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対話随想余滴 №7 [核無き世界をめざして]

   対話随想余滴⑦ 関千枝子から中山士朗様

             エッセイスト  関 千枝子

 さまざまな大事な用事、つまらぬ雑事、雑用、立て込んでいまして、手紙を書くのがひどく遅くなりまして、すみません。
 実は昨日、一月二十三日、跡見学園という古い歴史を持つ私立の女子中学に平和学習(原爆)に行ってまいりました。なんだか、これが終わるまでそわそわして、じっくり手紙も書けない気分でした。
 跡見中学に行くのはこれが八年目です。
 「夏の会」という会があります。原爆の詩や手記の朗読を女優さんたちがなさっている会です。地人会の「この子たちの夏」というのがあり一九八五年から二〇〇七年まで二十三年間も行われていたのですが、地人会の解散により中止となった。これを惜しんで、女優さん十八人が新しい会を立ち上げ、新しい脚本で「夏の雲は忘れない」という朗読の公演をはじめ、今年で十周年になります。その最初の年、跡見学園の講堂で立ち上げ公演があり、私も招かれて行きました。女優さんだけでなく、跡見の高校生たちの朗読グループも参加し、一緒に舞台を作り大変感動的だったのです。私は跡見という学校が平和や原爆の問題に熱心なことを知り感心したのですが、その時跡見の学校の方から、跡見のいろいろな資料をいただいたのです。その中に当時の学園長の方が跡見という学校の歴史や、平和学習への取り組みなどいろいろなことが書かれていたのですが、私はこの文章に大変感動しまして、この先生にお手紙を差し上げたのです。当時から跡見は中学三年生が広島へ修学旅行に行くことになっていたようですが、園長先生は、修学旅行に行く学年の主任を呼び、事前学習にこの方の話を聞けば、と言ってくださったのです。
 こうして、私と跡見との縁が始まりました。修学旅行は中三の年ですが、二年生の三学期・一月に、生徒たちに話をしてほしいということになったのです。
 二年の学年主任・矢内由紀先生は大変熱心でしたし、私は中二が対象ということで感激してしまいました。私のクラスは女学校二年生で全滅しました。昨日まで楽しく笑ったり冗談を言ったり、そんなクラスメートが全員大やけどを負い死んでしまう、そんなことが起こったのですよ、それがあなたの年齢なのですよ、というと、皆、顔が引き締まります。私は夢中で話しました。そして、その後も毎年私は跡見に行くようになりました。
 「夏の会」も毎年、スタートは跡見でということが定着し、私は毎年一月と夏に跡見に行くのが習慣になりました。中二の学年主任は毎年変わるのですが、最初の矢内先生は,以来ずっと年賀状をくださいます。こんなに丁寧な先生は珍しいです。
 この学校の素晴らしいところは、単に私を呼んで話をさせてくださるだけでなく、その前から事前学習を行っていて、私の「広島第二県女二年西組」を全員に読ませてくださるのです。生徒さんたちはそれでレポートを書き、毎年素晴らしいレポートがあり、感動しています。今年は矢内先生が、生徒たちに二年西組の生徒から、特に記憶に残る一人を選び感想を書くよう言ってくださったそうです。この現物はまだ見せていただいておりませんが、どの人に一番関心が集まったか、それこそ、私、興味を持っております。
 そんなことで、今年も跡見に張り切って、というより少し緊張して参りました。この学校は茗荷谷にあるのですが、我が家からは少し遠く、また私の歩き方が少し遅くなっていますので、十分時間をみなければなりませんが、講演の時間が朝の一時間目なのです。遅れては大変です。目覚めましなどをかけ、前の晩から緊張です。
講演時間は一時間です。今年は私の話(体験)は短めにし、原爆全体のことを知っていただくためヒバクシャの絵を十六枚ほど見せました。絵を見せるのは毎年のことなのですが、今年は少し内容を変え、沼田鈴子さんと、佐伯敏子さんの描いた絵を入れてみました。有名な「証言者」のことを言っておきたかったのですが。こんな証言者たちがもはや出ることはないと思いながら。沼田さんの絵は、沼田さんが麻酔もなしで足を切られる手術をされるところ。佐伯さんの絵は、自分が見た被爆者たちの絵。このヒバクシャは、怖い顔をして鬼のようです。あまり怖い顔で、色なしのデッサンということもあって、ヒバクシャの絵としては、あまり「人気」がないのですが、佐伯さんには傷ついたヒバクシャの顔が鬼のように見えたのでしょうね、と話しました。その後、矢内先生が代表していくつか質問してくださいました。これからどうすれば、の質問に、ヒバクシャの証言を忘れず、一部分だけでも胸にとどめて来るださい。そしてまたもっと若い世代に語り継いでください。核兵器は人類と共存できない最悪の兵器、なんとしてもこの兵器を禁止したい。その世論を強めてくださいと言いました。

 それにしても、今年、わが世代というか、戦争を知る世代の死が続きます。樹木希林さん、兼高かおるさんに続き、市原悦子さん、その同じ紙面に梅原猛さんが出ていて、うーんと思っていたら、今度は松本昌次さんの死去が新聞に出ていて、少しおちこみました。松本さん、一月十五日死去、腎臓がん、九一歳。松本さんは、知る人ぞ知る未来社の大編集者、後、影書房を作り,この時代に井上光晴さんの第二次「辺境」を編集。だいぶ前の手紙に井上先生に「書け」とはっぱをかけられたことを書きましたが、それで、出かけたのが影書房、同社がまだ大塚にあった時です。
 松本さんにはお世話になりました。落ちこんだとき行っては一緒に酒を飲みました。ここには金はないけれど、いつも不思議に酒はあるという松本さん。「編集者には人を癒す才能もあるので」と言われたのも忘れられません。それから長い編集者生活、儲かることは一度もなかったけれど、いい本を出し、頭も体も衰えず、最後まで健筆をふるわれた。「9条連ニュース」に昨年までコラムを書いておられたと思います。九十一歳だから、まあ仕方ないと思うけど、寂しいです。

 昨年暮れのNHKテレビ「天皇 運命の物語」の件ですが、どうも、見た方が多くて少々困っております。当時の毎日新聞の皇太子記者はもう皆亡くなっていますし(一人存命)、ぜひ当時の証言をと言われたら、出ざるを得なかったのです。ほとんど半日くらい録音した中であの部分だけ編集されると、少し、違うなと思うこともあり、困るのですが。「皇太子の恋」までの大きな流れがあり、それが見えないと困るのですが、
 ともかく、一番驚いたことは、あれを見た人の多さで、まあ、びっくりです。天皇のこと、皆そんなに興味があるのかと思ったり。それがかなり進歩的なインテリばかりだったのに驚きました。面白いことに、私の住む地域の女性たち、「皇室アルバム」に夢中になってみている方々が多いのですがこの方々はあの種の番組は見ていないのですね。あまりごちゃごちゃ言われなくてほっとしたのですが。この話、詳しくするとこんなスペースでは書けません。必要なら(中山さんがもっと知りたいと言われるなら)、また改めて書きます。
 追記 これで⑦はおしまいのはずでしたが、今、平岡敬さんからお葉書を頂きました。奥様が亡くなったので「喪中欠礼」のお葉書いただいていたので、私、新年になってから寒中見舞いを出しておいたのですが、そのお礼の手紙です。平岡さんの奥様第一県女と聞いておりましたが、一年生だったのですね。私と同じで体調を悪くし、作業を休まれ、助かったそうです。苦しかったこと、推察できました。作業を休んで助かったものは、単純に「運がよかった」など言えない思いがあります。「私は運が良かったとして、死んだ友は運が悪かったのか!」という思いです。生き残りの辛さ。実は私、跡見の二年生にも、この思いを語ったのです。
 多分、平岡さんの奥様も同じ思いを抱えながら、亡くなられたのではないか、と思いました。

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対話随想余滴 №6 [核無き世界をめざして]

   対話随想 余滴⑥中山士朗から関千枝子様へ

                 作家  中山史朗

 まずは、新年おめでとうのご挨拶をもうしあげます。
   めでたさも 中の下なり おらが春
 私たちの「往復書簡」が始まってから七年の歳月が経ったことに、改めて驚いております。このような長い時間をかけて途絶えることなく続いている「往復書簡」は、過去に例がないのではないでしょうか。しかも、二人の被爆者によって紡がれた、証言の記録、核なき世界への希求が述べられた手紙の往復は、二人の生命が続く限り続くものと願っております。
 昨年は暮れの十二月二十四日に、NHKテレビで、たまたま『天皇運命の物語②』「いつもふたりで』を観ておりましたら、関さんが出演しておられる場面に出合わせ、そのあまりの偶然のことに驚きながら、拝見させていただきました。
 この番組は、天皇の平成最後の誕生日を記念して作られた、二夜にわたる特別番組でした。関さんは、▽日本中が沸いた世紀のご成婚▽その裏にあった強い決意とは、その場面で解説されていました。当時、毎日新聞に入社して間もない関さんが、取材チームに加わって取材されている写真や記事が出ておりました。淡々と解説される関さんは、堂々として見事でした。二十三年ぶりにお会いした関さんでした。
 この番組を観始めた時、大分県日出町に住む女性の方から電話が入り、「関さんが今テレビに出ておられる」と教えてくれました。「私も今観ているところです」と答えると「安心しました」と言ってすぐに電話が切られました。彼女は『往復書簡』の読者でしたが、嬉しい話でした。
 年頭のお手紙を読みながら、関さんがお正月の料理を調えてお子様たちも迎えられる、温かい光景が伝わってきました。そして、「たぶん、来年はできないだろう」という関さんの年相応の衰えの予感、それは私にも共感されるものですが、深くつたわってきました。
私の新年は、四日にかかりつけの医院、九日には別府医療センターの診察ということからはじまりました。いずれも、ボランティアの人に付き添ってもらっての病院通いですが、身体のあちこちに支障をきたし、まさしく明日をも知れぬ身を感じざるを得ません。
 昨年末、広島の中国新聞の客員編集委員・富沢佐一さんから電話取材がありました。その記事は、十二月二十八日の『高校人国記』国泰寺高校(広島市中区)に、核兵器廃絶へ思いを一つに生きた学者・医師が取り上げられていました。その中の一人として、私も加えられていました。その見出しは、
  <愚直の一念。被爆者の痛みを死ぬまで書く>
 となっていました。
 また、余滴②で爆心地から七〇〇メートル離れた広島一中で、倒壊した校舎から脱出することができた生徒が、その後、多発性癌に侵され、九回も手術をしたという話を書きましたが、このたびの記事によって、その生徒の名前は児玉光雄(86)君と言い、一九回もがんの手術を受けながら、広島市被爆体験証言者として、語り続けていることが分かりました。
 私たちの対話随想で何度か書きました片岡脩君も児玉君同様に倒壊校舎からの脱出組の一人でしたが、原発不明の癌で亡くなっていることをあらためて思いました。
 こうしたことを振りかえりながら手紙をしたためておりますと被爆死ながら八八歳の今日まで命長らえたことが不思議としか思えません。戦時中は、二十歳の命と教えられ、陸軍幼年学校や海軍兵学校が憧れの対象でした。原爆が投下された広島は、六十五年間は草木も生えぬと言われ、ましてや、被爆した者の生命は短いとされました。そうして歳月を経てこの年齢まで生きていることは、死者によって生かされているというよりも、罪深さのようなものが私の内部に沈殿していることも事実です。
 最近、平成最後の年、戦争がなく災害の多かった三〇年ということがしきりに言われるようになりました。けれども、今年は昭和九十四年と換算する私にとっては、昭和の戦争は、敗戦で終わったとは思っていないのです。したがって、このたびの関さんのお手紙を読みながら同じ思いで筆を執っておられることを感じました。
 石浜みかるさんによって、お父さんのキリスト教の信徒である石浜義則さんが、治安維持法違反で捕まり、そこでン原爆に遭った話。獄内での朝鮮半島出身政治犯との交流。そのうちの一人が韓国でヒバクシャ運動をはじめ、一九九七年に最初の使節団で来日した際、石浜さんの証言で被爆者手帳を取得した話。石浜みかるさん本人は、目下、キリスト教の満蒙開拓団のことを調べておられ、間もなく出版される予定であるとの報告がありました。
 その他に、NHKの山上博史さんとピアノの先生長橋八重子先生(以前往「往復書簡」に掲載)との追憶。宇都純子さん(原爆の詩や手記の朗読)が復活公演として、佐伯敏子さんお手記を一時間半にわたって朗読された話。武蔵大学で行われた被爆遺産継承の会の報告、韓国被爆者たちの手記の朗読、その運営に当たった同大学の教授・永田浩三氏(元NHKディレクター)は広島の被爆二世という宿命がありました。お母さんは、被爆後縮景園を通って、原民喜と似たようなコースをたどって避難されたとのことでした、
 手紙の末尾には、「二世の方々、若い方々、ヒバクシャでなくて原爆の問題に熱心な方々と知り合い、私は改めて勉強しなおしました」
 と結ばれていました。
 この言葉のように、関さんは今もって大勢の被爆関係者を訪ね、話を聞いておられます。
  私自身を振り返ってみても、関さんとても年齢から来る体力の衰えはあると思われますが、知れを克服しながら話を聞きに行かれる姿勢には敬服せざるを得ません。そこには辛い歴史を埋もれさせず、戦争の悲劇を伝え、核なき世界を後世に伝えるという強い意志の表れだと思います。国策が生んだ惨禍を記憶に残し、証言できる最後の世代の発言だと思っています。

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対話随想余滴 №5 [核無き世界をめざして]

  対話余滴⑤ 関千枝子から中山士朗様へ

             エッセイスト  関 千恵子

 二〇一九年の年明けですが、素直に「おめでとう」と言えず、なんとも不安いっぱいの世界の情勢です。でも,もう、できないのではないかと思っていた我が家の正月行事(子どもたちが来てくれる)も、とにかく正月の料理も作れましたし、(例年より支度を早く始める)などいろいろありましたが、とにかく無事終えました。しかし、この味でいいのだろうかなど不安に思ったり、年相応の衰えは如何ともしがたい。多分来年はできないだろうなど子どもたちに言ったのですが、まあ、どうなりますやら。
 とにかく、今年は絶対に頑張りたいと思います。そして、物書きとして、死ぬまで書き続けたいと思います。もし、体が動かなくなっても、頭だけはしっかりして、物が書ければいいなと思っております。

 これからは昨年の報告の積み残しです。なんだか少しずれて申し訳ないようですが、昨年はいろいろありすぎました。
 十二月一日、例の竹内良男さんの学習会に行きました。石浜みかるさんのお話でした。重いお話ばかりで、三時間の例会に収まらないような話でした。
前にもお話したことがあると思いますが、石浜さんのお父さん・石浜義則さんは、キリスト教の無協会派の小さな教団の信者で、歯医者さんですが、街頭で戦争反対を説き、治安維持法違反で捕まり、広島の吉島刑務所に収監され、そこで原爆にあったという方です。   この方は被爆の手記を書いていますが、どうしてか、その手記が掲載されたのが長﨑の証言集で、この方のこと、広島の原爆関係者もあまり知らないのではないかと思います。
 刑務所の高い塀に阻まれて石浜さんのお父さんはケガもなかったようですが、刑務所の建物も壊れ重傷者も多く、囚人同士で助け合ったとのこと。翌日から囚人たちは救援活動に駆り出されるが(二次放射能)、政治犯は数珠つなぎにされて山口刑務所に連れていかれる(広島に置いておくと暴動でも起こし危ないと思った[?])のです。この政治犯の中には朝鮮半島出身者が多くいた、独立運動のためということですが、ちょっとしたことに、言いがかりをつけられたということが多かったようですね。とにかく、石浜さんは山口に連れていかれ、戦争が終わって広島に戻されるが十月ごろまでそのままにしておかれたそうです。
 釈放になるが、朝鮮出身者修身の人びとはどこかへ行けと言われても行く場所がない。仕方なく石浜さんは、妻子を山口県の大三島の妻の実家に預けていたので、そこへ朝鮮人たちを連れて行くのです。治安維持法違反の政治犯などというと大変なので、妻の実家にはことをごまかしていたので、朝鮮人たちを連れて行くのは大変だったようです。
 ようやく朝鮮半島出身者たちを、数日食わせ、彼等も帰るルートが見つけられ帰国。石浜さんは歯医者をしようとするのですが政治犯だったため免許が取り上げられ歯医者ができない。仕方なく歯科技工でしばらく過ごしたそうです。戦前歯科技工士という職はなく、歯医者さんたちが自分でやっていた。歯科医の中にはそれが得意でない人もいる、石浜さんは結構これがうまくて、技巧の仕事で糊口をしのいだというのですが。やっと免許を取り戻すまで生活も、大変だったようです。
 帰国した韓国人たちとはそれきり連絡がつかなかったが、そのうちの一人が韓国でヒバクシャ運動をはじめ、一九七七年最初の使節団で日本に来られた時、石浜さんと再会、石浜さんの証言で被爆者手帳をとれたとか。
参加者の皆さん、びっくりして聞いておられました。
 石浜みかるさんは、今キリスト教の満蒙開拓団のことを調べておいでです。満蒙開拓団に加わらなければ、という状況に追い込まれる。それを進めた人たちの中には、賀川豊彦もいるとかのことです。これも重い話なのですが、こちらは時間もなく、石浜みかるさんの新著も年明け早々出るということで、またもう一度話を聞きたいということになりました。
 四日に、もとNHkのいらした山上博史さんという方から連絡があり、会いました。この方のお父様が音楽関係の方で広島大学の教授だった方ということです。このお父様が、私のピアノの先生長橋八重子先生に大変お世話になった、長橋先生の写真があるから見てほしい、自分は長橋先生の顔を知らないからと言われるのです。長橋先生の顔分かるかしら、とふと心配になりました。前に、長橋先生のこと、「往復書簡」でも、話に出ましたね、その時中山さんから長橋先生のお宅という新川場町の家の写真を送っていただいたことがあり、これは違うとお申しました。新川場の家の写真は古い家のようで、先生の家は確か小町(一中の裏の方)、とにかく素敵なおうちでしたから。私は長橋先生のお家についてよく覚えており、「広島のわずかに残る文化だ」、と思っていました。だから家についてはいくらでも思い出を語れるのですが先生のお顔、はっきり言えないのです。子どもだし先生の顔をそんなにじろじろ見られず、ただ老婦人ということしか(老婦人と言っても多分先生五十代ではないかと思うのですが)言えないのです。
 でも写真を見ると先生だとすぐわかりました。先生の小町の素敵なお家のテラスで撮っておられるので。先生に間違いないとわかりました。
それから山上さんと長いことしゃべりました。不思議な縁です。山上さんは戦後の方でお父様が長橋先生の弟子(長橋先生の夫君の弟子ではないかと思いますが)戦前のことは御存じないのに、なんでこんなに話が弾むのか。
 最愛の息子さんを失くされ、悲しみの中にいらした長橋先生、先生のおうちのグランドピアノの傍で遺体が発見されたそうです。ピカの瞬間、何と思われたか。
 十二月十四日、宇都純子さんの復活公演に茅ケ崎に行きました。宇都さんが原爆のことに打ち込まれ、十数年にわたって夏に、原爆の詩や手記の朗読をされていることは、何度も書いたと思います。それが二〇一七年は乳がんのため公演できなかった。昨夏もできず、とても心配していたのですが、12月になって復活公演となったのです。
 佐伯敏子さんの手記を朗々と読まれました。佐伯さんは身内十三人を失くし、手記もとても長く一時間半はかかります。でも、皆、じっと身じろぎもせず聴き入っていました。宇都さんの声は、病気の前よりかえって通り、よくなったような気がしました。本当に感動しました。
 十五日、武蔵大学に行きました。西武線新桜台というところにあり綺麗なキャンパスですが景色を観る暇もありません。道を尋ねながら行ったら二時間半以上かかりました。
 例の被爆遺産継承の会のセンター設立資金集めの第一号の会らしいけど、それにしては地味ですね。でも、若い方のいろいろな活動を聞け、悪い会ではなかったのですが。
このキャンパスで次の週も(土曜日)催しがありました。今度は在韓被爆者関係です。詩の朗読が中心の会なのですが、武蔵大学の学生たちの朗読が新鮮でした。韓国人被爆者たちの手記の朗読ですが、二十人くらいの朗読(群読は少なく、ひとりひとりかわるがわる読むスタイルですが)若い人がこれだけ集まると迫力があります。
 この武蔵大の生徒たちを指導し、また大学の教室を貸してくださるのも同大学の教授永田浩三さんがいてこそなのですが。永田さんは昔、NHKの有名なディレクタ-ですが、よく、原爆関係の会に来られます。広島局にいたことはないのに、と不思議に思っていましたら、会の後、お茶を飲んで話し合ったら、彼、広島の被爆二世なのですね。お母様は被爆後縮景園を通って、原民喜と似たようなコースをとって逃げておられるのだそうです。広島問題に熱心なわけわかりました。
 二世の方々、若い方々、ヒバクシャでなくて熱心な方々と知り合い、私も改めて勉強しなおしました。

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対話随想余滴 №4 [核無き世界をめざして]

  対話随想 余滴④.中山士朗から関千枝子様

                  作家  中山史郎

 新聞のコラムによれば、暑い夏の後には寒い冬が訪れると諺にある由。
 とにかく、この寒さに身も心も縮み、とうとう今年も身の回りの始末をつけないまま師走を迎えたという思いに沈潜しています。
 実は以前から思っているのですが、関さんが毎回送ってくださる複写に、知の木々舎の横幕さんが撮影された季節の美しい写真が添えられていますが、今度、『余滴』が本になる場合は、その都度その写真で飾って頂ければ、文章に季節感がにじみ出ていいだろうなと想像しています。最近では送った原稿に、書いた年月日を覚えとして記しているので、ふとそのようなことを思いました。
 このたびの関さんのお手紙を読みながら、書くということは、大勢の人と出会い支えられ、支えて生きていくものだとつくづくと感じました。そして、そこには作品の運命も関わっているように思いました。
 とりわけ、関さんと井上光晴さんとの出会いをこのたびの劇団大阪による『明日』の公演を通じて回顧される場面を読んで、はじめて知りましたが、物書きが歩んだ一端をうかがい知ることができました。同時に、その頃から関さんとのつながりがあったことに驚いております。
 と言いますのは、その頃、私も井上光晴の作品をしきりに読んでいたからです。
 お手紙を読んだ後で、書庫を覗いて調べてみましたら、『流浪』『暗い人』『乾草の車』『黄色火口』『階級』『残虐な抱擁』『虚構のクレーン』『幻影亡き虚構』『地の群れ』『九月の土曜日』『辺境』「明日』『眼の皮膚』『曳舟の男』『暗い人』と十五冊もありました。 
 そして、井上光晴さんから頂いた葉書のことを思い出しました。手紙の束から取り出して、改めて読みなおしました。
 
「死の影」頂きながらお礼がおくれました。今「石の眠り」一篇を読んだところです。何かつらい感じでした。どうかがんばって下さい。文学は困難な道ですが、歩き続けるより仕方ありません。時間をみつけてほかの作品をよみます。

 葉書の住所は、世田谷区桜上水四の一となっており、その頃私が住んでいた三鷹市中原四丁目宛てに頂いたものです。
はからずも、関さんのお手紙によって、井上光晴さんの作品に親しんでいた頃の私を思い出しながら、その頃は関さんとお目にかかる機会はありませんでしたが、現在、ご縁があって六年にわたって往復書簡をつづけさせてもらっているのが不思議にかんじられてなりません。
 それとは別に。関さんが母子家庭の現実を書きたい、と井上光晴さんに手紙を出した後の電話で、次のような言葉がありました、
「書きなさい、すぐ」、「わかっている、もう読んだ」、「一〇〇枚書きなさい」「ちまちましたことを考えるな、一〇〇枚書きなさい」。
 この言葉によって関さんは、井上光晴さんの個人誌「辺境」に七〇枚ずつ三回にわたって書かれました。これは後に農文協から『この国は恐ろしい国』となって出版されたということをこのたびはじめて知りました。
 この個所を読みながら、私が吉村昭さんに出会った頃のことが思い出されました。
 丹羽文雄さん主宰の「文学者」に加入する前のことです。ある同人雑誌に載せた作品を吉村さんに読んでもらったところ、「原爆は君にしか書けないんだ。それを書くだけの力が君にある」と励まされたのでした。そして、私は『文学者』に七〇枚の作品を載せてもらったのです。それは後に一〇〇枚に書き直し、吉村さんの紹介で南北社から発行されていた『南北』に「死の影」として掲載されたのでした。そして、昭和四十二年十月に「死の影』となって世に問われたのでした。関さんと同じような経路をたどって、処女作が世に出たように感じております。
 そして、劇団大阪の公演舞台の中でのゲートルの話の場面、なるほどなあ、と思いながら読ませてもらいました。
 昭和十八年四月に中学校に入学した私たちは、入学早々に配給されたのは、スフ織りの制服と制帽、ゲートルでした。いずれも当時、国防色と言われたカーキ一色のものでした。そして、最初に、軍事教練の配属将校からゲートルの巻き方について教えられたのでした。軍足と呼ばれる靴下の上部を下ろし、そこに三角形に折りたたんだズボンの端を置き、その上に軍足を元に戻し、そしてゲートルを巻いていくのですが、最初の二段は斜めに折ってそれから膝まで巻をいていきます。朝、家を出るときに巻いて行き、下校して家に着いてはじめてゲートル解くのです。そして、固く巻き戻しておくのです。巻き方が緩いと、軍事教練や行軍の最中にたるみ、列外に出て巻き直しをしなければなりませんでした。
 この厄介な代物を、敗戦直後、私は原爆で焼け野原になった土の上で燃やしたことを今でもはっきりと思い出すことができます。そのゲートルには、原子爆弾が炸裂した際の熱線によって濃い焦げ目が残っていました。
 このゲートルという名詞、死語になったかなと思って念のため辞書で調べてみましたら、<フランス語。西洋のきゃはん.。まききゃはん。≫とありました。

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対話随想余滴 №3 [核無き世界をめざして]

   対話随想 余滴③関千枝子から中山士朗様

                      エッセイスト  関 千枝子

 “暑い夏”、“温かい秋も、ここへ来て少し涼しくなり活気づいてみれば師走です。
 あれから色々ありました。行事も多く、何やかやとせわしく、折角始めた「終活作業」も少しも進まず、再来年の予定も入って、あと二年くらい死ねないぞ、など思っています。
 参加した行事も、偲ぶ会あり、出版記念会あり、さまざまですが、私たちの同世代、とにかく戦争の痛みが心に残っていて、傷ともなり、あるいは出発点でもあり、あの15年戦争の意味を、もう一度考えたりしました。
 その中で十一月十七日に行われた加納実紀代さん(歴史研究者、彼女の肩書は色々上げられますが、この言い方が一番ふさわしいと私は思います)の出版記念会。彼女は戦争中、女も戦争を担ったことを最初に言いだし、グループを作り、研究誌(銃後史ノート)を出し続け、大学の先生になります。私は彼女の仕事を取材し続け四〇年近くになります。彼女はその名前が示すように紀元二六〇〇年の生まれ、私よりずっと若い彼女が、肺気腫で体が悪いことをきき、心配していました。このたび一冊新刊を出され、出版記念会と聞き、彼女の最後の本での別れの会と思い込み、出かけたのですが、彼女想像していたより、元気で、声もよく出、新しい本の企画なども言われ、少し安心しました。
今度の新刊の本のタイトルは『「銃後史」を歩く』です。銃後史の研究のことが中心なのですが、冒頭がヒロシマでの被爆の体験談なのです。やはり彼女の人生、そして生き方の始まりが広島原爆だったのだな、と思いました。
彼女は三歳の時、二葉の里で被爆しています。屋外で遊んでいて被爆。でも、運よく日陰で火傷はしなかったのですが、彼女はピカを鮮明に覚えています。近所の少女が疎開作業に行って傷つき、ジャガイモのように皮膚が剥けているのをはっきり記憶しています。
 でも、私が、この話を聞いたのは彼女と知り合ってから大分後で、私が被爆者と彼女が知ってからも、なかなか自分のことは言ってくれなかった。しかし彼女の被爆の思いは深く、放射能への恐れも持っています。何しろ爆心から2キロ、そして屋外ですから。複雑な気持ち、よくわかります。
 とにかく彼女の研究に、紀元二千六百年と原爆が深く関係していたことは間違いありま)複雑な気持ちよくわかります。せん、そして、彼女は,女たちの被害と加害(それまで誰も言わなかった)に目を向けて行った。これは、私の思いとも重なり、私が「銃後史ノート」の取材に夢中になり、多くのことを教わるのですが。
 
 加納さんの会の前、十一月十一日は大阪に劇団大阪のお芝居を見に行きました。この会の前代表・熊本一さんとは深いおつきあいで、いつも公演のプログラムを送っていただいているのですが、なかなか大阪に行けずにいたところ、今回は井上光晴さんの原作の「明日」だというので急に行く気になったのです。
 井上さんの「明日」、素晴らしい作品だと思います。一九四五年八月八日の長﨑。その日に結婚式を挙げる人。お産をした人。牢屋にいる夫に会いに行く人…様々な人が暮らし、その日を送っています。この人々が明日(八月九日長崎原爆の日)どうなるかわからない、明日をそんな日と想像する人もいない。”明日“どうなったか何も書いていませんが、この人々の暮らしているところから無事であったとは思えないのですが。
劇団大阪も「明日」は二〇年ぶりの上演、二〇年前の脚本で演ずるそうです。
 私、井上さんには「恩義」がありまして。これも三十余年前のことです。井上さんが個人誌「辺境」の第二次を出すという話を新聞で読み、思い切って手紙を出してみました。”辺境”の中でも最も崖淵のところにいるのが母子家庭、その貧困の現実を書きたいと書いたのです、すぐ井上さんから電話がかかってきました。「書きなさい、すぐ!」と言われるのです。私がくどくどと、自分は『広島第二県女二年西組』という本を出していて、などいうと、「わかっている、もう読んだ」と言われるのです。そして「一〇〇枚書きなさい!」
 驚きました。雑誌に書く文章など大体二〇枚か三〇枚です。え、と驚く私に「ちまちましたことを考えるな、一〇〇枚書きなさい!」。結局、七〇枚ずつ三回書かせてもらい、これがもとになり『この国は恐ろしい国』(農文協)という一冊になりました。
 
 劇団大阪の本拠・谷町劇場は、谷町六丁目、ビルの一角にある稽古用舞台といった小さな劇場です。芝居だけでは到底採算がとれないこうした劇団がともかくやっていられるのは、この劇場を持っているからと言います。谷町は昔、中小の町工場が立ち並んでいたところで、それが再開発され今の街になったそうで、工場は今一軒もありませんが、下町風庶民的です。地下鉄の駅から劇場まで歩く道すがら空堀という通りがありますが、そこに、「ハイカラ通り」という看板が掛けてあります。なるほど。しゃれた感覚。いいね!。
劇場に着くと、小さな劇場ですがほぼ満員です、この日だけでも二回、全部で六回も
公演するのに立派なものです。
皆さん、とにかく熱演で、感動しました。服装も戦争中らしいもので、苦労があったろうと思いました、男の人にもちゃんとゲートルを穿かせていましたが、(今の人ゲートルと言ってもわからず、テレビのドラマでも戦中なのにしゃんとした背広、ネクタイなどして笑ってしまうことがあります)、ゲートルには困ったのでしょう、手作りでしたが、ゲートルらしからぬ布地で、これはどうしようもありませんかね。「明日」が原爆と一言も言わない舞台、見る人がピンと来るかしらと心配になりました。おそらく二〇年前初演の時は、大半の人がピンと来ていたのでしょうが。
 
 熊本さんには私個人的にも大変お世話になっています。最初の出会いは三十年前でした。私の『広島第二県女二年西組』を、関西芸術座というところでドラマ化してくださいまして、熊本さんは企画で演出もされたと記憶しています。脚本は関西演劇界の大御所で、うまい台本で皆さん満足だったと思いますが、原作者としては少し違和感があったのです。そして大変不躾だと思いましたが、もし私が書いたらという台本を熊本さんにお渡ししたのです。それから四半世紀、そんなこともすっかり忘れていた私に、熊本さんから、今こそあの台本を生かしてみようと連絡がありました。二〇一五年のことです。手書きでくしゃくしゃ書いた台本を、熊本さんは捨てずにとっておいてくださった、そして原爆で死んだ少年少女たちの靖国神社合祀の問題も今こそ、世に問うべきだと言ってくださったのです。そしてその台本を全日本リアリズム演劇会議の機関誌「演劇会議」に載せてくださり、ご自分が指導しておられるシニア劇団(現役退職の人びとのための演劇講座を修了した人たちの劇団)で上演すると言ってくださいました。シニア劇団は大阪、奈良で講演し、このドラマを引っ提げ、シニア劇団の全国大会にも出場。雑誌を見て上演してくださったところもあり、被爆の事実を訴えた朗読劇の輪が少しずつ広まっているのです。熊本さんには改めてお礼を言いたいと思ったのです。
 熊本さんも私を歓迎してくださり舞台終了後、劇団の方々と会食の場を設けてくださいました。そこで、シニア劇団の方々が夏に京都の教会で「第二県女…」を演じてくださったこと、皆様とても喜んで素晴らしい感想が来ていることなど、伺いました。そして驚いたことに、シニア劇団の方々、全国どこへでも出張公演しますよと『広島第二県女二年西組』を宣伝してくださっているのだそうです。そして、明後年、ちょうどオリンピックのとき、東京で第二回のシニア劇団全国大会があるのだそうですが、これに「第二県女」を出したいと言われるのです。私は驚き喜び、「それまで頑張って生きています!」と言ってしまいました。
 この後、奈良に行き例の「原爆地獄」の本を出された河勝さんに逢いました。(と、偉そうなこと言いますが、初めて同然の土地、熊本さんに連れて行っていただきやっと行けたのですが)。
 河勝さん、八九歳。ますますお元気です、被爆の証言をした中学時代からの親友岡田悌次さん、同じく学友の栄久庵憲司さんもなくなり、もうお金の面でヘルプしてくれる人が亡くなり、本を出すのは無理、それで電子本を作るのだそうです。今までの「原爆地獄」の本の集大成。英語版。アマゾンなどにも出し、世界中で読んでもらえると気宇壮大な話です。
 そんな活動の一方、長唄、謡、詩吟、書道、絵を習い、長唄は名取り。皆半プロの腕前、絵は今書いておられるのを見ましたが、大きなキャンバスに被爆死した人々のことを少しシンボリックな筆使いで書いておられます。とにかくお元気な事驚いてしまいました。
本当にすごい人です。私も体が弱っただの、原稿を書くのが遅くなっただの言ってはおられません。二〇二〇年まで頑張らなければと思いました。


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対話随想余滴 №2 [核無き世界をめざして]

  対話随想余滴 ② 中山士朗から関千枝子様へ

                            作家  中山士朗

 お手紙の始めに、<書き残したことを書きたいと「余滴」と名付けたのですが、どうも昨今の状況、日本だけでなく世界が「右寄り」になっているようで、余滴どころではない、怒りの炎になるかもしれません>とありました。私もそのような思いも致しておりますが「水の一滴、岩をも穿つ」と言いますから、「余滴」でもよいのではないかと考えたりしています。
 それにしても、米国トランプ大統領の「アメリカ第一主義」は、第三次世界大戦の勃発を予感させてならないのです。第二次世界大戦の始まる動機となった日本に対する経済封鎖、ABCD包囲網、現代における北朝鮮、イランに対する経済封鎖、ひいては米中貿易摩擦には、不吉な予感を抱かずにはいられません。
 話が後先になりますが、偶然とは言え、同じ発言に出くわしたことについて書いてみたいと思いました。
 私たちの「続対話随想』の№44(2018年7月)で、資料の保存について、「実は私も最近になって、自分の書き残した作品の全てを保管してくれるところを探しているところです。子どもがいない私には。死後は他の書籍同様に廃棄物として処理されるだけです。現在、二、三人の人に相談しておりますが、母校である広島一中の同窓会の会館がいいのではないかという話も出ておりますが、いずれにしても生涯かけて被爆体験を書き続けてきた私にとっては生きた証でもあり、亡くなった人たちの記憶を消さないためにも、何とかして後世に委ねたいのです」と書いています。そして関さんには、種々お骨折りいただいた経緯がありますが、その時、私がその動機について述べたのと同様な言葉を、作家の村上春樹さんが記者会見で説明されている記事が十一月四日の朝日新聞に掲載されていて、不思議な思いにとらわれたのでした。
 村上さんは、このたび母校である早稲田大学に原稿や自身の蔵書、世界各国で翻訳された著作や膨大なレコードコレクションなどの資料を寄贈することを発表されましたが、その理由として「子どもがいないので、僕がいなくなった後、資料が散逸すると困る」と説明されていました。村上さんは、現在六十九歳の若さですが、子どもがいない人の思いは、残した仕事への深い愛着がこめられていることをあらためて知った次第です。
 大学は資料を活用し、村上さんの名前を冠した研究センターの設置を検討していますが、来年度から資料の受け入れを始め、施設の整備を順次進め、蔵書やレコードが並ぶ書斎のようなスペースも設置する計画だと発表しています。
 この記事を読みながら、いつか『ヒロシマ往復書簡』の中で、関さんが村井志摩子さんの没後の資料について書いておられたことを思い出しておりました。広島にも原爆に関する文学や芸能の資料センターのような施設ができないものかと思っております・
 話が前後してしまいましたが、竹内良男さんの「ヒロシマ連続講座」六十回目の「被爆者に寄り添っての暮らし――被爆証言に向き合う」というテーマでの居森公照さんの証言を読み、深い感動を覚えました。そして、居森さんの亡くなられた妻、清子さんが、爆心地から410メートルという至近距離にあった本川国民学校(当時)で被爆され、二〇一六年に亡くなられたことを初めて知りました。ずっと以前、本川国民学校で被爆された方がご存命だということは聞いたことはありましたが、現実にその生涯を知ったのは初めてです。その苦難に満ちた人の日常を支え、寄り添ったご主人の証言には胸衝かれるものがありました。
 清子さんは、原爆で家族全員を奪われ、自身は、膵臓、甲状腺、大腸癌、多発性髄膜種を患い、夫に支えられ、奇跡の生存者として六十歳くらいから体験を証言し続けたと手紙にはありました。今は、夫の公照さんが亡き妻のことを語り続けておられるそうですが、関さんの言われるように、妻に寄り添い続けた一生は、もはや被爆の継承者というよりヒバクシャそのものかもしれません。
 生涯を放射能障害で苦しんだ清子さんのことを手紙で読んでいる時、私は、爆心地から七〇〇メートル離れた広島一中で、倒壊した校舎から脱出することができた生徒の一人が、その後、多発性癌に侵され、九回も手術したという話を思い出さずにはいられませんでした。
 私は昨年、大腸がんが発見され、そのことによって六年前に否認された原爆症の認定を受けることができました。爆心地から一・五キロメートル離れた地点で被爆し、顔に広範囲の火傷を負いましたが、後遺症のケロイドに悩み、自殺を考えながら暮らした少年から青年期にさしかかった頃のことが痛切に思い出されるのでした。ましてや、多臓器癌に侵された人たちの苦悩は、到底はかり知ることはできないと思いました。
 このたびのお手紙の中でさらに驚いたのは、広島大学の湯崎稔先生の名前が出ていることでした。私は、湯崎先生とは、京都・比叡山麓の一条寺の里仁ある円光寺でお会いしたことがあるのです。
 このお寺には、昭和一八年に来日して広島文理科大学に留学した南方特別留学生、マレーシア出身のサイド・オマールの墓地があるのです。原爆が投下された日、爆心地からほど近い大学の寮にいて被爆し、昭和二十年八月三十日、東京の国際学友会に引き上げる途中で、病状が悪化したために、京都駅で途中下車して、京都大学付属病院に入院しましたが、九月三日に死亡しました。享年十九歳でした。遺体は市の民生局に引き取られ、大日山の共同墓地に埋葬されたのでした。後に、園部健吉氏に引き継がれて回教様式の墓が円光寺に完成したのでした。その墓の前面の碑には。

    オマール君
 君はマレー半島からはるばる
 日本の広島に勉強しに
 来てくれた
  それなのに君を迎えた
  のは原爆だった  嗚呼
  実に実に残念である
  君は君を忘れない
  日本人のあることを
  記憶していただきたい
        武者小路実篤
 
  と刻まれていました。
 私が湯崎稔先生と初めて会ったのは、園部健吉氏からオマール忌の案内状を頂き、その法要に参列した折のことでした。湯崎先生は、学長に付き添って見えておられたのです。
 
  母をとおくにはなれてあれば、
    南に流るる星のかなしけり
 
 オマールの遺詠です。
 

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対話随想・余滴 №1 [核無き世界をめざして]

   対話随想余滴① 関千枝子から中山士朗様へ

                      エッセイスト  関 千枝子

 「対話随想・余滴」を始めさせていただきます。「続対話随想」が50回で終わり、一冊の本にまとめることができました(本になるのは来年になるかもしれませんが)。
 ヒバクシャ物書きの端くれとして死ぬまで原爆のことは書き続けたいので、書き残したことを書きたいと、「余滴」と名付けたのですが、どうも昨今の状況、日本だけでなく世界が「右寄り」になっているようで、余滴どころではない、怒りの炎になるかもしれません。
 核兵器禁止条約の署名など、考えもしない、忘れてしまったような安倍さん、憲法改悪にはますます熱心なようです。日本ばかりではありません。トランプさんのやり方は、核軍縮どころか、新たな核兵器の開発であり、中国との貿易戦争とも合わせ、まるで、新たな冷戦というか、戦争前夜を思わせます。トランプ氏のやり方には、さまざまな国々から批判が出ているようですが、ブラジルの新大統領に南米のトランプ・ボルソナーロ氏が当選するし、「批判派」の代表のように言われるドイツのメルケル首相の政党が選挙で支持率を落とし、メルケルさんも21年には引退など聞くと、とても不安に思えます。メルケルさんがここへ来て人気が急落したのは難民へ寛容な政策をとっているからですが、ヨーロッパの国々では、難民に対し、厳しく対応する国々が増え、EUの行き方へも批判厳しいといいます。
 まことに、難民の問題は大問題で、あれ程多くの人たちが流れ込むと、これはたまらんということになります。ヨーロッパでも貧しい国々は、難民のために、決して金持ちでない自分の国がなぜ人を助けなければならなにのだ、ということになり、独り勝ちのドイツへの反発になり、経済安定のドイツでもいくら何でも、もう満杯だ、という声が起こるのも無理もない面もあります。
 難しいことですが、でも「自分の国ファースト」は、独りよがりのナショナリズムになり怖いのですが。貧困層の人びとがこうした考えになびきがちなのも、恐ろしいことです。
 私は、私たちの生まれたころ、(1930年頃)、不況(大恐慌)、そして不作、飢饉の日本で、「生命線」と言われた満州に「希望を見出した」人々と、それからの恐ろしさを思い出さざるを得ないのです。

 まあ、こんなことを考えているだけでなくて毎日いろいろ忙しいのですが(楽しい催しもあります。演劇や、能狂言も楽しんでいます)、「核なき世界」のコーナーなので、先日,行われた竹内良男さんの『ヒロシマ連続講座」の話からいたしましょう。この講座のことは前にも伝えましたが、はじめ月一回くらいでやっていたのが今は月二回三回やることもあり、先日私が参加しました十月二〇日の会は六〇回目でした。六〇回という数にも.驚きますが、とにかく毎回二〇人から三〇人くらいの方が参加、テーマも原爆から,広く戦争、平和へと広がっていて、リピーターも多いのですが、毎回新しい方も来ます。この日は久し振りに、広島原爆そのもの、「被爆者に寄り添っての暮らし―被爆証言に向き合う」でした。「寄り添う」など言うと、何だか、天皇、皇后の「公務」のようで嫌ですが、今日話された居森公照さんは、まさにヒバクシャに、いえ、反原爆に、「寄り添った」方でした。
 居森さんの妻清子さん(2016年没)は、なんと爆心地から410メートル、本川国民学校の生き残りです。多分、原爆に一番近いところで被爆した方です。本川国民学校に生き残りがいるということは私も前から聞いて知っていました。しかしこの方が一九六二年ごろから横浜に来て暮らし結婚し、ずっと横浜暮らしだったなど全く知りませんでした。私も横浜に住んだこと長いです。間にアメリカに住んでいたこともありましたが三十年余横浜で暮らしました。でも、居森清子さんが横浜に住んでおられることなど全く知りませんでした。このことだけで胸を締め付けられるような思いとなり、原爆については、いろいろ知っているつもりでも知らなかったことが無数にあるのではないかと、反省もし、胸も痛みました。
 居森清子さん自身が書かれた証言記録によると、清子さんは当時本川国民学校六年生、同級生の多くは学童疎開に行っていましたが、彼女は、お父さんが死ぬときは家族いっしょがいいと言われたので、集団疎開に参加しなかったそうです。
 あの日、学校につき靴脱ぎ場で上履きに履き替えようとした時、あたりが真っ暗になった、彼女はピカの光も見ず、音も聞こえなかったと言います。本川国民学校は広島では当時珍しい鉄筋の建物で、コンクリートの壁の陰になって火傷もしなかったようです。真っ暗な中、周りが少し見えるようになったので運動場に出た、その時ものすごい熱さを感じたと書いておられます。校舎の全ての窓から炎が出燃え上がり、二人の先生が校舎から出てきて、川に逃げようと、校舎のすぐ裏の元安川に向かった。体全部が黒焦げになった友を助けて川に入った。暑さから逃れるため水をかぶり続け、火が少し収まるのを待って校庭に這い上がったがその時黒い雨が降ってきた。家のことも何も考えられず、ただふらふら歩いていたそうです。そこで救援のトラックに助けられ、町内ごとに決められていた避難先の田舎に行来ましたが、そこで一週間何も食べられず寝ていたそうです。父母や弟がどうなったか全くわからず、呉のおばさんに引き取られましたが。髪の毛は全部抜け、放射能障害に悩まされ、食糧難で、ひもじく、辛い毎日でした。いつも両親のことを思い、涙を流していたとかいてあります。
 どうやら中学を卒業、美容院で住み込みで働くようになりましたが、体がだるくて起きていることもできない日が続いたそうです。一九六二年ごろ新しい生活を求めて横浜に出、いろいろ仕事をしましたが、その時今の夫のお母さんに会い、優しく助けてもらった。そして、被爆者であることを承知のうえで、夫は結婚してくれました。
 居森公照さんのお話では、その頃原爆症のことが大分言われるようになっていたが、自分も清子さんが好きで、結婚されたそうです。
 横浜市鶴見区生麦の会社の社宅に住んでいた一九七二年頃、広島大学で原爆の調査をしていた湯崎稔先生がたずねてこられて、本川国民学校のその後のことも教えてもらいました。清子さんの両親も被爆直後郊外の寺に運ばれなくなり、弟は母の目の前で焼け死んだということも、その時湯崎先生に教えてもらい知ったそうです。
 その後膵臓、甲状腺、大腸癌、多発性髄膜種と病気続きでしたが、夫に支えられ、奇跡の生存者として六〇歳くらいから体験を証言し続けました。今は夫の公輝さんが亡き妻のことを語り続けておられます。清子さんは二度流産し、お子様はないそうです。「亡き妻の思いを大勢の人に伝え、戦争はしてはいけないということ、;核兵器の恐ろしさを伝えたい」。
と、公照さんは言われます。妻に寄り添い続けた一生、もはや被爆の継承者というよりヒバクシャそのものかもしれません。
 しかし、清子さんは、まだまだ言えない思いがあったのではないか。呉のおばさんの所でひもじかったと書いていますが、それ以上に辛かったかもしれませんね。呉のおばさんの家族構成もわかりませんが、その方も小さい子どもさんがあったら。あの時代、自分の一家だけでも暮らしにくい時代です、親類の子を育てるのは苦痛ではなかったか。
原爆だけでなくほかの空襲でも、たくさんの孤児を生み出しました、公的な施設ではとても間に合わない。この国の政府は、その世話を「親類」に押し付けた。そんな戦争孤児の中で今でもそのころのことを言えない、書けない人が多くいます。預かった方も大変だったのですから。とにかく育ててくれた人を悪く言えませんからね。
清子さんの詳しい事情全く知らないのに勝手な事書いてしまいました。
 しかし、清子さんは素晴らしい夫にめぐり合い、寄り添ってもらい、生きた。それは本当に幸せでしたね、と言いたいです。 でも、家族全部を奪われ、自分も放射能障害で、一生苦しみ、原爆さえなかったら、と思い続けられたでしょう。本当に、世界から核核兵器を廃絶し、恒久の平和の日を、と思わざるを得ません。


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続・対話随想 №50 [核無き世界をめざして]

   続・対話随想№48 中山士朗から関千枝子様へ

                            作家  中山士朗
 
 私たちの『ヒロシマ往復書簡』から始まった『続対話随想』も、関さんから№47の3が送られてきて、最終回となりました。掲載の順番によって、私がなんとなく「あとがき」を書くことになりましたが、私がなんとなく『あとがき』を書くことになりましたが、荷の重さを考えております。
 このたびの関さんの手紙を読みながら、以前手紙に引用しました立命館大学の福間良明教授の言葉、
 <「平和は尊い」と結論付けたり、感動的に仕立てたり、メディアで繰り返されてきた予定調和的な語りでは、見えなかった「過去」や「ものの見方」もある。戦争を正しいもの」としてしまった社会や政治のメカニズム、誰かを悪人にして、思考停止するのではなく、どう多角的に解き明かし、現代と照らし合わせるか、わかりやすい話にはならなくても、従来と違う視点が提示されれば、意外性を感じて興味を持つ若い人が出てくるであろう.>
 この示唆的な言葉が実感として伝わってくる、それぞれの内容でした。
 冒頭にありました近年の高校生の修学旅行においては、これまでの広島や長崎の甚大な原爆被害を後世に伝える建物や資料館、沖縄戦の惨劇を伝える戦跡や祈念資料館などの歴訪が、予算を理由に削られ、また「悲しみの記憶」からマイルドな方向の旅へと変えられようとする現実を関さんは指摘されました。
 手紙には、
 広島大学の文化人類学が専門の楊小平さんが、広島大学に留学したこと、原爆という凶悪な兵器のことを深く知り、今は資料館のボランティア活動をしているが、広島の人の原爆に対する激しい怒り、廃絶への念願に反して、あの戦争に対する加害の認識の薄さ、特に中国への侵略戦争を忘れた人もいる現実の問題を感じている楊さんの内面。そのことが関さんの靖国問題に繋がっていく過程。ひいては「動員学徒慰霊碑」と靖国神社の思いについての考察。
 朝日新聞の、原爆のことを説明した新聞に、広島市の建物疎開のことが全く書かれていないことから、記録の正確な警鐘を指摘。
 学制改革で母校を失った山中高女と第二県女に被災地での碑を建てることを進言し、以後、その慰霊碑と折り鶴を収めたケースは町内の人びとによって大切に守られ、追悼式が行われてきた話。
 八月十一日、北杜市のやまびこホールで行われた「Peace Concert 2018」での、早川与志子さんの平和への思い、テレビ人として、またフリーのジャーナリストとして生きてきたことが凝縮された3時間の内容が、感動的に伝わってくる話。
 八月十八日、大田区区民プラザで開かれた「平和のための戦争資料展」における、関さんが構成された「似島」を長澤幸江さんが朗読されたこと、また、彼女は、六月の「沖縄の日」の式典で女子中学生が読んだ素晴らしい詩(私も鮮明に記憶しています)を墨書されているという感動的な話。
 が書き連ねてありました。
 長編になってしまったことを気にしておられますが、これでもまだ足りなかったのではないかと推察しております。読み終えて、関さんの生命を燃やし尽くすような行動力、それにともなう人々との交流の濃さに感嘆しております。外出もままならず、ひたすら読み、書いているわが身が思われてなりません。
 けれども、お手紙の中で拙著『天の羊』に出てきます南方特別留学生、原爆供養塔などの話が出てきますと、日本各地を取材して回ったころの元気さがよみがえって参ります。」
 『天の羊』は、副題が被爆死した南方特別留学生となっていて、昭和五七年五月十五日に三交社から出版されたものです。帯には、次のような解説が添えられていました。
 <それら歴史的事実の中には、大勢の人間の苦悩、悲しみ、死がこめられているはずであった。…・かつてこの場所に、東南アジアからの留学生たちが、アジアの国生み、八紘を一宇とする肇国の大精神という、他国の戦争遂行の理念に従わされ、飢えに耐えながら勉学したのも、すでに人々から忘れ去られていた。>
 この大東亜省招致による南方留学生は、昭和一八年に日本の占領下にあった南方諸地域から一〇〇名、昭和十九年には一〇一名が来日しましたが、そのうち、広島に原爆が投下された時、広島文理科大学の留学生のうち二名が被爆死したのでした。その二人の死をおって書いたのが『天の羊』でした。
 そしてお手紙の中でとりわけ強い記憶となったのは、人と会う時に原爆供養塔の前を待ち合わせの場所に選んだ森沢さんの話でした。実は私は、森沢さんの父・森沢雄三さんが建設に力を尽くされた供養塔の内部を訪れ、無名の死者の霊位に合掌させてもらったことがあるのです。この時の話が『天の羊』の中に詳しく書かれていたことに、私自身その偶然性に驚いています。 
 余分なことだと思いますが、文中から.抜粋してみました。

 昭和四六年二月に、私は広島に行ったが、当時、広島平和記念資料館長であった小倉馨氏の紹介で、広島市役所年金援護課の高杉豊氏に会い、供養塔の地下安置室の内部を見せてもらったことがある。/供養塔は、公園の北外れにあった。以前は、土饅頭の上に『広島市原爆死没者諸霊位供養塔』と書かれた木碑が一本立っていただけのように記憶していたが、今見ると、美しく芝生が張られた直径一〇メートルほどの円墳の頂きに五輪の塔が置かれ、正面入り口の左右には石灯篭が据えられている。その手前の祭壇の前に立つと、背景の緑が目にしみる。/私たちは供養塔の裏側に回った。すると、中央の一部分が鋭く切り取られていた。そこから、内部に通ずるコンクリートの階段が下に伸びていた。人ひとりがやっと通れるほどの階段をもった通路と、白く塗られた銅製の扉が正面にあった。扉のところには、「安置所」と書かれた表示板が取り付けられていた。・
 扉が開かれると、高杉氏は入口の左側の壁に沿って手を動かし、点灯のスイッチを探した。明かりが点って安置室に入って行くと、まず最初に私の眼に映ったのは、祭壇と、その中央に置かれた高さ一メートルほどの多宝塔であった。高杉氏が最初に合掌し、その後で私も祭壇に向かって手を合わせた。---―なんという静けさであろう。私は安置室の内部に視線を移しながら、次第に言葉を喪失していった。/正直なところ、安置室というより、遺骨を収納した、すこぶる近代的な倉庫と言った感じが強かった。/三方の壁に沿って設けられた、床から天井まで届く高さの鋼鉄製の棚には大小の木箱が隙間もなく積まれていた。左手の棚には、一合枡に木の蓋を取り付けたような四角い箱が整然と並べられていたが、これには氏名を書いた紙が貼りつけられている。そして、正面と 右手の棚には、縦一メートル、幅三十センチメートル、深さ八十センチメートルほどの木箱がならべられ、はみ出した木箱は、その棚の前の床に直かに積み重ねられていた。/わたしは高杉氏に断って、左手の棚の中から一合枡に似た木箱を取り出し、掌の上に載せてみたが、私が想像していたよりはるかに軽い物体であった。/この個別の名前があるのは、各町内会長が預かっていたものを移送したもので、その数は、約二千柱におよんでいた。/大きな箱の一部には、「進徳高女」とか、「己斐小学校」とか言ったように、学校名を記載した紙が貼られていたが、これらはその学校の校庭で荼毘に付された人たちの遺骨であった。/高杉氏はすぐ近くにあった床の上の木箱の蓋を開き、その内部を見せてくれた、蓋の表面には「住所氏名なし」と書かれた札が貼られていた。/「あの時大勢の人が似島に送られて来ましたからね。そこで亡くなられた方で、しかも、名前が分からないといった人たちのお骨なんです」と高杉氏は言った。/内部を覗くと、骨片というより、むしろ骨粉と言った方がはるかに適切な、焼け砕けた遺骨がびっしりと詰まっていた。/こうした箱の数は、約八十もあり、十二万から十三万人の遺骨と推量されている。/安置室の中は静まりかえっていた。/乾燥空気を送り出すかすかな機械音が耳の底で振動していたが、やがてその振動が安置室の中の全ての遺骨から伝播する振動と共鳴し、室内全体が死者の声で満たされていくのを感じた。箱の中の骨片がいっせいに空間を漂いはじめ、組み合わされ、死者の言葉となって私をつつみ始めた。/「人間のものとは思えません。哀れなもんです。」と高杉氏は最後にしみじみ語った。/
 このたびの関さんの手紙を読みながら、過ぎ去った時間を慈しみながら思い、返事をしたためました。ひっきょう関さんも私も<生かされた生命≫を生きて来たのだと改めて思います。そして、このことが二〇〇〇年から始めた『ヒロシマ往復』(第Ⅰ~Ⅲ集)から対話随想として完結をみたと私は信じています。原爆について語られることが少なくなった現在ですが、私たちが成し遂げた仕事は、被爆者が生きた記録と記憶として必ず継承され、後世の人に読み伝えられていくものと信じております。

 関千枝子中山士朗「続対話随想」を読んでくださいます方々に

「続対話随想」はこの48で終わらせていただきます。次回から「対話随想・余滴」という形で、書かせていただきます。
 関、中山 二人の手紙のやりとりは2012年から始まりました。当時中山さんが原爆症の認定から外されたことへの怒りでした。中山さんが1,5キロの至近距離の被爆でケロイドに苦しんでいるのに、持病が心臓疾患では原爆症と認められないというひどいものでした。ここから始まった往復書簡ですが、原爆について書きたいことは尽きることなく今まで続いています。その中で往復書簡は本になり2016年夏までを3冊の本にしました。現在の出版の状況で売り上げだけで採算をとれることは見込めずいくらか資金を用意して出版したのですが、それもなくなり、第Ⅲ集をもって終わりにします、と書きました。
 その後も知の木々舎のブログでのやり取りは「続対話随想」として続いていますが、この間、中山さんが癌を発病しました。熟慮の末、中山さんは手術をせず、抗がん剤も使わず、自宅で療養していますが、不思議なことに体調は悪化せず、元気に書き続けています。皮肉なことですが、がん発病のため、6年前はすげなく断られた原爆症の「認定」を受けられることになりました。中山さんはこれを非常に喜び「これで自分はヒバクシャとして死ぬことができる」と言っています。そして、この「認定」の金で「続対話随想」2018年夏48までを本にしたいと申されました。
とにかく私たちの原爆、戦争、平和に対する思いを、後世への証言として残したいということです。今編集にかかっております。できたら今年中に出版できたらと思います。
 幸い私たち、まだ生きられそうな気がします。生ある限り、書きたいと思います。やっと核兵器禁止条約ができたのに、我が国の政府は署名もしないのですから。怒り続けるしかありません。次から「余滴」が始まります。ヒバクシャの執念におつきあいください。


※続・対話随想は№47が①②③と続いたため、今回は実質№50となります。(編集部)  

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続・往復書簡 №48 [核無き世界をめざして]

     続対話随想47の② 関千枝子から中山士朗様

                       エッセイスト  関千枝子

 五日、朝から「建物疎開作業で亡くなった動員学徒の碑巡り」です。この碑巡りフィールドワークも広島YWCAの主催事業になってから五回目になります。暑いときに参加者を歩かせるのですから、私が楽をしてはいけないと、少し辛くても自分も歩くことに意味があると思っていたのですが、今年は酷暑ということもあって、主催者からはっきり言われてしまいました。昨年私があまりのろのろ歩くので、参加者の「若い」皆さまはかえって疲れてしまい、予定の時間より遅れて主催者は困ったらしいのです。慰霊碑から慰霊碑まで私は車で移動するように、と言われてしまいました。高齢の参加者がいらしたらその方も車に乗せようということになりました。暑くて外に立っているだけで暑いのですが、車で移動すると、まあ、楽なこと。用意してきた「水」もほとんど飲まずに案内出来ました。申し訳ないと思いながら、皆さまに、「慰霊碑もない学校、死者の数も名前もわからない人がいる(国民学校の高等科に多い、朝鮮半島主審者が多いと推察される)、その人たちのことも偲んで歩いてください、と叫んでいました。
 午後、主宰の方々と昼食、懇談しました。懇談にはYWCAでフィールドワークの責任者でもある難波さんの経営している本屋さんの部屋を使わせていただきました。涼しくて大助かり。フィールドワークの間、あまり汗もかかず水も飲まなかったのに、飲みだすといくらでも水が欲しくなり、がぶがぶ水を飲むこと、やはり少し脱水だったようです。夕方になったら急に疲れて、行こうと思った会は失礼して、ホテルでお休み。堀池さんは、NHKの出山さんが造った映像を見る会に行きました。
 六日朝、例年通り、私の学校の追悼の会に参ります。昔の雑魚場、国泰寺中学の南に、この地の町内会の持つ荒神様の境内があり、ここに山中高女と第二県女の慰霊碑があります。第二県女の同窓会は解散(何しろ一番若い同窓生でも八十四歳ですから、もう動けない)なので、追悼会は町内会と山中の継承校になる広島大学福山分校付属中学校の主催です。今年は、少々ショックでした。参加者が少ないのです。会場にテントを張り椅子を並べるのですが、今年は空席が目立ちました。かっつてないことで、「歳月」を感じました。 
 今年、「追悼の式」が終わった後私は一言しゃべらせてもらいました、これには実はいきさつがあり,去年も私は、碑の歴史と町内会に感謝の言葉を述べたいと申しでたのですが、式の実行委員の福山中学の先生に、町内会と打ち合わせをして式次第を決めている、時間もない。雑魚場の被災の状況は僕らも勉強して知っているなどと言われるので、ではこのあたりに何校の(どの学校の)生徒がいたかわかりますか、と聞くと、沈黙。でも絶対に飛び入りの発言を認めようとしないので、去年はそのまま引き下がり、今年あらかじめ福山分校付属中学に申し入れ、話していいということになったのです。
 式の後「迷惑」にならぬようなるべく短く、私は話しました。
 この碑は昭和二十八年、当時の町内会長荒谷輝雄さんが、多くの学徒が死んだこの地に碑を建てたらと思い、各校に話を持ち掛けられた。しかし多くの学校は(一中、修道。女学院,山陽など)は自校内に建てる(すでに建ててある)と言い、結局母校を学制改革で失った山中と第二県女の二校が建てることになった。荒谷さんの申し出がなかったら母校を失った二校は碑を建てるなど思いもつかぬことであった。当時復興期に入った広島で、このあたりは市の中心に近い高級地、そこに慰霊碑を建てることに反対もあったらしいが、荒谷さんの力で慰霊碑が実現した。荒谷夫人は山中の卒業生で、夫妻で碑の建設に熱心だった。
―――ここで私は、少し声を張り上げ福山中学の生徒たちに言いました、「そこの折り鶴の置き場を見てください、プラスティックの大きな布で覆ってあるでしょう?こんな覆いのある折り鶴の置き場を見たことありますか。ちょっと屋根のようなものがある所はありますが、こんな覆いのある置き場はみたことがないと思います。
一九七〇年代後半から八十年代、ヒロシマ修学旅行の全盛期、ここは大人気の慰霊碑でした。折り鶴もたくさん集まります。荒谷さんは雨が降ると折り鶴を毎日ご自宅まで持っていかれる。せっかく皆様の善意の鶴を濡らしては申し訳ないと言われるのです。しかし折り鶴はどんどん増え、運ぶのも大変。そこで荒谷さんは覆いを作らせたのです。今広島は千羽鶴が増えすぎリサイクルしていますが、この雑魚場の折り鶴は七十年代の折り鶴が色もあせずに見られますよ。
 高校生たちが私の話をどう受け止めてくれたかわかりません。私は、碑が今そこにあるには、当たり前のように思っているかもしれないが、碑づくりにあたった人びとの「思い」苦労、そんな歴史があったことを言いたかったのです。
町内会の方はとても喜んでくださいました、第二県女の同窓会は解散のとき残ったお金を町内会に寄付し、永代供養を頼んだのですが、このあたりの町内会は住民も減り、福山中学の力はあっても、当日の準備や維持費の問題、その他町内会の苦労は大変だと思います。私が感謝の気持ちを申し上げますと、「頑張りますから」といってくださいました。 
 この後、私、堀池さん、森沢紘三さん、藤井幸江さんとお茶を飲み、それから藤井さんの車で平和公園の供養塔まで送っていただきました。これは変なメンバーです、恐らくこの日以外考えられない組み合わせというか。藤井さんは二年西組でただ一人奇跡の生き残りの坂本(平田)節子さんが、段原中学で最初の担任をしたときの教え子、資料館のボランティア。今だに節子さんをしたい、彼女がいかに良い先生だったか物語ってくれる方です。森沢さんは亡くなった級友森沢妙子さんの弟さん、彼等のお父さん森沢雄三さんは豪快な地方政治家で県議として広島市の助役として浜井信三市長を助けて平和都市ヒロシマの復興に尽くした人。しかし、大柄で豪快だった森沢さんと、小柄で生真面目一本やりの節子さんとあまり接点はなく、不思議な取り合わせですね、堀池さんは呉線沿線坂の大雨被災地のボランティアに行ってきたばかりですが、暑いので,十分働いたら十分休みで作業を進めた、だから大丈夫ですが。と元気。呉のボランティアに行くという彼女に坂に行けと進めたのは私。坂、(鯛尾、小屋浦では、似島に運ばれたクラスメートが転送されたところです。まさかこんなところまで運ばれたと知らない友人たちの家族は、死に目に遭えなかった。歎きの地です。慰霊碑は鉄道の傍で土砂をかぶっていたがとにかく無事で,お参りをしてきたそうです。
 供養塔の傍で竹内さんと会いました。森沢さんはお父さんが供養塔の建設に力を尽くしたことから、必ず待ち合わせの場に供養塔を指定します。竹内さんは女子学院の先生のMさんといっしょです。この大勢に森沢さんは昼飯をごちそうすると言います。初対面の堀池さんたちは遠慮するのですが森沢さんは聞きません、お父さんに似て豪快な森沢さんは言い出したら聞きません、流川の小料理店、頂いた瀬戸内の魚料理,おいしかったです。竹内さんは、前にも申しましたが、ヒロシマ修学旅行から、広島に深い関心を持ち関わり続け、私より広島のことに詳しいと思う方です。広島のフィールドワークはたびたび試み、今年は九日に草津を歩くそうです、森沢さんが被爆したのは草津、何だか、いろいろ縁が続き不思議ないことです・
 八六の広島はタクシーをつかまえるのも大変ですが、お店で苦心してくださり「ひとまちプラザ」に直行。私の講演会「書き、語り、怒りをもちつづけること」があります。
 これも不思議なことである日、竹内さんの携帯から電話がかかり、村上俊文さんに紹介されたのです。「靖国神社の話を聞きたい」と言われるのに驚きました。建物疎開の少年少女たちの靖国神社合祀の問題を取り上げたのは、私が最初で最後だと思います。靖国神社や護国神社大好きの人が多い広島では私の問題提起は「無視」されてきました。靖国の話を聞きたいという方は初めてで、うれしかったのですが、この方がどういう方かさっぱりわかりません、竹内さんもよく知らないが伝承者のグループの方らしいと言います。どういう方かよくわからぬままメールでやりとりして話を詰めてきました。一時間や一時間半の話ではとても語りつくせないから、できたら私の本を売ってくださいと頼みました。会場では売ることが難しいから予約を取りましょうということになりました。
 あまり売れ行きには期待しなかったのですが『広島第二県女二年西組』『ヒロシマの少年少女たち』二〇冊ずつ四〇冊送れというメールがきました。本を売っていただくのはありがたいのですが、こんなに売れるのかしら。「押し売りしなくていいから余ったら返してください」と手紙を付けて送りました。
 この日この時刻に、広島でI CAN の川崎哲さんの講演もあるそうで私の話などに人が来るの!と心配してくださる方もありました。しかし村上さんは強気で予約がもう四〇人入っていると言われます。とにかく熱心な方で、メールもたびたび。五日のフィールドワークにも参加され、そのあと「打合せ」をいたしました。来られる方は伝承者や資料館のボランティアが多いそうで「次世代への継承のあり方」がやはり大テーマになるようで、心して話さなければなりません。
 会場に着くと会場にはもう一杯の人、驚いてしまいまた。六十人は見えたようです。会はまず映像で被爆者の絵で建物疎開学徒を描いたもの、基町高校の生徒が被爆者から話を聞いて描いた絵で学徒関係の者が紹介され、私はなぜ、私が全滅したわがクラスの話を書こうとしたか。話したくない人も取材したのか。話さない人の悲しみも書きたかった。私だけの経験でなくひとクラス全部を書くことで、全体を写したい、とりわけなぜあの若い少年少女たちが「小さな兵隊」として動員され、しかも「戦神」として靖国神社に合祀されたか、それを多くの遺族たちが喜んでいること、それへのこだわりを話しました。村上さんも靖国問題についていろいろ質問してくださいました。最後に私が言ったことは、「もしあの時私が欠席せず、作業に言っていたら間違いなく死んでおり、靖国の神になっている」、「たぶん私が今靖国にいたら、いやだ、私はここにいたくないと思っているだろうから」と言いました。靖国のことを皆さまはどう思われたか、でもその中で広島の護国神社が少年少女たちを神として祀っていることをたたえ、靖国と護国神社は違うと言っていた方が、帰りに私のところに来られ、「もっと靖国や護国神社のこと勉強します」と言ってくださいました。
 伝承は大事ですがが、ただの伝承ではなく,日本が犯してきた加害の歴史、それを踏まえての「核兵器廃絶、そして絶対の平和を願う」のだという私の気持ちをわかってくださればうれしいのですが。
 この夜は早くホテルに帰りました。ホテルには平和式典での広島市長の宣言が号外に刷られておいてありました。一応核廃絶平和を訴えながら、遠慮しいしいの宣言、いつもながら腹立たしいです。この思いは九日の長﨑市長の見事な宣言を読み、さらに思いを強めました。


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続・対話随想 №47 [核無き世界をめざして]

     続対話随想47① 関千枝子から中山士朗様

                                     エッセイスト  関 千枝子

 酷暑と大雨、台風。二〇一八年の夏は、ひどい夏でした。モリカケも、文書偽造など様々な官庁の悪事も、いい加減なまま。核兵器禁止条約は「無視」され、,改憲にはあくなき執念の安倍総理。腹立たしい限りですが、私個人にとっては、新しい「出会い」もあり感激的なこともたくさんありました。
 七月十九日、ある都立高校にヒロシマ修学旅行の事前学習に行ってまいりました。原爆のことを話すのに、ヒロシマ修学旅行は最高の場だと思うのですが、一九七〇年代から九〇年代までの最盛期を過ぎ、今、東京の公立高校では、広島修学旅行など壊滅の状況です。私が話に行くのは私立の中、高校、それも女子校ばかりです。都立高校(それもなかなかの進学校)のお招きにはまず「感激」。「ヒロシマ修学旅行」は久しぶりです、などと言われるので、戦争のことなどあまり知らないのでは、など緊張したのですが、静粛に、よく話を聞いてくれ、質問も核兵器禁止条約への政府の態度など大変鋭く、感心しました。
 担当の先生に伺うと、広島は久し振りだが、沖縄にはずっと行っていたし、去年は長﨑だったと。なんでも近頃東京都の教育委員会は、修学旅行の費用の上限を決めていて「うるさい」のだそうです。沖縄だと往復飛行機なので金がかさみとても駄目。長崎は,行きは飛行機を使えるが、帰りは列車になる、長崎から東京まで列車だと今時の高校生は退屈するので、広島にした(往復列車で費用に問題なし)ということでした。そんなこともあるの!と驚き。
 この修学旅行の責任者の先生は社会科の先生で、きちんと歴史を教えておられるようです。東京都の教育委員会は石原都政のころからめちゃめちゃで、私など、もう公立校はだめとあきらめていたのですが、きちんと平和教育をやっておられるところもあるのですね。うれしかったです。
 八月三日から広島入りしましたが、早朝出発、昼ごろ広島着、ホテルで、広島大学の客員研究員の楊小平さん(中国人)と待ち合わせ、楊さんの車で広島をまわる大変忙しい日でした。私の若い友人・堀池美帆さんも、同行しました。堀池さんは往復書簡でも紹介しましたが、彼女が高校一年生のとき、広島で出会い、原爆に興味を持っている近頃珍しい女子学生ということで友人となりました。彼女も来年は就職です。八六のヒロシマ旅行もこれが最後になるかもしれません。今回の広島はなるべく私と一緒にいたいというので楊さんに了解してもらい、三人の「旅」になったのです。
 そこで、楊さんですが、この人に会えたのは、驚きでした。彼、中國、四川省成都の人で来日、広島大学に留学一二年目だそうですが、日本語ペラペラ、ほとんど完璧です。
 楊さんには、七月に上京された時一度会っています。彼は、もともと文化人類学が専攻で、中國にいたころは原爆についてあまり知らなかったそうです。たまたま広島大学に留学したことで、原爆という凶悪な兵器のことを.深く知り、今は資料館のボランティアにもなっています。もちろん中国人のボランティアは彼一人というか、初めてのことでしょう。しかし、広島の人の、原爆に対する激しい怒り、廃絶への念願に反して、あの戦争に対する加害の意識の薄さ、殊に中国への侵略戦争を忘れている人もいる状況に、楊さんは、違和感をもち、私の作品を読み、ぜひ私に会いたいと言ってきたのです。広島の少年少女たちの靖国の合祀のことなど、問題にしたのは私しかいませんから。
 また、彼は「外国人被爆者」について関心を抱いていて、あなたの『天の羊』もきちんと読んでおられました。そして中国人留学生の被爆についても詳細なレポートを書いています。私は、朝鮮半島出身者、アメリカ人捕虜、ドイツ人(キリスト教関係、神父)そして南方特別留学生のことは知っていましたが、中国人のことは考えもしませんでした。台湾や旧満州から来た学生が、南方特別留学生と同じで、東京が空襲で危ないので、広島に来させられるのですね。広島に高等師範、文理大があったことが留学生の広島行きになったようです。
 現場で話すのが一番、ということで、まず、原爆ドームのすぐ南の「動員学徒慰霊碑」に行き、その傍で話しました。この碑を建てた廣島県動員学徒等犠牲者の会の人々、決して戦争が好きな人びとではありません。原爆を廃絶したい気持ちは人一倍です。それが自分の子どもの死のことになると、「お国のため」に作業して死んだのだから、「国に殉じた」のであり、靖国神社に合祀されてありがたい、となる。何十年経っても子どもの死は悲しい、忘れられないと涙する人々が、靖国神社に詣でると「神々しかったよ」と陶酔する。一瞬、悲しさがありがたいことに変るのです。靖国神社がどんな役割を果たしたか、そんなことを考えたこともないでしょう。この「信仰」はどこから来るのか。
 長い時間話し込みました。そのあと、どこへ行くかいろいろプランがあったのですが、宇品、千田公園(彼は千田さんの銅像を見て彼に興味を持ったようです)に行くことにしました。これ、簡単そうで大変でした。今、広島の市内、あちこちで右折禁止、左折禁止で、面倒です。つい目の前なのに大回りしたり。楊さんも広島市内の運転は慣れておらず、大苦労です。結局一番わかりやすい電車通りを宇品に向かいました。
 宇品港のあたり、停留所の場所も変わり、昔、父の会社のあったところなどもどこかよくわかりません。ただ、暁部隊のあったところ、凱旋館のあったところは、見当がつきました。
 今、広島の人は、宇品港に暁部隊(船舶運輸の部隊)があったことを知っている人も、宇品港が陸軍の港であったこと。陸軍の港はここと大阪の築港だけ(宇品の方が古い。日清戦争以来だから)という重要な場所だったことなど全く知りません。しかし、ここは、戦前、兵隊を朝鮮や中国に送り出す港であり、死んだ兵の遺骨が返ってくる港でした。昨年亡くなった友・戸田照枝さんは御幸通りの傍に住んでいたので、宇品港に行きかえりする兵隊の行進の軍靴の音で育った、とよく言っていました。
 私は、中山さんに教わった山頭火の宇品港を詠んだ句を披露しました。
 「いさましくも かなしくも 白い函」
 楊さんも堀池さんも白い函の意味がすぐ分かって憮然としていました。
それから御幸通りを北上するのですが.御幸通りがどこか、わかりません。多分この通りだと見当をつけ進みました。その道は、間違いなく御幸通りだったのですが、きれいなしゃれた家ばかりで見違えるようでした。宇品最北部に近いところ、通りの右手に千田公園があります。楊さん、前にこの公園と千田さんの大きな銅像を見て何だろうと思ったらしいです。私も久しぶりに千田像を見て記憶より大きくて立派なのに改めて驚きました。千田貞暁は明治期の知事、宇品の埋め立てを考えました。広大な埋め立て、当時としては超巨大な事業で、千田さんは私財を投げ出して埋め立てをしたと言います。完成した宇品、そこへ日清戦争が起こる。朝鮮半島に大量の兵隊を送らなければなりません。宇品は陸軍の港となり、明治天皇は行幸して兵を鼓舞し、広島に大本営が造られ、広島は「軍都」になったのです。
 千田貞暁(男爵)はローカルな有名人で、広島以外の人は、名前を聞いたこともないかもしれません。しかし広島の人は宇品を作り広島を発展させた千田さんのことを絶対に忘れませんでした。あの戦争中、あらゆる銅像や金属がお国のために献納させられた時、広島の人は千田さんの銅像だけは,守り抜いたのです。千田さんが造った宇品、それが陸軍の港になった、それがいいことだったかどうか。多分千田さんは瀬戸内海交通の要の港としての宇品を考えていたと思います。陸軍の港になるとは思っていなかったかもしれませんね。
 そのあと、私が住んでいた家のあとが近いので回りました。これも想定外のできごとですが、私の家のあったところは、今老人施設になり沼田鈴子さんが最期まで暮らしたことで有名です。
全日空ホテルまで取って返し、朝日新聞の宮崎園子さんに会いました。私も宮崎さんにお願いしたいことがあったのですが、宮崎さんも私と堀池さんと二人一緒の写真を撮りたかったのですって。堀池さんは明日(四日)、坂の大雨被害地にボランティアに行くことになっています。宮崎さんに坂の慰霊碑の所在地を聞くといいと思ったのです。
 私が宮崎さんに頼みたかったのは、朝日新聞が出しているタブロイド型の原爆のことを説明する新聞「知る原爆」、あちこちで原爆の学習に使われていますが、それに広島市の建物疎開作業のことが全く書かれていません。あの作業がなければ、学徒だけで六千、大人の「義勇隊」や、身内を探して広島に入った二次被爆者を足すと優に一万人の死者が減っていると思うのに、獲物疎開作業のことが一言も書いてないのはどうしたことか。広島市はどうもこの建物疎開作業のことをあまり言いたくないのではないか、それに乗るように新聞までが、警戒警報が解除されて日常が戻ったと書いているのはおかしい。一万人以上の人間が市の中心地の露天で作業しているのが日常と言えないでしょうと言いました。実はこれは宮崎さんの前任者に頼み、彼も直すと言っていたのですが、直っていないので、改めて宮崎さんにお願いしましたわけです。私はどうしてもあの「作業」に拘らざるを得ないので。
 四日は、資料館と市立図書館などに行きました。資料館は本館の改修が遅れていて、まだ東館しか見られないので、主に地下の展示室を観ました。一室で被爆体験を「伝承者」が語っていましたので覗いてみました。写真や被爆者の絵などを映像で見せながら語るのですが、少し違和感を感じました。
 この「伝承者」というのは広島の新しい試みらしく、個々の被爆者の伝承をする、まず「論文(感想文?)」を書き、その被爆者が承諾(合格点?)を出せば伝承者と認められ、その被爆者の体験を語ることができる。その被爆者が亡くなってもその体験を永久に語り継ぐことができるというわけです。なお、これには広島市の何とかいう課も関わって、伝承者を増やすことを試みているらしいのですが。なんとなく私はこうした方法に抵抗を感じるのですが。いかに勉強をしても、本人と同じ思いで語れるかしら、と思い、今まですでに行われている手記の朗読などの方が自然でいいのではないかという気もするのですが。
 この伝承者のこと、次の日もいろいろな方と話し合う機会があったのですが、私と同じ違和感を持っておられる方も多かったです。
 

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続・対話随想 №46 [核無き世界をめざして]

続・対話随想46 中山士朗から関千枝子様へ

                                作家  中山士朗

 このたびの西日本豪雨がもたらした悲惨な光景をテレビで観ながら、関さん同様に被爆直後に広島を襲った枕崎台風を思い出さずにはいられませんでした。伊勢湾台風に次ぐ猛烈な大型台風でした。このことは何時か『ヒロシマ往復書簡』で、水浸しになったバラック小屋の中で家族が必死で私を支えてくれた話を書きました。そして、間一髪、潮の流れが引き潮にかわり事なきを得ましたが、その間、全身火傷を負った私の病床を蒲団で囲って守ってくれた家族のことは、今でもはっきりと記憶に浮かびます。
災害のもっともひどかった広島では、人々は四年前の広島市安佐南区の災害を思い起したとされていることについて、関さんが被爆直後の枕崎台風について思いを新たにしていられたのは、私も同じです。
 そしてその頃、関さんが寝床の中でそっと髪の毛を引っ張ってみて、抜けないので安心されたという話は私にも同様な経験があります。私の場合は、私が寝ている間に母がそっと私の髪の毛を抜いてみたというのです。
 また、関さんの学校の一年生と二年生の半数が建物疎開作業中に急遽、東練兵場に行くように命令された際、級長どうしの話し合いで、何事も東西東西で,東が先と決まっているという理由から東組が東練兵場に行くことに決まったという話、大変興味深いものがありました。これと似た話が私にもあるのです。私たちは、通年動員で軍需工場(東洋工業、現マツダ)に通っていましたが、三学級がA班、B班に分けられて工場に配属されていました。今から思うと、敵性語とて英語の時間が無くなったのに、なぜアルファベットのローマ字が使われていたのか、理解に苦しみますが、その班別で、臨時の一日交替の建物疎開に出動していました。原爆が投下された八月六日の月曜日は、私が属するA班の日でした。ことほど左様に、人間の運命は簡単に左右されるものであることを関さんの手紙を読みながら感じたことでした。そして、七十三年経って初めて客観的に話せる時間が持てたことを実感しております、
 そのような思いにとらわれているとき、このたびの台風で被害の大きかった坂町小屋浦地区で、危機一髪、母と娘が避難して命が助かったということがテレビで報道されている場面にたまたま出会いました、その女性は、平素、祖母から枕崎台風のことを聞かされていて、その状況を察知し、いち早く近くに住む祖母のところに避難して命拾いしたのでした。その話を聞きながら、私たちと同時代に育った者に刻まれた記憶は、容易に消えるものではないと思いました。
 ただちがう思いは、枕崎台風の後は、
 国破レテ 山河アリ
という思いがしたのに対して、今回の西日本豪雨による災害は、
 国乱レテ  山河マサニ荒レナントス
というのが正直な印象です。
 話が途切れてしまいましたが、坂町小屋浦に、似島からも移送されて死亡した人たちを悼む「原爆慰霊碑」があることを知ったことも、またその記事を書いた人が朝日新聞の宮崎園子さんであったことも驚きでした。
 たまたまのご縁で知ったのですが、このところ宮崎さんの書かれる記事をしばしば耳にしております。
 ご縁と言えば、前回の手紙に書きました、「旭川原爆被爆者を偲ぶ市民の集い」の実行委員の石井ひろみさんもその一人です。
 先の手紙で、私の広島一中時代の同級生だった学友が、旭川の施設に入ったことを石井さんからの連絡で知った話を書きました。その時、名前を伏せて書きましたが、砂子賢介君のことでした。その後で石井さんからこの七月三十日に行われた「しのぶ市民の集い」の会のレポートと砂子君に関する資料を送っていただきました。お礼かたがた電話で話しておりますと、今回、私に連絡したのは、濱田平太郎さんの消息を知るためでした。送った郵便物が戻ってきたために、私のところに問い合わせがあったという次第です。石井さんの説明によると、濱田君は、たびたび北海道を訪れ、そのつど旭川にいた砂子賢介君に会っていたとのことでした。登山家でもあった濱田君は、世界各地の山岳を訪ね写真を撮っていましたので、北海道に行ったのも、そうした目的の旅だったのかもしれません。
 今回、石井さんから頂いた資料の中に、砂子君が被爆体験を語った記録がありました。その中に、夫人の絹子さんが語っておられる個所があり、砂子君の病状がそれとなく知らされていました。
 <結婚して四十年余り(昭和四十三年結婚)、定年退職した夫と過ごす時間が長くなり、数年前から、夫の被爆した事実を聞いておかなければ…・、という気がしてならなくなりました。長い教員生活の中で、時々は子どもたちにその日のことを話したりしていたようですが、私は十七年前、ご縁があって東川のお寺で体験を聞かせてくださいということで、話しを聞いたのが、最初で多分最後だと思います。今は、だんだん昔の記憶がはっきりしなくなってきて…・。もっと早く聞いておくんだったなあと残念に思っています。>
 夫人との対話の中で、砂子君は学徒動員で東洋工業に通い、旋盤工として働いていたが、一日交替で市内に戻り、鶴見橋近くで立ち退き家屋の処理をしていたこと、八月六日のあの日も鶴見橋近くの作業に出動していて被爆した話を冒頭に語り、その後の避難状況や、熱線と放射能を浴びたひどい火傷、家の下敷きになって行方不明となった祖母。母と弟、妹の三人が東練兵場に避難したことなどを説明しています。そして昭和二十二年六月に北海道の従弟が迎えに来て、美深の叔父の家に着いた時の話、一度は郵便局に就職したが復員してこない先生がいるというので、恩根内小学校の代用教員として勤めることになった経緯を語っているのです。
 この対談を企画された石井さんに,私は不躾にも「石井さんは広島、長崎いずれの地で被爆されたのでしょうか」と質問したのでした。すると、「私は戦後生まれで、まだ六十歳です」という返事がもどってきました。聞けば東京で十六年間、演劇の勉強をしておられたということでした、現在も『テアトロ』を購読していて、村井志摩子さんの逝去を知ったと語ってくれました。資料に添えられた手紙には、
<私は戦後生まれですが、ヒロシマ・ナガサキそしてフクシマの体験を、記憶しておくこと、記録しておくこと、それが大事なことだとおもいます、>
 と書いてありました。
「旭川原爆被害者を偲ぶ市民の集い」はこうした人たちによって支えられていることに深い感銘を受けました。
 このたびの集いには、広島、長崎、旭川の各市長からメッセージが寄せられ、道北で故人となられた方々の紹介がなされていました。そして、手紙の末尾には、『原爆供養塔』の筆者の堀川恵子さんに来ていただく予定になっております、と書いてありました。また、電話での話のなかで、「集う会」では、担当者を決めて、毎月一日と十五日には私たちの
『ヒロシマ往復書簡』を検索することにした、との知らせがありました。
 このようにして、私たちの仕事が伝わって行き、 ありがたいことだと思っています。
 往復書簡(第Ⅲ集)の「鶴見橋――炎の古里」で紹介しました相原由美さんが、八月十五日付の朝日新聞≪記録と記憶 消された戦争>に、七一年経て届いた父の「最期」―-冷戦下に埋もれたシベリア抑留という見出しで大きく紹介されていました。
 往復書簡では、戦友の話からシベリアに抑留されていた父親は、バイカル湖近くの収容所で、伐採作業中に倒木の下敷きになって死亡したことになっていました。二〇一六年に初めて抑留による犠牲者を追悼する会に出席した際、申請によってロシアから厚労省に引き渡された、カルテや、捕虜となった前後の状況など詳細な記述がある個人資料が得られることを相原さんは知りました。自ら厚労省に問い合わせ、資料を入手することができたのでした。送られてきたのは、「病院で死亡」という通知でした。二二枚のロシア語の文書を翻訳してもらうと、それは病院のカルテでした。それには、腰椎骨折、睡眠不足、食欲不振、不整脈、うわごとを言うなどと記されていました。
 それまで、冷たい土の上でン亡くなったと思っていた父が三四日間、手厚く看護されていたことが判り、気持ちが少し楽になった、と相原さんは語っていました。
 私は新聞を読み終えると、すぐに相原さんに電話しました。相原さんは、厚労省に自己申請した経緯を語ってくれましたが、私は聞きながら改めて戦争の記憶と記録について考えなければいけないと思いました。
終戦から七三年を経た今日、戦争、原爆を直接知る世代が減る中でどのように当時を検証し、記憶を継承すればいいのかと考えさせられます。
これも朝日新聞に掲載されていたのですが、立命館大学の福間良明教授(歴史社会学)によれば、
決まり文句のように「平和は尊いと結論付けたり、感動的に仕立てたり、メディアで繰り返されてきた予定調和的な語りでは、見えなかった「過去」や「ものの見方」もある。
戦争を「正しいもの」としてしまった社会や政治のメカニズム、誰かを悪人にして、思考停止するのではなく、どう多角的に解き明かし、現代と照らし合わせるか、わかりやすい話にはならなくても、従来と違う視点が提示されれば、意外性を感じて興味を持つ若い人が出てくると思う。
と示唆的な言葉が綴られています。

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続・対話随想 №45 [核無き世界をめざして]

   続・対話随想45 関千枝子から中山士朗様へ

                      エッセイスト  関 千枝子

 このたびの手紙は少し昔のことなどを思い出して書いてみようと思っていました。というのは前回コピーをお送りした「知の木々舎」の表紙のハスの絵からの想い出。蓮の花と蓮田、私の原爆への思い、そのものだからです。 
 ところがそこへ。あの西日本大水害です。災害の酷さ。想定外だか、千年に一度だか知りませんが、ただ息を呑むだけです。特に広島県は一番被害がひどかった。多くの人は四年前の広島市安佐南区の災害を思い出したようですが、私は、あの原爆の後の枕崎台風の惨禍を思い出さすにはいられませんでした。
 あの年、八月十五日までカンカン照りだった天気は急変し。雨の多い日が続き、急に涼しくなってきました。私は十五日の夜から熱を出し寝込んでいました。それが原爆(放射能)に関係するものか、疲れから来たものか、あるいは風邪をこじらしたのか、まったくわかりません。それくらいのことで医者を呼べるわけでもなく、健在な医者がどこにいるのかも分からず、とにかくどうにもならない中で私は寝込んでいました。
 その時すでに、まったくケガのなかった人が、歯ぐきから血が出たり、髪の毛が抜けたりして死んだ、といううわさは伝わっており、私は寝床の中でそっと髪の毛を引っ張り、抜けないので安心した覚えがあります。
 八月の終わりごろ、少し良くなり熱も収まったので、起き上がっていますと、近所(と言っても歩いて七、八分かかりますが)に住む東組の級長の菅田さんが、訪ねてきました。私は彼女と玄関の外で話しました。彼女の話は、「西組は全部死んで、坂本さん一人だけが生き残っている。先生の死もあり学校は当分開かれない、家で待機しているように」というような内容でした。あの前日の五日、二年生も一年生も全部雑魚場(市役所裏)で建物疎開の後片付け作業をしていました。その日の午後どこからか命令が来て、その一年生と二年生の半分は東練兵場に行くことになったのです。二年はどちらの組が東練兵場に行くか、級長同士で話し合って決めなさいということで、西組の級長の火浦ルリ子さんと東組の菅田さんが話し合い、何でも東西東西で東が先だから東組が先に東練兵場に行きなさいと火浦さんがいって東組が東練兵場に、西組が雑魚場に残ることになったそうです。それが二つの組の生死を分けた。菅田さんもその重さがこたえているようで、すぐれない顔色でした。その時何だか寒くて、玄関の外で話したので私は震えが来て、菅田さんを帰して家に入った途端また寝床に倒れこみ、寝込んでしまいました。
 私はこの時菅田さんを家の中に入れず外で話したため寒い目に遭わせたことが大変気になっており、その時の詫びを数十年たってから言ったことがありますが菅田さんはそんなことを覚えておられず、大笑いになった覚えがあります。記憶というのは、そんなものでしょうね。
 元気になり起き上がったのは枕崎台風が通り過ぎてからで、その時広島中は水浸し、特に埋め立て地の宇品は床上浸水。我が家は前にも書いたことがありますが、アメリカ帰りの方が、全財産つぎ込んで作った理想の家。洪水のことも考え長年の資料を参考に家屋の部分は非常に高く土盛りしたので我が家は浸水しなかったのです。でも庭も道も水につかり、水道が止まって大変だというので私と姉は、張り切ってバケツを担いで翠町に行けば井戸があるというので水くみに行ったのを覚えています。
 その時、広島は、新聞はまだ来ないし、ラジオだけが情報源、それも停電になったらアウト、まったくひどい情報過疎の中で暮らしていたわけで、台風であちこちの崖が崩れひどいことだったというのは後からだんだん知ったことでした。我が家の一番の被害はツテを頼ってどこかの農家の蔵にいくつか荷物を疎開させたのですが、その蔵が大水で流されてしまい、パーになったことでしたが、そんな“損害〝は原爆で焼けず、誰も死ななかった幸運な一家では言ってはならないことで、私なども、ああそうかと思ったくらいでした。
 あの時も大変な被害だったようですが、山崩れなどの被害の多さは、山の松の木を松根油をとるため切り倒したからと言われ、私もそう思い込んでいました。四年前の水害のとき、広島の山間の土地は花崗岩で、弱いという話を聞かされびっくりしたことがあります。そんな弱い土地の川沿いを開発して…・無茶ではないかと言ったのですが。
でも今年の災害であちらでもこちらでも水道が止まり、困っている、復旧の見通しが立たないと悩んでおられる話を聞きました。これは本当に困るだろうと思います。それにつけてもあの原爆のとき、広島で水道が止まらなかったのは、すごいことだったと思います。もし、水道が止まったら…‥。宇品など水道が掘れないところです。どんなことになったか。
 浄水場の方々の苦労と努力があったように聞いています。
 枕崎台風のときも、広島の川にはたくさんの流木が流れてきたようですね。あれを拾ってバラックを建てたという話も聞いています。でも今度、大水で府中町がやられたそれも川を流木がせき止めたから、という話には驚きました。府中町など、災害に関係のない豊かなところだと思っていましたから。
 それに、坂、小屋浦という地名がよく出てくる、それも胸が痛みます。坂、小屋浦には海軍の施設があった。似島がいっぱいになると何人かの人が坂や小屋浦に移された。私のクラスでも似島から坂、小屋浦(鯛尾)に移され、亡くなった人が三人います。ここの悲しさは遺族が子どもの死に目に遭えた人がいないことです。誰も、そんな遠いところに運ばれているなど思えなかった。宇品の桟橋で似島に連れていかれたという人の中に名前を見つけ飛んで行ったが、もうすでに坂に移されていて、すでに死んだあと。遺骨もなくて(みな一緒に焼くので、遺骨があっても仕方ないということで)髪の毛が少し残されていた、という話でした。昔、坂など遠い遠いところでしたから、ね。まさかあそこに子どもが連れていかれたなど思わなかった。坂の話は辛いです。
 坂にも原爆の慰霊碑があるのだそうですね。朝日新聞の宮崎さんの記事で知りました。本当にあそこでたくさんの人が亡くなったから.。

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続・対話随想 №44 [核無き世界をめざして]

 続対話随想44  中山士朗から関千枝子様へ

                           作家  中山士朗

 このたびのお手紙を読みながら、私の身辺でも老人ホームに入った友人のこと、難聴の症状が出て意思疎通ができなくなった友人のこと、認知症になった知人のことをあらためて思い出しました。
 ごく最近も、旭川原爆被爆者をしのぶ市民の集い実行委員会の一人である石井ひろみさんから、広島一中の一年生の時同じクラスにいた友人(旭川在)が施設に入ったとの知らせをいただいたばかりです。この知らせは、「第32回旭川原爆被爆者を偲ぶ市民の会」開催通知に添えられた便せんに書かれたものでした。
 案内状には、次のように式次第が書かれていました。

 開催日   2018(平成30)年7月30日
 会場    旭川市民文化会館小ホール
 参加    無料
 日程    午後4時ロビーにて被爆資料展示
       午後6時     開場
       午後6時30分  開会
       道北の被爆者朗読
       道北の原爆死没者紹介
       「ナガサキ・語られなかった思いを紡いで」
       合唱・黙想
       午後8時30分   閉会予定
 後援   旭川市・旭川市教育委員会・北海道新聞社旭川支社
       北のまち新聞社(あさひかわ新聞)

 案内状には、昨年の三一回しのぶ会に参加したのは一四〇余名と記されていました。
 今年の7月四日付の大分合同新聞に発表された二〇一七年末の生存被爆者数は、最小一五万四千八百六十九人で、広島七万二百二十人、長崎四万四百四十九人、福岡五千八百九十二人、大分五百四十七人で、平均年齢は八二,〇六歳となっていました。この数字から判断して、北海道全体ではかなりの被爆者がいたのではないかと推察されるのです。
 こうし記事の中に、共同代表の一人であった伊藤豪彦さんの死が報じられていました。
 伊藤さんは原爆が投下された時に、兵士として救援活動に当たり被爆されたということ出した。その時に目にしたむごたらしい様子に触れ、「二度とあのようなことが繰り返されてはいけないのです」と強い口調で訴えられておられたそうです。
 私はこの個所を読みながら、被爆直後に比治山の山頂でうずくまっていた私を背負い、東側斜面の中腹にあった臨時救護所に連れて行ってくれた兵士の顔や姿を思い出さずにはいられませんでした。家族と連絡が取れるまでの六日間、その兵士は何くれとなく私の介護に当たってくれました。井戸端に私を背負って連れて行き、冷たい水で私の体を拭ってくれました、ちょうどその時、娘さんを探しに来た近所の人の姿を認めたので、兵士に頼んでその人を呼び止めてもらい、家への連絡を依頼したのです。その日の夜遅く、父が訪ねて来て、翌日の昼に,母が雇った荷馬車に乗って私を迎えに来ましたが、その時も私を背負って山の麓で待つ荷馬車まで送ってくれたのでした、私と母は、兵士の姿が見えなくなるまで、頭を下げていました。
 私のいつもの悪い癖ですが、話がすっかり横道にそれてしまいました。
 村井志摩子さんの死は新聞で知りましたが、同年代の被爆者の死去がこのところ続いておりましたので、私自身の余命に思いをはせていたところです。特に言語による表現活動を続けた人の死は、とりわけ身近に感じられ、心がえぐられる思いがするものです。
 関さんと村井志摩子さんの深い交友関係を初めて知りましたが、同時に亡くなられる数カ月前の関さんとの電話での会話の内容には、慄然とするものがありました。関さんの胸中を考えますと、どんなに辛かったことかと思わざるを得ません。
 そして、資料の保存、記憶の継承について、改めて考えておかなければならない事だと思いました。実は私も最近になって、自分の書き残した作品の全てを保管してくれる場所を探しているところです。子どもがいない私には、死後は他の書籍同様に廃棄物として処理されるだけです。現在、二、三の人に相談しておりますが、広島一中の同窓会館がいいのではないかという話も出ておりますが。いずれにしても、生涯かけて被爆体験を書き続けてきた私にとっては、生きてきた証しでもあり、亡くなった人たちの記憶を消さないためにも,何とかして後世に委ねたいのです。
 近ごろ、私は広島を旅だった日のことをしばしば思い出すようになりました。
 関さんの手紙の中にも、昭和二十年三月に村井志摩子さんの東京女子大、姉上様の広島女専入学のことが書かれていましたが、その個所を読みながら、私自身の廃墟からの旅立ちの日を思わずにはいられませんでした。駅頭に見送りに来てくれた、母の涙を思い出すたびに、年老いた現在でも涙が滲んでくるのです。
 私が早稲田大学の文学部に遊学して、文学を学びたいと言った時、父も母も反対しませんでした。二人が読書家であったせいかもしれませんが、私が将来もの書きになりたいと言った時にもあえて反対はしませんでした。ただ、「苦労が多いぞ」、と父が言っただけでした。
 被曝して顔にケロイドを大きく残した私が、社会人になった時に普通に歩める状況にないことを父も母も察知していて、私が文学の道を選んだことにあえて反対しなかったのだと思います。駅頭での母の涙は、私を不安に思う涙でした。汽車が動き始めた時、原爆症で紫色がかった母の唇が震えたのを今でも鮮明に記憶しています。この廃墟から廃墟への出発が、現在も私が書き続けられる原動力になっているのではないでしょうか。
   

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続・対話随想 №43 [核無き世界をめざして]

 続・対話随想43 関千枝子から中山士朗様

                      エッセイスト  関 千枝子

 お手紙拝見して、私は軍のことに興味がなくて、第二総軍などと言ってもぴんと来なかったのですが、一九四五年二月にできたということは、あの時期になって「本土決戦」を思いついたということですね。松代大本営もあの頃でしょう。近衛文麿さんが、昭和天皇に「終戦」のことを提言し、天皇が「もうひと踏ん張り戦果を挙げてからでないと」と言ったというのは確かあの一月ころだと思います。そのころから本土決戦を真剣に考えだしたのか。いやな感じになりますね。硫黄島や沖縄など、まさに捨て石、だったのではないかと思うのです。
 さて私のこれから書きたいことは(41)の続きです。
 このところ、昔の友たちで亡くなる方や弱る方が多く、ショックです。一人で生活することが苦しくなって老人ホームに入りましたというお知らせが多くて。老人ホームもいいと思うのですが、「認知症」というのは嫌ですね、認知症もいろいろで、すっかりわからなくなっているという方もありますが、方向感覚が無くなったり、今言ったことが判らなくなったり、いろいろのようです。ですから、多少「ボケて」来ても、日常の生活は何とかなるようでしたら、それなりに楽しく暮らせるのかもしれませんが。全く分からなくなって、「私は誰?」になったらどうなるのでしょうか。
 昔、頭を使わないからボケると言われましたが、あれも嘘ですね、さまざまの運動、活動をしていた方(それもトップクラスの中現役)が認知症になったケースを私は三人以上知っています。尊敬する先生たちだったので、私はショックでした。
 先日も同窓会で、認知症の話が出、「わからなくなったら本人は楽で一番いいですよ」というのです(この人、医者です)。「そうですか?」と私は懐疑的で「でも何もわからなくなったら、楽しいかしら?」と言ってしまったのですが。頭は大丈夫ですが足腰が悪くなり動けない人がいます。いわゆる寝たきりですが、でも、寝床でパソコン打てますし、頭のはっきりしている方がいいじゃないかと思うのですが。
 私自身のことですが、体は確かに老化していると思いますが、耳も目も悪くありません。認知症の方もまだ大丈夫なようです。これはとてもありがたいことです。「残された時間を大切にできるだけのことをしたい」と思っています。もしこれで、あと一〇年生きてしまって、わけがわからなくなって、なんであの人生きているの?と言われたら…・、それはその時で対策を考えるしかないですね。
 実は認知症のことここまでこだわるのは、この間、村井志摩子さんの死が伝えられたからです。ご存知ですね、チェコで演劇を学び、「広島の女上演委員会」を作り、ドラマ「広島の女」を上演、文化庁芸術祭賞や谷本清賞も受けています。また、原爆ドームを作ったヤン・レツルがチェコの人であることから、彼のことを調べました。レツルのこと、彼女の調査で分かったことが多い、これも大変な業績です。
 私は「全国婦人新聞(女性ニューズ)」で「広島の女」をずっと取材してきました。このドラマに書ける彼女の思い、よくわかりましたし、彼女の「経歴」にも非常に興味を持ちました。村井さんは、生粋の広島の人で、第一県女の卒業です。私の姉と同学年になります。つまり一九四五年(昭和20)年三月、女学校を四年生で卒業させられてしまったクラスです。村井さんは東京女子大を受験、受かったのですが、なかなか入学のため来いという知らせが来ず、そのまま動員先(広島)で働いていました。これはどこの女子の高等教育(女子専門学校)も同じで、私の姉なども通知が来ないまま専売局で働いていました。
 村井さんが東京女子大を志望したのも驚きでした。あの下町大空襲の直後です。東京は一番危ないところ、そこに娘をわざわざ送り出す親はよほどの方と思います。私の父は、かなり開けた方でしたが、東京の学校に進学したいという姉の希望を絶対に許しませんでした。村井さんの親御さんはよほど覚悟ができた方だったのか。村井さんの希望がそれだけ強かったのか。結果的に西荻窪の東京女子大は焼けず、素晴らしい寄宿舎も無事だったのですが。
 七月下旬になって入学式のため学校に来るよう通知がありました(これも全国同じのようです)。村井さんは勇躍上京。私の姉も広島女専に行きましたが、勤労動員で水島(倉敷)に行く。それまで一週間ほどオリエンテーション(そのころはそんな英語は使えなかったでしょうが)ということで、八月六日もそんな校長の訓話を講堂で聞いている最中、ピカと来たわけです。村井さんが東京女子大で何をしていたかわかりませんが、広島に新型爆弾の報にどんなに驚かれたか。
 村井さんはドラマの道に進み、チェコに行き、ということになるのですが、「ヒロシマ」への思いはあの「3部作」になります。私はずっと取材を続け、あまり大マスコミが取り上げない中、最後のころは一人で取材していたような感じがあります。彼女が被爆者でない(あの日広島にいなかった)のに、「広島の女」を書いたことで、心ないかげくちもあったようです。広島の人は「よそ者」に冷たく、広島の人であっても広島から出て活躍している人に冷淡なところがありますから(中山さんも感じたことありませんか)。村井さんは非常に怒っておられました。
 「広島の女」シリーズが終わった後、お連れああいの葛井欣士郎さんと何かあったようで住まいが変わりました。葛井さんは演劇プロヂューサーというより、アングラ演劇の帝王のような存在で仲の良いお二人だったのですが。その後も村井さんとは何度かお会いしましたが、そのあたりのいきさつ、詳しいことは知りません。
 ただ、@広島の女:などの様々な資料の保存には苦労しておられて、私が「ノーモアヒバクシャ記憶遺産を継承する会」ができたことをお話しし、資料を大事にしてと言ったのですが、この会も、「センター」を設立する動きになかなかならず、そんなうちに葛井さんもなくなるし、村井さんからも年賀状も来なくなり何年か経ちました。
 去年、前にお話ししたパリ在住の松島和子さんを通じて、パリに住む人から(どこのくにのひとか知りません。。。日本人ではないことは確か)、村井に連絡を取りたいのだが村井は元気かという問い合わせがありました。そこで村井さんの所に電話してみたのですが、電話は鳴るばかりで誰も出てきません。しかし、電話が鳴っていることは、この電話が生きているしるしと思い、あきらめずかけ続けたところ、受話器がとられたのです!しかしその声は「葛井でございます」というのです。驚きました。声は、志摩ちゃんに違いありません。でも彼女がお連れ合いの名を名乗るなんて。「村井さん?」と聞くと「村井は私の旧姓で御座います」というのです!
 その瞬間、彼女が認知症になっていることはわかったのですが、未練がましく「私、関千枝子です。覚えていますか?」と聞いたら、明るい声で「覚えていませんわ」と言われてしまいました。
 暮らしは「ヘルパーさんに助けてもらって何とかやっています」というのでそのまま電話を切り、パリの方にありのまま知らせ、電話には本人が出てこられますが、話が通じるかどうかは疑問といっておきました。その後、どうされたかわかりません・。
 それから数カ月、新聞で村井志摩子さんの死去を知りました。ああと思いましたがどうすることもできず、なんとしたものかと思っていましたら、先日ある女優さんから電話があり女優さんたちで部屋を片付けている、ビデオなどがあるので、私がもらったが、大きなパネルがあり、捨てるには忍びないし困っているというのです。遺産を継承する会にも連絡しましたがまだセンタ-建設の募金も始まっていないし、資料保管のために借りている部屋も満杯だし、ということでその女優さんの家でしばらくパネルを預かっておくということにことになったのですが。
 女優さんに「ヤン・レツルの資料などはなかったか」と聞いたのですが、それらしきものは見当たらなかったということ。これでヤン・レツルの資料は永久になくなってしまうのでしょうね。
 資料保存の難しさをつくづく感じます。
 記憶の継承のことと、認知症のこと、村井さんのことがショックで、つい、暗い話を書いてしまいました。

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続・対話随想 №41 [核無き世界をめざして]

        続・対話随想41  関千枝子から中山士朗様

              エッセイスト  関 千枝子

 中山さんのお手紙で、茶本裕里裕さんが、八月七日から第二総軍特別情報班に動員される予定で、一日ちがいで原爆で死ぬことを免れたという話があり、感慨に堪えませんでした。原爆で、「一日ちがい」で助かったという例は多いのです。私なども、あの日だけ病欠、前の日でしたら確実に死んでいますので。
しかし、第二総軍特別情報班ということに、考えせられました。私たちの広島第二県女の一年生と二年生の半分(東組)は突如として東練兵場の作業に動員されたため、死をまぬがれたのですが、この作業命令は二中にも下され、二中は、一年生は建物疎開作業に残り全滅。一年生は東練兵場に行き、命が助かりました。二中の人たちも、前日の八月五日の午後、急に命令が来たそうです。あの広島市全市をあげての建物疎開作業から急に人を引き抜くのです。何か相当の理由があったはずですが、二中の生徒のしていたことは芋畑(そのころ東練兵場は芋畑と化していました)での雑草抜き、二県女は生徒たちは集合しているのに、何をすればいいか、指導する兵隊が来ず、教師たちは一年生にとりあえず畑の雑草抜きを命じ、二年生には待機を命じ、兵隊を迎えに行った。その時ピカと来て一年生は火傷をし、二年生は大きな木の陰にいたので火傷もせず助かったのです。これも大変な「運」の分かれ道でした。
 しかしなぜあのとき急に東練兵場行きが命じられたか、芋畑の雑草抜きなど大した作業ではありませんし、新たな農作業をする季節でもありません。不思議なことですが、私たちはこの問題の不思議さを考えることもありませんでした。
 「おかしいではないか」と言い出したのは、戦後六〇年以上たって、「自分史」を書きだした今田耕二さんです。なぜあれだけ建物疎開作業が急がれていたあの時期に、しかも二中と二県女が東練兵場に行かされたのはおかしい。建物疎開作業は中国軍管区の命令だが、東練兵場は第二総軍の管轄である。第二総軍の新しい作戦、しかもそれは暗号とかかなり知的な作業ではないか。一中の二年生はすでに通年勤労動員に行っていたので、次に知能が高いとみられる二中に白羽の矢がたったのではないかというのです。私は彼に言われたころ、中国軍管区も第二総軍も全く知らなかったので、(女ですね。そんな軍の機構のことなど興味もありませんでした)、ただビックリしました。そういえばあの時期に芋畑の雑草抜きなんておかしいと。そのうち今田さんから新しい情報が入ったという知らせがあったのですが、それが何なのか具体的なことは知らされないうち、今田さんが急に亡くなってしまったのです。
 気にかかったまま日が過ぎて行ったのですが、近年になって、東練兵場では朝鮮の人たちが東照宮の傍のがけの洞窟を掘る仕事を進めていたという話を聞きました。トンネル工場かしらと思ったのですが、第二総軍の関係で、洞穴を掘っていた、と考えてもおかしくないですね。
 暗号と言うことで、ふと思ったのは茶本さんが、第二総軍の特別情報班ということを聞いたからですが、この間からお話ししている戸田照枝さんのこともあるのです。
 戸田さんは、国泰寺高校三年生のときからの友人です。戸田さんは市女から来た人ですが、隣のクラスだったので早くから仲良しでした。市女は、県庁前の建物疎開作業で一、二年生全員が.亡くなり、広島の学校の中でも最大の被害を受けているのですが、市女から国泰寺に来た人の数はかなり多かったのです。まあ、何かで助かったのだろうくらいに考え、国泰寺のときは、あなたはどうして原爆で命が助かったの、など聞いたこともありませんでした。
 国泰寺高校卒業後、戸田さんは舟入高校の事務職員になったのですが、卒業後の夏のころ私たちはよく遊んだものです。包が浦にキャンプに行ったり、まだ海がきれいだった元宇品に行ったりよく遊んだのです。しかし陽気で明るく、「人柄がいい」と誰にも好かれる戸田さん(当時は旧姓の日浦さんでしたが)と、原爆のことなど話し合ったこともなかったのです。
 その後、こちらも大学も高学年、就職など忙しくなり、すっかりご無沙汰になっていましたが、照枝さんがクリスチャンになり、教会で素敵な男性に遭い、大恋愛で結婚したことは風の便りで知っていましたが、会うことも少なかったのです。
 再会は一九九〇年代で、私が「第二県女二年西組」を出した後、広島YWCAの何かの催しに参加、彼女がYWの朗読のグループで、原爆の詩の朗読な度に大活躍されていることを知り彼女もやっているな、と思い、「再会」を喜び合ったのですが、その時も私は彼女の被爆体験を聞くこともありませんでした。私たちの年代、中山さんもご存知の通り、被爆体験は皆、いろいろありますからね。
 彼女が被爆時、市女の生徒でなく、第三国民学校の生徒であり駅付近で被爆したことを知ったのは、二〇〇〇年に入ってからです。彼女が中国新聞に取材された記事を見せてもらったのが知る機会でした。第三国民学校だったら私たちと同じ雑魚場で建物疎開で被爆したはずです。それをいぶかしく思うこともなく、戦後たくさんの人を失った市女が、いろいろなところから生徒集めしたことも知っていましたので、彼女もそんなことで市女に行ったのだと思いました。彼女の家がお兄さんたちを何人も戦争で死なせていることも知っていましたので、大変な家庭の事情の中、娘を市女に編入させ、高校まで進学させた彼女のお母さんに、偉い人だったのね、と感心したのは覚えています。でもなぜ「駅近く」なのか、考えてみようとはしませんでした。
 その事情、そして彼女がそれに対し悩み、苦しんでいたことを知ったのは、もう彼女が死ぬ一年前、彼女がすい臓がんの再発で緩和ケアの病室にいるときでした。
  一九四五年の七月、各国民学校に成績優秀な女生徒を一人ずつ選抜するよう命令が来、第三国民学校からは彼女が選ばれたのだそうです。なぜ女子生徒かと言えば、高等科の男子の二年生はすでに勤労動員に動員されていたからでしょう。国鉄の仕事ということで行ったのは駅の近くの建物で、暗号関係の仕事だったそうです。で、まずいろいろ練習があったそうです。学校と違い一つの教室にいるわけでもないので、全員の顔も知らず、名前もわからず。ただ、その場で一緒だった「大谷さん」という人が、大変立派なリーダー格の人で、その人のことはよく覚えているそうです。
 そしてあの日、ピカ。あっという間に建物は倒壊し、彼女は夢中ではい出したのですが大勢の人は建物の下に埋まったまま、救い出そうにもどうにもならない、どこに埋まっているかもわからない。まごまごしているうちに火はせまってくる、早く逃げろと追い立てられ、彼女は北に逃げます。宇品は、と聞いても広島市内は全滅じゃと言われ、ひたすら北の方に逃げるのですが、やがてどうにも家のことが心配になり、広島に引き返し、大回りして家にたどり着きます。すでに夜、薄暗くなっていたそうです。彼女の家は宇品でも一番北、御幸橋のすぐそばで、被害はひどく、「壁も飛んで柱だけ残っているようなありさまじゃった」そうですが、家の外でお母さんが心配して、立っていて、帰ってきた照枝さんを見てよかったと泣いて喜んだそうです。
 照枝さんは、戦後、駅の傍の「職場」が心配になるが、もう何が何やらさっぱりわからない。ただ一人名前を憶えている「大谷さん」のことを調べようにも、フルネームも住所もどこの国民学校高等科から来たかもしらない。調べようがない。でも彼女は死んだに違いない、自分は友を見捨てて逃げ、命が助かったのだと思うと苦しくて苦しくて悩み続けたそうです。
  そしてあまり苦しくて、ある日、ふと通りかかった教会に入ってみた。そしてそこで牧師さんに話を聞いてもらい、癒された。クリスチャンになり、夫と知り合い…・、ということなのです。彼女の信仰の深さは、教会の中でも有名で、娘さんの一人は牧師さんに嫁いでいます。私はそんな話を被爆後七〇年にして初めて聞いたのでした。
  それにしても、彼女の「仕事」が暗号だったこと、気になりますね。それから、どんな原爆の記録を見ても、こんな国民学校高等科の一校一名ずつの動員のことなど書いてもありません。どうも茶本さんの第二総軍特別情報班のことと言い、二中、二県女の不意の不思議な動員のこととい、気になります。
  
 照枝さんは自分の被爆体験を昨年の八月六日、ちょうど日曜日でしたので、教会の朝の拝礼のあと、特別行事として話をされました。私は大勢の友を誘ってゆき、朝日新聞の例の宮崎さんが取材され、記事にされました。
 この日、戸田さんは、末期の再発癌の人とは思えない元気な様子で声も大きかったのですが、九月に入ってから体調が衰え、一〇月に亡くなりました。
  
 ごめんなさい。この後にまだ書きたいことがあるのです。
 それは、認知症のことで、近頃少し衝撃を受けることがありまして。でもこの手紙、もう三五〇〇字です。少し長すぎますね、認知症の話は次回にします。


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続・対話随想 №40 [核無き世界をめざして]

   続・対話随想40  中山士朗から関千枝子様へ

                  作家  中山士朗

 前回の手紙で、佐々木美代子さんから頂いた中国新聞の記事、広島第一県女(旧制)の学徒動員の記録集の紹介に触れましたが、関さんがそのことに非常に驚かれたことを知りました。手紙を熟読して、その理由がよくわかりました。
 戦時下の女子学生の、勤労動員の実態、記録について「戦時下勤労動員少女の会」が結成され、一九九六年に手作りの作業で「記録――少女たちの勤労動員」を完成させました。この経路が詳細に記述されていました。この記録集は、反響が大きく、二刷も出し、後にジャーナリスト平和協同基金の賞を得たのでした。
 こうした中で広島からの資料は少なく、広島第一県女の動員先のことも「表」の中に入っていましたが、情報量が不足していたようで完全ではありませんでした。この記録集は二〇一三年に改定初版、二〇一四年に改訂版二刷が刊行され、昨年、国立女性教育会館のアーカイブで保存されることが決まったとのことでした。 
 そのような折に、長年その作業に携わって来られた関さんは、第一県女の記録のことを知り、なんで今頃と絶句されたのは無理からぬ話だと思いました。
 折り返し、関さんは皆実有朋同窓会に電話して記録を取り寄せ、その読後の感想をつぎのように述べておられます。
 <一口に言って、とても精密な力作と思いました。/この記録、大変詳しいもので、二十年前に出ていたらもっとよかったのですが。>
 そして、「戦時下勤労動員少女の会」の事務局長に回し、国立女性教育会館に追加資料として保管を依頼するとのことでした。第一県女の看護隊についてすでにご存知だったことは、驚きでした。
 この第一県女の記録集が出たことは、昨年十二月に、茶本裕里さんから知らされていました。茶本(旧姓・三重野)さんは、関さんから紹介され、広島一中一年生であった弟の杜夫君の被爆死を書いたことがあります。そして、私たちの『ヒロシマ往復書簡』でも書かせて頂きましたご縁のある方です。昨年、日本エッセイストクラブ「会報」冬号に、戦争の中の「生と死」というテーマで、三人の女性の方に登場していただきましたが、その中の一人が茶本さんでした。掲載誌を送った返事のなかに、第一県女の勤労動員の記録集が出版されたことが記されていました。
 <日本エッセイストクラブの会報有難うございました。”ヒロシマ往復書簡”も終了したとか、素晴らしい本でしたね。杜夫のことも取り上げていただき、姉と弟にはさまれヒガミ根性のヤンチャ娘だった私もようやく親孝行ができたのではないかと、ありがたく思っております。三冊、目の前の本棚に並べ、時々読んでいます。私は若いころの十一年ちかくヒロシマで暮らしていました。が、知らないことが結構多く、あのご本からの死得ていただくことが、けっこうあります。今年は、卒業した第一県女の同窓会が皆実高校卒の方がたとごいっしょに、とても立派な勤労動員の記録集を出されました。立派な本です。私も少しアンケートにお答えしています。私の先輩諸姉が、広(呉市)の海軍工廠に行っていたのを知ってビックリ。父が広島に転勤になる前に居たところです。今週は友人に誘われて、四国五郎さんの作品展に行くつもりにしています。>
 茶本さんの家族は、当時、鎌倉にお住まいでしたが、お父上が広の海軍工廠から広島市内にあった軍需省中国管理部長に就任された際、昭和二十年の四月に広島に移住されたのでした。
 当時、横浜第一高女四年生だった茶本さんは、広島第一県女に転校し、湘南中学に入学したばかりの杜夫君は、広島一中に転校したのでした。
 横浜第一高女四年生だった茶本さんは、広島第一県女に転校してからも、最初は私たち広島一中三年生の三学級が動員されていた東洋工業、次いで広島航空へと動員先が変わりました。この広島航空には、広島一中三年生の一学級が動員されていましたが、原爆が投下された八月六日は,爆心地から八〇〇メートル離れた場所で建物疎開作業に従事していて被爆し、全員が即死状態の死をとげました。
 広島航空に移って間もない茶本さんでしたが、八月七日から第二総軍に動員の指示が伝えられ、八月六日は休暇が与えられ、郊外の家にいたのでした。
 第二総軍の特別情報班は、泉邸(浅野侯爵邸、現在の縮景園)に在りましたが、そこは爆心地から一・ニキロの近距離に位置していました。
 「八月六日から第二総軍に出ていましたら、助かってはいなかったでしょうね」
 茶本さんの印象的な言葉が、記憶の底でよみがえってきます。
 今回の関さんの書簡の添え書きに「少し、ヒロシマ・ヒバクシャから離れたかもしれませんが」と書いてありましたが、あの日、建物疎開作業に従事していて犠牲になった中学校、女学校の低学年生は、六千人にも及んでいます。広島第一県女の学徒動員の記録集への関さんの思いは、被爆した広島の少女たちの記録が、「戦時下勤労動員少女の会」の趣旨につながっていくのではないでしょうか。
 こうした経過に至ったのは、関さんの「私たちは日本のもっとも悪くなる時代に生まれ、もっとも悪い時代に中学(女学校)、新制高校という、本来ならば、多感で夢多く楽しい時代を、さまざまな思いを生きてきた」という言葉があったからです。そして、第一県女卒業生の佐々木美代子さんの手紙から、また、茶本裕里さんの手紙によってつながっていくのですが、私たちの『ヒロシマ往復書簡』とご縁があったことをあらためて感じています。




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続・対話随想 №39 [核無き世界をめざして]

    続対話随想39  関千枝子から中山士朗様へ

         エッセイスト  関 千枝子

 お返事大変遅くなりましてすみません。
 本当に、このごろいろいろありまして、かっかとしております。モリカケ問題、公文書改ざんまで明るみに出てきたのに、いっこうに反省せず、財務省の役人の責任にしてこのままうやむやにしたいとしか思えない政府の態度に、怒っておりましたら、今度は、財務省事務次官のセクハラ問題まで出てきて、怒りを通り越しあきれ果てています。福田本人もですが麻生氏の態度の酷さ。彼を引責辞任させたら、安倍政権はがたがたになりますから、なんとしてもやめないつもりでしょうが、あのセクハラ発言に対し、はめられたとか、二次セクハラとしか言いようがない。しかし、テレビで女性記者と福田の会話を聞きましたが、卑しいとしか言いようがありません。福田という人、神奈川県の名門中の名門、湘南高校でトップの優等生で生徒会長までした人ですって(湘南在住の人に聞きました)。そして東大に入ってもトップの秀才で、大蔵省に入り、出世街道まっしぐら。そんな人が。女性に対してあの野卑な物言い。何でしょう。そんな「優等生」たちがこの国を動かしている。いやもう恥ずかしいと思いです。財務省は彼を罰し、減給にするそうですが、五千何百万という私なぞの想像もつかぬ額の退職金から、百何十万の減給分を差し引いても何億通もないでしょう。もう、いやになってしまいます。怒っているうち、連休入り。最後まで詰められない野党の弱さ。、健康に悪いです。
 さて、この前のお手紙の返事が遅くなったのは、広島第一県女の学徒動員の記録を作ったことが、佐々木さんからのお手紙に関連して書かれていたことでした。いえ、これは悪いことではなくいいことですが。私が絶句してしまったのは、実は戦時下の女子学生の勤労動員の実態、記録に関しましては。1980年代の終わりごろ、各地の元女学生たちによって記録集文集がたくさん出ました。それが新聞などで報じられ、当事者たちは「戦時下勤労動員少女の会」を一九九一年に作りました。そして、当時のことなどを話し合ううち、女子学生たちが一年半も学業を放棄させられ、働かされたことは大変な事なのに、文部省(当時)や各県の教育委員会にも資料が少なく(具体的な資料が全くない県もある)、これは自分たちの手で資料を集め、是国的な記録を作ろうと作業を始めました。
 手作りの作業で、一九九六年「記録――少女たちの勤労動員」を作り上げました。これは、東京都女性財団の助成金で作りました。当時、女性年からの女性運動の盛り上がりは大きく、特に金があった東京は、相当の助成制度がありました。
この出版に対し反響は大きく、連絡のついていない「元勤労動員少女」から新しい情報も入り、二刷りも出し、ジャーナリスト平和協同基金の賞も得ました。
 実は私、この会ができたころ、私のクラスは正規の恒常的な動員でなく、臨時動員で、建物疎開作業で死んだのだからと私は当事者ではないという思いでした。しかし、私の姉たちのことでもあり、大いに関心があったので、新聞記者として取材に行き、大いに記事に書いていたのでした。そのうち会の方から、戦争末期の一九四五年三月、戦争の緊迫した状況のため、国民学校初等科を除き学業一年間停止という決定をし、女学生も中学生も全員働けということになったことを教えられました。つまり私たちが工場にまだ行かなかったのは広島には工場が多くなくて、行くところがなく、学校で勉強をし、時々臨時動員に行っていたということだったのですね。愛知県などは一年生でも動員されていたようです。なるほどと思い、この記録集が出た後もこの会の方と長く「付き合い」が続き、折にふれ記事にいたしました。
 この方々はツテを通じ会員のいない地方の女学校の資料集めに努力したのですが、広島からの資料は少ないのです。誰かから情報は行ったらしく、第一県女の動員先のことも「表」の中には入っていますが、とにかく広島県は情報量が少ないのです。広島市の場合、臨時動員で疎開作業に動員された低学年生が大量に死んだのに、工場等で働かされていた上の学年の方が被害(死者)が少なかった。下の学年に対し、「済まない」という気持ちがあり、工場動員の記録が少ないのではないかと思います。
あるのは、大久野島(毒ガスつくり)で働かされていた忠海高女の記録だけ、ほかに東洋工業に行っていた海田高女の生徒(敗戦時三年生)の日記があります。
 長崎の場合、原爆が市の中心部でなく、浦上に落ちたことで、工場で亡くなったりけがをされた方が多く、原爆記録がそのまま工場動員記録になっているのと対照的です。
この会の活動を聞いて、地方の県で、工場動員記録(男女とも)をまとめたところもありますが、そんな記録も女学校の話が多いのですね、どうも男性と差があるようです。
 それは、多分、働くことなど特別なことと考えられていた女性が、男同様に働かされたことに対する複雑な思いでしょう。そして当時の軍国少女ですから、お国のために必死で働いた思いがあります。東北など工場の少ない地域の女学生は京浜の工場地帯などにに動員され寮生活をするのですが、女性へと体が変わりつつある時期にプライバシーもない生活。生理用品もなく辛かったという思いもあります。そのあたり、男子学生と少し違うのかもしれません。
 とにかくこれが出てから十五年近くたった二〇一二年ごろ、その後新しい事実が判ったり、新しい学校の文集が出たりいろいろあったので、改訂版を作る話になりました。しかし、最初の記録を釣った時に活躍した委員たちの多くは年老いて亡くなったり、身体が悪くなっている。お元気でも地方の委員(大阪や長野の方)が、東京まで来て編集作業をするのは無理ということもあり、私が改訂版の編集のお手伝いをすることになりました。
 こういうことをするときまず大変なのがお金で、会に残っているお金(記録の売り上げだけ)ではとても足りません。本当に困ったのですが、藤田晴子基金を頂くことになりました。藤田晴子さん、戦前、レオ・シロタ氏に師事、毎日ピアノコンクールで一位になるほどの一流ピアニストなのに、戦後東京大学が女性に門戸を開くと聞いて、入学試験に挑み、見事女性の第一期生になられた方です。法律を勉強し、国立国会図書館に勤め、ここでも最高の職まで上り詰めます(省庁の事務次官と同じ)。女性の先輩のロールモデルとして尊敬している方です。藤田さんは、退職金などを基金として、女性のための有意義な事業に使ってくださいと言われたのでした。私たちがお願いした時、この基金も、ベアテシロタさんを描いた映画を作るためのお金などのために大半使い果たした状況だったのですが、私たちが『百万円あればいい』というと、そのくらいでしたらと、基金を預かっておられる富田玲子さんは、初対面の私たちにその場でお金を出すことを承知してくださったのです。
 その頃、ほかの復刻版などの経験で百万円もあれば余裕と思っていたのですが、一九九〇年代の版は、もう使えず、表(動員の記録)だけは新たに分かった分を足さなければなりませんがこれがお値段が高くつき、本文の加筆は、本当に、少なく必要最低限に抑えるしかありませんでした。その中で私に関わり深い問題では、大久野島に行った動員少女たちが、戦後再動員され、広島郊外、廿日市で原爆の傷病者たちの看病をさせられているのです。驚きました。敗戦後誰がこんなことを考え命令したのか?県かしら?
 この作業を終え、二〇一三年の改訂版初版,二〇一四年に改訂版二刷りを出しました。これも反響多く、女性史を各地で学ぶ方々の大会があるのですが、そこでも私は発表をしました。しかし、広島の方の反響はあまりなかったのです。
 その後この資料をどうするか問題になりました。もちろん記録集はしかるべきところに寄贈しておりますが、第一次資料(会が出したアンケートとか、元女学生たちの絵、つけていたハチマキ。それにもちろん各女学校に記録、文集など捨てがたい資料があります)それは国立女性会館(埼玉県嵐山)のアーカイブで保存していただくほかないと交渉しましたが、、これに二年以上の月日がかかり保管していただくことになり、ようやく去年納入したところでした。
 そこへお手紙で、第一県女の記録のことを知りました。何でいまごろ。絶句しました。「少女の会」のことはいろいろ新聞で報道されましたが、皆実有朋同窓会の方は全くご存じなかったのですね。私たちのやったこと何だったのだろうと、愕然としたのです。
 でも、第一県女の記録が出たことはいいことだと気を取り直し,皆実有朋同窓会に電話をし、記録を取り寄せました。一口に言って、とても精密な力作と思いました。私が呼んだあと少女の会の事務局長に回しています。彼女が読み終わったら、国立女性教育会館に、「追加資料」として保管を頼むつもりです。
 第一県女の記録、大変詳しくいいもので(これがもう二〇年前に出ていたらもっとよかったのですが,)私が一番面白かった(これは知らなかった)と思ったのは、看護隊のことでした。
看護隊のことは冲縄のひめゆり部隊が有名です、あそこは島全部が戦場になったこと、もともと沖縄には工場が少ないので、女学生は看護をやらされるのですが、ひめゆりだけでなく他の女学校もやらされています。
 本土でもほかの地域の看護隊の話はあり,なんとなく私は、本土決戦に備えてのことかと思っていました。第一県女の看護隊のことは前から知っていました。原爆の日、学校にいて亡くなったのも知っています。でも私は看護隊は第一県女だけかと思っていましたし、沖縄の惨禍があり本土決戦に備えて、作られたのだと思っていました。でも、記録を見ると一九四四年九月(まだ日本の本土が本格的空襲が始まる前)に結成されたとあり、第一県女、市立高女、比治山高女の四年生から選抜されたとあります。相当成績の良いこの行く学校ばかりで、人数がある程度いる(第二県女は人数が少ない)学校です。成績がよく体力、気力の充実した少女を選べると思ったのではないでしょうか。市女や比治山に看護隊があったことなど初めて知りました。女。看護のこと考えさせられます。忠海高女の戦後の再動員と合わせて、考えさせられました。
介護はやはり女性専科ナノでしょう。そうそう、工場で作らされたものの中に男性にはないものがアロマした。風船爆弾です。これは本当にあちこちで作らされています、和紙を張り合わせるのに少女のしなやかな指が最適だったようです。いやですね、
 


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続・対話随想 №38 [核無き世界をめざして]

     続・対話随想38  中山士朗から関千枝子様へ

                   作家  中山士朗

 今回の往復書簡に添えられたお手紙を読みながら、関さんが指摘されたように、昭和五年、七年生まれの私たち(昭和一桁生まれの人も含めて)が生きてきた原点は、原爆被爆のみならず、戦争がもたらした時代を生きてきたことを改めて認識した次第です。
 昭和四年十月ニューヨーク株式市場の大暴落による世界恐慌に端を発する、国内の恐慌深刻化、昭和六年九月十八日の柳条湖事件によって満州事変が始まり、翌七年三月満州国建国宣言がなされました。
 私が小学校に上がった昭和十二年七月七日には、盧溝橋事件が発生し、日華事変となったのでした。そして昭和十六年十二月八日には、太平洋戦争がはじまりました。
 その太平洋戦争も、昭和二〇年八月六日に広島、九日には長崎に原爆が投下され、十五日には終戦の詔勅が下されたのです。
 そうした歴史の流れの中で、文部省「国体の本義」の配布、文化映画の強制上映、国民学校令の公布、学徒出陣命令、中学生の勤労動員大綱の決定、学徒動員実施要綱の決定、学徒勤労令・女子挺身隊勤労令の公布施行などと言った文字が年表の中にひしめいています。そして、戦後の悲惨な状況が続き、そうした環境の中で、私たちは学生時代を過ごさねばならなかったのです。
 関さんが手紙に、「とにかく私たちは日本のもっとも悪くなる時代に生まれ、もっとも悪い時代に中学(女学校)、新制高校という、本来なら多感で夢多く楽しい時代を、さまざまな思いを生きたのだと思って…・』と述懐されていましたが、改めて私自身の過去を振り返ってみましても、そのように思わざるを得ません。
ちょうどここまで返事をしたためたところに、不思議ですね。まるで打ち合わせでもしたかのように、関さんもご存知の佐々木美代子さんから。取材を受けた特集記事が掲載された中国新聞(三月十九日付け)が送られてきました。
 それは、皆実高校(広島市南区)の同窓会が、前身の県立広島第一高女(第一県女)の卒業生七六〇人を対象にアンケートを行い、戦時下の学徒動員に関する資料をまとめたものを紹介したものでした。資料集はB5版、291ページにまとめられています。第一県女では建物疎開に出た一年生二百二十三人が原爆で死亡しています。新聞の見出しは、
「お国のため」少女動員
 となっており、動員に至るまでの法令、措置要綱の公布などに合わせて、第一県女の動員状況が一覧表としてまとめられ、当時の写真とともに、掲載されていました。
 そして、終わりに動員学徒代表として佐々木さんの言葉が載っていました。
 関さんが手紙のなかで語られた思いと共通するものがありますので、全文を引用してみます。
 <普通に授業があったのは、一年生の時だけ、勤労奉仕が始まると、陸軍被服支廠で軍人の肌着のボタンを付ける作業をした。糸と木綿針を渡され。一日中働いたと思う。
 宇品の陸軍糧秣支廠へも行った。最初は一カ月に数回、徐々に増え、3年になると毎週のように勤労奉仕をした;。英語の授業はなくなり、なぎなたなど武道の時間が増えた。
 4年生の1年間は一度も授業を受けた記憶がない。校舎の2階が工場になり、南方の戦地へ行く兵隊のために蚊帳を作った。ヒルが落ちて来るのを防ぐ蚊帳。マスクをしていても、みんな鼻の周りに緑色の塗料が付いた。毎朝、起きたら鉢巻を巻いてモンペをはき、学校工場へ行く。朝7時半ごろから夕方まで黙々と働いた。「お国のため」と洗脳されていたからか、無理に働かされているとは感じず、苦しかったけれど楽しかった。
 「県女生の仕事はきちんとしている」と軍人に褒められたこともあり、「よその学校には負けられん」と必死だった。3年生の動員が始まった一九四四年一〇月には、代表で「壮行の辞」を読み上げたことがある。いよいよ下級生も動員されるのだな、と緊張した。
 振り返れば、憧れの県女に入ったのに学生らしい生活は全くできなかった。県女を卒業後は広島女子専門学校に入学したが、川内村(現安佐南区)へ移った工場にしばらく動員された。原爆で父を失い、戦後は生きるのに必死で勉強どころではなかった。あの時、もっと別の方向へ一生懸命だったら、と残念に思う。>
 新聞に添えられた手紙には、「私、何時の間にか九〇歳の声を聞くことになりました。不思議な感じがいたしております。」また、「だんだん忘れることが増えてきました。困ったものです。四月五日にABCC(放影研)に健康診断にまいります。」とありました。
 佐々木さんはそれと同時に、東京のメディアコネクションの取材を受けたということでした。終戦前の学徒動員の際、(女専時代でしょうか)、看護組という一クラスができましたがl、その取材のようでした。看護組は、空襲などの時に、看護婦さん、医師の不足を補うためにできたクラスだと佐々木さんは説明されていました。赤十字病院での実習や各科の看護などがアニメーション化され、完成するのは年末になるということでした。それまでは元気に過ごしたい、と佐々木さんは思っておられるようです。
 もっとも悪い時期に遭遇し、多感な学生時代を過ごしたと関さんが言われるように、佐々木さんの手紙からもそのことが実感できます。
 次に、<女たちの戦争と平和資料館>での澤地久枝さんの「満州引き上げ体験を語り継ぐ」という講演の内容を読み終えて、関さんの満州建国の理念への疑い、とりわけその理念に欺かれた開拓農民の悲劇、引揚げの苦難に並々ならぬ心寄せを感じました。
 澤地さんのお話の中に、敗戦の年の六月十日から七月十日まで、開拓村に行かされた話がありました。泥の家で、窓もなく、電気も水道もないところで、女学生たちは一カ月働き、吉林にもどってきたのでした。ソ連軍参戦前に吉林にもどることができたのは、不幸中の幸いでした。
この個所を読んだとき、私は友人田原和夫君が書いた『ソ満国境15歳の夏』(一九九八年八月十五日発行 築地書館)を思い出さずにはいられませんでした。
本書の扉を開くと、
<新京一中東寧派遣生徒隊が、敗戦に際し、国軍に見捨てられてどんな状況に陥ったのか。ソ連軍の捕虜になってどんな目に遭ったのか、そしてそもそもなぜそんな悲惨な事態が生ずるようなことになったのか、その渦中にいた一人として当時の一部始終を記録したものである。祖国の敗戦に殉じた新京一中東寧派遣生徒隊の級友はじめこれら少年少女のために、このささやかな記録を捧げる。>
と、書かれています。そして、著者は、
<      「はじめに」
 いつまでも五十年以上も前のことに拘っているのだろうか。自分でもそう思うときがある。けれども、それでもこだわっている。
『ソ満国境最前線の「東寧報国農場」に中学生を派遣する、派遣校として新京一中三年生百三十名をあてる』という決定は、どこでどういうふうに行われたのであろうか。
これは、私が心境に帰り着いて自分の生還を自覚した時以来、ずっと抱き続けてきた疑問である。そして、それは、いまだに解明されていない。
この問題に漠然と立ちふさがるのは、「官僚の無責任性」という巨大な壁である。
東洋平和。国体護持、忠君愛国、滅私奉公などというもっともらしい大義名分のもとに、陸軍軍人の官僚システムが、統帥権を振りかざして国家を統治した。その実、一皮むけば、自分に都合の悪い事実は発表をのばし、どんな失敗に対してもそれをもたらした決定の責任を回避して、自己の属するセクションの防衛と自分の保身、立身出世をはかるという習性がビルト・インされている。つまり問えば頭ほど「誰もが間違った決定はしていない、責任を問われる決定はしていない」という答えが返ってくるシステムである。>
と、現代にも通ずる、厳しい批判の目が注がれています。
<いまとなっては解明は難しいのかもしれないが、私は生還以来この疑問をあくまで追求していくつもりである。この記録を通して、統治者や指導者の情報公開、透明性、説明能力などがいかに大切な事であるかということを、述べてみたい(中略)
本書の読者と共にこれを再確認することで、生まれ故郷を喪失してしまったひとりの少年の夏のささやかな体験記が、この歴史の中の一こまとして、何ほどか読者に訴えることになれば幸いである。>
とも述べられています。
本書は、前線、無差別攻撃下の五日間、敗戦、捕虜、開拓団跡地、収容所生活、帰途、生還*1、救出隊など10章で構成され、終章は故郷喪失となっています。
 私が、田原君を知ったのは、広島の中島小学校(当時は中島国民学校)の5年生のときでした。
 <父のすすめで、新京白菊小学校の五年生のときにひとり家を離れ、父の故郷である広島に行った、親戚に預けられて、市内の中島小学校から県立一中(旧制)に進学した。>
 と記述されているように、クラスは異なっていましたが、昭和十八年四月から同じ中学校に通っていたのです。しかし、昭和一九年秋から学徒動員令によって、私たちの学校では、三年生が通年動員となり、クラスごとに分かれて軍需工場に通うようになったのです。田原君のクラスは、広島市の西の郊外・高須にあった広島航空という軍用機工場に派遣され、飛行機の部品組み立て作業をしていました。私は東の郊外。向洋(むかいなだ)の東洋工業(現・マツダ)に通い、航空機のエンジン部品の製作に従事していました。ですから、私が田原君と最後に会ったのは、三年生の壮行会のときでした。私たちは「ああ、紅の血は燃ゆる」を斉唱しながら、校門を後にしたのでした。
 しかし、田原君は翌年の五月二日に、広島一中から新京一中に転入学していたのでした。米軍が沖縄に上陸し、戦闘が本土に近づいてくるようになってきて、心配した父親から進学どころではないと呼び戻され、四月末、四年半ぶりに新京に帰って行ったのでした。田原君のお父さんは、当時、満州国政府の外交部の要職についておられました。
 そして、転校してひと月も経たないうちに動員令が下り、東寧に向けて出発することになったのです。
 そうした事情を知らなかった私は、戦後に開かれた広島一中同学年の同窓会が東京であった時、はじめてその事実を知ったのでした。
 田原君が広島を去って三ヵ月後に、原爆が投下されましたが、田原君と同じ工場で働いていた級友は、当日、爆心地から八〇〇メートル離れた市内の土橋町で建物疎開の屋外作業に従事していて、担任の先生はじめ全員が原爆の熱線を浴び、ほとんど即死の状態で死亡したのでした。
 関さんの満州に対する思いは、私にさまざまなことを思い出させました。亡くなった妻が、敗戦によって国家に見捨てられた時の悲惨な状況を語ったことが、今も強い記憶として残っています。

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続・対話随想 №37 [核無き世界をめざして]

   続対話随想37  関千枝子から中山士朗様へ

              エッセイスト  関 千枝子

 例年より早く桜の開花です。私の住む町は、東京の臨海地域、場末の団地の街。時折吹く風が寒いことがあり(海風?ビル風?)桜はまだまだと思っていましたら、昨日(三月十九日)もうかなり花が開いておりまして、ホウと思ったのですが、本日は朝から雨、ひどく寒くて、せっかくの桜も一時休みになりそう。それにしても、世の政治も悪いが、天気も不順、困ったものです。
 天下の方は、森友問題での財務省の文書改ざん問題で、安倍内閣の支持率急落です。国会前は連日、人で一杯です。全く安倍政治のこの頃ひどいことばかりで、ことに今回明らかになった公文書の改ざん問題など、民主主義政治の根幹を揺るがす大問題です。これを、佐川さんという一官僚の問題でお茶を濁すなどとんでもないことで、何とか内閣総辞職に追い込めないものかと思っています。そうなれば安倍氏のもくろむ憲法改悪の国会発議も遅れるのではないか、など思うのですが。
 ただ、私は、とても国会前に立てませんから、若い人(七〇台の人も私に言わせれば若い人)たちに頑張って!と思うだけです。しかし、あの六〇年安保闘争の時、国会前を埋め尽くした人々の安保反対の怒号に、「後楽園にはもっと大勢の人がいて野球を楽しんでいる」と言い放った岸信介。彼は最後まで民の声を無視し、頑張り続け、日米安保条約を守り抜きました。その孫も、「頑張り抜く」か。いやーな感じもします。
 しかし、「孫」の方のやり方、岸以上というか、とにかく汚いですね、そして人に罪を擦り付ける。籠池氏や官僚だけに罪を押し付け、自分や妻などは絶対に悪かったと言わない。もう、下劣というか品がないというか、本当に腹立たしいです。

 こんな中、三月十七日、wam(女たちの戦争と平和資料館)で、澤地久枝さんの「満州の引き上げ体験を語り継ぐ」という話がありました。澤地さんが一昨年、「14歳(フォーテイーン)満州開拓村からの帰還」(集英社新書)を出されたので、そのことに関連するお話です。澤地さんは戦中「軍国少女」で満州にいたことも恥ずかしくて体験を語れなかった。戦後進駐して来たソ連兵の将校に強姦されそうになったのを、お母さんの必死の抵抗で救われたと言っています。
 私も澤地さんの満洲での体験を聞いたことがなく、ぜひ聞きたいと思い、行ってみました。前に澤地さんが満州で敗戦を迎えたことは聞いたことがあると思っていましたが、開拓村ではなかったはず、など、素朴な疑問もありました。
 集会の場所は西早稲田の早稲田奉仕園の中。決して便利な場所ではありません。私はバスの遅延その他のことを考え余裕をもって出かけ、開会の一時間近く前に到着したのですが、もう何人かの方が受付を待っておられました。会場は補助席を入れると100人は入れるのですが。入りきれず別室で映像放送で見る方もあり、澤地さんの「人気」が分かりました。
 澤地さんは、ご存知の通り「九条の会」の呼びかけ人の一人で、大江さんが体調すぐれないのか、このごろほとんど外に出られないので、今、澤地さんが孤軍奮闘しておられる状況です。でも澤地さんは大変お元気で、ついこの数日前もある会でお会いしましたが、短いスピーチをなさったのですが、大きな声で雄弁に語られ、とても感動いたしました。澤地さんは私より一年上(つまり中山さんと同学年)ですが、このごろかえってお元気になっておられるのではないかと思いました。
 この日も。大変な「張り切りよう」で九〇分の講演のはずが百十分くらいになってしまい、だれも時間ですからと、止められないくらいの迫力でした。
 wamが主催ですから、当然、性暴力のこと、澤地さんがずっと話せなかった戦時性暴力、
(満洲開拓村の女性の中では、村の男性たちによってソ連軍に差し出された人もいる)のことを中心に話してもらいたかったのでしょうが、澤地さんのお話は、やはり今の状況のことをまず話され、それが中心のようになりました。
 実は、私は、満洲のことに非常に関心がありまして、それは私の学年が「満州事変落としの生まれ」だからです。満州事変が起こった時人々は熱狂して歓迎、支持したのです。もちろん生まれたばかりの私(私は正確には「満州国」が建国した一九三二年三月の生まれですが)に判る筈がないと言われたらその通りですが、私がだんだん大きくなって学校に行くようなると、学校が変わっても、どのクラスにも「満」の字の付く名前の子がいたのです。戦後、あるお父さんが言われました。「だって、あの時は”満洲”。これからは満州の時代だとみな思ったではありませんか。」
 実は私、中山さん、あなたのことも思ったのです。あなたの奥さまは、満洲銀行におられたということです(実はこれも、奥様が亡くなられてからずいぶんたってこの「往復書簡」のやりとりの中で知ったのですが)、奥様の深い感慨のようなものを感じたのです。あのころの日本全土を覆った「満州国」への期待。「王道楽土、五族協和」への共感。よその国に行って「理想の国」を作るなど、おかしいことだ、など誰も思わず、満州万歳、これからは満州だ、と思った、あなたの奥様も、満洲の理想にあこがれ満洲銀行に入られたのではないか。そして、あの敗戦で、『満州って何だったのか』と思いつつ、苦しい帰国。満州への疑問や、しこりを抱えつつ、過ごされた。あの戦争への深い拘り、多分それが中山さんとのご縁となったのではないか。これは私の勝手な想像で申し訳ありませんが、なんとなく、そんなことを思って、集会に参加したのです。
 澤地さんの場合は、お歳のせいもあって、少し事情は変わるようです。お父さんは貧しい大工だったようで、昭和の恐慌で食べて行けず、満州に渡ったようです。だから、満州建国の後、満洲の理想にあこがれて…・、と言った方々とは動機が違うように思えました。
満鉄社員と言っても下級の社員で、吉林にいたが、とにかく社宅を見ればどんなに身分が低いかすぎわかる。満鉄だっていろいろよ、と言っておられました。
 羽田澄子さんも満鉄社員の娘で大連にいらしたそうですが、どうも羽田さんの方が身分の高い社員だったようですね、羽田さんは長く開拓民の惨禍のことは知らず、そのことを知って、知らなかった自分を恥じて、満蒙開拓団の悲惨を映画にされるのですが。澤地さんの場合は、昭和一八年、吉林の国民学校を卒業、吉林高等女学校という日本人だけの女学校に入ったが、中国人の行く女学校はそのころでもスカートをはき、そのスカートに赤い線が入って奇麗だったのに、日本人の女学校の方はセーラー服はだめで国民服、中国人の方が豊かに見えたというのですが。
 とにかく、戦況が悪くなると校庭に大きな穴が掘られ、馬糞を拾いその穴に入れ、たい肥作り。学校の校庭も畑になり野菜を作るが、その野菜を食べた記憶はなく、教師が食べてしまったらしい、と。
 敗戦の年(一九四五=昭和二〇)は、すいきょくりゅうというところの開拓村に行かされた、そこで六月十日から七月十日までいた。澤地さんも開拓村の実物を見るのはそれが初めてだったようです。泥の家で、窓もなく、電気も水道もない。そんなところで女学生たちは一か月間働き、吉林に戻ってきた。そうしたら八月九日にソ連参戦。「日本の勝利を信じて疑わない」少女にとって信じられない日々。そしてソ連軍の将校二人が押し込んできて強姦されそうになったのを母の命がけの抵抗で助かったそうですが、それから日本にたどり着くまでの二年間の苦労。「この二年間に私の戦争はあった」と言っておられました。
 しかし、七月に開拓村から帰ってきた幸運でしたね。もしそのまま開拓村にソ連軍参戦までいたら…・。大変な事で、開拓農民の女、子どもの悲劇が、澤地さんの身に襲い掛かってきたかもしれない。日本にたどり着けなかったかもしれません。
 帰れなくなり、中国人に育てられた残留孤児たち。その中で当時一三歳以上の女の子は「自分の意志で帰らなかった」とされ、帰国が認められるまで大変だったのです。いわゆる残留婦人です。
 私の生まれたころ、満洲に酔い、多くの人々は「満州帝国」を歓迎したのです。十五年後あのような惨劇になるとは誰が思いましょう。本当に怖い。十分に賢いと思う人々が先が読めないのです。でもそれを嗤えるでしようか。

 これを書いてから十日。桜はあれからすぐ満開、今日あたりでサヨナラです。この間国会で。前国税庁長官佐川氏の喚問。刑事訴追されそうだからと五十回も証言を断り、安倍夫妻や官邸からの指示は全くなかったというあの答弁。誰が見ても嘘としか思えない。何とも情けない国です。


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続・対話随想 №36 [核無き世界をめざして]

  続対話随想 36 中山士朗から関千枝子様へ

                  作家  中山士朗

 前回の手紙で、朝日新聞の鷲田清一氏「折々のことば」から、田中角栄元総理が新人議員たちに語ったとされる言葉を引用しました。その折、新聞の切り抜きが見当たらず、記憶で「戦争体験者が政治の中枢にいる間は大丈夫だ。平和について語る必要はない」という趣旨の発言でしたと書きましたが、正確には
<戦争を知っている世代が政治の中心にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。 田中角栄>
と引用されていました。
 これについて鷲田氏は、
 「跨ぎ越してはならない線がどこかを教えるのは、体験の重しである」
と解説しています。まさに、現政権は重しが取れ、戦争へと向かうはかない状況を作り出しているように思えてなりません。
 この「体験の重し」という言葉を反芻しておりましたら、戦争体験者、被爆世代の死が相次いで報じられる、昨今の思いと重なり合うのを覚えました。
 そして、関さんのこのたびの手紙に書いておられました著書「広島第二県女二年西組」が、一九八五年二月に筑摩書房より刊行されて以来、版を重ね、文庫版になってからも十版を重ね、現在も日本各地で朗読劇、朗読が続いていることを知り、まさに体験の重しではないかと思いました。本当に良い著作を残されたと思います。
 折しも、俳人・金子兜太さんの逝去(二月二十日)の報に接しました。新聞の記事によると。病名は急性呼吸迫症候群、享年九十八歳。読みながら「続対話随想」28に、昨年十月三十日の朝日俳壇。金子兜太選の句を載せたことを思い出しました。
    腰据えてがんとの闘い大根蒔く  奈良県広陵町  松井矢菅
 その後、昨年十一月二十日の選に、
    晩秋やあっさりと癌告知さる   向井市  松重幹雄
 の句があり、私の胸中に深く残りました。

 これらの句が、当時、大腸癌を告知されたばかりの私に影響したものと思われましたが、それとは別に、金子兜太さん自身の心に反映した句として選ばれたものではないかと思って、切り抜いておいたのです。
 金子兜太さんの死後まもなくして、二月二十五日のNHKの「ETV特集」で金子兜太さんをめぐるドキュメンタリー番組が再放送されました。
 癌の手術を受けて入院中の金子兜太さんの姿が写し出されているのを見て先に引用した選句は、まさしく金子兜太さん自身の心象を反映したものだと思いました。担当医は、「悪いところは、取ってください、とあっさりした方でした」と語っていました。その言葉を聞きながら、手術を断り、経過観察で日々を過ごしている自分の姿をあらためてみつめ直した次第です。昨年、ペースメーカーの四回目の電池交換手術を行いましたが、その直後に感染症に罹り、肺炎を起こした経験から、どうしても手術を受ける気にはなれなかったのです。
 すっかり話が横道に逸れてしまいましたが、私は以前から、私たちの「続・対話随想」に金子兜太さんの句に見られる、生き方の原点について書いてみたいと常々考えておりました。
 金子兜太さんは、晩年まで戦争反対の声を上げ続けた俳人でした。この原点には、海軍主計中尉として赴任した南太平洋・トラック島での戦争体験がありました。
     水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る
 この句は十五ヵ月間の捕虜生活を終え、日本へ帰る戦場で作られたものでした。
 戦争がない世の中を作り死者へ報いるという決意は、晩年になっても変わることはありませんでした、その表れが安全保証関連法案への反対が広がった二〇一五年には、「アベ政治は許さない」と揮毫したプラカードが、全国の会場で揺れたと言います。
 また、俳句の世界では、「社会性俳句」に取り組み、前衛俳句運動の中心となって戦後の俳句運動の旗振り役をつとめました。そして季語の重要性は認めながらも。季語のない無季の句を積極的に詠んだのです。
 季語のない句、この言葉から私たちが現在も続けております「ヒロシマ往復書簡」の続き、「続対話随想」も、季節、空間、時間の定めなく書いていることに気づきました。これは、かつて中国新聞社にいた故・大牟田 稔さんが提唱していた言葉でした。関さんも私も、原爆被害が原点となって生き、書いているのですが、ひっきょう死者に報いるためのものです。とりわけ関さんは、核兵器廃絶を目指して活動を続けておられるのです。金子兜太さんが晩年まで、戦争反対の声を上げ続けたように。
 手紙の冒頭で、田中角栄元総理の言葉に触れましたが、資料を当たっておりましたら、大分合同新聞の追悼文の中に、つぎのような文章がありました。
 <近年、ナショナリズムが台頭する風潮が強まると、戦争反対の声を上げる機会が増えた。晩年のインタビューでは、戦争体験者がほとんどない国会で、「戦時」を議論する「危なっかしさ」を指摘した。「議論を見ていても、戦争への恐怖心を感じない。あの残酷な状態を体験したらね、戦争につながる事態を作り出すことに、もっと警戒するはずなんです」と。>
 このたび関さんへの返書、最後に原爆を詠んだ金子兜太さんの句ならびに選句で結ばせていただきます。

 二〇一七年八月、原爆の図丸木美術館を初めて訪れた際に、同館学芸員の岡村幸宜さんの説明を受けながら、第一部「幽霊」をじっと見つめるうち、口ずさんだ句。
    湾曲し火傷し爆心地のマラソン
 第二部「火」、第三部「水」を見ての思いを託した句。
     被爆直後夫妻の画像大きく太し     兜太
 <選句>から
     冷まじや聾者の被爆語る手話    埼玉県宮代町 酒井忠正

     母のもとに還る流灯爆心地     山口市 浜村匡子

     核なくせ灼けて丸山定夫の碑    相模原市 芝岡友衛

     平和こそ山川草木みな笑ふ     川崎市 神村謙二

     陽炎や全ての戦争許すまじ     飯塚市 釋 蜩硯

     忘れめや生きてる限り原爆忌    成田市 神部一成

     人類史角番にあり夏に入る     東京都 望月清彦

  <金子兜太さん代表句>から  

     水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る 

     原爆許すまじ蟹(かに)かつかつと瓦礫(瓦礫)歩む

     湾曲し火傷(やけど)し爆心地のマラソン

     被曝(ひばく)の人や牛や夏野をただ歩く

 この手紙を書き終えた日の大分合同新聞の「声」の欄に、大分市の田口次郎さん(84歳)という方の文章がありました。
 「水脈の果て」の句に、硫黄島で戦死した兄の記憶と重なったことが書かれた後に、
<十数年前、東京で平和憲法を守ろうと「俳人 九条の会」が結成された。呼び掛け人の中に金子さんの名前があり、敬意を深めた。大分県でも金子さんらの呼びかけで「俳人九条の会・大分」が結成された。金子さんらの反戦の意志に応える取り組みをしたいと思う。>
という追悼の文章がありました。




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