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続・対話随想 №44 [核無き世界をめざして]

 続対話随想44  中山士朗から関千枝子様へ

                           作家  中山士朗

 このたびのお手紙を読みながら、私の身辺でも老人ホームに入った友人のこと、難聴の症状が出て意思疎通ができなくなった友人のこと、認知症になった知人のことをあらためて思い出しました。
 ごく最近も、旭川原爆被爆者をしのぶ市民の集い実行委員会の一人である石井ひろみさんから、広島一中の一年生の時同じクラスにいた友人(旭川在)が施設に入ったとの知らせをいただいたばかりです。この知らせは、「第32回旭川原爆被爆者を偲ぶ市民の会」開催通知に添えられた便せんに書かれたものでした。
 案内状には、次のように式次第が書かれていました。

 開催日   2018(平成30)年7月30日
 会場    旭川市民文化会館小ホール
 参加    無料
 日程    午後4時ロビーにて被爆資料展示
       午後6時     開場
       午後6時30分  開会
       道北の被爆者朗読
       道北の原爆死没者紹介
       「ナガサキ・語られなかった思いを紡いで」
       合唱・黙想
       午後8時30分   閉会予定
 後援   旭川市・旭川市教育委員会・北海道新聞社旭川支社
       北のまち新聞社(あさひかわ新聞)

 案内状には、昨年の三一回しのぶ会に参加したのは一四〇余名と記されていました。
 今年の7月四日付の大分合同新聞に発表された二〇一七年末の生存被爆者数は、最小一五万四千八百六十九人で、広島七万二百二十人、長崎四万四百四十九人、福岡五千八百九十二人、大分五百四十七人で、平均年齢は八二,〇六歳となっていました。この数字から判断して、北海道全体ではかなりの被爆者がいたのではないかと推察されるのです。
 こうし記事の中に、共同代表の一人であった伊藤豪彦さんの死が報じられていました。
 伊藤さんは原爆が投下された時に、兵士として救援活動に当たり被爆されたということ出した。その時に目にしたむごたらしい様子に触れ、「二度とあのようなことが繰り返されてはいけないのです」と強い口調で訴えられておられたそうです。
 私はこの個所を読みながら、被爆直後に比治山の山頂でうずくまっていた私を背負い、東側斜面の中腹にあった臨時救護所に連れて行ってくれた兵士の顔や姿を思い出さずにはいられませんでした。家族と連絡が取れるまでの六日間、その兵士は何くれとなく私の介護に当たってくれました。井戸端に私を背負って連れて行き、冷たい水で私の体を拭ってくれました、ちょうどその時、娘さんを探しに来た近所の人の姿を認めたので、兵士に頼んでその人を呼び止めてもらい、家への連絡を依頼したのです。その日の夜遅く、父が訪ねて来て、翌日の昼に,母が雇った荷馬車に乗って私を迎えに来ましたが、その時も私を背負って山の麓で待つ荷馬車まで送ってくれたのでした、私と母は、兵士の姿が見えなくなるまで、頭を下げていました。
 私のいつもの悪い癖ですが、話がすっかり横道にそれてしまいました。
 村井志摩子さんの死は新聞で知りましたが、同年代の被爆者の死去がこのところ続いておりましたので、私自身の余命に思いをはせていたところです。特に言語による表現活動を続けた人の死は、とりわけ身近に感じられ、心がえぐられる思いがするものです。
 関さんと村井志摩子さんの深い交友関係を初めて知りましたが、同時に亡くなられる数カ月前の関さんとの電話での会話の内容には、慄然とするものがありました。関さんの胸中を考えますと、どんなに辛かったことかと思わざるを得ません。
 そして、資料の保存、記憶の継承について、改めて考えておかなければならない事だと思いました。実は私も最近になって、自分の書き残した作品の全てを保管してくれる場所を探しているところです。子どもがいない私には、死後は他の書籍同様に廃棄物として処理されるだけです。現在、二、三の人に相談しておりますが、広島一中の同窓会館がいいのではないかという話も出ておりますが。いずれにしても、生涯かけて被爆体験を書き続けてきた私にとっては、生きてきた証しでもあり、亡くなった人たちの記憶を消さないためにも,何とかして後世に委ねたいのです。
 近ごろ、私は広島を旅だった日のことをしばしば思い出すようになりました。
 関さんの手紙の中にも、昭和二十年三月に村井志摩子さんの東京女子大、姉上様の広島女専入学のことが書かれていましたが、その個所を読みながら、私自身の廃墟からの旅立ちの日を思わずにはいられませんでした。駅頭に見送りに来てくれた、母の涙を思い出すたびに、年老いた現在でも涙が滲んでくるのです。
 私が早稲田大学の文学部に遊学して、文学を学びたいと言った時、父も母も反対しませんでした。二人が読書家であったせいかもしれませんが、私が将来もの書きになりたいと言った時にもあえて反対はしませんでした。ただ、「苦労が多いぞ」、と父が言っただけでした。
 被曝して顔にケロイドを大きく残した私が、社会人になった時に普通に歩める状況にないことを父も母も察知していて、私が文学の道を選んだことにあえて反対しなかったのだと思います。駅頭での母の涙は、私を不安に思う涙でした。汽車が動き始めた時、原爆症で紫色がかった母の唇が震えたのを今でも鮮明に記憶しています。この廃墟から廃墟への出発が、現在も私が書き続けられる原動力になっているのではないでしょうか。
   

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続・対話随想 №43 [核無き世界をめざして]

 続・対話随想43 関千枝子から中山士朗様

                      エッセイスト  関 千枝子

 お手紙拝見して、私は軍のことに興味がなくて、第二総軍などと言ってもぴんと来なかったのですが、一九四五年二月にできたということは、あの時期になって「本土決戦」を思いついたということですね。松代大本営もあの頃でしょう。近衛文麿さんが、昭和天皇に「終戦」のことを提言し、天皇が「もうひと踏ん張り戦果を挙げてからでないと」と言ったというのは確かあの一月ころだと思います。そのころから本土決戦を真剣に考えだしたのか。いやな感じになりますね。硫黄島や沖縄など、まさに捨て石、だったのではないかと思うのです。
 さて私のこれから書きたいことは(41)の続きです。
 このところ、昔の友たちで亡くなる方や弱る方が多く、ショックです。一人で生活することが苦しくなって老人ホームに入りましたというお知らせが多くて。老人ホームもいいと思うのですが、「認知症」というのは嫌ですね、認知症もいろいろで、すっかりわからなくなっているという方もありますが、方向感覚が無くなったり、今言ったことが判らなくなったり、いろいろのようです。ですから、多少「ボケて」来ても、日常の生活は何とかなるようでしたら、それなりに楽しく暮らせるのかもしれませんが。全く分からなくなって、「私は誰?」になったらどうなるのでしょうか。
 昔、頭を使わないからボケると言われましたが、あれも嘘ですね、さまざまの運動、活動をしていた方(それもトップクラスの中現役)が認知症になったケースを私は三人以上知っています。尊敬する先生たちだったので、私はショックでした。
 先日も同窓会で、認知症の話が出、「わからなくなったら本人は楽で一番いいですよ」というのです(この人、医者です)。「そうですか?」と私は懐疑的で「でも何もわからなくなったら、楽しいかしら?」と言ってしまったのですが。頭は大丈夫ですが足腰が悪くなり動けない人がいます。いわゆる寝たきりですが、でも、寝床でパソコン打てますし、頭のはっきりしている方がいいじゃないかと思うのですが。
 私自身のことですが、体は確かに老化していると思いますが、耳も目も悪くありません。認知症の方もまだ大丈夫なようです。これはとてもありがたいことです。「残された時間を大切にできるだけのことをしたい」と思っています。もしこれで、あと一〇年生きてしまって、わけがわからなくなって、なんであの人生きているの?と言われたら…・、それはその時で対策を考えるしかないですね。
 実は認知症のことここまでこだわるのは、この間、村井志摩子さんの死が伝えられたからです。ご存知ですね、チェコで演劇を学び、「広島の女上演委員会」を作り、ドラマ「広島の女」を上演、文化庁芸術祭賞や谷本清賞も受けています。また、原爆ドームを作ったヤン・レツルがチェコの人であることから、彼のことを調べました。レツルのこと、彼女の調査で分かったことが多い、これも大変な業績です。
 私は「全国婦人新聞(女性ニューズ)」で「広島の女」をずっと取材してきました。このドラマに書ける彼女の思い、よくわかりましたし、彼女の「経歴」にも非常に興味を持ちました。村井さんは、生粋の広島の人で、第一県女の卒業です。私の姉と同学年になります。つまり一九四五年(昭和20)年三月、女学校を四年生で卒業させられてしまったクラスです。村井さんは東京女子大を受験、受かったのですが、なかなか入学のため来いという知らせが来ず、そのまま動員先(広島)で働いていました。これはどこの女子の高等教育(女子専門学校)も同じで、私の姉なども通知が来ないまま専売局で働いていました。
 村井さんが東京女子大を志望したのも驚きでした。あの下町大空襲の直後です。東京は一番危ないところ、そこに娘をわざわざ送り出す親はよほどの方と思います。私の父は、かなり開けた方でしたが、東京の学校に進学したいという姉の希望を絶対に許しませんでした。村井さんの親御さんはよほど覚悟ができた方だったのか。村井さんの希望がそれだけ強かったのか。結果的に西荻窪の東京女子大は焼けず、素晴らしい寄宿舎も無事だったのですが。
 七月下旬になって入学式のため学校に来るよう通知がありました(これも全国同じのようです)。村井さんは勇躍上京。私の姉も広島女専に行きましたが、勤労動員で水島(倉敷)に行く。それまで一週間ほどオリエンテーション(そのころはそんな英語は使えなかったでしょうが)ということで、八月六日もそんな校長の訓話を講堂で聞いている最中、ピカと来たわけです。村井さんが東京女子大で何をしていたかわかりませんが、広島に新型爆弾の報にどんなに驚かれたか。
 村井さんはドラマの道に進み、チェコに行き、ということになるのですが、「ヒロシマ」への思いはあの「3部作」になります。私はずっと取材を続け、あまり大マスコミが取り上げない中、最後のころは一人で取材していたような感じがあります。彼女が被爆者でない(あの日広島にいなかった)のに、「広島の女」を書いたことで、心ないかげくちもあったようです。広島の人は「よそ者」に冷たく、広島の人であっても広島から出て活躍している人に冷淡なところがありますから(中山さんも感じたことありませんか)。村井さんは非常に怒っておられました。
 「広島の女」シリーズが終わった後、お連れああいの葛井欣士郎さんと何かあったようで住まいが変わりました。葛井さんは演劇プロヂューサーというより、アングラ演劇の帝王のような存在で仲の良いお二人だったのですが。その後も村井さんとは何度かお会いしましたが、そのあたりのいきさつ、詳しいことは知りません。
 ただ、@広島の女:などの様々な資料の保存には苦労しておられて、私が「ノーモアヒバクシャ記憶遺産を継承する会」ができたことをお話しし、資料を大事にしてと言ったのですが、この会も、「センター」を設立する動きになかなかならず、そんなうちに葛井さんもなくなるし、村井さんからも年賀状も来なくなり何年か経ちました。
 去年、前にお話ししたパリ在住の松島和子さんを通じて、パリに住む人から(どこのくにのひとか知りません。。。日本人ではないことは確か)、村井に連絡を取りたいのだが村井は元気かという問い合わせがありました。そこで村井さんの所に電話してみたのですが、電話は鳴るばかりで誰も出てきません。しかし、電話が鳴っていることは、この電話が生きているしるしと思い、あきらめずかけ続けたところ、受話器がとられたのです!しかしその声は「葛井でございます」というのです。驚きました。声は、志摩ちゃんに違いありません。でも彼女がお連れ合いの名を名乗るなんて。「村井さん?」と聞くと「村井は私の旧姓で御座います」というのです!
 その瞬間、彼女が認知症になっていることはわかったのですが、未練がましく「私、関千枝子です。覚えていますか?」と聞いたら、明るい声で「覚えていませんわ」と言われてしまいました。
 暮らしは「ヘルパーさんに助けてもらって何とかやっています」というのでそのまま電話を切り、パリの方にありのまま知らせ、電話には本人が出てこられますが、話が通じるかどうかは疑問といっておきました。その後、どうされたかわかりません・。
 それから数カ月、新聞で村井志摩子さんの死去を知りました。ああと思いましたがどうすることもできず、なんとしたものかと思っていましたら、先日ある女優さんから電話があり女優さんたちで部屋を片付けている、ビデオなどがあるので、私がもらったが、大きなパネルがあり、捨てるには忍びないし困っているというのです。遺産を継承する会にも連絡しましたがまだセンタ-建設の募金も始まっていないし、資料保管のために借りている部屋も満杯だし、ということでその女優さんの家でしばらくパネルを預かっておくということにことになったのですが。
 女優さんに「ヤン・レツルの資料などはなかったか」と聞いたのですが、それらしきものは見当たらなかったということ。これでヤン・レツルの資料は永久になくなってしまうのでしょうね。
 資料保存の難しさをつくづく感じます。
 記憶の継承のことと、認知症のこと、村井さんのことがショックで、つい、暗い話を書いてしまいました。

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続・対話随想 №41 [核無き世界をめざして]

        続・対話随想41  関千枝子から中山士朗様

              エッセイスト  関 千枝子

 中山さんのお手紙で、茶本裕里裕さんが、八月七日から第二総軍特別情報班に動員される予定で、一日ちがいで原爆で死ぬことを免れたという話があり、感慨に堪えませんでした。原爆で、「一日ちがい」で助かったという例は多いのです。私なども、あの日だけ病欠、前の日でしたら確実に死んでいますので。
しかし、第二総軍特別情報班ということに、考えせられました。私たちの広島第二県女の一年生と二年生の半分(東組)は突如として東練兵場の作業に動員されたため、死をまぬがれたのですが、この作業命令は二中にも下され、二中は、一年生は建物疎開作業に残り全滅。一年生は東練兵場に行き、命が助かりました。二中の人たちも、前日の八月五日の午後、急に命令が来たそうです。あの広島市全市をあげての建物疎開作業から急に人を引き抜くのです。何か相当の理由があったはずですが、二中の生徒のしていたことは芋畑(そのころ東練兵場は芋畑と化していました)での雑草抜き、二県女は生徒たちは集合しているのに、何をすればいいか、指導する兵隊が来ず、教師たちは一年生にとりあえず畑の雑草抜きを命じ、二年生には待機を命じ、兵隊を迎えに行った。その時ピカと来て一年生は火傷をし、二年生は大きな木の陰にいたので火傷もせず助かったのです。これも大変な「運」の分かれ道でした。
 しかしなぜあのとき急に東練兵場行きが命じられたか、芋畑の雑草抜きなど大した作業ではありませんし、新たな農作業をする季節でもありません。不思議なことですが、私たちはこの問題の不思議さを考えることもありませんでした。
 「おかしいではないか」と言い出したのは、戦後六〇年以上たって、「自分史」を書きだした今田耕二さんです。なぜあれだけ建物疎開作業が急がれていたあの時期に、しかも二中と二県女が東練兵場に行かされたのはおかしい。建物疎開作業は中国軍管区の命令だが、東練兵場は第二総軍の管轄である。第二総軍の新しい作戦、しかもそれは暗号とかかなり知的な作業ではないか。一中の二年生はすでに通年勤労動員に行っていたので、次に知能が高いとみられる二中に白羽の矢がたったのではないかというのです。私は彼に言われたころ、中国軍管区も第二総軍も全く知らなかったので、(女ですね。そんな軍の機構のことなど興味もありませんでした)、ただビックリしました。そういえばあの時期に芋畑の雑草抜きなんておかしいと。そのうち今田さんから新しい情報が入ったという知らせがあったのですが、それが何なのか具体的なことは知らされないうち、今田さんが急に亡くなってしまったのです。
 気にかかったまま日が過ぎて行ったのですが、近年になって、東練兵場では朝鮮の人たちが東照宮の傍のがけの洞窟を掘る仕事を進めていたという話を聞きました。トンネル工場かしらと思ったのですが、第二総軍の関係で、洞穴を掘っていた、と考えてもおかしくないですね。
 暗号と言うことで、ふと思ったのは茶本さんが、第二総軍の特別情報班ということを聞いたからですが、この間からお話ししている戸田照枝さんのこともあるのです。
 戸田さんは、国泰寺高校三年生のときからの友人です。戸田さんは市女から来た人ですが、隣のクラスだったので早くから仲良しでした。市女は、県庁前の建物疎開作業で一、二年生全員が.亡くなり、広島の学校の中でも最大の被害を受けているのですが、市女から国泰寺に来た人の数はかなり多かったのです。まあ、何かで助かったのだろうくらいに考え、国泰寺のときは、あなたはどうして原爆で命が助かったの、など聞いたこともありませんでした。
 国泰寺高校卒業後、戸田さんは舟入高校の事務職員になったのですが、卒業後の夏のころ私たちはよく遊んだものです。包が浦にキャンプに行ったり、まだ海がきれいだった元宇品に行ったりよく遊んだのです。しかし陽気で明るく、「人柄がいい」と誰にも好かれる戸田さん(当時は旧姓の日浦さんでしたが)と、原爆のことなど話し合ったこともなかったのです。
 その後、こちらも大学も高学年、就職など忙しくなり、すっかりご無沙汰になっていましたが、照枝さんがクリスチャンになり、教会で素敵な男性に遭い、大恋愛で結婚したことは風の便りで知っていましたが、会うことも少なかったのです。
 再会は一九九〇年代で、私が「第二県女二年西組」を出した後、広島YWCAの何かの催しに参加、彼女がYWの朗読のグループで、原爆の詩の朗読な度に大活躍されていることを知り彼女もやっているな、と思い、「再会」を喜び合ったのですが、その時も私は彼女の被爆体験を聞くこともありませんでした。私たちの年代、中山さんもご存知の通り、被爆体験は皆、いろいろありますからね。
 彼女が被爆時、市女の生徒でなく、第三国民学校の生徒であり駅付近で被爆したことを知ったのは、二〇〇〇年に入ってからです。彼女が中国新聞に取材された記事を見せてもらったのが知る機会でした。第三国民学校だったら私たちと同じ雑魚場で建物疎開で被爆したはずです。それをいぶかしく思うこともなく、戦後たくさんの人を失った市女が、いろいろなところから生徒集めしたことも知っていましたので、彼女もそんなことで市女に行ったのだと思いました。彼女の家がお兄さんたちを何人も戦争で死なせていることも知っていましたので、大変な家庭の事情の中、娘を市女に編入させ、高校まで進学させた彼女のお母さんに、偉い人だったのね、と感心したのは覚えています。でもなぜ「駅近く」なのか、考えてみようとはしませんでした。
 その事情、そして彼女がそれに対し悩み、苦しんでいたことを知ったのは、もう彼女が死ぬ一年前、彼女がすい臓がんの再発で緩和ケアの病室にいるときでした。
  一九四五年の七月、各国民学校に成績優秀な女生徒を一人ずつ選抜するよう命令が来、第三国民学校からは彼女が選ばれたのだそうです。なぜ女子生徒かと言えば、高等科の男子の二年生はすでに勤労動員に動員されていたからでしょう。国鉄の仕事ということで行ったのは駅の近くの建物で、暗号関係の仕事だったそうです。で、まずいろいろ練習があったそうです。学校と違い一つの教室にいるわけでもないので、全員の顔も知らず、名前もわからず。ただ、その場で一緒だった「大谷さん」という人が、大変立派なリーダー格の人で、その人のことはよく覚えているそうです。
 そしてあの日、ピカ。あっという間に建物は倒壊し、彼女は夢中ではい出したのですが大勢の人は建物の下に埋まったまま、救い出そうにもどうにもならない、どこに埋まっているかもわからない。まごまごしているうちに火はせまってくる、早く逃げろと追い立てられ、彼女は北に逃げます。宇品は、と聞いても広島市内は全滅じゃと言われ、ひたすら北の方に逃げるのですが、やがてどうにも家のことが心配になり、広島に引き返し、大回りして家にたどり着きます。すでに夜、薄暗くなっていたそうです。彼女の家は宇品でも一番北、御幸橋のすぐそばで、被害はひどく、「壁も飛んで柱だけ残っているようなありさまじゃった」そうですが、家の外でお母さんが心配して、立っていて、帰ってきた照枝さんを見てよかったと泣いて喜んだそうです。
 照枝さんは、戦後、駅の傍の「職場」が心配になるが、もう何が何やらさっぱりわからない。ただ一人名前を憶えている「大谷さん」のことを調べようにも、フルネームも住所もどこの国民学校高等科から来たかもしらない。調べようがない。でも彼女は死んだに違いない、自分は友を見捨てて逃げ、命が助かったのだと思うと苦しくて苦しくて悩み続けたそうです。
  そしてあまり苦しくて、ある日、ふと通りかかった教会に入ってみた。そしてそこで牧師さんに話を聞いてもらい、癒された。クリスチャンになり、夫と知り合い…・、ということなのです。彼女の信仰の深さは、教会の中でも有名で、娘さんの一人は牧師さんに嫁いでいます。私はそんな話を被爆後七〇年にして初めて聞いたのでした。
  それにしても、彼女の「仕事」が暗号だったこと、気になりますね。それから、どんな原爆の記録を見ても、こんな国民学校高等科の一校一名ずつの動員のことなど書いてもありません。どうも茶本さんの第二総軍特別情報班のことと言い、二中、二県女の不意の不思議な動員のこととい、気になります。
  
 照枝さんは自分の被爆体験を昨年の八月六日、ちょうど日曜日でしたので、教会の朝の拝礼のあと、特別行事として話をされました。私は大勢の友を誘ってゆき、朝日新聞の例の宮崎さんが取材され、記事にされました。
 この日、戸田さんは、末期の再発癌の人とは思えない元気な様子で声も大きかったのですが、九月に入ってから体調が衰え、一〇月に亡くなりました。
  
 ごめんなさい。この後にまだ書きたいことがあるのです。
 それは、認知症のことで、近頃少し衝撃を受けることがありまして。でもこの手紙、もう三五〇〇字です。少し長すぎますね、認知症の話は次回にします。


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続・対話随想 №40 [核無き世界をめざして]

   続・対話随想40  中山士朗から関千枝子様へ

                  作家  中山士朗

 前回の手紙で、佐々木美代子さんから頂いた中国新聞の記事、広島第一県女(旧制)の学徒動員の記録集の紹介に触れましたが、関さんがそのことに非常に驚かれたことを知りました。手紙を熟読して、その理由がよくわかりました。
 戦時下の女子学生の、勤労動員の実態、記録について「戦時下勤労動員少女の会」が結成され、一九九六年に手作りの作業で「記録――少女たちの勤労動員」を完成させました。この経路が詳細に記述されていました。この記録集は、反響が大きく、二刷も出し、後にジャーナリスト平和協同基金の賞を得たのでした。
 こうした中で広島からの資料は少なく、広島第一県女の動員先のことも「表」の中に入っていましたが、情報量が不足していたようで完全ではありませんでした。この記録集は二〇一三年に改定初版、二〇一四年に改訂版二刷が刊行され、昨年、国立女性教育会館のアーカイブで保存されることが決まったとのことでした。 
 そのような折に、長年その作業に携わって来られた関さんは、第一県女の記録のことを知り、なんで今頃と絶句されたのは無理からぬ話だと思いました。
 折り返し、関さんは皆実有朋同窓会に電話して記録を取り寄せ、その読後の感想をつぎのように述べておられます。
 <一口に言って、とても精密な力作と思いました。/この記録、大変詳しいもので、二十年前に出ていたらもっとよかったのですが。>
 そして、「戦時下勤労動員少女の会」の事務局長に回し、国立女性教育会館に追加資料として保管を依頼するとのことでした。第一県女の看護隊についてすでにご存知だったことは、驚きでした。
 この第一県女の記録集が出たことは、昨年十二月に、茶本裕里さんから知らされていました。茶本(旧姓・三重野)さんは、関さんから紹介され、広島一中一年生であった弟の杜夫君の被爆死を書いたことがあります。そして、私たちの『ヒロシマ往復書簡』でも書かせて頂きましたご縁のある方です。昨年、日本エッセイストクラブ「会報」冬号に、戦争の中の「生と死」というテーマで、三人の女性の方に登場していただきましたが、その中の一人が茶本さんでした。掲載誌を送った返事のなかに、第一県女の勤労動員の記録集が出版されたことが記されていました。
 <日本エッセイストクラブの会報有難うございました。”ヒロシマ往復書簡”も終了したとか、素晴らしい本でしたね。杜夫のことも取り上げていただき、姉と弟にはさまれヒガミ根性のヤンチャ娘だった私もようやく親孝行ができたのではないかと、ありがたく思っております。三冊、目の前の本棚に並べ、時々読んでいます。私は若いころの十一年ちかくヒロシマで暮らしていました。が、知らないことが結構多く、あのご本からの死得ていただくことが、けっこうあります。今年は、卒業した第一県女の同窓会が皆実高校卒の方がたとごいっしょに、とても立派な勤労動員の記録集を出されました。立派な本です。私も少しアンケートにお答えしています。私の先輩諸姉が、広(呉市)の海軍工廠に行っていたのを知ってビックリ。父が広島に転勤になる前に居たところです。今週は友人に誘われて、四国五郎さんの作品展に行くつもりにしています。>
 茶本さんの家族は、当時、鎌倉にお住まいでしたが、お父上が広の海軍工廠から広島市内にあった軍需省中国管理部長に就任された際、昭和二十年の四月に広島に移住されたのでした。
 当時、横浜第一高女四年生だった茶本さんは、広島第一県女に転校し、湘南中学に入学したばかりの杜夫君は、広島一中に転校したのでした。
 横浜第一高女四年生だった茶本さんは、広島第一県女に転校してからも、最初は私たち広島一中三年生の三学級が動員されていた東洋工業、次いで広島航空へと動員先が変わりました。この広島航空には、広島一中三年生の一学級が動員されていましたが、原爆が投下された八月六日は,爆心地から八〇〇メートル離れた場所で建物疎開作業に従事していて被爆し、全員が即死状態の死をとげました。
 広島航空に移って間もない茶本さんでしたが、八月七日から第二総軍に動員の指示が伝えられ、八月六日は休暇が与えられ、郊外の家にいたのでした。
 第二総軍の特別情報班は、泉邸(浅野侯爵邸、現在の縮景園)に在りましたが、そこは爆心地から一・ニキロの近距離に位置していました。
 「八月六日から第二総軍に出ていましたら、助かってはいなかったでしょうね」
 茶本さんの印象的な言葉が、記憶の底でよみがえってきます。
 今回の関さんの書簡の添え書きに「少し、ヒロシマ・ヒバクシャから離れたかもしれませんが」と書いてありましたが、あの日、建物疎開作業に従事していて犠牲になった中学校、女学校の低学年生は、六千人にも及んでいます。広島第一県女の学徒動員の記録集への関さんの思いは、被爆した広島の少女たちの記録が、「戦時下勤労動員少女の会」の趣旨につながっていくのではないでしょうか。
 こうした経過に至ったのは、関さんの「私たちは日本のもっとも悪くなる時代に生まれ、もっとも悪い時代に中学(女学校)、新制高校という、本来ならば、多感で夢多く楽しい時代を、さまざまな思いを生きてきた」という言葉があったからです。そして、第一県女卒業生の佐々木美代子さんの手紙から、また、茶本裕里さんの手紙によってつながっていくのですが、私たちの『ヒロシマ往復書簡』とご縁があったことをあらためて感じています。




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続・対話随想 №39 [核無き世界をめざして]

    続対話随想39  関千枝子から中山士朗様へ

         エッセイスト  関 千枝子

 お返事大変遅くなりましてすみません。
 本当に、このごろいろいろありまして、かっかとしております。モリカケ問題、公文書改ざんまで明るみに出てきたのに、いっこうに反省せず、財務省の役人の責任にしてこのままうやむやにしたいとしか思えない政府の態度に、怒っておりましたら、今度は、財務省事務次官のセクハラ問題まで出てきて、怒りを通り越しあきれ果てています。福田本人もですが麻生氏の態度の酷さ。彼を引責辞任させたら、安倍政権はがたがたになりますから、なんとしてもやめないつもりでしょうが、あのセクハラ発言に対し、はめられたとか、二次セクハラとしか言いようがない。しかし、テレビで女性記者と福田の会話を聞きましたが、卑しいとしか言いようがありません。福田という人、神奈川県の名門中の名門、湘南高校でトップの優等生で生徒会長までした人ですって(湘南在住の人に聞きました)。そして東大に入ってもトップの秀才で、大蔵省に入り、出世街道まっしぐら。そんな人が。女性に対してあの野卑な物言い。何でしょう。そんな「優等生」たちがこの国を動かしている。いやもう恥ずかしいと思いです。財務省は彼を罰し、減給にするそうですが、五千何百万という私なぞの想像もつかぬ額の退職金から、百何十万の減給分を差し引いても何億通もないでしょう。もう、いやになってしまいます。怒っているうち、連休入り。最後まで詰められない野党の弱さ。、健康に悪いです。
 さて、この前のお手紙の返事が遅くなったのは、広島第一県女の学徒動員の記録を作ったことが、佐々木さんからのお手紙に関連して書かれていたことでした。いえ、これは悪いことではなくいいことですが。私が絶句してしまったのは、実は戦時下の女子学生の勤労動員の実態、記録に関しましては。1980年代の終わりごろ、各地の元女学生たちによって記録集文集がたくさん出ました。それが新聞などで報じられ、当事者たちは「戦時下勤労動員少女の会」を一九九一年に作りました。そして、当時のことなどを話し合ううち、女子学生たちが一年半も学業を放棄させられ、働かされたことは大変な事なのに、文部省(当時)や各県の教育委員会にも資料が少なく(具体的な資料が全くない県もある)、これは自分たちの手で資料を集め、是国的な記録を作ろうと作業を始めました。
 手作りの作業で、一九九六年「記録――少女たちの勤労動員」を作り上げました。これは、東京都女性財団の助成金で作りました。当時、女性年からの女性運動の盛り上がりは大きく、特に金があった東京は、相当の助成制度がありました。
この出版に対し反響は大きく、連絡のついていない「元勤労動員少女」から新しい情報も入り、二刷りも出し、ジャーナリスト平和協同基金の賞も得ました。
 実は私、この会ができたころ、私のクラスは正規の恒常的な動員でなく、臨時動員で、建物疎開作業で死んだのだからと私は当事者ではないという思いでした。しかし、私の姉たちのことでもあり、大いに関心があったので、新聞記者として取材に行き、大いに記事に書いていたのでした。そのうち会の方から、戦争末期の一九四五年三月、戦争の緊迫した状況のため、国民学校初等科を除き学業一年間停止という決定をし、女学生も中学生も全員働けということになったことを教えられました。つまり私たちが工場にまだ行かなかったのは広島には工場が多くなくて、行くところがなく、学校で勉強をし、時々臨時動員に行っていたということだったのですね。愛知県などは一年生でも動員されていたようです。なるほどと思い、この記録集が出た後もこの会の方と長く「付き合い」が続き、折にふれ記事にいたしました。
 この方々はツテを通じ会員のいない地方の女学校の資料集めに努力したのですが、広島からの資料は少ないのです。誰かから情報は行ったらしく、第一県女の動員先のことも「表」の中には入っていますが、とにかく広島県は情報量が少ないのです。広島市の場合、臨時動員で疎開作業に動員された低学年生が大量に死んだのに、工場等で働かされていた上の学年の方が被害(死者)が少なかった。下の学年に対し、「済まない」という気持ちがあり、工場動員の記録が少ないのではないかと思います。
あるのは、大久野島(毒ガスつくり)で働かされていた忠海高女の記録だけ、ほかに東洋工業に行っていた海田高女の生徒(敗戦時三年生)の日記があります。
 長崎の場合、原爆が市の中心部でなく、浦上に落ちたことで、工場で亡くなったりけがをされた方が多く、原爆記録がそのまま工場動員記録になっているのと対照的です。
この会の活動を聞いて、地方の県で、工場動員記録(男女とも)をまとめたところもありますが、そんな記録も女学校の話が多いのですね、どうも男性と差があるようです。
 それは、多分、働くことなど特別なことと考えられていた女性が、男同様に働かされたことに対する複雑な思いでしょう。そして当時の軍国少女ですから、お国のために必死で働いた思いがあります。東北など工場の少ない地域の女学生は京浜の工場地帯などにに動員され寮生活をするのですが、女性へと体が変わりつつある時期にプライバシーもない生活。生理用品もなく辛かったという思いもあります。そのあたり、男子学生と少し違うのかもしれません。
 とにかくこれが出てから十五年近くたった二〇一二年ごろ、その後新しい事実が判ったり、新しい学校の文集が出たりいろいろあったので、改訂版を作る話になりました。しかし、最初の記録を釣った時に活躍した委員たちの多くは年老いて亡くなったり、身体が悪くなっている。お元気でも地方の委員(大阪や長野の方)が、東京まで来て編集作業をするのは無理ということもあり、私が改訂版の編集のお手伝いをすることになりました。
 こういうことをするときまず大変なのがお金で、会に残っているお金(記録の売り上げだけ)ではとても足りません。本当に困ったのですが、藤田晴子基金を頂くことになりました。藤田晴子さん、戦前、レオ・シロタ氏に師事、毎日ピアノコンクールで一位になるほどの一流ピアニストなのに、戦後東京大学が女性に門戸を開くと聞いて、入学試験に挑み、見事女性の第一期生になられた方です。法律を勉強し、国立国会図書館に勤め、ここでも最高の職まで上り詰めます(省庁の事務次官と同じ)。女性の先輩のロールモデルとして尊敬している方です。藤田さんは、退職金などを基金として、女性のための有意義な事業に使ってくださいと言われたのでした。私たちがお願いした時、この基金も、ベアテシロタさんを描いた映画を作るためのお金などのために大半使い果たした状況だったのですが、私たちが『百万円あればいい』というと、そのくらいでしたらと、基金を預かっておられる富田玲子さんは、初対面の私たちにその場でお金を出すことを承知してくださったのです。
 その頃、ほかの復刻版などの経験で百万円もあれば余裕と思っていたのですが、一九九〇年代の版は、もう使えず、表(動員の記録)だけは新たに分かった分を足さなければなりませんがこれがお値段が高くつき、本文の加筆は、本当に、少なく必要最低限に抑えるしかありませんでした。その中で私に関わり深い問題では、大久野島に行った動員少女たちが、戦後再動員され、広島郊外、廿日市で原爆の傷病者たちの看病をさせられているのです。驚きました。敗戦後誰がこんなことを考え命令したのか?県かしら?
 この作業を終え、二〇一三年の改訂版初版,二〇一四年に改訂版二刷りを出しました。これも反響多く、女性史を各地で学ぶ方々の大会があるのですが、そこでも私は発表をしました。しかし、広島の方の反響はあまりなかったのです。
 その後この資料をどうするか問題になりました。もちろん記録集はしかるべきところに寄贈しておりますが、第一次資料(会が出したアンケートとか、元女学生たちの絵、つけていたハチマキ。それにもちろん各女学校に記録、文集など捨てがたい資料があります)それは国立女性会館(埼玉県嵐山)のアーカイブで保存していただくほかないと交渉しましたが、、これに二年以上の月日がかかり保管していただくことになり、ようやく去年納入したところでした。
 そこへお手紙で、第一県女の記録のことを知りました。何でいまごろ。絶句しました。「少女の会」のことはいろいろ新聞で報道されましたが、皆実有朋同窓会の方は全くご存じなかったのですね。私たちのやったこと何だったのだろうと、愕然としたのです。
 でも、第一県女の記録が出たことはいいことだと気を取り直し,皆実有朋同窓会に電話をし、記録を取り寄せました。一口に言って、とても精密な力作と思いました。私が呼んだあと少女の会の事務局長に回しています。彼女が読み終わったら、国立女性教育会館に、「追加資料」として保管を頼むつもりです。
 第一県女の記録、大変詳しくいいもので(これがもう二〇年前に出ていたらもっとよかったのですが,)私が一番面白かった(これは知らなかった)と思ったのは、看護隊のことでした。
看護隊のことは冲縄のひめゆり部隊が有名です、あそこは島全部が戦場になったこと、もともと沖縄には工場が少ないので、女学生は看護をやらされるのですが、ひめゆりだけでなく他の女学校もやらされています。
 本土でもほかの地域の看護隊の話はあり,なんとなく私は、本土決戦に備えてのことかと思っていました。第一県女の看護隊のことは前から知っていました。原爆の日、学校にいて亡くなったのも知っています。でも私は看護隊は第一県女だけかと思っていましたし、沖縄の惨禍があり本土決戦に備えて、作られたのだと思っていました。でも、記録を見ると一九四四年九月(まだ日本の本土が本格的空襲が始まる前)に結成されたとあり、第一県女、市立高女、比治山高女の四年生から選抜されたとあります。相当成績の良いこの行く学校ばかりで、人数がある程度いる(第二県女は人数が少ない)学校です。成績がよく体力、気力の充実した少女を選べると思ったのではないでしょうか。市女や比治山に看護隊があったことなど初めて知りました。女。看護のこと考えさせられます。忠海高女の戦後の再動員と合わせて、考えさせられました。
介護はやはり女性専科ナノでしょう。そうそう、工場で作らされたものの中に男性にはないものがアロマした。風船爆弾です。これは本当にあちこちで作らされています、和紙を張り合わせるのに少女のしなやかな指が最適だったようです。いやですね、
 


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続・対話随想 №38 [核無き世界をめざして]

     続・対話随想38  中山士朗から関千枝子様へ

                   作家  中山士朗

 今回の往復書簡に添えられたお手紙を読みながら、関さんが指摘されたように、昭和五年、七年生まれの私たち(昭和一桁生まれの人も含めて)が生きてきた原点は、原爆被爆のみならず、戦争がもたらした時代を生きてきたことを改めて認識した次第です。
 昭和四年十月ニューヨーク株式市場の大暴落による世界恐慌に端を発する、国内の恐慌深刻化、昭和六年九月十八日の柳条湖事件によって満州事変が始まり、翌七年三月満州国建国宣言がなされました。
 私が小学校に上がった昭和十二年七月七日には、盧溝橋事件が発生し、日華事変となったのでした。そして昭和十六年十二月八日には、太平洋戦争がはじまりました。
 その太平洋戦争も、昭和二〇年八月六日に広島、九日には長崎に原爆が投下され、十五日には終戦の詔勅が下されたのです。
 そうした歴史の流れの中で、文部省「国体の本義」の配布、文化映画の強制上映、国民学校令の公布、学徒出陣命令、中学生の勤労動員大綱の決定、学徒動員実施要綱の決定、学徒勤労令・女子挺身隊勤労令の公布施行などと言った文字が年表の中にひしめいています。そして、戦後の悲惨な状況が続き、そうした環境の中で、私たちは学生時代を過ごさねばならなかったのです。
 関さんが手紙に、「とにかく私たちは日本のもっとも悪くなる時代に生まれ、もっとも悪い時代に中学(女学校)、新制高校という、本来なら多感で夢多く楽しい時代を、さまざまな思いを生きたのだと思って…・』と述懐されていましたが、改めて私自身の過去を振り返ってみましても、そのように思わざるを得ません。
ちょうどここまで返事をしたためたところに、不思議ですね。まるで打ち合わせでもしたかのように、関さんもご存知の佐々木美代子さんから。取材を受けた特集記事が掲載された中国新聞(三月十九日付け)が送られてきました。
 それは、皆実高校(広島市南区)の同窓会が、前身の県立広島第一高女(第一県女)の卒業生七六〇人を対象にアンケートを行い、戦時下の学徒動員に関する資料をまとめたものを紹介したものでした。資料集はB5版、291ページにまとめられています。第一県女では建物疎開に出た一年生二百二十三人が原爆で死亡しています。新聞の見出しは、
「お国のため」少女動員
 となっており、動員に至るまでの法令、措置要綱の公布などに合わせて、第一県女の動員状況が一覧表としてまとめられ、当時の写真とともに、掲載されていました。
 そして、終わりに動員学徒代表として佐々木さんの言葉が載っていました。
 関さんが手紙のなかで語られた思いと共通するものがありますので、全文を引用してみます。
 <普通に授業があったのは、一年生の時だけ、勤労奉仕が始まると、陸軍被服支廠で軍人の肌着のボタンを付ける作業をした。糸と木綿針を渡され。一日中働いたと思う。
 宇品の陸軍糧秣支廠へも行った。最初は一カ月に数回、徐々に増え、3年になると毎週のように勤労奉仕をした;。英語の授業はなくなり、なぎなたなど武道の時間が増えた。
 4年生の1年間は一度も授業を受けた記憶がない。校舎の2階が工場になり、南方の戦地へ行く兵隊のために蚊帳を作った。ヒルが落ちて来るのを防ぐ蚊帳。マスクをしていても、みんな鼻の周りに緑色の塗料が付いた。毎朝、起きたら鉢巻を巻いてモンペをはき、学校工場へ行く。朝7時半ごろから夕方まで黙々と働いた。「お国のため」と洗脳されていたからか、無理に働かされているとは感じず、苦しかったけれど楽しかった。
 「県女生の仕事はきちんとしている」と軍人に褒められたこともあり、「よその学校には負けられん」と必死だった。3年生の動員が始まった一九四四年一〇月には、代表で「壮行の辞」を読み上げたことがある。いよいよ下級生も動員されるのだな、と緊張した。
 振り返れば、憧れの県女に入ったのに学生らしい生活は全くできなかった。県女を卒業後は広島女子専門学校に入学したが、川内村(現安佐南区)へ移った工場にしばらく動員された。原爆で父を失い、戦後は生きるのに必死で勉強どころではなかった。あの時、もっと別の方向へ一生懸命だったら、と残念に思う。>
 新聞に添えられた手紙には、「私、何時の間にか九〇歳の声を聞くことになりました。不思議な感じがいたしております。」また、「だんだん忘れることが増えてきました。困ったものです。四月五日にABCC(放影研)に健康診断にまいります。」とありました。
 佐々木さんはそれと同時に、東京のメディアコネクションの取材を受けたということでした。終戦前の学徒動員の際、(女専時代でしょうか)、看護組という一クラスができましたがl、その取材のようでした。看護組は、空襲などの時に、看護婦さん、医師の不足を補うためにできたクラスだと佐々木さんは説明されていました。赤十字病院での実習や各科の看護などがアニメーション化され、完成するのは年末になるということでした。それまでは元気に過ごしたい、と佐々木さんは思っておられるようです。
 もっとも悪い時期に遭遇し、多感な学生時代を過ごしたと関さんが言われるように、佐々木さんの手紙からもそのことが実感できます。
 次に、<女たちの戦争と平和資料館>での澤地久枝さんの「満州引き上げ体験を語り継ぐ」という講演の内容を読み終えて、関さんの満州建国の理念への疑い、とりわけその理念に欺かれた開拓農民の悲劇、引揚げの苦難に並々ならぬ心寄せを感じました。
 澤地さんのお話の中に、敗戦の年の六月十日から七月十日まで、開拓村に行かされた話がありました。泥の家で、窓もなく、電気も水道もないところで、女学生たちは一カ月働き、吉林にもどってきたのでした。ソ連軍参戦前に吉林にもどることができたのは、不幸中の幸いでした。
この個所を読んだとき、私は友人田原和夫君が書いた『ソ満国境15歳の夏』(一九九八年八月十五日発行 築地書館)を思い出さずにはいられませんでした。
本書の扉を開くと、
<新京一中東寧派遣生徒隊が、敗戦に際し、国軍に見捨てられてどんな状況に陥ったのか。ソ連軍の捕虜になってどんな目に遭ったのか、そしてそもそもなぜそんな悲惨な事態が生ずるようなことになったのか、その渦中にいた一人として当時の一部始終を記録したものである。祖国の敗戦に殉じた新京一中東寧派遣生徒隊の級友はじめこれら少年少女のために、このささやかな記録を捧げる。>
と、書かれています。そして、著者は、
<      「はじめに」
 いつまでも五十年以上も前のことに拘っているのだろうか。自分でもそう思うときがある。けれども、それでもこだわっている。
『ソ満国境最前線の「東寧報国農場」に中学生を派遣する、派遣校として新京一中三年生百三十名をあてる』という決定は、どこでどういうふうに行われたのであろうか。
これは、私が心境に帰り着いて自分の生還を自覚した時以来、ずっと抱き続けてきた疑問である。そして、それは、いまだに解明されていない。
この問題に漠然と立ちふさがるのは、「官僚の無責任性」という巨大な壁である。
東洋平和。国体護持、忠君愛国、滅私奉公などというもっともらしい大義名分のもとに、陸軍軍人の官僚システムが、統帥権を振りかざして国家を統治した。その実、一皮むけば、自分に都合の悪い事実は発表をのばし、どんな失敗に対してもそれをもたらした決定の責任を回避して、自己の属するセクションの防衛と自分の保身、立身出世をはかるという習性がビルト・インされている。つまり問えば頭ほど「誰もが間違った決定はしていない、責任を問われる決定はしていない」という答えが返ってくるシステムである。>
と、現代にも通ずる、厳しい批判の目が注がれています。
<いまとなっては解明は難しいのかもしれないが、私は生還以来この疑問をあくまで追求していくつもりである。この記録を通して、統治者や指導者の情報公開、透明性、説明能力などがいかに大切な事であるかということを、述べてみたい(中略)
本書の読者と共にこれを再確認することで、生まれ故郷を喪失してしまったひとりの少年の夏のささやかな体験記が、この歴史の中の一こまとして、何ほどか読者に訴えることになれば幸いである。>
とも述べられています。
本書は、前線、無差別攻撃下の五日間、敗戦、捕虜、開拓団跡地、収容所生活、帰途、生還*1、救出隊など10章で構成され、終章は故郷喪失となっています。
 私が、田原君を知ったのは、広島の中島小学校(当時は中島国民学校)の5年生のときでした。
 <父のすすめで、新京白菊小学校の五年生のときにひとり家を離れ、父の故郷である広島に行った、親戚に預けられて、市内の中島小学校から県立一中(旧制)に進学した。>
 と記述されているように、クラスは異なっていましたが、昭和十八年四月から同じ中学校に通っていたのです。しかし、昭和一九年秋から学徒動員令によって、私たちの学校では、三年生が通年動員となり、クラスごとに分かれて軍需工場に通うようになったのです。田原君のクラスは、広島市の西の郊外・高須にあった広島航空という軍用機工場に派遣され、飛行機の部品組み立て作業をしていました。私は東の郊外。向洋(むかいなだ)の東洋工業(現・マツダ)に通い、航空機のエンジン部品の製作に従事していました。ですから、私が田原君と最後に会ったのは、三年生の壮行会のときでした。私たちは「ああ、紅の血は燃ゆる」を斉唱しながら、校門を後にしたのでした。
 しかし、田原君は翌年の五月二日に、広島一中から新京一中に転入学していたのでした。米軍が沖縄に上陸し、戦闘が本土に近づいてくるようになってきて、心配した父親から進学どころではないと呼び戻され、四月末、四年半ぶりに新京に帰って行ったのでした。田原君のお父さんは、当時、満州国政府の外交部の要職についておられました。
 そして、転校してひと月も経たないうちに動員令が下り、東寧に向けて出発することになったのです。
 そうした事情を知らなかった私は、戦後に開かれた広島一中同学年の同窓会が東京であった時、はじめてその事実を知ったのでした。
 田原君が広島を去って三ヵ月後に、原爆が投下されましたが、田原君と同じ工場で働いていた級友は、当日、爆心地から八〇〇メートル離れた市内の土橋町で建物疎開の屋外作業に従事していて、担任の先生はじめ全員が原爆の熱線を浴び、ほとんど即死の状態で死亡したのでした。
 関さんの満州に対する思いは、私にさまざまなことを思い出させました。亡くなった妻が、敗戦によって国家に見捨てられた時の悲惨な状況を語ったことが、今も強い記憶として残っています。

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続・対話随想 №37 [核無き世界をめざして]

   続対話随想37  関千枝子から中山士朗様へ

              エッセイスト  関 千枝子

 例年より早く桜の開花です。私の住む町は、東京の臨海地域、場末の団地の街。時折吹く風が寒いことがあり(海風?ビル風?)桜はまだまだと思っていましたら、昨日(三月十九日)もうかなり花が開いておりまして、ホウと思ったのですが、本日は朝から雨、ひどく寒くて、せっかくの桜も一時休みになりそう。それにしても、世の政治も悪いが、天気も不順、困ったものです。
 天下の方は、森友問題での財務省の文書改ざん問題で、安倍内閣の支持率急落です。国会前は連日、人で一杯です。全く安倍政治のこの頃ひどいことばかりで、ことに今回明らかになった公文書の改ざん問題など、民主主義政治の根幹を揺るがす大問題です。これを、佐川さんという一官僚の問題でお茶を濁すなどとんでもないことで、何とか内閣総辞職に追い込めないものかと思っています。そうなれば安倍氏のもくろむ憲法改悪の国会発議も遅れるのではないか、など思うのですが。
 ただ、私は、とても国会前に立てませんから、若い人(七〇台の人も私に言わせれば若い人)たちに頑張って!と思うだけです。しかし、あの六〇年安保闘争の時、国会前を埋め尽くした人々の安保反対の怒号に、「後楽園にはもっと大勢の人がいて野球を楽しんでいる」と言い放った岸信介。彼は最後まで民の声を無視し、頑張り続け、日米安保条約を守り抜きました。その孫も、「頑張り抜く」か。いやーな感じもします。
 しかし、「孫」の方のやり方、岸以上というか、とにかく汚いですね、そして人に罪を擦り付ける。籠池氏や官僚だけに罪を押し付け、自分や妻などは絶対に悪かったと言わない。もう、下劣というか品がないというか、本当に腹立たしいです。

 こんな中、三月十七日、wam(女たちの戦争と平和資料館)で、澤地久枝さんの「満州の引き上げ体験を語り継ぐ」という話がありました。澤地さんが一昨年、「14歳(フォーテイーン)満州開拓村からの帰還」(集英社新書)を出されたので、そのことに関連するお話です。澤地さんは戦中「軍国少女」で満州にいたことも恥ずかしくて体験を語れなかった。戦後進駐して来たソ連兵の将校に強姦されそうになったのを、お母さんの必死の抵抗で救われたと言っています。
 私も澤地さんの満洲での体験を聞いたことがなく、ぜひ聞きたいと思い、行ってみました。前に澤地さんが満州で敗戦を迎えたことは聞いたことがあると思っていましたが、開拓村ではなかったはず、など、素朴な疑問もありました。
 集会の場所は西早稲田の早稲田奉仕園の中。決して便利な場所ではありません。私はバスの遅延その他のことを考え余裕をもって出かけ、開会の一時間近く前に到着したのですが、もう何人かの方が受付を待っておられました。会場は補助席を入れると100人は入れるのですが。入りきれず別室で映像放送で見る方もあり、澤地さんの「人気」が分かりました。
 澤地さんは、ご存知の通り「九条の会」の呼びかけ人の一人で、大江さんが体調すぐれないのか、このごろほとんど外に出られないので、今、澤地さんが孤軍奮闘しておられる状況です。でも澤地さんは大変お元気で、ついこの数日前もある会でお会いしましたが、短いスピーチをなさったのですが、大きな声で雄弁に語られ、とても感動いたしました。澤地さんは私より一年上(つまり中山さんと同学年)ですが、このごろかえってお元気になっておられるのではないかと思いました。
 この日も。大変な「張り切りよう」で九〇分の講演のはずが百十分くらいになってしまい、だれも時間ですからと、止められないくらいの迫力でした。
 wamが主催ですから、当然、性暴力のこと、澤地さんがずっと話せなかった戦時性暴力、
(満洲開拓村の女性の中では、村の男性たちによってソ連軍に差し出された人もいる)のことを中心に話してもらいたかったのでしょうが、澤地さんのお話は、やはり今の状況のことをまず話され、それが中心のようになりました。
 実は、私は、満洲のことに非常に関心がありまして、それは私の学年が「満州事変落としの生まれ」だからです。満州事変が起こった時人々は熱狂して歓迎、支持したのです。もちろん生まれたばかりの私(私は正確には「満州国」が建国した一九三二年三月の生まれですが)に判る筈がないと言われたらその通りですが、私がだんだん大きくなって学校に行くようなると、学校が変わっても、どのクラスにも「満」の字の付く名前の子がいたのです。戦後、あるお父さんが言われました。「だって、あの時は”満洲”。これからは満州の時代だとみな思ったではありませんか。」
 実は私、中山さん、あなたのことも思ったのです。あなたの奥さまは、満洲銀行におられたということです(実はこれも、奥様が亡くなられてからずいぶんたってこの「往復書簡」のやりとりの中で知ったのですが)、奥様の深い感慨のようなものを感じたのです。あのころの日本全土を覆った「満州国」への期待。「王道楽土、五族協和」への共感。よその国に行って「理想の国」を作るなど、おかしいことだ、など誰も思わず、満州万歳、これからは満州だ、と思った、あなたの奥様も、満洲の理想にあこがれ満洲銀行に入られたのではないか。そして、あの敗戦で、『満州って何だったのか』と思いつつ、苦しい帰国。満州への疑問や、しこりを抱えつつ、過ごされた。あの戦争への深い拘り、多分それが中山さんとのご縁となったのではないか。これは私の勝手な想像で申し訳ありませんが、なんとなく、そんなことを思って、集会に参加したのです。
 澤地さんの場合は、お歳のせいもあって、少し事情は変わるようです。お父さんは貧しい大工だったようで、昭和の恐慌で食べて行けず、満州に渡ったようです。だから、満州建国の後、満洲の理想にあこがれて…・、と言った方々とは動機が違うように思えました。
満鉄社員と言っても下級の社員で、吉林にいたが、とにかく社宅を見ればどんなに身分が低いかすぎわかる。満鉄だっていろいろよ、と言っておられました。
 羽田澄子さんも満鉄社員の娘で大連にいらしたそうですが、どうも羽田さんの方が身分の高い社員だったようですね、羽田さんは長く開拓民の惨禍のことは知らず、そのことを知って、知らなかった自分を恥じて、満蒙開拓団の悲惨を映画にされるのですが。澤地さんの場合は、昭和一八年、吉林の国民学校を卒業、吉林高等女学校という日本人だけの女学校に入ったが、中国人の行く女学校はそのころでもスカートをはき、そのスカートに赤い線が入って奇麗だったのに、日本人の女学校の方はセーラー服はだめで国民服、中国人の方が豊かに見えたというのですが。
 とにかく、戦況が悪くなると校庭に大きな穴が掘られ、馬糞を拾いその穴に入れ、たい肥作り。学校の校庭も畑になり野菜を作るが、その野菜を食べた記憶はなく、教師が食べてしまったらしい、と。
 敗戦の年(一九四五=昭和二〇)は、すいきょくりゅうというところの開拓村に行かされた、そこで六月十日から七月十日までいた。澤地さんも開拓村の実物を見るのはそれが初めてだったようです。泥の家で、窓もなく、電気も水道もない。そんなところで女学生たちは一か月間働き、吉林に戻ってきた。そうしたら八月九日にソ連参戦。「日本の勝利を信じて疑わない」少女にとって信じられない日々。そしてソ連軍の将校二人が押し込んできて強姦されそうになったのを母の命がけの抵抗で助かったそうですが、それから日本にたどり着くまでの二年間の苦労。「この二年間に私の戦争はあった」と言っておられました。
 しかし、七月に開拓村から帰ってきた幸運でしたね。もしそのまま開拓村にソ連軍参戦までいたら…・。大変な事で、開拓農民の女、子どもの悲劇が、澤地さんの身に襲い掛かってきたかもしれない。日本にたどり着けなかったかもしれません。
 帰れなくなり、中国人に育てられた残留孤児たち。その中で当時一三歳以上の女の子は「自分の意志で帰らなかった」とされ、帰国が認められるまで大変だったのです。いわゆる残留婦人です。
 私の生まれたころ、満洲に酔い、多くの人々は「満州帝国」を歓迎したのです。十五年後あのような惨劇になるとは誰が思いましょう。本当に怖い。十分に賢いと思う人々が先が読めないのです。でもそれを嗤えるでしようか。

 これを書いてから十日。桜はあれからすぐ満開、今日あたりでサヨナラです。この間国会で。前国税庁長官佐川氏の喚問。刑事訴追されそうだからと五十回も証言を断り、安倍夫妻や官邸からの指示は全くなかったというあの答弁。誰が見ても嘘としか思えない。何とも情けない国です。


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続・対話随想 №36 [核無き世界をめざして]

  続対話随想 36 中山士朗から関千枝子様へ

                  作家  中山士朗

 前回の手紙で、朝日新聞の鷲田清一氏「折々のことば」から、田中角栄元総理が新人議員たちに語ったとされる言葉を引用しました。その折、新聞の切り抜きが見当たらず、記憶で「戦争体験者が政治の中枢にいる間は大丈夫だ。平和について語る必要はない」という趣旨の発言でしたと書きましたが、正確には
<戦争を知っている世代が政治の中心にいるうちは心配ない。平和について議論する必要もない。 田中角栄>
と引用されていました。
 これについて鷲田氏は、
 「跨ぎ越してはならない線がどこかを教えるのは、体験の重しである」
と解説しています。まさに、現政権は重しが取れ、戦争へと向かうはかない状況を作り出しているように思えてなりません。
 この「体験の重し」という言葉を反芻しておりましたら、戦争体験者、被爆世代の死が相次いで報じられる、昨今の思いと重なり合うのを覚えました。
 そして、関さんのこのたびの手紙に書いておられました著書「広島第二県女二年西組」が、一九八五年二月に筑摩書房より刊行されて以来、版を重ね、文庫版になってからも十版を重ね、現在も日本各地で朗読劇、朗読が続いていることを知り、まさに体験の重しではないかと思いました。本当に良い著作を残されたと思います。
 折しも、俳人・金子兜太さんの逝去(二月二十日)の報に接しました。新聞の記事によると。病名は急性呼吸迫症候群、享年九十八歳。読みながら「続対話随想」28に、昨年十月三十日の朝日俳壇。金子兜太選の句を載せたことを思い出しました。
    腰据えてがんとの闘い大根蒔く  奈良県広陵町  松井矢菅
 その後、昨年十一月二十日の選に、
    晩秋やあっさりと癌告知さる   向井市  松重幹雄
 の句があり、私の胸中に深く残りました。

 これらの句が、当時、大腸癌を告知されたばかりの私に影響したものと思われましたが、それとは別に、金子兜太さん自身の心に反映した句として選ばれたものではないかと思って、切り抜いておいたのです。
 金子兜太さんの死後まもなくして、二月二十五日のNHKの「ETV特集」で金子兜太さんをめぐるドキュメンタリー番組が再放送されました。
 癌の手術を受けて入院中の金子兜太さんの姿が写し出されているのを見て先に引用した選句は、まさしく金子兜太さん自身の心象を反映したものだと思いました。担当医は、「悪いところは、取ってください、とあっさりした方でした」と語っていました。その言葉を聞きながら、手術を断り、経過観察で日々を過ごしている自分の姿をあらためてみつめ直した次第です。昨年、ペースメーカーの四回目の電池交換手術を行いましたが、その直後に感染症に罹り、肺炎を起こした経験から、どうしても手術を受ける気にはなれなかったのです。
 すっかり話が横道に逸れてしまいましたが、私は以前から、私たちの「続・対話随想」に金子兜太さんの句に見られる、生き方の原点について書いてみたいと常々考えておりました。
 金子兜太さんは、晩年まで戦争反対の声を上げ続けた俳人でした。この原点には、海軍主計中尉として赴任した南太平洋・トラック島での戦争体験がありました。
     水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る
 この句は十五ヵ月間の捕虜生活を終え、日本へ帰る戦場で作られたものでした。
 戦争がない世の中を作り死者へ報いるという決意は、晩年になっても変わることはありませんでした、その表れが安全保証関連法案への反対が広がった二〇一五年には、「アベ政治は許さない」と揮毫したプラカードが、全国の会場で揺れたと言います。
 また、俳句の世界では、「社会性俳句」に取り組み、前衛俳句運動の中心となって戦後の俳句運動の旗振り役をつとめました。そして季語の重要性は認めながらも。季語のない無季の句を積極的に詠んだのです。
 季語のない句、この言葉から私たちが現在も続けております「ヒロシマ往復書簡」の続き、「続対話随想」も、季節、空間、時間の定めなく書いていることに気づきました。これは、かつて中国新聞社にいた故・大牟田 稔さんが提唱していた言葉でした。関さんも私も、原爆被害が原点となって生き、書いているのですが、ひっきょう死者に報いるためのものです。とりわけ関さんは、核兵器廃絶を目指して活動を続けておられるのです。金子兜太さんが晩年まで、戦争反対の声を上げ続けたように。
 手紙の冒頭で、田中角栄元総理の言葉に触れましたが、資料を当たっておりましたら、大分合同新聞の追悼文の中に、つぎのような文章がありました。
 <近年、ナショナリズムが台頭する風潮が強まると、戦争反対の声を上げる機会が増えた。晩年のインタビューでは、戦争体験者がほとんどない国会で、「戦時」を議論する「危なっかしさ」を指摘した。「議論を見ていても、戦争への恐怖心を感じない。あの残酷な状態を体験したらね、戦争につながる事態を作り出すことに、もっと警戒するはずなんです」と。>
 このたび関さんへの返書、最後に原爆を詠んだ金子兜太さんの句ならびに選句で結ばせていただきます。

 二〇一七年八月、原爆の図丸木美術館を初めて訪れた際に、同館学芸員の岡村幸宜さんの説明を受けながら、第一部「幽霊」をじっと見つめるうち、口ずさんだ句。
    湾曲し火傷し爆心地のマラソン
 第二部「火」、第三部「水」を見ての思いを託した句。
     被爆直後夫妻の画像大きく太し     兜太
 <選句>から
     冷まじや聾者の被爆語る手話    埼玉県宮代町 酒井忠正

     母のもとに還る流灯爆心地     山口市 浜村匡子

     核なくせ灼けて丸山定夫の碑    相模原市 芝岡友衛

     平和こそ山川草木みな笑ふ     川崎市 神村謙二

     陽炎や全ての戦争許すまじ     飯塚市 釋 蜩硯

     忘れめや生きてる限り原爆忌    成田市 神部一成

     人類史角番にあり夏に入る     東京都 望月清彦

  <金子兜太さん代表句>から  

     水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る 

     原爆許すまじ蟹(かに)かつかつと瓦礫(瓦礫)歩む

     湾曲し火傷(やけど)し爆心地のマラソン

     被曝(ひばく)の人や牛や夏野をただ歩く

 この手紙を書き終えた日の大分合同新聞の「声」の欄に、大分市の田口次郎さん(84歳)という方の文章がありました。
 「水脈の果て」の句に、硫黄島で戦死した兄の記憶と重なったことが書かれた後に、
<十数年前、東京で平和憲法を守ろうと「俳人 九条の会」が結成された。呼び掛け人の中に金子さんの名前があり、敬意を深めた。大分県でも金子さんらの呼びかけで「俳人九条の会・大分」が結成された。金子さんらの反戦の意志に応える取り組みをしたいと思う。>
という追悼の文章がありました。




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続・対話随想 №35 [核無き世界をめざして]

  続対話随想35  関千枝子から中山士朗様へ

              エッセイスト  関 千枝子

 核兵器禁止条約のことをめぐり安倍内閣の態度、トランプの核戦略に河野外相が直ちに賛意を表したことなど、腹が立つことばかりで、それに被団協にしろそのほかの団体にしろ、国連への核兵器廃絶の署名を相変わらず集めていますが、私はかっかとしています。いくら国連への署名を集めても、国連の人々は、ヒバクシャは国連への署名は集めるが、自分の政府を何ともできないのかと、あきれているのではないかと思うのですが。
 私は、政府へ態度を変え核兵器禁止条約に署名しろという請願署名をすべきではないかとあちこちで言っているのですが,誰も相手にしてくれません。でも、「普通の人たち」は北朝鮮の「核」をとても怖く思っているらしくて、「現実」を言う人も多いのは事実です。もちろん私も北朝鮮のやり方をいいと思うわけではありません。しかし、北が、水爆づくりに成功したとしても、そんなにたくさんの爆弾を作れるわけがない、そこへ行くとアメリカはすでに7000発の核兵器があるのです。それを小型化してあちこちに配備する。艦船にも載せるという、その艦船はどこの港に停泊するの?
 日本の「非核3原則」がめちゃめちゃにされるのではないか。恐ろしいですね。「密約」がお得意な日本政府ですが、トランプ氏なら。密約などなしに正面から言ってくるのではないのかしら。本当に怖い。
 でも、この二週間ほど、不思議なことに、私の「広島第二県女二年西組」の朗読劇や朗読がつづき、なんだか忙しい(本売りも)日々でした。
 二月十一日、山梨県の「山なみ」という劇団が朗読劇をしてくださいました。前にもお話ししました関西の熊本一さんが、大阪や生駒のシニア劇団で私が三〇年前に書いた脚本を上演してくださり、それを全国に広めたいとリアリズム演劇集団の機関誌「演劇会議」に掲載してくださったのですが「山なみ」の方はこれを見て、上演を思いつかれたのです。ただ、ご自分の考えがあるようで脚本をいろいろ書き替えられたのですが、私は書き換えは構わないが事実と違うことは困る、これは「ドキュメンタリー」なのでと、二回にわたってやりとりをしました。それから音さたなく、どうなったのかしらと思っていたら、一月も末になって山梨に住む友達から「あなたの劇が上演されるらしいけど、あなた甲府に来るの?」と電話がかかりびっくりしました。驚いて「山なみ」の主催者.河野通方さんに電話したところ「流感で寝込んでいて連絡が遅れた」とのこと、主催者が寝込んでいて、無事にドラマができるのかとまた心配。そのうちやっと招待券とチラシが届きましたが、演出は別の方のようで、やっと少し安心して、甲府まで足を延ばしました。
 会場は山梨文学館の講堂。ミレーの絵で有名な山梨美術館のすぐそばで立派な建物です。講堂も広くて立派です。入りは七割位かしら。採算は大丈夫かしらと直ぐそんなことが気になるのですが、山梨の友だち(それは、先年ニューヨークやボストンで丸木美術館の「原爆の図」の展覧会のコーディネートをやった早川与志子さんです。彼女とは彼女が日本テレビにいる頃からの友達)によれば、山梨は人口も少ないし、客足はどうしてもこんなことになるとのことです。
 しかし、山梨というと保守的なイメージですが、講堂の隣の部屋では、「2月11日を考える集い」をやっていてそこにも人が集まっていました。なかなかしっかりしていると感心。
 さて劇の方ですが、とにかく上手で驚きました、この脚本は前半は原作の中からとった被爆、遺族の嘆きですが、後半は靖国神社の合祀の問題や戦争の加害のことを言っています。この部分がかなり長いのですが、熊本さんは素人のシニア劇団でやらすには少し難しいからと靖国のことだけに絞って後はカットして上演されたのですが、「山なみ」はこの分もカットせず、朗読されます。演者の力量に感心しました。終わってからの主催者あいさつで、河野さんは「戦争を知らないメンバーが戦争のことを一生懸命勉強して演じました」と言われ私も、舞台に引っ張り出され、観客と演者の方にお礼を申し上げました。
 後で聞いたところ「山なみ」は劇団創設以来六十二年ですって。驚きました。もちろん今日の演者たちは創設のメンバーではないでしょうが。日頃ほかに仕事をしている人が夜などに演劇の勉強し、年に一度か二度、公演し頑張っている。六十二年も頑張っているなんて本当にすごいことですね。
 終わったから早川さんとお連れ合いと三人でお茶など飲み、久しぶりに話し合いました。
早川さんも山梨でも活動が広がっているようで夏、八ヶ岳の麓で平和コンサートをするのですって。「来なさい」と言われて調子よく「行く」と約束してしまいました。
 一八日は、江戸川区のタワー船堀というところで平和コンサートがあり、その中で二年西組」の朗読が入るというので行きました。これもどういう会なのかよくわからなかったのです。場所は都営地下鉄新宿線の船堀駅。昔(二〇年近く前)娘がそちらの方に住んでいてよく利用した地下鉄ですが、このところ乗ったこともありません。とにかく江戸川というととても遠いような感じがしたのですが、意外に早く着き、船堀駅を出ると真ん前のビルが船堀タワー。きれいなビルで、便利でびっくりしました。おまけにコンサートは無料だそうで、小ホールが会場なのですが、多分二〇〇人くらい入りそうなホールに人がいっぱいです。聞けばこの会、江戸川区の被爆者の会の主催ですが、江戸川区などから補助があり、無料でこんなことができるそうで、びっくりです。でも毎回コンサートだけで、今回「新しい試み」として私の本の朗読を入れてくださった、会長さんがたまたま私の本を読んでくださり、感動したということで、ありがたく思いました。
 朗読はフリーの女性アナウンサーで、呉の出身だそうです。私の本のはじめの方を中心に、忠実に読んでいただきました。弦楽のバックミュージックが入り、とても感興をそそりいい感じでした。皆さん静かに聞いてくださり、うれしく思いました。でも、ちょうど私の隣に座っていた女性、私と同年配だと思うのですが、(被爆者ではないみたい)、私に盛んに話しかけてくるのですが、あの時の何年生でした?と聞いてもはっきり覚えていないようなことを言い、驚いてしまいました。敗戦の時何年生だったか、これは誰でも忘れないと思うのですが‥‥。
 第2部は江戸川区に住む演奏家の弦楽五重奏。楽しい音楽もたくさんあってよかったです。江戸川区には演奏家もたくさん住んでおられるようです。
 でも、この会はこんなことに慣れていないようで、私が参加していることは紹介してくださったのですが、特に話をさせてくださいませんでしたので、核兵器禁止条約のことなどアピールする機会はなく少し残念だったのですが。でも、江戸川の方やフリーのアナの方など新しい方とお目にかかれてうれしく思いました。

 二十一日は、安保関連法制女の会の違憲訴訟の公判がありこの日意見陳述した原告の中には、長崎の被爆者がおられました。この方は無事だったのですが、爆心地近くの工場に動員されていたお兄さんが被爆、亡くなるのですが、当時ズックの靴、とても大切だったでしょう、ボロボロになった片方の靴を大事抱きしめて家にたどり着いたということです。私の友も下駄で通学していて、原爆で足も焼けて裸足になり、痛さにうめきながら逃げた、足が痛い痛いと言っていた友のことを思い出しました。
 二十五日、川崎、武蔵小杉の中原市民館で「中原・平和を願う原爆展」の被爆者証言に行ってまいりました。この主催者たちは原水協で懸命に平和活動をしている方々で私も何度か行ったことがあり、「慣れたところ」なのですが。
 中山さんもご存知でしょうが、武蔵小杉というところ、昔、南武線と東横線が交わる所ですが、それだけの町だったのですが、今、例えば私が品川から鎌倉に行こうとして横須賀線に乗ると東海道をまっすぐ行かず、武蔵小杉に行きそこから横浜に行くのです。品川から一〇分くらいで武蔵小杉に着くのでびっくりです。そんな便利な場所になったので武蔵小杉は、近頃大繁盛の街。高層ビル立ち並ぶまちです。
 今年の原爆展が二月で、例年より早いと思ったのですが、そんな武蔵小杉なので、中原市民館のギャラリーは超人気で、場所取りの抽選で大変、やっと取れたのがこの二月末だったのですって。でも八月になると平和、原爆で大騒ぎし、八月を過ぎると忘れてしまうのは困るから、いいではないの!と言いました。
 ギャラリーの真ん中の机を囲んでの話しあい、参加者は多くないのですが、みなさん熱心で良かったです。私も自分の体験、建物疎開作業のこと、そして被爆者の思い、核兵器禁止条約のこと、日本政府への怒り、思う存分話させていただきました。
 この原爆展が第八回というので、私、この会に姉と話しに来たことがあったので、聞いてみました。「そうですよ。あの時(二〇一〇年一〇月)が第一回です」と言われるのです。姉、黒川万千代はその年、急性白血病を発症いたしました。でも、「データは悪いのに」とても元気だったのですが。彼女が病気になったというので、今まで被爆の話をさせてもらっていたところが全部断ってきました。姉の体を心配してくださったのでしょうが、「死ぬまで話をしたい」姉は、残念に思っていました。そこへこの中原の話です。おまけに私も一緒です、私と姉が二人一緒に原爆の話をしたことはなく、これが初めてで姉は大いに張り切り、語り、心から喜んでいました。この年の暮れあたりから姉は急に衰え、亡くなりました。その半月後に3・11。福島原発の事故を知ったら姉はどんなに怒っただろう、あの前に死んでいてよかったと私は思いました。
 この第一回に参加した方が、その時の写真を持ってきてくださいました。姉の顔は本当に元気そうです。でも抗がん剤で髪が抜けているのでしょう、帽子をかぶっています。横に座っている私も若いです!この時まだ七〇代だったのだ!と思いました。そしてこの八年間の世に中の動きを思いました。あの時核兵器禁止条約ができるとは思わなかった。でもこれだけ日本政府がひどくなるとは思わなかった!と思いました。


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続・対話随想 №34 [核無き世界をめざして]

  続対話随想34 中山士朗から関千枝子様へ

                   作家  中山士朗

 今回、お手紙の返事をしたためようと思った矢先に、西田書店の日高さんから、私たちの 『ヒロシマ往復書簡』第1州から第Ⅲ集までを総括した書評が掲載された「図書新聞」が送られてきました。
ぞのなかに
 <核兵器禁止条約の実効性を要求し続けてきた関は、政権末期とはいえ、現職アメリカ大統領として初めて原爆地を訪れたオバマの広島訪問をめぐる事象に厳しい目線を向けていく。>
 評者が、最も惹きつけられた個所の説明がされていました。
 そして、
 <「核なき世界」という道筋に対しブレーキをかけているのは、他ならぬアメリカ政府をはじめとする核保有国の諸政府と、アメリカに追随するだけの日本政府ということは明確な事実だ。>
 と言明していました。
 その言葉と呼応するかのように、トランプ政権はこの二月二日に「戦略見直し」として小型核兵器開発を明記しました。つまり「核なき世界」の放棄を宣言したのです。
 さらに私が驚いたことには、この米国の戦略指針の見直しについて河野外相は、「米国による核抑止力の実効性の確保と、我が国を含む同盟国に対する拡大抑止へのコミットメントを明確にした。高く評価する」と表明しているのです。唯一の戦争被爆国として、核廃絶・核不拡散を訴えてきた主張との整合性が問われる発言内容ではありませんか。
こうした事実を整理しながら考えていますと、現在の各国の政治家に戦争を体験した者がいなくなったということでしょうか。そして、歴史から学ぶことを忘れた者に、政治を委ねる恐ろしさを感じないではいられません、先日、朝日新聞の鷲田清一氏の「折々のことば」の中に、元総理大臣・田中角栄氏のことばが引用されていました。戦争体験者が政治の中枢にいる間は大丈夫だ、平和について語る必要はないという趣旨の発言でした。それにつけて思い出されたのは、つい先頃亡くなった野中広務氏が反戦の信念を貫いて政治活動に終始したという新聞記事でした。
そして、この手紙を書いている最中に、古庄ゆき子さんから大分の「赤とんぼの会」紙が送られてきました。東京で開催された、女性「9条の会」主催による「盧溝橋事件から80年/戦争の始まりを考える」会の記事が載っていました。その中に関さんが講演された「教育勅語ってなあに」が古庄さんによって要約、解説されていました。時を同じくして、関さんの手紙が届きました。
 手紙には、国連コーディネーターであり、平和活動家であるキャサリン・サリバンさん、川崎哲さん、山崎玲子さんが語る「なぜヒバクシャを語り継ぐのか」という会、女性「9条の会」の」山内敏弘一ツ橋大学教授を招いての学習会、さらに竹内良男氏の会主催の元京大教授・小出裕章先生による放射能に関する講和などに出席されて、絶えず、見識を深めておられることを改めて知りました。
 それに比し、同じ被爆者でありながら、今の私は、限られた余命をいかに生きるか、そのことのみ考えて暮らしているのです。以前、手紙に書きましたように書ける間は書く、つまり書くことが私の命です。被爆後、精いっぱい生きてきたことの証として書き残しておきたいのです。
 こうして関さんへの手紙を書いている最中にも昨日(二月一〇日)の大分合同新聞・朝刊に河内光子さん訃報記事が出ていました。
 
 河内光子さん  一月二二日、副甲状腺腫瘍のため広島県廿日市市の病院で死去。八六歳。広島市出身。葬儀、告別式は近親者で営んだ。一三歳の時、爆心地から一・六キロにあった旧広島貯金支局で被爆。約三時間後、現在の広島市南区にある御幸橋でセーラー服姿のまま応急処置を受けている様子が中国新聞カメラマンの写真に収められていた。

 河内光子さんにつきましては、私たちの『ヒロシマ往復書簡』第Ⅲ集の70「閉ざされていた写真」のなかで書いています。これは、関さんも私も観ましたNHKテレビ番組「きのこ雲の下で」のなかで、この写真が七年間閉ざされていたという解説があり、関さんがNHKに問い合わせたことから話題となったものでした。関さんも私も直後にその写真を見た記憶があったからです。
 その写真が被爆後二八年経った昭和四八年六月二三日、広島平和記念館で開かれたヒロシマ・ナガサキ返還被爆資料展の会場で「一番手前にいる女学生(三角エリに一本線が入ったセーラー服)は私です」と名乗り出た婦人がいた、と報じられたことからNHKはそのように解説したのでした。今、橋の西詰めには,この写真を嵌め込んだ記念碑が建てられています。
 このように書簡を交わすたびに、私たちと同年代の被爆者の死を伝え聞かざるを得ませんが、生かされている間は筆をとり続けたいと願っています。


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続・対話随想 №33 [核無き世界をめざして]

 関千枝子から中山士朗さま

              エッセイスト  関 千枝子

 昨日(二〇一八年一月二二日) 国会が開かれ、総理の施政方針演説が行われました。トランプのアメリカについてゆく、憲法は大いに論議してほしいと、年頭の記者会見より“控えめ”ですが、改憲への熱意ありありです。心配一杯の年明け。憲法改悪も、今年が山でないかと思っております。
 安倍総理の施政方針で“もちろんのこと“でしょうが、核兵器禁止条約のこと一言も触れていません。先日、ICANのフィン事務局長が来られた時も、忙しいとか日程が合わないとかで会いもせず、フィンさんと国会議員の対話の会でも、外相に代わって(外国訪問中)の外務副大臣は、フィンさんと目を合わそうともせず、ひたすらペーパーを読み上げるだけ。結局核の傘に守られている日本は立場が違うと言うのですが、誠にみっともない、「唯一の被爆国」と言っているにに、何をしているとわめきたい気分でした。
 フィンさんは、NHKテレビの九時のニュースでインタビューに答え、「いろいろの考えがあるのは、十分承知している。問題は。それで終わらせないで、議論してほしい、本当に核の壁が役に立つものか、議論を盛り上げてほしい」と言っておられました。その通りだと思うのですが、政府に合わせて、というわけではないでしょうが、核兵器禁止条約のことは、これで終わり、現実は難しいよ、と言った考えが世間に横行していて、条約のことはこれで終わり、被爆者の証言だけは好きなだけやりなさい、と言った空気になっているのではないかと、心配です。
 安倍首相の施政方針について各党の質問が行われていますが、日本共産党の志位さんの質問にも核兵器禁止条約とそれに署名もしない(もちろん批准しない)政府の態度についての質問はありませんでした。もちろんほかの党も。条約のことはもう“すんだこと”みたいです。志位さんの質問で、沖縄の米軍機の事故が相次いでいることを言ったのですが、それについて内閣府の松本文明副大臣が、「それで何人死んだんだ」とヤジを飛ばし、問題になり、結局辞任しました。国会が始まって早々の暴言とお決まりの辞任騒ぎですが、あまりの発言にあきれ果てます。これで安倍人気は相変わらず高いというのですが、本当に、この国どうなっているんだ、と言いたい。
 とにかく、核兵器禁止条約の問題このままうやむやになっては困ると私イライラしています。先日、「なぜ、ヒバクシャを語り継ぐのか」という集会があり、国連軍縮コーディネーターであり平和活動家であるキャサリン・サリバンさん、川崎哲さん(ピースボート共同代表、ICAN国際運営委委員)、山田玲子さん(東京都の被爆者組織・東友会の副会長)が語るというので行ってきました。皆さんとてもいいことを言われ、共感できるのですが、どうして日本政府を動かせるかというと、川崎さんにしても、私たちの意見を広げていく(この会での話を一人でも多くの人に伝える)、地方議会にはたらきかける(議会の意見を国にあげる)日本の自治体の9割は平和市長会議に入っているのでこれはかなり力になる、そして自分の選挙区の国会議員に働きかけるという風なことでしたが、何だか私、むしゃくしゃ腹が立ってきました。私たちも、今までいろいろの集会で、今日話したことを一人が一人に伝え、広げていこうと何度も話し合いました。でも…。本当に広がっていったのか、そんなことでは権力側の圧倒的な宣伝にかなわないのではないか。地方議会の決議にしても、「慰安婦問題」などでずいぶん努力しました。いい決議を出した議会もあります。だけど、それで問題が広まったか。地方議会のことはあまりメディアも書きませんし、一般の人には.広がらない。国会議員など今の国会のあり様を考えると、絶望的です。もっと国民の議論を盛り上げる効果的な方法はないのだろうか。考えてしまいます。この日の集会の主催団体は「被爆者証言の世界ネットワーク」という団体でこの証言集会に続けて、大学などでワークショップを開くらしいのですが、そんな試みもメディアは無視のようです。
 とにかく、かなり多くの人が「核抑止論」を信じていることは確かです。北朝鮮の脅威が言い立てられるとさらに不安は高まります。しかし核抑止論=核を持つ国を増やさないというやり方では結局核を持つ国を増やしてしまい、北朝鮮のような国が出てしまった。しかし、北朝鮮の核に大騒ぎをしている、そ.れなのに、七〇〇〇発以上も核兵器を持っているアメリカに何の恐れを持たないおかしさ。この間、なにかのミスで、ハワイで、ミサイル攻撃があると大騒ぎになったようですが。私はあの「間違い」を笑えません。核兵器の発射ボタンを間違って押す危険性だってあるわけです。私は、トランプさんが核ボタンを押してしまうのではないかと、その方が怖いです。
画期的な「核兵器禁止条約」、なんとか日本政府の考えを変えさせる方法はないものか、せめて世論を盛り上げることはできないものか、私は今かっかとしています。
 一月一九日には女性「9条の会」の学習会で山内敏弘先生(元一ツ橋大学教授)のお話を聞きました。はじめ希望者は二十数名で心配しましたが、最終的に四十人以上集まってホッとしたのですが、もしかしたら先生はもっと大きな集会を期待されていたのではないか、と思いました。昔、山内先生に来ていただいた時(一〇年くらい前かな)百人近い人が来たと思うので。でも、私たちの会も高齢化し、今、四十人参加者を集めるのはしんどいです。山内先生のお名前を知る人も減ってきた感じです。結局若い方で憲法に興味を持つ方が増えていないということでしょうか。でも、私は最終的に四十人集まったことに少し力が出、元気を出そうと思いました。山内先生の話もとても分かりやすくよかったです。
 安倍首相は、憲法9条はそのままにして3項を付け、自衛隊の存在を憲法に明記すると言っています。これだと「自衛隊の存在は国民のほとんどが認め、愛されているのだから…・ということで、そのくらいいいのではない?」と思う人もいそうですが、この3項追加は、とても恐ろしいことになる、と話されました。日本の社会全体が「軍事優先主義」に転換し、徴兵制や軍事的徴兵制が合憲化する、現在の自衛隊法では防衛出動時に土木建築や輸送を業とする者に業務従事命令を出すことができるが、罰則はないが。これらについて罰則が制定される恐れがある、自衛隊の基地建設のための強制的な土地収用も合憲となる、軍事機密が横行する、防衛費はますます増え、社会保障費が削減されるだろう。軍学共同で学問の自治、大学の自治も制限される、自衛官に対する軍事規律は強化され、敵前逃亡や抗命在が死刑になる可能性が高い、など、驚くような変化が起きることが話されました。怖い怖い。私は一九四六年、はじめて新しい憲法の案が示された時、「戦争放棄」の言葉に、原爆で全滅した友のことを思い、彼女らが生きていたら、と思いました。そして戦争なんかいらない、軍隊なんていらない、と思いました。
「戦争をする国」にどんどん近づいていきそうな今の様子ですが、とにかく戦前には戻らせないと、心から思います。
 この次の日、一月二〇日、例の竹内先生の会の主催で元京大の小出裕章先生のお話を聞く会がありました。この日は173人の会場が満員で参加を断わるありさまでした。しかし聞けば聞くほど放射能の怖さを思いました。人間は、地球上に普通では存在しないプルトニウムという恐ろしきものを作ってしまった。プルトニウムは核兵器を作るよりほかにどうしようもない代物。そのプルトニウムを作り出す原発をまだまだ使い続け、輸出までしたいこの国、本当に恐ろしいです。


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2017オスロ訪問記 №3 [核無き世界をめざして]

オスロで感じた核なき世界への熱い思い
    2017・12・5~15 オスロ訪問記 3

          丸木美術館理事長  小寺隆幸・美和

12月11日夜 Nobel Peace Prize Concert  核廃絶のメッセージが若者達に
           
オスロ2-1.jpg 翌日、オスロ郊外のテレノアアリーナで恒例の平和賞コンサートが開催されました。私達は若いSさん夫婦と一緒に参加しました。彼女が中学生の時に隆幸が東京で教えたのですが、その後オスロ大学大学院で学び、ノルウェーの方と結婚し、オスロの博物館で働いています。
 このコンサートはノーベル平和賞委員会主催。平和のメッセージを広める目的で1994年から毎年行われています。2年前から会場をこのノルウェー最大の屋内アリーナに移し、若者たちに平和賞のメッセージを伝えるため若いタレントを毎年招いています。今年は6歳から15歳の子どもたちのサーカスLe Petit Cirqueをカリフォルニアから招きました。またノルウェーやスウェーデンの若い人気歌手も出演していました。
 司会はナイジェリア出身のイギリス人俳優Oyelowoさん。彼はマーチン・ルーサー・キング牧師を演じてゴールデン・グローブ賞にノミネートされた俳優です。またナイジェリアでテロリズムの影響下にあった少女たちの教育とリハビリのために基金を創設して活動する人権運動家でもあります。だからこそ司会として彼が語った言葉の端はしに、核のない平和を希求する思いが込められていました。
 開幕前にスクリーンに映し出されたのはサーローさんの国連でのスピーチをアニメーションで表現した映像でした。これはキャサリンやロバートらが製作した“If You Love This Planet”で、サーローさんのメッセージを世界中の人々に届ける素晴らしい映像です。下記でご覧いただけます。 
オスロ2-2.jpg 熱気あふれるステージが始まりました。それと共に、核の問題を考える様々なメッセージが何度も挿入され、また司会者や歌手たちも自分の言葉で平和への願いを語っていました。歌の合間に前日の授賞式やトーチパレードの映像、核に言及した過去の平和賞受賞者、ノエルベーカー、キング牧師、エルバラダィ、佐藤栄作、IPPNW、バグオッシュ会議、ダライラマ、オハマ大統領などのスピーチの抜粋が挿入されました。また世界各地の市民や子どもたちの呼びかけが映し出されました。その中に知人でメキシコ在住の被爆者山下さんもいました。その映像が歌と調和し参加者の思いが高まる中でLe Petit Cirqueの子ども達が人と人とが支えあう平和な世界を表現したのです。
オスロ2-3.jpg 続いてサーローさんの国連演説の映像が映され、世界各国駆け付けたICANのメンバーがステージに上がりました。中央に被団協の田中さんや藤森さん、横オスロ2-4.jpgに川崎さんやキヤサリンもいました。
 さらに核実験のフイルムを逆回しにした映像も流れました。きのこ雲が収束し消えていく様子は核のなくなる世界を暗示しています。そしてメインの被爆ピアノの演奏です。レジェンさんが弾き、スウェーデンの19歳のザラ・ラルソンさんと共に“God Only Knows ”を歌いました。「きみがいない、そんな世界は意味がない」と歌い終わると大きなLOVEが浮き上がりました。
オスロ2-5.jpg オスロ2-6.jpg再び平和賞受賞者のマララ、マンデラ、ゴア、マータイさんのメッセージ。最後はレジェンドさんの熱唱。歌い総立ちの拍手がなりやみませんでした。会場を埋め尽くした1万の若者たちや市民が芸術を通して核のない世界への思いを共有した瞬間でした。

12月12日 Ban the Bomb 展開幕
オスロ2-7.jpg
 翌日正午からノーベル平和センターで「核兵器を禁止せよ」と題する展覧会が開幕。来年11月まで1年間展示されます。そこで私達は副館長のLiv Astrid Sverdrupにお会いす
ることができました。実は10月6日にノーベル平和賞がICANに決まった翌日、Livさんから旧知の山根さん(立命館大学国際平和ミュージアム・前副館長)にICAN受賞に関連した1年間の長期展示への協力要請があり、山根さんは「原爆の図」の展示もLivさんに薦めてくださったのです。そのことをお聞きし、来日するLivさんを成田でお迎えする予定でしたが、関空着に変更となり、広島・京都のみを訪問し帰国するというタイトな日程ですので結局お会いできませんでした。そこでオスロでオスロ2-8.jpgお会いし「原爆の図」について知っていただくことも今回の訪問の目的でした。Livさんはスペースの関係で「原爆の図」が展示できないことを残念に思うとおっしゃり、わざわざ私達を案内し説明して下さいました。
 この展示の中心は写真家SimChiYinが撮った“Fallout”と題された5セットの2枚組写真です。すべて米国と北朝鮮の核施設の写真をセットにしたものです。写真左はアリゾナの大陸間弾道ミサイル基地のタイタンⅡミサイル、右は北朝鮮のミサイル基地がある地域の写真で、中国国境から撮ったものです。ほかにも北朝鮮の核施設の煙突とアメリカバンフォードに1944年に作られたプルトニウム炉の煙突の対比など考えさせられるものばかりでした。Simさんは、「21世紀に核実験を行っている唯一の国と、最初に核実験をして使った国。両国は核の方程式の両端にあるが、脅威とそれに対抗する脅威の危険なサイクルの中に“今日”は閉じ込められている」と書いています。日本では北朝鮮の悪だけが語られますが、今も世界を何回も破滅させる核兵器を実戦配備している巨悪は語られません。この展示は現実を冷静に本質的に見る重要性を提起しています。
 ここでは平和賞にちなむ展示を毎年行っていますが、誰が受賞するかわからない8月時点で優れた写真家を選び、受賞が決まり次第2か月で関連展示を創るという契約をするそうです。Simさんも10月6日に初めて核兵器禁止をテーマとすることを知ったのです。それから短期間で構想を決め、北朝鮮の国境に近い中国の村やアメリカの6つの州を駆け回ってこれらの写真を撮ったそうです。
オスロ2-9.jpg 別の部屋にLivさんが日本から運んだ遺品5点が展示されていました。広島平和資料館の防空頭巾とかばん、長崎原爆資料館のロザリオと腕時計、立命館国際平和ミュージアム所蔵の弁当箱です。広島・長崎の写真の前でスタッフの方が参観者や授業として来た高校生に説明していました。オダネルが撮った「焼き場の少年」は何を物語っているかと問いかけていることに共感しました。
 オスロ2-10.jpgほかにも原爆ドームの中をヴァーチャルリアリティで体験するコーナーなどもありました。これから1年、オスロを訪ねる世界の多くの人々がこの展示から核を考え始めることでしょう。
 核問題ではありませんが、1階の〝Shifting Boundaries”、屋外の“Wall on Wall”という写真展も印象深いものでした。また午前中に訪ねたオスロのホロコースト博物館でもいろいろ考えさせられたのですが割愛します。
 国内世論調査では核禁止条約に日本も加わることに賛成が57%。秋田や岩手などでは7割の自治体で条約参加決議が挙がっています。被爆者国際署名も広がっています。来年はその声をさらに広げ、日本政府に翻意を迫るよう取り組むことが国際社会に対する被爆国の市民としての責務だと思いました。米国がいっ北への軍事行動に踏み切るかもしれない今日、戦争になれば真っ先に犠牲になるのは何十万もの北朝鮮、韓国、そして沖縄の民衆です。だからこそ核禁止は私達の切迫した課題です。Livさんは「廃絶は可能である。夢を現実にすることができる」と書いています。あきらめず光を目指して這ってでも行く、その思いを持ち続けようと思います。


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続・対話随想 №32 [核無き世界をめざして]

   続対話随想32 中山士朗から関千枝子さまへ

                   作家  中山士朗

 新しい年に入っての関さんのお手紙、しみじみと読ませて頂きました。
 同年代の被爆者の死、これまで核廃絶の運動を支えてくださった多くの人々の死が告げられていました。そうした状況の中で、丸木美術館の小寺隆幸・美和ご夫妻の「2017.12.7〜15オスロ訪問記」は貴重な記録だと思いました。とりわけ12月10日の授賞式とスピーチ、講演の内容は、記録にとどめ、後世に引き継がなければならないことだと思いました。関さんが提案されたように、知の木々舎さんにお世話願えれば、私たちの往復書簡がいっそう生きてくるのではないかと思われます。
 辰濃和男さんの死去、昨年の12月13日の朝日新聞で知りました。辰濃さんは75〜88年にかけて「天声人語」の執筆を続けられ、2015年から昨年4月までたびたび沖縄を訪れ、体調を崩した後も車椅子で取材を続けておられたことを記事で知りました。
 私は、辰濃さんが執筆されていた当時の「天声人語」は、丹念に読んでいました。その美しい、余分なものを削り取った文体、透明な感性に惹かれていました。関さんの手紙にありましたように、私がエッセイスト・クラブ賞を受賞した日、会場で選考委員として私の文章を褒めてくださいました。私にとって終生忘れ得ぬ記憶となったのでした。今回の関さんのお手紙によって、辰濃さんが私たちの『ヒロシマ往復書簡』を読んでいて下さったことを知り、大変嬉しく思いました。
 余談になりますが、私は吉村昭研究会の機関誌に「私の耳学問」と題して、吉村さんが日常何気なく話された言葉を思い出しながら、連載(現在16回)で書いておりますが、このたび必要があって辰濃さんの文章を引用したものを書きました。
 引用したのは、2004年に岩波書店から発行した日本エッセイスト・クラブ編『父のこと 母のこと』の、辰濃さんの「あとがき」の言葉でした。受賞式の日、吉村さんも出席してくれていましたので、辰濃さんの私の作品への言葉を聞いていました。
 その本ができた時、私は吉村さんに送りました。折り返し吉村さんから「良かったな」というお祝いの電話をもらいました。
 この本は、日本エッセイスト・クラブ賞が五二回目を迎えた記念に作られたもので、受賞作一五〇編の中から選ばれたものでした。このたび改めて開いてみますと、二十名の人の作品が収録されていて、その中に関さんと私の名前がありました。ほかに、小林勇、森茉莉、竹田米吉、萩原葉子、庄野英二、大平千枝子、石井好子、安住敦、坂東三津五郎、芥川比呂志、高峰秀子、沢村貞子、篠田桃紅、渡辺美佐子、志村ふくみ、中野利子、柳沢桂子、岸田今日子さんなど、著名な人の名前が連なっています。

 そのときの<あとがき>です。
   娘が父のこと、母のことを書く。
   息子が母のこと、父のことを書く。
   そこにはさまざまな形で描かれるさまざまな
   日常のできごと、日常の物語があるのだが、
   いってみればそれは書かれる側、
   つまり母であり、父である人の
   <愛する>という動詞の具現なのだ。
   親と子の間にもろもろの感情――反発、怒り、
     嘆き、悔恨などなどなどが含まれていようとも、
     子が描く父、母の像はなべて私には
     たまらなくなつかしく思える。
 私はこの文章を引用した吉村研究会の四十号記念誌を日本エッセイスト・クラブ事務局の飯山千枝子さんに送りました。辰濃さんのお目に止まれば、と思ってのことでしたが、かないませんでした。
 その直後に、辰濃さんの死を新聞で知りました。十二月六日、老衰のため東京都内の病院で死去。享年八十七.私と同年だったことに、感慨深いものがあります。ここで改めて。ご冥福をお祈りいたします。
お手紙にありました佐伯敏子さん、丸浜江里子さんの死がありました。
 佐伯さんにつきましては、昨年十一月十九日の朝日新聞、鷲田清一氏の「折々のことば」には手記「ヒロシマに歳はないんよ」から、 
      ヒロシマには歳はないから。
      あの日のまま何十年たってもあの日そのまま
      
 の鋭い言葉が引用されていました。
 今一つは、ローマ法王が被爆写真の配布を指示したというニュースでした。
 この写真はナガサキで撮影されたもので、亡くなった弟を背負った少年が火葬場で順番を待っている姿を映したものでした。この写真をカードに印刷し、「戦争が生み出したもの」との言葉をつけて広めるように指示したとありました。そして「かみしめて血のにじんだ唇により悲しみが表現されている」、また「これが戦争の結果」だとメッセージを送っています。法王は昨年十一月に核軍縮をテーマにしたシンポジウムの参加者に「核兵器は人類の平和と共存しない」と述べるなど、核廃絶を求めるメッセージを世界に投げかけていると報道されています。


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続・対話随想 №31 [核無き世界をめざして]

  続対話随想31 関千枝子から中山士朗さまへ

              エッセイスト  関千枝子

 二〇一八年の年が明けました。とりあえず、新しい年を祝いたいのですが、安倍首相の年頭所感が、明治礼賛、明治維新一五〇年キャンペーン、そして、「新しい時代にあるべき姿を示す憲法」に改憲したいというのですから、いやになってしまいます。私は、今こそあるべき姿は「戦争放棄」だと思うのですが。そして「核兵器禁止条約」のことなど、もう、彼の頭にはないようです。
 
 昨年は、核兵器禁止条約が国連で採択され、それに関連してノーベル平和賞をICANが受賞するといううれしいことがあったのですが、それに対する日本政府の態度、本当に腹立たしいものがあります。このままにしておいたら、条約のことも、また、忘れ去られていくのではないか。どうしたらいいか、イライラしています。私は、昨年参加したある会で、日本政府に条約に署名批准せよという請願署名をしたらどうかと提案したのですが、誰も相手にしてくれませんでした。国連への署名はまだ続いていますが、私、世界の平和運動家たちは、ヒバクシャに、「まず、あなた方の政府をどうにかしなさいよ」、と言っているのではないか、と思ってしまうのです。署名五百万集めた、だけど選挙したら、条約に冷たい政府が圧倒的に勝利。日本という国いったいどうなっているの、と言われているような気がしてなりません。
 
 ノーベル賞授賞式、サーロ-節子さんの演説も立派だったし、オスロには大勢の世界の平和主義者が集まり素晴らしかったようです。丸木美術館の小寺理事長がオスロに行かれた報告書を出されました。詳しい報告で、私たちの知らないことがいっぱい。これを岡村さんの割り込みのように、私たちの書簡の間に入れてもらったらどうかしら。知の木々舎に相談してみるつもりです。

 さて、昨年ですが、多くの先輩同僚、友人たちを失くしました。多くの被爆した友人たちも世を去りました。人には寿命があり、死は仕方がないと言えばそれまでですが。
原爆関係でなくても、例えば、朝日新聞の元「天声人語」欄の辰濃和男さん、残念でした。辰濃さんは天声人語で私の『広島第二県女 二年西組』のことを書いてくださり、それでたいそう本が売れたのですが、その後も図書館のことなどで何度か書いていただいたのです。中山さんの『原爆亭おりふし』が、エッセイストクラブ賞受賞の時、辰濃さんはクラブの理事長でしたが、受賞作選評の時、評担当者がなんだかわけわからないことをしゃべり、ちょっと嫌な感じだったのですが、辰濃さんが、中山さんの文章の美しさを言ってくださり、ほっとしたことを覚えています。
 私たちの往復書簡も差し上げていたのですが、「いいお仕事をしておられますね」というお葉書いただきました。その時、沖縄の取材に行っている、これがひと段落してからゆっくり感想を書きますとあり、心待ちしていたのですが、その後、お便りもなく第Ⅲ集が出た時、お邪魔ではないかとお送りしなかったのです。それが‥‥。新聞で訃報を知り驚きました。辰濃さんは自然に強く、四国の巡礼などもされ、足腰の丈夫な方で、ずっと長生きされると思っていたのです。ショックでした。
 ヒバクシャも肥田舜太郎さんはじめ、多くの方が亡くなりましたが、佐伯敏子さんを偲ぶ会に参加したことを報告したいと思います。佐伯さんは、親族一三人を失い、その被爆体験は鬼気迫るものがあります。原爆供養塔の清掃を四〇年続け、遺骨の身元捜しにも、力を尽くされました。佐伯さんは、もっとも有名な語り部(彼女は自分では語り部とは絶対言わなかった。証言者です、と言っておられたそうです)です。東京で偲ぶ会があるというので参加しました。例の竹内良男さの会で、堀川恵子さん(『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』の作者)などの呼びかけで、東京でやるというので、伺ったのですが、、七七歳で倒れてから二〇年、広島でも彼女をよく知る人は少なくなっており、広島では偲ぶ会を開けないと聞き、びっくりしました。佐伯さんは倒れて施設に入られてからも、訪ねてくる方たちや、メディアの人には、積極的に対応し、語られたと聞いているのですが。
 行ってみると受け付けは石川逸子さん。昔の東京都葛飾区上平井中学の先生だった方がいっぱいおられ、しばらく、など挨拶され、驚きました。やがて、その訳が分かりました。佐伯さんは、自分のすさまじい体験を手記にまとめ、広島の学校などに送り、体験を若い人たちに伝えたいと思ったのですが、どこからも反響がなく、がっかりしていました。そこへ一九七六年、上平井中学のヒロシマ修学旅行が始まりました。上平井中学の江口保先生は、中学、女学校の慰霊碑の前で、遺族を探し出し、娘や息子を亡くした体験を語ってもらうことを企画していました。人前でしゃべったことなどないからと尻込みするお母さんたちを励まし、語らせました。生徒たちは感動し、お母さんたちはやがて「語り部」と呼ばれるようになるのですが。そんな中で、江口さんは佐伯さんの存在を知ります。佐伯さんの熱い証言、上平井中学の先生の思い、ぴったり合い、長い交流が始まります。石川逸子さんも、この時上平井中学の先生だったのです。 話を聞くほどに,佐伯さんと先生方との思いのつながりが分かりました。
 佐伯さんの証言のすさまじさには圧倒されます。一三人もの親族を亡くしたこともですが、親族との葛藤も率直に書いています。あの戦時下、みな自分の家庭があり、まず、家族に食べさせなければなりません。親類でもすげなくせざるを得ないことがあります。ほかの地の空襲でも親を失った子が親類に引き取られ(国が面倒を見ないので、無理やり押し付けられ)親類にいじめられ、いまだに自分の体験を書けない人がいます。親類への遠慮で。佐伯さんの証言は誠に率直。きれいごとでない真実が分かるのです。しかし、その後、親戚とのトラブルは無かったのかしら。
 佐伯さんのことは四〇年にわたる供養塔の清掃がありその名は忘れられないと思いますが、上平井中学の江口先生のことなども、もはや多くの方が知らなくなっていることも残念です。彼は上平井方式と呼ばれるヒロシマ修学旅行を作り出しました。当時は今と違いひとつの学校に長くいられた。修学旅行に熱心な先生方は上平井に長くとどまり平和教育に頑張ったのです。江口先生は定年後も広島に部屋を借り「ヒロシマ修学旅行を助ける会」を作りました。もちろんボランティアです。退職金も年金もつぎ込んでの活動でした。、江口先生も、もう一つヒロシマでは評判が良くなかったようで、亡くなられた後も広島に胸像を作ろうという話があったのですが、そのままになっています。江口さんも実に率直にものを言われる方だったので、煙たく思われたのかもしれません。
 ヒロシマ中学旅行も激減、いま東京の公立校などゼロに近い状況です。上平井中学もすっかり変わりました。上平井のヒロシマ修学旅行の記録どこかに保存されていると聞いたことがありますが、本当に残っているかどうか心配なことです。
 「佐伯さんを偲ぶ会」には広島からも多くの人が駆け付け、二次会もにぎやかにやって,実のある会でした。
 
 このあと、一二月一二日には丸浜江里子さんの葬式がありました。丸浜さんが癌であることは知っておりましたが、私より一〇歳以上若い丸浜さんの死は衝撃でした。彼女は杉並の草の根の人々の原水爆禁止署名のこと(第五福竜丸の被曝を受けて)に関心深く、その研究を一冊にまとめ本にしたばかり。九月にこの話を、竹内さんの会で報告され、それを聞いたばかりです。その時も、私、体のこと気遣ったのですが「大丈夫」と顔色もよく見え、少し安心していたのですが。
 彼女は私の女性ニューズ時代、「最後の、ヘビーな取材をした人」です。都立の学校で式の時の日の丸君が代の強制が厳しくなり、式のマニュアルも決められ、その通りにしないとダメ。都立高校にはそれぞれの学校でユニークな式があった、都の教育委員会は少しおかしいのではないかと、保護者達が立ち上がった。その中心が丸浜さんで、取材してしっかりした考えに感動、この闘いの後も交流が続きました。彼女が元教員で、歴史の研究者であることも知りました。原爆のことに興味を持つ彼女は、八・六に広島に来てくれ、私、広島中を引っ張りまわし、熱中症寸前の状態にしたこともあります(すみません)。
 彼女はずっと杉並の住人で、杉並に対する思いも強かった。それで彼女の興味が杉並の女たちから始まった原水爆禁止署名になったということもあるようです。そして彼女は熱心で、とことんやる人でした。昨夏頃から秋にかけ、彼女からくるメール、情報が主ですが、量も多くて、私は「鬼気迫る」ものを感じていました。
 彼女の葬式にはたくさんの方が来ておられました。当然ですが、会場が狭くて大部分の人は式の間中、外にいることになりました。天気が良かったので、まあ、よかったのですが。それにこのごろの葬式、友人の弔辞などなくて、電報をいくつか読み上げるだけ。ほかにもこんな葬式があり,このごろの斎場、時間を早く切り上げるためか友人の言葉などなくて、電報をいくつか読み上げただけ。この日は、最後に遺族の話があり、お連れ合いだけでなく、もお子さんたちもそれぞれ語られたのでよかったのですが。
失礼ですが、私はなんとなくお連れ合いが江里子さんの実力を「軽く見て」小さい斎場を選ばれたのではないかと思ったりしました。実は前にもこんなことがあって。その時は備える花までがたりなくなって、いったん捧げた花を下げて、もう一度使うありさまでした。丸浜さんの時はそれはなく、花は十分ありましたが。
 しかし、丸浜さんの市民運動への業績を語る言葉、欲しかったなあ。
 丸浜さんの共通の友人と式場で会ったのですが、丸浜さんは「人を仲間に誘うことがとてもうまかった」のですって。そして仲間に入れてしまうと、あなたはこれをして、と役を分担させることもうまかったそうです。私たちそれが下手で、つい一人で背負い込むことが多いのですが、彼女はとてもそれがうまかった。だから今日こんなに多くの仲間が来たのよ、ということでした。そして二人が交わした言葉は「とにかく彼女はやるべきことを最後まで(死の直前まで)やったわね」ということでした。すぐれた方のあまりにも若い死。本当に残念です。


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2017オスロ訪問記 №1 [核無き世界をめざして]

オスロで感じた核なき世界への熱い思い  
         2017.12.7~15 オスロ訪問記 1            

                                    丸木美術館理事長 小寺隆幸・美和 

 ノーベル平和賞授賞式に合わせてオスロを訪れました。核兵器廃絶国際キャンペーンICANの受賞は核なき世界を希求するすべての人々への激励であり、世界の仲間と共に祝いたかったからです。
  ICANの運営委員であるピースボートの川崎哲さん、被団協代表委員の田中照巳さん、ICANの中心メンバーであるヒバクシャ・ストーリーズのキャサリン・サリヴァンさんやロバート・クロンキストさん。彼らは皆2015年に行われた「原爆の図」アメリカ展の実現こ協力してくださった方々です。受賞スピーチをされたサーロー・節子さんとも、2015年 4月の評で会議の際にニューヨークで、翌年8月にはピーター・カズニックさんらの平和ツアーで広島でお会いしました。とりわけニューヨークで高校生に語られた時の感動的な場面について以前も書きました。(「戦争と性」2016年春号)
オスロ1.jpg その方々が世界101か国(地図の赤の国々)の468もの市民体と繋がり、草の根からの反核運動を作りだし、ついに核兵器止条約を制定させたのです。そして上記の皆さんは「原爆の図をその取り組みと結び付けようと働きかけてくださいました。
 核兵器禁止条約制定は1980年代からの被爆者の国際社会への訴えを原点に生まれたものですが、直接の出発点は2010年国際赤字の声明でした。それを受け、ノルウェー、メキシコ、オースリア政府が核兵器の非人道性についての国際会議を3回開催したのです。そして2015年春のNPT再検討会議でもオーストリアなどはNGOと協力して「人道の誓約」を掲げて訴えましたが会議自体は一致点を見いだせず決裂。そこで秋の国連総会に「人道の誓約」を捏起し128か国(日本は含まず)が賛同。こうして2016年から核禁止条約の議論を始めることが決まったのです。
オスロ2.jpg 「原爆の図アメリカ展」はこのようなターニングポイントの年に開催され、国連総会での議論が繰り広げられていたさなかに、オーストリア・メキシコ・日本の国連大使、国連軍縮上級代表、IC赴けメリカのNGOの方々らが「原爆の図」を見に来られたのです。それを組織してくださったのがサリヴァンさんとピースボートUSAでした。私たちの取り組みはささやかですが、核禁止条約の大きなうねりの一端となり世界の市民と繋がったのです。
オスロ3.jpg 10日の授賞式はオスロ市庁舎(写真上)で行われました。その中に入れるのは、ICANのメンバーも30名くらいです。世界から集まったICANの方々、日本から駆け付けた被爆者の方々と共に、私たちは市庁舎の向かいにあるノーベル平和センター(右中)でのパブリックビュウイングに参加しました。その会場の前でアルゼンチンの画家の方とお会いしました。彼女も反核を絵で表現されているそうです。神戸から高校生が折った千羽鶴をもって駆け付けた高校の先生ともお会いしました。
 会場内は日本から駆け付けた高齢の被爆者の方々も含め200名の人であふれ、スクリーンに映し出される実況中継を見ながら大きな拍手が起きました。
オスロ4.jpg

12月10日授賞式とスピーチ
 http//nuclearban>org/nobelでご覧になれます
 式は市庁舎の大広間で1時から行われました。国王や首相、閣僚、議員、各国大使らが列席。米国など核保有国の大使は欠席するという大人げない対応でしたが日本の大使は参列しました。
オスロ6.jpg
 まずノルウェー・ノーベル委員会のライスアンデシェン委員長が授賞理由を述べました。彼女は「核兵器の問題は政府や専門家だけの問題ではない。ICANは一般の人たちを新たに関与させていくことに成功した」、「核なき世界の実現への運動に新たな方向性と活力を与えた」と称えたのです。核兵器が再び使われる可能性が高まっているという危機感のもとでICANという新たな市民運動を支えるメッセージが込められていました。そして事務局長のベアトリス・フィンさんとサーロー・節子さんに証書とメダルが手渡されました。
オスロ7.jpg 続いてアメリカのジョン・フェジェンドさんがボブ・マーリンの「リデンプション・ソング」(救いの歌)を歌いました。その中で次のように歌われたのです。
 「精神的奴隷の状態から自分自身を解放せよ。俺たちの精神を解き放てられるのは他の誰でもなく俺たち自身なのだ。原子力など恐れるな。やつらに時まで止めることはできやしない。」
 オスロ8.jpg彼が招かれたのはグラミー賞受賞歌手というだけではないでしょう。彼はまたアメリカの刑事司法制度の改革を使命とするFree Americaキャンペーンを主宰し、受刑者の刑務所内における罪の償いと社会復帰を促進し、刑期を終えた出所者が希望を持ち更生できるよう支援を訴えています。http://digitalcast.jp/v/25084

 次に記念講演。2児の母である若いフィンさんの真撃でひたむきで力強いスピーチに共感しました。
 「批判する人達は、私達を非理性的で現実に基づかない理想主義者であると言います。しかし私達は唯一の理性的な選択を示しています。」
 オスロ9.jpg「核兵器は私達を自由にするとされてきましたが、実際は私達の自由を否定しています。核兵器による支配は民主主義に対する侮辱です。」
「核兵器禁止条約は暗い時代における一筋の光です。核兵器の終わりか、それとも私達の終わりか。核を持つ国が武装解除できると考えることは非理性的なことではありません。恐怖や破壊よりも生命を信じることは理想主義的なことではありません。それは必要なことなのです。」
 「私達市民は、偽りの傘の下に生きています。核兵器は私達を安全になどしていません。核兵器は私達の土地や水を汚染し、私達の体に毒を与え、私達の生きる権利を人質にとっているのです。私達の運動は、理性を求め、民主主義を求め、恐怖からの自由を求める運動です。私達は未来を守るために活動する468団体の運動員です。道義上の多数派の代表者です。死よりも生を選ぶ数十億人の代表者です。私達は共に核兵器の終わりを見届けます。」
 日本政府は「核の傘」が日本を守ると言います。「傘」というと防衛的なものだと錯覚している人も少なくありませんが、それは「偽りの傘」であり、自分たちが勝つためには相手国の民衆数十万を殺してもよい、広島・長崎を繰り返してもよいという論理です。そのことに真っ先に気づいた被爆者の声がフィンさんら世界の市民を動かしているとき、日本政府がそれに背を向ける、悲しい現実です。
 ICANは名もない草の根の市民の集まりです。わずかなスタッフですが、その一人がフィジーの女性だそうです。彼女は太平洋の核実験により死産や重い病気が引き起こされる現実を身近に感じてきました。広島・長崎の被爆者とともに、世界各地のヒバクシャの方々の核への怒りと悲しみを共有する世界の市民がICANを担い支え、国益のために人間を軽視する国際社会の「常識」に果敢に挑戦し、歴史を変える大きな一歩を踏み出したのです。


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続・対話随想 №30 [核無き世界をめざして]

 続対話随想30 中山士朗から関千枝子様へ

                   作家  中山士朗

 平成三十年の新年を迎えました。  
 天皇退位が二〇一九年に決まりましたので、「平成」最後の年となります。平成が終わるということは、昭和、平成を生きた私には、戦後が終わったことへの深い感慨をもたらします。私はこれまで元号が変わっても、何時も昭和の年数に換算して日々の生活を送っていました。ですから、今年は昭和九三年になるのです。
 「百年河清を俟つ」という中国の諺がありますように、ヒバクシャである私は、核兵器廃絶を心底から願っていました。しかし、その思いとは逆に世界は核抑止力を背景に拡大していくとき、昨年(被爆七二年。昭和九二年】の七月には核兵器禁止条約が採択され、一二月には、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)がノーベル平和賞を受賞し、被爆者の証言に世界の目が注がれるようになったのです。
 したがって、核兵器廃絶への一歩が踏み出されたばかりの、年頭の「ヒロシマ往復書簡」ということになりますが、平常どうりの心境で臨みたいと思います。

 お手紙を読み、戦争中に反戦を貫き、治安維持法で起訴されたクリスチャンが原爆が投下された時、広島刑務所に収容されていたということを初めて知りました。
 市内・吉島町にありました広島刑務所は、通称「吉島の監獄」と言われていました。私が通っていた中島小学校の近くにあり、友達のなかには刑務所の官舎に住む生徒もいましたし、学校から先生に引率されて刑務所の内部を見学に行ったこともありました。そして、中学校に入学して間もなく、広島刑務所の先の埋め立て地に陸軍飛行場が建設されることになり、モッコをかついで土を運ぶ勤労奉仕に駆り出されました。その時、母が縫ってくれた肩当てをあてがって、二人一組で暁部隊の兵士が盛ってくれる土を運びましたが、その重さが幼い私たちの肩に食い込み、腫れ上がった記憶がいま思い出しても鮮明に残っています。
 戦後になって、私が通っていた中学校は爆心地近くにあったため校舎は全壊焼失しましたので、市内・翠町にありました第三国民学校の間借り教室で授業を受けるようになりました、ところが、橋が決壊していたために、私の家がある舟入川口町から翠町に行くためには、広島刑務所のある対岸を行き来する渡し船を利用するしか方法がありませんでした。
 私たちはその船頭さんから、被爆当日の、彼の父親の話を聞いたことがありました。
 後で分かったことですが、吉島の陸軍飛行場建設作業に通っていたころに、私は彼の父親の船頭さんが漕ぐ船で対岸を行き来していたのです。私はこの話を渋沢栄一記念財団発行の『青淵』の平成一五年八月号の「水の上の残像」のなかで書いていますので、引用してみます。
 <父親の沖元重次郎さんは、原爆が投下された当日の朝も、いつものように渡し船を漕ぎ、吉島方面から江波や観音町の新開地にあった三菱造船や三菱重工に通う職員、工員、徴用工、動員学徒などを乗せて櫓を漕いでいた。原爆が投下された時刻には、川の中程で被爆したが、川面のことゆえ遮蔽物が何一つないために、ほとんど全身火傷に近い状態だったという。
 市の中心部から吉島に避難してきた被災者は、憲兵によって負傷の程度を確かめられ、乗船できる者とそうでない者とに分類された。その整理を青い衣服をまとった刑務所の囚人が手伝った。
 そのために、沖元さんは自身も負傷しているにもかかわらず、船が沈みそうになるほど被災者を乗せ、棹で水面を搔き分けながら舟を対岸に進めた。そして、折り返した。
 何度も往復しているうちに、沖元さんは体力を完全に使い果たし、夕方近くには、江波側の土手にしゃがみこんでしまった。>
 関さんの手紙に「<ヒバクシャ遺産の継承>などと言っても、吉島刑務所のことなど思いつく人はいないのではないかと思いました」と書いてありましたが、実は『青淵』の平成一六年九月号に「黄葉の記」という題で、広島刑務所に勤務中の安東荒喜氏の<ある書簡>という手記を紹介しています。
 この手記は、二一世紀への遺言という副題の付いた「いのち」という冊子に掲載されたものでした。この冊子は、大分県原爆被害者団体協議会、大分県生活協同組合連合会、大分県連合青年団が中心となって「聞き書き語り残し」実行委員会を設け、平成七年八月に出版されたものです。その中に故安東荒喜氏(明治二二年生まれ。昭和五〇年二月九日没。八五歳)の文章が私の目に止まったのでした。原稿が募集された折り、夫人の二三子さんが、ご自身の体験記に添えて、夫がかつて書いた被爆直後の被害状況報告書を提出した経緯があったので「ある書簡」とされたのでした。
 この「命」を贈呈してくれたのは、大分県被害者団体協議会の事務局長の佐々木茂樹さんでした。原爆が投下された時、佐々木家も安東家も同じ広島刑務所内の社宅に住まい、佐々木氏の父親と安東氏は同じ職場で受刑囚の矯正、指導に当たっていたのでした。安東氏は広島刑務所を最後にその年に退官され、出身地の大分に戻られましたが、佐々木氏の父親は、その後盛岡、札幌正管区、松江、山口、福岡と転勤し、大分刑務所長を最後に退官され、平成四年四月に八八歳で亡くなられています。
 被爆当時、七四,三四四平方メートルの敷地内には舎房、工場、官舎、宿舎などの建物があり、職員二五〇人、収容者一一五四人がいました。当日、広島刑務所に勤務中に被爆した安東荒喜氏が被害者報告書を認めておられなかったら、また、夫人がこれを今日まで保存されていなかったならば、私たちは広島刑務所における被爆の実相について知ることはなかったであろうと、紹介の冒頭に私は記しています。

      「ある書簡」
               大分市  安東荒喜 

客月六日午前八時十分 警戒警報及空襲警報発令下ニアラザル当市全域ニ亘リ空襲アリ
其後今尚、戦慄ヲ覚ユルモノ有之 当時小生ハ戒護課ニ於テ書類捺印中先異様ナル光線ヲ認メタルモ其何者タルヤヲ探知セズ  且最初ノ事デモアリ何等ノ不安ヲ感ズルコトナク依然検印中約十秒経過後大爆音ヲ聞クニアラズシテ突如「グラグラ」ト言フ一大音響ト共二戒護建物大破  天井ヲ始メ瓦其他ノ落下物無数 中二自分ハ二間位吹キ飛バサレテ戒護中央近クニ在ルヲ意識ス時真ノ暗黒(ゴミ散乱ノ為)間モナク外部ヨリ光輝ヲ認メタルヲ以テ其方向ニ脱出左前膊部ニ縫合四針ノ負傷ヲ始トシ外十数ヶ所ノ擦過傷ヲ受ケ上半身ハ血ニ染ミ其何人タルヤヲ判別出来ザル程ニ有之 戒護本部前ニ停立一瞥スルニ各工場各舎房共全部崩壊収容者ハ屋根ヨリ脱出スルモノ救ヲ求メルモノ阿鼻叫喚実ニ惨害の極ニ有之候
 軽症者ヲ督励救助ニ努メ併而、戒護検索に任ジ所内ヲ一巡スレバ各種通用門各非常門各事務室ハ何レモ一瞬ニシテ倒壊、各官舎ハ或ハ倒壊或ハ大破ノ状況ニシテ所内出火十ヶ所余ニ至リタルモ何レモ完全消火 火災ニ至ラザリシハ不幸中ノ幸イニ有之候
 右災害ニ依リ収容者即死十四名・重傷八十八名、職員即死四名(津国技手、山口技手、宮野部長・乗元教誨師)、重傷三名ニ有之  無傷ノモノハ職員及収容者ヲ通シ一人モ之無候
 工場又ハ舎房内ニ在リシ者ハ打撲傷 外部ニ在リシ在リタルモノハ光線ニ依ル火傷ニ有之候 市内ハ全部消失而カモ同時ニ各方面ヨリ出火消防器具ナク.消防ニ従事スル人ナク身ヲ以テ逃ゲントスルニ止ムル(後半略)

 後半は、子息の救出に出向くように都の所長の心配りが伝えられましたが、多数の部下、看守が家を忘れて救助に戒護に懸命に努力している現状を見て、折角の厚意を断り逡巡する心の内、そして後刻に調査をし、息子の死を確認した時の心境が語られていました。
 関さんが言われるように、広島刑務所に関しては、その沿革、敷地の規模に関する記録はありますが、被災状況の記録は見当たりませんね。しかし、被爆七二年の歳月を経て広島刑務所について語っている人々との出会いというか、縁というものを改めて感じています。

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続・対話随想 №29 [核無き世界をめざして]

  続対話随想29 関千枝子から中山士朗様へ

              エッセイスト  関 千枝子

 今日は、新しい話題を。実は私たちの往復書簡Ⅲ集を差し上げた伊藤真理さんから頂いた感想のなかに、石浜みかるさんのこと(正確に言えば彼女のお父さんのこと)が書いてありました。石浜さんのお父さん(石浜義則さん)はクリスチャンで戦争中に反戦を貫き、街頭で語り、「宮城遙拝」をしなかったため、治安維持法違反で起訴されました。原爆のとき、広島の吉島刑務所にいらしたのです。このことは一九九〇年頃、石浜さんが児童向けの小説の形でお書きになったのを私も読んだ覚えがありました。伊藤さんに言われて、はっと私も思い出し、石浜さんに連絡を取ってみました。吉島刑務所で被爆なんて体験談がそう出るものでなし、これから出ることはまあないでしょうから(当時刑務所にいた人は今生きていたら若くても九〇代後半でしょう)。
 石浜みかるさんはお元気で、さまざま資料を頂いたのですが、驚くことばかりでした。石浜義則さんは、二〇歳でクリスチャンになり、歯医者の下で働き、独学で資格を取り神戸で歯科医をしていたようです。石浜さんの教派はクリスチャンでも小さいグループで、教会もなく街頭伝道をしていたため、一九三三年に逮捕。アメリカとの開戦直前の一九四一年九月に再逮捕。一九四三年裁判で実刑判決。神戸の歯科医院を閉じ、妻子を妻の実家(瀬戸内海の周防大島)に預け、自分は広島の吉島刑務所で服役。
 八月六日原爆。広島刑務所は塀が高いので、その陰になり政治犯の受刑者五二人は全員無事。千人ほどいた刑事犯受刑者のうち四〇人が死に、三〇〇人ほどが重傷を負ったそうです。
 石浜さんたちは独房から出られず、大声で助けを求めていると、囚人の中で自主的に四人が扉を角材でぶち抜き、石浜さんたちを助けてくれました。四人中一人は朝鮮人だったそうです。当時朝鮮人の囚人は多くいて中には独立運動家もいたそうです。
 七日以後、体力のある囚人四〇〇人が遺体の片づけ作業に駆り出されました。広島の惨状は、この人たちから聞いたそうです。
  政治犯五二人は、八日に山口刑務所に移されることになり、数珠つなぎにされ広島の街を歩き、廿日市から汽車に乗り山口に。敗戦は山口の刑務所で聞いたけれども、一向に釈放されない。一〇月八日にまた広島刑務所に帰され、一〇月一〇日にやっと釈放されました。石浜さんは行き場のない三人の朝鮮人運動家を連れ、周防大島(妻の実家)に帰り、朝鮮人三人にご飯を食べさせたそうです。朝鮮人三人は、ここにしばらくいたのち、朝鮮に帰国しました。
  石浜義則さんは歯科免許をはく奪されていたので、九州でしばらく歯科助手をし、三年後に免許を返してもらい、神戸に戻り歯科医師再開、伝導も再開したそうです。
    三人の朝鮮人のうち、姜寿元さんは韓国被爆者協会理事になっておられ、三二年後訪日された時、再会。「ともに吉島刑務所にいた」という石浜さんの証言で姜さんは被爆者手帳を獲得したのだそうです。
 石浜義則さんは手記を残しておられるのですが、「長崎の証言」のなかで書いておられるので、広島の人は吉島刑務所の被爆のことなど知らないのではないか、「ヒバクシャ遺産の継承」などと言っても吉島刑務所のことなど思いつく人もいないのではないかと思いました。また刑務所は知っていても朝鮮人の独立運動家のことなど、考える人はいないのではないか、などさまざまなことを考えました。
    さらに石浜みかるさんは、キリスト教の「満蒙開拓団」のことも調べておられて、今、本をつくっておられ、その最終段階だそうです。満蒙開拓団のこと、私も関心を持っていまして(私の生まれたころ起こった満州事変、満州国のことに関連しますので)、満州国のもたらした最大の悲劇が開拓団の最期だと思います。それで、昨年から二度も満蒙開拓記念館に行ったりしているのですが、キリスト教の開拓団があったとは知りませんでした。この人々も決して満州に行きたかったわけではなかったと思いますが、行かざるを得なかったのでしょう。そして悲劇的な末路になるわけです。詳しいことは、石浜さんの本のできあがりを待つことにしたいと思いますが、とにかく貴重な歴史の掘り起こしだと思います。
 いずれにしても大きな問題なので私が一人で聞くのは惜しく、竹内さんの会でぜひやっていただきたいと思っています。
 私、原爆のことに関して、いろいろ取材もしましたし、かなり知っていると思っていました。しかし吉島刑務所のことや、そこにいた政治犯のことなど考えてもみませんでした。満蒙開拓のキリスト教開拓団のこともそうです。本当に我が身の無知を思い、もっともっと勉強しなければならない、そして記録はしっかり残さなければならないと思っています。
 竹内さんの会では一二月三日に佐伯敏子さんを偲ぶ会をいたします。佐伯さんはあんなに有名な方なのに享年九七歳。倒れてから二〇年ということで、広島でも、会ったことがあるという方が少なくて、広島では偲ぶ会は成立しないのだそうです。時を感じます。佐伯さんの会のことは、次回に報告できると思います。


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続・対話随想 №28 [核無き世界をめざして]

   続対話随想28 中山士朗から関千枝子様へ

              エッセイスト  関 千枝子

 歳月という言葉が、このたびの手紙にはありました。
 広島で供養塔の清掃、遺骨の遺族探し、被爆証言を四十年以上も続けた佐伯敏子さん(十月三日逝去。享年九七)の死は、まさに二〇一七年のヒロシマの風化を象徴していると言えます。テレビで観た私の記億では、病床の佐伯さんに核兵器禁止条約の採択が告げられた時、「良かった」と微かに頷く場面があったように記憶しています。
 それにつけても、関さんが書いておられるように、一〇月二七日の国連総会で、日本政府が「核兵器禁止条約」にも触れもせず、昨年出した案よりも交代した「核兵器廃絶案」を、多くの国々から痛烈な批判を受けたことを思い出さずにはいられません。
 二〇一六年オバマ大統領が広島の原爆慰霊碑の前で核廃絶への希望を語りましたが、それに呼応して、安倍首相は、
 <熾烈に戦いあった敵は七十年の時を経て、心の靭帯を結ぶ友となり、深い信頼と友情によって結ばれた同盟国となりました。そして生まれた日米同盟は世界に希望を生み出す同盟でなければならない。>
 <核兵器のない世界を実現する。その道のりがいかに長く、いかに困難なものであろうとも、絶え間なく努力することが、いまを生きる私たちの責任であります。>
 <日本と米国が力を合わせて世界に希望を生み出す灯火となる。この地に立ち、オバマ大統領とともに、改めて固く決意しています。そのことが広島、長崎で、原子爆弾の犠牲となったあまたの御霊の思いに応える唯一の道である。私はそう確信しています。>
 こうしたメッセージを送っているのです。
 それにも関わらず、この十月、二〇一七年のノーベル平和賞が核兵器禁止条約の制定の原動力となった非政府組織ICANに授賞が決まりましたが、これには広島、長崎の被爆者が連携し、核の非人道性を訴えてきたことが大きく作用しています。にもかかわらず安倍首相は受賞への公式コメントを出しませんでした。
 二〇一六年のオバマ大統領と慰霊碑の前で語った言葉は何だったのでしょうか。
 そのようなことを考えておりましたら、十月二十日付の朝日新聞に「皇后さま今日八十三歳 回答全文」が出ているのが目に止まりました。これは、皇后さま八十三歳の誕生日に当たり、この一年について尋ねた宮内記者会の質問に文書で回答を寄せられたものです。被災地への思い、国内各地への旅、学者、スポーツ選手のすがすがしい引退、陛下譲位についての感謝について述べられていて、その中にノーベル賞について触れておられました。
 その項の見出しは「平和賞 被爆者の努力に注目」とありました。
 <今年もノーベル賞の季節となり、日本も関わる二つの賞の発表がありました。
 文学賞は日系の英国人イシグロ・カズオさんが受賞され、私がこれまでに読んでいるのは一作のみですが、今も深く記憶に残っているその一作「日の名残り」の作者の受賞を心からお祝いいたします。>
 続いて、
 <平和賞は、核兵器廃絶国際キャンペーン「ICAN」が受賞しました。核兵器の問題に関し、日本の立場は複雑ですが、本当に長い長い年月にわたる広島、長崎の被爆者たちの努力により、核兵器の非人道性、ひと度使用された場合の恐るべき結果等にようやく世界の目が向けられたことには大きな意義があったと思います。そして、それとともに、日本の被爆者の心が、決して戦いの連鎖を作る「報復」にではなく、常に将来の平和の希求へと向けられてきたことに、世界の目が注がれることを願っています。>
その続きには、大勢の懐かしい人たちとの別れが綴られていました。その中に、医師の日野原重明先生の名前も出ていました。
原爆投下から十五年の一九六〇年八月六日、皇太子(当時二六歳)だった天皇陛下は、似島(にのしま)に渡り、行き場のない原爆孤児たちのために造られた民間養護施設「似島学園」を訪問されました。
 瀬戸内海に浮かぶ似島は、一九四五年八月六日、広島に原爆が投下された後、この小さな島に臨時の野戦病院が置かれ、約一万人の被爆者が運び込まれました。後に大量の遺骨や遺品が見つかりました。
 私は被爆直後に比治山に遊離し、放心状態で山の麓に停車している軍用貨物列車を見下ろしていました。この列車は、比治山の麓近くにある陸軍被服廠、兵器廠と宇品港を結ぶために設けられた鉄道でした。貨車の傍にいた兵士たちが「負傷者は、集まれ」と合図していました。この声を聞いて、大勢の負傷者はいっせいに赤土が露出した山肌を滑るようにして、貨車をめがけて下りて行きました。体を酷く焼かれた私には、その気力、体力がなく、その場にうずくまって貨車が去って行くのを見送っていました。それからしばらくして私は兵士に背負われて、山の東斜面の中腹にあった臨時救護所に運び込まれたのでした。あの時貨車に乗っていましたら、似島に送られ、家族の者との再会も果たせず死んでいったはずです。私たちの広島一中では、学校付近の建物疎開作業に従事していた一年生の多くが似島に送られ、亡くなっています。
 話が横道に逸れてしまいましたが、陛下の似島訪問が、後の天皇、皇后のこれまでの五一島訪問のきっかけとなったのです。
 こうしたことなぞを思考しておりますと、ノーベル平和賞は核兵器を史上初めて非合法化する核禁止条約に向けて努力し、広島、長崎の被爆者と連携して核の非人道性を訴え続けてきたICANの活動を評価したものでした。しかるに、安倍首相は核兵器禁止条約が国連で採択されましたが参加せず、このことについての何ら公式のメッセージも発していません。自民党は、多数の民意を得てこのたびの戦況を勝利したと言っておりますが、次のような民意があることも知っておいてもらいたいものです。
「核の傘」の下にあっても条約に参加することICAN(わたしはできる)
                   (神栖市) 寺崎 尚
 この短歌は、一〇月六日付朝日新聞の「朝日歌壇」に、水田和宏選として掲載されたものです。
 こちらは十月三十日「朝日俳壇」金子兜太選の(奈良県広陵町)松井 矢菅さんという人の句ですが、私の現在の心境に沁みこみました。
    腰据えて癌との戦大根蒔く


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続・対話随想 №27 [核無き世界をめざして]

続対話随想 27  関千枝子から中山士朗へ

               エッセイスト  関 千枝子

  選挙は、予想通り自民党の「圧勝」でした。小選挙区なので、票数以上に自民が議席をとったこともあり、自民党の人々も「手放しで喜んでいない=敵失で勝った=」ようですが、とにかく自民圧勝には違いなく、来年早々の国会から憲法での攻防が始まるでしょう。
 この選挙は「話題」は多くて、民進党の前原さんの考えた「希望」へのなだれ込みが、小池百合子の「選別発言」=全員を認める気はさらさらない=で、あの大人気が一挙に崩れ落ちました。それに怒った民進党の枝野さんたちが「立憲民主党」を立ち上げ、大変共感を集め、予想を大きく上回る得票で「野党第一党」、になりました。小池さんの『選別』にあたっての「上から目線の物言い」「不寛容さ」が反感を読んだと言いますが、私は『選別』の内容だと思います。改憲と安保関連法案を認めることが中身では、だれでも怒ってしまいますからね。「どこに一票入れるの!」と困っていた人々の票が「立憲」に集まったのはいいことでした。
 ただ、私は、あの都議選で、小池さんの「ファースト」に集まった票が一体どこへ行ったのか(自民に戻ったのか)不思議でなりません。ポピュリズムというものの「怖さ」を思いますが…・・。
 それよりも、これだけ大事な選挙なのに投票率の悪さが気になりました。台風のせいもありますが。一八歳一九歳が今度初めて選挙ができるというのに、その投票率はさらに悪い。とても気になりました。 若い層が政治に無関心ということ、困ったことですが、どうしてこうなってしまったのでしょうね。
若い方々と言えば、私、このごろ驚き、「反省」したことがあります。前の手紙で。有楽町で憲法9条の宣伝をしたのに、署名も。チラシをとる人も少なかったことを書きましたね。あの日もショックでしたが、あの数日後、女性「9条の会」で、フィールドワーク(戦跡を見る会)をしたのですが、それに参加した若い二〇台の女性の方(9条の会の会員ではなかい)が、「くじょうの会って、どういう意味ですか?」と聞いたのです。9条を知らないのです!「九条(くじょう)ネギじゃないのよ!」と思わず言ってしまいましたが。この若い女性、こういう会に参加するだけあって戦争の証言の引継ぎというか、証言を記録に残すなど、熱心に活動している人です。だから、びっくりしてしまったのですが。彼女、「9条」をのこと以外にも、よく質問してくれたのですが、ある霊園のなかに、ハルピン学院の碑があったのです。なぜこんなところに碑があるのか、それはわからないのですが、案内の人も、ハルピン学院のことなどあまり知りませんので、私が少し説明したのですが、彼女は「哈爾濱」のこともよくわからないようですし、「白系露人て、何ですか?ロシアのなかの地域の名ですか?」と聞くのです。白ロシア(ベラルーシ)のようなことかと思っているようです。私、びっくりしました。「白系露人」も、もう死語のようです。あの頃、哈爾濱とか奉天(瀋陽)とか、「満州」のちょっとした都市の名前は、小さな子どもでも知っていましたので、驚きました。戦争の証言などを聞いているのに、満州事変のことも知らないのです。私、事あるごとに戦中のことなど話すのですが、若い方たち、よくわからないまま聞いていたのかしら。何をしていたのだろうという思いで、本当に反省しました。前に建物疎開作業なんて言っても誰もよく知らないのだから、と言われ、中、高校生たちに被爆体験を話す時は、建物疎開とは何か説明するようにしているのですが、説明ばかりたくさんあってもくどくどしいし、本当に困りますね。
歳月と言えば、広島で供養塔の清掃を四〇年以上も続けたことで有名な佐伯敏子さんが十月三日に九七歳で亡くなったのですが、その偲ぶ会を十二月三日に例の竹内良男さんらの肝いりで行うことになりました。佐伯さんは親族を一三人亡くし、その被爆証言は本当に迫力があります。原爆の時、自分の一家だけでも大変なのに、親戚の人が焼けだれて逃げて来ても、面倒を見ることができず、すげなくした、ということがあります。原爆だけでなく普通の空襲でもそんなことがあり、戦災孤児の方のなかには、親戚との軋轢から証言も書けないという人がいます。佐伯さんの証言はそのあたりも、率直で生々しく、私も驚嘆して読みました。
佐伯さんは供養塔の清掃や遺骨の遺族探しの活動が称えられ、広島市民賞をもらっていますが、脳梗塞で倒れられてから二〇年、もう佐伯さんのお元気なころを知る人も少なく、広島では偲ぶ会もできないということです。なんだか寂しくなりました。私も佐伯さんとは実は詳しくお話を聞いた覚えはないのですが、この会に参加しようと思っています。「ヒロシマに歳はないんよ」と言っていた佐伯さん、核兵器禁止条約の採択の話は分かっていたのでしょうか。
それにしてもまたまた腹立たしいのが、一〇月二七日の国連総会で日本政府が核兵器禁止条約にも触れず、昨年出した案よりさらに後退した「核兵器廃絶案」を出し、多くの国々から痛烈な批判を受けたことです。本当に恥ずかしいと思い、怒り心頭です。
とにかく私、今の心境は、簡単には死なないぞ、ということです。国会で改憲案が通り、来年か再来年に国民投票ということになるかもしれません。若い人たちの真剣に今の憲法の大切さを言わなければ。戦争を知る「ババア」は死なないで、頑張らなければ、と思っています。

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続・対話随想 №25 [核無き世界をめざして]

   続対話随想25 関千枝子から中山士朗さま

                      エッセイスト  関 千枝子

 怒ること、驚くようなことばかり起きて、いろいろ忙しくもあり、なかなか筆が取れずにいました。
 腹が立つこと第一。画期的な「核兵器禁止条約」ができたのに、批准など全く考えない日本政府です。もともと、日本は核兵器廃絶条約に乗り気でなく、そのため、岸田前外相は「ヒロシマナガサキに来てくれ」とオバマを招いたり、私から見ればまことに姑息な行動をとっていたのですが、条約の採択会議にも出席もせず、世界の国々に対して恥ずかしいと思っていました。安倍首相は、広島、長崎の式典の挨拶でも条約に一言も触れず、批准する意思はないと言い、長崎の被爆者は、あなたはどこの国の総理ですか、と怒りを表明しました。アメリカの核の傘にいる(抑止力の壁)国の悲しき性(さが)かもしれませんが、なんとも情けないです。政府支持の低下に閣僚を入れ替えましたが、「人気取り」の目玉商品の河野外相も、核兵器禁止条約を「アプローチが違う」とか、ひどい態度です。河野外相のお父さんの洋平氏は今の政府のやり方にかなりはっきり反対していますから、ちょっと期待する人もいたようですが、太郎氏は岸田外相と全く同じです。今の自民党では、安倍氏に批判などできるはずもない。閣僚になったら違うことなど言えるはずもない。河野太郎氏など、昔あれほど言っていた原発のことなども一言も言いませんね。結局,トクをしたのは安倍氏でしょう。人気が少し持ち直したそうですから。
 そんなときに、北朝鮮のミサイル、水爆実験騒ぎ。北朝鮮の.やり方は感心しませんが、日本の対応も異常で、新幹線を止めたり、全テレビが一斉に緊急の画面に変わり避難の呼びかけとか、どうも過剰すぎると思いました。そこへ石破氏などが、非核3原則の見直しを言ったりして、本当に怖いと思いました。石破氏は.そのあとは発言していないようですが、テレビの番組で、右翼の評論家?が同様の見解を語っているのを見て本当に怖いと思いました。被団協は核兵器廃絶の署名をまだとり続けていますが、こんなことをするより、日本政府の核兵器廃止条約を批准せよという署名を集めたらどうですか、と被団協に提案してみたのですが‥‥。

 ここまで書いて一休みしていたら、その間目まぐるしく政治の世界変わりまして、降ってわいたよう解散。小池百合子都知事の「希望」が選挙に出ると「小池人気」を頼みに、民進が「希望」に入るという騒ぎ、そんな馬鹿なと思っていましたが、民進の議員たちは「了承」のようで、いったい、一度は政権をとった党が事実上解散でいいの?とあきれ果てていましたら、図に乗った小池氏、「厳しく選別する」と言います。その選別の基準は、改憲と安保関連法を認めるかどうか、ということですから、とうとう彼女本性が出たな、と思いました。さすがに、民進のなかでも「リベラル派」は、「希望」に入らない人々で、新しい党を作りました。私は、「こと」がよく見えてきた、と思っています。一度は政権もとった最大野党が、事実上解党となるのは悲しい話ですが、二大政党論の中自民党でないということで、寄せ集め、根本のところ(憲法に対する態度)などでちがいのある人々が集まって作った政党、こうなるのも無理はなかったように思えます。このところの政界の大騒ぎ、選挙前の大バタバタということで、マスコミも大騒ぎですが、二大政党論のことを言う人いませんね。私は、二大政党、日本では絶対だめだと思っているのですが。
 この事態になったのは、自民党員でありながら自民党都連のたてた候補に逆らい、勝手に立候補し、予想を上回る大差で当選、その後の都議選でも「チルドレン」を圧勝させた小池人気です。「改革」とか、しがらみのない政治とか言った言葉に皆、酔ってしまう。野党、市民連合と言ったところが束になっても成功しなかった知事選挙で、小池さんが、自民党候補を破ったのは、多くの人々を驚かせ、熱狂させました。とにかく彼女は、選挙上手。それで、小泉元総理は、郵政選挙のとき、引っ張り出させて、落下傘候補第一号、期待通り選挙に勝ち、女性初の防衛大臣になったり「活躍」。彼女は女性総理第一号を夢見たと思います。しかし、彼女は安倍氏の”直系”ではなさそうだし、自民党都連とも相性はよくなかったようです。しかし、私など、小池さんの、政治というか政党遍歴、また、その保守的な考え方を知っている者には、「小池人気」が不思議でなりませんでした。
 とにかく、この国の人々、「改革」と言った言葉にすぐ惑わされるようです。安倍さんも、小池さんも「改革」と言います。皆、「改革」大好きです。「しがらみのない」もそうです。
 小泉さんが人々を昂揚させた言葉。改革、規制緩和、あるいは小さな政府。だけど、郵政民営化で、人々の暮らしよくなったの?といいたくなりますが。でもみなそんなことは忘れてしまい、また、熱狂する。このこともう詳しく書くスペースもありませんが、とにかく、この現象、怖いです。それは戦争の始まりのころ、満洲ブームとか、爆弾3勇士への「感激」、何か、そんなことを連想させるのです。
 そんなことを思っていたら、安倍さんは、北朝鮮問題と少子化とをあげ「国難」なんて言い出しました。満州事変の後、世界から孤立化し国際連盟から抜けた日本で「国難」が大いに使われたことをいやでも思い出さずにはいられません。

 とにかく、今度の選挙、大変な事になりそうです。選挙騒ぎの起こる前、秋、来年の国会で安倍氏が憲法改悪、特に9条の改悪の妙な案を出して来そうだというので、改憲反対憲法を守る全国署名を3千万集めようという運動が起こりました。3千万署名なんて大変な事ですが、これをやらなければ危ない、憲法は本当に崖っぷち、今年から来年が山と思います。私は、安保関連法案反対で女性だけの訴訟に入っていますが、その人々と一〇月八日、有楽町のマリオン前広場でリレートークとこの3千万署名の署名集めをしました。スピーカーが何人集まるか心配していましたが三〇数人集まり、若い方々もおり(私たち世代より若いという意味ですが)安心しました。しかし、三時間半もしゃべったのに、チラシを受け取る人が少なく署名をした人も一〇〇人ちょっとで、私はショックでした。銀座に遊びに行く人々で、憲法のことにも政治にも無関心な人が多いのかもしれないけど。それにしても。
 それから、核兵器禁止の方、ノーベル平和賞を「アイ キャン」が受賞しました。禁止条約採択に貢献した世界の市民団体です。ヒバクシャの方のなかには、被団協がもらうと期待していた方もあったようです。しかし、私、被団協でなくアイキャンがもらったのは、少し「皮肉」があったように思えてなりません。ヒバクシャたちはその長い闘いを褒められました。しかし、ヒバクシャたちの国の政府は、条約採決の会議に参加もせず、今も批准をするどころか、実に冷たい態度です。世界は、この政府の態度をどうにもできない「ヒバクシャ」たちに、もっとしっかりしろと,暗に言っているように思えます。私は、今度は、政府に批准せよという署名運動をすべきではないかと思います。北朝鮮の核が言われる今、「抑止の壁」でなく、核兵器の禁止、廃絶しか、道はないと。このままでは、「非核三原則」の見直しを声高に言う人が出てきそうですから。







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