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論語 №63 [心の小径]

一九七 子のたまわく、篤(あつ)く信じて学を好み、死を守りて遠を善(よ)くす。危邦(きほう)には入らず、乱邦(らんぽう)には居らず。天下道有ればすなわち見(あら)われ、道無ければすなわち隠る。邦(くに)道有りて貧しく且つ賎(いや)しきは恥なり。邦道無くして富み且つ貴きは恥なり。

                           法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「道を信ずること固く、学を好んで道を求め、学び得たる 正しき道は命にかけても守り通さねばならぬ。これが人の身の立て方である。乱れんとするきざしある国には入らず、既に乱れたる国にはおらず、天下に道義が行われている場合には出でて働き、天下に道義が行われぬ場合には隠れて出でぬ。これが人の世に処し方である。したがって道ある国にありながら用いられずして貧賎(ひんせん)なのは恥ずべく、また道なき国に用いられて富貴なのも恥である。」

 初二句はわが国にも通用する金言だが、第三句以下は中国戦国時代の話だ。当時諸侯の国がならび立ち、魯の人だから魯の国に仕えねばならぬというわけではないのだから、危邦だの乱邦だの道があるのないのというよりごのみができるのであり、また乱世ならばいわゆる傍観者(ぼうかんしゃ)である方が賢明だとされる。しかしわが国にしてもまた今日の中華民国にしても、単一無二の現代的国家として、入るも去るもあり得ず、邦道あればもちろん、邦道なくばなおさら全力をつくして道ある国とせねばならぬのである。

一九八 子のたまわく、その位(くらい)に在らざればその政(まつりごと)を謀(はか)らず。

 ここの「政」は必ずしも「政治」とは限らず、「仕事」というほどの意味。

 孔子さまがおっしゃるよう、「各人その分を守るべきであり、その地位にいない者がその仕事に口出しせぬがよい」

 これは局外者が無責任な批判や干渉をするなというのであって、当時の中国にはいわゆる「処士横議(しょしおうぎ)」の弊が甚だしかったからの警告である。天下国家を憂いての正論は、その位置職業、ないし男女長幼を問わず許さるべきである。も一度『大功記』十段目を引けば、「女わらべの知る事ならず」とどなりつけるのは、光秀の封建思想である。また役所などがこの名言を逆用して独善になりセクショナリズムになっては困る。
 安井息軒(そっけん)いわく、「これ在位者の尉めに言うなり。その田を舎(お)きて人の田を芸(くさぎ)るは、古今の通弊(つうへい)なり。ここを以(もっ)てみだりに思慮を費(ついや)してその職荒(すさ)む。孔安国(こうあんこく)云う、『各(おのおの)その職に専一ならんことを欲す』と。各の字昧うべし。」第三五八章に重出。

『新訳論語』 講談社学術文庫
                                        

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №53 [心の小径]

第八章 基督教国にて ― ニューイングランドのカレッヂ生活 11

                                  内村鑑三

 余のカレッヂにおける知識的収穫といえば、それは甚だ僅かなものにすぎなかった、或は少なくともそれは余が霊において得たものと比較してそう思われたのである。その心が自分の霊魂の救拯にかくまで奪われ、肉体の維持について考えるところの少なかった一学生は、その勉学に多くの進歩を為すことは期待され得ない。しかしカレッヂは余を甚だ寛大に、じつに惜し気なく遇してくれた。余は選科生としてそれに入り、したがってそれと何ら有機的関係にあずかる資格を与えられていなかったのであるけれども、彼らは余を養子とし彼女の純粋な息子たちに伍する一つの地位を余に与えた、そして学生たちはそのように余に授けられた名誉のために三度のエールを余に与えた。このようにして余は、余の宗教と祖国のためのみならず、余の母校(alma mater)のためにもまた、気高く立派に生くべきものとされたのである。『カレッヂ精神』は、野球場の外にあっては、高貴にして基督教的な感情でsる、それは忠実に遵守されればそれだけで彼女乃『息子たちを煽動政治(デマゴギズム))、衣服崇拝、人面恐怖、此の世における種々様々なる卑怯卑劣(ひきょうひれつ)に近づけないようにするに十分であろう。余は余のカレッヂの精神を解して、高貴な独立、あらゆる種類の空虚なショーの勇敢な軽蔑、真理への忍耐強い敬虔(けいけん)な探求、反頭脳的宗教(anti- head- religion)という言葉の意味での正統信仰であるとする、それは洗練された異教主義ではない、『最大のプロバビリティー(蓋然性)』の宗教ではない、野卑な十九世紀式の『成功』ではない。余はかような奉仕すべき満足さすべき母をもうひとり与えられたことをきわめて感謝するものである。願わくは余が彼女の名と栄光にふさわしく生きんことを!
 余は夏期休暇の長い二カ月間、今やその騒々しい居住者の去った寄宿舎に独りとどまり、来るべき秋に神学校に入学する準備をした。こうして過した時は余が余の生涯でこれまでもった最善のものであった。静穏(せいおん)な独居、美しい自然の環境、余のうちに神の霊の不断の臨在、過去と未来とへの回想、― じつに全丘は美化せられて我が神の家、シオンとなった。ここに当時の幸福な日々の一つの記録がある、―

  八月廿七日 晴レタル気持ヨキ日。―静穏ナリ。屡々甚ダ淋シク感ズ、然レド余ハ余
ノ神二頼ル。余ハ余ノ霊魂二問へリ、神モシ余ノ生命ヲ今直チニ取去り給パパ汝ハ如何ニナスヤト。霊魂答へテ日ク、『縦(たと)ヒ彼余ヲ殺シ給フトモ余ハ喜バン。神ノ聖旨ハ、縦ヒ余ハ滅サルルトモ、必ズ実行セラルベシ。聖メラレタル霊魂ノ喜プハ唯ダ神ノ栄光ノ揚ルコトノミ、自身ノ成功ニアラズ』ト。

  九月十二日 Aニオケル最後ノ日。―甚ダ印象的ナル日。余ハ過去二年間此処ニテ遭遇(そうぐう)セル多クノ争闘ト誘惑ヲ思へリ。余ハマタ神ノ御助力ニヨリ余ノ罪ト弱点ヲ克服セル多クノ意気揚々タル勝利ト、彼ヨリ来リシ多クノ輝カシキ啓示トヲ思へリ。実こ、余ノ全生涯ハ新シキ方向二向ケラレタリ、其処ニテ余ハ今ヤ希望ト勇気トヲ以テ進ミ得ルナリ。願ハクハ神ノ最モ優レシ祝福ノ此ノ潔メラレシ丘二伴ハンコトヲ!― 訣別(けつべつ))ヲ告グべク総長二面会ニ赴(おもむ)ケリ。何時モノ如ク、余ハ此ノ尊敬スル人ノ前二立ツヤ涙ハ眼二溢レ、余リニ多クノ言フべキコトアリシガ故ニ、唯ダ甚ダ僅カヲ言ヒシニ過ギザリキ。彼ハ余二若干ノ忠告ヲ与へタル後、余ニ一百弗ヲ手交シ、余ノ今後ノ生産ノ援助トナサシメ、然ル後二豊カナル祝福ヲ以テ余ヲ去ラシメタリ。涙ハ我ガ眼二迸(ほとばし)リ出ヅ、余ハ啜(すす)リ泣キツツ二三ノ言葉ヲ彼二語レリ。主ハ知り給フ、イカバカリ余ハ其ノ人ヲ想へルカヲ。彼ハ余二凡テノ事ヲ為セリ、而シテ今ヤ教育、卒業証書、及ビ他ノ多クノ物ヲ受ケタル後、余ハ金、、弗ヲ、彼ノ言ニヨレパ『差引勘定』トシテ、携へ去ルナリ! 鳴呼、我ガ霊魂ヨ、主ガ汝二金銭ト恩恵ヲ託シ給ハン時ハ、必ズヤ汝ノ財布ト心トヲ貧シキ者、悩メル者二惜シミナク開ケヨ。― 余ガ自室二帰リ来リシ時、三羽ノ燕ノ室内二迷ヒ入レルヲ見出セリ、夜ハ暗クシテ戸外ハ大荒レナリシガ故ナリ。彼等ハソノ翼ヲ狂気セルゴトク壁二打チハタキヌ。余ハ柔(やさ)シク物怖ヅル被造物ヲ捉へタリ、而シテ暗黒ノ中二彼等ヲ放ツヲ危プミシト雖(いえども、余ハ敢(あえ)テ余ノ室内二彼等ヲ留メ置カザリキ、彼等ハ余ノ存在ヲ怖レタレバナリ。カクシテ宇宙ノ父ノ慈愛深キ護リニ委ネテ、余ハ彼等ヲ放チ遺(や)リヌ。

 次の日、余は余のカレッヂ町(タウン)を去った、そして余の神学校に来たのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №62 [心の小径]

一九二 子のたまわく、詩に興(おこ)り、礼に立ち、楽(がく)に成る。

                           法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「詩によって人心を感奮興起(かんぷんこうき)せしめ、礼により節制して確立するところあらしめ、さらに音楽によって美化完成する、これが教化の順序である。」

 詩で始め、楽で終るところ、孔子様なかなかもっていわゆる輩先生でない。

一九三 子のたまわく、民はこれに由(よ)らしむペし、これを知らしむべからず。

 孔子様がおっしゃるよう、「人民にはこれに由るべき立脚地を与えねばならぬ。ただ知識を与えただけではだめじゃ。」

 『論語』中に今の若い人に評判のわるい二章がある。その一つが本中である。(他の一つは四五六)。すなわち本章は民を愚にすべしとする秘密王義、専制政治の暴露だと非難攻撃されるのであるが、私はそうは思わない。「知らしむべからず」を「知らせてはいけない」とせずに、「知らせただけではいけない」と解したらどんなものだろうか。そして「由る」というのは、抽象的理論ならぬ具体的実践であって、人民に道義実践の規準を与えよ、というのである。
 近ごろはやりの「自由」なども、無軌道脱線(むきどうだっせん)の得手勝手でないことはもちろんの話で、「自暴自棄」に対する「自らの由りどころ」である。すなわち各人を理屈倒れでない足の地についた自由の民たらしめよというのが孔子様の真意だ、といったら間違っているだろうか。あるいは「べし」「べからず」は「可能」「不可能」だという解釈もある。それでも通る。

一九四 子のたまわく、勇を頼みて貧を疾(にく)めば乱す。人にして不仁なる、これを疾むこと甚だしければ乱す。

 孔子様がおっしゃるよう、「血気の勇を好む者が貧をきらってそれを免(まぬか)れんとあせると、取り乱して悪逆をなすものぞ。他人の不仁をにくむはよいが、その憎悪の念が度を過ごすと心の平静を失って自身不仁に陥るぞよ。」

 「乱」の字が二つあるが、前のは自身が取り乱すこと、後のは人を取り乱させること、というのが専門家一致の解釈のようだ。すなわち人の不仁を追窮(ついきゅう)することあまりに甚だしいとその人を自暴自棄に陥(おちい)らしめるというのだ。しかし私は文章の続きからみてもまた意味のおもしろさからみても、自分が取り乱すこととみる方がよいと思って、前記の新解釈をあえてした。ご批判を願いたい。

一九五 子のたまわく、もし周公の才の美あるも、騎(おご)り且つ吝(やぶさ)かならしめば、その餘(よ)は観(み)るに足らざるのみ。

 ここの「吝」は、金銭上のことよりも、むしろ他人の美を成すを好まざるやぶさかさである。

 孔子様がおっしゃるよう、「たとい昔の周公のような才能の美しさがあっても、自らその才能にはこって他人に才能あるをきらうようなケチな量見であったら、それ以外のいかなる美徳も問題にならぬ。」

一九六 子のたまわく、三年学びて穀に至らざるは、得易(えやす)からざるのみ。

 ここの「三年」も必ずしも年を限ったわけではなかろうが、「三年も」というくらいに言っておいてよかろう。「穀」は官吏の俸給、穀物による支給だからかくいう。「至」は「志」の誤りだとの説もあるが、「至」でも通ずる。

 孔子様がおっしゃるよう、「三年も学問して仕官の気を起さぬ易学舎は、めずらしい。」

 門人たちは、必ずしも生活問題のためではなかろうが、学び得たところを乱世に施(ほどこ)したい気持で、仕官を急ぐ者が多かったとみえる。そこで孔子様は、子張をさとしたり(三四)、漆雕開(しっちょうかい)をほめたり(九七)して、就職のための学問であるな、としきりにいましめられる。


『h新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №52 [心の小径]

第八章 基督教国にて ― ニュー・イングランドのカレッヂ生活 10

                                内村鑑三

 四月十五日 朝ノ祈禱― 余ノ貴神(あなた)二来ルハ、余ノ清浄潔白ニシテ愛スベキモノナルガ故ニアラズ。余ノ貴神二来ルハ、貴神ニヨリテ満(みた)サレ、カクシテ更二熱心二貴神二祈り、更ニ此ノ世ヲ愛シ、更二貴神ノ聖言(みことば)ト真理トヲ教へラレ得ンガタメナリ。貴神ノ余二要求シ給フハ、貴神ニヨリテ生キ、凡テノ善ト慈愛ト愛ノ源泉ナル貴神ヲ所有センコトナリ。従順、忠信、純潔ハタダ貴神ヨリノミ来ル、而シテ余ハ如何二奮闘努力スルトモ之ヲ産出スルコト能(あた)ハズ。貴神ガ貴神ノ律法二対シテ従順ヲ命ジ給フハ、我々ガ独カニテ其ヲ為シ得ルガ故ニアラズシテ、我々ガ自己ノ無能力ヲ意識スルニ至ルコトニ依リテ、責神ノ許二乗リテ貴神ヲ所有センガタメナルナリ。貴神ノ我々二律法ヲ与へ給ヒシバ、其レガ我々ヲ貴神ノ許二伴ヒ行カンガタメナリ。サレバ鳴呼、主ヨ、余ノ全然タル無能力ト堕落トヲ認ムルガ故ニ、余ハ貴神ノ許二到リテ、貴神ノ生命ヲ以テ満サレントス。余ハ潔カラズ、余ハ貴神二余ヲ潔メ給ハンコトヲ祈ル。余二何等ノ信仰アルナシ、貴神ガ余二信仰ヲ与へ給へ。貴神ハ善其自身ニテ在(い)マシ拾フ、而シテ貴神ナクシテ余ハ全ク暗黒ナリ。見ヨ、余ノ汚穢(おわい)ヲ、貴神ガ余ヲ余ノ咎(とが)ヨリ潔メ給へ。アーメン。

 四月廿三日 基督信徒ノ祈禱ハ、其ノ願望ガ神ノ特別ナル執成ニヨリテ完ウサレンコトヲ求ムルモノニ非ズ。其ハ実ハ永遠ノ霊トノ交通ナリ、ソレ故二役ハ神ガ既二其ノ御心ノ中二有シ給フモノヲ祈り求メシメラルルナリ。カカル態度ヲ以テ捧ゲラレシ凡テノ祈禱ハ聴カルべシ、マタ聴カレザルぺカラズ。基督信徒ノ祈禱ハ、ソレ故ニ、一ツノ預言ナリ。

 これはじつに余の旧い異教的の祈禱観に対する著しい進歩である、そしてこの異教的祈禱観は遺憾ながら基督教的経輪のもとにおいて依然として多数の人々によって抱かれているのである。余は想像した、そして多数の人々は今なお想像している、自然の法則そのものも逆転せられうるほど神は我々の祈禱をもって左右せられ得たもうと。そうではないのである、わが霊魂よ。常に善を意味する彼の重心になんじの意志を合致せしめよ、そうすればなんじは太陽の遅行するのを止めてそれからより多くの光線と快楽を得ようとする不可能な祈禱に一心不乱となることをやめるであろう。

 以上のような回想をもって、余のニュー・イングランドのカレッヂ時代は終りに達した。余はそこに重い心をいだいて入った、そして余の主なる救抵主にある勝利の誇りをもってそこを去った。その時いらい余はなお多くを学びなお多くを知った、しかしただ余のカレッヂの古典的な丘の上で知ったことを確証するにすぎなかった。余はそこで、故国で洗礼を受けてから的十年の後に、本当に回心させられた、すなわち向きかえさせられた、のであると信ずる。主はそこにて余に御自身を現したもうた、特にかのひとりの人を適して、 ― 鷲(わし)のような眼、獅子のような顔、小羊のような心の、余のカレッヂの総長を通して。余のうちにある御霊、余の前にある模範、余の周囲にある自然と事物は、遂に余を征服した。もちろん完全な征服は生涯にわたる事業である、しかし余は自分自身を征服するにもはや余の空(むな)しい努力に頼らず、そのためには宇宙の大能力に訴えるにいたるまでに、立て直されたのである。此の世のひとりの小さい神、― 彼は全能の力それ自身によってのみ征服せらるべきものである。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №61 [心の小径]

一九〇 曾子(そうし)いわく、以(もっ)て六尺(ろくせき)の孤を託すべし、以て百里の命を寄すべし。大節(だいせつ)に臨んで奪うペからず。君子人(くんしじん)か、君子人なり。

                           法学者  穂積重遠

 「六尺」は周の寸法で、わが四尺三寸余〔約、一三〇センチ〕に当るという説もあり、尺は年齢で、二歳半が二尺だという説もあるが、いずれにしても十四、五歳の年少者ということになる。「百里」は百里四方の諸侯の国ということだが、面積の問題ではなく、つまり「一国」ということ。

 曾子がいうよう、「安心して幼弱(ようじゃく)のみなしごの将来を頼める人、心配なく一国の運命をまかせ得る人、そして危急存亡(ききゅうそんぼう)の大事に当って心を動かさず度を失わぬ人、そういう人こそ君子人ではあるまいか、まさに君子人である」

 本章は「託孤寄命章」といって、『論語』中でも特に有名な一段だが、これが「日に三たびわが身を省(かえり)み」「戦戦兢兢(せんせんきょうきょう)、深淵に臨むが如く薄氷を履(ふ)むが如く」死してしかして後(のち)免るることを知る謙抑(けんよく)慎重な曾子の言葉として、特に意味伸長なるを覚える。加藤清正が豊太閤没後に人に語って、前田利家晩年儒学に志し、浮田秀家・浅野幸長及びわれを招いての話の中で、論語託孤寄命章を挙げた。われ当時学ばず、その何の識たるを解しなかったが今にしてこれを思えば、ほぼ悟るところがある、今の時に当りてこの語を念とせざる者、おそらくは不忠不義に陥らん、と言った。その後玉をいだいて虎穴に入るごときかの二条城の会見を終って無事大阪に帰城したとき、自邸の奥の間に入った清正は、かくし持った豊公賜うところの短刀を懐中から取り出して押しいただき、今日はじめて太閤鴻恩(こうおん)の万分の一に報い得たりと感泣したという。
 これは推知らぬ者なき物語だが、ここに人多く知らずして私がたまたま知るの因縁ある一史実がある。私の祖先は伊予国宇和島藩伊達家の家臣であったが、祖先の同僚に八十島治右衛門群親隆なる侍があった。藩の財政が非常な窮迫(きゅうはく)に陥った際奉行に任ぜられてその立直しを担当し思い切った財政緊縮大増税とを立案実施したので、たちまち士民両面の怨府(えんぷ)となり、猛烈な非難排斥を受けたが、少しも斟酌(しんしゃく)するところなくその所信を断行し、最後までがんばり通してみごとに財政整理に成功した後、自身はあらかじめ一家断絶の処置をとった上で、従容として腹かき切った。けだし君国のためとはいいながら藩士と領民とに当面の犠牲を強要した全責任を一身に負い、一死これをあがなったのであった。かくしてその家は久しく絶家になっていたが、後の藩公がその功績をおもい孤忠をあわれんで、命じてその家を再興させたのが今の八十島家であって、私の家とは永年の別懇(べっこん)であったが、最近さらに縁あって近親となったのである。   
 かくして前に清正あり、後に親隆あり、曾子をして知らしめたならば、かれはもって六尺の孤を託すべし、これをもって百里の命を寄すべし、中国の諸葛孔明のみならず、日本にも君子人あるかな、と讃嘆(さんたん)するであろう。しかして私は特に国歩艱難(かんなん)、人心不安の今日の日本において、大節に臨んで奪うべからざる君子人出(いで)よと熱望切願せざるを得ない。
 ついでに広瀬淡窓(「君は川流を汲め我は薪を拾わん」の詩人)の「加藤公の廟に謁す」を書いておこう。
  寸木支え難し大厦(たいか)の頽(くず)るるを
  丹心死に払るまで未だ曾って灰とならず
  遺孤(いこ)託すべし真の君子
  夙(つと)に曾参(そうしん)の一語を誦(そらん)じ来る

一九一 曾子いわく、士は以て弘毅(」こうき)ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以ておのれが任と為す、亦重からずや。死して而して後己む、亦遠からずや。

 ここに「士」とは、学問あり見識ありて道に志す者の称。

 曾子が言うよう、「士たる者は、度量が大きくして意志が強くなければならぬ。負担すべき責任が甚だ重くして前途がきわめて遠いからである。その任ずるところは至高最大の徳たる仁である。実に重いことではないか。そしてその重任が死ぬまで続く。まことに遠いことではないか。」

 本章もまた有名な本文であるが、私自身にとって特別な意味があるのは、すなわち「重遠」なる名の出典だからである。私の名は渋澤栄一祖父がつけてくれたのであって、この全文を横額に書いてもらい、またはからずも手に入れた藤田東湖先生大書の「任重而道連」の五文字を板にきざんだものを愛蔵していたが、昭和二十年三月十日未明の米機空襲により家を焼かれた時、居室にかかげてあった額は焼失し、書庫に入れてあった板はのこった。越えて八月十日、東宮大夫兼東宮侍従長の大任を拝し、十三日に奥日光湯元なる行啓先に着任して、翌々八月十五日側近に侍立して終戦大詔の玉音御放送を拝するという歴史的の御奉公始めをし次第であるが、その御放送中真に思いも寄らず「任重くして道連きを念(おも)い」のお吉葉を承り、時も時、折も折、全く電気に打たれたごとく身も心もしびれる心地がして、生れて六十二年、初めて祖父命名の深意を感得したことである。よって昭和二十年十二月二十三日の皇太子殿下御誕生に当り、爾来念々忘れざる衷情を謹詠して奉祝に代えた。
   任重く道は遠しのみことのりけふをことはぐ心にしめむ

『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №51 [心の小径]

第八章 基督教国にて - ニュー・イングランドのカレッヂ生活9

                                  内村鑑三

  一八八七年一月五日 夜、F博士ヲ訪問シ、若干ノ金銭上ノ援助ヲ乞フ。実二火ノ如キ試練ナリキ。余ハ殆ド余自身ヲ制シ能ハザリキ。然レド彼ハ余ニ対シテ甚ダ深切ナリキ、彼ハ余二若干金ヲ与フルコトヲ約セリ。

 余は試練を延ばしてきた、そしてクリスマス休暇の間に自分の努力によって余からそれを除こうと試みた。じつに必要は余を駆って一二回或る田舎の教会で余自身を馴らされた犀のショーとしたのである、しかしなお少なからざる不足が残った。ディレンマはいまや、余がアメリカ基督教に税金を課すか、あるいは余の寄宿舎のおばさん ― 彼女は最近寡婦(やもめ)になった気のいい婦人である ― に借金をしたままにしておくかにあった。この恐ろしいディレンマにあっていた間に摂理は余に一つの援助を送った、じつに余が期待したような食べられるマナの形においてではなく、一つの思想においてであった、そしてその思想はそれいらい余には評価し難い価値あるものとなった。あの眠気を催す時刻のこと、余が取り上げた古雑誌の中で余の眼は次の一句を捉えた、アメリカの最愛の詩人の一人アデレイド・A・プロクターの作であった、―
 『愛のために至誠の心をもって
   惜しまず与うる人は大なり、
  されど愛のために臆せず物を受くる人は
   さらに大なる人と称えん。』
 この歌に力をえて、余はもういちど勇を鼓して博士のもとに赴き、余の問題をたとえ顫(ふる)えながらでも彼の前に示し、そのようにして火のような試練を通過したのである。数日後彼はその約束を果した、それは余が彼と町の郵便局のまん前で会った時のことであった。夕暮近くで、人は人を弁ずることができなかった。かの善き人は余に近づき、二三の深切な言葉をかけ、余のポケットの中に何物かを押し込み、そして直ちにこつこつと歩み去った、世界を暗黒と余とにゆだねて。 ― 肉体上の必要を補われて、余はもういちど霊的真理の真珠を得るために沈潜したのである。

 二月五日 暗、寒シ。霊ノ世界ニモ亦寒き日アリ。余ハ余ノ心ヲ温(あたた)メ、余ノ他人ニ対スル愛ヲ増シ、余ノ祈祷ヲ更ニ熱心ナヲシメントス、サレド斯カル努力ハ寒空ニオケル炭火ノ如タニシテ、僅カニ部分的二又夕一時的ニ有効ナルニ過ギズ。サレド一タビ霊ノ快(こころよ)キ暖風吹カバ、如何二余ノ愛ヲ暖ムルノ容易ナル、如何ニ余ノ祈祷ノ熱ヲ帯(お)ブル、マタ如何ニ快活ニシテ満足ヲ感ズルノ容易ナル! 我々ノ側ニテ如何二努力スルトモ我々ハ依然トシテ憐レナル罪人ナリ。我々ヲ純潔、神聖ナルシムルニハ自然ノ援助来ザルべカラズ。

 あの刺すようなニュー・イングランドの冬はきびしく余に感ぜられた、それは余の肉体に及ぼす刺すような働きのためよりは(余はまもなくそれに慣れるようになったから)、余の高価な石炭をそれが消費する勢いのためであった。寄宿舎の建物の煉瓦そのものが、貧乏学生のストーヴから彼がそれによって体を温めないうちに熱を吸収してしまった。しかしこの気候上の現象のなかに何か霊的な教訓もまたあるのではないか。歓喜なき部屋は神の霊の去った時の余の心である、それはどれほど我々が熱しても依然として冷たくある。バーミューダズ島の方角から来るあの快い風は彼の霊である、それが吹けば万物を解かし、そして貧乏学生を石炭代の心配から救う。吹けよ、葺おお天来の微風よ、そして凍結を余の心中にても他の何処にても止(や)めしめよ。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №60 [心の小径]

一八七 曾子(そうし)疾(やまい)あり、門弟子(もんていし)を召していわく、わが足を啓(ひら)け、わが手を啓け、詩に云う、戦戦兢兢(せんせんきょうきょう)として深淵(しんえん)に臨むが如く薄氷を履(ふ)むが如しと。今よりして後(のち)われ免るるを知るかな。小子(しょうし)。

                           法学者  穂積重遠

 「詩」は『詩経』小雅小旻篇。
 「戦戦」は恐懼(きょうく)の形、「兢兢」は戒慎(かいしん)の姿、俗にいえばビクビクすること。

 曾子が病気危篤(きとく)の時に、弟子たちを呼び集めて言うよう、「かけぶとんをとりのけて、私の手をあらためて見よ、私の足をしらべて見よ。かすりきず一つあるまいがな。深い淵のへりに立って落ち込むことを恐れるごとく、薄い氷を渡って割れはせぬかと心配するごとく、戦々兢々として言行を用心する、という古い詩があるが、私は父母から受けたこのからだをきずつけぬようにと後生大事に身を守ってきた。まずまず無痕(むきず)であの世に行ける次第、今日はじめて責任解除じゃ。安心して死ねる。喜んでくれ、若人たちよ。」

 『孝経』によると、曾子は孔子様から
「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く、敢て毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり。」
と教えられたのだが、その教えを戦々兢々として実行したのである。そして、からだすら然(しか)り、いわんや心と行いとにおいてをや、であることもちろんだ。あるいは曾子がこれをもって弟子たちに孝を教えようとしたのだという説明もあるが、それまで言わない方が味がある。骨子自身うれしくてうれしくてたまらず、弟子たちに話さないではいられなかったのだ、ということにしておきたい。
 曾子の臨終については、『礼記』(檀弓上篇)℃こういう小話が出ている。病床としていた「すのこ」はかねて大夫(たいふ)季孫子(きそんし)から贈られたものだったが、重態に陥ったのち、看病の童子が何心なく、これは大夫でもつかえぬりっぱな品だ、と言ったのを聞き、季氏がこれを持っていたのさえ僭上非礼(せんじょうひれい)なのに、自分がそれを用いたのは相済まなかったと気がついて、息子の曾元(そうげん)に「すのこをとりかえよ」と命じた。なにぶんにも危篤の際なので、そのままにしておきたいと思ったが、曾子は、君子たる者正を得て斃(たお)るれば本懐なりとてきかなかったので、やむを得ず床をしきかえたが、曾子は別のすのこの上にうつされると、すぐに目をつぶったという。

一八八 曾子(そうし)疾(やまい)あり。孟敬子(もうけいし)これを問う。曾子言いていわく、烏のまさに死なんとするやその鳴くこと哀(かな)し、人のまさに死なんとするやその言うこと善(よ)し。、君子、道に尊(たっと)ぶところのもの三つあり。容貌(おうぼう)を動かしてはここに暴慢(ぼうまん)遠ざかり、顔色(がんしょく)を正しくしてはここに信に近づき、辞気(じき)を出(いだ)してはここに鄙倍(ひばい)に遠ざかる。籩豆(へんとう)の事はすなわち有司(ゆうし)存せり。

 「孟敬子」は魯(ろ)の大夫(たいふ)仲孫子(ちゅうそんし)、名は捷(しょう)、武伯(ぶはく)の子。「籩豆」は祭り供物を盛るたかつきのようなもの。「籩」は竹製、「豆」は木製、おそらく「豆」の字の形に似たうつわなのだろう。

 曾子の病が危篤なので、大夫孟敬子が見舞いに来たところ、曾子がこれに向かって言うよう、「古語に『鳥のまさに死なんとするやその鳴くこと哀し、人のまさに死なんとするやその言うこと善し。』とありますが、これは私の最後の言葉でござりますから、どうかそのおつもりでお聞きくだされませ。およそ人の上に立つ者が道を行って国を治めるにつき、たっとぶべきことが三つあります。態度挙動が荒々しさやじだらくさから遠ざかるよう、心の誠を顔色にあらわして裏表のないよう、言葉づかいが野卑(やひ)不合理にならぬよう、この三つがたいせつでござります。祭の供物台のならべ方などは、それぞれ係の役人がありますから、さような事務的なことはまかせておかれてよろしかろうと存じます。」

 名君とか賢大夫とかいわれる人が、とかく根本を忘れてコセコセと末節の世話をやくことを得意がる気味があるので、こう言ったのであろう。

一八九 曾子いわく、能(のう)を以て不能に問い、多きを以て寡(すくな)きに問い、有れども無きが若(ごと)く、実つれども虚しきが若く、犯せども校(はか)らず、昔者(むかし)わが友かつて事にここに従えり。

 「友」とは誰のこととも言っていないが、顔回(がんかい)であろう。曾子の同門中、回以外にはこの文句に当る人はあるまい。

 曾子が言うよう、「才能がありながらま無能だと思って才能のない人にも問い、見聞が広いのになお無知だと考えて見聞の狭い人にもたずね、道あって道なしと恥じ、内容充実しつつ空虚を感じ、横車を押されても取り合わない。これは物我(ぶつが)の隔(へだ)てのないよほど練(ね)れた有徳人(うとくじん)でなくてはかなわぬことだが、亡友顔回はそれのできた人であった。」

『新訳論語』 講談社学術文庫


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余は如何にして基督信徒となりし乎 №50 [心の小径]

第八章 基督教国にて ― ニュー・イングランドのカレッヂ生活 8

                               内村鑑三

 十二月廿三日 勘定書(かんじょうがき)ノ支払方法二就キテ甚ダ思ヒ悩メリ。
 読者諸君の中にはこれらの月日の間に余が如何にして生計を得たかを知りたいと思われる方があるかもしれない。種々の方法をもってである。余のペンシルヴァニアにおいて得た所得は、余の拙(つたな)いベンをもってした小さな物語とともに、余のカレッヂ生活の最初の一年間はどうやら余を楽にさせてくれた。余の聖書註解の先生である親愛なるF博士はかつて余のポケットに彼の一友人からであるとて一百ドルを投じ、そして困った時には『また来るように!』と言ってくれた。そのころ余は、言うのは恥かしいことであるが、約五六回余自身を馴らされた犀のショーとし、その方法で余は多くはなかったが若干のものを与えられたのである。ここに基督教国アメリカに敬意を表して言わせてもらいたいことは、異教徒回心者にして自分の国人の間の福音の伝道者となろうと申し出る者には、この国では普通にはその肉体的の必需品、しかり快楽について、何の困難もないということである。しかし、ここに偽善がしのびこむ、そしてトルコ人、ギリシャ人、アルメニア人、インド人、ブラジル人、シナ人、日本人で、じつ自分の神より自分の腹を愛する者が、馴らされた犀を装い、そのようにして狡猾にアメリカ人基督信徒の親切心に甘えることがある。そしてときどき本国の教会はその『見境のない愛心』について伝道地の宣教師に注意される。自分たちのところに滞在していた間に宿所を与え教育を与えてやったそれらの回心者は、その福音を帰国の途上で海中に投じ、政府の仕事か或いは何か他の悪魔の仕事に入り、そして自分たちの異教徒の国人たちの前に基督教国を誹謗(ひぼう)することまでさえするということを彼らは聞かされるのである。
 しかしそのことは良心的の回心者が除きたいと思う最悪の嫌疑(けんぎ)ではない。彼はその故国に帰り、彼が基督教国においた愛心によって学んだ福音を述べる。彼の国人は彼とそ福音を何と言うか。何だ、と彼らは言う、『あの福音は金になるのだ』、そして彼らは彼とその福音を罵倒(ばとう)する。憐れな回心者よ! 彼は、彼の同胞をキリストのものとして獲得するためには、自分が他のいろいろな犠牲によって受ける資格を与えられている基督教的愛心そのものを犠牲にすべきである。
 そういう事情のもとでは、独立は、最小限に言っても、思慮あることである。そして余
はできるだけそれに固執しようと決心した。何より第一に、余は経費を最小限度に切り下げ、余の食物と衣服とに不足しているいかなる栄養も心地よさも、これを新鮮な空気と神の霊とから得ようと試みた。余のカレッヂ時代の最初の十八ヵ月間は事はほとんど余の計画どおりに運んだ。しかしいまや、このニュー・イングランドでの余の二回目のクリスマスに、余は長いあいだ一枚のグリーン・バックも一片の『イン・ゴッド・ウィー・トラスト』も見ていなかったのである。余は熱烈に天からの本物のマナを祈り求めた、しかしそれは来なかった。余は親愛なF博士の目薬を思い出した。余は再び祈った、心を決した、そして雪と湿地の茂みとのなかを辿って彼の家へ行った。おお、いかに道がその夜は長く思われたことよ、それは数町にすぎなかったのであるけれども! ついに余は彼の門の前に来た、そして彼の書斎の明りを見つめた。余は入って援助を求めようか。十分(じっぷん)の長い間、余は雪の中に立っていた、思案しつつ。もし余の国人が余は余の宗教で生活したと言えば、どうだ? 余の心はうなだれた。余はそれ以上進むことができなかった。『待て』と、余はついに余自身に言った、そしてもう一度余は寂しい歩みを余の部屋に向って転じた、いまやカレッヂの全丘上にただ一つ明りの灯(とも)っている部屋に。余は二つの利益の重さを量(はか)った、そして飢餓(きが)は余の国人と他の国人との両者による誤解にまさることがわかった、―福富のために。

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論語 №59 [心の小径]

一八三 子のたまわく、君子は坦(たいら)かにして蕩蕩(とうとう)、小人は長(とこし)えに戚威’せきせき)。

                        法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「君子は心が平静で様子がのびのびしている。小人はいつでもコセコセビクビクしている。」

 君子は何事も道理に従って行動し、損の得のということに心がわずらわされない故、どんな逆境に立っても泰然自若と落ちついており、小人は常に外界に支配されるので、心にゆとりがなく、足るを知らず乏(とぼ)しきをおそれて絶えずあくせくしている、大そうな相違じゃ、というのだ。「坦かにして蕩蕩」で孔子様の温容を思い浮べると同時に、「長えに戚戚」でわれわれ自身のみじめな姿がかえりみられる。

一八四 子温にして厲(はげ)しく、威(い)ありて猛(たけ)からず、恭にして安し。

 孔子様の感じを申そうならば、春風のあたたかさの中に秋風のきびしさをふくみ、威厳があっていかつからず、ていねいで楽楽してござる。

 中和を得た聖人の威風と温容とが眼前に浮きあがるような気がするが、殊に「恭にして安し」がよい。礼儀正しくして窮屈にならぬところが孔子様のねうちだ。
                                        
一八五 子のたまわく、泰伯はそれ至徳と謂うべきのみ。三たび天下を以て譲り、民得て称する無し。

 泰伯は周の大王の長子で、仲雍(ちゅうよう)・季歴(きれき)の二弟があり、李歴の子の昌(しょう)(後の文王)が徳があったので、大王は位を末子の季歴に伝えて昌に及ぼしたいという考えであった。そこで泰伯は父の志を察して、弟の仲雍と共に国を去り、南蛮の地に隠れた。
 
 「三たび天下を以て譲る」とあるので、三回の事績を挙げる説明もあるが、回数の意味
ではなく、固く譲ったというのであろう。また譲ったのは諸侯の位だが、結局は自分の系統が天子になる幸運を棄てたというところで、「天下」といったのだ。

 孔子様がおっしゃるよう、「泰伯の徳は至徳と称するべきかな。義によって固く天下を譲ったが、それがまた他人の口のはにのぼらぬほどに暗々裏に行われたのは、えらいものじゃ。」

 伊藤仁斎が左のごとく説いたのは、要領を得ている。

 「清貧の心、皆天下の為めにして己が為めにあらず。泰伯の季歴に譲るは、けだし斯の民の為めに計るなり。その後文武の道大いに天下に被(おお)えり、民ひそかにその賜(し))を受く、しかも実は泰伯の徳たるを知らず。これ夫子のその至徳を歎ずる所以なり。」

一八六 子のたまわく、恭にして礼なければすなわち労す。慎にして礼なければすなわち葸(し)す。勇にして礼なければすなわち乱す。直にして礼なければすなわち絞(こう)す。君子親(しん)に篤(あつ)ればすなわち民仁に興(おこ)り、故宮遺(わす)れざればすなわち民偸(うす)からず。

 「労」は困苦。「葸」は畏懼(いく)。「乱」は乱暴、「絞」は急迫。
 前段と後段とは何ら意味の連絡がない。別章だったのが、「子のたまわく」が落ちたのだろう。後段は骨子の言葉だという説もあるが、証拠はない。

 孔子様がおっしゃるよう、「人に対してうやうやしいのはけっこうだが、それれが礼に
かなったていねいさでないと、骨折損でかえって人にあなどられる。事に当って慎み深いのはけっこうだが、礼から出た謹慎さでないと、臆病者の形になる。勇気のあるのはけっこうだが、礼で調節しないと乱暴になる。率直なのはけっこうだが、礼のかざりがないと冷酷になる。」またおっしゃるよう、「人の上に立つ者が親族に手厚ければ、人民に仁愛の心がおこり、古なじみを忘れずに優待すれば、人民が軽薄でなくなる。」

『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №49 [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニュー・イングランドのカレッヂ生活 7
                                内村鑑三

 十一月廿六日  「デーヴィッド・プレーナード」ノ墓ヲ訪フ。

 十一月廿八日  「デーヴィッド・プレーナード」ノ伝ヲ読ム。彼ノ日記ヲ読ミテ、余ハ余ノ日記ヲ読ミ、ツツアルカノ如クニ感ジタリ。『凡テノ余ノ困難ヲシテ耐へ難カラシムルモノハ、神ソノ聖顔ヲ我ヨリ隠シ給フコトナリ』ト彼ノ言フ箇所二来リシ時こ、余ハ泣カザルヲ得ザリキ。シカシ余一人ガ唯ダ内外ノ棘(とげ)ヲ以テ神二試練セラルルニ非ザルコトヲ思ヒテ、甚ダ慰メヲ得タリ。彼ノ如キカカル祝福セラレ試練ヲ経(へ)タル人々ト共ニ天二於イテ有スル彼ノ快キ交際(まじわり)ヲ相望セリ。

 十二月四日 朝、総長ノ「クラス」ニテ、余ハ如何ニシテ基督教ヲ真理トシテ信ズルニ至リシカヲ語レリ。余ハ如何にシテ『道徳的分離』ノ和解ヲ唯ダ「キリスト」ニ於イテノミ見出スニ至リシカヲ正直二且ツ率直ニ「クラス」ニ語レリ、而シテ余ノ言ヲ『余ハ他二為スコトヲ得ズ、神ヨ余ヲ助ケ給へ』トノ「ルーテル」ノ語ヲ以テ結べリ。実ニ、神ハ余ヲ助ケ給へリ、而シテ余ハ其日終日、何力正直ニシテ良心的ナル事ヲ為シタリシコトヲ感ジクリ。鳴呼、我ガ霊魂ヨ、汝ハ唯ダ神ガ汝二為シ給ヒタル事ノ『証人』ニ過ギザルコトヲ弁(わきま)へヨ。汝ノ小ナル知識ガ汝ノ心二描キシモノヲ世ニ宣(の)プべキニ非ズ。主二信頼セヨ、而シテ彼ノ義ニヨリテ救拯(すく)ハレヨ。

 我らの総長先生は、すべて真の基督信徒のように、深き尊敬をもって 『異教徒回心者』を見た。(余はこのことを余自身の経験から言うのである。)彼は余に語った、一八五九年のはじめ貴君の国人の一人の一基督信徒が、一夜を余の屋根の下で過した、私は『異邦人が福音を聞いた』という事実の厳粛さに捉えられて、夜じゅう眠ることができなかったと。余は彼が我々回心せる異教徒に不当な価値を付しているのではないかと思いさえした、それは余がかつて彼に率直にこう告げなければならないほどであった、私が基督信徒であることのために私に提供せられるいかなる援助もそれはどうあってもわ断りしなければなりませんと。しかし、余はいつも喜んで彼のクラスと祈祷会において彼のいかなる役にも立とうとした、余は彼が余を馴らした犀(さい)の見本として用いようとしていないことを知っていたからである。その朝、余は何ら親代々の感化なしに如何にして基督教を余の信仰としていだくに至ったかを告白することになっていた。余は全く率直にそれを行った、そしてそうしたためにいっそうよかったと感じた。

 十二月五日 神ノ摂理ハ我ガ国民ノ中ニアラズベカラズトノ思想にオリテ多大ノ感動ア受ケタリ。モシ凡テノ善キ賜物ガ彼ヨり出ヅルナヲバ、然ラバ我ガ国人ノ称讃スベキ国民性ノ中二至高(いとたか)キ処ヨリ来リシモノも亦夕アルニ相違ナシ。我々ハ我自身二特有ノ天賦ト賜物ヲ以テ、我々ノ神ト世界トニ仕(つか)フべク試ミザルペカラズ。神ハニ十世紀間ノ鍛錬ニヨリテ遠セラレタル我ガ国民性ガ、米欧思想二ヨリテ全ク置キ換へラルヲ欲シ拾ハザルナリ。基督教ノ美ハ神ガ各国民二与へ給ヒシ凡テノ特殊性ヲ聖(きよ)メ得ルコトナリ。福(さいわい)ニシテ奨励的ナル思想ナル哉(かな)、日○○モ亦タ国民ナリトハ。


『余は如何にして基督信徒とナrし乎』 岩波文庫


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論語 №58 [心の小径]

一七九 子のたまわく、文(ぶん)はわれなお人の如きこと莫(な)からんや。躬(み)君子を行うはすなわちわれ未だこれを得ることあらず。

                          法学者  穂積重遠

 「文莫(ぶんばく)はわれなお人の如し」とよんで、「文莫」は当時の俗語で勉強の義なりとする説明もあるが、強いてさような群群を立てることもあるまい。

 孔子様がおっしゃるよう、「本を読むことはわしも人なみにできるつもりだが、君子の行いを実践躬行(きゅうこう)することは、わしにはまだなかなかでき得ない。」

 大した謙遜な言葉だが、同時に理論は易(やす)くして実行は難いことを示されたのである。

一八〇 子のたまわく、聖と仁とのごときは、すなわちわれあに敢(あえ)てせんや。そもそもこれを為(な)して厭(いと)わず、人を誨(おし)えて倦(う)まず。すなわちしか云(い)うと謂(い)うべきのみ。公西華(こうせいか)いわく、正(まさ)にただ弟子(ていし)学ぶこと能わざるなり。

 孔子様がおっしゃるよう、「聖人とか仁者とかいうのは、わしなどの及びもつかぬこと、まずまず聖人仁者の道を学んで怠らず、それをあきもせずに人に教えるという、ただそれだけのことじゃ。」それを聞いていた門人公西華が言うよう、「そのそれだけのことが弟子どものまねもできないところでござります。」

一八一 子疾病(やまい)なり。子路(しろ)祷(いの)らんことを請う。子のたまわく、これ有りや。子路対(こた)えていわく、これ有り。誄(るい)にいわく、なんじを上下(じょうか)の神祗(しんぎ)に祷ると。子のたまわく、丘(きゅう)の祷ること久し。

 孔子楳かご病気容態が思わしからず、師匠思いの子路が心配して、ご祈祷を致させましょうと申し出た。孔子様は事をいやしくもされぬ性分なので、「それには故実(るい)のあることか。」と問われた。子路が、「ござりますとも。誄と申す昔の祈躊文に、なんじの幸福を祷って天地神明にまごころを捧(ささ)げる、という本文がござります。」と答えた。すると孔子様がおっしゃるよう、「祷るというのは天地神明にまごころを捧げることか。それならば丘はふだんから祷っているぞ。」

 「丘の祷ること久し」実に泰然自若、確信に満ちたりっぱな言葉だ。儒教はいわゆる宗教ではなかろうが、孔子様は最高至上の宗教心をもち、安心立命を得ておられたのだ。「苦しい時の神頼み」などとはまるで選を異にする。

一八二 子のたまわく、奢(しゃ)なればすなわち不孫、倹なればすなわち固、その不孫ならんよりは、むしろ固なれ。

 「孫」は「遜」と同じ。

 孔子様がおっしゃるよう、「奢侈だと『不遜』、すなわち尊大非礼になるし、倹約が過ざると『固』、すなわち吝嗇(りんしょく)頑固(がんこ)になる。どちらもどちらだが、不遜であるよりはまだしも固でありたい。」


『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №48 [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニュー・イングランドのカレッヂ生活 6

                                内村鑑三

 八月十六日 鳴呼、何タル「イエス」ニアル歓喜ト平和ヨ、寂寥(せきりょう)ニオケル歓喜ヨ、孤独ニオケル教書、然りマタ罪ニオケル歓喜ヨ。鳴呼、我ガ霊魂ヨ、コノ貴重ナル真理ヨ、而シテ汝ノ全注意ヲソレニ向ケヨ!

 『単なる修辞的対照に過ぎず』と余の批評家は言うであろう。しかしそうではない、文章論の余の友人よ。我々基督信徒は我々の罪深き状態を喜ぶのである。アダムにおける人類の堕落にまさって人類の向上に役立ったものはないと言ったのは、哲学者ライプニッツであった。罪は梃子(てこ)であり、それによって我々は神の御子を通して神にまで往々にしてマルクス・アウレリウス型の男や女の全く達し得ない高さにまで、昇るのである。

 九月十三日 夕ハ澄ミテ美シカリキ。宛カモ夕食二外出セントセシ時、思想ハ余二臨メリ、余ガ肉ニ死セル時悪魔ハ余ヲ撃つ能ハザルナリト。而(しか)シテ此ノ『罪ニ死スルコト』ハ、余ノ罪深キ心ヲ覗(のぞ)キ見ルコトニ依ルに非(あら)ズ、タダ十字架ニ釘(つ)ケラレ給ヒシ「イエス」ヲ仰ギ瞻(み)ルコトニ依リテ、成就セラレ得ルナリ。余ハ余を愛し給フ彼ニヨリテ勝チエテ余リアル者タリ得ルナリ。コノ思想ハ限リナキ元気ヲ与ヘタリ、其ノ日ノスベテノ重荷ハ全ク忘レラレヌ。感謝ハ余ノ心ヲ満タシタリ、余ハ主の晩餐に与(あずか)ルコトニヨリテ此ノ日ヲ記念セント欲シタリ。カクテ余ハ一房ノ野葡萄ヨリ僅カノ果汁ヲ搾(しぼ)リ、それを小ナル陶器皿ニ入レヌ。マタ余ハ「ビスケット」の一小片ヲ割(さ)ケリ。余ハ其等ヲ清潔ニ洗濯セラレタル「ハンカチーフ」ノ上ニ置キ、其ノ前ニ座セリ。感謝ト祈祷の後ニ、余ハ感謝ニ満テル心ヲ以テ主ノ体ト血トニ与リヌ。神聖限リナシ。余ハ此ヲ余ノ生涯ノ開二繰り返シ反復セザルベカラズ。

 『冒涜である!聖礼典をもてあそぶものである』と教会主義と他の法王的の諸主義はこれに対して言うであろう、しかし何故にロマ法王とその仲間の司祭たちはこのサクラメント(秘蹟、精礼典)の問題において反対し、我宗最も主の死を記念したいと思う時にそれを記念するこの特権を諸君と同じ人間である我々に惜しむのであるか。もし法王がこの儀式を執行する何ら独占的の樺威を有せず、彼の基督代表権は単なる想像上の虚構にすぎないとすれば、なんじはなんじの『使徒継承権』を支持するにいかなる権威を有するか、余は一日本人を知っている、彼は授洗したる基督信徒として或る福音協会の会員となるために出頭した、そしていかなる権限のある聖職が彼に洗礼を授けたかを朝ねられたとき、『天』と答えた。事実はこうである、ある夏の日の午後であった、彼は深く自分の罪を自覚させられ、十字架につけられたまわしイエスにわいて罪の赦しを発見した。彼は思った、場合はあまりに厳粛であって聖洗礼を受けに出頭しないでこれを去らせることはできないと。しかし一人の『認可された教職』も彼の住居二十五マイル以内には見出されなかった。しかしあたかもそのとき爽快きわまりない夏の驟雨(しゅうう)が沛然(はいぜん)としてその地方にやって来た。彼は思った、天が自ら彼を聖なる儀式に招きつつあるのであると。そこで彼はまっすぐ雨のただ中に飛び込み、敬虔な態度をもって全身を『天の水』でずぶ濡れにさせた。彼はこの方法を自分の良心に満足なものと感じた、そしてそれいらい彼は自分をキリストの弟子として偶像崇拝の同国人の前に告白したのである。余は他の人々のホスト(聖餐のパン)と黄金の聖餐盃に対する尊敬を邪魔するものではない、また余は自分がこういう事柄における余の好みを邪魔されることを欲しない。問題全体の核心は彼御自身である、そして人々は彼を自分のものとする途において異なるのである。非本質的なことにおいては自由を!

 十一月廿四日 感謝祭休暇始マル。睡眠ヲ得テ甚ダ元気ヲ恢復ス。-司起床シテ、余ハ余ノ部屋ノ屏ノ外二雅致アル三角形ノ籠ニ紅キ美味サウナル林檎ノ堆積セルヲ発見セリ。
其ハ余二ハ一大驚愕ナリキ。誰力深切ナル友人ガ余ノ孤独ナル霊魂ヲ慰メントテ其処二置キクルニ相違ナシ。嗚呼、何タル深切ゾ!記憶セヨ、余ノ霊魂ヨ、斯(か)力ル経験ヲ!縦(たと)ヒ小ナリト雖も、カクノ如キ行為ガ、数百弗ノ贈物ニマサリテ屡人ノ心ヲ感動セシムルナリ。余ヲ思ヒ余二関心ヲ有スル若干ノ人々ノ在ルコトヲ知リテ、余ハ一日中如何ニ慰藉(いしゃ)ヲ感ジタリシヨ。余ハ頭ヲ垂レ、感恩ノ涙ヲ以テ感謝ノ祈祷ヲ捧ゲヌ。

 いまだにその名を余に告げたことのないあの或る人の上に、祝福に祝福の加わらんことを!′


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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論語 №57 [心の小径]

一七六 子のたまわく、仁(じん)遠からんや。われ仁を欲すれば、ここに仁至る。

                           法学者  穂積重遠

 孔子様がおっしゃるよう、「仁なるものはけっして遠いものではない。仁が欲しいと思えばそこに仁がくる。」

 仁に達せぬのは、仁を欲することが切実でないからだ、というのであって、孔子様がいろいろな形で繰り返されるところだ。

一七七 陳の司敗(しはい)問う。昭公(しょうこう)礼を知るか。孔子いわく、礼を知れり。孔子退く。巫馬期(ふばき)を揖(ゆう)してこれを進めていわく、われ聞く、君子は党せずと。君子も亦(また)党するか。君(きみ)呉(ご)に取(めと)り同姓なるが為にこれを呉孟子(ごもうし)と謂)いえり。君にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知らざらん。巫馬期以て告ぐ。子のたまわく、丘(きゅう)や幸いなり。いやしくも過ちあれば、人必ずこれを知る。

 「司敗」は官名、名は出ていない。「巫馬期」は門人、名は施、期は字。呉は太伯の後、魯は周公の後で、同じく姫(き)姓である。それ故魯の昭公が呉の女を娶(めと)ったことは「同姓堅らず」の古礼に反する。そこでその夫人は元来ならば「呉孟姫」と称すべきところ、子姓の宋から娶ったように見せかけて「呉孟子」と称した。(かの衛霊公の夫人は宋の女だから「南子」という。)「取」は「娶」の古宇。

 陳の司敗某(なにが)しが孔子に、「あなたの主君昭公は礼を知っておられるか」とたずねたところ、孔子が「礼を知っております。」と答えてそのまま引きさがった。そこで司敗が門人巫馬期に会釈して呼び近づけ、「君子は仲間びいきをせぬと聞いているが、孔子のような君子もやはり仲間びいきをされるのか。昭公は呉の女を娶られたが、同姓なのをはばかり、呉孟子と名づけてごまかされたような次第で、昭公が礼を知るならば誰が礼を知らぬ者があろうぞ。しかるに孔子が昭公は札を知ると言ったのは、仲間びいきではあるまいか。」と言った。巫馬期がそのことを孔子様に申し上げたところ、孔子様がおっしゃるよう、「丘は仕合せ者じゃ。ちっとでも過ちがあると、人様が必ず気がついて教えてくださる。」

 孔子様ももとより昭公の同姓結婚をにがにがしく思っておられたのだろうが、主君のことだから他国人から問われてそうだとも言えず、「礼を知れり」となにげなく答えておかれたが、摘発されてみるとうそだとは言えないから、それは気がつかなかった、よく注意してくださったと、自身の不明にしてしまわれたのであって、まことにおくゆかしい態度だ。

一七八 子、人と歌いて善(よ)ければ、必ずこれを反)かえ)さしめて而(しか)して後これに和す。

 孔子様がひとと合唱されるとき、相手がうまく言う多雨と、必ずい自分はやめて独唱でそこをくり返させ、さらにそれについて合唱された。

 「人の美を成す」ことを喜ぶ孔子様らしさがあらわれていると同時に、なかなか耳のいいことがわかる。孔子様は相当の音楽理論家、兼実演者だったのだ。

『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №47 [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニューイングランドのカレッジ生活 5

                                 内村鑑三

 五月廿六日 此ノ世ニハ悪ヨリモ遙カニ多ク善ガ存在スルトノ思想こヨリテ多大ノ感銘ヲ与へラレタリ。鳥ナリ、花ナリ、太陽ナリ、空気ナリ、― 何タル美ヨ、光輝ヨ、香気ヨ!然ルニ人ハ、四六時中、悪ヲ呟(つぶや)キツツアルナリ。世界ハ其ヲ楽園トナスニ唯ダ一事ヲ要ス、而シテ是レ即チ「イエス・キリスト」ノ宗教ナリ。

 真の楽天家となりつつある、しかもこれは身を温める自分のストーヴなしにきびしいニュー・イングランドの冬を過したばかりのときであり、そして余が勘定書の支払についてまだ不確定であった間のことであったのである!

  六月三日 預定の教義ヲ研究シ、其ノ意義二強キ感銘ヲ与へラレヌ。心は歓喜ヲ以テ躍レリ。誘惑ハ退散スルガ如ク思ハレ、余ノ心ノ高貴ナル性質ハ悉ク感激ヲ以テ燃ユ。恐怖何処ニカアル、試論者(こころむるもの)ノ力何処ニカアル、モシ余ガ神ノ選民ノ一人ニシテ、世ノ基ノ置カレザル前二彼ノ世嗣(よつぎ)トシテ預定セラレシナラバ!

 かつて余の最大の導きの石となった教義は、今や変じて余の信仰の隅(すみ)の首(おや)石となるにいたった。そして余はこの教義はそのような目的のために宣明せられたものであると信ずる。神を喜ばせようと最善を尽しつつあると同時に自分の選びについて本当に容易ならぬことと心配する人々は、必ずや選民の間に自分自身を見出すと信ずる。選ばれない者は普通この間題について悩まない。

 六月五日 嗚呼、凡(すべ)テノ基脅信徒ヲ謙遜ナヲシムベキ思想ヨ!余ハ選民ノ一人ナラザルベカラズトハ、何タル価価ヲ余二与フルモノゾ! 而も余ハ日々罪ヲ犯シソツアルコトヲ思フベシ!

 『羨むべき妾想よ!』と余の哲学者の友人は言うであろう。しかし諸君の想像するほど羨むべきものではない、神の選民の運命はこの地上にて最も憐れむべきものであり、それが貴君に提供せられたならば、貴君はきっとそれを拒絶するであろうからである。日に日に自己に死ぬこと、それが選びである。

 六月十五日 余ノ霊魂ノ救拯(すくい)ハ、余ノ環境下此ノ世ノ運命トノ状態如何二全然無関係ナリ。縦(たと)ヒ余ガ黄金ノ申ニ『浸(ひた)サル』ルトモ、余ノ霊魂ハ依然トシテ全ク影響ヲ被(こうむ)ルコトナカルペシ。縦ヒ余ハ禁欲者ノ最モ厳格ナル苦行ヲ通過スルトモ、余ノ霊魂ハ餓ヱタル獣ノ如クニナルべク、マタ其ノ献身ヲ誇ルナルベシ。神ノ霊余ノ心ニ直接ニ触ルルニ非ズンバ、如何ナル回心モアリ得ベカラズ。何タル慰籍(なぐさめ)深キ思想ヨ! 余ハ貧困ヲ嘆ク、ソハ余ノ肉ガ其こヨリテ苦シムガ故ナリ。余ハ富貴ヲ懼(おそ)ル、其ハ余ノ霊魂ノ救拯ガ危険二瀕(ヒン)スルガ故ナリ。然レドモ、否!救拯は神ノモノナリ、而シテ如何ナル人モ物モ境遇モ余ヨリ其ヲ奪フコト能ハズ。其ハ山二モ優リテ確実ナリ。

 此はロア書三十八、三十九節の余の翻訳である。うなだるるなかれ、おお貧しき者よ、彼のの恩恵はなんじに十分であるからである。怖(おそ)るるなかれ、おお富める者よ、彼は駱駝をして針の孔(あな)を通らせたもうことができるからである。

 七月卅一日 昨夜、恐シキ雷雨アリ。余ハ宛(あた)カモ其ノ時永遠ノ生命ニ就キテ黙想シ、マタ余ノ弱点ノ幾許カト闘ヒツツアリキ。忽チニシテ電光ト雷鳴ハ余ノ心ヨリ斯(か)カル『肉ノ要素』ヲ除キ去レリ、而シテ余ハ雷電二撃タレテ穏カナル平安ノ中二横タハレルヲ夢ミツツアルニ気ヅケリ。余ハ生レテ初メテ轟ク雷雨ヲ楽シミシタリ。

 余は雷が嫌いであった、そして余の最期は雷が余の頭の真上に轟いた時に来るものといつも考えた。異教徒時代には、余はあらゆる余の守護神に助けを乞い、その神々に線香を焚き、蚊帳の中の避難所を『天の怒り』から遁れる最も安全の場所と考えた。そして基督信徒時代にもやはりしばしば余の信仰は雲の中で『神が吼える』時に最も厳しい試練を受けたのである。しかし今や神の恩恵によって、余は耐雷性となった、あらゆる種類の恐怖は十字架に釘(つ)けられたまいしイエスが余に啓示せられたことによって余の心から去ってしまっていたからである。余は心の中で言った、『撃て、おお雷よ、私は安全なのだから』と。


『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №56 [心の小径]

一七三 子釣(つり)して綱せず、弋(よく)して宿(しゅく)を射ず。

                        法学者  穂積重遠

 「綱」は「網」のあやまりとする説もあり、またそのままで「あみ」とよむ人もある。一網打尽という意味からは「あみ」の方がおもしろいが、「綱」とは、大綱に釣針のついた小網をシメのようにさげた、いわゆる「はえなわ」のことだという。
「弋」とは、「いぐるみ」とて、糸をつけ鳥にからみつかせるしかけの矢。

 孔子様は魚をとるに、つりはされたが、はえなわはつかわれなかった。また鳥をとるのに、にわとりを射ることをされなかった。

 「はしがき」に語った宇野先生の講義のとき、若い連中が全体不徹底だと論難したことを思い出す。しかし孔子様は、「殺生禁断」「葷酒(くんしゅ)山門に入るを許さず」というような窮屈な戒律は設けなかったので、漁猟の獲物をさかなに晩酌の一本を傾けるくらいのことはされただろうが(二四三)、一挙多獲や不意打ちは好まれなかったという、人間味の中にもまた孔子様らしさのあるところを示したのだろう。あるいはまた魚烏の捕獲を目的とせず、いわばスボーッとしての釣魚そのもの、射術そのものに興味をもたれたのだと考えてもよかろう。

一七四 子のたまわく、けだし知らずしてこれを作る者あらん、われはこれ無きなり。多く聞きてその善きものを択(えら)びてこれに従い、多く見てこれを識(しる)す。知るの次ぎなり、

 孔子様がおっしゃるよう、「知りもしないことを独断で作り出す者もことによるとあるかも知れないが、わしはそういうことはしない。自分も智者とは申せないが、多く聞いてその善いものをえらんでわが身に行いまた多く見てそれを心にとめておくことは怠らぬつもりで、まず智者の次ぐらいのことはあろうか。」

 本章を第二四八草・第一四九章あたりの趣旨として解説したが、後半は第三四章のような一般論ともとれる。

一七五 互教(ごきょう)共に言い難し。童子見(まみ)ゆ。門人惑(まど)う。子のたまわく、その進むを与(ゆる)す。その退くを与さず。ただ何ぞ甚だしき。人おのれを潔くして以て進まば、その潔さ与す。その往(おう)を保(ほ)せざるなり。

 「その進むを」から「何ぞ甚だしき」までが後になっている本もある。

 互教という話にならぬほど風俗の悪い村があるが、その村の少年が入門を願ったのを許されたので、門人たちがあのようなけがらわしい土地の者を受け入れられるとは どういうものか、と疑い惑った。そこで孔子様がさとしておっしゃるよう、「いやしくも道に進むをたすけてあともどりせぬよう世話するのが教育というものじゃ。互教の者だから教えないなどというのは、あまりにも狭量な次第ではないか。人が身を清くする気持で道に進んで来るならば、その身を清くしようというところを買ってやろう。将来そむき去りはしないということまで受合わずともよさそうなものじゃ。」

 「往」を将来とみる説と過去と解する説とある。「往を告げて来を知る」というところからみると過去のことらしくもあり、旧悪を根にもたないでもよいではないか、ということになって、それでも通ずるが、「往く者は追わず、来る者は臨まず、いやしくもこの心を以て至らば、これこれを魯けんのみ。」という孟子の言葉をも考え合せて、前説に従った。

『新訳論語』 講談社学術文庫
                                                                   

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №46 [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニュー・イングランドのカレッヂ生活 4

                              内村鑑三

  実際、ミッションの本義はただ異教徒の暗黒を基督信徒の光明と比較して描くことによってのみ支持され得るものと想像しているかと思われる或る人々がある。そこで彼らは異教徒をまっ黒な正方形によって、プロテスタント基督信徒を白色正方形によって示す図表を作る。伝道用の雑誌、評論、新聞は、いずれも異教徒の不幸、堕落、はなはだしい迷信の物語でいっぱいである、そして彼らの高貴性、神聖性、きわめてキリストらしい性格についての物語はほとんどその禁に現れない。いくたびも我々自身の経験したことであるが、我々が我々の国民性の高潔な面に触れることより多く、その異教的の面に触れることより少なかったため、いくつかのミッションの集会で我々が述べた話に対し何ら称茸の言葉に接せず、我々は少なからず無念の情にうたれた。彼らは言った、『もしも君たちの民がそれほどりつばな人たちであるなら、むろん、宣教師を送る必要はない』と。『我が親愛なる友よ』と我々はしばしば答えた、『そういう高潔な国民こそいかなる他のものより以上に基督教を渇望するのである。』事実を言えば、もし我々異教徒が手長猿やチンパンジーにまさること僅かにすぎないなら、基督信徒はそのミッション事業を全然たる失敗として諦めるがよいのである。我々が正と邪、真と偽について多少知っているからこそ、我々はすすんでキリストの十字架につれ来られるのである。余は心から宿ずる、『異教徒に対する憐れみ』より以上の高い動機にもとづかない基督教伝道は、派遣する者にも派遣される者にも多大の損害を与えることなしに、全然その補助を撤回(てっかい)してしまうがよいと。

三月二日 神ガ我等二賜物ヲ与へ給フヤ、ソレハ実質的ナリ。他人ノ意見ニヨリテ支持セラルル一片ノ思弁ニアラズ、想像ノ産物タル一片ノ幻影ニアラズシテ、此ノ世ノ風二擾(みだ)サレ能ハザル真ノ実質ナリ。
三月八日 余ノ生涯ニ於ケル甚ダ重大ナル日ナリキ。「キリスト」ノ贖罪ノカハ今日ノ如ク明瞭二余二啓示セラレシコト嘗テアラザリキ。神ノ子ガ十字架二釘(つ)ケラレ給ヒシ事ノ中ニ、今日マデ余ノ心ヲ苦シメシ凡(すべ)テノ難問ノ解決ハ存スルナリ。「キリスト」ハ余ノ凡テノ負債ヲ支払ヒ給ヒテ、余ヲ堕落以前ノ最初ノ人ノ清浄ト潔白トニ返シ拾ヒ得ルナリ。今ヤ余ハ神ノ子ニシテ、余ノ義務ハ「イエス」ヲ信ズルニアリ。彼ノタメニ、神ハ余ノ欲スル凡テノモノヲ余二与へ給フベシ。彼ハ彼ノ栄光ノタメニ余ヲ用ヒ拾フべシ、而(しか)シテ遂ニハ余ヲ天国二救ヒ拾フべシ。*******************************************
 諸君のうちにて『哲学的』の傾向を有せらるる方々は、たとえ侮蔑の念をもってではなくても一種の憐れみをもって、以上の文章を読まれるかもしれない。諸君は言う、新しい科学がこの世に出現したことにより、ルーテル、コロムウエル、バンヤンの宗教は今や一つの『伝説』となってしまったと。諸君は言う、死んだ救世主(すくいぬし)に対する信仰が人々に生命を与えるであろうということは、『理性に反する』と。それなら余は諸君と議論はしない。おそらく『全能の神の前に責任を負う霊魂』というような事はけっして諸君を甚だしくわずらわしたことはなかったであろう。諸君の野信は人生と称せられるこの短い生存如何の彼方(かなた)にまで拡大しないかもしれない。そして諸君の万能の親審判者は社会と称せられるあの因習的なものであって、その『まことに結構』が諸君の要するすべての平和を諸君に与えるかもしれない。しかり、十字架につけられたまいし救世主は、待望する永遠と心の奥底を審(さば)く宇宙の霊とをもっている飼えまたは彼女にのみ必要なのである。そういう人々にはルーテルとコロムウエルとバンヤンの宗教は伝説ではない、あらゆる真実中の真実である。
 『十字架につけられたまいし神の子』を最後的に把握した跡に起ったあらゆる上昇と下降をもって余は諸君を煩わすまい。下降はあった、しかし上昇より少なかった。「一つの事」が余の注意を釘づけにした、そして余の全霊は「それ」によって占領された。余は昼も夜もそれを想った。石炭入れを地階より余の部屋のある最上階運搬しつつある間にさえ、余はキリスト、聖書、三位一体、復活、その他類似の問題を黙想した。かつて余は中階まで来た時、余の二つの石炭入れ(身体の平均を取るために二つ選んだのである)を下し、それからそこで『石炭山』からの途中で余に啓示された三位一体の新しい解釈のために思わず感謝の祈祷を注ぎ出したことがある。休暇が始まり、学生たちはみな自分のママーに会うために帰郷し、余をカレッヂ丘の聖の居住者として残し、余の「ママー」たる柔しい神の霊とともに独りあらしめたときに、余のパラダイスは来た。クラスのエールや他の異教的な騒音でどよめいていた丘は、今や変じて真のシオンとなった。サタンが余を余自身の自由にさせた時にはいつも、余は心に遠く海の彼方の愛する祝福された故国を描き、それを教会と基督教カレッヂと点綴(てんてい)した、もちろんそれは余の想像においてだけ存在したにすぎなかったのであるが。かつて余の心に臨んだいかなる感激的な思想も、余はそれを余の国人に対するメッセージとして心にとめないことはなかったのである。じつに一つの帝国とその民とは余の閑暇(ひま)の時間をことごとく呑みつくしたのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫


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論語 №55 [心の小径]

一六八 子のたまわく、三人行けば必ずわが師有り。その善なる者を択(えら)びてこれに従い、その不善なる者はこれを改む。

                          法学者  穂積重遠

 「三人行えば」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「人生の道連れが三人となれば、二人は必ずそれぞれ自分の先生になる。善なる者にならって自らの善を進め、不善なる者にかんがみて自らの不薯を改めることになるからじゃ。

 第八三章と同趣旨だ。不善者を師とは如何。ここの善不善は善者不善者にあらず、善行不善行なり、というのが「行えば」とよむ方の解釈だ。私はあえてともに詩を語るに足らずと申したい。

一六九 子のたまわく、天、徳をわれに生ず。桓魋(かんたい)それわれを如何。

 宋の重臣桓魋(司馬向魋・しばしょうたい)が孔子様を殺そうとたくらんだので、門人たちが心配して避難をおすすめしたとき、孔子様が泰然自若(たいぜんじじゃく)として言われた言葉である。

 孔子様がおっしゃるよう、「天から仁義道徳の道を生みつけられたわしじゃ、桓魋風情がわしをどうすることができようぞ。」

 ふだんは自分は生れながらの聖人ではないと謙遜される孔子様だが、いざとなると、経国済民(けいこくさいみん)の天命われに在り、火も焼くべからず水も漏らすべからず、の大自信を発揮される。全く大したものだ。第二一〇章を見よ。

一七〇 子たまわく、二三子(にさんし)、われを此て隠すと為すか。われなんじに隠すこと無し。われ行(おこな)うとして二三子と与(とも)にせざるもの無し。これ丘(きゅう)なり。

 「二三子にしめさざるもの無し」とよむ人もある。

 孔子様がおっしゃるよう、「お前たちはわしが隠していると思うのか。わしはけっしてお前たちに隠しはしない。わしは何をするにもお前たちといっしょではないか。それがすべてお前たちに対するわしの講義なのじゃ。丘の丘たるゆえんはそこにある。」

 孔子様は自身が「黙して識す」流儀なので、門人に対しても必ずしも多言されない。それで先生はわれわれに奥義(おうぎ)を隠しておられる、と誤解する者があったかも知れないので、こう告げられたのである。  

一七一 子、四つを以て教(おし)う、文・行・忠・信。

 孔子様の教授要目は結局四つであった。まず古典の講義と徳行による垂範(すいはん)、しかしてその中心徳目は忠と信とである。

一七二 子のたまわく、聖人はわれ得てこれを見ず。君子者(しゃ)を見ることを得ばここに可なり。子のたまわく、善人「ぜんじん)」はわれ得てこれを見ず。恒(つね)ある者見ることを得ばここに可なり。亡(な)くして有りと為(な)し、虚(むな)しくして盈(み)てりと為し、約(やく)にして泰(たい)と為す。難(かた)きかな恒あること。

 孔子様がおっしゃるよう、「聖人は今の世にとうてい見ることばできぬ故、君子といわれるほどの者でも見ることができればけっこうなのじゃが、それもなかなかむずかしい。」またおっしゃるよう、「聖人の次の善人も今の世は見ることはできぬ故、言行一致終始一貫の恒ある者でも見ることができるとけっこうじゃが、それもめずらしい。多くの者は、無いのに有るとかざり、空虚を充実と見せかけ、困りながらえらそうに構えている次第で、『恒あり』というのがまたむずかしいことじゃわい。」

「聖人」はともかく、「善人」についても孔子様の採点はすこぶるからい。

『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となりし乎 №45  [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニューイングランドのカレッジ生活- 3

                               内村鑑三

 余がカレッヂに落着いて間もなく余は総長に連れられて宣教師大会の一つに出席した。じつに何ものもこれらの集会にまさって基督教国の基督教性を示すものはない。異教国には一つもこういうものはない、我々は何一つ他国民の霊魂について心配しないからである。一方の知的男女が三四カ所の広いホールに溢れるばかり充満して如何にして自分たちが他の諸国民をして福音のめぐみ味わしめることが出来るかについてて開こうとするというこの単なる事実が、それだけ十分に印象的である。かりに多くのものはショーを見るために来るのであり、多くの他のものはそういうショーになるために来るのだとしても、この人々に異邦人の間のミッショん8事業がショーとされる価値があるという事実は依然として明白である、モしてそれは躾茸すべての宗教的ショーのうちで最も高畠にしてまた最も神聖なショーである。しかしこのミッション・ショーには国民の頭脳のうち最も強固にして最も冷静なものが参加する、モそしおそろしくそれに真剣な男女がステージに現れ、その額に傷跡と皺をつけてカフィル人とホッテントット人との彼らの道徳的戦争のこと語る時、そのときショーはショーであることをやめ、我々もまたそれによって燃やされるのである。余は基督信徒の余の国人の誰にでも、基督教国でそういう機会があればこういうミッション・ショーに出席するようお勧めする、そしてその人はそうして後悔することはないということを余はその人に保証することができる。そのショーはあらゆる点においてみる価値がある。彼はそれにおいて基督教国の偉大さと、、同時に自分の国の小ささとの、理由を見るかもしれない。彼はかくして『基督信徒の野獣性』について大声に語ることをやめるかもしれない。ほんとうにあのミッション・ショーは感激的である。
 しかしこういうショーにおける最悪のくじは、たまたまそこに居合わせる回心した幾人かの異教徒の見本に当るのである。サーカス興行師が馴らした犀(さい)を使うように、彼らは必ず利用される。披らはショーとして呼び出される、そして何という驚くべきショーよ!つい最近まで木や石の前にお辞儀をしいたが、しかし今はこれら白人たちの神と同じ神を告白している!『ああ、諸君がどうして回心したかを、ちょっと話してもらいたい』と彼らはさわぐ、『だが十五分間でだ、それ以上はいけない、我々は何々大神学博士から、ミッションの方法手段と論拠について聴こうと思っているから』と。馴らされた犀は生きた例証である、黒板上の例証ではなくて、本当の伝道地そのものからの本当の見本そのものである。そして見られて甘やかされることの好きな犀どもは喜んでこれらの人々の命令に従い、はなは喜しい態度で、どうして自分たちが動物であることをやめて人間のように生き始めたかを物語るのである。しかしそのように利用されることを好まない他の犀どもがいる。彼らは人々にショーにされて内心の平和を奪われることを好まない、人々はみなか彼らがどう曲がりくねった苦しい途(みち)を通って犀の生活を捨てるようになったかを理解することはできないのである。彼らは独りそのままにしておいてくれることを好む、そして人の目から離れて黙々と神の緑の牧場を歩む。しかしサーカス興行師は普通はこういう犀を好まない。そこで彼らは時にはインディアンの叢林(そうりん)からこの特別な目的のために幾人かの扱い易い見本(普通には非常に若いもの)をつれて来て、全国をつれ歩き、日曜学校の子供に見せ、講壇上に呼び出し、犀の歌を歌わせ、そのようにして人々にミッション事業に興味をいだかしめるのである。
 そこで余は、新生せる犀としてミッション・サーカス興行師にこの間題にもっと思いやりのあるように忠告する。一方では、彼らは馴らされた犀どもを甘やかして台なしにし、また馴らされていない犀どもに勧めて馴らされた犀どもを模倣せしめもする、それが彼らは自分たちの犀どもの肉のためになるものを得る最も安易な途と知るからである。他方では、諸君がそのようにして諸君の事業に興味を抱かせようとおもうその人々に対し、諸君は基督教ミッションとは本当はどういうものであるかということについて誤った概念を与えると信ずる。パウロやバルナバがテトスとかテモテとかをエルサレムに連れて行ったのは、彼に異邦人の歌を歌わせ、その奇異な、半ば不可解な方法で、『如何にして偶像を火に投じて福音にすがったか』をそこの兄弟たちに告げさせるためであったということは、聖書において余は読まないのである。余は、如何に大使徒がその熱情を傾けて異邦人の立場を弁護し、神の民は神なき異邦人にすこしもまさらず、両者はともに罪に定められ、神の栄光を受けるに足りないということを彼らに語ったかを読むのである―以上のすべてから余が結論することは、パウロ及びパウロ的の心をもった人々には、異教は何ら笑い興ずべき、あるいは『憐れ』まれさえするものではなくて、それは同情せらるべき、自分たち自身の状態として受取らるべき、したがってあらゆる尊敬と基督信徒的好意とをもって取扱わるべきものであったのである。余は土民服をきた一ヒンドゥー青年をしてトブレディを彼自身のパーリ語で歌わせて集めたあの寄附金を、馴らされたオランウータンをショーにして集めた金を評価する以上に評価しない。おお、人々のバリサイ的の誇りに訴え、自分たちが異教徒よりすぐれていることを自分たちに示して『本国の基督信徒』を促して『彼らを憐れま』せるあれをミッション事業と呼ぶことなかれ。宣教師中の最善の宣教師は常に自分たちの派遣された民の立場と威厳との支持者であり、そして愛国的な原地人であるだけ、それだけいわゆる基督教国公衆の前に偶像崇拝その他の堕落を暴露(ばくろ)することに敏感なのである。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫




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論語 №54 [心の小径]

一六四 子の雅(つね)に言う所は、詩・書・執礼(しつれい)、皆雅に言うなり。

                              法学者  穂積重遠

  「雅言(がげん)」とよむ人もある。それだと「正言」という意味になり、詩・書・礼を語るときには魯国(ろこく)なまりをつかわれず、正しい古言を用いた、ということになるのだが、何やらピンとこない。「執礼」については古註(こちゅう)に、一人の執り守る所なるを以て言う、いたずらに誦説(しょうせつ)するのみにあらざるなり。」とある。

 孔子様が常に語られたところは、詩と歴史と実践礼(じっせんれい)、これらを常に言われた。

 後の第一六七章と相対応する意味からも、「常に言う」とよむ方がよかろう。

一六五 葉公(しょうこう)、孔子を子路に問う。子路対(こた)えず。子のたまわく、なんじなんぞ曰わざる、その人と為(な)りや、憤(いきどお)りを発しては食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老(おい)の将(まさ)に至らんとするを知らずとしか云うと。

 葉公は楚(そ)の葉県(しょうけん)の長官沈諸梁(しんしょりょう)なる者、「公」と称するのは僭上沙汰(せんじょうざた)だ。「日わざる」を最後にもってくるよみ方もある。それでもよいのだが、前記の方が力が強い。

 葉公が孔子様の人物を子路にたずねたところ、子路は何と言葉にあらわしてよいかわからなかったとみえて、返事をしなかった。孔子様がそれを聞いておっしゃるよう、
 「お前はなぜこういわなかったのか。私の師匠はうまれつき学問が好きでござりまして、学理を了解し得ないときは発奮(はっぷん)して食事も忘れるほどにその研究思索に熱中し、真理を会得すると心から喜び楽しんで心配事も忘れてしまいまする。かく勉学修養に一身を打ち込んで寄る年波にも気がつきません。まずはさような人物でござりますると。」

 孔子様が謙遜(けんそん)であった他面に絶大の自信をもっておられたことがよくあらわれている。「老の将に至らんとするを知らず」という言葉の有難味を、年取るにつれてしみじみと感ずるが、私も大学停年退官後、年ならずして「老の将に至らんとするを知らざる」たいせつな御奉公を授けられ、恐懼(きょうく)はもちろんながら、心から感謝したことであった。昭和二十一年四月、皇太子殿下のお供をして葉山に行っていたとき、海岸で小魚とりのお相手をしつつ即興一首を得た。

 老の将に至らんとするを忘れけり皇子ときはひて磯にはぜ追ふ

一六六 子のたまわく、われ生れながらにしてこれを知る者にあらず。古(いにしえ)を好み、敏(びん)にして以てこれを求むる者なり。

 孔子様がおっしゃるよう、「自分はけっして生れながら学ばずして道理を知っている聖人でも天才でも何でもない。ただ昔の聖人の道を好み、精出してこれを求めただけの話じゃ。」

一六七 子は怪・力・乱・神を語らず。

 孔子様は、怪談や、武勇伝や、乱倫背徳の話や、神仏霊験記やらを語られなかった。

 次の古証がよく当っている。「聖人は常を語りて怪を語らず、徳を語りて力を語らず、治を語りて乱を語らず、人を語りて神を語らず。」


『新訳論語』 講談社学術文庫

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余は如何にして基督信徒となrし乎 №44 [心の小径]

第八章 基督教国にて―ニュー・イングランドのカレッヂ生活 2

                                 内村鑑三

  こうして余は余のニュー・イングランドのカレッヂ生活を始めたのである。それを十分に叙述することは、余のアメリカやイギリスの読者諸君は要求したまわない。余はすべての学生の味わうあらゆる面白さ、滑稽さをそれから得た。余はその教授たちすべてが好きであった。ドイツ語の教授は余の知る最も愉快な人であった。余は彼とともにゲーテの『ファウスト』を読んだ、そして彼はすこしも彼自身の感情的雰囲気(ペーソス)をそれに加えることなしに、それを余にきわめて興味あるものとした。その悲劇は天来の霹靂(へきれき)のように余を撃った。余は今もなおあの『この世の聖書』を参照するが、それは聖書そのものよりわずかに頻繁でないだけである。歴史の教授は純然たる紳士であった。彼はどうすれば公平に過去を判断し過去とともに現在をもまた判断することができるかを教えてくれた。彼の講義は本当の余には本当の神学科の課程であった。彼は宗教についてはめったに語らず、たいていは『人類の進歩』に論及したのであるけれども。聖書註解の教授は旧約聖書史と有神論との特別課目を余に授けた。老博士は純粋の関心をもって余を世話してくれた、そして余は彼のクラスのただ一人の学生であったので、我々二人は連続三学期間の定期討論クラブを持ったのである。彼は余のうちにある儒教やその他の善い異教を探り出してそれを聖書的標準に照らして考えたのである。哲学では余は全く失敗であった。余の演繹(えんえき)的な東洋的の心は、知覚作用、概念作用、等々の厳格な帰納的方法とは全く相容れなかった、余にはそういうものはみな何の区別をも必要としない自明の事実であるようにも、または哲学者が暇つぶしに何かするために論じた同一物に対する別の名称であるようにも思われた。真理の立証のためには論理によりも我々の目により多く頼る我々東洋人には、余がニュー・イングランドのカレッデで教えられたような哲学は我々の疑惑と霊的幻想を一掃するには比較的にわずかな役にしか立たないのである。我々東洋人は知的の民である、それゆえ我々は知的に基督教に回心せしめられなければならないと考えた、あのユニテリアンや他の知的傾向をもっ宣教師たちほど、大きな誤りを総したものけなかったと余は信ずる。我々は詩人であって科学者ではない、そして三段論法の迷路は我々がそれによって真理に到達する途(みち)ではない。ユダヤ人は『黙示の連続』によって真の神を知る知識に達したと言われている。すべてのアジア人はそうであると信ずる。
  それゆえ余は地質学と鉱物学とを哲学より以上に好んだ、それ自体のためばかりではなく、すべての思いにまさる平和を知る知識に余を導いてくれる助けとしてであった。結晶学は余にはそれだけで一つの説教であった、そして黄玉石(トパーズ)や紫石英(アメジスト)の角の測定は余には真の精神的娯楽であった。そのうえこれらの諸部門の我々の教授は人間として最善の人であった。彼は路上で拾った一個の石について全課業時間を語りつづけることができた、ロージャーやホイットマーシュや他の適中が彼の講義室の一隅で快い昼寝を貪(むさぼ)りつつあっても。余はけっしてこの教授に如何にして彼は創世記と地質学とを調和せしめたかを質問しなかった、余は彼の頭脳が岩石と鉱物と化石と蹄痕(ていこん)とで容易に入り切れないほどつまっていて、かような問題を計れる余地のないことを知っていたからである。
  しかし総長先生彼自身にまさって余を感化し変化させたものはなかった。彼がチャペルで起立し、讃美歌を指示し、聖書を朗読し、そして祈ることで十分であった。余は尊敬すべき人を一目見るというただ一つの目的のためにも、けっして余のチャペル礼拝を『カットした』(すなわち欠席した)ことはなかった。彼は神を、聖書を、またすべてのことを成就する祈りの力を、信じた。あの聖なる人が祈っているときに自分たちのラテン語のレッスンを勉強したあの無邪気な適中は、天国に行って彼らの行為を悔いるであろうと思う。余には、一日の戦闘に備えるために彼の澄んだ響きわたる声にまさる何ものをも必要としなかった。神は我々の父にいまし、我々が彼について熱心であるにまさって我々に対する愛に熱心でありたもうということ、彼の祝福は宇宙にあまねく発射しているので、彼のみちみちているものが『とびこむ』には我々はただ我々の心を開きさえすればよいということ、我々の本当の間違いは、神御自身のほかには何びとも我々を潔(きよ)くすることができないのに、我々が潔くあろうと努力するそのことにあるということ、本当に自分自身を愛するものは先ず自分自身を厭(いと)いそして他人のために自分自身を与えるべきであるから、自己主義は本当は自己の憎悪であるということ、等々、等々、- 以上のような、また他の貴重な教訓を、総長先生はその言葉と行為とによって余に教えてくれた。余は告白する、サタンの余を支配する勢力は余がかの人と接触するにいたっていらい弱まり始めたことを。徐々に余は余の原始の罪と派生した罪とを払い清められた。カレッヂ生活二年の後(余は第三年級に入ったから)、余は天の方を指した途にあったと思う。余が躓くのを止めたというのではない、余は依然として絶えず蹟くからである、しかし主は憐れみふかくありたもうこと、そして彼は余の罪を彼の御子にありて消し去りたもうたこと、彼に依り頼んで余は永遠の愛から遠ざけられていないことを、今や知るが故にである。余のその後の日記はそれが本当に事実であったことを示すであろう。

『余は如何にして基督信徒となりし乎』 岩波文庫

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