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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №123 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

赤川ボンズ作品展覧会

                 銅板造形作家  赤川政由

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 久しぶりの展覧会です。おもに、日頃溜まりにたまった、デッサンの、展示です。行田の、童の、原画が、かざられました。ぜんぶで、40まいです。画像は、銅人形です。王さまの仕事は、緑の、星を、守ろうとしている、音楽家です。ひだりは、気まぐれ天使。ドイツのニュールンベルクにいったときの、イメージが、わいてデッサンしたものを、今年、かたちにした、作品。そろそろ天使が、現れて、ほしいとの思いからです。

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王様の仕事
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行田の童下絵


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立川陸軍飛行場と日本・アジア №173 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

   東京府連合青年団大会

             近現代史研究家  楢崎茂彌
 
  1月22日に、「立川飛行場物語」の著者である三田鶴吉さんが亡くなりました(享年94歳)。僕は知らせを受け、29日に行われたお通夜に参列しました。お焼香の長い列が続き、会場には立川観光協会会長・立川民俗の会会長などを歴任し多方面で活躍された立川の名士の逝去を惜しむ供花があふれていました。この連載も立川市中央公民館発行の「昭和記念公園は飛行場だった」の聞き取りも、三田さんの著書に触発されて始めたものです。三田さんのご冥福をお祈りします。
 
  東京府連合青年団大会、都立二中で行われる
 昭和8(1933)年5月23日、東京市・八王子市・南多摩郡・北多摩郡・西多摩郡の青年団の代表1300人が一173-1.jpg堂に会する、東京府連合青年団第六回大会が、立川町にある府立第二中学校(現都立立川高校)大講堂で行われました。
青年団とは、江戸時代の若者組などの流れをくむ地方ごとの組織でした。大正時代に明治神宮の造営を担当した内務官僚田澤義鋪(よしはる)が明治神宮造営に青年団の力を借りたことから、全国の青年団をまとめる大日本連合青年団が組織されます。田澤は内務省を辞めジュネーブで行われた労働者会議に労働者代表として参加したり、東京府の助役になったりしたのち、大正15(1926)年日本青年館と大日本連合青年団の常任理事となり、“青年の父” と呼ば173-2.jpgれました。彼は青年団の特色を、①自然発生団体であること、②自治的であること、③地方単位を有しつつ国家的連絡を有すること、④青年の社会生活の団体であること、⑤一般的な修養をつむこと、としています(「青年団の使命」田沢義鋪選集 田沢義鋪記念会1967年刊)。同書によると、青年団の活動は、補習教育・禁酒禁煙・道路橋梁補修・農事講習会・野球・俳句会などなど多岐にわたりますが、田澤は青年団の国家に対する使命を次のように説明しています。“青年団は苗圃のようなものである。青年団という苗圃で育てられた、強壮なる身体を持ち、剛健なる精神を有し、快活なる情熱と、優秀なる能力とを具備した立派な苗木は、あるいは保守党の山にも、自由党の山にも、また労働党の山にも移し植えられるであろう。資本家地主の畑にも、小作人労働者の畑にも移し植えられるであろう。この苗圃が健全なる苗木を供給するがために、いずれの政党も、いずれの階級もいずれの職業も、健全なる国民によって組成されるということが青年団の国家に対する大使命である。”
  僕は“大日本連合青年団”という名称から、国家主義的な団体だと思っていたのですが、田澤義鋪の考えは極めてまっとうなもので、自分の不明を恥じました。
  それはさておき、東京府連合青年団第六回大会の冒頭、香坂東京府知事が“国際連盟脱退から今日まで一見順調に進んでいるが決して安閑としている場合ではない。特に青年の覚悟は重大である。この際青年は意に満たざるところはどしどし改めて、時代の悪風に染まず常に純情であってほしい。また自負心を戒め国家観念に立脚して行動し、青年らしく雄渾雄大の気魄を失わぬよう希望する”と告諭します。そのあと祝辞があり、5人の若者が5分間演説を行います。
 
  若人の叫び
   大会で行われた5人の団員の研究体験発表の要旨を「東京日日新聞・府下版」(1933.5.24)は“若人の叫び”として紹介しています。
  東京市連合青年団代表勝叉藤七君
  “「元日や今年もあるぞ大晦日」この句を更に進めて、昨日苦しんだ大晦日を忘れるなという、元日の覚悟を以て励みたいと思う。青年団の仕事はいろいろあるが教導隊を設置し各区の分団から班長一、二名が参加して幹部教育を行い根本的に訓練したいと思う。”
  八王子連合青年団代表関根信治君
  “日本精神ということが大切である。産業の振興もこの精神でやらなくては駄目、明治維新は廿歳前後の青年が仕上げた。今日の困難な時代は青年の意気で産業の隆盛に力をつくし、精神的には皇室と国家繁栄を心掛けて、奉公の街道をひたむきに進みたい。”
  都市部の若者の演説の内容は抽象的ですよね。
  北多摩郡連合青年団代表篠宮喜一君
  “非常時はわれ等の肉弾で蹴飛ばすような心身の鍛練が必要である。野良仕事が終わったら剣道柔道をやって、心身を練ることが大事だ。満州に活躍する兵士を思えば、われわれ青年の覚悟は大事である。”
  南多摩郡連合青年団代表田中清壽君
  “農村青年の使命として若人の熱を希望する。現在の青年は青年時代を享楽時代と思い、百姓は馬鹿らしいと考え、暇さえあればカフェやバーで飲む事を考える。これでは農村は一層光を見いだし得ない。私は村に農事研究会を組織して篤農家の訪問、肥料の研究、出荷の研究とかいろいろな改良を試みている。どんな苦境にあっても屈せず励めば必ず助ける神があって、こうした苦心の結果は効果を収めている。どうか現在の農村青年は村を捨てずに更生させる事に努力して貰いたい。”
  西多摩郡連合青年団代表濱中市造君
   “現在の青年の要求するものはわれわれ青年の日本魂である。こん濁の中にあって生気ある動脈に波打たせるものは青年の心一つだ。思えば青年は政治にも関心を持って私利私欲に走る政治を排撃しなければならない。支那が匪賊の跳梁や軍閥の搾取に塗炭の苦を嘗めているのも為政者が悪いからである。われわれは青年団としては、政治的行動を禁じられているが、実生活を持った農村の青年として悪い政治の改革につとめたい。”
173-3.jpg  郡部からの発言には2.26事件につながるような雰囲気を感じます。
  このあと、青年団生みの親である田澤義鋪大日本連合青年団常任理事が登場し“各自が自己の立場を忠実に守って、常に研究を怠らず実生活の感激を味わって一歩一歩踏みしめて、空論な左傾もせず暴力を揮う右傾も排撃して公民教育に力を尽くし、お互いの村を町を市を、より美しくより良くする自治体の完成に邁進する事が、日本国家の前途に輝かしい光を与えるもので、国運を起こすも倒すも諸君青年の覚悟一つである”と青年達をたしなめるような講演をしています。
173-4.jpg 大会がおわり昼食を摂ったあと、一同は飛行第五連隊格納庫前に集合し、八八式偵察機と乙一型偵察機を見学します。そして八八式偵察機が射撃訓練、空中戦闘、無電通信などを披露しました。陸軍は、夏に予定されている関東防空大演習に青年達を動員するつもりなのでしょうか。青年団が、田澤義鋪の考えとは違う方向に誘導されて行く予感がします。
 
  がんばる荒畑金藏氏
  立川陸軍飛行場の南に建つ荒畑金藏氏の二階家が飛行の妨げになり、第五連隊の頭痛の種だったことは連載NO.102で紹介しました。山口貯水池工事のために立ち退いて、3年前に立川町に土地を購入した5戸のうち4戸は建築前のために陸軍との交渉で土地を売り、家を建てた荒畑さんのみ補償金額が折合わず住み続けているわけです。
住み始めて3年、日々飛行機の爆音に悩まされ、一軒家なので電気も引かれずランプ暮らしをしている荒畑家の人々は神経衰弱になり、若干の補償金で立ち退きを希望しているという噂がたちました。そこで、記者が取材に174-5.jpg行くと、金藏氏は“私の方からそんな希望を出したなんて飛んでもない。何とか話にのってくれないかと憲兵さんが見えたので、うちでは前に申しあげた通り他へ引移るに足りるだけの補償がもらえさえすれば、いつでも立ち退きますといったのです。飛行機ですか、うるさいどころではありませんよ、なれるととても気持ちのよいもので、日曜に飛ばないので淋しくて困ります。電灯は、会社でぜひ入れてくれといって来ますが、電線が邪魔になると悪いので遠慮しているのです。”(「東京日日新聞・府下版」1933.5.21)と、最強の国家権力といえる陸軍を向こうに回して堂々と渡り合っていますね。
  記事は、荒畑氏は飛行の邪魔になると知らずに越したもので、陸軍が提示した補償の金額が荒畑氏の提示金額の3分の1に満たないので決裂したと、やや荒畑氏に好意的です。第五連隊側は荒畑氏の提示額を支払うと、家主の言いなりになる前例となるので補償金アップには慎重です。
  困り果てた第五連隊当局は、“航空地帯法”を制定することで解決を図ろうとします。第五連隊副官の野田少佐は次のように語っています。“いわば飛行場保護法です。これは要塞地帯法に次ぐ必要なもので将来ぜひ設けなくてはならないものでしょう。…立川飛行場が一戸の家のために苦しんでいる事はとても一般の人の想像以上で、夜間飛行の際など離着陸は命がけである。”
要塞地帯法は、建物については次のように定めています。
 第九条 要塞地帯ノ第一区内ニ在リテハ要塞司令官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ左ノ各号ノ一ニ該当スル行為ヲ為スコトヲ得ス
 一 家屋、工場、倉庫其ノ他ノ工作物ノ新築、改築又ハ増築
 ……
 これと同様な内容では、新築・増築は出来なくても、既に建っている家屋を撤去することは出来ません。どうするのでしょうね。それにしても、陸軍といえども議会に航空地帯法の制定を働きかけて解決しようとする“法の支配”を重んずる姿勢をとっていることに意外な感がします。
 因みに、ビードル号のパングホーンとハーンドンが罰金を科せられたのは、青森の要塞地帯上空を飛行し、要塞地帯法第7条に触れたからです。
 第七条 何人ト雖要塞司令官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ要塞地帯内水陸ノ形状又ハ施設物ノ状況ニ付撮影、模写、模造若ハ録取又ハ其ノ複写若ハ複製ヲ為スコトヲ得ス但シ軍機保護法ニ特別ノ規定アルモノニ付テハ其ノ規定ニ依ル

写真1番目   つめかけた代表者    「東京日日新聞・府下版」(1933.5.24)
写真2番目   現在の都立立川高校    著者撮影(2019.2.14)
写真3番目   飛行機の説明を聞く一同 「東京日日新聞・府下版」(1933.5.24)
写真4番目   工事中の第5連隊格納庫敷地   著者撮影(2019.2.14)
写真5番目   問題の家        「東京日日新聞・府下版」(1933.5.21)


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多摩のむかし道と伝説の旅 №21 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

                    -鑓水商人の夢の跡、絹の道・浜街道をゆく- 1

                  原田環爾

 絹の道とは幕末から明治にかけて、忽然と歴史の表舞台に登場し、一瞬の栄華を極めた後、急速に人々の記憶から忘れ去られていった道筋である。安政6年(1859)横浜開港に伴い八王子と横浜を結ぶ浜街道(浜道)と21-1.jpg呼ばれる全長約40kmの絹の交易ルートが誕生した。交易の主役は多摩の横山の西端の鑓水の商人たちであったことから、昭和32年、郷土史家橋本義夫氏により、鑓水峠を含む約1.5kmの区間を特に「絹の道」と命名され、歴史の道として保存されることになった。浜街道を現在の地図で見れば、概ね国道16号線、「絹の道」、町田街道、八王子街道、横浜道からなる。
 鑓水商人は仕入れた生糸を、馬や荷車、自らの肩にかついで八王子八日町から多摩丘陵を越えて横浜で売り渡し、帰路は珍しい西洋の文物を持ち帰り、明治の文明開化の伝播に大きな役割を果たした。しかし繁栄は長くは続かず、明治22年甲武鉄道開通、明治41年横浜鉄道開通など鉄道網、道路網の整備により、わずか50年でその役割は急速に失われ歴史の彼方へ消え去った。
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 ところで生糸や絹織物は1~2世紀頃に朝鮮半島からもたらされた。平安時代には近畿、中国、四国を中心に国内各地に普及し、江戸時代に入ると需要が高まり、養蚕技術の向上と幕府の財政立て直し策ともあいまって生産量が増大し、信州、上州、武州で盛んに養蚕が行われた。明治に入ると一気に花開き、生糸や絹織物の輸出で外貨を稼ぎ、日本の近代化に大きく寄与した。しかし戦後は化繊、合繊の登場で次第に衰退の道を辿った。

21-3.jpg かつて養蚕が民衆の生活に深く根を下ろしていた姿は今も垣間見ることができる。例えば明治から昭和初期に発行された立川・日野・八王子など多摩地域の地図を見れば、至る所に桑畑の地図記号を見ることができる。とりわけ八王子は古くから桑都とも呼ばれていた。また養蚕神を祀る社寺も各地に見ることができる。
 立川砂川の五日市街道沿いの阿豆佐味天神社には社殿を構えた蚕影神社がある。安政7年(1860)筑波山麓の蚕影神社から勧請したもので金色姫命を祀っている。金色姫とはインドの女神でこんな伝説がある。21-4.jpg昔、インドに金色姫という姫君がいた。しかし継母にいじめられ、心配した大王は姫を桑の木で造ったうつぼ舟に乗せて海に流した。舟はやがて常陸国豊浦に漂着し漁師の権太夫に救われた。しかしまもなく病で死んでしまった。遺骸は唐櫃に納められたが、ある夜権太夫の夢枕に金色姫が現れ「私に食べ物をください」と告げた。そこで権太夫が唐櫃を開けると遺骸は無く沢山の蚕に変わっていた。そこでうつぼ舟から桑の葉を採って与えると美味しそうに食べやがて繭に包まれた。すると筑波の仙人が現れ繭から絹糸をとることを教えてくれた。お蔭で権太夫は豊かになり、金色姫を蚕影山大権現として祀り、蚕影神社が創建されたという。(つづく)


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №120 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 富士急行線      

                     岩本啓介

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雪の翌朝                               
吉田の町は雪化粧                               
音もなく往く富士急列車                         
昼は名物『吉田のうどん』

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押し花絵の世界 №80 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「 ビオラのワルツ」

               押し花作家  山﨑房枝

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30cm×25cm

白い布にパステルで淡く描いた背景の上に、様々な種類のビオラを気ままに置いて楽しげにワルツを踊っているような雰囲気に仕上げました。

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渋紙に点火された光と影 №51 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

山百合

              型染め版画家  田中 清

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国営昭和記念公園の四季 №27 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

大輪緋梅  日本庭園盆栽苑


大輪緋梅 のコピー.jpg

        (左クリックして画面を大きくしてごらんください)

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押し花絵の世界 №79 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「Winter flower basket」

               押し花作家  山﨑房枝

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                   30cm×25cm

寒い冬は咲く花が少なくて少し寂しい季節ですが、冬でも元気に咲いてくれるシクラメンや、パンジー、ビオラなどの可愛い花達を、紅葉の葡萄の葉を使用して作ったバスケットに入れてアレンジしました。

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渋紙に点火された光と影 №50 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

蓮根

              型染め版画家  田中 清

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多摩のむかし道と伝説の旅 №20 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

[下流域:浅間橋から四谷大木戸まで暗渠の玉川上水路] 2
                   原田環爾

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20-1.jpg 甲州街道沿いに進み東放学園をやり過ごし街道の南側へ回ると世田谷区に入る。代打橋まで来ると幅2mばかりの上水が開渠となって姿を現す。橋の袂にはかつて水場屋があったという。京王線代田駅のガードをくぐると「ゆずり橋」があり、そこから先は再び暗渠の緑道となる。

代田橋から笹塚、幡ヶ谷辺りまでの上水路は南側に大きくW字状に湾曲する。環七通りを横切ると渋谷区の笹塚に入る。稲荷橋からは上水は再び開渠となって姿を現す。笹塚駅前を除き笹塚橋辺りまで約200mに20-2.jpgわたって開渠となっている。淀橋浄水場が閉鎖されて暗渠化されることになった時、地元笹塚小PTAの人たちが上水の景観を惜しんで開渠として残す運動をしたと聞く。笹塚橋からは再び世田谷区に入る。
 都道420号線を横切ると上水路は大きく左へ曲がるとともにこんもりと樹林で覆われた道に変貌する。消防学校を右にやり幡ヶ谷駅近傍の新20-3.jpg台橋までくると、旧水路の蛇行は終わり甲州街道に並行するようになる。初台駅横を通り山手通りを横切り十二社通りに出ると、左手には西新宿の超高層ビル群がそびえ立つ。暗渠の上水路は十二社通りを横切って約400m進んだ所で甲州街道に合流するが、合流点にある文化学園の手前で延々と続いた上水緑地は終了する。
 ちなみにかつての淀橋浄水場は十二社通りを少し進んだ所にある新宿中央公園一帯にあった。東京都庁の北隣りにある新宿住友ビルは、浄水場の遺構である赤煉瓦の壁に囲まれた空間の中に建っており、その一角に淀橋浄水場で実際に使用されていた内径1mの巨大な蝶型弁とパネルが記念碑として展示されている。
 甲州街道を進み中央線を跨ぐ陸橋に入る。新宿駅南口を左に見て坂を下り、新宿高校を過ぎると新宿御苑の新宿門前に来る。その先の甲州街道はやゝ狭くなって新宿御苑の北縁に沿って四谷四丁目の交差点へ向かう。この20-5.jpg20-4.jpg狭い街道こそ旧甲州街道でかつての内藤新宿のあった所だ。上水路は新宿御苑と旧甲州街道の間の散策路付近を流れていた。散策路は鬱蒼と樹林で覆われた道で、近年ここに上水路の復活工事が行われ、平成22年の春『玉川上水・内藤新宿分水散歩道』の名称で公開され、かつての上水の流れを彷彿とさせる景観がよみがえった。約500mの散策路を抜けると大木戸門前で、そこに都水道局新宿営業所のビルがある。かつてここに水番所があった。ビルの裏が玉川上水43kmの終端で、その一角に四谷大木戸跡碑と水道碑記、水番所跡であることを記した由緒書が立っている。この先上水は万年樋という石樋や木樋で江戸市中に流された。
20-6.jpg 玉川上水の終末は新宿御苑の外縁になるが、御苑内にも上水に関わる遺構がある。それは大木戸門から苑内に入ること約100mの所にある日本庭園の玉藻池だ。信州高遠藩主内藤家の下屋敷であった安永元年(1772)、上水の吐水を利用して屋敷内に玉川園と称する庭園の一部として池を造った。それが現在の玉藻池である。吐水とは四谷大木戸の水番屋の脇に吐水門があり、大雨が降ると水が増えたり濁ったりするので、吐水門を開けて余水を渋谷川に流していたものであるが、玉藻池はその吐水を池にひいたものである。ちなみに新宿御苑の東縁にはその吐水を流した堀割を今も見ることができる。


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立川陸軍飛行場と日本・アジア №172 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

    陸軍少年飛行兵制度始まる  

                     近現代史研究家  楢崎茂彌    

  それでも飛行学校に入学志望

 立川からの移転先が決まらずに困っている御国飛行学校の始まりは、“空の宮様”山階宮武彦殿下が大正14(1925)年に開設した御国航空練習所でした。連載NO34とNO37で「日本航空史(明治大正編)」を参考にして“御国飛行練習所”と紹介しました。読者の横川さんから“飛行練習所”ではなく“航空練習所”だよ、と指摘をいただきながら訂正もせず、そのままにしてしまい申し訳ありませんでした。
 大正14年7月3日付けで皇族附武官が陸軍大臣宛に“御国航空練習所の件”という文書を提出しています。その文書には概要や志願者心得が添えられており、練習所の目標を、1年で三等飛行操縦士に次の1年で二等飛行操縦士に育成すると謳っています。連載NO.37には「東京朝日新聞」の記事にもとづいて“希望者は予備陸軍士官に志願し、一朝変事の際には戦場に立つことが条件とされたので、女性は応募出来なかったのが残念です。”と書きました。たしかに女性は応募出来ませんが、予備陸軍士官の下りは、概要にも志願者心得に書いてありません。しかし心得の諸注意事項に“練習員志願に関する事項の詳細は御国航空練習所に就き直接又は書面を以て照会すること“とあるので、詳細を問い合わせるとこの条件が示された可能性はありますが、こんなに大事なことが志願者心得にないのは不自然ですよね。可能な限り原史料にあたることの大事さを思い知らされました。御国航空練習所は山階宮の病状悪化もあり大正15(1926)年7月に突如解散となり、御国飛行学校に引き継がれま172-1.jpgす。
 昭和8(1933)年9月30日までには立川を引き払わなくてはならなくなった御国飛行学校では、16歳の少年村尾圓君が学んでいました。二等飛行士の受験資格は17歳以上なので、9月生まれの村尾君はもうすぐ受験できます。彼は、3年間で70時間の飛行をこなしており、大人の生徒顔負けの操縦技術を習得しています。村尾君は次のように語ります“九月早々に受験しますので、学校が立川を立ち退く前に二等飛行士になれます。二等に合格したら十一月に陸軍の予備下士を志願し、万一不合格の場合は明年海軍の予備下士になりたいと思います。” すると矢張り陸軍の予備士官になることは条件だったのでしょうか。
 一方、日本飛行学校にはアメリカンスクールの卒業生山本たつ子さん(18)が志願してきました。学校側は移転先が決まったら入学するように通知を出しています。移転先が決まっていないのに志願者があるとは心強いことです。

 陸軍少年飛行兵制度始まる
 連載NO.160で触れたように、この年に陸軍少年航空兵募集が始まりました。「東京日日新聞・府下版」(1933.5.6)は次のように報じています。“陸軍初の少年航空兵 麻布連隊区司令部から、五日北多摩郡町村に少年航空兵募集のポスターを配布して来たので、各町村とも一斉に貼付したが立川町ではすでに申し込み廿名に達し、さすが空の都らしさを示した。この陸軍最初の少年航空兵は、現役志願廿歳未満、陸軍部外十七歳より十九歳未満で、明年三月末申し込みを締め切る。”
 この少年航空兵(1940年からは正式名称が“陸軍少年飛行兵”となる)制度は、この年の4月26日に所沢陸軍172-2.jpg飛行学校令が改正され“飛行学校に於ける生徒教育”が加わることで始まったものです。受験資格は、操縦生徒は17歳以上19歳未満、技術生徒は15歳以上18歳未満とされています。願書の受付は昭和8(1933)年5月31日までだったので、まだ16歳の村尾君は受験できませんでした。
 身体検査に合格した受験者は、筆記試験を受けます。科目は国語・作文・算術・地理歴史・理科で、学力は高等小学校卒業程度とされました。こうして難関を突破した操縦生徒70名、技術生徒100名は翌年2月1日、所沢陸軍飛行学校生徒隊1期生として入校しました。操縦生徒は2年間の教育・訓練を受けのち陸軍航空兵上等兵となります。技術生徒の教育・訓練期間は3年間でした。
 昭和11(1936)年2月26日、二・二六事件が起こります。所沢陸軍飛行学校1期生の技術生徒だった高橋常吉さんは、当時飛行学校の敷地に新設された陸軍航空技術学校で学んでいました。高橋さんは二・二六事件に動揺する学校の様子を日記に残しています。1期生の貴重な体験記として引用します。
 “二月二十六日 水曜日 雪
 午前十一時中隊より急遽帰隊すべき命令あり。将集(ママ)方面より帰り来れる将校の顔色も只事にあらず。時将に来り露国との宣戦の詔、次いで我々の動員ならんと心秘かに思えり。皆の心中亦同じならん。完全軍装入組品、装具などは勿論、数日の戦闘に支障なき様にと指示あり。急いで服装を整え整列せり。
 校長閣下より「本朝東京に於いて暴動ありて、既に帝都は戒厳令下にありて専ら軍隊の力に依り治安を維持せられしあり。此に於いて当校亦警戒の必要を認め生徒を非常召集せり」と。
 実包及び空砲も小哨毎に分配せり。戦時の警戒と同様に行動し得るに就き命令あり。…その後の状況不明にて各所に流言飛べる如く、警戒亦異常の緊張を加え士気上れり。校長閣下はじめ将校営内にあり。
 二月二十七日 木曜日 曇
 本日午前十時まで警戒勤務一服せり。陸軍省発表に依れば、岡田首相、斉藤内大臣、渡辺教育総監は即死、高橋蔵相 鈴木侍従長は重傷、牧野前内府は行方不明の由にて…
 二月二十九日
 午前零時三十分非常呼集あり…中西少尉以下二十七名北格納庫小哨に赴く。沿道所沢町内の要所に於ける飛行機操縦下士官学生並びに地方警官の物々しき警戒要領をみつつ愈々時期到れりとの感を深くせり。北格納庫に於いて実包各五十発を分配せられ厳重なる警戒勤務に服せり。飛校中央格納庫に於いては飛行機装備の固定機関銃を以て地上射撃に任ずる等…、午前七時警戒は解除せる。
 午後中隊長殿より本事件に関して特に訓話あり。生徒として戒心を要すべき点左の如し
 一 軽挙妄動せざること。信義の項を良く理解すべし。
 二 目的遂行の最後に於いて汚名を残さざる如く日頃の修養に勤め武士道を全うすべきこと。”
 (「陸軍少年飛行兵史」少飛会歴史編纂委員会編集 少飛会1983年刊)
 陸軍の緊張ぶりが伝わってくる日記です。
 高橋さんたち1期生の技術生徒は昭和11(1936)年11月27日に卒業し、少年航空兵の制度が、まさに時代の要請に応えて創設されたことを象徴するかのように、翌年7月7日には日中戦争が始まります。

172-3.jpg 東京陸軍少年飛行兵学校
 昭和13年9月、立川陸軍飛行場のほぼ真北に建設中だった東京陸軍航空学校に第6期生が熊谷陸軍飛行学校から移ってきました。
 東京陸軍航空学校の敷地は、もともと陸軍の土地でした。飛行場の真北にあるせいか、これまではまことしやかに、“この土地は陸軍飛行第五連隊射爆場用地だった”などと伝えられ「武蔵村山市史」もこの説を採用しています。しかし、近衛師団経理部の資料により、この土地は昭和12(1937)年に“立川小爆撃場用地”として買収されたことが分かりました。(「武蔵村山市に設置された主な軍事施設について」武蔵村山市文化財保護審議委員楢崎由美著・「武蔵村山市立歴史民俗資料館報、資料館だより 第58号」2017.3.31発行による)
 昭和16(1941)年にアジア太平洋戦争が始められました。陸軍は少年飛行兵の拡充を急ぎ、昭和18(1943)年には“陸軍少年飛行兵学校令”が公布され、“東京陸軍航空学校”は“東京陸軍少年飛行兵学校”と改称されます。また大津分校はこの年、翌年には大分分校も、それぞれ少年飛行兵学校として独立します。
 武蔵村山市にあった東京陸軍少年飛行兵学校の跡地には“陸軍少年航空兵 揺籃之地”碑が建っています。碑文172-4.jpgには
 “ここを中心に二十万坪の地は、東京陸軍少年飛行兵学校の跡である。陸軍少年飛行兵制度は昭和九年、第一期生の所沢陸軍飛行学校入校にはじまる。次いで陸軍航空の拡充要請により昭和十三年、この地に東京陸軍航空学校が創立され第六期生が入校した。終戦までに第二十期生、巣立った若鷲は四万六千。支那事変に続く大東亜戦争において、大陸のまた南海の大空に活躍したが、祖国の安泰と繁栄を念じて悠久の大義に殉じた。戦没者は四千五百余柱を数う。… 
        平成二年十月十日  陸軍少年飛行兵出身者一同  少飛会“
 前出の「資料館だより第58号」によると、戦没者の約1割にあたる457名が特攻隊で亡くなっています。少年飛行兵の制度は複雑なので、この「資料館だより」を読んでもらうと理解が深まると思います。
 今回も横道にそれてしまいました。
写真1番目  村尾少年   「東京日日新聞・府下版」1933.6.7
写真2番目  所沢陸軍飛行学校正門      「雄飛」2005
写真3番目  陸軍航空工廠の合成航空写真 米陸軍航空軍制作 1944.11.7撮影 
写真4番目  陸軍少年飛行兵 “揺籃之地”碑   2005.8.11  著者撮影

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №118 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

江ノ電 極楽寺駅 

                 岩本啓介

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♪♪『それにつけても おやつはカール』は誰もが知っていたTVCM 
関東での販売を終了して1年程 また一つ昭和が消えてしまいましたが
『明治カール』ベンチ  昔と変わらず『極楽寺』ホームで活躍中です 。       


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押し花絵の世界 №78 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「兆し」

             押し花作家   山﨑房枝

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54cm×45cm
墨汁と油を垂らした水面に、浮かべて染めた和紙を壷の形に切り取り、アケビ、葛、翁草などの落ち着いた色合いの植物を置き、所々に金箔を貼って華やかな雰囲気に仕上げました。

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渋紙に点火された光と影 №49 [ふるさと立川・多摩・武蔵]


              型染め版画家  田中 清

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多摩のむかし道と伝説の旅 №19 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

[下流域:浅間橋から四谷大木戸まで暗渠の玉川上水路] 1

                   原田環爾19-1.jpg

19-2.jpg 浅間橋からは暗渠となった高速道下の車道に沿って東へ進む。昭栄公園、浴風会、第六天神社をやり過ごすと環八通りとの交差点「中の橋」に来る。暗渠を流れる水はここで環八通りの地下を水道管を通して北へ向かい、高井戸駅前の神田川に放流されている。交差点を横切ると上高井戸から下高井戸へ移る。身代り不動尊をやり過ごすと程なく甲州街道との合流「上北沢駅入口」に至る。合流点の左斜めに入る緑道がある。玉川上水第二公園と称し、ここより暗渠となった玉川上水の流路を緑道として辿ることができる。
 緑道に入ってすぐの右手甲州街道沿いに慶長初年の頃創建された宗源寺と称する日蓮宗の寺がある。境内には高井戸の地名の起源と言わ19-3.jpgれる「高井堂」と呼ばれる不動堂がある。昔、下高井戸に高井山本覚院という真言宗の寺があった。19-4.jpg寺には不動を祀るお堂が高台にあったことから「高いお堂の不動様」と呼ばれた。 高井戸村の名もここからきたといいます。ところが明治初頭、廃仏毀釈と本寺の府中妙光院が火災で焼失したことで支援を失い荒れ果てていた。ある日境内地に住むかご屋の梅が右腕が痛くて困っていた。すると夢枕に不動様が現れ「わしを粗末にするからだ」と告げた。翌朝お堂を調べると不動の剣を持つ右腕が床にころがっていた。そこで仏師に修理してもらうと腕の痛みがとれた。このご利益が噂を呼び世田谷村から高額で譲り受けたいとの話があった。ところがその夜梅の夢枕に不動が立ち「わしはこの土地を離れたくない」と告げた。そこで村人たちが相談した結19-5.jpg果、たまたま堂内に近くの日蓮宗の宗源寺の山門の額があったことから、これも何かの縁と考えお堂ごと不動を宗源寺に移すことにした。高井堂不動と呼ばれ今も多くの信者に信仰されているという。
 やがて永福通りが甲州街道にぶつかる丁字路「下高井戸駅入口」に来る。旧水路跡には古びた下高井戸橋がある。通りを横切ると永泉寺緑地と呼ぶ鬱蒼と樹木で覆われる公園となる。ただ永泉寺と呼ばれる19-6.jpg寺は既になく、近くに永昌寺という似た名の寺があるだけだ。永泉寺緑地付近は上水の開削工事が資金難で一時中断を余儀なくされた所と伝えられている。

19-7.jpg これにはこんな伝説がある。かつて永泉寺という寺の薬師堂に白い玉石がご神体として祀られていた。上水の完成にはその玉石の力があったと伝えられる。玉川兄弟の開削工事は軌道に乗り始めたが、2度の失敗が響き上高井戸宿を過ぎたあたりで幕府から拝領した工事代金六千両をすべて使い果し、工事は一時中断となった。資金繰りのため、屋敷や家財道具の処分など私財を投げ打つとともに、江戸の富裕な町人に資金援助を求めた。しかし資金を提供してくれる人はなく途方に暮れていた庄右衛門が、夜の12時過ぎに下高井戸の工事現場でぼんやり見ていると、堀の先の土の中に白く輝くものがある。そこで清右衛門に掘らせたところ直径10cmの玉石が出てきた。上水堀から玉石が出てきたという噂はたちまち江戸中に知れわたり、お陰で工事への協力が相次ぎ必要な資金が集まった。庄右衛門は日頃信仰している薬師様が玉石になって助けてくれたと思い、お堂を建て玉石を祀り朝夕工事の完成を祈った。やがて上水は完成した。その後の玉石薬師は病にも効くと評判になり、享保4年には薬師堂を守る永泉寺が建てられ隆盛した。しかし明治になると寺はさびれ、近くの永昌寺に吸収され廃寺となった。今はわずかに下高井戸の旧水路跡に永泉寺緑地の名を残すのみである。
 築地本願寺和田堀廟所の墓苑をやり、明大和泉校舎を過ぎると甲州街道を離れ、切通しの井の頭線を跨ぐ跨線19-8.jpg橋となる。上水路は跨線橋に接して2本の巨大な水道管となって線路を跨いでいる。程なく井の頭通りに出る。筋向いに大きな2基の貯水タンクを設置した都水道局和泉給水所がある。旧水路跡の緑道は途切れ、この先の代田橋まで流路を見ることはできなくなる。

 ところで和泉給水所付近の上水路は明治以降複雑に手を加えられて19-9.jpgいる。水道事業の近代化政策により明治31年、西新宿に淀橋浄水場を建設し、併せて玉川上水の水路も現和泉給水所付近で分岐させ、淀橋浄水場へ直線的に向かう新水路を建造した。旧水路が尾根道を流下させる工法を採っているため、代田橋から幡ヶ谷辺りにかけての水路は大きくW字状に蛇行しており、これを避けるため分岐させて流路変更したのであろう。しかし大正12年の関東大震災で新水路は破損し復旧まで旧水路を使った。江戸時代の旧水路は無事に機能したという。その後、昭和12年現和泉給水所から淀橋浄水場まで甲州街道直下に導水管を設置して新水路は廃止になった。かつての新水路跡は埋め戻されて道路となり、一部は緑道として残されている。


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国営昭和記念公園の四季 №25 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

木漏れ日の里 古民家の正月飾り


正月飾り4.jpg




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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №122 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

王様の仕事

                      銅板造形作家  赤川政由

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いつも注文制作ばかりなので、たまには、自分の、ための、仕事を、してみました。緑の、星と、せれを、支える緑たちは、緑の木々に、え―ルを、送る、笛吹。王さまは、緑をたいせつにする、仕事を、しています。緑の、星を、守っていきましょうと、言う。環境を、守りましょう[exclamation]という作品です。

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立川陸軍飛行場と日本・アジア №171 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

           あけましておめでとうございます。
   ああ無情!立川の民間飛行へ正式に立ち退き命令

             近現代史研究家  楢崎茂彌

 昨年の12月25日に、日本政府は突如、国際捕鯨委員会からの脱退を閣議決定しました。僕がすぐに連想したのは、1933年の国際連盟からの脱退です。今回の、国際捕鯨委員会からの脱退は、事前に国民に知らせるわけでもなく、直前まで臨時国会が開かれていたのに、国会に報告することも諮ることもせずに、例によって政府が独断で決定しています。気にくわないからと、国民的議論もしないまま国際的枠組みから飛び出す政府に危機感を持つのは僕だけではないと思います。対立を対話に変えるのが外交ではないでしょうか。
 
 日本飛行学校、移転を迫られる
171-1.jpg立川陸軍飛行場の西地区を使用していた日本飛行学校、御国飛行学校と日本学生航空連盟は1年ごとに陸軍に飛行場使用願いを提出して練習飛行を許可されてきましたが、第五連隊の改編、陸軍航空本部技術部の充実、陸軍航空本部補給部の立川移転などの動きにより、愈々立ち退きの承諾書提出を求められることになりました。羽田の東京飛行場は移転先の候補ですが、立川の3分の1の広さしかありませんし、練習飛行は許可になりそうにありません。日本飛行学校の伏見教官は次のように語ります。“行き先がないので困っています。授業料前納の学生等は随分心配しているものもあるかも知れませんが、陸軍や航空局でもそう無情にただ立川を立退けというようなことはないと考えられます。私の学校ではこれについては学生が動揺しているようなことは全然ありませんが、学校としては絶対の責任を持っていますので、学生に迷惑をかける事は絶対にありません。”(「東京日日新聞・府下版」171-2.jpg1933.5.7)
 日本飛行学校の創立については連載NO4で紹介しましたが、どんな学校だったのでしょう。「少年飛行兵となるには」(大竹豊秋 山田徹共著文教科学協会 1932年刊)は、日本飛行学校の歴史を次のように紹介しています。“日本飛行学校は民間で初めて飛行教育を学校組織で実施した最初のもので、大正五年に相羽有氏と玉井清太郎氏により創立され、飛行機設計製作に関する技術者の育成に努めた。その後、変災が続いたために一時休止のやむなきに到ったが、飛行機講義録や自動車講義録を発行して通信教育の知識の普及をはからんとした。大正六年に日本自動車学校を創立し、大正八年蒲田に校舎が完成。大正十二年二月立川村に日本飛行学校を再建した。爾来今日まで四十数名の飛行士を育てている”(要約)。 いわゆる伝統校ですね。連載NO4でも紹介したように、「立川飛行場物語(上)」で三田鶴吉さんが相羽さんに直接取材して、飛行機講義録は実際には役に立たなかったけれど、良く売れて経営を助けたことなど、創立当時の出来事を中心に5回にわたる記事を書いています。
 NO61“売れぬ飛行士 ここにも就職難”では卒業生が一人も操縦士に採用されていない現実を紹介しましたが、NO112「飛行士志願の申し込みに大弱り」で書いたように志願者はあとをたちません。更に連載NO160で紹介したように、12歳の少女までが志願するこの学校の受験資格とか授業料とか授業内容はどうなっているのか疑問ですよね。
  「小学卒業立身案内」(小林喬著 帝国教育出版部・1934刊)という本を読んで、その疑問が解けました。この本には、日本飛行学校が次のように紹介されています。
  “所在地   蒲田区新宿十番地
  創立年月  大正十三年三月
  創立者   相羽有
  校長    相羽有
  入学資格  年齢十四年以上、学力尋常小学校卒業以上
  入学率   入学試験不要 志願者全員入学
  修業年限  正科(二ケ月)操縦科(正科卒業後四ケ月)
  科別及科目 正科-修身、飛行機構造学、航空力学、発動機学、気象学、発動機操縦学、
         自動車操縦術
                操縦科-修身、飛行機構造学、航空力学、操縦学、気象学、発動機操縦法、
         飛行機製作及修理法、飛行機操縦術
  学資   正科   入学金(五円)授業料(十円)実習費(七十円)
       操縦科  授業料(四十円) 実習費(一時間 六十円)
  職員   二十一名
  卒業後資格  飛行機操縦士  飛行機修理技術士
  図書館  図書参考室の設備あり
  寄宿舎  指定宿舎の設備あり”
  なるほど、14歳以上なら無試験で全員が合格するので志願者が続出するのですね。でも、それで航空力学などが理解できるのか疑問です。学資について言うと、当時の“もりそば・かけそば”の値段は10銭でした(「値段の明治大正昭和風俗史」(週刊朝日編集部編 朝日新聞社1981年刊による)。現在の価格は400円前後なので、入学金5円は換算すると約2万円となり妥当な線です。しかし、飛行機を操縦する実習費1時間60円は現在の約24万円にあたるので、とうてい庶民には手が届かない額です。でも経営は成り立っていて、移転先を探してもいるのだから不思議です。それにしてもこんなに高額なのに「小学立身案内」に載せるのは妥当とは思えませんよね。 
 因みに、同じ飛行機操縦士育成機関の逓信省航空局民間依託操縦生は採用試験を行っています。試験科目は、邦語(時限二時間半)、外国語(二時間半)、数学(二時間半)、化学(二時間半)、物理(二時間半)に及んでいます。物理の問題は“・比重と密度の説明をせよ。・左の単語を問う イ 電位差 ロ 電流 ハ 電気抵抗”、数学には“・次の恒等式を説明せよ(1+sinA+cosA)2=2(1+sinA)(1+cosA)”などと高度な問題が並んでいます(水上機操縦の部 昭和5年出題)。これで、日本飛行学校の卒業生がなかなか飛行士に採用されない理由が分かりました。(問題は「少年航空兵となるには」から引用)
 
  移転先の提供申し出が
  移転を迫られ困っている日本飛行学校に、砂川村七番の北側に土地を持つ青木巳之助さん他二名から、用地売却の申し出があったと新聞は報じています(「東京日日新聞・府下版」1933.5.17)。しかし、記事は立川陸軍飛行場とは近すぎるので接触事故の可能性があり陸軍は許可しないだろうと推測しています。また大和村(現・東大和市)からも用地売却の話があったようですが、無償提供を望む学校とは折り合いはつきません。一方、御国飛行学校は埼玉県に土地を物色し始めます。
  この事態に立川町も黙っているわけにいかず、行き先が見つかるまで立川に存続させてくれように航空本部に町長が陳情することになりました。
 
  ああ無情!立川の民間飛行へ正式な立ち退き命令
171-3.jpgこうして民間側が対策に苦慮しているにもかかわらず、昭和8(1933)年5月17日、近衛師団経理部は「9月30日までに家屋格納庫を撤廃すべし、但し移転料は支給せず」との通告を出しました。日本飛行学校の木暮主事は当惑気味に次のように語っています“私の学校では地主に来年四月までの地代を支払ってありますので「陸軍に買収されたから」と地主より通知があった時、移転の話をしたところ、それは陸軍から話があるからという返事だったので、立退きについては何分の補償を貰えるものと当てにしていたため、全然支給しないという話に驚きました。何とか陳情する考えです”(「東京日日新聞・府下版」1933.5.19)。日本飛行学校の伏見教官の“陸軍や航空局でもそう無情にただ立川を立退けというようなことはないと考えられます。”という期待は外れました。さて、どこに行ったら良いのやら…。

写真上 羽田から移転した当時の「日本飛行学校」「立川飛行場物語・上」第44回
写真中 日本自動車学校・日本飛行学校講義録   国立科学博物館所蔵
写真下 立退きの引導を渡された民間飛行 「東京日日新聞・府下版」1933.5.19
   

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