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フェアリー・妖精幻想 №91 [文芸美術の森]

「夏の夜の夢」と「嵐」 3

                    妖精美術館館長  井村君江

 色彩の魔術師E・デュラック

 線描で輪郭の明確なラッカムとは対照的と言っていいほど、エドマンド・デユラックの『嵐』は、線でなく色のハーモニーで幻想世界を現出しようとしている。
 ボーイッシュでほっそりした身体に小鳥の羽をつけたエアリエルや、岩の上に坐る人魚、キャリバンとたわむれる小さな細い手足の奇妙な白いエルフたちを描いているが、ラッカムとは場面のとり方や解釈も異り、彼が好んで「魔の島(エンチャッテッド・アイランド)」の不可思議さを妖精の姿で描いているのに対し、ヂュラックはその雰囲気を生きものを登場させずにセッティングや色調で出そうとしている。
 デュラックにとって、妖精たちはプロスベロの台詞「夢をつくる素材」であったかのようで、この場面(「四幕一場」)をとりあげ、白い雲のように見える白い衣の中に、その彼方の空の一隅に、小さく群がる裸身の生きものを幻のように描いている。
 フィッツジェラルドが同じ台詞から、ベッドに眠る美人のまわりにひしめく奇妙な生きものたちを、夢の素材として明確な輪郭で描いた絵画と,対照的である。
 この挿絵でもそうであるが、「デュラックのブルー」といわれる特色あるコバルト系の白っぽい」青で彩色された月の光る空と海に、蝶の麹をつけた妖精たちが飛び立つ場面やその碧い空の下草の中でキノコの下に手を取り合って踊る美しいフェアリーと出来そこないの年寄のゴブリンたちは印象的である。あるものの足はサチュロスのように山羊の足で毛が生え、ひづめがあり、あるものは天使のようにあどけないがキューピットのように古典的な感じの妖精であったり、ラテン系であるデュラックの筆先からは、イギリスの土臭いゴブリン系の妖精とは異る姿かたちをした、いわばニンフのような美しいフェの系統をひく妖精が生れている。
 フランスの「コント・ド・フェ」集で、シャルル・ペローの「眠れる森の美女」の入った『妖精の花輪』(一九二八)のフェアリー・テールズに付けられたデュラックの妖精の代母(フェアリー・ゴッドマザー)たちは、フランスの流行のファッションを着て美しい色どりに、シックで洗練されたポーズをとっている。パターン化された服の模様やセッティングなどは、この画家がアール・デコの波の中にいたことをよく物詰っているようであり、王女さまの宮廷に現われるのにふさわしい華やかな妖精たちである。
 しかし『山歴に登場する妖精たちは、妖精の代母とは違ってシェイクスピアの意図をよく汲んだ上で描かれており、彼らは、華やかな現世の服は着ておらず森や小川や丘に現われる小妖精として、裸身か草色のドレスをひるがえしている。
 デュラックはフランスのトゥールーズ生れであるが、三十歳のときにイギリスに帰化し、のち四十年のあいだ、ラッカムとヴィクトリア社会で人気を二分するほど流行の挿絵画家として活躍したのであった。

E.Dulack嵐.jpg
エドモンド・デュラック「嵐」

『フェアリー』 新書館

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にんじんの午睡(ひるね) №33 [文芸美術の森]

犬の散歩やさん

                        エッセイスト  中村一枝

 ぼや~っとテレビを見ていたら、北海道が出てきて、富良野が映った。何年ぶりかでドラマ「北の国から」のシーンを思い出した。倉本聡の「北の国から」に熱中して、ビデオをとり、一日に何回見たことだろう。富良野という、行ったこともない町の隅々まで歩いた気になっていたのは何年前のことだろう。劇中の人物一人一人が親しい友人のように思い、劇中のできごとが、まるで自分の身近に起きたように感じていた。ここ何年かそういうことからすっかり遠ざかっていたことに気付いた。
 朝起きて、日ざしがまぶしければテニスに行くのが日課で、八十を過ぎてもテニスができる幸せをかみしめていた。それが今年は全く足が動かない。朝起きて、門まで新聞を取りに行けるが、その程度。ぴょんぴょんと身軽にはねることが、ある日突然できなくなった。少し前から整形外科で写真をとってもらい通ってはいたのだが、特に良くはならないにしても不便なことは何もなかった。ところが、間の悪いことに、気に入って通っていた病院が今年の春から経営者が変わるという事件があり、全く別の病院に変身してしまった。主治医の先生は別の病院に移ってしまった。それでも本人の私はここまで足が動かなくなると予想もしていなかったから、呑気に構えていたのである。
 あっという間に足の運びが鈍くなり、一歩踏み出すのがだんだんにおっくうになってきた。テニスは勿論、日常の生活にも支障が出てくる。掃除も食事もはやいのが取り得だったのにこの動きののろさ、誰に聞いても、そりゃあ年のせいよと言われた。あなた今まで呑気すぎたのよ。高齢になれば誰だってそうなるの。それにしても一番困ったのが犬の散歩だった。今まで朝晩二回は行っていた。我が家のビーグルは体重10キロ弱、ただ今十一歳、人間にすれば六十二、三歳というところか。いかに気心の知れた犬でも、主人の足腰の変化までは見通せないだろう、綱を引っ張ったときもし私の足が綱にからまったりしたら、と考えると不安はつのるばかりだ。私の家は、右から行っても左から行っっても坂の上。下りは特にこわい。息子からも強く言われた。「犬の散歩は人に頼みなさい。電話で探してあげる」
 今までそういう話を聞いたことはあっても、現実に頼んだことはない。何軒か問い合わせたあと、初めて散歩仕掛け人なる人物と会った。何のことはない、普通の女の子である。女の子三人で共同経営しているそうだ。年齢は分からないが、感じのいい人だった。とりあえずお願いすることにした。彼女は池上からバイクに乗ってやってくる。犬はその日から一緒について行ってくれたのでひと安心できた。犬にだって確かめる目はある。これは大丈夫とわかったのだろう、週一回朝三十分ということで始まった。そのあいまには知りあいの誰彼が散歩に連れていってくれることもあり、一日おきには外へ出せる方法も決まった。値段は決して安くはない。一回二千八百円、時には週二回頼むこともある。私のおかずをけずってでも犬の健康のためにはやむを得ない。
 人生一寸先は闇なのか、光なのか、今のところ、犬も私もなんとかこれでやっていこうという気になっている。考えると、足が動きにくくなるという現実に思いいたらなかった自分の愚かさにつきあたるばかりだが、犬は全部見通しているような気がする。

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渾斎随筆 №15                      [文芸美術の森]

歌の言葉 1

                            歌人  会津八一

 私の歌をば、世間では、誰いふとなく、万葉調といふ。斎藤茂吉氏は万葉調の中でも良寛調だといはれたし、釋迢空氏は、何かで「家持味噌(やかもちみそ)」だと批評されたと聞いてゐる。その「味噌」といふのは、私にはよく解らないが、とにかく『万葉集』を離れないところに、私の調子が在るものと見える。私は自分から『万葉集』と良寛と子規から啓発を受けたと告白してゐるくらゐであるから、万葉調といふ見立ては、かたじけなく御請けをしなければならない。が、その斎藤氏でも、釋迢空氏でも、やはり万葉も調で無いことも無いし、その御門下を初め、今の世の中で、凡そ歌を作る人で、万葉調でないものは少いらしい。してみれば誰にとっても大切な万葉調であらう。そこで私は、もとから歌壇の生気とは交渉の無い至って気欒な身であるが、私の歌にも、将来は五人や十人は、特別に興味を持つ人が出て来ないことも無からうから、せめてその人々の参考にもと思って、少し自分の考を述べておく。
 先づ決めておかねばならぬのは、『万葉集』といふ書物の重さである。日本文學史の上から、これが大切な上代の古典であるといふことは誰も心得てゐるが、今我々が真面目に歌を詠もうといふ時に、それは古典だから大切だといふだけでは、まるで意味の薄いことである。それだけのことならば、『古今集』『新古今集』も、凡そ古典であり得ないものはなく、大切でないものはないことになる。時代も遠いし、言葉なども現代とはだいぶ懸け離れてゐるのに、わざわざこれだけを引っ張って来て大切にするには、もつと明瞭な理由が無ければならない。それは即ち、『万葉集』の歌人たちの心構や、物の感じ方や、それを言葉に云ひ現はす態度や、何處ともなく寵つてゐる音聾の響きなどが、今の我々の手本とするに一番良いといふ點にあるのであらう。元来、もつと良い心構や、感じ方や、表現の態度などが、今の我々自身に備はってゐるならば、何も『万葉集』などに憑らなければならぬわけもないのであらうのに、どうもなかなかさうは行きさうもないから、『萬菓集』がますます重きを致すのである。しかし時代が千年以上も違ってゐるために言葉はずゐ分變ってゐるしするから、よしその調子の良さを學ぶにしても、一つ一つの言葉などについて、あまり抜き差しのならぬほど、窮屈に考へてかかる必要は無いと思ふ。万葉も調だからといって、昨日のことは、「キノフ」と云つた方が、解りがよいのに、「キゾ」と云はなければたらぬとか、「ニハトリ」で解るのを「カケ」に、「ハハ」は「タラチネ」、「カラダ」は必ず「ウツセミ」に、「シバラク」は必ず「タマユラ」に限るといふ風になって来ると、「砂糖水」や「葡萄酒」で解ることを、「軍令」とか「赤酒」とか云はずにほおかぬ看護婦さんの言葉のやうに、常人は随分真面目でも、自然に物を云ひ慣れた人には、少し變に聞えるであらう。私なども、實はやはり、「タラチネ」「ウツセミ」の方で、現に敵の飛行機を「アダノトリフネ」、爆弾をば「イカヅチノナグヤ」などいって、かなり甚しい方であるが、云ひ分けがましいけれども、これは、その時の気分や、前後の続き具合や、音聾の調子などから、さうとしか詠めなかつたまでのことで、誰もが、いつでも、あんなものの云ひ方をなすべきものだとは、更に思ってゐない。のみならず、もしこんな言葉が、間違って廣く流行りでもしたら、あまり良いことでない、といふくらゐの懸念をさへ私は持ってゐる。『万葉集』以前には、「ホトケ」(佛)といふ言葉も、「テラ」(寺)といふ言葉も、「タフ」(塔)といふ言葉も無かつたのに、その頃の歌人たちは、その新らしい外来語を気楽に歌に入れてゐるばかりでなく、「婆羅門(ばらもん)」とか「檀越(だんおち)」とかいふいかついのさへ厭はなかった。だから今時の我々も「トリブネ」とか「ナグヤ」とか古いところから探し出して来なくとも、ありのまゝに「敵機」「爆弾」でよいわけである。つまり我々は『万葉集』に於て学ぶべきものは、形式の末にあるのではないから、『万葉集』の聾色を使ったり、その模造品を作ったり、或は其部分品を、あらぬ所へ濫用したりするのであってはならない。精神を尊重するうちに、ついその形式にもあやかるといふことは、とかく免かれないことであるし、必しも深く咎めるにも當らぬが、それにしても、我々は現代に生きてゐるのであるから、今自分の作ってゐるのは、現
代人の歌であるといふことを、見失ひたくないものである。此所が要鮎である。我々が『万葉集』を持つことは、祖先からの大きな遺産の相續であるが、それを享有するだけに満足して、遠い祖先の聾色を使って暮してゆくといふだけでは、働のある子孫と云はれない。もしこの遺産が無かったら、今の日本人は、全く歌を作ることが出来ないのだといふことになるではないか。
 勿論万葉調の張本人ではないが、少くもその下廻りの一人のやうに云はれる私でも、これだけの腹を決めてゐる。だから、私は、今日の歌の世界を見渡して、あまり『万葉』ぶった物の云ひ方をしてゐる歌には、ややもすると良い気持で向ふことが出来ないことがある。ことにその中には、御常人は、直接によく『萬菓集』など読んでもゐないらしく、ただ先輩や友人が一度か二度も使って見せた『万葉集』の単語だけを、大切に覺えてゐて、後から迫ひかけ迫ひかけ使って行く。そしてそんな人に限って、現代語づくめの一首の中へ、その古いやつを、前後の調和などを構はずに、無難作に篏めておくくらゐのことを何とも思はない。これでは先輩や友人の口眞似にはなるが、『万葉集』の聾色とまでも行かない。ここに至ると、我々が『万葉集』から学ぶべき、精神や態度の、全く正反対なものになってゐる。

『会津八一全集』 中央公論社

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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №89 [文芸美術の森]

ユーモアのペレストロイカ №11

                  早稲田大学名誉教授  川崎 浹

スターリンらの復活

 ところで、つぎの復活劇を理解するためには、「全地域代議員グループ」なるものを知らなければならない。
 すでにのべたように、八九年三月に、ソ連時代初の民衆の意志を問う選挙が実施された。だがふたをあけてみると、共産党保守派の代議員が多く当選し、改革の大きなブレーキとなった。
 これにたいして、八月、エリツィソを先頭に改革派の代議員たちが各共和国の有志たちと連携し、新グループ結成にのりだした。やがてエリツィン、サハロフ、ポポフ(モスクワ市長)、アファナーシェフ(歴史大学学長)らが中心となり、七月三〇日「全地域代議員グループ」を結成し、共産党の指導的役割を規定する憲法第六条の破棄と、複数政党制の導入を旗印にした。共産党から国家を切り離し、企業や団体組織から共産党の勢力をのぞこうというのである。このグループは党と保守派にとっては癌(がん)のようなものだった。

 スターリンがよみがえってモスクワの街を散歩してまわり、そして考えた。
「わたしがいない間に、この国はすっかりたるんでしまった。めちゃくちゃではないか。こんなさまでは、とても共産主義には到達できない」
 かれは秩序の回復を決意した。クレムリンにやってくると、すぐに閣僚会議に顔をだした。全員がスターリンを見るなり立ちあがって、席をすすめ、かれが着席すると、尋ねた。
 「なにを実施するようお命じになりますか」
 スターリソはパイプを廻しながら、いった。
 「つまり、こういうことだ。まっさきにやらねほならぬのは〈全地域代議員グループ〉を射殺すること。第二には、レーニン廟を緑に塗りかえることだ」
 リガチョフががまんできないで、口をきった。
 「ヨシフ・ピサリオノビチ、なぜまた緑色なんかに?」
 スターリンは答えた。
 「第二案に反対がないことは、わたしにもわかっていた……」

 レーニン、スターリン、フルシチョフ、プレジネフ、ゴルバチョフが一堂に顔を並べて、政策を比較されるというのも、復活劇が前提になっているからである。それらのなかで、もっともよく知られている作品をプロローグで紹介した。ここではいくぶん質が落ちるが、さらにレーニンとフルシチョフが加わった同じ主題のヴアリアントを引用しよう。なお、
「土曜労働」とは市民が土曜日を返上して地域の清掃その他の労働に従事した奉仕作業のことで、ゴルバチョフ時代までつづいた。

 社会主義という列車が走っていると、急に止まった。レーニンが見にやらせると、レールがなかった。レーニンは同乗者に「土曜労働」を布告し、レールを敷かせた。
 スターリンが部下を見にやらせると、レールがなかった。スターリンは鉄道関係者を粛清し、囚人たちの手でレールを復活させた。
 フルシチョフが列車にのっていると、急に列車が止まった。ブレジネフはレールがないことがわかると、窓のカーテンを全部しめさせ、車両をゆすらせて、列車が動いているように見せかけた。
 ゴルバチョフは、列車が止まると、亜鉛部カーテンを開けさせ、そとに向かって「レールがない、レールがない」と、大声で叫ばせた。 

 おそらく、これは言論の自由を喜ぶ知識人の間で創られたものだろう。世界の冷戦を終結させ、自由をもたらした若い精力的な書記長は光り輝くように見えた。こんどはゴルバチョフ自身があやうく個人崇拝の対象になりかねなかったが、聡明な彼は党大会の壇上で、ある幹部の追従をたしなめ、そうしたセレモニーをやめさせた。

『ロシアのユーモア』 講談社選書

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石井鶴三の世界 №122 [文芸美術の森]

とがくし1961年/南禅寺1961年

                       画家・彫刻家  石井鶴三

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とがくし 1961年 (143×201×2)
1961南禅寺.jpg
南禅寺 1961年 (122×172)

**************
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社石井鶴三

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フェアリー~妖精幻想 №90 [文芸美術の森]

「夏の夜の夢」と「嵐」 2

                     妖精美術館館長  井村君江

挿絵黄金期の妖精絵師 アrサー・ラッカム 2

 『夏の夜の夢』はティタニアとボトムの場面であるが、日本画風の額縁の中に描かれたエルフたちは蝶やトンボの翅をつけて緑の野に行儀よく並び、線描による空の描写と相まって落着いてスタティックな画面になっている。それに比べてエアリエルがキャリバンをからかっている『嵐』の絵の方が動きがある。ラッカムの妖精画につきものの細い枝をからませた樹木の上を軽々浮くエアリエルと、ひび割れた土の象徴のようなキャリバンである。
 第二期の『夏の夜の夢』になると、どこから見てもラツカムの作とわかる個性を持ったパックやオベロン、ティタニアが、古木信仰ともいえる木の根の節くれ立った根っこや枝の間に、目を光らせ踊り跳ねている。土俗的なアニミズムの生命力が、木の根に腰かけるパックや妖精を息づかせているようである。「フェアリーやゴブリン、エルフにピスキーたちは、自然に住むネズミと同じく現実的だ」というラッカムにとって、織物師のボトムと妖精女王ティタこアたちが織りなす森のドラマは、最も好みの主題であったことがわかる。
 最晩年のペンとセピア色を主とした淡彩の『夏の夜の夢』は、手馴れた筆致で簡略化された構図に、妖精たちが自然なタッチで描かれている。パックの引くカーテンから身体をのぞかせる、トンガリ耳で細い鼻の妙な小さい生きものたちの一つ一つの表情にも、惹き込まれるような魅力があり、一歩間違えば漫画になるところを、手堅いスケッチの手法と上品な色調がその危険を救っている。
 『山歴』もまた、特に日本画の模様に似た形と色の岩や波や木々が、誇張化され、平面化や象徴化をほどこされ、まるで模様のように図案化されて、光琳屏風を見る思いすらある。空を飛ぶエアリエルのまわりに広がる夕空の微妙な色調にぼかされた雲の描き方もまた東洋的である。こうした超現実的な手法や描き方も、妖精の幻想性や神秘性にふさわしかったといえよう。
 ラッカムは「ラッカメアー・フェアリー」と呼ばれた妖精の映像を、ヴィクトリア朝時代の人々の脳裡に焼きつけるのに成功したが、その余波が日本ではまだ強く残るようである。

A.ラッカム「夏の夜の夢」.jpg
アーサー・ラッカム「夏の夜の夢」

『フェアリー』 新書館

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にんじんの午睡(ひるね) №37 [文芸美術の森]

しーしとじーじ

                         エッセイスト  中村一枝

 去年、近くに住む知り合いの男の子があっという間に奥さんがいて、あっという間に一児の父親になり、一家の主になった。四、五才の頃から知っているから不思議でもある。彼はいま、19歳。赤ちゃんの面倒見のいいこと、行き届いていることには舌をまいている。最近は若いお父さんたちが子どもを幼稚園につれて行ったり、一緒に歩いているのをよく見かけるが、彼らに照れや気恥ずかしさはほとんど見られない。若いお父さんたちは楽しそうに家族の中にとけこんでいるのがなんともほほえましい。
 五十年来住んでいる家は、まわりが若い家族で埋まって来て、ああ、時代が変わった、と否応なしに納得させられている。私など何十年住んでいても、自分は古びたと思っていない図々しさだが、さすがに若い家族連れに何回も出逢うと、やっぱり私も年を取ったのかしらといまさらながら思うのだ。
 これも四十年近く通っている、隣の町の美容院、その店主は一種の変わり種で、話し好き。話の面白さについ時を忘れてしまうのだが、学習院出身という経歴も面白いが、英語が堪能で、その上、かなりのへそ曲がりときている。その曲がり方が面白くて私は四十年近く通っている。子どもが二人いて、当時は巷の教育熱が今と同じくらい盛んな時代だったが、そういう風潮と真っ向から対立していた私とはウマがあったのだ。
 彼は子どもにはよく遊べ、自分も一緒に遊ぶ、というやり方で、子どもに勉強を強要しなかった。その成果あってか、今では男の子は国連勤務、女の子はアメリカの吟行家と結婚して二人の子どもに恵まれた。長女の方は三歳というのに、体も心もたくましく、とてもユニークな女の子。アメリカに暮らしているから勿論、英語はお手の物。その子が最近日本の祖父に気を使って、英語ではなく日本語で電話をかけてくるそうだ。日本人にしてはかなりの自信をもっていたおじいさんの英語能力をおしはかっての思いやりの深さに、さすがに自信家の彼もかぶとを脱いだ様子が手にとるようにわかる。
 自分の子どもができたときからユニークな教育方針を貫き、受験とは無縁に、いつも子どもと生活や遊びを共有してきた彼の教育が花開いたわけだが、孫からそんたくされる身になるとは、嬉しい半面、複雑な心境らしい。
 私も、若い時からの彼を見続けてきたが、、今、彼が孫娘の思いやりにシャッポを脱ぐ姿は想像できなかった。昔はお互い、顔を合わせれば政治や体制への批判、はたまた世相のありようへの辛辣な共感で盛り上がっていた。今の彼はそうではない。それは、人間の大きさをいう時の清濁合わせ呑むというのとは別の、子どもや孫への愛情が自然につくりだしたスタイルではないかと、ほほえましく考えてしまう。年をとって円熟味を増す生き方のスタイルと変化。それはそれで人間の成長なのだと思う。
 ところで、お孫さんは、おばあちゃまはばーば、おじいちゃまは、始めはじーじであったのに、最近濁点が消えて、しーしと呼ぶそうである。
 「おしっこみたいでいやんなっちゃう。」
 苦笑する彼の顔はしあわせなおじいちゃまだった。

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石井鶴三の世界 №121 [文芸美術の森]

十和田 1961年/岩と木 1961年

                       画家・彫刻家  石井鶴三

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十和田 1961年 (200×143)
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岩と木 1961年 (144×202)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

                      

 

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ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №89 [文芸美術の森]

ユーモアのペレストロイカ 10

                   早稲田大学名誉教授  川崎 浹

民主主義を解決するには

 体制の自由化と体制からの解放は必ず、その体制がかかえていた矛盾を噴出させる。八八年から八九年にかけてソ連では民族紛争がはじまった。強制的に抑えこんでいたイデオロギーの枠が弱まり、人工的な国境設定が民族分布の実状と合わないことがあらわになった。経済的な復興の立ち後れも民族間の対立に拍車をかけた。
 もっとも激しい紛争がアルメニアとアゼルバイジャンの間でおこなわれた。アゼルバイジャンの領地のなかに飛び地としてあったアルメニア領ともいえるナゴルノカラバフ自治州(アルメニア人が住む)の住民たちが実質的な独立を要求したからである。
 九九年春現在、セルビアとその領土内のコソボ(アルバニア系住民が住む)の紛争はコソボがアルバニア共和国と隣接しているが、アゼルバイジャンの場合、ナゴルノ力ラバフが独立すると、それは自国の中に他国をかかえ込むことになる。まことに厄介な問題である。
 つぎに登場するリガチョフは当時ゴルバチョフと対立する保守派の実力者だが、さすがに考えあぐねたとみえて、このような災いが生じた。『ニクーリンからのアネクドート』では、リガチョフの代わりにゴルバチョフが電話をかけている。

 リガチョフがあの世のヨシフ・ピサリオノビチ(スターリン)に電話し、国で起こっていることを訴えた。
 「アルメニアとアゼルバイジャンにどう対応したらよろしいでしょうか?双方の敵意をどう断ち切ったらよろしいでしょうか? 民族主義問題をどう解決すべきでしょうか?」
 「ひじょうに簡単だ、きみ。二つの共和国を、ただ一つにすればよいではないか」
 「実際そのとおりです。すばらしいお考え……とはいいましても……失礼ですが……共和国を統一したあとまた争いがはじまると思うのです、つまり首都を、そのう、バクーにすべきか、エレバンにすべきか」
 「なぜバクーとかエレバンにこだわるんだ? 首都はマガダンに建設すべし!」
 
 「マガダン」の注釈をつけておきたい。一九五三年、北東シベリアに囚人によって建てられた収容所の行政中心地。囚人たちはオホーツク海を船舶で運ばれ、マガダンに上陸させられ、そこからさらにコルィマに送られ、金鉱採掘や木材伐採の重労働を強いられた。コルィマについての証言にシャラーモフの小説『極北コルィマ物語』(朝日新聞社、一九九九年)やエブゲーニヤ・ギソズブルグの『険しい行路』(邦訳『明るい夜暗い昼』集英社文庫)がある。氷点下六〇度を超えることがあり、スターリン時代の収容所群のなかでももっとも死亡率の高い地域だった。
 政治の世代としては孫弟子にあたるリガチョフが地獄のスターリンに電話をかけるというような下地があって、はじめてスターリンも大きな顔をして復活できるのである。


『ロシアのユーモア』 講談社選書


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往きは良い良い帰りは・・・・・・物語 №61 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語
その61  TCCクラブハウスに於ける第7回
     「日傘」「草いきれ」「泡盛」「虹」
            コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

◆◆平成30年6月27日◆◆
案内状が届きました。メールの不得手な孝多には(もう一人か二人も同様に)いつもながら郵送です。お手間をおかけして申し訳ありません。

しかし、奇麗です、幹事、軒外氏によるイラスト。いい色、いいタッチ。贅沢をさせてもらって居りまする。

61-7.jpg
上記の文面は次ぎのとおりです。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
期日  七月八日(日) 午后一時より
会場  表参道 東京コピーライターズクラブ
会費  1,500円
兼題  【日傘】
         【草いきれ】
●景品は三点(合計1,000円くらい)をご用意ください。
●出欠席の連絡はこのメールに返信で軒外までお願いします。
         七月幹事  沼田軒外
                 西村弥生
            幹事連絡先  090-3224-1075(沼田携帯)
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *

◆◆句会の当日、手渡されたのは……◆◆
日傘の女性と草むらにかくれている腕白小僧を描いた鬼禿氏の返信レター。「弥生様、軒外様、ご苦労様」とあります。

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◆◆ご馳走は……◆◆
鎌倉・大船軒の酒肴弁当。包み紙には「つまんでよし、食べてよし」と記されていますが、その脇の人物が……誰かに似ているように見えませんか? そうです、本日の幹事の軒外さんです! 優しい表情で、ちょっと、はにかんでいるようで……。丸めてポイと捨てるわけにはまいらぬ包み紙。勿論、孝多は持って帰ります。

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それはそれとして孝多が困ったのは、この弁当の詰め合わせ方。
まさに職人芸で、料理の一品(ひとしな)一品が、しっかりと、ぴったりと隙間なく丁寧に詰められているので、箸で取り出すことが困難。
箸を舐めることと同様に、最も下品な箸の使い方とされる「突きとおし」。今回は、それをしないと食べたいものが口に運べない、指でつまみ出したくなってしまう。いらいら。
しかも、料理に覆いかぶさるようにしないと食べられない……。困った困った、弱った弱った。無器用な孝多は悪戦苦闘。みっともないったらありゃしない。
孝多の両隣に座っているのは、弥生さん、雲去来さん。どんな気持で見て居られたのでしょうか。恥ずかしくて、かつ、申し訳ない極みでもあります。まこと、無作法、ご免なさいでした。

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                    でも、本当に、味は良かったのです!! 

◆◆さあて、さてさて、当日の成績発表と出来事は……◆◆
「日傘」と「草いきれ」が兼題。「泡盛」と「虹」が席題として発表され、その中の「草いきれ」に素晴らしい異変が起きました。出来事です。

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つまり、トータル26点で次点に輝いた美留さんは、4課題の中の、たったひとつ、「草いきれ」だけで短冊3枚、21点を獲得したのでした。
一方、トータルの47点で見事、天位に立った鬼禿氏の短冊は1枚。氏は4課題まんべんなく、着実に得点した、という次第。こちらは「総合力の発揮」でしょうか。

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                                   撮影=軒外氏
     
写真をご覧ください。上位の4人。左から天の鬼禿氏、地の矢太氏、人の弥生さん、次点の美留さん。良かったですね、皆さん、まったく、おめでとうございます。
もう少し詳しく申しますと……

◆本日のトータルの天は~47点の~鬼禿氏。
代表句は「日傘消ゆ 大佛さんの 腰あたり」 パチパチパチッ。

◆トータルの地は~31点の~矢太氏。
代表句は「草いきれ ラムネ一気に あふれ出す」 パチパチパチッ。

◆トータルの人は~28点の~弥生さん。
代表句は「はしなくも 虹を見た日の シャツは空色」 パチパチパチッ。

◆トータルの次点は~26点の~美留さん。
代表句は「身の熱を 放つ術(すべ)なし 草いきれ」 パチパチパチッ。

◆◆すっかり定着した絵付き短冊◆◆
皆さん、大変な腕前。さらさら描いて、どれもこれも素敵。今や、皆さん、慣れた手つき、と申せましょう。しかし……
うっかりしちゃうのですね、句を書き、絵を描いて、「〇〇選」と記入するのを忘れてしまう。今回も短冊の表側に選者名の無いのが何枚かありました。
いや、選者名は短冊の裏面に書くものと誤解している人がいるのかもしれません。裏には年月日と集いの名称(こふみ会)と、会場名が判るように明記する。しかし、裏側は、表側よりも「控え目に」書くのが一般的ですよね。
(いろいろな、しきたりがあるようですが、こふみ会で、私たちが短冊の表に描く絵を、私は「俳画」と呼んだことはありません。)
いやはや、語りはこれくらいにして、さあどうぞ、今や、こふみ会らしさの象徴にもなった絵付き短冊。今回は14枚、とくとご覧ください。

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では、また、来月。元気に愉快に集まりましょう。記録的といわれる酷暑の日々、折角ご自愛のほどを。草々   孝多 拝

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第583回 こふみ会・本日の全句
平成30年7月8日 於 TCCクラブハウス(第7回)

◆兼題=日傘     順不同
犬連れし 日傘のひとや 濃きルージュ        虚視
パラソルの ファイルをくるりと チョコが顔出す     雲去来
足弱の 母と菩提寺 日傘閉づ                       美留
逢iいに行く 日傘くるくる させながら                孝多
パラソルが とじて終りぬ 少年期                   茘子
日傘力(りょく) 花の顔(かんばせ) 護りぬき    華松
臨月の 妻は日傘も 重たげに                       紅螺
久々に 母の日傘で デパートへ                     珍椿
永遠の ように日傘 舞う渓谷                        一遅
日傘差す 涼しき女(ひと)は モノクローム         舞蹴
突堤に 微動だにせず 白日傘                   軒外
傾けた 日傘で苦手を やりすごす                   弥生
日傘消ゆ 大佛さんの 腰あたり                     鬼禿
またあの日の 日傘に逢ふ 昼寝かな               矢太

◆兼題=草いきれ      順不同
生きんとす 意志が放つや 草いきれ                舞蹴
草いきれ 分け行く先の 微笑仏                     紅螺
肌を圧し 肺を充たすや 草いきれ                   華松
草いきれ 上は涼しいよと 白樺君                   雲去来
むせ返る 草いきれの中 エロ写真                  鬼禿
草いきれ 五百羅漢は 泰然と                       一遅
身の熱を 放つ術(すべ)なし 草いきれ             美留
抱き寄せし ままたおれこみ 草いきれ              虚視
時に埋(う)もれ 鉄路何(なに)待つ 草いきれ    茘子
草いきれ 遠き戦の にほひかな                      弥生
草いきれ ラムネ一気に あふれ出す                 矢太
草いきれ ランニングシャツの 白きかな             珍椿
悪しきこと 教えられてる 草いきれ                   軒外
想い出は まあちゃんけんちゃん 草いきれ         孝多

◆席題=泡盛       順不同                  
泡盛や 石を噛み居る 虫一匹                       矢太
泡盛や 村の掟(おきて)の 二杯干す               孝多
君ビール 私泡盛 徒競争                             華松
バアバのお酌で 泡盛夜会                            珍椿
泡盛を 酒盃を渡る 風を呑み                        虚視
泡盛は 鼓動満ち潮 日焼色                          茘子
南から 盟友来たる 泡盛と                           一遅
泡盛や 海の色した イヤリング                      弥生
いそいそと 泡盛求めて 知らぬ街                   舞蹴
泡盛を 前に善し悪し 説くお前                       軒外
ひと舐めと 思ひし泡盛に 呑まれけり               美留
泡盛は 琉球硝子で 澄まし顔                        雲去来
泡盛を 酌み交わし友と よき夜明け                 紅螺
泡盛の かめに沈んだ 島の意地           鬼禿

◆席題=虹            順不同
虹立(た)ちて やさしく我が名 呼ばれけり      孝多
虹の根の あたりに骨の 埋めてあり         矢太
虹ふんで 腹の子つれて 家を出る          鬼禿
手をとめて 虹みて佇む 修業僧            紅螺
もう少し 生きてみようか 朝の虹           一遅
消えてゆく 虹に裸足で 駆け出す子         軒外
渡来人 帆を上げて 虹渡る                珍椿
虹立つや 海の匂いの する少女                  虚視
あっけなく 虹の彼方に 消えし夢                     舞蹴
いとやすく 虹の橋渡る 夢の中                       茘子
虹いろを 忘れて久し 六十路かな                    美留
虹色の 約束の君も 色褪せて                        雲去来
遠くより 崇めて見しや 虹ひとつ                      華松
はしなくも 虹を見た日の シャツは空色              弥生

                              (以上14名 56句)

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フェアリー・妖精幻想 №89 [文芸美術の森]

「夏の夜の夢」と「嵐」 1

                     妖精美術館館長  井村君江

挿絵黄金期の妖精絵師A・ラッカム

 本来、物語の世界を視覚化してその世界を立体化する役であった挿絵。しかし、作品に隷属するのではなく、挿絵自身、芸術的な価値をもつものであることを示す、素晴しい挿絵本が次々と生みだされる時がくる。それをなしとげたのは、独自の画風で今世紀の挿絵界に黄金時代をもたらした二人の画家、アーサー・ラッカムとエドマンド・デュラックであるといえよう。
 二人ともにシェイクスピアの妖精の世界を描いて、また各々に異る手法、違う軌道を辿っていく。しかし二人に限らず他の多くの画家、そして挿絵画家にとっても、シェイクスピアの戯曲とその妖精の世界は、各々の画家の想像の自在な筆を発揮するのに、充分魅力に満ちた領域だったと言えるかも知れない。
 特にアーサー・ラッカムは、一八九九年三十二歳のときに、チャールズ・ラム再話の『シェイクスピア物琵』一九二八年の『夏の夜の夢』、そして最晩年七十二歳の一九三九年に、『夏の夜の夢』を出すまで、四十年間の三つの時期にシェイクスピアの世界を描き続けているのである。

『シェイクスピア物語』(メリー、チャールズ・ラム著)一八九九年 デント社
『ヘンリー四世第二部』一九〇八年 ハラップ社
『マクベス』一九〇八年 ハラップ社
『夏の夜の夢』一九〇八年 ペイジ社(ニューヨーク)
『嵐(テンペスト)』一九二六年 ペイジ社
『夏の夜の夢』一九三九年 (限定本ニューヨーク)

 ラッカムの巧みな筆致で描かれた妖精たちは、ピーター・パンでもアリスでも、そしてパックやティタニアでも、すぐにラッカム世界の住人とわかるほど個性的である。
 『コティングリー妖精事件』の、少女エルシーのまわりに羽をつけて飛ぶ、可愛い妖精たちの写真をみたラッカムは、「これはわたしの妖精たちだ。だからこの写真は偽作だ」とすぐに言ったそうである。ラッカムの個性ある妖精の流行のほどを物語る挿話であろう。
 ランベス美術学校に通いながら、ウエストミンスター火災保険の事務員として働き、温和で几帳面な勤め人であり、艮き夫、艮き父であったラッカムだが、その内面には、奇妙な想像上の生きものたちが住んでいたのである。表面穏和で、内面に奇想天外な考えをひそませている典型的イギリス紳士であって、表の生活も異常だった、ダッドやチャールズ・ドイルの描く妖精たちとはその出現の仕方が異っていた。
 ラッカムは普通の自然や事柄を、好奇心と驚きをもって見ることのできる子供のヴィジョンを失わず持ち続けていたようである。
 オスカー・ワイルドの詩集『スフィンクス』の斬新なブックデザインと挿絵で知られたチャールズ・リケッツが、画学校の同クラスであったため、交遊のあった画家のホイスラーや戯画家のビアボーン、詩人のイエイツなど世紀末の芸術家の空気を知っていた。
 そのためラッカムの『ポール・モール・バジェット』『ウエストミンスター・バジェット』誌等に載った初期の挿画は、どこか瀟洒でモダーンで、アール・ヌーヴォー的なしゃれた都会の雰囲気を持ち、ユーモアにみちた諷刺の味のきいた戯画ふうのものが多い。ビアズリーの絵にも惹かれていたが、『パンチ』誌のクルックシャンクやリチャード・ドイルの影等そして世紀末のロンドンに活躍する芸術家たちの間に流行していたジャポニズムへの傾倒もその絵の中に窺える。

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アーサー・ラッカム「シェイクスピア物語」

『フェアリー』 新書館

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にんじんの午睡(ひるね) №36 [文芸美術の森]

記憶の水害

                        エッセイスト  中村一枝

 朝起きて日差しがまぶしいと、ああ、今日もテニスができる、と体中に力がみなぎって、何の苦もなく起きたのだ。あれは数十年前の話ではない。ほんの一、二年前の平日の朝の私だった。
  道を歩いていて、ゆっくりゆっくり歩を進めるお年寄りの姿をみかけると、どうしてあんな風にしか歩けないのだろう、と本気で思ったりした。この頃は自分が年寄りとは全く思っていなかった。想像力に乏しいというか、年を取る現実に全く気付いていなかった、ついこの間までの私である。
 人は、それが現実に身近に迫らないと我がこととは考えにくい。このたびの豪雨災害の映像を見ていてもそれがよくわかる。
 小学校三年生の時、戦争がはげしくなって、私の家は伊豆の伊東に疎開した。町はずれの大きな別荘の離れを親子三人で借りていた。多分、その年の秋、台風が来た夜。豪雨が降ったらしい。朝起きると石垣で囲まれた家のまわりが一面、池になっていて、大家さんの家と我が家がぽっかり水の中に浮いていた。
 「うわあ、高松城の水攻めみたい。」 
 こわいよりも、都会育ちの私には初めての体験ではしゃいだ憶えがある。職工から一代でたたきあげてガラス工場を経営していた疎開先のおじいさんはまったくあわてずさわがず、石垣の土から満水のまわりの田んぼを見おろしていた。
 私は教科書で習ったばかりの、高松城の水攻めそっくりだとひとりでさわいでいたのだ。家から十メートルあるかないかのところに、伊東の町を横切る川が流れていて、いつもは底の小石も見える透明な水が濁り、濁流になっていたのも珍しかった。
 私の家でも、隣の大家さんも父も母も、誰一人おどろかず、皆な石垣の上からてんでに声をあげていた。あの当時の自然、山も川も、五十年たって様変わりしたのだろうか。
 それから二年くらいすると伊豆半島は、東京に空襲に向かうアメリカ軍の飛行機の通路になった。「伊豆半島上空を東京方面に向かってアメリカ軍機十機東上せり」とラジオで言っていたが、その10分前に轟音をとどろかせた米軍機はほとんど通り過ぎたあとだった。
 夏が来ると思い出す戦争の記憶、知る人はどんどん少なくなっていく。残された者の胸には澱のように積み重なって消えることはない。
 幸い伊豆半島に疎開した私は負の記憶はまるで皆無。疎開といえば楽しい想い出に満ちていた。でも疎開地でのいろいろの人間関係、いじめを含めた不愉快な出来事にぶつかって、二度と思いだしたくないという友人もいる。幼な心に生まれて初めて受けた人生の辛酸だったのだ。
 報道の場が広がったことで昔以上に災害の苛酷さを目のあたりにできる。都会にいれば自然はいつも豊かで暖かく、美しい。しかしそこで生活している人間にとってはそれはいつも厳しく、決しておろそかにはできない怖さも抱えている。
 人間の傲慢さ、おろかさ、勝手さを、自然はいつもじっと眺めている。毎日のこの暑さだって自然の怒りの現れと思うべきかも知れない。

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渾斎随筆 №13 [文芸美術の森]

小鳥飼 2

                            歌人  会津八一

  かれこれするうちに、あの十姉妹の流行が始まった。間も無く鳥屋の小僧が、自轉車で廻って来て、せがむやうにして、若い雛を貰って行く時が来た。今は十箱ばかりに殖えてゐた中から、私は何度も鳥屋に雛を渡して、その金で、かなり高價な美術の本を買ったこともある。これを見ると、私の内へ毎日のやうに来ては、私の時間を喰ひ荒らすのを、何とも思ってゐなかった若い人たち、いづれも良い機嫌ではなかった。何か私が下品な儲け仕事に憂き身を窶してゐるやうに思ってゐるらしかった。しかし、その人たちよりも、ずつと深く私を啓発して、硬い心の限を開いてくれたものは、鳩や十姉妹であったといひたい。その頃、私は近代の或る支那人の「庭草ヲ除カズ生意ヲ留メ、盆魚ヲ愛養シテ化機ヲ知ル」といふ聯句を、自分の生活から、あまり遠くもないやうな気がして、面白く思ってゐた。賓際私のところも、まるで庭の草は生えるにまかせておいたし、魚は飼はなかつたが、小鳥でもつてだいぶ學ところがあるやぅに思つたから。
 よく、野の鳥は自然でいいが、寵の鳥は不自然で面白くないといふ風に、簡単に決めつけてゐる人が多いし、それはいかにもそれにちがひないが、そんな風に云ふ人は、そのくせ、野のものでも寵のものでも、大體に鳥といふものを、生きものとして親しみの目で見てゐないことが随分多い。もし人が、もつと柔かい気持で、もつと近寄って見るならば、野の鳥からも、また籠の鳥からでも、もつと多分に自然な味が見出せるのであらう。寵の有る無しで、自然不自然を決めるなどは、少し安っぽい見方である。鳩には家鳩(いへばと)もあるが、山鳩の類は、雉子鳩でも数珠掛でも、みな人を恐れる。しかし、私が暫く飼ひ込んだ雉子鳩は、ある日物に驚いて、庭へ飛び出しはしたが、いつまでも私の家を離れなかった。そして毎日、南向の縁側に毛髭を敷いて、腹旬ひになって、本を読んでゐると、いつもすぐわきの軒下へ来て、こぼれ餌を拾ったりして、二十日あまりもこれを績けてゐた。鳥寵といへば、すぐ監獄か何かを聯想する人も多いが、少し住み慣れてみれば、烏の方では決してそんなものでなく、あれは安居(あんご)の楽天地で、時としては猫や乱暴な人間を防ぐための城壁だとさへ考へてゐるらしい。だから、何かの勘ちがひから、飛び出してみても、もとの古巣に慕ひ寄る心も起るのであらう。今の世の家鳩も、大昔はやはり山鳩であったにちがひない。さらに大昔には、人間も家の無い野の人であったであらう。それが今では、すっかり家の人、都合の人になりきってしまった。それは結構であるが、自分の方は棚に上げておいて、今になって寵の鳥の不自然さに気がつくといふことも随分暢気なものであらう。そしてその不自然の発見から、始めて自然といふことに気がつくことになるのかも知れぬ。しかし、さうやって慌て出しても、もちろん、すぐによく自然が見えるといふわけに行かぬかも知れぬ。文學でよく議論になる「自然」といふやつも、ことによるとそんなものであるかも知れない。そして自然自然と叫んでゐる人が、案外ほんとの自然のわからないことも随分あるかも知れぬ。
 私がここに居て詠んだ小鳥の歌には、
  ののとり の には の をざさ に かよひ きて あさる あのと
  の かそけく も ある か
  たちわたす かすみ の なか ゆ とり ひとつ こまつ の うれ
  に なき しきる みゆ
  はる たけし には の やなぎ の こがくれ に はと ふたつ
  きて ねむる ひ ぞ おほき 
といふのがある。また奈良の歌の中に
  やま ゆけば もず なき さわざ むさしの の にはべ の あした
  おもひ いでつ も
とあるのも、この邸の庭のことである。
 その後、十幾年かにわたるこの森の棲み家から出て、谷一つ向うの丘つづきの、文化村の中にある今の家に移った。此の文化村といふのは、私が初めて小石川から越して来た頃、箱根土地会社の分譲から始まったもので、私はいつも裏庭の木立から見渡して、あちらは西洋文化村でこちらは東洋の一軒家だと、大きい舞で一人言を云つたものであった。その西洋村へ、今になって、仲間入りをさせて貰ふことになったのである。その引越の時に、書生さんの手傳人が多かったのでかねて自分の手で植ゑたものは、薔薇や寒竹を始め、百合から、龍膽から、水仙、をだまき、木瓜(ぼけ)、荵苳(にんどう)に到るまで、掘り起して持って来た。まるでノアの箱船のやうだと冷かした人もあるが、その箱船には、二羽の数珠掛鳩と、二羽の長嘯鳩と、一羽のメキシコ・インコも附いて来た。それから少し落着くと間もなく、神戸のある商人から、九官鳥を一羽、支那出来の囲い寵に入れて贈って来た。
 元来私は、いくらかでも自然の気特を味ひながら、鳥をいぢつて来たのであるから、鳥にまで人間の眞似をさせるのほ好かなかった。だからメキシコ・インコなども、實は貰ひもので、これも仕込みやうによっては、いくらか人の眞似もするのであるのに、打つちゃっておくものだから、誰の耳にもさうは聞えないほど御粗末の「オ早ウ」を、唯の一言(ひとこと)だけで、十何年かの御茶を濁して来たのである。だから物眞似の名人と云はれるこの九官は、私には、いかにも不似合な贈物であった。

『会津八一全集』 中央公論社

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ロシア~アネクドートで笑う歴史~ №88 [文芸美術の森]

ユーモアのペレストロイカ 9

                  早稲田大学名誉教授  川崎 浹

地獄での書記長選び

 混迷の冬の季節になぜかアネクドートの「復活劇」が見られるようになった。おそらく、言論だけでなく発想も自由になり、過去の体制と区切りをつけ、自分たちの時代を見直す機会を得たことが反映しているのだろう。独裁者たち自身も解放されたがっているのだろう。どこから復活するのか、アネクドートの世界ではほとんどが地獄からである。
 したがってペレストロイカ以前にも、亡霊たちはアネクドートに端役で登場しながら、復活の機会をうかがっていた。一九五七年作につぎのようなアネクドートがある。

 地獄で党結成のための書記選びで改選がおこなわれた。長髪でひげの濃い人物が推薦された。推薦理由は理論に強いことだった。しかし、彼は推薦を辞退した。
 「当世ではお役にたてません」
 「どうしてですか?」
 「第一に、私は生涯のほとんどを外国で過ごしましたし、第二に、妻が貴族の出で、裕福です。 第三に、私はユダヤ人です」
  後方のあちこちの列から声が上がった。
 「お名前は? お名前を名乗ってください」
  ひげもじゃの人物がいう。
 「マルクスです。カール・マルクスです」

 また、万国の労働者に団結を呼びかけたマルクスが復活し、第二三回ソ連共産党大会(一九六六年)で演説を行うというアネクドートもある。

 マルクスの新スローガン。
 「万国の労働者諸君、私を許して下さい」

 一九七〇年の作ではレーニンが静かによみがえっている。

  レーニンが復活し、周囲で生じていることを眺め、新聞や新著を読み、姿を消した。人びとがトランクをさげた彼を駅で見かけた。
  「どこへ、お出かけになるというのです、ウラジミル・イリチ?」
  「亡命(エミグハーツイヤ)するんです、みなさん。亡命して、すべてを最初からやり直さなければなりません」

 現代のまだ若い有能なロシアの監督ソクーロフに『ストーン』という映画があり、ヤルタの別荘で静かによみがえったチェーホフが、また黒い壁の闇に消えていくイメージと奇妙に重なる。
 レーニンは、日本人もそうだが、ロシア語の巻き舌ふう発音P(ル)と、舌端を上の歯茎裏につけて出す丌(ル))とを区別して発音できなかったので、アネクドートでもからかわれて、エミグラーツィヤではなくエミグバーツィヤと誇張的に表記され、笑いをさそう。アネクドートがスターリンやフルシチョフでもそうだが、登場人物の発音にこだわっているのは、面白い。

『ロシアのユーモア』 講談社選書

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石井鶴三の世界 №120 [文芸美術の森]

はるりんどう・長者梅 1958年/錦帯橋 1959年

                       画家・彫刻家  石井鶴三

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はるりんどう・長者梅 1958年 (140×200)
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錦帯橋 1959年 (127×175×2)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】

明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。

『石井鶴三素描集』形文社

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はけの森美術館Ⅲ №55 [文芸美術の森]

シクラメン

                            画家  中村研一

シクラメン.jpg
35cm×25cm

************                                                                【中村研一画伯略歴】                                                                鉱山技師であり、後に住友本社鉱山技師長となる中村啓二郎の長男として、福岡県宗像郡に生まれる。
1920年、東京美術学校を卒業。同年、『葡萄の葉蔭』が第2回帝国美術院展覧会(帝展)で初入選し、『若き画家』が東京大正博覧会で3等賞、1921年、『涼しきひま』が第3回帝展で特選を受賞する。1922年、帝展無鑑査(鑑査なしで出品できる資格)となる。1923年、パリに留学、ここで、モーリス・アスランから大きな影響を受けている。1927年、サロン・ドートンヌ会員となる。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞する。
戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作した。「コタ・バル」は代表作として名高い。
戦後は、小金井市中町に転居し永住する。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙される。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。夫人をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。
1967年8月28日、胃癌により国立癌センターで死去。享年72。

小金井市立はけの森美術館  〒184-0012 東京都小金井市中町1丁目11−3

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中村研一記念はけの森美術館正面 

 


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フェアリー・妖精幻想 №88 [文芸美術の森]

童話作品に描かれた妖精界 6

              妖精美術館館長  井村君江

 デユラックとゴープル
 現代の人々の脳裡にピーター・パンの映像を創りあげ、折々に特色ある妖精たちを描きだしたアーサー・ラッカムは、アール・ヌーボーの流れの線上にいた。が、現代妖精画家の双壁ともいうべきもう一人の画家エドマンド・デユラックは、その画風の源をオリエント、即ちペルシャやインドの細密画においている。そして、日本画の影響も多く、その上、生国であるフランスの洗練された感覚と筆致で、優雅な妖精たちを描いている。
 『妖精との日々』(一九一〇)を書き、別刷挿絵を入れ、瀟洒な装丁で仕立てているし、数多くの妖精画集『妖精の花輪』(一九二八)、『デユラックのフェアリー・テールズ』(一九一六)、『眠れる森の美女その他の物詰」(一九一二)等数多く出している。
 ウォーリック・ゴーブルが三十二枚の別刷彩色挿絵を入れ、ジョン・ファリファックスが再話した「シンデレラ」や「親指トム」の入った部厚い『フェアリー・ブック』(一九三一)は、今では話よりは挿絵と装丁の方が有名になっている。ゴーブルは一九二〇年代に水彩画家、挿画家としてドンの中央紙「ポール・モール・ガゼット」やウエストミンスター・ガゼット」誌などに達者で手堅い筆致の絵を載せて知られていた。
 一九〇九年の『水の子」をはじめ一九二四年には次々と『現代版チョーサー』やスチーヴンソンの『宝島』、『かどわかされて』等、文学作品の挿画を描いている。日本画や中国画の影響を強く受けており、『緑の柳と日本昔話』(一九一〇)からは日本の風俗にも詳しいことが各貢より窺える。
 ここに掲げた挿絵は『フェアリー・ブック』のものであるが、オリエント、特に日本画の構図や手法、配色の手法などの成功した例が見られるようである。どの頁の妖精や乙女たちの姿、顔や服装にも、この世のものと思えないほどの美と優雅さがあり高貴ですらある。それが簡略化された背景と重点的な人物配置で効果をあげている。
 この絵は『蝶』という物語の挿絵であるが「女王陛下を歓迎するために妖精が現われた」とキャプションにある場面である。女王の服の浮世絵の打ちかけのように長い裳裾が大胆に画面を横切っている。裾模様の鳳凰(ほうおう)もオリエントの幻烏であり、あやめの花もエキゾティックで、緑と赤のぼかしになった透明な蝶の翅の妖精が出現する異界(アザーワールド)の幻の雰囲気がよく現わされている。
 ゴープルは魅惑的な「運命の女(ファーム・ファタール)」のような妖精たちだけではなく、確かに珍しくはあるが小さく醜いダークエルフたちも描いている。鶏が夜明けを告げる木の枝の下、ツメ草の原で輪踊りをしていた緑の小さな妖精たちがあわてて消える支度をしているところや蝶に乗って飛ぶ小妖精も描いている。が、彼らは醜い出来そこないではなく、やはりどこかすっきりした愛らしさを残し、花や蝶と共にいる小妖精たちである。

W.Goble「フェアリーブック」.jpg
ウヲーリック・ゴーブル「フェアリー・ブック」よりr

『フェアリー』新書館


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にんじんの午睡(ひるね) №36 [文芸美術の森]

犬のはなし

                  エッセイスト  中村一枝

 いつも仲良くしている柴犬のあずきちゃんが急に目が痛み出したと言う。緑内障が原因だそうだ。あずきちゃんは共働きの若いご夫婦が飼っている柴犬で、あずきちゃんの飼い主であるTさんご夫婦とは親戚みたいな付き合いである。勿論私とは娘ほど違う年齢差だが、そんなことよりこういう若い友だちが近くに住んでいるということがどんなに有難く、心強いことかといつも思う。もともとあずきちゃんは白血病系の病気持ちで、そのための治療もずっと続けている。14才というから今までそれなりに治療が功を奏していることになる。それが突然目が痛みだしたのだ。しらべて見ると、緑内症が原因とわかった。獣医さんの話だと緑内障で目が痛むこともあるそうだ。犬にとって病気とはなんだか分からないが体に不具合いが生じることでしかない。共働きのご主人を持って、一日中待つのも辛いが、帰ってくる空気を感じたら嬉しいものに違いない。もう一匹、黒柴のガブちやんも我が家のモモと幼なじみ、いちばん若い。その三匹が自然と仲良くなったのだ。三匹共それぞれ手術をしているので子供がぐちゃぐちゃ生まれる心配はないが、なぜか人間の身勝手を感じる。子供の時からの知りあいだから犬見知りのうちのモモもこの三匹の間ではリラックスしている。とびっきりの仲良しというわけではないが、ああいつもいるあいつね、といった、気のおけない関係はまた大事なのだ。
 あずきちゃんはベージュ色の小型の柴犬、美貌である。ガブは黒毛の雄で、家族の中で存在感を示している。ガブリエルと言うのが本名だがガブがぴったり。人懐こくてみんなに可愛がられている。もう一匹が我が家のモモで、いちばんわがままに育っている。
 考えてみると飼い犬とはよくぞ言ったものだ。今、東京にいる殆どの犬は飼い主の一定のルールの下にある。平穏な自由と食べものを与えられているという、犬にしては申し分ない身分だが、かれらのこころの中にうずまいている犬本来の欲望、情熱(その中には食べ物への無限の欲求も含まれる)を制限されることが本当に幸せかと言う話になると全然違う。もうひとつ、人間からの愛情、これが果たして彼らにどのくらいの幸福感を与えているのか、これは聴いたことがないから不明だ。少なくとも食べものの充足とある種の安住を与えられるかぎり身体の拘束は免れない。飼い犬の宿命である。
 結婚してからは10数匹、子どもの時からは20匹以上犬を飼った。父が本当に犬好きだったのか、多少の気まぐれもあったのか、わからない。父の小説を読むと犬を連れて大森駅近くの酒場に行き、犬をつないだまま酒を呑んだりしている。その頃の文士には当たり前のことだったのかもしれない。繋ぎっぱなしにされた犬の心情には触れていない。父の兄である伯父はかなりの犬好きて、当時家の中で犬を飼っていた。私はそれが羨ましくて母に頼んだが聞いてもらえなかった。伯父は戦争中も隠れて二匹の犬を飼い続けた。私は犬に関しては伯父に似ている。私の犬への接し方は動物にというより自分が動物と同化してしまう所がある。母にはこの気持はわかってもらえなかった。白血病にさらに緑内障、いまの犬は長生きしていてもいろいろ困難が絶えない。これって人間も同じかな。




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渾斎随筆 №12 [文芸美術の森]

 小鳥飼 1

                   歌人  会津八一

 越後に生れた私は、子供の頃には、誰もするやうに、やはりいろいろと小鳥を飼ったことがある。その頃は、いつも兄と小遣い繡を出しあって、町の鳥屋から、繡眼兒(めじろ)とか、小雀(こがら)とか、四十雀とかいふところを買って来て、その當座だけは、両方で競争のやぅに世話をしたがるが、間もなく厭きてくると、両方でそれを押しつけあひになって、手を出さうとしない。つい口論にもなる。そのうちに、鳥は膨らんで死ぬ。いつもきまってこれなので、私たちが、まるでそれを忘れたやうに、また庭の隅で、何か鳥銅の相談をして居るのを、祖母などに聞かれると、何よりも鳥がかはいさうだからと、止められる。それを隠して買って来ては、同じことを繰り返したものである。その後、ずつと本を読む人の生活をするやうになって、折々その頃のことを思ひ出すことはあったが、また飼って見ようといふ気にはなれなかった。          
 小石川の女子大學の坂下に居る頃、ふと三越から、白文鳥の番ひを買って来て、太い竹籖(ひご)の、箱には赤い漆を塗った横籠に入れて、毎日欒しく眺めて居たが、間もなく或る晩、たぶん鼠であらう、二羽とも嘴を噛み取られて死んでゐた。それがあまり無残に思はれたので、やはり小鳥は飼はないことにきめた。
 ところが落合へ移ることになった。もちろん其頃は落合村で、あざ不動谷の、崖を右に控へた高臺で、木の多い邸で、三方とも廣々と畑になってゐて、奥の茶室から眺めると、向うの丘に獨逸人の赤い屋根が一つ見えるだけで、満目ただ青々として淋しいところであった。これは春城翁の別荘であったのを、私の生計が急に怪しくなって来たときに、それを気の毒に思って、いつまでも無賃で貸してくれられたもので、もとは玄関に、佐藤一齋の筆で「閑松奄」といふ額が懸けてあった。私は小石川にゐる頃から「秋艸堂」と号してゐたが、ここへ来て見れば、崖に臨んで二本の大きな松があり、その太い幹が、茶室の窓を、斜めに横ぎつてゐるから、少し気取つて、黄山谷の『煎茶賦』でも思ひ合せて、「閑松庵」の「閑」を「澗」に改めようかと思ったりした。しかし不動谷などいっても、正直に云っててみれば、もともと薮竹の生えた傾斜地だけのものを、「澗」など云ふのは、少し大袈裟でもあるし、第一に、私は一齋の書はあまり好かないから、それを原案にして修正をするのも、気乗りが薄いし、とつおいつしてゐると、或る日、詩人の阪口五峯老人が見えたから、相談すると、今度こそほんとの「秋艸堂」ぢやありませんか、と云はれて、なるほどと、やはり「秋艸堂」にした。實はこの庭には、南向の正面に、大きな萩の古株が、いくつもあった。これは、たしか、逍遥先生の牛込余丁町の邸から、文藝協合解散後、何事にも記念の好きな春城翁が、貰って来て、ここへ植ゑておかれたものだと聞いてゐた。この萩が、よく延びて、誰の目にもつき、文字の姿は、「艸」冠に「秋」で、秋艸堂にしっくりしたのである。
 私がここへ引っ越して来たのは、秋の初めであった。荷物の取片付けが、まだ済まないうちから、毎日つとめ先の中學校から帰れば、すぐ日當りのいい縁側に、のびのびと寝て、楽しく幾日かを送った。もう時節であったので、小鳥が絶えず渡って来て、庭の樹立で鳴く。私の近眼では、その姿は見えないが、子供の時に、郊外へ囮に出かけたりなどして、聞き覚えのある囁き聾で、たいてい名ざしも出来た。この縁側の安臥は、その頃、何所となく少し疲れてゐた私のためには、たしかに養生でも修養でもあったらしい。ことに、だんだん冬が来、春が近くなると、たまたま庭の真ん中で、秋の暮に睡蓮が枯れたままにしておいてある大きな鉢の緑に、何か鳥がゐて水を飲む。庭の何所かに巣を懸けてゐるやつが、食後の喉を濡すのであらう。それが居なくなると、すぐ後へ、ほかのが来る。後から後からいろいろのが来る。が、気をつけて見ると、毎日その順序が決まってゐるらしいこときへわかって爽た。そんなことを一人で見てゐると、三越から物珍しげに白文鳥を提げて掃った頃とは、いつしか別な目で小鳥を見るやうになってゐた。
 そんな風にしてゐれば、それこそ、あらゆる小鳥を放し飼ひにしておくやうなものであるから、籠などに飼ふ必要もないわけであるのに、年来自分の調べてゐる法隆寺を「イカルガデラ」といふ聯憩から、一番(つがい)の数珠掛鳩を飼ひ出して、つらつらこれを眺めてゐると、これを見る目も、やはりいつしかだいぶ變つて来た。鳩には二枚の翼と二本の脚があるのは、元から知ってゐたが、その翼は背中の何の邉から生えてゐ、脚はおなかのどの邉から出てゐるのか。その翼や足で、どんな具合にして飛んだり歩いたりするのか。どんな風に首を動かして稷(きび)を拾ふのか。どんなに身を絞って、夢中になって雄は鳴くのか。私は、生きものとしての鳩を、始めてほんとによく見るやうになったらしい。そしてこれは、何ともいへないところであるが、何かよほど良いものを得たやうにも思はれるので、ほんとに良いことをしたといふ気持に満ちてゐた。
 それからは、いくらか解って来たやうな気がして、いろいろの鳥を飼って見たが、今でも思ひ出すと、私をいい気持に導くものは、世間で一番平凡なものに思はれてゐる、十姉妹である。まだ郷里で小學校へ行く頃、此の鳥を近所の行きつけの床屋で飼ってゐたのが、どうかすると、時たまに思ひ旧されたものであるが、或る時、難司谷の畠の店で、ふと此の鳥を買って来て飼ふことになった。まことに穏かな、行儀のよい鳥で、低くジョリイ・ジョリイと鳴きながら、きびきびと振り動かす白い尻尾を眺めてゐる私を、首を傾けて、いくらか解るといふやぅな限つきをしながら、餌入れから一つづつ餌を拾っては、すっきりとした嘴から、殻だけをしづかに喰ひこぼす此の鳥を、しばし打ち見ることも、心ゆく楽みの一つであった。′

『会津八一全集』中央公論社


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ロシア~アネクドートで笑う歴史 №58 [文芸美術の森]

ユーモアのペレスtpロイカ 8

            早稲田大学名誉教授  川崎 浹

後悔

 九三年二一月の選挙では予想を裏切って、「極右」ジリノフスキイの自民党が躍進して世界を不安におちいらせた。他方、期待の改革派ガイダールの「ロシアの選択」は辛うじて一位になった。「ロシアの選択」も選挙戦でけんめいの追い込みをかけ、一定の効果はあった。選挙は二つ、新憲法案の承認と下院代議員をえらぶ投票がおこなわれた。新聞記事によると、レニングラードの投票所でこんな会話がかわされた。

 「(ロシアの選択)ってどれ? 勤め先の同僚たちが電話してきて、投票を頼んだの」
 「あなたは民主派なの?」
 「民主派なんか支持するものですか。いやったらしい。勤め先で憲法賛成と〈ロシアの選択〉に投票しろといわれたの」

 こうして「ロシアの選択」に投票し、五人に一人が後悔したが、しかし自民党への投票でも五人に三人が自分の誤りを認めた。馬


「もっと、ひどくなるよ」

 九〇年代半ばソ連で投資信託会社MMMがバブル崩壊し、私が訪れたときにも払い戻しを要求する群衆が会社の前で列をなしていた。テレビはMMM批判の番組で監獄にいる社長の言い訳と、不運を訴える市民を映しだした。私が驚いたのは、その直後同じチャンネルがMMMのコマーシャルを流したことである。いっしょにいたロシア人は笑うだけである。どうやらテレビ局がMMMと契約した放映期間がまだ切れていないらしい。そのコマーシャルたるや、人は働かずに大酒を飲みながらも、投資でいかに利益をあげてアメリカ旅行に行けるかという、文字どおり「寄生」という言葉を使って社会への寄生をすすめる内容である。
 コマーシャルの間抜けなキャラクター「リョーニヤ」とMMMの社長マブロージもすっかり有名になった。マブロージは責任を政府におしつけ、破産した大部分の株主たちもかれに同調し、国家が自分たちの損失を補償し、投資信託会社MMMへの課税を免除するよう要求した。
 長インルレで物価が高騰し、マフィアが牛耳り、市民は犯罪におびやかさればがらも、警察が対処できないため、に、犯罪に鈍感になっている。零下のウラジオストク市では選挙を何度しても、定足数の不足や不正の検挙で市長が何カ月も決まらない。一般に何年も前から、状況は悪だといわれ、他方ではまだ悪くなるといわれてきた。

 オプチミストとペシミストの会話。
 ペシミスト(うち沈んで=だめだ、もうこれ以上悪くなりようがない」
 オプチミスト(喜ばしげに)「いやあ、もっと、なるよ、なるよ」

 このアネクドートは英語流にいえばNOとYESを使い、ハムレット式の地口でNOT TO BEとTO BE、否定形と肯定形を巧みに掛け合わせたたたいへん面白いテキストだが、日本語にはうまく乗らない。実際、話は代わるが、もっと悪くなるのだから、現状はまだ楽ではないか、という見方もできる。
 私の友人が仕事でウラジオストクに出張し、お婆さんに「ひどい状態ですね」と話しかけると、彼女は笑って「いあや、もっと、もっと、ひどくなるよ」と楽天的に答えたという。友人はロシア人の忍耐心にすっかり感じいったようだ。精神的耐久度を気候におきかえれば、北海道をのぞいて、「寒いですねえ」という日本人の標準度は零度、モスクワ市民がマイナス二〇度、、極東やシベリアでマイナス五〇度になる。
 もっとも場所によっては「たかが五〇度で」寒がっている訪問者を見下すと地もあると聞くが…。
 二二年を収容所ですごしたシャラーモフの小説『大工』では、古参囚人は温度計がなくとも、大気中の白い濃霧で零下四〇度と判断する。作家ソルジェニーツィンの収容所では四〇度で戸外作業休止になったが、シャラーモフのコルィマ収容所では五五度になっても働かねはならなかった。吸う息吐く息が音をたて、それでも苦しくなければ四五度。息切れがすると五〇度。吐いた唾が途中で凍ると五五度。途中で唾が凍るようになって二週間、長い収容所生活で衰弱している三〇歳のポタシニコアはもう人生一巻の終わりだと覚悟するが、翌々日、零下三〇度まで下がり、「もう春だ、助かった」と安堵(あんど)する。
 私たち日本人は零度から零下五五度に「下がる」という言い方をするが、なぜかロシア人たちは「上がる」といい、私たちとは逆の目盛りの読み方をする。どうやら私たちの下降感覚にたいして、かれらは上昇感覚の楽天主義で耐えられぬ事態を迎えでもするかのようだ。
 モスクワにいたある冬、珍しく真っ青に空が澄み渡って、いっきょに零下二五度になった。タクシーを拾ったら、真っ青と真っ白の空間のなかをおんぼろ車をがたがた運転しながら(車も道路も悪い)、ドライバーがにこにこしている。私が「今日はマイナス二五度だって?」といったら、「いやあ、もっとあるよ、もっと。三〇度まで上がる」とはしゃいで答えた。


『ロシアのユーモア』 講談社選書


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