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論語 №56 [心の小径]

一七三 子釣(つり)して綱せず、弋(よく)して宿(しゅく)を射ず。

                        法学者  穂積重遠

 「綱」は「網」のあやまりとする説もあり、またそのままで「あみ」とよむ人もある。一網打尽という意味からは「あみ」の方がおもしろいが、「綱」とは、大綱に釣針のついた小網をシメのようにさげた、いわゆる「はえなわ」のことだという。
「弋」とは、「いぐるみ」とて、糸をつけ鳥にからみつかせるしかけの矢。

 孔子様は魚をとるに、つりはされたが、はえなわはつかわれなかった。また鳥をとるのに、にわとりを射ることをされなかった。

 「はしがき」に語った宇野先生の講義のとき、若い連中が全体不徹底だと論難したことを思い出す。しかし孔子様は、「殺生禁断」「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」というような窮屈な戒律は設けなかったので、漁猟の獲物をさかなに晩酌の一本を傾けるくらいのことはされただろうが(二四三)、一挙多獲や不意打ちは好まれなかったという、人間味の中にもまた孔子様らしさのあるところを示したのだろう。あるいはまた魚烏の捕獲を目的とせず、いわばスボーッとしての釣魚そのもの、射術そのものに興味をもたれたのだと考えてもよかろう。

一七四 子のたまわく、けだし知らずしてこれを作る者あらん、われはこれ無きなり。多く聞きてその善きものを択(えら)びてこれに従い、多く見てこれを識(しる)す。知るの次ぎなり、

 孔子様がおっしゃるよう、「知りもしないことを独断で作り出す者もことによるとあるかも知れないが、わしはそういうことはしない。自分も智者とは申せないが、多く聞いてその善いものをえらんでわが身に行いまた多く見てそれを心にとめておくことは怠らぬつもりで、まず智者の次ぐらいのことはあろうか。」

 本章を第二四八草・第一四九章あたりの趣旨として解説したが、後半は第三四章のような一般論ともとれる。

一七五 互教(ごきょう)共に言い難し。童子見(まみ)ゆ。門人惑(まど)う。子のたまわく、その進むを与(ゆる)す。その退くを与さず。ただ何ぞ甚だしき。人おのれを潔くして以て進まば、その潔さ与す。その往(おう)を保(ほ)せざるなり。

 「その進むを」から「何ぞ甚だしき」までが後になっている本もある。

 互教という話にならぬほど風俗の悪い村があるが、その村の少年が入門を願ったのを許されたので、門人たちがあのようなけがらわしい土地の者を受け入れられるとは どういうものか、と疑い惑った。そこで孔子様がさとしておっしゃるよう、「いやしくも道に進むをたすけてあともどりせぬよう世話するのが教育というものじゃ。互教の者だから教えないなどというのは、あまりにも狭量な次第ではないか。人が身を清くする気持で道に進んで来るならば、その身を清くしようというところを買ってやろう。将来そむき去りはしないということまで受合わずともよさそうなものじゃ。」

 「往」を将来とみる説と過去と解する説とある。「往を告げて来を知る」というところからみると過去のことらしくもあり、旧悪を根にもたないでもよいではないか、ということになって、それでも通ずるが、「往く者は追わず、来る者は臨まず、いやしくもこの心を以て至らば、これこれを魯けんのみ。」という孟子の言葉をも考え合せて、前説に従った。

『新訳論語』 講談社学術文庫
                                                                   

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №46 [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニュー・イングランドのカレッヂ生活 4

                              内村鑑三

  実際、ミッションの本義はただ異教徒の暗黒を基督信徒の光明と比較して描くことによってのみ支持され得るものと想像しているかと思われる或る人々がある。そこで彼らは異教徒をまっ黒な正方形によって、プロテスタント基督信徒を白色正方形によって示す図表を作る。伝道用の雑誌、評論、新聞は、いずれも異教徒の不幸、堕落、はなはだしい迷信の物語でいっぱいである、そして彼らの高貴性、神聖性、きわめてキリストらしい性格についての物語はほとんどその禁に現れない。いくたびも我々自身の経験したことであるが、我々が我々の国民性の高潔な面に触れることより多く、その異教的の面に触れることより少なかったため、いくつかのミッションの集会で我々が述べた話に対し何ら称茸の言葉に接せず、我々は少なからず無念の情にうたれた。彼らは言った、『もしも君たちの民がそれほどりつばな人たちであるなら、むろん、宣教師を送る必要はない』と。『我が親愛なる友よ』と我々はしばしば答えた、『そういう高潔な国民こそいかなる他のものより以上に基督教を渇望するのである。』事実を言えば、もし我々異教徒が手長猿やチンパンジーにまさること僅かにすぎないなら、基督信徒はそのミッション事業を全然たる失敗として諦めるがよいのである。我々が正と邪、真と偽について多少知っているからこそ、我々はすすんでキリストの十字架につれ来られるのである。余は心から宿ずる、『異教徒に対する憐れみ』より以上の高い動機にもとづかない基督教伝道は、派遣する者にも派遣される者にも多大の損害を与えることなしに、全然その補助を撤回(てっかい)してしまうがよいと。

三月二日 神ガ我等二賜物ヲ与へ給フヤ、ソレハ実質的ナリ。他人ノ意見ニヨリテ支持セラルル一片ノ思弁ニアラズ、想像ノ産物タル一片ノ幻影ニアラズシテ、此ノ世ノ風二擾(みだ)サレ能ハザル真ノ実質ナリ。
三月八日 余ノ生涯ニ於ケル甚ダ重大ナル日ナリキ。「キリスト」ノ贖罪ノカハ今日ノ如ク明瞭二余二啓示セラレシコト嘗テアラザリキ。神ノ子ガ十字架二釘(つ)ケラレ給ヒシ事ノ中ニ、今日マデ余ノ心ヲ苦シメシ凡(すべ)テノ難問ノ解決ハ存スルナリ。「キリスト」ハ余ノ凡テノ負債ヲ支払ヒ給ヒテ、余ヲ堕落以前ノ最初ノ人ノ清浄ト潔白トニ返シ拾ヒ得ルナリ。今ヤ余ハ神ノ子ニシテ、余ノ義務ハ「イエス」ヲ信ズルニアリ。彼ノタメニ、神ハ余ノ欲スル凡テノモノヲ余二与へ給フベシ。彼ハ彼ノ栄光ノタメニ余ヲ用ヒ拾フべシ、而(しか)シテ遂ニハ余ヲ天国二救ヒ拾フべシ。*******************************************
 諸君のうちにて『哲学的』の傾向を有せらるる方々は、たとえ侮蔑の念をもってではなくても一種の憐れみをもって、以上の文章を読まれるかもしれない。諸君は言う、新しい科学がこの世に出現したことにより、ルーテル、コロムウエル、バンヤンの宗教は今や一つの『伝説』となってしまったと。諸君は言う、死んだ救世主(すくいぬし)に対する信仰が人々に生命を与えるであろうということは、『理性に反する』と。それなら余は諸君と議論はしない。おそらく『全能の神の前に責任を負う霊魂』というような事はけっして諸君を甚だしくわずらわしたことはなかったであろう。諸君の野信は人生と称せられるこの短い生存如何の彼方(かなた)にまで拡大しないかもしれない。そして諸君の万能の親審判者は社会と称せられるあの因習的なものであって、その『まことに結構』が諸君の要するすべての平和を諸君に与えるかもしれない。しかり、十字架につけられたまいし救世主は、待望する永遠と心の奥底を審(さば)く宇宙の霊とをもっている飼えまたは彼女にのみ必要なのである。そういう人々にはルーテルとコロムウエルとバンヤンの宗教は伝説ではない、あらゆる真実中の真実である。
 『十字架につけられたまいし神の子』を最後的に把握した跡に起ったあらゆる上昇と下降をもって余は諸君を煩わすまい。下降はあった、しかし上昇より少なかった。「一つの事」が余の注意を釘づけにした、そして余の全霊は「それ」によって占領された。余は昼も夜もそれを想った。石炭入れを地階より余の部屋のある最上階運搬しつつある間にさえ、余はキリスト、聖書、三位一体、復活、その他類似の問題を黙想した。かつて余は中階まで来た時、余の二つの石炭入れ(身体の平均を取るために二つ選んだのである)を下し、それからそこで『石炭山』からの途中で余に啓示された三位一体の新しい解釈のために思わず感謝の祈祷を注ぎ出したことがある。休暇が始まり、学生たちはみな自分のママーに会うために帰郷し、余をカレッヂ丘の聖の居住者として残し、余の「ママー」たる柔しい神の霊とともに独りあらしめたときに、余のパラダイスは来た。クラスのエールや他の異教的な騒音でどよめいていた丘は、今や変じて真のシオンとなった。サタンが余を余自身の自由にさせた時にはいつも、余は心に遠く海の彼方の愛する祝福された故国を描き、それを教会と基督教カレッヂと点綴(てんてい)した、もちろんそれは余の想像においてだけ存在したにすぎなかったのであるが。かつて余の心に臨んだいかなる感激的な思想も、余はそれを余の国人に対するメッセージとして心にとめないことはなかったのである。じつに一つの帝国とその民とは余の閑暇(ひま)の時間をことごとく呑みつくしたのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №55 [心の小径]

一六八 子のたまわく、三人行けば必ずわが師有り。その善なる者を択(えら)びてこれに従い、その不善なる者はこれを改む。

                          法学者  穂積重遠

 「三人行えば」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「人生の道連れが三人となれば、二人は必ずそれぞれ自分の先生になる。善なる者にならって自らの善を進め、不善なる者にかんがみて自らの不薯を改めることになるからじゃ。

 第八三章と同趣旨だ。不善者を師とは如何。ここの善不善は善者不善者にあらず、善行不善行なり、というのが「行えば」とよむ方の解釈だ。私はあえてともに詩を語るに足らずと申したい。

一六九 子のたまわく、天、徳をわれに生ず。桓魋(かんたい)それわれを如何。

 宋の重臣桓魋(司馬向魋・しばしょうたい)が孔子様を殺そうとたくらんだので、門人たちが心配して避難をおすすめしたとき、孔子様が泰然自若(たいぜんじじゃく)として言われた言葉である。

 孔子様がおっしゃるよう、「天から仁義道徳の道を生みつけられたわしじゃ、桓魋風情がわしをどうすることができようぞ。」

 ふだんは自分は生れながらの聖人ではないと謙遜される孔子様だが、いざとなると、経国済民(けいこくさいみん)の天命われに在り、火も焼くべからず水も漏らすべからず、の大自信を発揮される。全く大したものだ。第二一〇章を見よ。

一七〇 子たまわく、二三子(にさんし)、われを此て隠すと為すか。われなんじに隠すこと無し。われ行(おこな)うとして二三子と与(とも)にせざるもの無し。これ丘(きゅう)なり。

 「二三子にしめさざるもの無し」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「お前たちはわしが隠していると思うのか。わしはけっしてお前たちに隠しはしない。わしは何をするにもお前たちといっしょではないか。それがすべてお前たちに対するわしの講義なのじゃ。丘の丘たるゆえんはそこにある。」

 孔子様は自身が「黙して識す」流儀なので、門人に対しても必ずしも多言されない。それで先生はわれわれに奥義(おうぎ)を隠しておられる、と誤解する者があったかも知れないので、こう告げられたのである。  

一七一 子、四つを以て教(おし)う、文・行・忠・信。

 孔子様の教授要目は結局四つであった。まず古典の講義と徳行による垂範(すいはん)、しかしてその中心徳目は忠と信とである。

一七二 子のたまわく、聖人はわれ得てこれを見ず。君子者(しゃ)を見ることを得ばここに可なり。子のたまわく、善人「ぜんじん)」はわれ得てこれを見ず。恒(つね)ある者見ることを得ばここに可なり。亡(な)くして有りと為(な)し、虚(むな)しくして盈(み)てりと為し、約(やく)にして泰(たい)と為す。難(かた)きかな恒あること。

 孔子様がおっしゃるよう、「聖人は今の世にとうてい見ることばできぬ故、君子といわれるほどの者でも見ることができればけっこうなのじゃが、それもなかなかむずかしい。」またおっしゃるよう、「聖人の次の善人も今の世は見ることはできぬ故、言行一致終始一貫の恒ある者でも見ることができるとけっこうじゃが、それもめずらしい。多くの者は、無いのに有るとかざり、空虚を充実と見せかけ、困りながらえらそうに構えている次第で、『恒あり』というのがまたむずかしいことじゃわい。」

「聖人」はともかく、「善人」についても孔子様の採点はすこぶるからい。

『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №45  [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニューイングランドのカレッジ生活- 3

                               内村鑑三

 余がカレッヂに落着いて間もなく余は総長に連れられて宣教師大会の一つに出席した。じつに何ものもこれらの集会にまさって基督教国の基督教性を示すものはない。異教国には一つもこういうものはない、我々は何一つ他国民の霊魂について心配しないからである。一方の知的男女が三四カ所の広いホールに溢れるばかり充満して如何にして自分たちが他の諸国民をして福音のめぐみ味わしめることが出来るかについてて開こうとするというこの単なる事実が、それだけ十分に印象的である。かりに多くのものはショーを見るために来るのであり、多くの他のものはそういうショーになるために来るのだとしても、この人々に異邦人の間のミッショん8事業がショーとされる価値があるという事実は依然として明白である、モしてそれは躾茸すべての宗教的ショーのうちで最も高畠にしてまた最も神聖なショーである。しかしこのミッション・ショーには国民の頭脳のうち最も強固にして最も冷静なものが参加する、モそしおそろしくそれに真剣な男女がステージに現れ、その額に傷跡と皺をつけてカフィル人とホッテントット人との彼らの道徳的戦争のこと語る時、そのときショーはショーであることをやめ、我々もまたそれによって燃やされるのである。余は基督信徒の余の国人の誰にでも、基督教国でそういう機会があればこういうミッション・ショーに出席するようお勧めする、そしてその人はそうして後悔することはないということを余はその人に保証することができる。そのショーはあらゆる点においてみる価値がある。彼はそれにおいて基督教国の偉大さと、、同時に自分の国の小ささとの、理由を見るかもしれない。彼はかくして『基督信徒の野獣性』について大声に語ることをやめるかもしれない。ほんとうにあのミッション・ショーは感激的である。
 しかしこういうショーにおける最悪のくじは、たまたまそこに居合わせる回心した幾人かの異教徒の見本に当るのである。サーカス興行師が馴らした犀(さい)を使うように、彼らは必ず利用される。披らはショーとして呼び出される、そして何という驚くべきショーよ!つい最近まで木や石の前にお辞儀をしいたが、しかし今はこれら白人たちの神と同じ神を告白している!『ああ、諸君がどうして回心したかを、ちょっと話してもらいたい』と彼らはさわぐ、『だが十五分間でだ、それ以上はいけない、我々は何々大神学博士から、ミッションの方法手段と論拠について聴こうと思っているから』と。馴らされた犀は生きた例証である、黒板上の例証ではなくて、本当の伝道地そのものからの本当の見本そのものである。そして見られて甘やかされることの好きな犀どもは喜んでこれらの人々の命令に従い、はなは喜しい態度で、どうして自分たちが動物であることをやめて人間のように生き始めたかを物語るのである。しかしそのように利用されることを好まない他の犀どもがいる。彼らは人々にショーにされて内心の平和を奪われることを好まない、人々はみなか彼らがどう曲がりくねった苦しい途(みち)を通って犀の生活を捨てるようになったかを理解することはできないのである。彼らは独りそのままにしておいてくれることを好む、そして人の目から離れて黙々と神の緑の牧場を歩む。しかしサーカス興行師は普通はこういう犀を好まない。そこで彼らは時にはインディアンの叢林(そうりん)からこの特別な目的のために幾人かの扱い易い見本(普通には非常に若いもの)をつれて来て、全国をつれ歩き、日曜学校の子供に見せ、講壇上に呼び出し、犀の歌を歌わせ、そのようにして人々にミッション事業に興味をいだかしめるのである。
 そこで余は、新生せる犀としてミッション・サーカス興行師にこの間題にもっと思いやりのあるように忠告する。一方では、彼らは馴らされた犀どもを甘やかして台なしにし、また馴らされていない犀どもに勧めて馴らされた犀どもを模倣せしめもする、それが彼らは自分たちの犀どもの肉のためになるものを得る最も安易な途と知るからである。他方では、諸君がそのようにして諸君の事業に興味を抱かせようとおもうその人々に対し、諸君は基督教ミッションとは本当はどういうものであるかということについて誤った概念を与えると信ずる。パウロやバルナバがテトスとかテモテとかをエルサレムに連れて行ったのは、彼に異邦人の歌を歌わせ、その奇異な、半ば不可解な方法で、『如何にして偶像を火に投じて福音にすがったか』をそこの兄弟たちに告げさせるためであったということは、聖書において余は読まないのである。余は、如何に大使徒がその熱情を傾けて異邦人の立場を弁護し、神の民は神なき異邦人にすこしもまさらず、両者はともに罪に定められ、神の栄光を受けるに足りないということを彼らに語ったかを読むのである―以上のすべてから余が結論することは、パウロ及びパウロ的の心をもった人々には、異教は何ら笑い興ずべき、あるいは『憐れ』まれさえするものではなくて、それは同情せらるべき、自分たち自身の状態として受取らるべき、したがってあらゆる尊敬と基督信徒的好意とをもって取扱わるべきものであったのである。余は土民服をきた一ヒンドゥー青年をしてトブレディを彼自身のパーリ語で歌わせて集めたあの寄附金を、馴らされたオランウータンをショーにして集めた金を評価する以上に評価しない。おお、人々のバリサイ的の誇りに訴え、自分たちが異教徒よりすぐれていることを自分たちに示して『本国の基督信徒』を促して『彼らを憐れま』せるあれをミッション事業と呼ぶことなかれ。宣教師中の最善の宣教師は常に自分たちの派遣された民の立場と威厳との支持者であり、そして愛国的な原地人であるだけ、それだけいわゆる基督教国公衆の前に偶像崇拝その他の堕落を暴露(ばくろ)することに敏感なのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫




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論語 №54 [心の小径]

一六四 子の雅(つね)に言う所は、詩・書・執礼(しつれい)、皆雅に言うなり。

                              法学者  穂積重遠

  「雅言(がげん)」とよむ人もある。それだと「正言」という意味になり、詩・書・礼を語るときには魯国(ろこく)なまりをつかわれず、正しい古言を用いた、ということになるのだが、何やらピンとこない。「執礼」については古註(こちゅう)に、一人の執り守る所なるを以て言う、いたずらに誦説(しょうせつ)するのみにあらざるなり。」とある。

 孔子様が常に語られたところは、詩と歴史と実践礼(じっせんれい)、これらを常に言われた。

 後の第一六七章と相対応する意味からも、「常に言う」とよむ方がよかろう。

一六五 葉公(しょうこう)、孔子を子路に問う。子路対(こた)えず。子のたまわく、なんじなんぞ曰わざる、その人と為(な)りや、憤(いきどお)りを発しては食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老(おい)の将(まさ)に至らんとするを知らずとしか云うと。

 葉公は楚(そ)の葉県(しょうけん)の長官沈諸梁(しんしょりょう)なる者、「公」と称するのは僭上沙汰(せんじょうざた)だ。「日わざる」を最後にもってくるよみ方もある。それでもよいのだが、前記の方が力が強い。

 葉公が孔子様の人物を子路にたずねたところ、子路は何と言葉にあらわしてよいかわからなかったとみえて、返事をしなかった。孔子様がそれを聞いておっしゃるよう、
 「お前はなぜこういわなかったのか。私の師匠はうまれつき学問が好きでござりまして、学理を了解し得ないときは発奮(はっぷん)して食事も忘れるほどにその研究思索に熱中し、真理を会得すると心から喜び楽しんで心配事も忘れてしまいまする。かく勉学修養に一身を打ち込んで寄る年波にも気がつきません。まずはさような人物でござりますると。」

 孔子様が謙遜(けんそん)であった他面に絶大の自信をもっておられたことがよくあらわれている。「老の将に至らんとするを知らず」という言葉の有難味を、年取るにつれてしみじみと感ずるが、私も大学停年退官後、年ならずして「老の将に至らんとするを知らざる」たいせつな御奉公を授けられ、恐懼(きょうく)はもちろんながら、心から感謝したことであった。昭和二十一年四月、皇太子殿下のお供をして葉山に行っていたとき、海岸で小魚とりのお相手をしつつ即興一首を得た。

 老の将に至らんとするを忘れけり皇子ときはひて磯にはぜ追ふ

一六六 子のたまわく、われ生れながらにしてこれを知る者にあらず。古(いにしえ)を好み、敏(びん)にして以てこれを求むる者なり。

 孔子様がおっしゃるよう、「自分はけっして生れながら学ばずして道理を知っている聖人でも天才でも何でもない。ただ昔の聖人の道を好み、精出してこれを求めただけの話じゃ。」

一六七 子は怪・力・乱・神を語らず。

 孔子様は、怪談や、武勇伝や、乱倫背徳の話や、神仏霊験記やらを語られなかった。

 次の古証がよく当っている。「聖人は常を語りて怪を語らず、徳を語りて力を語らず、治を語りて乱を語らず、人を語りて神を語らず。」


『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となrし乎 №44 [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニュー・イングランドのカレッヂ生活 2

                                 内村鑑三

  こうして余は余のニュー・イングランドのカレッヂ生活を始めたのである。それを十分に叙述することは、余のアメリカやイギリスの読者諸君は要求したまわない。余はすべての学生の味わうあらゆる面白さ、滑稽さをそれから得た。余はその教授たちすべてが好きであった。ドイツ語の教授は余の知る最も愉快な人であった。余は彼とともにゲーテの『ファウスト』を読んだ、そして彼はすこしも彼自身の感情的雰囲気(ペーソス)をそれに加えることなしに、それを余にきわめて興味あるものとした。その悲劇は天来の霹靂(へきれき)のように余を撃った。余は今もなおあの『この世の聖書』を参照するが、それは聖書そのものよりわずかに頻繁でないだけである。歴史の教授は純然たる紳士であった。彼はどうすれば公平に過去を判断し過去とともに現在をもまた判断することができるかを教えてくれた。彼の講義は本当の余には本当の神学科の課程であった。彼は宗教についてはめったに語らず、たいていは『人類の進歩』に論及したのであるけれども。聖書註解の教授は旧約聖書史と有神論との特別課目を余に授けた。老博士は純粋の関心をもって余を世話してくれた、そして余は彼のクラスのただ一人の学生であったので、我々二人は連続三学期間の定期討論クラブを持ったのである。彼は余のうちにある儒教やその他の善い異教を探り出してそれを聖書的標準に照らして考えたのである。哲学では余は全く失敗であった。余の演繹(えんえき)的な東洋的の心は、知覚作用、概念作用、等々の厳格な帰納的方法とは全く相容れなかった、余にはそういうものはみな何の区別をも必要としない自明の事実であるようにも、または哲学者が暇つぶしに何かするために論じた同一物に対する別の名称であるようにも思われた。真理の立証のためには論理によりも我々の目により多く頼る我々東洋人には、余がニュー・イングランドのカレッデで教えられたような哲学は我々の疑惑と霊的幻想を一掃するには比較的にわずかな役にしか立たないのである。我々東洋人は知的の民である、それゆえ我々は知的に基督教に回心せしめられなければならないと考えた、あのユニテリアンや他の知的傾向をもっ宣教師たちほど、大きな誤りを総したものけなかったと余は信ずる。我々は詩人であって科学者ではない、そして三段論法の迷路は我々がそれによって真理に到達する途(みち)ではない。ユダヤ人は『黙示の連続』によって真の神を知る知識に達したと言われている。すべてのアジア人はそうであると信ずる。
  それゆえ余は地質学と鉱物学とを哲学より以上に好んだ、それ自体のためばかりではなく、すべての思いにまさる平和を知る知識に余を導いてくれる助けとしてであった。結晶学は余にはそれだけで一つの説教であった、そして黄玉石(トパーズ)や紫石英(アメジスト)の角の測定は余には真の精神的娯楽であった。そのうえこれらの諸部門の我々の教授は人間として最善の人であった。彼は路上で拾った一個の石について全課業時間を語りつづけることができた、ロージャーやホイットマーシュや他の適中が彼の講義室の一隅で快い昼寝を貪(むさぼ)りつつあっても。余はけっしてこの教授に如何にして彼は創世記と地質学とを調和せしめたかを質問しなかった、余は彼の頭脳が岩石と鉱物と化石と蹄痕(ていこん)とで容易に入り切れないほどつまっていて、かような問題を計れる余地のないことを知っていたからである。
  しかし総長先生彼自身にまさって余を感化し変化させたものはなかった。彼がチャペルで起立し、讃美歌を指示し、聖書を朗読し、そして祈ることで十分であった。余は尊敬すべき人を一目見るというただ一つの目的のためにも、けっして余のチャペル礼拝を『カットした』(すなわち欠席した)ことはなかった。彼は神を、聖書を、またすべてのことを成就する祈りの力を、信じた。あの聖なる人が祈っているときに自分たちのラテン語のレッスンを勉強したあの無邪気な適中は、天国に行って彼らの行為を悔いるであろうと思う。余には、一日の戦闘に備えるために彼の澄んだ響きわたる声にまさる何ものをも必要としなかった。神は我々の父にいまし、我々が彼について熱心であるにまさって我々に対する愛に熱心でありたもうということ、彼の祝福は宇宙にあまねく発射しているので、彼のみちみちているものが『とびこむ』には我々はただ我々の心を開きさえすればよいということ、我々の本当の間違いは、神御自身のほかには何びとも我々を潔(きよ)くすることができないのに、我々が潔くあろうと努力するそのことにあるということ、本当に自分自身を愛するものは先ず自分自身を厭(いと)いそして他人のために自分自身を与えるべきであるから、自己主義は本当は自己の憎悪であるということ、等々、等々、- 以上のような、また他の貴重な教訓を、総長先生はその言葉と行為とによって余に教えてくれた。余は告白する、サタンの余を支配する勢力は余がかの人と接触するにいたっていらい弱まり始めたことを。徐々に余は余の原始の罪と派生した罪とを払い清められた。カレッヂ生活二年の後(余は第三年級に入ったから)、余は天の方を指した途にあったと思う。余が躓くのを止めたというのではない、余は依然として絶えず蹟くからである、しかし主は憐れみふかくありたもうこと、そして彼は余の罪を彼の御子にありて消し去りたもうたこと、彼に依り頼んで余は永遠の愛から遠ざけられていないことを、今や知るが故にである。余のその後の日記はそれが本当に事実であったことを示すであろう。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №53 [心の小径]

一六一 子いわく、夫子、衛(えい)の君を為(たす)けんか。子貢(しこう)いわく、諾(だく)、われまさにこれを間わんとすと。入りていわく、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は何人ぞや。のたまわく、古(いにしえ)の賢人なり。いわく、怨みたるか。のたまわく、仁を求めて仁を得たり、又何をか怨みん。出(い)でていわく、夫子為けざるなり。

                  法学者  穂積重遠

 孔子様が衛の国におられたとき、衛に内乱があった。当時の衛の君は霊公(れいこう)の後を嗣いだ孫の出公(しゅっこう)であったが、霊公に勘当されて出奔していたその長男、すなわち出公の実父が、晋の尻押しで乗り込んで来たので、出公は武力でこれを防ぎ、衛の人も多く先代の遺命(いめい)だからというので、出公の態度を是認していた。そこで孔子様のお供の門人たちが、先生のおられぬ所で雑談中、先生はこの父子の国争いをどう見ていられるだろうか、という話が出たのである。

 冉有(せんゆう)が「先生は衛君父子のどちらかを援助なさるだろうか。」と言った。子貢が「よろしい。僕が一つおたずねしてみよう。」というので、孔子様のお部屋に行き、問答した。「伯夷・叔斉どいうのはどういう人でござりますか。」「昔の賢人じゃ。」「後に悔い怨んだでござりましょうか。」「仁を得ようと願って仁を得たのだから、何の悔い怨むことがあろうか。」そこで子貢が引きさがって来て言うには、「先生は衛君夫子のどちらもj接地なさらん。」

 これが子路ならば直説法でいくところを、言語の子貢だけに遠まわしさぐりを入れたであって、一間一答、すこぶるおもしろい。そして例の「往(おう)を告げて来(らい)を知り」「一を聞いて二を知る」子貢のことだから、ハハアと悟って出て来たのだが、われわれはあたまがわるいから、今少し底を割ってみよう。弧竹君(こちくくん)の三男叔斉は亡父から後嗣(あとつぎ)に指名されたのだけれども、弟として兄に越えることばできぬと長男の伯夷に譲り、伯夷はまた父の遺命にはそむかれぬと叔斉に譲り、互いに譲り合ってついにふたりとも国を出奔し、仲の二男が国君になったのだが、伯夷・叔斉両人も後になっては、つまらぬ義理立てをしたものだと、多少は後悔しなかったでしょうか、と子貢がすびきを試みたのに対し、孔子様が、両人は本望(ほんもう)どおり人間としての至徳たる仁を成就し得たのだから、「何をか怨みん」と答えられたので、先生は衛君父子たるもの伯夷・叔斉に恥じよと考えておられるのだなと悟り、どちらにも味方されぬと判断したのだ。徳川光圀(みつくに)の遺跡、旧水戸藩の庭園たりし小石川の後楽園に、伯夷・叔斉の像を祭った堂があって、「得仁堂」と名づけら.れていたが、大正十二年の震災でこわれ、今度の戦災で跡形(あとかた)もなくなってしまった。

一六二 子のたまわく、疏食(そし)を飯(くら)い、水を飲み、肱(ひじ)を曲げてこれを枕とす、楽しみ亦その中(うち)に在(あ)り。不義にして富み且つ貴(たっと)きは、われにおいてか浮雲(ふうん)の如し。

 孔子様がおっしゃるよう、「半搗米(はんつきまい)を食い水を飲み、肱枕でねるような貧乏暮しでも、道に志す真の楽しみはおのずからその中にあるものぞ。不正不義をして得た富貴(ふうき)などは、わしからみると浮べる雲のごとくはかないものじゃ。」

 「疏食」は一般的の粗末な食事とみるよりも、「疏」は「精」の反対で「しらげざる」米と解する方がおもしろい。
 孔子様自身、顔回(がんかい)のように「一箪食(いったんし)、一瓢飲(いっぴょういん)、陋巷(ろうこう)に在り」というような貧乏はされなかったらしいから、これは「たとえ貧乏しても」という話なのだ。
 本章の後段は有名な文句で『太功記(たいこうき)』十段目の浄瑠璃にも、光秀の母さつきの言葉として「不孝者とも悪人とも、たとえがたなき人非人(にんぴにん)、不義の富貴は浮べる雲、主君を討(う)って功名顔、たとえ将軍になったとて、野末(のずえ)の小屋の非人(ひにん)にも、おとりしとは知らざるか、主に背かず親に仕え、仁義忠孝の道さえ立たば、もっそう飯(はん)の切米(きりまい)も、百万石にまさるぞや。」とある。孔子様にお聞かせしたい。

一六三 子のたまわく、われに数年を加え、五十にして以て易を学ばしめば、以て大義なかるペし。

 孔子様がおっしゃるよう、「わしにもう数年の寿命が与えられ、五十になるころ易学を勉強し、吉凶の理を知り存亡の道を明らかにするならば、人事に通じ大命を知っておそらくは大過失なきを得るであろうか。」

 これは文面から見て孔子様四十五、六歳の時の言葉であろう。易のことは私には全然わからないが、深遠な哲理なので、孔子様も五十になったら十分研究してみようと言われたものとみえる。前に「四十にして惑わず、五十にして天明を知る。」とあったのと相対応する。
 「五十」は「卒」の字の誤写で、「以て易を学ぶを卒(あ)えしめば」とよむのだ、とする説もある。あるいはそうかも知れないが、それだといささか平凡になる。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №43 [心の小径]

第八章 基督教国にて ― ニュー・イングランドのカレッヂ生活 1


                      内村鑑三


 余はニュー・イングランドをぜひとも見るべきであった、余の基督教はもともとニュー・イングランドから来たものであって、彼女はそれによってひき起されたすべての内心の争闘に責任があったからである。余は彼女に対し一種の請求権をもっていた、それで余は大胆に我が身を彼女に委(ゆだ)ねたのである。余はまずボストンに、そこからアン岬に近い一漁師町に赴き、そこでニュ-・イングランドのブルー・ベリーとヤンキー式の生活と行動に自分白身を馴化させた。大西洋の波濤は余の不幸を嘆くようにとどろき、花崗岩石切り場は余の心の頑(かたく)なさを示す、東部マサチューセッツの岩石多き岬で、二週間のあいだ余は祈りのうちに闘った。余はやや心しずまってボストンに帰った。余はその牛の群がる薄暗い街の一つになお約半月ひきこもっていた、それからコネチカット河流域へと自分の歩みをすすめた。

 余がそこに赴く目的は、有名なカレッヂの総長である一人の人に会うためであった、彼の敬虔(けいけん)と学識には以前から故国にあってその数種の著書を通して私淑(ししゅく)していたのである。我々憐れな異教徒には、大なる学識という観念はそれとともに尊大ということ、したがって近づき難いという観念の伴うのが常である。D.DとLL.D.の二重称号を有する人は一般平民のもとに降りて来てその疑いを解きその悲しみに心をくばる必要はない。彼の心は常に『進化』、『エネルギーの保存』というようなことで占められているのではないか。彼から余の小さな霊魂に何か個人的援助に類することを期待することは、余としては全く僭越(せんえつ)なことであると考えた。しかしながら余は彼に面会することができるということを知らされた、そして他に何もすることができなければ、遠方から彼を見ようと決心したのである。

 みすぼらしく古い汚い服をまとい、銀貨七ドルがポケットにあるにすぎず、ギボンのローマ史五冊を旅行鞄に入れて、余はカレッヂ・タウンに入り、まもなく総長の門前に現れた。一友人があらかじめ余の名を彼に紹介しておいてくれた、それで彼は若い一野蛮人が自分のところに来ることを知っていたのである。余は彼の応接間に通された、そしてそこで余の運命が彼の知性とプラトン的威厳とによってうちのめされるのを待っていた。静かに! 彼が来る! なんじの霊魂を彼の罪なき存在の前に立たせる備えをせよ。彼はなんじの心をただちに見透し、なんじの真価でなんじを考え、なんじを彼の弟子と認めることを拒絶するかもしれない。ドアが開いた、そして見よその柔和さを! 大きながっしりした恰幅、涙をたたえた獅子のような眼、異常に強い温かい握手、歓迎と同情の物静かな言葉、― いや、これは彼を見るまえに余が心に描いていた姿、心、人ではなかった。余はただちに特別の平安を余自身のうちに感じた。余は彼が非常に喜んで約束してくれたその援助に我が身を託した。余は退出した、そしてその時から余の基督教は全く新しい方向を取ったのである。

 余はカレッヂ寄宿舎に無料にて一室を与えられた、また余にはテーブルも椅子も寝台も洗濯盥(せんたくだらい)すらもなかったので、探切な総長は小使に命じて二三のかような必要品を余に支給してくれた。そこの最上階の一室に余は落着いた、全能者が御自身を余に示したもうまではけっしてその場所から動くまいと堅く決心しながら。このような目的をいだいて、余は個人的安楽の欠如にまったく無感覚であった。余の室の以前の居住者は床から絨椴を剥がしてしまっていた、そして新しい居住者はそこに絨毯を敷きなおすことはできなかった。そこに余はしかし抽斗(ひきだし)のちんばの一台の机を見出した、そしてその四本の脚は岩乗(がんじょう)で強かったので、余はそれを十分に利用した。そこにはまた隅の一角が欠けている、それで実際は三脚で立っている、古い安楽椅子があった、しかし身体の僅かの均衡で余はまことに気持ちよくそれに坐って仕事をすることができた。寝台は木製で上等であったが、しかしそれは軌(きし)み、ベッド・カバーは普通にとこじらみとよばれる Cimex lectualisの幾匹かの生きた見本をかくまっていた。余は最も簡単な構造のヤンキー・ランプを備えた、そしてこれが、そのほかに小さい洗画器とともに、余の家具の全部を成していた。余にはペンとインクと紙と、そしてその他の一切を満す祈りの心とがあった。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫




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論語 №52 [心の小径]

一五七 子、顔淵(がんえん)に謂(い)いてのたまわく、これを用うればすなわち行い、これを舎(お)けばすなわち蔵(かく)る。ただわれとなんじとのみこれあるかな。子路(しろ)いわく、子三軍(さんぐん)を行(や)らば、すなわち誰と与(とも)にせん。子のたまわく、暴虎(ぼうこ)馮河(ひょうが)死して悔なき者は、われ与にせざるなり。必ずや事に臨みて懼(おそ)れ謀(はかりごと)を好んで成さんものなり。

                 法学者  穂積重遠

 「用之別行、舎之則蔵(これを用うればすなわち行い、これを舎けばすなわち蔵る)」は古語らしい。行と蔵とが韻を踏んでいる。君に用いられれば進んで腕をふるい、捨てられれば退いて自身の修養をつとめる意。一軍は一万二千五百人ということになっているが、「三軍」とは「三軍団」というのではなく、「大軍」ということ。「暴虎馮河」は、あばれ虎が河を渡るのではなく、「暴」はから手で打つこと、「馮」はかちわたりすること。

 孔子様が顔淵に向かって、「古語に『これを用うればすなわち行い、これを舎けばすな
わち蔵る』とあるが、かく出処進退の宜しきを得るのは、まずわしとお前ぐらいのものかな。」と言われた。すると子路が進み出て、「なるほどそうでござりましょうが、先生が大軍をひきいて出陣される場合には、誰をおつれになりましょうかな。」と言った。その時には顔淵ではお役に立ちますまい、この子路でなくては、という意味合いが露骨である。そこで孔子様が子路をたしなめておっしゃるよう、「虎を手打ちにしたり河をかちわたりしたりして犬死しても後悔しないような野猪武者と道連れはご免だね。もしいくさに行くならば、事に当る前には臆病なくらいに用心し十分に計画を立ててそれを遂行し得る分別者を参謀にしたい。」

 「必ずや」に「わしは元来戦争はきらいじゃが、」の意味をふくんでいる(一五九)。本章にも、いかにも子路らしい態度口ぶりと、子路には特に親しみをもって遠慮なく物を言われる孔子様の様子とがあらわれていて、おもしろい。

一五八 子のたまわく、富にして求むペくんば、執鞭(しつべん)の士と雖(いえど)もわれ亦これを為さん。もし求むべからずんば、わが好む所に従わん。

 「執鞭の士」は文字通。靴を持って王侯の行列の先払いをする下役。

 孔子様がおっしゃるよう、「もし富なるものがこちらから求むべきものならば、『下に下に』の足軽役でもわしはつとめるが、もし求むべきものでないならば、わしはわしの好む聖人の道を楽しみたい。」

 孔子様は富を排斥されるのではなく、富むも富まぬも天命なりとされる。それ故事は天にまかせて、各自の天職を楽しむべきだ、と言われるのである。

一五九 子の慎(つつし)む所は、斉(さい)・戦(せん)・疾(しつ)。

 「斉」は「斎」と通ずる。祭る前に精進潔斎(けっさい)して心を斉(ととの)えるのである。

 孔子様の最も謹慎して考え、また扱われたことは、富と戦争と病気とであった。
 「日本敗れたり」の悪は正に、傾むべきところを慎まなかったことである。

一六〇 子、斉(せい)に在りて韶(しょう)を聞く、三月(さんげつ)肉の味わいを知らず。のたまわく、図(はか)らざりき楽を為すの斯(こと)に至らんとは。

 陳(ちん)の国が舜(しゅん)の末(すえ)だというので韶の楽を伝えていたところ、陳の大夫(たいふ)、田敬仲(でんけいちゅう)が斉に奔(はし)って韶を斉に伝えたのだという。
 「韶を聞くこと三月」とよむ人もある。『史記』の孔子世家(せいか)には「三月」の上に「これを楽しむこと」とある故、その方が正しいのかも知れぬが、前記の方がおもしろい。「三月」は例によって「三カ月」と限ったわけではない。「当分」ということ。

 孔子様が斉に滞在中、韶の音楽を聞き、スッカリ感激して、「これほど大した音楽があろうとは思いもよらなかった。」と讃美され、当分は肉をたべても味も覚えぬくらいであった。

 韶をほめて「美を尽せり、又善を尽せり。」と言われたことは、前に出ている。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №42 [心の小径]

第七章 基督教国にて 9

                       内村鑑三

  五月十四日 「ヱレミヤ」ヲ読ム、大イニ感動ス。
  五月十六日 「ヱレミヤ」ハ余二多大ノ感動ヲ与へタリ。
  五月廿七日 「ヱレミヤ」ヲ読ミテ多クノ利益ヲ得タリ。

 余の宗教的読書はこれまでは『基督教証拠論』とかそれに類するものが多くて、『聖書』そのものは少なかった。それゆえ余は旧約聖書の預言は大概は未来談であり、人類の救拯主が最後に来りたもうた時に『符合一致』をもって世界を驚かせるために人類にむかって述べられたものであるという考えをいだいていた。それで余は早くから預言者の詔書を不可解なものの中に加えていた。余はそれらについては読んだが、しかしそれらを読まなかった。しかし今や半ば好奇心をもって、半ば恐怖をもって、余はヱレミヤをのぞいたのである、院長はかつて、いかなるヱレミヤをも自分はこの構内には入れないつもりである、そういう人は病院内のすべての不幸を見て全院を泣かせてしまうであろうから、と我々に注意を与えたのであるけれども。しかるに見よ! 何たる書よ! かくも人間的な、かくも理解しうる、その中に未来談はかくも少なく、現在を警告することかくも多き! 全巻に奇蹟の起るただ一つの出来事もなく、人なるヱレミヤは人間のあらゆる長所と短所そのまま余に示された。『すべて偉大なる人は預言者と呼ばれてはいけないであろうか』と余は独語した。余は余自身の異教国のすべての偉人を心に列挙し、彼らの言行を比較考量した、そして余の到達した結論は、ヱレミヤに語りたもうたその同じ神は、よしそれほど明瞭ではなくとも、余の国人中の或者にもまた語りたもうたということ、彼はその光と導きとなしに我々を全く棄ておきたまわなかった、いな、もろもろの国のうちで最も基督教的な国に彼が為したもうたように、この長い幾世紀の間、我々を愛し我々を見守りたもうたのである、ということであった。この思想は余の表現力をこえる感激的なものであった。外国伝来の信仰を受けてやや冷却された愛国心は、今や百倍の活気と感銘とをもって余に還(かえ)って来た。余は余の国の地図を眺め、その上に泣いて祈った。余はロシアをバビロニアに、ツァーをネプカドネザールに、そして余の国を義の神を告白することによってのみ救われる無力なユダヤに、比較した、余は余の旧き英語聖書にこのような言葉を書き記した、-
  ヱレミヤ三章一-五節  誰力此ノ懇請(こんせい)ヲ斥(しりぞ)ケ得べキヤ
  ヱレミヤ四章一-十八節 此章十八節ノ概世(がいせい)ノ言、何ノ世二於テ優ルヤ、嗚呼(ああ)我国ヨ、我帝国ヨ、汝願クハ 「ユダヤ」人ノ跡ヲ践(ふ)ム勿レ
  ヱレミヤ九章十八-升一節  北方ノ魯国我邦ノ「カルデヤ」ニアラズヤ 云々

 この時より二年間、余は聖書は預言者のほかはほとんど何も読まなかった。余の宗教的思想の全体はそれによって変化せしめられた。余の友人たちは余の宗教は福音書の基督教よりもユダヤ教の一種であると言う。しかしそれはそうではない。余はキリストと彼の使徒たちからは如何にして余の霊魂を救うべきかを学んだ、しかし預言者たちからは如何にして余の国を救うべきかを学んだのである。                 た
 余はほとんど八カ月間病院勤務を続けた、しかし余のうちにある『疑惑』はこれ以上一刻も耐え得られなくなった。救助は何処かに求められなければならぬ。親愛なるドクターは君は休息を必要とすると言って、余の活動の鈍い肝臓のためにアポリネーリス鉱水を処方してくれた、彼の実際的意見によれば、いわゆる霊的苦悶の全部でなくとも大部分は、消化器の何かの障害によって説明され得たからである。彼の医学上の忠告を好機に、余は余の故国からの幾人かの友人のいるニュー・イングランドに赴いた、場所が変れば何か『幸運』が現れるかもしれないと考えたからである。『幸運』に対する余の異教的な依頼心が、窮迫に陥(おちい)る時に、何時も跳び出したのである。
 悲しい心を抱いて余は病院とそこで得た多くの善き友人たちとを後にした、余の不完全な勤務と、余の身を親愛なドクターの配慮に委(ゆだ)ねてからかくも連かな計画の変更とを深く後悔しつつ。慈善、『愛人』事業は、余の『愛己』的傾向が余の中にて全く絶滅せられるまでは余自身のものでないことを余は知ったのである。霊魂の治癒は肉体の治癒に先行しなければならぬ、すくなくとも余の場合においてはそうである、そして慈善はそれだけでは前者の目的のためには無力であったのである。
 しかし『天使も羨(うらや)む』この事業について何か軽蔑的なことを余はけっして言うのでではない。それはこの広い宇宙の他のも接することのできない高貴な事業である。ある人は異教徒に対する伝道事業はより高貴であると言う。あるいはそうであろう。体は衣よりまさるように、霊魂はその衣裳たる肉体よりまさるからである。しかし我々が蜜柑の皮を内側の果肉から離すように誰が肉体を霊魂から離したことがあるか。肉体を通して霊魂に近づくことなしに、誰が霊魂を救うことができるか。『安全にして往け温かにして飽くことを得よ』主義によって働く宗教の教師が天国から遥かに遠ざかっているのは、『病は金銭(かね)次第』主義によって働く肉体の医師が天語の反対の曲に近くあるのと同じである。もし諸君が愛という二つのギリシャ語の此較的の意味についてやかましく言うならば、PhilantholopyはAgapanthoropyである。『医は仁術(愛の術)なり』とシナの一聖人は言った、そして余の知る限りでは福音書の基督教は、異教徒によって言われたものであっても、この格言を是認するものと思われる。それなら誰が医学をを神学から区別することができるか。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №41 [心の小径]

第七章基督教国にて 8

                       内村鑑三

 四月六日  白痴児童ノ教育二興味ト熱心ヲ加フ。

 この前日、余は余の生涯でこれまで会った最も著しい人の一人に接した。その人は故ジェームス.B.リチャーヅ氏であった、堅忍不抜(けんにんふばつ)な白痴児童教育者として世界的に令名ある人であった。『父を示すこと』はその子らの最低級の者にさえ実際上可能なことを我々に実証する彼の初期の教授法上の経験の幾つかを余は彼のその口から聞いた。余の受けた印象は電撃的であった、そしてその影響は永久的であった。それいらい慈善と教育とは単なる憐憫(れんびん)と効用の事業たることを止めた。両者にはともに高い宗教的目的 ― 唯一の「善」なる神の執行者という ― があると思われた。余が白痴院において看護人たることはいまや神聖侵すべからざる職務に栄化せられ、義務はそれが帯びていたすべての奴隷的要素を振り落した。教会関係ではユニテリアンである彼リチャーヅを、余は余に遺(おく)られた最善の宣宣教師のなかにかぞえるのである。彼の人格、彼の同情の深さは、彼の教師としての異常な天才はさておき、正統信仰的の関係と読書とのなかで養われた余のトリニテリアン(三位一体主義)的偏見の多くを柔げたのである。

 四月八日 人間ノ能力ヲ最モ高ク解セルモノガ、最モ純粋ニシテ最モ高キ姿ニアル「ユニテリアン」主義ノ起源ナルベシ。然レドモ人間ハ自己ノ努カニヨリテ道徳ノ最高処二到達スルコト能ハズ、カクテ人間ハ「キリスト」ヲ引キ下シテ自己ノ弱キ知カニ適応セシムルナリ。神ノ概念ハ、我々ガ「キリスト」二来ルマデハ完全ニ明瞭ナリ。其処ニテ何人モ躓(つまず)クナリ。余ハ屡々思フ、「キリスト」ナカリセバ、余ハ余ノ神ニツキテ如何二明瞭ナル考ヲ有シタルニ相違ナカラント。

 キリストは躓きの石である、ただに昔の異教徒のギリシャ人にとりてのみならず、今日の異教徒の日本人、シナ人、その他すべての異教徒にとりてそうである。ユニテリアン的に彼を解することは神秘的な東洋人にとりては余りに簡単すぎる、しかしトリニテリアン的『理論』はそれに劣らず信じ難くある。誰が余のために石を転がしてくれるであろうか。

 四月十六日 「ファーナルド」ノ『基督信徒ノ真生活』ヲ読ム。
 四月十八日 「ドラモンド」ノ『精神界二於ケル自然法則』ヲ読ミテ、多大ノ興味ヲ覚エヌ。
 四月十九日 『黙示録』ヲ読ミテ大ナル興味ヲ得タリ。

 ファーナルドは余が幾らかでも真面目に読んだ最初のスウェーデンポルグ派の著者であった。いかにも余はこれより約三年前に『アルカナ・ケレスティア』をのぞきはしたが、当時はそれは余の物質的傾向の心には余りに霊的でありすぎた。しかし今や異郷にあり、大なる霊的問題と格闘していて、いかなる種類の神秘主義も余は歓迎した、なぜなら事実においては動かすことのできないことを余は余の霊において飛び越えることができたからである。そのときドラモンドが来て余の科学を霊化した。そして彼ら二人が余を極端に霊的ならしめた。今や余が説明し去ることのできないものは何一つ残っていなかった。そこで余は黙示録を取上げた、余を懐疑家に変えるかもしれないことを恐れて手を触れずにおいた書 ― 帰納的な人間族のたえではなくて天子族のために書かれたものと余の考えた一書であった。しかしもしそれが人間の霊的経験の鮮かな肖像画であるとすれば、その中の各節を例証するに一として余に欠如したものはなかった。三位一体の間隙(かんげき)もまたその方法で橋を架けることができる、そして処女懐胎と復活はたちまち勿論の事の中に数えられる。また創世記と地質学との調和についてのあの恐しい闘い、『セルポーンの博物学』の有名な著者をして狂気に逐いやったその闘い、― それもまた『アルカナ・ケレスティア』の著者の取扱いを受けて、九月の霜が太陽にあたったようにわけもなく融け去るのである。しかし余は多くの人々がするようにけっしてスウェーデンポルグを馬鹿者の一人には数えなかった。彼の心は余の構想力を越えた心であった。そして彼の洞察ははなはだ多くの場合においてまことに驚嘆すべきものである。スウェーデンポルグから完全な真理を得ようと欲する者は躓くであろう、しかし真の学者的謙遜(けんそん)と基督信徒的畏敬(いけい)とをもって彼のもとに行く者は、余は疑わない、大なる祝福を受けて出で来るであろう。彼の教義に初めて接触した時に余の陥ったはなはだしい霊化主義の後では、あの著しい人の余の思想に及ぼした影響は常に健全だった。ここは、しかし、いかなる点においてそれがそうであったかを詳細に述べる場所ではない。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №51 [心の小径]

一五四 子のたまわく、東脩(とうしゅう)を行うより以上、われ未だ嘗(かっ)て誨(おし)うることなくんばあらず。

                  法学者  穂積重遠

 「東脩」という言葉は今の人にはわからなくなったが、私たちの若い時には入学金を東脩といったものだ。「脩」は乾肉(ほしにく)で、今日でいわばハムだが、それを十薗たばねたのが「東脩」で、ちょうど日本なら「かつおぶし」というところ、それを入学のしるLに持って行くのだ。「以上」を、東脩もしくはそれ以上、という意味に解する人もあるが、それではおおしろくない。「東脩を持って来たからには」と取りたい。

 孔子様がおっしゃるよう、「東脩をおさめて入門した以上、教えてやらんことはない
ぞ。」

 「十分に教えてやるぞ」の意に解するのが普通のようだが、文章の勢いからみて、どうもそうは取れない。
 「やらんことはない」ではいかにも不親切に聞えるが、次章に至ってなるほどと思う。

一五五 子のたまわく、憤(ふん)せざれば啓(けい)せず。悱(ひ)せざれば発せず。一隅(いちぐう)を挙げて三隅(」さんぐう)を以て反(かえ)さざれば、すなわち復(ふたたび)せざるなり。

 「慣」は「意通ずるを求めて末だ得ざるの意」。「悱」は「口言わんと欲して末だ能わざるの貌(かたち)」。「挙一隅」の下に「而示之」(これを示し)とある本もある。意味はよくわかるが、ない方が文章はおもしろい。

 孔子様がおっしゃるよう、「どうしてこれがわからないだろうか、ああでもない、こうでもない、と煩悶するところまでいかなければ、いとぐちを開いてやらぬぞ。理論はわかったがどうもうまく言えない、ああ言おうか、こう言おうか、と口をモグモグさせるところまでこなければ、キッカケをつけてやらぬぞ。四角いものを教えるにしても、一隅(ひとすみ)を持ち上げてみせると、ああなるほどとすぐに他の三隅(みすみ)を持ち上げてくるようでなければ、二度と教えてやらぬぞ。」

 これが孔子様の教育法で、孟懿子(もういし)が孝を問うたのに「違うことなかれ」と答えたところ、そのさきを質問もしなかったので教えずに帰ったのなどがそれだ。今日の「啓発」教育ということは、すでに言葉自身がここから出ている。先ごろアメリカの教育団が来て我が国の教育を批判して行ったが、明治以来の教育の一大欠点は、米国教育団を待つまでもなく、すでに孔子様によって指摘されている。すなわち先生が一から十まで噛んでくくめるようにして生徒をひとりあるきさせず、教授が一時間二時間とシャベリつづけて学生に口をきかせなかったことが、小学校から大学に至るまでの通弊(つうへい)だったのである。すなわち先生が親切過ぎたのであって、「誨(おし)うることなくんばあらず」ぐらいがちょうどよかったのである。私は三十年前米国に留学してケース‐メソッドなる臨床討論式法学講義を傍聴(ぼうちょう)じ(参加し、とは気がさして言えぬ) 「法学教育の目的は法律知識を与うるにあらずして 『法律心を鍛錬する(トレーニング‐ザ‐リーガル‐マインド)にあり」との教授の説明に感服して帰って以来、大学の講義の第一時間には必ず『論語』本章を引き、孔子流の啓発教育でいくぞ、と宣言したものだが、実際やってみるとなかなかうまくいかず、結局いつでもこちらから「四隅(よすみ)を挙げる」ことになってしまった。

一五六 子、喪(も)ある者の側(かたわら)に食すれば、未だかつて飽かず。子この日において哭(こく)すれば、すなわち歌わず。

 二章に分けてある本があり、間に「子」があるからその方がよいとの説もあるが、続けてよんだ方がおもしろい。「哭」については、「大声にして涙なきを哭と謂い、細声にして涙あるを泣(きゅう)と謂う。」などという説明があるが、ここではさような形式的なことではなく、「哀悼(あいとう)」の意味。

 孔子様は、喪中の人と同席の場合には、腹いっぱいにめしあがられなかった。また孔子様は、葬式や法事に行って泣いて来られた日には、歌など歌われなかった。

 孔子様の人情の深さ、礼儀の正しさがあらわれている。こんにちの複雑多事な世の中では、必ずしもこうはいかぬが、気持だけはそうありたい。江戸時代には葬式の帰りに近所へ行くことがはやって、川柳の好材料になり、また戦争前までは、葬式や法事が村人の酒の幹会に鳴っていた地方もあるようだ。甚だ持って心ない話である。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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論語 №50 [心の小径]

一五一 子の燕居(えんきょ)、申申(しんしん)如(じょ)たり、夭夭(ようよう)如たり。
                   法学者  穂積重遠
                                        
 「燕居」は「安居」。「申申」は姿形(すがたかたち)のユツタリとのぴること。「夭夭」は顔色のよろこびやわらぐこと。

 孔子様がおひまでうちにくつろいでおられるときには、いかにものんびりしたご様子で、にこやかであられた。
 これが「はしがき」に書いた谷川さんをして『論語』ファンたらしめたという文章だが、実際孔子様を私たちに近づかせる。儀式のときはもちろんキチンとしておられただろうし、小言(こごと)をいわれるときはこわい顔もされたろうが、けっして道学(どうがく)先生然とシャチコバツテにが虫をかみつぶしておられるのではなかった。      

一五二 子のたまわく、甚だしいかな、わが衰えたるや、久しいかな、われ復(また)夢に周公を見ず。

 「周公」名は旦(たん)。周の文王の子で武王の弟。武王の成王を補佐して礼楽制度を整えた。その上、魯の国の開祖なので、孔戸様は常に周公を崇拝しておられたのである。

 孔子様が歎息されるよう、「わしもずいぶん年取ったものじゃ。とんとと久しく周公の夢を見ぬわい。」

 孔子様は若い時から周公を理想とし、魯を周公の遺国たるにふさわしからしめ、周公の道をもって天下を救わんと志し、念々ここにあって夢にまで周公と道を語られたものだが、このごろは年老い気力衰えたか、久しく周公の夢を見ず、しかして周公の道を天下に行わんという大願もついに空しからんとする、となげかれたのである。しかしまた老いてその志ますます盛んなればこそこのなげきあるなれとも考えられるし、老熟して「聖人に夢なし」の域に達されたのだということもできよう。ついでに江戸笑話を一つ。
                                        
 漢学塾の書生が昼寝しているのを師匠が見つけて「宰子(さいこ)昼寝(い)ねたり、子のたまわく云々(うんぬん)」」と小言をいうと、弟子が負けていず、「お師匠様も昼寝をなさるではござりませぬか。」「イヤわしのは周公にお目にかかりに行くのじゃ。」「それでは私のも周公にお目にかかりに行くのです。」「ナ二周公がお前などにお会いになるものか。」「イエ現にただ今もお目にかかりました。」「そして周公が何とおっしゃった。」「お前の師匠にはまだ会ったことがないと。」

一五三 子のたまわく、道に志し、徳に拠(よ)り、仁に依(よ)り、藝(げい)に游(あそ)ぶ。

 「徳は得なり」とあって、道を心に得てわが物とすること。「藝」は前の「行いて余力あればすなわち以て文を学べ」の「文」と同じく、ひろく文藝と解してよかろう。

 孔子様がおっしゃるよう、「人の道を学ぶことに心を向け、学んだところを体得しわが徳として堅(かた)くこれを守り、諸徳の綜合たる仁に至ってこれに安んじ、時に文藝をたしなんで気を養い心をゆたかにする。これが学問の順序じゃ。」

 一転して「藝に游ぶ」といったところがおもしろいが、私などはとかく「藝に游ぶ」が先に立って困る。


『新訳論語』講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №40 [心の小径]

七章 基督教国にて 7

                       内村鑑三 

 二月十八日 疑惑甚シ、少ナカラズ困(くるし)メリ。余ノ心ハ神ノ上二定メラレザルペカラズ。人間ノ意見ハ多様ナリ、然レド神ノ真理二ナラザルベカラズ。神御自身ニヨリテ教へラルルニ非ズンバ、真ノ知識ヲ獲ル能ハズ。

 真理の『選択』との恐ろしき争闘である。イエスは神であるか人であるか。もし余が彼は人であると信ずるならば、余は永遠の地獄の火のなかに罪に定められないであろうか。しかもエマーソン、ガリソン、ローウユル、マーティノー、その他の偉大にして勇敢にして学問ある人々が、彼は人であると言ったという。キリストの神性に対する余の信仰はそのときには余がかくも多大の犠牲を払って放棄した迷信的偶像崇拝だけ愚(おろ)かな根拠のないものであったのである。この点における余の争闘がまだ未解決であるうちに、別派の聖職者たちが余のところに来て、プロテスタントの悪魔たちに欺かれないよう深切に余に警告し、そして祈りをこめて一所懸命に精読するようにと、カーディナル・ギポンスの『我らの父祖の信仰』の一部を余に恵んでくれる。そして余の注意が真剣にこの重大問題の解決に向けられるやいなや、不可知論者はダーウィン、ハクスレイ、ス・へンサーの名において、無用な疑問を放棄して見えるものと触れうるものとに頼るように、余に勧告するのである。つぎに外観はどうみてもマダム・ギュイヨンその人のように敬虔(けいけん)な人々が余に告げる、自分たちの預言者スウェーデンポルグは自分自身の眼で天を見た、そして彼が語ったり書いたりしたことはことごとく絶対に真であることを彼の強大な知力をもって証明したと。しかし偉大な生理学者、博士フりノントは、スウェーデンポルグは純然たる精神異状者であったと言う。禍(わざわい)なるはこれらの論争の渦中にある良心的な異教徒回心者である。むずかしい攻撃を受けることのない安全な位置がないので、その人の心は知識的宇宙の一端から他端へと投げつけられる。もういちど余は余のお祖母さんの『異教の』信仰における平和と静穏を想った。言うをやめよ、おおなんじら教派に縛られた基督信徒たちよ、『ヨーロッパの一年はカセイ(シナ)の百年にまさる』と、諸君は自分が本当はもっていない平和を我々に約束したからである。もしも分争と宗教的怨恨とが望ましいものであるならば、我々は諸君の製造発明にかかる新しい分争に捲き込まれることなしに『カセイ』で十分それをもっていたのである。余はかつて一教師のもとに行き、基督信徒間の教派の、もしありとすれば、その存在理由を質問したことをおぼえている。彼は余に語った、自分の意見によれば教派の存在は真の祝福である、それは異なる諸教派の間に『競争』を生じ、かくて教会のうちにより多くの純潔と神の国のより迅速な生長をもたらすからであると。しかしそれから数カ月ののち、我々自身の新しい教会を起した時に、それは彼の趣味にはなはだかなわない方法で計画されたのであるが、その同じ宣教師は我々の大胆さを鋭く非難して我々に語った、基督教の大義をすでに汚しつつある数百の教派にもう一つの新しい教派を加えてはならぬと。しかし我々は彼の論理を解することはできなかった。もしも教派の存在が『真の祝福』であるならば、なぜ教派の数を増してそれからより多くの利益を得ないのであるか! しかし我々あわれな回心者たちが未だにそう想像しているように、もしそれが詛(のろ)いであるならば、何故それを絶滅し、メソヂスト主義、長老主義、組合主義、クエーカー主義、その他あらゆる有害無害の何々主義をことごとく一大合同体にしようと試みないのであるか。我々は頭が変になっているので、我々の宣教師の友人の通説的言明の謎をすこしも解くことができないのである。

 三月八日 聖潔(きよ)メラルルコトノ重要ナルヲ、層一層、感ジツツアリ。『理想ノ純潔』ハ眼前ニアリ、然レド余ハ其ノ状態二人ルコト能ハズ。アア、我レ悩メル者ナルカナ!

 三月廿二日 「知恵ノ無限ナル土台石」ノ全体二依存シ又(ま)タ其ヲ占有シ得ルニハ、人間ハ余リニ有限ナル被造物ナリ。唯ダ彼ノ為シ得ル事ハ此ノ「土台石」ノ小ナル一角二身ヲ宿スニアリ。此ノ一角ニサエ達スレバ、直二彼ハ安穏平静タルヲ得ルナリ、― 巌(いわお)ノ強キコト此ノ如シ。是レ種々ナル教派ノ存在シ其ガ何レモ成功セルコトノ説明ナリ。

 より人情的にして合理的な『教派』の説明である。フィリップス・ブルックスが余を助けてここにいたらしめたのであると信ずる。

 四月五目 復活日曜日(イースターサンデイ) 美シキ日。霊ハ力ヲ与ヘラレ、余ノ生涯ニ於(おい)テ初ノ天ト不死トヲ瞥見(べっけん)セリ! 鳴呼(ああ)、歓喜量(はか)リ難し 斯(か)カル聖ナル歓喜ノ一瞬間ハ、此ノ世ノ与ヘ得ル凡(あら)ユル歓喜ノ数カ年二値ス。余ノ霊的盲目ハ層一層感ゼラレ、余ハ光ヲ求メテ熱キ祈祷を捧ゲヌ。

 じつに復活の日であった! 連続せる憂鬱、霊との格闘の数カ月の後に、この啓示と休息とは余には筆舌に尽し難く嬉しくあった。余は記憶している、余の前に置かれた彩色卵を舌の味以上の味をもって味わったことを。それにおいて(すなわち、生の時の卵であって茄でて固まらせて彩色してからのではないが)、余は余の霊魂の当時の状態を例証する一つの説教を読んだのである。余の胎生学上の知識の貯えはことどとく精神的解釈のためにいまや余の心に思い浮べられた、そして余は当時霊魂発達のいかなる段階にあったか ― 『卵割期』にあったか、あるいは『桑実期』にあったか、あるいは『孵化(ふか)期』に近くまで進んでゐたか ― と思いめぐらした。まもなく穀は破られるであろう、そして余は翼に乗って余の救拯主と完全とに向って高く舞い上るであろう。おお、もっと光を!


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文の


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №39 [心の小径]

第七章 基督教国にて 6

                       内村鑑三

 一八八五年一月一日 寒シ。昨夜「信仰ニヨリテ義とセラルルコト」ニ就キテ大イニ感ジタリ。終夜、勤務ニ従事セリ。初メテ余ハ患者看護ノ仕事二携ハレリ。余ノ為二途ヲ開き給ヒシコトヲ神ニ感謝セリ。
             
 白痴院に於ける看護人としての第一日。ジョン・ハワード、エリザベスフライ、その他無数の男女の聖徒の名によって聖(きよ)められた宿望の仕事の途が、いまや余に開かれたのである。じつに余は自分自身が聖徒となったと感じた。しかしすでに『律法の行為』によって自らを義としようとするこの余の試みの初めから、一つの声が余の胸中に深く響いた、『人は律法の行いなしに信仰によって義とせられるのである』と。

 一月六日 「ヨプ」記ヲ読ム、大イニ慰メラル。

 再び尊敬すべきアルバート・バーンズの助力をもって。彼の註解書二巻は休むことなく急ぎ読過された。すべての禍いの最終的結果は善であることがいまや余の心に拭いがたく印象された。それいらいかつて余はこの人生観をめったに見失ったことはなかった、最暗黒の雲の唯中でさえも。

 一月十一日 日曜日 終日、勤務二従事セリ、「ハヴァ-ガル」ヲ読ム、精神的ノ事ニテ教へラルル所多シ。

 一月廿五日 日曜日 此ノ人生ハ我々ガ如何ニシテ天国二人ルカヲ教へラルル学校ナリ。此ノ人生ノ最大ノ成功ハ、ソレ故、『貴重ナル永遠的ナル教訓』ヲ学プニアリ。

 新しい教訓が守護天使たちによって教えられつつある。フランシス・ハヴァーガルはそのうちにて最も顕著なものであった。その時まではこの地上的生活が余にとってはすべてのすべてであった、基督教的経論のもとにあってすらも。新しい信仰は、その固有の精神的価値のためよりも幸福な家庭、自由な政府などのような功利的目的のためにより多く信ぜられた。『我が国を欧米のように強大にすること』が余の生涯の最高目的であった、そして余はそれをこの計画を実行するための大きなエンジンと考えたから基督教を歓迎したのである。そしてああ、いかに多くのものがいまなおその社会政治的理由のためにそれを信ずることよ!しかしいまや国を愛する愛は天国を愛する愛のために犠牲にせらるべきであった、国を愛する愛がその最真最高の意味にて余に回復されるがために。

 二月二日 余は神ノ子ナリトノ思想。大イニ勇習得クリ。
 二月十一日 「フィリップス・ブルック」ヲ読ム、、『「イエス」の感化』ト題ス、大イニ勇気ヲ得タリ。

 余は神の子であってその兄弟や同輩ではないという重大な発見、何故に余は『同じ立場』に立って彼に受け入れられようとして、力と純潔において彼と競争しようと努めるのであるか。思い上った此の世の小さな神よ! なんじ自身を知れ、そうすれば事はなんじにとって良く行くであろう。そしてフィリップス・プルックスよ! いかなる悶える霊魂を彼は力づけ支えるのに失敗したか。彼の白法衣下にある何たる深さよ、彼の祈祷書の背後にある何たる広さよ! 彼の著書に思いをこらしながら余は考えた、彼は親しく余のすべての病いを知りそれに投じる特効薬をもっていたのであると。旅人は彼の仙薬を一飲みして息をつく、そして一二週間は唇に歌を口ずさんで前進する、茨しげる山あり谷ありの大地は彼の前に低くされ平らにされて。

 二月十四日 余ノ知ル限リガ余自身ノ知識ト真理ナリ。此ノ世ハ異ナル種々ノ意見ヲ有スルヤモ知レズ、然レドモ其ハ余ノモノニ非ズ、従ッテ余ハ其ノ為ニ責任ヲ負ハザルナリ。
余ヲシテ余ノ知ル所のコトニ関ハラシメヨ、其以上ニ関ハラシメルコトナカレ。

 余の知識の範囲と限界は限定せられるべきであった。いまや余に親授を迫る無数の意見い対して余自身を武装するためであったのである。アメリカは教派の国であり、各自は他を犠牲にしてその数を増大しようと試みる。すでにユニテリアン主義、スウェーデンボルグ主義、クエーカー主義、等々のようなかかる見なれない諸主義が、他の余がすでに熟知しているものは言うにおよばず、余に対して試みられつつあった。憐れな異教徒回心者はどれを自分自身のものとすべきかに途方にくれる、そこで余はそれらの何一つをも受けまいと決心した。いったいいかなる朽つべき人間が夫々其の長所と短所のある幾十の教派の中よりして、『正しい選択』をすることができるか。何故に隣れな回心者をバブテイゾーの語源をもって苦しめ、『浸さる』べきものと思いこませるのであるか、等しく偉大にして敬虔な権威者たちが水のそそぎさえかならずしも彼の永遠の証に必要でないと主張するのに。憐れな回心者に慈悲深くあれ、なんじら『本国の基督信徒』よ、そして広くあれ。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №49 [心の小径]

一四八 子のたまわく、述べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む。ひそかにわが老彭(ろうほう)に比す。
                  法学者  穂積重遠

 老彭は殷(いん)の賢大夫(けんたいふ)で、好んで古事を述べたという。長寿の人だったので「老」というのだろう。

 孔子様がおっしゃるよう、「自分は昔の教えを伝えてこれを説明するのみで、独断創作することをしない。信念をもって古の道を好む点において、心ひそかに自らをわが尊敬する老彭にくらべるだけのことじゃ。」

 孔子様は詩・書・易・礼・春秋の五経を作られたが、それは著作ではなくて編纂(へんさん)に過ぎぬ、といわれるのであって、これは孔子様の謙遜(けんそん)の言葉だということになっている。それに相違ないが、同時にこれは孔子様の大信念・大抱負の言明と考えたい。そして「古を好む」ということについては、若い人たちはあるいは保守的で物足りないと思うかも知れないが、私は本書の「あとがき」で、孔子のいわゆる「古」は歴史的の「古」ではない、ということを述べたいと思う。それまでに一つ一章一句をよくあじわって、孔子様の言わんと欲するところを汲み取っておいてもらいたい。

一四九 子のたまわく、黙してこれを識(しる)し、学んでこれを厭(いと)わず、人を誨(おし)えて倦(う)まず。何かわれにあらんや。

 孔子様がおっしゃるよう、「口に出さずに心にきざみ、自ら学んでいやにならず、人を教えてめんどうがらぬ。ただそれだけのことで、ほかにわしには何の取りえもない。」

 これも孔子様の謙遜の言葉であり、同時に孔子様の自ら許されるところだが、「それだけのこと」がどうしてなかなか「大したこと」だということを、私は四十年の大学生活で痛感する。殊に「熱して識す」ができないことだ。
「いずれかわれにあらんや」とよんで、この三事のどれもわしにはまだ出来ていない、の意味だとする脱もあるが、それでは謙遜が過ぎて.かえって孔子様へらしくない。第一六六章第一八〇章から見ても、孔子様このくらいの自慢は言われる。『孟子』公孫丑(こうそんちゅう)章句上に次の一節がある。「子貢(しこう)孔子に問いていわく。夫子は聖なるか。孔子いわく。聖はすなわちわれ能(あた)わず。われ学びて厭わず、教えて倦まざるなり。子貢いわく。学びて厭わざるは智なり。教えて倦まざるは仁なり。仁且(か)つ智、夫子は既に聖なり。」

一五〇 子のたまわく、徳の修まらざる、学の講ぜざる、義を聞いて徒(うつ)る能わざる、不善改むる能わざる、これわが憂いなり。

  孔子様がおっしゃるよう、「修養の至らぬこと、研究の積まぬこと、正しいと知りながらそちらにうつり得ないこと、善からぬと気がつきながら改め得ないこと、この四つの弱点がありはせぬかと、われながらいつも心配していることじゃ。」

 世人の四弊(しへい)を憂いとするのだ、という説もあるが、それではおもしろくない。本章の位置からみても、孔子様自身のことに相違ないと思う。孔子様さえ憂いとされるのだから、われわれ凡人が憂いとせねばならぬことはもちろんだが。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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論語 №48 [心の小径]

一四六 子のたまわく、中庸(ちゅうよう)の徳たるや、それ至(いた)れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。

                  法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「過ぐることなく及ばぬことなく平常にして終始変らざる中庸こそ、実に最高至善(さいこうしぜん)の徳なるかな。しかるに、古代は知らず、その後久しくこの徳をそなえる人がすくない。まことになげかわしいことじゃ。」

 中庸ということは、平凡にして至難な事柄であって、孔子様の最も重んぜられたところであるが、お孫さんの子思(しし)がその教えを受け継いで『中庸』を著し、四書の一つになっているのは、孔子様もさぞご満足であろう。そして今日行われている中庸刊本の本文のはじめに、前註の形で出ている子程子(していし)の言葉に、「偏(かたよら)ざるこれを中と謂(い)い、易(かわ)らざるこれを庸と滑う。中は天下の正道にして、庸は天下の定理なり。」とあるのは、中庸の過ぐることなく及ばざることなき定義である。近来の我が国は、思想も行動も実に極端から極端に走り、中庸の徳に至っては真に「民鮮(すく)なきこと久し」き有様であって、孔子様にお目にかけたら、世も末じゃと嘆息されるであろう。『孟子』公孫丑(こうそんちゅう)章句上に左の一節がある。   
 「子貢(しこう)孔子に聞いていわく、夫子(ふうし)は聖なるか。孔子いわく、聖はすなわちわれ能(あた)わず。われ学びて厭(いと)わず、教えて倦(う)まざるなり。子貢いわく、学びて厭わざるは智なり、教えて倦まざるは仁なり。仁且(か)つ智、夫子は既に聖なり。」

一四七 子貢いわく、もし博(ひろ)く民に施して能(よ)く衆を済(すく)うことあらば如何(いかん)。仁と謂うべきか。子のたまわく、何ぞ仁を事(こと)とせん、必ずや聖か。堯舜もそれ猶(なお)これを病めり。それ仁者は、己(おのれ)立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す。能く近く譬(たとえ)を取るは、仁の方と謂うべきのみ。

 子貢が「もしひろく人民に行きわたってよく衆人を救済することができたら、仁といえましょうか。」とおたずねしたので、孔子様がおっしゃるよう、「それができれば仁どころではない。強いていうならば聖か。堯舜のような聖天子でさえ、それができないとてご心配なされたことである。お前は仁なるものを大そうなむずかしいことに考えているようだが、さような聖天子でなければできないようなことではない。仁者は自分についてかくあれかしと思うことを人にもかくあらせんとし、自分が成就したいと思うことを人に成就させる。すなわち人を見ることおのれのごとく、人我(にんが)のへだてのないのが仁である。言いかえれば、高遠なことに思いを馳(は)せるのが仁ではなくて、目の前の自分に引きくらべて人にしむけるのが、仁に至る方法であるぞよ。」

 孔子様がなかなか仁をもって許されないので、子貢が今度は最高標準を持ち出したところ、孔子様は仁とはさような大理想ではなく、むしろ日常茶飯事であるぞ、俗諺(ぞくげん)のいわゆる「わが身をつねって人の痛さを知る」こそ仁の第一歩なれ、と教え、また一面仁とは事業功績ではなく、心がけの問簿だ、ということを説かれたのだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №38 [心の小径]

第七章 基督教国にて 5

                       内村鑑三

 もうひとり病院における感激的な人物はその婦長であった。余の知るいかなる人も彼女より以上に剛毅(ごうき)ではなかった、しかも彼女は婦人であった! 彼女はその注意ぶかい眼をこの少年、あの少女に投げつつ、宏大な建物を隅から隅まで歩きまわった、そして禍いなるかな、ジョニーの靴下をジョージーの脚にはかせ、サブの帽子をスーシーの頭にかぶせた不注意な看護人は。婦人が男子と同様に支配できるということはこの尊敬すべき婦人によって何の疑念もなく余に証明せられた。彼女は確かに基督教的アメリカの産物である、異教国はその婦道にいかなる温雅(おんが)と美徳があっても、これに匹敵するものを産出することはできない。
 もうひとり余が余の病院時代に固く結ばれるようになっ友愛すべき人を、余の角(かど)のある基督教の多くのものを取除いてくれた人として、言及しないではいられない。彼はデラウエア州の出であって、同情では決定的に南部人、熟練した青年医師、宗教告白では聖公会信者、ダンスは軽快で巧妙、すぐれた俳優になることができ、詩を書くことができ、スチュアート家諸王の讃美者、善良、深切、そして友人中で最も思いやりある人であった。
彼の面前では、余の胸中にニューイングランドへの同情と知識によってかもし出された叛逆南部に対する余の偏見はたちまちにして消滅した。余のピューリタン信仰とコロムウェル崇拝とは彼を余の信頼と愛とに受け入れるに何の障害ともならなかった。彼はかつて余を彼のデラウェアの家庭につれて行った、余が彼に余の理想として描いた婦人たちにいやしくも比較されうる真の婦人を余に見せるためであった。彼は言った、そぅいうものは実際にアメリカに存在しはするが、しかしペンシルヴァニアやマサチューセッツにではないと。彼は貸馬車を傭った、そして余をまず知事の家に、次に前知事の家に、等々と余をつれまわった、そして我々が敬意を表した美人の前から出て来るたびごとに、彼は余に問うた、『あれはどうだ?』と。彼女は余の理想にはまだ達しないと告げるや、彼はもう一つ、
それからなおもう一つと試み、余から賛辞を奪取しようと全力をつくした、昔の騎士が戦争相手から自分の偶像のためにそうしたようにである。しかし余は依然として自己に忠実であった、そしてついに彼を失望させた。『君はそれではデラウエアで何が欲しいか』と彼は最後に当惑して余に言った。時は桃の季節であった、余は故国にいたあいだ地理学でデラウエア桃の最上等の品質について学んだ。それゆえ余は州内のその最善のもの若干を要求した。それを彼は早速よろこんで注文してくれた、そして余は余の欲したすべてのものを得てすっかり満足したのである。-余のヤンキー同情心が余を無知のなかに引き留めておいたそのアメリカの半面を余に知らせてくれた人こそ彼であった。度量のある、思いやりのある、真実な、疑心のない、-アメリカ基督の全部がドルとセントによっては、ジョナサン・エド7ヅとセオドア・パーカーと一緒には、歩かないわけである。そこには騎士道的基督教のようなもの、余の国民的心情にはなはだ訴えるものがあるのである。余は少しくこの南部の友人の精神を汲み、彼が余に贈ってくれた「祈祷書」(The book of Common Prayor)から多くの句を暗記した、そして聖公会の諸に出席すること喜びを感じ始めた。神の霊に導かれて、広さは自分自身の信仰のうちに増大しつつある確信とけっして矛盾はしない、そして余はオリヴァー・コロムウエルに対する余の無制限の敬慕とピューリタン型の基督教に含まれているあの貴重な真理に対する余の愛着とを少しも弱めることなしに、余のデラウエアの友人を通して基督教国の半分の味方になったことを、いつも感謝しているのである。
 ただ限られた紙面は余の病院滞在中に余に影響を及ぼした他の善い友人たちや快い感化について記述することを許さない。アイルランドの地からさえ、しかもその紳士階級の中からではないが、インスビレーションとそして余の精神的霊的地平線の拡大化とがやって来たのである。一人の強い人を余は特に記憶している、その人はグラッドストンに崇拝的な敬慕をいだいていた、そしてその人は、余が彼にヴィクトリア女王のような強大な君主をもつことは余の羨望するところであると言った時、足を踏み鳴らし『おれはあの、の-べき婦人の臣民であるよりは、むしろアビシニアの王様に治めてもらいたい』と言って、彼の強い不同意を表明した。しかも誤ってエメラルド・アイル(深緑の島)の代表者とされたこれらの息子や娘たちの中にある何たる心の善良さよ、そしてまた敬虔心よ。
 余の周囲についての以上の叙述とともに、さらに若干の余の日記を掲げること許されたい。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫
                          


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論語 №47 [心の小径]

一四二 子(し)のたまわく、觚觚(ここ)ならす、觚ならんや、觚ならんや。

                   法学者 穂積重遠

 「觚」は酒杯。角(かど)があるので「角へん」もついているのだが、当時はその古制がくずれてわけがなくなっていた。

 孔子様がおっしゃるよう、「觚にカドがなくては、觚であろうや、觚ではない。」

 これは酒杯が故実覧を失ったのによそえて世道(せどう)の頽廃(たいはい)をなげかれたのだが、「婦人婦人ならず、婦人ならんや、婦人ならんや。」「学生学生ならず、学生ならんや、学生ならんや。」「政党政党ならず、政党ならんや、政党ならんや。」何にでもあてはまる。

一四三 宰我(さいが)問いていわく、仁者(じんしゃ)はこれに告げて井に仁ありと雖も、それこれに従わんや。子(し)のたまわく、何すれぞそれ然(しか)らん。君子は逝(ゆ)かしむべし、陥(おとし)むべからず、欺くばし、罔(し)うべからず。

 宰我が「仁徳ある君子たる者、井戸に人が落ちていると知らされたら、イキナリその井戸にとびこむでしょうか。」とおたずねした。孔子様がおっしゃるよう、「どうしてさようなことがあろうか。君子は人を故うに専(もっぱ)らで、己(おのれ)を忘れるから、人が落ちたと告げて井戸端までかけつけさせることはできようが、事実もたしかめず手段も講ぜずにあわてて井戸にとびこむほど無分別ではない故、だまして水にはめることはできな。道理のあることであざむかれることはあり得ようが、道理のないことでくらまされることはあり得ない。」        

 宰我は『論語』ではだいぶ評判がわるいので本章も、また愚問を出してしかられた、という風にとる人もあるが、ここはそうではなく、孔子様が世のこと人のことというと我を忘れて乗り出されるので、あるいはだまされて迷惑なさることがありはすまいかと心配して、宰我がそれとなくおいさめしたのに対し、孔子様が、大丈夫だよ、とおっしゃったのだろうと思う。

一四四 子のたまわく、君子博(ひろ)く文を芸び、これを的するに礼を以てせば、亦(また)以て畔(そむ)かざるべきか。
                                        
 伊藤博文(明治時代の大政治家)の名の出所。

 孔子様がおっしゃるよう、「君子たるもの、ひろく書を読んで文物を学ばねばならぬが、、博学なだけでは散漫(さんまん)になる故、人生の物差たる礼をもってしめくくりをつけねばならぬ。そうすれば正しい道にそむかぬようになれようか。」

一四五 子、南子(なんし)を見る。子路(しろ)説(よろこ)ばず。夫子(ふうし)これに矢(ちか)いてのたまわく、子に否なる所あらば、天これを厭(た)たん、天これを厭たん。

 「南子」は衛(えい)の霊公(れいこう)の夫人、不品行で評判の悪かったことは、前にも申した。原文「子所否者」には色々のよみ方があるようだが、一番スラリとしたよみ方に従った。「矢」をチカウとよむのは、矢を折って誓うからだろう。「厭」は「棄て絶つ」いわば絶交すること。神仏ならばバチをあてる、というところか。
                                  
 孔子様が衛の国に行かれたとき、霊公夫人の南子にまみえられたので、子路が快(こころよ)からず思った。子路のことだから、不愉快を顔に出しただけでなく、あのようなな淫婦(いんぷ))に会われるとは何事ぞと、口に出して非難したのかも知れない。そこで孔子様が誓言(せいごん)を立てておっしゃるよう、「わしにやましいところがあるならば、お前がとがめるまでもない、天道様が捨ておかれまい、天道(てんとう)様のバチがあたろうぞ。」

 これはどういう事情だったのかハッキリしないが、南子が好奇心からしきりに会見を求め、辞退しても強(し)いてうながされるので、やむを得ず参殿されたのだろう。子路はもちろん孔子様にいかがわしいことがあったと思ったのではなかろうが、世間がかれこれ言い立てるので、憤慨したものとみえる。そこで孔子様が、人は何とも言わば言え、天道様がご承知じゃ、安心せよ、と子路をなだめられたのだ。

『新薬論語』講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №37 [心の小径]

第七章 基督教国にて―慈善家の間にて 4

                       内村鑑三

  しかし余を彼の崇拝者とし忠実な学習者としたのは彼の宗教でも彼の音楽でもなかった。それは堅実に実行に移された彼の組織的思想であり、岩石突兀(とつこつ)たる、ペンシルヴァこア丘陵を徐々に征服してそれから人類の最も不幸な者たちのために盛んな植民地を作った彼のりっぱな方向をもった意志であり、約七百の狂った霊魂を支配し指導し服従せしめえた彼の管理的手腕であり、実現に彼の生涯と彼の息子たちの生涯を要するであろう微かな将来にまで拡がる彼の大きな野心であった、-これらすべてが彼を余に一の驚異と研究題目たらしめたのであるが、そのようなものは余の郷国にても他の何処にてもかつて余の見たことのないものであった。彼は当時余が悩まされていた頑固な宗教的疑惑を解くのに余を助けてはくれなかったにしても、彼は余に如何にして余の生活と宗教とを最大限に利用するか、慈善は、それがいかに高い繊細な感情をもって裏づけられていても、もしそれを悩める人類に対する祝福たらしめる明晰(めいせき)な頭脳と鉄の意志がなければ、この実際的世界にだて実際の用には僅かしか役立たないものであるということを教えてくれた。いかなる『実践神学』の課程も、この実際家の生きた模範のように、かくも十分に且つかくも印象的にこの評価すべからざる教訓を余に教えることはできなかった。彼こそは病的な宗教性(そう言えるならばに堕(だ)しつつあるところから余を救った人であった、そういう病的な宗教性に悩む人々は、
    『惨(みじ)めさを嘆く、されどどこか甘美なる孤独のなかにて、
    彼らの優雅なる愛、群なる同情を完きつつ、
    惨めなる人々を避ける』
ものなのである。ドクターは最後の時まで依然として余の友人のうちで最も信頼されうる人であった、そして年齢、人種、国籍、気風のあらゆる相違にもかかわらず、余の彼に対して結んだ愛は最も永久的のものとなった。しばしば余のニュー・イングランド・カレッヂ時代に、余の親し芸人たちのうち他の人々が余の心と頭脳について心配してくれた時に、彼は余の胃を記憶し、十分の食事を摂って元気であれと言って、しばしば余に何か実質的な援助を送ってくれたものである。そして余の帰国後にさえ、余の常道を逸した活動方法が倍仰の同じ家に属する多数の人々に余の精神的霊的健全性を疑わしめたとき、余の誠実さを正統的信仰と同棲にけっして凝わず、大洋の彼方から余に救助と声援を送ってくれたのは、彼であった。じつに余を人間化した(humanized)のは彼であった。余にもし余を教えるにただ書籍とカレッヂと神学校とがあるにすぎなかったならば、余の基督教は冷たい頑固な非実際的なものであったであろう。いかに多様な方法をもって大いなる霊が我々を形作ることよ!
 院長夫人はユニテリアンであった。故国でのあらゆる基背教文学の読み物で、余はユニテリアン主義については有利な意見はまったくわだかなかった。余はそれは異教よりさら悪いもの、その外見が基督教に似ているが故により危険なものと考えた。余は告白する、最初は余は彼女を強い疑いをもって眺めたことを。余は彼女は頭脳ぽかりで心がなく、大いなる主の御生涯の中にあるあらゆる柔和にして神聖なほど女らしくあるものに無感覚であると想像した。そして余はこの親愛な女主人の前で、ユニテリアンの教義に対する余の嫌悪を隠さなかった、余は何たる粗野な野蛮人であったろう。しかし見よ! 彼女は彼女自身のユニテリアンの原則にふさわしい行為によって、彼女が心を、じつに柔和な女らしい心を、所有することを証明したのである。余の正統信仰は余を友人とするのに彼女には何の障害ともならなかった。彼女はドクターとともにしばしば余を援助してくれた、また彼以上に、彼女の女らしい本能をもって、余の特殊の苦痛を『嗅(か)ぎ出し』、それに応じて余を慰めてくれた。彼女の最後の病気中きわめで柔和な言葉でしばしば余を想い出してくれた、そして彼女が父の聖国(みくに)にてドロテア・ディックスやその他のユ三テリアンの聖女たちの中に加わる僅か数日前にも、ピューリタンの教養を『矯正し難く』師事したのは忘れられなかった、そして彼女の異邦人に対する最後の伝道事業として、彼女は海のかなたから最も実質的な形のクリスマスの贈物を余に送り、ユニテリアン的でないことを彼女が知っている余の事業の促進を助けた。余は信ずる、かようなユニテリアン主義と和解し得ない正統信仰は「オーソドクス」すなわち「真直(まっすぐ)な教義」と称せられるに値いしないものであると。真の寛大とは、余の解するところによれば、自分自身の信仰には不屈な確信をもちながらすべての正直な信仰はこれを許容し寛容することである。余はある真理は知ることができるという余自身への信仰と、余はすべての真理を知ることができないという余自身への不信仰とが、真の基督教的寛大の基礎であり、あらゆる善意とすべての人間に対する平和的関係との源泉であるのである。もちろん余はこれらの健全な見解に一日にして回心せしめられたのではない、しかし我が尊敬すべき院長夫人が余をこの理想にまで育てあげるに大いに役立ったことは余のまったく疑わないところである。

『余は如何にして霧酢路信徒となりし乎』 岩波文庫

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