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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №128 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

希望の星

              銅板造形作家  赤川正由

128希望の星.jpg

少年が星を、枝の先に、取ったのだろうか、一番星を、取って、ごきげん。かねてより製作したかったモチーフ。あたためておいたのをこのたび、川口の、モリチュウさんの、工場入り口に、製作依頼を受けて、設置した。モリチュウさんは、先代からのおつきあい、川口のまちづくりに始まり、あちこちに、作品を、展開している。しかし、モリチュウさんには、さくひがなかった。今の若社長は、よき理解者で、ボンズのやろうとしてることの、応援団。まちに、希望の光を投げかけたいとのことから、毎日この少年のように、希望に満ちた日々を送りたいと願って、一日を過ごしたい。いい作品が、できた。

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立川陸軍飛行場と日本・アジア №180 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

さらば、立川

        近現代史研究家  楢崎茂也

 朝日新聞社航空部、羽田に引っ越し
 東京朝日新聞社航空部は、関東大震災で洲崎の飛行場が使えなくなり立川に移ってきましたその2年後、朝日新聞社は初風・東風による「訪欧大飛行」を成功させましたが、この2機は立川陸軍飛行場をホームグランドにして訓練したことは連載NO.20からNO.24に書いたとおりです。また、立川を拠点とする東京大阪間の定期航空便を始めたのは、実質的には朝日新聞社が経営する東西定期航空会でした(連載NO.46)。
180-1.jpg ライバルの東京日日新聞社の航空部門は、昭和3(1928)年に立川に越して来ましたが、満州事変の2ヶ月後には早々と羽田に移っています。一方、東京朝日新聞社は、その2年後に当たる昭和8(1933)年6月23日、ようやく羽田の東京飛行場で格納庫の地鎮祭を行ないました。格納庫の広さは280坪と、思いのほか小さいですね。
 格納庫がほぼ完成した9月26日、東京朝日新聞航空部が立川から羽田に移動しました。当日は、訪欧大飛行でローマまで飛んだ東京朝日新聞河内航空次長、上京して来た大阪朝日新聞久航空次長が、第五連隊などに挨拶回りをしました。そして、正午に熊野飛行士が操縦するコメット機が離陸、河内次長が操縦するプスモス、久次長が操縦するプスモスがこれに続き、12時22分には羽田飛行場に着陸します。前日にはサムルソン3機、義勇号などと道具類などが羽田に運ばれており、立川陸軍飛行場の格納庫はすっかりカラになった訳です。180-2.jpg午後2時には、熊野飛行士が新潟に向けて羽田からの初飛行に飛び立ちました。東京朝日新聞には、立川から去るについて感想が何も掲載されていないのが何となく残念です。
 10月13日には航空部格納庫の落成式が行なわれ、新野飛行士が操縦するオートジャイロ(回転翼により揚力を得て、プロペラで推進力を得る航空機)の飛行が披露されました。“格納庫は思いのほか小さいですね”と書きましたが、飛行機8台は優に格納できる堂々たるものだったようです。写真を見ると、屋根が平らではなく蒲鉾形で、鉄骨ダイヤモンド・トラスト式という最新型です。朝日新聞社の移動に伴って、全面支援を受けている日本学生航空連盟も羽田に移ります。
「朝日よ、さらば」ですね。

 老舗の日本飛行学校も羽田に移転
 連載NO.4で紹介したように、日本飛行学校は大正12(1923)年6月に立川陸軍飛行場の西地区に移って来ています。飛行学校の木暮主事は関東大震災について次のように回想しています。
“それに増しての思い出は例の関東大震災の時であろう。東京方面偵察のために小川君がソッビース機を操縦して飛んだが多摩川矢口河原に不時着したものだ。陸軍のように日の丸の印がなくローマ字の機識のある民間機だから付近の人々が驚き「それ外国の飛行機が地震につけ込んで襲撃した」と大騒ぎ、手に手に竹槍や刀を持った群衆に取囲まれて大騒ぎしたナンセンスもあった。”(「東京日日新聞・府下版」1933.9.28)朝鮮人虐殺を彷彿とさせる描写です。
 木暮主事は、移転当時の飛行場について“この頃の立川は人家は北口と駅前、本村付近だけで自動車は一台もなかった。飛行場は東半分を五連隊(五大隊は翌年連隊となる)、西半分を民間で利用したが、野草ぼうぼうで飛行場内に不時着した飛行機は格納庫の屋根に上がって見ないと、どこかはわからなかったのだから、今の人にはうそのようだ。”と書いています。
 移転先に頭を悩ませた日本飛行学校も、ようやく9月初めには羽田に移転できることが決まりホッと一息、木暮主事は“住み慣れた立川もさらばです。練習生も今月の卒業生を出せば残り八名で練習の心配もなくなりました。羽田移転もどうやら決まって学生も安堵しています。しかし、民間の宗主として飛行を始めて11年、やむを得ぬといい乍ら、この広い飛行場にも身の置き所がなくなったと思うと全く涙がでます。”(「東京日日新聞・府下版」1933.9.7)と語ります。
180-3.jpg 日本飛行学校が送り出した一等飛行士は9人、二等48人、三等20人、計77名の飛行士を世に送り出しました。このうち女性は、朴敬元さん(連載NO.106などで紹介)、正田マリエさん(連載NO.157)、李貞喜さん(連載NO.106)の3人の二等飛行士と、本登勝代さん(NO.70)、前田あさのさん(NO.17)の2人の三等飛行士、三等飛行士の技量を持ちながら急死した北村兼子さんの計6人でした。しかし、残念ながら彼女たちの誰一人として飛行士の資格を生かした職業に就くことは出来ませんでした。
 8月30日、日本飛行学校は、小川立川町長などを招いてアヴロ、アンリオなど5機が名残の飛行を立川陸軍飛行場で披露しました。
 
180-4.jpg 羽田に移った日本飛行学校
 羽田の日本飛行学校の校舎は、ご覧の通りドライ・コンストラクション建築のモダンな建物です。事務所の隣には機体製造室、発動機室、2階には初等科教室、機関科教室、二等飛行士以上が空中航法などを学ぶ教室が並び、相羽有校長以下職員14名が教育に当たります。格納庫は、朝日新聞社同様にダイヤモンド・トラスト式で、民間飛行学校ではどこでも採用していない最新式の自慢の格納庫です。
  こうして日本飛行学校は一新されましたが、連載NO.143“飛180-5.jpgべぬ鳥人 日本飛行学校に入学者続々”で紹介した“二等(一等でも)飛行士では就職出来ないので、全く卒業してみたところで何にもならない事になる“という木暮主事が嘆いた状況は続いています。
 
 御国飛行学校は廃校に
 「空の宮様」山階宮武彦殿下が始めた山階宮飛行機練習所の後身である御国飛行学校は、移転先を見つけることが出来ず廃校を決めました。伊藤酉夫校長は廃校に当たって次のように語っています。“山階宮殿下の練習所を大正十四年に開かれて、昭和四年に私に経営を委任されて前後九ヶ年、陸軍の援助と立川町各位の御厄介にな180-6.jpgったことは唯感謝の外ありません。此の由緒ある学校を今廃校にすると云うことはもとより私の不明の致すところ、甚だ慚愧に堪えぬことでありますが。現在の民間飛行家養成の現状から見て将来に更生するための一時廃校と決定しました。職員十四名に就いては夫々行くべき道を与え、学生二名には十一月一杯位残務整理の傍ら練習させて、卒業させてやりたいと思います。”(「読売新聞・三多摩読売」1933.10.3)責任者として堂々たるコメントですね。御国飛行学校が、なぜ日本飛行学校のように羽田に移ることが出来なかったかは不明ですが、連載NO.37で紹介したように、山階宮の心の病は進行しており、学校の存続を働きかけることは出来なかったのだと考えられます。
 こうして民間航空は立川を去り、飛行場は再び陸軍専用に戻ったわけです。

写真1番目  地鎮祭場         「東京朝日新聞」1933.6.24
写真2番目  落成した本社格納庫とオートジャイロ 「東京朝日新聞」1933.10.14
写真3番目  現在の日本飛行学校の陣容  「東京日日新聞・府下版」1933.9.30
写真4番目  日本飛行学校事務所  「空」(工人社刊)1933年11月号(創刊号)
写真5番目  格納庫と練習機各型        同上  
写真6番目  廃校となった御国飛行学校 「読売新聞・三多摩読売」1933.10.3


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旬の食彩 僕の味 №105 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

42歳のヴァンセット

   レストラン「ヴァンセット」オーナー  大澤 聡

自分は肉料理の中で鳩が、一番好きだなあ
繊細な肉質、風味豊かな味わい最高。ワインとのマリアージュも。
しかし
これだけ日本でフランス料理の歴史があっても
まだまだ一般的になってないのも事実。
なかなか浸透しなくとも作り手として作り続けたい肉料理ですな。

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今のヴァンセットではディナーメニューの予約限定コースでのメインを量を調整して2品構成

一皿目をーピジョノー  鳩をここに組み込むと一羽で四人前取れます。量は少なめですが、これくらいの量がヴァンセットのお客様には喜ばれています。二皿目に牛ヒレ肉とフォアグラや松坂牛のランボソの減圧ステーキなど。

お客様の反応を見ながら試行錯誤を繰り返してきました。コースのあり方を思考した結果、今42歳の自分の料理の表現ができてきたと思えてきました。

ただ技術や哲学的な部分の向上に終わりはなく現在進行系でこの料理のコースの組み立てや食材の組み合わせ
技術的にな部分も含めて進化し続けないといけない。
十数年にわたり鳩の料理には特に悩んできたけれど結果クラシカルなものの考え方をベースに、多少の自分らしさと季節感を組み合わせることで一皿が出来上がってきているのが今の42歳の鳩料理。
仔鳩はももと手羽などをオリーブオイルとハーブでマリネしてコンフィに。
胸肉は低温で調理して仕上げに香ばしい香りをつけるためにフライパンで焼く。
ソースは黒胡椒をきかせて。ソースのベースは仔鳩のガラでとった出汁を使い赤ワインとエシャロットとともに煮詰めて濾したもの。余計な濃度はつけずに、ソースを煮詰めてできる濃度でソースを仕上げる。濃厚でありながら口当たりは軽く 。ソースとしての主張はさせても、でしゃばらない仕上がりに。
付け合わせに筍を添えたり、空豆を添えたりと色々。
今までと大きく違うのは、肉に味をつける時に減圧調理器を使って味を染み込ませているところ。
この方法を使うと他の肉料理もそうですが、減圧をかけたものとかけなかったもので味が違ってきます。
だいぶわかりにくいかもしれませんが。

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最近のヴァンセットで度々この減圧調理器が登場して日々研究しています。
ヴァンセットのメインの料理は
皿の上に美味いものをのせ、作り手としての思いをのせて、突き詰めていく料理。
見た目はシンプルになっていく。茶色が多いなあ。華やかではないかな。
それでも、食べたら記憶にガツンと残る料理をしたい。
メインは特に。肉から付け合わせから、ソースまでしっかり作りたい。
これからももがいていく。進化して行くために。


東京都立川市柴崎町3-5-2 むつ花ビル2F  042-526-6716
ヴァンセット27シェフブログ  http://www.sprasia.com/tv/user/vanset/blog
ヴァンセットHP http://www.restaurant27.hello-net.info/

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №128 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

五月晴れ山陰本線   

                    岩本啓介  

128 山陰本線・鎧~香住.jpg
林道を1時間ほど歩き やっとたどり着いた山の中腹                        
大きな蜂が縄張りを主張して 私の周りを飛び回ります                             
青い森 青い日本海 蜂との出会い そして朱い気動車                             
忘れられない1枚となりました  


128余部鉄橋・線路用.jpg
『天空の駅』餘部です。橋梁は鉄橋からコンクリート橋に                         
変わりましたが 日本海を望む絶景は変わりません   

     

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押し花絵の世界 №88 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「いとこの結婚式のブーケ」

                    押し花作家  山﨑房枝

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54cm×45cm
いとこの結婚式に花を添えたブーケを持ち帰り、押し花にして額に納めてプレゼントしました。
背景には淡いピンク色のレースやパールを使って可愛らく仕上げました。
良い記念になったと喜んでくれて嬉しかったです

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渋紙に点火された光と影 №59 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

葱坊主

             型染め版画家  田中 清

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ミツバチからのメッセージ №8 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

野生トウヨウミツバチの北限-1

                造園家・ミツバチ保護活動家  御園 孝

 二ホンミツバチを含むトウヨウミツバチの生息域は、北は青森県の緯度までとされていました。確かに二ホンミツバチ(トウヨウミツバチの亜種)は、津軽海峡にはばまれて北海道には生息していません。しかしお隣のロシアでは地続きなので、もう少し北に生息していてもおかしくはないだろうと思っていましたが、寒さが半端ではないので青森県の緯度説で異論はありませんでした。
 極東ロシアタイガの森から流れ出た水は、フラボ酸を多く含み栄養豊富です。その水はビキン川からウスリー川へ流れ、アムール川に合流してオホーツク海にそそぎ、三陸海岸にまで流れています。タイガの森を伐採計画から守るためにその地に暮らすウデヘというたった600人の少数民族が立ち上がりました。それを支援するタイガフォーラムという団体の日本の人たちが、足しげく通いだしました。
 クラスニヤールは福島県を4つ合わせた広さで、600人のウデヘが暮らしていますが、60人の猟師が700年前から猟場を決めて他人の猟場を荒らすことなく、自分の猟場も捕りすぎず、家族が食べる分以上捕らないでいます。ビキン川にも魚が豊富で大きなイトウやマスが豊富にいますが、それも捕りすぎず家族の食べるだけを捕っています。家の裏には必ず畑がありほとんどを自給しています。つまり肉と魚と野菜で売り買いをしていません。
 そんな村に森から野生ミツバチが分封してきたという情報が入りました。村でセイヨウミツバチの養蜂をしている人の空箱に時々入るというのです。日本の養蜂家たちが何度か訪れ森に営巣する群れを探したのですがとうとう見つけることができませんでした。

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まるでアマゾンを連想させるようなビキン川
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小さな船で行きます。



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多摩のむかし道と伝説の旅 №29 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

              -矢川水辺から谷保田圃へ天神様と為守伝説を巡る道-3

                   原田環爾

29-1.jpg緑地を出て水辺の道を進む。煉瓦敷きで良く整備されている。矢川いこいの広場の横を通り、第六小学校の校庭南側の水辺の小道に入る。季節の頃はみごとな桜風景を見せてくれる。小学校裏を抜けると、畑と民家のあるのどかな風景になる。白鷺がよく飛来する。水辺には赤い鳥居の矢川稲荷明神あり、川の畔には所々農家が野菜を洗う洗い場がある。この辺り古くは川を挟んで右を四軒在家、左を久保と呼んでいた。やがて矢川橋で甲州街道に出る。橋の袂に四軒在家の人達が祀った五智如来の堂宇がある。四軒在家は一般的にはシケンザケと呼ぶ。天正18年(1590)、29-2.jpg八王子城落城の折、北条氏照の家臣4人がこの地に逃げてきて土着。4人の姓は佐藤、佐伯、堀江、原田で、四軒在家の部落名はこの4軒から名付けられた。今も四軒在家には子孫が住んでおり表札が確認できる。特に佐伯姓は多い。郷土史家の原田茂久氏によれば五智如来は、この時の落人4人が建立したという。ただ江戸時代に八王子にいた越後の人が来住して祀ったともいう。五智如来は仏教でいう五種類の智、すなわち大円鏡智、妙観察智、平等性智、成所作智、法界体性智を備えた仏様のことで、大日如来の別名とも言われる。昭和前期まで夕方になると五智如来の前に灯明や線香、供花が絶えなかったといい、現在でも、10月12日には「おこもり」といって、地元の人達が集まって念仏をあげ、五智如来を供養しているという。
 街道を渡ると家並みが川に接して水辺の道はここで一旦途切れる。街道沿いを100m西へ進み、T字路「矢川三丁目」で最近出来た道幅の広い車道を南へ向かうと青柳崖線のまました橋の袂に来る。かつては畑風景に囲まれた狭い野道であったがすっかり様変わりしてしまった。ちなみにここへ至る通りの西側に四軒在家公園とい29-3.jpgう小公園があり、その一角に古墳時代後期7世紀の古墳が1基保存されている。この付近では古墳10基が発掘されており、うち1号墳が整備保存されている。青柳段丘の日当たりと崖線からの水が得られる居住環境として一等地であったのだろう。
 まました橋からは緩やかな下り坂となり田園風景が開ける。橋は丁度青柳崖線の上になっている。このあたり一帯には高さ8m前後の段丘崖が連なる。段丘崖は「はけ」とも「峰」とも呼ばれるが、この地域では「まま」と呼ばれ、ここからの湧水を「ママ下湧水」と呼んでいる。湧水は清水川という細い水路を形成しママ下に沿って流れる。水路の南側は古来多摩川の氾濫原であった低地で、豊富な湧水群により昭和初期まではわさび田が見られたという。ただ近年は道路整備で昔ののどかな景観はすっかり失せてしまった。29-4.jpg青柳崖線と南側を走る中央自動車道の間は、東西に伸びる帯状のどかな田園地帯で、清水川も先の矢川もこの田園の中を流れる府中用水に並んで合流している。合流点は「矢川おんだし」と呼ばれている。合流後の府中用水は透明度はやや落ちるものの水量豊かで素晴らしい田園風景を見せてくれる。そんな田園風景の中にこの辺りがかつて神奈川県に属していたことを示す標石が立っている。神奈川県庁測定石跡で、現物は国立郷土文化館に保存展示されている。
 北側段丘上には石井筆子ゆかりの滝之川学園がある。滝之川学園は明治24年(1891)石井亮一氏によって設立された日本初の知的障害児施設だ。石井筆子は亮一氏の妻で幕末(1861)、肥前大村生まれ。津田梅子とともに近代女子教育の先駆者とされている。先夫との間に3児あり、うち2児が知的障害児であった。
 


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国営昭和記念公園の四季 №35 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

コマチソウのスロープ   日本庭園前芝生斜面

コマチソウ2 のコピー.jpg

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №128 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

希望の星

              銅板造形作家  赤川正由

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少年が星を、枝の先に、取ったのだろうか、一番星を、取って、ごきげん。かねてより製作したかったモチーフ。あたためておいたのをこのたび、川口の、モリチュウさんの、工場入り口に、製作依頼を受けて、設置した。モリチュウさんは、先代からのおつきあい、川口のまちづくりに始まり、あちこちに、作品を、展開している。しかし、モリチュウさんには、さくひがなかった。今の若社長は、よき理解者で、ボンズのやろうとしてることの、応援団。まちに、希望の光を投げかけたいとのことから、毎日この少年のように、希望に満ちた日々を送りたいと願って、一日を過ごしたい。いい作品が、できた。

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旬の食彩 僕の味 №105 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

42歳のヴァンセット

   レストラン「ヴァンセット」オーナー  大澤 聡

自分は肉料理の中で鳩が、一番好きだなあ
繊細な肉質、風味豊かな味わい最高。ワインとのマリアージュも。
しかし
これだけ日本でフランス料理の歴史があっても
まだまだ一般的になってないのも事実。
なかなか浸透しなくとも作り手として作り続けたい肉料理ですな。

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今のヴァンセットではディナーメニューの予約限定コースでのメインを量を調整して2品構成

一皿目をーピジョノー  鳩をここに組み込むと一羽で四人前取れます。量は少なめですが、これくらいの量がヴァンセットのお客様には喜ばれています。二皿目に牛ヒレ肉とフォアグラや松坂牛のランボソの減圧ステーキなど。

お客様の反応を見ながら試行錯誤を繰り返してきました。コースのあり方を思考した結果、今42歳の自分の料理の表現ができてきたと思えてきました。

ただ技術や哲学的な部分の向上に終わりはなく現在進行系でこの料理のコースの組み立てや食材の組み合わせ
技術的にな部分も含めて進化し続けないといけない。
十数年にわたり鳩の料理には特に悩んできたけれど結果クラシカルなものの考え方をベースに、多少の自分らしさと季節感を組み合わせることで一皿が出来上がってきているのが今の42歳の鳩料理。
仔鳩はももと手羽などをオリーブオイルとハーブでマリネしてコンフィに。
胸肉は低温で調理して仕上げに香ばしい香りをつけるためにフライパンで焼く。
ソースは黒胡椒をきかせて。ソースのベースは仔鳩のガラでとった出汁を使い赤ワインとエシャロットとともに煮詰めて濾したもの。余計な濃度はつけずに、ソースを煮詰めてできる濃度でソースを仕上げる。濃厚でありながら口当たりは軽く 。ソースとしての主張はさせても、でしゃばらない仕上がりに。
付け合わせに筍を添えたり、空豆を添えたりと色々。
今までと大きく違うのは、肉に味をつける時に減圧調理器を使って味を染み込ませているところ。
この方法を使うと他の肉料理もそうですが、減圧をかけたものとかけなかったもので味が違ってきます。
だいぶわかりにくいかもしれませんが。

105-2.JPG

最近のヴァンセットで度々この減圧調理器が登場して日々研究しています。
ヴァンセットのメインの料理は
皿の上に美味いものをのせ、作り手としての思いをのせて、突き詰めていく料理。
見た目はシンプルになっていく。茶色が多いなあ。華やかではないかな。
それでも、食べたら記憶にガツンと残る料理をしたい。
メインは特に。肉から付け合わせから、ソースまでしっかり作りたい。
これからももがいていく。進化して行くために。


東京都立川市柴崎町3-5-2 むつ花ビル2F  042-526-6716
ヴァンセット27シェフブログ  http://www.sprasia.com/tv/user/vanset/blog
ヴァンセットHP http://www.restaurant27.hello-net.info/

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立川陸軍飛行場と日本・アジア №179 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

立川の民間飛行学校から最後の少年二等飛行士誕生

            近現代史研究家  楢崎茂彌

 立川の民間飛行学校の最後を飾る学生の昇格飛行が9月26日に立川陸軍飛行場で行なわれました。受検者は、179-1.jpg9月に17歳になったばかりの村尾誓圓君(17)(連載NO.172で紹介しました)、大岸眞左勝君(17)の二人の少年と、一等飛行士をめざす片山良治郎君など計8名です。場内試験は前日に終わっているので、この日の飛行テストは、一等飛行士は立川-上田(長野県)-大田原(栃木県)-立川のコース、二等飛行士は立川-大田原間往復のコースで行なわれました。
 トップバッターは村尾君で午前7時35分にスタート、大岸君や片山君がこれに続きます。昇格飛行は午後まで続き、村尾君、大岸君など6名が無事合格、2名が機体や発動機の故障により再試験となりました。
 二等飛行士に無事合格した村尾少年は嬉しそうに次のように語っています。“一寸心配だったがよく地図を見ていると次から次へ頭に浮かべていた町が現れ、他機の先頭を切って、直接大田原に向かいました。発動機も好調、お天気もよかったため往航一時間三十五分予定の如く飛び、こんなうれしいことはありません。お父さんは自分がよいと思う途に向かって邁進せよといってくれるので、一生空へ生命を捧げるつもりです。十一月少年航空兵に志願します”
  同じく二等飛行士に合格した大岸少年は次のように語りました。“岡山市の父親も承知の上で飛行機に乗ることを許してくれたのですが、僕は長男なので時に自重して一心に勉強しました。今日の野外飛行も初めいろいろ心配しましたが、お陰で無事に飛べ、こんな嬉しい事はありません。少年航空兵になるつもりです。”(「読売新聞・三多摩読売」1933.9.27)
  苦労して学んだ2人は、少年航空兵を志願する道を選ぼうとしています。昭和5(1930)年に創設された海軍少年航空兵は15歳から受験できるので、二人とも2年前には受験出来たはずです。すると、村尾君も大岸君も、この年(昭和8年)に募集が始まった陸軍少年航空兵(連載NO.172)を受験するつもりのようです。ただ、この年の4月28日に告示された「陸軍諸学校生徒採用規則」によると、少年航空兵を育成する所沢陸軍飛行学校の出願期限は5月31日です。海軍少年航空兵の募集は毎年12月頃とされています。すると、海軍なのか‥。ここでは、この年に募集が始まった陸軍少年航空兵募集の様子を紹介します。
  「陸軍少年飛行兵史」(少飛会歴史編纂委員会編・少飛会1983年刊)は一期生について次のように書いています。
  “大学は出たけれど。という経済不況下、満州事変・上海事変も一応一段落を見たが、昭和八年三月には国際連盟を脱退し、日本は孤立化に進みつつあった。そして戦争という危機感も漂う頃であった。また一方では航空時代という言葉が、雑誌、新聞などに掲載され始めた初期の啓蒙時代でもあった。
  大空に夢を託す青少年が航空への道を目指したのも、自然の成り行きであった。旧制中学校の在校生、高等小学校の卒業生の少年達は期せずして志願した。当時の入校者数の約百倍もの志願者が殺到したのである。”
  約百倍は大げさにしても、大変な倍率だったことは間違いありません(実際は42.8倍でした)。旧制中学の生徒も受験するのに対して、希望者が全員入学した日本飛行学校卒業の村尾君は分が悪いですよね。「陸軍少年飛行兵史」には、卒業生名簿が載っていますが、残念ながら一期生の名簿には村尾君の名も大岸君の名もありません。念のために二期生、三期生名簿も確認したのですが、矢張り名前はありませんでした。海軍については確かめることは出来ていません。二人がお金をかけて飛行学校で学んだ操縦技術を少年航空兵としてもう一度学び直すのかと思うと、軍隊以外に二等飛行士の資格を生かす道が少なかったことを残念に思います。
 
 編成替え後、初の航空本部長検閲
 陸軍飛行第五連隊は近衛師団の所管にあるので、編成替えから約一月後の8月29日、朝香宮近衛師団長が演習を台覧(皇族などが見学すること)するため、立川陸軍飛行場を訪れました。
  9月5日には杉山航空本部長の検閲が行われます。午前7時50分、杉山元航空本部長が立川陸軍飛行場に到着、179-2.jpgまず田中連隊長が状況報告を行い、次に書類検閲があり、引き続いて中隊毎に教練を披露しました。連載NO.175で紹介したように、8月1日に第五連隊が編成替えとなり戦闘隊が配備されています。さらに軍備改編の一環として、飛行連隊は、連隊本部、2飛行中隊からなる飛行大隊、材料廠に配置する整備隊で編成されることになりました。
 この日は、第一大隊(偵察隊)の第一中隊・第二中隊の八八式偵察機と乙式偵察機合計20数機が対地攻撃・急降下爆撃・空地連絡の教練を披露、第二大隊(戦闘隊)の第三中隊・第四中隊は基本戦闘飛行編成、離着陸、対地攻撃訓練を披露して、午前の教練を終了しました。そのあと航空本部長は各工場を視察、通信などの検閲も行ないました。そして午後4時からは大戦闘教練が始まります。
「読売新聞・三多摩読売」(1933.9.6)は戦闘教練の様子を次のように伝えています“南北両軍は五日午後四時多摩川をはさんで対峙、両軍飛行機は各地上部隊に協力、地形敵状爆撃に進出の機会を狙っている。一機また一機と舞い上がると見れば、敵機を追って高度千米二千米乱撃電撃の勝負容易に決することなく夜に入る。両軍偵察機は折柄の月明かりを利用して、猛烈な機上戦を繰広げ午後九時一先ず演習休止、夜間演習終了、杉山中将は航空寮に宿泊、六日午前三時来隊、午前四時よりの払暁戦を検閲する。”
 翌朝四時に再開された演習は再び激戦となり、午前八時に教練は終了、杉山航空本部長は講評を行なうと、自動車に乗り込み帰京します。こうして20数機が入り乱れて行なわれた教練は事故もなく終わり、航空本部長は連隊長以下将兵全員に一日の慰労休暇を与えました。
 この訓練は、新たに配備された戦闘隊を満州に送るための訓練だったのでしょう。因みに杉山元航空本部長は、アジア太平洋戦争開戦時には参謀総長に上り詰めています。

 2機の戦闘機、夜間演習中に墜落
  9月18日午後4時、第五連隊所属の九一式戦闘機3機が立川浜松間の夜間航法飛行に飛び立ちました。無事浜松に着陸した3機は午後7時20分浜松を離陸し、立川をめざしました。ところが編隊長松村大尉の機はプロペラに変調をきたし浜松に引き返します。一方、8月1日に八日市場の第3連隊から転任してきた鶴中尉と同じく第3連隊から転任してきた谷口特務曹長が操縦する2機の九一式戦闘機機は行方不明になり、午前1時には両機とも墜落し二人とも死亡していたことが確認されました。この報を受けて第五連隊の野田副官は“九一式戦闘機に依るこの惨事、何とも言えないが、179-3.jpg夜間のことであり万事窮した結果だ。この尊い犠牲を生きた手本として、我々は一層空軍のために力を致さなければならぬと思う”(「読売新聞・三多摩読売」1933.9.20)と語ります。死者をいたむ言葉が無いのが気になりますね。同じ紙面は、谷口特務曹長と同郷の西軍曹の次のような言葉も載せています。“私と郷里も一つだし兄とも思っていましたのにこんなことになろうとは、浜松から帰りを飛行場で待っている時でした、八時頃中隊の格納庫にヅシンという音響があったのでオヤと思いましたが、変わったこともなく、そうしているうちに悲報が入ったので、私は後で考えると鶴中尉殿や谷口曹長殿の魂が飛んで来たのでその音だったような気がします”。救われる気持ちになるコメントです。
  22日に第4格納庫で行なわれた連隊葬の参列者は2000人を越えました。四宮基信という少年が連隊葬儀委員長宛に現金1円と次のような手紙を送ってきました。
  “フタリノオジサンガヤマヘヲチテシナレタトキキマシタ、ドウゾオセンコウヲアゲテクダサイ  レンタイノオジサン”
  戦闘隊が加わることで第5連隊の役割は大きく変わっていきます。連載NO.174で紹介したように満州事変が始まると直ぐに満州に派遣された第5連隊の部隊は、これといった損傷も無く無事帰還しています。しかし、改編で戦闘隊が加わったので、今後は無事帰還とはならないでしょう。
   
  写真1番目 上は村尾君、下は大岸君  東京日日新聞・府下版(1933.9.27)
  写真2番目 勢揃いした新鋭機     読売新聞・三多摩読売(1933.9.6)
  写真3番目  両勇士の連隊葬     読売新聞・三多摩読売(1933.9.23)
 


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №127 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

タンゴ鉄道    

                        岩本啓介               

若狭湾沿いを走るJR宮津線を引き継いだタンゴ鉄道                   
里山っぽいところも走っています                    
                     
127タンゴ鉄道・東雲~四所  .jpg
タンゴ鉄道 東雲~四所

由良川と若狭湾を分けるように架かる由良川橋梁                 
タンゴ鉄道の名所のひとつです 
    
127由良川& 由良川橋梁・全長551m &若狭湾.jpg
由良川&由良川橋梁 全長551m
  

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押し花絵の世界 №87 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「小さな花瓶たち」

              押し花作家  山﨑房枝

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42cm×26cm
パステルで色をつけたカラーペーパーをカットして押し花を貼り、模様入りの花瓶を作りました。
庭に咲いた可愛い小花達を思いのままに花瓶に入れてデザインして楽しみました。




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渋紙に点火された光と影 №58 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

山茶花

              型染め版画家  田中 清

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ミツバチからのメッセージ №7 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

韓国の養蜂家キムデリム氏

            造園家・ミツバチ保護活動家  御園 孝

  トウヨウミツバチ(ニホンミツバチは亜種)の養蜂家キムデリム氏は、ピーク時に1500群の飼育をしていましたが、子出し病で一気に100群に数を減らしてしまいました。農薬に被爆した花粉を幼虫にエサとして与えることで免疫力が低下した幼虫は、ウイルスに侵されて死に、巣の中で腐る前に巣から引きずり出され外に捨てられます。農薬を使用する場所からなるべく遠ざけるだけでなく、免疫力を高めることと、兆候が出始めた時を早期発見するなどの取組をしたことで、随分回復をしてきました。
  彼は40代ですが、やる気満々の非常に優秀な養蜂家です。広大な敷地に蜜源になるソバなどを栽培して、ハチミツだけでなくソバを収穫して出荷し利益を上げています。韓国ではセイヨウミツバチよりトウヨウミツバチのハチミツのほうが体に良いと、非常に高値で取引されていることもあり、トウヨウミツバチの養蜂がかなり盛んに行われています。
  キムデリム氏は子出し病を克服するために驚くほど努力して、かなり回復してきた時にいいタイミングで対馬に来ていただき、子出し病に関する資料をまとめて惜しげもなく提供してくれました。
  韓国ではすでにツマアカスズメバチが全国に蔓延していましたが、養蜂家たちは一向に気にする気配が有りませんでした。ミツバチを襲うために巣箱に来たツマアカスズメバチを生け捕りにして、農薬を湿した綿を糸でハチにぶら下げて追い返し、巣に戻ったハチは綿をつけたまま巣に入ることで、農薬で巣の中を全滅させる方法を考えて実行していました。ツマアカスズメバチはミツバチを襲うために、巣門の前でホバリングをしますが、その時手ではたいて退治する人が多く、日本とは随分対応が違うようです。

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多摩のむかし道と伝説の旅 №28 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

-矢川水辺から谷保田圃へ天神様と為守伝説を巡る道-2

                原田環爾

28-1.jpg 時代は下って養和元年(1181)、道武の子道英から六代目の津戸三郎為守が夢のお告げで谷保の現在地に遷座して谷保天満宮を創建した。ちなみに谷保天満宮の本殿の裏には道武を祀る三郎殿がある。当初は社殿の南にあったが火災で焼失したという。
 谷保天満宮を創建した津戸三郎為守とは如何なる人物であったか。多摩川南岸の石田に住み、源氏の武将として18歳で源頼朝が平氏追討で旗揚げした石橋山に参陣している。養和元年(1181)には夢のお告げで天神島の祠を谷保の現在地に遷座し天満宮を創建、初代宮司となった。28-2.jpgちなみに宮司は代々世襲で現在の宮司は第64代津戸最氏である。為守は遷座に併せ別当として安楽寺を中興し、祈祷所として六坊(滝本坊、松本坊、桜井坊、梅本坊、尊住坊、邑盛坊)を置いた。但し現存するのは滝本坊のみで、他はすべて明治初年の神仏分離令で廃寺となってしまっている。その後、武士でありながら浄土宗の開祖法然上人に帰依し法名を尊願を名乗った。おそらく過酷な源平戦の経験が影響したと思われる。なお同時代の武蔵武士で「本朝無双の勇士」と称賛された熊谷次郎直実も出家している。晩年は法然上人の後を追って割腹自殺している。伝説では割腹して五臓六腑を傍らの川に投げ捨てたがすぐには死ねず2か月後に大往生したという。なお為守は割腹した血で故郷の妻子宛に書いた。「為守の血文」と称する文で法然上人作の阿弥陀如来坐像の胎内に納めたという。その血文阿弥陀如来像は元は滝の坊にあったというが現在は谷保天満宮に保管され、滝の坊には「血文の阿弥陀如来石塔」が立っているだけである。ただ血文そのものは今はないという。時代は下って江戸時代に子孫が八王子の大善寺に為守供養塔を造立している。たいへん伝説の多い人物である。
 
 これより、矢川、谷保を実踏した場合に出会う風景、歴史、伝説、エピソードなどを辿った順に解説する。

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 矢川駅を出発し線路沿いに都営団地を見ながら西へ向かう。一番西端の突き当たりは東京女子体育大学の南側で、そこに小さな踏切がある。踏み切りを渡って小さな坂道を下ると橋の袂に出る。橋の下に流れている小川が28-4.jpg矢川である。橋の袂を右に入ると雑木林で覆われた空間がある。それが矢川水源の一つである矢川緑地保全地区だ。近年綺麗に整備されて見事な緑地公園になった。緑地中央を東西に矢川が流れ、中程に湧水池がある。矢川の北側は昔からあった雑木林で、南側は最近整備された湿生植物保全地域になっている。北側は小高い丘で三輪城と呼ぶ中世の城跡があったと言われている。西側はその名を採ったみのわ通りと称する車道になっている。三輪(箕輪)城については、大正13年の北多摩谷保村郷土史によれば、「村の西北端に小高き所あり、矢川として此の所より湧出する小川あり・・・この小岳に近く塚2箇所あり、立派なる人を埋めたるものなりとか、大切なる物を共埋めたるものなりとか伝える所、詳ならず、この小岳に三輪城なるものありて、城主を三輪次郎と言えりと伝う。今は全くその面影なし」とある。28-5.jpgただ裏付ける確証はない。現在の火葬場の東隣の箕輪山光西寺辺りが三輪城のあったところではとの話もある。
 みのわ通りの筋向いには暗渠の矢川から水をひいた“龍神之池”があり、池畔に矢川弁財天が有る。社殿の前には狛犬ならぬ狛蛇が鎮座している。蛇は水の神様であり、湧水池には蛇にまつわる話が多い。「立川のむかし話」によれば、矢川弁財天に関してこんな話が伝わっている。
28-6.jpg いつの頃か、矢川弁財天は荒れ放題になっていた。気味悪い雑草が生い茂り、池の水も暗くよどみ、妖気さえ漂っていた。ある時、立川の修行僧のところに一人の老人が訪ねてきて、矢川弁財天を清めて世に出して欲しいと言う。 そこで老人の案内で弁財天に行くと、荒れ果てて妖気さえ漂う有様に驚いた。 修行僧はよい日を選んで整地にくると約束した。やがて何日か経って修行僧はお手伝いを連れてやってきて、雑草を刈り、石を取り除いて整地を始めた。すると堂守婆さんが飛んできて、「ここは弁天様の棲家じゃ。そんなことし たら後で弁天様の祟りがある。すぐやめれ!」と言った。修行僧は「法要するから心配はいらない」と婆様を納得させた。その夜修行僧が床につくと、高い山から谷底へ突き落される夢を見て目を覚ました。しかし体の自由がききません。必死にもがくうちに大木に捕まることができた。が、何とそれは大蛇だった。これは弁天様が怒っているのだ。修行僧は悪霊を封じる九字の印を切ろうとしたが身動きできません。やがて修行僧は心に閃くものがあった。弁天様は怒っているのではなく何かを訴えておられる。九字の印ではなく相承の印で霊と和合しなければならない。そこで足を組み、相承の祈りに入ると、魔性が霧散し体が自由に動くようになった。修行僧が弁天様と和合できたことで、矢川弁財天は清められた。修行僧は以後3年、矢川弁財天で法要を営んだという。


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ミツバチからのメッセージ №6 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

対馬のニホンミツバチ

       造園家・ミツバチ保護活動家  御園 孝

 2014年5月に対馬を訪れて、まず最初に驚いたことはニホンミツバチがいないという事でした。対馬養蜂部会の副会長の上野氏にはなしをきいたところ、「数年前からの現象なのですが、元気だったニホンミツバチが、夏以降元気が無くなり大量の幼虫を巣箱の外に引きずり出すようになった。これは農薬を撒いた時に良く起こる現象ですが子出し病と呼ばれています。ウイルスにより幼虫が死んでしまい、ミツバチが巣から引っ張り出し外に捨てるサックブルードという病気もあります。
  下島の白嶽のふもと辺りに広がる水田地帯付近が全滅だ。下島と上島の間の犬吠辺りは元気にしている。ツマアカスズメバチの影響なら下島は元気なはずだ」と声を荒げていました。下島と上島のつなぎ目付近はリアス式海岸と深い照葉樹林が続いていて、畑や田んぼが全くありません。
 農協に確認したところ、そのころ全国で使用されるようになっていたネオニコチノイド系農薬が、斑点米対策として対馬でも夏の出穂時のカメムシ駆除用に撒かれていました。蜂友のキムデリムさんは韓国でトウヨウミツバチ(ニホンミツバチの親戚)を1000群飼っていたのですが、同じ現象であっという間に150群になってしまい、どうにか克服して群れを増やしているところでした。さっそく彼を呼び状況を見てもらい、対策を立ててもらいました。
 しかし翌年にはニホンミツバチは全滅したようだと連絡が入りました。そしてその2年後には森の奥で生き延びていた群れが、少しづつ復活してきたと連絡が入りました。昔の様なニホンミツバチの楽園が復活することを夢見たいと思います。

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照葉樹林は深くリアス式海岸がいりこんでいる。
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いたるところにニホンミツバチの巣箱が置かれている。

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