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私の中の一期一会 №172 [雑木林の四季]

      全米プロゴルフ選手権、久々の“タイガーチャージ”にウッズ復活の予感!
    ~「この1年で、ここまで戻ってこられるとは」とタイガーも感慨深く語る~

                アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 連日の猛暑日に我が家ではエアコンがフル回転している。おかげで熱中症にもならずに済んでいるが、涼しくなったらエアコンが夏バテして、ダウンするかも知れないのが気掛かりだ。
 外に出ると倒れそうになるから、なるべく外出は控え、もっぱら高校野球をテレビ観戦する毎日を過ごしている。
 ミズーリ州のベルリーブCCで行われていた全米プロゴルフ選手権は12日(日本時間13日)に最終日を迎えていたので、私はCSのゴルフネットワークで試合の終盤だけテレビ観戦した。
 甲子園の高校野球は、今年が第100回の記念大会だが、海の向こうの全米プロもまた今年で100回目の開催であった。
 実況が「タイガーチャージ復活だ!」と叫んでいたので、「しまった。早起きして見れば良かった」と後悔しながらタイガー・ウッズに注目した。
 いつものように赤いシャツに黒パンツという勝負服のタイガー・ウッズは、リーダーボードの2番目に名前があって、優勝争いをしてきたことが分かる。
 最終18番グリーンで、タイガー・ウッズが6メートルのバーディパットをカップに沈めたとき、固唾を呑んで見つめていた大観衆は歓声をあげながら熱狂した。
「往年のタイガー・ウッズが、そのままの姿で戻ってきた。熱狂の中心にウッズがいる!」と書いたネットの記事もあったことを考えると、ロープの内側で取材するゴルフ記者までが興奮状態だったのかも知れない。
 タイがー・ウッズは最終日に8バーディ、2ボギーの64をマーク、通算14アンダーの266でホールアウトした。
 結果は、優勝したブルックス・ケプカ(28=米)とは2打差の2位。終盤まで並んでいたアダム・スコット(豪)が1ストローク落としたため、単独2位に入った。
 タイガーがメジャーでの2位フィニッシュは09年の全米プロ以来で、7月の全英オープンで6位になったのに続いて、メジャー2試合で優勝争いに絡んだことになる。
「1月の時点では、自分のスケジュールがどうなるかさえ分からなかった。毎試合がチャレンジだった。この1年でここまで戻ってこられるとは・・」とタイガーはインタビューに答えている。。
 ツアー通算79勝、メジャータイトルを14回も手にしてきたスーパースターのタイガー・ウッズでも、身体の故障やプライベートでのトラブルがあって、ツアーから遠ざかざるを得なかった。
 タイガーの名前がツアーから消えていた2015年から16年の2年間に、4度にわたって腰の手術も経験した。その度に新たなスイングにトライし、自分自身とも戦い続けた。
 42歳になった今は、日々の体調にも神経をとがらせるようにしているという。
「この年齢になると、次の日までに回復していることが大事になってくる」と自覚し、早朝からの練習ラウンドも以前より減らしている。水風呂に浸かって体の炎症を抑えるケアも施している。
 今年の初めに656位だった世界ランクが、今回のメジャー大会で2位に入って26位まで上昇した。
「自分と同じような手術をして、ボールを打った人は誰もいない。僕はプロセスの途中で、未知の領域にいるのだ。もっと自分を知らなければならない」と語っている。
「タイガー イズ バック」は世界中のファンの夢だったと言っても過言ではないだろう。
 先月の全英オープン最終日で一時トップに立った時、「強いタイガー・ウッズがメジャーの舞台に戻ってくる日は近い」と感じた人は多かったのではないだろうか。
 全英オープンの時もそうだったが、ギャラリーの多くがタイガーの組について移動する。
 そして、みんながタイガーを応援する。一緒に回る同伴競技者は蚊帳の外の気分になるそうだ。
 ウッズらの猛追を振り切って優勝カップを手にしたブルックス・ケプカは「ここにいるギャラリーの皆がタイガーの応援をしているのは分かっていた。それは仕方がないことだ。彼は最高の選手だからね。僕らはタイガーを見て育ってきた。そんな彼とメジャーで戦えるなんて夢にも思わなかった」と喜びを語った。 
 1度もリードを許さず、難しい15,16番を連続バーディとして優勝を飾ったヶプカはツアー通算4勝目だが、うち3勝がメジャーである。
 全米オープンと全米プロを同じ年に制した5人目のプレーヤーになった。
 1922年のジーン・サラゼン、48年のベン・ホーガン、80年のジャック・二クラウス、2000年のタイガー・ウッズに、今年のブルックス・ケプが加わり5人となった。ツアー通算4勝目だが、そのうち3勝がメジャーだから凄い。
 ケプカはヨーロッパの下部ツアーからプロ生活をスタートさせた苦労人の一人である。
 14年にヨーロッパツアーで初優勝したことが、PGAツアーへの道を開いた。
 15年のフェニックス・オープンがPGA初優勝だが、17年、18年と世界一タフと言われる全米オープンを連覇した実力者でもある。
 今年最後のメジャー大会で、復活を予感させる強さを見せたタイガー・ウッズの或る振る舞いが大きな反響を呼んだ。 
 優勝を決め、引き揚げてきたケプカをクラブハウス前で待ち構えていたのはタイガー・ウッズだった。ケプカとガッチリ握手したタイガーは満面の笑顔で彼を抱きしめ、勝者を称えた。
 米ゴルフチャンネルのトッド・ルイス・レポーターは「ケプカを一番最初に祝福したのはタイガー・ウッズだった。私はタイガーが、優勝した対戦相手を待っている光景を見たことがなかった。素晴らしい品格が垣間見えた光景であり、ケプカにとって特別な瞬間になった筈だ」と公式ツイッターに綴った。
 この印象的なシーンが動画付きで公開されると、感激したファンから続々と称賛の声が届いた。
「新たなタイガー・ウッズを誇りに思う」
「素晴らしい。これぞあるべき姿だ」
「新生タイガー。より素晴らしく、より幸せそうだ」
「ただただ素晴らしい」
「彼もついに大人になった」
一流の品格、王者の風格と共に復活の兆しを印象付けた全米プロゴルフ選手権であった。
           

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浜田山通信 №223 [雑木林の四季]

小野文恵アナが見た祖父の戦場

                  ジャーナリスト  野村勝美

 8月は原爆と戦争の悲惨を考える月である。異常気象の猛暑と集中豪雨のニュースをききながらクーラーのきいたリビングで毎日、テレビのドキュメンtリー番組に見入っていた。毎年ヒロシマ、ナガサキを見てきたはずだが、なぜかことしはより充実した番組が多かったように思われた。多分平成も最後だし、私のように戦時を経験している者が少なくなっていることも関連しているのだろう。
 私が見た番組名をあげておく。どれもすごい作品だ。何度再放送されてもよい。機会があれば何度でも見たい。ほとんどは録画したので、その気になればいつでも見れる。
 最初はことし亡くなった映画脚本家「早坂暁を探して」。昔ごひいきだった「桃井かおりが暁さん遍路ゆかりの地・松山の旅」。同じ4日の夜、「福井地震70年」。福井は終戦の年に空襲で全焼し、3年後地震で全滅している。5日にはTBSが「終戦SP・学徒出陣10万人が軍隊へ▽攻撃命令▽地上戦▽太平洋戦争の真実とは」。ほぼ同時刻にNHKがBS プレミアム「映像の世紀 独裁者ヒットラー、ムッソリーニ、スターリンの狂気」。これは何度オンエアしてもよい。独裁者はどのようにして民衆をかり立て、戦争で独ソ双方に4千万人もの犠牲者を出したか。関連してNHKEテレ「ヒトラーの専用列車」アメリカ号も興味深かった。
 原爆関係では他に8日NHKBS「ヒロシマの被爆樹木ニューヨークへ渡る」。9日「幻の原爆ドーム・ナガサキ戦後63年目の選択」。ETV特集「赤い背中が残したもの」。そしてなんといっても圧巻は12日NHKBS「"悪魔の兵器”原爆なぜ誕生? 科学者の闇 日本へ落とせ・・・誰が?」。マンハッタン計画の開始から完成、実験までを計画し実行したロスアラモス研究所とロバート・オッペンハイマーはじめ1200人の若き科学者やルーズベルト、トルーマン、オッペンハイマーの孫も登場する。アメリカがすべての資料を残していることにも感心するが、NHKBSの取材能力は絶賛に値いする。番組は最後に「人類はまた同じ悲劇をくりかえしていくのだろうか」としめくくっていたが、絶対にくりかえしてはならない。
 敗戦関連では8日NHKプレミアム「海の墓場トラック島」、12日「戦争孤児の闘い」、13日「船乗りたちの戦争」がいずれも出色のドキュメンタリー、年の故もあるだろうが涙がとまらなかった。
 もう一つ、NHKスペシャル、11日の「祖父が見た戦場」がすばらしかった。看板アナの小野文恵がフィリピンのルソン島で戦死した祖父景一郎の足跡を母公子と訪ね回るルポ。文恵はもちろん34歳で死んだ景一郎を知らない。生き残った戦友や、日本兵の死体を数えて記録した米軍の資料を取材し、ルソン島での祖父の足跡を辿る。そして旅の終わり、一人でマニラのホテルを訪ねる。そこはフィリピンの少女たちが日本兵の性暴力を受けた場所だった。どんなことがあっても戦争だけはやってはならない。

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徒然なるままに №39 [雑木林の四季]

「鎮魂の八月」も後半です

               エッセイスト 横山貞利

 「鎮魂の八月」も後半に入った。16日には、京都五山の送り火がある。わたしも毎年6時ころ送り火を焚いている。子どものころから迎え火、送り火を焚くのはわたしがやっていた。いま想い出して考えてみるとどうしてわたしが迎え火や送り火を焚くようになったのか判らない。こんなことを考えていると無性に哀しくなるが、また今年も送り火を焚くだろう。
 今年、西日本大豪雨で多くの人の命が奪われ未だに行方の判らない人もいる。また、何時になったら元の安住の地が回復されて移り住むことができるのか、それさえ覚束ない。
 
 さる8日、沖縄知事だった翁長雄志さんが亡くなった。残念なことであるが、辺野古をはじめ沖縄の抱える課題に正面から向き合ってご苦労くださった。沖縄の抱える課題は戦後73年経っても少しも解決されていない。少なくも1972年の「沖縄返還」で積み残した最大の課題である「米軍基地」という占領地については何も解決していない。この課題は「生存権」に関わる最大の軛(くびき)である。
 あの太平洋戦争に於いて唯一地上戦の地となった沖縄で軍民合わせて約20万人の戦死者を出した地である。されど戦後全く無視されたまま73年間「米軍基地」は日本の施政権外の地であり「日米地位協定」で守られた“占領地”なのである。

 来月(9月)には「自民党総裁選」が予定されている。現状では自民党総裁選は「内閣総理大臣」を決定する選挙である。現在のところ安倍晋三、石破茂両氏が立候補の意向を示しているが、安倍首相が自民党国会議員の7割を獲得しているとのことで圧倒的な有利な立場に立っている。第2次安倍政権の発足から約6年間、安倍政治がやってきたことは,特定機密法、安保関連法、共謀罪法、働き方改革法、IR(カジノ)法、そしてモリトモ・カケに対する不親切・意味不明な答弁など、国民の立場を無視した政権運営であった。
 自民党の総裁任期は3年であるから、このままでは9月以降、安倍政権は3期9年つづくことになりそうだ。もう既に安倍首相は次期政権に於いて最大の政治選択肢である「憲法改正」の意欲を示している。しかしながら、自民党政権がつづく限り「憲法改正」の機運は避けて通れない最大課題である。安倍首相が主張している憲法9条に「自衛隊明記」をすることより、もっと危惧すべきは「自民党改憲草案」の第98条「緊急事態の宣言」に関する条文である。この条文では、内閣総理大臣は閣議にかけて「緊急事態を宣言」できるとしている。この条項は「国の権限を内閣総理大臣に委託して実行できる」ことを明確にしている。つまりこの条項は「非常事態=戒厳令」に匹敵するものである。これこそ日本会議など戦後保守陣営の思うツボを具体化したものである。第3次安倍政権が成立すれば上記の政権運営がなされるだろう。こうした内政面に対して、外交面に於いては、トランプ政権の残り2年間の任期において更なるトランプ政権べったりの外交路線をとるだろう。

 それにしても、この数年「八月」が近づくと哀しくなる。でも、それを背負って生きていかざるを得ないのだろう。

 地球規模で進んでいる異常気象はどうなるのだろうか。気象庁の見解では、まだ当分猛暑がつづくようである。

 小学唱歌 「野菊」
          作詞 石森延男 作曲 下総皖一  
                    初等科音楽(一)昭和17年3月
       
    遠い山から吹いてくる
    こ寒い風にゆれながら
    けだかく きよくにおう花
      きれいな野菊
      うすむらさきよ

  初秋の空気が肌に優しく感じられた幼い頃を想い出す。

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BS-TBS番組情報 №168 [雑木林の四季]

BS-TBS 2018年8月のおすすめ番組

                         BS-TBS広報宣伝部

由紀さおりの素敵な音楽館 2時間スペシャル

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2018年8月17日(金)よる9:00~10:54

☆由紀さおりが豪華ゲストと昭和の名曲を熱唱!

司会:由紀さおり
ゲスト:トワ・エ・モワ、堀内孝雄、伊藤咲子、中川晃教、森山愛子、ベイビー・ブー/雪村いづみ

今回の2時間スペシャルは、「歌声喫茶名曲特集」と「雪村いづみ特集」!
1950年代~1970年頃にかけて大流行した「歌声喫茶」からヒットした名曲を由紀さおりとゲストが熱唱。トワ・エ・モワと伊藤咲子は森山良子の「今日の日はさようなら」を、堀内孝雄は、小林旭の「北帰行」をそれぞれ情感豊かに歌い上げる。
雪村いづみは、自身のヒット曲「想い出のワルツ」をはじめ当時“三人娘”と呼ばれ不動の人気を分けあっていた美空ひばり、江利チエミの曲も披露。
◆レジェンドを迎えて
「想い出のワルツ」雪村いづみ
「テネシーワルツ」雪村いづみ
「川の流れのように」雪村いづみ
◆歌声喫茶名曲特集
「誰もいない海」トワ・エ・モワ
「ひまわり娘」伊藤咲子
「北帰行」堀内孝雄
「花」森山愛子
「少年時代」中川晃教
「旅人よ」由紀さおり、ベイビー・ブー
「花が咲く日は」ベイビー・ブー
「森の水車」山田姉妹
「白いブランコ」ビリー・バンバン
「あの素晴らしい愛をもう一度」由紀さおり、トワ・エ・モワ
「涙そうそう」夏川りみ、1996カルテット
「さとうきび畑」森山良子
「あざみの歌」里見浩太朗、ささきいさお
「冬の稲妻」堀内孝雄
「今日の日はさようなら」トワ・エ・モワ、伊藤咲子
「見上げてごらん夜の星を」中川晃教
「風」由紀さおり、トワ・エ・モワ 堀内孝雄 伊藤咲子 中川晃教 森山愛子 ベイビー・ブー

アジア大会2018ジャカルタ

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8月20日(月)よる11:00~12:00 レスリング
8月21日(火)よる11:00~12:00 レスリング
8月22日(水)よる11:00~12:00 レスリング
8月23日(木)よる11:00~12:00 体操/バドミントン
8月24日(金)よる11:00~12:00 体操
8月29日(水)よる11:00~12:00 柔道
8月30日(木)よる11:00~12:00 柔道
8月31日(金)よる11:00~12:00 柔道
※日本人選手の状況などにより競技変更の可能性があります

☆アジアを制してTOKYO2020へ

4年に一度のアジア最大のスポーツの祭典・アジア大会。今大会は東京五輪前、最後のチームジャパンとしての総合体育大会として重要視されている。2020世代のトップアスリートが、今や“世界のスポーツ大国”と称される中国や永遠のライバル韓国との“アジア大会3強決戦”を繰り広げる。
BS-TBSでは金メダルが期待される“ニッポンのお家芸”レスリング、柔道のメダルマッチをメインにたっぷりお届けする。
レスリングはリオ五輪と世界選手権の金メダリスト川井梨紗子(女子フリースタイル62kg級)ら、2020年のエースがアジアの頂点に挑む。
そして、柔道は日本をはじめ、韓国・モンゴル・カザフスタン・UAE・中国など“世界の強豪”が犇めく。2020年へ向けて、日本代表はその世界最高レベルと言われる戦いを制することが至上命題とされている。
男子の注目はリオ五輪金メダリストのふたり。73kg級の絶対王者・大野将平と90kg級のベイカー茉秋。さらに成長著しい丸山城志郎と佐々木健志に、“2020年の星”と言われる100kg級飯田健太郎も最難関アジアの頂点を狙う。
女子は2014年世界選手権金メダリスト・近藤亜美が世界の強豪が揃う48kg級の女王なるか!?78kg超級では注目の17歳・素根輝が2015年と2017年の世界選手権金メダリスト于頌(中国)に一本を決められるか!?

女子野球ワールドカップ2018                                            ~マドンナジャパン世界6連覇へ×稲村亜美密着取材~

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2018年8月31日(金)よる7:00~8:54

女子野球ワールドカップ2018 順位決定戦 (決勝もしくは3位決定戦)
2018年9月1日(土)午前7:00~9:29 ※最大延長11:00まで

☆マドンナジャパンが前人未到の世界6連覇に挑む!

女子野球の最高峰、ベースボールワールドカップ。現在5連覇中の侍ジャパン女子代表が、大会6連覇の偉業を目指しアメリカ・フロリダの地で戦いに挑む!
世界一を経験しているベテランから、成長著しい若手まで現時点で最強のメンバーをそろえたマドンナジャパン。投手陣は、里投手(愛知ディオーネ)、清水投手(アサヒトラスト)、田中投手(尚美学園大学)らを軸に世界の強打者たちに立ち向かう。打撃陣では、力強いバッティングが武器の三浦選手(京都フローラ)、川端選手(埼玉アストライア)、そして、粘り強さを活かした出口選手(ハナマウイ)、船越選手(平成国際大学)らに期待がかかる。
番組では、8月22日に開幕する女子野球ワールドカップで熱戦を繰り広げるマドンナジャパンの活躍をダイジェストでおおくりする。最大のライバルは、過去3大会決勝で対戦しているアメリカ。マドンナジャパンが前人未到の6連覇を果たすことは出来るのか!?
8月31日(金)よる7時からの「~マドンナジャパン世界6連覇へ×稲村亜美密着取材~」では、予選ラウンドからスーパーラウンドまでのダイジェストに加えて、大会前合宿のマドンナジャパンに稲村亜美が密着取材。最強マドンナジャパンの活躍と素顔に迫る。
9月1日(土)午前7:00からは、「女子野球ワールドカップ2018」の決勝もしくは3位決定戦をオンエア。日本代表が進出したほうを放送する。決勝の場合は生中継、3位決定戦の場合は同日録画放送でお送りする。


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バルタンの呟き №39 [雑木林の四季]

               「1945・8・15 あの日僕は・・・」

                             映画監督  飯島敏弘

 昭和20年8月15日正午。僕は13歳、旧制中学の一年生でした。前日から予告されていた玉音放送(NHKラジオ)で、上御一人の声を、初めて耳にしていました。まだ民間放送は開局していませんでしたから、あの時刻、ほとんど全国民がNHKラジオに齧りついていた筈です。
 その年の3月10日に、米陸軍巨大爆撃機B29三百余機による帝都東京焦土化の軍民無差別の盲爆で、僕は本郷の生家から焼き出され、次いで避難先の大塚で4月13日、さらに5月25日のダメ押しの絨毯爆撃で小石川の避難先からも焼け出され、その家主の焦土化した広い敷地内に辛うじて焼け残った土蔵に留守番がてら住まわせてもらっていました。祖母、両親と兄弟妹5人の一家8人から、大学生の長兄が学徒動員で海軍省理事生として入寮、高校生だった次兄が特別幹部候補として飛行基地で特攻出撃待ち、国民学校5年の弟は、僕が中学進学のために帰京した後も学童集団疎開のまま残留、未就園児の妹は、空襲が頻繁になる前に、祖母に連れられて父方の田舎に預けられていましたから、その時は、両親と僕がお蔵の板敷き二階に上敷きを敷いて雑魚寝という、一家離散状態の生活を強いられている最中(さなか)最中でした。

 その日以前に、玉音放送が予告された時点で、父親も含めて、すでに敗戦思想に取りつかれていた周囲の大人たちは、「日本は負けたのだ」と言っていましたけれども、精神棒で叩き込まれた神国日本思想にとことん染まっていた軍国少年の僕は、その時点でもなお、敗戦降伏などという事があるものか、と信じ切っていました。
 受信状態が悪かったのか、かなりひどい雑音の中から漏れ聞こえてくる現人神(あらひとがみ)現人神であった天皇陛下の聞き取り難い玉音を、直立不動で謹聴していた僕は、前段のやや難解な語句を、まったく迷いなく、徹底抗戦する臣民に対する督励のお言葉と受け止めていましたから、中段になって、はっきりと耳にした玉音の、
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・・」
の語句を聞いて、その主語が朕であることに全く気付かずに、
「ああ、懼れ多くも天皇陛下におかれては、自らの言葉を以て、我々臣民に対して、耐えがたく苦しい戦況をさらに耐え忍んで戦い続けよ、と仰せられているのだ」
と、一旦は、逆に受け取ってしまったのです。

 入学式を終えた直後の4月13日の空爆で、校舎、校地を全く焦土化されてしまった僕たちの府立第五中学校は、比較的近くにあった焼け残りの造兵厰(ぞうへいしょう)造兵厰(兵器工場)を仮教室にして授業が行われていましたが、すでにその時点で、僕が幼少のころから目指してきた海兵(海軍兵学校)の募集はもう行われない事が決まっていて、9月に繰り上げ入試と決まった陸軍幼年学校への受験を薦められて、市谷の陸軍司令部に願書を提出し、近づくその日に備えていた矢先の玉音放送でした。
 やがて、訪れてきた隣人や周囲の状況から、全面降伏だと知った直後の僕は何をしていたのか、今では全くといっていいほど思い出せませんが、ややあってから、夕食の準備にかかる母に促されて、七輪に火を起こしていた事と、1,500坪もあったこの家の広い庭の芝生を、集団疎開帰りの僕と特攻志願前の中学生の次兄が、万能(まんのう)万能と鍬を振るって開墾して植えた薩摩芋畑から、まだ人差し指ほどにしかなっていない芋を掘りだしてきた父親が、てんぷらを大量に揚げたことと、明るいうちから、土蔵の壁ぎわにトタン板を張り巡らせた中にドラム缶を置いた風呂を、母親が沸かすのを手伝って、やがて、近隣の人もまじえて、薬用アルコールか何か、正体不明確なアルコール飲料で、怪しげな酒盛りになったことを、漠然と憶えているのです。
 当時は、近くの焼け残った小学校の一部校舎に、首都警備の為か、一個小隊ほどの軍が駐在していて、我が家の隣り屋敷の焦土化した敷地内には、彼らの手で、かなりの人数が収容できるほどの半地下式防空壕舎が造られていたのですが、夕昏近くになって、その近くへ、薪にする為の焼け残った棒杭(ぼっくい)棒杭か、焚きつけ用の枝木を拾いに行った僕は、思わぬ、緊迫した光景に遭遇したのです。
 「ゆき!」
 「つき!」
なにか、くぐもった潜め声のやり取りが、僕の耳についたのです。
 「忠臣蔵?」
 僕は、時代劇の忠臣蔵討入りの場の合言葉を連想して、まさか、こんな時に、こんな所で、誰が酔狂な、と、自分の類推に苦笑しながら、声のした方を振り返って、思わず身を固めてしまいました。本当に、雪、月、と交わした二人が、壕舎から何か抱えて出て来た駐屯していた顔見知りのK少尉と、走り寄った一人の士官だったからです。二人は、緊張した面持ちで荷物を受け渡しながら、身を隠す間もなく棒立ちだった僕には眼もくれずに、走り去ったからです。
殆んど入れ替わりに、武装した下士官に率いられた、兵卒たちが駆けつけました。中に「豆ヘイタイ」もいました。毎晩のように我が家に忍んできては、「お母さん、豆ヘイタイです。豆ください」と称えては、空腹を満たすために、ゆでた大豆をねだった兵卒です。どこで聞いたのか、その大豆が、家主の屋敷の焼け跡から掘りだした、思いがけず大量の隠匿物資で、家主に交渉して近隣で分け合った大豆と知って無心しにきていたその情けない兵隊ほか数名の兵隊たちが、血相変えて壕舎に飛び込んで行ったのです。
 全貌は、翌日になってから解ったのですが、その半地下式の壕舎に置かれていた兵器を巡る、主戦派の将校士官たちと、終戦の命に服そうとする下士官以下の兵たちの対立だったのです。例の二人が持ち運んだ油紙に包まれたモノは、14年式と称される拳銃だったのですが、あとになってみると、あの時点で、「雪」だの「月」だの、忠臣蔵もどきの合言葉が生きたいたのですから、皇居目指して走り去ったあの主戦派の軍人たちに、あの圧倒的物量の米軍と、如何にして戦おうという成算が果たしてどの程度あったのか、今となっては、笑止、策のほどが思い知れます。
 「奥さん、やがて米軍がここへもやってきます。奴らは、必ず婦女子を暴行します。その時には、これを・・・」
翌日だったでしょうか。すでに事態は沈静化して、兵卒の姿は消えていました。居残っていた顔見知りのK小隊長が我が家に来て、「その時の自爆用に・・・」と置いて行った木箱入りの半ダースほどの、演習用のでは無く、実戦に用いられる重みのある手榴弾を前に、僕たち一家は、それをどう処していいのか見当もつかず、ただ眺めていました。
「取りあえず・・・」
と、家長である父親が決断して、庭の一隅の半焼けの梅の木の根方に穴を掘って、こわごわとして手つきで埋めるのを、母と僕は、ただ手を拱いて眺めていたような記憶があります。

昭和20年の8・15は、国民学校時代の徹底した少国民教育以来、中学でも、昨日までは、体育の時間には、授業もそこそこに、一人一殺と、上陸してきた米兵を想定して校庭に並べられた、案山子のような藁筒に突進して、銃剣を腰だめにして突きたてる教練や、投げ返されてしまわないように、着火後いくつかの数を唱えてから投げる手榴弾の投法を繰り返してきた軍国教育一辺倒だった僕の軍国少年の時代が、突如として終わった日なのです。枕元に脱いだ衣服を置き、寝床に入り、眼を閉じようとすると同時に、明日の生死を思う緊迫した夜が、突然、無条件降伏という、いいしれない不安感に変貌したのです。

 目標を喪い、抜け殻となった軍国少年の僕は、彷徨するしかありませんでした。それでなくとも、算術から代数への移行に親しめずにいた上に、昨日まで敵性言語と言って軽んじていた英語に急に比重がおかれ、やがて進駐軍の女性将校が学校にやってきて、担任の英語教師をそっちのけに会話授業を行ったり、急変貌をした中学校に行く意欲が無くなってしまったのです。目標を喪った僕は、乏しい食料をあれこれ工夫して、母が作ってくれる弁当をカバンに入れ、登校する心算で家を出るものの、学校へ行く気にもならず、最寄り駅で買った一区間だけの切符を手に、時折車内を巡回して来る車掌の眼を掠めつつ、山手環状線に乗ってぐるぐるとまわっては、時間を潰して、家に帰ったものでした。今でいう不登校生になっていたのです。
 最悪の記憶は、漫然として、上野駅で降りて、馴染の深い上野の山の西郷(隆盛)さんの銅像の前で、母親苦心の高粱めしの弁当を開きかかった途端に、いきなり目の前に手が伸びてきて、弁当を掠め取られ、逃げ去ろうとする同年輩の浮浪児に追い縋って睨みあった時の、あの、死を覚悟するほどの殺気立った睨みあいの惨めな記憶です・・・・これが、誇りある皇国の、少国民の終焉でした。
 しかし、その後間もなく、英単語カードを繰って暗記に励む山手線循環からの景観で、僕の眼を捕えたのが、戦後いちはやく結婚式場として名乗りを上げて、「全国の花嫁さん花婿さん・・・駒込角萬」と呼び掛ける立て看板に続いて眼に飛び込んできた、ある花やさんの看板です。そこには、「Say it with FLOWERS」と、書かれてありました。
この一句が、いま評判の本、「君は どう生きてゆくのか」でいう、僕にとっての、コペルニスク的転回、をもたらした一文でした。この一文で、僕は、少国民教育の呪縛から解放されたのです。

この日本に、アメリカからの大波が、民主主義と文化を載せて寄せて来たのでした。そして、この大波は今、高潮と変じて、日本に何を・・・

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医史跡を巡る旅 №42 [雑木林の四季]

「西洋医学事始め」~兵庫、そして神戸。前篇

            保険衛生監視員  小川 優

今回の医史跡巡りは兵庫県が舞台です。まず最初は神戸から。

神戸は横浜や函館と並び、幕末に開港された町として栄えました。外国人居留地ができ外国人が増えると、やはり必要となるのが西洋式の病院。明治2年(1869年)にはアメリカ人医師ヴェダーを迎え神戸病院が開院します。

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「神戸病院」 ~神緑会館展示物より複写

当時撮影された神戸病院の写真には、手前に番所と道標が移りこんでいます。

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「神戸病院跡」 ~兵庫県神戸市中区下山手八丁目

今でもこの石柱は現存しており、病院があった場所が推定されます。坂を上った丘の上にあったことがわかります。
院長のヴェダーは元アメリカ海軍の軍医で横浜で開業していましたが、体調不良のため早々に同じくアメリカ人のハリスに替わりますが、彼もほどなく出勤しなくなり、さらにオランダ人医師ヘーデンに代わります。

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「神戸病院前にあった道標」 ~兵庫県神戸市中央区下山手八丁目

この石柱は道標であったらしく、「左再山道」としたためられています。神戸高速鉄道の西元町駅の近くです。
もともと神戸病院には、日本人医師の養成という目的もあり、明治9年(1876年)には病院の中に医学教育のための医学所が開設されます。現在の神戸大学医学部のルーツといわれます。医学所は明治15年(1882年)、東大医学部出身の神田知二郎を学長に迎えて県立神戸医学校となります。

「学士神田知二郎君記念之碑」
安政元年(1854年)、京都府相楽郡白栖村の医家に生まれる。12歳の時に父親が死亡、苦労するが明治13年東京大学医学部本科を卒業する。卒業後姫路病院の院長に就任、明治15年には県立神戸病院院長、神戸医学校校長となる。

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「学士神田知二郎君記念之碑」 ~兵庫県神戸市中央区楠町七丁目

神田知二郎は明治22年、肺疾患で36歳(満34歳)で夭折します。彼の死を悼み、功績をたたえる内容の碑が、神戸大学医学部同窓会神緑会館の校庭にあります。もともとは楠寺(広厳寺)にありましたが、平成13年神緑会館竣工の際に構内に移設されました。
県立神戸医学校は甲種医学校として医師を輩出しますが、官立医学校の整理統合を進める国の施策により、明治21年に閉鎖を余儀なくされます。
その後しばらく空白期間が続きますが、長く続いた戦争による医師の不足を補うため、昭和19年に県立医学専門学校として復活、県立医科大学、神戸医科大学を経て、昭和39年に国立神戸大学医学部へと移管されます。

さて、神戸から一旦離れます。

兵庫県西宮市名塩は、神戸から六甲山をはさんで北東方向、三ノ宮から電車で1時間かかりません。今でこそ大阪、神戸のベットタウンとして変貌著しい地域ですが、もともとは紙漉きで名の知れた静かな山郷でした。

江戸時代末、ここ名塩の人で億川百記という人がいました。彼は医師を志して大阪で蘭学を学びます。そしてその時の縁で長女、八重が大阪適塾の創始者、緒方洪庵の妻となります。

「億川百記墓」
天明8年(1788年)生まれ。大坂の中天游の私塾で蘭学を学んだ際に緒方洪庵と知り合い、娘を洪庵に嫁がせる。洪庵に対しても経済的支援も行った。また大阪適塾から塾頭を務めた伊藤慎蔵を招き、名塩の名士弓場為政とともに名塩蘭学塾を開かせた。元治元年(1864年)、77歳で没。

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「億川百記墓」 ~兵庫県西宮市名塩 名塩墓地

億川百記の屋敷跡、つまり緒方八重の生家跡は、現在JA兵庫六甲名塩支店になっています。そしてその建物の前庭には、緒方八重の胸像があります。

「緒方八重像」
文政5年(1822年)摂津有馬郡、現西宮名塩出身。億川百記の長女として生まれる。天保9年、緒方洪庵と17歳で結婚。7男6女をもうける(うち4人は幼没)。病弱な夫、緒方洪庵を助け、大阪の蘭学塾である適塾の寮母的存在で、塾生から慕われた。明治19年、65歳で死去。明治に活躍した医師の緒方惟準は洪庵、八重の次男。
「緒方八重像」

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「緒方八重像」 ~兵庫県西宮市名塩 JA兵庫六甲名塩支店

胸像の下の石碑には「蘭学の泉 ここに湧き出ず」と記されています。ここは八重さんの生家跡であると同時に、最初に名塩蘭学塾が開かれた跡でもあるのようです。
狭い名塩地区ですが、ほかにも歴史に名を遺す人物がいます。
少し時代が下がって、明治9年。ここ名塩に上中啓三が生まれます。後に高峰譲吉とともに研究に携わり、アドレナリンの抽出と結晶化に成功しました。

「上中啓三翁顕彰碑」
明治9年(1876年)、有力な紙漉元の家に生まれ、10歳にして大阪のミッションスクールであった大阪泰西学館に入学。卒業後には薬の町、大阪道修町の薬品会社に奉公するが、明治24年(1891年)一念発起し大阪薬学校に入学、さらに東京大学医科附属薬学専科に進学して日本における薬学研究の開祖である長井長義教授の指導を受ける。卒業後は内務省の東京衛生試験所に入所したが、職場の体制や仕事の内容に失望、渡米し研究活動を行っていた高峰譲吉を紹介され、明治32年(1899年)彼のもとに赴く。明治33年(1900年)、高峰博士と共に牛の副腎からアドレナリンの抽出、結晶化に成功。その後もアメリカで高峰の研究を助けるが、大正5年(1916年)に帰国、高峰が初代社長となった三共株式会社に入社、昭和8年(1933年)に監査役を退くまで勤めた。昭和35年(1960年)、83歳で死去。

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「上中啓三翁顕彰碑」 ~兵庫県西宮市名塩 教行寺

彼が記録したアドレナリンの実験ノートが、碑のある教行寺に保管されており、日本化学会が選定する日本化学遺産第2号に登録されています。

名塩を離れ、後半では有馬温泉を経由して神戸へ戻ります。

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いつか空が晴れる №41 [雑木林の四季]

    いつか空が晴れる
         -高気圧ガールー
                      澁澤京子

 今年の夏の暑さといったら、最大級の高気圧ガールがやってきたんだろうか?

この歌が流行っていた頃、渋谷の街には茶色く染めたマッシュルームカットと裏返しにしたような色のアロハシャツを着た男の子、ターコイズや貝のネックレスをつけてサーファーパンツを穿いている髪の毛の長い女の子だの、サーファーファッションの若者が、夏になるとたくさん歩いていた。
サーフボードを持っていた友達も結構いた(ただのファッションとして持っていただけの友人も多かったような)
私はウィンドサーフィンで一人沖に流されて怖い思いをしたことがあっただけ。
学生のときはもっぱら潜るだけのダイヴィングに夢中になってた。

夏と、なだらかな曲線を描く白い砂浜と青い海が、若い女にたとえられるのは分かるような気がする、急に変わる天候、何事もなかったかのように再び照りつける夏の陽射しの強烈さは、気性の激しい魅力的な若い女のようだ。

Kという女子美から来た友達と二人、西表島でキャンプしたことがあった、長いキャンプ生活、人が入れ替わり立ち代わりでちょうどKと二人だったのだ。
誰もいない海岸で、私はKと二人で海に潜ってはシャコガイを採ってきて、貝を焼くために焚火した。Kが溺れそうになりながら採ってきたシャコガイはスイカほどの大きさもあったと思う、焼きあがった貝にお醤油を落として食べるととてもおいしくて、お腹いっぱいになるほど二人で貝を食べた。

Kのお父さんは生物学者だった。(Kのお父さんの教え子にはどうぶつ奇想天外というテレビ番組で有名になった爬虫類の専門家がいた・・)そのせいか、彼女は魚や爬虫類、昆虫にはとても詳しかった。小田急線沿線の山の中の一軒屋に住んでいること、屋根裏部屋に青大将がとぐろを巻いて住み着いていたことがあったこと、Kがバックパッカーで歩いたインドの事、ゴアの海の話・・二人で並んで海を見ながら、そんな他愛のない話をしていた。
夕方で、沖のかなたに黒い雲がポツンと浮かんでこちらに近づいているのが見えた。近づくにつれて、その黒い雲の下だけ雨が降っているのも見える。ああ、面白いね、といっているうちにやがて雲の下になってあたりが暗くなり、ざあっと激しい雨が降ってきた。
夕立はあっという間に上がって、私は再びKと並んで座って海を見ていた。

Kは目の大きい、小麦色の肌をした美人だった、ルソーの絵の「蛇使いの女」に似た、神秘的で野性的な変わり者の女の子で、蛇やカエルなんかは平気で素手で捕まえてくるようなところがあった。Kは私と気が合ってよく一緒にいろんなところに行ったものだった。Kはよく、しょうもないような男の人を好きになったりしていた。蛇や昆虫を平気で捕まえたり、インドを一人で歩き回るほど自由奔放で気が強くても、基本的には浮世離れした世間知らずの女の子でとてもシャイだったのだ・・

一か月ほどいた沖縄から帰ってきたら髪の毛はまるで染めたように茶色くなっていた、潮と陽射しによって髪の毛が変色してしまったのだ。

あるとき、Kと何かのことで口論になった、絶対に妥協しないKは私に連絡してこなくなった、そして私も連絡しなかった。そして私はそれっきりKに会ってない。どんなことで二人が喧嘩になったのかはさっぱり覚えていない。きっと他愛もないことだったのだろう、と今は思う。


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梟翁夜話(きょうおうやわ) №21 [雑木林の四季]

英文法《ターヘル・アナトミア》

                          翻訳家  島村泰治

私は近ごろしきりに学校英語の功罪を思うことが多くなった。「Let's Learn English」(戦後、新制中学が発足して初めての国定教科書)から始まったわが英語歴は、学校英語のお陰と思える部分に比べて、そのせいで徒労を重ねた部分の多さを振り返って、しみじみ思いに沈むのだ。

そんな只ならぬ学校英語への負の情念から、私はいま一書を企んでいる。文部省いや文科省の指導要領の縛りを解き、英文法を改めて腑分けして、易しかるべき英語の習得に新しい道標(みちしるべ)を設けようという気概だ。題して英文法《ターヘル・アナトミア》、杉田玄白の独白「櫂もなく舵もなくして大海に乗り出でる思い」をシェアしようという思いである。

わが細(ささ)やかな学校英語功罪論には、ひょんな経緯(いきさつ)がある。ネット上の英語話しで、一冊の本を巡ってこんな例句を引き合いに出したのが始まりだった:

 a gorgeous book
  a gorgeous book on the table
  a gorgeous book my father bought me

日本語にすれば変哲もない「素晴らしい一冊の本」についての三つの修飾型で、そんじょそこらの子供がこっくりできる内容だ。ただし日本語なら、の話しだ。これが教室での英語授業となると話しがガラっと変わる。形容詞、形容詞句、形容詞節という重々しいジャーゴン(業界用語)が被(かぶさ)って、中学校では三つの学年に振り分けられる。理由は至極簡単だ。詞句節を同時に教えることはできぬ相談だ、と端から決めて掛かるからだ。果たしてそうか。修飾・被修飾の世界には同じ空気が流れているではないか。

私は英文法《ターヘル・アナトミア》なる一書にすでに《まえがき》を用意している。煩を厭わず引用させていただく:

まえがき
あなたは英語で苦労していますか?まだ始めたばかりの人、もう関係代名詞だの仮定法だの、うるさい言葉に悩まされている人もおられるでしょう。私は傘寿を三年過ぎてもう八三才になる翁(おきな)です。英語歴は半世紀余、英語の苦労もあなたより何倍もしてきました。英語学習の獣道(けものみち)に迷い込み、回り道を無駄歩きもし、いま思えば、ああすれば近道だったのにとしきりに悔(く)やむのです。

そうだ、これから英語を勉強する人たちのために、獣道にだけは迷い込まぬように、格好な道標(みちしるべ)を立てよう。そう思い立って書いたのがこの本です。題してターヘルアナトミア(https://int.search.myway.com/search/GGmain.jhtml)、杉田玄白や前野良沢たちの苦労に肖(あやか)って、英文法を思い切って腑分けしたものです。あなたの知っている英文法はここにはありません。

この本では、櫂(かい)や舵(かじ)のない船で大海に乗り出した玄白の気持ちで、英文法を人体に準(なぞら)えて、骨格をシンタックス構文として「つくり」と名付け、血液やリンパを動詞に譬え(たと)えて「ながれ」とし、臓器の機能をまとめて修飾・被修飾として「かざり」と呼んでいます。それぞれの絡みで英語という言葉が働いているという考えから、英文法を語っています。無機的な学校英語から抜け出た新しい勉強法ですから、頭を空にして読んでください。きっとあなたの英語に命が通います。
(引用終わり)

先の三つの例句が切っ掛けになって発想したこの一書は、私としては乾坤の一滴といえる意欲作だ。この《まえがき》を読んでわが愚妻曰く、とても子供たちには読めまいと嘆くが、私はそうとも言えぬと思う。学校英語の悪しき洗礼を受けた人に懐旧の思いで読んでなど欲しくない。学校英語で悩む学生たちに教科書と読み合わせて貰いたい。何ほどかの子供たちが、教科書を離れてこの一書を介して英語征服への捷径を見つけてくれれば、私はそれに過ぎる悦楽はない。

さてさて、能書きが過ぎたようだ。熱波も日を追って静まり、木々の様を見れば秋はもう門口に来ている。頃はよし、念を入れて英文法の腑分けに取り組もう。どんな書に仕上がるか、お代は見てのお帰りだ。その節にとくとご覧じあれ。

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検証 公団居住60年 №16 [雑木林の四季]

4.家賃現行支払いから裁判提訴まで

           国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 建設大臣が1978年2月27日に家賃値上げを承認すると、公団は3月に各戸に配達証明つきで値上げを通告してきた。9月からほとんどが上限7,000円の値上げだった。これには全国20万世帯が「不同意署名」でこたえた。公団は、値上げ幅の縮減、実施時期の延期などには応じたが、自治会・自治協との協議・話し合いは拒みつづけた。これを実現するために、自治協は「家賃の現行支払い」を居住者によびかけた。借家法は、賃料の増額について当事者間の協議が整わない場合は裁判が確定するまでは断額を支払えば足りると定めている。しかし家賃の現行支払いをするには、改定額が銀行口座から引き落とされないよう自動振り込みを事前に解約して持参払いに切り換えておく必要があった。8月末までに値上げ対象の60%の約21万世帯、多摩地区では85%におよぶ33団地、27,536世帯が公団に「現行家賃支払い通告署名」を提出した。公団からは記入欄が2つある家賃通帳がとどき、改定額を消し従前家賃額を記入して持参払いをした。
 公団は77年12月から支社長名で家賃値上げ実施の78年9月にかけ、値上げの理由や内容、措置等についてのビラを10回近く全戸配布し、79年1月になると「万一お支払いいただけない方には、訴訟でもって解決することになります」、2月には「家賃改定には、借主の同意とか協議は必要ありません」「周囲の運動に惑わされず、ご自身の責任と判断でお支払いを」「改定家賃を支払った団地から住宅修繕、特別団地環境整備をおこないます」といった懐柔、脅迫めいたビラも十数回にわたって全戸にまきつづけた。
 79年2月にはいって公団は、現行支払い世帯にハガキで「裁判にかける」と通告し、沢田悌公団総裁は国会で「裁判で決着」を表明した。これにたいし全国自治協は、公団からの提訴を待つより、居住者が原告となって公団家賃の値上げの不当性を追及する裁判の提訴を新たによびかけた。各団地自治会、地方自治協は精力的に検討し新提案を確認、原告を選出し、原告以外の居住者は「改定家賃の暫定支払い通告」を公団におこなった。
 1979年5月18日、全国124団地から259人の原告団が編成され、安達十郎弁護士を団長に60人の弁護団を擁して、東京、千葉、浦和、横浜、名古屋、大阪、奈良神戸の8地方裁判所に「家賃債務不存在確認請求」の訴えを起こし、家賃裁判運動がスタートした。東京地裁では、東京23区、多摩を中心に北海道、宮城、北九州等の各自治協、42団地自治会から86人(最終的に90人)の原告団が結成された。

『検証 公団居住60年』 東信堂

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渾斎随筆 №14 [雑木林の四季]

小鳥飼 3

                            歌人  会津八一

 最初来た時は、まだ至って若鳥で、南方から船で神戸へ着いたばかりのところを、波止場で買ひ取って来たといふことで、船底で鸚鵡や何かの鳴聲を覚えて来て、毎日午頃になると、それをしきりにやつてゐた。それが柄になくうまいものであった。するとある日、ある経験家がやって来て、一とくさりそれを聞いて、鳥が鳥の眞似をやつてゐるうちは問題にならない。それをやめてからでないと、ほんとに人間の眞似は出来ない。それが出来なければ九官などとは云はれない。と云ほれてみると、なるほど、支那では「秦吉了」といふ鳥である。俗書によると、昔その名を某九官といふ支那人が、一羽の秦吉了に自分の名の「九官」を、よく教へ込んだのを携へて長崎へ来た。そしてそれを日本の通事に見せて、こいつがこの通り自分の名を申しますといった。それを思ひ違って、鳥の名にしてしまったのが起りだといふから、九官といふ以上は、いくらか人間の言葉も知らなければならぬといふ理窟にもなる。しかしそれよりも、鳥の聲を開いて人が楽しむものならば、人の言葉を習って鳥が喜ばぬこともないかもしれぬと、とにかく内でも教へることにした。
玄人のする方法としては一と言葉をを二十回も、しかも毎日それを繰り返して云ひ聞かせるのだといふが、そんなことは、とてもしてゐられないので、「御早ウ」とか、「今日ハ」
とかいふのを、一度にいろいろと矢胆早につづけて教へることにした。初めはたゞ黙って開いてゐるだけであったが、しばらくすると、ぽつぽつ云へるやうになった。が、かうした気短かな教へ方のためか、それとも個性とでもいふのか、この鳥は、こちらで云へといふのを除(よ)けて、その次、その次と、一つ後れに答へるやうになってきた。「オ早ウ」といふのに「ハイ」はやさしくてよかったが、「今日ハ」といへばいつも鵬鵡返しに「左様ナラ」と来るのは、大にひねくれてゐて苦笑の至りであった。十(と)言ばかりを覚えると、時としては当意即妙、時としては言語道断、時としてはまたとんちんかんを極めたものだが、しかしながら彼の最も誇とすべきは、一言も人の口眞似をしないところにあった。これはまことに感心で、これならば世話の仕甲斐もあるといふものであったが、こちらにそんなことに凝ってゐる暇があるわけではないから、自然その辺でやめてしまった。しかし語学に油の乗りかけた此の天才は、それからは、教へもせぬことを、ひとりで覚え初めた。朝早く目をさますと、窓の上げ下げの滑車の音を、しばらく「キリキリ・キリキ
リ」とやる。やがて御用聞きが来て元気よく「今日ハ」といへば、すぐ「ハイ」と答へて、それから「アノ今日ハネイ」と何か註文でもするやうなことをいひっづけるし、私が大聾で「オイ・オイ」と呼べば、いつも人間よりもさきに「ハイ」といふ。私の外出の時に、玄関のたたきに立つ靴の音がすると、「行ッテラヅシャイマシ」といふ。或は私が御客を食堂へ案内して、主客が卓に着くと、間髪を容れず「ドゥゾ」といふ。そして此時、悪くすると、「食べタイノ」と失礼なことをいふ。そしておまけに、鳥の癖に、何が可笑しいのか、高聾で笑って笑って、しばらくは笑ひやまない。いつか或る精神病の医者が訪ねて来て、應接間で私と何か民芸の話かなにかしてゐると、急に板戸のあちらから、この高笑ひが起った。それを黙って聞いて居たこの医者は、病院へ帰ってから、落合でも本物を一人預かってゐられると語つたといふ。後でそれをほかから伝へ聞いてこんどは私が大に笑ったことがある。
 とにかく私のこの鳥には、思慮といふほどのものは無いのかも知らぬが、少くもその場合場合に應じるだけの勘があって、その勘で物を云つてるらしい。一口にいへば、それまでのことであるが、考へてみるに人間の言葉なども、一日中の大部分が、たいていその場合場合の御座なりで、機械的と云つてもいいのが多いのでは無いか。朝の挨拶は斯う云ふものだと教へられれば、暴風雨でも、吹雪でも、或はあひ手が大病でも、遇へはかならず簡革にグッド・モーニソグとしか云はない。そこに希望を寓してあるのだといっても、そんな風には受取れない。こんな具合に、まるで動きの取れない、時としては思慮の働いてゐるとも思はれないことを、御互に平気で云ひ交してゐるので、挨拶も口上も大体は版で刷つたやうである。そしてそれが版で刷つたやうである。ことに学問と名がつけば、大にあたまの働きが必要であらうから、九分九厘まで、他人の意見の暗誦や、請売りなどであってはならない。もし実際そんな風であったとしたら、九官鳥の浅薄はかりを嗤ってもいられないであらう。九官を物眞似の名人だなどと、感服するにしても冷笑するにしても、人間の方がやはりその方面では、一等の名人ではないか。
 むかしは十姉妹を飼って、やうやく萬有の化機を黙契したといふ私も、一たび九官を貰つてから、こんな風に、だいぶあからさまに物を考へさせられるやぅになった。
 私の歌に
   このごろ は ものいひさし て なにごと か 九官鳥 の
   たかわらひ す も
といふのがある。この高笑ひは、私の飼ってゐるやつを、実際に一度聞いてゐる人でないと、歌としては少し突然で、或は不自然なくらゐに響くかも知れぬ。だからある批評家が、これをば、老いたる作者の詩懐の物凄さといふことに節してゐられるのは、一應尤もではあるが、実際あれを聞かれたら、その批評家は、私よりも此の黒装束の皮肉屋を、より多く恐れられるであらう。                  (昭和十六年三月三日稿)


『会津八一全集』 中央公論社


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私の中の一期一会 №171 [雑木林の四季]

    気温40度超え、気象庁は「命に関わる危険な暑さ」として注意を呼び掛けた
    ~台風12号は東から西へ、「今迄の経験が通用しない可能性がある]と気象庁~

              アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 今年の夏も例年通りの酷暑が続いている。梅雨明けが例年より早く、猛暑日が何日も続いているから、熱中症への注意が毎日のようにテレビから流れてくる。
 それにしても‟今年の暑さは異常だな”と感じた人は私ばかりではないだろう。
 今月23日、埼玉県熊谷市で日中の最高気温が摂氏41.1度に達し、観測史上の国内最高記録を更新したというニュースを耳にした時、私は「異常気象」という言葉を思い浮べていた。
 2013年8月12日に高知県四万十市西土佐江川崎で記録した摂氏41.0度が、これまでの国内最高だったから、5年ぶりの記録更新だったことになる。
 23日は、東京青梅市で40.8度、岐阜県多治見市で40.7度、山梨県甲府で40.3度と、40度を超えた地域が多かった。この日は全国で3564人が熱中症で救急搬送されている。日本列島はまさに灼熱地獄の様相であった。
 2018年7月23日は、4カ所で国内最高記録を更新していたことになる。
  事態を重くみたのだろう。気象庁の竹川予報官はこの日の夕方緊急記者会見を開いて、連日の猛暑を「命に関わる危険な暑さで、一つの‟災害”と認識している」と説明して、改めて熱中症など健康管理への充分な注意を国民に呼び掛けた。
 この日NHKの首都圏ニュースは「各地で命に関わる危険な暑さになっていて、連日、熱中症とみられる症状で病院に搬送される人が相次ぎ、死亡する人も出ています」などと繰り返し報じた。
 地震や津波、大雨ばかりが自然の脅威ではない、異常気象も間違いなく自然の脅威であり、「災害」と考えて欲しいという訳である。
 課外授業に参加した愛知県の小学1年生の男の子が17日、熱中症で死亡したというニュースは痛々しかった。厳しい暑さの中を屋外授業のため公園へ行き、学校に戻ったあと男の子は意識を失ったという。すぐ病院に搬送されたが死亡が確認された。死因は熱中症であった。
  熊谷市で41・1度が記録された日、三重県松阪市の住宅で80代の女性が倒れているのが見つかって救急搬送されたが、病院で死亡した。家族の話では冷房を使っていなかったという。死因はやはり熱中症だった。
 みずほ情報総研が平成26年に調査したデータによると、高齢者は節約を意識する人が多く、うちわや扇風機で暑さをしのぐ傾向が強いという。
 節約意識を持つ人を年代別にみると,20代は18%、30代~50代は30%、60代35%、70代以上は39%となっている。年齢の高い世代ほど節約意識が強いのが分かる。
 テレビのニュースでは高齢者が熱中症になり易いからと、高齢者に向けては頻繁に注意を呼び掛けることが多いが、子どもを持つ親にも注意を呼び掛けるようになってきた。
 専門家によれば、子どものほうが大人よりも熱中症にかかりやすいということだ。
 子ども、特に乳幼児は汗をかく機能が未発達のため、大人に比べ体温調整が上手くできない。
 背も低いから地面からの照り返しをもろに受けてしまう。身体に熱が溜まって体調を崩すのだ。
 夢中で遊んでいるから体調の変化にも気づかないのだろう。身体に熱がこもって体調が悪化しても、おかしいと訴えることも上手に出来ない。周りの大人が気付かなければ熱中症になってしまうのだ。
 消防庁は24日に今月16日から22日までの一週間に熱中症で救急搬送された人数を発表している。
 それを見ると、全国で2万2647人を病院に運んでいた。だがこれは速報値で、4月30日から熱中症による救急搬送を初めているので、24日までに消防庁が把握している累計人数は4万3813人になるというから驚きだ。
 熱中症による死亡者は24日迄に65人、3週間以上入院が必要だった人は685人に上っている。
 24日から1週間経過した今日31日、この数字は増えている筈である。
 我々は「命に関わる危険な暑さ」という表現が、決して大袈裟ではないと認識すべきだと私は思った。
 7月21日から24日まで行われる予定だった京都祇園祭の花笠巡行が猛暑続きのため中止になった。
 花笠巡行には毎年300人近い子ども、お年寄り、着物姿の女性など多くの参加者がいるという。
 今年は子供の親たちから「参加を遠慮したい」という申し入れがあったそうだ。
 主催の祇園祭花笠連合は「安全性を考え中止を決めました」と話していた。参加者ばかりでなく沿道の観衆にも命の危険がある訳だから賢明な決断だったのではないだろうか。
 高校野球京都大会では23日、猛暑対策として3時間ほどの昼休みを導入して話題になった。
 一日4試合の予定を第2試合のあと、第3試合の開始を2時間半ほど遅らせたのである。
 このため第4試合は午後7時半開始のナイターになった。試合終了は夜10時半過ぎになったが、「いい判断だった」と称賛の声が多かったという。
 球児たちは暑さに慣れているだろうが、スタンドで応援する生徒たちにとっては地獄になる。「立ってるだけで身体がおかしくなる。野球どころじゃない」と考えるほうが正常なのである。
 高齢者や子どもばかりが熱中症になるとは限らない。若くても熱中症になる危険は同じなのだから・・
 8月5日に開幕する夏の甲子園大会、今年は100回の記念大会だが、高野連がこの25日に異例の熱中症対策を発表した。
 1)選手と先導役は高野連が配布する水入りのペットボトルをポケットに入れて開会式に臨む。
 2)プレー時間が長くなったら試合を中断、水分補給のための休憩を入れる。
 3)理学療法士がベンチで選手の水分補給を確認する・・・というもの。
 これを知った教育評論家の尾木ママは「水をたくさん飲もうとか、延長になったら休憩をとろうなんて、そんなアホなんじゃなくて、思い切ってドームにするとかの安全対策を真剣に考えるべきだ」と批判したという。高野連に柔軟性があるとは思えないが、委員会を立ち上げて真剣に検討せよと批判した。
 とにかく今年の暑さは異常だ。命に関わる危険な暑さなのだから・・「災害」だということを考えるべきだと私は思っている。
 28日から月末にかけて本州に接近してきた台風12号は、一言で言えば「ヘンな台風」に思えた。
 北上してきた台風が日本列島に近づいてから、太平洋側に沿って次第に進路を変え西に向かって進んだからだ。
 気象庁は「これまでの経験が通用しな可能性がある」と発表して、厳重警戒の呼び掛けている。
 南海上で発生した台風は反時計回りに回転しながら西へ進んで中国大陸方面に向かう。次に偏西風にのって北上しながら日本近海に進んでくるケースが一番多い。
 調べてみると、東から西へ移動する台風は初めてではないのだ。
 06年7月25日、台風7号が関東に向かって北上してきたのに、突然、鹿児島の東海上方向に進路を変えた。以後西寄りに進み周防灘を通過した。確かに東から西に向かっていたのである。
 台風は気圧配置によって進路が変わるので、必ず西から東へ進むと決まっている訳ではないのだ。
 台風12号は九州地方で南に向きを変え、屋久島付近でさらに一回転して東シナ海方面へ向かうようだ。
 予報によれば、東シナ海は海面温度が高いので、台風はで再び息を吹き返し再発達するという。
 やはり「ヘンな台風だな」と私は思う。
 明日から8月、猛暑はまだまだ続くという。気持ちが萎えるが耐えるしかない。
 

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パリ・くらしと彩の手帖 №137 [雑木林の四季]

新しい美術館がどんどん生まれています。

                在パリ・ジャーナリスト  嘉野ミサワ

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マイヨール美術館で開かれているジャコメッテイ展覧会から。一番下はベートーベン

フランスではいま新しい美術館が次々に生まれている。一つの町には少なくとも一つぐらい無ければ、とか、このくらいの街ならもう少し他の分野のもつくるべきだとか言うようになってきたのだ。 
そうなるとある作家が生まれた所とかいろいろな理由をつけるのだ。展覧会を見せてくれる。その街かむらとなにか関係をもった作家が有名ならばなおいい。この村にもまずひとつは、ということである。その結果当然のことながら、展覧会が断然増える訳だが、これもまた結構なことだ。
今年の豊作はなんといってもピカソ。フランス全国では70以上の展覧会が見られたと言う。もちろんこれは70の展覧会のためのコンセプションのものであってできあがった展覧会が色々の町を巡ったと言う意味では無い。それに、フランスでは観たいものが有ればその為には汽車に乗っても観にいく人がたくさんいるのだ。それにしてもその作家が素晴らしい事と、その展覧会の発想も見事で見学する人が急増したり閑古鳥に取り憑かれたりといったことでこれを観に来る人の数は激変するから最初の記事を出す人は要注意だ。この所長いこと低迷していたマイヨール美術館でのジャコメッテイ展覧会は、美術に関心あるフランス人達を眠りから目覚ませたのだ。そして今ケースはたっぷり膨らんだ。いままで少々控えがちだったことも思い切って前進することにしたと言う説明をする人も出て来た。その真偽は別としてもこちらにとってこんな良いことはないのだ。世界の彫刻家の中でも恐らくもっとも価格のたかい、一刻も早くその美術館を作って欲しいひとりだったからだ。1900年の前半にスイスからパリにやってきた彫刻家だ。作家のジャン・ジュネとは気があって、この人だけはこの彫刻家のアトリエにいつでも入って行けたと言う。彼が人体を彫刻するとそれは一本の鉛筆のようになってしまう。余計な物を全部とってしまう、と言うことか、それとも彼にはそれが現実だったのだろうか。彼のアトリエに、街で体を売る女達が入って来ると彼にとって清々しい真っ白な空間になったと言う。こうして疲れるとアトリエを出て、モンパルナスを行く。彼のアトリエのあるところはラスパイユ通りモンパルナス通りがすこし静かな街に変わり始める通りだ。その境目くらいにあるのが、有名なキャフェレストランのドームだ。昔からこの辺りに通っていた世界の浮浪者のアーテイスト達の巣になっていたから、そう言う作家がいつも座った席には名前があった。いまでもつけてあるだろうか。でも、今日の主人公はここに入って来ることはない。私の住んでいた家から1足のここに来ていつも夜中にコーヒーをのんでいた私たちの眼の前に来て電信柱に抱き付くこの彫刻家はすでに涙に濡れているのだ。その儀式が終わるといつももう少し遠いキャフェ レストランのクーポールに向かうのが常だった。このあたりに住んだ2年間ではずいぶんといろいろなものを見聞きしたし、ひょっとすると此方も些かおかしくなっていたかもしれない。ジャコメッテイならずとも生命のギリギリのところで生きている人たちの世界のことである。そのアトリエが急に美術館に変わって、建築家は花模様を散りばめた。そのそぐわなさが気にかかる空間である。良い作品がいくつか置かれていた。これから更に充実することだろう。もう少し経ってから見にくる方がいいと言う声も聞くが、それでもやっぱり早い方が良い。美術館だって成長するものだから。

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浜田山通信 №222 [雑木林の四季]

全国高校野球大会

                      ジャーナリスト  野村勝美

 全国高校野球大会は今年で100回になる。戦争中は工場動員で野球どころではない。私は中島飛行機の下請け工場で零戦のプロペラ削りをしていた。
 幼いころから野球少年だった。近くのお寺のお兄ちゃんが「野球界」という雑誌をとっており、見せてくれた。プロ野球はできたばかりで人気は六大学中等学校野球。海草中学の島投手は憧れの的だった。ある日近くの川原で遊んでいると島田商業(静岡)の一言という当時全国的に名の知れたピッチャーが姿をみせ、キャッチボールを始めた。その球の速いこと、とてもおそろしくてバッターボックスに立てないと思った。福井商業のグランドはスタンドもある堂々たるもので、県内外の中学野球部が練習試合に来た。左翼の方で見ていると外野手がものすごいスピードでボールを追ってくる。その迫力に驚いた。
 というわけで、昭和17年福井中学にはいると、キャッチボー-ルをしたのを先輩が見つけて野球部へ入れと強要された。身体は同年の一年生より頭一つ分大きかったし、といって入学早々野球漬けになるのは勉強にも差しつかえると思ったが、当時先輩に逆らえるものではなかった。あの頃一年上の先輩には態度が大きいと下校時によくなぐられた。 
 私に与えられたポジションは三塁手。毎日毎日バント処理の練習だった。先輩が手で転がすボールを猛ダッシュして一塁に投げる。これはこたえた。中学一年といえば、身体はまだ出来上がっていない。ぐったりして帰宅する私を見て、父が学校へ文句をいいに行き私は一か月ほどで野球部をやめた。
 そんなこともあって、中学4年で戦争は終わり、翌1946年、5年のとき、野球部を再建した。今度は最高学年、いばったもので、あれこれ下級生をシッタ激励した。全国中等学校野球大会も復活。福井県予選の出場校はたったの4校。敦賀商業のグランドで行われた。当時敦賀まで行くのが大変で、まだ北陸トンネルもなく山の中をスイッチバックをくり返して2時間ほどかかったはずだ。野球用具は中学が空襲を免れたのと近くの実業団チームの古いものをゆずってもらった。
 出場校はわが福井中学と敦賀商業が第一試合、福井商業と北陸中学が第二試合。第一試合のスコアは
   敦商 0 2 0 0 2 6 12  0 7       29
  福中 0 0 1 0 3 0  2  0 0        6
 とにかく5回までは同点、この同点は私が左越えのスリーベースを打ったもの。NHKがラジオ中継放送していたので福井じゅうが大騒ぎだったと、翌日校長が朝礼でほめてくれた。
 敦賀商業は戦前からの強豪校。この年も北陸代表で西宮球場での復活第一回大会に出場した。たしか後に慶応に行った平古場左腕を擁した浪商が全国制覇した。72年も昔の話、復活第一回、翌年から学制が変わったので中等学校大会の最後だし、ちっぽけなエピソードにもならない話だが、私にとっては懐かしい思い出だ。
 昔と全く違う猛暑の中、球児たち、応援の人たちの無事を祈りたい。

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徒然なるままに №38 [雑木林の四季]

また“八月”を迎えた 

                               エッセイスト 横山貞利

 今年も、また「八月」を迎えた。あの戦争が終結した「八月十五日」を想い出す。あれから73年になるのか・・・。
 73年前、即ち1945年(昭和20)8月15日の正午、ラジオの前に一家6人が正座して「玉音放送―天皇陛下の放送」を拝聴した。拝聴したと言っても、放送内容を全く理解できなかったので父親に訊いたところ「戦争に敗けた」と知らされた。子ども心にも「戦争に敗けた」ことが何となく哀しくて、裏の畑に出て真っ蒼な空を見上げると赤みかかった黄色の向日葵の花びらが蒼空と素晴らしいコントラストを描き出して目に焼き付いてきた。あの凄惨ともいえるショットを73年後のいまも瞼に描き出すことができる。何という印象的な光景であったろうか・・・。
 この日、わたしは国民学校(現在の小学校)の2年生で夏休みだった。わたし自身直接戦争の惨禍を見知っていたわけではない。しかし、叔父一家が東京から疎開してきたので防空壕が狭くなり、裏の畑に新しい防空壕を作るため大きな穴を掘り始めていたのだった。
 父は、変電所に勤めていたので軍需要員として徴兵を免れた。因みに、長野県松本市にあった「50連隊」は1944年(昭和24)8月2日に、テニアン島で玉砕した。高校時代から親しい上條竹芳くんのお父上は34歳で召集されてテニアンで亡くなっている。上條くんは、土屋文明に師事したアララギ系の歌人である。
 
上條竹芳 三首
  戦没者 春分慰霊祭に雪が降る ただしんしんと日もすがら降る
  戦死して 天皇の子になりしといふ 親の記録を読めば空しき
  相次ぎて我より若き人逝きて 町会の端役ひとつ引き受く
                   (7月17日の手紙より)

 故秋山ちえ子さん(1917年~2016年)が、TBSラジオで「秋山ちえ子の談話室」を放送されていた頃、毎年8月15日には自らの朗読で「かわいそうなぞう」を放送されていた。わたしは、この「かわいそうなぞう」を何度か聴いた。この「かわいそうなぞう」の物語は、太平洋戦争が激化していよいよ米軍の本土空襲が開始される見通しのなかで、東京・上野動物園の動物たちの飼育不能になった。このため、三頭の象―ジョン、トンキー、ワンリーの「最期の姿」を土家由岐雄が描いたものである。いま、わたしはこの3頭の象の名を書いただけで、とてもそれ以上書くことができない。
 そこで、TBSラジオ編成部に問い合わせたところ、最近は「大沢悠里のゆうゆうワイド土曜版」(毎週土曜日15:00~16:50)で、8月15日前後の土曜日に放送されているそうである。今年も8月15日前後の土曜日に「秋山ちえ子の談話室―かわいそうなぞう」として放送されるだろう。是非聴いてみてほしいと思う。わが家には秋山ちえ子さん朗読のCD「かわいそうなぞう」があるがとても聴く気力がない。多分、今後も聴くことはないだろう
  CD「かわいそうなぞう」 金の星社刊

 去る7月27日、沖縄県知事の翁長雄志さんが前知事時代に出された「名護市辺野古の沿岸部埋め立て承認」を撤回する手続きに入ることを表明した。

   ここはどこだ
      詞 永 六輔  曲 いずみたく 歌 デューク・エイセス

   ここはどこだ  いまはいつだ
   なみだは かわいたのか
   ここはどこだ  いまはいつだ
   いくさは  おわったのか

   ここはどこだ  きみはだれだ
   なかまは どこへいった
   ここはどこだ  きみはだれだ
   にほんは  どこへいった

   流された血を
   美しい波が洗っても
   ぼくたちの島は
   それを忘れない
   散ったヒメ百合を忘れはしない
   君の足元で戦いつづける
    (以下略)
      「ユリイカ」 特集 永 六輔―上を向いて歩こう
      (2016年10月1日 発行)
       より
   

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BS-TBS番組紹鴎 №167 [雑木林の四季]

BS-TBS 2018年8月のおすすめ番組

                             BS-TBS広報宣伝部

超豪華!真夏の輝き!完全生中継!長岡大花火2018

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2018年8月3日(金)よる6:30~9:24
☆日本三大花火大会に数えられる本大会を生中継&4K収録!
司会:関根勤、古谷有美(TBSアナウンサー)
ゲスト:平原綾香、長谷川健一(花火の駅 長岡花火ワールド悠 館長)
日本三大花火の一つに数えられる長岡まつりの大花火大会。夏の夜空に大きく華開く、正三尺玉3連発や打上げ幅約2kmに及ぶ復興祈願花火フェニックスは大迫力。BGMには平原綾香さんの曲「Jupiter」が使用されとても感動的。

大人のワイド!ウィークエンド・ラウンジ

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2018年8月4日(土)よる7:00~8:54
☆“トメさん”こと、福留功男の名司会が一夜限りで復活!政治からエンタメまで、幅広いジャンルを軽妙洒脱なトークで展開。
司会:福留功男、長岡杏子(TBSアナウンサー)
ゲスト:残間里江子(フリープロデューサー)、玉村豊男(エッセイスト)、マライ・メントライン(ドイツ人ジャーナリスト)
福留功男の名司会が一夜限りで復活!「大人のワイド!ウィークエンド・ラウンジ」は、大人のためのワイドショー。政治・経済から生活・エンタメ情報、さらには骨太のドキュメントまで、様々なジャンルから最新の話題をチョイスし、番組独自の切り口でお届けします。司会の福留功男とともに進行役をつとめるのはTBSアナウンサーの長岡杏子。残間里江子、玉村豊男ら、コメンテーターたちとのスタジオトークにも注目。
▼オトナのみなさんに聞いた“いま、あなたがコワいのは何ですか?”ランキング
▼自民党総裁選の舞台裏 かつての“料亭”政治は今…
▼日本一おいしい!ミルクジャム その秘密
▼“空き家列島・ニッポン” 立ち上がった男たちの激闘 ほか
世界一周魅惑の鉄道紀行 「アジアの休日2時間スペシャル」
2018年8月6日(月)よる7:00~7:54/8:00~8:54
☆宇梶剛士はウズベキスタン、小倉久寛はカンボジアへ!
■午後7:00~7:54

アジアの休日2時間スペシャル「追憶のシルクロード 蒼穹のサマルカンドへ!」

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旅人:宇梶剛士
ナレーター:福山潤、青山優子
シルクロードの要衝・タシケントを首都とするウズベキスタンのオアシスを求めて、宇梶剛士さんが旅します。超特急列車アフラシャブ号に乗って、英雄ティムール王によって再建された「青の都」、サマルカンドへ。レギスタン広場に建つ神学校は、見どころ満載!三蔵法師も訪れたというサマルカンドを代表する建築物、ティムール一族が眠るグル・アミール廟の青のモザイクは、圧巻の美しさ。歴史ロマンが詰まったシルクロードの旅へ!
■午後8:00~8:54
アジアの休日2時間スペシャル「神々の聖地 アンコール・ワットへ!」
旅人:小倉久寛
ナレーター:福山潤、中村千絵
カンボジアの世界遺産、密林に眠るアンコール・ワットへ。地上と天上界を結ぶかつての王都。多くの謎に包まれた巨大遺跡群に小倉久寛さんが迫ります。観光拠点、シェムリアップで様々なスパイスを使った伝統的な料理を堪能した後は、アンコール遺跡群へ。ゾウやトゥクトゥクでの移動は、旅の思い出になること間違いなし!アンコール・ワット最大の魅力、回廊を埋め尽くすレリーフには壮大な物語が!アンコール王朝、夢の跡地へ!


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バルタンの呟き №38 [雑木林の四季]

          「著作権侵害とオマージュ」 

                            映画監督  飯島敏弘  

 TBSが日曜日夜9時からの日曜劇場でオンエア、好評を得ている連続テレビドラマ実写版「この世界の片隅に」が、エンドロールに「Special thanks to 映画「この世界の片隅に」制作委員会」という標記を入れたところ、アニメ版劇場映画「この世界の片隅で」製作委員会が、「ドラマの内容・表現等につき、映画に関する設定の提供を含め、一切関知しておりません」という声明を公式サイトで発表したという記事が、先日の朝日新聞に載っていました。ネットの上でも、話題になっているということです。
 同記事によると、TBS広報部は、朝日新聞の取材に対して「(エンドロールの表記は)先行して公開されたアニメ映画への尊敬の念を表記したもの」で、「(ドラマは)原作漫画(こうの史代)を実写化したもので、外部の時代考証専門家の指導のもと独自に制作している」と答えた、とあります。
 ボクは、映画、テレビドラマの双方とも見ました。テレビドラマは第二回までですが、アニメ映画は、いまだに、独立系の映画館などで上映されている話題作です。製作委員会が、この時点でそのような見解を公式サイトに載せたのは、テレビで同じようなものを実写版で放映されたのでは、今後の上映(興行)に影響すると見て、両者を峻別しようと試みたと思われます。
 テレビドラマを見て、アニメ版を見た人たちから両者の類似点が幾つかあるという声も上がっているようですから、この先、問題がどうなって行くのか、著作権の侵害にまで、論議が発展して行くかもしれません。テレビドラマ側は、当然原作者からテレビ化の許諾を受けていると思いますが、なぜ、アニメ映画の製作委員会との接触なしなのに、special thanksなどという語句をタイトルロールに載せたのか、そのへんの行き違いを確かめなければ、一概にどちらがどうという訳にはいきません。「尊敬の念」という曖昧な答えでは、全く説明になりませんし、この問題の解決には何の役にも立たない言い訳にしか聞こえません。

 僕自身が関連した似たようなケースに、2013年第66回カンヌ国際映画祭審査員賞を受賞して大ヒットした、是枝裕和脚本監督「そして父になる」という劇場映画があります。受賞が話題になり、日本国内でも繰り上げ封切りして、ロングランを続け、併せて国内の映画賞も受賞、福山雅治・尾野真千子、真木ゆう子、リリー・フランキーというキャストの魅力もありの結果ですが、それが今回の是枝監督の「万引き家族」同映画賞のグランプリ、金熊賞獲得の基盤になったと言われる作品です。
 映画が封切られた時に、僕の耳に、「以前、あなたがプロデュースした連続テレビドラマと、そっくりだけど・・」というご注進があったのです。さっそく劇場で観たのですが、なるほど良く似ています。見ようによっては、著作権の侵害に当たると思われるほど、良く似ていました。
 僕がプロデュースした作品とは、木下惠介プロダクション制作(製作・松竹テレビ室)で、TBSからオンエアされた、毎週水曜日の木下惠介アワー枠の「わが子は他人」(1970・4月~9月)脚本田向正健 監督木下惠介ほか 出演松山省二・音無美紀子・杉浦直樹・林美智子です。
 木下惠介アワーには、それまでに「記念樹」「三人家族」「喜びも悲しみも幾歳月」などのヒット作話題作があり、「わが子は他人」も当時高視聴率を得た番組ですから、ごらんになって、ああ、あれか・・」と思い出される方もいらっしゃると思います。企画を持ち込んできて脚本化したのは田向正健さんですから、いわば原作者です。みずからけっぱりと称する頑固な人でしたから、ご存命だったら何かおっしゃったかもしれません。実際にあった、産院の赤ちゃん取り違い事件を取材して発想したオリジナル脚本でした。取り違えを知らずに育て上げたわが子は、実は他人の子であった、でも、育て上げたこの子も、わが子なのだ・・・」というテーマは同じです。監督が木下惠介さんですから、色合いはどちらかと言えば「そして母になる」でしたが。育ての母の愛、生みの母の愛の葛藤が、主題です。「そして父になる」が、育ての父の葛藤ですが、まあ、確かに、筋立ては、そっくりと言えばそっくりです。是枝監督が「わが子は他人」をご覧になったかどうかわかりませんが、プロデューサーだった僕にはもちろん、著作権者である木下惠介プロダクションにも、なんらの連絡も無かったようです。一時、「困ったことになったな・・・」と思いました。著作権の侵害は、当該著作物の存在を「知らなかった」では済まされないからです。とはいえ、「そして父になる」は、作品としてばかりではなく、歌手の福山雅治が演技者として本格的に取り組んだ点でも話題になっていましたから、此処で著作権問題を提起すると、マスコミにとって願ってもない好材料にされてしまう可能性がある、と考えたからです。とはいえ、脚本の田向正健さんがオリジナルとして書かれたものである以上、すでに、亡くなっているとはいえ原作者ですし、もし侵害しているとすれば、プロデューサーであった僕としては、看過するわけにはいかないだろう・・・と。

 その時に、ふと思い出したのは、僕が木下惠介プロに出向して間もなく、差し向かいのお酒の席で、木下惠介監督の叙情作として名高い映画「野菊の如き君なりき」の話しになり、いろいろ撮影当時の興味深いエピソードを伺っているうちに、その後、各映画会社、テレビプロダクションが競うように、新人スターを売り出すたびに、伊藤左千夫「野菊の墓」を原作として制作(中には「野菊の如き君なりき」というそのものの題名で)映像化しているけれども、木下惠介監督に許諾を求めて来たり、タイトルを載せたりしたものがないようなお話だったので、お酒の勢いもあって、つい小賢しくも、「そうですね、だいたいが伊藤左千夫の「野菊の墓」(1906)も、ジョン・ゴールズワージー「林檎の樹」(1916)そのものですからね・・・」とやったのです。口に出してから「しまった!」と思ったのですが、後悔は先に立たずで、案の定、木下さんから、「君、それは違いますよ。あれはぜんぜん別ものです。ちゃんと読んで御覧なさい!」ぴしりとやられてしまいました。僕が、なぜそんな話を持ち出したかというと、「林檎の樹」も、老人の若き日の述懐から始まり、彼の若き日のふとした出来心の恋愛を描き、それに想い出の枠をはめて、青年の感じやすく、移ろいやすい心理を、一篇の美しい物語【詩編】にしているところが、「野菊の墓」とほとんど同じ構成で、その後数えきれないほど作られた「都会の学生と田舎の少女の恋心とその後の運命の変転」をストーリーにする「ひと夏のラブストーリーもの」映画の定番のような存在になっていたからです。前掲した年代通り、調べて見れば、恥ずかしい事に、「野菊の墓」は、「林檎の樹」よりも先に発表されているのでした。木下さんが全然違う、と仰ったのは、勿論発表年代ではなく、作品の意味するところの違いだったのですが。
 もし、あえてその両者の淵源を求めるとすれば、ギリシャ悲劇エウリピデスの「ヒポリタス」にまで遡らなければならないのです。「林檎の樹」の冒頭に、「黄金なる林檎の樹、美しく流るる歌姫の声」と「ヒポリタス」の詩編をオマージュしているからです。

 そこで、「わが子は他人」と「そして父になる」の問題に戻ってみて、はたと思い当たったのは、マークトウェインの「王様と乞食」(1881)です。日本では、巖谷小波が翻訳して「乞食王子」(1899)として大評判になり、その後「入れ替わり」ものの元祖のように、枚挙に遑がないほどの類似作品が登場している事実です。
 そう考えて見ますと、「わが子は他人」も、産院の赤子取り違い事件を取り上げてはいるものの、かなり濃密に「入れ替わりもの」の常道を踏んでいるのですから、「本家」ではあるにしても、ひょっとすると、「元祖」ではないのかもしれないのです。
 もし、ここで、本気になって「そして父になる」が「わが子は他人」の原作著作権を侵している、と主張して争うならば、相当のエネルギーと、確固たる勝算がなければ、単に芸能ジャーナリズムの喜びそうな騒ぎを起こすだけに終わるだろう、と判断したのです。
 「わが子は他人」以後、TBSからオンエアされて人気番組になった山口百恵主演「赤いシリーズ」の中の「赤い運命」も取り違い事件ですし、「古都」も怪しい、と百家争鳴になること必定なのです。
 ただ木下各品以後たびたび制作された「二十四の瞳」で、坪井栄原作だけを表示して、何の断りも無しに「僕の書いた脚本の部分を平気で使う」神経には、木下惠介さんは、しばしば憤慨しておられました。
 我田引水になりますが、僕(筆名 千束北男)のバルタン星人などは、special thanksどころか、全く存じ上げないカレがどれだけ登場している事か・・・
 Special thanks to 「映画この世界の片隅に」のタイトル表示が、ほんとうにオマージュなのか、視聴率獲得のための動機、なのかが議論されるべきであって、原作者がアニメ化とテレビドラマ化の権利を振り分けて双方に許諾しているのであれば、まったく著作権的な問題でなく、双方の営業的問題ではないかなという所が、僕の結論です。如何でしょうか・・・


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台湾・高雄の緑陰で №23 [雑木林の四季]

           中華人民共和国の焦り

                 在台湾・コラムニスト  菜に 聡明

 戦後台湾を中華民国国民党政府(簡称:国府)に長期台湾統治を許した日本本土占領軍のマッカサー司令部は国府軍が228事件で台湾人を擬日本人とみなして殺戮を始めた際、国府主席の蒋介石が更に台湾へ増援軍を送ることを止めず、結果として其の事件で2万8千人の台湾人が殺害された過去があった。私はマッカサーはその責任を問われるべきであると台湾の新聞社へ投書したことがある。今でも私はアメリカは台湾人への償いとして、民主台湾を共同で共産中国の併呑から守る義務があると考えている。
 米国はソヴィエトロシアを牽制するため、領土問題で中露関係が悪化していた中華人民共和国政府を篭絡して親交を深めていたが、1979年に国府と断交して中華人民共和国と国交を結んだ。全球化(Globalization)を提唱した米国は中国が西側諸国と貿易を促進する事によって得る富で民主化へ転向することを期待し、西太平洋の要に位置する台湾を無視する政策を取るようになった。だが、平和建国を唱えて各国と経済交流を進めた中国は国家資本主義で得た巨額の富を行使して軍事強国を目指し、更に2015年には習近平が2013年に提唱したアジアとアフリカの発展途上国家に援助資金をばら撒く「一帯一路」と呼ぶ経済侵略政策を実行にうつしたのである。
 2016年にトランプ氏がアメリカ大統領に就任すると中国が軍事と経済で世界制覇を目指していることを痛切に感じ、台湾の存在を重視するようになり、2018年に対中経済制裁に踏み切った。米中貿易戦争は現在進行中である。近年来成金で偉ぶっている中国は米国とその同盟国との貿易戦に怯まず反撃に出ているが、そのうちに青息吐息をするのは必定である。トランプ氏は同盟国である民主諸国家にも貿易不均衡の理由で制裁を加えると恫喝したが、その後EUの代表やカナダ政府との折衝で制裁は緩和されるはずだ。米国が同盟国と中国を同一視するのは無理で軽率でもある。
 私が注目したのは西太平洋の要に位置する台湾の戦略的重要性を米国が再認識したことである。米国は1980年に国内法として「台湾関係法」立法したが、2016年に大統領に当選したトランプ氏は台湾からの祝賀國際電話で蔡英文氏を総統と呼称した。2018年、米国国会は米台政府高官の相互訪問を許す「台湾旅行法」と国防に必需の武器を台湾へ売却する「国防授権法」を立て続けに立法した。また公海である事を証明する目的で米駆逐艦が台湾海峡を2度航行した。来る9月に台北市に新しく建築された広壮な「アメリカ駐台湾会館(AIT)」には米海兵隊員が警衛することに決まったが、それはAITが大使館並みの外交機関であることを意味する。
 米国の新しい対台湾政策に中国が苛立つのは当然だと考えられているが、台湾に対する中国の面あてと仕打ちは余りにも粗雑で滑稽でもある。中国政府は台湾へ向かう貨客機の目的地を「台湾台北」ではなく「中国台北」に改めるよう各国航空会社に強要;また4年前既に台湾の台中市で挙行することに決まっていた2019年8月の「アジア青年運動会」の取り消しを発表するなど、ヒステリーをくりかえしている。更に、台湾は祖先から残されたた国土の一部であるとして絶対に統一すると豪語、だが、その祖先が何者であるかは明らかにしていない。若しその祖先が欧亜大陸を一時統一した蒙古のジンギスカンであれば、ウラジボストックを含む東シベリヤやEUのメンバー国であるチェコ、オーストリヤ、ハンガリー、を含むEU諸国も祖先が残した領土であのだが、中国はその広大な土地を自国の一部として統一するとは言っていない。共産中国は弱肉強食のモデルである。
 対米、対欧、対日の貿易戦争で、敗退すれば中国は莫大な財政と投資資金を失い、世界経済制覇の夢を棄てて、軍事覇権の道を選ぶ可能性もあるが、私は米国がリードする民主国家はそのような事態の発生を防ぎながら、中国を國際公法と人権を守る民主国家へ転向させる努力を忘れてはならないと思う。ただ「天下統一」は古来China大陸の統治者の野望であったが、今では世界覇権に切り替えた中国と安価な妥協は絶対避けるべきである。

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いつか空が晴れる №40 [雑木林の四季]

   いつか空が晴れる
       -トッポ・ジージョ-
                              澁澤京子

 小学校三年くらいだったと思う、テレビでトッポジージョというネズミの人形のミュージカル劇の番組があって、山崎唯さんがトッポジージョ、久里千春さんが恋人ロージィの声で出演していて、私はその番組が大好きだった。
ボンジョールノ、ボンジョールノ、楽しい仲間たち、寂しいときはうちにおいでよ、トッポジージョ・・
・・暗い舞台、トッポジージョだけがスポットを浴びている。背景には舞台セットの街灯や青い月夜、トッポジージョの小さなベッドがあってそういう舞台のお芝居の独特の世界が好きだった。まつ毛がふさふさしているネズミの人形が恋人のロージィで、今見るとそれほどでもないけれど、その時の私はとてもかわいいと思っていた。

娯楽の少ない時代、その頃の小学生は、あとは土曜日の夕方に放映されるサンダーバード、日曜の夜のディズニーの国と、テレビ番組を今の子供よりずっと楽しみにしていたように思う。
テレビ局で働いていた父が、トッポジージョのスティール写真を持ってきてくれて、やはりトッポジージョの好きなI沢君に一枚あげた。I沢君は、ポケットに入るくらい小さいトッポジージョのゴム人形を持っていて、よく二人でトッポジージョごっこをして遊んでいたのだ、I沢君はいつもふざけてはしゃいでは先生に叱られているような男の子で、一人っ子だったせいか空想が好きで、私と遊ぶとき小さなトッポジージョの人形にもすぐに感情移入できる子供で、人形ごっこに没頭して遊べるような子供だった。

ある日、国語の授業だったと思う。中国の王様が湖に浮かぶ船に乗る話を読んでいたら、I沢君が突然、「僕の家の庭にも湖があって船もある。」と言い出した。ウソだ、というほかの子供の声に、I沢君は真っ赤になって本当にあるんだ、ウソだと思うなら僕の家に来ればわかる、と言い出して、とうとう何人かでI沢君の家に遊びに行くことになった。

I沢君の家は、急な坂の上にあった。庭は芝生になって傾斜していて下の方には池があって小さな船のおもちゃが浮かんでいた。
誰かが「これは湖じゃなくってただの池じゃないか。」と言い出した、
いや、これは湖だとI沢君は言った。
「おもちゃの船じゃないか、こんな小さな船乗れないじゃないか。」別の男の子にからかわれて、おもちゃじゃない、これは乗れる船なんだ、僕は本当に何度かこの船に乗ったことがあるんだぞ、とI沢君は顔を紅潮させてムキになって言い張った。

I沢君のお母さんが皆のおやつとジュースを持ってやってきた。
あまり大きな声で騒がないように、池に落ちないように皆注意して頂戴ね、というと夏のワンピースを翻して家の中に入っていった。ちょっときつい感じの美人のお母さんだった。さっきまで皆と騒いでやんちゃだったI沢君は急に大人しくなった。みんな一斉に静かになった。

たぶんI沢君は自分のおもちゃの船にトッポジージョの人形を乗せて時々遊んでいたのだ、確かに小さな人形から見れば、あの池は湖のように見えたに違いない。

それからしばらくして、I沢君はアメリカに行ったという話を聞いた。それからどうしたのかはわからない。
    

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梟翁夜話(きょうおうやわ) №20 [雑木林の四季]

「割れ鍋に綴じ蓋」考

                           翻訳家  島村泰治

古来この国には言葉を弄ぶ風がある。この国、など突き放すにはわけがあって、何時の頃からか私は、こと言葉については日本が別世界に見え、そこに生まれ育った好運を異常なまで強く感じる様になった。この国の人びとが言葉に殊更に霊異を見、怖れ、言祝ぎ、ついには弄ぶまでして生き様に織り込んできた豊かな感性が如何にも誇らしく、限りなく愛おしいのだ。

曰くを知らぬ外つ国人はあるいは言い募るかも知れぬ。「何を言うか、何が故の別世界か、かにかにの国も劣らず言葉への思いでは負けぬぞよ。」などなど。あるいはそうかも知れぬ。が、私如き言葉を操ることを生業とする者に言わせれば、日本語の言葉遣いからは他の言葉にない得も言われぬ生活臭が滲み出ると言いたいのだ。

生活臭などと異次元の言葉は甚だ迷惑と思われようが、取りあえずは言葉が人の生活に食い込んでいる度合い程度にご理解いただけまいか。その意味で日本語は別格だと言いたいわけだ。言霊レベルの感覚から駄洒落まで、日本語は滅法生体感が豊かに思えるのだが如何。

さて、割れ鍋に綴じ蓋という常套句がある。綴じが閉じでない処に工夫があり、どんな鍋にも綴じれば格好な蓋があるものだの理。転じて、何ごとにも相棒はあるものだ、と。これなど外つ国人にひけらかすに足る日本語の特性だろう。英語にも類は友、風なものはあっても、どんな娘にも婿は見つかる風な懐の深さはない。なまじ飜訳などという仕事をしていると、こんな妙な処に気を取られるのだ。それがまた言葉扱いの砥石にもなって、言葉選びや文章の含み、言い回しの妙などに神経を使うようになる。それがまた滅法愉しいという、思考のエンドレス・パターンになる。

割れ鍋からこんな連想も愉しめる。世に聞き上手と話し上手がある。鶏と卵とは違いどちらが先か分からぬことはない。明らかにこれは、聞き上手がいてこその話し上手だと考えるのが至当だ。よき聴衆あってこそ手練れの演奏家の芸が活きるの理だ。文筆家にしてもそうだ。よき読者に恵まれてその才が開き育つ。さて、いずれが蓋か、いずれが鍋か? 聞き上手がいてこその話し上手だと考えるのが至当というなら、その逆もまた真なり、聞き手が下手なら話し手も下手になる理屈だ。思えば、聴衆や読者は鍋で、演奏家やもの書きは蓋なのだ。お玉杓子の絡繰り(からくり)を知らぬ聴衆を前に難曲を弾く演奏家はおるまい。そんな聴衆しかいないとなれば、この演奏家は易しく耳障りのよい曲を選んで弾くようになり、やがて技も萎え果てる。もの書きにしても、文章の蘊蓄よりも物語の筋や陳腐な情感を追う読者しかいなければ、もの書きはいつか練文を忘れ安物ドラマ作家に成り下がる。

昨今の風潮を見る限り、文学の世界でまさにこの現象が進行中だ。言葉を綴る芸が文学ならいまの日本にはそれは何処にもない。筋書きや情感への偏りが過ぎて、いま、言葉を紡ぐ芸を愛でる『鍋』が不在だ。当然、まともな蓋たちは消滅したか、あるいは声なく息を潜めているのか。そう見透せば、なになに賞の不毛も手に取るように分かるのである。 

稀に見る酷暑も、大夏を過ぎてようやく和らぐ兆しがある。豪雨に酷暑と続き、被害の大きさに巷は唖然としている。不遜な譬えながら、私には割れ鍋の害が今次の天災の爪痕にも見えて慄然とするのだ。

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検証 公団居住60年 №15 [雑木林の四季]

3.大臣示唆から8年、公団初の家賃いっせい値上げ実施

            国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

 根本建設大臣が公団家賃値上げを示唆した1970年4月から7年たって、建設省は77年8月24日に新たに公団家賃の値上げ方針を公式に発表した。7年間値上げをくい止めてきたことになる。新たな値上げの理由に、政府も住宅宅地審議会もあげていた「既存住宅間の家賃の不均衡是正」は消えて、その非理に気づいたのか、不利とみたのか、「プール家賃」化をあげた。建設省によれば「新旧家賃の不均衡を是正し、高額化した新規住宅の家賃適正化を図るとともに、あわせて空き家解消等にも資するため」の方式と説明し、値上げ理由のあいまい化、追究からの回避をはかった。
 原価主義の公団家賃だから「不均衡」は当然生じるし、「是正」をいうなら不均衡の実態、家賃費目ごとの内訳が具体的に問われる。不均衡の内容さえ、はじめは「家賃額の格差」といいながら、「居住者間の負担の不公平」へとすり替えてきている。「プール家賃」に行きついたのは、家賃値上げの根拠、理由がしめせない自証ともいえる。
 建設省が家賃値上げを発表すると、全国自治協はこれに抗議声明を出し、各団地の自治会、自治協では、①新設団地の高家賃こそ引き下げよ、②政府の住宅政策の無策や公団のずさん経営のツケを居住者に押し付けるな、③値上げをいうなら積算根拠と使途をしめし、居住者・自治会と協議せよ、の要求をかかげて署名運動にとりくんだ。地元議会にたいしては家賃値上げ反対の意見書提出の陳情、各党国会議員への働きかけ、政府・公団交渉、抗議や要請の電話・はがき作戦など創意工夫をこらして活動を展開し、第8次全国統一行動をもりあげた。署名は552団地、32・7万世帯、97万人をこえ、カンパは8,307万円に達した。地方自治協ごとに決起集会をもち、10月13日
には日比谷野外音楽堂を6,350人の参加で満席にして、「公団家賃値上げ反対、国民本位の住宅政策を要求する」全国公団住宅居住者総決起大会をひらいた。大会のあと官庁街をデモ行進し、国会請願をおこなった。翌14日には公団、建設省、大蔵省、首相、衆参両院建設委員に居住者署名を提出、要請行動をおこなった。
 公団が12月に「値上げ予告ビラ」を全戸配布すると、わずか2週間で25万枚を回収し、12月22日に緊急集会をひらいて公団本社につき返し、桜内義雄建設大臣には値上げ案撤回を申し入れた。
 団地居住者の要求と運動は広く世論の支持をえた。東京都議会は77年10月に政府・公団への意見書を全会派一致で採択し、そのなかで公団の放漫経営を批判し、家賃変更については「当事者間の民主的協議による解決」を求めた。おなじ時期に各有力紙も社説をかかげ、「話し合いで解決を」(毎日10/23)、「公団は不信感解け」(朝日11/5)をよびかけた。
 こうした団地居住者の運動の高まりと世論の広がりのなかで、公団は78年1月6日、建設大臣に家賃値上げの承認申請(対象695団地、42万5,000戸)をおこなった。公団家賃は公共料金に数えられ、値上げには大臣承認を要した。公団の値上げ内容は、おもな点で当初計画を大きく変更せざるをえず、理由には「新旧住宅相互間の不均衡の是正」と「古い住宅の維持管理経費の確保」の2つをあげた。「プール家賃」は消えたばかりか、公団はわざわざ「今回の改定はプール家賃制ではありません」と書いたビラを各戸に配布した。
 全国自治協は公団が大臣に値上げ申請をすると連日、国会要請、建設省抗溝、数次におよぷ建設大臣交渉、住宅宅地審議会、自民党住宅対策特別委員会への働きかけをつづけた。こうした攻勢的な運動があって、法律案件でない公団家賃問題が通常国会の代表質問、予算委員会での質問にまで取り上げられ、78年1月24日の衆院、2月9日の参院の建設委員会では集中審議が実現、参院では全国自治協代表も参考人発言の機会をえた。そして各委員会=2月9日、政府と公団にたいし「国会要望」をまとめた。
 国会は全党一致して、①ガラ空き団地や長期未利用地問題の早期解決、②家賃制度の見直し、③家賃の激変緩和、老人、母子、身障者世帯等への配慮、④賃上げ増収分の主たる使途は修繕、⑤敷金の追加徴収中止、⑥入居者の意向を聞くなどの民主的配慮を、政府と公団に求め、公団の値上げ案に一定の修正をくわえた。そのうえで建設大臣は2月27日に家賃値上げを承認した。国会審議と要望決議により、.値上げ実施の2か月延期、敷金の追加徴収中止、値上げ対象団地の縮小などの条件付き承認となった。
 値上げ内容は、全国自治協と政府・公団との緊迫した攻防の末、①値上げ幅の削減(当初計画2~3万円を上限7,000円に、平均5,300円)、②値上げ実施の延期(78年4月→7月→9月)、③値上げ額3か月分の敷金追加徴収の中止、④特別団地環境整備費の政府出資(戸当たり25,000円)、⑤値上げ増収分の7割を修繕費充当などの変更をくわえた。こうして公団は初の家賃いっせい値上げを1978年9月1日に実施することになった。

『検証 公団居住60年』 東信堂
  

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