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ふるさと立川・多摩・武蔵 ブログトップ
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国営昭和記念公園の四季 №16 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ひょうたん  木漏れ日の里

名称未設定 1 -2.jpg



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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №117 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 「大空への旅立ち」~ペガサスの完成イメージ

              銅板制作作家  赤川政由

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                                                                                                                                                                                                   JORNEY in the skyというタイトルが、つきました。[大空への、旅立ち]
元気な少女が、ペガサスに、またがりとびだつすかたです。この産婦人科で、生まれた赤ちゃんが、成長してやがて、ゆめをいだいて、世界に、羽ばたいて、ほしいとの願いを、こめました。完成が、たのしみです。


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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №108 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

五能線  海辺の景色  

                                 岩本啓介 

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                                 深浦~広戸

奇岩 赤岩 青い日本海                 
海に近い 五能線です  
                 

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                      陸奥沢辺~奥岩崎・岩崎漁港

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押し花絵の世界 №68 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「夏の詩」

                        押し花作家  山﨑房江

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40cm×33cm
色鮮やかなかヒマワリをシンプルにデザインしました。
ムベの葉とツルは乾燥させると黒くなるのでアクセントに使用しました。

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渋紙に点火された光と影 №42 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

梅に障子

                      型染め版画家  田中 清

梅に障子.jpg

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多摩のむかし道と伝説の旅 №13 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

新田義貞の鎌倉攻めと多摩進軍伝説 2

                            原田環爾

13-1.jpg13-2.jpg更に鎌倉道を南下し東村山と小平の市境の「九道の辻」と呼ばれる所に来る。後の江戸時代に開削された野火止用水が府中街道と交差する辺りである。「九道の辻」とは鎌倉街道(上道)、江戸街道、大山街道、奥州街道、引股道、 宮寺道、秩父道、清戸道、御窪道の九本の道が交差していたことに由来する。伝説では新田義貞がこの辻に差しかかった時、鎌倉がどの道か大いに迷った。そこで今後は迷うことがないよう鎌倉方面に1本の桜を植えたという。桜は「迷いの桜」と呼ばれたがもちろん今はない。ただ辻の一角の交番の裏に昭和55年に植樹された桜が伝説を物語っている。
5月14日、幕府軍に北条泰家率いる援軍が来る。翌15日、第一次分倍河原合戦が始まる。しかし新田軍は敗れ狭山の堀兼に兵を退く。この退却の折、武蔵国分寺は火をかけられ堂塔すべて灰燼に帰した。その夕刻三浦氏三千が新田方の援軍として参陣する。
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力を得た新田軍は16日、第二次分倍河原合戦に突入する。戦いは多摩川の関戸渡しを挟む両岸で繰り広げられた。北条軍は南岸の天守台に陣を敷き奮戦したが、横溝八郎や安保入道ら猛将を失い大敗、鎌倉方面へ退いた。この分倍河原合戦・関戸戦争を伝える旧跡は多数ある。西国分寺駅の南には鎌倉道の遺構が、また府中では鎌倉道と交差する新田川緑道に分倍河原古戦場碑がある。一方多摩川南岸の多摩市側には関戸古戦場碑、天守台碑、横溝八郎墓、安保入道墓などがある。
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新田軍は直ちに追撃を開始する。あまりの急坂に馬の蹄の沓が切れたという伝承のある沓切坂(多摩市役所近傍)を越え、乞田川を渡り、笛吹峠(多摩ニュウータウン)を越え、一本杉公園を抜けて、町田の小野路宿へと向かう。市境の町田側には断面がU字型で馬が2頭ほどすれ違える道幅という典型的な鎌倉道の遺構が残されている。なお小野路宿は鎌倉時代から室町時代にかけて多摩丘陵越えの休憩地として大いに栄えたという。小野神社を右にやり小野路宿を抜けると野津田に入る。野津田は広々した丘である。野津田を経て次に七国山へと向かう。
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野津田の町田市立陸上競技場を左にやり過ごし、丘陵を下って芝溝街道に出る。街道に沿って鶴見川が流れている。鎌倉道は鶴見川を渡るのであるが、その川に架かる橋の名を鎧橋という。かつては鎧橋の下に鶴見川の流れがあったが近年消滅してしまった。というのはこの付近の川筋は大きく蛇行していたため河川改修が行われたのだ。鎧橋から少し先の新鎧橋に行けば、橋の下に真直ぐな川筋になった鶴見川を望むことが出来る。それにしても鎧橋とは誠に奇妙な橋名である。伝説では関戸戦争の末端部で戦い戦死した北条軍の鎧を付けた武者の遺体が多数流れ着き、その屍が堰の様に折り重なっていたことからその名があると言われる。
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鶴見川南岸の都営アパートを抜けると鎌倉道は七国山への上り道となる。比較的緩やかな上り坂となっている。七国山は標高128mの山で、山頂からは相模、甲斐、駿河など七国が見渡せることからこの名があるという。 山頂には以前は土地所有者の好意で見晴台があり、北東方向に広がる風景を望見することが出来たが今はない。七国峠の下りに入る辺りの路傍には『七国山 鎌倉街道の碑』と刻んだ石碑と、その傍らに木を枡型に組んだ井戸がある。鎌倉井戸と呼ばれ新田義貞の鎌倉攻め縁の井戸である。伝説によれば新田義貞が軍を進める途中、兵士は連戦に次ぐ行軍で喉が渇ききっていた。そこで七国山の峠に来ると義貞は部下に命じて井戸を掘らせたところ水が湧き出し、その水で兵も馬も喉を潤し英気を養ったと語り伝えられている。井戸の深さは約4mと言われているが、永い間に土砂や落ち葉に埋もれて50cm程度の浅いものになっている。
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新田軍は七国山を下り今井谷戸を経て恩田川沿いの鎌倉道を進軍する。宏善寺から養運寺にかけての本町田の宿場通りを抜け成瀬に入る。西成瀬1丁目辺りは古い地名で鞍掛と呼ぶ。ここには「成瀬の鞍掛の松」という伝説がある。分倍河原で鎌倉北条軍を破った義貞は、一路鎌倉めざして現在の鞍掛台住宅地辺りを通りかかった。 兵は大変疲れていたので進軍を止めて休ませることにした。義貞も愛馬の鞍をはずして、近くにあった松の木に鞍を掛けて馬を休ませたという。以来、その松を「鞍掛の松」と呼ぶようになったという。もちろん松は枯れて今はない。
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この後成瀬城跡下を経て恩田川に架かる都橋を渡る。都橋は鎌倉道が武門の都鎌倉を目指す道筋であることからこの名があるという。やがて南町田、鶴間を経て多摩を離れ相州へ入り、一路藤沢へと向かうことになる。

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №116 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

井上レディースクリニックのペガサス・原寸大の型紙づくり

                      銅板造形作家  赤川政由

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原画です。ながさ、1800cm.
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材料に、むだがでないように、原寸大のもけいをつくります。

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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №107 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

五能線  タラコ色の気動車 5月29日 

                                 岩本啓介  

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藤崎~川部

林檎畑のトンネルのむこうには残雪の岩木山                      
もう少し早ければ林檎の花に間に合ったのですが 
                            

107広戸~追良瀬  タラコ色キハ48-505  キハ48-1520.jpg
広戸~追良瀬 

青い空 青く穏やかな日本海 水の張られた水田                         
あとは田植えを待つばかりでしょうか                     

                     

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押し花絵の世界 №67 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「真夏の夜の夢」

                           押し花作家  山嵪房枝

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55cm×45cm
大輪のハイビスカスを白く縁取りし、シベの部分にはキラキラ光るラインストーンを散りばめて煌びやかに表現しました。
黄色いハルシャギクは、夏の花である向日葵を連想させるように取り入れました。


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渋紙に点火された光と影 №41 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

蚕豆

                     型染め版画家  田中 清

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多摩のむかし道と伝説の旅 №12 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

                        多摩のむかし道と伝説の旅(№9)
                      -新田義貞の鎌倉攻めと多摩進軍伝説-
                                       
鎌倉幕府は将軍源頼朝亡き後は北条氏が代々執権として政権を掌握していた。しかし蒙古襲来で幕府財政は疲弊。御12-1.jpg家人は十分な恩賞を与えられず不満が高まっていた。そんななか第14代執権北条高時は田楽や闘犬を好んで政治を顧みず、一方荘園領主には重税をかけ御家人の不満は頂点に達していた。この状況に後醍醐天皇は政権奪還の好機到来と倒幕を画策、それに応じた楠木正成が河内で挙兵、足利尊氏は丹波で寝返り六波羅探題を攻め落とした。この状況下、関東では上州新田荘の領主新田義貞は討幕を決意する。
元弘3年(1333)新田義貞が鎌倉討幕を目指して進軍。道筋は鎌倉街道上ノ道である。元来、鎌倉道は東国の御家人達が一朝ことあれば”いざ鎌倉”と馳せ参じる道筋であったが、
その道筋が討幕の舞台となった。後醍醐天皇から討幕の命を受けた新田義貞は、生品明神で一族150騎の兵を結集し、社前で綸旨を3度拝して挙兵する。利根川を渡河し武蔵に入り、次いで荒川を渡って鎌倉街道上ノ道に入ると、一路鎌倉を目指して南下した。この進軍の過程で幕府に不満を抱く東国各地の武士団が続々と合流し、総兵力20万の大軍に膨れ上がった。小手指原、久米川、分倍河原、関戸と多摩及び多摩周辺で北条軍と大激戦の末、これを討ち破り、ついに鎌倉近郊の藤沢へと迫った。新田義貞はここで討幕軍を3手に分け最後の鎌倉攻めを敢行したと伝える。即ち左翼は北からの巨福呂坂攻め、中央は西からの化粧坂攻め、右翼は南からの極楽寺坂攻めである。新田義貞本隊は中央の化粧坂攻めを指揮したが、極楽寺坂の苦戦を知って駆けつけ、稲村ヶ崎を突破して鎌倉に攻め入った。追い詰められた北条高時は東勝寺で自害し鎌倉幕府は滅亡した。上州での挙兵からわずか2週間のことであった。

ところで鎌倉攻めの道筋には様々な伝説が残されている。本稿では討幕軍の入間川渡河から多摩地域を通過する迄の多摩及び多摩周辺に伝わる伝承地を順に辿ってみることにする。

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元弘3年(1333)5月10日、新田軍は入間川に達する。八丁渡しで入間川を渡河し、南岸に陣を置き入間八幡に戦勝祈願した。宿陣地には後に徳林寺が開創されている。また入間八幡には新田義貞が馬を繋いだという駒繋ぎの松跡がある。

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5月11日、小手指原で幕府軍との遭遇戦となる。勝敗つかず新田軍は入間川へ、北条軍は久米川に退く。小手指原には新田義貞が源氏の白旗を立てて討幕軍を指揮したという白旗塚や兵士に忠誠を誓わせたとところという誓詞橋がある。

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5月12日、久米川合戦となる。新田軍が勝ち北条軍は分倍河原へ退く。この戦で新田義貞が白旗を立てて討幕軍を指揮したという八国山には昭和12年吾妻村史跡保存会が造立した将軍塚がある。また麓には久米川古戦場碑が立っている。そのほか八国山周辺には関連する伝承がいくつもある。

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例えば柳瀬川に架かる勢揃橋は新田義貞が兵士の隊列を整えさせた所といい、所沢の新光寺や狭山丘陵の山口観音は戦勝祈願した所という。その山口観音には戦勝後、義貞が愛馬を寄進したという霊馬堂がある。

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また丘陵の一角の椿峰という所は義貞が食事の折に箸に使った椿の枝を地面に刺したところ峰一帯に椿が繁茂したとの伝承からその名がある。また古戦場碑近くにある徳蔵寺にはこの戦で亡くなった兵士の板碑(元弘の板碑)が保存されている。元は八国山中腹にあった永春庵という小庵の境内にあったものだが、江戸時代の後半に永春庵が徳蔵寺境内に移ったことに伴い、板碑も移設されたと言う。なお板碑に刻まれた武将の戦死日時、場所が歴史書「太平記」の記述と一致することから重要文化財となっている。

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                                                   (つづく)



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BS-TBS番組情報 №166 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

BS-TBS 2018年7月のおすすめ番組

                      BS-TBS広報宣伝部

日本列島!ハテナの旅 ~ローカル線で巡る函館・弘前~

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2018年7月18日(水)よる7:00~7:54

☆旅をしながら、ためになる知識が身につくクイズ紀行!

出演:原田龍二、畠山愛理 ほか

旅をしながら、ためになる知識が身につくクイズ紀行番組。今回は原田龍二さんと畠山愛理さんが北海道と青森へ。絶品の海鮮丼を食べながら、イカの秘密に迫るクイズに挑戦!
北海道の旅では、「人間には1つしかないが、イカのからだには3つあるものとは?」、青森の弘前市では「毎月5日は市の条例であることが定められていますが、それは何でしょう?」など、その土地にまつわるクイズが出題され、“なるほど”と思うためになる知識が身につきます。もちろん、美味しい料理や美しい景色も楽しめます!
水曜VIP!

「夏休み!魚ゼミナール~親子で自由研究~」


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2018年7月25日(水)よる7:00~7:54

☆魚の魅力を様々な角度から紹介する、新感覚の魚番組!

出演:関根麻里、鈴木香里武(フィッシュヒーラー)

身近なのに意外と知らない魚の魅力を様々な角度から紹介する、新感覚の魚番組。
案内役は、水族館の年間パスを持つほど魚好きな関根麻里、魚の癒やし効果という新しい分野を研究する鈴木香里武(かりぶ)。水族館、港の岸壁から魚を採集する岸壁採集、親子で楽しむ魚のBBQなど、魚の楽しみ方、情報が満載の1時間!
もうすぐ夏休み。夏休み自由研究に頭を悩ます子どもさんと親御さんにぴったり!大人の魚知識欲も満たされます!

川口春奈 アフリカ動物大紀行~水が育んだ命の星~

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2018年7月27日(金)よる6:00~8:54

☆“旅人”川口春奈がドキュメンタリー番組に初挑戦!アフリカの動物・大自然を体感する!

旅人:川口春奈

圧倒的な映像美と感動のスケールで贈る、大型ネイチャー紀行番組!
女優・川口春奈が初のドキュメンタリーに挑む!テーマは「水と動物」。
世界的な気候変動が懸念される今、海・川・森・サバンナといった環境が作り出す多様な生態系の中で、いかに「水」が生き物を育んできたのかを体感、人類発祥の地といわれるアフリカ大陸を旅しながら、生命38億年の神秘をひも解いていく。
ライオン、チーター、ゾウ、キリンといったアフリカでお馴染みの動物はもとより、ペンギン、オットセイといった大群の知られざる生態、さらにはライオンも恐れるという史上最強の珍獣なども紹介。
世界遺産・ビクトリアの滝の絶景や大空からの動物探検、伝統的なアフリカの村の生活体験、動物とふれあえる超高級ホテルなど、見所満載の3時間!


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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №115 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

井上レディースクリニックの入口

                        銅板造形作家  赤川政由

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この、フルートさくひんから、かれこれ20年があった。このさくひんの、依頼人である、裕子医院長この度、病院の、隣に、土地を買いもとめ、新たなビルを建築中。コクーンと、よばれる。しせつは、公民館ならぬ、民みんを、めざし、高齢者ようレストランあり、保育園あり、ピアノあり、コンサートありと、規制のない場所づくりを、めざす。かんせいは、11月半ば。一階に、ロビーに、またまた赤川作品の、製作依頼が来た。テーマは、ペガサス。イメージば次

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線路はつづくよ~昭和な鉄路の風景に魅せられて №106 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

由利高原鉄道  鳥海山
                                 岩本啓介

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由利高原鉄道・鳥海山・久保田~前郷

              秋田県由利本荘市から見える鳥海山です
              前回の庄内平野より 鳥海山が大きくみえます 

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見上げれば鳥海山・田んぼの中の小さい駅「曲沢」

              見渡す限りの田んぼの中に
              ポツンと 小さな かわいい駅
              曲沢駅


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押し花絵の世界 №66 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「向日葵のウェルカムボード」

                         押し花作家  山﨑房江

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54cm×45cm

花嫁さんのご希望で向日葵をメインに使用したウェルカムボードを制作しました。
向日葵は花弁の裏側をカッターで削り、厚さ3mm位になるまでしっかり乾燥させます。
ブルーのデルフィニウムとかすみ草などの花材を取り入れて爽やかなイメージで仕上げました。




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渋紙に点火された光と影 №40 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

串柿

                     型染め版画家   田中 清

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続・対話随想 №42 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

   続対話随想42   中山士朗から関千枝子様へ

                   作家  中山士朗

 茶本さんの 第二総軍特別情報班の話から、さまざまなことが思い出されました。
 第二次世界大戦の末期、本土決戦に備えて一九四五年二月に陸軍の統帥組織二個(東京と広島)の総軍司令部が設けられたのでした。大本営陸軍部が、敵の本土来攻によって本土が分断、孤立化することを想定しての策でした。陸軍司令部を鈴鹿山系を境に東西に二分して、それぞれ東のかなめとして東京に第一軍総司令部が、西のかなめとして広島に第二総軍司令部が設置されました。
 その第二総軍司令部は市内・二葉の里の元騎兵第五連隊兵舎に設置され、総司令官は畑俊六陸軍大将でした。その編成は、幕僚、兵器部、経理部、軍医部、獣医部、法務部、通信班、飛行班などから成っていました。主たる任務は、敵の上陸、瀬戸内海侵入、朝鮮海峡突破を阻止する作戦にあり、そのために同年四月から中国軍管区、中部軍管区、西部軍管区の諸部隊を統率し、九州、四国、和歌山県沿岸に師団を配備して防御陣地の構築を進めたという記録が残されています。
 この広島市内の二葉の里にありました第二総軍司令部は、八月六日の原爆投下によって消滅し、その後に安芸郡船越町(現広島市)の日本製鋼所広島製鋼所に移り、続いて九月中旬に大阪へ移動、同月解散の経過をたどりました。
 この第二総軍は、通信班への女学生の徴用にかかわりを持つようになったのです。
 これについては、昨年、日本エッセイスト・クラブの会報に、第二総軍に徴用された三人の女性生徒の、戦争下における「生と死」の分かれ目について書きました。茶本さんも、そのうちの一人として書かせてもらいました。今回の関さんのお手紙によって、以前、往復書簡の中で紹介されていました戸田照枝さんが、選ばれて暗号の仕事にかかわっておられましたことを知りましたが、戦争が残した傷痕の深さ、同時に七〇年経って初めて知ることの多さを痛感しております。また、亡くなった今田耕ニさんが、第二総軍の作戦との関わりに関心を持って調べていた、そのことをあらためて実感しました。
 そして、関さんの報告にありました朝鮮の人たちによる、東照宮傍の崖の掘削工事が進められていたことと深い関連があるのは否めません。
 それというのも、かつて東京にいた頃に「文学者」の会で知り合いになった女性から、戦時中、長野の大本営地下壕の通信部に動員されていたという話を聞いたことがあったからです。この松代大本営地下壕は、太平洋戦争末期に象山、舞鶴山、皆神山の三山を極秘裏に掘削し、地下壕が造られたのでした。そして、いざという場合に備え、天皇、皇后を迎える準備をしていたとも伝えられています。
 次ぎに関さんがかねてより疑問に思っておられた、建物疎開の目的、その作業の指揮、命令系統について、私も調べてみました。なぜ六〇〇〇名の少年、少女の生命が失われなければならなかったのか。そして生き残った生徒に残された傷痕についても。
 勤労動員について、昭和五十二年に発行された『広島一中国泰寺高校百年史』に当たってみました。
 <一九四三(昭和十八)年六月「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、学徒の戦時動員体制を確立して「有事即応ノ態勢」におき、「勤労動員を強化」してその総力を戦力増強に結集せしめることにした。さらに十月、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」翌四十四年二月には、「決戦非常措置要」、三月には「学徒動員実施要綱」で動員の基準を明らかにし、学徒の通年動員、学校の程度、種類による学徒の計画的適性配置、教職員の率先指導と教職員による勤労管理などが強調された。六月マリアナ沖海戦の敗北、七月サイパン島の陥落など、戦局はいっそう不利に展開していくなかで、文部省は七月、「学徒勤労ノ徹底強化に関する件」を通牒し、これを契機として、全国的な中等学校生徒(第三学年以上)の軍需工場への動員が開始したのであった。>
 それにより、広島県は県庁に学徒動員本部を置き、動員先や、受け入れ工場の指示、工場に動員される学徒の需給などを数字的に調整させ、学徒の派遣を各中学校に命じたと記述されています。そして、一中における各学年の動員された日時、動員先の軍需工場名などが詳細に記述されています。
 私は二年生だった四十四年(昭和十九)十月に東洋工業に動員され、翌年の原爆が投下された八月六日は、職域義勇隊として爆心地から一・五キロ離れた鶴見町の建物疎開の現場にいたのでした。
 この建物疎開については次のように記されていました。
 <四十四年、建物疎開を実施するよう内務省から告示され、広島市は第一次建物疎開を同年末までに完了した。翌年になって、第二次から五次まで引き続いて行ったが、第六次は五月になって開始された。この建物疎開作業に本校の一年生も動員され雑魚場町付近(祖役所裏)で作業に従事していた。この作業中に原子爆弾の炸裂に遭遇したのである。>
 年表には
 <8・6 原爆投下、渡辺豊市校長以下職員15名、生徒351名死亡 校舎などすべて灰燼に帰す>
 記されています。
 そして、広島県事項の欄には、四月広島に第二総軍司令部が設置されたことも記録されています。
 広島一中遺族会は、昭和二十九年四月二十九日に『追憶』を発行しています。その中に、昭和二十年から二十四年にかけて校長として在任していた数田猛雄氏の「あの頃のことを回想し胸痛む」という追悼文があります。
 昭和二十年冬、着任したばかりの数田校長は、焼かれて赤茶色に砕かれた瓦礫や、焼けたトタン板で覆われた、廃墟となった校庭の焼け跡に立った時、あの日のことが脳裏を過ぎり、胸に錐を差し込まれるような痛みを覚えたという。
 <私はこれらの御霊に「日本再生への礎となってくださった」のだと、いつも心から手を合わせています。>
 戦時中、県の視学を務め、地方の教育行政に携わっていた氏の悔悟の念が語らせた言葉のように私には感じられるのです。


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