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私の中の一期一会 №195 [雑木林の四季]

      全英女子オープンに初出場で優勝した“スマイル・シンデレラ渋野日向子”
      ~「プレーオフしたくないから、ワザと3パットします」と言う新人類~

              アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 初めて出場した海外メジャーの全英女子オープンで、日本人として42年ぶりに優勝したプロゴルファー渋野日向子(20)が、一躍“時の人”になった。
 渋野日向子は、去年のプロテストに合格して,この19年シーズンはツアールーキーだが、早くも5月のワールドレディース・サロンパス杯(国内メジャー大会)で初優勝して頭角を表わしていた。
 国内で2勝、賞金ランク2位というルーキーらしからぬ成果を引っ提げて、初めて海外の試合に出たのが全英女子オープンという大舞台だったのである。
 海外では全く無名だから、“ヒナコ・シブノ”なんて誰も知らない。
 だが、そのヒナコ・シブノが初日に7バーディ、1ボギーの6アンダー66でホールアウトして、リーダーボードの上位に駆け上がったから海外のファンは驚いたのだ。
 渋野日向子は「10番で長いパットが入って勢いに乗れた」と振り返ったが、「正直ビックリ、何だか気持ち悪い」と笑ったという。
新聞記事でその発言を目にした私は、“この子は全く物怖じしない子なのかも知れないな”と関心を抱いた。
 海外メジャーが初体験というのに、一日中笑顔を絶やさず、TVカメラを向けられても気にすることなく駄菓子を口にするなんて、プレッシャーでしびれていたら出来ることではない。
 試合中にもギャラリーとハイタッチしてニコニコ。手袋やボールにサインして気易くプレゼンしてニコニコ。小さい子の頭をなでてニコニコ・・・
 その天真爛漫なキャラクターには、“初メジャーのプレッシャー”など、あまり関係ないように見えた。
 キャディとしてバッグを担いだ青木翔コーチ(36)は「特に作戦もありませんでした。経験を積んで欲しかったので、ありのままのゴルフで大舞台にぶつかって欲しかった。よそ行きのゴルフにならなくて良かったと思っています」と4日間を振りかえって語っている。
 予選ラウンドは優勝を狙える好位置につけていたが、最終目標は“来年の出場権がとれる15以内”と控え目であった。
 渋野日向子自身も「全てが経験、欲張らずに攻めのゴルフで、いいプレーを見せたい」としか話さなかった。
 18年のオフにタイ合宿には行ったが、海外経験はそれだけで試合の経験はなかった。
 試合に勝つことを求められて育つ選手が多いスポーツ界で、経験を積むため、無欲でありのままのゴルフを求める青木翔コーチは、次世代型の名伯楽かも知れない。
 笑顔を振りまきながら伸び伸びとプレーする渋野日向子は、2日目には海外メディアから「スマイル・シンデレラ」と名付けられ高感度の注目を集めるようになっていた。
“予選通過できればいいかな・・”と気軽だったせいか、3日目までは余り緊張はしなかったらしい。
 2位でスタートした3日目はさすがに少し緊張していたようだった。
 前半は1バーディ2ボギーとオーバーパーのゴルフで、スマイルも少なかった。、
 9番で3パットのボギーを叩いた時、流れが悪いと思ったのか、10番横の茶店に駆け込んでいる。
 ホールアウト後、「3パットのボギーが一番嫌いで“ブチッと切れた”」と白状していたが、結果的にここで間を取ったのが良かったらしく,直後にバーディが来て、終盤のバーディラッシュにつながった。
  ミスを引きずらず、すぐ気持ちを切り替えることが出来るのが渋野日向子の強みだと言えよう。
 気持ちの切り替えが速いのは、プレーにも表れている。
 彼女のプレーはペースが速い、決めたら迷いなくすぐ打つから見ていて気持ちがいい。
 スマイル・シンデレラは、3日目を終え14アンダーで2位に2打差の単独トップに立ち、最終日を迎えることになったのである。
 日本女子は樋口久子以来、何度も海外メジャーに跳ね返されてきた歴史がある。
 アメリカツアーで賞金女王になったこともある岡本綾子は、87年の全米女子オープンでプレーオフまでいきながら敗れて2位だった。
 日本で6度も賞金女王になった不動裕理も、08年の全英女子オープンで3日目まで首位だったのに、最終日に伸ばせず3位に終わった。
 宮里藍はツアールーキーだった06年、全米女子プロで最終ラウンドをトップでスタートしたが3位でのフィニッシュだった。
 12年の全米女子プロで宮里美香が惜しくも2位、昨年の全米女子プロでは畑岡奈沙がプレーオフで敗れ勝てなかった。
 手が届きそうでなかなか届かないのが、海外メジャーのタイトルであった。
 77年の全米プロで優勝した樋口久子以来42年振りの快挙成るか?・・日本では“期待で大騒ぎ”になっていた。
「明日は緊張すると思いますが、最後まで攻めて頑張れば優勝できるかもしれない。欲張らず・・攻めるのに欲張らずはおかしいですが((笑))でもしっかり攻めていきたいと思います」と語り、優勝なんて考なかったので「緊張しなかった」と答えている。
 最終日のスマイル・シンデレラは、65と猛追してきたリゼット・サラス(米)と17番を終わって17アンダーで並んでいた。
 渋野日向子は18番の2打地点でグリーンが空くのを待ちながら駄菓子を口に入れる(余裕?)があったのだろうか。
 「プレーオフはしたくないから、ロングパットになったら、ワザと3パットします」と青木コーチに言ったというから驚く。
 解説の樋口久子が“新人類だ”と言っていたが、確かに昭和世代には理解できないメンタルの持ち主だと私も思った。
 18番の6メートルのバーディパットは,カップの壁に当って小さくハネてカップに消えた。
 勝った瞬間「ちょっと泣きそうだったが、涙は出てこなかった」と渋野は笑った。
“スマイル”で世界中から注目を浴びた渋野日向子は42年振りに快挙を成し遂げ、スマイルだけではなく実力の持ち主であることも証明した。
「シブコ・フィーバー」・・・
 私が今一番気になっているのは、日本国内の“熱狂ぶり”である。
 帰国早々に出場した日本ツアー「北海道meijiカップ」は“疲労無視”の強行出場であった。
 この試合は38度の発熱などコンディションは良くなかったが、4アンダーの13位タイと健闘した。
 予想されたことだが、大勢の報道陣が渋野日向子の一挙手一投足を追いかけたのである。
 テレビカメラも密着して渋野から離れない。記者・レポーターの過熱ぶりには眉をひそめるものが多くあったようだ。
 ツアー関係者によれば、渋野個人に対する警備体制は、07年に高校生だった石川遼がプロツアーに優勝した直後に匹敵するという。要するに“異常事態だった”と言っていいだろう。
 渋野日向子は無名から突如有名人になって、プライベートまでマスコミがつき纏われるうのだからタマラナイ筈だ。
 休日まで追いかけられれば、スマイル・シンデレラだって「気持ちをコントロールできなくなるかも知れない」と心配になるのも最もだ。
 小泉新次郎と滝川クリステルの寿報道が出たとき「そっちに行ってくれって感じです」といったのは、まさに渋野の本音なのである。
 渋野日向子は、まだ20歳なのだ。彼女のいいところはオンとオフの切り替えが速いことだと言われているが、常に「スマイル・シンデレラ」でいなけりゃいけない・・なんて可哀想ではないか。
 青木コーチなど関係者はマスコミの恐さをよく認識して、“過熱取材”から“渋野日向子という宝”を守って欲しいと私は願っている。
 
 

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浜田山通信 №248 [雑木林の四季]

核禁止条約に署名・批准を

             ジャーナリスト  野村須美

 「悪夢を見るような民主党」といううまい表現がきいて選挙はアベ自民党が勝ったが、年をとると何とも気味の悪い悪夢をよくみる。何かの形をしているわけではないが、気色の悪いことおびただしい。八月はヒロシマ、ナガサキ、敗戦記念日と続く。ことしは韓国との問題が続いた。名古屋では少女像の展示に火をつけるという脅迫状がきて、河村市長はただちに撤去した。京都アニメーションの事件もあったのでびくついたのかもしらないが管理者としては情けない。
 アベさんも他人さまのこととなるとたとえがうまくなるが、自分のことには弁解さえしようとしない。8月9日ナガサキでの平和記念式典に参列しあいさつの中で「唯一の戦争被爆国として『核兵器のない世界』実現にむけた努力をたゆまず続けること。これは令和の時代においても変わることのない我が国の使命です。」といいながら、田上富久長崎市長の訴えた「日本は今核兵器禁止条約に背を向けています。一刻も早く条約に署名、批准してください。」には全く耳を貸そうとはしなかった。ただ「核保有国と非核保有国の橋渡しに勤め、双方の協力を得ながら対話を粘り強く促し、国際社会の取り組みを主導していく決意です」と述べるにとどめた。詭弁というほかない。
 自らが核の傘に入りながら何が核保有国と核反対国との橋渡し役になるというのか。どうして唯一の被爆国が核禁止条約を批准したら橋渡し役ができないのか。
 とにかくいまなお13880発の核兵器があり、アメリカとロシアは両国の間で締結している中距離核戦力全廃条約からの離脱を宣言した。核保有国はいまやイスラエル、パキスタン、インドなどにも拡がり、いつどこで核戦争が始まるかわからない。そうなれば地球は終わりだ。ローマ会議だかが、もう何十年も前から地球滅亡2分前とか3分前とか発表していたが、最近そんなニュースも見ない。恐怖の均衡が続いて皆疲れてしまったのだろう。
 だからといってこのまま放っておいていいわけではない。せっかく2017年に核兵器禁止条約が国連で採択されたのに、唯一の被爆国日本が署名も採択もしていない。これはどう考えても何度繰り返してもおかしい。日本はアメリカの属国だろう。なんだってアメリカの顔色をうかがい、終戦後74年間アメリカのいいなりになってきた。いいなりにせざるをえなかった。しかしせっかく国連が決めたのさえ何だかんだ屁理屈をつけて認めようとしない。
 私は毎晩のように悪夢をみる。脳の構造はひびが入ってきている。同じことを何度も繰り返す。しかし核禁止条約だけはなんとしても署名批准してほしい。
 プラスチックごみや地球温暖化、大問題が次々に地球を襲ってくる。もとはといえば人間の営為からきたこと。人間は反省、自己批判する能力を持っているのだからがんばろう。

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BS-TBS番組情報 №192 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年8月のおすすめ番組(下)

                 BS-TBS広報宣伝部

高嶋ちさ子 麗しのポーランド音楽旅

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2019年8月18日(日)よる9:00~10:54

☆高嶋ちさ子が、初めて訪れるポーランドで様々な音色に出会う

出演:高嶋ちさ子

今年、国交樹立100周年を迎えるポーランド。
日本人にはあまりなじみのない国に思えるが、実はピアノの詩人・ショパンの故郷としても知られる音楽の国で、近年観光客も増加中。果たして高嶋さんにどんな出会いが待っているのか?
高嶋さんが訪れるのは首都・ワルシャワ。ボタンを押すとショパンの曲が流れるベンチや、ピアノの鍵盤模様の横断歩道など、音楽の国らしい風景がある街中を散策。世界屈指の名門国立大学「ショパン音楽大学」では、音楽家を目指す若者に出会う。学生時代に留学していた高嶋さんも若者の思いに共感!?
世界遺産でもある古都・クラクフ。ここは、1222年創建の聖マリア教会から1時間に1回、ラッパの吹奏が町に鳴り響く。世界で最も古いとも言われるショッピングモールには50を超えるお土産店が。しばし旅を楽しみながらポーランドならではのお土産探し!
そして山岳リゾート・ザコパネ。代々ヴァイオリン製作に携わる工房を訪ねる。さらにヴァイオリンを使う地元の民族舞踊楽団を訪れた高嶋さんは・・・?知られざるポーランドの音色に出会います。

映画「日本のいちばん長い日」

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2019年8月17日(土)よる9:00~11:24

☆戦後70年を迎えた今だからこそ、伝えたい。1945年8月15日の知られざる衝撃の真実がいま明らかになる!

【キャスト】
役所広司 本木雅弘 松坂桃李 堤真一 山﨑努 神野三鈴 蓮佛美沙子 大場泰正
小松和重 中村育二 山路和弘 金内喜久夫 鴨川てんし 久保酎吉 奥田達士 嵐芳三郎
井之上隆志 矢島健一 木場勝己 中嶋しゅう 麿赤兒 戸塚祥太(A.B.C-Z)
田中美央 関口晴雄 田島俊弥 茂山茂 植本潤 宮本裕子 戸田恵梨香(特別出演)
キムラ緑子 野間口徹 池坊由紀 松山ケンイチ(特別出演)

【スタッフ】
監督・脚本:原田眞人
原作:半藤一利「日本のいちばん長い日 決定版」(文春文庫刊)
音楽:富貴晴美
2015年/日本

▼日本映画史に誇るべき衝撃と感動の歴史サスペンス超大作!
累計動員100万人を突破した大ヒット作品。史上最大の危機を迎えた日本で、一体何があったのか?2014年9月に宮内庁から発表された「昭和天皇実録」を踏まえ、これまで誰も描くことのなかった今だからこそ描ける歴史の裏側に迫る。
▼昭和史の大家・半藤一利の傑作ノンフィクションを原田眞人監督が完全映画化。
原作は大ベストセラーとして読み継がれる「日本のいちばん長い日 決定版」、さらには昭和天皇とともに戦争終結に導いた鈴木貫太郎の姿を描く「聖断」を参考文献としている。また、監督・脚本は社会派ドラマ「クライマーズ・ハイ」や、家族の姿を描いた「わが母の記」でモントリオール世界映画祭審査員特別グランプリに輝いた原田眞人が丁寧に描く。
▼日本を代表する最高峰のオールスターキャストが豪華総出演
役所広司、本木雅弘、山﨑努、堤真一ら実力を兼ね備えた豪華映画俳優陣に加え、松坂桃李といった若手人気俳優の共演も魅力。キャスト数だけでも総勢130名を超え、映画、テレビ、舞台、狂言界と様々なジャンルから実力派キャストが本映画に集結し脇を固めている。
【ストーリー】
太平洋戦争末期、戦況が困難を極める1945年7月。連合国は日本にポツダム宣言受諾を要求。 降伏か、本土決戦か―――。
連日連夜、閣議が開かれるが議論は紛糾、結論は出ない。 そうするうちに広島、長崎には原爆が投下され、事態はますます悪化する。 “一億玉砕論"が渦巻く中、決断に苦悩する阿南惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣(役所広司)、国民を案ずる天皇陛下(本木雅弘)、
聖断を拝し閣議を動かしてゆく鈴木貫太郎首相(山﨑努)、 首相を献身的に支え続ける迫水久常書記官(堤真一)。

サマーレスキュー~天空の診療所~

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8/14(水)スタート
月曜~金曜午後5 :00~5:54

☆向井理主演!尾野真千子、菅田将暉ら豪華キャスト出演のヒューマンドラマ!
──標高2500メートル。この診療所には、医療の原点がある。

脚本:秦 建日子
演出:日比野朗
制作年:2012年 全10話
出演:向井理、尾野真千子、小池栄子、三浦理恵子、山崎樹範、菅田将暉、小澤亮太、能年玲奈、本田望結、戸次重幸、中田喜子、笹野高史、佐藤二朗、松重豊、時任三郎 ほか

標高2500mという、厳しい環境に実在する小さな診療所をモデルに、“医療の原点”を見つめ直すヒューマンドラマ。医師や医学生、ナースが生きる悩みを抱えながら患者と接し“命とはなにか、医術とはなにか”を体感していく、ひと夏の群像劇を描く。
主人公・速水圭吾を演じるのは、この作品がTBS連続ドラマ初主演だった向井理。速水は大学病院で将来を嘱望されているクールな若き心臓外科医だが、上司からの命令で夏の間、山の診療所で患者を診ることになる。 そして、ヒロイン・小山遥を演じるのは尾野真千子。遥は山小屋を経営する両親に育てられるが、5歳の時、山の事故で母親を亡くしてしまう。その影響から看護師になったが、ある事件をきっかけに逃げるように山小屋に帰ってきた。また、そんな二人を支えるのは時任三郎演じる倉木泰典。倉木は速水が出向く「山の診療所」の責任者。“命とはなにか、医術とはなにか”を体感し、“医療の原点”に気づき変化していく速水と遥に、強く影響を及ぼす。ほか小池栄子、本田望結、笹野高史、佐藤二朗、松重豊ら豪華な実力派俳優陣が出演。

■8月14日(水)
第1話「標高2514Mに急患あり!」
速水圭吾(向井理)は、大学病院で将来を嘱望されているクールな若き心臓外科医だが、上司からの命令で、夏の間、とある山の診療所で患者を診ることになる。標高2000m超えという厳しい環境では、検査機器や薬はごく僅か。最新鋭機器を使いこなし、先端医療で活躍する速水は、存在意義のわからない山の診療所でカルチャーショックと挫折を経験する。
ここでは、医師たちは進歩した現代医療から切り離され、患者に手で触れて、目で見て、会話をし、そこからすべての診断をつけてゆく。そこには「医療の原点」があった。そして山で、ある女性と出会うことによって…。


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バルタンの呟き №62 [雑木林の四季]

        「2020TOKYO」によせて

              映画監督  飯島敏宏

 2020TOKYOオリンピック・パラリンピックまで、あと一年を切りました。最近すっかり鳴りを潜めた日本国内の政治記事に代わって、矢鱈にオリンピックがらみのスポーツネタが、新聞ばかりでなく、NHKをはじめ、テレビ各局のニュースのトップを占めているような気がします。もっとも、週刊誌、月刊誌は、2020TOKYオリパラどころか、その先に待ち受ける超高齢化社会の、死の世界から、さらに死後の世界までがトップを飾っている始末ですが・・・

 僕にとって西暦2020年といえば、バルタン星人の原点と申しますか、宇宙人ものの淵源となった、ケムール人が、地球にやって来る年に他なりません。50年以上前に円谷プロで撮った空想特撮ドラマ「ウルトラQ・2020年の挑戦」です。その頃の僕たちにとっては、遠い遠い未来だった、西暦2020年の地球に他ならないケムール星から、1950年ごろの地球へ、過度に発達した文明と引き換えに、極限まで悪化した環境に耐えるために、醜怪な外皮に包まれた劣悪な体躯と化してしまったケムール人が、健全な肉体を具える地球人を拉致するためにやってくる、という物語でした。
 その設定を発展させて、たび重なる核爆発、核戦争で居住不能にまで荒廃したバルタン星を離れ、宇宙流浪の果てに、いまから50年ほど前の地球に到達して、地球人との共生を求める「ウルトラマンシリーズ・侵略者を撃て」に登場する宇宙人が、バルタン星人なのです。勿論、バルタン星は、未来の地球を示唆する反面教師という設定でした。

 その、2020年が、いよいよカウントダウンの段階にまで迫ってきてしまったのです。正直のところ、「ウルトラQ」を撮っている頃には、西暦2020年といえば、遠い遠い未来でした。まさか、自分自身が、その地球に存在してその日を迎えることになるとは、考えもしませんでした。
 そして、現実はどうでしょう、2020TOKYOオリンピック・パラリンピックのニュース画面、新聞紙面に登場する、日本の陸上水上の候補選手たちの、「ウルトラQ」撮影当時には思いもよらなかった見事な体躯と美しさは、目を見張るどころか、驚嘆すべきものがあるではありませんか。これでは、僕は、大嘘つきだった、といわれても仕方がありません。一時は、来年は、ひっそりと鳴りを潜めて、何処ぞに蟄居してやり過ごそうか、という気もちになりかかってしまいました。

 しかし、しかしです。幸いにも、といっては語弊がありますが、ここへきて、あながちそうではないかもしれない、という気配が、急激にかいま見えて来たのです。大外れどころか、予見を遙かに超えた、地球環境の激変の兆候が、顕われはじめたのです。

 オリンピック競技の開催時期が、日本の、最悪な時季である、という愚かな事実は、オリンピック競技大会そのものが、IOCによる商業主義的な運営によって変貌してしまったことはさておいて、開催に自ら名乗りを上げて獲得してしまった日本の自己責任であることは動かし難い事実です。しかも、これは必ずしも、民意ではなく、徒に経済成長を狙った政策であったのも否めません。復興五輪をうたいながら、膨大な競技施設の建設に事業従事者人口を奪われて、東北の復興は停滞し、さらに、引き続く災害の拡大で、肝心の復興事業は停滞するばかりですが、楽天的な国民性といいますか、いまは、ともかくオリンピック・パラリンピック、とチケットも売り出されて、カウントダウン、気運も盛り上がりつつあるように報じられています。

 冷却のために敷き詰められるということで開発された走路の特殊舗装の効果も確たるものでなく、セ氏40℃を超える高温と、多湿の環境で走り続ける42,195キロメートルマラソンの苛酷さもさることながら、体温を超える水温で、しかも、耐えがたい臭気と、防ぎ得ない細菌に怯えながら泳ぐトライアスロン水泳のテスト泳者をして、その不潔不快に音を上げさせざるを得なかったというニュースもあります。
 異常な高温多湿がもたらす、未経験の熱帯性疫病のパンデミックも十分な対応処置が待たれます。
 さらに、周期的に見て、喫緊の災害対策を求められている、南海トラフの大地震の逼迫もあります。
 さらに、なによりも重大な危惧は、いまや、辺境までも巻き込んだグローバルな過剰経済成長がひき起こすにちがいない戦争です。その果てにあるものは、AIが操縦する兵器による非人道的戦争と、核戦争です。卑近なところでは、北朝鮮をめぐる軍事列強国の対応があります。なかでもとりわけ剣呑なのが、選挙対策に狂奔するトランプ大統領が「北朝鮮のミサイルは、アメリカ本土に届かない、短距離ミサイルであれば、問題ない」と、ツイートするアメリカです。北朝鮮が発射実験を繰り返すミサイルが、グアムには届かなくとも、沖縄、そして、TOKYOには、充分届くのです。カッコ着き挙国一致、この道しかありません」と、「強固な軍事同盟を堅持」しようと、異論を許さずに邁進する日本の2020年です。
 あの日「皇国に生を享けたる諸君の進むべきただひとつの途である」といって学生たちを戦場に送り込んだ東条英機総理大臣と同じフレーズで、「この道しかありません」と唱える道の先に、全国民を巻き込む恐ろしい戦争が待っているのだけは、御免蒙りたいものです。
 レイワよ、平和であれ!2020・8・15平和の日に、靖国にひと柱の霊も送り込むことが無いように、と祈ります。そのために、大嘘つきめ!と叱られるのは大歓迎です。

 8月15日。終戦記念日。


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医史跡を巡る旅 №59 [雑木林の四季]

「博愛精神のルーツをたどる・日本赤十字社の活動」

                      保険衛星監視員  小川 優

太平洋戦争終戦後、日本が戦争を起こすことはなく、また巻き込まれることはありませんでした。それ以前の度重なる戦争の時代に比べると、とても幸せなことです。そしてそのことは赤十字の使命である戦場での救護活動に、当事者として従事せずにいられたということになります。
必然的に、日本赤十字社の活動内容も変わっていきます。平時における赤十字病院の運営と、病院運営を通じた看護教育活動については、前回取り上げました。このほかに平時の活動の柱として、日本赤十字社が主体として関わっている事業には、災害時の救護活動と、血液供給事業があります。

「日本赤十字社創立七十五年記念」

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「日本赤十字社創立七十五年記念」~昭和27年(1952) 記念切手および記念押印

地震、噴火、台風、豪雨と日本は自然災害の多い国です。また国土が狭く、住宅が市街地に密集しているために一度火災が発生すると、大火となります。さらに多くの乗客が利用している列車、船舶、航空機が事故を起こすと、多数の死傷者が発生します。これらの現場で被災者の救護を行う際、現場周辺の医療機関だけではキャパシティの問題として、とても対応しきれません。一方これらの災害時医療は、平時の診療と大きく異なっており、災害時医療について教育訓練された医療従事者が必要とされます。
赤十字救護員はもともとが、戦時看護から発生しただけあり、こうした災害医療についてもエキスパートであるといえ、大きな災害が発生した際には、赤十字から医療チームが派遣されます。

「赤十字思想誕生百年記念」

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「赤十字思想誕生百年記念」 ~昭和34年(1959) 記念切手および記念押印

災害時の救護活動は、明治21年、福島の磐梯山噴火に救護班を派遣したことに始まります。磐梯山の麓、毘沙門沼には「日本赤十字社 平時災害救護発祥の地」碑があるそうです。
以後、戦前だけでも濃尾地震、三陸津波、関東大震災と大きな自然災害ごとに赤十字救護班は派遣され、多くの命を救いました。戦後も南海、福井、新潟、阪神・淡路、東北といった地震・震災や、台風や豪雨災害などの自然災害のほか、日航機墜落事故や桜木町、三河島などの列車事故にも出動しました。法律的には災害救助法や災害対策基本法が整備され、日本赤十字社は指定公共機関となり、災害時活動の責務を担っています。
また災害により被災した人々に対する災害救援物資の配布、被災地のための募金活動も行っています。

「赤十字100年記念」

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「赤十字100年記念」 ~昭和38年(1963) 記念切手および記念押印

もうひとつの血液事業は、輸血の有効性が広く認められるようになって、必要性が高まった事業です。
昭和5年(1930)、東京駅で濱口雄幸首相が銃撃された際、駅長室で輸血する応急的な処置を行って一命を取り留めたことで、「輸血」という言葉が広く知られるようになります。
その後戦地において失血死を防ぐために輸血を行うことも増えますが、あくまで命を救うための緊急措置という認識から、血液型の誤認による不適合事故や、血液を介する感染症の発生も相次ぎます。
また無償的行為であったはずの供血が、第二次世界大戦後には商業血液銀行を介して売買されるようになり、貧しい人々の売血行為を誘発しました。もちろん人間の造血能力には限りがあって、栄養状態や健康状態にも左右されます。造血能力を超えた頻繁な採血は、血球成分や濃度に影響し、輸血を受けた側にも輸血効果の低下というかたちで問題が生じます。いわゆる「黄色い血」です。
さらに昭和23年(1948)、東大病院において供血の病原体汚染に気付かぬまま、患者に輸血を行い、輸血による梅毒感染事故が発生します。また昭和39年には駐日米大使であるエドウィン・O・ライシャワー氏が日本人少年にナイフで刺されて重傷を負った際、治療の際の輸血を原因として肝炎を発症します。

「国際赤十字献血年」

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「国際赤十字献血年」 ~昭和49年(1974) 記念切手

血液の安全な供給が急務となり、昭和27年(1952)に日本赤十字社中央病院に日本赤十字社血液銀行東京業務所を開設、日本赤十字社による血液事業が開始されます。併せて昭和31年には「採血及び供血あつせん業取締法」が施行、輸血、医学的検査以外の、業としての人体からの採血が禁止されるとともに、供血あつせん業が許可制となります。
その後昭和39年、輸血用血液は献血により確保するよう閣議決定がなされ、日本赤十字社以外の民間商業血液銀行の血液供給が縮小、昭和49頃には献血による血液供給100パーセントの体制が確立されます。

「献血発祥之碑」

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「献血発祥之碑」 ~東京都渋谷区広尾 日赤医療センターバスロータリー植込み

日本赤十字社血液銀行東京業務所は輸血研究所、中央血液銀行と名を変えたのち、昭和39年(1964)に日赤中央血液センターとなり、平成18年(2006)に江東区辰巳に移転します。かつて日赤中央血液センターがあった日赤医療センターには、「献血発祥之碑」があります。しかし碑の由来については説明もなく、寂しい限りです。

「赤十字条約成立第七十五周年記念」

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「赤十字条約成立第七十五周年記念」 ~昭和14年 記念切手および記念絵葉書

日赤本社ビルの玄関ロビーには、赤十字の創始者アンリ・デュナンと、日本赤十字創始者の佐野常民の銅像が向かい合わせに設置されています。

「アンリ・デュナン像」

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「アンリ・デュナン像」 ~東京都港区芝大門 日本赤十字社本社ロビー

「佐野常民像」

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「佐野常民像」 ~東京都港区芝大門 日本赤十字社本社ロビー

戦争の時代に世界そして日本において、最初は戦時救護から始まった赤十字活動ですが、その分け隔てのない救済思想は現在もなお、脈々と受け継がれています。

「赤十字思想誕生150周年記念」

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「赤十字思想誕生150周年記念」 ~平成21年(2009) 記念切手および記念押印

これにて日本赤十字社の歴史を辿る、一巻の終わりと相成ります。

「今回の参考文献」

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「今回の参考文献」

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台湾・高雄の緑陰で №25 [雑木林の四季]

米・中貿易戦の狭間にある台湾

         在台湾・コラムニスト  何 聡明

東西冷戦持続中の1970年代米国のニクソン政府はソヴィエトロシアを牽制するため、領土問題で同じく共産国家の中露関係が悪化していた中華人民共和国政府と友好を始め、更に1979年カータ政府は台湾へ亡命していた中華民国国民党政府と断交し、中華人民共和国と国交を結んだ。

全球化(Globalization)を提唱した米国は中国が西側諸国と貿易を促進する事によって得る富で民主化へ転向することを期待し、中国のWTO加入を支持した一方、西太平洋の要に位置する台湾を軽視する政策を取るようになった。だが、平和立国を唱えて国家資本を使い各国と貿易を強化した中国はその巨額の富を行使して着々と陸海空軍の現代化と増強を進めた。更に2013年習近平氏が中国共産党のトップに就任するとアジアとアフリカ大陸、中南米の発展途上国家に援助資金をばら撒く「一帯一路」と呼ぶ経済侵略政策を立案し、2015年にそれを実行に移したのである。今中国は日本を追い抜いて世界第二の経済大国にのし上がった。

2017年1月にトランプ氏が米国大統領に就任すると、長足の経済発展をとげた中国が民主化どころか、経済面で世界制覇を目指す一方、急激に軍備を拡張をしていることに危機感を抱き、2018年6月に対中経済制裁に踏み切った。中国も米国に対抗して米中貿易戦争は現在も進行中である。トランプ氏は同盟国である日本を含む民主主義国家にも貿易不均衡の理由で制裁を加えると恫喝したが、米国が同盟国と中国を同一視するの無理で軽率でもある。その後、米国はEUの代表やカナダ政府と折衝を重ねて制裁は緩和されたようだ。

注目に値するのは米国が西太平洋の要に位置する台湾の戦略的重要性を再認識したことである。1980年に台湾で残存した中華民国と断交後、米国は国内法として「台湾関係法」を立法したが中国に気兼ねして台湾との経済関係は防衛用武器のセールスと一般の貿易に限られた。2016年末大統領に当選したトランプ氏は台湾の蔡英文総統から祝賀電話を受けた時、異例にも蔡氏を「総統」と呼称して中国の不興を買った。2018年3月以降米国国会は米台両政府高官の相互訪問を許す「台湾旅行法」と国防に必需の武器を台湾へ売却する「国防授権法」を立て続けに立法し、大統領が署名公布した。米国防省は台湾海峡は公海であることを強調し、米駆逐艦が台湾海峡を2度航行したと発表し、今後とも米艦艇の台湾海峡航行を続けると声明、それを実行している。台北市内に新築された広壮な「アメリカ合衆国駐台湾会館(AIT)」には米海兵隊員が警備に当たることが決まり、AITビルが大使館と同格の外交機構であることを意味する。

米国の新しい対台湾政策に中国が苛立つのは当然だが、中国が長らく続けている台湾に対する面あてと仕打ちは余りにも粗雑で滑稽でもある。中国政府は台湾へ向かう貨客機の目的地を「台湾台北」ではなく「中国台北」に改めるよう各国航空会社に強要した。また4年前既に台湾の台中市で挙行することが決まっていた2019年8月開催予定の「アジア青年運動会」の取り消しを発表するなどヒステリックな言動を繰り返している。

中国政府は勝手に台湾は先祖より残されたた国土の一部であり、時至れば武力を行使してでも絶対に統一すると恐喝するが、その先祖がどの民族であるかを明らかにしていない。若しその先祖が漢民族ではなく欧亜大陸を一時征服統一した蒙古の覇者ジンギスカン(中国人は元朝の始皇帝と呼ぶ)であれば、ウラジボストックを含む東シベリヤ、中央アジア、イラン、現在はEUのメンバーである東ヨーロッパのオーストリヤ、ハンガリー等々を含む諸国も先祖が残した領土となるが、その広大な地域を中国の一部であるから時来たらば武力で統一するとは公言していない。

中国が若し対米、対欧、対日の貿易戦争で敗北して莫大な財力と投資資金を失い、「一帯一路」に依る世界経済制覇の夢が消えれば、既に現代化した軍隊を駆使して武力で世界覇権の道を選び、その手始めに中国は台湾または尖閣列島の武力奪取に踏み切るかもだ。民主主義諸国は習近平主導の中国が経済と武力の二刀流の使い手であることをよく認識して、対応策を講じなければならない。

商人出身のトランプ大統領は現在アメリカ合衆国内外での評判は毀誉褒貶半々であるが、対内には専制統治、対外には経済と軍事侵略で暴走する共産党一党独裁の中国政府に対抗するトランプ氏の政策とその執行力を筆者は高く評価する、その政策が中国の世界制覇への野望を阻止できると考えるからである。


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いつか空が晴れる №65 [雑木林の四季]

    いつか空が晴れる
          -ロング ロング アゴー―
                      澁澤京子

 子供の頃、祖父の家に遊びに行くと、時々祖父はハーモニカを出してきて「峠の我が家」や「ホームスウィートホーム」を吹き始めることがあった。
晩年の祖父は、よく自分の子供時代のことを話してくれた。夕方になると、庭に蝙蝠が飛んでいた話、床に映るステンドグラスの青い影を海にみたてて、おもちゃの船で遊んだ話・・
子供時代の回想をする祖父に、こうしたノスタルジックな曲はぴったりだった。

祖父は昔、田園都市計画のために欧米に視察に行ったことがあって、特にアメリカを気に入っていた。
ある日、祖父の家で夕食を済ませた後だったと思う。祖父がアメリカをほめるような話をひとしきり話した後、こう締めくくった。
「あんな物資の豊富な国を相手に、日本が戦争をしたなんて、実にバカバカしいことだね。」
「バカバカしいですか?何がバカバカしいんですか?」
父はカッとしたのか、急に声の色が変わった。隣に座った母が無言で制止しなかったら、父がなにを言い出すか分からないような不穏な空気が辺りに流れた。
俯いて怒りを押さえた父は、耳まで赤くなっていた。
戦争に行った父は、友達を戦争でたくさん失った。普段は靖国神社を否定しているような父だったけど、祖父からそういわれるのは我慢ができなかったのだろう。

今年の長い梅雨に体調を崩して入院し、退院したばかりの父はめっきり身体の衰えが目立つようになってきた。
そして父もまた最近は、祖父のように子供の頃や若いころの思い出を語ることが多くなってきた。
Sという早逝した叔父(父のすぐ上の兄)がとても優しかったこと、長女であるE子叔母が若いときとても美人で、銀座を連れて歩くと皆が振り返るのが自慢で、学生の父はよくE子叔母を誘っていろいろと連れ歩いたこと・・
「E子さんが老人ホームから遊びに来てくれって、手紙くれてね、僕は一度会いに行けばよかったと思ってね・・」

また家族団らんのときは、暖炉のある居間で、誰かの伴奏で「ロングロングアゴー」を兄弟姉妹みんなで歌ったりして遊んで過ごしたらしい。そして、それがとても楽しかったこと・・・・
家族団らんのときに、皆でロングロングアゴーを歌う大正生まれの子供たち。なんだか、のどかな時代だったんだなあ、と微笑ましい。

祖父母はもちろん、父の兄も姉たちも皆亡くなって、今はもう父が一人残された。

生前、様々な確執があったのだろう、父の兄も姉たちもそれぞれが仲良く付き合うということはほとんどなかったし、父は祖父に親孝行していたけれど、同時に反感のようなものを持っている部分も微妙にあるのは子供の私にも感じられた。

しかし、最近の父を見ると、父が今、誰よりも懐かしく会いたいのは、祖父母、そして大人になってからはあまり仲良くすることのできなかった、自分の兄や姉たちじゃないかという気がするのである。

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梟翁夜話 №45 [雑木林の四季]

髭二題:その1「タゴールの美髭」

                 翻訳家  島村泰治

髭を生やすと云うか立てると云うか、はたまた蓄えると云うか、近ごろ其れは髭次第だということに気付いた。改めて見れば、生やす髭が無精に思え、立てる髭が気障に見えるから妙だ。髭は蓄えてこそ髭だと思えるまで概ね30年、髭を整える面倒をわがものと思う愛着が凌ぐようになって、いまは髭のない暮らしが空虚にさえ思える。

髭を考えるようになったのは毛に銀が目立つようになってからのことで、毛深い質(たち)だから無精髭を剃り残した顔の黒々とした様子が厭で、剃刀は上等のを選んで、常に青々と剃り上げていた。髭剃りは男子の欣快とすら思っていた。これも質か、40から50にかけて月代から顎へ銀がちらほら混じるようになった。頭髪は鬢(びん)辺りに銀の塊が固まって生えるようになった。

髭も佳かろうと思いはじめたのはその頃である。トルストイやタゴールの見事な銀髭を眺めながら、ぐんと老いればこれも佳かろうと思ったものだ。

髭は人を大仰に見せるものだ。大使館勤務のころ、大使に付きそう通訳として、らしからぬ面相は不味い。けだし銀も混じった整った髭は、面相に品を添えるものだ。20年余の大使館勤務の最後の数年間、丸善などを徘徊して整髭具を見つけ世間の髭自慢を観察し、ようやく自分の髭を拵えた。髭作りは知る人ぞ知る結構な愉しみなのだ。年ごとに銀が増えて我ながら見られる髭になった。毛深い質がしっかり生きたのである。

84歳を過ぎて、わが髭は混じりけのない銀髭になった。月代も伸ばし切って顎下一寸で留めた銀髭は、銀髪と調和してあたかも顔面を囲む銀のリング、われながら見事な銀の衣裳を顔に纏った風情である。頭髪に見られる裾回りの癖毛が髭にも現れて、なかなかの趣だ。九十翁になれば、タゴール並みの美髭を愉しみたいものだと、いまから企んでいる。

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検証 公団居住60年 №38 [雑木林の四季]

第三章 公団家賃裁判-提訴から和解結まで 

      国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

11.「国会要望」決議と裁判解決の提起
 家賃裁判と呼応して家賃再値上げ強行に反対する自治協の幅広い運動は国会を動かし、衆参両院建設委員会での集中審議が実現した。1983年3月25日、4月12日の両委員会で自治協代表の参考人発言のあと、審議内容を9項目にまとめた「国会要望」が全党一致で決議された。これには自治協の要求を相当部分反映しており、長年の家賃運動の一つの到達点といえる。
 その大要は、①良質な公共住宅の供給と高家賃の引き下げ、②長期未利用地・空き家などの早期解消、③公団家賃改定ルールの策定、④居住者との意思の疎通と値上げ増収分の修繕費優先使用、⑤敷金の追加徴収中止、⑥激変緩和と低収入世帯への特別措置、⑦家賃改定の理解を得るための公団による居住者への積極的な努力、⑧公団と居住者との係争(家賃裁判)の早期解決への建設大臣の努力、⑨値上げ実施時期の延期、であった。全党が一致して第3項で家賃改定ルールの策定、第8項に家賃裁判の早期解決を「国会要望」にこめた政治判断の重みは、政府・公団はもとより、居住者にとっても率直にかつ主体的に受けとめる必要があった。公団は大臣承認をえて10月1日に第2次の家賃いっせい値上げを実施した。
 自治協はただちにこの国会要望事項の全面実現を要求して全国的な統一行動を展開した。この間に83年5月、内海建設大臣は国会要望第8項の家賃裁判早期解決のため、自治協と公団の代表に両者の話し合いを要請した。二大臣要請をうけて自治協は83年秋から84年にかけて、国会要望を実現させ、家賃裁判にいたった要因(とくに公団の話し合い拒否)をなくす立場から組織内の討論をかさねた。裁判解決の条件として自治協は公団にたいし84年4月自治協との定期協議の実施、家賃改定ルールづくり、家賃改定申請前の協議、高家賃抑制、空き家割増し家賃制度の見直し、家賃減額措置の拡大、修繕環境整備等についての話し合いなどの要求6項目を提示した。
 全国自治協は84年6月16~17日の第11回定期総会で、家賃裁判の早期解決にむけて交渉を進めることを確認した。公団本社との交渉は7月14日から12月6日まで6回にわたっておこなわれた。このなかで公団が約束したことを自治協の6項目要求にそくして整理すると、①自治協と公団は定期協議(定例懇談)をおこなう、②家賃改定ルールなしの第3次値上げはしない、ルールづくりをする公団基本問題懇談会家賃部会に自治協代表が参加する、③家賃改定に際して公団本社は検討段階から自治協と話し合う、④修繕・環境改善は定期協議の重要テーマである、⑤公団家賃体系の見直しや経営改善については自治協も基本問題懇談会家賃部会などで大いに意見をだしてほしい、という内容であった。家賃裁判については双方の代理人折衝による和解に自治協も合意した。
 これをふまえて84年12月6日、木部佳昭建設大臣は、国会要望ならびに自治協と公団の話し合いの経緯を尊重するとしたうえで、①自治協との定例懇談、②自治協代表の公団基本憩家賃部会参加、③修繕促進へのいっそうの努力、を公団に公式に義務づけつつ、自治協と公団との係争(裁判)の訴訟上の和解を両者に促す「あっせん案」を文書で提示した。
 自治協幹事会は12月6日の全国総決起大会で同日建設大臣が示したあっせん案にもとづき家賃裁判の解決を提案した。幹事会は国会が要望し大臣があっせんする裁判和解により、政府および公団が「全国公団住宅自治会協議会」を公式にはじめて認知すること、自治協が公団とのあいだで事実上の交渉権確立への土台をきずくことを評価して、大臣あっせんを基本的に受け入れる方向を示した。家賃運動は今後、「2つのテーブル」(定期協議と基本憩家賃部会参加)を活用し、新たな段階で展開することを強調した。

『検証 公団居住60年』 求龍堂

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私の中の一期一会 №194 [雑木林の四季]

              参院選、投票率48.80%は24年振りの50%割れ
      ~単なるポピュリズムではなかった「れいわ新選組」の山本太郎が大健闘~

        アバウンサー&キャスター  藤田和弘

 令和になって最初の国政選挙となった参院選は、投票率が上がれば面白くなるのではと私は思っていた。
 選挙の結果は、自民・公明の与党が改選議席の過半数にあたる63議席を超えて勝利したが、“改憲勢力”は3分の2に届かず、発議に必要な164議席を維持することは出来なかった。
 今回の参院選で、気になったのは投票率があまりにも低かったことである。
 選挙区の投票率48.80%、(比例代表48.79%)という数字は、前回16年の参院選の54.70%を大きく下回り、国政選挙では下から2番目の低投票率であった。
 投票率が50%に届かなかったのは24年ぶりということだが、安倍政権はさぞ安堵したことだろう。
 調べてみると、参院選の投票率は近年50%台で推移してきた。
 1980年には74.54%を記録しているが、この時がピ―クで以後は下がり続けてきた。
 政治不信が叫ばれた95年には44.52%まで落ち込み、これが史上最低記録となっている。
 この時は「参議院無用論」まで出ている。
 中日新聞の社説は、“低投票率は議会制民主主義の基盤を崩しかねない”と指摘している。
 何故、有権者の半数以上が投票所に行かなかったのだろうか。
 21日は台風による悪天候の影響があったからとか、亥年の選挙だからという記事もあったが、最近では期日前投票も可能だから、当日の悪天候は理由にならないと私は思う。
 棄権する理由として「政策が分かりにくい」、「投票しても結果は変わらない」、「政治には期待していない」などが考えられるが、これらは選挙のたびに挙げれる要因でいつも同じだ。
 安倍首相は「国民の皆様から力強い信任を頂いた」と語ったが、全有権者に占める得票率の割合を示す「絶対得票率」で見ると与党でも18.9%で2割に満たないのである。
 これでホントに国民から信任されたと言えるのだろうか?
 ジャーナリストの田原総一郎氏は、投票率の低さに衝撃を受けたと述べている。
 与党も野党も、国民が強く不安に思っている問題から逃げて、自分たちに都合のいい事柄ばかり論じている。
 選挙直後の共同通信の世論調査によれば、政治の優先課題は「今後の生活不安」、「介護・医療」、「これからの景気」と続き、「憲法改正」は最下位の9位だった。6.9%しかなかった。
 麻生太郎金融担当相が野党から2000万円不足問題を追及され「報告書を受け取らない」などと宣言したのは無責任極まりない。大失態だと切り捨てている。
 都合の悪いことは論じないで逃げる事柄ばかりだから、投票率が異常に低くなったと田原氏は捉えているのである。
 大坂府吹田市に住む67歳の男性の「投票率低下の一因に予想報道」という新聞の投書が目についた。
 参院選の投票率が50%を割り、過去2番目の低さになった原因の一つは“新聞・テレビの報道姿勢”にあるのではないかと書いている。
 報道各社は、世論調査などを基に選挙直前や選挙中に結果予想を度々報道する。
 その数値は極めて正確なのだ。予想と結果が一致することが当然になると、選挙への関心が一気になくなるので、自分は選挙の予想記事を読まないようにしている。
どのテレビも、どの新聞も同じような予想を伝える現在、選挙にどんな意味があるのだろうか。
 予想報道は、かえって選挙への関心を奪い、結果として「投票するまでもないな」となってしまう。
 正確な予想報道は、投票率の低下を招いて民主主義を劣化させているのではないだろうか・・・というものだった。
 “正確な予想報道”はかえって選挙への関心を奪ってしまうという考え方は、選挙報道の経験を持つ私には思いつかないことであった。
 著名人の脳学者・茂木健一郎さんも「投票率の低さは、テレビにも責任があるのではないか」と疑問を呈している。
 NHKは、選挙が終わったら「憲法改正が政治日程にどうのこうの・・と言い始めた。
 選挙期間中に“憲法改正の是非”など、ニュースの中で分析・報道していた記憶がない。
 選挙の直前、テレビは主に吉本興業の問題ばかりだった。4日の公示後も“政策の比較”や“精査”など、有権者にとって重要な情報が多かったとは思わない」と非難した。
 ネットにもテレビに対する風当たりが結構多いのに気付く。
「“投票率が低い”とか”若者の関心が”などがテレビから流れてくるが、投票日が終わるまで散々“闇営業”と“日韓摩擦”、“タピオカ”ばっかり報道して、選挙にも政策にも触れなかったくせに・・・」
「選挙前になると、様々な問題があったことを放送しなくなる。開票日以降になってから放送する。これは忖度以外の何ものでもない。
 メディアを名乗るなら、前回の選挙からどんな問題があったを報道して、有権者が判断できる情報を流すべきだろう・・」
「もう日本のテレビに期待するものは何もない。もっと選挙前に伝えろ!
 投票率だって選挙直前に各党の論戦を伝えれば上がるかもよ・・・」
 今回の参院選で、「れいわ新選組」を率いる山本太郎氏(44)の街頭演説やインターネットでの発言に多くの有権者が反応した。
 山本氏自身は、比例区で落選したが、約99万票を獲得したのには驚かされた。
「れいわ」は比例代表で、難病と重度障害の当事者たち2人を国政に送り出すことに成功した。
 政党要件を満たすことも出来た。
「単なるパフォーマンスだろう」ぐらいにしか思わなかった多くの国会議員たちは、“脅威”を感じているかも知れない。
「れいわ新選組」は既成政党に頼らず、世の中を変えたいという有権者の気持ちに応えたという評価がある。
「20年以上續くデフレを生み出してきた責任の大部分は自民党にある。自民党なら現状を維持できると思うのは間違いだ。人々の暮らしはどんどん貧しくなっている。自民党政治にピリオドを打たなきゃしょうがない」・・・山本太郎はこうして聴衆を魅了してきたのだ。
 もう労組や団体の組織力に頼る時代ではない。有権者一人ひとりに訴えかけることが大事なのだ。
 主権者教育を充実させ、有権者に当事者意識を持たせることが大事だ。
 当事者意識が強固なものになれば、低投票率にやきもきするようなことにはならない筈である。
 


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浜田山通信 №247 [雑木林の四季]

ブラボーれいわ新選組

            ジャーナリスト  野村勝美

 投票律48.8%、参院選挙で2番目に低い投票率。この半分、つまり24.4%をとれば政権はとれる。 これを私はクオーター(4分の1)民主主義といっていた。有権者の3/4の信頼を得ていない。若い人の投票率はさらに低い。どんなに低くても選挙以外に民意を問う方法は見当たらない。すなおに選挙結果を認める以外にない。
 メディアの選挙報道は、極端に少なかった。新聞は消費税値上げを据え置かれることになった故にかほとんど選挙区情報を伝えない。直前にジャニー喜多川社長の死、京都アニメ―ション放火殺人事件、吉本興業の内紛など選挙より人々の関心をひく事件が続いた。 
 野党の共闘ももう一つすっきりしない。どうにか東北を中心に一人区10県で勝利したが、二人区では競闘した。もと民主党系の松下政経塾の、とくに現都知事と組んで新党を作った張本人らは排除すべきだし、いまだ有権者の間にアレルギーの強い党とも共闘すべきでない。
 何といっても後の祭り。すなおに選挙結果を認めるべきだろう。そんな中で私をびっくりさせたのはれいわ新選組だ。山本太郎は小沢一郎と組んだ時から注目はしていたが、新党名が気に入らなかった。年号と新選組とを合わせるアナクロニズムが超オールドタイマーの私にはなんじゃこりゃという思いにさせた。これがアナクロではなく、改革の実行組だったのだ。
 テレビは開票速報の最初かられいわ2人当選、山本太郎は落選と報じた。私は比例代表の特定枠ということを知らなかった。だからどんな人が特定枠に入っているのかも知らなかった。特定枠の2人は筋萎縮性側索硬化症(ALS)の船後端彦氏(65)と重度障害者の木村英子さん。山本太郎は個人名票が99万2千票だったが3位に食い込めなかった。どんなにかがっくりしたかと思ったが、そんなことは最初から計算済み。れいわが、社会の少数者にどれほど本気にあたたかい手をさしのべているかを知らしめただけで今後の政治行動にどれほど大きな影響を及ぼすことか。山本は当然次の衆院選には社会的弱者や若者たちを結集して自民党に立ち向かう。
 れいわの一撃は旧弊の固まりのようだった国会をいや応なく改革させることになった。議場をはじめ国会全体に車椅子が自由に通れるように階段や段差のバリアフリー化をしなければならず、医療、介護業界も緊張せざるを得なくなる。国会や政府自体がいや応なく社会的弱者、少数者に目くばりをしないわけにはいかない。山本太郎は誰一人考えつかなかったことをやったのだ。いくら賞賛してもしきれないのではないか。
 おりしも7月26日は相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が元職員に殺された事件から3年になる記念日だった。犯人の元職員はいまだに「障害者には生きる価値がない」といっているそうだが、れいわ新選組にも同じことをいうのだろうか。

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BS-TBS番組情報 №191 [雑木林の四季]

BS-TBS 2019年8月のおすすめ番組(上)

                 BS-TBS広報宣伝部

坂本冬美 昭和の巨匠を歌う

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2019年8月10日(土)よる7:00~8:54

☆進化し続ける日本の歌姫・坂本冬美が歌謡界の巨匠を唄う!

出演:坂本冬美

デビューから30年余、歌謡界のトップを走り続ける坂本冬美が誰もが知る名曲に込められた日本人の魂を熱唱する。日本の歌謡史に燦然と輝く巨匠たち…猪俣公章、阿久悠、浜口庫之助、三木たかし、なかにし礼らが生み出した名曲の数々を歌い尽くします。歌謡界が誇る実力派・坂本冬美が日本の歌謡史を唄う2時間番組。番組では、今春に行われた師・猪俣公章をトリビュートしたライブの模様も!
【曲目(予定)】「あばれ太鼓」「火の国の女」(猪俣公章)、「舟唄」「蛍の提灯」(阿久悠)、「愛のさざなみ」(浜口庫之助)「夜桜お七」(三木たかし)「石狩挽歌」(なかにし礼) ほか

水戸黄門 最終回(第10話)

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2019年8月11日(日)よる6:00~6:55

☆“武田鉄矢”黄門様の九州各地をめぐる世直し旅、いよいよ最終回へ!

脚本:尾西兼一
監督:矢田清巳
出演:水戸光圀/武田鉄矢、佐々木助三郎/財木琢磨、渥美格之進/荒井敦史、風車の弥七/津田寛治、詩乃/篠田麻里子、吉姫/吉本実憂
ゲスト出演:泉谷しげる(宮崎安貞役)、大出俊(貝原益軒役)

第10話【最終回】「老公、なんばしよっと?(福岡)」
熊本から日田街道をすすみ福岡へと足を踏み入れた老公(武田鉄矢)一行は、本来の目的である「農業全書」を書き上げた宮崎安貞(泉谷しげる)に会うために貝原益軒(大出俊)の家を目指していた。その道中、金貸しの杢兵衛(武田鉄矢・二役)から借金の催促をされている安貞に出くわす。これ幸いと安貞に話かけようとするも杢兵衛とうり二つの老公とは話もしたくないと足早にその場を去ってしまう。あとを追いかけるべく手分けして探している最中、老公は杢兵衛と再び遭遇。安貞の借金について話を聞いていた老公は、杢兵衛と間違えられ、安貞を慕う百姓たちによって連れ去られてしまう……。

生中継!4万発の競演!第71回諏訪湖祭湖上花火大会

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2019年8月15日(木)よる6:54~8:54

☆打ち上げ数約4万発!!日本最大級「諏訪湖祭湖上花火大会」を生中継で!

司会:長谷川萌(SBCアナウンサー)
ゲスト:冴木一馬(花火写真家・ハナビスト)

信州の真ん中、諏訪湖畔で行われる第70回諏訪湖祭湖上花火大会の模様をお届け。打ち上げ数約4万発!打上数、規模ともに日本最大級の花火大会。豪華絢爛エンターテイメント花火。湖上に華開く「水上大スターマイン」などの花火が諏訪の夜空と湖上を彩る。大会名物の2kmにわたる「大ナイヤガラ瀑布」など、圧倒的な迫力と美しさを今年も生中継!今回BS-TBS4Kではピュア4Kで生放送!美しい映像と迫力の音で圧倒的臨場感をお届けする。

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バルタンの呟き №61 [雑木林の四季]

      「ぼーっとしてるんじゃないよっ!」

               映画館億  飯島敏宏

鳴り物入りで登場した新元号令和は、当初こそは命名の経過や由来に、甲論乙駁、何かと騒がれたものの、国民の皆さまが、ボーっとしているうちに、なんと、今回の参議院選挙では、政党名にまで登場するに至りました。
さて、停滞と災害で締めくくられた平成はともかく、僕にとっての問題は、昭和です。経済成長のシンボルとしての昭和は残り、戦争の昭和は、時間の消しゴムで、ほとんど完全に消し去られてしまった、と感じているのは、昭和生まれの僕の僻目でしょうか。

8月は原爆、敗戦、いわば戦争の昭和の墓標が残された月です。でも、一年後に迫った2020TOKYOオリンピック・パラリンピック盛り上げの使命を負った、新聞、テレビなどのマスコミは、いまやオリンピック一色で、戦争の昭和をまともに取り上げる記事は非常に少なくなってしまいました。N党のモットーにぜひ掲げて貰いたい、とお願いしたくなるほど、公共のものとして有料で視聴しているNHKのテレビ番組にあふれかえっているのは、お笑いタレントや、食べ物と健康、薬品、サプリメントの番組が殆どです。その裏側に、いったいどれだけの政治問題、社会回問題が隠されているのか、と疑いたくなる実情です。
やたら多数の男性女性アナが登場して、いとも軽く、皆さまにお伝えするニュース番組の薄っぺらさにも、嘆かわしい感がぬぐえません。

いま、大東亜戦争中の(旧)朝鮮人徴用工問題が燻りはじめて、日韓、そして鮮の関係に最悪の状況を呈していますが。それこそが、消し忘れた昭和の埋み火の一つではないかと思うのです。戦後問題化した際にきちんと総括せずに、まあまあ、と鎮火の為の補償で済ませた結果が、この騒ぎです。しかも、どうやら今回も、日韓両国が正面だって話し合おうという気配は見られず、よその消防車に声をかけて火に油を注ごうとしか見えない政策を取る状況を、人気沸騰のチコちゃんではありませんが、ボーっとしてるんじゃねえよ!とでも言いたくなるような鈍感さで眺めている国民の皆さまの状況を見ると、ほんとうに平和ボケしているんじゃないかと心配になってしまいます。

ところで、少国民という言葉をご存知でしょうか。大正の元号が、昭和と変った時に、昭和のこども、といわれて新元号の寵児としてもてはやされた子供たちが、その後、戦争遂行の国策に翻弄されて、少国民と名づけられて、少年兵となるための錬成に明け暮れる日々を送る事になった世代の名称です。現在、80代後半から90代に差しかかる年齢層が、それに当たります。1932年生まれの僕は、まさにその少国民の一人です。
ちなみに、少国民とは、手元の辞書(広辞苑第七版)には、(第二次大戦中の言葉)、年少の国民の意で少年少女のこと。とあるだけで、小中学生向きの辞書(学研)には、少国民という項目すらも見当たりません。
そこで一念発起、ほぼこの一年間を費やして、初めて小説を書いたのです。決して、僕の自伝でもありませんし、同世代の倉本聰さんが、いまテレビや随筆で試みておられる「昭和の遺言」のような壮大なものではなく、ごく身近にあった、たった一人の少国民の死を主題に、僕の記憶に基づいて書きあげた小説に過ぎません。宣伝のそしりを受けるかもしれませんが、あえて申し上げると、この夏KADOKAWAから出版されることになったものです。
あくまでもフィクションですが、フェイクではありません。昭和のこども、少国民の一人として、いま書き遺しておかなければ、という使命感もありますが、「ウルトラマン」「泣いてたまるか」「金曜日の妻たちへ」などを手掛けてきた娯楽作家?として、おもしろく読んで頂くことを第一に心がけました。戦争ものイコール、暗い、重苦しいというイメージを跳ね除けたものになっていれば幸いです。

ところで、少国民という言葉の由来です。誰がどこで初めて使ったのかはわかりませんが、僕の知る限りでは、1930年代初頭に発刊された「日本少国民文庫」ではないかと思われるのです。
昨年あたりから大ヒットを続けている「君たちはどう生きるのか」も、吉野源三郎原作として掲載された文庫です。この作品は、山本有三、吉野源三郎ほかの「日本少国民文庫」の編集者が連名で書いた、少国民の生きて行く上での知識、教養を高めるための著作だったのです。主人公の少年とそのおじさんが、虐めその他の人生上の出来事を、精神的、哲学的、科学的に解明しながら成長して行く話でした。「心に太陽を、唇には歌を」などの詩や、スエズ運河完成までの苦心談など、義務教育が尋常小学校高等科までだった当時、理想的な少年を育て上げる啓蒙的な教養文庫だったのです。しかし、昭和7年に満州(中国)で始まった事変から続く、富国強兵政策を推進した軍国主義独裁政権が、いわゆる「大東亜戦争・第二次世界大戦」に臨んで、少国民を、皇国大日本帝国の将来を担うにふさわしい少年少女の呼称、として用いるように変えてしまったのです。つまり文部省が、尋常小学校を国民学校と改めて、さらに学校への通達で、少国民を、聖戦を遂行するために、皇国に身を尽くす国民として相応しい錬成を施した少年少女の呼称にすり変えてしまったのです。極端に言えば、少年少女のすべてを、兵士に育て上げようということです。
昭和7年(1932)生まれの僕は、まさにその少国民として、徹底的に錬成された世代の一人です。当時は、少国民と呼ばれることに、誇りさえ感じていたのです。東京の下町に生まれ、ガキと呼ばれて、貧しいながらも、伸び伸びと遊び、学んでいた子供が、ボーっとしているうちに、時の権力によって、少国民という名の少年兵士に育てられた世代の一人だったのです。
昭和20年(1945)年の3月10日には、米軍巨大爆撃機B29の無差別焦土爆撃で焼け出され、さらに4・13、5・25と、立て続けに爆撃に追い回されて焼け跡に佇んだあげく、6月にはなお懲りずに、旧制中学一年生で、もはや目標としていた海軍兵学校の募集は行われないと言われて、人員補充のために入試を早めた陸軍幼年学校受験申し込書を携えて、市ヶ谷の、あの三島由紀夫が割腹自殺した陸軍省の門を、自ら号令をかけ、歩調を取って通過したのです。
「兄ちゃん、今、入隊すれば卒業でいきなり幹部候補だよ」と街頭で誘われて、離陸だけ即席で教えられて特攻隊志願に組み込まれた14歳だった兄貴も、その少国民のはしりです。幸い、(などと当時呟いたらとんでもない目に遭ったでしょうが)、偶々飛ぶ飛行機が無くて、終戦を迎えたので無事帰還しましたが
そして、この8月です。はたして、オリンピックまであと一年!と煽られて、ボーっとして、お笑いタレントと一緒に、グルメだの、サプリメント、化粧法などばかりのテレビを見ているうちに、金正恩が、本土まで届かないミサイルを開発しているから大丈夫だ、などと呟くトランプ大統領のアメリカでなく、その同盟国日本の沖縄その他の基地や都市に向けて、空いっぱいに、撃墜不能の短距離弾導弾を飛ばしてきたり、強固な同盟で結ばれるアメリカの要請に応えて、ホルムズ海峡にまでお手伝いに行った自衛隊が、初の戦死者を出したり、などというということには絶対にならない、という保証があり得るのでしょうか。
あの戦争で、奇しくも生き延びた少国民の一人として、叫びます。令和を、災害と戦乱の破滅の元号にしてはならないと。

戦争は、知らず知らずに、ある日突然あなたに襲いかかって来るものです。ボーっとしてるんじゃないよっ!


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いつか空が晴れる №64 [雑木林の四季]

     いつか空が晴れる
          -夏の思い出~中田喜直~
                      澁澤京子

 今年の梅雨は寒い日が続いたせいか、父の肺に再び水が溜まって入院することになった。
うっとうしい雨が久しぶりに晴れ上がった暑い日、父に洗濯ものを届けに行って、ベッドに寝たまま鼻に管を通している父としばらくおしゃべりをしていた。
窓を背にして坐っている私からは、父のベッドの向こうにある洗面所の大きな鏡に映っている青い空と夏の雲が見えていた。

鏡に映っている、夏の雲。今まで、いろんな夏が過ぎていった。
ふと、~夏が来れば思い出す、静かな尾瀬、青い空~の歌が浮かんでくる。
子供のときは夏休みを、どんなに楽しみに待っていただろう?
夏の入道雲は子供の私にとって、まるで優しくて寛大な大好きなおじさんに再会するような、わくわくとうれしい気持ちにさせてくれたし、何よりも毎朝起きて学校に行かなくても済むのだ。

夏休みに入る前は、学校からいわれて毎日の予定という円形の時間割表を作ったのを覚えている。
7時・起床、8時・朝食、9時~10時・勉強、10時~10時半・犬の散歩・・・・
という具合に自分で細かく予定を立てていく。もちろん夏休みになると時間割表通りに生活することは一日もないのだけど、なぜか毎年、円形の時間割表というものを作って色を分けて塗ったりした。
時間割は守らなかったけど、その代り毎日の絵日記は、割と熱心につけていた。

あれは箱根の強羅ホテルだったと思う。私がつかまえてきたクワガタ虫を描くために、祖父が指でクワガタをつまんでいてくれたこと。
「可哀そうだから、早く描きなさい、」と言われて、絵日記に大きなクワガタムシの絵を描いた。
部屋の開いた窓の横の白い壁には、緑陰が映っていた。

~山の朝の空には
白い雲が小さく
流れて消える~

この歌も子供の時とても好きだった。ガールスカウトで習った歌だったと思う。調べてみたらクララ・シューマンが作曲した『山の朝』。
ガールスカウトの夏のキャンプでは、木の枝にマシュマロを刺して焚火で焼いて、ビスケットにはさんで食べたのがとてもおいしかったのを覚えている。
ガールスカウトの子供の面倒を見るリーダーのお姉さんたちは、綺麗な人が多くてみんな優しかった。特にYリーダーという、とてもおっとりして優しい、エキゾチックな顔立ちをした美人のリーダーがいた。当時、ガールスカウトは中学生になると、グレイの制服に紺色のベレー帽、えんじ色のスカーフとお洒落で、まだえんじ色のどんぐり帽とえんじ色の吊スカートの私は、リーダーたちの制服にとても憧れていた。
制服のグレイのスカートから、陽に焼けてスラッとした足に白い短いソックスを履いて、Yリーダーは、よく壁にもたれて静かに本を読んでいた。
今思うと、Yリーダーはいかにも深窓の令嬢という雰囲気のある、いわゆる「いいお嬢さん」で、そのせいか母親たちにもとても人気があった。
昔、私が子供の頃の年上の女の人には、深窓の令嬢や、エレガントで優しい感じの美人というものがまだ結構存在していたような気がする。

夏はとても短い。
陽射しの強い夏の青空にも、すでに秋の気配は潜んでいるのであって、敏感な子供は大人以上に夏にノスタルジーを持つ。

そして、子供が夏の雲や山や海に、大人よりもずっと強烈に親しみの感情を持つのは、まるで自分が生まれる遥か昔にも、雲や山や海とはもっと親しくてよく知っていたかのような、なにかそういった子供の時に起こる(よくわからない不思議な親しさ、懐かしさ)と関係しているような気がしてならない。

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梟翁夜話 №44 [雑木林の四季]

アナログの音や懐かし(下)

                 翻訳家  島村泰治

こうして、LPたちはうん十年振りでわが書斎に帰ってきた。MP3よりAIFFが音がいいなどど、信号音源に浸っていた私の音楽環境に古風なアナログ音源が復活したわけだ。きっかけが「弦の音」だから、そのインパクトは強烈だった。例の「シェヘラザーデ」を聴いた時のインパクトが後を引いて、私は俄にデジタル音源への急性アレルギーが発症、弦楽器が絡むものをCDで聴く気になれなくなった。書くのもそうだが聴くには弦楽四重奏に限ると思うほど室内楽が好みだから、その症状が室内楽に顕著に顕れた。

帰ってきたLP群のなかに「死と乙女」が埋もれていた。ジャケットから抜き出し、念入りに埃を払い流水で洗浄、ターンテーブルに載せ針を落とした。どこかにも書いたのだが、私はシューベルトを至高の楽才とし、彼の仕事を道標(みちしるべ)にしている。これぞ音楽の原点、と教えられたジョハン・セバスチアン・バッハの技法の枠を越えて溢れ出るシューベルトの楽想は、ミューズのそれであり、並みの音描きにはついに及ばぬ世界だ。そこには楽聖と云われるモーツアルトも、ましてやベートーヴェンなど手が届かない、というのが私論だ。

死と乙女が流れはじめる。落ちた針音の余韻をかき消すように、のっけの和音が滲み出た瞬間の感動は並ではない。ねっとりと、しっとりと絡んだ重音の厚みはまさにシューベルト、いやそれはやや過剰な反応だろうと云われようが、久しぶりにアナログを聴いた反応も混じえれば過剰どころかごく素直な直感ですらあった。信号音に毒された聴覚がアナログ音を介してサントリーホールに放り出された感覚だ。その日は、死と乙女を皮切りに「四季」、「調和の幻想」からドッペル(バッハの「2台のヴァイオリンのためのコンチェルト」)と聴きこんだ。ヴァイオリンを久しぶりに堪能したのである。

サントリーホールはさておき、デジタルに対するアナログの音楽的な価値を、この日私は改めて認識したのである。止まり木で食うにぎり寿司と回転鮨の哀れな乖離も切ないが、音楽の信号も等しく遣る瀬無い。音楽は一過性だからねっとりもしっとりもなかろうとは、およそ「音楽」を識らぬ輩の寝言だ。音楽は、太鼓と足踏みだけの原音楽ならぬ、弦楽の要(かなめ)の織り上げるタペストリーだ。絨毯ならデジタルは化繊の機械織り、アナログはハンガリーの手織りさながらだ。音は正直なものだ。0と1をどう組み合わせても、馬の尻尾がガットを擦って出す音に敵わないという事実は紛れもない事実だからだ。

蔵から帰ったわがLPたちは、こうして私の書斎で鮮やかに蘇生する。いま、ジャケットの修理から盤の埃取りに余念がない。追々に一枚ずつきめ細やかに養生されて、ターンテーブルに載りアナログ音を再生する。静電気を処理するブラシがほどなく宅配される。ダイアモンド針もそろそろ替え時かもしれない。わが書斎に「生音」が帰ってくる。なんとも愉しみである。

そんなある日、私はひょんなことで某サイトに立ち入った。音楽話を熱っぽく語るサイトだったが、ここで初期のLP録音を懐かしむ下りに至ってその部分を読み返した。1950年から60年代、将に本稿で触れた時期の録音再生の話が語られている。真空管を使った録音器機と電蓄のこと、その妙なる音質、音色の醍醐味が綴られているではないか。

これだ、と思った。器機には疎い私はアナログ録音の裏に真空管があったとは気付かなかった。勿論、昔のラジオが何球スーパーなどと性能を競ったのは真空管だった。トランジスタの到来で駆逐された真空管にアナログ録音の秘密が隠れていたとは、無知とは哀しいものだ。

それ以後、LPたちを聴くごとに真空管を思い出す。ややあって明るくなる真空管の「振る舞い」がアナログ性の証しのように思える。弦の立ち上がりの生々しさが思われて、音楽の有機性を改めて納得する。物置から帰還したLPたちを再び無碍に扱うまいと誓うのである。


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検証 公団居住60年 №37 [雑木林の四季]

Ⅶ 公団家賃裁判 ― 提訴から和解解決まで

      国立市富士見台団地自治会長 多和田栄治

  9.住宅・都市整備公団への再編

 家賃裁判にはいって1年後の1980年に関東自治協は20年目をむかえていた。この年、関東自治協は改組をきめ、6~7月に現在の東京23区、東京多摩、千葉・茨城、埼玉、神奈川の都県別に各地方自治協、五つ子が誕生したことはすでに述べた。同じころ日本住宅公団は、79年12月に宅地開発公団との統合が閣議決定され、「都市整備公団」への再編がすすめられていた。
 81年3月に第2次臨時行政調査会(会長土光敏夫)が設置されるとすぐ「行政改革」第1号として同年10月に日本住宅公団は廃止され、「住宅・都市整備公団」(住都公団と略記する)として再編された。設立準備の段階では新名称を都市整備公団としていたが、全国自治協と公団労組の共同の運動によって「住宅」を復活させた。新公団が「住宅」の表看板をはずそうとしたこと、新法1条の目的には旧法の「住宅に困窮する勤労者のために」を削ったことに、公団の変質が象徴的にあらわれている。新公団法案の審議にさいしては81年4月28日と5月7日の参院建設委員会で全国自治協と公団労協の両代表が参考人として意見を述べた。
 住宅・都市整備公団は81年10月1日に設立された。
 第2臨調は第1次(81年7月)から第5次(83年8月)の最終答申において一貫して公団住宅への利子補給の削減と家賃の定期的値上げを提起し、さらには既存住宅の建て替えを打ちだしている。その間82年11月27日に中曽根康弘内閣が成立した。臨調が最終答申をだすと、その推進を監視する機関として臨調にかわり臨時行政改革推進審議会を発足させた。「民活」路線がいっそうすすみ、、公団「民営化」への方向性はいよいよ明確になっていった。
 この流れにあわせて住宅宅地審議会は81年8月5日、答申「現行家賃制度の改善について」を建設大臣に提出した。この答申であらためて、公営および公団住宅の家賃は、①物価その他経済情勢の変動、②住宅相互間の家賃均衡上の必要ある場合、変更できることになっており、「定期的な既存住宅の見直しを提言したところであるが、その実施は必ずしも十分とはいえない状況にある」とハッパをかけている。公団家賃の定期的値上げを答申した審議会の顔ぶれをみると、南部哲也、稗田治、下総薫、畑中達敏たち公団関係者が住宅部会委員の半数を占めていた。

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Challenge 100 Years! №1 [雑木林の四季]

沈黙の90日      

              映像作家  比留間亨一                                                           

 83歳の後期高齢者である。あんたの平均寿命は、とっくに尽きている。そんなこと言われなくても、分かっている。「人生100年」を称える、政治家たちは、高齢者の未来に何を描いて、生かそうとしているのだろうか。
 後期高齢者社会に対する思いやりが感じられない。何とか自宅での往生を試みていた83歳のと或る日、沈黙の日が訪れた。
 社会との別れは突然訪れた。死とはこんなふうにして、何の予告もなくやって来るのかも知れない。以前にもそんなことを経験した。
 その時は、モヤモヤする霧の三途の川の向こう側で、父と母が死に神を追い払ってくれた。何やら、神楽のような薄気味悪い音楽が靄の中で響き、ストレッチャーのようなものが靄の中から姿をあらわした。
 「乗っては駄目だ」 少年時代に聞き覚えのある父の声だ。悲鳴のような母の声が、稲妻の中から聞こえた。どのくらい経ったか分からない。
 今思うと、あれが臨死体験だ。ボーッと視野がひらけ、見覚えのある医者と看護師の顔があった。あれは、1969年の東大安田講堂事件で、取材中に倒れた時の記憶だから、50年も前のことだ。昔の記憶は、つい昨日のことのように蘇ってくる。
 ま、ひらたく説明すると、何もやれなくなり頭脳が無力化すると昔の記憶が忽然と蘇ってたる、まことに厄介な存在だ。つまり行動力・思考能力がブッツン状態になり、自分では制御不能になっり呆然とした状態なのだ。
 そんな状態で、呆然した毎日を過ごすということは、一見楽そうに見えて辛い。死ぬ前は多分こんな気分に襲われるのではなかかろうか。今日も明日も・・・また夜が明けても・・・今日と言う日が来ても・・・
 また今日もだ。剥げたソファーの定位置に鎮座して、ボートしている。だいたい、自分が自分である自覚が希薄だ。生命の末期症状とはこんな状況なのかも知れない。
 しかし過去の記憶は斑斑にして、脳天を突き破って明瞭に浮き上がってくる。実に不思議だ。ときどき恐ろしなって震えが来る。
 アクセルの踏み違いによる高齢者事故が多発すると、そればかりに異常に執着してしまう。運転するのが恐ろしくなり、運転免許返納ばかりが、脳裏を駆けめぐっる。
 「ああいやだ、いやだ、いやだ」と思っても、生きて行く為には、明日の自分を何とか ほんとうは、何も考えずに「ボーッ」と一日一日を過ごしていれば、今度は痴呆症が怖い。
 最近、要介護1から入れる養護老人ホームの広告がやらた目につく。いっそのこと、自宅を売り、介護付き老人ホームに入ろうかなんて思うこともあるが。それって、先行きに夢も希望もありゃしない。
 毎月、半端ない介護保険料をとられても、何の御利益もない。そのうえ分納とはいえ不動産税の高さに唖然とさせられる。
 そのうえ、後期高齢者医療保険料の特別徴収額決定通知書をみてびっくりだ。これではまさに、絞り取れる所からかってに絞り取れと言わんばかりで、抵抗できない高齢者をいたぶっているに等しい。これでは、身動きできない物言えぬ高齢者を老人ホームに隔離し、(これでもか・これでもか)と痛めつけているのとおなじだ。
 表面では善人ヅラして、文句が言えないところで、金を絞り取っている。政府と行政に対する恨み言は山ほどあるが、後期高齢者と呼ばれる老人に為す術もない。
 これからは命の続く限り、無為・無策な毎日を過ごしている、いち老人の気持を、書き続けたい。それが、沈黙からの目覚めである。 

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コーセーだから №53 [雑木林の四季]

コーセー創業者・小林孝三郎の「50歳 創業の哲学」 14

            (株)コーセーOB    北原保

働きながら知識を求める血肉とした内村鑑三の思想

コーセーの〝誠実〟

 コーセー化粧品の創業の精神である〝誠実〟という言葉は、天下の松下電器をはじめ大企業から中小企業まで、どこの会社でも額にしてかかげている言葉。「なんや、あほらしい」と新入りの社員たちはバカにしがちである。事実、他社の精神をマネてかかげる会社も数多くあるにちがいないが、コーセー化粧品の〝誠実〟はすこし違う。この2字に小林孝三郎の50年の人生観が集約されているからだ。
 小林孝三郎が歩いた人生は、同じ年代の人ならば誰もが経験した道である。中学校に行きたくても行けず15才で東洋堂に入り、辛抱にたえたが、青年期に二度会社をやめようかとさえ考えた。一度目は南方雄飛であり、二度目は自家営業を手伝うためで、それを思いとどまり営々と東洋堂で働きつづけた。ごく当たり前の話であるが、ちがうのは、小林孝三郎は思いのままに生きたわけではない。いつも自分の人生軌道を少しずつ修正しながら生を燃やしてきたことだ。
 人間は思い通りに生きられるものではないということを知ったのは、24、5才ごろであった。
 中学に進学できなかった小林孝三郎は、丁稚時代からよく本を読んだ。はじめは「ああこの一戦」などの戦記ものから尾崎紅葉の「金色夜叉」全7巻の小説へ、それから徳富蘆花の「自然と人生」とか宗教本まで読みあさった。その読書の中でいちばん影響をうけたのが、大正年間に大きな思想的な根を残した内村鑑三だった。
 「20才を少しすぎた、ある時代に人間は何のために生まれたのかということを真剣につきつめて考えたんですよ」
 当時、内村鑑三は天皇陛下の写真にむかって、礼の仕方が浅かったというので大問題になり、もう一度礼をしろといわれて断ったという話は有名だった。
 東洋堂の一日の仕事が終わると、小林氏は牛込の東五軒町から新宿柏木町までよく走って行った。行き先は内村鑑三の柏木研究会である。
 「そのころ、内村鑑三が書いた本や雑誌で持っていないものはなかったですよ。全部買っていましたね。その本に線を引っぱって、何回も何回もよくくり返して読みましたね」
 ちょうどそのころ関東大震災が起きて、社会主義者の大杉栄が甘粕大尉に暗殺されるなど世間が騒然としていたころだ。
 たまに代々木の日本青年会館で、内村鑑三聖書研究会を開いたが、当時の金で50銭の入場料だから高いハズなのに満員だった。
 「内村先生という人は、研究会のはじまる時間がくると門を閉めて1分おくれても入れない人でしたね」
 小林氏はきびしかった研究会を思い出す。
 まだ独身だったので収入からみたら、研究会に払う会費や書籍代はたいへんに大きかったという。
 つい最近のこと、小林氏はある人の葬儀に出席したところ、その席にいた前東大総長の南原繁氏が50年前のこの内村鑑三の青山研究会に大学生で参加していたという話を聞いて、そのころがなつかしかった。
 なけなしの50銭は小林孝三郎にとっては高い金だが、その価値はいたって高かったとのこと。
 「内村先生のところに行ったことは、なにか具体的な勉強になったかといわれると困るし、経営の利益になるようなものがあったかといわれても困る。若い私に何か大きな影響をあたえたことは事実ですね。生きる自信というかな……」
 小林氏は結婚しても、内村鑑三の書物だけは、妻のきんさんに出張先に送らせていた。列車の中の時間を利用して、何回もわかるまで読んだそうである。
                                        (日本工業新聞 昭和44年10月23日付)

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内村鑑三氏
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内村鑑三氏の講義風景
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現在の今井館聖書講堂はNPO法人今井館教友会が保存運営に当たっている
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今井館聖書講堂の入口
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小林孝三郎が保存していた聖書之研究(左端が最終号)

*小林孝三郎が通った柏木研究会は柏木町(新宿区)にあった今井館聖書講堂で行われた。現在は目黒区中根(最寄駅は東横線都立大学駅)に移築され、NPO法人今井館教友会が保存にあたっている。
*小林孝三郎は、内村鑑三が主幹を務めた月刊誌「聖書之研究」を大正2年6月号(155号)から、内村鑑三が亡くなったため廃刊となる昭和5年4月号(357号)まで毎月欠かさず購読していた。

今井館聖書講堂の写真2点と内村鑑三の講義風景の写真はNPO法人今井館教友会から提供していただきました。内村鑑三氏の写真は聖書之研究357号から転載させていただきました。


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私の中の一期一会 №193 [雑木林の四季]

      続・映画「新聞記者」。大ヒットは公開11日で興行収入2億円突破の勢い
    ~妨害工作か?同一IPアドレスから公式サイトに大量のアクセスが殺到した~

                 アナウンサー&キャスター  藤田和弘

  映画「新聞記者」は公開以来、各地で満席が続出する大ヒットとなって、公開6日目の7月3日には興行収入が1億円を突破した。さらに公開11日目の8日には2億円を超えているという。
 主要メディアは、ほとんどこの映画を取り上げないから、シネフィル編集部のネット記事に出会うまで“大ヒット”の詳細を私は知らなかった。
 公開初週3日間(6月28~30日)の観客動員数は、全国で4万9871人、興行収入6233万1930円を記録していた。
 2週目の週末には動員数5万1229人、興収6485万8230円となり、動員対比102.9%、興収対比104.1%の高稼働だったのである。
 公開初週の成績を上回る作品は異例といっていいそうで、100館以上の実写作品では、“ボヘミアン・ラプソディ”などの大ヒット作と肩を並べる勢いだそうだ。
 私は7月3日に昔の番組仲間と一緒に、幕張新都心のイオンシネマで「新聞記者」を観てきた。
 5~60人はいたから、“ガラガラかもな?”という私の予想は外れたと言っていいだろう。
「結構多いじゃん」というのが我々の第一印象だったのである。
 午後2時過ぎという時間帯だったせいか、高齢者が殆どで夫婦連れも結構いた。パート仲間とおぼしき女性グループもいた。
 正義を振りかざして権力と戦う新聞記者の映画ではない。政府側の駒として働く官僚が焦点で、政治家は登場しなかった。
 内閣情報調査室の暗躍によって 真実は国民に伝わらないのである。
 日本の政治の現状は「こんなことでいいのか?」と国民に問いかける、よく出来た映画だと私は思った。
 シネフィル情報によれば、映画を見た人の絶賛コメントがSNSを中心に拡散して、客層も従来の中高年層に加え、若い層が徐々に増えていく傾向にあるということだった。
 42の劇場でパンフレットが売り切れになり、急遽1万部の増刷になったという。
 海外にも映画の評判は伝わり、各国の配給会社から問い合わせが殺到しているというハナシもあった。
 北米最大の日本映画祭があるニューヨークでの上映も決定しているらしい。
 映画を鑑賞した各界の著名人も感想をSNSに投稿した人が多いようで、参院選挙を前に“今、見るべき画”としての評判が拡がっているという指摘は確かである。
 安倍官邸は、映画の大ヒットを喜ぶ筈がない。菅官房長官が望月記者にカンカンだという記事をネットで見た記憶があるが、いずれにしても安倍官邸が映画の大ヒットに神経をとがらせているだろうことは容易に想像出来るのである。 
 映画の公開直後、公式サイトが断続的にサーバーダウンしたことがあった。
 出演した俳優たちは、映画を見た観客の書き込みが殺到したのだろうと楽観的だったが、サーバー業者の説明は彼らを不気味にさせるものであった。
 特定のIPアドレスから集中的なアクセスを受けた可能性が高いことが分かったからだ。
 同じアドレスから、人手による入力ではあり得ない膨大な量のアクセスを受けたことが判明した。
 SNSに出している広告でもおかしな動きがあり、相次ぐ通報で掲載制限を受けているとのこと。
 映画にヒットを快く思わない所から妨害工作を受けたことは明らかであった。
「日本には民主主義によく似た形があるだけでいいんだ」・・・
 これは、映画「新聞記者」のラストシーンで内閣情報調査室のトップが、政権がひた隠す大学新設の暗部を告発しようとする若手官僚に向けて言い放った“セリフ”である。
 ジャーナリストの元木昌彦氏は、「このセリフを聴くだけで、この映画を観る価値は十分にある」と話し、安倍一強が続く中、しかも参院選挙戦の最中に政治の腐敗を真っ向から描こうとした監督・スタッフに敬意を表したいと語っている。
 これは現代日本の“政治やメディアにまつわる危機的状況”を描いた作品で、日本映画久々の本格的社会派作品だ。“珍重に値する”と賛辞を贈るのは、ベテラン映画評論家の秋山登氏である。
 スタッフ・キャストの権力に屈しないという意欲、勇気、活力を評価しているのだ。
 毎日新聞15日の朝刊は、参院選の後半情勢として野党優勢の1人区が増えてきたことを伝えている。
 自民・公明の両党に憲法改正に前向きな日本維新の会を加えても、改憲発議に必要な(定数245の)3分の2議席を維持する「85議席」を確保するのが難しいかも知れないというのだ。
 32カ所ある改選数1の「1人区」で野党優勢の選挙区が5から7に増えたという。
 今回の調査で“まだ投票先を決めてない有権者”が約2割ほどいることが分かった。
 この人たちの投票行動がどうなるかで情勢は、また変わる。
 野党内では「前回を上回れる」という強気な見方と、「いやそれほどの手応えまではない」という慎重論がが交差しているという。
 安倍首相が応援に入った19選挙区のうち、12選挙区が「1人区」だとのこと。 
 前回惨敗した東北6県は今回の調査でも岩手、宮城、山形は野党が優勢のようだ。
 青森、秋田は接戦で、どうなるかは流動的だ。
 13日の秋田では「イージス・アショアの配備計画で、防衛省の対応が不適切でした。県民の皆様にお詫び申し上げます」と首相は頭を下げた。
 続けて「皆さまにご理解を頂くために、第3者の専門家による徹底調査をお約束申し上げたい」と終始低姿勢であった。
 14日は神戸市内でも演説しているが、トランプ大統領と信頼関係をつくることが日本の首相として最低限の義務だと語った。
 また拉致被害者、有本恵子さんの父にトランプ氏から届いた手紙には自筆で“私達は必ず勝つ”と書いてくれたと話し、首相は拉致解決に意欲を示したと産経新聞が伝えている。
 ハンセン病家族訴訟で国の責任を認めた熊本地裁の判決に、政府内の反対を押し切って、安倍首相は控訴を断念した。
 21日の選挙は、3分の2は厳しいかも知れないが、恐らく負けることはないだろう。
 だが、この国の政治やメディアにまつわる危機的状況を描いた映画{新聞記者」の大ヒットは、今後の安倍政権にとって、ボディブローのようにジワリ、ジワリと効いてくるように思えてならない。

 

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浜田山通信 №246 [雑木林の四季]

「千万人といえどもわれ往かん」

            ジャーナリスト  野村須美

 1993年以来の冷夏だそうで、近くのスーパーに買い物に出かけるにも上着をひっかけなければならない。おかげもあるのかどうか知らないが、参議院選挙はどこでやっているのか、演説会も選挙カーも回ってこない。
 私のマンションのすぐ前に小さな公園があり、そこには東京選挙区の立候補者14人のポスターが張り出されている。この辺りの大地主安藤要蔵さんが亡くなった時、一部相続税を物納したもので、要蔵さんの要をとって「かなめ公園」と名付けられた。通りの東側はマンション、西側は地主の当主の屋敷があるので人通りは少ない。選挙公報がきたのは11日だったかで、それまではこの掲示板で立候補者を知っただけだ。選挙公報には20人の顔写真と公約、あいさつなどが書かれており、このうち6人はポスターも貼らなかったわけだ。私は自民党と共産党の候補者は何回か当選しているので名前は知っているが、そのほかは初顔である。へえーと思ったのは無所属野末陳平87歳。広報には、よれよれの字で(失礼)いきなり「千万人といえどもわれ往かん(孟子)」とあり、「元税金党代表として参議院議員24年の実績と経験を生かし、再び国会活動がしたくて立候補しました。いまの政治は見るに堪えない。政治家は劣化し。官僚たちは怠慢で無責任、怒りでいっぱいです」と書かれている。おおまだ生きていたかというのが最初の感想。私より三つ下だが、私など陳平がどんな活動をしたのか、どれほど有名だったか何一つ憶えていない。そこで昔出た朝日新聞社編現代人物事典('77年刊)を見る。小中陽太郎が執筆しているが、小中陽太郎のことだって、ベ平連の運動にかかわった人たち以外ほとんど忘れ去ったのではないか。
 皆忘れられていく。それでいいのだ。野末陳平が、よれよれの字で「千万人といえどもわれ往かん」と号令をかけるだけで年寄りはいい気分になる。もう向う側へ行ってしまった鶴見俊輔や堀田善衛、小田実らが皆堂々としていた。当時、ベ平連の使い走りをしていた吉岡忍さんは、いまやペンクラブの会長である。あの頃ペンクラブは何かあると新聞記者を集めて声明を発表したり、世界的に影響力を持っていた。いまはたして何人の作家やエッセイストたちが、アベやトランプに抗議の声をあげているか。
 あの時代を思い出させてくれただけでも、野末陳平さんの「千万人といえども、われ往かん」は、私の胸にズシンときた。
 それにしても選挙はどこへ行ったのだろう。新聞は豆知識のような埋め草記事を載せるだけでTVは何一つ放送しない。NHKだけが注目選挙区をとりあげ、その中で皮肉なことに「NHKから国民を守る党」が「NHKをぶっ壊す!」と叫んでいる。NHKのニュースは、安倍さんを支持するようにしているのは、公然の秘密。世の中には、なかなかの知恵者がいるものだ。いろんな立候補者がいるのはおもしろい。

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