So-net無料ブログ作成
雑木林の四季 ブログトップ
前の20件 | -

私の中の一期一会 №184 [雑木林の四季]

        東京五輪のメダル候補、競泳のエース・池江璃花子が‟白血病”を公表
        ~桜田五輪担当相の「がっかりした」発言が国会で波紋を呼んでいる~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 2020年東京オリンピックのメダル候補と目される競泳の池江璃花子(18)は12日、「白血病と診断された」ことを自身のツイッターで公表した。
 高校生スイマーの池江璃花子は「水の申し子」とも呼ばれ、泳ぐ度に記録を更新して競泳女子界のエース的存在だっただけに、このニュースは日本中に大きな衝撃を与えたといっても過言ではない。
 新聞に池江選手のツイッター全文が、以下のように掲載されている。
「応援してくださる皆様、関係者の皆様へのご報告があります。日頃から応援、ご支援を頂きありがとうございます。
 この度、体調不良としてオーストラリアから緊急帰国し検査を受けた結果、「白血病」という診断が出ました。私自身、未だに信じられず、混乱している状況です。
 ですが、しっかり治療すれば完治する病気でもあります。今後の予定としては、日本選手権の出場は断念せざるは得ません。
 今は少し休養を取り、治療に専念し、1日でも早く、また、さらに強くなった池江璃花子の姿をみせられるよう頑張って行きたいと思います。
 これからも暖かく見守っていただけると嬉しいです。  池江璃花子」・・(原文のまま)
  池江璃花子は1月18日から2月10日までの予定で、オーストラリアのゴ―ルドコーストで合宿を行っていた。
 指導する三木二郎コーチは2週目の合宿後半、肩で呼吸をしている池江選手に気付いたという。
 そういうしんどそうな池江の様子を三木コーチはあまり見たことがなかった。
 振り返ってみると、昨年の11月W杯東京大会後に「疲労が抜けない」と話す池江がいた。
 今年1月3日の‟初泳ぎ”でも、泳いだ後のインタビューに「体がだるくて、年々疲れが取れないと感じる」と答えていた。
 1月13日の今年初のレースでは、最も得意な100メートルバタフライで、自己ベストの56秒08より4秒以上もタイムが遅かったのだ。
 1分0秒41のタイムに、池江は「自分でもビックリするくらい遅かった」と呆然としていた。
 オーストラリア合宿では微熱もあったというから、彼女の体調に異変が生じていることが明らかになったのである。
 2月4日に日本人医師がいる現地の病院で血液検査をしたところ、‟すぐ帰国すること” を勧められた。
 今月8日に帰国すると都内の病院に直行、そのまま入院した。検査の結果はなんと「白血病」であった。
 記者会見したルネサンスの吉田正昭社長は「池江選手は病気を早期に発見出来たが、詳細はまだ判明していない。復帰の時期は現時点では未定です」と語っている。
 ‟血液のがん”ともいわれる白血病は、血液に含まれる白血球や、白血球を生み出す元の細胞が異常に増殖する病気で、20歳未満の人がかかる癌の中では最も多いといわれている。
 ‟進行の速さ”や‟癌になる細胞の種類”によって「急性骨髄性白血病」とか「急性リンパ性白血病」などに分類される。「慢性骨髄性」や「慢性リンパ性」もあるので、4タイプあることになる。
 症状は病状によって違うが、貧血や全身の倦怠感、無気力、寝汗などが挙げられるという。
 風邪の症状にも似ていたりするので、健康診断などで偶然‟見つかる”こともあるらしい
 ‟抗がん剤”や‟分子標的薬”、‟骨髄移植”など治療方法も様々だから、まずは詳しい病状を調べる必要があるのである。
「白血病の治療」はかなり進んでおり、現代では絶望的な病気ではなくなった。
 池江選手が、仮に‟骨髄性”だとすると、治療に1年ぐらいはかかるのが一般的で、東京五輪への出場は厳しくなると言わざるを得ない
 30年前、急性骨髄性白血病にかかり闘病経験をもつ俳優の渡辺謙さんは、池江璃花子の白血病公表を知って「今の医学を信じ、自分の生命力を信じ、前を向いて焦らずにしっかり治療に専心してください。祈っています」とツイートした。
 池江璃花子は13日、ツイッターを更新、「昨日からたくさんのメッセージをありがとうございました」と感謝の思いを綴っている。
 「ニュースで流れる自分の姿に少し不思議な気持ちになります。神様は乗り越えられない試練は与えない。
 自分に、‟乗り越えられない壁はない”と思っています。私にとって競泳人生は大切なものです。
 ですが、今は完治を目指して焦らず、周りの方々に支えていただきながら戦っていきたいと思います。
 励ましのメッセージの中に「骨髄バンクに登録した」とか「輸血、献血をした」などたくさんのメッセージを頂きました。必ず戻ってきます。改めて皆様のメッセージとご協力に心から感謝します。池江璃花子」・・・
 過酷な現実と向き合うことになった18歳に寄せられる各界からの激励は後を絶たない。
 医療ガバナンス研究所の上昌広理事長は、「池江選手のような一流のアスリートが定期的に血液検査を受けていなかったのではないか」と指摘し、早期発見と報道されていることに疑問を呈している。
 理事長によれば、一般的に‟貧血”は競技成績にダイレクトに影響するという。男女を問わず一般人より筋肉量が多いアスリートは‟貧血になり易い”という。特に,生理がある女性は尚更である。
 最近は定期的に血液検査を受けるアスリートが増えてきているが、まだそれほど多くないのが現状のようだ。
 もし、池江選手が早くからヘモグロビンの濃度をチェックしていたら、昨年末、或いは1月の時点で‟本当の意味での早期診断”が出来ていたかも知れない。
 白血病は‟進行の速い癌”であり、恐いのは‟出血”である。脳で出血が起これば命に関わる。
 検査の数日遅れが取り消しのつかない結果を招くこともあるからホントに恐いのだ。
 今は、採血しなくてもヘモグロビンの濃度を測定できるようになった。採血に比べれば精度は落ちるが「アストリム」という測定装置もある。
 選手やスタッフがその気になれば容易にヘモグロビン検査を実施することが出来る。
 数日診断を早めるだけでリスクを相当減らすことが出来るだろうと説いている。
 水泳競技に限らずあらゆるスポーツ分野のアスリートは、上昌広理事長の「定期的なヘモグロビン濃度測定をすべきだ」という考えを警鐘と捉え、転ばぬ先の杖にして欲しいと私は思った。
 桜田義孝五輪担当相が、池江璃花子の白血病公表について「金メダル候補ですから、日本が期待している選手ですから、本当にガッカリしています」などと‟非常識発言”をしたからタマラナイ。
 翌日の国会で野党から一斉に批判を浴びて、自らの発言を撤回して謝罪する羽目になった。
 しかし、責任の取り方は「辞任以外にない」と求められても「職責を全うできるよう努めてまいります」と辞任を拒否した。
 一方、予算委員会の場で‟五輪の根本原則を定めた五輪憲章”について聞かれると「話には聞いているが、自分で読んだことはない」と答えた。これでは、また問題化するかも知れない。
 国民は池江璃花子が完治することを願っている。
 白血病に詳しい北大病院血液内科の豊嶋崇徳教授は「約7~8割の患者は抗がん剤治療で白血病細胞が消える「完全寛解」の状態になる。その後も抗がん剤治療を2年程度続けることで約3~4割の患者が「根治可能」だと語っている。
 池江選手には期待も大きいだろうが、まずは治療に専念することが先決である。
 東京の次でもまだ24歳、それでいいではないか。焦らず完治に向けて頑張って欲しい。
 


nice!(1)  コメント(0) 

浜田山通信 №236 [雑木林の四季]

ああ 心愛ちゃん

             ジャーナリスト  野村勝美

 父親に虐待されたあげく殺された野田市の小学4年生、心愛(みあ)ちゃんのことを思うと頭がおかしくなる。TVや新聞に出てくる心愛ちゃんのなんとかわいいことか。こんな女の子を父親が手にかけるとは、私には想像を絶する。
 これまでにも母親がわが子を橋の上から川に突き落として殺したという事件があった。でも今回のケースは特別のように思う。いずれ父親と母親の精神的欠陥つまり精神病によるものと結論づけられるのだろう。精神病となるとメディアは深く追求しない。学校や警察や児童相談所の対応を批判し終わりにしたい。その気持ちもわからないではない。しかしそれでは第二、第三の心愛ちゃんが必ず出てくる。なにしろ児童虐待の疑いで警察が児童相談所に通告した件数は、昨年8万人を超えたそうだ。「心理的虐待」=言葉による脅し、無視などが57326人で全体の7割。暴行など「身体的虐待」は14821人、食事を与えないなど「育児放棄」7699人、性的虐待が258人。昨年は東京目黒区で船戸結愛(ゆあ)ちゃんが両親の虐待で死亡した。
 家庭というものはもうすっかり壊れてしまったのだろうか。野田の場合は一歳の妹がいる。この子はこの先誰が育てるのだろう。心愛ちゃん、結愛ちゃん、いずれも愛の字が入っている。心優しい、愛に満ちた人間になってほしいという親の願いが込められた名前のはずだ。
 もう一昨年のことだが、戸井田道三門下で早大露文科の後輩(といってもヒロシマ、ミナマタ、公衆衛生の権威)荘田智彦さんよりもらった日野原重明、堀文子さんの対話集をパラパラめくっていたら、日野原さんの発言の中に次のような言葉があった。「4年生になると“愛”という字をおぼえる。そして、“愛の真ん中には心があるんだよ”と教える。こうすると、子供たちも漢字の素晴らしさに気づきます」 たしかに愛という字の真ん中に心がある。心愛ちゃんや結愛ちゃんの親も”愛”らしさを求めて我が子の名前に愛を使ったのだろう。
 それがどうして虐待になってしまうのか。心理学の分野はこのところ大進化をとげている。TVのコメンテーターに心理学者が必ず登場する。この人たちも今回の事件についてはあまり冗舌ではない。学者がとうとうと持論を展開するケースではないのだ。
 日野原さん、堀さんはともに100歳を越えて、昨年、今年とこの世を去った。女性は瀬戸内寂聴さん以下まだ何人か現役バリバリがおられるが、男性は梅原猛さんも亡くなり、外山滋比古さんくらいか。悲しい話のあとに90歳のことを書くのは気が引けるが、日野原さんの「人生、90歳からが面白い」から二、三の箴言のようなものを。
 まだまだ僕にとって新しいことはたくさんある。
 豊かな人生に、友人は欠くことができまい。
 自分の可能性を信じて、いきいきと生きようではありませんか。

nice!(1)  コメント(0) 

BS-TBS番組情報 №180 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年2月のおすすめ番組(下)

                BS-TBS広報宣伝部

昭和歌謡ベストテン 泣ける!哀愁のご当地メロディー大放出SP

180昭和歌謡ベストテンSP.jpg

2019年2月16日(土)よる6:30~8:54

☆懐かしいあの日が甦る!昭和歌謡をベストテンでお届け!

司会:関根勤、長峰由紀アナウンサー(TBSアナウンサー)
ゲスト:堀内孝雄、川中美幸、山本譲二、丘みどり、三山ひろし
VTR出演:美川憲一、福田こうへい、千昌夫、森昌子、鶴岡雅義と東京ロマンチカ、ロス・インディオス、大津美子、狩人、岩崎宏美、五月みどり、宮路オサム、平尾昌晃、ロス・プリモス、こまどり姉妹、橋幸夫、ペギー葉山、ビリーバンバン、八代亜紀、大川栄策、水前寺清子、金井克子、三田明、ザ・ワイルドワンズ、宇崎竜童、黒沢年雄、牧村三枝子、松崎しげる、北山ミレイ、ジュディ・オング、瀬川瑛子、菅原洋一、田代美代子&和田弘とマヒナスターズ、佐々木新一、伊東ゆかり、ささきいさお、デュークエイセス、柏原芳恵、因幡晃、平和勝次とダークホース、尾藤イサオ、伊藤咲子、ジェリー藤尾、渡邊真知子、小椋桂

「昭和歌謡ベストテン」が2時間30分のスペシャルバージョンで大復活!
泣ける、哀愁のご当地メロディーのベストテンの発表と昭和を彩った名曲を蔵出し大放出!
50人の昭和のスターの映像と50曲を超える歌い継ぎたい名曲をお楽しみください!
♪北国の春 ♪越冬つばめ ♪小樽のひとよ ♪コモエスタ赤坂 ♪東京アンナ ♪あずさ2号 ♪聖母たちのララバイ ♪一週間に十日来い ♪なみだの操 ♪カナダからの手紙 ♪ラブユー東京 ♪浅草姉妹 ♪潮来笠 ♪南国土佐を後にして ♪白いブランコ ♪舟唄 ♪さざんかの宿 ♪三百六十五歩のマーチ ♪津軽恋女 ♪他人の関係 ♪美しい十代 ♪想い出の渚 ♪港のヨーコ ヨコハマ ヨコスカ ♪時には娼婦のように ♪みちづれ ♪愛のメモリー ♪石狩挽歌 ♪魅せられて ♪命くれない ♪知りたくないの ♪愛して愛して愛しちゃったのよ ♪あの娘たずねて ♪小指の思い出 ♪銀河鉄道999 ♪女ひとり ♪春なのに ♪わかってください
他にも、名曲を多数お届けします!

マー君の冬休み3

180マー君の冬やすみ3.jpg

2019年2月17日(日)夕方5:00~5:54

☆メジャーリーグで活躍を続ける田中将大投手の冬休みに完全密着!
激闘のウラに隠された真実に迫るとともに、普段は見ることができない本当の素顔をたっぷりお届け!

出演
田中将大(ニューヨーク・ヤンキース)
小島瑠璃子
松井裕樹(東北楽天ゴールデンイーグルス)
山下健二郎(三代目 J SOUL BROTHERS from EXILE TRIBE)

ニューヨーク・ヤンキースに移籍後、日本人初となる5年連続2ケタ勝利の大記録を達成!プレイオフでも全米を震撼させるピッチングを見せた田中将大投手。そんな「マー君」こと田中投手が疲れた体と心を癒し、来シーズンに備えて冬休みを楽しむ姿に完全密着する特別番組第3弾。激闘のシーズンのウラに隠された真実に迫るほか、普段は見ることができない本当の田中将大投手をじっくり、たっぷりお届けする。

<プレイバック2018>
メジャーデビュー5年連続2ケタ勝利の大記録を達成した2018年。その激闘の裏側を自ら語る。さらに2018年に実現した、大谷翔平選手との夢対決を本人解説。奪った2つの三振、その真実が明らかに!?

<冬休みに密着!>
後輩・松井裕樹投手と山下健二郎とともに「DIY」にチャレンジ!愛息のために机と椅子を手作りすることに。さらに前回に続き、釣りをしに海に向かったマー君。小島瑠璃子と釣り対決!ターゲットは海の王者・真鯛。見事釣り上げ、食す事ができるのか?

LIVE ON!うた好きショータイム

180LIVEONうた好きショータイム_7.jpg

毎週(木)よる9:00~9:54

☆夜のひとときを上質で本格的な音楽で彩ります!

司会:由紀さおり、山口智充

由紀さおりとぐっさんこと山口智充のふたりが番組の司会!
毎回一組のアーティストをゲストにお迎えして、いまこそ聴きたいゲストアーティストの名曲と様々なテーマでゲストとの楽しいおしゃべりをライブ感あふれるテンポでお届けします!

■2月21日(木)
ゲスト:渡辺美里
「My Revolution」「恋したっていいじゃない」など名曲大熱唱!伝説の西武球場ライブの秘話も!さらにぐっさんと仲の良い美里さんから、ぐっさんのおすすめモノマネレパートリーも!トークライブももりだくさん!
♪My Revolution、♪恋したっていいじゃない、♪BELIEVE、♪10years、♪始まりの詩、あなたへ、♪冬の星座

■2月28日(木)
ゲスト:稲垣潤一
クリスマスキャロルの頃には・ドラマティックレインなど名曲熱唱とドラム演奏もあります!趣味の車の話ではぐっさんと意気投合で意外な一面も!お見逃しなく!
♪1ダースの言い訳、♪クリスマスキャロルの頃には、♪1969の片想い、♪夕焼けは、君のキャンパス、♪ドラマティック・レイン、♪夢であいましょう


nice!(1)  コメント(0) 

バルタンの呟き №51 [雑木林の四季]

右側の胸ポケット            

                    映画監督  飯島敏宏

 「なにがめでたい!」の佐藤愛子さんは、「これっきり!」と、断筆宣言をなさったようですが、僕としては、一方で、命の終わる時まで書き続けます! とおっしゃる瀬戸内寂聴さんにあやかろうと決めて、わずか86歳!にして、近頃しきりに自覚症状を覚え始めた加齢性脳萎縮症という、高齢になれば、誰しもが避けて通れない症状の進行と折り合いを付けながら、僕としても、恥ずかしながら、なにか、この世の中に、僅かでもいいから寄与できることが出来ないか・・・と、今年も、春節にちなんで、改めて、バルタンズ・アイ、あの大きな目で世の中を見つめて呟き続けていこう、と、干支の変わるこの春節に臨んで誓ったものです。
ですが、さて、と開いた新聞でまず目を射たのは、
「ああ、今年もまた一陽来禍・・・」
と、連日生中継されている、ばかばかしさに呆れる国会の予算委員会の報道と記事写真でした。
ご承知の通り、新元号を俟つ今年の干支はイノシシ、猪突猛進の歳です。来年に東京オリンピックパラリンピックを控えて、というより実は差し迫った選挙をひかえて、安倍ニッポンは、「成長々々」の実績連呼です。なにやらその成長の実績が、役人の忖度数字で粉飾されていた気配でもありますが・・・攻める野党も、一向に足並みがそろわず・・・頼みのマスコミ、新聞にしても、一面トップが政治ではなく社会ネタの「嵐」一時閉店記事で、バルタンの眼も、何処を向いていいのやら、ただ徒らにきょろきょろ見回してもと、諦めかけた途端・・・ありました、ありました。

見るだに嘆かわしい、あの食材の大量棄捨のシンボル「恵方巻き」です。ふんだんな具材を巻き込んだ、立派な太巻きが、燃えるゴミのなかに、半齧り、あるいはひと口齧っただけの、いや、恐らくは売れ残りなのか、丸のまま包装もというものを含めて、どさっと・・・無惨としか言いようがありません。
昨年来、いや、一昨年来、新聞その他で取り上げられながら、結局、このありさまは、何でしょうか。
「恵方に向けて一本まる齧り・・・」
こんなもの鵜呑みしたって、福が来るはずがないじゃありませんか。
関西のどこの神社から始まったのかよく知りませんし、知りたいとも思いませんが、先日ある会合で出会った関西の某名刹宮司氏に、恵方巻きのそもそもの来歴を伺ったところ、
「ありゃ、どこぞの海苔やが、考えはったんとちゃうやろか」
の一言でした。
神社ばかりでなく、それに乗って、コンビニその他、食品関係業者が始めたのでブームになったもののようで、この春節には、某デパートの食堂街フロアに出店する全店が、食種によっては、これが太巻きなのか不可解!なものまで、全店「恵方巻き」イベントが組まれる有様でした。
関東もんの僕が呟くのもなんですが、一切れ一切れ、良く斬れる包丁で丁寧に切っていただくほうが、得も言われない口福が訪れるのとちゃいまっか・・・
成長々々の掛け声で生まれた過剰消費の社会現象は、「恵方巻き」ばかりではありません。
恵方巻きと同様に、凄まじい過剰供給の一例に、服飾を取り上げても、その弊害が顕著にみられます。既製ブランドのスーツ類では、過剰供給どころか、店頭に並ぶことさえなく捨てられるものが夥しい量に達した、という新聞報道がありました。

ところで、ちかごろ、家人ばかりでなく、各週刊誌の見出しからも執拗に迫られている、終末期!を身近に控えて、せめてものせめて身近からの断捨離ということで、永年の間見ることもなく溜まるにたまった写真類を整理している際に、僕が生まれた昭和初期の物と思われる、セピア色に褪色したある集合写真を見て、おや、と、気がついたのですが、名士を含む、見るからに上級の紳士と見受けられる人々の列の中に、三つ揃いのスーツで、縞柄の上質な生地仕立てながら、上衣の胸ポケットが、右側にある洋服を着ている方が一人おられたのです。
「あっ」
と、思い当たったのは、僕が、注文洋服屋の倅だったからかもしれません。
昔は、ある程度着古した服の縫製を丁寧にほどいて、生地をクリーニングして、補正しながら再び縫い直して殆んど新調のようにようにする「裏返し」という作業が、結構頻繁にあったことです。一部上場会社の高給取り社員でも、昔はサラリーマンは洋服が看板で、生地に懲り、柄に拘り、仕立てに凝って月賦ばらいで上等な背広を仕立てたものです。裏返して胸ポケットの部分を、かけはぎして、左に新たなポケットを付ける技法もありました。

 予め渡された予定通りの質問に、側近の手で作成された原稿の読み上げではぐらかし、自分の声で真摯に答える事をしない閣議決定専横の議会中継に倦んで、議員諸先生の洋服を眺めると、圧倒的に上質な麻生副総理の服を筆頭に、高価な注文仕立ての洋服を着ている閣僚、議員諸氏も見かけますが、殆んどが、高級ブランドであっても、昔、吊るし、と総称された、似たり寄ったりの類似デザインの黒系既製服を着ておられます。間違っても、裏返しに仕立て直した服は見かけられません。でも、若い議員先生はともかく、古手の先生方には、自宅のクローゼットに、以前無理して作った注文服の、今のような化学繊維や無織生地ではない、重厚な生地を体躯に併せて裁断して、仮縫いまで施した洋服が眠っているのではないかなあ、などと考えて、保守系幹部議員、お一人おひとりのお顔を拝見しています。そうです、「ぼーっとしてるんじゃねえよ!」、と、国民に言われる前に、右側にポケットが来てもいいじゃないですか、初志を思い出して、自分の体に合わせた服を着て、自分の声で、自分の心に従って、自分を信じて、議員としての職務を果たしていただければなあ・・・この国の行く道が開けるのでは・・・と、呟きたいのです。挙国一致で自衛隊員募集に、自治体が積極的協力を、などと災害救助に結び付けて叫ばれると、昔を思い出してしまうのです。挙国一致に次に来たのは、国家総動員! 一億一心!でした。専守防衛で、戰爭をしない自衛隊だから、やりがいのある仕事として自衛隊に入ったのです。同盟の名の下に、他国の防波堤、前線基地にされる恐れのある、あるいは、救援ではなく、他国の戦争をお手伝いさせられる恐れのある自衛隊に応募しようとする若者が・・・いると思う方が不思議だと思うのですが・・・


nice!(1)  コメント(0) 

医史跡を巡る旅 №53 [雑木林の四季]

「西洋医学事始め・日本最初の腑分け」

             保健衛生監視員  小川 優

平成7年(1995年)に発行された「近代解剖教育記念切手」です。
明治26年(1893年)に日本解剖学会が創立され、近代解剖教育体制が整備されて100年を迎えたことを記念して発行されました。

「近代解剖教育記念切手」

53画像①.jpg
近代解剖教育記念切手

医学の勉強の基本は、人間の体の仕組みを知ることから始まります。
体の構造、そして健康な状態がどうなっているかを知らないと、どのような状態が異常なのか、つまり病気なのかの判断もつかず、さらにいかにすればそれが治せるか、ということがわかりません。医学を学ぶ者は必ず、解剖学に触れざるを得ないのは、こうした理由からです。

西洋医学が導入されるまで、つまり東洋医学の時代には、観念的な陰陽五行説に基づく中国医学や、実証・経験主義的な考えで、実際に人間に試して体に良いもの、悪いものを区別し、治療法を探していく古方派などがありました。どちらも体の内部の構造や、各部の働きについて重視することがなかったために解剖知識は必要なく、さらには死生観や、仏教的考えから遺体に畏怖の念があり、江戸時代の後期まで医学教育としての解剖は行われてきませんでした。
日本における解剖は、西洋から近代医学が伝えられるようになり、もたらされた貴重な医学書の内容を確認することから始まったといえます。しかしながら、「腑分け」に対するアレルギーは強く、多くの人に受け入れられるまでに、極めて難路であったことは容易に想像されます。

記録に残り、社会的な意味でのエポックメーキングとなった日本最初の解剖は、宝暦4年(1754年)に山脇東洋によって行われました。

「日本近代医学発祥地」

53画像②.JPG
日本近代医学発祥地~京都市中京区六角通

実践主義の古方(古医方)の医師であった山脇東洋は、自らの診療を通じ、古来伝えられている五臓六腑説に疑問を抱いていました。人の内臓によく似ていると言われていたカワウソを解剖したり、ドイツ生まれの解剖学者ヘスリンギウス(ヴェスリングとも)が記し、オランダ語でも刊行されていた解剖書を入手して知識を深めていましたが、真偽を確かめることができず、疑問は増えるばかりでした。
そんな時東洋は、六角獄舎に繋がれた重罪人5人が処刑されることを知ります。京都所司代に若狭藩医であった小杉玄適らと連名で、刑死人の遺体の下げ渡しと、解剖許可を誓願し、これが認められることとなります。

「山脇東洋観臓地」

53画像③.JPG
山脇東洋観臓地~京都市中京区六角通

時に宝暦四年(1754年)閏二月七日、西土手刑場で5人の刑は執行され、首は晒されます。うち一人の体は六角獄舎に戻され、筵の上で屠者により開腹されました。その罪人の名は屈嘉(くつよし)であったと伝えられます。
解剖が行われた六角獄舎跡には、「日本近代医学発祥地」と「山脇東洋観臓地」の碑が建てられています。

「山脇社中解剖供養碑」

53画像④.JPG
山脇社中解剖供養碑~京都市中京区新京極 誓願寺墓地

東洋は、罪人といえどその身を以て新たな知見ををもたらしてくれた屈嘉に感謝し、その魂を慰めるために六角獄舎から少し離れたところにある誓願寺で、法要を営みます。

「山脇東洋解剖碑所在墓地碑」

53画像⑤.JPG
山脇東洋解剖碑所在墓地碑~京都市中京区新京極 誓願寺墓地

賑やかな新京極の路地裏に誓願寺はあり、屈嘉と、その後東洋一門によって解剖された刑死人14人を供養するために建立された碑が今でも残っています。ただし、碑自体は風雨による痛みがひどいため、平成6年に建て直されたものです。供養碑に刻まれた戒名のうち、「利剣夢覚信士」が屈嘉です。

誓願寺墓地には、山脇東洋夫妻の墓もあります。

「山脇東洋夫妻の墓」

53画像⑥.JPG
山脇東洋夫妻の墓~京都市中京区新京極 誓願寺墓地

ただし、ここには東洋夫妻は葬られていません。
解剖5年後、東洋はその結果を「蔵志」にまとめます。内容的にはごく簡単なものですが、初めて日本人が記したものとしては、正確で画期的なものでした。刊行まで5年を要していますが、やはり解剖という行為に対しての、周囲からの批判を考えてのことでした。

「山脇東洋墓」

53画像⑦.jpg
山脇東洋墓~京都市伏見区深草 真宗院墓地

山脇東洋、本名は尚徳。ほかに移山、玄飛、道作を名乗る。宝永2年(1705年)、禁裏の侍医を務める山脇家門下の清水立安を父とし、山脇玄脩のもとで学び、その後養子となります。古医方の後藤艮山にも師事することで実証主義に触れたことが、解剖の必要性を感じ、実行する原動力になったと考えられます。ちなみに解剖に立ち会った時、東洋は49歳でありました。
東洋は宝暦12年、往診先でふるまわれた食事にあたり、58歳でその生涯を閉じます。亡骸は山脇家の菩提寺である、伏見区深草の真宗院に葬られました。


nice!(1)  コメント(0) 

いつか空が晴れる №53 [雑木林の四季]

            いつか空が晴れる
            -冬の夜『魔王』―
                     澁澤京子

 友達の家で炬燵にあたって話をしているうちに夜も更けてきて、往来から、かち、かち。火の用心。の声が聞こえてきた。2,3人で歩いているらしい。火の用心の見廻りする人たちの暖を取る場所が番小屋と呼ばれるのを、私は岡本綺堂の小説で知った。

子供の頃、祖父の家に泊まりに行くと、寝る前はよく祖父に頼まれて、岡本綺堂の「半七捕物帳」かシャーロックホームズを枕元で朗読した。祖父は「半七捕物帳」と「シャーロックホームズ」が好きだったのだ。
祖父の寝室は書斎を寝室に改造したもので、本棚の下にはマントルピースがあり、そこには普通のストーブが置かれていた。本棚のほかにも、出窓になっている窓辺には祖父の本がたくさん積まれていた。四角いガラスケースに入った、金色の美しい時計が夜になって静かになると、コチコチと規則正しい音を立てていた。祖父が昔アメリカから買ってきた時計だった。シャーロックホームズも半七捕物帳も、子供の私にはそれほど面白いとは思われなかった。むしろその頃よく読んでいた怪盗ルパンとか江戸川乱歩の少年探偵団の方がずっと面白いと思っていたけれど、大人になってから読み返してみると、半七捕物帳には江戸~幕末のころの東京の様子が、シャーロックホームズは19世紀末のロンドンの雰囲気がよく伝わってきて、ある時代、ある都市の雰囲気を楽しめる小説でもあるのだ。

声をからして朗読しているうちにスースーッと祖父の寝息が聞こえてきて、祖父が寝てしまうと私は本を閉じて、祖父の隣に敷かれたお布団にもぐりこんで一緒に眠った。
カーテンを閉めた出窓のガラスは、風が吹くと時折カタカタと音を立てていた。昔の家は今よりもガラスが薄かったので、特に冬の夜などは風の唸り声とガラス戸の鳴る音は布団にもぐった真っ暗な中でも聞こえてきた。

シューベルトの『魔王』の話を祖父から聞いたのも、やはり冬の夜、布団を並べて一緒に寝ているときだった。
一人の騎士が病気の息子を抱いて、夜の闇の中、馬を急いで走らせている、
「父さん、魔王が見えないの?」
熱を出した息子は幻覚を見る
息子よ、あれは木の影だ。
「父さん、あの声が聞こえないの?」
息子よ、あれは風の音だ。
父親にしっかり抱きしめられて、うわごとを繰り返していた息子は、結局父親の腕の中で亡骸となっていた、という話である。
祖父からこの話を聞いた後、私は真っ暗な中で聴こえてくる風の音が怖くて怖くて眠れなかったことがあった。
隣からは祖父の安らかで規則正しい寝息が聞こえてきて、私だけいつまでも眠れなくて布団にもぐっていた。

私は寝つきの悪い子供だったので、しんとした夜中、世界中で目が覚めているのは私一人だけという感じをよくもった。子供のとき、死についてすごく恐怖感を持ったのも、寝つきが悪かったせいだ。明日はどうなるかわからない、いつ心臓が止まるか誰もわからない、生きているということは、ちょっと先は闇の、まるで綱渡りをしているようなものなのに、家族や他の人たちはよく平気で喋ったり笑ったりしていると考えていた。

父には、20歳の若さで病気で亡くなった兄がいた。ハンサムで優しくて、誰からも愛されるような青年だったらしい。祖父にとってこのゲーテの魔王の話は、若くして息子を亡くしてしまった父親の、口に出せないような悲しみと辛い思いがいろいろとあったのに違いない、と今になって思う。


nice!(0)  コメント(0) 

梟翁夜話(きょうおうやわ) №33 [雑木林の四季]

「グリーンズのある生活」

                 翻訳家  島村泰治

年末までふた月、頃合いを見計らい雑煮用に小松菜を蒔いた。ついでに、好みの漬け物に仕立てて欲しいと野沢菜を三畝、鳥たちの餌にとのらぼう菜を三畝、ままよと青梗(ちんげん)菜を四畝、いつも虫にやられて散々な目に遭う小松菜の保険にと正月菜という珍な葉ものを蒔いた。それとは別に、冬の定番ほうれん草と菜飯に欠かせぬ高菜はすでに蒔いてある。占めて六種の葉もの、グリーンズがわが菜園に蒔かれた。(米語では畑ものをproduce、葉ものをgreensという。)

群馬の藤岡で中学同窓の平井が百姓をしている。百姓とはいえ彼は著書まで残す乳牛の権威だ。昨年末、久し振りに訪ねた時、話しの流れで小松菜が虫にやられて葉っぱものは手に負えぬとこぼしたところ、ならばと彼がある知恵を授けてくれた。発芽から10日が勝負だと、その数日間に軽く土壌処理をすればいい、とその段取りを伝受してくれたのである。

そう、平井の話を余談にしようか。名は洋次、これをようつぐと読む。本人の述懐を交えて語れば、彼は中学時代、とても目立つ存在ではなかった。遠慮なく言わせてもらえば、下から数えて何人ほどで、わが庵を立ててくれた大工の加藤武司とおっつかっつの生徒だった。もう一つ言わせてもられば、2人いた平井のうち1人は調布で、こちらは英語部にいたから覚えていたが、もう1人、つまり洋次の印象がとんとないのである。ある年の同窓会で洋次に藤岡へ来てくれと招かれた。そんなだから正直気乗りはしなかったが、強いてという勢いに負けてよかろうということになったのである。思えば、あれが縁というものだろう。

某名画の鑑賞で高崎を訪れたことがあるが、藤岡は上信越の曲がり角以上の知識がなく、群馬は近いながらほぼ未知の地だった。このとき私は我が同窓、平井洋次の豊かな一面を知ったのだ。聞けば幼少から牛には縁が深かったとか、それをきっかけにひたすら乳牛の飼育にその後の年月を過ごし、日大では獣医学を専攻、研究成果を著作にまとめて出版した。これが今なお斯道のガイドブックになっているという。

平井の辿った道をなぞれば、中学の「学業」などは何の指針にもならないことの格好な例だ、と私は改めて人間力の涵養に半端な甲乙丙は邪魔にこそなれこれぞという意味はない、という実感を深くしているのだ。

その平井から貰った知恵を早速試さんがために、わが家の菜園はこのたび葉もののオンパレードになった。野沢菜の如きは例年四つ葉で食い荒らされて、軒並み葉っぱが網状になる惨状だったものが、なんと、今年は四つ葉、五つ葉やがて芯が立ち上がるまでに成長してもすくすくと育ったのである。いつもなら二葉でやられていた小松菜もしごく元気だし、青梗菜も負けじと伸び、間引きが楽しみなほどにほこってくれた。

グリーンズが溢れる菜園は何にも代えがたい財産だ。スーパー経由の葉ものの貧弱さ、味気なさを思えば、畑から抜いたばかりの葉ものを間髪入れず口にできる贅沢は、到底金では買えない醍醐味だ。怪しからん話だが、これまで虫たちがその贅沢をほしいままにしていたわけで、思えばえらい損をしていたことになる。

私は漬物に目がない。酸味を好むことから、むしろやや発酵が過ぎた奴を選んで食べる。幸い愚妻が漬物作りが得手だ。東京農大の小泉教授の影響か発酵ものに凝っており、見事に成長した野沢菜が今年は格好な野沢菜漬けに変身した。小皿に出てくる二箸ほどのわが家の野沢菜は、日々朝飯の愉しみを心地よく増幅してくれる。

2月に入って、菜園の小松菜は雑煮を賑わして去り、野沢菜は取り尽くされて樽に入った。青梗菜の畝は数株を残して土が顕れている。そう、のらぼう菜は鶏たちの好物、これは春が深まれば寸を伸ばし鶏舎の食事を賑わす筈だ。かくてわが菜園ではかつてない葉もののオンパレードが見られた。平井の知恵のおかげである。

葉ものの間隙を縫って、友人たちに評判の玉ねぎが何百株も素直に育っている。こちらはモグラとの戦いが残っている。どうだ、モグラはなんとかならぬか、と牛の平井に聞いてみようかと思っている。


nice!(1)  コメント(0) 

検証 公団居住60年 №26 [雑木林の四季]

 6.大阪府「光明池」団地をめぐる黒い霧

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 日本住宅公団の土地買収に関連しての疑惑は数多い。インターネットで「日本住宅公団」にならべ「田中金脈」「土地疑惑」等を入力すると、関連する国会議事録が容易に検索できる。その議事録から、ごく一部ではあるが、公団の土地取得の典型的な問題事例、不良資産買収の経過と実態をみてみよう。公団の体質なり、もうひとつの役割をうかがわせる。

 1974年11月12日、田中角栄改造内閣の組閣初日に衆院法務委員会では田中金脈問題がとりあげられた。質問に答えて法務省刑事局長安原美穂は、光明池の土地売買に関連して発生した田中彰治事件の検察庁の冒頭陳述にふれ、事件のあらましを説明している(発言を一部省略・書き換えをした。以下同じ)。

 検察当局は、日本電建が昭和38年4月ごろ、大阪府光明池所在の土地約36万坪を日本住宅公団に売ることにしたが、日本電建は当時大蔵大臣の職にあった田中角栄氏が全株式を所有していた関係上、同社から直接公団に売却することは世間の誤解を招くおそれがあるので、まず日本電建から東洋綿花に、さらに興亜建設に転売し、最終的には同年5月下旬、興亜建設が約14億円で同公団に売却したというような事実を調べている。

 この光明池団地をめぐる田中金脈問題は、つづいて11月26日、参院決算委員会でも佐々木静子委員によっても追及された。

[佐々木静子委員]和泉市の山林、原野、農地など30数万坪が農家から所有権が転々譲渡されて住宅公団が買収するにいたった。疑惑は3点ある。譲渡の形が非常に作為的、不自然であり、経過がはなはだ不明朗である。法人による大量の農地取得に合点がいかない。この土地買収をめぐる、当事者のすべてが刑事事件にからんでいる、そういう物件を日本住宅公団が買った。黒い霧どころか黒そのものの事件である。田中角栄が大蔵大臣の権限を利用して住宅公団に不当に不利な条件で買わせたことに大きな怒りをもっている。
 地目が農地の場合、所有権移転には知事の許可が必要であるが、いつのまにか、昭和36年ころに登記官の手によって売買可能な原野に地目変申され、田中のダミー会社の所有となった。田中金脈は法務局にまで魔の手がのび、登記官の動きに黒い疑惑をもたざるをえない。5坪の土地、10坪の農地でも売買するのに農業委員会の許可をもらうなど非常に苦労したこの時期に、田40筆3,593坪、畑12筆3,224坪の土地が一夜にして原野あるいは山林に地目が変わった。これが農地であれば、大蔵大臣に頼まれても、地目変更はできないはずではないか。
[法務省民事局長川島一郎]非常に古いことで、しかと確かめえない。
[佐々木]非常におかしく思うのは、日本電建から東洋綿花、興亜建設へ転々とし、昭和38年5月15日にまた東洋綿花に所有権が移り、同日にさらに興亜建設に移る。そしてわずか2日後の17日に住宅公団に移る。住宅公団にこの土地を売ったのは果たしてだれなのか。
[公団理事播磨雅雄]公団は興亜建設が相手ということで内部手続きを進めてきたが、いざ契約となったら東洋綿花になっていたので、興亜の名義に戻してもらって契約をしたと内部ではいわれている。
[佐々木]この買収にからんで公団大阪支社の用地課長が収賄罪で昭和44年7月12日に有罪判決をうけ確定しているが、理由は何か。
[安原]東洋綿花の委任をうけた不動産ブローカーの2人が、日本電建所有の光明池地区の用地34万坪について住宅公団に買収をもちかけ、用地課長は昭和37年10月から38年2月にかけて計20万円の収賄をした。
[佐々木]公団が買うには不適地だと意見書を出していた用地課長が、1年後の5月13日に適当な土地であると説明し、その間に贈収賄の事実があった。起訴状には東洋綿花ほか1社と記されている。ところがこのとき所有者はまだ東洋綿花ではなく、日本電建であった。なぜ日本電建だけがこのようにかばわれたのか。課長を20万円で犯罪者に仕立てて、そのうしろに20億、30億円ともうけた人間がいる。
 さらに伺いたい。いまは泉北ニュータウン計画が進められている。これは大阪府の企業局が泉北ニュータウンをこの土地に隣接して買う計画があったればこそこの土地が利用できた。計画がなければ、まったくの山の中でどうしようもない、住むことのできない土地である。泉北ニュータウンの計画を公団が知ったのはいつか、それを知って公団は買ったのか。
[播磨]昭和37年5月ごろ、マスタープラン的なものが出されたので公団も検討した。
[佐々木]日本電建がこの土地を取得したのは昭和36年。大阪府企業局の決定待ちの状態で日本電建あるいはファミリー会社のあいだで転々と譲渡をし、その間に地価がつり上がった。大阪府企業局はこの土地をいくらで買収したのか。
[建設省宅地開発課長沢本守幸]昭和39年度から41年度までに公募面積で340万坪(山林原野50%強、田畑46%)の84%、当時坪約4,000円を基準に買収、48年度末までに完了した。単価は坪5,000円強となっている。
[佐々木]38年の買収のことを聞いている。坪2,100円、2,400円、2,700円の3種類となっているのではないか。会計検査院の調査にも同じ数字がでている。時価2,000円ほどのところを倍の価格で買った。日本電建はこの土地を坪400円、安いところは240円で買っている。それが1、2年たたないあいだに17倍の価格、坪4,100円で売買価格がきまった。住宅公団はどのように考えているのか。これでも安いつもりだったのか。
[播磨]最初の買主がいくらで買ったかは承知していない。公団は4、300円と結論を出した。
[佐々木]住宅公団が契約した興亜建設の社長は大橋富重で、詐欺横領事件の被疑者であり、長期の懲役刑の判決をうけた人と聞いている。昭和40年11月20日の新聞には「団地(光明池)汚職進展か、黒いウワサの大橋逮捕」と出ている。住宅公団はなぜそういう人と契約したのか。
[播磨]そのへんはどうも調べていない。
[警察庁刑事局長田村宣明](昭和40年の取り調べにかんしては)当時の記録等がない。
[安原]法務省の保管記録ではないので差し出せない。
[佐々木](法務大臣にたいし)国民があきれはてるような、この汚い政治にたいして、どうしていままで司直の手が伸びなかったのか、非常に遺憾に思う。

『検証 公団居住60年』 東信堂

nice!(1)  コメント(0) 

私の中の一期一会 №183 [雑木林の四季]

        大坂なおみ・全豪女子シングルス決勝で世界最強のクビトバを破る!
      ~「ペトラ、私はグランドスラム決勝で対戦出来て光栄に思っています」~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 2019年1月26日、日本のテニス史に新たな1ページが刻まれた。
 この日、メルボルン・パークで行われた全豪オープンの女子シングルス決勝で、日本の大坂なおみ(21)がチェコのペトラ・クビトバ(28)を7-6、5ー7、6-4で破り、グランドスラム連覇を達成したのである。
 昨年の全米オープンに続く4大大会2連覇は、世界ランク1位の座を確定させる快挙であった。
 グランドスラム連覇や世界ランク1位なんて、今までの日本テニス界では想像も出来なかったことだろう。   大阪なおみは男女を通じて初めての最高の栄誉を日本にもたらしてくれたことになる。
 大坂なおみ対ペトラ・クビトバの女子シングルス決勝は、26日夕方5時半からNHK総合で生中継された。
 折りから、大相撲初場所は14日目で、これから貴景勝や玉鷲が土俵に上がってくる時間帯だったが、私は躊躇うことなくチャンネルをテニスに切り替えた。
 ペトラ・クビトバは182センチの長身で左利き、逃げていくスライス・サーブに定評のある強敵であった。2011年と14年のウインブルドン・チャンピオンでもある。
 初顔合わせのクビトバを大阪なおみが攻略するには、「第1セットをどう戦うか」にかかっていると私は思っていた。
 聞くところによると、逃げていくスライス・サーブを“逃げる前に叩く”ため、なおみがサーブを受けるときの立ち位置を、コートの中に変えて試合に臨んだのだという。
 前に出る立ち位置は普段あまり使わない大胆な策だったが、前に出られるとサーブのコントロールが難しいため相手もサーブに神経を使うことになる。ミスする確率も高くなるのだ。
 試合は、互いにサーブでポイントを挙げ一進一退の第1セットになった。
 だが、強豪クビトバに“歯が立たないな”という感じは全くなかった。
 印象的だったのは、優勝がかかる大舞台なのに大阪なおみは終始落ち着いてプレーしていたことである。
 強打するのか、つないでラリーに持ち込むのかを冷静に見極めていたことが試合後に分かった。
 緩急を織り交ぜ相手のミスを誘う余裕もあった。思い通りいかなくても受け入れる“心のコントロール”が出来るようになっていたのだ。勝負を急がなかったのは心に余裕があったからであろう。
 初めはかすりもしなかったクビトバのサーブに、徐々に対応できたことがブレークにもつながったと思う。
 タイブレークの末に7-6で第1セットを取り、大阪なおみは小さくこぶしを握った。
 クビトバは準決勝までの6試合で一度もセットを落さず、全てストレート勝ちできていた。
 そのクビトバが初めてセットを落としたのである。
 第2セットも“なおみペース”だったが、5-3とゲームをリードしてマッチ・ポイントを3度も握りながら、4ゲーム続けてポイントを取られ、このセットを5-7で失ったのだから、勝負は下駄を履くまで分からないというのはホントである。
 押し気味だった大阪なおみは、苛立ちの声をあげしゃがみ込んだ。
 この時、テレビの前で「ヤバイな」と思た人が多かったに違いない。クビトバの最後まであきらめない粘り強さには感心するしかなかった。
 トイレブレークを取った大阪なおみが凡そ1分40秒後に戻ってきた時、「なおみは全く別人の目をしていた」とクビトバは試合後に語っている。
 最終セット、1-1で迎えた第3ゲームで試合の流れが変わった。粘り強くクビトバのサーブを返しジュースに持ち込んだのが大きかった。
「大坂のリターンのプレッシャーに気圧されたかのように、クビトバがダブルフォールト・・」と新聞記事にも書かれているが、クビトバにミスが出たのだ。
 大坂は、この第3ゲームをバックハンドのクロスで決めてブレークに成功したのである。
 190キロを超える高速サーブがエースとなって最終セットを6-4で制した大阪なおみは歓喜の瞬間、ラケットをコートにつき、しゃがみ込んでいた・・
 優勝トロフィーを手に大阪なおみは気負いのないスピーチをした。
「ハロー、パブリック・スピーキングは得意じゃないんです。何とか乗り切れるといいんですが・・
(クビトバに向かって)ずっとあなたと対戦したいと思っていました。大変なことを乗り越えてきましたね。あなたと最初の試合がこの決勝戦でしたが、とても素晴らしいプレーでした。あなたと対戦出来たことを光栄に思っています。ファンの皆さん、暑い中の応援に感謝します。
 スピーチのメモを読んだけど、何を言うのか忘れてしまいました。みなさんホントにありがとう。優勝戦でプレー出来て光栄です」・・観客は笑いながらスピーチを聞いていた。
 クビトバは2016年12月、自宅に押し入ってきた強盗に襲われ、利き手の左手に重傷を負っていたのだ。選手生命が危ぶまれる中、神経を修復する手術を受けてリハビリは半年に及んだ。
コートに戻ってきたのは17年の全仏だった。クビトバがグランドスラムの決勝戦を戦ったのは、14年のウインブルドン以来であった。
 ペトラ・クビトバは涙ぐみながら感動的なスピーチをした。
「素晴らしい決勝戦でした。このような素晴らしいトーナメントでプレー出来て光栄に思います。みなさんに感謝します。何より私のチームにとても感謝しています。ラケットを握ることが出来るかどうかも分からなかった私を見捨てずに支えてくれて、ホントにありがとう。毎日私を支えてくれて、ポジティブでいてくれたことが私には必要でした。簡単なことではなかったはずです。ファンの皆さん、ありがとうございました。なおみ、おめでとう」
 このスピーチを聞いていたコーチの目からは涙が溢れそうだったとという。
 クビトバの左手はいまだに100%ではない。完治することはないだろうと言われているとか。
 手術した時は、またこんなふうにプレーできると想像も出来なかった。「だからとてもうれしい」と彼女は言うのだ。
 全豪決勝では勝てなかったが、“クビトバにとっての最大の戦いには勝った”のである。
 NHKが生中継した全豪女子シングルスの決勝は、平均視聴率が24%だったことが分かった。
 日本中で約2000万人がテレビ観戦していたことになるという。
 瞬間最大視聴率は大阪なおみに優勝トロフィーが授与された時で、スピーチの頃は38.5%まで上昇していた。
 38.5%は2550万人に相当する数字だが、WOWOWでも放送されていたので、その数は更に増えると考えられる。
 2000万を大幅に超える日本の視聴者がヒロイン大坂なおみに魅了されたことを示しているといえよう。
 世界の女子テニス界に「なおみ時代」到来の声が出始めている。
 

nice!(1)  コメント(0) 

浜田山通信 №235 [雑木林の四季]

『キム・ジヨン』100万部

             ジャーナリスト  野村勝美

 韓国で100万部が売れたというベストセラー小説『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んだ。びっくり仰天した。日本は負けたと思った。
 物語の主人公のキム・ジヨン氏は2015年秋に33歳。三年前に結婚、昨年女の子を出産。三歳年上のチョン・デヒョン氏はIT関連の中小企業に勤めている。キム・ジヨン氏も小さな広告代理店で働いていたが出産で退職した。妻も夫にも“氏”がついている。もっとも男には、夫以外、父親、祖父、二女一男の男の子にも名前はでてこない。男性差別どころか完全無視。無視されてもしかたがないと、男として生まれ生きてきた私でさえ思い知らされる、かってのというか、いまも、男尊女卑の世界である。
 キム・ジヨンの生まれた1987年、前年には全斗煥政権で金大中に死刑判決がでたりする暗黒時代だったが、一定の落ち着きも出てきていた。(ジヨンが漢字表記でどうなのか知らないが、せめて氏名、地名だけでも漢字を認めてくれれば、日本人も中国人もどれほど韓国、朝鮮に親しみを持つことだろう。)ジヨンはこの年生まれた女の子の名前で一番多かったものらしい。
 女性差別については私なども一定の理解と持っているつもりだったが、ここに書かれていることはそれをはるかに越えている。母親のオ・ミスクは二人の女の子を産んだ時には義母に「申し訳ありません」と誤り、三人目は中絶してしまう。夫に次ぎも女の子だったらと相談したら、「縁起でもないことを言わないで、さっさと寝ろ」といわれたのが原因だった。
 とにかく誕生から学生時代、受験、就職、結婚、育児、どれほどの苦しさ、辛さ、悲哀が女の生きることにつきまとってくるか。フェミニズムには若干の理解を持っているつもりの私にもグサリグサリと突き刺さってくる。翻訳の斎藤真理子氏、解説の伊東順子氏の文章が、作者チョ・ナムジュ氏の真意を的確にとらえており、日本でもベストセラーになることを望んでいる。
 その日本だが、ついこの間まで財務省の次官、元TBS記者のセクハラ問題やハリウッドの大物プロデュューサーらの「♯Me Too」運動がメデイアにとりあげられたが、いまやどこかへ消え失せた。どころか前橋市の役人が交際相手を刺殺したり、週刊誌「SPA」が女子大生の名誉と尊厳を傷つける記事を掲載したり、あげくのはては「人権派」で世界的フォトジャーナリストの広河隆一氏が「デイズジャパン」の女性スタッフへセクハラに及ぶ。テレビタレントの松本人志氏は、アイドルグループNGT48メンバーの暴行被害者告白問題で「それやったらお得意のからだを使ってなんとかするとかさ」とからかい、翌週は「きょうから無口なコメンテーターで、ギャラ泥棒になっていこうと思う」と。
 日韓関係は一触即発、とことん話し合いをしましょう。

nice!(1)  コメント(0) 

BS-TBS番組情報 №179 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年2月のおすすめ番組

                 BS-TBS広報宣伝部

毛利衛&中川翔子 地球最後の秘境へ! ニッポンの深海大冒険

179毛利衛中川翔子地球最後の秘境へニッポンの深海大冒険.jpg

2019年2月8日(金)よる9:00~10:54

☆深海生物など潜航当時の貴重な映像を交え、深海から地球の未来を考える。

出演:毛利衛、中川翔子

「宇宙、深海。こうした極限での科学技術の挑戦こそが21世紀の地球環境を救うカギになる」毛利衛。
1992年、スペースシャトル「エンデバー号」に日本人初の宇宙飛行士として搭乗。「宇宙は地球環境を客観的に見せてくれる場所。一方、深海はその地球環境を担っている場所であり謎の多い場所」 と語る毛利にとって「深海」は次に目指すべき場所でもあった。
そして2003年、有人潜水調査船「しんかい6500」に搭乗。そこでは宇宙で生まれたメダカの卵が猛烈な水圧化でどのように孵化をするのかなど60項目に及ぶ実験を行い多くの発見をした。二つの極限世界を体験した毛利が見た「神秘の世界=深海」とは?深海生物など潜航当時の貴重な映像を交え、深海から地球の未来を考える。
◆毛利&しょこたんと行く 地球最後の秘境・深海大冒険!
日本が世界に誇る有人潜水調査船、しんかい6500。毛利さんとしょこたんがJAMSTEC横須賀基地に赴き、しんかい6500の秘密を大公開!二人が潜航した時の映像を見ながら、搭乗経験者ならではのリアルな深海ワールドが展開する。
◆宇宙より謎だらけ! 深海とは何だ!?
地球上で最も深い場所は10,994メートル。その水圧を実験で再現してみると・・・!?真っ暗な世界で生きる真っ赤なエビ。その理由とは?さらに見たこともないような姿の生き物。いまだに未知の世界である深海の謎に迫る!
◆日本で最も深い駿河湾で底引き網漁!
しょこたんが西伊豆沖で、真冬の深海魚漁に同行。水深2500メートルに達する駿河湾では、オンデンザメや古代の魚ラブカなど貴重な生物が捕れることも。しょこたんが会いたいのはギガントキプリスという魚だとか・・・。はたして会えるのか?
◆深海が地球を救う!深海調査最前線!
深海の調査は生物だけではない。その目的は地球そのものを知ること。地震の研究では、かつてしょこたんが潜った三陸沖が震災後、海底に起こった大きな変化を目の当たりにする。さらに、深海に生息する“菌”で癌の治療薬を開発する研究にスポットを当てる。
◆深海生物展示数日本一!大人気水族館
愛知県蒲郡市にある「竹島水族館」。100種以上の深海生物が展示されている。大人気なのは深海生物に直接触れられるプール!驚くのは、飼育員が深海生物を試食していること!?しょこたんも信じられない生物を食べてみることに。

美空ひばりに捧ぐ 五木ひろしの名曲熱唱 想い出めぐり旅

179美空ひばりに捧ぐ五木ひろしの名曲熱唱.jpg

2019年2月9日(土)よる6:30~8:54

☆五木ひろしが日本を代表する歌手・美空ひばりの名曲を思い出とともに歌い尽くす!

出演:五木ひろし
ゲスト:キム・ヨンジャ、市川由紀乃、加藤和也(美空ひばりさん息子)
司会進行:堀井美香(TBSアナウンサー)

五木ひろしが一人の歌手にスポットライトをあて、その歌手の名曲を歌い尽くす名物シリーズ第4弾。過去には「三橋美智也」、「船村徹」、「戦後三羽烏」と、リスペクトする大先輩の名曲を歌ってきた五木が今回選んだのは、日本を代表する歌手、美空ひばり。小さい頃、ひばりさんの歌を聴いて歌手を夢見た五木が、名曲の数々を、ひばり歌謡に定評があるキム・ヨンジャと、市川由紀乃と共に歌いあげる。さらに今回はスタジオを飛び出し、思い出がつまったひばりさんのご自宅も訪問。
息子・加藤和也さんが語る、母・ひばりさんの素顔…そして、ひばり邸で見つかった五木とひばりさんの秘蔵VTRなど、貴重な映像と歌でおくる2時間半。

日本の旬を行く!路線バスの旅 2時間スペシャル

179日本の旬を行く路線バスの旅SP.jpg

「冬の北海道 激走200キロの旅!北の大地のヘソからオホーツクの流氷へ」

2019年2月15日(金)よる9:00~10:54

☆清水宏保と川村ゆきえが冬の北海道を路線バスで行く!目指すは流氷の大絶景!

出演:清水宏保、川村ゆきえ

冬の2時間スペシャル、舞台は白銀の世界が広がる「北海道」。
旅人は元スピードスケート選手の清水宏保と女優・タレントの川村ゆきえ。
北海道出身の二人が、冬こそ楽しめる魅惑の北海道を堪能!白い大地を200キロ!絶景と旬を求めて、路線バスで駆け巡る!
旅のスタートは北海道の“ヘソ”、富良野。目指すは紋別、厳寒のオホーツク海。雄大な雪景色や雪見露天風呂など冬ならではの楽しみがいっぱい!そして、1年のうちわずか2か月ほどしか見ることができないというオホーツク海の冬の風物詩「流氷」の絶景へ!真っ白に輝く美しい流氷を二人は見ることはできるのか!?
▽富良野…熱気球に乗って北海道の雪景色を上空から楽しむ!
▽層雲峡温泉…露天風呂で雪化粧した大雪山の山々の絶景を望む!
▽上川町…町営スケートリンクで清水宏保がレース参戦!?
▽紋別…流氷観光船「ガリンコ号」に乗船!
▽犬ぞり体験
▽冬の旭山動物園

nice!(1)  コメント(0) 

バルタンの呟き №50 [雑木林の四季]

つぶやいてはや50回

               映画監督  飯島敏宏

気がつけば、この呟きも、もう、50回にもなるのには、驚きました。

光陰矢のごとし、といいますが、86歳の僕にとっては、近頃の時間のたち方は、矢どころか、音速を遙かに超えて、光速に迫るのではないかと感じられてなりません。毎夜、床に就く少し前に、一日中肌身を離すことのない携帯(やっとガラ携卒業)を充電するのが習慣になっているのですが、近頃のリチウム電池発火事故多発警告に則って、充電台に置きっぱなしにせず、端子に繋いで充電するのです。近頃、その時に、「はて・・・」と、ついさっき、この作業を行ったような気がすることが再々なのです。「いや・・・たしかに」昨日のことだった、と思い出すのに、さほど時間が掛かるわけではありませんが、(時間が掛かるようになっては、大変です)その度に、一日の経過がこんなに早いのか、と思い、さて、この一日に何を成し遂げたかと自省して、実に情けない気持ちに囚われてしまうのです。

思えば、僕たちがこどもの頃の、昭和一桁生まれの僕たちの子供の頃の下校後から夕ぐれ夕暮れまでの時間の充実していたこと。部活だ、塾だ、と深夜まで追い回されている、今の子供たちのそれに比べて、衣食ははるかに貧しいながらも、本当に自由で、充実していたものです。学校から帰るなり、親から、「宿題忘れるんじゃないよ!」の声が掛かるのを尻目に、ランドセルを放り出して家を飛び出し、何々ちゃんと約束していた、表通りでの三角ベース野球に駆けつけたり、(なんと、大通りに、自動車が走ることなどが、稀だったのです!)、わざわざ本郷から、上野を通り越して尾久駅近くの陸橋まで、自転車の三角乗りで遠征して、橋下を通りぬける、蒸気機関車が吐き出す煙の匂いをかぎに行ったり大大名家敷名残の漆喰とレンガの塀を乗り越えて帝大(東大)構内に侵入して、三四郎池で釣糸を垂れて園丁(警備員)に追いかけられたり、ワルといっしょに、下校路で待ち伏せして、隣りのお坊ちゃん学校のやわな連中をからかったり(撲ったり)、眼を付けた女子のスカートをめくって泣かせたり、?石(石のチョーク)でグーパーじゃん跳び(地面に○と○○を順に並べて書いてジャンケンして、グーで勝てばグリコで三つ、パーは、パイナップルで六つ、チョキで勝てば、チヨコレイトと六つ跳んで、ゴールを競う)、何処行き(その○に、近くの場所たとえばクスリや、八百屋、教会、トモ子ちゃんち、などと行き先を書き、それぞれ?石を投げて止まった場所へ走って、戻りの速さを競う)、しなりのいい篠竹竿の先に鳥もち(鳥などの捕獲に使うねばねばの樹脂ゴム)を塗り付けて振るヤンマとんぼ釣りなどなど・・・ああ、書きならべているうちに、恍惚と懐かしさが沸き上がって来るような、時間・・・やがて、西の空があかあかと、燃える頃、各家から、母親や、お祖母さん、姉さん、女中(お手伝い)さんが、「ご飯だよ!」と、引っ立てに来るまで・・・の充実した時間。そう、僕たちの町内では、塾と言えばそろばん塾、むしろ勉強に遅れがちな子が行く補習塾しかなかったし、子供たちは、のびのびと、「よくあそび、よくまなび」していたのです。

小学校一年生の、すでに教科書には、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」だの「キグチコヘイハ シンデモ ラッパヲ ハナシマセンデシタ」(鼓兵=ラッパ手)などとありましたが、戰爭というものは、「ココハ オクニヲ サンビャクリ ハナレテ・・・ 」遠い遠い満州(中国の一部)というところで、お国のために、泥水すすり、草を噛み、命を捧げている、ものだったのです。「ぼうやは、何になりたい」と聞かれれば、おうむ返しに、「兵隊さん」、「お嬢ちゃんは」と尋ねられれば、どの女の子も「看護婦さん」と答えてはいたものの、それらはすべて絵本の中で、実感はまるでなく、赤い夕陽に照らされて、「友は、野末の石の、下」が、何を意味していたのかも分からずに、「〓トーモワ ノズエノ イシノシタ―」と歌いながら、泥だらけの尻当て付きのズボンを叩きながら、家路についたのです。まだまだ「居候、三杯目には、そっと出し」などと訳知り顔でおぼえた川柳を口にしながら、「はい!おかわり!」と、すくなくとも三杯、卵かけご飯だと、最後の一杯におみおつけ(味噌汁)をざぶっ、とかけて、掻っ込んで、「ごちそうさまあ!」とひっくりかえる。家族みんながお膳を囲んでいる四畳半の茶の間には、ラジオから、廣澤虎造の渋い声の浪花節「森の石松・三十石船」が、「おめえさん江戸っ子だってねえ、さ、食いねえ食いねえ・・」と流れていたり、お湯(風呂)からあがって、けんかして、四人兄弟雑居で、重ね餅(敷き切れない布団を一部重ねる)で寝る子供部屋のラジオで、明智小五郎と少年探偵団が活躍する徳川無声の不気味な「怪人二十面相」になると、意地の悪い兄貴が、パッと、電気を暗くしたり・・・ああ、昔、小学生だったころの僕たちにとっては、光陰が、亀の歩み、のごとくだったのではあるまいか・・・貧しくはあったけれども、それぞれの丈にあった幸せの内に過ごしていたわが町の時間、だったのです。

でも、そのあとに待ち受けていたのは、思い出したくもない、あの、大東亜新秩序という、貧国の野望が齎した、昭和戰爭でした・・・

昭和天皇が犯した過ちを、一代賭けて、償おうと試通した平成天皇と、富裕な市井に生を受けながら、求められて皇后としての一生を捧げた皇后の、退位決定後の伝えられる緩やかな近況に、ふと、むしろ天皇崇拝者ではない僕らまでが安堵感を抱くのは、少なくとも、一度限りの人間としての生命を、与えられた使命のために果たしたあのお二人の平成時代には、自然的、人為的災害は多々あったにしても、戰爭だけはなかった、という救いがあったと思うからのことです。

「時間よ、とまれ!」

まだまだ踊り続けたいなどと欲深な雀のような僕の残り時間願望はともかくとして、あのお二人の残り時間には、同時代を過ごした生命の一人として、そう、祈りたい気がするのですが・・・

併せて、間もなく始まる次の元号の時代が、戰爭を経験した事のない、まったく知らない世代が、その幸福を自ら捨ててしまうような方向にこの世の中をミスリードしてしまうことがないことを祈って、いましばし呟き続けたいと思いながら、今夜も、充電の端末を繋ぐところです・・・


nice!(1)  コメント(0) 

検証 公団居住60年 №25 [雑木林の四季]

大資本奉仕の実態と用地買収の黒い霧

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

5.金融資本をもうけさせた公団の財務

 住宅公団の事業資金は、①国および地方自治体からの出資金、②国および民間からの借入金、③住宅債券の発行による収入、④日本住宅公団宅地債券および特別住宅債券の発行による収入、⑤住宅、施設、宅地にかかわる賃貸料または譲渡等の管理収入、その他の収入からなるが、おもな部分は、財政投融資としての政府資金(原資は郵便貯金、簡易保険、年金積立金)と民間資金(生命保険会社、信託銀行など)の借入金である。
 当初5年間は資金総額の21.0%、つぎの5年間12.5%を占めた国からの出資金は1964年度をもって打ち切り、利子補給制度にかえた。利子補給とは、借入金の支払い利息と資金運用による利息回収額との差損にたいする国庫からの補填である。こうして公団の事業資金はほとんどが借入金でまかなわれてきた。55~74年度の20年間の累積額でいえば、97.3%が政府および民間からの借入金であり、うち民間借入金が、72年度までの累積額では52.3%を占め、政府借入金を上回った。
 民間借入金の状況を、55~59年度、60~64年度、65~69年度、70~74年度の4期に分けてみると、資金総額に占める比率は、1966年度の86.9%をピークに第3期は62.6%、4期をつうじて平均417%であったが、その資金コストは年々上昇していった。当初は民間借入金も財政投融資計画に計上され政府保証がついて比較的低利であったが、65年度から政府保証のない民間資金が導入され、73年度からは公団が調達する民間資金には政府保証はなく、借入金利は7%年台から75年には9.65%まではね上がった。
 第1~2期の借入金はすべて政府保証つき、第3期は保証つき12.8%、保証なし35.0%、第4期はそれぞれ2.9%、277%、75年度からは保証つきゼロとなり、事業資金のほぼ半分を民間資金にたよる公団財政は利払いに追われ、破綻を生みだしていた。73年度以降、政府資金が増大したのはそれへの対応であった。
 1955~74年度の借入金総額3兆印64億円のうち民間資金は39.3%にあたる1兆4,139億円、その大部分(97.3%)は生保(65.3%)と信託(32.0%)からの借入である。生保は日本、第一、住友、協栄、明治、太陽、三井、安田の8社、信託は三井、三菱、安田、住友、東洋の5銀行、まさに金融独占にしめられている。
 74年度の事業資金は7,036億円であるが、半分近い3,219億円が借入金償還と利払いに充てられる。そのうち利子だけでも1,664億円、事業資金の23.7%にあたる。一日4.56億円もの利払い、その多くは金融大手への支払いである。
 住宅公団の事業資金の半分以上が借入金償還と利払いに消え、公団は金融大手を儲けさせ、そのツケは高家賃となって公団住宅居住者に過重な負担を強いる構造になっている。この構造は、住宅建設を大企業の利潤追求の場とするものであり、「公共住宅」の存立とは根本的に矛盾することは明白である。

『検証 公団居住60年』 東信堂

nice!(1)  コメント(0) 

いつか空が晴れる №52 [雑木林の四季]

    いつか空が晴れる
         -Bach  BMW 1083-

                      澁澤京子

 去年の大晦日に階段を踏み外して右足を捻挫したため、お正月にかけて寝込んでいた。おまけに足の痛みからか風邪なのか熱も出て喉が渇いてしょうがない。二階奥にある私の部屋から階下のキッチンまで下りていくのは至難の業で、息子が差し入れてくれたポカリスウェットとゼリーでしのぐ。何しろ同じ二階にあるトイレに行くのも大変な労力使うのだ。
片足が不自由になることがこんなに大変なことになるとは思わなかった。骨折はなかったもののまだ痛みは残っていて、毎晩寝る前に習慣にしていた坐禅もいまだにできない始末。
「人は一人では生きていけない。」
ベッドに横になったまま、ぼんやり考えたのであった。

病気になったり、怪我をしたりすると、自分の無力がひしひしとわかる。五体満足のときは自分の意志と力で生きているように錯覚していたけど、実はそうじゃなかったんだ、私には何もわかっていなかったんだ、と。
光に照らされて落馬して盲目になったパウロは、人に手を引いてもらわないと歩けなかったという。ひょっとして落馬したときに捻挫もしていたんじゃないだろうか?
落馬したパウロは回心した。正義と信じてキリスト教を迫害していたパウロはここで180度方向転換する。パリサイ派のパウロは、自分の信じていた正しさが、世間的な浅いものでしかなかったことに気が付く。そして人間の小賢しい浅はかな知恵などをはるかに超えた大いなるものがあることがわかり、生き方そのものが能動から受動に、私が生きるが生かされているに、エゴの明け渡しに一気に転換されたのだ。
去年、バベルの塔の絵画が日本に来て話題になったけど、ブリューゲルに「正義」という銅版画がある。その絵のあちこちでは吊るし上げ、拷問が行われている。よく自分は正しいつもりで平気で他人を批判したりすることがあるけど、それって結局こういうことなのだなあと、眺めているうちに暗澹とした気持ちになってくる。

自分が無力で限界があるという思いを維持するのは難しい、私など元気になればすぐに慢心したり思い上がったりしてしまうからだ。
パウロの回心は正法眼蔵『生死』の「この生死は仏の御いのちなり。・・(中略)仏のいへ(家)になげいれて、仏のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、仏となる・・」にとても似ているのじゃないだろうか。

バッハのカンタータには聖書の詩篇が作曲されているものが多く、この曲はバロック集のCDに偶々入っていて、好きで何度も聴いた。詩篇のタイトルは「砕かれた魂」
詩篇はヨブ記のように、世の中や人の理不尽に対する、苦しみや絶望からの嘆きが多い。人は逆境になった時に、最も無防備に無力な自分さらけ出す。
修道院のシスターや神父さんたちは詩篇を読むのが日課になっているのだそうだ。
ぎりぎりの状況から発せられた詩篇の数々の言葉は赤裸々で、虚栄がまったくなくて無防備で無力である。そして、おそらく神は、最も切羽詰まって必要としている人の近くにいつもいるのではないだろうか。

nice!(1)  コメント(0) 

梟翁夜話(きょうおうやわ) №32 [雑木林の四季]

「QOLを目指す膝栗毛」

                翻訳家  島村泰治
                                                      
・痛む膝を抱えて
平成を閉じる年が明けて、やがてひと月が往く。改元よ新暦よと巷が騒ぐなか、私はやおら膝を抱えて考え込む。ほかでもない、ほどなく私はこの膝を入れ替えることになるのだ。生まれ育った膝に異物を入れて、父母に受けた身体髪膚を心ならずも毀傷しようという、思うだにおぞましいことを思い立ったのである。人工膝関節手術、いわゆる人工膝の埋め込みだ。

これは一か八かの賭けだ。賭け事を嫌う思いが足を引っ張るのだが、賭けるのは金じゃない、自分のQuority of life と周囲への思いやりなら大いに賭け甲斐があろうというものではないか。

・Aさんのこと
「島村さん、そりゃやったほうがいいですよ。ぜひやってください。また一緒にやりましょう。」
一昨年のある日、尾山台の喫茶店でAさんがそう云った。他の方たちもそうだそうだと後押しをする。私はその気になった。膝奴、こいつのためにあたら元気印が動きを封じられている。直立屈伸なら手の平さえも軽々と床につくほど柔軟な腰が、膝奴のために持ち腐れだ。なんたる不条理。私はみんなの意見を聞きながら、手術をやらにゃならんの気概に燃えた。

Aさんは、私より一二年上の女性で卓球の仲間だ。またやりましょうとは卓球のこと、居並ぶ連中も同じ上野毛チームの面々だ。Aさんは両膝が人工関節である。独特のくせ玉を操って白球を打ちまくっている。手術以前と以後の彼女を見知っている私は、手術後のさり気ない膝捌きを思い出して、まずは人工膝を抱えた状況を生々しく聞いてみたかったのだ。
「お勧めします。迷わずにされるほうがいい。私が生き証人です。」
とまで云って彼女は手術を勧めた。そして、私はその気になったのである。

・卓球と私
卓球は私の中学以来馴染んだ球技で、云い難いが相当な腕である。荻村や田中に憧れて覚えた回り込んでのフォア打ちで、中学時代はほどほどに鳴らしたものだ。アメリカ時代はペンホルダーの威力を知らぬ連中を左右に振り回して、ウドの大木どもをきりきり舞いさせた。大使館時代は、館内ではあるが常勝で敵なし。体が云うことを聞いている限り卓球では人後に落ちなかった。体が、というのは実は膝がということで、デスクワーク過重な私の膝は知らぬ間に体重を支えるのがやっとという状態に痛んでいた。

それと気づかぬまま、私は日本卓球協会にハガキを書いた。辞書の様な細字でぎっしりと、私は地元の上野毛で余暇に卓球をしたいのだが施設を紹介してくれろと頼んだのである。このハガキがぐるぐると回送されて一本の電話になって私につながった。地元のチーム「上野毛クラブ」からの電話で、お会いしたいのでラケット持参で来て欲しいという。数日後、私は玉川小学校へ出向き、何本かのテスト打ちをしてクラブ員に迎えられた。

・膝の違和感
クラブの例会に参加してしばらく経った頃、私は足回りに違和感を覚えるようになる。思えば、私の膝はあの頃から劣化が始まっていた。左右への体重移動に膝が対応できない。ちくりと痛むのだ。膝の構造など考えたこともなく、改めて調べるほどの切迫感はなかった。クラブでの練習から試合、ちくりはあるにせよ膝の物理性にまで神経が及ばない。劣化の実感がなかったのだ。その頃何らかの手を打っておけば劣化が防げたわけでもなく、膝の軟骨は着々と減り、上下骨同士の摺り合わせが始まっていたのだ。

・帰郷、土いじり、膝苦労
母の晩年を看取り、ままよとそのまま里に居付いて数年、土いじりの裏に膝の不具合を抱えて懊悩する。一方の足で体重を支え難くなり、やがて段差を忌むようになった。階段の上り下りを避け始め、しばしば転倒して「柔道の受け身だ」などと強がる惨めさ。人工膝のあれこれを考え始める。一昨年のこと、Aさんたちに後押しされてその気になっていた私は、掛かり付けの上野毛の松村医院で先生の意見を叩いた。よかろうと云うかと思えば渋面で答える松村先生。施術直後の処置次第で大事にもなるというご宣託だ。私は怯んだ。明日にもと思っていた施術への心意気が萎えた。

・再びの膝栗毛
それからほぼ二年、私の心理は右へ左へ揺れまくった。帝京大学病院の膝の権威も訊ね、切るならいつでも切れるからとまずは歩行姿勢の改善を勧められ鋭意努力する。が、段差の悩みは消えるどころか深まるばかりだった。

そして、運命の日が訪れた。旧年末、苑田会人工関節センター病院から突如電話があり、予約を早めて年明けにしたい、と。実は、二年前Aさんと会った直後、NHKのTV番組で見た人工関節手術の権威に愚妻が予約を入れていたのだ。何千件もの手術を手がけられた人工関節の権威・杉本先生に掛かる予約が二年も先だったので、私も愚妻も予約を入れていたことを忘れていた。この時点で私の脳内スイッチが切り替わる。前立腺癌以来の膝栗毛、文字通り膝そのものを弄(いじ)る再びの膝栗毛が本番に入ったのである。

・あれもできる、これもできる
年明けの1月5日、足立区にある同病院に出向いた。人工関節ばなしで埋まっている病院だけのことはあり、事前の検査から精にして密だった。そして杉本先生。名医とはこういうものかという風格が漂う。杉本先生から、
「島村さん、ラッキーですね。人工膝は内側だけにできますので、リスクが低まります。この病院では手術時にほとんど出血しないので、血液さらさらの薬を止めずに手術ができますからご心配なく。」という天の声をいただいた。手術は5月中旬に決まった。

例えようもない快感だ。ほとんどリスクなしとのご託宣の瞬間から、私の脳神経ベクトルは超プラス思考に振れ、それ以来「膝が治ればあれもこれも…」とできることのみを夢想。傘寿を越えて以来、いまや最も華やいだ気分を味わっている。

卓球は云うに及ばず、段差奴に一泡吹かさんと、手ぐすねならぬ膝まくりをして待っているのだ。膝行り(いざり)もありかの邪念がふと浮いては消える。だがそれはいっときのこと。膝頭を撫でながら思う。
「おい、お前たちの嫌がらせもあと暫くのことだ。精々励めよ。」
五月晴れが待ち遠しいことだ。


nice!(1)  コメント(0) 

コーセーだから №47 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳創業の哲学」  8

            (株)コーセーOB   北原 保

事業欲、父から学ぶ
進学断念して上京決意

ガキ大将時代

 小林孝三郎氏は、茨城県猿島郷の岩井町の出身、猿島というと大利根川の流れる関東平野の中心部、つい最近〝猿島肝炎〟で有名になった地方だ。明治30年にその町の呉服屋の7人兄弟の三男坊に生まれた。が、幼いころから乱暴で、父の伊三郎さんや母親のすゑさんを泣かせて育った。
 「いわゆるガキ大将という奴で、近所の子供たちをひき連れてあばれる。年上の人と取っ組み合いのケンカをする。父母はたえず近所からねじ込まれてヒーヒーいっていたようだね」
 弟の聰三専務は兄孝三郎の幼少時代をこう語る。ある時など、長兄と姉と女中の3人がかりでおさえつけられ、オキュウをすえられたことがある。小林社長は「そのオキュウの熱かったことをいまもって忘れませんよ」と童心にかえる。
 父親の伊三郎さんは「こいつは早く東京にやっちまえ」とよくどなったものだ。が、負けん気の孝三郎少年が父から学びとったのは、皮肉なことに伊三郎さんの事業欲であったという。
 「いまにして考えると、親父という人は町会議員をしたりして野心家だった。それにおしゃれでフロックコートなど着ていましたね。そのころ岩井町の釜屋の家は天井や廊下が杉の一枚板で紫檀、黒檀、タガヤサンをつかったたいへんぜいたくな造りでしてね。毎日のように家を見に来る客がぞろぞろいたのを思い出します。父親は建築には目がないくらい凝っていた人だというから、自分がゴルフや絵画趣味に凝るのと、どこかつながっているんでしょうね」

47-1901年頃 一番左が小林孝三郎、その右が父・小林伊三郎.jpg
 1901年頃1番左が小林孝三郎、その右が父の小林伊三郎

 父親は、煙草が専売になる前、煙草製造工場をつくり、猿島のあたりの煙草を集め一手に製造していた。が、これが専売制度ができて国に買い上げられると、こんどは醤油の製造をはじめた。が、仕事は大成しないうちに他界してしまった。この父親の死は残された子どもたちにとっては試練にもひとしかった。長兄は東京の旧制中学三年を中退して醤油屋の後を継いだ。孝三郎少年は6年生で千葉の我孫子の姉の家にあずけられた。姉の家は二万石の造り酒屋でここから高等小学校にかよった。

47大正中期 長兄の始めた釜屋醤油店の初売.jpg
 大正中期 長兄の始めた釜屋醤油店の初売

 我孫子の高等小学校では孝三郎少年は成績がよく、級長をつとめていたそうだ。卒業のとき校長先生から「お前は中学に行け」とすすめられたが、運悪く兄が親族の保証人になったためそれが元で負債を背負うハメになり、中学進学は断念して、実業に入ることにした。そこで親戚の釜屋化学と言う化粧品のビン類を製造していた小室新之助氏を頼って上京した。
 釜屋化学といえば、いまは化粧品のビン工場としては日本で有数な工場であるが、当時まだ町工場だった。もちろん、化粧品メーカーも中小企業であった。15才の少年はそのとき小室の叔父が「化粧品メーカーというのは将来性のある企業だよ」とすすめてくれた言葉を思い起こす。その化粧品会社というのが、堅実経営をモットーにする高橋東洋堂であった。

47大正13年 小林孝三郎の給与明細.jpg
 大正13年 小林孝三郎の給与明細

 東洋堂は明治26年の創業、社長は先代の高橋志摩五郎という人。当時は化粧品の創生期、すでに井筒香油、福原資生堂(資生堂の前身)、レート化粧品、桃谷順天館、花王石鹸などというメーカーがありクリームやみその白粉とかハミガキや黒い石鹸を売っていた。
 孝三郎少年が小僧として東洋堂に奉公したのが明治45年、東五軒町には二階建ての工場があり、他に製造所があって、香料研究室なんてハイカラな設備もあった。
 「入社したころ東洋堂はパール練香油(いまのポマードの元祖)が主力で、そのほか香水ではかなり有名な会社でしたからね。一時は製品を中国の上海や南方に相当輸出していましたよ。〝蜜糖香〟は〝七つの星の麝香……〟なんて売り出して百万単位に売れに売れたことがあります。中身は澱粉とワセリンでいまいう〝桃の花〟ですが、当時の化粧品はその程度、そのころから化粧品といっしょに生きたんですから……」(小林社長の話)
                                                    (昭和44年10月15日付)

nice!(1)  コメント(0) 

シニア熱血宣言 №111 [雑木林の四季]

   余 命

                              映像作家  石神 淳

 齢・83になる。折りにつれ、言い知れぬ孤独感に苛まされるが、同年代の訃報に接すると、「俺も、そんな歳か」と、暗澹たる気持ちにさせられる。
 「余命」の実感は、突然、孤独と怖心とともに、心に迫ってくる。日常的には、それほど感じなくても、或る日ある時、突然に心の中で噴出するのだから、始末にわるい。
 「ああ、今日も、また夜が明けてしもうた---」
 立ち歩きもままならぬ、トボトボ歩きのジジイなんて、サマにもならねぇと、自虐的に呟く、朝寝坊の毎日だ。
 「耳も眼も、不自由せんから・・・。ま・いいか---」
 朝6時にはいったん目覚めるが、二度寝してしまう。
 怠惰な習慣に慣れ、ボーッと草臥れたソファーに身を投げ、日がないちにち面白くも可笑しくもないテレビを漫然と眺めて暮らすようになってしまった。
 そのテレビって奴が、腹が立つほど面白くねぇ。どうなっちょるのかねぇ制作者どもの
頭脳は?。まるきし裳抜けの殻にしか思えない。
 お笑い芸人どもに、やりたい放題させやがってさ。観ているこっちの方が恥ずかしくなる。「芸が無い」のは、まっこと、安直無比なお笑いタレントだ。
 嫌なら、テレビを消せばいいんだが、観ているこっちも馬鹿になる。

111庭の紅梅アップ.JPG
      早咲きの梅の花

 でも春の足音が少し感じられたら、猫の額ほどの小さな庭にも、暖かなお天道さまが射し込んで来て、咲き競うように、日溜まりを占拠し心を和ませる。
 テレビはせめて4Kが欲しいんだが、年金生活じゃとても買えないからね。ワイドショーまがいのテレビを、漫然と眺めて我慢している。制作する側から言わすと、83歳のジジイなぞ、とっくに対象外なのだろうが・・・・。
 「それなら、誰に向けて放送してるんだ」
 番組批判を呟きながら、独り言で罵る。こうなると、批評じゃなくて、悪評の連打なんだが、作り手の強い意図が感じられないから、余計苛々する。
 俺たちが若かった頃は、もっとマジで制作に没頭したもんだ。が視聴者の批判も結構きびしかった・・・。
 自分の取材を誰も庇ってくれなかったから、局内に居ても、勝手に入ってきた視聴者に追い回された。
 いやぁ恐ろしかったねぇ、楽しくもスリリングたった。
 画面が大型し、かえって、番組の質が低下したね。
 最近のニュース報道番組は、HKを別にして、5チャンがダントツ。7チャンがそれを追うが、経済関連では7チャンに及ばない。さすが日経だ、頭がさがる。。
 我が現役時代は、「1チャンに負けるな」が合い言葉で、競争相手は新聞ぐらいだった。
 「振り向けば、12チャン(現7チャン)」と、揶揄された時代もあったが、(ウサギトカメの例え話)は、遠い昔の追憶で、ナマ放送は、ほんとうに恐ろしいナマものだ。
 エンドロールのディレクターやプロデューサーの名前に、昔の助手達の名前を見つけ、感傷に浸るひとときも・・・。
 「立派になったんだ、あいつもこいつも」目頭があつい。
 我が人生に思い残すことが無いと言えば無い。
 いまさら、我が「余命」を勝手に処分できぬから、お迎えの順番を、おとなしく待つしかないな

nice!(1)  コメント(0) 

木漏れ日の下で №21 [雑木林の四季]

王育徳紀念館によせて

           詩人・エッセイスト  近藤明理

20-1.jpg
20-2.jpg

  〈王育徳〉         〈 「呉園」内にある 王育徳紀念館〉

 昨年9月、私の父の人生の足跡を展示する「王育徳紀念館」(台湾では記ではなく紀の字を使います)が台湾台南市にオープンしました。設立してくれたのは父の故郷である台南市で、場所は台南の名園「呉園」の庭の池の畔です。

 父は1949年、25歳の時に、命の危険を避けるために日本に亡命しました。日本に於いて、戦後台湾で行われていた中国国民党による一党独裁政治を批判し、台湾の民主化を求める台湾独立運動を始めたので、ブラックリスト入りし、故郷に帰ることができないまま日本で亡くなりました。
 父の死後、台湾は民主的な国となり、一昨年、台湾人女性、蔡英文さんが総統(大統領)に就任しました。父が台湾を離れてから69年、亡くなってから33年も経ってから、故郷に紀念館を作って迎えられたのには、こういった台湾の歴史が影響しています。
 古今東西、政府から命を狙われ、国外へ脱出せざるを得なくなった事例は幾多あります。例えば、ナチ政権から逃れたユダヤ系の人々、チベットのダライラマ法王、ウイグルのラビア・カーディル女史、最近ではシリアの人々等々。しかし、そういう人の中で、後に故国に紀念館を設けて迎えてもらえる例は非常に珍しいと思われます。

 9月9日の開館式典では、父の作詞作曲した歌「祖国台湾」や父の好きだった日本の唱歌「ふるさと」が歌われ、愛する故郷に迎えられた天国の父の気持ちを想うと涙がとまりませんでした。
 父は生きている間、台湾を離れて日本に暮らしながら、いつでも台湾のよりよい未来のことを思い、できる限りの事を何でも全力で取り組みました。いつも人よりも苦労の多い道を敢えて歩み、陽の当たらぬ道に種を蒔いていました。家族もそういう生き方を当たり前のように思って生きてきたので、顕彰されることに馴れないというのか、身にそぐわないような気がします。
 今年94歳になる母は、父に付いて故郷を離れ、以来約70年を日本で生きてきました。いつも陰で父を支えながら謙虚に歯を食いしばって生きてきたような人なので、自分の夫のための立派な紀念館ができたことが未だに夢のなかの事のように感じているみたいです。 
 実は今も実家の父の書斎を見ると、母も私も寂しい気持ちになります。紀念館に納めるために使い込んだ机や書棚や備品などが運び出されガランとした部屋。父だけが故郷に帰ってしまって、取り残されたような不思議な感覚です。
 それでも実際に、紀念館は設立されてから4か月足らずで、来場者が1万人を越える盛況で、日本からの見学者も多く、台南市のほうでも驚いているようです。

 紀念館の展示室は5部屋に分かれていて、王育徳が手がけた業績についてそれぞれ展示してあります。内容についての説明は長くなりますので、今回はパンフレットに書かれた各部屋のキャッチフレーズのみ御紹介し、今後、数回に分けて詳しくご紹介していこうと思います。

20-3.jpg
   王育徳紀念館(パンフレット)題字は羅福全・元駐日大使
  「一生を台湾の夜明けに捧ぐ」

 
第一室 文学青年から多面的活動家へ
第二室 言葉は民族の魂である―台湾語の研究―
第三室 民主と自由を求めて ―台湾独立運動―
第四室 非情の判決を乗り越えて ―台湾人元日本兵補償―
第五室 小さな書斎が大きな世界を開く……

 *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  
〈詩〉      王育徳紀念館  
                                              近藤明理

 父の故郷に
 父の記念館ができる
 生きている間一度も帰ることが許されなかった故郷
 中国人に占領されて弾圧され
 それに抵抗した人々が大量虐殺された台湾
 父の最愛の兄の命も奪われた

 パスポートも持たずに国を出て
 育ての国日本に亡命した父
 大学に入りなおして台湾語を研究する傍ら
 台湾独立運動を展開した
 そのためにブラックリストに載り
 生まれ故郷に帰ることができなくなった

 離れても台湾のことを思わない日はなく
 台湾の歴史書を書き
 台湾人元日本兵士の窮状を助ける活動をし
 自分の全てをかけて
 台湾のために六十一年の人生を生きた

 二十五歳で別れを告げてから
 一度も帰れなかった台南の家
 そこから百メートルしか離れていない名園の中に
 王育徳紀念館は作られる

 父の大好きだった唱歌「故郷」
 志を果たして
 いつの日にか帰らん
 山は青き故郷
 水は清き故郷
 国を出て七十年
 亡くなってから三十三年
 今父の魂は晴れて故郷の土を踏む          
       

nice!(1)  コメント(0) 

私の中の一期一会 №182 [雑木林の四季]

      20年東京五輪開催に暗雲?JOC竹田恒和会長の贈賄疑惑捜査が本格化!
  ~フランス捜査当局、昨年12月10日に竹田会長をパリでヒアリングしていた~

        アナウンサー&キャスター  藤田和弘
                                       
 日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長(71)は11日、東京五輪招致をめぐる不正を疑われ、フランス司法当局から“聴取”を受けたことを認めた。
 仏当局の報道官によれば、今後、強力な権限を持つフランスの“予審判事”が捜査を重ね「竹田会長を起訴して、公判請求をするか否か」を判断するという。
 AFP通信やル・モンド紙などフランスメディアの報道からも、正式な裁判の前に取り調べをする「予審」が昨年12月10日にすでに始まっていて、東京五輪招致疑惑の捜査が本格化していることが明らかになった。
 竹田恒和氏は、「調査協力として、ヒアリングをパリで受けた。JOCの調査チームが(16年に)報告してきたことを全部話した。贈賄のような不正は何も行っていないことを説明した」と語っている。 
 JOCの平岡英介専務理事は「ヒアリングに行ったことは知っていたが、これまでと状況は変わっていない。フランス当局からは何も連絡はない」とコメントし、来年の五輪開催への影響はないと思っていると述べている。
 だが、ホントに東京五輪開催に影響はないのだろうか?
 ネット上には「東京五輪は中止だ」などの声が溢れている。「JOCは楽観し過ぎじゃなの?」という警告も見かけた。
 武田会長への本格捜査開始を知った大会関係者やスポーツ界は一様に衝撃を受けている模様で、スポーツ紙上には「何も聞いていない」とか「情報が全くない」など、疑惑の再燃(?)に動揺を隠せないコメントが躍っていた。
 開催都市東京の小池知事も「何が行われているのか。確認することから始めたい」と語り、困惑している様子であった。
 今回の東京五輪招致疑惑は、仏当局がリオデジャネイロ五輪の招致疑惑を捜査していた中で、2016年1月に表面化してきたものだと言われている。
 16年5月、英ガーディアン紙は「日本の招致委員会が、国際陸連(IAAF)前会長のラミン・ディアク氏の息子、パパマッサタ・ディアス氏と関係が深いシンガポールのコンサルティング会社“ブラック・タイディングス”に、2億3000万円を13年7月と10月の2回に分けて振り込んでいた」と報じて、送金の一部がIOC関係者に渡った疑いがあると指摘したのである。
 東京招致が決まったのは13年の9月7日だった。
 招致決定前の7月の振り込みは「票の取りまとめ」、決定後の10月の振り込みは「成功報酬」と見られたとしても不思議ではない。
 仏当局は、ブラック・タイディングス社に振り込まれた2億3000万円を“贈賄疑惑の焦点”と見ているのだ。
 IAAF前会長のラミン・ディアク氏は、セネガル出身で“国際陸上界のボス”と呼ばれる存在であり、IOCでも大きな力を持っている。
 こうした大物に有り勝ちだが、“黒いウワサ”にも事欠かない要注意人物である。
 昨年の平昌五輪でも、韓国企業がディアク氏親子に見返りを支払う約束で“集票を依頼した”と噂された。
 16年リオ五輪では、息子のパパマッサタ氏に“賄賂を渡した”としてブラジル五輪委員会の会長が逮捕されている。
 息子のパパマッサタ氏は16年にロシアのドーピング問題が発覚した時、“ドーピング隠蔽”に加担したことを疑われ、ICPO(国際刑事警察機構)を通じて国際手配されているが、セネガル政府が引き渡しを拒否している。
 13年7月にはパリでパパマッサタ氏が高級腕時計を購入したが、代金8万5000ユーロ(約1000万円)をブラック・タイディングス社が支払ったことが分かっているという。
 こうした高級時計は、すぐ売却されてマネーロンダリング(資金洗浄)になる。“巧妙な贈賄”という訳だ。
 ディアク親子は強大な権限を背景に“グレーなカネ”を手にしているという風評は、IOC関係者なら誰でも知っているという。そういう人物にカネを払えば、たとえ正当な報酬であっても、疑われて当然という指摘もある。近づいてはいけない人たちだったのだ。
 「仏当局が捜査を本格化させたのは、確実な証拠を握ったからではないか」という話がIOCの中で流れているそうだ。
 息子のパパマッサタ・ディアク氏(53)は12日、共同通信の電話取材に「竹田会長とは2度会ったが、オリンピック招致について話したことはない」と述べ、「疑惑に竹田氏を巻き込むのはばかげている」と語ったと新聞が伝えている。
 IOCのバッハ会長は、セネガル大統領に協力依頼の文書を送っていたことを明らかにした上で、「フランス当局の捜査に協力してきた。竹田氏には推定無罪の原則が適用されている」という声明を出した。
 IOCは11日に倫理委員会の開催を明らかにしたが、協議内容など詳しいことは公表しなかった。
 東京地検特捜部が、私的な投資の損失を日産自動車に付け替えたとしてカルロス・ゴーン容疑者を追起訴したのが11日だったため、仏当局の捜査は“ゴーン事件の意趣返しではないか”という見方が囁かれた。
 日本政府や東京五輪を担当する関係者の多くは、“竹田会長への疑惑はすでに晴れた”と思っていたのではないだろうか。
 注目された竹田会長の記者会見は15日、午前11時から都内で行われたが、2年前にJOCが行った調査内容をなぞるだけのもので、目新しいものは何もなかった。
 報道陣は、パリで受けたヒアリングの感触など、聞きたいことは山ほどあったと思うが、「調査中の案件だから答えられない」という理由で質疑応答を受け付けなかった。所要時間はたったの7分・・。
 こんな記者会見なら「やらないほうが良かった」という声が出たのも頷ける。
 竹田会長がいくら潔白を主張しようと、招致委員会がパパマッサタ氏の関連会社に振り込んだカネは極めて「クロ」に近い、仏捜査当局はその確信を持っていると見ていいだろう。
 もし今後、「日本からのカネ」が賄賂だと立証されたら、大会前に収賄が発覚したことになり、重大事件として世界に伝わるに違いない。
 もしそうなったら、今後同じ問題を起させないために、IOCは日本に厳しい処分を下す可能性を否定できない。
 黒い金で買った東京五輪?・・新年早々縁起でもない。そうならないことを願っている。

nice!(1)  コメント(0) 

浜田山通信 №234 [雑木林の四季]

反韓反中

               ジャーナリスト  野村勝美

 「インターナショナル」なる労働歌を聞かなくなって半世紀は経つ。私が学生の頃は毎日のようにデモに参加したが、必ず「起て飢えたる者よ、いまぞ日は近し」を歌ったものだ。その後、国連ができ、ヨーロッパにはEUができたが、国家間の戦争、内戦はどこかでとぎれることなく続いている。国家間、民族間にちょっとしたいさかいがあるとナショナリズムに火がつく。自分には非はなく、悪いのはすべて相手だ。日本人のかなりの部分に反中、反韓、あるいは嫌中、嫌韓の感情がある。とくに最近の慰安婦、徴用工、レーダー照射問題の、政府、メデイアのとりあげかたには、韓国文在寅政権に対する反感が露骨だ。
 徴用工問題は1965年の日韓請求権協定でかたづいていると日本政府はいう。そもそも請求権協定は、日韓基本条約の付属協定で、当時、日韓両国で反対運動が盛り上がった。韓国では、たった5憶ドルで35年間の植民地支配を取り消しにするのかという、朴軍事政権への反対運動だが、この時期、ベトナム戦争が進行中であり、韓国としてはなんとしても金が必要だった。当時の国際情勢はおくとしても、たったの5憶ドル、500億円ちょっと。あまりに少なすぎる端した金ではないか。
 戦前私の小学校では4人の朝鮮人同級生がいた。校区が場末の貧乏区域だったので、頭に荷物をのせたチマチョゴリのアボジは見慣れていた。部落の子も10人以上いた。皆仲良しだった。チャンコロ、鮮人と大人たちはいい、学校で、先生が「朝鮮の人は半島の人といいなさい」と教えた。姓氏は和名に変えられ、、学校では朝鮮語を禁止した。日本人と同じ天皇陛下の臣民とされ、戦後には戦犯として処刑された人たちもいる。
 日本としては徹底的に韓民族に謝罪しなければならないのに5憶ドルでケリがついていると言い続け、なおかつ反韓反中である。ドイツをみよ。ヒトラーのやったことに対していまだにその罪を追求、被害民族、国家に対して謝罪をつづけている。いまでこそヨーロッパ全体にイスラム難民に対する民族主義的排斥運動が起こっているが、ドイツ、、フランスを中心にヨーロッパ連合としてまとまることができたのもナチスに対するドイツ国民の批判断罪による。
 日本は、戦後5年目に始まった朝鮮戦争で敗戦のどん底から立ち直った。朝鮮半島での不幸な事態を踏み台にG7とかG20とか東京オリンピック、大阪万博と浮かれている。
 文在寅韓国大統領がせっかく新年の記者会見で「日本は謙虚に」と言ったのに日本政府は反発するだけ。拉致問題、米朝関係をかかえる北朝鮮などさっそく1939年の「国家総動員法」に基づく国民徴用令で840万人が強制動員された問題を日韓交渉でとりあげると言ってきている。
 いままでの嫌中、嫌韓でいくならまちがいなく日米韓から韓は抜けて、韓は中朝に近づいていく。天皇じゃないけれど日本人の血には朝鮮、中国のそれが混じっている。昔は近攻遠交などといったが、いまや近交遠交でしょう。

nice!(1)  コメント(0) 
前の20件 | - 雑木林の四季 ブログトップ