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国営昭和記念公園の四季 №32 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ムラサキハナナ群生  渓流広場

ムラサキハナナ9 のコピー.jpg

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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №126 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

川口の、まちづくりは、ここからはじまる

                   銅板造形作家  赤川政由

126.jpg

35年になるみたいだ、川口の、モール造りが、始まったとき、愛馬ロシナンテ、鉄の、馬に、またがる、ドン・キホーテを作った。ここから、まちづくりがはじまった。鉄の馬は、アインズ工房の、松岡先輩せいさく。かれからの、紹介。で、銅のドン・キホーテを、つくることに。本来は馬の、首が、上下に、動き、やりが、やはり、上下に、動く、仕掛け。35年の、歳月で、モーターが、こわれて、動かなくなった。鋳物の町が、変わろうとしていた、、理想に立ち向かう様を、ドン・キホーテに、たくした。金属製造業の、川口ならでは、の、いきごみが、ここには、あった。そのご、全国に、広がることに、なった。鋳物製品。また、あらためて、何かを、発信しなけては、新しい、時代に、もの造り日本の、スピリットを。忘れないように。

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立川陸軍飛行場と日本・アジア №177 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 御警護につけ 立川飛行隊の一部 突如出撃命令下る 関東防空大演習

            近現代史研究家  楢崎茂彌 

 防空大演習の予行演習始まる
 新京めざして飛びたち、伊豆半島の玄ケ嶽で遭難した朴敬元の遺体が8月9日午後1時34分に東京駅に帰ってきました。相羽有日本飛行学校校長が、プロペラと朴さんの遺品を抱いてホームに降り立ち、フランス大使代理177-1.jpgや阿邊日本航空輸送運行主任などが出迎えました。この日から、東京の中心から半径150kmを警戒地域とする関東防空大演習が始まっており、朴さんの記事は小さく、新聞は演習の記事と写真に埋め尽くされています。
 「関東防空演習規約」はこの演習の目的を“第三条 本演習は東京及其の付近要地の防衛に関し防衛部隊の訓練並関係官公衙、諸団体及一般官民の防空に関する施設訓練を向上するに在り。”と説明しており、単なる軍事演習ではありません。
 この演習に備えて、立川町では7月末に第五連隊の夜間演習を利用して、サイレンと警報を鳴らし、町中が一斉に消灯したあとで、第五連隊の仮想敵機が上空に姿を現すという予行演習を実施する計画をたてます。町田町は24日、八王子市は27日に予行演習を計画、西多摩郡は8月4日の予行演習のために第五連隊機の出動を依頼し、隊では都合をつけて拝島、五日市、青梅の上空を飛び消灯の様子を調査することになるなど、各地は準備に大わらわです。

  “吾等の帝都は吾等で護れ”
 新聞は人々に次のように呼びかけています“吾等自身の演習 軍部の参加は一部分 関東防空演習の最大の特徴は軍部の参加部隊が一部分で大半は関係官庁をはじめ各市民県府民である事だ。防衛司令官こそ林中将となっているが、演習顧問には香坂東京府知事をはじめ神奈川、千葉、茨城、埼玉等各県知事、また統監付きも幕僚将校はほんの小部分で、大部分は警視庁各部長をはじめ各府県の部長が当たっている。動員される人員も第一線はことごとく防護団青訓生、男女青年団、消防隊が出動し軍部からは飛行攻撃部隊、高射砲隊、照空隊が演習の一分子として加わるだけだ。”(「東京朝日新聞」1933.8.9)
  ラジオは、陸軍歩兵大佐中村鉄蔵の婦人講座「防空に対する 婦人の立場」を放送します。中村大佐は、東京神奈川千葉などの女学校などで講演を行ないますが、殆どの女性は余り関心を示しません。しかし、開戦になれば、首都や重要都市は徹底的に空襲を受けることは必至なので、市民の観念を根本的に改めなくてはならないとして、次のように言っています。
  “国家総動員で、国の全力は挙げて戦場に集中せらるるのであるから、男子として戦場に活動し得るものは、ことごとく外征に従い、国内の残るものは老人か婦人か子供である。然して、婦人のほとんど全部は、国内に残るのであるから、これが主体になって働かねば、防護が完全に行かぬことは明らかであろう。世界大戦中の英独仏における例を見ても、理解することが出来る。
 破壊、焼夷、毒ガスに対する避難、消防、防毒はもちろん、進んで防空監視に至るまで、ことごとく婦人がこれに任ずべきである。例えば、一家庭におけるが如く、男子は外に働き婦人は家を護る、即ち外征は男子の任、国内は婦人の責という迄に行かねばならぬと思ふ。救護、配給、傷病者の看護や、炊事担当はもちろん婦人の仕事ではあるが、単にこれだけではない。”
 これでは軍隊は国民を守らないと公言しているように聞こえますよね。
 当時の人気雑誌「キング」1933年9月号には“実戦同様!空前の大規模!帝都防空大演習の話”という記事が載っています。陸軍の石本五雄東京警備司令部参謀はロシアのウラジオストックを念頭に置きながら次のように語ります“さっき申した東京のみならず、商工業上の重点、大都市が海岸近くに暴露している。しかも、地形が空中から見ると、非常に判りいいから、この点でも狙われ勝ちであります。イタリアの航空大臣バルボは「今後の戦争では、劈頭で、きっと科学的奇襲が行なわれる」と断案を下しています。私も同感であります。我が精鋭なる陸海軍が、必ず敵の根拠地を奪ってくれるであらう、という信頼とともに突発的に行なわれる科学的奇襲に対して、国民は平時から、油断なく準備をして居て頂きたいのであります。
 要するに今回の防空演習は、我々は油断していないぞ、日本国民はこんなに緊張して居るぞ、ということを外国に見せ、また国民自身にもその自覚を一層強めていただく、これが本演習の精神的な大目的であります。”
 この大演習は、あくまで国民に“非常時意識”持たせることを目的としたものなのです。東京市が発行した「関東防空演習 市民心得」の表紙には“吾等の帝都は吾等で護れ”というスローガンが記されています。

 都心は煙幕、第五連隊は暗黒に包まれる
177-2.jpg 8月9日午前8時、演習開始が命令されると、防護団員が各所に散らばります。防護団の市民隊は在郷軍人会員、青年団員、青年訓練所生徒、女子青年団員、町内会役員、婦人会員などで構成されており、まさに国家総動員体制のようです。防護団は、警護班、防火班、交通整理班、防毒班、救護班、配給班などに分かれて活動します。まさに“吾等の帝都は吾等で護れ”を体現する役割を果たしたのです。
 この日は東京湾から侵入した仮想敵国機(海軍機)が月島上空に姿を現し、高射砲の砲撃にあい横浜方面に飛び去ります。
 立川町では、午後8時15分、突如として空襲警報が鳴り、雷鳴とどろく中、第五連隊、陸軍航空本部技術部、177-3.jpg立川衛戌病院など軍関係を含めて町全体が暗闇となります。
 翌10日午前8時15分、水戸北方から敵機が侵入し、関東全域に空襲警報が発令されました。9時半前には敵機が防衛司令部上空に現れ毒ガス弾を投下します(爆弾の代わりに、ピストルから危険がない曳光弾を発射しました)。12時前、参謀本部から白煙が上がり、間もなく宮城一帯や陸軍省は煙幕に包まれます。この時、南方洋上の航空母艦から飛び立った敵機が防衛司令部や市内を爆撃しますが、煙幕のために重要施設は被害を免れ、敵機は反撃により退去し、午後1時空襲警報は解除されました。
177-4.jpg 夕刻になると、敵機は再び東京に迫り、7時35分灯火管制が発令され、関東全域は闇に沈みます。東京東部に侵入した敵機は照空隊の集中照射を浴び、操縦士の目がくらんで全機が墜落、午後11時頃、土浦上空に侵入した敵機が爆弾を投下し南方に飛び去ると、この日の演習は終了しました。
 翌11日は、午前4時半に房総半島に迫る敵航空母艦に味方の海軍機が攻撃を仕掛けることから始まり、空中戦が展開され、敵主力は東方に退却し、午前6時、関東防空大演習の幕は閉じました。
 演習終了後に関東防衛司令官林中将は“演習実施の跡を徴しまするに、都市の防空は精神的準備と物質上の用意さえ完備して居りさえすれば、断じて恐るべきものでないとの私の持論を益々堅くするに至りました。”とコメントします。
 3日後に海軍省は次のような談話を発表しました。“海上の防禦に当たる海軍としては、どこまで敵の航空母艦を海上に撃滅して、我が国民をかくの如き戦争の惨禍のなかに巻き込まれぬようにし度いと務めて居るのであって、今回の様に敵の航空母艦を海上に於いて捕らえこれを撃滅するを以て防空の最良策とするのであるが、どうかすると敗残の敵機が帝都の上空に現れぬ共限らぬから、国民は平常より有形無形の準備を整えおくことが肝要である”(「関東防空演習に就いて」海軍特別大演習統監部員談 1933年8月14日 海軍省発表)。
 “戦争の惨禍に国民を巻き込まないように”いう表現にビックリしましたが、矢張り空襲は必至として国民に心構えを説くのは、陸軍と変わりませんね。
 こんな防空大演習を批判したのは桐生悠々ですが、彼のことは次回に紹介したいと思います。
 
 御警護につけ 立川飛行隊の一部 突如出撃命令下る
  関東防空大演習は、帝都防衛を任務とする近衛師団飛行第五連隊の出番です。「三多摩読売」(1933.8.10)は“今朝未明より某国敵機に依り帝都は襲撃を受け、往年関東大震災の如き混乱に陥りたり。飛行第五連隊は速やかにその一部を予定の部署に就き、宮城近火警御に任ずべし。”という命令が出たと報じています。ところが、「関東防空演習結構の概要」(関東防空演習統監部・1933.6.22)によると、演習に参加する航空部隊は“所沢陸軍飛行学校の一部、下志津陸軍飛行学校の一部、明野陸軍飛行学校の一部”となっていて、飛行第五連隊の名前はありません。はて‥。 


 図1    帝都防空要領図(円は半径150km) キング 1933年9月号
写真1番目  日本橋方面の煙幕       東京朝日新聞 1933.8.11
写真2番目  煙幕に覆われるニコライ堂   アサヒグラフ 1933.8.23号
写真3番目  敵機集中照射         東京朝日新聞 1933.8.11


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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №124 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

桜の季節 都電荒川線・面影橋   

                      岩本啓介

4月2日、早稲田駅周辺は早大入学式で込み合っていました                         
人混みの中、徒歩で都電荒川線面影橋停留所に向かいます                           
面影橋ほとりのアパートが映画『神田川』の舞台でした

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面影橋電停

神田川を渡る 高戸橋の桜も満開です                                
桜の中に『白十字』の看板が目につきます                            
近くに 白十字 の会社があるんですね 

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高戸橋

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押し花絵の世界 №84 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「Dear flowers」

               押し花作家  山﨑房枝

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29cm×24cm
私の花生活 No.93号「春の花束」掲載作品
カラーペーパーをカットして組み合わせて台紙を作り、丁寧に押し花にした小花達をリース風にアレンジしました。


山﨑房枝さんの展覧会のお知らせです。

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渋紙に点火された光と影 №55 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

薊(アザミ)

             型染め版画家  田中 清

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ミツバチからのメッセージ №4 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ニホンミツバチ復活プロジェクト

                  造園家・ミツバチ保護活動家  御園 孝

 ニホンミツバチをこよなく愛した久志冨士男氏は、教員を退職後佐世保から平戸にかけてニホンミツバチを150群飼育していました。以前教員として赴任していた五島列島の福江島にニホンミツバチがいなかったことを思い出し、2004年から2008年まで5年がかりで五島列島の島を、大きい順に20島生息調査をしました。以前から生息していない4島と、以前は生息していたが絶滅した7島と、現在も生息している7島を確認して、福江島 中通島 宇久島 壱岐島のニホンミツバチが絶滅した4島で開始しました。
 宇久島では福岡から移住した山野氏が1箱のニホンミツバチを持ち込んでいたので、久志氏が近親交配を防ぐために佐世保の群れを4群持ち込んだところ、春に分封が始まり15群捕獲し巣箱で飼育して、取り逃がした3群が野生化していきました。戦後すでに60年以上たち樹木は充分育っていたので、ニホンミツバチのエサは充分すぎるほどあり完全に復活しました。
 壱岐島では地方紙を主宰している種田氏が記事にしたところ、11人が飼育したいと名乗り出て22群を持ち込みました。この島は樹木の生育がダントツでかなり期待できました。
 中通島は山間部にスギの植林地が多く心配していました。一応持ち込んだものの、復活は果たしたが人間関係がうまくいかず交流が途絶えてしまいました。
 福江島では山間部はスギの植林地が多く、平野部には田畑が多く農薬にさらされる心配が有りました。島の医師宮崎氏は積極的にニホンミツバチを飼育したく久志氏に接触してきました。彼は田んぼ3反を馬耕し苗を手植え完全有機をしていて、診療前に桶作りをして伝統を守っていました。農業には鍛冶屋が居なければ成り立たないが、自分ではこれ以上できないと悟り、高校生の息子にお願いして鍛冶屋になってもらいました。そのような人ですから福江島の役場に乗り込み、ネオニコチノイド系農薬を使用しない約束を取り付けて、無事ニホンミツバチを復活させることができました。

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宇久島ではニホンミツバチが野生化して、墓石にも営巣していました。
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離島めぐりは船で行きます。
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福江島の宮崎さんを訪ねてなんども島を訪れました。
4一子さんと巣箱.JPG
樹木が復活した壱岐島では蜜源が豊富で巣箱の高さが高くなってしまい、中が蜜だらけになります



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多摩のむかし道と伝説の旅 №25 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

      鑓水商人の夢の跡、絹の道・浜街道をゆく 8

                   原田環爾

24-4.jpg 24-5.jpg永泉寺を後に元の嫁入橋に戻る。橋名は永泉寺の裏にある谷戸が嫁入谷戸と呼ばれていることからくるのであろう。嫁入谷戸にはこんな伝説がある。昔、永泉寺近くの田に夜になると鈴の音が聞こえ美しい巫女が姿を現した。巫女は白い衣に緋の袴をひらめかせて舞った。巫女の舞は妖しく美しく、村人は心を奪われ次第に魔性の者ではないかと疑った。 ある日弓の達者な若者が選ばれた。巫女の現れる夜を待ち構えたが村人の心を知ったか巫女は現れなかった。満月の夜、村人は田圃に舞台をこしらえ、豊年祭りの舞を奉納するため集まった。すると鈴の音が聞こえ巫女が忽然と姿を現し舞い始めた。そのとき若者の放った白矢が巫女の胸を射た。村人が駆けよったときには巫女の姿は消えていた。翌朝、村人があたりを捜したところ、田の神を祀った葦の中に年老いた白い狐が、胸に矢を射抜かれ息絶えていた。以来若者が矢を放った所を弓射り谷戸と呼び、これが後に嫁入谷戸に転化したという。
25-1.jpg 嫁入橋を渡ると柚木街道と交差する。柚木街道を横切ると伊丹木谷戸へ入る。伊丹木谷戸と聞けば鬱蒼とした林を想像するが、ここから先はニュータウンとして造成されて地形はすっかり変わってしまっている。谷戸道に入るとすぐ茅葺入母屋造りの鑓水商人小泉家屋敷がある。今も個人の住まいとして使用されているが都有形民族文化財になっている。小泉家の先祖小泉栄一氏は栄華を誇った鑓水の光景をこんな歌に残している。
「浜出しの 荷駄送り出す 糸商の 夜明けの庭の 馬のいななき」
25-2.jpg 小泉家屋敷から先、町田街道の田端まではかつての浜街道はニュータウン化ですっかり
消滅してしまっている。多分浜街道は鑓水中の敷地を通った後、鑓水公園辺りを経て鑓水小山給水所へ向かっていたのであろう。今となってはニュータウンを抜ける車道に架けられた「浜街道歩道橋」の名に在りし日の浜街道の面影を偲ぶことができるだけである。給水所まで来るとそこは尾根緑道(別名戦車道路)の丘陵端の麓に位置する。丘陵端はかつて浜見場と呼ばれ、ここから遥か横浜の海がきらきら光るのが見えたという。
25-3.jpg25-4.jpg 田端から先は所々で旧道を迂回しながらも概ね現町田街道に沿う道筋となる。町田駅前には絹の道碑を確認することができる。川井辺りからは八王子街道に入り、今宿、星川を経て追分で旧東海道に合流する。25-5.jpg追分からは旧東海道に沿って旧芝生村の浅間神社のある浅間下に至る。浅間神社は鑓水商人が横浜に入ったと一息ついたところだ。
 浅間下からは環状1号線を渡って新横浜通りの一筋裏通りの新田間川緑地に入る。緑道は200mばかりで新田間川にぶつかって終わるが、この緑道こそ開港を控えた幕府が開港わずか3か月前から突貫工事で開削した横浜道だ。以降、横浜道を辿って開港場のある関内を目指す。(つづく)


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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №125 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

ガラスの中のぼくの町

             銅板造形作家  赤川政由

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3月に、制作した、作品。南阿佐ヶ谷にある、ギャラリーこうしょうで、開催してる展覧会に出品。いずれは、どこかで、大きな、作品に、したい。

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立川陸軍飛行場と日本・アジア №176 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 朴敬元さんが操縦する「あおつばめ」墜落

                       近現代史研究家  楢崎茂彌
 
 思いははるか故郷の空
176-1.jpg 立川にあった日本飛行学校で学び二等飛行操縦士となった朴敬元さんが、イギリスから飛んできたブルース夫人のコメントにカチンときたことは、連載NO.106「朴敬元(パク・ギョンウォン)さんがんばれ!」で紹介した通りです。朴さんは、女流飛行家を認めようとしない日本社会に失望して次のように書いています“日本に於ける女流飛行家はどうしてこう発展せぬかと云うことは、私が申すまでもなく、すでに一般社会に知れ渡っていることと思います。それは第一に費用の問題、第二は職がないことです。……私は言います。職業若しくは社会の援助を彼女に与えたならば、欧米諸国の女性飛行家に決して劣らないであろう”(「わが女流飛行家は何故伸展しないか!」故二等飛行操縦士朴敬元嬢追悼録 相羽有編 日本飛行学校出版部 1933年刊)しかも、逓信省航空機乗員規則によって、男しか一等飛行士になることが出来ません。朴さんは、連載NO.141で紹介したように、出来れば欧州の空に飛んでいきたいと思っています。でもその前に、法政大学航空研究会出身の尹昌鉉(ユンチャンヒョク)も行なった郷土訪問飛行を成功させたいのですが、悔しいことに男と違ってなかなか故郷の後援も盛り上がりません。
176-2.jpg ところが思わぬ筋から郷土訪問飛行の話が飛び込みます。2008年に日韓首脳会談を記念して建設された韓国庭園の一角に、朴敬元さんの記念碑が建てられました。同じ碑が“朴敬元女性飛行士遭難の地入り口”の表示の脇に建っています。碑文は次のように始まっています。
      “思いははるか故郷の空
 朴敬元飛行士は1901年大韓民国慶尚北道大邱府に生まれました。1925年に日本飛行学校に入学して飛行機の操縦を学び大韓民国初の女性飛行士として二等操縦士の免許を取ると、兼ねてからの希望であった故郷への訪問飛行を計画し1933年8月7日、その日を迎えることになりました。
 碑文は“郷土訪問飛行”と書いていますが、彼女には陸軍大臣の次のようなメッセージが託されていました。
 “朴敬元嬢の日満連絡飛行の機に際し謹而閣下並麾下将兵の日夜の労苦に対し深甚なる謝意と満腔の敬意とを表す。 
 今回朴嬢が在満将兵の慰問を兼ね、内鮮人と満州人との融和親善を図る為、日本最初の女性として、敢然とし176-3.jpgて此壮挙を試むるに至りたるは、独り日本女性の為万丈の意気を昂揚したるに止まらず、また以て帝国民間航空の発展促進に寄与する所鮮少ならざるべし。
 幸に関東軍其他各方面の後援に依り所期の目的を貫徹ならしめんことを。 
 一言以て使辞に代ふ。
 昭和八年八月    
         陸軍大臣 荒木貞夫
 関東軍参謀長  菱刈隆閣下“
 このことで分かるように、この飛行は郷土訪問飛行ではなく、関東軍、朝鮮総督府、帝国飛行協会などが後援する“日満親善・皇軍慰問日満連絡飛行”だったのです。朝鮮人で女性である朴敬元さんは、このような機会がなければ郷土訪問飛行が出来なかったのですね。飛行行程は大阪で一泊、大刀洗で一泊、朝鮮海峡を越え朴さんの故郷の大邱(テグ)上空を飛びソウルで一泊、奉天で一泊して目的地新京(現・長春)に到着する予定です。
 
『あおつばめ』墜落、日満親善・皇軍慰問日満連絡飛行は失敗
 昭和8(1933)年8月7日午前10時37分、早朝からの雨が上がった羽田の東京飛行場から、朴さんが操縦する陸軍払い下げのサムルソン「あおつばめ」が大阪めざして飛び立ちました。その時の様子を、日本飛行学校の相羽有校長は次のように回想しています。  
 “箱根が雨だ!少し待とうかという人もあったが。しかし防空演習や何かで陸海軍機や民間機がジャンジャン飛んでいるので群集心理というものであろうか、天候を案ずるということよりも、一まず飛び出してみて箱根が雨で越えられぬときは立川に引き返すのがよい、また下田港を迂回してもよいということになったと記憶している。”
 「あおつばめ」は、予定の午後2時になっても3時になっても、人々が待ち受ける大阪飛行場に到着しません。湯河原や熱海では海岸で爆音を聞いたとの情報がありましたが、機影は確認されていません。御前崎測候所からは午前11時50分頃海上に機影を確認したとの情報も入ります。翌日の「東京朝日新聞」は“駿河湾上で遭難か 女鳥人の朴嬢 出発後消息絶つ”と報じています。
176-4.jpg 翌日の早朝、朴さんと「あおつばめ」は、伊豆半島の多賀村で発見されます。多賀村村会議長松本隆法氏は当日の様子を次のように書いています。“翌八日早天未だ明けやらぬ頃、前日の濃霧は自然に旭と共に晴れましたが、玄ケ嶽の一角に当たり、白き「テント」らしきものが遙か彼方に懸かり、村人をして異様の感を起こさしめ、疑いの眸を集め或いは天の羽衣かと望遠鏡により様々な判断憶説の伝わりました折り、ラジオの放送と共に新聞の朝刊を手にして、始めて朴嬢の搭乗飛行機行方不明の報を見176-5.jpgて、愈々墜落したものかと断定しましたから、各所に電話交換始めて確実なりと信じました。”(「故二等飛行操縦士朴敬元嬢追悼録」)。そして村長と村当局は警察署・消防・在郷軍人会・青年団に連絡し、全員を集めると、灼熱のなか道なき急峻な登りを2里も離れた玄ケ嶽の遭難現場に向かいました。松本村会議長は“村長始め各団員は、同胞相愛の熱情と、朴嬢の誠意発露と相俟って、流汗指揮をなし、全員又献身的に活動してくれました。”と感謝の意を記しています。
 午後には相羽校長も現地に到着、遺骸を担架に移して下山、読経と焼香を済ますと火葬場に送り荼毘に付しました。
176-6.jpg 相羽校長は次のように回想しています。
 “今,回顧すれば、僕が中止を申出たらよかったのであった。なんと申しても女性だ。それに一世一代とも云うべき晴れの舞台なのだ。箱根や伊豆の山に密雲があったら引き返せよと注意したところで、緊張し過ぎていた朴さんの心に如何ばかりの反響があったかは知れたものではない。
 ハイー、と心よく答えたものの心は新京へ、大邱に飛んでいるから、まったく効果なき注意に了ったのだ。想えば女性の心理を等閑に附した責任を感ずる次第である”(「故二等飛行操縦士朴敬元嬢追悼録」)。この自己責任論は相羽校長らしくありませんね。相羽校長が“ しかし防空演習や何かで陸海軍機や民間機がジャンジャン飛んでいるので群集心理というものであろうか、”と書いているとおり、8月9日からは関東防空大演習が始まります。朴さんの生涯を描いた『越えられなかった海峡』(時事通信社1994年刊)で著者の加納実紀代さんは、明後日に関東防空大演習を控えた関係者たちは、朴さんの出発を翌日に延期してほしくないと考えていたのではないかと、推察しています。
 連載には何度か出てきた、日本飛行学校の木暮主事の記憶によると、飛行機の整備などで忙しい出発前の8月4日早朝、朴さんが木暮主事を訪ねて、立川町で世話になった所にお礼参りに行きたいので案内してくれと言いました。木暮さんは、満州に行ってもすぐに帰ってくるのだから、暇乞いをすることはない、十分に休養をとって、帰ってきてからお礼参りをしたら良かろうと助言しますが、どうしてもというので、一緒に立川町の関係者を回ったと回想し“聞けば翌日には、航空時代社の須永様を案内者として東京方面の関係者に暇乞いに回ったとの事、今に思えば予感というものでしょうか”と書いています。
 
  碑文の締めくくり
 碑文は次のように締めくくられています。
176-7.jpg “翌8日、女史の遺体は地元多賀村の人々の手によって荼毘にふされ、翌年8月7日には、元多賀村村長西島弘氏が私費で墜落現場鳥人霊誌碑を建立し、そして1987年春には地元町内会の手で朴敬元嬢遭難慰霊碑が建立されました。地元の人々は夢半ばにして敗れた朴敬元女史の心安らかなることを願い、毎年墜落現場までの草刈りや慰霊碑保全を行うなど、大切に護持しています。
 国を超えたこの地道な活動は、今日の平和と友好を祈念する多くの人々の思いでもあり、親切と文化を標榜する熱海市にとりましても、おもてなしの心を育む原点でもあります。
 熱海市は朴敬元女史の墜落死と地元の人々の活動176-8.jpgを永く歴史に留め、これまでかかわってきた人々の友好平和のあかしとして、日韓首脳会談を記念して建設された韓国庭園の一角に祈念碑を建立するものです
 2008年8月28日 熱海市長 川口市雄“

 今回使った写真は、僕が2010年に現地を訪ねた時に撮ったものです。現地に向かう道もキチンと草が刈られ、整備されていました。日韓関係がぎくしゃくしている今日、地元の人々の活動は、とても示唆に富むものだと感じます。因みに、この時の日韓首脳とは森喜朗首相と金大中大統領でした。

写真1番目 「晴れの首途」      故二等飛行操縦士朴敬元嬢追悼禄
写真2番目  「朴敬元女性飛行士遭難の地入り口」表示 2010.8.30 筆者撮影
写真3番目  「朴敬元飛行士記念碑」(レプリカ)    2010.8.30 筆者撮影
写真4番目 「朴飛行士遭難地点」   東京朝日新聞 1933.8.9
写真5番目  「山中の表示」             2010.8.30 筆者撮影
写真6番目  「鳥人慰霊碑」             2010.8.30 筆者撮影
写真7番目  「朴敬元嬢遭難慰霊碑」(手前の石碑)  2010.8.30 筆者撮影
写真8番目  「草は刈られ整備された山道」      2010.8.30 筆者撮影
 

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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №123 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

雪の只見線   

                  岩本啓介  

『只見線』も豪雪地帯 でも今年の積雪は昨年の半分とか                         
小出5:30発の回送列車 誰も乗れない 真の一番列車です                       
うっすら霧のかかる 田んぼの踏切  冬季は通行不可です                         
回送列車が 大白川6:22発小出行の一番列車になります 

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 只見線始発への回送・藪神~小出・セブン駐車場

山と川に囲まれた 雪の田んぼの中に小さな踏切が見えます                       
小さな踏切は もちろん 冬季は通行不可                       
朝日射す山々が ピンク色に染まります 

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只見線始発・大白川~入広瀬・雪捨場俯瞰


 
                        

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押し花絵の世界 №83 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

「押し花ランチョンマット&コースター」

               押し花作家   山﨑房枝

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可愛い小花を使ったランチョンマットとコースターです。
レースペーパーに押し花を置いてラミネーターでパウチするだけで簡単に作れるので、押し花の体験会でも好評でした。


◆◆山﨑房枝さんの展覧会のおしらせが届きました。◆◆

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渋紙に点火された光と影 №54 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

若柿

             型染め版画家  田中 清


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多摩のむかし道と伝説の旅 №24 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

鑓水商人の夢の跡、絹の道・浜街道をゆく 4

                    原田環爾

24-1.jpg 市道に入り緩やかな坂道を下る。右手は子の神谷戸の田畑が広がる。少し下ると左手に風格のある黒い板塀で囲まれた建屋が目に入る。絹の道資料館で石垣大尽と呼ばれた八木下要右衛門の屋敷跡に建てられた。館内には鑓水の歴史展示物とともにわかりやすく解説されている。八木下要右衛門家は、屋敷に異人館と呼ぶ螺旋階段のあるハイカラな建物を建て、イギリス人アーネストサトーも立寄ったという。しかし明治3年三代目の息子敬重の時、殺傷事件を起こして没落したという。平成2年そこに八木下家の母屋を模した入母屋風の絹の資料館が建てられた。絹の資料館の前からほんの少し坂道を下るとすぐ右手の土手に一里塚の跡がある。八王子から丁度1里に相当する。更に坂道を下りきると大栗川に架かる御殿橋がある。その手前10m程の所に子の神谷戸に向かう道がある。谷戸道の傍らには幅1m程の細くなった大栗川の源流が流れている。この先200mも進めば鑓水の鎮守諏訪神社がある。諏訪神社は子の神谷戸の最奥にあった子の24-2.jpg神神社、日影谷戸の諏訪神社、それに片倉村にあった八幡神社の三社を、明治10年現在地に合祀し名称を諏訪神社として継承させたものだ。鳥居をくぐり急階段を上りつめると拝殿がある。拝殿の後ろの本殿には先の三社が納められている。また本殿左少し離れて古びた子の権現の旧本殿がある。拝殿前には石灯籠4基あり、内2基には豪商八木下要右衛門、大塚徳左衛門の名が刻まれており、石灯籠を寄進したありし日の鑓水商人の栄華が偲ばれる。
24-3.jpg 先の御殿橋に戻る。橋の下の大栗川は、鑓水の丘陵を水源に柚木街道、野猿街道に沿って東流し、関戸橋下流約400m付近で多摩川に注ぐ全長約15.5kmの川だ。橋の欄干に道了堂のレリーフ『武蔵国南多摩郡由木村鑓水 大塚山道了堂境内之図』がはめ込まれている。絹の道が栄えた頃の道了堂の境内の様子を窺い知ることが出来る。また橋の袂には鑓水の道標と呼ばれる石塔が立っている。もとは御殿橋を渡った大栗川右岸の鑓水村公会堂の前にあったが、川の改修工事にともない昭和63年現在地に移された。正面には「此方八王子道」、東面には「此方はら町田、神奈川、ふぢさわ」、西面には「此方はしもと、大山、津久井」、裏面には「慶応元年(1865)仲秋建立」と刻まれている。御殿橋袂の道標を後に川沿い下流へ100mも進めば嫁入橋がある。橋の北側の集落の里道に入ると永泉寺がある。弘治元年(1555)創建された曹洞宗の寺で山号を高雲山と称す。嫁入谷戸の入口に位置し、鑓水商人の栄枯盛衰のすべてを見届けてきた寺だ。寺のすぐ近くに大塚徳左衛門、や平本平兵衛の屋敷があった。ちなみに永泉寺の本堂は明治17年の大塚徳左衛門家の火災の飛び火で焼失した。現在の本堂は没落した八木下要右衛門家の母屋を移築したものだ。(つづく)


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赤川Bonzeと愉快な仲間たち №124 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

カフェのマスコット

              銅版造形作家  赤川政由

国立市富士見通にできた「ランプ」という名前のカフェのランキングの一部です。


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≪展覧会のお知らせ≫
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立川陸軍飛行場と日本・アジア №175 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

 編成替えで、第五連隊に戦闘機隊   東京音頭が大流行

             近現代史研究家  楢崎茂彌
 
  満州派遣部隊が立川に帰還した8月1日、飛行第五連隊が編成替えになりました。
これに先だって7月20日には第五連隊長が交代します。連隊長木下大佐は第七連隊(静岡県浜松市三方原・爆撃175-1.jpg機隊)に転属となり、飛行場に整列した将兵を前に“兵備改善に直面し画時代的の転替を前にして諸君と袂別するが、今後益々非常時の軍人として本分を尽くされたい”と挨拶をします。新連隊長は航空本部技術部第一課長から栄転した田中毅一中佐で、8月1日付けで大佐に昇進します。
  下士官、兵が転入してくる前に、7月24日に先ず戦闘機が滋賀県八日市の飛行第三連隊(戦闘機・偵察機隊)から空中輸送されてきます。「東京日日新聞・府下版」(1933.7.25)は“新鋭の九十一式戦闘機○○台は午前10時、甲式四型戦闘機○○台は午後2時40分に立川陸軍飛行場に到着、第三格納庫に納まった”と報じています。
  編成替え当日と翌日、立川駅は雑踏を極めます。「東京日日新聞・府下版」(1933.8.1)は、その様子を次のように報じています。“今明日の転出入は既報より変更されて次の通りである▲1日午前七時五分兵○○名立川駅出発飛行第七連隊へ△同時刻満州より兵○○名(別項)立川駅着凱旋▲午前十一時二十三分下士○○名、兵○○○名立川駅出発飛行第三連隊へ△二日午前八時三分下士○○名、兵○○○名立川駅着第三連隊より△(時間不明)将校○○名立川駅着飛行三連隊より”。軍事機密のせいか人員数に伏せ字が多くて、動きがよく分かりませんね。
175-2.jpg ところが7月20日の同紙は、人数を具体的に報じています。記事によると第三連隊に転出する下士官は16名・兵は165名、第七連隊に転出するのは兵13名で、前回に紹介した満州への交替部隊については“兵○○○名立川発満州へ”と伏せ字です。転出飛行機は乙式偵察機6台が飛行第三連隊へ空中輸送されます。転入については“下士官二十二名、兵百五十名が八月二日午前八時立川駅着で飛行第三連隊より、転入飛行機甲式四型戦闘機十二台(二十七日)、九十一式戦闘機十三台(二十四日十台、二十九日三台)飛行三連隊より空中輸送”。戦闘機2中隊で25台だから、一中隊は兵員80名前後、戦闘機12機前後であることがわかります。
  8月1日の「東京日日新聞・府下版」は”戦闘隊を迎えて けふから新陣容 凱旋・転出入に大忙多忙「われ等の飛五」拡充“と見出しを打って次のように報じています。“立川飛行第五連隊は、今一日を期して編成替えとなり創立以来十一年偵察隊として輝いた歴史を捨てて、戦闘、偵察併用機隊として新陣容を構成する”(「東京日日新聞・府下版」1933.8.1)。事実はこの記事とは少し違っていて、連載NO78に書いたように、宇垣軍縮により、大正14(1925)年に、第五連隊の偵察第三中隊が戦闘中隊に編成替えになったことがあります。ところがこの戦闘隊は昭和2(1927)年には、廃止となり再び偵察第三中隊に戻っています。改編の理由は“各飛行連隊は各一分科であることが、教育訓練、補給、補充等に便利なことが明らかであり”(戦史叢書52「陸軍航空の軍備と運用1」朝雲新聞社1971年刊)だったようで、同時に飛行第三連隊も改編されています。
  では今回の編成替えの理由は何だったのでしょうか。「陸軍航空兵器の軍備と運用 1」は満州事変がその大きな要因だと説明しています。満州事変での航空作戦は陸軍航空の初陣と言えるものですが、当時の中国側の航空戦力は弱体で空中戦闘などが出現しませんでした。しかし、演習では味わえない実践的な体験をして、航空部隊の編成、装備、教育補充、補給修理、地上勤務、指揮組織などに関する多くの教訓を得たとしています。満州事変により航空の価値が陸軍全体に認識され、陸軍航空拡充の契機になったと評価しています。
  現実的な問題としては、3年前の昭和5(1930)年に完了した陸軍航空26個中隊軍備は、満州事変により、内地から9個飛行中隊基幹の兵力が満州に派遣され(第五連隊は連隊長まで関東軍に編入された)、欠数が生じています。この事態に対応して陸軍は、この年(昭和8年)に「時局兵備改善計画」を策定し、26中隊を35中隊に増強すること、連隊の分科を整理すること、関東軍飛行隊を増強すること、機種改編の促進などを行います。この方針に沿って第一連隊から第八連隊の改編が進められ、第五連隊の改編はこの一環でした。因みに下士官、兵隊と戦闘機を立川に送り込んだ第三連隊は、偵察3中隊に編成替えとなっています。こうして陸軍は次の戦争に備えていくわけです。
 
  東京音頭が大流行
  第五連隊の改編が行われた8月1日、東京の芝公園(東京タワーがある公園)では。“東京音頭踊り”と名付けた盆踊り大会(主催時事新報社、東京市後援)が開催されました。このあと、東京市内各地の公園では東京音頭大会が繰り広げられます。東京音頭が大流行した背景には、前年の“大東京”の誕生があります。
  連載NO.168に、並木さんの”東京市のボロ門“のことを書きましたが、1932年に東京市が35区に拡大し、面積では世界5番目、人口は日本第2位の大阪市の倍を優に超える551万人の”大東京”となりました(4年後に千歳・砧村が世田谷区に編入されて、人口はニューヨークに次ぐ世界第2位となります)。日比谷公園の中にある松本楼の当時の社長小坂光雄氏の証言によると、大東京が誕生した昭和7(1932)年、丸の内の旦那衆が集って、景気づけに都会の盆踊りをやろうという話がでます。そこでビクターに依頼して、西条八十作詞、中山晋平作曲による“丸の内音頭”が作られました(「証言 私の昭和史1」旺文社文庫1984刊)。この時期は、北原白秋などが中心となった新民謡ブームが続いており、“丸の内音頭”もこのブームの一環です。NO85で紹介した“立川小唄”もこの新民謡ブームにのったものでした。
  一昨年、豊泉喜一さんや中野隆右さんなどの有志により、立川小唄の記念碑が元・立川陸軍飛行場営門のそばの公園の中に建てられました。歌詞の脇に“立川小唄記念碑建立由来”が刻んであります。何度か訪ねたことはあるのですが、昨日、初めてこの由来を読んでみると、書き始めが“大正11年(1923年)立川に陸軍飛行場が開設。”となっています。えっ、大正11年は1922年ですよね、歌詞の方に気をとられてウッカリしたのでしょうが、このままではまずい…。
175-3.jpg  それはさておき、野口雨情、三木露風、中山晋平などもかかわった”新民謡運動”については、『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』(中野敏男著・NHKブックス2012年刊)が、とても詳細な考察を加えています。
  ビクターは“丸の内音頭”が好評を博したので、同じメロディーを使い“大東京”をイメージさせる歌詞に変えた“東京音頭”を発表、レコードは100万から120万枚売れる大ヒットとなり(当時のビクター営業部員八木沢俊夫による)、東京ばかりでなく全国にブームは広がりました。僕が小学校低学年だった頃に、近所の権田さんに連れられて行った駒澤大学のグランドで行われた盆踊り大会でも“東京音頭”が流れていた覚えがあります。歌詞はご存じの通り“ハア 踊り踊るなら チョイト 東京音頭 ヨイヨイ”から始まる他愛ないものだと思っていたのですが、今は歌われていない歌詞がありました。
  2番
  東京よいとこ 日の本てらす 
  君が御稜威(みいづ)は、君が御稜威は天照らす (*御稜威:天皇の威光)
 5番
 君と臣(たみ)との  千歳の契り 
  結ぶ都の 結ぶ都の二重橋 
 
  ちゃんと権力におもねる仕掛けがしてあるのですね。レコードから流れる東京音頭に合わせて踊る人々の写真を見て、号令のもと1万人がラジオ体操をした「第3回夏期ラジオ体操開会式」(連載NO.145)を思い出しました。


写真1番目 甲式四型      「東京日日新聞・府下版」(1933.7.25)
写真2番目 この偉観 拡充する飛行第五連隊と田中連隊長 「東京日日新聞・府下版」(1933.8.1)
写真3番目 立川小唄記念碑    筆者 2019.3.14撮影


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ミツバチからのメッセージ №2 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

やはり農薬だった!

       造園家・ミツバチ保護活動家  御園 孝

 今までもミツバチ大量死は有ったのですが、新農薬ネオニコチノイドの出現により、今までとは比べようのない大量死の被害が広がってしまいました。以前と同じように撒く方法もありますが、新農薬は浸透移行性と言う性質を利用して、種子に農薬をコーティングすることで、農薬が内部に浸透し育った苗の内部が農薬で満たされ、苗をかじった虫が死ぬというものです。もちろん以前のように雨で流れることが無く、効果が持続しつづけることで、撒布回数を減らすことができ減農薬になると、もてはやされています。しかし散布回数が減るだけのことで、毒性は以前より高くなってしまいました。
 アメリカやヨーロッパなど地平線が見えるような平らで広い畑で、種子を機械撒きすると、コーティングされた農薬が粉塵になって空気中を浮遊するのですが、普通の散布とは桁外れに濃度が高いために、通りかかったミツバチが全滅したのです。その後も苗の葉先から朝露(グッティション)がにじみ出るのですが、やはり高濃度の農薬が混じっていて、それを吸ったミツバチがその場で死んでしまうのです。巣箱にはたっぷりとハチミツと生まれたばかりの飛べないミツバチと女王バチだけが残されていた。これは不思議で原因不明な現象CCDと呼び恐れおののきました。ですがミツバチを飼育している人たちは皆解っていたのです。不思議で原因不明の現象ではなく農薬のせいだと。

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岩手県盛岡では、稲の出穂頃に撒くネオニコチノイド系農薬ダントツの影響で、ミツバチが大量死した。



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線路はつづくよ~昭和の鉄路の風景に魅せられて №122 [ふるさと立川・多摩・武蔵]

雪のしなの鉄道   

                  岩本啓介                                        

しなの鉄道の車両は全て懐かしい国鉄形車両の115系                            
昨年 台湾鉄道管理局(台鉄)と友好協定締結を記念し
115系電車1編成を台鉄塗色に変更して運行中です。 

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信越大橋俯瞰 黒姫~妙高高原
                           

雪で埋もれ田んぼの中を台鉄塗色の115系が走り抜けます。
バックのは黒姫山です。 

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