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ケルトの妖精 №5 [文芸美術の森]

湖の貴婦人ニミュエ モルガン・ル・フエ 1

            妖精美術館館長  井村君江

 アーサー王がまだ若かったときのことである。王ははげしい戦いで傷を受け、剣を失って森のなかをさまよっていた。
 王のかたわらに影のように従っていた魔法使いのマーリンに、王がそのことを告げると、マーリンは予言した。「心配なさいますな。この近くに魔法の力をもった剣がございます。それはあなたさまのものになる剣なのです」
 ふたりは、馬を進めていくと、しばらくして広く美しい湖に出た。
 湖のおもてを見やると、沖あいに水の輪を静かに描いて、美しい綿の衣をまとった乙女の手が現れた。そして輝くような白い手にはひと振りの剣がささげ持たれていた。
 「あれは湖の貴婦人(ダーム・アユ・ラック)と呼ばれる妖精です。湖の底にはこの地上では見られぬ、豪華な調度がととのった美しい宮殿があるのです」とマーリンが言った。
 そして「さあ、あの剣はあなたさまのものです」とうながした。
 アーサー王はマーリンとともに湖に小船を漕ぎだし、湖の貴婦人と呼ばれる妖精のひとり、ニミュエの持つ剣を手にした。すると剣をささげていた白い美しい手は、音もなく水のなかに消えていった。
 この剣こそが、アーサー王の運命と切り離すことのできない名剣エクスキャリバーであったのだ。光り輝く刃は堅いはがねも断ち切ることができ、刀身を納める鞠には受けた傷を治す力があった。そのためエクスキャリバーを身に帯びたものは不死身となった。
 このときからエクスキャリバーは、たくさんのはげしい戦いのなかで、アーサー王を守っていくことになる。

 湖の貴婦人のひとり、モルガン・ル・フェはずっとアーサー王に敵意を燃やしていた。あるときは策略をもちいてエクスキャリバーをだまし取ったり、鞠を盗んだこともあった。またあるときはこれを身につければ身体が燃えあがり灰になってしまうという魔法のマントを贈って、アーサー王の命を奪おうとした。すきがあれば王位算奪と王の殺害を企てていたのだったが、それは愛人のアコーロンを王にして、自分が妃となりたいがためであった。
 ある日、狩りに出たアーサー王は一頭の鹿を追いかけていて、一行とはぐれてしまった。
 騎士ウリエンス王と騎士アコーロンだけが王と一緒だった。しばらく行くと、川辺に出た。
 そこには猟犬に噛み殺された鹿が横たわっていた。アーサー王は合図の笛を吹いたが供のものはだれも現れなかった。代わりに川のなかほどから綿の布で飾られた小舟が漂ってきた。
 三人がこの船に乗りこむと、いっせいに松明が灯り、十二人の乙女が現れて食卓にみちびいた。華やかなもてなしを受けてから三人はそれぞれ豪華な部屋に案内され、眠りについてしまった。
 アーサー王はモルガン・ル・フエの魔法に落ちてしまったのだった。
 眠るアーサー王にモルガン・ル・フエは魔法で邪悪な幻影をつくりだして見せ、王と騎士アコーロンの一騎討ちをしくんだ。名剣エクスキャリバーは、アーサー王のもとからモルガン・ル・フエの姦計によって奪われ、騎士アコーロンの手に渡っていた。
 アーサー王はそれを知ることもなく、戦いははじまってしまった。たがいに剣を抜き放ち、はげしく刃を交えた。しかし王の剣はいつもとちがって切れ味に鋭さをみせなかった。どんなにはげしく打ちおろしてもアコーロンの鎧に食いこまず、アコーロンの振りあげる剣は打ちおろすたびに王の傷を広げた。
 アーサー王は猛り狂ってアコーロンの兜に剣を打ちおろすと、王の持つ剣は根元から折れて血まみれの草の上に落ちた。
 「降伏せよ」とアコーロンは叫んだ。
 「武器はなくしても誇りはなくさない。もしそなたが武器を持たない相手を殺すなら、それはそなたの恥辱となろう」とアーサー王は言いかえした。
 「恥辱なぞ、かまうものか」
 アコーロンがなおもすさまじい一撃を加えようと、手にしているエクスキャリバーを振りおろした剃那、エクスキャリバーはアコーロンの手を離れ、宙を飛んで草の上に転がった。
 モルガン・ル・フェの陰謀を知ったニミュ工が駆けつけ、アーサー王を救ったのだった。王はすかさずエクスキャリバーを拾いあげ、兜もろともアコーロンに斬りつけた。そして不死身の力をもつエクスキャリバーの稗をアコーロンの腰から奪い取った。アコーロンの頭から血が流れだし顔をみるみる赤く染めた。
 モルガン・ル・フェはこのあと、なおもアーサー王の命を狙って策略をめぐらせるが、湖の貴婦人ニミュエがいつもその危難を救うのだった。(つづく)


『ケルトの妖精』あんず堂

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石井鶴三の世界 №142 [文芸美術の森]

獅子吼菩薩 1914年/薬師如来・十一面観音 1914年

             画家・彫刻家  石井鶴三

1914獅子吼菩薩.jpg
獅子吼菩薩 1914年 (201×142)
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薬師如来・十一面観音 1914年 (201×142)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №35 [文芸美術の森]

一片の石 2

                 歌人  会津八一

 ところが後に唐の時代になつて、同じ襄陽から孟浩然といふ優れた詩人が出た。この人もある時弟子たちを連れて●(「山+見」)山の頂に登つた。そして先づ羊●(「示+古」)のことなどを思ひ出して、こんな詩を作つた。

  人事代謝あり、
  往来して古今を成す。
  江山は勝迹を留め、
  我輩また登臨す。
  水落ちて魚梁浅く、
  天寒うして夢沢深し。
  羊公碑尚ほあり。
  読み罷めて涙襟を沾す。

 この一篇は、この人の集中でも傑作とされてゐるが、その気持は全く羊●(「示+古」)と同じものに打たれてゐるらしかつた。
  この人よりも十二年遅れて生れた李白は、かつて若い頃この襄陽の地に来て作つた歌曲には、

 ●(「山+見」)山は漢江に臨み、
  水は緑に、沙は雪のごとし。
  上に堕涙の碑のあり、
  青苔して久しく磨滅せり。

とか、また

  君見ずや、晋朝の羊公一片の石、
  亀頭剥落して莓苔を生ず。
  涙またこれがために堕つ能はず、
  心またこれがために哀しむ能はず。

とか、あるひはまた後に追懐の詩の中に

  空しく思ふ羊叔子、
  涙を堕す●(「山+見」)山のいただき。

と感慨を詠じたりしてゐる。
  なるほど、さすがの羊公も、今は一片の石で、しかも剥落して青苔を蒙つてゐる。だから人生はやはり酒でも飲めと李白はいふのであらうが、ここに一つ大切なことがある。孟浩然や李白が涙を流して眺め入つた石碑は、羊公歿後に立てられたままでは無かつたらしい。といふのは、歿後わづか二百七十二年にして、破損が甚しかつたために、梁の大同十年といふ年に、原碑の残石を用ゐて文字を彫り直すことになつた。そして別にその裏面に、劉之●(「二点しんにょう+隣のつくり」)の属文を劉霊正が書いて彫らせた。二人が見たのは、まさしくそれであつたにちがひない。こんなわけで碑を背負つてゐる台石の亀も、一度修繕を経てゐる筈であるのに、それを李白などがまだ見ないうちに、もうまた剥落して一面にあをあをと苔蒸してゐたといふのである。そこのところが私にはほんとに面白い。
  この堕涙の碑は、つひに有名になつたために、李商隠とか白居易とか、詩人たちの作で、これに触れてゐるものはもとより多い。しかし大中九年に李景遜といふものが、別にまた一基の堕涙の碑を営んで、羊●(「示+古」)のために●(「山+見」)山に立てたといはれてゐる。が、明の于奕正の編んだ碑目には、もはやその名が見えないところを見ると、もつと早く失はれたのであらう。そしてその碑目には、やはり梁の重修のものだけを挙げてゐるから、こちらはその頃にはまだあつたものと見えるが、今はそれも無くなつた。
  羊●(「示+古」は身後の名を気にしてゐたものの、自分のために人が立ててくれた石碑が、三代目さへ亡び果てた今日に至つても、「文選」や「晋書」や「隋書経籍志」のあらむかぎり、いつの世までも、何処かに彼の名を知る人は絶えぬことであらう。彼の魂魄は、もうこれに気づいてゐることであらう。またその友人、杜預が企画した石碑は、二基ともに亡びて、いまにして行くところを知るよしもないが、彼の著述として、やや得意のものであつたらしい「左氏経伝集解」は、今も尚ほ世に行はれて、往々日本の若い学生の手にもそれを見ることがある。だから、大昔から、人間の深い期待にもかかはらず、石は案外脆いもので寿命はかへつて紙墨にも及ばないから、人間はもつと確かなものに憑らなければならぬ、と云ふことが出来やう。杜預の魂魄も、かなり大きな見込み違ひをして、たぶん初めはどぎまぎしたものの、そこを通り越して、今ではもう安心を得てゐるのであらう。      (『文芸春秋』第二十二巻第六号昭和十九年六月)


『会津八一全集』 中央公論社
 

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じゃがいもころんだⅡ №11 [文芸美術の森]

ネクタイ事情

             エッセイスト  中村一枝

 最近は経済事情もいいのだろうけど、テレビに出演している男の人のネクタイが年々上等になり、趣味も上昇していて見ていて楽しい。わたしは若い頃からネクタイを買うのが好きだった。好きと行っても、あげる相手は父か夫くらいしか居なかったけれど、一人で銀座の裏通りの男性用の洒落た洋品店をのぞて歩いた。以前はともかく、最近は政治家たちもなにかとみなりにきをくばつているらしく、えっ、と思うようなしやれたネクタイを締めてるのを見ることがある。ネクタイがいくらお洒落でもなかみが全くダサいのも多いから当てにはならない。
 最近は全くひとにネクタイとなどあげたことはないからわからないが、いまは随分たかいのだろうとおもつたりもする。。男性にとつて唯一の見せどころなのだから値を張り込んで当然だろうと思う。事実ネクタイの質感はつけている人間の質感に相当するのだ。最近は全体にラフな格好の人が増えているが、それでも良い男を探す楽しみはまた別である。ネクタイの長さ、結び目の見映え、誰が考えたのだろう。大抵の男に似合う、それもおかしい。クールビズのというのも最初は誰もが身につかず、借り物の感があったが、最近は地方のお役所などでもう当たり前という感じである。みんなが着ているとそれなりに身に沿ってくるから不思議である。
 昨日、安倍さんが訪問したイランの大統領はいっぱい着こんでいたが、あの下の方はどうなっているのか気になった。ステテコ一枚ということもあるのかなと思うとおかしい。あちこちで起きているさまざまの紛争、みんなが下着で戦ったらと思うとおかしい。殺伐な戦いにはならないだろうに。戦いというものか人間が生きている以上必ず起きるものだとしたらなんとか戦いが起きにくいの事を、誰か、考え付かないのか、戦いは下着に限ると。全く人間がどうしてもこうも戦うものなら、戦いにこういう掟を作ったらなどおばあさんはバカな事を考えたりした。戦争は何物も生み出さず、ただお互いに憎しみだけが増幅するものだと分かっているのに。人は分かっていても前に進みたいのだろうか。
 そんな呑気な事を思っている最中に、ホルムズ海峡で日本のタンカーが攻撃を受けた。安倍さんがイラん訪問中を狙ったのかどうか判らないが、いくら遠く離れていても気持ちのいい話ではない。これまでの戦争を見てもまったく偶発的な事件がきっかけで戦争が起きている。世界の指導者の中にはいろいろの考え方もあるのだろうからなんとも言えないが、なんの関わりもない普通の人たちの気持ちを感じ取ってほしいとつくづく思う。無駄な遠吠えと思いたくない。


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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №6 [文芸美術の森]

第三章  帝大学生時代から戦後まで 1

        早稲田学名誉教授  川崎 浹

恩賜の銀時計を辞退して画家の道へ


 大学三、四年生の時に高嶋弥寿は特待生になった。
 森鴎外は、官立学校の特待生で幅を利かせているような人の中には、試験に高点をとって、昇進ばかりをねらう者がいると批判した。弥寿はむしろ反対のタイプで、在学中にも絵を措く余裕をもっていた。ただ学問と両立させねばならなかったので、絵に集中はできなかった。卒業後の助手時代にも外の学校に非常勤で手伝いにゆくとか、或いはそういう将来が待ち受けている生活が見えてくるにつれ、いよいよ二者択一をせまられる。師弟の
義理もからむなかで、画家への道を踏みだすには「大決心を要しただろう。
 教授たちも将来の後継者と思い定めていた学究のとつぜんの変心に驚いて引きとめ、野十郎が慕う長兄の宇朗も「家庭ももてなくなるぞ」と翻意をうながしたが、その段階で野十郎は生涯独身でもかまわないぐらいの気持ちでいたと思われる。
 大正五年(一九一六)、野十郎は二十六歳で、東京帝大水産学科を首席で卒業。魚の感覚に関する研究を行っていた。また卒業時に授与の候補に挙がっていた恩賜の銀時計を辞退した。これで引くに引けぬエリートコースへの退路をたち、同時に栄誉心もかなぐりすて、画業に専念するしかない道を選んだことになる。
 しかし、野十郎より二歳年下の岸田劉生はすでに名をなし、前年、野十郎より三歳年下の中川一政や同じく木村荘八らと草土社を創設していた。ここで《道路と土手と塀(切通之写生)》が出品されるが、ありきたりの風景を見る者をして捻らしめる作品に仕上げる劉生の早熟の才能を弥寿はどう思っただろうか。
 さらにその前年(大正三年)には弥寿の二歳年長の梅原龍三郎が、同世代の石井柏亭や津田青楓、有島生馬らとともに「文展」に反旗をひるがえし二科会を創立している。安井曾太郎も梅原と同年生まれで、すでに長年の滞欧を経験し、弥寿の大学卒業の二年前に帰国、その翌年大正四年(一九一五)に二科展で滞欧作品四十四点を展示する。やはり弥寿卒業の年、かれより七歳も若かった東郷育児が、新しく結成された東京フィルハーモニー
の指揮者、ドイツ帰りの山田耕作と知り合い、楽屋をアトリエ代わりに使うことを勧められ、ここで描いた絵を日比谷美術館で展覧している。

青春の謎 1

 美術学校出身で環境や留学の資金にも恵まれた画家たちに比べると、水棲圏科学研究の分野でこそ将来を属目された秀才高嶋弥寿も、ひとつ道筋をずらすと陽の当たらぬ半端な画学生である。焦りと悩みと反撥を経験したにちがいない。在学中に二十四歳で措かれたと考えられている《傷を負った自画像》がある。
  私は《傷を負った自画像》を目にしたとき、野十郎の青春の謎がとけたと思った。これほど露骨な自己表現はない。自画像は一般に攻撃的でドラマティックな自己表出になりやすいという。この絵は《絡子をかけたる自画像》や《りんごを手にした自画像》よりはるかに攻撃的で、それは攻撃の最も衝撃的な反作用である敗北、攻撃の裏返しとしての敗北の形で露出されている。ある意味でこれほど醜く攻撃的かつ顕示欲の激しい自画像を私は見たことがない。野十郎が生存中だったらこの自画像の展示に同意したかどうか。
 はだけた着物姿で、立て膝の右すねに右の手を当て、惟悼しきった虚ろな眼差しはこちらを見ているようで、実はわずかに逸れている。左首と右のすねに傷口とそこから流れる一筋の血。右手の指にも擦傷か打撲痕跡らしいものがある。鼻血の塊らしきものがあり、下唇も割れている。
 私は傷口を見て、矢で射られた殉教者の聖セバスチアンを連想し、野十郎が当時の自分を擬したのではないかと思ったが、西本匡伸氏も聖セバスチアンの名をあげ、「絵に対する殉教」の姿勢を示していると見る。興味ぶかいのは、当時の野十郎の性格とエピソードを甥の力郎から聞いたうえで、多田茂治氏が《傷を負った自画像》を、実際にだれかと喧嘩して傷つき、それをまっすぐみつめながら描き、そこから虚飾をはいでおのれの正体、
醜さ、夜叉の顔を一筆、一筆塗り重ねていったとしていることである。
 《傷を負った自画像》はコンプレックスや迷いや絶望感をはらんでいるが、それは肖像画の主人公が特待生で通した専門の分野以外の、他の領域で生じたことだろう。そのなかには絵画に専念できないことや、画家として遅れを取っている懸念や焦燥がなかっただろうか。(この項続く)

『過激な隠遁 高島野十郎伝』 求龍堂

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №12 [文芸美術の森]

シリーズ≪琳派の魅力≫
                       美術ジャーナリスト 斎藤陽一

                           第12回:伝・俵屋宗達「蔦の細道図屏風」 
      (17世紀前半。六曲一双。各159×361cm。重文。京都・相国寺)

12-1.jpg

≪抽象画のような絵画世界≫

 今回取り上げる「蔦の細道図屏風」は、伝・俵屋宗達作とされている屏風絵です。賛に自作の和歌を書いているのが、宗達とも交流のあったとされる京の公家・烏丸光広ということだけでなく、簡潔で大胆な構図によって、現代のグラフィックアートを思わせるような斬新な画面を創り出した絵師は“俵屋宗達以外の造形的個性は考えられない”とされるからです。(両隻には、宗達とその工房が用いた「伊年」の印が押されています。)

 この絵には、人物が一人も描かれていませんが、これでも、在原業平を主人公とする歌物語『伊勢物語』からテーマを採っているのです。では、どのような場面を選んでいるかというと・・・
 在原業平が都落ちして東国へ下る途中、駿河国の宇津山の蔦の生い茂った細い山道で、京に戻る一人の修験者と出会います。偶然にも、その男とはかつて顔見知りだったので、業平は、都にいる恋人に手紙を託した、という物語です。その時に業平が詠んだのは、
「駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」という歌。(賛に描かれている和歌は、これではなく、この物語にちなむ烏丸光広自作の七首です。)

 この物語も、しばしば他の絵師によって描かれていますが、大抵は、手紙を託された修験者が山道に消えていくのをじっと見つめる業平の姿を描いています。
 ところが、宗達のこの屏風絵では、人物は一切描かれていません。
 使われている色彩も、「金」と「緑」というたったの2色のみ。その上、構図もきわめて抽象化され、暗緑色の土坡(どは)は宇津山を象徴し、右下から左上に対角線上につながる金色の帯が蔦の生い茂る山道を暗示するという、簡潔そのものの構図です。
 
 よく見ると、山道の蔦は、右側ではやや密度濃く描かれていますが、左に進むにつれて、まばらで、はかなげな薄い色となっています。おそらく蔦の細道を行く旅の心細さを暗示しているのでしょう。

12-2.jpg

 右隻の右上に注目すると、そこに蔦が垂れ下がっています。(上図:右隻)
 そこから書き始められた烏丸光広の書も、上から下へ、太く細く、大きく小さく書き連ねられ、蔦の葉がそのまま和歌の言葉になっていくような趣向になっています。つまり、書も絵もデザイン化されて混然一体となった、まことに前衛的な絵画世界なのです。

12-3.jpg ところで、右隻には烏丸光広の署名が書かれているのですが、どこか、判りますか?
 右図の山の稜線と思われるところに、ごく小さく「光広」と書かれているのです。おそらく光広は、山道をとぼとぼ歩くに人間の姿を思わせるように、ここに小さく署名をしたのでしょう。光広のユーモアを感じさせます。


 ここでちょっと面白いことをしてみましょう。試みに、右隻と左隻とを入れ替えてみるのです。すると・・・

12-4.jpg

 見事につながりますね。(上図)
 こうすると、またまた不思議な空間が生まれ、具象と抽象の絵画世界を行き来しているような、モダンな絵画空間となりますね。面白い仕掛けを考えたものです。

 宗達作品には、他に、アメリカのフリーア美術館が所蔵する屏風絵「松島図屏風」があり、画集などで見ると大変な傑作と思われるのですが、私は実見していないので、割愛します。(実業家フリーア氏の遺言により「門外不出」となっているのです。)
 それでも、これまで取り上げた宗達作品だけを見ても、それまでの日本絵画には類例のない破天荒とも言うべき宗達の造形的個性をご理解いただけたのではないか、と思います。

 これで、一連の俵屋宗達作品の紹介を終わりとし、次回からは3回にわたって、本阿弥光悦作の硯箱や茶碗を取り上げて、また違った角度から「日本的な美意識」を見ていきたいと思います。
                                                                  


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正岡常規と夏目金之助 №15 [文芸美術の森]

子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承 

                         子規・漱石 研究家  栗田博行 (八荒)

             第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅲ

     (番外) 子規に於ける「ますらおぶりとたおやめぶり」 2.

前回のおさらいから始めます。
前回ご紹介した「仰臥漫録」明治三十四年十月十三日の一章は、子規のますらおぶりの重要な到達点でした。自殺決行のギリギリのところまで行く自分をみつめている目の冷 静さと、それを書きとめる15-1.jpgはりつめた写生的な姿勢を,強健無比「大剛のもの」と賞揚したのは中野重治さん。大江健三郎さんも強くそれに賛同されたのでした。
   
加えて、そこまで行ったこの日の日記が「・・夜に入りては心地はれ へ と致申候」と結ばれていることに、筆者(八荒)は、生きることの苦しい局面に立つたびに前進的な結論に到達し次のライフステージに向かう子規の精神性を感じて感嘆し、そこに子規「大剛のもの」ぶりを感じてきたのでした。
  
ところがです。
  
その結びの一節は、その日の情動の結着としてその夜書かれたのではなく、新しく冊子を綴じて「仰臥漫録」(二)として書き始めた後日の書き加えだったと考えられるのです。前回の最後にコラージュでお示しした講談社版子規全集(一)から(二)への変わり目の所から、その推定が成りたちます。

15-2.jpg

明治三十四年十月十三日。その日の夜のうちに子規が雑記帳も兼ねた日記,「仰臥漫録」に書きこんでいたのは「古白曰来」の四文字と、自殺の道具として手に取ろうとした小刀と錐の画までだったのです。そこで「仰臥漫録」(一)の紙数は尽きていたのでした。
  
そこで、なぜ子規は後日になって(おそらく十五日)新しく綴り始めた「仰臥漫録」(二)冒頭に、十三15-3.jpg日夜のこととしてこの一節を書き加える気になったのか…。かつその結びの一節がなぜ急に「候文」となってしまったのか…、という新しい疑問がわいてくるのです。

まず、なぜこの一節を書き足す必要を子規は感じたのかという問題から考えてみましょう。
 
文中の四方太とは、八重さんに「キテクレネギシ」と書いた電報用紙を託して,電報を打ってもらって呼び寄せた子規門のひとりです。この日の心動きの上で特別な意 味を持っていた人物(精神科の医者など)という訳ではなく、誰か話し相手が欲しくなって、夕方からでも来てもらえそうな、比較的近居していた人物だったと思います。この日の記述はこう始まっています。(以下、全文引用することになると思います。おつきあいください)

15-4.jpg

さんは夕食から夜にかけての家事に備えて、早めに銭湯に出かけたのです。枕元に八重さんが注意深く付き添っている様子です。「余ハ俄二精神ガ変ニナツテ来タ」「例ノ如クナルカ知ラン」とあるのは、この頃常襲していた心身のパニック=「逆上せ」(のぼせ)が来そうだと予感したからです。子規はすでに、「生きているのが不思議」(全集解題担当・蒲池文雄さんの言葉)というくらいの病状にあり、苦痛に耐えかねて絶叫するというようなことも、この年の五月頃からよく繰り返していたのです。この秋の夕方も、その発作への予感が生じ、それを抑えるための話し相手が欲しくなり、それがたまたま四方田クンになったという訳だったのでしょう。

15-5.jpg


   
電報用紙を持って出かけようとする八重さんに,息子を一人にするのを用心している気配が感じられます。直接には、留守中の逆上(のぼせ)発作への心配からなのでしょう。
   
車屋ではなく時間がかかる郵便局までお母さんを行かせようとした自分の「心ノ中ハ吾ナガラ少シ恐ロシカツタ」とありますが、そのわけは、次葉で分かりますが、すでに自殺への心の流れがこの時点で動き始めていて、そのために八重さんの帰宅を少しでも遅らせようと企む自分が「少シ恐ロシカツタ」のです。わが子ノボ(子規)の、そうなりそうな心の傾きにまでこの時の八重さんが気づきかけていたかどうか、その点は不明ですが・・・。
   
しかし、いつも人の出入りの絶えない家の賑わいの中心人物である息子のこころが、「死」という最大の主題に向かって切迫し始めていることは、八重さんの母親としての本能はすでに気づいていたと思われます。なぜなら子規は、この年始めた「墨汁一滴」で、こんな文章も新聞「日本」紙上に発表するところへ来ていたのです。

    一 人間一匹
    右返上申侯 但時々幽霊となつて出られるよう 以特別御取計被可侯也  
                                                                  何がし
       明治三十四年月日
             地水火風神中
  これは4月9日掲載ですが、5月9日には、臼歯左右共に失ってしまった身の上を嘆いて
             衛生上の栄養と快心的の娯楽と一時に奪ひ去られ、
                衰弱頓に加はり昼夜悶々、忽ち例の問題は起る
                   「人間は何が故に生きて居らざるべからざるか」
 さらにその4日後の5月13日には、こんなところまで行きついていたのです。

15-6.jpg今日は闕。但草稿卅二字余が手もとにあり。(五月十三日)

「闕」は「休み」です。そして左が、その手元にとどめ新聞に掲載することを止めにした草稿です。
最初の行に・墨汁一滴(五月十一日記)規とあって
     
試に我枕もとに若干の毒薬を置け。
        
而して余が之を飲むか飲まぬかをかを見よ
となっています。もしこれが日本新聞社に送られ掲載されてしまっていたらと想像するとゾッとします。
  
八重さんが、これらの記事を読んでいて止めたなどというのではありません。八重さんは、我が子の心の帰趨を言葉少ないままに感受し、能うかぎり受容して寡黙に振舞う武士の家系の母親でした。松山藩の儒学者・大原観山の長女であり、武家の正岡家に嫁ぎ、その嫡男・正岡常規を産み、その成長を見守ることに徹した母性の人でした。
  
一方子規の方は、妻子を持たず壮年期を生きている明治の日本男子でした。病気の苦痛が昂進する中、生きる楽しみを失い成すべきことが成せなくなることへの予感に、既に苛まれていました。しかも尚、明治期の日本の「世間」に対して自分というものを死を恐れない「男子」として提示していく気持ちの昂ぶりは、この段階でここまで来てしまっていたのでした。
  
それは絶望の果てというより、日清戦争従軍を強行したあの「ますらおぶりの心」の辿り着いた極致のひとつでした。この「毒薬を置け。」「飲むか飲まぬかをかを見よという表現は、日清戦争従軍に当たって詠んだ
       
「行かばわれ筆の花散る処まで」 (俳句) (当連載№1で引用)
      
「かへらしとちかふ心や梓弓矢立たはさみ首途すわれは」  (短歌)
    
これらの辞世めいた俳句・短歌と同じ心情的ルーツを持っているのです。

その彼に、日本新聞社への卅二字の送稿を踏みとどまらせたのは、何だったのか?
  おそらくそれは子規自身の単独の心動きからだったと筆者(八荒)は想像しています。
  彼は孤独ではありませんでした。妻子は無くとも、八重さんももいました。お隣には陸羯南一家、また日本新聞のひとびと。ここまでの歩みを支えてくれた親戚の叔父さん集団。そして虚子・碧梧桐・寒川鼠骨・内藤鳴雪・伊藤佐千夫・長塚節・・・子規庵に出入りする文学運動の仲間だけでも、計り知れない人数の人々の中心に彼はいたのでした。離れたところではロンドンには「畏友」漱石、大阪には「親友」太谷是空、松山には柳原極堂他…。これほどの親愛と親炙・共感者の輪の中に生活する人間として実行できるはずのない宣明であることを、引力に逆らえないように自然に悟ったのだと思います。それは哲学や宗教における悟りとは別次元のものだったと思います。彼は、一見愚行の極みであった日清戦争従軍の後、生き延びて漱石の下宿に転がり込んでいた或日、特異な心境吐露の一句を詠んでいます。郊外散策に出た帰り道、「車上頻りに考ふる所あり 知らず何事ぞ」と詞書をしたうえで
                          行く秋や我に神なし佛なし
  と詠んでいます.。自分の態度や生き方を決めていく姿勢の確認のような重大な一句に見えますが、子規自身がその句を生むに至った「車上頻りに考ふる所」の内容について、直接語ったり発表したことは在りません。しかし筆者(八荒)には、この句を得て以後の子規の歩みはすべてそんな心境の上に立って展開されたように見えるのです。「毒薬を置け。」「飲むか飲まぬかをかを見よ。」と記してしまったことも、その原稿を思い立って手元にとどめたのも、その姿勢から出たものだと思うのです。(自殺への傾斜を踏みとどまれたもう一つの大きな要因に、幼年期に獲得したものが大きく働いていると考えていますがそれについては、この稿のあと触れていきたいと思っています。)

15-7.jpg ところで「仰臥漫録」明治三十四年十月十三日のここまでの記述で、八重さんのことを言うところは、全部敬語で結ばれていることにも注目しておきましょう。最初の
  「・・母ハ黙ツテ枕元二坐ツテ居ラレル」から、
    「余ノ言葉ヲ聞キ棄テニシテ出テ行カレタ」まで、

全部敬語結びになっています。おしまいの方で自殺を思いとどまったことを記した後.にも、「其内母ハ帰ツテ来ラレタの敬語表記になっているのです。

子規にとって八重さんはいつも「母君」「母様」「母上」であり、行カレタ」「来ラレタと自然に敬語結びで書きとめる存在だったのです。そして八重さんの方は、少年期以降壮年期に自分に先立って病没する迄、息子「ノボのする一切の行為を受容する無限の母性を、言葉少ない静かな振る舞いの 中で発揮し続ける存在だったのです。
  
その八重さんも出かけひとりになった子規庵で、あの自殺への情動が動き始めます。

15-8.jpg

 以下、その心身の動きの実況中継のような記述が続きます。

       次回NO16はこの続きから始めます。

 はじめに申し上げた、なぜ子規は後日になって(おそらく十五日)新しく綴り始めた「仰臥漫録」(二)の冒頭に、十三日夜の結びとして「再ひしやくり上て泣候処へ四方太参りほときすの話 金の話などいろ く 不平をもらし候ところ 夜に入りては心地はれ く と致申候」の一節を書き加える気になったのか…。かつその結びの一節がなぜ急に「候文」となってしまったのか…という疑問に次回は、踏み込めると思っています。次回、

(番外) 子規に於ける「ますらおぶりとたおやめぶり」 3.

7月1日の予定です。

(パソコンの不具合が始まっており、その結果次第ではNO16以下の掲載が遅れることがあることを、あらかじめお断りします。)
          「子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承  
              第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが」
 とした人間成長の年代記風な枠組みからの脱線が続いていますが、この調子が続くと思います。大いなる文学者になった段階と、成長過程の要素が行ったり来たりするのであることを発見した思いがしています・・・よろしくお付き合い下さい。

 

 

 


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ケルトの妖精 №4 [文芸美術の森]

妖稲トリアムール

            妖精美術館館長  井村君江

 アーサー王の宮廷にロンファール卿という騎士がいた。この卿は、グウィネヴイア王妃がアーサー王と結婚するとき反対をしたので、王妃の恨みをかって宮廷を追放されてしまった。
 王の宮廷を去って、ウェールズのカーレオンに引きこもり、質素にさびしい暮らしをしていたロンファール卿のもとへ、ある日、ひとりの女性が訪ねてきて、トリアムールという美しい女性のもとへ案内した。トリアムールは五月のサンザシの花よりも白く、汚れのない肌をあらわにし、金髪を波打たせて寝台に横たわっていた。
 この世のものとは思えない美しさをたたえるトリアムールをひと日見ただけで、ロンファール卿は魅了され、恋に落ちてしまった。
 トリアムールは、妖精の国である西方の島を治めるオリロン王の娘で、妖精の女王であった。妖精のトリアムールは、ロンファール卿に騎士として必要なものすべてを与えることができた。強くてしなやかな武具と美しい衣装、毛並みのよい馬、忠実な召使、そしていつまでも空にならない財布であった。
 そしてトリアムールは、ロンファール卿が会いたいと願ったときには姿を見せるが、ほかのだれの前にもその姿を現すことはなかった。
「ふたりの愛は、ふたりだけの秘密」
 とトリアムールは告げた。
「だれにもふたりの愛を語ってはいけません。その秘密が守られなかったときには、わたくしはもう、あなたの目にも見えなくなってしまうでしょう。なぜなら、わたくしは人間ではなく妖精だからです」
 トリアムールは、愛は心のなかにあるのだと言った。だから、ロンファール卿がその約束を破れば、永遠に消えてしまうしかないのだと。人間でも妖精でも愛することに変わりはないと、秘密を守ることを誓って、ロンファール卿はトリアムールと幸せに暮らした。
 やがてロンファール卿は、大きな戦いに手柄を立てて、その武勲がアーサー王の宮廷にも伝わった。
 アーサー王は、ロンファール卿を宮廷に呼びもどすことにした。宮廷に戻るロンファール卿に、トリアムールは人間の目には見えない姿でつき従ってきた。
 この宮廷でもロンファール卿は、トリアムールのほかの女性にはだれにも目を向けることはなく、ふたりはいつも幸せだった。
 ところがグウィネヴィア王妃は、多くの騎士が自分を尊敬し、また怖れの日で見つめるのに、ロンファール卿だけが目もくれず、なんの素ぶりも見せずにいることを不満に思った。
 王妃はむかしの恨みも重なって、ことあるごとにロンファール卿をなじったり、さげすみの言葉を口にしたりして、関心をひこうとした。
 そうしたことがあまりつづくので、ロンファール卿はつい言ってしまった。
「わたしには騎士の名誉をささげている清らかな女性がおります。その女性の美しさ気高さには、この宮廷のだれひとりとしてかなわないでしょう。その女性に仕えている卑しい身分の召使いさえ、王妃やほかの気高い身分の女性より勝っています」
 部屋に戻って、すぐにこのことを告げようとトリアムールを探したが、どこにも姿が見当たらなかった。
 ロンファール卿はトリアムールとの約束を思いだして愕然とした。彼女の姿はもうロンファール卿の前から消えてしまっていたのだ。馬も武具も衣装も召使いも宝の財布も、すべてなくなってしまっていた。
 悲嘆にくれるロンファール卿の不幸はそれだけではすまされなかった。
 自尊心を傷つけられた王妃が、ロンファール卿のいう美しい女性の姿がどこにもいないことに怒り狂って、追い打ちをかけたのだ。
 王妃はロンファール卿を牢に閉じこめ、けっして許そうとしなかった。
 牢のなかで、ロンファール卿は自分の過ちを悔やんでも悔やみきれない気持ちで過ごしていた。そんなロンファール卿に、日がたつにつれ王妃の怒りはおさまるどころか、勝ち誇ったようすさえ見せつけて、前よりいっそうつらく当たるようになった。そしてついに卿を処刑すると言いだした。
 アーサー王の宮廷の騎士たちはみんな、ロンファール卿の過ちが王妃のよこしまな心のせいであることを知っていたので、助命を嘆願することにし、ロンファール卿の言葉が正しいことを証明するために、
「あなたの美しい恋人の姿をみんなに見せてはどうか」
 と、すすめた。しかしロンファール卿は絶望の淵に沈んでいた。妖精のきげんを損ねてしまったいま、もうその願いはとどかないことを知っていたからだ。
 いよいよ首切り台が用意され、死刑が執り行われようとした。
 騎士たちはなおも助命を願って、口々に言った。
「まだ今日という日は終わっていない」
「日が沈むまで待たなければいけない」
 みなは待ちつづけていた。
 しかし日は傾き、容赦なく西の地平に落ちようとしていた。
 と、そのとき。
 十人の豪華な衣装をまとった女性たちが、馬に乗って、刑場の中庭に入ってきた。騎士たちは叫んだ。
「なんと美しい女性たちだ。ロンファール卿の言ったことはほんとうのことだったのだ」
「この女性たちの一人ひとりが、この場にいるだれよりも美しいではないか」
「ロンファール卿、どなたがあなたの恋人なのですか」
 ロンファール卿は首を振った。
「どの人もちがうのです」
 すると、さらに十人のきらびやかな衣装をまとった女性が馬に乗って現れた。
 みな、前の十人よりももっと美しかった。
 しかしロンファール卿は、
「この人たちもわたしの恋人ではありません」
 とうつむいてしまった。
 やがて、白い馬に乗った星のように輝く美しい女性が町を抜けて近づいてくるのが見えた。
 トリアムールだった。
「あの方がわたしの恋人です」
 とロンファール卿が言った。
 騎士も、その場にいた女性たちも、その美しきに驚き、
「ロンファール卿が言ったことはほんとうのことだ」
 と口々に叫んだ。
 トリアムールの供のひとりが、ロンファール卿の馬を森から引きだしてきた。驚いて目を
見はる人々をあとに、ロンファール卿は馬上の人となり、トリアムールと連れ立って走り去った。
 それからふたたびロンファール卿を見かけたものはいなかった。
 しかし、一年にいちど、ある決まった日に、ロンファール卿の馬が妖精の国でいななくのが聞かれるという。戦いの角笛の音も聞こえてくるということである。もし勇気ある人がそれに応えるなら、ロンファール卿は、いつでも馬上槍試合をLにやってくるだろうといわれている。

◆ ケルト神話の英雄オシーンも妖精の女王ニアヴによって白馬に乗せられ、常若の国に連れていかれてしまうが、英雄である妖精は一年にいちど、ミッドサマー・イヴに姿を現し、馬で妖精の丘を一巡りする「妖精騎馬行(フェアリー・ライド)」をするといわれる。ロンファール卿にもこの資質が与えられているといえる。
 ケルトの血をひくアーサー王は、中世になると騎士物語の英雄として語り継がれてきた。それとともに、アーサー王の宮廷における騎士と姫たちをめぐるロマンスも生まれた。さらに、この宮廷は妖精の世界ともかかわっているのだった。そして、妖精はいつでも人間に与えた贈り物のことをほかの人に話すことや、自分との関係の秘密をもたらすことを禁じている。この言い伝えは一九世紀までもつづいていた。


『ケルトの妖精』 あんず堂


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渾斎随筆 №34 [文芸美術の森]

一片の石 1

                         歌人  会津八一

 人間が石にたよるやうになって、もうよほど久しいことであるのに、まだ根気よくそれをやってゐる。石にたより、石に縋(すが)り、石を崇め、石を拝む。この心から城壁も、祭壇も、神像も、殿堂も、石で作られた。いつまでもこの世に留めたいと思ふ物を作るために、東洋でも、西洋でも、あるひほ南極の極(はて)でも、昔から人間が努めてゐる姿は目ざましい。人は死ぬ。そのまま地びたに棄てておいても、膿血や腐肉が流れつくした後に、骨だけは石に似て永く遣るべき素質であるのに、遺族友人と稱へるものが集って、火を鮎けて焼く。せっかくの骨までが粉々に砕けてしまふ。それを拾ひ集めて、底深く地中に埋めて、その上にいかつい四角な石を立てる。御参りをするといへば、まるでそれが故人であるやうに、その石を拝む。そして、その石が大きいほど貞女孝子と褒められる。貧乏ものは、こんな点でも孝行がむづかしい。
 なるほど、像なり、建物なり、または墓なり何なり、凡そ人間の手わざで、遠い時代から遣ってゐるものはある。しかし遣ってゐるといっても、時代にもよるが、少し古いところは、作られた教に較べると、千に一つにも當らない。つまり、石といヘビも、千年の風霜に曝露されて、平気でゐるものでは在い。それに野火や山火事が崩壊を早めることもある。いかに立派な墓や石碑でも、その人の名を、未だ世間に忘れきらぬうちから、もう押し倒されて、倉の土臺や石垣の下積みになることもある。追慕だ研究だといって跡を絶たない人たちの、搨拓(とうたく)の手のために、磨滅を促すこともある。そこで漢の時代には、いづれの村里にも、あり飴るほどあった石碑が、今では支那全土で百基ほどしか遣ってゐない。國破れて山河ありといふが、國も山河もまだそのままであるのに、さしもに人間の思ひを籠めた記念物が、もう無くなってゐることは、いくらもあるまことに寂しいことである。
 むかし晋の世に、羊怙といふ人があった。學識もあり、手腕もあり、情味の深い、立派な大官で、晋の政府のために、異国の懐柔につくして功があった。この人は平素山水の眺めが好きで、重陽に在任の頃はいつもすぐ近い●(山+見)山といふのに登って、酒を飲みながら、友人と詩などを作って楽しんだものであるが、ある時、ふと同行の友人に向つて、一体この山は、宇宙開闢の初めからあるのだから、昔からずゐぶん偉い人たちも遊びにやって来てゐるわけだ。それがみんな湮滅(いんめつ)して何の云ひ傳へも無い。こんなことを考へると、ほんとに悲しくなる。もし百年の後にここへ来て、今の我々を思ひ出してくれる人があるなら、私の魂魄は必ずここへ登って来る、と嘆いたものだ。そこでその友人が、いやあなたのやうに功績の大きな、感化の深い方は、その令聞は永くこの山とともに、いつまでも世間に傳はるにちがひありませんと、やうやくこのさびしい気持を慰めたといふことである。それから間もなくこの人が亡くなると、果して土地の人民どもは金を出し合ってこの山の上に碑を立てた。すると通りかかりにこの碑を見るものは、遺徳を想ひ出しては涙に暮れたものであった。そのうちに堕涙の碑といふ名もついてしまった。
 同じ頃、晋の貴族に杜預といふ人があった。年は羊怙よりも一つ下であったが、これも多識な通人で、人の気受けもよろしかった。襄陽へ出かけて来て、やはり呉の國を平げることに手柄があった。堕涙の碑といふ名なども、実はこの人がつけたものらしい。羊怙とは少し考へ方が違ってゐたが、この人も、やはりひどく身後の名聾を気にしてゐた。そこで自分の一生の業績を石碑に刻んで、二基同じものを作らせて、一つを同じ●(山+見)山の上に立て、今一つをば漢江の深い淵に沈めさせた。萬世の後に、如何なる天災地異が起って、よしんば山上の一碑が蒼海の底に陰れるやうになつても、その時には、たぶん谷底の方が現はれて来る。こんな期待をかけてゐたものと見える。(この項つづく)

                 『文芸春秋』第二十二巻第六号昭和十九年六月


『会津八一ン州』 中央公論社


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石井鶴三の世界 №141 [文芸美術の森]

新薬師寺十二神将の中2点 1914年

            画家・彫刻家  石井鶴三

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十二神将の中 1914年 (201×142)
1914新薬師寺十二神将の中.jpg
新薬師寺十二神将の中 1914年 (201×142)

**************  
【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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じゃがいもころんだⅡ №10 [文芸美術の森]

友だちというもの

              エッセイスト  中村一枝

 昨日、病院に入院している友人から電話があった。下の子が、幼稚園からの長い付き合いである。友人と言っても付き合いの中にはさまざまのあり方があって、ひとくくりにはしにくい。彼女とは下の息子が幼稚園にはいつたときからだから、かれこれ50年にはなるだろうか。初めのうちは単にお知り合いと言う程度だったが、近所と言うのも手伝って親しみやすさはあった。彼女はPTAでは目立った存在で、その点ではあまり近づきたくない存在の一人だった。PTAについては、上の娘のときからわたしははっきりしていて、あの組織にはかかわりたくないというのが本音だった。ただ息子が6年生のときにはなんのはずみか卒業対策委員をやった。それはそれでひとつの思い出つくりにはなつたが、いまもPTAには批判的なのは変わらない。彼女を仮にSさんとしておく。Sさんとは子供が中学校になると別々になったので、その後のPTAでのは接触はない。ただ家が近いのと、他愛ないおしゃべりには格好のいい相手だった。
 それが10年くらい前に彼女がガンになった。偶然 それ以前にわたしの弟の肝臓が悪くてかかっていた病院の先生がその癌の専門医という事情があって、弟は意見が合わずその病院をやめてしまっていたが、先生の識見は高く評価していることを伝えた。結局彼女は弟がやめた先生の元で治療を受けることになったのである。治療が功を奏して退院できた時期もあった。通常と変わらない日常を送れたときもあった。だが、癌というのは実にしぶといやつで、10年の間にも着々としぶとく手をのばしていた。病人もお医者さんも年取って行ったのに、癌は年もととらずにからだのなかで力をたくわえていたのだ。また入院することになったという電話であった。
 わたしは決して親切な人間ではない。まして病人を支えるなんてできるタイプではない。ただ多少まめなところはある。とにかくここにきて好きだ嫌いだという問題ではない。とにかく今生きたいと望んでいる人をなんとか引っ張り上げるしか手はないのである。そして聞いてあげるしかない。世の中には奇蹟というものもある。本人の強い望みは何を起こすか、其処が人間の持つ強い力だと思う。わたしは今心から奇蹟を信じたいし、以後はただ彼女が信じ続けているものに力を与えてあげたいと思っている。
 彼女の病気に向かう姿を通して、彼女の生き方について自分と違うからというのは思い上がりなのだとわかってきた。とにかく頑張っている友だちになんとか力を与えてあげたい。病気は人間を強くし、頑張らせ、優れた文学も病気から生まれる。それでも病気にはなりたくないのはこれまた人間の本音。病気の友人にかける言葉がないのも現実だ。
  人生長かろうが短かろうが長さではない。その内容でしか勝負はない。彼女の生き方が自分とちが違おうと生きる事に差はない。私は自分の我の勁さで人を推し量ることはやめようといつも思っているのについ、地が出てしまう。人間としてマジメに生きている人を批判することこそそまさに傲慢なのだとつくづく思う。今はただ、友人の回復を心から願っている。
 

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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №5 [文芸美術の森]

第二章 画家との出会いと交流 3

       早稲田大学名誉教授  川崎 浹

遁世という過激な行為

 私は本来、画家その人より描かれた作品のほうに重きをおいてきた。いわば自分なりのテキスト主義である。作品は画家の学歴や肩書きに関係なく自立している。高島野十郎自身よりかれが描いた絵のほうに以前からつよい関心をいだいてきた。野十郎自身に関心があるとすれば、かれが描いた絵との関係においてであり、かれについての関心は二次的なものである。いわんや野十郎の出自とか地位とかは絵には関係ない。そう考えて私は高島さんにかれの生い立ちや学生時代のこととか、絵を描くにいたる動機とかを聞いたことがない。かれ自身も話そうとしなかった。
 私は画家が絵にこめた寓意やシンボルについてときおり明かしてくれるときでさえ本気では聞いていなかった。創作者がどんなに思い入れをこめても作品にメッセージが顕れなければ意味がない。鑑賞者が作品から衝撃をうけ、あるいはじっと見入るうちに何か心に染みるものを感じて、それは何に由来しているのだろうと、逆にそこから作品というテキストの中に入ってゆく。そのとき仮に創作者がこの「雨」にはこう意味をこめたのだと言ってくれれば、なるほどそうなのかと興あることに思われ、理解も深まることはあろう。
 しかし、それほど「テキスト主義者」の私が高島さんと二十一年もの交流をもつようになったのは、高島さんの絵に惹かれたうえに、ひとつには自由な環境という点で画家と共通していたからだろう。画家は「すまじきものは宮仕え」の束縛から放たれた遁世の生活を送り、私も大学院生や非常勤講師として暮らし、半自由人の時間的なゆとりがあった。
 最初のうちは同県人という心やすさもあったかもしれない。
 「過激」という言葉をとりだせば、こうも言えた。現代では遁世そのものが一種の過激な行為であり、後述するように実際高島さんはたびたび過激な発言をなし、人にはまねのできない行動にうってでた。私も当時は自称アナキストで、高島さんとの交流十三年目にロシア帝政末期のテロリストの回想記やテロが舞台の小説『蒼ざめた馬』を翻訳し、高島さんに送った。画家はいわゆる「左翼」とは立場が反対のはずなのに嫌な顔をするどころ
か、おもしろいとさえ言った。
 その後まもなくこんどは自著『チェーホフ』うを出したとき、手前味噌になるが、高島さんは「感動した」と読後感をのべた。本が出たのはちょうど画家が不動産企業の郊外進出と闘っているさなかだった。いま読みかえして私はこんな箇所に画家が同感したのかなと思う。「研究者はチェーホフのサハリン島行きを(精力の乱費)ときめつけるが、利害を無視し、自己の生のバランスをつき崩してまで進む人間の行為は、日常的な有効性の尺度だけでは測りきれるものではない」。
 また画家はチェーホフが遺した幻の戯曲の断片を紹介した箇所を読みながら「心うたれた」と言った。それはたしか主人公が船上から、重荷を運ぶ受刑者を見て、「お前の人生はこれからも暗いのだろう」と共感する箇所ではなかったろうか。画家は高齢になっても文学的な感受性を失わない人だった。
 またよく「求道」という中国の哲学者荘子ふうの一語で気楽に片づけられるが、無常観や厭世観におそわれ、人生の意味を深めることへの接近において、高島さんは宗教にかなり近い所にいた。私も私なりにさまざまに考えあぐね、哲学的な思索を追い禅寺にかよっていたので、高島さんは私に若い頃の自分を重ねて見ていたのだろうか。
 四十歳も年齢がちがうのにどうして付き合えたのかふしぎに思う人もいるが、高島さんは私に年齢の差を感じさせなかった。基本的にあくまで対等で、手記でこそ私を「川崎君」と書いているが、正面きって姓を呼びかけることはまれとはいえ、日常では「川崎さん」で、ふつうには親しく「あんた」と呼んでいた。それでもやはり高島さんには、文字どおり私より「先に生まれた人」の経験と叡智にふさわしい気韻が感じられたので、私は「先生」と呼んだ。顔ぜんたい、とくに眉から額にかけ、頬のあたりにも俗の世界を一歩超えた、無関心というと語弊があるが、なにかそうした表情があった。
 実際ときおり、目の前にいる相手を見ながら、私はこの人がもし特待生の人生コースを選んでいれば、教授として水圏生物科学会(農学生命科学研究学)の会長をつとめ、勲章を授けられ、いまだ国家の枢要な地位にあり、私など相手にする暇はなかっただろうにと思うことがあった。それでも高島さんは紳士、農民、貴族、武士とさまざまな姿に結びついたが、ふしぎなことに「東京帝国大学」というイメージとはどうしても重ならなかった。
 遁世者の高島さんには、自分の絵を理解してくれたうえで、どこか相通じる青年の若さも、老いて生きる力や方位のバランスをとるうえで邪魔にはならなかったのだろう。いわば野十郎という成層圏の私は一小惑星の役割を果たしていたことになる。


『過激な隠遁』 求優堂

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往きは良い良い、帰りは……物語 №71 [文芸美術の森]

往きは良い良い、帰りは……物語 
その71  TCCクラブハウスにて
「髪洗ふ(髪洗う)」「卯波(うなみ)」「麦笛(麦の笛)」「青葡萄(あおぶどう)」
                      コピーライター  多比羅 孝(俳句・こふみ会同人)

◆◆平成31年4月24日◆◆
当番幹事・岩永矢太・小池茘子ご両名からの案内状が届きました。

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皐月こふみ会御案内
十二日(日)十三時から いつもの表参道・TCCです。
兼題二つは「髪洗ふ」「卯波」
会費1,500円  おいしいお弁当つき お楽しみに。
出欠の返はメールで矢太へ! info@roxcompany.jp
●景品三ツ(計千円以内)を忘れずにね。
●岡田直也さん(誘いました。きっと来てね!)
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これに応える軒外氏の返信レターは、毎回のことながら素晴らしい。
今回は卯波のイラスト。寄せたり返したり。

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孝多は、と申せば「髪」、(これまた毎回)白川静の『常用字解』からの引用です。(出席!)

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この「髪」の字の下のほう(友)が無い、ただの髟は「びょう」と読んで、長い髪の毛がなびくこと、ですって。

◆◆さて当日(令和元年5月12日◆◆
TCCシニア会員の岡田直也氏が、矢太氏の誘いを受けて、試行参加という立場で出席してくれました。嬉しや、なつかしや!
氏のために、私・孝多はちょっと説明したのですが、当会の仮名づかいは新旧混交、各自の自由であり、それを尊重していること。「爽やか」は「サハヤカ」であったり、「笑う」は「ワラフ」であったり……。すると氏は応じました。「≪笑う≫は≪ふふと笑ふ≫ですよね」。ああ、痛快。分かっている人。
そしてまた、記録に残すときは五・七・五を(字あまりなどを含めて)分かち書きにしていること。「古池や 蛙飛びこむ 水の音」と、アケます。邪道であると指摘されることもありますが、承知のうえです。パソコンの画面で、しかも横組みになっている私たちの現状では、どうしても、分かち書きが読みやすいのですよね。是認していただきました。
4句投句、8句選のことや短冊の書き方などについては隣に座った矢太氏が案内していました。OKです。次回から「正会員」として、ぜひ、ご出席のほどを!

◆◆さあて、さてさて、本日の成績発表で~す。◆◆
と、その前に、本日の兼題と席題は、次のとおり~!
とんかつ≪まい泉≫の≪ごちそう海苔弁当≫を食べながら考えました。

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張り出された席題には、あとで話題となる「ムギノフエ」もあります。これを玲滴さんが読み間違えて……というハナシです。とくと、ご覧ください。

さあて、いよいよ成績発表!!
★本日のトータルの天は~46点の舞蹴さ~ん。
代表句は「口笛の 鳴らぬ唇 青葡萄」 パチパチパチッ!

★トータルの地は~45点の虚視さ~ん。
代表句は「朝霧を 水平に切り 麦の笛」 パチパチパチッ!

★トータルの人は~39点の玲滴さ~ん。
代表句は「草原に 吹く人見えず 麦の笛」 パチパチパチッ!

★トータルの次点は~26点の鬼禿さ~ん。
代表句は「髪洗ふ 姉を見ている 昼の月」 パチパチパチッ!

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       (左から人の玲滴さん、天の舞蹴さん、地の虚視さん。撮影=軒外氏。)

皆さん、おめでとうございました。パチパチパチッ!
殊に玲滴さんの「人」は賞賛に値するでしょう。参加3回目にして天・地・人といった高位に選ばれることは滅多にあることではありません。
それが実現しました。
まさに、快挙です。パチパチパチッ!!

そこで翌日、ご当人に直接、「人」の感想をききたいと思って、たずねましたところ、全く謙虚に、はずされてしまいました。返事として、次の文章がFAXで送られて来たのです。人柄ですね。ワカリマシタ。

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 
今回「人」をいただいたのはまったくもってまぐれです。奇跡みたいなものです。あんなことは二度とおこらないとおもっています。
昨日のこふみ会で一番おもしろく、印象的だったのは「麦の笛」です。
私は「笛」を「苗(なえ)」と見間違って、思わず「麦の苗(なえ)ってなんですか」と、隣にいた多比羅先生に聞いたのでした。
その時のお答えも実はおもしろかったのです。多比羅先生はまじめなお顔で、

「私の育った秩父では麦は米のような苗はつくりません。直か蒔きです。」
ちょっと考えれば当たり前だったのですが、「聞いてみましょう」とおっしゃって、さもご自分が見間違ったかのように幹事さんに尋ねてくださいました。
そしたら「麦の笛(ふえ)です。」
そこで藤村の「千曲川旅情の歌」なんぞも出てきて、ひとしきり麦の笛談義がおこったのでした。同時に秩父では麦一本たりとも粗末にしないという話も……。
そうしたら、壁に張られた席題の字をじっと眺めていた、この日初参加のナオヤさんが、「多比羅先生が間違った理由がわかった」と言って、「田」の字にちょっと線をのばして「由」に直してくれました。
これでなるほどと皆な納得できたのでした。
茘子さんいわく、「わたし、昔から漢字は苦手だったのよね。」
いえいえ、茘子さん、ご自分のエラーとして助け船を出していただいて、ありがとうございました。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 

話は替わって、当日の天位に謹呈する絵付き短冊は、下載のとおりです。
今回もカラフルに14枚。

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「でも、これ、良くないよ、絵に描きにくい句は天に選ばれなくなるよ。」と、誰かが言って、これは冗談。愉快、愉快と、人それぞれに描いて楽しんでいる様子。すっかり定着して、絵付き短冊は、今や、当会の親睦の象徴の一つと言えるでしょう。

ではまた来月。当番幹事は、竹内美留さんと秋元虚視さんのようですね。どうぞよろしく。皆さん、お元気に。
(本日の全句を下載します。)
                                        第71話 完 (孝多)

* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 
第593回 こふみ会・全句
令和元年五月十二日    於TCCクラブハウス

◆兼題=髪洗ふ(髪洗う)   順不同
髪洗ふ H2Oに 愛撫させ        矢太
恋ごころ 鋏(はさみ)で切って 髪洗ふ  茘子
髪洗ふ 君は此処から 僕のもの               直哉
髪洗ふ おんなが天女に 戻る朝               一遅
聖女でも 悪女でもよし 髪洗ふ               軒外
刻々と 過去になっていく 髪洗ふ            紅螺
海草のごと 少女は長き 髪洗ふ             弥生
髪洗ふ 姉を見ている 昼の月                鬼禿
髪洗ふ 後ろ姿に 老ひを見る                  珍椿
泣き止まぬ 髪洗ふ子の手 乳に触れ          美留
髪洗ふ 令和の朝や つつがなく               玲滴
拾ひたる 命と知りて 髪洗う                  舞蹴
美しき 幻影(げんえい)として 髪洗う    孝多
洗い髪の ままでいると 人魚だね             虚視

◆兼題=卯波      順不同
彷徨へば 山は卯の花 海は卯の波             軒外
初島は 千の卯波の 先にあり                  紅螺
卯波来て 私の足跡 消えて行く                孝多
漂泊の 夢消え去りて 卯波立つ                鬼禿
東海の 瀬取りを揺らし 卯波立つ             直哉
放牧の 羊の群れに 卯波立つ                   玲滴
開け放つ 窓いっぱいの 卯波かな              茘子
卯波高く 哀歌知らずや 七里ケ浜              弥生
終の住まい 湘南の海に 卯波立つ              一遅
卯波来て 網(あみ)上(あ)ぐ二の腕 なお太し 美留
泡立つ 卯波と戦う 老漁夫                      珍椿
卯波立つ 息子戻(もど)るぞ 孫嫁つれて  鬼禿
空瓶と なりて卯波に 抱かれたし              虚視
喫水線を 犯して走る 卯波かな                 矢太

◆席題=麦の笛(麦笛)  順不同
肺病みの 叔父低く吹く 麦の笛                 美留
麦笛を 残して町へ いっちゃった              矢太
遠ざかる 機影見上げつ 麦の笛                 紅螺
懐しき  言葉を紡ぐ 麦の笛                        舞蹴
野に遊ぶ あなたのリードで 麦の笛            直哉
あわあわと 幼き思慕や 麦の笛                  弥生
駆け抜ける 少年の夢 麦の笛                     茘子
麦の笛 弥勒菩薩の くすり指                     鬼禿
戦争もあった 麦笛も吹いた 生きて来た       孝多
麦の笛 ひと声鳴いて 陽は西に                  一遅
草原に 吹く人見えず 麦の笛                     玲滴
裸馬 山かけ降りて 麦の笛                        珍椿
ヴィヴァルディの  オーボエ麦の 笛に似て     軒外
朝霧を 水平に切り 麦の笛                        虚視

◆席題=青葡萄     順不同  
緑の朝の 青葡萄硬い 三つ四つ                  軒外
その下に お遍路(へんろ)休む 青葡萄      孝多
子の眼には 美味と映るか 青葡萄               美留
青銅の 皿に一房 青葡萄                          虚視
青葡萄の 丘に軍機の 影走る                     矢太
カフェのテーブルの上の 青葡萄                  珍椿
青葡萄 葉影でしっかり 時を待つ               一遅
青葡萄 軒先の影 日々深く                        茘子
まだ固き 苞のこして 青葡萄                     玲滴
月満ちて 早く吸いたし 青葡萄                  直哉
青葡萄の下 少年兵の 鉄兜(てつかぶと)    鬼禿
ソーダ水 泡のむこうの 青葡萄                  紅螺
他言できぬ こと聞き重し 青葡萄                弥生
口笛の 鳴らぬ唇 青葡萄                           舞蹴

                                   以上14名 計56句

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西洋美術研究者が語る「日本美術は面白い!」 №11 [文芸美術の森]

                          シリーズ≪琳派の魅力≫

                        美術ジャーナリスト 斎藤陽一

                第11回:  俵屋宗達「舞楽図屏風」 
    (17世紀前半。二曲一双。重文。各169×155cm。京都・醍醐寺)

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≪均衡の美≫

 京都の醍醐寺が所蔵する「舞楽図屏風」にも、“画家”俵屋宗達の絵画的な構成感覚が発揮されています。
 この屏風は、「風神雷神図屏風」と同じく、宗達が創始したとされる「二曲一双」形式です。六曲一双、時に八曲一双が一般的な形式だった屏風絵に、「二曲一双」という切り詰めた画面に絵を描く時には、より一層の集中力と構成力が必要とされます。

 ここに描かれているのは、平安時代に盛んに行われ、一時途絶えながらも、近世になって復活した舞楽の様子です。
 ここには、五つの舞が描かれていますが、実際には、舞人(まいびと)が9人揃って五曲同時に演じられることは無いそうです。どうやら宗達は、平安時代の舞をおさめた図像集の中から任意に選んだ舞の形を、全体構成にもとづき、思い切った独創的な構図で金地の上に配置したようです。
 先行する図像を借用しながらも、まったく新しいデザインを創り出す ― これも宗達がよくやったことで、後世に「琳派」の方法となって継承されるものです。

 ここに描かれている舞は、「採桑老」(さいそうろう)、「納曽利」(なそり)、「羅陵王」(らりょうおう)、「還城楽」(げんじょうらく)、それに「崑崙八仙」(ころばせ)という五つの曲だそうです。
 それ以外のものでは、右下に「大太鼓(だだいこ)と幔幕」、左上に「松と桜」、それだけが大胆にトリミングして描かれ、場所と雰囲気を暗示しています。背景は金地のみ。この思い切った省略法によって、かえって見る者には、広やかな空間が感じ取れます。「風神雷神図」に通じる空間把握ですね。
 空間をとらえる全体の視点は、上から見下ろす「俯瞰ショット」ですが、舞人たちの姿は「正面」から描かれています。これは、同一画面内であっても、対象に即して「視点」を自在に選んで描くと言う日本絵画独特の「複数の視点の混在」という描法ですね。

 使われている色彩は、基本的には赤、緑、白という宗達好みの色 ― しかし、このわずかな色が金地の上に効果的に配色され、鮮やかな画面となっています。

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 この屏風絵の特徴は、宗達が創り出した「構図」の妙、とされます。

 まず、四隅に注目 ― 左上の「松と桜」、右下の「大太鼓と幔幕」、それに右上の「宗達の印」と左下の「落款」、この四つによって四隅は閉じられており、この空間の中で舞楽が行われている、という構成になっています。(上図参照)
 さらに、主な図像は「対角線」上に配置され、これに「水平線」的な配置も加わっています。これらの線が交わるところに「点」を想定してみると、この構図は、幾何学で言うところの「点対象」になっていることが分かります。その結果、それぞれの舞が呼応し合うような感覚が生まれています。

 また、人物たちの配置には、四つの三角形が浮かび上がります。(下図参照)

さらに、一双の屏風の切れ目、つまり真ん中の下の方に「扇の要(かなめ)」を想定すると、全体が「扇形構図」になっています。扇絵で評判をとった絵屋「俵屋」お得意の構図ですね。

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 舞楽のプログラムが組まれるときに、定番の組み合わせを「番舞」(つがいまい)と呼びますが、この絵で描かれている「納曽利」と「羅陵王」が「番舞」、「還城楽」と「崑崙八仙」が「番舞」だそうです。
 宗達は、これを踏まえて、「番舞」の舞人たちの視線の交錯をも表現しています。(下図参照)
 さらに、中央の4人が引きずる「裾(きょ)」の流れにも、呼応関係が見出され、舞人たちの動きや方向までもが暗示されます。

 このように仔細に見てみると、宗達がこの絵で狙ったのは、広やかな金地という簡素な空間の中に、舞という図柄をいかに緊密に配置するか、ということだったのでしょう。その結果、この屏風には、緊張感のある均衡の美の世界が創り出されたのですね。

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 宗達作品の「絵画性」について、私に貴重な示唆を与えてくれた古田亮氏は、この屏風絵を「宗達晩年の境地」と考え、「(晩年に)『関屋澪標図屏風』を描いた宗達は、画面内にモチーフを配置することの面白さを再認識したのではないだろうか。枠の意識にとらわれながら、その枠内でモチーフをいかに配置するかが最大の関心事になったことで『舞楽図屏風』につながったのだ。・・・『舞楽図屏風』制作は絵画が純粋になることを求めた結果と見ることができるだろう」と書いています。これもまた示唆に富む指摘だと思います。(古田亮『俵屋宗達・琳派の祖の真実』2010年。平凡社新書)

 また、作家の澁澤龍彦氏は、「『舞楽図』を愛す」という小エッセイの中で、「見れば見るほど、ここにあるのは配色と構成のみの世界で、金地の空間には、目に見えない運動のエネルギーが塗りこめられているのを感じないわけにはいかない。(中略)かつて日本の絵画が表現し得た最高の詩だといってもいい。」と書いています。(「日本の美と文化⑭:琳派の意匠・雅びのルネサンス」;昭和56年。講談社)

 次回は、俵屋宗達の作とされている、抽象画のような趣がある「蔦の細道図屏風」を取り上げます。
                                                                 


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正岡常規と夏目金之助 №14 [文芸美術の森]

子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承                   
                                   子規・漱石 研究家  栗田博行 (八荒)
            第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが Ⅲ
(番外) 子規に於ける「ますらおぶりとたおやめぶり」 1

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「仰臥漫録」は、「墨汁一滴」 「病床六尺」と並んで子規の代表的な随筆と思いがちですが、本来はプライベートな日記として書かれたものでした。寝たきりの病床から盛んに仕事をする子規を手伝っていた虚子が、「面白いからホトトギスに‥」と持ちかけた時、「これはそういうものではない」と叱ったといいます。人と世間に発表(=公表)を前提として書いているのではない!という事です。(八注・日本の随筆事始めに当たる「枕草子」は、中宮定子や王朝女官など「他者」に向けて書かれた点で、「文学」としてスタートした書き物=テキストでした。子規の場合、「墨汁」や 「六尺」はそれにあたりますが、「仰臥漫録」は、その点で違っていたのです。)
  
しかし、(おそらく虚子の働きもあってのことでしょう)歿後公開され、日本人にとって死生のことを考える貴重な記録文学(=テキスト)のひとつとしての働きをしてきたのでした。脊髄カリエスの痛みの激しさから自殺の誘惑に駆られ、枕もとの硯箱に入っている小刀や錐を「手に取ろうか、取るまいか」という決行ギリギリのところでまで思いつめ、結局は踏みとどまる執筆者子規自身の姿が、冷徹な文章で克明に綴られています。 

14-2.jpgその明治三十四年十月十三日の一章は、脊髄カリエスの痛みの激しさから自殺の誘惑に駆られ、枕もとの硯箱に入っている小刀や錐を「手に取ろうか、取るまいか」という決行ギリギリのところでまで思いつめ、結局は踏みとどまる執筆者子規自身の姿が、冷徹な文章で克明に綴られています。

 ヨツポド手デ取ラウトシタガイヤ ゝゝ コゝダト思フテジツトコラエタ
    心ノ中ハ取ラウト取ルマイトノニツガ戦ツテ居ル 
         考ヘテ居ル内ニシヤクリアゲテ泣キ出シタ
 

  踏みとどまったことをこう記した上で、さらに煩悶し堂々巡りもする心情を赤裸々に綴ります。         そこを縦書きのイラストでお読みください。

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「雑用」は雑収入。「古白曰来」とはピストル自殺をした従弟の藤野古白が、「オイデヨ、ノボさん」と冥界から呼びかけてきたという意味で書き付けたのでしょう。そして、その下に自殺の道具として手に取ろうとした錐と小刀をわざわざ写生までしているのです。古白の自殺は子規が日清戦争従軍のため広島で待機中のことでした。、子規はそれを出発の前日知ったのでした。). そのあと、この経過を記した日記はこう結ばれています。 14-4.jpg

再ひしやくり上て泣候処へ
四方太(門弟のひとり)参り ほときすの話 
 金の話など いろ へ 不平をもらし候ところ
夜に入りては心地はれ へ と致申候 

自殺の誘惑に駆られ決行直前まで行った心の動きの決着が,
 
「夜に入りては心地はれ へ と致申候となるところに正岡子規という人の真骨頂があります。 

この一章に顕れた子規の精神の姿に、「大剛のもの」という賛辞を呈上した人がいます。プロレタリア文学・戦後文学の作家・中野重治です。

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 「子規の健康」 中野重治
 
《子規はといえば、子規は肉体においてだけ病んで、精神においては万人にすぐれて健康、強健でいた。
 
子規のこの強健にはちよっと比べられるものがない。『仰臥漫録』のあの自殺しようかとするところの記録を見ればそれがわかる。
 
「・・・サア静カニナッタ此家ニハ余一人トナツタノデアル(八注・律は夕風呂に出かけ、残った八重さんは、子規が四方太という門弟を呼びたくなって、電報を打ちに行ってもらったからです。そのあと自殺の誘惑に駆られたのでした)
 
余ハ左向二寐タマゝ前ノ硯箱ヲ見ルト・・・・・」 から、
 「併シ此鈍刀ヤ錐デハマサカニ死ネヌ次ノ間へ行ケバ剃刀ガアルコトハ分ツテ居ル
 
ソノ剃刀サヘアレバ咽喉ヲ掻ク位ハワケハナイガ悲シイコトニハ今ハ葡萄フ(はう)コトモ出来ヌ 己ムナクンバ此小刀デモ ノド笛ヲ切断出来ヌコトハアルマイ」 と来て、
 「ヨツポド手デ取ラウトシタガ イヤ ゝゝ コゝダト思フテジツトコラヘタ   
 心ノ中ハ取ラウト取ルマイトノニツガ戦ツテ居ル 考へテ居ル内ニシヤクリアゲテ泣キ出シタ  其内母ハ帰ツテ来ラレ・・・・」 というあたりへ来るまでの鳴りわたるような叙述は、
    
 認識においても表現においても強健無比、大剛のものであつて
             
        はじめて可能だつたものなのにちがいない。

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昭和の作家でプロレアリア文学や戦後文学に打ち込んだ作家・中野重治が、子規にこれほどの畏敬の感情と認識を持っていたことを、私(八荒)は全く知りませんでした。

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教えて下さったのは大江健三郎さんでした。昭和54(1979)年に、NHK松山局発の教育テレビ番組「私の子規」(45分・2回)で、子規を語り下ろしていただいたことがありました。その中で大江さんは上に引用した中野重治「子規の健康」を紹介した上で、次のように解説の言葉を足されたのでした。 

 中野重治の生活人としての強靭さ、剛直さをも考えあわせつつ・・・僕はかれの 認識においても表現においても強健無比、大剛のものという言葉に 心から賛成する。・・・ 

この教育テレビ番組「私の子規」の語り下ろしの論旨をもとに、大江さんが活字メディア「世界」に発表された文章のタイトルは,「子規はわれらの同時代人」となっていました。もう40年も昔になりますが、それを知った時の唸りたくなるような共感を、今も思い出します。以来変わらず、子規も漱石も、同時代を生きていく上での糧を得る気持ちで読み解いてきたつもりです。
 
大江さんが指摘した通り、中野重治は、子規「大剛のもの」と断言する根拠に、ひとつは「認識においても強健無比」ということをあげていました。それは、言葉にする以前に、自殺の誘惑に駆られ逆上してゆく自分を見つめ続けている心の眼の冷静さ、ということでことでしょう。
 
もうひとつ「表現においても強健無比」。これは、冷静に見つめて把握した自分の一瞬一瞬を日記に書き付け文章に綴るにあたって、観念や感情で増幅したりブレたりすることなく、正確に具体的に言葉に書き記す姿勢のゆるぎなさ・・・ということでしょう。 

14-8.jpg認識表現におけるそのような姿勢が重って出来ているこころの基盤。その上にこそ、「はりつめた写生の精神」が成立し、「大剛のもの」という人間像が実現してているのであることを、中野重治と大江健三郎という二人の文学者が、指摘しているのです。司馬遼太郎が「裸眼にて」と説いたのもおなじことと思います。  

繰り返しますが、ひとりの明治の男子の生死をめぐる精神の揺れ動きの実況中継にして、苦痛に呻吟する肉体の同時進行ドキュメンタリーを直視しているような迫真の文章の結語が,「夜に入りては心地はれ へ と致申候」という単純明快な前向きの気持ちの表明となっているのは、そのような子規の真骨頂からなのです
 
中野重治が,「子規は肉体においてだけ病んで、精神においては万人にすぐれて健康、強健でいた。」とするのも、おなじです。「仰臥漫録」明治三十四年十月十三日の一章は、子規の心のますらおぶりの到達点が記録された文章と言えましょう。(八注・それは子規の生涯の残り時間で、さらに前進されていくのですが・・・) 

 ところで、日記としてダ・デアルの独白体で書かれてきたこの文章が、最後のこの一節だけ、「夜に入りては心地はれ へ と致申候」と、相手に語りかける候文になっているのだろう・・・という疑問が起こります。自分自身の語りを、「候」で結ん.でいるいる記述はここまで無かったのですが…。

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 それを考えるのに、 まずこんな手掛かりがあります。
 
「仰臥漫録」の原本は和紙を綴じた2冊からなっており、その(一)はこの明治三十四年十月十三日の一章で終わっているのです。その終わりは「古白曰来」 という4文字と自殺の道具として手に取ろうとした錐と小刀の写生画までなのです。それに続く「再ひしやくり上て泣候処へ四方太参り ほときすの話 金の話など いろ へ 不平をもらし候ところ 夜に入りては心地はれ へ と致申候」というこの日の結びの一節は、(一)の終わりではなく新しく綴じられた(ニ)の最初に日付ナシで記されているのです。原本からという訳にはいきませんから、講談社版子規全集から、この一巻と二巻のまたがり具合をご紹介しましょう。

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自殺に傾斜したあの夜(13日)の翌日14日)あるいは翌々日(15日)、2冊目の冊子を律か虚子に頼んで綴じ合わせてもらったあと、その日のことを書こうとしたとき、子規は、あの夜のこととしてもうひとつ言っておかなければならないことがあったことに気づいた・・・という想像が成り立ちます。そして書き加えたのが、「・・・夜に入りては心地はれ へ と致申候」という、いかにも単純・前向きの心の到達点だったと思えてくるのです。
 
あの随筆「吾幼時の美感」に何回も顔出ししていた、苦(ク)なこと・つらいことに直面するたびに、それを明るいこと・楽しみなこと・美しいと思えることを思い起こす「まくら・契機」とする前向きのこころ動きが、ここでも顔を出したのではないでしょうか。

ではなぜその一節の結びが唐突に「候」という、他者に話しかける文体に変わったのでしょう。子規のかなり重要なこころ動きが働いている気がします。それについては次回考えてみることにしましょう。

(番外) 子規に於ける「ますらおぶりとたおやめぶり」 2.
                
6月16日の予定です。
            
「子規・漱石~生き方の対照性と友情 そして継承 
      
        第一章 慶応三年 ともに名家に生まれたが」
   
 とした枠組みからの脱線が続いていますが、もうしばらくお付き合い下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 


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ケルトの妖精 №3 [文芸美術の森]

蝶にされたエーデイン 2

            妖精美術館館長  井村君江

 エオホズ王には、アリルという弟がいた。アリルはエーディンをひと目見て恋に落ち、病の床についてしまった。
 そうこうするうちに、エオホズ王は領国を見まわりに行くことになった。王は妻のエーディンに、自分の留守のあいだ、弟の看病を頼んだ。王は弟のアリルが自分の妻を思って病気になっているとは思いもよらなかったのだ。
 王が城を出てのち、エーディンの見舞いを受けたアリルは、おさえていた想いを打ち明けた。エーディンは、死ぬほど苦しんでいた病気の原因が、自分への想いのためであることを知ると、アリルの想いを遂げさせて病気を治したいと思うのだった。
 王宮の外の丘にある家で、エーディンはアリルに会う約束をした。
 しかし不思議なことに、三晩つづけて夜の約束の時刻になると、アリルはいつも深い眠気におそわれて会いにいけなかった。
 アリルの代わりには別の人が、エーディンの待つ丘の家にやってきた。それはエーディンの最初の夫、ミディールだった。
 そしてミディールは、
「ようやく、あなたと巡りあうことができた。妖精の国へ帰って、むかしのように一緒に暮らそう」と、エーディンを口説いた。
 けれどエーディンには前世の記憶はなく、ミディールは知らない人でしかなかったから、
 「あなたと行くことなどできません」とことわった。
 ミディールはなおも、ふたりが夫婦であったことや、ともに楽しく暮らしたことを語って聞かせ、常若の国の王宮に帰るように懇願した。
 ふたりをつなぐ、目に見えない糸を感じたエーディンは、ミディールの愛に心を動かされて答えた。
「エオホズ王が許してくれるならば、常若の国にまいります」
 王の弟アリルは深い眠りに落ちているあいだに、エーデインへの熱い恋の想いはすっかり覚めて、病気は治っていた。
 少したった夏の日、エオホズ王がターラの王宮から城の外に広がる野原を見おろしていると、見なれない騎士がやってくるのが見えた。その騎士は城門の前に立つと王に会見を申しいれた。この騎士はミディールだった。
 ミディールは、エオホズ王の前に出ると、チェスの銀の盤と金の駒を取りだして、
「ゲームの勝負をしたい」と申しこんだ。
 エオホズ王はこれを受けて、「勝負に負けたものは、相手の要求をかなえることにしよう」と取り決めをした。
 勝負がはじまった。ミディールははじめのうち、わざとチェスに負けてエオホズ王の要求に従った。土地をきりひらくこと、森林を伐採すること、川や沼に橋を架けることなどだったが、ミディールは魔法の力ですぐにやり遂げた。エオホズ王は自分のほうがチェスが強いと思いこんで、最後の大勝負を申しでた。
 ミディールは魔法の力を使って、その勝負で王を破った。
 そして王に、
「あなたの妻のエーディンに口づけをしたい」と要求した。
 エオホズ王は思案をめぐらしたが、
「ひと月のちに、その願いをかなえよう」と、しかたなく答えた。
 約束の日になった。しかしエオホズ王はターラの王宮を軍勢でかためてミディールが入ってこられないようにし、なりゆきを見守った。
 しかし、いつまで待ってもなにごとも起こらなかった。エオホズ王は安堵して、広間に人を集め、酒宴を開くことにした。
 そしてエーディンが、エオホズ王の杯に酒を注ごうとしたそのときである。ミディールが忽然と、ふたりのあいだに現れた。地下の王の高貴な衣服に身をつつみ、槍を手にしていた。ミディールは無言のままエーディンに近づき、人々がぽうぜんと見守るなかを、ふたりは広間の空中に浮かんだと見るや、王宮の窓から外へ飛んでいってしまった。
 人々の目に映ったのは、二羽の白鳥が輪を描きながら、スリヴナモンの山をさして飛んでいく姿だけだった。
 しかしエオホズ王はエーディンをあきらめなかった。ドルイド僧ダランに頼んで、三本のイチイの木にオガム文字で呪文を書き、また知恵の鍵を使って、エーディンの行方を国じゅうに探した。そして、ついにマン島のミディールの王宮にいることをつきとめた。
 そのときから九年のあいだ、エオホズ王は島じゅうの妖精の丘をつぎからつぎへと掘りおこし、王宮を壊していった。ミディールはそれを追いかけるようして、王宮を修復していったのだが、とうとう最後の丘に追いつめられてしまった。
 追いつめられたミディールは、エオホズ王にエーディンを返すことを約束せざるをえなくなった。
 しかしミディールは本心から返す気持ちにはならなかった。そこで、魔法を使って五十人の侍女をエーディンの姿そっくりに変え、
「このなかからほんもののエーディンを選べたなら」と謎をかけた。
 五十人のエーディンが同じ姿でエオホズ王の前に現れた。
 しかし、ミディールの策略は破れてしまった。
 エーディン自身が王に向かって、
「わたしがエーディンです」と教えたからだ。
 エーディンは妖精の王よりも人間の王を選んだのだった。
それからエオホズ王とエーディンは幸福に暮らし、二人のあいだには娘エーディンが生まれたのだった。

 ◆ 人間や妖精が動物や魚、昆虫に変わる変身や転身の話は、蝶になったエーディンをはじめ、ドルイド僧によって鹿に変えられたサィヴ、白鳥になった乙女などケルト神話のなかに数多く見られる。
 それは、この世は目に見えない異界と直結しており、人間はそこに住む目に見えない種族(神々、英雄、妖精)と自在に交流できるという、ケルトの古代からの考えにもとづいていている。また輪廻転生に通じる思想であり、人間や動植物には同じ命が宿り、共通した大霊が永劫に巡り、生命を転生させているという考えに結びついているものだともいえよう。

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石井鶴三の世界 №140 [文芸美術の森]

新薬師寺1914年/新薬師寺本尊1914年

            画家・彫刻家  石井鶴三

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新薬師寺 1914年 (201×142)
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新薬師寺本尊 1914年 (201×142)

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【石井 鶴三(いしい つるぞう)画伯略歴】
明治20年(1887年)6月5日-昭和48年( 1973年)3月17日)彫刻家、洋画家。
画家石井鼎湖の子、石井柏亭の弟として東京に生まれる。洋画を小山正太郎に、加藤景雲に木彫を学び、東京美術学校卒。1911年文展で「荒川岳」が入賞。1915年日本美術院研究所に入る。再興院展に「力士」を出品。二科展に「縊死者」を出し、1916年「行路病者」で二科賞を受賞。1921年日本水彩画会員。1924年日本創作版画協会と春陽会会員となる。中里介山『大菩薩峠』や吉川英治『宮本武蔵』の挿絵でも知られる。1944年東京美術学校教授。1950年、日本芸術院会員、1961年、日本美術院彫塑部を解散。1963年、東京芸術大学名誉教授。1967年、勲三等旭日中綬章受章。1969年、相撲博物館館長。享年87。
文業も多く、全集12巻、書簡集、日記などが刊行されている。長野県上田市にある小県上田教育会館の2階には、個人美術館である石井鶴三資料館がある。
『石井鶴三素描集』形文社

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渾斎随筆 №33 [文芸美術の森]

大同、龍門、天龍山寫眞拓本展覧会

               歌人  会津八一

 山西省の大同と河南省の龍門とは共に数十の石窟に北魏から唐代に至る数千の佛像彫刻があって、今では上代東洋美術の二大宝庫として、遠く世界の隅々まで聞えて居る。なかでも龍門は歴朝の問に屡々帝京となった洛陽からすぐ近いために、自然日本人の耳にも親しまれて居たが、大同については、昔こそ北魏の一首都として魏書、水経注、続高僧傳などにもその美術的造設について歴然たる記事があって、廣く知られても居たが、支那の政治の中心が南移するに及んで少しく僻遠といふ嫌ひがあって、近代では一般人からは忘られて居た。なるほど清初の碩畢朱彜尊の曝書亭集にも「雲崗石佛記」の一文があり、雍正の朔平府志にも可なりな記事があり、ことに又乾隆以後幾度か修理が行はれたことを語る碑文もあり、康煕の勅額も懸けられて居るほどであるけれども、やはり一般には知られて居なかった。ことにその偉大な価値を以ては見られて居なかった。
 それをば早くすでに明治年間に、世界有識者の眼前に改めて曳き出して紹介したのは、何と云っても吾が大學の伊東博士の若き日の功勞の一である。其後内外の優れた単著や鑑賞家の研究は十指にも餘る程で、いづれも華々しく世に出てゐるが、肝心の石佛は、近年地方政権の治下にあって、不心得な土民や商人の手で次第に破壊されひそかに持ち出されて、國外へ賣り渡され、私も現に其の二個を持って居る。しかるに今回の事變では此地域は割合に早く我が軍隊の監視の下に帰して、今では絶封に保管されてゐるのは実に芽出度いことである。
 一方龍門の方は、これも久しい間無理解なる破壊を蒙って居たが、この事變によって、まだ我が軍隊で管理をするといふ所まで河南の戦局が進んで居ない。ところが仄に聞くところでは、事變が始まると間もなく、常時の支那中央政府の手で、だいぶ酷く、むしろ組織的に切り崩されてもはや外國へ賣り飛ばされたのもあり、到底もとの姿では再び見ることは出来ないと云ほれてゐる。
 誠に惜しむべきの極みである。然るにここに山本明君がある。同君は永らく北京に住んで精巧な技術を以て盛大な寫眞場を開業し、暇ある毎に遠く大同や龍門まで出かけて、前後にわたって実に数百種の撮影をせられ、従来の専門学者の研究資料としたものの大部分は実に同君の手に成ったと云つてもいい位である。ことに同君の寫眞にはまだ破壊の手があまり甚だしく加へられて居ない頃のものも多いので、之は實物の損はれ又は失はれた今日としては、最も貴い資料と見なされて居る。そこで今度我が早稲田の學園の中で、一堂のうちに陳列して、ひろく世上の學徒と共に再検討を試みんとするのであるが、これはまことに有益にして又有意義な企てであらう。
 今回はそれ等の寫眞や山本君が實地に作製された見取図のほかに、我が年来堅く秘蔵して居た大同や天龍山の拓本のうちから特に数十幅を選んで同じ席へ出陳することにした。この天龍山といふのは同じ山西省の大原に近い山間の石窟寺で凡そ隋時代の頃と推定される一大石仏群の所在であるが、此處の石窟は最早拓本でも實物に具はるべき貴重な価値を生じて来ることが首肯されるであらう。私はすべて壷の陳列が我が學園内に、今や鬱勃として萌さんとして居る新鮮にして熾烈なる研究的精神の興隆のために良き刺戟とならんことを切に望んで居る。
               『早稲田大学新聞』昭和十五年一月三十一日


『会津八一全集』 中央公論社

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じゃがいもころんだⅡ №9 [文芸美術の森]

白バラが咲いた

              エッセイスト  中村一枝

 五月になると、庭のバラが必ず花をつける。白いなんの変哲も無いバラだが、このバラの木は五十年以上家の庭のひと隅にささやかな和みを運んできてくれる。このバラを見ると我が家がバラの最盛期、まさにバラの香りに包まれていた日々があったんだとかすかな思い出が蘇る。
 その頃父のフアンでもあり信奉者でもある岡さんという人が池上の駅の近くに小さな花屋さんを開いていた。背のひょろっと高い、目のぎょろっとした花屋らしくない花屋さんで、たしか文化放送の「お便りありがとう」とか言う番組に尾崎士郎のファンということで投稿してきたらしい。おしゃべりで話好き、玄関にお茶菓子を出すとそのおしゃべりが延々と止まらない。ただそのおかげで新築の家の庭は、見事なまでにバラ園に生まれかわった。とにかく、岡さんの商売を抜きにした一本気のおかげであった。若い私はバラの花の見事さには手を叩いて喜んだが、岡さんの喋り好きにはいささかヘキエキしていたのは確かである。でも今思うとあの当時の岡さんは商売抜きにして私のバラに心血をそそいでいた。私のバラと言うより私の父に認めてもらいたかったのだろう。今残っている白いバラの木はまさに岡さんのバラなのだ。
 岡さんにとって一番の難点は私の犬好きだったらしい。岡さんは私が何よりも犬が大事と言う姿勢は納得がいかぬようだった。子犬はすぐその辺の土を掘り返したたり、堆肥を引っ張り出したりする。岡さんにとって犬は天敵そのものだったらしい。岡さんは最初父から娘が家をたてたので庭をちょっと見てやってくれと言われたのが何より嬉しかったらしい。とにかく献身的と言って良いくらい張り切ったのである。元々何も無いところに日当たりだけはよかったので、わたしの庭は道ゆく人が誰もが足を止めるほどの見事なバラの家になっていった。その頃の私はバラが綺麗に咲くのは嬉しかったが岡さんの惜しみない誠意と努力についてはなおざりにしていたようだ。バラたちは毎年見事に花を開いた。あの当時の私は岡さんのおしゃべりにヘキエキしながら岡さんがどんなにバラの花に心を寄せているか考えもしなかった。でもあの見事なバラの花と香りは再現したくてももうどにもならない。
 今や老木になった白いバラ、今年も見事に咲いた。年々このバラが咲くたびに岡さんの大きい自転車や油粕が目に浮かぶ。岡さんは比較的早く世を去った。癌だったと聞いた。そう言うものとは無縁の人に思えたのに。病院とか医者とかは嫌いなひとだったから不本意な晩年だったのかもしれない。油粕を積み上げて自転車を漕いでいた岡さんの姿が浮かぶ。:
  花屋の岡さんが亡くなって私の家の庭のバラも、手入れだの肥料だのに心を配る人はいなくなったのに、その白いバラだけは今年も見事に生い茂っている。その白い、どこか野性味のあるたおやかさを漂わせて、うちの庭にバラが咲いているという存在感をみせてくれる。どんな花にもそれなりの物語がある。無骨で不器用な、花屋さんらしからぬ花屋さんで、うちの犬を目の敵にしていたけれど、本当は心優しい人だった。岡さんの何度聞いてもちっとも面白くない長談義、花屋にしてはうるおいにも洒落っ気にもかけるおじさんは、いなくなった後で何気ないおかしみや懐かしさを私の家の庭に落とし込んで行ったようだ。


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過激な隠遁~高島野十郎評伝 №4 [文芸美術の森]

第二章 画家との出会いと交流 2

       早稲田大学名誉教授  川崎 浹

画家のアトリエ
 アトリエは武家屋敷の一隅にでもありそうな、格式のたかい小さな剣道場を思わせた。
板張りの床の一隅にたくさんのカンバスが置かれ、土間に据えられたイーゼルには二〇号
の渓流の絵が置かれている。なんとみごとな構成と色調だろう。清例な渓の流れに打たれ
た私が率直な印象をのべると、画家は「これは勉強のためにもう少し手許に置いておきた
いのです」と応じた。画家がかなり気魂をこめて描いたらしいことが、その場の雰囲気で
感じられた。渓流の場所は奥秩父のあたりかと思われる。画家はこの絵をどのように描い
たかぼつりぼつりと話してくれた。
 かれは渓流の岸に立って、じっと水の流れを凝視していた。それは何時間も何日もつづ
いた。旅館に泊まりこみである。数日たつと渓流の水の動きがとまり、岸辺の岩や巌が動
きはじめ、それらが流れるようになった。その動く巌を描いたのですと画家は言った。
 かれはそうやって何日も見つめつづけてから、絵を何年もかけて描き、そしてそれをま
た新たに画架にかけて何ヶ月も何年も見つづけるという。
 「見る」という言葉は絵画や彫刻の世界でしばしば用いられるが、その内容は必ずしも
共通していない。あるがままに「見る」というが、各人各様の視線を有するので、見る行
為は人により千差万別である。また仮に画家がひとつの固定した「見方」に頼っていると
すれば、かれは見ているとはいえない。「見る」とは立ち止まらずにたえず見つづけるこ
とである。
 のちに、拙宅のある大泉学園の私鉄の駅から高島さんと電車に乗り、立ったままの姿勢
でおのずと視線が車内広告のほうにいくと、画家が「いま文字を意味としてではなく、純粋

に形として見る訓練をしている」といったことがある。あいかわらずおもしろいことを
と思ったが、画家は「見る」修練をつんでいたのだ。文字や単語には意味がこめられてい
るので、私たちは形そのものより意味を先に読みとってしまう。画家はそうした子供のう
ちから植えつけられている先入観を追い払い、文字をそこにある形のままに見ようとする。

しかもその対象は文字にとどまらず、自然や人間の存在そのものに向かう。

 生れた時から散々に染め込まれた思想や習慣を洗ひ落せば落す程写実は深くなる、
 写実の遂及とは何もかも洗ひ落して生れる前の裸になる事、その事である.
          (高島野十郎遺稿『ノート』より。以下『ノート』とする)

 私たちはこれから画家高島野十郎が何をどのように見たか、その軌跡をたどることにな
るだろう。
                                                              

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