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私の中の一期一会 №192 [雑木林の四季]

              スポーツ競技に於ける“ビデオ判定”の問題点を考える
          ~栃ノ心・朝乃山の一番は”相撲史に残る誤診”かも知れない~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 日本ハムのドラフト1位ルーキー、吉田輝星投手(18)が交流戦の広島戦でプロ初登板を勝利で飾って喝采を浴びた。
 強力打線で知られるセ・リーグ3連覇の広島カープを相手に,5回を4安打、4三振、2四球、投球数113という立派なもの。リリーフ4人もキッチリ無失点リレーで締めて初登板のルーキーの勝ち星を消さなかった。
 最速は147キロだったらしいが、初回いきなり安打と2四球で迎えた1死満塁の大ピンチに、好打者西川に3球連続の直球勝負を挑んだ。そして見事、空振りの3振に仕留めたのである。
「自分の真っ直ぐは、ある程度通用したのかなと思う。ファームでも5回を投げ切ったことがなかったので、どうせなら本番でやりたいと思っていた。勝利投手よりそっちの気持ちの方が強かった」と笑ったという。
 度胸満点のルーキーは、“21世紀生まれ初の勝利投手”だと新聞に書かれた。
 「勝つことより“5回以上を投げ切るぞ”というメンタルを備えてこそプロなのだ」と吉田輝星は考えているのではないだろうか。
 並みの新人ではない。怪我さえなければ、間違いなく大器としての将来が待っている筈だ。
 ダルビッシュ、大谷翔平、清宮幸太郎,そして吉田輝星・・頼もしい新戦力が、またも日本ハムから生まれようとしている。
 北海道日本ハムファイターズの選手育成手腕は、日本球界ではずば抜けているように思えてならない。
 スポーツ総合誌Numberが、6日に福岡のヤフオクドームで行われたプロ野球・ソフトバンク対中日の試合で起こった“リクエストをめぐる誤審騒動”をビデオ検証の問題点として取り上げて書いている。
 問題のプレーは4-4の同点で迎えた8回表、中日の攻撃中に起こった。
 打者大島がライトポール際のフェンスを直撃する長打を放った。打球は跳ね返って転々と転がった。  
 大島は3塁を蹴ってホームにヘッドスライディングしてのクロスプレーとなった。
 アウトかセーフか、微妙だったのは確かだった。
 土山球審は「アウト」の宣告だったが、与田監督が直ちに「リクエスト」を要求したのである。
 審判団がビデオを検証している間に、4方向からの映像が場内に流されたが、どれもホントに“微妙”だった。
 大島にタッチにいったキャッチャー高谷のミットは空を切ったように見える。
 大島の手が相手捕手のタッチより先にホームプレートに触れているようにも見えた。
「セーフ」ならランニングホームランだが、「アウト」のままならホームランも“まぼろし”になってしまう。
 検証の結果は、判定どおり「アウト」であった。
 この判定に中日ベンチは、一斉に不服のジェスチャーを示したという。だが、ビデオ検証に対する抗議はルール上認められていない。
 同点で試合は再開されたが、その裏ソフトバンクの攻撃でも本塁上でのクロスプレーがあり、この時も「アウト」の判定があった。そして今度は工藤監督がリクエストを要求した。
 この時のビデオ検証では、「アウト」から「セーフ」に判定が覆っている。
 「リクエスト」成功のソフトバンクは、2点を取って試合に勝利し、「リクエスト」失敗の中日は4-6で敗戦という皮肉な結果になった。
  審判団は試合後、「判定変更に値する確証を得られる映像はなかった」という回りくどい説明で記者団に見解を示した。 
  Nunberの記事によると、試合が終わったあと与田監督がビデオを確認して「一番気になったのは、タッチの時、キャッチャーのミットの中にボールがなかったのではないか」と述べて、アウトという判定は誤審ではないかと疑問視している。
 中日側の主張は、「キャッチャー高谷はボールを持った右手をミットに添えてタッチにいっていた。タッチの瞬間には上体が伸びて右手とミットは離れているように見える」という主張だ。
ボールは右手にあって、タッチしたミットの中に“ボールがない”としたら、タッチされていないことになるのでは・・という訳だ。
 リクエストの結果に対する抗議は認められていないのは承知の上で、納得できない中日側は“意見書の提出”をセ・リーグ統括に投げかけようとしたのである。
 結局、意見書の提出は「不可」とされたが、後味の悪さは残ったままになった。
 この問題は後を引くかも知れない。
 大相撲夏場所13日目、10勝すれば大関復帰となる栃の心・朝乃山の一番は、物言いがつく際どい相撲になった。
 復帰まであと1勝がかかる栃の心が土俵際で、すくい投げからの突き落としで朝乃山を横転させた。
 行事軍配は栃の心に上ったが、土俵下の放駒親方(元玉乃島)が手をあげたのだ。
 検査役5人の意見は割れ、何度もビデオ室と連絡を取り、約6分に及ぶ異例の審議となった。
 阿武松審判長が「栃の心のかかとが出ており・・・」と差し違えをアナウンスすると、館内では大ブーイングが起こり騒然となった。
 ビデオを参考にしながら「目の前の審判が正しい。放駒親方の目を重視した」という審判長の説明は説得力に欠けるものだった。テレビを見ていた私にも“納得し難い結論”に思えた。
 繰り返し流されたビデオの映像では、栃ノ心の右かかとは確かに土俵から少し出ているが明らかに浮いていたと思う。
 審判長の「ビデオでは蛇の目とかかとの隙間が見えない・・」という説明は違和感を覚えた。
 最も近くで見ていた放駒親方の「かかとが砂を連れてきた」という表現もどういうことかよく分からない。
 栃の心は支度部屋で報道陣に「見てたでしょ?勝ったと思った」と人目もはばからず悔し涙を流したという。
 “不当な誤審”と感じた人が多かったと思われる。取組み後、相撲協会には“不可解な判定”に抗議する電話が殺到したという。
 スポーツ競技で、審判員の肉眼での判定が難しいときや判定に異議があるときに、録画されたビデオ映像を活用して判定を検証するのが「ビデオ判定」である。
 野球、サッカー、アメリカンフットボール、テニス、卓球などの球技ばかりでなく、柔道、相撲、ボクシングなどの格闘技などでも、“審判の誤審”が生じることはしばしばることだ。
 “不当な判定”もまた誤審であり、ホームタウンデシジョン、政治的圧力も誤審ということになる。
 最近は誤審が起きないよう様々な対策が競技ごとにとられるようになってきている。
 ビデオ判定は、公平性という観点からみても有効な対策といえるのではないだろうか。
 ただし、審判の独立性が保たれないと、誤審は生じる。
 日本のプロ野球では、大リーグの「チャレンジ制度」に倣って、昨年から「リクエスト制度」が導入された。
 クロスプレーをビデオで検証する“リクエスト制度”がそれである。
「リクエスト制度」の一番の問題点は、ジャッジした審判員が「自分達で自分達の誤りを検証する」ことにある。そこには第三者の目がないことが大きな問題なのだ。
 メジャーリーグでは2014年から「チャレンジ制度」が導入されている。
 監督の要求でビデオ検証が行われるのだが、アンパイヤ―はベンチ横でインターカムをつけて、ニューヨークの専用スタジオからの判定を待つだけで、ビデオ検証には加わらないのだ。
 専用スタジオでは全球場の映像が一括管理されていて、そこに待機する8人の分析担当審判員がビデオを判定する。当該審判がビデオ検証に加わらないことは公平性を保つ上で重要だからだ。
 メジャーのほうが日本より、制度としては優れていると言わざるを得ない。
 中日球団は、意見書を出せなかったが、日本のプロ野球における“ビデオ判定の問題点”を提起したと言えるのではないだろうか。
 大相撲だって親方衆以外の専門検査役を置いて、ビデオ判定専門職を要請すれば、ファンのブーイングや相撲協会への抗議電話も減る筈である。
 18年シーズンのリクエスト総回数はセ・リーグが251回、パ。リーグは243回、合わせて494回。
 そのうちビデオ検証で、ファーストジャッジが覆ったのは162回だった。
 リクエスト成功率は32.8%だった。これは誤審を防げた割合である。
 メジャーでは、17年シーズンに1172回のレンジがあり、成功率50,2%だったという。
 いずれにしてもビデオ検証するのは人なのである。
 不信感を募らせないためには、“第三者の客観的な目が大事だ”ということだけは間違いない。


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浜田山通品 №244 [雑木林の四季]

高田博厚の遺作、中野重治胸像

             ジャーナリスト  野村須美

 5月27日、東武東上線の高坂駅に高田博厚彫刻プロムナードを見に行った。案内に来られたのは、今年の3月まで地元の白山中の校長を勤めておられ、現在は東松山市教委勤務の比島順氏である。この人が驚いたことに福井県出身で、母方の親戚に中野重治さんがいるという。東松山でかっての福井文人会の先輩たちにめぐりあったとは。帰宅すると博厚さんの「分水嶺」が書棚から出てきた。昔少しは読んだはずだが、何一つ憶えていない。しかしこれは何としても読まねばならない。なにしろ30年に及ぶヨーロッパ滞在である。暗い谷間の時代、レジスタンスや解放の波瀾の現代史、ロマン・ロランやアラン、ガンジーらとの交流などすさまじいものだ。この時代は日本がドイツと同盟を結んでいたり、フランスのビシー政権がいち早くナチスに屈服したりして、どちらがどうなのかよくわからない。その中で博厚さんは日本人会長として大活躍をする。この「分水嶺」は日本人が20世紀ヨーロッパに築き上げた最高の文学でもある。
 比島さんは福井県松岡町の生まれ。昨年の秋、もう最後になるだろうと85歳の母親と松岡町に出かけた。終戦後も織物業が盛んで、いまも鋸屋根の工場が残っていたという。もっとも取り壊す費用がかかるのでそのままになっている。わびしいけれど致し方ない。
 松岡町から九頭竜川を渡って北へ行くと丸岡町につく。町村合併で昔の町村名は消えてなくなり丸岡は坂井市となった。それでも丸岡城は昔のまま残り、城のふもとに中野重治文学記念坂井市立丸岡図書館がある。中野は1979年8月24日死去。77歳だった。57年に蔵書が丸岡町に寄贈され、翌年中野重治文庫記念丸岡町民図書館が落成した。
 私はこの図書館と生家跡を一度見に行ったことがある。屋敷のすぐそばを丸岡線が走っていた廃線跡を見たり、サンマイ谷まで田ん圃の中を歩いたりした。もうほとんど記憶に残っていないのだが、図書館の入口付近に内田莉莎子さんへの手紙を銅板にしたものがおかれていたように思う。莉莎子さんは魯庵の息の内田巌画伯のお嬢さんで、私の早大露文科の二年先輩だった。内田家は経堂あたりの梁山泊のようなもので、同級だった吉上昭三(ポーランド文学)さんと結婚した。2人の結婚のお祝いの手紙だったように思うが定かではない。
 この中野重治文庫は寄贈された書棚、書斎だけだったが、いまは市立図書館も新築されて見学者が絶えない。そして書庫の中心に立っている中野重治の胸像は、高田博厚さんの遺作になった。博厚さんは中野さんより2年先輩で、亡くなるのも中野さんの方が早かった。先輩はヨーロッパ中をかけめぐり、中野さんは心の中で福井という日本のド田舎を生き抜いた。遺作になった中野重治像は、メガネもかけておらず、いかにも病気と闘っているような風情だが、文庫の書棚の前におかれると、私のような終戦直後からの中野重治ファンにとってはたまらないものがある。東松山市は比島順さんという最高の生涯学習指導員を得て何よりでした。ことしは11月2~4日には日本最大のウオーキングイベント第42回が行われる。成功を祈ります。

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BS-TBS番組情報 №188 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年6月のおすすめ番組(下)

                                                BS-TBS広報宣伝部

名曲誕生!作曲家・浜圭介物語~舟唄そして石狩挽歌~

188浜圭介物語.jpg

2019年6月22日(土)よる6:30~8:54

☆作曲家・浜圭介が、数々の名曲誕生秘話を思い出の地で語り、歌う人生のベストアルバム!

出演:浜圭介
ゲスト:奥村チヨ、八代亜紀、森昌子、細川たかし、門倉由希、石井聖子、パク・ジュニョン、川上大輔、松阪ゆうき/北原照久

昭和歌謡史に燦然と輝く名曲の数々を手掛けてきた作曲家・浜圭介。
戦後の旧満州で生まれ、青森~北海道で幼少期を過ごし、歌手を目指し上京。デビューにこぎつけるも鳴かず飛ばすで、作曲家に転身。
1971年、現妻である奥村チヨに提供した「終着駅」が大ヒット…その後、八代亜紀の「雨の慕情」、「舟唄」や、北原ミレイの「石狩挽歌」など名曲を世に送り出した。
だがその人生は決して順風満帆ではなかった…
番組では、浜圭介が波瀾万丈の半生を思い出の地を巡りながら振り返り、ゲストを交えて歌い旅してゆく。
今年で歌手活動に終止符を打つことを発表している妻・奥村チヨとの貴重な共演も実現!思い出の曲「終着駅」にまつわる秘話を明かすとともに、浜圭介作曲で桂銀淑とのデュエット曲「北空港」を披露する。
さらに、北海道にある細川たかしの邸宅を訪問。名曲「望郷じょんがら」を細川たかしが熱唱する。
そして、無名時代からの友人でブリキのおもちゃ博物館館長・北原照久の別荘では、森昌子らも登場!
浜圭介自らギターを手に取り名曲の数々をゲスト歌手とともに奏でる珠玉の2時間半。

美空ひばりに捧ぐ 五木ひろしの名曲熱唱 想い出めぐり旅

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2019年6月29日(土)よる6:30~8:54

☆五木ひろしが一人の歌手にスポットをあてて、その名曲をカウントダウン形式でお届け!今回は、日本を代表する歌姫・美空ひばり。

出演:五木ひろし
ゲスト:キム・ヨンジャ、市川由紀乃
進行:堀井美香(TBSアナウンサー)
特別出演:加藤和也
ナレーター:向井政生(TBSアナウンサー)

五木ひろしさんが一人の歌手にスポットライトをあて、名曲をカウントダウン形式にしておとどけする名物シリーズの4回目。
これまで「三橋美智也」「船村徹」「戦後三羽烏」と、五木さんがリスペクトする大先輩の名曲を歌ってきた。
今回は、日本を代表する歌手、美空ひばりさん。
小さい頃、ひばりさんの歌を聴いて歌手を夢見た五木さんが、名曲の数々をひばり歌謡に定評があるキム・ヨンジャさん、市川由紀乃さんとともに歌い上げる!
さらに、今回はスタジオを飛び出し、たくさんの想い出がつまったひばりさんのお宅へ伺う。
息子の加藤和也さんに出迎えてもらった五木さんは、当時のエピソードを語り合い大盛り上がり。リビングでは、弾き語りも披露する。

にっぽん!歴史鑑定

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毎週(月)よる10:00~10:54

☆その歴史の謎、私が鑑定します!

出演:田辺誠一

歴史に「WHY」や「if」はつきもの。「なぜ、その人物はその行動をとったのか?」「なぜ、その事件は起こったのか?」「なぜ、それは今も受け継がれているのか?」などなど。この番組は、毎回日本史の「人物」や「事件」「文化」などから、知っていそうで知らない、知っているけどもっと深く知りたい、といったテーマを選び、歴史鑑定士・田辺誠一が徹底鑑定!その「謎」を解き明かし、現代の私たちの知恵につなげていきます。

■2019年6月17日(月)
#80(再)「大奥スキャンダル・絵島生島事件」
内容:江戸時代中期の大奥。奥女中をとり仕切る『御年寄』に若くしてのぼりつめた絵島が、男子禁制の女の園に人気歌舞伎役者を忍び込ませていた!?1500人もの関係者が処罰された、大奥史上最大のスキャンダル。女同士の争いに加え、事件の背後には江戸城の内部抗争が。影で糸を引いていた人物とはいったい誰だったのか。そして渦中の人となった絵島の運命とは?

■2019年6月24日(月)
#202「なるほど!平安時代~ある平安人の一日」
約400年続いた平安時代。大国・中国の文化に習っていた時代は終わり、日本独自の文化が発展していきました。寝殿造りに十二単、仮名文字文化が登場。それに伴い、平安時代の傑作と称される「源氏物語」や、現代のエッセイに通じる「枕草子」などが執筆されたのもこの時代。
平安時代に生きる、とある貴族の一日を追いながら、「平安貴族の衣食住」、「平安貴族の日常」、「冠婚葬祭」から「恋愛事情」まで、その実態に迫ります!


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バルタンの呟き №59 [雑木林の四季]

「五月雨の晴れ間うれしく」

                映画監督  飯島敏弘

    〓さみだれの はれまうれしく のにたてば のはかがやきて
    しらくもを とおすひかげに はやなつの あつさをおぼゆ

五七調の美しい言葉に、叙情的でさわやかな曲のついた小学校唱歌をご存知でしょうか。
もっとも、全国の小学校が、明治以来の、「生活上必要な基礎的な道徳、教養と普通の知識、技能を授ける」場から、日本全国均一の文部省国定教科書による「皇国の道に則りて初等科普通教育施し国民の基礎的錬成をなすを以て目的とする」に変った国民学校育ちの僕たちが習った歌ですから、もはや、とっくに、あの戦争は忘れたというよりも、あった事も知らない子供たちや、若い方々はおろか、ふつうの大人たちに知られていない歌かも知れません。最近、しきりに運転免許の返上を迫られている80代半ばを越した僕ですら、果たしてこの歌に2番以下があったのかどうかさえも確かではないのですから。
でも、幼い頃に刷り込まれた記憶というものは、昨日の夕食に何を食べたかを的確に覚えていないほど衰えた脳の中で、突然息を吹き返したように鮮明に甦って来るもののようです。
というわけで、僕は、今朝、公園でのラジオ体操の後、扇状に広がる広汎な台地を50年ほど前に拓いて宅地化されたわが街を囲む丘の道を、一人、この歌を繰り返し口ずさみながら、歩いてきたのです。
街のほぼ全域が木造一戸建て分譲でしたから、50年を越した現在ではその半分ほどが、子供世代どころか孫までが自立、別居して、老いた夫婦二人、いえ、最近では、主人後家どちらかの独り住まいがめだつという有様です。住民の平均年齢が、すでに後期高齢者年齢を越していますから、町のほぼ中央にある、周200メートルほどは取れるグランドを中心に毎朝行われるラジオ体操会も、老々介護とは言わぬまでも、老々懇親コミュニティーといった状況ですから、終了後、公園から30名ほど固まって出発する、毎朝ルーティンのウオーキングも、ほぼ同年齢の、ほぼ固定したメンバーの、ほぼ同じ内容の会話ばかりなのと、しかも、最近とみにスローになった歩きには、脚の衰えを何とか抑えようと思って歩く僕には、少々辟易するものがあって、近ごろ、週、一、二度は、するっとエスケープを試みて、独りで別の道を、という次第なのです。
歌詞にあるように、五月雨の晴れ間というものは、齢甲斐もなく、若造のごとく、なんとなく儚くて、うきうきするものです。これは、決して僕だけの感情ではないと、思います。独り、誰とも行き違わずに、小高い丘のうえの、見晴らしのいい、樹林の小道を、五七調のリズムのいい歌詞と、快いメロディーの歌を口ずさんで歩けば・・・
僕の場合、そうです。浮かぶのは、あの、ミロの、印象派の、あの、日傘を傾けた絵・・・そして、ああ、
想い出しました。そうです。国民学校六年生の、ある、五月晴れの日、集団疎開地です。日頃から、少国民の錬成という、抑圧された軍国主義教育に押し潰されながら。しかし、確りと目覚め始めた感受性に、抗しようもなく突き上げられ、苛まれながら秘めていた、あこがれの、女先生への想いです。
用向きは、戦況の悪化とともに、減り続ける食料の配給のために、逼迫した疎開学園寮の子供たちのために、村の有力農家に、米の調達に行くことでした。若しかしたら、というよりも、なんとかして、自分一人では持ちきれないだけの米を、という思いで、六年生の僕を連れて、森の抜け道を急いでいたのです。多くの子供たちの餓えを思いながら先を行く先生の後ろ姿を、なんということか、下町育ちの、ませた六年生は、何か浮き立つよろこびに浸りながら、いえ、時に、罪ぶかい動悸さえ覚えながら見つめ続けて、空のリアカーを押していたのです
有力農家の主は、幸いに好漢でした。良家令嬢という噂の高かった女先生が、低く頭を垂れて懇願するまでもなく、気前よく、米袋を二つ、リアカーに乗せた後に、おかみさんに大麦の入った袋を持ってこさせて、僕に合図したのです。気が変っては困ると思った僕は、大急ぎで、おかみさんのところへ行って、ずっしりと重い袋を受け取って、リアカーに乗せました。そして、帰りを急いだのですが、少し重くなったリヤカーを引く先生の姿は、うしろから見つめ続ける僕にも伝わるほど、喜びに弾んでいました。と、突然、何か忘れでもしたように、先生が振り返って、僕を、じっと見つめたのです。先生の目に、涙が、溢れていました。
「よかったね!」
それだけいうと、急に、押して行く僕が躓きそうになるほどのすごい勢いで、リヤカーを引いて行くのです。
森を抜けて、学園寮に続く、開けた道に出た時、まさに、野は、輝いていました・・・

天気予報によると、明日も晴れそうです。
あした、僕は、ウオーキングする仲間に声を掛けて、何かの歌をみんなで唄いながら、尾根道を歩いてみようかな、と、思っています。老人と老嬢ばかりだけれど。
ただし、「故郷」だけは御免です。
「〓うさぎ追いし かの山~」
何故かあの歌を唄うと、どうしても、遠くもない未来に、老人ホームで、無邪気に、声を揃えて唄っている、自分の姿が描かれたリアルな絵が浮かんできてしまうだろうから・・・です。
五月雨の晴れ間うれしく、緑かがやく尾根道を、大勢の老爺老婆が、声を揃えて唄って歩いて行く・・・それぞれが、自分の、いちばん輝いた日を思い浮かべながら。
ま、悪くはないと、思うのですが・・・ 


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医史跡を巡る旅 №58 [雑木林の四季]

「博愛精神のルーツをたどる・日本赤十字社病院と看護教育」

            保険衛星監視員  小川 優

赤十字活動の起こりは、戦時における敵味方区別のない傷病者の救護です。19世紀後半から20世紀にかけては戦争の時代、大きな戦いが次から次へと発生しました。日本が関係したものだけでも慶応4年(1868)戊辰戦争、明治10年(1877)西南戦争、明治27年(1894)日清戦争、明治39年(1904)日露戦争、大正3年(1914)第一次世界大戦と、ほぼ10年おきに戦争が起こっています。赤十字が活躍する機会はたびたびあったわけですが、とはいえ戦争の度に要員と物資を確保していたのでは、追いつきません。平時から準備し、要員を育成する必要が生じます。

明治17年(1884)、第3回赤十字国際会議にオブザーバーとして出席した陸軍軍医総監橋本綱常は、帰国後の報告の中で救護員、特に女性救護員の養成を目指して、赤十字の運営する病院を設立することを提唱します。

「橋本綱常墓」
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「橋本綱常墓」 ~東京都港区西麻布二丁目 長谷寺

弘化2年(1845)、越前福井藩で藩医を勤める橋本家の四男として生まれる。長兄は幕末の思想家で、安政の大獄で処刑された橋本左内。藩医は父長綱から左内が一旦引き継ぐが、左内が御書院番に任じられたため、代わって綱常が11歳で引き継ぐ。文久2年(1862)長崎に遊学、オランダ人医師ポンペ、ボードインそして彼らの弟子の松本良順から近代医学を学ぶ。
明治3年(1870)兵部省に出仕、以後陸軍軍医としての道を歩み、軍医監、東京陸軍病院長、陸軍軍医総監、医務局長を歴任。明治5年(1872)から明治10年(1877)にかけてドイツに留学したほか、明治17年(1884)には陸軍卿大山巌に随行して、ジュネーブ条約加盟のための調査で渡欧。帰国後は条約締結、赤十字社発展に尽力する。明治19年(1886)には初代日本赤十字社病院長(就任時は博愛社病院)に就任。
明治21年(1888)医学博士、明治23年(1890)貴族院議員、明治28年(1895)には男爵、明治40年(1907)には子爵に叙される。明治42年(1909)心臓疾患のために逝去、享年65歳。

まだまだ不足していた医療の提供と、救護要員の育成を目的として、明治19年(1886)麹町区飯田町の博愛社本社に併設する形で病院が開設され、橋本綱常が院長となります。翌年の万国赤十字加盟とともに日本赤十字社病院と名を変え、明治23年(1890)からは看護婦生徒の養成が始まります。当時の日本赤十字社病院規則にはこう記されています。

第一条
日本赤十字社病院は、平時に在りては救護員を養成し、戦時に在ては其の全部又は一部を陸海軍傷病者の収容に供す。
第二条
病院は、皇室仁慈の旨を體し、貧困患者を療養し且一般患者を治療す。

飯田町の病院が手狭になったため、看護婦養成を始めた翌年の明治24年(1891)、御料地の払い下げを受けて現在地の渋谷区広尾、当時は豊多摩郡渋谷町下渋谷に移転します。

「日本赤十字社病院正門」
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「日本赤十字社病院正門」 ~絵葉書

広大な病院の敷地は、赤レンガの塀で囲まれていました。病院建て替えに当たり取り壊されましたが、一部がモニュメントとして残されています。

「日赤中央病院 復元レンガ塀」
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「日赤中央病院 復元レンガ塀」 ~東京都渋谷区広尾 日赤医療センター

移転当時は、レンガ造り二階建ての本館と、木造平屋の病室、手術室、附属室を有していました。

「日本赤十字社病院本館」
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「日本赤十字社病院本館」 ~絵葉書

病院はドイツのハイデルベルグ大学病院を模範とする、宮内省技師の片山東熊博士の設計によるものです。本館二階には院長室のほか、皇族の行啓時や外国賓客来訪時のための貴賓室があり、階下には治療器械室、図書室、医員室、事務室がありました。

「日本赤十字社中央病院病棟」
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「日本赤十字社中央病院病棟」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

病棟の一部は明治村に移設され、現在でも見ることができます。下見板張りの清潔感あふれる建物で、採光のために窓を大きくとっているのと、換気通風のために鎧戸、換気塔が備え付けられているのが特徴です。

「日本赤十字社中央病院病棟 廊下」
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「日本赤十字社中央病院病棟 廊下」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

移築に際して方角的に180度向きを変えて設置されたため、この明るい廊下は本来北向きに窓がありました。日照の乏しい北側でも窓を大きくすることで、少しでも明るくしようとする工夫が見られます。

日本赤十字社中央病院病棟 病室」
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「日本赤十字社中央病院病棟 病室」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

自費患者の病室は特等から三等甲・乙まで、五段階に分けられていました。開設当時の病室は57室、111病床であったとされます。

「日本赤十字社病院外来診療所」
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「日本赤十字社病院外来診療所」 ~絵葉書

その後も建物は増築されて、施設は充実していきます。

「日本赤十字社病院外来本館」
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「日本赤十字社病院外来本館」 ~絵葉書

ほぼ建て増し、建て増しで来た赤十字中央病院ですが、昭和51年までに、日赤百年を迎えるにあたって全面的に立て替えられます。このとき病棟の一部が解体、保存され、明治村に移築されました。

「日本赤十字社病院全景」
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「日本赤十字社病院全景」 ~絵葉書

全体が建て替えられる以前の、病院の全景を記録した絵はがきがこちらです。おそらく戦前のものと思われます。近代的な病院外来本館の背後に、明治村にあるのと同じ、平屋の病棟が連なっているのがわかります。

飯田町の旧病院の建物も一部が移築され、看護婦養成所の教場と寄宿舎となり、全寮制の看護婦教育ができるようになります。
看護婦教育に関しては先立つ明治17年(1884)、高木兼寛らが有志共立東京病院(東京慈恵医院)看護婦教員所を開設しています。日本赤十字社看護婦養成所では一年半の修学期間ののちに、二年の実務期間を経験するものですが、その後も二十年間、戦時および災害時の応召義務がありました。

「日本赤十字社救護員」
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「日本赤十字社救護員」 ~日本赤十字社本社情報プラザ展示物

明治27年(1894)の日清戦争以降、戦地には赤十字旗とともに赤十字救護員の姿がありました。こうして国民には、赤十字といえば白衣の天使というイメージが定着していきます。

「殉職救護員慰霊碑・看護婦立像」
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「殉職救護員慰霊碑・看護婦立像」 ~東京都港区芝大門 日本赤十字社本社前庭

一方で戦地は常に危険と隣り合わせ、ジュネーブ条約に守られているとはいえ、紙の条約は銃弾を止める盾とはなりません。救護員養成開始以後、第二次世界大戦の終結までに戦渦に巻き込まれて亡くなった殉職救護員は1,317人。このほかに関東大震災など災害時派遣において殉職した9人を加え、1,326人の名簿と、功績を記した遺芳録とを収めた殉職救護員慰霊碑・看護婦立像が日赤本社の前庭に設置されています。

第二次世界大戦の終結後、養成所は日本赤十字女子専門学校として独立、学制改革により短期大学を経て、日本赤十字看護大学となっています。

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いつか空が晴れる №61 [雑木林の四季]

    いつか空が晴れる
         -ジャングル大帝―

                   澁澤京子

 子供のとき好きなテレビ番組と言えば、手塚治虫の「ジャングル大帝」と「ターザン」、「わんぱくフリッパー」など人間が動物や自然と仲良くしているようなもの。
特に「ジャングル大帝」のオープニングの曲は大好きで、真っ白で威厳のあるライオン、雄大なアフリカの大地と草原と大空・・あの音楽の影響で、私はアフリカにどんなにか憧れたことだろう。
「野生のエルザ」に出てくるような、野生とともに暮す生活にどんなに憧れただろう。

ちなみに、ジャングル大帝のオープニングテーマを作曲した富田勲さんは、父がテレビ局で仕事をしていた若いときに、一緒に仕事をしていた作曲家で、時たま、箱根にUFOを観察に行ったりして仕事をすっぽかすこともあったらしい。シンセサイザーを音楽にとりいれるような要素がもともとあるような人だったのだろう。

砂漠に不時着して遭難した兵士と、一頭の美しい雌の豹の間におこる恋のような話を書いたのは確かメリメだったと思う。雌の豹と兵士が一定の距離をとりながら一緒に砂漠を彷徨しているうちに、最初は豹に襲われることを恐れていた兵士が、次第に恋に似た奇妙な感情を持つようになる話。

ある夏、八ヶ岳で雨上がりの夕方に散歩していたら、坂の上に大きな牡鹿がこちらを向いて立っているのを見たことがあった。夕陽をバックにして、立派な角を持った牡鹿の姿はあまりに神々しくて、思わずその場に立ち尽くしてしまったことがあった。

また、学生時代の夏休みに、沖縄の無人島でキャンプしていたときのこと。
ある朝、向こう側のビーチに行ってみようと、友人たちとテントの裏側の細い山道を登っていたことがあった。
ふと見上げると山道の登りきったところに、一頭の大きな黒い野生の水牛がこちらに向かってじっと立っていた。マラリアで島民がいなくなった後、その島は野生の水牛の生息地になっていたのだ。
先頭で歩いていた私は、身体が凍りついたように動けなくなった。私の後ろを歩いていた友人たちも立ち止まって沈黙したまま。大きな角を持った水牛は黒い巨大な影のように、私に向かってじっと立っている。ちょっとでも不審な動きをしたら襲いかかってきそうな迫力。水牛はすごく気が荒い。野生だったらなおさらだ。
水牛の目をじっとみながら、私は慎重に静かに後ずさりして、水牛が見えなくなってから、みんなダッシュで走ってキャンプ地まで逃げた。
あれは「聖域」だったんだ、と後で思った、人が決して乱してはいけない野生の聖域だったのだ。

野生の聖域にはとてつもなくデリケートで調和のとれた、美しい音楽のようなものがあって、人はそこにどうしても余計な不協和音を持ち込んで乱してしまうような感じだった。
それはいつも私たちと一定の距離を保っていて、その秘密に触れようとすれば、たちまちだいなしになってしまうような何かでもあるのに違いない。

そして、もしかしたらラスコーの壁画を描いたクロマニヨン人も、私と似たようなことを感じたのではないだろうか?と考えたりするのである。


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梟翁夜話(きょうおうやわ) №41 [雑木林の四季]

あぐら

                翻訳家  島村泰治

髭剃りと並ぶ男冥利にあぐらがある。起きがけの髭の剃り味は、鏡に向かい百面相を尽くして果たす女の化粧の悦楽とさてどちらかというほどのものだ。それを一段としのぐ快感があるとすれば、畳の上でどっかと構える大あぐらだろう。

さて、もってのほかとそのあぐらを禁じられたら、男たるもの立つ瀬がないではないか。その立つ瀬がなくなる羽目になるやも知れぬ事態が出来(しゅったい)、それも嬉々として入れ替えたばかりの人工膝のせいだから茫然自失、言葉もない。せいだと云えば膝が悪いとも聞こえようが、そうとも云えないのだから話が錯綜する。

膝の痛みに堪えかねて人工膝に入れ替え、手術を済ませ退院して数日になる。膝を入れ替えよとは天の声、膝回りの苦痛が嘘のように消えて、将に近年にない快挙と大いに満ち足りているのだが・・・。好事魔多しとやら、良きことの裏に不都合あり、と。骨と骨が摺り合う拷問から解き放されたあとに男冥利が失せなんとしているのだ。そう、あぐらはご法度だという。

人工膝だから、膝を折った上に体重をぎゅっと乗せるなどは論外だ。つまり、正座は厳禁だろう。だが、ゆったりと構える畳の上の大あぐらもならぬとなれば、これは切ない。膝の拷問を逃れたのは限りなく嬉しいが、その代価にあぐらの和みを失うとは情けない。ああならだめでもこうならよかろうと、いまリハビリの専門員にあぐら談判をしている最中なのだが、話が一向に捗(はか)が行かない。リハビリの成果次第であぐらの角度に個人差が出るとのご宣託、冥利と云えるほどのあぐらを認めてもらえるやらどうやら、甚だ心もとないのである。

入れ替えた人工膝はチタンだという。眼鏡フレームなどに使われる軽量金属だ。両膝同時に内側だけの部分にこれが入っている。骨に馴染むのに数ヶ月掛かるという。半年も経てば様子がはっきりしよう。

部分膝とはいえ84歳にして両膝を入れ替えるのは稀有とのことだ。幸い術後の経過はごく順調で、膝回りの鬱陶しさが霧消したのだからよしとすべきだ、あぐらは諦めよと周囲は軽口を叩く。そうかも知れぬ。あの骨が摺り合う悪寒はもう沢山だ。あれが消えただけでも生き甲斐が蘇生した。其れで手を打つのが筋か・・・。

思えば、人間我が儘である。あぐらが無いもの強請(ねだ)りなら、潔く諦めようか。それでも、あぐらの真似事だけでもしたいものだと課せられたリハビリに精を出している。人事を尽くして云々の心境である。


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検証 公団居住60年 №34 [雑木林の四季]

Ⅶ 公団家賃裁判―提訴から和解解決まで

      国立市富士見台団地日会長  多和田栄治

7.原告陳述から
 東京地裁では、1982年1月18日の第12回法廷までに原告側は16名が陳述をおこない、9回にわたって準備書面を提出した。この間、被告公団側の陳述はなく、8回の準備書面のなかで、公団家賃といえども民間家賃と同じであり、値上げの法的根拠は借家法にある、したがって値上げ理由は経済事情の変動であるとの主張に終始した。この立場は立証にもあらわれ、公団諸法令を無視した民間家賃の算出手法による不動産鑑定評価書を提出したにすぎない。
 わたしは81年9月7日の第10回口頭弁論において、賃貸借契約書5条と建設大臣承認について被告の説明を求める陳述をおこなった。ここでは81年6月8日の第9回法廷での戸石八千代原告の陳述全文を紹介しておく。

 私は原告の戸石八千代です。
 私は昭和34(1959)年5月30日に現在の住居ひばりが丘82-105の3Kに入居いたしました。もう22年前になります。当時家族は夫婦と子ども4人の6人家族でしたから、畳の部屋が3部屋あるというので、3Kに申し込みました。そのときの主人の給料は34年4月24,480円で、ひばりが丘団地3Kの家賃は6,550円とあまりにも高すぎ、給料から家賃を差し引くと、家族の生活に支障をきたしました。そのため主人はアルバイトをして
家賃をどうにか支払うことにして入居しました。
 3部屋あるということで希望に胸ふくらませて入居いたしましたが、「団地サイズ」でそれぞれの部屋がいかにも狭く、お台所は食器棚をうしろに置くと、流し台の前に私のような小柄なものがやっと立てるスペースしかなく、肥った人は蟹の横ばいでなければ通れないのです。
 つぎに洗濯機を置こうと思ったら置き場がなく、仕方なくベランダに置けば、雨にぬれて損傷が早く、カバーをかけてもモーターのいたみが早くすぐだめになってしまうのです。玄関には下駄箱がなく、ベランダにあるべき物入れが玄関わきにあるので、物入れの整理中に来客があると大慌て、たいへん不便です。
 下駄箱のかわりなのでしょうか台所の壁の下のほうに戸棚のようなものがあって、これがまた場所的にとても使いづらいのです。こんなありさまで、どれ一つとってみても住む人の身になって造られているとは思えません。一事が万事で、玄関わきにお風呂場があり、もちろん更衣室もありませんので、お風呂に入っているとき玄関に人が来ますと、その人が帰るまで風呂場から出られないで困ったこともしばしばあります。
 壁の結露にしても長いあいだ悩まされています。押入れにいれた本がぬれて駄目になったり、お布団がかびたりは、つい最近までつづいています。
 ただ、当時主人が九段会館で入居説明を聞いてきたその日からずっと言いつづけてきたことは、「なんといっても個別原価方式で土地代まですべて含まれているので、いまは高家賃でたいへんだが、住んでいるかぎり家賃が上がることがないのだから、今に楽になるよ」との言葉でした。私もずっとそれを信じてまいりました。
 ところがその家賃が「不均衡是正」の名のもとに、こんなにも古くなってから7千円も上げられてしまうのです0黙っているわけにはいきません。
 20年以上もたって、どんなに大切に住んでも、あちこち破損していく現在、ガスもれがあったり、排水管がくさって水があふれたり、住まいについて不安なことがいっぱいあります。外壁の亀裂、いくらいっても20年間一度も塗装もしていない、汚れほうだいの建物が今後の地震に耐えられるのだろうかと心配です。
 そのうえ建物の内部の修繕は個人負担といわれ、20年間に畳替え、ふすまの張り替え、壁の塗り替え等みんな私たちが個人でやってきたのです。
 入居当時2,700戸の建物と小学校が一つあるだけでしたが、住みよい環境にしたいと自治会をつくり、みんなで力を合わせて保育園をつくり、児童館を建て、幼児教室を育て、図書館をつくり一生懸命努力してきたいま、一方的に家賃値上げ通告をしてきて、いやなら出て行けといわんばかりの態度は納得いきません。
 ひばりが丘団地は20年以上たちますので、老人世帯も必然的に増えてきました。私の家庭も最近主人が亡くなり、現在長男と二人暮らしですがやがて長男が結婚して別所帯になったときに、いまのような公団の一方的な家賃値上げがくりかえし行われると、歳をとり一人暮らしで収入も少なくなったときに追い出されるのではないかといちばん心配しています。このことは多くの老人世帯が同じぐ悩み心配しています。
 またここから狭いため去った子どもたちにとって、ここは懐かしい故郷なのです。成長期をここで育った子どもたちが故郷を求めて帰ってくる日のために、老朽化がすすみスラム化しつつある団地の修繕や補強にも力を注いでいただきたいと思います。
 昔から衣、食、住は人間が生活するうえで大切なものとされています。その「住」生活がいまおびやかされています。
 以上申しあげました理由によりまして、もう一度声を大にしてこの一方的値上げにたいして、私は納得のいくまで断固反対していくことを述べて私の陳述を終わります。


『検証 公団居住60年』 東信堂

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私の中の一期一会 №191 [雑木林の四季]

        令和初の国賓・トランプ米大統領への安倍流「おもてなし外交」に思う
        ~ゴルフ、大相撲観戦、炉端焼き・・と過剰接待(?)の安倍外交~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 令和初の国賓として来日したトランプ大統領夫妻は28日、4日間の滞在を終えて帰国の途に就いた。
 ワシントンに着いてすぐに発信されたとみられるトランプ氏のツイッターは、「大成功の旅を終えて日本から戻った。多くの分野で大きな進展があった」とアメリカ国民に日米首脳会談の成果を誇るものであった。
 日本は「素晴らしい指導者安倍晋三首相がいる偉大な国だ!」などとも書き込んで、今回の訪日に満足感を示したと共同通信がワシントンから伝えている。
 さらに、新天皇・皇后両陛下との会見や首脳会談など、行事の様子を収めた“動画”も併せて投稿して「ありがとう、日本」と大いなる謝意を表明した。
 だが、ホワイトハウスに到着した後、トランプ夫妻は記者団の前を通り過ぎるとき、質問には何も答えなかったという.
 今回のトランプ大統領訪日では、安倍首相のやり過ぎとも思える“おもてなし外交”の振る舞いに、私は「日本の恥じ」を見た思いがしたのである。
 安倍首相は首脳会談の前日、朝から千葉県のゴルフ場で大統領とプレーを共にした。
 そのあと国技館に直行して大相撲千秋楽を観戦させ、優勝した朝乃山に米大統領杯の授与まで演出した。       
 慌ただしく国技館を出て向かったのは、炉端焼きの店だった。
 いくら相手が超大国の最高権力者だからといって、一国の首相が先頭に立って、嬉々としてやることなのだろうか?という思いで、テレビから流れるニュース映像を見ていた。
 プレジデントオンラインは、トランプ氏が日本滞在中につぶやいた一言で日本では騒ぎになっていることを明らかにした。
 懸案の日米貿易交渉について「日本との交渉では、素晴らしい進展がある。農業と牛肉がそうだ。7月の選挙まで待つが、I antisipate big nunbers(注、大きな成果を期待している・・)」というツイートが世界を駆け巡ったからである。
 このツイートについて、自民党内では、おおむね歓迎の声が上がっているというのも驚きだ。
 安倍首相はトランプ氏に「日本では7月に選挙がある。それまで自由貿易交渉の妥結を待って欲しい」と頼みこんだという報道が一部にある。
 今回の日米首脳会談では共同声明を出さないことが事前に決まっていた。
 トランプ大統領が農産物の関税引き下げを強く求めていることで貿易交渉は進展していないからだ。
 日本としては、アメリカとの貿易交渉でTTP以上の関税引き下げには応じない方針だが、首相は応じるという約束をしたのではないか。しかもビッグ・ナンバーな譲歩を・・
 来年のアメリカ大統領選を前に、日本との貿易不均衡を大幅に改善できれば、“トランプ大統領の再選に有利”になることは確かだろう。
「大統領選までに形にするから安心して欲しい」と安倍首相が持ち掛けたのではないかという噂もある。
 貿易交渉の妥結を先延ばししてもらう見返りに、交渉では大幅な譲歩を約束したとすれば、参院選前には秘密にしておきたかったに違いない。
 その“密約”をトランプ氏にバラされたのは誤算 だったろう。 
 日本が大幅な譲歩を強いられることになったら、国民はツケを払わされることになる。
 党利党略のため、“国益より選挙事情”を優先させたのだとすれば、安倍政権は国益を売ったことになるとプレジデント・オンラインも書いている。
 慶応大学の金子勝名誉教授も28日のツイッターで、「バカボンボン外交だ」だと首相の過剰接待をこき下ろした。
 牛肉や農産物でアメリカに譲歩すれば、自民党支持層の農業票が離反する懸念は確かに考えられる。
 選挙の後になればその心配は減る筈である。
 日米FTA貿易交渉では、屈辱的な受け入れを迫られたのではないか。
 極めて不利な合意を約束させられた可能性は否定できない・・・
 トランプ大統領は27日午後、元赤坂の迎賓館で拉致被害者家族と面会した。
 大統領は「安倍首相がこの問題を解決したいと思っていることは強く感じている。あなた方の息子や娘を帰国させたい」と述べ、同席した首相も「大統領は皆さんの気持ちに添った外交努力を重ねてくれている」と話したという。
 家族会は、「首相は好機を逃さず解決につなげて欲しい」と要望したそうだが、すぐに希望が叶うことはないのではないか。
 拉致被害者家族と大統領の面会が、首相の“やってるふり選挙パフォーマンス”でないことを願うが、解決に向かって前進するかどうかは分からない。
 去年の6月頃に読んだ「日本人のハチ公的体質は不幸しか招かない」と題する、仏フィガロ紙の東京特派員・レジス・アルノー氏が書いた記事を思い出した。
  日本人は、とても特別な何かを持っている。それは「盲目的な服従ともいえる忠誠心」である・・という書き出しに興味をもって読んでみた
 犬のハチ公は死んで帰ってこないご主人をいつまでも待っていた。この逸話からは“尊厳の放棄ともいえる忠誠心”を見ることが出来る。 
 ハチ公的体質は指導者でなく「指導される人々」を作りだしてしまった。
 自分の上司がどんなにポンコツで、腐っていても、上司という理由で従順に従う・・・
 しかし、時代は変わる。“上下関係で成り立つような忠誠心”は最早危険な時代になった。
 理不尽な状況に背を向ける人が増えれば、日本も少しづづ変わっていくかもしれない・・というものだった。 
 ご主人さまのトランプ大横領に忠誠を尽くす、日本の安倍首相は“ハチ公的忠誠心”を持っていないとは言えないだろう。
 国民は理不尽な状況に背を向ける必要があるのではないか、令和という新しい時代になったのだから。 

 

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浜田山通信 №243 [雑木林の四季]

ハガチー事件を知っていますか

             ジャーナリスト  野村須美

 「令和(これがなかなか思い出せないし、書けない。いまも新聞を見て再確認した)初の国賓が四日間の日程を無事終え、お帰りになった。お招きしたのはアベさんなのか天皇なのか知らないけれど、最終日には天皇皇后が国賓宿泊のホテルへ出向き別れの挨拶をしたそうだ。いたれりつくせりの「おもてなし」だった。私はこの国賓騒ぎがバカバカしくてテレビも一切見なかったし、一日は前に書いた東松山市の「高田博厚彫刻プロムナード」を見に行った。東武東上線の高坂駅前の大通りを西に向かって1キロ、両側に32体の作品が並んでいる。高村光太郎、タゴール、棟方志功、新渡戸稲造、宮沢賢治などの人物像に感心した。東松山のことはまた書くとして、国賓さまのおもてなしに関連して思い出すのは、もう59年も前のことになるが、1960年のハガチー事件のことだった。
 いいかげんなものでハガチー事件がいつだったのか、吉田内閣ぶっ倒せとデモばかりやっていたころのことか、安保闘争の前だったか後だったかさえはっきり憶えておらず、ただ羽田空港を出たところでハガチーの乗っていた車がデモ隊に囲まれあわやとなるところをかけつけた機動隊に救い出され、ヘリコプターで脱出した場面ははっきり記憶に残っている。もちろん私はデモ隊ではなく取材の一社会部記者として現場にいあわせただけだったが、すごいことになったと思った。雑観記事は先輩記者が書いたはずで、私は単なる一目撃者にすぎなかった。
 ハガチーとは当時のアイゼンハワー米大統領の新聞係秘書。いまあらためて年表をみると、前年から新安保改定をめぐって反対運動が盛り上がり、連日集会デモが続いた。1月には岸首相(安倍首相の祖父)とアイクの間で新条約の調印、大統領の訪日も決まった。ハガチーの来日は情勢の調査のためだったが、一日いただけで帰国した。このあと6月15日にが東大生樺美智子さんが学生の国会突入で死亡、16日にはさすがの岸信介総理もマニラに滞在していたアイク大統領に訪日延期を要請せざるをえなかった。新安保は19日午前零時自然成立した。まもなく岸内閣は退陣し、高度成長の池田内閣になる。
 アベさんは祖父の恨みを60年かけて晴らし、強固な日米同盟どころかいまや属国化への道をまっしぐらだ。岩手県沖で事故を起こしたばかりのステルス戦闘機F35機147機、追加分だけで1兆2千憶円。オスプレイヘリコプターも17機、1700憶円。地上配備型迎撃ミサイルイージス・アショア2基、4400憶円。これだけつくしても参院選挙が終わると対中国のような貿易戦争を日本も仕掛けられ、日本の農業や自動車もひどいめに会う。「メイク アメリカ グレート アゲイン」から「アメリカ ファースト」で世界の嫌われ者トランプにどこまでもついていくのが日本国の生きる道である。

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BS-TBS番組情報 №187 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年6月のおすすめ番組(上)

                 BS-TBS広報宣伝部

PGA TOUR チャンピオンズ Mastercard ジャパン選手権

2019年6月8日(土)午後2:00~4:00 「2ndラウンド」
2019年6月9日(日)午後2:00~4:00 「Finalラウンド」 ※最大延長午後6:00まで

☆PGAツアーチャンピオンズが2年ぶりに日本で開催!名だたるメジャー王者たちが集結!

解説:芹澤信雄プロ
実況:小笠原亘(TBSアナウンサー)
リポーター:清原正博

アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラウス、トム・ワトソン、タイガー・ウッズ、これまでゴルフ界の歴史を作り上げてきたアメリカPGAツアー。そんな名プレイヤーたちが凌ぎを削る「PGAツアーチャンピオンズ」が2年ぶりに日本上陸。世界ゴルフ殿堂入りを果たした選手や往年の名選手ら60名のチャンピオンズツアーを代表するレジェンドと、日本シニアツアーの招待選手8名を合わせた計68名が出場。日本で真剣勝負を繰り広げる。アメリカのゴルフチャンネルをはじめ、世界中で放送される全世界注目のトーナメント、それが「Mastercard Japan Championship(Mastercardジャパン選手権)」。戦いの舞台は千葉県成田市に位置する成田ゴルフ倶楽部。高いレベルの戦略的コースで繰り広げられるレジェンドたちの熱き戦いを制するのは!?日本ゴルフ界の新たな歴史に名を刻むのはどの選手なのか!?
BS-TBSでは、レジェンド達の今大会のスーパープレーに加え、過去の名シーンなど懐かしのプレー映像も織り交ぜてゴルフの魅力をお伝えする。
【主な出場予定選手】
トム・ワトソン、マーク・オメーラ、ラリー・マイズ、コリン・モンゴメリー、倉本昌弘、深堀圭一郎、長谷川滋利(元MLB投手)

秘蔵映像!美空ひばり 時代を超える名曲たち

2019年6月15日(土)よる7:00~8:54

☆世代を越えた美空ひばりゆかりの人たちに取材を敢行。貴重映像を交えて紹介していく。

不世出のスター、美空ひばり。ひばりが旅立ってから30年の節目をむかえる令和元年もその輝きは未だ色あせることなく時代を越え、輝き続けている。何故、ここまで多くの人々を魅了してやまないのか?今回はその魅力をひも解くべく、「美空ひばりと私」のテーマで、世代を越えたひばりゆかりの人たちに取材を敢行。ひばりへの想い、とっておきのエピソード、取材対象者が好きなひばりの歌を貴重映像を交えて紹介していく。
【取材1】 激白!“私が知っているお嬢さん”/元付き人・関口範子さん
ひばりの熱烈なファンだった関口さんは、ある時から公演の楽屋回りのお手伝いをするようになる。それが縁となりひばりが旅立つまでの28年間、付き人としてその苦難と栄光を間近で見届けてきた。その関口さんが語る知られざるエピソードとは?
【取材2】 カラオケの十八番は“愛燦燦”/俳優・藤原竜也
母親がひばりファンだったこともあり、小さな頃からひばりは身近な存在だったと語る藤原さん。ひばりの歌はどれも好きだが中でも「愛燦燦」はカラオケの十八番だという。ひばりの曲を愛し歌う藤原さんが語るひばりへの想いとは?
【取材3】 ひばり歌を歌い継ぐ!/歌手・市川由紀乃
平成29年の紅白歌合戦ではひばりのテーマ曲「人生一路」を熱唱した市川由紀乃さん。その際、ひばりプロダクションから贈られたひばりの衣装を纏いステージに臨んだという。市川さんが自身の人生を重ね愛唱歌として歌い継ぐ「人生一路」への想いとは?
【取材4】 ひばりの再来!?小6少女がひばり歌を熱唱!/梅谷心愛さん
両親の影響で幼少期から童謡唱歌から歌謡曲までジャンルを問わず歌ってきたという梅谷さん。各地ののど自慢大会やコンテストでもその歌唱力を発揮。中でも得意な曲はひばりの歌。まだ小6の彼女が選ぶひばりの歌とは?
【取材5】 ひばりはジャズの天才/クラリネット奏者・松本英彦
昭和30年代、小野満とシックス・ブラザースのメンバーとして活動した松本さん。ひばりがジャズを歌う際、バックバンドも務めた。一緒に演奏をした松本さんしか知り得ないひばりの凄さと、エピソードを語る。

おじさん くた美れ旅

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毎週(水)よる10:00~10:54

☆古いのになぜか新しく感じる…日本全国の"くた美れ"スポットを、おじさんが旅する。

ちょっと疲れたおじさんが向かう旅は、古いのに、何故か新しく感じる!それが… “くた美れ”スポット。
毎回ひとりのおじさんタレント・俳優が、日本全国の癒しスポットを“くた美れ”スポットとして紹介。
温泉宿、観光地、定食屋、飲み屋など、昔懐かしい場所を巡り、おじさんが視聴者の心と体の疲れを癒します。

■2019年6月5日(水)
#6「富山県黒部市」
旅人:酒井敏也(俳優)
日本の原風景を残す、ひなびた場所。すなわち“くた美れスポット”を巡っていく旅番組。
今回は、俳優・酒井敏也さんが富山県黒部市をのんびり旅します。
港町・生地(いくじ)から宇奈月温泉、そしてトロッコ列車でしか辿り着けない秘湯・黒薙温泉へ。

■2019年6月12日(水)
※特別編成のため休止

■2019年6月26日(水)
#7「福島県喜多方市」(予定)
旅人:モト冬樹


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バルタンの呟き №58 [雑木林の四季]

       奉祝『レイワワン』令和元年

               映画監督  飯島敏宏

我が国伝統の国技である大相撲の千秋楽で、優勝挨拶に立った横綱白鵬が、場所の終了を告げる神事が行われる前と知らずに、独断で、観衆を促して337拍子の手締めを求めたという咎で、場所後罰せられたのを、皆さんご存知だとおもいます。

ところが、令和日本が最初に招いた国賓トランプ米国大統領夫妻と、大日本国安倍総理大臣夫妻の大相撲鑑賞に際しての相撲協会の忖度で、大相撲の歴史を踏みにじる、というより従来の慣行を無視した大忖度が平然と行われたのには、呆れてモノが言えない、いや、バルタン居士として絶対に呟かねばいられなくなりました。

天覧相撲の際にも用いられる、階上にある警備も容易で観客の観賞も妨げない、おなじみの貴賓席を使わずに、土俵下桟敷席最前列の桟敷桝席に、座布団ならぬソファを置き、周囲席をそれとわかる警備要員で固めた上に、観客への飲食お土産給仕などのサービスを行う茶屋を休業させ、飲料その他の自販機を停止、手荷物検査を厳重に行うなどの観客の興趣を無視したもろもろの過剰な施策は、接待上、警備上致し方ないと言えば言えるかもしれませんが、今回行われた、国技として長年守ってきた故事仕来たりを全くないがしろにした相撲協会側の忖度(或いは、内閣府からの要請への対応)が、大いに気にかかったのです。

まず、いつぞや、救命救急のための女性まで排除した神聖な土俵に、トランプ大統領が、優勝力士に賞状とアメリカ杯を渡しに上がるためにわざわざ設けられた特製の木製階段です。連日のように報道されるトランプ大統領の映像を見ても、前日の安部総理大臣とゴルフに興ずる活発な動作を見ても、まったく、健康だと思える相手に、タブーを犯してまでも必要としない設備です。

さらに、僕が、これこそ許し難い忖度だと感じたのは、取り組みの進行中に、場内客席に入場してきたトランプ大統領への忖度です。入場のきっかけも悪かったのですが、階上の貴賓席ではなく、一般の桝席だったために、派手な入場に気付いた観客から歓声や拍手が湧くのは、当然予測された筈です。入り口近くに、場内の様子の見える係員を置いていなかったのかどうかは、知りませんが、敢えて、進行中の取り組みを中断して、大統領夫妻一行の登場と、観客あげての拍手歓声を許すなど、国技の相撲道に照らして看過し得ない歪曲が行われた矛盾は、先の横綱白鵬への処罰と対比して、そのご都合主義的な差別は、今後いったい如何説明されるのでしょうか・・・

国賓と横綱という違いではなく、アメリカ合衆国とモンゴルという、国力の違いからの差別、忖度と非難されて然るべき日本相撲協会の処置ではありませんか。判官贔屓のバルタンとしては、ぜひともここでモンゴル側に与してその非を呟かねば、存在が廃ると言わねばなりません。

それにしても、このところ、さわぎ好きな民放ばかりでなく、NHKまで(というどころか先頭に立って)各種マスコミで報道される、天皇陛下のご退位ご即位などに絡む令和騒ぎの過熱ぶりは、少々度を越しているとお思いになりませんか?

一方、新聞を見ても、相変わらず、トップ記事が、政治ではなく、社会ネタです。見せず聴かせず語らずのうちに、その背後で、着々と、何事かが運ばれてゆく。

トランプ大統領見送りを兼ねた最後の行事、横須賀米軍基地に横付けされた、海上自衛艦空母「かが」での大統領の覆面を脱いだ政商トランプ氏の最新鋭ステルス戦闘機F35B販促イベント(!)の最後に登場した世界最大のクライアント、日本国安倍総理大臣の昂揚した演説のひびきに、僕は、同じく「大東亜共栄圏の平和」を唱える紀元2600年奉祝祭のラジオ中継から流れ出た、第二次近衛文麿内閣総理大臣の声と同じ響きを感じたのです。その背後には、陸軍大臣東条英機の眼が光っていて、やがて、とって代わって宰相の座を占めた彼が、国家総動員の号令と共に、あの無謀極まる太平洋戦争に突入していったのです。何にも知らされない僕たち少国民は、大政翼賛の大人たちと一緒に、旗、提灯をかかげて、わっしょいわっしょいと浮かれ騒いでいたのです。

空母「かが」艦上に響き渡った「日本が、アメリカ合衆国と密接な同盟関係を維持して、全力を尽くして世界平和に貢献するためには、この道しかありません!」という安倍総理大臣の宣言は、かつての大戦で被害を蒙った周辺諸国にとっては、日本が高らかに上げた「再軍備宣言」に他ならないと受け取られるに違いありません。しかも、政商トランプ氏は、今回の日本訪問サービスの見返りとして日本に押し付けるシビアな貿易交渉を、あえて日本の現政権維持のために選挙後に決着を先送りして、さらに貸しを作る算段ときました。

運ばれて行く先に、なにか、恐ろしい怪物が、巨大な口を開いて待ち受けている気がしませんでしょうか・・・

 

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医史跡を巡る旅 №57 [雑木林の四季]

「博愛精神のルーツをたどる・日本赤十字社の飛躍」

                  保健衛生監視員  小川 優

前回は、博愛社本社の場所的流浪について調べてみました。今回は組織的な紆余曲折を追います。
と、その前に佐野常民と並ぶ日本赤十字の生みの親、大給恒について触れておきましょう。大給恒のお墓は渋谷区広尾の香林院祥雲寺墓地にあります。

「大給恒墓」
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「大給恒」 ~東京都渋谷区広尾 香林院祥雲寺墓地

天保10年(1839)、三河奥殿藩大給松平家の長男として生まれる。旧名は松平乗謨。嘉永5年(1852)に家督を継ぎ、第十代奥殿藩藩主となる(のち陣屋を信濃に移し、田野口藩となる)。また譜代大名として幕末の幕府混乱期に大番頭、若年寄、老中を、兼ねて陸軍奉行、陸軍総裁を務める。戊辰戦争の勃発とともに幕府と決別、老中職、陸軍総裁職を辞して領地居城のある田野口(現在の長野県佐久市)へ引き籠り、松平姓を捨て、大給を名乗る。
明治4年(1871)大給恒と改名、西洋事情に通じていたので、新政府の元で明治6年、メダイユ取調御用掛に任じられ、日本における叙勲制度の新設に関わる。明治8年元老院議官、明治9年賞勲事務局副長官、明治11年議官兼賞勲局副総裁となる。明治17年(1884)には子爵に叙され、明治23年貴族院議員、明治40年には伯爵に叙される。
明治43年、死去。

「大給恒墓の看板」
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「大給恒墓の看板」 ~東京都渋谷区広尾 香林院

大給恒の菩提寺は三河奥殿藩代々縁のある香林院となりますが、墓所はお隣の祥雲寺の墓地にあります。ですから墓所の案内板は香林院の門前にあり、お墓は祥雲寺墓所右手の高台に位置しています。

博愛社活動の許可を得るために、西南戦争まだ終わらぬ九州で飛び回ったのが佐野常民とすれば、東京に留まり皇族や家族の説得に奔走したのが大給恒であったようです。

「赤十字特別社員章」
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「赤十字特別社員章」

日本赤十字における大給恒の大きな功績は、社員章や有功章の制定であると思います。そもそも大給恒は、日本の勲章制度の創設に深く関わった人物です。勲章はそれぞれの国の歴史、文化、伝統を色濃く反映しています。大給恒は西欧諸国の状況を調査したうえで、日本に合わせた勲章制度を組み立てました。その制度は敗戦後憲法が変わっても基本は変わらず、現在もなお生きています。
日本赤十字社にも独自の顕彰制度があります。一定額以上の赤十字社事業運営資金としての寄付を行った者を社員として、社員章または有功章を交付する制度です。明治20年に制定され、特別社員には勲章式の社員章が授与されました。見返りを求めず、赤十字活動を金銭的に支える行為を称える制度として、これらの徽章を活用した発想は、大給恒によるところが大きかったのでないでしょうか。
現在では勲章式の社員章は廃止されましたが、高額寄付者に対する有功章は残っており、赤十字関係の記念式典等に臨席される女性皇族の胸にも輝いています。

こうした工夫や努力の甲斐あって、博愛社から日本赤十字社に名を変えた明治20年以降、飛躍的に社員数は増えていきます。博愛社発足から日本赤十字社に代わる前後までの社員数の推移は以下の通りです。
明治10年 入社員38人
明治11年 社員総数46人
明治12年 同63人
明治13年 同161人
明治14年 同172人
明治15年 同226人
明治16年 同241人
明治17年 同248人
明治18年 同268人
明治19年 同609人
明治20年 同1,574人
明治21年 同10,045人
明治22年 同20,238人
明治23年 同23,569人
明治24年 同28,169人
明治18年までは微増であったものが、設立後10年を迎える19年・20年には倍増、次の21年には一桁跳ね上がります。仮事務所を転々とし、組織としての形もなかなか整わなかったなかで、諸外国の状況調査、皇族や名士への浸透工作、軍部との協力体制の確立など、地道な活動が徐々に実っていき、一気に花開いたと言えるかもしれません。

戦時の敵味方区別のない医療活動は、当初陸軍、海軍とも独自の軍医団の組織化に精一杯で、理解を得られませんでした。直前まで熾烈な殺し合いをしていた敵を助けることなど、感情的に受け入れられなかったということもあります。
一方で赤十字活動が本来非宗教的なものであるにもかかわらず、マークが十字であることや、西欧では職業看護婦が出現するまでは、医療救護活動の多くを修道女らが占めていたことから誤解されて、キリスト教禁教時代の名残から、受け入れがたい風潮があったことも事実でしょう。
明治16年内務省御用掛であった柴田承桂が、ベルリンで開催された衛生及び救難法の博覧会調査のためにドイツに派遣されます。博愛社では彼に、赤十字活動についてと、ジュネーブ条約加盟手続きについて調査を委嘱します。帰国した柴田は、翌年社員総会にて欧州赤十字社概況を報告します。

「柴田承桂墓」
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「薬学博士柴田承桂墓」 東京都新宿区原町 幸國寺墓域

嘉永3年(1850)、尾張藩医の次男として、名古屋に生まれる。尾張藩校で学んだあと明治2年東京大学東校に入学、明治4年ドイツに留学、ベルリン大学で有機化学、薬学を学ぶ。明治7年(1874)帰国、東京医学校の製薬学科教授、衛生局司薬監督、東京と大阪の司薬場長を務める。病弱のため退官するが、日本薬局方の編纂に関わる。明治43年(1903)、胃がんのため死去。享年61歳。医療制度の創設期に医薬分業の考え方を唱え、ドイツ語のapothekerを「薬剤師」と訳したのも柴田といわれる。 

「欧州赤十字社概況」
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「欧州赤十字社概況」 日本赤十字社本社情報プラザ展示物 

また翌17年には、ジュネーブで開催される第3回赤十字国際会議に、オブザーバーとして陸軍軍医監橋本綱常が代理出席します。橋本綱常については、日本赤十字社中央病院とともに次回詳しくお話しします。

彼らにより、ヨーロッパ諸国における軍隊と赤十字の関係、救護活動における女性の参加促進、救護員養成の施設の必要性が報告され、政府や軍部にも赤十字活動についての理解が進みます。そして皇族の献身的協力もあって、国民にも赤十字活動が浸透していきます。明治19年(1886)には本社に併設する形で病院が開院、平時の医療提供体制と、要員の養成体制が整います。

「赤十字加盟通知」
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「赤十字加盟通知」 日本赤十字社本社情報プラザ展示物

そして、いよいよ明治19年(1886)6月、日本政府はジュネーブ条約に加盟。翌20年(1887)、晴れて博愛社は日本赤十字社と名を変えます。


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いつか空が晴れる №60 [雑木林の四季]

   いつか空が晴れる
    -モーツァルトピアノ協奏曲第21番2章―
                     澁澤京子

 以前、私は人から紹介されて、竹内芳郎先生の「討論塾」に通っていたことがあった。
場所は先生が住んでいらっしゃる小田急線沿線にある高級老人ホーム。
月に一回集まって、「沖縄基地問題」や「日本に軍備は必要か?」といったテーマで、先生を中心に議論を進めていくのだった。毎回レギュラーで参加するのは4,5人で、私以外は研究者か学者。別に市民活動家でもなんでもないただの専業主婦の私は、その中では相当場違いだったんじゃないかと思う。一回、参加すると次までに読まなくてはいけない課題図書が4,5冊はあって、それだけでもついていくのが大変で、結局半年くらいしか通えなかった。

竹内先生は大正13年生まれ。日本にサルトルを紹介された哲学者。サルトルのアンガージュマンを実践すべく市民のための政治討論塾を張り切って開催されてたのだ。私がお会いした当時、先生は80代後半でいらしたと思うけど、参加者の中で一番エネルギッシュな存在だった。課題になった翻訳書は英語もフランス語も、いつも必ず原書にも目を通されていて、翻訳のチェックもされているのだった。
父とほぼ同年代の先生は、やはり学徒出陣で動員された。先生は、幹部候補生を断って一兵卒として従軍されたらしい。そして先生は中国に送られた。
先生はそういう、潔癖で純粋なところをお持ちだった。

「慰安婦問題ね・・僕の知っている範囲では、ほとんどが朝鮮人女性です。もちろん、僕は一度も行ったことはありませんよ、僕はそういう所は嫌いですからね。ただ、ほとんどが朝鮮人女性だったのは事実です。そして、どこの国の軍隊にも、慰安所のようなそういったものはあったでしょう。」
そして先生は顔の前で大きく手を振って、慰安所には一度も行ったことがないことを何度も強調されるのであった。
私が参加する以前、一水会の鈴木邦男氏が討論塾に来たことがあったらしい。先生は、鈴木邦男氏とは立場を乗り越えてお互い、大いに意気投合されたそうだ。その場に居合わせた人から、「・・どっちが右翼だか左翼なんだかわからなくなった。」という話を聞いた。
鈴木邦男氏も、それから恐らく「俺に是非を説くな 激しき雪が好き」の句を残した故・野村秋介氏とかも、熱い正義感と情熱を持っているところは竹内先生と同じだったんだと思う。

竹内先生はご自分の嫌いな政治家の悪口になると、いつも少年のように目を輝かせイキイキとされていた。
なんといっても先生は、市民の力とより良い民主主義社会を信じてやまなかったのだ。

先生がクリスマスに、フランス料理のコースをみんなにご馳走してくださったことがあった。
「皆さん、聞いてください。この間、僕の身に大変なことがおこりました・・」
みんなはいっせいにおしゃべりをやめて竹内先生の方に頭を向けた。
「一週間ほど前の夜のことです・・」
先生が夜中に、ふと気配を感じて目を覚ますと、ベッドの脇には長い白髪をたらした老女がじっと立っていて先生を見おろしていた・・
「・・僕は心臓が口から飛び出るほど驚きました・・驚いて心臓麻痺で死ぬかと思いました。」
その老女は、先生の並びの部屋に入室している、痴呆症になってしまった女性だった。
いつも先生は健康のため、冬でもベランダの窓を少し開けて寝る、彼女はベランダ伝いに徘徊しているうちに、窓の開いていた先生の部屋に入ってきたらしい。
先生は、以前は奥様と入居されていた。奥様が亡くなられてその部屋を書庫として今では使っていらっしゃる。ここ最近、書庫の本が時々ゴミ箱に捨ててあったり、ティッシュが床に散らばって落ちていたり、ずっと不審に思われていたらしい。
「そこで僕はこの老人ホームの経営者にクレームをいれました。なぜ痴呆症になった入居者を、介護施設にいれないのか?と。」ところが、先生の抗議はまともに相手にされなかったらしい。
「そして、いまだ僕に対する回答は何もありません・・日本の組織は政治でもなんでもトップに行けばいくほどそうなるのです。」
先生は、ベッドの脇に立っていた痴呆症の老女の話題から、日本社会のシステムの病弊というテーマに移行させて、クリスマスの議論の材料としてみんなに問題提議をされたのであった・・

そのうちに、私自身の私生活も別居や離婚でゴタゴタして通えなくなった。そして、先生にご無沙汰しているうちに先生が亡くなられたことをずいぶんあとになって知った。

あんなに頭抱えてたくさん本を読んだのに、一番よく覚えているのが、夜中に先生のベッドの脇に立っていた痴呆症の老女の話というのが我ながら情けないけれど、一服の清涼剤のように、いつも爽やかだった竹内先生。

日本では、先生のように頑固な「市民的不服従」の個人の精神はなかなか育ちにくいのかもしれない。先生は集団のルールや道徳ではない、個人の良心というものをとても大切にされた人だったのだ。

歯に衣着せない、先生の歯切れのいい政治批判と鮮やかな悪口を、また聞いてみたいと時々懐かしく思い出すのである。


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梟翁夜話(きょうおうやわ) №40 [雑木林の四季]

「便利と不便」

                     翻訳家  島村泰治

どうも陽気が定まらないようで、半袖の上にちゃんちゃんこを羽織ったり着込んだチョッキを剥いだりしている。気温に過敏になっているのも確かだが朝晩のテレビの天気予報でつけられる知恵のせいでもある。

気づかれる人も多かろうが、昨今のテレビ(ほぼNHKだが)の天気予報はあきれるほど懇切丁寧だ。さぞ気象衛星からの情報が溢れているのだろう、町村単位いや同じ村でも東西南北でわずかに異なる予報を立てて放送している。浦和と熊谷で晴れと曇りの違いがあるのは驚くに当たらず、中間のわが桶川が晴れたり曇ったりとなれば云うことはない。ともかく精緻極まるのである。

それがどうした、と問われる向きがあろうかと思うが、とかく斜っかいにものを見る癖があるせいか、筆者にはこれが鬱陶しく思われるときがあるのだ。シャツは薄手にしておけとか折りたたみ傘ぐらいは持っていけなどといわれれば、大きなお世話だ、そのくらいは手前で決めるから放っておいてとすら思うのである。

面倒の見過ぎは昨今の悪弊だと思う。子供の世話ならいざ知らず、いい大人に向かってああせいこうせいはいらぬお世話で、個人の権利を謳いながら貰うものはなんでも意に介さないバランス感覚は、いらぬお世話さえ唯々諾々といただくと云う、人間力劣化の兆しの最たるものだ。

それはやや言い過ぎかもしれない。度単位の気温予報がたしかに役に立つ。出先で寒気に会い、予報のいいなりに上着を携えて行ってよかったと云うことはあるだろう。ググればなんでも分かる軽快は味を占めれば止められぬ。ちょっとした文章ならネットを漁って原料を手に入れ、ちょこっとコピペすれば容易に書ける。だが、そんな代物(しろもの)で小金(こがね)が取れる世間に生きる虚しさをどうしてくれる?書き物を依頼するクライアントがオリジナルで頼むとあえて指摘せねばならぬ時代だ。ネット上の大方の書き物が大方コピペだとバレているかの如くだ。そんな便利がいいのかわるいのか、という話だ。

便利にはほどがあると思うのだが如何だろう?言い換えれば「不便の利」と云う観点もあるだろう、と。出がけに玄関先で傘を手に天を仰ぐ風情然り、明日の天気を願ってテルテル坊主をぶら下げる幼児の心情また然り、ひとは不便を糧に知恵の文化を紡いできた。経験と想像を綯い交ぜて手立てを考えてきた。そのプロセスでひとはものを観察しものの道理を知り、人知の極みを弁える謙譲の徳を得た。不便は知恵の動機であり不便は英知の砥石でもある。

天気予報の話に戻ろう。寒くなるから半袖より長袖にしろよ、朝晩小寒いこともある頃に日中気温が急上昇するから熱中症にご注意などは、過保護情報としか思えない。過保護といえば、いつだったかあるフランス人が時間に正確な日本の鉄道を褒めちぎりながら、乗降時のアナウンスは大きなお世話だと云っていた。「まもなく電車が到着します。白線の後ろに下がってお並びください」というあれだ。交差点上、車が見えなければ赤でも渡る名うての民族には、白線・・云々にはイラつくらしい。フランス人ではないが、あれはたしかに軽度の騒音に聞こえる。白線ばかりではなく、ひっきりなしに流れる駅のアナウンスはほとんどが大きなお世話、街中の電信柱のように、さっと消えたらさぞ景観が変わろうという類のものだ。


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検証 公団居住60年 №33 [雑木林の四季]

Ⅶ 公団家賃裁判一提訴から和解解決まで

    国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 6.被告公団の主張

被告公団の主張は、正確を期すため被告準備書面からの抜粋を主とする。ただし年号表記など文章に若干の修正をくわえた。

 ①家賃増額請求の経緯-「1955年以来、公団住宅の家賃は改定されないまま推移、その間物価その他経済事情の変動は著しく、このためその家賃は低額に過ぎて不相当となり、公団住宅相互間における家賃は著しい不均衡が生じるに至った」「不相当に低額となった家賃を相当な額まで増額し、社会的不公正を是正すべき時機に至った」(被告準備書面第卜以下、被準1と略す)

 ②家賃増額請求の法的根拠-「契約書5条1号ないし3号は、事情変更の結果家賃が不相当となる事由を具体的に例示した規定であり、借家法7条 1項と同一趣旨である」「公団住宅の賃貸借関係は私法関係であり、その家賃増額にたいしては強行規定たる借家法7条の適用がある」(被準2)。「施行規則は行政命令であって、原告ら国民の権利義務を定める法規命令ではないから、同規則9条、10条は本件家賃増額請求の法的根拠とはならない」(被準2)。
「公団法および施行規則は公団業務にたいする行政的規制監督の規定であり、その業務が適抑こ遂行されることによって、居従者の受ける利益は、いわゆる「反射的利益」であって、権利として法的保護を求めうるものではない」(被準3)。

 ③本件訴訟における審理対象-「公団住宅の賃貸借関係は私法関係であるから、審理の対象は、改定家賃額が借家法7条1項に照らし相当な額であるか否かの一点に尽きる」(被準2)。「裁判所によって判定されるのは、経済事情の変動に即した客観的相当家賃額はいかなる額であるかであって、建物賃貸人が現実に増額請求した額の積算根拠・方式の当否ではない」「原告らは、政府の住宅政策の適否や被告公団の業務運営の当否などという本来民事訴訟において審理の対象とならない問題について論争を挑もうとしている」(被準5)。
 ④家賃および家賃の不均衡について-「家賃は賃貸住宅の利用による便益にたいする対価である。家賃の不均衡とは、賃貸住宅の利用による便益と負担する家賃額の対応関係が区々になることをいう」「その承離が区々であることは、「家賃の公平」ないしは「家賃の均衡」の原則に反することになる」(被準3)。「公的住宅であるから、使用対価としての家賃の負担は賃借人相互間で不公平であってはならない」(被準4)。「施行規則9条は、公団住宅の家賃につき、通常の(=民間の)家賃と同様、建物および敷地の使用の対価と
してとらえ、その構成要素を定めたものである」(被準4)。

 ①個別原価主義について-「施行規則9条1項は、当初家賃の決定にかんする規定である」(被準4)。「公団住宅の家賃は、原価回収のみを目的としているものではない」(被準4)。

 ⑥家賃増額の大臣承認について-「既定家賃の変更については、一般的改定方式を予め定めることに代えて、そのつど建設大臣承認による方式を採用している」(被準4)。「建設大臣の承認は、原告ら居住者にたいして被告公団がなす家賃増額請求の要件とは関係がない」(被準6)。「極端にいって建設大臣の承認がなくても家賃増額請求は有効と考える」(第8回口頭弁論での裁判長の問いにたいする被告代理人の答弁)。


『検証 公団居住60年』 東信堂

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コーセーだから №51 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」12

               (株)コーセーOB    北原 保


事業への執念に変わる/子供時代は〝鳥きちがい

親ゆずりの凝り性

 小林孝三郎社長の凝り性は社内でも有名である。60歳でゴルフをはじめて10年目にグランドシニア選手権に優勝、並いる社員をアッといわせたり、日本の地理の知識は高校の教師なみ、と社長秘書をあわてさせたのも、もとをただせば、父親伊三郎ゆずりの凝り性のせいである。
 「いや、社長の凝り性というのはいまはじまったことじゃない。こどもの時代にさかのぼる。田舎で〝川きちがい〟とか〝山きちがい〟〝鳥きちがい〟というのがありますけど、兄貴はそれをひととおり卒業していますからね」
 逆にさっぱりした性格の弟、小林聰三専務はそう説明する。なんせ、小学校時代に〝鳥きちがい〟といわれたころ、毎日学校がえりに鳥屋さんに寄って鳥の種類や名前を覚える。アンダルシャン、ミノルカ、レグホンからシャモまで飼っていて、鳥小屋でニワトリと寝起きをともにする。ニワトリがタマゴをかえすと親ドリよりも喜んだというから相当なもの。
 しかし、この凝り性が〝鳥きちがい〟から仕事熱心なセールスマンをつくり、やがて事業への執念を燃えさせるとは、誰も思いもしなかったものだ。
 小林孝三郎社長が業界の社長達とヨーロッパにはじめて旅行したときのことだ。機内の隣の席にすわったアゼリアの島田社長は小林コーセー社長がたえずノートを出してこまごまと書いている姿を見た。はじめのうちは気にしなかったが、ジェット機に乗るとかならず小林社長はノートを出して書く、さすがの百円化粧品の島田社長もおどろきというよりその〝メモきちがい〟的な熱心さに「ハハン、これがコーセーを成功させた秘訣だな」と感心したそうだ。
 この小林孝三郎氏の凝り性は、東洋堂のアイデアルでの、セールスマン時代、化粧品の商品知識では他のメーカーの誰よりも抜群で小売店の親父さんたちにアイデアルの信用を高めた。
 当時、旭電化の石けんのセールスマンだった檪原文雄氏(現いちはら産業社長)は、出張先でよくアイデアルのセールスマンの小林氏といっしょに泊まった仲だ。
 「小林さんという人は、商売熱心で非の打ちどころのないセールスマンでしたよ。こっちは商売はちがいますけど、セールスの仕方をずい分教わりました。たとえばいっしょに同じ店に行くと小林さんは商売してくるのに私はできない。するともう一度2人でその店に行ってこうするんだと教えてくれる。商品知識を店主の立場になって説明する。小売店が倒産すると〝店ヅラのいい店は内容にきをつけなさい〟とかね。ウマがあって、たのしい時代でしたね」
 そのころのセールスマンは、1ヵ月のうち15日から20日間は地方出張ですごす。小林氏と檪原氏は新潟に出張すると太田屋という商人宿を常宿にしていた。宿料は3円。県内を1日セールスしてまわると、
 「帰りはいつも私の方が早いので、夕食を待って隣べや同士でよく酒をのみかわしましたね。酒杯がはずむと小林さんは商売の話に熱が入る。ころあいを見て〝べっぴんさんでもひやかしに行こう〟というと〝よし〟とつき合い、よくいっしょに出かけましたね。だけど小林さんに感心するのは決して12時をすぎて宿に帰るということはなかった。帰ると本社への報告書や計算書をまとめているんです。遊んできても商売は忘れない人でしたよ」
 檪原氏は独身時代の楽しい思い出をふり返りながら、「やっぱり小林さんはどこかちがっていましたな」と語る。その「どこか」というのが少年時代からの〝鳥きちがい〟にはじまる凝り性であった。小林社長は凝り性の話になると「いやいや」とはずかしそうに顔をそむけるのだが……。
                                                      (昭和44年10月21日付)

(注)
●アンダルシャンはスペインのアンダルシア地方が原産だといわれているニワトリの一種。日本では明治時代に大きな卵をたくさん産むとして国内各地に広まった。2009年の飼育数は1万羽と推測されるといわれる。
●ミノルカも地中海のメノルカ(ミノルカ)島原産とされるニワトリの一種で、産卵能力はレグホンと比べるとかなり劣るといわれる。現在の日本でも少数が飼われている。
●レグホンは現在でも代表的な卵用種として飼われているニワトリの一種。白色、褐色、黒色がいるが産卵数の多い白色レグホンが世界各国で多数飼われている。
●シャモは主に闘鶏用、鑑賞用として飼われるニワトリの一種で、食肉用にもなる。江戸時代にタイから輸入され、日本国内で独自に改良されたといわれる。1941年には国の天然記念物にも指定された。オスは非常に闘争心が強いことで知られる。
●アゼリア(化粧品)は、1947年に三菱石油株式会社が化粧品の製造・販売会社として設立したアゼリア薬品工業株式会社のブランド。1955年には社名を東京実業株式会社、1991年には株式会社ちふれ化粧品に改称している。小林孝三郎社長とアゼリアの島田松雄社長が参加した戦後初の化粧品業界関係者による欧米視察旅行は1959年に行われた。この視察旅行がきっかけとなってコーセーはフランスのロレアル社と技術提携を結び、島田社長は欧米の1ドル化粧品に衝撃をうけて1962年に「100円化粧品」の製造販売を開始した。1968年には消費者団体の全国地域婦人団体連絡協議会(地婦連)と提携し、100円化粧品ブランド「ちふれ化粧品」を発売し、現在に至っている。
●旭電化(旭電化工業株式会社)は現在の株式会社ADEKA(アデカ)で、古河グループの化学工業製品、業務用食品などを扱う大手化学品メーカー。


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1920年高橋東洋堂の仲間と
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1959年コーセーがロレアルと提携するきっかけとなった欧米視察旅行
12-1959年には化粧品業界有志でアメリカとヨーロッパの市場視察に出かけた.jpg
1959年には化粧品業界有志でアメリカとヨーロッパの視察旅行に出かけた

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地球千鳥足 №123 [雑木林の四季]

筆者が道を聞かれたほど日本人そっくりさんが往来する国~カザフスタン共和国~

      グローバル教育者・小川地球村塾塾長  小川彩子

 久方ぶりにスタンのつく国へ出かけた。カザフスタンの道行く人々は日本人そっくりで、つい、「あら、和子さん!」、「まあ、桂君!」などと声をかけたい衝動に駆られたが、散歩中筆者も道を聞かれ微笑した。区別がつかないほど似ているのだ。そっくりといってもカザフスタンのほうが美男美女が多い。だが英語を話す人が少ないので道を聞くのには苦労した。我々が訪問したアルマトイは、カザフスタン南東部にある都市で、白い雪を頂いたアラタウ山脈に囲まれた風光明媚な街である。キルギス共和国との国境に近く、商工業やカザフスタン文化の中心地で、20年前までは首都であり約150万人という、カザフスタン最大の人口を有する都市だそうだ。観光の見所はあまりなく、28人のパンフィロフ戦士公園や中央バザールを訪問し、コクトベという1070mの山へ登って市内を展望したぐらいで、日本人墓地訪問が1番の出来事だったが、美しい街の散策を充分に楽しんだ。
 日本人墓地はアルマトイ中央墓地の一角と聞いて出かけたが、墓地が巨大で迷ってしまった。物乞いっぽい人に会い、「ヤポンスケ」と言ったら墓と墓の間の道なき道を連れて行ってくれたのでチップをはずんだ。広大な墓地で、1つの墓石の下に6人が埋葬されているとか、墓石は300ほどもあった。水力発電所等、種々の建設に従事した元ロシア抑留者たちだ。我々夫婦は海外でよく日本人墓地にお参りする。ニューカレドニア、フィリピン、ミャンマー、モンゴル、ウズベキスタン、そしてここカザフスタンで。第2次世界大戦後日本人抑留者たちが強制労働に従事させられたのだが、ウズべキスタンではそれら日本人抑留者たちの墓を守ってくれているファジールさんと出会い、お茶まで頂けた。が、ここカザフスタンの日本人墓地には墓守は居ず、案内してくれる人がいただけ幸いだった。
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アルマトイ空港
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日本人墓地

墓地から帰ったら寿司屋ですね!
 
「カザフスタンに寿司屋があるとは!」と驚いたが、ホテル界隈の散歩道の行き止まりにOcean Basketという寿司屋を見つけておいた。日本の大抵の寿司より美味だった。「日本人です」と写真撮影をお願いしたらVサインをしてくれ、大サーヴィスだった。カザフスタン唯一の事件は空港からホテルまでのタクシーの客引きが一緒に乗り、高額を吹っかけてきたことぐらいだ。乗る前は1000テンゲ(約360円)という約束だったが降りる時「20000テンゲ!」と。が、ホテルの受付につき合せ、5000テンゲで手を打った。その後、国立中央博物館に入り、かつてこのカザフスタンの大地をかけ巡った古代遊牧民の骨や衣装の展示にロマン空想のひと時を過ごした。

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アルマトイのお寿司屋さん
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宿泊ホテルのレセプションで
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ホテル近くの通り

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私の中の一期一会 №190 [雑木林の四季]

        圧力一辺倒だった安倍首相が“無条件の日朝首脳会談”に前向きとは
      ~「私自身が金正恩委員長と向き合わなくてはいけない?」何を今更!~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 今年2月に行われたベトナ・ムハノイでの米朝首脳会談が物別れに終わってから、北朝鮮は“対米強硬路線”に舞い戻るつもりなのだろうか?
 北朝鮮は今月4日と9日に複数の飛翔体を発射したというニュースが流れ、日米に緊張が走った。
 この飛翔体は、弾道ミサイルではないか?という指摘があったのに、安倍首相は「今後、日米の専門家同士で協力して分析していく」と述べるにとどめ、北への批判を抑える構えをみせたのである。
 安倍政権はこれまで北朝鮮に対し「対話のための対話ではダメだ」などと豪語を繰り返し,頑なに「圧力路線」を推し進めてきた。
 アラートを作動させ“北朝鮮パニック”を政治利用して政権浮揚を計ってきた過去もある。
 そんな安倍首相が6日夜、トランプ大統領と電話会談したあとの囲み取材で「金正恩委員長とは条件を付けずに向き合わなければならない」との意向を示し、「このことはアメリカ側にもすでに伝えている」と語ってニュースになった。
 首相の発言は、“圧力一辺倒”から“対話”に路線変更したばかりではない。これまで「日朝首脳会談を行う以上、拉致問題の解決に資するものでなければならない」としてきた前提条件を外したものになった。
 弾道ミサイル発射で、再び朝鮮半島情勢が騒がしくなりそうな心配が生じてきた今何故、安倍首相は日朝首脳会談のハードルを低く設定する気になったのだろうか?誰もが抱く(?)マークではないだろうか。
 6カ国協議の中で、未だに北朝鮮と首脳会談をしていない国は日本だけである。
 米・朝・韓の交渉から“蚊帳の外”に置かれていることへの焦りからトーンダウンせざるを得なかったのかも知れないが、それにしてもだ。
 拉致被害者家族会は,前提条件が外されたことをどう思うだろうか。
 安倍首相の「拉致問題を最重要課題と位置づけ、この内閣で必ず拉致問題を解決する」という発言に期待し続けてきた人達の心境を思うと心が痛む。
 アメリカ追随の安倍政権に、“朝鮮半島の非核化問題に先立って拉致問題を取り上げて欲しい”などとトランプ大塔旅に言える訳がないからだ。拉致問題がスルーしてしまう最悪の事態だって想像できるではないか。
 何しろ2014年5月の“日朝ストックホルム合意”から5年も経過したのに、“拉致問題解決への道筋は未だに1ミリも進んでいない”のである。
 2回目の小泉訪朝は2004年だったから、そこから数えると何と15年も進展がないことになる。
 日本国民は、家族連絡会の飯塚繁雄代表が「もう時間がない。また来年とならないよう結果を出していただきたい」という切実な声を何年も、何度も耳にさせられてきた。
 安倍首相は「私が先頭に立って舵取りをする・・」とか「拉致問題の解決なくして国交正常化はあり得ない」など、言うことは勇ましいから家族会も「今度こそ拉致問題が動くかも知れない」と期待してきた筈である。
 ところが安倍首相は、トランプ大統領の国連総会演説の中で“拉致問題に触れてくれないか”とか、米朝首脳会談で”拉致問題も提起して欲しい”など、“アメリカ依存”でしか動かなかった。
 家族会も国民も安倍流の「やってる感じ」の政治手法に惑わされてきたのである。
 アメリカにとって北朝鮮問題は“朝鮮半島の非核化であり、ミサイル問題なのだ”、アメリカが日本政府の肩代わりで拉致問題を解決してくれることはないだろう。期待してはいけないのだ。
 安倍首相としてはトランプ大統領に金委員長への口利きして貰った以上、アメリカと緊密に連携して行くとしか言えない。
 いくらこちらが「金委員長と条件を付けずに会う用意がある」と言ったって、首脳会談がすぐ実現すると思うのは非現実的だ
 拉致問題を進展させるには、水面下で北朝鮮に経済協力の青写真を示す必要がある・・などというハナシを聞いたことがある。
 日朝首脳会談は、実現するにしても相当時間がかかるとみなければならないだろう。
 2月の米朝首脳会談で、「金正恩委員長が、いずれ安倍首相と会う」とトランプ大統領に語ったという日本政府関係者の話が今頃になって出てきたのも、何だか取って付けたような話にしか聞こえない。
 アメリカ国防総省は9日に「北朝鮮が発射した飛翔体は弾道ミサイルだった」と断定したことをロイター通信が伝えている。
 河野外相は「明確に国連安全保障理事会の決議に違反している」と述べ、トランプ大統領も「誰も喜ばない。事態を深刻に注視している」と不快感を示していた。
 アメリカの政治専門メディア・ポリティコのインタビューには「ミサイルは標準的なもので、信頼を裏切るものではない」と答えている。大統領は事態をあまり重く考えていないようでもある。
 中国の王毅外相は13日、2月の米朝首脳会談以降、解決に向けたプロセスは行き詰り、不透明感も高まっているが、北朝鮮は朝鮮半島の非核化を達成するという基本目標は維持している。
 アメリカも対話を通じて問題を解決するという考えは捨てていない。
「非核化問題は、政治的解決の枠組みの内に留まっている」と語った。
 北朝鮮が「拉致は解決済み」という姿勢を崩していない中、安倍首相は“無条件の日朝会談”をどう実現いていくのだろうか。
 報道によれば、北朝鮮側は、首脳会談の前提として“植民地支配の清算”や”日本独自の制裁解除”という難しい条件を提示してくる筈だという。
 4日に日本海方面に向けて発射された飛翔体には短距離の弾道ミサイルが含まれていたことが確認されている。国連安全保障理事会の決議に違反していると河野外務大臣も不快感を示した。
 それでも対話外交でいく覚悟はあるのだろうか。
 アメリカ訪問から帰えった菅義偉官房長官は13日、国会で前提条件を付けずに日朝首脳会談を目指す政府の方針を維持する考えを示した。

 ある被害者家族は「私たちが知りたいのは事実です。運動のための運動ではありません。
政府は拉致問題について、いつも曖昧な対応するだけでした。本音は解決したくないのではないでしょうか」と言っている。
「諦めたら、そこで試合終了ですよ!」・・・どこかで聞いたセリフが浮かんできた。


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浜田山通品 №242 [雑木林の四季]

老人ホーム・保育所・鍼灸整体

                ジャーナリスト  野村勝美

 この2、3年で浜田山は大変わりした。アベノミクスでマイナス金利なんて素人にはわけのわからない金融政策があり、日本中で土木工事や、東京ではマンション建設が盛大である。3年前に本稿で取り上げた井の頭通りのスーパー・サミット裏の元NTT社宅跡にも三井シニアサービスレジデンスの「パークウエルステート浜田山」が完成した。敷地5329㎡、地上3階70戸で、診療所と訪問介護事務所つきの老人ホーム。一番高いのは1億8千万で管理費が60万だそうだ。見学も完全予約制で宣伝などは一切していない。三井は井の頭線の南側にあるパークシテイ浜田山のような高級マンションをあちこちに持っていて、それらの居住者用の老人ホームらしい。行ってみると中には庭園らしきものも見えるし、診療所、東京海上ベターライフサービスもある。
 介護つき老人ホームは元森永乳業の社宅あとにサンケイビルが建設中で゙、1600㎡5F建、11月完成予定。その西方西友の裏の木造長屋(そば屋や呑屋があったところ)もとりこわされ、499㎡3F地下1階 のマンションが来年3月に完成、保育所も入る。マンションが建つと保育所か学習塾か老人介護施設が入る。井の頭通りにあったうどん割烹壱久のあとのマンションにも保育所が入り、玄関には乳母車が10台ほど並んでいる。
 保育所といえば、みずほ銀行西側の元銭湯だったところのマンション1階は、一時コンビニが入ったが、いまは「ふたばクラブ浜田山駅前保育園」になっている。保育所は浜田山には区営のもあり、近年やたらとふえた。車はどんな脇道にも入ってくるし、保育士や親は気が気でないだろう。大津市での悲しい事故などあるととくに心配だ。
 メインロード商店街の様子もすっかり変わった。大鮨のあとは浜南商店会の旭クリーニングが支店を出していたが撤退、家主の江藤勉さんは古い建物を解体して木造2階建を新築、1階に「カク歯科医院(院長賀来賢太郎医師)」2階に「ベリーズ・ティルーム喫茶店」がオープン。いままでは2Fに歯科、1Fが喫茶店だったが、歯科も老人がふえ2階まで階段を登るのが困難なので1階がよいらしい。
 元宮坂金物店の2階にあった指圧、整体の「リラックス」もすぐ目の前の家具屋があったところに移転した。鍼灸、指圧、マッサージ、整骨の類がものすごくふえ、鎌倉通りのように軒を連ねているところもある。
 メインロードのシンボルだった吉田文具店のゼロワンビルの地下にも「カラダ改革」が出店、肩こりや腰痛を直してくれる。1階は東京スター銀行浜田山アドバイザークラブが入った。
 新規出店が多い代わりに廃業する店もある。吉田文具店は68年間、井の頭街道に面したハイタウン1階角で40年間経営してきたカレーとコーヒーの店「レモンの木」も昨年廃業、あとにランチとコーヒーの「S・P・Q・B]が開店。駅前のケーキ屋「プチ・オオサワ」も5月12日閉店した。個人営業の店は跡継ぎがいないからやめざるをえない。

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