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フェアリー~妖精幻想 №98 [文芸美術の森]

 仮面劇、シェイクスピアバレエ、オペラ

                    妖精美術館館長  井村君江

ベン・ジョンソン作仮面(マスク)劇『妖精王子オベロン』

 十七世紀のイギリス宮廷では、王や貴族を歓迎する式典のためのページェントや、宴会席上の余興として仮面(マスク)劇が盛んに行われていた。
 耳で聴くセリフや詩よりも、目を楽しませる壮麗な舞台、奇抜な装置、豪華な衣裳が目をひき、次々と変化する場面を展開する、いわばスペクタクル劇が好まれた。
 舞台装置家であったイニゴ・ジョーンズ(一五七三~一六五二)は、イタリアで建築を学んで帰ると、ジェイムズ一世の王妃アンのお抱えとなり、特に劇作家ベン・ジョンソン(一五七二~一六三七)と組んで仮面劇を演出し、機械仕掛けやからくりの趣向をこらして華やかな舞台を作っていた。
 『妖精王子オベロン(一六一一)は、ベン・ジョンソンは皇太子プリンス・オヴ・ウエールズであるヘンリー王子を歓迎する祝宴のために書いたもので、ジェイムズ一世が外交官たちを招いての迎賓館の宴席で上演された。主題はアーサー王からジェイムズ一世までの歴代の理想の支配者を、オベロン王のフェ(フェアリー・ナイト)が祝福する一種のスペクタクル劇である。
 イニゴ・ジョーンズの考案による装置の絵が、デヴォンシャー・コレクションに保管されているが、劇のト書きに指示されたように、全景が広がると、「正面に輝く華麗な宮殿が現われる。その門も壁も透き通るように描かれ、その門の前にはシルヴァンが木の葉の衣服を着て、手には棍棒を持って眠っている」というような、岩間の城郭になっている。
 イニゴ・ジョーンズが描いたオベロン王は、白い羽根飾りのついたカブトに、金銀の胴着とヨロイをつけ、彫像の施された半長靴をはいた姿のデザイン画であり、なにかローマ白帯のコスチュームのようである。
 オベロン王はトランペットがひときわ高く吹き鳴らされるなか、三匹の熊に曳かせた車に乗り、三人の森の精を従えて登場してくる。
 森の精たちはじつにさまざまであり、ほとんどが半神半獣で、サチュロス、シレーメス、シルヴアン等バッカスの従者である。登場する「フェ」と「エルフ」はその当時女性の姿をとったらしく、また「フェはいつも輪になって踊り、その輪の中心にはオベロン王か、マブか、身分の高い者」が立っていたという説明がある。踊りと唄の賑やかな幕切れは、祝宴にふさわしい大団円である。
 ギリシャ神話の森の精(ときに酒神(バッカス)も登場したが、酒宴にふさわしい搭乗者であるといえる)や妖精たちの超自然の生き物たちの登場の仕方は工夫され、機械仕掛けによって、中舞台天井の「天国」と呼ばれる穴からクレーンで下げられたゴンドラに乗って下りて来たり、雲を形どった仕掛けの中に立って舞台を横切ったり、舞台空間を自在に使っている。わが国の歌舞伎のケレンや宙乗りのように、十七世紀の仮面劇でもこの工夫が、演出家の腕の見せどころだったようである。


『フェアリー』 新書館

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にんじんの午睡(ひるね) №45 [文芸美術の森]

娘の命日

                       エッセイスト  中村一枝

 また今年も娘の命日がきた。11月30日。当時の親友二人が今年もお参りに来てくれるという。50年も前の、昔の友だちだ。とうに50を過ぎた彼女たちの変わらぬ友情と若さに驚いている。えりかちゃんは生まれた時に隣同士で、赤ん坊の時からの親友、いわば姉妹(きょうだい)のような仲だ。あっちゃんは小学校の時からの仲良し、家も近いせいもある。よく一緒にあそんでいた。娘の残した日記にはいたるところにあっちゃんが出てくる。えりかちゃんは学年が違っていたし、あっちゃんは中学になると私立へ行った。ともだちはどこでも一緒といううものでもないらしい。ふたりとも心の友ということにはかわりはない。その二人がとても魅力的な女の子(?)なのに未だに独り者というのも不思議である。10月の末というのはだいたい穏やかな秋日和がつづく。娘の死んだ年もそうだった。母親にとっては、いつまでも娘を忘れずにいてくれる二人の存在はとても嬉しいものだ。
 じつはもうひとり、娘が亡くなって初めて気づいたともだちもいる。娘はどちらかといえばしっかり者で、わたしなどはひそかに頼りにしていた。死んだ後で話をきくと、とても気配りのできる、優しい子だったという。確かにそれはあったかもしれないが、親としては親の言うことを聞かないわがままの方が先行していた気もする。というのも父親が娘を溺愛していたし、わたしは親のくせに恐れを感じていたのだ。親子というのはどこでもそうだろうが、分かり過ぎてかえって肝心のところを見落としているのかももしれない。もうひとり、塾に一緒に行っていた友人などは、娘が死んでから初めてその存在を知ったのだから、親が子供をどこまで理解しているかなんて全く怪しいものだ。
 娘は20代の半ばに、神経症、もしくは分裂症と診断された。親としてはショックだった。今はどんな病気も研究が進んで、いろいろの対処の方法があることもわかってきたが、当時はわたしも夫もショックの方が大きかった。甘やかして育てたと言う負い目、その病気への無理解・・・、今思うと残念でしかたが無い。最後の時、「ママのトンカツを」と言ってくれたその言葉を何度思い出しても涙が出る。いまさらどんなに悔やんでも帰らない娘のためにも、その友人たちと楽しい1日を過ごしたいという思いである。生きていくというのはとてもつらいことをがまんしていく、そんな積み重ねではないかと思っていると、「今更何言ってんのよ」という娘の声が聞こえる。楽天的で呑気な親を持つと大変なんだよ。。。。。
 昨日娘が通っていた通学路を通った。娘のいた頃と全く同じ風景。わざわざその狭い電信柱と道の間にしゃがみこんでみる。楽しそうにおしゃべりしている。反対側にはいくらでも空間があるのに、そのひっついたざわめきがとてもなつかしかつた。娘の命日には、私の得意なカレーライスと決めた。

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渾斎随筆 №22 [文芸美術の森]

奈良美術に就て

                            歌人  会津八一

 趣味といふ物を世人の中には外から附加へる事が出来るかの様に思ふ者が多い。金が溜ったから多少趣味を有たねほならぬとか、又紳士として趣味がなくてはならぬというて、書、謡曲、撞球等に入門してこれらを自分の飾りか何かにしようと思ふ人が少くない。「沐警して冠す」と言ふ言葉の如く、この種の趣味と言ふものは風が吹いても冠が飛ぶかも知れぬ。私等の観る處では人間には趣味を持ち得る性質が自然的、本質的に具はってゐる。のみならず、吾々は複雑性を有してゐるだけに、相当に多趣味であり得る素質があると思す。私は随分雑多な趣味を持って居る一人として、所謂心ある人からは或は冷笑の的となるかも知れぬが、却て之が人間としての本来の姿でないかと思ってゐる。
 然し遺伝は遺伝、天性は天性としても個人は何處までも一個人である。其内に己に於て始めて見出し得る何ものかを含まなければ、自然界に於ける進歩の理法にも悖(もと)り、一個人としても恥づ可きものではなからうか。教へられた通り美術、音楽、演芸等を習ひ了せたとしても、教へられたそのまゝでは情けない。其を指して生きた人間の生きた趣味とは言ひ兼ねる。
 さし当って趣味的に何を考へてゐるかと言はるれば、私は奈良美術を以て最も興味を感ずるものの一であり、趣味の生活内容としてゐるのであると御答へしなければならぬ。
 奈良美術と言ふと若い人には、ア、叉古い話かと思ふ人が多いかも知れぬが、然し世界美術史の中、最も華々しいギリシャ彫刻末期の活動が、アレキサンダー大王の東征と共に印度に影響を及して佛教美術の上に非常な刺激を與へ、其が又支那に傳はり、或は間接に朝鮮から或は直接に支那から日本に傳はり、吾大和民族が始めて此世界的の芸術的活動のカーレントに興奮して美術的活動を興した。それが奈良美術であると言ふ意味から、今一度それを見なほしたならば、まんざら見逃す訳には行くまい。
 明治の早い頃伊太利のフェロノサ氏が、日本人よりも率先して奈良美術の難有さを日本人に説いたのも之だ。又最近佛大使のクローデル氏が吾々の写した写真を見て、日本の奈良にこんな彫刻があるのかと言うてわざわざ奈良迄見に行かれたのも其為であると思ふ。
 昔の日本人は儒教に封する信仰から、真正面より佛像を禮拝して其難有さも美しさも同時に感じたらしい。然し吾々としてはそれ程の信仰はないから、側面より見て此像が何程美しくあり得るかを、今一段見なほす餘地があるかも知れぬ。叉遠くギリシャの事を考へても、昔は肉體を完全な彫刻に濃厚な色彩を施して民衆はそれを讃美した。然るに二千年餘りの歳月の為に、色は剥げ、像は砕け、眞白な大理石の頭許り、或は胴許り、戒は手足許りの彫刻をする人が出て、近代人はそれが彫刻そのものの本来の週間であるかの様に思ふ人さへ多くなった様であるが、朗らかな気持ちで遠い昔と遠い未来とを、見渡し得る少数な人々の気持ちから言へば、ロダン等のやり方は彫刻としての或変則的な一例であって、彫刻には悠遠な広い天地が別に存在する事を私等は信じてをる。そして其信念は奈良美術の研究から得てゐる。なぜかと言ふとギリシャの彫刻に於けるが如く、日本の奈良の彫刻も殆ど凡て最初は何等かの色彩を帯びて居った事を知って居るからである。然るに今日の大理石の彫刻石膏像になれた人は、私の彫刻色彩論を聞いただけでも沸然として芸術の神聖を害された様な単純な抗議を申出るかも知れぬが、それは目の前の御手本に捕はれて美術そのものの本来の精神を了解してゐないからである。私は十数年来奈良美術の美しさと其価値とを充分玩味し、又之を世人に宣博する事には多少努力して来たつもりである。最近一人の写真師を捕へて私の思ふ存分の方向から、思ふ存分な部分を撮影させてもう既に千種餘りの写真が出来てゐる。之はクローデル氏を感服させた種類のもので、巴利の有名な美術商にも売捌かせる事にしてある。いさゝか東洋美術の為に気焔を吐き得るかと信じてゐる。
 私の趣味は佛教美術に限る訳ではない。然し如何なる趣味のデパートメントに私が馳せても、私のオリジナリティと私のキャラクタリスティックスが没却されない様にして、始めて其虚に趣味と言ふ言葉が有意義に当はまると思ってゐる。


『会津八一全集』 中央公論社

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石井鶴三の世界 №129 [文芸美術の森]

当間寺・不動院 1967年/いそべ 1968年

                      画家・彫刻家  石井鶴三

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当間寺・不動院 1967年 (172×125)
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いそべ 1968年 (124×172)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №94 [文芸美術の森]

開放的なダイアローグ

                  早稲田大学名誉教授  川崎 浹

 アルメニア放送に凝縮された政治アネクドートが質問と回答の二項対立的ダイアローグに見えながら、じつは閉鎖的なモノローグに近かったのにたいし、新ロシア人アネクドートはおおっぴろげな開放的なダイアローグである。したがって、一つのアネクドート自身、対話的だが、多数のアネクドートがあたかも連歌のごとくつながっていく。

 秘書が上司にいった。
 「控え室でみなが社長を待っています」
 社長がびっくりして尋ねた。
 「ジャーナリストかやくざ(レケチール)か」
 「税務の監査官たちです」
 「あなたはすでに私のことをあなたの社長に伝えたのでしょぅね」
 秘書に税務監査官が尋ねた。
 「社長は一時間後に戻ってきます」
 「どこへ行ってしまったんですか」
 「家族に別れをつげに行ったのです」

 「あなたは国家から自分の収入の大部分を隠そうとするのですか」
 新ロシア人に税務署員がいった。
 「私には責任ありませんよ。あなたの〈収入〉欄の記入場所がひどく少ないうえに、全部のゼロを記入する空白がなかったのですからね」

 新ロシア人にたいして裁判がおこなわれた。裁判官がいう。
 「被告、あなたが最後にいいたいことは?」
 「一〇万でどうです!」

 新ロシア人に一時的に新しい簿記係が必要になった。
 「私にはたいへんきちんとした候補者がいるのですが」と支配人がいった。
 「ただかれはまだ半年はど坐っていなければならないので」

 「坐る」といえば共産主義の時代から刑務所に入ることを意味していて、その意味は現在でも変わっていない。しかし、同時に彼らはカジノにでかけたり、旅行を楽しんだりしている。いまやロシアと縁のふかいギリシャ(ロシア正教の源流)やイタリア、スペインだけでなく、ハワイにまで足をのばすようになった。

 バカンスを過ごした新ロシア人どうしが話をかわす。
 「カナリア諸島でくつろいできたよ。ところで、君はどこへ行ってきた」
 「まだフィルムを現像してないので、正確には思いだせないな」 


『ロシアのユーモア』 講談社選書

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往きは良い良い、帰りは……物語 №65 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語  (こふみ会)
その65    TCCクラブハウスにて
『霜の声』『レモン(檸檬)』『嚏(くさめ))』『海猫(うみねこ)』
                                         コピーライター  多比羅 孝

◆◆平成30年10月29日◆◆
当番幹事(大谷鬼禿氏&田村珍椿氏)から案内状が送られて来ました。

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  「十一月こふみ会」のおしらせ                           幹事=鬼禿・珍椿
前略  先月『鎌倉吟行』ご苦労様でした。 その折り、今月の幹事の指定を忘れましたので、今回は僭越ですが、鬼禿と珍椿が引き続き幹事をさせていただきます。
猛暑だ、颱風だと云ううちに十一月七日は「立冬」。今回は冬の季語で四句作って頂きます。ふるってご参加ください。
尚、昼食は用意いたします。酒・飲み物の差し入れは歓迎です。
景品は3点(計1000円程度なるべく食品)ご用意ください。
●期日=十一月十一日 (日)午后一時より
●会場=表参道・東京コピーライターズクラブ
          (TEL. 03-5774-5400 渋谷区神宮前5-7-15 TCC)
●会費=1500円の予定
●兼題=【霜の声】
   寒夜しんしんと霜が降る気配をいう
   『母亡くて 寧き心や 霜の声』 波郷
 兼題=【レモン(檸檬)】
       『レモン割り 搾るや風邪の 弱力』 烏頭子
●出欠の連絡は必ずメイルでお願いします(11月5日迄)
 今回の連絡先 ≪矢太≫岩永嘉弘 <info@roxcompany.jp>
              cc≪鬼禿≫大谷博洋 <h-otani@amber.plala.or.jp>
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これを受けて私・孝多は下記のようにFAXで返信しました。

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  こふみ会 十一月幹事様
   ご案内有難うございました。 
  出席致します。よろしくお願い申しあげます。
   兼題のひとつは「霜の声(聲)」ですね。白川静著・平凡社の『常用字解』によれば……
  「聲」は「殸」と「耳」を組み合わせたもので、「殸」は吊した石の楽器を殴(う)ち鳴らすこと。耳に聞こえるその音が「聲」。
   つまり、「おと」「ひびき」。それがもとになって、やがて「ひとのこえ」「うわさ」にもなりました……とのこと。
   今は「声」だけですけれど。
   
   では当日(十一月十一日)皆さんにお会い出来るのを楽しみに致して居ります。   草々                             

             平成三十年十一月四日    孝多

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軒外氏からは下掲のとおりです。例によって素晴らしい返信!

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◆◆さて、当日(11月11日)はと言えば……◆◆
参加者11名。各自、お好きな席につくと、幹事によって張り出されました。
本日の兼題と席題。ご覧のとおりです。

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でも、≪おっとっとお≫です。「海猫」。
兼題のひとつ「レモン」は(輸入によって一年じゅう店先に見られるもの、つまり、季節不問という面もありますけれど)「柚子・ゆず」や「酸橘・すだち」との関連で、多くの歳時記に載っているとおり、「秋」と特定しても差し支(つか)え無いでしょう。通年であると同時に、です。しかし「海猫・うみねこ」となりますと、ちょっと違うようですね。
「春の」とか、「秋の」とか、「冬の」とかと付かない限り、「海猫」は断然として「夏」のものです。ためしに「夏の海猫」としてみたら、どんなに阿呆らしく、間の抜けた表現になってしまうことか。「海猫」は「夏」のものに決まっているのです。
ですから逆に、「春の」とか「秋の」とか「冬の」とかを付ければ「海猫」は生まれ変わったような新しい意味合いと、力(ちから)を発揮するようになる、という次第です。
夏の季語として定着し、どの歳時記にも「夏」と出ている「海猫」を、私たちは今回「冬」として詠むことになったというオハナシ。(幹事さんからの案内状にも「今回は冬の季語で四句云々」と明示してあります。)
★でも、誰も、このことを気にしていなかった様子です、まあまあ、そんなにオカタイことは云わずに……。楽しみましょうよ、というところでしょうか。
★私も何も言いませんでした。気付いた人もあったでしょうが、その人も黙して語らずでした。

◆◆しかし、何という偶然か、角川の月刊誌『俳句』12月号で……◆◆
特集したのです。座談会「歳時記の過去・現在・未来」。
記事にして16ページに及ぶこの座談会のメンバーは片山由美子さん、長谷川櫂氏、そして神野紗希さんのお3方。神野さんは『これから始める俳句・川柳・いちばんやさしい入門書(池田書店)』を、我らが闘士・水野タケシ氏と、共著でものされた新進俳人。
お3方の意気が合って、素敵な座談会。中でも印象的だったのは「文学的な朝顔と科学的な朝顔は別」という見出しと、それに続く片山さんと長谷川氏の言葉。ショックでした。少し長くなりますが、ここに引用します。

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●文学的な朝顔と科学的な朝顔は別
≪神野≫ 歳時記は文学的なことだけではなくて、民俗学、天文学もあるし、地理的なものも入ってくるし、たくさんのジャンルにまたがっていますからね。
≪片山≫ でも、百科事典ではないから、科学的な事実を客観的に書けば歳時記の解説になるかというと、そうではない。そこをどう擦り合わせるかが難しい。
≪長谷川≫  今、片山さんが言われたことはとても重要です。ふつう歳時記の解説は、科学的なことと文学的なことを分けずに一本で書く。これをやる限り、例えば解説で「朝顔は梅雨のころ、つまり夏のころから咲いているが、秋の季語である」と書かなければいけない。しかし、これが普通の人にはとてもわかりにくい。だから、文学的な朝顔と科学的な朝顔は全く別だということをはっきりさせたほうがいいということで、「ネット歳時記」では分けてあります。科学的見解は植物学の先生に解説をお願いしました。「これは夏の半ばごろくらいから咲き始めて……」と書いてある。文学的な見解は俳人が書いています。「朝顔は秋の季語で、露のようにはかないという本意がある」と。
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凄いですね。ガーンと一発、なぐられた思いがしました。
こふみ会の私たちは、先きほどの「冬の海猫」を真剣に、そして愉快に、もっともっと、語り合うべきだと痛感しました。
歳時記とは何か。歳時記から本当に自分の栄養になるものを吸い取るためにはどうすればよいか、それを考えることが即、自分の俳句を考えることになるのではないかと思いました。
『俳句』12月号が発売されたのは、11月25日。11月のこふみ会が行われた2週間後のことでした。「めぐりあわせ」ですね。

◆◆句会と言えば酒と肴で……◆◆
今回も当日(11月11日)お開きになったのはこの時期、まだ明るいうちなのですが、ヒルヒナカ、作句しながらクラブハウスで飲んだ『八海山』の美味(うま)かったこと!うっとりするほど!弥生さんの差し入れなのです。有難うございました。

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銘酒・八海山

幹事の鬼禿氏が持って来てくれたのはインドの缶ビール。ブランドネームは、確か「青鬼」。
感謝。勿論、初めて。爽やかな味に驚きました。  ゴクゴクゴクッ!

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有職の「彩りばら寿司」

肴(弁当)は幹事さんのお気に入り、赤坂の(株)有職製の「彩りばら寿司」。でもヘンだなあ。寿司折りの包装紙や箸袋に印刷されている「有職」のロゴの脇に、ローマ字でYUSHOKUとあるのです。
おかしいなあ。耳ではなく、言偏で「有識」、その読みは「ゆうしき」、と言うのもアリ、と辞書にも出ていますが、これはあくまでも別な意味か、例外。ふつうは耳偏の「有職」「ゆうそく」ですよね。ローマ字で書くならYUSOKU。
株式会社有職は、故意に、読み方の例外を社名にしたのかしら。製品の寿司は味も見た目も良く、米と具のバランスもナイスで、全体の量も箸当たりも非常に好ましく、伝統を重んじ、ならわしを守るように出来ているのに……。その基本となる「有職故実(ゆうそくこじつ)」には関係ナシ、なのかなあ。
一度、幹事さんに聞いてみようっと。

◆◆さあて、さてさて……本日の結果発表です◆◆
いつものように、投句、選句、披講と進んで、各人の点数が正の字によって記録、計算されて、いよいよ結果発表で~す。係が声を張って……

◆本日のトータルの天は~54点の弥生さ~ん!断然トップ!パチパチパチッ。
代表句は「大嚏 してふとなごむ 午後のバス」

◆トータルの地は~30点の孝多氏!パチパチパチッ。
代表句は「くさめして 私が私の 相手です」

◆トータルの人は~28点の虚視氏!パチパチパチッ。
代表句は「逢うは苦 逢はぬも苦なり レモン嗅ぐ」

◆◆トータルの次点は~23点の美留さ~ん!パチパチパチッ。
代表句は「レモンスカッシュ 予備校帰りの 逡巡」

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左から地の孝多、天の弥生、人の虚視、撮影=軒外。(敬称略)

パチパチパチッ! 皆さん、おめでとうございました。これにてお開きですが、来月は師走・忘年句会ですよね。幹事さんはどなたになりますか。いずれにせよ、会からの援助「特別予算」を用意することに致します。楽しくやりましょう。あとは幹事さんにお任せ!パチパチパチッ!では皆さん、お元気に。(孝多)
                                    第65話 完

        
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天位に贈られる短冊。11月も賑やかでした。「全句」は下記のとおりです。
                                                    
=====================================
     第587回 こふみ会・全句
          平成30年11月11日      於 TCCクラブハウス

◆兼題=霜の声        順不同
音も無く もの思えばただ 霜の声       孝多
人肌の 優しさに聴く 霜の声                   美留
刻々と 闇を貫く 霜の声                        舞蹴
霜の声 高圧線の 微動せり                     矢太
眠られず 霜の声聴く 午前四時                珍椿
別床の ふたりそれぞれ 霜の声               鬼禿
星翼 広げ尖塔に 霜の声                       茘子
枕辺に 霜の声聞き 夜の嘘                     軒外
夢に会ひて 覚めれば独り 霜の声             弥生
夜明かしの 窓開けて青い 霜の声             一遅
久々の 便りは訃報 霜の声                     虚視

◆兼題=檸檬(レモン)     順不同
青レモン ガリリと噛む 智恵子の青空          鬼禿
ゼームス坂 檸檬かじって 逝った女(ひと)   軒外
逢うは苦 逢わぬも苦なり レモン嗅ぐ           虚視
画集の上に 檸檬をひとつ あの人に            弥生
乙女らは 檸檬の乳房 アンドゥトロア            茘子
庭のレモンの木 今年は三つなり                 珍椿
凛として 檸檬ひとつ 青い皿                     舞蹴
病室の 檸檬黙して 主無く                       一遅
レモンスカッシュ 予備校帰りの 逡巡           美留
レモン絞(しぼ)ろ もうすぐ魚が 焼けるから    孝多
レモン噛る 観覧車は 動かない                  矢太

◆席題=嚏(くさめ)      順不同
あくびして くさめなどして 日は暮れぬ           虚視
雨の夜は 嚏相手に 一人酒                     茘子
大嚏 してふとなごむ 午後のバス                 弥生
くさめして 私が私の 相手です                  孝多
畳の目 かぞえて 嚏一つ                          珍椿
くさめひとつ 熱燗を持つ 所在無さ               一遅
学生服で 嚏した母の死                             軒外
「好きです」と 言はれし直後 大嚏                 鬼禿
未熟児の 嚏に怯ゆる 母なりき                   美留
見栄張って だての薄着に くさめする             舞蹴
くさめひとつ ひとよひとよの ひとりごと           矢太

◆席題=海猫          順不同
海猫の 飛び来る町や 旅の果て                    一遅
海猫め ぬけ目なく餌を 取りやがり                 珍椿
海猫が 鳴くよ我らは 酌(く)み交わす              孝多
海猫の 乱舞鳴き声 まねてみる                     弥生
海猫は 涙恋旅 別れです                            茘子
明日の定(さだめ) いつも群れ飛ぶ 海猫に聞け  軒外
海猫は 波頭の記憶の 中へ飛ぶ                    矢太
海猫が 知らせる便り 夫(つま)帰る                 舞蹴
浄土ヶ浜 海猫パンを 掠(かす)め去る              美留
海猫の 声聞くだけの 旅に出る                       虚視
栓抜けば 遠く海猫の 声する                         鬼禿

                                    以上11名44句

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正岡常規と夏目金之助 №5 [文芸美術の森]

      子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承 
              子規・漱石 研究家  栗田博行(八荒)
「時代が人間性のあり方にどの様に関わって行くのか、これからの展開に興味があります。」というお声をいただきました。図星でした。与えられた名と生まれたクニと生きた時代が、どうその人の生涯に影響するか・・・夏目金之助君に垣間見た見たことを、今回は正岡常規君の場合で見てゆきます。
 
  第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅱ
  ほととぎすを名乗ったこと  子規の出自と生い立ち①
 
子規=本名・正岡常規は、慶応3年9月17日、現在の愛媛県松山市の城下の町に武家の長男として生まれ、常規と命名されました。父隼太尚方は34歳。「松山藩御馬廻加番」という役まわりの中級武士でした。(八注・金之助は同年の1月5日)。
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  母八重は22歳。大原観山という松山藩の尊敬された儒学者の大家族の長女でした。隼太は再婚、八重は初婚でした。隼太と先妻の間には早逝した男子がありましたが、そのことは子規はほとんど知らずに生涯を送ったことでしょう。正岡家のただ一人の男の子・嫡男として育てられていきますが、夏目家の5男として生まれ金之助と名付けられて育っていった漱石と、その点際立って対照的です。
  誕生の一月後に大政奉還、満一歳になるまでに王制復古、鳥羽伏見の戦い、明治への改元、江戸の東京への改称など歴史上のエポックが続きます。慶応三年に生まれた子規と漱石はまさに同時代人でした。
  もちろん本人は無自覚ですが、正岡家は大きく影響を受けます。松山藩は德川親藩で、維新に際しては朝敵側であり、土佐藩の占領下におかれたりしました。正岡家も、維新がもたらす転変の中で没落していった士族の家系でした。加えて満2歳の時、家が火事を出し全焼。5歳の時には家督相続した直後に父隼太が死亡、という風に一家には大変なことが続きました。
  ところが、この子規=本名・正岡常規という人物の成し遂げたことには、そのような生い立ちのなかでくぐった幼児期の人生苦が、不思議なほど影を落としていないのです。例えば、
 
                    春や昔 十五万石の 城下かな 明治28年

よく知られた子規の代表句の一つですが、伊予松山の春の明るさとぬくもりが、平凡なくらい素直に伝わってきます。あの、決死の覚悟で臨んだ日清戦争従軍行の待ち時間に、チョット松山に立ち寄った時に詠んだ一句にかかわらず・・・

  維新の賊軍になり、土佐藩の占領下に置かれた松山藩の没落士族の嫡男で、家の全焼も父の早逝という不幸も経験して育った・・・そんな出自と生い立ちから落ちかかりそうな影が、全く感じられない句柄となっています。漱石とこの点でも際立って対照的です。
  子規のふるさと詠をもう少し見てみますと
            故郷や どちらを見ても 山笑ふ   明治26年
                        故郷は いとこの多し 桃の花   明治28年
                                      鯛鮓や 一門 三十五六人   明治25年
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全てこんな調子なのです。書き止められている事柄が、なにもかも、明るく暖かでやわらかい空気にくるまれている感じですね。(八注・上の写真が彼の人生最初の記念写真です。実はちょんまげを結っています。)
 
   「坂の上の雲」の語り始めで、司馬遼太郎さんがこんなことを言っています。
 5-7.jpg   子規は明治二十八年、この故郷の街に帰り、 
              春や昔 十五万石の城下かな
 という句をつくった。多少あでやかすぎるところが難かもしれないが、子規は、そのあとからつづいた石川啄木のようには、その故郷に対し複雑な屈折をもたず、 伊予松山の人情や風景ののびやかさをのびやかなままにうたいあげている点、東北と南海道の伊予との風土の違いといえるかもしれない。
 
  確かに司馬さんの言われる通りなのです。見上げればお城が目に入る松山の町で、瀬戸内の風光にたっぷり包まれて彼は育ちました。さらには、母八重と妹律という「女性的なるもの・母性的なるもの」(八注・大江健三郎さんの言葉)に、いつもくるまれて育ちました。その上、一門 三十五六人というような大家族集団(親戚)の中で、「正岡の跡取り」として大事にされて育ちました。この点でも、夏目家五男として生まれた金之助君とは全く対照的だったのです。
5-8.jpg それらのことは、物心つく、0歳から、5~6歳にかけての成長期に、この男の子のこころの中核(気質)を形作ったに違いありません。それは、以後常規君が生きていく全過程(生涯)にわたって土台として働き続けたことでしょう。ご紹介した子規ふるさと詠の明るさと暖かみはそのことに由来すると言っていいでしょう。

 しかしです。これらの最短詩の言葉で人を惹き付ける力が、それだけに由来すると言ってしまえば、幼年期の生育環境がすべてを決めるという話になってしまいます。人間の成長と生涯の達成が、そうは単純にいかないものであることは、人間についての常識といってもいいかと思います。

  この男の子もまた、続く少年期・青年期・壮年期…結局は全生涯にわたって、幼年期に獲得した明るく人なっこい気質を、歪ませたり喪失したりしかねない人生の試練に、数多く出会ったのでした。しかし、そのつど彼は逃げることなくそれに正対し、正視して取り組み、短時間でそれをこころの中で解決し、前進の契機としたのでした。むしろそのつど幼年期に獲得したあの気質を、強化していったのです。そして結果的には、単純一直線とさへ見える前向きな生き方を生涯にわたって貫いたのでした。
  その機微が、引用してきた子規ふるさと詠からも読み取れるのです。この4句、実はいずれも明治22年5月の「大喀血」以降に詠まれているのです。  
 
   春や昔 十五万石の 城下かな  明治28年

            故郷や どちらを見ても 山笑ふ  明治26年
                        故郷は いとこの多し 桃の花   明治28年
                                      鯛鮓や 一門 三十五六人   明治25年

 「喀血」は、満年齢では22歳に満たない時の体験でした。幼年期に獲得した明るい気質に少年期の元気を加えて意気軒高と日を送っていた明治の若者が、人生で初めて自身の「死」という問題に直面したわけです。4句は、いずれもそれを経た目と心から詠み出され、子規の名で世にも出されているのです。

 子規と名乗るまでに、どのような心の経過があったのでしょうか・・・
       それを見ていくため、いったん回り道をするのをお許しください。
 
5-1.jpg 左は有名な子規自筆の墓碑銘原文です。彼はこの108文字の中に自分の生涯の重要なことは全部入れつくしたとして、これを託した友人に
 「コレヨリ上 一字増ヤシテモ 余計ジャ」
            とまで豪語しています。
 明治31年7月13日の夜、思いついて一気に筆を走らせて書き上げたのですが、実際には命を終えるまでの残りの4年2ケ月の間に、筆者(八荒)からすれば書き足したくなるような大仕事を次々と達成しています。
 この時期、俳句の革新をほぼやり遂げた実感からこんなことを言ったのかも知れませんが、このあとすでに着手していた短歌革新をやり遂げます。
  そして、続けて文章の革新に取り組み、近代散文の基礎作りに着手。具体的には「山会」という文章の研究会を始めたのです。司馬遼太郎さんが、「子規は、文章にはヤマが要る」という素朴な断言からこの会を始めた・・・と吹き出しそうな笑顔で筆者に語ったことがありました。 
 それぞれ書いてきた文章を持ち寄り、朗読し合って、写生の目で捉えられているか、その文章にはヤマがあるか、というようなことを論じ合ったのです。寝たきりの病床の枕もとで、集まってきた虚子碧梧桐たちとともに・・・

  漱石の処女作「吾輩は猫である」は、虚子がこの「山会」に文章を出すのを誘ったことから生まれた作品でした。すでに子規は没ししていたのでしたが・・・

5-2.jpg 六尺の病床から子規の成し遂げた日本文学の近代化とは、大づかみに言って、伝統の中で定着した既成の観念や美意識を離れて、ものごとを裸の目=写生の眼=で感じ取り、認識し、自由に表現してゆく・・・ということでした。始まった明治という近代の国家社会生活の中で・・・

  郷里の後輩の気分から私(八荒)が、「ノボさん、アレからやり遂げたせっかくの大仕事のことが入っておらんゾナ」と冥界の子規に声をかけると、「要らんこと言うな。」と叱られることでしょう(笑)。
  実は、これを記したあとの4年2ケ月の間にこの人がなし遂げた、日本人にとって重要な大仕事は、右の名前の列挙の中に結果的にはすべて込められているのです。
  最晩年の、写生文にして近代随筆の創始とも言える「墨汁一滴」「病床六尺」は、書き出しの本名・正岡常規から採った「規」の名で発表されています。「又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人又ノ名ハ竹ノ里人」という雅号の列挙の中には、臨終まで作り続けた俳句と俳文(子規)・俳句を中心とした文学評論と俳句分類(獺祭書屋主人)・短歌実作と短歌を中心とした日本文学論(竹ノ里人)という風に、筆を走らせたあの夜以降の文学的達成のすべてが、結果として入っているのです。(八注・獺祭〈ダッサイ〉書屋主人=カワウソのお祭りの魚のように本を身の回りに散らばしている書屋の主人)
 なぜそうなったか? 実は偶然の結果ではなく、確信にもとづく必然だったと言えるのです。
 
  これを記した9年前、明治22年5月9日の夜、第一高等中学校本科2年生だった正岡常規は、激しく喀血します。旧松山藩の育英事業施設「常磐会寄宿舎」の一室でのことでした。翌日結核と診断されます。明治のこの時代、結核は死病でした。その診断を受けた夜も喀血は続きますが、その夜の1時くらいまでの間に、彼は「時鳥」を題材にして俳句を四~五十句を作っています。
 
              卯の花を めがけてきたか  時 鳥
                            卯の花の 散るまで鳴くか 子規
 
  今に残っている二句です。2句目の結びの子規=5音で読めば「ほととぎす」が、のちに彼の生涯を代表するペンネームとなりますが、これを詠んだ瞬間の明治の文学青年正岡常規には、まだその気持ちはなかったでしょう。
5-3.jpg 2句は卯年生まれの自分を、「鳴いて血を吐くほととぎす」に重ねて句を作り続けることで、自分に訪れた事態の衝撃を、取乱さず冷静に正視しようとした姿勢の最初の顕れです。
 この3日後に同級生・夏目金之助君が見舞いに訪れ、その帰りに診断した医師を訪ねて詳しい説明を聞き、正岡常規君が気を付けるべきことを懇切丁寧に伝えています。「漱石・子規往復簡」の始まりですが、これについてはずっと先のことになりますが詳しくお話しします。
 
  少年期から、書くものに合わせてペンネームを即興的につけて楽しんできた機知に富んだ青年でした。しかし、この体験を見つめ、血を吐く鳥を含意する「子規」を、自分に冠する名前とすることをこころの裡で決め、人に向け名乗る言葉にするまでには、実は少し、思念する重い時間が必要だったようなのです。この単純一直線に生きたかに見える日本男子にしても・・・

 ※ この回を 子規の出自と生い立ち① と副題して、幼いころからの成長を伝記的にお話しようと思っていたのでしたが、ほととぎすを名乗った青年期に話が飛んでしまいました。次回もこの続きとなるかと思いますが、お付き合いください。
  (漱石をお話しするときもこんな風になってしまいそうです)
      次回・今回の正岡子規のお話の続きです。12月16日(予定)です。

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フェアリー・妖精幻想 №97 [文芸美術の森]

花と昆虫と小鳥の妖精たち 4

                     妖精美術館館長  井村君江

妖精社交界を描いたA・J・マレー

 花々の精のような、また昆虫のように美しい花から花へと飛ぶ妖精は、幻想や夢の国に人を誘うものとして、また現世的でない美の象徴的存在として、ヴィクトリア時代の女性の間で愛されたが、自分で絵筆をとり妖精を描くことも流行した。ヴィクトリア女王が妖精画を集めたりしていたことも拍車をかけ、妖精画を描くことがヴィクトリア・レディのたしなみの一つにまでなった時期もあったようである。
 今世紀に入って、マン島で発見されたアメリア・ジェーン・マレーの妖精画集やスケッチなどが、一九八五年に『妖精の四阿(フェアリー・バウワー)として一巻にまとめられたが、この画集はそうした消息をよく物語っている。
 父は王立国防軍大佐、叔父はマン島の総領事という名門で、典型的ヴィクトリア朝レディとして育ったアメリアは、マン島の庭園の花や昆虫、小鳥をスケッチすることが好きであったが、白い蝶の麹をつけ、薄いボイルのドレスを裾長に着た上品なリージエンシー・スタイルの女性たちが、写実的に描かれたカタツムリやコウモリの上に乗って空を飛んでいる。
 へザレーの『キノコに坐る妖精』やシモンズの『飛ぶティタニア』などは薄いヴェールを着ていてもほとんど裸婦であったが、ヴィクトリア朝レディのモラルは、妖精たちに白いドレスをつま先までまとわせており、優雅な品格をもって、野の生きものたちとの社交界や饗宴に出席している。

」・J・グランヴィルの花や蝶の精

 アメリアの蔵書の中に、トマス・ビユイックの『ブリテン島の鳥類図鑑』があり、鳥の羽や昆虫の姿を描く時に参考にしたようであるが、イギリスには博物学挿絵画家の伝統があって、彩色された目の覚めるような素晴らしい図譜が、ジョン・グールドや文学者のリアによって描かれており、こうしたものが妖精画に素材を提供したり、その画面を豊かにしたのである。
 そうした動植物図譜を愛するイギリスの人々が、フランスから入ってきたJ・J・グランヴィルの博物学的手法で描かれた多色石版の『生きた花々』(一八四七)や手彩石銅版の『星たち』(一八四九)『蝶々』(一八五二)など一連の画集を好んで入手し、当時の妖精画にまでその影響があったことは領ける。
 しかし、グランヴィルの描く星の冠をつけ空を飛ぶ女性たちや、蝶や昆虫の超をつけて恋人と踊る色白の女性はみな美人で、磁器のように色白で画一的な表情をしている。ウォルター・クレインの花の精たちが各々の花の性質を表情や動作で示していたのとは違って、みな端正で冷たい無表情である。
 極彩色の花や蝶の羽は、それ自身克明に美しく描かれているが、日中の日の光のもとでくまなく明確に描かれているようで、神秘性は失われてしまっている。
 筆者は友人であるジョン・グールドの孫の家で鳥類図鑑と一緒に初めてグランヴィルの『生きた花々』を見せられ、一瞬、目も覚めるような両者の色調に日を奪われたが、同じ系列の絵のように感じたことを鮮やかに覚えている。胴体がトンボになった女性、上半身がバッタの男性、足のある蝶たちが戦っている姿になってくると、妖精画というよりは気味の悪い戯画を見るような思いがある。妖精はすべて美しいものではなく、醜い出来そこないや奇妙な姿、顔を持つ生きものもいるわけであるが、人間と昆虫が一体となったような変身(メタモルフォーズ)の姿を克明に描いた画面からは、幻想性というよりは諷刺性や戯画としての面白味の方が強く浮びあがってくるようである。
 ちなみにJ・J・グランヴィルはパリで舞台衣裳のデザイナーをしていたが、のち諷刺画家として知られた人である。
J.J.グランヴィル「蝶々」.jpg
J.J.グランヴィル「蝶々」


『フェアリー』 新書館

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にんじんの午睡(ひるね) №44 [文芸美術の森]

戦争よさらば

                                      エッセイスト  中村一枝

 新聞に出ていたのだが、この11月で第一次世界大戦の終結から100年だそうである。ヨ―ロッパではフランスのマクロン大統領のよびかけで記念式典が行われた。皮肉なことに、第一次世界大戦終了後ほどなくして第二次世界大戦が起こっている。今の自国第一主義や分断がこの戦争がおこったときの状況と似ていることが指摘されてもいる。そして、第二次大戦後も、世界のあちこちで戦争らしきものは起きつづけているのだ。
 ただ日本にかぎっていえば、確かに自衛隊が戦場すれすれまで動いてはいても戦争には関わっていない。たまたま運がいいのか、それとも現場の判断が、戦場すれすれまで動いても戦争にはかかわらないということなのか。これってもしかするととても好運なことかもしれない。アメリカのように革命が起きているわけでもない国で年中銃乱射事件が起きる。銃規制などと叫んでもせせら笑う人が多い。日本から見ると身を置くだけでも怖い国になっている。今、世界の情勢は10年前とは大きく変わり、一触即発という危険な場所にたつ国がいかに多いか。、毎日、新聞を見ているとよくわかる。人間って戦争が好きな動物なのかと思ってしまうくらいだ。戦争をおこさないまでも誰かの怒りに火をつけたり論じやすくしたり、といった事は後を立たない。平和という言葉がなんと貧しい響きを持って聞こえることか。先の大戦から70年以上も平和だったんだからそりゃ当たり前でしょという。世の中のありようも、この間に進歩のほうには向かわなかったように思う。ただお互いをなじり合うことしか出来ないのかとふと思う。日本が今は戦争にかかわらないでいられるのは地理的な条件も関わっているが、ノーモア広島の合言葉も大きい。戦争を経験した世代はどんどん減って来ている。ささやかながら戦争を経験した世代としては二度と戦争には参画したくない。
 戦争中は伊豆半島の東海岸伊東に疎開していた。疎開先といっても、海から攻撃されればひとたまりちもない小さな町なのに、天城山の山の中に逃げればいいとでも思っていたのか。いま思うと戦争することがどんな事なのか、誰もわかっていなかったに違いない。もしかすると戦争は大人の男たちには一種の快楽につながるものかもしれない。普段できない攻撃だのを公然と理屈をつけてさらに名誉とか栄達も付いてくる。こんな面白いゲームはないと今でも言う男たちがいる気がして仕方がない。この間のアメリカの中間選挙の結果を見ても、そういう男達がいるに違いないという気がして仕方ないのだ。今あるこの平和、掛け替えの無いこの平和。とても貴重なのだ。そして、先の大戦から70年でもこの平和を守れた自信をもう一度確認すべきだとつくづく思う。戦争を知る本当に最後の世代になってきた今こそ、世の中のおじいさんおばあさんは声を上げるべきなのだ。呆けている時間はない。

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渾斎随筆 №21 [文芸美術の森]

中村 彝君と私 2

                            歌人  会津八一

  それからは、つい事に紛れて、折々思ひ出してはゐながら、一度も中村君を見舞はわなかった。昨年の暮に押しせまって、私は『南京新唱』といふ名で、二十年ばかり前から、奈良地方を歩いて詠んでおいた歌を、一冊にして出版させた。それを中村君にも贈った。すると、十二月の二十日に、中村君とこの岡崎さん ― 中村君の晩年の傑作で「老母」といふ肖像になったその人 ― が、手紙と一籠の葡萄を持ってやって来られたので、玄関でそれを受取りながら、取りあへず最近の模様をたづねると、近来ことに良くないので、面会は謝絶してゐますが、いただいた歌集のことで、御目にかかって御話をしたいと口癖に申しますから、御暇に是非御いで下さい。と、帰りかけてから、また足をとめて、永らく中村を看てまゐりましたが、今度こそ、御しまひかと思はれます。と、悄然としていはれるから、いやああゝした強い人は、なかなかたやすく死ぬものではない。今大急ぎで中学校の英語の答案を見てゐるところだから、二三日すれば御訪ねする。それまで御待ち下さい。と、この「老母」を還してから、私はすぐその寵の葡萄を出して食べながら、手紙の封を切った。その手紙はかうであった。

 この間は『南京新唱』をわざわざありがたう。あの中にをさめられた百五十余首の歌は、みな素敵だと言ひ度い位、僕の気に入りました。殊に奈良の風物をよんだものの中には、嬉しくて泣き出し度くなるやうなものが随分ありました。然し今、僕が一番なつかしく毎日くり返して読んでゐるのは「村荘雑事」です。
  野の鳥の 庭の 小笹に 通ひ来て あさる 足音の かそけくも あるか
  茂り立つ 樫の 木の間の 青空を 流るる 雲の やむときも  なし
  武蔵野の 草に とばしる むら雨の いやしくしくに 暮るる 秋かな
  入日さす 畑のくろに 豆植うと 土おしならす 手のひらの 音
  行く春の 風を 時じみ 樫の根の 土に乱れて 散る 若葉 かな
  花過ぎて 伸びつくしたる 水仙の 細菓 みだれて 雨注ぐ 見ゆ
これらの歌を口ずさんでゐると、言葉の微妙な饗と、不思議なニュアンスにさそはれて、全く自然と歌とのけぢめが分らなくなり、まるで目白の自然そのものを、まざまざと歌の中に見る心地がします。何でもなく歌はれた文句のはしにも、悠久な自然の忍びよる幽かな響、はてしなく流れ、わびしくおしうつり、やはらかに恵む、その深い気息が感じられて、全く堪らない感じがします。悲しいと言っていいか、嬉しいと言っていいか、ゾクゾクとして迫る大自然の幽玄な力に蔽ほれて、體が急に寒くなり、血壓の高まるのを覚えます。今度は俳句の万を出して下さい。先づはとりあへず御禮まで。
   二十日                                      彝

 私は勿論非常な興味で読んだ。そして、何度もくりかへしくりかへしした。私のやうに年来知音乏しい者にとっては、かういふ人からの、かういふ挨拶は、世にも嬉しいものであったことは云ふまでもない。しかし、いま一つ私の強く感じたことは、この賛辞は、私の歌はさて置くとして、あちらの芸術に、もつとよく適合してゐることであった。少くも私は、かういふ種類の、かういふ程度の評価を、彼の芸術に対して持ってゐたのである。私の歌を主題にはしてゐるけれども、実は彼自身にぴったりする観察が、このやうに切実に、鮮明に流露してゐる此の一通の手紙を、冬の日の当たる縁側に寝そべりながら、冷たい葡萄を口に含みつつ、一人で読み返し読み返しした、私の比の時の気持は、いつまでも思ひ出されるであらう。
 それから二三日して答案の山もやうやく片附いたが、丁度日曜で、一週に一度の乗馬の日であるから、私は朝早く市谷の士官学校へ行って、私の団体の人たちと、いつもの通り一と鞍の稽古をして、馬から下りて休憩してゐる時に、校舎の石段に腰をかけて、持って来た新聞を一人が広げて読んでゐるのを、肩越しに覗き込むと、三面の下の方に中村君の写真が出てゐた。びっくりしてすぐ馬を馬丁に渡して、飛ぶやぅにして落合へ戻って来た。やはり岡崎さんの見透の通りであったのか。そんなら、何とかしても会ひに行くのであつたのにと、申訳無さに、ほんとにやるせの無い思ひをしながら、やうやく中村君の所へたどりつくと、もう澤山の知己や友人たちが、みんな詰めかけて、庭の芝生の上までゐこぼれて、控へて居られた。そこへ乗馬靴のままで駈け込んだ私の、絵かきらしくもない姿に、不思議さうな眼をみはる人が多かった。すると鶴田吾郎君であったかと思ふが、彝さんはこの方の歌を毎日唱つてゐるうちに、一度に喉がつまって亡くなったのださうですと、明瞭に一同へ紹介してくれた。岡崎さんの謡では、その時には、仲よしの曾官君も鶴田君も来合せてはゐなかったので、中村君はほんとに一人で死んで行ったのだといふ。
                          (大正十四年一月十四日稿)

『会津八一全集』 中央公論社

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石井鶴三の世界 №128 [文芸美術の森]

うそ1961年/とがくし1961年

                       画家・彫刻家  石井鶴三

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うそ 1961年 (202×144)
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とがくし 1961年 (224×175)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社石井鶴三

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ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №93 [文芸美術の森]

金持ちロシア人を嗤う 5                  

                  早稲田大学名誉教授  川崎 浹
カーニバル的な作品 

レケチールとはマフィアの下情け業で、借金の取り立てなど行い.暴力をふるい殺人を犯す。もちろん、自分たちで盗みをはたらくことはできるが、結局はマフィアのルートに乗らないと盗品がさばけない。

 レケチールたちが新ロシア人のフラット(住宅)に押し入り、電話を引きちぎって、持ちだし、金を盗んだ。フラットのあるじは食堂にすわって静かに茶を飲んでいた。
 「じゃ、ご主人、さようなら」と〈お客さん〉のひとりがいった。「もし、気に障るようなことがあったら、ごめんよ」
 「なにも心配することはないさ」とあるじは彼をなだめた。
 「どっちみち、わたしは新しい月賦(クレジット)で買うから」
 「悪いな、じゃ、また近いうちに」

 クレジットで被害をうけてないのなら、「また近いうちに」という意味である。
 話は二世紀前にさかのぼるが、バイロン公に仕える前の貧乏なクリコフスキイの家に、泥棒たちがしのびこんだときのアネクドートを思いだす。同じパターンを踏んだと思われるほど、これは新ロシア人アネクドートにしては「品のいい」作品ながら、主人公が入れかわったせいか品格に欠ける。というよりは、新ロシア人のアネクドートの特徴は混迷時代の混沌にふさわしくカーニバル的と呼ぶべきなのだろう。
 新ロシア人たちは時代に翻弄されるばかりでなく、やけっぱちに明るい陽光のなかで時代を跳梁(ちょうりょう)する。市民たちはかれらに、内なる醜さをさらけだす誇張的、暴露的な仮面をつけ道化を演じさせ、地面にひきずりおろす。新ロシア人アネクドートには古典アネクドートのような品格ではなく、庶民の溜飲をさげる嘲笑と、同時に対象をかかえこんで笑う哄笑をも見なければならない。また政治アネクドートのように恐怖の標的を前にしての、深く大きな沈黙と無が背景にひかえていないので、傑作は生まれにくいが、これでもか、これでもかと新ロシア人アネクドートはあふれでる。
 ポスト・ペレストロイカの時期にモスクワのあちこちに賭博場ができて、話題になったが、いまや日常茶飯事になった。魑魅魍魎(ちみもうりょう)のロシアの夜中に平気で歩いているのは、よほどの人物だという読みがあるので、つぎに登場するバス車庫の当直も相手を社長あつかいする。新ロシア人も相手を立てて所長あつかいする。ついでにいっておくと、いまモスクワの研究所の教授の月給が一〇〇ドル。私の知り合いの教授は自嘲ぎみにそうぼやいていた。

 へべれけに酔った新ロシア人が午前四時、カジノから転がりでてきて、路上で手をあげる。静寂のさなかにあって、一台の車も見えない。とうとう遠くに交替要員の運転手たちを集めるトロリーバスが見えた。新ロシア人はバスをとめさせた。
 「所長さん、ヴィセルキまで、乗せてってくれ」
 「できません。運転手たちを今から迎えに行かなきゃならないいんで」
 「一〇〇〇ドル!」
 「社長、どちらにしてもヴィセルキまでは運転できませんよ。架線がそこまでつながってないのですから」
 「二〇〇〇ドル!」
 「できません。とても行ける所じゃありません。深いくぼみだらけで、それにあの辺は掘り返していますからね」
 「三〇〇〇ドル!」
 「いいえ、恐れているのですよ。首になって、一巻の終わりです⊥
 「五〇〇〇だ! 所長さん、これ以上は取引きしないよ!!」
 発車した。そのうち架線がなくなったので、バッテリーに切り替えた。路上の深いくぼみや工事の溝が始まった。運転者は絶妙な操縦ぶりを示して、すべての障碍をのりこえた。しかしヴィセルキに近づいてきたとき、驚いた運転者の顔がこわばった。道路の代わりに洞窟らしきものがあらわれ、立ちあげられたアスファルトの塊がころがっていて、あたりはなにやら廃墟の様相を呈していた。
 「社長、これは爆撃でもあったんですか?!」
 目をさました新ロシア人は答えた。
 「いや、ちがう。あれは、わたしが昨夜、家に帰るときに地下鉄の車両でやらせたんだ」

 荒唐無稽な出来事で、日本の落語ともどこか共通点のありそうな話題だが、それにしても大陸で暮らすロシア人ならではのスケールの大きな環境設定とバイタリティにあふれるアネクドートではないか。

『ロシアのユーモア』 

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正岡常規と夏目金之助 №4 [文芸美術の森]

      子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承 
                           子規・漱石 研究家  栗田博行
    おさらいです
序Ⅰ。日清戦争という国家の一大事に際して、二人の間に存在した従軍と回避という生き方の対照性があったこと。そこに「卑怯」をめぐる明治日本男子の自意識が動いていたことを垣間見ました。
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  序Ⅱ。そんな根本的な生き方の違いを超えて、ふたりの間には不思議とも見える友情が成立したのであったことに目を向けました。
  序Ⅲ。二人の生涯には、自己決定の大きなタイムラグがありました。しかし、それを超えて精神のバトンタッチ=「継承」が行われた点、二人は「日本文学の城壁を今少し堅固に」しようとした点で同志だったことを指摘しました。

  以上から、「子規・漱石 ~ 生き方の対照性と友情 そして継承」と題したのでした。この観点を底において二人の生涯を追っていくのですが、まず、二人が出会うまでの生い立ちから見てゆきます。何章にも亘ることになるでしょう。

  第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが
金之助と名付けられたこと・・・漱石の出自と生い立ち①

4-2.jpg 漱石(=夏目金之助)は慶応3年、現在の新宿区喜久井町に、代々町名主という家柄の夏目家の五男として生まれました。当時、馬場下横町だった地名を、維新の動乱期に喜久井町と名付けたのは金之助の父・夏目小兵衛で、夏目家の菊に、井桁の家紋から採ったといわれています。
  喜久井町一番地の生家跡には漱石誕生地の碑が立っていますが、その前の道は、やはり小兵衛が名付けたという夏目坂という呼び名で、今も通りの名となっています。
4-3.jpg
 夏目家は、江戸町奉行の配下のもと、神楽坂から高田馬場辺りまでの十一ヶ町を広く管轄する権勢家の町名主だったのです。
 しかし当然のことながら、夏目家もまた江戸から明治への時代と社会の転変の中で、それまで富裕層だった多くの名家が潜った波風を受け続けていくことになります。
 その夏目家に五男坊として生まれ、金之助と名付けられたことは、ひとりのこの男の子の成長過程、獲得した人格、生涯を通じての業績に至るまで、多岐に亘って大きな影響を与えました。

  一例です。因習が色濃く残っている時代でした。生まれたその日の干支では、男の子はそのままでは大泥棒になりかない、「」の字をつけるとそれを避けられるーという迷信がありました。そこから、名家の5男に生まれたこの子は、「金之助」と名付けられたのでした。夏目家内の面白話として子供時代に聞かされて育った気配がありますが、この名づけのエピソードは、実際の金銭体験と合わせて、漱石の生涯に働き続けた「金銭」への「神経質な感覚」をもたらし、自意識のルーツのひとつとなったことが伺えます。 (八注・子規に蒲焼代を払ったりお金を貸したりしたように、決して金之助は吝嗇家ではありませんでしたしかしお金というものについて独特な敏感さは生涯にわたって続いたのでした。
※以降、八注 とは、筆者栗田博行=八荒 の注釈と思ってください。八荒仮説 とある場合は、筆者の推察や主観的解釈と受け取ってください。)
  漱石となって久しい、48歳の晩年になって書いた文章に、少年時代を回想してこんなことを記しています。
                                                    漱石自伝「硝子戸の中」より
   ・・・母は私の十三四の時に死んだのだけれども、私の今遠くから呼び起す彼女の幻像は、記憶の糸をいくら辿つて行っても、御婆さんに見える。晩年に生れた私には、母の水々しい姿を覚えている特権がついに与えられずにしまったのである。

 金之助14歳の時に、55歳で亡くなった実母千枝さんを偲んでいる一節です。漱石がお母さんを語った文章は稀なのですが、このあとこんな一節が続きます。二階で寝ていた金ちゃんですが、

4-5.jpg・・・私はいつどこで犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。それを何の目的で何に遣つた(八注・使った)のか、その辺も明瞭でないけれども、小供の私にはとても償う訳に行かないので、気の狭(ちいさ)い私は寝ながら大変苦しみ出した。そうしてしまいに大きな声を揚(あげ)て下にいる母を呼んだのである。

  金チャンという男の子は、自分のではないお金を使い込んだ悪夢にうなされて、お母さんを呼んだのです。夢の中でか、それとも目を覚ましてか・・・。

 ・・・母は私の声を聞きつけると、すぐ二階へ上って来てくれた。私はそこに立って私を眺めている母に、私の苦しみを話して、どうかして下さいと頼んだ。母はその時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云ってくれた。私は大変嬉(うれし)かった。それで安心してまたすやすや寝てしまった。

  つけられた名前から、自身には謂れのない大泥棒コンプレックスにとらわれていた少年が、母のひと言で解放され安心した一瞬の機微が、文豪の筆で見事にドキュメント(記録)されています。しかし、文豪漱石は、この一節を次のようにも結びます。

   私はこの出来事が、全部夢なのか、または半分だけ本当なのか、今でも疑っている。 漱石自伝「硝子戸の中」より                           
   
  この母の記憶の淡さは、金之助としての生涯のきわめて自然な成り行きでした。それは、実母千枝さんとの接触の薄さがもたらした帰結でした(八注・年譜から漱石の生涯を概観すると、「家と家族」という点で、金之助が痛々しい特殊な育ち方をしたことがすぐ感じ取れますが、それは項を改めてお話しします。)

4-6.jpg 名前というものが、ひとりのナマ身の人間の自分探しと自己確立に、大きく関係することが、金之助の場合、他にも伺える好資料があります。松山市の子規研究の専専門家、和田茂樹さんが残してくれた「漱石・子規往復書簡集」です。日本人のための貴重な人間研究資料と言ってもいいような内容となっている一書ですが、明治22年 共に22歳で出会って以来、子規が没するまで続いた二人の手紙が全部収載されています。
子規宛て漱石の全89通に及ぶその手紙の結びには、「これがあの漱石か・・・」と思えるような様々なペンネームが活き活きと使われているのです。(八注・子規は少年時代から青年期にかけて雅号だけでも百あまり使ったペンネームマニアですが、その相手に誘われてか、才気煥発、ユーモラスなものが少なくありません。)
 4-7.jpg 「菊井の里 野辺の花」 と名乗って、相手の子規に対しては「明治の 神谷うたゝ殿」。 「喜久井町の怠け者」と結んで、子規に対しては「丈鬼兄 座右」(八注・子規の本名常規をもじっているのです)。
  「朗君より」として子規に対しては「妾へ」。これは一高で落第しそうな友・正岡常規君の進級の為に尽力した末に、進級試験を受験できるようになったことを彼に報せた手紙の末尾です。愛する女のために奔走した歳若の男に擬して、自分の親切を茶化しているのです。(八注・子規はこの時夏休みで松山に帰省中でした
   4-8.jpgこんなのもあります。「平凸凹」と名乗って、子規に対しては「偸花児殿(八注・はなぬすびと)。青年期の交遊では子規の文章に辛口に出ることが多かった漱石ですが、この手紙では珍しく直前に届いたらしい子規の文(欠)を絶賛しているのです。そして自分を嘆いて見せて、「蓄音機」のようにたわごとを言っているだけだと卑下する気分の末に「平凸凹」と名乗っているのです。これは幼い頃疱瘡にかかって、アバタが残った自分の顔を戯れての名乗りで、この往復書簡の中で何度かこの名を使っています。少年期から、おそらく青年期の入り口くらいまでの自分探しの時期に、抱え込んでいたであろう「金之助」という名からくる屈託を、こんな知的ユーモアで相対化できるようになっていた・・・そんな成長の証しのひとつと言えましょう。言葉の才能では漱石以上に早熟だった単純率直で陽気な田舎者・子規との出会いと交遊が、同じように言葉の才では早くから優れていたものの、神経質で心の屈託を抱え、鬱と孤独に陥りかねない面をもっていた江戸っ子・夏目金之助に、陽性の大きな影響を与えたことが伺えます。あの金之助という名にともなう心の屈託が、このライフステージではすっかり乗り越えられたことがこの名前遊びから感じ取れます。(八注・精神的な苦しみを訴えたり、真剣な議論を仕掛ける時などは、「金之助」の実名を多く使っています。それらについては青年期や壮年期を追う中で紹介することになるでしょう。)

 金之助、生まれと生い立ちの話に戻ります。
4-9.jpg  生まれた日が慶應3年1月5日であったことも、これまでお話したこと以上に金之助から漱石への歩みに大きな影響を与えました。
  漱石として没したのは大正5年12月9日でしたが、49年のその生きた時間は、まるまる明治という時代に被さっているのです。
 彼の誕生から4日後に明治天皇の践祚の儀が行われています。孝明天皇崩御にともない慶応3年1月9日睦仁親王は満14歳の若さで皇位に即いたのでした。
  それを新国家が内外に告げた即位の式は、金之助一歳半すぎの慶応4年8月27日でした。その12日後の慶応4年9月8日、明治と名付けられた時代が始まります。正岡常規と同じく、夏目金之助もまた明治という国家の中を生きた日本人男子でした。常規君ほどには少年期に書いた文章が残っていない金之助君ですが、11歳明治11年2月に書いた、漢文訓読体の楠正成を論じた作文が残っています。

                                   正 成 論 〔明治十一年二月十七日〕
             凡ソ臣タルノ道ハ 二君二仕へズ 心ヲ鉄石ノ如(ごとく)シ
                      身ヲ以テ国二徇(したが)へ 君ノ危急ヲ救フニアリ
 
  身ヲ以テ(徇(したが)へ = 身命をクニにささげる。いきなり明治国家のスローガンのように始まりますが、小学校の課題作文として書かされたものではありません。友達との回覧雑誌のために書いた自作文章なのです。
    我国ニ楠正成ナル者アリ 忠且義ニシテ智勇兼備ノ豪俊ナリ 後醍醐帝ノ時
と続け、後醍醐天皇の招きに応えて正成が鎌倉倒幕に奮戦したことを綴ります。

   ココニ於テ正成兵ヲ河内二起シ 一片ノ孤城ヲ以テ百万ノ勁敵ヲ斧鉞ノ下二誅戮シ 百折屈セズ 千挫撓マズ 奮発竭力衝撃突戦ス 遂二乱定マルニ及ビ又尊氏ノ叛スルニ因テ 不幸ニシテ戦死ス
 
そして結論をこのように持って行きます。
  
  夫レ正成ハ 忠勇 整粛抜山倒海ノ勲ヲ奏シ 出群抜萃ノ忠ヲ顕ハシ 王室ヲ輔佐ス
   実二股肱ノ臣ナリ 帝 之二用ヰル薄クシテ却テ尊氏等ヲ愛シ遂二乱ヲ醸スニ至ル 然ルニ正成 勤王ノ志ヲ抱キ利ノ為メニ遁レズ 膝ヲ汚吏貪士ノ前二屈セズ 義ヲ蹈ミテ死ス 嘆クニ堪フベケンヤ 噫 (二月十七日)

  現代からすればかなりの難文ですが、粗い意訳をすると 「楠正成は忠と勇の精神で抜群の武功を立て、王室ヲ輔佐した股肱ノ臣(君主が最も頼りにする家臣)である。たとえ寵愛がなくても叛いた尊氏に対して勤王ノ志から戦い、に逃れず、よこしまな役人に膝ヲ屈セズ よくヲ踏み行ってんだ。アア、感嘆に堪えない!・・・ というようなことでしょうか。
  もちろん種本に当たるものはあったでしょう。しかし11歳の少年が書いた文章としては、当時としてはなかなかの名文と言えるのではないでしょうか。のちに触れるとになりますが、小学校も暮らす家も転々としていた金之助君には、皇国史観の漢塾に通った形跡はありません。しかし(八注・言っている内容はともかくとして)この漢字カナ交じり文の歯切れの良さには、時代の空気を吸ってひとりの富裕層の少年が、楠木正成の賛文を書いていくうちに、自分の言葉と精神が躍動する快感を身に付け始めている様子が感じとれます。
 明治改元して11年。帝国憲法発布はまだ大分先のことですが、地勢的・伝統的に生じていたクニ感覚(八荒仮説国土と国への概念)が、皇国史観とした近代国家の観念に昇華しつある時代でした。11歳の少年・夏目金之助君の中で、そのような時代の空気を素直に吸い込んだ明治日本男子の価値観 (美意識と倫理感覚) が、ごく自然なこととして結露した少年期の文章と言えましょう。
4-10.jpg 晩年近い大正3年に書かれた代表作「こころ」の主人公の「先生」が、明治天皇の崩御に合わせて「明治の精神」に殉じて自決を決心する…というストーリーの決着は、それを心の底の水分として持っていたことから生まれたものと八荒仮説としてはとらえています。
  恋愛関係のもつれから背負った罪責感を清算するのに、明治天皇崩御・乃木大将殉死・「明治の精神の終焉」によって決心するというムリ筋を創らざるを得なかった職業作家・夏目漱石を、「苦しまぎれに」と評したのは丸谷才一さんでした。昭和の戦争で徴兵忌避をした主人公を描いた小説「笹まくら」の作家です。(八注・但し丸谷さんはその主人公を、「あの時代、誰もが憧れた生き方をした人物」という意味の言葉も残しています。重要な意味を孕んでいると思いますが、それも含めて考えていくのもこの連載の目的のひとつです。)
  丸谷さん、さすがストーリーを作る職業作家仲間として、作家・夏目漱石の苦しいところをよく見たと思います。尊敬できる見方と思っています。しかし、夏目金之助という明治の世を生きたナマ身の人間の引きずった苦の種 ( 戸籍操作しての兵役回避から生じた「逃げたか金之助…否。自分は卑怯者だったか…否」という自問自答・自意識 ) の清算、という視点で見直すと、それは金之助の少年時代来続いていた心の流れの帰結として、自然なことだったと私(八荒)には思えてなりません。

  ※生まれ落ちた夏目家のお家の事情からも、夏目金之助君の生い立ちと自己形成は大きな影響を受けています。それを見てゆくのは次の次にして、次回はいったん正岡常規君の場合はどうだったかを、見てゆきます。

  次回 正岡常規と夏目金之助 №5
  第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたがⅡ 子規の出自と生い立ち ①
   
12月1日掲載予定です。

 

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フェアリー~妖精幻想 №96 [文芸美術の森]

花と昆虫と小鳥の妖精たち

                     妖精美術館館長  井村君江

 フラワー・フェアリーの画家 C・パーカー
 フラワー・フェアリーの画家として知られるシシリー・パーカー(一八九五-一九七三)の妖精たちは、野に咲く芥子の花やマスクローズ、道端のヒースやプリムローズがそのままあどけない子供の顔になって動きだしてきたようである。
 イギリスの裕福な家庭のつねとして、家庭教師について勉強し、短期間だけクロイドン美術学校に通ったのが唯一の学校教育であった。姉のドロシーが開いていた自宅の託児所に集まってくる子供たちをシシリーはいつも写生しており、純粋なあどけない子供たちに、この世のものでない妖精の映像を重ねていたようである。
 また、生涯の友人であったマーガレット・タラント(一八八八-一九五九)は妖精画家でもあり、二人はともに田園を散索したり、スケッチ旅行をしたりするよい絵描き仲間であった。
 フラワー・フェアリー第一作「春」(一九二三)には、姉ドロシーの詩がつけられて雰囲気をよりもりあげているが、一九二三年から約七年間にわたり「夏」「秋」「木」「庭園」「道端」と自然の妖精画シリーズを出し、出版五〇年を迎える前に世を去ったが、生涯にわたって自然の中の妖精を描き続けた画家であった。
 託児所の子供の手堅いスケッチに、自然観察の正確さが相まったように生れた妖精たちは、その花々の色や形や性質をもっている。たとえば芥子の花ならその花びらに似た薄い赤のドレスを優雅に着こなす乙女であり、アザミならトゲの剣をかまえたいたずらっぽい男の子になっている。彼らは単なる花の精ではなく、蝶や蛾やトンボ、カゲロウや蜂の翅を背にはやして花々のあいだを飛び回る精である。
 かつてフィッツジエラルドの画面に登場していた奇妙な暗い生き物たちはすべて姿を消してしまっており、子供の天真爛漫さと純真さと清らかさ、自然の美しさとが重ねられた、誰からも無条件に愛される妖精になっている。

M・タラントの妖精たち
 親友のマーガレット・タラントは、風景画家であり挿絵画家パーシーの一人娘で、父親と同じ挿絵画家の道を歩んだ。一九〇八年(十九歳)から十年の間に、『水の子』、『不思議の国のアリス』、二つの『ピーター・パン』、『アンデルセン童話集』などの挿絵を描いており、一九二五年あたりから『フェアリーブック』のシリーズを描き始め、『雪片の妖精』(一九二九)、『妖精の行列』(一九四二)などを描いている。白い毛皮付きコートを着て空中に浮かんでいる妖精たちは現実の子供たちであり、パーカーと同じようにあどけない子供に妖精に重なる性質をみていたようである。
 ラファエル前派のミレイが描いたファーディナンドとエアリエルの絵などでは、人間に妖精の音楽は聴えるが、姿は見えていなかった。しかし、タラントは子供たちに妖精が見えており、暖かい交流をし幻想的な世界を共有している場面をいくつか描いている。
 『あなたは妖精を信じるの?』(一九二二)や、『ブラウニーの女王』(一九二六)などでは、少女と妖精たちとの交歓の場面が、野原の子供の回りを踊る妖精や、森のウサギやリスに囲まれガールスカウトの制服を着た(制服が茶色だからブラウニーとも呼ばれるが、ブラウニーは妖精の一種でもあり、二つの意味が重ねられている)少女に、キノコの上で挨拶する妖精などの絵に窺える。
 コナン・ドイルが「コティングリー妖精事件」で、『妖精の訪れ』(「九二二)を出版したその年にこれらの給が描かれていることは、この事件を意識しての構図であろうし、その影響の現われであることは興味深い。
 タラントはつねにフェアリーの給を好んで描き続けていたが、一九〇九年、二十一歳の頃からフエァリー・ポストカードを描き始め、その一つ『チェスナッツ・キャンドル』は代表作で、円形の中に秋にこんもりした木に沢山花を咲かせるホース・チェスナッツ(大きな実はなるが食用にならない栗)の白い花の間から、魅力的な赤毛のフェアリーが、透き通るような薄い羽をつけて蝶のよぅにのぞきこんでいる。顔の微妙な表情や花々のデザインの確かさが、見る者に安定感と不可思議な幻想性とを過不足なく与える。アール・ヌーヴォーのデザインの影響もあり、一九〇〇年代のイギリスの空を、挨拶の言葉を運んで飛び交うのにふさわしいメッセージの使者である。

M.タラント「チェスナッツ・キャンドル」.jpg
M.タラント「チェストナッツ・キャンドル」

『フェアリー』 新書館

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にんじんの午睡(ひるね) №43 [文芸美術の森]

供花

                       エッセイスト  中村一枝

 最近、古い知り合いの一人が亡くなった。気がついたのは新聞だった。彼は声優さんとして名の売れた人だった。住んでいる場所も近かったから、駅の近くで何度か会った。彼と知り合いになる前、20年以上前に亡くなった彼の奥さんとは同じテニス仲間以上に彼女の個性感性に惹きつけられて、ずいぶん親しくなった。20年以上たった今でも彼女の人一倍小さな体 やきらきらした大きな目が目の前に浮かぶ。今だに会いたい人の一人なのだ。
 八ケ岳の山荘に連れてきたときは、すっかり辺りの景色と山荘が気に入って、そばの桐の木にすがりついてうわあと大声をあげた。小さな体で大きな桐の木にしがみついていた彼女の姿がまるできのうのことのようだ。一度は嵐の夜、山荘から電話かかって、今一人で来たという。そんな大胆さ、思い切りの良さも私は好きだった。ご主人とはいつも別行動だったが、彼女がどんなに夫を愛しているかよくわかった。とても昔風の、今でいえば嫁のやることなすこと気に入らないお姑さんがいて、一緒に暮らしていた。けれど彼女は割り切ってその代わり出来るだけの行動の自由を得ていた。彼もまた普段の抑圧の代償に出来る限りの行動の自由を与えていたようだ。彼女は車の免許も取り、自分の鬱屈を上手に発散させていた。
 ご主人は声優さんでかなりの売れっ子、それに謙虚で穏やかでいい人だなと私はいつも思っていた。彼女は身体の具合の悪い事を誰にも告げず1人でがんセンターに行き、辛い宣告も胸のうちにたたみ込んで、いつもの一人旅と同じように、一人でなんでも処理しようと思っていたらしい。わたしは彼女が病気になってからほとんど会っていない。今考えると残念で仕方ないが、また若くて現実に病気で死ぬことに対処できなかったのか、私の至らなさで最後、彼女と関われなかったことが未だに悔やまれてならないのだ。
 若いとき死というものがとても遠くて現実に考えられないのは、わたしがかなり自分勝手ということと関連がある気がする。それにしても今一番会いたい人なのにそのときどうして飛んで行かなかつたのか、いまだに自分でも残念である。彼の方とはその後も街で会えばさりげない立ち話の「じゃあ又」が永遠に断ち切れたまま終わってしまった。脚が不自由になってからあちこち行かなくなったこともあり、せめてもの気持ちと言うつもりで花を花屋さんから届けてもらった。
  何日かたって息子のD君から電話があった。さっぱりとしたその声に私はホッとした。今家族の変化を考えるとお悔やみにお花という発想はそろそろあらためるべきかもしれない。もしかしたらD君は沢山のお花を抱えて処理に困ったかも知れない。とふと、思ったのだった。


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渾斎随筆 №20 [文芸美術の森]

中村彝君と私 1

                                                    歌人  会津八一

 私と中村君との間には、交際といふほどの交際があったわけではない。會ったのは一昨年の十二月一目で、あとにも先きにも、それが唯の一度きりであった。だから、此の人の平素の性行とか生活とかいふやうなことは、殆ど何も知らなかったが、この一度きりの面會から、その時蒲圑に埋まってゐた此の人の顔が、今も目さきにちらついて離れないほどの印象を受けた。そしてその後には、あちらからも、短い問に、幾人かの若い人たちをよこして、私に會はせようとされるやうになった。
 私は元来、絵でも彫刻でも、展覧會でゆっくりと鑑賞の出来ないたちで、どこの會場でも、あのたくさんの観衆と一しょに、あのたくさんの絵を、一枚一枚ていねいに見て行くことは、たまらないほどの苦痛である。それで、いつもそわそわと、少し慌て気味に、受附から下足へ急ぐ。ところが、中村彝といふむづかしい名前に、私が気のついた頃から、この人の作は、この落ちつかない私の足を、いつも床板に吸ひつけるやうに引き留めたものである。そこで、いつとなしに、一度會って見たいといふやぅな気拝が、ひそかに起ってゐたものらしい。すべてに無精な私の流儀としては、豪らいと恩ふ人があつても、すぐ訪ねていって合ってみるとか、それを話の種にでもするとかいふことは、あまりせぬことにしてゐるから、實際「田中館老人」や、エロシェンコの肖像などで、かなり深く感服してゐたものと見える。
 ところが、たうとう此の人と面會することになった。それは、ある日曾宮(そみや)一念君が、あちらの使者として、やって来ての口上に、こちらから御伺ひするのが順序ではあるが、足の利かない病人のことであるから一度御遊びに御いでを願ひたい、といふのであった。こんな場合に、いつも出渋るのが例であるのに、私はすぐ承知して、日取りの約束をした。そしてその日になると、曾宮君が迎ひに来てくれた。何も手土産の用意も無かったので、これでも持って行って見せてやらうと、私が云ひ出したのは、大英博物館の、大きな重いパルテノン寫眞集で、曾宮君はそれを横抱きにしながら、先きに立って門を出た。私の居るのが下落合の三丁目、両君は二丁目で、あまり遠くも無いので、まもなく中村君のところへついた。曾宮君は、玄関へまはると少し遠いと、どれほどのことでもないのに、そこがいかにも曾官君らしく、裏口から入って、勝手を抜けて、いきなり寝室へ先導した。と見ると、そこに主人は寝てゐたといふよりは、気楽に仰になってゐたといひたい。白い蒲圑とシーツの中から、黒い髪の伸びた、血色のいい、元気一ぱいな顔が、驚くほど逞しい右の腕とともに出てゐた。黒い二つの目が私を迎へた。長年の病苦や孤獨と闘ひ抜いて来たといふやうな、寂しさも、わびしさも、この部屋の何所にも無かった。まるで花畑から折って来たばかりの向日葵の大きな一輪を、そこへ投げ出したやうに、鮮かに輝くこの人の風手は、まづ以て、大きな以外であった。
 挨拶もそこそこに、我々はすぐ話し出した。最初、ほんの少しばかり共通の二三人の友人の噂などをしてから、すぐ美術のこと、美術家のこと、まるでほかのことと、いろいろのことをそれからそれへと話した。その間に、この人の、あの麗(うらら)かな、晴やかな言葉のうちに、自然や人生の姿も、藝術の魂も、あの根強い人格の匂ひとともに、刻々に私に迫るのを覺えた。ことに奥深く見通して、熱烈に感激しながら、なみなみならぬ理智の力で掴んでゐるらしい藝術観が、ただの世間噺のうちにも、濁りもなく、曇りもなく、自由に躍動するのが嬉しかった。
 ついいろいろの話しをして、出前の洋食の御馳走になったりして、二三時間にもなるので、暇を告げて歸つた。歸りがけに気がついて見ると、蒲團の下に一冊の小さいフランス語の字書が、かなり手擦れて窺き出してゐた。その古び方から、病床のつれづれも、不自由も思われたので、私はいった。いづれ近いうちにまた御訪ねしたいが、寝てゐる君が、何かさしあたって、知りたいとでも思ってゐられることがあれば、うかがっておいて、偶然私の知ってゐることなら、この次に来てそれを御話しするし、私がよく知らないことなら、遽か仕込みの勉強でもして来てそれを話さう。書物などならば、借り集めて持って来ることにしてもよろしい。私がかういふと、中村君はたいへん喜んで、まるで待ちかねてゐたといふ風に、言下に二つ三つの証文を出された。まづ支那の陶磁器の知識がほしい。それから、奈良の彫刻を、もつと明確な寫眞で知りたい。しかしまた、奈良地方の自然の色調や情趣、今の奈良人の生活などを、私のやうに寝てばかりゐて旅行の出来ない病人に見せる方法は無いものであらうか。そんな書物を一つ作って貰へないものであらうか。まだ何か註文があったが、大體こんなことであった。
 中村君の枕もとへ、パルテノンを置いて掃ってから二三日して、その頃、大分縣臼杵満月寺址で、田舎の寫眞星さんに撮らせて、持って歸ったばかりのキャビネ二十枚を、私は中村君に贈った。それは、あの日最も熱心な質問を受けた有名なこの石佛群の説明を補ふつもりであった。すると翌日届いた禮状のなかに、パルテノンの彫刻よりも、よけいに自分を感激させるものが、此の石佛群の製作の中にあると、中村君は云つて来た。祖先の美術の中に、これほどのものを見出すことの力強さにも云ひ及んであった。ここにも、中村君の自由で、眞率な、しかも愛国的な態度があらはれてゐて、私は動かされた。


『会津八一全集』 中央公論社


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石井鶴三の世界 №127 [文芸美術の森]

湯の又温泉1965年/文殊・小天橋大天橋を歩く1966年

                       画家・彫刻家  石井鶴三

1965湯の又温泉3.jpg
湯の又温泉 1965年 (120×169)
1966文殊・小天橋大天橋を歩く.jpg
文珠・小天橋大天橋を歩く 幸になったり雨になったり 1966年 (123×170×2)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社石井鶴三

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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №93 [文芸美術の森]

金持ちロシア人を嗤う 4

                  早稲田大学名誉教授  川崎 浹

乱脈経営の反映  
 私はつぎの作品で、内務省軍が交通取り締まりに関係していることを知った。以前は専らガイーという交通警察だった。

 内務省軍の警備隊がロシア人たちの乗っているベンツをとめた。
 「身分証明を見せてください」
 「どうぞ」
 「どうして、みんなこんなに汚れているのですか」
 「悪党連中が点検して、手でさわり、それでこんなに汚れているんですよ」

 「悪党連中」とはアモンの警備隊を指している。アモンと新ロシア人はどうやら宿縁の敵手らしい。

 内務省軍の警備隊がベンツを止め、書類を点検しはじめた。ベンツの運転手がいった。 「すぐに検査をたのむ。あとからあんたの同僚が追ってきているのでね」

 新ロシア人の「悪行」ぶりを裏から衝いたアネクドートがある。

 弁護士が新ロシア人の「するりと逃げやすい」事件で勝訴した。喜んだ弁護士は自分の依頼者に「真実が勝てり」と電報を送った。すると直ちに返事があった。「控訴を頼む」

 新ロシア人は自分の側に「真実」があるとは夢にも思っていないので、ただちに控訴を依頼したのである。同様の「悪行」についての作品をあげよう。

 ロシア人が自宅に二〇〇〇万ドルの火災保険をかけて、保険代理人にたずねた。「もし今晩、自宅が焼けたらいくらくれる?」
 「五年です」

 もちろん五年の懲役刑をくらうという答である。今度は新ロシア人が銃砲店にきてピストルを買おうとしている。

 「どんなタイプをお望みですか?」
 「正確なことは知らないけど……人間五、六人タイプね」

 五、六人は殺せるピストルが欲しいといっているのだ。つぎのアネクドート先述のMMM投資信託のような経営の乱脈ぶりを映しだしている。

 久しぶりに会ったふたりのロシア人が「ベラルーシ」で食事をした。
 「グリーシャ、調子はどうだ」とひとりが尋ねる。
 「もう五回も破産宣告をしたよ」
 「それがどうした?」
 「もしこんな調子でいったら、六回目にはほんとに破産してしまうよ」
 銀行から会社に電話があった。
 「私どもはあなたにクレジットを返済してくださるよう一二回目の予告をさせていただきます。一三度目は予告しませんから」
 これにたいし会社側は答えた。
 「わかりました。ただそんな迷信は信じないでください。一三の数字が不幸とか、そんなことはありませんよ」
 「もし一〇〇万ドル手に入ったらどうしますか」
 「借金に支払いたい」
 「残りはどうします」
 「残りは待ちますよ」

 新ロシア人が巨額の借金を抱えこんでいることを暗示している。

『ロシアのユーモア』 講談社選書

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往きは良い良い、帰りは……物語 №64 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語
その64 特別企画【鎌倉吟行】
  テーマ・ワード=「情」と「父」各1句
  ほか2句=嘱目

                コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

◆◆平成30年9月25日◆◆
当番幹事(大谷鬼禿氏&森田一遅氏)より下掲のような案内状が届きました。

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極暑の夏もようよう納まり、彼岸花咲く秋と成りました。
そこで、「十月こふみ会」は。いつもの青山を出て、秋の鎌倉へ吟行いたします。
折しも、本会員の沼田軒外さんの2人展【禅・仏・頂相】の最終日と重なり、小町通りの画廊に立ち寄り、八幡宮参拝のあと、境内を抜け、会場の旧里見弴邸へ向います。
昨日、幹事は会場の当邸を下見してきました。
何分、昭和元年築のモダン建築ですから、正直いって、古く、いたみも有るのですが、鎌倉の素顔ということで、お頼みしてきました。
いつもとは一味違った句会として、【鎌倉吟行】ふるってご参加ください。
●期日=10月8日(月・祝)体育の日
●集合=午前11時・鎌倉駅東口改札
●会費=1,500円(他に景品3個。なるべく食もの)
●兼題=二題「情」「父」
(今回の兼題は季語ではありません。作句の場合、題の一文字のほかに季語をいれてください。席題は集合時に出します。)
★出席なさる方は即刻ご連絡ください。遅くとも9月中にお願いします。
 連絡集計は森田一遅
  アドレス=mrthjm@globe.onc.ne.jp
  モバイル=090-4129-0195
 〒118-0021 
 東京都文京区本駒込2丁目28-1 B-1505
  森田一(もりたはじめ)

★2人展の会場は、鎌倉市小町2-8-35 GALLERY 一翠堂
★句会会場は鎌倉市西御門1-19-3 TEL=0467-23-7437 石川邸(旧里見弴邸)
★幹事=大谷鬼禿・森田一遅
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◆◆これを受けて私・孝多は……◆◆
ふっと思い出しました。中村草田男の句です。
『父となりしか 蜥蜴とともに 立ち止る』
これだな! 草田男は「父」を入れ、更に季語「蜥蜴(夏)」を使って作句している……。
でも、それを書いたのでは、つまらないし、幹事でもないのに、例句を挙げたようになってしまって僭越。
ではどうするか? 少々考えた後に決めました。「父」という漢字の古書体をテーマにしたビジュアルの返信レターにしたらいい。そうしよう!!
そこで下載、ご覧のとおりの返信レターです。(FAXなので一遅氏へ、ではなく鬼禿氏へ、送りました。)

「父」の古書体を、平凡社・白川静著の『常用字解』から採って拡大したものです。
『常用字解』によれば、もともと「父」は斧(おの)の頭部(刀のところ)を手に捧げ持っている様子を示すもので、家族の精神的中軸であり、決裁し指導する立場にある人のこと。
この斧はそういう立場の「父」だけに許されている特別厳かな儀式を行なうときのための道具(木を伐るのとは違う。)ですって。
その「父」の字が甲骨以来、時代によってカタチを変え、レターに示した篆(てん)文のあと、隷書(れいしょ)、楷書、行書、草書と続いて、今日に至っているという次第です。でも、はて、さて、21世紀に於ける日本の「父」の像は……?? 指導的立場?? 斧を持っている??

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文面は下記のとおりです。
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こふみ会
10月当番幹事
大谷鬼禿様                                                   
森田一遅様

ご案内 有難うございました。
10月8日の特別企画「鎌倉吟行」に参加・出席致します。
兼題は二題、「情」と「父」ですね。それに季語を添えて5.7.5にまとめること。承知しました。
軒外さんの展覧会見学も、大きな楽しみ。いろいろご苦労さまですが、よろしくお願い申しあげます。
当日が、待ち遠しい思いです。 草々  孝多
平成30年9月27日
(当日は、特別予算も用意しておきます。)
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◆◆そして当日はどんな風だったか……◆◆
10月8日の、グループとしての行動を、まとめて述べれば、ざっと下記のように相成ります。(天気にも恵まれ、良かったあ。)
◆先ずは11:00 JR鎌倉駅・東口に集合。
◆次ぎに(歩いて)市内・小町2丁目の「2人展」会場へ。
じっくりと作品を見せて頂いた後、こふみ会からのお祝金(金一封)を孝多から軒外氏へ。パチパチパチッ!
軒外氏からは返礼として全員に『沼田博美2019カレンダー鎌倉禅刹の仏像』と題する7枚もののカレンダーを1冊ずつ頂戴。パチパチパチッ!
「私たちは自己の様々な情感を仏像に投影するのである。」と軒外氏はカレンダーの言葉書きに記されましたが、全く同感。良い展覧会を体験しました。


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久保田潤氏にも『禅・頂相・暦』と題する8枚もののカレンダーの作品があり、これはサービス値段で各人が自由購入。
会場では軒外氏の奥さま(絵本作家)のお出迎えも頂き、棚に置かれた数冊の著書も拝見。優しい言葉の宝庫でした。

◆次ぎに(また歩いて)鶴岡八幡宮へ参詣。
石段を上る、その左側に、実朝を討つべく公暁が隠れていた大銀杏。先年それが割れて倒れて、今はその切り株に伸び始めたひこばえ(孫生え)に人々の期待が寄せられているとのこと。八百年の歴史を持つ古木の若葉です。
頼朝の前で「しずやしず、しずのおだまき、くりかえし……」と、静御前が歌って舞った若宮堂も境内に。その朱塗りが痛々しくも、あわれ。
更に、矢印の示す方向へ歩めば頼朝の墓。

◆次ぎにまた、山里といった感のある小道を曲がり曲がり、歩いて歩いて、句会の会場、旧里見弴邸、通称・西御門 (にしみかど)サローネへ。(写真)

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古い、しかも、あちこち、きしんだりしている和室が私たちを待っていました。大きな窓ガラスはムカシのものですから、かすかに表面が波打っていて、外が、ひずんで見えるところがあります。
しかし、しかし、確かに、手のこんだ造りです。一部は堂々たる茅葺(かやぶき)です。

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◆そこに弁当(名物・鰺の押寿し)が運ばれ、酒は裏霞。
句会は順調に進み、席題は嘱目2題、計4句投句と、いつもと同様。
コピー機も幹事が下見しておいたとおり、1階の奥にあって、良かった良かった。

◆ところが、軒外氏はケータイで呼び出され、急用のため、投句しただけで、選句はせずに途中退席して展覧会の会場へ。
あとから幹事が資料一式を届けて、選句や短冊や景品などの受け渡しは、次回、11月の句会にて、ということになりました。
これは、微笑ましい、不思議な手順。こふみ会史上初のことです。パチパチパチッ。

◆ですから、この席での成績発表は、暫定的なものと相成りまする。でも、1位は1位、2位は2位……。
発表しま~す。

◆本日のトータルの天は28点の鬼禿氏。パチパチパチッ。
代表句=幽霊も 居ない邸(やしき)の 熟し柿

◆トータルの地は27点の美留さん。パチパチパチッ。
代表句=金木犀 かほりて古井戸 朽ちるのみ

◆トータルの人は25点の矢太氏。パチパチパチッ。
代表句=天高し 玉子食ふ父 無口なる

◆トータルの次点は23点の紅螺さん。パチパチパチッ。
代表句=秋麗(あきうらら) 弓射る人の 古装束

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向かって左から次点の紅螺さん、番外つまり、等外の孝多、人の矢太氏、天の鬼禿氏、地の美留さん。
孝多は次次点(次点の次ぎ)なのですが、まわりから「こっち、こっち」と手招きされて、つい、顔を出してしまいました。恐縮です。

皆さん、おめでとうございました。パチパチパチッ。

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旅先にてもカラフルです。

◆◆句会がお開きになると……◆◆
またまた、みんなで、歩いて、再び、「2人展」のギャラリーへ。
そこで幹事が資料を軒外氏に手渡しました。こうして、来月、11月の句会にてデータが揃うわけです。奥さまは、一同に、お茶をいれて下さったりして、お心遣い頂きました。

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そして結局は、また歩いて、自由参加の二次会へ。余韻の集い。一遅、鬼禿、珍椿、軒外、紅螺、孝多の6名。こじんまりした、ペスカバという店。和食と、イタリアン料理と、ワインが売り物という変わったところ。
予約してない客が、丁寧に、断られて去っていくという一場面もありました。

◆◆始まりました。我ら6名の闊達な飲・食・談。◆◆
先ずは幹事の鬼禿氏による挨拶と語り……。
「幽霊も 居ない邸の 熟し柿」 氏の作品ですが、鎌倉にはもったいないようなことがごろごろしてる・・・…。旧里見邸のような古くて、由緒正しくて、今は無人の家屋、建造物が沢山あり、それを管理・保全するための鎌倉市の予算も馬鹿にならない。そのため、民間に管理をゆだねている物件も少なくない。里見邸もそのひとつ。「石川邸」という表札もかかっていたけれど、それは現在、不動産会社の社長さん、石川さんが管理者となっているから、とのこと。
しかし、万全が期されているとは限らない。どうすれば良いか??
保全と活用が大きな課題。
一同、ほほ~っと頷きつつも、交通の便が問題。鎌倉の国際的観光地化による治安維持や自然災害などへの対策も必要……、と、さまざまな意見が交わされました。

◆国際化といえば、俳句の国際化はどうなのか? 英語ハイクはどこまで俳句なのか、歳時記はどこまで通用するのか?

◆そうだよね、「季語は日本人にとっても、困った問題だよね。」 どうしてビールも鮨も夏のものと決めつけるの? 何故、鮪(まぐろ)も塩鮭も冬のものなの? どの歳時記にも、そう出てるけど……。「昔は昔、今は今」じゃないか。

◆有季定形と自由律の問題もあるし……。

◆その前に、皆さん、どうしてるの? ひとつの兼題に、2句、3句…と出来てしまったとき、どれを投句するか、迷ったことない?
あるよ、ある! そして、出してダメだったとき、がっかりするね。あとで。くやむね。こっちを出しとけば良かったのに……。

◆でも、でも、仕方がないですよね、得点は、選句用コピーに、自分の句と一緒に並んで載っている、他の人の句に引っ張られるとか、掻きまわされるとか、影響されることも、まま、あるしね。

◆そうだねえ。むずかしい。

●やがて残念。鎌倉から遠くまで、各自、乗り換えなしで帰れる列車の最終は、割りと早いので……已む無く散会です。
当番幹事さん、ご苦労さまでした。有難うございました。愉快だったあ。また企画してくださ~い……と、お頼みごとばかり。  草々     孝多
               平成30年10月11日

≪追伸≫私・孝多が紅螺さんから頂いた短冊が紛失しました。ペスカバの店でもそんなことを言って、皆さんにご心配をおかけしたのでしたが、「発見」されました。当日、短冊撮影の後、私が間違えて、珍椿氏の大きな袋の中に仕舞い込んでしまったのでした。翌日、氏からお電話頂き、それが判明したという次第。珍椿さん、失礼しました。有難うございました。皆さん、お騒がせしてすみませんでした。短冊は11月の句会の席に持って来て頂くことになって居ります。
                                                               (以上)

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      第586回 こふみ会・全句
    平成30年10月8日   於 鎌倉・旧里見邸(西御門サローネ)
                     
◆兼題=「情」プラス季語    順不同
曼珠沙華(まんじゅしゃげ) たった一夜の 情に咲く  軒外
桐一葉 君の情けに 泪滲ませ                           珍椿
守られて 情を交(かわ)せし 栗と毬(いが)             虚視
情死の家に 珈琲待てば 木の実降る                    弥生
情深き 猫膝に来る 秋思かな                             美留
情とは 別れを包む 虫しぐれ                              鬼禿
秋時雨 低く歌うは 佐渡情話                              紅螺
鎌倉や 情知らずの 鰯雲                                  矢太
情は降る 金木犀の 香となりて                           一遅
賜わりし  情けの言葉 偲ぶ秋                             孝多

◆兼題=「父」プラス季語     順不同
天高し 玉子喰ふ父 無口なる                              矢太
秋袷 アサヒジャーナル ひらく父                           紅螺
父の背に 膏薬を貼る 菊日和                              珍椿
秋の宵(よい) 父の遺(のこ)せし 聖書繰(く)る        虚視
新走り 酌む父の顔 艶めいて                              美留
中折帽の 父が来さうな 秋の暮                            弥生
あの頃の 父は父時に天敵 今は石                      鬼禿
父の遺品 受け取った日の 彼岸花                        一遅
父方の 血(ち)で呑(の)ん兵衛(べえ)で 秋祭り       孝多
金木犀 香れば父の 命日近く                              軒外

◆席題=嘱目(一)        順不同
幽霊も 居ない邸(やしき)の 熟し柿                       鬼禿
五体投地 して何祈る こぼれ萩                            弥生
古戦場 右に眺めつ 波に乗る                              軒外
古都の秋 見知らぬ言葉 飛び交いて                      虚視
秋麗や 少女剣士の 面の声                            美留
銀杏舞い 公暁の太刀の すさまじき                       一遅
矢印や 頼朝の墓へ 枯葉舞う                              孝多
秋の庭 いろはにほへと 散る葉かな                       矢太
秋麗(あきうらら) 弓射る人の 古装束                     紅螺
赤蜻蛉 参道脇に じっとして                                珍椿

席題=嘱目(二)     順不同
金木犀 かほりて古井戸 朽ちるのみ                      美留
晴着の子 山に抱かれて 古都の秋                       虚視
古寺の 山門近く あけびもぐ                                軒外
郁子(むべ)三つ ギャラリーにあり 水彩展                紅螺
秋深し 路肩の花に 心うばわれ                            珍椿
参道に 古看板競う 秋の風                                 一遅
ドミソラソ 校庭に秋 こぼれ出す                            矢太
破蓮(やれはす)や 八幡宮の 源氏池                      弥生
孫生(ひこば)えの 銀杏の細さや 七○○年               鬼禿
行く秋や 古都一隅の 展覧会                               孝多

                                         (以上10名40句 )

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正岡常規と夏目金之助 №3 [文芸美術の森]

      子規・漱石 ~生き方の対照性と友情、そして継承 
                 子規・漱石 研究家  栗田博行

  序 Ⅲ ― 継承 ・・・ 自己決定のタイムラグを超えて

  よく知られているように明治31年、子規は「歌よみに与ふる書」を発表しています。その中でこんな激しい言葉を吐いています。

2-3.jpg「貫之(つらゆき)はヘタな歌詠みにて『古今集』は下らぬ集に有之。…あんな意気地のない女に今までばかされてをつた事かと、くやしくも腹立たしく相成候。」  (再び歌詠みに与ふる書)
「生は(=自分は)国歌を破壊し尽すの考にては無之、日本文学の城壁を今少し堅固に致したく、外国の髯(ひげづら)どもが大砲を発(はな)たうが地雷火を仕掛け(しかけよ)うが、びくとも致さぬほどの城壁に致したき心願有之、」  (歌詠みに与ふる書 六)

  死の時期がさらに近づいていることを意識し始めた子規の、国歌(=日本の文学)への「志」(こころざし)が生んだ叫びでした。
 まるで維新の志士か自由民権運動の闘士のような子規のこの言葉に対して、熊本で鏡子さんとの結婚生活2年目の初春を迎えていた漱石の反応はどうだったか…それを確認できる資料はありません。しかし、松山で子規の「俳門」に入った漱石は、添削を受けるためせっせと熊本から句稿を子規に送っていた時期であり、子規が命懸けで仕事をしていた新聞「日本」に連載されていた「歌よみに与ふる書」を読んでいなかったとは考えられません。ただその時点では、子規のこの思いつめた叫ぶような言葉を、漱石・夏目金之助はあまり深甚に受け止めてはいなかったと想像されます。
 熊本時代は、流産ショックからの鏡子さんの身投げなどのことがあったとしても、結局は初めての子・筆子ちゃんにも恵まれ、苦しみが続いた彼の生涯にあっては一番幸せな時期だったと言えるのです。

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しかし、そうはいかないライフステージがやってきます。英国留学の国命が下ったのです。拒否も回避もできず(・・・しないで)、結局、彼はこれを受命します。

3-3.jpg  国を出て1年にも充たない明治34年春、彼はロンドンで苦悩し始めます。国力と文明の格差の大きさ、西洋文化へのカルチャーショック、「英語研究の為」という国命への違和感、異国での孤独、鏡子さんからの便りが少ないことへのいら立ち等が重なり、独特な敏感さを持った彼の精神の地盤をゆすり始めたのです。そんな中で、漱石は次のようなメモを残しているのです。         

 〇かう見えても亡国の士だからな、
           何だい亡国の士といふのは、
                               国を防ぐ武士さ 
                                                (漱石全集19・断片9A)

   兵役回避をしたことの負い目を引きずっている自意識から、「亡国の士」という自嘲めいたつぶやきがふっと生まれ、その一瞬後、切り返すように「イヤ、国を防ぐ武士さ」という、「防人=さきもり」に自分を見立てるような言葉でそれを打ち消しているのです。
   明治政府の国命を受けてやって来たロンドンにあって、夏目金之助というエリートの胸中にはこんな自問自答があったのです。この僅か35文字・3行の書記言語(=テキスト)は、のちに漱石となる明治日本男子の、揺らぎ葛藤したこころの動きの正直な記録(=ドキュメント)だと思えてなりません。
  粗末な紙片に書きとめられたこの走り書きは、ロンドンの様子を知らせてくれという子規の求めで書かれた長文の手紙の材料としてのメモ・・・見かけたり頭に浮かんだりしたことを書き留めた沢山のうちの一つ・・・だったと考えられます。子規宛ての書簡もこのメモも、ともに明治34年執筆ということからそんな推定をする次第です。(書きあがった長文のこの手紙は、のちに「倫敦消息」と題されてホトトギスに2回にわたって連載されます 。)
  ロンドンでの内心のひとり言=独白でありながら、誰かに語り掛ける会話体になっていることも、注目に値します。すると、次のように書き換えてみることができるのです。

         金之助 「かう見えても亡国の士だからな、」
                    常規 「何だい亡国の士といふのは、」
                                       金之助 「国を防ぐ武士さ」

  子規の言う「外国の髯(ひげづら)ども」の真っ只中にあって、彼我の国力・文明の格差への実感と西洋文化へのカルチャーショック等が昂じて、やがて「神経衰弱」と自ら言うほどの心境に陥っていく漱石=夏目金之助。そんな彼が、孤独なロンドン暮らしの中でぽつりと呟いたこのモノローグは、遠く離れた日本でさらに死に近づきながら、健筆をふるっている友人・正岡子規との、心の一番奥深いところでの対話として生まれたのではないか、と推察する次第です。(…そのように子規と対話している自分自身には、半ば無自覚だったかもしれないくらいの、こころの奥底で…)
  夏目金之助はそれをメモ書きとして手元にとどめ、子規(正岡常規=既に文学者だった)への手紙(=倫敦消息)に、話題として書き込むことはしませんでした。
 しかしそうではあっても、熊本時代にはあまり重くは受け止めていなかったかもしれない、「日本文学の城壁を今少し堅固に… 」と叫んでいた親友・正岡子規と、同じような精神のグラウンドに、ここで立とうとしたのでした。
 
  とは言っても、この時期の漱石は、まだ文学者でもなく作家でもありませんでした。「英語研究ノ為満二年間英国ヘ留学を命ズ」との辞令を受けてロンドンに来ていた熊本五高の教授でした。
  そのため、子規との心の奧底の対話で生じた「 国を防ぐ武士さ 」という本能的な気概は、「英文学研究」という方向に向かったのでした。それは、明治36年に帰国し、一高・帝大の英語講師を務めながら、明治40年に「文学論」として完成するまでに6年近くもかかる、苦しい大仕事になりました。しかも出版された時、誤植の多さもあって、のちにもうひとりの親友菅虎雄に、「印刷された千部を庭へ積んで火をつけて焚いて仕舞いたい」と言ってしまったような、苦しい大仕事に終わりました。

3-4.jpg   明治34年、ロンドンでひそかにあの 「 国を防ぐ武士さ 」という気概を持ってから、明治40年「文学論」完成までの6年間には、漱石の身の上には痛々しいほど様々なことが、密度高く起こり続けています。
   科学者池田菊苗との出会いと52日間の同居と別れ、その影響からの文学の科学的解明への研究着手、「夏目狂セリ 」という噂が立つほどの集中と没頭、神経衰弱の自覚、子規逝去の報せと悼亡五句詠、そして帰国。
  帰国後の五高退職・一高と帝大へのリクルート、家庭へのいら立ちと実家への鏡子夫人追い返し、別居していた鏡子夫人覚悟の夏目家復帰、三女栄子誕生、教師職への自信の揺らぎと回復、なおも残る教職への厭悪感。そこへ…高浜虚子による文学世界への誘い、文学者としてのデビュー「吾輩は猫である」、続けて「坊っちゃん」の執筆。その世間的な大成功。作家として生きていけるという手応え。

  子規と違って自分探しの期間が長かった夏目金之助でしたが、ここまで来て、やっと文学を自分の本業と思い定め、文学に専心する決心をしたのでした。それが端的に顕れた言葉を、明治391026日の鈴木三重吉宛書簡に記しています。

        「僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に
                            一面に於て死ぬか生きるか、
          命のやりとりをする様な維新の志士の如き
                     烈しい精神で文学をやつて見たい」
 
  5年前ロンドンで子規に手紙を書こうとしていた時ふっと浮かんだ「国を防ぐ武士さ」という想念は、様々な人生苦を重ねた末に、ついに「維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見たい」という決心として、夏目金之助の中で結晶したのです。

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  この時、子規はすでに没していました。いろいろな苦しい問題を抱えてそこへ来た漱石が、亡友子規を直接意識に上らせていたかどうかはともかく、日清戦争に臨んで、自分とは全く対照的に壮士風の昂ぶりを見せ、のちには叫ぶように「歌よみに与ふる書」を発表していた親友の生き方の印象が、心の一番奥深いところに潜んでいたことは確かでしょう。
  生まれ落ちた境遇や降りかかった運命の違いを超えて、張り合い、呼びかける気持ちのあふれる緊密な交際をした子規・漱石でしたが、二人の人生には、自己決定の大きなタイムラグがありました。しかし、それを超えて精神のバトンタッチ「継承」は、行われたのです。二人は「日本文学の城壁を今少し堅固に」しようとした点で、同志だったのです。
 
   以上、掲題の「子規・漱石 ~ 生き方の対照性と友情 そして継承」という観点を概略説明しました。これをもとに、二人が「明治という国家」の中をどう歩み何を切り開いたか、個人的・時代社会的条件をどう活かし、またそれに制約されたか…彼らの偉大さと限界性の両面を、できるだけ実際に生きた姿を求めて、具体的に見てゆきたいと考えていきます。
  くりかえしますが、近代国家となった日本が、はじめて異国にしかけた戦争=日清戦争をめぐって、病身を押しての従軍と戸籍操作による兵役回避という、際立った態度の違いをみせた二人でした。「戦争と平和。国家と男子の自己」という観点から見れば、それは互いに相容れないくらいの「生き方の対照性」だった筈です。しかし、この二人の間には不思議とも思えるような「友情」が成立し、生涯に亘って続いたのでした。そして、今回掲題した「継承 ・・・自己決定のタイムラグを超えて」 というべき友人関係を実現し、後世の日本人への大切な精神的遺産を残してくれたのです。その過程を追っていきたいと思っています。長い連載になってしまうでしょう。最後までお付き合い下されば幸いです。
 
  次回(1115 日予定)は、第一章として、ともに慶応三年生まれの子規・漱石が、幼年期から少年期にかけてどんな成長の段階を踏んでいったのか、そこにあった共通性と相違を追うことから始めたいと考えています。


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