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私の中の一期一会 №176 [雑木林の四季]

          阪神17年ぶりの最下位。「超変革」は道半ばで振り出しに戻る?
~金本監督は「巨人は3位でも辞任、僕は最下位ですから」と成績不振の責任をとった~

               アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 阪神タイガースの金本知憲監督が11日、「今季限りで辞任する」と正式発表したのを知って落胆した人が多かったのではないだろうか。
 前日までは、「来季も金本続投」という球団方針に変わりはないとされていたから、私はこの「突然の辞任劇」に驚き、「何かあるのではないか」という違和感を覚えた。
 金本監督の辞任会見は、実に質素なものだったというサンケイスポーツの記事を読むと、球団職員の慌てぶりが見えてくる。
 球団事務所内のプレスルームは約50人の記者がごった返したが、ひな壇もマイクも用意されてなかった。
 金本監督は立ったままの対応になった。辞任会見というより、ペン記者による囲み取材みたいだった。
 テレビカメラは1台もないから、テレビ会見もない。写真撮影もNGだったらしい。所要時間もたった10分前後で終了している。
 最高指揮官の辞任会見だというのに、揚塩球団社長はこの場にいなかった。
 社長としては無責任ではないのか、何よりも退任する金本監督に失礼だろう・・
 「今年はイケる!」という思いでスタートした筈の金本阪神は、極度の打撃不振が禍いして17年振りのリーグ最下位に終わった。
 ホームラン30本を打てる右の4番打者として期待されたウイリン・ロサリオは全く機能しなかった。2軍暮らしが多く「最大の誤算はロサリオだった」と言っても過言ではないだろう。
 積極的に起用してきた若手達が予想外に伸び悩んだのも大きく響いた。
 昨季ホームラン20本の中谷将大(25)、2年目のドラフト1位大山悠輔(23)、一昨年のドラフト1位で新人王の高山俊(25)らが、チャンスで凡退を繰り返した。
 投手陣の柱になるべき藤浪晋太郎(24)が、2年越しの絶不調に苦しんだのも監督の足を引っ張った。
 成長しつつあった北条史也(24)は、これから追い込みというとき、大きな怪我をして戦列を離れた。
 今季全試合に出場して結果を残したのは、2年目の糸原健斗(26)唯一人だった。 
 球団事務所で会見に臨んだ金本監督は、辞任の理由を「成績不振です。やり残したことは多々ありますけど結果の世界ですから。何より最下位ですから、そこですよ」と語った。口調はキッパリだったそうだ。
 低迷するチームの再建を託されて、「10年かかるところを5年以内でというのが、僕の中でのぶれない目標でした」と語る金本監督だったが2年を残して、“チーム再建道半ば”で身を引くことになった。
 選手の怪我や伸び悩みがあり「選手一人を育てるのがこれほど大変とは・・でも若手が伸び悩んでいるのは我々の責任ですから」とも語っている。最下位の責任を一身に背負っての辞任ということになる。
 チーム状態がなかな良くならず、風当たりが強くなる中で、10月4日に巨人の高橋監督の辞任が発表されたのも、無視できない事態だった。
 「巨人は3位でも辞任。僕は最下位ですから・・」と苦笑交じりに言ったのは、最下位では“続投は許される訳がない”という覚悟が胸中に芽生えていたとも考えられる。
 8日のヤクルト戦(神宮)に敗れて最下位が確定した時、金本監督には「ちょっとヤバイな」という変化もあったっようだ。
 10日は甲子園での最終戦。ベイスターズに勝利した後、金本監督は、ファンにお詫びと謝罪のスピーチをしたが、このスピーチは「辞める、辞めないの深い意味はなかった。本当に謝罪メインの挨拶だった」ことを会見で明かしている。
  シーズンの終盤は、心無い批判にも晒されたが「いろいろな雑音の中でやっていくのがタイガース監督の宿命だから、もとより覚悟の上だった。特に気にならなかった」と話している。
 シーズン最終戦の前に、“ファンには辞任の意向を伝えておこう”という思いはあったのか?と聞かれて、「それもなかったですね。甲子園で勝たないといけないから、そこまで頭が回らなかった」と答えている。
 取材したデイリースポーツの記者も、金本監督の人柄を考えると、本当に辞任の気持ちを固めていたとすれば、スピーチの中に“別れの言葉”を込めた筈だと書いている。
 迷いはいくつかあっただろうが、10日の試合終了時点では「辞めようと思っていなかった」と推察しても間違っていないと私は思う。
 デイリースポーツによれば、事態が急転したのはそのスピーチの後からだった。
 試合後、クラブハウスで揚塩球団社長ら複数の球団関係者が金本監督の元に向かうのを記者が目撃していた。
 それから数時間後の深夜、金本監督が「辞めることになってしまった」とコーチ陣に電話を掛けまくっていたことが分かった。
 「金本監督退任は、表面上は辞任を装ったが、「事実上の解任である」という記事を書いたのは、スポニチ大坂本社の編集委員である。
 甲子園での最終戦の後、揚塩健治球団社長が金本監督を呼んで“辞任を迫った”のが真相だという。
 それまで監督本人の意欲は勿論、谷本修球団本部長も“続投前提で来季の組閣作業”を進めていたから相当驚いたに違いない。
 最下位が見えた今月初め頃、甲子園のスタンドから「金本やめろ!」などのヤジが飛び交い、SNSにも批判が溢れた。
 その頃、電鉄本社では「金本解任」に舵を切り、密かに揚塩社長に伝えられていたとみられる。
 「本社のご意向?・・」、ナルホドそういうことかと私は思った。 
 辞任会見と同じ日、坂井信也オーナーが、電鉄本社で会見、「今季限りでオーナー職を交代する意向だ」と語った。
 金本監督の辞任について「私にも責任がある。辛い思いをさせてしまった。監督を支えられず申し訳ない」と話し、監督と面談の上“謝罪”と“申し訳ないという思い”を伝えたいと語っている。
 2015年に監督を招聘してチームの抜本的改革を託したのは酒井オーナーだ。3年契約の道半ばで去らなければならない金本監督は、さぞ無念であったろう。
 私は金本監督の退任を“非情に残念だ”と思う一人である。“怒り”さえ湧いてくる。
 球団内には、「最下位とはいえ、三顧の礼で迎え入れた金本監督を3年であっさり切ってしまっていいのか」という声があるそうだ。
 また「これではお家騒動ばかりだった暗黒時代と同じじゃないか」と嘆く声もあって、チーム内に波紋が広がっているようだ。
 ほんとうは“球団一丸”とならなければいけないのに、このザマではチームの“ぬるま湯体質の払拭”など実現できる訳がない。また振り出しに戻ることになるのが一番問題だと私は思ている。
 13日、ナゴヤドームで最後の指揮をとった金本監督は「阪神は、常に勝ことを要求されるチームだが、そこを思い切って“なるべく補強を避けて若い選手で造っていく方針”だった。その意味では道半ばだ。
 若手には苦しい練習を課してきた。
 しんどい練習を与えたのにみんなついてきてくれた。これは自信にして欲しい。
 失敗しないと覚えないものでもあるから、どんどん失敗してオッケーだ。
 チャレンジ精神で、前のめりになって失敗して欲しい。
 目を掛けてきた選手が来季以降芽を出し、花を咲かせてくれないと僕まで悲しくなる。
 この1年は勝てなかったので一番しんどかったかも知れない」
 最後の指揮をとった金本監督は、子を思う親のような笑みを浮かべてユニフォームを脱いだ」と新聞が伝えている。
 来年、再来年は“しんどくなくなって”、楽しいかも知れないの、解任するなんて・・
 阪神タイガースは”大きな誤りを犯した”。いま私はそう思っている。
 

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浜田山通信 №228 [雑木林の四季]

ハーフ・ブリード萬歳

                         ジャーナリスト  野村勝美

 最近私にとって最高に愉快だったニュースは沖縄県知事選での玉城デニー氏の当選、それもこれまでで最高得票の394,768票。自民、公明、維新、希望推薦の佐喜真淳氏に8万票の大差をつけた。私もTVの前で陣営といっしょにカチャーシーを踊りたい気分だった。即日開票の夜は日本海を台風24号が北上中で、NHKは台風情報を流しっ放し、翌日の新聞もTVも扱いは比較的に小さかった。辺野古埋め立て反対派が翁長雄志知事と続けて2代選挙に勝ったということは安倍政権にとっても辺野古の埋め立て移転を強行はできないということだ。本土の日本人ヤマトンチュも沖縄県民と同じ行動、意志表示をしなければ民主主義が成り立たない。
 私が何より嬉しかったのは玉城デニー新知事が元米海兵隊員とウチナンチュとの間にできたハーフであること。父親はデニーが三歳のときアメリカに帰国し、母親は働きに出るため伯母に育てられたらしい。この生いたちは一冊の本になりうるもので、まさに戦後の日本、アメリカ、沖縄の象徴的人間像といっていい。私はこの「ハーフ・ブリード」に興味を持っている。身内にもいるし、友人にもいる。混血の人たちが、国境や民族の壁を打破っていくに違いないし、アメリカもまもなく白人より黒人、ヒスパニック、黄色人種が多数派になる。ヨーロッパもいくら排外運動が拡がろうと難民はどんどん増え、血が混ざり合う。人間の長い歴史が、闘争と混血の歴史だったし、そのスピードが21世紀に一層加速されるはずだ。
 大坂なおみを嫌いな日本人はいないだろう。彼女はハイチ人の父親と日本人の母親との間に生まれた。黒人の血が強いのかハーフは黒くなるが、あののびやかな肢体とかわいい表情は私たちをとりこにする。もともとカリブ海一帯がコロンブス以来の典型的なハーフ・ブリード地帯だから、大阪なおみの父親の先祖をたどるとどれほどの血が混ざり合っていることか。日本人は極東の島国で有史以来混血は遅れたが、大和民族といってもこの島国に偶然発生したわけではなく、北方民族と中国、朝鮮半島からと南方からの海洋民族の混血で成立、せいぜい千年しか経っていない。
 前の戦争で中国大陸、インドネシア、フィリピン、南方の島々の女性にどれほどの悪事を軍人たちが働いたかを考えるといちがいには言えない。中南米の混血も同様だが、結果として生まれたクレオール語や文化にはハーフ・ブリードのたくましさ、すごさがある。「サンデー毎日」10月21日号に作詞家なかにし礼さんがフランス人作家と結婚したお嬢さんんの7歳の孫娘のことを嬉しそうに書いている。80歳のじいじの誕生日祝いをくれたが「それがなんと四カ国語である。日本語=パピーおたんじょう日おめでとう、かぜひかないようにね、大すきよ。」以下英語、フランス語、中国語が横文字で書かれている。中国語は学校に友だちがいるからだそうだ。かりに両親が不仲になってもこの子はたくましく生きていくにちがいない。

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徒然なるままに №42 [雑木林の四季]

「ふるさとは」・・・

                            エッセイスト      横山貞利

  ふるさとは遠くにありて思うもの
  そして 悲しくうたうもの・・・
             と詠ったのは室生犀星である。

 この一年ばかり前から床に就いて何となく「ふるさと」についてあれこれ想い出しているうちに眠りについていることが多くなった。わたしが「ふるさと」を離れたのは1955年頃だから60余年も前のことになる。
 わたしの「ふるさと」は信州・松本である。松本城(古い地名から深志城=フカシジョウともいう)の5階に登って北から北西にかけて目で追っていくと、城から1㎞くらい離れたあたりが低い丘陵になっていて、その丘陵の西はずれは途切れて崖になっているのに気がつくに違いない。崖になっているコブのような小高い山は「城山(じょうやま)」といって市民の憩いの場であり、小学校1年生の遠足の場所でもあった。「城山」から北に伸びる小高い稜線は西側が急な崖になっていて雑木や雑草が密集している。この崖の下をJR篠ノ井線と国道19号が通っていて、その先は安曇野から北アルプスに繋がった眺望を楽しむことができる。わが家から城山の上までは600mくらいで、そこから北に向かって尾根伝いに県の畜産研究場まで登って行くと散歩を楽しむ恰好のコースである。中学・高校時代にはよくこのコースの散歩に出かけて浩然の気を養ったように思う。
 
  ところで、松本城のほぼ真北の低い丘陵の頂きにゴシック調の建物がある。この瀟洒な建物がわたしの母校・長野県松本深志高等学校(旧制 長野県松本中等学校)である。この校舎は1932年(昭和7)~1935年(昭和10)までに完成した校舎で現在まで多くの生徒を送り出してきた学び舎である。それまでの校舎は松本城の二の丸にあったが、この新しい校舎で多くの学友が青春を謳歌したことだろう。2003年(平成15)にこの校舎は国の登録有形文化財に指定されたということである。わが家は学校から300mくらい下ったところにあったから、わたしが生まれてもの心ついとき、そこに松本中学(戦後の制度では松本深志高校)があったのである。将に、わたしの人生がスタートした場である。多分、毎日朝晩予鈴などを聞き“チュウガク”と向き合っていなかったら、わたしの人生は全く別の経過を辿っていたに違いないと思う。「孟母三遷」とい言葉があるが、わたしの場合は「そこに中学があったから」と言ってもいいだろう。何しろこの中学は明治9年に有志が集まって組合立中学として創立されたのである。しかし、そんなことは実際に入学した後で知ったことである。それにしても子どものころ独りで中学の校舎や校庭のポプラの木で遊んだ。体育館は2館あって東側の体育館は武道館らしく剣道(板張り)、柔道(畳敷き)に分かれていた。
 あの頃は楽しかった。しかし、1944年(昭和19)国民学校(いまの小学校)に入学すると全てが変わってしまった。戦後、深志高校の「とんぼ祭」(文化祭のこと、校章が蜻蛉―トンボだから)の時に講堂で演じられた演劇が楽しかった。「にんじん」(ルナールの小説を脚色)、「群盗」(シラー)などを観たのを覚えている。

 ふるさと松本を離れて60余年が過ぎた。すっかり大都会の“根無し草”になってしまった。偶に信州・松本に帰っても友人の家に泊めてもらうかホテルで過ごすことになる。菩提寺の前住職は4歳上の遊び仲間であり小学校から高校までの先輩である。もう一人4歳上で旧制松本高校の植物学教授の三男坊とも仲良しだった。この三男坊はワセダを出た建築士である。
 それにしても、子どもの頃から仲間を作って遊ぶということは殆どなく独りであちこち歩き廻っていた。そうすることで何時も発見があったように気がする。こういう姿勢がいつの間にかわたしの行動スタイルになったのだろう。だから社会人になってからも変わらなかったように思う。ただ、小中学校時代何かというとクラスの代表にされちゃうのには参った。いま考えると「何か変だ」と思うと「一寸待って・・・」と口にしてしまうのだから仕方ないのかもしれない。こんな我儘でもなんとか生きられたことを感謝しなければいけないのだろう。特にカミさんには・・・。

    伊東静雄  詠 唱 

   秋のほの明い一隅に私はすぎなく
   なった
   充溢であった日のやうに
   私の中に 私の憩ひに
   鮮(あたら)しい陰影になって
   朝顔は咲くことは出来なく
   なった


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BS-TBS番組情報 №172 [雑木林の四季]

BS-TBS 2018年10月のおすすめ番組

                          BS-TBS広報宣伝部

U-23野球ワールドカップ2018

172u23野球ワールドカップ.jpg

10月26日(金)午後9:00~10:54 「スーパーラウンド第1戦」 (録画)
10月27日(土)午後2:00~4:54 「スーパーラウンド第2戦」 (録画)
10月28日(日)午後2:00~4:54 「スーパーラウンド第3戦」 (録画)
10月29日(月)午前9:00~11:55(予定) 「決勝または3位決定戦」(3位決定戦の場合は録画放送)
※日本が進出しなかった場合は放送なし

☆プロ野球界の将来を担う若手が集結!世界一連覇に挑む!

前回が初大会となった「WBSC U-23野球ワールドカップ」。
日本代表は、記念すべき初代王者に輝き、日本野球の層の厚さを世界に見せつけた。
第2回目となる今大会はNPB若手選手による代表チームで連覇に挑む!
代表選手は、23歳以下の選手から24選手を選出。
プロ野球界屈指の若手選手たちが集い、再び世界の頂に上り詰めることが出来るのか!

ゴルラボ.TV

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毎週(木)よる11:00~11:30

☆ゴルファーの「疑問」や「知りたい!」を解明!

出演:浦大輔、菊池編集長(月刊ゴルフダイジェスト)

「月刊ゴルフダイジェスト」菊地編集長と、ルートDのヘッドコーチ浦大輔氏とがタッグを組み、ゴルフに関するあらゆる謎や様々な疑問に徹底解明します。

■10月18日放送
今回は「4大シャフトの違いを徹底解明!」。
最新鋭の機器「トラックマン」を使用し検証する。大人気のシャフトの違いが明らかに!

■10月25日放送
今回の内容は、「ボールに傷がついている場合、ティショットの置き方でどのくらい飛距離と弾道が違うのか?」。
最新鋭の機器「トラックマン」と「ショットロボ」を使用し、その違いを徹底的解明する!
さらに、飛ばしの女王!林佳世子さんが朝一のティショットをうまくするための最適なストレッチを伝授します。

関口宏の人生の詩II

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毎週(土)ひる0:00~0:54

☆ゲストが関口宏にその人生を語るトーク番組!

彼らの人生の道標となった灯は何だったのか?
どんな人や物との出会いがあったのか?
人生の苦難を乗り越えた一流人をゲストに迎え、素晴らしき明日の人生の応援歌として、人生の道標を聞くトーク番組。日本を代表する方々をゲストに迎え、その方の半生を紐解いていきます。

■10月20日放送
ゲスト:小林亜星

■10月27日放送
ゲスト:藤城清治(影絵作家)


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バルタンの呟き №43 [雑木林の四季]

            「この道は いつか来た道」

                             映画監督  飯島敏弘

 「喉もと過ぎれば熱さも忘れる」とか。 この夏の、命にかかわる、とまで言われた暑さも、このところの涼しさで、世間からあっけなく忘れ去られてしまったような気がするのは、バルタンの僻目(ひがめ)僻目でしょうか!
日替わりどころか、朝夕で温度差が二けたも違う事もあったこの夏の狂乱気象は、人生100年時代といわれてもさほど遠く感じられない高齢?に達した僕としては、相当骨身に堪(こた)堪えましたから、そうそう簡単には忘れられそうもありませんが。でも、どうでしょう。最近の世の中の風潮を見ていると、そんな事にはお構いもなく、暑さだけではなく、諸事万端、喉元どころか、まだ口の中にあるうちに、ころころ忘れさせてしまうような、何かの力が働いているように思えるのですが、これもやはり、僻目でしょうか。
 念のために申し上げますが、呟いている僕バルタン星人としては、決して、世間がとっくに忘れた森(も)森友(り)友加計(かけ)加計の話や、伏魔殿に迷い込んだジャンヌダルク知事が、傷だらけになって、17年ぶりに漸く開場に漕ぎつけた豊洲市場の有害物質、歴史を終えた築地市場が果たして食のエンターテイメントゾーンになれるのかどうか、そのほかのあれこれについて呟きたいわけではありません。いまの日本は、過ぎたことは、たちまち忘れてしまい、何という事もなくなってしまう至極便利なご時世なのですから。

 さて、問題は、過去ではなく未来です。せっかく知の木々の舎に巣篭らせていただいているバルタン老人として、地球が、いや、地球などと大きく構えなくとも、少なくとも、僕がもうしばらく寄留しようと思っているこの日本が、いままさに箸でつまんで口に入れようとしている近未来について、この時点でぜひ、これだけは呟いておかなければいけない義務があると思うのです。なぜならば、僕の眼にはどうしても、表面的にはまったく平穏に見える日本がいま、僕たちが経験させられたあの時代、あの、非情悲惨な大戦へとつながった、思うだにばかばかしい昭和の辿った同じ道を、戰爭を知らずに過ごした平成最後の今、まるでその轍を踏むように、再び歩き始めているように見えて仕方がないのです。

 この歳になる僕でさえ、米軍の巨大爆撃機B29機の無差別焼殺爆撃には、数回、死の縁を追い回された経験はあるものの、この日本に現存する大多数の人々が、戰爭を経験したことのない人たちになってしまいました。善良な人間が、悪鬼に変身して、残酷に相手の命を奪い合うむごたらしい戦場に実際に身を曝した経験がない、戰爭をまるで知らない世代の政治家が、「この道しかありません」と突き進んで行くこの道とは、何処に続いている道なのか・・・しかも、昭和の道筋は、あやまった道筋であったとはいえ、日本が主体的に選んで進んだ道です。しかし、いま日本の指導者と自認している政治家が「この道しかありません!」と進もうとしている道の先で旗を振っているのは、自国の利益だけを確保しようとするアメリカではありませんか。たとえ、戦勝国アメリカが主体となって立案して与えられた憲法であっても、永久に戦争を放棄する、と謳う憲法第9条を、70年以上もの間守り続けてきた平和日本を、何処に連れて行こうというのでしょうか。中国、北朝鮮、ロシア、果ては、現在では隣接の友邦である韓国までを脅威と決めつけて国難とするのではなく、昭和の時代、誤った政策で侵攻、掠奪した周辺諸国との和解と共存を、薄く鋭い剃刀の刃を渡る努力で計ってきた先人たちの努力を踏みにじらずに、さらなる贖罪と援助の努力を惜しむことなく尽くして、友邦として、それら近隣諸国との共存共栄を図る道こそが、「これしかない」道なのではないでしょうか。
 空論と決めつける前に、第二次世界大戦後のドイツの歩んだ道を見れば、おのずからその解は得られるはずです。
謝罪をせず、曖昧な贖罪と賠償の猶予として、すでに莫大な支払いをしてきたにも関わらず、ほとんど明快な関係を取りもどし得なかった自らの過ちを顧みずに、もはや世界の最強国ではないアメリカに追随する道が、決して僕たちの日本の「これしかない」道ではないと、僕は思うのです。
 反戦運動が、戰爭を止めた実績はない、と主張する方々がいます。その通りです。戦争が始まってから反戦運動をしても、戰爭を止めることは出来ないでしょう。戦争が始まる前に、その道を辿るのが誤りである事に気づき、その歩みを押し留めて、立ち止まって、冷静に、みんなで納得できるまで論議を尽くすのが、戰爭を止めることの出来る本当の反戦運動なのではありませんか。
 いまの日本では、与党、野党を問わず、政党政治が混乱、頓挫しています。議会政治が、ほとんど無視されています。長い間に、平和が当たり前と考えているうちに、国民が気づかないうちに、大変危険な状況に陥っているのです。
政党や政治家が混乱を極め、明治維新以来長い間をかけて折角手にした国民による普通選挙と議会制を、富国強兵政策で伸張した軍の力を盲信して政治に関与した軍人に総理の場まで奪われ、大政翼賛、挙国一致、国民総動員の名の下に、全ての言論も統一されて、一挙に、不見識、無策無謀な戦争に突き進んでいって、国土の主要都市の大部分が焦土となり、300万の人命が失われた戦争の昭和と、おなじ道筋を歩き始めているのです。神格化した天皇陛下を捧げ持つかわりに、国民の皆さんの圧倒的な支持によって、という大義の旗をかかげる指導者に導かれて。
 もちろん、指導者は、最強の軍事力と核の傘を差しかけている同盟国アメリカに追随するこの道こそが、強力な武力と軍隊を持たないこの国が、近隣諸国の脅威と拮抗するただひとつの道、と信じているのでしょう。でも、アメリカが、果たして、日本を、対等な同盟国と考えているかどうかは、はなはだ疑問です。特に自国第一主義をモットーにするトランプ政権が、そんな甘い事を考えている筈がありません。抬頭激しい中国、自国攻撃能力をも具える核保有国に至った北朝鮮、そしてロシアの脅威を、立地的にも絶対に有利であり、安価な代償で済む日本に自国の軍事基地を置いて盾にしようと考えているに過ぎない、と断定するのは、乱暴でしょうか・・・いえ、きっと皆さんも、内心ではそう考えていらっしゃるのではないでしょうか。でも、そんなことを言っても、国民の皆さんがその政権を支持しているのだから・・・と。

バルタンは、小さくとも、呟き続けます。何故なら、生き残った戦争経験者が、どんどん少なくなって行くうちに、昭和の戦争がどんなに恐ろしかったか、忘れられてしまうからです。
 でも、再び戦争が起こる時、そこには、人間の兵士が存在しないかも知れません。AIとマシーンの戦場、そこには、生身の人間の感情などは存在しないかもしれません。非情などという言葉では表すことの出来ない残酷が、これからの戦争なのです・・・

 旧来の閣僚に、新しい顔ぶれを補足した内閣が動き始めました。さっそく、新文部科学大臣が、「ある面では、教育勅語の一部分を学校教育の現場で用いるのは至当かも・・」みたいな当該担務大臣の資質が疑われることを口にして、指摘されてからもなお心底から誤りと認める風情が窺われないまま、ずるずると執務についています。
 僕たち昭和世代の国民学校(小学校)では、その教育勅語で、皇国の少国民という名の戦士に育て上げられ、ほとんど飢餓状態のやせ細った身体で腰だめに支えた重い銃剣を、身体ごとアメリカ兵に突き通す訓練を繰り返していたのです。
この夏の暑さを忘れ、台風、地震の災害を忘れ、確実に人類の破滅につながる戦争を他人事として忘れることは、貴方の存在が忘れられることなのでは・・・
声は小さくとも、バルタンは呟き続けます。聞こえますか・・・?


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医史跡を巡る旅 №46 [雑木林の四季]

「林太郎残照」~明治村の森鴎外・夏目漱石住宅

                     保健衛生監視員  小川 優

愛知県犬山市にある明治村は、広大な敷地に、各地から歴史的建造物が移設されており、見応えがあります。今回はその建築物の中から、森林太郎にかかわりのある家をご紹介します。

「森鴎外・夏目漱石住宅遠景」

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「森鴎外・夏目漱石住宅遠景」 ~愛知県犬山市字内山

一見ありふれた民家ですが、この家のすごいところは、文豪が二人も住んでいたということです。明治23年から1年間は森林太郎が住み、その後明治36年から3年間、夏目漱石が借りて住みました。

「森鴎外・夏目漱石住宅玄関」

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「森鴎外・夏目漱石住宅玄関」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

建物としては、当時の中流以上の平均的な住宅ですが、女中部屋があり、自宅に使用人がいることが前提の造りになっています。明治20年ごろに医師中島襄吉の新居として建てられながら、空き家であったものを明治23年、林太郎が借りて住みます。

「森鴎外・夏目漱石住宅座敷」

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「森鴎外・夏目漱石住宅座敷」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

この住宅に住んだ頃、林太郎28歳は公私ともに人生の岐路に立たされていました。明治21年、ドイツ留学から帰国しますが、ほどなく現地で懇意にしていたエリーゼ・ヴィーゲルトが、彼の後を追って来日。なんとか説得し本国にお帰りいただいたところで、あわただしく海軍中将赤松則良の娘、登志子と結婚。下谷区上野花園町に、赤松家に用意してもらって新居を構えます。

「森鴎外居住之跡」碑

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「森鴎外居住之跡」碑 ~東京都台東区池之端三丁目

結婚の翌年、明治23年には長男於莬(おと)も生まれ、エリーゼ事件の清算とも言える「舞姫」を発表して本格的に文壇活動を始めた矢先、登志子と離婚します。
離婚の理由は、鴎外研究家の興味の的となっていますが、今となってははっきりしません。ただ現実として、妻の実家に用意してもらった家に、妻が出て行った後も居座ることはできず、幼子を連れて林太郎は転居を余儀なくされます。
こうして移り住んだのが、本郷駒込千駄木にあったこの家です。

「森鴎外・夏目漱石住宅広縁」

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「森鴎外・夏目漱石住宅広縁」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

この家で林太郎、否鴎外は「しがらみ草子」を編集刊行、「文づかひ」を著述、発表し、文筆活動に傾斜していきます。また林太郎としては明治24年に医学博士号を授与されます。
そして明治25年、同じ千駄木の高台に新居を建て、父母を呼んで同居します。

「観潮楼跡(森鴎外住居跡)」

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「観潮楼跡(森鴎外住居跡)」 ~東京都文京区千駄木

明治26年には、前回ご紹介した通り軍医学校長に就任。翌27年には日清戦争が勃発し、出征します。
こうした私生活、軍医、そして文筆活動ともに多忙で、激動の時期に一時的にせよ住まっていたのが森鴎外・夏目漱石住宅になります。

「森鴎外・夏目漱石住宅書斎縁側」

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「森鴎外・夏目漱石住宅書斎縁側」 ~愛知県犬山市字内山 明治村

ちなみに夏目漱石はこの家で「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」、「草枕」といった名作を執筆しています。「吾輩は猫である」に描写されている家の特徴とよく似ており、縁側に佇むと今にものそりと、「吾輩」が寄ってくるような気がします。



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いつか空が晴れる №45 [雑木林の四季]

     いつか空が晴れる
            -住大夫の文楽ー

                        澁澤京子

 「最初、東京に出てきて驚いたのは、かっこいいだけでおもろくもなんともない男の人がもてるところ・・大阪やったら絶対もてへんで、と思ったの。」
阪神のお嬢さん学校を出た女性で、おっとりした感じの友達がこんなことを言っていた。
かっこつけたり、気取ったりする人間は「ええかっこし」なんであって、関西ではおもろくない人間と思われるらしい・・

うーん・・。私の知っている東京の人間に気取る人っていうのがほとんどいないのはみんな親しいせいか・・(基本的にはシャイである・誰に対しても人当りがソフト・肩肘はらない・ゆるやか・それでいて打ち解けるまで時間がかかる・率直である・個人主義・他人と微妙な距離をとる・権威主義が嫌い、等々・・)といった特徴を持った付き合いやすい人が多いような気がするけど、一見、人当りがよくて社交的なようで割とシャイな人間が多いので、関西人から見ると、冷たく気取っているように見えるのかもしれない。
東京の人間は、確かにインパクトにはかけるが、よく見るとお洒落みたいなノリで、なにげに「ええかっこ」しているのかもしれない。
「いかにも」という感じの仰々しいもの、「どうだ」とばかりに構えたりするものを嫌い、その代り、ユーモアと軽さではぐらかそうとするところが、関西人から見ると半端な気取りと「ええかっこし」に見えるのかもしれない。

自分の中の「ええかっこし」について考えてみる。こうやって文章書いていても「ええかっこし」がいつの間にかやってきて、何気にかっこつけようとしているんじゃないか?もっと自分を壊さなあかんね・・

昔、妹と母と、今は故人となった竹本住大夫の文楽を聴きに行ったことがあった。鼻水、涙も流しっぱなしで義太夫を語る住大夫には、義太夫にはまったく素人、字幕見ないと何を言っているのかよく分からない・・の私も圧倒されて釘点けになった。思わず涙が出てきたことがあった(演目が何だったのかはさっぱり忘れた)
―成っても成らんでも、一生かけるから修行です
―自分がええかっこしていては、絶対に人の心は動かせません―住大夫

人が何かに命がけで取り組むときはいいかっこなんてできないものなあ・・
どんな人でも苦しい時期とか、カッコつける余裕もなく無我夢中で生きる時がある。

どうにもこうにも切羽詰まった時期があって、禅堂に駆け込んだときがあった。警策でたたかれて、涙も鼻水もたらしっぱなしで無我夢中で坐ってた私。

名人と呼ばれる人は、いつもああいう崖っぷちのようなぎりぎりの状況でお稽古してるんだろうか、と、自分の中の「ええかっこし」を反省するのである。


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梟翁夜話(きょうおうやわ) №25 [雑木林の四季]

「飴の話」

                          翻訳家  島村泰治

白髭を蓄え作務衣などを着込み、転ばぬ先と口実を構えて杖を使い、私は常日頃老けムードを漂わせている。傘寿を三歳越えていればそれもよかろう、と周囲も見て見ぬ振りをしている。じつは髭は照れ隠し、作務衣は襤褸(ぼろ)隠しの設えなのだが、それと気づくお人はいるようでいない。その私が、こと甘味になると俄然幼子の心境に立ち返る。飴などそのいい例だ。

学校に未だ上がらぬ頃、育った蒲田の南六郷の辺りは町工場や細工職人の店を挟んで住まいが連なっていた。出雲国民学校への途中、どぶ川のほとりに子供相手の駄菓子屋があった。子供の目にも小ぶりのその駄菓子屋は、なけなしの小遣いを「散財」する場だったが、子供たちにはメッカだった。蝉採りのモチもメンコもベーゴマも、みな其処で買った。そんななかに鉄砲玉があった。

そう聞いて微笑まれる方は、どうやら私と似たり寄ったりの歳のはずだ。鉄砲玉とは真っ黒なビー玉に似た黒糖の飴で、子供の口には持て余すほど大きかった。味は濃厚でしっかり甘く、ビー玉だから堅い。その気ならば一個で一時間は保つという頼もしい飴だった。

私はこの鉄砲玉が大好物で、すぐに咬みたくなるキャラメルなどよりはあの頑固さが気にいっていた。いくらだったかとんと忘れたが、しがない小遣いで賄えたのだからほどほどだったろう。鉄砲玉を口に放り込んで転がしながら、味とは別に玉が歯にぶつかって立てる音を味わったものだ。前歯と奥歯で立てる音に高低があり、玉が減りながら別な感じの音に変わってゆく様が面白いと思ったものだ。

昨今、メタボがどうしたとかで私は甘みを制限されている。塩分もというから、何のことはない「甘いも辛いも」ままならぬ境地に追い込まれている。縷々話しを聞けば、健康のためというから敢えて抗う気持はない。ないが、虎屋や舟和を切られた上に飴風情も禁制とは情けない。せめて鉄砲玉ぐらいはと愚妻に掛け合えば鉄砲玉とは何のことか、と逆ねじを食った。これはこういうものだと話しをしたら、流石に甘みに飢えた私の思いにほだされたか、このところ飴の物色に立ち会ってくれている。

これは追い風、と私は鉄砲玉探しを始めた。だが、哀しいかな、これが何処を探してもないのである。固有名詞としては失せても、あの形状の固い黒糖の丸飴はどこかにはあろうと見て回ったが、ない。黒糖飴はあるにはあるが、どれもへたり腰のものばかり、とても私の目に、いや口に叶うものがないのである。

飴を求めて数ヶ月、いま私はほぼ鉄砲玉は諦めている。片目は開けて気にはしていようが、見つかる望みはほぼ絶えている。

たかが飴のことで詰まらぬ神経を、と反省の念が沸いてきた矢先、ひょんなことで味な昔風な飴を発見して、何処かほっとしている。称して「たまり玉」。醤油のたまりを仕込んだ小粋な堅めの丸飴だ。同じ玉だからと屁理屈を捏ねて、いま私はたまり玉に凝って鉄砲玉を忘れようとしている。

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検証 公団居住60年 №19 [雑木林の四季]

日本住宅公団公社と公団住宅 2

            国立富士見台団地自治会長  多和田栄治

 資材と資金

 1950年6月に朝鮮戦争がおこり、日本経済に突発的な「動乱ブーム」をもたらした。この期に鉱工業生産は急速に拡大し、51年には戦前水準を突破した。動乱ブームで大きな役割をはたしたのが特需、米軍による軍用資材の買い付けである。建設鋼材、セメントなどが上位を占め、兵器の発注や修理が第1位となっていた。
 1953年7月に朝鮮休戦協定が調印され、動乱ブームは終わった。アメリカの世界的な戦略物資買い付け停止を契機に世界市場は停滞しはじめた。日本の貿易も赤字になり、商社や問屋などの倒産がおこり、鉄鋼や繊維の在庫がだぶつきはじめた。『経済白書』が53年度を「経済の膨張と国際収支の悪化」、54年度は「引締め政策による不況の到来」と特徴づけたように、毎年大幅上昇をつづけてきた鉱工業生産も消費もほとんど足踏み状態になっていた。「しかし、それは拡大均衡へのスタートラインとしての縮小である。伸ぴんがためこ屈する政策である」と白書は強気だった。翌55年から、白書の予言が当たり、ほとんどの人が予想もしなかったような急速な景気の上昇がおこり、経済拡大の時代にはいった。56年度白書は「もはや戦後ではない」と書いた。高度成長期の始まりである。
 日本住宅公団はまさにこのときに発足し、順調な滑り出しができた。建設鋼材やセメント業界にとって、設備投資を拡大しながら滞貨をかかえた不況下で、鉄筋コンクリートの集合住宅を大量建設する計画は干天の.慈雨であり、住宅建設が景気におよぼす波及効果は大きいだけに、広く産業界は歓迎した。
 金融界も100億円、200億円という金を使ってくれる政府機関ができるわけだから乗ってくる。公団発足後に神武景気、岩戸景気とつづき、造船や鉄鋼に使えばもっと稼げると生保も金融界も渋りだした時期もあったが、オリンピック景気が後退し、「昭和40年不況」といわれた65年以降、融資先が少なくなって、公団への貸し付けは一挙に倍増している。

 建設用地

 建設戸数ノルマを果たすうえで最大の難関は用地の取得であった。用地取得の担当者こそ住宅公団の立役者だったにちがいない。
 初年度早々2万戸、1956年度2.3万戸、57年度3.5万戸の建設をせまられ、多くは「出もの」的な市内空閑地、たとえば工場跡地など、住宅地としては不適な場所でも着手せざるをえなかった。また地方自治体で計画中のものを引きついだ。そのほか、すでに用地を確保していた企業の社宅を建設して戸数をかせいだ。
 住宅建設用地は、一般買収、所管替え、現物出資による取得があり、55年度に106ha、56年度から62年度にかけては年平均210ha、その後70年度までは年に430ha、73年度はピークの831haの取得実績をあげた。公団設立から1973年度末までの取得総面積は約6,490ha、東京都千代田区の約5倍に相当する広さである。うち78%が一般買収、他はそれぞれ19%、3%の比率であった。
 一般買収用地としては、国有地の払い下げ、地方自治体の宅地造成事業地、私法人の造成宅地、工場跡地や山林・農地など民有地の取得がある。東京の練馬・板橋両区にまたがる光が丘地区のグランドハイツ、所沢市の所沢パークタウンなどは基地跡地であり、東京都では都営住宅用地に計画していた晴海の埋立地の譲渡をうけた例や、自治体事業地を買収して造成した千葉海浜ニュータウンや泉北ニュータウンなどがあげられる。田園青葉台、たまプラーザ、虹ヶ丘等の団地は私法人の造成地を取得して建設した。工場跡地の利用は都市再開発といえる。東京の青戸や大島団地などはその例である。山林・農地などを取得して建設した団地は多い。
 所管替え用地では、新住宅市街地開発事業地の多摩ニュータウンをはじめ光明池地区、北摂地区等、土地区画整理事業地はほとんどが旧陸軍火薬庫跡地で、57年に国から現物出資を受け、事業施行した宅地に住宅を建設した香里団地(枚方市)、高蔵寺ニュータウン(春日井市)、高島平団地(東京都板橋区)、港北ニュータウン(横浜市)などがある。また公団の公有水面埋立事業地の所管替えをした袖ヶ浦団地(習志野市)の例もある。
 現物出資用地には、国から出資された旧陸軍被服廠跡地の赤羽台団地(東京都北区)、地方自治体の出資による仏向団地(横浜市)がある。
 住宅公団の使命は、住宅建設のほかに大規模な宅地開発があり、それはたんに住宅用地を供給するだけでなく、工業用地、流通業務用地の開発、さらには研究学園都市建設も業務範囲だという。宅地開発部門の1955~74年度の用地別取得実績をみると、住宅用地卵06ha、工業用地2,003ha、流通用地60ha、研究学園用地1,803ha、合計13,372haと広大な用地を取得している。
 土地の取得には「うさん臭さ」がつきまとい、住宅公団も例外ではないことは、あとで述べる。

『検証 公団居住60年』 東信堂
                                   

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私の中の一期一会 №175 [雑木林の四季]

          大相撲界で孤立無援、貴乃花親方の引退が臨時理事会で決定する!
        ~平成の大横綱も、親方として器用に立ち回れなかったようである~

              アナウンサー&キャスター  藤田和弘

 秋場所千秋楽から2日しか経っていない25日突然、平成の大横綱と言われた貴乃花親方が日本相撲協会に引退届を提出したというニュースがテレビから流れた。
 その日の夕方、貴乃花親方は記者会見を開き、年寄引退の理由を記者団に説明した。
 それによると貴乃花親方は、元横綱の日馬富士が貴ノ岩関に暴行を加えた事件で、「日本相撲協会が自分に対してとった対応を問題視」していることが分かった。
 春場所前の3月9日に、“真実を隠さず追及したい”という気持ちで、貴乃花親方から内閣府に提出された「日馬富士の暴行事件に関する告発状」は、別の弟子の貴公俊が付け人に暴行した事件が明るみに出たため取り下げを余儀なくされた。しかし提出した告発状の内容は、何ら真実に反するものではない。
 その後は、理事だった役職も2階級下の「年寄」へと降格させられている。
 貴乃花一門からも離脱、無所属の一兵卒として再スタートするつもりでいた。
 ところが、猛暑に喘いでいた8月7日、埼玉県所沢市で行われた夏巡業の会場で、春日野巡業部長(元栃乃和歌)から「告発状の内容は全て事実無根である」という内容の八角理事長名義の書面を手渡された。
 書面は、「告訴状は、事実無根な理由でなされた」と結論づけられ、それを認めないなら「親方を廃業せざるを得ない」というものだった。
 さらに、理事会での決定事項として
  1)全ての親方は5つある一門のいずれかに所属しなければならないこと。
  2)一門に所属しない親方は部屋を持つことが出来ないという決定がなされたこと。
  3)いずれかの一門に入る条件は、告発状は事実無根であると私が認めることなどが書かれ
   ていた。
 事実を曲げて「告発状は事実無根です」と認めることは、私には出来ない。
 私が一門に所属できないままでは、貴乃花部屋の力士は相撲を続けることが難しくなり、鍛錬・精進することが出来なくなる。
 有形無形の圧力を受けて断腸の思いだが、力士や床山たちは千賀の浦部屋に所属変更させていただき、私は「引退」するのが最善の道なのである・・・
 日馬富士による暴行事件をキッカケに勃発した日本相撲協会と貴乃花親方の対立は 「理事解任」や「2階級の降格」では収束せず、依然として今もくすぶり続けているのだ。
 貴乃花親方の会見終了から2時間後の午後8時半、今度は日本相撲協会の芝田山広報部長(元横綱大乃国)が取材に応じ、協会側の見解を示した。
 それは、貴乃花親方の主張を真っ向から否定するものだったと日刊スポーツは書いている。
 事実無根の告発状を認めないと親方を廃業しなければならないという圧力を掛けた覚えはない。
 一門に所属しない親方は廃業しなければならない決定がなされたという事実も「一切ありません」と語気を強めたという。
 「引退届」についても、協会に必要なのは「退職届」であり、引退という意味あいだと言われても困る。あくまで退職届が必要になると強調した。
 文書や書類の内容にも不備があったので、届けについては「受理ではなく保留とする」と代理人に伝えた。。
 千賀の浦親方(元隆三杉)を協会に呼んで事情を聴くと、貴乃花親方から転属の希望を聞いたのが今日の昼過ぎだという話だった。千賀ノ浦親方にしても寝耳に水の話しで、慌てて受諾の返事を電話でしたということだった。
 私は、貴乃花親方が引退するという決断を「今朝決めた」と記者団に語っていることを知ったとき、「何だかヘンだな」という感覚があった。貴乃花親方は、人の言うことを全く聞かないそうだが、今朝決めた引退という重大な決断を相撲協会より先にメディアに伝えたのは、手順が違う気がしたからである。
 ほかにも違和感を覚えた取材者が多かったのではないだろうか。
 理事会の決定事項は、阿武松親方(元益荒雄)を通じて何度も伝えている筈だと、関係者もややお手上げの様子だったというのも頷ける。
 どんなに対立していても、「引退届」は自分で相撲協会に持参するのがスジではないのか。代理人に持たせるなんて、オトナのすることだろうか?
 結局、芝田山広報部長は「実際に書類は整っておらず受理していない」と説明して締めくくった。
 とにかく貴乃花親方は、対立関係にある相撲協会に対して頑なな態度を崩さないのだ。自ら孤立状態を選んでいるように見える。
 貴乃花親方には、何をするか分からない怖さが常にあり、周りが止めても聞く耳を待たないという人は多い。
 かつては一門の枠を超えて支持していた親方衆たちも、最近は距離をおくようになったというのも当然と言える。
 日本相撲協会から再提出を求められていた弟子たちの所属変更届は、29日再提出されたことが分かった。
 相撲協会は10月1日,臨時理事会を開き、貴乃花部屋の力士ら10人の移籍について審議することになった。
 力士らの移籍が確定したら貴乃花部屋は消滅することになる。そして所属先を失った貴乃花親方は正式に「退職」が決まるのだ。
 こうした争いは、一方だけが悪い訳ではない、どっちもどっちなのだ。
 だが、相撲協会と交わることのない状態が続く限り、貴乃花親方がこれまでのように活動することが難しくなっていることは確かだ。
 ネットに「八角理事長も貴乃花問題の責任をとって辞任するのではないか」という記事を見つけて気になっている。真偽のほどは分からないが、相撲界に激震が走るかも知れない。
 レスリングのパワハラ問題、日大アメフト部の悪質タックル問題、日本ボクシング連盟の助成金不正使用問題、体操界の暴力とパワハラ疑惑・・など今年はスポーツ界で不祥事が相次いで明るみに出た。 
 これらの事例から分かることは、スポーツ競技団体のガバナンス(組織統治)に自助能力を期待しても無駄だということだ。
 一連の不祥事に共通するのは、一人の人物が強大な権力を持った結果、「一強体制」になった団体がオウンゴールのように内部から壊れていくという流れだ。
 権力者のほとんどは権威主義を振りかざし、自分に従わない者は敵とみなして排除していく。
「安倍一強」さながらの有様に愕然とする思いだが、組織の閉鎖体質を一掃して、民主的な運営をしていかない限り体質改善は難しい。
 競技の枠を超えた多様な人材を登用しろとか、排他的ではない組織運営をしろなど、言うことは分かるが実行するのは容易ではない。
 相撲協会執行部は、四面楚歌だった貴乃花親方がいなくなればせいせいするかも知れない。
 だが、現状の閉鎖的な体質をこのまま続けていくと、八角体制だっていつまで続くか分からないのだ。
 21世紀になって、多くのスポーツ団体が曲がり角を迎えていることは確かなのではないか。
 「人は年齢と時代には勝てない」・・ノムさんこと野村克也氏の言葉である。


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浜田山通信 №226 [雑木林の四季]

熊倉不動産会長と安藤二葉屋煙草店主の死

                     ジャーナリスト  野村勝美

 浜田山の最長老が亡くなった。駅前の熊倉不動産会長熊倉敬善さん89歳。戦前から父親が駅前に不動産店を構え、畠だらけだった浜田山を開発した功労者だった。光江夫人は高井戸の大地主内藤一族の出で、実家はいまもゴルフ練習場とショートホールのコースを持っている。熊倉さんは数年前から脚が弱り、このところ久我山病院に入院加療中だったが、亡くなる前日、「家に帰りたい」といって帰宅、翌9月24日朝6時5分に逝去された。実は私と同年である。もう一人浜田山の大地主、安藤和夫さんも同学年で、私が心筋梗塞で慈恵医大に緊急搬送された時、安藤さんは脳梗塞で入院し、いまも元気にしている。身分違いは昔でいえば地主と小作、大家と借家人だが、この年になるとなんとなく平等のようなものだ。他人様にはもういつ死んでもいいなんて悟ったようなことをいうが、実際はいつまでたっても心細いものです。私たち3人が浜田山の男では一番の年寄りだった。
 その安藤さんの甥に当たる安藤延次さんが9月18日、長患いの末69歳の若さで亡くなった。延次さんは、和夫さんの姉さんの長男で10数年前から足腰が弱くなり、最近は車イスになっていた。熊倉不動産と井の頭線をはさんで南に二葉屋菓子店を開き、中村屋の菓子などを売っていた。病気後は奥さんが店頭で煙草を売り、奥の方と2階は貸店にした。もう50年近くも昔、出火して延次さんの母が焼死するという不幸があったが、お母さん名義の土地がいまの西友の東側にあり、つい最近駐車場をやめておしゃれなマンションを建てたばかりだった。
 煙草店の奥の方に蟹江医院がはいっているが、この蟹江先生は私の命の恩人である。30数年前私は朝食後強烈な胃痛に見舞われた。近くの救急病院横島病院にかけ込んだ。私の妻の友人だった人の夫が同病院の内科医だったので診察してもらったのだが、腹診、レントゲン、何をやっても病気がわからない。夕刻になって外科医が来てすぐ盲腸と診断、手術。「くせえなあ」と看護婦に冗談をいうのをうつつに聞きながら気が付いた時は真夜中だった。この外科医が蟹江医師で、内科医はその弟だった。のちに「もっと重大な病気を考えていたものですから」と弁解されたが、緊急入院でも運不運がある。医院開業に気付いた時、一度あの時のお礼に伺わねばと思いながらそのままになっている。せまい世間にはいろんなつながりがあるものだ。
 安藤さんが亡くなった日、私のマンションから100メートルも離れていない高井戸東3丁目の住宅で殺人事件があった。午後4時45分頃でTVでも字幕ニュースが流れたが、翌朝の新聞は読売だけが2段、他はベタ記事。浜田山での殺人事件は記憶にない。私が社会部記者だった昭和30年代は殺しといえば大騒ぎだったのだが、最近は犯人も被害者も住所も掲載しない。親族の男(50)が女性(58)の首を刃物で切りつけ現行犯逮捕したというだけで、実名も動機もなし。親族内のできごとだと一般には関係ないということかもしれないが、近頃おかしな事件が多すぎる。

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徒然なるままに №41 [雑木林の四季]

わたしにとって“戦後”とは何か

                       エッセイスト  横山貞利

       秋の日の
       ヴァイオリンの
        ながいすすり泣きに
       心傷み
       単調な
        もの悲しさを誘われる
          ポール・ヴェルレーヌ「秋の歌」より

 わたしが、この詩を知ったのは多分高校1年の時だと想う。当時、上田 敏の「海潮音」で、このヴェルレーヌの詩を読んで感銘を受けたのである。そして後年になってから知ったのだが、1944年アイゼンハワーか率いる連合国軍がノルマンディー上陸作戦を敢行した際、英国ラジオがフランス国内のレジスタンスに対して送った暗号がこの詩だったのである。もの悲しく哀愁を帯びたこの詩が第2次世界大戦終結への転機に用いられたのである。  
 わたしは、ヴェルレーヌのこの詩が好きなので、つい前節が長くなってしまったが、本題であるわたしの“戦後”について考えていきたい。
 1945年(昭和25)8月15日、太平洋戦争(当時日本では大東亞戦争と言われていた)が終わった。わたしは、小学校(当時は国民学校)の2年生で夏休み中のことであった。この日のことはこのエッセイでも何度か言及したと思うが、終戦(敗戦)から73年経った今でもありありと覚えている。
 昭和の歴史をみれば解るように、1931年(昭和6)に満州事変が勃発した。これ以降日本は満州(現在の中国東北部)支配から中国本土支配へと軍事力で進出しようと図った。即ち、1937年(昭和12)7月7日の盧溝橋事件をきっかけにして中国を軍事支配しようと試みた。所謂、支那事変である。それ以降日本は東南アジアへの進出を図り当時の仏印(フランス領インドシナ=現在のベトナム)へと積極的な軍事作戦を展開した。そうした情況の中で日米関係は決定的な悪化をたどった。その情況を打開するため、1941年(昭和16)4月から日米交渉が開始されたが交渉は進まず11月26日あの有名なハル・ノートを突き付けられた。ハル・ノートは「最後通牒」と言うべき内容で日本政府は追い込まれてしまった。そして、あの運命の日=1941年12月8日に突入したのである。
 (ハル・ノート=日米交渉のアメリカ側首席代表を務めたコーデル・ハル国務長官が提示した4条件の要求。日本にとって全く受け入れことができない条件であった)。
 日米交渉決裂を受けて、12月8日日本海軍は真珠湾攻撃を実施。同時に陸軍はマレー半島などで戦闘行動に入った。こうして日本は英米を中心に本格的な戦争に突入したのである。
 
 この戦争で、日本は310万人の犠牲者を出して1945年8月15日に終結した。
 そして、焦土の中で、「日本国憲法」と「教育基本法」が生まれたのである。
 だから、わたしの戦後は「日本国憲法」と「教育基本法」なのである。ただ、「教育基本法」は第1次安倍内閣によって改悪されたことを恥ずかしく思う。
 わたしが「日本国憲法」に接するきっかけになったのは、小学校5、6年ころで、偶々文部省発行「あたらしい憲法のはなし」を家で読んだことである。多分、この小冊子は当時中学生だった姉が授業で使用したものであろう。だから、全く偶然のことであって、それまで「憲法」というものがあることさえ知らなかった。高校時代、社会科では日本史、世界史、人文地理、時事問題があり、その中から1,2年で3科目選択することになっていた。そこで1年の時に日本史と時事問題を選択した。「時事問題」の授業で「日本国憲法」、「教育基本法」をさわりだけ学んだが、ほとんどは自習であった。「憲法の前文」と「教育基本法の前文」は共に「人間の生」の基本的理念が提示されている。それ故、わたしの「生の原則」は「日本国憲法」及び「教育基本法」の前文に全てが凝縮されているのである。
日本国憲法―1946年(昭和21)11月3日公布 1947(昭和23)5月3日施行
教育基本法―1947(昭和22)3月31日法25 1947年(昭和22)3月31施行
 このように「日本国憲法」、「教育基本法」ともに終戦後早々に公布され施行されたのであるが、その頃わたしは9歳から10歳であったから、まさにわたしは「日本国憲法」、「教育基本法」によって育てられたと言ってもいいだろう。
 わたしにとっての“戦後”とは、将に「日本国憲法」、「教育基本法」である。

   三夕の和歌
      新古今和歌集から

 寂蓮
   さびしさは その色としも なかりけり 槇立つ山の 秋の夕暮

 西行
   心なき 身にもあわれは 知られけり しぎ立つ沢の 秋の夕暮

 定家
   見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮    


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BS-TBS番組情報 №171 [雑木林の四季]

BS-TBS 2018年10月のおすすめ番組(上)

                          BS-TBS広報宣伝部

(新番組) 報道1930

171報道1930.jpg

10月1日(月)スタート
毎週(月)~(金)よる7:30~8:54

☆スタジオが取材現場になる!時代を映す新・ニュース番組。

メインキャスター:松原耕二
サブキャスター:高畑百合子、出水麻衣(TBSアナウンサー)
コメンテーター:堤伸輔(フォーサイト元編集長)、パトリック・ハーラン

★より深く掘り下げます
毎回取り上げるニュースを一つか二つに絞り込み、ニュースの本質に迫ります。
表面的な事象だけでなく、奥深くまで突っ込んだ情報を引き出し、視聴者の「知りたい」期待に応えます。
★スタジオが取材現場になります
ニュースの当事者をスタジオに招き、生放送中に松原自らがインタビューを行います。
徹底して疑問を追求するインタビューは、スタジオをもう一つのリアルな取材現場に変えます。
★明日話題に出来る「1930文化情報部」も!
新刊本、映画、舞台、話題の新商品など巷のトレンドを紹介するだけでなく、知的で上品な情報を添えた「大人が明日、話題に出来る」情報を紹介します。

(新番組) #ストイック女子

171ストイック女子.jpg

10月3日(水)スタート
毎週(水)よる10:00~10:54

☆~今を突き進む やりすぎ美女たちの私生活~

人生を楽しみ、やりきっている“ストイックな女子”は、普段どんなことを考え、どんな生活をしているのか?
一般女性が共感できる憧れの生活と、何とも言えぬ爽快感!
そして、男性目線でも興味をそそられる、そんなストイック美女の私生活を追っていきます!

■10月3日放送
#1 AYA<クロスフィットトレーナー>
筋トレ女子ブームの火付け役・人気トレーナーAYA。厳しいトレーニングの他、プロデュースや生徒との食事会など初の試みに密着!こだわりの自宅も初紹介。意外な素顔が明らかに!
インスタで話題のゴルフ女子も紹介!

■10月10日放送
#2 チョーヒカル<アーティスト>

(新番組) LIVE ON!うた好き☆ショータイム

171LIVEON!うた好きショータイム.jpg

10月4日(木)スタート
毎週(木)よる9:00~9:54

☆夜のひとときを上質で本格的な音楽で彩ります!!

司会:由紀さおり、山口智充

毎回、MCの2人が豪華なアーティストの方々をゲストに招き、スタジオでは楽曲に関するトークを繰り広げ、お客さんが入った隣接ステージでアーティストの名曲を披露!まるでライブハウスのような臨場感のある音楽番組!

■10月4日放送
ゲスト:サンプラザ中野くん with パッパラー河合
「Runner~平成30年ver~」サンプラザ中野くん with パッパラー河合
「リゾラバ‐resort lovers‐」サンプラザ中野くん with パッパラー河合
「涙²~LOVEヴァージョン~」サンプラザ中野くん with パッパラー河合
「無理だ!(You Cannot Do That)」サンプラザ中野くん with パッパラー河合
「知らず知らずのうちに」【ダウン・タウン・ブギウギ・バンド】 由紀さおり&山口智充

■10月11日放送
ゲスト:中村あゆみ

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バルタンの呟き №42 [雑木林の四季]

         「決戦の大空へ!」       

                        映画監督  飯島敏宏

「おや?」と、ぼんやり眺めていたテレビ画面を、注視しました。画面から、何か、を思い出したのです。
「最近、海上保安官を志す若い人が、増えたんですってさ・・・」
並んでテレビを見ていたカミさんが、解説してくれました。近頃、歳の所為でしょう、夜の睡眠状態があまり良好でなく、お昼を済ますと、半睡半覚状態で小一時間も過ごしていることが増えているのです。画面には、海上保安庁の練習生の訓練風景が映っています。
「あ!」
思いだしました。
急にはっきりと脳内に浮かんだ記憶は、今から75年近く前に遡ります。
「決戦の大空へ、だっ!」
寝所のハンモックを手早く畳んで、制服に着替えて、練習船の上甲板に駆け登って行く練習生たちの姿は、たちまち僕の記憶と連携しましたが、しかし、テレビ画面の練習生の約半数は、まだ、わずかに紅顔を残す若い娘たちです。男子も、筋肉質ではありますが、僕が思い出に遺す映像の群像に比べると、別人種のように背が高く、スレンダーです。
国民学校(小学校)5年生だったでしょうか。米英仏支(中国)を相手に引き起こした大東亜戦争(太平洋戦争)真っ最中の頃、先生に引率されて見に行った、東宝映画です。
「見なかった? 予科練の映画だよ! 学校で連れていかれたろう?」
カミさんに聞きました。すでに二人暮らしになって久しいわが家では、お互いに主語は不要になっています。 
「知らないけど、そんな映画・・」
6年の違いを、忘れています。先週、僕は、ある会合で、加齢性認知症の初期症状の話を聞いてきたばかりです。思い当たる初期症状の気配です。
「〓若い血潮の予科練はァ、七つボタンでェ、サクラに錨(いかり)ィ・・・」
「あ、その歌なら知ってる・・・今日も飛ぶ飛ぶ、霞ヶ浦にゃ、でっかい希望の雲が飛ぶ、だっけ。〓海の男の艦隊勤務、月月火水木金金の予科練ね」
二つの歌がごっちゃになってはいますが、学年の違い、東京と甲府の違いを越えて、共通の思い出ではあります。
テレビ画面は、遠泳訓練に変っています。軍事教練で遠泳の経験はありますが、10キロと聞いたコメントには、驚きました。私たちの時には、海上を隋走する船は頼りない小さな漁船に教官が乗って鼓舞激励していましたが、画面では、立派な警護船が、訓練生たちの間近に並走しています。
「あれを見て、俺は絶対海軍だ!」
と決意して、航空少年団に入り、予科練の土浦まで見学に行った記憶も浮かんできました。
「最近、海上保安庁を志願する若い人たちが増えたって言ってたけど、ほんとかしらね」
そんなアナウンスがあった時は、僕はまだ朦朧としていたらしいのです。
「戦争はしないからね、海上保安庁は・・・」
と、答えながら覚醒して来るにしたがって、頭の中には、別な記憶がよみがえってきました。僕が、まだ現役で、TBSから木下惠介プロダクションに出向していた時に、TBS松竹合作で木下惠介監督が撮った映画「新喜びも悲しみも幾歳月」に関わった想い出です。海上保安庁の灯台守(全国各地の灯台を遍歴住み込みで保守する要員)夫妻の話しの続編で、今回は、わが子中井喜一が海上保安官になり、海上自衛隊、海上保安庁の新年観艦式(首相以下各閣僚官僚等隣席の海上パレード)に招かれた母親大原麗子が、沖を行く巡視船上に息子中井喜一の晴姿を見つけて、父親の加藤剛に向かって思わず漏らす、
「戦争に行かない艦(ふね)で良かった・・・」
という言葉です。
先陣を切って威風堂々通過して行った海上自衛隊の自衛艦は、戦闘艦です。撮影に全面的に協力した海上保安庁の宣伝のためのシーンで、木下惠介監督だからこそ許された反戦の台詞です。海上保安庁職員の妻でありながら、思わず漏らす母親の本音が、観客の胸を打ちました。

「兄(にい)ちゃんよ、どうせ軍隊に行かなきゃならないんだから、いきなり特別幹部候補生でどうだい?中学出て新兵さんからじゃ辛いぜ」
当時、工業中学(旧制)三年生、13歳の、身長160cmに満たない少年だった僕の次兄が、学校帰り、募集係に呼び掛けられて志願、僅かな期間に、離陸する方法だけ教えられて、航空兵として基地に配属、即特攻隊に編入、しかし、幸いにも、すでに自爆用の爆弾を抱えて飛び立つ筈の飛行機が無くて九死に一生、という目に遭ったのです。その頃、同様に誘われて志願した従兄弟は、敗戦後もその精神的重圧が後遺して、戦後帰還した後、国電(JR)中央線の鉄路に飛び込んでしまったのです。

「自衛隊に入れば、自動車の大型免許まで、全部取れるよ。戦争なんか行かないしさ。大型免許まであれば定年後も、引く手あまただぜ」
これで自衛隊入りした知り合いの息子さんは、長期間見事に勤め上げ、家庭も持ち、子供も育て上げたのですが、停年が近づいた今になって、予備役年齢が引き上げられて、今、悩んでいます。安陪内閣で安保法案が成立した結果、外国の戦場に派遣される可能性が生じてしまったのです。
「私の任期中に、憲法9条を改正して、自衛隊を(軍隊と)明記して、自衛隊の皆さんが誇りを持って働いて頂けるように・・・」
戦争を知らない宰相が、最近頻りに、身振り手振りを交えて、雄弁に気軽に主張されますが、現在、災害地などで献身的に作業されている自衛隊の皆さんが、まるで日陰者のように、プライドがない、とでも仰言るのでしょうか。専守防衛を逸脱した戦争に関わらせるために、
それを標榜しているのではないのでしょうか。
それにしても、最近総理大臣が、しきりにNHKや一部の民放に頻繁に登場するようになったのに気がつきませんか? 
ボランティアの受け入れ態勢もかなわずに、猫の手も借りたい災害直後の被災地に、その為に費やさなければならない周到な準備の手間と、警護や接待の為に駆り出される当該自治体の職員や警察関係者、それに加えて、首相に手を取って頂くために、被災家屋に留められる老被害者や、手を休めて首相来訪を歓迎するために駆り出される周辺の人々の迷惑を顧みず(想像力の欠如)、中継カメラに囲まれて現地訪問したり、党の総裁指名の選挙運動停止期間に、当該大臣が記者発表すれば済む些細な対策を、わざわざ首相自らがカメラの前で読み上げる姿が頻繁に、(特にNHK)の画面に登場する事実を重ねあわせると、うとうとと微睡(まどろ)んで、この海上保安官の卵たちの、厳しくとも美しい訓練ぶりを眺めていては、いけないのではないかと、警鐘が耳鳴りのように聞こえて来たのです。
「この子たちを、決戦の大空や、戦場に送ってはいけない!」
いまや完全に覚醒して、起き上がって新聞を取り上げると、なんとなんと、そこに、
「航空自衛隊に、女性初の戦闘機隊員が出現」
と、いまだ幼(いた)気(いけ)な面影さえ残る、されど制服制帽で身を包んだ健気な航空隊女子の写真が載った記事です。勿論、テレビニュースにも取り上げられたと聞きました。しかし、裏を返せば、戰爭の危険が孕み始めたと見て、航空自衛隊内で、男子隊員のジェット戦闘機乗りの希望者が激減しているのでは、と看るのは、果たしてバルタン星人の僻目でしょうか、いや、複眼でこその透視か・・・
自衛隊が、誇りを持って戦争に参加できると決まれば、戦闘機乗りばかりではなく、一般隊員も戦争の危険があるとなり、応募者が激減するとともに、現隊からの除隊希望が続出して、その必然で、ついには徴兵制を敷かなければならないような時勢となり、挙句には、挙国一致だの一億一心、国民皆兵などの言葉が迸り出る世情になってしまうのでは、と、折角の安らかなまどろみが、「我が国の進むべき道は、この道しかありません!」という甲高い声を伴奏に、何かの足音が近づいてくる、重苦しい悪夢に変ってしまいそうな午後の呟きでした

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医史跡を巡る旅 №45 [雑木林の四季]

「林太郎残照」~陸軍軍医学校長時代

                     保健衛生監視員  小川 優

森林太郎、すなわち森鴎外の生涯については、脚気論争の項においてご紹介しましたが、幾つか触れていなかったお話があります。今回はその一つ、陸軍軍医学校長時代の史跡を取り上げてみたいと思います。

「森林太郎肖像」

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「森林太郎肖像」 ~国立国際医療研究センター病院資料展示室展示より

ドイツ留学から帰国し、軍医学校の教官を務めていた森林太郎は、明治26年(1893年)に軍医学校校長に昇格します。

「国立国際医療研究センター病院」

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「国立国際医療研究センター病院」 ~東京都新宿区戸山

陸軍軍医学校は明治19年に設立され、昭和4年(1929年)に牛込区戸山町(現新宿区戸山)に移転しました。今、その跡地は国立国際医療研究センター病院になっています。

林太郎が校長として勤務した時代は、麹町区富士見町(現千代田区富士見)、現在の逓信病院の場所にありました。校長に昇格した翌年、日清戦争が勃発して校長兼務のまま、第2軍兵站部軍医部長として大本営が置かれた広島や戦地、そして台湾へ赴くこととなります。
帰国後は軍医学校長を兼務したまま近衛師団軍医部長を務めますが、明治32年(1899年)に昇任と同時に第12師団軍医部長として福岡県小倉に転勤となり、軍医学校長を解任されます。この小倉への転勤は、林太郎にとっては不本意なものだとされ、実質的な左遷と取られています。

「森鴎外愛用の机」

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「森鴎外愛用の机」 ~東京都新宿区戸山 国際医療研究センター病院資料展示室

やがて林太郎が東京に戻り、再び軍医学校長となる日が訪れます。日露戦争も終わった明治39年(1906年)のことです。ただし今回は校長であった期間は短く、翌年に陸軍軍医総監・陸軍省医務局長に昇任任官するとともに、その任を解かれます。
国際医療研究センター病院には林太郎も愛用したと伝えられる校長室の机が残っています。病院内の資料展示室で一般に公開されており、このあとご紹介する東京第一衛戍病院関係の資料も多数展示されています。

「陸軍軍医学校校長室」

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「陸軍軍医学校校長室」 ~国際医療研究センター病院資料展示室展示

陸軍軍医学校には病院が併設されていました。東京第一衛戍病院、のちに東京第一陸軍病院と改称されます。東京近郊に駐留する部隊の病気やけがの兵士、日清・日露戦争中・後には戦傷・戦病者を治療、収容しました。

「衛戍病院診療録」

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「衛戍病院診療録」 ~国際医療研究センター病院資料展示室展示

その当時の診療記録、カルテが残されています。

「衛戍病院診療録 脚気」

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「衛戍病院診療録 脚気」 ~国際医療研究センター病院資料展示室展示

当時大きな問題であった脚気患者のものもあります。

折角ですから、この辺りに軍医学校、あるいは衛戍病院時代の遺構がないか探してみました。

「境界石?」

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「境界石?」 ~新宿区戸山

古そうですし、現在の国際医療研究センターの敷地からは道を挟んでいますので、戦後の国立東京第一病院時代のものではなさそうです。

「地下道入口?」
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「地下道入口?」 ~新宿区戸山

そしてその近くにある国際医療研究センターの石垣に、地下道らしきものを埋めた跡があります。軍医学校と陸軍病院を結んでいた、との説もありますが、確証は持てません。
いずれにせよ戸山に軍医学校が移った時には、すでに林太郎が大正11年(1922年)にこの世を去った後ですから、この地を林太郎が訪れたことはないと考えられます。

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いつか空が晴れる №44 [雑木林の四季]

     いつか空が晴れる
              -ガンダーラ―
                                 澁澤京子

 私が小さかったとき、父は兼高かおるさんの番組で出張が多くてほとんど家にいなかった。朝起きると枕元に、皮でできたラクダの人形とか、子供用のサンダルのお土産が置いてあって、父は夜遅く帰ってきて、また朝早く出て行ったのだった。子供用の小さなサンダルはなめし皮で出来ていて、先端がくるっとペルシャ風にとがっていろいろな色のビーズがついてキラキラしていた。薄い皮の底はつるつるしていて、しかも履くと痛かったので一回も履いたことは無かったけど、たぶん子供用の部屋履きのサンダルだったのだと思う。

その頃父は、兼高かおるさんの番組の取材でキリストの誕生から受難の地を訪ねて、そして今ではなかなか行くのに困難なシリア、ヨルダン、パレスチナを回っていた。

「いい曲だねえ・・」
ちょうどゴダイゴの「ガンダーラ」という曲が流行っていたとき、父はしきりに感心して聞いていた。兼高かおるさんの番組取材で行った中でもインドが一番印象的だったのだそうだ。
「僕は前世、インド人だったのかもしれない・・」
この間、来客があって話をしていたとき、父が急にこう言い出した。インドは父にとって何か懐かしいような気持ちになる場所だったらしい。

今は大きな旅行会社になっているけど、私が学生のときHISは新宿のビルの二階に小さな事務所を構えていて、格安の航空券を買えた。一週間や一か月オープンの往復チケットを売っていて、もちろんツアーなんかはなかった。ヨーロッパに行くのにはバーレーン経由の南回りですごく時間がかかったのである。
あるとき私は友達と一か月のインド貧乏旅行を計画し、一生懸命アルバイトしてお金を貯めた。ところが予約したチケットの代金を支払う段階になってから、急に両親に反対されて取りやめになったことがあった。反対された理由は、インドは不衛生で病気になるから、ということだった。その後、インドはインドに呼ばれた人しか行けないというのを何かで読んで、私はインドに縁がなかったことをなんだか悲しく思ったものだ。

ガンジス河のほとりで、白い布に包まれた、荼毘に付される前の小さな子供の遺体を、その家族に頼んで抱かせてもらった話は、何度も父から聞いたので余程印象的だったのだろう。小さな遺体にはまだ温もりのようなものが残っていたのだそうだ。

父の世代は、戦争に行って、それから日本の高度成長期を支えたのだ。学徒出陣で戦争に行き、生きるか死ぬかの経験をした父、ベナレスで小さな子供の遺体を抱かせてもらった父、同じくらいの小さな子供を持ったまだ若かった父はその時何を思ったんだろうか?

インドには行けなかったけど、私は中東や東南アジアをバックパッカーとして歩いて、学校にも行けず家計を支えるためにお土産や冷たい水を売りに来る子供たちにたくさん会った。中には靴も持っていないのか、はだしの子供も結構いた。

中東で可愛い子供の写真をたくさん撮ったけど、盗まれたのか肝心のカメラがなくなっていたこともあった。フィリピンでは、はだしの可愛らしい女の子に「わたしのお父さんは日本人で○○と言います、知ってますか?」と聞かれたこともあった。

日本では見られないような貧しさなのに、なぜか底抜けに明るくて無邪気な子供たちだった。

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梟翁夜話(きょうおうやわ) №24 [雑木林の四季]

「秋色深し越生の里」

                           翻訳家  島村泰治

さしもの酷暑が後ずさり、わが庵の辺り桶川にもようやく冷気が漂う彼岸の中日、かねて心積もりの墓参に出向く。日柄は格好、私の体調にもなんの障りもなく、数珠に経文、供物やらを携え、いそいそと庵を出た。

思えば運転席を離れて久しい。歳だからと私を助手席に追いやって、愚妻は嬉々としてハンドルを操る。歳云々は実は口実で、妻は根っからのドライブ好きなのだ。この日も常に変わらず、勝手知ったる田舎道を西へナビなしで直(ひた)走る。

わが墓地は越生(おごせ)にある。和紙の小川町の南、嵐山を越えて一里先に広がるC霊園の高台の一角に佇んでいる。まだ此岸で元気だった頃、気にせぬかと持ち出した墓地話しを両親が殊の外悦んでくれたのを、いま、懐かしく思い出す。場所は縁のなかった越生と聞いて、父は「おごせとは珍な」と呟いた。母は早速にも行って見たいと言う。ほぼ一月後、墓石に私直筆の筆字を掘り込ませ、一間四方の北隅にモクセイと某広葉樹を対に植え込み、手前に父が育てたツツジをこれも対に配して、ささやかなわが島村家の墓が仕上がった。

父母は至極ご満悦で、よい日を選んで馳せ参じたのは言うまでもない。早速に法事を営み、以後、何かと用事を拵えては越生通いに励み、わが身がやがて住まう彼岸の家に此岸で充分住み込んだかの如くであった。終の棲家に梅の里越生を選んだのは、われながら慧眼であった。

その日、嵐山から越生へ、里は深緑の海だった。都幾川(ときがわ)の川辺には野遊びの群れがさんざめき、その先には対の山羊が徒然と草を食む風情が緑に映えていた。ひと味違う山里の風景である。自然の緑がかくわがもの顔に溢れている様は、無念、畑また畑のわが庵の辺り桶川には終ぞ味わえぬ馳走だ。

墓には中日を待たずに参った誰かの気配が、賑やかな供花の風情でわかる。持参のぼた餅と梨一個を供える。咽せるほどの線香の煙に般若心経の文字が霞む。愚妻は坊主の娘、流石に読経は堂に入っている。日頃諳んじた心経を夫婦して読み合わせる習慣は、手前味噌ながら大いに自慢したい。彼岸の両親たち、さぞや満足のことだろう、と、読み済ませてほっとひと息。

ふと思う。わが身にしてすでに傘寿を三歳余、なにやら彼岸此岸の区別がつかぬ境地にいるではないか。抹香臭い話しはせぬつもりが、越生にきてみれば此彼の境がぼやけるは道理か、と遠い山の峯を望んでさらにひと息つく。

帰途は別な道を選んだ。ひと山越えるルートが意外に新鮮だった。折々の下り坂もあって、時ならぬ山道ドライブが愉しめるとわが家の専属ショファーがご満悦だ。

この日は墓参の帰路、これも一年ぶりのことだから彼岸めいてよかろうと、上尾の某珈琲店で人と待ち合わせている。上梓したばかりの古典英語の英訳版が話題だ。こんな話題に華が咲くのだから、私はまだ暫くは此岸に住まうことになるらしい。

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検証 公団居住50年 №18 [雑木林の四季]

日本住宅公団設立と公団住宅

          国立市富士見台団地自治会長  多和田栄治

2.公団住宅の誕生
 1955年7月に発足し、残る8か月の年度内建設2万戸のノルマ達成は至上命令だった。用地交渉から配置計画、建設計画、発注までにいくたの難関を突破して3月末すべりこみ、賃貸・分譲各1万戸の計画にたいし賃貸10,000戸、分譲7,228戸の着工を達成した。入居まもなく「雨漏り(じつは結露)事件」が国会でとりあげられた公団賃貸第1号の金岡団地の工期はわずか5か月半の短さだった。
 この短期間に公団を設立、組織をつくり、とにかく初年度ノルマを達成した経過と背景はどうだったのか。設立後の公団の歩みと実績は『日本住宅公団10年史』等に詳しいし、設立前後の経過にかんしては前出『証言・日本の住宅政策』によって知った。
 1954年7月に建設省住宅局住宅企画課長に就いた南新也(71~77年住宅公団総裁)の証言を引用する(引用にさいしては一部略記した。以下同じ)。

 具体的に動き出したのは昭和29(1954)年で、暮れに鳩山内閣が成立したが、少数内閣だから内閣の表看板として何かやらなければならない。それには住宅がいちばん。国が直接建設に乗り出したらどうか。そうすれば都道府県をこえて住宅が建設できるのではないかということになった。
 財源調達についても、民間資金を活用する方法はないか。アメリカでは住宅資金はほとんど生命保険が貸し出している。長期資金をいちばんもっているのは生命保険業界だから、その金を利用できないかと考えた。そのはかに運用部資金もある。郵便貯金等の資金は30年返還で活用できる。これらの借入金の利子は公団財政を圧迫するから、支払利息を5%くらいでいこうとした。実際の利子は運用部資金が6・5%、民間資金が7~8%で、わたしのときの最高は9.65%までいったが、そういう資金を使っても、資金としては5%で活用できるように、国が利子補給するシステムにした。
 それから公団をつくるに際しては、建設技術の能力をもった役人が余剰人員になってきたことの解決というのもあった。当時GHQ向けの特別建設局というのがあって、進駐軍の宿舎関係の建設をやっていたが、講和後にそういう人たちの行き場が問題になってきた。だから公団法をつくるときもアメリカ軍の宿舎を公団が引き受けて、ずっと長いあいだ朝霞キャンプの住宅管理を全部やっていた。

 人材

 住宅公団の組織づくりは建設省の役人が中心になったのだろうが、スタッフは戦前の住宅営団の経験者もふくめ、大蔵省、厚生省、その他の省庁の営繕関係、住宅金融公庫等の退官組、現役、民間会社からも集められた。公団に出資した東京都や大阪府からも理事クラスをむかえ、支所には自治体から引き抜いた住宅事業のベテランを配した。かれらは特に各地方での用地取得ノウハウに期待されたようだ。このころ戦後長くつづけてきた駐留軍関係の施設建設の仕事が減ったため、55年度中に営繕局の技術者の大量整理を迫られていた矢先で、渡りに船とばかりに新公団に移ってきた。
 『証言・日本の住宅政策』のなかで、戦災復興院、経済安定本部から建設省営繕部をへて55年に住宅公団に移り初の設計課長になった本城和彦はこんな回想を述べている。

 当時の経済復興計画での重点事業は、石炭・電力・鉄鋼の増産、交通網の復活、農業の増産、インフレ退治、輸出の振興、国土の保全などで、驚くべきことに都市・住宅の復興という字は出ていない。住宅屋とか都市屋は陽の目を見なかった。
 建設省にきても非常に声が大きかったのは河川のグループで、これが分け前をボンと取る。60年代には道路屋が強くなり、そこにつく予算はどんどん大きくなる。住宅屋はいったい政治的にどんな背景をもっているのだろうか。
 川があって橋を一本かけ対岸の村落の人がみな渡れるとなれば、予算を引っぼってきた代議士はその村落の票が全部とれることになるから、がんばって橋の予算をとるようになり、そこに強い政治的圧力が働く。ところが住宅難というのは、住宅に入ったとたんに個人的に解決されてしまう。入った人が別に組織されることはない。こういった点で公共住宅の予算の拡大を促す政治的圧力はどうしても弱い。

 本城のこの証言からも、住宅公団の創設が意欲を秘めた建築・都市計画の専門家たちにいかに魅力的だったかが伝わってくる。「住宅局の連中、なかでも優秀でやる気のある奴が、みんな公団へ行かせてくれといっている」との嘆きも聞かれたという。現職の関係者だけでなく、気鋭の建築科出身者や若手研究者たちも志望して集まってきた。
 初代総裁には加納久朗が就任した。加納は横浜正金銀行ロンドン支店支配人のとき終戦をむかえ、戦後は国際人ぶりをかわれて活躍していた。加納総裁は人格、識見ともに広く職員に慕われ、住宅の水準については、イギリスに長く暮らしていたから、流しはステンレス、鍵はシリンダーロックであるべきとの牢固とした観念をもって、公団住宅の質の向上を牽引したといわれている。
 住宅公団は最初、現在の外務省の場所にあった旧恩給局の建物を借りて開業したが、すぐに1年あまりで本所と東京支所は九段下の元憲兵隊司令部庁舎に移った。


『検証 公団居住60年』 東信堂

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中華の風 №11 [雑木林の四季]

男盗女娼

                     中国文化研究者  堂園 徹

 中国語に「男盗女娼」という四字熟語がある。男は泥棒、女は娼妓という意味で、「ある集団にはまともな人間は一人もいない」ことを暗喩している。

 私が始めてこの言葉を聞いたのは1980年代初頭の台湾であった。戦前に日本の明治大学を卒業したという台湾人が、日本人と変わらぬ日本語でこの言葉を教えてくれた。彼がこの言葉で示したのは台湾の「高砂族」であった。「高砂族」は台湾の先住民族で、漢民族が大陸から渡ってくる前から、台湾に住んでいた民族である。「高砂族」と言うのは、日本統治時代に使っていた総称で今は「高山族」と言うが、台湾では「山地人」と呼んでいる。

 高山族は文字通り山地に住んでいて、生活水準は漢民族より低い。教育程度も低いため、若い高砂族が都会に働きに出ても、簡単に仕事を見つけることができず、男性は低賃金の肉体労働か、非合法なことに従事するしかなく、女性も同様で良い働き口がないために、多くの女性が夜の水商売の仕事をしているという。このことから高山族は漢民族から「男盗女娼」と言われて偏見の目で見られていた。

 現在の中国も、農村から都会に働きに来ている出稼ぎ労働者は良い仕事に就くことができずに、男性は犯罪に手を染め、女性は水商売の世界に入る傾向がある。農村では農業以外の働き口は少ないため、若い人たちは仕事を求めて都会に出る。しかし中国では事務や営業のいわゆるホワイトカラーの仕事は多くなく、また大卒以上の学歴を要求されるため、農村の中学や高校を卒業し、都会に出てきて最初に得る仕事の大半は工場などのブルーカラーの仕事である。農村から出てくる者にとって、住む所と食事が問題であるが大抵の工場は寮と食堂を用意してくれている。かつて改革開放以前の中国では工場はすべて国営企業であった。国営工場は将来の不安もなく一生安心して働ける職場であった。しかし改革開放後の工場は民営化が進み、国営工場は非常に少なくなった上に、国営工場に就職すること自体が非常に難しくなった。今の工場の大半は民間経営か外資系で、国営と違って倒産することもある。工場の流れ作業のラインで働く人は、管理職にならない限りは、一生工場で働くことはできない。それは中国の工場で30歳以上の工員がラインで仕事している姿はなく、流れ作業をするのは皆若い人ばかりであるからである。5年も働くと回りが自分より若い人ばかりになり居心地が悪くなる。

 しかし学歴が低くこれといった技術も持っていない農村出身者にとって工場以外の仕事は非常に限られている。レストランの給仕や商店の店員などの仕事はあるが、これら小資本経営の職場では住むところを提供してくれることは少なく、自分で家賃を払ってアパートを借りるしかなくその分、生活は工員の時よりも苦しくなる。

 工員、店員、給仕といった仕事は、給与は少なく生活するのは大変であるうえに、一生続けていける仕事ではない。彼らが自分の生活だけを考えるなら何とでも生活していけるが、農村出身の彼らは一人っ子ではなく弟や妹がいるのが普通である。そのために弟妹の学費の面倒を見なければならなくなる。そこで実入りの多い仕事となれば、男性の場合は不法行為のビジネスそして女性は水商売となる。

 中国の法律を厳格に適用すれば違法である水商売は、ここ15年間で猖獗を極めるほどに隆盛を誇っている。元来、改革開放以前の中国にはナイトクラブというものは存在しなかった。その頃の共産主義中国では夜のエンターテインメントというのは資本主義の堕落を意味していた。しかし改革開放後は、香港に近い広東省で80年代後半から中国語で「夜総会」(ナイトクラブ)と書かれた看板が出現した。北京でも天安門事件後の90年代始めぐらいから夜総会の店が出現した。しかしその頃はホステスを侍らせることは原則禁止であった。禁止であってもホステスを置いている店があり、そうした店ではホステスは男性客の横に座らせずに、必ず向かい側に座らせて男性客と直接身体が触れ合わないようにしていた。またお客の多くが日本人か韓国人、或いは香港人か台湾人で、この当時は中国人の客はまだいなかった。

 夜総会は外国から中国に来たビジネスマンの夜のエンターテインメントとして復活(夜総会そのものは中華民国時代からあった)したが、今では中国人ビジネスマンの接待場所として欠くことのできない娯楽施設となり、どんな田舎町に行っても夜総会は存在するようになった。

 規模の大きな夜総会ともなると、6階建ての建物全部が店になっており、外部は派手なネオンが煌き、内部は豪華なインテリアで飾りつけ、ホステスの数は数百人を数えるという店もある。そして彼女たちの多くは元女工である。工場の閉鎖や大量のレイオフがあれば、夜総会やその他の風俗店に従事する女性は一気に増える。日本人から見ると安易に水商売に入るように見えるが、水商売以外の選択肢が少ないからである。女性が開放的かどうかという点では、明らかに中国人女性は日本人女性より保守的である。ましてや中国の農村はもっと保守的である。また水商売に対する社会の偏見は、日本よりもっと厳しいものがある。そのため中国人男性は水商売の女性とは結婚したがらない。日本人男性は中国の夜総会で知り合った女性と結婚する人が少なくないので、日本人は非常に開放的だと中国人からは思われている。

社会の偏見、そして将来の結婚のために、彼女たちは親や兄弟姉妹には何の仕事をしているか言わずに隠し通している。彼女たちは若い時に稼いでお金が溜まれば、足を洗って結婚すれば良いと思ってこの世界に入る。若い女性であることだけを売り物にしてお金を稼ぐことを中国語で「吃青春飯」(青春の飯を食べる)と表現する。農村出の若い女性にとって青春飯以外に美味しいご飯は存在しない。

 より豊かな生活を求めるのは誰もが持つ欲望である。しかし農村から出てきた若者にとって、都会で人並みの生活ができる仕事に就くことすら容易ではない。農村出身者は都会で懸命に生きようとするが、都会の人から「男盗女娼」と言われて軽蔑の眼差しを受けるしかないようになっている。


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コーセーだから №43 [雑木林の四季]

50歳創業の哲学 第4回

                       (株)コーセーOB  北原 保

小僧時代にかえる/「誠実」が経営の基本

丁稚から出発

〝経営の神様〟といわれる松下電器の松下幸之助氏も、自転車屋の丁稚から出発して世界の松下の会長になった。が、コーセーの小林社長も松下幸之助氏と同世代の明治生まれで、化粧品会社の丁稚奉公から出発した。ただちがうのは、小林社長が独立したのが戦後であったということだ。
 東洋堂の丁稚だったころ、小林少年は大八車を引いて都内の化粧品会社に原料を配達させられた。お茶の水の坂道にかかると、道端の電柱がかすんで見えた。その電柱に仁丹のハナヒゲを生やした広告がぶらさがっている。その広告に格言が書いてあった。「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず」とか「人を相手にせず、天を相手にせよ」とか「汝の立てる下を深く掘れ、泉は必ずわき出る」とあった。小林社長はその仁丹の格言が忘れられない。
 「あの広告は、汗を流して坂道を上がると書いてある。自然にはげましになったものですよ。その格言を読みながら小僧で一生終わるのはいやだ。いつかは一旗あげようと考えたものです。わたしが人間の誠実ということをコーセー化粧品の基本的な経営方針とうたったのも、小僧時代にかえって自身を考えてみたいと思ったからですよ」
 事実、小林孝三郎が東洋堂の社員時代に築き上げた生き方や考え方は、後にコーセー化粧品の創業の精神になったといっても過言ではない。
 コーセー化粧品の創立は昭和21年3月2日であるが、その正月に小林孝三郎の手元にあった金は、東洋堂の退職金とともに2万5000円、これだけではせっかく会社を設立して、原料の手配はできても、金が足りない。そこでまず、3月まで資金づくりをしようと、ヤミ屋に早がわり、疎開先の埼玉県の大宮市の家を拠点にして商売を始めた。
 なにしろ、戦後のインフレで〝ビール一本1万円になる〟とさえいわれ、物さえあれば右から左に金になる。とにかく、学校の先生がヤミをやる時代、そのころ桐生の高校の先生など、よく化粧品の原料になる水油をトラックで運んできた。旧軍関係の物資で品質は悪いが、現金で買って倍の現金で売れる。会社設立で集まった実弟の聰三氏と義弟の大久保浩司氏の三人で手わけしてあらゆる物資を扱った。
 「化粧品原料から繊維製品など、物がないといわれているのに、どこからか運ばれてくる。おかげで2万5000円の資本でわずか3ヵ月の間に何10万というもうけになったと思いますよ」しかしもうかるからといってヤミ屋をつづけていたらコーセー化粧品は生まれなかったろう。小林孝三郎はヤミ商売がピークにのぼりつめたと思ったとき、スッパリとヤミ屋から足を洗った。
 「ヤミ時代がおさまれば、かならず信用時代がやってくる。そのときになってヤミ屋が化粧品を製造して売っても誰も信用してくれない。商売は退きどきがかんじん、これからはコーセーのマークの信用で行くべきだ。それがいまだと考えたからですよ」
 資本金10万円の小林合名会社が生まれたのが前述のように昭和21年3月2日。この日がコーセー化粧品の創立の日、コーセーはラテン語のコスメチコス(化粧するという意味)からとったもの。小林孝三郎の〝コー〟と、経営方針の誠実の〝セー〟という意味も含んでいる。とはいえ、小林合名会社は代表が小林孝三郎、社員は弟の小林聰三と義弟の大久保浩司、親戚の者一人の計4人のまことに小さな会社である。
 ちょうど当時はインフレ対策として預金が封鎖され、2月15日から3月5日までに新旧円の交換がおこなわれ、個人では新円は戸主500円と家族100円しか出せなかった。会社にすれば設備資金を銀行が新円でくれた。この新円切り替えが、事実、ヤミ経済から信用経済への予告だった。  (昭和44年10月8日付)

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1912年高橋東洋堂入社の頃(大八車を引く少年が小林孝三郎)
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1915年19才の頃の小林孝三郎(右)
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パール練香油広告

 *本文に「大八車を引いて都内の化粧品会社に原料を配達」とあるが、創業30周年の折に発行した自叙伝風社史「化粧品ひとすじ」では、当時の高橋東洋堂は原料メーカーではなく、化粧品の下請け製造専門の会社だったと書かれている。その「化粧品ひとすじ」によると、入社早々の仕事は高橋東洋堂が製造を請け負っていた平尾鉄也商店の「パール煉香油」の配達だったそうだ。当時の人気商品で、多い日には一日に800ダースも配達したという。会社は現在の新宿区東五軒町にあり、届け先の平尾鉄也商店は日本橋横山町にあった。配達は飯田橋から水道橋、御茶ノ水、岩本町というコースを通ったと思われるが、水道橋から御茶ノ水にかけての坂道が難所だったという。今と違って舗装もされていないため、2台で行って坂道は4人がかりで大八車を引き上げた。この坂道の電柱に仁丹の広告が出ていたのだ。

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