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日めくり汀女俳句 №23 [雑木林の四季]

月四日~三月六日

                  俳句  中村汀女・文  中村一枝

三月四日

我が気勢知ると知らざると蛙の子
          「汀女初期作品」 蛙の子=春
 汀女は決してお行儀のいい優等生ではなかった。校庭を近道して走っていくのを教頭先生に見とがめられ呼びつけられて叱られた。若い娘が袴(はかま)の裾を乱し、はあはあ息を切らせて走っているなど、はしたないことだった。
 上級生になるとオルガン実習があったが、汀女は大の苦手だった。当時、音楽教師は「故郷の廃家」「旅愁」の作詞で知られる犬童球漠だった。ドレミドレミと汀女の指を押さえて間違いを直した。
   幾歳(いくとせ)故郷来てみれば
   咲く花囁(な)く鳥そよぐ風……
 私たちにも懐かしい歌である。

三月五日

春雪と芽木のささやき聞く如し
      『芽木威あり』 春の雪=春 芽木=春
 
雛を飾るのは楽しみだが、雛をしまう方はおっくうである。つい、しまい忘れて何日もたつことがある。昔は雛を早くしまわないと、娘が嫁き遅れるという言い伝えもあった。そのせいかどうか、今どき、娘たちは中々結婚しない。
 人形の顔を一人ずつ薄紙でおおい、除虫剤を入れる。別に意識して区分けしているわけではないのに、つい内裏雛が先になり、五人雌子は後まわしにしているのがおかしい。
 物言わぬ人形達の目はいつでも何かを語りかけてくる。〝来年又逢いましょう″なのか〝未年迄達者でいればいいね″なのか。

三月六日

春服(すんぷく)のはや丈のみは高き娘も
            『汀女句集』 春の服=春
 
女学生の制服は年々お酒落になっていく。それも三万から六万という高価さ、ここまでファッション性を追求するならいっそ自由にしてしまったらと思う。
 私が女学校一年の時は様々な制服姿だった。物のない最盛期である。お姉さんのお古のサージの制服を着た級友が何と贅沢に見えたことか。父親のモーニングのズボンを直した子もいたし、絣(かすり)のモンペに白い衿(えり)をつけた改良服もあった。
 素足に藁草履(わらぞうり)から、下駄(げた)ばきというのが圧倒的だった。運動靴に父のお古の靴下をはいて私は得意だった。

『日めくり汀女俳句』 邑書林


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私の中の一期一会 №179 [雑木林の四季]

      カリスマ経営者カルロス・ゴーン前会長の逮捕は,日産のクーデターなのか
        ~マクロン大統領が安倍首相に首脳会談を要請、3社連合はどうなる~

               アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 東京地検特捜部は19日、日産自動車のカルロス・ゴーン会長(64)を金融商品取締法違反の疑いで逮捕した。罪状は有価証券報告書の虚偽記載である。
 新聞の報道によれば、“ゴーン会長は2011年3月期から15年3月期までの5年間に役員報酬約99億9800万円を得ていたのに、有価証券報告書には約48億8700万円と少なく記載して関東財務局に提出していた。
 共に逮捕された腹心のグレッグ・ケリー代表取締役(62)と共謀して、意図的に過少申告した疑いが持たれている。隠したとされる金額は約50億円に及ぶというから開いた口が塞がらない。
 19日夜に記者会見した日産の西川(さいかわ)広人社長は、「内部通報に基づいて数カ月にわたって社内調査を行ってきた結果、逮捕容疑になった“役員報酬の虚偽記載”の他、“私的目的での投資資金の支出”、“私的な経費支出”が確認されたので、東京地検に情報を提供した」と報道陣に説明した。
 日産自動車は11月22日に臨時取締役会を開き、明らかになった不正を理由にカルロス・ゴーン氏の会長と代表取締役の解任を全会一致で決議したと発表した。グレッグ・ケリー氏も代表取締役の職を解かれている。
三社同盟の一角、三菱自動車も26日の臨時取締役会で、ゴーン氏の会長職を解任している。
 ルノーの筆頭株主でもあるフランス政府は25日、ルメール経済相が「フランス国内では違法行為は確認されていない。不正の証拠や情報が日産からもたらされていない。明確な証拠がない限り“推定無罪の原則”が働く。仏ルノーの会長を解任するつもりはない」という考えを示した。
 元東京地検検事で弁護士の郷原信郎氏は「検察当局が具体的な中身を明らかにしていないため事実が判然としないのが現状だ。断片的な情報や憶測が錯綜して、日本の報道が迷走を続けているのはそのためだ」と語っている。
 ゴーン会長の逮捕から今日30日で12日が経過したが、ゴーン容疑者に関するニュースが流れない日は一日もない。
 それほど、世界的自動車メーカーのトップが逮捕された事件の衝撃が大きい訳だが、ゴーン容疑者らが起訴されるかどうかが、未だにハッキリしていないのは気になるところだ。
 アメリカのウォールストリート・ジャーナルは27日の社説で「これは宗教裁判だ」と批判する記事を書いている。
 日本の法律では、東京地検によるゴーン容疑者の取り調べに弁護士は同席出来ない。
 疑惑が次々メディアにリークされる中、ゴーン会長は一方的に企業のトップを解任されてしまった。
 検察は捜査の透明性を高め、ゴーン前会長に自らを弁護する機会を与えなければ、“この出来事は日本経済の汚点として残る”だろうと書いている。
 フランスの経済紙は電子版で、「フランスでは日本が仕掛けたゴーン会長追い落としのクーデターではないか」という見方が強いと伝えている。
 英国BBCなどは「逮捕、拘留、解任は冷静に計画された“悪意ある攻撃”ではないのか」という声まで伝えている。c
 イギリスのフィナンシャル・タイムズ紙も“陰謀説が駆け巡っている”という見出しつきで「逮捕を取り巻く状況が不透明だ。ゴーン容疑者の主張が全く報じらていないのはおかしい」ど逮捕の背景に疑問を投げかけた。
 レバノンの日本駐在大使は、ゴーン容疑者が拘留されている東京拘置所を28日に訪れゴーン容疑者と接見している。駐日大使は「全てにおいて無実だ。健康状態はとても良い」と報道陣に語ったという。
 これまでの調べで、カルロス・ゴーン容疑者は、自身の退職後の報酬の支払いを確認する文書を作成していたことが分かった。
 前会長は調べに対し、文書の存在を認めつつ、「サインはしておらず、将来の支払いも確定したものではない。有価証券報告書に記載する義務はなかった」と逮捕容疑の一部を否定している模様だ。
 日産とゴーン前会長の姉が、実体のないアドバイザリー業務契約を結んで、年に10万ドルが支給されたとされる点については「正当な理由がある」と説明しているという。 アルゼンチンのブエノスアイレスで30日から開かれる主要20カ国首脳会議(G20)に合わせ、フランスのマクロン大統領が安倍首相に首脳会談を要請していることが分かった。
 仏経済紙レゼコーが伝えたものだが、会談では日産、仏ルノー、三菱自動車の3社連合の関係を巡って意見を交換することになるらしい。
 フランスのルメール経済相はパリで世耕経産相と会談した際、ルノーと日産の資本関係について「現状維持が望ましい」との考えで一致したと述べている。
 両社は現在、ルノーが日産の株を43.4%、日産がルノーの株を15%持ち合っている。ルノーには議決権があるが、日産にはない。
 この不平等を日産は見直したいのだが、ルノーは現状維持を主張して譲りそうもない。
 カルロス・ゴーン前会長は1999年に多額の負債を抱えて“倒産寸前だ”と言われた日産自動車に「再建請負人」としてルノーから送り込まれてきた。
 全従業員の14%に当たる2万1000人のリストラを断行、国内5工場の閉鎖、部品メーカーに値下げを迫るなど「コストカッター」として剛腕を振るった。その結果日産の業績はV字回復したのである。
 2005年にはルノーの社長兼CEOにも就任し、日仏の大手自動車メーカーのトップを兼務するまでになった。
 西川社長は、こうした日産への貢献を認めつつ「非常に注意しなければいけない権力構造だった」とゴーン氏に権力が集中し過ぎていたことを反省点として挙ていることを記者会見で語っていた。
 20年近くに及ぶ“カリスマへの権力集中”で、弊害が如実に表れていたのは“役員人事”だという。
 ゴーン容疑者の不正解明でカギを握るのは腹心といわれてきたグレッグ・ケリー容疑者だが、ケリー代表取締役が何をしていたかを知る人は日産社内にも少ない。米国在住のままで、日産本社に出社することは殆どなかったからだ。
 最近のゴーン会長も、日産本社への出勤頻度は減っていて1~2か月に1度程度だったという。
 17年に発覚した不正検査問題でも西川社長任せで自ら矢面に立つことはなかった。
 ゴーン前会長逮捕の背景には、こうしたカリスマの劣化(?)と社内統治での不信感が増したことが、「追放」につながったと見られている。 
 ゴーンなきあと、ルノーと日産の関係がどうなっていくのかが一番の関心事なることは間違いない。
 ルノーが日産に43.4%出資している以上、日産の思惑通りに話しが進むとは限らない。
 マクロン大統領と安倍首相の首脳会談がどうなるかに注目してみたい。
 
 

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浜田山通信 №231 [雑木林の四季]

日産・東京五輪・大阪万博

                           ジャーナリスト  野村勝美

 私は80歳直前に車をやめた。日本中ずい分とあちこち回ったがいい思い出になっている。車種は最初トヨタ、その後子供の同級生が三菱に入ったので何代か三菱車の世話になった。いまたまに孫が乗る車はもう15万キロくらい走っていてどこも悪くない。こんな車を作っていたらもうからないんじゃないかと思っているうちに日産・ルノー連合に合併してしまった。おかげで3社連合はトヨタを抜いて販売台数世界2位、トップはフォルクスワーゲン、4位がGM。私はひそかにトランプさんがアメリカのラストベルト復活のために日産ルノーにねらいを定め、カルロス・ゴーン追放をしかけたのではないかと疑っていた。しかしそれもどうやら違うようだ。27日にはミシガン州やオハイオ州のGM工場閉鎖が発表された。
 うちの孫たちをみても車をシェアしているのさえ一人もいない。私の長男は16歳になると同時に上野の中古バイク市場に雨の降る中買いにでかけ、なかなか帰ってこないので迎えに行ったことがあった。この子はもはや60を超えている。あの頃はとにかくバイク、自動車の時代だった。隣の電器屋さんはTVや白物家電が売れて売れて、真っ赤なフェアレデイーZを乗り回していた。私が新聞社に入社し、配属されたのが横浜支局。日産横浜工場で何100人かの首切り反対闘争があり、私は組合員に同情的だった。以来どうも日産にはいい感情を持てず今日に到っている。
 それにしてもルノー・日産・三菱連合とはいかなる経営体なのか、会社は別々でルノーはフランス、日産、三菱は日本の株式会社、連合としては利益も何もないものか。カナダやメキシコ、中国くなどに造った工場はどこのものなのか。そのとき売上やら利益、税金などはどうなっているのか。そんな初歩的なこともわからないので、経済にいくらか強い友人に電話で聞くと、「俺は自動車には全く興味がない。環境破壊の最悪な原因は自動車だ」とにべもない。たしかに大気汚染は、車がハイブリットカーや電気自動車に変わっても、これまでに蓄積された汚染物質はなくなりはしない。廃車後のボディの鉄鋼やシートのプラスチックなど、再利用できないものばかりだ。昔あの石原慎太郎の都知事時代、ジーゼル車の都内進入を規制したことがあった。要するに自動車は環境破壊の最たるもの。これ以上作ってはいけない。人生そろそろ下り坂。人間はその覚悟が必要なのだ。
 それなのに、またぞろ東京オリンピックに続いて大阪万博とは。50年、55年昔とは世界中が全く違う。前の万博の時は、本来すね者である私は行かなかったが、妻と子供二人は友人の家に“民泊”して感激していた。今はどうだ。いくら日本人は祭りが好きといっても意気の上がりようがない暮らし向きだ。55年前日本人の半数が見に行ったそうだが、いまはもう見たいものもないだろう。まして嫌韓、嫌中の日本に韓国や中国が来るわけがない。万博はおろか東京五輪さえ見れるのかどうかの老生がいうべきことではないだろうが。

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BS-TBS番組情報 №175 [雑木林の四季]

BS-TBS 2018年12月のおすすめ番組(上)

                          BS-TBS広報宣伝部

厳選名曲を一挙公開!日本レコード大賞60年の歴史

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12月9日(日)よる7:00~8:54

☆今年で60回目を迎える「輝く!日本レコード大賞」の特別番組!

司会:ジョン・カビラ、江藤愛(TBSアナウンサー)
ゲスト:菅原洋一、岩崎宏美ほか

今年で60回を迎える年末の風物詩「輝く!日本レコード大賞」。その節目を記念してBS-TBSで特別番組を放送する。ゲストとして歴代受賞者の中から、菅原洋一、岩崎宏美らを招き当時の秘話や、裏話などを語っていただくとともに、歌も披露。さん然と輝くレコード大賞の歴史を豊富なアーカイブ映像を織り交ぜ紐解く2時間スペシャル。

大相撲密着450日 目指せ!大関・新三役

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12月14日(金)よる9:00~10:54

☆大関取りを狙う関脇・御嶽海と、新進気鋭の朝乃山が所属する高砂部屋に密着。

大関取りを狙う関脇・御嶽海と、新進気鋭の朝乃山が所属する高砂部屋に密着。
御嶽海は、大関への熱い思い、そして土俵では窺い知れない故郷、家族への思いに取材。朝乃山は、日々の鍛練やオフの日の素顔、高砂部屋の地方部屋への大引越しの奮闘ぶりなど、これも普段見られない様子を取材。
7月場所で初優勝を飾った関脇・御嶽海にとって、夏の諏訪湖場所は凱旋巡業。灼熱の太陽が照り付ける中、ファンの熱狂ぶりはそれ以上に熱いものがある。9月場所後には、地元の長野へ優勝報告会と祝賀会で帰郷。地元の期待を一身に背負い、11月場所で再び大関取りに挑む。
一方、幕内に上がって2度敢闘賞を受賞している朝乃山にとって、11月場所は三役昇進への足掛かりを作る上で重要であり、大学の同期・玉木にとっても、十両昇進を賭けた重要な場所。朝乃山の三役に対する思い、同期の玉木に対する思いに迫る。また、地元との交流、場所前の激励会における女将さんの奮闘模様、高砂部屋秘伝のちゃんこレシピも親方の解説で紹介。
日本人に愛される「大相撲の魅力」を再発見し、今まで以上に大相撲を身近に感じることが出来る密着ドキュメンタリー。

4K開局スペシャル ~世界・黄金ミステリー~
市原隼人 幻のスペイン財宝船を追え!
「大航海時代が生んだ!黄金トライアングルの謎」

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12月15日(土)よる7:00~8:54

☆市原隼人が、アメリカ・フロリダ沖「魔のバミューダ海域」で沈没船の財宝発掘に再び挑む!

出演:市原隼人

魔のバミューダ海域、その深くに眠るスペインの財宝の数々──。なぜ、スペインの財宝がアメリカ・フロリダ沖の海中に沈んでいるのか?スペインが世界を制覇した大航海時代とは、どんな時代だったのか?なぜ莫大な財宝を積んだ沈没船の存在は、人々から忘れ去られたのか?財宝に秘められた数々の歴史と謎──。2018年。アメリカ・フロリダでの撮影に挑んだのは、俳優・市原隼人。はたして、新たなる財宝を発見することはできるのか!?そして、スペイン財宝船に秘められた歴史と謎が紐解かれる!


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バルタンの呟き №46 [雑木林の四季]

           「平成の終わりに・・・」

                             映画監督  飯島敏弘

わたしはせんそうをしらない。おかあさんもしらない。

おばあちゃんもしらない。

でも、ひいばあちゃんはしっている。

えきでへいたいさんをみおくったかえり

ひこうきがとんできて

「きじゅうそうしゃ」でやられそうになったって。

はしってはしってはしってようやくにげたって。

ひいばあちゃんがいきたから

おばあちゃんがうまれ、

おかあさんがうまれ、

そしてわたしがうまれた。

へいわをまもるけんぽう

いのちをつなぐけんぽう

わたしがおおきくなっても

このままのけんぽうであること

それがわたしのねがい

(尾池ひかり  7歳 日本弁護士連合会賞応募主席選定の詩)

 なんとすばらしい詩ではあるまいか。新聞紙面でこの詩を見た、僕は、思わず口から飛び出そうとした感嘆の声を呑み込みました。あやうく、家人が、何事か、と驚くと思ったからです。歳のせいか、ちかごろ、うたた寝をしている時などに、夢の続きでしょうか、奇声を発することがあるらしいのです。しかし、これは、正真正銘の感嘆の声でした。今までに、平和を訴える言辞には数えきれないほど出会いましたし、僕も幾たびかの作品で、戰爭反対の訴えをしてきたつもりですが、これほど簡潔に、しかも、痛切に平和を訴える言葉に出会ったことはありませんでした。まさに、このわずか7歳の詩人ひかりさんに脱帽です。「それじゃ、せんそうをわずかながらしっている この ひいじいちゃんは どうしたらいいんだろう」直接、ひかりさんに 訊いて見たくなりました。この単純素朴な詩こそ、非戦を称える憲法第9条を象徴する極限にあたいするものではないか、と、打ちのめされたのです。

 先週、僕は、妻が近所の方から頂いてきた招待券を持って、九段の国立武道館で行われた「自衛隊音楽祭」に出かけて行きました。五年ほど前にも一度、自衛隊関係の仕事をしているプロダクションの人に誘われ観たことがあって、その時、いろいろ感じたことがその後どうなったろうかと、久しぶりに出かける気持ちになったのです。いや、驚きました。初めて見物した時と変わらず、というよりも、前回に比して更に人気が高まった様子で、全席自由という事もあってか、余裕を持って開場一時間前に現場に到着した時には、入場者の列が、蜿蜒長蛇の列といった既製の言葉では表現できないほどの観客が、あの巨(おお)きな国立武道館でも、果たして全員収容し切れるのかと心配になるほど並んでいたのです。今回は、一般向けの招待券でしたので勿論指定席ではなく、券面に、「満員お菜は入場をお断りすることがあります」と小さな字でプリントされているのが気になったほどです角々に立っている看板を掲げた隊員の案内にしたがって、歩いて、歩いて、ようやく最後尾と書かれた看板を掲げている自衛官の姿が見えた時には、すでに入場が始まっているのか、巨大な芋虫のように、ゆっくりと列が動き出していたのです。

 「申し訳ありません、長い時間お待たせして・・・」

 案内係の腕章を付けた下士官らしい制服の自衛官が、丁寧な口調で、行列している人たちに、実にこまめに、誠実な口調で謝っているのですが、時計を見ると、まだ入場時間にはなっていません。おそらく、本部と現場のやり取りで、今にも降り出しそうな雲行きなど察して適宜な指示が出たのでしょう。その時、僕の皮肉な性癖からですが、ふと、「沖縄の人たちの心に寄り添って・・・」と、米軍辺野古基地問題で、政府関係者がしばしば口にする言葉が連想されたのでした。せめて、このくらい寄り添って事情を明かし合い、誠実にアメリカ軍戦略参謀部と正面から再交渉し、お互いに納得できる条件を引きだす努力があれば、と、心の中で呟いていました。勿論僕自身は、いくら寄り添われても、辺野古の米軍基地のレゾンデーテルそのものが、「世界一危険な普天間基地の負担を軽減する為に」という理屈が、沖縄の人々には不可解に違いない、と思うのですが。

 「自衛隊の方々が、プライドを持って任務に当たれるように、憲法九条を・・・」という言葉も、しばしば使われます。しかし、この自衛官たちにしても、観客たちの周囲できびきびと動き回っている支持班(会場整理から舞台の設置進行などを担務する)の制服(行動服)の隊員たちも、実に晴れがましく矜持に満ちた表情で、立ち働いています。全国の自衛隊挙げての自分たちが作る「音楽の祭り」の御輿を担いでいるといった風なのです。

 音楽祭としての出来栄えが前回よりも更に数段進歩していたことは、敢えて省きますが、ここで是非にも呟きたいのは、今回のコンセプトが、非常に強く、平和希求へのメッセージ性が高かったこと、です。おそらく、この音楽祭が、上意下達ではなく、むしろ下意上達で作り上げられていると感じたのです。いや、それは、巧妙な、宣伝的策略なのさ、と僕の甘さを指摘される方もいらっしゃると思います。それとも、あえて自衛隊の宣伝臭を希薄にして、志願者を増やそうという戦略だ、と決めつける人もあるかも知れません。確かに、入場者が自衛隊員の父母兄弟、親戚、知己などを中心にした高年齢層が主流であることは変わりませんが、若い人たちが、前回よりも格段に増えていました。演奏レベルや、パフォーマンスの向上にも目を見張るものがありましたが、前回は、宝塚歌劇団の男役プリマ張りの美声女性隊員に魅せられて、その隊員を含む若い隊員たちが、東日本大震災の救援出動で泥まみれになって活動する映像にいじらしさを感じて、「この若者たちを、不条理な戦争で死なせてはならない」と痛感したのですが、今回は、災害出動や訓練の映像にもまして、ほとんど全てのプログラムが飛躍的な向上を示した以上に、すべてが平和への希求と賛歌だったことに、ある種の感銘さえ覚えたのです。吹奏楽団の交錯する軌道を自在にこなす移動と演奏は、かつては、一段格上の技量を示した米軍チームのそれにまったく遜色がないどころか、凌駕さえ覚えさせるものでしたが、特筆的な変化は、まるでアニメーションで作画されたように、一様に見事な体躯で揃っていた事です。防大生を主流にするという儀仗の演技は、僕がはるか昔の記憶に遺している旧日本帝国陸軍のただ厳格でごつごつしたものとは別物のしなやかで美しい力強さに満ちていました。北朝鮮軍の、むりやり高く足を上げる威力鼓舞一辺倒な苦しげな歩調とは、全く別ものの精悍さを発揮していました。今回フューチャーされたただ一人(?)の女性ジェット戦闘機乗りの乗務映像を見て、たしかこの一二年の、隣接国との空の緊張の高まりが、ジェット戦闘機隊希望者の減少の証左と判じる部分が無いでもありませんでしたが、災害出動の中に混じって認めた彼女の自信に満ちた映像内の言動にも、宣伝臭は感じられませんでした。

 「自衛隊が、SELF DEFENCE FORCEなどと、惨めな表示でいてはプライドを持てない」

といい、「自衛隊の皆さんが誇りを持って行動できるように憲法を改正・・・」と説く閣僚や議員の方々にこそ、この平和賛歌の音楽祭を見てほしい、この素晴らしい若者たちをMIRITARY FORCEやARMYにして、決して、「この道しかありません!」と突き進んで行く政治に任せて、他国間の政争、利害に起因する戦場に送り込むことは、絶対にしてはならない、させてはならないのだという思いを改めて抱きました。 日本国憲法第66条にある通り、内閣総理大臣および閣僚は、文民(軍人およびかつて軍人であったもの以外の人物)でなければならない、のですが、僕、バルタンとしては、現状で見るかぎり、名ばかりの文民統制 シビリアンコントロールの方が却ってこの国の自衛隊をとんでもない道に進ませてしまうのではないか、と・・・

 自衛隊の諸君が、嬉々として、胸を張って、矜持、誇りを持って行動しているのは、我が国の自衛隊は、専守防衛、戰爭をしないのだ、という前提があってのことなのではないでしょうか。今回のバルタン呟き、自衛隊員賛歌の呟きは、そんな呟きなのです・・・ 

 昭和16年12月8日、大日本帝国が、まちがったとんでもないこのみちにつきすすんでいってしまった記念日に。


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医史跡を巡る旅 №49 [雑木林の四季]

 「福岡 医の先駆者其の壱~貝原益軒」

                       保健衛生監視員  小川 優

「養生訓」で知られる、儒学者で医師でもあった貝原益軒は、寛永7年(1630年)福岡の生まれです。天下分け目の関が原から30年、父親は黒田長政の右筆(書記)を務め、医学の心得もあった貝原寛斎。益軒幼少の頃には島原の乱(1637~1638)がおこり、主君に従って父寛斎も出陣しています。若くして才能を表し、18歳にして長政の跡を継いだ黒田忠之に仕えます。が、ほどなく慶応3年(1650年)不興を買って閉居の上、浪人に。7年間の浪人生活の間も長崎や江戸へ行って勉強し、多くの人と交友します。のちの明暦2年(1656年)には忠之の次代、黒田光之に召されますから、益軒に理由があったというより、忠之側に原因があったのではないかと考えられます。忠之はどうやら困った殿様だったらしく、藩主に就く前から、父親である長政に金と領地をくれてやるから、百姓か、商人か、坊さんかになれ、つまり士分を捨てて家督を弟に譲れと言われたくらいです。殿様になってからは前代未聞、重臣が主君を、徳川幕府への謀反の疑いで訴えるという黒田騒動の当事者ともなります。

忠之の息子、黒田家三代光之に取り立てられた28歳の益軒は、藩費で京都に遊学します。以後7年間京都で本草学や朱子学、医学を学び、35歳の時に帰郷します。その後は博識をもって、あるいは典医として光之に仕え、邸宅と知行を賜り、黒田家譜をはじめとする多数の著述をなします。

「貝原益軒座像」
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「貝原益軒座像」 ~福岡市中央区今川 金龍寺境内

儒学を学び、後に養生訓を記すくらいですから、聖人君子的な生活スタイルを想像しますが、旅を楽しみ、京都遊学中には遊郭に通うなど結構奔放な日々を送っています。若気の至りか38歳の頃に体調を崩し、「病レ淋」に罹ります。ちなみに江戸時代、「淋」は尿道系、しもの病全般を意味します。今でいう淋病は明治以降の病名で、当時は膿淋と称されていたようです。益軒の寛文日記に書かれた症状、尿閉、間歇的な疼痛から改札すると尿路結石が疑われます。
これに懲りたのか寛文8年39歳で、22歳も年の離れたお嫁さんをもらいます。名前は初さん。秋月藩士の娘で才女。のちに貝原東軒と名乗ります。

「貝原東軒生誕地の碑」
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「貝原東軒生誕地の碑」 ~福岡県朝倉市秋月

前回ご紹介した緒方春朔の居宅近くに、貝原東軒生誕地の碑があります。東軒婦人、とくに書、和歌、筝、胡琴に優れ、益軒の著述の代筆も務めます。仲睦まじく、おしどり夫婦であったと伝えられますが、益軒さん、とっかえひっかえ3人もの妾のもとにも通ったともいわれます。ただ、とうとう子をなすことはできませんでした。

「貝原益軒顕彰碑および墓所」
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「貝原益軒顕彰碑および墓所」 ~福岡市中央区今川 金龍寺境内

ここまでの説明ですと聖人君子豹変して、知識欲が旺盛で、旅行好き、行動力も精力も有り余った人物像が浮かばれたと思いますが、実は益軒、かなり虚弱体質で病弱だったようです。そのためもあって、日々の健康保持に留意し、結果、当時としては大変な長寿を全うします。
さらに62歳と69歳の時と2回、夫婦連れだって遠く京都まで旅します。1回目は4か月京に滞在、2回目に至っては1年半に及び、三古湯のひとつといわれる有馬温泉に半月もとどまっています。今でいう退職記念旅行、少し前にはやったフルムーン旅行といったところでしょうか。
70歳に役から退き、著述に専念します。分野も教育書、博物誌、紀行と多岐にわたり、文体も平易でわかりやすく、読者に配慮したものとなっています。

養子を迎え、81歳で初孫を授かりますが、3年後東軒夫人に62歳で先立たれます。そして正徳3年(1713年)、自らの長寿を実証として「養生訓」を著し、翌年85歳の生涯を閉じます。

「貝原益軒、東軒の墓」
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「貝原益軒、東軒の墓」 ~福岡市中央区今川 金龍寺境内

益軒、東軒は生前同様仲良く並んで、住まいの近く今川の名刹、金龍寺に眠っています。

「金龍寺山門」
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「金龍寺山門」 ~福岡市中央区今川 金龍寺

養生訓は八巻からなり、第一、第二が儒学をベースに養生の目的と意義、第三と第四が食べ物や食べ方、飲酒の心がけや喫煙の害を説きます。そして第五が五感の役割、とくに口腔衛生の大切さ、第六に病気の予防と医者への掛かり方、第七に薬の効能と多用による弊害、最後の第八は老後の過ごし方を記しています。
現代においても有効な健康法とされるものが多く、日本における医療の原則「医は仁術」の記載や、多剤併用の戒め、8020運動につながる高齢者における歯科衛生など、超高齢化社会を迎えつつある現在の世相、社会問題を先取りした内容には驚かされます。

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いつか空が晴れる №48 [雑木林の四季]

    いつか空が晴れる

         -パパゲーノ・パパゲーナー

                                 澁澤京子

 レストランで食事していたら、隣の大きな予約席に次々と人が入ってきた、50代前半のお洒落したマダムばかり、どこかの女子校の同窓会らしい。
「お久しぶり!」「まあ、あなたはここの席よ!」次第に人数が増えていき、あちこちでおこる笑いざわめきがどんどんピッチも早く高音に盛り上がっていくさまはまるでモーツアルト「魔笛」のパパゲーノを聴いているみたい。うふふ・・というあちこちで起こる笑い声がそのうちに、テンションあがって高音のキャハハに変わっていく鳥のさえずりのようなざわめきを(はしゃぐ気持ちはわかるなあ)と音楽のように聴いていたのである。

天真爛漫で陽気でおしゃべりなパパゲーノが沈黙の試練の行に耐え、やっとパパゲーナと再会した時の喜びの歌。パパゲーノは、子供っぽい露悪趣味を持っていたモーツアルト自身でもある、と言われているそうです。

50代ともなればそれぞれ家庭にいろんな問題抱えている人がいるだろう、親の介護であるとか離婚であるとか、夫とはほとんど口を利かないとか・・それでも昔の友達に会えば、10代の天真爛漫な子供の頃にいきなり戻ってしまうのだ。容貌に変化はあっても人の性格ってほとんど10代のころと変わらないなあ、と思う。中学生のときは、やたらと背伸びして友達とジャン・ジュネなんかを回し読みしていたっけ・・「これ、すごく面白いわよ」と友達が貸してくれたのはサルトルの「水いらず」だった、中学生の女の子にアウトローや性の話を理解できるとはとても思えないんだけど、それなりに面白く読んだことは覚えている。
おませでおしゃまで、だけど女子校ゆえに男の人には奥手だったりして、幼稚なくせにやたらと大人ぶったりしていた。新任の英語の男の教師をみんなでいじめたこともあった。男の人に対する好奇心と恐怖心が両方あって、あれは思春期の女の子に特有のサディズムだったんだと思う。そういう背伸びをしたがる恥ずかしい時期をお互いに共有しているということは、いまさら気取らないで済むし、なかなか気楽な関係なのだ。

最近、友達から同窓会の写真を見せてもらった。彼は男子校。叔父様たちが肩を組んで校歌を歌ってる様子は、すごく無邪気というか。
仕事や家庭の重い圧力に耐え、頭髪を失いながらも、旧友と会えば思わず肩を組んでしまう叔父様たちの姿はとてもいじらしいではないか。

男の人も女の人も、いくつになっても10代のころの少年・少女が心の中に住んでいて、仮面を外せば、あっさり自然人が出てくる。
世間体とか虚栄とかそういった余計な仮面を外したとき、人とのコミュニケーションは自由な、幸福なものになる。それは人によっては年齢の増加とともにどんどん外れていく傾向もあって、そこで交わされる会話が、鳥のさえずりのようなナンセンスな軽いおしゃべりであっても、楽しければ楽しいほど何か夢のような、かけがえのない時間を過ごしていると感じるようになったのは、やはり年取ったせいでしょうか。




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梟翁夜話(きょうおうやわ) №28 [雑木林の四季]

「珍名曼荼羅」

                           翻訳家  島村泰治

吾輩と言いながら名乗る名前のない猫もいれば、君の名はと訊ね損ねた物語が銭湯を空にするほどに一世を風靡するなど、兎角人の名は話しの種になる。親に貰った名前が気に入らぬと言って変名を構えたり、雅号を拵えて悦に入ったり、名前は悲喜交々話題を生む。

そう言えば、つい先日、テニスで世の話題をさらった女性がいた。大坂なおみという純綿の日本名の女性が全米を制したのだ。巷は、伊達公子以来の世界進出だと大興奮、なおみは直美だろうと勝手読みして舞い上がった。喝采が醒めてみればなおみはNaomiでハイチ系アメリカ人と知れた。

それにしても「なおみ」は迷惑な名前だ。Naomi Osakaが大坂直美だと思ったとしても、日本人ならよくある名前だから咎められない。筆者の生徒にも直美がいたし、あなたの知己にいてもおかしくない。が、Naの辺りの音が違うにしても、テレビでNaomi、Naomiとさりげなく連呼されると、おや、と思うのだ。

そこで調べてみた。左の通り、Naomi という名前は英語圏でも有り触れた(とは言わぬが)人名なのだ。イギリスのスーパーモデルあり、女優にもワッツやハリスなどというNaomiがいる。ロシア生まれのイスラエルの植物学者も詩人もそうだ。聖書のなかに、Neiomiと綴りネイオミと読まれる女性がいる。Naomiなとが人名になっているところを知れば、日本へのキリスト渡来説もまんざら笑い飛ばせない。

人名と言えば、こんな話しもある。これも先日テレビの実況で見たスポーツイベント「東日本女子駅伝」でのことだ。たまたま気づいたある選手の奇名を切っ掛けに、駅を繋いで走る女子ランナーたちの超ふるった名前が気になり、いっとき、レースの展開は脇に置いて奇態な名前のオンパレードに酔ったほどであった。

切っ掛けの選手の名前は○○輝麗、タスキ渡しのポイントごとに紹介される選手たちのデータの中にこれがあった。「輝麗は『キレイ』だろうから綺麗なんだろうな。そうじゃなかったらどうなんだ?」「綺麗なら結構だし、もしそうでなかったら本人の化粧努力がさぞや・・・」などなどの下馬評が姦(かしまし)しい。やがて「ほんとにキレイと読むのカイ?」という問い掛けがあって、愚妻がスマホを介して選手登録名簿を調べたところ、なんと、「輝麗」は「るる」と読ませると!

この発見で「ほんと?」と「まさか!?」の問い掛けがが交錯し、レース展開はいっときフリーズした。酷い話しである。「輝いて麗しい」状況が「るる」とはどうしても結びつかない。下馬評が「おいおい、名前なら漢字はなんでもありか?」という話しに発展するに及び、レースの展開をよそにほかの選手たちの珍名探しが始まったのである。

すると、出るわ出るわ、珍にして妙なる名前が続々と見つかった。輝麗(るる)の向こうを張って「麗后」というのがある。平均的な日本人なら頑張っても「れいごう」か「れいこう」としか読めまい。これが何と「りみ」というのだから、将に絶句ものだ。どこを押したら「后」が「み」に化けるのか、命名の経緯をぜひ知りたいものだ。

輝麗と麗后を珍名番付の東西の横綱とすれば、大関から三役に見事な奴が列を成している。「野恋花」というのは如何?これを「のこか」と鸚鵡返しできるのが親たち二人以外いるとは思えない。「心音」はどうだ。「○ね」だろうと想像できようが「ここね」とは想像も出来まい。「心」を音を三分割して上の二つを無造作に摘み出す神経は尋常ではない。親御さんたちの命名時の心象風景が偲ばれる。それに比べれば「美々里」(みみり)や「希らら」(きらら)などはごく当たり前に見えてくるから妙だ。

思えば、なおみなどは罪のない名前だ。横文字にも同名があるというだけの話しだから、素直に受け入れたい。この名前話しのオチにコペルニクス的と思える現象について語っておかねばなるまい。われわれはルビとは漢字に添える仮名だと教えられた。それが今や、仮名に漢字のルビを振るようになったというお粗末。

例のバーチャルシンガーの名前からか、SNSのmixyから転化したのか定かではないが、「みく」という女の子の名前が流行ったらしく、駅伝の選手のなかだけでも「未来」、「実来」、「美空」、「美玖」の四人の「みく」がいた。調べればもっといるだろうが、これは仮名の「みく」に漢字でルビったものだろう。

来年2月には84歳になる身、私には見事復活した新谷仁美選手が牛蒡抜きして東京を優勝させたレースの見所を逸した残念よりも、この時ならぬ珍名曼荼羅の衝撃が何ともきつい。名前はいつも変わらぬ珍な種本である。お粗末さま。


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検証 公団居住60年 №22 [雑木林の四季]

大資本奉仕の実態と用地買収の黒い霧 1

         国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

1.賃貸住宅と分譲住宅
 一般に「公団住宅」とよばれているのは、賃貸の団地住宅をさしている。公団が表看板とする住宅ではあるが、公団は賃貸のほかに分譲住宅も大量に建設してきた。発足当初から、賃貸は団地住宅と市街地住宅、分譲住宅には普通分譲と特定分譲があった。
 賃貸の団地住宅に数えられるのは、既成市街地のなかの小規模な100戸単位の集合住宅と、主として郊外型の500戸前後から1,000戸、2,000戸、さらにはそれ以上の、新たなまちづくりともいうべき団地である。発足して3年後には札幌、仙台、下関などの地方都市にも団地住宅を建設している。
 市街地住宅は、いわゆる下駄ばきアパートといわれ、低層部が施設、上層部が住宅の複合ビルで、東京・田町駅に近い1957年入居の本芝市街地住宅がその第1号である。1~3階は池貝鉄工の本店事務所、4~6階が公団の賃貸住宅である。一般的には、敷地の所有者、借地権者によびかけて、商店や事務所等の施設を公団資金で建設し、長期月賦払いで分譲することを条件に借地権の一部を取得し、施設と一体に賃貸住宅を建設する手法である。既成市街地の小規模な再開発といえる。東京では60年代初めこかけて、千代田、新宿、港区のような都心部で戸数10戸台、なかには100戸を超える市街地住宅が建設された。多くは高層住宅であった。港区赤坂の青山北町汀目のように251戸の市街地住宅もある。
 市街地住宅は、のちに1965年度から面開発市街地住宅制度が発足し、既成市街地にある工場跡地等を全面買収しての大規模な再開発にのりだし、そこに建設した両開発市街地住宅は、従来の1棟単位のアパートを一般市街地住宅として区別した。住宅は高層建築、施設をふくめすべて賃貸、東京23区内では、68年の日の出町、金町駅前にはじまり大島4丁目、6丁目、72年の豊島5丁目へと、1,000戸内外から5,000戸近い面開発の大団地が出現しはじめた。一般および面開発市街地住宅の建設戸数は、79年集計で全賃貸住宅64・3万戸のうち22%を占めるにいたった。団地住宅もいまでは市街地化し、建て替えで高層化され、しだいに区別はむずかしくなっている。

 分譲住宅は、政府の持ち家推進政策にそって55年当初から建設されたもので、企業の給与住宅(社宅)として供給するのが主な目的だった。分譲には大別して、建設した後に譲受人(購入者)を募集する普通分譲と、建設する前に募集する特定分譲がある。
 普通分譲は、個人も対象にしたが申込者は少なく、譲受人の多くは法人関係だったという。支払いは一括払いと分割払いがあり、分割払いの頭金は150万円以上、残金は20年間元利均等の割賦式のため当初がひじように高く、勤労者の所得水準では手が出なかった。申込者が少なく、一部を賃貸に切り替えた団地もある。「阿佐ヶ谷住宅」(東京、350戸、1958年竣工)は東京銀行の2棟(36戸)をはじめ、10戸以上を購入した法人に三井信託、神戸銀行、旭化成、三井金属、富士重工、北越製紙、本州製紙、東洋綿花など大企業が名をつらねている(『奇跡の団地阿佐ヶ谷住宅』2010年刊、王国社)。これが「住宅に困窮する勤労者のため」の住宅供給といえるか、と当然の批判もでて、60年度に建設を一時中止し、61~62年度は募集を中断した。
 そのころ公団は、賃貸住宅入居者から現に住んでいる住宅を持ち家として譲り受けたいという意向が出されているとして、賃貸住宅を将来分譲に転換するコンバーチブル計画、賃貸期限付き分譲住宅なども検討していた。66年度に第1期住宅建設5カ年計画がはじまると、政府の持ち家政策に対応して、頭金30万円、当初5年間は元金据え置きなど支払い方法をあらためた「特別分譲住宅」制度をつくり、73年度には「長期特別分譲住宅」制度に変え、割賦金の支払い期間をさらに延ばし、家賃並みの支払いで持ち家がもてるとの触れ込みで分譲の販売強化をはかった。


『検証 公団居住60年』 東信堂

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コーセーだから №45 [雑木林の四季]

五十歳創業の哲学  第6回

                 (株)コーセーOB  北原 保

協約金が一億円に/豊かなコーセー会の貯金

経営は頭脳

〝経営は頭脳〟というのは小林孝三郎社長の考え方、現代風にいえば〝脳波のはたらき〟ということだ。

そのころ新円切り替えで銀行も金の貸し出しを止めているため、借りたくても借りられなかったが、小林合名会社は銀行のお世話にならなくても、一軒3000円の全国小売店からの協約金が入ってくる。
 「インフレで物価があがるほうが金利よりもずっと高かった。だから金を持っているより物を買っておく方がトクだという時代、3000円の協約金に年1割の300円の利息をつけ、これをコーセー会の運営費に積み立てたんですが、小売店は1割の利息なんてバカみたいな話、それより3000円の商品をくれといってましたね」
 コーセー協約制度は、メーカーと小売店の組織だが、コーセー会というのは小売店同士のヨコの関係を深める会、小売店が協約金の1割の利息を出せば、コーセー本舗からも1割の寄付をコーセー会に出すという共存共栄のやり方である。
ところが、小林合名会社は社長以下4人の会社。小林孝三郎社長が製造担当、小林聰三専務が販売担当とはなっているが、はじめのうちは社長も小使いもいっしょだった。
 軍服姿で社長と専務が大八車を引いて、旭電化から化粧品の原料、ステアリンとか苛性カリ、グリセリンを石油箱につめて買ってきた。それを水と香料を加えて大きいスリ鉢で調合してクリームを製造する。
小林孝三郎氏は東洋堂時代に製造から販売まで化粧品づくりのすべてを教えられてきたから、クリームの製造などお手のものだ。が、ネコの手もかりたいほど忙しい。従業員が足りないのでその年の8月には15名にふやし、工場も王子の住宅兼用から志茂町に移して製造をはじめた。当時の様子を旭電化の資材副部長で原料を供給していた檪原氏は「おどろいたのは小林さんのところに原料をとりにこいというと、いつも現金があるんですね。新円だからどうしてこんなに金があるのかと思いましたよ。だから小林さんはいくらでも原料は買えたわけです。それでよくただでクリームなどを貰っていましたがね。あのころの製品は冬をこすとクリームの水分が蒸発してかチンカチンになってしまう。乳化剤も完全なものがありませんでしたから、いまとくらべると〝月とスッポン〟のちがいですわ。それでも出せばどんどん売れたんです」
 どこの化粧品メーカーも原料不足の中で化粧品をつくるのだから仕方のない話、なんせ小売店がクリームひと缶を買って自分でビン詰めして売る時代、ある大阪のデパートなどは、ビンとレッテルを用意して、ビン詰めしたクリームに自分のところの商品名をつけて、公定価格より高い値段で堂々と売っていた時代なのだ。だから原料さえあればもうかった。
「いま創立当初を考えるとウソのような話ですが、原料をヤミで買って公定価格で小売店に化粧品を売っても十分もうかったんですからね。原料の10倍の製品ができたんですから、小売店は化粧品を仕入れてヤミで売って結構もうかった。戦後の異常な時代でしたね。この時代に小売店の協約販売組織をつくったのはうちだけじゃないですか。みんな物をつくれば売れるのでいい気になっていました」
 コーセー化粧品は着々と伸びた。22年1月には北区豊島町のトンボ鉛筆の新工場をわずか35万円で買収した。この工場にはミキサーがあり、それもそのまま改造して化粧品の製造に使用できた。当時、最新式粉白粉製造機といわれたボールミルも購入して、総合化粧品メーカーとしての一歩をふみ出した。
 「創業の地につくった協約販売組織はいまもずっと続いています。協約金は5000円になりましたが、それが積もり積もっていまや1億円になっているんですから、コーセーがいかに小売店を大切にしてきたかわかるでしょう」(小林社長の話)
(昭和44年10月11日付)


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   豊島工場(北区豊島6丁目)前で/中央が小林孝三郎社長
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   粉白粉等の製造に使用された当時の最新式ボールミル
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   当時、ラベル貼りなどはすべて手作業で行われていた

*昭和48年、小林孝三郎社長は再販制度撤廃後を考慮して、コーセー会の再編成を実施した。この折に、戦後の物資不足の状況の中で送品を確約する役割を果した「協約金制度」も必要性がなくなったと判断し「協約金」を廃止、同時に「預かり協約金」を返却した。

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地球千鳥足 №118 [雑木林の四季]

 自分に利便、他人に不便な国でオタオタ・ホンワカ道中~アメリカ合衆国~ 

       グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子

2回試みやっと目的を達するシニア:
アメリカへは年に1度は戻るが、今年は3回目だった。2回目の目的…銀行関連…でミスをし、やり直しの往復だった。2回試みやっと目的を達するシニアになりにけり。だが良いことからスタート。成田から先ずシカゴに着き1泊してシンシナティへ、という三角切符。シカゴに住む夫婦に夕食と朝食をご馳走するだけのためにシカゴ経由の切符を買ったのだ。筆者夫婦は過去11年間アメリカにいる日本人が読む情報誌、J-Angleに旅行記を書き続けているが、その編集者が忍さんで大変な美人。ご夫君共々空港まで来てくれ近くで食事をしたのだが、エネルギーを頂ける素敵な若夫婦だった。
デポジット社会:シンシナティ空港でレンタカーを借り、デポジット100ドル、大急ぎで5時に締まる銀行に直行、これは正解だった。いつも世話をしてくれるキースさんは都合でこの日と我々が帰国する前日しか出てこないという。彼に予約し、日本から予約したラマダ・ホテルへ。ここもチェックイン時にデポジット75ドル。デポジットは車を返したりホテルをチェックアウトした後、かなり経なければ戻ってこないので口座の見張りが必要だ。車のトランクにキーを置いて蓋をした!: Krogerというスーパーの前で車のトランクの中を見た際夫が車のキーを置いたまま蓋をした。夫は焦って助けを求めようとKroger店内へ。妻の筆者は車の傍に立ち、駐車場の買い物カートを回収する従業員に声をかけた。彼は車の運転席下部のペダルの1つをポンッと押し、トランクを開けた。夫が店から出て来た時には筆者は満面の笑み。夫は店内で頼めず、「友人Enaにでも助けを求めるしかない」と考えて店から出てきたのだった。夫がついでに思い出した。28年前、同じ事件があったことを。キーを車内に置き、エンジンかけっぱなしでドアを閉めてしまったのだ。その時ポリさんを呼んだらパトカーが3台もやってきた。キー閉じ込め事件の対応道具を持っていたパトカーは1台だけ。その道具を持ったパトカーのポリさんは他の2台のポリさんに、「お前ら何しに来た?!」と笑いながら聞いていた、と

電話の国で電話通じず:
今回の渡米でも多くの友人に会う予定だった。博士課程で学んでいたUCの新聞記者Dawnは有能な女性で今ではTV局勤務、その後も仲良しだ。筆者はホテルから毎日電話し、Dawnの声を確認して留守電にメッセージを残したが滞米中返事は無かった。かつての隣人Paulにも下宿していたEnaにもメッセージを入れたが返事無し。彼らは高齢の所為か留守電のメッセージを聞かないようだ。Paul には彼の好きな寿司を持参して一緒に食べ、Enaは訪問し、レストランに誘いご馳走した。教えていた大学、UCBAの学部長、Dr. Howellと懐かしの大学訪問を打ち合わせ。待ち合わせの大学ロビーで待ったが彼は現れず、Officeで尋ねたらUCのMain Campus で待っていたと。いろんな人に電話したが皆さん留守電ばかり。メッセージを入れても返事を得られないことが多かった。

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8942:ヒロ&弘子夫妻、和也&Betsy夫妻と我々

Cincinnatiの日本食レストラン芽生(Mei):
今回Kentuckyに住む2組の素敵なご夫妻、広紀・弘子夫妻、和也・Betsy夫妻、と我ら夫婦3カップル、計6人で日本食レストラン、芽生で食事した。往路、高速の出口を間違え、迷い、車から降りて散歩中のアメリカ人中年夫婦に道を聞いたらにこやかに「この道を真っ直ぐ行き突き当りを右へ」と教えてくれたので、「Thank you so much!」とお礼を言い、直角に腰を曲げ最敬礼したら、相手夫婦もにこやかに直角お辞儀の最敬礼を返してくれた。ユーモアと笑顔の素敵なアメリカ人にホンワカ。芽生到着。外面も内面も魅力的な広紀・弘子夫妻や和也さん・Betsy先生夫妻と食事。和也さんとBetsy先生は日本のICU、修士課程で出会い結婚してアメリカへ。Betsy先生はその後博士号を取得UCの教授となり、筆者がUC の博士課程の時の恩師だ。この6人のDinnerもホンワカと素敵だった。Cincinnatiに戻ったら再現したいネ。

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CincinnatiのKenwood Mallは11月中旬にはもうクリスマス気分



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シニア熱血宣言 №109 [雑木林の四季]

新・元号に向けて
                           映像作家  石神 淳

  平成三十年十一月の或る日。福島県南会津町の水引集落の茅葺き集落は、茅葺き屋根のふき替えに備え、刈り取った茅で取り囲まれていた。

109水引曲屋集落.jpg

 新しい元号に茅葺きの集落。其処に佇むと、なぜか奇妙に清々しい気分になった。明治の火災で集落の全戸が消失し、それ以来、「火の用心」の心がけを頑なに徹底し、さながらタイムスリップした如き、山神さま敬い、(農村の伝統)を守り続ながら暮らし続けている。都会には都会、そして水引には水引の暮らしが、距離感そのままに活きずいている。
 その水引集落には、『離騒館』と呼ばれる民宿があるにはあるが、人生の修行の場と考えた方がよいかも知れない。 しかし、春は山菜、そして渓流の岩魚や山女、集落の畑で採れた新鮮な野菜にふれると、都会での暮らしは、いったい何なのか、時代錯誤の暮らしとは言えない何かが、あなたの心に、芽生え始めることだろう。
 冬場は豪雪地帯だから、行き着くのに容易ではないが、年に一度は訪れ、静かに反省の時を過ごしている。
 思えば、『平成』と呼ばれた時代は、人の心が離散し人情が消え、心が破綻し、追い詰められた時代でもあった。
 都会に人が集中し、全国各地の過疎地に「限界集落」が生まれ、住処を失った高齢者が放浪しはじめた。
 最も悲しむべきは、親子の絆が希薄になり、茫漠たる都会の砂漠の中で、「自分だけよければ・・・」と親を排除してまでも、自分の生活圏を死守する姿が哀れとも写る。
 特別養老人ホームにも入居させて貰えず、介護付老人ホームに入る資力もない。途方に暮れる老人たちを見捨て、高級マンション・高級ホテルが林立、何のために。
 老後の僅かな年金は、介護保険や何やかやと、チビリチビリ毟りとられ、「悪いやつほどよく眠る」。いったいどうなっているんだこの國は・・・・・。
 政治の売り言葉だった「福祉」はどこ吹く風で、日々に憤懣やるかたなし。その上、百歳までの人生設計なぞ、非現実的だ。その馬鹿さ加減に、怒れ老人諸君。俺だって齢八十三の老人だが、憤る場は今や選挙ぐらいしかない。
 この年になって、立派な屋敷に住みたいとも思わないし、贅沢な食生活をしたいとも思わない。
 しかし、脳梗塞で倒れると、命長らえても認知症を発症する危険性が高いとも聴く。不幸なことに、ご本人の意志確認が出来なくなり、延命治療を余儀なくされる。
 そのような事態になると、ほんとうに不幸きわまりない。
 現在は自分の意志が伝えられない、寝たきり老人が病院のベッドで、明日への希望も虚しく、ただ生きているのみ。意志表示が出来ない老人も不幸だが、付き添う親戚縁者もまことに気の毒だ。
 一昔前、尊厳死のあり方が、マスコミの話題になったが、難しいテーマには、誰も触りたくない。
 昨今では、「死」への導き方への概念も変わってきた。
 いざ事態に直面すると、うろたえざるを得ないと思うのだが、終末期医療の決断は、動転せず、己の生き方を明確に世間に伝えるのが、最善の策であろう。
 いざとなると、即、救急車に119番で依頼するのが常套手段だったが、「延命治療を受けるか否や」を自分で明確にしておく必要がある。
 その為には、いざと言う時、いちばんに頼れる、高齢者対応の訪問医師を決めて置くことが、日常的に肝要だ。
 慌てて、救急車で病院に担ぎ込まれでもすると、そのまま延命治療に繋がりかねない。
 ここら辺りの判断は、微妙なところを含むが、難しいだけに、「延命治療」を否定する、当事者の判断が必要だ。
  新しい元号を前に恐縮だが、すっきりとした気持ちで新年と新・元号を迎えたい。
 人口の都市への集中化現象、格差社会は心の貧困が加速させる。
 増加する認知症問題を、社会の裏側に積み残してはならない。これからは、ますます住み難い社会がやってくる。
 ゆたかな暮らしって、いったいなんなのだろう。そして、人間の絆、そして親子の絆って何だろう。
 来年は、新・元号が迎える。人の心の絆と温かさをを、新・元号の社会に迎え入れてもらいたい。

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私の中の一期一会 №178 [雑木林の四季]

    初日から4連敗の横綱・稀勢の里が5日目から休場、引退のピンチ拡大か?
    ~「早めに痛めたところを治したい。まだいい相撲を取りたい気持ちはある」~

              アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 大相撲九州場所3日目、テレビを見ていた私は「ああ、ダメだな・・勝てないな」と思わず声が出た。
 その直後、北勝富士の突き落としで、横綱の稀勢の里はあえなく土俵に横転していた。
 これで、稀勢の里は初日から3連敗となった。横綱が初日から3連敗する場所なんてザラにあるものではない。
 支度部屋で記者に囲まれ「考えすぎか?」「切り替えていく?」「一人横綱として勤め切るのか・」など質問攻めにあっても、瞬きするばかりで横綱は沈黙したままだったという。
 稀勢の里は、髷を直し終わり着替えが終わってもなかなか立とうとしなかった。座ったまま下に落とした視線に力がない。支度部屋に重苦しい緊張感が漂っていたと新聞記事は伝えている。あまり見ない光景であった。
 夜のニュースで、稀勢の里の“休場”か“引退”がニュースになるかと思ったが、そうはならなかった。
 翌日のスポーツ報知によれば、稀勢の里の師匠・田子ノ浦親方が宿舎で取材に応じ「稀勢の里は4日目も出ます。昨日話をしたが、本人はまだやれる。“頑張る”というので背中を押すしかない」と語った。
 大怪我のため8場所連続で休場したあと、進退をかけた場所と言われた今年9月の秋場所で10勝を挙げ、復活への希望は感じさせた。
 場所前は好調というニュースも伝わっていたから3連敗は“まさか”の感じだが、いまや“前途多難”と言わざるを得ない。
 初日は見なかったが、2日目の妙義龍戦、3日目の北勝富士戦を見る限り「相撲内容がすこぶる悪い」ように思う。
 稀勢の里は、もともと右を使うのが得意ではないらしい。強烈な左おっつけ、左差しからのワザで勝機をつかむ我慢の相撲なのだ。
 3日目、立ち合いはしっかり当たっていた。左差しを狙って前に出ていったが土俵際まで押していく出足に力強さがない。“重心を低くして前に出ればいいのに”と、見ているこっちが力んでしまう。
 素人目にも、すぐ“足の踵が浮く”ように見えた。
 そうこうしているうちに、北勝富士に左のど輪で起こされ上体が伸びてしまった。私が「ダメだな」と思ったのはこの時である。
 相手の突き落としは、確かに強かったが、それにしても倒れ方が“もろ過ぎる”のだ。
 2日目の妙義龍に寄り倒された時も、稀勢の里は尻から土俵外に転げ落ちていた。 
 下半身に粘りがないから上体が早く落ちてしまうような気がしてならない。(初日に足を痛めていたことが後に判明)
 八角理事長は「妙義龍は稀勢の里を軽く感じただろう」と記者に語っているが、どの相手も軽く感じるとすれば「左さえ封じれば勝てる」と思ったとしても不思議ではないだろう。
 元大関武双山の藤島審判長は「左一辺倒で、右を全く使っていない。自分の形に拘り過ぎるのが敗因だ」と述べている。
 初日から3連敗して、4日目も土俵に上がった横綱は大乃国(現芝田山親方)ただ一人だそうだが、大乃国は4日目に勝ち、8勝7敗で場所を終えている、休場しなかったのだ。
 とにかく不戦敗を別にして、初日から4連敗した横綱は過去に一人もいなかったのである。
 稀勢の里が4日目に顔を合わせた栃煌山は、今場所は好調だった。初日に関脇の御嶽海を、3日目には大関豪栄道を破って破竹の3連勝している強敵だった。
 注目された栃煌山戦は、左を差して体を寄せ、立ち合いから一気に前に出た。だが土俵際で栃煌山のすくい投げで、二人はほぼ同時に土俵の外へ・・行事の軍配は、一度稀勢の里を指したが物言いがついた。
 検査役が協議の結果“行司差し違え”で敗れてしまった。(日刊スポーツより)
 横綱の初日から4連敗は、1931年1月場所の宮城山以来2人目だ(と言われても、あまり昔過ぎてピンとこないが・・)
 平成以降では、初日から3連敗して、その場所を最後まで務めた横綱は一人もいない。横綱の初日から4連敗は前例がないという不名誉な記録が生まれてしまった。
 稀勢の里は15日朝、福岡県大野城市の田子ノ浦部屋宿舎で取材に応じ「一人横綱で迎えた場所で応援してくださった方々に申し訳ないが『休場』することになった。悔しい思いはある」と語った。
 稀勢の里は「場所前は非常に調子よくきたが初日に負けた時、右足の新しいところを痛めてしまった。そのあとは本来の相撲が取れなかった。痛めた所をしっかり治して土俵に戻れるよう頑張りたい。まだいい相撲を取りたいという気持ちはある」と話した。
 だが、この横綱が休場するとなれば、進退問題が再燃してくることは避けられないだろう。
 場所前の定例会で、横綱審議委員会の北村正任委員長は「九州場所で休場ということになれば、何かを考えなくてはならない」と発言している。
 元大関栃東の玉ノ井親方は「仕切りの時も落ち着いているし、身体も動いている。ブランクが長いとそう簡単には元に戻らない。出続けた方がいい。休んでしまうと同じことの繰り返しだ」という意見もあったが、
稀勢の里は休場して再起を目指すことを選択した。
 しかし“引退にリーチがかかった”とみる人もいて、進退問題は当分尾を曳きそうである。
 稀勢の里は、15年振りに誕生した日本出身の横綱として必要以上に注目された。国を挙げて祝賀ムードが盛り上がっていた時、稀勢の里の父、萩原貞彦さんが新聞に寄せた手記を読んで、私は胸の詰まる思いがしたことを思い出した。
 17年1月の号に1度書いたものだが、もう一度紹介してみたい。
 稀勢の里の父、萩原貞彦さんの手記(日刊スポーツより)
『中学を卒業して相撲しか知らない純粋培養の本人は(横綱昇進で)病気になるくらい重圧を感じています。私としては大関のまま、怪我なく、身体づくりを第一に、好きな相撲を長くやってもらうのが念願でした。  
 横綱になってこれからが大変です。これまで以上に稽古をこなし、自分を律し、より勉強して、名実ともに模範となるような立派な人間にならなければなりません。その意味で「おめでとう」というより、「気の毒になった」というのが本音です』
 稀勢の里のお父さんの我が子を思う“親心”が痛いほど私に伝わってきたのだ。
 お父さんは、“綱の重み”に苦しむ息子が「引退する」と言って欲しかったかも知れないな・・と私は思った。

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浜田山通信 №230 [雑木林の四季]

アメリカ・ローンリー

                      ジャーナリスト  野村勝美

 アメリカの中間選挙は予想どおり、上院ではトランプ大統領の共和党が過半数を維持し、下院は民主党が逆転した。トランプは「とてつもない成功だ。皆に感謝する」とツイートした。事前調査では下院で共和235、民主193と、共和党が42人も優勢だったのが、共和200、民主222と逆転して、これから予算も通せなくなる惨状だ。新聞が当初「トランプ政権に打撃」と大見出しを掲げたのも当然だろう。
 ところがトランプ強気のツイッターから日本のメデイアの反応は変化する。トランプはフロリダやテキサスの知事選、上院選に全力をあげ、それが2年後の大統領選挙に効果をあげるのだからOKだというのである。全米で女性やマイノリティの人たちが草の根の運動に発ちあがり、期日前投票や投票率が10数%も上昇、50%に近づいた。女性や若者の票は出口調査によると7割方民主党だった。
 アメリカ通の政治評論家は、全米で重要な5、6州の上院と知事選を共和が制したのだから、トランプが大成功だというのは当然だと言う。私はアメリカのこともヨーロッパ、トルコ、サウジ、イエーメン、アフガン、ロシア、中国、韓国、北朝鮮、アベ日本のことも判らぬことばかりだが、どうもアメリカ内の変化の見方は大分違うように思えてならない。
 難民、移民問題だって、選挙中、ホンジュラス、グアテマラからの難民キャラバンをTVが毎日追いかけ、アメリカは軍隊が阻止などと移民阻止の壁建設とともに毎日大キャンペーンを展開した。ヨーロッパでもイタリア、オーストリア、ハンガリー、ポーランドとあちこちにミニトランプが生まれ、EUはいまにも解体するかのようだ。第一次世界大戦から百年目、世界が分断してまたまた植民支配をはじめ、アメリカ・ファーストのトランプはイランあたりで核戦争を始めるかもしれない。クワバラ、クワバラである。
 それにしても16年のトランプ大統領の誕生を日本のジャーナリストでたった一人当てた木村太郎は、今回は上院はもちろん下院も共和党が大勝利すると大見えを切った。何しろ経済がすばらしくよい、雇用もよい、若者の賃金もあがっている、コアな支持者だけではない、民主党の影響下にある人たちもトランプファーストだといっているとTVで言っていたが、今度はみごとにはずした。私はこの前の大統領選挙でひとりトランプ勝利を予言した時、この通信でも彼のことをほめて書いたことがある。それは彼が当時東京新聞にコラムを持ち、極めて客観的冷静な見方の評論を発表していたからだ。しかし今回はいけない。あそこまで堂々と確信を持って共和党が上、下院とも勝つと言い切った以上、いさぎよく弁解どころかトランプの広報部長のようなみっともないまねをすべきではない。
 それにしても開票直後、司法長官を解任したり、記者会見でCNN記者をしめだしたり、かと思えばロス郊外で元海兵隊が銃を乱射して市民12人を殺したり。これではアメリカファーストどころかアメリカ・ローンリーになる。、

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徒然なるままに №44 [雑木林の四季]

 名歌「椰子の実」追憶
              
                        エッセイスト  横山貞利

  椰子の実
     詞 島崎 藤村  曲 大中 寅二   
 
 名も知らぬ 遠き島より
 流れ寄る  椰子の実ひとつ
 故郷の   岸を離れて
 汝はそも  波に幾月

  「日本の詩歌、1 島崎藤村」(中公文庫)の「落梅集」に、この「椰子の実」が収録されている。その欄にある解説によれば、
 「藤村の親友であった柳田國男が愛知県渥美半島の伊良湖岬で1カ月ほど静養していたおり、海岸を散歩していると“椰子の実”が流れて来るのを見つけたことがある。暴風の翌朝などは特に多い。伊良湖岬へ、南の果てから流れてくる。特に“椰子の実”が流れて来るのは嬉しい。東京に帰って近所に住んでいた島崎藤村に話した。そしたら「君、その話を俺にくれたまえよ。誰にも云わずにくれたまえ」。明治28年か9年かははっきりしないが、まだ大学(東京帝国大学)にいたころだった。するとそれが非常に吟じやすい歌になって、島崎君の新体詩というと必ずそれが人の端に上るというようになった」。(定本柳田國男集別巻第三=「故郷七十年拾遺」からであろう)        

 旧(もと)の樹は 生(お)いや茂れる
 枝はなほ  影をやなせる
 われもまた 渚を枕
 ひとり身の 浮寝の旅ぞ

 わたしは、1953年(昭和28)に高校に入学し、1年1組で担任教師は石上順先生だった。石上先生は、折口信夫の愛弟子あったことを知ったのはこの年の終わり頃であった。石上先生は、国語(現代文)と古文を担当してくださった。古文の授業は擬古文から始まって次第に「徒然草」、「枕草子」、「新古今集」などの和歌、そして「源氏物語」で終わった。古文の授業の最初は、島崎藤村の「藤村詩集・序」からの引用であった。

   遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。
  そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古(いにしえ)の預言者の如く叫ぶ。
  あるものは西の詩人のごとくに呼ばゝり、いづれも明光と新声と空想とに酔へるがごとくなりき。うらわかき想像は長き眠りより覚めて、民俗の言葉を飾れり。(以下略)

 この一文こそわたしを戦慄させ、何にも解らないまま「今年は藤村を読む」と決めてしまった。偶々、夏休みの宿題が「読後感を提出せよ」というものだったので、わたしは「破戒」の読後感を提出した。その主題は「丑松を通して、人間にとって“誠実”とは何か」ということを幼い思考で纏めた心算だった。石上先生からはいくつかの教訓を得られたが、何よりうれしかったのは「他者に対して“誠実”で在るためには、先ず己に対して誠実であらねばならない」と教えて戴いたことである。この訓えは、終生私にとっての命題になった。11月の終わり頃には、石上先生が眼を真っ赤にして喉から絞り出すように切々と話された。冒頭に「君たちは無責任である」と語った。一昨日夕方の汽車で上京する予定だったが、下校前に教室を見回り、ストーブを改めたら石炭の燃え殻を始末してなかった。仕方なくストーブの燃え殻を片附けて下校して駅に着いたら予定していた汽車は出発した後だったという。(あの頃は、一日に出発する汽車は数本しかなかったから、予定した汽車に乗らなければならなかった)先生が、何故その汽車に乗らなければならなかったかは話されなかったが、先生の一言一句は私たちに突き刺さるものであった。多分、恩師・折口信夫(この年9月3日逝去)が亡くなったばかりだから、恩師に関わることで上京しなければならなったのだと、先生の眼が語っていたような気がした。
 「破戒」の読後感を書いて「誠実」と言うことを石上先生から教えてもらって2、3カ月経った時のことであるから、その日のストーブ当番が誰だか知らないが何故か自分のことのように思えて「何と不誠実なことか」と身に浸みた。 あれから60年余りが経ったけど、あの日の石上先生の面影がくっきり目に映る。
 石上先生は、1987年(平成4)5月に亡くなられた。高校卒業後7、8回お会いしたが、ある時、夜行列車で帰り駅前で偶々石上先生とお会いし、高校の手前300mくらいにあった家のところでお別れしたことがあった。本当に懐かしい想い出である。

   実をとりて 胸にあつれば
   新たなり  瑠璃の憂い
   海の日の  沈むをみれば
   激(たぎ)り落つ 異郷の涙

   思いやる  八重の汐々
   いずれの日にか 国に帰らむ

1936年(昭和11)7月 NHK「国民歌謡」として東海林太郎の歌で放送された。



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BS-TBS番組情報 №174 [雑木林の四季]

BS-TBS 2018年11月のおすすめ番組(下)

                          BS-TBS広報宣伝部

4K開局直前SP ~世界・黄金ミステリー~
市原隼人 幻のスペイン財宝船を追え!
第1夜「世紀の大発見!失われた黄金のアーク&ロイヤル金貨」

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11月17日(土) よる9:00~10:54

☆魔のバミューダ海域、財宝発掘に挑戦し続ける市原隼人、これまでの軌跡に迫る!

出演:市原隼人

市原隼人のスペイン財宝船発掘への挑戦は2014年から始まった。
その舞台は、アメリカ・フロリダ沖「魔のバミューダ海域」。
凄腕トレジャーハンターとタッグを組み、市原自らダイビングの装備で海に潜り、金属探知機を手に、海底の財宝発掘を行う、体力的にも精神的にも過酷な撮影の先に待ち受けていたのは、まさに“ゴールドラッシュ”だった!
2014年には「失われた黄金のアーク(聖櫃)」を発見、2015年には伝説の金貨「ロイヤルコイン」発見!その発見は大ニュースに!
12月1日に放送の4K開局スペシャル「市原隼人 幻のスペイン財宝船を追え!第2夜」でご覧頂く2018年の市原の新たな挑戦を前に、第1夜では、これまでの市原の挑戦と財宝発掘の魅力を綴る壮大な序章をお送りする。

スキマスイッチ TOUR 2018 “ALGOrhythm”

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11月24日(土) よる9:00~10:54

☆デビュー15周年を迎えたスキマスイッチの躍動感あふれる映像とヒット曲の数々をお届け。

2018年の4月からスタートしたスキマスイッチ全国ツアーSUKIMASWITCH TOUR 2018 “ALGOrhythm”の中から、7月に開催された中野サンプラザ公演の模様をオンエア!
今年デビュー15周年を迎えたスキマスイッチ。このツアーは彼らが3月14日に発売したニューアルバム「新空間アルゴリズム」を携えたもの。メンバーの大橋卓弥(Vo,G)と常田真太郎(Piano,Cho)他、バンドメンバーの力強い演奏に中野に集まったファンの熱気が伝わってくるライブ。
後半ではアルバムリード曲「未来花(ミライカ)」を2人だけで演奏。バックスクリーンには「あなたが思う未来花」としてファンから募った写真が映し出され、彼らは「未来花(ミライカ)」の世界をファンと一緒に作り上げた。番組では4Kカメラで収録した躍動感あふれる映像とヒット曲の数々をお届する。
曲目:LINE、全力少年、リアライズ、未来花(ミライカ) ほか
収録(2018年7月19日(木)、20日(金)中野サンプラザ公演)

NPB AWARDS 2018

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11月27日(火) よる9:00~10:54

☆プロ野球の「歴史の重み」「未来への期待」を一度に感じられる式典をお届け!

ソフトバンクがリーグ2位から日本一に輝き幕を閉じた今シーズンのプロ野球。
その今年のプロ野球界を彩った選手、監督、関係者が一堂に介すプロ野球の年間表彰式、NPB AWARDSの模様を放送。
セ・リーグでは広島カープが連覇、パ・リーグでは埼玉西武ライオンズが優勝を果たした今シーズン。
打者では超重量打線をひっぱった埼玉西武ライオンズの山川穂高、広島カープの連覇をけん引した丸佳浩などが大ブレーク。
投手では、球界のエースともいえる讀賣ジャイアンツの菅野智之や、広島カープの大瀬良大地などが活躍を見せた。
今シーズンのタイトルホルダーや表彰選手・監督たちが集結。プロ野球の「歴史の重み」「未来への期待」を一度に感じられる式典をお届けする。


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バルタンの呟き №45 [雑木林の四季]

いまこそ脱亜入欧から脱欧入亜へ

                         映画監督  飯島敏弘

 僕たちが子供の頃から見慣れている世界地図は、学校の教室に掲示された大地図でも、旅行代理店に掲示されているものでも、日常眼に触れる地図の殆どは、日本列島が中央近くにある極東、東南アジア圏のものですが、さらに広範囲のアジア全体図で見てみると、日本は壮大なユーラシア大陸の最東端から切り離された、ちっぽけな島国だという事がよくわかります。仮に、広大な中国の西端までも入れずにモンゴル辺りまで範囲で切ってみても、まさに我が国が極東の端の狭矮な島国だという事を実感させられます。
 歴史的に見ても、有史以来、日本列島を席巻していた国と考えられる倭国の上貢の例を引いて見ても、宗教、政治、物産、文化、文明に到るまでの殆ど全てが、支那(中国)大陸、朝鮮半島を経て来たものでした。中国側から見れば、倭国(やまと)は、東端の小さな朝貢国の一つだったと考えるのも無理がない、と思うのです。国粋的な考えの方にはお叱りを受けるかもしれませんが、戦前の皇国史観の教育を受けて育った僕でも、改めて世界地図を見慣れた方向と違う角度から眺めて見ると、なるほどそうだ、と、改めて納得がいったのです。
 ところが、徳川の末期から明治維新前後になり、造船、航海術に長けた欧州やアメリカの先進諸国が、太平洋を隔てて頻繁に来航するに及んで、その海軍力、軍備に圧倒された新政府の要人や、福沢諭吉などが、欧米に渡航してその文明に圧倒的な影響を受けて、政治的にも文明的にも、今や後進国となった支那(中国)韓半島との関係を改めて、欧州およびアメリカとの交流を深めるべきだと主張したのは、至極道理です。文明開化と称されたように、確かにそれは、幕政から新政府に転換したばかりの我が国に、革命的な影響を与えた事実、にも全く異存がありません。ここまでは、いわば入欧です。が、いま、僕が呟きたいのは、脱亜です。なぜ、脱亜しなければならなかったのだろう、という疑問です。幕政までの旧臘から脱皮した新しい日本国、文明文化の交流、物資の交易は勿論、西欧に学んで議会制にまで持ち込んだ政治も正しい選択だったと思うのですが、なぜ、脱亜ということを主張したのかが良く理解できないのです。僕が少年になる昭和に及んでは、脱亜どころか、蔑亜とでもいうに相応しいほどに、政府も、民間人も、そして僕たち皇国の少国民も、中国、朝鮮半島諸国を見下していました。唐突ですが、それが、西暦2020年を迎えようとする現在の日本が抱える大問題だと呟きたいのです。
 一体どういう事なのか、超要約すると、読者の皆さんがご承知の通り、いまや、脱亜どころではなく、現在のわがニッポンは、ある分野では、インド、中国、韓国のも後れを取り、むしろ脱欧、特に、脱米して、入亜が遂げられるかどうかに、未来がかかっているのではないかと呟きたいのです。アジアに入り込み、共存を許されなければ、ニッポンを維持することは不可能なのではないかとまで呟きたいのです。もう一度ここで、アジアの地図を眺めて下さい。今日では、従来の欧米諸国が、政治的にも経済的にも混迷するうちに、逆にインドと中国が中心になって欧米を圧倒する経済、文化圏が成り立ちつつある現実が明白に読みとれるのではないでしょうか。ここで極端に呟くとすれば、混迷を脱することがほとんど不可能にちかいアフリカ問題はじめ、EUの問題が欧州を不安定化し、激しく増殖しつつある移民大進入の脅威と、人種、軍事、労働問題で分裂寸前のトランプ・アメリカ・・・同盟と名づけられたアメリカの支配下から戦後70数年いまだ抜け切れずに、徒に天文学的に膨張する軍備費を負担させられてなお逡巡し続けるニッポン・・・・どれほどに独裁的に奔ろうとも、政府だけの力では、とてもとても、これしかない!と言い切れる「この道」は、行方知れずの迷い道でしかありえないと、思うのですが、現在の、議会制民主主義が、あまりの迷走と、資質の貧困ゆえに風前の灯という現状のニッポンが、政界を牽引するトップが声高に叫ぶリーダーシップなどは論外で、入亜そのものさえ、容易に許される状態ではないのではないか、という、実に悲しい情けない呟きです。
 しかし、道はかならず開けると僕は信じています。どんな草深い山奥にも、繰り返し々踏み入ることで生まれる“けもの道”のように。日清、日露戦争の偶発的勝利を錯覚した大日本帝国が侵略と収奪の軍靴で踏み荒らしたアジア諸国と衷心からの交流と融和の互恵関係を、たゆみなく続ければ、たとえ一草一木ずつの頼りなげな踏み跡でも、いつかは繋がる道となるのです・・・なにも、自力を錯覚して盟主としてなどと唱えずに、やがて欧米に堂々と比肩するにちがいないアジアの一員として仲間入りをすることではないでしょうか。2020TOKYOオリンピックパラリンピックに寄せてのバルタンの入亜提言の呟きでした・・・・


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医史跡を巡る旅 №48 [雑木林の四季]

「秋月藩の種痘」

                        保健衛生監視員  小川 優

天然痘をご存知ですか? 
昭和52年(1977年)に確認されたソマリアの一青年を最後として、その後患者の発生はなく、2年間の監視期間を経た昭和55年(1980年)、WHOは世界根絶宣言を出しました。
天然痘を予防するためのワクチン接種を種痘といいます。日本における定期予防接種としての種痘は、昭和51年(1976年)には事実上中止されたので、昭和49年度に生まれた人が最後の定期接種世代となります。種痘は上腕部の皮膚を傷付けて接種し、その後膿疱が生じ瘡蓋を形成します。瘡蓋が取れた後も独特の瘢痕がほぼ一生残るので、実際に受けた年代には記憶されている方も多いでしょう。ちなみに当時のBCG接種も同じような跡が残るため、これと混同していることもありますが。一方そのあとに生まれた人にとっては、医療関係者を除いて、過去の病として忘れられた存在です。

天然痘、疱瘡は感染力が非常に強い疾病で、さらに致命率も高く恐れられました。さらに江戸時代には「疱瘡は見目定め、麻疹は命定め」と言われ、助かっても顔面に瘢痕、いわゆる痘痕(あばた)が残るため、忌み嫌われました。感染力が強い反面、ワクチンが奏功するのが特徴で、天然痘は種痘のおかげで根絶することができました。

「種痘醫祖善那君像」
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「種痘醫祖善那君像」 ~東京都台東区上野公園国立博物館

種痘といえばジェンナーが有名ですが、その実験の6年前に種痘を実施し、成功した日本の医師がいました。秋月藩の緒方春朔です。

秋月は博多の南東に位置する城下町で、中世に秋月氏が本拠とし城を構えました。豊臣秀吉の九州征伐で秋月氏は敗北、移封されます。江戸時代は黒田福岡藩の支藩としての秋月藩がおかれ、城下町として栄えました。城はありませんが、石垣と掘が残っており、今も武家屋敷とともに城下町の風情を色濃く残しています。

「秋月の石垣と堀」
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「秋月の石垣と堀」 ~福岡県朝倉市秋月城址

寛政二年(1790年)、秋月藩八代藩主黒田長舒の藩医であった緒方春朔は、領内での痘瘡(天然痘)の流行にあたり、予防のため人痘種痘を試みました。
人痘法というのは、実際に天然痘に罹った患者の膿疱液や瘡蓋(かさぶた)の粉末を健康な人の鼻孔に噴霧したり、患者の衣服を着せて軽度の感染を成立させます。ただ膿疱液を用いる方法だとウイルスの活性が高い状態なので、普通の感染と変わらず、重篤な症状を呈して最悪死亡したり、所謂痘痕が顔に残ったりしました。中国では16世紀頃から民間で行われており、試行錯誤の中で弱毒化させることに成功し、安全性も高まりました。

「秋月の街並み」
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「秋月の街並み」 ~福岡県朝倉市秋月

延享元年(1744年)、医師とも商人とも伝えられる清の李仁山が長崎を訪れて、人痘法を日本に伝えます。大村藩や琉球藩の藩医は直接李仁山に教えを請い、その技術を地元に持ち帰って広めます。
一方、緒方春朔は元々漢方医でしたが、長崎で西洋医学を学び、その傍ら中国の人痘法を医書で研究しました。春朔は寛永元年(1748年)の生まれですから、彼が長崎に遊学した時期には、既に李仁山は日本を離れていて直接教えを受けたとは考え難く、彼の記した「種痘必順弁」などにもその記載はありません。

「種痘の始祖 緒方春朔 記念顕彰碑レリーフ」
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「種痘の始祖 緒方春朔 記念顕彰碑レリーフ」 ~福岡県朝倉市来春 朝倉医師会病院

長崎遊学から帰郷、養父のもとで医師として働き寛政元年(1789年)、秋月藩八代藩主黒田長舒に認められて藩医となります。また日本にもたらされた医学書「医宗金鑑」から人痘法を独学で学び、藩医となった年と同年、秋月領内に痘瘡が流行した際に瘡蓋を集めました。翌寛政2年(1790年)、庄屋を務める天野甚左右衛門が自らの二児に種痘を行うことを提案、春朔もこれに応じ、初めての種痘が実施されました。

「種痘の始祖 緒方春朔 記念顕彰碑」
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「種痘の始祖 緒方春朔 記念顕彰碑」 ~福岡県朝倉市来春 朝倉医師会病院

この種痘200年を記念して甘木朝倉医師会病院前庭に平成2年(1990年)甘木朝倉医師会が建てたのが、このレリーフがはめ込まれた顕彰碑になります。ちなみに平成20年、病院の新築移転に伴い、碑も現在地に移設されています。
春朔はこの後も領内の住民に種痘を継続し、寛政7年(1795年)自らの知見を前述の「種痘必順弁」にまとめて刊行します。この中で「余ガ試ミル処ノ者、既ニ千数ニ及ブトモ、未ダ一児ヲ損セズ」と記しています。また教えを請う医師を門下生とし、西日本の有力藩の侍医を中心に、技術を伝授します。


「緒方春朔顕彰碑」
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「緒方春朔顕彰碑」 ~福岡県朝倉市秋月城址

秋月城址、垂裕神社への階段の脇に、昭和2年(1927年)に朝倉郡医師会が建てた顕彰碑があります。

「緒方春朔屋敷跡への道標」
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「緒方春朔屋敷跡への道標」 ~福岡県朝倉市秋月

緒方春朔の屋敷は城下町のメインルートから少し入った路地にありました。

「緒方春朔屋敷跡」
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「緒方春朔屋敷跡」 ~福岡県朝倉市秋月

屋敷跡の標識よりも、道案内の石標の方が立派です。

「緒方春朔墓」
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「緒方春朔墓」 ~福岡県朝倉市秋月 長生寺

緒方春朔は文化7年(1810年)、63歳で没します。お墓は、屋敷と川と街道を挟んだ山の裾野にある長生寺にあります。人痘法はその後も各地で継承されますが、春朔の死後40年ほどたって、モーニッケにより牛痘株が日本にもたらされ、蘭方医の間で瞬く間に広まります。相反して人痘法は急速に廃れていきます。
人痘法は治癒によって弱毒化している瘡蓋を用いるとはいえ、感染し発症する可能性があり、発症した場合重篤な症状をもたらすことがあります。一方ジェンナーは、厳密には天然痘ウィルスと異なるものの、極めて近い牛痘ウィルスを使って、発病しても軽症で済み、それでいて形成される抗体は天然痘にも反応し有効に働くことを発見しました。したがって安全性の上で牛痘法の方が優れていることとなり、以後標準ワクチンとなりました。

「種痘の父 緒方春朔顕彰の碑」
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「種痘の父 緒方春朔顕彰の碑」 ~福岡県朝倉市秋月

没後200年を記念して朝倉医師会が建てた碑です。
人痘法は廃れましたが、当時持ちうる最新の知見と、自らの考察に基づく試行錯誤の末に、より安全な種痘を考案し実践した緒方春朔の偉業は、200年たった今でも、色褪せることはありません。

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いつか空が晴れる №47 [雑木林の四季]

     いつか空が晴れる
               -赤とんぼー

                           澁澤京子

 仏壇を掃除していた妹がしずさんの手紙を発見して見せてくれた。しずさんは祖父の家に長くいたお手伝いさん。祖母が亡くなったあと、誰もいなくなった祖父の家が空家になっているのが不用心だったので、雨戸の開け閉めを父が頼んでいた。律儀なしずさんは毎日祖父の家に通って、きちんと掃除をして雨戸をあけたり閉めたりをしていてくれたのだ、そのしずさんが風邪をひいて一週間くらい寝込んでしまった。お休みを貰ったことに対しての母にあてた丁寧なお礼状だった。身体がきつかったのでお休みを貰えたことがとてもうれしかったこと、字が下手で申し訳ないこと、そして最後に私にもよろしくということが、長いその手紙に綴られていた。

祖父が亡くなった翌朝、誰も連絡していないのにおはぎをつくって持って久しぶりにお手伝いにやって来てくれたしずさん。しずさんには不思議な能力があったのだ。
「旦那様がお庭を歩いていらっしゃいましたよ。」祖父が亡くなってから、台所仕事をしながらしずさんはこういうことを話してくれる。
「どんな風に歩いていたの?」
「小さくなられて、シャボン玉のような中に入ってお庭を歩いていらっしゃったですよ。」
しずさんには人の死もわかるし、亡くなった人が見えるのだ。
二人の子供がまだ小さかったとき、私もしずさんを時々頼んでいたことがあった。優秀な家政婦さんで、家事にかけてはプロのしずさん。狭い我が家はあっという間にきれいに掃除してしまうので、私はしずさんとお茶を飲んで一緒に話をするのがとても楽しみで、家事に無能な私を見かねたのか、「今にきっといい奥様になりなさりますよ。」と優しく慰めてくれたりもするのであった。
父とほぼ同年代のしずさんは、若いときからいろんな苦労をしてずっと働いてきた。それで脚を悪くしていつもびっこをひいて歩いていた。だけど、しずさんのまっすぐな性格には純粋で、育ちのいい感じのところがあった。
「この間、おじい様のところで台所仕事してたら、下の坊ちゃんが私のところに遊びにいらしたんですよ。」
「え?どうやって?」
下の息子はまだ赤ん坊、しずさんはとても可愛がってくれた。
「洗い物してるとき、ふっとふり向いたら、坊ちゃんの笑ってらっしゃるお顔があったんですよ。私の肩のあたりに。お顔の回りだけパッと明るいんですよ、機嫌よくニコニコしてらして。」
「へえ・・」
「赤ちゃんは神様と同じだからなんでもできるんですよ、不思議なことが。」
「へえ・・・・」
私はしずさんの話にひたすら感心して聞き入るのであった。しずさんには人の見えないことが見えるし、なんでもわかってしまうのだ・・
「幽霊っているのかなあ・・」
「いますよ、雨や曇った日はよく見えますよ。」
「怖くない?」
「うすっ気味悪いですよ、それは。」
しずさんは、祖父がまだ生きていた頃、祖父の来客に二人分のお茶を出したことがあった。祖父に会いに来たお客さんの後ろに、女の人(奥さん?)が一緒にいるのをはっきり見たからだ。
私は幽霊の存在はよくわからない、でも世の中には不思議なことがたくさんあることを考えると、いてもおかしくはないだろう、と思うのだ。

しずさんはもう亡くなっただろう。今でも彼女のことを思い出すと、尊敬と感謝の気持ちで胸が一杯になる。どんな苦労の中でもとても善良でまっすぐな人だったしずさん。人の品性って忍耐力で培われるんじゃないだろうか。苦労の中で人知れずに咲く綺麗な花みたいに。
そして、三木露風の赤とんぼにあるような、昔の日本にたくさんいただろう、黙々と文句一つも言わずに嫌なことも我慢して、人のために働き詰めに働いてきた多くの無名の女の人たちを思うと、思わず手を合わせたいような気持になるのである。


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梟翁夜話(きょうおうやわ) №27 [雑木林の四季]

「飴の話」余話

                        翻訳家  島村泰治

傘寿を越えるまで生きてくると大抵な事には驚かない。過ぎるほどに見聞きもし他人様にも、佳きひと悪しきひと、さまざまに取り混ぜて付き合ってきた。偶然を愉しむほどのナイーヴさもどうやら失せたようだ、と思っていた矢先のことだった。

わが庵には卵を産むにわとりが1ダース余、ささやかな鶏舎に群れている。愚妻がすっかりのめり込んで、餌作りやら鶏糞とりに勤しんでいる。産まれる卵は引く手数多で、近所のふるさと館で売るのはほどほど、めっきり増えたファンに宅配便で送ったり車で届けたり、愚妻は八面六臂の日々である。

そのファンのひとり、近在のKさんというお婆さんは面白いひとで、何やかやと銘菓を買い集めてはひとに振る舞うのが楽しみだとか。わが卵も届けるやひと様に分けているというのだが、届けるたびに何かと土産を持たせてよこすのが芸だ。煎餅が定番で、愚妻はこれまでもとりどりの煎餅をもらってきては披露する。

先日のことだ。例によってKさんに卵を届け、例によって何かもらって帰ってきた。どうせ煎餅だろうと言えばきょうは違うという。どう違うのかと聞いても言わない。ブツを後ろに隠して私の様子を見ているではないか。どうやら曰くがあるようだと思えば左の通り、愚妻は得意げにそのブツを出して見せた。なんと、黒い玉が十数個詰まった袋、見れば「なつかしい飴菓子」とある。

改めてしげしげと眺めて、私はことの次第を呑み込むのに往生した。大げさと言うなかれ、その袋には例の鉄砲玉が詰まっているではないか。先日「知の木々舎」で書いたばかりの「飴の話」(10月下号)で、もう出会うことはあるまいと訣別したはずの鉄砲玉が目の前に鎮座している「偶然」に、唖然としていた。おお、我はなお十分にナイーヴだぞよ。

偶然とはあるものだ、と改めて思う。あの記事を書いてさほど経っていない頃、代わりのたまり味の飴を箱買いまでして、鉄砲玉を諦めたばかりのことだったから尚更だ。Kさんが鉄砲玉の経緯を知っている筈はなし、この飴屋が「知の木」の読者で私の記事を読んで感激して仕向けた芝居などである筈がない。つまり、これはまさに偶然としかいえない出来事だ。

虫の知らせなどというではないか。どこかの虫がどこかの虫に知らせて、こういうことに繋がったとしたら、その虫はなんの因果で私にも知らせてくれなかったのか、などは常軌の沙汰ではない。しかし、こういう偶然が現に起こってみると、部外者はいざ知らず当事者たる私としては一概にそれを貶(けな)し去ることがどうもできなくなるのだ。何かが如何になるかも知れないと思う心のゆとりが、あるいは現実志向、データ志向の生き様になにやら有機性を加味するのではないか。

さてその後、Kさんは愚妻の刷り出した「知の木」の飴話を読んで驚いたそうだ。やはり偶然というものはあるものだねと言ったそうな。愚妻はものに舞い上がる性癖だから、私と鉄砲玉との再会をよしとして栃木の飴屋を探し当て、箱買いしたままのたまり味の飴を措いて、早速に鉄砲玉を送らせた。もちろん箱買いである。メタボをどうするというストレスをよそに、いまわが庵は飴だらけである。13個入りの袋を毎週金曜日に配給すると宣言して、愚妻はいまや飴奉行だ。

それにしても、偶然の愉しみを再認識した私には鉄砲玉のおかげが何とも大きい。何もかも見たような振る舞いは抑え偶然を夢に置き換えて、余生にさらなる味を上乗せしようと思い定めている。


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