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ふるさと立川・多摩・武蔵 ブログトップ
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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №121 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

完成したペガサス

                      銅板造形作家  赤川政由

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立川に、またひとつ、ボンズ作品が、完成。井上産婦人科の隣にできた、コミュニケーションポールの、入り口に設置。オーナーは、産婦人科の、せんせい。かねてより、病院で、とりあげた、アカチャンや、おかあさんがたが、社会で、安心してら集まれる場所が、ほしいどの願いから、、この、たてものを、建設。安庵と、名づけました。。建物の、デザインは、繭の、かたち。コクーンと、名づけられている。一階には、子供を、あずかる、保育園があり、二階は、ピアノのある、ホールとレストラン。コミュニケーションの、場所として、解放されている。三階は、女性のための、フィットネスグラブ、女性に、かぎるので、わたしは、だめ。代表の、館長は、井上裕子先生、翼をください。という歌からペガサスに、なった。皆を大空にいざなう?という願いを込めて、タイトルは、JORNEy into the Sky。

121-3コクーンとペガサス.jpg
コクーンとペガサス
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院長の井上先生とボンズ
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作品設置の若い仲間たち

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №115 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 錦織りなす只見線  

                                 岩本啓介                   

錦織りなす紅葉 屏風仕立て

115只見線・蒲生岳と鉄橋・ 只見~会津蒲生.jpg
                                蒲生岳と鉄橋  只見~会津蒲生   
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                                    只見~大白川

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押し花絵の世界 №75 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「On Your Birthday」

                        押し花作家  山崎房枝

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20cm×16cm
花のハッピーカードコンテスト 佳作賞受賞作品

カットされたカードの裏側に押し花を張り合わせて制作しました

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渋紙に点火された光と影 №47 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

都会

                       型染め版画家  田中 清

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多摩のむかし道と伝説の旅 №16 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

羽村から四谷大木戸へ玉川上水水辺の道

                           原田環爾

上流域・多摩川の自然水が流れている羽村堰~小平監視所まで 2

15-1.jpg


16-1.jpg 宮本橋から拝島駅辺りまでは水辺の道は途切れる。拝島駅まで来ると上水は駅のすぐ東側を流れている。上流へ向かうと昔日光火の番役の八王子千人同心が往還したという日光橋の袂に来る。日光橋をやり過ごし東京環状の武蔵野橋をくぐると雑木林で覆われた日光橋公園が始まる。更に八高線の鉄橋を潜り小丘を上るとそこが水喰土公園公園だ。園内の一角に開削に失敗した堀跡が保存されている。水喰土の名は古くから福生熊川に伝わる不吉な伝承に由来している。この地の地下には冥土に通じる大穴が開いており、通水しても水が次々と地下に吸収されるといい、決して掘ってはならないとされていた。杉本苑子の歴史小説「玉川兄弟」では庄右衛門、清右衛門が多摩川上水開削工事の際、当初の取水予定地の日野の青柳で失敗した後、福生熊川を新たな取水地に選び、工事を再開したが伝承が現実のものとなり失敗し、幕府から拝領した工事費の大半を使い果たし苦境に陥ったと記されている。
16-2.jpg 拝島から下流は水辺の道を辿ることができる。ただ昭和の森ゴルフコースを過ぎ、西立川駅が見える辺りのゴルフ練習場横まで来ると上水は300mばかり暗渠となって緑地になっている。この暗渠は昭和14年(1939)この南側に長さ1200m、幅170mの飛行機の滑走路が完成した折、将来の滑走路の延長を考慮して上水以北に鉄筋コンクリート造りの頑丈な蓋を施したものという。もちろん終戦により滑走路の延長計画は立ち消えとなったが・・・。
16-3.jpg 続いて松中橋の袂に来る。松中橋付近からは砂川用水が分水され、玉川上水に平行して流れている。次の一番橋辺りまでは両水路に挟まれた道は深い雑木林で覆われ快適な散策路になっている。
 武蔵砂川駅の手前辺りで不思議な光景に出くわす。残堀川と交差しているのだ。交差は残堀川が優先され、上水は一旦残堀川の下を地下深く下り、交16-4.jpg差した後再び地表の水路に放出されている。ちなみに上水ができる前の残堀川は先の見影橋付近を通って東南方向に流下し、国立の青柳辺りで多摩川に注いでいたという。玉川上水が開通した際、天王橋付近で上水に繋ぎこまれ、上水の助水として利用されてきた。ところが 明治になって残堀川の水が汚れてきたため、明治41年上水から切り離され、残堀川を上水の下に交差する工事がほどこされた。ところが昭和に入って生活用水が流れ込んで残堀川の水量が増し、しばしば氾濫するということで、昭和38年残堀川の下に上水を通すという現在の立体交差に変更されたとのことだ。
程なく見影橋の袂に来る。橋の下には名主砂川家へ分水した源五右衛門分水口の跡がある。江戸時代の初頭、砂川新田を開発した名主砂川家(旧村野家)に対し、明治政府に許されて設けられた分水口だ。また見影橋のすぐ下流には巴河岸という船着場 があり、砂川家の22艘の舟があったという。
16-5.jpg ところで、上水が江戸の飲料用水であるため、200年にわたって通船は禁じられていたのに、明治3年たった2年間ではあるが突然通船が許されたのには面白い裏話がある。江戸時代、多摩の産物を江戸へ運16-6.jpgぶには主に馬が使われていたが、馬では十分な物が運べない。そこで玉川上水の水運を利用できないかと、有力な農民や商人は幕府に通船許可を願い出た。砂川村の名主源五右衛門もその一人だった。しかし水が汚れるとの理由で通船は許可されなかった。ある日、砂川村の大百姓の家に強盗が押し入った。 手に刃物を持っていたので家人は抵抗できず縛りあげられてしまった。その時、奥の部屋で休んでいた婆様が異変に気づき、家を飛び出し大声で隣近所に助けを求めた。その大声に村中の男どもが手に鍬や鎌を持ってやってきた。さすがの強盗も恐れをなして逃げて行った。村人は小金井や小平まで追いかけ、怪しげな男を捕えて村へ帰ってきた。しかし押し入られた家の者はこの者ではないと言う。そこで名主源五右衛門に取り調べてもらうことにした。すると源五右衛門は彼を見るなりすぐ縄を解ように命じ、部屋にあげて丁重に謝罪した。実はこの男、 明治維新の重鎮三条実美公の部下だったのです。源五右衛門はそのことを知っていたのです。この事件がきっかけで源五右衛門は三条公と知り合いになった。通船が突然許可された背景には三条公の力があったと言います。また源五右衛門が村野姓から砂川姓に変えたのも三条公の勧めがあったからと伝えられている。
16-7.jpg 御影橋を後にすると川筋は大きく右へ湾曲し、それとともに緩やかな短い上り坂が現れる。この段差は立川断層と言われており、かつてはこの断層に沿って南東方向に残堀川の流路があった。程なく金毘羅橋の袂にくる。橋の名は右岸こんもりと樹木で覆われた金毘羅山があることによる。金比羅山は高さ15mばかりの小山で、立川でただ一つの山である。一説には玉川上水を掘った時の土砂を盛って造ったとも、あるいは江戸時代に流行した富士塚とも言われている。 安政年間に砂川家が願主となり頂上に浅間神社、中段に金比羅神社、その下に秋葉神社を勧請したと伝える。

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国営昭和記念公園の四季 №22 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「こどもの森」西のイチョウ並木

イチョウ2.jpg

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立川陸軍飛行場と日本・アジア №169 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

   連盟よ、さらば!我が代表堂々退場す

                     近現代史研究家  楢崎茂彌
  
   第五連隊の満州派遣隊、熱河省に
  「東京日日新聞・府下版」(1933.3.7)は「空の熱河入城一番乗りに輝く」と題して、第五連隊から満州に派遣された秋169-1.jpg山紋次郎中尉が空から陸上部隊の承徳(熱河省の省都)入城を誘導し、空からの入城一番乗りとなったことを誇らしげに報告しています。続いて承徳に空から入った山路次郎軍曹や、偵察飛行中に火を噴いた機を操縦し無事に帰還した久保木巌中尉などを紹介し、“「空の都」の喜び”と報じています。彼等は前年4月に「空の都」立川から出動した篠原隊(連載NO146)や辻隊に所属していました。
熱河省は、遼寧省の南西にあり万里の長城に接していた省で(今はありません)、軍閥の湯玉麟が支配していました。湯は満州を熱河省の特産物であるアヘンの販売先としてきたので、関東軍が『満州国』を作ると参加の意志を表明しました。しかし、国民政府や張学良がこれを許すはずもなく、湯にゆさぶりをかけ熱河省に4万の義勇軍を送り込むことを認めさせます。一方関東軍は、当初から熱河省を『満州国』の一部と主張しているので、熱河省に攻め込む作戦を計画し、昭和8(1933)年1月末、関東軍司令官は第6、第7師団に準備指令を出しました。また、万里の長城の東端にある山海関では、現地に置かれていた日本の守備隊が中国側に攻撃されたとして、反撃して山海関事件が起こりました。1月3日に、日本軍は陸海空から攻撃を仕掛け山海関を占領します。こうした現地軍の動きは、満州事変の処理について議論をしている国際連盟の態度を硬化させ、日本の国際連盟脱退と国際的孤立の遠因となります。では、国際連盟の動きはどのようなものだったのでしょう。
 
  リットン調査団報告書
リットン調査団は昭和7(1932)年2月29日に来日しました(連載NO156)。関東軍は調査団が日本に来た直後の3月1日に『満州国』を建国します。調査団は3月14日に中国・満州で調査活動に向かいますが、調査団が中国に滞在している間に五・一五事件が起こり、犬養首相が暗殺されました。そのあと調査団は、7月に再び来日しますが、調査団と会見した内田外相は“本問題の唯一の解決策は満州国の承認にあり”と主張しました。調査団は7月下旬には北京に移り、報告書作成に入りますが、日本政府は9月15日に『満州国』を承認します。
このように日本側は国際連盟の調査団など意に介さないかのように、次々と既成事実を積み重ねて行きましたが、リットン報告書(当時の外務省は“国際連盟支那調査委員会報告書”としている)は満州事変や『満州国』について、どのような報告をしたのでしょうか。
  報告書は10月1日に日本政府に交付され、翌日公表されました。柳条湖事件については“日本軍の軍事行動は正当なる自衛の措置と認めることを得ず”と手厳しく、『満州国』についても“吾人の見る所を以てせば、其れなきに於いては新国家は形成せられざりしなるべきと思考せらるる二つの要素あり、其れは日本軍の存在と日本の文武官憲の活動なりと確信するものなり。右の理由に依り現在の政権は純粋且つ自発的な独立運動に依りて出現したるものと思考することを得ず。”と結論づけています。
  このように現状認識については日本に対して厳しい内容ですが、報告書は“第九章 解決の原則及条件”の中で“既述の如く一九三一年九月以前の状態への復帰は問題にあらず。将来に於ける満足すべき政権は過激なる変更なくして現政権より進展せしめ得べし”と日本に好意的に見えます。そして解決策の条件として“四 満州に於ける日本の権益は無視するを得ざる事実にして、如何なる解決方法も右を承認し、且つ日本と満州の歴史的関係を考慮に入れざるものは満足なるものに非ざるべし”と日本の権益を擁護しています。イギリスなどは中国に権益を持っているので、日本の権益を否定は出来ないわけですね。そして、日本と中国の間で、満州における中国と日本の権利・利益・責任を明らかにする条約を結ぶことを求め、満州の自治については“満州に於ける政府は支那の主権及行政的保全と一致し、東三省の地方的状況及特徴に応ずる様工夫せられたる広汎なる範囲の自治を確保する様改められるべし。”として、満州を中国本土とは別に扱うことを述べています。リットン調査団の報告は、中国の主権を侵さない形をとりながら、実質的には日本の利権を認める内容になっていたことが分かると思います。(報告書の訳は「リットン調査団報告書全文」 朝日新聞社1932年刊に収録された“外務省仮訳文 国際連盟支那調査委員会報告書”による)

  我が代表堂々退場す
 昭和7(1932)年11月21日、国際連盟総会で報告書についての審議が始まります。総会ではチェコやアイルランドが報告書の全面採用を主張しますが、イギリスやフランスの態度は曖昧です。12月には、ドラモンド国際連盟事務総長(イギリス人)と杉村陽太郎事務次長が、満州国不承認の部分を除いた妥協案を作りますが、中国の反発で実現しませんでした。国際連盟自体が常任理事国である日本に肩入れしているようですね。
リットン報告書の審議は“19人委員会”に委ねられますが、前述のように、昭和8(1933)年1月に起きた山海関事件や熱河問題で国際連盟の態度は硬化します。その結果、2月14日に19人委員会は、満州に対する主権は中国に属することを前提に、“(甲)満鉄付属地以外からの関東軍の撤収、(乙)満州に日本や第三国が持っている利権を考慮して、中国の主権と両立する自治機関を一定期間設ける”(「日本外交年表並主要文書・上」外務省編 原書房1965年刊による)などの勧告を含む報告書案を発表します。日本政府はこれを受けて2月20日、報告書が採択された場合には国際連盟を脱退することを閣議決定しました。
 2月24日、国際連盟総会で報告書案の採決が行われ、イーストマン議長は“賛成42票、反対1票、棄権1票、欠席12国、報告書は規約の規定により満場一致を以て可決された”と宣言します。一寸待てよ、国際連盟は全会一致でなければ決定できないはずなのに、と思って規約を見ると15条で紛争当事国は除くことになっていました。そこで“満場一致”という形容になったようです。
169-2.jpg 議長宣言が終わると、松岡洋右代表が立ち、採択された報告書を受諾することは出来ないとし“日本政府は日支紛争に関して国際連盟と協力せんとする其の努力の限界に達したことを感ぜざるを得ない”とする宣言書を朗読すると、総会の場から退場し、長岡、佐藤両代表もこれに続きました。
翌日の「東京朝日新聞」には、“総会勧告書を採択し 我が代表堂々退場す”“連盟よ、さらば!遂に協力の方途尽く”“松岡代表鉄火の熱弁 勧告書を徹底的に爆撃”“松岡代表愈々起つ 闘志満々たるその姿”、等と勇ましい見出しが踊り、松岡代表を英雄扱いしています。「東京日日新聞」も、“絶縁の宣言を朗読 わが代表決然退場”“愈々連盟脱退”と負けていません。では、その日にパリに引き揚げた当の松岡代表はどのように思っていたのでしょう。
 
  松岡代表は反省か…
 169-3.jpg アメリカに渡った松岡は、3月24日の記者会見で次のように語っています。“作り事に惑わされず現実に向き合う多数の国際連盟の加盟国や、物事を慎重に考えるリーダー達は、日本に敵意を持ってはいないし、日本の脱退を本当に残念に思っている。また我々も脱退したことを遺憾に思っている(regret)。我が国は国際連盟の最初からのメンバーであり、我が国の代表はベルサイユ会議で連盟の規約を作るのに加わってもいる。我々は、これまで国際連盟の崇高な目的を熱心に支持し続けてきた。我々は脱退したあとも、この点では国際連盟と同じ道を歩むつもりだ。我が国は、今後も平和の大義を提唱し平和のために活動を続けるつもりである。”(「ニューヨーク・タイムズ」1933.3.25)。後半の言い分は採決後の宣言と同じような内容ですが、前半で言っている“ regret"は“後悔”の意味もあるので、松岡が記者団にどちらの意味を込めたのかは分かりませんが、自らの行動はまずかったと表明しているように思えます。
松岡は、政府が国際連盟脱退を決定したとの報を受けて“我々は全力を尽くした点で遺憾はないが自分はあの結論をもって決して成功したものとは思っていないし、むしろ失敗だとさえ考えている。帰朝したらその点を謹んで陛下に御わび申し上げ、国民に謝する心算だ”(「東京朝日新聞」1933.3.29)と語ります。失敗だとさえ考えているのだから、後悔と訳すのが妥当でしょうか。松岡洋右はこの時点では冷静に先を案じている様子です。 
昭和天皇は、3月8日に内大臣牧野伸顕を呼び“国際連盟において、日本を除名する如き極端な処置を取る懸念もなく、熱河問題も一段落したため、脱退につき一応再考の余地なきや”と下問します。牧野は“日本の連盟脱退は既に不可避である”と奉答しています(「昭和天皇実録」第6巻)
こうして先の見通しも立てないままに、3月27日、政府は国際連盟脱退を連盟に通告、連盟を離脱するとする詔書を発布し、国際社会から孤立する道を進みます。

写真上   皇軍承徳より長城に向かう       「東京朝日新聞」(1933.3.8)
写真2番目 大国日本脱湯の図(岡本一平)    「東京朝日新聞」(1933.2.22)
写真3番目 松岡洋右                 「New York Times」(1933.3.25)



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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景魅せられて №114 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

境線(米子~境港)  

                               岩本啓介
  
米子駅 霊(0)番ホームは妖怪世界への入り口

114境線・米子駅霊番線・目玉おやじ.JPG
『目玉おやじ』列車が高校生を飲み込んでいきます
さすが 水木しげる の出身地です

114境線・弓ヶ浜~和田浜・鬼太郎.JPG
夕闇が迫り ころあいよく 鬼太郎登場
『ねずみ男』『ねこ娘』『こなき爺』『砂かけ婆も現れます

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押し花絵の世界 №74 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「Autumm colors」

                    押し花作家  山﨑房枝

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                     55cm×45cm

ガーベラやコスモスなどの秋の花を使用してアレンジメントを制作しました。
額の内側の縁取りには紅葉の葉を並べて、花器はゴボウを細く削って木のぬくもりを表現しました。

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渋紙に点火された光と影 №46 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

都会に雪

                      型染め版画家   田中 清

都会に雪.jpg

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多摩のむかし道と伝説の旅 №15 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

羽村から四谷大木戸へ玉川上水水辺の道

                   原田環爾

上流域:多摩川の自然水が流れている羽村堰~小平監視所まで 1

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 羽村堰の開削工事には檜原の鬼源兵衛の伝説がある。
15-2.jpg 鬼源兵衛は大岳山の申し子と言われ、子宝に恵まれなかった両親が、大岳神社にお百度を踏んでようやく生まれたという。小さい頃から毎日麻糸を一本ずつ増やしては引っ張り切る修行をしていたため、八百貫の大岩を麓から大岳山の頂上まで引っ張り上げたという。羽村堰の開削工事の折、幕府は村々から人夫を徴発した。檜原にも割り当てが下った。困り果てた村の衆を見て、源兵衛は自分一人で村を代表して工事に参加した。役人はたった一人で来てのんびり稗餅を食っている源兵衛に腹をたてたが、やがて立ち上がると、傍らに生えていた青竹を引き抜いて、指で潰して引き裂き襷掛けにし、持ち前の怪力で河原の大岩を取っては投げ取っては投げし、9人分の人夫の働きをしてしまったので役人を驚いたという。 ただ面白いことに彼の怪力は大岳山が見える所でないと力が発揮出来なかったと言われている。なお源兵衛は実在の人物で、檜原村助役を勤めた大谷氏は源兵衛の子孫という。
15-3.jpg 羽村堰の河岸段丘上の旧奥多摩街道沿いに玉川水神社がある。玉川上水が完成した際建設された。建設地は現在の場所と異なり、旧奥多摩街道を挟んだ筋向いの多摩川へ突き出た崖の上に建てられていた。水神社の横に立つ門は羽村陣屋にあった陣屋門だ。ここは陣屋跡で上水道の取り締り、上水管理を行った役所跡だ。陣屋敷、水番小屋があったというが、今は陣屋門が残るのみである。

15-4.jpg 羽村堰から上水沿いに2kmばかり下れば福生加美上水公園がある。この付近の新堀橋手前から宮本橋手前辺りまでは新堀で、段丘下に旧掘の遺構が残されている。開削当時は多摩川堤の内側に沿って築堤し、その間を通水しながら少しずつ段丘を這い上がらせ、宮本橋あたりで最初の段丘を上りきったという。しかしながら度重なる出水で築堤はしばしば決壊し通水に支障をきたしたので、天文5年(1740)北側に長さ約613mほどの新堀を開削し付け替えたという。

15-5.jpg 宮本橋手前に河川敷の福生かに坂公園へ下る『かに坂』と呼ぶ坂道がある。これには面白い民話がある。昔、宮本橋の袂にある宝蔵院の近くにおみよという女の子がいた。ある日親戚でもらった柿を持って帰ってくると、男の子が川で捕えた沢蟹を焼いて食べようとしていた。おみよは沢蟹がかわいそうと思い、柿と交換し15-6.jpgて沢蟹を助けてやった。沢蟹は嬉しそうに去って行った。さらにしばらく行くと、今度は大きな蛇が蛙を呑みこもうとしていた。おみよは蛙を助けたい一心で、もし蛙を逃がしてくれたら蛇の嫁になってもいいと言った。それを聞いた蛇は蛙を離し、3日後におみよを迎えに行くと言って去って行った。家に帰ったおみよからその話を聞いた両親は大変驚き、蛇が家の中に入ってこないよう戸や窓に釘を打ち付け隙間がないようにした。3日目の夜戸をたたく音がする。覗くと金色の目をした気味悪い男が立っていた。蛇男がおみよを迎えに来たのだ。ところが蛇男は戸を開けようとしたが開かない。騙されたとわかった蛇男は怒り狂って真っ赤な口を開け大蛇に変身し、家に絡みついて尾で家を叩き潰そうとした。もはやこれまでと思った時、大蛇のとてつもない叫び声が聞こえ、やがて静まり返った。恐る恐る外へ出てみると、そこに巨大な蟹が大蛇をズタズタに切り裂いていた。蟹はやがて小さな沢蟹の姿に戻ると多摩川へ向けて坂を下っていった。いつか助けた沢蟹15-7.jpgが恩返しをしたのだ。 以来、この坂は『かに坂』と呼ばれるようになったという。
 なお宮本橋から街路を50mばかり入れば、「まぼろしの酒」と 銘打って宣伝している多摩の地酒「嘉泉」を醸造している田村酒造がある。「多満自慢 」で知られる熊川の石川酒造とともに福生の老舗だ。田村酒造は文政5年(1822)の創業で当主は代々田村半十郎を名乗る。


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国営昭和記念公園の四季 №21 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ホトトギス  日本庭園野草の小道

ホトトギス3.jpg

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立川陸軍飛行場と日本・アジア №168 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

  立川町に朝鮮人町会議員誕生・慰問袋が届いた先は…

                     近現代史研究家  楢崎茂彌
  
  立川町に、日本で初めての朝鮮人町会議員誕生
  連載NO80にも書きましたが、日本が支配していた朝鮮半島出身者も台湾出身者も、内地に寄留(寄留法 第一条 九十日以上本籍外ニ於テ一定ノ場所ニ住所又ハ居所ヲ有スル者ハ之ヲ寄留者トス)して一年経っていれば“帝国臣民”として、選挙権・被選挙権を得ていました。そして昭和7(1932)年の第20回総選挙では、東京第4区から立候補した朴春琴168-1.jpg氏が当選を果たしています。
  1933年4月1日、立川町会議員選挙が行われ即日開票、金潤秀氏が中島舜司前町長と同票の75票を得て堂々当選しました(最高得票は163票)。「東京日日新聞・府下版」(1933.4.2)は、棄権が意外と少なかった為に大番狂わせが生まれ、“朝鮮人も盲人も轡をならべ当選”と報じています。盲人の当選者は連載NO63に登場した大川熊吉氏です。当時立川町には朝鮮人有権者は20余人しかおらず、50余票は日本人の票でした。残念ながら金潤秀氏がどのような人物であるかは分かりませんが、在日韓国朝鮮人の人権確立のために運動を続けている田中宏一橋大学名誉教授によると、この年には全国で3人の朝鮮人が町会議員に立候補し、1人が当選しています。彼が日本初の朝鮮人町会議員であったことは間違いないようです。因みに市会議員は、もう居たようです。
 
  三多摩を含む東京都制案、衆議院に上程
  僕が子どもの頃、斜め前の並木さんの門に「東京市世田谷区新町」という小さな札がかかっていました。当時の世田谷区は区部で言えば辺境に当たっていたし、子どもの僕らには“東京市”の意味が分からなかったので“東京市のボロ門”などと呼んでいたのですが、この門が建てられた時期が分かりました。昭和7(1932)年、東京市の範囲が拡大され、それまでの15区から世田谷区を含む35区からなる“大東京”が実現したのです。東京都が誕生するのは昭和18(1943)年ですから、この間に建てられたのですね。
  この東京市拡張の際、取り残されることを恐れた三多摩の代議士・府会議員・町村議会議員たちは“八王子市三多摩郡東京都市区域編入期成会”を結成し、東京市編入に向けて運動します。しかし、府知事は“同地方の沿革ならびに財政上の見地から之を観れば同地方が東京市に編入を希望するは首肯すべき理由あるも、都政施行と市域拡大とは自ら個別の問題にして、この際東京市域に編入することは種種の事情上適当とならずと認め之を除外する”として、三多摩は東京市には入れませんでした(「東京百年史」東京都1974年刊)。しかし、北多摩郡千歳村と砧村は、4年後にちゃっかり世田谷区に編入されています。それにしても、今の東京都が一つの東京市なんて、いくら何でも大きすぎますよね。
  昭和8(1933)年に、政府は補則などを加えると321条に及ぶ“東京都制案”を議会に上程します。東京都から除外されては大変だと“三多摩都政包含期成同盟会”の代表として八王子市会議長、北・南・西郡会町村町会長などが上京し、内務省に出かけて、議案提出の陳情を行いました。
  3月12日法案の説明に立った山本達夫内務大臣は、“残る所は、ただ三多摩並びに島嶼部分をいかに取り扱うかという問題であります。而して之に付きましては、沿革その他の理由に依りまして、之を都の区域に編入することを適当なりと認めたのであります“
  と説明します(1933年3月12日衆議院本会議)。そのあと議案は都政案委員会に付託され、3月14日の委員会で政友会の中井一夫議員が次のような質問をします。
中井議員:この案によると三多摩及び島嶼も含んでいるようであるが、何の必要があってこれを包含するのであるか。丸で東京市が東京府に吸収されたようではないか。
  与党に反対議員がいるのですね。大臣は次のように答弁しています。
山本内務大臣:警察、交通、衛生その他東京府を最も適当な区域と考えたからからで、殊に三多摩は東京市の水源地として重要な関係をもち、また府にも不離な関係なり区別は実際上不可能である
  また中井議員は次のように政府を追求します。
中井議員:知事にすら公選論がある今日、都長を官選にすることは時代逆行も甚だしい
山本大臣:ご意見はしごく尤もで、私共もそう思ってはいるが、官選にした理由はいろいろのことがある。しかし、ここでその理由を明瞭にすることはちょっと出来かねる。
(「東京日日新聞・府下版19933.3.15」)
  浜田国松委員長は、一番の問題は都長官選だと指摘し、政府が公選に同意すれば法案は可決されるかも知れないと述べますが、結局、都政案は本会議に上程されないままに葬りさられます。
  
  慰問袋が届いた先は…
  今年制作したビデオ「戦争と立川の子どもたち」の取材で、小学校の時に送った慰問袋を受け取った兵士としばらく文168-2.jpg通を続けた佐藤さんのお話を伺いました。そんなこともあって慰問袋を送るのは小学生や女性だと思い込んでいましたが、「東京日日新聞・府下版」(1933.3.25)は、立川にあった日本飛行学校の学生たちもが慰問袋を送ったことを報じています。写真を見ると皆立派な大人です。
  送った慰問袋の中身は、缶詰、キャラメル、手帳、歯ブラシ、雑誌キングに現金一円で、それに手紙を添えました。手紙の文面は“缶詰はいくら急いでも決して剣で開けたりしてはなりません。剣は兵器ですから、損傷したら大変です。キングは為になるものですから暇があったら読んで下さい。一円は少ない金ですが、私達気持ちですから受け取ってください”というものでした。
168-3.jpg  3月24日に、慰問袋を受け取った相手から返事が届きました。文の書き出しは“貴殿より御恵贈下され候慰問袋、小生に配給相成り有り難く頂戴”とあり、差出人は満州に派遣されている陸軍飛行第五連隊隊長辻邦助大佐です。軍隊に不慣れな初年兵にでも届くつもりで手紙を添えた一同は、この返事を受け取ってビックリ。飛行学校の生徒と大佐では天と地ほどの差があります。慰問袋を送る中心になった中村君は“あれを書く時少し注意し過ぎた書き方かと思ったのですが、皆で相談した上で送ったのですが…、仕方がない、隊長も悪く受け取らないでしょう”と語って、弱った心を慰めていると「東京日日新聞・府下版」(1933.3.25)は報じています。こんな偶然もあるのですね。
  では、辻大佐がこの時点で所属している関東軍が何をしていたのかは次回紹介します。
 
写真1番目  立川町新議員 金潤秀  「東京日日新聞・府下版」 1933.4.2
写真2番目  問題の慰問袋を送った日本飛行学校の人々 「東京日日新聞・府下版」             1933.3.25
写真3番目  辻大佐   「東京日日新聞・府下版」  1933.3.25

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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №113 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

津山線(岡山~津山)  

                                 岩本啓介  

113津山線・佐良山亀甲.jpg
                  里山 朝のまぶしい陽ざし  亀甲~佐良山                             

私の大好きなタラコ色のキハ47(気動車)がいっぱい                             
来る気動車 来る気動車 タラコ タラコ タラコ  

113津山線・福渡神目.jpg
       里山 午後の柔らかな陽ざし  神目~福渡                             

国道から離れた集落 歩いていても 人の気配がありません                         
音のない 静かな 静かな ステキな里山です

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押し花絵の世界 №73 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「窓辺の秋桜」

                       押し花作家  山﨑房枝

73-2.jpeg
40cm×33cm

ピンクの縁取りのある変わり咲の秋桜をメインに、黄花秋桜やウインターコスモスなど秋桜のみで制作しました。
背景は布地にパステルで描き、花瓶はトレーシングペーパーにパステルで描き透明感を出しました。

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渋紙に点火された光と影 №45 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

春の嵐 Ⅱ

                       型染め版画家  田中 清

春の嵐Ⅰ.jpg

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多摩のむかし道と伝説の旅 №14 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

     -羽村から四谷大木戸へ玉川上水水辺の道-

                                       原田環爾

14-1.jpg 江戸に入府した徳川家康は膨張する江戸の飲料水を確保するため、溜池上水や神田上水を整備してきたが、抜本的な解決を図ることは出来なかった。4代将軍家綱の時、川越藩主で老中の松平伊豆守信綱は多摩川から水を引くことを発議、関東郡代伊那半十郎忠治の指揮のもと羽村出身の江戸の町人、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟に工事を請け負った。開削工事は承応2年(1653)から翌年にかけて行われた。当初取水口を日野橋下流の青柳から取水し、谷保田圃を抜けて府中まで開削したが悲しみ坂で通水に失敗。やむなく次ぎの候補地福生熊川から開削を再開した。しかし古来より言い伝えられた水喰土の伝承が現実のものとなり、水が地中に吸い込まれて通水に失敗。最後に信綱の家臣で土木技師の14-2.jpg川越藩士安松金右衛門の技術支援を得て、羽村から取水することでようやく成功したと言われる。玉川兄弟は二度の失敗でお上から預かった工事費六千両をすべて使い果たし、不足分は私財を投じて完成させたと伝える。羽村堰から四谷大木戸(現新宿御苑)に至る全長約43kmの水路は、単に江戸への飲料水供給に止まらず、不毛の武蔵野台地に分水することにより新田開発に多大の貢献を果たした。水辺に沿ってコナラやクヌギ等の武蔵野の雑木林が今なお残されており多摩を代表する散策路になっている。残念ながら今日上水を開渠で見ることのできるのは、羽村堰から杉並区の久我山と高井戸との境である浅間橋まで、その先は一部を除いて暗渠になっている。

14-3.jpg

14-4.jpg 開削を伝える資料に普請奉行石野弘道が寛政3年(1791)に表した「上水記」、千人同心小島文平が享和3年1803)に表した「上水起元」があるが、いずれも開削後100年以上も後に書かれたものであり開削技術の詳細は不明である。羽村堰は投渡し堰、第一水門、吐水門、第二水門などから構成されていた。蛇籠や牛枠で制御した水流を堰とめて、第一水門で取水し、第二水門を経て玉川上水路に通水していた。第一水門と第二水門の間には吐水門があり、必要以上に取り込んだ水は多摩川へ戻す仕組みになっていた。また堰の一部は筏が通行出来るだけの水路が確保されていた。現在の羽村堰はもちろん当時の堰とは異なり、堅牢な建材・構造になっているが、基本構造、14-5.jpg原理は同じで洪水時は堰を払って強大な水圧から水門が破壊するのを守る仕組みになっている。この先四谷大木戸まで総延長43km、対する高低差はわずか90m。水を自然流下させるには水路を武蔵野台地の尾根筋に沿って開削するという高度な技術が必要だ。最初の障害は如何にして河岸段丘を乗り越えさせるかにある。羽村堰付近では多摩川堤の内側に沿って築堤し、その間を通水しながら少しずつ段丘を這い上がらせたという。上水が武蔵野台地の尾根筋に上りきるのは、西武拝島線の玉川上水駅付近である。伝えるところによると夜間、提灯と線香の明かりで土地の高低差を測ったという。なお終端の四谷大木戸からは石樋や木樋を張り巡らし、築樋、伏越などの樋管技術を駆使して江戸市中へ配水した。

14-6.jpg

 一方新田開発は17世紀の初頭、青梅新町や砂川で始まったが水の確保に難渋を極めた。しかし玉川上水が開削されると各所で分水が行われ、武蔵野台地の新田開発は大いに進んだ。とりわけ八代将軍吉宗は疲弊した幕府財政を立て14-7.jpg直すため新田開発を積極的に奨励した。いわゆる享保の改革である。これにより18世紀前半に次々と新田村が誕生した。例えば小川九郎兵衛による小川新田、鈴木利左衛門による鈴木新田、野中善左衛門による野中新田、梶野藤右衛門による梶野新田、榎戸覚左衛門による榎戸新田など多数に上る。また新田開発が進むにつれて、流域の農民は生産物を江戸へ運ぶ手段として玉川上水の水運利用を渇望するようになった。しかし上水は江戸の飲料用水であるため、200年にわたって通船はかたく禁じられていた。ところが明治3年新政府により通船が許されると、各所に船着場が造られ、月6回100艙の舟が行き交うようになった。しかし通船は分水口を破損するとして分水改正が行われ、分水口の集約化が行われた。砂川用水や新堀用水がそれである。しかし水質の悪化は避けられず2年で通船は禁止となった。
14-8.jpg 明治19年コレラの流行で近代的な浄水施設が求められ、明治23~26年西新宿に淀橋浄水場が建設された。しかし帝都の巨大化で水不足が深刻化し、大正から昭和にかけて村山貯水池、山口貯水池が建造。更に昭和35年(1960)東村山浄水場を建設し通水を開始。昭和40年には利根川の水を浄化し都心へ送水することになった。これにより淀橋浄水場は使命を終え、昭和48年閉鎖となった。このため小平監視所以降の下流は空掘化し水辺の風景は一変した。これを憂えた有志により清流復活運動が起こり、昭和61年に下流域に再び清流が復活することになった。しかし放流される水は自然水とはいかなかった。小平監視所迄流れてきた自然水は東村山浄水場へ送られ、この先の下流は昭島の多摩川上流処理場で処理された下水処理水が放流される14-9.jpgことになった。
 幾多の変遷を経た玉川上水であるが、近年、四谷大木戸のある新宿御苑北側の旧甲州街道沿いにあった旧水路を、新宿区により隣接する新宿御苑散策路に開渠として水路の再現工事を行われ、平成22年内藤新宿分水散歩道として一般公開されたことは特筆に値する。

 以下、羽村堰から四谷大木戸まで実際に歩いた場合に遭遇する特筆すべき景観、史跡、伝説、エピソードなどを、上流域、中流域、下流域に分けて順に解説することにする。

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続・対話随想 №49 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

続・対話随想47の3 関千枝子から中山士朗様へ

                       エッセイスト  関 千枝子

 広島から帰って、地区(品川区)の平和展に顔を出しました。ここは私より年上の女性が頑張って世話役をやっておられるのでどうしても行かなければ、と思ってしまいます。大井町駅から近くとても便利な場所ですが、とにかくスペースが小さい。そうした制約がありながら35年続いているのは立派だと思いますが、思いなしか来場者が少ないように思え心配でした。品川特有の戦争の記憶もあり、空襲で焼けたところも多い。学童疎開に行った八王子郊外の、静かな“田舎“で、機銃掃射で学童が殺されたのです。子どもを安全なところで守ろうと学童疎開にやったのに。悲しんだお母さんは近くのお寺の地蔵さんに死んだ子のランドセルをかけてやります。この話は絵本にもなり有名ですが、私は昨年八王寺の戦争遺跡のフィールドワークに行き、ランドセル地蔵が大事に保管されているのを見、感銘を受けました。でも、学童疎開と言ってもぴんと来ない人が多いので、展示場の小さな説明で分かるかしら。(追記) この平和展のこと昨九月二〇日に報告の葉書来て三日で四〇〇人の来館あり中高生も来て大成功とありました。四〇〇人で大成功か、複雑!

 十一日、朝始発のバスで、品川駅へ、新宿駅八時二分の中央線あずさ53号で小淵沢に向かいました。この日の午後北杜市の八ヶ岳やまびこホールで行われる「Peace Concert 2018」を見に行くので。
これは行くまでが大騒ぎだったのです。今年二月十一日、山梨の劇団やまなみが私の「広島第二県女二年西組」の朗読劇を甲府で演じてくださったことは前に書いたと思いますが、その時北杜市に住む早川与志子さんと、久しぶりに会いました。早川さん、ご存知、一昨年「原爆の図」がアメリカの大学で展示された時のプロヂューサーです。(往復書簡第Ⅲ集<被爆70年>の中であなたがスピーチを引用されている方です>。
私は彼女が日本テレビの現役のときからの友人です。「原爆の図」での活躍を知り「あなたでしかできないことをした」と絶賛したら。「そんなこと」と謙遜しておられましたが、甲府に朗読劇を観にきてくださった時、夏に「平和コンサート」をすると言われ、大変力を入れているようなので、ぜひ行きたいといったのです。
六月ごろだったかしら、コンサートのチラシをいただいたのですが、「コンサート会場は駅から遠いし、体力がいるから無理しないで!」というのです。そうなるとかえって行きたくなって、思いついて池松俊雄さんに電話してみたのです。池松さん、もと日本テレビの名ドキュメンタリストです。一九六〇年代、私は毎日新聞の記者として彼を何度も取材しました。彼がそのころから手掛けているサリドマイド児のドキュメント「貴くんの4745日」が国際エミー賞を受賞したのは1975年。
1990年代「女性ニューズ」記者として私が再び彼と会ったのは一九九〇年代、そのころ彼はイベントなどを所轄する局の局長でしたが、彼が「話が合いそう」と紹介してくれたのが早川さん。彼女はアメリカの留学から帰って来たばかりで、元の報道でなく、展覧会の仕事をしたいということでした。そして彼女は素晴らしい展覧会をいくつも企画し、私は大いに書きました。 
 池松さんに電話をすると、彼もコンサートに行く予定で、北杜市に親類がいて駅まで迎えに来てもらう、一緒に行こうと言ってくれました。八時半ごろのあずさに乗ることを決め安心していたのですが、七月に入って池松さんから電話が来て、八月十一日のあずさは超満員、臨時の八時二分発のあずさ53号の切符がやっと取れた、あなたも早く切符を買え、というのです。慌てて駅のみどりの窓口で切符購入、携帯電話で〔買えた!」と報告。この翌日に切符を買ったやはり日本テレビ関係の方は。あずさ五十三号最後の指定席券だったそうで、危ないところで、めでたく北杜行が成功したわけです。その日で帰ることも可能ですが私の体力が心配と、早川さんはペンションをとってくださいました。北杜市のホテルやペンションも、八月十一日ごろは超満員だそうで、潜り込めたのは、早川さんの「顔」です。
 というわけで早朝に家を出、新宿駅に駆け付けたわけですが、指定席に座っていると三つ向こうの車両から池松さんが様子を見に来ました。「互いにジジイ、ババアになったなあ」
年賀状などのやりとりはあっても会うのは、二十数年ぶり、ですから。
彼、足が痛いと言っているという話を聞いたことがあったのですが「もう直っちゃった」そうで、元気です。私も同じ八六歳、頑張らなくちゃあ。でも、私が一生懸命取材した頃の日本テレビ報道局の人びと、ほとんどみな、亡くなっています。でも、あの頃はテレビ草創期、考え方は色々違っていても、とにかく皆、テレビ大好き。新しいメディアをどう創るか、皆一生懸命で、局には熱気がみなぎっていました。だから、私も、あの頃の取材先の人びとを忘れられないのです。
 二時間で小淵沢着。池松さん、池松夫人と私と三人で、池松夫人の妹さんとそのお連れ合いの車に乗せていただき、山々を観ながら、評判の手打ちのソバのお店に。十一時開店なのですが、まだ店が開かないのに、もう待っている車が二台。あっという間に満席、人気にたがわずおいしいお蕎麦でした。開場までまだ時間があると池松さんの義理の弟さんのお宅にお邪魔、すっかりお世話になってしまいました。
 会場のやまびこホール,少し早目に行ったのですが、あっという間に満員、補助席も出して五〇〇人以上の入りだそうです。北杜市は人口四万数千人の市、すごいと思いました。
 コンサートは、「原爆許すまじ」の独唱で始まりました。ステージに「原爆の図」の映像が流れます。
 第一部は「戦争と子どもたちの物語」。.佐々木禎子さんの甥の佐々木祐滋さんの歌で「INORI]。続いて「一本の鉛筆」。このコンサート、独唱が多いのですが、歌は杉田博子さん、すがすがしい歌声です。ことに、この「一本の鉛筆」、誰もが美空ひばりの歌を思い出しますが、早川さんが「演歌調でなく」と厳しく注文をつけたそうです。杉田さんも苦労したらしいですが、ひばりさんのとはまた違った、凛とした歌唱に胸打たれました。
 映像は、ベトナム戦争へと移っていきます。ナパーム弾に焼け焦げた少女が逃げる!石川文洋さんや有名な写真作家の映像が流れます。あとで聞いたところによると文洋さんも中村梧郎さんも、早川さんの頼みに、,いいよと、ただで写真を使わせてくださったのだそうです。
 第二部「平和と命の歌」と進みますが、ナレーションが簡潔なのに心打つのです。スペインカタルーニャの民謡「鳥の歌」、バイオリン独奏で,聞かせましたが、戦中反ファシズムを貫いたカサルスが国連でこの歌を演奏した時「わが故郷の鳥はピースピースと啼くのです」と説明します。心に刺さるような語りです。この語り(司会)は井田由美さん、現役の日本テレビアナで、女性アナのトップです。私は「プロ」の語りの凄さを知りました。
最後は沖縄になります。締めは、「さとうきび畑」。ざわわ、ざわわ、で有名な曲ですが、これの全曲を聞くのはそう多くありません。まさに圧巻でした。
 最後に早川さんの挨拶もすごかった。ナパーム弾の中を逃げ回るベトナムの少女は、後カナダで暮らしますが、早川さんの友人だそうです。彼女が日本に来た時、まず広島を観たいといい早川さんが案内したのだそうです。涙を浮かべて資料館の展示を見ていた彼女は「自分はナパームなのでまだ命は助かったが、原爆だったら死んでいたかもしれない。」と戦争は嫌だという思いを語ったと言います。
早川さんの平和への思い、彼女がテレビ人として、またフリーのジャーナリストとして生きてきたことが凝縮されている三時間だと思いました。
終わってロビーに出ても、参加者はなかなか帰らず、ロビーにも熱が立ち込めているようです。こんなに感動したコンサートは久し振りでした。
この日の夜と次の日の昼、スタッフや池松さん関係の方、早川さんと食事を共にしましたが、早川さんがこのコンサートのためにつぎ込んだ熱と力が判りました。自分はコンサートのプロヂュースをしたことがないからと日本テレビの後輩、現役の人たちに頼み、選曲、演出をしてもらったこと、演出をしたKさんが、この司会は井田さんしかできる人はないと井田さんを引っ張り出したこと。井田さんは日本テレビにきちんと申請して出演したそうです。日本テレビ関係の方、池松さんが管理職時代の部下だった方が多く、彼が皆に慕われる良き管理職だったこともわかり、さわやかな気持ちになりました。
 コンサートの日の夜も、早川さんのところには「良かった。「平和のために自分も何かできる、しなければと思った」「来年もう一度やれ」という電話がかかりぱなしだったそうで「来年もう一度やったら私死んじゃうよ」と「少しかすれた声」で言いながら、嬉しそうでした、私も本当に、来て良かったと思いました。
 八月十八日、大田区の「平和のための戦争資料展」に参りました。大田区は大きな区民プラザという会館を持っていて多摩川線の下丸子の駅の真ん前にあります。展示場も品川の3倍くらい広く、別室もあって、この日、私の「似島」の朗読があるので行きました。
 展示場が広いので詳しく充実した内容です。満蒙開拓や慰安婦の問題等、幅広く詳しい展示がありました。満蒙開拓団について、東京から行った(行かされた)人の多さに驚いていますが、最初の満州開拓に行かされたのが東京、しかも多摩川河畔に満蒙開拓団女子訓練所があったのだそうです。まさに、大田区の地元。
 戦争中の遺品(代用品など)も数多いのですが、大田区はこの実行委員会が置き場を借りて保存しておられるとのことです。大田区はすごいな、よくやるな、と思いました。
 さて、朗読ですが、山口勇子さんの「おこり地蔵」と私の「似島」を長澤幸江さんが演じてくださいました。長澤さんは、大田区在住で、朗読の活動をされている方です。この日までに、長い「苦心談」があります。 
 元もとこれは竹内さんのフィールドワークで似島に行ったとき思いつき、似島にまつわる様々なエピソード(最後を飾るのが、中山さんの文章です。池田昭夫くんのお母様と似島に行かれるときの話ですが)。広島原爆で最大の収容所となった似島。でも広島の方でも似島を知らない人が多い今、似島のことを少し知ってほしいと、五年前に書いたものです。でも、その時は朗読に使ってもらえなかったのですが、二年前、長澤さんにお目にかかったとき、お見せしたら、大変気に入ってくださったのですが、朗読実現まで二年がかりでした。男性の朗読者と組んで、熱演していただいたのですが、私は申し訳ないような感じになってしまいました、というのは朗読の文章の問題で、いろいろな手記の組み合わせですが、ダブる個所もあり、全体にもう少し簡潔にした方が共感をそそるかと思い、構成の未熟さを反省せざるを得ませんでした。北杜市のコンサートの司会の言葉のすばらしさを感じた後だけに、忸怩たる思いです。でも終わったあと何人かの方と、似島のことなどについて話しました。長澤さんは、「往復書簡」も読んでくださって、中山さんの思いもよく理解してくださいました。
 長澤さんもすごい方です。六月の沖縄の日、式典で読まれた沖縄の中学生の素晴らしい詩を覚えておられますか。あの全文が墨書で書かれているのです。「私が書きました」と長澤さん。これ難しいと思いますよ、何しろ詩が長い、一か所でも失敗すると全部だめになってしまいます」「一気に書きました」と。「詩」も、もちろん素晴らしいけれど、「書」も思いが溢れていました。
 朗読と言えば前にお話ししたことのある、茅ケ崎の宇都さん。がんのため十数年続けている原爆詩、手記の朗読会を昨年開くことができませんでした。今年は、と思っていたのですが、今年も開けず、心配していたのですが、茅ケ崎の社旗教育を考える会の機関誌「息吹き」に、じっとしておられず八月、孫を連れて広島(似島にも)行ったことが書かれていました。すごい。さっそく手紙を出してみましたら、抗がん剤で体力もいまいちでしたが、たまらず孫を連れて広島に行き、元気で帰って来た。抗がん剤治療も近く終わるので、体調は回復すると思う。来年は、朗読会を必ず復活すると書いてありました!


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