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論語 №68 [心の小径]

ニ一二 子のたまわく、われ知ることあらんや。知ることなきなり。鄙夫(ひふ)あり、われに問う。空空(こうこう)如(じょ)たり。われその両端を叩きて竭(つく)す。

                 法学者  穂積重遠

 「空空」は前(二〇〇)に出た「怪怪」と同じく、誠実の意。あるいはこれを文字どおり無知の意に解する説もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「わしが何を知るものか、何も知ってはいない。ただかりにいなか者があって、まじめにわしに物をたずねたとしたら、終始・本末・大小・上下・肺肝・厚薄のはしからはしまでを叩きつくして、知っているかぎりを残すところなく教えてやるだけのことじゃ。」

二一三 子のたまわく、鳳鳥(ほうちょう)至らず。河、図(と)を出さず、われ己(や)んぬるかな。

 「鳳鳥」は鳳凰。舜の時来儀(らいぎ)し、文王の時岐山(きざん)に鳴く、とある。
「図」は八卦(はっけ)の図。伏義(ふつぎ)の時にに龍馬(りゅうめ)(馬の八尺〔約二・四メートル〕以上なるを龍という)が図を負(お)いて黄河から出現しとある。

 孔子様がおっしゃるよう、「鳳凰も来り舞わず、河から八卦の図も出(い)でず、これ聖主名君なきしるし、ああわが道もこれでおしまいか。」

 聖主明君に遇いこれを輔佐して道を行おうというのが、孔子様の大願であったが、当時孔子を知りこれを用いる人君なく、これではわしも如何とも致しようがない、と歎息されたのである。孔子様が吉兆祥瑞(きっちょうしょうずい)を迷信されたのでないことはもちろんで、伊藤仁斎はその点を、「或(ある)ひといわく、聖人は祥瑞を言わずと、此に鳳鳥河図を言えるほ何ぞやと。いわく、これ祥瑞を説けるにあらず、鳳鳥河図を仮りて以て時に明主なきを歎ぜるなり。けだし聖人は人と与(とも)にして以て異を立てず、世と同じくして敢て聴を駭(おどろ)かさず。およそ事の大なる得失なきものは、皆旧套(きゅうとう)に従う。敢て粉粉(ふんぷん)の説を為して以て人の聴聞をみださず、鳳鳥河図は古来相伝えて以て聖王世を御(ぎょ)するの瑞(ずい)と為(な)せり。故に夫子これを仮りて以てその歎(たん)を寓(ぐう)せるのみ。」と説明した。すなわち明君なしと正面からいってしまうと、魯の君に対しては不敬となり、他の諸侯にも当り障りがある故、遠回しに聖主名君出現の吉兆がないとほのめかされたのである。

ニ一四 子、斉衰者(しさいしゃ)冕衣裳者(べんいしょうしゃ)と瞽者(こしゃ)とを見る。これを見れば少しと雖(えど)も必ず作(た)つ。これを過ぐれば必ず趨(わし)る。

 「斉衰」は第二級の喪服。第一級は「暫衰(ざんすい)」だが、ここでは一般に喪服という意味。「趨」は「わしる」とよむしきたりになっている。小腰をかがめて小走りすること。

 孔子様は、喪服をきた者と、大礼服の役人と、盲人とにであわれると、それが自分より若い人であっても、あちらがこちらの前に来る場合には必ず起立され、こちらがあちらの前を通るときには必ず小走りされた。

 孔子様が人の喪に同情し、爵位を尊び、不具者をあわれまれたことをいったものだが、喪服や大礼服に対してはともかく、盲人に対して相手に見えない札をつくすところが、孔子様だ。


『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №58 [心の小径]

第九章 基督教国にて―神学の一瞥 4

                      内村鑑三

 また霊魂回心(soul-converting)、教会員製造(church-member-making)、その他それに類した仕事の手段と方法とについては如何。手段と方法とによって基督教に霊魂を回心せしめられたものは手段と方法とによってやはり異教に再回心せしめられる。この唯物主義的時代にある我々は環境をあまりに重視すぎる。ダーウィニズムはついに基督教を回心せしめてしまったように見える。立派な合唱隊、愉快な教会親睦会(しんぼくかい)、若い婦人たちのバザー、無料のランチ、日曜学校のピクニック―およそそういうものが今や精神を維持するに重要な手段と考えられている、そして『牧公神学』の大部分はそういう仕事で占められているように見える。そしてもし洗練された修辞学が若い神学生によって「火」より以上に熱望されているとすれば―そしてその「火」さえも修辞学のためである―、そしてもし説教者の説教は火を点じ偶像を破壊する画より以上に雄弁的演劇的の見地から論ぜられるとすれば、―クリソストムが黄金の響きをもつ天からの託宣(たくせん)を述べた彼の舌を詛(のろ)い、アウガスティンが修辞学を欺瞞(ぎまん)の術として軽蔑するのももっともである。もし、批評家が我々に告げるように、聖パウロは人間のうちで最も美しい人ではなく彼のギリシャ語はギリシャ語としては最も純粋なものでなかったとすれば、もしポシュエーの雄弁とマシヨンの名文がフランス革命の猛襲を転じ得なかったとすれば、もし鋳掛け屋パンヤンと商店主ムーディがその時代の望みえたような立派な福音の真理の宣伝者となることができたとすれば、―それならば余は神学校において余の学業を修了することができなかったことを悲しむ必要はない。
 余は諸君に告げた、余が神学校に来たのはけっして聖職者免許は受けないという約束によってであったと。親しい友人のうちには余が聖職者免許を得るまで続けないで神学研究を去るのを悲しんだものもあった。余にとっては、しかし、聖職者免許は余が真剣に恐れていたものであった。そして余に対するこの新しい特権の授与について余がいだいていた恐怖がさらに大きくなったのは、その利益が神学校の壁の内部で噂されているのに気がついたときである。『牧師館つき一千ドル』、『シカゴ無政府状態についての二十ドル説教』、またそれに増したそういう語句の組合せがはなはだ不協和に余の耳に響いた。説教が豚肉やトマトや南瓜(かぼちゃ)がもつような市場価値をもつということは、少なくとも東洋的観念ではない。我々東洋人は甚だ疑い深い人種である。そうジョン・スチュアート・ミルは評し、我々をカトリック・スペイン人に比較した。そしてなんぴとをも我々は宗教を売物にするもの以上には疑わない。我々には、宗教は普通には現金に替えらるべきものではないのである。じつに宗教が多ければ多いだけ現金は少ない。我々は迷信的であるにしても、末だ宗教と経済学とを和解させることはできない。そしてもし聖職者免許が我々の宗教に市場価値を印するのであれば、幸福なるは余がそのように印せられないことである、なぜなら余はそのようにして誘惑から免れるからである。
 じつにこの有給伝道という事はまだ我々にははなはだ議論の余地ある問題である。我が異教の教師たちは自分たちの勤めに対し何ら規定の報酬を受けないのを常とした。毎年二回、その弟子たちはめいめいの力で持参できるものを何でも教師のところに持参する。金十枚から大根や人参の一束まで、かような贈物、『御礼の印(しるし)』(とそれは呼ばれていたが)には段階があった。彼らには教会税、座席料、その他そのようなもののために彼らを死ぬまで小衝(こづ)く教会執事はない。自分の肉体の維持のために全く天と自分の同胞とに頼ることができるまでに精神的訓練に十分な進歩を遂げてしまうまでは、教師は教師にして教師ではないと思われたのである。これを彼らは最も実際的な『自然淘汰(しぜんとうた))』の方法、こうしてにせ教師や時代迎合者を押しつけられる危険はないものと考えた。
 余はみとめる、人が生きるのは霊のみによってではなく、地より生ずるすべての物にもまたよることを。これは有給伝道のための一つの議論である、そして我々はこれはまったく正当な議論と考える。我々の今日の生理学は心理的の力と精神的の力を.バンと羊肉の数片から推論する、それなら何故『エネルギー可変性』の原迫にもとづいて精神を羊肉と交換しないのか。健康についての神の律法は、頭脳を働かせ心臓に負担を讃する福膏の聖職者が適当にまた相当に衣食を供せられることを要求するのである。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』岩波文庫

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論語 №67 [心の小径]

ニ一〇 子匡(きょう)に畏(おそ)る。のたまわく、文王(ぶんおう)既に没して文(ぶん))ここに在(あ)らずや。天の将(まさ)に斯(こ)の文を喪(ほろぼ)さんとするや、後に死する者斯の文に与(あずか)るを得じ。天の未だ斯の文を喪さざるや、匡人(きょうひと))それわれを如何。

                 法学者  穂積重遠

 「匡に畏る」は、後に出てくるが(二七五)、孔子様の一行が衛(えい)を去って陳蔡(ちんさい)方面に向かう途中(二五五)、匡という土地で遭難したこと。「畏」は畏るべき事件にあったということで、孔子様がこわがられたというのではない。伝説によれば陽虎(四三二)が匡で乱暴したことがあったので、匡人が今度来たらばと手ぐすねひいて待ちかまえていた。そこへ一行が通りかかったところ、孔子様の顔形がたまたま陽虎に似ていたので、匡人が兵をもってこれを囲むこと五日だったという。孔子様がそんな大悪人に似ているはずがないという議論もあるが、そんなに気にすることもなかろう。曾呂利新左衛門の言い草ではないが、孔子様が陽虎に似ていたのではなく、陽虎が孔子様に似ていたのだ、ということにしておこう。
「文」は道の形にあらわれて文をなすもの、すなわち札楽制度、「後に死する者」はすなわち「後に生るる者」であって、ここでは孔子様自身。

  孔子様が匡で大難にあわれたとき、おっしゃるよう。「文王がなくなられた後、その
名に負える文はこのわしに伝わっているとは知らぬか。もし天がこの文をほろぼそうというおつもりならば後に生れたわしがこの文に参与することはできなかったはずである。もしまた天がまだこの文をほろぽさぬおつもりならば、文の代表者たるこのわしが殺されることなどは断じてあり得ない。匡人ごときがわしに指一本でもさせようや。」

 「桓魋(かんたい)それわれを如何」(一六九)とともに、孔子様の毅然たる大勇を私たちの眼の前に活き活きと出現させる。

ニ一一 大宰(たいさい)、子貢(しこう)問いていわく、夫子は聖者か、何ぞそれ多能なるや。子貢いわく、もとより天これを縦(ゆる)して将に聖ならんとす、又多能なり。子これを聞いてのたまわく、大宰われを知れるか。われ少くして賎(いや)し。故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子多(た)ならんや、多ならざるなり。牢(ろう)いわく、子云えり、われ試(もち)いられず、故に芸(げい)ありと。

 「大宰」は官名、大官らしい。名はわからない。「牢」は門人子張の名、姓は琴(きん)、子張は字(あざな)だが、子開という字もある。

 大宰某(なにがし)が子貴に向かって、「先生はなるほど聖人でもあろうか、何と多能なことよ。」と言ったので、子頁が「先生は元来天の許せるところでほとんど聖人の脇に達しておられ、その上に多能であられます。」と答えた。孔子様がこれを聞いておっしゃるよう、
 「大宰はわしのことをよく知っておられる。わしは若い時賎(いや)しかったので、つまらぬことに多能なのじゃ。元来君子の君子たるゆえんが多能なことであろうか。否、君子はけっして多能でない。」それについて子張も言った。「先生が、わしは世の中に用いられなかったので多重になったのじゃ、と言われたことがある。」

 大宰は多能だから聖人だと思い、子頁は、聖人であることと多能であることとは別問題だが、先生は聖人にしてかつ多能なのである、と述べ、孔子様は、謙遜と同時に多芸多能はけっして聖人君子たるゆえんにあらざることを語られたのである。

『新薬論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №57 [心の小径]

第九章 基督教国にて―神学の一瞥 3

                     内村鑑三

  十二月五日 各人ノ生涯ニハ神ノ予(あらかじ)メ定メ給ヒシ一種ノ語形変化表(パラダイム)アリ。彼ノ成功ハ、此の語形変化表(パラダイム)と自己ヲ一致セシメ、ソレニ及バザルコトナク、ソレヲ超エザルコトナキニアリ。其処ニノミ完全ナル平和アリ。彼ノ心身ハソノ中二歩ム時二最モ善ク有利二用ヒラルルナリ。野心(アンビション)の欠乏ハ彼ヲソレニ達セシメザルコト屡々アリ、彼ハ己ガ能力ヲ傾倒シテソノ事業ヲ成就(じょうじゅ)セシムルコトナクシテ此ノ世ヨリ去ル。他方ニハ、野心有リ余リテ彼ヲシテソレヲ跳ビ越サシメ、ソノ結果ハ五体ヲ毀(そこな)ニ死ヲ早ム。人ノ選択力(自由意志)ハ此ノ語形変化表(パラダイム)ヲ自己ニ合致セシムルニアリ。一度自己ヲソノ流二投ゼンカ、彼ノ費ス努力ハモハヤ彼ヲ前進セシムルコトニアラズ、タダ流ノ中二彼ヲ止メ置タコトノミ。コノ流ノ中ニアル如何ナル祝福モ之ヲ取レヨ、享受(きょうじゅ)セヨ、然レドモ其処ヨリ歩ミ出デテソレヲ追求スベカラズ。コノ流ヲ妨グル如何ナル障害(しょうがい)ヲモ冒(おか)シテ進メ、神ガソノ途ヲ定メ給へル以上、ソノ障害ハ揺(ゆる)ギナ山岳タルコトヲ得ザレバナリ。ソレニ拘(かかわ)ラズ、汝自身二頼ルコト勿(なか)レ。神ハ汝ノ流ヲ定メ給へリ、彼ハマタ汝ノ為二船長ヲ定メ給へリ。『汝彼二聴ケヨ!』

  十二月廿九日 余ハ神学ヲ研究シツツアルヲ今ナホ他人ノ前二恥ヅルコトアルヲ恥カシク感ズ、実ハ、世俗ノ心ヲ抱ク者ハ如何ナル学問ニツキテモソノ精神的半面ヲ見ルコト能(あた)ハズ、而シテ勿論「パン」ト「バター」ノタメニ伝道ストノ考ハ彼等ニハ極度二卑劣ト思ハルルニ相違ナシ。福音ノ真ノ伝道者トナルトイフコトノ責ノ自己犠牲タル所以(ゆえん)ハ、ソノ自己犠牲ガ人類ノ多数者ニハ自己犠牲ノ如クニ見エザル事実二存スルナリ。然り更ニソレハ彼等ニハ最大ノ卑劣ノ如ク思ハルルナリ。実際的ノ慈善トソノ他ノ善行トハ然ラズ。ソレ(神学ノ研究)ヲ犠牲ト考フル人々ヨリハ能フ限リソレヲ隠スコト、而シテソレヲ卑劣ト考フル人々ノ前ニハソレヲ告白スルコト、― 嗚呼(ああ)、然り、基督信徒ハコノ世ニテ相当ノ荊棘(いばら)ノ途(みち)ヲ歩マザルベカラズ。実ニ、狭キハ十字架ノ子二定メラレシ途ナリ。父ヨ、人々ノ前二余ノ公然ト汝ヲ拒ムヲ許シ給へ、而シテ余ノ天職二更二大ナル勇気ト確信トヲ与へ給へ。

 しかし余は余の神学研究をこれ以上継続すべきでなかった。過去三年間のはげしい精神的緊張は余の神経に落着きを失わしめ、きわめて怖しい慢性不眠症が余を捉えた。急速、催眠薬、祈祷はついに無効であった、そして今や余のために開かれている唯一の途は故国に通ずる途であった。余は神学を去り、そして異郷流鼠(りゅうざん)の間に得た獲物が何であれ、それを携えて帰国すべきであった。
 更にそれ以上の黙考は、しかし、かかる摂理の命令の知恵と道理を余に示した。アメリカの神学校は、明白にアメリカの教会のために青年を訓練するために設立されているので、同国と事情を異にする伝道地に赴かねばならぬ者を訓練するに最適の場所ではない。旧新約聖書の註解的研究以外は、これらの神学校で教えられている多くのものは、これを省いても、伝道地で実際に働く人々の用から多くを減ぜずにすむかもしれない。牧会神学、歴史神学、教義神学、組織神学が我々に無意義なのではない、人間の知識のいかなる部門も基督信徒の知る必要のないものはないことを我々は真面目に信ずるからである、しかし問題は比較的な重要さの問題である。けっして懐疑的なヒユームや分析的なパウルと我々は取り組むべきではない、しかしインド哲学の精緻、シナ道徳家の非宗教性、それとともに新興の意気は物質的であるが根本観念は精神的である新生諸国家の混乱した思想と行動と取組むべきである。西洋の基督信徒によって用いられる普通の語義での『教会』は、余の国人のあいだには全く知られていない、そしてこの制度が、たとえ他の諸国にて疑いなく価値あるものであるにしても、余の属する国民のあいだにいくらかでも安定の望みをもって植えつけられうるかどうかは、いまなお重大な問題である。我々がその国民生活二千年のあいだに慣れてきた道徳的宗教的教授方法は、テキストによる説教、講壇からの演述という方法ではない。我々には徳育と知育のあいだに何らの差別はない。学校は我々の教会である、そして我々はそこで自分の全存在を育て上げるものと思われている。宗教の専門といいう観念は我々の耳にはきわめて奇異に、また反撥的にさえ響く。坊主は我々にあるにはあるが、彼らは本来は寺の番人であって、真理と永遠的真実との教師ではない。我らの遺徳的改革者はすべて、文字と学問を教えたと同時に霊のことを教えた、教師であり、『先生』であった。『知識は義の道を放すが故に価値あり、吾人がその習得に従うは、以て本職の道学先生となる為にあらず。』そう言ったのはあの奇行ある異教的日本人高山彦九郎であった、そして彼こそは彼のような多くの者とともに遺徳、政治、その他諸般に渉(わた)りあの島帝国がかつて目撃した最も壮大にして最も高貴な改革を成し遂(と)げた人であった。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №66 [心の小径]

ニ〇六 子罕(まれ)に利を言う。命(めい)と与(とも)にし、仁(じん)と与にす。

                 法学者  穂積重遠

 孔子様は稀(まれ)に利のことを言われた。そしてそれを言う場合にも、利だけを言うと誤解が起ることをおそれて、常に天命のことまたは仁のことと組み合わせて言われた。

 「子罕に利と金と仁とを言う」と普通によむが、命はともかく、仁に至っては「まれに言う」どころではないから、前記のよみ方を採った。これは荻生徂来の説だという。
                           
ニ〇七 建巷党(たつこうとう)の人いわく、大(おおい)なるかな孔子。博(ひろ)く学びて名を成す所なしと。子これをを聞きて門弟子に謂いてのたまわく、われ何をか執(と))らん。御(ぎょ)を執らんか、射(しゃ)を執らんか。われは御を執らん。

 「達巷」は「党」の所在地名。「覚」は前にも出たが、五百家の隣保集団。

 達巷のある人が「偉大なるかな孔子様は。博学で何でもおできになるため、何か一つで有名ということがない。」と言った。孔子様がこれを開いて内弟子たちにおっしゃるよう、「それでは何か一つやってみようかな。卸にしようか。射にしようか。わしは御にしよう。」

 古註に「達巷党の人、孔子の大なるを見、その学ぶ所のもの広きを意(おも)い而してその壷一善を以て名を世に得ざるを惜む。」とあるが、「惜む」というよりは、むしろほめたのだろう。ところが孔子様はわざとそれを、いろいろかじるが一つも物になっていない、という悪口の意味にとり、それでは礼・楽・射・御・書・数の六芸のうちを何か一つ専門にやって、「名取り」にでもなってみようか、礼楽はむずかしいし、書数はめんどうくさい、まず射か御といぅところだろうが、一番下等な御ぐらいがわしに相応(そうおう)なところだろう、と言われたのであって、謙遜の言葉だが、同時に内弟子たち相手のじょ、つだんと見るべきだろう。

ニ〇八 子のたまわく、麻冕(まへん)は礼なり。今や純(いと)にするは倹なり。われは衆に従わん。下(しも)に拝するは礼なり。今上(かみ)に拝するは泰(たい)なり。衆に違(たが)うと雖もわれ下に従わん。

 孔子様がおっしゃるよう、「麻の冠が古礼だがそれは製作に手数がかかるので、今では絹糸(けんし)にすることになった。古礼には違うが簡素でよいから、わしは皆のするように絹糸の冠を用いよう。臣下が君主に対してはまず堂下で拝するのが古礼なのを、今ではイキナリ堂上で拝することになったが、それは僭上沙汰(せんじょうざた)だ。皆のやり方とは違うがわしは堂下で拝しよう。」

 孔子様は必ずしも古礼だから何でもよいといわれるのではなく、事のよろしきに従われるのである。

ニ〇九 子、四つを絶つ。意なく、必なく、固(こ)なく、我(が)なし。

 「意」は自分の料簡(りょうけん)で物事をおしはかること。「必」はぜひこうあらせねばならぬときめてかかること。「固」は一事にこだわって融通のきかぬこと。「我」はただ我れあるを知って他人を考えぬこと。

 孔子様は、意と必と園と我との四つを絶ち物にされた。

 すなわち、独善なく、先入主なく、固執なく、我意(がい)なく、真に円満な人格者たらんことをつとめられたのである。


『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №56 [心の小径]

第九章 基督教国にて—神学への一瞥

                    内村鑑三

 九月十八日 日曜日 神学ハ其ノ中二何一ツ現実的実際的ナルモノナキ学問ナリトスレバ、学ブノ価値ナキモノナリ。然レドモ真ノ神学ハ現実的ナル、然り如何ナル他ノ学問ヨリ更二現実的ナル、或者ナリ。医学ハ人ノ肉体的苦痛ヲ軽減ス、法学ハ人ト人トノ市民的関係ヲ取扱フ、然レドモ神学ハ肉体的疾患(しっかん)ト市民的不秩序ノ其原因ヲ検討ス。真ノ神学者ハ当然ニ理想家ナリ、然レドモ夢想家ニアラズ。彼ノ思想ノ実現ハ幾世紀ノ未来ニ存ス。彼ノ事業ハ完成二無限ノ歳月ヲ要スル大建築物ニ一二個ノ煉瓦(れんが)ヲ貢献スルこ似タリ。彼ノ其二従事スルハ、タダ正直ニシテ忠実ナル事業ノ決シテ失ハルルコトナキヲ信ジテノミ。
                                        
 九月十九日 神学ハ小人二理解セラルルニハ余リニ大ナル題目(だいもく)ナリ。小人ハ斯カル巨大ナル題目二対シテ自己ノ余リこ小ナルヲ知ルヤ、自己ノ小二適スル自己自身ノ神学ヲ建設シ、自己以上ニヨク其ヲ理解スル者二呪詛(じゅそ)ヲ放ツ。鳴呼、我ガ霊魂ヨ、神学ヲ汝ノ小二適セシムベク縮小スル勿(なか)レ、汝自身ヲ其ノ大二適セシムべク拡大セヨ。
                     
 十月十二日 復習室二於ケル職業ニムシロ嫌悪(けんお)セリ。我等ハ新約聖書註解二於テハ地獄ト煉獄ニツイテ、護教学ニ於テハ等シク非実質的ナル問題ニツイテ、議論セリ。無精神ノ神学ハ凡テノ学問ノ中ニテ最モ乾燥無味ニシテ最モ無価値ナルモノナリ。重大ナル問題ヲ論ジツツアル間二笑ヒ戯(たわむ)レツツアル学生ヲ見ルコトハ殆ド慄然(りつぜん)タルモノアリ。彼等ガ真理ノ根底ニ達シ能ハザルハ怪シムニ耐へズ。千歳ノ岩ヨリ生命ラ引キ出スハ最大ノ熱心ト真剣サヲ必要トス。

 十一月二日 余ハ『ネバナラヌ』ヨリヨリ高キ道徳ヲ求メツツアリ。余ハ神ノ恩恵ヨリ来ル遺徳ヲ渇望(かつぼう)シツツアリ。然シカカル道徳ハ人類ノ大多数ニヨリテ拒否セラルルノミナラズ、神学校ノ学生ト教授ニヨリテ信ゼラルルコト甚ダ少キガ如シ。余ハ此ノ神聖ナル壁ノ中ニテハ、外側ニテ聴ク所ノモノヨリ何等新シキモノ、異ナレルモノヲ開カズ。孔子ト仏陀トハ、是等ノ神学者ガ僭越ニモ異教徒二教へントシソツアル所ノ最大部分ヲ余二教へ得ルナリ。

 十一月七日 此ノ世ハ何者ゾヤ。ソハ怨恨(えんこん)ト軋轢(あつれき)ノ遍満セル舞台ナリ。不信仰対基督教、「ロマ・カトリック」教対「プロテスタント」教、「ユニテリアン」教対「オルソドックス」(正統信仰)—人類ハ一部分ハ他ノ部分二対立シ、一部分中ノ一区分ハ同一部分中ノ他ノ区分二対立シテ其ノ天幕ヲ張り、—各自ハ他ノ誤謬ト失敗トニヨリテ自己ヲ利セント試ミツツアリ。タダ編入ガ信頼シ得ラレザルノミナラズ、人類ハ全体トシテ蝮(まむし)の裔(すえ)、人間嫌悪者、「カイン」ノ末裔ナリ。鳴呼我ガ霊魂ヨ、主義トイフ主義ヨリ離レヨ、ソレガ「メソヂスト」主義デアレ、組合主義デアレ、或ハ他ノ如何ナル高尚二響ク主義ナリトモ。真理ヲ求メヨ、汝自身ヲ一個ノ人間ノ如クニ振舞へ、人々ト絶テ、而シテ汝ノ上ヲ仰ギ見ヨ。

 十一月十八日 「デーヴィツド・ヒユーム」伝ヲ読ミツツアリ。余ノ宗教的熱心ハ此ノ鋭キ哲学者ノ冷静ナル心二接触シテ冷却セシメラル。然レドモ余ハ喜ンデ余ノ宗教的経験ヲ厳格ナル科学的方法ニテ検セントス。余ハ『哲学的夢想国ノ蜃気楼(しんきろう)』中二住シツツアルニ非(あらざ)ルコトヲ知的二確カメント欲ス。コノ形而下的学問進歩ノ時代こ、「アナテマ」(呪詛・じゅそ)ヲ以テ懐疑者ヨリ免レント欲スルモ無益ナラン。宗教ハ客観化セラレ、『触フルべキ』モノ、科学的ニ解セラルベキモノトセラレザルベカブズ。然レドモ噫(ああ)! 余ハ余ノ周囲二同ジ旧キ途ノ踏マレツツアルヲ見ル、各自如何ニシテ『教区民ノ大好キ』ナル善良ナル老牧師ヲ真似シテ他ヲ凌駕センカト試ミツツアルナリ。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №55 [心の小径]

基督教国にて—進学の一瞥 2

                    内村鑑三

 ルーテルもまた、よし普通の牧師ではなくても、牧師ではなかったか。あの勇敢な偶像破壊者ジョン・ノックスは牧師にして神学者ではなかったか。世界の最も偉大な勇士の幾人かもまた神学の恩慮深い研究者ではなかったか。余の理想の紳士にして基督信徒なるジョン・ハムプデン、よし彼は英国人であっても、—彼の英雄的行為はその深い神学的確信の結果ではなかったか。ガス.バール・ド・コリニー、—彼の神学は彼の愛するフランスの大改新計画を立てるにあたって彼に何の価値もなかったか。もし神学が遊戯であり、世界の最大の嘘つきと偽善者との魔法使いの盃であったとしても、それはまた世界の最も偉大な知力の使用であり、また世界の最も高額な霊魂の鍛錬者ではなかったか。もしその語源が示すように、神学(Theology)は神の学であるならば、いかなるアダムの真の子らがこれの敬慶な研究を辞退することができるか。神の宇宙についてのいかなる学が神学でないのか。そして神の学に導かれなければ人間のいかなる行為が正しく且つ真であり得ようか。おお我が霊魂よ、なんじはそれならば神学生となれ。それを偽善者と霊的薮医者(やぶいしゃ)の手から救え、ダビデがペリシテ人の手から神の箱を救ったように。その学それ自身はあらゆる学の中にて最も高貴なものである、ただ『異教徒』の手にそれを放置してわく人間が悪いだけである。
 霊的経験の日々に増し加わる現実感が、余を助けて余がかつて神学に結びつけていた空虚さと非実用性との観念をことごとく駆逐(くちく)せしめたのである。じつに余は余の神学整心の理由が判った。もし米や馬鈴薯(ばれいしょ)が現実であるように霊が現実であるならば、何故に神学を軽蔑して農業を賞讃するのであるか。もし穀物を生長させて余自身と余の飢えている同胞とを神の大地の果実をもって養うことが高貴であるならば、彼の御霊を我らの飢えている霊魂のものとするため彼の律法について学び、それによってより高貴により男らしくされることが、何故に卑むべきであるか。ただ穀(から)と藁(わら)だけを産し、そしてそれを本当の麦と米であるとして公衆に与える農業をば、我々は軽蔑(けいべつ)し馬倒(ばとう)する。そういうものはじつに農業(Agriculture)などというものではない、それは岩業(Rock・Culture)であり砂業(Sand・Culture)であり、現実には何人をも養わないものである。それゆえに余が罵っていた神学(Thology)は非神学(No Theology)なのである。それは霊の代りに風を、説教の代りに修辞学を、音楽の代りに音響を与える悪魔学(Demonology)であったのである。神学は実質的であり、食べられ飲めるものである、-—それが与える水から飲む者は誰も渇くことはなく、それが与える肉を食べる者は誰も飢えることがないほど、それほど実質的、それほど栄養的である。神学を恥じるか。しかり、なんじは永久に非神学を、悪魔学を恥じよ、それが神学校その他の機関で教えられても。しかし本当の神学は、何処で教えられても、なんじはこれを誇るべし。貧者と飢餓者の救援のため昌分の朽つべき富を惜しみなく献げたジョージ・ピーボディとスチーブン・ジラードの名を尊敬する世界は、我々の宗教的思想を組織化して善を為すことと神に仕えることとをほとんど科学的可能事としたネアンデル、ユリウス・ミュラー、その他そういう種類の人々の名をあがめ続けるであろう。『心は神学の中心なり』と教会史の父は言った、そして心がなくてただ胃だけのものは、その外に立つべきである。
 かように信じて、余は神学を学ぶべく余の心を決した、しかし一つ重要な条件をつけた、そしてそれは余はけっして聖職者免許を受けないであろうということであった。余は心の中で言った、『主よもし、貴神(あなた)方が私をレヴェレンドとなることを強制したまいませんならば私は神学を学ぶでありましょう、もし基督教国のあらゆる神学を取り入れることに成功しましても、私は二重のDによって示されたあの重々しい称号を私の名に加えないでありましょう、貴神は私を私のこの最後の犠牲のためにそれから免除してくだきらなければなりません』と。彼は言いたもうた、よしと、そして余はその同意に基づい三神学校に入学したのである。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №65 [心の小径]

二〇三 子のたまわく、大なるかな堯(ぎょう)の君たるや、巍巍(ぎぎ)乎(こ)たり。ただ天を大なりと為す。ただ堯これに則る。蕩蕩(とうとう)乎として民能(よ)く名づくるなし。巍巍乎としてそれ成功あり。煥(かん)乎としてそれ文章あり。

                        法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「さてさて大いなることかな、堯の天子様掛りは。実にりっばなことじゃ。およそ唯一の大きなものは天だが、堯のみが天と肩をならべる。その広大無辺なること、何と名のつけようもない。ただ見るところは高くそびえるその事業と、光りかがやくその礼楽制度とのみ。」

 伊藤仁斎の左の解説が要領を得ている。
 「言う心は、民堯の徳化に涵育(かんいく)して、而してその徳化の然(しか)る所以(ゆえん)を知らず。なお人天地の中に在りて、天地の大いなる所以を知らざるが如きなり。ただその見る所のものは、功業文章の巍然(ぎぜん)煥然(かんぜん)たるのみ。」

二〇四 舜に臣五人有りて天下治まる。武王いわく、われに乱十人有りと。孔子のたまわく、才難(かた)しと、それ然らずや。唐虞(とうぐ)の際ここにおいて盛んなりと為す。婦人有り、九人のみ。天下を三分してその二を有(たも)ち、以て殷(いん)に服事す。周の徳はそれ至徳と謂(い)うべきのみ。

 「乱臣」の「乱」は「治」だという。変なことだが、昔はこういう逆な用法もあったらしい。「唐虞」は堯舜のこと。堯は陶唐(とうとう)氏、舜は有虞(ゆうぐ)氏。

 舜には賢臣が五人あって天下が治まった。武王は、自分には乱を治める重臣が十人ある、と言った。それについて孔子様がおっしゃるよう、「人才は得難し、という古語があるが、なるほどそうではないか。堯舜以来周が人材あることにおいて一番盛んだったが、十人のうち一人は女で男は九人だった。しかしともかくもそれだけの人材があったので、天下の三分の二までがその勢力下にはいったが、それでもなお殷に臣として事(つか)えていた。文王時代の周はまことに徳の至極なものといってさしつかえない。」

 「天下を三分して」以下は別章だという説もあるが、前記のごとく解すれば意味が通る。孔子様がしきりに文王をはめる裏には、臣として君を討った武王にあきたらざる気持が含まれている。

二〇五 子のたまわく、禹(う)はわれ間然(かんぜん)する所なし。飲食を菲(うす)くして孝を鬼神に致し、衣服を悪しくして美を黻冕(ふつべん))に致し、宮室(きゅうしつ)を卑しくして力を溝洫(こうきょく)に尽す。禹はわれ間然する所なし。

 「黻」は前掛(まえかけ)、「冤」は冠、共に祭祀用。

 孔子様がおっしゃるよう、「禹王にはわしも非の打ちようがない。自身の食事は軽少にして祖先の祭の供物を豊富にし、「ふだんぎ」は粗末にして祭服をりっぱにし、御殿を質素にして灌漑(かんがい)水路に全力をそそいだ。禹王にはわしも非の打ちようがないわい。」


『新訳論語』 講談社学術文庫

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論語 №64 [心の小径]

一九九 子のたまわく、師摯(しし)の始め、関雎(かんしょ)の乱(おわり)、洋洋(ようよう)乎(こ)とし耳に盈(み)つるかな。

                          法学者  穂積重遠

 「師摯」は魯の楽師の摯という人。「始」は楽の名目(みょうもく)で「四始」といい、「関雎」がその第一段だとする説もあるが、簡単な説に従って文字通り「始め」のこととした。
「乱」は終曲、曲調が変るから「乱」というのだという。能の「猩猩(しょうじょう)の乱れ」などというのも、あるいはここからきたのだろう。

 孔子様がおっしゃるよう、「楽師摯(し)の演奏する関雎(かんしょ)の曲は始曲からけっこうだが、殊に終曲が美しく盛んで、曲終って後も密教がゆたかに耳にみちていることかな。」

 これも孔子様が音楽鑑賞家であることを示す一節である。

二〇〇 子のたまわく、狂にして直ならず、洞(どう)にして愿(げん)ならず。控控(こうこう)として信ならずんば、われこれを知らざるなり。

 「狂」は気位のみ高くして思慮行動粗雑なこと、その代りそういう人は正直なもの。「洞」は無知、その代り律義なのが普通。「控控」すなわち無能な人は概して信実。

 孔子様がおっしゃるよう、「気位が高いくせに不正直であったり、ばかなくせにずる かったり、無能な上に不まじめだったりしては、わしも手がつけられぬわい。」

 漱石のいわゆる「行徳のまないた」で、ばかですれていては、全くとりえがない。

二〇一 子のたまわく、学は及ばざるが如くするも、なおこれを失わんことを恐る。

 孔子様がおっしゃるよう、「学問は逃げる人を追いかけても追いつき兼ねるような気持であっても、なお取り逃しそうな心配がある。」

 「学問は坂に車を押すごとし、油断をすればあとに戻るぞ。」
 追いかけるといえば、江戸笑話に「追いかける名人あり。ある時盗人を追いかけてゆく。
むこうから友達来り、なんだなんだ。どろばうを追いかけてる。その泥棒はどれだ。アレあとから来る。」というのがある。追いつかなくてはならぬが、目標を飛び越して先走りしてしまっても困る。

二〇二 子のたまわく、巍巍(ぎぎ)乎(こ)たり、舜禹(しゅんう)の天下を有(たも)つや。而して与(あずか)らず。

 孔子様がおっしゃるよう、「高大なことかな、舜や禹が天下をりっばに治められたことは。そしてご自身は関係のないようなお顔をしてござる。」

 いわゆる無為(むい)にして治まる徳治の理想をあらわしたものである。


『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №54 [心の小径]

   第九章 基督教国にて ― 神学の一瞥 1

                                 内村鑑三

 長く続いた恐しい争闘の後であった、余が終(つい)に屈して神学生となったのは。余が武士の家に生れたことは前に諸君に話したが、武士はすべての実際家とともにあらゆる種類の衒学(げんがく)と感傷主義とを軽蔑するのである。そしていかなる部類の人間が通例、坊主(ぼうず)よりさらに非実用的であるか。彼らがこの忙しい社会に提供する商品は、彼らが感傷と称するもの ― 世の中で最悪の怠け者にでも製造し得るあやふやな無用物(no-thing)― であるが、彼らはその代りに食物、衣服、その他現実的実質的価値ある物を得る。それゆえ我々は坊主はお慈悲によって生きていると言う、そして剣はお慈悲よりもより名誉ある生存の手段である、と我々は信じたのである。
 坊主となることがすでに悪い、しかも基背教の坊主となることは余の運命の終りであると考えたのである。余の国のような異教国にては、基督教聖職者は直接にか間接にか外国人によって支持されていて、何かしらの外国人監督の支配下に置かれている。真のドイツ人にしてイタリー人やフランス人の坊主に文配されることに甘んずるものが一人もないように、真の我が国人にしていかなる種類の外国勢力にも拘束されることに甘んずるものは一人もない。「自由放任」(Laissez faire)や「或物に或物を」(Quid pro quo)のような経済原則の助けを求めて、この国家的名門に対する良心的な顧慮(こりょ)から自分自身を解放することは卑劣である、そして我々の国家的独立に対する危険でさえある、と我々は考える。思想はコスモポリタン(全世界的)である、我々はあらゆる国々のあらゆる人々によって教えられることを喜ぶ、しかり感謝するのである。しかしパンはそうではない。実際には、心の束縛は束縛のうちで最も危険な種類のものではない、しかし胃のそれはそうであるのである。フランスはフレデリック大王の心を束縛した、しかしドイツをフランスの統治から救ったのは彼であった。プロシアはヴォルテアの胃を束縛した、そして見よ、彼の悲惨と堕落とを。物の分野におけるコスモポリタン(全世界)主義はつねに有害な主義である。
 かくして余の場合には基督教の坊主たることは二重の性質の束縛を意味した、そして余自身のための名誉と余の国のための名誉とは、余に基督教聖職者の仕事に入るといういかなる考えをもいだかしめずに来たのである。じつに余が初めて基督教の信仰を受けるように勧められた時にいだいた最初のまた最大の恐れは、彼らが余を坊主に仕立てるかもしれないということであった。
 そして後に宗教的事業における余の熱心が余の基督信徒の友人たちの注意をひき、この人生における余の使命はおそらく伝道であろうと彼らに思わせた時、余は誓いをし拳を固めて彼らの暗示を拒否した。職業的牧師を余は心の底から嫌悪した、そして友人の誰であっても余にそれになることを勧めるもののあった時には、余は全く気ちがいであった。
 しかし坊主たることに対するこの終生の偏見は、程度の高い高潔な牧師たちとの接触によって大いに緩和せられた。余のニュー・イングランドのカレッヂの総長先生は牧師にして神学者であった。余が洗礼を受けたメソヂスト聖職者は最も敬慕すべき性格の牧補であった、そして余は主階級に対し例の痛罵(つうば)をほしいままにした時、いつも彼を例外とした。余の聖書註解の先生F博士、我々のカレッヂ附き牧師B博士、その他、― 彼らはみな牧師であって詐欺師や法螺(ほら)吹きではなかったのである。牧師は時には社会の最も有用な一員である、社会は善き聖職者を有するために金を払うものである。彼らはここでこの地上で或る事を、そして幾多の場合には偉大な事を、為しつつあるということを、余は知るようになった。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №63 [心の小径]

一九七 子のたまわく、篤(あつ)く信じて学を好み、死を守りて遠を善(よ)くす。危邦(きほう)には入らず、乱邦(らんぽう)には居らず。天下道有ればすなわち見(あら)われ、道無ければすなわち隠る。邦(くに)道有りて貧しく且つ賎(いや)しきは恥なり。邦道無くして富み且つ貴きは恥なり。

                           法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「道を信ずること固く、学を好んで道を求め、学び得たる 正しき道は命にかけても守り通さねばならぬ。これが人の身の立て方である。乱れんとするきざしある国には入らず、既に乱れたる国にはおらず、天下に道義が行われている場合には出でて働き、天下に道義が行われぬ場合には隠れて出でぬ。これが人の世に処し方である。したがって道ある国にありながら用いられずして貧賎(ひんせん)なのは恥ずべく、また道なき国に用いられて富貴なのも恥である。」

 初二句はわが国にも通用する金言だが、第三句以下は中国戦国時代の話だ。当時諸侯の国がならび立ち、魯の人だから魯の国に仕えねばならぬというわけではないのだから、危邦だの乱邦だの道があるのないのというよりごのみができるのであり、また乱世ならばいわゆる傍観者(ぼうかんしゃ)である方が賢明だとされる。しかしわが国にしてもまた今日の中華民国にしても、単一無二の現代的国家として、入るも去るもあり得ず、邦道あればもちろん、邦道なくばなおさら全力をつくして道ある国とせねばならぬのである。

一九八 子のたまわく、その位(くらい)に在らざればその政(まつりごと)を謀(はか)らず。

 ここの「政」は必ずしも「政治」とは限らず、「仕事」というほどの意味。

 孔子さまがおっしゃるよう、「各人その分を守るべきであり、その地位にいない者がその仕事に口出しせぬがよい」

 これは局外者が無責任な批判や干渉をするなというのであって、当時の中国にはいわゆる「処士横議(しょしおうぎ)」の弊が甚だしかったからの警告である。天下国家を憂いての正論は、その位置職業、ないし男女長幼を問わず許さるべきである。も一度『大功記』十段目を引けば、「女わらべの知る事ならず」とどなりつけるのは、光秀の封建思想である。また役所などがこの名言を逆用して独善になりセクショナリズムになっては困る。
 安井息軒(そっけん)いわく、「これ在位者の尉めに言うなり。その田を舎(お)きて人の田を芸(くさぎ)るは、古今の通弊(つうへい)なり。ここを以(もっ)てみだりに思慮を費(ついや)してその職荒(すさ)む。孔安国(こうあんこく)云う、『各(おのおの)その職に専一ならんことを欲す』と。各の字昧うべし。」第三五八章に重出。

『新訳論語』 講談社学術文庫
                                        

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №53 [心の小径]

第八章 基督教国にて ― ニューイングランドのカレッヂ生活 11

                                  内村鑑三

 余のカレッヂにおける知識的収穫といえば、それは甚だ僅かなものにすぎなかった、或は少なくともそれは余が霊において得たものと比較してそう思われたのである。その心が自分の霊魂の救拯にかくまで奪われ、肉体の維持について考えるところの少なかった一学生は、その勉学に多くの進歩を為すことは期待され得ない。しかしカレッヂは余を甚だ寛大に、じつに惜し気なく遇してくれた。余は選科生としてそれに入り、したがってそれと何ら有機的関係にあずかる資格を与えられていなかったのであるけれども、彼らは余を養子とし彼女の純粋な息子たちに伍する一つの地位を余に与えた、そして学生たちはそのように余に授けられた名誉のために三度のエールを余に与えた。このようにして余は、余の宗教と祖国のためのみならず、余の母校(alma mater)のためにもまた、気高く立派に生くべきものとされたのである。『カレッヂ精神』は、野球場の外にあっては、高貴にして基督教的な感情でsる、それは忠実に遵守されればそれだけで彼女乃『息子たちを煽動政治(デマゴギズム))、衣服崇拝、人面恐怖、此の世における種々様々なる卑怯卑劣(ひきょうひれつ)に近づけないようにするに十分であろう。余は余のカレッヂの精神を解して、高貴な独立、あらゆる種類の空虚なショーの勇敢な軽蔑、真理への忍耐強い敬虔(けいけん)な探求、反頭脳的宗教(anti- head- religion)という言葉の意味での正統信仰であるとする、それは洗練された異教主義ではない、『最大のプロバビリティー(蓋然性)』の宗教ではない、野卑な十九世紀式の『成功』ではない。余はかような奉仕すべき満足さすべき母をもうひとり与えられたことをきわめて感謝するものである。願わくは余が彼女の名と栄光にふさわしく生きんことを!
 余は夏期休暇の長い二カ月間、今やその騒々しい居住者の去った寄宿舎に独りとどまり、来るべき秋に神学校に入学する準備をした。こうして過した時は余が余の生涯でこれまでもった最善のものであった。静穏(せいおん)な独居、美しい自然の環境、余のうちに神の霊の不断の臨在、過去と未来とへの回想、― じつに全丘は美化せられて我が神の家、シオンとなった。ここに当時の幸福な日々の一つの記録がある、―

  八月廿七日 晴レタル気持ヨキ日。―静穏ナリ。屡々甚ダ淋シク感ズ、然レド余ハ余
ノ神二頼ル。余ハ余ノ霊魂二問へリ、神モシ余ノ生命ヲ今直チニ取去り給パパ汝ハ如何ニナスヤト。霊魂答へテ日ク、『縦(たと)ヒ彼余ヲ殺シ給フトモ余ハ喜バン。神ノ聖旨ハ、縦ヒ余ハ滅サルルトモ、必ズ実行セラルベシ。聖メラレタル霊魂ノ喜プハ唯ダ神ノ栄光ノ揚ルコトノミ、自身ノ成功ニアラズ』ト。

  九月十二日 Aニオケル最後ノ日。―甚ダ印象的ナル日。余ハ過去二年間此処ニテ遭遇(そうぐう)セル多クノ争闘ト誘惑ヲ思へリ。余ハマタ神ノ御助力ニヨリ余ノ罪ト弱点ヲ克服セル多クノ意気揚々タル勝利ト、彼ヨリ来リシ多クノ輝カシキ啓示トヲ思へリ。実こ、余ノ全生涯ハ新シキ方向二向ケラレタリ、其処ニテ余ハ今ヤ希望ト勇気トヲ以テ進ミ得ルナリ。願ハクハ神ノ最モ優レシ祝福ノ此ノ潔メラレシ丘二伴ハンコトヲ!― 訣別(けつべつ))ヲ告グべク総長二面会ニ赴(おもむ)ケリ。何時モノ如ク、余ハ此ノ尊敬スル人ノ前二立ツヤ涙ハ眼二溢レ、余リニ多クノ言フべキコトアリシガ故ニ、唯ダ甚ダ僅カヲ言ヒシニ過ギザリキ。彼ハ余二若干ノ忠告ヲ与へタル後、余ニ一百弗ヲ手交シ、余ノ今後ノ生産ノ援助トナサシメ、然ル後二豊カナル祝福ヲ以テ余ヲ去ラシメタリ。涙ハ我ガ眼二迸(ほとばし)リ出ヅ、余ハ啜(すす)リ泣キツツ二三ノ言葉ヲ彼二語レリ。主ハ知り給フ、イカバカリ余ハ其ノ人ヲ想へルカヲ。彼ハ余二凡テノ事ヲ為セリ、而シテ今ヤ教育、卒業証書、及ビ他ノ多クノ物ヲ受ケタル後、余ハ金、、弗ヲ、彼ノ言ニヨレパ『差引勘定』トシテ、携へ去ルナリ! 鳴呼、我ガ霊魂ヨ、主ガ汝二金銭ト恩恵ヲ託シ給ハン時ハ、必ズヤ汝ノ財布ト心トヲ貧シキ者、悩メル者二惜シミナク開ケヨ。― 余ガ自室二帰リ来リシ時、三羽ノ燕ノ室内二迷ヒ入レルヲ見出セリ、夜ハ暗クシテ戸外ハ大荒レナリシガ故ナリ。彼等ハソノ翼ヲ狂気セルゴトク壁二打チハタキヌ。余ハ柔(やさ)シク物怖ヅル被造物ヲ捉へタリ、而シテ暗黒ノ中二彼等ヲ放ツヲ危プミシト雖(いえども、余ハ敢(あえ)テ余ノ室内二彼等ヲ留メ置カザリキ、彼等ハ余ノ存在ヲ怖レタレバナリ。カクシテ宇宙ノ父ノ慈愛深キ護リニ委ネテ、余ハ彼等ヲ放チ遺(や)リヌ。

 次の日、余は余のカレッヂ町(タウン)を去った、そして余の神学校に来たのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №62 [心の小径]

一九二 子のたまわく、詩に興(おこ)り、礼に立ち、楽(がく)に成る。

                           法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「詩によって人心を感奮興起(かんぷんこうき)せしめ、礼により節制して確立するところあらしめ、さらに音楽によって美化完成する、これが教化の順序である。」

 詩で始め、楽で終るところ、孔子様なかなかもっていわゆる輩先生でない。

一九三 子のたまわく、民はこれに由(よ)らしむペし、これを知らしむべからず。

 孔子様がおっしゃるよう、「人民にはこれに由るべき立脚地を与えねばならぬ。ただ知識を与えただけではだめじゃ。」

 『論語』中に今の若い人に評判のわるい二章がある。その一つが本中である。(他の一つは四五六)。すなわち本章は民を愚にすべしとする秘密王義、専制政治の暴露だと非難攻撃されるのであるが、私はそうは思わない。「知らしむべからず」を「知らせてはいけない」とせずに、「知らせただけではいけない」と解したらどんなものだろうか。そして「由る」というのは、抽象的理論ならぬ具体的実践であって、人民に道義実践の規準を与えよ、というのである。
 近ごろはやりの「自由」なども、無軌道脱線(むきどうだっせん)の得手勝手でないことはもちろんの話で、「自暴自棄」に対する「自らの由りどころ」である。すなわち各人を理屈倒れでない足の地についた自由の民たらしめよというのが孔子様の真意だ、といったら間違っているだろうか。あるいは「べし」「べからず」は「可能」「不可能」だという解釈もある。それでも通る。

一九四 子のたまわく、勇を頼みて貧を疾(にく)めば乱す。人にして不仁なる、これを疾むこと甚だしければ乱す。

 孔子様がおっしゃるよう、「血気の勇を好む者が貧をきらってそれを免(まぬか)れんとあせると、取り乱して悪逆をなすものぞ。他人の不仁をにくむはよいが、その憎悪の念が度を過ごすと心の平静を失って自身不仁に陥るぞよ。」

 「乱」の字が二つあるが、前のは自身が取り乱すこと、後のは人を取り乱させること、というのが専門家一致の解釈のようだ。すなわち人の不仁を追窮(ついきゅう)することあまりに甚だしいとその人を自暴自棄に陥(おちい)らしめるというのだ。しかし私は文章の続きからみてもまた意味のおもしろさからみても、自分が取り乱すこととみる方がよいと思って、前記の新解釈をあえてした。ご批判を願いたい。

一九五 子のたまわく、もし周公の才の美あるも、騎(おご)り且つ吝(やぶさ)かならしめば、その餘(よ)は観(み)るに足らざるのみ。

 ここの「吝」は、金銭上のことよりも、むしろ他人の美を成すを好まざるやぶさかさである。

 孔子様がおっしゃるよう、「たとい昔の周公のような才能の美しさがあっても、自らその才能にはこって他人に才能あるをきらうようなケチな量見であったら、それ以外のいかなる美徳も問題にならぬ。」

一九六 子のたまわく、三年学びて穀に至らざるは、得易(えやす)からざるのみ。

 ここの「三年」も必ずしも年を限ったわけではなかろうが、「三年も」というくらいに言っておいてよかろう。「穀」は官吏の俸給、穀物による支給だからかくいう。「至」は「志」の誤りだとの説もあるが、「至」でも通ずる。

 孔子様がおっしゃるよう、「三年も学問して仕官の気を起さぬ易学舎は、めずらしい。」

 門人たちは、必ずしも生活問題のためではなかろうが、学び得たところを乱世に施(ほどこ)したい気持で、仕官を急ぐ者が多かったとみえる。そこで孔子様は、子張をさとしたり(三四)、漆雕開(しっちょうかい)をほめたり(九七)して、就職のための学問であるな、としきりにいましめられる。


『h新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №52 [心の小径]

第八章 基督教国にて ― ニュー・イングランドのカレッヂ生活 10

                                内村鑑三

 四月十五日 朝ノ祈禱― 余ノ貴神(あなた)二来ルハ、余ノ清浄潔白ニシテ愛スベキモノナルガ故ニアラズ。余ノ貴神二来ルハ、貴神ニヨリテ満(みた)サレ、カクシテ更二熱心二貴神二祈り、更ニ此ノ世ヲ愛シ、更二貴神ノ聖言(みことば)ト真理トヲ教へラレ得ンガタメナリ。貴神ノ余二要求シ給フハ、貴神ニヨリテ生キ、凡テノ善ト慈愛ト愛ノ源泉ナル貴神ヲ所有センコトナリ。従順、忠信、純潔ハタダ貴神ヨリノミ来ル、而シテ余ハ如何二奮闘努力スルトモ之ヲ産出スルコト能(あた)ハズ。貴神ガ貴神ノ律法二対シテ従順ヲ命ジ給フハ、我々ガ独カニテ其ヲ為シ得ルガ故ニアラズシテ、我々ガ自己ノ無能力ヲ意識スルニ至ルコトニ依リテ、責神ノ許二乗リテ貴神ヲ所有センガタメナルナリ。貴神ノ我々二律法ヲ与へ給ヒシバ、其レガ我々ヲ貴神ノ許二伴ヒ行カンガタメナリ。サレバ鳴呼、主ヨ、余ノ全然タル無能力ト堕落トヲ認ムルガ故ニ、余ハ貴神ノ許二到リテ、貴神ノ生命ヲ以テ満サレントス。余ハ潔カラズ、余ハ貴神二余ヲ潔メ給ハンコトヲ祈ル。余二何等ノ信仰アルナシ、貴神ガ余二信仰ヲ与へ給へ。貴神ハ善其自身ニテ在(い)マシ拾フ、而シテ貴神ナクシテ余ハ全ク暗黒ナリ。見ヨ、余ノ汚穢(おわい)ヲ、貴神ガ余ヲ余ノ咎(とが)ヨリ潔メ給へ。アーメン。

 四月廿三日 基督信徒ノ祈禱ハ、其ノ願望ガ神ノ特別ナル執成ニヨリテ完ウサレンコトヲ求ムルモノニ非ズ。其ハ実ハ永遠ノ霊トノ交通ナリ、ソレ故二役ハ神ガ既二其ノ御心ノ中二有シ給フモノヲ祈り求メシメラルルナリ。カカル態度ヲ以テ捧ゲラレシ凡テノ祈禱ハ聴カルべシ、マタ聴カレザルぺカラズ。基督信徒ノ祈禱ハ、ソレ故ニ、一ツノ預言ナリ。

 これはじつに余の旧い異教的の祈禱観に対する著しい進歩である、そしてこの異教的祈禱観は遺憾ながら基督教的経輪のもとにおいて依然として多数の人々によって抱かれているのである。余は想像した、そして多数の人々は今なお想像している、自然の法則そのものも逆転せられうるほど神は我々の祈禱をもって左右せられ得たもうと。そうではないのである、わが霊魂よ。常に善を意味する彼の重心になんじの意志を合致せしめよ、そうすればなんじは太陽の遅行するのを止めてそれからより多くの光線と快楽を得ようとする不可能な祈禱に一心不乱となることをやめるであろう。

 以上のような回想をもって、余のニュー・イングランドのカレッヂ時代は終りに達した。余はそこに重い心をいだいて入った、そして余の主なる救抵主にある勝利の誇りをもってそこを去った。その時いらい余はなお多くを学びなお多くを知った、しかしただ余のカレッヂの古典的な丘の上で知ったことを確証するにすぎなかった。余はそこで、故国で洗礼を受けてから的十年の後に、本当に回心させられた、すなわち向きかえさせられた、のであると信ずる。主はそこにて余に御自身を現したもうた、特にかのひとりの人を適して、 ― 鷲(わし)のような眼、獅子のような顔、小羊のような心の、余のカレッヂの総長を通して。余のうちにある御霊、余の前にある模範、余の周囲にある自然と事物は、遂に余を征服した。もちろん完全な征服は生涯にわたる事業である、しかし余は自分自身を征服するにもはや余の空(むな)しい努力に頼らず、そのためには宇宙の大能力に訴えるにいたるまでに、立て直されたのである。此の世のひとりの小さい神、― 彼は全能の力それ自身によってのみ征服せらるべきものである。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №61 [心の小径]

一九〇 曾子(そうし)いわく、以(もっ)て六尺(ろくせき)の孤を託すべし、以て百里の命を寄すべし。大節(だいせつ)に臨んで奪うペからず。君子人(くんしじん)か、君子人なり。

                           法学者  穂積重遠

 「六尺」は周の寸法で、わが四尺三寸余〔約、一三〇センチ〕に当るという説もあり、尺は年齢で、二歳半が二尺だという説もあるが、いずれにしても十四、五歳の年少者ということになる。「百里」は百里四方の諸侯の国ということだが、面積の問題ではなく、つまり「一国」ということ。

 曾子がいうよう、「安心して幼弱(ようじゃく)のみなしごの将来を頼める人、心配なく一国の運命をまかせ得る人、そして危急存亡(ききゅうそんぼう)の大事に当って心を動かさず度を失わぬ人、そういう人こそ君子人ではあるまいか、まさに君子人である」

 本章は「託孤寄命章」といって、『論語』中でも特に有名な一段だが、これが「日に三たびわが身を省(かえり)み」「戦戦兢兢(せんせんきょうきょう)、深淵に臨むが如く薄氷を履(ふ)むが如く」死してしかして後(のち)免るることを知る謙抑(けんよく)慎重な曾子の言葉として、特に意味伸長なるを覚える。加藤清正が豊太閤没後に人に語って、前田利家晩年儒学に志し、浮田秀家・浅野幸長及びわれを招いての話の中で、論語託孤寄命章を挙げた。われ当時学ばず、その何の識たるを解しなかったが今にしてこれを思えば、ほぼ悟るところがある、今の時に当りてこの語を念とせざる者、おそらくは不忠不義に陥らん、と言った。その後玉をいだいて虎穴に入るごときかの二条城の会見を終って無事大阪に帰城したとき、自邸の奥の間に入った清正は、かくし持った豊公賜うところの短刀を懐中から取り出して押しいただき、今日はじめて太閤鴻恩(こうおん)の万分の一に報い得たりと感泣したという。
 これは推知らぬ者なき物語だが、ここに人多く知らずして私がたまたま知るの因縁ある一史実がある。私の祖先は伊予国宇和島藩伊達家の家臣であったが、祖先の同僚に八十島治右衛門群親隆なる侍があった。藩の財政が非常な窮迫(きゅうはく)に陥った際奉行に任ぜられてその立直しを担当し思い切った財政緊縮大増税とを立案実施したので、たちまち士民両面の怨府(えんぷ)となり、猛烈な非難排斥を受けたが、少しも斟酌(しんしゃく)するところなくその所信を断行し、最後までがんばり通してみごとに財政整理に成功した後、自身はあらかじめ一家断絶の処置をとった上で、従容として腹かき切った。けだし君国のためとはいいながら藩士と領民とに当面の犠牲を強要した全責任を一身に負い、一死これをあがなったのであった。かくしてその家は久しく絶家になっていたが、後の藩公がその功績をおもい孤忠をあわれんで、命じてその家を再興させたのが今の八十島家であって、私の家とは永年の別懇(べっこん)であったが、最近さらに縁あって近親となったのである。   
 かくして前に清正あり、後に親隆あり、曾子をして知らしめたならば、かれはもって六尺の孤を託すべし、これをもって百里の命を寄すべし、中国の諸葛孔明のみならず、日本にも君子人あるかな、と讃嘆(さんたん)するであろう。しかして私は特に国歩艱難(かんなん)、人心不安の今日の日本において、大節に臨んで奪うべからざる君子人出(いで)よと熱望切願せざるを得ない。
 ついでに広瀬淡窓(「君は川流を汲め我は薪を拾わん」の詩人)の「加藤公の廟に謁す」を書いておこう。
  寸木支え難し大厦(たいか)の頽(くず)るるを
  丹心死に払るまで未だ曾って灰とならず
  遺孤(いこ)託すべし真の君子
  夙(つと)に曾参(そうしん)の一語を誦(そらん)じ来る

一九一 曾子いわく、士は以て弘毅(」こうき)ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以ておのれが任と為す、亦重からずや。死して而して後己む、亦遠からずや。

 ここに「士」とは、学問あり見識ありて道に志す者の称。

 曾子が言うよう、「士たる者は、度量が大きくして意志が強くなければならぬ。負担すべき責任が甚だ重くして前途がきわめて遠いからである。その任ずるところは至高最大の徳たる仁である。実に重いことではないか。そしてその重任が死ぬまで続く。まことに遠いことではないか。」

 本章もまた有名な本文であるが、私自身にとって特別な意味があるのは、すなわち「重遠」なる名の出典だからである。私の名は渋澤栄一祖父がつけてくれたのであって、この全文を横額に書いてもらい、またはからずも手に入れた藤田東湖先生大書の「任重而道連」の五文字を板にきざんだものを愛蔵していたが、昭和二十年三月十日未明の米機空襲により家を焼かれた時、居室にかかげてあった額は焼失し、書庫に入れてあった板はのこった。越えて八月十日、東宮大夫兼東宮侍従長の大任を拝し、十三日に奥日光湯元なる行啓先に着任して、翌々八月十五日側近に侍立して終戦大詔の玉音御放送を拝するという歴史的の御奉公始めをし次第であるが、その御放送中真に思いも寄らず「任重くして道連きを念(おも)い」のお吉葉を承り、時も時、折も折、全く電気に打たれたごとく身も心もしびれる心地がして、生れて六十二年、初めて祖父命名の深意を感得したことである。よって昭和二十年十二月二十三日の皇太子殿下御誕生に当り、爾来念々忘れざる衷情を謹詠して奉祝に代えた。
   任重く道は遠しのみことのりけふをことはぐ心にしめむ

『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №51 [心の小径]

第八章 基督教国にて - ニュー・イングランドのカレッヂ生活9

                                  内村鑑三

  一八八七年一月五日 夜、F博士ヲ訪問シ、若干ノ金銭上ノ援助ヲ乞フ。実二火ノ如キ試練ナリキ。余ハ殆ド余自身ヲ制シ能ハザリキ。然レド彼ハ余ニ対シテ甚ダ深切ナリキ、彼ハ余二若干金ヲ与フルコトヲ約セリ。

 余は試練を延ばしてきた、そしてクリスマス休暇の間に自分の努力によって余からそれを除こうと試みた。じつに必要は余を駆って一二回或る田舎の教会で余自身を馴らされた犀のショーとしたのである、しかしなお少なからざる不足が残った。ディレンマはいまや、余がアメリカ基督教に税金を課すか、あるいは余の寄宿舎のおばさん ― 彼女は最近寡婦(やもめ)になった気のいい婦人である ― に借金をしたままにしておくかにあった。この恐ろしいディレンマにあっていた間に摂理は余に一つの援助を送った、じつに余が期待したような食べられるマナの形においてではなく、一つの思想においてであった、そしてその思想はそれいらい余には評価し難い価値あるものとなった。あの眠気を催す時刻のこと、余が取り上げた古雑誌の中で余の眼は次の一句を捉えた、アメリカの最愛の詩人の一人アデレイド・A・プロクターの作であった、―
 『愛のために至誠の心をもって
   惜しまず与うる人は大なり、
  されど愛のために臆せず物を受くる人は
   さらに大なる人と称えん。』
 この歌に力をえて、余はもういちど勇を鼓して博士のもとに赴き、余の問題をたとえ顫(ふる)えながらでも彼の前に示し、そのようにして火のような試練を通過したのである。数日後彼はその約束を果した、それは余が彼と町の郵便局のまん前で会った時のことであった。夕暮近くで、人は人を弁ずることができなかった。かの善き人は余に近づき、二三の深切な言葉をかけ、余のポケットの中に何物かを押し込み、そして直ちにこつこつと歩み去った、世界を暗黒と余とにゆだねて。 ― 肉体上の必要を補われて、余はもういちど霊的真理の真珠を得るために沈潜したのである。

 二月五日 暗、寒シ。霊ノ世界ニモ亦寒き日アリ。余ハ余ノ心ヲ温(あたた)メ、余ノ他人ニ対スル愛ヲ増シ、余ノ祈祷ヲ更ニ熱心ナヲシメントス、サレド斯カル努力ハ寒空ニオケル炭火ノ如タニシテ、僅カニ部分的二又夕一時的ニ有効ナルニ過ギズ。サレド一タビ霊ノ快(こころよ)キ暖風吹カバ、如何二余ノ愛ヲ暖ムルノ容易ナル、如何ニ余ノ祈祷ノ熱ヲ帯(お)ブル、マタ如何ニ快活ニシテ満足ヲ感ズルノ容易ナル! 我々ノ側ニテ如何二努力スルトモ我々ハ依然トシテ憐レナル罪人ナリ。我々ヲ純潔、神聖ナルシムルニハ自然ノ援助来ザルべカラズ。

 あの刺すようなニュー・イングランドの冬はきびしく余に感ぜられた、それは余の肉体に及ぼす刺すような働きのためよりは(余はまもなくそれに慣れるようになったから)、余の高価な石炭をそれが消費する勢いのためであった。寄宿舎の建物の煉瓦そのものが、貧乏学生のストーヴから彼がそれによって体を温めないうちに熱を吸収してしまった。しかしこの気候上の現象のなかに何か霊的な教訓もまたあるのではないか。歓喜なき部屋は神の霊の去った時の余の心である、それはどれほど我々が熱しても依然として冷たくある。バーミューダズ島の方角から来るあの快い風は彼の霊である、それが吹けば万物を解かし、そして貧乏学生を石炭代の心配から救う。吹けよ、葺おお天来の微風よ、そして凍結を余の心中にても他の何処にても止(や)めしめよ。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №60 [心の小径]

一八七 曾子(そうし)疾(やまい)あり、門弟子(もんていし)を召していわく、わが足を啓(ひら)け、わが手を啓け、詩に云う、戦戦兢兢(せんせんきょうきょう)として深淵(しんえん)に臨むが如く薄氷を履(ふ)むが如しと。今よりして後(のち)われ免るるを知るかな。小子(しょうし)。

                           法学者  穂積重遠

 「詩」は『詩経』小雅小旻篇。
 「戦戦」は恐懼(きょうく)の形、「兢兢」は戒慎(かいしん)の姿、俗にいえばビクビクすること。

 曾子が病気危篤(きとく)の時に、弟子たちを呼び集めて言うよう、「かけぶとんをとりのけて、私の手をあらためて見よ、私の足をしらべて見よ。かすりきず一つあるまいがな。深い淵のへりに立って落ち込むことを恐れるごとく、薄い氷を渡って割れはせぬかと心配するごとく、戦々兢々として言行を用心する、という古い詩があるが、私は父母から受けたこのからだをきずつけぬようにと後生大事に身を守ってきた。まずまず無痕(むきず)であの世に行ける次第、今日はじめて責任解除じゃ。安心して死ねる。喜んでくれ、若人たちよ。」

 『孝経』によると、曾子は孔子様から
「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く、敢て毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり。」
と教えられたのだが、その教えを戦々兢々として実行したのである。そして、からだすら然(しか)り、いわんや心と行いとにおいてをや、であることもちろんだ。あるいは曾子がこれをもって弟子たちに孝を教えようとしたのだという説明もあるが、それまで言わない方が味がある。骨子自身うれしくてうれしくてたまらず、弟子たちに話さないではいられなかったのだ、ということにしておきたい。
 曾子の臨終については、『礼記』(檀弓上篇)℃こういう小話が出ている。病床としていた「すのこ」はかねて大夫(たいふ)季孫子(きそんし)から贈られたものだったが、重態に陥ったのち、看病の童子が何心なく、これは大夫でもつかえぬりっぱな品だ、と言ったのを聞き、季氏がこれを持っていたのさえ僭上非礼(せんじょうひれい)なのに、自分がそれを用いたのは相済まなかったと気がついて、息子の曾元(そうげん)に「すのこをとりかえよ」と命じた。なにぶんにも危篤の際なので、そのままにしておきたいと思ったが、曾子は、君子たる者正を得て斃(たお)るれば本懐なりとてきかなかったので、やむを得ず床をしきかえたが、曾子は別のすのこの上にうつされると、すぐに目をつぶったという。

一八八 曾子(そうし)疾(やまい)あり。孟敬子(もうけいし)これを問う。曾子言いていわく、烏のまさに死なんとするやその鳴くこと哀(かな)し、人のまさに死なんとするやその言うこと善(よ)し。、君子、道に尊(たっと)ぶところのもの三つあり。容貌(おうぼう)を動かしてはここに暴慢(ぼうまん)遠ざかり、顔色(がんしょく)を正しくしてはここに信に近づき、辞気(じき)を出(いだ)してはここに鄙倍(ひばい)に遠ざかる。籩豆(へんとう)の事はすなわち有司(ゆうし)存せり。

 「孟敬子」は魯(ろ)の大夫(たいふ)仲孫子(ちゅうそんし)、名は捷(しょう)、武伯(ぶはく)の子。「籩豆」は祭り供物を盛るたかつきのようなもの。「籩」は竹製、「豆」は木製、おそらく「豆」の字の形に似たうつわなのだろう。

 曾子の病が危篤なので、大夫孟敬子が見舞いに来たところ、曾子がこれに向かって言うよう、「古語に『鳥のまさに死なんとするやその鳴くこと哀し、人のまさに死なんとするやその言うこと善し。』とありますが、これは私の最後の言葉でござりますから、どうかそのおつもりでお聞きくだされませ。およそ人の上に立つ者が道を行って国を治めるにつき、たっとぶべきことが三つあります。態度挙動が荒々しさやじだらくさから遠ざかるよう、心の誠を顔色にあらわして裏表のないよう、言葉づかいが野卑(やひ)不合理にならぬよう、この三つがたいせつでござります。祭の供物台のならべ方などは、それぞれ係の役人がありますから、さような事務的なことはまかせておかれてよろしかろうと存じます。」

 名君とか賢大夫とかいわれる人が、とかく根本を忘れてコセコセと末節の世話をやくことを得意がる気味があるので、こう言ったのであろう。

一八九 曾子いわく、能(のう)を以て不能に問い、多きを以て寡(すくな)きに問い、有れども無きが若(ごと)く、実つれども虚しきが若く、犯せども校(はか)らず、昔者(むかし)わが友かつて事にここに従えり。

 「友」とは誰のこととも言っていないが、顔回(がんかい)であろう。曾子の同門中、回以外にはこの文句に当る人はあるまい。

 曾子が言うよう、「才能がありながらま無能だと思って才能のない人にも問い、見聞が広いのになお無知だと考えて見聞の狭い人にもたずね、道あって道なしと恥じ、内容充実しつつ空虚を感じ、横車を押されても取り合わない。これは物我(ぶつが)の隔(へだ)てのないよほど練(ね)れた有徳人(うとくじん)でなくてはかなわぬことだが、亡友顔回はそれのできた人であった。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №50 [心の小径]

第八章 基督教国にて ― ニュー・イングランドのカレッヂ生活 8

                               内村鑑三

 十二月廿三日 勘定書(かんじょうがき)ノ支払方法二就キテ甚ダ思ヒ悩メリ。
 読者諸君の中にはこれらの月日の間に余が如何にして生計を得たかを知りたいと思われる方があるかもしれない。種々の方法をもってである。余のペンシルヴァニアにおいて得た所得は、余の拙(つたな)いベンをもってした小さな物語とともに、余のカレッヂ生活の最初の一年間はどうやら余を楽にさせてくれた。余の聖書註解の先生である親愛なるF博士はかつて余のポケットに彼の一友人からであるとて一百ドルを投じ、そして困った時には『また来るように!』と言ってくれた。そのころ余は、言うのは恥かしいことであるが、約五六回余自身を馴らされた犀のショーとし、その方法で余は多くはなかったが若干のものを与えられたのである。ここに基督教国アメリカに敬意を表して言わせてもらいたいことは、異教徒回心者にして自分の国人の間の福音の伝道者となろうと申し出る者には、この国では普通にはその肉体的の必需品、しかり快楽について、何の困難もないということである。しかし、ここに偽善がしのびこむ、そしてトルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、インド人、ブラジル人、シナ人、日本人で、じつ自分の神より自分の腹を愛する者が、馴らされた犀を装い、そのようにして狡猾にアメリカ人基督信徒の親切心に甘えることがある。そしてときどき本国の教会はその『見境のない愛心』について伝道地の宣教師に注意される。自分たちのところに滞在していた間に宿所を与え教育を与えてやったそれらの回心者は、その福音を帰国の途上で海中に投じ、政府の仕事か或いは何か他の悪魔の仕事に入り、そして自分たちの異教徒の国人たちの前に基督教国を誹謗(ひぼう)することまでさえするということを彼らは聞かされるのである。
 しかしそのことは良心的の回心者が除きたいと思う最悪の嫌疑(けんぎ)ではない。彼はその故国に帰り、彼が基督教国においた愛心によって学んだ福音を述べる。彼の国人は彼とそ福音を何と言うか。何だ、と彼らは言う、『あの福音は金になるのだ』、そして彼らは彼とその福音を罵倒(ばとう)する。憐れな回心者よ! 彼は、彼の同胞をキリストのものとして獲得するためには、自分が他のいろいろな犠牲によって受ける資格を与えられている基督教的愛心そのものを犠牲にすべきである。
 そういう事情のもとでは、独立は、最小限に言っても、思慮あることである。そして余
はできるだけそれに固執しようと決心した。何より第一に、余は経費を最小限度に切り下げ、余の食物と衣服とに不足しているいかなる栄養も心地よさも、これを新鮮な空気と神の霊とから得ようと試みた。余のカレッヂ時代の最初の十八ヵ月間は事はほとんど余の計画どおりに運んだ。しかしいまや、このニュー・イングランドでの余の二回目のクリスマスに、余は長いあいだ一枚のグリーン・バックも一片の『イン・ゴッド・ウィー・トラスト』も見ていなかったのである。余は熱烈に天からの本物のマナを祈り求めた、しかしそれは来なかった。余は親愛なF博士の目薬を思い出した。余は再び祈った、心を決した、そして雪と湿地の茂みとのなかを辿って彼の家へ行った。おお、いかに道がその夜は長く思われたことよ、それは数町にすぎなかったのであるけれども! ついに余は彼の門の前に来た、そして彼の書斎の明りを見つめた。余は入って援助を求めようか。十分(じっぷん)の長い間、余は雪の中に立っていた、思案しつつ。もし余の国人が余は余の宗教で生活したと言えば、どうだ? 余の心はうなだれた。余はそれ以上進むことができなかった。『待て』と、余はついに余自身に言った、そしてもう一度余は寂しい歩みを余の部屋に向って転じた、いまやカレッヂの全丘上にただ一つ明りの灯(とも)っている部屋に。余は二つの利益の重さを量(はか)った、そして飢餓(きが)は余の国人と他の国人との両者による誤解にまさることがわかった、―福富のために。

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論語 №59 [心の小径]

一八三 子のたまわく、君子は坦(たいら)かにして蕩蕩(とうとう)、小人は長(とこし)えに戚威’せきせき)。

                        法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「君子は心が平静で様子がのびのびしている。小人はいつでもコセコセビクビクしている。」

 君子は何事も道理に従って行動し、損の得のということに心がわずらわされない故、どんな逆境に立っても泰然自若と落ちついており、小人は常に外界に支配されるので、心にゆとりがなく、足るを知らず乏(とぼ)しきをおそれて絶えずあくせくしている、大そうな相違じゃ、というのだ。「坦かにして蕩蕩」で孔子様の温容を思い浮べると同時に、「長えに戚戚」でわれわれ自身のみじめな姿がかえりみられる。

一八四 子温にして厲(はげ)しく、威(い)ありて猛(たけ)からず、恭にして安し。

 孔子様の感じを申そうならば、春風のあたたかさの中に秋風のきびしさをふくみ、威厳があっていかつからず、ていねいで楽楽してござる。

 中和を得た聖人の威風と温容とが眼前に浮きあがるような気がするが、殊に「恭にして安し」がよい。礼儀正しくして窮屈にならぬところが孔子様のねうちだ。
                                        
一八五 子のたまわく、泰伯はそれ至徳と謂うべきのみ。三たび天下を以て譲り、民得て称する無し。

 泰伯は周の大王の長子で、仲雍(ちゅうよう)・季歴(きれき)の二弟があり、李歴の子の昌(しょう)(後の文王)が徳があったので、大王は位を末子の季歴に伝えて昌に及ぼしたいという考えであった。そこで泰伯は父の志を察して、弟の仲雍と共に国を去り、南蛮の地に隠れた。
 
 「三たび天下を以て譲る」とあるので、三回の事績を挙げる説明もあるが、回数の意味
ではなく、固く譲ったというのであろう。また譲ったのは諸侯の位だが、結局は自分の系統が天子になる幸運を棄てたというところで、「天下」といったのだ。

 孔子様がおっしゃるよう、「泰伯の徳は至徳と称するべきかな。義によって固く天下を譲ったが、それがまた他人の口のはにのぼらぬほどに暗々裏に行われたのは、えらいものじゃ。」

 伊藤仁斎が左のごとく説いたのは、要領を得ている。

 「清貧の心、皆天下の為めにして己が為めにあらず。泰伯の季歴に譲るは、けだし斯の民の為めに計るなり。その後文武の道大いに天下に被(おお)えり、民ひそかにその賜(し))を受く、しかも実は泰伯の徳たるを知らず。これ夫子のその至徳を歎ずる所以なり。」

一八六 子のたまわく、恭にして礼なければすなわち労す。慎にして礼なければすなわち葸(し)す。勇にして礼なければすなわち乱す。直にして礼なければすなわち絞(こう)す。君子親(しん)に篤(あつ)ればすなわち民仁に興(おこ)り、故宮遺(わす)れざればすなわち民偸(うす)からず。

 「労」は困苦。「葸」は畏懼(いく)。「乱」は乱暴、「絞」は急迫。
 前段と後段とは何ら意味の連絡がない。別章だったのが、「子のたまわく」が落ちたのだろう。後段は骨子の言葉だという説もあるが、証拠はない。

 孔子様がおっしゃるよう、「人に対してうやうやしいのはけっこうだが、それれが礼に
かなったていねいさでないと、骨折損でかえって人にあなどられる。事に当って慎み深いのはけっこうだが、礼から出た謹慎さでないと、臆病者の形になる。勇気のあるのはけっこうだが、礼で調節しないと乱暴になる。率直なのはけっこうだが、礼のかざりがないと冷酷になる。」またおっしゃるよう、「人の上に立つ者が親族に手厚ければ、人民に仁愛の心がおこり、古なじみを忘れずに優待すれば、人民が軽薄でなくなる。」

『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №49 [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニュー・イングランドのカレッヂ生活 7
                                内村鑑三

 十一月廿六日  「デーヴィッド・プレーナード」ノ墓ヲ訪フ。

 十一月廿八日  「デーヴィッド・プレーナード」ノ伝ヲ読ム。彼ノ日記ヲ読ミテ、余ハ余ノ日記ヲ読ミ、ツツアルカノ如クニ感ジタリ。『凡テノ余ノ困難ヲシテ耐へ難カラシムルモノハ、神ソノ聖顔ヲ我ヨリ隠シ給フコトナリ』ト彼ノ言フ箇所二来リシ時こ、余ハ泣カザルヲ得ザリキ。シカシ余一人ガ唯ダ内外ノ棘(とげ)ヲ以テ神二試練セラルルニ非ザルコトヲ思ヒテ、甚ダ慰メヲ得タリ。彼ノ如キカカル祝福セラレ試練ヲ経(へ)タル人々ト共ニ天二於イテ有スル彼ノ快キ交際(まじわり)ヲ相望セリ。

 十二月四日 朝、総長ノ「クラス」ニテ、余ハ如何ニシテ基督教ヲ真理トシテ信ズルニ至リシカヲ語レリ。余ハ如何にシテ『道徳的分離』ノ和解ヲ唯ダ「キリスト」ニ於イテノミ見出スニ至リシカヲ正直二且ツ率直ニ「クラス」ニ語レリ、而シテ余ノ言ヲ『余ハ他二為スコトヲ得ズ、神ヨ余ヲ助ケ給へ』トノ「ルーテル」ノ語ヲ以テ結べリ。実ニ、神ハ余ヲ助ケ給へリ、而シテ余ハ其日終日、何力正直ニシテ良心的ナル事ヲ為シタリシコトヲ感ジクリ。鳴呼、我ガ霊魂ヨ、汝ハ唯ダ神ガ汝二為シ給ヒタル事ノ『証人』ニ過ギザルコトヲ弁(わきま)へヨ。汝ノ小ナル知識ガ汝ノ心二描キシモノヲ世ニ宣(の)プべキニ非ズ。主二信頼セヨ、而シテ彼ノ義ニヨリテ救拯(すく)ハレヨ。

 我らの総長先生は、すべて真の基督信徒のように、深き尊敬をもって 『異教徒回心者』を見た。(余はこのことを余自身の経験から言うのである。)彼は余に語った、一八五九年のはじめ貴君の国人の一人の一基督信徒が、一夜を余の屋根の下で過した、私は『異邦人が福音を聞いた』という事実の厳粛さに捉えられて、夜じゅう眠ることができなかったと。余は彼が我々回心せる異教徒に不当な価値を付しているのではないかと思いさえした、それは余がかつて彼に率直にこう告げなければならないほどであった、私が基督信徒であることのために私に提供せられるいかなる援助もそれはどうあってもわ断りしなければなりませんと。しかし、余はいつも喜んで彼のクラスと祈祷会において彼のいかなる役にも立とうとした、余は彼が余を馴らした犀(さい)の見本として用いようとしていないことを知っていたからである。その朝、余は何ら親代々の感化なしに如何にして基督教を余の信仰としていだくに至ったかを告白することになっていた。余は全く率直にそれを行った、そしてそうしたためにいっそうよかったと感じた。

 十二月五日 神ノ摂理ハ我ガ国民ノ中ニアラズベカラズトノ思想にオリテ多大ノ感動ア受ケタリ。モシ凡テノ善キ賜物ガ彼ヨり出ヅルナヲバ、然ラバ我ガ国人ノ称讃スベキ国民性ノ中二至高(いとたか)キ処ヨリ来リシモノも亦夕アルニ相違ナシ。我々ハ我自身二特有ノ天賦ト賜物ヲ以テ、我々ノ神ト世界トニ仕(つか)フべク試ミザルペカラズ。神ハニ十世紀間ノ鍛錬ニヨリテ遠セラレタル我ガ国民性ガ、米欧思想二ヨリテ全ク置キ換へラルヲ欲シ拾ハザルナリ。基督教ノ美ハ神ガ各国民二与へ給ヒシ凡テノ特殊性ヲ聖(きよ)メ得ルコトナリ。福(さいわい)ニシテ奨励的ナル思想ナル哉(かな)、日○○モ亦タ国民ナリトハ。


『余は如何にして基督信徒とナrし乎』 岩波文庫


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