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論語 №60 [心の小径]

一八七 曾子(そうし)疾(やまい)あり、門弟子(もんていし)を召していわく、わが足を啓(ひら)け、わが手を啓け、詩に云う、戦戦兢兢(せんせんきょうきょう)として深淵(しんえん)に臨むが如く薄氷を履(ふ)むが如しと。今よりして後(のち)われ免るるを知るかな。小子(しょうし)。

                           法学者  穂積重遠

 「詩」は『詩経』小雅小旻篇。
 「戦戦」は恐懼(きょうく)の形、「兢兢」は戒慎(かいしん)の姿、俗にいえばビクビクすること。

 曾子が病気危篤(きとく)の時に、弟子たちを呼び集めて言うよう、「かけぶとんをとりのけて、私の手をあらためて見よ、私の足をしらべて見よ。かすりきず一つあるまいがな。深い淵のへりに立って落ち込むことを恐れるごとく、薄い氷を渡って割れはせぬかと心配するごとく、戦々兢々として言行を用心する、という古い詩があるが、私は父母から受けたこのからだをきずつけぬようにと後生大事に身を守ってきた。まずまず無痕(むきず)であの世に行ける次第、今日はじめて責任解除じゃ。安心して死ねる。喜んでくれ、若人たちよ。」

 『孝経』によると、曾子は孔子様から
「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く、敢て毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり。」
と教えられたのだが、その教えを戦々兢々として実行したのである。そして、からだすら然(しか)り、いわんや心と行いとにおいてをや、であることもちろんだ。あるいは曾子がこれをもって弟子たちに孝を教えようとしたのだという説明もあるが、それまで言わない方が味がある。骨子自身うれしくてうれしくてたまらず、弟子たちに話さないではいられなかったのだ、ということにしておきたい。
 曾子の臨終については、『礼記』(檀弓上篇)℃こういう小話が出ている。病床としていた「すのこ」はかねて大夫(たいふ)季孫子(きそんし)から贈られたものだったが、重態に陥ったのち、看病の童子が何心なく、これは大夫でもつかえぬりっぱな品だ、と言ったのを聞き、季氏がこれを持っていたのさえ僭上非礼(せんじょうひれい)なのに、自分がそれを用いたのは相済まなかったと気がついて、息子の曾元(そうげん)に「すのこをとりかえよ」と命じた。なにぶんにも危篤の際なので、そのままにしておきたいと思ったが、曾子は、君子たる者正を得て斃(たお)るれば本懐なりとてきかなかったので、やむを得ず床をしきかえたが、曾子は別のすのこの上にうつされると、すぐに目をつぶったという。

一八八 曾子(そうし)疾(やまい)あり。孟敬子(もうけいし)これを問う。曾子言いていわく、烏のまさに死なんとするやその鳴くこと哀(かな)し、人のまさに死なんとするやその言うこと善(よ)し。、君子、道に尊(たっと)ぶところのもの三つあり。容貌(おうぼう)を動かしてはここに暴慢(ぼうまん)遠ざかり、顔色(がんしょく)を正しくしてはここに信に近づき、辞気(じき)を出(いだ)してはここに鄙倍(ひばい)に遠ざかる。籩豆(へんとう)の事はすなわち有司(ゆうし)存せり。

 「孟敬子」は魯(ろ)の大夫(たいふ)仲孫子(ちゅうそんし)、名は捷(しょう)、武伯(ぶはく)の子。「籩豆」は祭り供物を盛るたかつきのようなもの。「籩」は竹製、「豆」は木製、おそらく「豆」の字の形に似たうつわなのだろう。

 曾子の病が危篤なので、大夫孟敬子が見舞いに来たところ、曾子がこれに向かって言うよう、「古語に『鳥のまさに死なんとするやその鳴くこと哀し、人のまさに死なんとするやその言うこと善し。』とありますが、これは私の最後の言葉でござりますから、どうかそのおつもりでお聞きくだされませ。およそ人の上に立つ者が道を行って国を治めるにつき、たっとぶべきことが三つあります。態度挙動が荒々しさやじだらくさから遠ざかるよう、心の誠を顔色にあらわして裏表のないよう、言葉づかいが野卑(やひ)不合理にならぬよう、この三つがたいせつでござります。祭の供物台のならべ方などは、それぞれ係の役人がありますから、さような事務的なことはまかせておかれてよろしかろうと存じます。」

 名君とか賢大夫とかいわれる人が、とかく根本を忘れてコセコセと末節の世話をやくことを得意がる気味があるので、こう言ったのであろう。

一八九 曾子いわく、能(のう)を以て不能に問い、多きを以て寡(すくな)きに問い、有れども無きが若(ごと)く、実つれども虚しきが若く、犯せども校(はか)らず、昔者(むかし)わが友かつて事にここに従えり。

 「友」とは誰のこととも言っていないが、顔回(がんかい)であろう。曾子の同門中、回以外にはこの文句に当る人はあるまい。

 曾子が言うよう、「才能がありながらま無能だと思って才能のない人にも問い、見聞が広いのになお無知だと考えて見聞の狭い人にもたずね、道あって道なしと恥じ、内容充実しつつ空虚を感じ、横車を押されても取り合わない。これは物我(ぶつが)の隔(へだ)てのないよほど練(ね)れた有徳人(うとくじん)でなくてはかなわぬことだが、亡友顔回はそれのできた人であった。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №50 [心の小径]

第八章 基督教国にて ― ニュー・イングランドのカレッヂ生活 8

                               内村鑑三

 十二月廿三日 勘定書(かんじょうがき)ノ支払方法二就キテ甚ダ思ヒ悩メリ。
 読者諸君の中にはこれらの月日の間に余が如何にして生計を得たかを知りたいと思われる方があるかもしれない。種々の方法をもってである。余のペンシルヴァニアにおいて得た所得は、余の拙(つたな)いベンをもってした小さな物語とともに、余のカレッヂ生活の最初の一年間はどうやら余を楽にさせてくれた。余の聖書註解の先生である親愛なるF博士はかつて余のポケットに彼の一友人からであるとて一百ドルを投じ、そして困った時には『また来るように!』と言ってくれた。そのころ余は、言うのは恥かしいことであるが、約五六回余自身を馴らされた犀のショーとし、その方法で余は多くはなかったが若干のものを与えられたのである。ここに基督教国アメリカに敬意を表して言わせてもらいたいことは、異教徒回心者にして自分の国人の間の福音の伝道者となろうと申し出る者には、この国では普通にはその肉体的の必需品、しかり快楽について、何の困難もないということである。しかし、ここに偽善がしのびこむ、そしてトルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、インド人、ブラジル人、シナ人、日本人で、じつ自分の神より自分の腹を愛する者が、馴らされた犀を装い、そのようにして狡猾にアメリカ人基督信徒の親切心に甘えることがある。そしてときどき本国の教会はその『見境のない愛心』について伝道地の宣教師に注意される。自分たちのところに滞在していた間に宿所を与え教育を与えてやったそれらの回心者は、その福音を帰国の途上で海中に投じ、政府の仕事か或いは何か他の悪魔の仕事に入り、そして自分たちの異教徒の国人たちの前に基督教国を誹謗(ひぼう)することまでさえするということを彼らは聞かされるのである。
 しかしそのことは良心的の回心者が除きたいと思う最悪の嫌疑(けんぎ)ではない。彼はその故国に帰り、彼が基督教国においた愛心によって学んだ福音を述べる。彼の国人は彼とそ福音を何と言うか。何だ、と彼らは言う、『あの福音は金になるのだ』、そして彼らは彼とその福音を罵倒(ばとう)する。憐れな回心者よ! 彼は、彼の同胞をキリストのものとして獲得するためには、自分が他のいろいろな犠牲によって受ける資格を与えられている基督教的愛心そのものを犠牲にすべきである。
 そういう事情のもとでは、独立は、最小限に言っても、思慮あることである。そして余
はできるだけそれに固執しようと決心した。何より第一に、余は経費を最小限度に切り下げ、余の食物と衣服とに不足しているいかなる栄養も心地よさも、これを新鮮な空気と神の霊とから得ようと試みた。余のカレッヂ時代の最初の十八ヵ月間は事はほとんど余の計画どおりに運んだ。しかしいまや、このニュー・イングランドでの余の二回目のクリスマスに、余は長いあいだ一枚のグリーン・バックも一片の『イン・ゴッド・ウィー・トラスト』も見ていなかったのである。余は熱烈に天からの本物のマナを祈り求めた、しかしそれは来なかった。余は親愛なF博士の目薬を思い出した。余は再び祈った、心を決した、そして雪と湿地の茂みとのなかを辿って彼の家へ行った。おお、いかに道がその夜は長く思われたことよ、それは数町にすぎなかったのであるけれども! ついに余は彼の門の前に来た、そして彼の書斎の明りを見つめた。余は入って援助を求めようか。十分(じっぷん)の長い間、余は雪の中に立っていた、思案しつつ。もし余の国人が余は余の宗教で生活したと言えば、どうだ? 余の心はうなだれた。余はそれ以上進むことができなかった。『待て』と、余はついに余自身に言った、そしてもう一度余は寂しい歩みを余の部屋に向って転じた、いまやカレッヂの全丘上にただ一つ明りの灯(とも)っている部屋に。余は二つの利益の重さを量(はか)った、そして飢餓(きが)は余の国人と他の国人との両者による誤解にまさることがわかった、―福富のために。

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論語 №59 [心の小径]

一八三 子のたまわく、君子は坦(たいら)かにして蕩蕩(とうとう)、小人は長(とこし)えに戚威’せきせき)。

                        法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「君子は心が平静で様子がのびのびしている。小人はいつでもコセコセビクビクしている。」

 君子は何事も道理に従って行動し、損の得のということに心がわずらわされない故、どんな逆境に立っても泰然自若と落ちついており、小人は常に外界に支配されるので、心にゆとりがなく、足るを知らず乏(とぼ)しきをおそれて絶えずあくせくしている、大そうな相違じゃ、というのだ。「坦かにして蕩蕩」で孔子様の温容を思い浮べると同時に、「長えに戚戚」でわれわれ自身のみじめな姿がかえりみられる。

一八四 子温にして厲(はげ)しく、威(い)ありて猛(たけ)からず、恭にして安し。

 孔子様の感じを申そうならば、春風のあたたかさの中に秋風のきびしさをふくみ、威厳があっていかつからず、ていねいで楽楽してござる。

 中和を得た聖人の威風と温容とが眼前に浮きあがるような気がするが、殊に「恭にして安し」がよい。礼儀正しくして窮屈にならぬところが孔子様のねうちだ。
                                        
一八五 子のたまわく、泰伯はそれ至徳と謂うべきのみ。三たび天下を以て譲り、民得て称する無し。

 泰伯は周の大王の長子で、仲雍(ちゅうよう)・季歴(きれき)の二弟があり、李歴の子の昌(しょう)(後の文王)が徳があったので、大王は位を末子の季歴に伝えて昌に及ぼしたいという考えであった。そこで泰伯は父の志を察して、弟の仲雍と共に国を去り、南蛮の地に隠れた。
 
 「三たび天下を以て譲る」とあるので、三回の事績を挙げる説明もあるが、回数の意味
ではなく、固く譲ったというのであろう。また譲ったのは諸侯の位だが、結局は自分の系統が天子になる幸運を棄てたというところで、「天下」といったのだ。

 孔子様がおっしゃるよう、「泰伯の徳は至徳と称するべきかな。義によって固く天下を譲ったが、それがまた他人の口のはにのぼらぬほどに暗々裏に行われたのは、えらいものじゃ。」

 伊藤仁斎が左のごとく説いたのは、要領を得ている。

 「清貧の心、皆天下の為めにして己が為めにあらず。泰伯の季歴に譲るは、けだし斯の民の為めに計るなり。その後文武の道大いに天下に被(おお)えり、民ひそかにその賜(し))を受く、しかも実は泰伯の徳たるを知らず。これ夫子のその至徳を歎ずる所以なり。」

一八六 子のたまわく、恭にして礼なければすなわち労す。慎にして礼なければすなわち葸(し)す。勇にして礼なければすなわち乱す。直にして礼なければすなわち絞(こう)す。君子親(しん)に篤(あつ)ればすなわち民仁に興(おこ)り、故宮遺(わす)れざればすなわち民偸(うす)からず。

 「労」は困苦。「葸」は畏懼(いく)。「乱」は乱暴、「絞」は急迫。
 前段と後段とは何ら意味の連絡がない。別章だったのが、「子のたまわく」が落ちたのだろう。後段は骨子の言葉だという説もあるが、証拠はない。

 孔子様がおっしゃるよう、「人に対してうやうやしいのはけっこうだが、それれが礼に
かなったていねいさでないと、骨折損でかえって人にあなどられる。事に当って慎み深いのはけっこうだが、礼から出た謹慎さでないと、臆病者の形になる。勇気のあるのはけっこうだが、礼で調節しないと乱暴になる。率直なのはけっこうだが、礼のかざりがないと冷酷になる。」またおっしゃるよう、「人の上に立つ者が親族に手厚ければ、人民に仁愛の心がおこり、古なじみを忘れずに優待すれば、人民が軽薄でなくなる。」

『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №49 [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニュー・イングランドのカレッヂ生活 7
                                内村鑑三

 十一月廿六日  「デーヴィッド・プレーナード」ノ墓ヲ訪フ。

 十一月廿八日  「デーヴィッド・プレーナード」ノ伝ヲ読ム。彼ノ日記ヲ読ミテ、余ハ余ノ日記ヲ読ミ、ツツアルカノ如クニ感ジタリ。『凡テノ余ノ困難ヲシテ耐へ難カラシムルモノハ、神ソノ聖顔ヲ我ヨリ隠シ給フコトナリ』ト彼ノ言フ箇所二来リシ時こ、余ハ泣カザルヲ得ザリキ。シカシ余一人ガ唯ダ内外ノ棘(とげ)ヲ以テ神二試練セラルルニ非ザルコトヲ思ヒテ、甚ダ慰メヲ得タリ。彼ノ如キカカル祝福セラレ試練ヲ経(へ)タル人々ト共ニ天二於イテ有スル彼ノ快キ交際(まじわり)ヲ相望セリ。

 十二月四日 朝、総長ノ「クラス」ニテ、余ハ如何ニシテ基督教ヲ真理トシテ信ズルニ至リシカヲ語レリ。余ハ如何にシテ『道徳的分離』ノ和解ヲ唯ダ「キリスト」ニ於イテノミ見出スニ至リシカヲ正直二且ツ率直ニ「クラス」ニ語レリ、而シテ余ノ言ヲ『余ハ他二為スコトヲ得ズ、神ヨ余ヲ助ケ給へ』トノ「ルーテル」ノ語ヲ以テ結べリ。実ニ、神ハ余ヲ助ケ給へリ、而シテ余ハ其日終日、何力正直ニシテ良心的ナル事ヲ為シタリシコトヲ感ジクリ。鳴呼、我ガ霊魂ヨ、汝ハ唯ダ神ガ汝二為シ給ヒタル事ノ『証人』ニ過ギザルコトヲ弁(わきま)へヨ。汝ノ小ナル知識ガ汝ノ心二描キシモノヲ世ニ宣(の)プべキニ非ズ。主二信頼セヨ、而シテ彼ノ義ニヨリテ救拯(すく)ハレヨ。

 我らの総長先生は、すべて真の基督信徒のように、深き尊敬をもって 『異教徒回心者』を見た。(余はこのことを余自身の経験から言うのである。)彼は余に語った、一八五九年のはじめ貴君の国人の一人の一基督信徒が、一夜を余の屋根の下で過した、私は『異邦人が福音を聞いた』という事実の厳粛さに捉えられて、夜じゅう眠ることができなかったと。余は彼が我々回心せる異教徒に不当な価値を付しているのではないかと思いさえした、それは余がかつて彼に率直にこう告げなければならないほどであった、私が基督信徒であることのために私に提供せられるいかなる援助もそれはどうあってもわ断りしなければなりませんと。しかし、余はいつも喜んで彼のクラスと祈祷会において彼のいかなる役にも立とうとした、余は彼が余を馴らした犀(さい)の見本として用いようとしていないことを知っていたからである。その朝、余は何ら親代々の感化なしに如何にして基督教を余の信仰としていだくに至ったかを告白することになっていた。余は全く率直にそれを行った、そしてそうしたためにいっそうよかったと感じた。

 十二月五日 神ノ摂理ハ我ガ国民ノ中ニアラズベカラズトノ思想にオリテ多大ノ感動ア受ケタリ。モシ凡テノ善キ賜物ガ彼ヨり出ヅルナヲバ、然ラバ我ガ国人ノ称讃スベキ国民性ノ中二至高(いとたか)キ処ヨリ来リシモノも亦夕アルニ相違ナシ。我々ハ我自身二特有ノ天賦ト賜物ヲ以テ、我々ノ神ト世界トニ仕(つか)フべク試ミザルペカラズ。神ハニ十世紀間ノ鍛錬ニヨリテ遠セラレタル我ガ国民性ガ、米欧思想二ヨリテ全ク置キ換へラルヲ欲シ拾ハザルナリ。基督教ノ美ハ神ガ各国民二与へ給ヒシ凡テノ特殊性ヲ聖(きよ)メ得ルコトナリ。福(さいわい)ニシテ奨励的ナル思想ナル哉(かな)、日○○モ亦タ国民ナリトハ。


『余は如何にして基督信徒とナrし乎』 岩波文庫


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論語 №58 [心の小径]

一七九 子のたまわく、文(ぶん)はわれなお人の如きこと莫(な)からんや。躬(み)君子を行うはすなわちわれ未だこれを得ることあらず。

                          法学者  穂積重遠

 「文莫(ぶんばく)はわれなお人の如し」とよんで、「文莫」は当時の俗語で勉強の義なりとする説明もあるが、強いてさような群群を立てることもあるまい。

 孔子様がおっしゃるよう、「本を読むことはわしも人なみにできるつもりだが、君子の行いを実践躬行(きゅうこう)することは、わしにはまだなかなかでき得ない。」

 大した謙遜な言葉だが、同時に理論は易(やす)くして実行は難いことを示されたのである。

一八〇 子のたまわく、聖と仁とのごときは、すなわちわれあに敢(あえ)てせんや。そもそもこれを為(な)して厭(いと)わず、人を誨(おし)えて倦(う)まず。すなわちしか云(い)うと謂(い)うべきのみ。公西華(こうせいか)いわく、正(まさ)にただ弟子(ていし)学ぶこと能わざるなり。

 孔子様がおっしゃるよう、「聖人とか仁者とかいうのは、わしなどの及びもつかぬこと、まずまず聖人仁者の道を学んで怠らず、それをあきもせずに人に教えるという、ただそれだけのことじゃ。」それを聞いていた門人公西華が言うよう、「そのそれだけのことが弟子どものまねもできないところでござります。」

一八一 子疾病(やまい)なり。子路(しろ)祷(いの)らんことを請う。子のたまわく、これ有りや。子路対(こた)えていわく、これ有り。誄(るい)にいわく、なんじを上下(じょうか)の神祗(しんぎ)に祷ると。子のたまわく、丘(きゅう)の祷ること久し。

 孔子楳かご病気容態が思わしからず、師匠思いの子路が心配して、ご祈祷を致させましょうと申し出た。孔子様は事をいやしくもされぬ性分なので、「それには故実(るい)のあることか。」と問われた。子路が、「ござりますとも。誄と申す昔の祈躊文に、なんじの幸福を祷って天地神明にまごころを捧(ささ)げる、という本文がござります。」と答えた。すると孔子様がおっしゃるよう、「祷るというのは天地神明にまごころを捧げることか。それならば丘はふだんから祷っているぞ。」

 「丘の祷ること久し」実に泰然自若、確信に満ちたりっぱな言葉だ。儒教はいわゆる宗教ではなかろうが、孔子様は最高至上の宗教心をもち、安心立命を得ておられたのだ。「苦しい時の神頼み」などとはまるで選を異にする。

一八二 子のたまわく、奢(しゃ)なればすなわち不孫、倹なればすなわち固、その不孫ならんよりは、むしろ固なれ。

 「孫」は「遜」と同じ。

 孔子様がおっしゃるよう、「奢侈だと『不遜』、すなわち尊大非礼になるし、倹約が過ざると『固』、すなわち吝嗇(りんしょく)頑固(がんこ)になる。どちらもどちらだが、不遜であるよりはまだしも固でありたい。」


『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №48 [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニュー・イングランドのカレッヂ生活 6

                                内村鑑三

 八月十六日 鳴呼、何タル「イエス」ニアル歓喜ト平和ヨ、寂寥(せきりょう)ニオケル歓喜ヨ、孤独ニオケル教書、然りマタ罪ニオケル歓喜ヨ。鳴呼、我ガ霊魂ヨ、コノ貴重ナル真理ヨ、而シテ汝ノ全注意ヲソレニ向ケヨ!

 『単なる修辞的対照に過ぎず』と余の批評家は言うであろう。しかしそうではない、文章論の余の友人よ。我々基督信徒は我々の罪深き状態を喜ぶのである。アダムにおける人類の堕落にまさって人類の向上に役立ったものはないと言ったのは、哲学者ライプニッツであった。罪は梃子(てこ)であり、それによって我々は神の御子を通して神にまで往々にしてマルクス・アウレリウス型の男や女の全く達し得ない高さにまで、昇るのである。

 九月十三日 夕ハ澄ミテ美シカリキ。宛カモ夕食二外出セントセシ時、思想ハ余二臨メリ、余ガ肉ニ死セル時悪魔ハ余ヲ撃つ能ハザルナリト。而(しか)シテ此ノ『罪ニ死スルコト』ハ、余ノ罪深キ心ヲ覗(のぞ)キ見ルコトニ依ルに非(あら)ズ、タダ十字架ニ釘(つ)ケラレ給ヒシ「イエス」ヲ仰ギ瞻(み)ルコトニ依リテ、成就セラレ得ルナリ。余ハ余を愛し給フ彼ニヨリテ勝チエテ余リアル者タリ得ルナリ。コノ思想ハ限リナキ元気ヲ与ヘタリ、其ノ日ノスベテノ重荷ハ全ク忘レラレヌ。感謝ハ余ノ心ヲ満タシタリ、余ハ主の晩餐に与(あずか)ルコトニヨリテ此ノ日ヲ記念セント欲シタリ。カクテ余ハ一房ノ野葡萄ヨリ僅カノ果汁ヲ搾(しぼ)リ、それを小ナル陶器皿ニ入レヌ。マタ余ハ「ビスケット」の一小片ヲ割(さ)ケリ。余ハ其等ヲ清潔ニ洗濯セラレタル「ハンカチーフ」ノ上ニ置キ、其ノ前ニ座セリ。感謝ト祈祷の後ニ、余ハ感謝ニ満テル心ヲ以テ主ノ体ト血トニ与リヌ。神聖限リナシ。余ハ此ヲ余ノ生涯ノ開二繰り返シ反復セザルベカラズ。

 『冒涜である!聖礼典をもてあそぶものである』と教会主義と他の法王的の諸主義はこれに対して言うであろう、しかし何故にロマ法王とその仲間の司祭たちはこのサクラメント(秘蹟、精礼典)の問題において反対し、我宗最も主の死を記念したいと思う時にそれを記念するこの特権を諸君と同じ人間である我々に惜しむのであるか。もし法王がこの儀式を執行する何ら独占的の樺威を有せず、彼の基督代表権は単なる想像上の虚構にすぎないとすれば、なんじはなんじの『使徒継承権』を支持するにいかなる権威を有するか、余は一日本人を知っている、彼は授洗したる基督信徒として或る福音協会の会員となるために出頭した、そしていかなる権限のある聖職が彼に洗礼を授けたかを朝ねられたとき、『天』と答えた。事実はこうである、ある夏の日の午後であった、彼は深く自分の罪を自覚させられ、十字架につけられたまわしイエスにわいて罪の赦しを発見した。彼は思った、場合はあまりに厳粛であって聖洗礼を受けに出頭しないでこれを去らせることはできないと。しかし一人の『認可された教職』も彼の住居二十五マイル以内には見出されなかった。しかしあたかもそのとき爽快きわまりない夏の驟雨(しゅうう)が沛然(はいぜん)としてその地方にやって来た。彼は思った、天が自ら彼を聖なる儀式に招きつつあるのであると。そこで彼はまっすぐ雨のただ中に飛び込み、敬虔な態度をもって全身を『天の水』でずぶ濡れにさせた。彼はこの方法を自分の良心に満足なものと感じた、そしてそれいらい彼は自分をキリストの弟子として偶像崇拝の同国人の前に告白したのである。余は他の人々のホスト(聖餐のパン)と黄金の聖餐盃に対する尊敬を邪魔するものではない、また余は自分がこういう事柄における余の好みを邪魔されることを欲しない。問題全体の核心は彼御自身である、そして人々は彼を自分のものとする途において異なるのである。非本質的なことにおいては自由を!

 十一月廿四日 感謝祭休暇始マル。睡眠ヲ得テ甚ダ元気ヲ恢復ス。-司起床シテ、余ハ余ノ部屋ノ屏ノ外二雅致アル三角形ノ籠ニ紅キ美味サウナル林檎ノ堆積セルヲ発見セリ。
其ハ余二ハ一大驚愕ナリキ。誰力深切ナル友人ガ余ノ孤独ナル霊魂ヲ慰メントテ其処二置キクルニ相違ナシ。嗚呼、何タル深切ゾ!記憶セヨ、余ノ霊魂ヨ、斯(か)力ル経験ヲ!縦(たと)ヒ小ナリト雖も、カクノ如キ行為ガ、数百弗ノ贈物ニマサリテ屡人ノ心ヲ感動セシムルナリ。余ヲ思ヒ余二関心ヲ有スル若干ノ人々ノ在ルコトヲ知リテ、余ハ一日中如何ニ慰藉(いしゃ)ヲ感ジタリシヨ。余ハ頭ヲ垂レ、感恩ノ涙ヲ以テ感謝ノ祈祷ヲ捧ゲヌ。

 いまだにその名を余に告げたことのないあの或る人の上に、祝福に祝福の加わらんことを!′


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №57 [心の小径]

一七六 子のたまわく、仁(じん)遠からんや。われ仁を欲すれば、ここに仁至る。

                           法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「仁なるものはけっして遠いものではない。仁が欲しいと思えばそこに仁がくる。」

 仁に達せぬのは、仁を欲することが切実でないからだ、というのであって、孔子様がいろいろな形で繰り返されるところだ。

一七七 陳の司敗(しはい)問う。昭公(しょうこう)礼を知るか。孔子いわく、礼を知れり。孔子退く。巫馬期(ふばき)を揖(ゆう)してこれを進めていわく、われ聞く、君子は党せずと。君子も亦(また)党するか。君(きみ)呉(ご)に取(めと)り同姓なるが為にこれを呉孟子(ごもうし)と謂)いえり。君にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知らざらん。巫馬期以て告ぐ。子のたまわく、丘(きゅう)や幸いなり。いやしくも過ちあれば、人必ずこれを知る。

 「司敗」は官名、名は出ていない。「巫馬期」は門人、名は施、期は字。呉は太伯の後、魯は周公の後で、同じく姫(き)姓である。それ故魯の昭公が呉の女を娶(めと)ったことは「同姓堅らず」の古礼に反する。そこでその夫人は元来ならば「呉孟姫」と称すべきところ、子姓の宋から娶ったように見せかけて「呉孟子」と称した。(かの衛霊公の夫人は宋の女だから「南子」という。)「取」は「娶」の古宇。

 陳の司敗某(なにが)しが孔子に、「あなたの主君昭公は礼を知っておられるか」とたずねたところ、孔子が「礼を知っております。」と答えてそのまま引きさがった。そこで司敗が門人巫馬期に会釈して呼び近づけ、「君子は仲間びいきをせぬと聞いているが、孔子のような君子もやはり仲間びいきをされるのか。昭公は呉の女を娶られたが、同姓なのをはばかり、呉孟子と名づけてごまかされたような次第で、昭公が礼を知るならば誰が礼を知らぬ者があろうぞ。しかるに孔子が昭公は札を知ると言ったのは、仲間びいきではあるまいか。」と言った。巫馬期がそのことを孔子様に申し上げたところ、孔子様がおっしゃるよう、「丘は仕合せ者じゃ。ちっとでも過ちがあると、人様が必ず気がついて教えてくださる。」

 孔子様ももとより昭公の同姓結婚をにがにがしく思っておられたのだろうが、主君のことだから他国人から問われてそうだとも言えず、「礼を知れり」となにげなく答えておかれたが、摘発されてみるとうそだとは言えないから、それは気がつかなかった、よく注意してくださったと、自身の不明にしてしまわれたのであって、まことにおくゆかしい態度だ。

一七八 子、人と歌いて善(よ)ければ、必ずこれを反)かえ)さしめて而(しか)して後これに和す。

 孔子様がひとと合唱されるとき、相手がうまく言う多雨と、必ずい自分はやめて独唱でそこをくり返させ、さらにそれについて合唱された。

 「人の美を成す」ことを喜ぶ孔子様らしさがあらわれていると同時に、なかなか耳のいいことがわかる。孔子様は相当の音楽理論家、兼実演者だったのだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №47 [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニューイングランドのカレッジ生活 5

                                 内村鑑三

 五月廿六日 此ノ世ニハ悪ヨリモ遙カニ多ク善ガ存在スルトノ思想こヨリテ多大ノ感銘ヲ与へラレタリ。鳥ナリ、花ナリ、太陽ナリ、空気ナリ、― 何タル美ヨ、光輝ヨ、香気ヨ!然ルニ人ハ、四六時中、悪ヲ呟(つぶや)キツツアルナリ。世界ハ其ヲ楽園トナスニ唯ダ一事ヲ要ス、而シテ是レ即チ「イエス・キリスト」ノ宗教ナリ。

 真の楽天家となりつつある、しかもこれは身を温める自分のストーヴなしにきびしいニュー・イングランドの冬を過したばかりのときであり、そして余が勘定書の支払についてまだ不確定であった間のことであったのである!

  六月三日 預定の教義ヲ研究シ、其ノ意義二強キ感銘ヲ与へラレヌ。心は歓喜ヲ以テ躍レリ。誘惑ハ退散スルガ如ク思ハレ、余ノ心ノ高貴ナル性質ハ悉ク感激ヲ以テ燃ユ。恐怖何処ニカアル、試論者(こころむるもの)ノ力何処ニカアル、モシ余ガ神ノ選民ノ一人ニシテ、世ノ基ノ置カレザル前二彼ノ世嗣(よつぎ)トシテ預定セラレシナラバ!

 かつて余の最大の導きの石となった教義は、今や変じて余の信仰の隅(すみ)の首(おや)石となるにいたった。そして余はこの教義はそのような目的のために宣明せられたものであると信ずる。神を喜ばせようと最善を尽しつつあると同時に自分の選びについて本当に容易ならぬことと心配する人々は、必ずや選民の間に自分自身を見出すと信ずる。選ばれない者は普通この間題について悩まない。

 六月五日 嗚呼、凡(すべ)テノ基脅信徒ヲ謙遜ナヲシムベキ思想ヨ!余ハ選民ノ一人ナラザルベカラズトハ、何タル価価ヲ余二与フルモノゾ! 而も余ハ日々罪ヲ犯シソツアルコトヲ思フベシ!

 『羨むべき妾想よ!』と余の哲学者の友人は言うであろう。しかし諸君の想像するほど羨むべきものではない、神の選民の運命はこの地上にて最も憐れむべきものであり、それが貴君に提供せられたならば、貴君はきっとそれを拒絶するであろうからである。日に日に自己に死ぬこと、それが選びである。

 六月十五日 余ノ霊魂ノ救拯(すくい)ハ、余ノ環境下此ノ世ノ運命トノ状態如何二全然無関係ナリ。縦(たと)ヒ余ガ黄金ノ申ニ『浸(ひた)サル』ルトモ、余ノ霊魂ハ依然トシテ全ク影響ヲ被(こうむ)ルコトナカルペシ。縦ヒ余ハ禁欲者ノ最モ厳格ナル苦行ヲ通過スルトモ、余ノ霊魂ハ餓ヱタル獣ノ如クニナルべク、マタ其ノ献身ヲ誇ルナルベシ。神ノ霊余ノ心ニ直接ニ触ルルニ非ズンバ、如何ナル回心モアリ得ベカラズ。何タル慰籍(なぐさめ)深キ思想ヨ! 余ハ貧困ヲ嘆ク、ソハ余ノ肉ガ其こヨリテ苦シムガ故ナリ。余ハ富貴ヲ懼(おそ)ル、其ハ余ノ霊魂ノ救拯ガ危険二瀕(ヒン)スルガ故ナリ。然レドモ、否!救拯は神ノモノナリ、而シテ如何ナル人モ物モ境遇モ余ヨリ其ヲ奪フコト能ハズ。其ハ山二モ優リテ確実ナリ。

 此はロア書三十八、三十九節の余の翻訳である。うなだるるなかれ、おお貧しき者よ、彼のの恩恵はなんじに十分であるからである。怖(おそ)るるなかれ、おお富める者よ、彼は駱駝をして針の孔(あな)を通らせたもうことができるからである。

 七月卅一日 昨夜、恐シキ雷雨アリ。余ハ宛(あた)カモ其ノ時永遠ノ生命ニ就キテ黙想シ、マタ余ノ弱点ノ幾許カト闘ヒツツアリキ。忽チニシテ電光ト雷鳴ハ余ノ心ヨリ斯(か)カル『肉ノ要素』ヲ除キ去レリ、而シテ余ハ雷電二撃タレテ穏カナル平安ノ中二横タハレルヲ夢ミツツアルニ気ヅケリ。余ハ生レテ初メテ轟ク雷雨ヲ楽シミシタリ。

 余は雷が嫌いであった、そして余の最期は雷が余の頭の真上に轟いた時に来るものといつも考えた。異教徒時代には、余はあらゆる余の守護神に助けを乞い、その神々に線香を焚き、蚊帳の中の避難所を『天の怒り』から遁れる最も安全の場所と考えた。そして基督信徒時代にもやはりしばしば余の信仰は雲の中で『神が吼える』時に最も厳しい試練を受けたのである。しかし今や神の恩恵によって、余は耐雷性となった、あらゆる種類の恐怖は十字架に釘(つ)けられたまいしイエスが余に啓示せられたことによって余の心から去ってしまっていたからである。余は心の中で言った、『撃て、おお雷よ、私は安全なのだから』と。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №56 [心の小径]

一七三 子釣(つり)して綱せず、弋(よく)して宿(しゅく)を射ず。

                        法学者  穂積重遠

 「綱」は「網」のあやまりとする説もあり、またそのままで「あみ」とよむ人もある。一網打尽という意味からは「あみ」の方がおもしろいが、「綱」とは、大綱に釣針のついた小網をシメのようにさげた、いわゆる「はえなわ」のことだという。
「弋」とは、「いぐるみ」とて、糸をつけ鳥にからみつかせるしかけの矢。

 孔子様は魚をとるに、つりはされたが、はえなわはつかわれなかった。また鳥をとるのに、にわとりを射ることをされなかった。

 「はしがき」に語った宇野先生の講義のとき、若い連中が全体不徹底だと論難したことを思い出す。しかし孔子様は、「殺生禁断」「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」というような窮屈な戒律は設けなかったので、漁猟の獲物をさかなに晩酌の一本を傾けるくらいのことはされただろうが(二四三)、一挙多獲や不意打ちは好まれなかったという、人間味の中にもまた孔子様らしさのあるところを示したのだろう。あるいはまた魚烏の捕獲を目的とせず、いわばスボーッとしての釣魚そのもの、射術そのものに興味をもたれたのだと考えてもよかろう。

一七四 子のたまわく、けだし知らずしてこれを作る者あらん、われはこれ無きなり。多く聞きてその善きものを択(えら)びてこれに従い、多く見てこれを識(しる)す。知るの次ぎなり、

 孔子様がおっしゃるよう、「知りもしないことを独断で作り出す者もことによるとあるかも知れないが、わしはそういうことはしない。自分も智者とは申せないが、多く聞いてその善いものをえらんでわが身に行いまた多く見てそれを心にとめておくことは怠らぬつもりで、まず智者の次ぐらいのことはあろうか。」

 本章を第二四八草・第一四九章あたりの趣旨として解説したが、後半は第三四章のような一般論ともとれる。

一七五 互教(ごきょう)共に言い難し。童子見(まみ)ゆ。門人惑(まど)う。子のたまわく、その進むを与(ゆる)す。その退くを与さず。ただ何ぞ甚だしき。人おのれを潔くして以て進まば、その潔さ与す。その往(おう)を保(ほ)せざるなり。

 「その進むを」から「何ぞ甚だしき」までが後になっている本もある。

 互教という話にならぬほど風俗の悪い村があるが、その村の少年が入門を願ったのを許されたので、門人たちがあのようなけがらわしい土地の者を受け入れられるとは どういうものか、と疑い惑った。そこで孔子様がさとしておっしゃるよう、「いやしくも道に進むをたすけてあともどりせぬよう世話するのが教育というものじゃ。互教の者だから教えないなどというのは、あまりにも狭量な次第ではないか。人が身を清くする気持で道に進んで来るならば、その身を清くしようというところを買ってやろう。将来そむき去りはしないということまで受合わずともよさそうなものじゃ。」

 「往」を将来とみる説と過去と解する説とある。「往を告げて来を知る」というところからみると過去のことらしくもあり、旧悪を根にもたないでもよいではないか、ということになって、それでも通ずるが、「往く者は追わず、来る者は臨まず、いやしくもこの心を以て至らば、これこれを魯けんのみ。」という孟子の言葉をも考え合せて、前説に従った。

『新訳論語』 講談社学術文庫
                                                                   

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №46 [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニュー・イングランドのカレッヂ生活 4

                              内村鑑三

  実際、ミッションの本義はただ異教徒の暗黒を基督信徒の光明と比較して描くことによってのみ支持され得るものと想像しているかと思われる或る人々がある。そこで彼らは異教徒をまっ黒な正方形によって、プロテスタント基督信徒を白色正方形によって示す図表を作る。伝道用の雑誌、評論、新聞は、いずれも異教徒の不幸、堕落、はなはだしい迷信の物語でいっぱいである、そして彼らの高貴性、神聖性、きわめてキリストらしい性格についての物語はほとんどその禁に現れない。いくたびも我々自身の経験したことであるが、我々が我々の国民性の高潔な面に触れることより多く、その異教的の面に触れることより少なかったため、いくつかのミッションの集会で我々が述べた話に対し何ら称茸の言葉に接せず、我々は少なからず無念の情にうたれた。彼らは言った、『もしも君たちの民がそれほどりつばな人たちであるなら、むろん、宣教師を送る必要はない』と。『我が親愛なる友よ』と我々はしばしば答えた、『そういう高潔な国民こそいかなる他のものより以上に基督教を渇望するのである。』事実を言えば、もし我々異教徒が手長猿やチンパンジーにまさること僅かにすぎないなら、基督信徒はそのミッション事業を全然たる失敗として諦めるがよいのである。我々が正と邪、真と偽について多少知っているからこそ、我々はすすんでキリストの十字架につれ来られるのである。余は心から宿ずる、『異教徒に対する憐れみ』より以上の高い動機にもとづかない基督教伝道は、派遣する者にも派遣される者にも多大の損害を与えることなしに、全然その補助を撤回(てっかい)してしまうがよいと。

三月二日 神ガ我等二賜物ヲ与へ給フヤ、ソレハ実質的ナリ。他人ノ意見ニヨリテ支持セラルル一片ノ思弁ニアラズ、想像ノ産物タル一片ノ幻影ニアラズシテ、此ノ世ノ風二擾(みだ)サレ能ハザル真ノ実質ナリ。
三月八日 余ノ生涯ニ於ケル甚ダ重大ナル日ナリキ。「キリスト」ノ贖罪ノカハ今日ノ如ク明瞭二余二啓示セラレシコト嘗テアラザリキ。神ノ子ガ十字架二釘(つ)ケラレ給ヒシ事ノ中ニ、今日マデ余ノ心ヲ苦シメシ凡(すべ)テノ難問ノ解決ハ存スルナリ。「キリスト」ハ余ノ凡テノ負債ヲ支払ヒ給ヒテ、余ヲ堕落以前ノ最初ノ人ノ清浄ト潔白トニ返シ拾ヒ得ルナリ。今ヤ余ハ神ノ子ニシテ、余ノ義務ハ「イエス」ヲ信ズルニアリ。彼ノタメニ、神ハ余ノ欲スル凡テノモノヲ余二与へ給フベシ。彼ハ彼ノ栄光ノタメニ余ヲ用ヒ拾フべシ、而(しか)シテ遂ニハ余ヲ天国二救ヒ拾フべシ。*******************************************
 諸君のうちにて『哲学的』の傾向を有せらるる方々は、たとえ侮蔑の念をもってではなくても一種の憐れみをもって、以上の文章を読まれるかもしれない。諸君は言う、新しい科学がこの世に出現したことにより、ルーテル、コロムウエル、バンヤンの宗教は今や一つの『伝説』となってしまったと。諸君は言う、死んだ救世主(すくいぬし)に対する信仰が人々に生命を与えるであろうということは、『理性に反する』と。それなら余は諸君と議論はしない。おそらく『全能の神の前に責任を負う霊魂』というような事はけっして諸君を甚だしくわずらわしたことはなかったであろう。諸君の野信は人生と称せられるこの短い生存如何の彼方(かなた)にまで拡大しないかもしれない。そして諸君の万能の親審判者は社会と称せられるあの因習的なものであって、その『まことに結構』が諸君の要するすべての平和を諸君に与えるかもしれない。しかり、十字架につけられたまいし救世主は、待望する永遠と心の奥底を審(さば)く宇宙の霊とをもっている飼えまたは彼女にのみ必要なのである。そういう人々にはルーテルとコロムウエルとバンヤンの宗教は伝説ではない、あらゆる真実中の真実である。
 『十字架につけられたまいし神の子』を最後的に把握した跡に起ったあらゆる上昇と下降をもって余は諸君を煩わすまい。下降はあった、しかし上昇より少なかった。「一つの事」が余の注意を釘づけにした、そして余の全霊は「それ」によって占領された。余は昼も夜もそれを想った。石炭入れを地階より余の部屋のある最上階運搬しつつある間にさえ、余はキリスト、聖書、三位一体、復活、その他類似の問題を黙想した。かつて余は中階まで来た時、余の二つの石炭入れ(身体の平均を取るために二つ選んだのである)を下し、それからそこで『石炭山』からの途中で余に啓示された三位一体の新しい解釈のために思わず感謝の祈祷を注ぎ出したことがある。休暇が始まり、学生たちはみな自分のママーに会うために帰郷し、余をカレッヂ丘の聖の居住者として残し、余の「ママー」たる柔しい神の霊とともに独りあらしめたときに、余のパラダイスは来た。クラスのエールや他の異教的な騒音でどよめいていた丘は、今や変じて真のシオンとなった。サタンが余を余自身の自由にさせた時にはいつも、余は心に遠く海の彼方の愛する祝福された故国を描き、それを教会と基督教カレッヂと点綴(てんてい)した、もちろんそれは余の想像においてだけ存在したにすぎなかったのであるが。かつて余の心に臨んだいかなる感激的な思想も、余はそれを余の国人に対するメッセージとして心にとめないことはなかったのである。じつに一つの帝国とその民とは余の閑暇(ひま)の時間をことごとく呑みつくしたのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №55 [心の小径]

一六八 子のたまわく、三人行けば必ずわが師有り。その善なる者を択(えら)びてこれに従い、その不善なる者はこれを改む。

                          法学者  穂積重遠

 「三人行えば」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「人生の道連れが三人となれば、二人は必ずそれぞれ自分の先生になる。善なる者にならって自らの善を進め、不善なる者にかんがみて自らの不薯を改めることになるからじゃ。

 第八三章と同趣旨だ。不善者を師とは如何。ここの善不善は善者不善者にあらず、善行不善行なり、というのが「行えば」とよむ方の解釈だ。私はあえてともに詩を語るに足らずと申したい。

一六九 子のたまわく、天、徳をわれに生ず。桓魋(かんたい)それわれを如何。

 宋の重臣桓魋(司馬向魋・しばしょうたい)が孔子様を殺そうとたくらんだので、門人たちが心配して避難をおすすめしたとき、孔子様が泰然自若(たいぜんじじゃく)として言われた言葉である。

 孔子様がおっしゃるよう、「天から仁義道徳の道を生みつけられたわしじゃ、桓魋風情がわしをどうすることができようぞ。」

 ふだんは自分は生れながらの聖人ではないと謙遜される孔子様だが、いざとなると、経国済民(けいこくさいみん)の天命われに在り、火も焼くべからず水も漏らすべからず、の大自信を発揮される。全く大したものだ。第二一〇章を見よ。

一七〇 子たまわく、二三子(にさんし)、われを此て隠すと為すか。われなんじに隠すこと無し。われ行(おこな)うとして二三子と与(とも)にせざるもの無し。これ丘(きゅう)なり。

 「二三子にしめさざるもの無し」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「お前たちはわしが隠していると思うのか。わしはけっしてお前たちに隠しはしない。わしは何をするにもお前たちといっしょではないか。それがすべてお前たちに対するわしの講義なのじゃ。丘の丘たるゆえんはそこにある。」

 孔子様は自身が「黙して識す」流儀なので、門人に対しても必ずしも多言されない。それで先生はわれわれに奥義(おうぎ)を隠しておられる、と誤解する者があったかも知れないので、こう告げられたのである。  

一七一 子、四つを以て教(おし)う、文・行・忠・信。

 孔子様の教授要目は結局四つであった。まず古典の講義と徳行による垂範(すいはん)、しかしてその中心徳目は忠と信とである。

一七二 子のたまわく、聖人はわれ得てこれを見ず。君子者(しゃ)を見ることを得ばここに可なり。子のたまわく、善人「ぜんじん)」はわれ得てこれを見ず。恒(つね)ある者見ることを得ばここに可なり。亡(な)くして有りと為(な)し、虚(むな)しくして盈(み)てりと為し、約(やく)にして泰(たい)と為す。難(かた)きかな恒あること。

 孔子様がおっしゃるよう、「聖人は今の世にとうてい見ることばできぬ故、君子といわれるほどの者でも見ることができればけっこうなのじゃが、それもなかなかむずかしい。」またおっしゃるよう、「聖人の次の善人も今の世は見ることはできぬ故、言行一致終始一貫の恒ある者でも見ることができるとけっこうじゃが、それもめずらしい。多くの者は、無いのに有るとかざり、空虚を充実と見せかけ、困りながらえらそうに構えている次第で、『恒あり』というのがまたむずかしいことじゃわい。」

「聖人」はともかく、「善人」についても孔子様の採点はすこぶるからい。

『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №45  [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニューイングランドのカレッジ生活- 3

                               内村鑑三

 余がカレッヂに落着いて間もなく余は総長に連れられて宣教師大会の一つに出席した。じつに何ものもこれらの集会にまさって基督教国の基督教性を示すものはない。異教国には一つもこういうものはない、我々は何一つ他国民の霊魂について心配しないからである。一方の知的男女が三四カ所の広いホールに溢れるばかり充満して如何にして自分たちが他の諸国民をして福音のめぐみ味わしめることが出来るかについてて開こうとするというこの単なる事実が、それだけ十分に印象的である。かりに多くのものはショーを見るために来るのであり、多くの他のものはそういうショーになるために来るのだとしても、この人々に異邦人の間のミッショん8事業がショーとされる価値があるという事実は依然として明白である、モしてそれは躾茸すべての宗教的ショーのうちで最も高畠にしてまた最も神聖なショーである。しかしこのミッション・ショーには国民の頭脳のうち最も強固にして最も冷静なものが参加する、モそしおそろしくそれに真剣な男女がステージに現れ、その額に傷跡と皺をつけてカフィル人とホッテントット人との彼らの道徳的戦争のこと語る時、そのときショーはショーであることをやめ、我々もまたそれによって燃やされるのである。余は基督信徒の余の国人の誰にでも、基督教国でそういう機会があればこういうミッション・ショーに出席するようお勧めする、そしてその人はそうして後悔することはないということを余はその人に保証することができる。そのショーはあらゆる点においてみる価値がある。彼はそれにおいて基督教国の偉大さと、、同時に自分の国の小ささとの、理由を見るかもしれない。彼はかくして『基督信徒の野獣性』について大声に語ることをやめるかもしれない。ほんとうにあのミッション・ショーは感激的である。
 しかしこういうショーにおける最悪のくじは、たまたまそこに居合わせる回心した幾人かの異教徒の見本に当るのである。サーカス興行師が馴らした犀(さい)を使うように、彼らは必ず利用される。披らはショーとして呼び出される、そして何という驚くべきショーよ!つい最近まで木や石の前にお辞儀をしいたが、しかし今はこれら白人たちの神と同じ神を告白している!『ああ、諸君がどうして回心したかを、ちょっと話してもらいたい』と彼らはさわぐ、『だが十五分間でだ、それ以上はいけない、我々は何々大神学博士から、ミッションの方法手段と論拠について聴こうと思っているから』と。馴らされた犀は生きた例証である、黒板上の例証ではなくて、本当の伝道地そのものからの本当の見本そのものである。そして見られて甘やかされることの好きな犀どもは喜んでこれらの人々の命令に従い、はなは喜しい態度で、どうして自分たちが動物であることをやめて人間のように生き始めたかを物語るのである。しかしそのように利用されることを好まない他の犀どもがいる。彼らは人々にショーにされて内心の平和を奪われることを好まない、人々はみなか彼らがどう曲がりくねった苦しい途(みち)を通って犀の生活を捨てるようになったかを理解することはできないのである。彼らは独りそのままにしておいてくれることを好む、そして人の目から離れて黙々と神の緑の牧場を歩む。しかしサーカス興行師は普通はこういう犀を好まない。そこで彼らは時にはインディアンの叢林(そうりん)からこの特別な目的のために幾人かの扱い易い見本(普通には非常に若いもの)をつれて来て、全国をつれ歩き、日曜学校の子供に見せ、講壇上に呼び出し、犀の歌を歌わせ、そのようにして人々にミッション事業に興味をいだかしめるのである。
 そこで余は、新生せる犀としてミッション・サーカス興行師にこの間題にもっと思いやりのあるように忠告する。一方では、彼らは馴らされた犀どもを甘やかして台なしにし、また馴らされていない犀どもに勧めて馴らされた犀どもを模倣せしめもする、それが彼らは自分たちの犀どもの肉のためになるものを得る最も安易な途と知るからである。他方では、諸君がそのようにして諸君の事業に興味を抱かせようとおもうその人々に対し、諸君は基督教ミッションとは本当はどういうものであるかということについて誤った概念を与えると信ずる。パウロやバルナバがテトスとかテモテとかをエルサレムに連れて行ったのは、彼に異邦人の歌を歌わせ、その奇異な、半ば不可解な方法で、『如何にして偶像を火に投じて福音にすがったか』をそこの兄弟たちに告げさせるためであったということは、聖書において余は読まないのである。余は、如何に大使徒がその熱情を傾けて異邦人の立場を弁護し、神の民は神なき異邦人にすこしもまさらず、両者はともに罪に定められ、神の栄光を受けるに足りないということを彼らに語ったかを読むのである―以上のすべてから余が結論することは、パウロ及びパウロ的の心をもった人々には、異教は何ら笑い興ずべき、あるいは『憐れ』まれさえするものではなくて、それは同情せらるべき、自分たち自身の状態として受取らるべき、したがってあらゆる尊敬と基督信徒的好意とをもって取扱わるべきものであったのである。余は土民服をきた一ヒンドゥー青年をしてトブレディを彼自身のパーリ語で歌わせて集めたあの寄附金を、馴らされたオランウータンをショーにして集めた金を評価する以上に評価しない。おお、人々のバリサイ的の誇りに訴え、自分たちが異教徒よりすぐれていることを自分たちに示して『本国の基督信徒』を促して『彼らを憐れま』せるあれをミッション事業と呼ぶことなかれ。宣教師中の最善の宣教師は常に自分たちの派遣された民の立場と威厳との支持者であり、そして愛国的な原地人であるだけ、それだけいわゆる基督教国公衆の前に偶像崇拝その他の堕落を暴露(ばくろ)することに敏感なのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫




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論語 №54 [心の小径]

一六四 子の雅(つね)に言う所は、詩・書・執礼(しつれい)、皆雅に言うなり。

                              法学者  穂積重遠

  「雅言(がげん)」とよむ人もある。それだと「正言」という意味になり、詩・書・礼を語るときには魯国(ろこく)なまりをつかわれず、正しい古言を用いた、ということになるのだが、何やらピンとこない。「執礼」については古註(こちゅう)に、一人の執り守る所なるを以て言う、いたずらに誦説(しょうせつ)するのみにあらざるなり。」とある。

 孔子様が常に語られたところは、詩と歴史と実践礼(じっせんれい)、これらを常に言われた。

 後の第一六七章と相対応する意味からも、「常に言う」とよむ方がよかろう。

一六五 葉公(しょうこう)、孔子を子路に問う。子路対(こた)えず。子のたまわく、なんじなんぞ曰わざる、その人と為(な)りや、憤(いきどお)りを発しては食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老(おい)の将(まさ)に至らんとするを知らずとしか云うと。

 葉公は楚(そ)の葉県(しょうけん)の長官沈諸梁(しんしょりょう)なる者、「公」と称するのは僭上沙汰(せんじょうざた)だ。「日わざる」を最後にもってくるよみ方もある。それでもよいのだが、前記の方が力が強い。

 葉公が孔子様の人物を子路にたずねたところ、子路は何と言葉にあらわしてよいかわからなかったとみえて、返事をしなかった。孔子様がそれを聞いておっしゃるよう、
 「お前はなぜこういわなかったのか。私の師匠はうまれつき学問が好きでござりまして、学理を了解し得ないときは発奮(はっぷん)して食事も忘れるほどにその研究思索に熱中し、真理を会得すると心から喜び楽しんで心配事も忘れてしまいまする。かく勉学修養に一身を打ち込んで寄る年波にも気がつきません。まずはさような人物でござりますると。」

 孔子様が謙遜(けんそん)であった他面に絶大の自信をもっておられたことがよくあらわれている。「老の将に至らんとするを知らず」という言葉の有難味を、年取るにつれてしみじみと感ずるが、私も大学停年退官後、年ならずして「老の将に至らんとするを知らざる」たいせつな御奉公を授けられ、恐懼(きょうく)はもちろんながら、心から感謝したことであった。昭和二十一年四月、皇太子殿下のお供をして葉山に行っていたとき、海岸で小魚とりのお相手をしつつ即興一首を得た。

 老の将に至らんとするを忘れけり皇子ときはひて磯にはぜ追ふ

一六六 子のたまわく、われ生れながらにしてこれを知る者にあらず。古(いにしえ)を好み、敏(びん)にして以てこれを求むる者なり。

 孔子様がおっしゃるよう、「自分はけっして生れながら学ばずして道理を知っている聖人でも天才でも何でもない。ただ昔の聖人の道を好み、精出してこれを求めただけの話じゃ。」

一六七 子は怪・力・乱・神を語らず。

 孔子様は、怪談や、武勇伝や、乱倫背徳の話や、神仏霊験記やらを語られなかった。

 次の古証がよく当っている。「聖人は常を語りて怪を語らず、徳を語りて力を語らず、治を語りて乱を語らず、人を語りて神を語らず。」


『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となrし乎 №44 [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニュー・イングランドのカレッヂ生活 2

                                 内村鑑三

  こうして余は余のニュー・イングランドのカレッヂ生活を始めたのである。それを十分に叙述することは、余のアメリカやイギリスの読者諸君は要求したまわない。余はすべての学生の味わうあらゆる面白さ、滑稽さをそれから得た。余はその教授たちすべてが好きであった。ドイツ語の教授は余の知る最も愉快な人であった。余は彼とともにゲーテの『ファウスト』を読んだ、そして彼はすこしも彼自身の感情的雰囲気(ペーソス)をそれに加えることなしに、それを余にきわめて興味あるものとした。その悲劇は天来の霹靂(へきれき)のように余を撃った。余は今もなおあの『この世の聖書』を参照するが、それは聖書そのものよりわずかに頻繁でないだけである。歴史の教授は純然たる紳士であった。彼はどうすれば公平に過去を判断し過去とともに現在をもまた判断することができるかを教えてくれた。彼の講義は本当の余には本当の神学科の課程であった。彼は宗教についてはめったに語らず、たいていは『人類の進歩』に論及したのであるけれども。聖書註解の教授は旧約聖書史と有神論との特別課目を余に授けた。老博士は純粋の関心をもって余を世話してくれた、そして余は彼のクラスのただ一人の学生であったので、我々二人は連続三学期間の定期討論クラブを持ったのである。彼は余のうちにある儒教やその他の善い異教を探り出してそれを聖書的標準に照らして考えたのである。哲学では余は全く失敗であった。余の演繹(えんえき)的な東洋的の心は、知覚作用、概念作用、等々の厳格な帰納的方法とは全く相容れなかった、余にはそういうものはみな何の区別をも必要としない自明の事実であるようにも、または哲学者が暇つぶしに何かするために論じた同一物に対する別の名称であるようにも思われた。真理の立証のためには論理によりも我々の目により多く頼る我々東洋人には、余がニュー・イングランドのカレッデで教えられたような哲学は我々の疑惑と霊的幻想を一掃するには比較的にわずかな役にしか立たないのである。我々東洋人は知的の民である、それゆえ我々は知的に基督教に回心せしめられなければならないと考えた、あのユニテリアンや他の知的傾向をもっ宣教師たちほど、大きな誤りを総したものけなかったと余は信ずる。我々は詩人であって科学者ではない、そして三段論法の迷路は我々がそれによって真理に到達する途(みち)ではない。ユダヤ人は『黙示の連続』によって真の神を知る知識に達したと言われている。すべてのアジア人はそうであると信ずる。
  それゆえ余は地質学と鉱物学とを哲学より以上に好んだ、それ自体のためばかりではなく、すべての思いにまさる平和を知る知識に余を導いてくれる助けとしてであった。結晶学は余にはそれだけで一つの説教であった、そして黄玉石(トパーズ)や紫石英(アメジスト)の角の測定は余には真の精神的娯楽であった。そのうえこれらの諸部門の我々の教授は人間として最善の人であった。彼は路上で拾った一個の石について全課業時間を語りつづけることができた、ロージャーやホイットマーシュや他の適中が彼の講義室の一隅で快い昼寝を貪(むさぼ)りつつあっても。余はけっしてこの教授に如何にして彼は創世記と地質学とを調和せしめたかを質問しなかった、余は彼の頭脳が岩石と鉱物と化石と蹄痕(ていこん)とで容易に入り切れないほどつまっていて、かような問題を計れる余地のないことを知っていたからである。
  しかし総長先生彼自身にまさって余を感化し変化させたものはなかった。彼がチャペルで起立し、讃美歌を指示し、聖書を朗読し、そして祈ることで十分であった。余は尊敬すべき人を一目見るというただ一つの目的のためにも、けっして余のチャペル礼拝を『カットした』(すなわち欠席した)ことはなかった。彼は神を、聖書を、またすべてのことを成就する祈りの力を、信じた。あの聖なる人が祈っているときに自分たちのラテン語のレッスンを勉強したあの無邪気な適中は、天国に行って彼らの行為を悔いるであろうと思う。余には、一日の戦闘に備えるために彼の澄んだ響きわたる声にまさる何ものをも必要としなかった。神は我々の父にいまし、我々が彼について熱心であるにまさって我々に対する愛に熱心でありたもうということ、彼の祝福は宇宙にあまねく発射しているので、彼のみちみちているものが『とびこむ』には我々はただ我々の心を開きさえすればよいということ、我々の本当の間違いは、神御自身のほかには何びとも我々を潔(きよ)くすることができないのに、我々が潔くあろうと努力するそのことにあるということ、本当に自分自身を愛するものは先ず自分自身を厭(いと)いそして他人のために自分自身を与えるべきであるから、自己主義は本当は自己の憎悪であるということ、等々、等々、- 以上のような、また他の貴重な教訓を、総長先生はその言葉と行為とによって余に教えてくれた。余は告白する、サタンの余を支配する勢力は余がかの人と接触するにいたっていらい弱まり始めたことを。徐々に余は余の原始の罪と派生した罪とを払い清められた。カレッヂ生活二年の後(余は第三年級に入ったから)、余は天の方を指した途にあったと思う。余が躓くのを止めたというのではない、余は依然として絶えず蹟くからである、しかし主は憐れみふかくありたもうこと、そして彼は余の罪を彼の御子にありて消し去りたもうたこと、彼に依り頼んで余は永遠の愛から遠ざけられていないことを、今や知るが故にである。余のその後の日記はそれが本当に事実であったことを示すであろう。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №53 [心の小径]

一六一 子いわく、夫子、衛(えい)の君を為(たす)けんか。子貢(しこう)いわく、諾(だく)、われまさにこれを間わんとすと。入りていわく、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は何人ぞや。のたまわく、古(いにしえ)の賢人なり。いわく、怨みたるか。のたまわく、仁を求めて仁を得たり、又何をか怨みん。出(い)でていわく、夫子為けざるなり。

                  法学者  穂積重遠

 孔子様が衛の国におられたとき、衛に内乱があった。当時の衛の君は霊公(れいこう)の後を嗣いだ孫の出公(しゅっこう)であったが、霊公に勘当されて出奔していたその長男、すなわち出公の実父が、晋の尻押しで乗り込んで来たので、出公は武力でこれを防ぎ、衛の人も多く先代の遺命(いめい)だからというので、出公の態度を是認していた。そこで孔子様のお供の門人たちが、先生のおられぬ所で雑談中、先生はこの父子の国争いをどう見ていられるだろうか、という話が出たのである。

 冉有(せんゆう)が「先生は衛君父子のどちらかを援助なさるだろうか。」と言った。子貢が「よろしい。僕が一つおたずねしてみよう。」というので、孔子様のお部屋に行き、問答した。「伯夷・叔斉どいうのはどういう人でござりますか。」「昔の賢人じゃ。」「後に悔い怨んだでござりましょうか。」「仁を得ようと願って仁を得たのだから、何の悔い怨むことがあろうか。」そこで子貢が引きさがって来て言うには、「先生は衛君夫子のどちらもj接地なさらん。」

 これが子路ならば直説法でいくところを、言語の子貢だけに遠まわしさぐりを入れたであって、一間一答、すこぶるおもしろい。そして例の「往(おう)を告げて来(らい)を知り」「一を聞いて二を知る」子貢のことだから、ハハアと悟って出て来たのだが、われわれはあたまがわるいから、今少し底を割ってみよう。弧竹君(こちくくん)の三男叔斉は亡父から後嗣(あとつぎ)に指名されたのだけれども、弟として兄に越えることばできぬと長男の伯夷に譲り、伯夷はまた父の遺命にはそむかれぬと叔斉に譲り、互いに譲り合ってついにふたりとも国を出奔し、仲の二男が国君になったのだが、伯夷・叔斉両人も後になっては、つまらぬ義理立てをしたものだと、多少は後悔しなかったでしょうか、と子貢がすびきを試みたのに対し、孔子様が、両人は本望(ほんもう)どおり人間としての至徳たる仁を成就し得たのだから、「何をか怨みん」と答えられたので、先生は衛君父子たるもの伯夷・叔斉に恥じよと考えておられるのだなと悟り、どちらにも味方されぬと判断したのだ。徳川光圀(みつくに)の遺跡、旧水戸藩の庭園たりし小石川の後楽園に、伯夷・叔斉の像を祭った堂があって、「得仁堂」と名づけら.れていたが、大正十二年の震災でこわれ、今度の戦災で跡形(あとかた)もなくなってしまった。

一六二 子のたまわく、疏食(そし)を飯(くら)い、水を飲み、肱(ひじ)を曲げてこれを枕とす、楽しみ亦その中(うち)に在(あ)り。不義にして富み且つ貴(たっと)きは、われにおいてか浮雲(ふうん)の如し。

 孔子様がおっしゃるよう、「半搗米(はんつきまい)を食い水を飲み、肱枕でねるような貧乏暮しでも、道に志す真の楽しみはおのずからその中にあるものぞ。不正不義をして得た富貴(ふうき)などは、わしからみると浮べる雲のごとくはかないものじゃ。」

 「疏食」は一般的の粗末な食事とみるよりも、「疏」は「精」の反対で「しらげざる」米と解する方がおもしろい。
 孔子様自身、顔回(がんかい)のように「一箪食(いったんし)、一瓢飲(いっぴょういん)、陋巷(ろうこう)に在り」というような貧乏はされなかったらしいから、これは「たとえ貧乏しても」という話なのだ。
 本章の後段は有名な文句で『太功記(たいこうき)』十段目の浄瑠璃にも、光秀の母さつきの言葉として「不孝者とも悪人とも、たとえがたなき人非人(にんぴにん)、不義の富貴は浮べる雲、主君を討(う)って功名顔、たとえ将軍になったとて、野末(のずえ)の小屋の非人(ひにん)にも、おとりしとは知らざるか、主に背かず親に仕え、仁義忠孝の道さえ立たば、もっそう飯(はん)の切米(きりまい)も、百万石にまさるぞや。」とある。孔子様にお聞かせしたい。

一六三 子のたまわく、われに数年を加え、五十にして以て易を学ばしめば、以て大義なかるペし。

 孔子様がおっしゃるよう、「わしにもう数年の寿命が与えられ、五十になるころ易学を勉強し、吉凶の理を知り存亡の道を明らかにするならば、人事に通じ大命を知っておそらくは大過失なきを得るであろうか。」

 これは文面から見て孔子様四十五、六歳の時の言葉であろう。易のことは私には全然わからないが、深遠な哲理なので、孔子様も五十になったら十分研究してみようと言われたものとみえる。前に「四十にして惑わず、五十にして天明を知る。」とあったのと相対応する。
 「五十」は「卒」の字の誤写で、「以て易を学ぶを卒(あ)えしめば」とよむのだ、とする説もある。あるいはそうかも知れないが、それだといささか平凡になる。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №43 [心の小径]

第八章 基督教国にて ― ニュー・イングランドのカレッヂ生活 1


                      内村鑑三


 余はニュー・イングランドをぜひとも見るべきであった、余の基督教はもともとニュー・イングランドから来たものであって、彼女はそれによってひき起されたすべての内心の争闘に責任があったからである。余は彼女に対し一種の請求権をもっていた、それで余は大胆に我が身を彼女に委(ゆだ)ねたのである。余はまずボストンに、そこからアン岬に近い一漁師町に赴き、そこでニュ-・イングランドのブルー・ベリーとヤンキー式の生活と行動に自分白身を馴化させた。大西洋の波濤は余の不幸を嘆くようにとどろき、花崗岩石切り場は余の心の頑(かたく)なさを示す、東部マサチューセッツの岩石多き岬で、二週間のあいだ余は祈りのうちに闘った。余はやや心しずまってボストンに帰った。余はその牛の群がる薄暗い街の一つになお約半月ひきこもっていた、それからコネチカット河流域へと自分の歩みをすすめた。

 余がそこに赴く目的は、有名なカレッヂの総長である一人の人に会うためであった、彼の敬虔(けいけん)と学識には以前から故国にあってその数種の著書を通して私淑(ししゅく)していたのである。我々憐れな異教徒には、大なる学識という観念はそれとともに尊大ということ、したがって近づき難いという観念の伴うのが常である。D.DとLL.D.の二重称号を有する人は一般平民のもとに降りて来てその疑いを解きその悲しみに心をくばる必要はない。彼の心は常に『進化』、『エネルギーの保存』というようなことで占められているのではないか。彼から余の小さな霊魂に何か個人的援助に類することを期待することは、余としては全く僭越(せんえつ)なことであると考えた。しかしながら余は彼に面会することができるということを知らされた、そして他に何もすることができなければ、遠方から彼を見ようと決心したのである。

 みすぼらしく古い汚い服をまとい、銀貨七ドルがポケットにあるにすぎず、ギボンのローマ史五冊を旅行鞄に入れて、余はカレッヂ・タウンに入り、まもなく総長の門前に現れた。一友人があらかじめ余の名を彼に紹介しておいてくれた、それで彼は若い一野蛮人が自分のところに来ることを知っていたのである。余は彼の応接間に通された、そしてそこで余の運命が彼の知性とプラトン的威厳とによってうちのめされるのを待っていた。静かに! 彼が来る! なんじの霊魂を彼の罪なき存在の前に立たせる備えをせよ。彼はなんじの心をただちに見透し、なんじの真価でなんじを考え、なんじを彼の弟子と認めることを拒絶するかもしれない。ドアが開いた、そして見よその柔和さを! 大きながっしりした恰幅、涙をたたえた獅子のような眼、異常に強い温かい握手、歓迎と同情の物静かな言葉、― いや、これは彼を見るまえに余が心に描いていた姿、心、人ではなかった。余はただちに特別の平安を余自身のうちに感じた。余は彼が非常に喜んで約束してくれたその援助に我が身を託した。余は退出した、そしてその時から余の基督教は全く新しい方向を取ったのである。

 余はカレッヂ寄宿舎に無料にて一室を与えられた、また余にはテーブルも椅子も寝台も洗濯盥(せんたくだらい)すらもなかったので、探切な総長は小使に命じて二三のかような必要品を余に支給してくれた。そこの最上階の一室に余は落着いた、全能者が御自身を余に示したもうまではけっしてその場所から動くまいと堅く決心しながら。このような目的をいだいて、余は個人的安楽の欠如にまったく無感覚であった。余の室の以前の居住者は床から絨椴を剥がしてしまっていた、そして新しい居住者はそこに絨毯を敷きなおすことはできなかった。そこに余はしかし抽斗(ひきだし)のちんばの一台の机を見出した、そしてその四本の脚は岩乗(がんじょう)で強かったので、余はそれを十分に利用した。そこにはまた隅の一角が欠けている、それで実際は三脚で立っている、古い安楽椅子があった、しかし身体の僅かの均衡で余はまことに気持ちよくそれに坐って仕事をすることができた。寝台は木製で上等であったが、しかしそれは軌(きし)み、ベッド・カバーは普通にとこじらみとよばれる Cimex lectualisの幾匹かの生きた見本をかくまっていた。余は最も簡単な構造のヤンキー・ランプを備えた、そしてこれが、そのほかに小さい洗画器とともに、余の家具の全部を成していた。余にはペンとインクと紙と、そしてその他の一切を満す祈りの心とがあった。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫




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論語 №52 [心の小径]

一五七 子、顔淵(がんえん)に謂(い)いてのたまわく、これを用うればすなわち行い、これを舎(お)けばすなわち蔵(かく)る。ただわれとなんじとのみこれあるかな。子路(しろ)いわく、子三軍(さんぐん)を行(や)らば、すなわち誰と与(とも)にせん。子のたまわく、暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)死して悔なき者は、われ与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼(おそ)れ謀(はかりごと)を好んで成さんものなり。

                 法学者  穂積重遠

 「用之別行、舎之則蔵(これを用うればすなわち行い、これを舎けばすなわち蔵る)」は古語らしい。行と蔵とが韻を踏んでいる。君に用いられれば進んで腕をふるい、捨てられれば退いて自身の修養をつとめる意。一軍は一万二千五百人ということになっているが、「三軍」とは「三軍団」というのではなく、「大軍」ということ。「暴虎馮河」は、あばれ虎が河を渡るのではなく、「暴」はから手で打つこと、「馮」はかちわたりすること。

 孔子様が顔淵に向かって、「古語に『これを用うればすなわち行い、これを舎けばすな
わち蔵る』とあるが、かく出処進退の宜しきを得るのは、まずわしとお前ぐらいのものかな。」と言われた。すると子路が進み出て、「なるほどそうでござりましょうが、先生が大軍をひきいて出陣される場合には、誰をおつれになりましょうかな。」と言った。その時には顔淵ではお役に立ちますまい、この子路でなくては、という意味合いが露骨である。そこで孔子様が子路をたしなめておっしゃるよう、「虎を手打ちにしたり河をかちわたりしたりして犬死しても後悔しないような野猪武者と道連れはご免だね。もしいくさに行くならば、事に当る前には臆病なくらいに用心し十分に計画を立ててそれを遂行し得る分別者を参謀にしたい。」

 「必ずや」に「わしは元来戦争はきらいじゃが、」の意味をふくんでいる(一五九)。本章にも、いかにも子路らしい態度口ぶりと、子路には特に親しみをもって遠慮なく物を言われる孔子様の様子とがあらわれていて、おもしろい。

一五八 子のたまわく、富にして求むペくんば、執鞭(しつべん)の士と雖(いえど)もわれ亦これを為さん。もし求むべからずんば、わが好む所に従わん。

 「執鞭の士」は文字通。靴を持って王侯の行列の先払いをする下役。

 孔子様がおっしゃるよう、「もし富なるものがこちらから求むべきものならば、『下に下に』の足軽役でもわしはつとめるが、もし求むべきものでないならば、わしはわしの好む聖人の道を楽しみたい。」

 孔子様は富を排斥されるのではなく、富むも富まぬも天命なりとされる。それ故事は天にまかせて、各自の天職を楽しむべきだ、と言われるのである。

一五九 子の慎(つつし)む所は、斉(さい)・戦(せん)・疾(しつ)。

 「斉」は「斎」と通ずる。祭る前に精進潔斎(けっさい)して心を斉(ととの)えるのである。

 孔子様の最も謹慎して考え、また扱われたことは、富と戦争と病気とであった。
 「日本敗れたり」の悪は正に、傾むべきところを慎まなかったことである。

一六〇 子、斉(せい)に在りて韶(しょう)を聞く、三月(さんげつ)肉の味わいを知らず。のたまわく、図(はか)らざりき楽を為すの斯(こと)に至らんとは。

 陳(ちん)の国が舜(しゅん)の末(すえ)だというので韶の楽を伝えていたところ、陳の大夫(たいふ)、田敬仲(でんけいちゅう)が斉に奔(はし)って韶を斉に伝えたのだという。
 「韶を聞くこと三月」とよむ人もある。『史記』の孔子世家(せいか)には「三月」の上に「これを楽しむこと」とある故、その方が正しいのかも知れぬが、前記の方がおもしろい。「三月」は例によって「三カ月」と限ったわけではない。「当分」ということ。

 孔子様が斉に滞在中、韶の音楽を聞き、スッカリ感激して、「これほど大した音楽があろうとは思いもよらなかった。」と讃美され、当分は肉をたべても味も覚えぬくらいであった。

 韶をほめて「美を尽せり、又善を尽せり。」と言われたことは、前に出ている。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №42 [心の小径]

第七章 基督教国にて 9

                       内村鑑三

  五月十四日 「ヱレミヤ」ヲ読ム、大イニ感動ス。
  五月十六日 「ヱレミヤ」ハ余二多大ノ感動ヲ与へタリ。
  五月廿七日 「ヱレミヤ」ヲ読ミテ多クノ利益ヲ得タリ。

 余の宗教的読書はこれまでは『基督教証拠論』とかそれに類するものが多くて、『聖書』そのものは少なかった。それゆえ余は旧約聖書の預言は大概は未来談であり、人類の救拯主が最後に来りたもうた時に『符合一致』をもって世界を驚かせるために人類にむかって述べられたものであるという考えをいだいていた。それで余は早くから預言者の詔書を不可解なものの中に加えていた。余はそれらについては読んだが、しかしそれらを読まなかった。しかし今や半ば好奇心をもって、半ば恐怖をもって、余はヱレミヤをのぞいたのである、院長はかつて、いかなるヱレミヤをも自分はこの構内には入れないつもりである、そういう人は病院内のすべての不幸を見て全院を泣かせてしまうであろうから、と我々に注意を与えたのであるけれども。しかるに見よ! 何たる書よ! かくも人間的な、かくも理解しうる、その中に未来談はかくも少なく、現在を警告することかくも多き! 全巻に奇蹟の起るただ一つの出来事もなく、人なるヱレミヤは人間のあらゆる長所と短所そのまま余に示された。『すべて偉大なる人は預言者と呼ばれてはいけないであろうか』と余は独語した。余は余自身の異教国のすべての偉人を心に列挙し、彼らの言行を比較考量した、そして余の到達した結論は、ヱレミヤに語りたもうたその同じ神は、よしそれほど明瞭ではなくとも、余の国人中の或者にもまた語りたもうたということ、彼はその光と導きとなしに我々を全く棄ておきたまわなかった、いな、もろもろの国のうちで最も基督教的な国に彼が為したもうたように、この長い幾世紀の間、我々を愛し我々を見守りたもうたのである、ということであった。この思想は余の表現力をこえる感激的なものであった。外国伝来の信仰を受けてやや冷却された愛国心は、今や百倍の活気と感銘とをもって余に還(かえ)って来た。余は余の国の地図を眺め、その上に泣いて祈った。余はロシアをバビロニアに、ツァーをネプカドネザールに、そして余の国を義の神を告白することによってのみ救われる無力なユダヤに、比較した、余は余の旧き英語聖書にこのような言葉を書き記した、-
  ヱレミヤ三章一-五節  誰力此ノ懇請(こんせい)ヲ斥(しりぞ)ケ得べキヤ
  ヱレミヤ四章一-十八節 此章十八節ノ概世(がいせい)ノ言、何ノ世二於テ優ルヤ、嗚呼(ああ)我国ヨ、我帝国ヨ、汝願クハ 「ユダヤ」人ノ跡ヲ践(ふ)ム勿レ
  ヱレミヤ九章十八-升一節  北方ノ魯国我邦ノ「カルデヤ」ニアラズヤ 云々

 この時より二年間、余は聖書は預言者のほかはほとんど何も読まなかった。余の宗教的思想の全体はそれによって変化せしめられた。余の友人たちは余の宗教は福音書の基督教よりもユダヤ教の一種であると言う。しかしそれはそうではない。余はキリストと彼の使徒たちからは如何にして余の霊魂を救うべきかを学んだ、しかし預言者たちからは如何にして余の国を救うべきかを学んだのである。                 た
 余はほとんど八カ月間病院勤務を続けた、しかし余のうちにある『疑惑』はこれ以上一刻も耐え得られなくなった。救助は何処かに求められなければならぬ。親愛なるドクターは君は休息を必要とすると言って、余の活動の鈍い肝臓のためにアポリネーリス鉱水を処方してくれた、彼の実際的意見によれば、いわゆる霊的苦悶の全部でなくとも大部分は、消化器の何かの障害によって説明され得たからである。彼の医学上の忠告を好機に、余は余の故国からの幾人かの友人のいるニュー・イングランドに赴いた、場所が変れば何か『幸運』が現れるかもしれないと考えたからである。『幸運』に対する余の異教的な依頼心が、窮迫に陥(おちい)る時に、何時も跳び出したのである。
 悲しい心を抱いて余は病院とそこで得た多くの善き友人たちとを後にした、余の不完全な勤務と、余の身を親愛なドクターの配慮に委(ゆだ)ねてからかくも連かな計画の変更とを深く後悔しつつ。慈善、『愛人』事業は、余の『愛己』的傾向が余の中にて全く絶滅せられるまでは余自身のものでないことを余は知ったのである。霊魂の治癒は肉体の治癒に先行しなければならぬ、すくなくとも余の場合においてはそうである、そして慈善はそれだけでは前者の目的のためには無力であったのである。
 しかし『天使も羨(うらや)む』この事業について何か軽蔑的なことを余はけっして言うのでではない。それはこの広い宇宙の他のも接することのできない高貴な事業である。ある人は異教徒に対する伝道事業はより高貴であると言う。あるいはそうであろう。体は衣よりまさるように、霊魂はその衣裳たる肉体よりまさるからである。しかし我々が蜜柑の皮を内側の果肉から離すように誰が肉体を霊魂から離したことがあるか。肉体を通して霊魂に近づくことなしに、誰が霊魂を救うことができるか。『安全にして往け温かにして飽くことを得よ』主義によって働く宗教の教師が天国から遥かに遠ざかっているのは、『病は金銭(かね)次第』主義によって働く肉体の医師が天語の反対の曲に近くあるのと同じである。もし諸君が愛という二つのギリシャ語の此較的の意味についてやかましく言うならば、PhilantholopyはAgapanthoropyである。『医は仁術(愛の術)なり』とシナの一聖人は言った、そして余の知る限りでは福音書の基督教は、異教徒によって言われたものであっても、この格言を是認するものと思われる。それなら誰が医学をを神学から区別することができるか。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №41 [心の小径]

第七章基督教国にて 8

                       内村鑑三

 四月六日  白痴児童ノ教育二興味ト熱心ヲ加フ。

 この前日、余は余の生涯でこれまで会った最も著しい人の一人に接した。その人は故ジェームス.B.リチャーヅ氏であった、堅忍不抜(けんにんふばつ)な白痴児童教育者として世界的に令名ある人であった。『父を示すこと』はその子らの最低級の者にさえ実際上可能なことを我々に実証する彼の初期の教授法上の経験の幾つかを余は彼のその口から聞いた。余の受けた印象は電撃的であった、そしてその影響は永久的であった。それいらい慈善と教育とは単なる憐憫(れんびん)と効用の事業たることを止めた。両者にはともに高い宗教的目的 ― 唯一の「善」なる神の執行者という ― があると思われた。余が白痴院において看護人たることはいまや神聖侵すべからざる職務に栄化せられ、義務はそれが帯びていたすべての奴隷的要素を振り落した。教会関係ではユニテリアンである彼リチャーヅを、余は余に遺(おく)られた最善の宣宣教師のなかにかぞえるのである。彼の人格、彼の同情の深さは、彼の教師としての異常な天才はさておき、正統信仰的の関係と読書とのなかで養われた余のトリニテリアン(三位一体主義)的偏見の多くを柔げたのである。

 四月八日 人間ノ能力ヲ最モ高ク解セルモノガ、最モ純粋ニシテ最モ高キ姿ニアル「ユニテリアン」主義ノ起源ナルベシ。然レドモ人間ハ自己ノ努カニヨリテ道徳ノ最高処二到達スルコト能ハズ、カクテ人間ハ「キリスト」ヲ引キ下シテ自己ノ弱キ知カニ適応セシムルナリ。神ノ概念ハ、我々ガ「キリスト」二来ルマデハ完全ニ明瞭ナリ。其処ニテ何人モ躓(つまず)クナリ。余ハ屡々思フ、「キリスト」ナカリセバ、余ハ余ノ神ニツキテ如何二明瞭ナル考ヲ有シタルニ相違ナカラント。

 キリストは躓きの石である、ただに昔の異教徒のギリシャ人にとりてのみならず、今日の異教徒の日本人、シナ人、その他すべての異教徒にとりてそうである。ユニテリアン的に彼を解することは神秘的な東洋人にとりては余りに簡単すぎる、しかしトリニテリアン的『理論』はそれに劣らず信じ難くある。誰が余のために石を転がしてくれるであろうか。

 四月十六日 「ファーナルド」ノ『基督信徒ノ真生活』ヲ読ム。
 四月十八日 「ドラモンド」ノ『精神界二於ケル自然法則』ヲ読ミテ、多大ノ興味ヲ覚エヌ。
 四月十九日 『黙示録』ヲ読ミテ大ナル興味ヲ得タリ。

 ファーナルドは余が幾らかでも真面目に読んだ最初のスウェーデンポルグ派の著者であった。いかにも余はこれより約三年前に『アルカナ・ケレスティア』をのぞきはしたが、当時はそれは余の物質的傾向の心には余りに霊的でありすぎた。しかし今や異郷にあり、大なる霊的問題と格闘していて、いかなる種類の神秘主義も余は歓迎した、なぜなら事実においては動かすことのできないことを余は余の霊において飛び越えることができたからである。そのときドラモンドが来て余の科学を霊化した。そして彼ら二人が余を極端に霊的ならしめた。今や余が説明し去ることのできないものは何一つ残っていなかった。そこで余は黙示録を取上げた、余を懐疑家に変えるかもしれないことを恐れて手を触れずにおいた書 ― 帰納的な人間族のたえではなくて天子族のために書かれたものと余の考えた一書であった。しかしもしそれが人間の霊的経験の鮮かな肖像画であるとすれば、その中の各節を例証するに一として余に欠如したものはなかった。三位一体の間隙(かんげき)もまたその方法で橋を架けることができる、そして処女懐胎と復活はたちまち勿論の事の中に数えられる。また創世記と地質学との調和についてのあの恐しい闘い、『セルポーンの博物学』の有名な著者をして狂気に逐いやったその闘い、― それもまた『アルカナ・ケレスティア』の著者の取扱いを受けて、九月の霜が太陽にあたったようにわけもなく融け去るのである。しかし余は多くの人々がするようにけっしてスウェーデンポルグを馬鹿者の一人には数えなかった。彼の心は余の構想力を越えた心であった。そして彼の洞察ははなはだ多くの場合においてまことに驚嘆すべきものである。スウェーデンポルグから完全な真理を得ようと欲する者は躓くであろう、しかし真の学者的謙遜(けんそん)と基督信徒的畏敬(いけい)とをもって彼のもとに行く者は、余は疑わない、大なる祝福を受けて出で来るであろう。彼の教義に初めて接触した時に余の陥ったはなはだしい霊化主義の後では、あの著しい人の余の思想に及ぼした影響は常に健全だった。ここは、しかし、いかなる点においてそれがそうであったかを詳細に述べる場所ではない。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №51 [心の小径]

一五四 子のたまわく、東脩(とうしゅう)を行うより以上、われ未だ嘗(かっ)て誨(おし)うることなくんばあらず。

                  法学者  穂積重遠

 「東脩」という言葉は今の人にはわからなくなったが、私たちの若い時には入学金を東脩といったものだ。「脩」は乾肉(ほしにく)で、今日でいわばハムだが、それを十薗たばねたのが「東脩」で、ちょうど日本なら「かつおぶし」というところ、それを入学のしるLに持って行くのだ。「以上」を、東脩もしくはそれ以上、という意味に解する人もあるが、それではおおしろくない。「東脩を持って来たからには」と取りたい。

 孔子様がおっしゃるよう、「東脩をおさめて入門した以上、教えてやらんことはない
ぞ。」

 「十分に教えてやるぞ」の意に解するのが普通のようだが、文章の勢いからみて、どうもそうは取れない。
 「やらんことはない」ではいかにも不親切に聞えるが、次章に至ってなるほどと思う。

一五五 子のたまわく、憤(ふん)せざれば啓(けい)せず。悱(ひ)せざれば発せず。一隅(いちぐう)を挙げて三隅(」さんぐう)を以て反(かえ)さざれば、すなわち復(ふたたび)せざるなり。

 「慣」は「意通ずるを求めて末だ得ざるの意」。「悱」は「口言わんと欲して末だ能わざるの貌(かたち)」。「挙一隅」の下に「而示之」(これを示し)とある本もある。意味はよくわかるが、ない方が文章はおもしろい。

 孔子様がおっしゃるよう、「どうしてこれがわからないだろうか、ああでもない、こうでもない、と煩悶するところまでいかなければ、いとぐちを開いてやらぬぞ。理論はわかったがどうもうまく言えない、ああ言おうか、こう言おうか、と口をモグモグさせるところまでこなければ、キッカケをつけてやらぬぞ。四角いものを教えるにしても、一隅(ひとすみ)を持ち上げてみせると、ああなるほどとすぐに他の三隅(みすみ)を持ち上げてくるようでなければ、二度と教えてやらぬぞ。」

 これが孔子様の教育法で、孟懿子(もういし)が孝を問うたのに「違うことなかれ」と答えたところ、そのさきを質問もしなかったので教えずに帰ったのなどがそれだ。今日の「啓発」教育ということは、すでに言葉自身がここから出ている。先ごろアメリカの教育団が来て我が国の教育を批判して行ったが、明治以来の教育の一大欠点は、米国教育団を待つまでもなく、すでに孔子様によって指摘されている。すなわち先生が一から十まで噛んでくくめるようにして生徒をひとりあるきさせず、教授が一時間二時間とシャベリつづけて学生に口をきかせなかったことが、小学校から大学に至るまでの通弊(つうへい)だったのである。すなわち先生が親切過ぎたのであって、「誨(おし)うることなくんばあらず」ぐらいがちょうどよかったのである。私は三十年前米国に留学してケース‐メソッドなる臨床討論式法学講義を傍聴(ぼうちょう)じ(参加し、とは気がさして言えぬ) 「法学教育の目的は法律知識を与うるにあらずして 『法律心を鍛錬する(トレーニング‐ザ‐リーガル‐マインド)にあり」との教授の説明に感服して帰って以来、大学の講義の第一時間には必ず『論語』本章を引き、孔子流の啓発教育でいくぞ、と宣言したものだが、実際やってみるとなかなかうまくいかず、結局いつでもこちらから「四隅(よすみ)を挙げる」ことになってしまった。

一五六 子、喪(も)ある者の側(かたわら)に食すれば、未だかつて飽かず。子この日において哭(こく)すれば、すなわち歌わず。

 二章に分けてある本があり、間に「子」があるからその方がよいとの説もあるが、続けてよんだ方がおもしろい。「哭」については、「大声にして涙なきを哭と謂い、細声にして涙あるを泣(きゅう)と謂う。」などという説明があるが、ここではさような形式的なことではなく、「哀悼(あいとう)」の意味。

 孔子様は、喪中の人と同席の場合には、腹いっぱいにめしあがられなかった。また孔子様は、葬式や法事に行って泣いて来られた日には、歌など歌われなかった。

 孔子様の人情の深さ、礼儀の正しさがあらわれている。こんにちの複雑多事な世の中では、必ずしもこうはいかぬが、気持だけはそうありたい。江戸時代には葬式の帰りに近所へ行くことがはやって、川柳の好材料になり、また戦争前までは、葬式や法事が村人の酒の幹会に鳴っていた地方もあるようだ。甚だ持って心ない話である。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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