬではないが、クルガーノフが「デカブリスト事件以後におけるアネクドートのしばしの低落」を批判したように、現代アネクドートでもこうした領域ではあきらかに質の低下が見られ、他国の艶笑小話と変わらないことになってしまう。
 さらに「アルメニア放送」のような禁止された遊びではなく、公開されたラジオやテレビ番組にすら進出した。しかし路上の若者にマイクをむけても、そうかんたんにアネクドートがはね返ってくるものではない。しかも番組制作者が自分流にアレンジするために、簡潔さや鋭さや間のリズム、要するに私がこれまでのべてきた文学ジャンルとしてのアネクドートの質の低下が見られはじめたのである。
 また、一般にいえることは、アネクドートそのものへの市民の関心が一時のように旺盛ではなくなったことだ。説明はどのようにでもつくが、要するにアネクドートを生む「愚かさ」すら消えて、「惨憺たる」時代になったことであろう。
 しかし、すでに半世紀の間に根づいた政治アネクドートの体質から抜けだすこともまた容易ではない。閉じることのできない笑う口腔(こうくうう)のなかに笑殺できる何かを押しこむ必要があるが、ここに格好の題材が浮上してきた。市場経済の導入によって生じた新興階級、一時ニューリッチと呼ばれた「新ロシア人」である。


『ロシアノユーモア』 講談社選書


※『ロシア~アネクドートで笑う歴史』の筆者、川崎浹さんのインタビュー番組が公開されます。公開日時は以下です。
 テレビ東京「美の巨人たち」
 「高島野十郎の蝋燭」は地上波で9月29日(土)夜10時。
  衛星放送「BSジャパン」で10月6日(土)夜10時。

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石井鶴三の世界 №124 [文芸美術の森]

晧台寺仁王1963年/阿蘇1963年

                       画家・彫刻家  石井鶴三

1963晧台寺仁王.jpg
晧台寺 1963年 (143×200)
1963阿蘇.jpg
阿蘇 1963年 144×201)

**************
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社石井鶴三

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フェアリー~妖精幻想 №92 [文芸美術の森]

「夏の夜の夢」と「嵐」 4

                     妖精美術館館長  井村君江

 H・ロビンソンの個性豊かな妖精たち

 コビンソン三兄弟、トマス、チャーシズ、ヒ一スは、剣を絵筆に代えた「三銃士」のように(このあだ名がお気に入りだった)この世界で三人とも活躍する。
 父は木版師で「ペニー・イラストレイテッド」の挿画家であり、祖父も「ロンドン・ジャーナル」「グッド・ワールド」の木版刷りの職人であって、兄弟たちはその血と家業をついだように、挿絵画家、水彩画家、イラストレーターとして知られた。
 兄弟は一八九〇年代のロンドンで、ロイヤル・アカデミーで絵の勉強をし、仕事を始めたが、ラスキンやモリスの美術工芸運動の波や、ウォルター,クレイン、ビアズリーらの装飾アートやブックデザインの影響を受けた。
 とくにヒース・ロビンソン (一八七二-一九四四)はアーサー・ラッカムから多くのものを学び、日本版画、特に広重の手法を好み、また大きな余白を残し象徴的に事物をデフォルメして描くアール・ヌーヴォーの様式化もとり入れ、早くから特色ある挿絵を描いた。
 アンデルセンのフェアリー・テールズ、エドガ1・ポオ、キップリングと手がけ、『夏の夜の夢』(一九一四)でその想像力と技術とを一気に開花させた感がある。
 「ゴッサマ・フェアリー」とあだ名で呼ばれるヒース・ロビンソンの特色あるフェアリつたち―ペンとインクのモノクロームの繊細な蜘蛛の糸の綾から生れ出たような、大きな頭にトンガリ耳でギョロ目をみはり、細い澤に長い槍をもち、カゲロウの週をつけた昆虫のよゲなエルフたち。その姿は、ラッカムの系統ではあるが、個性と特色のあるロビンソンのエルフである。
 美しいニンフのような妖精たちと奇妙な老人や裸の子のエルフがくり互げる場面榎、絵画致評家ケネス・クラークが「現代画壇のレオナルド・ダ・ヴィンチ」とたとえたほど巧みな様式化がなされ、奇想にとんだ線と形の面白さを見せている。
 しっかりしたデッサンの筆で描かれたギリシャ的な建築物が醸し出す、アセンズの森、オベロン王国の幻想的な、そして奇妙な夏の夜の夢の不可思議で魅力ある世界である。

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H.ロビンソン「夏の夜の夢」.jpg
ヒース・ロビンソン「夏の夜の夢」

『フェアリー』 新書館

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にんじんの午睡(ひるね) №39 [文芸美術の森]

わたしのきらいな戦争

                        エッセイスト  中村一枝

 八月になると嫌でも戦争のことを思い出す。八月十五日が終戦記念日と言うこともあって、新聞もテレビもその手の番組ばかり。おそらく作り手も見る人も年々戦争を知らない世代になついているはずだ。あんな嫌な時代は二度と思い出したくないのに、嫌な思い出の中に懐かしい感覚が見え見えしている。当時は伊豆半島の伊東に縁故疎開していた。小学五年生だった。今はその場所さえもわからないほど様変わりしているが、町からかなり離れた川沿いの田圃の中の大きな一軒家の傍らの隠居所を借りていた。田圃と川しかない一本道だつた。駅に行くのに子どもの足で20分はかかった。はじめはのどかな田園生活を楽しんでいたが、そのうち戦況が変わり始める。南方の島々では玉砕の話ばかりだった。伊豆半島を北上して東京空襲に向かうのがアメリカ軍の定期航路になる。ラジオが伊豆半島を北上中と言うときは飛行機はの通り過ぎた後だった。
 田圃の畦道に突っ伏したり、草むらに隠れたりこっちは必死だった。父が何かに書いていたことがある。「便所の中から見ていると、田圃の中の道をものすごい勢いで走ってくるやつがいてそれが一枝なんだな」頭の上を低空飛行で飛ぶ飛行機から何もかもみえていたはずである。それでも伊東がやられることはなく戦争は終わった。
 戦後わたしは地元の伊東の女学校に進学した。街を外れた小高い丘の上にある女学校は、戦後の混乱期と言うこともあり、こんな田舎の女学校にはめずらしいくらい優秀な教師もいたが、本当に教員資格のがあったのかと疑いたくなるような怪しげな先生もいたようである。今考えるとそれはそれで面白かったのではないか。わたしにとって忘れられない思い出は、運動会のかけっこで、陸上部の選手を追い抜いたことで。ある。体育などいつも低い成績だったわたしの金メダルだった。そのあと陸上競技部のコーチである先生から陸上競技部に入らないかと誘われた時はもっと驚いた。母の猛反対であきらめたが。もしかしたらの喘息もちの身体が変わったかもしれないとちよっと思う。今、私の親友と呼べる何人かは、全員伊東がルーツの友だち。70年以上つづいている。
 最近、「不死身の特攻兵「と言う本を読んだ。作者鴻上尚史氏はユニークな演出家、作家としても知られた人である。特攻隊として九回出撃し無事に帰ってきてしまったと言うこの特攻兵、が無事に帰ってくるたびに上官からも周囲からも白い眼で見られながらそ生き延びた物語。どこか日本社会の本質が感じられおもしろかった。
 台風と地震、山崩れといった原始的な災害の多い日本という国、国民は心優しく律儀で勤勉、政治はいつでも二流か三流なのに、一応はサミットとか、なんとかには呼ばれて名を連ねる、芸術の分野ではその実績は輝かしい。とても慎ましやかな面を持つが、戦争みたいなことが起きると上からの命令に決してそむかない。戦後人種が変わったといわれた時期も少しあったけれどどうも日本社会の現実は何も変わらないみたいだ。戦争の代わりに今やオリンピック、勝負の裏側では、何やら小さな人間関係のごたごたがうごめいていてまたそれを面白がる人々がいて、日本ってやっぱり島国なんだと。それにしても戦争たけはもういやだ。みのむしみたいに体を縮こませて生きてもいい。戦争は嫌だ。戦争を知る世代がどんどん減っていくなかで叫びつづけていたい。

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