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私の中の一期一会 №188 [雑木林の四季]

          失言オンパレードの桜田義孝五輪担当大臣がついにクビを切られた
      ~「安倍・麻生道路」整備事業で「忖度」発言の塚田副国交相も辞任した~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘


 4月5日に塚田一郎国土交通副大臣、10日には桜田義孝五輪担当大臣が、共に“不適切”な発言の責任をとって相次いで辞任した。
 これまでも事実誤認や失態・失言が続いて“無能大臣”のレッテルを貼られていた桜田五輪担当大臣は、10日に都内で開かれた自民党の高橋比奈子衆議院議員のパーティで致命的な失言をした。
 「来年は東京オリンピック、世界中の人が日本にくる。おもてなしの心を持って復興に協力していただければありがたい。そして(大震災被災地の)復興以上に大事なのは高橋さんです」と被災者の気持ちを逆なでするような無神経な発言をした。
 首相はこれまで桜田氏を何度も庇い続けてきたが、東日本大震災の被災地にからむ失言となればハナシは別だった。
 かつて大震災が「東北だから良かった」と口を滑らせて更迭された今村雅弘大臣同様の“即刻辞任”となったのである。
 前回の参院選で自民党は東北地方で苦戦したので、「復興以上に高橋さんが大事」という失言が夏の参院選に及ぼす影響を考え、発言から2時間足らずのスピード辞任になったとみられている。
 桜田氏は、“被災者の気持ちを傷つける失言だった”と反省を口にして発言を撤回、責任を感じて辞表を提出したと語った。
 しどろもどろの答弁や蓮舫議員を「レンポウさん」、石巻市を「いしまきし」と何回もいい間違えるなど失笑もので、閣僚としての資質を問題視する声が多かった桜田義孝衆議院議員である。
 所属する二階派の幹部も「もう庇いきれない」と白旗をあげたという。
 安倍首相は「被災者の皆様に深くお詫び申し上げたい。任命責任はもとより私にあり、こうした事態に至ったことについて、国民にお詫び申し上げる」と陳謝した。 
  それにしても、安倍首相は「何故、あんなお粗末な人を大臣にした」のだろうか。
 政治アナリストの伊藤惇夫氏によれば、安倍首相は昨年9月の総裁選で、何としても3選を果たしたかった。そのため派閥にすり寄る必要があったのだ。
 二階派44人の票を固めて貰うため、大臣ポストを2つ約束したという。
 桜田義孝、片山さつき両大臣の誕生には、そうした事情があったのである。
 五輪担当相はさほど重要ではない。要するに軽量ポストと見られている。
 安倍政権は、加計学園や文書改ざんの問題でも適当な言い訳をして終わりにしようとしている。
 あったこともなかったことにしたり、論点ずらしや批判の矛先をそらすことなどに長けている。
 ただでさえバラバラな野党は、数の力で抑え込こむことができる。
 やりたい放題が通るから、巨悪は何時まで経っても目に見えてこないのだ。
 プレジデントオンラインにも似たような記事が出ていた。
 安倍首相は今回、人事で徹底した論功行賞を行ったというのだ。
 資質がなくても、少々スキャンダルを抱えていても、総裁選で自分を応援してくれた派閥の領袖の推薦に基づいて入閣させただけの話しなのだ。
 だから桜田氏に限らず、問題を起した閣僚が説明責任を果たさなければ、更迭に踏み切るだけのハナシだ。
 マスコミは、閣僚が問題を起すと「首相の任命責任」を指摘するが、適当な言い訳でお茶を濁されてしまうのがオチだ。 
 もう一方の塚田国土交通副大臣は、4月1日に北九州市で開かれた福岡県知事選挙の候補者による集会で「忖度」発言をしたことが命取りになった。
 適材ではなかった桜田大臣の辞任は当然で、むしろ“引導を渡すのが遅すぎた”感さえする。
 しかし同じ辞任でも、塚田一郎副大臣の「忖度」発言は、うさん臭く悪臭が漂うように思えてならない。
 毎日新聞は5日の朝刊で、下関・北九州道路の建設計画を巡って塚田国交副大臣が『安倍首相と麻生副総理の意向を「忖度」して利益誘導したととれる発言をした』と報じ、発言の責任を取って辞任したと1面トップで伝えた。
 ところが産経新聞は、「辞任に“忖度はない”塚田副大臣」という書き出しで始まる記事になっていた。
 塚田氏は「事実と異なる発言で多大なご迷惑をおかけした。国民の皆様に謝罪申し上げたい」と辞任記者会見で“深々と頭を垂れた”ことが強調されているようにも感じた。
 塚田氏は3日の国会でも、『安倍総理、麻生副総理が言えないから私が忖度したという発言について、誠に申し訳ございませんでした。北九州下関道路に関する発言の内容について、それは事実と異なっているということで撤回させていただきました」と陳謝した。
 「何が違っているのか?」という追及にも「私が忖度したことはございません。安倍総理、麻生副総理の地元の案件だから特別に配慮したということはございません」と弁解している。
  だが弁解空しく、塚田氏は辞任に追い込まれたのだ。「トカゲの尻尾切りだ」という声もある
  4月3日の“NHK政治マガジン”に、“注目の発言集”という記事があり、“塚田一郎国土交通副大臣の発言の詳細”が記載されていた。
   福岡県知事選の候補者の集会で、鉢巻を締めて壇上から発言する写真付きの記事でもある。
   ちょっと長いが、演説を聞いてみよう・・
 「道路整備は11年前に凍結された。コンクリートから人へという、とんでもない内閣があった。
   安倍総理大臣は悪夢のようだと言ったが、まさにその通りだ。
   公共事業はやらないという民主党政権が出来て、こういう事業は全部凍結してしまった。
   皆さん、よく考えてください。下関は誰の地盤か?・・安倍総理だ。
   安倍総理大臣から麻生副総理の地元への道路事業が止まっているわけだ。
   吉田参議院幹事長と大家敏志参議院議員が副大臣室に来て『何とかしてもらいたい』と言われた。
 “動かしてくれ”ということだ。
   吉田氏が私の顔を見て『塚田、分かっているな。これは安倍総理の地元と麻生副総理の地元の事業なんだ。俺が何で来たと思うか?』と言った。私はすごく物分かりがいい、すぐ忖度する。
 総理大臣と副総理がそんなこと言えない。森友学園などでいろいろ言われるが、そんなこと実際にはない。
 でも、私は忖度する。
 それで、この道路事業を再スタートするには、いったん国で調査を引き取らせてもらうことになり、今回の予算で国直轄の調査計画に引き上げた・・・」
 発言はもう少し続くのだが、塚田氏は身内の集会で知事候補の応援ではなく“己の自慢話”をしたに過ぎないのではないか・・私はそう感じている。
 塚田氏は国会で「総理や副総理が言えないから忖度したという発言は事実ではない」と弁解しているが、「忖度」しても、「した」と白状するケースはほとんどないと聞いている。
 注目の発言集で読む限り、忖度したのは吉田参議院幹事長とみるべきだろう。
 「塚田、分かっているな」とか「俺が何で来たか分かるな」という副大臣室の情景は妙に生々しいではないか。塚田氏は“副大臣室の事実”を演壇からレポートしていたのである。
 副大臣室で吉田参議院幹事長らが塚田氏の前に現れたとき、国交省の幹部も同席していた筈だから、記録を公開して“やりとりを明らかにすべきだ”という声もあるが、安倍政権は都合の悪い話しには応じないだろう・・・
 プレジデントオンラインは、「何でも、誰でもが、“安倍首相を忖度して利益誘導を計る”ケースがが多過ぎる。日本のこの政治状況は異常だ」と述べている。
 「令和」という新しい時代が、あと半月でやって来るというのに。
 長期政権が故の「驕り」や「緩み」、「惰性の政治」が、まだまだ続くのだろうか・・・


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浜田山通信 №240 [雑木林の四季]

高田博厚彫刻プロムナード

             ジャーナリスト  野村勝美

 3月末、埼玉県東松山市教育委員会から「高坂彫刻プロムナード高田博厚彫刻群」の資料とともに問い合わせの手紙が送られてきた。私が「福井文人会」の世話係をしていた頃の話などを伺いたいとのことだった。ごていねいに私がサンデー毎日にいた頃、文人会の諸先輩に出した日程の都合伺いの手紙のコピーまで同封されていた。もう50年も昔の話だ。とりあえずおぼつかない記憶をたよりに返事を出したが、私が驚いたのは高田博厚さんの彫刻が32体も東上線高坂駅から1キロにわたって展示されていることだった。高村光太郎、タゴール、棟方志功、新渡戸稲造、宮沢賢治、マハトマ・ガンジーなど国際的署名人像や「女のトルソ」など高田博厚をして国際的芸術家たらしめた主要作品のほとんどがプロムナードに並んでいる。一人の作家の彫刻がこんなにも多く展示されているのはおそらく東松山が唯一だろう。私はこのことを全く知らなかったから嬉しさが込みあげた。
 福井文人会というのは、戦後の混乱・復興期が落ちつきをとりもどした昭和42年頃、当時福井市長だった島田博道氏が、たしか民芸の宇野重吉と同級だった関係で文人会を提唱して始まった。あの頃の郷党意識は強く、すぐ中野重治、深田久弥、高田博厚、多田裕計、宇野重吉、水上勉さんらが集まった。いまの若い人は、名前も知らないメンバーかもしれないが、当時はその道の第一人者ばかり、なかでも高田博厚さんは渡欧してロマン・ロランに認められ、国際的に有名になった。パリでは、福井の蟹はうまいぞと言い歩いて「越前ガニ」とあだ名で呼ばれた。話題も豊富で、他愛もない話、戦前の福井の町の様子や田舎の暮らし向きなどが多かった。博厚さんとは関係ないが、中野重治が水上勉に「君のことを皆ミナカミベンと言っているが、ほんとはミズカミだろう」ときくと、「はい、ミズカミです。」と勉さんがかしこまって答えた。上越の水上をミナカミと言い出してから水上をミナカミというようになったという。
 博厚さんには「サンデー毎日」の書評担当時代に、鎌倉に新築されたアトリエへ著者のインタビューで一度お伺いしたことがある。谷合いの静かだが緑濃いこ所だった。紹介した本は講談社現代新書「偉大な芸術家たち ロダン ブールデル マイヨール」である。彫刻のことなど何一つ知らないのに、30年後輩の福井中学(現藤島高校)同窓生というだけで実に親切に手とり足とり教えてもらった。その本をもう一度読みなおしてインタビューを記事にしたが、ほとんどが中身の引用ばかりでいま読み返しても恥ずかしい。同じ頃みすず書房から発表された「ルオー」にも私あてに「一九六七年十月十三日 鎌倉にて 高田博厚」と威勢よくサインしてもらい宝物のようにしまってある。
 東松山のプロムナードには近くなんとしてもでかけるつもりでいる。

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BS-TBS番組情報 №184 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年4月のおすすめ番組(下)

                BS-TBS広報宣伝部

ねこ自慢

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毎週(日)午前11:00~11:30

☆ウチのニャンコが一番かわいい!日本各地で「ねこ自慢」インタビュー!!

まだまだ衰えない「猫ブーム」!今やペットの主役は『猫』なんです!
「ウチのニャンコが一番かわいい!」
毎週、日本各地の猫を飼っているお宅を訪れ、飼主さんに「自慢の猫」についてインタビュー。
ベスト写真や動画を見せていただきながら、かわいい猫の表情や仕草を堪能します。

■4月21日(日)
#1(再)「照英がインスタグラム14万のフォロワーを得る猫を訪問!」
今回は、大の動物好きの照英がインスタグラム14万のフォロワーを得る猫を訪問
★インスタグラムで14万のフォロワー!二匹の人気にゃんこには驚きの特技がありました!!
★ツイッターのフォロワー数が14万のにゃんこ。大人気の秘密は、大俳優〇〇にそっくりな表情をするから。
果たしてどんな猫が登場するのでしょうか?

■4月28日(日)
#2(再)「ブログで人気のスコティッシュフォールドを照英が訪問!」
ウチの猫が一番かわいい!毎週、猫を飼うお宅を訪問。かわいい猫の表情や仕草を堪能。今回は、ブログで人気のスコティッシュフォールドを照英が訪ねます!
★ブログで人気の2匹のスコティッシュフォールド。ビロードのような毛並みの猫の意外な好物、そしてお気に入りの場所は?
★家族をつなぐかわいい天使!2世帯住宅に暮らすスコティッシュフォールド。お母さんの手をつかんでおやつを食べたり、お父さんの足の裏をふみふみしたり!
果たしてどんな猫が登場するのでしょうか?

オトナ女子ストーリーズ

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毎週(日)午前11:30~12:00

☆各ジャンルで活躍・奮闘する女性に密着!

今の時代を生きるオトナ女子たちは、夢を実現させるためにどのような時間を送っているか、どのように時間を使っているか。休日は?リラックスタイムは?そして、譲れないあなたの大切な時間は?

■4月21日(日)
#1(再)「女流し・おかゆ」
ギター一本で日本全国を渡り歩く女流し・おかゆ。地方の飲み屋街を一人で飛び込み交渉し、客のリクエスト曲を即座に披露していく。流しにこだわる裏には亡き母の姿が…歌で生きていくと決めた彼女のストーリーを追う。

■4月28日(日)
#2(再)「鮮魚店・森朝奈」
IT大手・楽天というエリートの道を捨て、家業の鮮魚店で働く森朝奈。早朝、寒さの厳しい中黙々と作業し魚をさばく。その横では幼少から憧れる父が目を光らせる。父の仕事を継ぐと決めた女性のストーリーを追った…。

関口宏が100歳になる時

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~医療は人を幸せにしているか?スペシャル~

2019年4月26日(金)よる9:00~10:54

★関口宏が100才になった時 世の中はどうなっている?「医療」の専門家に聴いて、探ります!

司会:関口宏
パネラー:関根麻里 ほか

日本人の平均寿命は80歳を超え、今や“人生100年時代”。
技術革新はスピードを増し、特にこの20年で日本人の生活は一変した。
そんな時代の変化に戸惑いを感じ、漠とした未来に不安を感じている人もいるのではないだろうか。
そこで、関口宏(75)は考えた。
自分が100才になったその時、世の中はどうなっているのか?
これからの数十年、私たちはどう生きるのか?
ならば、世の人々を代表して聴いてみよう!トップクラスの専門家に…
今回は、「医療」の専門家をゲストに招き、関口宏が忖度無しに質問を投げかけ、「医療」が切り開く未来をあぶりだします。
質問に答えてくれるのは…
天皇陛下の執刀医をつとめた心臓血管外科手術の権威・天野篤氏をはじめ、最先端の医療をリードする医師や専門家。
さらに、ノーベル生理学・医学賞受賞 大隅良典氏も出演!
認知症、アンチエイジング治療の未来について語っていただきます。
新元号に変わる今、新たな時代への明るいビジョンを提示する特別企画です。


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バルタンの呟き №55 [雑木林の四季]

「皇紀2680年!大政翼賛会?」     

                映画監督  飯島敏宏
 さよなら!平成31年、こんにちは!令和元年、めでたくも皇紀2680年です。平成天皇の退位、新天皇の即位、そして、まもなく迎える2020東京オリンピック・パラリンピック。いまや、テレビも、新聞も、雑誌も、ネットも、メディア総揚げで、お祭り騒ぎです。おまけに、お札まで、福沢諭吉が渋沢栄一に、野口英世が北里柴三郎に、樋口一葉が津田梅子に変ります。変わらぬものは・・・まさに相変わらずの政界です。
 あとは、憲法改正(大日本帝国憲法の復活)と、その向こうに見えてきたのが、政党崩壊・・・国会無視の専制内閣誕生・・・大政翼賛政治、やがて富国強兵の軍政内閣から、ついに核保有・・・これは、昭和、平成、そして、もう少しで令和の三代を生きてきた僕の、経験からの妄想です。

 権威ある易断によると、平成31年つまり来年の3月までは、家の建築、土地開発は大凶だとあります。ところが、目下、日本は、嘗ての東京オリンピック直前の日本列島改造と言われた時期同様に、いや、それ以上に、何処に行っても、クレーンが建ち、ブルドーザー、ショベルが動き回っている状態で、2020TOKYO復興オリンピックと唱えながら、災害復興に先んじて、オリンピックの為の新たな施設建築や、環境整備と、趣旨を測りかねる地方創生事業のために、建設労務者が奪われて、肝心の復興は停滞するという大矛盾を抱えたままで進行中です。 

 国会での、政治的な重要課題の審議をおろそかにして、令和に浮かれてはしゃぎ回る内閣の称える、「我が国の進むべき道はこの道しかありません」は、僕には、冷静に考えれば考えるほど、とてもついて行けない「この道・・・」に思えるのです。

 我が国の国書である万葉集からの引用、と銘打って総理府が選んだ新元号令和が、学問的な考察で、事実上は、原点とする万葉の詩そのものが、中国の後漢時代の張衡の詩に影響を受けたものだった、という恥さらしは、失笑で済むかもしれないけれども、なんだか、国粋などという古めかしい言葉を持ち出したくなるような危うさを感じてならないのです。せっかく現在、世界でいちばん平和で、治安が保たれている国と見られて、海外から観光客や留学生が殺到しているこの国が、令和になった途端に、不安定な危険な国に変貌してしまったら・・・75年前同様の危険な道に通じてしまうことになったら・・・

 令という字の象形文字としての本源は、大きな山の前にひれ伏す人間の姿だといいます。律令、命令などの語から推察すると、令は、清い、潔いという意味から転じて、規制し従わせる、という意味もあるとする辞典もあります。律令制度という例が、それを示しています。
 こうなると、遅れ馳せに、この案を、所謂各界の識者からなる最終選考の場、に持ち込んだといわれる意趣に、忖度の疑問を感じてしまうのです。
 いま、日本中のあらゆる媒体で紹介されつつある、元号発表の席で、官房長官が掲げた令の書き巡最後の縦棒の筆跡が、跳ねていますが、仮に、漢字書き取りの試験で、下に抜かずに、撥ねていたら果たして正解とされるのか・・・
 ただし、縦棒を抜いて終わると、片腕をもがれた弥次郎兵衛のように、文字として非常に不安定な形になってしまいます。といって、マでも正解、と断じられると、それならば他の字、卑近な例で、丁、でも、そんな変化が認められるのか、という困った事になるのではないでしょうか。何故か近ごろ、道理が引っ込む、無理が通っている気がしてならないのです。「令」という、見るからに不安定な字が、文字通り、不安定な政治、不安定な生活を暗示する物でなければいいのですが・・
 国際交流の必要が、強調されている今日、日本の国語の令が、REIと発音されるから、そのように表示するらしいのですが、これもまた、むしろ、令は、LEIと表示した方が、REIよりも原音に忠実だし、外国語で発音しやすい、という事も言われています。

 実際に筆を執って令と書いてみましたが、?は、左右均衡で安定しますが、令は、片方が重くて、安定しません。急いで書くときには、ぼくもきっと、マ、で書いてしまうでしょう。もっとも、なんにでも安定を求めるのは、老いた証拠だ、とも言われそうですが・・・
 なに、かに、と、天皇家と元号に託けて、華やかな祝宴、繚乱と咲く桜などを背景に、観衆に「我が国の令和に向かって、しっかりと、国民と共に、全力で、進んでまいります!」と、型通りのジェスチャーで演説する首相の頻出する、テレビニュースを眺めていると、その音声の響きに、80年前の、紀元2600年祝賀会場で、ラジオから朗々と流れた、近衛文麿総理大臣の一億臣民に向けた挙国一致、勇往邁進の演説が併唱されてきてならないのです。
 当時の写真週報を見ると、その背後に、東条英機陸軍大臣の、次なる出番を待ち受ける炯々たる眼光が、・・・
紀元はニセーンロッピャクネーン・・・」
無碍な臣民が、大政翼賛の旗を振っているうちに・・・
最近の首相の言葉が、国民の皆様でなく、皆様、が落ちている気がしますが、これは、杞憂でしょうか・・・


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いつか空が晴れる №57 [雑木林の四季]

     いつか空が晴れる
         ―汚れちまった悲しみにー
                       澁澤京子

 満開の桜が散り始めて、急に気温が低くなった頃、父の具合が悪くなって緊急入院することになった。
心筋梗塞。暖かくなったり、急に真冬のように寒くなったりの温度差が96歳の父の体にはこたえたのだろう。

去年の春も父が入院した病院で、病室の窓からは目黒川の桜並木がよく見える。
絶対安静の状態でベッドに寝た切りの父。毎朝、看護婦さんが排せつ物の処理をしてからきれいに洗ってくれるのだそうだ。
「まだ若いのに、看護婦さんというのは大変な仕事だね、」
「そうねえ。」
「朝、看護婦さんに洗ってもらうたびに、中原中也の詩で(汚れちまった悲しみに・・・)っていうのがあるでしょう?あの詩がなぜか僕の頭の中に浮かんでくるんだよ。」

―汚れちまった悲しみに、今日も小雪のふりかかる・・・・汚れちまった悲しみに、なすところなく日が暮れるー

汚れちまった悲しみに、今日も小雪のふりかかる、か。
父は私に似て怖がりなのだ。病院が嫌いなところも似ているかもしれない。現実を直視できないようなところがあるのだ。
祖母が危篤のとき、父だけ病院から出ていなくなっていたことがあった。父は、自分の母親の死を見届けることが怖くてできなかった。

また、父は昔の人間だから、とても他人に遠慮する性格で、家族に対しても気を使うようなところがあるので、看護婦さんにそういった仕事をしてもらうのが恥ずかしいし、苦痛なのだろう。
そういえば、去年入院したときは、父から火野葦平の「糞尿譚」の話を聞いた。
「人っていうのは、結局最後は糞尿まみれになって死ぬのかなあ・・・・」
絶対安静で寝たきりの父は、しきりに火野葦平の「糞尿譚」の話をしていたっけ。

年を取るということは年々、赤裸々になっていくことなのかもしれない。精神的にも肉体的にも、若さでごまかしてきたものが、年取ることによって一枚一枚薄皮がはがれていくようにはがされていく。身体がまったく利かなくなった時に見る風景は、私が今見ている風景とはまた別のものになっているのだろうか。

余計なものがはがれおちていくということは、自分のちっぽけな意志なんてものは、ほとんど何の役にも立たなかったんだということに気が付いていくプロセスでもあるのかもしれない。

四月とは思えない寒い日で、病院を出ると、雨に濡れた遊歩道には散った桜の花びらがたくさん貼りついていた。



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梟翁夜話(きょうおうやわ) №37 [雑木林の四季]

「ある時代の終焉」

                 翻訳家  島村泰治

激動の昭和を承けて三十年、平成が幕を降ろし令和が舞台に上がる。平成の世、平民皇后の登場で天皇家は様変わりした。連れだって歩まれるご夫妻のご様子に庶民は天皇家をより身近に感じ、跪かれるお姿に先帝にはなかった「象徴天皇」の実像を見た。平成時代は図らずも天皇家の「脱皮」が緒に就いた時代ではなかったか。それは、国史を知る者には皇威落剥の第一歩であり、それを意に介さぬ者には滔々たる民意尊重の兆しが根づくかに思える年月だった。

そう、平成は戦後民主主義が表裏に亘り根づいた時代だ。中央では自民党を軸とする連立政権が常に手綱を握りこの国を御してきたかに見えて、その実態は保守主導の政治風土とはほど遠い。先ずは自民党自体の党内勢力図に左傾化が進み、保守は刻々と色褪せている。保守の旗手たる安倍政権にしてからが、かつて民意を背負って登場した野党政権が唱えて果たせなかった政策を拾い食いしているに過ぎず、今や巷に保守新党への動きさえ見える為体(ていたらく)だ。民意が活性化している証しである。野党諸党の党勢は下降に見えて実はそうではない。本来右よりの政策を自民党の左傾で蚕食されているに過ぎないからだ。

その一切は民意が活性化していることに原因する。昭和から平成へ、民意のベクトルは中道からやや左の微妙な線に収斂した。政党の勢力図で云えば野党の右側、自民主導の連立のやや左側、政治家群像で云えば野党側なら長島、細野、連立側なら額賀、二階止まりの左派が重なり合う辺りが民意に添う政治感覚ということになる。

平成はこのような政治風土の最中(さなか)に終焉する。民意を平均的な世論と捉えれば、日本は将にことを好まぬいいとこ取りの生活哲学に寄りかかる人間たちが、夢の楽園を求めて令和に雪崩れ込む。テレビは文化伝播のメディアとしての機能を失い、哀れ、商売道具に堕するのが眼に見える。メディア本山の新聞にしてもインターネットに実を奪われ凋落の兆しが明らかだ。

割れ鍋に綴じ蓋の摂理は文化にも及んでいる。言葉に無感覚な民意に迎合するものかきが蔓延(はびこ)るなか、名にし負う文学賞の類に既に古の品格はなく、純文学の砦は将に崩落の瀬戸際だ。お笑い芸人の戯れ言に芥川賞とは何ごとぞ。だが、ここで芸人に文学を弄ぶなと迫るのは筋違いだ。それをさせたのは他ならぬ巷の読者、つまり民意だからだ。民意が芸人にペンを握らせたのだから、書くなとは云えない。芸人風情の書きものは読み甲斐がないとする民意が育たなければ、芸人の戯れ言は平成から令和へ、さらに元号を追うごとに増えこそすれ減りはしない。鍋ほどに蓋が育つ摂理だからだ。

さて、そうなれば令和から先、この国は形無しになるではないか。いや、そうとは限らない。割れ鍋の摂理を活かせばこの日本、まだまだ捨てたものではない。民意が分数の分母なら、分母に相当する数字乃至数値の価値をグレードアップすればいいだけのことだ。民意の実態は個々人であり、その思いと行いが直に反映する有機的データだ。ならば、個々人の意識に「よき蓋を求める」思いが僅かにでも根ざせば、ともによりよい鍋を鋳り出すことができる。その鍋をさらによりよいものに鋳り続ければ、やがて誇れるほどの蓋が仕組まれようというものだ。

いま、グローバリズムへの猛省が叫ばれている。平成から令和へ、元号が改まる将にこの機にこそ日本は「国を見直す」べきであろう。民意の視線を外から内へ、日本の本来あるべき姿に改めて見直す千載一遇の機会だ。

世界を一瞥するに、紛争の多くに宗教間の諍いがある。キリスト教とイスラム教のそれは広く深く、そして長く世界の政治経済にまで波及して止まるところを知らない。日本には古来「かんながらのみち(随・惟神)」があり、超宗教的な自然の摂理を法(のり)として奉じてきた。改元の好機に日本は「かんながらのみち」に立ち返らねばならない。日本人の英知を傾けて「われとわが身を省みる」度量を見せねばならない。


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検証 公団居住60年 №30 [雑木林の四季]

2.家賃格差を生む公団家賃高騰のおもな原因

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 公団は1970年代、初の家賃いっせい値上げをする理由に「新旧家賃聞」だの、「公団住宅相互間」の不均衡是正をあげ、その立証の方策もないまま値上げに踏みきった。しかし、結局その立証は無理とわかるや、公団側はこれまでの主張を棚上げして、借家法のいう「経済事情の変動」一般にすがった。ここで新旧団地間に家賃格差を生んだ異常な家賃高騰の原因を確認しておくと、①地価、建設費の暴騰、②金利負担の増大、③関連公共公益施設負担金の増大などがあり、それらの原価すべてを家賃で回収する公団の「原価主義」の破たんの現われであり、政治的には政府の住宅無策に帰する。
 1)『日本住宅公団20年史』によると、6大都市の市街地価格指数は住宅地で、1955年を基準に65年で約10倍、70年は約18倍、73年になると約35倍にバネ上がった。住宅建設費は地価の高騰によって大きな影響をうけ、73年の戸当たり建設費は55年の約8倍となった。そのうち工事費の騰貴が6倍程度であるのにたいし、用地費の騰貴は約23倍という高率になっている。ちなみに、この建設原価が2年後の家賃設定に反映するとして、56年度を基準に75年度の新設家賃は、傾斜初年度平均で7.7倍、傾斜終了後は.9倍に驚異的は上昇を示した。
 2)公団の住宅事業はほとんど民間または政府資金からの借入れでまかなっている。政府資金とはいえ金利は7.6~8.2%と高利で、うち5%(面開発市街地団地では4.5%)分が家賃にくみこまれて居住者が負担している。それをこえる差額分を利子補給金として一般会計から支出する。建設費が増大すれば借入金はかさむ一方で、金利負担はふくれあがり、家賃の高騰をまねく。.81年建設予定団地の家賃のうち金利分が60.8%を占める。公共住宅の建設資金にたいする高金利、償却費、地代相当額として家賃から60%もの金利分とりたて自体が異常である。
 3)用地建設が自治体財政を圧迫し、「団地お断り」が60年代後半から出 はじめた。70年代にはいると用地費、建設費はさらに高騰して関連公共公益施設の負担金が、ますます原価主義家賃を押しあげた。上下水道、道路はもちろん、義務教育の小中学校の用地費や建設費、保育園、幼稚園、児童館から鉄道建設、あるいは駅前広場・駅舎、バス購入費などの負担金も家賃に含めている。1戸あたり100万円の税外負担であれば、その分だけで家賃は5,000~細0円高くなった。


『検証 公団居住60年』 東信堂

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私の中の一期一会 №187 [雑木林の四季]

        シアトル・マリナーズのイチロー、母国・日本で「現役引退」を発表
      ~「あの球場での出来事を見せられたら、後悔などあろうはずがない」~

         アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 イチロー現役最後の瞬間は、アスレチックスとの開幕2戦目の8回裏に訪れた。
 マリナーズの地元、シアトル・タイムズ紙は東京ドームのラストシーンを次のように地元に伝えた。
「マリナーズは4万6451人の大観衆が、心からイチロ-を称えることが出来るように配慮した。
 8回裏のイチローは一人ライトの守備位置に走ったが、他の選手はフィールドに向かわなかった。
 チームメートたちは、イチローが慣れ親しんだ守備位置につくのを待った。
 この時、東京ドームの場内アナウンスは“憧れの的”が試合から退場することを観客に説明した。
 大観衆が立ち上がり歓声をあげる中、イチローはゆっくりとダグアウトに戻っていった。
 マリナーズの選手一人一人がイチローと抱き合うためダグアウトを出る。この時アスレチックスの選手も立ち上がり拍手を送っていた・・・」と感動的な瞬間を記事にしている。
 確かに感動的な光景だった。サービス監督が交代の合図をした時、イチローの表情は柔和に変わっていった。ベンチにいる時の、いつもハンターのような鋭い眼差しが消えていたように私には見えた。
 手をあげて大観衆の歓声に応えながらベンチへ戻ったイチロ-は、マリナーズのチームメート、一人一人と抱き合い、スタッフたちとも固い握手や抱擁を交わしたが、イチローは終始笑みを浮かべ、目に涙を貯めるようなことはなかった。
 サンフランシスコ・クロニクル紙の電子版が詳しく伝えたことだが、イチローはこの後アスレチックスのダグアウトに向かい、帽子をとってボブ・メルビン監督に敬意を表したという。
 04年、イチローがシーズン262安打で、メジャー記録を84年振りに更新したときボブ・メルビンはマリナーズの監督だったのである。
 試合後メルビン監督は「彼は歴史に残る最も輝かしい成績を残した素晴らしい選手の一人だった。対戦チームが相手の選手にスタンディング・オベーションを送ることは滅多にないことだ」と述べている。
 シアトル・マリナーズのイチロー外野手が、アスレチックスとの開幕2戦目を花道に、母国で“現役引退”を発表するであろうことは、ほぼ1年前から噂されていたことであった。
 衰えが目立つイチローを大事な開幕戦に、マリナーズが先発起用した理由について、ティム・レイカー打撃コーチは次のように話した。
「イチローは偉大な選手だからだ。ここに来るまで1年近く生きたボールを打っていなかったのは大きい。
 だが、信じられない力を発揮するイチローの可能性にかけてみたのだ」と。
 若い選手や我々スタッフも多くのことを学べる筈だとレイカーコーチは言うのである。
 イチローの最後の勇姿を見ながらベンチで涙をこぼしたディー・ゴードンは「彼が日本での開幕戦でメンバー入りすることに異議を唱える選手なんてマリナーズには一人もいないよ」と断言した。
 何とかしてイチローに有終の美を飾らせようとするチームメートや監督、スタッフに囲まれて、メジャーリーガーのイチロー・スズキは、惜しまれつつ現役生活に別れを告げたのである。
 あの日、夜11時56分にイチローは記者会見場に姿を現わした。
「こんなにいるの?・・びっくりするわ」が彼の第1声だった。
 イチローはマリナーズのユニフォーム姿のまま、長時間に及ぶ深夜の引退会見が始った。
「今日のゲームを最後に、日本で9年、アメリカで19年目に突入したところだったんですけど、現役生活に終止符を打ち、引退することになりました。
 最後にこのユニフォームを着て、この日を迎えられたことを大変幸せに感じています。
 この28年を振り返るにはあまりにも長い時間だったので・・・ ここで一つ一つ振り返ることは難しい。  
 これまで応援していただいた方々への感謝の思い、球団関係者、チームメートに感謝を申し上げたい。皆様からの質問があればできる限りお答えしたいと思います」
 この夜のイチローはたくさんの質問に、嫌な顔ひとつせずよく喋ってくれた。 
 引退を決断したのは、アリゾナキャンプの終盤、日本に戻ってくる何日か前だった。
 もともと日本で、東京ドームでプレーするのは契約上の予定だった。キャンプ終盤で結果を出すことが出来ず、契約を覆すことが出来なかった。
 思い残すことはないかと訊かれ、「今日の、あの球場での出来事・・あんなもの見せられたら後悔などあろう筈がありません」という答えに、敢えて“未練はない”と言わないイチロー節は健在だなと思った。
 もっと出来たことはあると思うが、結果を残すために自分なりに頑張ってきたことはとハッキリ言える。
 自分のためにプレーすることが、チームのためになる。見てくれる人も喜んでくれると思ていたが、ニューヨークに移ってから“人に喜んで貰うこと”が一番の喜びに変わった。
 ファンの人無くして、自分のエネルギーは全く生まれないと言ってもいいと思うようになった。
 日本に戻るという選択肢はなかったのか?という質問には「なかったですね」の一言を返しただけだった。
 アメリカに来て外国人になったことで、“他人の心をおもんばかったり”、”痛みが分かったりする”今迄なかった自分が現れた。
 エネルギーがある時に、逃げ出したいものに立ち向かっていくのは大事なことだと思う・・・
 BSテレビで生中継された深夜の会見が、84分に及んだことは翌日の新聞で知った。
 日本のメディアと距離を置くイメージがあるイチローが、あんなに長く会見に応じるとは思わなかっただけに、新しいイチローに触れる思いがした。
 アメリカのスポーツ専門メディア、ジ・アスレチックによると、アメリカ時間21日朝、マイアミ・マーリンズの選手、コーチらが早朝からクラブハウスに姿を現わし、日本でのイチローの最後のスイングを見届けようとテレビの周りに集まったという。
 日本で21日の18時に試合が始まったとき、マイアミは米東部時間の21日午前5時であった。
 イチロー最後の打席についてドン・マッティングリー監督は「一瞬、審判が彼をアウトにするのをためらったように見えたねえ」と際どいタイミングだった一塁でのクロスプレ‐が話題になったことを記事にしている。
 マッティングリー監督は「イチローは打撃のやり方が独特だった。足の速さと守備などあらゆることが周りと違っていた。見ていてワクワクするものだった」と話したという。
 ダン・ストレイリー投手は「彼が野球に完璧なまでに身を捧げていたのは誰の目にも明らかだった。無駄な時間などなかった。彼と過ごした毎日は楽しかったよ」とイチローを懐かしんだ。
 マーリンズの選手たちは朝早くからテレビを囲んで、レジェンドに敬意を示し、最後の雄姿を目に焼き付けようとしていたのだろう。
 マリナーズのディポトGMは、現役を引退したイチローに何らかの役職を用意し、球団に残留させる意向を明らかにしている。だが具体的なことはまだ何も決まっていない。

 「51番が打席に立つたび、どれだけ胸を躍らせたことだろうか。
 ひょっとして、あれだけ面白い時代はもう訪れないのではないかと内心思っている、いや恐れている。
 存分に楽しませてもらったお礼を、いつか言えたらいいのに・・」
 スポーツジャーナリスト生島淳さんの言葉である。
 


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浜田山通信 №239 [雑木林の四季]

お花見と新元号

             ジャーナリスト  野村勝美

 3月末は、お花見と新元号の話題で持ちきりだった。桜の花は昔から日本人は大好きで、一日もお花見に行かなかったらよほどのへそ曲がりか日本嫌いになる。もっとも私のように、教科書の
 サイタ サイタ サクラ ガ サイタ
 ススメ ススメ ヘイタイ ススメ
で育った人間は、のちに”散華”なんていう潔く死のうという言葉をおぼえさせられたことなどもあって、ただきれいだなだけではすまないところがある。
 本居宣長の「しきしまの大和心をひと問はば 朝日ににほふ山桜ばな」なども軍国主義に利用されたのだが、私には宣長と山桜にはもうひとつの思い出がある。もう50年も昔、私は恩師の戸井田道三先生と伊勢路の旅に出た。雑誌の新年号なのでお伊勢さんから始めるかくらいのいいかげんな気持ちだったが、なに戸井田先生には本居宣長を書くという腹づもりがあった。というのも、当時、文学評論の第一人者小林秀雄が雑誌「新潮」に10年間にわたる長期連載「本居宣長」」を書いていたからである。連載中から大評判になった。それも小林は宣長の遺書から書き始めた。その遺書は自分が死んだあとの葬式やお墓の作り方を細かに記してあり、誰しもがどうして?と思った。いきなり読者を宣長の世界に引っ張り込むには見事な手法であった。
 それで私は先生に連れられて山室山の頂上近くにある墓地に出かけることになる。先生は若い時から結核で山登りなどしたことがなく、私に「宣長の指図通りの墓地になっているか見てきてくれ」といわれた。けっこう高いところだったが、私としても先生をふもとに一人待たせては悪いと思い、殆どとんぼ返りで墓地を往復した。墓標の配置や大きさなどは記録どおりだったが、墓地の傍らの山桜はヒョロヒョロとした若木だった。二代目か三代目を地元の人が植えたのだろう。この桜も今頃はみごとに成長して簡素な墓地に彩りをそえていることだろう。
 私はこれをきっかけに小林秀雄の大著も読んだし、のちに友人と研究会もやったが、細かいことは忘れてしまった。いい時代だった。
 新元号というのか新年号というのか、どちらでもよいが、政府が決めて世界中の国へ通知するのだという。年号なんて中国や韓国でも使っていないし、だいたいが西暦だから通知された方も迷惑だろう。外交文書などどうするのだろう。元号が天皇一代一元になったのは明治維新からだし、明治の前の孝明天皇など弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治と6回も年号をかえている。安政の大獄や万延元年のフットボール(大江健三郎の小説)は知っている人は知っているが、その時の天皇が孝明だったとはあまり知らないだろう。昭和だって戦前と戦後を同じ時代にしてしまうのは乱暴だろう。日本という国は戦争に勝っても負けてもいい国だと自分から思い、外国の人にも思ってほしいらしい。

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BS-TBS番組情報 №183 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年4月のおすすめ番組(上)

                                                  BS-TBS広報宣伝部

[新番組] 町中華で飲(や)飲ろうぜ

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2019年4月1日スタート
毎週(月)よる11:00~12:00

☆昭和な町の中華料理店を、玉袋筋太郎がブラリと訪れる!

出演:玉袋筋太郎 ほか

どの町の駅前にもある、メシがあり、ツマミもあり、酒も飲める、昭和な「町中華」。
そんな一人でも大勢でも気楽な店「東京の各町の中華料理店」に、町飲み大好きな玉袋筋太郎がブラリと訪れます。
後半は、女性版「町中華で飲ろうぜ」!
ゆったり楽しめ、強烈なメシテロになるメシ&飲み&おしゃべり番組です。

[新番組] おじさん くた美れ旅

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2019年4月3日スタート
毎週(水)よる10:00~10:54

☆古いのになぜか新しく感じる…日本全国の"くた美れ"スポットを、おじさんが旅する。

旅人:上島竜兵(4月3日放送)、モロ師岡(4月17日放送) ほか
ナレーション:飯尾和樹(ずん)

ちょっと疲れたおじさんが向かう旅は、古いのに、何故か新しく感じる!
それが… “くた美れ”スポット。
毎回ひとりのおじさんタレント・俳優が、日本全国の癒しスポットを“くた美れ”スポットとして紹介!
温泉宿、観光地、定食屋、飲み屋など、昔懐かしい場所を巡り、おじさんが視聴者の心と体の疲れを癒します。
第1回となる4月3日放送では、ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんが千葉県の銚子を旅します。
4月17日放送、第2回の旅人は俳優・モロ師岡さん。
どうぞお楽しみに!

[新番組]ご近所さんは世界から!

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2019年4月3日スタート
毎週(水)よる11:30~12:00

☆「世界からやってきたご近所さん」 そのありのままの姿に迫ります!!

番組ナビゲーター:壇蜜

日本に住む外国人数は、現在263万7251人(※)。
4年連続で過去最高を更新中で、すでに日本の人口の約2%に!
もはや、【とっても身近なご近所さん】と言っても過言ではありません。
しかし、海の向こうから遥々やってきたご近所さんが、一体どんな方々なのか?よく理解できていないのが現状…。
そこで、この番組では毎回ある地域を訪問し、市町村役場や住人から情報を収集。
外国人を探して直接会いに行き、その暮らしぶりをレポート。
どんな仕事をして生活しているのか?どうやってご近所に溶け込んでいるのか?
決してよそゆきではない、ありのままの姿に迫ります。
※2018年6月末現在 法務省発表(速報値)


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バルタンの呟き №54 [雑木林の四季]

「エイプリルフール!」          

               映画監督  飯島敏宏

 エイプリルフール! なんと古めかしく響く言葉になってしまったことか。ひと昔前までは、4月1日の朝というと、目覚めと共にネタを用意して、
「今日は、どんな気の利いた嘘をついてやろうか」
と、周囲を見回し、その日一番に出会った恰好の人物を鴨にして、その効果を楽しんだものでしたが、ここ数年は、世の中がせせこましくなったのか、それとも、こちらがスローモーになったのかよく解りませんが、すっかりそんな風習を忘れてしまい、翌2日になってから「あっ!」と、思い出し、「残念だったなあ、とっておきのネタがあったのに・・」などと口惜しい思いをするようになってしまいました。
と、書いたところで、
「いや、待てよ、もしかすると、去年、何かそれめいた事を何処かに書いたり、近しい人に仕掛けやしなかったかな?」と自信がなくなったりして、加齢性脳萎縮の心配する切ない昨今の話になりそうです。
「これも、年齢のせいか・・・」と、素直に嘆くべきか、それとも、さらに気を奮い立たせて、
「テレビの国会中継番組の見過ぎで、嘘ばっかりの応答と、言い逃れ証言の繰り返される政界フールの氾濫に飽き飽きしてしまって・・・」
エイプリルフールの存在意義が見逃されるのだ、などと怒りに代えて開き直るかは別として、世の中でも、なんとなく方便どころか、嘘が珍しくなくなってしまったせいですか、4月1日のエイプリルフールの折角の楽しみが薄れてしまったようで、なんとなく残念です

 閑話休題、近ごろ、新聞にしても、テレビにしても、NHKはじめ各局こぞって、「天皇陛下ご退位」、「新しい年号は?」という皇室がらみのものか、あるいは「東京オリンピック・パラリンピック」喧伝記事が、トップを埋めつくしています。忌憚のないところ、紙も電波も、何れさまからの御達しでもあったのでは、と疑いたくなるほど、硬派の政治面が軽く扱われ、いわば社会ネタばかりが、目につきます。
こうなると、奇想天外な嘘を考え出して、誰かにぶつけて、うまくひっかけたところで、
「あははは…ごめん、ごめん、きょうは君、許したまえ。4月1日、エイプリルフールだからね・・」
などと面白がったり、逆に、
「なんだい、それ、くだらない冗談はよしてくれ・・・面白くもない!」
と、真面目に叱られることばかりになるかも知れません。
さりとて、相手を探そうにも、わが家の子供たちは独立してすでに久しく、仕事や、塾と部活に忙しい年齢になってしまった孫たちが、時たま、言い含められて渋々、老いたジージとばーばをなぐさめにやってくる他は、がらんとした家の二人暮らしとなって久しい現在、仕方なく買った小さなお釜で、僅か一合のお米を炊きながら、「コンビニで買ってきた【さあ!ご飯!】で、チン、じゃ、ちょっとね・・・」
などと、こぼしこぼしの台所で、一方で、
「脂や、焦げを落とすのが容易じゃないのよ」
と、称えながら魚の干物をガスレンジで焼いている忙しい連れ合いに、
「驚くなよ、実はそれ・・・」
などと録でもない嘘を言って、
「ははは、莫迦だなあ、今日はエイプリルフールなんだから・・・」
などという曲芸は、とてもやれませんしね・・・

 ところで、僕は昨夜、何の因果か、なんとしても眠れずに輾転反側させられたあげく、ままよ、と、今朝は夜明けを待たずに起きてしまったのですが、
「おお・・・・」
信じられない事に巻き込まれたのです。
僅かに開いていたカーテンの隙間から見えた光景に、思わず驚きの声を上げてベッドから飛び出し、カーテンを思い切り引き開けてしまいました。
時間的には、まだ漆黒の筈の空に、びっしりと詰め合わさって輝いている、夥しい星たち・・・
「満天の・・・」
などという表現では全く物足りない数です。
無限の光の粒子を集めて織り上げた煌めきの絨毯・・・とでもいいますか、
「いや、あれは・・・」
ご覧下さい! 星数などという数量では到底表現できません。
その一粒ひと粒は、動いてこそはいませんが、星の瞬きとは違う、なにか、生気のあるものの放つ“気の波動”を送って来る、“存在”なのです。
「・・・誰・・・何者・・・」
僕の渇き切った上顎に、ぴったりこびりついていた舌が、ようやく動いて、これだけの、言葉になったのです。
「イトカワだが」
何も聞こえませんが、僕にははっきりと、そう認識させる、重々しい、声、が僕を捉えます。
「ハヤブサとかいう、お前たちの手でオレのところへたどり着いたヤツが、『此処には生命が存在しない』などとお前たちの原理で結論付けるためのモノを持ち去って、われわれの生命を分析し、単なる小惑星の極めて微小な埃にすぎない。イトカワに生命は存在せず、などと決めつけて、処分、しにかかったり・・・」
続いて
「火星だが・・・」
という存在が、僕の脳裡に、直接コンタクトして来たのです。
「地球人類が、近々、攻撃宇宙船を火星に向けて発進させるとともに、月に対しても、もはや費消し尽くして地球にはほとんど残存しない稀少物質の盗掘および、火星侵略の為の前進基地として人員の移住を企てている事が知れている・・・」
と伝えたうえで、
「遂に、われわれ宇宙連合が召集されて、人類が、地球と名づけたこの惑星に存在すニンゲンなる生命を抹殺するためにやってきたのだ・・・」

「わあ、いいぞ! スケールについても、不服はない!そして、その先はどうなるのですか?」
床に寝そべったまま、大きな声で、叫んだそうです・・・映画監督という職から身に付いた習性からの叫び?とともに、目が覚めました。
でも、まだまだ頭の中には、冷めやらぬフールのアイディアがたくさん轡を並べて、走馬灯のように駆けめぐっていたのです。
加計問題・・・拉致家族・・・不正統計問題、シュアーな、ちょっときびしいフールのネタ、
更に、「一刻も早い、世界一危険な普天間基地返還のこれしかない代替」が、ドロドロの軟弱地盤の改良だけで、回復困難なサンゴ礁や、ジュゴンはじめ稀少動物たちを犠牲にして、少なくとも20年以上かかる辺野古しかないという・・・この不可解な解明不明の事実をネタにして、これこそ、
「エイプリルフール!」
そう、大声で叫びたかったのですが・・・


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医史跡を巡る旅 №55 [雑木林の四季]

「博愛精神のルーツをたどる・日赤の産声」

                            保健衛生監視員  小川 優

日本赤十字社創設の最大の功績者は、佐野常民と大給恒の二人でしょう。

「日本赤十字社創立二十五年祝典記念絵葉書」
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「日本赤十字社創立二十五年祝典記念絵葉書」

これは日本赤十字社創立二十五年祝典記念として発行された絵葉書です。日本赤十字創設にかかわった二人が描かれています。

「佐野常民墓」
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「佐野常民墓」 ~東京都港区南青山 青山霊園

文政6年(1823)、佐賀藩士の五男坊として肥後国佐賀県早津村、現佐賀市に生まれる。天保2年(1831)8歳の時、藩医佐野家の養子となる。藩校弘道館に入学し学才を発揮、江戸に出て古河侗庵に学ぶ。一度佐賀に戻り弘道館で再び学び、佐野家の養女と結婚。その後、京都、大坂や江戸で遊学、嘉永元年(1848)大阪では緒方洪庵の適塾、華岡青洲の春林軒塾、さらには嘉永2年(1849)伊東玄朴の象先堂塾で学び蘭学、医学などの学識を広める。嘉永6年(1853)に佐賀に戻り精煉方主任を務め、大砲の鋳造、蒸気機関の試作など藩の近代化の中心となり、安政2年(1855)には長崎の海軍伝習所に参加、佐賀鍋島藩の海軍創設に関わる。慶応3年(1867)、藩命でパリ万国博覧会参加のため渡欧、赤十字活動を知る。帰国したときには幕藩体制が崩壊した後で、新政府のもとでは当初海軍創設に携わるが、やがて罷免。その後は博覧会御用掛として近代化に貢献し、明治6年ウィーン万博にも派遣される。明治10年西南戦争の勃発により、敵味方の区別のない戦傷者救護のために活動、戦後も日本赤十字社創設のために尽力する。博愛社総副長、赤十字社社長の傍ら、大蔵卿(明治13年)、元老院議長(明治15年)、枢密顧問官(明治21年)、農商務大臣(明治25年)を歴任する。明治28年(1895)伯爵に叙され、明治35年(1902)、東京麹町区の自宅にて80歳で死去。

明治10年(1877)、佐野常民の奔走によって西南戦争の戦火の中で産声を上げ、とにもかくにも戦場での傷病者救護の実績は残した日本赤十字社の前身、博愛社。しかし一方で、新政府要人への博愛思想浸透工作は思うように進まず、戦争の終結とともに、博愛社の存続そのものも含めて、課題に直面します。
博愛社本社は当初、麹町区飯田橋の櫻井忠興邸内に置かれていました。佐野常民の博愛思想に賛同した、旧奥殿藩藩主であり元老院議官であった大給恒は東京に留まり、皇族や元老院議官など旧藩主を中心に、協力者を集めることに専念します。そうして得られた協力者の一人が、旧尼崎藩藩主、櫻井忠興でした。櫻井忠興の協力により、邸内に博愛社本部がおかれることとなったのです。

「日本赤十字社発祥地」
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「日本赤十字社発祥地」 ~東京都千代田区飯田橋 東京逓信病院

飯田橋駅から外堀沿いにしばらく歩くと、東京逓信病院があります。民営化される前の郵政省、戦前は逓信省と呼ばれていまして、その職員のための病院でした。その前は森鴎外こと、陸軍軍医森林太郎が学校長を務めた陸軍軍医学校があったところです。さらにその前は、櫻井忠興の屋敷でした。

「東京逓信病院」
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「東京逓信病院」 ~東京都千代田区飯田橋 東京逓信病院

病院前の駐車場と道路を隔てている植栽の中に、千代田区教育委員会の設置した日本赤十字社発祥地の立て看板がありました。平成31年3月現在で「ありました」と過去形なのは、しばらく前からその看板が見当たらなくなったからです。看板の文字が薄れてきたため建て替えのための一時撤去保管か、何らかの理由で撤去されたのかはわかりません。

博愛社は西南戦争中の明治10年5月1日に佐野常民、大給恒により創設されました。当時の社則は以下のようなものです。

第一条 本社の目的は、戦場の創者を救ふにあり。一切の戦争は會つて是れに関せず。
第二条 本社の資本金は、社員の出資と、有志者の寄付金とより成る。
第三条 本社使用する所の医員看護婦等は、衣上に特別の標章を着し、以て遠方より識別するに便りす。
第四条 敵人傷者と誰も、救得べきものは是れを収むべし。
第五条 官府の法則に謹遵するは勿論、進退共に陸海軍医長官の指揮を奉ず。

ちなみに第二条にいう標章ですが、当時はまだジュネーブ条約を批准しておらず、またキリスト教への警戒もあってか赤十字を用いずに、赤丸の下に一文字を描きました。

「博愛社発祥縁起の地 碑」
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「博愛社発祥縁起の地 碑」 ~熊本県玉名郡玉東町 正念寺

熊本県玉名郡にある西南戦争時の救護所、正念寺に建てられている「博愛社発祥縁起の地 碑」上部に描かれているのが、その標章です。
赤十字活動の中心は確かに戦地における傷病者救護にありましたが、その思想の普及に努め、また戦時ばかりでなく、地震や大火、風水害や噴火など災害発生時への即応体制を整えるためにも、平時からの活動は欠かせません。西南戦争後、本部は芝公園地内の高松察民寮に移しますが、組織も整わず、皇族からの下賜金はあったものの活動を支えていくだけの資金の確保にも苦労する状態が続きます。
西南戦争終結の翌年、明治11年1月に、総長の小松宮彰仁親王の臨席をもって執り行われた社員総会では、「平時に在りて、講究準備せざる可らざる」旨、本社を永遠維持することが決められ、組織と規定づくりや、資金調達の方法が定められます。

「小松宮彰仁親王銅像」
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「小松宮彰仁親王銅像」 ~東京都台東区上野公園

彰仁親王は伏見宮邦家親王の第八王子。安政五年(一八五八)京都仁和寺に入って純仁法親王と称し、慶応三年(一八六七)勅命により二十二歳で還俗、東伏見宮嘉彰親王と改称した。同四年一月の鳥羽・伏見の戦に、征東大将軍として参戦。ついで会津征討越後口総督となり、戊辰戦争に従軍した。明治十年五月、西南戦争の負傷者救護団体として、博愛社が創立されると、九月その総長に就任した。同十五年には、小松宮彰仁親王と改称。同二十年、博愛社が日本赤十字社と改名すると、総裁として赤十字活動の発展に貢献した。同三十六年一月十八日、五十八歳で没。(台東区教育委員会ホームページより)

上野公園のなか、動物園正門前に小松宮彰仁親王の騎馬像があります。小松宮彰仁親王は博愛社の総長として、また日本赤十字社に改組されてからは初代総裁を務めました。

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いつか空が晴れる №56 [雑木林の四季]

      いつか空が晴れる
           -I want to be happy-
                                               澁澤京子

 ずいぶん前にジャズの好きなK君から、早逝したジャズピアニスト、守安祥太郎の「幻のモカンボ」のCDのコピーをわけて貰って聴いたとき、すごいピアニストがいるなあ・・とひたすら感心したのだった。
守安祥太郎は、バド・パウエルを尊敬していた。バド・パウエルよりもっと線の細い、都会的な繊細なピアノで、こういうピアノを弾く人はあまり長生きしないだろうなあ、という感じがしたのだった。

もっとも、ビバップのバド・パウエルも、麻薬、精神障害(被害妄想)、アル中のうちに健康をむしばみ、41歳で早逝した。
目黒駅で飛び降り自殺したとき、守安祥太郎は31歳。バド・パウエルより10歳若かった。

植田紗加栄さんという人の書いた「そして、風が走り抜けていった」という守安祥太郎の伝記がとても面白かった。
守安祥太郎、大正13年生まれ。生家は東洋英和の並びの六本木沿いの大きな家だった、とある。昔、英和の隣に、高い塀に囲まれた鬱蒼とした感じの大きなお屋敷があったけど、あれが守安祥太郎の家だったんじゃないだろうか?
家にあったピアノで遊んでいるうちに、あっという間にクラシックを弾きこなせるようになってしまったというからもともと才能があったのだろう。
子供の時の写真を見ると、丸メガネをかけてやせた背の高い少年で、ピアノの才能がなかったらまったく目立たないような大人しそうな少年だ。

「幻のモカンボ」I want to be happyは you tubeでも聴くことができる。トランペットの宮沢昭も相当かっこいいのだけど、宮沢昭は、守安のピアノとのレベルが違いすぎて、恥ずかしくて今では聴きかえすことができない、というのだそうだ。守安祥太郎だけがちゃんとしたジャズを演奏していた、というのだ。
素人にはよくわからないのだけど、この本によると、守安祥太郎はショパンでもアレンジしてまったく別の曲のように演奏することができた、とあるから、彼だけ独自のアレンジがすでにできていたのかもしれない。

飛び込み自殺の原因についてはいまだに謎なのだそうだ。失恋説というのがあって、渋谷のジャズ喫茶デュエットのウェイトレスの女の子にふられたというもの。
その前に、まだ無名のダンサーだった淡路恵子に熱烈に恋をして、振られたショックで劇場の二階から飛び降りてしばらくびっこを引いて歩いていたことがあったという。
失恋した守安が思いつめて、発作的に自殺した可能性も大きい。
自殺の前には珍しく友人に借金をしていたらしい。お坊ちゃま育ちの守安祥太郎が、ジャズ喫茶のウェイトレスの女の子に貢いだあげく、いいように利用されて捨てられたという、よくある話だったのかもしれない。

このデュエットという店は、私の記憶では渋谷の麗郷という台湾料理屋の斜め前だった。ところが斜め前の、二階に上っていく小さなジャズバーはジュニアスで、デュエットはもっと東急本店よりにあったということを友人から教えてもらう。

麗郷の横の細い坂道を登っていくと、坂の途中にはbeamsというトラッド系のブティックがあって、学生のときよく買いに行った。ニュートラ、ハマトラなんてファッションが流行していたころのこと。もう少し上ると左側にはトニーラマのブーツなんかを置いている小さな靴屋があり、さらに坂を上り詰めたところが渋谷百軒店で、スウィング、その奥にはミンガスというジャズバー、音楽館やブラックホークがあった。ブラックホークではよくボブ・ディランがかかっていたのを覚えている。

渋谷百軒店はその昔、東急が開発した歓楽街で、戦前はエノケンが出るような大きな劇場もあったらしい。ちなみにエノケンは守安祥太郎のファンで、ピアノを弾いている守安祥太郎とエノケンが一緒に写っている写真がある。

私が学生のとき、今の109はなくてあの辺は恋文横丁と呼ばれていた。恋文横丁がなくなるとき、はじめて恋文横丁の路地を歩き回った。フーテンの寅さんの着るようなダボシャツなんかを売っているような小さな露店が路地にたくさんひしめいていた。

恋文横丁から百軒店にかけては、敗戦直後、中国系マフィアと日本のやくざの抗争があったような場所で、私が学生の頃まで、渋谷の道玄坂はなかなか風紀の悪い、怖いような場所でもあったのだ。

守安祥太郎がジャズマンとして華々しく活躍していたのはたったの七年。
まさに敗戦後の日本のジャズをリードして、レベルを高度にひきあげたあげくに、あっという間に消えてしまったのだ。
もし、守安祥太郎が生きていたら?と考えてしまうけど、人の人生にはイフなんてないのだろうな、と最近しみじみ思うのである。


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梟翁夜話(きょうおうやわ) №36 [雑木林の四季]

「野茂とイチロー」

                翻訳家  島村泰治

イチローが引退したと聞いて、やはりそうか妙に納得した。コンマ以下の打率が続いていてさぞ辛かろうなと思っていた矢先だった。日本に開幕戦で帰国した時の奇体なターバン姿に影があった。あるいは、という予感が中ったわけである。そんなイチローの後ろ姿に、スポーツではむしろ華奢な造りの一人の日本人があのアメリカで舐めたであろう辛苦が読み取れて、思いなしか迫るものがあったのである。

私は中学のころ卓球部に所属していたので、荻村がシドを破ったニュースには沸いても野球は専ら観る方で、精々赤バットの川上や青バットの大下を聞き覚えている程度、それも色の付いたバットが面白くてのことだ。遊び半分の三角ベースでも、振ったバットに球が当たった記憶がないくらいだから推して知るべしだ。サンフランシスコ・シールズが来て巨人と戦ってどうだったか、それもうすらぼんやりの記憶でしかない。

長じてアメリカに留学、あの国ではスポーツといえば野球かバスケ、冬には例のアメフトで、卓球などはキッチンの遊びでしかないからやるスポーツがない。勢い見る側に回るわけで、そのどれにも馴染むようになった。ロスの数年間ではドジャーズ戦を観にスタジアムに通った。ドライスデールとコーファックスの両輪が絶好調のドジャーズは強かった。マッチョな連中が暴れまわるMLBは、赤青バットの風景とは別世界だった。なるほど国技だけのことはある。ここに日本人が飛び込む余地があろうとも思えなかった。

帰国しての年月、野球への見方は変わった。帰ってしばらく日本の道路はどうしてこう狭いのかと戸惑ったように、日本の野球がちまちまして見えた。どうも野球が違うな、という印象だ。だから、1995年に野茂英雄があのドジャーズに乗り込んで「ものになっている」話が俄かに信じられなかったのである。

そう、野茂英雄。トルネードという彼の投法が、あのマッチョ連中をキリキリ舞いさせているというのは実(まこと)か?それ以来、野茂の投げる試合を待ちかねて観るようになった。じつは村上某という投手が先鞭をきっていたことをその頃知ったが、さすが野茂像は大きく印象に残った。

その後、だれかれと MLBに挑戦してほどほどの活躍をしているのは承知しているが、ことMLB制覇の感覚で野茂を出るものはいない、いやいなかったのである。もちろん、イチローの登場までは、ということだ。

そう、野茂のMLB挑戦が鮮烈だっただけに、そのあとに海を渡った連中は所詮野茂の影を追う金魚の何とやらに見えたのだが、イチローが名乗り出て様子が変わった。譬えれば仕立て職人肌のバット捌きを披露するイチローに、野茂の再来を見た。その後の活躍は諸賢とうにご承知のとおり、ほぼすべての難球をさり気なく左右に打ち分けて異様なまでの高打率を挙げ、恐らくは永劫たどり着けまい数々の記録を積み上げたイチローの快挙は、チェンジアップの切れ味で群れ来るバットを沈黙させたコーファックスの勇姿に重なる野茂の英姿に優に比肩するに充分だ。

これは野茂の影などではない、本物だ。ものごとに左右があるなら、野茂とイチローは左右の銘木、いずれが菖蒲(あやめ)か杜若(かきつばた)の趣だ。野茂がいわば身ひとつで「敵地」に乗り込んで「血路」を拓いたのと同じ手管で、イチローもまた独創的な打法を切り拓き、バットを包丁に見立てて敵の国技を捌いて見せた。幼い頃少国民としてあの国をいっとき敵国と眺めた私には、この番(つがい)の銘木の咲かした花に勝(すぐ)る風趣はない。

野武士風な野茂がそうだったように、一刀流を極めた剣の達人然たるイチローも、裏で野球を支える側に回るであろう予感がする。それでいいのだ。線でなく点を打っていた彼の天性の打法は、所詮そんじょそこらの群像には分かろう筈もないのだから、一線を引いた今、野卑なメディアにいたぶられることなく、今様「五輪の書」でも綴ってほしい。

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検証 公団居住60年 №29 [雑木林の四季]

Ⅶ 公団家賃裁判一提訴から和解解決まで

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

1.公団家賃の決定と変更の原則一原価主義


 公団家賃は初めから高く、やがて新旧団地間に家賃格差が生じる仕組み、その格差是正を理由に既存家賃を値上げすることの非理についてはすでに書いたが、あらためて以下に、公団住宅家賃の決定と変更の原則をみておく。
 公団家賃の決定方法は、日本住宅公団法施行規則(建設省令)に定められている。家賃は、「①賃貸住宅の建設(住宅に必要な土地の取得および造成を除く)に要する費用(当該費用のうち借入金に係わる部分にたいする建設期間中の支払利息等を含む)を償却期間(耐火構造の住宅は70年、簡易耐火構造の住宅は45年とする)中利率年5分以下で毎年元利均等に償却するものとして算出した額に、②修繕費、③管理事務費、④地代相当額、⑤損害保険料、⑥貸倒れおよび空家による損失を補てんするための引当金ならびに、⑦公租公課を加えたものの月割額を基準として、公団が定める」(規則9条1項)。「前項の修繕費、管理事務費、地代相当額、損害保険料および引当金の算出方法ならびに償却の利率は、建設大臣の承認を得て、公団が定める。これを変更しようとするときも、また同様とする」(規則9条2項)とし、公団は別に業務方法書、団地管理規定、団地管理業務細則を設け、家賃決定の原本となる建設原価について定めている。
 ここで地代相当額とは、用地の取得・造成等に要する費用(関連公共施設費の負担金をふくむ)の借入金利分(4.5~5.0%)をいい、用地が自分の所有地でも土地利用の対価として家賃に算入する。公租公課は固定資産税、都市計画税をいう。
 ここに1981年度建設予定中層住宅(専用面積65㎡・バルコニー・共用部分あわせて74㎡、3DK~3LDK)の初年度家賃の構成モデルをしめす。5年傾斜で毎年5%ぐらいずつ値上げされ、最終97,000円になる。ちなみに、公団家賃は利潤をふくめず原価積算で算出され、公団は当初、家賃の構成モデルを公開していたが、家賃裁判では裁判長の文書提出命令をも拒むにいたった。
 以上が公団家賃の決定原則であるから、変更にあたってもこの原則は厳守されるべきである。公団家賃の基本原則は、①家賃は規則9条で規定された7要素で構成され、他の要素の介入、利潤の取得はありえない、②団地ごとの建設費と維持管理費は家賃で回収する、つまり個別原価主義をとっている。 
 この原則から、償却費(工事費とその利息分)と地代相当額は将来とも変動することのない固定部分であり、増額は許されない。それ以外は維持管理費であり、家賃決定後に変動することは予定される。だが維持管理費の変動をどういう方式で家賃に算入するかは定めていない。
 公団家賃の変更については、住宅公団法施行規則があり、入居者が公団とむすぶ賃貸借契約書には詳細かつ具体的に規定している。公団との賃貸借契約は、基本的には私法関係であり、民法・借家法の適用をうけるが、しかし同時に公団住宅としての特殊性にかんがみ、施行規則、契約書の規定は優先適用され、その定釧こ反する条項は無効とされるべきと考える。公団はこれらの規定を、賃借人たる国民の権利義務にかかわる事項を定めた法規命令とはみなさず、内部事項をとりきめた行政命令にすぎないと主張して、公団諸法令の適用を逃れようとした。
 たとえば、施行規則10条は「経済事情の変動」あるいは「住宅相互間の均衡上」による家賃の変更を認めている。しかしそれは、あくまで9条が定める家賃決定の基本原則の枠内での調整、変更の容認にすぎず、家賃変更にフリーハンドをあたえたものではない。賃貸借契約書では5条1号に家賃変更の要件をきわめて限定的に明記しており、この要件をみたすかぎり値上げできる。しかし公団は、これら要件は「例示」にすぎず、値上げ根拠は借家法7条1項にあるとして、契約書を無視する。公団は終始、公団諸法令、賃貸借契約書を根拠としては成立しえない主張をくりかえした。


『検証 公団居住60年』 東信堂

                                                        

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コーセーだから №49 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」  10

           (株)コーセーOB  北原 保

南方雄飛に熱中
天の助けで迷いさめる

夢多き時代

 「青年時代というのは、夢多き時代ですね。東洋堂という堅実な会社、人情深い社長や支配人の下で働いていた私でさえ、二度ばかり東洋堂をやめようとしんけんになったことがあるんですよ」
 小林社長はクラーク博士の「少年よ大志を抱け」という言葉を思いうかべる。当時もし小林少年が東洋堂をやめていたら、コーセー化粧品は生まれなかったにちがいない。その少年の夢をかきたてたものは――。
 ちょうど第一次欧州大戦前、東洋堂では香水を南方のシンガポール、ボルネオ、セレベスに輸出していた。青年雑誌には総理大臣だった大隈重信などが「青年よ南方に雄飛せよ」と毎号にわたって青年の血をわきたたせていた。だから南方雄飛は青年の夢、小林少年が南方に興味をもったのも無理はない。かたっぱしから南方の本を読みあさり「南方熱」ニとりつかれた。
 南方に行くといっても現在のようにジェット機ですっ飛んでいくわけじゃない。一生の大事、南方に骨を埋める決心が必要だった。そこで小林少年は母や長兄に「南方雄飛」の手紙をたびたび書き送った。ある日、報知新聞の相談欄に「愛する弟を南方に行かせるか」という見出しが目についた。読んでみると長兄が新聞に投書した相談、「愛する弟」とは自分のことだった。
 その回答は、弟さんは利口でしっかり者のようだが、南方はあなたの弟さんのような人を待っていない。もし弟さんが南方に行くといったら、もう一度いまの会社で10年間必死に仕事してみたらどうか。10年たってまだ南方に行きたい決心があればそういう人を南方は待っています。――と書いてあった。
 「その回答で南方熱は静まりましたが、あの時、南方に行っていたら、第一次大戦で元も子もなくしたでしょうね。人間の運命というのはどこで変わるかわからない」
 小林社長は人間の運命に〝天の助け〟があると信じたくなる。
 二度目は軍隊から除隊したときである。
 小林孝三郎は21才の徴兵検査は甲種合格、近衛歩兵連隊に入隊した。が、除隊のときは第一次大戦の最中だった。当時、日本は大へんな景気、除隊というのに田舎の村長から東洋堂の社長までが出迎えしてくれた。
 「除隊で竹橋を出ると、まるで日本は世界の景気を独占しているようなさわぎでしたよ」という。そのころのウワサをひとつ――。当時、船会社の山下汽船が、大阪の一流料理店に客をまねき、一人前500円の料理を注文した。そのころ500円といったら大へんなもの。料理人が困りに困って、お土産にガラス箱に海水を入れ生きたタイを一人一人に持たせたというのだ。
 当時は小林家の長兄(章治)の醤油や繁昌の一途、除隊した近衛兵は田舎の商売の発展ぶりに目をみはるばかり。そこで長兄から「醤油屋を手伝ってくれ」という話になった。なかがよい長兄のこと、小林家をもり立てるために弟がひとハダぬごうということになった。が、自家営業を手伝うとなると、長年つとめてきた東洋堂をやめなければならない。
 早速小林氏は東洋堂の大先輩の田辺支配人に相談したところ、田辺氏から「小林君がやめるなんて夢にも考えなかった。だが、兄弟で醤油屋をやって、もし失敗したら兄弟でおわりじゃないか。それよりどちらかが成功していれば助けることだってできる」とこんこんとさとされたという。
 「あのころ、根が純情でしたね。困っていれば助けようという気持ちだったんでしょうが、もし兄弟経営で大がかりな醤油屋をやっていたとしたら、第一次大戦後の不況の波にのみこまれていたせしょうね。あの不況で日本中に倒産旋風が吹き荒れたのですからね」
 小林孝三郎が迷いからさめて、自分の運命を切り開いたのは24才のときだった。
                                              (日本工業新聞 昭和44年10月17日付)

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南方雄飛を夢見ていたころの小林青年(右端)
49南方雄飛を夢見ていたころの小林青年(右端).jpg
近衛歩兵連隊に入隊した小林青年(右端1920年)

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台湾・高雄の緑陰で №24 [雑木林の四季]

選挙後の台湾事情(友人内山邦昭氏への返信)

         在台湾・コラムニスト  何 聡明

拝復:

 王育徳記念館開館のおり、家族3人で台南へ出かけましたが、主催者である王明理さんは多忙で駆け回っていたので、挨拶以外はお話を交わす機会がなく、私たちは昼食のご馳走にあずかったあと台南を去りました。開館の行事の運営は極めて順調であったと思います。私達が最も感心したのは、既に母親でもある明理さんの娘さんが上手な台湾語で皆にお話しをしたことです。台湾では長らく続いた国民党教育のせいで、台湾語を話せる若者が減少しています。

 既にご存知の如く、11月24日の地方選挙で台湾民進党は意外にも中国国民党に惨敗しました。惨敗の原因は多々説かれていますが、封建的で陰険な中国国民党を相手にして蔡英文政府は「現状維持、謙虚、謙虚、更に謙虚」を唱え、あまりにも軟弱であった結果であるというのが私の見解です。初めて行政権、立法権を得て捩れの無い政権を獲得した民進党は勝利に乗じて追い討ちを掛け、中国勢力を再起不能に導くべきでした。幸い民進党はまだ政権を握っているので、それを利用して修正すべき事を修正して確実に実行すれば、今回の地方選挙で蒙った多くの失敗を是正することができると思っています。

 今や中国国民党は中国共産党と組んで台湾の次期政権を奪取し、台湾を中国に併呑する陰謀を計っていると考える台湾人が増えています。2020年初頭に行われる総統と国会議員の国政選挙は共産党専制の中国との統一か、独立かの選挙となり、民進党が政権を保てるか否かで、台湾の行く末が決まると考えられています。米国のトランプ政権が対中強硬政策を進めている現在、中国による台湾併呑は容易ではないと思います。台湾人は今後とも台湾が民主主義陣営に居残るために最大の努力を続けねばなりませんが、日本と米国の協力と支持は絶対に不可欠です。民進党の陳水扁氏が総統の時代に「中国と台湾は別々の国である」と主張したので、台・中関係の緊張を恐れた米国のブッシュ元総統は「陳はTrouble makerだ」と厳しく譴責したことで、其の後陳総統は台湾人の国家意識については沈黙を守りとうしましたが、私は今のアメリカの為政者が台湾人の国家意識に対して再び強硬な反対態度を示さぬよう望んでいます。


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地球千鳥足 №120 [雑木林の四季]

 癌になっても旅に出る地球千鳥足夫婦です! ~アメリカ合衆国~

             グローバル教育者・小川地球村塾塾長 小川彩子

 夫の肺に直径約1cmの癌が発見された。2年前腹部大動脈瘤を発見してくれた優秀な医師なので極小の癌をも発見できたのだ。発見直後に「アメリカへ行こう!」と飛行機に飛び乗った。「じっとしていたらきっと落ち込むだろう、動いている方が良い!」と直感して。主目的はアメリカン・エアラインのフライトアテンダント、Lisaさんに会うことだった。「泊りにいらっしゃい!」と招待をうけていた。Lisaさんの夫、Dennisさんも同じエアライン勤務、副操縦士だ。筆者は前回のアメリカ行きで客として乗っていただけ。Lisaさんは「日本人大好き!」と言って大サーヴィスをしてくれ、「私の家はフォートワースにあるので次回のアメリカ行きではDFW経由にして我が家に泊ってくださいヨ!」と。そのご招待に甘えたのだ。LisaさんはDFW空港内で待っていてくれ、1時間弱の運転で彼女の家に。その日はDenisさんも仕事がオフで、ご夫妻にDFWを案内してもらい、泊めて頂いた。本棚には大量の日本語・日本文化の本が並び、彼女は日本語堪能だった。庭には松の木が8本も植わっており、夫がその松の剪定をしてあげたのがせめてものお礼だった。飛行機の乗客だっただけのご縁で、宿泊を含め信じられない親切の数々を受けたDFW行きだった。


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Lisaさん、Dennisさんの豪華なお家の室内
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Dennisが作ってくれたワッフル

 2つ目の目的は、20年住んだCincinnatiの友人たちに「さよならを言ってこよう」だった。癌になったからにはそうそうアメリカに戻れないだろうから。連日会えるだけの友人に会い、食事をしつつ別れを惜しんだ。ある日など9人も会った。日本人シニア会にも参加したが、その日の話題は 「私の失敗談:ここだけの話」。筆者夫婦共々皆さん異国での失敗を披露しあって、笑いの絶えないひと時を過ごした。筆者の報告:「訪米中のある日突然便器が真っ赤になったのでびっくり仰天、慌てて翌日帰国したが、実は「血尿」はかつての隣人宅でご馳走になったビート料理のせいだった!病気と勘違いし、USの高額入院費を恐れ、直前購入ゆえそれこそ高額なビジネス航空券40万円を夫婦2人分、80万円支払って。」滞在1週間で実に多くの友人に会い、友情で温められたCincinnati帰郷だった。

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私の中の一期一会 №186 [雑木林の四季]

      映画「運び屋」は面白かった。ピエール滝の違法薬物逮捕に驚きはない。
        ~タイ・マレーシアからの密輸は20代~30代の女性が運び屋か?~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 いま全国で公開中の映画「運び屋」はクリント・イーストウッドが、久々に監督・主演したものとして注目されている。
 メキシコ最大の麻薬カルテルが87歳の老人に、メキシコからデトロイトまで大量のコカインを運ばせていた実話の映画化である。
 2014年6月に‟ニューヨーク・タイムズ・マガジン”に掲載された「シナロア・カルテルの90歳の運び屋」という記事をベースにした物語だ。
 老人アールのモデルは第二次大戦の退役軍人、レオ・シャープという実在の人物だった。
 レオ・シャープは、ディリリーというユリの花の品種改良に成功した生産者で、ホワイトハウスにも招かれるほどの名士であった。
 2011年に摘発されたメキシコ犯罪組織による麻薬密輸事件で、長い間組織の運び屋を務めていたレオ・シャープ(当時87)も逮捕された。 
 私はクリント・イーストウッドの監督作品は出来るだけ見るようにしてきた。
 「人生の特等席」「アメリカン・スナイパー」「ミリオンダラーベービー」「ハドソン川の奇跡」「15時17分パリ行き」etc・・観た後に‟満足感”を覚えるものばかりなのがすごくいい。
 まして「運び屋」では監督だけでなく、主演もイースト・ウッド自身が務めているから満足感は倍増であった。
 彼の主演は2012年の「人生の特等席」以来だし、自分の監督作品で主演するのは08年の「グラン・トリノ」以来だからホントに久々だった。
 1930年5月生まれのクリント・イーストウッドは現在88歳だが、映画への情熱は衰えを知らない。
 「歳をとるといい役が少なくなるのは仕方がない。だが、いい役が見つかると演じてみたくなる。年齢なんか関係ないよ」とやる気満々なのだ。
 「僕が映画の仕事を続ける理由の一つは“学べること”にある。歳をとっても人と出会い、新しいアイディアを得ることが出来る。学ぶのをやめる必要などまったくない」といつも口にするのだ。
 今や巨匠にして、名優でもあるクリント・イーストウッドは、何に惹かれて「運び屋」を映画にしようとしたのだろうか。
 ニック・シェンクが書いた「運び屋」の脚本を読んだイーストウッドは、「一度だけ法を犯したときに成功してしまったら、どうなるのか?」という状況に興味を覚えたとインタビューで語っている。
 レオ・シャープも最初が上手くいったから続ける気になったに違いない。
 逮捕された時、87歳だったシャープの人生を“年齢の近い自分が演じてみたい”という意欲が湧いたとしても不思議ではない。
 実際には高齢で80代も終わりに近いのに映画作りの情熱は一向に衰えないのは立派としか言いようがない。映画作りの環境がある限りイーストウッドは“面白がり”をやめないだろうと思った。
「運び屋」は、18年12月14日に全米で公開されたばかりだが、すでに興行収入が1億ドルを超えているというからスゴイ。
 アール・ストーン(クリント・イーストウッド)は、ディリリーの栽培の農園を手放すことになった。
 ある日、「車で荷物を運ぶだけで金になる仕事があるがやってみないか」と声を掛けられる。
 荷物を運ぶだけなら簡単と引き受けてしまう。運ぶ荷物の中身には関心がない。
 指定された場所でトラックを離れ、戻ってきた時には荷物は降ろされ、紙袋に入った札束が置かれていた。 
 楽な仕事だという思いだけで、依頼主のことなど頭に浮かばない。
 だが何回か運ぶうちに、コカインを運んでいることを知る。それでも「運び屋」をやめる気はなかった。
 有能な運び屋として組織に認められ、一度に13億円ものコカインを運んだことさえあった。
 だが悪いことはいつかは露見する。麻薬捜査当局のべイツ捜査官(ブラッドリー・クーパー)からマークされるようになり、遂に一味と共に逮捕されるという筋書きだ。
 「役を演じる面白さは、感情やアイディアが湧き出してくることにある。理屈ではなく、観客に心を伝えることだ」というイーストウッドはやはり名優と呼ぶのが相応しい。
 「座って自分を鏡で見て「これはひどい」と思っていたら幸せにはなれない。歳を重ねたからといって学ぶのをやめてはいけない。僕は映画をやって学ばなかったことは一度もない」と何度も学ぶことを強調する。
 全米で昨年12月14日から公開されている「運び屋」は、日本では今月8日が上映初日だった。
 もうすでに興行収入が世界で1億ドルを超えたというからスゴイ。
 
 ミュージシャンで俳優のピエール滝(本名瀧正則=51)が12日夜、コカインを使用した疑いでマトリ(麻薬取締部)に逮捕された。
 ピエールが薬物を使っているという情報がマトリにもたらされたのは、昨年の秋頃と分かった。
 麻薬取締部は12日午後6時過ぎ、自宅や車などを捜索したところ、コカインは見つからなかったが、コカインを吸引した際に使ったとみられるストロー状に巻いた韓国紙幣が見つかった。
 8時過ぎに任意同行を求めて尿検査をしたところ陽性反応が出たため、麻薬取締法違反の疑いで夜11過ぎに緊急逮捕となった。
 コカインは、一時的に多幸感や陶酔感が得られるが依存性が極めて高いという。多量に摂取すると幻覚や全身の痙攣を引き起こすなどして死に至るケースも少なくないという。
 勝新太郎が現行犯逮捕された「もうパンツはかない事件」はコカインの不法所持であった。
 コカインは違法薬物の中では高価で、国内の末端価格は1グラム2万円とか。
 摂取すると15分ほどで効果が出るが、30分以内で消えてしまうらしい。
 覚醒剤に比べ持続性が短いので使用頻度が増え、結果として高額になる。
 欧米ではコカインを「薬物の王様」と呼んでいるという。
 ピエール滝容疑者は「間違いありません」と容疑を認めた。
 今後はコカインの入手ルートや何時から常習者になったのかなど詳しく調べが進むだろう。
 違法薬物の日本への密輸は年々増え続けているようである。
 財務省によると、2018年の不正薬物摘発件数は784件であった。
 押収した違法薬物の量は約1379kgというから驚く。前年比はマイナス16%だが、深刻な状況は変わらない。
 商業貨物、国際郵便などの摘発で、一度に押収した量の最大は8kgだった。
 航空機の乗客による不正な持ち込みは活発傾向にあり、昨年の押収件数は99件で、87%増だった。 
 薬物押収量は約190kgとなっている。
 東南アジアからの密輸が目立つ。タイからは20件で、前年比6.7倍だ。
 マレーシアからは13件で同6,5倍だった。
 タイ・マレーシアからの密輸で特徴的なのは、半数以上が20代~30代の若い女性だというからちょっとビックリした。
 東京オリンピックに向けて益々外国人の来日が増えるだろう。この中に何食わぬ顔の「運び屋」がまぎれ込む恐れは充分にある。麻薬取締当局は頭が痛いことだろう。


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浜田山通信 №238 [雑木林の四季]

「卒爾ながら」

            ジャーナリスト  野村勝美
 
 「週刊金曜日」に四方田犬彦という人の山折哲雄先生会見記が出ていた。山折さんは私は著書を読んだこともお会いしたこともないが、哲学者でとくに親鸞に造詣が深く、迷える衆生に生きる糧を与えてくれる人と思っている。 ファンも多く、著書もベストセラーになる。その人が親しんできた「長谷川伸全集」「柳田国男集」そして「親鸞全集」まで人さまにあげてしまったという。身軽になりたいからだったらしいが、先生より2歳も年上の私にもわかる気がした。
 親鸞や道元と違って私には生涯一人の先達を学びつくしたという人はいない。「柳田国男集」や「真宗辞典」や「丸山真男集」、「レーニン全集」「スターリン集」「毛沢東全集」「クロポトキン集」「現代日本文学全集」も持っている。しかしどれも読んでいない。単行本でも中野重治、堀田善衛、武田泰淳、鶴見俊輔、加藤周一など多くの著作をもっており、時に手にとってみるが、しきりと傍線がひっぱってあり、しかし何一つ覚えていない。昔から記憶力は悪い。頭の良しあしは記憶力によると信じており、大学でのロシア文学も早々にあきらめた。
 だから今頃になって何もかも捨てて身軽になるといわれても困るのだが、なぜこんなことを書き始めたかというと、卒寿という言葉が頭から離れないからだ。卒はいうまでもなく九十の当て字、喜寿は七十七歳、米寿は八十八歳、白寿は百から一引いた九十九歳、かなりいいかげんなものだ。昔は年寄りが珍しかったから米寿なんて餅をついてお祝いをしたりした。賀寿もそれなりにおめでたかったのだろう。私の父親など七十歳で古稀の祝いを芦原の温泉旅館で盛大にやったあとまもなく脳卒中に見舞われ、その後十数年不自由な老後を送った。
 それはともかく、賀寿は数え年で数えると知ってからガク然となった。なんだ去年卒寿になっていたのではないか。卒寿とは人生を卒業する年、学校の卒業式はおめでたい。しかし人生の卒業、りっぱな人生ならそれもよいが、私のようなできそこないの人生の卒業はめでたくもなんともない。しかも近頃はあらゆることを忘れていく。横幕玲子編集長に卒寿だから「浜田山通信」をやめたいと申し入れたら「卒業しないでください」といわれた。老人をおだてるのがうまい編集長だ。しかたがないので卒寿をすぎた人が何を考えて生きているか少し調べようとしたが、もの書きで文章を書き残した人は男ではほとんどいない。日野原重明、むのたけじ、金子兜太、別格で101歳の日高六郎、100歳三笠宮崇仁くらいのもの。しかもこの人たちは特別であり、ふつうの名もない人間のは何もない。あるかもしれないが、まず目にとまらない。
 よって卒爾ながら以下時折、卒翁のつたない文章を綴らせてもらう。それにしても卒中、卒倒、卒去、ロクな言葉がない。東日本大震災から8周年の日に。

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